主な資料(中世資料)
主な収蔵資料 中世
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、神奈川は日本の歴史上で中心的な役割を果たしました。室町時代には鎌倉に関東府が置かれて東国経営の政治的拠点となり、戦国時代には北条氏が戦国大名として関東に覇をとなえました。 |
1.六波羅下知状(ろくはらげちじょう) 承久3年(1221)
「六波羅下知状」 ID:2200930515 (中世諸家文書)
鎌倉幕府軍の総指揮官として京都に入った北条泰時(武蔵守)、北条時房(相模守)が、承久の乱を鎮圧した後、六波羅にとどまり武士の狼藉を禁止したものです。鎌倉幕府の公式文書。
2.御成敗式目(貞永式目) 貞永元年(1232)(天正2年写本)
「御成敗式目(貞永式目)」 ID:2200930502 (中世諸家文書)
鎌倉幕府3代執権北条泰時は、源頼朝以来の先例や武家の間に行われた慣習法を規範として、御家人の権利・義務・裁判の基準など51か条の成文法を制定しました。
貞永式目は最初の武家法として以後の武家社会に大きな影響を与えました。なお本冊には、角筆という角(つの)で書き込みをした文字が見られます。
3.足利直義御教書(あしかがただよしみぎょうしょ) 暦応3年(1340)
「足利直義御教書」 ID:2200930523 (中世諸家文書)
室町幕府を開いた足利尊氏の弟で、開府初期幕府の政務を担当した直義が、鎌倉山ノ内にあった保寧寺(ほねいじ)を、将軍家の祈願所(天下泰平・戦勝などを祈る寺)に認定した文書です。室町幕府の公式文書。
4.前将軍足利義政御内書(さきのしょうぐんあしかがよしまさごないしょ) 文明14年(1482)
「前将軍足利義政御内書」 ID:2200930202 (喜連川文書)
関東公方足利成氏と関東管領上杉氏との対立は享徳の乱をきっかけとして、幕府・上杉方対成氏方の20年を越える争いに発展しました。この文書は文明14年に幕府と成氏との間に和睦が成立したことを示すものです。
喜連川文書(きつれがわもんじょ)
将軍足利尊氏の二男基氏から始まる関東公方足利家の文書で、その後裔喜連川家(きつれがわけ)に伝来した文書です。 |
5.伊勢(北条)家朱印状 大永2年(1522)
「伊勢(北条)家朱印状」 ID:2200447416 (寄託/三島神社文書)
戦国大名である北条氏綱(小田原北条氏2代目)が、大井宮(現在、大井町三島神社)の諸役免除等三か条を定めた 法令で県下最古の朱印状です。月日の上に押された朱印は、「虎の印判」とよばれ「祿壽應穏(ろくじゅおうおん)」と陽刻された方形の上部に虎のうずくまっ た姿がのっています。
6.相模国篠窪百姓中座敷掟書(さがみのくにしのくぼむらひゃくしょうちゅうざしきおきてがき) 天文4年(1535)
「篠窪百姓中座敷之事」 ID:2200446781 (寄託/小島家文書)
篠窪村(現在、大井町)および神山村(同)の村民10人の三嶋社拝殿における座次を一番から十番まで定めたもので、この座に着席できるものを座持といいました。
7.北条家朱印状 永禄9年(1566)
「北条家朱印状」 ID:2200800602 (豊前氏古文書)
北条氏が戦国武将豊前山城守宛に江戸城内にあった有瀧氏の屋敷を給与し、その所有を保証した朱印状(公式文書)です。この朱印状は、所望によって給与された所領が戦国大名の公式文書で安堵されている点が注目されます。
豊前氏古文書(ぶぜんしこもんじょ)
医術をもって古河公方家(関東足利氏)に仕えた豊前氏に伝来した文書です。 |
8.北条氏康書状 永禄12年(1569)
「北条氏康書状」 ID:2200800705 (山吉家文書)
北条氏が武田信玄の侵攻を阻止するため上杉氏と同盟を結んだいわゆる「越相同盟」に関する文書です。
これは武田信玄が駿河国御厨郡(現在、御殿場市)に出陣したことを山吉豊守(やまよしとよもり)(上杉氏の申次=取り次役)に伝え、後方からの支援を上杉輝虎(謙信)に依頼したものです。
山吉家文書
上杉謙信の家臣であった三条城主(現在、新潟県三条市)山吉家に伝来した文書です。 |
9.北条氏康書状 永禄12年(1569)
「北条氏康書状」 ID:2200800603 (豊前氏古文書)
豊前山城守の後室が永禄12年10月6日の三増峠の合戦で戦死した夫の遺品(梅の絵)を氏康に寄贈したことに対 する礼状です。女性宛の書状であるため、仮名書きとなっています。また、差出人の諱(いみな)の上一字を仮名で書くなど中央(京都)の作法(有職故実)に 従っています。
10.北条家朱印状 永禄12年(1569)
「北条家朱印状」 ID:2200800604 (豊前氏古文書)
豊前山城守が三増峠の合戦で戦死したため、北条氏政が夫の恩給地を未亡人となった夫人に安堵したものです。女性宛のものであるため、朱印状のような公式文書にも仮名書きを使用しています。
11.豊臣秀吉禁制 天正18年(1590)
「豊臣秀吉禁制」 ID:2200437171 (寄託/間宮家文書)
この禁制(きんぜい)は、豊臣秀吉と北条氏直との小田原合戦の際に秀吉が相模国金子郷(現在、大井町)に発給した文書です。戦乱のなかで起こる軍勢の狼藉、放火、百姓などへの非法行為から身や生活を守るために金子郷民が豊臣秀吉に保護を求めた結果、交付されたものです。
12.北条家定書 天正18年(1590)
「北条家定書」 ID:2200930403 (小幡文書)
小田原落城の約1か月前、北条氏が籠城中の諸将に対して、持ち場での守るべきこと、任務のあり方を定めた朱印状です。小田原城を包囲した秀吉軍22万に対して、籠城した北条方の勢力は約10万と推定されています。
小幡文書
戦国時代、北条氏の家臣として活躍した上野国国峰城主小幡家に伝来した文書です。 |
13.坪帳(篠窪村検地帳) 天正19年(1591)
「坪帳」 ID:2200446257 (寄託/小島家文書)
足柄上郡篠窪村(現在、大井町篠窪)の検地帳(土地台帳)です。この地は『所領役帳』に「篠窪民部丞卅貫五百六 十文畠西郡篠窪」とあります。この検地帳には、田畠の区画一筆ごとに持ち主の名を記し、合計すると田一町六反余、畠十九町六反余が記載されています。畝が 使用される以前の田畑面積単位であった大半小の記載が見られます。