令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「神奈川における感染症の歴史と疫病除け」
令和2年度(第9回)県立図書館・公文書館合同展示「神奈川における感染症の歴史と疫病除け」
「パンデミックを生き抜くために」
-神奈川と感染症の歴史-
【神奈川における感染症の歴史と疫病除け】
県立図書館と県立公文書館の各資料を一堂に展示する合同展示も今年で9回目を迎えます。今回は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が世界中で大きなニュースとなっていることから、神奈川と感染症にまつわるエピソードをWeb展示にて紹介します。
昨年、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、フランスのノーベル賞作家アルベール・カミュ(1913年から1960年)の小説「ペスト」(La Peste,1947年)がミリオンセラーとなりました。こうしたことから、県立図書館担当の資料の中から、神奈川県におけるペストの流行について焦点を当ててご紹介します。
また、神奈川県で行われている伝統芸能の中から、厄病除けの祈りが込められている「お札まき」、「鹿島踊り」についてもご紹介します。
『ペスト 上 La Peste』
アルベール・カミュ著
宮崎嶺雄訳
佐藤敬装幀 創元社
1950年[953.7/48/1]
1.神奈川におけるペストの流行
(1)ペストの特徴
ペストは元来、ネズミの病気ですが、ノミを介して人間に感染します。その症状により、腺ペストと肺ペストに大別されます。腺ペストは、主に鼠蹊部のリンパ腺が大きく腫れて痛み、高熱から意識障害などを起こすこともあります。さらに、敗血症になると、皮膚に黒い出血斑が現われることから黒死病とも呼ばれました。一方、肺ペストは、血痰、喀血などの肺炎症状が見られ、空気感染します。ペストは致死率が高い感染症で、14世紀のヨーロッパにおけるパンデミックでは、全人口の4分の1が亡くなったという試算もあります。今日では、抗生物質によって治療可能な病となっています。
ペストのパンデミックは、有史以来3回あったとされ、日本での流行は3回目の19世紀後半に当たっています。
『神奈川縣ペスト流行史』神奈川縣警察部 1910年[K49/136] より
「最近世界ペスト流行指示」
(2)ペストの上陸
明治27年(1894年)、香港でペストが大流行し、日本から私立伝染病研究所の北里柴三郎(1853年から1931年)が派遣されました。ほどなく、北里はペスト菌を発見したと、英国の医学雑誌に発表します。しかし、見つかったペスト菌は他の細菌と完全には分離できておらず、ペスト菌発見者の名誉は、フランスのイェルサンのものとなりました。
明治29年(1896年)3月、香港から横浜港へ来た英国船の船内で、清国人の乗客が発病し、ペストの疑いと診断されました。患者は、収容先の横浜市中村の清国人病院にて死亡します。その後、遺体から、日本で初めてペスト菌が検出されました。
さらに明治32年(1899年)11月、門司港に上陸した後、広島へ移動して亡くなった横浜人の澤田松五郎なる人物がペストと診断されます。しかし、乗船地で感染した者とみなされ、同月、神戸市で発見されたペスト患者が、日本初のペスト患者とされています。
高木友枝著「横濱市ノ『ペスト』病」
(『細菌學雜誌』 第5号 日本細菌学会 1896年 )
当館未所蔵 CiNii Articlesよりダウンロード
注)明治29年のペスト発生の記事
(3)ペスト流行の経過 -明治時代-
神奈川県のペスト患者第1号は、明治35年(1902年)9月末に発病した、横浜市海岸通りに住む佐々木シナという16歳の少女でした。10月初めにリンパ腺からペスト菌が検出され、まもなく死亡しています。その後、海岸通り周辺に感染が拡大し、合わせて7名が発症しました。うち5名は死亡しています。
2回目の流行は翌年5月からで、最初に横浜市西戸部町と戸部町の健康診査で、各1名が発見されました。その後、入港した外国船や市内のネズミから続々とペスト菌が検出され、11月までに感染者は49名に上り、41名が死亡しました。
3回目の流行は明治40年(1907年)5月からで、西戸部町の白米小売商が最初の感染者です。外米の輸入が原因で発生したとされ、8月までに19名が発症し、18名が死亡しました。
4目の流行は明治42年(1909年)で、横浜市野毛町にある古俵商の収蔵庫からペスト菌に感染したネズミが発見された後、4月に南太田町で患者が発生します。7月までに28名が発症し、22名が死亡しました。
『横浜貿易新聞』 1902年10月7日2面 「黑死病の發生」(マイクロ写真引伸し製本)
注)県内での最初のペストの発生を伝える記事。左下には、号外が出されたことが記されている。
『神奈川縣大正2年大正3年「ペスト」流行誌』神奈川縣警察部衛生課 1915年[K49/33] より
「横濱市ペスト發生圖 (自明治三十五年至大正三年) 横濱市全圖」
(4)ペスト流行の経過 -大正時代-
5回目の流行は、大正2年(1913)9月からでした。最初の患者は伊勢佐木警察署の巡査で、死亡後に遺体からペスト菌が検出されています。翌年1月までに市内で22名が発症し、死者は18名となっています。
さらに市外にも感染が拡大し、5月に橘樹郡保土ヶ谷町(現横浜市)で8名(死者7名)、橘樹郡川崎町(現川崎市)で1名(死亡)、高津郡大野村(現相模原市)で12名(死者10名)、同年7月に橘樹郡田島村(現川崎市)で5名(死者4名)が発症しています。
5回目の流行の発生源は港湾のみとされています。また、明治期の流行では腺ペストがほとんどでしたが、今回は、もっと重症で現在でも致死率が高い、敗血症や肺ペストが多く見られました。
6回目の流行は大正15年(1926)6月に起こります。横浜市北方で女性が発病して死亡しますが、右脇下のリンパ腺が鳩卵大に腫れていたものの、ペスト菌は発見されなかったため、疑似ペストとされました。7月末までに8名が発症し、死者は4名でした。この流行が日本の陸上における最後の流行となります。
『横浜貿易新報』 1926年7月4日5面「市内北方町梅田に疑似ペスト發生」
(マイクロ写真引伸し製本)
注)日本の陸上における最後のペスト流行の発端となった患者を伝える記事。
(5)ペストへの防疫
1.健康隔離所の設置:患者の家族、同居人、近隣住民は約10日間、隔離所に収容され、検診を受けて監察されます。こうした健康な人を収容する健康隔離所が市内に数か所設置されました。
2.巡回:周辺住民に対して医師と巡査が組んで各戸を巡回し、健康状態の注意を呼びかけ、発病者の発見に努めました。
3.交通遮断:政府は、明治14年(1881年)、伝染病予防規則を改定し、村落への全部または一部分に危険な外来伝染病が蔓延する兆候がみられた時は、状況に応じて交通を遮断することとしました。これは諸外国におけるペスト流行時にとられた措置で、カミュ著『ペスト』にその状況がよく書かれています。例えば神奈川県での2回目のペスト流行の際は、40回の交通遮断が行なわれています。遮断期間は、10日から30日間で、遮断区域の門口には、巡査が昼夜交替で監視に当たりました。住民の日用品購入、面会人の取次ぎなどは、民間の衛生組合員が行ないました。
『神奈川縣大正2年大正3年「ペスト」流行誌』より
「横濱市ニ於ケルペスト關係者隔離収容」
『神奈川縣大正2年大正3年「ペスト」流行誌』より
「保土ヶ谷町第一ペスト患家ノ消毒」
『神奈川縣ペスト流行史』より
「海岸通五丁目二十番地 遮断區域圖(明治三十五年十月八日 県令第六十五号ニヨルモノ)」
注)オレンジ色の部分は焼却された建物を示しています。
4.焼き払い:明治35年の流行の際、患者の家と周辺家屋の焼却が行なわれました。この方法は、北里柴三郎の発案でした。対象建屋187戸、住民1256名を収容する場所を神奈川砲台跡とし、輸送方法の検討、焼却に伴う財産保証の金額交渉など、決定から実施までに1か月近くを要しました。建物は全て破壊・消毒した後、点火し、周囲には警官及び消防隊を配置して飛び火や逃げるネズミを警戒しました。明治36年の流行時にも戸部で4戸、西戸部で20戸の焼き払いが行なわれましたが、以後、行なわれなくなりました。
5.ネズミの駆除:患者の家やその周辺、下水溝のネズミの退治を行ないます。大正15年の6回目の流行時には、ネズミ捕り名人として、三重県四日市市の広瀬惣吉なる人物が援助に来ており、その腕前は猫以上であると、当時の新聞に掲載されています。また、市当局は広く市民からネズミを買い上げることも行なっています。1匹5銭で買い上げ、さらに、1等100円1本、2等50円2本、3等10円10本、4等200本という懸賞も付けられました。8日間で買い上げられたネズミの総数は1万5000匹に達しました。
『横浜貿易新報』1926年7月17日5面「捕鼠の名人が三重縣から來る」
(マイクロ写真引伸し製本)
『横浜貿易新報』1926年7月19日5面「猫も及ばぬ鼠捕の名手」
(マイクロ写真引伸し製本)
2. 神奈川県の伝統芸能における厄病除け
(1)お札まき〔横浜市指定無形民俗文化財〕
お札まきは、横浜市戸塚区の八坂神社で7月14日の例祭に行なわれる伝統行事です。神社のある一帯は、かつての東海道五十三次の戸塚宿に当たります。
午後5時過ぎから境内で始まり、旧戸塚4丁目を巡り約30ヶ所でお札を撒いて神社に戻ります。踊り手は派手な長襦袢を着て、化粧をした10名から13名の男性で、着物にタスキをかけ、手拭いをあねさん被りし、音頭取りのみ島田髷のボテカツラを被ります。他に、翁面を掛けた大幣を持つ、男姿の御幣持ちが一人います。右手に渋団扇を持ち、音頭取りを中心に踊り手が、右回りに簡単な振りで踊ります。その際、音頭取りが一節を歌い、踊り手が復唱します。
『お札まき』
県立図書館製作 1963年[K22](写真1)
歌詞は、「さあ来い子供 天王様は泣く子が嫌い 囃すのが大好きで わいわいと囃せ 囃した者にゃ お札を授けるぞ ありがたいお札 授かった者は 病も逃げる コロリも除ける わいわいと囃せ(中略)なんてまだいけそ ここいらで撒こか まだまだ早い」といった調子で続きます。最後に「ソラ撒く 撒くぞ」と結んで歌が終わると、音頭取りが「正一位八坂神社御守護」と書かれたお札を撒きます。踊り手は、札を団扇であおぎ散らし、人々はそれを争って拾います。拾った人は家の戸口や神棚に貼ります。
お札まきは、祇園信仰に付随した厄病除けの行事とされています。祇園信仰とは、疫病神である牛頭天王を祭る信仰で、京都の八坂神社に始まる御霊信仰の一種です。
『お札まき』 県立図書館製作 1963年[K40](写真3)
お札まきの起原は、元禄元年(1688年)に神社が再興された際に始まったといわれます。行事に使う翁面は、江戸中期の作と考えられており、社宝の神鏡には「正徳元年」(1711年)と刻まれていて、獅子頭にも「元禄八年」(1695年)の漆書があることから、伝承は妥当とされています。また、嘉永3年(1850年)の西沢一鳳(にしざわいっぽう)著『皇都午睡(こうとごうすい)』に、天保年間から弘化年間の頃(1831年から1848年)の江戸の見聞録として、類似する以下の記述があります。
「今姿を見ぬものは、東都に天狗の面を頭に載き、扇にて小さき板行をちらし居る図有り、是天王様は囃すがお好と云物貰ひにて、浪華に裸身に茜木綿の前垂をして女のぼて髷を着、(以下略)」
さらに、歌舞伎十八番の『暫(しばらく)』にも「天王さまは囃すがお好き」という台詞があり、当時の流行語だったとされています。
歌詞の中に「コロリも除ける」とありますが、江戸時代には、コレラをコロリと呼びました。江戸時代のコレラの流行は、文政5年(1822年)、天保5年(1834年)、天保14年(1843年)、安政5年(1858年)にありました。
(2)吉浜の鹿島踊り〔県指定無形民俗文化財〕
鹿島踊りは昭和40年代には小田原市から伊豆半島東岸にかけて21か所、県内では10か所で行われていましたが、平成15年から17年度に行われた調査では県内で4か所に減っています。湯河原町吉浜の素鵞(すが)神社では、もともと7月13日(宵宮)と14日(本祭)に行われていましたが、現在は8月1日にのみ行われています。古くは祭礼の7日前にも海岸の仮殿に神輿を奉安する際、未明に「お目覚め」と称して踊りました。踊り手は青年男子に限られ、成年戒行の意味があるといわれます。
『湯河原の鹿島踊』
県立図書館制作 1965年[K59](写真1)
踊る人数は25人で、白丁(白木綿の狩衣)に袴、白足袋、草履という扮装をしています。そのうち19人は役のない踊り手で、烏帽子を被り、左手に幣束、右手に扇を持ちます。役持ちは、鉢巻をして襷をかけ手甲をしています。
太鼓の役は、小型の締太鼓を持ち、目より上に捧げて、反身になって翻転させて打ちます。この動作は神降しの行為とされます。太鼓に寄り添って、鉦(かね)の役が2人いて、スリ鉦を目から上に振り上げて打ちます。
そして腰を落として、稜形を作る仕草をします。これは、山を造って神招ぎの寄りどころとしている、という説があります。
その外側には3人の役がいます。黄金柄杓(こがねひしゃく)の役は、金紙で飾られた、穴が数個開いた円筒を棒の先に横に付けて振り踊ります。円筒の中にはヨネ(米を表す古語)と呼ばれる五色の切り紙が入っていて、振ると穴からこぼれ出ます。このヨネは、厄病除けとされました。日形・月形の役は、金銀の紙で表わされた日と月を棒の先に付け、振り踊ります。昔はシャモジと摺りこぎ棒の形をしていたといわれ、陰陽の象徴とされています。
踊りは、太鼓・鉦を中心に二重円を描き左回りに行う円舞と、5行5列で行う方舞を、続けて2度繰り返します。踊り役の他に裃を着て青竹を持つ警護役4人と、歌上げが数人います。
歌詞は、「誠やら鹿島の浦に 弥勒お舟がついたやら ともえには伊勢と春日の 中には鹿島の御社(中略)天竺は誓が上下 たたらふむがきこゆ そのたたら何とふみ候 たたらたたらとやつにふむ」といったような内容になっています。これは、藤原葛満(ふじわらくずま)による慶応元年(1865年)の紀行文『熱海日記』に書かれている、来宮(きのみや)神社(熱海市)の鹿島踊歌と、ほぼ同じ歌詞になっています。
『熱海日記』藤原葛満著 文玉圃 1883年[K99.89/ 2]
より「来宮神事鹿嶋踊之圖」と鹿島踊歌
来宮神社では、毎年やって来る「鹿島の事触れ」という者が、鹿島踊りの起原になったと伝えられています。「鹿島の事触れ」とは、江戸時代に鹿島の神託と称して、護符などを配って厄病除けや作物・漁労の豊凶などを予言した放浪祈祷者のことで、その恰好が今日の鹿島踊りの行装になっています。また、菊岡沾涼(きくおかせんりょう)著『本朝世事談綺』(1734年)によれば、「寛永の頃、諸国に疫病あり、常陸国鹿島の神輿を出して、所々にこれを渡し、疫難を祈らしめ、その患を除く、よってこれを頼んで踊らしむ。世俗鹿島踊といひ、諸国に流布す、これ始めなり」とあります。
吉浜の鹿島踊りは現在、境内でのみ行われていますが、以前は海岸でも行われていました。また、他の地域では、隣村の集落との境界で行われるところもありました。これは、夏の疫病をもたらす疫神を、海や隣の集落へ送り込む「掛け踊り」とされます。送り込まれた村では自分たちも鹿島踊りを踊って、次々に隣村へと送る風習と考えられています。
この項目おわり
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