令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「流行性感冒の歴史―前近代の流行り風邪―」4~6

第9回 県立図書館・公文書館合同展示

(公文書館担当パート)

流行性感冒の歴史

―前近代の流行り風邪―


1 風邪は万病のもと―古代中国由来の疾病観―
2 前近代の流行り風邪
3 風邪と風病
4 海外から吹き込む風邪
5 風邪のひきはじめ
6 寛元二年の流行り風邪 ―鬱陀鬼、内竹房、三日病―
7 四角四堺祭と都市鎌倉の四至
8 中世の流行り風邪?三日病(みっかやみ)
9 流行り風邪と改元
10 流行り風邪のあだ名
11 せく、たぐる、こづく...あなたの咳はどのタイプ?
12 咳除け信仰のおしゃもじさま


4 海外から吹き込む風邪

流行り風邪について記す史料の中には、流行の原因として外国との接触をあげるものが散見されます。前近代にあっては風邪をはじめとする感染症は、西から東へと流行が広がるのが通例でした。これは外国との窓口であった太宰府や博多、長崎、琉球などから病気が侵入し、次第に東へと蔓延したことによると考えられます。

史料11 『日本三代実録』貞観14年正月20日条
史料11 『日本三代実録』貞観14年(873)正月20日条
『新訂増補国史大系』第4巻 吉川弘文館 1966年
【県立公文書館所蔵 3199406150/G27-0-0025】
【県立図書館所蔵 10339117/210.08 44】

史料12 『明月記』貞永2年2月17日条
史料12 『明月記』貞永2年(1233)2月17日条
『明月記』第3 国書刊行会 1912年
【県立図書館所蔵 12018818/915.4 1 3】

史料13 『園太暦』康永4年9月12日条
史料13 『園太暦』康永4年(1345)9月12日条
『園太暦』巻3 続群書類従完成会 1976年
【県立図書館所蔵 10354652/210.08 128 3】

*

5 風邪のひきはじめ

現在のような「風邪をひく」表現の早い例として『落窪物語』(十世紀末成立)があげられています。また鎌倉時代になると、手紙などでも「風邪をひく」表現が見られるようになります。

史料14 『落窪物語』巻之二
史料14 『落窪物語』巻之二
『日本古典文学大系』13 岩波書店 1976年
【県立図書館所蔵 12790283/918 9 13a】

史料15 津戸三郎へつかわす御返事
史料15 津戸三郎へつかわす御返事(建久9年<1198>ヵ4月26日付法然消息)
『法然全集』第3巻 春秋社 1989年
【県立図書館所蔵 20289211/188.6 107 3】


史料16 金澤貞顕書状
史料16 金澤貞顕書状
『金沢文庫古文書』第1輯 金沢文庫 1952年
【県立公文書館所蔵 3199353715/K27-0-0015】

*

6 寛元二年の流行り風邪 ―鬱陀鬼、内竹房、三日病―

鎌倉時代の寛元2年(1244)に流行した疫病については諸史料に記述が見られます。まず京都で流行が見られ、やや遅れて鎌倉でも病気が蔓延しました。「鬱陀鬼」「内竹房」「三日病」と聞き慣れない病名が並んでいますが、『吾妻鏡』同年4月26日条に「咳病温気」すなわち咳と発熱を伴うとあるところから、流行り風邪の全国的流行であると考えられます。

史料17 『武家年代記裏書』寛元2年条
史料17 『武家年代記裏書』寛元2年条
『増補続史料大成』別巻 臨川書店 1979年
【県立図書館所蔵 10350908/210.08 87-2 51】

史料18 『百錬抄』寛元2年5月6日条
史料18 『百錬抄』寛元2年5月6日条
『新訂増補国史大系』第11巻 吉川弘文館 1965年
【県立公文書館所蔵 3199406157/G27-0-0025】
【県立図書館所蔵 22898423/210.08 4A 11-2】

史料19 『吾妻鏡』寛元2年4月26日条
史料19 『吾妻鏡』寛元2年4月26日条
『新訂増補国史大系』第33巻 吉川弘文館 1965年
【県立公文書館所蔵 3199406181/G27-0-0025-33】
【県立図書館所蔵 10339422/210.08 4 33】

史料20 『吾妻鏡』寛元2年5月18日条
史料20 『吾妻鏡』寛元2年5月18日条
『新訂増補国史大系』第33巻 吉川弘文館 1965年
【県立公文書館所蔵 3199406181/G27-0-0025-33】
【県立図書館所蔵 10339422/210.08 4 33】

京都での流行の様子は当時の公卿である平経高(正二位民部卿 65歳 以下年齢は数え年)の日記『平戸記(へいこき)』で詳しく知ることが出来ます。

『平戸記』1
『増補史料大成』32 臨川書店 1965年
【県立図書館所蔵 10350429/210.08 86A 32】

その記述から罹患・死亡した人をリストアップすると

高倉範有(前近衛少将 享年42)

二条良実(従一位関白・左大臣 29歳)

一条実経(正二位右大臣・春宮傅 22歳)

鷹司兼平(正二位内大臣 17歳)

土御門定通(正二位前内大臣 57歳)

平高望(経高の孫で後継者)

卜部兼頼(神祇権少副)

近衛兼経(従一位前関白 35歳)

後嵯峨天皇(23歳)

中宮姞子(20歳)

東宮久仁親王(のちの後深草天皇 2歳)

四条隆親(正二位権大納言・中宮大夫 43歳)

となります。
天皇と中宮・東宮が相次いで罹患し、関白の二条良実を始め五摂家の当主も4人までが病臥しました。中宮・東宮とそれに近侍する中宮大夫・東宮傅が共に罹患しているのは関係が密だったからでしょうか。天皇と関白については「六借」=難しとの記述も見えており、かなり重篤だったようです。
このほかにも『平戸記』には

「毎家毎人莫不臥病床」(家ごと人ごとに病に臥せない者はない 4月29日条)

「上卿宰相皆以所労、奉行職事同煩此事、」(行事担当の公卿は皆病気、
実務官たちも同じく病気 5月2日条)

「貴賎上下一人不遁」(身分の上下を問わず一人として病気を免れない 5月6日条)

といった記述もみえ、朝廷の最重要行事である除目(じもく、朝廷の官職を任命する儀式)もたびたび延期されています。今風に言えば内裏内クラスターが発生し、朝廷は朝儀崩壊に陥ったとも考えられます。
さらには経高自身も罹患・病臥する所となります。

平経高の病状

『平戸記』寛元2年5月3日~22日条により作成

23日以降は病気に関する記述が見られないため、経高は小康状態と体調悪化とを繰り返しながら3週間近く病脳したことになります。高齢であることが病気の長期化に影響した可能性もあります。

4~6 おわり

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