セイロンから象がやってきた!

象は将軍への献上物として、室町時代から江戸時代にかけて数度にわたって渡来したという記録が残されています。右の文書は、象を次の宿場へ送るための継立に際して書かれたと思われるもので、体の大きさや鼻の長さなどが細かく記されています。下の絵は長崎へ紅毛人が連れてきた五歳の牝の象です。「真写」とあることから、実際に象を前にして描かれたものでしょう。皺や体毛が丁寧に書き込まれています。

覚(象の各部位の長さ等書上)の画像
覚(象の各部位の長さ等書上)苅部家文書

文化癸酉紅毛人持渡象之図
文化癸酉紅毛人持渡象之図(新井家文書)

展示を終えて かながわの道―大山詣から通信使まで― 開催期間平成20年1月24日から3月9日まで

今回の企画展示「かながわの道―大山詣から通信使まで―」では、県内を通る道に焦点をあててそこに暮らす人々の生活を再現してみました。
「第一章 街道と関所」では、県内には幕府の直轄道である東海道や甲州道中が通っており、江戸に近いために防禦拠点としての関所が八か所設けられていたこと、川や海の警備のための番所(荒川・奥畑等)も置かれていたことなどを、各関所あての通行手形や、関所に関連する文書で紹介しました。
「第二章 宿場と茶屋」では、宿場町の様子を本陣の屋敷図や、宿場の往還絵図などで見ていただきました。神奈川宿の高札(駄賃並人足賃銭之儀)もご覧頂けましたでしょうか。
第三章・第四章は、大山信仰や朝鮮通信使に関する資料を中心に展示しました。特に通信使の資料は寛延元年(第十回 1748年)と明和元年(第十一回 1764年)のものがわりとまとまって残っていましたので、今回はその中から御馳走(通信使一行への接待など)や宿場での交流の様子がわかるものを選びました。興味を持っていただけたら幸いです。

企画展示ポスターの画像
企画展示ポスター

神奈川町宿入口土居絵図
神奈川町宿入口土居絵図 神奈川宿本陣石井家文書

ミニ展示を終えて 岩倉具視の書簡 開催期間平成20年1月10日から2月29日まで

平成19年度第5回のミニ展示は、岩倉具視の書簡を紹介しました。
岩倉具視は下級公家の出身でしたが、王政復古に関与し、明治新政府においては外務卿、次いで右大臣という要職を務めました。
この書簡の内容としては、次の四点のことが記されています。

  1. 左府(左大臣島津久光)が病気のため面会を断ってきたこと。
  2. 木戸孝允・大久保利通らが政体(立憲政体=憲法の制定と議会の開設)御用を仰せつかったことについて、念のため(書簡の相手の)考えを伺いたいということ。
  3. 板垣退助の(政体取調御用での)席次について、木戸らは(書簡の相手の)考えの通りにするとのこと。
  4. 叙服(喪が明けて)の出仕について、旧関白・将軍同様に参議も取り計らうことに異存がないこと。

年代は、木戸らが政体取調御用に任じられるのが明治8年3月17日であることから、この書簡も明治8年であると断定できます。また、宛て先は不明ですが、内容から三条実美に宛てたものではないかと推測されます。

「岩倉具視書簡」
「岩倉具視書簡」 山口コレクション(寄贈)

ミニ展示を終えて 横浜市の学童集団疎開 開催期間平成19年11月9日から12月25日まで

平成19年度4回目のミニ展示では、横浜市の学童集団疎開のようすを、当館が所蔵する「葛野重雄氏旧蔵資料」を用いてご紹介しました。
葛野氏は戦時中、横浜市の職員として大がかりな疎開事務を担当していた関係で、学童疎開に関わる貴重な資料を数多く遺されています。今回の展示では疎開政策の経過に従って、1「学童疎開の決定から出発まで」、2「疎開先でのようす」、3「終戦そして復帰」というように大きく三つのテーマに区分して資料を展示しました。

  1. 「学童疎開の決定から出発まで」では、学童疎開実施の基礎となる『学童疎開促進要綱』や『帝都学童集団疎開実施細目』と、横浜市における児童たちの出発に関する『集団疎開児童見込数』、『人員輸送計画』の資料を展示しました。特に後者の児童出発に際しての準備は、葛野氏をはじめとした関係者が最も頭を痛めた作業であったようです。
  2. 「疎開先でのようす」では、農村部と温泉地における宿舎の相違や赤痢発症などの疾病対策、さらに戦局が悪化する中での疎開地への敵機襲来などの資料を展示しました。疎開先における先生方の苦労が最も現われている資料です。
  3. 「終戦そして復帰」では、復帰に関する通牒と『復帰輸送実施計画』を展示しました。復帰の実施も特に横浜市の場合、占領軍に接収された関係で困難を極めたようです。

これからの展示では身近な資料も展示して行きたいと思っています。

学童集団疎開復帰ニ関スル件の画像
学童集団疎開復帰ニ関スル件

所蔵資料紹介

歴史的公文書

「大正13から昭和28年度 文書編集種別類目」(請求記号H12-008-01)

この史料は、2000(平成12)年度に総務部法務文書課より当館に引き渡されたもので、『文書編纂(集)種別類目』の冊子とその改正に関わる起案文書から構成されています。文書編纂種別類目は、完結文書の整理と保存の基準となるもので、神奈川県庁処務細則や神奈川県文書取扱規程で定められた種別(保存期限別)の文書類目に基づいて、各課別に編成されました。当該期の文書管理制度とその改正の過程の一端を示すこれらの文書は、神奈川県庁における文書管理の歴史を知る上で、貴重な史料といえます。
この史料で注目されるのは、一つには、戦時期における積極的な公文書廃棄の事実を示している点です。これまで、戦前の神奈川県の公文書については、明治期の県庁舎火災、関東大震災、敗戦時の米軍上陸を前にした焼却などで、その多くが失われたとされてきました。しかし、1944年(昭和19年)の処務細則の改正に関する文書は、すでに敗戦前に多くの公文書が失われていた可能性を示唆しています。
近年の研究では、愛知県、埼玉県、台湾総督府において、敗戦前に大量の公文書を廃棄していた事実が明らかにされています。これらはいずれも、1944年2月22日に閣議決定された「決戦非常措置要綱」を契機としていました。学徒動員の徹底、生活の簡素化、高級娯楽の廃止などを定めた、この要綱には、「保有物資ノ積極的活用」も含まれています。それは「物資ノ保存年限等ヲ極度ニ短縮」し「積極的ナル活用供出ヲ図ル」もので、公文書もその対象であり、廃棄文書は再生紙の原料に充てるとされました。同年3月の神奈川県庁処務細則の改正も、このような「国家ノ意図ニ即応スベク」進められたものでした。
残念ながら、廃棄文書の目録や統計的な資料などを確認できていないため、この改正による文書廃棄の詳細は不明です。しかし、この史料を検討することで、1944年段階、敗戦時、そして戦後における神奈川県の公文書廃棄の実態を解明する手がかりが得られるのではないかと思われます。昨今、公文書管理への関心が高まっておりますが、このような史料に学ぶべきことも多いのではないでしょうか。

『文書編纂種別項目』の画像
『文書編纂種別項目』
昭和19年3月改正

古文書資料

佐々木家文書(寄託資料)

江戸時代に相模国津久井県牧野村馬本組の組頭、明治初年組の副戸長を務めた佐々木六郎座衛門の家(勝重氏)に伝来した慶長9年(1604年)の地詰帳写から大正5年(1916年)に至る文書群です。当家文書には、明治期、戸長役場の租税・村入用・戸籍・田畑反別取調等村政に関する文書をはじめ、炭焼き、養蚕等産業に関する史料が見られます。
村入用の帳面(文書表題「円銭割合帳」)で2ヶ月ごとに徴収される学校入費を見ると、中尾学校明治8年度の月謝は一人に付き12銭5厘であったことがわかります。
農民が江戸時代に農間余業としていた、蚕を育て繭を造り製糸・織物にする蚕糸織物産業は、明治期に入ると農作物の生産高を上回り、商品経済の産業として行われるようになりました。「繭糸出産高書上之控」(明治6年)には、繭収納高、生糸生産高、生糸売払高、残糸高(竪糸として)、屑糸高(横糸として)の項目別に生産量が書上げてあり、商品価値を求めた生産への有り様を知ることができます。

繭糸出産高書上之控の画像
繭糸出産高書上之控

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