昭和の町村合併
昭和の町村合併
公文書館所蔵の合併関係書類の一部
平成の合併で、明治以来使われていた「津久井郡」という名称も久良岐郡(くらきぐん)や橘樹郡(たちばなぐん)などのように歴史的名称に変わっていくことになりましたが、過去に実施された政府主導の大規模な町村合併に、明治22年の「市制・町村制」施行直前と、昭和28年の「町村合併促進法」によるものがあります。
明治の大合併で、本県は1355区町村が321市町村に減少しました。その後、明治26年の多摩3郡の東京府移管、横浜・川崎の市域拡大、戦時中の軍都建設の強制合併などを含め、徐々に進んだ統合などで、昭和の大合併直前の昭和28年10月に、本県は8市35町73村の計116団体で、もはや自然村は存在していない状況でした。
シャウプ勧告に基づいて設けられた「地方行政調査委員会議」が、人口7千~8千人の町村規模を前提とした事務再配分と、町村規模の適正化を勧告したのは昭和25年12月でした。当初、本県は既に町村数が比較的少なかったという事情などから、多少静観していた様子が見られましたが、昭和28年に町村合併促進法が成立・施行される見通しが明らかになると、総務部地方課は、PR用のパンフレット『町村合併シリーズ』を法律施行前に刊行して広報活動を開始しました。神奈川県町村合併促進審議会の設置、町村合併基本方針の決定を経て、東京大学鵜飼教授が作成した合併計画試案を基に、審議会が三浦郡を除く合併計画の1次答申をしたのが昭和29年7月15日でした。
町村合併促進審議会会議状況
清川村の合併祝賀行列
合併協議の際には、地域固有のさまざまな事情が顕在化するので、計画どおりに事は運びません。30件余の合併計画に対して、計画通りの合併は半分以下でした。調整役の県職員の苦労が偲ばれます。この折に渋谷町や大根村など7団体が分町・分村していますが、ある分町騒ぎの地域では、こん棒を持った住民から地方課職員が罵倒されるという場面もあったようです。しかし、各地方事務所や地方課の職員、審議会委員の努力もあり、当初の遅れを取り戻すように合併が徐々に進んでいきました。
箱根町の合併を嚆矢として、町村合併促進法が失効した昭和31年10月1日、神奈川県は13市24町3村の40団体(法律施行直前の35%)になりました。当初計画の112.5%という全国一の進捗率です。地域の合併の動きは、弱小町村の解消という計画を超えて、都市化傾向・市域拡大を自主的に選択したといえます。
『ひとつとしてこちらの思うように運ばなかった』『よい人生勉強をしました』『君、町村合併は地方政治そのものだよ』秋山地方課長(昭和25~29年度)の言葉が刊行物に残されています。
(公文書館 佐々木 徹)