令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「流行性感冒の歴史―前近代の流行り風邪―」7~9

第9回 県立図書館・公文書館合同展示

(公文書館担当パート)

流行性感冒の歴史

―前近代の流行り風邪―


1 風邪は万病のもと―古代中国由来の疾病観―
2 前近代の流行り風邪
3 風邪と風病
4 海外から吹き込む風邪
5 風邪のひきはじめ
6 寛元二年の流行り風邪 ―鬱陀鬼、内竹房、三日病―
7 四角四堺祭と都市鎌倉の四至
8 中世の流行り風邪?三日病(みっかやみ)
9 流行り風邪と改元
10 流行り風邪のあだ名
11 せく、たぐる、こづく...あなたの咳はどのタイプ?
12 咳除け信仰のおしゃもじさま


7 四角四堺祭と都市鎌倉の四至

史料19に見える四角四堺祭(しかくしかいのまつり)は四角四境祭ともいい、疫病などの災いを鬼気のしわざと考え、それらが外から侵入するのを防ぐ陰陽道の祭祀です。元来は京都の大内裏の四隅(四角祭)と山城国の国境である大枝(京都府亀岡市)・山崎(京都府大山崎町)・逢坂・和邇(滋賀県大津市)で行われたもの(四境祭)ですが、鎌倉時代には鎌倉でも行われるようになりました。
鎌倉では将軍御所の四隅と東の六浦(横浜市金沢区)・南の小壺(逗子市小坪)・西の稲村ないし固瀬河(鎌倉市稲村ガ崎・藤沢市片瀬)・北の山内ないし小袋坂(鎌倉市山ノ内)で行われています。四境祭は都市内外の境界上で行われた祭祀であるため、これにより当時都市鎌倉と認識されていた範囲を知ることが出来ます。
かつての山内である北鎌倉の周辺には、陰陽師として有名な安倍晴明に関する史跡が散見されます。これは都市鎌倉の北の境界として認識され、陰陽道との関わりが深かったこの地の特徴を今に伝えているようです。

史料21 『吾妻鏡』元仁元年12月26日条
史料21 『吾妻鏡』元仁元年(1224)12月26日条
『新訂増補国史大系』第33巻 吉川弘文館 1965年
【県立公文書館所蔵 3199406181/G27-0-0025-33】
【県立図書館所蔵(10339422/210.08 4 33】

第六天神社の安部清明の碑
第六天神社鳥居脇の「安部清明」大神の碑
令和2年12月 公文書館スタッフ撮影

八雲神社境内の「安部清明」神君の石
八雲神社境内の「安部清明」神君の石
令和2年12月 公文書館スタッフ撮影

「安部清明」大神の碑
第三鎌倉道踏切(通称明月院踏切)
付近の「安部清明」大神の碑
令和2年12月 公文書館スタッフ撮影

鎌倉と四境

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8 中世の流行り風邪?三日病

この展示でもすでに登場していますが、中世の史料に限定して見える病気に三日病(みっかやみ)があります。その特徴として病状が数日間で回復するというものがあります。この点からこの三日病を三日麻疹、いわゆる風疹(ふうしん)とする考えがあります(『日本疾病史』等)。
しかし、その病状として熱や咳が見られる一方で、風疹の最大の特徴といえる発疹の記述が見られないことなどから、この三日病についてもインフルエンザのような流行り風邪とする考えもあります(中村昭1987)。今回はこの三日病を流行り風邪の一種と考えてご紹介します。

三条公忠と三日病

まずはその病状を、南北朝時代の公卿である三条公忠(時に従一位前内大臣 55歳)の日記『後愚昧記』の永和4年(1378)の記事から見てみましょう。この当時京都では三日病が大流行しており、公忠も罹患、病臥することになります。

史料22 『後愚昧記』永和4年7月26日~8月2日条
史料22 『後愚昧記』永和4年(1378)7月26日~8月2日条
【県立公文書館所蔵 3199361626/G27-0-0021】
【県立図書館所蔵(10345817/210.08 16 17-2】

3日以降は病気の記述は見られないため、公忠の場合、一週間程度体調不良が続いたと考えられます。ここで公忠は病状がぶり返すのが三日病の特徴としていますが、これは先に見た平経高の病状とよく似ていることがわかります。

棟梁助二郎と三日病

『多聞院日記』に三日病にかかった助二郎という大工の棟梁の話が見えています。

史料23 『多聞院日記』天正14年5月20日条
史料23 『多聞院日記』天正14年(1587)5月20日条
『増補続史料大成』第41巻 臨川書店 1978年
【県立図書館所蔵 10350817/210.08 87-2 41】

こちらは三日病の病状の短さが特徴となっており、それに起因する一種の笑い話とも取れる内容になっています。

三日病に関する記述を見ると、棟梁助二郎のように数日程度の短期間で回復するケースと、平経高や三条公忠のように数日周期で小康と激発を繰り返すケースとが見られます。あるいは三日病にも「新型」や「変異種」があったのかもしれません。

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9 流行り風邪と改元

明治以前には様々な理由で改元が行われましたが、その一つに災異改元がありました。これは天災や疫病の流行といった災害を払うために元号を改めるものです。
疫病による改元の多くは疱瘡(ほうそう)と呼ばれた天然痘や麻疹(はしか)の流行によるものでしたが、中には流行り風邪を理由とするものも見られます。

史料24 延喜→延長の改元 『扶桑略記』延喜23年閏4月11日条
史料24 延喜→延長の改元 『扶桑略記』延喜23年(923)閏4月11日条
『新訂増補国史大系』第12巻 吉川弘文館 1965年
【県立公文書館所蔵 3199361626/G27-0-0021】
【県立図書館所蔵 10339190/210.08 4 12】

史料25 延慶→応長の改元 『武家年代記裏書』応長元年条
史料25 延慶→応長の改元 『武家年代記裏書』応長元年(1311)条
『増補続史料大成』別巻 臨川書店 1979年
【県立図書館所蔵 10350908/210.08 87-2 51】

史料26 永和4年の三日病と改元計画 『愚管記』永和4年6月17日条
史料26 永和4年の三日病と改元計画 『愚管記』永和4年(1378)6月17日条
『続史料大成』4 臨川書店 1967年
【県立図書館所蔵 10350593/210.08 87 4】

7~9 おわり

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