大山講講中札(まねき)

神奈川県立公文書館は古文書や歴史的公文書などの紙に書かれた資料のほかに、板に書かれた高札や、今回紹介する「講中札(まねき)」と呼ばれる資料も所蔵しています。

(表)大山睦講
(表)大山 睦講/635×190×20mm

(裏)明治42年8月吉日世話人
(裏)明治42年8月吉日 世話人12名

(表)大山焚講摩講
(表)大山 焚 講摩講/545×180×20mm

(裏)講元
(裏)講元 元大工町 五郎兵衛

壹丁目善と彫る
まといに新宿 壹丁目 善と彫る/605×160×20mm

皆川町
でんでん太鼓 皆川町/605×180×18mm

講中札とは講(今回のものは大山講)を組織している集団が霊場地へ参詣に赴くにあたって作成したもので、その途中で宿泊した旅籠屋や御師の宿坊などに掲げられました。裏面には参詣した年代や、世話人などの名前が記されています。

公文書館ではこのような講中札を、大山講18点、富士講9点所蔵しています。また関連して明治期から大正期の「大山太々講月掛帳」「大山睦講月掛帳」も所蔵しており、大山参詣講の実体を知ることができます。

展示を終えて

地震・洪水・火事・噴火―人々はいかにして災害から立ち直ったか―

開催期間:平成22年1月21日から3月7日まで

今回の企画展示は江戸期に起こった、地震・洪水(水害)・火事・噴火(宝永の富士山大噴火)といった自然の脅威(自然災害、人災も含む)に遭遇した際の、幕府や藩主といった支配者たちの被災民に対する政策や、被災した人々の復興への道筋を古文書から読み解いてみました。
第3章の火事については、自然災害というよりも、人災の傾向が強く、幕府や領主たちも度々注意を促す法令を出しています。左下の写真は正徳元(1711)年5月に出された「火付禁止」の高札です。この高札は以後、幕末までのおよそ150年にわたり、幕府の基本的な法令として存続していきます。
第4章の噴火は、江戸期の神奈川県域の自然災害のなかでも最大級のもので、復興には長い年月を必要としました。右下の文書はこの噴火を記録した名主の文書です。

高札(火付禁止)
高札(火付禁止)正徳元年5月

富士山噴火状況記録
富士山噴火状況記録(小島家文書/寄託)

ミニ展示を終えて

飯田家文書にみる地方名望家

開催期間:平成22年1月9日から3月3日まで

平成21年度第5回のミニ展示は、当館に寄託されている飯田家文書を紹介しました。
展示の題名にある「地方名望家」とは、明治政府が地方行政の担い手として期待した有力者を指します。彼らは江戸時代以来の由緒、経済力を持ち、地域社会に対して様々な社会活動を行っていました。
飯田家は、江戸時代より橘樹郡北綱島村(現在の横浜市港北区)の名主を、明治から昭和期にかけて村長、県会議員、衆議院議員などの公職をつとめた地域の政治的代表者でした。また、園芸組合や農会の活動に深く関与しており、地域経済をリードした存在でもありました。
飯田家文書は約3,000点で、その内容は行政機関の公職、地域の経済団体、文化活動に関わるものに大別できます。中でも今回は、これまで触れられてこなかった名望家の社会・文化活動に関わる史料を展示しました。
下の写真は、第11代当主飯田快三が行った、生麦事件に関わる顕彰活動について記した「幕末生麦事変旧蹟保存主意書」です。この史料が作成された背景には、戦前の郷土史ブームと、飯田快三の社会的基盤であった橘樹郡の急速な都市化があります。この計画は結局実現しませんが、地方名望家の社会活動と地域認識の一端をうかがうことができます。

幕末生麦事件旧蹟保存談
簿冊名:「幕末生麦事件旧蹟保存談」(請求記号:2200710492)

開発と自然保護をめぐって

開催期間:平成21年11月8日から平成22年1月6日まで

昭和30年代以降の高度経済成長期、神奈川県横浜市では中心部以外でも都市化が急速に進み、人口増加は大都市でもっとも急激でした。これは横浜自体の都市化に加えて、東京近郊の横浜に住まいをもとめる人びとが増えたためです。
そこで昭和40年(1965)横浜市では金沢区沿岸の海を埋め立て、工場用地と住宅地を確保しようという将来構想を発表しました。工場用地には西区高島町・桜木町にあった三菱重工業横浜造船所を移転させるとともに、住宅地等にあった中小工場の移転先を用意するというものでした。あわせて約3万人が住める住宅地や、公共施設などを整備し、さらには人工砂浜をそなえた海の公園もつくられる計画でした。しかし計画実現は容易ではありませんでした。当時の埋め立て予定地は自然の海岸線が残る横浜市内最後の海で、漁業や海苔(のり)の養殖にたずさわる人びとの生業の場であり、金沢八景や海水浴場で知られる景勝地でもありました。そのため計画は漁民や住民から強い反対を受け、開発か自然保護かで大きな問題となったのです。
今回の展示では、昭和48年(1973)に横浜市から神奈川県と国に出された埋め立ての認可申請に関する資料や、県議会に出された賛成・反対の請願などから埋め立ての着工にいたる背景を紹介しました。

埋め立て前の富岡漁港
埋め立て前の富岡漁港(横浜市金沢区)
「昭和36年度 漁港局部改良事業関係綴」より(歴史的公文書)(請求記号:30-8-7-607)

所蔵資料紹介

行政刊行物・図書資料

高橋是清自伝(千倉書房発行)

「百年に一度の経済危機」と言われる今日、犬養内閣等の大蔵大臣として昭和恐慌の克服に取り組んだ高橋是清の経済政策は注目を浴びていますが、この書籍は、高橋自身の手による自伝であり、日記などをもとに高橋が口述したものを、彼の秘書官であった上塚司がとりまとめたものです。口述筆記のためか、まるで高橋自身が私たちのそばで生き生きと語ってくれているような非常に読みやすいものとなっています。この書籍は、昭和11年に発行されていますが、描かれているのは、彼の生誕から日露戦争の戦費調達のための外債募集に成功した時点までとなっています。なお、昭和11年当時、高橋は膨張する戦費を巡って軍部と対立しており、この本が発行された年の2月26日、青年将校達に暗殺されます。いわゆる二・二六事件です。
神奈川県立公文書館には戦前の公文書はあまり残されておりませんが、神奈川県の「県庁各課文書」等で浜口内閣、犬養内閣等の当時の歴代内閣の経済政策の方針や神奈川県の経済状況も読み取ることができます。当時の新聞等の閲覧もできますので、ぜひご来館下さい。

高橋是清自伝
高橋是清自伝(千倉書房発行)

高橋是清と品子夫人
高橋是清と品子夫人
(請求記号:K28-7-13)

古文書資料

相模国大住郡下糟屋村能条家文書

能条家文書は、相模国大住郡下糟屋村(現伊勢原市)の能条家に伝来していた資料群で、総点数は130点になります。昭和40年代に県立図書館が古書店より購入し、その後、文化資料館、公文書館へと移管されました。
能条家は、下糟屋村の名主を務めるとともに、下糟屋村を知行していた旗本若林氏の知行所を管理する地頭所用役も務めていました。そのため能条家文書は、名主関係、地頭所用役関係、家関係の3つに分類されます。
名主関係資料は、領主からの命令書、年貢や諸役に関する文書、村の鎮守である八幡宮(現在の高部屋神社)の祭礼に関する文書など、村の運営に関する文書が中心です。この他には、名主として寄場組合の大総代も兼務していたことによる寄場組合関係の文書、下糟屋村が平塚宿の助郷を務めていたことによる助郷関係の文書も伝わっています。
地頭所用役関係資料としては、用役への身分取立による苗字・帯刀の許可状、知行所の支配に関する文書、若林家の入用金調達に関する文書があります。家関係資料としては、自宅への稲荷勧請の文書、法要の祠堂金受取状、質地証文・金子借用証文があります。
また、この他に、能条家と関係がみられない「山崎万右衛門文書」2点と「永田実関係文書」3点が含まれています。これらは、能条家文書がかつて市場に流れた際に混入したものと考えられます。

身分取立重役申渡
資料名:〔身分取立重役申渡〕(請求記号:2199420086)

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