大山寺縁起絵巻

大山は丹沢大山国定公園の東南端にあり前面がひらけた平野になっているので、ひときわ高く独立した形をしています。(標高1251.7メートル)山それ自体が神仏習合の霊山として、江戸時代から尊崇され、中心は不動堂と石尊社です。不動堂は大山寺といい開山は僧良弁(689から773)とされています。明治6年には、神仏分離により阿夫利神社と大山寺に分かれ、今日にいたっています。
この絵巻のあらすじは、金の鷲にさらわれた子供が、やがて成長して奈良東大寺の別当良弁僧正になり、子供をさらわれた老夫婦(相模国の国府)と再会します。やがて良弁は相模国へ戻り大山に登って現在の金堂の前あたりに来たとき、地中から光明がさしていました。人々がここを掘ると金色の石造りの不動明王が座していました。人々はこれを拝みましたが目がくらみひれ伏してしまいました。そこで良弁が祈祷すると人々は正気に戻ったという「物語」としてきわめて面白い展開になっています。
(当館寄託 手中道子氏所蔵資料)

大山寺縁起絵巻
大山寺縁起絵巻の部分

大山・宮大工棟梁 手中明王太郎文書の世界 ―景直と景元―

1.はじめに

社寺の建築を専門的に行なっていた人を宮大工といいます。このたび紹介するのは、落語の「大山詣」でも有名な、江戸時代からの庶民の人気が高かった大山信仰を陰で支えた棟梁の話です。手中明王太郎と称する宮大工にスポットを当てました。『新編相模国風土記稿』には、この手中明王太郎家は工匠・師職(御師)兼帯の旧家として登場しています。江戸中期以降の大山寺や山頂の石尊社の普請には、代々その中心となって指揮をし、活躍していった家柄でした。ここでは一際高度な技術と知的好奇心に満ち溢れた二人の明王太郎をとりあげて、当館に寄託された手中明王太郎家文書の素晴らしさの一端に迫りたいと思います。

2.明王太郎景直のこと

宝暦から天明期(18世紀中頃から後半にかけて)頃に活躍をした明王太郎景直は、江戸幕府に出仕して江戸城や京都御所の造営に関わったことや、金丸彦五郎影直の変名をつかって、『分間江戸大絵図』(明和8年刊)を江戸日本橋の須原屋から出版したともいわれています。また、明和8年(1771)の大火事によって焼失してしまった大山山頂の石尊社の再建にあたっては、幕府の援助を期待できなかったため、この景直を中心に幾多の試練に挑戦していくことになりました。そして安永7年(1778)には、大山信仰の要である石尊社を見事な姿(写真1)で、よみがえらせることに成功したのでした。

大山石尊社
大山石尊社(写真1)

3.明王太郎景元のこと

幕末維新期の名棟梁・景元は、景直の3代後の明王太郎でした。景元は、平戸村(現、横浜市戸塚区)出身の田中定言という若者でしたが、明王太郎敏景のもとに弟子入りをし、めきめきとその技を磨いて行きました。そんな定吉が師匠である敏景の娘婿になったのは、弘化2年(1845)のことです。この後しばらくして、彼が明王太郎の名跡を継いで、ここに激動の幕末から明治を駆け抜ける名匠・手中明王太郎景元の誕生を迎えるわけです。
この景元は、安政元年(1854)から明治36年(1903)に至るまての49年間に、100冊をこえる『手控』の類を残していました。私たちは、これを総称して『明王太郎日記』(写真2)と呼んでいます。この史料から私たちは、宮大工の周到な下準備や作業の裏話をはじめとして、幕末維新期の大山や相模国の世相を読み取るうえで、恰好の素材の提供を受けることができるでしょう。

明王太郎日記
明王太郎日記(写真2)

4.幕末の海防と明王太郎

幕末期の外圧という、時代の流れを感じながら、状況の把握と自分の才能の生かし方を模索する明王太郎景元の姿を次にみてみましょう。国難打開の使命感に支えられた景元の創意工夫には、本当に驚かされるものがあります。
嘉永6年(1853)6月3日、ペリーの浦賀来航は、明王太郎景元にとっても、大きな開心事となっていたようです。この時期、多くの村の知識人たちが、黒船来航に興味を持ち、情報の収集にあたっていることは、地方文書の中からも容易に探しだすことはできます。しかし、景元の場合は、もっと積極的な動きをみせるのです。ペリー来航を重くみた徳川幕府は、これまでの大船建造禁止の解禁に踏み切り、幕府自身急拠「洋式軍艦・鳳凰丸」の建造に取り掛かりました。この「鳳凰丸」が完成した嘉永7年(1854)5月には、明王太郎景元は、早々とこの船の内部略図を写し取っています。またどうやら、この軍艦に触発されたらしく、同年の12月には、海上移動式の大型要塞船の設計をしています。
「新案城製筏縮図」(写真3)に描かれているのは、全長91メートル、幅45メートルほどの大要塞船です。4本マストの帆と人力回転式の外輪を動力とし、前後2つの舵によって小回りの効く器用な方向転換を可能とした設計となっています。櫓や見張台・防壁・内堀までを備えていて、火器も大小の砲あわせて53門を搭載、重要なところは鉄板で装甲されたといいますから、まさに「浮かぶ城」といった感じです。戦国期から近世初期にかけて「海上の城」として恐れられ、次々と没収の憂き目にあった西国大名の大型戦闘艦「大安宅船」が、仮に幕末という時代の中で蘇生して、さらに進化を遂げたとしたら、この明工大郎景元の発想のようなものになっていたかも知れません。

新案城製筏
新案城製筏(写真3)

5.おわりにかえて

手中明王太郎文書は、現史料の保護のため、マイクロフィルムによる閲覧を実施しています。また史料の一部は『伊勢原市史 続大山編』にも掲載されています。
当文書の所蔵者で歴史研究者でもある手中正氏は、「安永の石尊宮普請」(『伊勢原の歴史』10号)や『宮大工の伝統と技 神輿と明王太郎』(東京美術(1996年)を著しました。現在は景元の『明王太郎日記』をもとに『幕末維新期の大山(仮題)』の刊行準備をすすめられているとのことですので、今後ますます手中明王太郎家文書が、注目を集めていくことは間違いがありません。とりわけ維新期の大山・廃仏毀釈運動に新たな視点を投げ掛ける『明王太郎日記』の公刊(活字化)は、既に多くの研究者から期待が寄せられているところです。当分文書館としましても、今後、積極的な取り組み、支援をいたしたいと考えております。

収蔵資料紹介

1.近代の資料 日本博覧図

明治21年(1888)から明治30年(1897)の10年間に次々と発行された『日本博覧図』は、商店・会社・工場や農家の大邸宅も描かれていて明治特有の商工便覧という面も持っています。また、これをみると当時の農家や産業の様子がわかるため歴史資料として貴重です。『日本博覧図』は、東京・神奈川を皮切りに、近県をふくめ総数では10冊をこえるであろうと思われます。編集については、最初の頃は石原徳太郎が著者兼印刷兼発行人であり、日本博覧絵出版所、精工組、精行舎が予約を集めていましたが、その後編集者は青山豊太郎、発行者は精行舎で最後まで続いています。発行に際しては、予約募集を行い、注文を得た人を掲載するというやり方をとっていたようでした。
「日本博覧図」に描かれた岸家

ここに紹介する『日本博覧図』第十編は、このたび新たに岸家(愛甲郡上荻野村)より図書を中心にした資料を寄託されたもので、第10編はこれまで県内所在が確認されていないので新発見ともいえます。すでに当館には岸家より古文書を中心に一,五四九点ほど寄託されています。博覧図の目録によると東京府30件、神奈川県80件、埼玉県20件、栃木県23件、群馬県23件、静岡県28件、計204件となっています。神奈川県の主な掲載図については、横浜本町の三井銀行支店、久良岐郡六浦の医師田中耕造、鎌倉郡江島の一等旅館恵比須楼、横須賀旭町の呉服店鈴木忠平兵衛、浦賀町大津の海水浴場大津館、高座郡海老名村の山田嘉穀邸宅、愛甲郡荻野村荻野神社及小学校、同郡愛川村半原の甘利友吉製糸場、大住郡須馬村の砂糖・石油商の杉山泰肋、同郡大野村の醤油・味噌醸造の山口英太郎宅などがあります。

2.近世・近代の資料溝ロ幸子氏寄贈資料

所蔵資料を当公文書館に御寄贈下された溝口幸子さんは、現在東京都練馬区内にお住まいですが、明治38年5月頃まで、溝口家は相模湖町千木良764番地に居住されていました。溝口家は、室町時代に助義が尾張国溝口に住んだことから苗字が起こり、子孫は古河公方足利成氏・政氏・高基に仕えた武士でした。その後、行直が甲州に至って武田信虎に仕え、子の吉直も武田信玄・勝頼に仕えましたが、武田氏滅亡後は相州津久井縣に転任し、明治末年の東京移住まで旧千木良村を生活の場とされていました。
当家資料に室町時代の資料は無く、系図によって祖先の活躍を推測するだけですが、江戸時代は、溝口家中興の祖で石高150石を有した清左衛門満信(明和7年から天保14年)の代、寛政10年から古文書があります。明治期に入ると清左衛門澄信が前任の榎本十右衛門から千本良村の戸長を引き継ぎ、明治7年の末から同10年にかけて里長(村用掛)、千木良村小学校世話係を務めた関係から公務上の記録「公用留」が伝わっています。

大塩平八郎檄文 

また、漢学者として著名な恒信は、桂巌(文政5年から明治30年)と号し、生前は多くの漢詩を作り世に残しましたが、彼の著作の一端「墨水三十景詩」「桂巌詩抄(安政元年から同2年)」「麗和集」等この度寄贈を受けた資料の中にあります。(桂巌については、『津久井郡勢誌』人物篇に詳しい。)
その他、溝口家が東京へ出てからの書簡、中国上海からの書簡、家政関係書、書、拓本、扁額等々753点、昭和21年に至る資料です。

公文書館のしごと

『史料の修復』―リーフキャスティング―

古文書を整理し、保存していくうえで、大切な作業となるのが資料の修復というものです。
和紙は酸性質である西洋紙とちがって、その保存性にはすぐれていますが、保存環境を整えておかないと良好な状態をいつまでも維持することはできないのです。高温多湿の日本の気候は、古文書にとって要注意で、湿気を帯びた紙は固い板のようになって、剥がすことも難しい状態にあることもしばしばです。さらに永年の塵・ほこり・鼠をはじめとした小動物やゴキブリなどの排泄物にまみれていることもあって、虫が湧いたりもしています。墨には動物たんぱく質の二カワが混ぜられていますので、これを食べにくる虫によって、皆さんが語る古文書イメージの上位、「虫喰い」ができあがるのです。
当公文書館では、この板状になった史料を剥離し、「虫喰い」や「破損」の修復を適宜実施しています。慎重かつ繊細な技術が要求されるものなので、この作業にずっと携わってきた二名の職員を中心として、これに取り組んできました。
当館では、「虫損・破損」史料の裏面に和紙を張りつける従来の「裏うち」という方法のほかに、「リーフキャスティング(すきばめ機)」による修復作業も行なっています。
この「リーフキャスティング」は、紙漉きの原理を応用したものです。(1)修復の対象となる史料と同質和紙繊維の水溶液をつくり、(2)「リーフキャスティング・マシン」にセットした破損史料の上に流し込みます。(3)水溶液に浮かんだゴミ等を取り除いたのち、(4)紙漉きの要領で虫損・破損部分にだけ、水に溶かれた水溶液を付着させます。(5)湿気を除き、繊維を定着させるためにプレス機にかけ、このあと一昼夜の自然乾燥をへて修復作業は終了となるのです。

リーフ作業 

「リーフキャスティング」による史料修復の特徴は、破損箇所だけに和紙繊維が付着しますから、「裏うち」のように史料の厚みが増したり、裏面に書かれた文字が読めなくなったりすることはありません。また、修復に糊は使用されませんから、付着させた和紙繊維を今一度剥離して、原状復帰させることも難しいことではないようです。
「リーフキャスティング」は、日本ではまだあまり行なわれていない修復方法なので、全国の関係機関からの注目を集めています。当館ではこの方法の利点や問題点をさらに探りながら、今後のよりよい修復技術の確立に努めていきたいと思っています。

ある日のレファレンスから

質問

横浜ベイスターズが快進撃を続けていて、今年こそは優勝出来るのではないかと思ってます。そこで30何年か前の優勝の頃の状況を知りたいのですが。

回答

当館には神奈川新聞(横浜貿易新報)マイクロフィルムがあるので調べてみました。

大洋ホエールズが優勝した年は昭和35年でした。優勝決定の日の試合は何と負け試合でした。2位の巨人が敗れた時点で優勝が決定したのです。そして続く日本シリーズでは、大毎オリオンズと対戦して4連勝で日本一となっております。たまたま優勝祝賀の広告をみて気づいたのは、夏の高校野球で法政二高が優勝していることです。当時「二度あることは三度ある」などという発言があったそうです。今年の神奈川県も横浜高校の春夏連続優勝と似たような状況となっており期待が持てそうです。
新聞のマイクロフィルムは閲覧できるようになっており、コピーも出来ます(有料)。是非ご利用下さい。

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神奈川県立公文書館 資料課
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FAX:045-364-4459