公文書館だより 24号
展示を終えて
資料にみる神奈川の歴史
開催期間:5月19日から9月12日まで
今回の通常展示では機会がなくて紹介できなかった中世文書の原本を、期間限定ではありましたが数点展示いたしました。御覧いただけましたでしょうか。その中でも左の「六波羅下知状」は公文書館が所有する文書のなかで最古の年号(承久3(1221)年1月8日)を持つもので、北条泰時(武蔵守平)・時房(相模守平)の両名が非法の禁止を命じたものです。残念ながら前文が欠けているため、非法の内容はわかりませんが、承久の乱の直後に出されたことを考えると、武士等の荘園に対する乱暴狼藉を禁止したものと考えられます。
近世では毎年地域を変えて村絵図を紹介しています。今年は北綱島村の絵図(橘樹郡北綱島村飯田家文書〈寄託〉)を出品しました。公文書館では、寄託・寄贈を含めて百点を越える県内各村の村絵図を所蔵しております。これらの絵図の中に開発などで失われてしまったふるさとの姿を見ることもできるでしょう。絵図から郷土の歴史を探ってみてはいかがでしょうか。
六波羅下知状(前欠)(請求記号:2200930515)
北綱島村絵図(横浜市港北区)飯田家文書(請求記号:2199300656)
近現代の展示部分では、著名人と県内にあった別荘とのかかわりを、当館の収蔵資料などから紹介しました。明治以降、首都が京都から東京になると、皇族・華族をはじめ政界・財界の有力者などは東京の本邸とは別に、東京に近い保養地に静養先や別荘をもとめるようになりました。海や山がある神奈川県はそうした保養地の一つとして知られるようになり、天皇の御用邸のほか、多くの人たちの別荘がおかれました。
今回の展示では県内の別荘地のうち、大磯・葉山・湯河原をとりあげ、御用邸や別荘での日々や出来事を資料でたどり、神奈川県の保養地としての歴史をみていきました。
葉山海岸の景(大正2年『神奈川県写真帖』)(請求記号:K27-0-32)
ミニ展示を終えて
佐々木家文書にみる明治前期の地方支配
開催期間:平成22年5月8日から7月7日まで
平成22年度第1回のミニ展示は、当館に寄託されている佐々木家文書を紹介しました。
佐々木家は、津久井郡牧野村馬本(現相模原市緑区)において代々組頭をつとめ、明治期には、戸長を補佐し、村の運営に参加する有力な家のひとつでした。当館には、江戸時代から明治20年代の牧野村および馬本組に関わる史料が約2,000点寄託されています。この中でも今回は、大区小区制導入から町村制施行前の史料から、明治前期の地方支配の実態を明らかにしました。
下の写真は、明治7年に作成された「御用出勤控」です。これは、表紙に「津久井郡牧野村馬本組副戸長佐々木六郎左衛門」と朱書されているように、牧野村の副戸長であった六郎左衛門が「御用」=公用の控として記したものです。この内容は、吉野宿に存在した小区の戸長役場における村外との交渉の様子や、租税の上納額などを記したものです。本史料から戸長の補佐役としての佐々木六郎左衛門の立場と、明治前期の地方支配の実態がうかがえます。
「御用出勤控」(請求記号:2200443969)
神奈川御殿と神奈川宿
開催期間:平成22年7月10日から9月8日まで
神奈川県内には徳川幕府の最重要街道であった東海道が東西に走り、人馬の継立や人々の休泊のための宿場町が、川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根の9か所に設置されていました。徳川将軍家も三代家光の頃までは上洛などで東海道を利用したため、その休泊用の施設として御殿・御茶屋が各所に造営されました。県内では神奈川・藤沢・大磯・箱根に建設されました。また中原街道の小杉・下川井・中原にも御殿・御茶屋があったことが知られています。
神奈川御殿は慶長5(1600)年から寛永11(1634)年までの35年間に、20数回にわたって利用されたことが「徳川実記」などの記録で確認できます。しかしこの年家光が上洛の途上で宿泊したのを最後に、将軍の上洛が行われなくなり、神奈川御殿は宿泊施設としての役割を終えました。延宝7(1679)年には検地が行われ、さらに天和元(1681)年に御守殿跡地を残し高入地(年貢地)となりました。ちなみにこの御殿は、現在の神奈川区神奈川本町の東西南北を金蔵院と成仏寺、国道15号とJR線で囲まれた地域にあったと考えられます。
神奈川町絵図(部分)/神奈川宿本陣石井家文書(請求記号:2199436305)
御守殿跡本丸附近絵図/神奈川宿本陣石井家文書(請求記号:2199436341)
神奈川宿本陣石井家文書にみる東京湾漁業組合
開催期間:平成22年9月11日から11月10日まで
平成22年度第3回のミニ展示では、当館所蔵の武蔵国橘樹郡神奈川宿本陣石井家文書の中から、東京湾漁業組合に関する資料を紹介しています。
江戸時代から内湾(現東京湾)沿海の漁村は、相互協力的に漁業を行なってきましたが、やがて違法な漁業が行なわれるようになり、争論が頻発するようになりました。その結果、文化13年(1816)に「内海議定」が結ばれます。これが、後の東京湾漁業組合の前身となっていきます。明治8年(1875)、政府の税制改正の際、神奈川町は江戸時代以来の入会どおりに営業できるよう願書を差出しています。明治になっても、江戸時代以来の形態が維持されていたことが分かります。明治14年に内務省乙第二号が出されると、当時問題となっていた小晒網漁との兼ね合いもあり、東京湾漁業者による「内湾組合漁業契約証」が結ばれます。
明治17年に同業組合準則が制定されると、内湾漁業者はこれに基づき「東京湾漁業組合規約」を作成し農商務省へ認可を願い出ます。この規約は明治19年に特別認可されますが、同年の漁業組合準則に基づき更正され、明治21年に正式に東京湾漁業組合の規約として認可を受けることとなります。
これらの資料から江戸時代に漁業者間で結ばれた議定が、時々の政策ともあいまって、漁業組合組織へと変遷していった過程がうかがえます。
御認可願 請求記号:2199435224)
所蔵資料紹介
歴史的公文書
「昭和46年度 政令市移行に伴う移管事務」
今年4月、県内に3つめの政令指定都市(相模原市)が誕生しました。政令指定都市移行の決定は、2009年県政重大ニュース・トップ10内に選ばれており、県政にも大きく影響を与えた出来事です。
今回ご紹介するのは、川崎市が政令指定都市となった昭和47年の前年に民生総務室で作成された、県の事務を川崎市に移管する引継ぎ関係の簿冊文書です。
市に移管する事務内容、事務処理量、移管に伴い処分する財産等の調査に対する回答の伺いや県・市の課長等で細かい事務の取扱いを協議した報告書などが綴られています。この民生部に関わる事務引継書などを基に作成された、県全体の「指定市移行に伴う引継書」も印刷されたものが添付されています。これには民生の他、衛生・土木・建築の各部や教育委員会等の事務事業及び職員関係の引継ぎ、財産関係の使用・譲渡等について記載されています。中でも財産関係の覚書(写)の、有償で譲渡される土地・建物の売買代金から、無償で譲渡される「やかん」「そろばん」に至るまでの詳細な記載には驚きます。
他に川崎市の政令市移行に関する文書は、管財課の「土地処分」や道路建設課の「川崎市政令市移行に伴う引継関係」が保存されています。県民の方にとって、より身近で利便性が増す市への事務移管ですが、その裏では漏れなく円滑な引継ぎができるよう十分調査・準備を行っていることがわかります。相模原市への移管の文書が引き渡され閲覧できるのは数十年先かもしれませんが、前回とどのような相違点が見られるか興味深いところです。
昭和46年度 政令市移行に伴う移管事務 (平成19年度引渡し) (請求記号:BH19-6-3)
古文書資料
石井家文書(寄託資料)
相模原市緑区沢井(旧津久井郡藤野町沢井)石井元三郎氏宅に伝来した天正13年(1585)から昭和初期に至る文書群で主に江戸時代沢井村名主文書を中心とする。
当家は、戦国大名北条氏家臣団津久井衆の一員で沢井村四貫文を知行する武士であった。北条氏滅亡後村内日野に土着し、慶長検地では沢井村名主として当家一族の六郎兵衛(中里、石井達也氏宅)と共に村の経営に当った。
伝来文書は、中世末期津久井城主内藤綱秀朱印状(掲出写真、「新編武蔵風土記稿」に紹介)、慶長・元和・寛永等初期からの検地帳、寛永2年以降の年貢割付状、江戸期、明治期の村絵図も豊富にある。明治期資料に尾崎行雄(咢堂)父の書状、平民議会設立之旨趣、大正期多摩川改修臨時神奈川県会報告、八王子織物同業組合定款、同総会資料、北相織物同業組合定款、業務成績等がある。
旧名主源左衛門の子息に発太郎がいる。発太郎は、板垣退助が率いる自由党の一員であった。板垣支持者が日清戦争従軍のため台湾に渡った折り、彼もまた渡航したが病に罹り当地で没した。自由党政治結社融貫社社長石阪昌孝(初代神奈川県会議長)は、故人の葬儀に当り「自由党壮士石井発太郎君ノ長逝ヲ哀悼シ恭ク弔詞ヲ呈ス」と特に「自由党壮士」であったことを弔辞で述べている。後年板垣退助の子孫が板垣の活動を調査する目的で本文書群の寄託者元三郎氏を訪ねて来たこともあった。自由党関係資料、台湾渡航中での出来事、上陸後の日々の様子を赤裸々に伝える書簡が有る。発太郎が小笠原東陽開学の耕餘塾で学んだことを証する明治12年四月羽鳥邸耕餘家塾卒業証書も伝わる。
寄託総点数1,900点
内藤綱秀朱印状 (石井元三郎氏所蔵文書 状1)
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