主な資料(近世資料)
主な収蔵資料 近世
現在の神奈川県域は、徳川家康の関東入国から明治維新までの約280年間、大名の大久保氏が小田原を治め、その他は幕府領と旗本領でした。経済的・政治的に重要な位置を占め、幕末にはペリー来航により開国の舞台となりました。 |
1.地頭小笠原貞晃法度17箇条 宝永2年(1705)正月
「覚(農民法度)」 ID:2199431014 (寄託/山本家文書)
小笠原氏は小笠原経信の二男貞信が分家して寛永10年(1633)白根村二給・神戸村(現伊勢原市)に500石 宛行されました。領主が所領を支配する時、その度ごとに出す命令とは別に所領支配の根本となる法を定めますが、旗本の法令を通常「地頭法」といいます。神 奈川県内には17の地頭法が残されています。
2.砂村新左衛門覚書 寛文6年(1666)
「砂村新左衛門覚書」 ID:2200901509 (近世諸家文書)
横須賀の内川新田などを開拓した砂村新左衛門が、死の前年に子孫に書き残した遺訓。内川新田は万治3年(1660)の検地では、石高が360余石あり、横須賀市内最大の新田でした。
3.朝鮮通信使大磯宿滞在史料 宝暦14年(1764)
「朝鮮人通行馬入川船橋にて架橋の図」(左) ID:2200701006
「相模国大磯宿朝鮮人昼休下行方諸道具帳」(右) ID:2200701001
(朝鮮通信使関係文書)
「朝鮮通信使」とは、幕府の将軍が就任した際に祝賀のため派遣された使節です。室町から江戸時代にかけて20回 来日しました。宝暦14年のものは477名(内106名は大坂残留)の大使節団でした。彼らは釜山より海路大坂に至り、淀から京都を経て東海道を江戸へ参 府しました。
4.御本陣御休泊記録(帳) 寛政元年(1789)
「御本陣 御休泊記録(帳)」 ID:2199435409
(武蔵橘樹郡神奈川宿本陣石井家文書)
東海道神奈川宿の本陣石井家の宿帳で、当地で休憩、宿泊した公家や諸大名の人数や休泊賃などが記されています。また、江戸幕府御用の茶壷が宇治から江戸まで運ばれる「お茶壷道中」の途中、神奈川宿石井本陣に宿泊した記録があります。
石井家
江戸時代を通じて、東海道神奈川宿の本陣をつとめ、名主、問屋を兼任し、名字帯刀・裃着用を許されていました。 |
5.奥右筆大澤氏先祖書、親類書、遠類書 享和元年(1801)
「先祖書、親類書、遠類書」 ID:2200445751 (寄託/大澤家文書)
奥右筆は、老中や若年寄の政務全般に関与し、彼らの諮問に基づいて先例の調査や、自らの意見を具申するなど幕府運営上極めて重要な役割を果たしていました。この文書は、大澤氏先祖から直行に至る系譜、親類・遠縁の履歴を書上げてあります。
大澤家文書(おおさわけもんじょ)
相模国高座郡蓼川村(たでかわむら)(現在、綾瀬市内)に500石の知行地を有し、徳川幕府の奥右筆を努めた旗本大澤家に伝来した文書です。 |
6.〔許状〕 文化7年(1810)
〔許状〕 ID:2199700348 (寄託/手中家文書)
大山の宮大工であり、大山御師(おし)(祈祷師)でもあった手中明王太郎信景が、文化7年に神道の元締めであった京都の神祇伯白川家から上棟祭の神事や烏帽子等の着用を許可された文書です。
7.小金原御狩記・同付録 嘉永年間
「小金原御狩記・同付録」 ID:2200901510 (近世諸家文書)
小金原は下総国葛飾郡・印旛郡(現在、千葉県松戸市)にあり、幕府直轄の馬の放牧場でした。またこの地は将軍主催の大規模な鹿狩(ししがり)が4回行われた遊猟場でもありました。この巻子は嘉永2年の鹿狩の様子を描写したものです。
伏見家
伏見家は相模国淘綾郡中里村(現在、二宮町)・黒岩村(現在、大磯町)に500石を領した旗本の家柄で、代々剣術の使い手です。 |
8.太政官の高札(4枚) 慶応4年(1868)
当館には「五榜の掲示」5札のうち、4札があります。「五榜の掲示」とは明治政府が「五か条の御誓文」発布の翌日に出した人民の心得を示した5枚の高札です。第1・2・3札は定三札とされ、永年掲示としました。第4・5札は覚書で臨時の掲示でした。掲出は第2札。