産業教育の振興

産業教育審議会関係書類
産業教育審議会関係書類

昭和35年ごろから始まった高度経済成長は、国民の所得水準の上昇をもたらし、高学歴志向の風潮を生みました。またベビーブームの波はこのころ高校におよび、これらを背景に高校進学率が75%を超えるようになりました。このような中、県は生徒急増対策に全力を注ぎ、高校の新増設を行うことによって定員増をはかりました。そしてもう一つこの時期の県独自の政策に、産業教育の振興と近代化がありました。というのも、神奈川県は京浜工業地帯を擁するばかりか県内陸部にまで産業地が拡大し、県内に大量の技術者・技能者が必要となり、その対応として産業教育の充実が課題となったからです。

県はまず、工業教育の内容改善、工業高校の新増設を重点課題として、昭和35年、県産業教育審議会に諮問しました。審議会は県内企業の調査を進め、同年8月、調査集計(当館所蔵)を発表しました。これによると、県内134の企業のうち約70%が「工業高校卒は大学卒の下の中堅技術者としてなくてはならない」と答えており、特に機械科・電子科の生徒を必要としているとの結果が出ました。これを受けた県は、昭和37年、相模台工業・小田原工業・向の岡工業・磯子工業の4工業高校を開校し、対応しました。

また、就業率の低下が続いている農業教育については、その近代化、農業高校の体質改善を目指して、東大・磯辺秀俊氏に「農業教育調査」を依頼し、その報告(当館所蔵)に基づいて、昭和40年自営農者養成を行う中央農業高校を開校しました。

建設中の中央農業高校農場
建設中の中央農業高校農場

二俣川高校看護実習のようす
二俣川高校看護実習のようす

一方専門教育の面では、昭和39年、衛生看護の専門高校として二俣川高校が開校します。この時の会議資料が当館に残っていますが、その中で当時の津田副知事は、3.64倍の競争率になったことに対して、「医師会から定員を増やして欲しいと陳情があったが何とかならないか」とたずねています。これに対し教育長は、「クラスを増やすわけにはいきませんが、1クラス54名まで補欠を多くとれます」と答えており、内山知事はこの人気を「衛生部の宣伝が当たった」と述べています。また昭和40年には、世界にはばたく貿易マンを育成する「全国初の外国語専門高校」として、貿易外語高校(後の外語短大附属高校)も開校しました。

このように、1960年代は産業教育の充実が目立った時期でしたが、70年代に入ると高度経済成長の進展により、高学歴志向がより一層強くなり、職業高校への進学者は減少し、大学を目指して普通科への希望者が増えていきました。

(公文書館 西澤 均)