公文書館だより 12号
企画展示 かながわの教育から復興期から成長期まで 開催期間9月24日から11月24日まで
神奈川県立公文書館では、9月24日より「企画展示 かながわの教育―復興期から成長期まで―」を開催します。当節所蔵資料を用いて、戦後かながわの教育の移り変わりを概観していただこうというものです。いつの時代にも教育への人々の関心がなくなることはありません。特に、急激な社会変動の時期には、次の世代を担う子供たち・若者たちに対する教育のあり方が問われてきました。敗戦後の混乱の中でも、豊かさを求めて走り統けた高度成長期にも、教育への問いは繰返されて来たのです。
今回の企画展示の構成をご紹介しましょう。章ごとのタイトルは、「戦災からの復興と新教育の導入」、「復興の進展と教育の見直し」、「高度成長の始まりと教育課題の噴出」、「成長の歪みと教育改革の動き」、「高度成長の終わりと新しい教育理念」、「かながかの教育―いま、そしてこれから」、「『指導主事』という仕事」となっています。つまり、一方では復興期から成長期までのかながわの教育の流れをおさえながら、他方で、当館所蔵の松本喜美子資料に基づいて、戦後復興期の「指導主事」の仕事についてもご紹介するという内容になっているわけです。かながわの教育の流れを見ていくと、学校教育の比重が重くなりがちです。行政の課題や県民全体の関心が、小中高校の教育に集まるのは仕方がないところでしょう。今回の展示でも、学校教育に関するさまざまな資料をご紹介します。もちろん、社会教育も、戦後かながわの教員の流れにとって欠くことのできないものです。興味深い資料をご紹介できると考えています。ぜひ展示室にお越しください。ゆっくりと歩きながら展示の流れを感じてみてください。また、お時間の許す範囲で、一点一点の資料に目を止めて見てください。
当館の展示事業は、普及・啓発活動の一環として開館以来続けられています。展示室で展示資料を見ていただくのは、実はほんの入口にすぎません。今回の展示で気になった資料が出発点です。キーワードを入力して資料をお探しください。検索できた資料を閲覧室でご覧ください。公文書館はそうした館所蔵資料の閲覧ご利用のためにあります。
神奈川県教育概要
工業高校機械化実習(1960年)(広報課撮影写真)
ミニ展示 吉田松陰の書簡 開催期間9月14日から10月31日まで
今回ご紹介する「吉田松陰の書簡」は「山ロコレクション」のなかに「吉田松陰の旅日記」として記載されているものです。内容は嘉永6年(1853年)正月、四度目の国外道学に出かけた松陰が富海からの船旅を無事に終えて大坂に到着したことを、実兄の民治に報告した書簡です。萩を出発して大坂に着くまでのことが、日にちを追って書かれています。おそらくそういうところを見て「日記」と解釈したのでしょう。しかし、この期間の日記は実は他にあるのです。「癸丑遊歴日録」として『吉田松陰全集第九巻』に収録されています。残念ながらこの書籍は公文書館にはありません。
それはさておき、今回の展示で是非ご覧頂きたいのは、松陰の右肩上がりの力強い筆蹟です。彼の内に秘めた情熱を感じませんか。この情熱が、後に伊藤博文や山県有朋らに影響を与えました。松陰の足跡をゆっくりとたどってみましょう。
松浦松洞筆「吉田松陰画像」
吉田松陰の書簡
展示を終えて ―ミニ展示「伊藤博文の書簡」― 開催期間 5月12日から6月30日まで
今年度最初のこの展示では、明治維新以来の太政官制に替えて内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文の書簡を紹介しました。
書簡の内容は、当時宮内卿であった伊藤博文が内閣顧問の黒田清隆に宛てて、副島種臣・吉井友実・伊地知正治に伯爵を土方久元・品川彌二郎に子爵の爵位を与えることについてその経緯を説明したものです。伊藤が黒田に何故伊地知等の叙爵について事情説明をしなければならなかったのか、その理由をこの手紙からは知り得ませんが、以前、黒田が伊藤等に伊地知・副島等の叙爵に異を唱えていたことがありました(明治13年4月28日付、井上・伊藤宛書簡)。
日本に公・侯・伯・子・男の五爵からなる華族制度が出来たのは、明治17年(1884年)7月7日のことでした。公布によりそれまで呼称であった華族が、爵位を得て特権を有する身分となり、大日本帝国憲法で貴族院の構成要素としての地位も与えられました。この伊藤書簡は、華族令が出された直後のもので、三人の伯爵決定は明治天皇の意思によるものであったと伝えています。伊藤白身は、華族令発布当日に伯爵を授けられています。この制度は、昭和22年5月、日本国憲法の施行により消滅しました。
伊藤博文書簡 (明治17年)7月15日
展示を終えて ―ミニ展示「絵入りロンドンニュース」―
今年度第2回目のミニ展示を「絵入りロンドンニュース」というタイトルで行いました。開催期開は7月13日から8月31日までの42日間で、のべ470名の方々にケースの前で足を止めていただきました。
「絵入りロンドンニュース」(THE ILLUSTRATED LONDON NEWS)は1842年に創刊された週刊誌です。H・イングラムという人物がイラスト入りの新聞の売れ行きが良いことに気づき、この週刊誌の創刊を思いつきました。当館が所蔵しているのは、同誌のうち日本関係のページをまとめた選集です。今回の展示は全250点のうち27点をご紹介しました。
今回のミニ展示では、新たな試みとして、一部資料の展示換えを行いました。ケース正面については、「この時代の出来事から」というテーマで、当時の年表とともに、ペリーの浦賀来航や西南戦争などに開する四つのイラストをご紹介しました。 ケースの下面については、開催期間を四つに分け、「そのころのかながわ(幕末編)」「ワーグマンが描いたそのころの日本」「そのころのかながわ(明治初年編)」「見開きページより」というテーマで多くのイラストをご紹介しました。「見開きページより」の回では、三点の原本を展示しました。ケース前でじっくりとご覧になる姿が多く見られました。
資料の一部は傷みが激しいため、原本をご覧いただくことはできませんが、閲覧室にマイクロフィルムがご用意してあります。ぜひご利用ください。
「鎌倉の寺へ向かう大通り」(目録60)
「そのころのかながわ(幕末編)」より
来館者の声 「展示室だより」から
当公文書館では、昨年度から、通常展示・企画展示の折に、「展示室だより」を発行してきました。発行のねらいはいくつかありますが、一つの大きなねらいとして、展示室観覧者の方々の声(アンケート回答)をご紹介することがあります。今回は、「公文書館だより」の紙面で、皆さまのご意見をご紹介します。
甘いか、それとも辛いのか
昨年度のアンケートから、「展示の内容は全体としていかがでしたか」という設問を加えました。展示のデキを5点法で採点していただこうというわけです。今回の採点結果を平均して見ると、ほぼ4点でした。若干甘めなのかもしれません。
さて、良い評価(5点・4点)の理由としては、「様々な資料で神奈川の歴史をみることができるため」「古代から近代まで簡素にわかりやすく資料展示されている」といった意見が目立ちました。通常展示「資料に見る神奈川の歴史」の開催目的はまさにそこにあります。しかし、「各史料が断片的であり、一つの「線」にならないのが残念だ」という鋭いご指摘もいただきました。
印象的な資料は?
もう一つ、「特に印象に残った資料があればあげてください」という設問も昨年度から新たに設けました。いろいろな答え方があります。具体的な資料名で答えるもの、章題をあげているもの(例「公害との戦い」)、もっと漠然と答えているもの(例「地図」「中世」)、などさまざまです。
こうした回答から気づくことは、地図やポスターなどをあげている例が多いことです。「相模国図会」「武蔵国絵図」に始まり、さまざまなポスターに至るまで、ビジュアル的な資料が多くの方々の印象に残っているようです。
公文書館の利用という意味で言えば、「印象」だけにとどまるのは残念に思えます。学習するための刊行物その他の資料が閲覧室に用意されているのですから。傍観者的な資料の鑑賞から主体的な学習へと、世界を広げてみませんか。
所蔵資料紹介
行政資料
「水車回議録」津久井郡役所明治32年から明治38年(1冊)
今では観光用程度でしか見かけませんが、水車が動力用や灌漑用に普及したのは江戸時代中期以降のようです。明治33年末調査の「第一師管徴発物件表」によると、当時、全県で851、津久井郡には140の水車場(建物)が存在しました。この数は、1日1石以上の精米が可能な水車のみです。
明治期の水車は、精米・製粉・製油だけでなく製糸・撚糸、製材等の機械動力として蒸気機関と拮抗する位置を占め、特に零細工場には欠くことのできない動力源でした。
昨今、人と水とのかかわりは希薄になる一方ですが、本資料の水車設置願の連名水利権者を見ると、当時水路が地域の死活問題であることがよくわかります。このほか水車譲受届、廃業届、臼数増加届など、時期は限定されていますが津久井郡の水車の新設、目的、規模、異動状況等が把握できる資料です。水車経営は、電気・小型電動機の普及により、大正末から昭和期に停滞・衰退していきました。
所蔵資料紹介
古文書資料 小島家文書(当館寄託資料)
この文書は、足柄上郡大井町篠窪小島甚左衛門家(睦男氏)に伝来した戦国時代から明治期に至る史料で1,300余点あります。
当家は、江戸時代初期から村名主をつとめ明治期に入ると隣村をも含めた里長・村用掛・戸長に就任しました。この職務の関係から伝来の古文書は、村を経営するための名主文書・戸長文書で構成されています。なかには、百姓の座席を定めた関東で唯一の天文4年篠窪百姓中座敷定文や太閤検地で畝が使用される前の田畑面積単位であった大半小の記載が見られる大正19年の坪帳(検地帳)があります。
天正19年1月足柄上郡篠窪村検地帳
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