令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「スペインインフルエンザ」第1章

第9回 県立図書館・公文書館合同展示

(公文書館担当パート)

スペイン・インフルエンザ

―100年前のパンデミックの記録と記憶―

第1章 数字とグラフで見るインフルエンザの流行

1.1 流行の経緯
1.2 最初の発症例
1.3 スペインでの流行報道
1.4 世界への拡散
1.5 日本での流行状況
1.6 流行状況を示す各種統計
1.7 流行性感冒の統計データ集計

第2章 国と県によるインフルエンザ対策

第3章 『横浜貿易新報』に見るインフルエンザの猛威

第4章 パンデミック下を生きる人々の思い

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第1章 数字とグラフで見るスペイン・インフルエンザの流行

1.1 流行の経緯

およそ100年前、全世界で推定2,500万人(※1)の命を奪ったスペイン・インフルエンザの流行は、下記のように時期が区分されています【参考文献1と2による】。

※1 死者数は、2,000万~4,000万、5,000万人の説があるとする文献もあります。

・「春の先触れ」...1918年3月~7月頃

・「前流行(第1回流行)」...1918年8月(大正7年秋)~1919年3(7)月(大正8年春)

・「後流行(第2回流行)」...1919年10月(大正8年暮)~1920年3(7)月(大正9年春)

・第3回流行(※2)...1920年8月(大正9年)~1921年7月(大正10年)

※2 「第3回流行」は、参考文献2に記述されているもので、罹患者等が少ないこともあり、他の文献ではこの時期を流行期に含めていないものもあります。

■参考文献1:速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店、2006年
県立図書館所蔵21917992/493.87RR-39

参考文献1

■参考文献2:内務省衛生局編『流行性感冒-「スペイン風邪」大流行の記録』平凡社、2008年 県立図書館所蔵22229595/493.87TT-51

参考文献2

『流行性感冒』の原書(1922年刊行)→国立国会図書館デジタルコレクション(リンク)


1.2 最初の発症例

1918年3月4日、第一次世界大戦下のアメリカ合衆国カンザス州ファンストン基地で、ヨーロッパ戦線へ送り出される兵隊が召集され訓練が行われていた同基地の病院へ、発熱・頭痛を訴える兵隊が押し寄せたのが最初の患者出現とされています【→参考画像1参照】。

兵舎での密集と衛生設備の貧弱さが原因とされますが、この事実は当時報道されることはなく、その後、他の駐屯地やアメリカ国内各地に感染が拡大していきます。

参考画像1

■参考画像1 1918年、アメリカ・カンザス州ファンストン基地内病棟のインフルエンザ患者

Historical photo of the 1918 Spanish influenza ward at Camp Funston, Kansas, showing the many patients ill with the flu (Original source description)【wikipedia(Public Domain)】から転載

1.3 スペインでの流行報道

1918年5月~6月にスペインでは国王、首相や閣僚たちを始め、国民の3割にも及ぶ約800万人がインフルエンザに罹ったことが報道されます(2ヶ月間での死者は300人弱)。

第一次世界大戦に参戦中の各国ではインフルエンザ発生に関する報道が規制されており、中立国であったスペインの状況だけが報道されたため、この病例は世界中で「スペイン・インフルエンザ」と呼ばれることとなります。

同じころ、戦争遂行の最前線であった西部戦線では、連合国軍(仏・英・米)と特にドイツ軍側にインフルエンザが蔓延し、兵力の弱体化を来すまでになります。

1.4 世界への拡散

「春の先触れ」とも呼ばれる、1918年3月~7月頃のインフルエンザ流行は、アメリカを初発地として世界各地に伝播しましたが、この時のウイルスは致死性の低いものでした。【→参考画像2参照】

参考画像2

■参考画像2 「春の先触れ」の伝播(1918年春)
_参考文献1『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』p.58から転載(出版元許諾済)

一方で、1918年8月末以降、ウイルスは強毒性(致死率の高い)に変異を遂げ、アメリカ国内の基地から拡散し、1919年の春まで続く「前流行」として猛威を振るいます。(ちなみにアメリカでのスペイン・インフルエンザは、1918年秋は約6週間、1919年初頭は約4週間、1920年初頭は約6週間と比較的短期間で沈静化しました。世界各地での流行については参考文献3参照)

■参考文献3:A・W・クロスピー『史上最悪のインフルエンザ-忘れられたパンデミック』みすず書房、2004年県立図書館所蔵21675483/493.87NN-29

参考文献 参考文献の背

1.5 日本での流行状況

変異したインフルエンザ・ウイルスの日本上陸は、参考文献1によれば地方紙『新愛知』大正7(1918)年9月20日付の大日本紡績大垣工場(岐阜県大垣市)の事例、同9月26日付の歩兵第九連隊(滋賀県大津)での感冒患者発生の新聞報道を例に挙げて、9月末から10月初頭とされています。

その後、終息をみるまでの日本国内と神奈川県におけるスペイン・インフルエンザの罹患者数と死亡者数は参考文献2によれば下表の通りです。

表1

表1 流行時期別 流行性感冒の罹患者数と死亡者数【参考文献2『流行性感冒』第8章の諸表から作表】(上記(1)~(3)の数値は参考文献2に記載された数値を転記したものです。)

大正7(1918)~大正10(1921)年の4年間で神奈川県では人口の3割弱の35万人強が罹患し、その約2%の7,600人近くが死亡。全国では、約39万の死者※を出す、感染症では空前の被害をもたらしました。(※後述のように参考文献1の著者速水融氏は死者約45万を提示しています)

表1の指標(1)~(3)からインフルエンザ・ウイルスは、「前流行」期では、感染力が強い(a)が、致死率はそれほど高くない(b)一方で死亡率は高い(c)。「後流行」期では、感染力はそれほど強くない(d)一方で、致死率は高い(e)ことが見て取れます。

1.6 流行状況を示す各種統計

スペイン・インフルエンザの罹患者数と死亡者数を示す数値の出典としては主に下記が挙げられます。各書から得られる数値で、流行の状況を視覚化してみましょう。

1.6.1 内務省衛生局編『流行性感冒』大正11(1922)年3月30日発行(参考文献2の原書)

当時、国の感染症対策等の衛生行政を主管していた内務省衛生局が編集した公的な報告書で、ここに掲載された数値(表1)は最も公式なものと言えます。(同書は平凡社の東洋文庫778として復刻され【→参考文献2】入手可能です。この原書は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます。→リンク)

本書の第8章に掲載された数値からは下記のグラフ1が得られますが、データの集計期間が等間隔ではない点が要注意です。(「前流行」の最初の棒グラフは大正7年10月頃から大正8年1月15日までの約3ヶ月間のデータ、それ以降はほぼ15日ごとのデータです。「後流行」の最初の棒グラフは約3ヶ月のデータで、それ以降は1か月ごとのデータです)。

グラフ1 流行性感冒による死亡数

グラフ1 流行性感冒による死亡数
【データ出典:参考文献2『流行性感冒』第8章掲載の諸表】

1.6.2 神奈川県警察部編『大正七,八年/大正八,九年 流行性感冒流行誌』大正9(1920)年11月10日発行

参考文献4:【県立図書館所蔵50072933/地域K49-79】 →公文書館デジタルアーカイブ(リンク)

参考文献4 参考文献

当時、神奈川県の衛生業務を担っていた警察部衛生課による報告書であり、参考文献1の著者・速水融氏は本書の稀少性を挙げ「府県レヴェルで唯一所在が明らかになっている流行性感冒調査報告書」と紹介しています。

掲載されている数値は、主に内務省衛生局による上記1.6.1を典拠としています。本書に掲載されている「前流行」期の死亡数を上記1.6.1掲載数と比較したのがグラフ2です。若干の差異がありますが、数値はほぼ同じであることがわかります。

グラフ2

グラフ2 「前流行」期の流行性感冒による死亡数
【データ出典:(1)参考文献2『流行性感冒』、(2)参考文献4『流行性感冒流行誌』】

また、流行性感冒そのものの数値ではありませんが、県警察部が独自調査で得た「横浜市日別肺炎死亡者数」のデータとグラフが流行の推移を具体的に視覚化してくれます。

すなわち、「前流行」期(大正7(1918)年10月~大正8(1919)年3月)については、二つのピークが見られます【→グラフ3参照】。一つ目は10月中旬から始まり、11月初旬をピークに11月下旬に落ち着いたもの。二つ目は明くる年の1月初頭から始まり1月下旬から2月初頭にかけて一つ目よりも大きなピークを描いて3月にゆるやかに落ち着くものです。

「後流行」期(大正8(1919)年12月~大正9(1920)年3月)については、前流行を上回る大きなピークが見られます【→グラフ4参照】。12月中は極めて緩やかな上昇を続けて、1月に入った1週間後から急激に増加し中旬にピークを迎えます。10日ほど後に徐々に減少し、2月の末にほぼ落ち着きます。

なお、肺炎死亡者データ取得の経緯について本書は以下のように述べています。当時、県の警察部は「ペスト予防の目的を以て、横浜市内に於ける死体検案の必要上、市役所に届出づる死亡診断書の検閲を行ひつつありたる所なれば之を流行性感冒死の調査に応用せり。」(原文のカタカナをひらがな表記に置き換えています。)

グラフ3

グラフ3 「前流行」期(大正7年10月~大正8年3月)の横浜市肺炎死亡者数
参考文献4:『流行性感冒流行誌』の p76-77から転載

グラフ4

グラフ4 「後流行」期(大正8年12月~大正9年3月)の横浜市肺炎死亡者数
参考文献4:『流行性感冒流行誌』の p76-77から転載

1.6.3 内閣統計局編『日本帝国人口動態統計』「男女及原因(中分類)別死亡(実数)【1】伝染性病及全身病 9. 流行性感冒」道府県別データ、大正7~10年版 国立国会図書館デジタルコレクション(リンク)

明治32(1899)年以降、内閣直属の統計局で毎年編纂・刊行された人口統計です。死亡原因の中分類に「流行性感冒」の項目が設けられています。

掲載されている数値は、市町村に配布された統計小票を集計したもので、死亡等の数値は、上記1.6.1や下記1.6.5の府県統計書と僅かに異なる部分があります。「流行性感冒」といった原因別の死亡数は年度合計のみが掲載されているので、ここから得られるグラフ5は下記のような年度の推移になります。

グラフ5

グラフ5 神奈川県の流行性感冒による死亡者数
【データ出典:内閣統計局『日本帝国動態統計』】

1.6.4 内閣統計局編『日本帝国死因統計』「男女、原因(中分類)及月別死亡(実数)【1】伝染性病及全身病 9. 流行性感冒」道府県別月別データ、都市別月別データ、大正7~10年版

国立国会図書館デジタルコレクション

本書は従来上記1.6.3に収められていた統計が明治39(1906)年から分離刊行されたもので、昭和13年まで刊行が続けられました。さらに神奈川県のみならず、横浜市の数値も掲載されているため、神奈川県から横浜市を差し引いた「県内の郡部(市制施行後の川崎市と横須賀市は含まれる)」の動向も併せたグラフ化が可能になります【→グラフ6】。

著作権者と連絡不通にて許諾得られず

グラフ6 神奈川県内の流行性感冒による死亡者数
参考文献5:小嶋美代子『明治・大正期の神奈川県』p.139から転載

本書には、原因別死亡数が月別で掲載されているため、インフルエンザ流行の消長をより具体 的に把握できるグラフを得ることができます。

年度の死亡者が1本であらわされるグラフ6では、大正7年から同9年にかけて死亡者数がほぼ倍増し大正9年に大きなピークがあることがわかります。

一方、大正6年から大正10年の月別データをグラフ化したグラフ7では、11月から3月という寒季に流行し、そのピークが1~2月にあることが見て取れます。

グラフ7

グラフ7 神奈川県内の流行性感冒による死亡者数
【データ出典:内務省統計局『日本帝国死因統計』】

グラフ7に、全国合計の死亡者を加えたのがグラフ8です。これによれば「前流行」期の全国合計のピークが11月にあったことがわかり、月を追うごとに漸減する推移を示しており、神奈川県の流行推移と異なることが見て取れます。

グラフ8

グラフ8 神奈川県内の流行性感冒による死亡者数
【データ出典:内務省統計局『日本帝国死因統計』】

1.6.5 神奈川県知事官房『神奈川県統計書』死亡者の年合計、月別、病症別、大正7~10年版

_資料01:【公文書館(大正期の統計書はT1,4,5,10,12,13,14,15のみ収蔵)

明治17(1884)年9月に内務省は「府県統計書様式」を定め、各府県に統計書の作成を命じました。これを受けて明治19年版から刊行された神奈川県の統計書は、当初から284もある調査対象項目すべてを満たした内容でした。

本書では病症別の統計はあるものの分類体系が上記1.6.3とは異なっており「流行性感冒」だけを捉えた統計はありません。

なお、大正11年版は県立図書館・公文書館を始め、国立国会図書館にも残っていません。大正12(1923)年9月の関東大震災によって発行されなかったか、編集・印刷の途中で焼失したのではないかと考えられています【参考文献5:小嶋美代子『明治・大正期の神奈川県』p.33】。

グラフ9

グラフ9 神奈川県の月別死亡数
【データ出典:資料01:『神奈川県統計書』】

大正6年版~同10年版の『神奈川県統計書』掲載の月別死亡者数をグラフ化したのが上記グラフ9です。このグラフで、例年の通常の季節変動とは異なる、異常に高い死亡数を示す山が2か所あるのがわかります。

その異常値をわかりやすくするために、死亡者数2,500人以下の部分をマスキングしたのが下のグラフ10です。

すでに見てきた、スペイン・インフルエンザが猛威を振るった「前流行(大正7年10月から大正8年3月まで)」と「後流行(大正8年12月から大正9年2月まで)」の時期の死亡者数が飛びぬけて高いこと、またその推移の形状がグラフ7で示した神奈川県内の流行性感冒による死亡者数の動きとほぼ同じであることが見て取れます。

その死亡者数の増減は、同じ時期の横浜市における肺炎死亡者数の日別の動き(グラフ3と4)とも相似であることは言うまでもありません。

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グラフ10 神奈川県の月別死亡数2
【データ出典:資料01:『神奈川県統計書』】

1.6.6 小嶋美代子『明治・大正期の神奈川県 人口構造と変動を中心に』麗澤大学出版会、2004年
_参考文献5:【県立図書館所蔵60386851/地域K33 137

参考文献 参考文献の背

本書の執筆目的は著者によれば、大正9(1920)年から開始された国勢調査実施以前の状態を知り、「人口転換(人口が少子少死高齢化していくこと)」について展望することでした。

考察するモデルとして「明治・大正期の神奈川県」が選ばれ、上記1.6.3、1.6.5と『横浜市統計書』が基礎資料になっています。

「流行性感冒」による死亡数については、前述のように『神奈川県統計書』からは得られないため、『日本帝国人口動態統計』や『日本帝国死因統計』を用いています。

本書には、掲載されているグラフやそのデータが収録されたCD-ROMが添付されており、研究等の利便性を高めています(グラフ6はCD-ROMに収録されたデータです)。

1.6.7 速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店、2006年2月28日発行【参考文献1】

著者の速水融氏は、上記1.6.1に掲載された罹患者数・死亡者数には不備(道府県別の数値の一部欠落等)があり実態よりも過小であるとし、独自に「超過死亡数」という考え方を用いた数値を提示しています。

「超過死亡数」によれば、「前流行」期のインフルエンザ死亡者が260,647人、「後流行」期が186,673人で合計453,152人となり、上記1.6.1の数値よりも64,425人多くなっています。この修正値による月別死亡者数をグラフ化したのがグラフ11です。

グラフ11

グラフ11 月別インフルエンザ死亡者数(全国)
参考文献1:『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』p.240から転載(出版元許諾済)

1.7 流行性感冒の統計データ集計

明治30(1897)年に伝染病予防法が制定され、法定伝染病に指定された「虎列刺(コレラ)、赤痢、腸窒扶斯(チフス)、痘瘡、発疹窒扶斯、猩紅熱、實布的利亜(ジフテリア)、パラチフス」については、患者発生数と死亡数の届出が義務化されました。

そのデータは10日ごとに「伝染病旬報」として『神奈川県公報』に掲載され【→資料02】、さらに『神奈川県統計書』に男女別・市郡別・年齢別・月別に再集計され収録されています。

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・資料02:「〔伝染病旬報〕大正7年12月10日~12月20日」【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199302503/K315-0-0020『神奈川県公報』大正7年12月20日 第634号(リンク)】から転載

「流行性感冒」は法定伝染病ではありませんでしたが、明治23(1890)年2月15日の県令第7号【→資料03】で、患者の発生、治癒、死亡等に関して、警察又は県庁へ報告することが医師に命じられています。

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・資料03:「県令第7号 明治23年2月15日」【公文書館所蔵資料3199302383/K315-0-0020『神奈川県公報』明治23年2月15日 号外(リンク)】から転載

明治23(1890)年の県令第7号が、30年後の大正中期まで有効であったか定かではありません。

ただ、三浦郡役所作成の歴史的公文書【→資料04】の中には住民の罹病状況を報告する大正9年1月の『日報』が残され、管内の逗子町内で毎日のように流行性感冒の新規罹患者(画像中赤枠で囲んだ部分)が発生していた状況が見て取れます。

資料06
・資料04:「〔衛生〕日報 大正9年1月22日 逗子町」【公文書館所蔵歴史的公文書1199400468/郡-4-6『大正4~12年 行幸啓に関する書類』三浦郡役所(リンク)】から転載

第1章 おわり

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