神奈川の戦後と「婦人保護台帳」
神奈川の戦後と「婦人保護台帳」
「婦人保護台帳」
公文書館は県職員が職務上作成または授受した文書のうち、歴史的文化的に重要なものを選択して保存し、利用者のさまざまなニーズに応えるという任務を持っています。これまでに多種多様な資料の閲覧請求がありましたが、中でも「婦人保護台帳」は深く印象に残るものでした。
昭和25年、神奈川県は当時磯子区にあった県立屏風ヶ浦病院内に婦人更生相談所を設置しました。これは売春を行っていた女性の更生相談を目的とした全国初の施設であり、その設置は売春防止法が公布される6年前のことでした。法制定以前にこうした更生施設を設けた理由は、神奈川県が占領下の横須賀基地および厚木基地そして海外との玄関口である港都横浜を抱え、「他の府県には見られない戦後売春婦の蝟集地(いしゅうち)」と化しているという認識があったからでした。更生相談所はその後婦人相談所と名称を改め、相談内容も売春だけでなく家出・浮浪などが加わります。そして、昭和31年に長い間懸案だった売春防止法が制定されると、女性の基本的人権を擁護する機関として業務を拡げていきました。こうした神奈川県の動向は、売春防止法が規定する更生施設のテストケースとして全国から注目をあびました。
婦人相談所1(1958年5月広報課撮影写真)
婦人相談所2(1958年5月広報課撮影写真)
公文書館が所蔵する更生相談記録は昭和25年の婦人更生相談所時代からのものがあり、そこには戦争と占領に色濃く覆われた人たちの辛酸に満ちた生活が記されています。軍事工場に徴用中空襲で手首を失い、職も得られず横浜に来て米兵の「オンリー」になったが米兵は帰国、残された二人の子供を抱えて街娼になったという女性。戦前に家族と一緒に北海道から東京の江東区に移り住んだが昭和20年3月の東京大空襲で家族と死別、その後は子守奉公、食堂の店員などの職を転々とするうちに或る男性と知り合い、ついには芸妓に売られた19歳の女性。こうした女性たちの話には時として虚偽が含まれていることがあるようですが、大半の人々は貧困と飢渇に追われるように「転落」した女性たちでした。
今、昭和30年代の風物が一種のブームのようにもてはやされていますが、こうした記録を読むとこの時代がただ懐かしさだけを抱かせる世界ではないこと、そしてそれを懸命に記録しようとした婦人相談員の姿が浮かんでくるようです。
注:「婦人保護台帳」は氏名、年齢、住所、家族構成、本籍地、保護に至った生活経歴、保護指導経過などで構成され、プライバシー情報を多量に含んでいます。公文書館では個人が識別される部分またはその虞がある部分はすべて墨塗りをした後、それを複写して提供しています。
参考文献:
- 神奈川県婦人相談所他編『婦人相談所のあゆみ』(昭和37年)
- 神奈川県立婦人相談所『婦人相談所創設50周年記念誌』(平成12年)
(公文書館 石原 一則)