『外国人養子縁組関係綴』について
『外国人養子縁組関係綴』について
『外国人養子縁組関係綴』
昭和34(1959)年5月、神奈川県民生部に一通の封書が届きました。差出人は米国ミシガン州に住む大学の助教授。手紙は、養子が欲しいのだが宗教的理由から米国で養子縁組はほとんど望めないので(夫妻はユダヤ人)、日本から「家庭を必要とする混血児(ママ)」を養子にできるよう神奈川県であっせんしてもらえないか、と打診するものでした。さらに手紙には、夫妻は「十分な年収」があり「良い家庭環境と愛情」が提供できること、そして4歳未満で性別・年齢は問わない、養子縁組が成立するならばその年の8月中にも日本を訪れたい、という熱心なことばが添えられていました。
戦後の日本社会において米兵と日本の女性との間に産まれた児童は「占領の落とし子」と言われ、特に家庭のない児童は大きな社会問題とされていました。占領終了後の昭和27(1952)年12月に厚生省は初めてこうした児童の実態調査を行いましたが、その調査によれば全国の児童施設には482名が保護されており、そのうち半数以上の276名(57.2%)が神奈川県内の施設で生活をしていました。施設入所の理由は棄子、父親の帰国、生活困窮、母親の再婚や病気などでした。とりわけ神奈川県は多数の米軍基地を有することからこのような児童や外国人との養子縁組に関する課題が凝縮して現れた地域といえるでしょう。
厚生省の実態調査に先立つ昭和26(1951)年12月には早くも神奈川県は外務省に対して、外国人が養子の目的で日本国籍の子どもを同伴渡航する場合の手続きについて照会をしています(『昭和27年 海外渡航に関する例規通牒綴』渉外課作成)。
米国ミシガンからの国境を越えた養子縁組の打診は、当時の県内児童施設に4歳未満の児童が見当たらなかったことから成立しなかったようですが、県からの返信には大磯の児童福祉施設エリザベス・サンダースホームが「いろいろ御知らせしたい事がある」ようだから照会するように、との文言が加えられています。
それから一年後の昭和35(1960)年6月、厚生省児童局長から都道府県知事及び各指定都市の市長にあてて「国際養子縁組の促進について」と題する通知が出されました。
その通知は、これまで米国人などの外国人が日本の「孤児特に混血児等(ママ)を養子に希望」しても、国際法上の複雑な手続きや多大な渡航費用の点から実現が難しかったが、昭和35年度から国際養子縁組促進費補助金を計上し、社会福祉法人日本国際社会事業団(ISSJ)に対してその事業に必要な経費の一部を補助することになったので、外国人が養子縁組を希望する場合は事業団を活用されたい、というものでした。
連合国軍わけても米軍は日本占領中、この問題を米兵のモラルの低下の所産とみなしタブー視していたようです。その間、日本政府は実態調査さえ行えませんでした。そして独立後8年を経てようやく実現されるに至った施策が、国際養子縁組でした。『外国人養子縁組関係綴』にはその後に成立した日米間の養子縁組が二件記されていますが、ここにも日本の戦後社会における渉外県としての神奈川県の姿が現れているのではないでしょうか。
参考文献:
- 神奈川県社会福祉協議会編『神奈川県下における混血児の状況』(昭和27年)
- 日本国際社会事業団編『国境を越えて愛の手を』(平成10年)
- 神奈川県民生部編『神奈川県の社会福祉事業-その十年-』(昭和37年)
- 加納美紀代「「混血児」問題と単一民族神話の生成」(恵泉女学園大学平和文化研究所編
- 『占領と性』インパクト出版、平成19年)
(公文書館 石原 一則)