令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「スペインインフルエンザ」第2章2.2
令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「スペインインフルエンザ」第2章2.2
スペイン・インフルエンザ -100年前のパンデミックの記録と記憶-
第2章 国と県によるインフルエンザ対策 (後半)
2.2 神奈川県が行った施策
2.2.1 予防に関する思想の啓発
2.2.2 マスク
2.2.3 予防接種の奨励
2.2.4 救療の状況
2.2.5 その他の医療活動
(1)萬治病院の開放
(2)日本赤十字社神奈川支部による陸海軍病院への救護
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(1)「前流行」期の大正8(1919)1月下旬に三浦郡役所が配布した「流行性感冒の注意(はやりかぜのきをつけかた)」が残されています【→資料11】。起案書の内容から、地域の衛生組合や五人組を通じて住民へ周知されたことがわかります。
この注意事項は、前述した2.1.3の「流行性感冒予防心得」に基づいて作成されたはずですが、内務省衛生局作成の心得にはあった「呼吸保護器(マスク)」の使用に触れていません。後述する(2)で県衛生課が各警察署へ通牒する予防法の中では「呼吸保護器」の使用が奨励されています。
・資料11:<右>起案書/<左>「流行性感冒の注意(はやりかぜのきをつけかた)」_「大正4~12年 行幸啓に関する書類」三浦郡役所」【公文書館所蔵歴史的公文書1199400468/郡-4-6(リンク)】から転載
↓右の起案書_翻刻文(一部の旧字は常用漢字に置き換えてあります)
↓左の注意書_翻刻文(一部の旧字は常用漢字に置き換えてあります)
(2)「前流行」の終盤期近くの大正8(1919)年2月初めに、県衛生課は各警察署へ下記の予防法を通牒します。ここでは「呼吸保護器(マスク)」の使用が奨励されています。
・翻刻文:流行性感冒予防法の通牒内容(県衛生課)_『横浜貿易新報』大正8(1919)年2月6日付記事【公文書館所蔵マイクロフィルム】から引用
(3)さらに、県工場監督課は各工場主へ下記の予防心得書を送付します。
・翻刻文:流行性感冒予防心得書(県工場監督課)_『横浜貿易新報』大正8(1919)年2月9日付記事【公文書館所蔵マイクロフィルム】から引用
(4)「後流行」期の大正9(1920)年1月、内務大臣訓示(上述2.1.3内務省訓第1号)の趣旨を徹底させるため、下記の心得書が県内の各劇場、活動写真館、寄席、電車内等に掲示されます。
さらにこれ等の趣旨を活動写真(映画)・幻燈等に写して各活動写真館の休憩時間に映写させたことが報道されています。ここで使われている「口覆」とはマスクのことです。なお、「鹽(エン)ポツ」とは塩素酸カリウムの俗称で、花火やマッチの原料としても使われる物質で、うがい薬にも使われました。
・翻刻文:流行性感冒予防心得書_『横浜貿易新報』大正9年1月17日付記事【公文書館所蔵マイクロフィルム】から引用
(1)神奈川県がインフルエンザ対策としてマスク(当初は「呼吸保護器」と呼称)の使用を奨励したのは、新聞報道によれば「前流行」の終盤期である大正8(1919)年2月初頭に出した県衛生課の通牒や、県工場監督課が各工場主へ送付した予防心得書においてでした(上記2.2.1(2)(3)参照)。
民間でマスクの使用が一般的になるのは「後流行」期のようで、大正9(1920)年1月にはインフルエンザ罹患者が激増したことでマスクの値段が高騰し、入手が難しくなります(ちなみに第4章で紹介する菊池寛の短編『マスク』が発表されるのも「後流行」が収まった大正9(1920)年7月でした)。
・資料12:マスクの広告_『官報』第2251号(大正9年2月6日)【公文書館所蔵行政刊行物・図書】から転載
・ポスター(大正9年12月配布)_内務省衛生局著『流行性感冒』1922.3国立保健医療科学院図書館所蔵】掲載の図版(所蔵元許諾済)
2月初めに出された広告【→資料11】では並製マスクの販売価格は1枚10銭ですが、一時は35~80銭と高騰したようです(大正9年当時、そば1杯が8~10銭、卵1個が7.9銭、砂糖100gが82銭であったとするデータがあります)。
感冒流行の激化に伴い、うがいと共に簡便で有効な予防策であるマスクに関する新聞報道が続きます。大正9(1920)年1月の『横浜貿易新報』紙面のマスク関連記事は下記の通りです。
■1月14日付:川崎町は女子高等技芸学校の生徒に覆口器(マスク)を製作せしめ実費金十銭を以て町民に頒かち、町会を以て町民に必ず覆口すべく通告
■1月14日付:文部次官が地方長官と直轄学校長に対して1/15に、呼吸保護器(マスク)の使用と含嗽の奨励、希望者への予防注射接種を通牒
■1月21日付:横浜市教育課は各学校の注射希望者とマスク需要数の調査を実施。前者は9,868人、後者は20,110人
■1月28日付:横須賀市では、学童マスクを生徒の各家庭において必要な数だけ各自に製作させる。
■1月29日付:(横須賀市)尋常5年生以上に簡易マスク製作させる以外に、高等女学校、将校婦人会、篤志看護婦人会等の手でも製作し、市街上のマスクをしていない人に原価販売させる。
・参考画像07:「マスクを売る救世軍」_『新聞集録大正史 第8巻 大正9年』大正出版、1978年
【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199507195/G07-0-0009(リンク)】から転載(出版元許諾済)
(2)ここに至り神奈川県は、マスク10,000枚を自主製造して県民に実費(1枚5銭)で提供する事業を実施します。
その資金は社団法人神奈川県救済協会から一時融通を受けて調達し、金具部分は県立工業高校で製作、布の縫付等は横浜市内8つの女学校で授業のかたわら実施するもので、販売については日本赤十字社篤志看護婦婦人会に委嘱するものでした。
マスク製造資金を融通した「神奈川県救済協会」はその事業報告書で下記のとおり経緯を述べています。
・資料13-1:『神奈川県匡済会報告/第1,2輯』神奈川県匡済会、大正11年【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199309128/K369-0-0026(リンク)】p.40~41から転載
(3)内務省衛生局は、その報告書『流行性感冒』【参考文献2:県立図書館所蔵】p.201で神奈川県の事例を下記のように記述しています。
<神索川県>塩剥水、過酸化水素水、硼酸水等の含嗽を奨励し「ガーゼマスク」に対しても一般に其の使用を奨励し来りしが 大正九年一月に至り患者激増すると共に「マスク」を使用する者も亦俄かに増加し 為めに市価暴騰し一個三十五銭より八十銭に達したる為め一般の使用普及に障害尠からず 依て県は自ら之を製作し実費を以て一般に提供せんと企て 之れが製作に要する費用を社団法人神奈川県救済協会より一時融通を受け 約一万個製作に要する材料を調へ 金具製作を工業学校に 裁縫を市内八箇所の高等女学校に巳於て分担し生徒の学修に支障を来さざる程度に於て之が製作方を依託し 販売は日本赤十字社篤志看護婦会神奈川県支会に委嘱し一般に提供することとしたり、其結果僅々数日間に予定数一 万一千六百個を作製し販売価額は一個五銭にして約半数は学校、諸官庁会社等の需要に応じ他の半数は一般に提供したり、尚県直営に係るものは五千三百六十二個にして主として横浜市聯合青年団の要求に応じ其の幾分は直接申込者に配布せり 此の計劃は機宜に適し相当の効果を収め得たり。
(1)スペイン・インフルエンザは、現在ではインフルエンザA型H1N1ウイルスによるものであったことが判明しています。
しかるに100年前の流行当時は、ドイツの学者R.F.J.Pfeifferが検出した「インフルエンザ菌」であるとの説が有力でした。インフルエンザの病原体が「菌」よりもさらに小さい「ウイルス」であることが判明し、A型ウイルスの分離に成功したのは1933年のことでした。
スペイン・インフルエンザ流行当時、伝染病の研究機関としては、東京帝国大学に付置された「伝染病研究所」と北里柴三郎が設立した「北里研究所」がしのぎを削っていました。北里研究所は流行性感冒の病原菌を「インフルエンザ菌」と断定した一方、伝染病研究所は「原因不明説」を主張します。
よって、各研究所が製造したワクチンも成分が異なり、北里研究所はインフルエンザ菌のみ、伝染病研究所はインフルエンザ菌と肺炎双球菌の混合ワクチンでした。
・参考画像08:予防注射を啓蒙するポスター(大正9年2月配布)_内務省衛生局著『流行性感冒』1922.3国立保健医療科学院図書館所蔵】掲載の図版(所蔵元許諾済)
神奈川県は、流行性感冒の病原を「パイフエルPfeiffer」氏インフルエンザ菌と認定し、ワクチンは「パイフエルPfeiffer」氏菌感作ワクチンを採用しました。
実際のワクチン接種は、「前流行」終盤期の大正8(1919)2月から開始し、「後流行」が終息した大正9(1920)年6月までに約40万グラムを製造・配布しました【参考文献4『流行性感冒流行誌』】。
配布に当たっては可能な限り「無料」で分与する意向を医師会へ伝えていたことがわかります【→資料13】。
県警察部衛生課から横浜市医師会へ送られたワクチン無料分与に関する通牒(大正8年2月7日)
・資料14-1:『横浜市医師会史』1941年【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199353100/K49-1-0037(リンク)】から転載
(2)当時の新聞報道で県衛生課長は「ワクチン注射をやっておけばマスクをかける必要もない」と豪語しました【『横浜貿易新報』大正9年1月13日付】が、人によってはワクチン接種後に副作用が出たり(第4章の相澤菊太郎氏の事例)、ワクチン注射をした県警察部の技師二人が流行性感冒で死去したり【『横浜貿易新報』大正9年1月28日付】といった事例がありました。県の報告書【参考文献4『流行性感冒流行誌』】では、副作用が確認されたのは接種数221,868人に対して1,716人で率では0.77%であったとされています。
「パ氏菌ワクチン予防注射反応成績表」_参考文献4:『流行性感冒流行誌』【県立図書館所蔵50072933/地域K49-79】から転載
国(内務省衛生局)の報告書(参考文献2)では、ワクチン使用の効果として以下の3点が認められたとするにとどめています。
1 治療日数を半減すること
2 合併症を防遏すること(「防遏」とは「ふせぎ・とどめる」こと)
3 注射後精神爽快を感ずること
(3)内務省衛生局は、その報告書『流行性感冒』【参考文献2:県立図書館所蔵】p.219で神奈川県の状況を下記のように記述しています。
<神奈川県>大正8年春季本県に於ては流行性感冒の病原なりと信ずるバイフエル氏菌を以て感作「ワクチン」を創製し実験を経たる後一般に応用すべく各方面に勧誘を試みたり、時恰も流行の極期にありし為め県下の開業医、汽船会社、学校、衛生組合、工場等に於て使用する者多数に昇り右「ヮクチン」の予防接種を受けたる者二万二千余人に達したり此の結果相当の効果を収め得たるを以て大正八、九年流行時には広く之が施行を奨励し普及に努めたる為め横須賀海軍工廠を始め各開業医師、 病院、学校、工場其の他団体より申込殺到し大正九年六月末日迄に予防液三十七万六千八百八十瓦を配布したり。
(1)スペイン・インフルエンザに罹患したにもかかわらず医療を受けることが出来ない生活困窮者に対する救療は、国(内務省衛生局)からは恩賜財団済生会を通じた救療(済生会が直営する病院・診療所での診療、治療券を配布しての地域医療の受診)が全国府県に指示されていたのは上述(2.1.1)のとおりです。
(2)神奈川県は、県内の生活困窮者に医療を提供する巡回診療班を組織・派遣したことが新聞でも報道されています【第3章の『横浜貿易新報』関連記事一覧表参照】。
「前流行」期においては横浜市内を対象に5,094人を診療、「後流行」期は横浜市に橘樹郡、都筑郡、久良岐郡を加えた地域を対象に9,411人を診療した記録が残されています【参考文献4:『流行性感冒流行誌』p.89~94】。
これら巡回診療の経費は新聞報道では「恩賜救恤基金」から支出されたとされています。これが恩賜財団済生会の「救療費(国からの補助金)」とは異なる財源なのかは判然としません。
(3)内務省衛生局は、その報告書『流行性感冒』【参考文献2:県立図書館所蔵】p.233で神奈川県の状況を下記のように記述しています。
<神奈川県>横浜市内の細民部落は大体四部落あり其の総戸数三千余戸にして日用品殊に食料品の購買に苦める折柄本病の襲激に因り一層悲惨なるもの有りとの報頻々たりしにより同部落に対しては救護治療班二組を組織し各班に医師、薬剤師各一名及看護婦二名を附し医療薬品其の他材料を携帯し各戸 に付き訪間診療せしめたり今回の流行に於ける診療戸数二千七百三十三戸救護人員三千二百八十三人に及べり、八、九年の流行に際しても横浜市に於ける細民救療事業を拡張し、全県下の医療を受くる能はざる者に対し救療を目的として県下を四部に分ち五班を造り横浜市に二班を置き、横浜市、橘樹郡、都筑郡、久良岐郡を担当区域となし他は各々一班とし各々部所を定めて防疫員、防疫監吏一名を附し医薬品を携帯し巡回治療に従事し相当の効果を収め診療患者延人員九千四百十一人の多きに達せり。
(4)スペイン・インフルエンザが蠢動し始めた大正7(1918)年7月、米の価格暴騰が原因で起きた米騒動を契機として、県下における細民(生活困窮者)生活状態を調査し,その救済方法を講じ,実行すること等を目的として実業界からの資金援助で「神奈川県救済協会」なる社会事業団体が設立されます【『神奈川県史 通史編5 近代・現代(2)』p.229~230】。
救済協会は神奈川県知事を会長とし、事務所を神奈川県庁内に置いた半官半民組織でしたが、大正8(1919)年1月20日に社団法人神奈川県匡済会へ改称し、その最初とも言える事業が、流行性感冒が猛威を振るう中で医療を受けられない人々に対する医療提供のための「救療費」の拠出でした。(同匡済会が「後流行」期に、マスク自主製作の資金融通をしたことは、2.2.2で述べた通りです)
神奈川県匡済協会による「救療費」支出に関する記述
・資料13-2:『神奈川県匡済会報告/第1,2輯』神奈川県匡済会、大正11年【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199309128/K369-0-0026(リンク)】p.20~21から転載
(1)萬治病院の開放
「後流行」のピーク期には、各病院が満員となり新たな患者の受入れを拒絶する事態も発生します。この状況に対し横浜市では、元来伝染病専門の医療機関であった「萬治病院」の病室を開放する措置をとります。それらは伝染病患者の病棟とは隔離された場所でしたが積極的な利用を憚る傾向があり、収容されたのは重症患者であったことが報道されています【→第3章 3.2『横浜貿易新報』関連記事一覧表の通し番号174、185、212、238】。
萬治病院へ感冒患者を受入る旨の通知
・資料14-2:『横浜市医師会史』1941年【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199353100/K49-1-0037(リンク)】から転載
(2)日本赤十字社神奈川支部による陸海軍病院への救護
スペイン・インフルエンザは、多くの人が密集して集団生活する場所で蔓延の危険が高まりますが、軍隊はその典型でした。県内でも軍港を擁する横須賀の部隊で感冒罹患者が増えたため、陸海軍から看護婦等の派遣が日本赤十字社に対して要請されます。
日本赤十字社は、各支部に対して予防・撲滅のための活動を指示するとともに、陸海軍の援助要請を受けて、全国の各支部から、64の陸海軍病院に救護員を派遣し、軍衛生の業務を援助しました。
神奈川支部も、「後流行」期の大正8(1919)年12月から翌年1月にかけて、横須賀の海軍及び陸軍衛戍病院にそれぞれ書記、看護婦延べ50人を派遣、466人の患者の救護を行いました【→参考画像09】。
・参考画像09:『日本赤十字社史続稿:明治41至大正11年 下巻』1941年
【国立国会図書館デジタルコレクション(リンク)】から転載
なお、2.2.2で前述した自主製作マスクの販売を担当した「日本赤十字社篤志看護婦人会」とは、日本赤十字社の保護監督を受けて傷病軍人救護の事業を支援する目的で設立されました。明治37(1904)年2月に設置された神奈川県支部横浜分会の会長は神奈川県知事の夫人が務め、主要なメンバーは華族や富裕層の婦人たちが占める団体でした。包帯を製造して軍病院へ寄贈したり、傷病兵を慰問したりなどの活動に従事していました。【『横浜市民之聲 前編』(明治38年発行)_国立国会図書館デジタルコレクション】
第2章 おわり
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