計画行政の幕開け
計画行政の幕開け-知事公室企画審議委員事務室の設置-
昭和25年6月22日の県庁前(海岸通り)
昭和20年代前半は占領行政下の県民を飢餓から脱出させ、生活を安定させる県政の応急的修理を行った時期でしたが、後半になると、朝鮮戦争(昭和25年6月~)の特需ブームも起こり、経済復興を反映して県財政も好転してきます。昭和28年には平衡交付金不交付団体になりました。そのような戦後の転機にあたる昭和25年5月に「国土総合開発法」が制定されました。
神奈川県では、戦前から「相模川河水統制事業」などのビッグプロジェクトに着手していましたが、本県の本格的な自治体総合計画の起源といえば、昭和30年3月に発表された「神奈川県総合開発計画書(第1次)」でした。そして、その策定に向けた県の取り組みについての記述は、昭和25年10月の「知事公室企画審議課」(鈴木重信課長)の新設から述べられることが多いようです。
企画審議課の設置は、昭和25年10月3日の訓令第62号神奈川県庁庶務規程の一部改正に拠るものですが、それより9ヶ月前の昭和25年1月9日、訓令第4号で「企画審議委員規程」を定めた際に、従来の「公共事業運営委員会事務室」の業務も引き継ぐ形で、「知事公室企画審議委員事務室」として新たに計画行政事務をスタートさせていたことはあまり触れているものがありません。
1月9日には事務室の責任者として、鴇田(ときた)像一(第一主査)、橋本友喜(第二主査)の両名に発令がありました。鴇田主査は、企画審議課新設時に総務部税政課長に転出しますが、昭和27年10月1日に、横浜県税事務所長から企画審議課長として計画行政に戻ることになります。事務室発足当初、室員は労働事務官を含む8名でスタートし、執務室は庁舎3階の北西角部屋の一部を使用していました。5月26日には人事課長宛に30人配置の要求を行い、7月15日に職員定数は13名に増員しています。
企画審議課新設後の昭和25年12月25日に、神奈川県総合開発審議会条例が公布・施行されます。昭和26年3月31日の審議会の開催を皮切りに、昭和29年3月22日の第4回審議会の検討を経て、昭和29年度を初年度とする5ヶ年計画の『神奈川県総合開発計画書(第一次)』が、神奈川県総合開発審議会名で出されました。1総論、2工業地帯整備、3交通、4農水産振興、5水政、6都市整備、7観光地帯整備の7項目の柱立てで、B4版でおよそ300ページの孔版印刷物です。なお、計画完了時の達成率は86%でした。
第4回総合開発審議会の開催を報じる
昭和29年3月23日付け神奈川新聞 公文書館所蔵の関係資料の一部
また、総合開発審議会とは別に、地方自治法第174条に基づく専門委員を昭和26年2月20日付けで発令し、東京大学の大河内一男・田中二郎・磯部秀俊氏ほかの専門委員を中心に、京浜工業地帯総合実態調査・箱根周辺地区観光実態調査・農村実態調査・地下資源調査・相模川総合開発基礎調査などが行われたことも大きな成果でした。
「内山岩太郎知事(当時)は、戦争で潰滅した日本経済の再建は、どのような方向にむかってなされるべきなのか、そしてその中で、神奈川県の産業はどのような地位に在るべきなのか、それを見さだめたいという強い意向を持っていた」と、大河内氏は述べています
(公文書館 佐々木 徹)