通常展示 資料にみる神奈川の歴史 開催期間平成19年4月28日から8月31日まで

通常展示ポスター

「資料にみる神奈川の歴史」も今回で8回目を迎えました。今年度は昭和の日が制定されたことから展示室の一角に「昭和史コーナー」を設置しました。新たな視点から「昭和」を捉え直すきっかけになれば幸いです。その他の展示ですが、「古代史に新たな資料を」の3年目として「神奈川の旧石器・縄文・弥生の分布図」を作成しました。前回の「神奈川の平安仏」、前々回の「神奈川の古墳時代」に続く企画ですが、いかがでしたでしょうか。また、中世では、喜連川(きつれがわ)文書のひとつ「前将軍足利義政御内書」の表装前の写真を出展しました。切り封の様子がよくおわかりいただけたと思います。
今年度の近世は「検地」に重点をおいてみました。『徳川幕府県治要略』から「検地要具之図」と、神奈川県内の新田分布図を新たに展示しました。今後も近世の代表的な文書とともに、このような小特集を組んでいきたいと思っています。
近現代では、「昭和史コーナー」で神奈川のトピックス的な資料を展示することにより、戦後の混乱期から復興・発展・新たな問題の発生へと、県行政の大まかな流れを理解していただくことを狙いとしました。見学の方々からは「コーナーが設置されアクセントがついて」、「通常展示でもコーナーを設置したり、工夫をすれば興味のある内容になると思いました」などのご意見をいただきました。これを機会にトピックス的なコーナーの設置や、展示方法の工夫を今一度考えたいと思っています。
また、神奈川県誕生の資料を展示しましたが、現在の神奈川県域が明治初期には伊豆を含む足柄県と、神奈川県に分かれていたことに驚かれた方も多かったようです。一方、今回の展示でもう一つみなさんに見ていただきたかった資料は、「連合軍指令綴」です。この資料は津久井教育事務所の統合に伴い、昨年度当館に移管されたものです。内容は連合軍による教育現場への指令を綴ったもので、歴史的にも大変重要なものです。このような資料は毎年移管されるわけではありませんが、これからも、見学された方々に興味を持っていただける資料の発掘・紹介に努めていきたいと思っています。

連合軍指令綴の画像
連合軍指令綴

ミニ展示を終えて 「二俣川村」の誕生 開催期間平成19年7月24日から3月11日まで

二俣川の地名は、すでに鎌倉時代の『吾妻鑑』にも見られ、村そのものの誕生も江戸時代にまでさかのぼりますが、今回のミニ展示では、明治22年(1889年)の「市制・町村制」施行から、昭和14年(1939年)の横浜市編入までの資料を紹介しました。
「市制・町村制」施行に際し、県は、二俣川村・上星川村・川島村・三反田村・市野沢村・今井村・小高新田の7ヶ村での合併案を提示しました。これに対し、上星川・川島の両村は橘樹郡仏向・坂本両村との合併を主張、これに反発した二俣川村は1村での独立を請願しました。しかしこれは認められず、また三反田村の反発もありましたが、最終的には二俣川村・三反田村・市野沢村・今井村・小高新田の5ヶ村が合併し、新生「二俣川村」が誕生しました。一方、上星川・川島両村が合併して西谷村となり、二俣川・西谷両村は組合村を形成しました。ところが、この組合村は組合費の負担をめぐりたびたび対立したようです。
この二俣川村も横浜市域拡大の流れの中で、昭和14年(1939年)4月1日に横浜市に編入され、合併村を分離し、保土ヶ谷区二俣川町となりました。
当館には今回紹介した資料の他にも二俣川に関する中世・近世の資料を所蔵していますので、ぜひご利用ください。

昭和10年の「二俣川村」の画像
昭和10年の「二俣川村」

ミニ展示を終えて 徳川慶喜の書簡 開催期間平成19年5月10日から6月30日まで

平成19年度第1回のミニ展示は、江戸幕府15代将軍徳川慶喜の書簡を紹介しました。
幕末の混迷する時代に将軍となった慶喜は、王政復古を嚆矢とする慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに敗れます。江戸へと逃げ帰った慶喜に対して、朝廷は追討令を発し、有栖川宮熾仁(たるひと)親王を東征大総督とした追討軍を編成しました。慶喜は江戸へ戻るとすぐに隠居を表明し、朝廷の許しを乞うための働きかけを始めます。その結果、4月に死一等を減じられた慶喜は、水戸での蟄居謹慎を命じられ江戸を去りました。
この書簡は、こうした中の慶応4年2月、慶喜が朝廷に対し、自身への追討軍派遣の猶予を願い出たものです。宛所は記されていませんが、朝廷に近しい人物に出されたものであると考えられます。

「徳川慶喜書簡」
「徳川慶喜書簡」 山ロコレクション(寄贈)

ミニ展示 三条実美の書簡 開催期間平成19年9月13日から10月31日まで

平成19年度3回目のミニ展示では、明治維新の担い手であり、明治政府の要人であった三条実美の書簡を紹介しました。
三条は江戸時代末期に京都で生まれました。安政元年(1854年)、18歳で三条家を継ぎ、従五位上侍従となりました。安政5年に、日米修好通商条約の調印問題で朝廷と幕府の衝突があり、大老井伊直弼の弾圧により、父実万が官位を辞職し、出家しました。実美も父の立場を引継ぎ、尊王攘夷派の公卿として活動します。
文久2年、議奏となり長州藩と協力して倒幕尊王攘夷派公卿の中心を担うようになりました。翌年、第14代将軍徳川家茂の上洛の際御用掛を勤めますが、8月18日の政変により京都を追放され、長州(現山口県)に下りました。その後、大宰府(現福岡県太宰府市)に移され、ここで王政復古を迎えました。
慶応3年12月、帰京し岩倉具視らと共に議定に任ぜられました。その後、新政府の副総裁兼事務総督などを歴任、明治2年に太政官の設置に伴い右大臣に、明治4年には太政大臣となりました。
本書間は、慶応4年(1868年)の2月3日に、新政府の副総裁であった岩倉具視に宛てて書かれたものです。実美はこの時新政府の副総裁であり、このような地位を反映してか書簡の内容も多岐に渡り、新政府内の人事や、天皇の養育方針などについて意見を交換しています。この書簡から、明治初年の新政府部内での実美の立場と、当時の政権構想の一端がうかがえます。

「三条実美書簡」
「三条実美書簡」 山ロコレクション(寄贈)

所蔵資料紹介

歴史的公文書

「昭和28年度 開国百年祭(一)」「昭和29年度 開国百年祭(二)」(BH6-5、6)

2009年横浜は開港150周年を迎えます。すでにさまざまなメディアを通して準備されているのが伝わってきます。ここで紹介するのは今から53年前、神奈川県が開国百年を迎えたときの賑わいを綴った2冊の公文書です。
開国は、嘉永6年(1853年)の夏4隻の軍艦を率いたペリー提督が浦賀沖に現れたところから始まります。翌安政元年再度来日したペリーによって日米和親条約(神奈川条約)が締結され、下田と箱館が開港、日本は開国します。ついで下田のアメリカ総領事ハリスは幕府に通商条約の締結を迫ります。その結果安政5年(1858年)大老井伊直弼は勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印、続いてイギリス、フランス、オランダ、ロシアと安政の5カ国条約を締結します。こうして翌安政6年(1859年)6月2日小さな漁村横浜村が開港します。
この公文書は、昭和29年(1954年)4月5日(「神奈川条約締結記念日」、旧暦3月3日)から6月2日(開港記念日)までの間に行われた「開国百年祭」の記念式典をはじめ井伊掃部頭銅像復元の除幕式など21の行事の計画案の打ち合わせから実施までを綴ったものです。県庁本庁舎など県内11ヶ所に記念碑の建立がこのとき行われたことが改めて分かります。また計画が進行する過程で横浜開港の恩人として佐藤政養や佐久間象山、岩瀬忠震らの名前が浮上してくるのは、歴史の評価が定着していなかったことを示しています。なお前年に行われた開国百年祭記念都民の集いや下田の黒船祭、神戸のみなと祭の復命書も添付されています。

昭和二十九年度 開国百年祭(二)開国百年祭ポスター

古文書資料

慶応元年外国貿易契約書

慶応元年外国貿易契約書の画像

本書は、安政6年5月28日幕府が神奈川・長崎・箱館を開港し英・仏・米・露・蘭の5ヶ国に自由貿易を許可したことに始まった英国商人と日本商人との貿易の契約書原本です。西洋の産物購入について日本商人伊豆屋徳三郎が、英国商人ケンフナラと取極めた九条からなる日本文契約書で、ケンフナラの自筆書名が見られます。外国商品の買い求めには、「御禁制之品は相除」く、と第4条に規定しています。伊豆屋徳三郎は、豆州子浦の出身で横浜町5丁目弁天通南側阿波屋万太夫上知跡地に文久2年9月開業しました。子の富太郎は、慶応元年幕府に軍資金として金330両、翌年金50両と8ポンド鉄造大砲2挺を寄付しています。同年太田新田埋め立て地内に1135坪余の地所を借用し地代前金として851両余を支払う富裕商人でした。ケンフナラは、文久元年頃出版「横浜開港便覧」外国商館に「二十五番ケンフナラ」とあります。倉庫を配置したケンフナラの住宅が五雲亭貞秀「外国人住宅図」に見られ、生糸買入商として著名な商館の一つであったと言われています。伊豆屋徳三郎の子孫池津福治郎氏から寄贈された池津珍蔵関係資料郡の一つです。

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神奈川県立公文書館 資料課
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