小金原御狩記

戦国時代以来、織田信長や徳川家康らに好まれた鹿(しし)狩りは、鷹狩りとならんで江戸時代将軍の一大イベントでした。特に八代将軍徳川吉宗は、犬公方といわれた徳川綱吉以来の禁令を解除し、愛好した将軍として知られています。この絵巻は、現在の大磯町域に所領をもっていた旗本伏見氏(所領高500石)が、喜永2年(1849)3月18日、幕府直轄の牧場である小金原(現、千葉県松戸市一帯)で行なわれた鹿狩りに参加した時の様子をこまかく描写したものです。惣奉行は老中阿部伊勢守以下幕府の重臣たちで、伏見氏はこの時歩行(かち)御供として御小姓組跡部能登守の配下として参加しています。葵(あおい)の紋の入った旗を立てた将軍御座所を中心に、騎馬の武士、勢子の農民たちが描かれ、獲物は、鹿・猪・狼・兎(うさぎ)・雉子(きじ)等で、ペリー来航の4年前、まさに有事にそなえた一大軍事演習としての色彩が強い絵巻物になっています。

(伏見芳太郎氏旧蔵、現在公文書館所蔵)

小金原御狩記

相模国武士団の西遷・北遷

1.はじめに

治承4年(1180)8月、伊豆国に挙兵した源頼朝は、10月鎌倉を本拠として武家政権を開いた。頼朝は相模国府で、自身の許に参じた東国武士に最初の論功行賞を行い、文治元年(1185)には平家を壇ノ浦で滅ぼし、後白河法皇から与えられた平家没官領500余か所の地頭職に御家人を任じた。同5年には、奥州藤原氏の滅亡により陸奥・出羽両国を支配し、さらに承久3年(1221)の永久の乱に勝利した結果、後鳥羽上皇方の所領3000か所に新補地頭を設置し、鎌倉幕府の支配地は全国に拡大した。
相模国の武士団も鎌倉幕府の創業に参加し、荘園・公領(郡・郷・保)の地頭職として、全国に多くの所領を獲得した。その場合、相模国の本領は小さくても、地方に広大な所領を持つことも多く、地方には一族・郎等などを代官として派遣することが一般であった。
建久10年(1199)に源頼朝が死去すると、妻北条政子の実家である北条氏が台頭し、梶原景時・畠山重忠・和田義盛・三浦泰村などの有力御家人を次々に滅ぼし、鎌倉周辺の相模・武蔵国の要地を北条氏の所領としていった。特に建保元年(1213)の和田合戦や宝治元年(1247)の三浦氏の乱(宝治合戦)では、相模国武士団の多くが和田・三浦氏の与党として所領を没収された。この結果、相模国の武士たちは、本領以外の土地に新しい生活の場を求めて移住していった。

六波羅下知状
承久3年(1221)六波羅下知状(当館所蔵)
承久の乱を契機に、相模国武士団は西国に多く地頭職を獲得した。

2.相模国の西遷武士団

東国から西国に移住した武士団を西遷武士団と呼んでいるが、相模国を本拠として西遷した武士団の主要なものを列挙してみる。まず鎮西では、足柄上郡大友郷(小田原市)を本領とする大友氏が豊後国守護職以下、北九州各地の地頭職を獲得し、後に戦国大名に成長する。また高座郡渋谷荘(藤沢市・大和市・綾瀬市)の渋谷氏は、宝治合戦の勲功の賞として薩摩国入来院を与えられ、鎌倉の二階堂を名字とする二階堂氏も同国阿多郡地頭となり、有力な国人領主に成長する。
中国地方では、愛甲郡毛利荘(厚木市・愛甲郡・津久井郡)を本領とした毛利氏が安芸国吉田荘へ、足柄下郡早河荘(小田原市・足柄下郡)の小早川氏が同国沼田荘に移住し、ともに戦国大名として活躍した。他に鎌倉郡山内荘(鎌倉市・横浜市戸塚区)の山内首藤氏が備後国地■(■は"田"へんに"比")荘に、愛甲郡海老名郷(海老名市)の海老名氏が播磨国矢野荘に地頭職を与えられ、国人領主となる。ここでは相模国出身の西遷武士団の代表として、大友・毛利の両氏を紹介しよう。大友氏初代の能直は秀郷流の藤原能成(近藤太)と足柄上郡大友郷の大友(波多野)経家の娘との間に生まれ、中原親能の養子となり、母方の大友姓をついで鎮西一方奉行・豊後国守護職に補任された。能直庶子の詫摩・帯刀・元吉・一万田・鷹尾・志賀・田原の諸氏、2代親秀庶子の戸次・野津原・狭間・野津・田北の諸氏はそれぞれ地頭職を得て、豊後国を中心に下向土着した。大友惣領家の下向は、蒙古襲来に備えて発令された鎌倉幕府の下向命令により、3代頼泰の時代の文永8年(1271)のころと思われる。
その後、豊後府中(大分市)を拠点として、6代貞宗は鎮西探題を滅ぼし、南北朝時代には足利方として肥後・筑後国守護職を兼ね、国人を被官として守護領国を形成した。21代義鎮(宗麟)は、永禄2年(1559)筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の6ヵ国守護職と日向・伊子半国を支配し、戦国大名として大領国を形成した。毛利氏は、鎌倉幕府の初代政所別当となった大江広元の4男季光が愛甲郡毛利荘を本拠としたことに始まる。季光は妻が三浦泰村の妹であったため、宝治合戦で三浦氏与党となり、越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)にいた4男経光を残して族滅した。経光の4男時親は、佐橋荘南条と安芸国吉田荘を譲られたが、鎌倉幕府滅亡後は足利方となり、建武3年(1336)吉田荘に下向し、本拠を越後から移し、安芸毛利氏の基礎を築いた。
その後、毛利氏は安芸の国人領主に成長するが、戦国時代には西に大内氏、東に尼子氏の大勢力にはさまれ、両者に従属を強いられた。毛利宗家をついだ元就は芸備両国に勢力をひろげ、弘治元年(1555)の厳島合戦で、守護大内義隆を滅ぼした陶晴賢を破り、同3年には周防・長門・石見3国を加え、5ヵ国の戦国大名となった。
元就は隆元・元春(吉川)・隆景(小早川)の3子に一致協力を求め、「毛利両川体制」を整え、永禄9年(1566)には出雲国の尼子義久を滅ぼし、毛利氏は中国地方から四国の一部を倉む大領国を形成した。

3.相模国の北遷武士団

東国から北陸・奥羽地方に移住した武士団は北遷武士団と呼ばれる。相模国を本拠として北遷した武士団の主要なものを列挙してみる。まず北陸地方では、鎌倉郡長尾郷(横浜市戸塚区)を本領とした長尾氏が、室町時代に越後国守護上杉氏の家宰として越後国守護代となり、後に戦国大名上杉氏に成長する。また三浦郡和田郷(三浦市)の三浦和田氏が越後国奥山荘に移住した。奥羽地方では、三浦一族で三浦郡蘆名郷(横須賀市)を名字とする蘆名氏が、会津地方を領して戦国大名に成長する。陸奥国津軽では足柄下郡曽我荘(小田原市・足柄下郡)出身の曽我氏が、北条氏の代官として現地を支配した。
ここでも相模国出身の北遷武士団の代表として、長尾・蘆名の両氏を紹介しよう。長尾氏は桓武平氏の出身で、鎌倉権五郎景正の子景村が鎌倉郡長尾郷を本拠とし、長尾氏を称した。三浦・大庭・梶原・鎌倉氏とは同族である。宝治合戦で鎌倉長尾系の景茂・景氏が滅亡するが、景茂の養子景忠が跡をついだ。
南北朝時代以降は、足利氏に従った上杉氏の家宰となり、山内上杉氏の守護領国である越後・上野・武蔵・伊豆などの守護代として勢力をふるった。関東長尾氏諸流の中、越後長尾氏をついだ景虎は、実力で越後国を統一し、小田原北条氏に追われて越後に逃れて来た関東管領上杉憲政を保護し、名跡をついで上杉氏を名乗った(上杉謙信)。蘆名氏は三浦義明の子佐原義連が、三浦郡蘆名郷を本拠としたことから始まる。義連の子盛連の子息らは北条時頼と縁戚関係にあったため、宝治合戦では北条氏に味方し、三浦本家滅亡後、盛連の子盛時は三浦介を継承する。
葦名氏と会津との関係は、奥州合戦の勲功により、義連が頼朝から会津を賜ったという伝承があるが確証はなく、系図では、盛時の弟光盛が会津を称しているので、宝治合戦の後、得宗被官として北条氏の地頭代に任じられたことから始まったと思われる。
南北朝時代以降は足利方として活躍し、至徳元年(1384)黒川(のち若松と改称)を本拠とした。15世紀はじめの葦名盛政の時代には会津守護と呼ばれ、会津地方に君臨するが、天正17年(1589)、葦名義広の時に、伊達政宗との決戦に敗れて滅亡した。ちなみに神奈川県立公文書館には、北条氏政・氏照書状の2点の芦名文書が所蔵されている。

4.おわりに

以上、相模国を出身として、日本全国で活躍した武士たちをかけ足で紹介したが、ここに紹介したのはほんの一部にすぎない。詳細は、川島孝一「西国に所職をもつ東国御家人一覧」(『栃木史学』10号)を参照していただきたい。しかし、鎌倉幕府の成立によって、相模国の武士たちが日本全国に移住し、その子孫たちが全国いたるところで活躍した状況については、ご理解いただけたと思います。

郷土資料課 久保田和彦

随想 「先人」に学ぶ場を問い直そう 金原左門

しばらく前の3月8、9日、勤務先の研究所の出張で奈良へ出かけた。どうしても行かなければならない旅ではなかったが、万難を排して出かけたのには一つ理由があった。薬師寺に出向いて、西岡常一がリーダーになって復元した金堂をしかとこの目で確認したかったからである。西岡常一といっても、ほとんどの人がその名前すら知らないであろう。わたし自身も昨年の10月18日夜、たまたま、NHKテレビの「にんげん・ドキュメント」で西岡常一をとりあげていたのを見て、この人のことを思い出したぐらいである。
忘れもしないが、1956年の秋、もう遠い昔であるが、わたしはこの人を斑鳩町のお宅に訪ねたことがあった。当時、わたしたち数名は、暉峻衆三氏(東京教育大学助教授)を中心に旧法隆寺村の農村調査をおこなっていた。その成果は、暉峻編『地主制と米騒動』(東京大学出版会)となってまとまり、日本農業経済学会賞の候補作品になったほど問題作になった。という話はどうでもよいが、この調査でわたしは文書資料の欠を補うために、いまでいう"オーラル・メソッド"方式で村のいろいろな人から話を聞いてまわった。その一人に西岡さんがいらしたのである。そのころ西岡さんは、やっと50代に手がとどこうとする若さであった。が、宮大工としては失意のどん底にあって、形の上では法隆寺文化財保存事務所の技師代理にすぎなかった。わたしは、西岡さんから村のようすをなに一つ聞きだすことができなかった。態度もぶっきらぼうで、二人とも西岡さん宅の土間で立ち話を二、三やりとりしたにすぎなかった。わたしは、この臨場感だけはいまもありありと覚えている。西岡さんのそっけない扱いも、いまになってみるとよく分る。わたしの手元にある「西岡常一氏略年譜」によると、あのころの数年前、法隆寺の金堂が全焼した事件があって、彼らは堂の上層を、難をまぬがれた解体古木材で、下層を新材でそれぞれ復元しえたと思ったら、西岡さんは肺結核で病床に伏したからである。棟梁も辞すことになった。病気は快癒したとはいえ、西岡さんを取り巻くあの当時の状況は、こちらのあづかり知らぬことであったとはいえ、最悪ではなかったか。
それにしても西岡常一という人はその後、「現代の名工」として表彰を受け、「宮大工の棟梁」としての自分は法隆寺で始まり、薬師寺で終ると語っていたが、この人ほど当代一流の宮大工として「木の心」を読める人は他にいなかったと思う。わたしは、かつて西岡という法隆寺の宮大工棟梁の前を素通りした人間の一人に過ぎなかったことを残念に思っている。その想いは、薬師寺の金堂を見上げながら、そこに「飛鳥の技法」を自然のなかから学びとった西岡哲学が生きていることを感じとるなかで、つのっていった。それにしても、西岡の作品をこの目で確認するには薬師寺に出向くのは当然のことであるとしても、西岡のまとめた資料を薬師寺でなければ入手できない事態をどう見直したらよいのか。なにも、今回だけではないが、"バブル"がはじきとんだ日本経済、財政の悪化のなかで国公立ならびに第三セクターの文化諸施設が冷飯を食らうという日本の「文化行政」の底の浅さを痛感することが多すぎる。と同時に、今回、奈良国立文化財研究所でふと気がついたことは、研究所とか文書館のようなどちらかというと、研究・調査・学習による啓発を主とする機関でも反面で「見せる」機能をどしどしとり入れていかねばならないということであった。というのは、闇雲なIT革命のもとで「古き」、「良き」伝統文化が次々と葬り去られる恐れが出ているので、さまざまな工夫をこらす必要があるからである。

金原左門
筆者のプロフィール
金原左門(きんばらさもん)

中央大学法学部教授(近代政治史専攻)
著書に『大正デモクラシーの社会形成』、『図説昭和の歴史2』、『地域をなぜ問いつづけるか―近代再構成の試み』他
『「近代化」論の転回と歴史叙述』で第18回政治研究櫻田会特別功労賞を受賞
平成5年度から神奈川県立公文書館運営協議会会長
神奈川県二宮町在住

収蔵資料紹介

神原家文書(当館寄託資料)

神原家文書は、津久井郡藤野町牧野の神原武男氏が所蔵されている古文書です。
神原家は、今川氏の支族で室町幕府に仕えていましたが、永享4年将軍足利義教の富士山遊覧の折り、駿河蒲原城を与えられて蒲原氏を称したと伝えられています。遠祖氏徳は、織田信長との桶狭間合戦において主君今川義元と共に戦死しましたが、その子徳兼は、父出陣留守中高林源兵衛の狼籍を防いだ忠節により今川氏眞から感状を得、現在その感状写(神奈川県史資料編3、7141号文書)が当家に伝えられています。永禄12年5月、氏眞の相州小田原行きと共に徳兼は駿河を退城して武州の矢部に移り、その後津久井牧野に移住しました。慶長9年、徳兼は徳川幕府から牧野村に20貫文の土地(無主の田畑)と屋敷免を与えられましたが、そのことは、今日に至る神原家の出発点となりました。領主久世氏からは十人扶持が与えられ、牧野村内の大久和集落に石高102石余の大きな経済基盤を持つ家となりました。当然、牧野村の名主職にも就任しました。牧野に住んで6代目にあたる当主は、徳川幕府家臣飯室市郎左衛門豊昌の三男(恒岳、豊五郎、一学)で当神原家の養子に入ったことが、幕府の編纂による系譜「寛政重修諸家譜」に登載されています。

今川氏眞感状

伝存文書は、近代に入って一時他家に預けられていたこともあって、明治期以前の文書全てが今に伝えられているようではないけれど、この地域においては残存数の多いほうです。文書内容は、牧野村名主関係文書が中心であり、山の入会権をめぐる願書・証文類の争論文書や絵図、炭釜運上・材木伐り出し等の炭焼き林業に関するものなど山村の生活構造を知る上で必要な史料が豊富に保存されています。また、稀少な算術に関するめずらしい記録も伝わっています。(総点数1,438点)

郷土資料課 田島光男

地図コレクション

かつて本欄では「土地宝典」を紹介したことがありますが(第3号、平成元年2月)、公文書館で所蔵する地図には「土地宝典」の他にもたくさんの種類があります。現在の建物や細い路地が記されている詳細な地図、神奈川県全域が一枚の紙に印刷されている俯瞰的な地図、あるいは普段私たちがどこかへ出かけるときに目的地を確かめるのに使用する一般的な地図、行政機関の事務の補助として作成される用途の限定された地図など、その種類は実に多種多様です。このような多種多様な地図類を当館ではまとめて「地図コレクション」と総称しています。これらは文字通り1点ずつ集められたものであり、当館の資料構成の一端を占めています。いずれも作成された時から時間を経て古色蒼然としていても、なお過去の一点を示す資重な情報資源になっています。もともとは県立文化資料館から移管された地図が核になり、開館以降当館が少しずつ補充しながらデータベース化をしました。
約1万点に及ぶこのコレクションの内容をここで紹介することはできませんから、今回は地図データベースの検索方法について紹介しましょう。

川崎市交通網及工場分布図

検索の対象は「行政刊行物等図書資料目録情報」を選択します。検索方式は「自然語検索」です。次に検索語を入力しますが、最初に「地図」を入れ、その後に探しているテーマにふさわしい語を入力してください。例えば、「川崎市の交通と工場分布」について調べたいならば、「地図」「川崎」「交通」「工場分布」と入力します。検索の結果は、「川崎市交通網及工場分布図」(川崎市都市計画課、昭和10年3月、請求記号・M000-0000-0177)となります。ご利用をお待ちしております。

行政資料課 石原一則

歴史情報収集の充実 ―県布達・土地宝典の調査・収集―

当館では、『新総合計画21』の主要施策の一つとして、1997年から2006年までの10年の歳月をかけて、「歴史情報収集の充実」計画を推進しています。この計画は、二つの歴史資料、「県布達」と「土地宝典」の所在調査・収集・撮影・目録作成・刊行事業から構成されています。
まず、「県布達」とは、明治元年に神奈川県が成立し、それに伴って、県から各市町村等に発せられた通知のことですが、現在の収集状況は、どうかといいますと、他の神奈川県の公文書と同様に、県庁舎の火災や震災によって、発行元の県庁の「県布達」はほとんどが失われてしまいました。そこで、受け取った側の公文書資料の中から、例えば、郡役所資料の中から「県布達」を探し出すというように、神奈川県史の編纂事業の中で、本格的に収集が始められ、その後、文化資料館、公文書館と受け継がれ、明治6年以降のものは、年によりかなりの欠号がありますが、発行日順にマイクロフィルムに撮影され、手軽に閲覧することが出来るようになっています。しかし、明治元年から5年にかけて、加えて「足柄県布達」も未収集であり、特に明治4年までは、「県布達」は、江戸時代の史料と同様に、「御用留綴」の中に、毛筆での写しが散見されるだけの状態であり、資料収集にはかなりの時間がかかりそうです。そこで、手始めに、明治11年に発行された『神奈川県布達全書目録』等をもとに、発行年月日から検索できるような目録のデータベース化をすすめています。
そして、もう一つの「土地宝典」と呼ばれている地図資料とは、地図帳形式で、公図と土地台帳の記載項目(地番・地籍・地目・地価・等級など)を、地図と表に編集し直して、役所ではなく、民間の個人や出版社が発行したものです。現行の明細地図との大きな違いは、所有者が地図に直接記載されてないことでしょうか。また、必ずしも、「土地宝典」とタイトルが書かれているのではなく、「地番地目反別入り図」や「土地辞典」などとも書かれているものも含まれています。

土地宝典

現在、当館では、明治・大正期の横浜市街全図を含めて、昭和前期のものを中心に、100冊ほどの「土地宝典」を所蔵し、それらはすべてマイクロフィルムで手軽に閲覧できるようになっています。しかし、川崎市や県西・県北部など、「土地宝典」が作成されたか、否かも、不明な地域もあり、手始めに、市町村の行政機関や教育・研究機関、図書館等に直接伺い、所在確認調査を進めています。その調査の中で、明治12年から昭和戦前期のものと推定される約30点の所在が新たに確認され、それらの撮影を始めようとしています。
最後に、両歴史資料について、所在等の情報をお持ちの方は、ぜひ、ご協力をお願いいたします。

行政資料課 栗原一也

ある日のレファレンスから

質問

公文書館の古文書データ検索システムは、どういったものですか。
また、今後の課題等は何ですか。

回答

公文書館の資料検索システムは当初から「自然語検索」というものをセールスポイントにしています。現在はインターネット等で当たり前になっていますが、見たい資料に関係のある単語を入力することで、その単語が合まれている資料がリストになって出てきます。
古文書の場合においては、歴史用語の同義語の設定が困難なので、歴史的知識をある程度持ち合わせていないと検索が難しいという問題があります。検索ヒット率アップのために、豊富な同義語と内容の活用が今後の課題となっています。閲覧室にはどなたでも使えるような形で検索用コンピュータを設置していますが、受付にご相談くださればこちらでお調べします。

コーヒーブレイク

昭和37年に42.195キロメートルの県庁フルマラソンに参加し、コンディションは雨や風の時もあり、またアップダウンの厳しい坂道のコースを暖かく、時には厳しい叱咤激励の声を掛けてくれる沿道の観衆に支えられながら全力で走り通し、今ゴールテープがある陸上競技場の門をくぐり、後トラック1周を残すだけとなった。
ロサンゼルスオリンピックでスイスのアンデルセン選手がふらふらになりながらトラックを走る姿を見て「もう少しだ頑張れ」とテレビに向かって叫び、無事ゴールに辿り着いた時大拍手を送ったのを思い出す。その姿を見て多くの人が感動したであろう。
自分も無事完走したいと思う今日この頃である。入庁以来、自分の走ってきた記録として、ペイロールと人事異動通知書を保存してきた。ノートに貼り本箱にしまってあり、いつでも妻が見たければ見ることが出来る状態にして情報公開している。ペイロールを見ると、手書きのものから電算で打ち出したものまで給与の変遷がわかる、給料が1万円程度の時代や30%のベースアップがあった時代など懐かしく思い出されると共に日本経済の状況がわかる。辞令を見ると自分の走ってきた所属での思い出が蘇る。苦しかったこと、楽しかったこと、そして一緒に走った懐かしいランナーの顔が走馬灯のように浮かんでくる。記録が過去を呼び戻し、懐かしさと共に自分を振り返る機会を与えてくれる。廃棄しなくてよかった、我家の公文書館に歴史的資料として保存しておこう。無事にゴールできたら、コーヒーを味わいながらもう一度ゆっくりと記録を見てみたい。そして、有森選手のように自分で自分を誉めてあげたい。しかし、人生80年時代ゆっくりコーヒーを飲んでは居られない、新世紀をスタート合として再び第二のスタートラインに立だなければならない。若い人に負けてはいられない。体を鍛えIT時代に対応し走り続ける覚悟である。

公文書館 岩崎純夫

読書の欄

小柴俊雄著 『横浜演劇百四十年』―ヨコハマ芸能外伝― 2001年2月発行

役者になりたかったが、役人にならざるを得なかった男がいる。あげくの果てに一人息子を歌舞伎役者にしてしまった。芸名は片岡たか志。この男の執念の書である。
本書は『神奈川新聞』に「ヨコハマ芸能外伝」という題で1997年5月から1999年12月まで124回に渡り連載されたものを、一冊にした単行本である。出版にあたり、表題を改め、目次は、横浜の「劇場」、横浜ゆかりの「芸能人」、横浜の「舞台」の3分野に絞られた。とても解りやすい。さらに、文献資料の紹介や緻密にまとめられた年表は、宝物展を連想させる。
安政6年(1859)、横浜開港の年に横浜初の「下田座」が誕生したことに物語は始まる。9世市川団十郎の演劇改良運動や、新派の川上音二郎も蔦座で公演し、オッペケペ節を流行らせた。つまり開港都市横浜は歌舞伎に代表される「旧派」だけではもの足りず、新派旗揚げの原動力ともなってきた。
美空ひばりの登場は杉田劇場である。140年後の三吉演芸揚は「生きている博多人形」と言われる松井誠を創出してきた。取りは横浜夢座(座長・五大路子)公演による「横浜行進曲」で完結となっている。横浜の近代演劇史は、日本の世相史、演刺史を紐とく原点であろう。
さて、21世紀、希望の年を祝い横浜夢座は3月28日から「奇跡の歌姫『渡辺はま子』」の初演に向けて張り切っている。そしてまさに新世紀、横浜発の演劇史がはじまろうとしている。

副館長 伊東洋

〔小柴俊雄氏は当館のOBです〕

本書は店頭には有りません。送料込みで3,000円です。
出版元 有限会社ケー・エス・シー
〒232-0006 横浜市南区南太田1-1-1
TEL045-743-1200 FAX045-743-1201

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