神奈川県 神奈川県史 通史編 6 近代・現代(3) 産業・経済1 東京横浜往返蒸気船ノ図 明治初期 2代国輝 神奈川県立文化資料館蔵 明治3年(1870)7月 横浜の弘明商会が横浜・海岸通りと東京・築地河岸にそれぞれ発着所をおき 蒸気船による横浜-東京間の通航をはじめた 横須賀造船所で建造した弘明丸(250噸40馬力)が就航し航程時間90分 毎日2往復の営業であった この絵は弘明丸が外輪を回転し 品川沖航海中のものである 横浜波止場ヨリ海岸通異人館之真図 明治初期 3代広重 神奈川県立文化資料館蔵 当時は港の桟橋が完備されていなかったので 船舶は沖に碇泊しハシケによって荷役がおこなわれていた 手前の波止場は異人波止場とよばれ 外国貨物用であり 中央に見える波止場が日本波止場とよばれ 国内貨物用であった 横浜海岸各国商館図 明治4年3月 3代広重 神奈川県立博物館蔵 横浜居留地海岸通りに建並ぶ各国商館の風景である 居留地は慶応2年(1866)の大火以後 建物は瓦ぶきの屋根 煉瓦造または石造にするという規則に従って耐火・耐久性のすぐれた建築物がつくられていった横浜浮世絵の中では 3代広重が最も多くの西洋建築を描いている 横浜海岸鉄道蒸気車図 明治初期 3代広重 神奈川県立博物館蔵 明治5年9月12日(1872年10月14日)横浜-新橋の間に間通した鉄道は蒸気船などとともに文明開化のシンボルとされた 当時の人びとの目には「あたかも人間に羽翼を付して空天を翔けるに似たり」とうつったのである この図は汽車を描いた数多くの錦絵のなかでもかなり忠実に車輛を描写している 明治五年(一八七二)三月 神奈川県令陸奥宗光は横浜市街地改革-地券制度を実施した ここに示すのはその際に発行された地券のひとつである この地券はタテ二六㌢㍍・ヨコ四四㌢㍍の大きさで和紙を用い 規則の部分が木版刷のほかは すべて筆書である 地券交付はほぼ三か月かかり 同年六月ごろには完了したようである 横浜市街地地券 横浜市史編集室蔵 明治前期 地租改正の実施に伴って作成された田畑宅地および山林原野の地図 本県では1874(明治7)年7月から県下の各村でこの地図の作成が開始された 各村の戸長・副戸長・村用掛の手で編製されたが 1間を1分に縮尺した精密なもので地目により色分けがしてある 大船村は現在の鎌倉市大船 相模国鎌倉郡大船村地引絵図 鎌倉国宝館蔵 横須賀造船所首長ウェルニーとその功績 横須賀市広報課提供 フランスの造船技師ウェルニー(左下)は慶応元年(1865)幕府に招かれ来日し横須賀造船所の設計および着工にあたり 明治政府成立後も同首長として事務を総覧し1876(明治9)年帰国 川村海軍大輔は東京・延遼館に離別の宴を開き書棚・花瓶を贈ってその功労に報いた 写真はこのときに贈られた感謝状(上)と現存の花瓶および直孫のF.ウェルニー氏の近影(右下)である 堤石鹸のラベル 神奈川県立文化資料館蔵 1873(明治6)年 横浜の堤磯右衛門が三吉町に製造所を設けたのがわが国の石鹸工業の始めといわれている 1877年の内国勧業博覧会で花紋賞を受けてから堤の石鹸は全国的に有名になった その後は 中国・東南アジア方面など広く海外へも輸出された 堤石鹸製造所は1893年まで操業を続けた アメリカ向け輸出茶商標 横浜商工会議所蔵 生糸と並んで輸出の花形だった茶は 国内の産地から横浜に集まり外国商館の「お茶場」で再製の上茶箱につめられて海を渡った 明治に入る前後から輸出先はイギリスに代わりアメリカが主流となった ジャパン・ティーの茶箱には初め木版刷の商標が張られ その絵を描いたのが横浜浮世絵師であった 相愛社は明治の中ごろ 愛甲郡下の養蚕組合が神崎家の屋敷内に設けた養蚕伝習所 社長の神崎正蔵は 荻野村(現在 厚木市荻野)では一、二位を争う豪農地主で「荻野の殿様」とまでいわれた人正蔵は相州の自由民権家でもあり 講学会の常議員として尽力した 相愛社社長神崎正蔵の屋敷図 厚木市 神崎栄三郎氏蔵 明治十年代の中ごろ 津久井郡では八割の農家が養蚕を営み 糸に挽いていた この生糸は 生糸商人の手を伝わり 横浜へ運ばれた 写真(着色してある)は 農家の主人がそろばんを片手に 訪れてきた仲買人に生糸販売の交渉をしているところで 繭を煮る釜や糸挽き器などもみえる 横浜への道沿いに栄えた養蚕農家 津久井町 高城治平氏蔵 秦野煙草製造水車器械とその運転使用書 秦野市 石塚利雄氏蔵 秦野は1904(明治37)年の煙草専売法公布までは 民営煙草製造の一大中心地であった 製造器械は母屋に隣接した作業所内に設けられ分水路にかけられた水車で動かされた 写真の器械による製造高は従来のものより約8倍も多い1人1日16.5㎏であった 横浜の貿易商たち 横浜市図書館蔵 横浜が開港場となって貿易が始まると 全国から一獲千金を夢みる商人が続々と集まってきた これら冒険商人の成功組の横綱が原善三郎と茂木惣兵衛(のち保平)で 初期の横浜経済界に君臨した ここに掲げた肖像集には このふたりのほか若尾幾造・大谷嘉兵衛・小野光景・渡辺福三郎らの顔が見えている 人車鉄道は明治の後半 東日本を中心に二〇余の路線が開始された 豆相人車鉄道はそのひとつで 一八九五(明治二十八)年七月十三日 吉浜-熱海間の営業を開始し 翌年三月に小田原-熱海間の全線が開通となり 両駅の間二十五㌖を四時間前後で走った 全線の運賃は下等五〇銭で三等級制であった 運賃だけでなく 接続列車の時刻も表示されている 豆相人車鉄道の時刻表 小田原市 市川健三氏蔵 京浜電気鉄道(現在 京浜急行)は 一九〇五(明治三十八)年十二月二十四日には品川-神奈川間の全通を達成した この絵はがきは 全通を記念して発行されたものである 入場券は神奈川駅一九〇九年鎌倉駅一九一四(大正三)年のもので日付スタンプは右から読む注意書は明治初年の「…スベシ」の命令調から候文に変わっている 明治末年以後の営業政策の反映である 京浜電気鉄道全線開通記念絵はがきと官設鉄道神奈川・鎌倉両駅の入場券 小田原市 市川健三氏蔵 横浜市 長谷川弘和氏蔵 序 神奈川県史における近代・現代通史編は、政治・行政と産業・経済に大別いたしました。 この巻は、そのうちの産業・経済の上巻で、明治維新期から第一次大戦前後までの産業・経済、県財政の推移を取り扱っております。その間の農林・漁業、工業、労働市場、貿易、金融、海陸交通、港湾及び県財政について、中でも横浜港の貿易、海運、京浜工業地帯の発展、これに伴う経済の動向等、この時代の背景と特徴をつかんで叙述しております。 この巻の刊行にあたり、数多くの調査や困難な執筆及び監修にあたられた皆様と貴重な資料の提供に御協力下さった方々に対し、心から感謝申し上げます。 昭和五十六年三月 神奈川県知事 長洲一二 凡例 一 本巻は、神奈川県史通史編6近代・現代(3)産業・経済1として、明治維新以降ほぼ第一次世界大戦(一九一四-一八年)前後までを対象として叙述した。 一 人名では、敬称を略させていただいた。その読みは、外国人を含め一般的に用いられているものに従った。以上について、ご了承をえたい。 一 地名は、原則として記述されている時代の用例を用い、その下に( )で囲んで現在の地名を示した。 一 職業や職種の呼称等歴史的用語は、原則として記述されているその時代の用例によった。 一 年号は、明治五年(一八七二)十二月三日に太陽暦を施行して明治六年一月一日と改めた時までは、日本年号に西暦を( )で囲んで示し、それ以降は、西暦に日本年号を( )で囲んで示した。日本年号を西暦で示す場合、実際には年数にずれのある場合もあるが、とくに年月日を換算して記述した場合以外は、現在の一般の慣行に従い、単純換算を行った。 一 神奈川県史資料編を引用する場合は、『資料編』16近代・現代(6)一五のように、巻名と資料番号(必要に応じて、ページ数)を示した。 一 本巻の編集は、安藤良雄・山本弘文・丹羽邦男・寺谷武明・三和良一・林健久が担当し、執筆については、このほかに専門研究者の協力を得た。監修は、安藤良雄が当たり、全体の統一・調整を行った。 表紙題字 元知事 津田文吾 目次 序 凡例 はじめに 総説 第一編 明治維新期の神奈川県経済 第一章 維新期の農林業 第一節 概観 一 一般的な特色 対象とする地域 畑作地帯としての特色 二 農業形態による地域区分 横浜隣接の五郡 内陸部の四郡 相模川以西四郡 第二節 横浜隣接五郡 一 宿駅と町場 横浜周辺の宿駅 藤沢駅西村の職業構成 橘樹郡二子村・溝ノ口村 二 農村 溝ノ口周辺の農村 第五区三番組諸村の農業 橘樹郡末長村の農民 北綱島村のほおずき 幕末維新期の都筑郡諸村 寺山村 勝田村 上白根村 岡上村と片平村 第三節 内陸部四郡 一 維新期の政情 武州騒動 荻野山中陣屋の焼き打ちとお札降り 新政府支配の樹立 明治二年の新政府支配の実態 二 農村 多摩郡三輪村外四か村の農業 高座郡相原村外七か村の農業 津久井郡上川尻村の農業経営 愛甲郡中津川沿いの諸村 田代村と三増村 厚木町と周辺の諸村 第四節 相模川以西の四郡 一 大住・淘綾郡の水田沿海地帯 愛甲郡との対比 花水川水田地帯 淘綾郡沿海部 高麗村の農具市 二 内陸畑作地帯 煙草作地帯-足柄上郡萱沼・土佐原村 大住郡土屋村 三 酒匂川沿岸平野 足柄上郡狩野・中沼村 四 箱根山間部 足柄下郡大平台村 第二章 維新期の商品流通と交通 第一節 居留地貿易の展開 一 居留地貿易体制の形成 明治維新と横浜貿易 外商 外商の優位性 売込商・引取商 貿易関連機構の形成 二 初期の輸出貿易 輸出品の構成 生糸輸出 製茶輸出 蚕種輸出 三 初期の輸入貿易 輸入品の構成 綿織物輸入 綿糸輸入 毛織物・交織物輸入 砂糖輸入 四 貿易政策と横浜貿易 五品江戸廻し令 横浜鎖港問題と生糸規制 明治政府の蚕糸規制政策 横浜生糸改会社 蚕種恐慌と蚕種紙買入所 第二節 明治初年の内陸輸送 一 宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の設立 宿駅制度の改廃 各駅陸運会社の設立 二 神奈川・足柄県下の陸運会社 宿駅制廃止時の県域 甲州街道の陸運会社 脇往還の陸運会社 横浜の陸運会社 三 新道開拓の出願 物流の変化と新道開拓 第三節 鉄道の創業 一 外国人による建設計画 ウエストウッドの出願 ポートマンに対する免許 二 政府の建設構想と横浜における資金調達計画 ブラントンの進言 政府の構想と資金調達計画 三 神奈川海岸の埋立工事 工事の開始 神奈川築堤の埋立て 四 工事完成と開業式 工事の完成 開業式 五 京浜間鉄道の効用 運輸営業の開始 鉄道の効用 第三章 土地制度の改革 第一節 市街地への地券交付と地租改正 一 横浜市街地への地券交付 横浜市街地の土地所有関係 陸奥の市街地地券交付建言 明治四年十月陸奥の地券交付方式 関内町地への地券交付 地券税法への変換 一八七三年大火跡地の地価再調査 「沽券」交付後の状況 市街地地租改正の実施 二 小田原・箱根宿等市街地への地券交付 足柄県下の市街地 小田原への地券交付 箱根宿等への地券交付 小田原市街の地租改正 第二節 郡村地への壬申地券交付 一 旧神奈川県での地券交付 地所永代売買解禁と地券交付 神奈川県での地券交付着手 「田畑其外直段書上帳」の作成 「高反別其外取調書上帳」の作成 地代金の算定 地券の交付 地引絵図の調製 二 足柄県での地券交付 地券交付の着手 小前一筆限帳の作成 地引絵図の作成 地券の交付 柏木権令の地税法改正建言 第三節 地租改正の実施 一 改租事業の着手 神奈川・足柄両県での着手 旧神奈川県での地引絵図編製 野帳の作成(反別調査) 足柄県での地引帳作成(反別調査) 二 地価決定作業 神奈川県での小作米金調査 小作米金による地位等級の編成 関東諸府県共通方式による地価調査の開始 旧神奈川県への足柄県併合 模範村での地位等級検査 旧足柄県での地位等級設定 収穫・地価の決定 改租の結果 第四章 維新期の神奈川県財政 第一節 県財務機構の整備 一 県行財政機構の特徴 対内・対外の二重行政機構 中央官庁機能の代行 二 県行財政機構の縮小・整備 沿革 租税課など 第一-六課 第二節 定額金の制度と実態 一 定額金の制度 初期の定額金制度適用除外 定額金制度の採用 予備金制度の特殊性 為替方の機能 二 定額金の実態 定額金勘定 各勘定科目の性質 定額常費・額外常費の収支部門 本庁の定額常費内訳 本庁の額外常費内訳 土木費・警察費など 第三節 県内の国税と県税等 一 国税 種類と徴収額 二 県税 種類と徴収額 賦金 歩合金 民費 第四節 県・区町村の経費 一 県の経費 県の経費 二 区町村の経費 民費 第二編 明治前期の神奈川県経済 第一章 地租改正後の経済発展 第一節 農林水産業の近代的再編 一 地租改正期の土地問題 明治維新の変革と農業 地租改正後の地価修正 地租改正前後の質地紛争 真土村騒擾 山林の官民有区分の結果 木曽・根岸村秣場騒擾 二 勧業政策の展開 勧業課・勧業掛の設置 初期の勧業着手状況 横浜牧畜会社 相模原開田計画 仙石原勧業試験牧場・耕牧舎 初期勧業政策の性格 共進会等の開催 三 養蚕業の発展 養蚕業発展の概観 養蚕業の地域的性格 不況後の養蚕業 武相蚕糸協会の設立 蚕糸業組合の設立 直輸出政策と蚕糸業組合 四 明治十年代後半の不況と農業 物価の低落 負債の激増 在村地主の動向 農民の窮乏と大地主の成長 五 漁業の再編と製塩 漁場の再編 漁業の地帯区分 東京内湾漁業 三崎とその周辺の漁業 相模灘の漁業 塩田の存続 第二節 在来工業の展開 一 農村工業と都市雑工業の勃興 明治前期の県内加工業 二 製糸・撚糸および織物業の発展 製糸業の勃興 撚糸・織物業の発展 三 煙草製造業 秦野煙草の発展 四 醸造業 醸造高の推移 県内の産地 五 雑工業 横浜周辺の加工業 第三節 近代工業の形成 一 幕末期の工業 黒船来航と浦賀造船所 石川島造船所の設立 佐賀藩と薩摩藩 戸田の君沢形建造 長崎製鉄所の開設 横浜製鉄所の建設 横須賀製鉄所の設立 二 明治前期の重工業 横須賀造船所の経営 横浜製鉄所の経営 浦賀および石川島造船所の動向 民営石川島造船所の創立 横浜船渠会社の設立 第四節 労働市場の形成と労働者状態 一 明治前期における労働市場の形成 近代的労働市場の形成とマリア=ルス号事件 都市人口の増加と農民分解 工場労働者の蓄積 二 繊維工業の労働市場 製糸業を中心とした発達 三 その他の軽工業などの労働市場 煙草工業の労働者 再製茶工場の労働者 建築・建設業の労働者 運輸業の労働者 四 重工業の労働市場 横須賀造船所における労働力の編成と養成 鋼船の建造と職種構成の変化 五 労働市場の形成と労働者の状態 労働者の類型と賃金水準 貧窮や犯罪の増加 第二章 近代的流通機構の形成 第一節 交通機関の整備と商品流通の発展 一 東海道線の延長と横須賀線の建設 新橋-横浜間の改良 東海道線の延長 横須賀線の建設 二 神奈川-八王子間鉄道の計画 八王子鉄道論 民間の計画と政府の対応 三 車輛交通の増大 馬車輸送の登場 人力車の普及 馬車取締規則の制定 四 鉄道貨物取扱業の誕生 鉄道貨物輸送の開始 三井組の鉄道貨物取扱い 五 河川舟運と渡船・渡橋 鶴見川の舟運 渡船と渡橋 第二節 貿易機構の整備 一 売込商体制と直貿易 資本主義の発達と横浜貿易 連合生糸荷預所事件の発生 商権回復運動の内部矛盾 連合生糸荷預所事件の結末 直貿易の発達 二 明治前期の輸出入動向 輸出品の構成 生糸・絹製品・茶の輸出 輸入品の構成 第三節 金融機構の形成 一 横浜為替会社 横浜出張商法司の機能 横浜出張通商司の機能 横浜為替会社の設立 横浜為替会社の経営 二 第二国立銀行 第二国立銀行の設立経過 第二国立銀行の初期の経営 三 「国立銀行条例」の改正と県下の国立銀行 県下国立銀行の設立 横浜第七十四国立銀行の設立経過 県下国立銀行の経営状態 国立銀行の預金銀行への転形 四 私立銀行・銀行類似会社の設立 県下私立銀行・銀行類似会社の概観 県下私立銀行・銀行類似会社の経営 第三章 三新法期の神奈川県財政 第一節 三新法と三部経済制 一 三新法 郡区町村編制法 府県会規則 地方税規則 二 三部経済制 三部経済制への動き 地方経済郡区分離条例 三府神奈川県区郡部会規則 県会区部会郡部会議定事件分別条例 三部経済制導入の意義 九〇年府県制と三部経済制の否認 九二年改正による三部経済制の規定 第二節 県の財務機構 一 予算編成機構 七八年の事務章程と予算担当部課 八〇年六月改正 八〇年十月改正と庶務課取調掛の設置 調査課 八三年調査科へ編成替え 調査課の復活 これまでの機構整備の意義 八六年の地方官官制と県財務機構 九〇年の改正地方官官制による財務機構 二 徴税機構 前史 租税課の業務 国税徴収 地方税の賦課と徴収 七八年十月改正 八〇年六月および十一月改正 調査課と地方税掛 収税課設置 地方官官制と収税部 地方官官制改正と直税署・間税署 地方官官制改正と収税部 収税部廃止 第三節 県財政の実態 一 歳入 県全体の歳入 郡部の歳入 区(市)部の歳入 二 歳出 県全体の歳出 三部の歳出分担 連帯支弁の歳出とその負担割合 郡部の歳出 区(市)部の歳出 第三編 明治後期の神奈川県経済 第一章 工業の発展 第一節 県下産業発展の趨勢と特色 一 明治後期の諸産業の動向 流入人口の増大 農業生産の停滞 商工部門の増伸 商・工業の資本金額 二 県内の地域的特色 行政区の変遷 人口増加の地域別動向 農業生産の動向 三 明治後期の県内企業 銀行・商業会社の発展 工業化の進展 一九〇〇年代の新設工場 内陸工業の動向 第二節 重工業の発展 一 日清戦争後の重工業 海軍工廠の成立 横浜船渠の経営 石川島造船所の浦賀進出 浦賀船渠の開業 二 日露戦争後の重工業 海軍工廠の発展 横浜船渠の好調 浦賀船渠の不振 川崎へ工場進出 埋立地の造成 日本鋼管の創立 第三節 労働市場の展開と労働者状態 一 明治後期における労働市場の展開 近代的労働市場の展開と労働組合期成会 横浜を中心とした人口増加 農家と農業人口の動向 貿易・商業などの発展 工場労働者の増加と重化学工業化 家内工業の発展と停滞 二 重工業の労働市場 重化学工業の発展 熟練工などの不足と労働力移動 賃金上昇と官民格差 賃金変動と労働時間 旧型熟練の解体と技能養成 親方請負制の解体と直接管理方式 三 繊維工業の労働市場 製糸業の発展と停滞 製糸女工と寄宿舎生活 製糸女工の賃金と労働時間 絹綿紡績工場と労働条件 その他の繊維業の状況 四 港湾荷役などの労働市場 横浜市内の港湾労働者 下層雑業層の生活状態 五 労働者状態と労働運動 職工・職人などの賃金変動と生活状態 労働争議の頻発と労働組合の結成 労働争議の主体と成果 女子労働者の抵抗と移動 第二章 明治後期の農業 第一節 商品生産発展の地域的性格 一 三多摩分離後の県農業 多摩地方の分離 多摩分離後の県下農業 二 横浜周辺五郡 水田裏作と谷戸田 馬鈴薯と片栗粉製造 三浦大根・梨・桃 西洋野菜など 麦稈真田・経木真田 三 内陸養蚕地帯 副業としての養蚕 麦の商品化 甘藷栽培の発展 四 相模川以西三郡 裏作水田と煙草栽培 落花生栽培の拡大 蜜柑経営発展の端緒 五 農家養豚の発展 豚飼育の急増 副業としての養豚 鎌倉ハム 第二節 地主制下の農家経済 一 地主制の成立 大地主の成立 在村地主の動向 地主としての自覚 二 農家経済 在村の地主層 小作農の生活 自作・自小作農の存在形態 横浜近郊の自小作農家 農民生活の変化 第三節 農業団体の結成と農事改良政策の展開 一 農会と農事試験場 神奈川県農会の成立 農事試験場の設置 農事試験場の役割 二 農事改良政策の展開 農政の基調 日露戦後の農事改良 耕地整理の進捗状況 共同苗代の実施状況 第三章 貿易・金融の発展 第一節 条約改正と横浜貿易 一 条約改正と商権回復 横浜貿易の発展 生糸売込商の活動 生糸直輸出の拡大 製茶売込商と陶磁器売込商 直貿易の拡大 二 明治後期の輸出入動向 輸出品の構成 生糸・絹織物の輸出 輸入品の構成 第二節 貿易金融の発展 一 明治前期の貿易金融 洋銀騰貴防止政策の展開 貿易金融機関設立の要請 二 横浜正金銀行の設立 銀行設立の動機 創立願の提出 銀行の開業許可 正金銀行の資本構成 三 横浜正金銀行の初期の性格 外国為替制度の内容と意義 経営の行詰り 四 経営の改善と「横浜正金銀行条例」の制定 経営の改善 経営の発展 横浜正金銀行条例の制定 五 明治後期の横浜正金銀行 業績の推移 政府・日本銀行との関係 外債の発行 第三節 明治後期の地方銀行 一 普通銀行の発展 銀行条例の制定と普通銀行の発展 普通銀行の設立ブーム 普通銀行経営の特質 普通銀行の動揺と合併 二 貯蓄銀行の発展 貯蓄銀行条例の制定 神奈川県下の貯蓄銀行 三 神奈川県農工銀行の設立とその性格 不動産金融機構設立の理念 神奈川県農工銀行の設立 神奈川県農工銀行の経営上の性格 四 その他の金融機関の発展 庶民金融 保険業 第四章 海陸交通の発展 第一節 官私鉄道の発達と特色 一 東海道線の輸送力増強と京浜電気鉄道 改良工事と輸送力増強 京浜電気鉄道の建設と延長 二 横浜鉄道の建設 横浜-八王子間鉄道の競願 横浜鉄道の建設と開業 三 小田原電気鉄道と大日本軌道 小田原馬車鉄道の開業 小田原電気鉄道の開業 豆相人車鉄道 熱海鉄道と大日本軌道 四 江ノ島電気鉄道と湘南馬車鉄道 江ノ島電気鉄道 湘南馬車鉄道 第二節 鉄道時代の道路輸送 一 近距離道路輸送の増大 鉄道時代の進展 乗合馬車・馬力・荷車の増加 自転車・自動車の登場 二 街路・車輛取締規則の制定 一八八〇年代末の取締規則 明治後期の取締規則 三 道路の建設と改修 道路の建設・改修坪数 経費の負担区分 四 河川舟運の衰退 県内河川の舟路 河川舟運の推移 第三節 港湾施設の拡充 一 開国後の港湾情勢 開港後の横浜港 東京築港案と対立 パーマーの築港計画案 二 パーマー築港計画案の採択 パーマー案の審査 内務省デレーケ案に賛成 外務省の築港政策 パーマーの反批判 外相大隈の勝利 三 第一期築港工事の完成 防波堤の築造 防波堤の崩壊 工事の完成 四 第二期築港工事の完成 第二期工事の着手 第二期工事の進行 第二期工事の完成 第四節 海運業の発展 一 日本郵船会社の成立 明治政府の海運奨励 三菱の躍進 三菱と共同運輸の死闘 日本郵船の成立 中小船主の動向 二 海外航路の発展 ボンベイ航路の開設 三大航路の開設 東洋汽船会社の創立 明治末期の海運 第五章 明治後期の神奈川県財政 第一節 改正「府県制」と県行財政制度 一 県行財政制度 改正府県制・郡制 三部経済制 分賦制度 分賦制度批判論 戸数と人口 県の行財政機構 県・郡の会計規程 第二節 市郡間経費分担問題 一 分担をめぐる対立 三新法期における分担方式 治水費負担問題 若干の問題点 監獄費国庫支弁移管 二 妥協の成立 郡部の新要求 市郡協定の成立 告示第三八号 一九〇九年治水堤防費建議 第三節 財政の実態 一 財政の構造 県内の財政の概観 三部経済の財政構造 三部経済の構成変化 二 歳出 県の全歳出 連帯歳出 市部歳出 郡部歳出 三 歳入 連帯歳入 市部歳入 郡部歳入 第四編 第一次世界大戦前後の神奈川県経済 第一章 第一次世界大戦と京浜工業地帯 第一節 京浜工業地帯の発展と内陸工業 一 重化学工業の好況 戦争景気の到来 浅野造船所の設立 横浜船渠の造船開始 浦賀船渠の回復 内田造船所の設立 日本鋼管の発展 東京電気の躍進 窯業工場の進出 二 日米船鉄交換と造船業 アメリカの鉄材輸出禁止 船鉄交換契約の成立 浅野造船所と船鉄交換 浅野製鉄所の創設 横浜船渠と船鉄交換 浦賀船渠と船鉄交換 内田造船所と船鉄交換 三 大正前期の内陸工業 製糸業の活況 器械製糸地帯 座繰製糸地帯 撚糸業と織物業 第二節 戦後恐慌・軍縮と官民工業 一 戦後恐慌と重工業 戦後景気と恐慌 造船業の動揺 鉄鋼業の不振 諸工業の動き 二 軍縮と官民工業 八八艦隊計画 ワシントン軍縮条約 戦艦陸奥 民間工業の打撃 三 反動恐慌後の内陸工業 恐慌と製糸業 撚糸業の動向 織物業の衰退 第三節 労働市場の変動と労働者状態 一 大正前・中期における労働市場の変動 労働市場の変動と友愛会の組織化 重工業を中心とした産業の変動 拡大と分散を含む人口変動 農村・農業人口の変動 二 重工業の労働市場 大戦前後の雇用増大とその反動 共済組合の設立と企業別熟練の形成 日本的労務管理体制の形成 定期昇給制度と賃金・労働時間 三 繊維工業の労働市場 女工の比重低下と繊維工業の動向 低賃金と長時間労働 麻真田工場の発展と衰退 四 酒造業の労働市場 酒造業の発達と出稼ぎ労働者 雇人規定と労働者の性格 五 労働者状態と労働運動 物価と賃金の変動 友愛会の組織化と大戦中の賃上げ争議 友愛会の労働組合化と恐慌下の争議 第二章 貿易・海運・交通の動向 第一節 大戦前後の生糸貿易 一 大戦と横浜貿易商 大戦と横浜貿易 帝国蚕糸株式会社(第一次)の活動 帝国蚕糸株式会社(第二次)の活動 横浜貿易商の浮沈 二 大戦前後の輸出入動向 輸出品の構成 生糸・絹織物の輸出 輸入品の構成 第二節 大戦前後の海運業 一 大戦中の海運 海運業の好況 船成金の誕生 日本郵船の発展 大阪商船の躍進 東洋汽船の活況 二 戦後の海運 海運の不況 日本郵船の整備 大阪商船の整備 東洋汽船の破綻 第三節 大戦前後の鉄道 一 国鉄京浜間電車運転の開始 東海道本線の改良工事 京浜間電車の開業 二 臨海工業地帯と港湾における鉄道の整備 輸送需要の増大と改良計画 臨海工業地帯と鉄道 三 箱根登山鉄道の建設 登山鉄道の建設計画 登山鉄道の建設と開業 四 熱海線の建設 国府津-沼津間の改良計画 熱海線の工事 鉄道の発展と観光開発 第三章 金融界の動向 第一節 大戦期の輸出金融問題 一 大戦期の貿易と金融 貿易の拡大と為替事情 二 横浜正金銀行の業務 内外資金の調整 内地市場の開拓 第二節 大戦期の県下各種金融機関の推移 一 普通銀行・貯蓄銀行 地域別・銀行種類別分類 二 銀行行政の展開と県下の銀行の動き 銀行行政 金融行政への対応 中小金融機関の発展 銀行における業容の拡大 大戦後への推移 第四章 第一次世界大戦前後の神奈川県財政 第一節 大正期の県行財政機構 一 変遷と特徴 制度安定期 一四年・二二年の府県制改正 郡制廃止 県の行財政機構 第二節 戦時戦後の財政動向 一 財政問題 大正期の財政問題 三部経済制 治水費 三崎築港 都市計画地方委員会費 大戦期の物価騰貴 社会事業費貸付資金特別会計 米騒動・社会問題対策 高等工業・高等商業学校建設 郡制廃止の事後処理 第三節 財政の実態 一 県歳出 財政規模 県の全歳出 連帯歳出 市部歳出 郡部歳出 二 県歳入 連帯歳入 市部歳入 郡部歳入 三 郡財政 歳入出 執筆分担一覧 年表 付表 度量衡換算表 現行市町村別旧村一覧 あとがき 口 絵 東京横浜往返蒸気船ノ図(神奈川県立文化資料館蔵) 横浜波止場ヨリ海岸通異人館之真図(神奈川県立文化資料館蔵) 横浜海岸各国商館図(神奈川県立博物館蔵) 横浜海岸鉄道蒸気車図(神奈川県立博物館蔵) 横浜市街地地券(横浜市史編集室蔵) 相模国鎌倉郡大船村地引絵図(鎌倉国宝館蔵) 横須賀造船所首長ウェルニーとその功績(横須賀市広報課提供) 堤石鹸のラベル(神奈川県立文化資料館蔵) アメリカ向け輸出茶商標(横浜商工会議所蔵) 相愛社社長神崎正蔵の屋敷図(神崎栄三郎氏蔵) 横浜への道沿いに栄えた養蚕農家(高城治平氏蔵) 秦野煙草製造水車器械とその運転使用書(石塚利雄氏蔵) 横浜の貿易商たち(横浜市図書館蔵) 豆相人車鉄道の時刻表(市川健三氏蔵) 京浜電気鉄道全線開通記念絵はがきと官設鉄道神奈川・鎌倉両駅の入場券(市川健三氏・長谷川弘和氏蔵) 装てい 原弘 (裏表紙・遊び紙のマークは県章) はじめに この巻は、明治維新以降ほぼ第一次世界大戦(一九一四=大正三年-一九一八=大正七年)前後にいたる間における、神奈川県域における経済の発展過程を叙述するものである。 この時代区分は、二巻にわたって述べる近代・現代の「産業・経済」に関する通史編全体の分量の関係にもよるのであるが、神奈川県域経済の歴史に焦点を合わせても、明治維新以降現代にいたるまでの日本経済の発展過程を時代的に二分すると、日本資本主義が第一次世界大戦による輸出・運輸の画期的な活況を契機として量的に大きく発展し、また、構造的にも資本主義としての最高の発展段階に到達しようとするにいたった第一次大戦期を以て区切るのが、学問的にも適当と考えられるからである。したがってこの巻は、いわば、日本資本主義の形成・発展の段階における神奈川県経済史である。 ところで、この巻では具体的には、総論のほか、一「明治維新期の神奈川県経済」、二「明治前期の神奈川県経済」、三「明治後期の神奈川県経済」、四「第一次世界大戦前後の神奈川県経済」の四編に分かち、さらにこれをおおむね農林漁業、工業、労働市場、海陸交通・港湾、貿易、金融、県財政の別によって、章・節に分かって論述している。いわば、全体を大きく時期別に横割りにしたうえで、それらをさらに経済部門別に縦割りにしたかたちで叙述するわけであるが、この場合、各時期を機械的に縦割りにしているのではなく、それぞれの時期の特徴にしたがって章・節だてを行ったのである。したがって、常に問題史的視角も考慮されているわけであって、章・節の見出しもそれぞれの時期の特徴を示すよう心がけられている。 編集と執筆に当たっては、なるべく経済全般にわたるよう意図したが、いっぽうでは、重点的な編集・執筆をも行っている。これは紙数の制約にもよるが、できうる限り平板な叙述を避け、各時期において重要な問題点を積極的に取り上げて掘り下げ、各時期の特徴を浮彫りにしようとする配慮によるものでもある。 なお、部門によっては、その時期における当該部門のもつ問題の特殊性から、各章が主として対象としている時期の前後について、あるいはさかのぼり、あるいは下って叙述することもあることをあらかじめおことわりしておきたい。 最後に、通史編では十分解明しえなかった重要な諸問題については各論編において収めて取り上げ、より詳密に論じられることになっている。 総説 一 「はじめに」において述べたように、この巻では、明治維新以降ほぼ第一次大戦期にいたる間、すなわち、日本資本主義の形成、発展期における神奈川県域における経済の推移を論述する。 まず第一編「明治維新期の神奈川県経済」は、明治維新(一八六八=明治元年新政府成立)以降ほぼ六年ないし十年までの間を対象としているが、この時期の神奈川県経済は、神奈川県が開港(一八五四=嘉永七年日米和親条約、一八五八=安政五年日米修好通商条約調印)後、日本の対外接触の最大の舞台となった横浜とその後背地を擁するだけに、日本の他の道府県の経済とは非常に異なった様相を呈したのである。他にも江戸時代以来の特殊事情によって、幕末・維新以降特異な展開を示した県もあったが、神奈川県の場合は、名実共に日本の首府となった東京に隣接し、また全く新たな、そして全面的な対外接触のまさに中心舞台だったのである。したがって、いま挙げたこの時期の神奈川県経済においては、対外接触がもたらした影響はたんに貿易のみではなく国内商品流通、工業、交通、港湾、金融、さらに農業にまで広く及んだのである。この点は財政においてもしかりであって、対外接触の接点であり、とくに外国人の圧力を受けて、急激に発展していった新興都市横浜を擁するだけに、東京・大阪両府とならび、かつそれらとも異なった独特の道を歩んだのである。 また、ここでは当然のことながら明治維新の最大の課題の一つであり日本の土地制度史上最も重要な変革である「地租改正」(一八七三=明治六年)をも取上げるが、この場合、特異な意味をもつ横浜の市街地に対する地券交付等を封建都市の系譜にたつ小田原等と比較しつつ論述する。 二 第二編では、第一編につづいて、原則としてほぼ一八七〇年代なかば(一八七五年は明治八年、部門によっては維新期にさかのぼる)から明治二十年代(明治二十=一八八七年)初頭(部門によっては明治二十年代終り)にかけての県域経済と県財政の推移について論述する。 この時期は、政府の強力な保護政策のもとで、資本と労働力の形成等日本において資本主義の基礎的諸条件がつくり出され、またいわゆる産業革命の進行が開始された時期である。したがって、この時期においては、新たな条件のもとでの在来工業の展開、移植工業、とくに造船業等重工業の導入、港湾をふくむ近代的海陸交通施設の整備、そしてこれらを支える近代的な金融制度・機構が形成されていったのである。しかも神奈川県の場合、これらはいずれも横浜という日本においても稀な特殊の条件をもつ新興都市の存在によって特徴づけられていた。また、この時期には横浜貿易も伸長したが、一八八〇(明治十三)年には外国銀行、外国商人に対抗し、日本商人による貿易の発展をはかるため、その後も日本の金融界において大きな役割を果たした横浜正金銀行(現在の東京銀行の前身)が貿易金融専門銀行として半官半民のかたちで設立された。 この期の県財政はいわゆる「三新法」(一八七八=明治十一年太政官布告によって「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」をいう)のもとでの財政の再編成(それは一八九九=明治三十二年以降の改正府県制時代に対しては中間的なものであったが)の時期に当たるのである。 三 第三編は、明治後期から大正初期、第一次大戦開戦までの年代、すなわち、ほぼ明治二十年代(明治二十五年=一八九二年)のなかばごろ(部門によっては明治三十年代から、なお明治三十年=一八九七年)から一九一三(大正二)年ごろまでの時期を対象とする。 この時期には、日清・日露の両戦争を経て、日本資本主義は大きく発展し、いわゆる産業資本の確立、そして端緒的ではあるが金融資本確立の段階を迎えた。この間、国内的には、一八九七(明治三十)年金本位制を成立させたが対外的には、日清戦争後の、一九世紀の末には「条約改正」を果たし、日露戦争後の一九一一(明治四十四)年には関税自主権をも実現させた。 以上のような日本全般をめぐる動向は、神奈川県経済にとくに大きな影響を与えた。まず、この時期には中央資本の投資による重工業その他の新産業部門の工場建設が相ついで行われ、神奈川県はいわば商業県から商工業県へと発展していったのである。そしてとくにこの期の終わるころには、鶴見地区を中心とする埋立工事、すなわち後年の京浜工業地帯の造成が開始されたのである。また、この間金本位制の成立、条約改正、関税自主権の確立という過程を通じて、横浜貿易もいちじるしく伸長したが、とくに生糸売込商をはじめ日本商人は「商権回復」を達成し、また横浜正金銀行を中心とした貿易金融体制も発展したほか、その他の地方金融機関の発達にも注目すべきものがあった この時期には、官私鉄道を中心とした陸上交通の発達も顕著であるが、貿易の発展と関連しつつ横浜を起点とする海外航路の開設等政府の保護を背景とした海運の拡大、二次にわたる横浜築港の推進による港湾の整備等もそれぞれ画期的な意義をもつものである。いっぽう、横浜を中心とした市部では農業人口が減少したが、郡部では農業人口が依然圧倒的であった。しかし、東京・横浜の大消費地に近接しているだけに商品作物の普及が進捗した。そして産業、海陸交通、港湾の発展は、労働市場をも変貌させたが、労働問題の発生と労働運動の展開も日本全体の動向の一環をなすものであるとともに、横浜を中心とする神奈川県特有の問題が展開した。 財政では、一八九九(明治三十二)年改正「府県別」「郡制」が全国一斉に施行されたことに伴う問題、とくに市部・郡部の経済の分別による「三部経済制」(市郡連帯・市部・郡部)の採用、これに関連する「分賦制度」の実施と、市部・郡部の経費分担問題、新府県制に基づく県行財政機構の改革等新たな諸問題が生じたが、財政全体の実態にも、資本主義の発展、とくに県下商工業の発展、警察・教育の拡充、風水害対策等による変貌がみられる。 四 第四編は、第一次世界大戦(一九一四=大正三-一九一八=大正七年)前後からほぼ関東大震災(一九二三=大正十二=年九月)直前にいたる間を対象とする。この時期の日本は、第一次世界大戦に参戦したが、国内経済は、開戦直後の一時的衝撃を脱したのち、輸出と海運の未曾有の活況、輸出産業と造船業、これらに連なる鉱山業をふくむ諸産業、従来ドイツからの輸入に依存していた化学工業部門等の画期的な拡大がもたらされた。また大幅な輸出超過、貿易外受取超過、対外債権と保有正貨の激増等ももたらしたのである。いわゆる「戦争景気」の到来である。 しかしながら、大戦終了直後の反動不況、戦後ブーム等を経て、一九二〇(大正九)年春襲った本格的な戦後恐慌は、戦時好況および戦後ブーム期に繁栄を謳歌した日本の貿易、産業・金融に甚大な影響を与えたが、その後の日本経済は十数年間にわたって好況を再現しえず、慢性的沈滞のうちに大正時代を終わっていった。しかも、このような状況のさなかに関東大震災が起こったのである。 第四編では、このような時期における神奈川県経済の展開過程について、前三編と同様部門を分って論述する。 まず、工業部門では、第一次大戦期における日本経済の「繁栄」のなかでの「京浜工業地帯」の本格的な発展と内陸工業の動向について述べ、さらに戦後恐慌と軍縮が県下工業に及ぼした影響を検討する。ついで、労働運動のぼっ興、日本的労務管理体制の形成等をふくむ労働関係における大きな変動について分析する。 第一次大戦前後はまた横浜生糸貿易にとっても歴史的な時期であって、大戦によって異常に拡大したが、戦後恐慌によって甚大な打撃をこうむった。海運においても同様である。貿易と海運の浮沈はまさに第一次大戦前後の横浜-神奈川県経済、そして日本経済全体の動向を象徴するものであった。そして横浜には「生糸と海運」というパターンによる繁栄はその後ふたたび戻ってこなかったのである。ついで、人口の増加と産業の拡大と京浜工業地帯の発達、箱根から静岡県下にまたがる観光地の発展、電化の実現等によってもたらされた県下官私鉄道変貌の過程について述べる。 第一次大戦金融界も輸出金融の活況を中心として横浜正金銀行を中心として大きく発展し、繁忙をきわめた。しかしながら、戦後恐慌は金融界をも襲い、大きな影響を与え、とくに輸出金融に関係する金融機関の受けた打撃はきわめて大きかったが、関東大震災はこれに追い討ちをかけたもので、これらの後遺症は昭和年代にまで持ち越されたのである。 ところで、この期の県財政は、いっぽうでは、二度の府県制の改正(一九一四=大正三年、一九二二=大正十一年)、郡制の廃止(一九二一=大正十年)による影響、他方では経済社会情勢の変化を反映するものであった。前者では郡制の廃止の意味が大きかったが、後者に関連しては、社会事業関係費がクローズ・アップされてきたが、これは本県をふくめて「社会問題」、「労働問題」が日本全体において大きな意味をもつようになったということを直接に反映している。またこの間、勧業費・警察費・治水費なども膨張し、これらの比重が増加したことも目立っている。 五 以上のように、明治維新以降大正末期、ほぼ関東大震災にいたるまでの日本を経済史的にみると、資本主義成立のための基礎的諸条件の形成、産業革命の進展と産業資本の成立、そして金融資本の成立という過程を、先進国に比較するときわめて短縮したかたちで歩んだ時期で、とくにこの間、日清、日露の両戦争、第一次大戦という三つの戦争を経て、しかもこれらを跳躍台として資本主義を急速に発展させ、西洋から近代的諸制度、技術、教育体系を導入するとともに、社会、経済の「近代化」も非常な速度を以て進展していった。しかしながら、これに伴って日本は資本主義としての矛盾、問題点をも擁するにいたったのである。そしてとくに後発資本主義国としての独自の矛盾とおくれ、ひずみ等から免がれることができなかった。この間、とくに第一次世界大戦は、日本資本主義に漁夫の利を与え、国内的な「繁栄」と中国への強力な進出とを果たさせ、英・仏・米の諸国とともに戦勝国となった日本は、ベルサイユ講和会議(一九一九=大正八年)を通じて国際的地位をも向上させた。しかしながら列国の間で大戦期から芽生えていた日本の中国進出に対する警戒と不信は戦争終了後顕在化し、とくにワシントン会議(一九二一~二二、大正十~十一年)後日本は国際的に孤立化していった。そして、戦後恐慌によって日本経済は不況に陥り、しかもそれが慢性化した。しかもつづく関東大震災によっても大きな打撃を受け、さらにその際の救済政策は重大かつ困難な問題を後年にのこし、これらは金融恐慌(一九二七=昭和二年)となって爆発したのである。 この期間、神奈川県経済は、右のような日本経済全般の歩んだ道そのままに歩んだが、その間に展開した諸事態、すなわち、資本主義化、近代化、そして第一次大戦期における繁栄、戦後恐慌による打撃と不況の慢性化、関東大震災による被害とそれに伴って起こった諸問題等は、すべて日本全体の動向の縮図なのであった。というよりはむしろそれらの中心的舞台であったというべきであろう。 本巻は、以上説明した編別構成と問題意識により、この間における神奈川県域経済の発展と変貌、あるいは問題点を県財政の変遷とともに分析しようとするものなのである。 第一編 明治維新期の神奈川県経済 第一章 維新期の農林業 第一節 概観 一 一般的な特色 対象とする地域 ここで対象とするのは、一八七六(明治九)年四月の府県統合で神奈川県の管轄下に収められた、相模全国と武蔵四郡(久良岐・橘樹・都筑・多摩)とからなる地域である。このうち、多摩郡は一八九三(明治二十六)年東京府に移り、以後残りの部分が神奈川県として現在にいたっている。 この地域は、開港場横浜の後背地をなし、維新期にあって開港の政治的経済的影響を特殊に受けたところである。安政五年(一八五八)に締結され、明治政府がそのまま継承した日米修好通商条約は、開港場一〇里四方の外国人遊歩地域を設けることを規定している。 明治元年「神奈川在留外国人遊歩規定図」(『資料編』10近世(7)口絵)が示すように、ここで対象とする地域は、この遊歩区域とほぼ合致する。 明治新政府は、まず、慶応四年三月横浜に横浜裁判所を置き、ついで旧神奈川奉行支配地をその管轄下に収めたが、同年六月これを神奈川府と改め、八月二十五日には、神奈川宿一〇里四方の地を管轄下に置いた(「鎮将府日誌」第八)。この管轄範囲は、「神奈川府最寄東は六郷川西は酒匂川を限り南北は直径拾里を限り神奈川府より取締として肥後藩人数差出巡羅致させ候間……」(明治元年七月布達留藤沢市青木四郎家文書)あるいは、「元年八月日未詳、始て神奈川十里部内を管す、其境域東北多摩川に、南海浜に至り、西酒匂川を限る」(『明治十四年神奈川県統計表』沿革)などとされ、足柄上・下郡の一部、多摩郡の一部が管轄外(韮山県・東京府・入間県の管轄)であるほか、ここで対象とする地域に合致する。しかし、実際には、この神奈川府(明治元年九月神奈川県と改称)神奈川宿一〇里以内の地域以内には、韮山県・六浦藩・荻野山中藩・小田原藩の所轄地が内包されていた。廃藩置県後の明治四年十一月の府県廃合で、右のうち神奈川・六浦県が合して神奈川県に、韮山・小田原・荻野山中県が合して足柄県に統合され、さらにこのとき、「外国人十里部内遊歩」の地を開港場県庁で一括管轄するとの理由で、新置神奈川県管轄下に、多摩・高座二郡が加えられた(『資料編』11近代・現代(1)一)。ついで、一八七六年四月の府県廃合で、これまで足柄県に含まれていた足柄上・下・大住・愛甲・淘綾・津久井六郡が神奈川県に加えられた。 以上にみられるように、本文で対象とする地域は、日米修好通商条約が定めた外人遊歩地域とほぼ合致するため、この地域の維新以後における行政区画変遷は対外的な事情の影響を受けて複雑である。 畑作地帯としての特色 まず、この地域が、全体として神奈川県下に入った一八七六(明治九)年時点での農林業を概観する。一毛作・二毛作別水田面積が初めて判明する一八八四(明治十七)年度統計によれば、神奈川県下水田の二毛作田はわずか三・六㌫(相模四・三五㌫、武蔵二・六一㌫)にすぎず、ほとんどが一毛作田であった。この前提に立って、『明治九年全国農産表』所掲農産物を、作付方式を考慮して分類し、その価額構成比を示したのが表一-一である。 概して、諸農産物中、米の比重が最も高いが、圧倒的ではなく、農産物総価額中五〇㌫を超える郡は、一三郡のうち五郡表1-1 1876(明治9)年農(林・水)産物の価額構成 注 1 *雑穀は粟・稗・黍・蜀黍・玉蜀黍・ソバ。 2 **原数値は単位が1桁違っているので修正した。 3 生糸は産額が繭と重複するので表から除外した。 4 橘樹郡製茶は1877-1879年の数値の30倍以上で明らかに誤りだが,そのまま計算した。 5 『明治9年全国農産表』より作成。 にすぎず、その最高は久良岐郡の六〇㌫に止まる。一八七六年の米価は一石三円七四銭-五円一銭で、大麦の一円四四銭-二 円二〇銭、小麦の二円六七銭-三円六一銭、粟の一円五四銭-二円三九銭、稗の八一銭-一円一九銭よりはるかに高い。にも かかわらず、農産物価額構成で米の比重が右のごとくなのは、この地域で畑作が優越しているからである。現に地租改正の結 果によれば、この地域の水田化率(耕地のうち水田の占める面積比率)は約二八㌫で、関東七府県のうちで最低なのである。その 畑作の内容は、冬作-麦・夏作-雑穀、または、冬作-麦・夏作-大豆という自給的な作付体系が主軸をなしている。とくに、 雑穀(とくに粟・稗)の総価額中での比率が、その価格が低いにもかかわらず、八郡で一〇㌫を超える事実が自給性の高さを示 している。一般には「商品作物」といわれる実綿の比率も低く、ここでは自給用でしかない。わずかに淘綾・足柄下郡で若干 の商品化が考えられる。 この地域で、商品化される畑作物(またはその加工物)は、繭・製茶・煙草・藍である。いずれも局地的で、全域に広がって いるものはない。なかで、養蚕-繭は、横浜に最も近接した諸郡ではほとんど展開しておらず、むしろ遠い山間・内陸部四郡 に偏在している。また、多摩郡では、藍の生産があって、すべての生糸が横浜へ向けられるのではなく、それを原料とした織 物生産も存在していることをうかがわせる。開港後一九年間の生糸輸出の激増は、横浜の後背地であるこの地域の自給的畑作 構造を大きくは変えていない。 二 農業形態による地域区分 この地域の農業は、その形態から三つの部分に分けることができる。一は、横浜を中心とした沿海部久良岐・都筑・橘樹・ 鎌倉・三浦の五郡(ただし都筑郡は海に接していない)で、東は多摩川、西は境川で他と区分される。二は、この地域の内陸・山間部高座・愛甲・津久井・多摩の四郡で、なかで高座郡のみは海に接しているが、その内部に広大な原野相模原を擁している。三は、相模川以西の沿海部大住・淘綾・足柄上・下四郡(ただし足柄上郡は海に接してはいない)で、西は、南北に走る山岳によって、甲斐・駿河・伊豆に接している。 横浜隣接の五郡 第一の横浜をとり巻く五郡は、県下では水田化率が高い地帯である。したがって、農産物の価格構成で、米の比重が高い。『明治九年全国農産表』(表一-一)は、そさい・果樹類を掲げていないので詳細な検討はできないが、この五郡のうち、橘樹郡を別にすると、米の比重の低い郡では、補完的に雑穀または大豆の比重が高い。ここに、普通畑での畑作の自給的性格の強さが示されている。ただ橘樹郡では、雑穀に代えて、横浜など近在市町の需要にこたえる夏作そさいの栽培が推定される。ここでの土産物の商品化は、むしろ普通畑以外の部門でみられる。すなわち、桑畑・茶園の部門、さらには、沿海部新田地先での塩田、水産物としての海苔栽培など(『全国農産表』には、水産物は表一-一所掲のものだけが載せられている)がそれである。しかし、養蚕-繭は、都筑・鎌倉二郡だけに限られている。塩田は、橘樹郡大師河原・池上新田・潮田、久良岐郡平沼新田・金沢(泥亀新田・寺前・町谷・洲崎)・三分、三浦郡浦郷・林・逗子など主に東京湾沿岸の村々で、旧幕期から引き続き製塩がなされていた。掲載の物産種類が限られている『明治九年全国農産表』の欠陥を補うために、一八七五年現在の著名物産を、『神奈川県地誌略』(川井景一著、明治八年十月刊)によって次に掲げる。 久良岐郡-塩(金沢)・梅(杉田) 都筑郡-瓜・繭・炭・柿・筍 橘樹郡-生糸・蚕種紙・蓮根・梨子・桃・杏・酸漿・縄・莚・素麺・塩・海苔・貝類 鎌倉郡-藺蓙・苫・海苔・若布・荒布・鹿尾草・鎌倉海老・江之嶋貝細工 三浦郡-水飴・魚介・若布・荒布・心太草・鹿尾草 これによって、橘樹郡での果実、都筑郡での林野生産物、三浦郡での海産物などの特産の存在を知ることができる。これらはいずれも、田・普通畑以外の部門に属し、田・普通畑の自給的性格を裏付けている。また、養蚕-繭生産は、局地的であることが確認される。総じて、ここにみられるのは、以後急速に姿を消す産物を含んだ雑多な特産物で、なお色濃く旧幕期の姿を存している。 内陸部の四郡 内陸・山間部の四郡は、水田に乏しく、麦・雑穀が、農産物価格構成のなかで半ばに達するほどの高い比重を持つ。ここから、他の二地帯より一段と生産力の低い自給的な畑作が想定される。しかし、一方、この地帯には、繭および生糸の集中的な生産がみられ、繭産額は、農産物総価額の一一-二五㌫ほどの高い比重を占めている。そして、この四郡での繭生産は、五万六八二一斤、二四万〇〇九五円に達し、生産額で当時の神奈川県全体の八八㌫、価額で九一㌫という圧倒的部分を占めていた。 多摩郡・高座郡は『神奈川県地誌略』、津久井郡愛甲郡は明治十一年『神奈川県治一覧表』によって特産物をみると次の通りである。 高座郡-小麦・茶・繭・桃・松露・三昧漬 多摩郡-繭・蚕種紙・生糸・藍玉・八王子博多・黒八丈・縞八丈・牛蒡・大根・唐茄子・薩摩芋・里芋・真桑瓜・小麦粉・梨子・柿・栗・桃・梅・柚子・山葵・蕨・目籠・莚・茅根・雪駄表・竹・薪・炭・石灰・多摩川紙・多摩川鮎・鹿・猿 愛甲郡-生糸・縷糸 津久井郡-川和縞・生糸・縷糸・繭 繭・生糸を特産とするこの地帯でも、内部には、在来からの織物生産が行われ、また他にも多様な特産物が、生産量は少ないにせよ商品化されていたことがわかる。 相模川以西四郡 相模川以西四郡のうち、足柄上・下郡で水田化率が高いのは、酒匂川沿岸平野部を内包するからである。ここでの特徴は、普通畑の作付体系の一部に、商品作物である煙草ないしは実綿が組み込まれ、一方、桑園・茶園などの永年作物栽培はほとんどみられないという点にある。ここには、開港の経済的影響は全くといってよいほどみられず、むしろ、旧幕期を通して農業が順調に発展し、その結果として、足柄上郡、大住郡の曽屋村を中心とした煙草作地帯が形成されている。 『県治一覧表』は、この四郡につき次の名産を掲げている。 淘綾郡-魚介 足柄下郡-湯ノ花・紫蘇巻梅・木地挽物・寄木指物・炭・建築石・蜜柑・〓魚・塩辛 足柄上郡-米・煙草・炭 大住郡-煙草・落花生・菜子・蔬菓 これによれば、煙草作地帯でも、商品作物は単一化せず、落花生・菜種・その他そさい・果実などの商品化がみられる。また、足柄上・下郡では、『農産表』所掲の麻・椎茸・漆汁のほか、山間部でいわゆる箱根細工といわれる寄木指物・炭・石材・果実など、多様な産出があり、一方、淘綾・足柄下郡の沿海部では魚獲物とその加工がみられる。 第二節 横浜隣接五郡 一 宿駅と町場 横浜周辺の宿駅 ここでは、前節で、農業形態によって三つに大別した地域のそれぞれについて、さらに立ち入って検討する。相模・武蔵四郡地域のなかで、開港と、それによって始まった維新の動乱との影響がまずあらわれるのは、東海道・甲州街道筋の駅村である。しかし、東海道筋で発生した生麦事件などの外国人殺傷事件は、その大きな政治的影響にもかかわらず、地域住民に直接関わるものではなかった。維新の動乱が、地域住民の生活をゆり動かしたのは、慶応二年(一八六六)、幕府が第二次長州征討の準備をすすめるなかで起こった諸物価の高騰をもって最初とする。この物価騰貴による生活窮迫によって、江戸・横浜に近い東海道駅で、同年五、六、八月に打ちこわしが発生し、同じころ、多摩郡一帯、甲州街道筋に広がる武州騒動が起こった(『資料編』10近世(7)六三三)。 打ちこわしは、まず五月二十三日、品川・川崎宿で起こったが、その主体は借家人であった。八月二十九日の藤沢宿の場合(『資料編』10近世(7)六四三)も、打ちこわしの頭取二人は、いずれも借家人、その他逮捕者も、借家人または「地借」人で、ここでは彼らの職業も判明している。すなわち、大工・左官・木挽・鳶人足・旅籠屋・居酒屋・刻煙草渡世・農業(一人は持高三石)等で、打ちこわされた側は、持高五八石の高持で薬種・荒物渡世を兼ねる年寄役の家をはじめ、農間升酒・搗米、あるいは雑穀渡世などを営む六戸であった。この打ちこわしには、右の逮捕者のほか、「名前不存もの多人数」が参加しているが、明治四年現在、藤沢駅のうち西村住民の職業構成(表一-二)から、打ちこわしの原動力となった社会階層の存在が確認できる。 藤沢駅西村の職業構成 藤沢駅は、行政区画としては、大小区制の下では境川を隔てて、高座郡に属する部分と鎌倉郡に属する部分とに分かれ、正式には、高座郡大久保町、坂戸町をもって藤沢駅とする。しかし、幕末には郡境をこえて、事実上一つの町となっていた。後に一八八八(明治二十一)年十二月十四日、市町村制発布にあたり、両郡の諸町が共同して県に提出した「一駅内各町合併郡境変更願」(青木四郎家文書)によれば、高座郡・鎌倉郡それぞれに属する諸町は、「境川ト唱ル一小川ヲ以郡ノ境ト為スト雖トモ、旧時ハ一駅相通シ駅務ヲ弁シ、区別アル事ナク況ンヤ、街衢相連、商肆櫛比連担、農家トモ又相接シ、自然一区域トナリ、世人藤沢駅名アルヲ知リ、村名アルヲ知ラサルモノ多キニ居リ……民情風俗等毫モ異ナルナク」云々という状態であった。なかで、西村(のちに西富町)は、元来、石高一〇五石余、田四町八反、畑一七町四反余の農村であったが、明治四年の総戸数一四六戸のうち、六七㌫は、他所から来て西村に居住するにいたった借地(宅地の)・借店人が占めている。これにともない、農家の過半(三七戸)は、これらの者に宅地あるいは店を貸す地主または大家になっており、とくにぬきんでている一戸(戸長青木勝蔵家)は、この村唯一の太物商を営み、宅地を一五人に貸し、他に一二人の店子を持っている。しかし、農家のなかでも、日銭稼ぎや零細な賃仕事に従事する者も多くみられ、階層分化が進んでいることがわかる。ここでは農業はすでに副次的かつ自給的な産業になってしまっている。 ここには、駕籠舁・日雇稼・駄賃稼・賃仕事洗濯を業とする家二五戸(うち農間稼ぎ一一戸)のほか莨切渡世・箸削り渡世・箒作り渡世・綿打ち渡世・按摩など、明らかに零細な自営業者が多数存在していた。さらに、彼らの日常的な需要を対象にした諸業種、医者のうち借店の二家(うち一戸は鍼医)、借店の習字の先生をはじめ、薬湯渡世・古着売買渡世・煮豆屋・餅菓子屋・青物渡世等々、および彼らに主食を斗売りし、慶応二年の米価騰貴時には打ちこわしの対象となった穀物渡世・雑穀・芋表1-2 明治4年(1871)現在藤沢駅西村(鎌倉郡)の職業別戸数 注 1 明治4年5月「伍長規則証 西村」(青木四郎家文書)より作成。 2 ここで借地とは宅地の借地をいう。 3 表中「無職」の大部分は,いわゆる「鰥寡孤独」の家である。また,大工職などの業種は,必ずしも零細な職人とばかりはいえない。大工職のうち借店の一戸大貫兵吉家は,後年(1880年)鎌倉郡の同業者中最大の稼ぎ高をあげている棟梁である。 図1-1 藤沢駅地図(1890年) 建設省国土地理院 家内作業中の煙草屋 『続巻 写された幕末1』より 渡世が存在する。 このような、米価など諸色の高騰が、直ちに生活困難をもたらすその日暮らしの労働者、零細な職人・商人らの存在が、藤沢駅とほぼ同規模の戸口を有する他の東海道宿駅-神奈川・保土ケ谷・川崎・戸塚-にも共通していたとすれば、慶応二年の打ちこわしが、これらの宿駅で連鎖的に起こったことを理解できる(表一-三)。やや後の数字であるが、一八七七(明治十)年現在、藤沢駅の戸口は、一一九六戸、五六八九人で、横浜周辺五郡で、この程度の戸口をもつ町場は、三崎町・城ケ島村・浦賀町などの漁村を別とすれば、右の四つの東海道宿駅があるのみであった。 橘樹郡二子村・溝ノ口村 しかし、横浜周辺五郡のなかには、右のほかいくつか規模の小さい町場が存在していた。矢倉沢往還の橘樹郡二子村・溝ノ口村などがその一例である。 図1-2 二子村・溝ノ口村地図(1885年) 建設省国土地理院 表1-3 東海道宿駅における戸数 注1878(明治11)年『神奈川県治一覧表』により作成(1877年1月1日現在) 矢倉沢往還は、東京渋谷から出て、多摩川を越えて橘樹郡二子村にいたり、溝ノ口村・長津田村を通り下鶴間村で相模野を横断し、厚木町・伊勢原村・曽屋村・岡本村を経て矢倉沢村から足柄峠を駿河に抜ける街道で、大山詣りや富士詣が、しばしば利用した脇往還である。また、後述するように、慶応三年(一八六七)十二月十四日、三田薩摩藩邸を発した浪士三一人(『資料編』10近世(7)六五七)は、なぎなた・槍・鉄砲を持って途中からこの往還を通り、鶴間村一泊ののち厚木町を経て愛甲郡下荻野村荻野山中陣屋にいたっている。脇往還のため、東海道と違って幕府の取締りが弱く幕末には武器を持った浪士の通行さえ可能だったのである(とくに鶴間村出発の際は馬一五疋を徴発している)。一八七八(明治十一)年現在村別荷車台数(農業用荷車を含ま表1-4 橘樹郡のうち溝ノ口村ほか17か村の職業構成1873(明治6)年 注 1 ( )はうち農業兼業の戸数。 2 *子母口村は寺領上知分のみ。 3 二子村のみ明治5年現在,他は6年2月又は5月。 4 (1)は「数目調書」により作成。(2)は1874年4月「田畑反別戸数人員其他総計簿,第5区」により作成。(3)(4)は1878(明治11)年「諸営業数目録5大区」より作成。 ない)の多さは、幕末以来の矢倉沢・中原往還における物資運輸の繁栄をうかがわせる。橘樹・都筑郡内の矢倉沢往還沿い村村のなかでは、溝ノ口村が最大の町場をなし、これに二子村はほとんど連接している。一八七四年四月現在で、溝ノ口村戸数一三三戸、人員七二二人、二子村戸数八八戸、人員四九三人(一八七四年四月「田畑反別戸数人員其他総計簿 第九区」、筑波大学蔵田村家文書)。前掲東海道宿駅に比すれば、一〇分の一程度の規模で、近隣農村と比べて戸数が特に多いわけではない。しかし、この二か村は、農家が総戸数の半ばに止まり、農家割合が七三-九〇㌫におよぶ近隣農村と明らかに異った町場の様相を示している。この職業別区分(表一-四)では、日雇稼・駄賃稼はほとんど調査されておらず、また二子村では農間稼ぎか否かが不明である。しかし、二子村・溝ノ口村には、とくに後者での借家数や荷車・人力車数の多さから、表には掲げられていない駄賃稼・車夫等の存在をうかがいうる。さらに工・商・雑の内訳をみると(表一-四・一-五)宿駅の特色である、喰物飯店・料理休泊所・菓子商・湯屋などの諸業のほか、下駄職・草履傘職 『続巻 写された幕末1』より 作り・足袋職・煙草刻み職・傘職など、周囲の農山村で産する原料を加工する職人による小規模な手工業や、同じく周村の農産物(米・菜種・大豆・茶など)を用いた酒造・絞油・醤油製造・製茶業が存在している。表一-五と一-六を照合すると、たとえば二子村に傘職四人がいて、溝ノ口村には皆無だが、物産では、溝ノ口村で傘年産一万五〇〇〇本とあって、二子村は皆無である。濁酒・足駄の場合も同様である。二子村に居住する職人が、溝ノ口村の作業場で傘を作っているのか、あるいは二子村で製造した傘が溝ノ口村の問屋で売られているためか、種々の理由が考えられるが、いずれにせよ、両村は連接して一つの町場を成しているの表1-5 明治5(6)年現在工・商・雑業の内容 注 1 明治5-6年「数目調書」より作成(二子村明治5年、溝ノ口村明治6年5月)。 2 溝ノ口村には他に医1私塾1馬医1がいる。 3 溝ノ口村( )内の数字は,うち農間稼ぎの数を示す。 4 表1-4(明治5,6年現在)の業種別戸数と、本表の数とはかなり異る。5年から9年へかけての営業者が増大したのではなく、表1-4の場合の調査不備(日雇・駄賃稼ぎを把握していないことにも示されている)によると考えられる。表1-5は、地方税(営業雑種税)徴収の基礎資料で,戸数はほぼ正確と思われる。 表1-6 明治5(6)年特産物(橘樹郡二子村・溝ノ口村) 注 表1-5と同じ で、両村あわせてとらえるべきであろう。 また、溝ノ口村では、箒製造、溝ノ口・二子両村で、ろうそく製造がなされている(表一-六)。竹皮草履を例にとると、これを九戸の草履作り職が、一戸平均年間生産額七七七七足を製造している。年間三〇〇日働くとして、一戸一日約二六足の生産にすぎない。きわめて零細な、精々家族の婦女子を補助者とする程度の作業で、おそらく冬季間だけか、夜なべ仕事に限られていたと思われる。原料は、下野川村から筍二六駄の産出が記録されており、同村辺りからの供給で充分賄われたであろう。 ついで、この両村に集中している旅籠屋・料理屋・居酒屋・煮売渡世・鰻渡世・蕎麦渡世などの営業規模をみよう(表一-七)。 旅籠兼料亭を営む三戸は、年間売上高が一四三円余から三六二円に達する。溝ノ口村の一八七六年一-六月中、米一石平均価表1-7 1876(明治9)年7月現在1か月平均売上高(旅籠・煮売・居酒・蕎麦) 注 1 「明治9年7月ヨリ煮売々揚高書上 区務所」(田村家文書)より作成。 2 (二)は二子村,(溝)は溝ノ口村。 3 1か月平均売上高は1876年1-6月までの半年平均高。 格六円九六銭八厘(「米麦価書上」前掲田村家文書)で米に換算すると、二〇石五二二余から五一石九五一余の現米収入に相当する。この地域の平均的水田小作料額、中田一反当たり八斗で換算すると、右の収入は、ほぼ水田二町六反-六町五反からの収入に匹敵する(もちろん売上高は純所得ではないが、小作料収入も、地租・地方税・村入費を控除しなくては純所得にはならない。ここでは、粗収入を対比することによって、営業規模のおおよその見当づけを行った)。 これら三戸は、村での富裕層に属するといえる。ほかの旅籠はいずれも小さく、木賃宿であろう。煮売渡世の売上高と大差ない収入である。煮売渡世は、平均して一戸一か月二円一一銭余の売上げである。これは年間約三石六三七の米を得たことと等しく、近村での米反収で換算すると、この額は、水田約三反三畝を自作して得る収穫米に等しい(一八七九年橘樹郡末長村「稲作概算」高津区 中山家文書)。煮売渡世専業で家族を養うことは、かなり困難で、とくに借地人二名はこれのみでは生活不可能であろう。蕎麦渡世の場合は、困難の程度はさらに著しい。一方でわずかでも農業を営んでいなければ、米価など諸色の高騰によって直ちに飢餓に直面することになりかねない。 注 (1) なおこの戸数中に社寺は含まない。したがって、表一-四の戸数と少異がある。 (2) 表一-七に掲げた一か月平均売上高は一八七六(明治九)年の一-六月の毎月売上高を平均したものなので、米価も同じ期間の平均をとった。 (3) 橘樹郡末長村、都筑郡下谷本村のばあい(「明治八年十月、反当地位書上」)をとりあげた(末長村は川崎市高津区中山清家文書、下谷本村は横浜市緑区 吉浜俊彦家文書)。 二 農村 溝ノ口周辺の農村 町場をなす二子・溝ノ口村と対照的に、その周辺の村々は、農家が支配的で、大工・鍛冶・木挽・杣・石屋・桶屋・草屋根葺・左官・紺屋・畳刺・綿打・建具職などが、おおむね村に一戸、または数か村に一戸所在し、また、質屋・穀物渡世・居酒屋・濁酒造り・絞油渡世・菓子屋・髪結なども適当に散在している。ただ、下駄職が久本・坂戸村にそれぞれ二戸、傘職が清沢村に三戸あって局地的な特産物製造があることをうかがわせる。要するに、近世以来、さしたる変化もない安定した関東農村の姿がここにみられる。各村では、蕎麦・粟・稗・黍等、雑穀や麦・大豆・菜種が土地に応じた割合で栽培されている。なかで、多摩川に沿う水利の便が悪い砂礫土地帯では木綿が栽培され、久地村で一〇〇貫、上小田中村で一〇〇貫、下小田中村で八〇貫、新城村で三二貫の産出がみられる。山間部に入ると、炭薪や藁製品(草鞋・縄)の生産がある。炭・薪は、馬絹村で炭一二〇駄、薪三五〇駄、上野川村で炭五〇駄、薪三〇〇〇束、下野川村で、炭七〇駄、薪二二二〇束が生産されている。上・下野川村では、さらに草鞋・縄およびこの地の竹を原料とした筆(一〇四〇貫)、傘(三〇〇本)、筍(二六駄)の産出がある。下野川村では、毎年十二月八日から十二日まで影向寺境内で市が立つ(現在は十一月三-四日)が、傘・筆などは、このとき取引されるのであろう。以上の特産物は、いずれも量は多くなく、局地的な需要をみたす程度のものである。注意すべきは、この一帯には、まだほとんど養蚕が入っていない。わずかに子母口村で二石四斗の繭産出をみるのみである。したがって、製糸も、二子村で三貫の製造があるにすぎない。二子村では、多摩川堤内地などへの桑の栽植が進んでいるようだが(桑十二束)、この村だけの現象でしかない。茶についても同様で、前述のように、二子村と溝ノ口村で計二一五貫の生産があるほか、馬絹村で五貫の生産があるに止まる。茶樹は、どの村にもあるが、自家用に供するだけである。溝ノ口村などでの製茶は、これら周村から少量ずつ集めてきた生葉を原料としているのであろう。前節でのべたように、いまだ開港による経済的影響を被っていない姿がここにみられる。 第五区三番組諸村の農業 以上の農村地帯のなかから、第五区三番組に属する上小田中・下小田中・新城・坂戸の四か村をとりあげ、農産物商品化の程度を明らかにする(表一-八)。 この四か村は、矢倉沢往還とその南部を雁行する中原往還とに挟まれる位置にあり、この両道と直角に、中野島・宿河原村地先で多摩川から引水する稲毛・川崎二ケ領用水が貫流している。この一帯は、高場で水田用水が不足勝ちのため、前述のように木綿が作付されているが、綿はすべて自家用である。繰綿にされ農閑期の婦女子の夜なべ仕事で、布に織られ、自家用の衣服に供されるのであろう。商品化される農産物の主なものは米で、収穫高の五・八㌫(明治六年)ないしは七・三㌫(同五年)ほどが現在も開かれている影向寺の市(1980年) 販売されるが、その金額は、菜種・大角豆・そら豆の販売高合計をはるかに凌いでいる。また、米の自用費消のなかには、村内で製造販売する酒の原料米も含まれており、さらに副産物の藁を用いて、馬沓・塩俵・菰が作られ販売される。藁製品の加工は、農家の副業として農閑期にされるのであろう。なかで塩俵は、同じ橘樹郡の海岸部大師河原の塩田で産出する塩の容器に供給し、馬沓は、街道の馬方の需要にこたえるものであろう。いずれも遠隔地への販売を目的としていない。この地農民にとって、水田-稲作は、最大の現金収入源として重要な意味をもっている。農産物でこれにつぐ現金収入源は菜種(および菜種油)であろう。大角豆は、商品化の量も少なく、毎年販売されるとは限らない。 また、浅草紙の製造がみられる。さきの一八七三(明治六)年各村「数目調書」には紙漉き職、紙屑渡世の記載はない。これ表1-8 明治5,6年自用費消・移出別農産物(橘樹郡上小田中・下小田中・新城・坂戸村) 注 1 1874(明治7)年1月第5区3番組「物産調書」より作成。 2 自消とは自用費消。 が粗漏によるのでなければ、この製造も農家の余業ということになる。足駄については、坂戸村に二戸の下駄職の記載がある。一戸当たり一年約二五〇〇足、年間三〇〇日働くとすれば、一日八足の生産で、溝ノ口・二子村の足駄生産規模の半ばにも達しない。これも農間余業であろう。 橘樹郡末長村の農民 前述四か村と隣接する末長村は、ほぼ同じ自然条件の農村である。明治三年(一八七〇)二月、同村は、溝ノ口・久本・新作・清沢・岩川・子母口、坂戸の各村とともに、当時県が計画した横浜水道布設に反対して嘆願書を提出している。 横浜市街地の飲料水供給のための水道建設は、明治三年初めころ県によって計画され実行に移された。その計画は、多摩郡中野嶋村および橘樹郡宿河原村地先で多摩川から引水する稲毛・川崎二ケ領用水を久地村地内字いやのめで分水し、ここから新たに建設する上水路で、横浜表へ引水しようとするものであった。嘆願書はこの計画に反対したものである。県は、この計画にもとづき工部省土木司による測量を行ったようであるが、「地理準せさる所あり、経費巨大なるを以て」(『神奈川県史料』第二巻一七五ページ)、計画を中止した。この嘆願書に示された地元村々の反対もこれにあずかって力があったと思われる。以後、県は改めて、添田七郎右衛門(市場村名主、後に知通)の議を入れ、二ケ領用水の井筋を拡大整備して、現在の二ケ領用水(久地付近) 流末鹿島田村まで、そのまま利用し、そこから横浜上水を分水する計画に改め、一八七三年十二月にいたって、旧関内はほぼ竣成をみた。さて、その嘆願書は、右諸村一帯の水利条件等を次のようにのべている。 ……当村之儀は、一体地所高場ニ而、平常水乏敷、在来之用水ニ而ハ水引足リ不申、雨水相待田方養いたし来リ候土地柄、殊ニ近年違作打続物価高直ニ而、村々疲弊致、銘々夫食引足リ兼、麦作取入迄之凌難相成、一同心痛罷在候……(「明治三年二月 上水引方ニ付嘆願書」川崎市高津区中山清家文書) この村も、水田-稲作主体の村で(表一-九)、商品化されるのは、米を主とし(商品化率五・四㌫)、ほかにその副産物の縄・馬沓、畑作物では若干の小麦・大豆、特産物では柿が一〇〇駄販売されている(この年は豊作であったようで、一八七四年の産額は三〇駄(四二円)にすぎない)。 前記四か村に比べると、足駄・塩俵・浅草紙・酒などの特産を欠くという点で、さらに平凡な農村である。そして、主産物の米の約四二・五㌫を現物で貢納していた幕末・維新期では、冬から春にかけての間の夫食に事欠き、米などの諸物価騰貴のため、不足分の購入も充分にできず、農民は麦の収穫まで持ちこたえるのに苦しむ有様であった。この時期の末長村農民の石高構成は表一-一〇のごとくである。ここでも、営業税賦課の対象とならない日雇稼などは表からもれている。しかし、明治表1-9 明治5年(1872)橘樹郡末長村物産 注 1 「物産表」(高津区 中山家文書)より作成。 2 *米合計中には貢納分179石5をも含む。 3 柿1駄は14貫目、価額は1874(明治7)年の価格を用い推算した(縄・馬沓も同様)。 四年十一月末長村「諸職人手間書上帳」は、当時の物価騰貴に応じて賃金の「当分増」の協定を行ったものだが、大工・桶工・草屋根葺・木挽・根伐職のほか、農日雇や「小荷駄馬等稼方」が存在していたことが示されている。七二戸の農家のうち農業だけで経営を維持している層は、最上層のみである。持高三〇石台の二戸は明治二年現在いずれも名主役で、下男一人、下女一人および下男二人を雇用している。二二石の一戸とともにいずれも馬を所有する。持高一〇石以上層一七戸は、内に名主役一人、年寄役四人、百姓代兼年寄一人、百姓代一人を含む上層農である。うち六戸(三五㌫)が兼業を持つが、醤油絞職という農産加工業のほか、杣・草屋根葺・木挽(二戸)、大工兼木挽である。これらは、たとえば、芹田惣治郎家では、長男清五郎が農業、惣次郎が木挽に従事し、また芹田彦七家では、彦七が大工、長男甚五郎が農業、次男平蔵が木挽というように、すべて家族内で分担されているのを特色とする。なお、この村(および近傍)での木挽には、「海方」と「山方」の二種がある。前者は、山から積み出された木材を河岸で挽板にする仕事で、後者は、山元で木材を挽割りする仕事である。 次の持高五-一〇石層では、兼業農家が六〇㌫に達する。兼業の内容は、穀物・鶏売買(二戸)・玉子売買・小間物渡世・下駄職・ごまめ売買・木挽・杣と雑多だが、経営のなかでの兼業の占める比重は高い。関口福松家(持高九石余)では、福松自身が穀物売買を、養子鎌吉が鶏売買を営み、また渋谷庄三郎家(持高六石余)のごとく戸主自身が鶏売買を営むなどの例が多い。 持高五石以下層になると、かえって兼業農家の比重は減ずる。日雇稼・駄賃稼が調査もれになっていることがその一因であろう。しかし、それだけではなく、家族の一部、主に子供を他家へ奉公に出している家の多いことが、この層の特色である。渋谷そめ家(持高二石四斗)は、長男卯三郎が菓子渡世を営み、ほかに二十一歳の娘を二子村子之吉方へ、十六歳の伜を中村弥平方へ奉公に出している。また、芹田市太郎家(持高二石六斗)は、市太郎自身が、あめ渡世をするとともに、二十三歳の娘を東京芝神明前喜兵衛方へ、二十歳の娘を馬橋村平助方に奉公に出している。この層では、兼業をしても一家の生計は支えられず、子供を他へ奉公に出して口べらしを図っているのである。なお、持高八石三斗、組頭役で、農馬一疋を持つ梅原良助家 も、十八歳の娘を奉公に出しているが(良助自身玉子売買をなす)、それは「東京松平左京大夫内丹羽亦右衛門方へ奉公」という 表1-10 橘樹郡末長村農民の石高構成(明治5年3月) 注 1 「明治5年3月橘樹郡末長村戸籍」,兼業は「明治6年11月農間渡世書上帳」,桑植付数は「明治4年2月桑植附覚帳」より作成(いずれも高津区中山家文書)。 2 *うち3戸は潰家。 3 寺社,他村入作者を含まない。 4 日雇稼などは不明。 表1-11 明治5年(1872)-6年橘樹郡北綱島村の農産物商品化 注 1 明治5,6年「物産表」(横浜市港北区 飯田助丸家文書)より作成。 2 *米は産額のうち,明治5,6年とも115石4斗余を貢納している。 武家奉公で、下層農子女の奉公とは趣きを異にする。 以上維新期の橘樹郡諸村では、養蚕は全くといってよいほど普及していなかった。これは表一-一一での考察を裏付けている。しかし、末長村では、明治四年二月、県によって、全農家に持高に応じた桑の植付が半ば強制的に奨励され(表一-一〇)、養蚕の普及が図られた。しかし、末長村の場合、一八七九-八〇年の『農産表』にも、繭の産出は計上がみられず、県の勧農策は徒労に帰したとみられる。 北綱島村のほおずき さきにみたように、『神奈川県地誌略』は、橘樹郡の特産品として、鬼燈をあげている。その主産地は、北綱島村とその周辺である。北綱島村は、作付構成では、これまでみてきた同郡諸村とさして変わらないが、各種農産物が少量ずつ販売されている。なかで際立っているのが鬼燈の栽培で、愛玩品として、主に町場での特殊で限られた需要しかないのにもかかわらず、特産地として一町五反というまとまった作付面積をもち、仲買人によって横浜・東京へ販売されていた。菊名を経て神奈川駅にいたる里道に沿ったこの村では、商業的農業の発展がみられる(表一-一一)。 幕末維新期の都筑郡諸村 慶応二年(一八六六)にはじまる物価騰貴は、東海道宿駅の打ちこわしや武州騒動の後も引き続き農村へ動揺を及ぼした。慶応三年三月から五月にかけて、都筑郡諸村に廻達された関東御取締出役の申諭(『資料編』10近世(7)五三五)には、「近来物価騰貴、別して米穀は日を追い高価に至り……矢張穀相場相進み、窮民共当夏麦作収入迄取締方出来兼候哉に申唱、人気不穏、既野州筋にては窮民騒立、身元宜者の金子掠奪致、又は人家打毀、其他右の萌しは所々に相聞候…」とあるが、この「萌し」は、右の廻達があった膝元の都筑郡下白根村で同年二月にみられた。すなわち、二月二十一日、鎮守不動社に小前・組頭・百姓代が残らず集まり、名主五郎左衛門に対し、(一)「追々穀物高値にて暮し方相立申さず候に付」村内で米所持の者は、去年暮の年貢米貢納相場で、米を残らず小前に売り渡すこと、(二)また、村内米所持の者は他へ米を売却しないよう、名主から申し付けてほしい、(三)伝馬役はそれぞれ持高分だけを勤め、他人(持高百姓)の分までは勤めない、等を申し出た(卯二月廿三日牧之丞より父あて、「急書取ヲ以申上候……」前記高橋基家文書)。隣村上白根村名主牧之丞のみるところでは、困窮の小前へ「腰押」しをしているのは、弥五郎・弥三郎兄弟で、不動社寄り合いの砌、両人は、「村内米所持の者から米を去年暮の相場(一両に白米一斗一升六合壱勺)で買い請けるよう要求する。買い取る金子がない困窮者の分は弥三郎らで引き請け、それを皆に銭百文に付白米一合三勺で分売しよう」と述べた。分売の値は一両=銭七貫文換えとして、一両に白米九升一合となる。すなわち、弥三郎らは、その差額白米二升五合一勺を儲けようとする魂胆なので、困窮人へは、物持ちが、施しなどと称して米などをくれようとしても、もらってはいけないといっているのだとみる。この名主の理解の真偽はともかくとして、物価騰貴を機に、村内の複雑な対立が表面化してきたことがわかる。このような村内対立の激化・農民の生活困窮は、幕府取締りの弛緩とあいまって、一方では盗難・押し込みの頻発をも生んだ。こうした治安の乱れは、以後明治二、三年のころまで続いた。 寺山村 明治二年(一八六九)五月、寺山村小前一同は、神奈川県裁判所に対し、村方旧菅谷平八郎知行所名主権蔵を「不実謀叛之企人」と訴え出た(明治二年五月「乍恐以書付訴訟奉申上候」前記高橋家文書)。それによれば、権蔵は、不正の年貢、御用金割をして横領し、加えて明治元年七月「廻村合力人」二人を盗賊とみなして突き殺し、白根・上猿山三か村境に埋めたという罪業をもあげている。この二人は、「徳川様家来王臣之家臣」(または「上州高崎城主家来弐拾壱歳津田寅之助」「松平伊豆守家来年拾七歳房之助」)で、男女子供含め九人ばかりで、近在の村々を回り、合力していた。これは、近在の百姓なら皆知っていることだったという。しかし、権蔵は、元年七月十一日夕刻「大音声ヲ懸ケ」、「権蔵貝吹忠兵衛悴鐘ヲならし」て突き殺し、また「右弐人のもの生かへり候処、又候突殺し」た。武士が零落して合力となって村々を回り歩き、それを名主らが盗人とみなして突き殺すなど、平時ならば考えられないことである。 勝田村 強盗もしきりに出没し、また、野荒しも横行した。これは、とくに都筑郡に限らず、相武一帯にみられた現象である。村々は、種々の自衛手段をとったが、次の都筑郡勝田村の場合は、やや特異な例に属する。 明治二年(一八六九)十一月、勝田村では、「当節は此所彼所にて耕作諸品取込置候もの迄盗取候もの数多これ有」という状況に手を焼き、村方小前一同を集めて、次のように「議定」した(明治二年十一月十四日「村方取究議定一札御支配所武蔵国都筑郡勝田村」横浜市港北区関恒三郎家文書)。すなわち、野荒しの犯人を「村内厳重穿鑿」したが判明しない。よって、今後村内で諸品が紛失したら、直様急触して「男女老若共役所江呼寄」せ、「神仏江一同にて信心いたし紀州熊野山烏御府亦は三田有間様水天狗御札」などを銘々飲ませ、苦しむなどの兆をあらわして「盗取候もの相知れ候ハゝ直様御支配所御裁判所」に届け出る。その節どのような「御咎メ」をうけても、当人はもちろん家内中恨がましいことを言い立ててはならない、というのである。この議定書には、村内すべての小前とその女房が連署印形を押している。このような方法がどれだけ有効だったかは疑問だが、野荒しの犯人が村内の者であることを前提とし、共同体の心的な紐帯をよりどころにして野荒し防止を図っている。 この村は、明治五年の物産-米二五〇石、麦一一二石、雑穀(粟・稗・ソバ)一四一石、ほかに菜種一五石、大豆二〇石等を産する三七戸の純農村で、養蚕は行っていない、きわめて自給性の強い村である(明治六年五月「村方明細書上帳都筑郡勝田村」横浜市旭区 桜井栄一郎家文書)。 上白根村 上白根村の場合は、一般的な方式での取締りを定めている(「明治三午年八月八日 取締議定一札上白根村」前記高橋家文書)。 同村では明治三年(一八七〇)八月八日、「田畑山林諸作物紛失流行、一同悉く難渋少なからざる」ため、次のような村議定を行った。すなわち、(一)養蚕季節中、他から買い入れた訳でもないのに、「何方ゟ取出売桑」をする者があるが、以来「何村誰ゟ買、何方江売渡」したかが不明な取引きをする者は「急度取調」べる。(二)今後、他人の田畑山林に断りなく入り込んだ者、または諸作物枝木等を取荒した者を見かけたら隣家の者であっても遠慮なく差し押さえ、「御取締御出役様」へ差し出す。(三)炭焼渡世でないのに炭を売り、薪山買入れもせず薪枝を売る者は、その品の出所を糺し、出所不明ならば「盗物に付差押へ」御出役様へ差し出し吟味してもらう。右等のために要した費用は、軒別四分、高割六分の割合で村中で出金する。また盗人を見つけ差し押さえた者は褒美として、右の出金を免除する。この議定は、戸主のみの連印である。ここで特徴的なのは、勝田村の野荒しは、その日の食料に窮しての犯行が主とみられるのに対して、上白根村の場合は、盗品売却による貨幣の獲得が野荒しの目的である。農民の生活に貨幣が不可欠なものになっていることを示すものであろう。とくに売桑は、養蚕の盛行と桑不足がその背景にある。これは、養蚕地帯に固有な現象といわねばならない。このことを念頭に置き、さきの橘樹郡諸村とは異なり養蚕業を主な現金収入源とする都筑郡のいくつかの村の農業形態を検討する(表一-一二)。 岡上村と片平村 岡上村と片平村とはほぼ同一規模の村だが、水田の比重が異なり、岡上村では米の商品化は少なく、年によっては、かえって米の購入も必要となる。ただし、表の「自用費消」高は、一人一日一合五勺の米を食べるとして計算したもので、村民全体が、半ばは米、半ばは麦または雑穀を混食していることが前提になっている。「他所移出」高はこれによる推計値で、実際に六七石余の米を購入したわけではなく、主食を麦・雑穀のみに頼れば購入は避けられる。岡上村での主要な商品は、米よりもむしろ甘柿・繭・生糸である。濁酒は、造り石高一〇石の免許を得た一戸が酒造して近村へ売捌いているにすぎない。甘柿は、竹籠に入れ(籠四つで一駄)、東京または神奈川宿へ売捌かれる。この辺り一帯の特産物である繭は、すべてがそのまま他へ売却されるわけではない。明治四年(一八七一)では繭一二五貫、此生糸二五貫と記され、繭一貫から生糸二〇〇目を生産するとして繭産額から生糸産額を計算している。これによれば、同村で産する繭は、農家でそのまま手挽き糸に製せられ販売されていた。しかし、明治五、六年には、さらに多くの収繭があり、四〇〇貫程度は繭で売却されている計算になる。いずれにせよ、この村では、製糸は、まだ農家の副業として、手挽きによって営まれていた。片平村は、水田勝ちの村だが、繭・生糸の生産もあり、また甘柿・炭をも産出している。一戸当たりの繭・生糸生産量は岡上村ほど多くはな表1-12 都筑郡岡上村・片平村の農産物商品化(明治4年-6年) 注 1 岡上村 梶景三家文書,片平村 安藤資次家文書,なお同村明治5年は「数目調書」。 2 岡上村 貢納明治5,6年には「村役人給米・庁中諸費その他」を含む。 3 ( )内数字は商品化率を示す。但し岡上村小麦・大豆明治5,6年分は,産額が明治4年と同額として推計。 4 岡上村 明治6年〔 〕内数字は明治7年の数字をあてた。 5 片平村 「農産表」は過少な数字が掲記されているので個票により訂正した。〔 〕内数字も同様。 6 なお,明治5年正月20日「辛未歳出品取調書上帖 武蔵国都筑郡片平邑」の表紙には,「右帖面之義者我等下相談之上取調書上但シ米ハ反ニ三俵弐斗積其外雑穀之義者有目通糸繭三分一炭五分柿四分通書出ス。後年之ため朱書ニ而記置もの也」との朱注があり,「物産表」提出の際,過少申告がなされたことを示している。実際に計算してみると,表掲値では,農家別集計値の糸は2分の1,繭は約6分,炭5分,柿4分である(表1-13は農家別集計値に訂正した)。しかし,農家別の糸・繭産額自体にも過少記載が考えられる。 いが、この表の原資料、各農家別物産書上帳をみると各農家とも、繭生産額は、繭のまま販売した分のみの額で、自家でそのまま糸にした分は載せていない。したがってこの村では総額六七貫弱の養蚕がなされていることになる。 片平村は、前述のように水田を基幹とする農業が営まれているが、全農家五五戸を米の収穫高別(反収一石四斗として換算すれば、そのまま水田耕作面積の広狭別を表示する)に区分すれば、水田を全く耕作しない零細農家三戸、自給できるほどの水田を耕作していない下層農家二八戸、ほぼ自家用の米を賄いうる中層農家一九戸、米の恒常的な販売が可能な上層農家五戸に分かれる(表一-一三)。甘柿は、主に庭先き、宅地内の柿の木から採取販売するもので、零細な農家でも、販売量は大差ない。これに反し、製炭は、雑木山の所持を前提とし、その所持の大小は、一般に水田の所持の大小と相関する。販売する炭のなかには、中・下層農の一部が他から買い入れ再販する炭も含まれている。この買入れ炭を除いて一戸当たり製炭量をみれば、上層農は、平均の三倍近い量であるのに対し、中層農は平均の二倍、下層農は平均の六分の一と、明白な階層差があらわれている(買入れ炭を入れてもこの階層差は変表1-13 片平村米収量別農家の商品化傾向(明治4年) 注 1 「辛未歳産出品書上帳」(安藤資次家文書)より作成。 2 仮りに繭1貫目より糸200匁を製するとして分類した。 3 炭( )内数字は買入れ俵数,なお1俵2貫目入り。また1戸当たり炭俵数( )内数字は買入俵を除いた自家生産俵数。 4 繭・糸農家戸数( )内数字は,うち、明治6年3月「生糸製造人名前書上」に名前のある家数。 わらない)。 これに対し、養蚕・製糸は、主に中層農によって担われているのが特徴的である。この村では、養蚕・製糸は、多かれ少なかれ、ほとんどの農家(五五戸中四五戸、八二㌫)が営んでいる。そしてその内、養蚕のみで製糸を行っていない農家は、一〇戸にすぎない。多くは「繭自分飼あげ嶋田糸ニ製候者」である(明治六年三月「生糸製造人名前書上」川崎市多摩区安藤資次家文書)。これら農家のうち、生糸にして六〇〇目以上を製する、村で最も養蚕・製糸規模の大きい一〇戸は、すべて中層農および下層農に属する。ここで、養蚕・製糸発展の担い手となっているのは、中・下層農なのである。 上層農は、ゆとりある水田経営を主体にし、持山での製炭を行い、旧来から引き続いて安定した経営のなかで、養蚕・製糸をも大きな損失を招くことがない程度に小規模に行っている。これに反して、中・下層農の一部は、水田・製炭の面での発展が制約されている条件下で、新たに有望な現金収入源として養蚕・製糸に自己の経営の発展を賭けている。しかし、商品生産の急速な発展の道が開けたと同時に、価格の変動・気候・疾病発生等による経営破綻の可能性も絶えず存在している。養蚕の主な担い手が、このような中・下層農である故に、さきにみた上白根村の事例のごとく、急激な養蚕規模の拡大、気候不順による桑の成育不良などが、たちまち桑不足を招き、買桑やそれをめぐる野荒しの発生を生むことになるのであろう。中・下層農による養蚕・製糸は、このような不安定性をもつために、製糸三〇〇目以上の製糸をいとなみながら(表一-一三)生糸製造人名前書上にもれたり、あるいは八王子製糸改会社へ加入していないなどの経営も存在している(これに反し、同じ製糸規模の上層農はすべて把握されている)。 下川井村の戸長を勤めた豪農桜井光興は、一八七七年蚕種会議所に対し「養蚕増益井蚕種性劣恢復之論」(『資料編』17近代・現代(7)二二前記桜井栄一郎家蔵)を提議したが、なかで、「近年は蚕業多くして桑高値なり、人々桑より多く養蚕を致し、高価の桑を買て養う故至て利益なし、亦甚敷に至りては桑を買得の力尽て五三日の近きに及ひ、悉皆蚕を投捨する者あり、夫は偖置、繭の収穫は多しと雖とも、品粗悪にして糸の量目少なし」とのべている現状は、右の片平村でのような、資力に乏しい中・下層農による養蚕製糸の拡大によって生じたものにほかならない。 注 (1) 明治二年六月「御廻米津出場其外書上帳浅井政之丞上知、松波俵三郎上知、国領正太郎上知、武州橘樹郡末長村」によれば、貢米は、二子村川岸まで三四町を陸路で運ばれ、そこで船積みされ、多摩川から海上一六里を船で東京まで運ばれた。 (2) 同文の文書は、横浜市旭区白根町 高橋基家文書(神奈川県立文化資料館蔵)のなかにもある。 第三節 内陸部四郡 一 維新期の政情 武州騒動 慶応二年(一八六六)五月二十三日、東海道宿駅での打ちこわし勃発の報はたちまち内陸部へも広がった。甲州街道の宿駅多摩郡日野宿の河野清助(一八七五年現在田一町六反、畑三町四反、宅地八畝、山林二町八反所有)は、日記の同月二十九日の条に「是に諸色高値に付世間騒乱夥し、東海道品川にて一夜にて五十三けん打こわし有と云々、米小うり一合七勺位い」(東京都日野市 河野正夫家蔵「日記」)と記した。同宿では、六月七日、「諸色高値にて難渋にて組寄合ある。しちや七てんよりすくい米でる」(前掲「日記」)という応急措置をとったが、その一週間後の十三日には、秩父郡飯能町で、周辺山村民による打ちこわしが勃発し、騒動勢は次第に多摩川沿いに南下して八王子に迫った。この状況を「河野日記」の見聞に従って摘記する。 (六月)十六日、八ッ半時大騒動有之、其故ハ諸色高直ニ付、難渋人集リ打コハシ有之、前十四日飯能扇町屋・所沢引又町所々ヲ打破リ今朝福生村十兵衛打コハシ、夫ヨリ拝嶋坂口一軒夫ヨリ中神邑久二郎ヲ打コハシ、夫ヨリ宮沢田村ヤト云酒蔵ヲ打コハシ、夫ヨリ玉川ヲ渡リ、既ニ八王子江罷通ル、前築地舟場等所ニハ日野農兵ニ鎗剣又ハ十五ヨリ六十迄男タル者ハ得モノヲ以テ早鐘ニテ集リ、皆築地川原江打寄、既ニ打コハシノ人数千人参リ川ヲ渡リ候所、川原ヨリ鉄砲打カケ、ヲヒチラシ、テッポウ切致、即死人十四人、手ヲヒ人数ヲ知ラズ、生ドリ四十一人計リ、実ニアハレヘキハ打コハシノ人ナリ、実ニ古今マレナルソフドフナリ 十六日、亦福生川サキ羽村ヘンサハガシキトテノヲ兵クリ出ス、玉川渡シツヒデ渡シ等ハ相人数ニテツメヲル、兵良タキ出シイタシ、サハカシキコト夥シ 十七日、打コロシ人見分相スミ、引トリニ相ナル 十八日、亦二ノ宮滝ノヘンサハガシキチウシン有之、ノウヘヒクリ出ス。農兵八王子江クリ出シ出向ニ行 十九日、愈々騒動シツマリ 廿二日、打コハシノ罪人四十一人江戸江送ラル 廿七日、打コハシノ人二十五人江戸江送ラル いわゆる武州騒動がこれである。武州騒動の報は直ちに多摩川右岸村々にも伝わり(『資料編』10近世(7)六三五)、これを機に、橘樹・都筑郡諸村でも、自衛組織として農兵隊結成がすすめられた(『資料編』10近世(7)六三七・六三九)。 荻野山中陣屋の焼き打ちとお札降り このころから、内陸部四郡にも維新の動乱が波及してくる。この地帯村々の支配層が、「公方様大坂にて御他界」、「(大坂で)一ツ橋将軍様切らると云風聞」(大政奉還をめぐる誤聞)、「所々方々に荒高なる神札ふること多し」(前掲河野家蔵「慶応二丙寅年日記控」、「慶応三丁卯歳日記帳」)などのニュースから予感した動乱の到来は、慶応三年(一八六七)十二月十五日愛甲郡下荻野村荻野山中藩陣屋の焼き打ち事件によって現実となった。 討幕の密勅をうけた薩摩藩は、江戸三田藩邸を拠点に関東地方の攪乱行動を始め、慶応三年十二月十四日、同藩邸を出た浪士三一人は、先にのべたように、矢倉沢往還を通って翌十五日夕刻愛甲郡下荻野村にいたり、荻野山中藩陣屋を焼き打ちするとともに、近村の名主・大惣代らから合計三三〇〇両近くを徴収し、多摩郡小比企村を経て十七日八王子宿に入り、甲州街道を下って江戸に帰った。彼らが通った下荻野村から津久井郡根小屋村にいたる道は、後述するこの地帯の主要な商品流通路である。ここを人足・駄馬多数を徴発して通行し、さらに八王子からは「長持三棹、駄馬夥敷、人足六十人相雇、宿々継立を以御府内に」(『資料編』10近世(7)六五七)帰っていった。また、このとき別の浪士九人は、甲州街道を上り、十五日八王子宿に泊ったが、ここで、日野・駒木野の農兵隊に踏み込まれ打ち取られた。前述「河野日記」によれば、 (十二月)十四日、江戸ヨリ浪人来ル云風聞アル 十五日、昼八ツ時浪人九人道行、八王子伊セヤ孝右衛門江浪人止宿致シ、夜中ニ日野宿農兵内六人踏込、右浪人ヲ六人切トル。此内二人死、扇ヤ市三郎・出市兼助両人死、宿中大騒キナリ この直後前述浪人隊がまた八王子へ入り込んできたのである。 一七日、又浪人者四十人下リ江道行ク、宿中又大サハギ、右浪人相州荻野山中陣屋ヲ焼ホロボス 脇往還のみならず甲州街道までも、こうした浪人隊が堂々と通行するところに、すでに無力化した幕府の地方支配の実態が示されている。甲州街道筋では、日野宿などの農兵隊が「秩序」を保っていたが、それもしばらくの間にすぎなかった。 新政府支配の樹立 翌慶応四年(一八六八)三月十一日、甲州勝沼で幕軍を破った官軍は、八王子宿に入り、一帯は新政府の支配下に組み込まれた。 この間の経過について、前掲「河野日記」の関係部分を掲げると次のとおりである。 (二月)七日、江戸ヨリ歩兵ノ浪人凡四百人程登ル、所々ニ而乱ボフス、金子押カリス、九ツ時上リ早駕籠通ル。同七ツ半トキ上リ、騒カシキ事夥シ(以下九日、十二日、十三日と頻繁な早駕籠通過の記事が続く) 十四日、先七日浪等歩兵登リノ族、江戸ヨリ奉行登、引返に相成ル、夕方通リ下ル、府中泊リ 十八日、又残党歩兵百四十人下リ日野江泊ル、宝泉寺江右ノ内六十二人泊ル (三月)二日、大久保剛様甲州御城国ニ通ル、馬上二人、一人剛サマ近藤勇、一人同門人石田歳蔵 三日、右ノ人ヲ日野農兵廿二人甲府迄送ル 六日、石田出生、土方年蔵早打ニテ下ル、日野農兵廿二人甲府行事不叶、郡内猿橋手前ニ扣居ル、駒カヒ宿□□又跡江八日引返シ荷物番ス、大久保剛様兵ヨリ四リ先ニ居陣 七日、早打登リ下リ不数知、混雑スル事夥シ、信州高島様江戸ヲ立、郡内迄登リ、行事不出来又江戸江返ル 九日、去ル六日昼八ツ時ヨリタ方迄甲州勝沼宿ニテ合戦有、江戸方敗北ス、農兵夕方返ル、早打登リ下リ不数知、騒敷事ヲヒタタシ。鎮撫隊夜中逃去ル、諸家ニテ物ヲカタ付ル、鎮撫隊日野農兵チョウテキノ名ヲ請ル 十一日、上方ヨリ勅使トシテ訪諏様御家来八ツトキ当所江乗込ニナル、八王子宿ニ数百人逗留ス、宿中農兵改有之、皆々心配ス、農兵九人呼寄ラル、皆々ニゲチル、夜中ニ下名主宅江スハノ家来踏込、アハノス忠左衛門・平山惣二郎・日野久兵衛シバラル 十二日、早打登リ下リ数不分、宿中騒乱ス、心ハヒ無際リ 十三日、土佐家来小嶋捨蔵殿三十人昼飯休ミ、先テ土佐ト因州ト同勢凡二千人ノ通、皆鉄砲持通ル、大砲数十挺、荷物ハ勝手道具迄持行、宿中惣人足ノ惣介郷ナリ、夜スハサマ人足二十六人宝泉寺江泊ル、賄人数十人 (十三日追記)土・因ノ中央江人数凡五十人計リ皆鉄砲ヲ持、勅使様錦ノ幟二流ヒルカヘシ偸口御通リアル、其年廿歳位 前十一日ノシハラレ人御チヒニテ十二日ノ夜下ケニナル、日ノ万兵衛殿千人隊ニメンヂテ下ル 二十九日、京都ヨリ柳原侍従殿様為勅使先触ニ而道筋普請、往来端ノ木悉皆切、原道ハタノ桑不残切ル、横道江ハ竹矢来ヲ結、不浄ナル場所ハ青葉ニ而抱立、寔ニ古今稀代ノ道フシンナリ 三十日、柳原侍従様御馬ニテ御通リアル、御ケヒエヒトシテ遠州浜松城主高六万石井上河内守様同勢七百人ニテ通リ、宿中相賄、府中江泊リ (四月)十一日、江戸御城鑑軍勢乗取入替ル、一ツ橋様水戸江引渡シナル 朝敵となった農兵らの逮捕・放免、飯能戦争での官軍勝利(五月二十三日)(前掲「河野日記」、五月二十三日、「朝明方扇町ヤノ黒須川原ニテ官軍ダッソト合戦有夫ヨリ飯能に打寄大合センハンノフ大ニ焼失ス。大砲・小砲ノ音雷ノ如クニ聞ユル」)を経て、新政府支配は固まり、多摩郡日野宿では、九月二日、宿の上下に「御料知県事江川太郎左衛門支配所」と記した棒杭が建てられ、さらに、明治と改元された十月二十五日、「是より東韮山県支配」なる棒杭に改められた(さらに明治四年十一月神奈川県へ編入、前掲「河野日記)。同じころ、浪人隊の襲撃をうけた荻野山中藩下荻野村でも、七月八日高札が、「五榜」の高札に掛け替えられ、村民一般に朝廷支配下に入ったことが周知せしめられた。 なお、これは五榜の制札が発表された三月十四日より、約四か月遅れている。なお、この村でも、当初、定三札のうちの第三札は「きりしたん邪宗門の儀堅く御制禁たり、若不審なるものこれ有らは其筋の役所へ申出へし、御ほうひ下さるへく事」であったが、後に「一 切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁の通、固く相守るべき事、一 邪宗門の儀は固く禁止の事」に訂正された(「御高札写」厚木市難波武治家文書)。 同藩はそのまま存続するが、九月四日同藩の駿河・伊豆国領の上知が命じられ、同月二十三日代知を愛甲郡の内で与えられた。ところが新たに同藩領に指定された村々は、領主が「御非道の御扱これ有る哉にて夫々奔走箱訴等」して反対し、二年十月に入ってようやく新領引き渡しとなった。これらの村々は二年六月旧領主大久保教義がそのまま藩知事となり、四年七月、荻野山中県、同年十一月にいたって足柄県に合併された。 多摩郡拝嶋村・田中村・下柚木村、愛甲郡田代村・八菅村・栗原村は、村全部ではないが、三千石旗本太田運八郎の知行地に属している。太田は慶応二年八月幕府第二次長州戦争の中の銃隊改役となり、大坂まで出兵したが、翌三年七月帰府、改役も免ぜられ、維新に際しては早く、慶応四年三月には朝廷方に帰順し、明治元年十一月、本領を安堵された。しかし、そのときの行政官からの「被仰渡書」は「万石以下知行所の議、最寄の府県支配たるべし」とあって武州三か村は韮山県、柳川三か村は神奈川県の支配下に入った。ただし、元年の年貢収納は「是迄の領主取納申事すべき」とされた(「慶応二寅年八月吉日諸書上物帳」愛川町大矢ゑひ家文書)。このような形で、内陸四郡においても新政府の支配が樹立されてゆくが、明治二年の時点では、なおその体制は整っていない。 明治二年の新政府支配の実態 愛甲郡田代村は、明治二年(一八六九)、近年まれな違作のため、同年年貢の検見引方を地頭に上願したが、検見は神奈川県が実施することになっているとして受け付けられなかった。しかし、「神奈川県も朝臣の分未御規則聢と御取極に相成らざる」有様で、県の体制が整うのを待つうちに九月になり、このままでは刈取時期におくれ、田方麦作の仕付けも出来なくなるとして、地頭から、当年年貢米のうち三五石を借用している(明治二年九月「奉差上御請書之事」前掲大矢家「諸書上物帳」より)。この神奈川県の明治元年分の年貢徴収については、明治二年二月、同県管下の一名主の、多摩郡布田宿の名主原惣兵衛あて書状(東京都八王子市野口正久氏蔵原豊穣文書)は次のように述べている。 一、金川県十里部内、当二月昨辰年分収納御出役は調済、納方ハ村々同所ヘ出頭と存居候処、去月廿一、二日俄ニ森田様壱人出役御取立ニ相成、如何ニモ大急之事ニ而、最寄村々殊之外困リ候風説、拙村上下ハ去冬中大凡取立置候故、此度ハ至而都合宜敷御座候、其上正金納之心得ニ候処、兼而御約言之通、正金金札取交、上納勝手次第之旨被申渡候ニ付、二ケ村之儀即刻金川江飛脚差立、金札引替上納、相場百両ニ付百廿両、買入候。相場ハ百両ニ付六拾七、八、九両、惣納高差引候得ハ多分渡金出来、不計天幸ニ付、家別今日之暮方ニ応シ高下ヲ付、先々割渡候心得ニ御座候、昨年不作引方之一助ニモ致積ニ御座候、但村々之内不日ニ而金札納候トモ俄之事ニ付不□之処、幸寄場ヘ金札売人参リ居、此モノヨリ取引、百両ニ付九拾五、六両ゟ九十八両迄追々引替、弊村抔トハ格外之相違、中ニハ正金而已納候モ間々有之、村役人不働之様ニ候ヘバ、村方之モノモ動揺可致カニ奉存候、木曽村ゟ八王子駒木野辺、取立出役ハ一切金札不受取、正金而已村々納ニ相成申候、是ハ内実如何敷相覚候、当辺出役ハ極正義之人ニ御座候……右火急租税出役御取立ハ、内実御再幸御入用金之内ニ相成候由、森田氏内密被申聞候、上ニモ御金ハ以之外御不足哉ニ相見候、通用金此度ハ多分円キ形ニ御吹替ト申事ニ候(下略) すなわち、神奈川県では、明治元年分の貢租を、二年一月二十一、二日に、官員が村々に出張して急拠徴収をしたが、それは天皇の再度東幸(東京奠都)の費用にあてるためといわれ、新政府財政の窮迫は、県管下の名主層に感知されている。政府は、元年十二月二十四日の会計官達で、「諸上納物金納の分」を、太政官札(金札)で、正金一〇〇両に付札一二〇両の公定相場での上納を認めた。神奈川県での右の措置も、この達にもとづく。しかし、出張官員によっては、金札での上納を認めない者があり、また、多くの村では、金札が不足し、「金札売人」から公定相場は金札一〇〇両が正金八三両余であるのに正金九五-九八両の相場で購入している。しかし、書状の名主は、機敏に横浜表で、金札一〇〇両に付正金六七-九両で金札を買い上納し、多額の利得を得て、これを、元年の不作に苦しむ村民に割りもどしたいとしている。当時、横浜では、「外国人方にて更に金札を受不申」(明治二年六月「上」〔甲州街道中仙道筋金札流通状況探索書〕大隈文書第四巻九ページ)、金札相場は最も安かった。 いずれにせよ、こうした内陸四郡での、貢租収取の不統一、非組織性に加えて、太政官札流通の停滞は、新政府の地方支配がまだきわめて不徹底であったことを示している。 明治二年五、六月の金札流通状況「探索書」によれば、たとえば高座郡国分村では、地頭から金札通用の触れがなく「通用悪敷」、高座郡大塚村・愛甲郡厚木宿などでは、神奈川県および地頭から達しがなされているが、金札がまだ出回っていない、などの景況が報告されている。さらに加えて、さきに都筑郡でみた治安の乱れは、ここでも存在し、明治二年五月の「探索書」は、高座郡一之関村辺の見聞として、同村名主小林源内方で放火があったこと、「当節近辺盗賊多く至て不穏旨口々申居候事」を報じている。この地帯に近接する多摩郡原町田周辺についても、同様の盗難事件が頻発している。(『町田市史』下巻、五ページ以下。) このような情勢下にある、幕末・維新期における内陸部四郡の農業と農民の姿を次に明らかにする。 注 (1) 慶応二年(一八六六)八月二十七日(但し家茂は七月二十一日死去)。同三年十月二十二日。同年十二月四日。 (2) 『維新史料綱要』(巻七、四四四ページ)は、十二月十五日の項に「和歌山藩士ト称スル徒数十人、荻野山中藩ノ陣屋ヲ襲ヒ、発砲掠奪ス。尋デ、厚木相模国愛甲郡ニ至ル。旧幕府神奈川奉行水野良之若狭守兵ヲ派シテ之ヲ鎮緝セシム」とあるのは事実とかなり異なる。 (3) 文久三年(一八六三)韮山代官江川太郎左衛門の支配地に農兵隊が編成された。維新期の日野農兵隊その他については『町田市史』下巻九ページ以下参照。 (4) なお、下荻野・中荻野村など旧領村々は、この反対運動に対し、「御慈悲深キ御領主様未御領民とも不相成何ヲ以而」非道というか、と反撥している(明治二年十月九日、山中民政役所あて「御伺書」厚木市下荻野 難波家文書)。 二 農村 多摩郡三輪村外四か村の農業 多摩郡三輪・能ケ谷・真光寺・大蔵・広袴の各村は、多摩川右岸の都筑郡に接する丘陵地帯で、前述都筑郡岡上村・片平村とほぼ同様の農産物構成を示している(表一-一四)。米は三輪村の外は、産額の約三〇㌫が販売されるが、これは前述岡上村同様、一人一日一合五勺を消費するとした上での推計値である。また繭は生産額で、そのほとんどが生糸に製造されて販売される。「物産表」に、「繭何程此生糸何程」とあるのがこれを裏付けている。甘柿・炭なども販売されるが、これら諸村での主たる現金収入源は米と生糸である。都筑郡片平村の事例から推せば、旧来からの村落上層農家では米の販売を、中層以下農家では生糸の販売を主としていると思われる。その養蚕-製糸規模は、生糸一人当たり七・表1-14 明治4年多摩郡南部(多摩川右岸)5か村の農産物構成 注 1 明治5年4月「物産表」(梶景三家文書)より作成。 2 他に醤油製造が三輪村に製造家1戸があるが「当人病災ニ相成未タ相始不申候」。また絞油は,真光寺村に1戸あるが「菜種払底ニ付相休申候」。 3 炭は1俵2貫目。 五-二一・七目、一八七六年の多摩郡平均価格で換算すると二九-八五銭となる。一農家七人家族とすれば、大よそ二-六円ほどの収入で、米五斗-一石四斗を販売して得る収入にあたる。養蚕・製糸を営まない農家をも含む平均値とはいえ少額であり、自家で収繭し、それを農閑期に製糸するという生産形態にふさわしい。 高座郡相原村外七か村の農業 高座郡諸村では様相が異なる。高座郡は、中央に水利の便のない広大な相模原台地が展開し、古くからの村落は、高座川(境川)および相模川の河岸段丘下に開田し、両川に沿って所在している(表一-一五の田名表1-15 高座郡相原村外7か村農産物価額構成(1874-1879年) 注 1 山口徹「幕末期における養蚕・製糸業の展開と質地金融」(『神奈川県史研究』22)第4,5表による。なお若干の誤植を改め,円以下切捨て,%は小数2位を4捨5入した。ただし磯部村は相模原市立図書館古文書室蔵『明治11年農産表』より作成。 2 磯部村の場合のみ繭産額が掲記され,その1部が生糸に製せられたと考えられる。なお田名村も繭産額を掲げるが繭1貫を生糸200目としてすべて生糸産額に換算している。 ・下溝・磯部・新戸の諸村)。そして、台地上には、漸次水田の全くない村々が形成されてきた(表の相原・橋本・小山・清兵衛新田の諸村)。しかし、台地上にはなお広大な未開地が存在し、明治以降県あるいは、還禄士族らによってしばしば入植開墾が企てられた。 水田をもつ村でも、耕作中水田の割合は低く、新戸村一九㌫余を最高に磯部村が一四㌫余とこれに次ぎ、下溝・田名村はそれぞれ五㌫、四㌫にすぎない。したがって、米の商品化は、新戸村で二〇㌫が移出(「明治五年新戸村物産調書」『相模原市史』第六巻五七九ページ)されているほかは皆無に近い。これを間接的に示すのが、岡穂(陸稲)の栽培である。水田をもちながら、新戸村を除く三か村では農産物価額構成の上で、水田の全くない村々と同じまたはそれ以上の割合の陸稲を作っている。「住民常食」は「米或は麦粟これに亜く」(明治十二年「磯部村戸数住民調書」前掲『市史』五八五ページ)状況であったが、その主食の米は、畑作の一部に陸稲を作付けることによって自給し得たのであろう。水田を全くもたない村々では、この陸稲が、唯一の収穫米として主食の貴重な一部をなしていた。こうした純畑作村の、主要な現金収入源は、養蚕・製糸・織物であった。表では、磯部村を除き、産繭はすべて村内で生糸に加工されるとして、繭産額は計上していない。また、繭・糸産額が掲げられていない新戸村でも、「明治五年物産調書」には、明治四年分として、繭二〇四貫目、内繭一二〇貫目、生糸一七貫目と記されている。産繭二〇四貫のうち八四貫は加工され生糸とし、また残り一二〇貫は繭のまま販売されるという意であろう。仮りに一八七九(明治十二)年もこれと同じ産額とすれば、価額にして糸・繭計六八二円(磯部村での単価で換算)、一戸当たり四円七一銭弱となる。以上を考慮すれば、米の一部が商品化される新戸村を除き、農産物価額構成のなかで、生糸の占める割合はきわめて高い。とくに水田を全くもたない諸村では、全体の半ばを超え、安政三年(一八五六)開発に成功し、初めて検地をうけた新開の清兵衛新田を除き、一戸当たり生糸生産額も二〇円を超えている。水田のない四か村では、これに加えて、織物が生産されている。四か村合計で絹織物一八五〇円、木綿織物六六五円で、絹織物が総額の七三・六㌫を占める。しかし、村によってその割合は異なり、小山村では木綿織物が全体の七五㌫、清兵衛新田ではすべて木綿織物である。「物産表」には綿産額の記載はないが、綿はすべて織物の原料とするため、繭の場合同様に記載を省いたのであろう。木綿織物の多くは、自家用衣料の生産を目的としていると思われる。これに反し、相原・橋本村では、販売を目的とした絹織物生産が主体を占め、それはとくに相原村に集中している。八王子の周辺織物地帯の一部をなしているのである。やや後年になるが、「明治十二年相原村皇国地誌」は、物産として、繭・生糸・織物・製茶をあげ、「但武州八王子駅、本郡上溝村へ輸贈す」(前掲『相模原市史』第六巻二六ページ)と記している。右に記された上溝村は、「横浜・東海道・八王子・厚木等へ来往するもの概ね本村を経過し、四方の便地に位するを以て、過客常に絶えず、商家櫛比一小街をなせり、明治三年庚午各月六回三七市を立たり、相模原の各村及び愛甲・津久井郡等に産する生糸を売買す、開市の始明治三年金額八百市場開設50年祭の上溝市(1919年) 相模原市立図書館古文書室蔵 円、同九年金高拾五万円、同十一年金額弐拾万円に至る」という、維新期に新たに形成され、急速に繁栄をとげた市場であった。以上からうかがえるように、この地帯の畑作村に在来から存在していた自給的な木綿織は、幕末・維新期の養蚕・製糸の発展とともに急速に絹織物生産に切り換えられつつあった。そして、これにともなって明治三年上溝に市場が開かれ、あわせて農民の衣料としての古着・小切等の商いもここで行われた(「上溝村皇国地誌」『相模原市史』第六巻四五〇ページ)。 こうして、相模原台地の水田をもたない村々では、維新期に自給的な農業形態は大きく変容をとげつつあった。ただ、清兵衛新田のように、とくに生産条件の悪い貧村では、この転換が遅れ、比較的条件の良い相原村では、養蚕・製糸のみならず、絹織物生産の発展もみられた。このような相模原台地諸村の農業発展にともなって、市場も開設されたのであった。一般に、ここでの農業経営は、養蚕・製糸、部分的には絹織物という商品生産部門を主軸とするようになった。畑作村では、村で最大の土地所有者である最上層農家もまた、養蚕製糸に力を入れている。相原村小川家(田嶋悟「養蚕畑作地帯における地主経営」『神奈川県史研究』二〇所収)は、村で最大の土地所有者(一八七八年現在で小作地一三町以上、手作地約三町六反)で、手作のための季節雇いを含む奉公人六人(男性)と糸挽き女性数人を雇い、村内で最大の養蚕経営を行っている。その収繭量は、村全体(総戸数一九六戸)の約四・八㌫、製糸量では約七・四㌫(明治五年の推計値)に達する。同家が手作経営を重視していることは、手作地には良質の土地をあてて下畑・下々畑を小作地としている点からもうかがえる。しかし、この小川家はじめ、一般の農家は、「農業を専とす、養蚕を務む、女は農閑紡織す」(「明治十二年相原村皇国地誌」『相模原市史』第六巻二六ページ)とあるように、養蚕・製糸・機織をあわせて営んでおり、これから分離した製糸場・織物場の存在はまだみられない。製糸・機織は農家経営の中心になってはいるが、いまだ農間余業の域を出ていないのである。そして、しばしば当時の「皇国地誌」等では、製出した生糸の質の劣悪さが指摘されている。ここに、当時の商品生産発展の限界があった。 津久井郡上川尻村の農業経営 津久井郡川尻村は、津久井郡の「出入咽喉を扼」(明治九年調、同十八年二月稿「川尻村皇国地誌」『神奈川県皇国地誌残稿』下巻、六四五ページ。)する交通の要衝である。すなわち、甲州街道吉野・与瀬宿はじめ相模川上流渓谷の諸村や、支流道志川渓谷の諸村から横浜・八王子にいたる交通路は、すべて川尻を経過し、また、前述したように、愛甲郡厚木町から中津川に沿って、半原あるいは角田村を経てそれぞれ峠を越え、津久井郡長竹・根小屋村に入る道は、さらに川尻を経て八王子にいたる。このように、川尻駅は、津久井郡諸村と、横浜・八王子・厚木とを結ぶ物資輸送路の結節点をなしている。総戸数は寄留を含め、四一八戸(寺社を除く、一八七六年一月一日現在)、農家の多くは、何らかの余業に従事している。一八七六(明治九)年調「川尻村皇国地誌」民業の項は、不完全な男女別職業従事者数を掲げているため、総数が総戸数と合致しないが、整理すると(表一-一六)、専業農家は総数の約二㌫にすぎず、他は何らかの営業に従事している。そし表1-16 1876(明治9)年津久井郡川尻村男女別職業従事者(戸)数 注 1 1876(明治9)年調「川尻村皇国地誌」より作成。 2 *諸職とは,鍛冶・大工・建具職・屋根職・桶職・畳職・木挽職・理髪職・足袋職・傘職・提燈職・職猟で大工9人が最も多い。 3 男合計63戸と159人、女合計373人となる。「戸」では複数の人が従事しているのであろう。 て、ほとんどの農家で婦女子は、養蚕・紡織に従事し、また農間織物業を営む男子四九人を数える。ここでも、養蚕・製糸に加え、織物業が盛んである。このような諸営業の発展によって一定の富の蓄積がもたらされていたことは、慶応二年(一八六六)ここを通過した荻野山中陣屋襲撃の浪人隊が、上川尻村から三五〇両を奪い取ったことからうかがうことができる。 ここは維新期には上下二村をなし、このうち右の上川尻村(高七四五石余、反別一四二町九反余、戸数約二〇〇戸うち農家一九〇戸)について、明治六年現在の平均的な農家経営が、足柄県行政の参考として、同村副戸長によって示されている(『資料編』17近代・現代(7)二)。 ここでモデルとして描かれた農家は、五人家族で、主人と、父・子供(合わせて成人男子一人分の労働に見積る)とが農業に従事する。持高三石九斗二升余、所有耕宅地反別七反五畝、水田はまったく持たない自作農である。養蚕・製糸を自家で営み、繭はすべて糸に挽かれ、糸の販売が現金収入の約半ばを占める。機織は行っていない(表一-一七)。畑は、麦-雑穀、麦-大豆または芋という作付体系を持ち、収穫物はすべて自家食料に供される。他に居屋敷(一畝)に付属した畑(庭畑)四畝があり、桑苗や日々の野菜(冬作に菜・ねぎ、夏作に大根・ごぼう・芥子・にんじんなど)等雑多なものが自家用に栽培される。ところが、右の耕宅地七反五畝には桑も植え付けられ、桑葉が養蚕用に約一六駄ほど採取される。これは、特に桑園を仕立てることなく、畑の四囲・畦畔などに植えられた桑樹から桑葉を採取し、それが「壱反歩の桑凡弐駄余と見積」り、約一六駄となり、これに見合う養蚕をしているのである。茶樹もまた、右の耕宅地のうちに栽培され、自家用に供される。しかし、茶樹は年々成長して採葉量が増え、自家消費量を超過するようになり、これを販売して年一円を得るとしている。また、燃料用の粗朶は冬期一-三月のうち休日を除く七二日間に一日二束ずつ計一四四束を山から採取する。毎日半束ずつ消費すると三六束不足するが、この分は桑の「こき柄」(葉を採取した後の枝)で補充する。そして、年間二か月の燃料に収穫した麦や雑穀のもみがらをあてることによって、さらに三〇束が残り、これを販売して五〇銭を得る。薪は、入会山から採取され、採取量は山の広さによってではなく、家族の労働人数によって規定されている。 桑・茶・粗朶いずれも自給を目的とする畑作、山野利用を崩すことなく、表1-17 1873(明治6)年津久井郡上川尻村のモデル農家 注 「明治6年12月農民一戸一ケ年稼暮方概積 相模国津久井郡上川尻村」より作成 剰余の分を販売にあてている(桑のばあいは自給用畑地の余地の利用)。表で仮に「農間稼」としたのは、必ずしも現実に賃仕事に出ることを想定してはいない。「年中雨風の休日の稼有と見」て三円、農業に従事する七か月の間、農業従事者二人として、のべ五八人半、手間があく勘定になる。この分ほかで何らかの稼ぎをするとして五円八五銭、女房の年中の稼ぎが七円と計算し、一五円八五銭の稼ぎを見込んでいる。すなわち、働ける家族のすべてが、農業・養蚕のない日も草鞋作り等の家内作業や賃仕事などで稼ぎをすると仮定しての収入である。したがって確実な現金収入は、養蚕-製糸の収入だけであるが、とにかくも、この農家では年三五円一銭の現金収入が計上されている。しかし、必要やむをえぬ現金支出が一方に存する。地租・村入費の三円六八銭、前述自給的農業維持のための購入肥料代一七円二六銭三厘、養蚕の必要経費-種紙代三円七五銭、さらに自給的生活の補完として家屋根の修理代、「年中下駄・草り・足袋・手拭・鼻紙・髪ゆい・義理等」や塩購入のための現金支払い、九円六五銭などがそれである。この現金収支の差引で六六銭七厘の剰余が出るが、これは「学校又は衣服等の手当て」にあてられる。むしろ生活の必要経費であろう。さきの「農間稼」の収入がなく、また天候不順・糸価の低落等で糸代金が減収すれば、たちまち、この農家の自給的生活に破綻が生ずる。この農家経営を、養蚕・製糸部門の現金収入の大きさのみに注目すれば、商品生産経営とみることも可能である。自給に供されるその他の農産物すべての貨幣換算額は三四円三四銭三厘、生糸販売をはじめとする現金収入額は三五円一銭で、この農家の総収入の半ば以上が、現金での収入という計算である。しかし、右のように経営の機構にまで立ち入ってみると、自給的な体制は、養蚕-製糸等の商品生産によって崩れてはいない。現に、この農家の主食には、自家で収種した麦・雑穀があてられ、不足分(一か月分)は、やはり自家産の芋によって補われている。養蚕-製糸による現金収入は、米などの食料の購入を可能にするまでにはいたらず、辛うじて、自給的な生活を維持するに役立っているのである。 さきの表一-一七を改めてみると、このような農家のモデルは、高座郡畑作諸村にもほぼ適用できると思われる。一八八三(明治十六)年調査では、高座郡矢部新田村の「貧民の常用食物の種類」は、「食物粟・麦尤も多し、芋・甘藷これに次く、野菜は蘿蔔の類」であって、津久井郡上川尻村の場合とほぼ同じである。 開港後の養蚕・製糸の発展が、県下で最も著しいこの地帯で、一般的農家の商品生産度は、幕末・維新期にはほぼ以上のようなものであった。 愛甲郡中津川沿いの諸村 厚木町から中津川を遡上して、津久井郡境にいたる間の両岸に所在する諸村でも、養蚕・製糸の展開がみられる。表一-一八に掲げた一〇か村のうち、田代・下川入村以外は、いずれも主食の米を購入しなければならない畑地勝ちの村である。しかし、前述高座・津久井の畑作村と異なり、繭・生糸・織物のほか林産物を中心に多様な産物の商品化がみられる。なかで養蚕・製糸は、収穫した繭をほとんどすべて生糸にして販売する村と、繭のまま販売する村とにわかれ、前者のなかには、さらに織物業が発展している村がある。半原村では、木綿を原料とする男女帯地の生産もなされている。養蚕・製糸の規模は、前述養蚕・製糸に現金収入のほとんどを求めている高座郡畑作村よりも小さい(表一-一八)。ただし、この一八七三(明治六)年の数値は、一八七五年の額がわかる田代・三増村についてみるときわめて少なく、過少表示の疑いが濃いが、一八七五年の糸価で推計すると、田代村で一戸当たり平均一三円九七銭、三増村で一九円二五銭となる。また、一八七四年の繭価で推計すると、主に繭のままで販売する村の一戸当たり平均収入は一四円を超えない。なお、この一戸当たりは、村の全戸数(社寺は除く)で除した平均値で、養蚕・製糸農家一戸当たり平均を求めれば、多額になる。また、織物は、一八七三年の表では半原村でのみ掲上されているが、一八七五年資料では、田代・三増村にも生産があることがわかる。 表1-18 1873(明治6)年愛甲郡角田村外9か村における産物の販売量 注 1 各村「明治7年1月物産書上」(愛川町大矢ゑひ家蔵)より作成。但し,下荻野村は明治6年3月調、明治5年分,厚木市下荻野難波武治家蔵。 2 ( )内は商品化率を示す。単位パーセント。 田代村と三増村 以上の概観を補うため、水田が多く、米の販売がみられる田代村と、水田を全くもたない三増村との生産物構成を一八七五(明治八)年について対比する(表一-二一・一-二二)。田代村では二戸の酒造家と三戸の醤油醸造家があって、計四二七四円を生産・販売し、他に漁家・水車営業・鍛冶屋・豆腐屋・菓子屋などの諸営業があり、これらによる販売額は、推計で村の産物販売総額の半ば以上(五三㌫)に達している。これを除けば、生糸・織物の販売(約二一〇〇円)が最も多く、貫材・板・薪などの林産物がこれに次ぐ。米の販売額は、さしたる額ではない。同村では、総戸数の約七〇㌫にあたる農家が養蚕をいとなんでいるが、その規模は、ほとんどが繭販売量三貫以下である(表一-二三)。前述津久井郡上川尻村の平均的農家の養蚕規模は、収繭量三貫三七五目であったが、田代村養蚕農家の九五㌫は、それを下回っている。田代村の養蚕農家は、この繭をすべて自家で糸を挽いて販売しているのである。この田代村の養蚕・製糸規模は、この地帯諸村のなかで最小の部類に属し(表一-一八)、一方、水田を基盤とした安定した上層農・酒造家の存在がみられる。 これに対し、三増村では、大きな酒造家・醤油醸造家は存在せず、村の推定産物販売総額の半ば(四九㌫)を、生糸・織物が占め、小麦粉と薪・炭・建具その他林産物がこれに次ぐ。同村では一戸当たり平均収繭量は、四貫一三七目(ただし一八七五年)で、表一-一八諸村と較べ表1-19 1873年愛甲郡角田村外4か村1戸当たり製糸量 注 1 原資料は表1-18と同じ。 2 戸数は「皇国地誌」による。 表1-20 1873年1戸当たり収繭量 注 1 原資料は表1-18と同じ。但し,田代村は1874(明治7)年1月「繭出来高下調書上」。下荻野村は表1-18の資料による。 2 ○印は繭のまま販売する村を示す。 3 ( )は養蚕農家1戸当たり収繭量。 4 〔 〕は価額。 表1-21 1875(明治8)年愛甲郡田代村物産(価額表示) 〔〕内数字は推定販売額 注 「明治15年田代村皇国地誌」による。但し1876(明治9)年1月1日調。 表1-22 1875年愛甲郡三増村物産(価額表示) 注 1 原資料は表1-18と同じ。 2 〔 〕内は推定販売額。 てきわめて多く、やはり、そのすべてが自家で糸に挽かれる。その技術がなお低度であったことは、生産された生糸に対する熨斗糸、玉糸、皮剝糸の高い比率が物語っている。同村では、この熨斗糸で織物を作っていた。一戸当たりの平均製糸量は、当然のことながら田代村より多い。この村での養蚕規模は明らかではないが、水田に乏しく(水田一七町、畑一二一町)、三増村と同様主食の米をほかから購入して、一戸当たり収繭量でも同村をしのぐ下荻野村(旧荻野山中藩陣屋所在地)では、田代村と鋭い対照をなしている(表一-二三)。下荻野村では三増村とことなり、とれた繭はそのまますべて販売される。その販売規模を同村の養蚕農家七一戸(販売総額から推して同村の養蚕農家の一部とみられる)についてみると、同村名主難波武平家の二一貫を頂点に、三貫以上の繭販売農家が五五戸(全体の七七㌫)もある。難波武平家の売却高は一〇五円で、米にして約二一石、同村の中田小作米額、反当一石二斗一升五合(明治六年四月「田畑山林屋館地代金小作入費貢米永控帳下荻野村宿」厚木市難波武治家文書)で換算すると、一町七反三畝の小作地からの所得に匹敵する。もちろん、養蚕の場合苛酷な労働を経ての収入なのであるが。また、二五円七四銭余という平均的な養蚕農家では、米五石一四八の収入と同額で、反収一石五九四(田代村のばあい)として、約三反二畝余の水田を自作するにひとしい。 しかし、養蚕・製糸は、水田耕作とことなり、天候や市場変動の影響をうけること多く、経営は著しく不安定である。ところが、上述愛甲郡諸村では、かかる繭・生糸収入を補う林産物収入が存在している。もちろん、これは、他の山間部諸村でも表1-23 愛甲郡田代・下荻野村養蚕規模別農家数(1873・74年) 注 下荻野村は原資料表1-24と同じで村の1部のみの数字である。田代村は表1-18と同じ。但し,繭1枚を300目に換算した。 同様だが、一般に、雑木山から採取する薪炭が主な販売林産物であるのに対し、ここでは、用材山から伐木によって貫材・松板・杉板・椹板、さらには手桶・たらい・樽・障子などが作られ、総販売量はさして大きくはないが、安定した現金収入を村にもたらしている。このことの背後には、さして深くない山で、村内で加工する所要量に応じ、一定量の木材を年々伐採しつつ、用材林を維持する努力がともなっている。こうした林産物収入が、農家経営の安定に大きな役割を果たしている。 さて、以上、愛甲郡中津川沿い諸村で商品化された物産は、多く八王子宿へ向け運ばれた。三増村では、「雑穀・木材・薪炭・蔬菜等は厚木町へ、繭糸・織物・製茶等は武州多摩郡八王子駅及横浜へ輸送し、酒類は村内及近村のものに売却す」、田代村では、「繭糸・織物・竹木・薪炭・米穀・茶・川魚等は武州八王子駅及高座郡上溝村或は東京厚木町等へ輸送」(明治九年一月一日調、「皇国地誌」『神奈川県皇国地誌残稿』下巻、六〇四ページ)された。他の諸村もほぼ同じであろう。八王子への運輸は、志田峠または三増峠を経て津久井郡長竹・根小屋から、川尻に出て八王子にいたる道路によった。この道路は、また、県西部と八王子とを結ぶ経路でもあった。一八七三(明治六)年、八菅村で、農間荷継渡世を営む大野平七の届書(明治六年十二月二十八日。二十七日付足柄県権令あて「届書」愛川町大矢ゑひ家文書)は、 当八菅村ヨリ西之方曽屋村迄五里 一 人足壱人 金弐拾四銭 一 馬壱疋 金三拾七銭五厘 当八菅村ヨリ北之方八王子迄五里 一 人足壱人 金弐拾四銭 一 馬壱疋 金三拾七銭五厘 右ハ当国産物煙草・水油等ヲ曽屋村荷主方ゟ附出シ、八王子道通リ当八菅村私方ヘ継来リ、夫レゟ北之方八王子買主方ヘ継送リ申候……とのべ、また、同年角田村農間荷継渡世斉藤長吉の「届書」(前掲大矢家文書)は、 当角田村ヨリ南ノ方神戸村迄五里 (人馬賃銭前に同じにつき略) 当角田村ヨリ北ノ方八王子迄四里 一 人足壱人 金十九銭弐厘 一 馬壱疋 金三十銭 右ハ当国産物橙密等ヲ曽我国府津ノ地ヨリ附出シ、伊勢原道ヲ継来リ、南ノ方神戸村農間荷継渡世万屋与吉ヨリ、当角田村私方ヘ継来リ、夫レヨリ北ノ方八王子買主ヘ継送リ申候……とあって、この道路を経て、県西部の名産が八王子へ運ばれていたことを示している。下荻野村で売却された繭の行先を表一-二四・一-二五で示す。一八七四年、下荻野村の養蚕農家七一戸(延べ七三戸)の繭は、四二人の者に売却された。うち二六人、代金で九九一円余(全体の五五㌫)は、周辺の愛甲郡諸村の者が購入している。購入は、平均二戸程度の農家から、その年の繭全部を買い入れる形をとるが、遠隔地から訪れる購入者にくらべ、少額を安価で買い入れている。彼らは、自村での製糸に不足する分の購入と、他への転売に従事する農間仲買人とみられる。他郡から繭購入に訪れる者の大半は、八王子およびその周辺の製糸の盛んな諸村(片倉・鑓水・大塚村)からで、とくに八王子からは八名の商人が来て計四二二円余(購入総額の二三㌫)を買い、また鑓水村の八木下清之助は、一人で三戸の農家から計二二六円余(総額一二・六㌫)を買っている。ほかの仲買の買った繭の表1-24 1874年下荻野村産繭の購入者と購入量(1) 注 1874(明治7)年10月27日「繭貫目代金取調帳 愛甲郡下荻野村」(厚木市難波武治家文書)より作成。代金,銭以下切捨て。 かなりの部分が八王子へ集まることを考えれば、この地帯の産繭のほとんどが、同地と周辺の製糸地帯へ向けられていたことは明らかである。 このように、愛甲郡の厚木町以北中津川沿い諸村は、主要な物産、繭・生糸・織物の商品化を通して、八王子と経済的に強く結ばれていた。一方、三増村の場合が示すように、雑穀・木材・薪炭・そさい等の副次的な物産は、厚木町へ売られた。 厚木町と周辺の諸村 厚木町は、矢倉沢・八王子・大山などの脇往還、および前述の津久井往還が分岐する愛甲郡交通の要衝で、物貨の集散地であった。同町周辺の水田地帯諸村で商品化される米はすべてここに集められた。すなわち、愛甲・船子・戸室・恩名村では(「皇国地誌」明治九年一月一日調の部分による。前掲『残稿』下巻)、いずれも「米穀類は厚木町へ輸送」(船子村)されている。そして厚木町に集められた「米穀は津久井郡へ」向けて移出され、また「香魚は東京へ、繭生糸は武州八王子駅へ輸送」される。津久井往還によって、前述のように、木材・薪炭・鮎・雑穀などが厚木町へ運ばれ、逆に米穀が厚木町から前述の諸村や津久井郡へ向けて運ばれていく。さきにふれたように、愛甲・戸室・恩名村はじめ厚木町周辺の水田地帯諸村でも、繭・生糸が作られているが、これらは、厚木を経て、八王子往還は通らない。前述厚木以北諸村とは異なった経済圏を形成しているが、ここでも生糸の直接横浜向け出荷はみられず、八王子と結びついているのである。 前述慶応三年(一八六七)荻野山中藩陣屋を焼き打ちした浪人隊の、この地域での的確な行動表1-25 下荻野村産繭の購入者と購入量(2) 注 原資料表1-24と同じ (下荻野村周辺の豪家からの御用金徴収、人足・駄馬を多数徴発しての八王子への退去等)は、以上にのべたこの地帯の事情を知悉する地元の者の手引きなくしては不可能であったろう。 注 (1) 農家数が不明なので、原表が米の自用費消額算出に用いた人数によって、一人当たり生産額を求めた。 (2) このような方式が高座郡で一般的だとすると、さきに繭・生糸産額は重複するとして、生糸産額は表から除外した表一-一の数値は産繭額をかなり低く表示したことになる。 (3) 「上溝村皇国地誌」『相模原市史』第六巻四一二ページ。なお、同書には「明治九年皇国地誌」とあるが、明治十二年の誤りである。(4) この村の地味は、「野ハクニシテ其質至テ悪、且肥ノ助ヲ以諸作少シク実ノルノミ、如斯ノ瘠地ナレハ旱ニ殆ト窮ス」(「明治十年清兵衛新田皇国地誌」『相模原市史』第六巻三〇ページ)とされ、同じ台地上の近村に比してもさらに劣悪である。 (5) この村の地味は「其色黒ク壚土或ハ腐壚、其質中ノ下等、梁菽麦蕎麦蕃薯及ヒ桑茶ニ適シ蘿蔔ニ可ナリ、水利不便旱ヲ恐ル」(「明治十二年相原村皇国地誌」『相模原市史』第六巻二三ページ)とあって、前記清兵衛新田と比べ相対的に優っている。 (6) 小山村のばあいも同様「男皆農業ヲ務ム、女モ又農業ヲ専ラニス、尤モ糸引縫織等其間ニセリ」とある。 (7) 田代村では、明治三-五年の生糸生産額がわかる(明治五年十月「養蚕取調書上」大矢ゑひ家文書)。それによれば次表のごとく年々急速に増大しているが、それにしても一八七五(明治八)年にいたって生糸四二貫、糸一五貫に急増したとは考えにくい。なお「繭ニ而売払一切無御座候」と注記されている。 生糸 屑糸 明治三年 六貫〇〇〇目 四貫〇〇〇目 四年 七貫六八〇目 五貫一二〇目 五年 一一貫五〇〇目 七貫六〇〇目 六年 一五貫一〇〇目 六貫三四〇目 注 明治六年は表一-一八による。 第四節 相模川以西の四郡 一 大住・淘綾郡の水田沿海地帯 愛甲郡との対比 相模川右岸の大住・淘綾と足柄上・下四郡は、養蚕・製糸がほとんど展開していないという点で、これまで述べてきた諸郡と明確に異なる(表一-一)。これは、大住郡と、同じく相模川右岸に位置し、同郡に隣接する前述愛甲郡とを対比しても明白である。たとえば、大住郡上糟屋村は、伊勢原村に近い大山街道上の山付けの農村で、前述した愛甲郡厚木町北方の山付け諸村と、さして隔っていない。しかし、ここでの主要な農産物は、表一-二六のごとくで、養蚕は、明治三年(一八七〇)の時点でようやく「近来試中」(表一-二六と同じく、「明治三年十二月大住郡上糟屋村明細帳」伊勢原市山口匡一家文書)であり、同村で養蚕が展開するか否かはまだ将来の問題なのである。 花水川水田地帯 さらに花水川下、中流部の水田地帯に位置する淘綾郡高麗村・大住郡小嶺村の物産構成は、表一-二七・一-二八のごとくである。高麗村は、大磯宿に近い、水田の少ない村であるが、特に顕著な商品作物はなく、しかし、雑穀の栽培も多くない。畑では麦-大豆、麦-薩摩芋、そさいの作付が支配的で、結局、麦・大豆・芋・そさい等が、少量ずつ販売されているのであろう。こうした平凡な農村に、酒造家が存在し、価額では村の総物表1-26 明治3年大住郡上糟屋村農産物 注 「明治3年12月村明細帳」(山口匡一家文書)より作成 産額の三四㌫余の酒類を生産している。小嶺村も、水田の多い村として米の比重の高いほかは、高麗村とほぼ同じ農産物構成である(表一-二八)。ここでも特別の商品作物はなく、米のほか、小麦・大豆が商品化されている。とくに小麦は、大麦を一方ではほかから買い入れながら、その多くを販売している。 淘綾郡沿海部 この両村の周辺諸村の農業もほぼ同様であろう。淘綾郡国府本郷村ではその物産は「大抵村内各家の自用に消費す、其内甘薯・蘿蔔(大根)・麦・豌豆・大豆は小田原・大磯へ、網縄は大磯・平塚・須賀・南湖等へ、魚類は近村及東京へ輸送す」とされ、同郡国府新宿・西小磯等も魚・小麦・大豆・甘薯・粟等が大磯・平塚へ販出、また寺坂・生沢村でも、薪・米・大豆・大麦・甘薯・粟が小田原・大磯・二宮・平塚等へ販出されている。いずれも、農産物の大部分を「村内各家の自用に消費」した上でのことである。大住郡四之宮村でも物産は、「豆・麦・瓜類を最と」し、同真土村は、「米・麦・粟・大豆を産」する。八王子往還上の四之宮や八幡村とこれに接する真土村では、商品化されたこれら農産物は、厚木町または、相模川河口の須賀村へ運ばれる。しかし、これは少数の村に限られ、小嶺村周辺の下吉沢・大島・丸島・大句諸村の物表1-27 1874(明治7)年淘綾郡高麗村の物産 注 1 『物産表」(曽根田家文書)より作成。 2 そさいは胡麻・菜・茄子・牛蒡・大根・人参。 産は、すべで伊勢原村へ輸送された。 すなわち、大住郡の相模・花水川にはさまれた水田地帯・沿海部、淘綾郡の大部分の村々では、特定の商品作物栽培はみられず、男は主に農業に従事し、女は「農間木綿を紡績して布を織り以て自用に供す」る自給的生活を基礎にし、自給を超える米・麦・大豆・瓜・甘薯等一般の農作物を、近くの町-東海道沿村では、平塚・大磯・小田原・須賀、内陸諸村では主に伊勢原村へ販売していた。八王子往還上の限られた村を除いては、厚木町へはほとんど出荷されない。そして、伊勢原村へ集められた諸物産は、そこで消費され、一部は伊勢原村の物産「大小麦・菽・粟・繭糸」とともに「本郡須加港・大山町・津久井郡・或武蔵国南多摩郡八王子駅へ輸送」されていった。 高麗村の農具市 以上のような農業構造に照応して、右地域内に古来から小規模な市場が形成されていた。前述淘綾郡高麗村では、毎年祭礼の日に農具・種物の市が立つ。先述高座郡上溝村の市のように遠隔地から農産物(生糸・繭)を買い付けに商人が集まる市ではない。 ……毎年三月十七日ゟ十九日迄、当村祭礼ニ而神輿麓ゟ登山、十八日農具市と相唱ひ、古来より農道具・種物等商ひいたし、高麗明神境内ゟ往還百姓家軒下通り商人売物出し、近郷弐、三里村々之百姓、此所ニ而農具・種物等相調来リ候 という近郷農民のその年の農業を始めるにさいしての需表1-28 1873年大住郡小嶺村の農産物 注 「御用留」(平塚市 福井よし子家文書)所掲「癸酉産物表書上」より作成 要を満たすための年一度の市である。 注 (1) 同村、「明治四年十二月村明細帳」(大磯町 曽根田重和家文書)によれば、 「農間稼方村内百姓之内酒造壱軒・濁酒造壱軒・醤油造壱軒・質屋弐軒・米商ひ候者五軒・油商ひ壱軒・居酒弐軒・古着屋壱軒・こんにゃく商ひ壱軒、外に菓子まんちういたし候もの十軒、其外百姓一統わら仕事、女は木綿糸業仕候」 とある(引用文中傍点は筆者)。 (2)(4) 明治十五年二月編成「皇国地誌」、ただし、本文で引用した淘綾郡「物産」の部分は、「明治九年一月一日調」と注記されている(前掲『神奈川県皇国地誌残稿』上、下巻)。大住郡諸村のばあいはこの注記を欠くが、同様明治初年から地誌編成時点を通して変わらない事実を掲げているとみて差し支えないであろう。(戸数・人口・馬・車・舟の数は、明治九年一月一日調と注記されている)。 (3) 「大住郡四之宮村皇国地誌」中「民業」においては他の諸村の記述もほとんど同文である。 二 内陸畑作地帯 煙草作地帯-足柄上郡萱沼・土佐原村 大住郡から一部足柄上郡にわたる内陸畑作地帯は、特産物として煙草の栽培がみられる。煙草の生産は、曽屋村を中心としているが、維新期の状況は、その外縁部にあたる足柄上郡萱沼・土佐原村と、大住郡土屋村とについてのみ知りうる(表一-二九-一-三一)。 足柄上郡萱沼・土佐原村は、水田がほとんどなく米を購入している山村である。一八七三(明治六)-七四年の数値・掲出物品にかなりの相違があるが、大豆・菜種・芋・漆、炭などが、わずかずつ、近村やせいぜい下郡の小田原・古市場辺りまでを対象として売捌かれている。これは、さきにみた地帯の諸村と変わらない。しかし、ここでは、さらに、生産額で総農産物価額中三二㌫を占めるほどの煙草が栽培されている。したがって、商品化される農産物中での煙草の比率はさらに高いであろう。そして、この煙草だけは、東京・神奈川・厚木という遠隔地へ向けて販売されている。いい表1-29 1873(明治6)年足柄上郡萱沼・土佐原村の販売物産と販売量 注 1 「明治7年1月産物書上」(二宮町 安藤安孝家文書より作成)。 2 炭1俵は3貫500目一4貫。 表1-30 1874(明治7)年足柄上郡萱沼・土佐原村物産 注 1 1875(明治8)年「物産表」(安藤安孝家文書)より作成。 2 豆類は蚕豆・隠元豆・豌豆・大角豆・小豆。雑穀はソバ・粟・黍・稗。そさい類は菜・大根・にんじん・ごぼう・里芋・薩摩芋・茄子・葱・瓜・生姜・胡麻。野生動物は,野猪・鹿・狸・狸皮・兎・山鳥・鳩。 かえれば、遠隔地の需要にこたえることによって、初めて右のようなまとまった面積の煙草栽培が成り立っている。 大住郡土屋村 丘陵地帯に属し、右村とは自然条件がかなり異なる大住郡土屋村の場合も、農産物商品化の構造は、ほぼ同じ形である。土屋村は、淘綾郡境の丘陵地帯にある水田五八町七反、畑一七町六反、山林八四町一反(うち用木林一四町一反)、戸数二一八戸の村である。明治五(一八七二)、六年では、かなり数値が異なるが、米のほか、普通畑の作物では大麦・小麦・菜種・大豆・小豆が販売されている。この村には二戸の酒造家が、五六〇〇石の清酒を醸造しており、村で商品化される米のすべてはこの酒造家へ売却したものである。また、大麦の自用を超える分は、村内四軒の水車稼人の手で搗麦とされ、小田原宿へ移出され、小麦・大豆・小豆は、小田原宿のほか大磯宿・須賀村あるいは羽根尾村(大小豆のみ)へ販売される。菜種は農家一戸につきほぼ二斗が自家用の油にあてられるほかは、村内に一戸ある絞油稼人に売られる。前述村内酒造家が造った酒・焼酎もまた、隣村のほか曽屋村・伊勢原村という大住郡内陸部の主要町部と、山西村、平塚・大磯・小田原など東海道各宿村へ売られた。さらに林産物(用材はすべて自家用で薪だけが商品化されている)もまた同様で、村内の酒造家や絞油稼人、隣村さらには大磯・平塚宿へ売却された。このように、以上の諸物産は、すべて近隣町村を対象に商品化されている。相模川以西四郡での物産商品化は、基本的にはこうした構造をなしているために、他地域とは、明瞭に異なる農業構成を保持し、独自の経済圏をかたちづくっているのであろう。他地域へ移出されてゆく物産は、土屋村についてみれば、水油と煙草だけである。すなわち、水油は、隣村のほか、藤沢宿・厚木町・八王子町へ、煙草は、主要な集散地である曽屋村のほか藤沢宿へと移出された。さきに藤沢宿西村に、一二軒の莨切渡世が存在する(明治四年)ことをみたが(表一-二)、彼らが加工する葉煙草は、大住郡内陸畑作地帯から東海道を運ばれてきたものであった。土屋村でも、村内一戸の絞油業者によって売却される水油は別として、煙草は、一般農家の主要な現金収入源であったろう。 明治五年(一八七二)の「産物取調書上」表一-三一は、戸別調査ではなく、作物別に作付反別一反当たり、または一戸当たりの収量、作物によっては一戸当たり作付面積を推定し、これらから村全体の総収量を算出している。したがって、右「産物取調書上」から、これを作成した村戸長(副区長を兼ねる)が想定した同村の平均的農家の姿を、逆に明らかにできる。それは、田二反七畝、畑八反二畝、計一町九畝、山林三反八畝を所有する表一-三二のごとき農家であるが、このなかで煙草の作付面表1-31 明治5(1872),6年大住郡土屋村の諸産物 注 1 明治6年3月,7年1月「産物取調書上」(蓑島家文書)より作成。 2 雑穀は,大豆・小豆・大角豆・粟・黍・稗・胡麻・豌豆・ソバ。そさいは,里芋・薩摩芋・大根・牛蒡・にんじん・茄子。1荷は13貫。 3 薪木1駄は18把,およそ40貫。 4 ( )内数字は商品化率。 積は、全く自家用に供される木綿と同じ三畝にすぎず、反当たり四〇貫目取りとして収量が一二貫と計算されている。かりに前述萱沼・土佐原村と同じ価格(貫当たり五銭八厘-一八七四年)とすると、六円二五銭の収入となる。水田約五畝一四歩からの米収量に匹敵するほどの収入でしかない。経営内での煙草生産の比重の低さは、土屋村が煙草生産地帯の外縁部にあるためと思われるが、同村では、上述のように畑の諸種普通作物や薪が少量ずつ販売され、現金収入を補っている。したがって、煙草の不作・不況が、農家経営に大きな打撃を与えることはないであろう。 土屋村では、その一部地域、土屋村庶子分五二戸について、個別農家の生産状況がわかる(表一-三三)。耕作面積も田畑ともにぬきんでている最上層の三戸は貸付地を有し、下男・下女を雇用する自作地主(うち一戸は質屋兼業の副戸長)であるが、煙草栽培はうち一戸表1-32 明治5年大住郡土屋村平均農家作付面積 注 原資料は表1-31と同じ。 ○印は商品化される作物。 表1-33 1874(明治7)年大住郡土屋村(庶子分)農家の耕作規模別煙草生産 注 1875(明治8)年3月「産物取調書上帳 土屋村庶子分」(蓑島家文書)より作成 にすぎず、それも村平均を下回る規模のものである(一五貫を生産し、うち一二貫を販売)。最上層農家にとって、煙草栽培はさしたる意味をもたない。他の一般農家は、それぞれ二反前後の水田をほぼ均等に耕作している。収穫米の多くは飯米と小作料に費消され、販売はほとんどなかったとみられる。経営規模の大小を決定するのは畑の部門で、村の平均耕作規模を超える畑一町-一町五反耕作層一四戸が、農業生産の中心的担い手である。そして、この階層の大部分が煙草を栽培し、一戸当たりの生産量も際立って多い。平均一戸当たり三〇貫余という量は、先の換算法によると作付面積八畝で、平均農家の作付規模をはるかに超えるが、経営の自給的基礎を犠牲にするほどではない。五二戸の農家のほとんどは、味噌・醤油を自給し、または木綿を作付け、それによって自家衣服用として、平均六・五反を織っている(四四戸)。畑耕作規模五反以下の最下層九戸は、農業だけでは生活できないと考えられる階層である。このうちの二戸は、農間駕籠舁渡世を営んでいる(「手控帳」、明治六年五月山駕籠人名副区長蓑島宗次郎-平塚市蓑島武夫家文書)。「山駕籠」とあるから、大山街道での稼ぎであろう。なお、この村庶子分五二戸からは、男六人、女四人が他村へ出稼奉公に出ており、一方、主に最上層三戸が奉公人一〇人を雇っているが、彼らは、大住郡南金目村・今泉村・北矢名村・南矢名村(二人)・菩提村・蓑毛村・西田原村・淘綾郡一色村・下大槻村という近村から来ている。いずれも下層農家出身と思われるが、やはり同じ地域内で雇用被雇用関係が成り立っているのである。 三 酒匂川沿岸平野 足柄上郡狩野・中沼村 酒匂川沿岸平野もまた、水田農業がいとなまれ、特別な商品作物の展開はみられない。足柄上郡狩野・中沼村は、その山付け部分に所在する。狩野村は、田三一町五反、畑五〇町六反、戸数八五戸の村で、農産物価額総額の約六八・六㌫(明治四年)を米が占める(明治九年六三・二㌫、表一-三四、三五)。耕地の二八㌫にあたる水田の主な用水源は、巌島神社境内に湧出する清水池で、ひでりの年も用水に不足せず、安定した稲作を営んでいる。しかし、一戸当たり水田面積は三反七畝にすぎず、大部分の農家では、米の販売量は少ない。そして、明治四年(一八七一)と一八七六年とでは、物産の掲出品目数・数量がかなり異なるが、いずれにせよ米以外の農産物もほとんど商品化されず、農産加工品も、村内で一戸の農間酒造家が造る清酒・絞油稼人が絞った菜種油のほか、販売量はわずかである。林産業も薪炭が主で、板・貫材・屋根板の生産は多くない。水田を主体にした、安定しているが自給的性格の強い農業である。そして、農間稼として、男は「薪樵、日用取、荷駄賃附等」に、女は「木綿織、莚打、落葉掻」に従事している。すなわち、この村の農家は、必要な貨幣は、主に日雇取・荷駄賃附(馬二三疋)に依拠しているとみられる。またこの村の人口三八〇人のうち一五人が出稼奉公に出ている(明治四年「村明細帳」狩野自治会蔵)。 狩野村の隣村、中沼村は、さらに平野よりに位置し、農産物価額総額中、米の占める割合は七八・五㌫で狩野村よりさらに稲作の占める比率は高い。農産加工品も、大部分は、少数の酒造家・醤油醸造家・絞油業者の造る酒・醤油・油類で(農産加工品総額の九三・二㌫)、林産物も少額である。水田主体の農業経営で、水田の少ない中・下層農家は、やはり日雇取・駄賃附等に現表1-34 明治4年(1871)足柄上郡狩野村物産 注 「村方産物書上直段購入帳,狩野村」(狩野自治会蔵)より作成 表1-35 1876(明治9)年足柄上郡狩野・中沼村の物産構成 注 「明治10年物産書上」(狩野自治会蔵)より作成 金収入を求めるほかはないであろう。 四 箱根山間部 足柄下郡大平台村 箱根山中の足柄下郡大平台村は、右の二か村とは異なり、農業で主食の自給を図ることのできない山村である。総生産価額のうち、ぜんまい・山葵・蕗などの山菜をも含む農産物は約三〇㌫を占めるに過ぎない。大部分(七九㌫)は林産物で、しかもそのうち、山萱・板・材・薪炭はとるに足らず、主要部分(七五㌫)は根附・盆等の木細工である。その内容は、一八七四(明治七)年と一八七六年で異なるが、数多くの多種多様な挽物漆器が、箱根山中の木材を原料にして作られていた。村民のこの地での生活は、一にこれら木製品製造にかかっている(表一-三六)。これらは、たんに東海道旅客や浴客を対象とするに止まらず、すでに幕末期には江戸組合が形成され、江戸への移出が行われていた(『資料編』17近代・現代(7)四七二ページ)。木製品は、前述愛甲郡三増村などでも製造されていたが、それらは近村の需要を対象とする桶・たらい等の日用品で、また、これの農家経営内での比重も農間余業の域を出ていない。 以上、旧神奈川県域(一八七六年四月)諸町村の考察から、漁村は外しているが、これについては、後に第二編第一章第一節で明治前期漁業の実態をみる際あらためてとりあげることにする。 表1-36 1874(明治7)年足柄下郡大平台村物産の価額構成 注 1 1875(明治8)年3月「産物書上」(箱根町宮ノ下・温泉小学校蔵)より作成。 〔参考〕は明治10年3月届(同上蔵)による。 2 雑穀は粟・稗・黍・ソバ・蜀黍・玉蜀黍。 豆類は豌豆・大角豆,そさいその他は,胡麻・菜・薩摩芋・里芋・大根・茄子・にんじん・牛蒡・葱・白瓜・黄瓜・薯蕷・山葵・ぜんまい・蕗。 第二章 維新期の商品流通と交通 第一節 居留地貿易の展開 一 居留地貿易体制の形成 明治維新と横浜貿易 徳川幕府が倒れて新政府が誕生した明治元年(一八六八)の横浜の貿易について、神奈川駐在イギリス領事L=フレッチャーは、入港商船の数が、過去のどの年にくらべても、非常に著しい外国貿易の増大を示していると、H=パークス公使に報告している(『英国領事報告』、『資料編』18近代・現代(8)四)。外国軍隊の緊急警備のもとで、平穏に幕府から新政府への移管がおこなわれた横浜では、維新の激動をよそに、活発な貿易活動が続けられていた。開港以来一八七六(明治九)年までの横浜における外国貿易の推移を、イギリス領事の報告をもとにしてみると、図一-三のようになる。一八六八年の貿易額は、輸出一七七〇万ドル、輸入一二四〇万ドルで、フレッチャー領事の報告のように、高い水準を示している。安政六年(一八五九)六月から開始された横浜貿易は、政権交替によっても、大きな影響をこうむることなく、ほぼ安定した姿で継続していたことがわかる。 全国の貿易も図一-四にみるように、同じような安定した姿を示している。慶応三年十二月に、兵庫が開港、大阪が開市図1-3 横浜の貿易(1859-1876年) 注 『英国領事報告』による数値。1867年までは,『横浜市史』第2巻548ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編267,75ページによる。 図1-4 全国貿易と横浜(1859-1876年) 注 貿易額は,輸出額と輸入額の合計。横浜の割合は,横浜貿易額の全国貿易額に対する百分比。『英国領事報告』による数値。1867年までは,『横浜市史』第2巻548ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編2 7,15ページによる。 (慶応四年七月に開港に切替え)となり、明治元年十一月には東京が開市、新潟が開港となって、日本の貿易は、安政条約で約束されたように、六港一市を門戸としておこなわれる体制となった。このなかで、横浜は、幕末の三開港体制期には、全国貿易(輸出入合計額)の八〇㌫前後の割合を占めており、明治の六港体制期にはいってからも、七〇㌫前後の割合を占めている(図一-四)。 横浜を基軸港とする貿易は、安政条約の取決めに従っておこなわれた。新政府も、安政条約の履行の義務を認めていたから、維新ののちも、貿易の制度面では、しばらく変化は生じなかった。安政条約にもとづく貿易は、一面では、自由貿易原則という近代的通商原則を基準としていたが、他面では、領事裁判権・居留地制度・協定関税・片務的最恵国約款など後進国特有の制度的枠組を与えられたものであった。この条約上の不平等性は、さまざまな仕方で、日本の貿易を制約し、ひいては、日本の経済構造にも影響を及ぼした。法権・税権の回復のために、明治の外交史のうえで、いかに大きな努力が払われたかは周知のとおりである。 ところで、強力な武力を背景に不平等条約を押しつけた先進諸国に対して、幕府が最後まで譲歩しなかったのが、外国人の国内自由旅行権であり、明治新政府も、先進諸国の度重なる強い要請を拒否して、領事裁判権の存続する限り「内地開放」を認めなかった。居留地では広範な自治権を享受し、治外法権に近い強い法的保護を受ける地位にあった一般外国人も、居留地から一定範囲(おおよそ一〇里四方)の外に出て国内旅行をする自由は与えられていなかった。居留地を根拠地としながら、国内消費地に出向いて商品を売り込み、国内生産地をまわって直接に製品を買い付けたいという外国商人の願望は、外国資本の国内市場支配を危惧する日本政府の強硬な抵抗で実現をはばまれた。外国商人の商業活動は、とりあえず居留地の内側に局限されることとなり、いわゆる「居留地貿易体制」が形成されたのである。 横浜の場合にも、関内地区の居留地の外国商人と日本側の売込商・引取商との内国取引を経て、外国貿易が実現されるという、典型的な居留地貿易が展開された。横浜貿易の品目別構成などの検討に先立って、まず、横浜における居留地貿易体制の形成を概観しておこう。 外商 幕府管理下の長崎貿易が続いていたとはいえ、実質的には、外国貿易が禁止されていた鎖国状態から、いっきょに、外圧による開国を余儀なくされた時、日本には、外国貿易を主体的に展開する準備は、まったくなかったといってよい。一七世紀以来の長い鎖国の間に、イギリスを先頭とする西欧諸国は、資本主義を発展させ、機械制生産と高度な社会的分業を基礎とした国際貿易体制を築きあげていた。それにたいして、日本は、国際貿易に資本主義的商品を持って参加することはできなかったし、国際商品市場についての情報も、国際商品取引に関する知識も、また、商品輸送のための外航海運能力も、国際決済のための金融機能も、皆無に近い状態にあった。この歴史発展段階の格差は、開港後しばらくの間の日本貿易の直接的担当者を、外国商人、いわゆる外商とすることとなった。 開港とともに、横浜には、各国の商人が来航し、居留地が、神奈川東京大学史料編纂所蔵 宿に設けられるか横浜村になるかの外交交渉が未決定のうちから、立地条件の良い横浜の仮居留地に店舗をかまえはじめた。香港を本拠とするイギリスの貿易商社ジャーディン=マセソン商会は、社員W=ケスウィックを派遣して、開港直後の安政六年七月ごろから横浜で商業活動を開始した。ケスウィックは、横浜居留地でのちに一番と呼ばれた区画地を借地し、商館を建築した。二番区画地は、上海で活躍していたアメリカの貿易商社ウォールシュ=ホール商会のG=ホールが借地して、商館を建築した。開港約一年後の神奈川奉行の報告によると、仮居留地内の借地権を得た外国人は、イギリス人一八名、アメリカ人一一名、オランダ人五名、合計三四名となっている(『横浜市史』第二巻七三九ページ)。借地権者のなかには、土地投機を目論む者も含まれていたらしいが、この数字は、外国商人の横浜進出の出足のはやさを示しているといってよいだろう。 その後の外商の進出ぶりは、断片的にしか判明しないが、かなり浮き沈みははげしかったようであり、一八七六(明治九)年時点では、横浜の外国商社は総数一五八社、その内訳はイギリス五四、フランス三六、アメリカ二六、ドイツ一九、スイス七、イタリア六、オランダ1864年の外国人居留地 四、オーストリア・ハンガリー二、スウェーデン・ノルウェー二、デンマーク一、ベルギー一であった(Commercial Reportsby Her Majesty’s Consuls in Japan, 1877, Irish University Press Area Studies Series, Japan 6, P. 125)。このほかに、清国商人の貿易商社が存在したが、社数は不明である。外商といっても、経営規模は大小さまざまで、一八七三年五月以降一年間の横浜貿易(輸出入取引額)のうち、五四㌫が、外商上位一五社に集中していたとの推計もある(海野福寿『明治の貿易』五二-五三ページ)。 外商は、居留地の店舗を取引場所として、日本商人から生糸をはじめとする国内産品を購入し、それを海外市場に輸出し、また、綿・毛織物など海外産品を輸入して、それを日本商人に販売した。外商と日本商人の取引は、日本国内の商取引であり、対外取引つまり外国貿易は、外商の手でおこなわれたのである。日本商人の手による貿易、いわゆる直輸出・直輸入は、明治十年代以降、積極的に開始されたが、それまでは、たとえば、一八七六(明治九)年の輸出(全国数値、船用を除く)の九八㌫、輸入(全国数値、官省分を除く)の九九㌫が、外商の手でおこなわれる状態であった(大蔵省『大日本外国貿易四十六年対照表』)。外商の優位性 外商は、制度面では、領事裁判権によって特別に保護されていたうえに、実態面では外国貿易を完全に支配していたから、日本商人との取引関係では、圧倒的に優位に立ち、きわめて有利な取引条件を実現させることができた。とくに、価格の面では、日本の国内市場価格と国際市場価格との格差を利用して、いわゆる譲渡利潤を獲得する可能性が大きかった。たとえば、生糸の場合、「明治初年ノ頃ハ日本生糸ノ価、英貨二十二、三志ニテ輸出セシモ、外国ニ於テハ之ヲ四拾五志乃至五十志ヲ以テ販売スルニ至ル」(明治十六年製糸諮詢会における橋本重兵衛の発言、農商務省「製糸諮詢会紀事」)など、外商への売込価格が、国際市場価格にくらべて、大幅に安値であったことを指摘する史料が数多く残されている。推計によると生糸(前橋一番格)、のリヨン市場価格を一〇〇とする横浜売込価格は、一八六一年が四三、六四年が五〇、六七年が六一であり(高橋経済研究所『日本蚕糸業発達史』上六五ページ)、外商の間の競争関係が、この市場価格の格差を縮小させる作用を持っていたことがわかるが、価格格差は、外商に大きな利潤をもたらすに十分大きかったといえよう。 価格面以外でも、外商は、有利な取引条件を享受していた。たとえば、生糸取引の場合には、(一)売込商との間で見本にもとづいて、買取価格・買取数量を契約し、(二)買取生糸全量を商館倉庫に搬入させ(引入れ)、(三)見本生糸と対照させながら品質検査をおこない(拝見)、(四)秤による量目検査をおこない(看貫)、(五)代金を支払うという取引慣行が形成された。この際に、(二)の引入れの時に、預証券類を発行せず、引入れから拝見までの期間が一〇日以上という場合もあり、この間の海外市況の変化によっては、拝見時に故意にきびしく検査して不良品を破談(ペケ)にし、また、(四)の看貫では、風袋の量目を実際より多く差し引いて生糸を過小秤量するなどの、不公平な慣行が一般におこなわれた。外商は、清国における貿易活動で効果が大きかった買弁制を、初期の対日貿易にも適用して、商売上手の清国商人を、日本商人との仲介者に用いたが、これが、さきの不公正な取引慣行の形成の一因となった。 外商の優位性は、金融能力の大きさによっても維持されていた。外商が売込商に生糸や茶の仕入資金を前貸しする事例は、開港直後からみられた。ジャーディン=マセソン商会が万延元年から高須屋清兵衛に生糸仕入代を前貸ししたが、コゲついて不良債権となって紛糾した例は、外商がかなり大規模な資金前貸をおこなっていた事実を示している(『横浜市史』第二巻七一一-七一五ページ)。あとで述べるように、売込商は、一般に資金力に乏しかったから、外商からの資金借入によって、金融面から従属的地位に置かれる可能性が大きかった。外商の金融能力は、外国銀行が横浜に進出するとともに、いっそう強化された。 一八六三年三月に、セントラル銀行 The Central Bank of Western India(本店ボンベイ)が横浜支店を開設したのをはじめとして、同年四月にマーカンタイル銀行 The Chartered Mercantile Bank of India, London, and China(本店ロンドン)、同年十月にインド商業銀行 The Commercial Bank of India(本店ボンベイ)が横浜に進出した。その後、一八六四年には、オリエンタル銀行 The Oriental Bank Corporation(本店ロンドン)、ヒンドスタン銀行 The Bank of Hindustan,China and Japan, Limited(本店ロンドン)、一八六六年には香港上海銀行 The Hongkong and Shanghai Banking Corporation(本店香港)、一八六七年にはパリ割引銀行 Comptoir d’Escompte de Paris(本店パリ)、一八七二年にはドイツ銀行DeutscheBank(本店ベルリン)が、横浜支店を開設した(石井寛治「イギリス植民地銀行群の再編」(1)(2)-東京大学『経済学論集』四五巻一・三号)。このうち、一八六六年恐慌に際して閉鎖されるなど、進出に失敗した銀行もあったが、マーカンタイル、オリエンタル、香港上海、パリ割引の諸行は、初期の日本の貿易金融に絶大な力を発揮したのである。 外商は、資金前貸によって間接的に輸出商品の内地市場に接近しようとしたばかりでなく、日本人を使用人(小使・手代)に雇って、産地に派遣して、内地市場から直接に買い付ける方法も用いた。安政条約は、外国人が日本人を雇用する自由を認めていたが、前述のように、外国人の国内自由旅行権は認めていなかった。「内地開放」を拒否した趣旨は、外国資本の国内市場支配を阻止することであったから、外商の日本人使用人を用いた直接買付によって、「内地開放」拒否の条項は実質的に骨抜きにされることになる。そこで、日本側は、日本人を使った直接買付は、開港場外での貿易取引であり、条約違反であるとする見解をとった。しかし、現実には、外商の直接買付を封ずることはむずかしかった。 一八七三年十月に、ドイツ外商クニッフレル商会の日本人手代が上州で蚕種(蚕卵紙)を買い付けたが、政府の蚕種生糸取締政策(後述)に抵触してトラブルが発生し、ドイツと日本の外交折衝がおこなわれた(『横浜市史』第三巻上一二三-一四〇ページ)。争点はいくつかあったが、そのひとつは、直接買付の是非で、外務卿寺島宗則は、条約で許されていない場所で商業を営むことはできないことは明瞭であるのに、クニッフレルは、日本人を使って実質的に条約に違反したと主張した。フォン=ブラント公使は、条約違反か否かは裁判で決めることであり、日本側は訴訟を起こすつもりなのかと開き直った姿勢を示した。この場合の裁判は、ドイツ領事による領事裁判になるから、日本側の主張が通る可能性はない。結局、日本側はクニッフレルの直接買付を条約違反としてそれ以上追及することはできなかった。 クニッフレル事件でも明らかなように、安政条約が、領事裁判権を認めていることは、外商の商業活動の自由な展開を保証することとなり、外商の優位性は、著しく強化されたのである。 売込商・引取商 外商と商取引をおこなった日本人商人は、売込商・引取商(買取商)と呼ばれる。生糸・茶などの輸出商品を外商に売り込むのが売込商、綿織物・毛織物などの輸入商品を外商から買い取るのが引取商であるが、もちろん、同一商人が、売込みと引取りの両方をおこなう場合もある。開港初期には、売込・引取兼営の商人が多く、次第に、いずれかに専業化した商人が増えていったといえる。 開港の準備を進めるなかで、幕府は、開港場への商人の進出を勧奨する布令を発した。横浜の場合には、幕府は、とくに江戸の商人の出店を期待し、三井に外国奉行が出店を命令するなど、なかば強制的に江戸商人を、新開港地に誘致した。幕府の意図は、江戸の特権的商人を頂点とする国内商品流通体制を、そのままのかたちで外国貿易に結びつけ、江戸商人を基軸とする外国貿易の管理体制をつくりだすことにあったといえる。開港直後の安政六年(一八五九)七月時点で、横浜に出店した重要商店九六店のなかで、江戸とその周辺からの出店であることが明らかなものは三一店あり、その大半は、各種の問屋であった(『横浜市史』第二巻六三二ページ)。横浜の売込商・引取商の源流のひとつは、これらの江戸の特権的商人に代表される都市商人であった。 これとは異なるもうひとつの源流は、在方出身の新興商人である。外国との貿易が、新しい利潤形成の舞台となるであろうことを見込んだ冒険心にあふれる地方の商人は、幕府の出店自由の布令に応じて、横浜に参集してきた。初期横浜貿易商人の典型といわれる甲州屋忠右衛門の場合は、開港前の安政六年(一八五九)三月に外国奉行に出店を出願して許可され、四月に借受地を決めて横浜に進出した(石井孝『初期横浜貿易商人の存在形態』による)。忠右衛門は、甲州八代郡東油川村の豪農で、在方商人としても活躍していたところ、開港の情報を得たので、近隣の豪農と協議して、共同出資で横浜に甲州産物会所を出す計画をたてた。しかし、なんらかの事情で共同出資計画は実現せず、忠右衛門は、個人商人として横浜で奮闘することとなった。はじめは、資金不足に悩み、村に残った長男に、衣類を質入れして資金を調達するよう指示するほどの有様であったが、生糸・繰綿・蚕種などの売込みに成功して、富を蓄積し、染料など輸入品の引取り、宿屋・両替屋・質屋な表1-37 大手売込商(1873-1874年) 注 1873年5月17日より1874年5月16日までの『横浜毎日新聞』よりの集計。『横浜市史』第3巻上 587-588,604ページによる。 どを兼営して経営を多角化していった。甲州屋忠右衛門は、生糸・綿・蚕種の生産地である郷里と密接な関係を保つことによって、資本蓄積を進めた。郷里の荷主の商品を外商に売り込んで口銭を得るばかりでなく、自己資金あるいは「乗合」というジョイント・ベンチャーのかたちで調達した他人資金で、郷里を中心に商品を買い付けて自らが荷主となって外商に売り込み、大きな利鞘を獲得したのである。甲州屋は、蚕種ブームの崩壊とともに没落してしまったが、その盛期の資本蓄積の方法は、横浜に進出した在方商人の典型的なパターンを示している。 生産地価格と横浜売込価格との格差や両者の価格変動を利用した商業活動は、いわゆる譲渡利潤や投機的利益をもたらす可能性を持つと同時に、逆に思惑はずれの大損を生む危険性も大きい。甲州屋忠右衛門の例が示すように、初期横浜貿易商人の浮沈は激しかった。生糸売込商の場合、慶応二年(一八六六)の生糸売込商仲間一三一名のうちで、一八七三(明治六)年の横浜生糸改会社に参加したのはわずかに一六名であり、この間の売込商の廃業・転業が多かったことを物語っている(『横浜市史』第三巻上九七ページ)。 一八七三-七四年ころの売込商のなかから、生糸と茶の大手商をとりだしてみると、表一-三七のような顔ぶれになる。生糸売込商の第一位井筒屋(三井組)と第三位越後屋(小野組)は、いうまでもなく十人両替の雄で都市特権商人の代表的存在である(小野組は一八七四年に破産した)。これにたいして、第二位の原(武州児玉生糸売込問屋 亀屋(原)善三郎 県立博物館蔵 郡渡瀬村)、第四位の茂木(上州高崎)、第五位の吉田(上州勢多郡新川村)、第六位の小暮(豆州下田)らは、在方商人の系譜に属する。第八位の敷島屋は、前橋藩が横浜に設けた出張店の後身で、庄三郎は藩の重臣であったと伝えられる変わり種である(『群馬県蚕糸業沿革調査書』)。 製茶売込商の第一位茶屋順之助は、伊勢の津に本拠を置き、江戸で茶問屋を経営していた中条瀬兵衛の横浜店である。第三位の岡野屋利兵衛は、茶問屋を中心とする駿府商人が共同で出店した横浜店の支配人から上昇独立した人物で、系譜としては、都市商人に属する。第二位の大谷嘉兵衛は、伊勢出身で、同郷の江戸茶問屋小倉藤兵衛の横浜店に入り、ついでスミス=べーカー商会(アメリカ)の茶買入掛に雇われて、問題の外商産地直接買付をおこない、明治元年(一八六八)に独立して売込商となった。 生糸売込商には在方商人系譜が多いのにたいして、製茶売込商には都市商人系譜が目立つという特徴がみてとれる。この違いは、後述する幕府の輸出規制政策と関係がある。すなわち、「五品江戸廻し令」の対象となった生糸の場合には、江戸問屋は、横浜売込商のうえに立って統制する役割を与えられたために、自らの横浜進出は抑制されたが、五品外の製茶の場合には、問屋は積極的に横浜に出店することで、自らの営業を守る必要にせまられたわけである。 表一-三七で、生糸・茶の両方に、越後屋と糸屋平八の名がみられるように、売込商は、単一商品の売込みに専業化しているとは限らない。また、製茶第七位の伊勢屋平造のように、引取商を主業としながら、売込みもおこなう商人も存在したのである。 引取商については、資料が乏しい。慶応三年に「引取商仲間規則」がつくられた際には、中屋藤助ほか二四名が連名で、規則制定を神奈川奉行に請願しているから、引取り、つまり輸入を主業とする商人が登場してきたことはたしかであろう(『横浜市史』第二巻七〇四ページ)。鎖国期の長崎貿易で輸入された商品を取り扱う唐物問屋の系譜や呉服太物問屋の系譜に属する引取商のほかに、新興商人も多かったと推定される。慶応三年の「引取商仲間規制」に、輸入品引取は、売込みとちがって誰にでもでき、仲間外で引取りをする者が多いから鑑札による取締りをきびしくするとのくだりがある。外商が輸入品を店頭に展示して現金で販売していたから、資金があれば、輸入商品を購入することは簡単であった。また、輸入品は日本人にとって新しい商品であり、必ずしも、旧来の商品流通経路にとらわれずに流通したから、新興商人の活躍する余地はひろかったといえる。 貿易関連機構の形成 外商と日本商人の取引は、商業手形によってではなく、現金おおむね洋銀(メキシコ・ドル)でおこなわれる慣行になっていた。短期の信用授受、つまり、掛売・掛買はおこなわれたが、個人信用にもとづくものにとどまり、商業信用制度は、明治初期には、まだきわめて未熟である。 安政条約は、内外貨幣の同種同量通用を規定していたが、実際には、洋銀は自然相場で流通し、その相場の変動ははげしかった。外商と日本商人の商取引の支払手段となった洋銀に対する需給関係が、輸出入の変動に応じて変化し、日本通貨との交換比率、つまり為替レートが変動するのは自然である。しかし、洋銀の取引機関が整備され、洋銀需給が為替市場を通して調整される機構が成立するまでは、洋銀相場は、投機的に不自然な変動を繰り返したのである。 幕府は、三井に横浜出店を命ずると同時に、外国方御金御用達に指定したが、その際に、三井に洋銀引替を取り扱わせようとした(『横浜市史』第二巻六八五ページ)。ところが、三井はこれを拒絶したので、幕府の洋銀引替制度構想は挫折した。その後、三井も文久元年(一八六一)に横浜に洋銀購売所を開設したが、一年で閉鎖した。横浜には、投機的洋銀取引を媒介する両替商が、八〇軒以上も発生したといわれ(大塚良太郎編『蚕史』前編九五ページ)、投機の盛行が、正常な取引機関の形成を妨げたのであろう。 維新後、新政府は、商法司・通商司に洋銀売買をおこなわせ、ついで、横浜通商会社(明治二年)、横浜為替会社(明治三年)を設立させて、洋銀取引・洋銀券発行をおこなわせるなど、洋銀取引機構の創出につとめた。一方、横浜商人の手で、金穀相場会所(明治五年)、洋銀相場所(明治八年ごろ)が設けられたが、ながくは続かなかった。結局、洋銀相場の投機的変動を正常な範囲におさえ込むには、本格的な外国為替銀行である横浜正金銀行の登場(明治十三年)が必要であった。 前出の甲州屋忠右衛門の例にもみられるように、売込商、とくに在方商人系譜の売込商は、自己資金の蓄積が乏しく、資金調達に苦心する場合が多かった。のちの時期には、生糸売込商が、地方荷主に対して前貸しや荷為替立替えなどの金融をおこなうことが一般化するが、開港初期は、「問屋と荷主との関係は、宛で今とは反対で、荷主は何れも地方の資産家であるから金力も有るが、問屋の方は多くは金力に乏しく、荷主に対して只賃銭の立て替へ位なもので、為換を付けると云ふ事もなく、今の様に問屋が地方の荷主に資金を融通するといふ様なことは無論なく」(橋本重兵衛『生糸貿易之変遷』二一ページ)という状態であった。もっとも、原善三郎のように、明治初年にすでに蚕種買付のために前貸金融をおこなう事例も、個別的には存在した(『横浜市史』第三巻上五七三-五七七ページ)。しかし、一般的には、金融機関が整備されるまでは、売込商の資金運用には限界があったといえよう。 貿易商人に対する金融機関として、幕末期に存在したのは、既述の外商(資金前貸)や小規模な両替屋・金貸しのほかには、三井組であった(『横浜市史』第二巻六八五-六九七ページ)。外国方御金御用達を命ぜられて幕府公金を預っていた三井横浜店では、手代の裁量によって、かなりの浮貸しがおこなわれた。商品担保による貸付けで、前出の甲州屋忠右衛門も借りている。この公金浮貸しは、文久元年(一八六一)ころから慶応二年(一八六六)まで続けられ金額も大きかったから、初期の貿易金融としては、かなり重要な役割を果たしたといえよう。浮貸しは発覚し、慶応三年に三井手代が処罰されるなどで幕となった。 これとは別に、江戸では三井御用所が、慶応二年から江戸市中融通御貸付金の取扱いをはじめた。幕府は、三井に関税収入の一部を貸し下げて基金とし、それに一般からの預金を加えて、商品担保貸付をおこなわせたのである。慶応三年からは、横浜商人に対しても、この制度が適用され、茂木惣兵衛ら八名の横浜商人が荷物為替組合を組織し、連帯責任制で御貸付金の融通を受けることとなった。この三井御用所の商品担保金融が、横浜における、はじめての本格的な貿易金融制度であった。 三井御用所の貿易金融機能は、維新後、商法司・通商司・横浜為替会社、そして第二国立銀行(明治七年開業)に引き継がれ、やがて、横浜正金銀行を軸とする貿易金融機構へと発展したのである。 二 初期の輸出貿易 輸出品の構成 開港以来一八七六(明治九)年までの横浜における輸出貿易の特徴を概観しよう。輸出総額の推移は、前掲図一-三でみたように、開港後六-七年は輸出が急速に拡大し、その後は、横ばい気味に漸増傾向をたどっている。同じ『英国領事報告』の数値をもとにして、各年の輸出品のなかから、上位五品目をとりだすと、表一-三八のようになる。 各年とも、第一位の輸出品は生糸である。ただし、輸出総額に対する構成比では、初期には八〇㌫をこえる年もあったが、維新前後から四〇-五〇㌫台に低下している。第二位、第三位は、慶応元年(一八六五)以降は、茶と蚕種とが交替に占めている。茶は開港当初から、第二位または第三位に位置する重要輸出品であった。蚕種は、元治元年(一八六四)から上位五品表1-38 横浜主要輸出品(1860-1876年) 注 『英国領事報告』による数値。1867年までは,『横浜市史』第2巻370,371,372,375,505,512,519ページ,1868年以降は,『横浜市史』資料編2 63,65,67ページによる。1866年は,横浜大火のため数値不詳。 目に登場し、急速に重要輸出品となり、慶応三年(一八六七)から明治三年(一八七〇)までは、第二位を続け、明治四年(一八七一)から第三位になっても、なお構成比は一〇数㌫以上であったが、明治七年(一八七四)に構成比五・八㌫に急落してから、重要輸出品の座を離れていった。一八六三-六四年には、一時、原綿が第二位の輸出品となっている。これは、いうまでもなく、アメリカの南北戦争によって世界の綿花需給が逼迫したためのもので、一時的な現象であった。このほか、水油・銅・漆器・干魚・木材・繭・真綿・屑糸・熨斗糸・玉糸などが表一-三八には登場するが、いずれも構成比は小さい。この時期の横浜輸出貿易の中心は、生糸・茶・蚕種の三商品であったといえる。 生糸輸出 生糸輸出の推移を、『英国領事報告』の数値を用いた指数でみると図一-五のとおりである。輸出数量は、開港後から文久三年(一八六三)まで急増するが、そののちは、漸減傾向が明治三年(一八七〇)まで続き、明治四年に急増したあと、横ばいの状態がしばらく続いている。輸出価額は、輸出単価の上昇のために、慶応元年(一八六五)まで急増し、慶応二年(一八六六)から明治三年(一八七〇)にかけて減少傾向を示し、明治四年(一八七一)の急増ののちは、再び明治八年(一八七五)にかけて減少傾向を示している。開港直後に、生糸輸出が急増したのは、生糸の国内価格が、国際価格にくらべて、大幅に安かったという価格的要因のほかに、たまたま、ヨーロッパで蚕病(微粒子病)が流行し、フランス・イタリアなどの養蚕業が大打撃を受けていたという事情によるものであった。当時、ヨーロッパで生糸需要量が多かった国は、フランス・イタリア・イギリスであったが、一八五〇年代にフランス全土、六〇年代にイタリア全土にまん延した蚕病が、フランス・イタリアの生糸生産を激減させたので、ヨーロッパ諸国は、アジアからの生糸輸入を拡大せざるを得なかった。日本は、先進輸出国清国のあとを追って、ヨーロッパ生糸市場に参入したのである。 広大な輸出市場が開かれたものの、生糸輸出(数量)は、開港数年後に頭打ちになり、漸減する傾向すら示した。これは、基本的には、国内生糸価格が急騰して国際価格への鞘寄せが進んだことと、輸出生糸の供給が生糸生産能力の限界にぶつかったことによって生じたといえる。国内価格の上昇が、国内生産を刺激し、供給を増大させ、それが、価格の低下をもたらして輸出を増加させるという経済的過程が進行しそうに思われるが、そうはならなかったところに、この時期の日本の経済構造の特質があった。つまり、幕藩体制下の封建的諸規制は、養蚕の基盤となる桑園の拡張にブレーキをかけていたし、農民・小生産者の生糸生産の拡大に必要な資金の供給体制はととのえられていなかった。さらに、後述する幕府の輸出規制政策・流通規制政策が、マイナス要因として作用した。 維新後も、生糸輸出数量は、伸び悩み状態を示している。明治四年(一八七一)の廃藩置県後、封建的諸規制の廃止が進んだが、ただちに、生糸生産・輸出への影響があらわれるわけではなかったし、生産資金供給体制も、依然、不備であった。さらに、のちに述べるように、蚕種の輸出ブームが、生糸生産の足をひっぱるという特殊要因も作用した。また、生糸生産能力をこえる需図1-5 横浜からの生糸輸出(1860-1876年) 注 1860年数値(輸出数量7,703ピクル,輸出価額2,594,563ドル)=100。『英国領事報告』の数値による。1867年までは,『横浜市史』第2巻370,371,372,375,505,512,516,519ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編263ページによる。 要の継続が、生糸の粗製濫造を招き、海外市場における日本生糸の需要を減退させるという悪影響もあらわれていた。ヨーロッパ蚕糸業が日本からの蚕種輸入と、パスツール式予防法で蚕病を克服して回復に向かったことも、日本生糸の輸出環境をきびしいものにした。 横浜貿易の最重要商品生糸は、輸出第一位の座にあったものの、この時期には、まだ、克服されなければならない問題点を多くかかえていたわけである。 製茶輸出 生糸に次ぐ重要輸出品であった製茶の輸出の推移を、『英国領事報告』の数値によってみると、図一-六のようである。輸出数量は、この期間を通して、かなり急テンポで拡大を続けている。輸出価額の伸びは、輸出単価の上昇が加わって、きわめて急速なものとなっている。この結果、一八七四-七五年ころに図1-6 横浜からの製茶輸出(1860-1876年) 注 1860年数値(輸出数量23,852ピクル,輸出価額308,452ドル)=100。『英国領事報告』の数値による。出典は,前掲図1-5と同じ。 は、前掲表一-三八にみられるように、製茶輸出額は横浜輸出総額の四〇㌫近くになり、生糸輸出と肩をならべるほどに成長した。横浜からの輸出が一〇〇㌫に近かった生糸の場合とは異なって、製茶は、長崎・神戸からも輸出されており、横浜輸出は、輸出数量では、全国輸出の六〇-七〇㌫を占めていた(『横浜市史』第二巻五六〇ページ、第三巻上四八七ページ)。 製茶輸出が、生糸輸出にくらべて、順調な伸びを示した要因は、ひとつは、輸出仕向先が、南北戦争後急速な経済成長を示したアメリカを中心としていたことであり、もうひとつは、国内の供給力が順調に拡大したことであった。生糸が奢侈品であり、天保改革以来国内生産が抑制されていたのにたいして、茶は必需品として全国で栽培されていたから、開港直後の時点では、茶のほうが供給拡大の余力が大きかったし、封建的規制の圧力も、茶生産にはあまり及んでいなかった。さらに、養蚕・製糸にくらべて、製茶は、生産工程が単純で、必要な資金も少なくてすんだから、各地の豪農クラスの農民の資金によって、急速に生産を拡大させることが可能であった。また、幕府は、生糸の場合と異なって、茶の流通規制には消極的で、「江戸廻し令」の対象にもしなかったから、茶輸出は、自由に伸びることができた。 国内で製造された茶は、そのままアメリカに船積みされるのではなく、再製加工をほどこされてから輸出された。海上輸送・長期保管にたえられるように、再煉つまり火入れをおこなってじゅうぶん乾燥させることと、インディゴなどの染料で着色することが再製加工であった。再製加工は、中国茶輸出の慣行であり、はじめは、日本製茶を香港・上海に回送して、再製のうえで、アメリカに積出ししていた。文久二年(一八六二)ころから、外商の経営する再製工場が横浜居留地内につくられ、外商は、買い付けた国内製茶を横浜で再製加工し、直接アメリカに輸出するようになった。再製工場は、「お茶場」と呼ばれ、三〇〇坪ほどの石造りの建物のなかに、二〇〇~三〇〇くらいの炉が築かれ、直径六〇㌢㍍、深さ四〇㌢㍍ほどの鉄鍋を用いて、再煉・着色作業がおこなわれた。一八七三(明治六)年ころ、横浜では一五工場が操業し、二〇〇〇人くらいの日本人女工が就労していた(『日本茶輸出百年史』三八-三九ページ)。このような外国資本による再製工程の支配と、そこにおける日本人女工の低廉な賃労働によって、茶輸出の順調な伸びは、支えられていたわけである。 蚕種輸出 元治元年(一八六四)ころから登場した蚕種の輸出の推移を、『英国領事報告』の数値でみると、図一-七のようである。蚕の微粒子病に悩むヨーロッパ蚕糸業は、微粒子病対策の一環として外国産蚕種の使用を研究し、インド産・中国産より、日本産の蚕種が適当であると判断し、日本からの蚕種輸入を強く希望した。幕府は、生糸輸出規制との関連で、蚕種と繭の輸出を原則的に禁止していたから、各国は、輸出解禁を強く幕府に迫った。幕府は、元治元年から、輸出禁制を大幅に緩和したので、以来、蚕種は急速に重要輸出品として伸びた。 元治元年(一八六四)の蚕種輸出価額は約二〇万ドルであったのが、翌六五年には三・三倍の六六万ドル図1-7 横浜からの蚕種輸出(1867-1876年) 注 1867年数値(輸出数量738,156枚,輸出価額2,144,468ドル=100。『英国領事報告』の数値1867年は『横浜市史』第2巻519ページにより,1868年以降は,『横浜市史』資料編263ページによる。 になり、六七年には二二〇万ドルをこえて、横浜輸出品の第二位におどり出した。ところが蚕種輸出は、翌一八六八年をピークに、その後は、数量は横ばい、価額は減少する傾向となった。そして、一八七四年には、輸出価額は激減して、一八六五年とほぼ同じ水準にまで落ち込み、以後、横浜輸出品第三位にとどまってはいたものの、輸出総額に占める割合は小さく、重要輸出品の座をすべり落ちてしまった。その原因は、ヨーロッパ蚕糸業が、微粒子病の克服に成功し、蚕種自給力を回復させたためであったことはいうまでもない。 この一時的な蚕種輸出ブームは、生糸輸出に、かなりの悪影響を及ぼした。まず、突然の蚕種の大量輸出は、国内養蚕用蚕種の需給を逼迫させ、蚕種不足と蚕種価格騰貴が、繭生産を圧迫した。つぎに、蚕種価格騰貴は、生糸用繭よりも蚕種用繭の生産に養蚕農家の関心を向けさせ、生糸原料繭供給を圧迫した。さらに、ブームにのって蚕種供給が急増し、蚕種価格が下落しはじめるなかで、優良蚕種が選択的に輸出され、低品質の蚕種が国内に出回るようになって、生糸原料繭の品質低下が生じた。蚕種輸出ブームは、原料繭の生産量と品質とにマイナスの影響を及ぼして、生糸生産の足をひっぱった。一方、輸出された日本産優良蚕種は、ヨーロッパ蚕糸業を、蚕病の打撃から立ち直らせるのにひと役かったのであるから、蚕種輸出は、日本生糸の輸出市場を狭めたことになる。蚕種輸出のもたらした悪影響は、大きかったのである。 蚕種ブームとその急速な消滅は、横浜貿易商人にも大きな影響を与えた。前に引例した甲州屋忠右衛門も、蚕種ブームの反動で没落したのであり、この激動を乗り切れるか否かが、横浜貿易商人にとって、開港以来、最大の試金石となったといってよいだろう。蚕種恐慌とも呼べる事態が生じた際の横浜商人達の対応策については、のちに述べることとする。 三初期の輸入貿易 輸入品の構成 万延元年(一八六〇)から一八七六(明治九)年までの、横浜における輸入貿易を概観しよう。輸入総額は、前掲図一-三でみたように、開港以来一八六五年までは、急速に増加し、以後、六九年まで停滞気味となったが、七〇年の一時的な急増をきっかけに、増加傾向に移っている。『英国領事報告』の数値によって、横浜輸入品の主要なものの構成比をみると、表一-三九のようになる。 横浜輸入総額に対する構成比第一位の数値をゴチック数字であらわしてあるが、ゴチック数字が一番多いのは、綿織物であり、初期の横浜輸入貿易の最重要商品は、綿織物であったといってよい。幕末期には、毛織物が第一位であった年が二年ある。毛織物と毛綿交織物とを合計した額では、維新後も、輸入第一位となる年があるから、毛織物・交織物も、初期横浜輸入の重要商品であった。維新後の時期に、構成比が大きくなった綿糸(綿織糸)は、四回輸入第一位になっている。維新以降、綿糸は綿織物に代わって、横浜輸入最重要商品になりつつあったといってよいだろう。綿糸と同じように、維新後に輸入構成比が拡大しつつあった商品として、砂糖が目立つ。砂糖は、綿織物・綿糸・毛織物に次ぐ四番目の重要輸入品であった。これらの輸入品ビッグ・フォーについては、のちにやや詳しく検討しよう。 特殊事情から、一時的に輸入第一位になった商品として、一八六二年の金属と一八七〇年の米がある。錫・鉛・亜鉛の輸入が、一八六二年、六三年に多かったのは、貨幣鋳造用・軍需用に幕府が大量購入したためであった(『英国領事報告』一八六二年、『資料編』18近代・現代(8)二)。軍需用品輸入としては、兵器と艦船があり、一八六二年には、汽船四隻、帆船二隻が輸入さ表1-39 横浜主要輸入品(1860-1876年) 注 『英国領事報告』による数値。「その他」は,表出数値の残差として計算した。不明のため空欄とした品目の数値が,「その他」に含まれる場合もあり得る。空欄となっている交織物欄の数値は,「毛織物」に含まれている可能性がある。1866年は,横浜大火のため数値不詳。ゴチック数字は構成比第1位のもの。1867年までは,『横浜市史』第2巻388,391,392,393,527,530,537ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編267,69,71,73,75ページによる。 れ、イギリス汽船三隻分の代価は四〇万ドルに及んだ(『英国領事報告』同上)。一八六八年に兵器輸入が激増しているのは、いうまでもなく、戊辰戦争の影響であり、イギリス領事フレッチャーは、最新式火器は売り手の言いなりの値段で売れ、さらにもうけようとして、商人が本国に火器を発注したところ、休戦になって投機家は見込みがはずれ、多量の在庫が残ったと報告している(『英国領事報告』一八六八年、『資料編』18近代・現代(8)四)。 フレッチャー領事の同じ年の報告に、不作予想で相当量のサイゴン米の思惑輸入がおこなわれたが、米作柄はよく、思惑は失敗に終わったとの記事がある。幕末の米価騰貴とともに、一八六七年から米が新しい重要輸入品として登場し、投機的商品として思惑の対象になったのである。幕府が、外米輸入を許可した背景には、征長の役をきっかけとした米価暴騰が、全国で打ちこわしという民衆暴動を発生させ、慶応二年(一八六六)五月には、江戸でも打ちこわしが起きるにいたったという事情がある。物価騰貴に外国人がひと役かっているとの世評は、民衆の外国人に対する反感をつのらせ、投石などの暴行事件も生じた。アメリカ公使・イギリス公使らは、幕府に外米を輸入して事態に対処するよう勧告し、幕府もこれに応じたのである(『横浜市史』第二巻五四〇-五四一ページ)。一八七〇年の米輸入の激増は、前年の大凶作による需給逼迫のためであり、七〇年前半期の高米価が、輸入を刺激し、米輸入資金の需要は、他の商品輸入資金不足を生じさせるほど大きかった(『英国領事報告』一八七〇年、『資料編』18近代・現代(8)五)。 綿織物輸入 初期横浜輸入貿易の重要品であった綿織物の輸入額の推移を、『英国領事報告』の数値でみると、図一-八のとおりである。全国綿織物輸入額のなかで、横浜輸入の占める割合は、一八七一年までは、ほぼ八〇㌫をこえていたが、七二年以降は、六〇-七〇㌫台に低下している。はじめ横浜から関西方面に回送された綿布が、神戸に直接輸入される傾向があらわれてきたためである。 綿織物の輸入額は、一八六四年から急増したが、六八・六九年に一時減少し、七〇年から七三年にふたたび急増したのち、七四年から減少傾向を示している。綿布は、日本人の常用衣料品であったが、機械紡績糸を力織機で織りあげた輸入綿布は、手紡糸を手機で織った在来綿布との品質差が大きく、開港後、ただちに需要が急増したわけではなかった。一八六〇年の織物輸入について、イギリス領事ヴァイスは、太平天国の乱で上海での取引が停滞したために、綿・毛織物が日本市場に無理やりに持ち込まれ、はじめはよく売れたが、数か月で供給過剰になってしまったと報告している(『英国領事報告』一八六〇年、『資料編』18近代・現代(8)一)。また、一八六二年のヴァイス領事の報告では、日本綿花が豊作で、綿布は潤沢に供給されており、国産綿布図1-8 綿織物の輸入額(1860-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1860-63年の全国と1866年は数値不詳。1867年までは,『横浜市史』第2巻388,391-393,527,530,537,561ページ,1868年以降は,『横浜市史』資料編2 7,9,67,69ページによる。 より不釣合いに高い価格の輸入綿布は敬遠されていると指摘されている(『資料編』同上二)。この時点では、輸入綿布は、在来綿布より高品質ではあるが、価格も高い舶来品であった。 ところが、一八六一年からはじまったアメリカの南北戦争の影響で国際綿花需給が逼迫しはじめ、綿花価格が高騰すると、日本綿花の輸出が開始され、一八六三-六四年の二年間は一時的に大量の繰綿が、横浜と長崎から船積みされた。余剰綿花ではなく、内需用綿花が輸出されたから、国内の綿花需給は逼迫し、繰綿・木綿糸・綿布の価格は急騰した。一八六五年春には南北戦争が終わり、アメリカの綿花の輸出が回復したから、綿花国際価格は低図1-9 綿織物価格の比較 注 国産綿布は,白木綿大阪価格で,1860年価格(1反銀7.5匁)=100。大阪大学近世物価史研究会『近世大阪の物価と利子』による。 輸入綿布は,金巾横浜輸入単価で,1860年価格(1反3.16ドル)=100。『横浜市史』第2巻553ページによる。なお,国産綿布1反と輸入綿布1反は布面積が異なるので,価格の直接比較はできない。 下し、綿製品の国際価格も下落したが、日本では、この年の綿作が凶作となったために、逆に綿製品価格は高騰した。万延元年(一八六〇)を基準年とする価格指数で、国内産白木綿と輸入金巾の価格動向を比較すると、図一-九のとおりであり、元治元年(一八六四)ころから、両者の指数は、大きく開差がついていく。両者の価格を直接比較することはできないが、この指数値の動きは、高騰する国産綿布にくらべて、輸入綿布の価格が相対的に安くなる傾向にあったことを示している。 一八六四年からの綿織物輸入の急増は、このような事情によって生じたものであり、品質がよく、しかも価格が安くなった舶来綿布は、在来綿業を衰退させるほどの勢いで、日本に流入を開始した。輸入綿布の品種は、金巾(生金巾、晒金巾、色金巾等)、唐桟、更紗、ビロード、天竺布、雲斎など多種類であったが、最も大量に輸入されたのは、和服裏地用の需要が多かった金巾類であった。推計によると、一八七四(明治七)年の日本国内の綿布総需要量の約四〇㌫は、外国製綿布の輸入によってみたされる状態であった(中村哲『明治維新の基礎構造』二二一ページ)。輸入綿布への依存度がいっそう高まっていけば、日本は、生糸を輸出し、綿布を輸入するという後進国型の経済構造、さらには植民地的モノカルチャー型の経済構造になる恐れがあった。ところが、綿布輸入は、一八七三年をピークに、以後、漸減する傾向を示しはじめた。その原因は、綿糸輸入の増加であった。 綿糸輸入 輸入綿布によって、市場を蚕食されて大きな打撃をこうむった国内の綿織業は、ほどなく、原料を国内産手紡糸から輸入紡績糸に転換させることによって、新しい発展の方向をつかんだ。輸入綿糸の品質の良さは、織布工程における機械制生産技術によるよりも、原料糸の紡績工程における機械技術の優秀さによって生まれるといってよい。そこで、機械製紡績糸を使用して、在来の織機で綿布を生産すれば、かなり上質のものができることになる。また、生産費も、輸入糸を使用することによって低減させることができる。経糸に輸入糸、緯糸に国産糸を用いた「和唐」、「半唐」などと呼ばれる織物や、経糸・緯糸とも輸入糸を用いた織物が、各地でつくられるようになった。 綿糸輸入額は、図一-一〇のように推移した。早くから輸入がはじまってはいたが、輸入額が増加するのは、一八六七年ころからであり、綿布輸入が減少傾向に入った一八七四年以降も、綿糸輸入は増加傾向を保っているのが特徴的である。この時期には、綿糸輸入額のほぼ九〇㌫以上が、横浜へ輸入されている。輸入糸は、横浜から、東京と大阪に回送され、両地から、東日本・西日本の需要地へ輸送された。 綿織物輸入から綿織糸輸入へと綿貿易の重心が移動したことは、国内の綿織物生産体制が再建されたことを示し、それは、日本綿業が近代的綿業として発達する拠点が確保されたことを意味していた。植民地的モノカルチャー型経済とは異なった方向で、日本経済が発展する可能性が大きくなったといって図1-10 綿糸の輸入額(1861-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1861-62年の全国と1860,63,66年の数値は不詳。1867年までは,『横浜市史』第2巻388,391,392,393,527,530,537,562ページ,1868年以降は,『横浜市史』資料編29,69ページ。 よい。そのためには、近代紡績業が発達して、綿織糸輸入からさらに原綿輸入へと綿貿易の重心が移ることが期待されるが、この時期の綿花輸入は、前掲表一-三九のように、小さい割合しか占めていない。神戸への綿花輸入もまだ少量であり、綿花輸入が本格的に拡大するには、なおしばらくの時間が必要であった。 毛織物・交織物輸入 毛織物は、鎖国期にも長崎貿易を通して、日本に若干は流入し、領主層や富裕な商人層を中心に用いられていた。開港後は、庶民層に新奇衣料として、次第に需要がつくりだされていくとともに、洋式軍隊や警察の制服用として大きな市場がつくられた。毛綿交織物は、毛織物より下級の織物として、庶民層を中心に需要をつくり図1-11毛織物・交織物の輸入額(1860-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1860-62年の全国と1866年の数値は不詳。1876年までは,『横浜市史』第2巻(参照ページは図1-10と同じ),1868年以降は,『横浜市史』資料編 2 9,69ページ。 だしていった。 毛織物・交織物の輸入額は、図一-一一のように推移した。開港後、慶応元年(一八六五)までは一貫して輸入は伸びたが、それ以後は減退傾向をたどり、一八七二-七三年には急増し、七四年には急減するなど、かなり不安定な輸入動向を示している。これは、毛織物が普及初期で需要が未成熟であり、また、軍需という変動的な需要に依存する度合が大きいところから生じているといえる。 輸入された毛織物の品種としては、はじめ、鎖国期からなじまれてきた呉絽服連(らくだ織呉呂) Camlet が多かったが、やがて、ラシャとモスリンが中心となった。そのほかは、毛布が多く、フランネルもかなり輸入された。交織物では、オルレアンスとイタリアン・クロスが中心であった。 毛織物・交織物輸入における横浜の地位は、はじめ高かったが、一八七〇年代にはやや低下して、全国輸入の六〇-七〇㌫を占める程度となった。 毛織物・交織物の輸入も、ある程度競合関係にある綿織物の国図1-12 砂糖の輸入額(1861-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1861,62年の全国と1860,63,66年の数値は不詳。1867年までは,『横浜市史』第2巻,388,391,392,393,527,530,537,563ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編213,73ページ。 内生産に打撃を与え、日本綿業の再編成をうながす要因となった。 砂糖輸入 砂糖の輸入額は、図一-一二のように、明治期に入ってから毎年かなり高い水準を示している。このうち、横浜輸入は、はじめは八〇㌫台を占めていたが、一八七二年ころからは七〇㌫台の構成比となった。量的には、中国南部と台湾産の赤砂糖が中心であり、中国商人の手を経て輸入される場合が多かった。 砂糖輸入の増大が、在来糖業に打撃を与えたことはいうまでもない。 四 貿易政策と横浜貿易 五品江戸廻し令 安政条約は、自由貿易を原則としてうたっていたが、幕府は、その原則の遵守者であったわけではない。逆に、幕府の基本姿勢は、鎖国期の長崎における管理貿易に近い体制を再編する方向に向いていたといってよい。開港直後の時期には、輸出によって価格が騰貴しはじめた商品について、横浜運上所が輸出数量を制限する措置をとった。これにたいして、外国側は、条約違反であると抗議したので、幕府もやむをえず、運上所による直接的な輸出規制をとりやめた(『横浜市史』第二巻二八四-二八五ページ、以下本項の記述は、同書による)。とはいえ、幕府は、輸出規制をあきらめたわけではなく、直接規制方式から間接規制方式に戦術を転換させ、万延元年(一八六〇)閏三月に、「五品江戸廻し令」を布告した。雑穀・水油・蝋・呉服・糸(生糸)の五品について、産地から横浜に直売することを禁止した「五品江戸廻し令」(正文は『続徳川実紀』第四篇二五三ページ参照)は、江戸問屋を媒介とした間接的な輸出規制をねらいとしていた。最重要品である生糸の場合には、(一)産地荷主は内国向・輸出向ともに、江戸の糸問屋に販売する、(二)江戸糸問屋は、国内需要に対して、供給不足にならないよう配慮したうえで、横浜貿易商人に輸出向として生糸を販売する、(三)横浜に江戸問屋共同の出店を設け、輸出向生糸の搬入を管理し、江戸問屋送り状のない隠売品を摘発する、(四)横浜商人は、江戸問屋に三分五厘の改料を支払う、(五)江戸問屋は、幕府に運上を納める、という流通体制が構想された。これは、生糸を、江戸糸問屋の独占的支配のもとに置き、国内需給の調節、輸出生糸の数量および価格の調節をおこなわせ、さらに独占利潤の一部を幕府に上納させるという「一石三鳥」の構想であった。 しかし、この構想が、そのまま実現される状況にはなかった。まず、横浜商人が、江戸問屋による流通支配に反対して、神奈川奉行をうしろだてに、糸問屋の横浜出店、売渡口銭取得に強硬に抵抗した。神奈川奉行は、江戸町奉行支配下の糸問屋が、自己の管轄地に入り込んで勢力を張ることに反発し、さらに、外国側の輸出規制に対する抗議をおそれて、「江戸廻し令」の実施に批判的な態度を示したのである。江戸糸問屋は、町奉行のうしろだてで、横浜商人を流通規制に組み込もうとしたが、神奈川奉行の妨害にあって、当初の構想は、結局実現できなかった。 そして、万延元年(一八六〇)六月から、(一)産地荷主は、横浜送り生糸を、いったん、江戸の改所に送る、(二)改所には糸問屋が交替で詰め、生糸の品質・量目を検査し、名目的な買い主となり、改所費用として一分五厘程度の口銭を取って、荷主指定の名義人に売り渡す、(三)改所の送状を得た名義人が横浜へ出荷する、という流通規制が実施された。江戸問屋による生糸流通の数量面・価格面からの規制は実現せず、輸出生糸が、江戸の改所を経て、横浜に流れるというだけの規制になったわけである。「五品江戸廻し令」は、その本来のねらいが実現されないままに、形式的には実施されるにいたったといえる。 横浜鎖港問題と生糸規制 三年ほど経過したのちの文久三年(一八六三)六月ころ、養蚕不作予想から生糸価格が急騰したのをきっかけに、生糸輸出規制の必要性が唱えられ、江戸糸問屋は、改所からの横浜回送高を、一か月約一五〇〇箇に制限しようとした。これにたいしては、外国側から抗議が出され、幕府は、輸出制限はしていないと回答し、糸問屋による回送制限は撤回された。その直後、同年九月に、横浜鎖港問題が発生し、幕府は、朝廷対策として、外国代表と横浜鎖港談判を開始した。もちろん、諸外国は鎖港を拒否したから、幕府は、横浜貿易を制限することで、朝廷の意向にこたえたかたちをととのえようとした。そして、幕府は、九月下旬に、「五品江戸廻し令」の励行触書を発して、流通規制の強化をはかった。 同じころ、京都や江戸・横浜で、攘夷派浪士による貿易商人の脅迫事件が頻発し、天誅を加えると名指しされた商人たちが貿易から手を引いたり、横浜店を閉じて退去するなどの動きが目立った。そのなかで、糸問屋も脅迫の対象とされ、問屋仲間は、文久三年(一八六三)十月に生糸改の仕事を返上したいと申し出たが、町奉行はそれを認めなかった。ところが、同じ十月下旬に、糸問屋仲間の書役の家が襲われて殺害される者がでるという事件が起こり、問屋一同は、生糸改方を辞してしまった。町奉行は、糸問屋の改方辞任を認めたあと、新しい措置を講じないで放置したままにしたから、横浜への生糸回送はストップしてしまった。 事態を重視したイギリス領事らの強硬な抗議を受けて、神奈川奉行は、町奉行に生糸回送再開を要請した。町奉行は、老中の意向も受けて、糸問屋仲間に横浜回送再開を命じた。糸問屋仲間は、貿易生糸送り方引請人として四名の問屋を決め、四名が全責任を負って輸出生糸を取り扱うこととした。輸出生糸の数量は問屋仲間全員で協議決定し、その数量分は、四名の引請人が荷主から完全に買い取って、横浜商人に売り渡すという方式がとられた。当面、輸出数量を一か月五〇〇箇に限定して、元治元年(一八六四)正月から、横浜への生糸回送が再開された。 一方、幕府は、元治元年四月に、田畑に新規に桑を植えることを禁止する布令を発し、五月には「物価引下令」によって糸問屋に高値生糸の買入禁止を指示し、六月には生糸・茶を輸出向の特別な製造方法で製造することを禁止した。これらの措置は、封建的経済構造を維持するという一般的な目的のほかに、上洛した将軍家茂が朝廷に約束した横浜鎖港の布石というねらいを持っていた。糸問屋の買入価格規制は、事実上、輸出生糸の買入れを停止させることになり、横浜への生糸回送は、再びストップしてしまった。生糸輸出が停止した横浜は、事実上、鎖港状態になったといってよい。 事実上の横浜鎖港を打ち破ったのは、イギリス公使オールコックの主導でおこなわれた四国連合艦隊による下関攻撃であった。萩藩に対する実力行使の成功を背景に、元治元年八月、四国代表は、外国奉行と会見して横浜鎖港反対の意向を伝え、生糸回送再開を要請した。外国奉行は、生糸回送を約束し、九月には、町奉行が、糸問屋に対して、輸出生糸買取制は廃止し、検査のうえで送り状を出して横浜に回送させるよう命じた。万延元年(一八六〇)六月からの改所を経た輸出生糸回送の際にも、問屋買取制は形式的に実施されていたのにくらべると、買取制の正式廃止は画期的であり、「五品江戸廻し令」は、実質的に廃止されたといってよい。以来、生糸は、堰を切ったように横浜に流入し、横浜貿易は、再び活況を呈したのである。 その後、幕府は、江戸・横浜における流通規制の強化を試みることはしなかったが、産地における規制によって、品質検査と課税をおこなおうとした。慶応二年(一八六六)五月から実施された「生糸蚕種改印令」は、江戸問屋による検査を廃止して、産地における検査に切り換え、公領は代官、私領は大名が検査をおこなって改印を押し、改方手数料をとり、その一部を幕府が冥加として収納するという新制度であった。これとともに、「五品江戸廻し令」は廃止され、生糸は、検印があれば、横浜に直送できることになった。 新制度は、生産者の側から強い反発を受け、おりから高揚した農民一揆の攻撃対象にもなった。結局、改印制度は、所期の成果が得られないままに、幕府崩壊を迎えたのである。 明治政府の蚕糸規制政策 維新後、新政府は、主として財政収入を得る目的で、生糸と蚕種の輸出規制をおこなった。明治元年(一八六八)五月から、輸出向生糸・蚕種は、江戸の改所の改印を受けないと、横浜関門を通れないこととなった(この件は、『横浜市史』第三巻上による)。改印は、印税徴収済証明であると同時に検査済証明であり、改印の実務は、江戸糸問屋が担当した。十一月からは、生糸・蚕種取引の鑑札制度が実施された。鑑札を得た生産者または商人が、生糸・蚕種を江戸(東京)の改所に送り、印税を会計局(東京収税局)に納入し、改印を受けてから横浜に送るという手続が実施されたわけである。 印税は、品質検査の手数料である限りは問題ないが、財政収入を目的とする課税であるとすると、輸出品に対する二重課税となるから、条約違反の疑いが生じる。明治二年(一八六九)九月に、民部省は品質検査体制を強化する意図から、東京以外に、大阪と各開港場付近にも改所を設ける旨を布告し、改印の際の税則も明文化した。ところが、これにたいして、外務省が、条約違反のおそれがあるとして強く反対したので、民部省は、布告を取り消した。横浜などに改所を新設し、荷主・売込商の負担を軽くする案は実現されなかったのである。東京改所の改印が、いつまで続けられたか確認できないが、あるいは、このころに、条約との関係から廃止されたのかもしれない。 財政収入の観点とは別に、粗製濫造を防止する必要から、明治政府は、蚕糸蚕種規制をおこなった。明治三年(一八七〇)の「蚕種製造規則」の公布にはじまる蚕種規制と、明治六年(一八七三)の「生糸製造取締規則」による生糸規制がそれである(この件、『横浜市史』第三巻下、『商工政策史』第五巻貿易(上)による)。 「蚕種製造規則」は、明治四年、五年、六年、七年と毎年のように改訂され、そのたびに規制内容が緩和されたが、制度の趣旨は、蚕種の品質検査と供給量調節にあった。蚕種紙の原紙の供給調節と、種付の終わった蚕種紙への検査証印または免許印紙貼布とによって、粗製濫造を防止し、さらに国内の蚕種需給をバランスさせるとともに、蚕種輸出量を規制することがはかられた。この蚕種輸出規制に対する外国側の反発が、たび重なる規則改訂をもたらしたのである。 「生糸製造取締規則」は、同時に決定された「生糸改会社規則」とともに、次のような規制体制を定めていた。(一)大蔵省が、生糸に結用する印紙を地方官に渡す、(二)地方官は、各地につくられる生糸改会社に印紙を売り渡す、(三)生糸改会社は、印紙を生糸製造人に売り渡す、(四)製造人は、生糸等の製品に印紙を結びつけ、住所氏名を明示して封印する、印紙のない製品の売買は禁止し、違反者には科料を課す、(五)地方の生糸改会社は、生糸を検査して改済の押印をする、そして、輸出向生糸を開港場に設けられる生糸改会社または、それに加入する売込問屋に送る、(六)開港場の生糸改会社は、輸出向生糸を検査し、粗製濫造品があれば、押印した地方生糸改会社から罰金をとる(地方生糸改会社は、その製造人から罰金をとる)、(七)地方生糸改会社と開港場生糸改会社は、たがいに会社加入者以外とは取引をせず、それに違反した場合には罰金を払う。 この体制のうちで、(四)までは、政府による強制的規制であるが、(五)以下は、生糸荷主・生糸商人ら同業者仲間の申合せ規制というかたちをとっている。(五)以下の規制は、品質検査を目的としてはいるが、運用いかんによっては、流通独占が形成される可能性を含んでいたし、その背後では、政府が、一種の行政指導のかたちで介在していたのであるから、この新しい生糸規制は、外国側の強い反発を引き起こさざるをえなかった。 横浜生糸改会社 一八七三(明治六)年五月に、開港場の生糸改会社として、横浜の生糸売込商三三名が、横浜生糸改会社を設立した。三越得右衛門(越後屋)、小野善三郎(井筒屋)、原善三郎(亀屋)、茂木惣兵衛(野沢屋)、上原四郎左衛門(郡内屋)、金子平兵衛(小松屋)の六人を社長、吉田幸兵衛(吉村屋)、鈴木得兵衛(鈴木屋)、手塚清五郎(芝屋)、田中平八(糸屋)の四人を副社長として、横浜生糸改会社は、六月から業務を開始した。 業務は、各地の生糸改会社から送られてくる生糸を、〇・五㌫の手数料をとって検査することであったが、横浜売込商全員が加入していたから、生糸改会社の実態は、売込商の同業組合で、改会社手数料〇・五㌫のほかに、従来の売込商口銭など一㌫を、荷主から徴収した。また、外商への売込みに際して、売込商の立場を強化するような共同行為、たとえば、看貫料の是正などにも着手したらしい。 新しい生糸規制が、取引慣行の是正にまで発展したのにたいして、外国側は反発した。十月の横浜外国人商業会議所の決議をもとに、十一月に六国公使が外務卿寺島宗則を訪れて、生糸改会社は貿易の自由を妨げており、条約違反であると抗議を申し入れた。寺島外務卿は、生糸改会社が、輸出生糸取引を独占することはないと回答し、その趣旨を明らかにする布告を発する約束をした。また神奈川県当局が、鉄道寮と協議して、横浜駅着の生糸・蚕種等については、生糸改会社の添翰を持参しない荷受主には渡さないという手続規定をもうけている点を、外国側が指摘したのにたいして、外務卿は、その手続が誤っていることを認めた。 新規制制度は、大蔵省が中心に立案・実施したもので、外務省はそれに冷淡であった。神奈川県権令大江卓は「生糸改会社規則」の策定者である租税頭陸奥宗光の腹心であったから、横浜生糸改会社に力を貸して、鉄道荷物引渡しの際に改会社の添え状を必要とする手続を創設したのであった。外国側の抗議をそのまま受け入れた外務省と、新制度に固執する大蔵省との間で折衝がおこなわれたが、結局、大蔵省も国際的圧力に屈して、十二月に生糸改会社の独占を否定する布達を府県に発した。 大蔵省は、生糸改会社が強制加入制ではなく、非加入者の輸出生糸取扱いも自由である旨を布達したが、なお、生糸改会社を通しての流通規制には積極的であった。十二月の布達の直後には、租税権頭松方正義が、地方長官あてに通達を送って、新制度発足以来、生糸品質が向上したことを指摘するとともに、横浜生糸改会社が、看貫料など悪習慣の是正につとめて商権の回復もすすめられているから、今後ますます生糸検査に力を入れるよう、生糸改会社に諭達するよう依頼している。大蔵省は、生糸の粗製濫造防止という主目標のほかに、商権回復をもねらいとして、新制度の維持をはかったのである。 地方の生糸改会社では、大蔵省の意向を受けて、入退社の自由を認めるように規定を改めるとともに、新たに、開港場の外では、外国人とその使用人に対して産地直売をしないこと、開港場の外商に直売する場合にも、看貫料は支払わないことなど、商権回復につながる会社規定を設ける動きを示した。一八七四(明治七)年四月には、横浜生糸改会社と地方生糸改会社が協議のうえで「申合規則」を作成し、改手数料を〇・三㌫に減額すること、開港場外で外国人の使用人と取引した者からは、取引金額の五㌫の科怠金を取り立てること、看貫料は出さないこと、看貫の際の金巾袋の目方は実量とすること、紙元結は一〇〇斤について二・五斤とすることなどを決めた。看貫料・金巾風袋量・紙元結量などの項は、外商との取引慣習の悪習是正を目指したものである。 横浜生糸改会社を頂点とする生糸規制は、制度としては、一八七七(明治十)年四月の「生糸製造取締規則」廃止まで続いた。この制度は、生糸検査の面では所期の機能を果たしたが、商権回復という面では、どれほどの役割を果たしたか疑問である。「申合規則」で是正が目指された悪習慣は、その後も残ったから、この点では、横浜生糸改会社は無力であった。ただし、外商の産地直買を防ぐという面では、横浜売込商と地方荷主の結びつきが、この制度によって強化されたことを考えると、効果があったとみてよいかもしれない。 蚕種恐慌と蚕種紙買入所 横浜生糸改会社の本来の活動ではないが、そこに結集した横浜商人の共同行為として注目すべきものに、一八七四(明治七)年の蚕種紙買入所設置がある(この件は、『横浜市史』第三巻上、『商工政策史』第五巻貿易(上)による)。蚕種の粗製濫造防止策として明治三年(一八七〇)以来続けられてきた「蚕種製造規則」による規制は、イタリアをはじめとする外国側の強い圧力によって、次第に緩和され、一八七四年六月には、輸出規制面では廃止された状態になった。それとともに、それまで規制されていた国内用蚕種の輸出用への転換がはじまり、横浜には、低品質のものも含めて、多量の蚕種が殺到した。 一八七四年九月五日から十月五日までの一か月間に、横浜には、一五一万枚の蚕種紙が流入したが、これは、前年一年間の蚕種輸出一四〇万枚をはるかに上まわる供給量であった。このため、蚕種価格は暴落し、蚕種恐慌ともいうべき状況が発生した。 政府は、蚕種輸出規制の廃止によって、このような事態が発生するであろうことを予想し、政府が蚕種の買上げをおこなって、次年の国内用の蚕種を確保し、同時に価格暴落を防止する案を七四年五月ころから検討していた。しかし、政府が直接介入することは、対外関係からして不適当と判断されたので、「蚕種製造規則」の実施のために設けられていた民間の蚕種大総代の自主的活動のかたちで、次年用蚕種の貯蓄、つまり輸出数量の制限をおこなわせようとした。だが、民間自主規制には限界があり、横浜に蚕種は大量に流入したのである。 懸念された事態の発生をみて、政府は、前年大蔵省を辞任して第一国立銀行の総監役になっていた渋沢栄一に対策を相談し、渋沢の構想に従って、蚕種買入を実施することとした。渋沢は、渋沢喜作ら横浜商人・蚕種荷主らと協議し、横浜商人を中心とする蚕種紙買入所を設け、政府(内務省勧業寮)から提供された資金を第一国立銀行が供給するかたちで運用して、蚕種買入を実施する計画をたてた。そして、十月七日に、原善三郎・小野善三郎ら六名の発起人の名で蚕種貿易挽回方法が勧業頭河瀬秀治に提出され、十月八日付で蚕種紙買入所開設が発表され、翌九日から買入れが開始された。 蚕種紙買入所は、十月九日から十一月二十日までの四二日間で、四四万八四一三枚の蚕種紙を購入し、そのうちの最上品五二四九枚を残して、あとはすべて公開焼却してしまった。一八七四年の横浜入荷高約一七六万枚のうち四四万枚以上の蚕種を焼却したのであるから、需給バランスはかなり回復し、買入れ直前の時期には一枚五銭でも買い手がつかなかった蚕種紙が、買入焼却後は一枚三〇銭から五〇-六〇銭で取引された。蚕種紙買入所は、一枚平均一八銭九厘で買い入れたから、必要資金は約八万五〇〇〇円であり、これは、勧業寮が秘密裡に支出したのである。焼却しなかった最上品は、五〇〇枚が試験のために外商に売却されたほかは、次年の原蚕種として保存されたようである。 政府・渋沢・横浜商人の連繋プレイによって、一八七四年の蚕種恐慌は、どうにか鎮圧され、暴利を期待した外商の思惑ははずれた。とはいえ、蚕種輸出平均価格は、前年価格の約四分の一程度までにしか回復せず、以後、蚕種は横浜重要輸出品の座を降りた。蚕種紙買入所の活躍は、横浜における蚕種輸出の掉尾を飾る出来事となったのである。 なお、一八七五(明治八)年二月には、「蚕種製造組合条例」「蚕種製造組合会議局規則」が設けられ、蚕種製造者の自主規制のかたちで、蚕種生産量の調節、輸出数量の調整がおこなわれることになった。しかし、蚕種輸出の退潮は続き、一八七六年には、渋沢栄一の構想による蚕種抵当貸付所が、蚕種価格維持のために活躍して、かなりの効果をあげたが、大勢を変えることはできなかったのである。 第二節 明治初年の内陸輸送 一 宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の設立 宿駅制度の改廃 戊辰戦争を通じて、維新政府が幕府から引き継いだ輸送制度は、公用定賃銭と宿・助郷賦役を軸とした人馬継立制度であった。いうまでもなくこの制度は、もともと江戸幕府の軍事・行政上の必要にもとづいて整備された、封建的な輸送制度であった。江戸を起点とする放射線状の五街道と、これに連結する主要街道および沿道の宿駅は、幕府および諸藩によって整備・管理され、問屋・年寄以下の宿役人によって輸送業務の運営がおこなわれた。諸道の宿駅には、一定数の常備人馬(東海道は一〇〇人・一〇〇匹、中山道は五〇人・五〇匹など)と付属助郷が配置され、武家の通行に対しては各級の人馬遣高に応じて、時価の半額前後の定賃銭で輸送サービスが供与された。もちろん、これらの街道や休泊施設は、武家の通行に支障のない限り、庶民や商人にも開放され、人馬・駕籠などの輸送サービスも時価で提供された。そして、こうした生活道路ないし商業道路的な機能は、二世紀以上の泰平によって次第に増強された。しかし、こうした機能は宿駅制度にとって、いわば付随的なものであり、本来の軍事・行政施設としての性格や機能が、幕藩制下において副次的なものになることはなかったのであった。 宿駅制度が持ちあわせたこのような軍事・行政的な機能は、戊辰戦争によってクローズ・アップされた。宿役人による人馬の割当てと動員は、機動性を必要とする大量の軍事輸送に、きわめて適合的であった。事実、新政府は、内戦の開始とともに直ちに街道と宿駅の掌握に着手し、既存の制度を最大限に利用して軍事輸送を進めたのであった。 しかし、このような宿駅制度の利用は、内戦時にとどまらなかった。集権制形成期に固有な重要産業の専掌政策が、継立制度とこれに対する政府の管掌を引き続き存続させたからであった。事実、政府はすでに勝利の見通しが明らかになった明治元年(一八六八)六月、旧来の宿駅制度を補強するための大規模な改革に着手し、従来宿駅近隣の村々に課してきた助郷賦役を、国内一円に拡大した。もっとも、当時の布告は、その理由を負担の公平化に帰したが(明治元年三月四日達、同三月二十九日弁事達、同六月八日駅逓司布告)、引き続き増大しつつあった公用輸送需要のもとで、それが負担の公平な増加に帰結することは疑う余地がなかった。事実、軍事・行政上の通行は、北越・東北戦争や東幸などによって相変わらず盛んであったし、人馬遣高の制限も従来と大差なかった。また、すでに旧幕時代に施行された公用定賃銭(正徳元年制定の元賃銭の七・五倍、すなわち基準賃銭人足一人一里につき一五〇文、馬はその二倍)も、向こう一年間据置きとされたのであった。 このような事情は、あらたに労役を課せられた村々に、布告に対する強い抵抗小田原の宿(明治4年) 徳川黎明会蔵 を呼び起こした。領主の添書をふくむ各種の嘆願や怠業、「奸曲」などの行為が相次ぎ、人馬の調達は次第に困難になった。公用定賃銭は内戦時の物価騰貴のため、すでに時価の半額にも及ぼなかったし、不時の継立賦役も、日常の農作業に対して、きわめて攪乱的な作用を及ぼしたからであった。もちろん、抵抗に直面した政府は、繰り返し布告を発して怠慢を叱責し、あるいは宥和につとめた(明治元年九月十二日駅逓司布告、二年四月二十七日民部官布告、三年二月〔日欠〕民部省達など)。しかし結局、時価の半額以下で大量の輸送労働を調達することは、不可能であった。そして、三年初頭にいたってもなお「不勤之村方不少」(明治三年二月〔日欠〕民部省達)という状態を脱することができなかったのである。 このような事情は、旧制度の維持をきわめて悲観的にする一方、相次ぐ定賃銭の値上げや宿駅助成金の支出、監督官員の派遣などによって、新政府の管理負担を耐えがたいものにした。そして、新橋-横浜間鉄道の建設が進むなかで、ついに旧制度の維持を政府に断念させ、明治五年一月十日には東海道の、同年八月末には全国諸道の伝馬所・助郷が廃止されることになったのである(明治五年正月十日大蔵省達、五年七月二十日太政官布告)。 各駅陸運会社の設立 しかし、伝馬所・助郷の廃止は、継立所と継立業務の存廃を自由に任せるものではなかった。旧来の官府的な宿駅制度は、もはや政府にとって管理上耐えがたいものだったとはいえ、全国的な継立網の維持は、軍事・行政上依然として欠くことのできないものであった。鉄道は、まだようやく新橋-横浜間で運行しはじめたばかりであり、内陸部の輸送は、一部の河川・湖沼を除けば、相変わらず諸道や往還の人馬継立に依存しなければならなかった。したがって、伝馬所・助郷の廃止に踏み切るについては、これに替わる継立組織をあらかじめ用意しなければならなかったのである。陸運会社と呼ばれた継立組織が、それであった。 伝馬所廃止に先立って用意された陸運会社は、官製の規則にもとづいて諸道の宿駅や往還の継場に半強制的に設立された、特殊な継立組織であった。設立に当たって下達された政府の指令(明治四年七月二十七日史官達)によれば、予定された新しい継立組織は当局によって人馬請負人と呼ばれ、旧来の政府専掌業務の請負人とみなされていた。いいかえれば、政府は、手製の「陸運会社規則案」を条件として旧来の専掌業務を各駅に請け負わせ、これによって管理負担からの解放と、継立網の維持をはかったものと考えることができるのである。他方、「陸運会社規則案」はその代償として、宿駅と近傍の輸送独占を各駅陸運会社に付与したのであった。 このような陸運会社は、宿駅制度の廃止に先立って諸道各駅や往還の継場に設立され、伝馬所・助郷廃止とともに相次いで業務を開始した。しかし、その営業は、一般にきわめて不評であった。いうまでもなく、地域的な輸送独占と引換えに従来の助成措置を打ち切られ、かつ半強制的に設立された陸運会社にとって、存立の道はその輸送独占を最大限に行使するよりほかなかった。事実各駅陸運会社の営業は、発足以来きわめて強権的な色彩が強く、継通しの妨害や刎銭の強要、社外の人馬の徴発など「兎角伝馬所ノ旧弊ヲ存シ……却テ運搬自由ノ意ヲ妨」げる結果をもたらした(明治六年四月二十四日大蔵省伺、『法規分類大全』「運輸門駅逓」三七二ページ)。もっとも、伝馬所の旧慣になじまず、継立荷物に恵まれた往還の陸運会社のなかには例外もあったが、廃藩以来公用貨客の激減した街道の場合は、このような傾向が一般的であった。 しかし、こうした陸運会社の欠陥は、もともと設立の経緯に照らせば、大部分政府の政策上の欠陥に帰さなければならないものであった。事実、所管の大蔵省は、明治六年十二月十八日付の太政官への伺(前掲書三七一-三七二ページ)のなかで、「抑此会社ノ弊害タル、伝馬所廃止ノ際官ヨリ之ヲ誘導シ、或ハ強ヒテ之レヲ結ハシメ候ニ原因致シ、名ハ私会ト雖トモ其実官立ノモノニ均シキヨリ相生候ニ付」と政策上の欠陥を認め、抜本的な改革のために陸運会社を解散し、旧定飛脚問屋によって設立された陸運元会社に、全国的な継立網の再編を命ずるよう建議している。この建議はほどなく太政官によって裁可され、翌一八七四(明治七)年春、元会社に対して継立網再編の作業が指示された(前掲書三六三-三七〇ページ)。そして、その完了をまって一八七五年四月には、五月末限り陸運会社の一斉解散を命じた、内務省布達甲第七号(前掲書三五六ページ)が発せられることになったのである。なお、陸運元会社は、各駅陸運会社の解散に先立って、一八七五年二月、社名を内国通運会社と改称した(明治九年十二月「改正内国通運会社定款」)。 陸運会社の一斉解散によって、継立業務の許認可権は府県に委譲され、その判断によって、かなり自由な開業が可能になった(明治八年四月三十日内務省布達甲第七号)。しかし、他方では内国通運会社への特別助成も、継立業と運送請負業の両面にわたって続けられた。自由化と特別助成というこのような二元的な政策は、各駅陸運会社の輸送独占に対する反省と、全国的な継立網の維持というふたつの要因にもとづくものであった。そして、このような政策は、継立業の免許をめぐってしばしば現地の府県で、通運会社と系統外の免許申請者との間に紛議を呼び起こした。しかし、府県の判断で認可される継立業者は年と共に増加し、一般免許制への移行がなしくずし的に進んだ。また、明治六年六月の布告第二三〇号(前掲書三四九ページ)にもとづく運送請負業者の制限と陸運元会社(内国通運会社)の特別助成も、鉄道線路の延長や輸送需要の増大にそぐわないものとなり、明治十二年五月布告第一六号(前掲書三七三ページ)によって撤廃された。もっとも、内国通運会社に対する事実上の助成は、官営郵便関連業務の委託などを通じて一八九〇年ころまで続いた。しかし、法制上の助成策は、各駅陸運会社の解散から一八八〇年ころにかけて、相次いで撤廃されることになったのである。 注 (1) 東海道駿府以東の「宿駅警備・兵食取計・人馬継立」は、明治元年(慶応四年)二月十八日、左記の代官・旗本・大名に命じられた。 府中ヨリ蒲原迄 駿府中代官 田上寛蔵 久能交代旗本 榊原越中守 蒲原ヨリ三島迄 駿 沼津 水野出羽守 三島ヨリ藤沢迄 相小田原 大久保加賀守 同山中 大久保長門守 藤沢ヨリ神奈川迄 武 金沢 米倉丹後守 神奈川ヨリ品川迄 豆 韮山 江川太郎左衛門 (『復古記』第九冊二一六ページ) (2) 「陸運会社規則案」は明治四年五月、所管の民部省駅逓司によって作製され、「社中申合」「沿道駅々申合」「旅人心得書」から成っていたが、このうち「旅人心得書」は同年十月駅逓寮によって改正され、「旅人エ為案内会社エ張出シ候規則書」として一般に公示された。なお駅逓司は明治四年七月二十七日、民部省廃止によって大蔵省に移管され、同年八月十日駅逓寮に昇格した。 (3) 「陸運会社規則案」の「沿道駅々申合」には、「会社之法則整粛セハ、社外ノ人馬相対稼ヲ禁止スヘシ」と明記されていた(『駅逓明鑑』第六巻十篇六八ページ)。 (4) 陸運元会社(一八七五年二月、内国通運会社と改称)は、一八七三(明治六)年六月の布告第二三〇号によって、河川・湖沼をふくむ内陸運送請負業の事実上の独占権を付与されたほか、一八七四年五月の太政官の認可によって、継立業(運送請負業者や旅客に対する人馬斡旋業)の営業権も付与された。しかし、これにともなって、全国的な継立網の整備と保全の義務も負わされた。この義務は、一八七九年五月の布告第一六号によって、運送請負業の特権とともに廃止された。 二 神奈川・足柄県下の陸運会社 宿駅制廃止時の県域 明治四年(一八七一)七月の廃藩置県によって、現県域内の藩領は小田原県・荻野山中県および六浦県となり、明治元年以来の神奈川県(横浜を中心としたほぼ方一〇里の区域)、韮山県(津久井地方を中心とした旧韮山代官所支配地)とあわせて、ほぼ五つの県域に分かれることになった。しかし、ほどなく同年十一月の府県統廃合によって小田原県荻野山中県・韮山県は、伊豆国をふくめて足柄県に統合され、また神奈川県には六浦県管下の武蔵国久良岐郡のほか、多摩郡・都筑郡・橘樹郡および相模国三浦郡・鎌倉郡・高座郡が編入された。その結果、現県域内の各地域は、一八七六年四月の府県大廃合まで、ほぼ相模川をはさんで、神奈川・足柄両県に分属することになったのである。 一八七六年四月十八日の府県大廃合によって、足柄県は管下の伊豆国を静岡県に、残りを神奈川県に移管して消滅した。その結果、後者の県域は、現在の県域に多摩郡を加えたものとなり、一八九三年四月一日に多摩郡を東京府に移管するまで、この県域を維持することになったのである。 宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の設立が進んだ明治五年(一八七二)は、現県域が神奈川・足柄両県に分属した時期であった。そのため、各種の布達や願書は、いずれも両県を経て送達された。 維新期の駅逓資料を集めた『駅逓明鑑』には、当時現県域内に設立された陸運会社の関係資料が一部収録されている。また、沿道の旧関係者の手もとにも、同様の資料が残されている。そのおもなものは、さきに刊行された『資料編』18近代・現代(8)に収録されているが、いまこれを列記すれば左のとおりである。 明治五年四月 神奈川県より横浜陸運会社之儀に付伺 明治五年四月 与瀬駅陸運会社関係資料 明治五年四月 吉野駅人馬賃銭御請負書 明治五年四月 関野宿人馬賃銭御請負書 明治五年五月 小原駅陸運会社人馬賃銭請負願 明治五年五月 足柄県より陸運会社開業之儀に付伺 明治五年六月 足柄上郡関本村陸運会社関係資料 明治五年八月 足柄県より脇往還陸運会社之儀に付伺 明治五年九月 足柄上郡神山村陸運会社議定書 明治五年九月 愛甲郡三田村陸運会社の儀に付伺 明治五年十月 津久井郡荒川駅陸運会社関係資料 明治五年十月 足柄県より陸運会社開業届出 明治六年一月 箱根駅陸運会社関係資料 以上の残存資料のなかには、一八七三(明治六)年一月の箱根駅陸運会社のほか、東海道各駅の関係資料がふくまれていない。それらが『駅逓明鑑』に収録されなかった理由は、つまびらかでないが、これまでの現地調査においても、残念ながらほとんど発見することができなかった。よって、ここでは上記の資料によって、甲州街道と脇往還および横浜の模様を概観してみたいとおもう。 甲州街道の陸運会社 宿駅制度が廃止されたころ、足柄県管内には関野・吉野・与瀬・小原の甲州街道四宿駅が、また神奈川県管内には同じく小仏・駒木野・八王子・日野・府中・布田・高井戸の各宿駅が存在した。ところで政府は、さきにふれたように、東海道各駅伝馬所・助郷廃止(明治五年一月十日)に続いて、諸道各駅伝馬所・助郷廃止の方針を固め、その前提となる各駅陸運会社の設立を強く推進した。その結果、同年四-五月には前記両県管下の甲州街道各駅からも、相次いで設立願書が提出されることになったのである。 これらの願書はいずれも、所管の県庁を経て大蔵省駅逓寮へ進達された。前記『駅逓明鑑』によれば、このうち足柄県関係の願書は五月十七日付、神奈川県関係のそれは七月十三日付で大蔵省へ進達されている。願書はすべて、駅逓寮から示された雛型にもとづいて、同一形式(隣駅までの里程と賃銭・営業規則・出願人氏名)をとっていた。いま『駅逓明鑑』所収資料によって、関野宿の例を紹介すれば次のとおりである。 陸運会社人馬賃銭御請負書 足柄県管轄甲州道中関野宿 東之方吉野駅ヘ里程二十六丁 但御定元賃銭人足壱人ニ付拾九文 一、人足壱人賃銭弐百四拾八文 一、宿駕籠壱挺同六百弐拾文 一、垂駕籠壱挺同八百六拾八文 一、引戸駕籠壱挺同九百九拾弐文 一、長棒駕籠壱挺同壱貫弐百四拾文 一、馬壱匹同六百文 西之方上野原駅エ里程三十四丁 但御定元賃銭人足壱人ニ付廿五文 一、人足壱人賃銭三百三拾七文 一、宿駕籠壱挺同八百四拾弐文 一、垂駕籠壱挺同壱貫百七拾九文 一、引戸駕籠壱挺同壱貫三百四拾八文 一、長棒駕籠壱挺同壱貫六百八拾五文 一、馬壱匹同八百四拾弐文 右者今般陸運会社取建、公私之荷物共、都而公平至当之相対賃銭ヲ以、継立方被仰出、右御取調トシテ御順駅ニ付、私共儀書面之賃銭表ヲ以、御請負仕、聊無遅滞継立候様可仕、尤会社申合書并規則書左之通。 旅人エ為案内会社エ張出候規則書 陸運会社之儀者、一切之御旅行便宜相成候儀ヲ旨ト致シ取結候モノニ付、何レ之方何レ之御身分ヲ論セス当会社ニ御申入被成候ハハ、何時ニ限ラス総而定式賃銭ニテ人馬之継立御世話可申事。 一、継立之儀者総テ御申入並御着順ニ随ヒ、早追之外、何様高貴之御方様ニテモ、格別ノ継立ハ堅ク御断申候事。 一、早追或ハ昼夜兼行之御急、其他多分之継立御申入被成候御方ハ、前以案内状御差出シ可被成事。 但右案内状継送賃銭、本道之分不申受候得共、三府内エ持込、或ハ脇道之分ハ、相当之賃銭御払可被成事。 一、諸荷物共目方七貫目迄ヲ人足壱人、四拾貫目迄ヲ馬壱匹之度ト定メ、是ヨリ相増候分ハ、左ノ割合ヲ以テ分増賃銭請取可申事。 人足 七百目迄ヲ壱分、七百目以上壱貫四百目迄ヲ弐分、其他是ニ準ス。 馬 四貫目迄ヲ壱分、四貫目以上八貫目迄ヲ弐分、其他是ニ準ス。 一、早追ハ定賃銭之七割五分、但酉ノ上刻ヨリ丑ノ下刻迄五時之間ハ、壱倍五割之賃銭御払可被成事。 一、通常人馬夜継之分、酉ノ上刻ヨリ丑ノ下刻迄ハ、五割増之賃銭御払ヒ之事。 一、御旅行之御都合ニ寄、前後二三駅宛継越可申、尤賃銭ハ表面之割合ニテ可申請候事。 一、人足之強壮ニ寄、弐人或ハ三人払ヒ之荷物ヲモ壱人ニテ運送可致事。 一、会社之都合其時之模様ニ随ヒ、駄荷ヲ車力ニテ継立候儀モ可有之、尤賃銭ハ駄荷之定ヲ以請取可申事。 但山川嶮路、車力難相用場所ニ而、馬遣払候節者、相当之人足賃銭御払可被下候事。 一、会社之人馬者、総而左之雛形之通鑑札相渡置候間、万一不礼不法之所行有之候節者、其者所持之鑑札番付御見留置、前宿会社ヘ御申聞可被下、会社之法ヲ以屹度糺明致シ、御迷惑不相成様精々取扱可申事。 一、途中ニ而替荷之儀申出候ハハ、会社鑑札之有無御取糺シ、無鑑札之者ヨリ何様之儀出来候トモ、一切会社ニテ御構ヒ不申候事。 一、宿駕籠御借入之方者、壱挺ニ付壱里迄ハ銭百文、壱里以上ハ壱里三拾弐文宛之割合ヲ以、損料御払可被成事。 右之通会社一同、申合規則相定申度奉存候間、何卒御免許被成下置候様、奉願上候。以上。 明治五壬申年四月 甲州道中関野宿陸運会社総代 中村万五郎 中村雄三郎 秦杢左衛門 中村又右衛門 諸角源五兵衛 前書取調候処、不都合之儀モ無之候間、御允許相成候様、奥書ヲ以、申上候。以上。 足柄県駅逓掛 大久保忠重 右の文書は、「人馬賃銭御請負書」という表題や、「私共儀書面之賃銭表ヲ以御請負仕」という表現によって明らかなように、一定の賃銭および営業規則にもとづいて、人馬継立業務を政府から請け負う、一種の誓約書のかたちをとっている。と竪二寸八分 横二寸 ろで、この「書面之賃銭表」は、駅逓寮官員の調査・巡駅の結果認可された公定賃銭で、賃率は元賃銭(正徳元年の公用賃銭)の約一三倍に相当した。しかし『法規分類大全』「運輸門駅逓」一七六ページ以下によれば、明治元年(一八六八)五月、人馬定賃銭が元賃銭の七・五倍に改訂された際、主管者の内国事務局督徳大寺実則自身、この賃率を「其実尚雇賃銭之半ニ不過」と述べ、相対雇賃銭が当時すでに、元賃銭の一五倍程度の水準にあったことを暗に認めている。また、翌二年二月、三都定飛脚問屋から駅逓司に提出された嘆願書によれば、当時本馬一匹一里の相対雇賃銭は、元賃銭の二五倍に相当した。そして明治三年四月には、公用定賃銭も元賃銭の一二倍に改訂されたのであった。前記の陸運会社賃銭表は、この公用定賃銭をわずかに上回る程度のものであり、一般貨客に適用される相対雇賃銭としては、かなりの低賃銭といわなければならないように思われる。なお、小仏峠越えを含む小原-小仏駅間については、元賃銭の一七倍の新賃率が認められたが、小原駅の願書によれば、これも二〇倍の要求を削減され、「無拠宿役ト相心得、御請負仕」った賃銭表であった。いずれにしても、請負の条件となったこうしたきびしい賃銭査定や宿駅助成金の廃止は、公用貨客の激減した各駅(陸運会社)を圧迫し、継通しの妨害や刎銭の強要などを引き起こす、ひとつの有力な動機になったものと考えることができるのである。 他方、「営業規則」(「旅人エ為案内会社エ張出候規則書」)の方も、前年秋大蔵省駅逓寮において起草され、同年十月十四日の省議で決定された官製の規則であった。したがって、「右之通会社一同、申合規則相定申度」という自発的な表現は、単なる建前に過ぎず、実際はあらかじめ官から示された設立認可の要件であった。事実、この「営業規則」は、沿道各駅から提出された設立願書に例外なく添付され、隣駅までの里程・賃銭表とともに、願書の主要内容をなしていた。また、出願も明治五年四月から五月にかけて一斉におこなわれた。こうした点からいって、各駅陸運会社の設立は、政府の強い指導によって、半強制的に進められたものとみることができるのである。いま『駅逓明鑑』によって、各駅出願人の氏名を列記すれば次のとおりである。なお、同資料にはまま誤植が認められるので、現地資料が残存する場合は、これによって訂正した。 吉野 船橋七左衛門・大房仁左衛門・大房与兵衛・船橋八左衛門・船橋太郎兵衛・守屋歌之助・渡辺杢右衛門・吉野彦次郎・岩崎多三郎船橋甚五左衛門・大房清十郎・佐々木吉兵衛・吉野十郎 与瀬 清水四郎兵衛・福島六郎左衛門・坂本瀬兵衛・朝比奈六兵衛・坂本平右衛門・荒井太平・橋本金兵衛・森久保喜右衛門・石井七十郎・石井市郎右衛門・清水佐五左衛門・馬場三郎左衛門・坂本内蔵助 小原 清水一郎・尾形橘郎 小仏 峯尾喜兵衛・鈴木藤右衛門・峯尾助左衛門 駒木野 川村新六郎・川村久太郎・井出新左衛門 八王子 川口寛一郎・川口与三郎・柴山孝三・岩崎三郎右衛門・石田郡三・中川徳左衛門 日野 佐藤芳三郎・佐藤彦右衛門 府中 清水斎兵衛・比留間長左衛門・矢島九兵衛 布田 荻本伝四郎・糟谷市之助・杉崎甚五左衛門・熊沢茂兵衛・箕輪重郎右衛門 高井戸 細渕三左衛門 これによれば、出願人数は駅によってかなりまちまちであるが、その肩書は小仏・駒木野両駅を除いて、いずれもその駅の「陸運会社総代」となっており、駅(宿)役人がそのまま総代として出願人となったことを推測させる。事実、布田駅(五宿)の出願人はすべて名主(三名)または年寄(二名)で、その役名が氏名の上に付されている。他方、小仏・駒木野両駅の出願人には「小仏駅(駒木野駅)陸運会社受負人」という肩書が付されているが、おそらくこれも駅(宿)役人として、その駅(宿)を代表するかたちで出願したものと考えることができよう。いずれにしても、街道上の各駅(宿)の場合には宿駅制度の遺制が強く、旧来の継立組織(問屋場と宿役人・人馬差・継立人足など)を、単に陸運会社と改称しただけのものが多かったように思われるのである。当時、陸運会社についてしばしば指摘された、いわゆる「伝馬所ノ旧弊」は、このような事情によるものとみることができる。 脇往還の陸運会社 脇往還の陸運会社については、足柄県管下の足柄上郡矢倉沢村・大住郡伊勢原村・同下糟屋村・愛甲郡厚木町・同三田村・同田代村・津久井郡三ケ木村の資料が、『駅逓明鑑』に収録されている。もっとも、このうち三田村以外は、足柄県の進達書と路線図だけの不完全なもので、賃銭・出願人等の詳細を伝える資料を含んでいない。しかし、さいわい二、三の村落については、現地資料が残存するので、これによって『駅逓明鑑』の欠をある程度補うことができる。 これらの資料を総合すれば、明治五年(一八七二)九月ころまでに設立された同県管下脇往還の陸運会社は、次の一二か所であった。 足柄上郡矢倉沢村・同関本村・同神山村・大住郡曽屋村・同伊勢原村・同下糟屋村・愛甲郡厚木町・同三田村・同田代村・津久井郡三ケ木村・同上川尻村・荒川駅 しかし、残存する現地資料によれば、同年十月ころには、津久井郡若柳村・寸沢嵐村などにも陸運会社設立の動きが認められるので、こうした脇往還筋の陸運会社は、その後もふえ続けたものとみることができよう。 ところで、陸運会社の設けられた前記の町村はいずれも、甲信地方あるいは駿遠地方から東京・横浜に通じる津久井往還、ないし矢倉沢往還沿いにあった。いうまでもなく、甲信地方や駿遠地方は、当時輸出商品の中心を占めた生糸と茶の主産地であった。そして、街道にくらべて、生活道路としての色彩の強い脇往還は、こうした商人荷物の通行により適合的であった。津久井往還や矢倉沢往還沿いの陸運会社の背後には、このような商人荷物の通行とより自発的な設立の動機があったと考えることができるのである。設立願書に付された足柄県の進達書にも、こうした様子があらわれている。 相州矢倉沢往還並津久井郡吉野駅ヨリ脇往還陸運会社願出候ニ付、人馬賃銭之儀申上候書付 当県管下相州足柄上郡矢倉沢往還之儀ハ、駿遠州ヨリ之産物、東京・横浜エ継来候往還筋ニ有之、甲州街道吉野駅・三ケ木村・川尻村等ハ、甲信両州ヨリ東京・横浜其他小田原及ヒ厚木町等ヘノ脇往還ニテ、諸荷物継来候地ニ有之、右両道陸運会社御允許相成候様、矢倉沢村外拾壱ケ村ヨリ、別紙之通人馬賃銭請負書ヲ以テ願出候ニ付、駅逓掛官員奥印之上差出候間、及検査候処、不相当之儀モ無之存候間、其儘進達仕候。可然御差図被下度、此段申上候也。 壬申八月廿七日 足柄県参事 楫取素彦 足柄県権令 柏木忠俊 大蔵大輔 井上馨殿 このように足柄県進達書は、吉野駅から南下する津久井往還と足柄峠から神山・曽屋・厚木を経由する矢倉沢往還が、甲信・駿遠地方の産物の有力なルートになっていたことを示している。そして、このことは、後述の横浜陸運会社の開業や、御殿場から箱根湖上を経て、真鶴にいたる新道開拓などによっても、裏付けることができるのである。 他方、厚木町近傍の三田村(現在厚木市三田)陸運会社の資料も、横浜周辺の内陸部で始まった活況を暗示している。すなわち、申請路線は三田村才戸から曽屋村・伊勢原村、糟屋村・厚木町・橋本村・八王子宿の六か所に及び、添付の足柄県進達書も、三田村が秦野産物や周辺の山方荷物を八王子に運ぶ往還筋に当たり、その継立に従事してきたことを明らかにしている。正田健一郎編『八王子織物史』上巻(昭和四十年七月刊)によれば、会社設立地の三田村および周辺の村落(上依知・猿ケ島・山際・川入・坂本・長坂・関口・中依知・金田など)は、江戸時代から繭の取引を通じて、八王子周辺の村々と深い関係にあった。曽屋(現在秦野市曽屋)から伊勢原・糟屋・厚木・三田・橋本を経て八王子にいたる右の路線は、このような原料繭をはじめ、煙草・薪炭・織物などの流通路として、開港後にわかに活況を呈しはじめたものと考えることができるのである。 横浜の陸運会社 他方、輸(移)出入貨物や乗下船客で賑わった横浜にも、明治五年(一八七二)五月ころ、横浜陸運会社が設立された。同年四月二十五日付、神奈川県令陸奥宗光の進達書によれば、当時横浜では、陸送荷物の地方向け発送を中心に人馬の不足が目立ち、また賃銭も区々多額で、旅行者の不便が大きかった。よって陸運会社開業希望者を求めたところ、鈴村要蔵以下九名の出願をみることになったのであった。出願者の鈴村要蔵は、工部省鉄道寮が横浜停車場(現在桜木町駅)の用地拡張のため、明治四年五月、地続きの海面を埋め立てた際、その工事請負人となった者であり(埋立面積三万五五一三坪余、立坪七万七五三八坪余、請負金額七万一三三両余)、鉄道当局とも関係の深い業者であった。陸運会社の出願も、おそらくこの請負工事が機縁になったものと考えることができよう。 「営業規則」は一七則から成り、内容も市内輸送という特殊性を反映して、一般の陸運会社とはかなり異なっていた。先ず店舗は、波止場に近い馬車道通り相生町五丁目の会社のほか、四か所(旭町通り西運上所側・元町西ノ橋側・野毛町野毛橋側・芝生村街道端)に出張会社が設けられ、市内の配送や継立貨物の発着取扱をおこなった。とくに芝生村街道端の出張会社は、八王子・木曽・原町田・鶴間・瀬谷・厚木・伊勢原方面からの貨客を受け入れ、この方面への貨客を送りだす、いわゆる口駅業務を担当したユニークな店舗であった。津久井・八王子・矢倉沢往還などを経由した輸出用その他の貨物は、この出張会社を経て市内に配送され、また市内で集荷された地方向け貨物は、ここで往還の人馬継立に託送されたのであった。出張会社が神奈川・程ケ谷両駅に設けられず、中間の芝生村に設けられたのは、両駅の営業権の及ばない前記往還経由の貨客を対象としたからであった。「営業規則」第五、六則は、神奈川・程ケ谷経由の貨物にいっさい関与せず、取扱貨物が前記往還経由に限られることを明記している。しかし、同出張会社の開設は、この方面の貨物がかなり増加しつつあったことを示すものといえよう。いずれにしても、この横浜陸運会社は、輸(移)出入貨物の輸送ルートと結びついた、ユニークな陸運会社ということができるのである。 三 新道開拓の出願 物流の変化と新道開拓 宿駅制度の廃止にともなう道路交通の発展は、既存の道路の改修や新道開拓の気運を、国内各地に呼び起こした。もともと、江戸時代を通じて軍事・行政上の見地から整備された既存の道路網は、経路や地形などの点で商人荷物の流通に不便な場合が多かったし、また、開港にともなう物流の変化も、新道開拓の必要を高めたからであった。 このような道路の改修や建設の動きは、明治五年(一八七二)ころから各地で、住民の請願や自普請のかたちではじまった。たとえば、『内務省第一回年報』(明治九年十二月刊)によれば、一八七五(明治八)年度中(一八七五年七月から一八七六年六月まで)に各地でおこなわれたおもな改修・建設工事(四一か所)のうち、政府直轄工事は八か所にすぎず、ほかはすべて民費によるものであった。また、収録の統計によれば、同年度の道路費は総額六六万四四六八円にのぼったが、うち国費支弁はわずか九・五㌫にすぎなかった。 神奈川県下の改修や建設工事も、おもに横浜向けの物流増加を背景に、地域住民の請願や自普請のかたちではじまった。たとえば明治五年六月には、足柄上郡矢倉沢村・神山村・関本村の合意によって、従来近隣村民の通行しか許されなかった矢倉沢-神山村の間道が、あらたに貨客の輸送路として認められることになったし、また同年九月には、甲州黒駒村から御坂峠・谷村(都留)・秋山村・相州津久井郡を経て、東京・横浜にいたる新道の開拓計画が、沿道の村々によって合意された。そして、同年十月には東海道箱根宿からも箱根湖上経由の新道開拓願書が、足柄・静岡両県に提出されたのであった(『資料編』18近代・現代(8)一一九・一三三・一三四)。 このような変化の背後には、上述のような東京・横浜向け荷物の増大があったが、箱根宿の願書には、そうした事情がよりはっきりとあらわれていた。左の願書がそれである。 乍恐以書付奉願上候 当御管下箱根宿天野平左衛門奉申上候。当駅之儀は山上無高之場所ニテ、是迄御往来下筋之御助力ヲ以、渡世仕来候処、近来御通行更ニ無之、殆生活之道ヲ失ヒ疲弊難渋仕居候処(中略)今般愚考憤発仕候義ハ、当駅ヨリ西北之間ニ方リ、湖上ヲ歴、甲信エ往復近道有之、猶南之方山越僅之里程ニテ相州門川村ニ至リ候順路有之候処、旧来関門要害之為メ通路厳禁ニテ、愚民之志願行届兼、数年歎息罷在候処、御維新已来寛太之御所置ヲ以、既関門御取除相成、自然近傍通路自由ヲ得候折柄、右湖上エ荷船製造、両岸ニ運送会社取建、甲信ハ勿論、其余最寄之諸荷物相海エ運輸、又豆相之魚荷ヲ始、諸荷物甲信エ運送取扱ヲ以、窮民共一同生活之方策相立度、行程之儀ハ凡西北之間湖上二里ヨ、尚湖尻ヨリ長尾山ヲ越一里、夫ヨリ御殿場エ一里半余、猶二里八丁ヲ経テ須走村ニ至、同所ヨリ十一里廿六町ニテ石和甲府ニ到着、直ニ信州エモ通信相成、将南之方三里之山越ニテ宮上村字湯ケ原ニ至、夫ヨリ平地三十二丁ニテ門川村、吉浜村ニ至、相海ヲ廻漕、浦賀エ十八里余ニテ着港仕候。右海浜エハ荷船等補理候得ハ、一層之助益相成可申、且道筋営繕、人馬渡船之規則相立、両国之便利ヲ得候ハハ、乍恐御公用モ急速相達可申哉ト奉存候。是迄甲信ヨリ陸路嶮岨ヲ経、駿河エ荷物積立、豆海之迂遠数日ヲ費シ候故、風波之難モ不少候処、右近路相海ヨリ廻漕相開候得ハ其難モ相省ケ、万端軽便之儀ト奉存候(下略)。 右の願書によれば、当時箱根宿は、廃藩後の公用通行の途絶によって「疲弊難渋」を極め、早急に打開策を講じなければならない状態に置かれていた。出願された新道開拓計画は、通行量の激減した箱根宿へ、甲信地方の横浜向け荷物を誘引するため、御殿場から長尾峠を越えて芦の湖を渡り、箱根・湯河原・吉浜を経て海路横浜にいたる新ルートを開拓しようとしたものであった。願書には箱根宿・元箱根村のほか、函南の宮上村・宮下村・堀之内村・門川村の村役人が連署し、翌一八七三(明治六)年二月、足柄県の認可を受けた。もっとも、その後箱根-湯河原-宮上-宮下-門川のルートは、地形険阻のため着工不可能となり、一八七四年三月、あらためて箱根-鍛冶屋村-真鶴村へのルート変更を足柄県へ出願しなければならなかった。この出願は同年五月認可されたが、その後の工事の進捗状況はつまびらかでない。しかし、『山梨県史料』所収の甲斐国中馬会社関係資料(「中馬分会社人名簿」)によれば、一八七五年七月現在、同分会社が真鶴村に開設されているので(取扱人橋本甚三郎・尾守治八)、このころすでに、この新道経由の輸送がはじまっていたものと考えることができる。いずれにしても、この新道計画は、廃藩後の物流の変化と横浜向け貨物の増大を、象徴的に示すものということができるのである。なお明治十年代には、このような自普請中心の状態を脱して、府県主導型のかなり大規模な工事が各地でおこなわれた。神奈川県でも、十年代末から小仏峠を迂回する甲州街道の付替工事が山梨県の協力を得て実施され、一八八八年五月竣工をみることになったのである(『資料編』18近代・現代(8)一三五)。 第三節 鉄道の創業 一 外国人による建設計画 ウエストウッドの出願 慶応三年一月二十八日(一八六七年三月四日)、横浜居留地在住のC=L=ウエストウッドは、幕府外国奉行に宛てて江戸-横浜間の鉄道を建設したい旨の請願書を提出した。この請願は、幕府の出資をまたず、外国人が投資をおこない、建設にあたって、幕府がこの事業を管轄する役人を出すこと、建設関係労働者は日本人を雇い入れ、賃金は外国人側から支払うことなどがその内容であった。鉄道の経営権は投資者側が保持し、事業利益のいくらかを幕府に納入するという方式をウエストウッドは考えていたようである。 横浜の開港以後、江戸と横浜との交通は非常に盛んになっていた。これは、とくに生糸などの輸出品の輸送や、外交・貿易などのための人の往来がはげしくなったことによるものである。 このような交通量の増大からみて、在留外国人の眼に、江戸-横浜間の鉄道が採算のとれるものとして映じたことは、およそ想像に難くない。しかも、この区間に鉄道を開通させることになり、当時開市の状態になかった江戸に活動範囲をひろげる可能性も、彼は考えていたのかもしれない。いずれにしても、横浜で商業活動を開始した外国人が、当然考え出すような計画であった。しかも、当時外国人たちは、通商活動の安全と効果増大のためのさまざまな施設、たとえば港湾の整備や燈台の建設などについて、重大な関心をはらっていた。さらに、国内における資源開発についても、調査活動が開始されていたという。 このようにみてくると、外国公使館などの公的機関による働きかけだけでなく、このような情勢を見た貿易商人などの間に、より大きな利益を求めて鉄道建設を構想する者があらわれることも十分考えられる。ウエストウッドの請願も、このような情勢が生み出したものであろう。 しかし、幕府は「当分即時鉄道建築等之儀にも及び難く」として、これを拒否するむねの回答書をつくった(『続通信全覧』「電信及鉄道一件」)。この回答書は発送されず、またウエストウッドの計画も、その後の情勢の激変にともなって具体化せずに終わった。 ポートマンに対する免許 慶応三年十二月二十三日(一八六八年一月十七日)、幕府は日本駐剳アメリカ合衆国公使館書記官A=L=C=ポートマンに対し、江戸-横浜間鉄道建設の免許書を与えた。ポートマンの出願の内容については不明であるが、幕府の与えた免許書と、これに付属する規則書の写しは残されている。それによると、米国側はこの免許書下付のときから五年以内に着工して、着工から三年以内に完成させること、建設にさいして東海道の交通を妨げないようにすること、単線・複線の別は問わないこと、ただし安全保護施設は堅固なものとすること、田地の灌漑排水設備を線路が妨害しないようにすること、測量・工事にあたっては日本政府が便宜を計ること、とくに用地の取得には日本政府が六か月以内に地主・住民の立退きをさせて引き渡すこと、旅客・貨物の運賃は英米両国のそれよりも二割五分以上高くしないこと、日本政府の役人は運賃の半額で乗車できること、日本政府はいつでも点検をおこない、必要があれば会社の負担で修理をおこなうこと、日本人がこの会社の株主となり利益の分配にあずかることができること、会社は毎年年末に経営状態を日本政府に報告すること、日本政府が必要と認めるときは原価の五割増で買収できること、以上のようなことが定められていた。これらは、この企業が鉄道の敷設・経営を通じて米国側の権益に属することを意味しており、幕府が監督権をもち、一部に経営参加権を保持するかたちをとったのである。 もともと、幕府に対してフランス側は軍事力の強化を勧告し、援助の姿勢をとっていて、慶応二年(一八六六)四月には、フランス駐在幕府代表に任命されたフリューリー=エラールが、このような見地に立って鉄道建設を献策した。また慶応三年(一八六七)二月には、将軍徳川慶喜の諮問に駐日フランス公使ロッシュが答申し、これにもとづいて幕府が作成した職制改革案に鉄道建設の計画が含められていた。 したがって、幕府側にしても先に挙げたウエストウッドの請願を含めて、当時鉄道建設計画についてなんらかの考慮を必要とする客観的条件は成熟しつつあったのである。しかし、幕府はエラールの勧告も、またウエストウッドの請願も、これを受け入れなかったし、また職制改革案のなかに示した建設計画も具体的な内容のものではなかった。それを、アメリカ公使館員の申入れに答えたのはなぜか。この点については、さまざまな要因が考えられるが、この免許書が、当時の幕府老中・外国事務総裁小笠原長行の名で出されたこと、またこれがいわゆる「王政復古」布告の半月後であることなどから、成立したばかりの京都の政権に対し、なお幕府が日本の正統政権としての立場を保持しようとしていたことをうかがわせるのである。 また、それ以前にも薩摩藩の五代友厚らがベルギーで鉄道建設計画を勧誘され、彼らを援助したモンブランとの間に契約を結んだことがあったが、これは京都-大阪間のものであった。江戸-横浜間と、京都-大阪-神戸間とは、外国人が鉄道権益について重大な関心をはらった区間であり、明治政府成立後も、ポートマンの免許追認をふくめ、列国の利権がこの区間に集中したのである。 二 政府の建設構想と横浜における資金調達計画 ブラントンの進言 慶応四年(一八六八)から翌年にかけて、江戸(慶応四年九月三日東京と改称)-横浜間の鉄道建設計画には、かなり緊迫した動きが繰り返された。すなわち、さきに幕府老中小笠原長行から免許を得たアメリカ公使館書記官ポートマンは、函館にたてこもっていた小笠原に対し、さきの免許書の確認を求めた。しかし、明治元年十二月二十八日(一八六九年二月九日)小笠原は返書を送り、「只今は、何事も内地は京師之御処置、当所は自今旧政府之者鎮定致居候得共、自ら情実も不相通、如何共取計方出来不致、乍残念御断申上候」(『大日本外交文書』第二巻第一冊)と事情を述べて、ことわった。小笠原は、すでに旧幕府のおこなった免許が有効性を失ったと判断したのであろう。 ポートマンは、明治二年一月十二日(一八六九二月二十二日)神奈川県を通じて政府と交渉を開始した。文書は外国官に回付されたが、外国官は否定的見解をとった。一月二十九日(三月十一日)アメリカ側は外国官に督促、二月十日(三月二十二日)外国官はこれに対し拒否の回答を発した。その文書には「鉄道設方之儀は既に我政府に而評議之趣有之、我内国人民合力を以而取設候積に有之候故」(『大日本外交文書』第二巻第一冊)とあり、日本政府が鉄道建設を計画していることをにおわせていた。 その直後、横浜在住のイギリス人アレキサンダー=カンフェルが、三月十日(四月二十一日)付で東京-横浜間の鉄道建設請願書を神奈川県知事寺島宗則に提出したが、日本政府はこれも拒否した。 日本政府が、このように外国人の申し出をすべて拒否するにいたった背景には、どのような事情がはたらいていたのであろうか。ここに、駐日イギリス公使ハリー=パークスの進言を考えることができる。さきのポートマンの督促申入れを取りついだ神奈川県の文書に外国官副知官事東久世通禧は「右事件は我国民にて鉄路出来候様兼而英公使議論有之候」という付箋をつけた。すなわちパークスが、当時日本政府側に、独自の手で鉄道を建設するよう働きかけていたことが、この付箋から想像できる。そして、日本側が、ポートマンやカンフェルに対して、拒否の態度をとっていたとき、雇イギリス人器械方R=ヘンリー=ブラントンが神奈川県を通じて外国官に意見書を提出した。ブラントンは、一八六八年に燈台建設技師として来日し、列国が日本側とかわした取決めによる燈台建設工事に当たっていた。そのブラントンに対し、外国官が神奈川県を通じて鉄道建設について非公式に意見を求めたと考えられる。 「蒸気車鉄道」と題するこの文書は、そのような諮問に答えたものであろう。 ブラントンは、イギリスで最初に鉄道を建設したときの反対意見や妨害について述べ、しかし「人之仕事は器械之助け耳にある事故、機械之発明する毎に仕事も亦其為めに巧を得べし」(『大日本外交文書』第二巻第一冊)と、新しい機械のもたらす効用を述べた。そして、鉄道のもたらす経済的・文化的効果を挙げ、鉄道がなければ起こるはずのない繁栄が起こってくると説いた。 そして、イギリスでは投機的な鉄道建設のために、損失や弊害をもたらすことがあったが、「日本之鉄道は其御政府より御取建に相成候事故、英国にて取建たる時之如く六ケ敷事はなかるべし」(同書)と、すでに日本政府がみずから鉄道建設をおこなう方針を決めたような表現をとっている。 このようにして鉄道を建設するとして、最初どのような鉄道を建設すべきか。ブラントンは短区間の鉄道をまず建設すべしと説く。 それは、「短き物を立つれば、是を手本として、世間に出ざりし者に鉄道といへる者之此様に驚べき働きを知らしめ、又人民之是れを好む事幾なる哉、此手本を以て試むべし」(同書)という効果を期待できるというわけである。このようなモデル線ともいうべき短区間の鉄道に最も適しているのは、ブラントンによれば「横浜と江戸の間より外に都合能所なし」(同書)という。 その理由としてブラントンは、次の五つを挙げている。 第一 地面平にして鉄道を作る事容易し。入費も少かるべし。 第二 右両所之隔り適宜にて、鉄道之働き顕わすには十分なる隔り也。 第三 右之地は京都并南国へ通行之大道路故、後日是れに鉄道をつぎたす時は重なる鉄道之根本となるべし。 第四 江戸は船之近寄り難く、外国との交易には不便なる所ゆへ、横浜より其地へ鉄道に而も作らざる時は決して盛んとなるべからず。第五 此両地当今は商売多く、通行繁き故、入費を少にして一個之鉄道を作る時は、其金主慥に利を得るべし。 (同書) ブラントンは、建設費をおおまかに見積っている。すなわち、一マイルに四万ドルとし、東京-横浜間二〇マイルに八〇万ドル、そのほかに車輛その他の設備を一五万ドル、合計九五万ドルとした。建設期間は約三年、また経営収支は、一日の収入が旅客・貨物をふくめて五六七ドル、一年で二〇万六九五五ドル、一年の経営支出をその半額として、一年で一〇万三四七八ドルの利益を挙げられるとしたのである。 政府の構想と資金調達計画 このようなブラントンの進言は、当時の政府関係者、とくに、いわゆる「開明派」と呼ばれる官僚を強く動かした。それは、パークスの勧誘とあいまって、政府の手で鉄道を建設しようという構想を具体化させることとなった。 明治政府が、その発足以来中央集権制の強化をめざして、さまざまな施策を展開したことは周知の事実である。鉄道の建設構想も、「全国ノ人心ヲ統一スルニハ、此運輸交通ノ斯ノ如キ不便ヲ打砕クコト」が必要であるという立場から出発していたといえよう。この立場は、当時外国官判事・会計官副知事から大蔵大輔・民部大輔などを歴任した大隈重信の回想に出てくる(大隈、帝国鉄道協会第五回総会における回顧演説、『帝国鉄道協会会報』第三巻第七号)。大隈はこれに続けて、次のようにいう。 又封建的割拠ノ思想ヲ打砕クニハ、余程人心ヲ驚カスベキ事業ガ必要デアルカラ、之ニ向ツテ何カ良イ工夫ガナイカト云フ考ノ起ツテ居ル時ニ此鉄道ノ議論ヲ聞キ、是等ガ動機トナツテ、何ンデモ鉄道ガ一番良イト云フコトニナツテ、夫カラ鉄道ヲ起スト云フコトヲ考ヘマシタ。(同書) つまり、大隈らの構想には、封建制の打破、中央集権制の強化という立場が強く作用していた。彼らは東京-京都間という、新旧両都を結ぶ幹線鉄道の建設を構想し、これによって中央集権制の強化という効果をあげ得るとした。しかし、当面は東京-横浜間の鉄道で「余程人心ヲ驚カス」効果は期待できる。ここから東京-横浜間の建設計画は現実的意味をもってくる。またそれは、さきに挙げたブラントンの計画とも一致するはずであった。 このような立場に立って、政府の方針はにわかに具体化した。それを支援するかのように、明治二年十月十一日(一八六九年十一月十三日)外務省は、太政官に対して建議書を提出した。その内容は、将来日本国内に幹線鉄道を建設することにより、鉄道のもつ経済的・軍事的役割を期待することはできる、しかし、当面は東京-横浜間に建設すべしと次のようにいう。 追而遠路まで連続し候発起之見本として、差向東京より横浜迄の間は、土地平坦に而、河も少く、初発之業には功成り易く、田畝を廃し直路を開き候とも、纔之廃地に而高千石迄には及申間敷、且汽車荷物車買上鉄道土木之費迄は金五十万両余も有之候はば粗出来可致候哉に有之(『大日本外交文書』第二巻第三冊) そして、この区間に鉄道を建設することの意味を、次のように示している。 勿論横浜と東京之間は、海路運搬自在に而、汽車備候とも無用に可有之との議論も可有之候得共、横浜之繁昌は一日は一日より相増、東京とは声息相通、商法之懸ケ引呼吸に至候而は、寸刻之時間を争候儀に付、車道相開候得ば比隣一町内も同様に相成、老幼婦女に至迄安楽に往来いたし、貿易益盛大に可相成、去迚従来之輿丁馬夫舟子駅店等は繁昌之余沢に浴し、矢張相当に作業可有之…(同書) すでに、東京-横浜間にはかなりの交通量があり、いまさら鉄道など不要という議論もあったようで、この建議書は、それに反駁している。鉄道が、さらに両都市の間の交通を盛んにし、両都市の関係を緊密にするであろうという論旨である。 しかし、資金はどうするのか。建議書によれば、次のように民間資金を集めようとしていた。 右入費出方之儀は、現今神奈川之海岸埋立入用金弐拾万両余之高すら横浜商人共出金いたし候程之儀に付、猶蒸気車之儀も御布告相成候はば、後来之利金を目的に出金いたし、鉄道を仕懸け候志願之者も有之様子に承り及び、敢而政府御出費に不相成、其功成就可仕と被存候間(同書) すなわち、「横浜商人」の出資によって、この鉄道は完成するとみたのである。前にも挙げたように、この建議書は鉄道の建設費を五〇万両とみていた。この後、租税権正前島密が明治三年(一八七〇)に提出した「鉄道臆測」では、東京-神戸間一五〇里の建設費を、施設・車輛費まで含めて一一〇二万五〇〇〇両と試算していた。一里当たり約七万三五〇〇両となる。東京-横浜間七五里として約五五万両ということになる。しかし、前に挙げたブラントンの「蒸気車鉄道」では東京-横浜間の距離を二〇マイルとして建設費八〇万ドル、車輛その他の購入費一五万ドル、合計九五万ドルとみていた。一ドル=一両とした場合九五万両となり、これはのちに実際の建設費として明らかになったが、約一一五万円という数字により近い。資材その他をすべて輸入して建設する場合、いかに費用が多くかかるかという事情をまだ経験しない日本政府が、費用を少なく見積って五〇万両といった額を出したのであろう。 ところで、この資金を政府がどのようにして横浜の商人から調達しようとしたか、その史料は見当たらない。ただ、明治二年十月中屋譲治らが神奈川裁判所に提出した建議書のなかに、次のような一節がある。 東京より横浜之間え蒸気車取建候入費之儀、事馴候二三之外国人えも相談致し算計仕候処、大凡四十万ドル相懸可申趣申聞、不容易企とは奉存候得共、右蒸気車之儀は実に多少之御国益相成候事に有之、且外国人之内旧御政府様之節、東京横浜之間え蒸気車取建候儀、御差許候趣を以、即今右取建御指許之儀願出候趣をも窃に承及居候に付、右様御国益可相成儀外国人之手を借り候儀は、如何にも残念之至りに付、不及ながらも私共自力を以、取建申度と段々心配も仕、仲間中えも評議相尽し種々説得仕候得共、何に分其理に暗く衆議一決仕兼、殆と手段尽果歎息罷在候処(下略)(「大隈文書」) つまり、自力調達は不可能であると述べ、アメリカ商人が資金を調達しようと申し出ていると、この後に続く文章で述べているのである。五〇万両に及ぶばく大な資金は、結局当時の商人たちにとっても大きな負担であったと考えられる。したがって、彼らの資金拠出に期待した外務省の建議も、そのままでは実現の見通しを失うこととなった。 政府は、しかし、この時すでにイギリス側との資金借入交渉をすすめていた。外務省が建議書を提出した一八六九年十一月には、駐日イギリス公使ハリー=パークスを介してホレーシオ=ネルソン=レーとの交渉が最終段階にはいっていた。 借款の内容は、十月二十日(十一月二十四日)に成立したとされている。そして、十一月五日(十二月七日)には、東京の右大臣三条実美邸で、大納言岩倉具視、外務卿沢宣嘉をはじめ、民部・大蔵大輔大隈重信、同少輔伊藤博文も列席して、イギリス側との非公式会談が開かれた。 この会談によって、建設区間は東京-京都間および支線とされ、建設主体は日本政府、建設資金・資材・技術者はイギリスが提供することが定められた。そしてさしあたり、東京-横浜間および大阪-神戸間を建設することが決定された。 なおこの時、東京-横浜間は支線の扱いを受けていた。このようにしてみると、東京-京都間の幹線を中山道経由で建設しようとしていたようにみられるが、その確証は見当たらない。ともかくも、この取決めによって、東京-横浜間の建設は具体化することとなった。十一月十日(十二月十二日)政府はこれを正式に決定し、十一月十二日(十二月十四日)レーとの間に資金借入れの正式契約を結んだのである。 借入金額は、イギリス通貨で一〇〇万ポンド(メキシコ・ドル四五〇万ドル)、すなわち約三〇〇万両、利率は年利一割二分、返済期限は一八七三(明治六)年から一年一〇万ポンドで一〇か年とした。レーはこれを明治三年五月一日(一八七〇年五月三十日)までにロンドンで調達し、七月三日(七月三十日)までに横浜へ送ると約束した。 この借入問題は、レーがロンドンで公募し、しかも三分の利鞘をとったことが判明し、解約問題をひき起こした。また、政府はこのうち六〇万ポンドを貨幣の鋳造などに使い、鉄道に使用したのは一〇〇万ポンドとなった。こうして、資金はようやく調達されたのである。 三 神奈川海岸の埋立工事 工事の開始 政府の鉄道建設準備は、さまざまな障害とたたかいながらすすめられた。明治三年(一八七〇)にはいると、技師長エドモンド=モレル、副技師長ジョン=ダイアックをはじめとして、雇イギリス人技術者たちがつぎつぎに来日した。政府は三月十九日(四月十九日)東京築地の元尾張藩邸に鉄道掛をおいた。三月二十三日(四月二十二日)には、横浜野毛町の元修文館に鉄道掛横浜出張所をおいた。鉄道掛の総監督は監督正上野景範、副監督は土木権正平井義十郎、横浜の出張所長は監督大佑橋本小一郎であった。 工事は東京・横浜の両端から取りかかることとなった。東京の停車場は汐留、横浜の停車場は野毛山下と定められた。その決定のいきさつは明らかでない。東京の場合には、都心に鉄道がはいることを危険視する立場から、築地居留地に近い汐留が選ばれたことが推測できる。これにたいし、横浜の場合は、横浜港と、現在の山下町にあった外国人居留地にできるだけ接近させることをはかりながら、しかし、その手前の相生町、住吉町などに線路を敷設し、停車場を建設することができないため、完成したばかりの埋立地の、いわば付け根にあたる部分に停車場をきめたと考えられる。 このため、のちに在住外国人から「居留地から離れすぎている」という苦情が出たといわれるが(杉本三木雄『汽笛一声蒸気車事始』)、両方のターミナルを、居留地に近づけることを設定の条件のなかに入れていたことは事実であろう。 三月十七日(四月十七日)政府は神奈川・品川の二県に対し、「鉄道製造ニ付、東京ヨリ神奈川迄道筋測量被仰付、御雇入外国人引連、伎々出張可致候条、為心得相達候事」と通達を発した(『太政類典』第一編第一〇三巻、運漕)。横浜側では、四月三日(五月三日)野毛山下の海岸埋立地から測量が開始された。 野毛山下から石崎までの埋立地一万一八七五坪二合五勺(三万九二七〇・二平方㍍)は、明治三年五月(一八七〇年六月)これを埋め立てた内田清七から買収した。買収価格は三万一〇三四両二分、永四〇文六分であった。しかし、停車場の用地の範囲を確立することが困難で、決定は翌年に持ち越された。結局、不足の部分をさらに埋め立てて用地を拡張すエドモンド=モレル (桜木町駅構内) ることとなり、鈴村要蔵がこれを請け負って実施した。埋立面積は三万五五一三坪六合五勺六才(一一万七四〇〇・五平方㍍)という(日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史』1)。 着工後の埋立面積が、すでに埋立てを終わっていた部分の三倍にあたるわけで、鉄道用地に必要な面積が、当事者にとって予想をはるかに越える大きいものであることが認識されたとみてよいであろう。 神奈川築堤の埋立て この埋立地を鉄道線路に使用することを決めた理由には、もちろん当時形成されつつあった横浜市街地を避けるという点が挙げられるであろう。しかし、それとともに、この横浜と神奈川を結ぶ場合に、横浜の石崎と神奈川の青木町との間に海中に築堤をつくって線路を通せば、かなり距離の短縮が可能になるという点も挙げられよう。当時は、現在の金港橋から高速道路西口・楠橋・真勝橋・平沼橋・高島橋を結ぶ線までが入江となっていた。したがって、当時の神奈川宿から横浜に入るには、東海道沿いに青木町を抜け、そこから岡野・平沼へ、この入江の海岸を大きく迂回しなければならなかった。そこで、鉄道を通すためには、野毛山下の埋立地から、この入江に築堤をつくり、石崎と青木町とを結ぶという構想が生まれたと考えられる。 明治三年四月二十六日(一八七〇年五月二十六日)、民部省鉄道掛は東京府および品川・神奈川の二県に対し、この築堤工事を請け負う者を募る告示を発した。この告示に応募したのは、横浜入船町の高島嘉右衛門だけであった。六月十一日(七月九日)、高島は鉄道掛との間に契約をかわした。この契約は、「埋立地仕様書」によれば、長さ七七〇間(約一四〇〇㍍)、幅四二間(七六・四㍍)の円弧を描く築堤をつくり、このうち幅五間(九・一㍍)を鉄道用地に、六間(一〇・九㍍)を道路に使用し、鉄高島嘉右衛門 『呑象高島嘉右衛門翁伝』より 道用地の分は、調印の日から晴雨にかかわらず、一三五日で完成することとした。 このほか、神奈川宿青木町住民の立退き代替地にあてるため、青木町海岸に二〇一七坪(六六五六平方㍍)を埋め立てさせることとした。これは、五割増しの三〇二五・五坪(九九八四平方㍍)を埋め立てさせ、政府使用地と道路以外は請負人が使用することができると決めた(『鉄道寮事務簿』巻二四)。 高島嘉右衛門の回顧談によると、「殊に鉄道の工事は外国人の眼前にて見事速成せしめんとの趣向なれば、余は埋立工事中大綱山に見張所を構へ、望遠鏡を以て海陸人夫数千人の勤惰を一目に見渡し、極力奨励に努めて毫も欠くる所なかりしが……」(『呑象翁懐旧談』)とある。付近の人びとが誤解して、高島に瓦礫を投げたこともあったという。 この工事は、期限に遅れた場合には一日について埋立地のうち、長さ六〇間(一〇九㍍)、幅五間(九・一㍍)ずつ請負人が使用できる部分を削るという罰則がついていた。 埋立工事は、一八七〇年中に日限どおり完成し、鉄道用地と道路とは政府に引き渡された。この工事には、横須賀製鉄所の蒸気式「泥揚器械」を使用、土砂の運搬にはトロッコも使用された。埋立用の土砂は野毛側は戸部伊勢山を、神奈川側は神奈川台の西側を切り崩して運んだ。 この工事の費用は、基礎・石垣などに九六二五円、埋立てに八万〇五一〇円、合計九万〇一三五円であったという(『鉄道寮事務簿』巻二四)。契約によれば、鉄道用地と道路以外は、請負人が使用してよいこととなっていて、しかも地税のほかは、いっさい無税と決めてあった。工事費を支払わないかわり、土地の権利を与えるという方式がとられたのである。のちに、一八七四(明治七)年になって、この免税措置が、特定の人物に特権を与えることは好ましくないとして問題となった。政府は、一〇万円を下付することとして、以後この免税措置を破棄する決定をおこなった。 四 工事完成と開業式 工事の完成 神奈川から六郷川まで神奈川県下の工事は、神奈川台の切取り以外は、おおむね平坦な田畑を縫って走るため、路盤工事そのものは比較的容易であった。ただし、六郷川をはじめとする橋梁工事が開通の遅速を左右する要因をなしていた。川崎-神奈川間の用地の買収は、表一-四〇のとおりであった。買収にさいして、道路の付けかえや水路の変換・拡張、溝渠の敷設などについて、住民からしばしば陳情が出され、その処理にかなりの時間がついやされたという。 これらの路盤盛土の延長は、六郷川から横浜まで七〇〇三間余(約一万二七三三㍍)とされている。また、神奈川台の切取りは延長一三二間(二四〇㍍)で、これらの工事は、盛土区間については一八七一年七月には完成したと考えられる。切取り区間は明治三年十月十日(一八七〇年十一月三日)に着工、明治五年五月二十日(一八七二年七月二十五日)に完成した。 第1-40 川崎-神奈川間買収面積および価額 注 「川崎ヨリ神奈川迄鉄道敷潰地田畑其外調査控」(『日本国有鉄道百年史』2)より 橋梁については、神奈川県下については表-四一のとおりである。六郷川はじめ各橋梁は、桁・橋脚ともに木製で、六郷川の場合、川をまたぐ本橋部分は径間五五フィート(一六・五㍍)のひのき製ラティス形構桁七連を架設、桁上に板を張ってその上に道床を設けた。鶴見川橋梁は、最初川幅二〇間(三六・四㍍)の部分に架設しようとした。しかし地元住民は、堤防内に築堤を建設すると、氾濫しやすくなるという理由からこれに反対し、同時に川幅を拡張することを求めた。その結果、四七間(約八六㍍)の橋梁となったのである。 神奈川跨線橋は、東海道が線路をまたぐもので、品川八ツ山の跨線橋とともに、鉄道表1-41 神奈川県下の橋梁 注 「従東京新橋至横浜野毛浦鉄道諸建築個所分費用綱目」(『日本国有鉄道百年史』2)より。日付は太陰暦による。 神奈川跨線橋(『ザ・ファー・イースト』より) 徳川黎明会蔵 と道路の立体交差の最初のものといえる。 高島の三つの川の橋梁は、埋立地をつなぐもので、埋立地は、外海と入江とを連絡するため、水路をつけてあった。 横浜停車場には機関車庫・客車庫・荷物庫・石炭庫・鍛冶製作場・官舎など四二棟の建物が建設され、これらの建物は、早いものでは明治四年一月(一八七一年三月)に完成、イギリスから輸入される車輛・レールなどを格納するのに使用された。また、一八七一年には造船寮所属の観光丸を借り受け、機械や石炭の倉庫として一時的に使用した。鍛冶職場を横浜に設けたのは、輸入車輛の組立てのためであった。停車場本屋は、新橋駅のそれと同じ様式で、アメリカ人R=P=ブリジェンスの設計により、木骨石張りの桁行約二〇㍍と梁間約一〇㍍の二階建二棟を並べ、これを木造平屋建の桁行約一四・五㍍、梁間約一〇㍍の建物でつなぐ方式をとった。乗降場は、長さ約九一㍍、幅約一一㍍、高さ約一・二㍍のものを、停車場本屋の山側につくった。 神奈川県下の中間停車場は、川崎・鶴見・神奈川の三か所で、駅本屋はいずれも木造平屋建、川崎と神奈川には行違設備が設けられたが、鶴見は片面乗降場であった。 これらの建設工事は、明治四年九月には横浜から川崎まで、列車の試運転に差支えない程度に進行していた。当時、すでに機関車や客貨車が横浜に到着し、組立ての終わったものもあった。そこで、試運転が開始された。 参議木戸孝允の日記、明治四年八月六日(一八七一年九月二十日)の項に、次のような記述がある。 曇又雨又晴、九字前大隈に至る。大隈、後藤、吉井源同車にて金川に至る。今日蒸気車の乗試也。……神州蒸気車の運転今日に始れり。条公昨日より横浜へ出張、再度蒸気車へ乗しとき同車なり。条公金川より直に御帰京、余同行の一連皆高島屋に泊せり(『木戸孝允日記』第二)。 この日が、試運転の初日ということになる。おそらく、木戸の一行は横浜から運転してきた列車に乗って、神奈川から横浜へ行き、横浜からは前日から横浜に出張していた三条実美と同乗して神奈川に向かったのであろう。木戸はこののち、八月二十九日(十月十二日)と九月三日(十月十六日)にも試乗した。十月十六日には川崎まで乗った。試運転区間が、このころまでには川崎まで延長されたのであろう。 十一月三日(九月二十一日)には大蔵卿大久保利通も試乗した。 三時より蒸気車に而川崎迄三十分之間に着す。始而蒸気車に乗候処、実に百聞一見に如ず。愉快に堪ず。(『大久保利通日記』下巻) 政府高官が試乗して、この試運転は政府内部の鉄道に対する関心を高めるうえで、かなり効果があったとみられる。 開業式 工事は、六郷川以北の部分も進んでいて、明治五年五月七日(一八七二年六月十二日)には、品川-横浜間が仮開業した。当初は一日二往復(翌日から六往復)、運賃は品川-横浜間で、上等一円五〇銭、中等一円、下等五〇銭であった。六月五日(七月十二日)には、川崎・神奈川の停車場が開業、運賃は上等九三銭七厘五毛(三分三朱)、中等六二銭五厘(二分二朱)、下等三一銭二厘五毛(一分一朱)に値下げされた。これは区間制運賃で、品川-川崎間、川崎-神奈川間を二区、神奈川-横浜間を一区とし、一区の運賃を上等一八銭七厘五毛(三朱)、中等一二銭五厘(二朱)、下等六銭二厘五毛(一朱)として決定し、「新貨条例」公布後も根強く残っていた旧貨幣による賃率を採用したのである。なお、のちに新橋-横浜間が正式開業した時、新橋-品川間を一区としたので、新橋-横浜間の運賃は、上等一円一二銭五厘(一両二朱)、中等七五銭(三分)、下等三七銭五厘(一分二朱)となった。 利用者は次第に増加し、七月には一週間一万人、八月には同一万五〇〇〇人といわれた。八月十五日には、中国・西国巡幸からの帰途、風波のため軍艦が品川沖に接岸できなかったことから、明治天皇も臨時の措置として列車を利用、「〔午後〕第六字火輪車ニ乗御、同所〔野毛山下鉄道ステーション〕御発シ六字四十五分品川ステーションニ着御」という記録がある(「明治五年壬申五六月巡幸日誌』)。 開業式は太陰暦九月九日すなわち重陽の節句の日に予定されていたが、風雨のため十二日に延期された(太陽暦十月十四日)。 この日、午前一〇時新橋を出発した客車九輛編成の御召列車は、午前一一時横浜停車場に到着した。市街では紅白の幔幕や日章旗、日の丸の提燈をかかげたという。 横浜駅本屋の便殿で開業式が挙行された。勅語は文武百官に対するものと、内外庶民に対するものと、二つが出された。後者は次のとおりであった。 東京横浜間ノ鉄道朕親ク開行ス自分此便利ニヨリ、貿易愈繁昌庶民益富盛ニ至ランコトヲ望ム(『太政官日誌』明治五年第七五号) つづいて、駐日各国外交官代表イタリア公使コンテ=アレッサンドロ=フェ=ドスティアーニが祝詞奉呈、勅答を下賜、さらに在日外国人代表イギリス人W=マーシャルと横浜市民代表原善三郎が祝詞を奉呈した。これに対する勅答は、それぞれ外務卿副島種臣と神奈川県権令大江卓を通じて下賜された。 こうして、横浜における開業式は終了した。天皇をはじめ一行は、正午発ふたたびお召列車で新橋に向かい、今度は東京における開業式が挙行された。この横浜における開業式は、天皇の臨幸というかたちをとり、市民までふくめた公式の横浜停車場における開業式 『横浜商業会議所月報』より 祝賀行事としておこなわれた。その意味でも当時の殖産興業・文明開化の政策や風潮が、こうした行事によって、より強く一般市民の意識にも浸透していったのである。 五 京浜間鉄道の効用 運輸営業の開始 明治五年九月十三日(一八七二年十月十五日)、開業式の翌日にあたるこの日から、新橋-横浜間の旅客運転営業は開始された。時刻表は表一-四二のとおりで、発駅午前八時から午後四時まで、一二時・午後一時発を除き、一時間等間隔で運転された。客車の編成は各列車上等車一輛、中等車二輛、下等車五輛の八輛編成、運賃は、前に述べたとおりであるが、一八七四(明治七)年六月十五日改正を実施し、一区間上等一五銭、中等一〇銭、下等五銭とし、これを基準として計算することとした。これは下等一区間の基本運賃を五銭として厘毛の端数を処理、新しい貨幣制度に合わせたものである。この基準によると、新橋-横浜間の上等運賃は九〇銭となるが、ここだけは一円と定めた。しかし、新橋-神奈川間七五銭と新橋-横浜間一円との差が大表1-42 新橋-横浜間列車時刻表 注 『鉄道寮事務簿』巻4による きく、神奈川で乗降する上等旅客が多くなり、そのため一八七五年七月十日、上等運賃を変更、新橋から品川までを二五銭、川崎までを五五銭、鶴見までを七〇銭、神奈川までを八五銭に引き上げた。 到達時間は時刻表からみられるように五三分の等速運転であったが、一八七五(明治八)年六月の時刻改正にさいし、川崎にのみ停車する急行運転が実施され、この列車の到達時間は五〇分となった。それまでに、列車本数は徐々に増加し、一日一二往復となっていた。 これは、輸送需要が予想以上に多かったことによるものと考えられる。一八七二年から一八八八年までの各年度の輸送人員をみると、表一-四三のとおりである。 また、臨時列車の運転もかなり早い時期から実施された。とくに、沿線寺院の縁日などの人出に対応する輸送が多く、開通直後の明治五年九月二十一日(一八表-43 新橋-横浜間旅客輸送人員 注 『日本国有鉄道百年史』第1巻より作成 七二年十月二十三日)川崎大師の護摩供には、午前七時から午後六時まで、正規の運転時間の前後に三往復を増発して一二往復とし、以降川崎大師の縁日には増発が実施された。池上本門寺の御会式についても、一八七三(明治六)年以降新橋-川崎間に臨時列車の運転を実施、一八七六年六月大森駅が開業すると、輸送人員はさらに増加した。 一八七三年六月二十八日、東京両国の川開きに横浜から出向く人びとの便利のため、横浜発午後七時三〇分、新橋発午後一一時三〇分、一二時(午後七時発を振替)の上り一本、下り二本の臨時列車を運転した。 鉄道の効用 このような臨時列車の運転は、ほかにもたとえば東京や横浜で催される外国人などを招待する夜会の時のものもあった。たとえば、一八七九(明治十二)年一月二十日横浜で開かれた夜会の参加者のため、二十一日午前二時三〇分横浜発の臨時列車を運転した。また、十一月三日の天長節夜会の参加者のためにも、一八七九年と一八八〇年には夜半に臨時列車が運転された。 鉄道の効用は、このような臨時列車の運転にもあらわれてきた。西南戦争の際の動員兵力輸送にも、その効用は明白にあらわれた。このような異常時だけでなく、横浜における船舶の出入港に接続する臨時列車の運転も試みられた。すなわち、一八八一(明治十四)年五月八日から「三菱飛脚船」の出港日に、新橋発午後一時の臨時貨物列車に客車を増結した。また、木曜日「三菱飛脚船」の入港日には、横浜発午前九時の臨時列車を運転した。この試みは約一か月半で終わったようであるが、この時以外にも汽船に接続する臨時列車の運転がおこなわれたようである。 とくに、東京-横浜-大阪-神戸間の輸送体系は、一八七四年の大阪-神戸間の鉄道開通によってさらに変わり、両端を鉄道で輸送するというかたちが成立したのである。 貨物輸送は、一八七三年九月十五日に開始された。しかし、運賃が船舶や車馬にくらべて割高であり、輸送手続が理解しにくく、利用度はきわめて低調であった。しかし、運賃の引下げや輸送手続の簡略化によって、次第に利用度が高まり、一八七八(明治十一)年には年間一〇万トンをこえるようになった。このことは、京浜間の貨物輸送のかなりの部分を、鉄道が負担することになったとみてよいであろう。 以上のようにして、東京-横浜間に開通した鉄道は、旅客・貨物両面において新たな輸送機関としての効用を明らかにしていった。そして、開港場としての横浜の、輸送中継基地としての機能も、この鉄道開業を契機として飛躍的に高まっていったのである。 第三章 土地制度の改革 第一節 市街地への地券交付と地租改正 一 横浜市街地への地券交付 横浜市街地の土地所有関係 横浜市街地は、幕末、開港にともない、幕府によって急拠造成された。したがって、その土地所有関係は、小田原が本来の封建都市として、武家地と地子免除地である町地とから成っているのとは異なっている(以下『横浜市史』第二巻第一編第三章第一節および第三巻下第六編第一章第二節による)。すなわち、貧しい農漁村であった横浜村などの高請百姓所持地その他を、幕府が御用地として接収し、貢租を高内引として免除するとともに、元所持百姓には、年々一定の作徳金(明治四年十月大蔵省あて神奈川県「作徳金下渡方伺書」によれば、それは「年々十月中之値段を以米麦を金ニ替右江歩通五分増加」して算出した)を交付し、居住者を、元町へ移住させた。そして、この接収地を、外国人居留地と内国人居住地に区分し、後者をこの地に移住してきた町人に拝借地として割渡した(表一-四四)。この拝借人からは四等級に分かれた土地等級に応じて月々「地代金」を徴収した。したがって、この土地は、「高内引町並地」と呼ばれるように、本来は高請地であるものを公収して御用地としたのであって、元所持の百姓にはなお潜在的に土地保有権が保留されている。一方、借地人である町人には、貢租にみあう高額の「地代金」が課され、土地の売買質書入は禁止された。東京や小田原などの町地が、無税、かつ売買質書入が認められている私有地であるのとは、性格を異にする。ただし、このような官地としての性格は、この地での活発な商業活動の結果として、次第に有名無実化しつつあった。明治四年(一八七一)四、九月神奈川県は、横浜関内外地所拝借人に対し、拝借地の又貸しや拝借地担保の金融を禁止する布達を発しているが、かかる禁令じたい、現実に拝借地担保金融や事実上の所有権移転がなされていたことを示している。 明治四年四月の拝借地貸渡禁止第一五号布達では、拝借人が地所を、「貸長屋之名義ヲ以分借ト唱、余人ニ貸渡」すのを禁止しているが、「是迄之儀ハ出格之訳ヲ以、別段不及沙汰」と、既成事実をすべて公認し、「其名分借ニして其実自分拝借同様ニ相成候分(事業上の借地権の移転)、并分借いたし居候分共、来ル十五日迄に改而上知拝借可願出候」として、実際の関係を把握し、これをもとに地所拝借人を確定しようとした。こうした「地所拝借人」は、高額の「拝借料」を負表1-44 高内引による横浜市街地形成の内訳(明治5年6月現在) 注 1 『横浜市史』第3巻下,583ページ第118表による。 2 反以下,石以下は切捨て。数値は第118表の原数値のまま。したがって合計値は若干相違する。 担するとはいえ、すでに事実上の土地所有者であり、右の布達が命じる、今後の拝借地又貸しの禁止も、貫徹は困難であったろう。この横浜港関内地は、横浜・太田町の高請地から高内引された八万五〇〇〇余坪からなるが、面積は水中無税地の埋め立て、「縄延び」のはじき出し等によって八万八〇〇〇余坪に増加した。幕府-県は、右の高内引として公収した地の元所持主に対し、年々二五五四両余の作徳金を支払い、一方、拝借人からは一万七五六〇両の地税を徴収した。したがって、差引一万五〇〇六両余が、年々県の収入となるわけである(表一-四五)。 陸奥の市街地地券交付建言 この横浜市街地の土地所有関係を改革する動きが、廃藩置県直後の明治四年九月十八日、初めて、神奈川県知事陸奥宗光によって提起された。大久保大蔵卿・井上大蔵大輔あての「地所拝借之儀停止、改而地券売渡之儀伺」がこれである。 これより先、明治四年三月二十日、大蔵省は、三府五開港場に統一的な地租賦課法を定め、もって「漸次ニ全国一般ニ拡行セント」し、この旨を太政官に建議し、まず東京府下はじめ、二都開港場そのほかの地子免除市街地に対し、地券を発行して地租を賦課する方法(当時大蔵省はこれを「沽券税法」と称している)を策定しつつあった。そして、これがまだ表1-45 横浜関内地の旧地種・地税と下渡作徳金額(明治4年10-12月) 注 1 『横浜市史』第3巻下,584ページ第119表による。 2 数値は第119表の原数値のまま。 成案をみないとき(最初の地券発行規則である東京府下「地券発行地租収納規則」は、十月七日伺、十一月五日正院裁可、十二月二十七日太政官より東京府へ布告、翌年一月大蔵省が同規則を東京府へ達、六月二日東京府管内へ布達)、陸奥の伺は、これまで拝借地であった横浜町人居住地を、彼らに売渡して私有地とし、地券を交付し相当の地租を徴収することを提案(ただし具体的方式は調査の上、伺出るとしている)したのである。したがって、この伺は、やがて全国一般の地への地券交付・地租改正へと発展してゆく政府土地改革政策の先駆をなすものであった。 明治四年十月陸奥の地券交付方式 陸奥の具体的な地券交付の方式は、十月(日付不明)にいたって大蔵省に提出された。その伺文はまだ紹介されていないので、主文のみを次に掲げる。 当港地所拝借之儀は停止いたし、改而地券下ケ渡方相伺候処、方法取調見込とも可申立旨御指図ニ付、勘考候処、当港ハ三都府下等と異り、本年貢地ニ付開港以後御用地ニ相成、町人共拝借為致候後も、地代四等ニ分チ取立来候得共、追日当港繁栄いたし候ニ付而ハ、地位不適当之分も可有之候ヘ共、即今一挙ニ難差定候間、別紙を以申上候通、先ツ関内之分丈ケ地所御買上取計候上、地券相渡公私判然ニ区別相成候上にて、後日確当之地税金取極候儀は、右地券を沽券ニ改革いたし候事も容易ニ可有之、依之地券案相副、此段相伺申候、以上 辛未十月 神奈川県 大蔵省 御中 これに付された「作徳金下渡方伺書」によれば、まず関内の高内引町並地について、元所持百姓に、これまで年に下渡してきた作徳金の五か年分を一時に下付して、この地を彼らから買い上げる。その上でこの地の拝借人に地券を交付し、所有地たることを認め、「公私判然」とさせる。しかし、従来拝借人に課してきた地代はそのまま据え置き、後日適当な地税を定め、地券を「沽券」に切り換える、という内容である。この措置によれば、関内の町人居住地は、高請地から外され、旧所持百姓の手から完全に切り離された官地となる。しかし、これは従来の地代金を据え置いたまま、拝借人の私有地と認めるというのであり、条理の上では、官地を無償で私有地に切り換えたことになる。当然、大蔵省は、この点に難色を示すが、県は、「横浜は、東京・兵庫と違い、従来官地なので地価が形成されておらず、右の二地のように入札公選法で地価を求めるわけにはいかない。ひとまず地券を渡し、私有地とし、売買譲渡を自由にし、一般地価が形成されてきた上で、地価を定め、従来の地代を地租に切り換えたい」と主張してついに十二月五日、この案を横浜港に限り、かつ早急に地価を改定し百分一税を布くという条件で大蔵省に認めさせた。 しかし、先にのべた、明治四年四月の県第一五号布達が、それまでの「分借」などの名儀での土地移動の結果を、すべて公認せざるをえなかったように、事実上の売買・質書入はすでに一般化していた。官地をそのまま私有地に切り換えるこの案は、すでに実際には私有地化していた横浜市街地の実態の追認にほかならなかった。 関内町地への地券交付 こうして、政府の承認を得た県は、十二月十二日、横浜五区市長・副市長あてに、地券交付取調を命じ、一般に対し、地券交付の触示を行った。 関内之町地は都而地券相渡候に付、自今華・士族、卒、平民に不拘売買指免し候事 外国人居留地山手雑居之地所を除き、其他町地は外国人江質地売地ニいたし候儀、決而不相成候事 今度関内拝借地は都而地券相渡し、向後所持人之所有ニ相成候間、拝借地之坪数間数等委敷取調、来十二月十七日迄可届出候事 是迄内借地いたし居者は、其拝借人と示談之上、前条之地券相渡、其者所持地へ可申付候事、地券相渡候上は是迄相納有之候身元金及糴金ハ向後御下渡不相成候事 道路は都而六間ゟ狭小ニしてハ繁栄之土地雑沓ニ可及候、若道巾六間以下之町々は双方家並之中、相当之削地可申付事 但、右町地家並共即今取払ニ不及候事 右之通末々迄不洩様可触示者也 さらに、これらを詳細に定めた「心得書」(全文は『横浜市史』第三巻下六〇五ページ以下参照)も布達されている。 地券交付の事業は、県市政掛、小島典事・丹波大属・太田権少属・石川史生(四年八月任命)によって、五年正月から始められ(明治七年一月十七日、県少属・地券課町方掛田村可行「事務順序書」)、同年三月四日から町ごとに地券の下付がなされ、事業は六月ごろほぼ完了した。関内町地から徴収した地券手数料は九八二両、手数料は坪数にかかわらず地券一枚に付一両との規定からすると、発行地券数は九八二枚であった。また、五年五月からは、関外町並地のうち、羽衣・姿見・吉原町への地券交付が始められた。 この結果、改めて従来の地代が、そのまま地税として確定したが、関内について町別に示すと表一-四六のごとくであった。これによれば地税(旧地代)は、一〇〇坪当たり二三円六銭余となる。なお、これに先立つ四年十二月に、元所持主に対し、明治四年から五か年分の作徳金が買上代として下付されたが、その総額は一万二七七三両永八九文五分(表一-四五所掲作徳金の五倍にあたる)であった。 表1-46 横浜港内町別地税額(明治5年分)明治5年3月調 注 「地券書類」(宇田川家文書)より作成 地券税法への変換 以上の経緯によって、横浜市街地に交付された最初の地券には、前述のように従来の地代と同額の地税が記されているのみで、地価額の記載はない。 しかし、県は、この地券交付事業がまだ完了をみない明治五年四月二十日、早くも、横浜市街地への地価の設定にとりかかった。 大蔵省は、五年三月、各府県に対し、東京府下地子免除地への地券発行地租収納規則案を示し、これに準じて、各地地子免除地に「沽券税」を施行すべき旨を達した。しかし神奈川県のばあい、さきに関内町地への地券交付が許可になった際(四年十二月五日)、「自今施行之後漸次沽券へ更正之処置無之而ハ、後来外々之指障ニ相成候間、見込取調出来次第、早々可申立事」との条件が付されていた。よって、早々に地価設定にとりかかったと思われる。この地価とは、「東京府下地券発行地租収納規則」によれば、地主が申告した現今の売買価で(不当に低価申告したときは入礼糴売の法がとられる)、その一〇〇分の一が地租となるはずであった。 さて、五年四月二十八日の県触達は次の通りである(宇田川家文書「地券書類」)。 兼而相渡置候地券、裏面江別紙之通正価相認可遣間、地所と家作と之別を分チ、買請候節之直段、或は当今所持人適宜之直段にても不苦間、篤と取調来ル五月十日限可指出候 右之通相心得早々順達留ゟ可相返者也 壬申四月廿八日 神奈川県庁 (別紙) 表書何誰所持之地所、金何千何百両之代価有之旨申出候段、聞届置者也、 年号月日 陸奥神奈川県令宗光 こうして、同年六月には、地価設定を終え、従来の地税に代えて、地価一〇〇分の一の地税徴収体制が整った。これを極めて短期間になしえたのは、県市政掛が、四等級に分かれた旧地税を町毎の盛衰を考慮して増減し、ここから地価額を導き出して地主に受諾させたからに違いないが、それには総額三九六〇両余の減税になることが、大きな力となっている。 以上の地価設定と、それによる地券税法施行に伴う新たな地券「心得書」案は、七月九日大蔵省の承認を得た。なお、これまで神奈川県令として横浜港地券交付を推進した陸奥宗光は、六月、大蔵省に登用され租税頭となっているので、県と大蔵省との交渉はきわめて円滑に進んだであろう。 こうして、七月二十五日、県は次の触書を順達し、横浜港内町地への地券税法施行を宣言した(前掲「地券書類」)。なお、県・政府は、この地価を記載した地券を「沽券」と称している。 先般当港内町々江地券相渡候処、此度沽券ニ変革いたし、従前之地租は当六月を限り相廃し、以来之儀ハ此程持主共ゟ適宜に書出し候、地価之百分一税金として年々前納ニ取立候筈、尤当年分ハ七月ゟ施行いたし候儀ニ付、半ケ年分当七月晦日限可相納事 一沽券相成候ニ付、心得方之儀ハ心得書壱冊ツヽ可相渡間、右にて得と相弁可申事 一渡置候地券へは裏書いたし可遣間、心得書相添、一区二日ツヽ之日取を以区順ニ指出可申事 右之通相触候間地主共ヘ無洩落申達、至急順達留ゟ相返者也 壬申七月廿五日 神奈川県庁 右に示されているように、「沽券」への切換えは、すでに交付した「地券」の裏面に地価を記すことで済ませた。よって、この作業は、遅くも九月半ばには完了している。 なお、横浜関外町並地のうち、羽衣・姿見・吉原の各町は、右関内地と同様に措置され、それ以外の関外町並地は、地券交付を行わず、直ちに「沽券」を交付することとし、八月七日大蔵省の許可を得て、同年十一月二十八日に、まず、芝生村・平沼新田・岡野新田(藤江新田地先)・北方村・根岸村の町地に「沽券」を交付し、六年一月に、吉田町・野毛町を終えた。なお、このころは後述のように郡村耕宅地にも地券(壬申地券)交付が進められており、尾張屋新田・平沼新田・藤江新田(芝生村地先)・岡野新田の田畑にたいしても、右の「沽券」交付と同時期に郡村地券が交付されている。 一八七三年大火跡地の地価再調査 一八七三(明治六)年三月二十三日の横浜大火は、関内町地の約三分の一におよび二六の町、約二〇〇〇軒の家を焼き尽くした。県は、これを「至極之好機会」として、復興にあたり焼失地の地揚げ・地画整理事業を実施し、同年十二月までにほぼ完了をみた。ついで、十二月一日、右作業を担当していた県営繕課から、地券課町方掛りに、地画割替図面が渡され、以後同掛りによって、地揚げ地の地価再調査が始められた。同掛りでは、まず右図面によって、地価の欄を空白にしたまま、地券大帳を作り、ついで地券状作成に着手し、十二月二十三日ごろには、跡地地主三七五人へ地価記載のない地券の交付を終了した。以後、地主からの申告にもとづいて地価決定がなされた。しかし、実際には、焼失地は大火後一年半は免租で、さらにその期間が切れる一八七四年十月には、地主らは運動してふたたびむこう一年半の免租をかちとった。そしてこの再免租期間に、後述市街地地租改正により地価が改定されたので、右の焼失地再調地価による地租は、結局徴収されないで終わっている。 「沽券」交付後の状況 横浜市街地の地代が高額であることは、従来県も認めるところであったが、「沽券」交付のさいの地価設定によって、若干の減税がもたらされた後も、右の事情は変わらなかった。 地価設定の当初、県は土地売買が行われたばあいも、地価三か年据置きを定めたが(「心得書」第四条)、一八七三年三月四日、大蔵省は、とくに神奈川県に対し、右規定を廃し、常に売買地価によって地租を収入すべき旨を令達してきた(「地租改正例規沿革撮要」『明治前期財政経済史料集成』第七巻二七五ページ)。よって県は、翌四月、「横浜港町々沽券税の儀は、地所売買代価昇降ニ不拘、壬申年ゟ三ケ年之間税額据置之積候処、詮議之次第有之、右は取消以来代価昇降ニ随ヒ、税額増減可致事」を布達した。 この結果、横浜大火後の不景気にあたって、土地売買のさいの売買価は、従来の地価より低下し、地税の減収傾向があらわれるにいたった。加えて、売買されない地所の地価減額を要求する願書も県に提出されてきた。これに対し、県地券課は、実際の売買価に見合う額にまで引き下げると、従来一坪の地価一五円が五円に、あるいは四円が二円に低落すると述べて、地価修正に反対した。ここからも、県当局者は、横浜市街地地価が不当に高いことを自覚していたことがわかる。 市街地地租改正の実施 郡村での地租改正が進むにつれ、政策上、市街地税法を是正し、両者を「公平画一」にする必要が生じてくる。同時に、各都市の特殊事情によって生じた都市相互間での地税不均衡の修正も必要であった。こうして、一八七五(明治八)年八月二十八日政府は、太政官布告一三三号をもって「府県市街地是迄地価百分一収税致来候処、明治六年第二百七十二号布告ノ通、地租改正法各管内一般ニ施行候節ハ、右改正法ニ準拠シ、地価百分三税ニ改正候条、此旨布告候事」を達した。この布告にもとづいて実施されたのが市街地の地租改正である。その具体的方式は、一八七六年三月七日、地租改正事務局別報達「市街地租改正調査法細目」によって定められ、各都市での画一的な事業実施が図られた。 横浜港市街地の地租改正も、一八七六年から着手した。ほぼ右の「調査法細目」に従って土地の実測・区画の確定・地積の算出をした上で、地主総代に、各地を表裏に分け、商業の盛衰・運輸の便否などによって地力を鑑定させ、その優劣に応じた地位等級を定め、これを組織して各町連合表を提出させ、県官がこれにもとづいて、地価を定めていった。その結果は旧税の約四・六㌫の増税であるが、単位面積当たりの税額は、旧税(地価一〇〇分の一の際の地券税)は旧地坪一〇〇坪につき六円三六銭、新税は改正地坪一〇〇坪につき六円三四銭(いずれも宅地のみ)で、かえって減少している(表一-四七)。右の増加は、主に精密な実測によって地坪が増加したことによると考えられる。 市街地地租改正によって、東京はじめその他の都市では大幅な増租(東京では地租が約四倍、大阪では約六、七倍に増加)が結果したのに比すれば、増租はきわめてわずかであった。しかし、この改正によって、東京市街地(宅地のみ)は、改正地坪一〇〇坪につき新税は四円一六銭となったのであって、横浜市街地の六円三四銭よりもなおはるかに軽い。ここから判断しても、横浜市街地の幕末・維新期の地代-地租負担が他の都市にくらべ、いかに重かったかがわかる。 注 (1) 宇田川家文書「地券書類」。全文は『横浜市史』第三巻下五九一ページ、および丹羽邦男『明治維新の土地変革』二五〇ページに所掲。 (2) 「大蔵省沿革志」(『明治前期財政経済史料集成』第二巻三一四ページ)、「地租関係書類彙纂」(同前掲書、第七巻三〇五ページ)。 (3) この伺に付された別紙のうち、地券書式およびこれに掲げられた地券規則の全文は、福島正夫『地租改正の研究』六四ページ以下参照。 (4) 「地租関係書類彙纂」『明治前期財政経済史料集成』第二巻三〇九ページ。同書の五年正月と表1-47 横浜市街地(元町・山林原野を除く)の地租改正の結果 注 1 免税地中には「免税可伺出分」をも含む,その他は論地6,924坪。 2 「新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資料』下巻)より作成。 あるのは誤り、「地券諸伺届纂録」(宇田川家文書)に掲げられている足柄県あての同達写しによれば三月である。 (5) 全文は、『横浜市史』第三巻下六〇五ページ以下参照。 二 小田原・箱根宿等市街地への地券交付 足柄県下の市街地 足柄県下での市街地への地券交付は、神奈川県よりはるかに遅れ、明治五年(一八七二)十一月になって着手された。すでにのべたように、この年の三月には、大蔵省租税寮は各府県に、「東京府下地券発行地租収納規則」を送付し、各地方地子免除地に追々これを及ぼすべき旨を達している。そして、一方郡村地に対しても、「田畑永代売買解禁布告」につづき、七月には一般の地への地券発行が「十月中に渡し済み」という期限付きで達せられている。このような中央の動きからみても、足柄県での地券交付の第一着は遅い。これは、元小田原県からの事務引継の遅延によるのであろう。例えば、足柄県は、置県後一年を経た五年十一月にいたって、元小田原県に対し、畑地等の内にある士族・卒屋敷引の事由・年暦等を問い合わせ、「貞享度(一六八四-一六八七年)稲葉家より引附請候地所にて、年暦は勿論詳細の儀は更に相分らず候得共、旧藩においては夫々授与申付置候儀にて貸地は一切これ無し」との回答を得ている。こうした管下事情の把握の遅れに加え、管下の行政機構も、この五年十一月にいたって大区小区制が設けられ(『資料編』11近代・現代(1)第一編第二章)、ようやく新置県として統一した行政機構が整えられている。 さて、県下で市街地地券交付の対象となったのは、小田原の武家地・地子免除地である町地のほか、無高無税地であった箱根宿・元箱根村・芦ノ湯であった。 小田原への地券交付 明治五年(一八七二)十一月十五日、まず、小田原武家地(貫属住居屋敷地)への地券交付・地価一〇〇分の一の「沽券税」施行(明治五年から)が伺い出され(「貫属屋敷地券渡方ニ付伺書」)、ただちに同月二十三日、租税寮から申し出の通り許可が下りた。 貫属居住屋敷地は、往古稲葉家が家臣に割渡したのに始まり、貞享度大久保家が授与し、以来家臣が住居してきた武家地であり、したがって、地代金を取らず、そのまま従来の住居者に地券を交付した。その内容を表一-四八に掲げる。地価は、三等に区分して定めているが、「土地柄相当之地価」というものの、後にみる町地とくらべてきわめて安価である。右につづいて、小田原町地その他について同様の伺が出され(「地券渡方之儀ニ付伺書」)、これも十一月二十八日許可となった。 町地への地券交付結果を直接に示す資料は不明であるが、表一-四九にみるように、一八七四(明治七)年分地券税の小田原小一区・小二区合計の数値は、旧武家地・町地合計のも表1-48 小田原貫属屋敷地への市街地地券交付結果(明治5年) 注 「地券諸伺届纂録」(宇田川家文書)より作成 表1-49 足柄下郡1874(明治7)年分市街地地券税 注 「地券諸伺届纂録」(宇田川家文書)より作成 のと考えて差し支えないので、これから表一-四八の貫属屋敷地(武家地)の分を控除した残りが町地の数値ということになる。それによれば、町地の地坪は、八万六三〇二坪二〇六、地価(地券金高)三万六四一〇円二五銭九厘、沽券税(地価一〇〇分の一)三六四円一〇銭二厘余、一〇〇坪当たり地価三一円一二銭同地租三円一銭二厘である。貫属屋敷地に比して、はるかに高い。しかし、前述の横浜市街地に較べると、その半ばにみたない。 地価は、場所によって高低がある。電信局設立のため買い上げられた旧高梨町(一八七五年改め万年町三丁目)の土地(五二坪)の地価は、一〇〇坪当たり四一円七〇銭であり、また、元助郷会所跡地、茶畑町(改め幸町三丁目)の土地(一一七坪)は、一〇〇坪当たりの地価が二二円二六銭六厘であった。 なお、市街地地券の発行枚数は、幸町外四か町(一八七五年町区画改正前の町名、以下同じ)を構成する貫属住居屋敷地に対し一〇六〇枚、山角町外一八か町から成る町地に対し一三八七枚、計二四四七枚であった(注(3)に同じ)。 箱根宿等への地券交付 足柄県は、小田原市街地への地券交付作業に着手すると同時に(明治五年十一月)、従来無高無税であった芦ノ湯への地券交付作業にもとりかかり、ついで一八七三(明治六)年二月には元箱根村・箱根宿に対してもその作業を開始した(注(3)に同じ)。そして、以上の結果をとりまとめ、一八七三年四月、右三地への市街地地券交付、七三年からの「沽券税」施行を大蔵省に伺い出て、同月二十三日裁可を得た。その調査結果は表一-五〇のごとくである。地価はきわめて低価であるが、これを伺は、次のように説明している。 箱根宿は、耕地が全く無く、従来往来する旅客の休泊を業としてきたが、近来旅客の往来が少なくなり、「潰退転」する者も出て、当今では山稼ぎ等をしてわずかに生活している有様である。また元箱根村は、箱根神社領上知の地で、旧神官らが旧小田原県へ出願して一村を作ったのだが、箱根宿同様、「山上ノ孤村」で「耕地等ノ本業モ無之」地である。よって表掲のような低価が「土地柄相当」であるとする。芦ノ湯もやはり、「古来無高無税ノ地ニテ山間ノ一孤村作地等ハ聊モ無之」地だが、湯税を納め温泉を営み、小坪数ではあるが「全一区商店ノ躰ヲ為シ」ている。よって、前二地よりも高い地価が相当としている。 なお、県は、後に元箱根村のうち姥子の大縄四反分に対しても地価一二〇円と定め(芦ノ湯と同様一〇〇坪当たり地価一〇円)、これに村持の地券を下付し、地価一〇〇分の一の地税を収入し、別に湯税年三円を従来通り納めることを伺い出て、六月二十五日大蔵省の許可を得た。姥子は、万治年間、村方から箱根神社別当に願い出て、湯小屋を建て、湯治人から湯代を申し受け、村入費で湯亭を修営するなど、古来から村持で進退してきた。県は、この事実にもとづき村持地券下付を申請した表1-50箱根宿・元箱根村・芦ノ湯への市街地地券交付結果 注 前掲「地券諸伺届纂録」より作成 表1-51小田原駅市街の地租改正結果 注 1 小田原駅「新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資料』下巻)による。 2 沽券税法施行中の旧地坪・旧税金(宅地)は,表1-49の数値(小1区,小2区の合計値)と一致しない。これは本表が明治8年度分の数値を掲げているからである。8年には官地の新規払い下げがあり,坪数・税額ともに増加した。 が、租税寮は、現実の面積を調べ、村名受の公有地として地券を下付することを命じている(「租税寮改正局日報」明治六年三三号『明治初年地租改正基礎資料』上巻二四二ページ)。芦ノ湯と同じく「沽券税」を施行したのであるが、村受公有地の地券を交付した点が特異である。 小田原市街の地租改正 前述のように、一般郡村地での地租改正進捗にともない、市街地での地価一〇〇分の一の「沽券税法」を、郡村同様地価一〇〇分の三に改定する地租改正が行われるが、小田原においても、これが一八七六(明治九)年から着手され、七九年十月二十四日地租改正事務局の裁可を得た。この時には、小田原も神奈川県管轄下に入っており、統一した方針の下にすべて横浜と同様の方式で実施された。「沽券税法」下では、一〇〇坪当たり一六銭二厘余であった地税が、改正によって五八銭五厘に増加している(貫属住居屋敷地と町地とを合した市街地の数値)。しかもなお、横浜市街地よりは格段の低額である(表一-五一)。 参考までに、市街地地租改正で、郡村地と同様地価一〇〇分の三の地税を負担することになった全国主要都市と横浜・小田原の地税負担を表一-五二に掲げておこう。これによれば、前述したように、横浜市街の地租は全国でもぬきんでて高く、一方、小田原市街は、近くの三島あるいは、関東の地方都市とくらべても低位にある。神奈川県は、市街地地租負担で、いわば両極に位置する都市を持っているといえよう。 表1-52 市街地地租改正による新地租額 注 各「新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資科』下巻)より作成 注 (1) 「地券諸伺届纂録」「旧足柄県諸伺届」(宇田川家文書)。 (2) 明治五年十一月十五日足柄県「貫属屋敷地券渡方ニ付伺書」(「地券諸伺届纂録」)。なお、これと同主旨の「足柄県大意」が、「租税寮改正局日報」、明治五年四一号(『明治初年地租改正基礎資料』上巻一一二ページ)にも掲げられている。 (3) 注(1)「地券諸伺届纂録」 (4) 「租税寮改正局日報」、明治六年二三号(前掲書二〇六ページ)所掲。また、同文のもの(若干字句の違いがある)が、前掲「地券諸伺届纂録」にも載せられている。 第二節 郡村地への壬申地券交付 一 旧神奈川県での地券交付 地所永代売買解禁と地券交付 明治五年(一八七二)二月十五日、政府は、地所永代売買を解禁し、同月二十四日、売買譲渡地への「地券渡方規則」を布達して、前述東京府下など市街地にひき続いて、郡村地への地券交付に着手した。 このとき、さきに横浜市街地への地券交付を伺い出た神奈川県令陸奥宗光は、抱懐する「田租改革」意見を太政官に上申した。同年四月のことである。この建議は五月裁可され、大蔵省で検討されることになったが、これにともない、六月十八日陸奥は大蔵省租税頭に抜擢された。この陸奥租税頭の下で、七月四日、全国一般の土地への地券交付が発令され、同月二十五日、租税寮内に改正局が新置されて、新たな地租法の準備が進められた。 当時、現神奈川県および三多摩からなる地域には、神奈川・足柄の二県が置かれ、したがって、壬申地券交付と地租改正の初期段階とは、二県でそれぞれ別個に進められていくことになる(一八七六年四月まで)。 神奈川県での地券交付着手 神奈川県での地券交付事業の開始は、まだ陸奥が県令であった明治五年(一八七二)五月ころと考えられる。すなわち、同月付、陸奥の大蔵省あて「神奈川県地券心得書」公布方伺(後述)の初か条に「(今般地所永代売買解禁と地券渡方規則公布があったので)田畑及び山林等近傍売買直段其他持主において適宜之価書き出すべき旨、村々江触示し置候間、書出次第、譲渡の分同様、悉皆地券相渡候様仕るべく存じ奉り候」(『明治初年地租改正基礎資料』上巻補遣四ページ)とあって、県は、遅くも五月に、地券交付の作業を命じる触示を発したことがわかる。 ところで、県が右の伺を出した時点では、政府はまだすべての地への地券交付は発令していない。また、同伺の第二条では、県独自に、地券交付にあたり、種々の形態をもつ在来の質地を整理するための「心得書」案一〇か条を作り、裁可を求めている。いずれも、陸奥宗光を県令とした神奈川県が、政府の地券交付・地税改革の方針にきわめて積極的な姿勢をとっていたことを示している。この伺は、両条とも、七月に大蔵省から許可された。このとき、陸奥はすでに租税頭となっており、いってみれば、自分が県令として提出した伺を、自ら租税頭として裁可したわけである。 さて、右伺が裁可された五年七月、県は、地券取調掛附属等外一等に、添田七郎右衛門(知通・橘樹郡市場村名主)、下田半兵衛らを任命するとともに、管下各村に、前述五月「触示」(正確な日付と全文は不明)にもとづき、「田畑其外直段書上帳」の雛形を木版で印刷し配布した。多摩郡蔵敷村に配布された同雛形(東京都東大和市蔵敷内野禄太郎家文書)には、「壬申七月各村ヱ壱冊ツヽ御渡」と記され、その配布時点が確認できる。なお、質地「心得書」も印刷・配布されたものの日付は、七月となっているが、右蔵敷村へ配布された分の表紙(前掲内野家文書)に「壬申八月廿三日各村長ヱ壱冊ツヽ御渡」とあるように、実際に村方へ渡されたのは、書上帳雛形より一か月遅い八月であった。 「田畑其外直段書上帳」の作成 こうして、神奈川県の村方での地券取調べ作業は、政府がすべての地への地券交付を布告したのと、ほぼ同時に開始された。 橘樹郡末長村では、七月二十八日付で、この区域を担当する地券取調掛附属添田七郎右衛門から次の「順達」(川崎市高津区末長中山清家文書)が届いている。 今般地券取調、左之日割之通巡廻可致、尤其已前調方行届、県庁江差出し候村々差除、未タ取調中之分は精々実地適宜之取調致置、我等巡廻之上一覧、夫々談判可及候得共、郡中一般稠密調上之義、悉ク手数も相掛候ニ付、各区元戸副長において、区内エ協力注意いたし、一同申合勉強可致様、御沙汰之次第モ有之、依而は各区村々其節出会は申触候様いたし度、且差向調方都合左ニ 一 検地帳其外名寄小拾帳等ヘ番号引合候様可致事 一 一筆之田畑ヲ切畝歩ニいたし、弐人、三人、幾人ニて所持罷在候とも、其原歩肩書ニ顕シ遣可申事 一 有高無反別之村方は田畑一枚限見面反別新ニ番号ヲ極可申事 一 切添・切開等ニ而無高有反別之分は、是又一枚限番号を付、別帳ニ可認事「田畑其外直段書上帳」(部分) 内野禄太郎氏蔵 一 質地年季中之分は質入之払主方ヘ仮ニ引付、旧弊ニ不抱、当今之直段ニ準照シ、払代金可書出事 右之通概略申達候、尚巨細着々と可申談、此状不限昼夜至急順達、従留可被相返もの也 (明治五年) 壬甲 七月廿八日 神奈川県出役 地券取調掛附属 添田七郎右衛門 地券取調掛附属は、分担区域を巡回するとともに、右のような順達を、随時村々に回し、村では、これらを筆写して調査の拠りどころとし作業を進めた。 右順達は、「田畑其外直段書上帳」作成の基本方針を指示したものである。要約すれば、(一)書上帳は、一筆ごとに検地帳などと照合して作成する、(二)その際、高があって実際には土地がないもの、無高で土地のみがある切添・切開・隠田など検地帳等旧公簿と照合できない分は、別記し明らかにしておく、(三)年季中の質地は、仮りに質取主の分に載せ、現在の相場で質代金を記載する、という内容であった。 県は、各村から、日限通り作業を完了するとの請書をとって「田畑其外直段書上帳」の作成を急いだが、上述の方針は、実際に直面して種々の難問が生じ、容易に進捗しなかった。 多摩郡では、県地券掛附属下田半兵衛が、九月三日付で発した触達(「明治五年御用留戸長尾崎次郎右衛門」東京都八王子市上恩方 尾崎知三家文書、および「触達」同草木兵治家文書)のなかで、「先般地券取調御用に付廻在の上、区毎宿村一筆限り地価書上方(「田畑其外直段書上帳」作成のこと)日限請書差出され候処、未た遅れにおよび候村方多く、県庁に於て取調方差支」えていると、作業遅延の現状をのべ、さらに廻村するから、未提出の村は、印形・書上帳下書の出来ている分を持参し、宿所に出頭するよう命じている。上恩方、上・下川口村など一五か村からなる三九区では、右触達をうけて九月五日と七日付で地券掛附属永嶋亀一郎の廻村が達せられ(前掲尾崎知三家文書および草木兵治家文書)、「書上帳」未提出の村に、「本紙或は下調帳共引合すべき検地帳の類、割付等の書類」持参の上出頭が命じられている。永嶋は、同月十二日二ノ宮を出立して、昼、伊奈村にいたり、ここに三九区諸村役人に、諸書類・印形持参集合を命じ、種々「談判」を行った。 こうした督促にもかかわらず、三九区では、一八七三(明治六)年二月二十四日現在、引田村上知分、上・下川口村、上恩方村の四か村がまだ「地券一筆地価書上帳」を提出しておらず、「甚等閑の至にて不都合に付、至急差出候様」との催促をうけている有様であった。 都筑郡片平村では、五年八月に、戸長が小前惣代を集め、この村の「田畑其外直段書上帳」作成には、検地帳の代わりに「天保度一筆限帳」を用いることを定め、異議ないよう「請書」(川崎市多摩区片平「田畑直段付請書」安藤資次家文書)をとり、作業にとりかかった。「請書」の全文は次の通りであった。 差出申一札之事 御一新ニ付、今般国中一般地所ニ関係いたし候分、一筆限地代取調可差出旨、御触達并ニ地券御渡ニ相成候ニ付而は、右地所江突合へく、検地帳・名寄帳取揃、是又可差出旨御触達之趣、一同承知奉畏候、然ル処、当村之儀ハ往古ゟ検地帳・名寄帳無御座候ニ付、天保度御書上ニ相成候地所一筆限取調帳を以、此度御取調可被下候、右ニ付従来持高入狂ひ候共、今般改正之儀ニ付一言之義申間敷候、右天保度帳面を以御認御書上可被下候、為後日小前惣代連印、如件 明治五壬申年八月 武州都筑郡片平村 小前惣代(以下人名略) 御役人中 また、橘樹郡末長村では、五年八月、一応「書上帳」を作成したが、廻村の添田地券取調掛附属から、書上げの反別・地代金額が過少だとして再三の説諭をうけた(前掲中山清家文書)。 以書付申上候 今般地券為御取調御巡廻被成、兼而御布告之通田畑・山林・小物成場等総而生地之分一筆限実地取調、当今適当直段地代金積立、可書上は勿論之義ニ候処、持主・小前之内中ニは心得違いたし、見面減歩ニ申来し、又は小作米金等減少ニ申出、自然作徳ニ走リ方ニ為差響、兎角今高相劣りを是とし、如何之懸疑を見越し居候者も可有之哉、左候而は御旨趣ニ悖リ候而已ならす、後日再応券証御書替相願候節は、眼前ニ不都合之義ニ付、精〻正路ニ調方可致旨、厚御説諭之赴承知仕、小前持主之者共へ篤と申聞、夫〻取調書上候処、隣村〻江見平均候而は格段金高相劣り、不相当之義と尚再三御説得御座候得共、元来当村之義ハ悉薄地ニ而、外村〻之振合ニ比較候而は実以地味相劣、全当時流用質地之直段ニ引付、精算調方およひ書上候義ニ而、此上何様御検査有之候とも、右之外金高可進様無之候間、此段以書付申上候 明治五年壬申九月 武蔵国橘樹郡末長村 戸長 中山重兵衛 副長 渋谷定右衛門 副長 渋谷武七 小前惣代 川野市三郎 神奈川県 地券取調掛御出役 添田七郎右衛門殿 これによれば、巡回地券掛は、末長村の書上げた地代金額に満足せず、その引上げを求め、村では、当今の質地直段を基準とした地味相応額だとして、これに反発した。一応「書上帳」を作成した村でも、このような問題が生じていることは、地代金の決定が容易でないことを示すものであった。 「高反別其外取調書上帳」の作成 このため、県は十月にいたって、「反別高貢米小作明細書取調ノ事、反別高貢米作徳等取調ノ事」(『神奈川県布達全書目録』明治元年-十年神奈川県立文化資料館蔵)を布達し、各村に、「高反別其外取調書上帳」の木版雛形を配布して、その調査作成を命じた。これは、一村の田畑その他各地目ごとに(一筆限調査ではない)、川欠等を除いた現反別を書き上げ、それの貢米(正租・本途米)・作徳米(「小作取立米之内貢米江相掛り候口米・延米・拵賃米・海陸運賃米其外諸般高掛り村入費等迄総而代米ニ而引去り地主全作徳米之分」)・作徳永を調べようとするものであった。このとき県は、実際の売買質入価にもとづいて地代金(地価)を定めるのは困難であり、地代金決定の基礎として、地主の作徳額を把握する必要があると判断したのであろう。 この「高反別其外取調書上帳」が村から提出されたのは、地区により異なり、明治五年(一八七二)十月ないしは六年九月のようである。このときの調査結果の一端を表一-五三に掲げる。同じ中田でも、村によって当然土地条件(肥沃度など)は異なるが、これと関係なく貢租諸掛りに厚薄があるため、水田では、小作料の高い地でかえって地主作徳が少なく、小作料の低い地で、地主作徳が多いという傾向があらわれている。すなわち、小作料高は、土地の生産力によってではなく、貢租の多少によって規定されているようである。畑では、小作金額・貢租諸掛りそれぞれが無関係に「高反別其外取調書上帳」(部分) 吉浜俊彦氏蔵 高下し、一定の傾向は認められない。 地代金の算定 ついで、この調査を基にして、各村で地代金の算定が行われた。県は、この算定法を、「触達」などで明示せず、地券掛附属を通し、指示した。この算定法は、当時の土地売買の際の地価の定め方によったと思われる。それは一八七三(明治六)年四月、大蔵省による地方官会同へ提出するために県が作成した資料(「地方之儀ニ付申上候書付」)に、次のように示されている(水田についてのみ掲出 大蔵省蔵松方文書)。 在〻田畑売買は土地之肥瘠并売手・買手之存意・見込ニ而、一村内ニも悉異同有之、何分ニも難差定義ニ候得共、管内一般相糺、上中下押平均凡之目的取調候処、左之通 一 田高壱石 石盛十 此反別壱反歩 此貢米四斗 外米壱升壱合四勺 口米 小以米四斗壱升壱合四勺 貢租 表1-53 神奈川県諸村「作徳米永取調書上」の結果(明治5-6年) 注 ( )内は,小作米金中に占める比率 此斗立四斗三升四合九勺 永六百弐拾五文 高壱石ニ付金弐分弐朱之積高掛入費 此米壱斗八升七合五勺 但 金壱両ニ付 凡米三斗替 合米六斗弐升弐合四勺 見面壱反弐畝歩 但弐割縄延之積 此小作米壱石壱斗四升 但 壱反ニ付 九斗五升積 残米五斗壱升七合六勺 作徳利益 此代金壱円七百弐拾五文三分 但 金壱両ニ付 凡三斗替 右代金江十倍増 原価拾七円永弐百五拾三文 但原価ニ割合利益壱割ニ当ル (ただし、右の算定法は、大蔵省の「地所売買之節原価ニ割合、一ケ年之利益何朱ト定メ、売買いたし候哉、実際之模様取調之事」という質問に答えたもので、この解答をした一八七三年四月の時点で、県下では、すでに地代金の算定が始められていた。したがって、右には、当然県が村々に指示した地代金算定法が逆に反映しているとみなければならない。) さて、県が指示した地代金算定法は、完全に画一的なものではなかったようである。それは、「在々田畑売買は……一村内ニも悉異同有之何分ニも難差定」い現状の反映とみることができる。 神奈川県は、前述のように、「高反別其外書上帳」により、小作料から地主作徳高を調査したので、一般には、この作徳高を一〇倍して地代金を求める方式をとった。これは、橘樹郡梶ケ谷村(明治五年十月「田畑貢米永并諸入用永作徳取調帳」筑波大学蔵川崎市高津区田村義員家文書)、愛甲郡棚沢村(明治五年十月「地券御渡ニ付田畑字付直段書上仕出帳」厚木市棚沢関原徳三家文書)の 事例から、うかがうことができる。 この方式は、単純で、短時日のうちに地代金算定が可能で、かつ、右に掲げた実際売買の際の地代金の決め方と合致してい る。しかし、表一-五三からわかるように、現実の貢租は、村内同一地位の耕地でも、所領の違い・村入用・諸掛りの多少で 軽重があり、したがって、この算定方式によれば、同一村内の同一地位の耕地でも、地代金に差違が生じることになる。 これに対し、さらに異なった地代金算定法(「地券ニ付地代金積出算法」前掲関原家文書)が、県から村に提示されている。愛甲 郡棚沢村にその例をみるが、同村で、実際の地代金算定に際し、いずれの算定法を採用したかは明らかでない。この「地券ニ 付地代金積出算法」は次のようなものである。 一 上田壱反 此小作米壱石弐斗 但シ、両ニ弐斗 五升見込 代金拾弐円 内米四斗壱升五合七才 村費 (六六二文八分カ) 此代永壱〆六百六十文三分 但 六ケ年平均ニして壱ケ年分 永壱〆三百八十三文五分 残米七斗八升四合九勺三才 此代永三〆百三十九文七分弐厘 是ヲ十倍ニして 合三十壱両ト永三百九十七文 是ヲ五公五民ニして 合十五両ト永六百九十八文六分 内金三両ト永百三十九文七分二厘 右利弐割引 引残而金拾弐両ト永五百六十文七分 是ヲ以代金定 一 中田壱反 此小作米壱石 代金拾円 内米三斗四升五合八勺七才 村費 此代永壱〆三百八十三文五分 六ケ年平均 残米六斗五升四合壱勺三才 代金弐両ト永六百十六文五分弐厘 是ヲ拾倍ニして 金弐拾六両ト永百六十五文二分 二ツ割 金十三両ト永八十二文六分 内金弐両ト永六百十六文五分 右利二割引 引〆金拾両ト永四百六十壱文 代金ニ出ス 一 下田壱反 此小作米九斗 但シ、両ニ弐斗五升 見込相場 代金八両 代永三貫六百文 是ハ水かぶり内永壱〆百六文八分 六ケ年平均壱 ケ年村費 其外荒事度々 引残而永弐貫四百九十三文二分 有之見込直引 是ヲ拾倍ニして 致 金廿四両ト永九百三十弐文 二ツ割ニして 金十二両ト永四百六十六文 内金弐両ト永四百九十三文一分 右利二割引 引〆金九両ト永九百七十弐文九分 代金成 この算定法は、二つの特徴をもっている。一は、「高反別其外書上帳」調査で明らかにした地位別の小作料額だけに依拠し、貢租率は、村内一率五公五民として、地代金を算出する点である。二は、小作米から村費・貢租を控除して得た地主作徳から、さらに「右利二割引」をした額を一〇倍している点である。「右利二割引」とは、先に掲げた実際売買の地価算出において、検地帳記載反別には、二割の縄延びがあり、その分だけ地主作徳が多いとしていることから理解される。すなわち、この算出法は、縄延びのある公称反別一反歩の地代金ではなく、現実に一反歩の地の地代金を求めようとしているのである。いいかえれば、この算出法では、現実の小作料額と村費を基礎にし、貢租額は一率に五公五民とし、二割の縄延びを前提にして地代金を算出しようとするもので、貢租の均等化と縄延びの是正とがなされた上での地代金額にほかならない。 このような操作をすれば、地代金の算出作業はさらに簡易になるだけでなく、明治五年(一八七二)九月、租税頭陸奥宗光が各府県に内達した「地価取調規則」案が、太政官の裁可を得て実施に移されたとき、神奈川県では、同規則にもとづく地価決定を容易になしうることになる。すなわち、同規則「沽券税法」における「耕地ノ利益ノ全料」からの「土地ノ真価」は、神奈川県では、壬申地券時に調べた地代金を、ただ二倍するだけで(五公五民としたので)、得ることができる。 以上を理解する上での参考として、「地価取調規則」案一二条のうち第五例の地価算出法を次に掲げておこう。 一 高拾石 此反別一町歩 此貢米六石 此代金二十一円 四公六民ノ法ニシテ 一 作徳米九石 此代金三十一円五十銭 二口合金五十二円五十銭 内十円五十銭 諸費二割引 種子糞料其他必用ノ入費 残金四十二円 是レヲ十倍シ元価トス 原価四百二十円 (この例で、神奈川県が壬申地券で調べた地代金は、作徳米部分だけからの算出地価にあたり、これに貢米部分からの算出地価-五公五民ならば、作徳米からの地価と同価である-を加えれば、右例の「原価」が得られるのである。ここにおける作徳米代金から二割を控除して一〇倍する方式が、「二割引」の意味づけは異なるが-「地価取調規則」案の「種子糞料其他必用ノ入費」という説明は不合理である-結果において両者とも合致していることは、偶然ではないように思われる。) おそらく、神奈川県は、「地価取調規則」案の公布を予期して、地代金算出法を考案したのであろう。 しかし、多くの村でなお右の地代金算定作業がなされているときに、「地価取調規則」案とは内容が一変した地租改正法の公布をみ、その作業は中絶し、これに携わった農民の労苦は徒労に帰したのである。 地券の交付 地租改正法公布以前に、地代金決定も終わっていた地区では、地券(壬申地券)の交付がはじめられていた。一八七三(明治六)年一月と推定される大蔵省租税寮改正局「地券渡済期限表」(早稲田大学蔵大隈文書A二〇五七)は、神奈川県は「不日」と記し、遠からず渡し済みと予想していた。しかし、同年四月の県参事高木久成の井上大蔵大輔あて上申(前掲大蔵省文庫松方文書)では、地券交付済みは、管下八九五か村中三五五か村、約四〇㌫に止まっていたことがわかる。このような最終段階にいたって、地券交付・改租事業は、ふたたび最初からやり直さねばならなくなったのである。 地引絵図の調製 管下の諸村で、地券交付が進められていた一八七三(明治六)年五月、県は、交付状況点検のため、各村へ「隠田及ヒ無税地・潰地等調査官員巡廻ニ付書類差出方」を命じ、一村全地を色分け記載した地引絵図の作成を行わせた。地券交付後の官員検査の便宜のためのもので、後述足柄県のばあいも同様である。一八七三年十月、県が各区長へ行った「触達」によると、それは次のように説明されている(第一一大区一一小区長が郷会所での区長集会に際して達しをうけた折写してきたもので多摩郡蔵敷村内野家文書「地租改正掛筆誌」の最初に収められている)。 地引絵図ハ一村中ノ地所無遺漏、重復ナク、区画部分一目瞭然、検閲ニ便ナルヲ以テ要トス、故ニ旧帳簿ニ不関現地ノ景状ヲ摸写シ、色ヲ以テ景ヲ分チ、字番号ヲ以テ地順ヲ示シ、所有ノ名ヲ記入シ、区画部曲ヲ明ニス、其歩数ノ如キハ、図中記載ニ及ハス、是ヲ製スル外、囲内地悉ク分間坪詰ニスルニアラサレハ正図ヲ不得ト雖モ、素ヨリ地画ノ順序ヲ検スルマデノ供用ナレハ、略図テテ可也、然レトモ一村全形ヲ得スンハ内地ノ部曲位置スル能ハス、故ニ先ツ周囲方法分間シテ、外郭ヲ定メ、次ニ道路川渠等縦横条達スルモノ、池沼・山岳ノ類標拠トスベキモノ屈曲間数ヲ量リ、位置ヲ求メ、而シテ其間ノ各地ハ見取ヲ以テ模写セハ、容易ニ図成ラン歟、云爾、 明治六年第十月 郷会所ニテ各区長写ス すなわち、このときの地引絵図は、一筆ごとの丈量を必要とせず略図でよいとされている。しかし、この作業は容易に進捗せず、県地券課は、十一月五日、橘樹・都筑・多摩郡の第三-一三区の正副区長に対し、十一月十日迄の提出を再度督促している。しかし、この作業は、おそらくこのまま停滞し、後に、県下で地租改正実施が緒につく、一八七四(明治七)年七月六日にいたって、県は、地租改正事業のための地引絵図編製を、改めて命じたのである(後述)。 二 足柄県での地券交付 地券交付の着手 足柄県相模国管下での地券交付事業は、神奈川県より遅れ、明治五年(一八七二)九月初め、地所永代売買許可とそれにともなう売買・譲渡地への地券交付布達から始まった。このとき、中央政府では、すでに一般の地への地券交付を達していたにもかかわらず、足柄県(小田原本庁)が、足柄上・足柄下・淘綾・大住・愛甲・津久井各郡あてに達したのは、五年二月大蔵省達の「地券渡方規則」であった。しかも、この規則そのものではなく、そのうちの数か条は省かれ、さらに「検地帳・名寄帳等総而地所ニ懸リ候書類は可差出事」という一条が加えられていた。この全九か条からなる「規則」を、足柄県は、相模六郡あてに、「右の通相心得、来ル□日迄ニ地券渡方願出べく候、廻状村下受印の上、至急順達、留より相返すべきもの也」として順達したのである(表題欠綴厚木市温水山口忠一家文書)。そして、同時に、前述神奈川県地券「心得書」(明治五年七月公布)をも、「右の通、神奈川県において公許を経、管内布達に及び候儀にて御趣意は全国一般の儀に付心得として相達候条、篤と披見の上、写置、刻付をもって早々順達、留村より相返べきもの也」として順達した。前者の順達で、村方からの地券交付出願期限を、空欄にしていることから知られるように、県は、この時点で、まだ地券交付の事業計画を立てていなかった。 しかし、県は当面、五郡村々に対し、九月十日までに田畑売買直段の調査を命じている。これは、次に掲げるように、簡単なものであった。 何国何郡 何村 一 上田 壱反ニ付 金何両何分 字何 一 中 同 同 一 下田 同 同 一 下〻田 同 同 一 見付田 同 同 一 上畑 壱反ニ付 金何両 字何 一 中畑 同 同 一 下畑 同 同 一 下〻畑 同 同 一 見附畑 同 同 一 屋敷 同 同 右之外田畑名目コレアラハ、位限同様可認事 一 前同断 何字 一 前同断 右之通字モ可認事、字限幾廉ニ而も 右は当村田畑売買直段取調候処、書面之通相違無御座候 以上 (明治五年) 壬申八月 何村 名主 組頭 足柄県御庁 百姓 戸長 別紙之通売買直段取調、来ル十日中迄無相違可差出、廻状村下受印之上、至急順達可有之候也 壬申九月 日 足柄県庁 足柄上郡 同下郡 淘綾郡 大住郡 愛甲郡 津久井郡 これによって、県は、地券に記載する地代金のおおよその実態把握を試みたのであろう。このことは、前述のような順達をしたにすぎないにもかかわらず、すでに、県は、すべての地への地券交付を考えていたことを示している。 地券調べの作業が、実際に開始されたのは、明治五年十月二十日からであった。 この日、県の相模五郡地券担当官が次のように示された。 権典事平松保雄 大属吉田政定 等外一等出仕渡辺栄英 同小牧克房 等外二等出仕渡辺勝 また、同時に一郡から一人ずつが選出されて地券取調御用掛(等外二等出仕)を拝命し(明治五年十一月「地券并戸籍控帳」愛川町田代大矢ゑひ家文書)、県からの示諭をうけた(厚木市温水山口忠一家文書)。 その人名および示諭は次のとおりである。 大住郡 尾尻村梅原脩平、淘綾郡 生沢村二宮貞勝、足柄下郡 池上村宮内大次兵衛、足柄上郡 沼田村安藤為之助、愛甲郡 山際村中丸重郎平、津久井郡 小原村清水隼之助 地券調 御用掛中江 今般全国地券方ヲ公布アルハ、人民地禄ニ就キ、所有ノ権ヲ益固シ、随テ国益ノ産出スル所ハ、田畑ヲ論セス勝手ニ耕種スルヲ得セシメ、他ヲ尽シ、耕作ヲ勉メシムトノ厚キ御趣意ニ有之候処、万一心得違ノ者アラハ能々申諭シ、引受、一郡限リ迅速ニ調上リ候様、精々尽力勉励可致候、尤全国地券方定リシ後ハ、従前ノ租法ヲ廃シ、地ノ実価ヲ以テ基本トナシ、其部分ヲ政府江納メ、検地ノ紳縮又ハ往昔ト肥瘠ヲ異ニシ、其他種々錯乱不公平ナルヲ斉平均一ニスルノ御改正被御仰出哉茂難計、此義ハ各心得迄ニ申聞置候、猶委細者掛リ官員ト可打合事 壬申十月 小前一筆限帳の作成 そして、この日、新任の六人の地券取調御用掛に対し、早速、地券調方の新たな方針が示され(後述)、同時に村々へは、前述の「地券渡方」出願(地券願書の提出)を求めた達を取り消して、新たに「小前一筆限帳」の早急な作成を命ずる廻状が発せられた。 今般地券渡方ニ付、別紙案之通、小前一筆限帳相仕立可差出、尤至急之儀ニ付、廻状披見次第即刻取調、大村ハ格別、小村之分ハ取調出来次第、来ル廿五日迄無相違可差出、且案書解兼候廉も候ハゝ、左之者ヘ地券取調御用掛申付有之候条、最寄之方ヘ及尋問、聊遷延不致様、急度相心得、廻状刻付を以至急順達、留村より可相返もの也 壬申十月廿日 足柄県権令柏木忠俊㊞ 村〻役人 (地券取調御用掛人名略) 追而先般相達候地券願書ハ、今般差出ニ不及候条、取消ト可相心得事 別紙「小前一筆限帳」雛形は、先に掲げた神奈川県「田畑其外直段書上帳」のそれとほとんど同一である。足柄県は、先進的に事業を進めている隣接神奈川県にならいつつ作業遂行を図ったのであろう。 この廻達をうけた村々は、早速これの請書を差し出さなければならなかった。 今般前書地券御調御布達之趣、逸〻被 仰渡奉承知候、依而は御調中諸雑費其外人足御入用等多分可有之趣被仰聞、是又承知奉畏候、御沙汰次第、無遅滞、急度相勤、御差支不相成候様可仕候、依之一同連印御請差上申処如件 明治五壬申年十月 (村五人組別の人名略) 御役人中 (明治五年十月「地券御達請印帳」農林水産省農業総合研究所蔵 伊勢原市上糟屋 山口匡一家文書) すなわち、前もって、地券調で予想される「多分」の入費を負担することをも承諾させられたのである。さて、地券取調御用掛は、任命の日に、県係官から統一した調査方針を指示された(前掲山口忠一家文書および同大矢家文書)。 地券調方 一 金壱両ニ付 米三斗換 一 同 高掛米直段同断 一 徳米直段 同断之事 一 小作預リ 米一割減之事 一 貢米 一割増之事 一 金一両ニ付 大麦壱石 一 同 粟九斗 一 同 小麦四斗 一 同 大豆四斗五升 一 同 米三斗 一 作徳米 三斗 地代金 拾両之事 これによれば、「小前一筆限帳」記載小作米額は実際の一割減、記載貢米額は実際の一割増という地代金を引き下げる操作がなされ、また、米価は一石三円三三銭余に統一され、地代金は、神奈川県と同様、作徳米をこの米価で金額換算したものを一〇倍して得ることとされた。この調査は、前述のように小村は五日間での速成が要求されたが、これが不可能なことは明らかであった。よって、例えば愛甲郡二二、二四、二五区の村々は、十一月九日付で「地券取調猶予願」(前掲山口匡一家文書)を権令あてに提出し、提出の日限の延期を表一-五四のように求めている。しかし、これらの町村を含め管下の大部分の村々では、一八七三(明治六)年に入っても完成をみなかった(後述)。 一八七三年一月九日、愛甲郡地券取調御用掛中丸重郎平は、県からの指示をうけて管下の第三大区小一区副区長に対し、さきの「小前一筆限帳」雛形の補正および「高反別貢米永并作徳取調書上」の雛形を指示した(前掲山口忠一家文書)。 各〻様益御安康被成御座、喜悦奉存候、然者地券取調之儀ニ付、美濃紙江二行ニ相認メ、且壱人分区別之処ヘ、朱書ニ而小以寄可致旨御沙汰ニ付、此段雛形相添ヘ、外取調方書体且一郡表雛形都合三口、以廻達仕候間、早〻御順達被下度、留村ゟ私方迠御返却可被下候、最早御認メ相成候御村方ハ認替ニ不及、草〻御差出し可被成候、猶又申兼候得共、精〻御尽力被成下、至急出来候様呉〻御願申上候、以上 一月九日 中丸重郎平 第三大区小一区 副区長御中 この廻達に添えられた雛形をみると、「小前一筆限帳」は、「田畑山林一筆限取調代金書上帳」と改められている。また、右廻達にいう「一郡表」とは、実はすでに十月二十日、地券取調御用掛に対し、その作成が「一郡表江可記載田畑作徳調之事」と命じられていたのであるが、この時期にいたってはじめて、そのために村々が調べ提出すべき書き上げの雛形が示された。 「高反別貢米永并作徳取調書上雛形」がこれである。 「一郡表」調査とは、明治五年八月七日、大蔵省が第一〇〇号達をもって、「地券調査参考ノ為メニ、各府県管内一郡限リ田畑ノ等位・反別・石高・租額・作徳・地価、之カ表ヲ製シ本年十二月ヲ限リ租税寮ヘ進達スヘシ」と命じたのをうけて(九月雛形改正)、足柄県が実施したもので、村ごとに明治四年につき、田畑ごとに右諸事項の一村総額を計上させた。大住郡土屋村では六年五月に、同郡石田村では六年十月に提出している。 このように、一八七三(明治六)年一月に入っても、まだ県によって雛形の訂正がなされる仕儀であってみれば、作成遅延も当然である。しかし、県は、二月、未提出の村村に二十五日までの提出を強く求め、そのために官員の派出を考慮するにいたった(前掲山口忠一家文書および同山口表1-54 足柄県22,24,25区村々地券調査延期の日限 注 明治5年11月9日「地券取調猶予願」(山口匡一家文書)より作成 匡一家文書)。 記 今般地券渡方ニ付、持地壱人別帳取調可差出旨、兼而相達、猶右御用掛り附属之者巡村及説諭置候儀之処、日延而已申立、日限過去候而も何等之儀も不申出、等閑之至りニ候、右ハ調方期限も有之候条、来ル廿五日限り無相違可差出、万一地所鎖雑等いたし居、調方難出来分は官員差出場所ニおゐて可取調条、右日限以前其段急度可申出候、廻状村下受印之上、至急廻達、留りゟ可相返者也 明治六年二月十日 足柄県庁㊞ この廻達は、表一-五四のうち伊勢原から子易村にいたる一一か町村(二大区小七区)に向けても達せられており、これら町村がいまだに完了をみていないことを示している。同日、愛甲郡地券取調御用掛中丸重郎平は、担当区域(三大区小一区)の副区長あて急状を発し(前掲山口忠一家文書)、さらに督促を加えた。 急状ヲ以申上候、然は地券取調方村〻延行ニ相成候処、村〻申合、地価取扱ひ奸曲之者真価ヲ偽リ候者有之旨御聞込ニ相成、至急帳面可差出旨御沙汰之上、其御村〻ヘ御三名宛も御出役被遊候趣、昨日権令様記録局ヘ御来臨之上、御重役様方ヨリ内談被為在候趣ニ承知仕候間、心配罷在候処、今朝私義典事様ゟ愛甲郡村〻及遅延ニ候旨御沙汰ニ付、地券請方之儀ニ付、彼是差縺居候趣承及候間、右ニ付延日ニ相成候哉之趣奉申上候処、右ハ無名ニ取調書出し可申旨、兼而達置居旨厳重御沙汰ニ付、無余義此段奉申上候間、乍御手数御区内村〻ヘ懇篤ヲ申諭之上、下書之儘成共、且未タ難決分ハ無名ニ而早〻取調帳持参致し呉候様、無洩御通達御願申上候、己上 二月十日 中丸重郎平 小一区副区長 御中 これによれば、作業の遅延は、農民による金額操作などによって地代金決定に手間取っただけではなく、地券交付を機に、質地をめぐり、金主・地主間での紛争が生じ、地券名請人が容易に定まらなかったことにもよっている。 地引絵図の作成 しかし、県は、この期に及んで事業推進に強硬であり、同十四日には、官員の実地点検の用に供すべく、さらに、村々に地引絵図の作成提出を命じた(前掲山口忠一家文書および同山口匡一家文書)。 記 今般地券渡方ニ付而ハ、追而現地及点検候条、地引絵図取調、無税地・小物成場等詳細色分之上、精〻取調出来次第、早〻可差出候、此廻章村下令請印、至急廻達留り村ゟ可相返もの也 明治六年二月十四日 足柄県庁㊞ 村〻 こうして、各町村では地券交付のための、「田畑山林一筆限取調代金書上帳」(当初の「小前一筆限帳」)、「一郡表」作成のための「高反別貢米永并作徳取調書上」の作成に加え、さらに地引絵図の調製も命じられた。これらに要した労力と入費はばく大なものであったと思われる。 地引絵図は、村内すべての土地、「田畑山林其外共反別番号字持主姓名」を、「多人数にて墓地にいたし又は斃牛馬捨場等に至迄寸地も漏落これなき様、詳細実地書載」することが要求された。そして、さらに「地引帳」を作り、これに、地引絵図へ記載した場所を官員の「御検査順次宜敷案内の都合を注意致し、不順不都合これなき様」に、すべて書載することが命じられた(「地方要誌」前掲山口忠一家文書)。しかし、地引絵図・地引帳作成の作業は、これを命じた県廻達が「地券証御渡済相成候村方は、随つて村々実地検査これあり候に付」、これらを作成せよとしていることから、地引絵図・地引帳完成に先立ち、まず地券状が、「田畑山林一筆限取調代金書上帳」の完成した村へ下付されたと思われれる。そして、管下各町村への地券下付完了に先立ち、地租改正法が公布されたために、地引絵図・地引帳作成作業は中絶され、後に地租改正のための作業として改めて始められることになる。 地券の交付 一八七三(明治六)年九月、松方租税権頭への柏木足柄県権令の進達によれば(『静岡県史料』、国立公文書館蔵『明治初期静岡県史料』第一巻)、この時点で相模・伊豆の両国を含む「管下ノ半ハ地券渡済」みとなっており、一八七三年中には悉皆下付が完了する見込みであること、しかし、地引絵図提出は、まだ「管内纔ニ四分ノ一」程度にすぎず、しかもそのうち、「疎脱対照ニ供シ難」いものも多数あるとしている。 大住郡上糟屋村士族上知分(二大区小七区)のばあいは、地券は、一八七三年十月十日に下付された(「地券御渡ニ付差上候受書控」前掲山口匡一家文書)。このとき、村方は、次のような受書を、足柄県権令あてに提出して同村分の地券証一六二六枚を受け取り、さらに以上の分の地券証印税計八九円を上納した。 今般地券御渡相成候ニ付、大切ニ所持可致は勿論、万一水難・火盗難等ニ而地券を失ひ候節は、二人以上之証人を立、村役人連印を以御書替之儀奉願事 但し、右失ひ候分、後日相知れ候ハヽ速ニ御届可申候也 一 地券御渡ニ付、書立候外落地等一切無御座候事 一 地券御渡し之後ニおゐて、隠田も有之候節は御規約之通、御処分被 仰出候事 一 地所外国人江対し売渡、并金銀取引之為地券等書入いたし候儀は、決而不相成候事 右之趣堅ク可相守旨、被仰渡承知奉畏候、若相背候ハヽ何様之御処分ニも可被仰付候、仍而御受書差上候、如件 明治六年十月十日 大住郡上糟屋村 戸長 山口作助印 副 鵜川九兵衛印 小前惣代 大津亀次郎印 足柄県権令柏木忠俊殿 このように県は、一八七三年七月地租改正法公布後も、ひき続き地券交付を行い、七四年五月に相豆全管への交付を完了した。一八七三年中にすでに全体の「十分ノ九ヲ下附シ僅ニ其一分ヲ残」す状態であったが、壬申地券にもとづく租税改正はしないことが歴然とした七四年になっても、最後までこれの交付を行ったのは、「地所売買質入等一国中所分不同ニテ民間不都合モ少カラズ渡シ方願ヒ出ルモノ多キヲ以テナリ」(前掲『静岡県史料』)という理由からであった。当初、政府の新税法実施のための手段という側面を強く持っていた地券交付が、実施過程で、おのずから人民土地所有権の確証という性格を強めるにいたったことがわかる。 柏木権令の地税法改正建言 これよりさき、一八七三(明治六)年四月、大蔵省が全国府県長官を召集し、地方官会同を開催したとき(この会同で地租改正法案が討議・決定された)、柏木忠俊足柄県権令も、「地券税施行方法実際ニおゐて着手順序見込御尋」に答えて、「地税法御改正之儀建言書」(静岡県田方郡韮山町柏木俊孝家文書)を呈出した。ここで彼は、県下で交付中の壬申地券記載の「一筆限リノ段別ニ至リテハ悉ク現在実地適当ノモノト言フ可ラス、且其地価モ地ノ真価ニ非ス」(同建言書草稿には、さらに「今般相渡シ候券状面ノ段別ハ、従来税法ノ基本タル真価ヲ求ルノ準拠トナシ難キモノ多ク有之可申奉存候」の文言がみられる)といい、前述陸奥が各府県に内達した「地価取調規則」案による入札法の実施を提案している。権令柏木忠俊は、他の多くの府県長官とは経歴を異にし、江川太郎左衛門英龍・英敏の下で、相豆幕領を支配する韮山代官所の書記・公事掛・手代を歴任し、地方の事情に精通した者であるが、右提案の理由は、「辺境の愚夫・愚婦と雖も己れ所有の田畑その坪数を知らさるものこれなし、又その地価にをける自ら土地普通の品評あり、至て知り易」いにもかかわらず、「唯上下の情貫徹せす細民狐疑を懐く」ために、官がそれを把握できないでいる、というものであった。それでまず、「税額農に重きを御憐察、関東畑永を除の外、何程か御容赦成下され」と減税の実行を強く望み、農民の信頼を回復した上で、入札法によって土地の反別・真価を求めることを提案している。この根底には、明治政府の支配となって以来新政施行によって、租税・民費の負担が著しく増えて農民を苦しめており、ために農民は、政府不信の念を抱くにいたっているという認識があった。 抑モ近年民費ノ大ナル戸籍法ノ改革、戸口簿冊ノ新製、区長ノ俸給、丁兵ノ徴募、小学校ノ設立、物産ノ書上ケ、社寺上知ノ調査、及ヒ酒・醤油・絞油・廻船・猟銃ノ税・畑米石代ノ増税、地券調ヘノ村費・印税等民費ニ休息ヲ得ス、今般金銀貸借ノ証券及ヒ受取手形ノ類、総テ印紙買受粘着シ候様御布告有之、是亦多分ノ税上納ノ筋ニ相当リ申ス可クカ、如斯屡新税御取立相成候上ハ、従前重苛錯乱ヲ極メ候地税ニ於テハ、此際ニ方リ、断然御決議ノ上、減税ノ御盛典御施行有之候様仕度、学校或ハ説教等厚ク御周施有之候得共、民衣食ヲ欠キ候様ニテハ、遷善改過ノ実効容易ニハ相立申マシク、方今ノ急務ハ民ヲシテ少シク休息ヲ得セシメ、地力ヲ尽シテ物産ヲ蕃殖スルニ在リ という草稿の文言は、これをよくあらわしている。しかし、提出のときこの部分は大幅に削られ、きわめて微温な表現になってしまっている。 第三節 地租改正の実施 一 改租事業の着手 神奈川・足柄両県での着手 神奈川・足柄両県による管下への地租改正実施の布達は、地租改正法公布から八か月遅れた一八七四(明治七)年三月に、ほぼ同時に行われた。 三月三十一日、神奈川県は、「地価税則確定ニ付取調方并反別地価及ヒ無代価地反別書上雛形并地租改正規則」(『神奈川県布達全書目録』神奈川県立文化資料館蔵、『横浜市史』第三巻下六五二ページ)を管下に布達した(全文は『資料編』16近代・現代(6)財政・金融一二五)。それは、前文で、地租改正の主旨と、とくに地券渡済の村と未済の村とにかかわりなく、改めて「実地ノ反別地価取調」を行うことを明らかにし、これに「反別地価等書上方心得書布告」三四条と、それにもとづいて村方が作成する「反別地価書上帳」・「無代価地反別書上帳」の雛形が付されている。前者は、各地目を通して一筆ごとに地番が打たれ、地引絵図のそれとあい照応するようになっている。なお、小作地には小作人名と捺印、小作米金額も記載される。後者は、官林・無税の溜池・堤敷・荒田畑・墓所地・茶毘敷地・死馬捨場を登載するが地番は付されない。これらは、「租税寮改正局日報」明治六年第四四号、同年十月四日指令千葉県伺の「地租改正ニ付人民心得書」(全二三条)、「地価取調帳」雛形(『明治初年地租改正基礎資料』上巻二九六ページ)とほぼ同じ内容で、神奈川県独自の特色はみられない(両県の大きな違いは、千葉県「地価取調帳」は、官林など無税地も一貫した地番を打ち、一帳に組み込んでいるが、神奈川県ではこれを二帳に分け、無代価地は地番を付せず作業の速成を図った点にあった。しかし、これは同年六月十六日の二-二〇大区区長あて第一七四号達で訂正され、無代価地も一様に地番が付されることになり、千葉県雛形との違いは解消した)。 足柄県もまた、一八七四年三月十七日、管下一般に地租改正実施を布達した。同県では、神奈川県のように、とくに独自の規則を作成せず、次の廻達(『静岡県史料』国立公文書館蔵、『明治初期静岡県史料』第一巻)をしたに止まった。 先般地租改正被仰出候ニ付、千葉県伺御指令、人民心得書并地価取調絵図面等毎村一部ツヽ案文布達置候ニ付、熟読了解致シ候儀ニ可有之、右ハ至大至重ノ事件ニテ、一時不容易手数ニ候得共、一旦調査出来候上ハ、地租ノ偏重偏軽ヲ免レ、後来ノ便利タル論ヲ俟ザル儀ニ付、区長ハ勿論、村々正副戸長等勉テ尽力、右案文ニ照準シ精密調査可致事 (以下、絵図作成・実地丈量・検査についての条略) すなわち、とくに足柄県独自の心得書規則等は作成せず、前述千葉県の規則・雛形を、そのまま上木して、県下に廻達したのである。 こうして、両県はほぼ同時に管下への改租布達を行ったが、いずれも、「租税寮改正局日報」所載の千葉県伺指令をモデルとしたもので、一般的な改租の方針・方法を示したに止まった。管下での実地着手には、さらに、管下の実情に即した具体的方法の指示を必要としたのである。 神奈川県で、改租事業の第一着をなす地引絵図編製についてこの具体的方法が示されたのは一八七四(明治七)年七月六日のことであった(後述)。同県の改租事業は、実際上はこの時をもって開始された。 足柄県では、前述のように、地租改正法公布後も、壬申地券交付を続け、完結させた。このため、「旧地券発行の業務、及社寺上地処分等の調査を畢らざるが故、着手遷延」し、県では、ようやく「明治七年十一月に於て土地丈量法人民心得書を起稿し、これが施行順序を内務卿に具陳し、一方人民に向ては懇篤改正法の旨趣を諭達し、郡村総代専担者等を公撰するの計画を示し、且庁内地租改正掛を置く」などの準備に入った。しかし、各村での作業開始を可能にする「地租改正地図調査其他達書」(全一三条)(「明治八年五月地券掛諸控大矢武平」愛川町田代大矢ゑひ家文書)が達せられたのは、実に一八七五年十月(愛甲郡第三大区事務扱所がこれを管下各小区へ順達したのが十月十七日、第一小区でこれを受領したのは同二十三日早朝)(「地方要誌」厚木市温水山口忠一家文書)になってであった。しかも、千葉県雛形をもとに地租改正総代人・担当の県官らが考察を重ね作成した「地租御改正地引帳」・「地租改正字限絵図」雛形が、各村へ達せられたのは、同十二月三日のことである(前掲大矢家文書)。ここからすれば、足柄県での村方での改租事業の着手は、一八七五年十月または十二月ころであり、地租改正法公布から、二年三一五か月を経過した後であった。そして、これからわずか四-六か月後に、足柄県は廃止され、管轄のうち相模の部分は神奈川県に合併されることになる。 なお、足柄県では、一八七四(明治七)年八、九月ころに、小作米金調査がなされている。内容は、旧来の地目位付のまま、例えば上田一反歩につき、一か年作付収穫物総額を此米二石とし、内訳として貢租・諸懸・小作所務・全徳米のそれぞれの額を書き上げ、村方から提出させたものである。しかし、この調査は、雛形として「小作米其外取調書上」、「 何神社 何寺院 上知 田 畑 歟小作年貢其外取調書上」の二通を提出することが命じられており、しかもその提出期日は、県官が、村々の社寺領元朱印地・除地・大縄場上知の処分方法を定めるため廻村する日割に応じて定められている。例えば愛甲郡では県少属大越直温が、八月二十七日厚木町泊、二十八日小野村泊、二十九日中荻野村泊と巡回するが、この宿泊地へ出頭を命じられた村々は、右書上を明治七年八月付とし、九月一日以降に出頭を命じられた田代村などの村々は、明治八年九月付としている。おそらく、これら書上は、官員宿泊地へ出頭の際持参したものであろう(厚木市下荻野難波武治家「明治七甲戍年五月吉日御用留」、愛川町田代 大矢ゑひ家「社寺上知小作年貢其外取調書上」その他による)。したがってこれらは、社寺上知払下げの代金を定める資料として、早急に作成させたもので、地租改正事業とは直接関係をもった調査ではない。この小作米金調査は、前掲『静岡県史料』の「旧足柄県」の部では同県の地租改正事業着手が遷延した理由の一つにあげている「社寺上地処分等ノ調査」の一環をなすものにほかならない。 旧神奈川県での地引絵図編製 さて、神奈川県では、一八七四(明治七)年七月三日、二-二〇大区正副区戸長あてに、 先般地租御改正被仰出候ニ付、差向地引絵図編製方追〻相達置候処、未タ成功不申出、不都合之至リニ付、右糴立として不日官員出張為致候条、諸事承リ合セ、速ニ地図落成候様、一同協利尽力可致、此段更ニ相達候事 七年七月六日 神奈川県令 中嶋信行 との達を発し、前述一八七三年十月に命じた地引絵図作成を改めて督促した。そして、同日各大区一名ずつの地租改正取調総代人を任命し、「地引絵図を始め反別地価書上帳差出し方等諸事協議の上致すべき」ことを命じた(総代人名は『通史編』4近代・現代(1)一三四ページ・第四表)。ところで、さきに県が命じていた地引絵図は、すでに交付した壬申地券にもとづき地券税法を実施する心算に立ち、同地券交付後の土地点検を目的とするもので、したがって略図でよいとしていた。しかし、一八七四年三月の県「心得書布告」は、地租改正は壬申地券交付にかかわりなく、改めて土地調査をして実施することを明らかにし、これにともない地引絵図も、測量にもとづく正図の作成が要求されるにいたった。県は絵図作成遷延を「不都合の至り」などといっているが、仮りに村方が県の指示通り絵図を作成していても、改めて編製のやり直しをせねばならず、その労費は全く徒労に帰したであろう。 ついで翌七日、右達しにもとづき「地引絵図編製方糴立又は伝法として」村々へ出張することになった県地租改正掛官員は、出発を前にして「申合せ」を行い、これもまた村方へ廻達された(注(1)に同じ)。この申合せを行った県官は権大属添田知通・少属中山信明・少属太田鎌吉・権少属千阪和一・権少属中村惟清・史生篠崎常孝・県掌石川直・県掌斉藤万三・一五等出仕中田藤蔵であった。彼らは、持場を分担し「各手当港出発、先ツ一順持場ヲ巡回し、絵図ノ仕立振、又は製し方等ヲ伝習、夫より事実不手廻村方江罷越、戸長村用掛等ヲ為立会、地図調製可致、尤実地之景況ニ依リ各手持場内は三周之巡村隅々無残行届候様可致事」とし、作業時間を「毎日午前第七時出発、同十一時より二時迄休ミ、二時より六時迄場所調査可致事」と定め、調査方法が区々にならぬよう細部にわたり申合せ、これを各村にも廻達したものである。 厳密に測量して地図を編製することは、農民の手に余る作業で、官員の巡回・技術指導を必要とした。神奈川県の地租改正事業は、実際には、この時をもって始められた。 第一一大区(南多摩郡のうち)では、右の廻達につづいて、ただちに、同大区担当官篠崎・太田の巡回が達せられ、「正副戸長は勿論、村用掛并小前之内五、六人集会待請候様」取り計らうことが命じられた(注(1)に同じ)。彼らの最初の巡回は表一-五五のように行われている。 その後第一一大区には、八月中旬に、篠崎史生に同大区地租改正取調総代人下田半兵衛が帯同して巡回し、十三日には高木村で測量器械・水縄を用いて、午前に耕地一か所、午後に山林一か所を「検地」し、実地に測量方法の伝習を行った。その上で同月十九日、同大区一小区の各村用掛・正副戸長は一同連印して、 今般地租御改正ニ付地引絵図編製方夫〻御伝習委細承知仕候、因而ハ迅速測器相調ヘ、本月廿八日より取掛、精〻地図相仕立可申候間此段御届ケ申上候以上 との届書を太田・篠崎担当官に提出した(注(1)に同じ)。こうして、第一一大区では、ほぼ八月末ごろから各村で、地図編製の測量作業が始められたのであった。しかし、同大区一小区蔵敷村での作業はようやく九月二十二日に始められ、十一月二十五日限完了と上申しながら、実際に完了したのは十二月末になったと思われる。その作業日程の内容は表一-五六のようであ表1-55 地引絵図編製のための官員巡回表(第11大区) 注 11大区2小区は10大区巡村の組が巡回したのであろう。 「地租改正掛筆誌第11大区10小区表」(東大和市蔵敷内野家文書)より作成。 った。同小区の他の村々の作業も同じ様に遅れている。作業遅延の原因の一つに、測量の困難があった。そのため、第五大区(橘樹郡のうち溝ノ口村外三六か村)では、各小区戸長が協議し、共同で測量師(とその補助者二名)を三〇日間雇っている(「地租御改正ニ付測量掛エ手当取極簿第五大区」筑波大学蔵 川崎市高津区 田村家文書)。 測量掛月給 一 金拾弐円五拾銭 関山与五郎江給与之分金拾四円也 日当金三拾三銭三厘表1-56 第11大区10小区蔵敷村での地引絵図編製作業 注 原資料は表1-55と同じ 三毛 金弐円五拾銭 弁当代一日ニ付金八銭三厘三毛 〆 一 金八円五拾銭 中等之もの日当金弐拾八銭三厘三毛 一 金七円五拾銭 下等のもの日当金弐拾五銭 〆 右は地租御改正ニ付、測量之もの江手当方協議之上、確定いたし候事 明治七年七月廿九日 第五大区 壱小区戸長 松原庄右衛門㊞ (以下二-九小区戸長各略) この測量師の給与は、県の下級官吏並みの額で、地図編製に従事する正副戸長の日当二五銭よりはるかに高い。五大区では、農民にとって重い負担となる測量師雇用をも行い、地図編製を急いだ。作業の早急な完成は、県へ提出した請書によって強要されていたからである。 御請 今般地租御改正ニ付、田畑宅地及其他山林野税地等迄、村中悉皆之地形画図編製方糴立として御巡回被成、兼而先般御布告之御旨趣懇〻御説諭ヲ蒙リ、夫〻了解仕候、然ル上は、差向地図編製着手之儀、各小区測量地器械ヲ造シ、即今より取掛り、一同協力、奮而勉強し、凡左之日数割之通、成功候様可仕候、尤粗図認方出来次第御覧ニ入、尚御差図請候儀と可相心得と被仰渡、承知奉畏候、依之御請書差上申候、以上 第五大区八小区 本月四日ヨリ 一凡日数十五日 武蔵国橘樹郡 堰村 八月十九日ヨリ 一凡日数三十五日 宿河原村 九月廿三日ヨリ 一凡日数四十日 登戸村 明治七年第八月 右堰村用掛り 保谷八代八㊞ 右宿河原村用掛り 小倉幾太郎㊞ 右登戸村用掛り 井上五郎右衛門㊞ 右八小区地租改正取調掛り 戸長 関山粂蔵㊞ 第五大区 片山正義殿 (片山は第五大区の地租改正取調掛り総代人。なお小区によっては宛名を直接県担当官添田・千坂あてとしたところもある) こうした請書の提出は、五大区のみならず全管下の村々に要求された。そして、一一大区にみた官員巡回による作業の厳しい指導・督責も、他大区で同様に行われた(八大区については、『町田市史史料集』第七集参照)。五大区の進捗状況は八小区諸村(表一-五七)では一一大区よりやや早いようであるが、九小区菅村では、一八七四(明治七)年十二月三十日にいたって、「玉川附にて水災のごと、田畑変狂、殊に山林嶮岨のみならず周囲境界は各村接居り、思の外手数相掛り」、到底年内完成は難しいとして、七五年一月二十日までの日延願いを提出している(「御日延願」前掲田村家文書)。また、八大区では、七四年十二月十五日前後になって、「地図差出方一層至急勉励」のため担当中村少属の廻村がなされており、年内に地図完成をみない村が少なくなかったことをうかがわせる(前掲『町田市史史料集』第七集)。県地租改正掛が、七四年十二月四日に県下各大区へ達した廻達(後述)によると、「地図全備差出し方之儀、先般請書日限之趣も候得共、本月中ヲ限り差出し候儀と相心得、右順次之都合ヲ以取調可致候事、但天嶮山岳之地等ニ而意外手数相掛候共、来八年二月中ヲ限り、管下一般成功ノ筈ニ候」とあり、県全体としては、一八七五年三月には、ようやくほぼ地図編製を終えることができたとみられる。 表1-57 第5大区のうち21か村における地引絵図編成予定期間 注 川崎市高津区(田村家文書)より作成 野帳の作成(反別調査) 以上の地引絵図編製作業は、一村全地を、地目ごとに色分けして掲出し、さらにそれぞれ一筆(一枚)ごとの四囲境界を測量によって確定し、それらに地目にかかわらず一貫番号(地番)を打ち、落地のないよう全地の掲出を図ったもので、一筆ごとの面積・所有主等についての調査は次の段階に属する。この次の作業の具体的方法は、地引彩図編製が終わりに近づいた一八七四年十二月四日、県地租改正掛から、各大区へ廻達された。その冒頭に、 地引画図編成差出相成候上ハ、先般御布告(注-明治七年三月三十一日布告)ニ基キ、段別調査并収穫・地価等検査之積ニ候得共、悉皆一時ニ検査ヲ遂候義ハ、事多端ニ渉リ、一村之卒業存外手数差重リ、却而錯雑ニ押及ヒ可申哉ニ付、方今漸次成功、地図差出方之順序ヲ以テ、来八年一月中ゟ官員派出、先反別ヲ調査及ヒ巡回先ニ而改正反別申渡、夫ゟ兼而御布達之通、収穫地価書上差出候儀と相心得、右ニ付反別調査方法并野帳書式等、別紙雛形ヲ以相達し候条、早〻取掛、手操次第野帳可差出事 と、今後の改租事業の手順を示し、まず一筆ごとの反別調査を行い、その結果を「野帳」に編製することを命じた。すなわち、先の明治七年三月三十一日布告で命じた「反別地価書上帳」の作成に直ちに着手せず、まず、「野帳」(「田畑其外反別取調野帳」)作成にとりかかることとなったわけである。 作業の概要は、まず、実地に臨み、土地一筆ごとに、十字に縄を張って縦横の長さを量り、それにより一筆の面積を算出する。そして、さきに作成した地引絵図と照合し、そこに記載された地番の一番の地から順次野帳に、字・地番・地目縦横の長さ・面積・所有者を一筆ごとに記載していく、というものである。こうして、ある地の所在・面積・所有者は、地番によって連結した地引絵図と野帳とによって表示されることになる。県は右作業の終了(野帳の提出)を持って反別検査を実施する。それは、耕地一筆ごとに、地番・所有者を記した畝杭を立てさせ、派出官員が現地で、地引絵図(切絵図=字限絵図)と畝杭を照合しつつ、地順に落地・重複地がないことを確かめ、うち二、三か所を丈量して、野帳記載の面積に誤りがないかを検査する。誤りがあれば、ときに一村全地の丈量やり直しをも命じる、というものであった。 そして、一村の反別検査が終わると、野帳に土地所有者各自の調印をとり、反別改正を申渡し、村から「旧新反別比較増減簿」を県へ提出させて、実地丈量の作業は終わりとなる。 反別調査(野帳作成)は、地引絵図完成に引き続いて行われた。第五大区では、一八七五(明治八)年二月二十三日から三月十一日にかけて、逐次村々に巡回して来た県官に対し、それぞれ三月十六、十七、二十、二十一、二十五、三十一日を日限として野帳を提出する旨の請書を差し出している(前述のように同大区で地図編製が最もおくれたとみられる菅村では、野帳差出しの期限も二十五日と下菅生村の三十一日に次いで遅くなっている-「御請」前掲田村家文書)。この請書差出しの日をもって、村方での反別調査作業開始とみてよいであろう。 一八七五年四月、県下地租改正事業の実質上の指揮者である添田権大属は、当時の管下での反別調査の進捗状況をもとに、以後における改租事業の「見据」を立て県令に上申した(「段別検査其他順次見据申上」浜田新太郎「地租改正雑集弐」福島正夫氏蔵)。 それによれば、県は、村方から請書をとり野帳提出期限を四月中として作業を督励しているが、「村民之情願」を視察したところ、今はあたかも、田方は苗代を作り、畑方は麦作出穂前、養蚕地帯では桑葉が繁茂する前の時期にあたっている。農民は、まだ農繁期にならない今のうちに、反別調査を受けられるように競って勉励している。よって官側でもこれに応じて「非常之手配奮発」をしなければ、農繁期に入り農民は農事(「民情ノ義務」)に切迫され、機会を失し、事業が大幅におくれることになる、と述べている。すなわち、村方では野帳作成を農繁期前に済ますべく作業を急いでいたことがわかる。 そして、五月に入ると、第一二大区(多摩郡のうち七一か村)各小区正副戸長連名で県に対し、五月二十-二十五日に各村から野帳を提出するから六月十日までに反別調査を終えてほしいという強い申出がなされた(前掲「地租改正雑集弐」福島正夫氏蔵)。それによると、同大区では地引絵図完成後、「掛リ御官員ヨリ伝習」された方法で「十字検地」を行いほぼ完成にいたったとき、「猶今般御巡廻之上、転変之御差図ヲ受、再三検地被仰渡当惑至極」であった。しかし、「人民私有之権ヲ失シ候而は、往〻不相成義ニ付、百事ヲ投打頻ニ勉励」している、と述べている。ここに指摘されたように、土地丈量法につき、派出官員の指導は、途中で「転変」し、ために再丈量を余儀なくされ作業に遅延を来たしたのであった。農繁期前に反別検査を終えてほしいとする上述の要求には、一貫した指導をなしえなかった県に対する強い忿懣が込められている。この要求をうけた添田権大属の庁内廻議(前掲「地租改正雑集弐」)によると、このように反別検査の早急施行の必要に迫られているのは第一二大区だけでなく、多摩郡の第八、九、一〇、一一大区、高座郡の第一九、二〇大区の計七つの大区(いずれも養蚕地帯)も同様であるという。県は、この廻議にもとづき、第一二大区に対して、五月二十九日、「書面申立之趣、事情無余儀相聞候間、六月十一日ヨリ七月九日迄日数三十日之間猶予可致候条、右期限過去候ハヽ検査順序無差閊様可被致事」と、反別検査を農繁期後に延期することとし、他の七つの大区にも事実上同様の措置をとったのであった。そして、県はその養蚕繁忙期中、右八つの大区の担当官員を、他の非養蚕地帯の大区(第一-七、第一四-一八大区)に分派し、これら大区担当官と協力してここでの反別検査を悉皆終了させてしまおうとした。以上の経緯をみれば、実地丈量の遅延が、県官指導の不手際に起因していることは明らかであろう。 さて、前述一八七五(明治八)年四月添田権大属の「段別検査其他順次見据申上」は、反別検査の作業計画を次のように立てていた。それは、(一)第一大区は、村数は一〇か村ばかりなので第二大区に組み込む。そして、第二-二〇大区に官員を一大区につき二名、計三八名を派出分担させる(この三八名の人名は『横浜市史』第三巻下六六一ページに掲げられている)。管下の全村数九一二、一か村平均して田畑山林の筆数(地番の数)約一五〇〇とすると、筆数総計一三六万八〇〇〇番となる。(二)これを三八名の官員が二名ずつ一九隊に分かれ、反別検査をすると、一隊一日に五〇〇番を検査するとして、全体で一日に九五〇〇番の検査をなしうる勘定となる。これにもとづいて日程を立てると、(三)四月五-三十日まで二十二日間に二〇万九〇〇〇番の検査を終える。(四)五月一日-六月三十日までの六十一日間に五七万九五〇〇番の検査を終える。(五)同じ時期、さらに一九名を増員し、これに総代人一九名を加え、各大区それぞれ一隊を増加し、さらに五七万九五〇〇番を検査し、以上八十三日間で悉皆反別検査を終える(雨天の日は野帳の検算などにあてる)、というものであった。すなわち、県は、四月三十日までに村方の野帳作成(反別調査)を悉皆完了させ、六月三十日までに県の反別検査をすべて終えると計画していた。そして、以後七月から九月の間に地価収穫調査をして、明治七年三月三十一日達で示した「反別地価書上帳」を作成し、改租事業を成功させ、十月中に、右の結果を「反別貢額旧新比較」表に編纂し、大蔵省へ進達の上許可の指令をうけ、一八七五(明治八)年から新租額施行の運びにする、との「見据」を立てたのである。 しかし、この「見据」は、前述のような経緯と「見据」の甘さとによって、大幅に遅延することになった。四月三十日に終わるはずであった村方での野帳作成(反別調査)は、第一二大区をとっても、早くとも五月一杯はかかっており、これら養蚕地帯大区の反別検査は、予定通りとしても七月十日の開始である。 さらに、五月十八日付で添田権大属・飯嶋中属が、「地租改正反別検査運搬ノ儀」を県令に上申したところによれば、これまでの反別調査の結果、前述のように一大区当たり七万番、管内計約一四〇万番とした予想は、大幅に相違し、「各大区漸次野帳ノ合計拾万番以上十五万番ニ及、概略管内総計二百三拾万番余ニ至リ可申、最前見込トハ百万番之増聴」が見込まれるにいたった。それで一大区への派出官員ら二名、戸長らを三手に分け反別検査を実施しても、平坦地の田畑宅地ならば一手一日五〇〇番、一大区計一五〇〇番を検査しうるが、山林は、一手二〇〇番がやっとで、このままでは大幅に検査終了期日は遅れるとしている。よって添田らは、まず田畑宅地のみを検査し、山林は後にすることを提議したのである。県が、こうした措置をとっても、第一二大区など七つの大区は、検査を予定通りに行ったばあいでも一か月余りは要するので、これら大区の検査終了は、八月に入ってのことと推察できる。現に、第一一大区では、検査を終え、区長が残務処理を指示したのは八月四日のことである。この日、同大区の区長下田半兵衛は、一、九、八、一〇小区会所あてに次の廻達を発している。 当区内一般反別検査落成ニ付而ハ、兼而派出之官員ゟ談事置候検査済、諸請書并野帳認直し等被申付、未タ差出不相成村〻ハ、拙者手許ヘ至急御差出相成候様御取計有之度、且出張之官員各所ニおゐて人足賃其外喫飯料払落之分も可有之候間、小区限村〻ヘ御申談し、無腹蔵請取書御差出可被成候、依而此段及回達候也 第八月四日 第拾壱大区〻長 下田半兵衛 足柄県での地引帳作成(反別調査) さきにのべたように、足柄県の村方で、地引絵図編製・反別丈量調査にとりかかったのは、神奈川県で、県による反別検査が終わり、地価算定作業に入った一八七五(明治八)年十月のことである。これよりさき、足柄県では、壬申地券交付にあたって「地引絵図」・「地引帳」の作成を進めていたが、県は一八七五年十月にいたって、「地租改正地図調査其他達書」(全一三条)を達し、事実上、これまでの作業のやり直しを命じた。これに対し管下地租改正総代人から、達書のいくつかの箇条につき疑問が寄せられ、県はこれに答えるところがあったが、十二月三日、足柄県地券掛は、各大区正副戸長に対し、「地租改正地引帳書式地図折□寸法書」を達し、地租改正総代人および各村への通達を命じた。これによって、村方での「地租御改正地引帳」と「地引絵図」(字限地図および全図)作成作業が緒に付くこととなった。「地租御改正地引帳」は、神奈川県での「野帳」に当たるもので、「地引帳」・「地引絵図」とも、神奈川県とほぼ同一の書式である。 右の布達の直後、十二月四日に地租改正事務局から有尾敬重らが韮山支庁に来て、これまでの調査状況をたずねるとともに、翌七六年を期しての新地租法施行を求め、指導・督促を行った。その結果は直ちに本庁へ通報されるとともに、管下各大区地券掛へも報知された(「明治八亥年五月地券掛諸控大矢武平」前掲大矢家文書)。 本年十二月地租改正事務局御用掛租税寮七等出仕有尾敬重・内務省御係真田右三郎・租税寮御係小寺成蔵入来、是迄之調等ヲ尋問、来九年ヲ期シ公布之通改正相成候様いたし度旨談有之候ニ付、従前取調之模様演述、且数件問合為来、調方ノ手続・差図ノ条欵等別紙之通有之候間、此段及御報知候也 明治八年十二月十二日 韮山支庁 地券調所印 本県 地券調所 御中 (別紙略) 有尾は、このとき、韮山支庁の「絵図面の義先般諸県改正局へ集会の際協議の通一分一間の縮図は一厘壱間に仕立申候、尤最前五厘一間に取調候分、再調と申ては入費すくなからず苦情もこれ有り候間、其儘据置申候」、「(地引絵図へ)着色之儀道は朱にて、川溜井等は藍にて、堤堰は薄茶にて相分け、其他は着色いたさず、尤縮図は千葉県伺雛形通り着色いたし候」「絵図面には番号及田畑宅地の名称のみ相記し申し候」等という措置は、そのまま認めたが、実地丈量の方法については異議を唱え、「地引帳へ竪何間、横何間書入の儀、地形により竪も横も実地に当らさる分儘これ有り、不都合に付、一筆一ト縄に歩詰致し難き所は、二縄にも三縄にも出歩・入歩を以歩詰の上」云々とより精密な丈量を求めた。次の足柄県地券掛の正副戸長あて達は、右の有尾の指示にもとづくものであろう(「地方要誌」厚木市温水山口忠一家文書)。 地租改正ニ付、実地現歩仕出方之儀、十字縄ヲ以可取調旨、兼而相達置候処、右者十字縄ニ限リ無之、実地斜詰或ハ図上斜詰成リ、適宜取調不苦候、尤官員派出改之節ハ、十字縄相用候間、予而其段相心得、改之期ニ臨ミ、現歩ニ相違無之様、精密ニ可取調旨、村〻ヘ至急御達可有之候也 明治八年十二月十三日 本県 地券掛 すなわち、実地丈量が後れた足柄県では、神奈川県と異なり、さらに精密な丈量が要求されたのである。 以後、村方での反別調査は急速に進められたが、この作業がまだ完了をみない一八七六(明治九)年四月十八日、足柄県が廃止され、同県相州の部分は神奈川県へ合併されることとなり、五月一日この旨が管下へ達せられた。 この時点で、相州部分村々の反別調査は、第一大区(神奈川県第二一大区となる)では八割、第二大区(同第二二大区)では九割、第三大区(同第二三大区)では七割が完了し、完了した村では足柄県官員による反別検査が始められていた。このようなときでの廃県は、村方で事業を担当していた者たちに大きな衝撃を与えた。すなわち、改租指導県官の交代によって、これまでの作業がすべてやり直しとなるのではないかという強い危惧の念を抱いたのである。よって、各大区の地租改正総代人は、廃県の達しをうけた翌五月二日、ただちに神奈川県権令野村靖あてに、連名の上願書を提出した(「明治八亥年五月地券掛諸控」前掲大矢家文書)。 地租改正調査方居置ノ儀願 御管下第二十一大区・第廿二大区・第廿三大区地租改正総代人共、謹奉悃願候、這般地租改正調方之儀第廿一大区八歩通リ、第廿弐大区九歩通、第廿三大区七歩通出来、既ニ旧県官員御派出之上、調査方御検査も相済候村方も有之、引続御検査可相願村々黽励従事罷在候、然ル処諸般御庁御指揮の如ク、再調ヲ促シ候節ハ、従前取調一モ用ユル処ナク、巨額ノ用費并村吏人民ノ苦情ヲ亦総テ水泡ニ帰シ、実ニ憫然之至リニ御座候、此上取調替之御達有之候節ハ、前陳用費冗煩免ル可ラスハ勿論、改正急務之御諭達モ自然悖戻候哉も難計推量仕候、何卒旧県制度ヲ以落成為致度、此段奉懇願候也 なおこのとき、旧足柄県相州部分への支庁設置願も同時に提出されている。 しかし、反別検査は、神奈川県合併後も、そのまま進められたごとくで、第二三大区に属する愛甲郡温水村では、五月二十七日から六月二十一日にかけて計二一字二六八二番の検査が行われ、引き続き地引絵図・地引帳の清書にとりかかっている(前掲「地方要誌」山口忠一家文書)。そして、神奈川県地租改正掛は、七月九日、同村はじめ一小区の村々に、地引帳を来る十五日までに提出するよう求めた。ところが、地引帳清書は大幅に遅れ、八月十四日、厚木町に出張してきた県一四等出仕天野喜四郎は、一小区の温水村など九か村、二小区の二か村に対し、 其村〻請地引帳兼而日限之通リ可差出筈ニ相心得居候処、其儀無之、右当手支庁江引換之期日ニ切迫し、甚タ以差閊候間、至急取揃ヘ差出し可被申、因之右申達候也 との督促を行っている。 後述のように、旧足柄県部分で、地価決定のための具体的な調査方法を最初に指示した「模範地位等級取調方心得」が達せられるのは、一八七六(明治九)年十月に入ってのことである。ここから推定すれば、旧足柄県部分で、地引帳が完成・提出を終えたのは、一八七六年九、十月のころであろう。 注 (1) 「明治七甲戍年第九月ヨリ 地租改正掛筆誌 第十一大区拾小区長」東京都東大和市蔵敷 内野禄太郎家文書。 (2) 「御請」川崎市高津区 田村家文書。 (3) 「坪詰之儀ニ付御達書」前掲田村家文書、『町田市史史料集』第七集 九六ページ。 (4) 「明治八年第二月 反別調査心得書 右ニ関する諸廻達御派出相成御請書 第拾壱大区拾小区長」 前掲内野家文書。 二 地価決定作業 神奈川県での小作米金調査 一八七五(明治八)年四月、反別検査担当官員が、巡回に先立って庁内で行った協議の席上、反別検査済み後の作業の方針についても次のような申合せがなされた(前掲「地租改正雑集弐」)。 改正検査済ノ村々逐次地価収穫書上帳ノ義先般御布達(注-七年三月反別地価等書上方心得書布告)雛形ニ做ヒ、差出方手操申渡ヘク、尤民情自己見込ノ儘書上サセ候而者、必地価低寡ヲ以テ先トスルハ民慾ノ慣習ニ付、地位不適当ヲ記載スヘシ、然ル時者、再三調査等ノ手数ヲ重ネ、夫カ為ニ整理卒業ノ際会モ遅延候、サレハ其目途トスルノ概略方則ハ不日総代人迄達方及候趣ニ可申聞置事 但シ田畑ハ地味ノ肥瘠ヲ以小作上ノ多少、宅地ハ土地ノ盛衰、山林ハ海河運輸ノ便否ニ拠リ、地価昂低ヲ確定スルモノトス、故ニ見込申上、県詮ヲ尽シ、長官ノ御決議ヲ乞、相達ノ義ト可心得事 ここから一八七四(明治七)年三月心得書布告にもかかわらず、七五年四月まで具体的な収穫地価調査の方法は、何ら定まっていなかったことがわかる。そして、この申合せで、はじめて、収穫地価は人民の申告に任せることができないので近日その「概略方則」を総代人に達する予定であること、田畑の地価は、土地の肥沃度を小作料の多少にもとづいて定める方針であること、等が示された。 ここで予告された収穫地価調査方法についての達しは、村方での反別調査がほとんど終了した一八七五年六月十五日、第七一号達として、「横浜港内ヲ除クノ外各区正副戸長」に対し布達された。「反別位当部分書上」の作成がそれである(『資料編』16近代・現代(6)二一六ページ)。 この調査は、まず全村の田畑宅地林野の面積を、それぞれ従来の小作米金・貸地代等の多寡によって、いくつかの等級に区分する(ただし、等級と称えず、上ノ上、中ノ下といった位付けの方式によっている)。その際「自作地ハ隣地ノ小作ヘ比較」して小作料を仮定し等級づけをする。この等級区分(「反別位当部分書上」)は、正副戸長・村用掛り・代議人が立会い、地主らが地位の肥沃度を参考にして熟議して行うとされた。これにもとづく「一筆限収穫地価算量等ノ義ハ」、不日達するとしてまだ明らかにしていない。しかし、これの村方での実施にあたって、県はこの達の督促・修正をたびたび行った。まず、一八七五(明治八)年八月七日第一四一号達で、「反別上中下位当書上」げを八月二十日限り提出すべき旨を督促し、さらに十月十四日には第一九二号・一九三号達で、各村とも、改正反別にもとづき地主・小作人間で、新たな小作証を作成するよう命じるとともに、小作料等級別面積調査についても内容の修正を行った。まず第一九一号の達では、さきの督促にもかかわらず書上げ提出は、二か月を経たこの時点でも「追々差出候向モ有之候」という有様であったが、これまでの提出分の中には、「民情区々ノ見据ヲ立算出」した「実際不適当」なものが多くみられたので、まず、小作料等級別面積の根拠となる村内小作地の小作料を改正反別による地位適当の額に改訂することを命じている。当初、県は、農民は「必地価低寡」を申告する「民慾ノ慣習」があるが、従来の小作料額は、偽ることはできない。よって、実際の小作料額の多寡からその地の地位を定めることができると考えていた。すなわち、地租改正法の地方官心得第一四章「小作米ハ……収穫ノ多寡ヲ推知スヘキ確証ニシテ、人民互ニ欺隠スル能ハサル者タルヲ以テ第二則(小作米金からの地価算定)ヲ適実ノ者トス」にもとづく考えである。しかし、管下現存の小作料額は旧反別にもとづき定められており、縄延び・縄縮みが小作料額に影響を与えている。また、当時の不均等な貢租制度と種々の形態をもつ地主小作関係の下では、地力の高低を反映しない小作料額が数多く存在していた。このような事実が、小作料等級別面積調査の進行につれ、県の認識するところとなったのであろう。よって、現存の小作料の額にそのまま依拠せず、まず、改正反別にもとづく地力適当の小作料額を地主・小作人間で締結させ、これを基礎に小作料等級別面積を調べようとしたのである。この達しには「小作証」雛形が示されているが、それには、小作人が一地主から借り受けた小作地につき、一筆ごとに前述反別調査にもとづく(野帳記載の)字・地番・地目・面積とそれに対する契約小作料額、その基準となった反当小作料額とが記載され、「右ハ地位適当ヲ以テ壱ケ年書面小作米 金高ノ約定ニ極、当何年何月ヨリ来ル何年何月迄何ケ年季ニ定メ、相預リ候処実正也」云々という文言が付されている。ついで凶災の際は地主・小作人立会、検見の上適当な減免をすること、年期中小作料不納の節または「地主自作ニ付入用ノ節」は、小作人は収穫後明地にして返地すること(十一月二日の第二〇六号達で、小作料不納のばあいは保証人弁納と文言を一部改訂)、作付のまま返地する際は、作毛代金を地主が支払うこと等の諸規定が続き、地主・小作関係の内容が示されている。 元来、地租改正によって私的土地所有権が確定した土地の上に成立つ地主・小作関係は、法的には私的な契約にほかならないのであるが、以上の県の措置は、これを公権力をもって所定の内容に一率に改変しようとするものであった。しかも、この雛形によると、「小作証」には、小区戸長の奥書を必要とし、また「小区会所ニ於テハ、兼テ小作証台帳備置、其度々一筆限記載・割印致シ、腹書ニ年季ヲ付シ継年季ノ節ハ朱書ニテ附置」くこととされた。これは一面、地主・小作関係に対する公証制度ともいえるが、他面では、自由な私的契約を制約する公権力の規制を意味した。当時の県官は、このようなことにまで思いをいたすことなく、いわば地価算定の技術的手段として、既存の地主・小作関係の画一的改変にまで手をつけようとしたのである(ただし、この達文末尾には「尤地主・小作人トノ間ニ従前格別ノ約定有之分ハ其趣意小作証ヘ書加ヘ置候様可致」として、例外を認め、強引にすべての地主・小作関係を一挙に画一化することは考えていない。このような「従前格別ノ約定有之」分は、地位決定上では不適当なものとして除外する心算であったのであろう)。ついで第一九三号達では、「反別位当部分書上」は、「田畑作毛上無難豊熟ノ年柄」の小作料額(契約小作料額とみてよいであろう)にもとづいて等級区分したものを一通、さらに「十ケ年以内ニ於テ違作水旱凶災等ノ内損ヲ引去リ平均一ケ年ニ当」る一〇か年平均実納小作料額によって等級区分したものを一通、計二通提出するよう命じた。 小作米金による地位等級の編成 さらに同年十一月二日、各区正副区戸長あて第二〇六号達で、ふたたび書式が修正され、「書式ノ内上中下部分之儀は詮議之筋有之、取消シ右上中下ヲ更ニ一等・弐等・三等と配称シ、地位ノ沃瘠ニ従テ、幾級ニモ等名ヲ以テ比格」することとされた。ここで地位等級制の形が整ったわけである。 こうして、一八七五(明治八)年六月から十一月にかけて、「反別位当部分書上」作成の方針は漸次詳細なものに修正されておのずから地位等級編成が進められていくが、管下諸村からの提出はおおむね十二月下旬までにはなされたようである。この短い期間からすれば、十月第一九二号達が命じた村内の地主・小作関係に、新「小作証」を締結させて変更を加えるという困難な作業は回避し、さしあたり「反別位当部分書上」作成に専念したのであろう。 第五大区(橘樹郡のうち四二か村)に廻達された、明治八年十一月付けの「小作証」雛形(おそらく県下一般に廻達されたものであろう)は、このことを証明している。それは、次に掲げるごとく、先の十月十四日第一九二号達が掲げた前述「小作証」雛形は完全に換骨奪胎され、現実の地主・小作関係に直接なんら影響を与えない、改正反別にもとづく小作料額のたんなる証明書に姿を変えてしまっている。 小作 証 何大区何小区何村 地主 苗何兵衛 何村 小証人 苗何兵衛 第何大区何小区何村 何十何番 一 田何反何畝歩 但反米何程 此小作米何程 右之通相違無御座候、以上 右地主 苗何兵衛 小証人 苗何兵衛 明治八年十一月 何小区何村 村用掛御中 さて、県は、この諸村から提出された書上の内容を検討して、十二月二十一日、各区戸長に対し、次の達(第二五七号)を下した(注(1)および前掲「地租改正雑集 弐」)。 各区 区戸長 地租改正ニ付、田畑宅地及山林野税地等地位ニ従テ等級ヲ部分シ、小作米金代・地代(注-宅地の貸地料のこと)、歳〻上リ高書上帳夫〻算量検閲候処、土地之沃瘠耕耘之難易ヨリ、入額異同ヲ生スルハ固ヨリ論ヲ竣タスト雖モ、隣地ニ接渉シテ自他区画ヲ界シ、殊異昂低アルハ、区戸長・村用掛等ノ注目ヲ要スルト、要セザルトニヨリ自然民心ノ方向ニ関シ、真偽二途ニ出候義ニモ可有之哉、故ニ其不可ナル者ハ当否再調ノ上、孰モ平準ニ帰シ可差出筈、各区々長、此程県会之節決議候条、曩ニ差出セシ帳簿ハ平均表ヲ添ヘ、一ト先下ケ渡候間、此上区内集会反覆審議ヲ尽シ、隣区接渉ノ地ハ各区会同、渾而実際正覈ニ取調、右書上帳ヘハ四周村〻左ノ書式ノ通奥書調印取揃、早〻差出シ候義ト可相心得、此旨相達候事 明治八年十二月廿一日 神奈川県令 中島信行 すなわち、諸村から提出した書上には、隣接村のそれと不均衡があって調整を行わねばならなかった。よって、これを一旦各村に下戻し、各大小区ごとに区戸長が集会して手直しを行うよう指示したのである。そして、村から改めて提出する書上には、隣接村による 何村田畑其他位当部分取調ニ付、当村ニ立会、小作米金等渾而算量見届、比較候処、各地位相当之儀ニ有之候ニ付、奥書調印いたし、此段申上候、以上 何大区何小区何村 代議人 何誰 村用掛 何誰 戸長 何誰 という奥書を付することを命じた。ここには、村内の地位等級決定にともない、村相互間での、いわゆる村位の決定が、おのずから必要となってきたことが示されている。 ところで、この達しが発せられた翌日(十二月二十二日)、第五大区では、地租改正取調総代人片山正義(副区長)から、各小区戸長あて、次の廻達がなされた。 明治九年一月十五日県官派出、収穫調督貴有之候趣、就而は、収穫書上雛形御達可有之候得共、為心得別紙之通雛形廻達候間、一覧之上、早〻継送、収穫取調方ニ掛リ候様、御注意有之度、此段申進候也 明治八年十二月廿二日 第五大区 総代人 片山正義 (別紙) 田畑収穫書上 第五大区幾小区 何村 一 改正田段別何程 此収穫 米何程 麦何程 但 壱反歩平均 米何程 麦何程 内訳 一等何町歩 内 一毛何町歩 此米何程 二毛何町歩 此 米 麦 何程 但 壱反歩ニ付 米何程 但同断 米何程 麦何程 二等何町歩 (中略) 一 改正畑段別何程 此収穫 麦 何程 反別何程 粟 何程 反別何程 大豆何程 但壱反歩平均麦何程 同断 粟何程 但 大豆何程 内訳 一等何町歩 此 麦何程 粟何程 但壱反歩ニ付 麦何程 粟何程 二等何町歩 (中略) 夏作ハ 粟 大豆 ノ内其土地ニ応スルヲ以算出スヘシ 以下、書式右ニ做フ 右は当村田畑地位等級ニ従テ、一歳ノ収穫取調候処、前記之通相違無之ニ付、連署ヲ以テ此段申上候、以上 年号月日 右何村 代議人 何誰 村用掛 何誰 戸長副 何誰 地租改正取調掛総代人 区長副 何誰 神奈川県令中島信行殿 すなわち、一方では、小作料による地位等級の設定の再調整が全管下で進められながら、他方では、収穫調が、まだ公式の達しは発せられてはいないものの新たに始められた。しかし、心得として示された右雛形をみれば、小作料によって定めた「田畑地位等級ニ従テ、一歳ノ収穫取調」べるというもので、両者は、異質の調査ではない。「反別位当部分書上」調査にもとづいて収穫高調べがなされるという関係なのであった。 したがって、収穫高調べが始められた後も、小作米金による地位等級の隣接諸村と対比しての調整と、それにともなう村位の決定作業は、さらに県によって推進された。すなわち、一八七六(明治九)年二月八日、県地租改正掛は、さらに次の申合せを行い、小作料による地位等級を全管下に設定すべく、諸村に対する県の態度を固めた(前掲「地租改正雑集弐」)。 申合 一 田畑宅地及ヒ山林野税地等総而位当部分等級ニ従テ小作米金貸地代等実地適不適ヲ検閲算量シ、其増減ニ出ル処ヲ篤ト参考シテ、隣接四周平準ニ帰セシムルヲ要ス 一 総代人正副戸長ニ寄〻会同シ、禀議細論シテ覈実之算則ト判決セシ分は、其都度幾ケ村ニ而も簿冊取纒メ、直チニ本県江逓送申付ベシ 一 四隣接続ノ地区々異同ニシテ再審査照考可及ノトキハ、会議所ヲ指シテ当日ヲ通知シ、各手対辺シテ夫〻適スヘき向ト比準ニ充様懇切ニ勧解シ、再審査可申付、若村民頑固其事項書面差出サセ、克〻其偽ノ景状ヲ察知記帳シテ、其帰県之上、見込逐一具陳スヘシ 但地味ノ肥瘠、耕耘ノ難易、総而人民活計上ノ便否、土地ノ厚薄等予メ推知スト雖モ、此際尚村位ノ実景注意索求スヘシ 一 水旱両様反別実地書出スヘキ旨ヲ曩ニ公達アリ 旱損ハ 漏ナク、逐〻取調方運ヒ居候義ニ可有之、右は実地反別之可否推問シテ、粗漏之分は再審査申付、此際取纒、前便一同本県江逓送スヘシ 明治九年第二月八日 地租改正掛 さて、第一一大区を例にとると、ここでは、一八七六年一月二十九日、各小区正副戸長・各村の村用掛らが田無村に集まり、前述明治八年十二月二十一日の達しにもとづき、県からの「御談事」によって「区内一同打寄、不平これ無き様一時に決評の上」「高上げ方」、すなわち、低く申告したとみなされた村の等級別小作米金高の引上げが行われた。しかし、この日九、一〇小区は出頭せず、他の小区村々は三〇日も滞留して両小区を呼び出し、ようやく結着をつけ、二月十一日には、添田権大属外三名が小川村小川屋幸蔵方に出張し、七-一〇小区の用掛・代議人を集め、右の結果にもとづき、「小作等級部分書上方之義区内各村適不適」の「照準」がなされた。ついで三月三日、県令自ら磯貝大属・添田権大属ら数名を率いて田無村に来て、点検があり、同大区内各村の「小作等級書上簿」はすべて承認された。こうして、三月十日、第一〇大区の地租改正取調掛総代兼区長下田半兵衛は、各小区に対し次の廻達を行った(注(2)に同じ)。 当区内各村小作等級部分書上簿不残納済相成候ニ付而ハ、最早此上増方等之御談事ハ有之間敷候得共、兼〻県官ゟ御説明之通、来四月中ゟ収穫検査として内務省ゟ官員派出、県官其外立会取調可有之候間、追而御沙汰、此儀尚詳細御達可申候得共、全図・切図・野帳等各村控之分悉皆整置、其節ニ至リ差支候様ニ而ハ甚以不都合ニ付、今より心掛ケ差支不相成様、正副戸長衆ニおゐて厚御注意御取計有之度、呉〻も小区限各村江御説諭可被成候、依之為□及廻達候也 これによれば、県は、第一〇大区については、三月初めに県の意図通りに小作等級編成を終え、これにもとづき、四月に地租改正事務局員が出張して来て、収穫検査が行われる予定になっていたことがわかる。 このように県は、村が申告してきた小作等級を不適当として、その小作米金額の引上げを村方に強いていることから、このとき、すでに県は小作米金とそれから算定する地価について、一定の「見据」を持っていたことがうかがわれる。正確な作成月日は不明だが、地租改正掛の長であった添田権大属と下僚浜田新太郎(一八七六年三月、一五等出仕)の所蔵資料によると、それは表一-五八のごときものであった。 この新旧地租額増減見込表は、各大区村々から提出された「反別位当部分書上」にもとづいて作成した、県全体の小作米金等級別地価表(表一-五九)から計算したものである。小作米金等級別地価表は、県が各村「反別位当部分書上」にもとづき、水田については、県下全水田を、契約小作料(「無難豊熟ノ年柄」の小作料)によって一五等に配分し、等級ごとに一〇か年平均実納小作料を求め(一率二割引)、これと県下一五か所五か年平均米価とから、地方官心得検査例二則の方式によって地価を試算したものである。利子率は、同一九章、「地価ヲ検スルノ際……小作地ハ五分利ヲ以テ其極度トスヘシ」により、極度である五分を用いている。さらにここから県平均水田一反当たり地価額を算出して、それがほぼどの等級の地価に該当するかを知ることができる。本表では、その結果、小作入口米八斗五升の等級の地価が、ほぼ県平均の水田予定地価を表示していることが確められた。同様にして畑・宅地・山林の予定地価も求めることができる。この県平均予定地価を用いて、新旧地租額の比較を行ったのが表一-五八で、それによると、水田では九万九一八四円余の減、畑宅地では、逆に八万六四五三円余の増、山林の増二万〇一五一円余を加表1-58 旧神奈川県における地租改正の当初見込額(土地検査終了後) 注 1 「田畑宅地及山林等民有地旧貢・新租額比較表」(添田家文書)より作成。 2 畑のうちに宅地も含まれている。 3 換算米価は明治3-7年5か年平均相場金1円ニ付米1斗9升1合(米1石5円235)。 表1-59(1) 旧神奈川県における小作米金等級別地価予定表 注 1 ( )内は米価を1円に付米1斗8升7合に訂正したのにともなう変更値(平均等級のみ掲記した)。 2 地価の算出方法は,地方官心得検査例第2則により,(2)×(3)-(4)=(5),(5)÷0.05=(6)。 3 ゴシック数字が平均に当たる。 え、全体では七四二〇円余の増租になる。旧租に対し約一八・五㌫の増租である。しかし、表一-五八畑のなかには宅地も含まれ、そのうち六〇町余は「八王子神奈川横須賀等ノ如キ輻湊地」として反当地価二〇〇円、地租六円、一八〇町余は「街道宿駅并浦賀・青梅村ノ如キ人家稠密地」として反当地価一〇〇円、地租三円、両者合計新地租額は九〇〇〇円余と見込んでい表1-59(2) (単位 円) 表1-59(3) (単位 円) 注 「右田畑宅地ノ外山林萓野芝地秣場等ノ類各収穫ノ多寡ニ応シ地価位当ヲ知ルコト畑方小作ニ同シ」 る。これら準市街地の旧租額は不明だが、少なくとも倍以上の増租であることは確実である。したがって、表一-五八の新旧租比較では、準市街地を除く、一般耕宅地について、地租改正によりごくわずかな増租を見込んでいるにすぎない。ただ内容では、水田の減租・畑の増租を意図していることは明らかである。 当初県は、以上のような「見据」のもとに、水田では県平均反当地価が四二円七二銭二厘になるよう、小作米等級別面積の調整を、大区-小区-村に命じたと思われる。 なお、このとき小作米の換算に用いた米価は、管下一五か所(保土ケ谷・神奈川・川崎・溝之口・原町田・八王子・府中・田無・五日市・青梅・三崎・浦賀・戸塚・藤沢・一之宮)の、上・中・下米平均、明治三-七年までの五か年平均価格(一円に付米一斗九升一合-米一石五円二三銭六厘)が用いられた。しかし、これを改正事務局に伺を立てたところ、中・下米五か年平均価格一円に付き一斗九升二合と、貢米買石代(上米値段)五か年平均一円に付き一斗八升一合とを平均した価格一斗八升七合(一石五円三四銭七厘)を使用するよう命じられた。これにより、表一-五八の水田に関する数値は修正され、県平均水田反当地価は四三円六三銭六厘となり、増租額はさらに大きくなった。 関東諸府県共通方式による地価調査の開始 こうして、県が見込んだ県平均予定地価額の実現を目途とした小作米金等級の設定は、管下各村で、ほぼ一八七六(明治九)年三月ごろには一応の完成をみたと思われる。しかし、右の県平均予定地価額は、あくまで県がたてた目標額であって、地租改正事務局の承認を得たものではなかった。四月に入って、地租改正事務局は、これまで県が実施した事業を検査し、これを中央の改租方針に整合させるため、改正事務局員を派遣してきた。これによって、県下各村は、さらに新しい作業を課せられることになる。このとき、中央の改租方針は、地租改正事務局明治九年三月三日達「関東八州地租改正着手ノ順序」によって改正局員に示され、派出局員はこれにもとづいて、新たな地位等級編成を県に求めた。 このときの改正事務局の指導は、右「着手ノ順序」(全一二条)には明文化していない模範村の設定など、さらに具体的な内容におよんでいる。しかも、関東一府六県の地価決定は同一の方法で実施するという強い方針が堅持されていた。本県にも出張し指導を行った有尾敬重は、これを後年次のように語っている(有尾敬重「本邦地租の沿革」日本勧業銀行内毎月会 大正三年十二月)。 関東は御承知の如く、一府六県畔一重で其境を接して居るのであります。従って此県の流儀は斯で有り又此県の流儀は斯で有ると云ふ様に異た方法でやりかけては比較上甚だ困ると云ふ感じが致しました。そこで関東地方は何うしても一府六県を仮に一地方と見て調べ上げた上、隣県に接続する所等は甲県から言ふても乙県から言ふても大抵値柄も合ふ様にしなければならぬと云ふ様なことを予め考へて調べに掛ったのであります。其上段段各地方で改正をやった為めに手並も出来て参りましたもので有りますから役人の方でも然う素人計りでない、経験を積んだ者も幾らか有る様になったので、先づ模範村と云ふものを立て、之を基として調べをする事になりました。 改正事務局の方針が以上のようなものである以上、これまでの県の小作等級による地価決定方法も、何らかの変更を余儀なくされることになった。この改正事務局の方針が、第一一大区に下りてきたのは、四月二十四日のことである(注(2)に同じ)。 九小区 榎戸新田 十小区 高木村 右収穫地価調査模範地相成候、依而ハ此程兼而巡回相成候官員衆より御談示も有之候義ニハ可有之候得共、一筆限書上ケ帳来ル廿八日迄ニ御県ヘ差上可申義ニ付、右認方其他御談判いたし度義有之候間、明廿五日午前第十時右村用掛当会所被出頭候様、御達有之度、此段及廻達候也 第十一大区 会所 九年子四月廿四日 右区戸長副御中 追而先般御渡相成居候収穫地価書上帳雛形加除相成候廉有之ニ付、雛形持参、写取可被成候也 模範村は、各大区四-一〇か村ずつ選定された。一模範村には最寄の五-一〇か村が組合となり、これらの村のこれまで改租事業を担当してきた総代人・戸長らが、模範村に集まって、まずここで地位等級を立て、どういう地が一等地か等々、あるいはまた、各自の村の一等地は模範村の何等に当たるか等を会得する。このとき地位等級は、収穫米麦一斗の間隔で設立し、一筆ごとに等級を付すものとされた。 この模範村での地位等級設定作業の開始とともに、五月十三日、第一二〇号達で各大区正副戸長に対し、各大区内の村用掛・代議人・正副区戸長・総代人らが会同し、銘々見込投票によって村位等級(村等)を定め、二十日までに製表し県へ提出することが命じられた(『資料編』16近代・現代(6)一四一)。なお、この村等は一〇等以内とするよう指示されている。 旧神奈川県への足柄県併合 旧神奈川県下で、関東諸府県統一の方式による地価決定作業が新たに始められている最中、足柄県相州部分が神奈川県管轄下に入ることが布告され、五月一日、その「土地人民」の受け渡しが行われた。前述のように、このとき足柄県相州部分では、まだ反別調査も完了していない。しかし、神奈川県への併合によって、旧神奈川県と同じ画一化された方式で改租事業を遂行し、しかも旧神奈川県と同時にこれを完了させる必要に迫られた。そのためにまずとられたのが、五月十九日第一二五号達による「地租改正ニ付、段別地価書上方人民心得書及ヒ地価書上帳雛形」更正の布達である。この布達は、これまで改租実施について県独自の規則を作っていなかった旧足柄県部分にとっては、形式上初めての改租施行規則であり、旧神奈川県部分と同じ方式により改租事業が実施されることが明らかにされたわけである。一方、旧神奈川県部分にとっては、文字通り一八七四(明治七)年三月布達の更正で、すでに進められている関東諸府県共通の方式による地位等級設定作業によって死文化した部分(小作入レ附高調査など)が削除され、右作業に適合した規則に改められた。そして、提出すべき「反別地価書上帳」雛形にも、末尾に等級別に反別・収穫米麦・地価の合計を付するなどの修正がなされたが、この点は、旧神奈川県では、先の引用文に明らかなように、この布達以前に、廻達ですでに修正が伝えられていた。また、以上の改正によっても、現に進行している地位等級調査の方法が登載されたわけではない。ただ「書上帳」雛形に「一年限収穫地価ハ全村調済ノ上、認入候義ト心得可シ」と新たに注記され、地位等級調査がまず先行し、事後、官の承認を得て収穫・地価が記入されることが示されているに止まる。この「反別地価書上帳」も、実際には、この更正布達前から「田畑其他一筆限収穫地価書上帳」と呼ばれており、以後の県布達でも、公然と右の称呼が用いられている。要するにこの「人民心得書」更正布達は、旧足柄県相州部分を含む新神奈川県における地租改正実施の基本的法規として布達され、実施に必要な具体的な措置は随時県布達・廻達などの形で村方に伝えられたのである。 模範村での地位等級検査 さて、旧神奈川県下では、「人民心得書」更正布告後も、引き続き、関東諸府県共通方式による地価調査作業が進められていた。先に述べたように、模範村(本県ではしばしば模範地と称している)での地位等級の決定と、各村用掛・総代人らの投票による村位の決定がそれである。 六月五、六日、改正事務局から出張してきた七等出仕有尾敬重、同吉田六三郎、一三等出仕浅井謙蔵、同池田緯太郎は、県庁において、県地租改正掛・各大区総代人を集め、模範村が提出した収穫書上帳および村位等級表を点検し、今後の作業を指示した。それはおおむね次のような内容のものと推定される(注(2)に同じ)。 (一)模範村での地位等級設定を、「四至隣接村々用掛・代議人両人立会」の上あらためて実施する。(二)等級はその村の地味の肥瘠に応じ一〇等以内に区分し、「其他ハ等外何等ト記載」する。(三)等級設定にあたっては、「収穫何程書上ケ之事ハ論スル事ナシ」(等級設定の際、等級ごとに収穫高をどれほどと書き上げるかの討議はしない)。(四)したがって模範村等級書上帳には収穫地価は記載におよばず、等級別反別のみを記す。(五)模範村の地位等級が出張改正事務局員の検査を受け承認されて後、収穫算量を行う。(六)ついで収穫検査済の上地価を決定する。 ここから明らかなように、模範村での地位等級設定は、「地味ノ肥瘠・耕耘ノ難易、或ハ水旱・罹災ノ有無、土地運搬ノ便否等相顧テ実況ヲ推索シ」て決め、収穫高は書き上げない。もちろん、収穫高を仮定して(後述)、その一斗差で等級を分けてゆくが、正式に等級ごとの収穫高の決定は行わず、その算量は、地位等級の検査・決定後になされる。したがって、事実上収穫高は官が決定することになる。そしてこのとき、田・畑をそれぞれ上・中・下等にわけ一反当たりの所要肥料と自給肥料作成の労力の費用を調べる「田畑養肥取調書上」の提出が村方に求められた。 地租改正事務局は、神奈川県に、関東諸府県共通の方法で統一的に地価を設定するため、局員を派出して模範村に対し、集中的な指導・検査を行った。以後局員は数度にわたって来県するが、それはもっぱら模範村の巡回に費やされている。「各模範地ノ中ニ彼我ノ村位ヲ比較シテ、該村ハ優劣何等ニ位置スヘキモノト予メ検査官ノ見込意見ヲ合議シ、然ル上ニテ」模範村内の実地について「等位ノ最低ニ就テ衆議対談ヲ尽」すなどして検討を加え、「全村検査済ノ上ニ於テ地元及組合村吏等総テ立会タル人民ヘ各地比格ノ当否懇篤推問シ」て、彼らの「聊遺憾無之旨」の請書を取る(注(3)に同じ)。これによって、他の組合各村の地位等級設定の帰趨は、出張局員の監視がなくてもおのずから定まるのである。 しかし、管下の村々は、これまで改租事業に長い労苦を重ねており、その上ようやく提出した小作米金等級編成が無駄となり、また改めて改正事務局が要求する地位等級の調査を行うとあっては、到底甘諾するわけにはいかなかった。しかも、収穫高を論ぜず明確な指標なしに地位等級を早急に設定するのは技術的にも困難である。よって、第一一大区総代人兼区長下田半兵衛は、六月五、六日、有尾派出局員らからの指示をうけ帰村すると、ただちに十月、管下小区正副戸長・各村用掛らを召集し、「当春中各村ゟ等級部分書上方其外廉々」につき協議した後、十二日再び出県して、三月に各村から提出した小作米金による等級区分をそのまま、今回の地位等級調査に転用したい旨を申し入れた。この交渉の結果は、六月十三日付で下田が、一、八、九、一〇小区正副戸長あてに廻達した次の通報に明らかである(注(2)に同じ)。 本月十日会議上におゐて談判仕候、各村田畑其外等級部分再調之義、昨十二日出県之上改正掛主事(注-添田権少属)江申立候処、右ハ先般書上候等級部分据置之義、採用可致品ニ無之、改正事務局長(注-有尾敬重か)立合之上、申渡候義ニ付、其区内村〻再調ニも不及、帳成調向ニ相違無之見居候ハヽ、先前書上候等級部分之振合ヲ以書上候共、県庁ニおゐて差支無之旨御沙汰ニ付、右之御心得ヲ以、不都合無之様各村江即刻御通知有之度、乍去末等ニ至リ、格外段概不相当之分ハ、一、二番飛越候共不苦趣ニ付、能〻御注意御取計可被成候 (以下略、傍点は引用者による) やや文意に曖昧な箇所もあるが、要するに、県の意向は、先般提出した小作米金による等級区分書上は、そのまま採用するわけにいかないが、その「振合ヲ以」って今回の地位等級書上をするのは一向差支えない、ということで、出張改正事務局員もその場に同席しこれを黙認したのであった。下田は、この廻達で、各小区模範村とその他の村々に対し、等級書上帳を六月中に県へ提出するよう求めているが、右のように実質これまでの小作米金等級を生かせば、その作業は比較的簡単であろう。ここに明らかになった県の方針は、当然、第一一大区のみならず旧神奈川県下全般に及ぶものであった。第九大区二小区では、八月二十日の集議で、地位等級表作成に「小作等級」を用いることを決め、田は小作米を一・六倍し、畑は小作金を一・八倍して収穫高を出すこととしている。 さて、第一一大区では、以上の地位等級再調に対し、一八七六(明治九)年八月、改正事務局員が出張して検査を行った。検査はもっぱら模範村に対して、十八日一小区大沼新田、十九日九小区榎戸新田、二十日八小区野口村というように行われ、そこでの地位等級点検には、組合村用掛・代議人・正副戸長らも立ち会った。この局員による模範村の点検が終わると、組合村々は次のような請書を提出し、各村々等級書上帳・合計帳編成を行った(注(2)に同じ)。 御受書 先般地位等級為御点検、事務局官員并県官御附添当大区壱小区大沼新田外九ケ村模範地御選定之上、私共村〻立会、御検査済相成、因而ハ右模範ニ做ヒ、接連村〻前書日割(略)之通リ、其村地位等級一筆毎持主ノ私偽ヲ不用、戸長及ヒ用掛リ代議人立会、村〻一同清論ヲ尽シ、平等ニ附シ、等級書上帳并合計帳来ル九月五日限リ迄無遅延上納、可奉御検査請取、依之連印請書差上申候処如件 明治九年第八月廿五日 第十一大区十小区 多摩郡狭山村 代議人 粕谷市郎左衛門印 村用掛 真野新左衛門印 (以下四か村略) 神奈川県 地租改正掛御出役 芦谷治作殿 ついで各小区は、各村の村等に応じ、それぞれの地位等級の連関を示す「各村地位等級比較表」を作成し、いずれも、一八七六年十月上旬にはほぼ完成をみた。なお、第八、九、二〇大区などの「地位等級比較表」が完成したのは、同年十一月である。 以上、旧神奈川県の改租事業は、一八七六(明治九)年四月にいたって地租改正事務局の指揮によって関東諸府県共通の地位等級方式へ変更を余儀なくされた。しかし、内実は、村方がそれまでに完成させた小作米金による等級設定が、実質的に生かされ、そのために、ほぼ十一月中には、管下地位等級の編成を終わらせることができたのである。しかし、次に、この地位等級にもとづき、収穫・地価を決定するという難事業が控えていた。 旧足柄県での地位等級設定 一方、一八七六(明治九)年五月神奈川県管轄下に入った旧足柄県部分は、当時、まだ反別丈量も完了しない状態であった。よって県は、管下村々に対し、「一層鞭達ヲ加ヘ、在来ノ管下ト一斉ニ並立センコトヲ督促シ、反別丈量済之上引尋……模範村及ヒ組合村各村」の地位等級調査に入った。それは一八七六年十月のことである。すなわち、この月、県地租改正掛は、「模範地位等級取調方心得」、ついで「地位等級比較表編製方心得書」・「田畑其他等級総計書上帳」雛形をあいついで発し、事業の速成を促した。以上の諸「達」は、県の正式の布達ではないが、すでに右作業の大半を終わらせていた旧神奈川県部分と同じ方式での実施方を指示したもので、旧神奈川県で行った実施方法を、ここに要約して知ることができる。よって、これを次に掲げておく(前掲「地方要誌」厚木市温水山口忠一家文書)。 模範地位等級取調方心得方 第壱款 各小区之内地味之厚薄村位之異同ニ拠リ、弐ケ村乃至三ケ村四隣接渉便利ナル村方ヲ以テ模範地ト選定シ、該村ノ地位等級ヲ部分シテ取調帳ヲ差出スヘシ 第弐款 模範地タル村方ニ於テハ、自村ハ勿論、四至組合村用掛及地主総代人トシテ代議人一両名立会、全村耕地実際ニ臨ミ、地味優劣ニ従ヒ、討論討議シ、権衡ヲ要ス、而テ彼我公平ト看認ヲ以テ等級ヲ付シ、反別合計帳差出スヘシ 第三款 等級位階之儀ハ通常之年柄収穫上ニ於テ田畑共凡米壱斗内外ノ甲乙ニ拠テ級階ノ位当トス、譬ハ田畑壱反歩ニ付米麦壱石八斗田米壱石八斗 畑大麦壱石八斗 之収穫ヲ以テ一等トス、田ハ壱石七斗ヲ以テ弐等トスルカ如シ、以上、以下之ニ準ス(但書追加)「但宅地添総テ人家接近ノ田畑ハ耕耘ノ便否ヲ参考シ、地味均キ遠隔ノ耕地ヨリ一級位階ヲ進メ等級ヲ付スヘシ」 第四款 全村之内川附堤外ノ地及ヒ用悪水附窪地等、水災地或ハ天水之外水理ヲ失スルコト旱田其他無比ノ薄地ニシテ、順次之等級付スルコト不能ノ図形、権衡ニ拠テ地位相当ノ級階ニ付ス、書ハ壱等ヨリ五等迄順次ニ至リ、以下亜テ準位ニ難堪ノ分ハ零ヲ置、可成丈十等以内ノ段階ヲ付スヘシ、但本条ニ於ケル級階ノ比準ニ寄、尚位当ヲ得サルノケ所ハ等外何等トスルモ可ナリ 第五款 地位級階ヲ立ルニ於テ、官収穫上壱斗内外ヲ以テ段階トスルカ故ニ、其差実ヲ一級内ニ平均シテ、甲乙ヲ分チ、反別ヲ部分スルハ民ニアリ、然レハ則チ、公論衆議ヲ尽シ、之ヲ彼我地主ニ克決定セシメ、而シテ本位ノ等級ヲ保存スルコトト知ヘシ 第六款 総テ等級ヲ付シ、甲乙反別部分スル等、自村限ニテ決スヘカラス、組合村〻立会人共協議ノ末、之ヲ定ムルヲ要ス、若クハ所有者私論主張シ、決シ難キ際会アラハ、投票ヲ以テ確定スヘシ 第七款 書上簿ハ兼テ布達セシ雛形ノ通相心得、其他切画図面ヘハ等級ヲ記載セシ小札ヲ張懸、位階ノ換ル区域一ハ色紙 黄 青 ノ内ヲ以テ細ク截チ、其区域ノ系ニ傚ヒ、之ヲ見易キ様注意ス、但一ト区域ヲ作シタル同等ノ図形ハ、一筆毎小札張懸ニ不及、該区ノ中央エ何等ト壱枚張掛ヲ以テ可トス 第八款 四隣村界、一ハ篠竹等建置、彊域ノ標目トシ、耕地切図ノ換ル区域モ、葭萱又ハ小篠竹等ヲ見通シニ建置ベシ 概略取調方順序相達候、尚難決儀ハ掛官員巡回先江申立、差図受候儀相心得事 明治九年十月 神奈川県 地租改正掛 地位等級比較表編製方心得書 模範地検査済之上ハ、各組合毎村共引続右方法ニ傚ヒ、四隣接歩之村〻一同立会、該村之地位等級ヲ部分シ、捗取次第担当官江差出シ、検査ヲ受ルコト前成規ニ均シ、順次相済候以上毎村連合等級之比較表ヲ編製差出スヘシ、比較表ヲ編製スルハ、嚮ニ等級校正之節、接歩組合村〻立会、地位之優劣ハ各自視認モ有之、一己私論ノ主張等無之筈ニ付、相須テ公平均一ニ帰着セシムルコトヲ要ス 甲乙模範地ヘ孕リ、双方ヘ地先接続シタル村方ハ該村之位置耕地之盤□ニ拠リ、甲村ヘ何分、乙村ニ何分ト、分通ヲ以テ分裂シ、比較スルヲ以テ可トス 一 表目編製ヲ甲乙二様トス、模範組合限リ比較セシヲ甲表ト称シ、甲乙模範地之中連合之為メニ比較スルヲ乙表ト名ツク (「模範地組合村〻地位等級比較表 甲」、「甲乙模範組合中接続地比較表 乙」雛形略) 第二二、二三大区では、右で作成を指示された田畑宅地等級総計書上帳は一八七六年十一月から十二月初めにかけて各村から提出され、第二三大区三小区のばあいは、これについで十二月十五日に「及川村模範地組合田畑其他之地位等級比較表」が完成し、十七日には、模範地組合中接続地比較表の編成にとりかかっている。同大区では田畑については、大部分は、一八七六年中に地位等級編成をなしとげたとみられる。こうして、一八七七年初頭の時点で、旧足柄県部分の改租事業はほぼ「在来ノ管下ト一斉ニ並立」するにいたった。 収穫・地価の決定 さて、一八七六(明治九)年十一月中に完了した旧神奈川県下での関東諸府県共通方式による地位等級編成では、等級ごとの収穫・地価額については論ずることなく、地位等級編成の後にいたってはじめて収穫高を定め、ついで地価額を決めるとされた。しかし、七六年十一月県に提出された、第八大区地位等級比較表の、多摩郡図師村用掛鈴木弥右衛門「控」(『町田市史史料集』第七集)の分には、 前記等級段階仮地価ノ義者各自接会平均ノ甲乙視認シ供スル迄ノモノニシテ、真ノ予定ニアラス、若クハ之ヲ村民ニ照会流布スルトキハ、過当云々等ヲ生シ、夫カタメ表目編成ノ渋滞ヲ醸シ、取極之節ハ大クハ不都合ヲ極メ候ニ付、嘗テ総代人ノ胸間ニ含ミ、秘シテ漏ス事ヲ禁ス との注記があって、各村総代人は、このとき仮定した等級ごとの地価額をもとに地位等級編成を行ったことがわかる。これなくしては、実際の地位等級編成は不可能だったであろう。前述のように、県は、一八七六年三月、小作米金による地位等級編成に際し、県全体で、やや新租増という概算のもとに、小作米金等級別一反当たり地価予定表(表一-六〇)を作成し、各大区地租改正取調掛総代人・区長らに提示した。これにもとづいて彼らは、管内小作米金による等級を調整するとともに、今後の地価決定作業に備えたのである。 その後改正事務局は、この県の方式を否定し、新たな方式による地位等級編成を命じた。しかし、村方にあっては、事実上、既成の小作米金による地位等級をもってこれにあてることとし、出張改正事務局員・県の黙認を得た。このことによって、さきに県が示した小作米金等級による予定地価は、おのずから、そのまま新しい地位等級における仮定地価と目されることになったと考えられる。 表1-60 田方1反歩全収穫算則 注 1 「以下等級ノ順次此概略ニ做フ」。 2 添田家文書より作成。 しかし、県は、一八七六年五月、小作米金による地位等級設定を行っていない旧足柄県を管轄下に収めたことによって、改めて、全管を通しての改租額予想、収穫・地価予定額を算定する必要に迫られた。 よって、県は、前述のように、六月、全管村々に「田畑養肥取調書上」を提出させ、表1-61 畑方1反歩全収穫算則 注 1 「以下ノ等級ノ順次此概略ニ做フ」。 2 添田家文書より作成。 さらに、一模範村組合ごとに編成した地位等級表(区内表・甲表)と、これをもとに編成した「模範各村ヲ連合シ夫ヨリ一大区内ニ連及」した大区地位等級(比較)表(大区表・乙表)を十一月ごろまでに提出させ、これらによって、まず、管内平均一反歩当たり田畑予定収穫高を算定し、もって各村地位等級別収穫・地価決定のための目途とした(表一-六〇・一-六一前掲添田家文書)。 これは、等級別の反当たり予定収穫高を、それぞれの所要養肥量・平年収穫高から算出したもので、さらにこの各等級別予定収穫高を平均して、「県官見込」の県平均反当たり予定収穫高をも示している。それは、田では米一石二斗五升で、七等乙に属し、畑では麦九斗で八等乙に当たる。この等級が、県平均の収穫高を表示することになる(注(4)沢木論文、渡辺隆喜「神奈川県地租改正事業の特色」『神奈川県史研究』第四号)。なお等級は、前述のように一斗間隔で付けられたが、村方では便宜上一等級を五升間隔の甲乙に分けることが認められた。このばあい、七等乙は、八等甲と一斗の差があり、七等甲とは五升の差がある。さて、この算則では、田は、「養肥取調」で判明した所要肥料代が、地方官心得検査例一則(自作地)の規定する種肥代(収穫の一割五分)を超過する分だけを、平年収穫高から減らした額が、等級予定収穫高となる。畑は以上のようにして得た額に、夏作の収穫高が加算され、それが等級予定収種高となる。すなわち、田方では、実際の収穫高よりかなり低い額が、等級予定収穫高とされ、畑方では、夏作が加算されるので、実際収穫高と少差の低額となる。 こうした目途を立てた県は、一八七六(明治九)年十二月から一八七七年一月にかけて、管下各村に、等級ごとの収穫書上(「田畑其他収穫地価算量書上」)を命じた。その雛形の奥書には「右は税法御改正に付、田畑其他収穫地価算量の儀、全村地位等級を以四囲村に比準し、適実の取調候処、書面の通りにこれ有り、因て此段申上候也」とあって地価も記載する欄があるが、その注記に地価は、「算出記載におよばず此条明置へし」と指示されている。これによって、県は、右の田畑「一反歩全収穫算則」にもとづき、村方が等級別収穫高を計上することを求めたのである。 県がことさらに、実際収穫高より低い収穫高の計上を求めたのは、旧神奈川県当時の、全体としてやや新租増(田方減・畑方増)という改租見込みを維持していたからと思われる。すなわち、県は、さきにこの見込みにより、小作入口米金等級別に予定地価表を作成したのであったが、ついで、これにもとづき地方官心得検査例の自作地算則による、収穫高等級別予定地価表をも作成していた。それによれば、ここに用いる収穫高を、小作入口米金額に、三分の二を乗じた額とすれば、ほぼ同一の予定地価が得られる計算であった。つまり、ある等級の土地について、その等級の基準となる小作入口米金、またはその三分の二にあたる収穫高のいずれから計算しても、ほぼ同額の地価が得られることになっていた。しかし、この計算には、全作徳から地価を資本還元する利子率に、自作地の極度とされた七分利を用いていた。しかし、旧足柄県合併後の時期にいたって自作地の地価算定に七分利の使用を許さず、検査例が示す六分利を用いるとする改正事務局の方針が明らかになった(改租穀価も一石につき米五円一五銭、大麦一円七五銭に改訂)。これらによって計算するときは地価は大幅に昂進することになる。したがって、当初見込みを維持しようとすれば、上記のごとき操作で収穫高表1-62 田1反当たりの県指示算則による試算表 注 第5大区区長田村義員「控」より作成 を低下させる必要があったわけである。また、このとき、表一-六二試算表が示すように、肥代金の多寡を加減することによって、等級の組替えや等級の細分化を行うことが可能となった。右表によるときは、田方の反収を四段階に分けることで、おのずから二四段階の等級区分がなされることになる。こうして、収穫書上げをめぐって、さらに地位等級編成が検討されることになった。ところが一八七七年二月西南戦争が勃発し、地租改正事務局は、戦争終結の九月まで、一時改租事業の村方での推進を中止させた。しかし、神奈川県では、四月から七月にかけて、改正事務局から浅井謙蔵・池田緯太郎の二名が出張して来て、模範村を再度「一視通観として」巡回し、「嘗て村方差出せし表簿と検査官の見込表とを対照し余考に要せん」(注(3)に同じ)とした。 其区地位等級撰定、模範地村〻実地再巡視トシテ、地租改正事務局官員二名ヘ当課御用掛高橋佐吉郎附属、来ル四月一日当地出発、左ノ区順廻村致シ候条、模範村ニテハ戸長及心得候村吏切図持参、村境ヘ出張案内可致候、且休泊等ハ差紙可申付候間、総代人ニ於テ廻村順之都合ニ寄可被取計候、此達章早〻順達可被致候也 十年三月卅日 神奈川県 第五大区 第十大区 第十一大区 第十二大区 第十三大区 右地租改正取調掛総代人御中 尚以五大区ニテハ一日午前第十時小杉村江総代人出張可被致候也 七月、巡視を終えた出張局員は、県掛官と、闔管連合表(全管連合表)編成の協議に入った。席上、局員は、従来の「収穫米麦壱斗内外ヲ以テ一段階トナシ」た等級分けを、「薄地末等ニ至リ位当ニ苦ムモアリテ窮屈」という理由で「壱斗五升ノ段階ニ更正スル」ことを提議し、県官も賛成し、直ちに全地租改正取調掛総代人・区長を召喚し会議を開き、それを「速ニ決議」した。一斗五升段階に区分するというのは、従来の一等級を甲・乙・丙の五升間隔にさらに区分するということである。この決議により、総代人らは「尚商議ヲ尽シ、各区既ニ毎村ノ収穫上ニ於テ斟酌セザルヲ得サルモノハ、表面数字ノ段階ヲ昇降シ、内部ニ甲・乙・丙ヲ有セシヲ彼我権衡ヲ要シ、実際適当ニ至ラシメント数回算量ヲ為シ、折衷以テ整合ヲ表」わし、隣大区接壌村々の連合等を再組織し、九月「更正表」を完成した。これは「闔管完全セシモノナレハ容易ニ之レヲ動ス可ラサルモノト」し、十二月中に各村から請書を徴収することとした。 しかし、これに対し、第一一大区の全五五か村、第一二大区のうち二四か村、第一四大区のうち二七か村、第一五大区のうち一か村、第一七大区のうち五か村、計一一二か村は調印を拒み、一八七八(明治十一)年三月にいたっても応じようとしなかった。一八七七年十二月二十六日付第一一大区各小区正副戸長連印の上申書は次の通りである。 上申書 第十一大区 各村 右は地租改正ニ付、田畑等級之義壱斗之段階を以書上候処、此度壱斗五升之段階ニ更正シ、闔管連合表御編製相成、夫〻御参査之上、当区内、野塩村を元トシ、村位ト合、比準等御説示相成候得共、過般差出候当大区等級表とハ段階ニ差異も有之、然ルニ顛末収穫額御命令無之、特ニ壱斗五升之格而已ニ而ハ何分了解難仕、尤右位当を以収穫地価算量ニ可為用旨被仰渡ニ付而ハ、当区壱等地ハ連合表四等ニ適循いたし居、殆高等ニ被存、且当大区江接続之村〻ニおゐても少異有之、右ハ何レも収穫上比格之表目ニ付、管内壱等地ハ収穫之数位何程より起計スト申義不相分候而ハ、此度御編製相成候連合表ヘ調印仕兼候旨、一同申居候間、私共連署を以申上仕候也 明治十年十二月廿六日 (人名略) 要するに、「更正表」を提示されたが、この等級表によってどれだけの収穫高が算量されるかわからない状態では、調印いたしかねるというにある。県は、「未タ予定伺済己前ニシテ概略ノ見込ヲモ組ミ難キ旨」を申諭したが(注(3)に同じ-後述のように、このころにはすでに伺済みとなっている)、「頑論而已申募誘説ノ道無之」、請書をとらぬまま、放置せざるをえなかった。 県も、右にのべているように、九月改正事務局との折衝で、全管予定収穫高が、伺済みとなるまでは、これを総代人らに示しえなかったのである。しかし、九月、地租改正事務局は、関東諸府県地方長官(または次官)に来局を求め、硬軟種々折衝の末、収穫量の最終決定を行った(大蔵省蔵松方文書)。神奈川県では、長官所労のため代理として添田権大属が、全管調整を終えた等級表・収穫一反歩当たり平均額算出の簿冊を携えて出席し、局見込では「到底民力に堪えがたし」と論弁し、結局「局官の調成したる収穫予定の内、幾分か減石更正して確定の石数御書正しに相成」った(注(3)に同じ)。すなわち、表一-六三のごとくである。決定額は、神奈川県案より、田で一升四合、畑で六升九合の増額であった。ついで使用利子額も、六分と確定し、ただ深山僻邑の地には六分五厘ないし七分の利子を用いることが認められた。 県は、これにもとづき、既成の等級表によって、全管一村限収穫地価を算量し、これを各村に承諾させる作業にとりかかった。一八七八(明治十一)年四月、ようやく、「改正御施行御請書」が、都筑・久良岐・三浦・鎌倉・高座・大住・淘綾・足柄上・足柄下・愛甲の各郡村々から提出され、同六月、表1-63 神奈川県田畑1反当たり収穫高地租改正決定額 注 (1)(2)は「関東各府県見込ノ租額ト局見込トノ比較増減」大隈文書A2047早稲田大学蔵。(3)は「神奈川県管下之内改租承服1212カ村新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資料』下巻)。 橘樹・多摩・津久井各郡から提出された。これらは、県令またはその代理添田二等属が、出張改正事務局員とともに巡回し、請書をとったものである。 なかで第二三大区津久井郡の山奥部村々は、平野寄りの隣大区のみと接するため、均衡上、等級が上昇し、苦情を唱えてやまなかった。これに対し県は、第二〇大区の相模原、第一八大区の海岸砂浜地帯に、現況は芝地であるにもかかわらず丈量検査の際畑地とした部分があり、これに鍬下年季を附すると、この部分の予定収穫高、麦五三三一石が減少する。県は、この減少高を、津久井深山の村々に改正局の許可を得て「特別に分当」して収穫高を減らすという便宜の措置をとり、苦情を抑えた(注(3)に同じ)。しかし、三浦郡のうち一五か村(第一四大区)、鎌倉村のうち七か村(第一七大区)、前述した多摩郡第一一大区全村、第一二大区のうち川東村々は、「改租ヲ増額ナリト云々申唱」え容易に請書に調印せず、県はやむをえず懇諭の末、出張改正局員と協議し、第一一、一二大区各村に対してはその減租要求願書に「上申之趣ハ改正年度(五年後の地価改定が地租改正条例追加第八章で約束されていた)ニ至リ僉議之上、何分ノ所断及候儀ト相心得ヘク事 神奈川県印」と奥書してようやく請書をとることができた。第一一大区各村が請書を提出したのは、七月のことである。 一般に小区から提出された請書は次のような文言のものであった(『町田市史史料集』第七集)。 改租御施行御請書 右者地租御改正ニ付、当小区内田畑宅地之義者毎村ニおゐて地租等級ヲ立、隣村接壌地等者各自立会、比準ヲ要シ、嘗テ表目上申致シ候ニ付、彼我権衡等夫〻検査之末、全管連合表御編製、各等級段階等御示告之趣、予テ承認仕、則右位当ニ基キ、収穫地価等精密御調理法復御細議之上、算出表御示シニ相成、篤与視認候処、実地ニ於テ不適等之義も無之、右ヲ以各段階之収穫地価算量候トキハ、前記ノ如クニ有之該地価ニ応シ、御成規之通地租御賦税相成候ニおゐてハ、聊違義無御座候、依而連署御請申上候也、但シ毎筆算量ニ付而者、全村総計上ニ致リ、金額 四捨五入自位 止ナルヲ以 差異生スル分有之候共、都而寄上之儘記載差出候義与可相心得、尚御示命之趣、逐一承知奉畏候也 明治十一年六月七日 第八大区三小区各村 総代人 村用掛 戸長 地租改正取調掛総代人 神奈川県権令 野村靖殿 右但書にあるように、村内各筆に計算して地価額を記入する作業は、この請書提出後に行われた。なお、第一七大区鎌倉郡瀬谷村外六か村は、遂に最後まで承服せず、改正事務局から七等出仕有尾敬重が自ら同村々へ対し説諭を加えたが、「頑民固結して誘説の道相絶」え、県は止むを得ず、この七か村を除いて一八七八(明治十一)年七月二十五日出張改正局員の復命書とともに、一八七六年度からの新租施行伺を提出し、八月六日改正事務局の允可を得た。また右七か村に対しては、明治九年五月太政官六八号布告を適用し、「近傍類地等の比準を取り、相当の地価を定めこれに地券を渡し収税」することに決した(『通史編』4近代・現代(1)一四五ページ)。 なお、山林原野については、以後改租事業に着手し、一八八〇年九月(改正事務局による山林原野雑地等地租改正許可)にいたって完了した。 改正地券 大久保稔氏蔵 改租の結果 壬申地券交付から数えれば、明治五年(一八七二)五月にはじまり、一八八〇(明治十三)年九月にいたる七年四か月の歳月を費し、地租改正事業は終結を迎えた。この間、担当村吏はもちろん、一般農民のこれに投じた労費はばく大なものであった。改租に要した民間の費額は、公式に計上されたものだけで七四万八二六七円余(「府県地租改正紀要」上)、その他に地券発行業務にあてる費用として地券証印税一四万二二五八円余が徴収されている。この合計八九万〇五二五円は、改租後における一年分の田畑宅地地租八五万五〇四二円を優に上回る金額である。こうした長期にわたる歳月と多額の労費を費して、農民が得たのは、所持地に対する私的土地所有権(地券)と重い地租の納付義務とであった。地租改正によって県の田畑宅地合計地租は増加した(表一-六四)。一八七七年以降地租は、土地百分の二・五に減額されるが、その減租後の額と対比しても、旧租に比し表1-64 神奈川県の地租改正による地租の増減 注 (1)(2)は「関東各府県見込ノ租額ト局見込トノ比較増減差引書」大隈文書A2047早稲田大学蔵。 (3)は「神奈川県管下武蔵相模国之内改租承服1212カ村新旧税額比較表」『明治初年地租改正基礎資料』下巻。 (4)同上から算出。 表1-65 地租改正による増減租の村数 注 南多摩郡は沢木武美「地租改正による神奈川県内陸部畑作地帯の増租と小作料」(注(4)参照)。橘樹郡は「明治6,7,8,3ケ年旧租平均改租百分ノ二ケ半ト差引」(添田家文書)。 三万八〇〇〇円余の増加となっている。その内訳は、田方減租・畑方増租で、畑方の著しい増租が、田方での減租額を上回っている。ここに、畑地勝ちの神奈川県における地租改正の特色があらわれている。畑方での増租は、すでに当初の段階で県が見込んでいたところであるが、一八七七年減租の後でさえ、旧租の二・五倍という農民にとってきびしいものであった。しかも、ここでいう旧租は、明治六、七、八年の貢租額の平均、すなわち、明治五年(一八七二)政府の安石代廃止措置で畑租が倍増した後の額である。したがって、旧幕期の畑租と対比すれば、新租の増加は四倍以上に達するであろう。したがって、地租改正は、県下でも、とりわけ内陸畑作地帯(多摩・高座・津久井・愛甲郡等)に深刻な影響を与えた(注(4)沢木論文)。畑作地帯南多摩郡のうち五五か村と水田地帯橘樹郡一二一か村との改租による増減傾向を対比した表一-六五は、南多摩郡が、地租を地価百分の三としての計算なので、いくらかの斟酌を要するが、畑作地帯増租・水田地帯減租の傾向は明らかであろう。この結果はやがて、明治十年代後半において、畑作、とくに養蚕地帯の農民に深刻な影響をおよぼすこととなった。 注 (1) 「地租改正位当部分書上 第五大区四小区末長村」川崎市高津区 中山清家文書。 (2) 「明治八年十二月 反別等級上達止 第拾壱大区拾小区長」東京都東大和市蔵敷 内野禄太郎家文書。 (3) 「明治十二年十月 河野少書記官殿ヨリ推問ニ付呈ス 地租等級組織方法及改租調理順序施行差示ニ至迄概略手続書 添田」横浜市鶴見区 添田茂樹家文書。 (4) 沢木武美「地租改正による神奈川県内陸部畑作地帯の増租と小作料」(神奈川大学大学院『研究論集』第一号)。関順也「多摩の地租改正」(『創価経済論集』六巻一号)。 (5) 「第九大区地位等級比較表」第九大区九小区横川村横川家文書、八王子市鈴木弘明氏蔵。「第八大区地位等級比較表」四小区図師村鈴木弥右衛門、『町田市史史料集』第七集。「第二十大区村々地位等級比較表」座間市大矢純一家文書。 (6) 前掲「地租改正雑集 弐」。第五大区地租改正総代人田村義員(区長)「控」筑波大学蔵 川崎市高津区 田村家文書。 (7) 「明治十年一月起公用日誌 田村」前掲田村家文書。 第四章 維新期の神奈川県財政 明治前期の地方行財政制度は、日本全体についてそうであるように、神奈川県の場合も一八七八(明治十一)年のいわゆる三新法(「郡区町村編制法」、「府県会規則」、「地方税規則」)の制定を境にして、二つの時期に分けて考えることができる。それに先立つ一〇年間は、さまざまな試行錯誤を重ねながら、古い封建的な制度を改廃して、新しい時代に適応する制度をつくり出していった時期であり、三新法がそのいちおうの到達点をなしているのである。もっとも、神奈川県の場合はのちにみるように、三新法の適用に当たって、他の諸県と多少趣を異にし、東京や大阪などとともに市部(区部とよばれた)と郡部とで、県の財政を分離する制度が採用され、その制度が県の行財政のうえで大きな意味をもったから、時期区分の画期をその導入の一八八一年にしたほうがよいのかもしれない。しかし、それも三新法体制の一変種なのであるから、広い意味ではやはり三新法を画期とするといってよいわけである。したがって、「明治維新期の神奈川県経済」を対象とする本編で財政を採り上げる場合、維新のはじめからこの時期までを扱うのが適当であろう。 第一節 県財務機構の整備 明治元年(一八六八)四月二十日、旧幕府の神奈川奉行所が新政府に接収されて神奈川裁判所と改称され、新しい時代の県行政が、したがって県財政が発足することになる。この時、同裁判所の管轄はわずか一万二〇〇〇石だったが、間もなく周囲一〇里郡内の所轄へと拡大された(県立図書館『神奈川県史料』第一巻二ページ。以下、本書を示す場合はたんに『県史料』と記し、同『県史料』の他の巻を示す場合にのみ、たとえば『県史料』第四巻のように、巻数を記す)。ところで、神奈川県の場合は、はじめから他府県とはかなりの違いをもっていた。というのは、本県は維新期に中央政府が全国一律に策定する地方行財政制度では処理しきれない問題をかかえており、それが成立当初の本県の行財政機構にも反映されたからである。本節では、その点を中心にして、この時期の行財政機構の変遷をたどることにしよう。 一 県行財政機構の特徴 対内・対外の二重行政機構 維新の動乱期にも、横浜ではたいした混乱なく平穏裡に幕府から新政府へと支配が移行したが、その背景には、イギリスをはじめ当地にある外国勢力の武力による横浜管理があった。いうまでもなく、開港地として横浜は外国人居留地をもっており、旧体制崩壊と新体制成立との間隙に生ずるであろう混乱をさけるために、たんに居留地のみならず横浜全体について、一時的な外国の管理がなされ、新旧権力は双方ともこれを尊重したからである(くわしくは横浜市『横浜市史』第三巻上第一章を参照)。ここに示されるように、横浜=神奈川県は他に例をみない特殊な対外関係をもっていて、それが成立当初の県行財政機構に著しい特色を与えることとなる。もっとも、成立当初はほとんどすべて旧神奈川奉行の制度をそのまま引き継ぎ、機構や役職の名称を変えたにとどまっていた。まず、神奈川裁判所を横浜裁判所と戸部裁判所に分け、それぞれを対外・対内行政の担当とした。両裁判所はのちに合併されるが、その際はそれぞれ神奈川府(明治元年六月に神奈川裁判所から改称)の外政局と内政局となり、つづいて九月に府が廃されて県となっても、この制度は引き続く。なお、明治三年(一八七〇)二月には、内政局・外政局の呼称が内庁・外庁と変わったが、二本建ての組織はそのままである。いま、『県史料』にしたがって、内政局・外政局の組織を図示すると、左のようになる。 ここでは、内政担当の知県事は、同時に外交担当の外国官判事を兼ねており、かれに統率される内外担当の組織は、いずれも等しい機構をもっている。当時はまだ全国的な府県行政組織は定められていなかったが、しかし、こうした内政外政について、たがいに同じ比重をもつ組織をもった府県は他に見当たらないのではなかろうか。それぞれの役職の職務は、『県史料』一一九ページ以下に記されているが、そのうち財務に関するものが『神奈川県史料』全巻 内閣文庫蔵 特記されているのは、庶務であって、「外政内政ノ市政農政収税会計……等ノ数課ヲ分配シテ諸般ヲ施行スヘシ」とある。 明治二(一八六九)年七月に「県官人員並常備金規則」によって、全国府藩県官定員が定められたが、神奈川県としては、対外関係をはじめ貿易の拡大や人口移動にともなう係争増加など特別な事情があるゆえ、他県と同じ取扱いをされないよう、くり返し中央に要請し、結局はそれがかなり認められている(「県官人員並常備金規則」については、自治省『府県制度資料』下四-六ページを、神奈川の対応については、『県史料』一一九-一二二ページを参照)。その場合、右の神奈川県の要請は多くの定員外職員を必要とするということであったらしく、「外政ハ固ヨリ制外タルヲ以テ常ニ職員ノ定数ヲ限ルコト無ク」(『県史料』一二〇ページ)という文から推すと、対外担当についてはおそらく右の定員に拘束されず、従前からの外庁をそのまま持ち越したのであろう(この点『横浜市史』第三巻上二二ページの解釈とくいちがうが、引用した『県史料』の文面からは本文のように推測しうると考え(『県史料』第一巻一一八ページ) る。なお『県史料』一二二ページをも参看されたい)。こうした対内・対外にわたる二重の行政機構は、そうでない府県にくらべて、当然その裏付けとなる例外的な財源を必要とするが、その点については第二節で述べることにする。 中央官庁機能の代行 県が担当した外交事務は、整備された政府機構を前提とすれば、いうまでもなく中央政府の機能たるべきもので、県はそれを代行したのであったが、対内行政でもやはり中央政府未整備のために、県が代行したものがかなりあった。これは、当時としては神奈川県に限ったことではなかったが、この時期の県行財政を特徴づけたものであったことに変わりはない。 その第一は、税関事務である。これは対外関係であるから、前項で述べた領域に含まれるが、のちに大蔵省に吸収されるので、ここに含めておく。はじめ、神奈川裁判所が神奈川奉行を引き継いだ際、自動的に当時の税関に当たる運上所も引き継いだ。そののち、明治四年(一八七一)八月に開港開市場の税務は大蔵省の管轄たるべき旨が決定されて、同年十一月から東西運上所は同省へ引き渡された。 その二は、軍事である。軍事はいうまでもなく中央政府専管事項であるが、過渡期の現象として県が所管したことは、前掲の県役職図で示されているとおりである。これも旧神奈川奉行から引き継いだもので、判官事=知県事の職務のひとつに「県兵ヲ監スル」(『県史料』一一五ページ)ことが含まれている。もっとも、中央政府としては兵制統一の必要から、明治元年八月にいちはやく各府県に対して府県兵を禁止する旨を布告したのであるが、これについて、神奈川県は他府県とはちがって「右兵員之儀ニ付テハ各国ヨリ申立モ有之……一日モ不可欠急務ニ付」(『県史料』第五巻五三二ページ)存置することを認めてほしい旨上申し、その結果が前掲図のような県軍事組織となったのであり、およそ五〇〇人ほどの府兵ないし県兵を保有していた。もっとも、軍監や大隊長などは中央から派遣されていて、これによって中央の統率が維持されたもののようである。 その三は、裁判機構である。これは全国共通だと思われるが、はじめ「部内人民ノ訴訟ヲ裁断」(『県史料』一一五ページ)するのは知県事の役目であって、具体的には、財務と同じく庶務の担当であった。さきに、本県が全国一律の定員に従い難い旨を上申したと述べておいたが、その際ふれたように、県の理由付けのひとつとして、当地の貿易の拡大に伴い「移住内外商民相増随テ他所出入ノ者公事聴訟ヲ始メ」(『県史料』一一九ページ)事務が繁多であるので、定員では不足すると主張されていた。 その四は、官業である。新設の神奈川裁判所が旧神奈川奉行を引き継いだ際、同時に同裁判所は旧幕府が経営していた横浜製鉄所および横須賀製鉄所を接収してその管轄下においた。そのほか、明治に入ってから設置されたものであるが、伝信機・燈明台というような施設も、当初、県の仕事としてはじめられていた。前掲図にかかわらせていえば、このうち製鉄所と燈明台が庶務で扱われていたことは明示されているが、伝信機についてもそうであっただろうと推測される(『県史料』一一六ページ、同書第五巻四七五ページ)。これらが、財政的にみてどれほどの意義と機能をもっていたかを数量的に分離してとり出すことは、目下のところ不可能であるが、県当局がしばしば主張しているように、それらの多くが、他府県にくらべての神奈川県の特色であり、かつ特別な負担であったことは明らかであろう。しかし、それらは中央における統一的地方行財政制度確立への歩みにしたがって、次第に整理され、本県も他府県並みのより縮小された行財政をいとなむようになっていく。その点を、次項でとりまとめることにしよう。 二 県行財政機構の縮小・整備 沿革 今までみてきた様相は、いずれもひと言でいえば、中央政府権力機構の未確立を前提とした過渡的な、それゆえ、県としてはいわば過度の負担を示すものであったから、それらは中央政府の整備にともなって次第に縮小され、解消し、神奈川県が他府県と同様の行財政制度をもつようになっていくのは、自然の成行きであった。本項ではその点を追跡することにしよう。 まず、本来中央政府が担うべき機構で、はじめに中央へ引き上げられたのは、横浜・横須賀の両製鉄所で、これらはいずれも明治二年(一八六九)十月に大蔵省に移管された。つづいて、明治三年十月に伝信機が民部省へ、明治四年七月燈明台が大蔵省へそれぞれ職員ともども移された。もっとも、これらはいずれも中央と地方を通ずる行財政制度としては枢要なものではなく、その移管が本質的に大きな意味をもつとは思えない。しかし、明治四年八月の県兵廃止、十月の運上所の大蔵省移管は、中央集権制度の整備およびそれと表裏をなす県行財政の縮小・整理として重要な意義をもつ。このことは、それらがいずれも国家権力の存立にかかわるものであることを考えれば、容易に理解されるであろう。おそらく財政負担としても、この二つは中央政府の肩代わりとしては最大のものだったのではあるまいか。 同じ明治四年十一月に全国的な「県治条例」が発布され、いちおうそれにのっとって、神奈川県裁判所にも、左のような分課が置かれた。 内庁………庶務・租税・聴訟・出納 外庁………庶務・聴訟・文書・出納・条約未済国事務取扱・邏卒 一般の府県は、このうち内庁に当たるものをもつにすぎないのであって、神奈川県はそれまでに対内的な中央政府業務からは解放されてきていたとはいえ、この時点では、なお依然として内庁をしのぐ大規模な外庁をもつ特異な県だったことに変わりない。明治五年八月には、裁判事務が新設の神奈川裁判所(従来の「県庁」を意味するものとちがって、これは近代的な意味でのそれ-筆者)に移されるとともに、聴訟課が廃止され、官員は司法省に移管された。一年たらず前、全国共通の体系的な規定として施行された「県治条例」に含まれていた聴訟課が、こうして廃止されたわけで、これはいかにめまぐるしく中央レベルで地方制度を改廃・整備していったかの一例といえよう。そして、これまでの整理によって、内政面での過渡的な中央政府機能肩代わりはほぼ解消したとみなしてさしつかえない。さらに、維新初期の神奈川県行財政を特徴づけた大規模な対外事務機構も、一八七六(明治九)年七月をもって終えることとなる。すなわち、この月、内外庁の区別が廃止されて内庁庶務課は庶務課となり、外庁庶務課が対外面を総括する外務課に変わり、他の諸課は内外併合され(条約未済国事務取扱課は前年に廃止されている)、神奈川県もはじめて他の諸府県並みの機構へと縮小・整備されたのである。ここにおいて、神奈川県行財政史は、維新期のひとつの転機をむかえたといってよいであろう。もっとも、右の変更の結果、神奈川県事務章程 県史編集室蔵 各課がそれぞれそのなかに多かれ少なかれ対外事務を含むことになったのであるから、「内外ノ各課混合シ職員ノ制限復タ定規ニ準スルヲ得ス」(『県史料』一二三ページ)というかたちで、むしろ特殊性が内向したといえばいえなくはないが、組織として大幅に整理されることになったことは明らかであろう。それが体系化されたのは、九月一日からである。 すなわち、大綱として「県治条例」に立脚しつつ、県の具体的な事情に適応させて作成された「神奈川県職制」および「神奈川県事務章程」にもとづく組織が、この時からはじまったからである。この体制によって、県は録事・外務・租税・地券・警保・出納・庶務・営繕・訳文・監察の一〇課を置き、その事務を遂行することとなった。このうち、租税・地券・出納が直接に県財政を担当する課であることはいうまでもないが、その他の課も、さまざまなかたちで財務行政に関与していることが「事務章程」からわかる。そこで、維新期を代表するこの「事務章程」によって、当時の特徴的な財務行政をとり出してみよう。 租税課など まず租税課は、「租税一切ノ事務」(以下、『資料編』16近代・現代(6)二三および『県史料』三-九ページによる)を司どるが、その意味は中央政府の租税および県限りのいわば県税を取り扱うということであって、同「章程」の同課に関する規定の大部分は、中央の租税の賦課徴収にあてられ、問題のある場合は、大蔵省に具状して指揮を乞うべきことが、繰り返し記されている。「毎月米穀ノ時価ヲ検シテ大蔵省ニ報知スルコト」も、地租が米納から金納へ変わろうとする当時としては重要な役目であった。ともあれ、県の租税課の大部分の役割は、中央の租税の徴収機構たることにあったといってよいようである。これに対して、県の税についてはごく簡単に「本県ノ費用ニ供スヘキ諸税ノ管下ニ賦スルモノハ例格ニ照シ徴収シテ之レヲ出納課ニ交附ス」、「毎月賦金取立帳簿ヲ精算浄写シテ長官ノ検印ヲ受ケ之レヲ課中ニ蔵ス」とあるにとどまり、規定全体の一〇分の一程度の分量を占めているにすぎない。なお、この租税課や出納課の規定には、当然租税を示す語がみられるが、それがかなり多様であって、まだ中央・地方の租税体系が整備されていないこと、および地方のなかでもさまざまな呼称があったことが示唆されている。租税・正租・公税などが中央の租税をさし、県の税は「本県ノ費用ニ供スヘキ諸税」・県税(金)および賦金などとよばれている。 地券課は、従来なくて新設されたものであり、「地券ニ属スル一切ノ事務ヲ管シ土地ノ実価ヲ得テ税法ヲ改正スルヲ以テ主任トス」とある。すでに横浜の市内で地券交付がすすんでいて、地券に関する事務そのものはここではじまったわけではないが、ちようど地租改正事業が全国的に開始されようとしており、県レベルでそれを担当する課として新設されたのであろう。地租改正事業関係文書にしばしば登場する「県官」というのは、当時はこの課に所属していたのであろう。 出納課が「総テ金穀ノ出納ヲ管シ其計算ヲ正シ一切ノ用度ヲ支給」するのは当然であるが、「総テ金穀」の操作は、当時の状況を反映してかなり多彩である。「穀」は、まだ原則として物納だった地租であることは当然である。具体的にはのちにみるように、管下各村の倉庫に保管されたもののようである。他の租税でもそうしたと思われるが、いわば国税を県の手で収納し、それをすべて中央へいったん納入してしまうのではなく、収納した金穀を「全ク大蔵省ニ納ルモノ」と「其内ヲ割テ直ニ県下ノ用ニ供スルモ「神奈川県事務章程」抜すい 県史編集室蔵 ノ」とに分け、国の出先機関として、県内で必要なものは、そこで直接費消するというやり方がとられていたのである。したがって、「大蔵省ヨリ定額金ヲ受領」(「定額金」については、本章第二節で立ち入って検討する)するのも出納課の重要な役目であるが、実際には、右の県内で徴収された分で定額金に当たるものをとめ置いた、ということなのであろう。このほか、同課は「雇外国人ノ月給」や「貫属家禄ヲ給」することなど、この時期ならではの役目を帯びている。 これらは、課名からして財務担当であることは明らかであるが、他課にあっても重要な財務機能をもっているものがある。まず外務課は、外政局・外庁以来の役目で「居留外国人ニ附与スル地券ヲ作リ」、「居留地々租及ヒ各国官衙ノ家税ヲ追徴シ」、「居留外国人諸免許ヲ管シ其税ヲ収メ」るなど、要するに、居留外国人の税務は、関税を除いてすべて取り扱っていたわけである。諸務課はいわば当時の産業政策・県民生活全般の担当で、経費支出の大きなルートであり、その意味でむろん財政と関係があるが、せまい意味の財務では「新旧公債金札公債ノ事務」をここが取り扱っている。営繕課はすべての土木事業と営繕を司ったが、「官費民費ヲ区別シテ」おこなうという重大な責務があった。というのは、維新期には土木事業などの経費を、中央・府県・区町村のいずれがいかなる割合で分担するかのルールが未定であり、しばしば、従来官費でまかなったものは中央で、他は府県・区町村で負担するという方針が示され、それをめぐってトラブルが絶えなかった。これによると、県の営繕課の手でその区分けがおこなわれたことがわかり、たんなる営繕というよりは、中央-地方の負担関係を実質上確定していくという機能をもっていたことが考えられる。 こののち、三新法にいたる間の行政機構の改革で財務関係のものをとり出すと(『県史料』一三七-一三八ページ)、七五年に地券課が廃されて租税課中に正租掛と地理掛がおかれている。これは、土地丈量と地価測定が最大の課題である地租改正事業の本格化に対応したものと考えられる。同じ七五年十一月には、太政官達第二〇三号で「県治条例」が改定され、外務課が廃止された。神奈川県としては、例によって他府県とは異なる当県の特殊事情を申し立てて同課の存続を求めたが、今回は中央に認められず、その業務は庶務課と租税課に分割して引き取られた。維新当初、外務省が神奈川県にあるかのごとき観を呈していた時期から、中央の対外行政機構の整備されてきた時期への移り変わりが、神奈川県の抵抗をあまり強力にさせえなかった理由であろう。もっとも、庶務課のなかに含まれた外務掛は「令直管」すなわち県令に直属することとされたから、やはり県としてはたんなる課中の一掛以上の重みをこの掛にもたせていたのであった。このほか、録事課・営繕課が廃されて、庶務課や他の諸課に分割吸収された一方で、勧業課が新設されている。 第一-六課 つづいて、七六年十一月に課名が第一-六課と変わり、順番に庶務・勧業・租税・警保・学務・出納を担当した。第三課と第六課が、財務関係であることはいうまでもない。ところで、第三課の掛をとり出してみると、従来になかった特徴が見出される。第一は、国税掛と県税掛を置いたことである。それは七五年九月の太政官布告第一四〇号で、従来の租税を国税と府県税とに分離したこと(この点、くわしくは林健久『日本における租税国家の成立』二二八-二三〇ページを参照)を受けた処置で、それぞれに対応する掛を置いたことを意味しており、中央-地方の租税体系の整備と、県の財務機構の整備との対応が示されている。第二は、外地掛が置かれたことである。これは、もちろん上述の外務課廃止にともなって、居留民関係の税務事務を引き継いだことによるものであり、中央のやや杓子定規的な府県の課の改廃の指示を、対外関係をもつ県が受け止めるに当たって、必然的にうみ出されたものというべきであろう。第三は、地租改正掛である。地券課が置かれた際、それがすでに地租改正の方針にそったものだったことは前述したが、当時はまだ実際に改正事業に着手していたわけではなかった。今や、改正事業は全国にわたって進行中であり、遅れ気味であった関東地方も、六七年あたりからピッチが上がっている。県では、租税課のなかの正租掛と地理掛とにまたがって担当するのでは事業の進展に間に合わず、独立の地租改正掛を置く必要にせまられたのであろう。こののち、三新法にいたる間、あまり大きな職制の改正はなかったようである。 注 (1)『県史料』一二三ページ。なお、同ページに「章程条例等ハ之ヲ禁令ノ部ニ掲ケリ」とあるが、禁令の部にはそれらはのせられていない。ただし、『県史料』三-九ページには「神奈川県事務章程」が採録されているし、『資料編』16近代・現代(6)二三には財政関係部分を抄録しておいた。しかし、『県史料』のものについていえば、警保・訳文・監察の三課を欠いている。そうなるのは、一八七四年一月に訳文課が廃されて外務課に合併され、四月には監察課が廃されて警保課に合併されたこと、および「警保課職制」は県の事務機構の一環ではあるが、当時は中央政府でも警察制度の改正を進めており、むしろそれと対応させて独自の「警保課職制」および「警保課事務章程」が七四年五月に作成されていたこと、などによっている。このことは、右の「神奈川県事務章程」が、七三年九月の発足当初のものではなく、少なくとも右の二つの合併と「警保課事務章程」制定後のものであることを物語っている。事実、同章程の文中に「明治六年十一月十一日増加(追加の意味-引用者)」とか「明治七年七月九日増加」とかの注記が見出され、少なくとも七四年七月七日以降のものであることがわかる。また、「庶務課」がこちらでは「諸務課」となっているが、その変更がいつであったかは不明である。 なお、『資料編』所収のものについていえば、右の三課を欠いている点は同じであるが、学務課がのせられている。 第二節 定額金の制度と実態 維新期の府県レベルの会計制度については、全体としてはっきりしないことが多く、神奈川県の場合も、その例外ではない。それは、一般に資料が系統的に得られないとか、信頼するにたる研究がほとんどないとかということのほかに、もともと中央-府県-区町村というような財政機能の分離がはっきりしておらず、むしろ試行錯誤を繰り返しながらその分離が進行しているのがこの時期であり、実態そのものが不分明だったことにもとづくところが大きい。 それでも、中央の出先機関としての側面に関する県の財政については、中央政府の財政統制の必要から比較的早くにある程度制度が整えられ、県もそれに従うことが要求されたため、資料もいちおうは残されているようである。『県史料』の「会計」の部に載せられているものがそれに当たり、以下では主として同資料によって、この時期の会計の制度と実態をみることにしたい。それは、いわば国税の一部分を県が費やして国の仕事をするという会計、ときとして官費とよばれた会計である。しかし、府県には中央出先機関としての機能のほかに府県独自の機能があり、それを裏づける財政・会計、いわば県税で県固有の行政をおこなう会計が存在する-しばしば中央ないし区町村と重なり合っているが-のであるが、この部分については、維新期には系統的な資料はえられない。また、中央と府県の関係が不分明だったくらいであるから、府県と区町村の財政-それらは合わせて「官費」に対する「民費」とよばれることが多かったが-については、いっそうその傾向が強かったうえに、系統的な資料に乏しい。それを前提にしたうえで、以下では『県史料』や『資料編』16近代・現代(6)などに所収の資料を手がかりにして、ある程度見当をつける作業を進めることにしよう。 一 定額金の制度 初期の定額金制度適用除外 明治政府は成立早々、支配下の各府県の会計制度として「定額金制度」を設けた。これは中央政府の出先機関としての府県に対して、それぞれ旧石高に応じていわば基準財政需要を見込み、各府県がその範囲内で行政を効率的に遂行すべきことを定めたものである。『県史料』による限り、この定額金制度ないし「定額金」なる名称は一八七九(明治十二)年度まで用いられていたようで、八〇年度からは代わって「県費」という語が用いられている。したがって、本章が対象とする時期の県会計(中央出先関機としての)は、ほぼすべて定額金制度で覆われているということになる。なお、この定額金なる名称のほかに、定額常備金・定額常費・定額常費金・常備金・備金・定備金などという名称が、『県史料』のなかにみられるが、定額金と同じものをさしているとみなしてほぼさしつかえない。そして、このせまい意味の定額金のなかに収まりきれない出費には、額外常費・臨時費・県庁臨時費・非常臨時費などという名称が与えられ、それぞれ中央から特別に定額以外の支出として認められたもののようである。また、これは重要な点で必ずしもはっきりしないのであるが、定額金およびそれを補完する額外常費や臨時費等はほとんど消費的な経費に限られているらしく、のちにみるように、土木費や営繕費などは、それと別に計上されたものとみなされる。さらに、警察費についても、基本的には別途計上されているように思われる。いずれにせよ、定額金をはじめそれらの具体的な内容については、のちに立ち入って検討する。 ところで、神奈川県ははじめ全国共通に設けられた定額金制度の適用外におかれた。というのは、前節で述べたところから容易に察せられるように、本県は固定的な枠になじまない対外関係の収支が多く、全国共通の制度では律しきれなかったからである。まず、神奈川奉行から神奈川裁判所へと支配権が移行した当初は、まだ中央政府にほとんど財源がない時であるから、官員の月給にせよその他の経費にせよ、いわば現地調達のかたちとならざるをえなかった。すなわち、はじめは幕府から接収した資金および関税収入その他の収入金をもって、外務や正金兌換を含めた裁判所の行政費用を支弁していたのである。しかし、このような関税収入による外交費用をもつものが地方権力としてふさわしいはずがなく、政府は明治二年八月、大蔵省から監督司および出納司を派出して、当地の財政を直轄することとし、同年十二月からは、すべての金穀出納は両司にまかせ、県としては必要のたびごとにそこから支給を受けることになった。したがって、定額金は必要でも可能でもなかったのである。ということは、逆に言えば、中央政府の機能とくに対外機能を代替することがなくなってくれば、神奈川県も全国共通の定額金制度に従わざるを得ないことを意味しているのであって、事実、前節で述べたように、多くの中央政府機能を中央へ引き渡した明治四年からそれが実現するにいたる。 定額金制度の採用 一八七一年九月二十五日の大蔵省達により、神奈川県財政は「以来ハ地方ニ属スル諸入費ハ管轄高相当常備金ヲ置御規則ノ通仕払」「臨時御出方ノ儀ハ一々当省エ申立可請差図」などと定められた。「地方ニ属スル諸入費」はいわば県内の内政費で、これはすべて他県なみに定額金制度に従えというのである。一方、「外務関係ノ人費ハ別ニ常備金ヲ置仕払」うことにするから「是迄月々諸費ニ拠一ケ年用途ノ見込」(以上、『県史料』八一五ページ)を調べて申告するようにと指示された。ここにいたって、神奈川財政の出納司・監督司直轄時代は終わり、内外経費いずれも常備金(定額金)制度でカバーされることになった。なお、定額金採用に関する右の大蔵省達は、当然それに付随して次のような問題をうみ出している。すなわち、これまで中央政府と県とが合体して運用していたため区別を必要としなかった収支について、ここで改めて中央と県とがそれぞれ何を担当すべきかが、対外関係費を含めて深刻な問題となったのである。大蔵省は右の達のなかでこの点について左のような重要な指示をおこなっている。 (一)各国公使館や居留地修復などの営繕費については、「兼テ定約有之候歟全外務ニ属シ候分ハ金三百両ヲ限内務ノ廉ニテモ格別急キ候歟又ハ定規有之修繕等ノ分ハ金高三拾両以下」(『県史料』八一五-八一六ページ)は工事開始後上申する。ただし、新規の分はあらかじめ伺を提出する。(二)現物納の米穀については、「米倉并有米共当九月限出張出納寮エ引渡以後貫属秩禄老養扶持棄児養育米囚徒々刑人飯米其外諸渡方一ケ年分当御物成米ノ内ヲ以最寄村々エ凡積置米イタシ」ておいて引き渡す。(三)「道路橋梁修繕并学校病院等創設或ハ街市邏卒等其他右ニ属シ候諸入費ハ以来都テ積立五厘金并別廉御用積立金等ヲ以取賄官費不相成様方法相立」(『県史料』八一六ページ。なお「積立金」「五厘金」はいずれも横浜の商人の拠出によるもの)てなければならない。 すなわち、営繕費については、対外関係で欠きえないものは三〇〇両、内務には三〇両の支出権限を県に与えて摩擦をやわらげる。とくに『県史料』によれば、中央へ伺出ておこなう工事の遅延を、外国から繰り返し指摘された神奈川県が、中央政府と外国との間に入って苦慮している様子がうかがわれる。第二の米穀の取扱いの意味は、必ずしも十分には理解できない。中央と県との共管のようになっていた、地租としての収納米をすべて出納寮に引き渡すのは当然であり、以後「貫属秩禄老養扶持」などについては、もよりの村などに一か年分を積み置いて引き渡すというのは、現物の米を物理的に中央に集中し、改めて必要な配分をするというのにともなう、無駄をはぶく意味であることは当然考えられるし、従来からもそれはおこなわれていたことである。だが、「貫属秩禄」以下の費目は、本来、県ではなくて中央が担当すべき業務なのに、その配分すべきものがたまたま米であるから、便宜上その米については各地へ貯蔵しておいて配分する、という含意であれば、なぜこれらの経費について、かかる決定がなされたかが問題となる。というのは、定額金勘定をみると、それらが中央固有の業務であるかのように扱われていると読めるのに、その理由がのちにふれるように、必ずしも十分推測できないからである。 さらに、経費の負担区分についていっそう大きな問題は、「道路橋梁修繕」以下のものについて、以後すべて積立金などでまかない「官費不相成様」にせよという指示であろう。事柄の重大さの割に、文面が簡単すぎて意味がとりにくいが、これが実施されるに当たっては、負担について繰り返し中央と県との折衝がおこなわれている。とりわけ、居留地にかかわる諸経費について、県は「官費」負担を要求している。たとえば、居留地内の橋梁道路関係費を官費としたことはもちろん、居留地および港内の合計五つの区の邏卒のうち、三つの区は全市民保護のためであるから積立金で月給を払うとしても、残りの二つの区は外国人居留地のものであるから官費でまかなうことなどの要求がそれに当たる。また、たんに対外関係のみでなく、管内全体について、従来官費でまかなってきた橋梁懸替修繕などは従前どおりにしたいことなどをも求め、中央から承認されている。なお、これより先、明治三年九月に県庁改築をめぐって官民費負担区分が問題となった際、一般の県庁建築の規定に従えば「御入費三分ノ一官金三分ノ二ヲ郡中ヘ割当」(『県史料』八二九ページ。なお、この規定は前掲「県官人員並常備金規則」によるもの)てるべきであるが、「当庁ノ儀ハ港内市政事務格外有之儀ニ付……総高ノ内二分五厘官金ヨリ御出方二分五厘市中積立金ヨリ差出シ五分通ヲ郡中ヘ割付」けることにした。すなわち、神奈川県の場合、県庁の機能が他県に比して市政に偏っているから、官費と民費の区分および民費の内部における市郡の間の負担区分も、それに応じて全国の規定とは異なった比率にしたいというのでである。さらに興味深いのは、県庁のうち外国人応接所などはまったく内務に関係ないので「民費ヘ充候テハ事理相当不仕」(以上、『県史料』八二九ページ)、したがって官費でまかなうこととなった。こうした動きから、対外関係をもち、都市的色彩をもった神奈川県の特殊性をふまえて、次第に官費・民費の区分が具体化していく過程を読みとることができよう。 ところで、定額金は県ごとにいちおう石高に応じて定められたのであるが、外務を含み他県におくれて採用した本県の場合、むしろ過去の実勢にもとづいて定められたようである。といっても、それまでの実勢は、一か月二万二〇〇〇円程度の支出であったのを、大幅な節約を前提にして一か月一万八〇〇〇円計上し、十月から十二月まで三か月間試験的に実施し、その様子をみて内政費は規定どおり「管轄高ニ応シ候定備ヲ以仕払」い、「外務ニ属シ候分ハ全額可伺出候」(以上、『県史料』八一六-八一七ページ)こととなった。その結果をみると、一か月平均一万三七〇〇円余であった。これにもとづいて、県では向こう三か月間さらに節約した一万三〇〇〇円をもって再度の試験を重ね、結局内務五〇〇〇円、外務八〇〇〇円を常備金として、明治五年四月から本格的に実施した。これらは、それぞれ内務定額および外務定額・外務常備金などと呼称される場合もあったようである。こうして、本県の定額金制度が定着したのである。 しかし、これで制度が固定したわけではない。前節で述べたように、明治五年八月に神奈川裁判所が置かれて、神奈川県から「聴訟断獄」の事務が司法省に移されると、当然それにともなって人員も減り、内務定額三〇〇円、外務定額一三〇〇円が削減されている。さらに、一九七三(明治六)年六月には、常備金の内外務の区別が廃止された。というのは、「当県事務ノ儀内外ト引分リ居候得共東京出張所等内外引分リ不申」「出納課邏卒課営繕課等官員ハ内外引分リ居候得共事務取扱上ニヲイテハ混淆ニ付内外諸費判然区分難相立」(以上、『県史料』八二二ページ)いからである。さらに、実質上大きな意味をもつ改正は、第二常備金ないし予備金の新設である。 予備金制度の特殊性 県は前述した定額金一万三〇〇〇円の試験的実施に際し、これはまったく「庁内入費丈ケノ見込」であり、別途三万円の予備金を支給すべきことを求めた。その理由は「御国官員ノ内外国ヘ罷越居候筋ヨリ差越候荷物米国在留御国領事ヨリ届ケ越候船賃其他御国人民漂流救助ニ逢ヒ候節等入費領事立替相払置都度々々日限リノ為替手形差越候節差懸リ一時操替分其他諸外国ヘ引会無拠失費ニ不相成候テハ不叶分或ハ各省ヘ操替分并追テ管轄石高ヘ割当候営繕向入費等無余儀廉々一時操替」(『県史料』八一九ページ)などに必要だからである。開港地および外交基地としての横浜-神奈川県は、たとえ内務を大幅に上回るほどの外務常備金の枠をもっていても、なおかつそれではカバーしきれない臨時の立替払に利用しうるような性質の資金を手許におかねばならず、主としてそのために予備金を設ける必要があると上申したのである。 これに対して政府は、とりあえず仮の予備金として一万五〇〇〇円を認め、県は繰替払など臨時の費用にあてていたが、七四年五月に改めて開港場のある諸県に予備金が置かれ、前の一万五〇〇〇円の使い残りの分は引き揚げ、代わりに年間五〇〇〇円が与えられることとなった。しかし、神奈川県はこの金額ではとうていまかない切れないので、「内務五千円外務一万円ト積従前ノ金額一万五千円御渡被下度」と申請した。ところが、これに対して内務省は、今回の予備金は「必竟其県管民ノ救急不時ノ賞与或ハ天災等ニテ難閣修繕ノ類其他内外交際上非常ノ失費等ニ被相備候儀」(『県史料』八二四ページ)であって、繰替金などをまかなうものではないから申請は認めないが、格別三〇〇〇円だけを増額しようと回答した。この内務省の説明は、開港場とくに横浜に認められた予備金の説明としては焦点がはずれているが、神奈川県はその点をとりあげて、開き直った形で次の伺を提出した。政府が予備金の性格を右のようにいう以上、「已後各国在留公館ヨリ当港バンクエ可仕払物品買上代価其外為替金当県ニテ操替仕払候ニ不及儀」(『県史料』八二五ページ)と心得て、今後は右公館等から日限の為替手形などがまわってきても当県では払わないことにする。それは、関係する外国人に対して不都合とはなるが、政府の方針である以上、当県では断わるから、政府としては至急各公館に連絡してほしい。政府でその決断がついたら、当県は先の一万五〇〇〇円の代わりの八〇〇〇円を受け取るつもりである云々。これに対して、内務省は七〇〇〇円を追加して一万五〇〇〇円を下渡すので、これで繰替金もまかなうようにと、先の指令を全面的に撤回し、県の言い分を認めた回答をして、この件は落着した。 ただし、開港県にはこの予備金がおかれ、これが第二常備金に当たるとされたが、「県治条例」で定められた第二常備金は「管下堤防橋梁道路等難捨置急破普請等ノ入費」にあてることとなっていたので、その本来の意味の第二常備金を神奈川県は実際上もたないことになる。そのため、右のような出費の場合、しばらくは出納寮からの当面の前借りないし内借りによってしのぐという、従来官費による工事の場合にとられていた方式が踏襲されていた。その後、七三年八月大蔵省命令「河港道路修築規則」により、七〇年から七二年の平均七万二〇〇〇円余を、民費二万七〇〇〇円余(三八㌫)、官費四万五〇〇〇円弱(六二㌫)と分割し、この後者を以降の定額と定め、七四年から実施した。 こののち、三新法下で制度が変わるまでの間、『県史料』所載の資料による限り、あまり大きな変化はないようである。というのは、そこにみられるのは、西南戦争にともなって七七年に「(非常)臨時費」が、また同年のコレラ流行にともなって「臨時費」が支給されたことが目立つ程度であって、ほかは大部分常備金の受取りと期限・増減額・流用などについての資料だからである。 為替方の機能 定額金制度の一環として、簡単に為替方についてふれておこう。もともと、神奈川県の為替方は三井組が担当していたが、同組が三井銀行と改称した際、改めて県との間に交した一八七六年十一月の「為替方約定書」(『県史料』八五九-八六二ページ。以下の説明および引用はすべて同約定書による)によってその機能をうかがうことができる。為替方の役目は「東京本店ヲ根拠トナシ兼テ横浜ニ設ケアル分店ニ於テ諸貢租金ヲ始メ官金及大蔵省其他ヨリ可請取金銀ノ取扱」をすることであった。具体的にみると、租税等の諸納金の場合、為替方はそれらを横浜分店で受け取り、真贋検査の後、為替方の預り券を渡し、納主はこの預り券を租税課に納めて納税したことになる。租税課は預り券金額を取立帳と照合して預け帳に記載し、為替方は預り帳へ記載し、双方証印して預り券を為替方へ返す。一方、出納課から各課へ渡す支出分については、金額および渡し先を記した切符を支払い、それが為替方で現金化される場合には、印鑑と照合のうえ、現金を渡し、元帳と差引計算し、切符は出納課へ返す。右のようなかたちで、為替方は国庫ないし県金庫の役割を果たしたのである。 このほか、同「約定書」で目につく規定は、(一)出納課の都合による各種貨幣の交換、(二)預け金抵当としての一〇万円の大蔵省への納入、(三)納金については納主から金高の一〇〇〇分の一を取り立てて手数料とし、定額常費金など大蔵省その他から受け取って支払うものは、一か年一五〇〇円を官金取扱給料とする、(四)東京・横浜間の為替金打歩(手数料-引用者)は、すべて一口一〇〇円以上は一〇〇円に付き五銭、一〇〇円未満五〇銭以上は一銭とする、などである。なお、ここでくわしく論ずる余裕はないが、中央・地方を問わず、民間預金の未発達だった当時としては、このように地方から吸い上げた税金を中央へ送付するまでの間、および逆に中央から地方の支払いにあてるために送付されて、実際支払われるまでの間に預金として滞留する資金は、公金預金として銀行の貸付活動のための重要な資金源であった。 注 (1) 民費については、のちに立ち入って検討するが、一般的な語義や全国の様相などについては、藤田武夫『日本地方財政制度の成立』第三章を参照。 御用為換座三井組 三井文庫提供 (2) 第一節で紹介した明治二年七月「県官人員並常備金規則」にもとづく。しかし、「常備金」という呼称よりは、「定額金」とよばれることが多かったようであり、本章でも「定額金」という呼称を用いておく。 (3) 『県史料』八一七-八一八ページ。なお同七一年八月に神奈川県が県兵を廃して取締(警官の意-引用者)を置いた際、居留地などの外国人保護のため取締経費は官費で、内地のためのものは積立金など町方の負担にしたいと県が伺い出たのにたいして、大蔵省はやはり「右諸費ハ積立有之候五厘金等ヲ以テ取賄可成丈官費不相成可致事」と指令している(『県史料』第五巻五四四-五四七ページ)。神奈川県の言い分が、明らかに合理的であると思われるが、本文で述べた例の場合同様、この時点では大蔵省はなるべく多くの経費について「官費不相成可致事」を府県に求めていたのであろうか。 (4) 『県史料』八二一ページ。なお、このあたりの『県史料』は、貨幣単位を表示するのに「両」「金」「円」を同じものとして用いているので、本文ではいちおう「円」に統一してある。 (5) 『県史料』八三二ページ。なお、次項でおこなう定額金の分析の際依拠した『県史料』八八四ページ以下には、この「第二常備金」ないし「予備金」という名目の勘定が見当たらない。制度上、どのような関連なのか、目下のところ不明である。 (6) 「第二常備金ノ儀当港ハ内外ノ事務相跨定額他県ト比較難致……堤防入費等ハ右ニ相籠リ居不申候」(『県史料』八三二ページ)。 (7) この「定額」なる語は、『県史料』八三三ページによるのであるが、次項で述べるように、定額金に関する勘定のなかで、定額常費や額外常費は土木費を含んでいないと思われるので、この「定額」は、それらのほかにある(と思われる)「土木費」勘定についてもやはり定額が定められていたことを示すのであろう。そうだとすれば、同書八三二ページに「管轄高三拾五万石余ノ常備ハ金六千七百五拾両ニ相成」とあるのは、神奈川県の土木費の常備(定額)は、六七五〇円に当たるという意味になりそうだが、そういってよいかどうか。 (8) くわしくは、加藤俊彦・大内力編著『国立銀行の研究』を参照。 二 定額金の実態 定額金勘定 『県史料』には一八七五(明治八)年度以降の定額金の勘定がのせられている。それ以前のものは今のところ見出しえないので、以下ではそれに従って、三新法下で経理の仕組が変わる前の七五-七七年度の定額金勘定の内容を検討することにしよう。表一-六六以下は、それにもとづいて全体をとりまとめたものである。年によって違いがあるが、定額金勘定というのは、表一-六六が示すように、定額常費・額外常費・臨時費・税外収入・雑部・貸下などという勘定科目から成っている。各科目とも収入は、すべて「大蔵省カラ受取」の一行だけであって表一-六六はそれを整理したものであり、表一-六九・七〇に示したのは、定額常費・額外常費の支出内容である。各勘定とも大蔵省から受け取って支出し、残額が出れば「大蔵省へ還納」項表1-66 年度別定額金勘定収入内訳 注 『県史料』884-893ページより作成 目にかかげられている。 各勘定科目の性質 つぎに、各勘定科目の性質を、それを構成している費目から推察してみてみよう。まず定額常費が、その名からもわかるように、いわゆる定額金制度の主柱をなす勘定であることは明らかであろう。これは原則としては、各府県の経常的な業務をまかなうためのもので、管轄石高に見合って全国共通に定められた金額から成っていると思われる。これに対して、「額外常費」は、中央政府出先機関としての府県がかなり恒常的になすべき行政であっても、全国一律の定額常費ではカバーしきれないような行政費をまかなうのが、おそらく原則であろうと思われる。全国共通であっても、府県の経常的な業務とはいえない、中央政府直轄たるべき性質のもの-たとえば秩禄や徴兵費など-はここに含まれてくるし、また当該地方特有の、しかし中央政府がなすべき業務-たとえば吉田新田埋立費のように横浜特有であっても、外交問題がからみ、中央政府の責任で処理すべきもの-などもここに含まれている。「臨時費」で計上されているのはコレラ病予防費と西国鎮静費(薩賊征討費)だけであって、純粋に臨時的な経費として処理されうるものであろう。 「税外収入」という科目の性質はわかりにくい。たんに「租税以外の雑多な収入」というのとはちがった用法で、「国税の一部を割り当てられる定額常費や額外常費とちがって、国税の収支でない資金の出入」を意味するもののようである。このうち表一-六六のなかの添書にあるように大蔵省から受け取って貸し下げたり、逆に貸下げの返納を受けて大蔵省に納めたりするのは、明治初期に中央政府の政策としておこなわれた各種の殖産興業のための資金貸付・返納を、県が仲介していることを示すものと考えられる。七六年度の場合に「貸下」勘定が独立しているが、これは前年には税外収入に含まれていたものとみなしてさしつかえない。しかし、同じ税外収入のなかで添書のない部分、たとえば七五年度の一一万円余と洋銀一万三〇〇〇ドル余とがいかなる性質の資金なのか、はっきりしない。洋銀を含み、定額常費に匹敵するほどの多額の資金を「大蔵省納」めとするのは、いかなる操作なのかをはっきりさせるのは今後の研究にまつほかはない。 定額常費・額外常費の収支部門 つぎに、これらの勘定がどのような部門で、どれだけ受け取られ、支出されたかをみたのが表一-六七・六八である。これによると、神奈川県の場合、本庁・支庁・船改所・神社が定額常費の出入部門であり、額外常費も船改所を除いた右の三部門にかかわっている。金額の大部分は本庁の手で処理されているうえ、支庁の分も、実質上は本庁と同じ性質の出入と考えてよい。これに対して、船改所は、機構上いかなる地位にあり、なぜ独立の別勘定を立てているのか不明であるが、金額はそれほど大きなものではない。なお、船改所は、会計方式が変わっても、七九年度までは存続しているようである。神社というのは、官幣中社鎌倉宮および国幣中社寒川神社であって、神官月給・賜饌料などを含んだものである。これは、無視していいほど小さくはないが、ことさら論ずるほどの問題もなさそうなので、以下では主として本庁の定額常費について、立ち入って検討することにしよう。 本庁の定額常費内訳 表一-六九には、本庁の定額常費内訳がかかげてある。使途別と目的別のいり混じったこの表で表1-67 定額常費受取部門別金額 注 『県史料』884-893ページより作成 表1-68 額外常費受取部門別金額 注 『県史料』884-893ページより作成 は、それぞれの費目区分の原則は、必ずしも明確にはとらえられないが、年々の金額一一万円前後、そのうち俸給・給与・旅費などの人件費で六〇-七〇㌫、庁中費一〇㌫、囚獄関係費で一三-一六㌫、対外関係費で六-一三㌫といったところである。七七年にあらわれる従前民費諸費というのは、おそらくそれまで民費として支出されてきていて官費の負担でなかったもののうち、この時点で官費支出がふさわしいとして移されたものであろう。しかし、その細目は不明である。 本庁の額外常費内訳 つぎに、表一-七〇によって額外常費を調べよう。額外常費の大きさは、七五年度の場合、洋銀を除いても定額常費の二倍にのぼり、このほかに洋銀三〇万ドルがあるのだから、いかに当時の額外常費が大きかったかがわかるであろう。翌七六年にも、定額と額外とはほぼ等しい大きさで、七七年にいたって額外が定額を下回ってくる。さらに、額の大きさもさることながら、その内訳をみれば、質的にもこれが中央政府出先機関としての、県の財政を特徴づける主要な要因となっていることがわかる。といっても、ひとつひとつの費目をみると、なぜそれが、ほかなら表1-69 定額常費(本庁)内訳 注 『県史料』884-890ページより作成 表1-70 額外常費(本庁)内訳 注 『県史料』885-892ページより作成。1875年の計は227,632円になるが,『県史料』の227,680円によった。 ぬ額外常費に含まれていて、定額常費や臨時費など他勘定科目でないのかは、必ずしもわからないし、とくに定額常費のなかでも重要だった囚獄関係費などは、いかなる基準で両者の間に振り分けられたのか疑問なしとしない。居留地諸費や外国人諸費にしてもそうである。また、救薬諸費や疫牛撲殺費などは、官費でなく県税ないし民費による負担であってもおかしくないようにみえる。いずれにせよ、当時の勘定の振分けについては、目下、直接それを示す資料を欠いているため、根拠が明確でないうらみはあるが、それにもかかわらず、表一-七〇を一見して額外常費の特徴は明らかであろう。 すなわち、まず第一は、それが秩禄支払を最大の役目としていたことである。支出中の八〇㌫を占める七六年度はいうまでもなく、七五年度も一〇万円に近い金額で四三㌫に当たり、支出中とびぬけて第一位を占めている。さすがに、秩禄処分が進んだ七七年度には、金額も比率も落ち込むが、それでも七〇〇〇円、二三㌫を示している。なお、維新期の中央政府財政支出にとって、秩禄が重い負担であったことはよく知られているが、具体的にそれが末端の旧武士層の手に渡るのは、府県の額外常費というかたちで支出されることによってであったことが、この表から確認される。 第二に、七五年度の地所買上代および吉田新田埋立費の大きさが目につく。両者を合わせれば一二万八〇〇〇円と洋銀三〇万ドルとなって、単一費目としては、この三年間のどの費目よりも大きいことになる。これらは、『県史料』(八五〇-八五二ページ)によれば、外国人居留地買上・焼跡地買上・吉田新田埋立のためアメリカ一番館ウォルシュ=ホール商会への支払い(洋銀三〇万ドル)、同埋立てにともなう潰地作徳金および同埋立てにともなう臨時工業資金などのようである。ここで立ち入る余裕はないが、吉田新田埋立はいうまでもなく、他の地所買上げについても、ひと言でいえば、開港地横浜の市街整備や土地整備の基礎作業だったのであり、いわばそのための先行投資がこういうかたちで金融されたのである。それは、特別会計としての額外常費にふさわしい役目だったといってよいであろう。 第三に、秩禄が処分されて少額になり、土地整備費も計上されない七七年度には、囚獄関係費の大きさが目立つようになる。この費用については、定額常費との間の分担関係がはっきりしない-定額常費の方は物にまつわる、額外常費の方は囚人・懲役人・復籍人など人にまつわるもののようにもみえる-が、全体として、県レベルの経常的な財政負担のなかで、当時はこうした費用が大きかったことがわかる。また、松方財政の紙幣整理期に、中央政府がその負担軽減のために、県庁や監獄などの建設費をすべて府県負担としたことは周知のところであろうが、いずれにせよ維新期にはこの費目がかなり大きく、かつ中央・地方の負担区分、府県内部の会計間の区分なども、まだ流動的であった様子がうかがえよう。 第四に、金額としてはごくわずかであるが、各種印紙・罫紙など中央が導入した新しいタイプの徴税に関する経費や徴兵費のように新軍隊組織確立を裏付ける経費が登場しているほか、各種貨幣交換費にみられるように、維新混乱期を特徴づける貨幣政策のアフター・ケアーの費目があるなど、動乱がようやくおさまろうとしている時期を象徴する費目が並んでいることも、注目すべき点であろう。 土木費・警察費など ところで、『県史料』会計の部(八八四-八九三ページ)に、上記のとおり定額常費や額外常費などの計数がのせられているのに続いて、八九三-九〇一ページには七五-七七年度の「神奈川県警察費遣払明細表」「明治八年-十年度土木及営繕費」がのせられている。さらに、七八年度については「明治十一年度本県定額常費額外常費及其他ノ諸経費等左ノ如シ」という書出しで、定額常費・額外常費・臨時費・雑部・税外収入・貸下金・警察官費・警察県費・土木費・営繕費・県税(七八年七-十一月)・雑課(同上)・仮地方税(七八年十二月-七九年六月)などに関する計数が、並列して記載されている(九〇一-九一〇ページ)。このうち、県税・雑課・仮地方税などは、のちにふれるとおり県独自の収支で、中央の直接の出先機関としてではなく、いちおう県独自の行政をおこなっているものとみなしうるが、ここで問題としたいのは、警察官費・同県費・土木費・営繕費についてである。 前述のとおり、土木費や営繕費は定額常費や額外常費のなかには含まれていないと考えられる。だが、警察費の大部分は人件費なのであって、これが含まれている可能性はあるが、今のところたしかでない。ともあれ、資本的支出が上記の定額金に含まれていないとなると、中央の出先機関としての県の業務を裏づける会計は、人件費などの消費的経費については定額金制度でまかない、資本的経費については、個々の土木費や営繕費という勘定をたてて経理して表1-71 土木費 注 『県史料』896-900ページより作成 表1-72 警察費財源内訳 注 『県史料』893-896ページより作成 いたということになる。しかも、営繕費はそうなっていないが、警察費には収入の内訳が、それぞれ警察費・県税・区費・課出金と分けてのせられており、土木費も七五-七七年度については官費とならんで県税が財源としてあげられている。したがって、少なくともこの両経費は、中央と県との双方の資金でまかなわれていたことが示されているわけである。いずれにせよ、これら諸会計の関係についてはなお追究すべき点が残されているので、その結果いかんでは当時の県財政(中央出先機関としての)の像はかなり大きく変わりうる。というのは、これら独立勘定と思われるものの金額が著しく大きいからである。 たとえば、表一-七一によれば、県税を別にして土木費は七五年度四万円、七六年度一三万円、七七年度九万円にのぼっているから、当該年度の定額金各一一万円をときには上回るほどの額に当たっている。営繕費はそれほど大きくはないが、それでも各年一-二万円ずつある。警察費は土木費を上回る大きさであるが、官費と県費などを区分してみると表一-七二のように官費は四-七万円となっている。なお、土木費の官費が経費と経費外に分けられているのは、年々の基礎的な土木費がまず「経費」として定められ、それをこえる例外的なものが「経費外」として、とくに許可を得て別途支出されたからであろう。具体的にみると、神奈川県の場合、「明治三年ヨリ五年ニ至ル河港道路修築金額三ケ年ヲ平均シテ金三万五千弐百弐拾八円九拾五銭八厘トス乃明治八年五月中上申シテ右金額ヲ以テ明治八年度ノ経費ト為ント請」い、内務卿からは「一ケ年金三万五千弐百弐拾八円ヲ以テ本年ヨリ向四ケ年経費金額ト」すべき旨の指令があった。これらを、「経費(金)」「一周(歳)経費」などとよんでいる。ただし、それをこえる場合を、「経費外」とよぶという文書は見当たらないが、そういってほぼ間違いない。 警察費については、総額の五-六割が官費、三-四割が県・区費でまかなわれており、原資料には費目ごとに、たとえば七五年度の場合、警部月給はすべて官費であるが、巡査月給のうち二万一一五七円は官費、一二万四三五九円は県税等によるとか、被服費のうち六四九三円は官費で、五八四一円は県税等などと、こと細かに分割された計数が示されている。ただし、その分割の基準は必ずしもはっきりしていない。なお、この警察費財源のうち、区費・課出金が、のちにみる民費による警察費ということになるのであろう。 注 (1) のちのことになるが、八一-八三年度などには、ここの「税外収入」の後身と思われる「雑収入」があり、そこでは「洋銀」「紙幣及銅貨」とか「壱円銀」「補助銀」「紙幣及銅貨」とかが、年々一〇万円以上も「大蔵省納」されている。おそらく貨幣制度の整理統一にからんだ操作で、ここに示された貨幣を吸い上げているのであろうが、しかしそのためには、それに見合う対価を与えているはずで、年々一〇万円をこすその資金はどこから生まれているのか、やはり不分明というほかはない。 (2) 吉田新田埋立てをめぐる外交と金融については、とりあえず『横浜市史』第三巻上、三二八ページ以下を参照。 (3)(4) 『県史料』八九六ページ。ただし、ここでいう「経費」と前項注(7)でみた「定額」との関係は不明である。 ・第三節 県内の国税と県税等 前節で検討した定額金制度を中心とする会計は、いわば中央出先機関としての県の業務を、中央政府の手許の国税の分与を受けてまかなったものであった。それに対応して、神奈川県内から国税が徴収されていることはいうまでもないが、同時に県には県段階で徴収して費消する県税および類似の収入もある。本節では、それら租税をとりあげることにしよう。ここでも利用しうる資料は、『県史料』所収のものであるが、やはりまとまって計数がえられるのは一八七五(明治八)年以降であり、それ以前については今のところ不明である。 表1-73 県内国税徴収額 注 『県史料』69-78ページより作成。75年のかっこ内は,米価を1石=6円とした計算であり,比率はそれを含めた869,943円による。 一 国税 種類と徴収額 一八七五-七七年は、中央の租税に関していえば、地租改正が進行中であり、かつ旧来の雑税の大部分が整理される一方、新しく印紙税などが導入されて新旧交替がようやく終わろうとする時点に当たっている。その点は、表一-七三にもあらわれている。まず、国税であるから収入の大部分が地租から成っているのはいうまでもないが、七五年度にもなお部分的に米納がなされている。七七年度には、いちおう地租改正は終わったがまだ市街地は完了せず、「地税仮額」として旧来の額を徴収している段階である。地租地券関係の税を除くと、あとはいずれも少額のものばかりであるが、なかで酒・煙草の税がやや大きく、印紙税・車税などがこれに続く。この租税構成を全国平均とくらべてみると、地租(全国平均六六・六㌫、七七年度、以下同じ)は、ほとんど同じ比重であるが、酒(六・七㌫)、煙草(〇・五㌫)、印紙税(一・一㌫)などは、全国平均よりもいずれも高くなっている。これら消費税・流通税の比率が高いのは、本県内における商品流通が他県に比して盛んであることを反映しているといえよう。 ところで、同表からわかるように、神奈川県からは毎年国税として七〇-九〇万円が吸い上げられる一方、前節でみたように中央から国税の分与を受けるのは、定額金制度を通じて定額常費一一万円のほか、額外常費は変動が大きくて一般化しえないが、七五年の二二万円プラス洋銀三〇万ドル、七六・七七年は一〇万円と三万円、土木費も変動が大きいが四-一三万円、営繕費二万円、警察費四-七万円であるから、どう計算しても、中央は神奈川県へ分与している国税の二倍から数倍は吸い上げていることになる。さらに、前述のとおり、内容不詳の税外収入として「大蔵省納」されている一一万円ないし洋銀一万三〇〇〇ドルがある。もしこれが、何らかの見合いなしに県から一方的に中央へ向かって流出した資金だとすれば、その分が追加されることになる。他府県では、どのような姿になっていたのであろうか。あるいは、これと逆の形を示すものがあるかもしれないが、現在までの研究では明らかになっていない。 注 (1) 国税と府県税の区別が、いちおうはっきりなされたのは、前述のとおり七五年九月太政官布告第一四〇号で「従来ノ租税賦金ヲ国税府県税ノ二款ニ分」けたのにはじまる。だが、体系化されたのは、七八年の「地方税規則」においてであって、それ以前は国-府県-区町村の租税や賦課が重畳したり混在したりしており、しかもそれらに関する法令制度の改廃は頻繁かつ複雑であり、とうていここで叙述しえない。それについては、たとえば藤田武夫『日本地方財政制度の成立』、林健久『日本における租税国家の成立』などを参照されたい。ここでそれを前提として、やや先取り的にではあるが、国税と県税とを分離して示すことにする。『県史料』二三ページ以下の取扱い方も同じである。 (2) 『資料編』16近代・現代(6)一八三には、『県史料』に依って七五年度の計数を掲げてある。 (3) この点、『資料編』16近代・現代(6)一四八を参照。 二 県税 種類と徴収額 県税についての計数も、やはり『県史料』に七五年度以降のものがのせられている。これは、国税と対照的に土地にではなく、各種商工業や娯楽などに課せられる営業税・免許料・消費税などという性質のものであり、種目は多い。しかし、年次を追ってみる必要があるほど大きな変化はなさそうなので、ここでは事例として七六年度のものを表1-74 県税内訳(1876年) 注 『県史料』74-76ページより作成 のせておくにとどめよう。表一-七四にまとめてかかげたものがそれである。サービス業、娯楽を含めた当時の商工業の大部分が、ここにカバーされているのであろうが、ごく零細なものまで徴税の対象としたため、個々の業種から得られる収入が、いずれも零細であることは一見して明らかであろう。当時の県布達などをみると、これら雑多な県税の取扱いに関するものが数多く出てくるが、わずらわしいのでいちいちとりあげない。 表一-七四によると、まず第一に、県税の収入額が三万五〇〇〇円程度であることが知られるが、この前後の年度をみてもほぼ同額である。これは、国税の七〇-九〇万円の二〇分の一ないし三〇分の一という大きさにすぎない。ただし、県が県内の住民から国税のほかに徴収するのは、この県税だけではない。すぐ次にみる賦金などを別にしても、前述のとおり、区町村と重畳してとくに、土地や戸数に課せられる「民費」を徴収しているからである。七五年度の地租額は表一-七三によれば七八万円であったから、仮にその三分の一が県・区・町村の民費の地租割だったとすると、二五万円となる。ただし、そのうちの県の取り分はわからない。また、そのほかに、戸数割・人口割などの民費のうちの県取り分もあったはずであるが、これも正確な計数はつかめない。それにしても、国税の大きさにとうてい及びもつかないことは明らかであって、こうした大きさのコントラストは、財政上の県の位置づけを考える上で記憶されねばならない。 第二に、いずれも零細ななかで、比較的大きなものとして一〇〇〇円以上収納されたものを、大きな順にとり出すと、諸車五九八八円一七・二㌫、芸妓五三八四円一五・五㌫、芝居三二二七円九・三㌫、質屋三一二七円九・〇㌫、酒食店二八九一円八・三㌫、旅泊一三七一円三・九㌫、などがあげられる。これら上位七種合計で、総額の六六㌫に当たる二万三〇〇〇円をあげており、遊興・娯楽・飲食への課税依存が著しく高いことがわかる。 賦金 明治初期に何を「賦金」とよんだかははっきりしないが、全国的には、七四年一月太政官布告第七号で、「各府県限取立タル諸税」を「賦金」とよばせている。さらに、七五年には中央の雑税整理がおこなわれ、そこで廃止されたもののうち、地方で営業取締りに必要なものは地方限りで税として課税しうることとなったが、内務省はそれらをもすべて賦金と称して自省で管轄したいと計画し、大蔵省と争って失敗した例がある。この限りでは賦金というのは、「内務省の許可をうける賦課」をさすものだったようにみえる。ともあれ、この時点で府県は、賦金と、この営業取締りのための税と、民費とよばれていた区町村と重なっている賦課との三つの財源をもっていたことになる。 ところが、七五年九月太政官布告第一四〇号で従来の租税を国税と府県税とに分け、営業取締りの税ともども「従来ノ賦金ヲ府県税」と改称した。ここで、全国的には賦金という名称は、従前のような意味では存在しなくなり、府県税と民費(の一部)とで県の業務をおこなう体制になったはずであるが、神奈川県の場合は、特殊な用法でなお賦金が存続している。というのは、『県史料』には前述の県税の計数をかかげたのに続いて、毎年「賦金収入調書」およびのちにみる「諸歩合金収入調書」がのせられているからである。その賦金をまとめると表-一七五がえられる。 県税収入が年々三-四万円程度だったことを考えると、わずか四種目だけで三万円近い収入をあげている賦金収入の県財政にとってもつ意味は大きく、県税に加えてみれば、県の税収の表1-75 賦金収入 注 『県史料』72-80ページより作成 遊興・娯楽への依存がいっそう高まることはいうまでもない。ところが、これらはいちおう「税」とか「鑑札料」とかの名称が付されているのに、前掲の県税からこれらだけが分離されているのはなぜかについて、明示的な説明は見当たらないが、これらはいわば目的税として特別会計的に経理されていたのである。というのは、のちのことになるが、『県史料』によれば、七九・八〇・八二年度の会計には、地方税収支とは独立に「雑課」として、娼妓賦金・貸座敷賦金・引手茶屋賦金などを収入とし、黴毒病院費・警察探偵費・業体取締費・産婆養成処費・衛生巡視員費などを支出項目とする勘定がのせられているし、八一・八三年度には「賦金収支」として同じものがのせられているからである。この種の税が、はじめて設けられたのは一八七二年十月の「遊女渡世規則」からであろうが、おそらくその最初から同じ取扱いだったと思われる。 歩合金 『県史料』には、「租税(国税のこと-引用者)決算額」「県税収入金調書」「賦金収入調書」とならんで、前項でもふれたように「諸歩合金収入調書」がのせられており、七七年度に廃止された旨が記されている。それを表示すれば表一-七六がえられる。 五万円から七万円という、ときには全県税収入の二倍にも達する大きさのこの歩合金は、七七年以後の県当局と横浜商人との間の最大の政治的争点となった。それにつ表1-76 歩合金収入 注 『県史料』72-80ページより作成 いてここでくわしく述べる余裕はないが、当面必要な限りで関説しておく。まず、紛争の原因は、元来この歩合金の性格があいまいだったことにある。すなわち、県側ではこれは県へ納めるべき県税の一種であるとしたのにたいして、横浜商人側は、任意の拠出金であるとしていたのである。これは、万延元年(一八六〇)からはじまったもので、横浜の売込商(のち引取商も含む)から売込高(引取高)の一〇〇〇分の五を町費として徴収して町会所で保管し、町の費用にあてていたものである。新政府も、これを直接保管し、実際には県税に加えて横浜の道路橋梁修復その他の費用をまかなってきた。したがって、実質的には県の行政機構の一端としての大区の費用をまかなっていたのであって、その意味で県税を補うものであったが、由来としては商人たちの自発的な拠出・積立になるものであった。それを七七年にいたって廃止し、区費の一部をまかなうものとしての第一営業割(従来の歩合金とほぼ同じ方式で徴収、金額五万円)と第二営業割(小売業者に利益金の一〇〇〇分の五を課する)とに分けることとなった。商人らがこの機会に、歩合金会計の明細が明確でなく、区長が専断で徴収するのに反発して積立金の引渡しを拒否し、県と争ったのが紛争のあらましである。長いいきさつののち、七八年に商人の自発的な徴収と保管を前提とし、正租五分の一の区費で不足するところを補うために歩合金を区務所へ引き渡す、という建前が確認されて争いは落着した。この歩合金紛争は、金額が大きいこともさることながら、実力ある商人の自発的な拠出金というこの資金の伝統的な性格と、それを県・大区・小区制を支える県税ないし区費に完全に組み込み、県の徴収体制を完成させようとする県官僚の立場との衝突がうみ出した、いわば近代的地方税制確立前夜のエピソードであったといってよい。 民費 県には、上記の県税・賦金・歩合金などのほかに、「民費」とよばれる収入部分があった。それは金額からいえば、おそらく一〇数万円にのぼったはずで、たとえば、すぐ次にみる七八年度の場合には一三万二九五五円が計上されている(『県史料』九〇八ページ)が、その詳細を示す資料はない。とくに民費というのは、のちに区町村財政と関連して述べるように、「収入」と「支出」をいずれも民費とよぶということ、および県の収支のうちの県税・賦金・歩合金などを除いたもの(地租割・戸数割など)に加えて大小区の収支や町村の収支すべてを民費とよんでいるため、あらゆる意味で区別がしにくい。また、そのこと自体に当時の財政の実態があらわれているのである。したがって、民費に関する資料がえられる場合も、それらが合わされたものである場合が多く、結局、県の収入としての民費だけをとり出すことは、目下のところ不可能である。 注 (1) ここでの「県税」の定義にかかわるが、地価(地租・反別・石高)割や戸数割・人口割などで徴収されたものは、県レベルのものでも「県税」に加えられず、おそらく後述の「民費」に加えられているのであろう。 ただし、同じ『県史料』の九〇七ページにある「県税」は、その大きさからみて(一五万円余)、「民費」を含んでいるものと考えられる。この点、後述の「区町村の財政」を参照。 (2) 前項注(2)の資料に七五年度分県税が含まれているので、参照されたい。 (3) おもな県税については、『資料編』16近代・現代(6)一六七に、その成立の由来と課税方式についての説明がある。また県税の大部分は営業税・免許料などであるが、『県史料』禁令の部ないし規則の部には、ほとんどすべての営業種目に関する規則がのせられており、それらは同時に営業税・免許料の根拠法規でもあるので、関連して参照をこいたい。 (4) 七五年度、三万二七九五円、七七年度、四万〇二二二円である(『県史料』七八-八〇ページ)。 (5) くわしくは林健久『日本における租税国家の成立』二二四ページ以下を参照。 (6) 『県史料』二七ページには「県租即チ賦金」として、すべての県税を賦金とよんでいる用法も見られる。 (7) 神奈川県だけの特殊な用法とはいえないと思われるが、他府県については、目下不明である。 (8) 『県史料』九一八-九六二ページ。なお、これらの資料が出てくる時期には、この「雑課」ないし「賦金収支」にのせられている「賦金」のほかに「地方税収入」や「地方税元受」のなかに、地方税や国庫下渡金とならんで、もうひとつの「賦金」がのせられているが、その実態は不明である。 (9) 『県史料』六二六ページに七四年三月の「遊女渡世規則」がのせられており、そのなかに「明治五年十月相定候」との記述がある。 (10) この件については、『横浜市史』第三巻下第三編がくわしく論じている。 第四節 県・区町村の経費 一 県の経費 県の経費 さきに述べたように、定額金制度等は、県の行政のうちいわば中央の機関としての収支を示すものであったが、県が独自におこなう収支はそこに含まれていなかったので、ここではそれをとりあげることにしよう。『県史料』には七八年度について、ややまとまった支出内容がのせられている。もっとも、同年度は、途中から「地方税規則」によって会計が処理されるように変わったため、七-十一月の「県税」(『県史料』九〇七ページ)と、十二月から翌七九年六月までの「仮地方税」(『県史料』九〇八-九一〇ページ)の二つに分けて掲げられているが、通年の様子をみるためには、両者を合わせてみる必要があるので、多少のくい違いはありうるが、いちおう合計して表に示したのが表一-七七である。 表1-77 県費内訳 注 『県史料』907-910ページより作成注 これでみると、年間三六万円の支出となっており、これをまかなったのは、表にはのせなかったが県税二〇万円、民費一三万円、雑課三万円などであった。このうち、県税・雑課(賦金)については、既述したところであり、民費の詳細は前述のとおり不明である。しかし、ともかく県独自の行政というのは、この三者によってまかなわれたのであった。ところで同表によると、この時点での県の最大の費目は「瓦斯燈諸費」である。これは周知のように、横浜を象徴するガス燈に関する経費であるが、実はこの前後の年にはこの費目は見当たらない。おそらくこの年度特有の支出であって、当時進行中のガス局事件(ガス局をめぐる紛争については、『横浜市史』第三巻下第一・二章を参照)と何らかの関係があったと察せられるが、断定はできない。また、金額はそれほど大きくはないが、十全医院や黴毒病院関係の費用がここにのっているのは、収入側で雑課がのっているのに対応しているものである。しかし、これもこの時かぎりで、前述のとおり、これ以前もこののちも雑課ないし賦金として特別会計的に取り扱われているものが、ちょうど制度変更の境目に当たるこの時だけ、この一般会計に含まれたものとみえる。 そこで、それらを除いて考えてみると、最も大きいのは「戸長以下給料」の一四・四㌫であるが、これに「同旅費同職務取扱諸費」「民費補出」などを加え、さらに「郡区吏員給料」など郡区関係費を加えると、いわば県の出先としての郡区町村に関する費用だけで二七㌫にのぼることになる。県独自の行政の最大のものがこうした経費であるというのは、中央-府県-郡区町村という行政組織を確立しようとしていた当時の日本全体の流れに沿ったありかただったといってよい。これに次いで「水道費」が大きいが、これもガスと並んで、当時最も先進的な水道事業を神奈川県なり横浜なりがもっていたことの反映であり、この時点では、他府県に例をみない大きさだと思われる。「警察費へ補出」がこれに続いているが、これは『県史料』九〇五ページに、「警察官費」に続いて掲げられている「警察県費」の元受高(収入源)四万四六三六円のうちの、課出金一万〇八三五円を除いた賦金八六九三円と地方税二万四一〇六円の合計と対応している。以下、道路関係費、勧業関係費、衛生・病院関係費などが比較的大きいものとしてあげられよう。 二 区町村の経費 民費 さきに述べたように、「民費」というのは区町村の収支に限らず、県の収支のうち、県税・賦金・歩合金などによらない部分をも含んでいる。したがって、区町村財政として、民費をとり出すのは問題が残るが、しかし逆にいえば、わずかに得られる民費の計数のなかに、少なくとも区町村の収支はほぼすべて含まれているといえるので、いちおうここではそういう取扱いをすることにする。むしろ積極的にいえば、「地方税規則」施行の七八年以前には、県・区・町村の財政とくに民生関係の財政区分は必ずしもはっきりしておらず、そのことがそれらを総称する民費という言葉をうみ出しているのであって、こういう取扱い方が実態を反映しているともいえるのである。 ところで、三新法以前の町村財政は、明治五年(一八七二)四月の「大区・小区制」採用と七三年以降実施された地租改正事業によって大きな影響をうけた。前者についていえば、この制度の採用以前の町村はほとんど江戸時代そのままの制度と財政とを続けていたのに、大区・小区制の採用によって、少なくとも形式的には町村は行政の単位ではなくなり、区制のなかに吸収されてしまったことになる。実態は必ずしもそうはいえないが、行政制度としてはこののち三新法で甦生するまで、町村はいったんその姿を没したことになるのである。これに伴って、伝統的な名主や年寄は廃されて、区長・戸長がそれに代わり、大小区行政の中心となるにいたった。つぎに、地租改正についていえば、一般的にいってもこれが封建社会から近代社会への表1-78 神奈川県民費 注 『資料編』11近代・現代(1)76-77ページより作成。計,総計はそれぞれ348,066円,563,314円になるが,表では『資料編』の数値によった。 移行の中心をなしたのであるから、その影響が大きいのは当然であるが、町村財政としていえば、その収入源がこれによってきびしく制限されたことの意味が大きい。というのは、ぼう大な改正事業の費用を町村が負担したことを別としても、町村はもともと県のように独立した税を持っておらず、民費の財源は反別割・石高割などという土地への貢租への付加金か、戸数割・人口割などであったのに、「地租改正条例」によって土地への賦課は地租の三分の一以内とされ、それさえ七七年の減租の際、五分の一へと引き下げられたからである。したがって、その制限でまかない切れない度合が多くなればなるほど、戸数割や人口割への依存を高めなければならなくなり、そうするためには、その範囲内である程度は能力に応じた負担の方式をあみ出さざるをえない、というように、実質も制度も大きくゆさぶられたのであった。 ところで、全国的な民費についての統計は、『日本府県民費表』というかたちで残されており、むろん神奈川県もそのなかに含まれている。一方、『資料編』16近代・現代(6)四五五には七三年度分が、同11同(1)四四には七五年度分がのせられていて、こちらのほうが全国のものより経費の分類がこまかい。ここでは、そのうち、後者を整理した表一-七八を掲げておく。これによってみると、七五年度の民費総額は五七万円であって、同年の定額金(定額常費・額外常費・臨時費)三五万円・洋銀三〇万ドル、土木費(官費・県費)四・三万円、警察費(官費・県費)五・四万円、営繕費一万円、合計四五・七万円・洋銀三〇万ドルという、これまでみてきた官費・県費支出にくらべて、その大きさがわかるであろう。とくに、洋銀三〇万ドルはこの年だけの例外的な支出だから、これを別にすると、県内の官費・民費合計の総行政費は一〇二万円で、官費(県費を含む)四四㌫、民費五六㌫となる。 ところで、表一-七八で地租改正入費と国役金とをいちおう別掲したのは、原資料の説明によれば、民費として恒常的なものとはいえないからである。それを別にして、民費の構成比をみると、区務・区戸長関係費で三五㌫、道路堤防等の土木費二〇㌫、学校費一六㌫などがきわだって大きい。ところで同表中※印を付したものは、義務的な色彩が濃いと思われるものをとり出したのであるが、それだけで三五万円のうちの六八㌫に当たるし、もし、これに地租改正入費と国役金を含めて総額五七万円と対比すると、八〇㌫が義務的な経費に当たることになる。この数字はむろんいちおうの試算にすぎないが、民費といっても、全体の重心は、中央政府を頂点とする統治機構の一環としての、ないしはその形成のための経費にかかっていたことはたしかであろう。それだけに、国全体としては民費によってなされる区町村の行政を、慎重にかつ確実に遂行する必要があった。とりわけ区町村は、それ自体の民費収支のうちに、徴税の末端機構として国税や県税を確保するといった機能をもっていたから、各種の「区戸長心得書」や「戸長副戸長事務取扱」「区長事務章程」などには、民費に関して正確な収支を帳簿に記入し、住民の納得を得つつ併せて国税・県税の収納を確保すべき旨の規定が、繰り返し定められている。それに対応して、県会・大小区会議・町村会議などの条例や議事規則や会議心得などには、民費賦課の方法・支出・検査などが、最も重要な役割として定められている。 ところで、表一-七八に示されるように、七五年度の民費は五七万円弱であったが、上述のとおり七七年に民費のうち、土地へ賦課しうるのは地租の五分の一と制限された。ところが、同年の地租額は七八万円弱であったから、その五分の一とすると、わずか一六万円弱にすぎず、四一万円も差がある。仮に、地租改正入費と国役金を除いても三五万円と一六万円との差二〇万円弱が生ずる。七七年初の県会に、この件について「民費賦課法議案」(『資料編』11近代・現代(1)四四)が提出されている。それによれば、もともと民費を土地所有者だけに課すのは不公平であるし、土地賦課制限一五万円ということであれば、七七年度現在の計数でみて、三五万円のうち一五万円に近い三五㌫を土地へ、残りの六五㌫を戸数に課すことにすれば、平準を得ながら民費をまかないうることになるとされている。さらに、戸数に課するに当たっては、資産の厚薄により一二級にわけて賦課するのが望ましいと、応能的な課税方法を提言している。ちなみに同案によれば、当時の現戸数は一二万七一五五戸であるが、この一戸が平均三戸を兼ねるものとみなせば四倍の五〇万八六二〇戸が得られ、これで負担すべき額を除すれば一戸につき四三銭六厘四毛余がえられる。これを一二級の一戸に課する最小単位(一個)とするのである。しかし、「家産ノ厚薄ヲ調査スルハ実ニ至難ノ要件」であるから、「区戸長村吏及代議人等ニテ親ク実際ヲ考究シテ篤ト商議ヲ尽シ衆評ノ可トスル所ヲ以テ」等級を定めるべきこと、および、町駅村の表、小区の表、大区の表、県全体の表の四葉を作成し、それぞれを通じて等級の全県的な平衡の確保を可能ならしめるべきことが求められている。 この民費は繰り返しのべたように、県-区-町村各段階にまたがったものであるが、同案では、これを「一般ニ賦スヘキモノ」「一大区ニ賦スヘキモノ」、「組合一小区一村」に賦すべきものに分け、その区分を左のように示している(『資料編』11近代・現代(1)四四)。区分の原則は、当該経費の効果の及ぶ範囲によっているようである。 一般ニ賦スヘキ科目 一 県庁営繕費 一 徴役場及監獄営繕費 一 国道県道営繕費 一 布告書類頒布費 一 管内一般臨時諸費ノ諸費 一 国道掃除費 一 巡査給料及警察費 一 復籍人逓送費 一 掲示場建築修繕費 一 難船救助費 一 支庁及出張先官員往復書郵送費 一 徴兵下調費 一 中学校入費 一 中学校吏員教員以下月給旅費 一 師範学校入費 一 師範訓導吏員以下月給旅費 一 学区取締月給旅費 一 巡回訓導月給旅費 大区限賦課スヘキ科目 一 正副区長筆生小使月給 一 正副区長筆生筆墨料 一 区務所借地料并家賃 一 用紙用度品買入費 一 正副区長筆生出庁及区内巡回旅費 一 租税金庁納迄ノ入費 一 脚夫賃 一 区務所営繕費 一 区務所諸器物買入費 一 臨時雇入物書給料 一 大区限取調物入費 一 勧業掛月給 小区限賦スヘキ科目 一 正副戸長書役小使月給 一 正副戸長書役筆墨料 一 扱所借地料並家賃 一 用紙用度品買入費 一 布告配達費 一 租税金徴収入リ区務所ヘ送致迄ノ入費 一 正副戸長県庁ヘ出張旅費 一 脚夫賃 一 扱所修繕費 一 扱所諸器物買入費 一 臨時増置書役日給 一 小区限取調物入費 一村限賦課スヘキ科目 一 村用掛月給并雇小使日給 一 村用掛筆墨料 一 村用掛用紙用度品買入費 一 村用ニ付村用掛出庁旅費 一 火水盗難猪鹿予防費 一 戸籍調費 一 一村限取調物諸入費 実際ニ応シ組合ヲ設ケ賦課スヘキ科目 一 用悪水路修繕費 一 小学校諸費 一 小学校教員世話役等月給 一 暴漲水防費 一 養蚕世話役給料 一 井堰守給料 一 時鐘費 一 溜井修繕費 一 里道修繕費 この区分は、それまでの慣行をやや整理したかたちにまとめたものとみなすことができそうで、これを手がかりにして、当時の民費の県や町村の間の配分が、ある程度は見当をつけられるかもしれない。ただし、表一-七八をこの区分にしたがって各段階に割り付けることは、目下のところ無理のようである。 注 (1) 神奈川県では、七四年六月までは「小区」といわず、二〇〇〇石をめどに数か村を合併して「番組」とよんだようである(『資料編』11近代・現代(1)一四・三〇を参照)。 (2) 藤田武夫『日本地方財政制度の成立』四二-四三ページ)。 (3) たとえば、『資料編』11近代・現代(1)三・一四・一八・二〇・二八・三一・四二などを参照。 (4) たとえば、『資料編』11近代・現代(1)第一編第二章第二節を参照。 (5) 『資料編』11近代・現代(1)一一五に「足柄上郡民費額ノ内訳抜萃」がのせられている。 第二編 明治前期の神奈川県経済 第一章 地租改正後の経済発展 第一節 農林水産業の近代的再編 一 地租改正期の土地問題 明治維新の変革と農業 明治に入ると、農民は、自由に農作物を栽培・販売できるようになり、また、土地の売買も解禁され、従来の所持地には私的な所有権が与えられた。農業に限らず、一般に営業の自由が認められ、資本の自由な活動の場が開かれた。こうして、県下で、一八七八(明治十一)年、山林原野を除き地租改正事業がほぼ完了し、高額ではあるが定額金納の地租が新定され、地券が交付されたとき、法制の上では、神奈川県農民の前には、自由な経済活動を通して近代的発展をなしとげる大きな可能性が開かれた。このとき、政府の新たな一連の金融法令の公布によって、農民は生活・経営資金の借入れを、土地建物を抵当にして容易になしうるようになっていた。すなわち、一八七三(明治六)年以降公布された地所質入書入規則・動産不動産書入金穀貸借規則・金穀貸借請人証人弁償規則など一連の金融法令は、これまで各地に存在した質地慣行などを否定して、手厚い債権の保護を図り、整備された裁判所機構が、これら法令の施行を保証した。この結果、遠隔地に対する土地金融は旧幕期にくらべはるかに安全確実なものとなった。あたかも、地租改正終了時には、農産物の価格は騰貴しつつあり、農民は生活の向上・経営発展のために資金を借り入れてもその返済は可能と思われた。しかし、深刻な正貨不足による財政危機に端を発した一八八一(明治十四)年以降の政府の紙幣整理実施は、農産物はじめ諸物価の低落・市場の退縮をもたらし、商品経済に入りつつあった農家経営を一挙に破滅に追いやった。借入金は、たちまち返済不能となり、これに対し、新たな金融法令は、容赦ない担保物件の公売処分・身代限処分をもって答えた。 不平等条約のために、これまで在来商品作物栽培の伸長などを通して歩んできた農業発展の道が閉ざされてしまっていた当時の状況を考えると、この状況下において、以上にのべたような形で農民に与えられた近代とは何であったのか、という問題に行き当たらざるをえない。 地租改正後の地価修正 前述のように、神奈川県の地租改正は、耕宅地は一八七八(明治十一)年、山林原野は一八八〇年に事業を終え、それにともない地券が、耕宅地の分は一八七九年、山林原野の分は一八八一年に交付された(このとき農民は、これと引き換えに地価一〇円につき五銭の地券証印税を納めねばならなかった。また、さきに交付された壬申地券はすべて回収された)。しかし、改租施行は、一八七六(明治九)年からとされ、一八七六年以降納めてきた旧租とほぼ同額の仮納額は、新地租額と差し引きされ、不足分をさらに納入せねばならなかった。これは、地租改正によって増租となった多くの村々にとって耐え難い負担であったが、一八八二(明治十五)年、県は、これの延納年賦を認め、甲第九〇号年賦延納規則によって差額の多少により、五〇か年以内の年賦上納の措置をとった。 また、前述のように県は、改租に強い不服の意を示した多摩郡その他の村々に対し、地租改正条例追加第八章が定めた地価再改定年度(改租年から六年目)に至れば、地価を再検討するとの約束を与え、改租を承諾させたのであったが、一八八一年が、その改正年度にあたっていた。政府はその前年一八八〇年五月に地価をさらに五か年間据置く旨の太政官布告第二五号を発したが、その第一条但書に「府知事県令ニ於テ当初定メタル地価不適当ナリト思慮シ、其事由ヲ具申スルトキハ、大蔵省ハ調査員ヲ派遣シ、実地調査ノ上、一町村又ハ一郡区限リ、特別修正スルコトアルヘシ」とその例外を認めた。上述の公約を負った神奈川県令は、この第一条但書にもとづいて管下西多摩・北多摩・津久井郡(旧一〇、一一、一二大区の内)の一部の村々に対し、耕地地価の特別修正を行った(明治十四年「明治公文編年集九」東京都東大和市蔵敷内野禄太郎家文書)。 丙第二百六十三号 西多摩郡役所 北多摩郡役所 津久井郡役所 戸長役場 其郡村々之内、耕地々価別紙之通本年ヨリ修正候条、此旨相達候事 明治十四年十二月廿四日 神奈川県令沖守固代理 神奈川県少書記官 磯貝静蔵 このときの修正村は次のごとくであった。なお、津久井郡については明らかでない。北多摩郡-田無村・小山村・神山村・前沢村・柳窪村・柳窪新田・下里村・南沢村・牟礼村・北野村・中仙川村・新川村・吉祥寺村・上蓮雀村・下蓮雀村・井口新田・関前村・西窪村・境村・鈴木新田・野中新田与左衛門組・大沼田新田・野中新田善左衛門組・廻り田新田・貫井村・小金井村・小金井新田・梶野新田・関野新田・砂川村・小川村・小川新田・榎戸新田・野中新田六左衛門組・平兵衛新田・蔵敷村 西多摩郡-多摩村・石畑村・殿ケ谷村・岸村・箱根ケ崎村 なお、右の修正村は西多摩郡においても全村ではなかった。その間の経緯を、蔵敷村地所所有者総代、県会議員内野杢左衛門は、自村に関し次のように記している。 内野曰、明治九年改正、大麦反当八斗弐升六合ナリシガ( 当時明治三年ゟ七年迄五ケ年平均 麦壱石ニ付金壱円七拾五銭定メ )、地価ハ此収穫麦壱石ニ対シ金拾四円八拾七銭五厘ニ当リ、新租ハ(百分ノ三)四拾四銭六厘ニ当リ、旧租ニ比スレハ甚シキ増額ニ付、右差示(明治十一年六月十四日)ニ不服ヲ吹ヒタリシニ此後ノ改正年度(当時五ケ年目地租改正ノ法律也)ニ至リ、減額スベキ旨説諭アリシ故ニ其上申ヲ為シ、其指令ヲ待テ差示ニ対シ受書ヲ出シタリ、依テ第一次ノ改正年度即チ明治十四年ニ至リ、地価ノ修正ヲ請フニ至レリ、然ルニ芋窪・奈良橋ノ二村ハ修正セズ、砂川・小川ノ二村ハ此表(略)ニ示スガ如ク修正スルニ至リ、修正セザル村〻ヨリ当村ニ阻害ヲ与ヘラレ、其筋ニ窃異議ヲ唱フ、其際如此歎願的ノ上申ヲ為セシ也 芋窪・奈良橋村が何故修正上申をしなかったかは不明だが、地位等級編成時の村間の対立がなお尾を曳いており、ために蔵敷村は、改正時畑反当収穫麦八斗二升六合を大幅に二斗余を減額する意図をもちながら、七斗九升一合への修正、すなわち三升五合の減額に甘んじなければならなかった。 以上のような諸措置によって、県は地租改正に対する農民の不満を乗り切ったが、それは、当時における農産物価格の騰貴に助けられて、初めて可能となったのである。しかし、ひとり鎌倉郡瀬谷村ほか六か村のみは、前述の強制地価決定の処分をうけた後も、改租反対の態度を崩さず、一八七九(明治十二)年六月には、東京上等裁判所に「地租改正処分不当之訴」をおこし、引き続き地価不当を主張してやまなかった。県は、これに対し、無利子で六〇〇〇円を貸与することによって和解を成立させ、この闘争に終止符を打った。瀬谷村は、こうして得た同村分二九〇五円を、 (地位等級反対のために)村民一同共議ノ上、惣代人ヲ択ラビ、神奈川県庁ニ請願シ、陳情弁理数十回、其ノ間惣代人ガ幾多ノ辛苦ヲ甞メ、就中川口(注-儀右衛門)平本(注-平右衛門)二氏ノ如キ不幸ニシテ其際不帰ノ客トナラレシ如キ、実ニ悲々惨々タルノ結果、終ヒニ給助金トシテ貸与セラレシ恩恵義金ナルヲ以テ、当時村民熟議ヲ遂ゲ、年息壱割弐分ヲ以テ村内所望ノ人々ニ貸与シ、且ツ担当人ヲ択ラビ、該年息ノ内弐分ヲ以テ其ノ手数料ト定メ、壱割ヲ積ンデ他日奉還ノ期ニ備ヘ る村の共有財産とし、以後長く村民の生活資金の融通・村内経費の補助に活用したのであった(瀬谷区の歴史を知る会編『瀬谷区の歴史』「生活資料編二」)。 地租改正前後の質地紛争 一方、地租改正による私的土地所有権の決定も、県下各地に紛議を簇生させた。 その初めは、明治五年(一八七二)壬申地券交付のときにさかのぼる。すなわち、県下の土地に対し初めて地券を交付するに際し、質地について、地券名請者=土地所有者を、元地主(質入主)、金主(質取主)のいずれにするかで、多数の紛議が起こった。 神奈川・足柄両県は、壬申地券交付に際し、明治五年、地券心得書を公布したが(両県とも同文)、土地質書入の契約内容については、地主・金主の「相対示談」にゆだねるに止まった。しかし、一八七三(明治六)年一月には太政官布告第一八号「地所質入書入規則」が公布され、質入・書入の区分を明確にし、質入については年季三年以内という短期に限定するとともに、現在年季中の質入書入地については、すべて一八七三年七月までに、この規則に準じ契約証を改変すべきことを命じた。 当時県下の質地取引は、質地の年季を定めてはいるが「年季明何ケ年相立候ても、金子有り合せ次第請戻すべし」と記した証文や、年季を定めず「金子調達次第受返すべし」とした証文によって行われるものが多く、これらは「郷法」として広く慣習化していた。従って農民は、年季の有無に拘わらず、土地を質入して何年経過しても、「未タ地所ニ不離心得」(明治六年一月二十七日租税寮改正局指令・神奈川県伺『明治初年地租改正基礎資料』上巻)、すなわち、まだ土地の所有権を失っていないと考えていた。これに対し金主の側では、旧幕府質地条目によって、年季のある質地は、年季明け後一〇年、無年季の質地は、質入後一〇年経てば流地となり、質地の所有権は金主に移るとの理解に立つばあいが多かった。しかし、右質地条目は、幕府へ訴え出たばあいに処分する基準であり、訴訟にならない分については、前述「郷法」が生きていたのである。壬申地券交付にあたって、管下各村では、前述「地券心得書」にもとづき以上のような慣行を基礎にしてそれぞれ「村方議定書」を作製し、これに沿って質地の地券名請者を定めた。 多数の村方議定が現存しているが、ここでは二例を掲げる。 一は、明治五年月不明の大住郡上粕屋村議定書で 農政調査会「地租改 正関係農村史料集」 、八か条からなるが、その第三条で、 一 従来質入置候地所、今度古地主方ニて地券を受候とも、亦ハ持主方ニて受候共、相対示談ニ可仕、雖然、古地主方ニて引受元価切金相立候分ハ無利息借用之証書相添、地券共金主方江相渡、年季七ケ年ニ相定、万一期満、受戻兼候得ハ売渡之地券願、金主方江可相渡事と定め、基本的には県地券心得書の通り、相対示談で地券名請人を決めるとしているが、旧地主(質入主)が地券名請人となったときは、質金の借用証を別に新製し、七年以内に返金・土地請戻しをすることとし、もし出来ないときには土地の所有権は金主に移ることを申し合わせている。 明治五年(一八七二)十一月の足柄下郡府川村「村方規定書」 府川村稲子 正治家文書 は次の通りである。 一 今般地券御改ニ付田畑山林村方取極メ規定左之通 一 田畑山林請戻之儀は、当申年之義は来酉ノ一月廿五日限り受戻可申、巳来之儀は年〻十二月廿五日限之事 一 田畑山林請戻ニ相成へく分は、売主之地券ヲ請可申事 一 田畑年季売買致来候分は、年限立払候節受戻可申事、若又其年限受戻兼候ハヽ、流地ニいたし、地券証持主方へ相渡可申候事 一 年限ニ不拘受戻しニ可相成分ハ、当申ヨリ来ル巳年迄拾ケ年之間ニ受戻可申、若又其年限中ニ請戻し不申候ハヽ、流地ニ致し地券証持主方江相渡可申候事 一 山林年季無之請戻ニ可相成分は、従前之通、当申ヨリ来ル巳迄拾ケ年之間、上木伐払候節地所受返可申、若又受返不申候ハヽ流地ニいたし、地券持主方へ可相渡事 一 地券御改ニ付、諸入費割合方之儀は、地券ヲ請候者ゟ差出し可申、但年季之儀は掛高拾ケ年ニ割付、其割合を差出し、受返し可申、尤拾ケ年立払請戻候分は右入費差出スニ不及候事 右者今般村方一同相談之上、示談仕候処、相違無御座候、依之小前一同連印仕候処、依而如件 明治五壬申年十二月 (連名略) ここでは、地券交付に際し、大幅に質地の受戻しを認め、質入主を地券名請人とする方針のごとくであるが、その受戻し期間は一〇年以内(年季売買のばあいは年季切れの年)に限定され、この間に受戻しができなければ土地は金主の所有となる。いずれにせよ、一〇年後には、従来の質地関係は悉皆整理されることになる。 このような村議定の締結も、質入・質取主間の紛争を抑えることはできなかった。一八七三(明治六)年以降、県あるいは裁判所へよせられた質地係争訴訟は、夥しい数にのぼった(渡辺隆喜「神奈川県地租改正事業の特色」『神奈川県史研究』4)。 一、二の例をあげると、津久井郡牧野村副戸長井田金平は、同村柿沢八左衛門を相手取り、一八七三(明治六)年四月十四日足柄県裁判所に質地請戻しの訴状を提出したが、それは同家が柿沢家へ、文化九年(一八一二)、天保五年(一八三四)に一〇か年季で「年季明ケ不受戻候ハヽ流地ニ可致契約」旨の証書を渡し質入した土地であった。井田はこれら質入後すでに五、六〇年経過した地を、「証文面ニ不拘慈愛を以何時ニ而も受戻可申筈、前〻ゟ約定仕置候」として返地を求め、裁判所から政府の法律によればすでに取り戻しの権利はない旨を説示され、即日訴状下渡しを乞うている(農林水産省農業総合研究所蔵伊勢原市上糟屋山口匡一家文書)。また、大住郡根坂間村農高橋五郎平方から、一八七三(明治六)年三月足柄県へ訴え出た訴状によると、同家は、壬申地券交付に際し、同村農熊沢国太郎・栢間角次郎・高橋六次郎から譲り請けた地を返地してくれるよう交渉をうけたが、譲り請けてすでに長年経ち、加えて同地はすでに他人に譲渡してしまったとして、申し出を拒絶した。ところが、熊沢らは、長年経過しても質地であることに変わりないから「村議定之通可相戻」と申し立て、「村役人馴合」いで、高橋が同村本庄喜太郎方へ一〇年季の質に入れている地その他を、右の替地として勝手に、熊沢ら三人の名請で地券帳に書載してしまったというのである。また、このような措置をとりながら、高橋方から村役人へ質入した地については、質入主である高橋の名請とせず、質取主の村役人名義にするという「如何ニも依怙勝手之仕儀向」をしていると訴えている。同村の村議定は「譲地之外ハ村議定ニ而何ケ年相立候共元地主ヘ可受戻約定」であったというが、村役人の処置方法いかんによっては、かかる紛争が生じたのである(平塚市土屋 蓑島武夫家文書)。以上はすべて旧足柄県管下の事例であるが、神奈川県管下においても、地券交付をめぐる質地訴訟の頻発は同様であり、それが大審院にまで争われたもの三件を数える。 それをあげると次のとおりである。 原告鎌倉郡小菅ケ谷村農田中保之助、被告同村農三橋清兵衛「質地受戻上告」(明治十一年四月二日判決)。原告橘樹郡程ケ谷町清宮与市・被告同町加藤勘次郎「質流地受戻一件上告」(同十一年五月二十八日判決)。原告程ケ谷町池田兵左衛門、被告前掲加藤勘次郎「質地取戻一件上告」(判決年月日前に同じ)。 右の小菅ケ谷村では、「質地証ハ従来流地ノ文言ヲ認メス、多クハ無年季ノ証ナリ、仮令年季ヲ書載シタルモ返金スレハ地ヲ戻ス 『明治前民事判決 期大審院録』二 のが「郷法」であり、程ケ谷町でも、原告は、流地証文を交付しない限り決して流地とはならないのがこれまでの習慣であると主張している。 真土村騒擾 これら壬申地券交付に際しての質地紛争が、最も激化した形態をとってあらわれたのが、大住郡真土村騒擾であった(事件の詳細は『資料編』13近代・現代(3)一ページ以下及び『通史編』4近代・現代(1)一四二ページ以下)。同村では、壬申地券交付時、質取主二三名、質入主六五名の間に質地関係が結ばれており、同村の慣行によれば、それらの質地は、「如何程年数相立候とも、金子調達の者へは」請戻しをなすこととなっていた。すでにのべたように、この慣行は、県下一般に広く存在するところで、一八七八(明治十一)年十二月右大臣岩倉具視あて県令野村靖の「真土事件顛末上申書」がいうごとき「外村々ト一種別ノ慣習」ではない。しかし、壬申地券交付に際し、同村区戸長を兼ねた松木長右衛門がとった措置は、特異であった。すなわち、質入主一同が同村慣行にもとづき地券名請を申し出たのを拒んで、「真土村の儀は一円の質地悉く質取主え(地券を)相請」けることと定め、その上で副戸長外百姓代ら立会いの下で、後日これらの地の請戻しを行う旨を口約した。既述のように、管下の多くの村では、質入主の地券名請を原則とし、質取主が名請をする旨の申合せは、多摩郡鑓水村の一例が知られているのみで(渡辺隆喜前掲論文)、そのばあいも「村方新規約定書」に明文化している。しかも松木は、このことによって自ら村内で最大の質取主として、多くの土地を自分の名請にしたのである。そして、口約の実行を、質置主一同からの度々の申入れにも拘わらず遷延させたため、ついに質置主一同は一八七六(明治九)年十一月、横浜裁判所へこれを提訴し、勝訴をかち取った。ところが松木はこれを不服として東京上等裁判所へ控訴し、逆転勝訴の判決を得たのであった。以上の松木の所為は、当時の管下各村戸長が、一般にはその村の慣行を配慮して、地券の名請人を決めようとしたのと対照的に、従来の慣行を全く否定し、自らの主張を上級裁判所に控訴してまで貫こうとしたもので、村落の秩序維持にあたる戸長の務めを忘れ、私利を追及した行為とみられたのは当然である。訴訟に敗れ、万策尽きた冠弥右衛門ら二六名は、一八七八年十月二十六日夜松木宅を襲い、長右衛門はじめ家族雇人七名を殺し四名を傷つけるにいたった。この一挙に対し、大住・淘綾・愛甲三郡の戸長・副戸長・村用掛はじめ一万五〇〇〇戸の農家は助命嘆願運動を起こし、県令野村靖もこれに動かされて、右大臣岩倉に助命上申書を提出した。すでにみたごとく、管下一般の村々でも、もし、区戸長が、松木のような措置をとったならば、村民の多くは土地を失い、真土村と同じく「一村幾ト滅亡ノ姿」になる共通の可能性をもっていた。それだけにこの事件は、広く県下耕作農民に衝撃を与え、冠らの行動に強い同情が集まったのである。一方、松木の行為は、政府の新土地金融法に照らせば、完全に合法的なものであった。しかし、当時の県にとって、それは、「所謂民法ノ制、猶未タ全タカラス、徒ニ新規成文ノ律アル為ニ旧来習慣ノ法ヲ破ルノ弊アルニ似タルヲ以テ、奸人これニ乗シテ其意ヲ逞シフシ、此際最行政事務ノ障碍ヲナス」(前掲県令「真土事件顛末上申書」)ものにほかならなかった。地券交付・地租改正事業実施期の県下では、旧慣の破壊を顧りみず、新土地金融法を強引に貫徹していくときは、真土村のごとき騒擾は、県下各地で起こる状況にあったといえよう。したがってまた、富裕な者が致富を目的として土地を大規模に集積する条件も生まれていなかった。これを強引に行えば、「奸人」とみなされる空気が強かったのである。 山林の官民有区分の結果 山林原野の地租改正に先立って、公有地に認定された一村持・入会林野などに対しては、まず、それを官有・民有のいずれかに区分する作業が実施される。しかし、神奈川県のばあい、この官民有区分では、一部地域を除き、大部分は民有に編入されたので、これをめぐる大きな紛争は起こらなかった。官民有区分の結果をみると官林は、県の総山林面積のうち、わずか一六㌫弱にすぎず、その多くは足柄上郡に集中している(表二-一)。ここは、駿河・甲斐に接する深山を擁し、しかも川など木材搬出の手段を欠き、木材・林産物の表2-1 所有形態別山林面積(1884年) 注 1 反以下は切捨て。 2 ( )は1884(明治17)年の数値に疑問があるので1885年のそれを代替した。従って合計も補正してある。 3 『神奈川県統計書』より作成。 商品化も最も遅れた地帯であった。一方、同じ山間部でも、西多摩・津久井郡は、多摩川・相模川の上流部に位置し、木材流送の便に恵まれて早くから民間林業が発展し、ここに官林を設立する余地はほとんどなかった。両郡の官林比率は、それぞれわずか五・二、六・六㌫にすぎず、足柄上郡と鋭い対照をなしている。こうして官林比率は、足柄上郡だけが五二㌫とひとりぬきんでており、これに次ぐのは、愛甲郡の一四・五㌫、南多摩郡の一二・八㌫で、他はすべて一〇㌫にもみたない。概して本県では、美林地帯の大幅官林編入という強引な措置はとられなかった。 足柄上郡の官林は、西丹沢の中川・玄倉村に所在する旧小田原藩の御留山約五七〇〇町歩で、杉・檜・樅・栂・権・槻の六木を御留木とし、他の雑木は村民の自由な伐採が認められていた。前述のようにここは木材流送ができず、幕末(安政ごろ)期にここから藩主用材として、樅・栂約二万尺〆を伐採したとき、これを五寸角長二間に造材し、山北以北沿道の村から人夫を集め、四人で造材一本を担い搬出したといわれている(『資料編』17近代・現代(7)四八二ページ)。村民もまた伐採した雑木を商品化するには、杓子などの木地・下駄に加工し、あるいは炭を製して販売するほかなかった。愛甲郡の官林比率が一〇㌫を超えているのは、同郡宮ケ瀬煤ケ谷村にやはり旧小田原藩藩有林、丹沢山御林約一八〇〇町があり、これが官林に編入されたからである。ここでも、杉・檜・槻・樅・栂・栗は御用木として村民の伐採が禁じられていたが、目通五寸廻以上の雑木をもって御用炭の焼出しが行われ、万延元年(一八六〇)から慶応元年(一八六五)にいたる五年間に七万俵(一俵六貫目)が上納され、跡地に苗木が植栽されている。以上官林に編入された旧藩有林でも、旧幕期、なんらかの村民の用益がなされているのであるが、恐らく官林編入後も、雑木払下げ等の形で、旧慣は存続したのであろう。ただし、足柄上郡官林について、一九三七(昭和十二)年県『神奈川県の林業』(『資料編』17近代・現代(7)四六)は、 …地元村民は旧来些細の料金を以て殆んど自由に雑木を伐採し得たるに拘らず、維新後旧慣全く廃し、立木入会権は勿論、雑種物に関しても何等の用益権を遺さざりしは、県として一大幸福と云はざる可からず とする。該官林はのちに御料林となり、一九三一(昭和六)年県に下賜されたが、右によれば、この時点では村民の用益慣行は廃絶していたことが知られる。しかし、この廃絶は、官民有区分の際一挙に行ったものではないと思われる。ついで、南多摩郡の官林比率がやや高いのは、同郡内の旧幕府御鷹場の一部が官有地に編入(宮内省の御猟場となる)されたことによる。ここでの従来からの農民入会慣行も、すぐには否定されなかったようで、官有地編入反対の紛争は起こっていない。しかし、周囲の農民がこれを好まなかったことは明らかで、入会山野官有化に対する農民の危惧が、後述する木曽・根岸村騒擾勃発の遠因となった。 以上、神奈川県では、山林の土地所有権決定に当たって、官有地編入反対の紛争はみられないが、これを機に、入会山論が各地で起こっている。それはとくに、旧小田原藩領諸郡および津久井郡で著しい。いま、一八八四(明治十七)年の民林のうち共有の占める割合をみると、概して、旧小田原藩領諸郡と津久井郡がとくに高い。この共有民林は、県平均でその六八㌫弱が草山であった。この共有民林中草山の割合も、上記諸郡はとくに高い。共有民林で地目が草山である地のほとんどは、一か村ないし数か村共有の秣山(刈敷山)で、関係村民は、そこから田畑の肥料や家畜の飼料に供する草を入り会って利用していたと考えられる。当時の農民にとって、この秣山は、村での生活に不可欠な存在で、その所有権の帰属は些かもゆるがせにできない問題であった。したがって、地券交付に当たって、とくに秣山が多く存在する旧小田原藩領諸郡と津久井郡で、多くの入会争論が起こったのであった(津久井郡の事例として『資料編』17近代・現代(7)四三三ページ参照)。右諸郡に対し、西・南多摩郡では民林中共有の比率は高くない。西多摩郡では、民間林業の発展が、多くの村山を解体させ、私有林を成立させたのであろう。しかし、残された共有民林の過半は草山である。西多摩郡とことなり、南多摩郡は、丘陵・原野が連なり、ここでの草山(秣山)には、開墾可能地が多く存在していた。開墾-耕地化は、入会利用を侵害ないしは廃絶させる。明治以降の田畑勝手作、土地売買の自由の条件下で生じた開墾の進行は、しばしば入会利用と衝突するが、この郡の木曽・根岸村で起きた騒擾は、この点でも、代表的な事件であったといえよう。 木曽・根岸村秣場騒擾 南多摩郡木曽・根岸村と高座郡淵野辺村は、淵野辺村地内に、三か村入会秣場七六町九反余を共有していたが、山林地租改正実施に当たり、まず、その所有権の帰属が問題となった。 本県で、山林原野の地租改正事業が始められた一八七八(明治十一)年十二月、右区域の地租改正担当官村田茂質(橘樹郡大島村平民。九等属地租改正掛ともいわれるが、正規の官員ではなく、地租改正掛御雇と思われる)は、右三か村戸長らに止宿先原町田村吉田屋へ出頭を求め、 其三ケ村ニ跨ル秣場ノ義、目下地租改正ニ付テハ、未タ官民有地ノ区別不相立、夫々取調中ニ付、談地拙者エ売渡呉候様、然レハ民ノ共有ニイタシ、其三ケ村ノ戸数ニ割、一反ニ付其代金トシテ金五円宛可相渡、若シ熟議不相成時ハ、御布告ニ依リ無論官地ニ可相成者ニ付、然レバ其三ケ村人民ノ困難可有之ニ付、拙者ノ申スル通リニ致候ハヽ村益不少、然ル上ハ其地所拙者ニ於テモ他エハ売渡ス可ク者ニ非ス、該村戸数一同エ弁利ニ割当開墾ヲ任セ、鍬下三ケ年無税ニテ、四ケ年目ヨリ小作金ヲ定メ、永年手作可致 との「談事」を行った(中島孝雄「木曽・根岸村秣場事件」および関係史料『町田市史史料集』第八集、以下主に同書による)。入会秣場の官有地化を恐れた三か村では、協議の上、翌一八七九(明治十二)年四月、秣場を一反歩五円で村田へ売却し、村田は同地を村方に一八八一年まで三か年鍬下年季で開墾を依託し、四年目から小作料を徴収し永小作関係を結ぶ旨を契約した。ところが、このとき淵野辺村は、入会秣場同村分の売渡証を村田へ渡しながら、代金を受け取らず、村田からその売渡証を同村に返却する旨の約定証をとり、一八七九年十一月村田から買い戻した形にして、同村共有名義の地券交付をうけた。すなわち、三か村入会秣場七三町(道敷引三町九反余を除く)のうち木曽村分二九町六反余、根岸村分八町九反余のみが村田に売却され、淵野辺村分三四町三反余は、同村所有として残されたのである。 こうした、山林原野官民有区分の際の、村田茂質とこれに加担した淵野辺村総代の所為を原因として、以後ほぼ一八八三(明治十六)年十二月まで続く「木曽・根岸村秣場事件」が発生した。 ところで県地理課は、一八七八(明治十一)年十月、山林原野官民有区分の方針を、各大区あてに示している。 其区内村〻山林・原野其外一村進退地等ニテ、官民有地ノ区別不判然ノモノハ、別紙書式ニ做ヒ、証書為差出、篤ト検閲ヲ遂ケ、左ノ二ケ条予テ相心得、四隣保証書類等悉皆取纒メ、来ル十五日迄ニ可被差出、此段通達及候也、但、別冊官民有之別不判然地書抜帳壱冊相渡候間、右之外疑敷地所有之候ハヽ、同様書出サセ候様致シ度事 明治十一年十月 地理課 第一条 別冊証書々式甲印ノ如キモノハ、該証書本紙相添可被差出事 第二条 同上乙印之如ク従来ノ成跡上ノミニシテ公証トスヘキ書類無之モノ、並ニ自然生ノ草木ヲ伐採仕来候迄ニテ、村持或ハ誰外何人持ト申立候内ニハ、官民有之別、疑似ニ渉ルモノ有之哉モ難計、該村申立ノミニモ拠リカタク候間、如此類ハ比隣郡村之見込等篤ト承リ糺シ、其四隣ノ村〻ニ於テ、何村持又者誰〻数人持地等ノ事由ヲ瞭知シ、遺証ニ代ツテ保証スル上ハ、詮議之上、民有地ニ相定ヘク筈ニ付、別紙書式之通、保証書面為差出、右取纒メ之上、可被差出事 但、甲印ノ如キ所有之確証アルモノハ勿論ニ候得共、仮令証書一切無之トモ、樹木植附等夫〻労力ヲ尽シ来リ候成跡明瞭ナルモノハ、民有地ト定メ、又従来山野税等納来ル共、自然生ノ草木ヲ採伐仕来リ候迄ニテ、更ニ民有之憑拠無之モノハ、官有地ノ定ムヘキ義ニ付、丙印書式ノ如ク書載スヘキコトニ有之候間、右ノ筋合ヲ篤ト体認シ、万一違口之申立ヨリ後日紛論無之様、他大区接続ノ村落等ハ殊更注意可有之事 なお、別紙は省略するが、右にいう甲印とは、山林・萱野につき (甲印)是ハ当村検地帳・水図帳等ニ誰外何人名受、又ハ一村名受歟ト記載有之、或ハ旧名寄帳等ニ旧来一村共有、又ハ誰外何人持ノ明文アル歟、証書有之歟 また、乙印とは、山林・萱野については、 (乙印)是ハ、前〻( 誰外何人持 一村共有地 村〻入会持 )ニシテ年〻何永ト唱ヘ税納仕来候処、所有之確拠トスヘキ書類等ハ無之候得共、往昔ヨリ( 各所有者 一村人民 入会村〻 )歟ニシテ培栽ノ労力ヲ尽シ、伐採等適宜仕来候分 秣場、芝地については、 (乙印)是ハ従来( 当村進退地 何村何村入会 )歟ニシテ何〻永ト唱ヘ従来永納罷有、別段確証は無之候得共、旧来( 一村共有 何村何村入会共有地 )歟ニシテ耕地培養之タメ自然生ノ( 秣 芝 )苅採進退罷有候分 また、丙印とは、山林・秣場双方につき、 (丙印)是ハ旧来民有ノ証跡等一切無之、官有地ニ相違無御座候分 というものである(二宮町 安藤安孝家文書)。 これによれば、県は、前述三か村入会地のような秣場については、たとえ所有の証拠がなく、また、たんに自然生の草を採取するだけであっても(山林のばあいは、草木培養の労力を費していなければ民有とは認めない)、隣村の保証さえあれば民有地に認める方針であった。村田茂質が虚偽を述べたことは明らかである。また、右の県地理課の各大区あての達は、小区各村へ廻達されたから、当然、木曽・根岸・淵野辺村でも、地租改正総代・戸長ら(木曽村は三沢忠兵衛・石川直昭・飯田茂十郎・石川吉右衛門、根岸村は守屋五左衛門、淵野辺村は河本崇蔵・天野豊蔵・細谷政右衛門ら)は知っていたはずである(従って村田の官有地編入は必至という言が偽りであることも)。とすれば、三か村入会秣場のうち木曽・根岸村割当て分の村田への売却には、村田とこれら地租改正総代・戸長(あるいはその一部)との間に暗黙の了解があったと考えねばならない。村田が買得した入会秣場を、一八八二(明治十五)年に高座郡下九沢村山本作左衛門を経て木曽村三沢忠兵衛・淵野辺村鈴木理平・細谷政右衛門へ売却したことは、この両者間の了解を裏付けるもののように思われる。すなわち、三沢・鈴木・細谷らは、木曽・根岸村割当て分の入会秣場を取得し、自らの手で開墾する意図を、当初からもっていたのではないかと疑われる。彼らは、村田と木曽・根岸村村民との間に契約した開墾竣成の期限三年が過ぎるのを待って、同地を買い取り、三沢は、「此地を買入るゝや否や、大勢の人夫を傭入れ開墾を始め」、両村村民から告訴をうけ、その裁判中も、「東京より開墾器械を取寄せ益々盛大に論地を拓き、又追々該地へ人家を建築し、今は殆ど一新田の状をな」(土屋・小野編『明治初年農民騒擾録』)すまでに事業を進めている。 一方、木曽・根岸村の村民は、ただ入会秣場の官有地編入を防ぐために、村田への売却を承諾したのであった。開墾契約も形式的なものと理解し、実際に開墾する意志は最初からもっておらず、従来通りの入会利用を続けていたとみられる。彼ら一般村民が、淵野辺村の秣場買戻し、木曽・根岸村分秣場の村田から三沢への所有権移転等を知ったのは、一八八二(明治十五)年四月ころであった。これも、木曽村の村役人層の外にある渋谷辰正の聞知ではじめて明らかになったのであり、同村地租改正総代・戸長らはそれまで事態を隠していたと判断せざるをえない。こうして、一八八二年五月一日の木曽・根岸両村の村民集会となり、八王子警察署警部徳尾頴伸の説得により、まず、三沢忠兵衛の告訴という合法的手段をとって、秣場回復の運動を開始した。これが「秣場事件」の発端である。この事件は、一八八三年十一月二十六日の木曽村農民ら数十人による三沢忠兵衛開墾地の新築家屋打ちこわしによって終局を迎え、打ちこわし参加者の拘引・起訴と引き換えに、南多摩郡長原豊穣・同郡鶴間村戸長細野正重・同山崎村戸長高梨才助の仲裁による示談成立(三沢忠兵衛開墾地二八町六反を一反六円で木曽・根岸両村民へ売却)、十二月二十八日横浜始審裁判所の判決(鈴木理平・細谷政右衛門は、木曽・根岸村村民に契約にもとづく買得地の開墾・小作を為さしむべし)によってほぼ結着をみた(経緯の詳細は前掲中島論文『町田市史史料集』第八集参照)。この事件は、当初、入会秣場の官民有区分に際しての改租担当官村田茂質の非道告発に端を発し、やがて、入会秣場をめぐる村の指導的地位にある豪農の特定者と一般農民との対立という本質を明らかにした。そして、ほぼ一般農民の勝利で局を結んだものの、農業不況はこのころすでにこれら農民の生活を破滅に導きつつあった。 二 勧業政策の展開 勧業課・勧業掛の設置 一八七五(明治八)年十二月二十日、当時の神奈川県は、政府の県治条例改定にもとづき、各課の廃置を行い、その際、新たに勧業課が設けられた。課員は、四等属石渡正敏を長とし、七等属水野正連・八等属依田稔らであった。ついで、翌一八七六(明治九)年一月八日、各大区にそれぞれ二、三名の勧業掛を置くこととし、各大区に対し、一月三十一日までに、戸長のうちからこれを兼務する者を選任することを命じた。県の勧業政策実施の体制は、ここに初めて形を整えた。なお、同年五月神奈川県に合併された足柄県部分も、合併後勧業掛が任命されている。右一月八日の県達によれば、当時、管下では地租改正事業で区戸長は多忙を極め、彼らが親しく物産振起に努める余裕はなく、よって「殊更ニ各大区中両三名宛戸長ノ内、有志ヲ撰ミ勧業掛ニ兼任シ、土地実際ニ就テ授産ノ事務ニ与ラシメ」たのであった。勧業掛の任務は、三月二十七日制定された「各大区勧業掛仮定規」によって、「区内人民ヲ説諭シ、諸般ノ良業ニ習就セシメ、専ラ物産ヲ振起スル」とされ、具体的内容は次のごとくであった。 ○勧業関係布達、物価・物産表の整理調製、農事全般につき「内外ノ養殖、培養ノ方法ヲ考採シ、土地実験ヲ尽シ、其利害得失ヲ具状」する。○「牧畜・家禽ヲ拡充スルコト」、○土地改良・山野開墾、○「新規諸製造ノ業ヲ開キ、或ハ従前ノ製ヲ精密ニスルコト」、○「諸器械ヲ発明シ人力ヲ助クルコト」、○津田仙の提唱する新技術「気筒・偃曲・媒助ノ三法ヲ伝播シ、収獲ヲ増加スルコト」、○「貧民ニ肥糞ヲ十分ニ獲セシムルコト」 また、勧業掛は、一-三円の月給が支給され、それは、区内で行う事業に要する費用とともに区費から支弁されることになっていた。 勧業掛の、最初の仕事は、津田仙の禾花媒助法の試験実施であった。津田仙がオーストリアから帰朝後提唱した気筒埋設法(地中に気筒を埋め、土中の通気を図る)・樹枝偃曲法(草木の枝を下方に曲げることによって、養分の枝・葉・幹への適度な配分を図る)・禾花媒助法(草木の開花に、縄を用いて人工的に受粉を助ける)は、(『資料編』17近代・現代(7)解題八ページ以下。なお、同文中農商務省とあるのは内務省の誤り。)当時の内務省勧業寮が熱心に各地への普及に努めたところであり、本県での、大小麦を用いた媒助法の効果実験も、その強い指導によるものとみられる。県は、前述「仮定規」を公布した翌日の一八七六年三月二十八日、早くも正副戸長・勧業掛に対し、 禾花媒助縄之義、為試験今般各大区ヘ二筋宛頒布候ニ付、此程勧業掛出頭候節、及教示候方法ヲ以テ作用可致、尤右器械ハ庁詰書記へ相渡、送達方申付置候条、可得其意、此旨相達候事 と、媒助法実験着手を指示し、さらに四月二十七日、五月十一日にも重ねて示達を行った。津田の前述「農業三事」の普及は、県でも「仮定規」中とくに一項を立てて勧業掛の職務と定めているように、きわめて重視するところであった。しかし、勧業寮ではすでに一八七五年九月、内務省御雇ワグネルの、媒助法を無効とする批判があり、また、その後各地での試験報告に鑑みて、一八七六年四月には、ほぼこれを無益とする結論に達していた。こうして、神奈川県では、「媒助縄の義は、先ず無益の器と存じられ候得共、最早県庁より各大区え(媒助縄を)御下渡相成居候上は、試験も致さず返納いたし候も如何」(『資料編』17近代・現代(7)二五三ページ)、殊に無料のことでもあるので、各大区の試験人は自作のうち五畝でも一反歩でも適宜試験してみる、ということになった。すでに無益と知りつつ、県の体面もあって、当初の方針通り実施したのである。さらに、これの収量比較についても、たまたま地租改正実施中で、「畑主ノ固陋心ヨリ収穫ノ明瞭ナルヲ恐ルルノ情アルモ難計」(五月十一日県達)く、果たして正確な試験結果が得られるかは疑問であった。 初期の勧業着手状況 勧業掛を通して行う県の勧業策は、右の媒助法実験のほかは、さしあたり虫害防除法の報告を各村から求めたり(一八七六年六月十五日)、茶の粗製濫造を戒める(一八七六年七月)など、いくつかの諭告を公布するにとどまった。そして、却って「区・戸長ハ都テ勧業一切ノ事務ヲ之ニ譲リ己ノ責任トセサルノ弊害ヲ醸成」(明治十一年『神奈川県勧業年報』)した。そのため、一八七八(明治十一)年一月、内務省勧農局と地方庁の間に農事通信制が設けられたのを機に、県は勧業掛を廃止し、その事務はすべて区・戸長が管掌することに変更した。このころ、県はいくつかの具体的な勧業策を包懐しており、その一部は実施に移しつつあった(「明治十年府県勧業着手状況」土屋喬雄編『現代日本工業資料1』)。それを列挙すると、○農事小試験場を横浜近郊と小田原に設置し、農業老練の者を雇い、「地味適好ノ草木ヲ移植シ、農具ノ用法ヲ習練シ、相共ニ利害得失ヲ実験」する。 ○横浜・小田原に物産蒐集所を設立し、管内の生産品を陳列し衆人の縦覧に供する。横浜は、とくに貿易品の見本を主とする。 ○管内河川の堤防に桑・楮を栽植せしめ、その堤防使用料をもって堤防修繕の費途にあてることとし、一八七七(明治十)年四月六日この旨を管下正副区戸長・勧業掛・堤防掛に対し諭達を行った。 ○多摩・津久井・高座・愛甲の養蚕・製糸郡を対象に、桑園改良、八王子への養蚕試験場設置を行う。また県が誘導して一八七七年に私費で設立をみた一〇-五〇人取りの製糸場は、「費用巨多ニシテ今後維持ノ計ニ於テ頗ル苦慮」しているので、これを援助する。従来養蚕製糸がみられなかった小田原では、一八七七年、士族授産として桑苗三万本を恵与し各自邸内に栽培せしめ、一方、支庁内と緑町に養蚕試験場を設けた(一八七七年二月設立許可、面積一町九畝)。 ○管内在来の名産、八丈博多糸織・川和縞・青梅縞・二タ子縞・紺飛白等の粗製を改良し、また、洋式機械による輸出用広幅物生産を図る。旧小田原藩士族授産として織場を設け、廃滅した御小屋木綿に代わり飛白縞物生産を再興する。 ○多摩・足柄上郡山間部に椎茸栽培を広め、沿海各村で獲れるなまこの加工生産を興すため、有志者に、資金を広業商会(横浜元浜町一丁目)から貸与せしめた。今後、さらに同商会と「結約」し、生産資金貸与をなさしめ、これら製品の中国輸出を図る。 ○多摩郡御岳山旧神官三一戸の授産として、寒天製造を興させる。製品は、広業商会に委託し中国へ輸出を図り、生産に要する柴薪は、境外官林の雑木を毎年時価で払下げてこれにあてることにする。 ○物産会社を設立し、商品流通を円滑にし、もって物産繁殖を図る。すなわち、「有志者ヲシテ各応分ニ醵金セシメ、官又厚ク保護ヲ与ヘ、本社ヲ横浜ニ開キ、支社ヲ各所ノ港市等ニ分置シ、以テ僻隅所産ノ物品ヲ買収シ、各種時価ニ照拠シ、各地ニ運搬販売スルコトヲ務メ、又篤志之者アル時ハ之ニ起業ノ資金ヲ貸与」する、半官半民の商業・金融会社の設立である。 ○麦藁帽子・石鹸・マッチ等の製造を保護奨励し、輸入の減省ひいては輸出を図る。 ○貧困の婦女への授産と製品生産費の低下を目的として、官の保護の下に「一社ヲ創立シ、各種ノ器械及絹綿糸等ヲ貯置シ、為メニ簡易ノ規則ヲ設ケ、区内ノ婦女ヲ懇諭シ保証人ヲ定メ、請求スルモノハ貧富ヲ問ハス器械ヲ貸与シ各自其家ニ於テ裁縫織紙ノ業ヲ習ハシメ」る。○一八七四(明治七)年十二月、県が設立を認めた三浦郡区長若命信義・小川茂周ら数名による横浜牧畜会社(後述)の発展を図る。 ○一八七七(明治十)年栃木県塩谷郡塩原村産の寒地向けの稲種はじめ人参・落花生等を試作したが、さらに芦ノ湖の水を仙石原大久野村に引水する開田計画を立案する。 ○明治五年(一八七二)東京府士族山田照信ら数名が相模原開田を計画し、本県に出願し、県は、一八七四(明治七)年七月、開拓地所売下げ処分等を内務大蔵両省に上申したが、一八七五年三月、さらに詳細調査すべき旨の指令を得た。よって、出願人に、実地着手の手続、資金募集(水路開鑿等の工費約二〇万円を要するという)等をさらに考定させ、成功が見込めるばあいは、さらに再稟して計画実施を図る。 ○横浜に市街塵芥を選別加工して農家の肥料・薬材を製出する「化芥所」設立を認可し、塵芥選別に救育所窮民を傭役し、貧困廃疾者に生業を与える一助ともする。 ○地元区長らの上願を容れ多摩川上流部、留浦、沢井村間七里の岩石を破砕し水流を疎通して、筏流しを可能とし、上流山間部での林業発展を図る。 以上にみられる県の勧業方針は、士族授産のほか、少数の器械製糸場、東京府士族ら少数者による相模原開田計画への援助、半官半民的性格をもった広業商会・物産会社・女紅場・横浜牧畜会社・「化芥所」の設立援助など、「自ラ事業ヲ興起シ若クハ資金ヲ貸与シテ直ニ農商ノ営業ニ干渉シ僅々数名ノ農商ヲ庇保シ其成蹟ヲ以テ他ノ模範ヲ為ス」(明治十三年十一月、農商務省創設ニ対スル参議大隈重信・参議伊藤博文建議)という、当時の政府殖産興業政策の方針に沿ったものが中心となっていた。実行に移されたその代表的なものに横浜牧畜会社がある。 横浜牧畜会社 横浜牧畜会社は、三浦郡区長秋谷村若命信義、同郡大津村小川茂周外一二名によって一八七四(明治七)年横浜戸部に設立され、同社が飼養する和種牝牛に西洋種牡牛を交尾させ、県下農家に預け繁殖させることを主な事業とし、傍ら洋牝牡牛を飼養し、牛乳を販売し、また、東北、中国等の牛馬産地その他から和牛を買入れこれを販売するなどの事業も行った。同社の発起は、明治五年(一八七二)安石代廃止によって、県下の畑租が一挙に倍増したとき、政府はこれに対する農民および地方官の反対を緩和するため、増租額の二割を勧業授産資金として増租県に下渡すこととしたに始まる。神奈川県は、この政府の方針をうけて、右下渡金による勧農授産の一方法として、この横浜牧畜会社の設立を計画したのである。結社は、一八七四(明治七)年十二月十四日付で内務省の「其県ニ於テ聞置候事」との許可を得、六三九六円余の下渡金を「県庁ヨリ拝借金」として、社中株主一四名からの出金二九〇〇円とあわせ資本金にあて開業した。畑の増租は県下農民全般に関わる事柄であるが、これに対する下渡金は、「僅々数名ノ農商」に交付されたわけである。同社は、その「設置方法」第五九条に「此会社ハ県庁ノ保護ヲ得テ設立セシニヨリ、以後諸規則ヲ変換スルハ勿論、其他一切会社ノ景況ヲ上申シ、指揮ヲ得テ施行スヘシ」(『神奈川県史料』第二巻九八ページ)とあるように、元来が半官的性格をもち、企業として発展する性向を欠いていた。一八七六(明治九)年十二月には、これまで旧足柄県が勧業寮から貸与をうけていた綿羊一四頭を、県から「貸廻し」を受け、戸部牛乳所で飼育しようとしているが、これも「別段費用モ不相掛、剪毛ト比較シ幾分歟ノ利益ハ必然」という、官の牧畜奨励政策に頼って無料貸与を受けることで利益を得ようとするものであった。したがって、政府・県が、一八八一(明治十四)年農商務省設立、官営工場払下げ決定を機に、特定少数者に対する保護による半官的な事業興起から「博ク奨励保護ニ関スル法制ヲ案シ、一定ノ規則ニ拠リテ公平不偏、洽ネク農商ヲ誘導スル」方針へと転換すると、たちまち衰滅に向かった。そして、他の半官半民的会社設立の計画もまた画餅に帰したのである。 相模原開田計画 県が、この時期に援助しようとした相模原の開田も、地元農民が発起したのではなく、外部の少数者によって企てられた事業であった。同地の開田は、すでに明治元年(一八六八)、紀州藩によって、横浜上水道開設とあわせて計画され、同年十二月には、横浜紀州国産会所頭取島田楠右衛門らによる水源調査がなされている(『相模原市史』第六巻、以下も同じ)。明治三年四月三日、東京釆女町中村甚兵衛を願人、同町椿五郎吉・上槙町岡野伊平を差配人として県に提出した開田願書によれば、計画は、津久井郡三井村地内字水神淵から相模川の水を分水し、岩を掘り割って相模原へ引水し、横浜の上水にもあてるというものであった。明治四年十一月の新田開発願やその後の諸願書では、この計画は三井村より上流千木良村字弁天ケ淵から分水することに変更され、山中岩石の場所を三井村を経て中沢村まで二里(約七・九㌔㍍)余を掘り抜き、中沢村から下川尻村まで一里半余は、埋樋で通し、以下相原村から下鶴間村まで約四里半の芝地原野を通水した後、さらに四里半ばかりを流下させ、鵠沼村で海に落とし、一方横浜上水道に分水する分は星川村で帷子川に合流させ、保土ケ谷から横浜港内へ引水する、という内容となった。水路の通る村は、横浜上水道部分を除き、千木良・三井・中沢村・上川尻・下川尻・相原・橋本・大島・小山・九沢・田名・当麻・新田宿・上溝・下溝・磯部・新戸・座間・入谷・鵜野森・上鶴間・四ツ谷・栗原・深見・長後・亀井野・鵠沼の二七か村におよび約一〇〇〇町の原野が開田すると見込まれた。事業は、前述のように当初は、紀州藩横浜国産会所が意図し、明治三年(一八七〇)の願書では、島田楠右衛門は願人として名を出してはいないが、「世話役・頭取万端差配向」を司ることになっている。しかし、廃藩置県後、この事業の主体は、当初からこの計画に参与していた鎌倉の杉村正造(山ノ内)、山口延之輔(十二所)、田中作兵衛(小菅谷)外数名に移り、これに、三年当時の願人と島田も加わり、願人惣代には、東京四谷伊賀町士族山田真三郎(照信)が選ばれ、従来の計画を引き継いで、県へ許可を出願した。山田は、江川太郎左衛門の旧家臣と思われるが、彼もまた、当初からこの計画に参与していた。こうして、明治四年以降開田有志者の中心となった鎌倉住人らは、開田資本金に、鎌倉五山その他諸祠堂の貸付金をあてようとしている。これらはいずれも種々の方面へ貸付中のもので、これを県の力を籍りて取立て、開田資金に振り向けるというものである。右有志は、その後さらに構成が変わり、一八七四(明治七)年六月九日にいたり、東京府士族野本務行・鎌倉十二所村山口延之輔・高座郡大島村斉藤重郎・静岡県士族矢田当義・高座郡磯部村中村大吉・鎌倉郡鍛冶ケ谷村小岩井六郎兵衛連名で、改めて相模原開田を願い出た。右のように計画自体は変わらない(なお、このとき、横浜港へ通じる上水路には、八王子から荷物旅客の通船を通すことを企てている)が、その発起者にしばしば異動が生じているのは、一に資金蒐集が思うに任せないからである。一八七四(明治七)年の出願にあたっては、五年の願人惣代山田真三郎は、資金繰りをめぐり「不都合」があり排除され、資金は、「東京府下有名ノ商両名」からの出金に加え「追々同志出来、華士族衆の内出金いたすべき者多分これあり、費用に於て欠乏足の儀決してござなく」とされている。しかし、県が、一八七三年秋には現地見分まで行いながら許可をためらっているのは、有志らの資金運営に不安があるからで、右一八七四年六月の願書をもって、同年七月県が開拓原野払下げを内務、大蔵両省へ上申したときも、両省は、容易に認可せず、一八七五年三月にいたって、さらに開墾方法・会社規則・資本金員数・掘割其他諸費・空地反別・各村故障有無・開墾年季・水路掘割実形図・地代金などの詳細調査を求めてきた。発起人らは、早速、同三月二十三日「会社仮規則」を締結し、総費金二五万円を二五〇〇株に分かち、株主募集に入ったとみられるが、おそらくこれがうまくゆかずそのまま中絶してしまった。前述のように県は引き続き、この計画の実現を希望しているが、一八八〇(明治十三)年九月にいたってようやく開田出願が提出され、しかも、その出願者は一変し、願人惣代は藤田広得となり、一八七五年の顔ぶれは姿を消し、発起人にはふたたび東京府士族山田照信があらわれている。これに対して、高座郡役所は却下の意向を示し、ついに相模原開田は日の目を見ずに終った。 仙石原勧業試験牧場・耕牧舎 県の、前述芦ノ湖からの引水による仙石原開田計画は、恐らく資金難のため実現せず、代わって一八八〇(明治十三)年一月二十日、県は、勧業資金をもって、仙石原村の共有秣場六九三町二反余を三六三円余で買い上げ、さらに五二町九反余を献納させ、ここに県による勧業試験牧場の開牧を意図し内務省にその許可を求めた。内務省はこれを同年二月六日付で許可したが、その一〇日後、県はこの地に渋沢栄一・益田孝・渋沢喜作および長野県士族小松彰による開牧を許可し、その旨を地元仙石原・元箱根村へ通達している。渋沢栄一らは、この地に大規模な牛馬放牧を計画し、すでに一八七九(明治十二)年末には県に対し、該地の借用願が提出されていることから推せば、県の勧業試験牧場開設は、地元村の共有秣場を買い上げる名目にすぎず、当初から渋沢らの牧場経営を認める方針であったことにほぼ間違いない。渋沢らは、同年五月から牛馬を購入し、耕牧舎という資本金三万円の牧場を開設した。そして、県は九月十七日にいたって、この地を耕牧舎に県の買上価格で払下げたい旨を内務省に伺い出、翌一八八一年二月十八日許可を得た。耕牧舎へ払下げの理由は、「本県ニ於テ開牧ニ着手スルモ資金欠乏ニシテ到底其効ヲ視ルコト覚束ナク、寧ロ払下ノ願意ヲ許容シ、以テ彼等ノ素志ヲ果サシムルニ如カス」(『神奈川県史料』第二巻)というにあった。渋沢らは、こうした県の援助によって、秣場買い上げにともない予想される地元村との紛糾なしに、七六〇町(『県統計書』では七四三町)の牧野を三九一円余(一町歩約五二銭)という価格で入手することができた。また、県は、地元村に無代献納させた秣場五二町九反も払下げたので、その代金二七円九一銭余だけ増収したことになる。この耕牧舎の経営は、半官的な横浜牧畜会社と異なり、成功を収め、後年まで、一三人前後の牧夫を雇い、二〇〇頭を超える牛馬の飼養を続けている(表二-二)。牛は、米国種・純粋短角種・南部種、馬は、米国種・レキシントン種・南部種、い表2-2 仙石原村耕牧舎飼養牛馬数 注 『神奈川県統計書』より作成 ずれも後には和洋雑種が数を増し、外国種は姿を消している。また一八八八(明治二十一)、九年を境に馬の場内飼養が減り、農家へ貸し付ける牛馬が多くなっている。次第に一般農家の需要に応ずる形態をとるにいたっていることがわかる。 初期勧業政策の性格 以上、一八八一(明治十四)年ごろまでの県による殖産奨励策は、特定の有志者を対象にし、これに強く保護・指導を与える点に特色がみられるが、資金の乏しさから、実施されたものは一部に止まり、しかもほとんどが効を奏さなかった。かえって、県が何ら干渉を加えなかった耕牧舎だけが、自らの力で根づき牧場経営を軌道に乗せている。こうして、これら勧業策は、以上の性格から、一般の農民にとっては、ほとんど影響を与えなかった。一般農家の農業技術改良に、大きな役割を果たすのは、農事試験場であるが、それは、一八七七(明治十)年にはすでに計画されながら、一八八〇年三月にいたって、ようやく横浜末吉町に「農事小試験場」が設けられ、しかも翌年八月の通常県会で早くも廃止が決定されている。その後一八九六(明治二十九)年にいたって、初めて横浜市岡野町に農事試験場が開設の運びとなるのである。 しかし、明治政府の強い行政力は、不時の天災などに際しては、近世期には思いもよらなかった威力を発揮した。一八七八(明治十一)年、橘樹郡で大発生をみた蝗に対する県の駆除措置にそれがみられる。 この年七月、同郡末吉村の市場村内飛地字向野の約二〇町歩の原野を中心に異常発生した蝗は、近村の畑作物大豆・小豆・草棉や稲などのほか雑草・小笹までも食い尽くした。権令野村靖は、急ぎ、これの駆除方指揮を内務省勧農局に申請し、同局は、直ちに(七月四日)、少書記官佐々木長淳・九等属小林寿・勧農局試験場雇北原大発智を派遣して駆除にとりかかった。駆除作業は、翌五日は豪雨のため着手できず六日早朝から、雨の中で始められたが、それは次のような大規模なものであった。 午前七時、上下末吉村、市場村から、蓑笠をつけ、鎌・割竹・箒・柳の生枝などを持った人夫二一四人と外に老幼男女が動員され、巡査一人が一手の人夫を指揮し、区戸長がこれに付き、蝗が群生する原野を、四方から囲み、一線に並んで法螺貝で進退を指示し、また、その後方から声を発して蝗が他に散乱するのを防ぎつつ、草を刈り、蝗を撲殺して進み、その後から老幼が死んだ蝗を取り集めた。局員や県官は、原中の小高い所に仮屋を設け休息所とし、ここで老幼らが集めた蝗を、一升(約蝗一〇〇〇匹)三銭で買い上げることとした。午後に入ると権令と県第二課(勧業)全員が出張し来り、さらに第三大区六小区、第四大区五小区の区戸長に人夫の動員を命じ、巡査四名を増員して午後六時過ぎまで作業を続け、一日で買い上げた蝗一石一斗八升二合、焼殺、撲殺を合算して、およそ一石七斗三合、蝗数約一七万七三〇〇匹を殺している。翌七日も雨であったが、動員数はさらに増え、六三七人老幼男女を加え総計一〇〇〇余人に達した。これを四手に分け、上下末吉・獅ケ谷村を一番組、駒岡・師岡村を二番組、市場・菅沢・江ケ崎村を三番組、矢向・南河原村を四番組とし、前日同様の作業を進め、この日は買い上げた蝗三石七斗七升六合八勺、焼殺した分を合算しておよそ一〇石三斗三升四合(蝗数一〇〇万三〇〇〇余)を駆除したと推計された。またこの日は、駒岡村・大師河原村の水田・綱島村・矢口村にも害虫発生の報があり、県官石渡正敏、中井警部、戸長関口源左衛門らが該村に出張した。八、九日は、前日の四組の人夫合計五二八人に加え、生麦、鶴見両村から応援があり、老幼男女を含め合計一〇〇〇余人でさらに巡査四名が増員された。この両日は、直径凡そ三間の叢を、一五-二〇間間隔で五〇余か所ばかり刈り残しておき、これに蝗を追い込み、叢の周囲に乾麦藁を立て掛け火を点じて叢を焼く方法をとり、八日一日で買い上げた蝗一石九斗七升三合、焼殺した蝗一〇石余、合計一一石九斗七升三合を駆除したと計算された。八日は午後七時まで作業し、のち人夫に酒を給している。九日は、同様の作業を行ったが蝗数は著しく減り、そのた橘樹郡で大発生したいなご 飯田助丸氏蔵 め捕蝗の代価を一升五銭に増し、一斗七升五合五勺を買い上げた。焼殺した蝗と合算して九斗二升五合五勺と計算された。この日をもって字向野の原野はほぼ駆除を終えている。また、九日午後からは、佐々木長淳・県石渡四等属・中井十等属に警部二名が大師河原村へ赴き、区戸長らとともに、八日実施した水田への菜種油散布の結果を見るとともに、さらに鯨油を用い菜種油との効果の比較を試みた。すなわち、約一反の田の水面に鯨油半ポンドを撒き、稲苗や畔草を、柔かく細い竹竿で掃い蝗を水中に落とし溺死させるのであるが、菜種油とほぼ同じ効果を得たとしている。また、さらに大師河原村近村諸所に虫害発生の報を聞き、県官を派遣している。こうして、十一日朝、勧農局員は帰京した(一八七八年七月十五日佐々木長淳「神奈川県下害虫駆除復命」『農務顕末』)。 以上にみてきたように、内務省勧農局員の指揮の下で、県権令を先頭に、巡査まで出張して、多数の村民を動員し、大量発生した蝗の駆除に成功している。一般農民にとっては、この時期における県の一見新奇な勧業事業よりも、技術的には在来の駆除法を踏襲し、災害時にだけ発動される、以上のような応急策の方が、はるかに大きな意味をもったといえよう。 共進会等の開催 明治十年代には、本県下で、政府または数府県が連合して主催する共進会が二度にわたって開かれた。いずれも、この種共進会の最初をなすものであった。 一八七九(明治十二)年の製茶共進会は、全国的共進会の初めてのもので、横浜町会所で九月十五日から十月十五日にかけて開かれた。生糸繭製茶共進会として計画されたが、実際には製茶だけの出品・審査がなされた。これが横浜で開かれたのは、ここが茶の最大の輸出港であるためで、出品は全国主要茶産地からよせられ、本県下からの出品は少なかった。本県から製茶審査掛員に入った大谷嘉兵衛は、横浜有数の茶商で、関心は、全国茶産地に向けられ、県下の茶生産についての関心は薄い。また、このとき、共進会参会者中の茶事精通者を集め、十月十四日から十九日までの間茶事集談会が開かれた。 一八八一(明治十四)年十月には、府県連合共進会の最初の試みが八王子で開催された。神奈川・群馬・埼玉・栃木四県の主催で、これらの県の主要生産品である繭・生糸・織物の出品・審査が行われた。これら共進会は、以後、主催県・開催地を変えて、それぞれ回を重ねていく。本県が参加する府県連合共進会は、一八八二年十月に、右四県のほか福島・山梨・長野を加え、第二回目の繭生糸織物(絹織物・木綿織物)共進会が桐生で開かれ、さらに一八八三年二月には、神奈川・東京・埼玉・群馬・千葉・栃木の一府五県連合、米麦大豆菜種綿茶共進会が初めて浦和で、一八八五年五月には、右に茨城を加えて第二回の一府六県連合農産共進会(米・麦・綿・茶・菜種・煙草)が千葉で、翌年四月には、水産物・食用品・肥料・雑用品の、神奈川・東京・埼玉・千葉・静岡・茨城・福島一府六県連合共進会が同じく千葉で開かれた。ついで一八八七(明治二十)年十月には、前記繭・生糸・織物の連合共進会の第三回目が、本県の主催で再び八王子で開かれた。このときには連合区域をさらに広げ、東京・千葉・茨城を加えた一府九県連合となった。さらに翌一八八八(明治二十一)年四月には、前記関東一府六県連合共進会の第三回目が、茨城県の主催で水戸で開かれた(出品品目は、米・麦・実綿・煙草・製茶・織物・家禽)。 こうした共進会の他、政府で主催する内国勧業博覧会が一八七七(明治十)年以降数度にわたって開かれ、また、内務省勧農局は大日本農会に委託して一八八一(明治十四)年三月に全県三府三七県の老農を集め、全国農談会を開催し、一八九〇(明治二十三)年第三回内国勧業博覧会の機にその第二回がもたれた。 以上の共進会、内国勧業博覧会で神奈川県の成績は芳しくない。例えば、一八八七(明治二十)年の一府九県連合繭生糸織物共進会の、出品受賞人を府県別にみると(表二-三)、神奈川県は、主催県でありながら、一、二等賞(計一六人)の受賞者はなく、一-六等までの受賞者の出品人総数に対する割合も、繭・生糸・織物ともに、一府九県の平均値を下回っている。このような県は他に栃木県があるのみで、他の諸府県は、少なくも一部門では平均を上回る受賞率をあげ、とくに群馬・福島県の受賞率はすべての部門で平均を超えている。このことは、神奈川県の養蚕・製糸・織物業の経済的発展の低さというよりは、技表2-3 1887(明治20)年1府9県連合共進会(八王子)の府県別受賞成績 注 「一府九県連合繭生糸織物共進会報告」明治21年神奈川県刊より作成 術の低位性と管下人民のこれら共進会に対する熱意の低さを示すものであろう。 一八八一(明治十四)年の東京浅草寺での全国農談会には、神奈川県からは、北多摩郡砂川村吉沢市之丞・橘樹郡溝口村鈴木直成・鎌倉郡梶原村石井八郎右衛門が出席し、一八九〇(明治二十三)年東京木挽町厚生館での第二回全国農談会には、北多摩郡村山村大岱の市川幸吉・橘樹郡旭村沢野国平・大住郡高部屋村山口書輔が出席した。山口書輔がのちに履歴書に記しているように、農談会出席者は県が「選抜」したのであるが(一八九三年「履歴書山口書輔自記」伊勢原市上糟屋山口一夫家文書)、選抜された者にとってこの全国農談会は、 殊ニ光栄ノ会ニテ各大臣ノ臨席ハ勿論、二重橋内ニテ陛下ノ拝顔ヲ許サレ、亦芝離宮ノ拝観ヲ許サレ、同所ニ於テ茶菓ヲ賜リ其他農商務省ノ厚遇種〻アリ という栄誉あるものであった。一、二回の農談会を通じて、神奈川県の出席者は、麦・養蚕・茶など主に畑作技術について語っている。前記山口は、第二回農談会で「農家経済の現状特に之か上進を図るの手段」という農務局下付の問題に対し、神奈川県出席者を代表して「県下農事の現況は之を陳ふるも参考に資するものなく上進の手段も間接には意見なきに非されとも直接に考案せしものあらす」とのべ、ただ「古来我国農民を賤するの風あるは農業改良上の障害なり」として農家の知識を進め、地位を高めるため「小学校に農業科を加へ幼稚の時よりして農事に習熟せし」めるという「間接」の方法を提案するにとどまった。他県出席者の多くが、県下農家の実状を具体的に報告しているのに対し、著しく観念的である。山口は、この年「農業小学」、「小学農家経済法」の二著を著わしているが(『資料編』17近代・現代(7)一七)、足柄県事務見習・神奈川県地租改正掛雇・同県御用掛・愛甲郡書記・県勧業課九等属をいずれも短期間勤めた経歴をもっている。一八八〇(明治十三)年十二月彼は「世事ノ改進ニ連レ四方ニ民権論盛ンニ興ル、吾亦素心民権ヲ重シ、自由ヲ愛ス、区々タル吏務ニ齷齪スルニ懶シク」(前掲「履歴書」)、官途を辞し、民智改進のため大磯に湘南社を設立し、また、山口左七郎らとともに伊勢原に講学会を組織した。そして一八八二年県会議員に選ばれ、半年後に辞して上糟屋村戸長に一八八三年末まで心ならずも就任した。この経歴からしられるように、彼は、官途を就くのを厭う啓蒙的な農民指導者であったが、自らは農業の経験に乏しく、また、県下農民の実情をよく把握しているとはいいがたい。このように、県下農民の農業発展の意欲は、この時期の全国農談会にはほとんど反映されていない。注 (1) 勧業課は、のちに一八七八(明治十一)年九月の事務章程改正で、興行掛・物産掛の二掛に分けられ、前者は、銀行・諸会社・市場・諸鉱開採願の事務を管掌し、牧場開場、家畜繁殖、土地開墾の事業を管掌し、諸営業人の盛衰比較表の調理・勧業授産の資本金の管理を担当、後者は、博覧会の事務管理とその出品の勧奨・諸物品調査、物価・物産表の編製、種芸試験・生糸・蚕卵紙関係事務の管掌、物産蒐集場の管理、諸工作営業関係事務の管掌を担当するとされた。なお、同年十月の改正で、後者にはさらに、田畑虫害予防事務の管掌、営業税雑種税賦課法査定への参与、が追加されている。 ついで一八八〇年六月の事務章程改正では、興業・殖産の二掛となり、一八八一年九月の同改正で、常務・農務・商工務・山林の四掛に分かれた。事務章程改正は、以後もしばしば行われている。 (2) その器械製糸場は次の通りである。生糸改会社、踏車二四人取(『県治一覧表』では二八人取)、多摩郡八王子駅、一八七七(明治十)年六月二十一日開業。萩原彦七、水車四八人取、同郡中野村、同年六月二十二日開業。田代平兵衛、水車五〇人取、同郡長沢村、同年六月二十三日開業。萩原平蔵、踏車一〇人取、同郡小山村、同年八月六日開業。矢島千七、踏車一二人取(『県治一覧表』では一〇人取)、八王子寺町、同年八月六日開業。(『神奈川県史料』第二巻、三九二ページ、人名は、明治十一年『県治一覧表』による)。 三 養蚕業の発展 養蚕業発展の概観 明治に入って、県下の農業のなかで、養蚕業が最もめざましい発展をとげた。その急速な発展は、明治十年代前半に生じたものである(表二-四・二-五)。連年比較に耐えうる統計が作られた一八八〇(明治十三)年から一八八二年までの三年間に、繭産額は三五㌫増し、また、仮りに一八七七(明治十)年の繭産額(貫表示)を、乾繭一升が四〇匁と低目に換算値をとって推算すると二万四七二石余となり、一八七七年から一八八〇年にかけての繭産額の増加は四倍を超えるほどになる。これを郡別にみると、明治初めの主要養蚕地帯、多摩・高座・津久井・愛甲郡のうち、とくに多摩・高座郡で急激な発展をとげたことがうかがわれる。「物産表」の統計数値は精度が低いので、右の推計をそのまま認めることはできないが、少くも、一八七七(明治十)-八二年の間に、とくに多摩・高座郡で急激な養蚕業の発展がみられたことは確かである。こ表2-4 神奈川県における養蚕業の発展(1880-1892年) 注 1 『神奈川県統計書』より作成。 2 *印は郡別数値のうち明らかな誤りを補正した。 3 1877(明治10)年繭産額(東京府下多摩郡部分を含む)は81,890貫080。 れは、前節でみたところから明らかなように、この時期の勧業政策とはほとんど無縁なかたちで、農民自らがつくりだしたものであった。 しかし、この養蚕業の発展は、明治十年代後半の紙幣整理期にいたって挫折し、とくに農業不況が極度にまで達した一八八四(明治十七)年には繭産額も、一八八〇年の六割ほどに減少した。そして、以後再び立ち直りをみせたものの、一八九二年までの間では、一八八〇(明治十三)年の産額にまでついに回復しない。紙幣整理が県下養蚕業と表2-5 郡別繭産額・養蚕農家割合の変遷(1884-1892年) 注 1 上段 繭産額(石),下段 農家中養蚕農家割合(%)。 2 『神奈川県統計書』より作成。 3 1877(明治10)年は物産表から仮りに乾繭1石=4貫として推算した産額。 養蚕農民に与えた打撃がいかに大きかったかがわかる。 養蚕業の地域的性格 県下養蚕業の中心は、前編でのべたように、多摩・高座・愛甲・津久井郡であるが、明治十年代前半の発展の結果、ここでは農家の五四-八七㌫が養蚕に従事するにいたっている。とくに、西多摩・津久井郡での養蚕農家の割合は、八七㌫にもおよび、ほとんどの農家が養蚕に携わっていたといって過言ではない。ここでは、養蚕農家の多くが自家で製糸していた。津久井郡川尻・小倉・鳥屋・中野・三ケ木村五か村の例をみると、一八八六(明治十九)年現在(中野村は一八八八年現在)で、養蚕農家七一一戸のうち製糸を行っていない家は、わずか一五戸にすぎない(本章第二節二参照)。養蚕農家一戸当たり平均の収繭量は県平均で一・七二石(一八八四年現在)であるが、前記養蚕地帯六郡のそれは、北多摩郡の一・九一石を除き他はいずれもこれを下回っている。養蚕地帯六郡では、零細な農家にいたるまで広く養蚕に従事していることを示すものであろう。これに対し、都筑・鎌倉郡は、養蚕農家の割合は、それぞれ三五・一九㌫と低いが、一戸当たり平均収繭量は、二・六一石、二・二二石と高い。ここでは、中・上層農家を中心に養蚕が行われていることがうかがえる。わずかな土地しか持たない零細な養蚕農民は、桑を買うか、あるいは小作地から桑を得なければならなかった。それで、養蚕地帯六郡では、これに対応した小作関係の展開がみられる。桑附小作・桑放(桑抜)小作という二種の畑小作関係がそれである(沢木武美前掲論文)。桑附小作は、小作人が畑地とともにその周囲に植え付けてある桑樹を借り、あるいは借りた畑の周囲に小作人が桑を植え付け、これを自由に利用するもので、小作人が地主に納める小作料(多くは金納)は、借地料に桑葉代金を加算して定められる(田嶋悟前掲論文)。小作農民は、こうして、養蚕を営むことが可能となるのである。桑放(桑抜)小作は、畑地は小作人が借りるが、そこに植えてある桑樹は、地主が管理・利用する。このばあいは、地主が桑葉を収得し、これによって自ら養蚕経営をいとなむか、あるいはこれを他の養蚕農家(または仲買人)へ販売する。高座郡相原村小川家(一八九二年所有地一〇五町一反、うち畑四二町三反)での桑小作は、すべて桑附小作の形態をとっている。自家も自ら明治二年(一八六九)三四貫五〇〇匁ほどの養蚕をいとなんでいるが、一八八二(明治十五)年には二六貫余に減少している(田嶋前掲論文)。この桑はもっぱら自作地のそれをあてているのであろう。南多摩郡蓮光寺村富沢家(一八八七年田四町二反、畑六町三反、山林三一町一反所有)は、一八七五(明治八)年以降一八八〇年まで畑地(自作桑園五反余と小作畑の畦畔)表2-6 北多摩郡蔵敷村内野杢左衛門家の畑小作料の変化(1873-1883年) 注 1 「十五年壬午,十六年癸未明治公文編年集十」(東大和市蔵敷内野禄太郎家蔵)より作成。 2 大麦1俵は5斗入,大麦の価格は1883(明治16)年内野家は1石2円に換算している。 へ盛んに桑樹植付けを行っているが、養蚕経営は小規模で、自作桑園と桑放小作地からの桑葉は、多くは近くの零細養蚕農家に販売した。しかし、一八八四年には自作桑園を廃止し、それとともに桑葉販売も三分の一近くに縮小した。同家の桑小作地は明治十年代を通じてほぼ六町弱であるが、うち桑放小作をとるものは、一八七八(明治十一)年二町四反から同二三年一町四反へと一貫して減少し、次第に桑附小作が支配的になっている(沢木前掲論文)。また、北多摩郡蔵敷村内野杢左衛門家の小作畑は、一八八三(明治十六)年現在三町一反余(表掲二町九反三畝弱の他に小作料額不明の三筆がある)で、このうち一一筆七反一畝二五歩が桑抜小作であった(表二-六)。内野家は、この地から採取した桑葉で、自ら養蚕・製糸を行っている。同家では、同地帯で急速に養蚕業が発展した一八七三(明治六)-八一年までの間に、大幅な小作料引上げがなされていた。これは、同家のみならず、前記小川・富沢家もまた同様であり、いずれも地租改正による畑租の大幅な増加にもとづくものであった。したがって、内野家のばあい、一八八一年の地価修正で減租になった小作畑では、わずかではあるが小作料を減額させている。また、農産物価格の低落を考慮し、一部を大麦の現物納に改めている。以上の地主の動向をみると、養蚕業の急速な発展の時期は、一方では、畑租の増大、小作養蚕経営にとっては小作料の増大がもたらされているのであり、養蚕経営による貨幣収入の増大は、地主の畑小作料収入を保証しても、養蚕自小作農民の経営発展には結果しなかったといえよう。そして、明治十年代後半の繭・糸価の暴落は、これら養蚕経営を破滅させるとともに、地主の畑小作料収入をも困難にしたのであった。相原村小川家を例にとれば、同家畑小作料収入の滞りは、一八八一(明治十四)年分は八・二㌫であったが、翌一八八二年には三一㌫、一八八三年には六四㌫、一八八四年五〇㌫にも達している(田嶋前掲論文)。 不況後の養蚕業 次にのべる農業不況によって、大きな打撃を受けた県下の養蚕業は、一八八六(明治十九)年に、収繭額が一八八〇(明治十三)年の七三㌫ほどに回復し、以降停滞傾向を示すが、これを郡別にみると、明治十年代には、ほとんど養蚕業が展開していなかった相模川以西地帯にも、養蚕が普及し、とくに大住郡・足柄上郡では平均養蚕農家一戸当たりの収繭額は一石以下という零細な規模ではあるが、全農家の二〇-三〇㌫が養蚕を営むようになった。これに対し、養蚕地帯六郡の繭産額は、ほぼ一八八四年当時の額に停滞し、ただ養蚕農家の割合だけが増大し総農家の七〇-九〇㌫に達した。ここでは、養蚕業は、ほとんどすべての農家にとって、不可欠の現金収入源となったのである。また、養蚕農家の比率は少ないが、その平均一戸当たり収繭量が二・二-二・六石と県下で最高であった都筑・鎌倉郡では、養蚕農家の比率が増大し、それにつれ、平均一戸当たり収繭量は低下し、鎌倉郡では明治二十年代に入ると一石以下にまで落ち込んでいる。この両郡で特徴的にみられた、自作ないし自作地主による比較的大規模な養蚕経営の解体を意味するものであろう。 不況が回復に向かった一八八七(明治二十)年、神奈川県主催で八王子で開催された一府九県連合繭生糸織物共進会において、神奈川県出品繭は他府県に比して遜色あるものが多かった(表二-三)。同会終了後の講話会で、審査官・農商務省属高橋信貞は、神奈川県出品繭の欠点について次のような指摘を行っている。 本県ノ繭ハ前年ニ比スレハ頗ル進歩ノ状アリ、然レトモ、撰種ノ未タ完カラサルカ為メ種類雑駁、一人ノ出品ニシテ数十有余種ノ混同セシモノアリ、養法稍佳良ナルモ、貯蔵法ノ完カラサルヨリ黴気ヲ含ミタルモノアリ、殺蛹法ノ適度ヲ失ヒタルヨリ解舒渋難ナルモノアリ……とくに一人の出品繭中に数十もの種類が混同しているという指摘は、神奈川県に対してだけよせられたものである。この特色は、本県の養蚕経営が多くは零細で、かつ自家製糸と結合しているため、精製された高価な銘柄・蚕種を用いることを好まず、また原料繭の品質統一を強く求める器械製糸業者の影響下にないことを示すものであろう。 武相蚕糸協会の設立 こうした県下産繭の品質向上を意図する動きは、まず八王子の糸商らによる一八八三(明治十六)年六月武相蚕糸改良協会設立に始まる。発起人惣代八王子横山町谷合弥七(一八八六年地価九九八七円余)の亡父弥二は、前述一八八七年府県連合共進会で、「蚕糸ノ粗製ニシテ海外ノ輸販ニ適セサルヲ憂ヒ、夙ニ製糸場ヲ起シテ改良ノ方針ヲ示シ、武相改良協会ヲ開キテ該生糸粗製ノ弊ヲ矯メ、尚ホ、座繰生糸ノ揚枠所ヲ起シテ、汎ク当業者ノ用ニ供」するなど生前多年の刻苦に対し、金一五円の追賞をうけ、また同じく惣代の富田造酒之助は、右共進会での出品人惣代として神奈川県知事の開場の辞に対し答辞を述べている人物である。しかし、同会の申合規則には、協会の検査を受ける対象に、繭類も掲げられているが、主眼はもっぱら生糸類にあった。 蚕糸業組合の設立 県下産出の蚕種・繭に対する検査制度は、一八八六(明治十九)年に始まる各郡での蚕糸業組合と、それを統轄する蚕糸業組合郡部取締所の設立によって、はじめて実施に移された。この動きは、一八八五年六月の全国的な繭糸織物陶器漆器共進会に際して持たれた農談会に出席した各府県代表が連名で、農商務卿に対し、養蚕蚕糸条例の公布を建言したのに端を発している(『農務顛末』第三巻九五一ページ)。この建言は、蚕糸の粗製を防ぐため、蚕糸業者が準拠すべき「一定ノ条例」の制定を求めたもので、その「添申」として「蚕糸組合組織目的」案(全一七条)が付されていた。これによれば、養蚕・製糸に従事する者は、生産者・販売者を問わず郡または町村の単位で組合を組織加入し、これに加入しない者には営業を許さない。組合は、養蚕部と生糸部に分かれ、養蚕部では、「製糸ニ最モ良好ナル種類ヲ育養スル」ために、種々の技術改良を行い、成繭は必ず組合名、製造人または販売人名を記した小札を付し販売することとされる。この建言は、実質は、一八八四(明治十七)年公布された同業組合準則にもとづく農商務省の強い指導でなされたものであった。これに、神奈川県では、前述協会の発起人惣代であった谷合弥七・富田造酒之助が名を列ねている。神奈川県ではこれをうけて明治十九年一月甲第一号達で蚕糸業組合準則を公布し、同年二月十九日には、都筑郡蚕糸組合創立願が、総代桜井光興・織裳勘蔵、同郡各戸長総代、中山村外九か村戸長岩沢源吉名で、県に提出され、同月二十四日認可された。同組合規約は、前述建言書の「蚕糸組合組織目的」案を下敷きにして作成されているが、都筑郡一円の蚕糸業者の組合強制加入の条項は、「当組合締約年期中ハ全ク本業ヲ廃スルカ又ハ組合区域外ヘ移転スル外、決テ組合ヲ退去スル事ヲ得ス」とやや表現を緩めて規定され、また養蚕・蚕種部・製糸部のほか、仲買人を対象とした売買部が加えられている(なおこの規約は、一八八八年五月一部改正された)。これと時を同じくして、ほとんど同一の規約によって、他郡でもそれぞれ蚕糸業組合が組織された。ついで同年四月八日には、これら各郡の蚕糸業組合委員総代によって、蚕糸業組合郡部取締所の認可願が県に提出され、同月十三日許可となった。郡部取締所は「郡部各組合ヲ統轄シ蚕糸業ニ関スル一切ノ取締ヲ為」す上部機関で、本所は八王子寺町に置かれた。ここで蚕糸業組合員の持つ証票・製品に付す印紙が調製され、証票は県庁の検印を受けて各組合に交付され、印紙は各組合事務所に売り下げられる。取締所の経費は、証票料・印紙料・検査料の徴収によって賄われることとされた。こうして、養蚕・製糸業者を、強制的に組合に組織し、製品検査・技術改良の実施等によって、粗製濫造を防ごうとしたのであったが、ひいては輸出拡大・外貨獲得につながるとはいえ、自由な営業活動が妨げられ、結果的には生糸輸出商の利益に奉仕することになる。そして、このような方策が、一八八六(明治十九)年以降における本県養蚕業停滞の一因となったといえよう。しかし、生産者に対するこのような規制は、数年を経ずして破綻を来たした。すなわち、一八八九(明治二十二)年三月二十八日、神奈川県蚕糸組合郡部取締所は、次の建議を県知事あてに提出し、その業務を停止したのである(横浜市旭区 桜井栄一郎家文書)。 建議 明治十九年本県甲第壱号布達、蚕糸業組合準則ニ基キ編成セル現行郡部取締所規約ハ往々不適応ノ条件ヲ生シ、県下当業者ニ対シ実施上差支不少候ニ付、中止致度本会之決議ヲ以テ此段及建議候也 神奈川県蚕糸業組合郡取締所会議 明治廿二年三月廿八日 議長 山田嘉穀印 神奈川県知事沖守固殿 直輸出政策と蚕糸業組合 ところで、以上にみた神奈川県における武相蚕糸協会の設立から、県による蚕糸業組合準則の公布、各郡蚕糸業組合・蚕糸業組合郡部取締所の設立にいたる、蚕糸業生産者規制の一連の動きは、中央における一八八三(明治十六)年五月製糸諮詢会開催に始まる、直輸出政策の推進にあい応じたものであった。右製糸諮詢会における諮問事項の一「蚕糸ノ粗製濫造ヲ矯正シ、勉メテ同一ノ品位ヲ多量ニ製出シ、以テ海外ノ販路ヲ拡張スルノ意見」討議の結果、蚕糸協会の設立が議決され、同会に出席した谷合と富田が、直ちに県下で実行に移したのが武相蚕糸協会であり、中央では一八八四年五月大日本蚕糸協会が設立された。以後、農商務省は、これを通して直輸出体制の樹立を急いだ(『横浜市史』第三巻上第二編第六章)が、その国内体制作りが前述の各地での蚕糸業組合設置にほかならなかった。したがって、一八八九(明治二十二)年三月、中央では、蚕糸業組合中央部会議が中央部の廃止を議決し、神奈川県でも同時に右の建議を行ったことは、農商務省の直輸出政策の生産者把握面での崩壊を意味するものであった。 注 (1) さらに一六人の発起人惣代には、八王子横山町毛利徳兵衛(一八八六年所有地価六八五円余)・同大横町田野倉常蔵(同六五〇円余)・同町畔見保太郎(同四三五円弱)・八日町久保兵次郎(同四四四円弱)・元横山町三好久吉(同四四〇円余)ら八王子糸商が名を連ねている。 (2) 蚕糸業組合委員総代は次の三七名である。 橘樹郡 関山五郎右衛門。都筑郡 秋本九兵衛・桜井光興・小島範蔵。鎌倉郡 露木昌平・仙田由兵衛。南多摩郡 渋谷仙次郎・天野清助・谷合弥二・野崎富大。西多摩郡 指田茂十郎・平岡久左衛門・馬場房太郎・笹本平兵衛・宇津木栄三郎・小山田七兵衛・瀬戸岡為一郎・野崎大助・高島元吉。北多摩郡 江藤栄二郎・中村半左衛門・石川国太郎・原島善兵衛。高座郡 牧野随吉・大島正義・榎本儀兵衛・斎藤省三。津久井郡 吉岡喜左衛門・横溝弥兵衛・井上和気・斎藤政二郎。愛甲郡 杉山七郎・沼田初五郎・清田半兵衛・神崎正蔵。大住・淘綾郡 山田伊兵衛。足柄上・下郡加藤重治。 四 明治十年代後半の不況と農業 物価の低落 一八八四(明治十七)年十一月の南・北・西多摩・都筑・橘樹・高座・愛甲七郡一五〇か村貧民総代(武相困民党)が、北洲社立木兼善に提出した「哀願書」(『資料編』13近代・現代(3)四一)は、 当地帯は畑勝ちの地で、昔から農間蚕桑紡績の業をもって一家を支える生業としてきたが、一八八三(明治十六)年から繭糸類が非常の下落を来たし、養蚕を行っても、蚕種代・桑葉代・日雇代など必要費を差し引けば、一年の生活費の四分の一にも足りない収入しかえられない有様である。また、一八八三年六、七月から秋にかけては大旱で、田畑の作物は枯れ果て、収穫物は家族の食料にも足らないほどであった。加えて一八八四年九月十五日には暴風雨が襲い、平均四分作という被害を出した。しかも穀物の価格は依然として低価で、極貧の困民らは生計の活路を見失った とのべ、さらに公租納入の困難・銀行会社の負債の下での農民の窮迫した状況を縷述している。 また同じころ南多摩郡長原豊穣は、県令に管下農民の窮状を具申し、その原因についても、 一八七七(明治十)年の紙幣増発後、物価騰貴し、農家の資財の時価が大となったため、農家は「金銭ヲ容易視」し、とくに本郡は糸繭の産地で所謂「農間商人」が多く、おしなべて生活を向上させた。ところが一八八一年秋から物価が下落に向かい、糸繭商いで失敗し、生計の収支が償わぬ者も生じた。このころ私立銀行・銀行類似会社から金銭を自由に借りることができたので、これによって当座は切り抜けたものの、その後物価はさらに下落し、「前ニ容易視セシ金銭」は貴重となり、地価は最高値の五分の一にも下ったため、財産を挙げて借金の償却にあてても、なお多額の負債が残り、その元利は加倍して、南多摩郡総計で一六〇万円にも達した。このような景況は、本郡だけでなく隣接諸郡も同様である。 等とのべている(『資料編』13近代・現代(3)一七九ページ)。これらが一様に強調している、当時の物価下落の傾向を、政府統計は表二-七のように示している。しかし、これは横浜・八王子・小田原三か所平均の都邑物価で、農民が自ら生産した農産物の販売価格はさらに低い。南多摩郡の山村上・下恩方、西寺方、小津村は、八王子に、製品を販売する養蚕製糸織物地帯であるが、ここでの一八八四(明治十七)年における繭生糸価の下落は著しく、繭は一八八一(明治十四)年の三分の一表2-7 神奈川県における都邑物価と賃金の変遷(1879-1886年) 注 『日本帝国統計年鑑』より作成。生糸1880(明治13)-1883年は八王子の提糸価格。 1886(明治19)年は座繰糸。 表2-8 南多摩郡上・下恩方,西寺方,小津村の繭糸価格(1876-1884年) 注 「繭生糸産額調査表」「物産表」など(八王子市恩方支所蔵)より作成 以下、生糸は五分の一強に暴落している(表二-八)。いま、一八八四年同様物価が最も落ち込んだ一八八六年における横浜・八王子・小田原の諸物価のあり方を比較すると(表二-九)、これらの町場の周辺で生産される特産物ほど廉価で、遠隔地から供給を仰がねばならない物は、それほど安くない。漁港であり背後に酒匂川流域の米作地帯を擁する小田原では、干鰯・米の下落が著しく、他地方から干鰯・米を移入せねばならない八王子は、小田原より干鰯は約二倍、米は約一割の高値となっている。これに反し、八王子とその周辺農山村が特産地である繭・生糸の価格は、八王子で最も低い。上・下恩方村の例からわかるように、繭・生糸を八王子へ売却する周辺村では、その価格はさらに低いであろう。したがって、八王子周辺の養蚕・製糸農民は、県下三都邑のうち最も安価な八王子における価格より、さらに低い値で繭や糸を売り、三都邑のうち最も高い値で、米麦塩などの食料・肥料その他生活必需品を購入せねばならなかった。また、主に町場に住む職人や日雇取りについてみると、食料品の物価下落よりも、賃金の下落がはるかにはげしい。一八八二(明治十五)年を一〇〇とすれば、一八八五(明治十八)年の米価は九三・五に下っているが、大工の賃金は六三、日雇取りのそれは六八にまで落ち込んでいる(表二-七)。農村における農業日雇の手間代や、下男・下女の給金の下落はさらにはげしく、雇われてその日の食事を給与されればよいとするほどになっている。このような農村の窮乏は、地方都市の職人・日雇取りの賃金をさらに圧迫したであろう。 表2-9 1886(明治19)年における都邑の諸物価 注 表2-7と同じ 負債の激増 先にのべた地租改正後の諸条件(本節一参照)の下で、農家経営の破綻は、まず負債の累積となってあらわれた。一八八四(明治十七)年十月八日付南多摩郡長原の県令あて具申書(前述具申書に先立つもの)によれば、同年九月現在で南多摩郡の一戸当たり平均負債額は一〇八円九四銭六厘に達し、その額の三分の二は、一八八一年以降の三年九か月の間に生じたものという(表二-一〇)(野口正久「武相困民党事件の社会経済的関係資料」『多摩文化』第九号)。しかもこの負債は、各町村戸長役場で公証を経た分だけであって、実際の負債額はこれをさらに上回るとみられる。右の負債額は、その年利一割五分とすれば(本文三六六ページ参照)、年間利子だけで一戸平均一六円三四銭余の支払いが必要となる。これは、一戸平均納入地租額の三倍半にあたる額であった。地租納入さえ困難であった一般農民が、これだけの利子負担に耐えられるはずはない。以上のような状態は、南多摩郡はじめ養蚕地帯のみならずその周辺諸郡でも、程度の差はあれ広くみられた。都筑郡各村について、南多摩郡との対比のために表二-一〇と同じ指標をもって示すと表二-一一のようになる。都筑郡は、南多摩郡に接し、その南部に位置する郡であるが、この五三か村(鴨志田、北・西八朔、上・下谷本村など数か村の資料を欠く)のうち半ば二六か村は、一戸当たり平均負債額の利子支払いがその地租納入額を超えている。南多摩郡の表二-一〇は、戸長役場管轄区域ごとの平均値で、村ごとにみれば、一ノ宮村のごとく、一戸当たり平均負債額表2-10 1884(明治17)年9月現在南多摩郡1戸当たり平均負債額 注 1 下川口・下恩方・南平戸長役場を欠く。 2 野口正久「武相困民党事件の社会経済的関係資料」(『多摩文化』第9号)より作成。 表2-11 1885(明治18)年都筑郡諸村の負債状況 注 1 「貧富一覧表」『資料編』17近代・現代(7))より作成。 2 1戸が数件の負債をし,また,村内,他村双方に負債している場合があるので,総戸数中負債者の割合が100パーセントを超す村もある。 が五一〇円に達する村があり、二〇〇円以上の村だけで一九か村を数える。都筑郡下の負債状況はこれほどではないが、それでも一戸当たり負債額二〇〇円以上の村四か村、一〇〇円以上の村一四か村を数える。負債額の多い村は、地域的に集中している。最も一戸当たり負債額が多く、しかもその半ば以上が他村からの借入れである村々は、鶴見川上流右岸(現在の横浜線沿線)、長津田を経て南多摩郡原町田村に通じる街道沿いに集中している。そして、横浜から原町田に通じる街道沿い(現在の相鉄線沿線)の諸村がこれにつぐ。これらはいずれも、内陸部養蚕・製糸地帯と横浜をつなぐ街道沿いにあって、水田に乏しく貨幣収入を求めて養蚕を急速にのばしてきた諸村であった。ここでは総戸数の半ば前後の家が、他村の者から借金を仰いでいる(一家で数人の名儀で借金をしているばあいがあるので実際の割合はやや少ないと思われる)。こうした現象は、維新前には考えられなかったことで、奈良村の盛運社をはじめ隣郡原町田などでの銀行類似会社等金融機関の簇生と表裏をなしている。一方、都筑郡のなかには、一戸当たりの負債が少なく、比較的安定した生活を保っている村も存在した。これら村々のほとんどでは、他村からの借入れは、一件当たりの借金額は小さくはないが、件数は少なく、金融の多くは村内でなされている。こうした諸村は、鶴見川左岸に展開する水田地帯に集中している。先にみた勝田村(第一編第一章第二節)に代表されるように、これら諸村では、水田の存在が農家経営の自給性を強め、安定させているのである。 以上の負債状況は、おそらく相模川以西地帯でもみることができた。この地帯で大規模な金融活動を展開したのは、淘綾郡一色村の露木卯三郎・大住郡馬入村の江陽銀行・同曽屋村の共伸社・同戸田村の小塩八郎右衛門などで、従来の慣行・情誼を無視し、政府の新たな金融法令を十二分に活用したその金融活動は、子易村・土屋村騒擾、一色騒動、弘法山騒擾等の事件を惹起した(『通史編』4近代・現代(1)第二編第二章第五節)。なかで、一八八四(明治十七)年五月大磯の旅宿で殺害された露木についてみると、その貸付の範囲は広く大住・淘綾・足柄上・下・高座五郡に及んでいた(安藤建二「明治十七年の相模国淘綾郡一色騒動」覚え書『神奈川県史研究』14)。彼の、大住と足柄上郡の一部に対する貸付状況は、特定の地域・人に集中せず、広い範囲にわたっているのを特色とする(表二-一二)。こうした金融活動は、都筑郡のばあいと同様、この地帯の諸村がおしなべて他村の者からの負債を抱えるという状況を作りだした。そのため、前記負債返弁騒擾も、一か村の農民によってではなく、広い範囲の諸村農民が糾合して起こされたのであった。 在村地主の動向 以上にみた明治十年代後半における農民負債の累積は、主に十年代に簇生した私立銀行・銀行類似会社あるいは新興の個人金融業者によってもたらされた。だからこそ、多摩地方はじめ県下各地で起こった負債返弁騒擾では、右の会社・個人が、農民の攻撃の的となったのであった。しかし、一方、村の上層部に位置する在来地主層も、それぞれの規模に応じた資金融通を、主に自村を中心として行っていた。その件数・貸付金額の合計は、都筑郡のばあいから推定すれば、右金融業者のそれに匹敵または凌駕するほどであったろう。しかし、これら在村地主は、貸金の貸付期限が切れても、表2-12 露木卯三郎の1884(明治17)年現在貸付状況 注 1 厘位は切り捨て。 2 土井浩「明治10年代・神奈川県下の土地金融活動について」(『神奈川県史研究』27)表8による。 3 足柄上郡2村については1884(明治17)年「諸綴込」(大井町山田了義寺蔵)から補足した。 4 大住郡の1人当たり平均貸付金額は,すでに処分済みのものも含めた額。 直ちに抵当地の公売処分に付すなどの法や裁判機構に頼る措置はとらないのが常であった。 北多摩郡蔵敷村は、一八八七(明治二十)年現在、負債総額二八五〇円八〇銭、一戸当たり平均負債額が四五円二五銭で、多摩地方では負債の少ない部類に属し、また他村からの負債もほとんどない。これは、この村の有力地主内野杢左衛門家が村民に多くの貸付を行い(一八七六(明治九)-八七年間一九件うち同家小作人へ八件)、また村には共有の備金があり、これの村民への貸出しがなされていることによっている。この村の土地抵当金融(書入)は、一八八〇(明治十三)年から急に活発となり一八八四年に件数・負債金額ともに最高となる(表二-一三)。しかし、一八八二年から次第に返済されない負債額が累増し、これにともなって、一八八三年から新規貸付額が減少していく。とくに一八八〇、一八八二年に年利一割五分、一八八五年六月までという条件で貸し出された村有備金は、一五件のうち一八八七(明治二十)年にようやく三件が返済されただけであったため、基金が枯渇して、以後一八八七年まで貸出しを停めている。一八八七年に入ってようやく三件の返済があり、それは直ちに新規に貸し出された(うち一件は契約更新)。こうして村有備金は、村民の生活が最も逼迫し表2-13 北多摩郡蔵敷村の土地抵当負債(書入)金額(1876-1887年) 注 1 ( )内は件数, ●印は村が貸付けた金額。 2 原資料は「明治公文編年集十一」より作成。 た一八八三(明治十六)-八六年に、本来の機能を発揮できなかった。個人の貸付(年二割の利子が一般的である)もまた、一八八四年での九〇九円をピークに急速に新規貸出しを減じていった。以後の年の新規貸出高と返金(抵当や受戻し)高を対比すれば、新規貸出しをおさえ、貸金の回収を図っていることがわかる。ここに負債返弁騒擾の影響をみることができるが、村内地主層は、村内の平和を破壊してまで貸付活動を強化する意図はもっていなかったといえよう。高座郡相原村小川家のばあいも同様である(表二-一四)。同家は、自村の外、同郡橋本・大島・上矢部・小山・九沢村・津久井郡川尻村・南多摩郡宇津貫・大船・鑓水・小倉村等にも広く貸付を行っているが、その活動は、一八八一(明治十四)年に入ると貸金滞りが急増しはじめ、一八八二年以降は利子収入も減少に向かっている。こうした貸付活動の困難に直面して、同家はいち早く一八八二年から新規貸付を減少させ、その活動の縮減を図った。すなわち、回収不能となった貸金は、抵当地を小川家が買い取ることで決済し、また年々二五〇円程度の棄捐(「捨金」)を行っている。小川家は、旧幕期から村役人的立場を維持しながら領主層への貸付とともに、耕作農民の貢租・諸入費の立替払い、在郷糸繭商人への仕入れ金貸付等を行ってきた(田嶋悟前掲論文)。同家が、このような貸付活動を縮少しはじめたとき、私立銀行・銀行類似会社は、かえってその活動をさらに拡大・強化しつつあったのである。 なお、以上の蔵敷村および小川家の事例などからみると当時の土地担保金融で、利子年二割は、一般的であったようである。当時の県下農村にあって、この程度の利子は「高利」とは必ずしも意識されていない。私立銀行・銀行類似会社の貸付活表2-14 高座郡相原村小川家の貸金動向 注 1 田嶋悟「養蚕畑作地帯における地主経営」(『神奈川県史研究』20)による。 2 厘以下切り捨て。 動が非難されたのは、第一に、「通常利子ノ外ニテ延利・日踊リ・手数料・検査料」(前述「哀願書」)など種々な名目でさらに利子を取る方法に対してであった。 さらに第二には、その貸付期限が一日でも過ぎれば、直ちに訴訟に及ぶという、法を楯にとった仮借ない取り立てであった。負債農民らは、このような「才智モ長ケ以テ法ヲ泳テ貧冒ス」る所業をもって「高利貸付営業」(須長文書「負債問題ニ関スル論文及願書」『資料編』13近代・現代(3)一八〇ページ)とみなしたのである。 当時の農村の状況のなかで、在村地主の動向は複雑であった。前述須長文書は、この点に触れ、 銀行会社の苛酷な貸付けに対し、負債農民は、これの返済を怠れば「国法ニ戻ル」ことになるのでやむを得ず何を措いても返済に努力する。そのため、租税、協議費を滞納したり、「道徳上ヨリノ貸借」すなわち法に拠らず信用・情誼にもとづいて行う貸借に対しては「終ニ利子一銭モ払ハサルニ至」ってしまった。そのため、「旧戸長ノ如キ、及ビ道徳ヲ重ンスル金満家等」の一〇中の七、八は、貸金の元利ともに回収できず負債農民同様「困窮ヲ訴ル者」が少なくない。このような事情で、「淳厚ノ志タル人、貧民ヲ助クルヲ得ス、貧民之ニ酬ルニ道ナシ、道徳頓ニ地ニ墜、倶ニ薄情ニ流ルルニ至レリ」 とのべている。すなわち、これまで在村地主(あるいは旧戸長、「道徳ヲ重ンスル金満家」)が行ってきた耕作農民に対する「道徳上ヨリノ貸借」は不振となり、生活困難を招くにいたっていることを指摘している。「道徳上ヨリノ貸借」とは、いうまでもなく慈恵的な貸与ではなく、前述蔵敷村内野家・相原村小川家など、これまで在村地主が一般に行ってきた自村農民を主な対象とする旧慣にもとづく貸借であり、それが年利二割を普通としていたことと矛盾するものではない。しかし、このような在村地主・資産家層は、自家を没落から防ぎ、あるいはさらに経済的発展を図るために「道徳上ヨリノ貸借」に代わる新たな事業を模索せざるをえない。彼らの一部は、私立銀行・銀行類似会社の株主となり、あるいは役員に就き(色川大吉「三多摩自由民権運動史」『多摩文化』第九号)、一般農民と敵対する性格を備えることになった。なお、この時期には、在村地主の織物業経営も、売価の低落によって損害を招いていた(表二-一五)。南多摩郡上椚田村石川家(源助、一八八六年地価五七五円九二銭)のばあい、実際の小作料入額は三一円五〇銭で、貢租その他諸入費を控除すれば、純益は二円七〇銭でしかない。貸付金利子も一四円二六銭余で、経営の中心は織物業にあった。しかし、それも原料糸代・給金を控除すれば一〇四円六〇銭で、その他の必要経費・自家家計費を充たすに足らず、五三円弱の赤字となっている。この織物業の運転資金が借入れによるばあいは、たちまち倒産の危険に陥ることになろう。これは一例にすぎないが、在村地主層がこの時期経営発展を図ろうとすれば、銀行・銀行類似会社への参加など金融業への進出以外にとるべき道を見い出すのは困難だったといってよいであろう。 農民の窮乏と大地主の成長 一八八四(明治十七)年十月、南多摩郡長原豊穣は、管下に夥しい負債困民が生まれつつあるのを目撃して、強い危惧を抱いた。すなわち、今日の情勢がこのまま進めば、「倒産相踵キ、貧富懸隔ノ社会トナリ」、人民貧富の差が甚だしくないという我国の美俗が消滅し、「無禄平民、夥多ノ水呑百姓ヲ現出シ」、「国体ノ汚下」のみならず、国家の治安もあやうくなるであろうという危機感である(野口正久 前掲論文)。 神奈川県は、もともと、県民のうち県会に被選挙権・選挙権を持つ者の割合が、全国平均よりも低い県であるが、一八八一(明治十四)年以降不況が深まるにつれますますその割合は低下していった(表二-一六)。権限がきわめて制約されている県会表2-15 1885(明治18)年南多摩郡上椚田村石川家の収支 注 石川源司家(八王子市東浅川町)文書「10月26日内調べ」より作成 ではあるが、それにすら政治的権利を認められない県民がますます多くなっている。そして、これはまた、自作農層の土地喪失が全面的に進行していることを意味するものであった。 県会議員の選挙権者は、地租五円以上納入者、被選挙権者は、地租一〇円以上納入者であることを要するが(詳細は『通史編』4近代・現代(1)二九〇ページ)地租五円納入者にあたるモデル農家を、県平均の反当地価・田畑比率から画いてみると、田一反・畑一町余を所有する農家となり、地租一〇円以上納入者は、田二反・畑一町五畝程を所有する農家ということになる。 これら自作農・在村地主の手から離れた土地は、多くは特定の地主に集められていった。私立銀行・銀行類似会社の貸付活動は、土地を抵当とすることがあっても、その取得は目的としておらず、むしろ貸金延滞による抵当地の流れ込みを極力避けた。やむをえぬばあいのみ抵当地を公売処分に付したが、これによっては、債権のごく一部を回収しうるにすぎなかった。一八八四(明治十七)年以降、地価は大幅に下落し、一八八六年ころには、八王子地方の地価の多くは、法定地価額を下回ったといわれる(正田健一郎「明治十年代の地方銀行」『早稲田政治経済学雑誌』一七四・一七八号)。そして、各所で頻繁になされる公売処分が、ますます地価を下落させた。こうしたなかで、特定の地主への土地集積は、いくつかの形をとって行われた。第一は、先述した高座郡相原村小川家のように、自己の貸付金が焦げ付き、それを整理するために、負債主から抵当地を引き取るものであるが、遠隔地にまで広く抵当地が分散し、かつ小作地の管理能力をもたない銀行会社・個人貸付業者のなしうるところではなかった。資金貸付が居村中心表2-16神奈川県における県会被選挙・選挙権者(1881-1885年) 注 『日本帝国統計年鑑』より作成 に限定され、かつ自ら土地を管理できる在村地主にしてはじめてなしうる方法であった。しかし、これも、金主が貸金を無にしないためやむをえずとった措置であった。第二は、銀行・銀行類似会社が、焦げ付いた土地担保の債権を、株主に肩代りさせることによって、その株主の手に負債者の抵当地が入ることになるもので、株主は、自分の銀行会社に対する債務を、この肩代りで相殺することができるので、当時の状況下では損な取引ではなかったとみられる。前述のように、在村地主の一部(自由党員も多く含まれている)は、銀行・銀行類似会社の役員・株主であり、彼らのこの時期における所有地の増大は、主にこの方法によるものが多いと思われる。いま、南多摩郡の自由党員でこの時期(一八八二-一八八六)に所有地を増大させている者をみると、判明している限りでは一名を除きすべてが、銀行・銀行類似会社の役員株主であった(表二-一七)。なかでも八王子横山町成内頴一郎・堀ノ内村鈴木芳良・日野宿高木吉蔵・天野清助らはその代表的な人物である。激動の数年間のうち、同志である石坂昌孝・村野常右衛門らは、所有地を手放し、産を傾けていくのと裏腹に、彼らは地主としての基盤を固めていった。この時期表2-17 所有地を増大させた南多摩郡自由党員(1882-1886年) 注 1 『通史編』4近代・現代(1)399ページ以下より作成。 2 少額の増加者は省略した。 は、在村地主(豪農・旧家資産家)にとっても、盛衰の岐路にあたっていたのである。土地取得の第三は、当時各所で行われた銀行・会社その他金融業者による抵当地の公売処分を通して自己の希望する地を安価に入手してゆく方法である。このばあいは、小作料の購入地価に照らして有利かつ安定した収得を目的として、地主的土地集積を明確に意図して行われた。しかし、繭糸価が暴落している畑作地帯で、しかも負債困民の騒擾が各所に広がっている当時では、こうした志向を示す地主はきわめて少なかったろう。だからこそ公売に付しても落札者がいないというばあいがしばしば生じ、公売執行者が自ら落札人となることも多かったのである。 いま、一八九〇(明治二十三)年四月、貴族院多額納税者議員互選者の資格を得た、本県下で最大の地主である九家をみると(表二-一八)、愛甲郡永野家を除き、他はすべて一八八五(明治十八)-八七年から一八八九年にかけての間、土地所有を伸ばしている。一八九〇年の互選資格の下限は、本県ではほぼ地価一万六〇〇〇円程度であるが、互選資格者のうち山口・田村・関谷・萩原家は、いずれも、一八八五、八六年から三、四年間の土地集積によって、この資格を獲得している。以上からみると、本県における大地主は、ほとんどが、明治十年代後半期に急速な土地拡大を行ったことがうかがわれる。 こうして、明治十年代後半の農業不況は、神奈川県下でも「貧富懸隔ノ社表2-18 神奈川県1890(明治23)年貴族院多額納税者議員互選資格者(地主のみ)の所有地価額 注 明治23年「貴族院多額納税者議員互選名簿」,明治19年南多摩郡「地価大鑑」,明治18年「富民取調表」(『資料編』14近代・現代(4))より作成 会」を現出させたのであった。 この過程は、大規模な負債返弁騒擾によっていろどられた、農民にとって痛苦の過程であった。すでに一八八二(明治十五)年に、三浦郡三浦町で、不漁と金貸の跳梁によって、窮民の不穏な動きがあらわれているが(後述)、一八八三年十月以降、相模川以西地域で、負債農民による騒擾・露木卯三郎殺害事件、その他不穏な動きが各所に起き、一八八四年七月に入ると、騒擾は、多摩・高座郡で、さらに大規模な発生をみた。こうして、同年十一月には、多摩・高座・都筑・愛甲・鎌倉郡三〇〇か村貧民代表による武相困民党の統一組織が結成されるにいたった(『通史編』4近代・現代(1)四四二ページ以下)。困民党総代は、以後、郡長・県令に対する請願を行うが、翌一八八五年一月、県はこれに解散を命じる。このときまでに、銀行・銀行類似会社側は、自由党員ら地方名望家の仲裁に対し、それぞれ一定の譲歩(貧困者に対する負債元金の支払い猶予・利子引下げ等)を行っているが、それがかりに忠実に実行されたとしても、すでに負債農民の破産を止めることはできなかったろう。以後、一八八五(明治十八)年から八六年へかけて、多摩・高座地方を中心として、その日の食料にもこと欠く多数の窮民があらわれている。一八八五年の高座郡相原村の郡長への報告によれば、「目下窮民ノ状態各自糊口ヲ煩ヒ、小作金及負債ヲ償フ事能ハス、債主及地主モ殆ト困難セリ」といわれる。小作農民らは、親族組合ともに困窮して助けを乞えない者は、わずかの知り合いに頼り「金銭雑穀等ヲ乞、辛ク糊口ヲ凌」ぐ有様であるが、彼らの窮迫は、債主・地主らにまで及び、一村困難な状況となっている。そして「郡内挙テ窮民ノ多キヲ加ヘタルカ」という問に「然り」と答え、これが一郡共通の現象であることを明らかにしている(『相模原市史』第六巻六一ページ)。多摩地方の窮状も、右とほぼ同様であるが(『資料編』13近代・現代(3)一七七ページ)、一八八六年三月、五日市に近い山村、西多摩郡入野村では、「扶喰ノ購入ニ差支」えた困窮の者五、六〇名が集会し、不穏となるほどの状況にいたっている(「直轄公用書綴込西多摩郡長」東京都公文書館蔵)。 この地方は、耕地乏しく食料の八、九割は他地方から購入し、山稼等で生活してきた土地柄であったが、一八八四年ころからの不景気で、一日の稼ぎで一日の食料を賄うことができなくなり、一八八六年一月ころから糊口に窮して、村有秣場(戸倉山)に赴いて「トコロ」(山ウドの芽)を採掘し、川中で晒し、割花(大麦の挽屑)・ソバの〆粉(ソバ粉を製するとき皮際に付く粗粉)などを混ぜて食料とする者があらわれ、二月上旬には七、八〇人に達した。二月十三日彼らのうち小峰源次郎外四、五名が樽寿作方を訪れ、生計を保つために村共有物を売却し、代金を村民に配分することを求めた。寿作は、村内困民一三名へ「青梅町貧野民右衛門」なる名義で回状を出し(その内容は明らかでない)、困民が愛宕平の山中に集会するとの風説が流れた。この動きは、五日市分署によって抑えられたが、このように、一八八六(明治十九)年麦秋前には、文字通り飢餓に迫る状態が、各所でみられたのである。 注 (1) 前述「哀願書」は、多摩ほか四郡の糸価を一八八〇(明治十三)年、一貫目五五円五六銭、一八八二(明治十五)年、二三円二六銭ないし二三円八一銭としているが、恩方村などの糸価も、これとほぼ符合している。そして、一八八四年には、一八八二年よりさらに下落するのである。 (2) 高座郡大島村中里宗兵衛も、一八八四(明治十七)年十一月六日「私立銀行及ビ貸付会社ト各郡村困民トノ葛藤ニ付陳ル権衡旨意書」のなかで、「金円ヲ貸渡ス際、利子手数料トシテ四ケ月ノ期内ニ二割(則チ百円ノ金ニシテ二十円ヲ引落シ、残レル八十円ヲ受取如シ)ノ利子ヲ引落シ、或元利或ハ延利月踊リ(即チ一月ニシテ二月分ノ利ヲ占ムルヲ云フナリ)手数料・検査料抔ト名号ヲ区別シ過激ノ利子ヲ占収」するといい、また、須長漣蔵筆と思われる一文書(「負債問題ニ関スル論文及願書」『資料編』13近代・現代(3)一八〇ページ)も、年の初めに一〇円の借金証書をもって借りた八円(二円が利子として初めから控除される)が、十一月には、二〇円九五銭九厘の証書に書き換えられるにいたる事例をあげている。このような事実は、一八八三年神奈川県に巡察使として訪れた元老院議官関口隆吉がその復命書のなかですでに指摘したところであった(『資料編』11近代・現代(1)二三一ページ)。 (3) たとえば、八王子銀行の、仲裁人に対する回答書は、「口述」と記され、八王子銀行の捺印はなされていない(『資料編』13近代・現代(3)一五七ページ)。なおここに「八王子銀行ノ印」とあるのは、「八王子銀行 無印」の誤植である。 五 漁業の再編と製塩 漁場の再編 一八七五(明治八)年十二月、明治政府は、太政官布告第一九五号をもって、「従来人民ニ於テ、海面ヲ区劃シ、捕魚採藻等ノ為所用致候者モ有之候処、右ハ固ヨリ官有ニシテ、本年二月第二十三号布告以后ハ所用ノ権無之候条、従前之通所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ、借用ノ儀其管轄庁ヘ可願出、此旨布告候事」と達し、海面は官有であり、したがって、この布告以後は、従来の村方の漁場占有利用権は消滅する。よってこれまで通りに漁場所用を希望する者は、改めて政府へ出願せよとの新たな方針を明らかにした。さらにあわせて、太政官第二一五号達で、海面借用を出願した者へは調査の上許可し、これまでの漁業税の税額を引き直した額の借用料を徴収するとした。この海面官有宣言とそれにともなう海面借区制施行は、とくに東京内湾の漁村のように、近世以来、錯雑した入会関係にある漁場の利用をめぐって、しばしば紛争をくり返してきたところでは、紛争の激発という結果をもたらした。右宣言により、これまでの漁場占有利用権が消滅したのを機に、村方では自己に有利な漁場借区を獲得しようとする動きがあらわれたからである。そのため、政府は、右宣言の七か月後、七月十八日太政官達第七四号で漁場借区制を取り消し、「以来各地方ニ於テ適宜府県税ヲ賦シ、営業取締ハ可成従来ノ慣習ニ従ヒ、処分可致」旨を達し、「従来ノ慣習」すなわち、これまでの村方における漁場占有利用権を尊重する方針を明らかにした。海面が官有であることは変わらないが、その統轄・取締りは、府県に委ねられ、府県は、管下漁場の、旧来の占有利用の実態を把握し、これにもとづいて、府県税として「捕魚採藻営業税」(のちに「漁業採藻税」)を賦課していった。神奈川県では、明治十一年一月十二日甲第三号による「捕魚採藻営業税則」の達がそれである(『資料編』16近代・現代(6)二六二ページ)。同税則は、その後、明治十二年六月甲第一一一号、明治十三年十月甲第一七九号の改訂を経て、明治十四年五月甲第八七号「漁業採藻税則」、同年六月甲第一〇一号達「漁業及採藻営業規則」に改定された。この改定は、これまで税則のなかに内包されていた漁業取締りを独立法規として分離したものである。漁業・採藻税は、「各地従来ノ慣例ニ依リ之ヲ徴収」し、「若シ其例規ヲ改正シ、又ハ新規ヲ創設セントスルモノハ、府県会ノ決議ヲ経テ府知事・県令ヨリ内務・大蔵両卿ニ具状シ、政府ノ裁可ヲ受」(明治十三年四月八日太政官布告第一七号)けねばならないとされた。しかし、一方、近代的税制における営業税はあくまで個人に賦課する建前で、旧来の漁場占有利用権者である村ないしは入会村々はその対象になりえない。したがって、近代的諸制度が整備され、村も行政村として再編成されていくなかで、従来の村持漁場や数村入会漁場の実態を旧慣のまま維持しようとすれば、これまでの漁業権者である村ないし村々に代る漁業団体を設け、これに法的地位を与えねばならなかった。一八八四(明治十七)年十一月の農商務省達第三七号「同業組合準則」、ついで一八八六(明治十九)年五月同省令第七号「漁業組合準則」は、そのための法的措置にほかならない。以後神奈川県でも、漁業組合が設立され、これが、旧来の慣行による村持入会漁場の漁業権を継承し、管理を行っていった。一八九二(明治二十五)年八月、県令第五五号「漁業取締規則」は、こうした管下での漁業組合設立を前提にして、前述一八八一(明治十四)年六月の営業規則を改定したものである。このような、法的な整備の下で、近世以来の漁業は、急激な変革をみることなく、明治以降にひきつがれてきたのであった。 漁業の地帯区分 こうして、県下の漁業は、ほぼ近世以来の形態を維持して明治に入るが、それは、漁場・漁法等の違いによって、おおむね、東京内湾漁業、三崎とその周辺の漁業、相模灘の漁業および内水面漁業の四つに分けられる(表二-一九、なおこの表は、郡別に漁浦を区分したため、三浦郡には、内湾漁業・三崎周辺漁業が混在して表示されている)。以下それぞれの地帯別に、明治前期の実態とその変化をみていくことにする。 東京内湾漁業 東京湾は、近く昭和期に入っても、 ……其の位置、其の形状、其の底質、其の水深水質、並に之に注く大小河川の数々、更に其内奥に位する大都会等々、有用水族の饒産すべき数多の好条件を具備し、魚類のみで百有余種を算へ、之に烏賊・蛸の類、蝦・蟹の類、各種の介貝、浅草海苔の如き特殊の藻類に至る迄、所謂江戸前の味と賞せられるもの甚だ多く実に海の幸の豊かなるものがある。 といわれる好漁場であった(『東京内湾漁業史料』笠松弥一 横浜市水産会序文 昭和十五年)。そして、明治期では、ここでの主要な海産物は、「内湾漁業ノ国益タル、鰯漁ノ大網ヨリ盛大ナルモノアラス」(織田完之『内湾漁制通考』明治三十六年)といわれる鰯漁で、「各数多ノ漁夫ヲ使用シ、一挙千金ノ利アレハ、忽チ其部下ノ貧漁夫ニ潤沢シ、内湾一年ノ鰯漁ハ数十万円ニ上ルモノニシテ、漁村ノ享利是ヨリ盛ンナルハナク施イテ行商ニ利ヲ頒チ、其搾粕ハ諸国無双ノ上等品ト称シテ陸産ノ肥料ヲ優給」(前掲『内湾漁制通考』)した。さて、沿岸各漁村は、「磯猟は地附根附次第也、沖は入会」(寛保元年「山野海川入会」)の原則によって、地先漁場は、地元村がときには近接村との入会関係をもちつつ占有利用する一方、沖漁場(本猟場)は、神奈川・東京・千葉三府県にわたる従来西四四浦、東四〇浦、計八四箇浦と称する内湾漁村が、近世以来の慣行に従い、三八職に限定した漁具による漁法で、鰯漁をはじめとする諸種の魚猟を入会で営んでいた。この内湾沖漁場は、千葉県の管轄に属するもの七分、神奈川県管轄二分、東京府管轄一分といわれる。この入会漁場の利用・運営は、近世では前記八四箇浦の代表が毎年三月神奈川表2-19 郡別主要漁浦・漁場・水産物(明治前期) 注 『明治18年神奈川県統計書』より作成。明治11年5月『神奈川県治一覧表』『明治26年神奈川県統計書』で補充。 表2-20 神奈川県下東京内湾入会村(浦)の近世-明治前期の変動 注 織田完之『内湾漁制通考』,原暉三編著『東京内湾漁業史料』,『資料編』17近代・現代(7)より作成。 浦で集会決定するのを常としたが、「明治初年ヨリ漸々其規則解弛シテ、其会モ行ハレス、組合モ自然消滅ノ姿ニ至リタルヲ、明治八年神奈川浦ニ於テ四州連合集会ノ緒ヲ開キ、十四年三月、始メテ其契約旧ニ復」(前掲『内湾漁制通考』)した。しかし、これによって、内湾漁業が近世期の「三八職」の漁具-漁法のまま停滞したわけではない。新漁具の出現が、内湾漁村の間に種々の紛議をもたらしつつ、「三八職」漁法の内容をも変化させていった。 文化十三年(一八一六)、武蔵・相模・上総・下総四か国内海浦方の定めた「議定一札之事」(前掲『内湾漁制通考』)によると、内海浦方には相模観音崎以南の鴨居村・久里浜村も含まれている(表二-二〇)。すなわち、当時東京内湾とは、のちに一八九一(明治二十四)年改正東京内湾漁業組合規約第一条が「当組合ハ……神奈川県相模国三浦郡千駄崎ヨリ千葉県上総国天羽郡竹ケ岡村大字萩生ニ相対スル以北ノ内湾漁業者ヲ以テ組織シ」といい、また三〇条で「漁場区域ハ旧慣ニヨリ神奈川県下相模国三浦郡千駄崎ヨリ千葉県上総国天羽郡竹ケ岡村大字萩生ヘ相対スル以北一府二県(東京・神奈川・千葉)ニ連ル内海ヲ以テ当組合ノ営業場ト定ム」と規定した範囲に一致する区域であった。しかし、一八八一(明治十四)年三月二十九日、四か国浦方が神奈川宿に集会し、相互に睦じく漁猟相稼ぐ旨の契約証をとりかわし図2-1 観音崎周辺の図 たとき、神奈川県では、走水以南の浦方、三浦郡鴨居・久里浜の両村は連署に加わっていない。また同年六月九日、右契約の追加箇条を申し合わせたとき、さらに同十二月十一日内湾浦々が神奈川浦に集会し、三八職の「器械ノ子細書ヲ書入連署」したときにも鴨居・久里浜両村は入っていない。さらに、一八八三(明治十六)年九月神奈川町戸長の「桂網漁内海妨害ノ廉上申」も「本県下三浦郡走水ヨリ千葉県下周准郡富津村ヘ見通シ、夫ヨリ内湾ヲ内海ト唱ヘ、該沿海ノモノ夫々契約ヲナシ、漁業ス」(『資料編』17近代・現代(7))とのべている。これらの事実を裏付けるように、織田完之は、一九〇三(明治三十六)年『内湾漁制通考』で (内湾は)西ハ相模ノ走水海堡ト、東ハ上総ノ富津海堡ニ対スル海峡ヨリ其以北ヲ古来裏海ト称シ、内洋ト称シ、是ヨリ以前ハ外湾ニ属シ、内湾ト混セス、其証トスヘキハ、所謂裏海漁業組合ハ古来武蔵・相模・上総・下総四州ヲ連合シ、安房西海組合又ハ相模下浦組合ノ如キハ全ク裏海組合ト殊別ナリシヲ以テ知ルヘシ とする。すなわち内湾(内海・裏海)は、観音崎(走水海堡)以北であって、鴨居・久里浜村はこれに含まれないことになる。ところが、右にいう相模下浦組合は、一八八八(明治二十一)年七月二十五日東京湾漁業各組合連合規約第一五号但書には「……旧慣ニヨリ東京内湾ハ上総国天羽郡小久保村ヨリ相州三浦郡千駄崎以北……相州三浦郡下タ浦組合ハ八幡久里浜以南松輪村剣崎迄トス」とあって久里浜村はこれに属さない。 以上要するに、明治期にあって、東京内湾が観音崎以北か、千駄崎以北か、必ずしも明確ではなかった。この曖昧さは、三浦郡鴨居・久里浜村その他による小晒網使用をめぐる紛争が、明治に入って表面化した結果生じたものにほかならない。 小晒網は、漁夫三人をもってする鰯掛網で、鰯の魚道は、長さ二五尋(間)、丈六尺の網五張で六、七〇間ほどの場所に張網をし、船(一艘)は離れて板子を叩いてこの中に鰯群を追い込む。夜は篝火を三か所に照らすので、鰯は驚いて建網の目に首表2-21 東京内湾38職漁法の明治以降の変化 注 万延元年(1860)は表記の外「竿小釣職」がある。○印は明治以降掲記のあるもの、×印は掲記のないもの。 を掛け捕獲される。なお、この網の規模は次第に大きくなり、後には長さ二〇〇間をこえるものもあらわれた。小晒網は、比較的簡便な手段で一挙に多量の漁獲を可能とするが、一方、「海口数十所ニ小晒網ヲ張ル時ハ、魚隊ハ悉ク内海ヲ去リ、外海ヘ遁逃」し、内海の諸漁はともに大害を受けるとされた。相州での同網の使用は、すでに文化年間、鴨居・走水村でみられ、前述文化十三年(一八一六)の「議定一札之事」は、それに先立つ文化七年(一八一〇)、鴨居・走水村等での既往の小晒網は季節を限って認め、新規開業を厳禁した申合せの再確認の意味をももっている。こうして小晒網は、内海三八職中に含まれることになったが、万延元年(一八六〇)「古職猟業書上帳」に「裏海江戸前ヘハ不相成」とあるように使用箇所に限定が付されていた(表二-二一)。 明治に入ると、内湾各漁村は、「当時流行ノ小晒網営業ノ妨害ヨリ不漁」続きとなったとして、その禁止を強く関係府県に求めるにいたり、千葉県では、一八七八(明治十一)年七月二十日丙第一四七号をもって、「近来裏海海口ノ諸村ニ於テ小晒ト唱フル一種ノ長網ヲ以テ鰮魚ノ来ル咽喉ヲ占メ、外洋ニ駆去カ為メニ独リ鰮魚ノ漁額ヲ減スルノミナラス、之ヲ尾逐シテ裏海ニ入ル鯛・鰹・鰆・鮫等ノ諸魚ヲモ遮絶スルニヨリ、裏海浦々漁獲ノ数日ニ相減シ、難立行向モ有之」として、小晒網の毎年一月一日から七月三十日迄の使用を一切禁止した。因みに鰯は、毎年二、三月ころから海岸沿いに外湾から内海に産卵のため入ってくる。ついで、東京府荏原郡羽田村外二か村の漁夫総代は、東京府知事に対し、「明治年間ヨリ相州三浦郡鴨居村ヨリ八幡久里浜村其他ノ近村……右外洋ヨリ入魚ノ節、小晒網ト相唱候網類ヲ専ラ海口ヘ掛晒シ捕魚候ヨリ、内海ヘ入来候魚類漸々減少、内海漁業ノ者困乏」(前掲『内湾漁制通考』)に陥入っているとして、小晒網禁止を神奈川県へ掛合ってくれるよう上願した。それによれば、毎年六月十日以後に限って長二五尋の小晒網漁を行うという維新前の旧慣を破った村は、相州では三浦郡八幡久里浜・野比・長沢・津久井・鴨居の各村であり、近年はさらにこの網の使用が近村に拡大しているという。これをうけた東京府の掛合いに応じ、神奈川県は、明治十四年五月丙第九八号達で、橘樹・久良岐・三浦の三郡へ対し、小晒網営業を「来ル明治十五年以降毎年一月壱日ヨリ七月卅日迄悉皆禁止」する旨の布達を行った。前述一八八一(明治十四)年三、六、十二月の内湾浦々の契約証は、以上のような内湾諸村々による小晒網差止めの動きを背景としたもので、これに対し、小晒網営業を強く望んでいる久里浜・鴨居村が、右契約証への連署を拒んだのも当然であろう。また、その他の内海の各浦方が、旧慣を破約した、海口部に位置する鴨居・久里浜村を、陰に内海組合から外し、内湾を走水以北としたこともうなずける。 一八八五(明治十八)年五月、同業組合準則に基き、内湾諸町村総代によって東京湾漁業組合規約が締結され、さらに一八八六年「漁業組合準則」の公布によって、右規約が更正されるにおよび、新たに設立された東京湾漁業組合は、東京内湾漁業組合のほか、「地方漁業者組合 府県限リノ沿海 漁業者ヲ指ス 」、「郡区漁業者組合 郡区限リノ沿海 漁業者ヲ指ス 」をも包含することになり、従来内湾の入会利用に加わらず、地先の磯・藻場・干潟で魚貝藻餌等の採取を行っていた沿岸村々も、同組合に編入された(表二-二〇参照)。そして、それぞれにつき「旧慣ニ依」って営業することとされた。こうして、鴨居・久里浜村などもすべてこれに組み入れられたが、以後においても、小晒網の使用は、なお拡大の一途を辿ったのである。 一八九二(明治二十五)年八月一日、東京内湾漁業組合は、通常会の決議によって、一府二県の知事に対し、「小晒網季節外使用差止ノ義ニ付請願」し、翌一八九三年六月三十日には、さらに農商務大臣に対し、同趣旨の請願を行った。それによれば、近来、東京内湾の連年の不漁は、内湾咽喉部で、旧慣・府県の禁止を破って、小晒網を濫用する者が増えたことが主な原因となっている。当時、「千葉県安房国平郡・神奈川県相模国三浦郡(下タ浦及ヒ南浦組合)ノ小晒網漁業者ハ其数殆ント数千ノ多キニ至」っているという。とくに一八九三年は、彼ら小晒網漁業者は「非常ノ漁獲ヲ得タ」のに反し「我々内湾数万ノ漁民ハ之レカ正反対ノ困弊ニ陥リ其惨状実ニ名状スヘカラサル」有様となったことを陳情し、小晒網の季節外使用厳禁の処分を強く求めた。このころの小晒網漁は著しく規模を大にし、この年七月二十五日夜、横浜漁業組合総代福田金蔵外数名が、小蒸気船を雇い、規約違反の廉で押収した千葉県富浦・金吉・保田村漁民の小晒網は、漁船一四艘、網の長さ四〇〇尋、丈は一丈二尺余の巨大なものであった。彼らは、夜半対岸、久良岐郡金沢村地先沖合から横浜市地先沖合の中ノ瀬以西にまで進出し、夜半漁業を行っていたものである。 明治二十年代の県下鰯漁獲高は、総漁獲高の四-八㌫の比重を占めるにすぎない(表二-二二)。しかし、その半ば以上は東京内湾で捕獲されていた。ところが、その捕獲は、年を逐って、湾口部にあたる三浦郡に集中するにいたっている。明治二十年代の統計では、小晒網船は、三浦郡のみに、約一八〇艘を数えるが、この小晒網による鰯漁が右のような傾向をもたらしたのであろう。これに対し、より内湾部の久良岐・橘樹郡では、鰯の漁獲高は減じてはいないものの、海苔養殖を除いた全体の漁獲高は減少傾向にあり(表二-二三)、これを同地帯の漁民は、湾口部での小晒網漁による魚類の散乱によってもたらされたものとして、前述のような強い反対運動を展開したのであった。 以上、一府二県の漁村が入会う東京内湾漁業は、内湾組合を結成し、明治以後も漁具・漁法の制限を行い、安定した漁獲を維持しようとしたのであった表2-22 神川県下東京内湾における鰯の漁獲量(1887-1893年) 注 1 ( )は県合計鰯漁獲量に対する比率。〔 〕は,総海産物(乾物を除く)のうち鰯漁獲量の占める比率。 2 鰯にはウルメを含む。 3 『神奈川県統計書』より作成。 が、上述の小晒網あるいは桂網(『資料編』17近代・現代(7)五一)などによる大量漁獲の出現によって(これらの出現はいずれも近世期に淵源している)、「旧慣」は次第に内容を変えざるをえなかった。「三八職」中のいくつかの漁具も、表二-二一にみられるように、一八九一(明治二十四)年には、その使用時期が延長されるなどの変更がなされている。漁獲の不安定性は避け難いところだが、明治二十年代において、内湾の漁獲高は停滞的で、橘樹郡沿岸での海苔養殖の展開のみが目立っている表2-23 神奈川県海産物価額の推移(1887-1893年) 注 1 乾物・肥料を含まない。久良岐郡の( )内数字は海苔産額を控除した額。 2 『神奈川県統計書』より作成。 注 青海苔・黒海苔を含む。『神奈川県統計書』より作成。 (表二-二四)。こうしたなかで、県下の漁業は、次第に三崎および小田原を中心として発展する傾向をみせてくるのである。 三崎とその周辺の漁業 表二-二五から明らかなように、三崎を擁する三浦郡には、小田原を擁する足柄下郡とともに、県下で最も多くの漁家が集中し、専業漁家の割合も県平均を上回っている。したがって、漁家一戸当たりの漁業従事者数・漁舟数ともに、県下で最も高い部類に属し、もっぱら漁業によって一家の生計を立てている家の多いことを示している(なお、橘樹郡の漁家一戸当たり漁舟数がさして多くはないのに、漁業従事者人数が際立って多く、また一戸当たり所得金も高いのは、養殖海苔表2-25 神奈川県漁家1戸当たりの所得金(1887-1895年) 注 1 〔 〕内数字は原統計数字に明らかな誤りがあるもの。 2 『神奈川県統計書』より作成。 生産の比重が高いことによっている)。にもかかわらず、漁家一戸当たりの年間所得金は、東京内湾諸郡にくらべて、さして高くない。さきにのべた、小晒網による鰯漁の盛行によって、明治二十年代の三浦郡漁獲高は、ほぼ同一水準を保っているが、漁家一戸当たりの所得金は、鰯の漁獲高が増大する一八九一(明治二十四)年以降、かえって減少している。ここからすれば、小晒網漁への積極的進出は、漁業経営の発展というよりは、漁家が、生活を維持するために執った必死の手段だったということができよう。このような三浦郡漁民の明治二十年代の状態をみれば、織田完之が、さしたる大きな資本を要せず鰯の大量の捕獲を可能とする小晒網漁を強く非難し、 凡ソ漁民ノ稟性ハ漁事ニ勇ナルモ思慮ニ乏ク、平時ニ於テ検束ナク、偶大漁ニ逢フ時ハ飲博放縦ニシテ、嘗テ蓄積ノ心ナシ、不漁ノ時ニ及テハ、大網主ニ依頼シテ米金ヲ借リ、辛ウシテ家計ヲ営ム者多シ、故ニ大網主ヲ奨励シテ保護ヲ加フル時ハ、小漁民ハ自ラ此内ニ給養スル所アリ、若シ之ニ反シ小晒網ヲ幇助スルカ如キハ、漁民舟民ノ困難ヲ知ラサルモノヽ所為ニシテ経綸ノ道ニ違フナリ(前掲『内湾漁制通考』) とする主張は、東東内湾の「大網主」の立場に立ち、かえって三浦郡漁民の「困難ヲ知ラサルモノヽ所為」ということができる。 以上概観した三浦郡漁業は、もっぱら専業の漁家によって漁業がいとなまれる三崎町と、その周辺の兼業漁家を中心とする半農半漁の村とからなる。前述、千駄崎から剣崎松輪村にいたる間の下タ浦組合は、その後者に属している。前者は遠洋での漁撈を主とし、後者が主に近海で漁撈を行い、前述のように、東京内湾組合漁村との対立を惹起するのである。三崎町連合役場の管下に属する部分についてみても(一八八七年)、三崎八か町には兼業漁家は存在せず、海産物は、鮪などの遠海物を主とし、六合村など周辺四か村は、兼業漁家が多く、これらの村で、鰯が主要な漁獲物となっていることがわかる(表二-二六)。 さて、三崎町は、一八七七(明治十)年現在、総戸数七八一戸、商四分・漁六分、漁船二五八艘を数え、一八八二年には、総戸数九一三戸、うち漁家五一一戸(いずれも専業)、漁船三一五艘(別の統計では四〇七艘)に増加し、ほぼ同じ規模で一八八七年にいたっている漁村で、また近辺海産物を集散する商業中心地でもあった(丹羽邦男「明治十年代の三崎漁業」『神奈川県史研究』八以下の記述は主にこれによる)。ここは、「近隣漁村中屈指ノ漁業場」で、ときには「他国他郡村ヨリ漁夫ノ出稼人ノ入込毎年二百人ニ不降」という盛況をみせた。漁場は、近海から房州布良沖、御蔵島など伊豆七島沖におよび、漁民は、漁期に応じて遠近の漁場で一年中漁業に従事し(表二-二七)、三崎町は「平素無絶間魚類ノ捕獲有之場所」となっていた。 三崎町の漁民は、大縄船(長さ三間半、幅六尺五表2-26 1887(明治20)年三崎花暮町外11か町村の漁家・漁船と海産物 注 『資料編』17近代・現代(7)より作成 寸、八人乗・てんとう-天当・伝道・天道・澱登などとも書かれる-船、テンマともいわれる)で、房州布良沖・伊豆七島沖にまで進出して、主に延縄で鮪・鰹・鯥などを漁獲し、また縄船(長さ三間、幅四尺五寸、七人乗)も、房州布良村海岸一里沖合におもむいて操業した。一方、小釣船(長さ二間半、幅三尺五寸、四人乗)や丸木船(丸木型の船、長さ二間、幅三尺、三人乗)で、釣竿・銛(突きん棒)などを用い、松輪村から諸磯村にいたる磯根や、その一、二里沖合で、「根付魚」-赤魚(きんめ鯛)・かさご・河豚・目鯛・鯛・鳥賊・鮃・鮑・サザエ・伊勢海老などを漁獲していた。遠海への出漁を主とするとはいうものの、幅わずか六尺五寸の船とあっては、きわめて危険度が高く、出漁の日も制限された。加えて網を用いない当時の漁法では、漁獲は少なく、しかも不安定であった。そのため、一方では、季節に応じ回游してくる魚類を捕獲する、比較的安定した沿岸漁業によって、年間を通じて平均した収入をはからねばならなかった。このように諸種の漁場で季節に応じた魚獲をすることによって三崎町は、「絶え間なく魚類の捕獲ある場所」となっていたのである。 こうして得られた魚貝類は、東京へ向け、押送船によって出荷された。押送船は、長さ三間八尺-六間、幅七-九尺で、七-九挺艪を使い、荷を積むため、帆を大きくし、小矢帆・中帆・大帆を使い、また、船体には、稲藁を女竹につけて編んだ苫を付していた。鮪・鯛・鰹などは、夕方ごろ出帆する「生船」により、貝類・塩干魚などは、朝十時ごろ出帆する「いけもの船」によって出荷され、いずれも翌朝夜明け前に魚河岸に到着した。こうした運輸手段によって、三崎の海産物は、近世以降明表2-27 三崎町の主要漁場・漁期(1880年) 注 1 主に1880年「諸願届綴」三崎町戸長役場(三浦市役所蔵)による。 2 マグロの漁期は,岸近く回游してくるマグロを相模灘で一本釣する時期のみを掲げた。 治にいたっても、江戸・東京市場で安定した声価を保持していた。これら押送船は、主に魚商が営業し、これによって、三崎とその近辺の漁民から買い付けた自分の荷を東京魚河岸へ運んだのである。また押送船を持たない零細な魚商は、売却高の一割を運賃として収める「一割船」に委託して、自分の荷を東京市場へ運送していた(『三崎町史』上巻 昭和三十二年)。 三崎町周辺の漁村での漁業は、以上の三崎町漁業とは形態を異にしていた。城ケ島村を除けばいずれも半農半漁の村である(表二-二六は城ケ島村も兼業家率八八㌫とする。石菜花採取を兼業とみたのであろうか)。そして、漁民も、傍ら農耕に従事する者が多数を占めていた。漁家一戸当たりの漁舟数は、むしろ三崎町より多い。しかし、漁家一戸当たり〇・九四艘(一八七五年)ないし一・三艘(一八八二年)を持つ城ケ島村についてみると、それらはいずれも、長さ二間半(約四・五㍍)、幅三尺五寸(約一㍍)、三人乗の網掛船と長さ二間半、幅三尺五寸、二人乗の小船であり、三崎町のように、七、八人を乗せて遠海に出漁しうる縄船・大縄船は一艘もなかった。城ケ島村の漁民は、網掛船で、西は赤羽根村根続きから東は松輪村根続きに図2-2 てんとう船 『専漁の村』より 図2-3 押送船 『日本国語大辞典』より いたる沿岸で、主にエビ網を操業し、あるいは小船で、同様の磯沿いで「カツキニテ漁具ハ磯金壱挺」で潜水し、主に栄螺・鮑を採取していた。このように周辺漁村での漁業は、もっぱら磯付の漁業であった。したがって、漁船は貧弱だが、各種の魚網を多く備え、城ケ島では総数二九三張に達している(表二-二八)。同村ではエビ網、六合村ではエビ網・ヒラメ網で、主にエビや根付魚を捕獲し、小網代村では、地引網・イワシ網によるイワシ漁が中心であった。三崎町が前述のようにハエナワを用いる縄船・大縄船を備え、魚網は、年間二か月使用するボラ網二張と投網五張とを持つにすぎないのと鋭い対照をなしている。しかし、三崎町に隣接する六合村の向ケ崎では、表2-28三崎町とその周辺漁村の漁業形態(1875・77・82年) 注 1 小網代村の魚網数は1880(明治13)年現在。 2 1882年「諸願届留」(三浦市役所蔵)その他より作成。 表2-29 1877(明治10)年三崎町戸長役場管下町村の魚網数 注 1877年「諸願届留」三崎町戸長役場(三浦市役所蔵)より作成。ただし小網代村は1880年「諸書扣」(同上)による。 沖合漁業も行われ、網掛船や二人乗の小釣船のほか、五人乗りの縄船や八人乗りの大縄船もあって、大縄船は、房州布良村の二里沖合や伊豆下田の三里沖合へおもむき、鮪・カジキ・鰹・鯖・鰤・鮫なども漁獲していた。また、耕地をもたない城ケ島村では、漁業収入を補うものとして、石菜花の採取が行われ、一八八〇(明治十三)年の年間採取高は一万二五〇〇斤、四三七五円に達していた。これはこの年の漁獲高一万六五〇円の四一㌫に相当し、同村漁民の家計補充に欠かせない大事な収入源であったことがわかる。 以上にみたように、一家の生計をすべて漁業に託し、長年の経験と技術だけを頼りに、予測しがたい魚を求めて延縄船で遠海に乗り出してゆく三崎町漁民と、農業やテングサ採りで家計を補いつつ、エビ・ボラ・ヒラメ網など、危険の少ない磯先で、比較的安定した根付魚・貝類の魚獲に従事する周辺の村々の漁民とでは、漁法や生活内容だけでなく気質の上でも違いがあったのである。 このような三崎とその周辺漁業は、一八八二(明治十五)年、政府の紙幣整理がもたらした深刻な経済不況と、折からの不漁とによって、破滅的な打撃をこうむった。とくに、漁業に全生活をゆだねている三崎町漁民のうけた影響は大きく、多くの窮民によって騒擾勃発の直前を思わせる不穏な気運が醸成された。これは、政府の紙幣整理政策が県下人民にもたらした破壊的な影響の最初のあらわれであり、やがて一八八三年以降県下に広がる大規模な負債返弁騒擾を予告するものであった。 一八八二(明治十五)年、三崎町と城ケ島村の漁獲高は、価額にして、一八八〇年の半ば以下に激減し、一漁家当たりの年間表2-30 三崎町外4か村の漁獲高の変遷(1880-1887年) 注 三崎町戸長役場諸文書(三浦市役所蔵)より作成 漁獲高は、一八八〇年、三崎町で一一四円余、城ケ島村で一三五円弱であったのが、一八八二年にはそれぞれ四三円五二銭、六一円三九銭にまで減少した。当時、三崎の漁民の多くは、零細とはいえ、船を所有する独立した漁家であり、魚商あるいは船主・網元への隷属下に入ってはいなかった。勢い、彼らは当面の生活費を、「近頃金貸営業次第ニ増加シ、(三浦郡内で)昨今百人ニ下ラス」(民情「明治十六年甲部巡察使復命書神奈川県の部」)といわれる金貸業者からの借金に求めざるをえなかった。こうして、「相州三浦郡三崎村ノ如キ、数百ノ漁戸挙テ其術中ニ陥ラサル者ナキニ至ル」(前掲書)こととなり、生活を破滅させていったのである。一八八三(明治十六)年の関口隆吉元老院議官の巡察使復命書は、神奈川「県下一般民情平穏ナリ」としながら、ひとり三崎町については、三浦郡長の報告にもとづき漁民の窮状と不穏な状況とを次のようにのべている。 漁民ノ中チ、一家ノ負債計量スルトキハ、殆ト二千円ニ近キモノアリテ、日々捕魚ノ収獲ニテハ一家ノ経費ヲ去レハ、負債ノ子金ヲモ償フヲ得ス、況ヤ母金返済ノ義務ヲヤ、故ニ一漁船ノ帰帆スルヲ見レハ、債主数人之ヲ擁シ、高声ニ催促シ、其収獲ヲ自宅ニ持帰ルヲ許サス、於是漁民ハ、即時飢渇ニ迫リ、僅ニ其日ヲ凌キ、翌日未明ニ男子ハ出船ス、依テ留守居タル婦ニ対シ、債主ハ之レヲ促カシ、甚シキニ至リテハ、之ヲ腕力ニ訴ヘント欲スルノ勢ニ恐レ、婦女子ハ多ク昼間他家ニ身ヲ遁レ、夜ニ入リテ帰宅、寝ニ就クハ午後十二時頃ナリ、此時ヲ窺ヒ、債主再ヒ之ヲ襲ヒ、其門戸ヲ敲キ厳促ニ及ハレ、一家挙テ他郷ニ避在シ( 多クハ房総 海岸ニ寄留 )漁業スルモ間々アリテ、名状スヘカラサルノ情態ナリ、然シテ其残リ居ル負債主共ヘ、裁判所ヨリ召喚状一時ハ、日トシテ百通ノ多キニ至リシ事アリテ、身代ヲ差出ス如キハ、続々絶ス。之レ自業自得ニシテ止ムヲ得スト雖トモ、中ニハ出庭ノ族費ニ困シ、遂ニ喚徴不応ノ罪科ニ問ハレ、其罰金亦完納スル事能ハスシテ、力役ニ替ラルル者モアリテ、家族ハ在宿スルモ無職ナレハ、目下ノ糊口ニモ塗ヲ失ヒ、実ニ憫然ノ極ニ至レリ…… 家具漁具等ヲ抵当ニ引取ラレ、且身代限ニテ負債ノ金額ヲ償フ能ハスシテ、家屋公売所分ヲ得シモノ、一時雨露ノ凌ク可キ所ナキハ、素其地狭ク殊ニ貸店等無キヲ以テ、海辺ヘ仮ニ苫家ノ如キヲ設ケ、生業ノ途ヲ与ヘン事ヲ有志者ニ詢リ、略承諾セシニ由テ、県庁ニ乞ヒ該費ノ内ヘ幾分カノ資助ヲ仰キ置キタリ…… こうして、一八八二(明治十五)年には、生活に窮した婦女子が、社寺の境内に「相率テ」日夜集合し、「生営ノ業ヲ仰カント」相談し、不穏な空気を醸し出した。この報をうけた警察官は、これを説諭して解散させたが、やがて、これら婦女子はうち連れて横須賀にある郡役所にまで押しかけ、負債の永年賦返済等を「哀訴」するにいたった。このような「千有余人ノ難民殆ンド糊口ノ計竭キ、恟々トシテ各所ニ集合シ或ハ粗暴ノ挙ニ出ントス」(一八八三年十一月十六日「戸長加藤泰次郎の県令あて上申書」三浦市役所蔵)る状況は、翌一八八三年においても続いている。一八八三年五月の戸長上申書は、「困難無告ノ窮境ニ陥」った貧民を二〇〇余戸としているが、これは三崎町漁戸の約半数にあたる。彼らは翌一八八四年末には、町内外有志者の寄附により炊飯の施与をうけているが、この窮民は、一八八五年五月になってもほとんど減少せず、一六二戸、六四二人を数えた。これは三崎漁家の三三㌫に達している。彼らは、一八八五年秋収期にいたっても、「家ニ一粒ノ米粟ヲモ剰サス、壱銭ノ余金ヲ留メス、襤褸僅ニ裸身ヲ蔽フニ過ギ」ない有様で、農家の刈り残しの落穂や残り屑のイモ類を拾って食料とし、農家の持山に入って枯木を窃取し薪にあて、科料処分をうける者もあらわれた(一八八五年十二月十二日「県税戸数割免除につき戸長の県令あて上申」三浦市役所蔵)。 こうした窮状を招いた第一の原因は、うち続く不漁であるが、不漁による困窮が、右のような、これまでとは異なる新たな様相を呈したことの原因は、明治政府の維新変革が創出した、資本の自由な活動を保証する新たな法体制に帰せられる。政府の新たな一連の金融法令によって自由な金融活動に法的保護が与えられた結果、各地に金貸業者の簇生をみ、三浦郡でも、「所謂三百代言人ナル者、村落ヲ徘徊」する有様となった。彼らの金融活動は、右の政府新法令に全面的に依拠するものであったから、法律に精通した代言人が債主の代人としてもっぱら負債取立ての衝にあたった。彼らは「三百代言」などといわれながら、当時の新知識であり、「身ニハ洋服ヲ纒ヒ、銀側ノ時計ヲ胸ニシ、頭上ニハ高帽ヲ戴キ、足ニハ靴ヲ履キ、手ニハ洋杖ヲ携ヘ」るという「文明開化」のいでたちで、漁民に臨み、「速ニ其義務ヲ果サズンバ罰金又ハ禁錮ノ処刑ヲ受ケサスベク杯ト強迫ノ手段ヲ示」すのを常とした(横浜裁判所あて、一八八二年「漁民困窮動揺ノ義上申」戸長加藤泰次郎三浦市役所蔵)。 三崎町での彼らの金融活動は、一般には次のようなものであった。 当三崎日ノ出町外七ケ町ノ儀ハ漁業ノ収入アルノ外、他ノ産業ヲ以土地ノ稗益ヲ為ス不能、然ルニ明治十一年以降不漁引続キ当地一般ノ漁民非常ノ困弊ヲ来シ、各自生活ニ欠乏ヲ告ク、其ノ補欠ニ苦シムノ余リ、将来ノ苦難ト可成ヲ不省、高利ノ金円ヲ負債シ、一時ハ其苦境ヲ免ルヽ者ノ如シト雖、如何ニセン債主等ハ酷利ヲ(金壱円ニ付一日金八厘宛俗ニ天保利ト云)収ムル而已ナラズ、少時モ違約アルニ於而ハ代人( 俗ニ三百 代人ト云 )ヲ以直ニ法廷ニ訴ヘ出、該代人等ハ其詞訟状ヲ携帯シ来リ、自ラ負債主ニ対シ談判ヲ開ク……(前掲「漁民困窮動揺ノ義上申」) こうして、裁判に先立ち、まず当事者間での「勧解」(和解)に入るのであるが、その際、代言人の前記のような高圧的な態度に「恐懼」した漁民が解訟を乞うと、漁民の着衣・漁具までも売却・質入せしめて負債の全額はもちろん、さらに訴訟入費や、謝金と称し余分の金額をも支払わせた。ときには、漁民の法的な無知に乗じ、その際借用証書を返却せず、これをもって再び裁判所に訴え、身代限の判決を得るという悪質の詐欺も行われたという。三崎町戸長加藤泰次郎は、このような実情を横浜裁判所や三浦郡長に訴え、その取締りをくり返し要望したが、これら代言人の行為は、元来法令に依拠したもので、少なくとも証拠上はすべて合法的であり、有効な取締りを行うことはできなかった。 以上のような三崎町漁民の窮状は、うち続く不漁が基因をなしているが、それは、一八七七(明治十)年以来または一八七八年以来、あるいは、「維新以来其歩ヲ進メタルカ如シ」(前掲「戸長加藤泰次郎の県令あて上申書」)ともいわれる。すなわち、すでに一八八二年以前から三崎近海の魚群が減少し、漁獲量も低下してきたのだが、たまたま物価騰貴の時運にあたり、減収が表面化することがなかったのであった。戸長加藤泰次郎によれば、この漁獲量低下は、人為的な要因、すなわち、「漁業者ノ増加」、「苛酷ノ漁具」使用の二因から生じたものであった。「苛酷ノ漁具」とは、城ケ島村漁民にとっては、各地での水潜器の流行であり、三崎町漁民にとっては、千葉県漁民の用いる夜流し網はじめ、タタキ網・コマシ袋網による魚類の濫獲であった。水潜器は、一八七九、八〇年ごろから三浦郡各漁村で使用されはじめ、在来の「磯金一挺」で潜る原始的方法では、一人で貝(鮑)五〇〇〇を採るのに八か月を要するところを、水潜器によれば一か月で採ってしまう。城ケ島村先の海面へは、旧慣もあり他から水潜器使用者は入りこまないが、城ケ島村は、元来自村借区内の漁業だけでは生活できぬ村柄で、従来から千葉県下または三浦郡他村の磯先で、地元村と申し合わせの上出稼漁をしてきた。ところが、その地元村で水潜器を使用する者があらわれ、これに駆逐されて城ケ島村漁民の出稼漁は自然廃絶し、一八八三(明治十六)年には、地先だけの漁業になってしまったという。 夜流し網は、一八七七(明治十)年ごろから三浦郡沿海に出現し、夜陰に紛れて盛んに操業し、在来の一本釣に比し格段の魚獲量を得た。加えて一度この網を流すと、魚はその漁場から四散してしまい、翌朝ここに出漁してきた釣漁師にはすぐそれと知れたという(前掲『三崎町史』上巻)。三崎近辺で操業する夜流し網の多くは、千葉県房総六か村の漁民によるものであった。彼らは、いずれも頗ぶる財産に富み、漁業専業の者ではない。その所有する多額の資本を下して、夜流し網を整え、目前の利益のみを追って魚を濫獲し、魚類を近海から遠く大洋に駆逐してしまったという。このため、三崎町漁民が、海面にコマシを散布し、または好餌をもって釣取ろうとしても、魚獲なく、空しく徒手で帰帆するほかなかった。このため三崎町漁民は、やむを得ず工面して大縄船を作り、良具を整備して遠海にでていくことになる。しかし、その遠海での漁業も、決して安定したものではなかった。 数十里或ハ数百里ノ怒涛ヲ越ヘ、極寒ニ、暴風雨及ヒ漲ル高浪ヲ冒シ、孜々漁業ニ従事シ、数日月ヲ経テ偶々収獲アルモアリ、又ハ空シク船中ノ食料ヲモ不得採、就中不漁ニ遭フタル乗組人ノ家族者ニ於ル、又其惨状視ルニ不忍、各自ニ於テモ如斯場合ニ遭偶スル、年ニ数十度ニシテ、既ニ目下ノ状態トハナルニ到レリ、渺々タル大洋ニ於テ、不時ニ大難風ニ出会、船顛覆、溺死スル者、明治十年以降概シテ三拾有余人ニ至レリ(注(1)に同じ) こうして、零細な独立した漁業経営を主体とする三崎漁民は、資本力をもつ網漁業者によって次第に近海から駆逐され、貧弱な装備での遠海出漁に狩り立てられていき、また、城ケ島漁民のばあいも、漁場を自村地先にせばめられていった。そして、一八八二(明治十五)年にいたって、前述のように漁業経営の破滅を迎えることになった。このとき、三崎・城ケ島の漁夫総代がまず県にもとめたのは、彼らの不漁をもたらしたとされる夜流し網・水潜器の使用制限ないし禁止であった。さきに東京内湾でみたと同様の傾向-在来の漁具による旧慣に従った漁法が、一定度の資本を必要とするより大規模な、生産性の高い漁具・漁法によって衰退に向かうという傾向が、さらに露骨にあらわれている。そして、三崎では、零細独立漁民の一般的な没落のあとに、資本制漁業への指向が始められたのであった。当時三崎花暮町外一一か町村戸長役場の戸長であった加藤泰次郎は、土地四町七反九畝余・地価七一二円を持ち自らも漁業を営む城ケ島村の資産家で、若いころ東京で、漢洋の医学・漢学、さらに日新義塾で英学をも学んだ知識人であった。彼は、一八八二、三年には、三崎漁民の救済につとめ、前述のような、夜流し網・水潜器の使用禁止を県に要求する上で、指導的な役割を果たしている。とくに彼は、窮迫した漁民救済のため漁具漁船貸与の法を設け、婦女子の内職として製網業を授産し、さらに、一八八三(明治十六)年四月には、債主が漁民に貸付け回収困難となった負債元利七万円を、債主から「出資」させて、金融会社共益社を結成し、一方、借主である漁民の水揚高の三分の一を会社に積み立てさせ、これを「出資」額に応じ債主に分配する法を樹てた。これによれば、少なくとも漁民は、前述のような「三百代言」の苛酷な取立てから免れることになる。 しかし、一八八二、三年に、このような漁民のための努力を惜しまなかった加藤泰次郎は、これら漁民の没落が動かし難い事実となった一八八九(明治二十二)年、これまでの立場を転じて、積極的に資本制漁業の発展を指向するにいたった。この年彼は、かつての主張を一変させ、夜流し網漁を「有益ノ漁業」として積極的に推進しようとするのである。 ……(漁民全体の経済を)挽回スルノ策如何、古来ノ釣漁ニ交ユルニ網類使用ノ漁法ヲ以テセント、……殊ニ漁獲ハ釣漁ニ比シテ多額ナルヲ以テ、全町ノ産額必ズ増加スルナル可シ、故ニ本職ハ夜流網ノミナラズ各種網類ノ使用ヲ伝播セシメン事ヲ望メリ、今ヤ文化日ニ開ケ、労力時代去リテ器械時代来リ、鉄路東西相通シ、汽船環海縦横馳走ス、生産事業将ニ一変セントス、漁業豈ニ独リ旧態ニ安ンス可キ哉、熟ラ漁業ノ変遷ヲ考フルニ、大古矇昧ノ民、弓矢ヲ以テ魚ヲ捕ル、第一期ナリ、次テ鉾鎗具ヲ使ス、是レ第二期ナリ、釣針ヲ使用スルニ至レルヲ以テ第三期トシ、今日網類ノ使用日ニ益々進ム、則チ第四期ノ時代トス、此日進ノ社会ニ在テ、第三期時代ヲ維持セントスル者ハ、今日ノ生産社会ニ到底独立シ能ハサルニ至ルハ必然トス、尚ホ一歩ヲ進ムトキハ、英国漁業者ノ使用スル、トロール網、独国ノクレル、米国ノブースセインノ如キ、緻巧ナル漁具ヲ使用シ、巨大ノ漁船ヲ使用スルニ至ルハ、勢ノ自然ナラン歟、故ニ本職ハ夜流網ヲ以テ害物ト認メズ、却テ有益ノ漁業トス(一八八九年六月三日郡長あて、戸長加藤泰次郎「上申」) こうして、多額の資金によって網漁を企て、没落した漁民を雇漁夫として再編してゆく、資本制漁業への動きが生まれてくる。そして加藤自身も、東京・三浦間に小型汽船の就航を企画し、企業家としての道を歩み始めたのである。 相模灘の漁業 相模灘の漁業は、須賀(大住郡)・大磯(淘綾郡)・小田原(足柄下郡)での専業漁民を主とする漁業と、根付漁に加え沖合漁が旧来のまま営まれていた半農半漁の村での漁業とからなっている(表二-三一)。ここでは維新以後、とくに小田原を中心とした足柄下郡漁村において顕著な変動・発展がみられた。すなわち、明治二十年代についてみても、県下のほとんどの郡で年間漁獲物価額、漁家一戸当たり所得金額が低下ないしは停滞しているにもかかわらず、足柄下郡だけは、明瞭な増大傾向をみせている(表二-二三・二-二五)。それは、主に一八八七(明治二十)年七月、新橋-国府津間東海道線の開通、一八八八年十月、国府津-小田原-湯本間に馬車鉄道開通(一九〇〇年三月電車となる)によって、ここが横浜-東京市場と直結したこと、また、それにともない漁獲物集散地小田原における水産加工業の発展がみられたことによるものであった。 さて、大磯町では、一八九一年現在、漁船九二艘・漁戸三六七戸があり、そのうち二表2-31 明治初期相模灘沿岸の漁村 注 1 「皇国地誌」(『神奈川県皇国地誌残稿』)より作成。 2 ○印は表2-19所掲の漁村。 九七戸、約八一㌫が漁業を専業としていた。ほかに魚商三〇戸があり、周辺の漁村から年間魚獲物三〇〇〇-一万五〇〇〇円を集め、鰹節・乾鯖・乾鰺・干鰯などを製するとともに、主に横浜・東京へ向け、年間約五万七〇〇〇円の魚類を移出していた(うち東京へ一万〇五六〇円。『資料編』17近代・現代(7)七六、八五-八七ページ)。大磯町での年間漁獲高は、一八八八年二万〇九五七円で表二-三二と対比すれば、淘綾郡の同年の漁獲高のほぼ半ばはここであげられていたことがわかる。さらに、前記周辺漁村からの集荷魚類を加えると、淘綾郡漁獲物の過半が大磯に集められていたことになる。いま、ここで採捕された魚類を季節別にみると(表二-三二)、ほぼ四五〇人前後の漁夫が、春から秋にかけては、鰺・鯖・鰹を追い、ついで冬季には、鯥や近海でキス・甘鯛・ホウボウ・ヒラメを捕り、さらに随時、鮪・イカ・鮫漁に従事することによって、年間を通して、絶え間なく漁業を行っていることがわかる。 小田原町は、一八八四(明治十七)年現在、戸数三一一九戸、うち三一六戸の漁家がもっぱら漁業によって生計を立てていた。 表2-32 1888(明治21)年大磯町漁獲物 注 『資料編』17近代・現代(7)より作成 小田原町漁民も、大磯町漁民とほぼ同様な形で年間漁業に従事した(表二-三二)。近海での網漁は冬季間(十一月-翌年四月ころ)に多く行われた。その主なものは平目網(七目網)漁で、漁夫三人乗の「大仲船」などで、浜から二〇町ばかり沖の二-一五〇尋の海底に晩方に建網を下し、翌朝これを引き揚げるもので、海底を通過しようとする魚は、張った網の目に頭を貫き捕獲される(『資料編』17近代・現代(7)五〇七ページ)。また、三-十二月の間は、網元・網子たちによって、浜で地引網が曳かれた。網元は、それぞれ三〇-五〇人ほどの網子をもち、浜から約八〇〇間の沖までの水域と約一〇間の浜とを用いることが許されていた(陌間次郎編『専漁の村』小田原市第一六区自治会万年公民館)。しかし、小田原漁民が主に従事し、小田原の漁業を特色づけるのは、とくに二-十二月にかけて、小田原沖から伊豆大島近辺・三浦沖・房総沖まで出漁する、「ヤンノー」船・「ズンドー」船による鮪延縄漁であった。「ヤンノー」船は、幅八尺五寸(約二・六㍍)、敷きの長さ三七、八尺(約二・二㍍)、七-九挺艪、二本の帆柱をもつ船で、約一〇名が乗り組んだ。「ズンドー」船は、四国・紀州方面で用いていたのを模したもので、幅九尺、敷きの長さ三五尺ほどの形状からその名が付いたのであろう。九挺艪で、帆は大帆・前矢帆・図2-4 ヤンノー船 『専漁の村』より 図2-5 ズンドー船 『専漁の村』より 肩帆を持っていた。これらは、波浪の高い小田原沖・遠海の漁猟に応じて、「ヤンノー」船では、ウネリの大きいところでも舵が利くよう、とくに舵を長くし、「ズンドー」船では、ミヨシを高く造っていた。しかし、小田原海岸は、浪高く、船溜りもない砂浜への漁船の日々の揚げ卸しには、漁師は寒中でも裸にならねばならぬほどの難業だったという。古新宿では、台風時には、船を浜から新宿の大路まで揚げるほどで、荒天で着岸できず、獲った鮪を三崎港などに陸揚げすることもしばしばであった(前掲『専漁の村』及び内海延夫編『鮪漁業の六十年-奥津政五郎の航跡』)。 この小田原の鮪漁業は、明治の初めころまでこの地漁業の中心をなしていた沖ギスの旅漁から発展したものとされる。小田原沖は、海底が急に四〇〇尋ほどの深さにまで深くなり、浜から近いところで、沖ギスのほか、ムツ・アコウ・クロ(オオヅシ・アブラウオ)などの深海魚がとれる。この沖ギスを原料として、蒲鉾製造が発展し、それがまた、沖ギス漁の範囲を次第に遠くに拡大し、鮪漁への転向を容易にしたといわれる(前掲『鮪漁業の六十年』)。そのため、小田原の万年町・古新宿・千度小路等の漁師は、上・中層の回游魚である鮪漁となっても、引き続き、キス漁に用いられたタテ縄(一人一本の糸に五〇本ほどの釣針をつけ、一鉢一〇〇-一二〇尋のものを一艘一五-二〇鉢つなぎ、全長二三〇〇-三〇〇〇メートルになるという)の曳き釣りが固守された。この点で普通の延縄が用いられた小田原周辺真鶴・酒匂・網一色村とは漁具・漁法を異にしている。タテ縄の曳き釣りは、漁師一人ごとが熟錬であれば延縄より多くの漁獲が可能となる。したがって、沖ギス漁の経験を持ち、漁業専業の小田原の漁師によってはじめてなしうることであった。また、このタテ縄を使用するときは、天候急変に際し、すぐ避難できる利点があった。しかし、これを操るのは、寒中晒木綿の肌襦袢一枚でも汗が流れたというほどの重労働であった(前掲『鮪漁業の六十年』)。小田原には、以上の地元漁民による漁獲物のほか、近在の漁村-東の山王原・酒匂村・西の早川・石橋・米神・根府川・江ノ浦・岩・真鶴・福浦の各村からの漁獲物が集められた。それらは、鉄道開通によって一部はそのまま主に横浜・東京へ送られ、一部は、当地で、鰹節(および鮪節)・塩辛・蒲鉾・ちくわ・はんぺん・乾物・塩物等に加工された上、やはり、東京・横浜さらには八王子・甲府・信州方面へ移出された。なお、上記の水産加工物は、おおむね、前述した同地での漁獲季節にあわせ、随時製造されていた(表二-三三)。また、小田原に集荷された鮮魚と水産加工品とは、荷造りされ、特約した荷馬車で国府津に運ばれ、そこで汽車に搭載され横浜・東京へ送られた。やや後年のことになるが、一八九八(明治三十一)年にあっては、午後九時二三分国府津発の貨物列車一台(一〇〇〇貫積載可能)を金八円で特約し、京浜へ送った(大漁の際はさらに一列車を借受ける)。このばあい、活発な産地にふさわしく、とくに鮮魚については、問屋・仲買人は、京浜と日々数回電報を往復し、さらに沼津・房州・三崎の漁獲いかんを見た上で買い入れ、輸送するなど、機敏な商取引がなされていた(『資料編』17近代・現代(7)五五)。 さて、その漁獲物をほとんど小田原へ販売する同地西方の漁村は、いずれも半農半漁(米神・江ノ浦・岩村などは採石兼漁業)の村であり、地先での定置網漁業(根拵網)を特色とする。 真鶴・福岡村の主張によれば、この地域の漁場は、もともと、地元の村がもっぱら占有利用する地付の海面と、近隣数か村が入会利用する「沖」と、相豆房総諸国漁民が入会利用する「灘」とに分かれていた。ところが明治二年(一八六九)二月、小田原藩から「御一新に付村々の分内を見通し漁業勝手仕つるべき」旨仰せ渡され、地元村による地先海面占有利用が認められ、上記海面への真鶴・福岡村の入会利用など「沖」の入会利用が否定されるにいた表2-33 小田原における水産加工品と魚類の製造・漁獲期(1898年) 注 『資料編』17近代・現代(7)553ページより作成 ったという。しかし、岩村のいうところでは、元来、海岸より三六間まではその村の地付海面で、その余は相豆房総諸国の入会場で、「沖」・「灘」の区別はないとする。また、地元村による地付海面利用は、難船・流物などの救助を受け持つ地元村への「御仁恵」として認められたものといっている。いずれにせよ、一八七五(明治八)年の政府による海面官有宣言以前に、小田原藩による地付海面は地元村利用との申渡しを機に、入会争論が起き、後年にまで続いている。すなわち、真鶴村は、後述のように根拵網張立ての創始村であり、また、従来から石橋村字仏石から伊豆山芦川下までの海面一帯を漁場としてきたと主張し、一方明治二年小田原藩申渡しに力を得た江ノ浦・根府川・米神・石橋・岩村は、新たに自らの地先海面への根拵網張立てを企画し、対立を激化させたのである。この争論の基底にあるのは、各村における根拵網の張立ての盛行であった。根拵網は、吉浜村の同村地先海面における根拵網を例にとれば、縦七〇〇間、横一七〇間、反別三九町六反余にわたって三月から八月の間設けられる大規模な建網で、これに数隻の漁船で、回游してくる魚群(主に鮪)を追い込み捕獲する。神奈川県の明治十二年甲第三号達「捕魚採藻営業税則」も、同網に対しては、「其事業広大ニシテ、且数日間張網シテ大ニ他ノ漁業ヲ障碍スルモノナレハ、第一条ノ外(漁夫乗組人数に応じ六等に分け、漁船に営業税を賦課する。その一等は一〇人乗以上で年税二円)更ニ左ノ通税納可致事」として一か所一季三〇円という多額の税を課している。この地域での根拵網張立ては、比較的新しく真鶴村がその創始である。 明治五年の訴状における岩村の言い分では、加賀の高田屋治助という者が、伊豆山般若院地先海面へ張立てたのが最初であって、それを真鶴村五味台右衛門が学び、同村へ張立て、その後ほかの村でも張立てるようになったので、真鶴村の創始ではないという。しかし、この地域での最初の根拵網張立てが、文政七年(一八二四)真鶴村五味台右衛門による同村字古網での設置であり、後に天保年間「村役人共同張」として真鶴村が最も早くからこれを行ってきたことは争いがたい事実である。真鶴村は、これを早川村字仏石から、伊豆山浦までの地先海面で、張立ての場所を転々と変えつつ、明治期にいたっていた。しかし、前述明治二年(一八六九)二月の海岸附村々一〇か村に対する小田原藩申渡しによって、明治二年には、「隣村岩村字大根崎へ旧来大網張立方の儀は多年の成功を以開業罷在候肝要の場所」であったのが、操業不可能になった。また、このとき福浦村も、吉浜村に使用金を支払い「吉浜村地先海面へ大網張立」てていたのが、以後設置不可能となった。このように、明治期に入ると根拵網漁を早くから行っていた村々の他村地先での設置が不可能となり、代わって、岩村・吉浜村などで自村地先での根拵網設置が新たに行われるようになる。岩村では、新たに自村字大根崎の「大網場所」に自村の根拵網を設け、明治五年真鶴村はこれを自村網場に差障りがあるとしてその移転を求めたが、岩村は、「別段に妨候程の場所にはこれ無く」とこれを拒み、県も岩村を支持したので、一八七三(明治六)年十一月には真鶴村も「岩村大根崎大網張立方御廃止願い奉り候儀は私共心得違にて各村おゐて張立候とも致し方御座なく」と、地元村での大網張立てを認めるにいたった(注(4)に同じ)。また、吉浜村では、一八七六年にいたって、自村地先海面に、根拵網張立てを開始し、以後、隣村福浦・門川村漁師総代人の承諾を得て、五年目ごとに根拵網営業願を県に提出し、認可を得て、三十年代以降もこれを継続している。こうして、明治以降、従来広く漁業を行っていた真鶴・福浦村の入会漁場を圧縮しつつ、これまで「農業或は山稼等にて新漁は相成らず」とされていた他の海岸附村々で、新たな根拵網設置による漁業への積極的進出が始まったのである。前述岩村の字大根崎での根拵網張立てに真鶴村が異論を唱えたとき、岩村は、もしこの網場を移転させると、「隣村江之浦を始め、先々順々に大網場所替いたさず候ては、相成らず」といっている。これまで根拵網を設けなかった地先村々があいついで地先にこれを張立てるにいたると、その場所は、たとえ自村地先であっても、魚の回游をめぐって隣村のそれと相互に密接に関わりをもつことになり、一村で勝手に場所を移動させるわけにはいかないようになった。そして、旧来の真鶴・福浦村の広汎な入会漁業は駆逐されていった。それまでの真鶴村は「沖の釣漁をば致し申さず、根付の漁業廻り」だけで、しかも「海岸根付の漁場とても当村(岩村)の五増倍」はあるといわれていたが、これによって、遠海の鮪延縄漁への進出を余儀なくされていく。岩村側の言い分によると、この頃の真鶴・福浦村は、他の海岸附村々に比し、漁職の者多く、ために入会漁場の減少によって生活が窮迫したというが、福浦村では、寛永ころから営んで来た石切職を、「漁業都合よろし」いため現在では休業し、明治四年(一八七一)で七〇〇〇-八〇〇〇両の漁獲高をあげており、また真鶴村では、石高は岩村と同じだが、さらに岩村の畑高二〇石ほども支配し、石切職六三人、廻船水主一〇〇人余(いずれも家族を含まず)、外に廻船持・商人も多く、漁職の者の割合はさほど大きくはない。難渋の度は他村も同様だといっているが(注(2)に同じ)、確かに他の海岸附村々でも生活の窮乏が、自村地先での根拵網設置へと狩り立てたのであった。この時期の吉浜村の職業構成をみると(表二-三四)、村全体としては半農半漁といえるが、内部では、自作農または地主で、その半ばは廻船業・諸商業を兼ねる層と、諸商・旅宿を営み土地をほとんどあるいは全く所有しない層と、漁業者とに截然と分かれている(なお、表には廻船に乗り組んでいる沖船頭・水主は脱落している)。そして、ほとんどの漁業者は農業を兼ねず(兼ねても零細な小作程度である)、主に根附の漁業に専念している。ここでは、根拵網設置以前は、地引網以外の網漁は全くなされていない。一方、この村で最も富裕な家は、表2-34 1876(明治9)-1878年の足柄下郡吉浜村の職業構成 注 1 *廻船は 神明丸 357石 乗組7人 太福丸 554石 〃 7人 不動丸 100石 〃 3人 2 1876年2月「書上控」,1878年7月ヨリ至12月「諸願伺届控綴込」足柄下郡吉浜村湯河原町役場蔵)より作成。 かなりの土地を持ち、漁業には直接関与せず、漁獲物の小田原への廻送をする廻船を所有・営業し、流通面から同村の漁業を支配している。そして、同村の根拵網設置は、これら富裕層がそれに要する多額の資本を拠出することによって行われたと思われる。こうして、以後東海道線開通によるこの地域漁業の発展は、漁民一般というよりは、これら廻船業者の繁栄をもたらしたと考えられる。 塩田の存続 近世に江戸地廻り塩業として形成された神奈川県の入り浜式塩田は、ほぼそのままの形で明治期にひきつがれた(表二-三五)。塩田は全体として五五町余にすぎないが、一八八七(明治二十)年ころまでは変わらず、以後もごくわずかずつ減少して、一九一〇(明治四十三)年、専売局の第一次塩業整備によって悉皆廃止される時に、まだ三七町余の存在がみられた(表二-三六)。塩の産額も、一八八四、五年、紙幣整理政策による不況が極限に達したとき激減したが、また回復し、一八九六(明治二十九)年からは塩価上昇によって、価額ではかえって増収となった。これらの塩田は、小規模で、明治期における産塩の生産費も金沢(泥亀新田・平沼新田・洲崎など)で、塩一〇〇斤につき一円六五銭で、坂出・赤穂・撫養・三田尻など十州塩の五三-六六銭と対比すると格段に高い(小沢利雄「東京湾沿岸の旧塩田と土地造成について」『日本塩業の研究』第八集 日本塩業研究会)。にもかかわらず、明治末まで神奈川県の塩田で製塩が行われていたの表2-35 1876(明治9)年現在神奈川県塩田反別 注 明治11年5月『神奈川県治一覧表』,なお『明治14年神奈川県統計表』も同一数値。 表2-36 神奈川県塩田反別・塩産額の変遷(1876-1910年) 注 『神奈川県統計書』より作成。1910(明治43)年は専売局「製塩地整理事蹟報告」により,塩1石=約10㎏として換算。 は、十州塩の東京への輸送費・輸送の際の目減りを加えると、両者の格差は著しく縮まるからである。とくに神奈川県の塩田には、すぐ近くに横浜や三崎などの漁村という塩需要地が控えていたので、輸送費は無視することができる。これらの塩田の多くは、新田とともに内湾あるいは入江に開発され、新田を波浪から守る役割を果たすとともに、ここからの収入は、地先海面での海苔養殖などとともに、関係農家の農業収入の補いとなっていた。このような性格が、塩の市況にかかわらず、長くこれら塩田を存続させていったのであろう。 注 (1) 一八八三年十月十一日「歎願書」城ケ島村漁夫総代、および三崎町漁夫総代の各通 三浦市役所蔵。 (2) 明治五年十月「相模国足柄下郡真鶴村福岡村両村江相掛り候海面入会漁業出入追願書」岩村 湯河原役場蔵。 (3) 神奈川県教育委員会「相模湾漁撈習俗調査報告書」(一九七〇年)小田原市米神・江の浦の部、真鶴町真鶴の部。 (4) 一八七三年十一月「乍恐以書付奉歎願候」真鶴・福浦村小前惣代 湯河原町役場蔵。 第二節 在来工業の展開 一農村工業と都市雑工業の勃興 明治前期の県内加工業 明治初期の各種の物産統計によれば、現県域に属する旧相模国全域と旧武蔵国三郡(橘樹・都筑・久良岐)は、もともと商工業化のあまり進んでいなかった地方であった。たとえば内務省勧農局編『明治九年全国農産表』によれば(表二-三七)、相模国の農産額は、穀作物を中心とした一人当たり普通農産額で全国平均をやや上回ったものの(三円六八銭九厘に対して四円九銭四厘)、商業作物を中心として特有農産額でこれを下回り(一円四三銭九厘に対して一円一八銭)、一人当たり生産額で全国平均を上回ったのは、繭(一六銭八厘に対して二九銭八厘)、生糸(二六銭七厘に対して四八銭二厘)、漆汁(一厘に対して二厘)、葉煙草(三銭一厘に対して一六銭七厘)のみであった。また、普通農産額についても、一人当たり米生産額が全国平均をはるかに下回り(二円七三銭に対して一円九二銭四厘)、これをカバーしたのは麦・大豆・雑穀・芋類などの畑作物であった。要するに明治初期のこの地方は、麦・雑穀を主体とした古くからの関東農村の特徴を、まだ多分に残していたということができるのである。 このような特徴は、前記武蔵国三郡を加えた現県域全体にも、ほぼそのまま当てはまった。たとえば『明治十一年全国農産表』によれば(表二-三八)、現県域内に属する地方が一人当たり生産量で全国平均を上回ったのは、麦・雑穀・芋類・繭・葉煙草の五品目のみであり、ほかは米・実綿・菜種・茶などの主要作物をはじめとして、いずれも全国平均を下回った。そして、表2-37 日本全国および相模国農産額 1876(明治9)年 (普通農産の部) (特有農産の部) 注 1.内務省勧農局『明治9年全国農産表』および人口については太政官統計院『統計年鑑』(第1回,明治15年3月刊)により作成。 2.表中・印は,全国水準を上回るものである。 表2- 38 人口千人当たり田畑面積・生産額等 注 1 『明治11年全国農産表』『明治12年1月1日調 日本全国郡区分人口表』『日本帝国統計年鑑』『農商務統計表』および『神奈川県統計書』により作成。 2 表中の神奈川県には多摩郡がふくまれていない。 3 表中・印は全国水準を上回るものである。 生糸も生産量の少ない武蔵国三郡が加わると、全国水準を下回ったのであった(一〇・一匁に対して六・一匁)。こうした点からすれば当時この地方は、製糸地帯というよりむしろ養蚕地帯の色彩が強かったといわなければならないのである。 しかし、このような後進的な特徴は、明治十年代を通じ、海外貿易と横浜港の発展によって、急速に変化しはじめた。わが国最初の鉄道によって首都と結ばれ、出入国と海外貿易の玄関となった横浜は、その商業活動を通じて人口流入の強い磁石となった。そして、一八七八(明治十一)年七月公布の「郡区町村編成法」によって、久良岐郡から分立して横浜区となり、また、一八八九年四月には、「市制・町村制の施行」によって横浜市に昇格した。そして、その人口も、一八七九年一月一日現在の四万六一八七人から、一八八七年十二月末には一一万四九八一人と急増し、県内郡区中の筆頭となったのである。 このような横浜の成長とその基礎となった海外貿易の発展は、周辺地域に新しい変化を呼びおこした。まず、横浜とこれに隣接する久良岐・都筑・橘樹郡などでは、居留外国人や貿易関係の各種の需要をみたす、零細な雑工業(印刷・製靴・マッチ・石けん・煉瓦石・七宝・茶箱製造・花火・製米・製粉・ビールなど)が簇生した。また、輸出品の中枢を占めた生糸貿易の発展は、高座・津久井・愛甲・都筑など内陸地方の製糸業を刺激し、その生産量を著しく増大させた。その結果、一八八七年の県内一人当たり生糸生産量は、一八七八年の六倍強(六・一匁から三七・四匁)となり、全国平均(一人当たり二六・七匁)をはるかに凌ぐことになったのである。また、絹織物・綿織物やその原料糸の製造(撚糸業)も、愛甲郡(撚糸・絹織・綿織・絹綿交織)・津久井郡(撚糸・絹織)・高座郡(絹織・綿織)・足柄下郡(綿織)などで進み、津久井郡中野村(現在津久井町中野)、同川尻村(現在 城山町川尻)、高座郡上溝村(現在相模原市上溝)、愛甲郡荻野村(現在厚木市荻野)、同半原村(現在愛川町半原)などに、繭・生糸・織物などの定期市が相ついで出現した。また大住・足柄上郡を中心に、以前から行われてきた煙草製造業もさらに発展し、二十年代初頭には人力から水力への切換えも進むことになったのである。 二 製糸・撚糸および織物業の発展 製糸業の勃興 先にふれたように明治十年代初頭の神奈川県(ただし、多摩郡を除く)は、一人当たりの繭生産量で全国平均を上回ったが、生糸はこれを下回り、八王子周辺地域に原料繭を供給する繭生産地帯の色彩が強かった。しかし、横浜の生糸貿易の発展は、この地方に大きな影響を及ぼし、明治十年代を通じて、その生産量を飛躍的に増加させた。いまその推移を見れば表二-三九の通りであり、一八八七年の生産量は一八七八年の七・七倍に増加した。なかでも津久井郡の増加率は約三六倍にものぼり、愛甲・高座を加えた三郡で、総生産量の九三㌫余を占めることになった。また、占有率の点ではまだ微小とはいえ、大住郡・足柄上郡もかなり高い増加率を示し、三郡から周辺地域への外延的拡大も始動しはじめていた。 しかし、この時期の県内製糸業は、まだ座繰方式による家内工業が支配的であった。たとえば一八八六(明治十九)年四月の津久井郡川尻村の資料(表二-四〇)によれば、蚕糸関係戸数三四四戸のうち三分の二以上に当たる二五四戸が、養蚕・製糸を兼営し、専業経営はそれぞれ五戸と五九戸にすぎなかった。一八八六年の川尻村総戸数はつまびらかでないが、『築井文化』第五号(昭和四十二年三月津久井郷土研究会)所収の「城山町歴史年表」によれば、一八七六年 四一四戸(「租税及諸費取立帳」)、一八八九年 四一九戸(八木七之助筆記)となっているので、一八八六年のそれもほぼ四一五戸前後とみてさしつかえないであろう。とすれば当時この村では、総戸数の約八三㌫(三四四戸)が蚕糸関係の営業(おそらく農間余業)に従事し、更にその三分の二以上(総戸数の約六一)㌫が、養蚕・製糸の兼業経営だったということができるのである。 このような数字は、自家製の繭を自家で繰糸する、零細な家内工業の広汎な存在を推測させる。また、製糸戸数が三二〇戸(蚕糸関係戸数の九三㌫、総戸数の七七㌫)にのぼったという事実も、その大部分が小農民の農間余業だったことを示すものといえよう。なお、前記梶野家資料にはこのほか、小倉村・鳥屋村・中野村・三ケ木村の分がふくまれているが、その従業様式はいずれも川尻村のそれと大同小異であった。 しかし、このような農間余業の広汎な存在のなかで、周辺の農家の子女を雇用する作業所もあらわれはじめていた。『明治十四年神奈川県統計表』に始まり、一八八四(明治十七)年以降ほぼ毎年刊行された県統計書には、『大正二年神奈川県統計書』まで、県内の主な企業名が記載されている。それによれば現県域内の各地には、明治十年代から二十年代初頭にかけて、表2-39 明治10年(1877)代の製糸業の発展 注 『明治11年全国農産表』および『明治20年神奈川県統計書』により作成。ただし『全国農産表』では斤数で表示されているが,1斤=160匁で換算した。 次のような製糸場が現われていた(表二-四一)。 いずれも数人から数十人の労働者を雇い、改良座繰ないし簡単な器械設備を備えた、手工業的な作業所(マニュファクトリー)と考えることができよう。所在地のうち高座・愛甲・津久井の三郡は、前述のように一八八七年の県内(多摩郡を除く)生糸生産量の九三㌫余を占めた地域であり、また、大住・足柄上郡は急速に生産量を伸ばし始めた地域であった。いいかえればこれらの地域では、十年代を通じる小農民的製糸業の普及のなかで、こうした作業所経営もいくつか出現しはじめていたということができるのである。 ところで表二-四一によれば津久井郡には、三ケ木村と根小屋村に斎藤六兵衛製糸場と久保田製糸場がそれぞれ現われているが、比較的資料が整っているのは後者である。それによれば経営者の久保田(喜右衛門)家は、江戸時代初期から同郡串川沿い表2-40 津久井郡川尻村蚕糸営業種目および戸数(1886年) 注 「明治19年4月20日 蚕糸業目及人名取調 津久井郡川尻村」(津久井町 梶野中家文書)により作成。○印は従事している業目を示す。 の山間部に居住し、山林経営と木材・薪炭などの江戸売りのほか、後期以降、絹の買継ぎや醸造などによって蓄積を進めた地主・問屋商人であった。そして、明治初期からは、八王子・日本橋・京橋・神田などに相ついで店舗を設け、絹織物の直売に従事するとともに、十年代には居宅前の串川沿いに作業所を設け、水車動力による製糸場経営に着手することになったのである。その作業状況は、一八八八年以降、『生糸検査帳』(『資料編』17近代・現代(7)五七-五八)のなかに、各人の生産量のほか、糸目の出かた、糸の太さ(デニール)、光沢などにわたって、日計のかたちで詳しく記帳されている。それによれば繰糸に従事したのはすべて婦女子(おそらく近隣の農家の)で、賃金は出来高制に賞罰制(糸目・デニール・光沢による)を加味したものであっ表2-41 明治10年(1877)代-20年代における製糸場 た。生産量は一八九〇年の場合、四月二十一日から十二月十日までで二六三貫六八五匁三分にのぼった。『第六次農商務統計表』(明治二十四年十二月刊)によれば、神奈川県における一八九〇年の器械生糸平均相場は、一〇〇斤当たり六九一円だったので、右の生産量はおよそ一万一三八八円、当時の県内平均米価で換算すれば、約一二六一石余の米に相当したものということができる。なお、前記『第六次農商務統計表』には、一八九〇年現在の同製糸所の概況が掲載されているが、それによれば当時の規模は、資本金三五〇〇円、株主九人、職工六五人、水車一(三馬力)、蒸気機関一(一五馬力)であった。しかし、それでもなおその生産量は、一八八七年の津久井郡生糸生産量(一万二四〇八貫)の二㌫程度にすぎず、農間余業的製糸業をおびやかすには程遠い存在であった。いずれにしても当時の県内製糸業は、大部分小農民の農間余業的な労働によってささえられていたとみてさしつかえないのである。なお、一八八六年に設立された高座郡の漸進社は、主に周辺農民の座繰糸の仕上げ(揚返し)や共同出荷のために設けられたもので、繰糸を目的としたものではなかった。同郡座間村の光明社も、おそらく同種のものとおもわれる。明治十年代は輸入防遏、輸出増進のために勧業博覧会や共進会がさかんに開催された時期であった。製糸業の分野でも粗製濫造の防止と糸質改良のため、糸繭共進会(第一回横浜 一八七九年)や品評会が各地で開催され、県内でも八王子に、一八八三年六月、武相蚕糸改良協会が設立された。右の漸進社や光明社は、このような環境のなかで共同揚返所を設け、周辺農家で生産された座繰糸の改良を進めたのであった。 撚糸・織物業の発展 製糸業の勃興と工程の改良が進むなかで、愛甲郡・津久井郡などで江戸時代から行われてきた撚糸業や織物業も発展の気運を迎えた。半原撚糸協同組合編『半原撚糸のあゆみ』(昭和四十七年)によれば、山間部のこの地方は江戸時代初期からの蚕場で、農間には婦女子の製糸が行われてきたが、中期以後は紬(川和縞)その他の着尺織物の生産が始まり、また、文化・文政期には撚糸を原糸とする博多織の技術と八丁式撚糸器が桐生から導入された。なかでも撚糸業は、近隣の八王子市場や渓谷の適当な湿気と水力に恵まれて、次第に発展し、天保期には八軒の業者を数え、嘉永期には水車動力も利用するようになったといわれている。 明治前期の模様はつまびらかでないが、旧幕時代からの蚕糸・織物業や撚糸業の発展が進んでいたことは、残存資料によってある程度うかがうことができる。たとえば明治五年(一八七二)一月の「半原村明細書上帳」(愛川町新井義家文書)には、「農間蚕織物之儀は太織縞織申候」とあるし、また、『皇国地誌』には隣村の田代村や三増村の部に、次のような物産が書き上げられている(一八七六年一月一日調)。 田代村 生糸 四二貫匁(一六八〇円) 絓糸 一五貫匁(一五〇円) 繭 一三五貫匁(六七五円) 木綿縫糸 五貫五〇〇匁(一一円) 木綿織糸 四貫匁(八円) 博多帯地 二五〇筋(二九〇円) 木綿織物 一八〇反(一三五円) 三増村 繭中等 四九二貫七五〇匁(一四七八円二五銭) 同下等 一九六貫四〇〇匁(四九一円) 大繭中等 四九貫二七五匁(一六四円二五銭) 同下等 三九貫二八〇匁(九八円二〇銭) 生糸上等 八八貫六九五匁(二五三四円七〇銭五厘) 同中等 二三貫五六八匁(六三六円九六銭四厘) 熨斗糸 三二貫四九三匁(二七〇円七六銭七厘) 玉糸上等 一二貫三一八匁(一五三円九五銭三厘) 同中等 八貫六四二匁(一〇八円二銭五厘) 皮剝糸 五貫六一三匁(一四円三銭五厘) 木綿織物 三五〇反(二六二円五〇銭) 熨斗糸織物 五〇反(七五円) 他方、明治十年代から二十年代初頭の現地資料のなかには、「紡績水車設置願」や水車設置にともなう隣人への念書、「糸より屋敷借用証」など、撚糸関係の資料もいくつか残存している。このうち、「紡績水車設置願」は、撚糸用水車設置のための水路新設と水利用の許可を県に願いでたものであり、また、隣人への念書は、隣人の水利を侵さないことを誓った誓約書であった。後者の内容は『資料編』17近代・現代(7)六四にも収録されているので、ここでは、前者の例を紹介してみたいとおもう。紡績水車設置願 字馬渡 三十七番民有地第一種 宅地反別七畝拾八歩ノ内 相模国愛甲郡愛川村半原 一紡績水車場 壱箇所 願人 大貫作右衛門 此水車壱輌 差渡八尺 但水路樋口 竪五寸 横六寸 平常水深四寸 此紡績器械三組 右者馬渡沢水ヲ引用ヰ水車設置仕度、尤該流ハ本村半原字馬渡山ヨリ流出シ、同字ニ於テ中津川砂礫中ニ注入スルモノニシテ、村内ハ勿論、水下村方ニ於テ故障筋無御座候間、御許可相成度、連署ヲ以テ此段奉願候也 明治廿三年六月二日 設置願人地主 大貫作右衛門㊞ 隣地々主 大貫海蔵㊞ 水路関係地主 大貫作兵衛㊞ 同 小林千代松㊞ 愛川村長 新井定兵衛 神奈川県知事浅田徳則殿 農甲第四百六十七号 書面願之趣聞届候事 明治二十三年九月十二日 神奈川県知事浅田徳則㊞ 右によればその設備は、水車一輛に撚糸器三組を連結して作業を行うものであった。当時の「糸より屋借用証」や「金子借用証」によれば、撚屋の規模は間口二間半(約四・五㍍)、奥行四間程度のものが多く、撚糸器はいずれも八丁式であった。また水車の直径は次第に大きくなり、明治三十年代には九尺五寸(約二・九㍍)、大正期には一丈二尺(約三・六㍍)の大型のものもあらわれた。操車法は当初平坦地の流水を利用した「腰かけ」が主であったが、後には立地上「上がけ」のものもあらわれた。 他方、経営形態は江戸時代から「糸屋と賃撚り屋の二つのかたち」をとり、自己の原料にみずから加工し販売するという業者はきわめて少なかった(前掲『半原撚糸のあゆみ』)。このことは明治期においても同様であり、当時の資料もこうした経営形態が根強く存続したことを示している。表二-四二は明治二十年代初頭に作成された糸屋の手控え(「撚糸控」)を整理したものであるが、この場合も撚加工はすべて賃撚りのかたちをとり、原糸の種類と重量、撚加工の種別に応じて一定の工賃が賃撚人に支払われている。帳末の書き込みによれば、この賃撚人は糸屋の借家人だったようであり、年末の支払工賃二円四四銭九厘のうち、四四銭九厘が十二月分の家賃として徴収され、「差引金五銭一厘家賃不足」と記入されている。半原撚糸協同組合編『半原撚糸のあゆみ』によれば、一般に糸屋は、こうした賃撚人を数軒ないし十数軒かかえ、両者の関係も「親方、子方の関係」が強かった。また「糸屋は、原料となる武相産生糸を、八王子・厚木・上溝・原町田・中野などの市へでかけ、現金取引きで買いつけ……それを自家工場で加工するとともに、賃撚り屋に撚らせ、撚り糸、練り糸として需要地に出荷」した。右の糸屋の場合にも、たとえば「明治廿六年生糸仕入帳」には、「六月廿五日厚木市仕入、七月一日厚木市仕入、七月五日厚木市仕入、七月七日川和市仕入」等の記述が随所に見受けられる。いずれにしても当時の撚糸業は、こうした糸屋と賃撚人による、問屋制家内工業のかたちをとって発展を続けたと考えることができるのである。 表2-42 賃撚りと工賃(1888年9月-12月)-愛川町半原の一例一 三 煙草製造業 秦野煙草の発展 すでにふれたように『明治九年全国農産表』によれば、当時の相模国は葉煙草の一人当たり生産額において、全国平均の五倍以上の実績をあげていた。その理由はいうまでもなく同国中部の秦野地方が、江戸時代以来、有力な煙草生産地となっていたからであった。『神奈川県統計書』、『日本帝国統計年鑑』などの統計書によれば、同地方の葉煙草の生産は、その後も表二-四三のように、全国の伸び率をはるかに上回るテンポで増加した。そして、これにともなって刻み煙草の加工業も、さらに発展することになったのである。 『資料編』17近代・表2-43葉煙草生産高 注 1878年は『全国農産表』。他は『神奈川県統計書』『日本帝国統計年鑑』により作成。 1878年の生産高は1斤=160匁で貫高に換算した。 表2-44 足柄上郡東部の煙草収穫・製造・販売概況 現代(7)第二編第三章には、明治十年代から四十年代にわたる、同地方の煙草製造関係の資料が収載されている。いまこのうち足柄上郡東部の模様を伝える「明治十九年 煙草収穫・製造・販売概況」(資料番号一00)を引用すれば表二-四四の通りであり、現在大井町にふくまれる篠窪・山田・栃窪・柳・赤田・高尾の六か村では、当時約一万貫の葉煙草を収種し(作付面積約四〇町歩)、約四〇〇〇貫の刻み煙草を村内で製造した。他管内との取引高は移入が約三〇〇〇貫、移出が一万二六〇〇貫表2-45 煙草製造所 注 記載事項は初出の『神奈川県統計書』による。 にのぼった。移出高のうち刻み煙草は約四〇〇〇貫だったので、他は葉煙草のまま移出されたものとおもわれる。移出先は横浜と横須賀であったが、『神奈川県統計書』には、当時横浜に荒波煙草製造所(明治四年十一月設立)、小糸煙草製造所(明治十六年七月設立)などの名前が見えるので、秦野地域からも葉煙草の買付けを行ったものと考えることができる。 他方、村内の製造人(加工業者)は、一八八七年八月現在、柳村を除く五か村に計一一人いたが、翌一八八八年六月には二三人に倍増した。また、彼らに雇用された刻み煙草の賃切人は、一八八七年三月現在、右六か村合計三九人にのぼったが、うち二九人は自宅賃切人で、製造所で働く賃切人は一〇人に過ぎなかった。また製造所の規模も三坪(約九・九平方㍍)ないし一二坪という小規模なもので、使用された刻み用具も、四組を越える製造所は皆無であった。こうした点からいって当時の生産形態は、少数の被雇用者が経営者ないしその家族とともに働く作業所と周辺の賃加工人を組みあわせた、初期マニュファクチュアに近いものだったとみることができよう。明治十年代に使用された用具は、「ゼンマイ」と呼ばれた足踏み刻み器械が主流であったが、二十年代初頭には人力にかわって水車が導入され、急速に普及した。また、これにともなって経営規模も拡大し、二十年代なかばには、十数人の職人を抱える製造所が多くなった。表二-四五は当時の『神奈川県統計書』に見える製造所を列挙したものであるが、ほぼ一〇人-二〇人の職人を抱え、マニュファクチュア経営として成熟期を迎えつつあったことを物語っている。 四 醸造業 醸造高の推移 明治前期の酒類の醸造高は、全国的に下降線をたどったが、神奈川県でも同様であった。また、醤油の醸造高は全国的にかなり増加したが、神奈川県はほぼ横ばい状態であった。全国の醤油醸造高が増伸したのは、都市人口の増加と自給的醸造の減少によるものとおもわれる。他方酒類は、紙幣整理期(一八八一-八五年)の不況と増税(地方税・酒造税など)の影響をもっとも強く受けたものと考えることができよう。神奈川県の醤油醸造高が伸びなやんだのは、おそらく野田・銚子など、利根川・江戸川流域の製品の進出によるものとおもわれる。 ところで『日本帝国統計年鑑』や『神奈川県統計書』によれば(表二-四六-二-四八)、この時期の神奈川県の醸造高は、酒類の場合、全国平均よりはるかに低く、醤油の場合はかなり高かった。これは本県の農業が、もともと麦・大豆・雑穀などの畑作を基調とし、米の生産量において全国水準をはるかに下回ったことと軌を一にするものであり、いわば関東農村の共通の属性であった。要するに明治前期の本県は、酒生産県というより、むしろ醤油生産県に属したといってさしつかえないのである。 県内の産地 しかし、このような全県的な特徴は、郡別にはかなりの偏差をもってあらわれる。表二-四九は一八八七年現在の醸造高を郡別に表示したものであるが、これによれば人口一人当たりの醸造高は、酒類の場合県北および県西部の津久井・愛甲・高座・足柄上・足柄下・淘綾の諸郡が高く、醤油の場合は橘樹・足柄下の東西両郡と、北部の津久井・愛甲両郡が高くなっている。このような地域的分化をもたらした背景には、いろいろな要因があったものとおもわれるが、ひ表2-46 酒類醸造高の推移 注 『日本帝国統計年鑑』および『神奈川県統計書』により作成。表中の神奈川県には多摩郡がふくまれている。 醸造高には自家用料醸造高がふくまれていない。業者数のうち1882年度は醸造場の数である。 表2-47 醤油醸造高の推移 表2-48 1887年度酒類・醤油醸造高比較 注 『日本帝国統計年鑑』および『神奈川県統計書』により作成。ただし表中の神奈川県には多摩郡がふくまれていない。 酒類の生産高には自家用料醸造高がふくまれている。 とつの共通の要因として、水の問題を指摘できるようにおもわれる。いうまでもなく丹沢山塊や多摩丘陵の辺縁部は、良質で豊かな水資源に恵まれた地域であった。また、多摩川・相模川・酒匂川などの河川も、酒・醤油などの輸送に好都合だったと考えることができよう。北総地方の醸造業が、利根川・江戸川などの水運と密接な関係にあったことは、よく知られている通りである。いずれにしても良質な醸造用水と水運の便が、この場合欠くことのできないものだったと考えることができるのである。なお『資料編』17近代・現代(7)には、当時の県内醸造業関係の個別資料が収載されているが、それによれば一八七三(明治六)年の淘綾郡の酒造はすべて濁酒で、六名の酒造人の免許高も一率五石という零細なものであった(資料番号八七)。これに比べると北部の酒造業はかなり大きく、愛甲郡田代村大矢源吉家の一八七九年度造石高は清酒二三四石、表2-49 1887年度県内各郡酒・醤油醸造高 注 単位は石。 『神奈川県統計書』により作成。 表2-50 上田家醤油販売高 注 「醤油仕籠簿」により作成 焼酎七石八斗余にのぼった(資料番号九一-九二)。また、やや時期がさがるが、津久井郡の「明治二十一年度 所得金高調書」(前掲梶野家文書)によれば、根小屋村久保田喜右衛門家の同年の造石高は、約三九五石(免許税三〇円、酒造税一石四円、計一六一〇円二八銭三厘)にのぼっている。なお、明治十六年十二月布告第六一号によって酒造税則が改正され、造石税が一石二円から四円に引き上げられたほか、新規開業者については造石最低限が定められたので(清酒一〇〇石以上、濁酒一〇石以上など)、以後業者数とりわけ零細業者の数が急減することになった(表二-四六)。しかし、それまでは淘綾郡に見られたような零細業者が、中小業者の周辺に広く存在したと考えることができるのである。他方、醤油醸造業は、前述のように橘樹・津久井・愛甲・足柄下郡が主産地であったが、とくに橘樹郡は多摩川の水運に恵まれ、明治十年代には、年間七〇〇石以上の製品を販売するかなり大きな業者も現われた。いまそのうち上田(忠一郎)家の販売高を紹介すれば、表二-五〇の通りであり、一八七四年以後の一〇年間は、八一年を除いて毎年七〇〇石前後の販売実績をあげた。しかし、紙幣整理の原資捻出のため、醤油税が設けられた八五年以降急速に減少し、九〇年は一〇〇石を割ることになったのである。その理由はつまびらかではないが、前述のように、このころから急増しはじめた北総地方の製品の圧迫によるものではないかとおもわれる。本県全体の醸造高が一八九〇年以降急減しはじめたのも、同様の理由によるものとおもわれるのである。 上田家の「第三号醤油仕籠簿」(1874-1892) 上田安左衛門氏蔵 表2-51 各業種別企業概要 五 雑工業 横浜周辺の加工業 海外貿易と横浜の発展にともなって、内陸各地で製糸業や煙草製造業などの工業化が進みはじめたころ、横浜周辺では居留外国人や海外貿易に関連した各地の雑工業が勃興した。その業種は印刷・製靴・マッチ・石けん・ビール・ポンプといった新来のものから、精米・製粉・茶箱製造・七宝・花火など多岐にわたった。しかし残念ながら、その企業内容を伝えるような資料は、これまでほとんど発見することができなかった。よってここでは、さしあたり『神奈川県統計書』に記載された企業名と企業概要を列記し、後考をまちたいとおもう(表二-五一)。典拠となった統計書は、『明治十四年神奈川県統計表』と、一八八四(明治十七)年から一八九三年までの『神奈川県統計書』である。 第三節 近代工業の形成 一 幕末期の工業 黒船来航と浦賀造船所 嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、四隻の軍艦を率い、突如浦賀へ来航し開国を要求した。蒸気船二隻、帆船二隻より編成された艦隊は、いずれも真黒に塗装された黒船であり、欧米の近代産業技術を象徴する浮かぶ城であった。この黒船出現以来、日本は政治経済にとどまらず、産業技術の上にも大きな影響をうけ、新たな激動の時代へはいったのである。 黒船の威力に接した日本国内では、海防論議が沸騰し、軍艦建造によって国防を果たそうとする建議が次々に行われ、幕府は同年九月十五日に至り、二〇〇余年来施行してきた大船建造禁止令を解除した。泰平の夢を貧っていた日本では、近代的な軍備も必要なかったし、事実なんの施設もなかった。幕府諸藩とも一隻の軍艦も持っていなかったが、このとき以来国防科学意識が芽ばえ、黒船を国産化する動きから、近代西洋産業技術を移植する過程が始まった。 幕府は、みずから同年十一月に早くも浦賀に造船所を設け、翌年五月には鳳凰丸を建造した。この地を選んだのは、浦賀が江戸湾の入口にあるので、黒船が渡来すれば接触する機会が多く、それに似せた船を造るのに好都合とおもわれたからである。設備は簡単なもので、海にそそぐ谷川を利用し、渠溝を掘り、その溝口を粘土でふさぎ手動ポンプで排水し乾船渠とした。完成した船は、船首が鳳凰の像で飾られ、船長一〇七㌳(一㌳は三〇・四八㌢)、幅三五㌳、深さ一五㌳でかなり大きい。船体構造を肋骨と外板・内板張とで構成し、下半部を銅板で包むという本格的洋式構造を採用している。その他帆装・諸道具・備砲などの艤装もされ、いかりやろくろも洋式と和式とを併用するなど、黒船を直接見聞できる地の利を随所に生かしていた。しかし、見様見真似で造ったので、実際に走らせると、順風のさいは帆走ができたが、風雨にあえば潮の流れのまま漂流する始末で、実用的とはいえなかった。浦賀造船所においての建造は、この一隻のみにとどまり、そののちは修理所に使用され、遣米使節団を乗せ太平洋を横断することになる咸臨丸を修理したのはその一例であるが、大造船所に発展せずに終わった。 石川島造船所の設立 水戸藩主徳川斉昭は、かねてから海防の重要性を熱心に説き、蘭学者から砲術や軍艦建造法の知識を学ぶと、船大工に小型の洋式帆船やその雛形を造らせ、隅田川に浮かべ、世人の啓蒙に努めた。斉昭の警告どおり、ペリーの来航が現実となって国産による大船建造が必要となると、老中阿部正弘は徳川斉昭に洋式船建造を依頼し、費用は幕府負担で造船所を設立させた。 嘉永六年(一八五三)十二月、水戸藩は隅田川の河口に立地し水上交通の便利な石川島の地を造船所敷地に決め、翌嘉永七年一月から木造帆船のバーク型軍艦旭日丸の建造に着手した。蘭学者鱸半兵衛を建造主任にして蘭書をたよりにしたが、鱸がモデルにした大船は一九世紀中葉のものではなく、一七世紀初めの東インド会社の船型であった。建造には苦心し、費用も予想以上にかかり、幕府の勘定所は中止を具申するほどであった。阿部正弘の強い支援で建造はなんとか続行されたが、途中しばしば中断し、オランダ人技術者の助言を仰いだりして、安政三年(一八五六)五月に二年がかりで完成した。旭日丸は長さ七九㌳、幅三二㌳、深さ二四㌳、約六〇〇トン余の大船で船体は堅牢ではあったが、復原力の計算に失敗したため、風波のある海上を航行することができず、船首の吃水が船尾より深く操縦が容易ではなく、ようやく静水に浮かんだのである。世人は旭日丸と呼ばずに、厄介丸と罵称した。鎖国時代の二世紀余の長い空白期間があって、造船技術を知らず、目分量ではかって外型だけを模倣したのであるから、止むを得なかったといえよう(石川島重工業株式会社編『石川島重工業株式会社一〇八年史』)。 佐賀藩と薩摩藩 佐賀藩は、長崎に近く、英明な藩主鍋島閑叟のもとで西欧文化の吸収に熱心であり、全国にさきがけて嘉永三年(一八五〇)十月に蘭書をもとにして、洋式砲鋳工場を設立、反射炉を築造し、自前で大砲鋳造ができるまでになっていた。大船建造禁止令の解禁とともに小蒸気船や軍艦の輸入をオランダ人に依頼し、さらに鍋島十左衛門らに命じ蒸気船建造のため三重津付近に造船所を設置しようとした。安政三年(一八五六)には蒸気船用機械をオランダへ発注し、その到着とともに造船を行う予定であった。オランダ人から造船所の設置や職工の養成などについて教示を受けて準備をしたが、いよいよ実施のとき、三万両の予定資金では間に合わず、工場建設や運営には一二万両というぼう大な資金を要することがわかった。当時の藩財政では捻出できないため、入荷したオランダ製の機械類をもてあました末、幕府へ献上してしまった。幕府はのちにこれらの機械を横浜・横須賀両製鉄所へ転用するのである。以後佐賀藩は造船より造機へと関心を向けたが、それでも慶応元年(一八六五)木造外輪汽船凌風丸を三重津で建造し、先進藩の面目を示している(秀島成忠『佐賀藩海軍史』)。 薩摩藩は洋式海軍の創設にもっとも意欲的であり、琉球防衛という名目で黒船来航の一か月前には、阿部正弘の了解を得て、解禁令以前に、桜島で武装帆船(琉砲船)の建造を始めていた。日本では黒船来航のときにはただこの一隻の大型帆船がつくりかけられていたのであり、すぐに洋式船に模様替えされ、翌年三月完成し、以呂波丸と名づけた。 島津斉彬は嘉永六年十一月、洋式帆船一二隻、蒸気船三隻から成る艦隊の建造を企て、幕府の許可を得て翌年七月桜島で四隻を同時に起工し、安政二年春には完成した。また、以呂波丸より一か月遅れて進水した昌平丸は幕府へ献納され、鹿児島から江戸へ無事回送された。長さ九〇㌳、幅二四㌳、深さ一八㌳、一六門の大砲を装備した三本マストのバーク型帆船であり、回送後、藩主の斉彬と老中阿部正弘が試乗し、江戸の話題となった。このように帆船は実用になるものを造ることはできたが、蒸気船を造ることは不可能に近かった。舶用機関についての知識はなにもないし、それらを製造する機械類もなく、翻訳された蘭書を手がかりに舶用機関を造ろうとしても、ネジ類やボルトを製作したり金属板に穴をあけることに難渋し、仕事は容易に進まなかった。嘉永七年夏、長崎に入港したオランダ軍艦スームビング号(翌年幕府に献納され観光丸と改称)に、薩摩藩の集成館で蒸気船建造を担当していた市来四郎や蒸気工の阪元与市らが実地見学に乗り組み、エンジンやその図面を見て蒸気軍艦全体の構造などを学んだとき、蒸気船を自力で建造することが不可能であることを自覚させられた。結局、蒸気艦の建造を思い切りよく断念して、薩摩藩はオランダなどから買い入れる方針へと転換してしまったので、薩摩藩の帆船軍艦は、昇平丸(昌平丸の旧称)を加えても五隻で終わった(公爵島津家編集所『薩藩海軍史』上)。 戸田の君沢形建造 鎖国時代を通じて日本古来の大和船の建造技術の蓄積がある程度みられたにせよ、和船とは造船技術の系譜を異にする洋式造船業を習得することは難しかった。邦人が黒船を実際に見聞したり、オランダの造船書を翻訳してその図面をモデルに洋式艦船を造りあげても、外観だけの模倣に終わり大きな限界があった。そのような折、先進国の技術に偶然接触し、習得する機会が訪れた。これが伊豆国戸田村における君沢形の建造であった。 ペリー来航の翌月、長崎へ来航して通商を迫ったロシア使節プチャーチン中将は、翌嘉永七年十月伊豆の下田へ入港し再交渉を求めた。たまたま十一月四日、大地震が伊豆一帯を襲い、津波がプチャーチン座乗の新鋭艦ディアナ号を大破した。ディアナ号は修理予定地の君沢郡戸田村へ回航の途中沈没したため、プチャーチンは乗員帰国用に二隻の艦艇を同地で建造することに決めた。幕府はこれに協力し必要な労力と資材を提供し、船大工や木工・鍛冶工などを派遣してロシア人指揮のもとに西洋型帆船建造に従事させたので、初めて洋式造船技術の実地習得の好機を得たのである。 韮山代官江川英龍が造船掛りに任命され、プチャーチンみずから新船の図面を引き設計を行い、十二月中旬に建造に着手し、翌年二月下旬進水、三月中旬には完成した。プチャーチンらは、三月十八日新船に乗り、戸田を出帆し帰国した。この船は、建造地にちなんで戸田号(ロシア側はシコナ号と唱えた)と命名された。同船は、全長二三㍍、最大八㍍幅、三本マスト五〇人乗りのわが国最初のスクーナー帆船であり、沈没したディアナ号の備砲八門を引き揚げ搭載した。 幕府はこのスクーナー船の優秀性を認め、ロシア人から伝習を受けた職人をそのまま使用して同型船一〇隻を建造することにし、六隻を戸田で、残り四隻を江戸の石川島で工事をすすめた。戸田の建造船は安政二年十一月完成し、その職人を招いて石川島で安政四年五月に同型船を建造できた。幕府は建造地戸田村の属する郡名をとって、この一〇隻を君沢形と称し、何番船で区別した。幕府は、君沢形を諸藩に貸与し、洋式船の模範を示すとともに、幕府の練習船として長く使用した。 戸田号の新造にともない、ロシア人から西欧造船技術の初歩から習い、船台の作り方から始まり、龍骨・肋骨を建てる方法、蒸し焼き法や瀝青の製法など、書籍を通じてのみでは理解できない技術を学ぶことができた。また船大工などのうちから、横須賀造船所創業時の工長上田寅吉・緒明造船所創立者の緒明菊三郎・大阪難波に造船所を興した佐山芳太郎などが輩出し、西欧技術移植のにない手になった。このようにペリーの黒船で蒸気船を知った日本人は、プチャーチンからスクーナー帆船を教わったのである(寺谷武明『日本近代造船史序説』)。 長崎製鉄所の開設 戸田の造船が、先進技術習得の第一の機会とするなら、幕府による長崎海軍伝習所の設立とそれにつづく長崎製鉄所は、第二の接触の戸田号の模型 戸田村立造船郷土資料博物館蔵 機会であった。幕府が公式に外人技術者を招聘して西欧工業技術を習得する道であり、オランダ技術に全面的に依存し、体系的に導入しようとする姿勢を当初から見せていた。 幕府は内外情勢の緊迫にそなえて、オランダに頼って海軍を創立しようとし、軍艦の購入を申し入れたが、当時ヨーロッパではクリミヤ戦争が勃発し、オランダは中立政策をとっていたので応じられなかった。しかし、オランダは日本における勢力を維持するためには幕府の歓心を買う必要があり、代案として中古蒸気船である前述のスームビング号をジャワから派遣し、幕府へ献呈した。安政二年(一八五五)六月、砲六門を積み一五〇馬力をもつ同船は長崎へ再び来着し、観光丸と改め、幕府海軍最初の軍艦となった。また、東インド艦隊所属の軍人から選ばれた海軍教師団が同乗し来日したので、幕府は勝麟太郎(海舟)ら幕臣三六名を長崎へ向かわせ、海軍の伝習を命じた。伝習の総責任者は永井尚志であり、同年十一月末から佐賀藩・薩摩藩などの藩士も参加を許され、本格的な海軍の訓練が始まった。長崎海軍伝習所の誕生である。航海術とならんで造船術・砲術・機関学などが、オランダのすぐれた海軍教官により組織的に教育され、しかも練習艦に観光丸を使用した実際教育であった。このように先進技術を恒常的に摂取する機関が開設された意義は大きく、海軍伝習を通じて榎本武揚・勝海舟・中牟田倉之助らの有為な人材が育っていったのである(勝海舟『海軍歴史』)。 海軍伝習のため、軍艦の操練実技を受ければ、破損や故障がおこるし、幕府や諸藩が長崎を通じて艦船を輸入するようになると、これらの艦船修理用の工場が必要になってきた。幕府はその工場建設をオランダに依頼したので、技師の機関将校ハルデスらは、教育班長カッテンデーキとともに安政四年来日し、長崎稲佐郷飽浦を選定し、着工後五年がかりで文久元年(一八六一)完成したのが長崎製鉄所である。鍛冶場・工作場・鋳物工場を中心とし、オランダ製のスチームハンマーや各種旋盤を備え、蒸気機関で動く近代工場であった。日本の近代的重工業の初めである。この修造所は、わが国最初の蒸気船瓊浦形(長さ八九㌳、幅一八㌳)を建造したが、当初の目的は海軍の訓練艦艇の修理や蒸気機関の修繕であり、海軍伝習を兼ねていたのである。 幕府は修理工場にあきたらず、軍艦の建造を目的として、同じ長崎の浦上村立神郷にオランダから技術者を迎え、蒸気軍艦製造所を文久元年(一八六一)三月創設した。元治元年(一八六四)には機械類をオランダから購入するとともに立神造船場と改め、船渠を築造しようとしたが、完成しないうちに明治維新を迎え、長崎製鉄所の管轄下に置かれた。 横浜製鉄所の建設 元治元年(一八六四)十一月、目付栗本瀬兵衛(号鋤雲)は、参政酒井飛驒守に招かれ、幕府海軍の帆船翔鶴丸の修理をフランス人技師に頼んでくれるように懇請された。栗本は交遊のあったカシュン書記官やその筋から面識のあったフランス駐日公使レオン=ロシュに信用があったからである。栗本はすぐ横浜へ至りロシュに依頼したところ、ロシュはフランス東洋艦隊提督ジョーライスの意見をきき、士官ドロートルや職工を十数人派遣し、気缶の修繕や修理に協力した。その工事の交渉にあたっていた栗本が税関からの帰途、騎馬であとを追ってきた勘定奉行小栗上野介から呼び止められ、相談をうけたのが、先年佐賀藩から幕府に献上された蒸気船用諸機械一式の利用についてであった。小栗の話では、献上機械の三分の二は、横浜港の石炭庫に運ばれ、残りは長崎港にあるが、この機械を活用して相模の貉ケ湾(三浦郡長浦湾)にドックや製鉄所を建設しようとしてすでに測量まで行ったけれども、その方面に熟練者がいないため企画倒れに終わった。小栗は、栗本に翔鶴丸を修理するのに功のあったドロートルなどを使って長浦湾でドックを建設するようにと頼んだのであった。栗本はただちに小栗を伴い、ロシュを訪れ意見を求めたところ、公使はジョーライスの助言によりドロートルよりも旗艦セミラミス号の蒸気士官ジンソライを推せんした。ジンソライは、佐賀藩献上機械を鑑定した結果、これらの機械は、全体に小型であり馬力も小さいので小修理には適するが、ドックを造るような大修理工事には向かないので、むしろ横浜近傍に据え付け小船の修理に使用すれば便利であろうと報告した。栗本は小栗と相談し、フランスの友好的な態度に信頼し、その技術をもとに、鍋島閑叟の意思を生かしてその献上機械で艦船修理工場をつくることに決めた。長崎に残っていた機械も全部横浜に取寄せ、ジンソライの調査検分を経て建設のはこびになったのが、横浜製鉄所である(栗本瀬兵衛『栗本鋤雲遺稿』)。 慶応元年(一八六五)二月、横浜本村を選び横浜製鉄所は起工され、同年八月完成した。咸臨丸遣米使節がアメリカから購入してきた工作機械をも加えて据え付け、艦船修理とともに工業伝習をもあわせて目的とし、フランス技術に依存するので、ドロートルが首長に就任した。日本側の担当者はそれまでの因縁から栗本瀬兵衛が任命された(横須賀鎮守府編『横須賀造船史』)。 横須賀製鉄所の設立 横浜製鉄所の建設と平行して本格的なドック建設の計画がすすめられた。イギリス公使オールコックは、西南雄藩と密接な関係を保ちながら極東の外交を主導していた。ロシュはイギリスに対抗して幕府支持の態度をとり、日本における生糸貿易を独占し、自国内の蚕の伝染病による生糸不足を補う意図をもっていたし、幕府はまたフランスの援助を得て軍備を強化し、反幕府の国内の動きを抑えようと望んだので、両者は急速に接近するに至った。 小栗上野介らが予定した相模の長浦湾は水深が浅いため敬遠され、隣りの横須賀湾が湾形曲折し水深があり、フランスの地中海沿いのツーロン軍港に似ているというジョーライスらの判断にもとづき、横須賀湾に大造船所を建設することになった。慶応元年(一八六五)一月、幕府はフランス公使ロシュと約定書をかわし、規模はツーロン軍港の三分の二とし、ドック二か所、船台三か所、製鉄所一か所を一八㌶の地に設け、フランス人四〇名、日本人二〇〇〇名を使用し、年間六〇万ドル、四か年間総計二四〇万ドルで完成させる計画をたてた(『横須賀造船史』)。 これだけの大事業は在日のフランス人技師では手に余るので、ロシュの推挙で中国の寧波に在勤していた海軍技師ウェルニーを首長に招くとともに、機械器具類の調達と多くの技術者や工員を雇用するため外国奉行柴田日向守の一行がフランスへ派遣された。この間、石川島造船所拡張のためオランダへ渡り、工作機械の買い付けにあたっていた肥田浜五郎らは幕命により柴田一行と合流し、横須賀製鉄所の建設に協力することになった。ウェルニーは、肥田らの購入したオランダ製の機械類を引き継いだが、これらの転用を認めず、予定どおりフランスから横須賀用機械を購入した。肥田は、横須賀の地は、外国船が自由に出入する横浜に近いため一朝事があるときは軍事的に封鎖のおそれがあり不利であるとし、石川島造船所の拡張を力説したが、横須賀へ新設を主張するウェルニーと激論の末、敗れるという一幕があった。 慶応二年一月、柴田一行はフランス人技師らを伴い帰国し、三月下旬から工場建設が開始され、ウェルニーの指示により諸官舎・製鋼工場・学校・端船製造所が造られ、翌三年三月、第一船渠の開鑿が始まったが、一年を経ないうちに幕府は崩壊したので、ドックは新政府により明治四年(一八七一)に完成した。横須賀の建設用資材はすべて横浜から運ぶので慶応二年七月両地連絡用に蒸気船二隻の建造にかかった。三〇馬力船と一〇馬力船で、前者のエンジンはフランスへ発注、後者のエンジンは横浜製鉄所横須賀製鉄所ドック開鑿の様子 横須賀市広報課提供 で製造した。結局、幕府が全力を挙げて建造した横須賀製鉄所の実績は、この二船のみにとどまった。 横須賀製鉄所の起工は、オランダ技術の伝習からフランスのそれへ変わったことを示すものであり、幕府がほかの造船所へ関心を失ったことを意味する。オランダ製機械と技術で発足した長崎製鉄所は、追加投資はされずに棄ておかれ、また、オランダへ機械類の購入に派遣された肥田浜五郎らの努力も空しく、石川島造船所の拡張は中止され放棄される運命を招いた。石川島造船所では幕府海軍建設計画の一環として、蒸気砲艦千代田形が文久二年(一八六二)五月起工され、慶応二年(一八六六)に完成した。日本最初の蒸気軍艦である。エンジンはオランダ製、排水量一三八トンの木造スクーナーで、戸田村でロシア船建造に従事した船大工を動員した。幕府が黒船生産を目的として造船所を各地に興したが、鉄製とはいかず、木造の蒸気軍艦の建造の段階で終わり、以後幕府のすべての期待は横須賀製鉄所の建設にかけられる状況となったのである。 注 (1) 南波松太郎・松木哲・石井謙治編「鳳凰丸昌平丸御軍艦諸記事について」『海事史研究』(日本海事史学会編)第七号 昭和四十一年十月。 二 明治前期の重工業 横須賀造船所の経営 明治元年(一八六八)閏四月一日、明治政府は幕府より横須賀製鉄所を接収した。しかし、その直前の二月八日、幕府はフランスのソシエテ=ジェネナル社より五〇万ドル借款を受けた担保として、横須賀・横浜両製鉄所の抵当権設定に同意し、三月一日より七か月後に年一割の利息で元利金を返還する契約を結んでいた。これを履行しない場合、両製鉄所をフランスが売り払うことになっていたので、明治政府は両製鉄所の抵当権をどうするかという難問を抱えた。寺島宗則・大隈重信らが交渉してイギリス公使パークスの紹介でオリエンタル=バンクから五〇万ドルの借款に成功し、さらに両製鉄所に関するフランスからうけた借款は正味約三〇万ドルであることが判明したのでこれを償還し、その抵当を解き、管理権を回復した(『横浜市史』第三巻上)。 政府は接収後もそのまま滞日したフランス人技師の協力を得て、横須賀製鉄所の完成を急いだ。明治二年五月錬鉄工場、三年九月鋳造工場を竣工し、四年一月一日、第一号船渠が完成した。この船渠は、長さ一一九・五㍍、幅二五㍍、深さ九㍍の規模をもち、旧幕府が起工してより四年一一か月かかり、東洋一といわれた。築造費・機械購入費合計で約一六万七〇〇〇両を費した(『横須賀造船史』)。 明治三年閏十月、工部省が新設されると横須賀・横浜両製鉄所は同省の管轄に移された。翌四年四月九日、政府は横須賀・長崎両製鉄所を工場の実態に応じた造船所へと改称し、溶解製鉄を行っていない横浜製鉄所を横浜製作所と改めた(『資料編』17近代・現代(7)一二二)。横須賀・長崎両造船所が本来の性格を現わしてきたといえる。 十月二十五日、横須賀造船所首長ウェルニーは、旧幕臣であるが同省造船頭の職にあり横須賀に在勤していた肥田浜五郎に、創業以来の沿革を報告し、「方今既ニ数箇所ノ工場ヲ設置シテ修船事業ニ一欠点ナキニ至レリ」(『横須賀造船史』)とし、据付機械一一六台、蒸気力一八〇馬力、溶鉱炉その他鋳錬用の炉は五〇に達すると述べた。この年に横須賀造船所の骨組がほぼ出来上ったのである。 明治四年三月、兵部省(明治五年二月、陸海軍両者に分離)は、海軍興隆を旗印にして工部省へ対し同所の移管を主張し、横浜・長崎両所を工部省の管轄に留めれば差支えはなかろうと要求を繰り返した。七月工部省は横須賀の経費の増大を太政官に要請したが、国庫欠乏を理由に十分容れられなかった。その足元を見透かしたように、海軍省は五年四月軍事上交通上の立場から同所の移管を強く訴え、もし裁可されなければ石川島に横須賀造船所と同程度の新造船所を建設する予定なので、毎年三〇万円ずつ七か年間の交付を希望した。移管が認められなければ、石川島へ大造船所を新設することも辞さないという海軍省の強硬な態度に押されて、重複投資の無駄を避けるためにも横須賀造船所は海軍省が望んではいなかった横浜製作所とともに、同年十月八日、海軍省へ移管され、両所とも主船寮の所轄になった(石塚裕道『日本資本主義成立史研究』)。横須賀造船所は製鉄所時代から採鉱機械を製作して生野鉱山へ提供したり、富岡製糸場の建築にフランス人技師を派遣して協力するなど、雇用フランス人と輸入機械を利用して技術センターの機能を果たし、造船部門以外の産業分野にも活用され、「百工勧奨」をめざした工部省の殖産興業政策を支える最大の総合工場であったが、軍部の強圧によって早くもそのような役割は崩され、海軍工廠としての性格が明確になったのである。 海軍省は、軍艦の建造を横須賀造船所の使命と考え、自分の縄張りに移したのであるが、創業以来首長の地位にあるウェルニー、副首長チボディ横須賀造船所(明治4年) 徳川黎明会蔵 エに経営を委任し、フランス側に指導権を握られてきた実績があるので、彼等の意向を尊重して、日本あるいは外国を問わず、いっさいの艦船はすべて申込順に修理せざるをえなかった。海軍省が軍以外の船舶の修理や建造を止めて、軍工廠本来の機能を回復するには、フランス人から実権を回収する必要があった。一八七五(明治八)年五月、主船頭肥田浜五郎は、「横須賀造船所処務規定」を改正し、首長の権限を技術面にのみ限定し、日本人の長官は技術以外の会計・庶務一切を掌握した。さらに海軍省は邪魔になってきたウェルニーらの解職を求め、外務卿寺島宗則を介しフランス公使と交渉したので、ウェルニーらもついに十二月三十一日付をもって解雇を受諾するに至った。一八七六年一月から横須賀造船所の首長に海軍少将赤松則良が任じ、ウェルニーから事務を引継ぎ、日本人が経営のすべてを掌握したのである。彼等の解雇により首長年俸一万ドル、副首長七二〇〇ドル、医師五〇〇〇ドルという高給を節減できたことも見逃せない(『横須賀海軍船廠史』第二巻)。ウェルニーは、一八七六年三月十三日、横浜港を出帆し帰国した(『資料編』17近代・現代(7)一二三)。その他のフランス人技師や労務者も一八七七年中に全員帰国した。海軍省は、こうしてフランス人の指導力を排除し、以後艦船の造修を主体的に行う体制をつくったが、民間造船業が未発達な当時では、内国船や外国艦船の修理作業を一挙に打ち切ることはできない事情を考慮して、以後も内外船舶の修理を継続した。軍以外の修理を廃止するのは、一八九九(明治三十二)年以降であり、それまでは民間造船業の修理能力の不足を補ったのである。 一八七六年六月、横須賀造船所で最初の軍艦清輝(八九七トン、七二〇馬力)が竣工、一八七七年二月二等砲艦磐城(七八〇トン、五九〇馬力)が竣工した。いずれも木製三本マスト船である。軍艦迅鯨(一四六四トン、三五〇馬力)は、一八七三年起工され、一八七六年九月進水した。当時では最大の木製二本マスト艦であったが、試運転中、クランク・シャフトに故障を生じた際、海軍省は同省雇のイギリス人技師の意見にしたがい改造し、一八八一年八月完工した。海軍の軍制がイギリス方式に準拠する大勢に応じて、造船の分野にもイギリス技術を導入するようになった。一八八三年六月、イギリスのペンプローク造船所から二名の技師を三年契約で招き、鉄艦および甲鉄艦の建造に従事させ、一八八四年二月には伊豆の天城山の艦材伐採を中止し、以後木製艦船の建造を取り止めたのである(『横須賀海軍船廠史』第二巻)。 横須賀造船所は、製鉄・製鋼事業研究のため、一八八五年九月工夫庄司藤三郎・加藤栄吉・豊田磯吉の三名をドイツのクルップ社へ派遣したが、クルップ社はその指導を拒否したので、フランスのクルゾー社へ転じて出向させ、さらに翌年十一月工夫長豊田銀次郎を同社へ鋳造研究に二年留学させた(『資料編』17近代・現代(7)一二五)。横須賀造船所がフランスからうける影響は、弱まったとはいえ残っていたのである。 一八八四年六月、東洋最大の第二船渠(一八八〇年起工、全長一五六・五㍍、渠口幅二九㍍、内部幅三二㍍、深さ一一・六㍍)が完成した。同年十月から鉄船機械場(約二一アール)が起工され、錬鉄・鋳造・旋盤・製缶・組立諸工場の拡張や整備がみられ、木造艦から鉄骨木皮艦、さらには鉄製艦、全鋼艦へと世界の急速な造艦技術の進歩に即応していた。同年十二月、横須賀鎮守府が設立されるとともに、横須賀造船所は同鎮守府に所属し、「造船所条令」(同年十二月十五日制定)による海軍造船所となり、海軍艦船汽機の製造修理・艦船の艤装を目的とする(第一条)ことを明らかにした(『横須賀海軍船廠史』第二巻)。十二月二十四日、海軍省から鋼鉄鉄皮の砲艦愛宕(六二一トン)の建造命令をうけ、一八八七年六月無事進水式を行った。その他海防水雷艇や補助艦艇を多く建造し、一八八三年度から始まる第一期海軍拡張計画の有力な一翼を担ったのである。 一八八六年二月横須賀海軍造船所の制定および同年五月横須賀造船所官制の公布により、ほぼ機構が確立した(『資料編』17近代・現代(7)一二四)。建造能力も上昇し、一八八八年には海防艦橋立(鋼製、四二七七トン)を起工し、六か年かかりながらも完工し、一八九〇年三月に三等巡洋艦秋津洲(鋼製、三一八九トン)を起工、一八九四年三月完成するまでに至った(『横須賀海軍船廠史』第三巻)。しかし、これらの大型艦の建造期間がきわめて長いことからもわかるように、国防の急場には間に合わないので、わが海軍の必要艦艇の大半は欧米諸国からの輸入に依存せざるをえなかったし、重巡洋艦や戦艦などの建造には、なおしばらく手が届かなかったのである。 横浜製鉄所の経営 明治四年(一八七一)十月、横浜製作所(同年四月製鉄所より改称)は、海軍省の所管に移されるとともに横浜製造所と改称した。横須賀造船所建設の補助として設けられた同所は、横須賀が整備されればその存在理由を失うことになるし、また、海軍省が初めから同所の移管を望んでいなかった経過もあり、艦船の造修工場として発展する機会には恵まれていなかった。一八七三年十二月五日、海軍省は横浜製造所を手離し大蔵省駅逓寮へ転属した。海軍省主船寮頭肥田浜五郎は、同月七日、同所が多年横須賀造船所と一体になった親密な関係にあるので、たとえ所轄省を異にしても従前通りウェルニーの指揮監督をうけるべきことを駅逓寮に通告した(『横須賀造船史』)。同時に製造所で雇い入れていたフランス人ダルビェー以下六名も同省へ転じ(『資料編』17近代・現代(7)一三五)、横須賀造船所と石川島修船所の嘱託品製造を継続したが、横浜製造所はすぐに郵便蒸気船会社へ船舶修繕のため貸し渡されたのに伴い、同会社へ移ったのである。 図2-6 横浜製鉄所跡の現在図 ところが郵便蒸気船会社は、たちまち破綻し閉鎖したので横浜製造所は駅逓寮へ返還された。一八七四年一月、同寮が内務省へ転属されるとともに同省へ移管され、一八七五年八月から横浜製鉄所と旧称に復し、郵便汽船三菱会社へ貸し渡された。横浜の士族高島嘉右衛門が、長崎県の炭坑経営者の大浦慶・杉山徳三郎と組んで横浜製鉄所の貸与を希望した。三菱会社も積極的に利用する意向がなく、高島らへの貸与を承諾したので、内務省は同年十一月より雇入フランス人とともに同所を五年間貸し下げた(『資料編』17近代・現代(7)一三六)。 高島嘉右衛門は、横浜製鉄所の経営からまもなく脱落し、一八七六年五月長崎県人の平野富二(石川島造船所の創立者)と神代直宝が新たに参加した。長崎県人の共同経営は期待したほどうまくいかず、諸機械製造の営業資本にも不足をきたし、借用期限の満了を待たずに一八七八年八月横浜製鉄所を内務省へ返還してしまった。内務省も同所の処理に困り、十月に古巣の海軍省へ移管した(『資料編』17近代・現代(7)一三七)。翌年になると、今度は平野が後述のように単独で貸下げをうけるというややこしい経過をたどるのである。 横浜製鉄所は、現在の国電石川町駅に近接した一角にあり、中村川と大岡川の交差した三角地に設けられた。現在図と配置図を示すと図二-六および二-七のとおりである。 図2-7 横浜製鉄所配置図 『石川島重工業株式会社108年史』より 浦賀および石川島造船所の動向 横須賀・横浜両製鉄所とならんで幕府が創立した浦賀造船所は、咸臨丸の修理が行われたほかは、あまり活用もされず、明治新政府が接収後も造船所としては再生しなかった。明治五年(一八七二)海軍省の出張所が置かれ、一八七五年浦賀水兵屯集所が設けられ、のち浦賀屯営と改称された。一八八九年横須賀海兵団が設置されると浦賀屯営は撤去された。京浜地方の実業家がたびたび造船所跡の払下げ運動を試みたが、海軍省は認可せず、ようやく一八九六年に至り、浦賀船渠会社が成立した(浦賀船渠株式会社編『浦賀船渠六十年史』)。 水戸藩の設立した石川島造船所は維新後、新政府に接収された兵部省の管轄に入り、小艦船の建造や修理を行った。明治五年二月海軍省主船寮の管理下に移り、同年十月三十日、工場群は船台、ドックなどを抱える石川島修船所とその他の石川島造兵所へと二分されるに至った。石川島修船所は、名称にふさわしい艦船の修理工事を主体とし、新造船は小規模な蒸気船に限られた。しかし、政府が重視した横須賀造船所が充実してくると、艦船の新規建造はすべて横須賀で行う方針に変わり、やがては修理工事さえも横須賀へ移り、海軍の木製練習帆船石川(二五三トン)が一八七六年七月完成すると、八月三十一日主船寮は廃止され、その管轄下の石川島修船所も閉鎖された。一時は施設拡張の夢をもっていた石川島造船所も、横須賀造船所の整備にともない、浦賀造船所とともにその歴史的役割を終えたのである(『石川島重工業株式会社一〇八年史』)。 民営石川島造船所の創立 石川島修船所に近い築地二丁目で活版製造業を経営していた平野富二は、修船所が廃止されるニュースをいち早く耳に入れると、廃止の二か月余り前の一八七六(明治九)年六月十四日に早くも東京府知事に、「海軍省付属石川島ドック拝借願」を提出した。 平野は長崎出身で幕府が操業した長崎製鉄所の機関方を勤め、明治政府に接収されたのちも小菅ドック所長となり、さらには幕府が完成しなかった立神浦修船所のドックを開鑿するなど業績をあげた。明治三年工部省が設立されると長崎製鉄所と小菅・立神両ドックは長崎県から同省へ移管されたので、引継人として出張してきた工部少丞山尾庸三に事務引継ぎを行ったのち平野は辞職した。明治四年、鉛活字を製造し活版印刷の基礎をつくり日本のグーテンベルクと讃えられた本木昌造の経営破綻のあとをうけて、平野は活版製造業に従事するに至った。明治五年に上京して事業を拡大し、平野活版製造所を興し、そのうえ前述のように同郷人と組んで一八七六年五月横浜製鉄所の借用にも加わっていたのである。平野は、東京と横浜の両者を総合的に運営して、造船業を経営しようという意図をもっている。 平野の拝借願を受理した知事は、趣旨を適当と認め海軍省へ伝達した。ときの工部卿山尾庸三の尽力もあり、長崎時代の平野の経歴と盛名は衆知であったので、海軍省は平野の意向を容れ九月十九日貸渡しを許可した。平野は石川島修船所の施設をもとに、旧石川島造兵所の練鉄所・製缶所などの払下げをうけ、山尾が紹介した横須賀造船所の職工長稲木嘉助の協力をえて、九月三十日、石川島平野造船所を設立した。民間人による造船業の最初であった。一八七九年七月、かねてから因縁があり、いったん内務省へ返し海軍省へ移管されていた横浜製鉄所の拝借を願い出て、十二月三十日、一〇年間の貸与を許可された。 横浜製鉄所は、敷地四二九三坪(約一四二㌃)、建物棟数一六、総坪数一一五〇坪(約三八㌃)、蒸気機械その他機械類八〇台を備えていた。平野はこれらの物件に対し倉庫品代金・小道具代として一万三八一〇円を三か年賦で上納した(『資料編』17近代・現代(7)一三八)。 平野は横浜製鉄所を横浜石川口製鉄所と改称し、石川島造船所の分工場とした。一八八〇年一月から営業を開始し、イギリス人技師アーチボルト=キングを招いて、分工場の技師長に任じ船用機関および一般諸機械を製造した。そのほか、横浜正金銀行や第二国立銀行の金庫なども製作している。営業数年を経て、分工場を本社工場へ合併するのを得策と考え、海軍省の許可をえて、一八八四年末工場をとりこわし、石川島へ移築合併したのである。このようにして幕府が創業し、転々と所属を変えた横浜製鉄所は完全に姿を消した。しかし、分工場の用材は幕府が巨費を投じて求めた桧・松・杉の良材であり、移築後も十分使用に耐えたし、また、移転した蒸気ハンマー・ローラー・旋盤・平鑿盤・ドリル盤などは、佐賀藩や幕府が購入したオランダ製品やアメリカ・イギリス・フランス諸国の製品を含んでいたので、新戦力として再活用され、石川島造船所の造船・造機能力を著しく向上させたといえよう(『石川島重工業株式会社一〇八年史』)。 石川島造船所は、橋梁の製作にも従事し、一八八三年一月、神奈川県庁の依頼で大岡川に鉄橋・都橋を架設した。木橋の伝統を打破した外国式の鉄橋は、異人館とならんで港都横浜の異彩を放った。一八八六年ふたたび県の発注で横浜港近くに鉄橋大江橋を架設し、かさねて称讃された。この経験をもとに、翌年には東京府の発注で人道・車道兼用の鉄橋・吾妻橋を隅田川に架設するまでになったのである。 石川島造船所は、一八八五年一月、砲艦鳥海(鉄製、六二四トン)を受注し一八八八年末完工した。海軍は拡張政策の一環として、愛宕・摩耶・赤城・鳥海の同型艦の建造を決定し、愛宕は横須賀造船所、摩耶・赤城は神戸の小野浜造船所と、いずれも直轄の海軍造船所で建造したが、残る鳥海は海軍造船所に余力がなかったため、石川島造船所の建造能力を認め、民営造船所への最初の軍艦発注となった。平野が海軍造船所と互角に砲艦を建造したことは、一大栄誉であるが、軍艦建造は経営上非常な重荷となった。ドックの改修・諸施設の更新・材料手当などにぼう大な資金を必要とし、平野の個人資産ではまかないきれなかった。かねてから資金援助をうけていた第一国立銀行頭取渋沢栄一の勧告を容れて、鳥海の完成とともに、会社組織に移り、一八八九年一月から有限責任石川島造船所(資本金一七万五〇〇〇円)として再出発した。一八九二年末平野は死亡したが、翌九三年には株式会社東京石川島造船所と社名を改め、取締役会長に就任した渋沢栄一とその推せんで入社した東京商法会議所書記長梅浦精一が専務となり、このコンビが積極的な経営活動を展開するのである(龍門社編『青淵先生六十年史』第二巻)。 横浜船渠会社の設立 一八七五(明治八)年八月、郵便汽船三菱会社社長岩崎弥太郎は、ボイド商会と協力し横浜海岸通りに建築中の石井梁平の造船器械所を買収し、三菱製鉄所と改め船舶の修理業を開始した。主要航路が横浜を起点としているので、修理工場が必要であったが、岩崎は横須賀造船所から必要機械を、外国人から資本をそれぞれ借りて操業したのであるから、政商三菱らしい要領のよさである。一八七九年外商との共同経営をやめ、独力で運営した。一八八二年ころには平野の経営した横浜石川口製鉄所と並ぶ大規模な工場になった。一八八五年三菱と共同運輸会社が合併して日本郵船会社が設立されると、従業員・機械設備の一部を三菱経営の長崎造船所へ移し、残りは日本郵船に譲渡し、日本郵船会社横浜鉄工所と改称した(小林正彬「長崎造船所の払下げ」『経済系』(関東学院大学)第七三集、昭和四十二年六月)。 一方、船舶輻輳する京浜間に船渠が不足するため、船舶修繕に横須賀造船所まで回送する不便を余儀なくされていたので、横浜港のちかくに船渠会社を設けようとする動きがみられた。地元の横浜正金銀行頭取原六郎をはじめ、原善三郎・茂木惣兵衛・平沼専蔵らの横浜グループと少し遅れて渋沢栄一や益田孝らの東京グループは、別個に船渠事業を計画したが、やがて両者は合同提携し、横浜船渠会社(資本金三〇〇万円)の設立を協議するに至った。一八八九(明治二十二)年四月発起人総会を開き、前記の実業家にくわえて近藤廉平・大倉喜八郎・大谷嘉兵衛・馬越恭平・浅野総一郎・左右田喜作らの名士を網羅して三三名が連署して神奈川県知事に創立願書を提出した。県知事は一八九一年六月、ようやく設立を認め、免許命令書を交付した。船渠築造・水面埋立・水面使用通則など詳細な命令条項を定めるとともに、工場予定地の長住町地先水面三万六五〇〇坪(約一二・一㌶)の埋立を許可し、全工事竣工ののち埋立地を下付することを約束した。注目されるのは工事中に、「公害ヲ生シ若クハ公害アルヲ発見シタルトキハ知事ハ何時ニテモ無償ニテ本命令書ヲ更改スルコトアルヘシ」(第三十条)と公害条項を明文化していることである。わが国で公害という語を使用したもっとも早い例であろう(『資料編』17近代・現代(7)一四一)。 こうして横浜船渠は創立されたが、一八九〇年の恐慌にまきこまれ株式募集がうまくいかず、計画を変更したり着工を延期し、一八九三年には資本金を五〇万円へと大幅に減額するなど苦しい発足をした。ところが日清戦争後の海運界の好況に助けられ、さらには前述した日本郵船所有の横浜鉄工所を一八九六年九月に譲りうけることに成功し、施設諸器械・倉庫貯蔵品など総代価二〇万七二〇七円で日本郵船の所属船の入渠を専属的に確保するようになって業績が安定してきた。船渠工事が完成するまでは、鉄工所の繁昌が創業時の苦難を救ったし、わが国最大の海運会社と密接な関係を樹立し、その所属船の入渠補修契約を結ぶことができたからである。鉄工所買収と船渠築造のため、資本金を同年一五〇万円、一八九七年三〇〇万円へと増資を重ね、第一・第二船渠を完成し、一八九八年五月一日開渠式を挙行し、船渠会社の営業を始めたのである(『資料編』17近代・現代(7)一四二-一四四)。 第四節 労働市場の形成と労働者状態 一 明治前期における労働市場の形成 近代的労働市場の形成とマリア=ルス号事件 明治前期は、近代的な労働市場の形成に向けてまさしく激動の時代であった。それは、農民層の分解をはじめ、士族・職人・商人などの没落と再編成を内容としていたが、それまでにも進んでいた資本の原始的蓄積の総仕上げの時期だったのである。神奈川県では、横浜・横須賀の官営造船所や輸出産業である生糸業や製茶業をはじめ、いろいろな産業・職業分野で、近代的な労働市場の形成に向けての分解や再編成が展開した。もっとも、近代的な労働市場とはいっても、今日のような近代的な労働者や労使関係の形成を意味するわけでは決してない。資本蓄積にとって自由な労働市場が、封建的な身分関係の解体をはじめ、土地と労働力の売買の自由化などのなかで、法制的に形成されたに過ぎない。したがって、実態としては、資本-賃労働の関係が請負制度や問屋制度などによって媒介されたり、主従関係や家父長的関係を残存させていたとしても、労働者が就業先を法制的に自由選択できるようになること自体が重要だった。 そのことに関連して、明治五年(一八七二)、開港地横浜をもつ神奈川県にとっても、忘れられない国際的事件が発生した。ペルーの船、マリア=ルス号事件がそれである。この事件については、神奈川県労働部『神奈川県労働運動史』戦前編に詳しく記述されているが、ここでは次の点がとくに重要だろう。すなわち、(一)マリア=ルス号は帆柱の損傷を修理するために横浜に入港したのだが、実は同号は清国からペルーへの「奴隷船」だった。清国人の一人が船内の拘禁から脱出し、イギリスの軍艦に救助されたことが事件の発端であった。(二)結局、時の神奈川県権令大江卓などの異例の措置によって、国交のないペルーの船長に対する裁判が開始されたわけだが、そこで次のような興味深い論争が展開された。ペルー側の主張は、日本に裁判権がないことなどのほかに、人身売買とはいえ自由にもとづく契約を結んでいるのだから、同号の取押えを解除するか、あるいは損害を賠償せよ、ということだった。それに対し検事側は、契約書そのものについて本人の承諾の証明に問題があるだけでなく、ペルーの奴隷船についてはすでにヨーロッパでも問題になっているように、人身売買は国際的にも承認できないことなどを主張した。だが、これに対しペルー側は、日本でも年季奉公や娼妓などの人身売買が認められている以上、同船を違法扱いすることは不当だろう、と反論した。(三)結局、裁判長としての権令大江の判決は、ペルー船長は違法だが、この際は不問に付すとして、清国人二二九人は解放し、日本在住の清国人と同様の権利を与える、という内容だった。 その後も、ペルー側は損害補償を要求し、アメリカの仲介で仲裁裁判が開かれ、ロシア皇帝アレクサンドル二世に裁判が委任された。農奴解放をおこなったアレクサンドル二世は、法律上の解釈を超えた世界共通の道義にもとづき、日本の勝訴を宣言した。この事件の処理は国際的な賞賛を浴びたが、ここでの問題は、むしろ事件にともなう国内処理にあった。というのは、ペルー側によって国内における人身売買の証拠があげられたからである。これに対し、神奈川県庁は「当管下在町之婦女子、年季ヲ定メ遊女芸者並ニ宿場飯売人或ハ洗濯女……身売奉公ニ差出候儀向後一切不相成事」と触書を出し、身売奉公を禁止した。それに次いで、中央政府としても太政官布告によって、「人身売買ヲ禁止シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ解放シ之ニ付テハ賃借訴訟ハ取上ゲズ」(明治五年)、「金銭賃借引当ニ人身書入厳禁」(明治八年)の決定が明確にされたのである。 こうして、法制上の自由を保障した近代的な労働市場の枠組は形成されていくわけだが、実態そのものの展開には、以下に記述するようなさまざまな旧来からの慣行が残存せざるをえなかった。その反面、商品経済の展開としては、西南戦争後のインフレーションやその後の紙幣整理によるデフレーションなどが、いや応なく農民や職人などを商品経済のなかに巻き込み、彼らの分解や再編成をおし進めたこともあらかじめ念頭に置いておく必要がある。そして、このように多かれ少なかれ公権力が賃労働の形成に介入するところに、暴力的な資本の原始的蓄積の特質が示されているのである。こうした近代的な労働市場とその周辺部分の増大が、神奈川県ではいかなる展開の過程をたどったか、まずこのことから概観していこう。 都市人口の増加と農民分解 なによりもまず注目されるのは、都市人口の著しい増加であり、なかでも横浜の人口増加は、ひときわ目立っていた。『横浜開港五十年史』や『神奈川県統計書』によれば、明治二年(一八六九)までに二万八〇〇〇人ほどに著増した横浜の人口は、一八七七(明治十)年には五万八〇〇〇人に急増し、一八八七(明治二十)年にはさらに一一万五〇〇〇人にも増加しており、一八九三(明治二十六)年には一五万人以上にも達していた。このように、ほぼ一〇年間で二倍以上にも及ぶ急増のなかで、神奈川県人口に占める横浜の人口の比率は一八九三年には一九㌫にも達したのである。この段階で、人口一万人以上の市町村に拡大してみても全国的には、全人口中のシェアは一五㌫ほどにとどまっていたわけだから、いかに神奈川県の都市人口とりわけ横浜への人口集中がめざましいものだったかが想像できるだろう。もちろん、このような横浜を中心とした都市人口の集中のすべてが、広義の労働者の集積だったわけではないが、労働者やさらにその家族の集積を中心とした事実は、疑うことができない。また、このような都市人口の増加は、さまざまな地方からの人口移動によってもたらされたものであり、市外から移動してきた人口は、おもに寄留者というかたちをとったわけである。さきの横浜の人口についてみると、その約半数は寄留者によって占められ、しかもその六〇-七〇㌫は多摩三郡は別として、他府県からの寄留者によって占められていた。ということは、都市人口の急増ほど神奈川県下の農山漁村からの人口移動が、激しくなかったことを意味するが、それにしても商品経済の発達や農工分離などの農山漁村への影響はきわめて大きかっただろう。現に神奈川県の農家数は、多摩三郡を除いてみても、表二-五二のように減少しており、県全体の戸数に占める農家数のシェアは、一八八四-九一年のわずか七年間で七七→五七㌫に縮小していた。とくに、一八八四-八七年の減少が著しいのは、松方財政のもとでの不換紙幣の整理によって、農家の不況が激化したからであり(松方デフレ後の士農工商の窮乏化については『興業意見』のほか、隅谷三喜男『日本賃労働史論』を参照)、このような農家の減少は農工分離による脱農だけでなく、挙家離村をも反映していた、と推測される。 明治前期における広義の労働市場の形成は、このように県外からの寄留を含めて、農表2-52 明治前期末における総戸数と農家数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。 表2-53 明治前期末における農業者人口の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。増減率は1885年に対する増減をパーセントで,△は減少を示す。 村の分解による労働力移動に負うところが大きかった。ただし、農業人口そのものは、表二-五三のように一八八五-九〇年に二七-三三万人にも増加した。この五年間の増加率は二〇㌫をこえるが、当時は維新後の人口爆発期にあり、もし前述のような脱農化が進められなかったとすれば、これ以上の農業人口の増大をみたはずである。農業人口の推移についてみると、次の諸点に注目すべきであろう。(一)男女別には、製糸業の発達がとくに顕著だった多摩郡では、女子が減少したのにたいし、現在の神奈川県の方では男子の増加率がより低く、したがって男子の脱農化がより著しかった事実を想像させる。(二)専兼業別には、専業人口が四〇㌫ちかくも増加しているのに反し、兼業人口は明確に減少しており、兼業型の農民の脱農化が大規模に展開された事実を示している。(三)自小作別には、とくに自小作農民が四〇㌫以上も増加している反面で、小作農民が一〇㌫ちかくも減少している。 したがって、明治前期末の挙家離村を含む脱農化は、いずれかといえば男子を中心とした小作兼業の、おそらく零細農家を基軸として展開したに相違ない。それによって、余剰化した小作地を零細な自作農民が代わって借入れすることになったのである。そして、農家数が減少したにもかかわらず、農業人口が増加していたわけだから、一戸当たりの農業人口がより大きい、したがって従来に比して経営規模のより大きな農家への農業人口の集中がみられたわけである。そうだとすれば、たしかに農家経済は一般的に不況状態にあったのだろうが、それはとくに零細農家の小作兼業層において顕著であり、その反面で、農家の農業専業化や自小作化による経営規模の相対的拡大がみられた事実も看過できない。こうした現象は、次のようにみることもできるだろう。すなわち、零細農家の小作兼業層には、窮乏化して脱農化した農民も多かっただろうが、なかには、それまで兼業だった者が商工業従事者として専業化した脱農者も含まれていたはずであり、そのために残存した農家の農業専業化や経営規模の拡大をおし進め、全体として農工分離などを展開させることになったのである。 工場労働者の蓄積 蒸汽力を導入したり水力や人力への依存でも工場内分業のマニュファクチュア型の工場制度をとっている、さまざまな工場制工業に目を転じてみよう。県史編集室『明治前期県内企業一覧』によれば、(一)職工数が一〇〇人を上回るような比較的大工場は、製糸業を中心としていた。しかも、一八九〇(明治二十三)年時点の一日平均二〇〇工数を上回る最大規模の萩原製糸をはじめ、大部分は多摩地方に存在していたが、一〇〇人を上回る高座郡の広田製糸などを別とすれば、多くは平均四〇-五〇工数にとどまっていた。ただし、製糸工場や横須賀の海軍工廠以外に、いずれも横浜市にあった日本郵船鉄工所(汽船修繕)と鋳物・器械の太田工場が蒸汽力を利用し、一日平均それぞれ五六〇、二三四工数に達する大工場も存在した。(二)それ以外の一〇-二九人前後の工場としては、蒸汽力を導入していた荒波煙草製造業(二三工数)をはじめとする煙草工場が目立っており、ほかは前述の製糸工場以外に、製靴・マッチ・茶箱・印刷・製本・石鹸・煉瓦および絹・綿の紡績・織物の工場が、少数存在するにとどまっていた。(三)それらのほかは、精米・製粉・陶器・製茶などの工場は、いずれも五人以下の小工場が比較的多数存在しており、これらはすでに居職人などの工業者とほぼ同質の零細工業だった、とみてよい。 民営の工場労働者数の明治前期における変化をみると、表二-五四のとおりである。それによると、一八八五(明治十八)年に陶磁器・漆器・鋳物・汽船修繕などの五工場でわずかに三〇人を数えるにとどまっていたが、一八九〇年には二三工場で一〇〇〇人以上を数えるように増加している。これは、職工延人員から大ざっぱに試算した結果だが、すでにみた民営工場の表2-54 明治前期未における主要工場数・職工数 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。職工数は,職工延人員にもとづき250日稼働として試算。 一部しか把握していないに相違ない。しかも、一八八五-九〇年の変化は、いかに前述した日本郵船の横浜工場の雇用が明治二十年代に入って急増したとはいえ、あまりに極端過ぎる。というのは、一八八七年以前の『神奈川県統計書』の把握が過小であったことを意味するだろう。なお、この間に、後述のとおり官営造船所ではほぼ二〇〇〇人から三〇〇〇人への職工の増加がみられ、外国商館の再製茶工場でもかなりの雇用増加がみられたが、いずれも表二-五四には含まれていない。これらをも含め、かつ国内民営の統計的把握がより十分であれば、労働市場の拡大がより明確になるだろうが、しかしそれも労働市場周辺まで含めた就業全体のなかでは、大海に浮かぶ小島のような規模にとどまった。 二 繊維工業の労働市場 製糸業を中心とした発達 明治期の繊維工業は、輸出産業の中心として顕著な発展をとげたが、その反面でさまざまな質的再編成を余儀なくされた。まず、西日本を中心として自生的に発展してきた綿作-綿工業は、開港後の綿糸・綿布の輸入によって大きな打撃をこうむらねばならなかった。神奈川県でも、現在の横須賀などに綿紡織の工場が存在したが、やがて消滅していった。逆に神奈川県とすれば、大きなウエイトを占めていた絹工業は著しく発展したが、半製品である生糸として輸出されるのが中心となったため、絹織物業とは切り離され、主として製糸業として発展しなければならなかった。もともと製糸業は、養蚕と結びついた農家の副業家内工業として発達していたが、神奈川県でも明治七、八年ごろには、従来の手繰器に歯車をつけて加速された座繰製糸器が導入され、とくに多摩郡のほかにも高座・愛甲・津久井・都筑などの地方において急速な普及をみた。『神奈川県統計書』によれば、一八八七(明治二十)年に一・四万戸の製造戸数を数えている。もっとも、多摩郡を除くと八〇〇〇戸程度になると推計されるが、その大部分が農村の家内工業だった、とみてよい。しかも、大地主・商人の器械製糸による「優等糸」の生産はきわめて限られており、せいぜい改良座繰器による「普通糸」の生産が中心になっていただろう(石井寛治『日本蚕糸業分析』第一章第二節参照)。 こうした状況のなかで、明治前期には都筑郡西谷村の日本絹綿株式会社のおそらく一〇〇人規模の工場をはじめ、高座・鎌倉両郡にも小規模の器械製糸工場が稼働し、高座郡大沢村の漸進社では改良座繰を導入しその製品を共同販売していた。だが、製糸工場と呼ばれるのは、多摩地方を含めて一二工場にとどまっており、雇用されていた職工数もほぼ七〇〇人程度にとどまっていた。したがって、製糸従事者の大部分は農家副業型の従事者だったのである。このほか、製糸の加工業もまた、その多くは農家の副業として問屋資本の支配のもとにかなりの発達をみた。その一つが、津久井郡を中心とした手織器による絹織物業であり、明治前期末には津久井郡だけで二〇〇〇-三〇〇〇戸の機業者数が記録されている(『神奈川県統計書』による)。もう一つの加工業として、愛甲郡半原地方を中心として発達した撚糸業を挙げねばならない。すでに半原撚糸業は、幕末から桐生の八丁式撚糸器を導入するとともに、水力を利用し、博多織や縫製用の撚糸を生産していた。ここでも、前借関係のもとで加工賃を一方的に決定する問屋=糸屋が多数の撚り子を支配していたが、撚り子のなかには農家副業ではなく、二-四人の住込みの女子を雇用する専業者も増加しつつあった(半原撚糸協同組合編集委員会編『半原撚糸のあゆみ』による)。 三 その他の軽工業などの労働市場 煙草工業の労働者 繊維工業に次いで注目されるのが、煙草工業における労働市場の形成である。もっとも、煙草刻みは以前から広く存在し、「葉のし」を丸めて巻玉を作り、それを膝に乗せた板の上で庖丁を使い細かく刻む職人の仕事だった。しかし、明治初期にゼンマイ仕掛けの器械が出現し、煙草刻みの職人を駆逐することになった。さらに、水車の利用が普及する段階から、工場的生産が一般化することになった(日本専売公社『秦野工場史』による)。さらに、こうして工場生産化するにつれて女子労働力への依存が増大し、明治前期末には男子職工の比重が三〇㌫以下にも縮小していた。さらに、一八八六(明治十九)年、横浜で巻煙草が発売される前後から巻煙草の製造が急速に増加していった。いずれも、秦野地方をはじめ横浜などの内陸地においてとくに盛んだったが、工場は一八九〇年でも四工場を数えるのみで、うち蒸汽力工場一、水力工場二であり、その他は家内工業的段階にとどまっていたのである。なかでも、原料が豊富な秦野地方においてとくに煙草工業が発達し、数一〇〇軒の製造業者が集中し、なかには一五〇-二〇〇人の雇用労働者を擁する大規模な工場も存在したが、大部分はせいぜい二-三人の従業員と住居の一部を作業場にした程度の家内工業だった。 このような煙草職工などの賃金水準はどうだったか。まず、煙草職工についてみると、明治前期末において一〇銭を多少上回る水準にとどまっていた。職工の男女構成は、前述のように女子比率が七〇㌫ほどだから、女工の賃金はこの平均水準をも下回っていたに相違ない。そして、家内工業の女子従事者とともに、図二-八に示した農作女子の日給と同水準にあったにちがいない。これにたいし、煙草刻み職人の賃金は、図二-八のとおり二五銭前後の水準にあり、農作男子の賃金よりは高かったが、労働力の需給状況いかんでは日雇人足の賃金を下回ることもある程度の水準でしかなかった。同じ職人とはいえ、在来の大工や新興の洋服仕立職人などに比較すれば、はるかに低水準に位置づけられているのである。そこに、労働負荷も小さく、かつ需要が縮小しつつあった旧型職人の労働市場における地位を認めることができるだろう。 再製茶工場の労働者 つづいて、この時期の神奈川県における特殊な労働市場として、外国商館が経営していた再製茶マニュファクチュアについてみておこう。それについては、前掲『神奈川県労働運動史』戦前編でも記述されているが、とくに次の諸点が重要だった。まず、茶は生糸に次ぐ輸出品となったが、乾燥不十分な粗製茶の輸出品としての仕上げが香港や上海に代わって横浜でおこなわれることになり、その経営が輸出を支配していた外国商館によっておこなわれたのである。そうした商館の加工場が、すでに一八七三年には山下町一帯に一五工場も立ち並び、最盛期の明治中期には二二、三を数えた。茶輸出にあ図2-8 職業別1日当たり賃銭の推移(中等級) 注 『神奈川県統計書』より作成。1888年以前は高座郡,1892年以降は神奈川の数字,うち洋服仕立職のみ小田原の数字。 たっていた外国商館の多くは、一、二の再製工場を経営していたが、石造平家建九九〇平方㍍ほどの工場内には、直径六〇㌢㍍、深さ四〇-五〇㌢㍍ほどの鉄鍋をのせた炉が三〇〇基ほども据えつけられ、女工などが炉内をかきまぜる風景が展開したのである(『横浜茶業誌』による)。 こうした工場は、当時、「お茶場」といわれており、そこで働く「茶焙じ」の労働者はその七〇-八〇㌫が女工で占められ、その大部分は本牧・根岸・相沢・北方・中村・神奈川あたりの農漁民の妻女だったが、のちには大岡川・生麦・保土ケ谷から鎌倉・都筑両郡の遠隔地の農村などにも、その通勤圏が拡大した。こうした「茶焙じ女」は、すでにみた製糸女工などとは異なり、十四、五歳から六十歳くらいまで、きわめて広範な年齢層を含んでおり、すでに明治五、六年ころに一八〇〇-二〇〇〇人を数え、明治前期末には二五〇〇人ほどに達した、といわれている。そして彼女らの賃金水準は、後述のような日雇形態などでとくに労働力の需給状況いかんで大きく変動したが、明治五、六年ですでに一〇銭を上回る水準にあり、明治前期末では一六-二〇銭ほどにも達していた。 建築・建設業の労働者 以上のような工業労働者のほかに、建築・建設業や運輸業などにおける賃労働の形成と展開についてもみておかなければならない。大工・左官などの建築職人は各地域で普遍的な存在であり、かつ都市の職人を別として、大部分は土工などとともに農業の兼業者だったが、この時期においてとくに重要なのは、農業とはかなり切り離された建築・建設労働者の増大である。というのは、すでにみた工場の建設をはじめ、横浜などの都市形成にともなう商店などの建築や道路・橋梁の建設のほかにも、港湾・河川や鉄道などの建設によって、大量の恒常的な労働力需要が発生したからである。そこでこの時期にとくに問題になったのは、建設業においてとりわけ顕著な労働環境や労働条件の劣悪さと作業場所・時期の限定のゆえに、その労働力需要が容易に充足されないことだった。そのために、例えば横須賀などの造船所の建設には、幕末から明治初期まで多数の囚人労働に依存しなければならなかったのである。 もちろん、その後、すでにみた農民や職人などの分解やとくに他府県などからの労働力の流入によって、建設業の労働力需要はより容易に充足されるようになった。しかも、建築関係の大工・左官などの熟練職種とは異なって、建設業の土工などは不熟練職種なので、その意味でもいっそう容易にその供給が確保できるようになったに相違ない。この時期の土工などの「日雇人夫」が、量的にどれくらいの雇用量に達していたかは、『神奈川県統計書』などからは知りえないが、季節的労働者も含めれば前述のような工業労働者とほぼ同数か、あるいはそれ以上の人数に上っただろう。そのなかには、「黒鍬の者」などといわれた専業的な技能者も少数は含まれていたが、多くは農民の兼業に依存しただろう。とくに、この時期には都市下層に形成しつつあったいわゆる「細民・貧民」への依存を深めたことが特徴的だった。さらに、農民の兼業も通勤にとどまらず、出稼ぎによって建設労働者になる兼業者が増加しただろう。彼らの雇用形態は、請負業者のもとで飯場制度型の親分・子分関係に支配され、その多くは日雇形態であり、多分に前期的な労使関係に支配されていた。しかもそれだけでなく、その賃銭の水準はやっと農作男子の日給を上回る程度にとどまり、しかも建設需要の変動や移動などのためにきわめて変動的だった。 運輸業の労働者 このような建設労働者に比較すれば、その何分の一かにとどまっただろうが、多数の交通関係の労働者が存在し、かつ増加しつつあった。まず陸運部門では、旧宿駅制度が解体され、そしてその後の駅陸運会社も解散されたあとは、そのまま自営業化したり、賃労働者化した従事者もいただろう。そうしたさまざまな形態を含めて、とくに都市などでは、陸運部門の就業者が男子就業者の一〇㌫以上も存在したのである。たとえば、小田原地方では一八七七年に、人力車夫五四人、荷車ひき二三人、駕籠かき九人、合計八六人を数えていた。全県としてどれだけの就業者を数えたかは不明だが、『神奈川県統計書』によれば一八八五(明治十八)年には多摩郡を除いて、馬車六〇台、人力車五九六〇台、牛車・大八車などの荷車一万八六五六台が記録されているから、かりにそれらの半分を稼働するだけの就業者が存在したとすれば、それだけで一万人以上に達しただろう。そのなかには、やはり農民などの兼業者も多かっただろうが、とくに横浜などに集中していた人力車夫のなかには都市の貧民が多かった。そして、彼らは人力車を所有する者も少なく、日雇人夫をわずかに上回るほどの賃銭を稼ぐ程度にとどまっていた(『神奈川県統計書』のほか、横山源之助『日本の下層社会』参照)。 さらに、海運部門の就業者も多かっただろうが、神奈川県としては横浜港などの港湾労働者の存在が重要である。開港当初の横浜港にはほとんど港湾施設はなく、すべての船舶は沖合に碇泊し、小舟によって貨物を揚げ降ろし、かつ運搬しなければならなかった。こうした荷役作業には、はじめは各商館の使用人や船夫や近在の農漁民や「立ちん坊」などが臨時的に就業していたが、貨物量が激増するにともない、専業的な港湾労働者が形成された。実は、こうした貨物の沖取・運漕は、少数の荷受業者によって独占されていたので、港湾労働者は事実上彼らと雇用関係を持ったわけだが、実際には親分を媒介とした、かなり前期的な雇用関係のもとに置かれたのである。すでに、明治四、五年ごろには、六組の請負業者のもとに港湾労働者が四〇〇〇-五〇〇〇人も存在した、といわれるが、その大部分は請負業者の持つ建設業における飯場のような部屋に所属しなければならなかった。しかも採用はもちろん、仕事別配置、就業の場所・日時、労働規律・賃金決定・支払いなどのいわば労務管理は、建設業などにおけるとほぼ同様に親分によっておこなわれていた。親分に準ずるほどの高技能者のなかには、各組の部屋には属せず、自由に業者間を渡り歩く者もいるが、基幹的な港湾労働者が部屋に属さなければならなかったのは、彼らのなかには無節制な者が多く、業者としてはそういう労働者を統轄し、貨物取扱い上の信用を確保する必要があったからである。もっとも、業者のなかにも悪徳業者があらわれ、賃金不払いなどの物議を醸し、社会問題を発生させたので、多くの請負業者が協議し公的規制を求める申請がおこなわれた。これにたいし、神奈川県は県令として「人足受負営業並ニ人足取締規則」を一八八九(明治二十二)年に公布することになった。以後、「鑑札」のない請負業者や人足は就業できないことになったのである。後年の記述は、次のような情景も記録している。「当時本港に来集せる人足は非常なる数に上り毎朝埠頭に蝟集し、先を競い、仕事に就かんとする有様は実に騒然たるものにして、警官出張し鑑札を点検し乗船せしめたり」と(横浜市総務局行政部調査室『横浜港における港湾労働の推移』による)。 注 (1) こうした推定の根拠は、海野福寿「原蓄論」(石井寛治ほか編『近代日本経済史を学ぶ』上、一〇-一一ページ)にもとづく。その理論化についてはともかく、そこでは『統計年鑑』などによって、日本全体のこの時期の労働者構成を量的に把握しようとしている。 (2) 山本弘文「北相地方の陸運会社について」(『神奈川県史研究』第一二号)参照。 四 重工業の労働市場 横須賀造船所における労働力の編成と養成 明治前期における重工業の資本家的発展は、きわめて弱かった。『神奈川県統計書』によれば、一八八六(明治十九)年に神奈川県下において蒸汽力を利用していた重工業の民間工場で、職工数が一〇〇人を上回るのは日本郵船会社横浜鉄工所(汽船修繕)のみであった。こうした状況は全国規模でみても同様であり、一八八七年に職工数一〇〇人以上を雇用する重工業の民間工場は、わずかに七工場を数えるのみであり、なかでも大規模な三菱造船所でさえ、その職工数は七四六名であり、日本郵船会社横浜鉄工所の職工数は五三一名であった(『明治工業史』機械篇による)。このように民間重工業の本格的な勃興がみられなかった当時において、重工業の近代化を担ったのは造船業を中心とする官営軍需工場であった。とりわけ横須賀・横浜造船所の占める地位は、神奈川県のみならず全国的にみても圧倒的な比重を持っていた。 横須賀造船所は、慶応元年(一八六五)に横須賀製鉄所としてその建設が始められたが、設備・機械をはじめとして、経営管理から技術指導までフランスに依存していた。近代造船技術の蓄積がほとんどなかった当時にあっては、のちに民間に貸し付けられた横浜の修理工場を含めて外国人技師・職工の指導に依存しており、長崎造船所もオランダに依存していた。明治元年における横須賀製鉄所の労働力編成は、首長ウェルニー以下フランス人技師・職工三二名、官吏・附属員五三名、水火夫等の人員七六名、抱職工六五名、定雇職工一一三名、職工手伝三九七名、寄場人足(貧民・徒刑囚)五四名であった(『横須賀海軍船廠史』第一巻による)。横須賀製鉄所は明治四年(一八七一)に横須賀造船所と名称を改め、一八七六年には職工総数が一五一六人までに増加しており、明治元年の約四倍にまで達している。しかし、当時の海軍が最も重要視していた横須賀造船所の管理権をウェルニーらのフランス人に握られていたため、造船所の実権を奪還するために、一八七五(明治八)年、肥田主船頭は、首長の権限を技術面のみに限定する内容の「横須賀造船所事務改革案」を提示した。その結果、「首長ウェルニーは同案の趣旨に基づいて明治八年一二月三一日をもって首長の職を辞し、改めて顧問として造船所の発展を見守り日本技術者の熟練進歩を見とどけた上、わが任務終われりと、明治九年三月一〇日一〇年間住みなれた横須賀を後に一路故国フランスに帰った」(『横須賀百年史』四四ページ)。他のフランス人技師も、一八七七年には一名を残して全員帰国し、以後、日本の技術者と職工による管理と生産の体制が再編成され、短期間イギリス人職工を雇い入れたこともあったが、フランス人技師ベルタンを招いて鉄鋼艦製造技術を学んだのを別とすれば、一八八九年以降、軍艦の設計、工事監督はすべて日本人の手によっておこなわれることになった。 それでは、こうした新しい生産技術の導入に対して、それに必要な労働者をいかに形成・蓄積したのであろうか。表二-五五は、明治三年の横須賀製鉄所の職種別職工・人足数をみたものであるが、船工職・木工・製綱職・建具職・製帆職などの男子熟練職工は、伝統的な職人としての熟練を引き継ぎ、木工と称されていた。先年、戸田においてロシヤ艦船を建造した経験のある船大工は、横須賀造船所に雇用されることになったのだが、その多くは木工職だっただろう。これにたいして、錬鉄職・製缶職・製図職などの熟練工は金工と称され、近代的な金属・機械工業の職工として新しく熟練の形成がおこなわれなければならなかった。設立当初から熟練工の採用にあたっては「職工ノ雇入ニ当リテ我邦ノ工式ト欧米ノ工式ト相乖戻スル所アルニ拘ラズ務メテ其業務ノ相近キモノヨリ採用スベシ例ヘバ木工ヲ造船工場ニ鍜工ヲ煉鉄工場ニ採用スル類ノ如シ」(『横須賀造船史』第一巻、一二ページ)としていたが、大工と木工・鍛冶職人と鍛冶工などの類似職種といえども、その労働内容には差異があるため再訓練が必要であった。まして、旋盤・仕上・製鑵のような機械工としての職種は、まったく新たに訓練しなければならなかった。そこで、熟練工養成のために次のような方法がとられた。すなわち、「内国人ニ在リテハ鉄工ニ木工ニ各々本邦固有ノ工業ニ熟達スルモノ百名ヲ表2-55 明治3年における横須賀製鉄所の職工・人足数 注 『横須賀海軍船廠史』による 選抜シ仏人ヲシテ之ニ西式工業ヲ伝授セシム」(『横須賀造船史』第一巻、七ページ)。つまり、伝統的熟練を引き継いだ成年労働者を対象として、フランス人熟練工からの個人伝習がおこなわれたのである。『日本近世造船史』によれば、フランス人が横須賀に滞在していた一三年間に、「数千の良工を教育」したとされており、横須賀造船所はわが国重工業の創世期における技術伝習所としての役割を果たしていたのである。 こうした外国人熟練工からの個人伝習がおこなわれる一方、熟練工の養成をより組織的におこなうために、設立当初から職工学校が設立された。この学校は、維新の動乱で一時閉鎖されたが、明治五年に再開され、下級技術者養成を目的とする正則学校と、職長養成を目的とした職工学校の二つが設置された。しかし、熟練職工の養成を目的としたこれらの職工学校は、下級技術者のまったく欠如していた当時にあっては、結果的には下級技術者の養成機関となってしまった。事実、横須賀造船所の職工学校も、一八八二(明治十五)年以降は「専ら技手の養成を務むることとなり、其後校名また改まりて、二十二年には海軍工学校」となったのである(『日本近世造船史』九二二ページ)。この結果、組織的知識をもたない単なる経験工が職長となることになり、その後の日本の職長制を規定する要因となった。明治前期における熟練工の養成は、横須賀造船所をはじめとして長崎造船所・石川島造船所などで、外国の熟練職工から直接養成された熟練職工が中核となって担当することとなった。伝習制が一段落した後の熟練職工養成方法は、年期徒弟制が支配的となった。しかし、この年期徒弟制は、熟練職工の不足が著しかったために、西欧諸国の徒弟制と異なり、年期制も年少労働者の徒弟制に限られたものではなく、成年に達した職人や農民なども「中年年期」として養成するという、きわめて変則的なものであった。さらに、組織的な管理体制が確立されないで親方熟練職工による請負作業が一般的であった造船所も、熟練労働者を中心とした労働力不足による移動の激化によって、特定の親方労働者と徒弟関係を結ばないで、工場の雑役に従事するうちに技能を修得していく年少労働者が出現したり、伝統的な職人的秩序になじまない新しい職種の労働者が形成されてきたため、年期徒弟制は明治二十年(一八八七)代後半には崩壊していった。 鋼船の建造と職種構成の変化 ここで、職種構成の変化を概括的にみておくと、表二-五六の工場別職工数の変化が示すように、木船建造をおこなっていた一八八二年には、船大工を中心とする造船・船渠工場、製帆工、製綱工などを擁する船具工場の職工の比率が高く、これに次いで、鋳物工・製缶工・鍛冶工などで構成される職工が相当数を占め、旋盤工・仕上工などの属する機械工場の職工はそれほど多くはない。だが、鋼製軍艦の建造をおこなうようになった一八八八年になると、基幹職種が船大工から造船工に転化した造船工場の職工が急増するとともに、造機部門を構成する鋳造・製缶・錬鉄・機械の諸工場、とりわけ機械工場の職工が急増し、反面、木船時代に相当大きなウエイトをもっていた船具工場は絶対的に縮小している(兵藤釗『日本における表2-56 横須賀造船所の工場別労働者構成 注 兵藤釗『日本における労資関係の展開』64ページによる。『横須賀海軍船廠史』第2,3巻にもとづく。 労資関係の展開』六三ページ参照)。『職工事情』によれば、伝統的な熟練を引き継いでいる鍛冶工・製缶工・鋳物工などの職種と、新たに養成された旋盤工・組立工・仕上工などの職種とを比較すると、「此二種職工ノ間其生活思想ニ就キ稍其趣ヲ異ニセルモノアリ」としており、年期徒弟制が崩壊していった背景を確かめることができる。 注 (1) 横須賀造船所で実際に働いていた荒畑寒村も、「木工部は……職工はほとんどみな伊豆の下田あたりから来た船大工で近代的プロレタリアートの性格をまったく有しない、純然たる職人気質であった。」(『寒村自伝』上、五九ページ)と指摘している。もっとも「近代的なプロレタリアートとはいかなるものかは問題なのだが、また、次のようにも述べている。すなわち、「職工の中でも、製鑵部や鋳物部の連中と木工部の連中とでは、服装や態度からして相違が目だっていた。前者には、近代的労働者の風格がほのかながらも認められたのに反して、後者はまったく手工業の職人気質を脱していない」(『同書、四四ページ)。 (2) わが国最初の機械制工場である長崎製鉄所(のちの長崎造船所)の幕末期における労使関係を分析した中西洋「日本における重工業経営の生成過程-幕営長崎製鉄所とその労資関係-」(『経済学論集』第三五巻第一-三号)は、横須賀造船所の労使関係を理解する上で参考になろう。そこでは、オランダ人技師・熟練職工が日本人の職人に技能を伝習するとともに、職場のフォーマルな監督者の機能を果たすとともに、日本人職工のインフォーマルな第一線監督者である「頭立候もの」が職場を統括するという、日本的職長制度の萌芽形態が生み出されたこと、また当時の熟練職工となった職人は、きわめて商人的性格を帯びていたために、早い時期から高賃金の職場への移動が頻繁であり、幕末期に早くも定着対策が打ち出されていることなども明らかにされている。 五 労働市場の形成と労働者の状態 労働者の類型と賃金水準 明治前期の労働者は、以上のほかに商業会社などの従業員も含めて、農民層の分解をはじめ旧身分の解体のなかからさまざまな形態をとって形成された。それらを本来の雇用・労働市場に限定してみると、それは官営・民営の造船所をはじめ製糸・製茶などの工場の労働者や商業会社などの従業員などに限られていた。しかも工場の生産労働者にしても、工場内分業の進んだマニュファクチュアのもとに組織されたに過ぎず、自律した機械体系のもとで働く工場労働者はまだほとんど形成されていない、とみてよい。したがって、熟練分野では親方-職人-徒弟の労働者集団による工場内請負制を容易に解体することはできなかったし、前述した建設・運輸労働者や女工などの不熟練分野では、同様な集団のなかでとくにきびしい監督制度を必要としたのである。というのは、単に旧熟練を解体する機械の登場をはじめ組織的な生産管理や労務管理が未発達だっただけでなく、貧民化した日雇人夫などのように、組織的な賃労働に適合していないうえに勤勉と節約どころか、「怠惰と浪費」で特徴づけられるような労働者が多かったからでもある。 こうした本来の労働市場を基軸としてその周辺には、小商人や一人親方などの自営業や、農家副業なども含めた家内労働のような、必ずしも賃労働関係につつみ込まれていない就業分野が新旧織りまぜて広範に形成された。もちろん、商人や地主の支配を受けていた農民層とほぼ同様に、こうした就業分野も決して独立自営だったわけではない。それどころか、大きな商人や問屋の支配を受けており、彼らの取得した工賃などもむしろ賃金以下にとどまっている場合も多く、事実上、賃労働者化したような就業者も多かっただろう。だが、定職を持つだけに、たとえば大道芸人や露店商人などのようにスラムに住んだり、のちにも多少みるような救貧の対象となるような貧民・窮民は少なかっただろうが、いわゆる細民として下層社会を形成するような就業者も多かった。女工を含めて、女子就業者のなかには職工や職人や農家などの家計補充のための就業者が多かった。それは次にみるように、大部分の労働者には生計に十分な賃金や所得が得られなかったからにほかならない。 当時の職種別賃金水準について、図二-九で比較的高水準だった横浜についてみると、かなり乱高下がはなはだしく、それは賃金水準の不安定さを示しているが、職種別にはやはり職人の賃銭が中等級でも一日五〇銭に達し、とくに高水準にあったが、それにたいし横須賀造船所の職工も役付や高技能工を別とすれば、その平均賃金は三〇銭台にとどまっており、職人の地位より低かったのである。もちろん、等しく職人とはいえ、図二-九の図2-9 横浜における1日当たり賃銭の推移(中等級) 注 『神奈川県統計書』より作成 煙草刻みの職人のように需要が縮小しつつあった旧型職人の賃銭は二〇銭を多少上回るに過ぎず、横浜の日雇人足の賃金をすら下回っていた。さらにこれらにくらべて、多くの女工の賃金は、一部の製糸技能工を別として一〇銭を多少上回る水準にとどまっており、農業の日雇女の賃銭と大体均衡するような低賃金でしかなかった。それはまた、横須賀造船所の見習工の最低級とも見合っており、単純な不熟練労働者の賃金相場を示していたのである。 このような賃金水準は、生計基準でみるといかに評価できるだろうか。もっとも、明治十年(一八八七)代から二十年代にかけて物価変動が激しく、そのこと自体が労働者の生計を不安定にしたのだが、明治前期末でみて横浜の米相場から推定すると、一世帯当たり米だけの支出でも一日二〇銭前後は必要だった、とみられる。とすると、さきの日雇人足の賃銭はそれだけで、残りは僅少という低賃金だったことになる。かりにエンゲル係数(生計費中の食料費の比率)を五〇㌫としても、一日の生計費を充たす賃金は少なくても四〇銭以上でなければならなかっただろう。したがって、この水準を充たすのは、大工・左官・洋服仕立職人や横須賀造船所の役付やかなり熟練した職工の賃銭だけであり、男子でも多くの労働者の賃銭はいずれもそれを下回っており、女工などの子女や家族員の多就業化を必要としたのである。しかも、それでも何らかの生活の事故に対する備えを持つ余裕はほとんどなかっただろう。したがって、職さえ安定的に得られなかった人びとにとっては、「怠惰と浪費」しか生活のしようがなかった、とさえいいうるだろう。 貧窮や犯罪の増加 しかも救貧体制がきわめて不備だったから、失業したり病気になったり怪我などをすれば、家族や仲間などの救助が得られない限り、たちまち貧窮の淵に立たねばならなかっただろう。明治政府の唯一の救貧法といってよい「恤救規則」による神奈川県下の救恤人員を原因別にみると、表二-五七のとおりである。それによると明治二十年(一八八七)代の著増が目立つが、それは「恤救規則」の対象である棄児などの救貧対象の増加を示すだけでなく、救貧財政の強化をも示しているのだろう。それにたいして、郡区で管理されていた火災などの災害に対する備荒儲蓄による救助人員の推移をみると、表二-五八のとおりである。それによると、災難の発生状況によっても異なるわけだが、それにしてもさきの救恤人員にくらべて救助人員の方がはるかに多かった。ということは、一人表2-57 国費による救恤人員の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 表2-58 備荒儲蓄金による救助人員の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 表2-59 義捐金による救助人員の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 当たりの救助金額はより多額だったが、救恤の対象がきわめて限られていることを意味するだろう。表二-五八の火災の救助の増大は、横浜などの都市の拡大をも反映しているのだろう。そのことは、義捐金による救助を示した表二-五九からもうかがわれる。そのなかで、貧困を原因とする救助人員は一八八五年に激増した事実が注目される。それは、あきらかに前述した松方デフレによる貧窮化とそれを背景とした農民などの騒動への対応を示している。それにたいし、表二-五七では救恤の増加がほとんど示されていないのは、「恤救規則」の性格なり限界なりを明瞭に示しているだろう。 こうした貧窮化とともに、さまざまな犯罪も発生しただろう。表二-六〇は新入り囚人の職業別構成を示した統計であるが、それによると就業人口の割に農業は比較的少なかったのに対し、商工業、とくに日雇いや無職などが比較的多くなっている。さらに一八八七-九〇年の変化をみると、男女とも増加しているが、とくに女子の増加、無職の減少の反面で、自由業・雑業・工業や日雇いなどが増加している事実が注目されるだろう。これらのなかには、労働争議によって刑事罰に問われた囚人も含まれていただろう。というのは、労務管理などが遅れた不安定な労使関係と低劣な労働条件のもとで、大小の労使紛争はおそらく日常茶飯事だったであろうからである。しかし、明確な記録のえられる労働争議は比較的少ない(『通史編』4近代・現代(1)第三編表2-60 新入り囚人の職業別構成 人(%) 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 第一章による)。しかも、再製茶女工の賃金引下げ反対の争議を別とすれば、職人の親方に対する紛争が多かったようである。しかも、いずれも後世のような組織的・計画的な争議ではなく、自然発生型の騒動が多かったようである。 第二章 近代的流通機構の形成 第一節 交通機関の整備と商品流通の発展 一 東海道線の延長と横須賀線の建設 新橋-横浜間の改良 新橋-横浜間の鉄道は、開業以来順調な営業を続けた。もともと、明治政府は東京と京都・大阪を結ぶ幹線鉄道の経路については、中山道経由を構想していた。明治三年(一八七〇)には、土木司の佐藤政養、小野友五郎が東海道の実地調査をおこない、翌年「東海道筋鉄道巡覧書」を政府に提出し、幹線の経路は、建設費や地域開発の観点からみて中山道経由がよいと述べた。その後一八七一年に、小野友五郎・山下省三らが中山道の実地調査をおこない、さらに一八七四(明治七)年とその翌年の二回にわたって、雇外国人技師長R=V=ボイルが中山道を調査、これによってほぼ中山道経由が決定的となった。 ボイルの報告書によれば、中山道線の利点として、「此ノ線路ハ東京・横浜線ニ共合シ、以テ営業スルニ於テハ太ダ便益ナルノミナラズ、其ノ工業ハ東京・西京間線路中最軽単ニシテ最小ナル費用ヲ以テ建築シ得ベキ区分ナリ」としている(鉄道省編『日本鉄道史』上編)。すなわち、この計画によれば、新橋-横浜間の鉄道は、この幹線には含まれない別線の性格をもつことになる。ボイル報告書の「共合」という意味は、あまり明らかでないが、接続・連絡運輸・運転と同一管理の営業というほどのものであろう。 こののち、鉄道の建設は、中山道経由の構想のもとに進められた。この間、新橋-横浜間の鉄道は、一時払下げ運動の対象となったり、また改良工事が次々に進められていった。払下げ運動は、明治五年(一八七二)にはじまった蜂須賀茂韶、徳川慶勝らの鉄道会社設立計画が、一八七五(明治八)年一転して鉄道払下げ計画となったもので、同年六月、二七人の華族が鉄道払下げのための組合を結成し、政府は同年十月十二日払下げを通達した。この華族組合は第一国立銀行総監役渋沢栄一の助言により、払下げ金を三〇〇万円とし、六か年賦(年二回納入)、政府が年六分の利子を交付するという条件になっていた。 しかし、一八七七(明治十)年七月、「金禄公債証書発行条例」の施行により、組合に参加している華族のなかには年賦金納入が困難となるものが出て、払下げ辞退の動きが起こり、同年十二月十九日組合は政府に払下契約取消しの願書を提出、政府は翌一八七八年三月九日これを許可するむね組合に通達、組合は同月十八日解散を決議し、還付された納入金は渋沢栄一の提案によって東京海上保険会社の資本として使用された。 この払下げ問題は、鉄道建設という当初の目的が実行不可能となったために考え出された次善の策という性格をもっていた。政府の側には、鉄道払下げが絶対に必要という条件はなかった。政府は、開業直後からこの線路の改良計画をすすめていた。複線化工事と橋梁改築工事がそのおもなもので、複線化工事は、一八七六(明治九)年十二月一日の新橋-品川間をはじめとして、七九年三月一日大森-川崎間、同年十一月一日川崎-鶴見間、一八八一年五月七日鶴見-横浜間が完成・開通した(品川-大森間は一八八〇年十一月十四日)。橋梁改築工事は、当初木橋として架設されたこの区間の橋梁を鉄橋に改築するという計画で、その主要なものは六郷川橋梁であった。最初、経費節減のため、この橋梁の東京寄り避溢橋を築堤とする計画が、ボイルによってきめられた。しかし、沿線住民がこれに反対し、政府も築堤建設を取り止めることとした。この工事は、従来の木橋よりやや川上に鉄橋を架設するもので、避溢橋部分は一〇五六フィート(約三二二㍍)、径間四〇フィートの錬鉄製上路式鈑桁二四連、本橋部分は五九九フィート(約一八三㍍)、径間一〇〇フィートの複線式ワーレン構桁六連、一八七六年から工事をはじめ、翌一八七七年十一月二十七日から使用開始した。このほか、鶴見川(四二・八フィート、一八七八年三月完成)、子安(四八フィート、一八七七年一月完成)、二ツ谷(四八フィート、一八七九年二月完成)、高島町三か所(三二フィート、一八七七年十二月完成、五八フィート、一八七九年六月完成、一九フィート、一八七八年六月完成)の工事が施工され、また神奈川の東海道跨線道路橋(三三・六フィート)も鉄橋に改築され、一八八一(明治十四)年三月に完成した。 東海道線の延長 中山道幹線の計画は、一八八三(明治十六)年十二月二十八日「中山道鉄道公債証書条例」が公布されて、ようやく資金の裏付けを得、本格的工事が開始された。しかし、測量の進行とともに、この区間がいたるところで難工事に逢着することが予想されるにいたった。一八八六年にはいって、井上勝鉄道局長官は中山道幹線の最も工事の困難を予想される個所の調査をおこなわせ、さらに東海道の箱根越えその他難工事を予想される個所をもひそかに調査させた。 その結果、建設費のうえでも線路規格のうえでも、さらに開業後の輸送力・営業収支のうえでも、はるかに東海道幹線が有利であるという結論に達した。井上長官はこの結論をもとに、首相伊藤博文に東海道への線路変更の意見書を提出、同一八八六年七月十九日閣令第二四号で幹線経路の変更が公布された。 全通のために建設を要する区間は、横浜-熱田間と関ケ原付近-大津間であった。井上長官は工事期間短縮のため、測量と工事とを並行させる方式をとった。神奈川県下については、横浜駅をスウィッチ・バック駅とし、程ケ谷・戸塚から藤沢へ抜け、平塚・大磯を経て、国府津から右折して酒匂川沿いに御殿場へ出る経路が採用された。小田原から熱海へ出る経路は、途中の海岸線に沿う地形が難工事となり、さらに伊豆半島の頸部を越える部分の線路選定がきわめて困難であることから採用されなかった。 横浜-国府津間の測量は、この年十一月までに終わり、ただちに工事が開始された。国府津以西については、一時箱根を抜けて三島へ出る経路も考えられたが、かなりの急勾配と多くのトンネル工事が必要とされ、そのために御殿場経由に決められたといわれている。それでも、一〇〇〇分の二五という急勾配と、数か所のトンネル、それに酒匂川、相沢川を何か所かで渡ることが必要となった。 横浜-国府津間は、一八八七(明治二十)年七月十一日に開通した。この区間には、程ケ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯の各駅が設けられた。線路はほぼ東海道に沿っていたが、程ケ谷-戸塚間は、清水谷戸のトンネルを掘って、ここを通ることとした。また、藤沢駅は宿場から南に離れた位置に設けられた。藤沢-平塚間の相模川橋梁は東海道の橋梁の上流に架けられ、延長一三六五フィート(約四五五㍍)で、最初仮橋で開通し、一八八八年八月本橋が完成した。 国府津-御殿場間の開通は一八八九年二月一日で、山北-御殿場間には橋梁二〇か所、トンネル七個が必要となった。また、一〇〇〇分の二五という急勾配が一〇マイル(約一六㌔㍍)以上連続し、のちに東海道線の輸送上のネックとなった。 東海道線は一八八九(明治二十二)年七月一日に全通し、東京-横浜間はこの幹線の一部を構成することとなった。鉄道幹線が県の南部を東西につらぬくことになって、県内各地と横浜との結びつきは、かなり強まる結果となった。江ノ島・箱根など観光地への足の便も改善された。さらに、重要輸出品であった静岡産の茶の輸送が鉄道に転移した。このように、東海道線の延長は、さまざまな影響をもたらしたのである。 横須賀線の建設 一八八四(明治十七)年、横浜にあった海軍の東海鎮守府が横須賀に移転して、横須賀鎮守府と改称、明治初年から建設されてきた海軍基地は、さらに本格的基地として拡張されることとなった。ところが、東京-横須賀間の交通はきわめて不便で、横浜以南の道路には馬車の通行不能の個所があった。このため、一八八五年には馬車道路の建設計画が海軍の手で立てられたが、この案は翌年鉄道建設計画に変更され、このころ三浦半島に砲台を建設していた陸軍でも、輸送路改善の必要性を痛感していたので、一八八六年六月二十二日海軍大臣西郷従道、陸軍大臣大山巌の連名で伊藤首相に対し、横須賀線建設決定のための閣議を求める文書を提出した。 内閣から調査を命ぜられた井上鉄道局長官は、将来建設予定の東海道幹線戸塚付近から分岐して、鎌倉・逗子を経、三浦半島を横断して長浦から横須賀に出る線路を選び、この支線部分の建設費を五〇万円と見積った。建設資金は東海道線建設費から流用することとし、予算額を四五万円とし、一八八七(明治二十)年七月測量に着手、同年十二月完了した。当時は、すでに東海道線が開通しており、戸塚-藤沢間の中間に位置する大船村に停車場を設けて分岐することとした。横須賀の終点は、市街に停車場を設けることが予算上の制約から不可能であるという理由で、長浦からトンネルを通って出たところ、逸見村の当時兵営のあった地点に設けることとした。これには、海軍が将来線路を延長するのに便利な位置として、ここを希望したともいわれている。 横須賀駅 市川健三氏提供 工事は一八八八(明治二十一)年一月着手、翌年六月十六日に開通した。最初は一日四往復、七月一日東海道線全通の日から一日六往復となり、各列車が本線に接続した。直通運転はなかった。横浜-横須賀間の所要時間は接続時間を含め、ほぼ一時間三〇分であった。すなわち、横浜-大船間が三二-三六分、大船-横須賀間が四五分かかっており、横浜から横須賀まではおよそ一時間三〇分ということになる。鎌倉までは大船-鎌倉間の所要時間が一四分であり、横浜から約一時間かかったことになる。 大船-横須賀間の途中駅は、鎌倉・逗子だけであった。この線路は、軍事的な利用目的から建設された線路であったが、とくに鎌倉・逗子と横浜・東京との連絡改善に大きな影響をあたえた。 二 神奈川-八王子間鉄道の計画 八王子鉄道論 一八八五年刊行の『工学会誌』(第六四巻)に、清水保吉「八王子鉄道論」という論文が掲載されている。清水は当時神奈川県の職員であり、工学会の会合における演述をまとめたものであった。その趣旨は、当時立てられていた東京・横浜と八王子を結ぶいくつかの鉄道建設計画を比較し、机上の計画だけで建設を決定することは危険であり、また鉄道企業がばく大な利益をもたらすことはないことを説明し、「世ノ鉄道株ニ惑溺スル人ノ注意ヲ促シ」というところにあった。 当時、八王子は神奈川県下にあり、西・北多摩郡、埼玉県南部、山梨県など各地から商品が集まってきて、ここから東京・横浜へ輸送するための市場として経済活動がさかんであった。それらの商品の輸送手段として、新宿-羽村-青梅間に馬車鉄道を建設しようとする計画があったが、それまで山梨県から大菩薩峠を越えて青梅に出、ここから青梅街道を通って東京に出ていた経路に対し、小仏峠の改良によって甲州街道沿いに八王子に出る経路が重視されるようになったため、新宿からの馬車鉄道の計画も八王子に方向を変えた。 清水はこの線路と、川崎-八王子間の線路、横浜-八王子間の線路などを比較し、直接建設にあたって必要な工事の難易や建設費、営業上の利益などを勘案してみると、川崎-八王子間に建設するのが最も有利であるという結論を出した。 この比較は、商品集散地である八王子を中心に、東京・横浜との鉄道連絡の経済比較をおこなった最初のものとみてよいが、川崎-八王子間に鉄道を建設すれば、既設の新橋-横浜間鉄道を介して、東京・横浜いずれについても便利な輸送経路を実現し得るということになる。そして、この川崎-八王子間の鉄道は、実際に原善三郎らによって計画されたのである。 民間の計画と政府の対応 一八八六(明治十九)年横浜の貿易商、原善三郎ほか一二名は武蔵鉄道会社を発起し、資本金五〇万円で川崎-八王子間に鉄道を建設すべく神奈川県知事沖守固に願書を提出した。神奈川県知事沖は、十二月二十八日内務大臣山県有朋に上申し、三多摩および山梨県産の生糸・織物の多くは横浜から海外に輸出されており、八王子-東京間に鉄道を建設すると迂回路になるばかりでなく、「県治上ニ於テモ三多摩郡地方管民ノ交通ハ常ニ他管タル東京府下ヲ経由セザルヲ得ザル姿ニシテ一県下ニ在リナガラ全然分裂ノ状態ヲ現出スベク」と県政上の問題点をも指摘した(前掲『日本鉄道史』上編)。 これに対し、翌一八八七年三月五日山県内相はこの問題を閣議に提出し、次のように意見を付した。すなわち、東京・横浜などの都市に関係のある地域に鉄道を建設する場合は、「必ス先ツ首府ヲ以テ基点トシ、而シテ他ノ各邑要区ニ連絡スルヲ原則トスヘシ」といい、八王子から川崎に直行する線路を建設すると、青梅・飯能・所沢などはこの線路から遠く離れ、八王子に逆行しないと鉄道を利用できなくなる。八王子から東京に線路を建設すれば、これら各地からはこの線路の途中の停車場に出ることができる。さらに、横浜と八王子との関係は一年のうち特定の季節に、「一時僅々少量ノ生糸其他ヲ輸出スルニ過ギズシテ、東京八王子間ノ如ク一歳百貨ノ出入行旅ノ送迎ヲ絶タザルノ関係トハ大差アルモノノ如ク、横浜ノ便否ニ係ル一点ヨリ謂フトキハ少シク遺憾ナキヲ得ザルモ、之ガ為首府ノ関係ヲ枉ゲテ計画ノ大要ヲ誤ルベカラズ」と主張した(同書)。 井上鉄道局長官も、これとほぼ同じ意見を上申していたため、閣議も内務大臣のこの請議案の立場を認めることとした。 この決定の以前、一八八六年十一月十日には、新宿-八王子間の甲武馬車鉄道会社(十二月、蒸気に動力変更)が免許を受けており、この閣議でも、この計画が支持される結果となった。こうして、川崎および横浜と八王子とを結ぶ鉄道は、この時には実現しなかった。ここには、商品の能率的な輸送体制の確立を求める民間の立場と、首府に基点をおくべしとし、また鉄道の開通による地域開発をあまり重視しない政府の立場とのくい違いがみられたのである。 三 車輛交通の増大 馬車輸送の登場 道路交通にあらわれた新しい変化は、馬車・人力車・荷車など各種車輛の登場と急速な増加であった。周知のようにわが国における馬車の運行は、幕末開港後の外国公館の自家用馬車に始まったが、日本人経営の馬車は、明治二年(一八六九)五月開業した、横浜-東京間の乗合馬車が最初であった。石井研堂『明治事物起源』(明治四十年刊)によれば、この馬車営業は同年二月、川名幸左衛門・下岡蓮杖・木屋与七・中山譲治ら八名によって出願され、官許のうえ横浜吉田橋脇の官有地一六〇坪を借り受け、成駒屋と号して開業した。営業内容は二頭立て馬車に乗客六名を乗せ、一人金三分の運賃で横浜-東京間を運行するものであった。四時間で東京に達したといわれるから、時速は八㌔㍍前後ということになるが、運行回数・馬車数等はつまびらかでない。また、使用された馬車の製造場所なども不明であるが、前記出願人の一人中山譲治ほかが、「当時、外国人持ち乗合馬車を以て東京往復営業を」おこなっていたといわれる点や、明治二年という時点からいって、当初はおそらく外国製だったと考えてさしつかえないであろう。このほか同書には東京芝口一丁目西側家主久右衛門ほか八名も、二年四月乗合馬車営業を出願して免許された旨が記されているが、詳細は同じく不明である。しかし、『東京市史稿』帝都(二)には、東京-横浜間馬車に関する、東京府知事の神奈川県知事宛文書(明治二年四月)が見え、出願人与七(前記木屋与七)手代金太郎に対して、市中雑踏のため日本橋箔屋町へ馬車継立所を設けることを禁じ、運行コースを尾張町一丁目-日本橋から尾張町一丁目-木挽町五丁目橋-南小田原町(築地)へ変更するよう命じた旨が記されている。また、参考のため添付された「東京府馬車規則書」にも「横浜より東京外国人居留地迄の往還のみ差許し候に付き、追って沙汰に及び候迄、其の余の場所は往返致すまじく」とあり、同じく南小田原町から尾張町一丁目経由金杉高輪町までのコースを指定している。当時すでに東京府がこの規則書を制定していた点からいって、同様の開業願書が府内からも提出されていたと考えてさしつかえないであろう。『資料編』18近代・現代(8)一二四に収録されている明治三年三月「東京横浜馬車商社規則」は、関連資料を欠いているため前後関係が不明であるが、おそらく前記の京浜の業者が合併し、東京横浜馬車商社として再発足したのではないかと思われる。なお、この馬車営業は宿駅制度下の東海道で始まったものであり、当然各駅継立業務との対立や調整問題が起こったものと思われるが、手がかりになるような資料はまだ発見されていない。また、鶴見川・六郷川(多摩川)などの渡河の問題もあったが、この点については五年五月に開業した中山道郵便馬車会社の資料(『駅逓明鑑』巻六、第一三編第一八章)に、「渡船敷板、歩み板等の入用、会社より出し、渡し越し賃銀並びに車乗せおろしの手伝料とも、川崎宿の振合を以て、二匹立、一匹立の差別無く、一度金一両宛」とあり、渡し舟によったものと思われる。また『大蔵省沿革史』租税寮第四、明治四年正月の部に「馬車税の如きは一、二年以来、東京府、神奈川県既に之を徴収せり」とあり、運行直後から、府県税として徴収したものと考えることができる。いずれにしても神奈川県は、新橋-横浜間鉄道の開通に先立って、馬車輸送の分野でも先鞭をつけることになったのである。 初期の馬車輸送の第二の例は、一八七四(明治七)年八月、陸運元会社(一八七五年二月内国通運会社と改称)によって、神奈川-小田原間で開始された郵便物の馬車輸送であった。同社は江戸時代初頭から信書・貨幣・高級貨物の運送請負業に従事してきた飛脚業者たちが、官営郵便の開設にともなってその下請業務に転業し、明治五年六月の会社創立以来、政府の特別の保護を受けてきたものであった。神奈川-小田原間の馬車輸送は、鉄道未開通区間での官営郵便の早達を目的として開始され、一八七五年十一月には熱田まで、一八七六年八月には京都まで延長された。しかし、悪路のため小田原-箱根-三島間、島田-日坂間、熱田-桑名-土山間は脚夫、宇都谷-島田間は人力車、浜松-新所間は渡し舟というつぎはぎ輸送で、馬車の運行ができたのは残り七区間にすぎなかった。このうち東京-小田原間は、当時最も良好な道路のひとつに属し、一八七七年十月、イギリス公使パークスが本国へ送った報告書(「日本国内国運輸ノ性質並ニ費用ニ関スル英国領事報告」)でも、東京-高崎間、東京-宇都宮間とともに、ベスト・スリーのなかに加えられていた。神奈川-小田原間の馬車輸送は、さきの横浜-東京間のそれと同じく、こうした良好な道路事情や、早着を必要とする新しい輸送需要に支えられていたと考えることができるのである。 人力車の普及 他方明治三年(一八七〇)には人力車も登場し、急速に普及した。周知のように人力車は、東京在住の高山幸助ら三名によって考案され、同年三月、東京府から営業認可を与えられたものであったが、当時の輸送需要と道路事情に適した簡便さと低速性のため、たちまち各地に普及した。『日本帝国統計年鑑』によれば、一八八〇(明治十三)年末には神奈川県下でも六八〇〇輛余を数え、東京・大阪・兵庫・愛知の諸府県に次いで第五位に位した。もちろん当時の県域には多摩郡がふくまれていたが、『明治十九年神奈川県統計書』によれば、総数六七五四輛のうち多摩郡下所在の車輛は六〇二輛にすぎず、残り六一五二輛のうち二七五〇輛が横浜区に属した。新橋-横浜間鉄道の開通と開港場の繁多な輸送需要が、こうし港町の人力車風景 神奈川県立博物館蔵 た軽便な都市交通手段を必要としたものということができよう。 馬車取締規則の制定 明治初年(一八六八)に始まった車輛交通は、宿駅制度の廃止(明治五年一月十日東海道、五年八月末全国諸道)や各駅陸運会社の解散(一八七五年五月末)によって、発展の機会を与えられた。そして、養蚕・製糸・織物など在来産業の活況が始まった明治十年(一八七七)代には、輸送需要の増大にともなって、かなり目ざましい発展をとげた。いまその模様を『日本帝国統計年鑑』によって見れば表二-六一・六二の通りであり、一八八〇年から一八八九年までの県内各種車輛の増加率は、馬車二四・五倍、荷車三・四倍、牛車一・五倍にのぼっている。とくに荷馬車の増加はきわめていちじるしく、五七輛から二一七三輛へと三八倍余に及んだ。 こうした傾向は全国的にみてもほぼ同様であり、あたかも西欧の馬車時代初期に似かよった状況を示しはじめていたと考えてさしつかえないように思われる。また、乗合馬車もこの間約五倍に増加し、一八八一年五月には神奈川県布達甲第七八号によって「馬車取締規約」も制定された(『資料編』18近代・現代(8)一二九)。この規則は、乗合馬車・貸馬車・荷馬車等の営業出願手続(第一条)、馭者の要件と馭者・馬丁の鑑札(第二、三、四条)、立場(発着所)と運行心得(第五、六条)、賃銭と定員(第七、八、九、一〇条)、警察官の取締(第一一、一二条)などを含んでいたが、運行については左側通行と夜間の燈火(車前左右)、群集区間表2-61 全国諸車台数 注 『日本帝国統計年鑑』より作成 表2-62神奈川県諸車台数 注 『日本帝国統計年鑑』より作成,ただし多摩郡をふくむ。 での徐行と馬丁の先行・警笛などを明示していた(第六条第一-第五項)。しかし、前記「東京府馬車規則書」(明治二年)に記載された下車条項(「途中高貴の方々の通行に行逢い候節は下車致し、其の余常々礼譲心掛け申すべき事」)は姿を消し、より近代的な営業規則の形を整えたものであった。なお、前記運行心得は自家用馬車にも適用され、同年七月一日から県下全域に施行されることになったのである。 四 鉄道貨物取扱業の誕生 鉄道貨物輸送の開始 すでにふれたように、わが国の道路交通は、宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の解散によって、自由化の時代を迎えたが、しかし、この時期はすでに世界的には鉄道時代のまっただなかにあり、そのインパクトによってわが国でも、新橋-横浜間その他の鉄道が開通した時期であった。もっとも開通後約一〇年程は、強い官設官営方針と資金不足のため、線路延長が順調に進まなかったので、中・長距離圏の道路交通の分野でも、馬車時代初期に似た活況が現われることになった。しかし、明治十年代なかばからは、中山道鉄道公債の発行や私設鉄道の認可によって、官私鉄道の建設と線路延長が急速に進み、道路輸送の再編成と鉄道貨物取扱業務への転換を迫られることになったのである。 ところでこのような鉄道貨物の取扱業務は、すでに新橋-横浜間鉄道において、一八七三(明治六)年九月から始まっていた。周知のようにこの鉄道は、東西両京間鉄道建設のための試験線として着工されたものであり、ダーリントン=ストックトン鉄道のような、貨物輸送のための産業鉄道として建設されたものではなかった。そのため開業当初は旅客と手小荷物のみを運ぶ客車の運行にとどまっていた。輸出入貨物はすでに鉄道開通前から駄馬や回船で輸送され、外国商船も沿岸海運へ進出し表2-63 東京-横浜間鉄道輸送実績 注 「工部省沿革報告」より作成 ていた。したがって短小なこの鉄道が、輸出入貨物の輸送網のなかで占める地位は、ほとんど取るにたらないものであったと考えることができるのである。事実この鉄道の貨物運賃収入は、明治十年代に入ってもきわめて停滞的で、最大の年度でも全運賃収入の一五㌫程度にとどまっていた。またその輸送量も、横浜港経由の輸出入貨物量にくらべてきわめて少なく、一八八一年度を例にとれば、織物類・紙・雑貨など重要輸出入貨物を除いた輸出入貨物二億二八五三万斤の約三分の一にしか当たっていない。全輸出入貨物の重量換算は統計上不可能であるから、両者の正確な比率を求めることはできないが、おそらく前記の事実からいって、当時の同港輸出入総量の一割前後にとどまったものとみて大過ないであろう。こうした事情はこの鉄道の短小性からいって当然ともいえることであろうが、他方、その運賃が海運にくらべて割高だったこともひとつの理由であった。いずれにしてもわが国の輸出入貨物は、すくなくとも明治二十年(一八八七)代初頭までは、大部分道路や沿岸海運によって開港場に運ばれ、あるいはそこから搬出されたものと考えてさしつかえないのである。(表二-六三) 新橋-横浜間鉄道が貨物輸送において果たした役割は、このように比較的小さなものであったが、しかし、貨物の種類によっては、鉄道のもつ早達性と定時性に大きな価値を見いだしたものもあった。生糸・蚕卵紙のような価格変動のはげしい輸出貨物や、湘南地方の生鮮魚類などがそれであった。これらはいずれも早達性と定時性によって価値を維持し、また、それによって割高な運賃をも負担し得る高級貨物であった。そして、初期の鉄道貨物のなかで重要な地位を占めたのであった。 新橋-横浜間鉄道の貨物輸送は、このような事情のなかで一八七三年九月に始まった。開業に際しては「鉄道貨物運送補則」と品目ごとの「賃銭表」が布告され(九月十三日第三一六号)、また工部省鉄道寮からも各駅に、九月十五日から新橋・横浜両ステーションにおいて、貨物の取扱いを開始する旨の張紙が掲示された(『資料編』18近代・現代(8)一五五)。受付時間は毎日午前七時から午後五時までとされ(「鉄道貨物運送補則」第一二条)、途中駅での取扱いはおこなわれないことになっていた(鉄道寮掲示第二条)。 三井組の鉄道貨物取扱い ところでこのような鉄道貨物輸送の開業は、これを利用して貨物を送達する鉄道貨物取扱業(運送請負業)の開業を促した。そして、新橋-横浜間鉄道においてこの種の業務に最初に進出したのは、三井組であった。高村象平「明治初年に於ける三井組の運送取扱業」(『社会経済史学』第四巻第七号、昭和九年十月)によれば、同組は一八七三(明治六)年七月、「鉄道荷物取扱手続書」を鉄道寮に提出して八月二十日認可を得、新橋駅および横浜駅構内の一部を借り受けて取扱所を設け、営業を開始した。この「取扱手続書」によれば「これ等の場所で受付けた貨物は取り纏めこれを三井組の貨物として、各駅間の運送を鉄道に依託し、更に三井組はまた相当額の配達料金を荷主より受け以って着駅から各戸口に配達することを引受けること」(前掲高村論文)になっていた。したがってその業務内容は、かつて飛脚問屋が宿馬を利用しておこなった運送請負業と、同種類のものだったということができるのである。なお、同年十月四日工部省によって認可された三井組「ステーション為替荷物并送り荷物取扱規則」(『資料編』18近代・現代(8)一五四)によれば、荷物の受付はすべて取扱所でおこなわれ、集荷運送はおこなわれなかった。取扱所での荷物の受渡しは午前八時から午後五時までとされ、受付(運送請負)に際しては所定の鉄道運賃のほか品柄に応じた「持運ひ手数料」が、配達付の場合にはさらに配達料が徴収された。「持運ひ手数料」の性格はつまびらかでないが、おそらく請負手数料と貨車までの運搬賃を合わせたものではなかったかと思われる。また、荷為替の取組や荷為替付荷物の運送取扱い、為替金の書替えも、貸付方と提携しておこなわれることになっていた。鉄道運賃は週末ごとに上納するきまりであった。 このような鉄道貨物取扱業の認可申請は、同年八月、横浜境町一丁目の生糸売込商田中平八からも、支配人(黒崎平七)を通じて提出された。しかし、鉄道寮は同年九月、「既ニ三井組ニ許可有之候故」という理由で「当分之処ハ右ニて取扱」う方針をきめ、申請を却下した。その結果、鉄道貨物創業当初の取扱業は、三井組の独占するところとなったのである。なお、同年十一月には、東京府下安針町平田友七ほか三名から、湘南地方の鮮魚輸送のため、神奈川駅において毎日貨車二輛を借り切り、新橋駅へ送達する件が申請され、認可された(『資料編』18近代・現代(8)一五七)。これは上述の取扱業と異なり、荷主自身が一輛金五円で貨車を借り上げるものであったが、いわゆる貸切扱いの嚆矢として興味ぶかいものということができよう。 一八七四(明治七)年五月十四日、工部省は布達第一四号をもって鉄道運賃を大幅に引き下げ、また一八七五年三月には、従来三井組のみに認可してきた鉄道貨物の取扱業務を、広く一般に開放した。前者はそれまでの鉄道運賃が海運その他の運賃にくらべてかなり割高で、期待した業績が上らなかったためであり、後者も三井組の独占が、鉄道貨物の増伸にとって障害とみられたからであった。そして、このような開放措置にともなって、従来貨物運賃のなかから三井組に交付された取扱手数料(運賃の五㌫)も、以後荷主から徴収することに改められたのであった。 以上の結果、鉄道貨物取扱業者の数はしだいに増加した。すなわち、一八七五年三月二十七日には東京府本材木町西村勝三、同佐内町内国通運会社頭取吉村甚兵衛、四月九日には横浜元浜町田島喜八、九月二十三日には東京府和田力蔵ほか七名と神奈川県和田鉄五郎ほか一名が、鉄道貨物の取扱業務を認可された。そして、その数は明治十年代を通じてさらに増加し、二十年代初頭には、横須賀線の開通(一八八九年六月)や新橋-神戸間の全通(一八八九年七月)によって、急増することになったのである。 五 河川舟運と渡船・渡橋 鶴見川の舟運 河川輸送の分野では、多摩川・鶴見川・相模川などの河川が、江戸時代以来筏流し、薪炭・米麦・肥料・塩などの輸送に重要な役割を果たし、維新後も大正中期ころまで、各種の貨物輸送に利用されたことが、写真や聞き取りなどで確認されている。しかし、残存資料が少なく、全容を明らかにすることはきわめて困難である。 このような資料状況のなかで比較的まとまった形で残存するのは、旧橘樹郡北綱島村飯田家文書のなかの天然氷の輸送資料である。同文書の特徴については県立文化資料館から発行された『資料目録 古文書の部第一集』(昭和四十九年三月刊)に明らかであるが、近世期のぼう大な名主文書のほか、茶・果樹の栽培、天然氷の製造等の近代資料をふくみ、このうちおもに天然氷が川舟その他によって横浜真砂町三丁目や東京日本橋西河岸などの氷室に運ばれたのであった。『資料編』18近代・現代(8)一四二は、一八八四年一月五日から二月二十七日までの間に、綱島付近の鶴見川筋から横浜真砂町三丁目の氷室に送られた天然氷の数量と船頭名を記載した控帳である。表二-六四はこのうち船頭名のみを整理したものであるが、総数三一名、輸送回数計六五回にのぼっている。輸送総量は空欄があるためつまびらかでないが、「二階揚之分〆八万二千四百九十二斤」という記載が見えるので、いま仮に一階にも同量を収蔵したとすれば、合計一六万四九八四斤、すなわち約一〇〇トンにのぼったことになる。また、使用された舟がすべて船頭の持舟かどうかもつまびらかでないが、記帳形式からみておそらく「手舟喜代蔵舟」は飯田家の手舟とその使用人、他は羽根田村太市および小倉村(現在城山町)重次郎・権右衛門を除いて、すべて鶴見川筋の船頭とその持舟だったと思われる。いずれにしても明治十年代には、県内各河川に、かなりの数の川舟が運行していたと考えることができるのである。 渡船と渡橋 ところで内陸部を流下する河川は、舟運によって少なからぬ貢献をする半面、道路交通を各地で遮断する大きな障害となった。そのため江戸時代以来各地に渡船場が設けられ、相対または定賃銭によって貨客の輸送に当たった。しかし、各地の渡船場は、江戸時代を通じてしばしば排他的な営業権を確立し、通行上の不便や近隣諸村との争論を招くこともまれではなかった。 このような事情は、幕府の崩壊や貨客の増加によって、維新以後しだいに変化しはじめた。そして、政府もまた明治四年(一八七一)十二月、布告第六四八号によって新道開拓や架橋を奨励し、落成のうえは工費の多少に応じ、通行料金の取立てを許すことを明らかにしたのであった。 このような方針は一八七三年六月、六郷川架橋と渡橋賃取立の認可、というかたちで具体化された。幕末期に編修された『東海道宿村大概帳』(児玉幸多校訂、吉川弘文館刊昭和四十五年三月)によれば、東海道川崎宿と対岸の八幡塚村を結ぶ六郷川の渡船は、「前々八幡塚村にて相勤候得とも、近来ハ川崎宿にて相勤」め、宿内字船場に川会所一か所、水主頭・会所詰各二人、肝煎四人、渡船一四艘などを常備して、渡船場の川舟で天然氷を氷室へ運ぶようす 『大日本博覧絵』より 運営に当たった。そして、このような川崎宿の権利は維新後も続き、歩行船・馬船などによって旅客や車輛の輸送に従事したのであった。 しかし、このような旧慣に正面から対立する架橋願書が、一八七三年三月、八幡塚村鈴木左内および北品川宿芳井佐右衛門から東京府に提出された(『東京市史稿』帝都十一)。それによれば元来この渡船場は「往復之諸人夥しく、なかんずく横浜開港以来いや増し、馬車其のほか差しあつまる」場所であるが、渡船のため少なからぬ難儀を被っているので、このたび仮橋を架け、経費の消却のため五二か月半有料としたいというものであった。 この願書は東京府を経て所管の大蔵省に進達され、同年六月二十九日認可された。そして、翌一八七四年一月中旬までに架橋その他万端の用意を整え、同十九日付で東京府から、翌二十日以降五二か月半の間、有料橋として使用することを許可されたのであった。なお、認可料金は歩行者一人金三厘、人力車一輛(車夫とも)金一銭、馬一匹(口引とも)金一銭、馬車一輛(馭者とも)金六銭二厘で、ほぼ出願料金と同額であった。また、「従前の渡し舟」はこの時をもって廃止された。 このような大蔵省の方針は神奈川県にもただちに反映し、一八七四年六月、第一七八号によって、渡船・架橋を旧慣から解放した「渡船架橋規則」が布達され表2-64 1884年鶴見川筋の氷舟 注 『資料編』18近代・現代(8)142より作成。人名の右肩の数字は輸送回数,数字のないのは1回のみの輸送,合計延65回。 た。そして、これによって渡船・渡橋の運営は旧慣にとらわれず、すべて地元の村々がおこない、甲村の渡船・渡橋を乙村が支配する等のことを廃止すること、徒歩可能な河川で渡船・渡橋を強要する等の行為・奸計をおこなわないことなどが指示されることになったのである(『資料編』18近代・現代(8)一四〇)。 この規則は県内各地の渡船場に大きな衝撃を与え、近隣村々の間にしばしば深刻な紛争を呼び起こした。たとえば多摩川中流の登戸村と和泉村を結ぶ渡船場では、渡船権を持つ両村から業務を委託されてきた宿河原村が、右の規則にもとづいて一八七五年八月免許を受け、これに気付いた両村との間に紛争を招いたし、また、相模川上流の湘南村と上川尻村(ともに、現在城山町)でも、小倉渡船場の権利をめぐって深刻な争いが起こり、ついに横浜地区裁判所を経て上級審まで持ち込まれることになった。しかし、いずれの場合も旧慣にもとづく排他的な渡船権は、その主張をつらぬくことができず、後者は湘南村の敗訴に、前者は一八八一年七月、渡船・架橋とも三か村の共同経営というかたちで、和解を見ることになったのである(『資料編』18近代・現代(8)一四一)。 第二節 貿易機構の整備 一 売込商体制と直貿易 資本主義の発達と横浜貿易 明治維新は、封建制の社会を資本主義の社会に変える大きな変革であったが、資本主義的な生産と流通の機構が発達するには、しばらく時間がかかった。資本主義が発達するためには、資金の蓄積と自由な労働力の存在が不可欠であり、それらの必要条件がととのえられるには、松方財政の展開をまたなければならなかった。松方財政が、一方で、日本銀行を軸とする資金流通機構を整備し、銀本位による近代的貨幣制度を確立し、他方で、デフレーションの作用による農民層分解、その結果としての労働力(土地喪失農民)創出を促進させると、その後の時期から、資本主義は、急速に発達しはじめた。資本主義の発達は、国内・国外の商品の流通を、質的にも量的にも拡大させたから、横浜における輸出入も、大きく成長することとなった。 一八七六(明治九)年から一八九六(明治二十九)年の横浜の輸出・輸入の推移をみると図二-一〇のようである。この約二〇年間は、一八八五、六年ころを境に、前半の停滞期と後半の拡大期に分かれている。前半期は、一八七七(明治十)年の西南戦争をきっかけとするインフレーションが、一八八一(明治十四)年から開始された松方財政によって鎮圧され、デフレーション状態が続いた時期である。イ図2-10 横浜の貿易(1876-1896年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 66,74,104,131ページによる。 ンフレ期には、輸入が輸出を上回る水準にあるが、デフレ期には輸入は縮小し、横浜貿易は、輸出超過にもどっている。後半期は、企業勃興期とよばれる資本主義的企業の登場が著しい時期にはじまり、一八九〇(明治二十三)年には、最初の資本主義恐慌を経験し、一八九四、五年の日清戦争にいたる時期である。資本主義の発達とともに、横浜の輸出入は、急成長をとげている。輸出は、一八八六年から急拡大を示し、一八九〇年にはかなり激しく落ち込むが、ただちに回復し、一八九五年には、一八八五年の三・五倍の輸出額を記録するにいたった。輸入は、一八八七年から拡大しはじめ、一八九〇年恐慌の影響を受けて九一、二年には縮小するが、九三年以降再び急速に拡大し、一八九六年には、一八八六年の三・六倍の輸入額に達している。 横浜貿易額を全国貿易額との関係でみると、図二-一一のようになる。全国貿易額の動向は、横浜貿易と図2-11 全国貿易と横浜(1876-1896年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。貿易額は輸出額と輸入額の合計。横浜の割合は,全国貿易額に対する横浜貿易額の百分比。『横浜市史』資料編2 6,14,40,60,66,74,104,131ページによる。 同様であり、一八八五年ころまでは停滞し、八六年以降急拡大傾向に入り、九〇年恐慌で一時停滞するが、一八九六年には、八六年の三・六倍の水準に達する。全国貿易額に対する横浜貿易額の割合は、一八七六年の七九㌫から七八年には六九㌫に低下し、しばらく七〇㌫前後の割合が続いたが、八四年以降はまた低下傾向をたどって、九六年には四六㌫となった。これを輸出と輸入に分けてみると、輸出は、一八七六年の七九㌫から、一八九六年には五二㌫に低下し、輸入は同じ年で、七九㌫から四二㌫に低下している。横浜貿易の地位の低下の裏には、神戸港の貿易の拡大がある。神戸の貿易額の対全国比は、一八七六年の一四㌫から、九六年には四二㌫に拡大した(『日本貿易精覧』四〇七、四一五ページ)。とくに、輸入では、神戸が、一八七六年の一六㌫から九六年には四八㌫になって、横浜を追い越すにいたっている(一八九三年以降、神戸が輸入第一位港になった)。日本の資本主義発達の基軸産業である綿紡績業が、関西地方をおもな舞台として発達し、原料綿花を中国・インドから大量輸入し、綿糸を中国に輸出するにいたったことが、神戸港の比重を拡大させた最も大きな要因であった。資本主義の発達は、商品流通の内容を大きく変化させ、そのことが、横浜の貿易港としての相対的地位を低下させたのである。 この時期の横浜貿易は、居留地貿易体制のもとで進められたが、日本商社による直接貿易・直貿易も開始された。つぎに、居留地貿易体制の内部変化と直貿易についてみてみよう。 連合生糸荷預所事件の発生 居留地貿易体制は、外国商館が輸出入業務を専門に担当し、日本商は売込・引取業務をおこなう体制であるから、いきおい、外商による貿易独占・専横的取引慣行が形成されることになる。日本側は、商権回復のスローガンのもとに、外商による貿易独占を打破し、公正な取引慣行を樹立する努力を重ねなければならなかった。すでに述べた一八七三(明治六)年の横浜生糸改会社、翌七四年の蚕種紙買入所の活動のうちにも、商権回復への悲願が込められていた。 一八八〇(明治十三)年ごろから計画されて、翌八一年九月に開業した連合生糸荷預所は、この商権回復を旗印とした横浜生糸売込商を中心とする新しい動きであった(以下、海野福寿『明治の貿易』による)。連合生糸荷預所は、横浜生糸売込商の出資によって設立された、貸付業務をともなう倉庫であり、次のように運用される仕組みとされていた。(一)生糸売込商は、地方荷主から委託された生糸をすべて荷預所に搬入する、(二)荷預所は、生糸検査をおこない、見本品一箇以外の生糸を保管し、預手形を交付する、(三)売込商は、見本品によって、自店において外国商館と売込契約を結ぶ、(四)売込商から契約成立の報告を受けた荷預所は、荷預所内で、計量をおこない、生糸と代金の受渡しをおこなう、この際、荷預所は、売込商から倉庫蔵敷料・検査料・手数料を徴収する、(五)この間、荷預所は、保管生糸を担保とする貸付けをおこなう。 荷預所連合加盟者は、横浜生糸売込商であり、加盟者を通さずに生糸を引き込んだ外国商館と加盟者以外の者に出荷した荷主とは取引を拒絶する申合せが売込商仲間でつくられていたから、荷預所は、売込商の独占組織といってよい。そして、荷預所が、独自に品質検査をおこない、荷預所備付けの衡器・風袋で計量して受渡しをおこなうことは、外国商館による恣意的な取引慣行のはいり込む余地をなくした。 外商は、荷預所の設立計画が進められていた段階から設立反対の意思表示をおこなっていたが、いよいよ九月に荷預所が開業すると、猛烈な反対運動を展開した。九月二十日夜に開かれた集会で意思統一をした外商は、荷預所連合生糸荷預所 『横浜商業会議所月報』より あてに質問状を出すとともに、荷預所との取引拒絶の行為にでた。荷預所が設立主意説明を繰り返しただけの返書を送ると、外商側は、荷預所を非難し、直接取引を勧誘する文書を、全国の地方商人・生糸生産者に発送した。横浜における生糸取引は、全面的に停止するにいたった。 荷預所側は、初志貫徹を期して対抗策を講じた。外商が地方荷主と直接取引をおこなうことになれば、荷預所側は完全に敗北するから、地方荷主を外商から切り離し、荷預所側の味方とすることが基本戦術であった。荷預所は、東京銀行集会所と通運会社などの運送会社に働きかけて、荷預所連合加盟者以外の者が荷受けする生糸については荷為替取組・運送を拒絶するという協力を得ることに成功した。そして、外商が地方荷主あてに発送した文書に対する反駁告知書を地方荷主に送り、商権回復を訴えた。これにこたえて、地方荷主のなかから、荷預所支持の同盟結成の動きが起こり、山梨・群馬・福島・長野・埼玉・岐阜など主要製糸地帯で有志同盟がつくられ、外商との直取引拒絶、荷預所連合非加盟者との取引拒絶が決議された。 この間、新聞や雑誌は、荷預所事件を詳細に報道し、荷預所を支持する論説をかかげて、商権回復のキャンペーンをくりひろげた。横浜に起こった事件は、全国的な商権回復運動に発展するにいたったのである。 商権回復運動の内部矛盾 荷預所を支持する地方荷主たちは、外商の勧誘を拒んで、荷預所連合加盟商に生糸を送ったから、荷預所へは続々と生糸が集まった。しかし、外商は荷預所をボイコットしていたから、荷預所には生糸在庫があふれ連合生糸荷預所設立願書 早稲田大学「大隈文書」蔵 た。外商との対立が続く限りは、日本商人の手によって直輸出をおこなう以外に、生糸を輸出する途はない。商権回復運動に燃えあがった地方荷主のなかから、直輸出の実行を求める声が強まり、一部では、直輸出のための企業の設立計画が進められるにいたった。十一月一日には、荷主総代の会議が横浜で開催され、直輸出実施の決議が採択され、その準備がはじめられた。直輸出をおこなうためには、同一等級品を一定量まとめる必要があったから、地方荷主が出荷した各種生糸が集中的に取引される市場の設立が望まれた。荷主代表は、このために、セリ市場設立を計画し、横浜税関の一部を借用して、地方荷主・横浜商人、それに外商を含む輸出商が参加する公開取引市場を開こうとした。 荷預所側は、表向きは、直輸出とセリ市場開設に賛成したが、内実は、それに積極的ではなかった。荷預所は、そもそも、外商への売込みを前提とした組織であり、売込みの際の日本商の立場を強化し、取引慣行を是正するねらいを持っていたが、外商による貿易独占そのものを打破しようとしたのではなかった。居留地貿易体制の枠内での制度改善が目的であって、直貿易を意図したわけではない。荷預所に参加した横浜生糸売込商にとって、地方生産者・地方商人の手による直輸出会社計画や、地方荷主と内外貿易商を直結する役割を果たすセリ市場計画は、自己の商業活動の基盤をほり崩すおそれのある計画であり、本来、賛成できない性質のものであった。 商権回復のスローガンをかかげて高揚した運動の内部には、売込商と地方荷主あるいは直輸出商の間の利害関係の不一致が潜在していたわけである。この利害不一致は、生糸輸出停止がながびくにつれて、いろいろなかたちで表面にあらわれてきた。直輸出をおこなっていた数少ない日本商社のひとつである同伸会社が、ドイツ向生糸をサーゲル商会に委託したことが背盟行為とみなされて除名処分を受けた事件は、直輸出商と売込商の利害対立を浮き彫りにした。また、上州・武州の有力荷主が、荷預所に質問状を提出して、荷預所が銀行からの低利資金を荷主に高利で貸し付けて利鞘を得ていること、荷主に新たに荷預所手数料を課していることなどについて、不満をぶつける出来事も起こった。 荷預所側は、運動内部の不一致が激しくなるのをおそれ、また、入荷生糸に対する荷為替金融の原資不足も緊急課題となってきたので、事態の早期解決をはかる方針をとることとした。 連合生糸荷預所事件の結末 荷預所を資金面で援助していた第一国立銀行の渋沢栄一は、東京商法会議所会頭として、三井物産会社の益田孝とともに、荷預所を支援する活動をおこないながら、和解の機会をうかがっていた。そして、アメリカ公使ビンガムの調停斡旋に応じて、渋沢と益田は、十一月二日に外商側と会談し、和解案を討議した。和解案は、かねてから仲裁役をかってでていた横浜引取商代表を経由して荷預所に伝えられ、荷預所は、十一月十日、十一日の二日にわたる株主総集会において、激論の末に、和解案を承認することとした。 和解案は、(一)将来は、生糸共同倉庫を設けて取引方法の改良をはかる、(二)当面は、従来どおり外商の倉庫への引込みを続けるが、新たに、約定証書の交換、荷物預書と火災保険証書の売込商への交付を取引慣行とするという内容であった。荷預所側は、共同倉庫とは荷預所と同様のものであり、将来それを設立することを外商に認めさせたのだから、この和解は、荷預所側の勝利を意味すると自賛した。しかし、外商が認めた共同倉庫は、売込商の販売独占の手段とはしないとの保証付きのものであり、荷預所とは異なって倉庫業に力点が置かれたものであった。さらに、その設立には、外商の同意を必要条件としていたから、将来の設立承認といっても、実際上は問題が解決されたわけではなかった。和解案は、形式的には荷預所側の主張が認められたようにみえるが、実質的には荷預所の活動停止を主内容としており、荷預所側の勝利を意味するものではなかったといえる。 新聞報道は、日本側の団結の勝利と評価するものが多かった。大々的なプレス・キャンペーンを収束するに際しては、将来の努力を前提として和解案を過大評価するのが好都合であったのであろう。和解案の内容とは別に、この事件で示された日本側の生産者・商人の統一行動の力は、たしかに、外商の恣意的な取引姿勢に対する強い牽制力として作用した。したがって、全国的に盛り上がった商権回復運動としては、かなりの成功であったと評価することができよう。 十一月十九日からの外商との取引再開に先立って、横浜売込商仲間は、「売込方心得及び検査方」という約束を取り決め、約定証書交換・荷物預証書受取・荷渡しの際の値引拒否・適正計量などを申し合わせ、さらに、不当な引取拒否(ペケ)や値引要求をする外商に対しては、仲間一同が取引ボイコットをおこなうことを決議した。事件で示された荷主と売込商の結合力を背景とすれば、取引ボイコットは、外商の不当な取引慣行を是正する有力な手段となるはずであった。 再開後の生糸取引は、事件中の巨大な在庫の堆積と海外市況の低迷から、低調な状態が続き、折からの松方財政の影響も加わって、生糸不況が出現した。このなかで、買い手優位に立った外商は、取引慣行の是正の約束を実行しようとはしなかった。荷預所事件、商権回復運動の成果は、ただちにはあらわれず、その後の取引ボイコットを武器とする努力のなかで、次第に成果が実現されていったのである。 和解案の共同倉庫設立は、計画の段階で挫折し、結局、渋沢栄一らが東京に設立した倉庫会社、「均融会社」の活動に吸収されることになり、荷預所の倉庫・設備は、それらの横浜支社となった。倉庫会社は、保管商品に対して倉庫証券を発行し、均融会社が、その倉庫証券による担保金融をおこなうという商品金融制度がつくられた。生糸金融の充実には役立ったが、荷預所の当初構想とは別の姿になったわけであり、地方荷主が構想したセリ市場・中央市場とはまったく異なった結末に終わったことになる。荷預所事件は、地方荷主→売込商→外商という取引経路、いわゆる売込商体制を強化させる結果をもたらしたといえよう。 直貿易の発達 荷預所事件を経て強化された売込商体制のもとで、外商との取引慣行の是正というかたちで部分的な商権回復は進められたが、より根本的な商権回復のためには、外商による貿易支配を打破し、直貿易を盛んにすることが必要であった。明治政府も、はやくから直貿易とくに直輸出の重要性を認識していた。一八七五(明治八)年の内務卿大久保利通の直輸出奨励政策の建議では、政府が資本金を貸与して直輸出商社を横浜に設立する計画が提案されている(『商工政策史』第五巻貿易(上)一五二-一五五ページ、以下本項は同書による)。この商社は実現しなかったようであるが、政府は、三井物産会社(一八七六年七月開業)など民間の輸出業に対して、荷為替資金を貸与するかたちでの直輸出奨励策を採用した。大蔵省国債局(寮)から資金を民間商社に貸与し、それを荷為替資金として活用させ、輸出品売上金のうちから、貸与金を在外日本領事に返納させる制度であった。この制度は、一八八〇(明治十三)年二月の横浜正金銀行設立まで続けられた。 横浜正金銀行は、設立されてほどなく、政府準備金のなかから三〇〇万円の預入れを受け、それを直輸出奨励のための為替資金として運用することとなった。横浜正金銀行は、海外に支店または代理店を持つ直輸出会社に対して海外荷為替金を貸し付けるとともに、直輸出品が横浜に輸送されてくるまでの内国荷為替金融(地方銀行、生産者への貸付け)をおこなった。横浜正金銀行から直輸出為替金融を受けた直輸出商社としては、日本商会・同伸会社・貿易商会・扶桑商会・起立商工会社・三井物産会社・丸越組・田代組などがおもなものであった。 明治政府の直輸出奨励は、大蔵卿大隈重信によるいわゆる大隈財政の時期に盛んにおこなわれたが、一八八一年からの松方財政の時期に入ると、直接的な奨励政策は採られなくなる。横浜正金銀行の内国荷為替金融が一時廃止され、準備金の運用も直輸出奨励から正貨吸収に目的が変更されている。紙幣整理を目指す松方財政は、緊縮政策のうえから直輸出奨励資金を捻出する余裕をもっていなかったし、正貨蓄積のためには、直輸出に限らず、外商による輸出も含む輸出一般の伸長が望まれたわけである。一八八二年に廃止された横浜正金銀行の内国荷為替金融は、八三年に「他所外国為替仮渡金」制度として復活されるが、これも、直輸出に対象を限ったものにはならなかった。松方財政以降は、直貿易の直接的奨励政策は採られることなく、資本主義の一般的な発達のなかで、直貿易も発達することとなった。 直貿易がどのように発達したかを、全国貿易における日本商・外商取扱い構成比でみると、表二-六五のとおりである。一八七六年には、輸出・輸入ともに、日本商取扱い分は一㌫台にすぎなかったが、直輸出奨励政策の展開とともに、輸出の日本商取扱い分は伸びて、一八八〇年に一三・四㌫を占めるにいたった。しかし、その後一八八〇年代には、直輸出の割合は一一㌫前後の水準で伸び悩んでおり、一八九〇年代に入ってから急速な伸長を示している。輸入では、直輸入の割合は、はじめ直輸出より低い数値を示しているが、一八八〇年代を通して徐々に伸長し、八〇年代末には、直輸出割合を追い越し、九〇年代央には三〇㌫近い水準に達している。日本の資本主義が、綿紡績業をひとつの基軸として発達し、原料綿花の輸入が一八八〇年代後期から、綿糸の輸出が九〇年代に入ってから急速に拡大するなかで、直表2-65 日本商・外商の貿易取扱い割合 注 大蔵省『大日本外国貿易四十六年対照表』による。輸出総額には船用,輸入総額には官省分を含むので,日本商・外商構成比合計は100にならない。 輸出・直輸入の割合は伸びていったとみてよい。 横浜貿易における直貿易の比重は明らかでないが、一九〇〇(明治三十三)年については、輸出の日本商取扱い分二三・二㌫、外商取扱い分七六・八㌫、輸入の日本商取扱い分二八・六㌫、外商取扱い分七一・四㌫という数値が得られる(『横浜貿易新報』所載数値による山口和雄推計、『