神奈川県下における戸長役場史料の文書管理
郷土資料課 中村崇高
はじめに
本稿は神奈川県下における戸長役場史料の管理のあり方を、1872年(明治5年)の大区小区制導入から、1889年の町村制実施までを対象に考察する。戸長役場史料とは、大区小区制から町村制施行までの時期に、行政機構の最末端である戸長役場で作成、蓄積された近代行政文書である(註1)。近世・近代移行期における地方行財政研究は、多くの優れた成果があり、行政の最末端機関である戸長役場の実態が明らかにされている(註2)。その一方で、戸長役場で作成された近代行政文書の管理については、国や府県の文書管理に関する研究の蓄積が多いのに比べ、近年ようやく研究が始められた分野である(註3)。
戸長役場史料の管理のあり方については、丑木幸男氏が一連の論考の中で検討し、以下の3点を指摘した(註4)。第一に、大区小区制施行から町村制導入までの時期が、近世的史料管理から近代的資料管理への過渡期であること、第二に、文書の作成母体(小区か町村)によって管理された文書の種類が異なること、第三に、戸長役場史料は、国政委任事務と共同体維持機能に関わる文書で構成されたが、連合戸長役場制の導入により、前者を中心とする町村役場史料と、後者の区有文書、私文書への乖離が進行したこと、である。これは戸長役場における文書管理の全国的な動向を検討したという点で画期的であろう。しかし、丑木氏も指摘するように、それぞれの地域の実情に即した個別研究はいまだ不充分な状態であり、事例研究の蓄積が必要である。
また中嶋久人氏は、近世から町村制施行後の埼玉県上福岡市域を対象に、近代行政文書の成立過程を検討した(註5)。同氏は安藤正人氏が提示した諸画期に注目しつつ(註6)、近世村において名主が文書を引き継ぐという慣行があり、これを前提として明治国家による地域行政の展開の中で近代行政文書が成立したと結論づける。この研究は、対象地域を限定し文書が引き継がれる過程を明らかにした点が画期的である。両氏の論に共通するのは、大区小区制から町村制に至る時期に、政府が文書管理の「規格化」を図ったのに対して、戸長が自主的、主体的にこれを行ったと指摘している点である。
一方、神奈川県下における当該期の文書管理の実態は、県、町村それぞれの事例が明らかにされている。前者については、1873年に文書の様式管理、目録作成が県によって制度化されたことにより、現代のアーカイブズ学的文書管理の一般が整備されたと指摘されている(註7)。しかし、これは県庁での事例にのみ言及したものであり、戸長役場の文書管理についてはまったく検討されていない。
後者については、横浜開港資料館編『江戸時代の横浜』が、大区小区制から三新法期を対象に、戸長役場史料の引継方法を論じている。これは近世以来の村から広域区である小区に引き渡された文書の種類も紹介しており先駆的である(註8)。しかし、この研究は、時期が限定されており、三新法以降の文書管理のあり方を充分に明らかにしているとはいえない。このため、近年の研究動向をふまえ再検討する必要がある。
そこで本稿は、1872年の神奈川県下における大区小区制導入から、1889年の町村制実施までを対象時期とし、大区小区制期(72~79年)、三新法期(79~84年)、連合戸長制期(84~89年)ごとに以下の点を明らかにする。第一に、神奈川県(および足柄県)が近代行政文書を戸長役場にどのように管理させたのかを布達などから検討する。そして第二に、戸長役場が作成した引継目録を通して、文書管理の中でも保存のあり方と、前述の時期区分ごとにいかなる種類の文書が引き継がれたのか、そして第三に戸長役場史料が個人の資料群の一部を構成するに至る過程を検討する。
第1節 大区小区制の実施と文書引継
1 神奈川県における文書管理
はじめに、当該期の神奈川県下における地方制度について概略する(註9)。神奈川県で大区小区制が開始されたのは、1873年(明治6年)の区番組制の採用時で、大区―番組(小区/戸長)―町村(村用掛)という支配体制をとった。一方、足柄県は、神奈川県に先立ち1872年11月に大区と小区を設置し、大区(区長)―小区(副区長)―町村(戸長)という体制を採用した。すなわち前者では小区、後者では各町村に戸長がおかれ、両県でその設置レベルが異なっていた。これを前提として、まず神奈川県の小区と町村においてどのように文書管理が行われたのかを考察する。
県は1873年12月の第86号達で、「村々旧戸長、副戸長、百姓代共今般一同相廃止候ニ付、役場関係之書類一切取束、目録書ヲ以来ル廿五日限リ番組戸長、副戸長江引渡可申事」(註10)と、番組戸長へ役場関係書類を引き継ぐよう各町村に求めた。この達による引継がなされたかは不明だが、年貢割付・皆済目録、村明細帳、検地名寄帳などの近世文書と、地券台帳、戸籍帳などの近代文書がその対象となった(註11)。では、小区と町村それぞれにおいて実際どのような種類の文書が保管されたのだろうか。これを明らかにするためには、当該期の小区戸長の職務内容を検討しなければならない。
神奈川県では、番組戸長の設置により大区―番組(小区)の間で事務分業がなされていたといわれる(註12)。小区戸長の事務は、1戸籍管理、2徴兵、3諸税徴収、4区民からの上申の取り次ぎ、布告・布達の下達、であった。このため1~4は小区に保存、蓄積されたのである。
例えば、近世に下谷本村(現横浜市緑区)の名主をつとめ、近代に第7大区の区長、都筑郡長を歴任した吉浜家の所蔵資料中に、1888年11月作成の「区務受渡御届」(註13)という史料がある。これは三新法制定時に小区の戸長から郡役所へ引き継いだ文書類を書き記したもので、小区に保管された文書の内容を明らかにできる【表1】。これらは、1租税、2戸籍、3布達、4諸請願に分類することが可能であり、いずれも戸長が作成した現用文書で、近世文書はまったく含まれていない。神奈川県の場合、近世文書は各町村で、現用文書は小区に保管されたのである。次に足柄県下における戸長役場史料の管理方法について明らかにしよう。
【表1】第六大区二小区保管文書一覧表
文書名 | 冊数 |
---|---|
貢租取立簿 | 20 |
民費日計并元簿 | 10 |
戸籍簿 | 3 |
徴兵并国民軍成丁免役御届簿 | 23 |
地所質入書入割印帳 | 5 |
道路橋梁修繕工費簿 | 1 |
送籍受籍ノ証 | 2 |
租税并税金区務所引渡及諸願書逓送請取簿 | 9 |
諸願伺届書類扣簿 | 8 |
回章請取簿 | 6 |
出生死亡并送籍受籍簿扣簿 | 4 |
官省本県布告布達類 | 53 |
諸回達写簿 | 37 |
戸籍増減表 | ― |
御辞令書類 | ― |
盗難届書類 | ― |
命亡届書類 | ― |
扱所及村費計算表額 | ― |
【出典】(註8)を参照のこと。
2 足柄県における文書管理
前述したように、足柄県は1872年に大区小区制を導入した。県は神奈川県の作成した「区長・副区長事務条例」(註14)に基づき区長と戸長に事務を執行させていた。このため神奈川県と同様に小区と各町村でレベル間分業が行われていた。しかし神奈川県と異なるのは、足柄県の場合、小区区長が戸籍管理、徴兵、諸税徴収などの事務を担った点である。
例えば、萱沼村(現松田町)の戸長と、第1大区13小区の副区長をつとめた安藤家には、各村より提出された戸籍関係資料、太政官および足柄県布達、民費書上が保存されている(註15)。このことからも、各村からの文書を小区が取りまとめ、県に提出していたことがわかる。
1875年10月に足柄県が行った地方制度改正により、大区(区長)―小区(戸長)―各町村(里長)と、小区の副区長が戸長という名称になった際も、小区の長が戸籍管理、徴兵、諸税徴収、布告の回達などの事務を執行する体制に変化はなかった。このことは、県が「掌管ノ諸記簿散乱遺失セサルヨウ鄭重ニ監護シ、兼テ其銘簿ヲ製シ県庁ニ届置クヘシ」(註16)と、小区が保管する文書に関して簿冊を調製し、届け出るよう求めたことからも理解できる。
以上みたように、足柄県も神奈川県と同様に小区が現用文書を管理していたのである。では大区小区制導入当初に戸長が置かれていた各町村においては、どのような種類の文書が管理されたのだろうか。
1875年8月、津久井郡名倉村(現相模原市藤野町)の里長であった和智保章は、「村方書類ノ儀モ旧戸長野崎所左衛門方ヨリ相渡シ不申、当節御取調向モ廉々在之右書類無之候而ハ取調方差支候」(註17)と、同村の戸長をつとめていた野崎所左衛門から文書引継がないため事務に支障を来していると足柄県に訴えた。和智が記した「地方版籍概記」によると、これらは検地帳と、「漆小前帳」、「百姓林畝帳」などであり、これらは旧名主の役儀と、共同体の諸関係を示す近世村方文書であった(註18)。そして、これらをもとに各町村は、小区に提出する各種書類を作成したのである。
3 大区小区制の終焉と文書引継
これまで明らかにしたように、神奈川県と足柄県においては、小区が現用文書を、各町村が近世文書をそれぞれ管理していた。すなわち、大区小区制期の神奈川県下において戸長役場史料は、広域区である小区に保管、蓄積されたのである。このように、両県の支配体制にほとんど差がないため、1876年の足柄県廃止時に旧足柄県下の小区と各町村の間で文書引継が実施されなかったのであろう。
次に、1888年の三新法(註19)時の文書管理について明らかにする前提として、大区小区制から同法移行時の戸長役場史料の引継について検討する。
従来、これまで小区が管理した文書は、この時管下の戸長役場に引き継がれたといわれていた(註20)。例えば、洲崎村の村用掛、戸長をつとめた安田家に残された1879年作成の「引渡目録」には、「明治六年旧七小区扱処設立以来当村該書類今般郡区御改正ニ付、私共立会之上引分ケ、書面之通御引渡シ相成」(註21)、と記されている。このことから、三新法制定時に、小区に蓄積されていた現用文書の内、洲崎村に関係する分を戸長立会の上分割したことがわかる。
しかし、前項でみた吉浜家のように、小区から大区の事務を承継した郡役所へ文書を引き渡した事例もみられる。同家文書中には、第7大区管下が作成した村費に関わる帳簿、小区作成の日計簿、合併関係書類が残されている【表2】。これらは郡役所文書として使用されたと考えられる(註22)。
以上、明らかにしたように、神奈川県下では、三新法移行時に、1小区から郡役所、2小区から各町村、にそれぞれ現用文書である戸長役場史料が引き継がれたのである。そこで次節では、各町村に設置された戸長役場での文書管理について検討する。
【表2】名倉村保管文書一覧表(1875年)
文書名 |
---|
寛文4年御縄水帳 |
見取水帳 |
享保18年水帳 |
地検〔券〕帳(本田畑分) |
享保18年新田之分 |
明和6年新田之分 |
大縄場所之分 |
新規大縄場之分 |
名寄帳 |
荒地小前帳 |
漆小前帳 |
質地奥印帳 |
延享12・13年百姓林畝帳 |
【出典】(註17)を参照のこと。
第2節 三新法期の文書管理
1 戸長の職務と文書管理
1878年(明治11年)11月、神奈川県は郡区町村編制法に基づき県下を1区8郡に分割し、その下の町村に戸長を設置した。そしてこの職務を、布告・布達の伝達、地租および各種租税の徴収、戸籍の管理、地券台帳の加除、徴兵に関わる事務、諸帳簿の保管、と規定した(註23)。つまり、県は三新法制定により、小区の戸長にかわり、町村の戸長に各種事務を委任し、彼らに各種帳簿の保管を義務づけたのである。しかし、保存すべき文書の内容および、保存期間は明記していない。ここで県が規定した保存文書の種類を明らかにするために、政府の文書管理に関する施策を確認しておこう。
政府の文書管理体制については、すでに多くの研究蓄積があるので、ここでは関係ある部分のみを述べていく(註24)。政府は1874年の太政官達第39号、および翌75年の太政官達第68号の中で、各府県で文書を保存し、その上で「逐次編纂ノ分」は、目録を作成し、内務省へ提出するよう達した(註25)。この達の中で保存対象となったのは、町村所有の「記録文書」であったが、これが小区に蓄積された現用文書なのか、あるいは近世以来の村で保存されてきた文書もこの範疇に含むのか判然としない。
各府県でもこの基準はまちまちだったようだ。例えば、熊谷県は1874年の太政官達34号に基づいて各町村に目録を作成させたが、県がこれに関わる「公書」とみなしたのは、領主支配および村共同体に関わる近世文書と、地租改正関係の文書であった(註26)。一方、神奈川県と足柄県の場合、目録作成に関わる通達がみつからないため、実施されなかったと推測できる(註27)。
次に三新法体制下での文書管理に関する政府の施策を確認しよう。1880年1月、内務省は各町村が所有する「公有記録」、「絵図面」の目録を作成し、郡役所に提出するよう各府県に求めた(註28)。そして戸長は、散佚した後発見された「旧記」、ならびに新しく作成した分を適宜追加し、交代の際これをもとに文書を引き継ぐよう求められた。内務省が記載対象としたのは、「公有記録、絵図面」、および「私有物ニシテ後證トモ可相成」である。つまり、政府は戸長が作成した文書と、各家に残されていた私有物で裁判などの際に証拠となるものを、戸長役場で保存すべき記録文書と認識していたのである(註29)。
これをうけて神奈川県は、同年3月乙第47号により、これまで作成した記録、図面の目録を6月までに調製し、提出するよう求めた。さらに、注目すべきは、付則として「町村公有記録取締手続」を定めた点である。これによると、はじめに「凡ソ町村公有ノ記録文書及ヒ図面等ハ総テ其町村戸長ニ於テ管理、保存スヘシ」(註30)と、町村が公有する記録文書と図面などの保存が、戸長の役割であることをあらためて明記した。また、「主管者転免之節ハ目録ニ突合セ、後職ノ者ヘ引継、受渡済ノ上ハ前後主管者連署、其旨郡区役所ヘ届出ヘシ」と、毎年作成する目録に従ってこれらの文書を引き継ぐと定められた。このように乙第47号の制定により、県は戸長役場における文書の保存と引継についてはじめて制度化したのである。
2 戸長役場における文書管理
では保存と引継は、各戸長役場で実際どのように行われ、また何が「公有ノ記録文書」と認識されたのだろうか。ここでは2つの事例から検討していく。
足柄上郡谷ヶ村武尾家文書に残されている「谷ヶ村公有記録目録」(註31)は1880年作成の文書で、端書から戸長が県庁に提出したものの控であると推測できる。この中には、近世文書が3、現用文書が23タイトル書き出されている【表3】。ここで注目したいのは、「万治二年田畑山林検地帳」が公有記録としてあげられている点である。小田原藩は慶長、寛永、万治年間に検地を実施しており、この中でも特に万治元~3年にかけて行われた「万治惣検」は、藩領の村々の石高などを確定したものであり、これを基準に年貢が賦課された(註32)。つまり、谷ヶ村が近世文書であるにもかかわらずこれを目録にあげたのは、土地所有の基本台帳として重要視したためであろう。
ところで、谷ヶ村を含む現在の山北町域には江戸時代より入会地が設定され、この利用をめぐって入会争論が頻繁に発生しており、武尾家文書の中には争論に関わる文書が多く保存されている。しかし、公有記録目録には、入会山の権利関係を示す文書=村用の記録、は記載されていない。このように、谷ヶ村の認識した「公有記録」=戸長役場で保存すべきものとは、1戸長が作成した現用文書と、2近世文書であっても歴史的な背景をもち、かつ租税の基礎台帳となる文書、であった。
次に都筑郡勝田村(現横浜市港北区)の事例をあげておこう。勝田村戸長関八郎右衛門は、1880年に「戸長役場記録書」(註33)を作成し、県令宛に提出した。この記録書は、「村内明治十二年十二月迄公有ノ書類取調」と記載されているように、「公有記録目録」の一種である。この中には、地券大(台)帳、反別地価帳、名寄帳といった地租改正関係の文書と、戸籍簿、人民印鑑簿、1879年中の布告・布達など戸長役場が作成、現在使用しているものが書き出されている。勝田村の場合は、現用文書のみを「公有記録」と判断したのである。
以上、戸長役場がどのような種類の文書を「公有記録」とみなしたのかを検討した。神奈川県は、1880年の内務省達乙第3号をうけ、同年3月乙第47号を発布し、各村所有の公有記録目録を県庁に提出すること、および文書保管と、その引継方法を定めた。ただし、県は目録作成基準の大枠を示すのみであったため、各村の戸長が主体的にこれを作成することになった。したがって、「公有文書」を土地所有に関わる近世村方文書+現用文書とした場合と、現用文書のみというようにその認識に差が生じたのである。このような差が生じる理由は、各村のおかれた歴史的背景によるものであろう。ただし、この目録作成によって、公有記録と、それ以外の文書が別々に保管されたわけではなく、現用文書と近世文書は、各町村の戸長役場が管理した。しかし、連合戸長制の導入により、この体制に変化が生じるのである。
【表3】公有記録目録と引継目録比較表
分類 | 谷ヶ村公有記録目録(1881年) | 村務引渡シ届書(1885年) |
---|---|---|
近世文書 | 田畑山林検地帳(万治2年) | 記載なし |
条目(貞享4年/文政元年) | 記載なし | |
田畑永引委細書上帳(享保18年) | 記載なし | |
田畑万治二御改検地帳写番入帳(享和3年) | 記載なし | |
布告布達 | 太政官日誌(明治4年) | 記載なし |
御布告御布達留(明治6~12年) | 郡役所ヨリ達綴(明治14年~) | |
達留(明治9~10年) | 記載なし | |
諸指令留(明治10~12年) | 願届指令綴(明治12~17年) | |
地租改正 | 田畑山林改正反別取調帳(明治9年) | 田畑山林改正野帳 |
地籍取調書上扣(明治12年) | 地籍取調(明治10年) | |
田畑其他等級及地価表(明治9年) | 改正反別地価帳 | |
田畑山林字限地引帳(明治9年) | 田畑宅山林薮芝荒地墓地改正字限字引帳 | |
田畑山林名寄帳(明治9年) | 改正名寄帳 | |
明治9、10年新旧地租取調簿(明治12年) | 明治9・10新旧地租差引帳 | |
記載なし | 地租改正等級表収穫法 | |
戸籍 | 戸籍簿(明治10年) | |
新規 | 送入籍割印簿(明治12~17年) | |
新規 | 戸籍表扣(明治17年) | |
新規 | 表作概算調書(明治13~17年) | |
新規 | 埋葬承認証原簿(明治14年~) | |
新規 | 出産死亡届綴(明治12~17年) | |
社寺 | 社寺境内及上知官林反別絵図附(明治9年) | |
社寺境内并上知官林反別立木員数取調簿(明治9年) | 記載なし | |
社寺什物取調扣簿(明治9年) | ||
記載なし | 社寺書類(5冊1袋) | |
地誌 | 地誌編輯調書(明治12年) | 地誌編纂書上(明治13・17年) |
絵図 | 墓所坪数并粗絵図附(明治7年) | 新旧墓所坪数并粗絵図附 |
村方改正全図(明治11年) | ||
村方切絵図(明治10年) | ||
社寺明細帳(明治12年) | ||
社寺縮図(明治12年) | ||
山林沿革史調書(明治12年) | ||
軍事 | 国民軍調簿(明治12年) | 徴兵及国民軍調(明治12~16年) |
新規 | 徴発書類(明治17年) | |
租税 | 新規 | 地租金取立簿(明治12~16年) |
新規 | 地租割税戸数割税協議費、備荒儲金営業税(明治12~17年) | |
記載なし | 明治9・10年耕宅地租金年賦延納書類 | |
記載なし | 明治9・10年地租未納金年賦取立帳 | |
新規 | 営業諸書類(明治12~17年) | |
その他 | 新規 | 印鑑簿 |
記載なし | 地所建物売買質入書入公証割り簿(明治7~17年) | |
記載なし | 秣場書類(3冊1袋) |
【出典】(註31)、(註35)を参照のこと
新規…1881年段階で書類が作成されていなかったもの。
記載なし…1881年にはすでに作成されているが、85年の届書には記載されているもの。
または、81年の目録には記載されているが、85年の届書には記載されないもの。
第3節 連合戸長役場期の文書管理
1 文書管理方式の変化
1884年(明治17年)5月の太政官達41号により政府は、官撰戸長制の実施と、数村をひとつの行政単位とする連合戸長役場を設置するよう通達した。神奈川県は同年7月の神庶第8号により県下各町村でこれを施行し、同時に旧町村から連合戸長役場への文書引継方を次のように規定した(註34)。
各村公有記録保存方ノ義ハ、去ル十三年三月乙第四十七号ヲ以テ相達シ置候趣モ有之候処、各村分合役場新置ノ際自然脱漏ノモノ等無之様書類授受ス可ク、且ツ数町村管理役場ニ於テハ帳簿、其他書類毎町村ニ調成シ、若クハ便宜部分ケヲナシ置キ、総テ混雑セサル様注意スヘシ
つまり、1役場を新しく設置する際に脱漏のないよう書類授受を行うこと、2連合戸長役場において作成した帳簿類は、近世以来の各町村ごとに分けて保存するよう注意している。そこでまず、1について明らかにする。
前節でみた足柄上郡谷ヶ村は連合戸長制実施時に、近隣の内山村(現山北町)に村内の文書を引き渡しており、武尾家文書中の「村務引渡シ届書」(註35)には、37タイトルが書き出されている。この届書と80年作成の「谷ヶ村公有記録目録」を比較すると、前者が地租改正、租税、徴兵、戸籍、布告布達、社寺などの現用文書を書き出したのに対して、後者は土地に関わる近世村方文書と現用文書を記していた【表3】。谷ヶ村の場合、他村へ文書を引き継ぐ際に「村務」に関わる公有記録と認識されたのは、大区小区制期から三新法期にかけて戸長役場が作成した文書であった。そして、これらの現用文書が連合戸長役場へ引き渡されたのである。では、検地帳を含む近世文書はどこで保管されたのだろうか。武尾家文書の中にはこれを示す史料が存在しないため、足柄上郡鳥屋村(現相模原市藤野町)の事例から検討しよう。
1884年7月、鳥屋村戸長の天野藤三から、連合戸長役場が設置された青山村の戸長大内昌諄へ文書が引き渡された(註36)。この内容は、戸籍、徴兵、租税・地租関係と、戸長役場よりの上申書、県郡からの達綴、公証関係書類に分類でき、すべて戸長役場が作成した現用文書である【表4】。
この中で注目すべきは、青山村戸長への引継書とは別に、「共有地書類引継引渡簿」が作られており、共有地に関する名寄・地引・租税取立帳や、約定書、共有地に関わる他村との紛争の経緯を示す文書、が書き出された点である。これらの文書は、年欠ではあるが、近世から蓄積されてきた入会地関係の文書であると推測される。そして、村民7名がこれを受け取っており、村内で保管されたのである。共同性を示す近世村方文書を自村におく状況は、谷ヶ村も同様であったと考えられる。
一方、戸長役場が作成、保存した文書を一括して連合戸長役場に引き継いだ事例もみられる。足柄上郡金子村の「公有記録引譲目録」(註37)には、地租改正、戸籍、徴兵、租税関係の現用文書の他に、1入会山絵図面(明治期)、2入会山関係證書(寛永、宝暦年間)、3検地帳、名寄帳(水帳、万治・元禄・安政年間)が書き出されている。
以上検討したように、神奈川県は神庶第8号の中で、各村公有記録の授受を行うよう達したが、その内容を明文化しなかった。このため、各村で引継目録を作成する過程で、1現用文書のみを引継、村の共同性に関わる文書は村内で保管、2近世以来の文書も含めて戸長役場が保管する文書すべてが対象となる、事例が確認できる。さらに、3現用文書と、土地所有の基本台帳となる近世文書を引き継ぐ場合もあり、これらは戸長の主体的判断により実施されたのである。このように引継の方法は多様であったが、戸長役場で作成した現用文書を連合戸長役場へ引き渡すことは共通していた。全国的にみても、同時期の戸長役場史料のは1から3のパターンで引き継がれており、神奈川県でも同様の事例が確認できる(註38)。次に、足柄上郡皆瀬川村(現山北町)の井上家文書を事例に、連合戸長期以降の文書管理と、個人所有の資料群に含まれる戸長役場史料の形成過程を明らかにする。
【表4】鳥屋村の引継文書と村内保管文書
引継文書 | 村内保管文書 |
---|---|
戸籍簿 | 共有地届書之綴 |
送受籍普足帳 | 共有地名寄帳 |
埋葬承認割印簿 | 共有地地引帳 |
送受籍証綴込 | 共有地取調野帳 |
出生■■死亡届綴込 | 共有地申合税則 |
死亡届綴込 | 共有地取立帳 |
戸籍事務綴込 | 立野立木入札願 |
名寄台帳 | 長野炭焼願 |
反別地価書上帳 | 力石堀構ニ付約定書 |
地租地方税徴集簿 | 共有地事件書類 |
地券書換願綴込 | |
諸請取証 | |
改正切絵図 | |
改正全図 | |
地引家屋質入■■割印簿 | |
同売買公証割印簿 | |
人民印影簿 | |
人民頼届綴込 | |
役場ヨリ上申書類綴込 | |
県郡達綴込 |
【出典】(註36)を参照のこと。
2 連合戸長期以降の文書管理
―「戸長役場史料」の形成―
はじめに対象となる足柄上郡皆瀬川村の概要を述べておこう。同村は丹沢山地の山間部の村で、宝永の富士山噴火後の一時期を除いて小田原藩領であった。1871年小田原県から足柄県に編入され、1876年神奈川県に属し、連合戸長制実施の際には平山村(現山北町)に、その後1889年の町村制施行時に都夫良野村と合併して共和村となった(註39)。村高は116石余(貞享3年)、山間部のため生産力は乏しく、入会地からの諸生産物が貴重な収入源であった。名主は代々井上家がつとめ、明治期も引き続き戸長に就任した。そのため、近世から三新法期の村政に関わる文書が同家に蓄積されたのである。では、連合戸長制実施に際してこれらはどのように引き継がれたのだろうか。
1884年5月、皆瀬川村戸長瀬戸元八と、連合戸長役場が置かれることになった平山村戸長の古瀬佐十郎が「村務引継書」(註40)を作成した。同書は1878年の区務引渡規則中の雛形に基づき調製され、「簿冊ノ部」に21、「図書ノ部」に4、「布達ノ部」に2、「雑書ノ部」に9、「道具ノ部」に4の合計40タイトルが書き出された【表5】。
この内容をみると、1土地・地租改正関係、2戸籍、3布告・布達類、4租税関係、5その他に大別することができる。5の中には社寺、衛生関係書類、徴発物件表が含まれるが、徴兵関係の文書は記されていない。1には「万治三年検地帳」を含む近世文書3点と、現用文書が含まれており、前項で述べた現用文書と土地所有の基本台帳となる近世文書を引き継ぐ方式をとった。
1について詳しく検討すると、「万治三年検地帳」は、前述の「万治惣検」の際に作成されたもので、皆瀬川村の土地所有の基本台帳である。また、「延享三年新上知壱人別帳」は、宝永の富士山噴火により幕府が小田原藩から上知した所領を藩領に復帰させた際のもので、「安政二年田畑地押帳」は、隣村の川村山北村(現山北町)との入会争論が発生した際、山畑の権利を確認するために作成されたものと推測される。このように、皆瀬川村は、現用文書と同村にとって歴史的な意味をもつ文書を「村務」に関わるものと認識し、戸長役場に引き渡したのである。
次に村内で保管された文書についてみていく。皆瀬川村と川村山北村の入会争論は、宝暦から明治期まで100年以上続き(註41)、井上家には、争論に関わる規定書、絵図、経緯を示す文書が残されている。しかし、引渡書にはこれらは記載されていない。特に明治期の争論では、戸長である井上市左衛門が足柄県や隣村との折衝などに重要な役割を果たし、その経緯を克明に「入会山論日記」(註42)に記したが、これも引継対象とはなっていない。つまり、皆瀬川村は入会争論に関わる文書を含む近世文書の大部分を、村の共同性を担保するものと認識し、自村で保管したのである。
【表5】井上家文書にみる村務引継
万治3年検地帳 | 地租徴収簿 |
延享3年新上知壱人別帳 | 村費徴収簿 |
安政2年田畑地押帳 | 畦畔調 |
明治6年地券台帳 | 改正全図 |
改正地券地引帳 | 改正切図 |
改正名寄帳 | 改正字地縮図 |
戸籍帳 | 本県本郡達綴 |
送入籍元簿 | 諸指令留 |
埋葬承認証元帳 | 農事通信及徴発物件調表 |
公証割印簿 | 褒種地調 |
戸籍同届 | 鉄炮調書類 |
改正反別仕訳 | 社寺書類 |
人民印鑑簿 | 戸籍表類 |
諸営業人元簿 | 領地管轄調 |
字地附添書類 | 衛生書類 |
皇国地誌 | 戸数書抜帳 |
社寺図 | 明治元~8年割付 |
【出典】(註40)を参照のこと。
次に、連合戸長役場で作成された現用文書の管理状況を明らかにする。前述したように、県は神庶第8号により戸長役場に対して、現用文書を旧町村ごとに部分けして管理するよう求めた。平山村外五ヶ村役場でもこの方法で文書保管がなされていたと考えられる。例えば、井上家文書中の「明治一九年度村費徴収簿 共和村」と記された簿冊がありこれは、皆瀬川村と都夫良野村に関わる村費の徴収簿である(註43)。この中には「平山村外五ヶ村戸長古瀬佐十郎」の印が押され、かつ「皆瀬川村」、「都夫良野村」ごとに分類されており、連合戸長役場で作成されたものであることがわかる。ここで注目したいのは、1886年当時タイトルに記された「共和村」という村名は存在しない点である。ではなぜこのような表題がついたのだろうか。これは町村制実施時に文書が返却された際、皆瀬川・都夫良野両村分をあわせて、共和村役場であらためて簿冊として編纂したためであろう。つまり、連合戸長役場においては、神庶第8号の通達に従って文書保管がなされ、町村制施行によりあらためて各村に引き継がれたのである。
神奈川県は1889年3月の訓令甲天第12号の中で、区戸長事務引継方法を定めた。この中で諸帳簿と図書、器物に関して、件名と戸数を明記した目録書を作成するよう求めた。さらに、「戸長ノ所轄ニシテ二個以上ノ町村ニ分属シタル場合ニ於テ分割スヘカラサル書類ハ、其重モナル一方ニ引継、他ノ一方ニハ其旨ヲ通知スヘシ、尤モ其内必要ノモノハ謄本ヲ以テ引継ヘシ」(註44)と、連合戸長役場が2つ以上の町村に分離してしまい、分割することが難しい文書の取扱についても規定した。そして、事務引継終了時には、旧戸長と新村長が連署の上、郡長に届け出るよう訓示した。しかしここでも、県は文書引継方法を明示したが、引き渡すべき文書の内容には言及していない。
次にこの訓令に基づいて文書がどのように引き継がれたのかをみていこう。1889年、共和村が開村し、戸長役場は皆瀬川村内山の岩本徳右衛門家に置かれた(註45)。この時、平山村から文書が返却されたと考えられるが、目録が残されていないため、返却された文書の種類は不明である。そこで、井上家文書中の戸長役場史料の残存状況から引き継がれた文書の内容を検討する。
【表6】は、「事務引渡書」に記された文書の中で、井上家文書に含まれるものと、含まれないものを書き出したものである。これによると、「万治三年検地帳」を含む近世文書と、明治初年の租税割付、皆瀬川村絵図、地租徴収簿などが現存するのに対して、戸籍関係の簿冊、徴発物件表、印鑑簿、営業人元簿、村費徴収簿は確認できない。これらは共和村役場へ引き継がれたと推測される。
また、皆瀬川村・都夫良野村に関わる1886~89年の村費・地租・営業税・戸数割徴収簿も共和村役場へ引き継がれたと考えられる。このことから、連合戸長制下で作成された両村に関わる現用文書も皆瀬川村に引き渡され、共和村役場に保管されたことがうかがえる。
では、なぜ井上家と共和村役場に文書が分散することになったのだろうか。選別の基準を示す史料は管見の限り発見できなかったが、1連合戸長役場が作成した現用文書は、共和村役場へ引き継いだこと、2近世文書、大区小区制から三新法にかけて作られた文書は名主・戸長をつとめた井上家に戻されたと考えられる。さらに2のうち、3特に戸籍と営業人元簿のような租税関係の元帳は、共和村役場に引き渡されたと考えられる。この点については、他村の事例と比較、検討しなければならない。
以上明らかにしたように、井上家文書中の戸長役場史料は次の2段階をへて形成された。まず、連合戸長制の実施により皆瀬川村から平山村へ文書が引き渡された際、戸長が役場の業務に関わる近世文書と現用文書が「村務」として選別した。次に、町村制実施に際して、返却された文書のうち戸籍と租税関係の元帳、連合戸長期に作成された文書以外を元名主家である井上家に保管した。これによって、歴史的にも大変貴重であり、かつ皆瀬川地区の区有文書としての性質をもつ戸長役場史料が形成されたのである。
【表6】井上家文書中の村務引継史料
村務引継書の史料名 | 井上家文書中の史料名 | 確認できない文書 |
---|---|---|
万治3年検地帳 | 皆瀬川村検地帳(山畑含) | 戸籍帳 |
皆瀬川村之内深沢村検地帳 | 送入籍元簿 | |
延享3年新上知壱人別帳 | 田畑屋敷山林地改壱人別帳 | 埋葬承認元帳 |
安政2年田畑地押帳 | 田畑耕地切書上帳 | 公務割印簿 |
自明治元年至八年割附 | 明治2・8年割付 | 人民印鑑簿 |
明治6年地券台帳 | 諸営業人元簿 | |
改正地券地引帳 | 字地附添書割 | |
改正名寄 | 改正反別地価名寄帳 | 戸籍書抜帳 |
改正反別仕訳 | 新旧地券仕訳書 | 畦畔調 |
地租徴収簿 | 農事通信 | |
布告布達・諸指令留 | 〔戸長役場綴〕 | 徴発物件調表 |
皇国地誌 | 皇国地誌下書 | 褒種地調 |
改正全図 | 皆瀬川村絵図 | 社寺書類 |
改正切図 | 地籍図 | |
改正字地縮図 | ||
社寺地縮図 | 神社境内絵図 | |
鉄砲調書類 | 〔鉄砲取調書綴〕 |
【出典】(註40)を参照のこと。
おわりに
これまで地方行政機構の最末端機関である戸長役場における文書管理について、引継目録から検討した。
大区小区制期には、神奈川県、足柄県ともに広域区である小区が戸長役場機能を担ったため、現用文書は小区、近世文書は各町村に保管され、引継ぎがなされた。
1878年の三新法制定により、これまで小区が保管した現用文書は、各町村の戸長役場と郡役所に引き渡された。前者について神奈川県は、1880年1月の町村公有記録取締手続(布達乙47号)により、はじめて戸長役場における文書の保存と引継ぎの方法を制度化した。これに基づいて、各町村は現用文書のみか、現用文書と近世文書の目録を作成したのである。三新法期に戸長役場において保存された文書は、現用文書と近世文書であったのである。
しかし、1884年5月の連合戸長制の導入により、各町村の戸長役場から連合戸長役場へ文書の引き渡しが求められた。これをうけて、各町村は引継目録を作成したが、その各戸長の主体的判断によったため、引渡方法は多様であった。ただしここで注目すべきは、町村によって現用文書と近世村方文書が一時的に分離した点である。
神奈川県は、連合戸長役場に対して、これらの文書を村ごとに部分けして保存するよう求めた。このため、1889年の町村制施行により、連合戸長役場から各町村へ文書が再び引き渡されたのである。
そして、皆瀬川村井上家の場合は、連合戸長役場期に戸長役場が作成した現用文書と、戸籍や租税関係の元帳は、共和村役場へ引き渡され、近世から三新法期に作成された文書は、井上家に保存されることになったと考えられる。つまり町村制の施行が、井上家の場合、皆瀬川村の区有文書としての性質をもつ戸長役場史料が保存される契機となったのである。
【註】
- 丑木幸男『戸長役場史料の研究』(岩田書院、2004年)
- 渡辺佳子「明治期中央行政機関における文書管理制度の成立」(安藤正人・大藤修『史料保存と文書館学』吉川弘文館、1986年)、原由美子「近代における地方行政文書保存関係資料1~3」(『文書館紀要』第2~4、1987、88、90年)など。
- 奥村弘「『大区小区制』期の地方行財政制度の展開」(『日本史研究』258号、1984年)、同「三新法体制の歴史的位置」(『日本史研究』290号、1987年)、大島太郎『日本地方行財政史研究序説』(未来社、1966年)など。
- 同上前掲書。1「戸長役場史料論」1~4(『史料館研究紀要』第24~26・28号、1993~95・97年)。2「「御用留」「御用日記」「懐中日記」にみる「公」と「私」」(渡辺尚志編著『近代移行期の名望家と地域・国家』名著出版、2006年)
- 中嶋久人「上福岡市行政文書の成立過程」1・2(『きんもくせい』第5・6号、埼玉県上福岡市教育委員会、2000・2001年)。
- 安藤正人・大藤修『史料保存と文書館学』(吉川弘文館、1986年)。
- 石原一則「明治6年神奈川県庁の文書管理関係資料」(『神奈川県立公文書館紀要』創刊号、1997年)
- 横浜開港資料普及協会編『江戸時代の横浜』(有隣堂、1983年)
- 大区小区制期の神奈川県下の地方制度は、『神奈川県史』通史編4近現代(1)を参照のこと。
- 『神奈川県史』資料編11近代・現代、資料番号19。
- (註8)前掲書、140頁。
- 松沢裕作「神奈川県の大区小区制と民会」(『地方史研究』302号、2003年)、30~31頁。
- 「県史写真製本」吉浜俊彦氏所蔵資料29(近現代)。
- 『平塚市史』5資料編近代(1)、1987年。本史料は、神奈川県で出された達と同文である。
- 安藤家は代々萱沼村の名主をつとめ、明治期の当主安藤安賀は、地租改正惣代、県会議長などを歴任した。資料群の年代は1660年(万治3年)~1922年(大正11年)で、総点数は1828点である。
- 1875年「正副区長立会人職制規則」((註10)前掲書)。
- 「御届書(村用書類引継につき)」(「県史写真製本」和智周至氏所蔵資料5)。
- 丑木(註4)2前掲論文。同氏は、「公用」・「御用」を領主との関係を示す文書で、「私用」は村落内での諸関係を示す文書と認識する。
- 三新法は、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の総称である。
- (註8)前掲書140頁。
- 横浜開港資料館寄託安田茂氏所蔵資料の内役場史料25。
- 明治期の当主であった吉浜一作は、1881~85年まで都筑郡長をつとめた。同資料群になぜ郡役所文書としての性質をもつ文書が残されているのかは今後の課題である。
- 神奈川県布達甲第157号「郡区長管掌事務に関する件達」中、「戸長職務ノ概目」((註10)前掲書、資料番号64)。
- (註6)前掲書参照のこと。
- 1875年4月「太政官達第六八号」(『法令全書』第8巻ノ1)。
- 中嶋(註5)前掲論文、35~36頁。
- 前述したように、足柄県は1875年制定の「正副区長立会人規則」の中で文書保管について言及しており、この条文は1874年の太政官布達の影響を受けたものと考えられる。
- 1880年1月「内務省乙第三号」(『法令全書』明治13年)。
- 司法省は1879年3月、訴訟の証拠書類となりうる旧名主の私宅に保存されていた運書を提出させるよう太政官に求めた。これに対して内務省は、私有文書を差し出させるのは、所有権の問題があると反論し、結局太政官は、内務省の意見を採用した。これに関しては、中嶋(註5)前掲論文、57~58頁を参照のこと。
- 1880年3月乙第47号(神奈川県立公文書館所蔵『神奈川県布達』明治13年)。公文書館は1873~86年までの県布達をマイクロフィルムで所蔵し、それ以降は冊子で閲覧することが出来る(欠号あり)。
- 「谷ヶ村公有記録目録」(当館寄託、足柄上郡谷ヶ村武尾家文書2199950851)。
- 『山北町史』通史編277~280頁。
- 「県史写真製本」関恒三郎氏所蔵資料3。
- 「神庶第八号」(当館所蔵県史写真製本、相模原市立図書館古文書室史料48)。
- 「村務引渡シ届書」(当館寄託、武尾家文書2199950424)。
- 「県史写真製本」明治大学刑事博物館所蔵資料』38)。鳥屋村天野家文書は、現在明治大学博物館に所蔵されている。
- 「公有記録引譲目録」(当館寄託、足柄上郡金子村間宮家文書2200439272)。
- 丑木(註3)前掲書、185~190頁。
- (註32)前掲書、276~277頁。
- 「村務引渡書」(当館寄託、足柄上郡皆瀬川村井上家文書2199401377)。
- 神奈川県農政部林務課『神奈川の林政史』(1984年)、50~54頁。
- 1874年「入会山論日記」(井上家文書2199401288)。なお、安政期の入会争論の際にも日記が残されており、これは岩本南花「皆瀬川村と川村山北村に於ける皆瀬川入会安政度出入山論」(山北町地方史研究会編『足柄の文化』第21号、1993年)が紹介している。
- 神奈川県立文化資料館編『神奈川県古文書資料所在目録』第12集、188~190頁「井上良夫氏保管旧共和村役場文書」目録を参照のこと。
- 1889年訓令甲天第12号(『神奈川県公報』明治22年3月)。
- 共和村『共和村勢要覧/1951』(1951年)。
TEL:045-364-4461
FAX:045-364-4459