令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「スペインインフルエンザ」第2章2.1
令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「スペインインフルエンザ」第2章2.1
第9回 県立図書館・公文書館合同展示
(公文書館担当パート)
スペイン・インフルエンザ
―100年前のパンデミックの記録と記憶―
第1章 数字とグラフで見るインフルエンザの流行
第2章 国と県によるインフルエンザ対策
2.1 国(内務省衛生局)が行った施策
2.1.1 感染により生業に従事できず医療を受けられない窮民の救済
2.1.2 予防心得の周知
2.1.3 予防方針の通達
2.1.4 ポスターによる啓蒙
2.1.5 新兵への予防接種
(以下後半)
2.2 神奈川県が行った施策
2.2.1 予防に関する思想の啓発
2.2.2 マスク
2.2.3 予防接種の奨励
2.2.4 救療の状況
2.2.5 その他の医療活動
第3章 『横浜貿易新報』に見るインフルエンザの猛威
第4章 パンデミック下を生きる人々の思い
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第2章 国と県によるインフルエンザ対策
2.1.1 感染により生業に従事できず医療を受けられない窮民の救済
スペイン・インフルエンザ「前流行」期の大正7(1918)年11月中旬、内務省衛生局から全国府県へ、特に生活に窮乏した罹患者に対する、恩賜財団済生会を通じた医療の提供が要請されました。
・翻刻文01:地方長官に対して恩賜財団済生会による救療を求める通達(大正7年11月、内務省衛生局)_参考文献2:内務省衛生局編『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』東洋文庫、平凡社、2008年【県立図書館所蔵22229595/493.87TT-51】p.140~141から引用
恩賜財団済生会とは、「貧民に対する医療救済を目的として,1911年に天皇の下賜金と民間資金によって設立された財団法人」でした。
「日露戦争後貧困者が増加し,病気になっても医者にかかれない状態がひろが」り、「それまで民間の施療病院が行ってきた慈善医療ではこうした状況に対応しきれず,治安対策上も放置できないため,本格的な救済事業が必要とな」りました。
「そこで貧困な無告の民への医療保護事業を行うことを指示する天皇の勅語が出され,150万円が下付され」「政府はこれをもとに寄付金をつのり,一大救療施設をつくるべく1911年恩賜財団済生会を創設、勅語渙発をてこに施療救済の全国カンパニアを行」いました。
「済生会は医療保護事業の中心機関となり,大都市に病院や診療所を設立,施療券を配布して慈恵医療を行っ」ていたのです。【『平凡社世界大百科事典』所載「済生会」の項(児島美都子執筆)から引用】
済生会は、スペイン・インフルエンザの流行に先立つ戦時(第一次世界大戦で日本が参戦した折)において、出征した兵士の家族や戦争に伴う失業者等で困窮し医療を受けられない人々に対する救療(最寄りの病院で医療が受けられる治療券の支給など)を県の訓令に基づき実施していました。【『神奈川県史 通史編5 近代・現代(2)』神奈川県、p.36/当該訓令は「寅内県収第6147号」『神奈川県公報』第211号(大正3年9月18日)】
済生会事業の収入は、配当金、寄付金の利子、前年度繰越金から成り、全体の約7割を占める配当金は政府からの補助金でした。寄付金の利子は、当該府県が集めた寄付金額に応じて按分されていました【中西よしお「済生会の成立と展開」『社会福祉学』日本社会福祉学会、1992年、p.227】。
寄付金については、公文書館所蔵の歴史的公文書の中にも大正4(1915)年10月時点で済生会へ1,000円以上払い込んだ寄付者の名簿が残っています【→資料05】。(大正4年当時の給与所得者の平均年収は333円とのデータがあります)
・資料05:「恩賜財団済生会寄附金千円以上払込者〔大正4年〕10月18日調」_『大正4年 御大礼に関する書類」鎌倉郡役所』【公文書館所蔵歴史的公文書1199400999/郡-5-14(リンク)】から転載
済生会が行う救療は「直接診療」と「委託診療」の2本立てでした。神奈川県における直接診療の拠点施設は、大正12(1923)年の時点では、済生会神奈川県病院(横浜市根岸町)、同神奈川県診療所(横浜市岡野町)、同神奈川県巡回診療班(横浜市南太田町)の3か所であったことが資料06からわかります。
・資料06:『神奈川県社会事業要覧』神奈川県社会事業協会、大正12年5月【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199309642/K369-0-0227(リンク)】から転載
さらに、大正12(1923)年9月の関東大震災後における済生会施設が写真集として出版されており【→資料07】、当時の医療現場の様子を垣間見ることが出来ます。
「済生会神奈川県診察所の外観」
・資料07-1::『恩賜財団済生会神奈川県病院写真帳』神奈川県、大正14年1月【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199326550/K49-1-0030(リンク)】から転載
「済生会神奈川県診察所の診察室」
・資料07-2:『恩賜財団済生会神奈川県病院写真帳』神奈川県、大正14年1月【公文書館所蔵行政刊行物・図書3199326550/K49-1-0030(リンク)】から転載
済生会における救療事業の内容は県会での報告資料に残されています【→資料08】。病気種類別の診療患者数の統計が掲載されており「流行性感冒」の診療患者数も知ることもできます(ただし、歴史的公文書として残るのは昭和期の資料のみ)。
・資料08:「昭和13年度恩賜財団済生会神奈川県救療事業成績」_『昭和16年 通常県会議案原稿』知事官房庶務課【公文書館所蔵歴史的公文書1199403769/県会-1941-4(リンク)】から転載
「前流行」のピーク時である大正8(1919)年1月には「流行性感冒予防心得」5万枚が印刷され、内務省衛生局から各府県へ配布されます【→参考画像03】。
・参考画像03:「流行性感冒予防心得」_参考文献2:『流行性感冒』【県立図書館所蔵22229595/493.87TT-51】p143~145から転載
「後流行」期の大正9(1920)年1月19日には、「流感予防(内務省衛生局)」の標語小札48万枚が各府県へ配布されます【→参考画像04】。「前流行」期の予防心得が情報量の多いものであったのと対照的なシンプルな内容です。
・参考画像04:「流感予防〔標語小札〕」_参考文献2:『流行性感冒』【県立図書館所蔵22229595/493.87TT-51】p.156から転載
「後流行」期の大正9(1920)年1月16日には内務大臣から庁府県へ内務省訓第1号が発せられます。
・翻刻文02:「予防方法(内務省訓第1号)」_参考文献2:『流行性感冒』p151~152【県立図書館所蔵22229595/493.87TT-51】から転載
「後流行」期の大正9(1920)年2月7日には、5種類の啓蒙ポスター各5,000枚が配布されます【→参考画像05】が、経費の都合で刷数が少なかったため、各府県で必要な枚数を増刷すべしとされました。
・参考画像05:啓蒙ポスター5種(大正9年2月配布)_内務省衛生局著『流行性感冒』1922.3【国立保健医療科学院図書館所蔵】掲載の図版(所蔵元許諾済)
さらに「後流行」の次の冬を迎えて、新たに3種類のポスター3万枚が大正9(1920)年12月に配布されます【→参考画像06】。
・参考画像06:啓蒙ポスター3種(大正9年12月配布)_内務省衛生局著『流行性感冒』1922.3【国立保健医療科学院図書館所蔵】掲載の図版(所蔵元許諾済)
大正10(1921)年1月6日には内務省訓令第1号として「予防要項」が内務大臣から庁府県へ発せられます【→資料09】。当該要綱は大正7年以来のスペイン・インフルエンザに関する内外の知見を結集して作成されたことが訓令の前文で述べられ、各府県がこの要綱に基づき予防策を講ずることが求められました。
結果として幸いにも、3度目の冬は大流行に至らなかったのは、第1章でみたとおりです。
「内務省訓令第1号(大正10年1月6日)」
・資料09:『官報』第2526号、大正10年1月6日、印刷局【公文書館所蔵行政刊行物・図書】から転載
陸海軍は、「後流行」期に横須賀で多数の罹病者を出した苦い経験から、大正9(1920)年の冬において地方官憲と連絡の上、12月に軍隊に新規に入営・入団する者に対して予防注射の接種を実施します。公文書館の歴史的公文書の中にも、都田村(現在の横浜市都筑区川和町)での通知状が残されています。【→資料10】
・資料10:「入営兵流行性感冒予防接種ニ関スル件/都田村長 平賀熹之」大正9年11月9日_横浜市都筑区池辺町 原久三氏所蔵文書(寄託)【公文書館収蔵古文書・私文書2200870711(リンク)】
<通知状の翻刻文(カタカナ表記をひらがなに改めています)>
「2.1 国(内務省衛生局)が行った施策」おわり