この写真はなに?

公文書館に寄贈された歴史資料のひとつに比嘉盛廣氏の資料があります。戦前の文書や本を中心に全部で213点ありますが、そのなかにこの写真がありました。

産業報国体操の写真

ここに写された人たちは何をしているのでしょうか?女性も男性もそろいのユニフォームを着て、集団で同じ動きをしています。女性たちのユニフォームの胸の部分には縦書きで「ビクター」の白抜き文字が見えます。

写真の裏には赤色のペン書きで「(五)」と書かれ、鉛筆で「健康報国体」と縦書きされています。家でこんな写真がみつかったら、ただのわからない写真と片付けられてしまいそうです。

公文書館ではこういう古い資料を大切にあつかいます。それは古い資料だから役に立たないと考えるのではなく、古い資料だからこそ作られた当時のこと がよくわかると考えるからです。公文書館では受け入れた資料をひとつひとつ丹念に調べ、作られた年代、内容などを理解し、データ化しています。そして過去 のことを調べたいときに誰でも検索して利用できるようにしています。その作業を応用して、この写真からわかることを調べてみました。

その結果、くわしいことがわかりました。比嘉盛廣氏の資料に全部目を通していくと「産報神奈川」という新聞があり、その第81号にこの写真と同一の 写真が関連記事とともに掲載されていたのです。この写真は昭和16年(1941)5月11日に横浜公園運動場(今の横浜スタジアム)でおこなわれた第7回 日本体操大会の写真でした。写真の解説によると、これは健康報国体操をしているところで「産報会員三千人が、産報ブラスバンドの吹奏で産業人の律動美を発 揮してゐる」と紹介されています。記事によれば第7回日本体操大会には参加団体1万数千が集まっていましたが、うち3分の1は神奈川県産業報国会の会員 (各社の従業員)でした。

産業報国会とは1930年代以降、国、地方の道・府・県、全国の会社や事業所などにつくられた労働者を統制する組織のことです。国は戦時体制の強化 をはかるため、ドイツにならい、全国の労働者を軍隊のように動かせるようにしていきました。国は道・府・県を指導して産業報国会の結成を奨励しました。 道・府・県は、労働組合のあったところには組合を自主解散させて産業報国会を結成するよううながし、労働組合のなかったところには産業報国会をつくるよう はたらきかけました。労働組合と会社は対立させず、国や道・府・県、会社・事業所、社長から従業員にいたるまで、すべて一致団結して生産に向かわせる運動 をくりひろげたのです。

こうして国の大日本産業報国会の下に道・府・県の産業報国会(会長はおもに知事)が置かれ、さらにその下に所轄警察署ごとの支部(支部長はおもに警 察署長)、そして支部では会社や事業所単位の産業報国会(単位産業報国会)を取り込みました。その結果、昭和15年(1940)末には全国の単位産業報国 会は約6万におよび、会員数は約481万人に達しました。神奈川県の場合、単位産業報国会は1500余りあり、会員は26万人いました。

この写真は昭和16年5月の第7回日本体操大会で神奈川県産業報国会の会員(各社の従業員)が参加し、会社別にならんで体操を披露しているところだったのです。一枚の写真からでも戦争遂行のため、全社一丸となって突き進むという当時の世相がよくわかります。

参考文献

  • 横浜市 1995 『横浜市史 2』 資料編5 戦時・戦後の労働と企業
  • 横浜市 1996 『横浜市史 2』 第1巻 (下)

(担当:神奈川県立公文書館 資料課 行政資料グループ 中根 賢)