公文書館だより 4号
江ノ島と鎌倉
江ノ島と鎌倉が今で言う観光地として栄え始めたのは、江戸の昔からでした。寺院参詣や名所遊覧の地として、旅のガイドブックもさかんに出版されました。明治22年の横須賀線の開通は、この地域の観光地化をさらに推し進めました。鎌倉は名所遊覧ばかりでなく、別荘地あるいは海水浴の適地として注目されるようになったのでした。
『江之島と鎌倉名勝』の作者は吉田初三郎。初三郎は、洋画家鹿子木孟郎の弟子にあたり大正から昭和にかけて、商業美術の世界で活躍した人です。竹久夢二が「大正の歌麿」と呼ばれたのに対し、初三郎は「大正の広重」と言われました。しかし、その経歴は不明な部分が多く、没年さえわかっていません。絵図の初版は大正六年四月。発売元は「片瀬写真館」とあります。
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当館所蔵「江之島と鎌倉名勝」(吉田初三郎)
「資料にみる神奈川の鉄道」展 ―幻の鉄道から―
公文書館の平成9年度、第1回展示(期間・平成9年5月10日から7月27日)では、かつて計画されたものの実現しなかった幻の路線や、社会状況の変化でやむなく廃線となった鉄道のコーナーが関心を集めました。
明治5年、我が国最初の鉄道は、新橋と横浜を約50分で結びました。正確には現在の「汐留」と「桜木町」が当時の始発駅でしたが、横浜駅はその後の125年間に2度位置を変え現在の場所となっています。明治32、3年には、本県の民営電車路線として、大師電気鉄道(六郷橋から大師)と小田原電気鉄道(国府津から箱根湯本)が相次いで開業しました。電車としては全国で3、4番目の開通であるこの路線は、今日の京浜急行(大師線)、箱根登山鉄道の前身です。
豆相人車鉄道
小田原に電車が走り出す5年前、県西にユニークな鉄道が開業しています。4から6人を乗せた小さな車両を人が押して行くという、駕篭や人力車同様、人が人を運ぶ日本独特の発想でした。明治29年開通した小田原、熱海間は4時間近くかかったといいます。明治39年に社名を「熱海鉄道」と変え、40年には軌道を広げて、蒸気機関による軽便鉄道になります。この時の工事が芥川竜之介の短編、「トロッコ」の背景となっています。豆相人車鉄道の発起人、雨宮敬次郎は全国に軽便鉄道を敷設し、その経営にあたったので「軽便王」といわれていましたが、明治41年、これらを統合して「大日本軌道」とし、熱海鉄道は小田原支社線となります。大正9年、国鉄に買収され「熱海鉄道組合」が貸与をうけて運営を続けましたが、大正12年の関東大震災で壊滅状態となり、翌13年、営業を廃止しました。
豆相人車鉄道 熱海鉄道〈絵葉書〉
湯河原駅に停車中の軽便鉄道、大正時代
湘南軌道
秦野は丹沢山地南部にあって農産物の集散地でした。特にたばこが専売となると葉たばこの需要に応えるためにも輸送機関の整備が急務となりました。現在の小田急線と同様な路線を計画していた「武相中央鉄道」の実現が絶望的となった明治39年、秦野は「湘南馬車鉄道」によって東海道線の二宮と結ばれました。大正2年には「湘南軽便鉄道」となって蒸気機関による輸送に変わります。しかし、業績悪化のため5年後には新会社「湘南軌道」をつくり刷新をはかりますが、二宮まで1時間近くかかっていました。間もなく、昭和2年に開通した小田急線には太刀打ちできず、昭和10年休止、12年には廃止となりました。
湘南軌道〈絵葉書〉
水無川の鉄橋を渡る軽便、大正時代
日本電気鉄道
東海道線が国営で順次延長されるのと同時に、軍事的な要請から横須賀線なども早くから整備されています。一方、民営の鉄道計画も続々と出され、特に大正に入ると、時代に応じた目論見を掲げて、様々な鉄道敷設許可申請が鉄道省に出されています。「鉄道敷設ブーム」ともいえるこの時代に、後の鉄道路線を先取りするような計画がありました。昭和に入って国鉄の基幹路線として最も重視されていた東海道線も、蒸気機関車での輸送力に限界が見えてきます。そこで電気による新線の計画が、後に東武鉄道社長となる根津嘉一郎などを中心に昭和3年、提出されました。この計画には即刻、京都方面から反対の陳情が出ます。名古屋以西が、木津川沿いに大阪へ直結するルートとなっており、観光客の利便がはかられないという理由でした。
結局、この路線は認可されませんでしたが、昭和14年、おりからの大陸進出を指向する世相を反映し、東京・下関を時速200キロメートルで疾走する「弾丸列車構想」となって浮上します。現在の東海道新幹線はこの構想を踏襲して戦後に実現したものとされていますが、実はその計画の10年以前に「日本電気鉄道」という先蹤があったのでした。
相武電気鉄道
日本経済は横浜などの港を接点として世界経済とつながることとなり、国内の活発な物資の移動に鉄道が不可欠という認識が広まると、東京や横浜の財界人は次々に鉄道路線の敷設を政府に申請します。明治41年、東神奈川から八王子に開通した横浜鉄道は大正6年に国有化され横浜線となり、茅ヶ崎から橋本の相模鉄道(現JR相模線)も開通の見込みとなっていました。そんなとき、県内製糸業の中心地であった相模原や愛川でも、横浜や東京と鉄道で結ぶ計画が盛り上がります。地元の地主層が中心になって大正13年、敷設の許可申請を提出した路線は、愛川町田代から田名、淵野辺を経て溝の口から東京渋谷へつなぐものでした。しかし、折悪しく昭和4年に始まる世界的な大恐慌にみまわれ、一部区間のレール敷設まで進みながら、資金が枯渇、役員間の紛争などもあって工事は中断。昭和10年免許失効に追い込まれてしまいました。同様な事情で挫折した南津鉄道〔玉南電鉄一宮(現京王線・聖蹟桜ヶ丘)から津久井町久保沢〕ともども、免許申請から会社の設立、線路建設と尽力した地元の役員はその後始末にも長い期間苦しまねばならなかったのでした。かつて、この内陸の農村を発展させようと、人々が苦渋に満ちた努力をかさねた相模原台地に今は、住宅団地が次々と開発され、既設の私鉄が路線を延長しています。
ここに紹介した以外にも、惜しまれながら消えていった横浜市や川崎市の路面電車など、昨日のことのように思い出されます。私たちの記憶の1ページから、心に残る線路の風景を探してみてはいかがでしょうか。
明治45年当時の神奈川県内鉄道網とその後の計画路線
【参考図書】
『神奈川の鉄道』 編者/野田正穂ほか、日本経済評論社 平成8年
『横浜線物語』 サトウマコト著、203クラブ新聞社 平成7年
『懐かしのアルバム ―神奈川鉄道写真集―』 監修/原田勝正、編者/岩田武、郷土出版社 平成5年
随想
電車の中
柴田頼子
最近電車の中で化粧を始める女性をよくみかける。それも口紅をそっとひくとか、小鼻の辺りをパウダーでおさえるとかいう、いわゆる化粧直しではない。おもむろに化粧品一式を膝の上に並べてファンデーションから始める。そして眉を描き、アイラインを入れ唇に紅を塗る。周囲の視線を全く気にしていないかのごとく、鏡を見つめて化粧に没頭している。まるで個室にいるようだ。
そういえば化粧に限らず最近の電車の中は個室化しているように思う。ラジカセのイヤホンを耳に入れている人、携帯電話で話す人、漫画を読みふける人、スポーツ新聞のセックス記事を広げる人、だらしなく眠る人、しっかりと抱き合う男女。他人がどう思うかとか恥ずかしいとかいう気持ちは持たないで行動している人が増えてきた。かつて、電車の中は立派な公共の場であり他人を不快にさせるような行動は慎むべき場であったと思う。見知らぬ他人であっても人間同志のお互いの感情を思いやって、守るべき一定の基準があった。見知らぬ他人であっても自分と同じ人間として、お互いの間には礼儀ともいうべきものがあった。
この頃は見知らぬ他人は関係ない人間―いや「モノ」なのだろう。自分が関係ある人間と認め、その人が自分をどう思うかが気になる相手にはたいへんな気の遣いようをするのに、そうでない人はまるで「モノ」のように無視する。しかし、通勤電車のようなひどい混雑の電車の中では、他人を「モノ」としてしまうのは余分なストレスを感じないための知恵であることも否めない。立錐の余地も無いほどぎっしり詰め込まれ、見知らぬ人と頬と頬がくっつきそうになるのを必死にこらえている時には相手の感情など感じてはいられない。「すみません」などといっても位置を変えることもできず、体を密着させていなければならない状態では相手を「モノ」としてしまうのが楽だ。ついでに自分の感情にもふたをしてしまって。そもそも人間は、自分の身体の周囲15センチメートルの範囲内に他人が浸入すると肉体的、心理的に危険を感じ不安になる動物だそうだ。だからこそ、15センチメートル以内に接近できるのは、恋人、夫婦、親子など親密な関係にあるものか、医師や理容師など国家試験が必要な職権の人間に限られているのだという。否応なく見知らぬ人間と密着してしまうような状況では、他人を感じないようにするのが生きるのを楽にする術なのかもしれない。
こうしてみると、混雑した電車の中は都会生活の縮図なのかもしれない。人口が密集し情報化が進み、真のプライバシーが侵害されて生きている都会人が他人に対して無関心、無感動になってしまうのは仕方のないことだろうか。さる大学のカウンセラーをしている人によると最近の若者は「自分は自分、他人は他人だから」ということを良く口にするという。そして「だから他人とつき合わなくていいのだ」と続けることが多いという。まるで人間関係を断ち切るための「黄門様の印篭」のようにこの言葉が使われるのだそうだ。そしてますます、みんな狭い限られた人間関係の中だけでくらすようになってゆく。とはいえ、電車の中の個室化は思わぬ人間模様も見せてくれる。先日昼間の私鉄電車にあか技けたカップルが乗ってきて、並んで腰かけた。間もなく女性が化粧を始め、まことに手際よく、みるみる見違えるようになっていく。鏡に映して丁寧に口紅を描く彼女を見ていて、彼女はいったい誰のために化粧をしているのだろうと思った。もはや、隣りに座っている彼氏のためではなさそうである。もっとも彼氏の方も彼女が化粧を始めるとすぐ目をつむって眠ってしまったかにもみえる。私は二人の部屋に無断で上がり込んでしまって、プライバシーを覗いているような気がして窓の外の景色に目をそらした。
筆者のプロフィール
フリーライター
NHK教育局のTVディレクターを勤めた後、家庭教育、社会教育、家族問題等に関する執筆、講演等を手がける
神奈川県ともしび財団理事、平成5年度から神奈川県立公文書館運営協議会委員。著書に「親と子どものいい関係」「35歳、女の危機」他
川崎市在住
収蔵資料紹介
1.近代の資料 松本喜美子資料
本資料の一部は昭和63年10月、神奈川県立図書館に当時併設されていた県立文化資料館が、松本氏から寄贈により入手したものです。平成5年10月、当館新設にあたり、県立文化資料館から神奈川県立公文書館に移管されました。その後、平成8年4月・平成9年7月に同氏から再び寄贈を受けたものです。
松本喜美子氏は、昭和5年東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)家事科を卒業後、千葉県、神奈川県内で女学校の教鞭をとり、昭和24年に神奈川県教育委員会発足後の初の指導主事として着任され、以後14年間勤務されました。家庭科を専門とされ、県に在勤中の昭和26年にはガリオア資金により米国研修旅行に参加し、帰国後、神奈川県中学校家庭料研究会の発足にかかわっています。氏は昭和37年に県を退職され、川崎市立養護学校長を9年間務められました。氏の著作物には「遥かなりビルマ―戦いの日の夫と妻の手紙―」(三省堂企画、平成4年発行)と「青春期」(三省堂企画、平成7年発行)があり、その他にも歌集、エッセイなども出版されています。
本資料は氏が参加した講習会、研究会などの資料や記録ノートなどで構成され、指導主事時代と養護学校長時代の二つに大別されます。この資料の特徴的なことは、占領期における教育の民主化という動きの中で、国レベルから教育現場の末端の資料まで、一堂にそろっていることです。特に資料の中には「学校訪問録」「学校訪問票綴」(昭和24から27年)があり神奈川県教育委員会の指導主事として学校を巡回した際の、指導事項や現場の状況を知ることができます。この資料群は、占領期における県内小中高の各学校の具体的状況がうかがえる、一次資料といえるでしょう。
貴重な資料を恵贈された、松本喜美子氏に深くお礼申し上げます。
2.中世の史料 家忠日記増補追加
松平忠冬が、織豊時代に関する基礎史料のひとつで、徳川・織田・豊臣・北条・武田諸氏の軍事行動・政策など政治的動向はもちろん、連歌の催し・鷹狩・川狩・人々との交際など当時の武士社会の生活文化に関する記事を豊富にもつ松平家忠の日記(「家忠日記」)を増補追加する目的のもとに、永正8年(1511)3月19日の家康祖父清康の誕生から「大神君(家康)ノ薨御」の元和2年4月に至る徳川氏創業の歴史を叙述した記録です。12冊めには、附録として家康の「贈諡始末」が収録されています。一冊めに「寛文三年(1633)癸卯仲秋 向陽林子」と林鵞峰が序文を、「寛文五年乙巳仲秋 松平與左衛門尉源忠冬記」と著者が発題を載せており、12冊めに家忠の孫忠房が「寛文戊申之春 従五位下主殿頭源忠房跋」とあとがきを載せています。忠冬は、家忠の三男忠一の孫に当り、忠房は肥前島原藩主です。本書は、25巻12冊本で全冊揃った写本で表紙、または一丁め書き出しの下方に円形の印が朱で捺印されており、印文は「内藤耻叟」とあります。
内藤耻叟(1827から1903年)は、水戸藩士の家に生まれ内藤家を継ぎ、全沢正志斎・藤田東湖に学んで安政6年、耻叟と号します。水戸藩校弘道館の教授、明治19年から24年まで帝国大学文科大学教授をつとめた明治時代の歴史学者です。著書には「徳川十五代史」「徳川実紀校訂」等多数あり、『古事類苑』編纂に関与した人でもあります。
紹介の本書は、『信長公記』の校注や『前田利家』の著者である元東京大学史料編纂所教授岩澤愿彦氏から「多くの人に研究史料として利用を」と御寄贈いただいたものです。マイクロフィルムに撮影されていますので複写をとることもできます。
コーヒーブレイク
《空想の茶道具》を揃えよう。そう、私は願いを立てている。
網野善彦によれば、いまから12,000年ほど前だという。ユーラシア大陸東端に、北から南へ連なる弧状の花綵列島―日本列島が、ほぼ現状に近い姿を現した。海は、障壁である以上に、媒体なのである。列島で生活する人間は、以前と変らず、いや以前にも増して、活発に地球のあちこちと交流を続けた。10,000年前から紀元前3世紀にわたる長期間、列島には縄文文明が開花していた。その間に、おそらくは、ユーラシア大陸西端のヨーロッパ半島にまで、交流の絆は伸びていたのではないか。煮炊き用、貯蔵用、飲食用の器。箆や杓に似た道具。織布。身体や住居や集会場のための装飾品。縄文土器をはじめ、列島独得であって、かつ世界共通のところもある人間の作品が、このところ次々に発掘されている。いわゆる有史時代に入ってからは、漢、唐、宋、元など中国の王朝経由の路も用いながら、列島と世界との結びつきは保たれる。建築法、作庭術、都市の景観設計の新手法が、列島に伝来する。やがて、16世紀、南海を通じてヨーロッパとの接触が深まる。折から隆盛を迎えた茶道は、世界各地の文物を総合する。茶道で使われる縞文様の裂―間道の由来を辿るだけでも、興趣は尽きない。17世紀にはじまる鎖国期にも、松前、対島、長崎、琉球と、四つの窓が開いていた。そして、19世紀の開国。戦争をひきおこして孤立したこともあったが、いまや、列島は世界のまっただなかにおかれている。古今東西の文物から新しい茶道具を選ぶ。いっそ茶室も、例えば本格的な椅子式のものにする。展示中の宮大工の技を伝えた史料をみて、そんな想いも涌いてきたのである。
公文書館館長 後藤仁
読書の欄
萩原延壽著 『陸奥宗光』
歴史の世界では最近人物に着目する動きが出てきました。中でも、国家など組織を動かしていた人物に興味が集中しているようです。明治前期の政治家・外交官であった陸奥宗光の評伝もその一つといえましょう。著者には陸奥についての著作が多数あり、本書も約30年前に書かれた旧稿に訂正と加筆を施し、陸奥の死後ちょうど100年に当たる昨年、上梓されました。近年日本が生んだ、真にリアリストの名に値する数少ない政治家のひとり、陸奥宗光。著者は陸奥を評して、「権力(=藩閥勢力)」と「理念(=自由民権)」との間に引き裂かれた「分裂した魂」の所有者、と述べています。自由民権への夢を胸中ふかく封印し、結局、藩閥政府を選択するまでの波瀾に富んだ前半生が、全編にわたって活写されています。紀州藩脱藩、坂本龍馬との出会い(海援隊へ参加)、新政府への出仕、渡欧、藩閥政府批判文の執筆、政府顛覆計画への加担、逮捕・繋獄、外遊と、激動の幕末・維新期の一断面を体現しています。
ところで、陸奥は神奈川県知事(県令)を短期間務めたことがあります。陸奥自身が「多少県制改革等の事ありたれども、茲に特記する程の要なし」と述べた治績ですが、著者は次のように評価しています。有能な人材を登用し、日本全国に先がけて警察制度の創設や船舶調査の実施を成し遂げ、指導力を大いに発揮したと。
1997年8月 朝日新聞社刊
歴史を訪ねてー二俣川周辺ー
白根不動(白糸の滝)
白根不動は、相模鉄道線の鶴ヶ峰駅から北へ徒歩10分程の所にあり、現在は白根神社となっておりますが、地元では「白根のお不動さん」の愛称で親しまれています。
本尊は長さ1寸7分、弘法大師作と伝わっており、八幡太郎義家がこの不動を常に信仰していて、前九年の役に出陣したとき、この像を甲の内に納め奥州に向かい勝利を得たため、その礼として鎌倉権五郎景政に堂宇を建立させたと伝わっております。境内を流れる中堀川に白糸の滝があります。かつては幅約9.1メートル、落差5.5メートル横浜市内では唯一といわれた自然滝でしたが侵蝕がひどく、昭和62年度より、修復工事が行われ新たな親水空間として生まれ変わりました。一帯は現在白根公園として整備され、また付近には畠山重忠ゆかりの史跡及び帷子川の親水施設等が整備されており、一度時間があれば立ち寄ってみたらいかがかと思います。
(相模鉄道線鶴ヶ峰駅より徒歩10分)
公文書館のしごと
『マイクロフィルムによる文書保存』
神奈川県における文書のマイクロフィルム化は、永年保存文書及び設計図面等を対象に、昭和41年10月に文書課における文書管理システムとしてスタートしました。当時、三か所あった文書課の書庫には、約74,000冊の保存文書が収容されており、毎年引き継がれる文書量から、その収容能力が限界に達するのは時間の問題でした。また、新たに増設された庁舎の完成を期して行われたファイリングシステムの実施によって、さらに大量の文書が引き継がれることが予想されました。そこで、書庫スペースの削減と保存文書の利用の促進を図るため、マイクロフィルムシステムが導入されたのです。しかしながら、文書課においては、マイクロフィルム化された原文書は基本的には廃棄され、また、10年保存などの期限付きフィルム文書も、期限満了後は廃棄されていました。すなわち、保存期限の過ぎた文書は、原文書もフィルム文書もどちらも廃棄され、情報資料としては残らないことになっていました。それが、平成5年11月に当公文書館が開館したことにより、文書のマイクロフィルム化の意義が大きく変わることとなりました。すなわち、当館は文書の保存を大前提としており、そのため原文書及びフィルム文書は共に保存され、書庫スペースの削減を目的とした撮影を行わないこととなりました。
現在、当館においては、(1)劣化の著しい戦前期などの公文書や古文書、(2)閲覧請求が多いなど利用頻度の高い資料、を優先的に撮影することとしています。これにより、歴史資料として重要な価値のある公文書や古文書などを永続的に保存しつつ、一方では、閲覧請求にこたえるという目的を同時に果たすことが可能となります。
なお、当館においては、マイクロ撮影を行った場合、閲覧用に複製フィルムを作成し、研究等により、資料そのものの確認がどうしても必要な場合を除いて、原資料及びオリジナルフィルムは、原則的には保存を最優先に考え、できるだけ閲覧には供しないこととしています。そして、それぞれ温・湿度調節可能な書庫あるいは保管庫において、原資料は、25度・55%程度、また、オリジナルフィルムは、21度以下・30%程度の温度及び湿度を維持し、公文書、古文書が、県民共有の財産として永く後世に伝えられるための保存、管理に努めています。
ある日のレファレンスから
質問
公文書館には、ホームページがありますか?
回答
この数年のインターネットの普及にはめざましいものがあります。県立公文書館でも検討を進めてまいりましたが、昨年10月に神奈川県庁のホームページに公文書館のホームページを開設しました。いまのところは、「公文書館の仕事」、「収蔵資料の紹介」、「施設・設備の概要」、「利用案内(会議室を含む)」、「展示案内」、「事業実績」などを試験的に掲載している段階です。公文書館の資料の検索、閲覧、会議室の受付等もできたらと限られた予算でどんなことができるか検討すべきことが山積しています。情報の高度化に対応してゆくのはもちろんですが、近年急速に進展している「情報の電子化」(情報がコンピュータ処理可能な状態で磁気テープ等に格納されていること)にも対応していかなければなりません。しかし、いくら情報の高度化が進んでも人と人とのであいを大切にしていかなければならないと考えています。
このページのお問い合わせ先
神奈川県立公文書館 資料課
TEL:045-364-4461
FAX:045-364-4459