令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「スペインインフルエンザ」第3章

第9回 県立図書館・公文書館合同展示

(公文書館担当パート)

スペイン・インフルエンザ

―100年前のパンデミックの記録と記憶―

第1章 数字とグラフで見るインフルエンザの流行

第2章 国と県によるインフルエンザ対策

第3章 『横浜貿易新報』に見るインフルエンザの猛威

3.1 スペイン・インフルエンザの新聞報道(関連記事の一覧表)
3.2 与謝野晶子の寄稿文

第4章 パンデミック下を生きる人々の思い

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第3章 『横浜貿易新報』に見るインフルエンザの猛威

『横浜貿易新報』は、明治23(1890)年2月に「横浜貿易新聞」として創刊した後、明治39(1906)年から昭和15(1940)年まで35年間にわたって掲げられた紙名で、昭和17(1942)年2月に「神奈川新聞」となり現在に至っています。

紙名タイトル

スぺイン・インフルエンザが流行した時期、『横浜貿易新報』の社主兼主筆は三宅磐(みやけばん)という人物でした。彼は『大阪朝日新聞』記者や『東京日日新聞』経済部長を歴任し、明治41(1908)年には横浜市から招かれて新都市計画作成のための市政顧問に就任していた実力者で、その貢献により社業は隆盛し『横浜貿易新報』は全国にも知られる地方紙に発展したと評価されています。【参考文献6:影山昇「与謝野晶子と『横浜貿易新報』-女性・教育寮評論を中心として」『成城文芸』173号、成城大学文芸学部、2001年1月】。

3.1 スペイン・インフルエンザの新聞報道

『横浜貿易新報』におけるスぺイン・インフルエンザ報道の第一報は大正7(1918)年10月17日付で、小田原中学校の寄宿舎で100余名が悪性風邪に罹病し、小学校で100余名の欠席者が出ている状況を報じています。

以降、神奈川県内の学校を中心に、地域、軍、医療分野など社会全般に影響を及ぼしたスペイン・インフルエンザの猛威をつぶさに報道し、貴重な記録を残しています。

「前流行」期、すなわち大正7(1918)年10月~大正8(1919)年2月と、「後流行」期の大正8(1919)年12月~大正9(1920)年2月に、同紙に掲載されたスペイン・インフルエンザ関連の記事は、下記一覧表の通りです。

表2 関連記事一覧表のPDFを開く(1212KB)(PDF文書)

3.2 与謝野晶子の寄稿文

歌集『みだれ髪』や日露戦争中に発表した長詩「君死にたまふことなかれ」で名高い歌人・与謝野晶子は、前述した『横浜貿易新報』社主兼主筆の三宅磐から懇望され、大正5(1916)年9月以来、同紙の「家庭と婦人」欄に社会評論・随筆を定期的に寄稿していました。それは昭和10(1935)年3月まで20年近く続けられ、全部で816編にも及びました。

晶子肖像
・参考画像10:与謝野晶子肖像写真【国立国会図書館「近代日本人の肖像」】から転載

晶子の寄稿文は、恋愛・出産・教育などの女性問題にとどまらず、政治・経済・社会・文化の各分野に及ぶ多彩なテーマを取り上げたものでした。

時あたかもパンデミックに見舞われ、与謝野家においても罹病者を出す状況に接した晶子(当時10人の子持ちで、罹病しなかった子供は2人だけ)は、スペイン・インフルエンザの猛威と、教育や医療の現場、政府がとる対策の不備を鋭く突き、さらには経済格差の問題にまで言及する稿「感冒の床から」を「前流行」の渦中である大正7(1918)年11月10日付『横浜貿易新報』に寄せます。

資料15
・資料15:与謝野晶子「感冒の床から」『横浜貿易新報』大正7(1918)年11月10日付【公文書館所蔵マイクロフィルム】から転載

<翻刻>「感冒の床から」与謝野晶子

今度の風邪は世界全体に流行つて居るのだと云ひます。風邪までが交通機関の発達に伴れて世界的になりました。

この風邪の伝染性の急劇なのには実に驚かれます。私の宅などでも一人の子供が小学から伝染して来ると、家内全体が順々に伝染して仕舞ひました。唯だ此夏備前の海岸へ行つて居た二人の男の子だけがまだ今日まで煩はずに居るのは、海水浴の効験がこんなに著しいものかと感心されます。

東京でも大阪でもこの風邪から急性肺炎を起して死ぬ人の多いのは、新聞に死亡広告が出て殖えたのでも想像することが出来ます。文壇から俄に島村抱月さんを亡つたのも、この風邪の与へた大きな損害の一つです。

盗人を見てから縄を綯ふと云ふやうな日本人の便宜主義がかう云ふ場合にも目に附きます。どの幼稚園も、どの小学や女学校も、生徒が七八分通り風邪に罹つて仕舞つて後に、漸く相談会などを開いて幾日かの休校を決しました。どの学校にも学校医と云ふ者がありながら、衛生上の予防や応急手段に就て不親切も甚しいと思ひます。米騒動が起らねば物価暴騰の苦痛が有産階級に解らず、学生の凍死を見ねば非科学的な登山旅行の危険が教育界に解らないのと同じく、日本人に共通した目前主義や便利主義の性癖の致す所だと思ひます。

米騒動の時には重立つた都市で五人以上集まつて歩くことを禁じました。伝染性の急劇な風邪の害は米騒動の一時的局部的の害とは異ひ、直ちに大多数の人間の健康と労働力とを奪ふものです。政府はなぜ逸早くこの危険を防止する為に、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでせうか。そのくせ警視庁の衛生課は新聞を介して、成るべく此際多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同様の事を子供達に注意して居るのです。社会的施設に統一と徹底との欠けて入る為に、国民はどんなに多くの避らるべき禍を避けずに居るか知れません。

今度の風邪は高度の熱を起し易く、熱を放任して置くと肺炎をも誘発しますから、解熱剤を服して熱の進向を頓挫させる必要があると云ひます。しかるに大抵の町医者は薬価の関係から、最上の解熱剤であるミグレニンを初めピラミドンも呑ませません。胃を害し易い和製のアスピリンを投薬するのが関の山です。一般の下層階級にあっては売薬の解熱剤を以て間に合せて居ります。かう云ふ状態ですから患者も早く癒らず、風邪の流行も一層烈しいのでは無いでせうか。官公私の衛生機関と富豪とが協力して、ミグレニンやピラミドンを中流以下の患者に廉売するやうな応急手段が、米の廉売と同じ意味から行はれたら宜しからうと思ひます。平等はルッソオに始まったとは限らず、孔子も『貧しきを憂ひず、均しからざるを憂ふ』と云ひ、列子も『均しきは天下の至理なり』と云ひました。同じ時に団体生活を共にして居る人間でありながら、貧民であると云ふ物質的の理由だけで、最も有効な第一位の解熱剤を服することが出来ず他の人よりも余計に苦しみ、余計に危険を感じると云ふ事は、今日の新しい倫理意識に考へて確に不合理であると考えます。(以下、稿の後半は第一次世界大戦に関する言及なので省略します。末尾に脱稿日として「11月7日〔大正7年〕」の日付があります。なお、旧字は常用漢字に変換しルビは省略しました。)

晶子の、状況の正確な把握と、いちいちもっともな分析振りには改めて驚かされるほどで、現在の状況にもそのまま当てはまる、色褪せることのない理知的な指摘にあふれています。「母性保護などに関し論争しつつ展開された婦人解放論、さらに政治、教育、社会の問題におよぶ幾多の評論も、晶子が歌よみの域をこえる豊かな洞察と見識の持ち主であった」との人物評【朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』所載「与謝野晶子」の項(芳賀徹氏執筆)より引用】も肯けます。

さらに、約1年後の「後流行」真っただ中の大正9(1920)年1月25日付の同紙にも「死の恐怖」と題された文を寄稿します。

スペイン・インフルエンザが猛威を振るう中、「死」を実感し世の無常を思わざるを得ない日々に、「死」に対する哲学的な洞察を加えつつ、あくまで「生」への努力を諦めず、予防注射やうがいなど自分たちで出来る限りの予防対策を打つべきと、一般市民としての切実な思いを綴っています。

資料16
資料16:与謝野晶子「死の恐怖」
『横浜貿易新報』大正9(1920)年1月25日付【公文書館所蔵マイクロフィルム】から転載
(晶子による寄稿文の傍らには婦人向けの予防記事や一コマ漫画「親戚をどなた様かと聞くマスク」が載る)

<翻刻>「死の恐怖」与謝野晶子

悪性の感冒が近頃のやうに劇しく流行して、健康であつた人が発病後五日か七日で亡くなるのを見ると、平生唯だ『如何に生くべきか』と云ふ意識を先にして日を送つて居る私達も、仏教信者のやうに無常を感じて、俄に死の恐怖を意識しないで居られません。物価の暴騰に由つて、私達精神労働者はこの四五年来、食物に就て常に栄養の欠乏を苦にし、辛うじて飢餓線を守ることに努力して居るのですが、今は其れ以上に危険な死の脅威に迫られて居るのを実感します。

死は大なる疑問です。その前に一切は空になります。紛々たる人間の盛衰是非も死の前には全く価値を失ひます。人間の価値は私たちが死の手に引き渡されない以内の問題です。かう考えると、私達は死に就て全く知らず全く一辞も着けることの出来ないことを思はずに居られません。死は茫々たる天空の彼方のやうに、私たちの思慮の及ばない他界の秘密です。

或はまた、善悪、正邪、悲痛、歓楽の相対界が『生』であるとするなら、其等の差別を超越した絶対一如の世界が『死』であるとも云はれるでせう。此の意味から『死』を絶対の安静と解することも出来ます。

また万法は流転して止まらず、一物として変化しないものは無いと共に、一物として滅するものは無いと考へる時、生も死も、要するに一つの物が示す二様の変化に過ぎないことが直感されます。この意味から云えば、絶対は相対の中にあり、差別が即ち平等であることを思はずに居られません。生にして楽しくば死も楽しく、死にして悲しくば生も悲しく、否寧ろ苦楽悲喜の交錯が絶対の存在其物であると思はれます。

私の体験を云うと、この第三の自覚が私の現在の死の恐怖を非常に緩和して居るのを発見します。私は死を怖れて居るに違いありませんが、個体の私の滅亡が惜しいからでは無く、私の死に由つて起る子供の不幸を予想することの為めに、出来る限り生きて居たいと云ふ欲望の前で死を拒んで居るのです。絶対の世界に於て死は少しも怖るべき理由がありません。生の欲望と相対して初めて死が怖ろしくなります。

死を怖れるのも『如何に生くべきか』を目的として居るからです。生の欲望を放棄するならば、其處には絶対の安静な世界が現はれて来るでせう。絶対の死は恐るるに足らない。唯相対の死を恐れるのです。

私は今、この生命の不安な流行病の時節に、何よりも人事を盡して天命を待たうと思ひます。『人事を盡す』ことが人生の目的でなければなりません。例へば、流行感冒に対するあらゆる予防と抵抗とを盡さないで、むざむざと病毒に感染して死の手に獲取されるやうな事は、魯鈍とも、怠惰とも、卑怯とも、云ひやうのない遺憾な事だと思ひます。予防と治療とに人為の可能を用ひないで、流行感冒に暗殺的の死を強制されてはなりません。

今は死が私達を包囲して居ます。東京と横浜とだけでも日毎に四百人の死者を出して居ます。明日は私達がその番に当たるかも知れませんが、私達は飽迄も『生』の旗を押立てながら、この不自然な死に対して自己を衛ることに聡明でありたいと思ひます。世間には予防注射をしないと云ふ人達を多数に見受けますが、私はその人達の生命の粗略な待遇に戦慄します。自己の生命を軽んずるほど野蛮な心理はありません。

私は家族と共に幾回も予防注射を実行し、其外常に含嗽薬を用ひ、また子供達の或者には学校を休ませる等、私達の境遇で出来るだけの方法を試みて居ます。かうした上で病気に罹つて死ぬならば、もう其れまでの運命と諦めることが出来るでせう。幸ひに私の宅では、まだ今日まで一人の患者も出して居ませんが、明日にも私自身を初め誰がどうするかも解りません。死に対すると人間の弱さが今更の如くに思はれます。人間の威張り得るのは『生』の世界に於てだけの事です。

私は近年の産褥に於て死を怖れた時も、今日の流行感冒に就ても、自分一個のためと云ふよりは、子供達の扶養のために余計に生の欲望が深まつて居ることを実感して、人間は親となると否とで生の愛執の密度または色合に相違のある事を思はずに居られません。人間の愛が自己と云ふ個体の愛に止まつて居る間は、単純で且つ無責任を免れませんが、子孫の愛より引いて全人類の愛に及ぶので、愛が複雑になると共に社会連帯の責任を生じて来るのだと思ひます。

感冒の流行期が早く過ぎて、各人が昨今のやうな肉体の不安無しに思想し労働し得ることを祈ります。(〔大正9年〕1月23日)(旧字は常用漢字に変換し、ルビは省略しました。)

第3章 おわり

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