公文書館収蔵資料

マリア・ルス号事件の大旆

明治5年6月5日、ペルー国船マリア・ルス号が中国人労働移民230余名を輸送中、船体修理のため横浜港に入港した。寄港中、一人の移民が虐待に耐えかねて逃亡し、イギリス軍艦に救われました。
外務卿副島種臣は、神奈川県令大江卓を裁判長とする臨時法廷を神奈川県庁に開設。領事裁判制度下でしたが、ペルーとは条約未締結で裁判権は日本にありました。大江卓は、移民全員230余人の解放の判決を下し、ペルーの損害賠償も退け、日本は初めての国際裁判に勝利を収めました。
この旗は、横浜の清国人たちが、副島・大江両人に感謝の気持を託して贈ったものです。この事件は、国内の人身売買禁止令の契機ともなりました。

マリア・ルス号事件・大旆の画像
マリア・ルス号事件・大旆
(たて348センチメートル×よこ187センチメートル)

『開館1年をふりかえって』

金原左門
公文書館運営協議会会長 金原左門(中央大学教授)

大迫修一
公文書館長 大迫修一

県立公文書館ができるまで

大迫修一 神奈川県では昭和42年に神奈川県政百年を記念して県史編纂を始めました。そのとき収集した資料を保存、活用するために昭和47年に県立文化資料館ができました。しかしそれでは必ずしも十分ではないので、本格的な公文書館が必要だという声が、県庁のなかでもまた外部のいろいろな方面からもありました。そういうことを受けて昭和60年から県庁内部の検討が始まりました。また、外部の各分野の専門の方々のご意見をいただきました。昭和60年から検討を始めて、昨年11月にオープンできたという長い具体的な検討期間がありました。
私は公文書館の開館までに4回この仕事に携わってきました。そのなかでこの館をつくる一番の基本的な考え方は、公文書等を一元的に収集・保存し、資料の散逸を防止して、情報ニーズに対応していくということでした。県立文化資料館は、公文書館とほぼ同じ機能を持った施設でしたが、公文書等を収集するシステムが必ずしも十分発揮できる体制ではありませんでした。また、教育庁所管で全庁に対する多少の遠慮もありました。そこで、一元的な資料の収集が行えるように知事部局に独立した公文書館をつくりました。

金原左門 今、館長から文化資料館の話がありましたが、私も県史編纂事業に最初から携わってきましたのでその事情はよくわかります。文化資料館ができてからも県史編纂は平行してすすめられていましたので、公文書館的機能は十分ではなかったとはいえ、一定の役割を果たして来たと思います。その後、県史編纂が終り、昭和63年に「公文書館構想懇話会」のメンバーに入りまして、県も公文書館建設に対して腰を上げるのかという印象を持ったんですね。それでもまだ、どういう規模のものができるのかは私たち委員は全く見当がつかなかったんです。でも、公文書館の必要性というのは、お話のように、県の幹部であろうと県民であるとを問わず必要になってきた状態だったと思うんですね。当時座長は丹羽邦男さんで私が副座長でしたが、いろんな意見がそこからでてきましてね、思いきってとにかく県民の声を県の方に反映させるということで、もう実現できないようなことがらまでも含めて意見を提出しました。ですから、その上で今日の県立公文書館が誕生したということです。しかも、それは、我々が予想していた以上の、制度や内容のスケールの大きなものでした。ですから、抜本的に文書館を転換させた規模のものになり、これは非常に意味のあることではないかと思いますね。

県立公文書館の特色

大迫修一 では、神奈川県の新しい公文書館の特色をお話ししたいと思います。まず、資料の収集ですが、神奈川の場合は、公安委員会を除いた11の県機関の、保存期間が満了したすべての公文書を公文書館に引き渡されなくてはならないことを、条例で義務化しました。それと併せて、選別基準を設けることを条例で規定しました。収集を選別について条例で規定したのは全国で初めてです。ここは、公文書館としての機能の一番基本となるところだと思います。

金原左門 私も公文書館構想懇話会そして平成4年からの運営検討委員会に参加していたわけですが、選別基準を実施要領にいたるまできめ細かに定めたというのは例のないものではないでしょうか。

大迫修一 選別基準を定める段階では、運営検討委員会で多くの貴重なご意見をいただき、また、庁内では各局委員会を含む全所属を対象に説明会を開き、意見を聴取した上で全庁的に了解を得ました。

金原左門 運営検討委員会のなかでも学者、弁護士、作家、ジャーナリストなどが意見を出し合って検討したことも意味あることだと思います。

大迫修一 機能的な特徴としては、30年・10年保存文書を保管する中間保管庫を設け、県が作成した公文書のうち、保存期間が5年をすぎたものは、公文書館で保管するシステムが確立されています。

金原左門 中間保管庫は、選別の際に鍵になるものだと思います。現用公文書から非現用にもっていく貯蔵庫のような役割ですが、これは、1年やってみてどうですか。うまくいきましたか。

大迫修一 各局委員会のなかで若干の問題点がありますが、全体的には順調に引き継がれています。

金原左門 今度はそこから何パーセントが歴史的公文書になるかが問題でしょうね。イギリスの公文書館などをみますとかなり低いんですよ。

大迫修一 30年・10年保存文書の選別率はかなり高くなると思います。そのほかに5年・3年保存文書の選別も行いますが、これらの選別率は下がると思います。

金原左門 しかし、本当は1年とか5年保存文書のなかに価値のあるものが多いと思いますよ。

大迫修一 十分留意していきたいと考えています。その意味も含め去る6月から7月にかけて公文書館の認識を高め、公文書等の収集など適切な運用ができるよう、本庁、出先のすべての所属633か所を対象に8回にわけて当館を会場に公文書館についての全庁的な説明会を開催しました。今後とも、全庁的に歴史的公文書についての認識をもってもらうことが重要だと考えています。
さらに、コンピューターによる新しい検索システムを開発しました。自然語検索システムといい、一件一件文書の要点を入力してあり、利用者が思いついた言葉を端末で打つと、その言葉を含んだすべての文書が検索されるしくみになっています。現在の収蔵資料は約47万冊・点ですが、そのうち、約10万冊・点をすでに入力してあります。今後、年次計画に沿って最終的にはすべての収蔵資料を入力する予定です。
このような特色を含め、歴史資料の収集、選別、整理、目録作成、修復、そして県民の方々の利用といった公文書館運営の基本を中心に据え、今後どのようにうまく運用していくか大きな問題であります。

市町村との連携

金原左門 県内で公文書館を持っているのは藤沢市と川崎市だけですね。それで、市町村との連携をどう図っていくかが課題になってくると思うんですが。

大迫修一 古文書は、県史編纂以来、県内の所在調査等をやっています、また、古文書の寄託・寄贈も充実させていきたいと考えています。幸いオープン以来、すでにいくつかの寄贈、寄託があり心強く感じています。これらは、市町村とも十分連携をもっていかなくてはならないと思っています。3年前に神奈川県歴史資料取扱機関連絡協議会ができまして、県内の33機関が加入しています。目的は、公文書館あるいは文書館の円滑な運営と市町村史編纂の健全な発展をはかろうとするものです。それから、戦後期の県の公文書はたいへん少数しか収蔵していないのですが、県が発した公文書を市町村で持っているところがありますから、それらの資料をマイクロ化して県の公文書館でも収蔵し、県民の方々に利用していただけるようにしたいですね。こういった意味でも市町村との連携に十分配慮して、市町村の方も県の方も仕事をやりやすくしていくことが必要だと思います。

金原左門 県は1923年の関東大震災、それから敗戦前後の戦災、混乱と2回大きな災害にあっていますので、市町村の側から県関係の資料を提供してもらうということは、おそらくこれからも必要になってくると思います。
公文書館という施設はなくても、資料の収集、保存にたいへんな注意をはらっている市町村がかなりありますね。

大迫修一 そうです、市町村のなかでも公文書館をつくろうというところもいくつかありますし、先生のおっしゃったように公文書館はなくても、現用でなくなった公文書のその後の取り扱いに十分留意していかなくてはならないと、多くの市町村で考えていますので、私どももたいへん心強く思っています。県としても協力できることはやっていかなくてはならないと考えています。

金原左門 公文書館の職員が創造している以上に、公文書に関する関心は高いんですね。それは、利用者が何人あったかということだけでは計れないものがあります。

利用状況

金原左門 ところで、利用状況はどうですか。

大迫修一 おかげさまで幅広い層の方々に来館いただき国民意識の多様化の反映と受けとめています。利用者は、開館当時は1日に100人をこしていましたが、最近は50人前後になっています。

公文書館の使われ方

金原左門 イギリスやフランスの公文書館の話を聞きますと、多少シーズンによっても違うんでしょうけど、たいていは閑散としているそうですよ。私は公文書館というところは、静かな方がいいと思っているんです。

大迫修一 この間県政モニターの方から手紙をいただきました。それには県の公文書館は県民に親しみやすい配慮がしてあるといったご趣旨をいただいたのですが、それと併せて公文書館は、利用者の数を競う施設ではないということも書かれていました。

金原左門 つまり公文書館というのは使い方の問題で、いかに価値のあるものを、それを必要とする人がどう使うかということだと思います。それともうひとつ言いたいのは、公文書館は、本来からいうともっと政治や行政の場から利用しなくてはいけないと思います。日本ではその意識がたいへん乏しくて、古い公文書を収集し保存し公開するというと、ひたすら歴史研究のためだけに公文書館が存在するというふうに認識されてしまっていますね。そうではなくて、もっと現実の行政を進めていく上で、過去を振りかえるというように使わなくてはいけないでしょう。
一例を挙げますと、関東大震災がおきたとき、県は明治24年に濃尾でおきた大地震のとき岐阜県庁がどういうふうに対処したのかを問い合わせたところ、その記録がひとつもなかったというんです。一片の紙切れもなかった。それではいけないというので、神奈川県では震災の記録を詳細に作ったわけです。だから、公文書館の発想というのはこういうところにあるんですね。県行政サイドでも、もっと活用すべきだと思います。その資料の活用を保障するには、県民や県行政を視野に入れた公文書館での調査・研究体制の整備が必要になってくると思います
一方、今回の公文書館の設立によって、現用公文書は情報公開制度で、非現用公文書は公文書館で、切れ目なく連続して閲覧できるシステムが確立されたことは、情報を広く公開し開かれた県政の一翼を担うものとしてたいへん意義のあることですね。

普及事業

金原左門 それと同時に、公文書館をいかに知ってもらうかという普及啓発活動はどのようにすすめていますか。

大迫修一 催し物としては開館時の開館記念展示のほかに、金原先生と作家の永井路子先生に講師をお願いしまして開館記念講演会を行いました。その後、古文書解読講座初級編・中級編、そして展示は年間を通して行っています。展示、講座、講演は公文書館を県民の方にわかっていただけるいい手段になると思っています。

金原左門 古文書解読講座初級編は大変な応募があったそうですね。

大迫修一 定員100名のところ600名の応募がありましたので、午前・午後の2コースに増やすなど急遽定員を増やして実施しました。新しい公文書館ができたんだといういい意味での県民の方へのインパクトがでているんではないかと思います。

金原左門 館を開放するようなことはあるんですか。

大迫修一 会議室は一般に貸し出しをしています。きょうも旭区主催の生涯学級「女性史の会」が開かれています。また見学に来館される方もたくさんいます。9月17日から開館一周年を記念した展示を行いますが、これは、旭区の区政25周年記念協賛事業にもなっております。

金原左門 地域の行事を引き受けてやっていくというのは、知事がよく言う文化行政の具体的な表れの一つですね。地域との連携を深めていくうえで、いいことですね。

大迫修一 館の運営で地域との密着はとても大事なことだと考えています。開館直後には地元の中尾小学校の全児童の見学がありました。それを聞いてPTAの親御さん方が自分たちも新しい施設を勉強したいとわざわざ尋ねてこられたりしています。全県的な視野に立ちながら、地域とどういうふうに密着していくかは運営のなかの大きな視点だと思います。
以上のような公文書館独自の事業を通して公文書館を知ってもらうのが第一の柱です。それからマスコミ関係の協力や、公文書館でもいろいろな印刷物などをつくって県民の方に理解していただくことも大切だと思っています。また、図書館や博物館等の関係機関との連携を進めていくことも必要です。さらには、神奈川地域史研究会など、たくさんの研究団体や自主的な活動グループなどがありますので、そういったところとの交流を通して、親しみやすい、利用しやすい公文書館にしていく努力が必要だと考えています。

金原左門 地域との関連と同時に神奈川県の国際社会に果たしている役割という視点からいえば、世界に開かれた公文書間であってほしいと思います。

大迫修一 日本のなかで神奈川県の果たしている役割は大きく、これからは大きな視野で公文書館の役割を考えていくのは必要なことです。

丹羽先生の思い出

金原左門 この1年で公文書館に関係してひとつ残念だったことは、長い間公文書館にかかわってこられた丹羽邦男さんが夏に亡くなったことですね。神奈川大学の教授で、ダンディな方でした。もともと、地租改正の研究家で、古文書の保存についてとても関心の深かった人です。この公文書館は、県の方の発想と、同時にもう一つ、県民の方からの要望というなかでできた、とても理想的なつくられ方だったと思います。その地域のなかの代表として要望書を出された人であり、同時に公文書館を具体的に実現していく過程のなかで、構想懇話会の座長、そして、運営検討委員会では副座長も務められました。丹羽さんは、文書は県民の共有財産であるということを非常に強調した人でしたね。

大迫修一 文書は県民の共有財産であるということは、公文書館の原点だと考えており、まったく同感です。丹羽先生には、この公文書館ができるまでに、たいへんなご指導ご尽力をいただきました。最後に、先生の御冥福を心からお祈りしますとともに、この公文書館をますます充実したものにしていきたいと考えています。

新収寄贈資料紹介

小塩家文書

小塩家文書の画像
小塩家は愛甲郡戸田村(現在、厚木市)を中心にした県内有数の地主でした。当館には一部関係資料が収蔵されていたのですが、このたび小塩家から新たに土地関係資料が寄贈されました。内容は江戸中期からの年貢関係文書も含まれていますが、近世になってからの土地の集中と管理、運用が年度ごとにまとめられている資料が注目されます。他村にあった所有地も含まれており、土地経営の全体が見渡せます。しかも、明治から昭和22年まで、すなわち農地改革までの資料があります。地主経営資料としては県内では有数の貴重な資料といえます。土地関係資料以外にも「相模国絵図」「村絵図」や村の様子がわかるような資料が含まれています。
これらの文書の全体の数量はさほど多くはありませんが、資料の整理と目録ができた段階で公開いたします。
長く、大切に保存されてきた資料であるにもかかわらず寄贈いただき感謝いたします。

館蔵資料紹介

神奈川県工場名簿―昭和20年10月―

この工場名簿は、神奈川県労政課が昭和20年10月に作成した公文書で昭和20年8月15日の終戦を境に県内の各工場がその業種をどのように転換したかを調査しとりまとめた資料です。
終戦前には、当時の社会情勢を反映して全工場1,620社のうち航空機の部品や戦車、兵器製造等の軍需工場が169社ありましたが、終戦後はこれらの軍需工場がずべて平和産業の工場に転換され、玩具、農機具等の製造工場になったことが一目でわかる興味のある文書の一つです。
公文書館では、このほかにも多数の公文書を大切に保存し、県民の方々に利用していただけるようにしています。

―開館1周年記念展示によせて―
寄稿 神奈川の自由民権運動 大畑哲(綾瀬市史編纂委員)

神奈川県における自由民権運動は、国会開設請願運動からはじまる。この運動は、全国的には、国会期成同盟という統一組織によってすすめられたが、神奈川県ではそれとは別に独自の運動として取り組まれた。すなわち、明治13年(1880年)3月、県会議員の有志らによってそれが提唱されるや、爆発的な反響をよび、わずか3か月の間に、相州9郡559町村で、2万3千余の請願署名を集めるという成果を収めた。運動を組織したのは、県会議員をはじめとする郡村の戸長、書記、村議たちであり、経済的には豪農といわれる地主、豪農層であった。この豪農層が民権運動の主体となったところに神奈川の運動の特色があったのである。
国会開設運動は、翌14年を迎えると空前の高まりを示し、北海道開拓使官有物払下げ問題をめぐるスキャンダル事件もあって藩閥政府を窮地に追いつめ、遂にその年の10月、国会開設の詔勅発布となって決着した。世にいう14年政変である。すでにその前後から、県内の活動家は「地方の団結」を図るため、民権結社づくりに取り組んでいたが、その先鞭をつけたのが相州では湘南社であった。湘南社は大住・淘綾両郡の民権家150名を会員とする相州最大の結社で、14年8月、大磯で開かれた結成大会には全県から1000名を超す参加者があったといわれる。幹事には郡書記の伊達時が、社長には前郡長の山口左七郎がその職を抛って就任している。
この湘南社の発足を合図に、南多摩郡の融貫社(14年11月)、愛甲郡の相愛社(15年2月)などの諸結社が相次いで結成され、やがて県下(三多摩を含む)に100を超す民権結社が簇生することになる。
民権結社は政治・法律・経済を学習する学習活動と政談演説会などの啓蒙宣伝活動が中心であったが、そのほかに産業や衛生活動に及ぶこともあった。湘南社の学習活動を検討してみよう。同社は本部を大磯に置き、郡内4か所に支所を置いて学習会場とした。学習部門は講学会と称して専門の講師を雇い、本格的な学習活動を展開した。伊勢原講学会の会場となった山口家には、沢山の関係資料が保存されているが、それをみると学習レベルの高さと熱烈さに瞠目させたれる。欧米の原書を含む最新の啓蒙書をテキストにして、政府論、主権論、自由論、代議政体論などをテーマに選び、活発な学習討論が行われている様子がよくわかる。その雰囲気の一端は講師の沢田弼の書簡からもうかがえよう。このような学習運動の中からやがて社長の山口をはじめ、山口書輔、宮田寅治、猪俣道之輔、前田久治、伊達時、水島保太郎、福井直吉、中川良知のようなすぐれた民権家群像が排出するのである。

中島信行 中島湘煙・俊子
ここで湘南社の結成に深くかかわった中島信行についてひと言ふれておこう。中島は湘南社の結成大会に臨んで講演し、また、講師の沢田を斡旋するなど援助を惜しまなかった。湘南社には植木枝盛をはじめ中央の著名人が多く出入りしたが、中島ほど親しまれた指導者はいない。また彼は余生を大磯で過ごしたことから、妻の湘煙・俊子とともに山口家と晩年まで親交があった。
明治14年10月、日本最初の政党である自由党が結成され、民権運動は新しい局面に入った。翌年湘南社からも12名の民権家が自由党に入党して期待に応えた。自由党の誕生で民権運動は強力な指導政党をもったかにみえたが、翌15年から厳しい試練に直面した。藩閥政府の弾圧政策と松方財政下の経済不況が、結党後わすか3年にして自由党の解党と民権運動の敗北をもたらしたのである。湘南社もほぼこの時期に解散した。しかし、敗北したとはいえ、自由民権運動は近代日本の民主主義史上に不滅の光を放っている。
のちに、大磯町の町長として町づくりに取り組んだ中川良知や私立中郡盲人学校の建設に献身した宮田寅治らの事業に、民権思想の伝統を見出すことができよう。

あゆみ

神奈川県立公文書館は、歴史資料として重要な公文書、古文書等の記録類を継続的に収集・保存し、県民共有の記録遺産として永く後世に伝えるとともに、開かれた県政の一翼を担って、収蔵資料を広く公開することを目的として、平成5年11月に開館し、この10月で1年を経過します。
この間、公文書館の中心的業務の一つである歴史資料の収集については、保存期間の満了した公文書について、県のそれぞれの機関から年間スケジュールに沿って収集し、保存する文書の選別を行い、閲覧できるように整備しています。また、閲覧用図書、地図資料を購入等により収集し、当館の収蔵資料については、整理と修復を行い、良好に保存するとともに、これらを広く閲覧できるようにしています。
また、神奈川に関する古文書等の収集についても所在調査を行い、寄贈、寄託、購入等により、収集に努めています。
次に、利用面については、歴史的公文書、古文書等の歴史資料を、研究者等の専門家だけでなく、広く一般の人々が利用できるようにするため、検索方式として任意の「言葉」で検索可能な自然語検索方式を採用したコンピュータシステムを用意しました。
さらに、県民の学習ニーズに応え、公文書、古文書等の歴史資料を保存し後世へ伝えていくことの重要性について理解を深めるため、展示、講座、講演会等を開催し、多くの方の参加をいただいています。

公文書館の利用状況

平成5年11月から平成6年9月まで

公文書館の利用状況
開館日数 251日
閲覧室入室者数 11,534人
展示室入室者数(開催日数) 9,454人(211日)
書庫内資料利用状況 利用者:490人
資料数:4,352点

古文書解読講座受講者数

古文書解読講座受講者数
初級編(平成6年2から3月) 申込者:586人
受講者:320人
中級編(平成6年5から6月) 申込者:236人
受講者:170人

このページのお問い合わせ先

神奈川県立公文書館 資料課
TEL:045-364-4461
FAX:045-364-4459