神奈川県 神奈川県史 通史編4 近代・現代(1) 政治・行政1 明治元年5月の箱根戦争 (明治10年御届 画工 早川松山 出板人 小林鉄次郎) 春日俊雄氏蔵 明治初期の横浜本町付近のにぎわい 神奈川県立文化資料館蔵 左にみえる門のある建物が神奈川県庁で右が時計台 街を通る人びとの風俗も興味深い 1875(明治8)年 横須賀製鉄所の外人官舎 石黒敬章氏蔵 新技術を導入するため多くの外国人を雇った 横須賀には外国人用の大小宿舎集会所など洋風建物が建ち並んでいた 1876(明治9)年当時の県域図 国立公文書館蔵 国界 郡界 新郡界 府県 郡役所 足柄県を合併した直後で 1893(明治26)年の三多摩分離までこの県域がつづく 横浜裁判所総督東久世通禧と日記 写真 福井市立郷土歴史博物館蔵 日記 東久世家蔵 東久世通禧は 明治元年3月19日から4月22日まで総督をつとめた 日記は横浜に到着した時の公務を記したもの 県会開設当時の議員と県官 『神奈川県会史』から 1879(明治12)年最初の県会が開かれ47名の議貝が招集された 郷学校の教科規則 高橋磐氏蔵 教科規則は 県の郷学校掛がつくった写真はその仮規則の一部で 洋単語や会話なども含まれている 箱根の風景 小林清親画1880年代 神奈川県立博物館蔵 この絵は 箱根山中より冨嶽眺望と題している 電柱が強調されているのが面白い 地租改正時の真土村地引絵図 平川良一氏蔵 1873(明治6)年「地租改正条例」の布告以後 各村ごとにこのような絵図が作製された大住郡真土村(現在平塚市)ではのちに有名な真土事件が起っている(絵図の大きさは縦380㎝横270㎝もある) 地積測量器具 小林英男氏蔵 橘樹郡小杉村の小林三左衛門が自分で製作し 地租改正時に使用したといわれている 南金目村絵図 1875(明治8)年 上野敏子氏蔵 南金目村は現在平塚市 大区小区制が実施されるに従って 各村ごとにこのような絵図が作られた 明治中期の横浜ガス局 神奈川県立博物館蔵 子の徴兵に子指を切って励ます図 古江亮仁氏蔵 自由民権家の集会に使われた岡持 難波精一氏蔵 愛甲郡荻野村(現在厚木市)に結成された民権結社「講学会」の集会に 旅籠辰己屋の岡持で仕出し弁当が用意された 露木事件関係者の供養塔 大磯町西長院境内 弘法山山頂からの眺望 1980年2月撮影 松方デフレ下農民生活困窮により農民騒擾が激しさをました 大住郡の農民300名が負債の延納・利子の減免を要求し秦野の弘法山に立てこもり組織的な行動を起こした 自由党報と自由党報告書 1882(明治15)年自由党報 第7報 神奈川県自由党貝伊藤・水島等の名がみえる 江村栄一氏提供 自由党報告書 自由党武相支部の印があり都筑郡党員にあてて配布されたもの 小島幸康氏蔵 帝国憲法発布を祝う仮装スナップ―横浜― 石川徳門氏蔵 辞令 安藤進・福井よし子氏蔵 上右 足柄県地巻取調掛辞令 上左 足柄県第9戸長辞令 中右 第22大区議貝認可証 中左 年俸が書かれた辞令 下 衆議院議員証 日露戦争の凱旋を祝うはりがみ 大谷喜作氏蔵 横浜市常盤町 石川町などでつくられた凱旋祝の歌やはり紙 この他名刺などにも「祝凱旋」が刷りこまれた 明治末の横浜市街 手塚弥太郎氏蔵 愛甲郡依知村における耕地整理の情景 『神奈川県写真帳』から 現在の厚木市関口において明治末から大正はじめにかけて実施された相模川沿岸の耕地整理 明治末から大正12年までの県庁舎 『神奈川県写真帳』から 上 七里ヶ浜の海草取りの風景 県史編集室蔵 中 養蚕風景 養蚕農家で生産用具などをもっている人びと 古木義生氏蔵 下 たばこ生産の様子 たばこ葉の栽培から出荷までほとんど家内労働であった 日本専売公社中央研究所蔵 農村漁村で働く人びと 海水浴客でにぎわう大磯海岸 大磯町役場蔵 大磯海岸は日本で最初の海水浴場といわれ 1887(明治20)年東海道線が国府津まで延長されると京浜地方の海水浴場として一躍有名になった 錦絵は歌舞伎役者が禱龍館前の浜辺で泳ぐ様子 序 神奈川県史における近代・現代通史編は、政治・行政と産業・経済に大別いたしました。 この巻には、明治元年から大正はじめまでの神奈川県の政治、行政はもとより社会及び文化の各分野でおきたさまざまな出来事を通し時代の推移が叙述されています。 神奈川の近代史を一べつしますと、県の成立、県会の開設、自由民権運動、三多摩の東京府移管、日清・日露戦争……忘れることのできない事件が続きますが、なかでも、日本開国の舞台となり、文明開化の先駆者であった明治維新期の神奈川は、「世界に開かれた日本の窓」として、わが国近代史のなかで大きな役割を果たしてきたことは周知のことと思います。 この巻の刊行にあたり、数多くの調査や困難な執筆及び監修にあたられた皆様と貴重な資料の提供に御協力下さった方々に対し、心から感謝申し上げます。 昭和五十五年三月 神奈川県知事 長洲一二 凡例 一 本巻は、神奈川県史通史編4近代・現代⑴政治・行政1として、明治元年(一八六八)神奈川県の成立から大正初頭(一九一〇年代)までを対象として叙述した。 一 人名は、敬称を略し、そのよみは、外国人を含め一般的に用いられているものに従った。 一 地名は、原則として、記述されている時代の用例を用い、その下に()で囲んで現在の地名を示した。 一 職業や職種の呼称等歴史的用語は、原則として、記述されているその時代の用例を用いた。 一 年号は、明治五年(一八七二)十二月三日に大陽暦を施行して明治六年一月一日と改めた時までは、日本年号に西暦を()で囲んで示し、それ以降は、西暦に日本年号を()で囲んで示した。日本年号を西暦で示す場合、実際には年数にずれのある場合もあるが、とくに年月日を換算して記述した場合以外は、現在の一般の慣行に従い、単純換算を行った。 一 神奈川県史資料編を引用する場合は、「資料編11近代・現代⑴一五」のように、巻名と資料番号(資料番号のない資料編はページ数)を示した。 一 本巻の編集は、大久保利謙・山口修・今井庄次・金原左門・江村栄一が担当し、執筆については、このほかに専門の研究者の協力をえた。監修は、大久保利謙が当たり、全体の統一・調整を行った。 表紙題字 元知事 津田文吾 目次 序 凡例 はじめに 総説 ―明治時代の地方政治と社会風土― 第一編 明治維新と神奈川県 第一章 神奈川県の成立 第一節 変革期の相武 一 神奈川県成立の特異性 27 神奈川県名の由来(27) 横浜開港(28) 神奈川奉行の設置(30) 創設当初の神奈川県(31) 二 横浜の繁栄 32 府県列順(32) 貿易の中心(33) 三 王政復古と相武 34 大政奉還と王政復古(34) 荻野山中藩陣屋の焼き打ち(35) 鳥羽伏見の戦と東征軍の派遣(39) 第二節 神奈川県の誕生 一 神奈川裁判所の開設 41 列国、外交責任者の横浜派遣を要請(41) 海軍先鋒総督の横浜上陸(42) 東海道鎮撫総督参謀木梨のパークス訪問(43) 東征軍先鋒と神奈川奉行との接触(44) 東海道先鋒総督と神奈川奉行の会見(45) 横浜裁判所総督の任命(46) 神奈川裁判所の開設(48) 神奈川奉行水野・依田の退去(50) 神奈川府と改称(51) 横須賀製鉄所の管理(52) 浦賀奉行土方勝敏の退去(54) 二 神奈川県の設置 55 府から県へ(55) 最初の神奈川県職制(57) 総督・知事の外交(60) 三 県行政の発足 61 管轄区域の問題(61) 県政の発足(64) 第三節 版籍奉還と諸藩の藩政改革 一 王政復古政変と小田原藩 67 藩主召命(67) 二 小田原藩の勤王声明 70 東征軍に協力の命(70) 箱根関所の占領(71) 江戸開城と小田原藩(72) 三 箱根戦争と小田原藩 73 林忠崇と遊撃隊士(73) 林忠崇の小田原藩説得(74) 箱根戦争の勃発(75) 藩論の急転換(77) 戦禍と町民(79) 問罪使の派遣(80) 小田原藩の伏罪処分(81) 四 版籍奉還と藩政改革 82 府藩県三治制(82) 版籍奉還(83) 小田原藩の藩制改革(84) 小田原城の破却と本陣脇本陣の廃止(88) 荻野山中藩の領地更新(89) 版籍奉還と荻野山中藩・六浦藩(89) 第四節 開港場の新文化 一 横浜絵 91 日本のなかの異国(91) 横浜浮世絵(92) 居留地の風俗(94) 二 新聞の発刊 96 新聞紙の誕生(96) 「新聞の父」ジョセフ・ヒコ(99) 『新聞誌』と『海外新聞』(101) 維新前後の新聞(103) 三 キリスト教の伝来 107 布教の基礎(107) プロテスタント伝道(108) カトリック伝道(109) ハリストス正教会(111) 第二章 神奈川県の再編と諸改革 第一節 新県の開設 一 廃藩置県と新神奈川県 114 廃藩置県と諸県統合(114) 新神奈川県の成立(115) 県政の発足(117) 神奈川県裁判所の創設(119) 二 足柄県の設置と廃止 121 足柄県の設置(121) 韮山県の廃止(123) 足柄県の廃止(124) 足柄県再興の動き(125) 第二節 地租改正 一 地租改正実施への動き 127 租税改革の動き(127) 神奈川・足柄両県の壬申地券の交付(129) 二 神奈川県下の地租改正 132 地租改正事業(132) 改租事業と地価算定(133) 地租改正事業の完了(138) 三 地租改正をめぐる農民の動向 140 改租事業と農民の不満(140) 真土事件(141) 瀬谷村ほか六か村改租不服運動(145) 第三節 「学制」改革 一 「学制」前の教育機関 149 私塾・寺子屋の変容(149) 郷学校の設置(151) 二 「学制」の施行と小学校の設立 155 「学制」の実施(155) 進まない小学校の設立(158) 中等教育機関の情況(160) 三 小学校の維持と就学の実情 163 住民の負担(163) 就学の督促(166) 第四節 徴兵令の発布と施行 一 徴兵令の制定 170 徴兵令の布告(170) 不公平な徴兵免役規則(172) 二 徴兵の実情 174 徴兵令の実施(174) ふえる徴兵忌避(179) 三 西南戦争と県民 185 台湾出兵(185) 西南戦争と県民(185) 第三章 文明開化の諸相 第一節 交通・通信機関の開設 一 電信の開通 189 電信機と蒸気車(189) 伝信線の敷設(190) 公衆電報の開業(192) 二 郵便の開業 194 東海道筋の郵便(194) 横浜郵便の開設(196) 郵便路線の拡大(196) 三 鉄道の開通 201 鉄道建設の開始(201) 鉄道仮開業(202) 新橋―横浜の鉄道(203) 馬車と人力車(205) 四 通信網の伸張 208 電信線の延長(208) 電信局の増設(210) 外国郵便の開業(211) 第二節 キリスト教の移入 一 禁教下における宣教師の活動 214 宣教師の渡来(214) ヘボンの活動(215) ブラウンの活動(218) バラ塾と日本基督公会(220) バプテスト派の伝道(221) 二 外国人を対象とした教会 223 プロテスタント教会(223) 横浜天主堂(225) サン・モール修道会(227) 横須賀天主公教会(229) 第三節 開化の文物 一 日刊新聞の誕生 230 『横浜毎日』の発刊(230) 『横浜毎日』の発展(232) 『横浜毎日』の後身(234) 二 初期の新聞と雑誌 236 各種新聞の発行(236) 『仮名読新聞』(237) ポンチ絵の登場(239) 三 洋式の建造物 241 鉄橋と洋風建築(241) ホテルと洋風旅館(243) 四 文明ことはじめ 245 十全医院の開設(245) 横浜ゲーテー座(247) ビール醸造の開始(249) 第四節 廃仏と神道の再編 一 神仏分離の実情 251 鶴岡八幡宮(251) 阿夫利神社(253) 江島神社(254) 二 神社の創建と社格 255 鎌倉宮の創建(255) 伊勢山皇大神宮(256) 社格の決定(258) 三 丸山教の開教 260 丸山教の基盤(260) 六郎兵衛の開教(261) 「おしらべ」の思想(263) 第二編 明治前期 第一章 地方三新法の成立 第一節 大区・小区制 一 統治機構の再編成 267 寄場組合村から戸籍区の成立へ(267) 区番組制から大区小区制へ(270) 区番組制(273) 二 大区・小区制の展開 275 大区・小区制(275) 大区小区と民費(278) 会議体の設置(280) 代議人制度(283) 代議人の増員(284) 代議人制度の変質(286) 第二節 初期の県会 一 地方三新法と神奈川県会の発足 289 地方三新法(289) 県会の権限と議員資格(289) 『横浜毎日新聞』の論評(291) 選挙の実施と県会議員の群像(292) 県会の組織(293) 二 最初の予算と県会審議 294 新しい予算編成案(294) 県民の地方税負担(296) 県会の二割削減(298) 横浜歩合金問題と郡区の対立(301) 三 郡部会・区部会の設置 303 地方経済郡区分離条例の成立(303) 一八八〇年度歳出予算における三割削減(304) 同歳出予算における変化(305) 郡部会・区部会の設置(306) 四 県会と政府の対立 308 県令公選論(308) 備荒儲蓄規則の再否決と原案執行(309) 監獄費等の地方税移管と土木費国庫下渡金の廃止(311) 一八八一年度予算の審議(312) 一八八一年の政変と県会(315) 第三節 郡区・町村の編制 一 郡区の編制と機構 317 郡区町村編制法(317) 郡役所の設置と紛議(318) 郡役所の職務内容(320) 初期の郡区長(322) 二 戸長と町村会 325 戸長と戸長役場の設置(325) 戸長の性格と公選制(327) 県独自の町村会規則(329) 区町村会法による再編(331) 三 三新法体制の展開と動揺 333 達書の流れ(333) 町村の協議費(334) 町村行政の民主化の動き(336) 郡区長公選の建議(338) 第二章 自由民権運動 第一節 国会開設運動 一 その前夜―運動の発端― 340 八王子・三浦・小田原の動き(340) 桜井提案と第三回地方官会議(342) 二 広がる運動 345 典型的な県議路線(345) 郡村ぐるみの運動(348) 大量署名の秘密とその分析(349) 三 県令の妨害 351 野村県令の妨害と干渉(351) 県令と対決する請願総代(353) 四 福沢諭吉と相州 354 建白書の起草者・福沢の企図(354) 福沢の国会論と相州の運動(357) 五 県会のたたかい 359 経費削減と民力休養をめざして(359) 『東京横浜毎日新聞』の役割(362) 第二節 結社の発展 一 多彩な結社の誕生 363 横浜区(365) 橘樹郡(366) 都筑郡(368) 西多摩郡(369) 南多摩郡(371) 北多摩郡(378) 三浦郡(381) 鎌倉郡(381) 高座郡(382) 大住郡・淘綾郡(382) 愛甲郡(383) 津久井郡(386) 足柄下郡(386) 在東京の結社(387) 二 結社の総括 389 第三節 自由党と立憲改進党 一 自由党の結成 391 自由党準備会への参加(392) 自由党結成への参加(394) 地方部の設置(395) 二 三多摩地域の自由党 397 南多摩郡自由党(397) 南多摩郡の自由党員名簿(398) 南多摩郡自由党員の社会的位置(404) 北多摩郡自由党西多摩郡自由党(406) 三 愛甲郡自由党 407 相愛社との関係(407) 党員の名簿(407) 大衆組織を持った愛甲郡自由党(409) 四 県下の立憲改進党 411 少ない党員(412) 第四節 自由民権運動の思想 一 自由民権思想の普遍性 414 二 憲法構想 416 肥塚龍の一院制論(416) 埋もれていた憲法草案(417) 特色ある五日市憲法草案(418) 千葉卓三郎と学習結社(420) 未完の人権憲法(422) 湘南社員の主権論(429) 三 人民に対する認識の問題 430 地方自治の主張(430) 多彩な論点(432) 人民認識の問題性(436) 第五節 松方デフレと県下の情況 一 松方財政と地域の状況 437 不況にあえぐ農村(437) 高利貸資本の跳梁と収奪(439) 二 激化する農民騒擾 442 露木事件(一色騒動)(442) 弘法山騒擾(444) 三 武相困民党のたたかい 446 御殿峠の大騒擾(446) 武相困民党の大連合なる(448) 県令交渉と困民党の終末(451) 四 地租軽減運動 453 自由党主導下の運動(453) 愛甲郡の地租軽減運動(454) 五 困民党と自由党 457 二つの困民党論―秩父と武相―(457) 対立する自由党と困民党(459) 第六節 自由民権運動の変容 一 国会開設期限短縮の建白 462 自由党の解党と国会開設期限短縮の建白(462) 吉野泰造らの建白(464) 石坂昌孝らの建白(465) 民権変容の萌し(465) 二 大阪事件への参加 466 大阪事件の背景(467) 大井憲太郎らの計画と行動(468) 本県参加者のルート(470) 非常手段決意の懊悩(472) 非常手段の実行(473) 事件の終結(476) 三 三大事件建白・条約改正反対運動 478 政界の情勢(478) 県下の三大事件建白運動(480) 明治二十年の条約改正反対運動(482) 第三章 議会政治の発足と県政 第一節 地方官官制の制定と県庁機構の整備 一 地方官官制の制定と県庁機構 485 内務省機構改革と「地方官官制」(485) 神奈川県庁機構の改正(478) 「地方官官制」の改正と県庁機構(489) 二 地方官僚の身分と任用 493 地方官僚の身分秩序と任用(493) 神奈川県知事(県令)の任用条件(494) 郡長の任用(493) 三 神奈川県の官吏とその配置 497 機関・官位別の人員と配置(497) 人件費の割合(498) 県行政の役割(499) 第二節 郡制市制町村制 一 町村合併の基本方針 500 町村合併と県の方針(500) 郡長の見込案(502) 新町村の誕生(504) 二 町村制実施をめぐる紛議 505 町村民の自治観(505) 町村合併をめぐる紛議(506) 無給の町村長(511) 町村行政の混乱・麻痺(513) 三 郡制と県民 516 郡制の公布(516) 第三節 帝国議会の開設と県政 一 民力休養問題と地方的利害 519 地租軽減と地価修正(519) 佐藤貞幹の地価修正論(520) 二 民力休養と県会 522 消極行政と民力休養(522) 地域的利害対立の顕在化(525) 三 積極主義と県会 528 山岳党と河川党(528) 積極策への転換(530) 県政の混乱(533) 第四節 民党の動向 一 帝国議会の開設と政党 534 神奈川県通信所の設立(534) 神奈川県倶楽部の結成(536) 神奈川県同好会の結成(539) 北多摩郡正義派の結成(541) 自由党の再興(542) 第一回衆議院議員選挙(543) 進歩党合同問題(546) 県民要求と議会(548) 二 選挙干渉と政党 550 自由・改進両党の連合(550) 各選挙区の経過と結果(552) 三 高座郡の「血戦」 555 神奈川自由党の主導権(555) 両党提携の終焉(556) 県会の解散と選挙(557) 武相支部と同志会(559) 高座郡の「血戦」(561) 第五節 三多摩の東京府移管 一 三多摩郡移管の歴史的経緯 564 多摩三郡移管のたてまえ(564) 三多摩郡移管の端緒(566) 北多摩正義派の移管運動(568) 二 内海神奈川県知事内申の役割 569 東京府知事および警視総監の上申(569) 内海知事の内申(569) 三 賛成反対両派の動静 571 自由改進両党の動静(571) 賛成派の運動(573) 反対派の運動(574) 県会議員の動静(576) 四 法案審議の経過 577 山田泰造議員の活躍(577) 投渡木取払事件(578) 法案の成立(580) 五 三郡移管とその後 581 三郡移管への抗議(581) 県会の三多摩復旧建議(582) 富田府知事への抗議(583) 府会議員選挙と高座郡県会議員選挙(586) 神奈川県・東京府の境域確定(587) 第四章 明治前期の渉外と文化 第一節 横須賀軍港の形成 一 横須賀鎮守府の設置 589 横須賀と海軍(589) 提督府(592) 横須賀鎮守府(594) 二 横須賀造船所の実績 599 海軍省主船寮の雇いフランス人批判(599) 横須賀造船所建艦第一号(601) 造船所雇いフランス人の解雇(602) 鋼鉄艦建造に転換(604) 外国製軍艦購入と技術導入(606) 第二節 県行政と渉外問題 一 外国人居留地の造成 608 横浜在留外国人の増加(608) 外国との二つの約定(609) 新居留地・公園造成の長期化(613) 明治十五年外国人の県行政非難と県の反論(614) 日本人名儀の土地家屋所有(615) 居留地の廃止と残された問題(615) 二 入港外国船にかかわる著名事件 617 マリア=ルス号事件(617) ヘスペリア号事件(619) トルコ軍艦エルトグロール号の悲劇(620) 石油タンク設置問題(622) 第三節 キリスト教の展開 一 プロテスタント教会各派の伝道 629 日本基督公会派(629) 横浜長老教会指(630) 美以教会(631) 日本聖公会(634) バプテスト派(637) 日本組合基督教会(639) 美普教会派(639) 基督同信会横浜集会所(640) 二 カトリックとギリシャ正教 641 聖ミカエル教会(641) ハリストス降誕教会(642) 第四節 学校教育の拡充 一 初等教育の展開 644 教育令下の小学校(644) 小学校の教科内容(646) 徳育の振興(647) 小学校の増設(649) 二 師範教育と教員団体の興起 651 師範学校の創設(651) 師範学校の鎌倉移転(653) 教育会の結成(654) 三 中等教育と私立各種学校の消長 657 公立中学校の改廃(657) Y校の創立と発展(658) キリスト教系女学校(660) 私立の諸学校(663) 第三編 明治後期 第一章 日清戦争と神奈川県 第一節 県民と戦後経営の問題 一 開戦と県民の状態 669 県民と戦争(669) もう一つの戦争観(671) 二 都市と農村の変化 674 都市と農村の産業の状態(674) 都市への人口集中(675) 都市生活の変化(677) 新しい生活形態の普及(678) 三 都市社会問題 681 労働者の街(681) 生活と衛生(682) 生活と災害(684) 慈善事業のスタート(686) さまざまな民衆運動(687) 四 地主派と商人派 688 横浜の三大紛争(688) 島田三郎対加藤高明・奥田義人の大政争(691) 第二節 労働問題の発生 一 「職人」・「職工」の世界 694 新しく登場した労働者たち(694) 先駆的な労働運動の展開(696) 二 労働組合の誕生 700 鉄工組合の結成(700) 職工義友会と京浜地区(701) 労働組合期成会の結成(703) 労働争議の続発(705) 階級的運動の展開(706) 試練に直面する労働組合(708) 三 労働者と工場法 709 県下の産業労働者(709) 工場法案問題(711) 四 同盟罷工 713 労働争議の展開(713) 第三節 都市問題の展開 一 都市問題の深化 718 都市民衆の生活難(718) 都市づくりの動き(720) 都市研究(722) 第四節 デモクラシーへの道 一 普通選挙権運動 723 普通選挙同盟会(723) 普選同盟会横浜支部(725) 二 『平民新聞』のころ 727 非戦運動(727) 横浜平民結社(729) 三 明治末期の社会運動 732 普通選挙全国同志会(732) 社会主義者の動き(736) 労働運動の苦難(739) 工場法案の成立(741) 第二章 日露戦争・戦後の県政と県民 第一節 日露戦争下の体制 一 戦争と県民の動静 744 県民の一つの戦争観(744) 新聞と戦況(745) 戦争を支える動き(748) 「戦時」づくりのネットワーク(750) 二 戦時行政の展開 751 町村での「軍国事務」の実情(751) 戦時体制の足固め(753) 戦費調連の心がまえ(755) 軍事資金確保を目指して(756) 三 戦争終結をめぐる動き 758 歓喜と憂うつが織りなす風景(758) 戦争末期の緊迫ムード(761) 講和と非講和への空気(762) 戦後経営への方向づけ(765) 第二節 地方改良計画とその運動 一 地方改良会の結成事情 768 戦後づくりへの摸索(768) 落ち込む民力(770) 自力更生への指針(773) 地方改良の組織づくり(776) 始動する地方改良会支部(777) 二 地方改良運動の実施 779 町村での取り組み方(779) 改良の推進力(781) 組織をつうじての改良(783) 模範村づくりへの努力(785) 三 模範村と地方改良のゆくえ 787 南足柄村と共和村(787) その後の地方改良会(790) 第三節 護憲・廃税運動と政治情勢 一 横浜を舞台とする護憲の流れ 792 政友会派の護憲への狼煙(792) 政友会系護憲集会の一断面(794) 刷新派の「政党競合」論(796) 護憲をめぐる刷新派と政友派の対立(797) 二 「立憲主義」と県民の関心 800 『横浜貿易新報』とその周辺(800) 「護憲」をめぐる社会風潮(802) 政党政派間の対抗地図(804) 地域から「憲政の常道」を(806) 三 都市商業工業者と廃税運動 808 廃税問題の前提(808) 廃税運動への取り組み(811) 廃税運動の展開と帰結(813) 第三章 明治期の社会と文化 第一節 交通通信網の拡充 一 幹線鉄道の開通 816 横浜から国府津まで(816) 東海道線の全通(818) 横須賀線の開通(824) 横浜駅の変遷(825) 中央線の開通(827) 二 私設鉄道の開業 829 京浜電気鉄道(829) 小田原電気鉄道(831) 豆相人車鉄道(834) 江之島電気鉄道(836) 湘南馬車鉄道と横浜鉄道(838) 三 電話交換の開始 841 横浜に最初の電話(841) 電話交換網の拡大(842) 第二節 教育の普及 一 初等教育と戦争 844 日清戦争と小学校教育(844) 指導行政機関の設置(845) 日露戦争と教育(847) 教化政策の浸透(848) 二 初等教育の普及と教育費 850 就学率の向上対策(850) 小学校の規模拡大(852) 教育費負担の増大(853) 三 中学校と高等女学校 856 県立第一中学校の設立(856) 県立中学校の増設(858) 公立高等女学校の設立(860) 私立女学校の発達(861) 四 実業教育の進展 863 農業学校の開設(863) 工業学校の創設(865) 実業補習学校(866) 第三節 社会生活と女性 一 文明開化と女権へのめざめ 867 女子教育・教化(867) 男女同権の主張(869) 伝習工女の派遣(870) 愛甲婦女協会の叫び(871) 「女権拡張の方法如何」(873) 二 社会の中の女性 874 自覚的女性の生誕(874) 女子の就学傾向(876) 女子労働者の状態(877) 神奈川の〝女工哀史〟(879) 娼妓と廃娼問題(882) 自由廃業運動(883) 三 女性の社会活動 884 日清戦争と婦人団体(884) 愛国婦人会神奈川県支部(885) 横浜奨兵義会婦人部の活躍(887) 「軍国の女」家庭からの解放(888) 自我愛のほとばしり(889) 第四節 明治の文化 一 明治後期の新聞 890 『横浜貿易新聞』(890) 新聞合同と『貿易新報』(892) 『横浜貿易新報』(895) 二 湘南地方の開発 897 最初の海水浴場(897) 別荘と御用邸(898) 南湖院(900) 行楽地と保養地(901) 三 明治の文人と作品 904 実録と大衆小説(904) 北村透谷と小田原(906) 県下の文人群像(907) 明治の歌ごえ(909) 執筆分担一覧 年表 付表 度量衡換算表 現行市町村別旧村一覧 年号一覧表 あとがき 口絵 明治元年五月の箱根戦争(春日俊雄氏蔵) 明治初期の横浜本町付近のにぎわい(神奈川県立文化資料館蔵) 横須賀製鉄所の外人官舎(石黒敬章氏蔵) 一八七六(明治九)年当時の県域図(国立公文書館蔵) 東久世通禧日記(東久世家蔵) 横浜裁判所総督東久世通禧(福井市立郷土歴史博物館蔵) 県会開設当時の議員と県官(『神奈川県会史』から) 郷学校の教科規則(高橋磐氏蔵) 箱根の風景小林清親画(神奈川県立博物館蔵) 地租改正時の真土村地引絵図(平川良一氏蔵) 地積測量器具(小林英男氏蔵) 相模国大住郡南金目村絵図(上野敏子氏蔵) 子の徴兵に子指を切って励ます図(古江亮仁氏蔵) 明治中期の横浜ガス局(神奈川県立博物館蔵) 露木事件関係者の供養塔(大磯町西長院境内) 自由民権家の集会に使われた岡持(難波精一氏蔵) 弘法山山頂からの眺望 自由党報第七報(江村栄一氏提供) 自由党報告書(小島幸康氏蔵) 日本帝国憲法発布を祝う仮装スナップ―横浜―(石川徳門氏蔵) 辞令(安藤進・福井よし子氏蔵) 日露戦争の凱旋を祝うはりがみ(大谷喜作氏蔵) 明治末の横浜市街(手塚弥太郎氏蔵) 愛甲郡依知村における耕地整理の情景(『神奈川県写真帳』から) 明治末から大正十二年までの県庁舎(『神奈川県写真帳』から) 七里ヶ浜の海草取りの風景(県史編集室蔵) 養蚕風景(古木義生氏蔵) たばこ生産の様子(日本専売公社中央究研所蔵) 海水浴客でにぎわう大磯海岸(大磯町役場蔵) 装てい 原弘 (裏表紙・遊び紙のマークは県章) はじめに 通史編の近代・現代は四巻からなり、⑴と⑵を政治・行政編、⑶と⑷を産業・経済編に大別した。なお、政治・行政編は広く社会及び文化関係もあわせて記述した。 政治・行政編の⑴は明治期から大正初頭まで、それ以降を⑵とした。政治・行政編⑴の本巻は、明治元年の神奈川県の成立から筆をおこし、これを総説と三編構成とした。 総説は「明治時代の地方政治と社会風土」として、激動する明治期の神奈川県を日本の近代史の中で総体的にとらえ、以下の各編の理解を助けるように記述した。 以下の各編は、政治行政の展開と県民の動向を主軸とし、これに社会・教育・文化等の状況を配して総合的に本県発展の跡を明らかにすることにつとめた。 第一編は、「明治維新と神奈川県」として、若干幕末にさかのぼって前巻近世⑵の最後の「開港」に接続せしめ、明治維新期における神奈川県の特別な政治的、外交的な地位と、それに伴った横浜の外来文化にもふれて、この期の特色の究明に力点をおいた。また小田原藩、荻野山中藩、六浦藩の版籍奉還から廃藩に至る過程とそれらが足柄県と神奈川県に再編されていったことも併記しておいた。 第二編は、「明治前期」とし、行政面では神奈川県会の開設から三多摩の東京府移管ごろまでを取り扱った。この移管によって現在の本県の県域が確定したのである。この時期は国内政治の転換期で、本県下の特徴ともいうべき三多摩その他の自由民権運動や、渉外問題、横須賀軍港の形成、キリスト教の普及など、多面的な問題にもふれた。 第三編は、「明治後期」とし、日清・日露両戦争下の状況、政党の動向、地方改良運動、明治期の文化、教育の普及等を述べて、さらに大正初頭の第一次護憲運動と廃税運動を記述して、次巻の通史編第五巻政治・行政⑵に接続せしめた。 総説 明治時代の地方政治と社会風土 一 近代神奈川の景観 ペリーの率いる「黒船」が浦賀に来航するなかで、日本の近代への幕が切って落とされたことは、よく知られている。それは、日本の国家に近代をもたらすことを予測させる鐘の響きであるとともに、今日の神奈川の県域に「驚天動地」にも似た驚きと社会変化を呼びおこすできごとであった。そればかりではない。沖縄に寄港した後に神奈川の地に外圧をもたらしたペリーの航跡を逆にたどりなおせば、神奈川を、やがて沖縄の地に固く結びつけていく前ぶれにもなっていたといえよう。 このように問いかけるのはほかでもない。開港から明治をとおして、さらに現代の日本を語るさいに、これまでしばしばいわれてきたように、「文明開化」の脚光をあびた横浜を抜きにして考えられないというだけでなく横浜と、そして神奈川の近代の歩みを事実に基づいてあきらかにすることは、日本の各地域に逆に光をあてることができると思うからでもある。それだけに、わたしたちは、この地における近代のつくられかたと、その変化の軌跡をより克明に究明していく必要があろう。 そこで、あらかじめ指摘しておきたいのは、開国により、一寒村の横浜が、異質な外国文明との結びつきをもちながら、この地の内部を変え、そして、横浜の景観の変化が徐々に神奈川の姿を変えていくという「近代化」の型をつくりだしていた事実である。もちろん、この「近代化」は、いわば、直線的に発展の道をたどっていったというのではなく、県民の生活の場にさまざまな問題をひきおこしていた。それは、「文明開化」のありかたや、あとでのべるように近代的な政治・経済制度の移植や交通形態の転換にともなう社会関係の変化が自然風土をつくりかえ、県民の生活環境を変えていくなかに現われている。 こうした事情を前提にすえて、近代の過程で自然と社会のかかわりかたの変容を浮きぼりにしていくためにも、ここで県下の自然の景観をえがいておく必要があろう。あらためて説くまでもなく旧武蔵国と相模国からなりたつ明治前期の神奈川県域は、東京・山梨・静岡の府県と境をくぎりながら、北北東から西南にかけて秩父・丹沢・箱根という内ぶところのふかい山塊を擁し、東南から南にかけては、三浦半島を中にはさんで東京湾と相模灘に面している。そして、東京府寄りに北西から南西に貫流する多摩川から県央を南下して流れる相模川、県西の酒匂川をはじめ大小さまざまな河川が台地や平野を縫って海にそそぎ、これらを横ぎって、近代以前から東西を結ぶ東海道が走っている。この全国でも地の利をえた県域のうち旧相模国をとりあげてみても『新編相模国風土記稿巻之二』から類推すると、正保のころから元祿を経て天保年間にかけ、開墾地もひろがり田畑の作物の収穫も約五万石の増収となり、慶応年間にはさらに約二万石増え(木村礎校訂『旧高旧領取調帳関東編』)、生産力もたかまっていたとみてよい。しかも、田租のほか津久井方面の村びとたちは薪をとり炭を焼き、海岸沿いの住民は海の幸をとり、これらを貢進し、さらには、東海道の宿駅、あるいは河川の渡場においては夫馬の課役とか、川越の夫をにない、自然の気候とか地勢を十分に活用しながら生活を営んでいたという。もちろん、この時代といえども、「窮民救ひ」を主眼とする武州一揆をはじめ、村びとの貢租をめぐる紛糾とか自然災害との厳しい血のにじむような格闘がくりひろげられていたことは、さまざまな史実のなかからうかがうことができる。わたしたちは、このように自然に働きかけて生産力をたかめながら幕藩体制下の政治や経済の矛盾を意識し、体制の重圧をはねのけて新しい時代の到来を模索しようとする庶民の動きのなかに時代の内発的発展の要因をとらえることができる。この傾向が顕著に表出するころに、開国という外圧による外国文明の流入は横浜を中心とする地域を激しく変えていった。その変りざまは、街の景観にいちじるしく現われていた。『明治文化全集8風俗編』のなかに収められている『横浜新誌初編』によると、外国人が居留し、商人がしげく往来するなかで、丘を切り開き、海を埋め堤を築いて橋をかけ、運河を掘り、横浜の街の様相を変えていった事情が手にとるようにうかがえる。そして同書は、「鉄閣石楼を起」し、「互に新奇を競ひ共に華美」を演じ、「建築の美甍瓦相ひ映じ、華麗互に争ふ」と、みごとに描写していた。事実、山手の居留地では、洋風建築の各国の領事館や商館が並び「日本のなかの異国」の風情をかもしだし、道路幅の広い日本大通りのそばの県庁界隈には、裁判所、電信局、駅逓局、租税寮、瓦斯局、停車場、国立銀行などの洋風建築の官公庁等々が出現した。また、大江橋から馬車道・本町通りにはガス燈がともり、新しい時代の横浜の夜を照らしだしていった。横浜の外貌がこのように洋風に変化していくありさまは、横浜の「文明開化」を象徴し、さらに、日本の都市のたたずまいを方向づけていく先きがけともなっていた。「横浜の明治」は、そのまま「日本の明治」の姿でもあった。その「文明開化」は、もちろん、街の景観にだけ示めされていたのではなく、明治政府が新しい文物制度・教育制度を移植し旧慣風習の禁止令をつぎつぎと打ちだしてくることと呼応して、断髪をはじめ人びとの生活上の風俗を変え、食生活にも肉食がくわわるというように洋風化しつつあった。「ザンギリ頭をたたいて見れば、文明開化の音がする」、このパロディめいた「ざんぎり頭の唄」は、民衆の側からとらえなおせば新しい時代の空気への複雑な心境を伝えている。 ところで、横浜の「異国情緒」に色どられた「文明開化」の動きは、この間、明治五年(一八七二)に新橋・横浜間に鉄道が開通して、東京との距離が短縮するにつれ、ひろがりをみせ、よりいっそう影響力と重みをもつようになっていった。それは、また、「文明開化」という横浜の「近代化」の風土の独自性が失なわれていく側面の現われでもある。 この横浜の「文明開化」の流れが変わるなかで、明治初年に時代の変化がどんなふうに県域に影響をおよぼしていたであろうか。まず、指摘しなければならないのは、これまでもしばしば語られてきたように、横浜の開港にともない、県北の藤野をとおって八王子から原町田を経て横浜につうじる「絹の道」が活況をていしたことである。県内外の養蚕地帯で生産される生糸を運ぶ商人が一獲千金を夢みてこの道を上り下りしていた。横浜は、この「絹の道」によって後背地との結びつきを強めていったのである。それは、開港による商品流通圏の拡大にほかならない。しかし、この反面、政府の打ちだす近代化政策と「文明開化」の潮流のもとで県民のおかれた状態がどういうものであったか、ここであらためて観察しておかなければならない。 当時、県下の情勢をみると、はなばなしい「文明開化」の潮流のかげで、明治維新後、諸物価は、通貨の価値変動と相互に刺戟しあいながら騰貴を続け、さまざまな民衆の生活に圧迫をくわえていた。とりわけ、太政官発行の金札相場が不安定であり、そのために、零細な商取引はとくに混乱し困難をきわめ、さらには、土地に課する税改正などへの思惑をはじめ生活にまつわる新制度への移行措置をめぐって、民衆の不平不満はつもりにつもっていった。このような事情は、片岡永左衛門がまとめた『明治小田原町誌』(翻刻版上)から手にとるように読みとることができる。維新変革後、旧士族もふくめて、民衆が生計をたてていくうえで困惑の渦中に巻き込まれ、疲弊しきっていく実情は、旧小田原藩の城下町小田原の特殊な姿ではなかった。おしなべて、どの地域にもほぼ共通した現象であった。とくに、農民の生命と生活の絆ともいうべき土地改革である地租改正の施行をめぐって、県下の各地で農民の不満が現われていたことは、よく知られている。たとえば現在、横浜市にぞくしている畑作の多い瀬谷村他六か村では、改正地租の納税の算出方法が過酷であるとして権力の圧力に対抗し、瀬谷村戸長川口儀右衛門らは農産物の収穫を基準に「地価を公平」に評価すること、政府の定めた地価等級は公平を欠き、そのため、農民は「担税力」にとぼしく「生活苦」に落ちいっていることを理由に政府に嘆願書を提出し、貧しい農民たちの反対運動とともに大きな政治問題をひき起こしていった。この動きは、平塚市の真土事件とともに、民衆の不平不満を示めす頂点的なできごとであるが、「物情騒然」ともいうべき民衆の動静は、地方資料をさぐっていくと随所にみられる。その背景としては、一八七〇年代の瀬谷村の農家の状態が示すように、中農以下の農家が、口減しのために子供を富農のもとに作男、作女として奉公にだしているという経済的貧困によっている(瀬谷区の歴史を知る会『瀬谷区の歴史』生活資料編㈡)。 「文明開化」の「陰」の部分がいかに大きく長く尾をひいていたかは、一八八三(明治十六)年六月、小田原駅(町)の戸長総代興津敬基名の上申書「市街情況」「士族ノ実況」が伝えるこの地の人びとの生活の逼迫状態からもうかがうことができる。当時、小田原が城下町であり、漁師町、宿場であることは、漁業が二百八十九名、魚商が八十八名、旅館・料理屋が六十四名、貸座敷が二十七名となっている職業構成から知ることができるが、もう一つ着目しなければならないのは、雑業従事者が二百八十四名を数えていることである。このころ、小田原駅五か町の人口は一万四千四百五十名、戸数が三千百十九戸であるので、これを基準に類推すると、雑業従事者は、漁業就業者についで、この地では職業構成の比率が高いことになる。雑業従事者が多いのは、おそらく、このころの代表的な交通機関として人力車が百七十五台にのぼり、その「車引」が雑業のなかに数えられていたからであろう。問題はこうした大量の雑業従事者をふくめて、荒物七十七名、大工五十名、古着商四十七名、鳶職三十九名というように、零細な職業従事者が広い範囲にわたって点在していたという事実である。こうした実情のもとでは、小田原の活況を呼びもどすことはとうてい困難であった。事実、「市街情況」は、松方デフレーション政策下の街の窮状について、近ごろ、旅行者がすっかり減り、旅館の営業がまえにもくらべて困難になり、そうかといって転業のあてもないありさまで、しかも、ほかの商店も、物価の下落により商品の売買で平均三〇㌫ほどの損失を受けているばかりか、購買力も落ち、また、労働者も工事がなくて苦境に落ちいり、すべて「困難不景況」であると報じていた。また「士族ノ実況」は、全戸数の約四五㌫を占める千四百戸の士族のうち、生計を維持できるのはわずか三十二戸で、やがて生計の道を失うであろうとみられているのが九百八十九戸、飢餓寸前の戸数が八十三戸という深刻なありさまを伝えていた(『明治小田原町誌』上)。 「民力疲弊」の度が進むにつれて、不穏な社会情勢が県下の各地域をおおっていったことも事実である。その情勢は不況にあえぐ村々において、たとえば、秦野の山間部から津久井、三多摩方面の入会地をめぐる問題とか、農家の負債弁償問題の系争に端的にあらわれていた。『神奈川県史料五巻』に掲載されている「騒擾事変」は、大住郡堀山下村(現在秦野市)における官有林を個人名儀で買いうけるか村共有で購入するかという件をめぐってひき起こされた紛議とか、愛甲郡下の村々で負債者が不穏な零囲気をかもしだしていた状況を実によく伝えている。 このように経済的に荒廃に瀕している村々の姿と窮地にたつ村人の不穏な動きが底ぶかく、そのために、いかに社会が大きく揺れ動いていたかということは、県・郡の関係者のいくつかの書簡や内達が、この事態を「容易ナラサル儀」とみていたことから知ることができよう(資料編11近代・現代⑴一〇五―一〇八)。しかし、それ以上に着目したいのは、このような状況それじたいが、いわば、欧化風の文明化の潮流により自然と社会風土をぬりかえていく傾向とあいいれないかっこうで、自然と社会制度をつくり変えていこうとしている事実である。しかも、この事態は、国家が率先して西欧の資本主義経済制度や政治制度を導入してくる過程でひき起こされた明治初年の「物情騒然」たる動きを引き継ぎ、結局は、近代における国家と地方、「官」と「民」、あるいは階級階層間で相対立する社会関係を示すものであった。 こうした社会情勢のもとで、明治十年代には、三多摩地域から県西の足柄下郡にいたるまで、県下一円に自由民権運動が澎湃としてたち現われたことは、よく知られている。「自由」と「民権」を要求する運動は、県会議員・豪農層を原動力とする国会開設の請願運動を引き金にして、地域から県議会をつなげる場で「立憲ノ政」をたて、「郡ノ進歩」をうながすというように、地域の発展を下からはかることを根底にすえて「立憲政体」の実現をめざしていた。この闘争は、各地の戸長をふくむ有力者たちにも影響をあたえ、さまざまな形での「政談講学」の集会をもちながら、自由党と改進党の影響もあり、豪農を主体とする運動から、武相困民党のように「負債の全免」、「小作料の引下げ」を要求して激しい行動を訴える動きまでさまざまな形をとっていた。それほど、民権運動は、根ぶかい世情の不安を鋭く反映していたのである。 経済上の困窮と公租の負担が農民の肩にふかく喰いこんでいる事情は、地租延納、未納分年賦払い、あるいは租税軽減のさまざまな請願が数多く提出されていることからもうかがえるし、さらに、一八八四(明治十七)年以降、県収税長に就任した添田知通の一連の文書からも推察することができる。添田は、農家経済をみるとき、まさに「危急存亡ノ秋」であるとしたため、米価が極端に低落するなかで、「四民共ニ財計不測ノ逼迫」をきわめて決定的に「衰退ノ状況」を現わしており、これにくわえて、暴風水災の被害を受けて、農民は「無上ノ困難」におちいっていると告げざるをえなかった(資料編11近代・現代⑴一七五)。添田の具申書のなかにみえるこの一節は、収税の渋滞と租税をいかに確保するかというその板ばさみの苦難の表明であるが、それにしても、社会の安定と発展をどうはかるべきかという問題が、県民にとっての「近代化」の最大の課題であった。したがって、「民力」の安定と向上をめぐる下からの抗争は、その後、横浜近郊の平場地帯の久良岐・橘樹・都筑三郡(現在川崎市・横浜市)などの地価修正請願同盟会の組織化と運動、あるいは地租増徴案反対運動のなかに受け継がれていった。高座郡相原村(現在相模原市)の助役で豪農の相沢菊太郎は、一八九九(明治三十二)年四月二十二日の「日記」に、地主は、今後五か年間地価修正のため「地価は減ずと雖も、税金は(二半の処分三厘歩)増殖し、負担の重き」に苦しみ、これを小作人に負わせようとしても、「一般小作人の困窮せる」事情を考えれば、地主が苦境にたち困難であるという「不平均」が生ずるのもやむをえないと書きとめていた。政府のとる明治中期における地租増徴・地価修正の手だては、こうしてまたあらたな問題をひきおこし、やがて打ちだされてくる京浜工業地帯造成を中心とする工業化政策のもとで、「近代化」をめぐる対抗ベクトルは、さらに異った形で長く尾をひいていく。 二 政治制度づくりと社会関係の変化 神奈川の近代の足どりが激動に満ちていたのは、以上のべてきたことがらにつきない。というのは、県民の「郷土意識」をゆさぶるような県の制度づくりとその変更が明治の初年から中期にかけてひき起されていたからである。 そのもっとも大きなできごとが、一八九三(明治二十六)年四月に三多摩地域が神奈川県から東京府に移管になった、いわゆる「三多摩分離」にほかならない。この件について、内務省は、「東京府及神奈川県域変更に関する法律案」を提出するにあたり三つの理由をあげていた。すなわち、三多摩の東京府への管轄変えは⑴東京市の新水道事業を達成するために、水源の保護と上流地域の衛生警察の取締りのうえから適切であること、⑵多摩川流域外の南多摩郡も、交通・地形のうえから移管が必要であること、⑶管轄の変更により民衆の租税負担に大差が生じないこと、これがその説明である。このうち、政府が重視していたのは、第一点であり、三多摩分離問題にかんする諸資料から判断しても東京市の人口の増大と水道事業問題、それに一八八六(明治十九)年のコレラ病の流行にまつわる苦い経験が背景になっていた。 しかし、この県境変更問題は、帝国議会の内外で激しい議論の的になったばかりか、県民にとっては寝耳に水のような観があり、とりわけ、三多摩とこの地域に隣接する村々に大きな波紋を投げかけていた。このようなできごとは、問題の性質の違いと地域こそ異なるが、神奈川県民にとってみれば過去に三度にわたってひきおこされていたとみてよい。 その一つは、明治維新変革のさい、廃藩置県にかけて小田原藩の態度が「小田原評定」の語りぐさのように、二転三転し、そのため、小田原箱根戦役(箱根戦争)のあおりを受けながら、小田原宿および周辺の民衆たちが経験した動揺と困惑と新制度へのとまどいである。なかでも、長期間にわたる大久保氏の支配が終り、小田原藩知事大久保忠良が東京に去るにあたって、町年寄・町役人ら有志のなかに「時勢の変革は止不能」といえども、過去を回想しながら「暗涙に咽ひし者」もいたという光景は、その一面をのぞかせている(『明治小田原町誌』上)。その二は、一八七六(明治九)年の足柄県の廃止をめぐる小田原駅(町)とその周辺の民衆のなかにひき起した動揺である。この点は、もうすこし先でふれることにしたい。その三は、一八八八(明治二十一)年の市制および町村制の公布にともなう町村合併をめぐって生じた紛糾に現われていた。たしかに、町村制の施行にあたり内相山県有朋名の町村合併規準についての訓令で、かつての大区小区制から三新法体制下の町村にいたる町村―村落(自然村)を囲い込むかっこうで「小合併小独立」を避け「有力ノ町村ヲ造成」することを目的にかかげていただけに、あちこちで難渋をきわめていた。合併町村にせよ、組合町村の形態をとるにしろ、実施の基準、資力支出の標準、町村予算の調整、修正などをめぐって意見の統一をはかることができなかったし、さらに、地勢とか、これまでの生活、生産、社会関係を維持することを最優先において問題を考えがちであるので、どうしてもいざこざが絶えなかったようである。足柄上郡の神山村、金手村、金子村の合併・独立をめぐる去就問題、都筑郡二俣川村他二か村の町村合併あるいは、橘樹郡下の下星川村、和田村、仏向村、坂本村の保土ケ谷町への合併をめぐる係争事件、津久井郡中野村他四か村組合分離問題などは、町村制の施行そのものが、それぞれの地域の自然と生活慣行を主な内容とする社会風土と住民の生活感情を激しくゆさぶっている実情の一面を浮きぼりにしている(資料編11近代・現代⑴一三七―一四九)。 この地方制度の変更=「近代」的地方自治制度の創出の過程は、全国に共通するものであるとはいえ、県下の各地域と民衆にすくなからぬ衝撃をあたえていた。なかでも、廃藩置県の結果、今日の神奈川県域には神奈川県・六浦県・荻野山中県、それに小田原県が誕生した。この割りふりのうち、小田原県は、ただちに足柄県に変更となり、ここには、足柄上・足柄下、高座、愛甲、津久井、大住、淘綾の相模国七郡に新しく伊豆の国がはいり、また、東の神奈川県は、相模国の三浦、鎌倉両郡と武蔵国の橘樹、都筑、久良岐の三郡をまずその管下におき、やがて、足柄県下の高座郡と武蔵国の多摩郡を編入し、ここに神奈川・足柄の二つの県域ができあがったことは、よく知られている。問題は、このうち小田原に県庁を設置した足柄県が、ほぼ四年半の後に廃止になり、太政大臣三条実美名の達で「伊豆国ヲ静岡県江相摸国ノ分ハ神奈川県」に分属することとなり、したがって、それぞれの「土地人民」も神奈川、静岡の両県に所属することになったその決定である。この結果、小田原駅をふくめて相摸国は神奈川県に属することとなり、この措置をめぐって、小田原周辺の在住者は大きな衝撃を受けていた。その事情は、県令柏木忠俊が韮山に去るにあたって、柏木個人と県令としての彼の実績にたいする小田原の人びとの哀惜の気持と廃県への悲哀のようすを告げる文書のなかから読みとることができるし、その後、足柄県再興運動がくりひろげられている事実から知ることができる(資料編11近代・現代⑴八・九)。 足柄県の中心地である小田原地域が政府の手で強引に神奈川県に編入させられたことは、長い間、自立せる社会関係を維持してきたその条件が消え失せたことであり、藩領の伝統を引き継ぎ足柄県の中枢部を形づくってきた地域の誇りを搔き消されたことにほかならない。その憤懣やるかたない感情は、地域や人びとの間を縫ってその後長い間にわたり流れていたとみてよい。それは、また、制度によってつくられた県内の東と西との間の社会風土の違いでもある。 この足柄県の廃止が県西から県北の在住の人びとにあたえた波紋に勝さるとも劣らない議論を呼びおこしたのが、さきにふれかけた三多摩分離による神奈川県域変更の決定である。 三多摩移管をめぐっては、しのぎをけずる賛否両論がくりひろげられていった。賛成派の主張は、多摩三郡有志の境域変更法律案賛成の「陳述書」などからあきらかなように、物産の運輸、人間の往来、あるいは公務、裁判、教育、衛生の便宜や、地方税の軽減などの諸点から考えて、三多摩の東京府への移管が得策であるという根拠にたっていた。たしかに甲武鉄道の開通以来、三多摩の交通網とか商工業は、東京への依存を強めてきている事実は否定できない。この賛成論にたいして、たとえば、多摩三郡町村長の「境域変更反対陳情書」をはじめとして、反対派が訴えかけていたのは、三多摩の東京府への移管法案が、調査のうえでも周到さを欠き、しかも、三多摩の民衆の利害をみきわめていないことを鋭くついていた。また、三多摩分離の決定が「神奈川県ニ害スルコト実ニ甚ジキモノ」と共通に受けとめられているその見解を支えていた理由は、県下の「人情風俗」がバラバラになる恐れがあること、県央から県北の養蚕農家がかかわっている中心市場である八王子、さらに、県下の「財源ノ府」である八王子を失う結果、税のうえで「過重ノ負担」にあえがざるをえないという判断によっていた。しかも、地元の多摩をふくめて三多摩分離に反対する世論のほうが強かったように思われる。 事実、三多摩の管轄変えは、神奈県民にとってあきらかに不利であった。それは、地方税の負担が増加したことと、民力の低下をもたらしていった事情からみても否定できない。にもかかわらず、神奈川県知事が東京府知事とともにこの措置に積極的であったのは、かつて自由民権運動の推進力となり、県会を牛耳っていた自由党の強力な地盤の一つである三多摩を分離することが得策であるという政治的配慮がはたらいていたからであろう。このことは、三多摩移管について、内海忠勝知事側に加担する改進党にたいして、自由党が猛烈に反対していた事情からも推定することができる。それにしても、三多摩の東京府への移管は、後々まで県民にとって経済上、社会生活上後遺症をもたらすこととなった。その傾向を察知してか、三多摩分離後、愛甲郡と高座郡の民衆三千余名は、連署して「三多摩復旧請願書」を内務省に送付していたほどである。 今日の神奈川県の県域を形づくることになった三多摩分離という県境変更は、県の主要な経済動脈の一つをなしていた「絹の道」を断ち切ることになり、自然の理にかなった「ふくよか」な景観から不自然な姿に変わりはてることになった。この事情は、丹沢・箱根山塊を縫って静岡県の御殿場まわりの東海道線、あるいは箱根路をたどる東海道を唯一の動脈として東西を結ぶ関係を強めながら横浜港を玄関口としてもっぱら外国との交渉の地として、要するに明治版「太平洋沿岸ベルト地帯」の一角を構成し、県域内においては、後背地との地域格差を生みだすという問題をひき起していく。それだけ、県行政区の変更が、神奈川の「近代化」に投げかけた波紋は大きかった。 三多摩を分離したことは、県域の確定という面からみるならば、あきらかに神奈川の地における近代の第二の契機となっている。それは、旧神奈川県と旧足柄県との地域差を生みだしてきた伝統と変動の関係をゆさぶり、数々の問題を投げかけながら、新しい局面にはいっていることを意味していた。その点は、もうすこし先きでのべることにして、この地方制度の整備と関連してここでふれておかなければならいのは、県当局が中央集権体制を強化していくための民衆統治の条件をようやくつくりだしていたことである。 県行政の指導者の立場としては、この間、政府の意向を受けながら、地方の行政諸機構をつうじて終始「県治民情」が離反することを防ぎ、「上下協和民情暢達」の方法を具体化するために努力をかたむけてきた。こうした配慮をうながさざるをえない諸事情の一端については、すでにふれてきたが、いまここで、「民政」を中心とする施策の流れの節々についてふりかえってみることにしたい。 そこであらためて指摘するまでもないが、明治初年に学制の頒布、徴兵の詔書、地租改正条例の布告を中心として、民衆の生活や社会関係にかかわる事項だけをとりあげてみてもさまざまな改革がおこなわれていた。たとえば、宗門人別帳(寺請制度)の廃止、米麦輸出禁止令の撤廃、田畑勝手作の許可、土地永代売買の解禁、華士族・卒に農・工・商の営業許可、人身売買禁止、娼妓の年季奉公廃止命令等々は、周知のように、封建的身分秩序や古いしきたりの制度や慣行を修正したものである。なかでも、加藤弘之、大江卓、星野権三郎らの「賤民」解放の建議もあって、一八七一(明治四)年八月、太政官布告第六一号で「解放令」が公布され、身分・職業とも「平民」同様になったことは、そのことじたい画期的なことであった。こうした制度改革の動きが、そのままより平等な関係を保障していくことにはならないが、このような手だては、やがて、制度と実際とのギャップをうめていく諸運動や、個々の人びとの努力を生みだしていくきっかけになっている。事実、神奈川県下では、いちはやく一八八二(明治十五)年に、兵庫県下で出現したと同様に、被差別部落のなかから、自由党に入党し、自由と民権の獲得のために奔走する人びとが現われていた(部落問題研究所『水平運動史の研究』第一巻年表編)。 このように、近代的な諸制度や諸政策が打ちだされ、それらをめぐる社会変動が地域をぬりかえるかっこうでたち現われてくるので、いきおい、地方行政組織の末端機構の行政責任者は「むら共同体」や町村行政に固有な事務を、政府と県をとおして打ちだされてくる方針にそって推進せざるをえなかった。それは、「市制町村制制定理由書」がすでに指摘しているように、地域が「細民ノ多数」の手で抑えられる弊害をとりのぞき、町村長が中心となり、中央の統治機構の再編成、内閣制度の創出、さらには、大日本帝国憲法の制定にみあうかっこうで、自由党など民党の影響力を除去して、国家体制の底辺を地ならししていく役割を課せられていたのである。この任務は、すくなくとも、維新変革期のさなかに、寄場組合を廃止して戸籍区を設置し、戸長、副戸長を人選して、幕藩体制下の「村」を徐々に解体していく動きをみせて以来、区番組、さらに大区・小区制をしき、その後、郡区町村編制法による郡と町村の設置の過程で、それぞれ正副区長、あるいは戸長がはたそうとしてきた仕事を引き継ぐものであった。その実務は、国政事務を主軸にして行政区域内の風紀の取締り、道路・堤防などの修繕、勧業・就学の奨励、衛生思想の普及、出火・出水のさいの指揮、祭礼等々の地域の事務を推進することにわたっていた。 このようにみてくると、地方行政の指導者たちは、農業をはじめ民間産業の富殖と民智の開発をはかり、治安につとめて、いやがうえにも社会秩序を維持していかざるをえなかったのである。こうしたなかで、かつて、橘樹郡長時代に民権運動にかかわった経験のある足柄上郡長松尾豊〓は、県知事浅田徳則あての「町村制実施後ノ状況具申」のなかで、「村役場ニ於テハ漸々事務整理シ人心安寧穏聊紊乱ノ恐無之」と、成果があがっているむねを報告していた(資料編11近代・現代⑴一三〇)。たしかに、地域住民の意思は、地方議会をつうじて地方制度の枠内に誘導され、国家の基礎としての地方自治は急速に効力を発揮していくようにみえた。けれども、県東部を中心とする地域は、もうひとつ大きな力でぬりかえられ、変動をよぎなくされる運命にあった。 三 工業化と「先進県」神奈川の課題 では、その大きな力とはいったいなにか。いうまでもなく、それは、工業化にほかならない。まずなんといっても、横浜港を窓口とする横浜の貿易額は、明治中期には、生糸を中心に飛躍的な伸びを示していた。こうした動きと関連して、明治のはじめに洋式燈台を設置した横浜港は、その後、水提燈明台、棧橋、臨港鉄道、上陸階段などをそなえ、日清戦争直後には、東と北の防波堤の距離は三千数百㍍におよび、港口は二百三十四㍍、鉄棧橋の長さは七百三十三㍍という近代的港としての偉容を誇るようになった。しかも、横浜港がますます脚光を浴びるなかで、横浜船渠会社や横須賀と浦賀の造船工業のいちじるしい発展をうながしていったこともまぎれもない事実である。 こうした気運のもとで、日露戦争後の時点にかけて、工場の建設が活発をきわめ、「工業県」神奈川の基礎が整えられていく。その傾向は、都市ガス、石鹼、清涼飲料、牛乳、ハンカチーフ、鋳物、自転車、生地染色、電線、洋菓子製造といった明治前期の生産、加工の諸工業にくわえて、輸出用産業の台頭にとらえることができる。横浜の南部における対米輸出用の絹ハンカチの染色工業や、絹スカーフの縫製工業、あるいは、中国やインド向けの絹靴下の製造、メリヤス工業の出現などがそれである。また、このころ台湾やジャワからの原粗糖を精製する横浜精糖会社(現在の明治製糖)が設立された。 横浜を中心とする工業化への顕著な歩みのなかで、後背地の地場産業も活発をきわめていた。高座郡、津久井郡を中心とする繭生産と製糸と絹織物の工場、秦野地域の煙草工場と木綿工場はその一例である。なかでも、半原(現在愛川町)の撚糸生産は、全国の七〇㌫をしめていた。また、県西の小田原町とその周辺では水産物加工のカマボコ製造や指物加工業がさかんで、さらに、県域全体にわたり果樹栽培が普及し、さまざまな農産物加工や商品作物の育成も軌道にのるようになった。鵠沼村(現在藤沢市)から平塚方面にかけての桃栽培の普及、二宮周辺の落花生栽培、県西のミカン生産などが、そのさいたるものである。 工業化の進展とその影響力が県域の各地で現われてくる過程で、県内の姿をさらにぬりかえていく動きがみられた。その一つは、海岸沿いの地での別荘、観光、保養地の形成である。一八八七(明治二十)年の夏、東海道線が国府津(現在小田原市)まで延びると、大磯町の海岸は京浜地方の海水浴場として脚光をあびるとともに、この湘南は伊藤博文の別荘滄浪閣をはじめ、財界人らの別荘地となり、いわゆる「リゾート」の地と化していった。また八九年六月、横須賀線の開通にともない、三浦半島も観光地箱根と同じようにもてはやされ、鎌倉にくわえて間もなく葉山に御用邸が設けられると、逗子は海水浴場をかね、高級別荘地を形づくることとなった。その後、別荘地は、藤沢駅から片瀬まで江ノ電が開通すると、江の島周辺が新しい別荘地となったように、あちこちの近距離電車を足がかりに、湘南から西湘にかけて人びとの往来する新しい地域が開けていった。この光景については、当時の新聞が時おり紹介記事をのせていたが、たとえば、一九〇三(明治三十六)年の夏、大磯海岸の海水浴客は、一日、二千四、五百名に達し、宿屋、別荘、貸間は超満員という盛況ぶりを伝えていた(『横浜貿易新聞』明治三十六年八月十八日付)。こうした面から、神奈川の海岸沿いは、徐々に変化をよぎなくされていったことは間違いない。 またこの当時に、社会変動をうながす決定的な要因として、川崎町(現在川崎市)を中心に工業地帯を形づくる動きが現われはじめたことを指摘しておかなければならない。川崎の町とその周辺は、東京に隣接し、海陸両方の交通の便がよく、立地条件にめぐまれていたことが工場進出の誘因となっていた。その先駆的役割をはたしたのが、さきにあげた横浜製糖の進出である。その後、ついで東京電気会社(現在東京芝浦電気)が進出し、明治末年には、富士瓦斯紡績がここに新しく工場を建設し、大正期にはいると、川崎ガス会社、鈴木商店(現在味の素)などのそれぞれの業界の大手の工場が陸続と誕生し京浜工業地帯の基礎が整えられていった。こうした工場進出のかげには、そのころ川崎町長をつとめた石井泰助らが、工場誘致の構想をえがき、道路の新設と整理、治水および水道建設を提唱しながら用地斡旋にのりだしていた受け入れの事実があるし、浅野セメントの浅野総一郎らの海面埋立事業も稼動しはじめていた。こうして、横浜市の鶴見と川崎を結ぶ全国で指折りの一大重工業地帯が徐々にその範囲をひろげながら形づくられていく(『川崎市史』『川崎市史年表』)。 明治後期におけるこの工業化の進展と関連して海運界も活況をていして、電力エネルギー産業も発達しつつあったことも見逃してはならない。横浜に拠点をもつ独占企業である日本郵船は、日清戦争後、横浜港とアメリカ合衆国のシヤトル、オーストラリアのメルボルン、イギリスのロンドンとをそれぞれ結ぶ三大航路を新設し、日本の海運業を欧米先進諸列強の水準にまでひきあげていった。また、電気事業は明治二十年代のはじめに、横浜共同電灯会社が、火力発電による電気供給事業を横浜市のごく一部におこなったのがはじまりであるが、日露戦争後には電灯の普及は県下の主要町村とその周辺にひろがりつつあった。たとえば、小田原電気鉄道会社が小田原町と平塚町を中心にした周辺の村々に送電をおこない、京浜電気鉄道会社が川崎町とその周辺に電灯用、電力用の電気を供給しはじめたのは、明治三十年代の前半であった。この間、小田原電気鉄道が箱根の湯本発電所において県下で最初の水力発電を起こし、日露戦争後、箱根宮の下の瀬戸山発電所、同じく塔之沢発電所が完成し、ここから、特別高圧送電線をつうじて横浜市内の工業用動力に電力が使用されるようになっていった。さらに、横須賀市とその周辺には、横須賀電灯会社が、そして、藤沢町と隣接地域は江ノ島電気鉄道がそれぞれ家庭用、工業用の送電を開始していた。この結果、県民の日常生活の場に電気がもたらされるようになり、その範囲が拡大するにつれて生活の様式も変化するが、ここで指摘しておきたいのは、工業生産の動力に電力エネルギーがもちいられるようになり、工業化を促進している基本的な媒体になったということである。しかも、明治の末年には、箱根水力電気と横浜共同電灯の両社が合併し、横浜電気会社と改称し、以後、各地の電気事業関係の会社を吸収し独占的地位を強めていった。 ところで、この間の工業化の事情について、『横浜貿易新報』は創刊二十年記念号(明治四十三年四月四日付)の社論で「二十年後の今日より二十年前を見れば、また隔世の感なきにあらず」とのべて、つぎのように論じていた。すなわち、同紙は、築港はいうにおよばず、繫船岸から「海陸聯絡設備」の工事は半ば竣功し、岸から鉄道により停車場まで貨物を運ぶ新光景もそのうちみられるようになるし、船渠、中央倉庫および各倉庫、横浜鉄道、それに数々の銀行会社は、ここ二十年間の産物であって「横浜の進運に与かるべきものゝ新たに起りたるもの尠からず」とのべていた。ここから、人口も四十万人に達しめざましい伸びをみせた横浜市の工業化の光景をそれとなく想像することができよう。しかし、同紙は、また、今後、五十年といわず二十年の進歩は、はたして過去二十年の進歩を追い越すことができるかどうかと問題を提出していた。 たしかに、いちじるしい工業化の進展がみられたとはいうものの、日露戦争後の「戦後経営」の前途は、ただただ多難そのもので、景気の落ち込みもはなはだしかった。このころの横浜商業会議所の『月報』の雑纂をひもといてみても、横浜港湾改良問題、横浜貿易にからむ他府県との関係、横浜港埋立にかんする事項、あるいは横浜の商工業経営の振興と横浜市政のありかたにかかわる問題をめぐってきびしい主張がくりかえされていた。横浜市政の動向にかんしては『横浜市史第四巻下』にくわしいが、こうした指摘は、商業・貿易の活性化をどうはかるかという点につきる。たとえば「絹の港、木綿の港」と題する一文は、横浜港が生糸、羽二重を中心とする対欧米輸出港であり横浜商人が原料品もしくは半製品を供給して満足している慢心をいましめながら、対中国市場で欧米の商人を相手に激烈な競争をくりひろげている神戸商人の姿勢を学ぶべきであると説き、対中国貿易に目を向けるべきことを主張していた(『月報』一九〇六年三月)。こうした指摘は新聞紙上で時おりおこなわれ、「大阪、神戸の如きは、不景気の裡にも何となく活気」があるのにたいして、「横浜市の人心の振はざる」さまをとりあげていたほどである(『横浜貿易新報』明治四十三年四月二十四日付)。ところで、景気変動の浮き沈みのなかで工業化をどう進展せしめていくか、「実業」のありかたをめぐる争点とともに工業化の陰でこの事態にからんで労働問題・農村問題がひときわ目をひくようになってきた。このうち、本格的な労使対立は一八九七(明治三十)年の日本郵船会社の艀船水夫、京浜間艀船人夫のストライキ、横浜船渠の労働者の半月間にわたる争議によって、その幕が切って落された。そして、日露戦争後、横須賀海軍工廠で賃上げ争議がおこり争議は頻発していくようになる。また、工業化の進む日露戦争前後から、横浜・川崎を中心として煙害、悪臭、汚染をめぐる住民の苦情や運動も台頭し、さらには、海面埋立、用地買収、河川改修をめぐる紛議も多発している(横浜市『横浜住民運動資料集成―明治編』)。そこには資本と賃労働の対立、紛糾にとどまらないで、工業化のなかの資本と地域の対立もまた表面化してきている。このような動きや情勢とともに、農村地帯においても、ようやく多摩川、鶴見川、相模川、酒匂川流域をはじめとして自然災害による減収のために、あちこちで小作人の小作料減免運動がたち現われ村々の内側もゆれはじめていく。工業化という名の資本の論理は、こうして、村々にまで衝撃をあたえ、新しい「時代」の到来を告げていた。それは、資本の力による社会風土のぬりかえという局面の出現にほかならない。 ところでこの時の流れのなかで、神奈川県は「先進県」の地位を築きあげていた。それは、幕末の開港場としての伝統と威光を背景に、日本の玄関口として対外的に交通、通信の中枢的機能をにない、また、横須賀軍港、横須賀工廠という国家的施設を擁し、さながら、日本を代表する立場を獲得していたからである。しかもこの間、この地から施設が移動したのは、日露戦争後、陸軍の横浜連隊区が甲府連隊区に変り、神奈川県がその管轄下にはいったことぐらいであろう。こうしたなかで、県は、市町村と協力しながら地域の生活環境の整備の一環として、明治初年から頻発したコレラ病、ジフテリア病などを駆除するために公衆衛生問題をとりあげ、さらに、自然災害に対処して民力を高めることにエネルギーをそそいできた。と同時に、横浜港をかかえるこの県特有の役割として、神奈川県知事は、官約移民時代からさらに移民保護規則、移民保護法が公布されていく明治前期において、移民会社を取締りつつ、海外移民にかかわる旅券の交付から渡航先で発生した問題処理にいたるまで多角的な業務にたずさわっていたのである。移民現象が日本の近代にもつ底深さという点を重視すれば、この問題について、広島県、山口県、和歌山県などのいわゆる「移民県」の知事と、外務省筋とふかいかかわりあいをもつ神奈川県は、外務省外交史料館の諸資料からみるかぎりでも特異な立場にあったといえよう。こうして、この県が「外」と「内」の両面にわたって開かれた関係をもっていたことが「先進県」としての位置を獲得していたということにもなろう。 こうしたなかでに工業化が進展し、そこから噴出してくる社会問題、さらには「国力の充実」をかかげる国策と「租税負担」の軽減など「地方主義」を主張する地域の要請との対抗や「立憲主義」の政治潮流がたかまってくるなかで、「先進県」神奈川も新しい問題に直面していかざるをえなくなる。しかも、この「時代の趨勢」と関連しながら、やがて、大正期にはいり名実ともに京浜工業地帯が確立するなかで、かつて、ペリーを介して間接的なつながりをもった沖縄の人びとが、まずいちはやく横浜、川崎に移住してくるようになる。このことは、この地がさまざまな問題を抱えながら、よりいっそう「開かれた」地域に転化していく関係を示すものであった。 第一編 明治維新と神奈川県 第一章 神奈川県の成立 第一節 変革期の相武 一 本県成立の特異性 神奈川県名の由来今日の神奈川県の管轄区域が最終的に決ったのは明治二十年代の中ごろのことで、明治元年(一八六八)に神奈川県の原点ができてからおよそ四分の一世紀の年月を経過している。日本史の全般からするとこの期間はまさに明治維新の仕上げの時代であって、王政復古による新政府の成立から、版籍奉還、廃藩置県、さらにその後も全国各府県の所轄区域調整のための郡県の廃合がしばしば行われ、それがほぼ終わり、全国が一道三府四十三県となったのが明治二十年代のはじめである。神奈川県の場合は、その後さらに三多摩の東京府移管によって県域が最終的にきまった。 このような明治以降の県域の変遷は、政府の地方政治整備過程の一環であるが、本県成立の由来は別格で、これは幕末史の本流と密接な関連をもち、その初期を画した嘉永・安政の開国に端を発しているのである。つまり、安政末年の横浜開港がそれであって、この開港と貿易の開始が因となり、また果となって幕府勢力の漸次後退となり、逆に朝廷とそれをめぐる反幕諸藩の動きが活発化して、最後に大政奉還から幕府の倒壊、王政復古となった。そこに至るまでの幕末の横浜は、日本の中心的開港場として列国外交団の根拠地ともなり、しばしばこの激動の歴史の表舞台になっていた。 開設当初の本県管轄区域の変遷が、旧神奈川県を中心として周辺旧藩領を合併する形で行われたのは、横浜の政治的、経済的重要性からきていることはいうまでもないが、それではなぜここが、「横浜県」とならずに「神奈川県」となったのであろうかというと、これは横浜港が神奈川奉行の管轄下にあって、実は神奈川港であったからである。これはもとより、安政五年(一八五八)の「日米修好通商条約」によるものであったから、本県の県名は安政の開港期にきざしているということになるのである。このときの条約では新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の四港が開港場となった。このほかすでに開港していた下田・箱館があるが、下田は神奈川開港六か月後に閉鎖して神奈川(横浜)がこれに代わった(第三条)。この五開港場(このうち新潟のみは明治後に持こされた)の地名が後にそのまま県名に用いられて、神奈川のほか「長崎」が長崎県、「新潟」が新潟県、「兵庫」が兵庫県、「箱館」が一時箱館府(あるいは箱館県)となっている。長崎・新潟の場合はそれぞれ県庁所在地が旧来の開港場となったので、そのまますんなり県名となったが、神奈川県と兵庫県の場合は特別であって、前者の場合は前述したような事情であり、兵庫県の場合も神奈川県の場合と同様、条約上では古来の「兵庫津」であったが、慶応三年(一八六七)末、いよいよ開港に当たって兵庫側で外国人居留地開設を嫌い、湊川をへだてた神戸村、二つ荼屋村・走水村辺に設けたので兵庫開港が事実は神戸開港となった。しかし県名は神奈川県の場合と同様、条約面のまま兵庫鎮台、兵庫裁判所さらに兵庫県となった。 横浜開港東海道筋の神奈川宿から西方約七キロ㍍の寒村の横浜村が開港場横浜となったのについては、日本の開港史の劈頭を色どる幕府外交成功の一幕があった。安政五年(一八五八)の「日米修好通商条約」で定められた神奈川は東海道筋の神奈川宿のことであるが、このような諸大名以下、武士・町人の往来のはげしい場所に開港場を設け、多くの外国の役人・商人が居留し、また諸外国の船艦が頻繁に出入りすることは、外国人との接触をまだ極端に忌避する風潮のつよかった折りから、はなはだ危険きわまりなかった。そこで、神奈川開港は不適当ということになって、大老の井伊直弼が神奈川宿開港に異議を唱え、神奈川は遠浅で船着きが悪いことを理由とし、投錨地としてよりすぐれた近隣の横浜村を開けと主張した。これは、外国側に対して横浜も神奈川の一部であると釈明すればよいという論法であった。これに対して条約締結の全権であり、外国奉行の岩瀬忠震らは条約違反と反対したが、大老の威力で横浜開港に決して、開港期日を前に急拠横浜開港の準備にとりかかった。 ところがアメリカの駐日総領事ハリスは、これに強硬な異議を唱え、横浜は不適当と主張して議論が紛糾したが、幕府側は苦肉の策でそれにかまわず横浜開港の準備をすすめ、半ば強制的に江戸商人らの横浜誘致を行った。これが成功して外国商人も横浜に設けた居留地に集まるようになったので、幕府の工作どおり横浜開港となった(肥塚龍『横浜開港五十年史』上巻、『横浜市史』第二巻第三章)。 井伊大老の神奈川開港反対は、攘夷的な排外精神からであったというが、ともかく、このとき若干でも幕府が条約規定の変更を押し切ったことは、今日の横浜市の隆盛を現出せしめた原点ともいうべく、たしかに幕府側の英断のお蔭であったといえよう。当時横浜運上所の通弁を勤めていた福地源一郎は、『懐往事談』のなかで「此選地の英断は実に価値ある英断にして、今日に於けるも横浜の隆盛なるは全く此英断の結果なれば、歴史を論じ貿易を論ずる輩は、敢て此英断の苦心を忘却する可からざるなり。若し当時幕府の当局者が外国全権の威権に怖れ、条約の文字牽制せられて神奈川駅を開港場に定めたらんには、外交上に幾許の禍難を蒙りたらん乎は測り知り難かるべし。其上に今日の(横浜)隆盛は決して夢にだも想像し得べからざりしや言を俟たずして明白なるべし」といっているのは当をえた論評ということができるであろう。条約どおりの神奈川開港の結果いかんは別として、この際、幕府当局が条約規定を曲げて解釈して、強いて横浜開港を推進したことはひとり横浜市のためのみならず、神奈川県の歴史にとってもきわめて重要な意味をもつものといわなければならない。 神奈川奉行の設置神奈川奉行は安政六年(一八五九)六月、横浜開港に当たって設置されたが、これは外国奉行の兼任としてまず同奉行の酒井忠行・水野忠徳・村垣範正・堀利煕・加藤則著の五名が任命された。奉行役宅は戸部村の野毛坂わき宮ノ崎(現在西区宮崎町)に設けられ、さらに運上所が(現在神奈川県本庁舎、中区日本大通り)に設けられた。この神奈川奉行の設置に当たって旗本領であった横浜・太田屋新田・戸部・野毛の四か村は幕府の直轄地に編入されて神奈川奉行の預所となった。また、神奈川宿も同様その預所に編入された(『横浜市史』第二巻第三章)。神奈川奉行は遠国奉行であるから一般遠国奉行なみの民政をも扱ったので、これは戸部役所で行い、運上所は後の税関であって、もっぱら貿易その他渉外の事務を扱った。神奈川奉行は遠国奉行とはいえ、開港所管理のために特設されたものであったから、運上所のほうがとくに繁忙であったという。 神奈川奉行は兼任制であったから交代勤務とし、一年交代で一人ずつ在勤し、ほかに一名が随時出向くことになっていた。配下には支配組頭が八、九名いたが、大部分が運上所詰めであった。神奈川奉行を外国奉行の兼任制としたことは、江戸に近いということもあったであろうが、横浜港が江戸の開港場であり、幕府外交の場として江戸幕府の分身にほかならなかったことを示している。神奈川の一部として横浜を開港したが、条約上ではやはり神奈川開港であって横浜開港ではなかった。そこで管理機関を設けるに当たっても横浜奉行とせずに神奈川奉行としたのである。 幕末開国後の横浜(神奈川)は日本の対外的表玄関であり、経済・外交・軍事等の渉外諸事項の中心地であった。当時の国際関係は周知のとおり諸外国の圧力に動かされてはじまったものだけに朝・幕・諸藩、さらに在野のいわゆる草莽・農商民の反応は複雑で、その間から広汎な尊王攘夷運動がまきおこったのであるが、この攘夷運動の波を正面からかぶったのは貿易の中心地である横浜であった。この波は外国人の殺傷事件となってあらわれたが、その第一回犠牲者は開港直後の安政六年(一八五九)六月、横浜上陸のロシア軍艦乗り組み士官と水夫であった。しかし横浜にとって政治的に重大事件となったのは、文久二年(一八六二)八月の神奈川宿に近い生麦で、江戸から上京途次の薩摩藩の鳥津久光一行がイギリス商人一団を襲った、いわゆる生麦事件である。横浜居留地は多大の衝撃をうけ、イギリスからのきびしい責任追求となって幕府は償金十一万ポンドを支払った。このようなことで攘夷熱はいやがうえにも高まって、ついに翌三年の九月ころには、横浜鎖港問題がおこり、幕府はいよいよ窮地に陥って、ついに同年末、その談判のために池田筑後守長発を欧州に派遣したが、これは無謀な交渉であったからもちろん失敗に終わっている。このような幕末外交の波瀾のなかで、横浜が諸外国の外交上・軍事上の基地であったことは終始変わっていない。それに伴って幕府側にとってもこの地がやはり対外折衝の基地となった。そういう点で幕末外交史上における横浜の地位は何といっても中心地的である。これは内政史上でなく、主として国際史上におけるものであるが、このような特別な地位が、明治以降の日本の近・現代史上における神奈川県の優位の基礎となっていることも特筆しておかなければならないことである(資料編10近世⑺海防・開国、資料編15近代・現代⑸渉外)。 創設当初の神奈川県本県史のいわば、本史に当たる近代・現代は、明治元年(一八六八)九月二十一日の神奈川県設置を起点としている。この神奈川県は行政上からいうと、神奈川府の改称であり、神奈川府はまた明治元年四月二十日、新政府によって開設された神奈川裁判所の後身である。この四月二十日、京都から派遣の東久世通禧横浜裁判所総督が、旧幕府の水野、依田両神奈川奉行から事務一切の引渡しを完了したのであるから、新政府の神奈川県政の発足は、この日まで遡らなければならないが、「神奈川県」の名称を唱えたのが、九月二十一日なので、本県史の近代編は、この日を起点とすることにしたのである。 旧幕府の神奈川奉行は、遠国奉行でありながら、開港場の渉外事務官という特殊な性格を持ち、貿易事務管理の財務官でもあった。神奈川裁判所はそういう性格を引継いだ関係から、他府県とは違って長官には、最初に外国事務総督、つまり新政府の外務長官であった旧公卿の東久世通禧また初代知事にもやはり外交官僚の寺島宗則が就任しておって、地方事務のほかに国全体の外交事務にも当たっている。つまり県長官兼政府の外務長官であった。したがって県庁機構も、内政外政の両局を設け、翌二年の東京遷都頃までは、地方事務は従で、渉外事務のほうが主であったというような関係にあった。これは政府の外交体制がまだ不整備の状態にあった関係から、中央の外交担当官が横浜港の渉外事務を兼ねるという行政体制となったのである。当時の政府所在地の京都、大坂より、横浜が幕末以来の伝統から依然日本外交の本舞台であった。このような神奈川県の特異性は漸次解消され、明治四年十月、廃藩置県を機会に関税事務を大蔵省に移管して、神奈川奉行以来の特殊性から脱皮して、他府県なみの地方行政区となった。 二 横浜の繁栄 府県列順神奈川県は、明治四年(一八七一)の廃藩置県後、諸県の廃合が一応終わった十二月十日に定められた「府県列順」によると、東京・京都・大阪の三府に次ぐ諸県の筆頭となっている。これは諸県の順序を定めるについて、神奈川県以下開港場のある数県を最初にあげたためであった。開港場重視のためであるが、そうなると筆頭はどうしても横浜港を擁した神奈川県となるのであった。この諸県順位は現在まで変わらず、本県は依然筆頭県なのである。このような本県の高順位は明治初年の開港場としての高い地位によるもので、これは全く安政の横浜港開場以降の外交・貿易上の中心地としての繁栄によるものであったことに由来しているといっていい。 鎖国時代には京都、関東から遠隔の長崎を開港場としたが、幕末の開国開港からは情勢が全く一変して、江戸に近い関東の横浜がかつての長崎に代わって日本の外交関係、貿易関係の中心地となった。明治となっても、江戸が東京と改称して新首都となったために横浜の地位は変わらず、幕末期の繁栄がそのまま存続されて、新しい国際日本の表玄関となった。さらにその後、明治中期から大正へと日清・日露の両戦役をてことした向上期日本の国力増伸、貿易の拡大、それによる国際的地位の向上とともにその名声も高まって世界のYOKOHAMAとなった。 貿易の中心安政六年(一八五九)六月、開港当初の横浜港は外国船の入港するものもわずかで、まだ港としての設備も不完全きわまる有様であった。前揭福地源一郎の『懐往事談』にも、開港当時の模様について「開港の初は我も彼も相互に目的なく、さながら盲捜しの景色にてありき。当時横浜には本町通り、弁天通りの二筋に各商店を張り、漆器、陶器、銅器、小間物、反物等の店を思ひ思ひに陳列したるは、今より顧れば恰も勧工場の景色なりき。而して外国商館とても是に同じく、毛織物、毛織雑織物、又は小間物等を何くれと無く陳列して以て日本人の需を俟てること、西洋勧工場に異ならざりき……」と書いている。当初に開店した者には、奇利をねらった冒険商人も少なくなく、互に暗中模索の有様であったが、半年ぐらいすると外国側から、将来は有望な貿易港になろうという見通しもたてられるようになった。 幕末の開港場として、実動していたのは、横浜と長崎・箱館の三港であった。条約上ではこのほかに兵庫と新潟があったが、兵庫(神戸)は開港がはなはだ遅れ、新潟は不開港に終わった。そこで、右の実動三港を比較してみると、開港の当初の安政六年を除くと、横浜が輸出入ともに、その金額が圧倒的に他の二港を凌駕している。さらに輸出入品についてみても、主要輸出品である生糸は、横浜がほとんどその全部を輸出している。これはその重要原産地の関東から奥羽の南部中部を背後に持っていたからであるが、これは貿易上における横浜の比重を圧倒的に重くしている。茶の場合も同様である。このような地理的好条件のほかに何といっても横浜はいわば首都江戸の開港場であったから、日本の対外的表玄関となり、最初から各国の領事館などもおかれ、貿易のみならず、外交事務も行われていた外交都市でもあった。また各国軍隊駐屯、そのほか、前記のように軍艦の寄港などもあり諸外国の軍事基地でもあった。また神奈川奉行もはじめは外国奉行の兼任であったから、横浜の地位は他の開港場とは異なった特別地帯であったのである(前掲『横浜市史』第二巻、石井孝『幕末貿易史の研究』)。 開港場としての特色は何といっても外国人居留地の存在で、これは関門によって区画された日本のなかの異国であった。珍しい風俗の異人が往来しており、彼らのための教会堂もあった。また居留地の異人相手の遊廓も設けられ、ここがまた異国風俗の集約地となった。これらが横浜の新名物として内外人の目をひいて異国的雰囲気豊かな居留地文化を生んだ。 三 王政復古と相武 大政奉還と王政復古慶応三年(一八六七)十月十四日、当時京都にいた将軍徳川慶喜は、土佐前藩主山内豊信の建言をいれて大政奉還を行った。これは折りからの薩長連合による討幕運動の攻勢をそらそうとする政略であった。そこで薩長討幕派は討幕の密勅の降下を画策して、慶喜の奉還直後、在京の薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通および長州藩士広沢真臣・品川弥二郎らが、ただちに藩兵の東上を促すためにそれぞれ密勅をもって帰藩の途についた。このような朝廷内外の形勢から両派のはげしい政争となったが、薩長派は芸州藩を抱きこんで挙藩武力討幕の体制を固め、さらに朝廷内の王政復古派岩倉具視と結んでついに十二月九日の王政復古の政変に成功した。 この王政復古は、討幕による新政府の樹立であったから、実質的な政権奪収のために前将軍慶喜に対して官位とともにその領地の提出を求める辞官納地をつよく要求した。ところが慶喜側はこれをいれず、京都を去って大坂城にはいった。薩長両藩を主力とする討幕派があくまで攻勢な態度をとると、慶喜側もこの討幕派と対決の態度にでて、ついに翌明治元年(一八六八)正月の鳥羽伏見の一戦となった。この戦争は討幕派である京都政府側の大勝となって、薩長討幕派の勢力を確固たらしめた。ところでこの討幕派勝利の蔭に江戸における薩摩藩邸焼き打ち一件があったが、これは薩摩藩の西郷隆盛らが幕府側を挑発するための苦肉の策略であったので、この一件の傍流としておこったのが相州荻野山中藩の陣屋焼き打ち事件である。こうして相武地方も一時、この討幕と佐幕両派激突のとばっちりの被害をうけ、さらにその余波ともいうべき小田原藩を窮地に追いこんだ箱根戦争の勃発をみている。 荻野山中藩陣屋の焼き打ち荻野山中藩陣屋跡は現在の厚木市下荻野で、そこに「山中城址」の碑がたっている。同藩は小田原藩の支藩であって、小田原藩主大久保忠朝の次男教寛を祖とし、はじめは旗本として幕府に仕えたが、宝永三年(一七〇六)、一万二千石の譜代大名となり駿河国松永村に陣屋を設けた。五代教翅の時代、天明三年(一七八三)、この荻野に陣屋を移して山中藩となった。幕末期は七代教義が藩主で、一万三千石を領していた(資料編5近世⑵、厚木市教育委員会「厚木市文化財調査報告書」第十一集『荻野山中藩』)。この山中陣屋の焼き打ちは当時江戸薩摩藩邸に立てこもっていた草莽隊の相楽総三の関東攪乱策の波を被ったもので、山中藩としては全く思わぬ被害事件であった。 相楽総三、本名は小島四郎左衛門将満といい、下総国相馬郡の裕福な郷士身分の豪農の子であった。生まれは江戸で、相楽総三は草莽運動時代の変名である。幕末期の関東には、水戸の天狗党一派の活躍があり、そのほか、真忠組、慷慨組、天朝組などの草莽隊の挙兵計画があって尊王攘夷の空気が各地に流れていた。総三もこの空気に触れた一人で、若いころ、文久以降から諸所を奔走し、彼らに資金を提供していた。慶応二年(一八六六)には京都に赴いて、勤王派志士に接近して、薩摩藩出身の浪士伊牟田尚平、益満休之助らと交わり、その縁で西郷隆盛、大久保利通らに知られるようになった。 折りから、薩摩討幕派は土佐の公儀派とにらみ合いの状態でその勝負の決着の機をどうしてつかむかがそのねらうところであった。そこで西郷は江戸を中心に関東攪乱を行って幕府側を挑発し、武力討幕の名目をえようとして、その使命を伊牟田らから紹介された相楽総三に托した。総三はかねて尊王運動の旗上げの志があったのでこの密命を喜んでうけ、慶応三年(一八六七)十月上旬、相楽ら三人は京都から江戸にまいもどって三田の薩摩藩邸にはいった。 相楽総三はこれからこの運動の同志を集めにかかったが、急拠のことであったので江戸ないし周辺から集めた。幹部になったのは落合直亮、権田直助、斉藤謙助、大谷総司などで、隊長相楽の旧知や関東の尊王攘夷派の代表的人物であった。これには江戸周辺の豪農商のつながりもあった。しかし配下としてかき集めたのは江戸周辺の無頼、不逞の徒が多く、その数は五百人に及んだというから玉石混交の雑集団であった。しかも薩摩藩邸を根城としていたから、どうにも幕府側では手がつけられなかった。 この相楽浪士隊の目的は、京都の西郷らから托された討幕目的の関東攪乱であったから幕府側を騒がせればよいわけで、戦略として江戸を中心に関東各地の三地点で挙兵することとして、それぞれ部隊の編制を行った。選んだ三地点とは、第一が野州の都賀郡出流山、第二が甲府城の奪取、第三が荻野村の山中陣屋襲撃であった。十一月の末からそれぞれ行動を開始している。出流山は関東東北部の攪乱で、甲府城奪取は甲州街道の押えであり、山中陣屋襲撃は東海道筋に圧力をかけるためであった。どうして山中陣屋をねらったのかは具体的にわからないが、小田原、箱根方面の襲撃となると容易でないので、まずこの小藩をねらい、さらに作戦を練って小田原方面を襲うつもりであったと思われる。ともかく、こうして相模地方が相楽浪士隊に見舞われることになったのである。 山中陣屋襲撃隊は、隊長が鯉淵四郎、当時二十八歳、水戸出身である。このほか谷龍夫、長山真一郎、岩屋鬼三郎、結城四郎、川上司ら六人の名が判明している(長谷川伸『相楽総三と其同志』)。このうち谷龍夫は本名・鈴木佐吉で下荻野村の博徒の小親分で、これが相楽隊の結城四郎と連絡をとって山中陣屋襲撃の誘引をしたという(前掲『荻野山中藩』所収、鈴村茂「荻野山中藩陣屋焼打ち事件とその背景」)。このほか荻野村の石井道三、飯山村の山川一郎も参加していた。この浪士隊は十二月の中旬、甲府城襲撃隊と相前後して江戸薩摩藩邸を出発して、小田原方面に向かい、荻野にあらわれたのは十二月十五日の夜という。この日は曇りがちの日で午後には雨も降りはじめ風さえ加わってきた。陣屋は折りから藩主大久保教義が江戸表に出府中であったので、留守をあずかる者は女中を合わせて十名ぐらいで無人にひとしかった。このとき隊士は大山参りの六部、町人、百姓などに変装して大山街道を下って荻野新宿に着いた。道案内は土地者の石井であった。そこで愛甲郡の博徒親分鈴木咲太郎を呼んで計画を語って仲間を集めさせ、それで同勢が三十六、七名になったものらしい、折りからの雨中を陣屋に近づいた。 山中陣屋は相模国愛甲郡中荻野村字山中で、前述のように、天明年間にできた敷地一町十反余、という規模とてきわめて小さく簡略なものである。築造当時の見取図によると荻野川に添っており、大手口は荻野街道に面していた(『荻野山中藩』所収鈴村茂「荻野山中藩陣屋の創設」)。 刻限は四ツ時(午後十時)頃、隊長は表門からはいって陣代に向かって勤王運動の荻野山中藩陣屋跡に建つ「山中城址」の碑 ための軍用金の徴発を申しいれた。陣代は藩主の不在を理由に断ると、陣屋に発砲して焼きはらい、陣屋の者を殺傷させたうえ武器、武具などを奪い、倉庫の米などは徴発して人足たちにわけ与えるなどした。要するに小陣屋のことであるから簡単に事件は終わったのである。山中陣屋焼き打ちの翌十六日には、浪士隊は妻田村の永野茂右衛門、山際村の林弥右衛門、中丸重郎兵衛、川入村の佐野一郎右衛門、中津村の熊坂半兵衛、座間村の大矢弥一らの富豪におどしをかけて軍用金の供出を強要して、それぞれから数百両を奪ったうえ、山中から小田原を経て横浜まで赴くと宿々の問屋、村々の庄屋に村継の先触をださせている。小田原本藩では急報に接して、酒匂川橋に出兵したので浪士隊は引き返し、厚木から八王子方面にでて江戸に向かい、十七日、内藤新宿の妓楼で同志の点呼を行って、十八日に三田の薩摩藩邸に引きあげた(前掲鈴村茂「荻野山中藩陣屋焼打ち事件とその背景」、藤野泰造「慶応三年十二月相州荻野山中陣屋焼打事件について」『関東近世史研究』九号)。 この山中陣屋襲撃の報は京都の方にも伝えられたとみえて越前藩の記録「丁卯日記」十二月晦日の条に「江戸表より相廻る風聞書」と題して「大久保出雲守殿御陣屋相州荻野山中放火云々」と、この一件のことが載っている。 山中陣屋襲撃一件は諸書によるとだいたい右のような始末で、線香花火のような人騒がせに終わった。討幕挙兵というよりむしろ博徒と組んで豪農商から軍用金の強奪がねらいのようである。野州出流山の挙兵は幕府側の密偵の情報によって結局失敗となり、甲府城奪取も仲間の中に会津の間諜がいたのに気付かず、八王子宿舎の妓楼が襲われて惨敗するという始末で、相楽荻野山中藩陣屋裏門と伝えられる厚木市林の福伝寺山門 隊の関東攪乱は予期の効果をあげないまま失敗に終わった。これは、要するに京都の西郷ら討幕派の手先として急造したいわば烏合の隊であったから、草莽隊とはいえ根の浅いものであった。山中陣屋の襲撃のごときがそのよい例で、相模地方はわずかに火の粉をあびた程度でしかなかった。しかし、相楽の急造策で江戸内外から不逞、無頼の徒を多数集めたので薩摩藩邸は無頼の徒の巣窟となって、江戸府内の治安は極度に険悪となった。十二月二十三日朝の江戸城二の丸の火災も薩摩藩に疑いがかけられるということで、ついに旧幕府側も薩摩藩邸の攻撃を決意して二十五日の黎明、諸藩兵も併せた二千余名による薩邸焼き打ちとなった。この報が大坂城に伝わると、城中の慶喜軍将士の薩摩討幕派に対する激昂が高まって、ついに討薩表を掲げて京都に進軍する鳥羽伏見の一戦となった。 鳥羽伏見の戦と東征軍の派遣慶喜軍の京都への発砲によって、正月七日、慶喜を朝敵として追討令を発し、ただちに東征軍派遣のだんどりとなった。すべて筋書どおりである。十日には前将軍内大臣徳川慶喜をはじめとして前京都守護職松平容保(会津藩主)、前京都所司代松平定敬(桑名藩主)、その他若年寄永井尚志、同並平山敬忠ら慶喜幕僚ら十数名の官位褫奪を行った。 これより先、鳥羽伏見の戦端開始とともに正月四日、議定仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じて錦旗節刀を賜り、翌五日には東海道鎮撫総督に参与橋本実梁(公卿)、同副総督に参与助役柳原前光(公卿)を任命した(翌二月六日、総督は先鋒総督兼鎮撫使、副総督は先鋒副総督と改称)。このほか全国諸道に対する鎮撫体制をしいて山陰、北陸、九州、東山の各方面にも鎮撫総督を任命している。また各総督の下にそれぞれ参謀、軍監をおいた。東海道軍参謀には木梨精一郎(長州)と海江田信義(薩摩)が任ぜられている。 二月朔日、天皇親征が決して三日にはその詔が発せられた。 鳥羽伏見の政府軍勝利の報が九州長崎に伝わると、長崎奉行河津祐邦は正月十四日頃、任地を放棄して脱走した。日田郡代窪田治部衛門も正月十六日、陣屋から遁走したので九州一円は簡単に新政府側の掌握に帰した。山陰方面も総督参与西園寺公望(公卿)の手によって諸藩が勤王を誓ったので、二月末には全く平定に帰している。このように京都以西ははやくも朝廷政府の勢力下におかれるようになったので、政府軍の征討の目標とするところはもっぱら依然旧幕府の勢力下の関東を中心に北陸、東国方面の東日本一帯となった。 なかでも東海道筋の関東の関門に当たる小田原藩から横浜、さらに江戸へかける地域が、第一の攻撃目標地となることはいうまでもなかった。 そこで、二月九日、総裁有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任ぜられ、東海、北陸、東山三道の軍を統率して旧幕府根拠の江戸攻略となった。大総督の下に正親町公董らの公卿とともに薩摩藩士の西郷隆盛、長州藩士の広沢真臣らがそれぞれ参謀となった。有栖川宮大総督は二月十五日、参内して錦旗節刀を賜って、その日ただちに京都を進発して諸参謀以下を従えて東海道を一路下って三月五日、駿府城に着陣した。この東海道軍が、東征軍の本隊であるが、これより先一月五日、橋本、柳原正副総督が京都を進発し、木梨精一郎・海江田信義の両参謀とともに、大総督に先行して肥後、因幡、彦根備前、膳所、亀山、水口、大村、佐土原等九藩の兵を率いて京都を発して東海道を下った。途中、桑名藩討伐の命をうけていたので、二十二日、軍を四日市にすすめて二十八日には桑名城を収めた。ついで二月十三日、名古屋に着陣した。こうしていよいよ関東関門の箱根、小田原へと迫ったのであるが、この箱根には旧幕府の関所があり、小田原藩兵がこれを守備していた。小田原藩はすでに朝廷政府に恭順を表明していたので、関門通過は問題がなかったが、その後となって旧幕府遊撃隊脱走の徒が乱入し、箱根戦争が勃発して小田原藩が一時窮地に陥るという一幕がおこるのである。 第二節 神奈川県の誕生 一 神奈川裁判所の開設 列国、外交責任者の横浜派遣を要請東征軍が東海道を下り、神奈川を通過して江戸に向うことは、列国外交団に一つの不安を与えることとなった。それは言うまでもなく、多数の外国人が居住する横浜の治安への影響であった。 戊辰正月十五日(一八六八年二月八日)、勅使東久世通禧が兵庫に至り、列国外交代表に対して王政復古の通告をおこなったが、この時外国側は四日前に発生した「神戸事件」の処理と今後の治安維持について維新政府が責任をもつかどうかをただしている。これに対し、東久世はもとよりその旨を言明したが、長崎はまもなく管理下に入れる見込みであるが、ただし、横浜は目下のところ支配する時期は確言できないと語っている。東征軍進発前の段階では横浜問題は何の確約もできなかったのである。 二月、大坂と兵庫に鎮台が置かれ、東久世は兵庫鎮台の長官となり、さらに両鎮台がそれぞれ「裁判所」に改められると、彼は兵庫裁判所総督となった。そのころ、新政府と列国外交団との間に新たに外交代表の参朝問題がおこっていたが、政府部内ではなお実施にふみ切ることに躇躊する空気があって決定が長びいていた。このため、東征軍の進発状況を見守っていた列国外交団側では、戦火の危険が近づく横浜への帰還を急ぎ、参朝招請期限を二月十四日とした。こうして、大坂鎮台醍醐忠順・外国事務総督伊達宗城・同東久世通禧の三人は、まさにその期限である二月十四日、大坂西本願寺で列国外交代表と会見し、外国事務局の創設、近日天皇の召見があること、及び横浜・箱館の地に朝廷の官吏を派遣し、人民安堵の令を下す予定を伝えたのである。しかし、その翌日、はからずも「堺事件」が発生したので、政府はこの新しい難問題処理の苦境に立ちつつも、二十三日、外交代表の参朝をともかくも実現させたのである。この日、フランス公使とオランダ総領事は無事終わったが、イギリス公使パークス(Parkes, sir Harry smith)は参内の途中襲撃されたため、改めて三月三日に参内した。「堺事件」の犯人処罰を確認し、参内を終えた列国代表は、東征軍が接近しつつある横浜へ急ぎ帰還した。 三月八日横浜に帰ったパークスは、その翌日、神奈川奉行から行政引渡しの用意のあることを聞いている。この日、フランス公使ロッシュ(Roches, Léon)も帰還し、列国外交団は不穏の空気につつまれ始めた横浜の警備対策会議をひらき、各国軍隊による警備体制がとられた。このときの軍隊配備の具体的なことは不明であるが、横浜の市内に通ずる要所はすべて固められ、奉行の許可証なしでは帯刀者は横浜の町内に入れないこととした。 さらに列国外交団は共同して外交責任者の派遣を要請する書簡を起草し、これをフランス公使館書記官ブラン(Baron Brin)に兵庫まで携行させ、同地に滞留しているイギリス公使館書記官ミットフォード(Mitford, Algernon Freeman)と共に新政府当局者に手渡すこととした(『大日本外交文書』第一巻第一冊、『横浜市史』第三巻上)。 ミットフォード、ブランの二人が新政府当局者と会見したのは、三月十七日のことで、場所は大坂の外国事務局、応接者は伊達宗城と東久世通禧である。外国側がいかに政府の緊急措置を望んでいたかは、会談の終わりにブランが五日以内の回答期限をつけたことでもわかる。日本側は外交団の要請に同意し、結局は三月の東久世横浜裁判所総督の任命となる。 海軍先鋒総督の横浜上陸一方、三月十七日には、海軍先鋒総督兼鎮撫使大原俊実は鹿児島・佐賀・久留米の艦船をひきいて兵庫を出港し、二十三日横浜に入港、即日上陸し、翌日、大原は横浜鎮撫の布告を発した。これは東征軍の最初の横浜進駐であった。 しかし、大原には神奈川奉行に代わって横浜の管理に当たるという考えは少しもなかったのである。神奈川奉行は、大原の到着を知ると、早速「当地御処置振」―すなわち、管理引継問題についてたずねたところ、大原は自分は海軍総督兼当地鎮撫という名儀になってはいるが、管理引き継ぎの任務まではもっていないから何らの指示もできないと答えたという。 東海道鎮撫総督参謀木梨のパークス訪問前節で述べたように、有栖川宮東征大総督は、三月五日、駿府城に着陣して、いよいよ十五日、江戸総攻撃を決意したが、旧幕府側代表の山岡鉄太郎と参謀西郷隆盛との間で第一次和平交渉が行われた。ついで西郷は先鋒として、十一日駿府を発して江戸に向った。この際、西郷は東海道鎮撫総督参謀の木梨精一郎に対して横浜にいるパークスに会見を命じた。木梨は十二日藤沢に至り、同地に滞陣していた渡辺清(大村藩士)に対してパークスとの会見目的を告げ、翌十三日、渡辺を同伴して横浜に入り、パークスを訪問した。その目的は何であったか。後に渡辺が当時を回顧してつぎのように語っている。 「木梨がいうには、此度江戸城を攻撃については実に不案内の官軍であるから、第一負傷者の手当に如何とも詮方ない。それで横浜に参り英のパークスに逢うて、かれの世話で横浜に病院を造りたいという論で……英の管轄の病院があらばそれを流用して貰いたい、且又医師其他一切のことを依頼せよという命を承って参った」(渡辺清「江戸城攻撃中止始末」明治三十一年十一月二十一日談『史談会速記録第六十八輯』)。 木梨のパークス訪問の目的が渡辺の言う江戸城攻撃戦のための医療準備だけにあったとは考え難い。当時の政局からみて江戸城攻撃にあたって、前もって了解を得ておくという外交的配慮が主であったと判断するのが自然であろう。 木梨の意見を聞いたパークスは「如何にも変な顔付」をして、恭順を示している慶喜を討つことに対する異論、居留地駐在領事に対する公式通告と警備兵の手配の欠除を指摘して江戸攻撃作戦を強く批判したという。この時のパークスの異論が西郷を驚かせ、戦争回避の申入れに同意する背景となったという点は、これまででも繰り返し論じられてきたことである(石井孝『増訂明治維新の国際的環境』、原口清『明治前期地方政治史研究』上)。 また、同じ十三日には橋本実梁先鋒総督は、六浦藩主米倉昌言に横浜の臨時取締りを命じている。 東征軍先鋒と神奈川奉行との接触木梨の横浜入りは、また神奈川奉行当局が東征軍幹部との接触をもつ機会ともなった。神奈川奉行水野若狭守良之がのちに橋本先鋒総督に対し陳述しているところによれば、木梨の動きの中から間接的に横浜引渡問題に関する情報が伝わってきたので、支配向の者―すなわち、部下を木梨のもとに出張させて確かめさせたところ、六浦藩主米倉昌言が新たに「神奈川奉行」に任ぜられた故、同人へ諸務を引き継ぐべし、もっとも支度等もあり少々時日も要するであろうから、それまではこれまで通り在職勤務する事、また支配向の者は貿易筋―すなわち貿易関係事務の取り扱いになれているから、残らず王臣に召使う事―すなわち新政府の職員として引き続き在職勤務する事という方針が伝達された。これは事務引き渡しに関する東征軍からの指示の最初である。 そこで水野は支配組頭を出張させて、右の引き継ぎと人事の二件について口頭ではなく書面に認めてくれるよう求めた。しかし木梨は、参謀に限りの右のような書面は出せないから、改めて総督府へ上申して書面を出すようにすると答えて神奈川から江戸へ出立したという。 その後三月二十六日、木梨が江戸からもどってきて神奈川に止宿した。神奈川奉行は早速支配向の者を木梨のもとに送って、先日依頼した書面の件をたずねさせたところ、木梨はまだその段取りになっていないが、神奈川奉行両人のうちいずれでも面談したいと伝えた。おそらくその当日のことと思われるが、水野は神奈川へ出向いて初めて木梨と会見したのである。 木梨は水野に対し先日申し渡した方針通り米倉昌言に事務引き継ぎをするよう指示を与えたが、その際か、あるいは後日のことか必ずしも明確ではないが、米倉の来着は四月二日と伝えられた。 神奈川宿におけるこの水野と木梨との会見は、神奈川奉行自身が東征軍当局者と接触したものとしては、大原についで二度目、陸路をとる東海道先鋒隊当局者に対しては最初のものであったかと思われる。 東海道先鋒総督と神奈川奉行の会見次に神奈川奉行が東征軍当局と接触したのは四月一日のことで、東海道先鋒総督兼鎮撫使橋本実梁が江戸に向う途次、神奈川宿本陣鈴木源太左衛門宅方で小休した際である。すでにこの前日にも、総督一行が保土ヶ谷宿に止宿した際、その日の夕刻、神奈川奉行は同地に出頭したのであったが、この時は総督に面会することなく、内舎人を通じてこれまでの諸務取扱い等詳細に報告していた。 橋本から神奈川奉行両人に対して与えた指示は、横浜港取締りに任じられた米倉昌言が出張してきたならば、これに諸事を引き継いだ後、奉行両人は退去すべきこと、六浦藩は小藩で人数少なく、また諸事不馴れであるから、神奈川奉行支配向の者は残らず朝廷において召つかわされ、これまで通り在勤すべく一同の者たちに申し渡すべきこと、ということで、前回木梨との会見で伝達されたものと同じであった。しかし、同じことからであっても、木梨からと、橋本からとでは、指示者の地位からいって発言の重みが違う。神奈川奉行は支配向一同に対し説得するに当たって、朝命であるとして説得してよいかどうかを問うている。これに対し橋本は朝命をもって相諭し、差し支えなしと答えている。神奈川奉行が「朝命」という名分の使用を橋本に求めたのは、こうした名分なくしては、この際部下に残留を説得する自信が持てなかったためであろう(『復古外記・東海道戦記』十)。 つぎに神奈川奉行が訴えたのは、慶喜以下謹慎の身でありながら、こんにちまでなお依然として横浜港の事務を取り扱ってきたことに関する趣旨弁明であった。こうした弁明の必要を感じたのは、朝廷に対し不敬の所為といった非難の声が一部から放たれていたか、あるいは今後の処分の危険が予想される雰囲気であったためであろう。神奈川奉行の陳述した理由は、もし一方的に彼らが横浜を退去した場合には、行政機関が消滅して外国人居留地はあたかも外国人所有地の姿となり、寸地でもそのようになっては「御国体」にかかわり、「皇国之御羞辱」この上もない事になる故、やむを得ず今日まで当地の管理の任に当たってきたものに過ぎず、朝廷の当港管理処置方針を聞くため、去る三月初旬いらい、江戸に向って街道筋を通過する先鋒隊長等に逐次支配向の者を接触させ、木梨・大原らとも交渉を重ねてきたものであり、木梨からはすでに明二日に米倉出張の予定と聞いて、諸務引渡しの準備をしていると、これまでの経緯をくわしく陳述し、重ねて「朝命」を以て支配向一同へ説諭する旨を付言した。 橋本は右の陳述の趣意に対し、当港を引き払わなかったことは、まことに「殊勝之義」とし、少しも「疑慮無之」と承認を与えたのである。 横浜裁判所総督の任命これより先、京都において三月十九日、東久世通禧の外国事務局補兼兵庫裁判所総督を免じて、横浜裁判所総督に任命した、同時に外国事務局権補鍋島直大を同副総督とした。これはもっぱら前記三月十二日の列国外交団の要請に対する措置であった。 東久世は公卿で、文久年間、三条実美らと尊攘派として活躍したが文久三年の八月十八日の政変で京都を追われたいわゆる七卿の一人である。王政復古によって官位を復され、新政府の参与となり、明治元年正月、軍事参謀、ついで外国事務総督となって外交の衝に当たることとなった。外国事務総督は外交長官で、後の外務卿である。鍋島は肥前藩主で明治元年二月、議定兼外国事務局権補となり、やはり外交事務に当たった。 この二人の正副総督の下に陸奥宗光・大隈八太郎(重信)・寺島宗則・井関斉衛門(盛艮)等の外国事務局判事が横浜在勤を命ぜられた。しかし、陸奥と大隈は別に用務が発生したため東久世総督に随行しなかった。 横浜裁判所正副総督の東久世と鍋島は、出発に先だって四月二日、新たに、当分の間江戸開市事務をも兼督するよう命ぜられた。裁判所総督一行の出発は、ややおくれ、まず鍋島副総督一行が陸路東下して、四月十六日横浜に到着し、太田陣屋に入った。一方、海路をとった東久世総督一行は四月十三日、グラバーの持船キウシウが到着したので、翌十四日、議定に任ぜられた後、午後三時、寺島・井関の二判事、御用掛助勤萩森厳助・同上野敬輔らを従えて運上所より乗船、ほかに肥前兵約百八十人も乗こんだ(東久世通禧「慶應四年戊辰日録」資料編1 5近代・現代⑸渉外)。 出発は翌十五日、この日午前八時抜錨、一路横浜へ向ったのである。海上は波穏やかで順風、十六日も晴れ、遠州灘を過ぎるころから船は多少揺れたようであるが何事もなく、出発から二日目の十七日午後三時に横浜に入港。夕刻上陸して宿舎にあてられた野毛の修文館に入った。すでに陸路をとって先発した副総督鍋島直大が太田陣屋に待機していたが、この日は使者をたてて修文館の東久世のもとに酒肴を届けさせるにとどめ、あいさつは翌十八日におこなったが、同日午後一時、正副総督は運上所において横浜裁判所役宅絵図 神奈川県立文化資料館蔵 神奈川奉行水野若狭守良之、同奉行並依田伊勢守盛克らと会見、事務引き継ぎに入った。 すでに、江戸も開城となっていた。神奈川奉行側の引き渡し方針は早くから外国側を通じて大坂の外国事務局に伝えられてあったし、奉行自身も東征軍と接触していた。東久世総督到着前には、副総督の鍋島一行が到着していた。神奈川奉行側の事務引き継ぎの準備体制は十分整っていたものとみてよいであろう。東久世は最初の会談の席で神奈川奉行役所の事務機能の存続のため、支配向の人びと、すなわち事務職員の残留を求め、奉行二名のみ江戸に帰って総督宮の指揮をうけるよう申し渡した。当時奉行所に「同心仮抱」として奉職人の末に名を連ねていた太田久好の『横浜沿革誌』(明治二十五年)によると、この日、調役以下は従前の通り勤仕すべく伝達され、翌十九日、それより上級の組頭以下も引き続き勤仕すべくさらに伝達されたとあり、そのわけは「調役某、判事ニ面会シ、組頭ノ事務ニ老練ナル者ヲ勤続セシムルノ得策ナルヲ縷述セシニヨリテナリ」とある。 神奈川裁判所の開設十九日、東久世はフランス公使館において、イギリス・アメリカ・イタリヤ・プロシャ・フランス・オランダの六か国の外交代表に会見し、これまで横浜の警備にあたってきた外国兵に代って総督側の兵が交代することを取り決めた。そして翌二十日には、戸部・横浜両役所、東西運上所、国産改所、陣営、武庫、官舎、監獄などの建物及び関係書類のすべての引き継ぎが完了した。ここではじめて新政府の横浜支配が始まったわけで、その機関として発足したのが神奈川裁判所である。『横浜沿革誌』は、「茲ニ始メテ神奈川裁判所ヲ置ク」と記し、従前戸部役所を戸部裁判所と改称し、旧運上所改め横浜役所を横浜裁判所とした、とある。すなわち、新神奈川裁判所は旧来どおり民政、渉外事務の二本だてである。機構は前述したように総督以下の幹部は新政府の外交官僚を任命して統括し、それ以下は旧奉行所のままである。開設当初の職制は、権参与、同判事、御用掛(以上新政府官僚)、同助勤、組頭、同勤方、調役、同並、同格、書物方、同見習、定役元締、同助、定役、その他同心肝煎、同心(六十五名)、それに翻訳方、銃隊教師、警衛隊(百六十名)、下番(三百二十名)というもので、これが同年十一月の新職で更新された(『横浜沿革誌』、『横浜市史』三の上)。『横浜沿革誌』に掲げた宮本小一郎の話にもあるように、同じ幕府の開港場でも長崎、神戸と比べ、横浜では諸事整頓のうちに、きわめて平和的に新旧支配権の交代が行われた。 「裁判所」とは、現行の司法機関とは全く別な、おもに旧幕府直轄地を没収してその要地に置いた維新政府の地方統治機関の名称で、横浜のほか、大坂・兵庫・長崎・京都・大津・箱館・笠松・新潟・府中(但馬)・佐渡・三河などの各地の遠国奉行や代官にとって代った支配権力である。 横浜に裁判所を置いたことは、兵庫や長崎と同じく開港場を掌握支配するということにほかならない。開港場は外国貿易の地であり、外国人の居留地でもあるので貿易の管理とともに治安維持を重要任務としたことは自然であった。なおこの裁判所の名称は神奈川県となってからも、しばらくは県庁の触書には「神奈川県裁判所」とあって、裁判所は県庁の意味に用いられた。 四月二十日には、神奈川裁判所正副総督の名をもって各国公使に対して、これまで各国領事より神奈川奉行へ交渉してきた事項は、今後神奈川裁判所判事へ交渉するよう通知した。その通知文はつぎのように綴られている。 以手紙致啓上候、是迄貴国コンシュルより神奈川奉行へ引合来候事件、已来は徴士参与神奈川裁判所景況 『神奈川の写真誌』から 神奈川栽判所判事寺島陶蔵、井関斉衛門え引合候様御達可被成候、此段得貴意候、以上 四月二十日 肥前侍従 東久世中将 (英仏米伊蘭孛各国公使姓名閣下) 一方、事務を引き渡して横浜を引き揚げる旧神奈川奉行側も、同日つぎのような通知を送った。 以書状致啓上候、然者我大君国政を皇帝陛下へ奉還候に付、当地之儀新政府之総裁へ引渡候様下命阿りしかは、今般夫〻引渡相済拙者共儀者、江戸へ相帰り申候、右之趣貴公使へ御通達有之候様存候、此段得御意置候、以上 慶応四年戊辰四月廿日 依田伊勢守 花押 水野若狭守 花押 あて名はアメリカ公使館書記官ポートマン、イギリス書記官サトウのほか、フランス・プロシヤ・オランダ・イタリー・ベルギー・ポルトガルの書記官・領事になっている。 さらに四月二十二日には、寺島・井関両名の名をもって、これまで横浜役所・戸部役所とよんできたが両所とも神奈川裁判所と改称したことを十か国の各領事あてに通知している。以上は、新旧管理者の列国に対するあいさつといってよいだろう。 神奈川奉行水野・依田の退去二十一日、横須賀製鉄所新藤鉊蔵が裁判所に来て同所の引き渡しについて会談した。一方、神奈川奉行の水野・依田両人は、この日江戸表へ出立することになったが、彼らの事務引き継ぎが儀礼正しく行きとどいていたことが総督当局に感銘を与えた模様で、慰労として特に三百両ずつを下賜した。『横浜沿革誌』の記すところによれば、水野と依田は組頭勤方宮本小一郎、御勘定格通弁御用頭取石橋助十郎を同伴して、汽船で江戸に帰ったという。そして水野と依田には、それぞれ四月二十二日付の免神奈川奉行・免神奈川奉行並の記録がある。 神奈川府と改称新政府の地方政治は、まず旧幕府勢力の掃蕩のため軍政的に行われたことはすでに述べたが、江戸占領が一段落ついた、同四月二十一日、「政体書」を制定してアメリカ風の三権分立制を模した中央集権制の組織を定め、地方政治はいわゆる府藩県三治の統一的体制とした。これによって従前の裁判所を順次府または県に改め、同月二十四日、まず京都、箱館の裁判所を京都府、箱館府とし、ついで大阪、江戸、越後、度会、神奈川、奈良、新潟等に府をおいた。県では同四月二十五日、大津、笠松裁判所をそれぞれ大津県、笠松県とした。府県ともに地方行政区であるが、府を上位、県を下位とした。 六月十七日、神奈川裁判所を神奈川府に改めた「政体書」は府、県について職制を定めて、知府事、判府事、知県事、判県事をおくこととなっているので、裁判所総督の東久世通禧が府知事となり、同在勤の寺島宗則と井関盛艮とが判事となった。なお鍋島副総督は外国官副知事に転じ、神奈川府は兼任となった。 裁判所から府と改まったが、その機構はまず変りはなかったろう。「政体書」にその規定があるがこれは形式にすぎず、実際には従前と変りなかった、府となったが、官庁は神奈川府裁判所と称した。 七月二日、戸部裁判所が横浜裁判所内に新築移転し、前者を内政神奈川府印影 東京都公文書館蔵『五管府県印影』から 局とし、後者を外政局として二部局組織とした。『横浜沿革誌』には六月の項に「横浜裁判所内西洋館ノ南方へ新ニ日本館ラ建築シ、戸部裁判所ヲ合併シ内政局及外政局ト称ス」とあるのはこのことで、この合併によって、幕末以来二か所別々にあった庁舎が一本化されてそれが今日に至っているのである。 横須賀製鉄所の管理四月二十日、東久世総督は神奈川奉行から事務引き継ぎで奉行所を接収したのと同時に、旧幕府直轄の横須賀製鉄所の管理に当たることになった(『復古記』四月二十日条)。 横須賀製鉄所は、横浜製鉄所とともに、幕府がフランスと結んだ取り決めに基づいて、予算総額二百六十万ドル、期限四年の計画で建設されてきたもので、造船と艦船修理を目的とする「造船所」である。 大規模造船所建設予定地に横須賀の地が選ばれたのは、同地が地形上フランスのツーロン港に似て、湾奥深く位置し、水深も十分で、江戸湾内随一の適地と認められたためである。工場・港湾設備の建設のためには、製鉄所の首長にウェルニー(ベルニー、Verny, Francgis Léonce)が就任して総指揮をとり、多数のフランス人技術者、日本人労務者が従事し、日本側当局者として、製鉄所奉行一色攝津守以下約四十数名の幕吏が配属されていた(資料編15近代・現代⑸渉外「横須賀製鉄所一件」)。 ツーロン港景況 「絵入ロンドンニース」から 神奈川県立博物館蔵 横浜製鉄所は機構上横須賀製鉄所に付属し、フランス人技師の若干名が「横須賀」から派遣される形となっていた。横浜製鉄所が設置されたのは、横須賀における工事が、工場用地造成のため、まず湾岸の一部埋立の大土木工事から開始しなければならず、このために横浜が取りあえず艦船修理の需要に応じ、同時に、横須賀用に必要な器具の準備、機械組立などをおこなう役割を果たすためであった。 旧幕府は一月に東征軍の進発をみると、はじめは六浦藩主米倉昌言に、つづいて佐貫藩主阿部正身に製鉄所の警備を命じたが、しかし、これが実施された形跡は疑わしく、また製鉄所には製鉄所奉行一色直温以下四十五名が配属されてはいたが、全員が現地に勤務していたとしても広大な構内を警備するにはもとより微々たる兵力にすぎなかった。そして東征軍が箱根を越えると、三月六日、旧幕府はフランス公使ロッシュとウェルニーに対して書簡を送り、製鉄所工事の一時休業とフランス人技術者の横浜引揚げを勧告した。当時ロッシュは大坂方面に出張中で不在であったが、ウェルニーは工事の続行を主張し、日本人職工は一時半減して情勢の推移をみるとするも、フランス人全員は現地に留まり、万一に備えて、横須賀湾に軍艦を繫留してフランス人の保護にあたるという趣旨の回答をおこなった。 三月九日は神奈川奉行がパークスを訪ね、新政府の責任ある者に奉行役所を引き渡す考えであることを語り、ロッシュも横浜にもどった日であるが、またこの日、旧幕府はソシエテ・ゼネラル会社と仏国郵船会社に対する五十万ドルの支払いに窮し、横須賀、横浜両製鉄所を抵当に入れ、一八五八年三月一日(慶応四年二月八日)より七か月間で元利を皆済するとする約定を両社と結んでいる。 それから一か月余の後の四月二十一日、製鉄所奉行並新藤鉊蔵が神奈川裁判所総督東久世通禧を訪ね、製鉄所引渡しに関する事務連絡をおこなっているが、この日はあたかも旧神奈川奉行等がすべての引継ぎを無事終えて江戸へ引き揚げる当日であった。おそらく製鉄所当局は引き渡しの手順について神奈川奉行と連絡協議をおこなっていたものであろう。 同月二十四日、ロッシュの要請により、東久世総督は鍋島副総督を伴ってロッシュと晩餐を共にし、製鉄所と雇いフランス人技師たちの今後について会談している。恐らくその席でロッシュは製鉄所工事の再開を主張したことであろう。それからおよそ一週間後の閏四月一日、東久世・鍋島の正副総督及び寺島・井関両判事一行はフランス汽船に乗って、はじめて横須賀製鉄所を訪れた。当時、製鉄所は工場用地のための埋立工事はほぼ完了しており、小海湾三万三千八百坪をはじめ、内浦湾約一万四百六十坪、白仙湾約六千六百九十坪、三賀保浦湾約七千八百坪のほか、逸見村沿岸約三万坪その他が新埋立地として誕生、のちの海軍工廠構内敷地の原型ができあがっていたといってよい。 また、そこには製鉄所首長ウェルニー以下のフランス人技術者たちのための大小宿舎・集会所・教会堂などの洋風建物が散在するほか、奉行以下の幕吏の役宅宿舎、八百坪余の製鋼所など大小四十棟の作業場など、従来の村落や市街地とは全く趣がちがった建物群が出現していたのである。さらにまた、小型船の横須賀丸(長さ二十五㍍排水量八六・二トン、三十五馬力)が竣工していた。 この両製鉄所管理は新政府の横浜接収に伴って、一時神奈川裁判所に預けたのであったから、翌二年十一月、大蔵省に移され、また燈台、電信関係も一時管轄したが、これも翌三年十月民部省へ移した。このようにして旧幕府諸施設がそれぞれ政府機関に接収されていった(『神奈川県史料』第一巻)。 浦賀奉行土方勝敏の退去横須賀製鉄所の引渡しが完了した後、浦賀奉行の行政引渡しが閠四月十一日におこなわれた。これは東久世総督が初めて製鉄所を訪れてから十日後に当たる。 これより先、同月三日、神奈川裁判所に出頭して引渡しの手順を打ち合わせた浦賀奉行土方勝敏は、五日浦賀にもどり、即日浦賀表引渡しの方針を下知、「御暇願い」の者勝手次第につき、氏名列記の上提出するよう与力・同心たちへ下達し、また、神奈川裁判所の指示に基づいて裁判所「御雇」要員十人を募るなど、引渡しに備えた。十一日、引渡しの当日朝五つ時、旅宿感応院を出た「肥前様御役人方」、すなわち横浜から出張してきていた成富弥六兵衛一行は、奉行役所に赴いて事務の引渡しをうけ、ついで台場、武器蔵、火薬蔵、番所、牢屋を巡検した。諸務引渡しを終えた土方は常徳寺へ引き揚げ、ここに浦賀奉行支配下の行政は、神奈川裁判所の管理下に入ったのである。 十三日には、勝義邦と榎本武揚のはからいで軍艦回天が浦賀港に到着し、荷物を積み入れた後、土方以下与力・同心等一同が乗艦、五つ半ごろ出港した。このほか別に船を仕立てて退去した旧役人たちもあった(高橋恭一『浦賀奉行史』所載「御用日記」)。 二 神奈川県の設置 府から県へ明治元年九月二十一日、行政官から神奈川府に対して「今般其府ヲ県ト被改候旨被仰出候事」と達せられて、神奈川県の設置となった。これは右の達の文面のように神奈川府の改称であるが、本県史の起点とする神奈川県は、このときをもって設置されたわけである。 府から県となったことは、形のうえでは格下げであるが、政府は府を東京・京都・大坂の三府に限定し、その他の府は順次県と改めているので、格下げといってもとくに神奈川県の場合だけではないのである。府藩県三治制は、この数多くあった府の整理によって形態を整えたのであったから、三府以外を県としたことでこの三治制が固定したものといってよい。神奈川府を神奈川県としたことは、そういう点から意味があり、近代の神奈川県が、この改称によって発足をとげたものといえるのである。 神奈川県への改称に先だって、東久世は外国官副知事に転じ、神奈川府知事の方は兼任になっていたが、「県」に改称とともに判府事であった寺島宗則が神奈川県の「知県事」に就任した。 寺島宗則は薩摩藩士、もとは松木弘安といい、蘭学者で幕府の洋書調所の教官を勤めた。慶応元年、薩摩藩の遣英特使一行に参加して渡英し、英国外相クラレンドンと日本の外交、内政問題について折衝した外交通である。明治となると、寺島陶蔵と改姓、ついで宗則となった。元年正月、参与外国事務掛、外国事務局判事となった。明治の外交官僚の草わけの一人である。 「裁判所」から「府」に変わり、さらに「県」となったが、当時はなお外国事務取扱いの政府出先機関という性格は依然として強かった。寺島は後年当時を回顧してつぎのように語っている。 「宗則等横浜に来るの後は、公使領事の談判に之を負担せり。蓋し、此時未だ(横浜では)外交専任官と地方官との差別なく、余の外は且外交に関せしものなきを以て、公使領事共に余之と応接せり。」(雑誌『伝記』三の五、「寺島宗則自叙伝」㈡) しかし、このような傾向は、横浜に限らず各開港場所在の地方長官はみな同様であって、したがってまた、外国官の支配をうける面が多分にあった。これより先、六月十四日、大坂・長崎・箱館・神奈川の各府県に対して「以来開港地府県之儀都テ外国之事務ニ関係致候様可心得旨御沙汰候事」という達が出され、開港場所在地方官の外交機関としての役割を明文化し、つ神奈川県裁判所印影 東京都公文書館蔵『五管府県印影』から づいて八月、外国官は、神奈川・長崎・大坂・箱館・新潟・兵庫の六府県へ外国官の官員を派遣し、その外国官派遣官員は、県の長官である「知県事」または「府」にあっては長官の次に位する「判府事」を兼務するという提案を太政官におこなっている。 この外国官の官員派遣構想によると、神奈川県の場合は次のようになっている。 一神奈川県 外国官判事 内一人知県事兼勤 同 権判事 同 判事試補 此内ニテ判県事兼勤 右の案によれば、つまりは知事には外国官判事が就任することになる。 しかし、この外国官の「伺」に対する政府の指令は、その後容易に出されなかったものと見え、翌二年一月、外国官は回答を督促しているが、結局は政府の指令は出されなかったようで、外国官が考えた構想は実現しなかった。 最初の神奈川県職制同年十一月、県は「神奈川県職制」を起草し、政府の認可を求めた。この「職制」は『神奈川県史料』第一巻(刊本)に収められていて、県が独自に創設したものとして知られているものであるが、県の長官である「知県事」を次のように規定している。 判官事 知県事 兼務 外国条約ヲ施行シ、万国交際ノ意ヲ厚クシ、部内人民ノ訴訟ヲ裁断シ租税ヲ収メ賦役ヲ督シ賞刑ヲ知リ県兵ヲ監スル等ヲ総判スルヲ掌ル」 ここに知県事を兼務する「判官事」とは、会計・軍務・刑法などの諸官の判官事を言うのではなく、外国官の判官事を指すものと解されるが、とすればこの規定はさきの外国官の「伺」の構想が採り入れられ生かされていると言ってよいであろう。しかし、この符合の事実は、神奈川府の知事であった東久世も寺島・井関の二人もともに外国官系の人であったばかりでなく、知県事となった寺島は十月には外国官判事兼任となっているという現実でもあったから、それは必ずしも異とするに足りないともいえる。 「職制」はまた、これまで使用してきた旧神奈川奉行時代の職名を一掃してつぎのような新職名に改めた。 元御用掛 弁務 元組頭 弁務輔 巡察 元組頭格 弁務試補 元御用掛筋 巡察補 軍監 元調役 庶務 巡察試補 大隊長 元調役並 庶務補 小隊長 元調役並格 庶務試補 半隊長 元定役元ノ 属司 嚮導 元定役 属司補 伍長 元定役並 属司試補 元御用掛附属 巡察趨事 元同心肝煎 従事 県兵 元同心 従事補 元同心格 従事試補 元足軽 使丁 元警衛足軽 土工兵 (公文類聚 明治二年) 右の新職名のうち、軍監・大小半各隊長・嚮導・伍長・県兵・土工兵の系列は、いわゆる県兵の組織である。この県兵とは、四月、神奈川裁判所発足当時、旧神奈川奉行時代の警備兵のうち残留継続勤務に応じた者を編成した「警衛隊」のことで、神奈川府の時期には「府兵」とも呼ばれている。新政当初の横浜の警備には、肥前・紀州・肥後・阿州などの諸藩兵の一部が随時交代して関門とその外側の要地に配置されたが、これは応援警備の性格をもつといってよく、関門とその内側、つまり関内の警備には、関門の守衛、巡邏、外国人の護送などの任に当たる警衛隊が中心となり、居留地取締局所属の雇外国人捕吏あるいは日本人市中の定廻り役など、旧神奈川奉行時代の警備体制を存続していたものである。 警衛隊は、神奈川府の時期には「府兵」五百人が、「英式伝習」の訓練をうけていた。このように強力な警備隊を保持しているのは、在留外国人の保護の必要があったからで、同年八月に出された府県兵廃止の布告をおこなった行政官は、神奈川府の立場を了解し府兵保持を承認している。 県兵は、府兵―すなわち警衛隊の再編成をしたものではあったが、これとともにその警備範囲は、関内にとどまらず、根岸・本牧・川崎・金沢・浦賀・横須賀・鎌倉・藤沢・平塚・馬入川・酒匂川その他、県の管轄区域である十里部内を巡邏することとしている。 明治二年四月、行政官は再び府県兵禁止の通達を出した。このときもまた、神奈川県は特殊事情を訴えているが、翌三年一月、県は「取締見廻役」の一隊を設けた。「取締」(ポリスの訳語)というようにこれは警察官のことで、県兵や史生・使部・駆使などという下級の県官から選抜して編成した。その後、全国の兵権が中央の兵部省に統一されるに及んで県兵は廃止される。すなわち、明治四年八月、県兵現員三百九十余人を三分の二に減じ、県兵の名称を廃して新たに「取締」と改めたのである。この取締制度が本県近代警察制度の第一ページをなすと言ってよいだろう。その翌月、九月には関門が廃止された。時勢が変わり、市街の警備は「取締」で十分であり、外國人は関門外へ往来するようになって、関門そのものの存在意義がなくなったからである。 総督・知事の外交外国官が開港場へその官員を派遣し、知事を兼務させるという構想を持ち、また、最初の「神奈川県職制」がこれと同じ趣旨にたっていることは、それなりの現実的根拠のあることではあった。すでに述べたように戊辰戦争下の外交舞台は、政局の推移にともなって兵庫・大坂から横浜に移り、列国外交団の要請に基づいて「裁判所」の開設となったものであるから、東久世総督は横浜の治安維持の任に当たる政府の外交責任者であった。このことはまた、彼が横浜問題のみならず、他のすべての外交交渉の任に当たることとなったのである。 彼が横浜着任以来折衝した外交問題はきわめて多岐にわたってるが、そのおもなものを拾ってみると、閏四月には、高札中の切支丹邪宗門の表現撤廃を要求する外国側の抗議、貨幣制度改革に関する外国側の申し入れ、旧幕府購入の甲鉄艦引取り交渉、列国の局外中立撤廃申し入れがあり、五月には、新潟開港に関する外国側の申し入れ、六月には列国公使へ大坂開港期日を一八六八年九月一日(戊辰七月十五日)と予定している旨を通知し、また茶・生糸輸出税改訂交渉期日に関する照会を行っており、七月には、スペイン、スウェーデン=ノルウェーとの通商条約締結交渉全権委員の通知(委員は小松帯刀のほか寺島・井関)、東北地方へ外国船の立寄禁止の申し入れ、九月には、江戸を東京と改称した旨の通知などがある。 さらに東久世が外国官副知事に転じ、寺島が知事に就任した後でも、十月、寺島は外国官から甲鉄艦引渡し交渉を命ぜられ、翌二年一月、横浜で調印された日独通商条約の日本側全権は、東久世・寺島および井関の三人であった。 その年の三月末、寺島は外国官判事に転じ、七月の職員令により外国官に代わって外務省が設置されると、沢外務卿の下で外務大輔に就任している。 三 県行政の発足 管轄区域の問題神奈川裁判所は神奈川奉行の行政事務を引き継いだのであったから、当然ながらその支配地を受けつぐことになった。ところで、神奈川奉行の支配地なるものは、幕府時代最後の年となった慶応三年の「神奈川奉行御預所村高帳」によると、横浜町のほか戸部・太田・吉田の諸町、北方村・中村・根岸村・本牧本郷村・尾張屋新田・平沼新田・太田村など、開港場一帯の町村および神奈川町のほか青木・子安(東西)・新宿・鶴見・生麦・岡野新田・帷子・神戸・芝生・岩間・保土ヶ谷など、神奈川・保土ヶ谷両宿近傍の町村で、合計一万千三百二十石余となっている(資料編10近世⑺三八九文書)。 また、右のほか通商条約で定められた外国人遊歩規程の範囲、すなわち東は六郷川、西は酒匂川を限り、その他へは奉行所から陸路およそ十里の範囲の地をも管轄していた。 もとよりこの十里の範囲内には、藩領・幕領が混在していたから、その管轄権はただ外国人関係事項に限られていた。したがって、行政事務の引き継ぎにあたって、この十里の範囲の管轄権の授受は、前者の直接支配地の受け渡しとはちがって裁判所独自の判断で処理する権限を超えた性質をもっていた。 六月十二日、神奈川裁判所は江戸鎮台に対し、これまでの神奈川奉行支配と同様、十里四方を支配地とする旨、隣藩・代官へ布告するよう要請した。江戸は新政府による開城後、旧幕府の市政を一切接収するとともに、彰義隊反乱鎮圧後、鎮台府を設けて軍政をしき、六月二十八日、関東以東十三か国、駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥・出羽をその支配下におく旨を発令した。これは軍政区の意味をもつものであるが、これによって神奈川府もその管轄下におかれることとなった。そこで、十里四方の問題について、八月二十五日、鎮将府(七月十七日、鎮台府を鎮将府と改む)から改めて神奈川府に対して「神奈川十里四方、於其府可有支配事」と達せられ、これによって十里四方管轄が正式にきまり、神奈川府はここに神奈川奉行なみの管轄地をもつことになったわけである。しかしその管轄地に対する行政態度は、単なる外国人関係事項を越えて、直接支配の意欲を示し、神奈川奉行時代とちがっていた。 すでに、神奈川府裁判所は、この達が下されるより先、翌々七月十九日に次のような通達をだしている。 覚 神奈川府最寄東ハ六郷川西ハ酒匂川ヲ限南北ハ直経拾里を限り神奈川府ヨリ取締として肥後藩人数差出巡邏為致候間其旨相心得若賊徒等立廻候先ハヽ右人数巡先へ及注進可請差図候 右之通申渡候間其旨相心得右部内村々へは最寄宿方并親村等ヨリ早々及通候様可致候此廻状早々順達留村ヨリ可相返もの也 辰七月十九日 裁判所(印) さて、この十里部内には、小田原・荻野山中・六浦諸藩をはじめ、前橋(上野)・佐倉(下総)・菊間(上総)・烏山(下野)・生実(下総)・西大平(三河)の各藩の所領の一部または全部を包含したほか、品川県管轄地をも含んでいた。日付は不明だが、同じ七月、民部省は神奈川府の上申にもとづいて神奈川十里四方の藩地・品川県管轄地の割替えを太政官弁官に上申している。この事実はまた当時神奈川府が十里四方の範囲を行政管轄区域と考えていたことを示すものといってよい。 民部省上申書にみられる各支配地の割替え案は、おそらく神奈川府からの提案と思われるが、その大綱は次のようなものである。 一、十里内の各藩・品川県管轄の分は、上地神奈川県管轄とする。 二、小田原藩は、本庁の近傍の高は少ないので、十里部内に入っている分はあっても、押切川を境としてその支配地に渡す。 三、上地諸藩のうち、小田原・荻野山中・六浦の三藩へは、即今代地相渡す。 四、その他の諸藩には、飛地合併の儀が追々出願の趣もあるので、目下取調中につき、追て代地を相渡す予定 (弁官宛民部省伺、「太政類典」第一編第六四巻) しかし、この原案がどの程度実施されたものか、その後の処理経過については必ずしも明らかでない。 品川県は江戸府外の代官支配地におかれた武蔵県から、明治二年二月分立したもので、武蔵国では入間、比企、高麗三郡を管轄して神奈川県と隣接していた。この地域は旗本領が多く、支配関係も複雑で、神奈川県とは多摩、六郷川が一応境界となっていたが出入りがあって定かでない。武蔵県知事は最初旧幕府代官松村長為が当たり、その後肥前藩士古賀一平(定雄)が就任し、品川県知事は古賀が引き継いでいる。現在神奈川県内の川崎も明治元年末までは古賀一平の支配下にあり、二年一月から神奈川県裁判所の管轄となっている(小林孝雄『神奈川の夜明け』)。さらに上流の溝の口も二年のはじめごろまで古賀一平の管轄下にあった。多摩、六郷川を境界としていても、実際には変遷がある。このように品川県の管轄区域に江戸周辺のために複雑である(『品川区史』、同資料編別冊一)。品川県のことは本史の論外であるから言及しないが、ともかく地域的に隣接しているので、神奈川県の管轄の問題にも関連してくるのである。 明治初年以降、明治四年七月の廃藩置県に至るまでにも管轄区域に変遷があった。旧内務省地理局調査の『旧高旧領取調帳』(木村礎校訂)は、解題によると、この廃藩置県直後頃の県名で管轄関係が示されているとあるので、それによると、相模国では、三浦郡は神奈川県管轄、鎌倉郡はほぼ神奈川県であるが、烏山・生実両県管轄村が若干ある。このほか後に足柄県となった大住・愛甲・津久井三郡にも神奈川県管轄村がかなりある。つぎに武蔵国では、久良岐郡は六浦藩の所在地で五か村がある。橘樹・都筑両郡は神奈川県管轄といっていい。複雑なのは多摩郡で、境域も広く、ここには韮山県・入間県の飛地がかなりある。このように管轄関係は複雑であったが、廃藩後十一月、新神奈川・足柄両県の成立で郡別の管轄が確定した。しかしその後、東京府との間で村々の管轄替えがなお行われている。 県政の発足神奈川県開設当初は、神奈川奉行をそのまま継承して、外政局と内政局の二本だてとし、民政関係は内政局が担当した。この内政局が担当した県行政の開始はどのようなものであったろうか。 明治を迎えた神奈川奉行支配地は、隣接する小田原藩とともに東海道が貫通していたために京都新政府の東征軍の通路となったが、小田原藩はすでに恭順の意を表しており、幕府も同様であったので、その進軍はさしたる事もなく、東征軍の平和的江戸占領となったことは周知のとおりである。しかし、東征軍としては、何としても敵方の本拠に進入するのであったので軍政をもって地域の農商に臨んでおり、表面は平和的な支配権力の交代とはいえ、やはり庶民側にとってきびしいものがあった。橘樹郡川崎地方にも文久以降、農兵隊が組織されていた。東征軍の進駐の際には食料その他の徴発があり、また先鋒隊は警戒のために村の名主、寄場組合の惣代などの村方指導者を逮捕したり、また農兵隊切崩しのために農兵所持の農兵筒などの徹底的徴奪を強行したりした(小林孝雄『神奈川の夜明け』)。 この軍政は江戸攻略の手段であったので、江戸占領後は新政権の平時の民政実施へと展開していった。前述したように神奈川奉行から、神奈川裁判所、神奈川府、神奈川県へと支配が移って新しい県政が開始したが、総督、知事等幹部以外の支配の機構、実務の役人はほとんど旧来と変わらなかった。 新県政として最も重大なことは、未曾有の激動期に際してこの地方の新政の推進を円滑たらしめるための治安維持と県下町方村方の民衆の掌握であった。とくに横浜は開港場で外国人居留地があることから、治安の問題がとくに重要であった。これには県兵が当たったことは別項に述べたとおりである。また文化面では郷学の設立などがある。 新政府下の各府県行政の統一整備が着手されたのは諸藩に対する「藩治職制」よりやや遅れて、明治二年二月の「府県施政順序」が最初であり、神奈川県に対してもこれが通達されたわけである。 これは十三か条からなり、租税額査定、戸籍、窮民救助、地方開発、小学校設立などの広範な内容にわたるものである。地方政治の大綱を指示したもので、その実施は容易でないから急速な実施を禁じ、地方の情況によって適宜施行すべきものとしている。そのとおりで、当時の地方農村の情況は幕末以来の継続であったから、神奈川県の場合も、当初はやはり旧来の支配機構を通じて行うほかなかったのである。 関東一円の農村には文政十年(一八二七)以来関八州取締組織の下部として大小の村組合があって、そのうちに寄場村組合が設けられ、それが廻状、触書布達などの行政組織となっていた(伊藤好一「神奈川県における大小区制の施行過程」―『駿台史学』一七号)。 神奈川裁判所は旧奉行所から民政を引き継ぐと、この組織をそのまま受け継いで新県政を発足せしめている。当時の情況からこれを採用したものでそれがまた新県政の発足を円滑たらしめたのである。これは当時の管轄下の農村文書によって追跡できる。 たとえば、明治元年十二月に、神奈川県裁判所は神奈川十里四方郡内村々当県支配の通達を鎌倉戸塚宿では寄場役人惣代の名主庄右衛門をして各村々の大小惣代に対して「右之通御触書至来候間、其小組合村々え不洩様早々御触達し可被成候」と伝達せしめている。この寄場は寄場組合のことであるが、このほか明治四、五年ごろまでの県庁の布達文書はいずれも寄場役人宛のもので、農村支配が旧機構そのままである。このほか、銭貨の流通、宿場の伝馬所の人馬継立、賭博の禁止、貢租納入、外国人殺害犯人の捜索など様々な触書が伝達されている。 もう一つ具体例をあげると、三年九月天長節に関する太政官の触書を神奈川県庁が、戸塚宿組合大小惣代に通達し「横浜野毛町伊勢山御宮において御神事有之、御神酒被下候に付、宿役人一人宛惣代として可罷出旨触置候得共、尚、御布告之趣、小前末々迄厚相弁、此日に限り何事にても賑々敷御慶辰を可奉祝候、此触不洩様申通し、組合村々えは親村より及通達……」と命じている。新政謳歌の天長節の農村浸透をこのような形で行っていることで当時の地方政治の様相がほぼわかるのである(大和市『大和市史』5資料編近現代上)。 このような県行政は、四年七月の廃藩置県で一期を画し、同年末には全国が三府七十二県となって、十一月の「県治条例」によって県庁機構が一新された。 ついで、大区小区制、「学制」、「徴兵令」、地租改正等の新地方秩序の強行によって府県行政の近代化が行われた。神奈川県政の場合もこの一連の諸改革によって更新されるのである。 第三節 版籍奉還と諸藩の藩政改革 一 王政復古政変と小田原藩 藩主召命小田原藩は、その所領が相模国の足柄上・下の両郡を中心に広がっており、足柄下郡を東海道が貫通していた。この足柄下郡は箱根山が大部分を占めており、その頂上の芦の湖畔に箱根宿の町並があって、そのはずれに箱根の関所がある。小田原藩はそういう地理的関係から、関東の表門を守護する大任をせおっていたのである。 明治元年(一八六八)そうそう、京都新政府の江戸征討の東海道軍の東下を迎えると、この箱根関所の守備をめぐって、譜代藩であることから微妙な立場に追いこまれ、ついに一時朝敵の立場に追いこまれた(明治維新期の小田原については、小田原市立図書館所蔵有信会文庫『近世小田原史稿本』その他藩政関係文書、資料編5近世⑵、片岡永左衛門『明治小田原町誌』、小島茂男『幕末維新期における関東譜代藩の研究』等によった)。 小田原藩は天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入部に際して、功臣大久保七郎左衛門中世が封ぜられたのがはじまりで、その後、阿部、稲葉二氏の城番時代を経て、貞享三年(一六八六)、再び大久保氏に復帰し、以来幕末の忠礼に至った十一万三千百二十九石の関東の譜代大藩である。 忠礼は十三代に当たるが、高松藩主松平頼胤の弟であったので、前将軍徳川慶喜にとって従弟の関係であることから徳川宗家とは近親の間柄であった。忠礼は安政六年(一八五九)、十三代忠懿の養子となって加賀守に任ぜられ、奏者番を経て慶応三年(一八六七)九月、甲府城代となった。ところが、赴任の準備中の翌十月十四日、京都において将軍慶喜が大政奉還を行ったので、譜代の小田原藩はこれから激動の波にまきこまれるようになったのである。 慶喜から大政の奉還をうけた朝廷は、翌日これを許したが、奉還後の国政運用については、諸大名を召集し、衆議をつくしてこれを行うこととした。そこでまず、十万石以上の大名に上京を命ずることとなったので、十五日、小田原藩に対しても武家伝奏飛鳥井雅典から藩主大久保忠礼にその命が伝えられた。ところが忠礼は、たまたま甲府城代赴任の準備中であることを理由として、家老の加藤直衛を代理として上京せしめた。 譜代藩としてこの際京都の地を踏むことは、種々の苦難が予想された。そこで加藤直衛は十一月晦日入京すると、旧領地佐倉の現藩主堀田家ら諸藩の重役らと連絡をとり、また在京の老中板倉勝静を尋ねるなどしているが、もとより譜代諸藩としては、ただ手をこまねいて情勢を傍観しているよりほかなかった。京都の政情は刻々急転して翌十二月九日、討幕目的の王政復古の政変となり、ついで前将軍徳川慶喜箱根町のようす 県史編集室蔵 の大坂城移渡と目まぐるしい変転となった。加藤はこれを傍観しつつ在藩の家老渡辺了叟にこの有様をつぎのように報告している。二十一日付であるから辞官納地問題をめぐる薩摩討幕派と慶喜擁護の穏健派との暗闘の真最中で、加藤にもこれがどうなるかはっきりつかみかねた様子であるが、「公辺(慶喜)の御所置、是迄の処は乍恐些敷御恭順に過候樣にも存居候処、左に無之、去る十八日に候哉、烈敷御奏聞書差出に相成候由」と書き、まず、「右にて御家門御譜代樣方の御目的も相立恐悦の至り御座候」と譜代派としていささか溜飲をさげた思いを述べている。阿波その他十藩もこれに同調したので、「京都も薩長等の所置、何となく不落合の風聞も相聞え追々(慶喜派)御挽回之吉兆相顕、雀躍之至りに御座候……」と反薩長の口気をもらしている。これは譜代藩としての本心であろう。しかし、情勢もどうなるかわからないから、本藩としてはやはり「甲府御勤之廉にて御逃に相成候様祈居候……」と、あくまで事なかれ主義をとるように書いている。加藤はこのような考えからこの際、藩主の召命に応ずる上京は不得策としてその猶予を板倉閣老に運動した結果、小田原藩の希望どおりとなった(『近世小田原史稿本』)。 加藤報告にもあるように、小田原藩は譜代藩として親幕の底意を持ちながら逃げ腰の事なかれ主義の態度をとった。この曖昧さが後に藩論の動搖分裂をきたして箱根戦争を引きおこすようになったのである。情勢は右の加藤報告のようにならず、討幕派の押しによって、大坂城の慶喜軍の挙兵上京の結果、翌明治元年正月の鳥羽伏見の一戦となった。これは慶喜軍の大敗に帰して、慶喜の江戸敗走、さらに恭順と譜代派には逆潮となった。江戸城中には過激な主戦論もあったが、勝義邦(海舟)と大久保一翁の力で恭順方針に落ちつき、徳川家救済に力をいれることとなって、静寛院宮親子内親王・上野輪王寺公現法親王がその運動に立ち、また関東譜代諸藩の間にも主家の一大危機救済の動きがおこって、小田原藩もその幹部となった。 二 小田原藩の勤王声明 東征軍に協力の命明治元二月七日、小田原藩主大久保忠礼に対し、京都二条城の太政官代において軍務職から「右此度、御親征ニ付、其藩、東海道出兵被仰付候間、国力相応之人数差出し、総督府指揮を受可申事」という命が下った(この達は『復古記』その他に見えず、有信会文庫本『近世小田原史稿本』下巻による)。これは江戸征討の政府軍の征東出兵命令であったから、小田原藩をして、いやおうなしに勤王か佐幕かの何れかに態度をきめなければならない重大な岐路に立たしめるものであった。 東海道征討軍の先鋒総督は二月中旬には名古屋に達した。それからさらに軍をすすめるのであったが、同月二十六日、参謀海江田信義は三河国日坂宿において小田原藩に対して「今般御親征被仰出候ニ付、橋本少将(実梁)殿、柳原侍従(前光)殿御先鋒之為副将被致東下候、右ニ付向後沿道之諸藩、為天下致勤王、被尽忠勤候哉、加賀守(大久保忠礼)始一藩勤王之存意ニ候ハヽ、其段重役中ヨリ御請書差出可申旨被申聞候事」と通達した(『復古外記・東海道戦記』刊本第九冊)。これは東征軍がいよいよ箱根を越えて関東関内に進軍することになるので、沿道の小田原藩その他の譜代藩の向背を確認するためであった。 小田原藩の態度は前記のごとく曖昧で、大勢順応であった。鳥羽伏見の戦によって形勢が一変すると、藩主忠礼は、江戸から甲府城代を免ぜられて箱根関門守備に専念を命ぜられると、その命には従わなければならなかった。しかし譜代である上「御家之儀は関東枢要之御国柄に付、世間に而も種々之風説仕候様子に而、心痛罷在候、何分にも土台之御条理は兎に角、宮様(有栖川大総督宮)御出馬共相成候得者、一時御奉命之上に無御座而者、兼而之御旨意も相立申間敷と愚考仕候……」(在大坂の石原五郎右衛門より副藩の加藤直衛宛書翰、正月十八日付、『近世小田原史稿本』下巻)というようなことで、朝廷へも背くわけにもゆかないという苦しい立場に追いこまれて、結局勤王に傾くことになった。そこで前記の通達に対して家老加藤直衛から「今般、御親征被仰出候、依之為天下勤王可尽忠節哉、御迅問之趣奉拝承候、向後御用向被仰付候節、謹テ奉遵、朝命尽力出精励忠勤候外、於闔藩決テ二念無御座候……」という請書(翌二十七日付)を提出した(『東海道戦記』)。この勤王声明によって小田原藩は、佐幕を捨てて新政府に忠勤をはげむ勤王の態度をとることとなったのである。 箱根関所の占領東海道軍の先鋒は、出軍に際して大総督府の駿府到着までは駿府滞陣するよう命ぜられていたが、参謀の西郷隆盛が、箱根を前にして駿府で滞陣するのは戦略上不利であるとして、ただちに出動を命じた。さらに輪王寺宮公現法親王が、徳川慶喜助命運動のために大総督府に来るという内報があったので、それを小田原辺で阻止しなければならないということになって、軍議の末、大村藩の渡辺清が先鋒として少数の藩兵を率いて早足で箱根を越え小田原方面に出動することにして、箱根の関所にかかった。ここは小田原藩の守備なので、一騒動おこる予想で臨み、官軍の先鋒であるが、この関門をただ今受け取ると申しいれると、何ら抵抗なく関所一切を政府軍側に引き渡して箱根関所の占領となった。渡辺は案外に思い、一応占領のうえとりあえず関所を小田原藩に預けることとして関東にはいって小田原宿に着陣した(渡辺清「江城攻撃中止始末」―『史談会速記録』六八輯、この渡辺の箱根関所占領は東海道軍の関東入りの第一歩であるが、渡辺の話ではその日がはっきりしない。このことは『復古外記・東海道戦記』には何らの記述がないが、二月二十八日の条に「是日総督、忠礼ニ命ジ旧ニ仍リ箱根関門ヲ厳守セシム」とあり、片岡の『明治小田原町誌』にも同日の条に右の記事を載せて関係文書を掲げている。もし渡辺が関所をいったん小田原藩に預けたことが右の『東海道戦記』の記載のことだとすると、渡辺の関所占領はそのときのことということになろう)。 大総督は三月五日、駿府城にはいり、先鋒両総督は先行して十日には沼津宿に着いた。これから箱根越えである。十三日には六浦藩主米倉昌言に対して横浜の臨時取締りを発令、さらに小田原藩に対して、先般、箱根関所の守備を命じたが、両総督の関門通過中は本軍の先鋒隊に屯衛を申し付けるという触令を発して、両総督通過中には大事をとっている。橋本総督は二十六日、関門を通過して小田原宿に入り、本陣久保田甚四郎を宿所とした。小田原藩は重役を三島宿まで派出し、小田原宿出立の際は戸塚宿まで見送らせている。 江戸開城と小田原藩本隊の大総督宮は翌四月八日、駿府城を発し、十日、箱根宿に泊り、翌十一日、小田原宿に着陣した。小田原藩は橋本総督と同様の出迎えと見送りを行った。これより先、参謀西郷隆盛と旧幕府側の代表勝義邦との会談の結果、翌四月四日、橋本・柳原両総督が江戸城に入り、同月十一日、江戸開城が行われた。 江戸開城によって旧幕府の根拠地江戸の占領は完了して、新政府は江戸征討の目的を一応成就した。そこで、江戸府内の行政を旧幕府の手から接収して民政の刷新と治安の維持に当たった。しかし、翌五月には彰義隊の反乱がおこったことでもわかるように、新政府の占領政策はまだ極めて不安定なものであった。江戸のみならず、関東一円はまだ新政府の統治に服したわけでなく、各地に反政府的騒擾が相ついでおこっている。この江戸とその周辺の不穏な空気が、房総から江戸湾を渡って相豆地方に飛び火をして、小田原藩をもその騒乱にまきこんだのである。 大総督府は閏四月九日、沼津宿に着陣すると小田原藩の重役に対して、房総地方に屯集の賊徒(遊撃隊脱走隊士ら)の残党が、相州浦賀、または伊豆辺へ渡海して、鎌倉・箱根方面に襲来の噂があるから、米倉藩・沼津藩・駿府城代・または横浜詰め肥前藩兵らと申し合わせ、油断なく探索して見当たり次第討ち取れ、という指令を発している。このように相豆地方へ遊撃隊残党襲来の風聞は、はやく伝えられて大総督府の耳にもはいって厳重警戒の手を打ったのである(『明治小田原町誌』は、小田原藩の重役が駿府に呼ばれてこの命をうけたとしているが、大総督府はすでに駿府出発後なので、沼津における下命であろう)。 三 箱根戦争と小田原藩 林忠崇と遊撃隊士閏四月十二日、己の刻(午前十時)ごろ、足柄下郡真鶴港に突如、下総国請西藩主林忠崇と江戸の旧幕府陸軍遊撃隊脱走の隊士伊庭八郎と人見勝太郎の二人が手兵を率いて上陸した。この林らが小田原藩に対して徳川家回復の挙兵に協力を働きかけたのがきっかけとなって、ついに箱根戦争の勃発となった(林忠崇の「一夢林翁手稿戊辰出陣記」、『江戸』二七~三〇、『復古外記・東海道戦記』、ほかに『明治小田原町誌』)。 林忠崇、名は昌之助。林の家は代々徳川家の旗本であったが、父の播摩守忠旭が請西藩一万石の大名にとりたてられ、叔父忠交の後をうけて三代目請西藩主となった(「請西藩主林忠崇氏伝」―『旧幕府』三の六、笹本寅「林遊撃隊長縦横談」―『伝記』二の二)。 請西藩は明治元年の初頭、譜代藩として、京都政府の召命に応ずるか、主家に殉じて拒否すべきかの岐路に立って藩論が沸騰していた。さらに領地も不穏な情況であったので、その鎮圧のために林は木村隼人らの従者三名をつれて江戸を離れ、領地請西(現在木更津)の陣屋に赴いた。これは三月八日の夕刻である。ところが翌四月の十三日に、突然、旧幕府の撤兵隊の福田八郎右衛門が兵三千余を率いてきて、徳川家回復のための協力を求めた。ついで二十八日には、伊庭・人見らの遊撃隊脱走の士三十余名がきて、これも撤兵隊と同じような申し入れを行った。林は当時二十一歳の青年藩主であったが、かねて主家へ報恩の志があったので、伊庭・人見らと大いに意気が相通じて、ついに彼らとともに蹶起を決意して閏四月三日、請西の陣屋を脱出して遊撃隊に加わった。 まず房総の譜代諸藩と連携をはかり、さらに相豆に渡海して、小田原・韮山方面の譜代藩、また幕領を動かして徳川家回復の目的を達しようという戦略を練った。この蹶起にしたがった兵力は請西藩兵約七十人、遊撃隊士三十六名が主力で、ほかに諸藩の脱走人が参加して総勢三百名近くあったという。江戸湾沿岸を南走して館山に至り、そこから二艘の船に分乗して十二日、巳の刻に真鶴港に上陸した。第一の目的は小田原藩の説得であった。 林忠崇の小田原藩説得この説得には林忠崇が当たることとして、単身入城、家老渡辺了叟らと対談してこの挙兵の盟主となることを申しいれた。小田原藩としては佐幕の志はもちろんあったが、今その態度を表明することは、徳川家のためにかえって不利となるからしばらく時機を待つことにする、という婉曲な拒絶の態度を示した。これは小田原藩がすでに朝廷に忠勤を尽すという非佐幕の態度を明らかにしたばかりであったからである。林らは、小田原藩からこのような態度を示されたので、やむなく第二の目標の伊豆韮山の代官江川英武を説こうとして韮山に赴いたが、ここでも代官が不在で要領を得なかった。 相豆地方は、すでに東征軍の通過後で一応は安定していた。そこに遊撃隊の残党が上陸してきたのであったから再び攪乱される恐れがあったので、閏四月九日、小田原藩に対して前掲したような遊撃隊士掃討の指令を発したのであった。そこで小田原藩としては林らの申し入れにはどうしても応じられなかったのである。また、このような遊撃隊士の蠢動は、江戸の旧幕府側にとっても慶喜がすでに恭順の意を表した以上、はなはだ迷惑千万なことでもあった。そこで田安慶頼は、大監察の山岡鉄太郎に遊撃隊士の説諭をさせ、家臣の不穏な行動を何とか鎮圧しようとした。この山岡の説諭によって遊撃隊士は沼津藩預けの処置に服して、一隊は沼津城外香貫村霊山寺に駐屯して後命を待つこととなった。 大総督府は、沼津以東の鎮撫のために五月六日、参謀の下に軍監四名を任命した。この軍監は各道総督府の下に設けられたもので、東海道軍では島義勇(肥前藩士)、中井範五郎(正勝、因幡藩士)、三雲為一郎(穂方、佐土原藩士)、和田勇(大村藩士)で、島を上総・下野二国、和田を沼津、中井と三雲の二人を伊豆・相模二国の担当とし、中井、三雲は小田原藩に根拠をおいた(『復古外記・東海道戦記』による。『明治小田原町誌』はほかに吉井顕三(土佐藩士)の名を挙げている)。伊豆・相模の軍監府は小田原におかれ、各軍監の下にそれぞれ府員若干名がいた(荻野山中藩士「松下祐信自伝草稿」―『荻野山中藩史料松下家文書』)。 また同月十八日には、支藩荻野山中藩(藩主大久保教義)に対して伊豆地方に賊徒討伐の援軍出動を命じた。このころ、山中藩は勤王か佐幕か藩論沸騰していたが、勤王に決し政府軍に協力した。この態度が結局藩の運命を救って、後に嗣子岩丸が本藩主の永蟄居に代わって本藩を継ぐようになるのである。 箱根戦争の勃発江戸では五月十五日、彰義隊討伐の上野の戦争がおこり、さらに関東各地にも佐幕分子の不穏な動きがあった。十八日、彰義隊討伐の報が達すると、軍監は呼応の動きを警戒して小田原藩兵に鎮圧の部署につかしめたが、この報が遊撃隊士に伝わると、人見勝太郎は、香貫村にべんべんと待機することは策をえないと焦慮を燃やして、十九日の早朝、「すでに待機の場合ではない。彰義隊討伐の報を聞いた以上は、ここに因循と在陣もできないから、隊内に相談せず自分の独断で配下の一隊を率いて東海道筋に出動する」といい残して箱根をめざして出発した。これを知った林らは、人見の脱出は軍律違反であるが、もし人見軍が敗走すれば全軍の崩壊となろうと、ただちに残る隊士とその後を追うこととした。こうして林・遊撃隊士の総決起となった。このとき遊撃隊士は、第一軍隊長人見勝太郎、隊員六十五名、第二軍隊長伊庭八郎で隊員三十九名、第三軍は隊長和多田貢(岡崎藩脱藩)、隊員二十七名、第四軍隊長林忠崇、隊員六十名、第五軍隊長山高鍈三郎、隊員三十一名、その他で総計二百八十名であったという(「林遊撃隊長縦横談」による)。本隊は巳の半刻(午前十一時)箱根戦争図 春日俊雄氏蔵 に香貫村を繰り出して一路箱根の関所に向かった。 関所の守備は江戸時代以来、小田原藩の担当で、このときは中津藩兵が加わって固めていた。まず人見が江戸表に用事があるので関門を通過すると申し出ると、守備側はこれを拒み、再三押し問答をつづけたが、ついに人見が大声で兵力で通過するとさけぶと西の方から関門に向けて発砲した。これで火ぶたが切られてしばらく砲火をまじえた。双方互角で容易に雌雄が決しないので、この上は奇兵をもって破ろうと遊撃隊の別動隊が裏路から関門わきに潜伏して侵入の機をうかがっていると、寅の刻(午前四時)過ぎに小田原藩兵側から、大音をもって、「ちよっと話があるから、暫時発砲を止めたまえ」と呼んだので遊撃隊側も発砲を中止し、先頭にいた隊士の前田条三郎が単身で関門にはいった。関兵は前田に向かって、「今までは、大総督府の軍監がいたので、やむをえず空砲をはなっていた。もとより我が藩の本心ではない、今軍監を放逐した。このうえは君らに同心して徳川家の回復をはかろう」と述べた。前田は、「しからば関門を我らに渡せ」というと、「同意ならば何の否むこともない」ということになって、前田は進んで関門を受け取り本営にこれを通告した。これは翌二十日の辰の刻(午前八時)ごろであった。こうして戦闘はあっけなく終わったのである。このような意外の結末となったのは、小田原藩側で急速な藩論の転換があったからである。 藩論の急転換この藩論転換の経緯は諸記録によるとおおよそ次のようなものであった。まず藩当局の態度であるが、王政復古政変に当たって小田原藩は佐幕か勤王かの岐路に立って苦しみ、大勢に押されてついに勤王を声明して東征軍の通過を迎えたのであったが、現藩主忠礼は前将軍慶喜の従弟に当たるなど、徳川家との密接な関係からなお容易に佐幕を捨てきれないものがあって、藩士中にはなお佐幕の空気が濃厚で、家老の渡辺了叟がその頭目であった。城中は和戦の両論が沸騰して重役の命も聞かれないという紛糾のあげく、結局、佐幕に傾いて遊撃隊と同盟して籠城策をとることに決定した。 そういうところに江戸から意外な情報がはいった。それは、徳川家の回復がなったという話であって、徳川慶喜が軍艦で下田に来ておって不日小田原に入城するはずとか、大久保彦左衛門が指揮する三千人が藤沢に乗り込み、藤沢宿・馬入辺に彰義隊三、四百人がきているとか、また、奥羽の軍勢、会津、仙台はじめ都合十一藩の兵おおよそ九万人ほどが江戸に向かい、たまたま利根川筋の洪水で停滞しているが川があき次第繰り込む。またいよいよ開戦となれば上方勢は、林忠崇と韮山勢、沼津勢が合体して東征軍を富士川でくい止めるというようなものであった(『明治小田原町誌』所収「片岡家御用留」)。 もとよりこれはとんでもない虚報であったが、遊撃隊士の急襲で腰の浮いた藩当局は、この作為にひっかかって、大久保家は譜代の家臣といった名分論をよりどころとして一挙に佐幕へと逆転し、遊撃隊士と和議が成立して手をにぎり、二十一日には遊撃隊士百四十余人が小田原に繰り込んだ。 このような小田原藩の藩論逆転のために、関所にいた軍監中井範五郎は二十日朝、援兵を求めるために早追いで小田原に向かう途中、権現坂で遊撃隊士に行きあって殺害され、また小田原にいた軍監三雲為一郎も驚いて難を避けようと、酒匂川に逃げて舟で川を渡ろうとしたところを小田原藩兵によって銃砲で威嚇された。 このような佐幕への逆転は、小田原藩を死地に追いこむものでしかなかった。江戸でこの報を開いた小田原藩監察の中垣斎宮は驚いて、二十三日早駕籠で急ぎ帰藩し、遊撃隊との和議はまったくの虚報によるもので、これは藩主家と一藩を誤るもの遊撃隊第2軍隊長伊庭八郎 『江戸』2の2から と説いた。城内はいったん遊撃隊士と和議を結んだものの、なお勤王佐幕の両派があって、小田原藩は最後まで曖昧の域を脱していなかったのである。そこに中垣斎宮から、これでは朝敵となるのみならず、前将軍のためにも罪人となるという大義名分論がでたので、再度勤王へともどって藩主忠礼もその諫言をいれ、渡辺了叟らを退け遊撃隊士と断絶して謝罪降伏に決した。そこで忠礼は翌二十四日、謹慎の意を表すために城門をでて、大工町の菩提寺である本源寺にはいった。 戦禍と町民小田原藩は、このようにして遊撃隊士と絶縁したので城下は戦火に見舞われることをまぬがれた。しかしそれでも一時町民は、はげしい戦慄を味わったのである。町年寄片岡家の御用留によると、箱根の関所で戦闘がはじまった十九日には、早鐘が打たれ、町中の小前の者は荷物を片づけ、二十二、三日ごろから老人子どもらが立ち退きだした。また土蔵は火災予防のために目塗りをしたり、荷物を運ぶ者などで城下一帯が混乱した。とくに藩主夫人が城外久野村の総世寺に避難の長持類を運搬するのを見た者は、驚きを新たにして、なかには大砲をおそれて、いったん目塗りした土蔵内の品物を持ち出して他所へ運ぶという騒ぎにまでなった。関所の戦闘は前記のようにあっけなく終わったのであるが、藩当局の二転三転のあげく遊撃隊士追撃の小ぜりあいがなお二十五、六日ごろまでつづいたので町内の不安はしばらくやまなかった。このような戦火の混乱によって、町民の家業がとどこおったので、藩当局は新蔵の玄米千俵を放出した。これは町人別五千四百人に一人七升八合ずつの割り前とあった。 小田原藩は、藩論再逆転で遊撃隊士一派と絶縁することとなったので、その代償として黄金、小銃などを贈った。まことに苦肉の策であるが一遊撃隊士同調の脱藩士の記録に「総督府、のち大に兵を出して我を討たんとし、二十三日、江戸を発す。小田原藩大に懼れて西軍(政府軍)に降り、請うて先鋒となり我を討たんとす。我軍いまだこれを覚らず、二十五日、我藩士(請西藩士)小田原藩に到り盟を致んとす。而して小田原藩人反覆の状あり、伊庭八郎、岡田斧吉、天野豊三郎等、小田原城に入り之に抗議す、藩(小田原藩)の有司首鼠両端、金千五百両、玄米二百苞、酒二十駄、器械弾薬銃丸等を我に贈与し、事僅に止む。八郎笑ひて曰く、反覆再三、怯惰千万、堂々たる十二万石中、復一人の男児なきかと……」とある(小島茂男前掲書引用「岡崎藩士戊辰戦争記略」)。遊撃隊士側からすれば、この評は当を得たものであろう。しかし、箱根関所の守備を命ぜられた譜代の大藩の立場の苦衷もまた察するに余りあるものがある。 小田原藩から絶縁を申し渡された遊撃隊士は当初の計画がことごとく齟齬したので、二十五日、箱根山方面に引き揚げ、これを小田原藩兵が追撃し、隊長の伊庭八郎が負傷するというような痛手をこうむった。二十七日、芦の湖畔を経て熱海に達し、薄暮、網代から船で房州館山に引き返し、ここで傷病兵の始末をして旧幕府軍艦長崎に搭乗して奥州へ向かった。林忠崇の一隊は小名浜に上陸して旧幕軍に合流し、会津若松、米沢方面をまわって仙台に至り、九月二十日、輪王寺宮も謝罪したということを知ってついに降伏を決意した。 問罪使の派遣大総督府は、箱根戦争の報に接すると、ただちに小田原藩をその責任者として参謀穂波経度を問罪使総督に任じ、下参謀河田佐久馬、三雲軍監らを随員に命じて派遣することとしたが、あらかじめ中井軍監殺害と三雲軍監追い返しの罪を問うための問罪派遣を申し渡しておいて五月二十五日、大磯宿において回答せよと命じた。そこで小田原藩は家老渡辺了叟、年寄山中湊、大目付中垣斎宮を平塚宿に派して問罪使の一行を迎えさせた。大磯宿において家老岩瀬大江進らが河田下参謀に藩主忠礼の伏罪の哀訴書と答弁書とを問罪使に差し出した。 尋問に対する藩当局の答弁内容は、㈠軍監中井範五郎の殺害については、遊撃隊士富樫記一郎の従僕が字権現坂にて殺害したので、これはすでにその筋に届け出てある。㈡軍監三雲為一郎追い返しの一件は、中井軍監殺害があったので、三雲軍監に万一危険があっては、という家来どもの計らいで避難せしめるためで、決して当方が追い返したのではない。さらに先般、林昌之助以下の脱走には寛大の御処置を受け、此度翻然忠勤を抽んずべきであるのに、それがないのはいかんとの詰問に対しては、さる二十日、遊撃隊脱走の者どもが箱根関所を襲ったので、早速人数を差し出して防戦に及んだが、この脱走兵どもは、主家(徳川家)に対する名義を立てたい心組みに相見えたのでこれを討ちとるに忍びないところから兵力を振いかね、また小田原城中にも同様の志ある者もあるようであるので、重役どもも苦心の末、家老渡辺了叟の計らいで箱根関所出張の隊長吉野大炊介に、一時の策略でしばらく和解するように申し渡した。ところが、いったん和解となると遊撃隊士がその機に乗じて追々関内に入りこみ、城下に来たので心ならず三、四日逗留せしめた。これ全く了叟の不埓の取り計らいからおこったことにて、畢竟藩主忠礼の不行届につき偏に恐れ入り奉る。以上が答弁書の荒筋で、小田原藩の苦境のほどもこれでわかるのである。 小田原藩の伏罪処分翌二十六日、河田下参謀、三雲軍監が山口・鳥取・津・岡山の四藩兵を率いて小田原城に入城し、大総督府の達書を手交した。また、江戸の藩邸は召し上げられ、重臣は反乱の責任を問われて、六月となって五日、家老渡辺了叟以下、吉野大炊介・早川矢柄・関山小左衛門の四名が取り調べのために江戸に護送された。同月十日、家老岩瀬大江之進が責任をとって自決した。 岩倉具視書翰(代筆箱根戦争後,岩倉具視から軍務官吉井幸輔にあて,小田原藩家老の所置について書かれたもの 明治元年6月) 神奈川県立文化資料館蔵 小田原藩はこの不祥事件によって一藩の命脈が重大危機に直面したので、支藩の荻野山中藩主大久保教義が忠礼の勤王に二念ないことを哀訴して寛典を懇願した。また小田原宿の組頭、名主、人足肝煎らも連名で藩主家累代の恩沢を述べて寛典を歎願し「当今御一新の御時節、卑賤の下情御採用遊され候令を仰出され候御仁政有難く感戴……」と、新政府の下情採用の言質をとって歎願しているのが注目される。この名主以下は、韮山代官江川太郎左衛門手付富沢正右衛門に対しても同趣旨の歎願書を差し出している。 九月二十七日に至って小田原藩の処分が決まった。「……於其方は、不存趣申立候と雖も、一体其方藩屏之大任に居りながら斯る重大之事件不存候段、何分にも申訳不相立候二付、已に城地領地等被召上、謹慎被申置候処、今般出格之御仁恤を以其方儀は永蟄居申付……」と寛典に付して藩主忠礼に対して永蟄居を命じ、特旨をもって家督を支族荻野山中藩主大久保教義の長子岩丸、当時十二歳をして継がしめ、削封して七万五千石を賜ることとなった。岩丸は後に忠良と改めた。辛じて藩主永蟄居と削封の処分で效われたのある。翌二十八日には反逆の首謀者渡辺了叟の処分をするようにとの内命があったので、十月十日、これに切腹を命じて責任をとらせた。以上で新政府に抵抗した箱根戦争の幕が閉じたのである。 四 版籍奉還と藩政改革 府藩県三治制新政府は成立そうそう、前記のように近畿以西の旧幕領の要地に鎮台、裁判所を設け、四月十九日に至って横浜に神奈川裁判所を設けた。 翌年閏四月、政府は「政体書」を制定して、中央・地方の新官制を定め、地方制度は府、藩、県三治の体制とした。もとよりこの閏四月の段階では、東北諸藩をはじめ、まだ新政府の統治に服さない藩も少なくなかった。関東では譜代大藩の小田原藩のごときがいったん勤王を声明しながら佐幕に反転している。政府は諸藩の自主制を漸次おさえ、藩制の均一化をはかる方針をすすめて、同十月二十八日、「藩治職制」を制定し、各藩は一様に藩主の下に執政(元家老)、参政、公議人(以上藩政役職)と、藩主家の家知事をおくことを定めた。これはこれまで各藩まちまちであった藩の職制の統一化であった。小田原藩では執政に大久保弥右衛門・大久保将監、参政に山本修理・横井主税・向井弾右衛門・正木権太夫・堀江覚左衛門、公議人に堀江覚左衛門(兼任)、家知事は瀬戸与次左衛門が就任した。これはたまたま箱根戦争後の藩政立て直しの際であったので小田原藩はここで体制を改め、禄制も新たに定めた。荻野山中・六浦両藩の新人事は明らかにしがたいが、『官版議員人名録』によると荻野山中藩の公議人は岡本太郎、六浦藩は宇田節之助とあって公議人の名前だけは判明する。また『公議所日誌』をみると、小田原藩公議人堀江覚左衛門の発言が散見されて活躍の一端がうかがわれる。 版籍奉還明治二年一月、薩長士肥四雄藩主が連署して、長年にわたって領有してきた領地領民(版籍)を朝廷に奉還するいわゆる版籍奉還の上表を提出した。この上表に対して政府当局は、近々天皇の東京再幸の後、公論をつくして何分の沙汰をするという回答をした。これは大小諸藩の対応をみるためであった。ところが諸藩は、四藩主の上表に順応するという大勢となって、あいついで、ほぼ同様の奉還願いの上表を提出するということになった。小田原藩も三月二十一日、これを提出した。冒頭に「謹テ言上仕候、曩ニ臣忠良之家、奉触天譴、戦慄万死之余、聖恩弘大、奉蒙天地包含、公仁之御沙汰ヲ蒙リ奉リ、再造之御寛典、誠感上、何之至奉存候」、つづいて「抑、方今、大政維新之際、諸藩追々、封土人民返上之建白これあり候旨伝承仕、誠心曠世之卓見と奉存候、臣思良其例に従ひ版籍奉還、更に天裁ひ仰き奉り度、右宜しく御執奏願い奉り候、誠恐誠惶頓首再拝」と述べている。とくに箱根戦争の失態を謝しているのがその特色というべく、この一件が小田原藩にとっていかに大きな痛手となったかを示している。諸藩の上表はがいして四雄藩上表に追従するものが多く、なかには何らか奉還理由を掲げたものもあるが、小田原藩の場合は、ただ天譴を謝して諸藩の例に追従するというのみである。これも前年の失策で片身の狭い思いがあったためにほかならない。 六月十七日から、さきの諸藩主の奉還上表を聴許するという形で版籍奉還を決行した。小田原藩主に対しては翌十八日この示達があって、その翌十九日、大久保相模守忠良に対して「小田原藩知事被仰出候事」という辞令がでて、忠良は新たに小田原藩知事に任命され、旧藩士も執政以下そのまま旧主の下で藩治に当たることとなった。 なお、この藩知事には家禄として旧領地の現石の十分の一を与えられた。現石(現米)とは、当時現在の領地の実収入である。小田原藩は七万五千石であったが、これは草高であって、実際の高はそれよりはるかに低い二万三千四百十石であった。そこで藩知事の家禄も二千三百四十一石となった。また旧家臣の執政以下にも旧俸禄を削減した家禄が与えられた。 小田原藩の藩制改革版籍奉還によって、諸藩は領主制から、実質的には政府の地方行政区画へと転じた。したがってその体制も更新されねばならなかった。小田原藩は、この月、藩知事から直書をもって左のように達した。 「我儕不肖幼弱之身ラ以テ宗家ヲ相続致シ有難ク候、爾来及バズ乍ラ御先規ヲ継述致シ忠孝謙恥ヲ振起シ、勤王専一ニ存込候外コレナシ、然ル処、方今形勢一同存知之通、明詔ヲ以追々仰出サレ職制兵制等段々御変革コレアリ候ニ付、藩々ニ於テ叡旨ヲ尊奉、夫々改制致候事故、則チ今般、職制兵制等一新致改革候、夫ニ付、旧勲大禄、或ハ高席ノ者等、祖先并ニ当人共ニ対シ候テハ忍ヒ難キ情実至リ候得共、諸藩ノ振合ヲ以、高下ニ拘ラズ悉皆銃隊ニ団結致シ、向後、弥々文武之道芸勉励致シ、合一時忠誠ヲ以テ時勢ニ応シ藩屛之任、人救之職確然相立候様志願致スベキニ付、闔藩此意ヲ体シ、専精尽力、職任ニ供候様致タク候、猶委細之義ハ執政共ヨリ申聞スヘク候 六月 三御目付エ 右の諭達とともに藩の職制も全面的に刷新して左のように改めた。 官職順序 (『明治小田原町誌』から) 右は江戸時代以来の家老以下の名称を「藩治職制」等によって改め、かつ職制全体を一等官から九等官の九等に編制したものであるが、翌七月七日、中央で「職員令」が制定され、地方制度では、藩に知事一人、大参事、権大参事、少参事、権少参事、等をおくこととなったので、この「職員令」に準じて職制を更新してふたたび左のように改めた。(『明治小田原町誌』上) 正一等官 大参事 兼軍務局文武領総裁 加藤亨 同 同 兼会計局総裁 大久保綱三前名(弥左衛門) 従一等官 権大参事 山本節 同 同 兼軍務局文武領副総裁横浜作十郎 同 同 兼会計局副総裁 向井東 同 同 正木新 同 公議人 東京在勤 堀江勇 正二等官 少参事 兼会計局主事 三幣玄 同 同 中垣斎(斎高) 同 同 兼会計局主事 石原五郎右衛門 同 同 兼軍務局文武領主事 近藤繚 従二等官 権少参事 山本九三 同 同 大久保一養 同 同 奥孫六 同 同 石原渡 (三等官以下略) 版籍奉還によって諸藩主は旧領地の藩知事に任命されたほか、京都の公卿とあわせて華族となった。大久保忠良も華族となった。なお明治十七年制定の「華族令」によって、当時の当主大久保忠礼(明治十年の西南戦争で忠良戦死となって忠礼再承)が子爵に叙せられた。藩主が華族となったのと同時に各藩の家臣は、幕臣などとともに目見以上を士族、以下を卒とした。この明治二年当時の小田原藩の士族、卒の数はどれほどあったか、『藩制一覧』(旧修史館本・明治二、三年にわたる各藩書上げ、日本史籍協会叢書本)によると士族の戸数は七百五十四軒、人口二千八百九十一人、内男千九百十二人、女千九百七十九人、卒戸数四百六十九軒、人口千五百七人、内男七百七十一人、女七百三十六人とある。士族以外をあわせた全一万七千三百九十六軒、人口八万四千二百五十七人、内男四万三千三百十一人、女四万九百四十六人とある(有信会文庫「明治二年十月藩政其他取調一件帳」中の「闔藩戸数人口取調」の士族、卒の戸数、人口は一致するが、他の数字は一致しない)。 つぎに兵制については『明治小田原町誌』引用の「兵制変革規則」(明治二年六月の条)に「留後班より以下門地に拘らず平士に至るまで職員に列せざる者総て兵隊に団結す、且給禄を平均するの大意を表し、仮令大禄の者たりとも兵隊に編入する上は全く米三拾俵高を定給とし其職高より割合を以軍資金を上納すべし、全給三十俵に盈ざる者は出張中三拾俵に増す」とある。また「藩政其他取調一件帳」に左の兵員数がある。 第大隊 但八小隊 人足 三百八十一人、散兵二小隊 人足 九十四人、大砲二門 人足 二十三人 つぎに学制も改革された。小田原藩にはすでに藩校文武館があった。これは大久保忠真が文政五年に開校したもので、表向き集成館と称したが、藩内では文武館と称した。六月、この文武館の規則を改正し、従来、士分以下は入学を許さなかったものを、士分以下も文武の教授を受けられることとした。改正規則は左のとおりである。 一、執政参政庶務知事之内日々見廻り之事 一、文武知事申合終日四人つゝ詰切之事 一、文武督学御用途之節は申合成丈日々見廻之事 一、文助教師申合終日四人つゝ詰切之事 一、文武局監察申合日々壱人つゝ終日詰切之事 但当分是迄助教師詰刻限之通可相心得候事  但当分是迄学頭詰刻限之通可相心得候事 翌三年九月十日、中央で新たに「藩制」が制定されると小田原藩では翌十月十九日、藩知事直書の諭書を発し、今般朝廷から藩政御規則(「藩制」か)がでたので、その御趣意によって全藩、従来の席次を廃し、一等以下十六等の等級に改める。そのため、それぞれ祖先、またはその身の勲功によって与えられた席次を失う者も少なからず、さぞかし不本意の者もあろうが、誠にやむをえないことゆえ、一同遣失なく相心得、いよいよもって全藩一和朝旨を奉ずるようにと述べ、大参事が九等官となり、以下史生、庁掌、文教助、武教師の十六等官に至る藩庁役人の等級を定めた(この新官等は、前掲明治二年六月の「官職順席」ではなく、三年八月に中央政府制定の「官禄定則」によるもので、地方官では県知事が七等官、権知事が八等官であるから、藩の大参事はそれに準じて九等官となるわけである)。 小田原城の破却と本陣脇本陣の廃止明治三年の閏十月二十日、藩知事から小田原城破却の申請がでた。これは政府の旧城郭破却の方針に添ったものであり、また藩としても補修の経費に窮したからであった。この申請が許されると、藩知事忠良は先代忠礼とともに居城をでて元杉浦邸に移った。天主閣は破却後金九百両で処分することになって、これを町民の観覧に供した。破却を実見した故老の話によると、天主閣屋上の鯱は銅製で、天正九年の銘があったという。 同月、また、旧小田原宿の本陣、脇本陣を廃止した。このとき本陣は、清水金左衛門・片岡永左衛門・久保田甚四郎・清水彦十郎の四軒で、ほかに脇本陣が四軒あった。この本陣廃止で旧来の小田原宿の立前も失われて、東海道筋のたんなる地方都市となった。そこで町政も改革を要するので同年十二月二十六日、町年寄から十一条の諭達がでた。まず、町として新たな結束を固め、年始めの贈物を禁止するなどを説くとともに、町民の生計も従来どおりでなくなろうから、町民はそれぞれ土地相応の営業を行い、商家はいよいよ奮発してその道にはげんで繁栄をはかるべしと、時代相応の転換の工夫を説いた。また町役人は従来、家柄によって定められていたが、これからは人才挙用の趣旨で抜摺する。以上のような町政刷新をはかり、町役人は町年寄を首席として以下伝馬所元締役、用達、伝馬所年寄、名主、取締役、組頭、用聞等の席次を定めた。(『明治小田原町誌』)荻野山中藩の領地更新荻野山中藩は譜代一万三千石の領地が相模国諸郡と駿河・伊豆両国にまたがった藩領構成であった。(資料編5近世2荻野山中藩参照)。明治を迎え、本藩の小田原藩が箱根戦争の渦中にまきこまれて譴責をうけると、その救済に尽力をし、その結果、本藩は減封によって辛うじて存続を許された。ところが、明治元年九月、所領の大半を占める駿河・伊豆両国にある領地高九千八百九十石余が上知を命ぜられ、相模国愛甲郡に代替領を与えられることとなった。この領地替はこの年五月、徳川宗家を継いだ田安亀之助(後徳川家達)が新たに駿河国静岡七十万石に封ぜられたためと思われるが、すでに伊豆国の領地は、韮山代官(韮山県)の管下に組みこまれていたのである。 このように荻野山中藩領の一部が上知されたが、代替地の交付が遅れたのでその年の年貢収納が大減収となった。翌二年の三月下旬となって、代替地に予定された相模国愛甲郡内で戸室村以下二十四か村が与えられた。旧領中荻野村以下六か村とあわせて、三十か村総高一万三千六百八十四石余となった(前掲『荻野山中藩』の「明治維新と荻野山中藩」による。なお、代替領地は、資料編5近世⑵二九九号文書による。前記『荻野山中藩』二〇七~二〇八ページ引用資料では戸室村以下十九か村となっている)。このようにして荻野山中藩は領地が相模国に集中し、旧来の山中陣屋は山中民政局と改まった。翌四月には庶政更新のために「郷中御条目」を定めている(前掲『荻野山中藩』)。 版籍奉還と荻野山中藩・六浦藩明治二年正月の四雄藩主の版籍奉還の上表の趣旨に添って荻野山中藩も奉還の上表を提出したので、六月二十三日、藩主大久保教義が改めて荻野山中藩知事に任命された。小田原藩同様、藩政を改革して大参事には旧家老井戸平格荻野山中藩松下大属の辞令 松下重治氏蔵 が就任した。現在関係資料が散失しているので改革の具体的なことは判然としないが、当時、大属となった松下祐信の自伝によると、民政局には租税、聴訟、断獄、社寺、勧業、教育等の部局があった。松下祐信の自伝には当時の藩政の模様があるが、教育の情況については、次のような記事がある。 「教育ハ昔時士人以上ニ行ハレ民間ニハ行ハレス、民間稀レニ見ル処ロノモノハ僧侶ノ不完全ナル読書ヲ授クルト、所謂寺子屋者流ノ児童ニ筆ヲ教エルモノアルニ過ギズ、予常ニ之レラ慨ス、時に岡藩ノ処士若松幹男ナル者管下下妻田邑富農永野茂ノ家ニ寄遇シ子弟ニ漢学ヲ教授ス、即チ村夫子ナルモノナリ、彼レ性磊落酒ヲ好ミ所長ナシト雖モ頗ル学問アリ、決テ普通ノ村夫ニアラズ、則チ永野ト協議シ同村内ニ於ル荒廃セシ家屋ヲ修理シ、之レニ若松ヲ移シ、以テ郷学校トナシ、村民子弟ノ教授ヲ司ラシム、予諸有志ト共ニ臨ミ開校式ヲ挙ク、当時地方民間始テ咿唔ノ声ヲ聞クニ至レリ、次ヒテ山際邑亦郷校ヲ開ク、〓ニ至テ管内教育ノ作振ヲ促シ、風教ノ効果空シカラス、大ニ学問思想ヲ鼓吹セリ……」 『藩制一覧』によると、士族七十二戸、人口二百八十五人、内男百四十二人、女百四十一人、卒三十三戸、人口五十七人、内男三十七人、女二十人(外に卒二十五人)士族卒以外戸数二千二百二十六戸、人口一万二千二百五十五人とある。 六浦藩(藩主米倉昌言)について資料編5近世⑵には関係資料が載っているが、明治以降のものはない。当時の藩政資料はすでに散失しているので明らかにしがたいが、前掲『藩制一覧』には、草高一万一千九百九十九石余、士族七十九戸、人口三百二十四人、内男百四十五人。女百七十九人、卒八戸、人口四十六人、内男四十人、女六人、平民二千百三十五戸、総戸数二千三百六十二戸、人口一万二千八百四十八人とある。このような三藩の体制のもとに明治四年七月の廃藩を迎えたのである。 六浦藩知事任命辞令 米倉達子氏蔵 第四節 開港場の新文化 一 横浜絵 日本のなかの異国いわゆる安政の通商条約によって、横浜が開港されたのは、安政六年六月二日(一八五九年七月一日)のことである。開港後の横浜は、まさしく日本のなかの異国であった。ここには外国人の居留地が造成され、さらに外国との貿易を目的として住みついた日本人の住居が立ち並んだ。居留地のなかには広い道路が開かれて海岸に達し、また海岸に沿っては遊歩道が設けられた。開港の翌年、すなわち万延元年(一八六〇)二月、ジャーディン・マジソン会社が「英一番館」を建てて以来、外国の貿易商はつぎつぎに商館を建ててゆく。かつては神奈川宿のかたわらに連なる一寒村にすぎなかった横浜は、こうして異国の香りが満ちあふれる市街へと、にわかに変容していった。 当時は、いわゆる尊王攘夷の気風がみなぎっていた。外国人で殺傷される者も少なくない。そこで幕府は、居留地の安全をまもるために、居留地に通ずる道路に七か所の関門を設けて、きびしく通行人を取り締った。関門のなかでは、吉田橋関門がとくに有名である。そして関門のなかが関内、外が関外と呼ばれるようになった。 外国人のために遊廓もつくられた。幕府の指示によって、太田屋新田のうち一万五千坪(現在横浜公園一帯)の沼地を埋立て、ここを港崎町と名づけて、遊廓が形成されたのである。工事は遅れて、開港までには間に合わなかったが、安政六年十一月(一八五九年十二月)には完成する。立ち並んだ妓楼のなかでも、ひときわ目立ったのが岩亀楼であり五十鈴楼であった。とくに「岩亀楼の家造りは、蜃気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく、文月の燈籠、葉月の俄踊、もん日〱の賑ひ、目をおどろかし、素見ぞめきは和人、異人打まじりて、晝夜を分ず」という盛況であった(『美那登能波奈横浜奇談』)。こうして港崎遊廓は、年とともに繁栄におもむいたが、慶応二年十月二十日(一八六六年十一月二十六日)には火災によって焼失し、のち吉田橋の南方、吉田新田の地に移る。 居留地につらなって、日本人の町も形成された。開港後一年にして、二百軒ちかくの商人が横浜に店を開いたが、その大多数は生糸商人であった。 横浜浮世絵開港場の横浜に進出したのは、商人ばかりでない。江戸の浮世絵師たちも、新しい画題を求めて、異国情緒みなぎる横浜に進出した。そのころ江戸の浮世絵は、春信や歌麿などのあらわれた黄金時代を過ぎて久しく北斎や広重の風景画によって、一時は人気を回復したものの、その後は低落の一途をたどっていた。そこに横浜が開港し、いままで目にふれることのなかった異人たちが、大量に渡来してきたのである。居留地に住みついた異人たちの生活、風俗は、長い鎖国のなかにあった日本人にとって、まさに目を見はらせる珍奇なものであった。 いまや浮世絵師は、またとない題材を得たのである。横浜を画題とした浮世絵は、たちまちにして爆発的な人気をよび、横浜絵とも、横浜浮世絵とも呼ばれて、飛ぶように売れていった。全体で約六百点が制作されたといわれるが、最もさかんに描かれたのは、開港から間もない万延元年(一八六〇)と文久元年(一八六一)の二年間であった。 いわゆる横浜浮世絵の主要な題材となったものには、三種が挙げられる。第一は、開港場として整えられてゆく横浜の絵図である。第二は、港崎遊廓と、そこに遊ぶ外国人の姿である。第三は、居留地の街並と、外国人の暮しぶりである。そのほかにも相撲や見世物、あるいは海外の風物を描いたものなどがあること、いうまでもない。これらの作品によって、年ごとに栄えゆく港ヨコハマの姿が、生きいきと描写されたのであった。 絵図は、おおむね鳥瞰の手法によって描かれた。開港当初の風景を描いた「大絵図」から、しだいに整備され、発展してゆく街区、そして海岸から山の手に拡大してゆく市街の有様が、一連の絵図を見ることによって、くわしくたどることができる。それは地図であると同時に、町名や商館の案内図でもあった。 これと類したものに、名所絵があった。御貿易場をはじめ、関内や関外の光景、また横浜八景や二十八景など、至るところが画題となっている。しかも名所のなかに、外人の姿か、異国の文物が、必ず登場している。かつて名所絵といえば、美しい景勝や、寺社の建物などが主題であった。それが横浜絵においては、異国情緒が主題もしくは添景となっている。 港崎の遊廓風景は、さまざまの角度から描かれた。とくに評判だったのは、岩亀楼における異人遊興の状景である。三味線の伴奏につれて手足をあげ、踊り舞う洋服の異人の姿は、当時の風俗を何よりもよく物語る。遊廓の娼妓のほか、街頭に私娼もあらわれていた。外国人に囲われる洋妾(ラシャメン)もあった。そうした人びとの姿も、横浜浮世絵に登場している。 名所絵のほかに、外国人の風俗そのものを写した浮世絵があった。異人は、よく遊行する。目的もなく、ただ街上を歩くという光景は、当の日本人にとって異様なものであった。日曜日はドンタク(オランダ語のなまり)と呼ばれ、異人は隊列を組んで街頭に乗り出した。おのおの国旗を押し立て、楽器をならしながら練り歩く。最も珍しい光景であった。 こうした横浜絵を描いたのは、主として歌川派の絵師たちである。初代広重の没後、そのあとを継いだ二代および三代広重、また豊国系の人びと、国芳系の人びとが、横浜絵に活躍した。なかでも豊国系の貞秀は、五雲亭または玉蘭斎などと号し、開港の当時すでに五十歳をこえていながら、最も多くの横浜絵をのこしている。万延から文久にかけて絵図をはじめ、遊廓風景、外人風俗などを描きまくった。とくに横浜絵図は、たんねんに調査をかさね、忠実に当時の実景を写しており、地図として見てもすこぶる正確なものであった。 居留地の風俗日本人にとって珍奇とうつった居留地の風俗は、絵に描かれたほか、文章によっても紹介された。浮世絵師の玉蘭斎貞秀は、絵と文とをまぜ合わせた小冊子『横浜文庫』前編三冊、後編三冊を、文久二年(一八六二)春、つぎつぎに刊行して、開港場における見聞を伝え、当時のベストセラーとなった。同書は『横浜開港見聞誌』としても知られる。その記述によって、風俗の一斑をうかがいたい。 横浜渡来の異人商館町右左ともに向ひ合て門有青色又ハ緑青黒色ハ多く見ゆるなりみな其色々にてぬり立或ハ又石蔵を以て門の左右にかまへ門の柱に表札あり英国士官洋行なぞ書付あり又亜墨利加三十三番ウヱンリイト此ごとく番付たるもあり館内にハ犬多く最も其種類多し時によりてハ日用出入見おぼえ有商人にても時ならずかみ付かんいきおいにて飛来るに本町見世の使ひの者胆をひやして逃かへるもあり此犬いよ〱右のごとくなれバ其犬の主人小鉄砲を以て打ころすなり…………どんたくの日ハ商館にても旗を立船印と同じ波戸場に出て見渡せバ海上も舶す処の帆綱に小旗を数多付ともの方にハ大旗を立船中の異人此日陸に来りて遊行す港崎町の遊女を初め茶屋の娘まで七月盆中踊りをなす仲の町にあつまりて一同はでやかなる衣を以て白き手拭にて若き娘など頰かむり或ハはち巻又ハゑりにまとひ手横浜岩亀楼上(広重画) 神奈川県立博物館蔵 に団扇を上ケて手びやうし足どりを揃へて歌舞をなすに見物人の山をなせり異人ハ元より黒人又ハ南京人ハ常によく踊るなれバ毎夜この港崎町に来りいて是を見物なしてうら山しく思ひしや後にはたまり得ずチヤン〱頭をふり廻し両手をあげて踊り込この踊七月中ありて止まりたるに八月八日ハ大どんたくにて定まりのごとく勝手に遊楽することなれバ波戸場の広き所に出て男女つどひ集真丸に並居一チ人男異人大なる太鼓を出して打込バ其音につれて何やらん声をはつして一同に踊りたれ盆をどりのやうなれども異州にあることにや手先足元よく揃ひたることなり つづいて文久三年(一八六三)には『横浜奇談』が刊行された。やはり居留地の風俗を、くわしく紹介している。その一文をかかげよう。 異人屋敷にハ士官と商人とあり士官の分ハミニストルコンシュルあるひハ通弁官またハ船将とありて銘々彼国の旗験をおしたてたり商館にハその旗はなけれども商用の看板らしき旗ありいづれも屋敷の造り方ハ壁にハ尺石を積みかさね障子ハギヤマンにて張間毎のしきものハ五畳じきあるひハ十畳敷等いづれも壱枚織にて色々の模様ありその美しき事美花を布ならべたるごとし…………扨異人朝暮の行状ハまづ朝五ツ半時頃四ツ時に目を覚しすぐに入湯するなりその湯のぬるき事ひなた水のごとし中にハ暑寒ともに水ばかり貴ぶものもあり夫より常に懸置ところの姿見鏡位な四り尺にむかひうがい手水をつかひ髪を直しシヤボンるあもかのをとまたは匂の水をもって薄化粧などいたし夫より服を着替るなり何れも黒羅紗にてその地合のよきこと革のごとし又身奇麗なる事我国の人に替る事なし次に食事港崎町外国人盆踊図 『横浜開港見聞誌』から におよぶ麦粉にて製したるパンといふものを食す其外牛肉豚肉果物等なり酒は種類おほけれどもいつれも多分に飲でも深く酔事なしこれは我国の酒とは替り穀類にあらずしてらんびきにて果物よりとりたる酒なれば気ハ強けれども醒る事ハいたつてはやし食事は朝夕二度なり煙草ハいづれも好にて少しの間もはなす事なしされども我国のたばこと違ひつよき事はなはだし我国のごとく内へ引て吸ときハ目のまはる程なり彼等ハふかすばかりにて吸こむ事ハなしおり〱唾をはくなりこれは常にたばこをふかし唾をはけば悪気を吐出す故に無病なりとぞさて又異人の馬に乗ることハ小児の頃より男女ともに乗習ふなり勿論流義などといふ事ハ更になし只いつとなく乗馴自然と達者にのり覚るゆへその駈引自在なりあるひは血気運動のためにとて用なき時とても館内市中をも歩行いたす事もあり我国のものゝいたさぬことなり 二 新聞の発刊 新聞紙の誕生居留地では在留外国人の手によって、新聞紙も発行された。外国人むけのものであったから、もちろん最初は英字新聞である。なお当時の日本語において「新聞」とは”ニュース”の訳語であり、Newspaperは「新聞紙」または「新聞誌」と訳された。 一八六一年(文久元年)六月二十二日、長崎において〝The Nagasaki shipping List and Advertiser〟という英字新聞が発行された。これが日本における最初の新聞であって、週二回刊、発行者はイギリス人の貿易商ハンサードA.W. Hansardであった。この新聞は二十八号までつづいたが、やがてハンサードは横浜に移り、同年十一月二十三日に〝The Japan Herald〟を創刊する。ここに横浜において、最初の新聞が発刊されたのであった。 "The Japan Herald〟は週一回、土曜の夕刻に発売された。刊行に当っては、イギリス人ブラックJ.R. Blackを主筆として迎え、紙面の充実につとめている。のちにブラックは邦字新聞『日新真事誌』を発刊し(明治五年)、また『ヤング・ジャパン』をあらわして、幕末維新時代の文化向上に貢献するところが大きい。 この"The Japan Herald〟が好評であったのを見て、翌六二年(文久二年)には、アメリカ人のショイャーR. Schoyerが"The Japan Express〟を創刊した。発刊の月日は明らかでない。しかし『エクスプレス』は、『ヘラルド』にくらべると、内容も体裁も、すこぶる貧弱であった。 さらに六三年(文久三年)三月二十五日には、ポルトガル人のローザF. Da Rozaが"The Japan Commercial News〟を創刊した。大判一枚刷り四ページの週刊紙で、水曜日に発売された。これが『ヘラルド』の強力な競争紙となった。 そこでハンサードは、同年十月二十六日から『ヘラルド』の付録として、広告を主体とする日刊紙"The Daily Japan Herald〟を発行した。英字紙ではあったが、ここに日刊新聞があらわれたのである。その後『ヘラルド』は、明治の末に及「The Japan Herald」No.1 国立国会図書館蔵 んでドイツ人に経営が移り、一九一四(大正三)年九月まで発行がつづけられたが、日独戦争(第一次大戦)によって廃刊された。 一方の"The Japan Commercial News〟は、やがて『ヘラルド』との競争に敗れ、休刊するに至った。そこで横浜で銀行を経営していたリッカビーCharles Rickerbyらが会社を買収し、一八六五年(慶応元年)九月八日、〝The Japan Times〟と改題して発刊した。週刊紙であったが、ページを一号分とし、記事もくわしい。この『タイムズ』は一八六九年(明治二年)十二月までつづいて廃刊となった。そのあとをうけてイギリス人ハウエルW.G. Howellの発行したのが〝The Japan Mail〟である。一八六八(明治十一)年一月には『タイムズ』も、リッカビーによって復刊される。そして七月には『メイル』と合併し、"The Japan Times〟の題名の下に"and Mail〟の文字を入れて発行をつづけた。 このような外字新聞に並んで、邦字新聞もしだいに発行されるに至る。初めは幕府の手によって、文久二年(一八六二)一月から『官板バタビヤ新聞』が発刊され、三月からは『官板海外新聞』と改題された。これはオランダの新聞と蕃書調所において翻訳、編集したものである。半紙二つ折りを五、六枚にまとめて、冊子体にして発行された。今日の感覚からみれば、新聞というよりは雑誌の体裁に近い。 文久三年(一八六三)になると、横浜の英字紙を翻訳した邦字紙が発刊された。さきの"The Commercial News〟を翻訳したものが『横浜新聞』であり、ついで『横浜新聞紙』『日本貿易新聞』『日本交易新聞』などと題名を改めながら、慶応元年(一八六五)までつづいた。また"The Daily Japan Herald〟を訳した『日本毎日新聞紙』も文久三年九月に発刊されているが、数号で廃刊となっている。こえて慶応元年八月には、"The Japan Times〟を訳した『日本新聞』が発刊され翌年八月まで五十五号を数えた。 「新聞の父」ジョセフ・ヒコこのように横浜の英字新聞につづいて、数種の邦字新聞も発行されるに至った。しかし『官板海外新聞』にしても、『日本貿易新聞』や『日本新聞』にしても、外字新聞の翻訳であって、日本の新聞として編集されたものではない。かつ新聞と称したものの、体裁は雑誌に近く、発行も不定期であった。本当の意味における日本の新聞は、ジョセフ・ヒコの発行による『海外新聞』の出現を待たねばならなかった。 ジョセフ・ヒコは天保八年(一八三七)、播磨国加古都古宮村、いまの兵庫県播磨町に生まれ、幼名を彦太郎といった。嘉永三年(一八五〇)、十三歳のとき、海路によって江戸見物におもむいたが、その帰途、暴風雨にあって、太平洋上を漂流すること五十二日間に及ぶ。ようやくアメリカ船に救助され、翌年(一八五一)二月、サンフランシスコに入港した。これより、ヒコのアメリカ生活が始まる。 アメリカにおけるヒコは、はじめサンフランシスコ、のちはボルチモアで暮らした。その間にはニューヨークやワシントンへもおもむき、一八五三年八月にはピアース大統領、五七年十一月にはブキャナン大統領と会見している。また一八五四年にはカトリックの学校に入学し、十月三十日には洗礼を受けた。そのときジョセフという教名を授けられ、以後はジョセフ・ヒコと名のるようになったわけである。 日米通商条約が結ばれたのは、一八五八年七月二十九日(安政五年六月十九日)のことであった。この年の六月三十日、ヒコはボルチモアにおいてアメリカの市民権を得る。すなわち日系米人の第一号となった。折りから日本近海までおもむく測量艦に便乗することを許され、十一月にはハワイに達する。ハワイからは、香港ゆきの商船に乗った。このとき同乗したのが、旧知のヴァン・リードVan Reedであった。のちにリードは横浜で新聞『もしほ草』を発刊する(後述)。 香港からは合衆国の軍艦ポーハタン号に乗ることを許され、上海に着いた。ときに五九年五月の末である。ここで初代の駐日公使として赴任するハリスに会った。そしてハリスから、新しく開かれる神奈川領事館の通訳に任命された。いまやヒコは米国籍の通訳として、ハリスらともに軍艦ミシシッピー号に乗り、長崎・下田をへて、一八五九年六月三十日(安政六年六月一日)、神奈川に入港したのであった。 神奈川(横浜)の開港は七月四日(六月五日)であった。その日、本覚寺にアメリカの神奈川領事館も開かれた。ヒコは翌六〇年二月に辞任するまで、領事館通訳をつとめた、三月からは、横浜で貿易商社を営む。六一年末には、商用を兼ねて再びアメリカに渡った。滞米中の六二年三月には、リンカーン大統領と会見している。こうして十月には横浜にもどり、ふたたび領事館の通訳をつとめた。 領事館に在任中、六二年十一月には、月刊の『商事月報』を発刊した。商事と名づけているが、江戸や横浜の動静、すなわち時事ニュースなども報道している。領事館は六三年九月三十日に辞任した。そして横浜で、ふたたび貿易商社を開業した。 横浜の居宅、居留地百四十一番において、いわゆる『海外新聞』を発刊したのは、一八六四年(元治元年)六月のことである。長いアメリカ生活において、ヒコは新聞というものの効用を、十分に心得ていた。当時の日本人の誰もが知りたがっているニュースを、新聞によって伝えよう、と考えたのであった。単なる外国新聞の翻訳ではない。独自の編集によって記事を選択し、読みものその他を加え、日本語の新聞として、初めて新聞らしい形態をととのえたものであった。のちにヒコは”新聞の父”と呼ばれるに至る。 ヒコの『海外新聞』は約二年間つづいたが、新聞の売行きは思わしくなく、また貿易商社の経営も行きづまって一八六六年(慶応二)十二月には横浜を去る。それから後のヒコは、長崎や兵庫において商業に従事し、晩年は東京に移った。その死去は一八九七(明治三十)年十二月のことである。 故国に帰ったヒコは、みずから彦蔵と名のった。アメリカの市民権を得ていたから、国籍はアメリカにあり、世間からは「アメリカ彦蔵」と呼ばれた。しかも生れ故郷から夫人をむかえ、その旧姓である浜田をもって、晩年は浜田彦蔵と称していた。 『新聞誌』と『海外新聞』ヒコの自伝"The Narrative of a Japanese〟によれば、一八六四年(元治元年)六月二十八日の記事のなかで、新聞の発刊について次のように述べている。 今月中に私は『海外新聞』を創刊した。木版刷りの日本語新聞で、外国のニュースを要約して載せている。これは日本語で印刷されて刊行された最初の新聞であった。この新聞は、今日から私が長崎へ去るまで―約二年間つづいて刊行された。 ここでは『海外新聞』を発刊した、と記されているけれども、ヒコが元治元年に発刊したときの題名は『新聞誌』であった。また木版印刷ではなく、いちいち手書きしたものであった。しかし『新聞誌』時代のものは、現物も、これを筆写したものも、いっさい残っていない。したがって記事の内容も発行の期日や号数も、明らかにすることができないのである。 最初の『新聞誌』発刊から九か月たった慶応元年(一八六五)五月、題名を『海外新聞』と改め、その第一号が発行された。このたびは木版印刷となっている。体裁は半紙を二つ折りにし海外新聞の表紙 県立金沢文庫蔵 て五―六枚つづり合わせ、こよりでとじて、表紙をつけたものであった。表紙には、横浜の港を描いて、富士の遠景を配した図柄を用いた。 各号の巻頭には、何月何日に「イギリス飛脚船、此港(=横浜)ニ入りしを以て左の新聞(=ニュース)を得たり」と記し、国別に海外の時事ニュースを採録している。こうした記事は外国紙の記事をヒコが訳述し、本間潜蔵と岸田吟香とが、やさしい日本文として書きおろしたものであった。 海外ニュースのほかには、横浜における相場変動や経済情報も伝えている。たとえば「茶、此品ハ不景気にして下値になれり。」(第三号)、「糸、前橋の極上は競気少しく宜し」(第六号)というような調子であった。さらに第一号から、末尾には次のような口上をのせた。 右のことく各国の新聞紙を日本のこと葉になほし出す趣意ハ各国の珍ら敷噺をも知り、且物の価の相場高下をも弁へ知れハ貿易の為に弁利多きを思ひてなり。英国の飛脚船ハ一月に二度つゝハ此港に来るものなれハ便リ有る度毎に速に出版し、又先に横浜在留の異人より出す引札をも訳して添可申候。已上。 ここに述べた通り、引札すなわち広告ものせた。そのころ、広告の効用を知っていた者は、外国人ばかりであり、当時の日本人にとっては、すこぶる珍しく感じたことであろう。 病の治療を受むと望む人々ハ、爾後九ツ半時より七時迄(=午後一時―四時)に第百八番をとひ給へ。 バダール啓 (第十八号) 入歯を成んと欲する御方ハ御尋被下。所持の細工歯御覧の上にて御用被仰付川候之は尋常の骨或ハ象牙蠟石にて造りしに非す。せとものに類せし金にて造りし故、持甚宜敷つやなど天然の歯に異ならず 三十一番 レスノー謹啓(第十九号) 第十八号からは「アメリカ史略」として、アメリカの歴史を省述するとともに、「世界開闢のあらまし」と題して、創世紀の内容を紹介している。ともに連載であった。いうまでもなくアメリカ史は、ヒコ在米中に得た知識にもとづくものであり、創世紀の訳述はカトリック信者として、聖書を取上げたものであった。キリシタン時代を別とすれば、これは最初の日本文聖書ということができよう。 こうして『海外新聞』は、慶応二年(一八六六)十月まで、二十六号を数えた。しかし記事の評判が高い割りには、購読者がふえなかった。まず値段が高かった。一部につき五百文、一年分では一両二百匁である。当時の物価から見れば、すこぶる高価であった。そこで購入せずに、記事を筆写する者が少なくなかった。筆写された海外新聞が、今日でも各地に残っている。さらにヒコ自身が自伝で述べているように「日本の民衆は、その新聞を読みたがってはいるが、どうも当時の政府と法律のせいで、予約購読したり、買ったりするのを恐れていたらしい。そこで、やむを得ず、大部分をただでやる始末であった。定期購読者はわずかに」二名であったという。 ヒコの苦心にもかかわらず、横浜で発刊された日本最初の新聞は、二十六号で終りを告げた。そしてヒコ自身も横浜を去ったのである。 維新前後の新聞ヒコの『海外新聞』が廃刊されてから三か月の後、すなわち慶応三年(一八六七)には、新しい邦字新聞『万国新聞紙』が発刊された。横浜のイギリス領事館にいた宣教師ベイリーB.M. Baileyの編集によるものであり、発行所は横浜居留地の百六十八番であった。明治二年(一八六九)五月まで発行は「万国新聞紙」初集 国立国会図書館蔵 つづけられたが、内容はすこぶる充実し、経営も順調だったようである。 凡例に「此新聞ハ日本ノ諸君子ニ万国ノ事情ヲ知ラシメン為ニ編成」すると述べ、ヒコの新聞と同じように、海外ニュースの紹介を主体としていた。これとともに「日本国」のニュースも取入れ、第五集(慶応三年六月刊)以後には、横浜のニュースも散見する。さらに「外国諸物価相場」をかかげ、広告にも相当のスペースを割いた。広告のなかには「英国教師ベーリー先生、日本貴公子の英学小志ある者に教授せんと欲す、先生、子弟教育に熟慣せり……」と、みずからの宣伝も試みている。 慶応三年七月には、横浜で『倫敦新聞紙』が発刊されている。居留地四十五番「英吉利西斯加亜登著」となっているが、この発行者がどのような人物であるのか、明らかでない。ロンドンで発行された新聞を訳出したもので、日付も「英国の月日」に拠っている。初号が現存し、その記事によれば、この後も月刊として発行する旨を述べているが、果して何号までつづいたものか、これまた確認することはできない。 ところで『ヘラルド』に協力したブラックは、慶応三年に社主ハンサードが死去するに及んで同社を去り、十月十二日には日刊新聞(夕刊)"The Japan Gazett〟を発刊した。『ガゼット』は、さきの『ヘラルド』や『メイル』と並んで、日本における三大外字新聞として重きをなしたが、一九二三(大正十二)年の関東大震災にあって廃刊した。 この『ガゼット』を訳出したと考えられるものが、慶応四年(一八六八)五月にされた発刊された『外国新聞』である。第倫敦新聞紙 国立国会図書館蔵 一号から第三号までの存在が確認されているが、発行者や発行所は明らかでない。第一号の巻頭には「横浜新聞抄訳」と記しているが、この横浜新聞とは、おそらく『ガゼット』をさしているのであろう。第二号および第三号には「ガゼット新聞抄訳」と明記されている。 すでに幕府は倒れ、江戸も開城となって、江戸や横浜は新政府の制圧するところとなった。江戸でも、このころにはつぎつぎに新聞が誕生しているが、多くは佐幕の立場をとって、新政府は新聞の弾圧に乗り出すとともに、六月八日には太政官布告を発して、新聞の発行を許可制とした。こうして江戸における佐幕派の新聞は、ことごとく姿を消したのである。 そのような時期に、横浜の居留地で発刊されたのが『横浜新報もしほ草』であった。アメリカ人ヴァン・リードの発行によるものであり、発行者はリードの居所である居留地九十三番であった。慶応四年閏四月十一日(六月十一日)に第一帙が発刊され、この年の間は月に三回ないし六回の発行をつづけた。 江戸の諸新聞が発行を禁止されたなかにあって、『もしほ草』は外国人の経営であったために、続刊することができたわけである。主として編集に当ったのは、さきに『海外新聞』においてヒコに協力した岸田吟香であった。その発刊に当っては、次のように述べている。 ……此度の新聞紙ハ日本国内の時〻のとりさたハ勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海香港より来る新報ハ即日に翻訳して出すべし、且月の内に十度の余も出版すべし、それゆゑ諸色の相場をはじめ世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせる「外国新聞」第1号 国立国会図書館蔵 事なし、また確実なる説を採りとめて決して浮説をのせず…そして記事の内容は、国内ニュースをひろく求めて掲載し、読者の期待にこたえた。たとえば第二編において、浪華新聞、諸州雑報、外国新聞、横浜近事などの項目を立てているところを見ても、編集の意欲がうかがわれるであろう。旧幕府側の動きも、くわしく扱った。さらに刊行者の意見を開陳する場合もあった。 ……凡そ国に内乱ある時ハ、雙方共種〻の浮説あることなれバ、其報告の信偽弁ずること、兎てもならぬ筈のことなりといへども、余が主意ハ確説実事ならではのせざるつもりなり、………一政府を立て外国人とます〱親睦を厚くせずんバ、日本ハ将に大なる不幸に及ばんとす、衆人宜しく早くこれを悟らバ、大にしてハ万国の人民と相和し、小にしては国内強国の民人と相和せんこと、是余の素より希望する所なり(第十六篇)こうして『もしほ草』は好調のうちに明治二年をむかえたが、この年には発行の回数も半月に一回、ないしは三か月に一回となる。そして明治三年には一月と三月に発行したのみで、廃刊となった。この年、横浜では最初の日刊新聞が発行される。 「横浜新報もしほ草」第1号 国立国会図書館蔵 三 キリスト教の伝来 布教の基礎日本におけるキリスト教布教の基礎は、日米修好通商条約の第八条によってきづかれた。この条約は、安政五年戊午六月十九日(一八五八年七月二十九日)に、江戸において調印され、万延元年庚申四月三日(一八六〇年五月二十二日)ワシントンにおいて批准交換された。その第八条とは、次のとおりである。 日本に在る亜米利加人 自ら其国の宗法を念し 礼拝堂を居留場の内に置も 障りなし 並に其建物を破壊し 亜米利加人宗法を自ら念するを妨る事なし 亜米利加人 日本人の堂宮を毀傷する事なく 又決して日本神仏の礼拝を妨け 神体仏像を毀る事あるへからす 双方の人民互に宗旨に付ての争論あるへからす 日本長崎役所に於て 踏絵の仕来は既に廃せり この条項は、ハリスの日記によれば、それがいれられるという希望を、ほとんどもたずに揷入しておいたものであって、彼は、それが承認されたときに、驚き、そして喜んだのであった。ついで、同年旧暦七月十日にオランダ、同月十一日にロシア、同十八日にイギリス、同年九月三日にフランスと、それぞれ同様の条約が調印された。 この第八条の条文は、在日アメリカ人の信仰の自由を認めたものであって、いまだ日本人に対する伝道は許されていなかったし、礼拝堂の設立も居留地内に限られているものであった。しかし、この条文によって、いまかいまかと待機していた欧米人宣教師が、日本に来て、居留地という限定された地域内ではあるが、そこで公然と礼拝をおこなうようになった。この第八条は、翌安政六年六月五日(一八五九年七月四日)、幕府が開港にさいして、神奈川居留地を定めることによって実施されることになった。 日米通商条約の締結に努力したアメリカ総領事ハリスは、熱心な聖公会の信徒であった。彼にとっては異教である日本に来ても、主日を厳守し、みずから祈禱書によって礼拝を守るのを習慣としていた。それ故に、彼は、この条文中に、外国人が居留地に会堂を建設し、キリスト教礼拝をおこなえる条項をいれることを強く要求し、それが実現されたのである。調印を終えたハリスは、八月一日の日曜日、下田港に碇泊していた米艦ポウハッタン号とミシシッピー号両艦の士官水兵を玉泉寺の自宅に招いて、厳かに礼拝を捧げた。こうして、仏像がとり除かれた寺院において、日本における最初のプロテスタント礼拝がおこなわれた。このとき礼拝に出席したアメリカ海軍将校の一人が故国に書き送った文書は、一八五九年二月の『ザ=ニューヨークジャーナル=オブ=コンマース』および同年三月の『スピリット=オブ=ミッションズ』誌上に公表されている。 プロテスタント伝道この通商条約締結よりさき、前年の一八五七年十月三日、凾館にいた合衆国軍艦ポーツマス号に乗組んでいたある士官が、中国の上海にいる宣教師にあてて、日本に宣教師を派遣するようにという手紙を送っている。そのなかで次のようなことを記している。宣教師が日本に来て、何の手段を講ずることもなく、むやみに事業に突進することは大害を招き、その事業を水泡に帰するだけではなく、総領事の政策の妨げともなるであろう。宣教師は、日本において、英語研究を切望する人々を発見するでしようし、学校も、すみやかに開設することができるでしようから、真の福音に関しては、これを伝えるのに、蛇のようにかしこくなければいけない。 この手紙は、上海のウィリアム・J・ブーン主教によって、機関紙に発表され、米国の聖公会内部に、日本に対する関心と伝道の熱意とを、よび起したものであり、重要な意味をもっていたといえる。このほかに、中国在留の宣教師で、一八五八(安政五)年に長崎に来たことのあるE・W・サイルとS・W・ウィリアムズの伝道協会への呼びかけもあった。ウィリアムズリギンスは、サイルが結んでおいた長崎奉行との約束にもとづき、八名の通詞に英語を教えることになり、崇福寺内に一屋を無料で提供された。リギンスは、英語教授とならんで、在中国宣教師による漢文の西洋史・地理および科学の書物を頒布して、西洋および科学に関する知識を与えるともに、キリスト教的精神を普及し、邪崇門という誤解を、とり除くよう努力した(『立教学院百年史』による)。 カトリック伝道フランスに対する開港は、安政六年七月十七日(一八五九年八月十六日)であった。そして、フランス人宣教師フューレが長崎に来たのが、文久三年十二月十四日、(一八六三年一月二十二日)である。ローマ法王庁が日本宣教をフランスのパリー外国宣教会に委託したのは、弘化三年(一八六四)のことである。そして、すでに琉球の那覇に来ていたフォルカード神父を日本教区長に任命した。このパリー外国宣教会は、東洋の拠点をマカオにおいていたが、のち、香港にすすめていた。フオルカード師は、琉球で言語風俗に慣れながら、日本布教の準備をしていたのである。しかし、健康を害してフランスに帰ったので、そのあとに琉球に派遣されたのが、ジラール、フューレ、ムニクヴ、メルメの四神父であった。こうしていろうちに、安政五年、開港条約がフランスとの間に締結され、凾館に領事館が開設された。翌六年、主任司祭メルメ師が凾館に到着したが滞在四年のうちに、幕臣栗本鋤雲らの名士と親交を結び、語学の交換教授もあり、英仏和辞典やアイヌ語字典を編み、博学の人として知られた。凾館奉行竹内下野守も、メルメ師を厚く待遇した。しかし攘夷論がたかまってくると、奉行の態度も変り、メルメ師は失意のうちにフランスへ帰った。その後、凾館に再度宣教師が来るのは、四年後の慶応三年(一八六七)のことである。 この間、ジラール神父は、日本教区長に任命され、安政六年(一八五九)フランス総領事館付司祭兼通訳として江戸に着任した。同神父の計画のもとに、横浜居留地八十番地(現在山下町八十番地)に、文久二年十二月十八日(一八六二年一月十二日)は次のようなことを記している。 伝道のもっとも有望な開始方法は、長崎または江戸に一宣教師が居住して、日本語を学ぶためにできる限りの便宜を与えられるという諒解のもとに、日本の青年に英語を教えることである。もし、伝道が、思慮のある忍耐のある人物によって開始されるならば、それは、英語の会話・作文を教授することを第一目的とするのがよい。そして、その宣教師の伴侶として一医師が加えられ、一般の日本人を無料で診察しながら、特定の人に薬学と外科手術とを教えること。この宣教師と医師と両人とも、霊魂を深く愛して人をキリスト教に導くことに熱心ならば、かならず成功するだろう。 また、ウィリアムズは、米国の諸伝道協会のいずれかが、明年の条約実施期をまって、ただちに実施に着手することを希望し、日本に宜教するために選ばれる人々は、忍耐・温和・倦むことのない親切と学問的傾向のある人でなければならないといっている。 こうして、サイルとウィリアムズらは、米国の聖公会・長老教会・改革教会の伝道局にあてて、日本に宣教師を派遣するように訴えた手紙を送ったのである。 ここに、米国の三伝道協会は、いよいよ、日本伝道に着手すべき時機が到来したという確信をもち、この勧告に従って、翌年に、もつとも敬虔で忍耐心のある福音の使者を日本に派遣した。 米国聖公会の伝道局は、日本における第一の伝道本拠地を長崎と定め、すでに中国在住宣教師がおこなっている宣教方法を採用することとし、中国伝道に属していたジョン・リギンズとC・M・ウィリアムズの両人を、日本宣教師に任命した。こうして、リギンズは、安政六年、西暦一八五九年五月二日に、ウィリアムズは、同じ年の七月二十九日に、長崎に到着した。さらにH・E・シュミット宣教医が一年余遅れて長崎に来て、施療事業を開始した。 開国後最初のカトリック教会堂の献堂式がおこなわれたが、このことは、のちに記すことにしたい。 長崎の大浦に、潜伏キリシタン発見の願いをこめて、天主堂が建立されたのは、翌慶応元年(一八六五)の初めである。献堂式は、西暦二月十九日におこなわれ、日本二十六聖人殉教者聖堂と命名された。この天主堂の建立を機会に、西暦三月十七日、潜伏キリシタンが天主堂に現われたのである。いわゆる「キリシタンの発見」である。 横浜における天主堂の建立が、旧キリシタンの発見とは関係なかったのに対して、長崎における場合は、最初から潜伏キリシタン発見の願いがこめられていたのであり、そこに浦上四番くずれの原因がひそんでいた。 ハリストス正教会幕府が、ロシアの使節プチャーチンとの修好通商条約に調印したのが、安政五年七月十一日(一八五八年八月十九日)で、神奈川・長崎・凾館の三港を開いたのは、翌六年六月二日(一八五九年七月一日)であった。 そして、ロシア領事兼外交代表ゴシケウィチが着任し凾館に駐在したのは、同六年八月のことであった。つけ加えておけば、英国総領事兼外交代表オールコックが高輪東禅寺に入ったのが、同六年六月のこと、米国公使ハリスが仮公使館麻布善福寺に入ったのが、同六年六月八日、フランス総領事兼外交代表ド・ベルクールが総領事館麻布済海寺に入ったのが、同六年八月のことである。外交代表を箱館においたのは、ロシアだけであった。このロシア領事館には聖堂が付属していて、イオアン・マアホフという司祭が領事館付司祭として派遣されていた。このマアホフは、一年たらずのうちに、病気で帰国したが、その短い滞在のうちに、「ロシア=フーズブカ」(ロシア語いろはの意味)という露日用語字典を著わしている。この司祭の後任として来たのが、ニコライ師で、文久元年四月二十四日(一八六一年六月二日)に凾館に到着した。 当時、凾館には、蝦夷警備のために、津軽、南部両藩の兵が駐留したほか、この北海の要地に注目した志士たち、主として東北出身の有為の人材が集まってきた。浪人、医師、商人、神官、僧侶など、あらゆる階層の人々がおり、長崎と同様に活況を呈していた。 ニコライ師は、キリシタン禁教下にあって伝道ができない時期にあって、日本語の研究からはじめた。日本史研究、儒教、神道、仏教など東洋の宗教や学問を研究し、日本美術までも学んだ。ニコライ師の日本語および東洋文化研究は、大体七年かかった。日本語を大体マスターした次の段階で、彼は、教会関係の教書や、奉神礼書(正教会の祈禱に使用する経文書)のあるものを翻訳しはじめている。 明治元年、まだ信者が一人もいないときに、布教の方針を建て、「伝道規則」を制定し、これを日本文に改めた。日本における正教会最初の洗礼は、明治元年(一八六八年四月)におこなわれた。受洗者は、沢辺琢磨・酒井篤礼・浦野大蔵の三名であった。 ニコライ師は、明治二年のはじめに一時帰国し、同四年(一八七一年二月)凾館に帰着したが、掌院という職に昇り、日本における伝道会社の首長に任ぜられていた。伝道が最初に成功したのは仙台地方であるが、ニコライ師は、ロシアから修道司祭アナトリイ師が凾館に到着すると、凾館の伝道をアナトリイ師に任せて、横浜に向った。明治五年一月のことであった。このころ横浜では、すでにプロテスタント各派の宣教師は、英語教授や医療活動に従事しており、カトリックの天主堂は建立されていた。 しかし、ニコライ師の目ざす所は、東京であった。明治五年九月、今の復活大聖堂(ニコライ堂)の建っている場所に移り、ここを正教伝道と本拠とした。同月二十四日、東京における最初の洗礼がおこなわれた。受洗者は数十名という。 ニコライ師上京以来、日本政府首脳との交際は緊密で、太政大臣三条実美や外務卿副島種臣などはニコライ師を訪問した。明治五年、ロシアの皇族アレクサンドル公が来日したとき、副島外務卿の依頼により、明治天皇との間に通訳を務めるほどに信頼を得ていた。 こうして、東京の布教活動は活況を呈し、東海地方からさらに京阪地方にまで布教をはじめるにいたった。一八七四(明治七)年五月、はじめて布教会議を東京に開いた。これが日本正教会第一回公会である。 第二章 神奈川県の再編と諸改革 第一節 新県の開設 一 廃藩置県と新神奈川県 廃藩置県と諸県統合版籍奉還によって府藩県三治体制は、一段と中央集権化し、中央地方の官制も「職員令」によって一新をみた。ところが新設六省中、内政担当の民部大蔵両省が行政の便宜上から合併され、中堅の人材が同省に集中したために、その勢力が太政官を圧するというような不均衡を生じて、翌明治三年(一八七〇)には、これが政府の基礎をゆさぶるような政治問題となり、七月十日の両省分離で一応おさまった。 一方、諸藩の情況も、前述した小田原藩の動揺があり、また各藩ともに大なり小なり藩財政の逼迫などで藩政も行き詰まって、吉井(上野国)・狭山(河内国)両藩を始めとして自ら廃藩を申し出るものが明治二年末以来相ついだ。こうして全国統一の集権体制への道が開かれて、明治四年(一八七一)七月十四日廃藩置県の断行となった。この廃藩によって明治初年以来の神奈川県と小田原・荻野山中・六浦三藩の体制も一大変革をみるに至った。しかし政府当局としては、まだ全国の府県体制をどのようにするかについて、具体的な対策が確定していなかったので、とりあえず、既存の大小藩をそのままひとまず、ことごとく県の名に改めて東京・京都・大坂の三府三百二県とした。また応急措置として各藩の旧大参事以下を仮に県務に当たらせた。 しかし、この三府三百二県は、たんなる機械的措置であったから、政府としては、これを整理し統廃合を行って、地方政治の体制を新くし編制しなおすことが焦眉の急となった。当時、内政一般をも担当していた大蔵省に新県掛を設けてその事務に当たらしめた。 神奈川県・小田原藩地方において七月の時点では、これまでの藩名と藩域がそのまま県へ移行されたために、神奈川、小田原、山中、六浦の四県となったが、この諸県の管内には、品川、烏山、生実、西大平、佐倉などの諸県(旧他藩)の飛地がかなり混在していた。廃藩による新しい府県体制は、そのような旧幕政下の錯雑した支配関係の存続は許されないので、そのため、すみやかに整理、統合をしなければならなかった。この年九月に、大住・足柄上・足柄下・淘綾四郡内の大槻村ほか三十九か村が神奈川県から小田原県へ、津久井・大住・愛甲三郡から長竹村ほか三十四か村が、小田原県から神奈川県へと管轄替えがおこなわれた。諸県の廃止は着々と行われ、十一月十四日、関東七か国の新置改県の断行となった。 新神奈川県の成立十一月十四日、太政布告五九四号を以て、「今般関八州、群馬県ヲ除クノ外、並ニ伊豆国、従来ノ府県被廃、更ニ左ノ通リ府県被置候事」と通達されて、神奈川県と足柄県が新設された。神奈川県は相模国の三浦郡・鎌倉郡・武蔵国の橘樹郡・久良岐郡・都筑郡と多摩三郡を管轄区域と定められた。これは、旧神奈川県と六浦藩とを統合したものであった。同時に旧小田原藩を中心とした足柄県の新第1表 府県設置統廃合表 大島太郎『日本地方行財政史序説』による 設があって、現在の神奈川県域が東部と西部とに分かれて二つの県となったのである。廃藩後の全国の府県廃合は大蔵省が当たったが、どのような経緯でなされたのかは関係資料の散逸で今日ではよくわからないものが多いが、神奈川県の場合、まず考えられることは、開港場横浜を重要視し、ここを中心に県をおいたことは当然で、それに隣接の小藩六浦を併せた。旧小田原藩は関東西端の大藩だけに、神奈川県とは別個に扱ってそれが足柄県となったわけで、当時としてはこのような新県の配置は当然であり、またこの地帯の地域性からも妥当な措置であったといえよう。こうして、明治四年十一月二十二日、全国を三府七十三県として第一次の諸県整理を終わった。 全国府県の統廃合が終わると、同月二十七日、「県治条例」を公布し、ついで、翌十二月十日、太政官達で前述した「府県列順」を定めた。 以上のようにして新県の県域が決定したが、その間に、十一月、東京府と入間県の管轄の多摩三郡ははじめは足柄県の管轄となっていた。高座郡を、急きょ、神奈川県へ編入した。これは開港場横浜居留地の外国人遊歩区域を考慮したからであった。「当県ノ儀ハ外県々ト違ヒ十里部内外国人遊歩ノ地ニテ開港場県庁ニ於テ管轄不仕候テハ彼我取締不都合ノ儀モ有之」という理由からであった。つまり東京府の管轄では平素外国人の取り扱い方も不馴れだから、万一、「皇国ノ御政体ニモ関リ、不容易儀出来申間敷モ難計」という配慮からであった(資料編11近代・現代⑴一)。新神奈川県の県域の決定にはこのような対外国人関係が深く考慮されているのが特徴であった。さらに、明治五年八月、武蔵国多摩郡中野村外三十一か村の神奈川県から東京府への移管も、東京府の「取締ハ勿論下民ノ苦情モ不少」こともあって実施に移されていった(資料編11近代・現代⑴一)。 このようにして廃藩置県直後の県域の統合は、ひとまず終わりをつげた。このころの神奈川県は人口約十万六千余人、戸数約四万九千余戸、石高は約三十三万石であった。 県政の発足第二表の「明治初期神奈川県地方長官一覧」からもうかがえるように、神奈川県の長官として任命された人物は幕末の尊王攘夷運動にかかわった経歴を持ち、明治維新政府部内では中堅的人物とみなされていた人物が多い。開港場の横浜をかかえ、首都東京府に隣接している神奈川県は、地方官の任命ひとつとっても、東京・京都・大坂の三府についで、国政上枢要な位置を占めていたといえよう。初代の県令には明治元年の横浜裁判所判事、ついで最初の旧神奈川県知事となった陸奥宗光が留任の形で就任した。陸奥は在任中の明治五年(一八七二)五月、政府部内でおこなわれていた地租改正をめぐる論議にひとまず終止符をあたえた「田租改正建議」を提出して採用され、そこで七月には県令から租税頭に抜摺されたので前参事の土佐藩士大江卓が権令となり、一八七四年一月、やはり土佐藩士中島信行が権令となり、七六年三月、外務権大丞の長州藩士野村靖が権令となった。野村は八一年十一月まで在任している。 廃藩後、新県の設置を前にして旧神奈川県の事務の整理を行って第2表 明治初期神奈川県地方長官一覧 『日本近現代史辞典』・『三森達夫氏作成神奈川県地方官履歴カード』による いる。まず八月には、居留地警備を目的とした県兵を廃止した。つぎに十月には、安政開港以来の関税事務を大蔵省へ移管した。これは関税が国税である以上当然の措置であるが、神奈川奉行を継承した神奈川県としては重大事で、開県以来の特異性を解消して、他府県なみの地方庁となったことを示している(『大蔵省沿革志』租税寮、『神奈川県史料』第一巻)こうした整理の後に新県設置となったのである。ついで、「県治条例」の制定となったが、この「県治条例」は中央集権のために全国の地方政治体制の統一をめざしたもので、「県治職制」・「県治事務章程」・「県治官員並常備金規則」の三部からなっており、長官は知事(後県令)、権知事(権令)の二階級があり、その下に参事以下をおいた。神奈川県はもちろん知事である。知事の職務権限はつぎのごとくである。間もなく知事は県令、権知事は権令となった。 「県内ノ人民ヲ教督保護シ条例布告ヲ遵奉施行シ租税ヲ収メ賦役ヲ督シ賞刑ヲ判シ非常ノ事アレバ鎮台分営へ禀議シ便宜処分スルヲ掌ル管内ノ事務不挙アレバ上下ニ対シ其責ニ任ス」(県治条例) 県庁部局は庶務課・聴訟課・租税課・出納課の四課制で、知事の職務は、県内行政全般から司法・軍事関係に及ぶ広汎なものであった。この「県治条例」にもとづいて、新県は職制を定め、県庁を内庁と外庁とに分け、内庁には庶務課・聴訟課・租税課・出納課の四課を、外庁には庶務課・文書課・出納課・条約未済国事務取扱・羅卒の五課をおいて、県政が発足することになった。一八七三(明治六)年七月に内庁・外庁の区別を廃し、九月には「神奈川県職制事務章程」を施行し、録事課・外務課・租税課・地券課・警保課・出納課・庶務課・学務課・営繕課・訳文課・監察課の各課を設け、一八七五(明治八)年に陸奥県令時代の官員録 神奈川県立文化資料館蔵 は勧業課をおくなど県制度は、その後しばしば改変されていった(『神奈川県史料』第一巻)。 神奈川県裁判所の創設明治五年の九月、新たに、司法裁判所を新設した。これは、このとき制定された「司法職務定制」によるもので、その第五十六条による府県裁判所である。これは各府県に設けられたもので本県の場合は神奈川県裁判所と称した。これは、「県治条例」による聴訟断獄の司法行政を分離独立させて司法省の所轄としたものである。そういう意味で、これまでの府県行政にとっては画期的な改正であって、地方におけ第3表 明治初期神奈川県庁機構表 『神奈川県史編集室作成 神奈川県庁機構変遷表』による る行政権と司法権の混同がこれで一洗され、また司法の側からすれば地方司法権の独立を意味した。八月中には、関東十一県全部にわたってその設置をみた。これを機に、これまで県庁を裁判所と呼んでいた不合理が一掃されてすべて県庁と称するようになった。裁判所は、聴訟・断獄と庶務・出納の四課構成であった。 県政の創設期ということもあって、朝令暮改的な制度の改変は、なにも神奈川県にかぎられたものではないが、一八七三(明治六)年八月、権令大江卓が、「神奈川県職制事務章程」を制定するにあたって、県官に、服務心得・事務処理の方法・記録を編さんすることなどを「告神奈川県各官書」で訓示している。訓示のなかで、大江は、神奈川県はとくに「内外人民輻湊」の地であるため事務量も多いが、県庁の事務は、「管下ノ人民ヲ保護シ専制束縛シテ其自由ノ権ヲ妨害スルコトナク以テ国家ノ公益ヲ計ル」ことに主眼があるとのべ、「一事ヲ興シ一令ヲ下スモ常ニ此意ニ基」いておこない、「民心ノ方向ヲ失セシム」ような事態の発生を見ないようにし、「県内ヲシテ静謐ニ帰セシメンコトヲ」県官に強く要請していた(資料編11近代・現代⑴二)。 県制の安定化をめざして県当局がとった手だては、こうした県官の官紀(官吏の規律)対策のみではない。県治条例・事務章程にもとづいて、県当局が遂行する職務の主要なものは、租税の賦課・徴収・水利土木の管理・負担であり、教育をふくむ国民教化と徴兵事務負担等であった。これらは国家的な主要職務でもある。このような広い範囲にわたる職務を負担し遂行するには、どうしても能率的な事務遂行が要請される。県治条例で「事務不挙アレバ其責ニ任ス」とされていたこともあって、職務遂行のあり方も威圧的にならざるをえなかった。そのため、県当局ひいては中央の政府に対する住民の不信を生みかねなかった。大江の訓示は、地租改正以下の三大改革の実施にともなう負担増にあえぐ住民が、これらの政策に同調しかねないような事態を少しでも事前にとり除こうとしたのであろう。県が、政府の政策の地方における忠実な執行機関として位置づけられていたことは、住民の県政に対する不信を生み出すという状況をはらむ危険性があった。 それだけに一八七四(明治七)年七月、神奈川県令中島信行は、「県治民情相背馳」することを防ぐために、「管内各区ニ議会ヲ開キ毎町村ノ代議人ヲ公選シ民政民事」の件を議定させることを区戸長に命じていくのである(資料編11近代・現代⑴三)。 この諭告は、住民しや断で県制を運用することが、政府(県)と住民との距離を広め、「上ノ下ヲ待チ下ノ上ニ対スル事皆乖戻シ政府ハ煩労ニ堪ヘスシテ人民ハ紛擾ニ苦ミ事務凝滞シテ国家ノ衰弊殆ト将ニ是ヨリ起ラントス」る事態を招くので、「政府人民ノ間一致親睦其便益ヲ謀ル」方法は、「只広ク会議ヲ起シ輿論公議ヲ取ルノ外決シテ他に在ルヘカラス」という考え方でつらぬかれている。これが、県下の大・小区会の設置となっていったのである。 二 足柄県の設置と廃止 足柄県の設置廃藩置県によって、全国諸藩とともに小田原藩は七月にはひとまずそのまま小田原県となった。ただ知藩事の大久保忠良はその職を免ぜられて東京移居を命ぜられた。こうして廃藩が完了したが、県政は新県令の赴任まで旧大参事大久保忠重以下が一時預かつた。ついで神奈川県と同じ布告によって、十一月十四日、支藩の荻野山中藩を併せて足柄県となり、相模国足柄上・足柄下・高座・大住・愛甲・淘綾・津久井の七郡と韮山県管内の伊豆国一円を管轄することとなった。つまり両大久保藩と幕府代官支配地を併せたものである。足柄県の名は小田原藩の中心をなす足柄郡からきていることはいうまでもない。県庁は旧小田原城内の二の丸に設けられた。伊豆国が小田原本庁と地勢が隔絶しているので、旧韮山県庁(旧代官所)に出張所を設けた。足柄県は人口約六万八千余人、戸数約三万四千戸弱で、石高は約二十六万石であった。長官には江川代官の配下で旧韮山県大参事を勤めた柏木忠俊が起用されて参事となり、翌五年七月、権令に昇進した。忠俊は江川家の重臣柏木忠栄の三男で文政七年駿河国富士川の陣屋で生れた。江川英龍に仕えてその信任を得、英敏・英武を助けた人物であり(戸羽山瀚『江川坦庵先生伝』)在地の有力者である。この起用には、つぎのような事情があったためといわれる。柏木は、維新のさいに江川英武を擁して討幕派へ参加し、維新後は韮山県判事、大参事をつとめあげたという維新における実績と経歴が、まず考えられる。さらに、相模と伊豆の地勢も風土も異なるこの県を維持していく困難な実情、あるいは、旧小田原藩内の幕末維新における藩論の不統一のような事情などをみきわめたうえで、地域の事情や民情にくわしい柏木を任命することによって、統治政策を円滑に推し進めうると考えたからであろう。同権参事には元伊万里県少参事杉木芳燕が就任した。なお韮山出張所は十等出仕斉藤忠貞以下十余名が担当した。 神奈川県と同じく、「県治条例」の規定によって県庁機構を改め、庶務課職制及び事務章程を定めた。庶務課は勧業・警察・戸籍・社寺・学校・駅逓・囚獄・記録編輯文案往復等の事務に当たることとした。十二月十四日、このことを管内の各郡に通達している。翌五年七月、足柄県裁判所が新設された。これは前記神奈川県裁判所の新設と全く同じ事情によるので県の聴訟課がこれに移管された。なおこの足柄県裁判所には、旧幕府の江戸八丁堀の筆頭与力の佐久間長敬が所長として赴任した(『神奈川県史料』第九巻付録部二、藤田弘道「府県裁判所設置の一齣―足柄裁判所の場合」『法学研究』四六の五)。 明治5年柏木忠俊に対する辞令 柏木俊孝氏蔵 韮山県の廃止足柄県の一部に編入された伊豆国は、それ以前は韮山の江川代官支配地の一部で、足柄県編入までは韮山県に属していた。この韮山県は元江川代官の支配地のうち駿河国内を除く、伊豆国一円と武蔵国各郡にまたがったもので、飛び地が多く支配関係も複雑であった。支配関係から、足柄・神奈川の両県、それに東京府とも交錯関係があった。明治元年六月二十九日の設置であるが、これは江川代官に旧支配地をそのまま管轄せしめるという形で行われたもので、江戸鎮台府から代官当主江川英武にこれを通達した(『復古記』元年六月二十九日条)。このような設置事情であったから、当初の支配関係は旧態のままであった。十月中、知県事・判県事等の職制が定められ、江川英武が知県事となった(内務省『地方沿革略譜』は江川が知事事務を摂行したとあり、正式の知事就任は二年六月十日としている)。その後、職制の改定があったが、翌二年七月、「職員令」の制定によって職制を更新し、江川が改めて権知事となり、配下の柏木忠俊が大参事となった(「県治紀事本末十六、伊豆国『明治初期静岡県史料』第一巻之部職制)。韮山県の管轄区域は、伊豆国以外は旧代官領の飛び地があってきわめて複雑である。『旧高旧領取調帳関東編』(木村礎校訂本)によってその概略を摘出すると、武蔵国では多摩郡に上下恩多村以下六十五か村余、同比企郡に高坂村以下八十二か村余、同高麗郡には柏原村以下八十三か村余、入間郡に砂久保村以下百十余か村である(以上計算には諸県の分割を含め、また新田などもいれた概算)。この武蔵国各郡の韮山県所管には江川代官領以外に一橋家領・社寺領・他の代官・旗本領なども数多くあり、いわゆる犬牙錯綜の関係にあって、その所管の実態を正確に把握することはきわめて困難である。 韮山県は江川代官の支配地をとりあえず県としたもので、江川家にいわばその管理を命じたのであったから、明治四年の廃藩置県を機会に廃止して足柄県と静柏木忠俊 柏木俊孝氏蔵 岡県に分けて併合し、また武蔵国の飛地は神奈川県、埼玉県に編入した。 足柄県の廃止明治四年の廃藩置県に当たって一応、三府七十二県に統合を行ったが、これは荒整理で、政府はその後も年々これを継続して、明治九年に大廃合を行って三十五県とした。この大整理の際に足柄県は廃止となった。四月十八日、太政大臣三条実美の名で、足柄県に対して、「其県被廃伊豆国ヲ静岡県江相模国ノ分ハ神奈川県へ被併候条土地人民夫々可引渡候旨相達候事」という達が出されて、足柄県が廃止されることとなった。この結果足柄県域は神奈川・静岡の両県に分属することとなり、今日の神奈川県域の原型ができあがった。これは横浜を中心とする東京府の衛星県となるべき大県の創設で、東京周辺の経済圏の拡張と深くかかわりあっていたと思われる。それにしても足柄県の廃止が置県後四年以上も経過し、しかも民会を主要な手だとして県制の整備と安定化をはかり、統治効果をあげようとしている時期に決定された。それだけに、県民にとってはもちろん、足柄県政を担っていた人々にとっても寝耳に水のような廃県の決定であったようである(資料編11近代・現代⑴七)。 この決定をうけて、五月一日に、足柄県管轄の相模国の「土地人民」が神奈川県に引き渡され、地域統治の末端区画も旧足柄県下の第一大区から第三大区を、二十一大区、二十二大区、二十三大区、と改称し(小区はそのまま)、神奈川県の大区小区の制に組みいれて、足柄県の廃止手続きが完了し、神奈川は、二十大区百八十二小区から二十三大区二百八小区に再編される(資料編11近代・現代⑴六)。 足柄県の廃止は、横浜港を中心として経済圏の拡大とかかわりあっていたであろうが、それと同時に、これから漸次すすめられた全国にわたる各県、郡の廃合は、廃藩断行直後(明治四年(一八七一)年八月)の「地方行政区画ニ関スル左院ノ意見」(『太政類典』二編95)に見られるような、旧来の統治・経済事情や人情風俗等を、全く考慮にいれない政府の地方行政区画の画一化構想の具体化であった。第一表からも、いかに徹底して新たな規模をもつ行政区画の設定がおこなわれたかうかがうことができよう。だからこそ、大小区会議を軸にした足柄県政の展開がようやく軌道に乗り始めようとしている最中に、足柄県の廃止と神奈川県への分属が断行されたのである。それだけに、伊豆と相模の二州の一体化に苦慮しながらも風俗を矯正し、文明開化路線も推進し、それとの関連で教育の普及に力をいれていた柏木県政の下にいた足柄県民にとっては、この廃県は大きな衝撃であった。これは、柏木が廃県にともない小田原を去るにあたって、小田原の住民が書いた数多い「惜別」の文章からもその一端をうかがうことができる(資料編11近代・現代⑴八)。 足柄県再興の動き足柄県の廃止は、旧藩を基盤とした統治圏を打破もしくは無視して地方行政区画の設定をはかる維新政府の意図から引き起こされたのである。明治四年(一八七一)七月の廃藩置県の時点では、全国で三府三百二県存在していたが、足柄県が廃止された一八七六年には、三府三十五県にまで府県の数が減少している。 大規模な府県の統廃合が短い期間でおこなわれただけに、その地域事情を無視した急進性は、「郡区町村編制法」・「府県会規則」・「地方税規則」からなる地方三新法で地方統治の法体系を整備していく明治十年代にいたって表面化してくる。各地の分県運動は、府県会を中心舞台とした自由民権運動を背景に、水利・土木など地域的な利害をめぐる論議のなかから、あらためて「自治」を要求するという意味あいをこめて噴出してくるのである。 一八八六(明治十九)年三月、小田原の吉田義方・二見初右衛門・今井徳左衛門・寺西兵吉・益田勘左衛門・杉本近義を総代とする相模国足柄上・下・大住・淘綾・愛甲五郡二駅八十六か村の有志三百七十三名が、「足柄県再興建白書」を元老院議長大木喬任に提出している。この事実は、たんに十年前の足柄県廃止をもとにもどし、県の再興をはかるという意味あいだけではなく、すでに述べたように、明治十年代全国各地にうずまいていた「分県願」と同一の性格をはらんでいたとみてよい。 一八八六年といえば、自由民権運動が退潮している時期である。しかも、松方デフレ政策による警察費・土木費の地方税への全面的な移管と、地租割を制限して戸別割の負担を増大したことから、民衆の負担は増加し、生活は深刻な情況にあった。 こうした社会事情のもとで、「足柄県再興建白書」が提出されたのである。 この建白書の趣旨は、「足柄県ヲ廃シテ伊豆ヲ静岡県ニ併スヤ之ヲ其施行以後ノ景状ニ徴スルニ地勢民情一モ其可ヲ見ス賦課重クシテ其利薄ク国力漸ク衰耗ニ趨クノ勢アリ」(資料編11近代・現代⑴九)と、まず伊豆の国の現況を述べ、したがって「豆国ノ人民頃日頻リニ静岡県ヨリ分離セント欲シテ其念尤モ急既ニ政府ニ向テ神奈川へ転管ノ事ヲ建白」したことは、伊豆の国の人びとにとってはやむをえないことであるから、「観察シテ之ニ処スル方法」は「害ナクシテ利便」多い解決策である足柄県を再興することである。他方、神奈川県の場合、「其県治ノ眼目ハ盍シ横浜ニ在テ最緊要ノ時務悉ク之ニ係ル故ニ」相州七郡を割いても、「其体面ヲ傷クルニ至ラサル」ことは明らかだし、旧足柄県域の地域は、「将来外交日ニ益盛ナレハ事務従テ区部ニ繁ヲ加へ勢自ラ郡部ニ疎ナルナキヲ保チ難カラン」と述べ、この点は「未必ノ勢」であるから断言できないにしても、「別ニ已ムヘカラサル事由アツテ郡部」を神奈川県から引き離しても「県治ニ於ケル寧ロ利アルモ何ソ其レ害アランヤ」と、旧足柄県域の神奈川県からの分離が、神奈川県政上、何ら支障をきたさないことを強調している。しかも「豆国ノ景状ヨリ」みても、足柄県の再興をはかることが、「豆相目下ノ急務」であると述べている。 足柄県再興建白書 小田原市立図書館蔵 足柄県再興の動きは、建白書で述べられているように、伊豆国の荒廃と、静岡県から神奈川県への移管運動と結びつきながら進められた。 実際、この建白書の提出される三年前の一八八三(明治十六)年十一月二十九日には、「吉田義方寺西兵吉其他有志足柄県再興を発起し出願を豆州の有志に交す」(『明治小田原町誌』上)という事実も記録されている。伊豆国の荒廃に名をかりた足柄県再興運動は、維新以後横浜を中心として急激な「近代化」の途上にある神奈川県東部に対する小田原を中心とする地域の命運をかけた方策であった(内田哲夫「足柄県再興建白書」『倫社政経研究』第四号)。 第二節 地租改正 一 地租改正実施への動き 租税改革の動き廃藩置県によって、これまでの領主権は維新政府のもとに集中されることとなり、従来の諸藩の貢租収入も政府の手中に落ちた。しかし各藩各領ばらばらなままの物納貢租では、有効な政治支配をおこない、万国と「対峙」するにたるような強力な統一権力をつくり出していくのには、あまりにも経済的基盤が弱かった。経済的な基盤を安定させることは、維新政府の焦眉の課題であったが、国の財政をまかなうためには主要な財源を地租に頼らざるをえなかった。そのために、土地領有制を廃止して土地改革を進め、抜本的な租税制度の改革をおこなう必要にせまられていたのである。 学制改革、徴兵制とならんで、地租改正が、維新政府の三大改革の一つとみなされるのもこのためである。 租税改革については、版籍奉還前後から政府部内で論議が交わされていた。『明治初年地租改正基礎資料』(以下『基礎資料』と略す)所収の資料や解説によって簡単に述べると、まず明治二年(一八六九)、制度寮撰修神田孝平が公議所に提出した「田畑売買許可ノ議」という意見書のなかに、租税改革への芽があらわれている。神田は、そのなかで田畑売買の許可と、沽券の値段に準じて租税をおさめさせようとする案を打ちだしている。しかし、政府部内には、「王土」という名目のもとに領主的土地所有を強化しようという意見も強く、また、榎本武楊らが蝦夷島(北海道)五稜郭に陣取って、維新政府に抵抗しているなど、政府は維新の混乱状態を脱却する見通しがたたなかったためか、神田の意見は日の目を見なかった。実際、この年七月に制定された「府県奉職規則」をみても明らかなように、租税改革をおこなって政権の基礎がためをはかる力量を欠いていたのである。 しかし租税制度をいつまでもそのままにしていくわけにはいかない。明治三年(一八七〇)三月、神田は、集議判官として、あらためて「田租改革建議」をおこない、田地売買の許可、沽券の交付、地租金納を主張した。こうした経緯をたどって、翌年七月、クーデターまがいの方法で領主制を解体した廃藩置県を断行し、その直後の九月に大蔵卿大久保利通らは、ほぼ神田の建議している線で、「簡易ノ収税法」を定めるということで、地租改正へとふみ切ったといわれる。明治五年五月には、当時神奈川県令であった陸奥宗光が、「田租改正建議」を提出して、「一切ノ旧法ヲ廃除シ現在田畑ノ実価ニ従ヒ其幾分ヲ課シ年期ヲ定メ地租ニ充ントス」と主張して、地租を百分の五とする仮定案を献策している。 ところで地租改正条例の公布は、一八七三(明治六)年であるが、その前提となった一連の措置が矢つぎばやに打ちだされる。 まず、畑方の石代納を、明治三年に指示し、田方の石代納を明治五年に許可するなど、租税を金納制へ移行させる政策を打ちだし、他方、農業との関連では明治四年の一般農民の米販売許可・田畑勝手作許可・明治五年の土地永代売買禁制の二百三十年ぶりの解禁・農民間の身分制禁止と職業の自由の許可などである。これらの一連の政策を前提にして地租改正条例が公布されたのである。 神奈川・足柄両県の壬申地券の交付明治四年(一八七一)から五年にかけて、維新政府は無税の市街地から、順次郡村地へ地券を発行していった。明治五年大蔵省達第二五号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」によって地券制度が実施された。この地券の発行は、地租の収納を目的としたものではなく、それぞれの所有地の沽券を改め、地租改正への準備作業としておこなわれたのであったといえる。この年七月、大蔵省達第八三号をもって、土地の売買に関係なく全国の土地にあますところなく地券を交付することとなる。この年が、干支の壬申にあたっていることから、この地券が「壬申地券」といわれるのである。 この地券交付は、大蔵省の「農民苛酷ニ苦シ」まぬよう地租を平準化し、土地「検査ノ労ヲ省」・「簡易ノ収税法」を設けようとする方針に基づいておこなわれた(『明治前期財政経済史料集成』第七巻、以下『集成』と略す)。まず土地売買を解禁し、その売買価格をもとにして地券を交付し、その調査によって全国の総地価が明らかとなったところで、租税改革を断行しようという意図を持っていたようである。 壬申地券の交付事業が、広く開始されるのは、神奈川県・足柄県ともに、明治五年の後半からである。この年七月、神奈川県は、橘樹郡市場村(現在横浜市鶴見区)の添田知通を地券取調掛附属等外一等に登用し、足柄県では、地券取調掛を人民の選挙によって設けることとして、壬申地券の交付作業を進めていくのである。 租税改革の断行を将来におこなうことを意図していた地券交付の事業は、一般の農民にとっては、租税改革の内容がわからないだけに、「此布告前、流言ニビックリ箱ト言箱ヲ朝廷ヨリ戸長へ渡シ、此フタヲ開ケレバビックリスル箇条アリト言風説専ラ」という情況のもとで進められたようである(『八王子市史』)。将来における地租改正の実施意図のあったことは、この年十月、足柄県の地券取調御用掛に与えた「申渡し」のなかで、地券発行の趣旨は、所有権の強化、田畑耕種の自由、生産の向上等の効用があるとし、さらにつぎのように述べていることからもうかがうことができる。 「全国地券定リシ後ハ、従前ノ租法ヲ廃シ、地ノ実価ヲ以テ基本トナシ、其部分ヲ政府へ納メ、検地ノ伸縮又ハ往昔ノ肥瘠ヲ異ニシ、其他種々錯乱不公平ナルヲ斉平均一ニスルノ御改正可レ被二仰出一哉モ難レ計、此義ハ各心得迄ニ申聞候間、地券取調ト混淆不二相成一様可二心得一候」(『明治初期静岡県史料』第一巻) 将来における公平均一の地価賦税を実施することを示唆しているのである(原口清『明治前期政治史研究』上巻)。しかも、地券下付に関する調査にあたっては、たとえば、神奈川県下のある村では反別の「実地御調」に基づく増減などについては「彼是云々申ス間敷」という「村議定」を取りかわしたうえで事業が開始されていた。そこでは、地代金の決定も村内至当の方法によった場合は、異議を申し立てることはしない。その結果、税制改革が地券心得書の一部(1873年12月15日付県庁達) 神奈川県立文化資料館蔵 おこなわれたとしても、「国内一般之御規則」であるから、「是又無異変御上納可仕事」とされていた。 さらに、質地による土地移動は、質取主が地券を請けることなどを「村議定」として定めていることにも、この地券交付の特徴を読みとることができる。地券に記載する土地の面積と地代金を確定し、そのうえで、地券の租税をおさめる義務の所在を示す機能と関係して、税制改革への心構えを強調し、土地移動にかかわる所有権の帰属をはっきりとさせたのである(『八王子市史』)。 このようにして、壬申地券の下付に関する調査が進められ、足柄県の場合、一八七三(明治六)年六月には調査を終了し、地券発行に着手したが、この年九月、権令柏木忠俊が租税権頭松方正義にあてた「地租改正事業着手準備進行状況に関する回答書」によると、地券発行の現状は、足柄県管下のほぼ半分は終了し、年内にはすべて終了させる見込みであると報告している。実際、十一月には、全体の十分の九まで終了させている(原口清『明治前期地方政治史研究』上巻)。神奈川県では、おそらく一八七三年四月の地方官会議に向けての報告書と思われる、県参事高木久成から大蔵大輔井上馨あて「地方之儀ニ付申上候書付扣」という文書によってみても、武蔵・相模両国八百九十五か村のうち、地券下付ずみの村は、三百五十五か村にしか過ぎない(『横浜市史』第三巻下)。地券の交付状況からみても、全国一般の土地にくまなく私的土地所有権を設定するという意図はそう簡単に実現されていったのではない。しかも、私的土地所有権の設定も、たとえば、土地調査の方法が、従来の検地帳を標準としているし、土地丈量の単位も統一されていないなど、厳密な調査ではなかったように、きわめて形式的なものであった。それだけに、土地所有者の租税負担の義務だけが明らかにされたのが、壬申地券の交付であったとみることもできる(『八王子市史』)。 このような地券交付の状況から、維新政府としては、地券の交付から新たな租税制度の改革を目ざす地租改正事業に着手し実行する見通しをつけることも容易ではなかった。一八七三年四月、大蔵省は地方官を東京に集めて、討論をかさねた末に「地券税法」の実施を決定し、租税寮作成の原案を審議し、成案をえて、一八七三年七月二十八日、太政官布告第二七二号「地租改正条例」を公布したのである。 二 神奈川県下の地租改正 地租改正事業一八七三(明治六)年七月二十八日、太政官布告第二七二号をもって公布された「地租改正条例」は、旧来の貢租制を廃止し、全国的規模で私有地の「地押文量」をおこない、反別による所有規模(地積)を定め、地位等級や収穫高に基づいて地価を決定し、その地価の百分の三を新しい地租率として土地所有者に金納させようとしたものである。神奈川県は、一八七四年三月、県令中島信行の名で、大蔵省達番外「地租改正施行規則」を県下に布達し、また三月三十一日には三十四か条からなる「反別地価等級書上方心得書」を布告して、改租事業に着手する。足柄県でも一八七四年三月十七日付で、管下に地租改正事業の着手を布告した。以後一八八〇(明治十三)年九月、山林原野・雑地・市街地への新税施行伺が許可されるまでの六年六か月にわたって本格的な地租改正事業が実施された。この事業の直接の前提ともなった壬申地券の交付も含めると、明治五年七月以降、八年二か月におよぶ。この改正事業の経緯については、『横浜市史』第三巻下、渡辺隆喜「神奈川県地租改正事業の特色」(「神奈川県史研究」第4号)などでとりあげているし、『神奈川県史』通史編6近代・現代⑶で、この時期の神奈川県の政治・経済にしめる地租改正事業の意味を明らかにするので、ここでは、主として、耕宅地の地租改正の実施過程に限って、改正事業の進行状態の一端をみていくことにする。 「地租改正条例」が公布されて八か月後の一八七四年三月、大蔵省達「地租改正施行規則」・県達「反別地価等級書上方心得書」が、県下に布達され、地券交付にかわって地価取調べの方針が打ちだされて、改正事業の要領が整えられていった。三十四か条からなる「反別地価等級書上方心得書」は、まず「反別ノ儀舊帳簿面ニ不拘銘々持地現在ノ有リ歩名称等正実ニ可書上事」と、旧来の土地制度の廃棄を表明している。検地帳に基準した土地所有者のみに交付された壬申地券とは明らかにちがっていた。この反別調査は「縦繩横繩ヲ以間数ヲ量リ現反別ヲ算出」する十字法によっておこなうこととされた(六月に一間六尺に統一される)。収穫米は田の場合、豊凶年ではなく「其土地相当ノ登量ヲ得タル年柄ヲ」めやすに記載すべきこと、畑は「各種ノ産物其量数ノ詳ナルハ悉ク記載」し、数量の記載がむずかしいものは「収利の代金」を記載することを命じていた。そして地価の算定は、「地代金ハ一ケ年取入高ノ中地租ト村費トヲ引去リ全ク地主の所得トナルヘキ米金ヲ以テ地価何程ト見込」をたてることと規定されて、自作地方式による地価調査の方針が示されている。だが、実際には、当時の神奈川県だけでなくどこでも、土地売買の禁制が解かれた直後であったため、売買価格を地価とすることはむずかしい実情があった。そこで、地主小作間に形成されていた価格、つまり小作料を地価算定の基準とすることとされた。 改租事業と地価算定この「心得書」の布達に基づいて、地租改正の第一歩は、まず土地の所在を明らかにすることからはじまるのであるが、この「心得書」の前文で従来の貢租制度の不合理、不均等をついて、「名実相失」している現状を「洗鋤シ賦ニ厚薄ノ弊ナク民ニ労逸ノ偏ナカラシメン」ために地租改正法が制定されたことを強調し、反別地価の取調べは「正路ニ可書出」ことを命令していた。たしかに、旧来の検地帳や石高制の不合理・不均等に、不満をいだいていた農民の心情をくすぐる要素を備えていた。一村全域にわたる土地調査の進行が、農民たちの財政負担・労務提供などによって支えられて進められたし、しかも、「官が直接に土地調査をなさず人民にやらせる」方式をとったことが、地租改正事業成功の重要な原因であるといわれている(福島正夫『地租改正』)。実際、地租改正取調総代人・区戸長・村用掛などに任命された上層農民たちは、地租改正の政策遂行の矢面にたたされると同時に、日常的に接触をもっている耕作農民の経済上の苦労や悩み、あるいは地域の利害関係を分け合う立場にいた。そうした板ばさみのなかで、後で述べるように、地域の生産事情の実態を反映させる地価算定方式をあみだしたり、あるいは、県が押しつける査定収穫量に反発して、嘆願運動の先頭に立つなどして、地租改正事業に問題を投げかけているのである。 一八七四(明治七)年三月の「心得書」をきっかけとして、地租改正事業は本格的に実施されていく。この年六月、県達第一九一号で「地租改正取調総代人」の制度を設け、総代人に各大区の区長あるいは副区長を任命し、各小区の戸長には地租改正の「専務」を命じて、大区・小区の地方行政機構と一体となった強力な地租改正事業推進体制を作り出していくのである。七月には、地租改正着手方法を協議する大区会が開催され、戸長たちは早期着手を申し合わせている。そして数日後には、県の検査官が、巡回先の村々で、地引絵図の作成の「糴立」、すなわち督励をして歩いている。地引絵図の作成は、七月から十月ごろにかけて県下の各村で開始された(『八王子市史』、『町田市史』)。この地引絵図の作成作業は難渋した。前に述べた添田知通をこの年五月、県権大属に抜てきし、地租改正掛を担当させて、彼を中心とする九人のメンバーが地引絵図作成の指導と助第4表 最初の地租改正取調総代人 『神奈川県達』第191号・1874年6月による 言に県下の村々を巡回し、絵図の「仕立又ハ製シ方」などを「伝習」したり、戸長らを立ち合わせて絵図を調製するなど、もっぱら「協和尽力」を第一としてこの作業を進めようとしていた。地引絵図の編製については、添田らの回村をもってしても実に容易なことではなく、「地引切絵図」の差しだしについても、「出来兼候村村江者滞留之上受取候積」との激しい督促をおこなっていた。たとえば、第五大区(現在川崎市域北西部三十七か村)の地引絵図作成作業は、一八七四年八月から開始され、日程どおりに完成させるという請書が村々から添田らに差しだされ、添田らも年内に全図の編製をめざして、たびたび第五大区を巡回したけれども、翌年の一八七五年四月になっても、まだ七か村の地引絵図が調製されていなかった(『小林孝雄『神奈川の夜明け』、『町田市史』)。 地引絵図の作成ひとつをとってみても、いかに地租改正事業は、困難をきわめていたかがわかる。一八七八(明治十一)年八月六日付の県から地租改正事務局へあてた新租施行の許可願の伺書に、「夫レ地租改正ノ要領ハ地価昂低ノ算量上ヨリ出ル租額ヲ以テシ、敢テ反別エ賦課スルニ非レハ地図編製反別丈量ハ最以テ細密ヲ要ス等反覆説示セシニ村民各其旨ヲ了得シ競テ達成ヲ企望スルノ機勢ニ進ミ」(『明治初年地租改正基礎資料』下巻)とあって、何もかもうまく進んだかのようなことを書いているが、事実は違っていた。一八七五年三月、県令中島信行は県達地租改正第弐号をもって、区長・戸長らにたいして、つぎのような指示を出している。 「在中ニ於テ芝居手踊相樸興行等願ニ因テ聞届候儀之処方今地租改正ハ民家大事業ニテ村民緊要ノ義務ニ候処ケ所々ニ於テ右体人寄催会有之候ヨリ彼我誘ヒ合見物ニ罷出調査担当ノモノニ至迄自然怠惰ノ障碍ヲ及シ候趣相聞以ノ外ノ儀ニ付改正卒業ニ至迄ハ書面興行ハ勿論総テ人寄ケ間敷義難相成此旨相達候事」 地租改正の重要性を「村民緊要ノ義務」として、県下の村々に意識させ、地租改正事業の遅滞をとりもどそうという県の意図がありありとみえている。しかも、四月には、添田知通権大属・飯島憲章中属の統括のもとに、三十八名のメンバーが、第一大区から第二十大区の地租改正掛の分担者となって、五月から活動を開始した政府の地租改正事務局とタイアップできる組織体制をつくりあげていった(『横浜市史』第三巻下)。 土地の所在地・面積・所有者の確定を内容とする地押丈量と地引絵図の作成は、一八七五年八月ごろまでには終了した。神奈川県全体で、地押丈量による改正前と改正後の耕地面積は、第五表のとおりで、田・畑ともに改正以前より増加していて、田の増加率は約二七㌫、畑は約二〇㌫である。 地租改正の作業は、地引絵図の作成と地押丈量がほぼ終了したのにともない、つぎに小作米金調査を基礎とする地価調査の作業が、「戸長副村用掛リ代議人等立会」のもとで進められていく(一八七五年六月十五日神奈川県達第七一号)。しかし、この作業は最も困難をきわめた。地引絵図の作成は、予想以上に遅れたが、このころ(一八七五年九月)には一、二村を残すだけにまでこぎつけていた。地価調査の作業は短期間で終えることを指示されていたようであるが、なかなか作業は進まなかった。すでにこの年八月三十日の太政官布告第一五四号で、各地方の地租改正期限は、一八七六年と定められてはいたが、事業は予定どおり完了する見込みはたっていなかった。実際、地価調査作業の視察を記した県権大属添田知通の「日記」によれば、一八七五年十月現在で、八つの大区と四十七の小区で地価調査の作業が、難航もしくはストップしていた。添田は、こうした事態を、戸長・副戸長・村用掛に対して「説諭」・「申諭」あるいは「督促」・「督責」をおこなって打開してい第5表 神奈川県の地租改正による耕地面積と租税額の変化 改正前の租税額については1873~75年の石代値段の平均である『明治初年地租改正基礎資料』下巻による こうとした(小林孝雄『神奈川の夜明け』)。 この年七月、地租改正事務局の議定に基づいて、「地租改正条例」細目の第二条で、中央集権的なやりかたで事業を強化する方向を指示していたし、十月には地租改正条例第七章に但し書きを追加し、太政官布告で、地価を不当に申告する時は検見法を施行すると威圧していただけに、添田の打開策は、現地の状況をたんねんに踏査したうえでの処置であることから、改正事業を、統一的、体系的に推進しようとする政府の方針の成否の鍵を握っていたのである。 小作米金を算定基準とする地価調査の作業は、小作米金による地位等級の体系化を生み出しながら進められた。地位等級は従来通り上中下三等に区分する方式で始まったが、一八七五年十一月には、「一等二等三等与配称シ地位之肥瘠ニ従而幾級ニモ等名ヲ以」区分する方式に転換したため、各村ごとに、その土地の肥瘦に応じた地位等級が不特定に決められることとなり、小区内、大区内、県内で相互に関連し統一された地位等級とはなりえなかった。それだけ、地域の実情が加味されることにもなりえたわけである。こうして小作米金額による地位等級が各村、各区ごとに、「戸長副村用掛リ代議人等立会」「地主等熟議」を経て決められ、地価算出表も県によって作成され、この年の終わり頃には、地租改正総代人へ配付されていった。等級の体系化は、各等級ごとに集計された小作米金を平均して反当たりの地価をはじき出す方法であった。 地租改正事務局が活動を開始し、旧租以下の新地租が予測される小作米地価をとりやめて、収穫米地価だけに統一しようとしているこの時期に、なお小作米金を基準とする地価の算出計画が進められていたのである。このことは、神奈川県の地租改正事業の特色であり、その後の収穫米地価方式にも影響を与えることにもなる(関順也「多摩の地租改正」『創価経済論集』第六巻一号)。 地租改正事業の完了小作米地価方式がそのまま進められれば、旧租以下の地租に決定されるはずであった。一八七六(明治九)年三月「関東八州地租改正着手ノ順序」によって、この方式は大きく変更された。「関東八州地租改正着手ノ順序」は、神奈川県をふくめて改正事業の遅れている関東八州への指示であり、地租改正事務局の各地出張官員にたいする参考書である。がここであらためて、一 丈量を正確にして地盤を定めること 二 土地の等級を定めること 三収穫調査をおこなうこと 四 米価を定めること 五 利率を定めることとし、これらの要件を満たして「地価ヲ算出ス可シ」と改正着手の順序を打ちだしたのは、地租改正の基礎作業が、うまく積みあげられてきていなかったからである。 一八七六年五月、神奈川県は地位等級表の「至急差出」を命じ、一八七四年二月の「反別地価書上方人民心得書」の修正をおこない収穫米麦の調査を始めて、これまで進めてきた小作米金方式から収穫米麦に基づく地価算定方式へと転換する(一八七六年五月神奈川達第一二〇号、第一二五号)。土地一筆ごとの収穫量と、それを生産するのに必要な種肥代の調査があらたに実施され、「村用掛代議人及正副区戸長総代人」たちの「会同」で村位等級が「判定」されていった。しかし、実際には、地位等級表の作成にあたって、「集議」のうえ「小作等級ヲ用ユル事ト決」めた地域もあったし、収穫米の調査に切りかえたといっても、これまでに進めてきた小作米金による等級を基準にして地位等級表が作成されていったようである。また、米麦の収穫調査にしても、実際にかかる種肥代を控除して収穫量を申告するという方法がとられていた(「多摩の地租改正」、「神奈川県地租改正事業の特色」)。 このような方法で積みあげられてきた収穫量は、一八七七年八月に召集された関東一府六県の地方官会議において、「其額寡少ナルヲ以テ之ヲ採取セス」と一蹴されて、地租改正事務局の見込収穫高が押しつけられることになる。この会議で、県の見込案と事務局案の中をとるようなかっこうで、神奈川県は反当収穫量田(米)一・二六石余、畑(麦)○・九六石余、地租総額八十四万円余を押しつけられる。この押しつけ収穫量を前提にして、この年七月から八月にかけて従来の収穫米麦一斗による地位等級区分を一斗五升に改正し、ほぼその体系ができあがっていた地位等級表によって、村々の査定収量が決められていくことになる(『明治十二年十月河野少書記官殿ヨリ推問ニ付呈ス 地租等級組織方法及改租調理順序 施行差示ニ至迄 概略手続書』〈添田家文書〉以下「概略手続書」と略)。このような村々への収穫量の押しつけとそれに基づいてはじき出される地価↓地租の決定は、旧貢租額の維持という維新政府の意図がはっきりと前面に押しだされたことを意味した。一八七八年にはいり、県で査定した収穫高によって決められた地価および地租が大区へ配付され、大区から小区の村々へと割当てられ、村内の一筆ごとの土地にまで配分される。村々ではこれに基づいて「田畑宅地米麦収穫地価割付帳」などが作成される。八月に神奈川県の耕宅地の新税が許可され地租改正事業はほぼ完了する。 地租改正の結果を、神奈川県全体の新しい租税額と従来の租税額とを比較してみると、田方は約一四㌫の減租であるのにたいして、畑方は約二倍の増租となり、全体として二六㌫以上の増租となった(第五表)。「田ニ寛、畑ニ荷」といわれた神奈川県の地価査定の傾向は、まぎれもなくあらわれている。とくに、県下の内陸部畑作地帯の三多摩、高座、愛甲、津久井の諸郡は、畑の比率は七割以上で、畑租増税の影響は著しかった。これらの畑作地帯の村々は、地租改正によってほとんどの村では田租が減ったにもかかわらず畑租の増額が直接的に村全体の大幅な増租をもたらしていた。しかし、大幅な増租に対する農民の動向は、あとで述べる鎌倉郡瀬谷村ほか六か村の改租不服運動などにみられるような、地租改正事業に対する抵抗というかたちをほとんどとらなかった。 一八七八年八月、鎌倉郡瀬谷村ほか六か村を除いて、県下千二百十二か村の新しい租税の施行が許可され、一八七九年にかけて土地所有者に改正地券が交付される。この頃から山林原野などが、官・民・共有の三種に区別されてそれぞれ地価が決められ、一八八〇年九月に地租改正事業は完了した。 地租改正による新しい租税額の取り立ては、一八七六(明治九)年にまでさかのぼって徴収された。増税となった新租と、増加分を一括して納入させることは、実際上困難であったことから、一八八二年三月に「年賦延納許可」、五月には「年賦延納規則」をそれぞれ布達して、これらによって徴税をおこなった。 三 地租改正をめぐる農民の動向 改租事業と農民の不満神奈川県の地租改正は、神奈川県をふくむ関東地方の地租改正が、維新政府から「最大難区」とみなされていたように、小作米金に基づく地価算定方式とか、実際の種肥代を控除して地価の算出をおこなうなど、実情にそくした農民的色彩の濃い方法をあみだしていた。それだけに、旧貢租額の確保という国家的要請を前面に押しだす地租改正事務局に受け入れられなかったのである。そのため、一八七七(明治十)年八月の関東一府六県の地方官会議で決定された反当収穫量と地租額が押しつけられたうえに、「関東地方では之(等級決定への干渉)をやりました」と地租改正事務局の派出官有尾敬重がはっきりと述べているように、干渉が地位等級の決定から収穫量、地価、地租の決定にまでいたる改正作業の全過程にわたっていたことから、農民の不満は少なからずくすぶっていた。 全国的にみても、地租改正事業をめぐる農民の不満・批判は、改正事業の実施の段階や、各地の事情に応じて、その内容も多様であった。手短かに述べると、まずはじめの段階では地券名請けをめぐる対立、地租改正入費の負担、地租徴収にいたるまでの石代納制の決定米価をめぐる問題が焦点となった。さらにつぎの段階で、地位等級、地価決定をめぐる問題が焦点となって、各地で農民の抵抗が一揆のかたちをとって発生した。なかでも、一八七六(明治九)年におこった、茨城県、三重県、堺県、愛知県、岐阜県下の大規模な地租改正反対運動は、地租改正事業を進めていた維新政府に強い衝撃をあたえた。そのため、翌年、維新政府は地租を地価の百分の三から二・五に引き下げた。当時の落首に、「竹槍でどんと突き出す二分五厘」とあるのは、この一揆が農民にもった意味を明りょうに示しているといわれている。 神奈川県下の地租改正事業をめぐる農民の不満と苦情は、前記の諸県におこったような一揆というかたちで爆発はしなかったが、とくに、一八七六年以降、地位等級の組み立て方をめぐって、県が押しつける等級表に納得しないで苦情を申し立てる村々が続出した。「受書」の差出しをもとめて県は、再三「説諭」や「懇諭」をおこなって、地租改正事業に「服従」させることでこの事態を乗り切ろうとしていた(「概略手続書」)。鎌倉郡瀬谷村ほか六か村の改租不服運動は、この時期に展開された。この不服運動は、地租改正事業の経過からいえば、後の段階でおこった事件であるのに対して地租改正事業そのものに対する不服ではないが、大住郡真土村で質地の名請けをめぐって発生した真土事件は、前の段階におきた事件である。このほか、多摩郡の地位等級偏重嘆願や、南多摩郡木曾・根岸の二か村と高座郡淵野辺村にかかわる山林原野払下げをめぐる事件、あるいは、村民暴動寸前にまでなった大住郡堀山下村の山林原野払下げ事件などがある。以下、真土事件と鎌倉郡瀬谷村ほか六か村の改租不服運動についてその概要を記しておきたい。 なお、県立厚木高校社会部編、『社会研究6』、『資料編13近代・現代⑶』、高崎実「瀬谷村他六ケ村改租不服運動の展開」『神奈川県史研究』第34号、小林孝雄『神奈川の夜明け』を参照した。 真土事件一八七八(明治十一)年十月、この月は神奈川県の地租改正事業担当者にとって、記憶されるべき事柄でみちていた。十月十五日、改租不服従の運動をつづけている鎌倉郡瀬谷村ほか六か村に対して、県達丙三六九号で太政官布告第六八号の適用を指令して、一方的に地価の押しつけと収税をはかっていった。またこの日、地租改正事務に勉励したという理由で、県二等属に昇進していた添田知通が県令野村靖から、金七十円を下賜されている。これは、県下の耕宅地の改租事業が終わり、勇躍山林原野の改租事業に取り組もうという県令野村の添田に対する督励でもあったろう。山林原野の改租事業を本格的に推進しようとした矢先の十月二十六日夜、秋雨の降りしきる大住郡真土村で、冠弥右ヱ門ほか二十八人の農民が、当時の真土村の戸長松木長右ヱ門の家を襲い、長右ヱ門ら家族と雇人七人を殺害、四人に傷を負わせ、屋敷に火を放った。いわゆる真土事件(真土騒動)である。 真土村では旧幕時代から特殊な質地慣行がおこなわれていた。この事件の発端は、この質地慣行から発生した。冠弥右ヱ門らは、松木に土地を質入していたが、その土地は当時の県下の多くの質地慣行と同じように、質置主の意向によらない限り所有権の移転をともなわない性質のものであった。ところが、壬申地券の交付事業、質地による土地移動は、質取主が地券を請けることを方向づけた。とくに一八七三(明治六)年の「地所質入書入規則」の公布は、この方向にいっそう拍車をかけた。真土村の場合、一八七三年の地券名請けは、「村吏等立会保証」のもとで、松木はいつでも土地の請戻しをすることを約束したため紛争はおこらなかった。しかし、地租『冠松真土夜暴動』の一部 神奈川県立文化資料館蔵 改正事業の進行、なかんずく、地引絵図の作成にともなう土地丈量がおこなわれたさいに、冠たちは、質地が松木の名義となっていることから、「自己所有ノ権ヲ失ヒ候様可立至哉ト心付」、再び質地の請戻しを要求するのである。松木は、区長兼戸長の役職を巧みに利用し、前もって冠らの印鑑を預かり、自分で連署して地引帳を作成して、質地を自分の名義にしたのである。冠らにとってみれば、土地を「無謂彼レニ掠奪」されたのに等しい感情をいだいていた。近辺の区戸長たちも、松木の「奸謀」であると証言したこともあって、冠らは問題を横浜の裁判所へ持ちだすことにし、村民六十五人の名で土地の請戻しを提訴するに至る。一審では冠らの主張が通ったが、松木の上訴した二審では冠らの敗訴となった。冠たちは悲嘆にくれ、仕事もろくに手につかないありさまだった。そのうえ小作料の督促や裁判費用の取立てなど、松木の冠らに対する扱いはきびしく、「村民ノ困却不容易、右金圓ヲ調達セシ為縦令身代限リ之御処置ヲ請ルモ銘々家族一同凍餓ニ及フハ更ニ如何トモスルノ手段無之」という事態に追いこまれていった。大審院へ訴える費用もない。そこで司法省へ三人の総代をもって駆け込み願いを敢行したが、筋違いとの理由で門前払いをうける。思いあまって「進退維谷」ついに「暴挙殺戮」を決行したのである。 その頃真土村で、この事件を当時の流行歌や俗謡に合わせて巧みに言葉を作り、おもしろおかしく唄う替え唄が流行していた。その替え唄の一つ「新編阿呆陀羅経」の一節、 〽そもそも だんだん お経のはじまり 近年まれなる 村質地と流地に致して 〈中略〉 民事と刑事に調べられ真土に於て 強欲無慈悲な松木と言うな 欲が深くて ほんに思えば憎らしや 急に帰れる身ではない 内で権位が高くて 顔が広くて 世間が狭い それはよけ は親子が泣いている 神や仏に見はなされ 世間でふれど こまった事には 地券の時から心に掛けて 一 びんと思う人はない……〈以下略〉 この替え唄は、横浜裁判所で第一審の判決がおりた頃から唄われ、松木の敗訴をはやし立て、子供たちにまで口ずさまれたので、おのずと、事件を宣伝する有力な役割をはたしていた。それだけに、冠らの実力行使は、新聞にも取り上げられて、県内各地に伝わった。事件の発生にともない、真土村には平塚をはじめ各地の警察署と県の警保課とから警官が三百名も動員されて厳重な警戒と探査がおこなわれた。村に居住している十五歳から六十歳の男子はすべて平塚の阿弥陀寺に呼び出された。厳しい取調べの結果、その日のうちに冠ら十六名が逮捕されたのを皮切りに、容疑者は全部で五十六名となった。彼らは横浜に護送されたが、護送途中の道筋では、村人たちが「村の犠牲者」と土下座して見送ったとも伝えられている。 事件後、人びとの同情は冠たちに集まった。とくに大住・淘綾・愛甲の三郡では、ほとんどの戸長・副戸長たちが冠らの助命嘆願運動に立ちあがった。事件発生からおよそ一か月後の十一月二十二日、これら三郡百四十か町村駅余の戸長・副戸長村用掛など約千八百人の署名が付された助命嘆願書が県庁に提出された。事件の発生した「真土村人民ノ景状」は「近頃不動産ハ離レ、今亦老幼婦女ハ啻ニ其父子兄弟ノ安否ヲ苦慮シ、為メニ其業ヲ廃棄シ一村幾ト滅亡ノ姿ニ之アリ」と嘆願書が述べているように、「其情実ニ傍観ニ耐へ難」い様相をみせていた。それだけに助命嘆願の運動は、一連の土地制度の改正によって質置主の権利・慣行が失われていくなかで、所有権の帰属をめぐって耕作権の優位を主張することに本質的にはつながりを持つ性格を秘めていた。助命嘆願は翌年の一八七九(明治十二)年まで続き、嘆願者の数は一万五千名に達したという。つぎつぎと集まる嘆願者の名簿は、真土村の東光寺を経由して県庁へ提出された。 県令野村靖は、この嘆願行動を、国法を動かそうというのではなく、「慈愛ノ心ヨリシテ出来候事」とみて、嘆願書を受理した。そして「此際最モ行政事務ノ障碍ナキニアラズ」という見地から、右大臣岩倉具視に助命嘆願の上申書を提出した。上申書の草稿は添田知通が起草した。野村靖、添田知通を中心とする助命嘆願が、行政事務なかんずく地租改正事業の推進と裏腹の関係にあったということも考えられないこともないが、詳しいことは不明である。いずれにしても、瀬谷村の改租不服従運動の合法性をキッパリと否定したことと、真土村での実力行使者に対する、県当局者の助命嘆願への理解と奔走が、同じ時期であることは興味深い。 県内の広範な助命嘆願運動に支えられた、県令野村靖の助命上申が功を奏して、一八八〇(明治十三)年五月に横浜裁判所で下った判決では、冠ら四人は斬罪、徴役十年が八人、徴役三年が十四人であったが、冠ら四人は県令預かりとなり、死一等を減ぜられ終身徴役となった。その後冠らは仮出所、または満期放免となり、一八八九(明治二十二)年、大日本帝国憲法の発布にともなう特赦で全員が放免された。この間、一八八一年には、「真土の松庭木植換」、「深山の松木間月影」という演題で、真土事件をとりあげた芝居が、坂東彦十郎、中村時蔵らによって、平塚を中心に各地で上演されて好評をえた。また受刑者の仮出所を求める嘆願書も数多く出されるなど、この事件は地域の人びとに最大の関心をもたれて語りつがれていった。なお真土事件は、質地小作における所有権の確立が、地券名請けをめぐって質置主と質取主との貸借金関係が絡んで問題となったが、質置主が小作農に転落する可能性を示した。それだけに、質地の書入期間がきわめて短期化された一八八〇年代のはげしい経済変動のもとでおこった農民の負債返済騒擾の遠因を地租改正の結果に求めることにも一つの理由があるといえよう。 瀬谷村ほか六か村改租不服運動一八七八(明治十一)年十月十五日、県令野村靖は、1966年に建てられた真土事件の碑 太政官布告第六八号の適用を、鎌倉郡瀬谷村ほか六か村に指令し、一方的に地価の押しつけと収税を命じた。添田知通の手になる「概略手続書」が、瀬谷村など七か村以外は県下すべての町村が改租手続を済ませたのに、「僅々七ヶ村ニ限リ〓詮主張シテ承諾セサレハ……数回懇諭ヲ尽セシモ更ニ服従セサル」と、述べていることからも不服運動に対する県当局のいらだった様子をみてとることができよう。地租改正事務局からも有尾敬重が出張して来て「反覆説明アリシニ〓民団結シテ誘説ノ道相絶」たので、やむなく太政官布告を適用したというのである。現地の状況をたんねんに踏査し、骨身を惜しまずに改租事業の推進に一役も二役もかっていた添田知通をして、「〓民団結シテ」「〓詮主張シテ」やまないときめつけられた瀬谷村ほか六か村の改租不服運動は、実際「〓民」の主張に過ぎないことであったのか。 この頃の瀬谷村ほか六か村は、全体で畑が田の約六倍で、耕地の所有も一戸平均田が三反一畝、畑が一町七反七畝で、しかも畑の平均収穫量は、鎌倉郡は県内で最も低いが、その鎌倉郡内でもかなり低いほうで、生産力の低い地域であった。 一八七七(明治十)年八月、関東一府六県の地方官会議で、反当収穫量が決められて、県はいやおうなしに改租事業をスピードアップしなければならなかった。といっても、地域の経済実態をそれなりに加味した地位等級区分をあみだそうとしていたところへ、等級の更正が押しつけられるため、百十二か村が「更正表」の請書を提出することを渋っていた(「概略手続書」)。瀬谷村などの不服運動もこの点にかかわっていたようである。この年十二月二十七日、瀬谷村ほか四か村が、県の強制する地位等級の「管内聯合表」では、租額の算出が不可能なことと、田畑の比較基準の不適当を理由に、召喚されて説諭されても、この疑念が解けないうちは請書の調印を拒否するとの「上申書」を県令野村靖に提出していた。 このような「管内聯合表」の請書の差し出しに対する不満は、瀬谷村などに限られていたのではなかったが、一八七八年四月には、第六大区から第二十三大区のうち三浦郡第十四大区の十五か村と鎌倉郡第十七大区の七か村だけが請書の差し出しを拒んでいるに過ぎないほどにまで、県の請書差し出しの強制が続いたようである。そのため、瀬谷村などの不満は請書そのものに向けられ、地位等級は一村の範囲で適用できても管内全域に当てはめられないこと、村々が提出した等級表を官の側で組み直していることなどに、批判の矢を向けていった。そこには模範村を設定して地位等級を決め、その基準を模範組合内のみならず県内全域に適用していくという、関東地方の改租方法への批判も含まれていた。さらに、収穫地価算定方式の等級と地価の不一致、等級決定にあたって種肥代の不十分な酌量などを指摘し、瀬谷村などが、生産力の低い畑地であったために、等級と地価、種肥代、収穫量など地租を割り出していく諸要素が、現状を無視して決められている点を鋭く衡いていたとも言える。 八月にはいって、県は不服七か村の申し立てには「追而何分之可及沙汰」と問題を後にのこしたままで、不服七か村を除いて県下の村々に耕宅地の新租施行を指令した。一年で百村以上の不服村が県の「説諭」をうけて請書の差し出しを承諾したことになるが、不服は五年後の改正年度でなんとか処置するという地租改正事務局の甘言に乗せられたようである(「概略手続書」)。実際、この手段は不服に対する常奪手段として盛んに振り回された(有尾敬重『本邦地租の沿革』)。 瀬谷村などの不服村は、添田をして「反覆説明アリシニ」、「団結シテ誘説ノ道相絶」と言わしめたように、頑として請書の受印に応じなかった。そこで県↓地租改正事務局は、太政官布告第六八号の適用を指令して新租を押しつけたのである。新租は旧租と比較すると、田は二三㌫の減租であるのに対して、畑は約四・六倍以上の増租となることから、村全体では三・八倍以上という大幅な増租をもたらし、神奈川県の地価査定の傾向、ひいては地租改正そのものを象徴していた。それだけに、県も必死であったし、また不服村も後にひけなかったのであろう。 太政官布告の適用を指令されると、すぐさま、地租改正事務局へ嘆願書を提出して、「一段階ノ隔リニテ収穫ノ米麦何程ノ違ヒアルヤ」と地位等級の組立てそのものへの疑義と規定の種肥代の非現実性を衡き、しかも県の作成した地位等級の「管内聯合表」が、「係リ官ノ専断」で仕立てられていることを強調している。そして、県内千二百十五か村のうち千二百八か村までが請書を提出したのは、改租方法が、県の言うような「美事良法」であったのではなく、「畢竟圧制ニ出テタルモノト存候」と、県の押しつけを見やぶり、実地を再調査をしたうえで、新租を賦課することを要求している(この嘆願書の日付は、奇しくも真土村で冠弥右エ門が松木長右エ門に対して実力行使にでた十月二十六日である)。地租改正事務局への嘆願は、再願、追願と繰り返されるが、いずれも退けられた。不服村々はひるむことなく再び県令に向けて上申書を提出し、「不適当之分官ヨリ御差示ノ地価ヲ以御買上ケ相願度」とややおどし文句をちらつかせて、地位等級の「管内聯合表」の一方的な作成と操作を問題にしていく。が一向に県当局はとりあげようとはしなかった。 一八七九(明治十二)年六月、不服村々は県令野村靖を被告として、東京上等裁判所に「地租改正処分不当之訴」をおこして、正当な収穫地価を要求することとなった。この訴訟の経過などについては、今のところ不明である。ただ、この年八月に、運動の中心人物である瀬谷村戸長と村用掛が死亡していることと、「不服一件」の出費の償金として十月に県から六千円の借金が引き出されていることから、この頃に不服運動は終わったようである。運動の具体的な経過についてはまだ資料的に究明されていないが、不服村々の主張は、決して添田知通がきめつけていたような〓民の意見ではなかった。実情にそくした農民瀬谷村の地租不服運動義民碑 的色彩の濃い地価算定方法をあみだしていたところへ、一方的に示された地位等級と予定収穫額↓地価↓地租が、まったく現実にそぐわないことを明らかにして、地租改正事業、とりわけ関東改租の方法に対する根底からの批判としてたちあらわれたのである。それだけに、県↓地租改正事務局が不服従の動きに一切言質を与えるような動きをみせなかったのであろう。 第三節 「学制」改革 一 「学制」前の教育機関 私塾・寺子屋の変容明治五年(一八七二)八月、「学制」の頒布によって、日本の近代学校制度が発足をとげた。この学制は旧来の封建的教育制度、すなわち藩校や郷校、あるいは私塾、寺子屋などを一切廃止するという急進的なものであったが、これは当時の実情から容易でなく実際には旧来の寺子屋をそのまま小学校と改称したり、あるいは寺子屋の師匠がそのまま小学校の教師になるというようなことも少なくなかった。 幕末から「学制」頒布のころにかけて神奈川・足柄県域では、私塾・寺子屋といった教育機関が、民衆の自主自立の精神的向上と学習熱のたかまり、失業士族の寺子屋の開業などを背景にその消長も激しかったようである。『日本教育史資料』第八巻によれば、幕末から維新期にかけて、十一校の私塾が存在していたと報告されているが、実際には全県下にわたって分布していたことが判明している。これらの私塾のうちには、学科として漢学や筆道にかぎらず、さまざまの学問・技芸の指導を試みたところも少なくない。たとえば、下鶴間村(現在大和市)にあった荒川諭の塾では、読み、書き、算盤のほか、茶の湯、生花、さらには剣術まで教えたという。また、上溝村の鈴木縫之助、下溝村の朝倉由左衛門が営んでいた私塾も(いずれも現在相模原市)、教える内容は読み、書き、算盤で、ひら仮名に始まり、村名、国尽、商売往来、今川、古収輯、実語教、童子教、塵劫記などであった(『相模原市史』第三巻以下『相模原市史』と略す)。 寺子屋も、幕末期には全県下に普及して、開業数は五百十四校にも達していた。明治初期における寺子屋の開廃の動きは、第六表のとおりである。県下の寺子屋は、開業率においてもまた廃業率においても、全国平均を大きく上まわっていた。「学制」頒布以前と以後に区分して、寺子屋の開廃の状況をみると、「学制」頒布以後は全国の寺子屋の開業が、以前のほぼ一〇㌫であるのに、県下では六〇㌫弱を維持している。一方、廃業は、全国では二・二五倍となっているのに、県下では六・八六倍で、全国平均の三倍以上の廃業率を示している。 私塾・寺子屋の興隆を支えた背景には、開国以来の商品経済の農村への急激な浸透があった。農民の子弟も読み、書き、算盤の基礎的な能力が必要となり、私塾・寺子屋への積極的な就学となってあらわれた。就学状況の一例をあげてみよう(『相模原市史』)。 磯部村(現在相模原市)の栗山半左衛門が開業していた栗山塾の明治四年(一八七一)八月現在の在塾者は、男子三十七人、女子十四人、計五十一人であった。通学者も磯部村だけに限られず、新戸村(現在相模原市)、下溝村といった他の村落からも来ていた。就学の割合も、磯部村のうち下磯部、上磯部について見ると、栗山塾にかつて在塾したもの、また当時学習していたものは、明治四年現在第6表 学制頒布前後の寺子屋開廃業の動向 『神奈川県教育史通史編』上から の八歳から十四歳までの児童総数の、男子が六六㌫の三十一人、女子が四二㌫の二十一人という高い率を示していた。この比率は、「学制」期当初の小学校の全国就学率の二倍に相当し、足柄県も含めた県下の就学率、男子四九・二㌫、女子二六・六㌫をも上まわる数値である。この数字は、一般的に私塾・寺子屋教育が、制度的に強制的につくられたものではなく、民衆の精神的自主自立の志向と学習熱に裏打ちされた、師匠(教師)との信頼感から成り立っていることを物語っているといえよう。 ところで、明治初期の私塾は、県下に広く普及したことにより、かつての士族ないしは上層の庶民を対象とした「完成教育」施設から、中層の農民だけでなく、男児も女児も入塾させる初歩教育施設へと転化してきていた。 それだけに県当局は、私塾・寺子屋がおこなう教育内容に無関心ではいられなかった。明治五年三月二十九日、文部省の布達を受けて、「私塾開設の許可、塾則等の提出に関する件」を県下に通達し、従来のゆるやかな政策から一転して、私塾・家塾の統制に乗り出すのである(『神奈川県教育史』資料編第一巻以下『教育史資料編一』と略)。この統制政策が出されたころ、神奈川県では郷学校の設置計画が推進されていた。私塾・寺子屋の所在とその教育内容の実態をおさえることは、郷学校の設置計画を具体化していく上でも必要なことであった。 私塾・寺子屋などが、民衆の教育機関としての役割を持っていたとしても、県当局の目には「開明化」政策を民衆の中に浸透させていく上での「障碍」として映りはじめたのである。「学制」頒布後の一八七三年四月「小学開業」にともない、県は私塾・寺子屋などの廃止を命じていくのである(「一八七三年四月神奈川県達」)。 郷学校の設置郷学校は十七世紀後半から「学制」実施のころにかけて、全国の各地につくられた教育施設の一つで、「郷校」「郷学所」「郷学」あるいは「義校」などとも呼ばれた。そして寺子屋・私塾・家塾よりも規模が大きく郷村の公共的性格をもっているのが特徴である。こうした郷学校は、大別すると性格の異なる二種類のものがあった。一つは大名の士族や家老が自分の支配地に設置したり、また大名自身が、城下以外の地に居住している藩士の子弟のために建設した文武稽古所などで、「小さな藩校」とみられるものである。 もう一つは、経営の主体や、形態も多様で、教育の内容や方法などもさまざまではあったが、庶民のために小供を教育したり、青年、成人を教育する目的で設置された施設である。これが、明治初年以降の国民教育、なかでも小学校の先駆的役割を直接に間接にもちえたのである(『近代日本教育の記録』上)。 神奈川の郷学校という場合、「学制」頒布前後、ほぼ県下の全域に設置された郷学校のことをいう。他の諸府県ではほとんど見られないものであって、それだけに神奈川の「学制」期教育の成り立ちをみていく際に、どうしても目を向けなければならないのである。 神奈川の郷学校は、どのような経緯で設立されていったか。維新政府は、明治二年(一八六九)二月五日「府県施政順序」をもって、府県行政の大綱を示した。そのなかで、書学・読書・算学を教える「小学校ヲ設クルコト」を指示していたが、それは寺子屋と余り違いのないものであった。翌年の明治三年十二月十五日、政府は郷学校設置のために、高一万石につき米一石五斗の割合で資金を工面することを府県に通達し、郷村を単位に郷学校を設置する計画がたてられた。神奈川県では、政府の指示に基づいて郷学校掛をおき、明治四年一月から県官(小参事大屋斧次郎)が、農業の勧奨と学校設立の説諭のために県下の寄場組合の親村を巡回し、住民の協力で郷学校を設立することを説いている。これに呼応するかのように、二月、三月には、三浦郡大津村郷学校、南多摩郡小野郷学校など四校の郷学校が設置され、この年八月には、「武相郷学校二七ヶ所設置」の触書、「貢進生、横浜学校へ差出し」の達、「郷学校仮規則書、郷党仮議定廻達写取」の触書、「郷党仮議定郷学校仮規則」など郷学校設立に関するいろいろな規則が矢つぎばやに定められる(『教育史資料編』一、『町田市史史料集』一)。 寺子屋・私塾の幕末以来の隆盛にみられる民衆の教育要求を背景にして、「方今人材養育急務之秋」という考えに立つ県当局は、維新以後も存続していた寄場組合村を単位として、県下二十七か所に郷学校の設置を指令するが、実際に設立されたのは二十校あまりであった。県が構想した郷学校は、郷党仮議定・郷学校仮規則によると、ほぼつぎのような特徴を持つ学校であった。 寄場組合を学校設置の単位として郷学校一校を置き、各村に一人の学校世話人を置き、学校の設置から、師匠(教師)の採用、学校運営に至るすべてを組合村の衆議によっておこなうこととし、しかも衆議は三分の二の「入札」で決め、村役人の「独裁専決」を許していなかった。学校諸経費の分担は、就学児童の有無に関係なく、各家が負担することになっていた。さらに組合村内の対立や不和などで学校の「盛衰」に影響を与えてはならないと定められていた。 郷学校の入学年齢は六歳から十三歳までで、「学生ノ勤惰ハ父母ノ越度タルヘシ」と、親の就学の責任と義務を強調している。学費は「入門料」として一人米一升(約一・八キロ)、二人の入学者をかかえている家では一人半分の「毎月料」(米二合)を払えばよいことになっていた。学習内容は、従来の寺子屋の読み・書き・そろばんとさほど差がなかったが、「手習ノ序」の中に、「西洋音」(アルファベット)、「西洋字」(英単語)が含まれていたし、「読本並諳誦」には翻訳書、数学には洋算が組み込まれ、さらに「洋単語」の会話、つまり英会話も学ばせようとしていた。 このような教育内容を教える郷学校を県下に設けたうえで、ほかに郡ごとに、今日の中等教育機関に匹適する大学校をつくり、郷学校卒業者が進学できるようにするなど、人材の育成を主眼とする学校計画が構想されたのである(『近代日本教育の記録』上)。 明治五年(一八七二)の「学制」を先取りするような内容をもっていたともいえる神奈川県の郷学校構想は、必ずしも円滑に実現されなかったようである。郷学校の設立と維持のためには、どこでもその資金繰りに苦労していた。とくに学校設立の費用は、村全体で負担することになっていたが、実際には、現在の東京都町田市にあった小野路村の小野郷学校では、豪農層が金を出し合って学校資金を賄っていたし(『町田市史』下巻以下『町田市史』と略す)、津久井郡藤野町にあった吉野宿の学習舎の場合は、有志三十名の醵金約七百両を積み立てて、その利子を経営資金にあてようとしたが、実際には不足の大部分を個人の篤志家が負担しなければならないのであった(吉野甫氏所蔵『興学雑誌』)。 このように、住民たちの苦労をともないながら郷学校がつくられていったが、仮規則に基づいた学校の実際の教育内容は、私塾・寺子屋との違いも少なく、少々程度を高めた「漢籍」を学ばせるに過ぎなかったところが多かった(『神奈川県教育史通史編』上以下『教育史通史編』上と略す)。郷学校の計画や学校課程の構想は、実際の教育事情を土台にしてつくられ郷学校分布図 『近代日本教育の記録』上から たものではなかっただけに、構想倒れに終わった。県当局も、必ずしも郷学校計画の意図を徹底させる具体的な方針をもっていなかったようである。この郷学校計画と郷学校を、「学制」による公立小学校との関連という点からいえば、郷学校がそのまま小学校へ切り換えられたものもあるが、多くはいったん郷学校としては終わりをつげ、新たに小学校として開設されていく。郷学校の数は少なかったが、当時県下に存在していた私塾・寺子屋とともに、「学制」による学校を受けいれる土壌を培う役割の一端を果たしたことは否定できない。 二 「学制」の施行と小学校の設立 「学制」の実施明治四年(一八七一)七月、文部省が設置され、翌五年八月二日太政官布告第二一四号「学事奨励に関する被仰出書」、同月三日文部省布達第一三号別冊「学制」一〇九章、一八七三年三月十八日文部省布達第三〇号「学制二編」「学制追加」など一〇四章、全二一三章の「学制」が頒布された。この一連の法令を「学制」と呼ぶのである。 文部省が構想し、実施していった「学制」の教育制度はおよそつぎのとおりであった。まず学区制を採用し、全国を八つの「大学区」に、各大学区を三十二の「中学区」に、そして各中学区を二百十の「小学区」に区分し、各学区ごとにそれぞれ一校ずつ学校を設置することとした。この学区は学校設置の基本単位だけでなく、地方行政の単位でもあった。各大学区にはそれぞれ「督学局」を置いて区内の教育行政を統轄し、各中学区ごとに地方官は、「学区取締」を十ないし十二、三名任命して、学区取締一名につき小学区を二十ないし三十を分担し、直接行政指導にあたらせた。 学校の系統は小学、中学、大学の三段階を基本とし、ほかに中学に準ずる数種の実業的学校、高等専門教育をおこなう専門学校、教員養成の師範学校などが設置された。小学校は上下二等各四年制、中学校は上下二等各三年制、専門学校は七~四年制で、大学は五分科制をとり、年限の規定はなかった。文部省はまず国民教育の基礎づくりに当面の目標をおいて中学校以上はさしおいて全国的に小学校の普及をはかった。 この新しい学校教育の目的と内容は、ほぼつぎのように特徴づけられよう。一 「学制」第一章で「全国ノ学政ハ之ヲ文部一省ニ統フ」と規定して、教育の集権化を宣言している。二 教育の目的は「身を立るの財本」をつくることであるから、その内容は、立身、治産、昌業をはかるための実用の学でなければならないので、それは武士のためではなく、個人のためであること。そのため、「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」ことが肝要であると、教育の機会均等を強調した。三 教育は学校でしか修得できないという学校教育万能主義と小学校教育に重点を置いたことなどである。啓蒙主義の色彩がはっきりとみられる。 各府県は「学制」の実施にあたり、管内に「被仰出書」の主旨を徹底させるために告諭を出すが、そこで述べられている「学制」を特徴づけている文章は、必ずしも忠孝の徳目や国家を否定していなかった。 神奈川・足柄の両県は、それぞれ八百四十小学区、四百八十二小学区に区分され、規定どおりにことが運べば、一小学区に小学校一校が設立されることとなっていたが、実際には小学区と小学校の設立とは一致していなかった。明治五年(一八七二)十一月、神奈川県では、従来の「筆学所」(寺子屋)を廃止して、すべて小学校と改称、ほぼ三百戸に「一小学校」を設置する方向で、「学制」の小学校はスタートを切った。そして一八七三(明治六)年二月に神奈川県、三月には足柄県が、それぞれ、「学制」についての告諭を県下に達して、その主旨を説いて、県の教育政策の方向を明示した。 神奈川県の「就学告諭文」は「被仰出書」の趣旨にそくしながらも、神奈川県が開港場横浜を擁するという地域の「特殊性」からも、教育の必要を強調している。啓蒙のために教育の必要を説くことは変わらないが、「況シテ各国交際ノ親睦ナル時ナレバ我国ノ民トシテ今日ノ急務ニ勉励セザルヲ得ンヤ……」と教育上における国際的視野の肝要を強く訴えている。さらに「就学告諭文」は、続けてつぎのように述べている。 「今般当県管下普ク習書師ニ告示シテ文部省小学ノ規則ニ模範シ以テ子弟ヲ教導シ人材ヲ教育スル基本ト為サシメントス従来生徒ノ謝義等甚非薄ニシテ其師タル者活計モ不利ナレバ間々廃業セル者アリ是等ハ最モ注意周旋セズンバアル可カラズ就テハ管下市街郷村ノ各戸子弟ノ有無ヲ論セズ身財多寡ニ随ヒ毎戸銭鈔ヲ糾募シ其金額ヲ戸長或ハ其所管ノ課長ニテ総轄シ規則ヲ定立シテ之ヲ各地ノ習書寮ニ分付シ生徒ノ束修謝儀及ビ筆墨諸般ノ冗費ニ充ツベシ然レハ富有ノ者ハ格別カノ寒貧ノ子弟ト雖トモ聊カモ学資ノ憂慮ナク凡テ男女七歳以上ヨリハ皆入学セシメ猶余財アラハ要用ノ書籍ヲ購ヒ読マント欲スル者ニハ借覧セシムベシ此ノ如クナレバ貧賤富豪ノ差別ナク各々其知覚ヲ増進シ其志願ヲ成就シ之ヲ大ニシテ国家ノ恩ニ報ヒ富強ノ術ヲ施シ皇威ヲ万国ニ誇耀シ之ヲ小ニシテハ生活ノ業ヲ理シ或ハ貿易何ニ由ラズ利益ノ道ヲ開キ其身幸福子孫栄昌ナラン」(『教育史通史編』上) 「国家ノ恩ニ報ヒ富強ノ術ヲ施シ皇威ヲ万国ニ誇耀」するためにこそ、教育があるのだというように国家意識をつよく打ちだしていた。 足柄県でも、この年(一八七三)三月に告諭を出している。すでに足柄県では七二年四月の「中小建学ノ儀ニ付告諭」のなかで、「門閥ヲ論ゼズ貴賤ヲ問ハズ」という機会均等主義的な色彩と、「天下有用ノ器トナリ万国鼎立ノ国勢ヲ補フニ至ラム事ヲ請フ」といった国家本位の教育理念を強調していた。それだけに、七三年の告諭の文章が、「学科教則ハ人間日用ノ実際ニ渉リ自主ノ理由ノ権ヲ養成スルモノナレハ貴賤ヲ論セス男女ヲ問ハス日夜勉励之ニ従事シ以テ智ヲ開キ才ヲ長シ生ヲ治ムル所以ノモノニシテ実ニ身ヲ立ルノ財本トモイフヘキモノ」と述べ、人材を教育して「天下有用ノ器トナサシメン」と、積極的に「学制」理念を推進していこうとしたのは当然であった(『教育史通史編』上)。 「国家ノ以テ富強安康ナルユエンノモノ世ノ文明人ノ才芸大ニ進長スルモノアルニヨラサルハナシ」(左院宛文部省伺一八七二年)とする文部省の考えは、足柄県の告諭にもたしかに反映されていたのである。 進まない小学校の設立「学制」実施の基本方針ともいうべきことを明示した告諭と、「神奈川県学制」(一八七三年二月)、「当県(足柄県)管下中学区域及小学建設条款」(一八七三年二月)とに基づいて、小学校が設立されることになる。神奈川県の場合は小学校の設置単位を三百戸内外とし、行政区画の一小区(四、五か村)に一小学校を設置する方向でスタートを切ったが、文部省督学局は、この県の構想に対して、「人口凡六百人ノ目的」に一小学区を区分することを指令した。指令はこれだけにとどまらなかった。文部省は、「神奈川県学制」のうち、小学校教育の基本にかかわる、就学年齢、学課等級などの点について、県の構想が全国画一を目ざした「学制」とそぐわないと判断していた。就学年齢を七歳から六歳に、あるいは学課の等級区分と進級方法について「小学校則」に「照準」することを文部省が指令したのもそのためであった。 文部省の指令から一か月後の一八七三(明治六)年四月、県は学区取り締りを任命し、正副区長と協力して学校設立資金の徴募など「学務一切」を処理することを通達して、「学制」の実施に取り組んでいく。さらに、五月には、権令大江卓が、小学校の設立は、戸長・副戸長の職掌にもかかわらず、「座視」し、あるいは故意になおざりにしている戸長らがいることから、このような戸長らには、必ず「沙汰」が下るというような威嚇的な言葉をちらつかせながら、小学校を至急設立することを重ねて命じている(『教育史資料編』一)。しかし、この年十月までに十一校の小学校が設立されたに過ぎなかった。 「学制」による小学校の設置が、何よりもまず維新政府の政策上の必要から押しつけたものであったし、経費も、就学者の自己負担であっただけに、いかに政府―県の命令とはいえ、住民が積極的に小学校を設立する気にはなれなかったのである。それでもこの年の十二月末までには三百八十二校の小学校が開校した。しかし、その実態は、「大抵別ニ小学校ヲ設ケス従来習字家ノ類ニ稍修正ヲ加ヘテ小学ト為スモノニシテ其教則及授業ノ方法等未小学ノ体裁ヲ具セサル」というありさまであった。 県の強圧的な学校設立督励策の結果で、「学制」が構想する一小学区小学校一校の規定からはほど遠かった。それだけに、「人民向学ノ景況振ハサル」状況を打破しようとして、県官を各地に派遣し、説諭と就学の勧奨を進めたところ、新設の学校が増えたといっても、公立小学校は四百十九校であった(『文部省第二年報』)。ちなみに、当時の人口が約五十二万五千二百人、一小学区がおよそ六百人を目安に区分され、一小学区一小学校設立という規定からすれば、達成率は約五割弱であった。 足柄県は、一八七三(明治六)年二月に、「中学区画及ヒ小学建設ノ儀」について、第一大学区督学局に伺書を提出して、小学校設立の基本方針を明らかにした。この伺書に添付された「当県管下中学区域及小学建設条款」と、三月に県下に布達された「別記条款」とによると、学区と学校の設立計画は、ほぼ次のとおりであった(「南足柄市関本区有文書」)。 当初、足柄県のうち相模国を二分して二中学区に分け、伊豆国を一中学区として、一中学区ごとに小学校二百十の総計で六百三十の小学校を設立することを目論んだが、県当局が、「地理ノ便宜及人口ノ粗密等実験精勘ノ末逐テ設立」すると述べざるをえなかったように、この計画は「目下ノ情態民力ヲ以テ一概ニ難行」なことであった。そこで、行政区域の一小区に模範となる一小学校を設立することから着手し、「土地ノ栄衰」、「人口ノ粗密」や民心の動向などを考慮しながら、逐次普及させようとした。この年六月に画定した足柄県の学区は、当初の三中学区六百三十小学区を、三中学区四百八十一小学区に縮小したものであった。 それでも、この年に設立された小学校は公立二百五十九校、私立九校に過ぎない。このことは、県当局が、民心の動向に考慮を払いながら、小学校の増設を漸進的に進めることを目ざしていたことと無関係ではない。「学制」の規定する学校の設置を急いで、「徒ニ校数ヲ増加スルヲ要セハ却テ学費ヲ消耗スルノミナラス実際ノ教育殆ト画餅ニ属センコト」になるから、「学校ノ維持保護ノ方法」は、生徒の就学状況、父兄の教育的関心の向上、民力の学費負担などを「熟視」しながら確立していけばよいという方針であった(『文部省第二年報』)。 このような、足柄県の漸進的な学校設立策のもとで、一八七四(明治七)年に公立二百六十三校、私立五校、七五年までには公立二百七十五校、私立四校の二百七十九校が設立された。それでも一小学区、一小学校の「学制」からみると、達成率は五八㌫であった(『文部省第二・第三年報』)。 一八七六(明治九)年、足柄県が廃止されて、足柄県管内の相模国の地域が神奈川県に統合された。この地域の小学校百五十二校が加わり、新しい神奈川県の小学校数は、千百三十八小学区五百八十七校となった。学齢人員、十万五百十一人のうち、生徒数は五万一千六百五十二人で、ほぼ学齢人員の半数が、就学していたに過ぎなかった。 中等教育機関の情況「学制」には、中学校として工業学校・商業学校・農業学校・通弁学校や、外国語学校についても規定されている。「学制」期当初の本県の中等教育は小田原の小田原英学校(共同学校)と、横浜の市中共立修文館(横浜市学校)などによって担われていた。 いずれも変則中学であった(以下の記述は『教育史通史編』上による)。 小田原英学校は、系譜的には、小田原藩の藩校、集成館につらなる。集成館が明治維新後「文武館」と名を変え、廃藩置県後には「県学校文武館」と称された。足柄県設置後一時廃止されたが、一八七二(明治五)年四月に、有志者が共同して寄附金等で経費を賄う中学(共同学校)と小学(日新館)として、再び設置された。この中学が英学を主とする変則中学であったところから、「共同学校」あるいは、「小田原英学校」と称されれた。しかし、この中学校は設立当初から経営状態がはかばかしくなかった。加えて、次項で述べるような、小学校の設置にともなう学校賦課金の増大は、有志者から、限られた数の生徒のために、中学校を維持する資金を引き出すことをますます難しくさせた。そこで、小学校の急設が、他方では教員養成機関の設置を促さざるをえないという状況のなかで、小田原英学校は、経営難から、文部省扶助金の下付を得ることのできる公立の学校として再生しようとした。 一八七四年七月、「英学生徒僅々ノ人員ヲ以テ破格ノ金額ヲ費シ資本ヲ衰耗センヨリ寧ロ英学ヲ当分廃シテ講習所ニ転セハ日用常行ノ普通学ヲ隆盛ナラシメンニハ若ス」という理由で、教員養成の目的に沿うように「教規」を改め、「講習所」と改称した。そしてこの年の十一月に、小田原英学校は廃止され、翌七五年一月には、校舎もすべて教員講習所に所属した。その後県が、講習所に予科として英学の併設を認めるよう二度にわたって文部省に伺いを出すという経緯を経て、教員講習所に英学が併設された。足柄県の中学校教育の燈はこのような形で、細々と維持し続けられたに過ぎなかった。小田原英学校の衰微に見られるように、一般的に、藩校の伝統を基盤にして設立された中学校でも、「学制」頒布後も学校として持続的な発展をとげたところは多くはなかったのである。 横浜の市中共立修文館の歩みも、「学制」が構想した中学校としての役割を十分には、はたさなかった。 この学校は、横浜の実業家である高島嘉右衛門が私財を投じて、明治四年(一八七一)十二月に「市民学校」「人民学校」の性格を持たせうよとして創設した「市学校」と、一時幕末に神奈川奉行所に設置され、維新後神奈川県によって復興された「修文館」(明治五年に啓行堂と改称)と、通弁、商業を教授する私塾「同文社」とが合併して成立したものである。一八七三年一月横浜市学校として開校し、後に市中共立修文館と改称された。この学校は県内外の学生に門戸を解放していたので、入学者の九〇㌫以上が神奈川県以外の出身者であった。「通弁商業ノ二科ヲ主トシ開校」した学校であったけれども、七五年の「修文館規則」には、「英学ヲ教授スル所」と規定されている。それだけに、設立者の高島が考えていたような、「市民学校」「人民学校」というより実際は、東京の洋学校と同様に、全国から洋学を学ぼうとする者が集まる学校で、県の洋学校あるいは中学校として発展することがなかった。 県当局に、中学校を新設するという計画がなかったわけではない。神奈川県は一八七五年に、横浜と八王子に公立の中学校を設置する計画をたてていたが、七六年の足柄県合併という事態を迎えると、この計画は、すでに足柄県によって設置されていた小田原師範学校中学科を、県の中等教育機関とするという方針に矮小化されてしまうのであった。その理由は、小学校の卒業者が増加すれば、中学校の開設が必要となるであろうが、進学者が僅少であるうちは、学校を維持する見込みがたたないので、まず小学校の普及に力を注ぐべきであるから中学校の新設はしばらく見合わせるというのである。 このように、「学制」期当初、神奈川県には、中等教育機関は不十分なかたちで存在していた。こうした県下の教育事情は、一八七九(明治十二)年、小田原師範学校中学科の廃止と引き換えに設置された横浜師範学校内中学校が、開校一年後に、県会で中学校予算が削除されて廃止されたことにもよくあらわれている。 横浜野毛修文館開業広告 横浜毎日新聞 明治6年8月8日付 三 小学校の維持と就学の実情 住民の負担租税をはじめ、村入用、地租改正費、徴兵入用費など多くの負担を課せられていた人々にとって、「学制」の実施は、ますます負担を大きくした。政府は、「一切学事ヲ以テ悉ク民費ニ委スルハ時勢未タ然ル可カラサルモノアリ」と一応財政的な手立てを規定してはいたけれども、その実情は第七・八表のように、小学校の設立と運営費用に充てる小学委托金と県税金とが全学費収入に占める割合は、極端に少なく、学費のほとんどが民費と授業料、すなわち住民の負担によって賄われていたのである。 一八七三(明治六)年二月の「神奈川県学制」の第一四則は、授業料以外は、子弟の有無にかかわらず有志者からの寄附金を学校経費に充てることを定めている。寄附金が学校経費の経常的な収入源とされていた。収入源対策は、寄附金構想だけにとどまらなかった。県は学校経費を捻り出すために、あの手この手で住民に学費の負担をかけていった。 一八七四(明治七)年には、有志の寄附金に加えて、「旧高反別割」、「戸数割」による学費賦課の方法を設けて、学費負担を住民全体にまで押し広げていった。また、就学督励との兼ね合いで、学費を得る便宜的な手段として貧富にかかわらず子供が出生した際に、桑茶梅などの四木・果実の栽培をも奨励している(『文部省第二年報』)。 一八七四年から七七年に至る神奈川県の学費収入の状況は、第七表のとおり、学費収入の大半が授業料と民費であり、寄附金と高反別割、戸数割に基づく学区内集金によって維持されている。しかも経常的な収入源である寄附金は、寄附というより、強要された寄附同然であった。寄附金を拠出する学区は、きわめて少なかったようである。そのため県参事は学区取締を県庁に呼びつけて、寄附金の拠出を学区内住民に説諭するよう命じている。学区取締は県庁と小学校と住民との間に立って、督促や斡旋、さらに奨励のために県から木盃を下賜するなどの手段を講じて、ようやく寄附金を徴収していた(『相模原市史』第三巻)。足柄県では、権令の柏木忠俊が率先して寄附金を出し、県官もそれにならう方法で、寄附金の拠出を作り出していった。町村内からの寄附金徴収も一八七五(明治八)年には、相模国の約三万九千四百戸のうち、約一九㌫にあたる七千五百戸が寄附に応じている。 寄附金、学区内集金、諸金利子など住民の負担部分は、授業料を含めると、莫大な割合を占めていた。たとえば、七四(明治七)年の神奈川県全体の学費収入のうち、これらの民費が約五五㌫も占めていて、前年度繰越分は約二六㌫で、委託金、すなわち公金は一八㌫に過ぎなかった。足柄県では民費の負担が九割以上にも達していた。民費負担の内容に立ちいって見てみると、足柄・神奈川県の合併後、寄附金と学区内集金による負担の割合が第八表のとおり、ますます増大している。しかも寄附金の額は、一八七六(明治九)年の二万八千百四十二円余を最高に、七七年は前年の約三〇・七㌫に過ぎない八千六百五十三円となり、順次第7表 神奈川県の学費収入状況 ()は割合をしめす. 『文部省年報』から 減額して、八三年には二千八百五十四円となる。寄附金が減ると、その分は、学区内集金で補わなければならず、賦課金に頼らざるをえなくなる。だが、それは住民の負担増を意味し、学校に対する反感を生み出さないとも限らない。しかし、学校の維持は、もっぱら民費に頼らざるをえなかった。一八七六年の「神奈川県教育会議」は、学校経費の収入源確保のひとつとして、「物産営業等定税ノ外幾分乎増シ」て積み立てる方法と、祭礼時の芝居、相撲、山車、屋台などに「学税トシテ金若干」を賦課することを決めて、その具体的な方法を各大区で協議決定して、県に報告することを命じている(『教育史資料編』一)。また、物品税と興行税の一部を、学校経費の財源とすることを認めたのである。 県のこの命令に対して、県下各大区から課税対象について頻繁に問合せが出されるが、非生産的で冗費とみられる芝居・相撲などの興業のほか、念仏講のような講中や、財産状態に応じて、雛人形、五月幟、七夕祭、紐解祝儀などに賦課金を課すというように、住民の生活行為や行事などが課税対象とされていた(『教育史資料編』一)。 学税を徴収して学校資金の増額を目論もうとしたが、もともと学税の収入額は不定であるだけでなく、多くの収入額を求めること自体に無理がある。結局、学校資金の蓄積は、一八七七(明治十)年の時点で、県全体で「真ノ蓄積金ナルモノハ十分ノ二三ニ居ル」という状態であった(『文部省第五年報付録』)。それだけに、関係住民の並々ならぬ負担があってはじめて、学校が維持されたのである。学校費総収入のうちの九八㌫を村民が負担していて、なおかつ支出の約八㌫も不足していた村もあるが、しょせんこの不足分も、住民のフトコロから捻り出さなければならなかった(『町田市史』)。「学制」頒布第8表本県教育費に占める寄附金・積金利子の割合 『神奈川県教育史通史編』上から 後五年、これが民費丸抱えといわれる「学制」体制の実情であった。 就学の督促一ツトセイ 人並ラシイ面ヲシテ新聞御触モ知レヌ人 コノブツゴウナ 二ツトセイ 二人トナイ子ヲ大事ガリ学校へ出サズニ悪遊ビ コノイツマデモ 「学制」頒布後約一年、一八七三(明治六)年十二月ごろ、「十二トセイ 十人優レテ覚エタラ御上ノ御恩ガシレマシヨウコノアリガタヤ」と歌い終わる、就学奨励をもり込んだ「新版学校手毬唄」が、当時の小学校教員の「手控帳」に書き記されている(『相模原市史』)。 「学制」の要求する教育は、「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」ることにあった。「空理虚談」を排して「実用の学」を教育する場所が小学校であった。しかし、その小学校では、「樵夫や百姓の子供を駆り集めて、……北米合衆国大統領ワシントンが何時生れたとか……斯ういふ調子の教育が行はれて居ったのである」(『江木千之翁経歴談』)から、教え説く「実用の学」が、「立身出世」、「治産昌業」の「財本」と受けとめられなかった。むしろ、授業料の自己負担だけでなく、学区費、教材費、学校費などの学資金の負担を課せられて、「民費は嵩む、学ぶ所は日常生活には用がない、これでは困ると云ふ苦情」が各地でたちあらわれていた(『江木千之翁経歴談』)。このような苦情は、一家の貴重な労働力である学齢期(満六歳以上)の子弟を持つ家では、労働力の一部を、定められた休暇日以外、原則として午前九時から午後三時まで学校に拘束されるので、就学は大きな損失となるという事情と重なり合っていたと見られる。「二人トナイ子ヲ大事ガリ学校へ出サズ」と歌われている背後には、このような労働力の犠牲を強いられる人たちのやる瀬ない気持が表現されていた。 学齢に達した子弟を、近くの学校へ「差出」し、「其愛育ノ情ヲ厚クシ子弟ヲシテ必学ニ従事セシムヘク」(一八七三年「神奈川県学制」、「学制につき足柄県告諭」)ことと、就学は強制的な義務とされていた。 だが、小学校の設立も思うように進んでいなかったのが実情であったから、せめて就学問題を解決していかなければ、「国民皆学」の方針は、方針倒れとなる。そこで打開策として取られたのが、「学制」を受けいれる基盤をじっくりとつくり出すことではなく、一にも二にも「強迫」に等しい就学の督促であった。文部省、県庁、学区取締、学校世話役、戸長などがそれぞれ就学の勧奨と督励にあたった。たとえば、一八七三(明治六)年二月八日付の『横浜毎日新聞』は、学区取締などが「甲乙東西ニ奔走シ児輩ノ齢、入学ニ適スル有ハ其父兄ヲ促シ奨励」にたずさわっていることを報道している。 ところで、「学制」下の教育行政機構は、文部省(督学本部)↓第一大学区督学局↓神奈川県学務掛・足柄県学校掛↓学区取締↓区戸長・学校世話役という指揮系統によって動いていた。一八七四(明治七)年十月、神奈川県令中島信行は、六歳以上の子供で就学していない者がいる場合は、父兄を「取糺」してその理由を学区取締に届出、さらに県庁へ申し立てることを各区の正副戸長、学区取締に通達して、就学の督促を命じている。実際の就学状況は、第九表の通りで、足柄県と神奈川県が合併する一八七六年以前の三年間の平均で、神奈川県は約四〇・一㌫、足柄県が約四三・九㌫の就学率に過ぎなかった。小学校の設立達成第9表 足柄県・神奈川県公立小学校就学状況 『神奈川県教育史通史編』上から 率がほぼ五〇㌫台(それも、多くは、寺院等を仮校舎とした学校であった)であったことからみても、このような就学率では、「学制」の目ざす教育が、絵にかいた餅となる恐れは十分にあった。そこで、一八七六年三月、足柄県では、就学の勧誘と督励のため「聊強促ノ法ヲ施シ従学ヲ促シ以テ一層人民ノ気力ヲ奮励セシメンコトヲ謀リ」、「就学督励法」を定めている(『文部省第三年報』『小田原町役場明治九年県会議案其他書類』)。この督励法では、就学を免除されるのは、病気と廃疾者に限られていた。しかも、怠慢による不就学者には懲戒のための「謝怠金」あるいは「学校賦役」を割り当て、その謝怠金を「貧民ノ子女」の就学の一助にすることとしている。 神奈川県でも、一八七六年、夏の県教育会議で、「就学督励ノ法」を定めている(『県教育史資料編』一)。戸長は、年二回「学齢ニ及ヘル子女」の就学不就学を調査し、県へ報告することを求められただけでなく、「学齢ニシテ不就学ノ者ハ区戸長学区取締等先其家産ヲ探索シ、非常ノ窮民ニ非サルトキハ再三説諭シ、尚聴従セサル者ハ区内人民相議シテ相当ノ学資ヲ出サシムルノ規則ヲ設クヘシ」と、就学督促を具体化することも要求された。不就学者に対して制裁金を課すことが考えられていたのである。不就学者制裁金ともいうべきこの規定が、どの程度具体化されていったかは、必ずしも明らかでないが、不就学者の家産を三段階に分けて、一か月に十銭、七銭、三銭、あるいは四銭、三銭、二銭といった程度の制裁金を課したところもあった(『神奈川県教育月誌』一八七六年十二月)。 この年(一八七六)十一月、専ら教育の普及を図る「照準」として「学区取締事務章程」が制定されるが、不就学対策も一つの重要な柱となっていた(『教育史資料編』一)。従来年二回であった不就学調査を毎月行うことにして、調査の精密さを求めた(「事務章程」では、はじめ三か月ごとであったが、後に改められて、毎月行うことになった)。さらにこの「事務章程」によって、不就学は、「病故等」の「事由」を学区取締から取りただされたうえに、不就学者の父兄と戸長連名の「不就学理由書」を提出して、ようやく認められるのであった。不就学の認定をより厳しくしたうえで、なおかつ不就学者が存在するのは、学区取締の職務怠慢の結果とみなされることになった。また、月一回管轄区内を「巡視」して、学校の「実況」と「人心ノ向背」など、学事に関係する事項を「監査」して、「巡廻日誌」を作成することも義務づけられる。学区取締は、教育行政の現場にあって、管轄内小学区のいっさいの学務を担当し、県の学務課と督学局とのパイプ役を果たす「学制」実施の要石ともいう存在であった。したがって、就学の督励とその効果いかんが、県官に準じた身分を与えられていた(十二等から十五等)学区取締の鼎の軽重を問うことにもなる。具体的にどんな言辞を用いて就学の説諭や督促を行ったかはわからないが、たとえば、小学校の新築問題ひとつとっても、民費の負担増との関連で「苦情百出或ハ暴言ヲ咄キ暴行ノ挙ニ出テントスル状況アリ」(『川崎市史』)と、ある学区取締が記していることからみても、就学督促対策が目にみえるような効果を上げたとは思われない。 このことは、就学率の推移からも推察できる。第九表のとおり、足柄県・神奈川県が、「強迫教育」と当時の人たちが呼んだといわれる強力な就学督促方法を実施した一八七六年は、とくに女子の就学率が伸びたこともあって、就学率は学齢児童男女全体ではじめて五〇㌫台となった。ようやく学齢児童数のほぼ二分の一にまで就学率が伸びたのもつかの間、翌年の一八七七(明治十)年は、四六・二㌫に落ちこんでいる。落ちこみの理由は、明らかでないが、年々漸減し、一八八一年には四二・五㌫となる。「学制」以来全国平均をやや上まわっていた就学率も、その後は、県全体としては上昇するが、全国平均を越えることはなかった。 就学者が増加したといっても、その児童は必ず毎日出席し通学しているとは限らない。そこで、就学率が下降し始めた一八七七年の出席状況をみると、県全体で、出席率は八〇・四一㌫(全国平均七〇・七四㌫)、通学率は三七・三九㌫(二七・九三㌫)であった。実際に就学し、日々出席して通学している児童数は、学齢児童の四割にも満たないことがわかる。 学区取締らの熱心な就学勧誘にもかかわらず、その実態は、この程度であった。「非常ノ窮民」か「病故」以外は就学しなければならないのが原則であったとはいえ、就学者といっても、その実ほとんど学校に通学していない者が多かった。「学制」の実施は、多数の不就学児童と、長欠児童を切り捨てて進められ、「国民皆学」の方針とは矛盾する結果をもたらしていたのである。 第四節 徴兵令の発布と施行 一 徴兵令の制定 徴兵令の布告維新政府は、明治四年(一八七一)四月、鹿児島、山口、高知三藩兵約一万人からなる「親兵」を直属軍隊として設置し、同年七月にはこの武力を背景に廃藩置県を断行した。さらに廃藩置県後、東京・大坂・鎮西・東北の四鎮台八分営設置の指令を出し、神奈川・足柄の両県は東京鎮台の管轄下にはいった。鎮台兵には、各藩の武士を召集した壮兵をあてたため、訓練や装備も統一を欠いていたけれども、新しく編成された常備軍であった。しかも、廃藩置県後の各地域には、反政府の風潮がび漫していた。それだけに、「管内厳粛ニ取締即決処置懲誡ヲ可加候万一手余リ候節ハ所在鎮台へ申出臨機ノ措置ニ可及候事」と、政府が布告で述べているように、鎮台兵は、反政府の暴動を鎮圧するためのとっておきの存在であった(『法規分類大全』兵制門一)。 しかし、それでも鎮台兵の訓練や装備を画一化して、兵力を整備し、「内国ヲ綏撫シ人心ヲ鎮圧」する新しい軍事力の創出が、維新政府の主要な課題となっていたのである(大山梓編『山県有朋意見書』)。 明治五年(一八七二)十一月二十八日、維新政府は「徴兵ニ関スル詔勅」と太政官告諭を発して、徴兵令の発布を予告し、十五日後の一八七三(明治六)年一月十日には徴兵令を布告して国民皆兵制を宣言した(明治五年は太陰暦を改めて太陽暦を採用したため十二月二日で終り、十二月三日が六年一月一日となった)。 「徴兵ニ関スル詔勅」は、「国家保護ノ基」の確立を「百官有司」に号令したもので、詔勅を敷衍した徴兵告諭では「固ヨリ後世ノ雙刀ヲ帯ヒ武士ト称シ抗願坐食シ甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス」と述べて、士族の武力独占を否定し、「全国四民男子二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ、以テ緩急ノ用ニ備フヘシ」と厳命して国民皆兵主義を強調して、徴兵は国民の義務であると規定した。 一八七三(明治六)年一月十日、徴兵令が布告された。徴兵令によって、二十歳に達した成年男子は徴兵検査を受け、毎年一万五百六十人が常備軍(三年在営服務)として徴集され、続いて後備軍に編入され(常備軍の服務終了者で、在郷して四か年召集義務)、合計七か年の兵役を務めるよう定められた。ほかに十七歳から四十歳までの男子は国民軍としてすべて兵籍簿に登録されることとなった。徴兵令と前後して兵制が整備改正され、四鎮台は全国六軍管、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の六鎮台、十四営所が設置された。神奈川県、足柄県ともに第一軍管東京鎮台に編入された。こうして国民皆兵を基調とする徴兵制度がしかれた。徴兵令によって構想された日本軍隊は、鎮台平時の定員が三万一千六百八十人、戦時の定員四万六千三百五十人、近衛兵三千八百八十人で、合計、平時下では三万五千五百六十人、戦時には五万二百三十人であった。 不公平な徴兵免役規則徴兵令の制度はそれ自体大きな問題をもっていた。それは、徴兵令第三章の常備兵免役概則である。免役概則は十二条にわたる広範な免役規定を定めていた。免役条項のあること自体、国民皆兵と矛盾するが、それだけでなく、免役条項こそが徴兵令の特色と性格を物語るものであった。 十二条の免役条項は、ほぼ次のように分類される。 一 身長五尺一寸未満の者および虚弱者と不具者 二 陸海軍の生徒 三 罪科ある者 四 官省府県に奉職の者。官立学校卒業生および生徒。洋行修業の者。代人料二百七十円納入者。(代人料の規定は、免役規則でなく雑則にある) 五 一家の主人。嗣子および承祖の孫。独子独孫。父兄に代って家を治める者。養子。徴兵在役中の兄弟。 このように分類される免役条項を、さらに立ちいってみてみると、まず一は、当然のこととみられるが、じっさいには、有力者の子弟が徴兵検査官と結託して「兵役ニ堪ヘサル者」との認定を受ける手立てともなった。三の「罪科アル者」は、「忠直奉戴の誠」を尽すことを目的とする軍隊の秩序を乱す恐れがあるからという理由であった(『公爵山県有朋伝』中巻)。四は、官僚と有産者たちに特権的な地位を与える規定であることは明らかである。とりわけ、代人料二百七十円を上納すれば、検査のうえ、現役の抽選に当たっても免役をうける道も開かれていたのである。当時歩兵二等卒の俸給年額は十五円三十三銭、食費代、賄料、被服寝具などにかかる費用が平均六十七円六十六銭で、合計八十二円九十九銭ほどの経費であるから、代人料は兵卒一人の常備三年分をこえる額に相当していたのである(岩波講座『日本歴史』近代4 一九六二年版)。それだけに、こうした巨額の代人料を納めることのできる人たちは、きわめて少数であった。一八七三(明治六)年から八〇年に至る八か年の間に、代人料の納入者は全国でわずか六百四人に過ぎなかった(鹿野政直「日本軍隊の成立」『歴史評論』四六)。 神奈川県の場合、一八七四(明治七)年に二人、一八七六年に三人、一八七七年に一人、一八七九年に二人、一八八〇(明治十三)年に八人と、十六人を数えるだけである(『神奈川県史料』第一巻)。五の免役規定は、戸主・戸主たるべき者・戸主に代わるものすべてを兵役の対象外としているが、このことは、国民を統合していく上で「家」を重視しようとする維新政府の方針と関係していた。このような広範な免役規定があったため、理想として国民皆兵を目差したといっても、実際は、国民皆兵制とは異なる賦役にちかいものであった(藤原彰『軍事史』)。そのため徴兵による労働力徴収に対する農民の不満もたかく、いわゆる「血税一揆」、「徴兵反対一揆」がひきおこされた(十六件のうち七六年に十三件発生)。しかも、徴兵令の採用によって、維新政府に対する士族の不平と反抗もたかまり、西南の諸県に、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、山口萩の乱が発生していた。それだけに、広範囲な徴兵免役制のもとで実際にはほとんど徴兵の実をあげえないのが実情であった。 神奈川県の場合でも、一八七三(明治六)年の第一回の徴兵検査では、徴兵相当の壮丁は二百八十四人で、割り当て徴兵数が二百二十人であったが、徴兵合格となったものは、百十四人に過ぎなかった。全国的にみても、第十表に読みとれるように、徴兵令制定後三年の一八七六(明治第10表 1876年全国徴兵免役者の状況 鹿野政直「日本軍隊の成立」『歴史評論』46から 九)年の免役者は、じつに八二㌫もの免役者がでているのである。 二 徴兵の実情 徴兵令の実施徴兵令は一八七三(明治六)年一月十日に発布された。この日陸軍省は、東京府および神奈川県ほか十六県に、「今般徴兵令被相定首トシテ東京鎮台管下ノ府県徴兵被仰出来ル二月十五日ヨリ徴兵使発行候」と指令し、まず東京鎮台管轄下の府県に徴兵令の実施と徴募事務の開始を命じた(『法令全書』一八七三年)。それによれば、「現今戸籍人口調モ不精密ノ折柄」なので、今回限り徴兵適齢期の壮丁が、どのくらいいるかということと無関係に、府県の米の収穫高、つまり石高に応じて、「一千五百石ニ付一人ノ見込ヲ以テ」徴募することにしたのである。当時神奈川県は石高三十三万石、足柄県は石高二十六万石であったから、神奈川県には二百二十人、足柄県には百七十三人余が徴兵人員として割り当てられた。東京鎮台管轄下一府十七県で徴募相当数は約四千九百七人であった。 陸軍省の指令をうけて神奈川県、足柄県で徴兵事務が開始された。神奈川県にあっては、権参事を議長に、典事以下八名がそれぞれ徴兵議官・議員に任命され史生、傭医各若干名をもって徴兵事務のスタートを切った(『神奈川県史料』第一巻)。足柄県でも二月二日に戸主と長男を除いた満二十歳の者を召集し下検査をおこない、二月十三日には各区に徴兵史生、徴兵議員を事務取扱として任命している(『明治小田原町誌』上、『神奈川県史料』第九巻)。 ところで、徴兵令がまったく一方的に、「民庶」の意志や行為とは関係なしに問答無用の形式で発布されただけに、国民皆兵の実施宣言は、民衆にとっては青天の霹靂であった。しかも、不公平な免役規定によって、国民皆兵どころか、徴兵は「大切な人の子を折角両親が辛苦艱難を尽し、尿屎の世話から手習ひ算盤そこそこに稽古させ、これから些し家業の役にも立様に成ったもの」、すなわち一家の労働の柱ともいうべき存在である男子の労働力を徴発する、新たな徴税として重くのしかかったのである(『明治文化全集』第二〇巻所収「開化乃入門」)。「徴兵告諭」の「血税」という表現を逆手にして、新たな負担増である徴兵から逃れようとする心情は、かなり広範囲に広がっていた。神奈川県や足柄県には、徴兵反対の集団的な動きについては、今のところ記録された資料としては残されていない。しかし、徴兵令の施行にさいして、神奈川県では「管内人民或ハ朝旨ヲ暁解シ難カランヲ恐レ県官派出シ諭告懇到頗ル勤メリ」(『神奈川県史料』第一巻)といったような手立てを用いて、徴兵令の趣旨の徹底に懸命であった。県下には、徴兵を免れる手段として、自ら姿をくらます失踪・逃亡などがかなり続出していた。徴兵令施行二年目の一八七四(明治七)年九月十四日、第二大区から第二十大区の区長全員を県庁に呼び集めて、権参事小島信民の「徴兵逃亡に関する訓示書」を申し渡したのも、徴兵逃亡者が頻発する事態に対してとった措置であった。そこでを未然に防ぐには、徴兵令の趣旨をよく人民に理解させることであるから、区長らが権参事に代わって人民の説諭にあたるこは徴兵逃亡とを督励している。 「被仰渡今般徴兵令ニ就テ妄リニ逃亡スルノ徒アリ聞エアリ、実ニ予ノ心ヲ痛マシムル所也、抑徴兵ノ令アルヤ政府ニヲイテモ深ク策ル所アリ、既ニ旧藩士ノ志願スルモノ数多アルヲ或ハ説或ハ諭シテ之ヲ黙カシメ其之ヲ厭フ農工商ヲ問ワズ一般人民ノ内ヨリ年当ノ者ヲ徴ス、是全国人民ノ権ヲ同一平均センカ為メニシテ尤国力ヲ奮起スルノ基礎タリ……〈中略〉……今日徴ス所ノ者必今日戦場ニ趣カシムルノ理ナシ、逐次予備ニ充ルニ在ルモノトス、然其便ヲ捨迂ヲ取ル皆将来全国人民ノ権栄ヲ均フセンヲ慮ルノミ……〈略〉……茲ヲ以テ能区長ニ於テ説諭シ其部属ノ婦女老父母ノ喋々ヲ慰メ当者ノ疑団ヲ解ン事ヲ啻ニ某意ヲ解セス驚怯シテ逃走亡命スル如キ徒アルニ於テハ他県エノ聞且政府エ対シ予ガ面目又是ヲ如何ト思フヤ、因之自ラ回郷シ説諭セント思フモ時トシテ暇ヲ得ス故、今回各区長ノ足ヲ労セシナリ、此旨服膺シ徴兵令免役規則ニ当ル事情アルト否トヲ弁察シ之ヲ調理シ不日徴兵使発向アル時ニ当ツテ差閊無之様注意有度是予ガ所望云々」(『藤沢市史』第三巻)。 県当局は、区長らが徴兵令の趣旨を人民によく説諭し、徹底することと、免役規則の厳密な適用などによって徴兵の実をあげようと躍起となっていたことがわかる。「妄リニ逃亡スル徒」、「某意〈徴兵の趣旨―筆者注〉ヲ解セス驚怯シテ逃走亡命スル如キ徒」が続出するようでは、「他県エノ聞且政府エ対シ予ガ面目」も丸つぶれになるから、「徴兵使発向アルニ当ツテ差閊無之様注意有度」と、権参事が区長らに強く「所望」しているのである。徴兵令の趣旨の徹底は、維新政府の威信を草深い村々にまでゆきわたらせることでもある。それは置県後たかだか三年にもならない県が、「学制」と「地租改正」の施行に加えて、この徴兵令の実施という新政府の三大改革事業をいかにして軌道に乗せるかということでもあった。それだけに、初代県令陸奥宗光の着任と同時に、大蔵省の租税権大佑・祖税寮三等出仕をへて神奈川県大属へ転出し、この年二月に権参事となっていた小島信民にとってみれば、区長らを呼びつけてまでして、徴兵令の趣旨を強調しなければならないほど徴兵逃亡者がいるということは、まさに維新政府の中堅官僚の面目にかかわることでもあった。 さて陸軍省の指令をうけて、一八七三(明治六)年二月に足柄県は、小田原の旧本陣の清水家宅に徴兵検査場と徴兵署を設けた。また神奈川県が、横浜の野毛山学校を徴兵署にあてて、徴兵使を迎えてはじめての徴兵検査をおこなったのは、三月九日である。もちろん、県下の徴兵適齢者を全部ここに召集して検査をおこなったのではない。まず県下の村々で、区長らが徴兵下検査と称する徴兵適格者の調査をおこなった。この下検査は、前年の明治五年に精密に作られていた「戸籍帳」(壬申戸籍)に基づいて、戸籍区を単位として実施された。だから陸軍省令は、現時点では戸籍や人口の調査が精密でないので、急に適齢者を調べるのは、容易なことではないとのべているけれども(『法令全書』一八七三年)、「壬申戸籍」が、徴兵下検査では威力を発揮したはずである。適齢者の抽出は、それほどむずかしくはなかったはずである。それよりも、適格者の判定にこそいろいろ困難があったようである。徴兵令を遵守するとの「請書」を村々の戸長・副戸長に出させて、適・不適格者の判定に責任を持たせていた。だが、名目上は維新政府の「百官有司」の末端につらなる戸長・副戸長ではあったが、幕末以来村の統率者として村びとたちとともに、激動の「御維新」の渦中に身をおいてきただけに、一家の労働力を徴発するに等しい徴兵には、なかなか精励する気にはなれなかったようである。期限までに適齢者の調書を県に提出しないため、「昼夜ノ差別ナク早々取調」べることを督促されながらもなお提出せず、再三にわたって「早々可差出事」と県から催促される区長もいたのである(『神奈川県布達』一八七三年十二月一日、十二月五日)。また、橘樹郡第二十二区(現在川崎市域)の第一回目の徴兵下検査では適齢者五十三人全員が、嗣子・戸主・養子・独子・父兄に代わって家を治める者、開拓使御用人足として出稼、五尺一寸未満、病弱、不具、以上のいずれかに該当して、徴兵不適格者であったという記録もある(『川崎市史』)。あるいは第二十区の田名村(現在相模原市)で、実際には、五尺二寸の身長であるのに、免役該当者として申し出たところ、「戸長共不調ノ儘区長ニ申出」たことが露見して、再検査の上「昼夜ヲ掛ケ可申出事」と、区長が県から灸をすえられたりしている(『神奈川県布達』一八七三年十二月二十日)。区戸長らの意識的とも思われるようなルーズな徴兵下検査は、全県的におこなわれていた。村々から下検査をすませた徴兵適格者が、区戸長らに付き添われて、横浜野毛山の検査場へ出頭した。そこで徴兵使の「検丁」(検査)を受けて徴兵者が決められた。陸軍省から二百二十人の徴兵を割り当てられていたが、二百八十四人の被検者のうち検査合格したものは百四十四人に過ぎなかった。割り当て数の六五㌫程度しか充足できなかったのである。しかも、そのうち実際に入営する常備兵はさらに少なく、百一人であった。このような事態は、神奈川県だけのことではない。免役者の増大などもあって全国的にみても実際に徴兵した兵員は少なく、近衛および各鎮台の壮兵に代えるまでにいたらなかった。徴兵令施行後三年の一八七六(明治九)年の時点でも、徴兵の兵員はなお旧来の壮兵の数に匹適しなかったというから、その意味では、徴兵の名があって実がなかったともいえる(藤原彰『軍事史』)。 神奈川県の場合、最初の徴兵検査合格者は百四十四人であったが、うち常備兵が、歩兵八十四人、騎兵三人、砲兵七人、工兵六人、輜重兵一人の合計百一人。補充兵は、歩兵三十四人、騎兵三人、砲兵三人、工兵二人、輜重兵一人の合計四十三人という内訳であった。常備兵百一人は、この年六月一日から十日までの間に東京鎮台千葉県の佐倉分営に入営した。県では、この月国民軍創出のため、村々で十七歳から四十歳までの成年男子を調査し、国民軍連名簿の作成を命じ、県官が各村を巡回するなどして、もっぱら徴兵の徹底に意を注いでいた(『神奈川県史料』第一巻、『町田市史』下巻)。しかし、徴兵の実があがらず、県官の心痛事となるほどに逃走亡命者が出る始末であったことはすでにみたとおりである。 徴兵検査をまぬがれようとして逃走するだけではなかった。第一回の徴兵で、東京鎮台第一連隊第二大隊第一中隊に服役中の兵士が入営二か月で脱走を企てた。県令の大江卓は、兵士の出身地の区長に、区内に潜伏しているのを発見したら取り押さえて、ただちに連行することを厳しく命じたように、徴兵忌避には、神経をくばっていた(『川崎市史』)。 徴兵令が、意図どおりに実施されるか否かは、村々でおこなう徴兵下検査の成否にかかっていたともいえる。しかし、この検査にかかる費用や、適格者を徴兵検査場へ引率していく往復の費用などの徴兵にかかる経費は、官費支弁の項目もあったが、そのほとんどが区費、あるいは郡区役所ならびに戸長役場経費で賄われた。この費用の負担は、ひとえに県民の負担にかかっていたのである(『神奈川県布達』一八七七年一月十日、一八八〇年三月十六日)。第二回目の徴兵検査(一八七四年二月)から、第11表 神奈川県徴兵人員(1873年~1878年) 『神奈川県史料』第1巻制度部から 横浜、八王子、鎌倉に徴兵署と検査場が、一八七八(明治十一)年には、横浜、藤沢、八王子、小田原にもそれぞれ設置されて、一日ないし二日間、戸長や徴兵議員などが詰めて、検査を受ける青年たちと同様、緊張した面持ちで検査の成り行きを見守っていた。彼らにとっても、徴兵使による徴兵検査は、下検査の精粗や免役理由書の作成などの徴兵事務を監査されることでもあったからである。一八七九年十月には下検査に県官を派遣することを廃止した(『神奈川県史料』第一巻、『神奈川県布達』一八七八年二月一日、『神奈川県郡宛達』一八七九年十月十日〈山口家文書〉)。 ふえる徴兵忌避一八七八(明治十一)年四月九日、神奈川県権令野村靖は、旧足柄県域を除いた各大区へつぎのような達を出している。 「別紙島村為二郎外九十八人本年徴兵検査ノ際逃亡或ハ病気事故等ヲ以テ不参候ニ付来明治十二年へ差廻シ可遂検査旨其筋ヨリ達有之候条其父兄へ豫テ可達置此旨相達候事」(『神奈川県布達』一八七八年四月九日)。 徴兵令に反対する農民一揆が、武力で鎮圧されてからは、これまでよりも免役規定を利用した徴兵忌避の動きが全国各地で活発となっていた。県権令野村靖名のこの「県達」が物語っているように、逃亡などによる徴兵忌避の動向は、県当局の懸命な監督指導にもかかわらず、いっこうに減るきざしは見えなかったのである。それどころか、免役規定の抜け道をとらえた徴兵忌避はかえって燃えひろがっていた。 国民皆兵の原則といっても、実際に常備兵として徴兵されたものは、ごく少数であった。これは免役が多かったためと、猶予、除役、落籖、不合格、逃亡、そして補充兵にまわされるものがいたためなどであった。神奈川県の壮丁者総数に対する常備兵の割合は、第十二表によると、一八八〇(明治十三)年が、壮丁者総数五千七百三十六人のところ四百十八人の七・二八㌫で、一番高い一八八四(明治十七)年でさえ、七千百二十六人のうち六百五人と、八・四九㌫にしかすぎない。ピークの一八八四(明治十七)年を境に減少し、一八八五(明治十八)年から一八九三(明治二十六)年までは、一年に平均四・六六㌫にすぎない。人口に対する壮丁者の率はほとんど変化がないから、政府の強調する国民皆兵などという看板とはおよそかけ離れていたのが実情である。最大の原因は免役者が圧倒的に多かったからである。 免役規則はすでにみたように不公平な内容を持っていたが、この規則を巧みに用いて、なんとか徴兵をまぬがれようとする者は跡を絶たなかった。人々は「学制」が「奪子」であるとするならば、徴兵は賦役労働であり、一家の労働の柱を「御供物」として取りあげる「奪柱」ともいうべき災難としてとらえていたのである(『明治文化全集』第二〇巻所収「開化人口」「文明田舎問答」)。しかも徴兵される本人はもちろんその家族も、本人が常備兵として入営すれば、「俗世間」とちがう規律と、厳しい訓練によって成り立っている「軍隊社会」での人間性喪失の恐れや戦争=生命の危機感などから、徴兵忌避の心情は人々の中に流れていたのである。だから徴兵検査不合格の者が、「身祝い」と称して祝宴を張る風潮に対して、神奈川県参事高木久成の名で、検査不合格者は「柔弱」なのだから、身祝いをするのは、人心を第12表 神奈川県常備兵徴収人員表(1880年~1893年) 『神奈川県統計書』から 惑し、因循の心をおこすので、とんでもないことであると、戸長に監督の強化を求めるような事態も生じていた(『町田市史』下巻)。 「徴兵懲役一字の違ひ、腰にサーベル鉄鎖」(松下芳男『徴兵令制定史』)、という歌は、後年に作られたのだが、懲役に行って(犯罪を犯して)、徴兵を免れようとする者まであらわれる始末であった。百八十ページの第十二表と百八十一ページの第十三表のように、徴兵適齢者に占める免役者の比率は、全国で、なんと八〇㌫から九〇㌫台である。神奈川県を管轄下としていた第一軍管東京鎮台も、同様である。免役者のほとんどが「嗣子・承祖の孫・養子・相続人」や、「戸主」の場合であった。一八七九(明治十二)年の免役規定の全面改正で、免役の範囲が、狭められたが、徴兵該当者はこぞって免役の理由のでっちあげにつとめた。年々徴集に応じた一万人余は、免役の口実をつくる工夫がなく、やむを得ず兵役に服した者であるとさえみられていた(伊藤博文編『兵制関係資料』)。免役の口実のうちで、最も多かったのが「家」に関するものであった。一八七七年、県ではつぎのような「達」を区戸長らに発して、「分家分藉」や「相続換」「帰藉」などの安易な願出は、「種々ノ不都合ヲ醸シ或ハ修身方向ヲ過リ候」と述べて、これらの願出が徴兵免役の手立てとなっていることを十分に知っていた。 「分家分藉致シ度者ハ其職業ニ従事シ独立活計ノ見据相立可願出筈ノ処往々一時ノ都含第13表 徴兵並びに免役簿人員対照表 『太政類典』第3編第49巻による 1875年と1878年の全国欄の数値は各軍管の数値と合わないがそのままとした. ヲ以幼男女等ヲ分家分藉シ追テ生計不相立或ハ病身等ノ事故ヲ以相続換又ハ帰藉等願出候者有之右者最初軽忽ニ取極候ヨリ種々ノ不都合ヲ醸シ或ハ修身方向ヲ過リ候者不少却テ破産ノ基ニ付自今分家分藉致シ度者ハ素ヨリ家屋等ヲ設ケ確乎将来ノ目的相立候上出願候様区内無洩諭達可致」 維新政府が保護しようとした「家」は、かえって徴兵忌避のとりでとされたわけである。軍政当局者は、行政解釈と徴兵令の改正で対抗した。一八七四(明治七)年の「徴兵令参考」とその改訂、一八七九(明治十二)年、一八八三(明治十六)年の徴兵令の改正などで、免役のわくは、次第にせばめられた。それでも人々は、あの手この手の免役理由をひねり出そうとした。当時、全国的に「徴兵免役心得」、「徴兵免否鑑定所」「兵役問答」といったたぐいの出版物が氾濫し、適齢青年を好餌に販売されていたという(菊池邦作『徴兵忌避の研究』)。徴兵忌避に用いられた手立ては、「家」のことだけでなく、「病弱・不具者」という身体的な免役理由のために、自分で体を傷つけたり、あるいは病気を担造するなどということもあった。これには、当時、人々の生活と密着して医業を営んでいた医者が、多分にかかわっていたようである。そのためであろう、県当局がたびたび、診断書について、「雛形」による形式の統一と、軽忽な発行を厳しく戒しめていた(『神奈川県庁達』一八七七年九月二十九日、十月六日)。 「医業ノ者病人へ診断書ヲ請求候者有之節ハ篤ト其病症ヲ診察候上ナラデハ軽忽ニ授與難致ハ勿論ノ儀ニ候タル毎年徴兵ノ際兵役ヲ忌避セントスル者ヨリ濫リニ証書ノ依頼ヲ受ケ候迚病症ノ軽重モ不問容易ニ授與シ甚シキハ診察ヲモ不致者モ有之趣不都合ノ至ニ候条右等心得違無之様屹度該営業ノ者へ可相達以旨相達候事」 神奈川県は、甲部巡察使関口隆吉が報告しているように徴兵令施行以来徴兵を忌避するものが多かった(資料編=近代・現代⑴一〇三)。 神奈川県内で発行された徴兵猶予条項を解説してある『徴兵服役便覧』 県史編集室蔵 第14表 徴兵免役規定の変遷 『日本近現代史事典』から 県当局は区戸長らをかいして、説諭勧誘につとめて、なんとかこのような状態からの脱却をはかろうとしていた。しかし、その区戸長らは、「現今ハ人民ノ公選ナルカ故ニ、常ニ人望ヲ博スルニ汲々トシ、却テ徴兵忌避策ノ術ヲ助クルヲ之レ勤ムルカ如キ情ナキ能ハス」、と陸軍当局から糾弾されるしまつであった(『陸軍省沿革史』)。この「徴兵忌避策ノ術」が「戸籍更正願」であった。そのため、県は郡区役所や戸長役場に願書取扱事務の精密な実施を、しばしば指導している(『神奈川県布達』一八八一年十月六日、八二年四月二十一日)。そして、「戸籍点検」、「戸籍照較」、「質問」、「送籍地調査」の四つの手順からなる「徴兵下検査手続」を決め、兵事課を新設し、徴兵事務官を町村に巡回させるなどの取締方法を設けて、「且ツ説諭勧誘等ニ力ヲ尽クセルヲ以テ忌避スルモノ漸ク減少スルノ状況ナリ」というところまでこぎつけていた。しかし、それでも「予メ老衰死ニ近キ輩ヲ分家セシ置キ、其死ヲ待テ死後養子トナシ、又ハ絶家再興ノ名ヲ以テ免役ヲ謀ル徒、猶未少カラス」(資料編11近代・現代⑴一〇三)と巡察使の関口が書いているように、免役率はまだ七〇㌫以上にもなっていた。このような合法的な免役手段のほかに、自ら姿をくらまして徴兵を免れるために、かなりの者が、徴兵検査時に失跡・逃亡している。第十五表によると、一八八九(明治二十二)年の全国における逃亡・不参者は徴兵適齢者の九・九七㌫(約三万五千六百六十七人)で、神奈川県では、一〇・六九㌫にも達している。失踪・逃亡者は、全国に指名手配をうけ、つかま第15表 神奈川県下の徴兵忌避者数 井上清『日本の軍隊』,『神奈川県統計書』から れば翌年は先入兵としてまっ先に服役しなければならなかった。また、その責任は、家族や戸長らにまでのしかかるのであった。あるいは、常備兵として入営した者も、塀を高くして、まるで懲役場のようであったといわれる営舎から逃亡する者も出ていた(『川崎市史』『町田市史』下巻『藤沢市史』第三巻)。このような、徴兵を免れようとする個人的な忌避行為は、この時期、国庫は二万人以上の兵員を養うにたえない状態にあるという意見もあったから(『兵制関係資料』)、むしろ結果的には強制徴兵を確立する過程で抵抗力を分散させることになったともいえる(『講座日本歴史』4)。 一八八五(明治十八)年九月二十一日、県は、「郡区兵事会準則」を定め、徴兵事務のみならず、在郷軍人の取り扱い、行軍演習の思想、兵役者家族慰労策など、兵事万般にわたる施策を着々と進めていた(『神奈川県布達』一八八五年九月二十一日)。 三 西南戦争と県民 台湾出兵一八七四(明治七)年五月、明治維新政府は台湾に出兵を決行した。これは琉球帰属問題をからめて、一八七一年に琉球諸島の船が台湾に漂着した時の乗組員の殺害、一八七三年に岡山県の漁民が、同地で略奪されたことなどを理由としていた。八月十五日、陸軍省は「達」をもって府県にこの年の徴兵補充兵にすべて入営することを指令し、さらに十五日には、臨時徴兵のため、徴兵連名簿と免役連名簿の差し出しを、十五日間という期限つきで命じた。この時の神奈川県内の徴兵は、二百六人で、常備兵百十三人、補充兵は九十三人であった。十月に常備兵・補充兵のうち歩兵は佐倉、宇都宮の営所へ、工兵は東京本営に入所した。この月イギリス公使のあっせんで、清国との和議が成立したため、「今般詮議ノ次第有之」ということで、臨時徴兵のうち補充兵にかぎり解隊することとなった。ところで二百六人の臨時徴募兵のうち、百八十一人は、「志願ノ者ニ係ル」者であった(『神奈川県史料』第一巻)。徴兵免役者と失踪・逃亡者が多く出て、県官の頭を悩ましていたこの時期、志願兵の持つ意味は、徴兵制度は、農家の次、三男など社会の相対的過剰人口を対象にした強制募兵制度ではあったが、免役、失踪・逃亡などの状況からいって、台湾出兵時に志願した徴募兵は、旧小田原藩の藩士の人たちが多かったのではないだろうか。これを西南戦争の時の旧小田原藩の藩士動向からさぐってみよう。 西南戦争と県民一八七七(明治十)年二月西南戦争がぼっ発した。一八七三(明治六)年の政府部内の征韓論分裂以後、西郷隆盛らは下野して鹿児島に帰り、私学校(篠原国幹の主宰する銃隊学校と村田新八の砲隊学校からなる)を中心に子弟を養成していた。鹿児島では士族の支配体制が続いていて、維新政府の諸改革(学制・徴兵制・地租改正)をはじめとする「開明的諸政策」や、秩禄処分、廃刀令などの士族解体策に反対し、政府に不平と不満を抱いていた。西郷らは私学校の生徒に擁されて、挙兵し、熊本鎮台を攻撃した。政府は直ちに徴兵令による軍隊を派遣した。西南戦争の県民とのかかわりは、まず、二月十九日、県令野村靖は、県下に次のような「達」を出している。 「鹿児島県下暴徒兵器ヲ携ヒ熊本県下へ乱入反蹟顕然ニ付征討被仰出候ニ付テハ管下ニ於テ自然逆徒遁逃又ハ潜匿可致哉モ難斗ニ付厳重取締致シ若怪敷モノ徘徊候ハ、速ニ取 置摸寄警察署へ被報知候様可致候此旨相違候事」 さらに二十四日には、旅客の取締りを、一層厳密にすることを旅客渡世の者(旅客営業者)に伝えることを区戸長に命じている。同じくこの日、第二後備軍の臨時召集の号令がかけられ、三日後の二十七日までに川崎駅へ集合することを、在郷の諸兵に急いで通知するようにとの「県達」が出されている。六月十一日には、四月にいったん、「本年徴兵合格者中身幹五尺未満之者時宜採用」の予定が、常備・補充兵で徴員が満たされたとして、五尺未満の者の「解放」を宣言しておきながら、「今般詮議之次第有之」という理由で「更ニ召集相成候義モ可有之」と言ってのけなければならないほど、戦況は政府にとって困難な事態であったわけである。さらに、八月二日には、この「身幹五尺未満」の補充兵が入営を命じられるのである(『神奈川県布達』一八七七年二月二十四日、四月二十五日、六月十一日、七月二十日)。入営時に病気などの理由で入営を延期した者は、規定では、六十日経過しても入営できない時は翌年回しとなるのであるが、この年にかぎって、規定にかかわらず入営延期の理由がなくなったら、すぐに届出なければならなかった。政府=県は、士族反乱の鎮圧に躍起であり、そのため新しい軍事力の実力を証明するのに懸命だった。それでも、まだ「武力」が不足していたので、警視局は、旧士族を臨時に召募して「新撰旅団」を編成する。五月二十一日、これを受けて、旧小田原藩士族に対して志願者を募る。警視局の係員も出張して来るが、応じた者は、三十人ほどにすぎなかった。この理由は「旧藩士ノ門閥聊人望アル者異論ヲ唱へ」たからであるとされている(『神奈川県史料』第一巻)。旧藩士が少ないのにくらべて、「農商等ノ召募ニ応スル者」は六十人と、二倍も多かった。戦は激戦をきわめたが、「農民兵士集団」とやゆされた近代的軍隊の勝利をもって、九月二十四に西南戦争は終結した。この戦争に従軍した県民の実数は明らかでないが、戦病死者は百四十八人、負傷者は八十五人であった。負傷者に下賜されるはずの恩給も、「即今実践難相成」ということで、働き損の感もあった(『神奈川県布達』一八七七年八月三十日)。 この布達が出される一週間前の八月二十三日夜、東京板橋にある近衛砲兵大隊の兵士数百名は、軍隊内の待遇改善を要求して、一せいに蜂起して皇居に押しかけた。いわゆる「竹橋事件」である。この事件の直接の原因は、前年の西南戦争の恩賞問第16表 西南戦争従軍死亡者・負傷者数 『神奈川県史料』第1巻制度部から 題や、給与の切下げなどの待遇問題から生じた。この蜂起は、反乱の指揮をとるとされていた岡本少佐の裏切りなどもあって、簡単に鎮圧されたが、事件の連累者は、自殺一人、銃殺五十五人、准流十年以下の有罪三百三十一人(将校八、下士二十七、兵士二百九十六)あわせて三百八十七人にものぼり、日本軍政史上最大の反乱事件であった。五十五名の処刑者の中に、二人の神奈川県出身者がいた。橘樹郡箕和村(現在横浜市)出身の小島万助と、大住郡粕屋村(現在伊勢原市)出身の近藤祖舟(あるいは祖丹)である。小島万助は、事件の最高首謀者の一人として死刑を宣告され執行されている。小島万助は、軍隊内の非合理的な待遇にたいする日常的な不平不満だけでなく、徴兵制度そのものに対する批判という観点から事件に参加したと「口供」している(大畑哲「竹橋事件と神奈川」『倫社・政経研究』十二号)。西南戦争の鎮圧に力を発揮した徴兵軍隊であったが、大きな矛盾をかかえていたわけである。徴兵免役の風潮がはびこるなかで、政府=県は、徴兵の実をあげようとして着々と施策を打ち出していたが、一八八〇(明治十三)年代の後半からは、「徴兵報労義会」や「兵事会」「兵事報労会」などが、郡・県の行政指導の下に町や村、あるいは郡を単位として設立されるなど、町や村をあげて徴兵制度を支える方針をかかげ、徴兵軍隊を社会に根づかせようとしていった(「明治十七年一月照会留」曽根田家文書、「一八八八年神奈川県公報」)。これらの施策は、日清・日露の二つの対外戦争を経て、国家主義教育の定着化とあいまって、社会に広まっていった。 1979年3月に横浜市港北区大聖院で開かれた竹橋事件小島万助追悼の集い 県史編集室蔵 第三章 文明開化の諸相 第一節 交通・通信機関の開設 一 電信の開通 電信機と蒸気車安政元年一月十六日(一八五四年二月十三日)、星条旗を掲げた七隻の黒船艦隊は、江戸湾を深く進み入り、金沢村小柴(現在横浜市金沢区柴町)の沖に錨をおろした。いうまでもなく、ペリー提督がひきいるアメリカ東インド艦隊の二度目の来航である。前年七月(旧暦六月)に来航して、大統領の親書を手交することに成功したペリーは、幕府の回答を求めて、再び江戸湾にあらわれたのであった。ペリーの強い要求に屈した幕府は、神奈川に近い久良岐郡横浜村に応接所をつくり、交渉を開始することにした。交渉は二月十日(三月八日)から始められた。そして交渉成功の見通しがつくと、アメリカからの贈りものが、横浜に陸揚げされた。それは電信機具、模型の蒸気機関車、時計、望遠鏡、ライフル銃、ピストルなど、五十点ばかりのものであった。いずれも、文明の器具である。日本人が始めて目にするものである。なかでも当時の日本人を驚かせ、喜ばせたものは、蒸気車と電信機であった。 応接所前の広場には、鉄道線路が環状に敷設された。その上を模型の機関車と客車が走る。最初の実験運転は二月二十三日(三月二十一日)に行われた。ペリーが妻への書簡のなかで書き送っているように、車体は超小型のものであり、ボギーの間隔は九インチ足らず、おもちゃの汽車であったが、その快走ぶりは大いに日本人を喜ばせ、やがて江戸からも多くの人びとが見物に押しかけるようになった。 翌二十四日には、電信の実験が行われた。いまの横浜税関付近に建てられた応接所から、洲干弁天前まで、約九町(約九百八十二㍍)の間に電線を張り、送受信の実験をやってみせたのである。当時の記録には「天理関連府千里鏡試みに興行仕り候」と記されている。「テレカラフ」は、まさしく「雷電気にて事を告げる機械」であった。 こうして横浜においては、開港の前に汽車が走り、電信が実験された。その機器は幕府に献上されたが、そのまま蔵のなかにしまいこまれ、実用に供されることはなかった。せっかく文明の機械に接しながら、これを運用するに至らなかった。やがて開国となり、さまざまの西洋文明が渡来するに及んで、幕府も「蒸気車、電信機は皆治国第一の要具にて、今日にありては是非そなえざるべからず」と認めるに至る。しかし、その開設に踏み切る前に、幕府そのものが倒れてしまったのであった。伝信線の敷設わが国における通信機関としては、飛脚の制度があった。幕府公用の継飛脚のほか、民間には町飛脚が発達していて、信書や荷物の伝達を扱っていた。幕府が倒れると継飛脚は廃されたが、新政府は町飛脚を利用して公用の通信を扱わせた。すでに欧米の諸国では近代郵便の制度が発達していたが、飛脚制度に馴れていた日本では、近代郵便を開設しようという意向は、まったく示されなかった。その一方において、幕末から関心の高まっていた電信について、新政府も、また民間の識者も、異常なほどの熱意を示したのであった。 電信を開設したいという出願は、国内からも、海外からも、あいついで提出された。そうした気運のなかで、新政府もまた、政府じしんの手によって、電信の開設にふみきる。その機縁をつくったのが、横浜外国官判事兼神奈川府判事の職にあった寺島陶蔵(宗則)の建議であった。折りから東京では開市の準備が進められ、築地に外国人居留地が建設されていた。開市は明治元年十一月十九日(一八六九年一月一日)に実施される。そこで寺島は、まず横浜と築地との間に、官営をもって電信を開設しよう、と計画したのであった。 たまたま横浜では、燈明台(灯台)の建設が進められており、英人ブラントンが工事の指導に当たっていた。そこで寺島は電信技師の招請をブラントンに委嘱する。その周旋によってイギリスから来朝した電信技師がギルベルトであった。ギルベルトは明治二年八月九日(一八六九年九月十四日)、横浜に来着した。これより政府の「お雇い外国人」として、電信の建設および修理を担当することになる。月給は百五十円であった。 電信線は、まず横浜弁天の燈明台役所から、本町通の横浜裁判所(いまの県庁にあたる)まで、七町(約七百六十㍍)の間に架設された。早くも八月のうちに工事は完成し、官用通信の取扱いが始められた。取り扱われる電報は官用のものに限られたが、わが国において初めて電信が実用に供せられたのである。なお当時は電信という文字は用いず「伝信」と称した。 電信に関する最初の機関として、九月十九日東京横浜名所一覧図会・横浜裁判所(三代広重画) 神奈川県立博物館蔵 には「伝信機役所」が、横浜裁判所のなかに設けられ、ここから東京に通ずる電信線の建設工事が始められた。この日は太陽暦に換算すると十月二十三日に当たる。よって、のちに「電信電話記念日」に定められた。東京の伝信機役所は、築地居留地の運上所構内に設けられた(十月十二日)。横浜から築地まで八里余(約三十二キロ)の間に、電信線が架設されていったのである。 こうした電信に関する業務は、燈台業務に属して、初めは外務省、のち民部大蔵省の管轄下に置かれた。しかし実際に費用を支出したのは、当時の神奈川県であった。費用だけではない。この後も、電信に関する実務は、神奈川県が処理してゆくのである。すなわち電信の建設は、もっぱら神奈川県の手によって進められていったのであった。 公衆電報の開業横浜―東京の電信線は、地図に示されているとおり、神奈川から東海道筋をへて、築地まで架設された。その完成にさきだって、神奈川県は、東京および横浜伝信局の名をもって「伝信機之布告」を発した。十二月二十日ごろと推定される。伝信機役所の名称も、このとき伝信局と改められた。 さて布告によれば「伝信機は幾百里へだたる場所にても、人馬の労をはぶき、線のつらなる場所まで、音信を一瞬間に通達する至妙の機関」である。これが「来る十二月二十五日より」開業する、という次第であった。ここに示されたとおり、横浜―東京の電信は、明治二年十二月二十五日、すなわち一八七〇年一月二十六日をもって開かれた。公衆電報の取扱いが、ここに開始されたのである。 音信料(電信料金)は、カナ一字につき銀一分と定められた。当時の価額によれば、銀一分というのは、一厘六毛六に当たる。東京より横浜まで伝信機銅線の図 『外務類纂電信線架設関係雑件』から 十字の電文で一銭六厘六毛、二十字で三銭三厘、三十字では約五銭となる。当時の他の物価と比較してみても、たいして高額ではない。それでも電文は「要用をなるべく簡略にカナにて相認め」るように指示され、また商品相場などは「隠しことば」すなわち暗号を用いることも許された。 ところで音信料は必ずしも高額でなかったものの、当時の電報には配達料が別に課されていて、これが高くついた。伝信局で受信した電報は、早飛脚によって配達され、その代金を発信人が払わねばならなかったのである。横浜伝信局から神奈川県内の各地に対する配達料は、次のとおりであった。 横浜関内 銀六分 (一銭) 〃関外 野毛、戸部、石川口、吉田、新田、元町 銀一匁五分(二銭五厘) 神奈川宿、保土ヶ谷 銀二匁五分(四銭二厘) 藤沢 銀三十匁 (五十銭) 横須賀 銀四十五匁(七十五銭) 東京あての場合も、事情は同じであった。たとえば神奈川や保土ヶ谷の人が、東京の新宿あてに三十字の電報を打とうとすれば、関内の伝信局まで出むいた上で、音信料三匁、配達料八匁、あわせて十一匁(十八銭)を支払わねばならなかった。電報は、配達料を加算することによって、すこぶる高額となった。 しかし電信は、飛脚にくらべれば、やはり安かった。その上に、何よりも速い。したがって利用度も高く、開業してから三か月で約三千通の受付があった。なお開業のときは和文電報のみであったが、明治三年五月からは、欧文電報の取扱いも始められた。これは居留外国人の要請によるものであった。 二 郵便の開業 東海道筋の郵便わが国の近代郵便制度は、電信よりも遅れて、明治四年三月一日(一八七一年四月二十日)に発足した。この新式郵便を立案したのは前島密であったが、創業にさきだって前島は、政府の命令によってイギリスに渡り、開設の事務を担当したのは杉浦譲であった。 郵便は、まず東京と京都および大阪の間に通じた。この三都に郵便役所が設けられ、東海道を経由して、脚夫が郵便物を逓送したのである。規定によれば、東京から京都までの所要時間は七十二時間(三日)、料金は一貫四百文(十四銭)であった。料金は、あて先によって異なっていたのである。 いまの神奈川県下における東海道の宿駅は、川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根である。これらの各駅と、開港場の横浜に、郵便取扱所が設けられ、郵便取扱人が配置された。いうまでもなく、横浜は東海道筋から離れているので神奈川駅から別に支線が設けられたのであった。開業にあたっては「各地時間賃銭表」が達せられ、東京・京都・大阪より各駅に至る郵便の所要時間、および料金が示された。県下の各駅に関する部分を挙げれば、次表のとおりである。なお当時の「一時」というのは、現在の二時間に当たっている。 この表には県下の主要な駅名しか挙げられていない。しかし開業の当初、県下の各地あて東京または京都・大阪から、郵便の所要時間と料金の大概は分かるであろう。いまの時制と通貨単位に換算して示すならば、たとえば川崎には、東京から約二時間三十分、大阪からは三日と五時間半、そして料金は東京からは一銭、大阪からは十五銭を要したわけである。 各取扱所には、そのころ郵便事業を統轄していた駅逓司(八月から駅逓寮)から、手当が支給された。開業した三月から同年末までの手当額が、当時の記録に残っていて、これを見ると、神奈川県下においても、どの駅が大きく、取り扱った物量が多かったか、推定することができる。すなわち小さな駅が二円台であったのに対して、六円以上を支給されたのは、川崎・神奈川・藤沢・大磯・小田原の各駅であった。とくに神奈川駅は十二円四十銭に上り、郵便の取扱い量も多かったことが、うかがわれよう。横浜への郵便は、いったん神奈川駅に達した後、別に仕立てられた。したがって料金も、それだけ高額となっている。時間もまた、余計にかかった。さらに横浜駅は設けられたものの、神奈川の郵便取扱所から出張した駅逓掛の所轄となっていて、郵便切手の売捌き所も置かれていなかった。開港場として日増しに発展し、商業活動もさかんであったから、横浜に達し、あるいは横浜から発する郵便の量も多い。当初の体制のままでは、すこぶる不便であった。 そこで駅逓司は、横浜弁天通三丁目(山室亀吉宅)に郵便取扱所を設け、書状集箱を吉田町と元町とに設置した。別に郵便書状取扱い役も任命し、関内におもむいて書状を集めることも請け負わせた。こうして五月には、横浜における書状の取扱い数も、一日に百通をこえるに至る。しかし、それでもなお、時間と料金との面において、横浜の郵便事情は決して好転していない。これに乗じて、民間の飛脚業者は、官営の郵便事業に対抗するため、横浜に発着する別仕立便を設け、さらには現金の送達を扱った。実力をもって、官営郵便を圧倒しようとしたのである。当局としては、放置できない情勢となった。そこで新しく開設されたのが、東京―横浜に直通する路線であった。なお当時、郵便事業も政府の独占ではなかった。 横浜郵便の開設明治四年七月十五日(一八七一年八月三十日)、横浜には郵便役所が設けられ、東京―横浜の間の郵便線路が、東海道郵便とは別箇に開かれた。創業から四か月半にして、新しい路線が開かれたわけである。 東京から横浜まで、逓送時間は七時間で、一日に一回往復した。料金は書状一通(五匁=十八・七グラムまで)につき、二百四十八文とされた。直通という便利さはあったが、時間も料金も、従来の神奈川経由の場合と、大きな違いはない。そこで民間の飛脚業者は、依然として競争をいどみつづけた。駅逓司としても、この路線を維持するためには、料金を値下げする必要を痛感した。そこで八月には、料金を一挙に四十八文に改め、差立ても一日二回にふやしたのであった。 ところで横浜郵便には、新しい制度が設けられていた。すなわち「金子入書状」の新設である。横浜―東京の間は現金の動きが活発であり、その送達に民間業者が乗り出していた。駅逓司の郵便が、飛脚業者に対抗し、さらに圧倒するために、現金を封入した書状の取扱いを開始したのであった。また定期便のほか、特別仕立便が別表のように設けられた。金子入書状の場合には、この特別仕立料金のほかに、封入金額に応ずる付加額が徴収されるわけであった。 特別仕立郵便時間賃銭表 時間 書状一通 賃銭 金子 賃銭 一時(二時間) 掛目三十目限 金一両一分 金札 一朱ヨリ四両三分余マデ 二百文 一時半(三時間) 同 四十五目限 金一両 同 五両ヨリ三分余マデ 四百文 二時(四時間) 同 六十目限 金三分 同 十両ヨリ四十九両余マデ 一朱 二時半(五時間) 同 七十五目限 金二分 同 五十両ヨリ九十両余マデ 二朱 三時(六時間) 同 九十目限 金一分二朱 同 百両ヨリ四百両余マデ 一分二朱 三時半(七時間) 同 百目限 金一分 同 五百両ヨリ九百両余マデ 三分 同 千両ヨリ一万両マデ 五両 同 一万両ヨリ以上一万両ニ付 四両二分 この表によれば東京から横浜へ、一両(一円)の金を普通便と同じく七時間で送ろうとすれば、書状料金一分と金子料金二百文、計二十七銭分を払えばよい。二十両の金を最も早く送る必要があるときは、二時間仕立を利用することになり、一両一分と一朱、すなわち約一円三十銭を要した。 さらに東京―横浜の路線とともに、横浜から近傍の各村へ、さらに関東および信州の各地へ、特別仕立の郵便が開かれた。この場合一里につき六百文(六銭)という基準で、距離比例制が採用されている。たとえば横浜から神奈川宿、戸部村や野毛村あては、一里以内であるから六百文、鎌倉の各村あては、五里以内であって三貫文(三十銭)という次第であった。また横浜より各地あての別仕立郵便については、次表のように示された。 横浜ヨリ各地別仕立郵便里程賃銭表 各地名 里程 一通ノ賃銭 武州 長津田 五里 三貫文 同 原町田 六里 三貫六百文 相州 横須賀 七里半 四貫五百文 同 浦賀 九里 五貫四百文 武州 八王子 十二里 七貫二百文 同 川越 二十里 十二貫文 上州 桐生 三十三里 十九貫八百文 同 高崎 三十六里 二十一貫六百文 甲府 三十六里 二十一貫六百文 上州 富岡 四十一里八丁 二十五貫二百文 信州 上田 五十七里 三十四貫二百文 郵便路線の拡大明治四年七月十五日に横浜から郵便が仕立てられるようになった地域を見ると、横須賀と浦賀とを除いて は、いずれも生糸や絹織物などの生産地であったことが、注目されるであろう。横浜における輸出品のう ち、最も主要な役割をになったものが、生糸であり、絹織物であった。これらの品は、当時における主産地であった八王子か ら、上州の桐生・高崎・富岡から、また甲府や、信州の上田から、運びこまれた。こうした生産地と横浜との間には、いわゆ る絹の道が開かれ、往来がさかんであった。当然のこととして、書状や現金の運送も、にぎわったことと考えられる。そうし た需要にこたえるため、いわゆる絹の道を通ずる郵便路線がいち早く開設されたのであった。この路線においても、郵便料金は一里につき六百文という基準で定められている。 浦賀は、東京湾の先端にある良港である。浦賀の東方、岬の突端にあたる観音崎には、お雇い外国人の指導者によって、燈明台(灯台)が明治二年(一八六九)二月に完成していた。また横須賀には、幕末に製鉄所が建てられ、その施設は明治政府に引き継がれた。明治元年(一八六八)に発足した「神奈川県」は、この横須賀製鉄所も管轄したのである。こうした横須賀や浦賀へも、横浜からの郵便路線がいち早く開設されたのであった。しかし、この路線は陸上を通ったものと思われるが、どの程度に運用されたものか、実態は明らかでない。 全国における郵便路線は、その後、大阪以西を下関まで、また四国の宇和島まで延ばされ、さらに明治四年十二月五日(一八七二年一月十四日)からは、路線も長崎まで達した。このとき郵便料金は、全面的に距離制が採用されている。書状について見れば、二十五里まで百文(一銭)、五十里まで二百文、百里まで三百文、と定められた。 長崎線の開設につづいて、明治四年十二月二十一日(一八七二年一月三十日)から、横浜―横須県内郵便路線図 賀の郵便は、この間に往復する汽船に積んで運ばれることになった。同時に、横須賀―三崎町、横須賀―金沢の間にも、郵便路線が開設された。横浜―横須賀の間には、月に十二回、郵便船が往復する。こうして横浜を中心に、当時の重要な町村との間の郵便網は、創業の年のうちに整備されたのであった。 翌五年三月、料金は従来の両・貫・文から、新しい貨幣単位である円・銭・厘に改められた。一両が一円、一貫が十銭、百文が一銭に換算されたのである。そして明治五年七月一日(一八七二年八月四日)より、郵便路線は北海道の一部を除き、ほぼ全国をおおうに至る。郵便事業の政府専掌が明示されたのは、一八七三(明治六)年五月一日のことであった。これより民間業者が信書などの送達を扱うことは禁止される。また、これにさきだって四月一日からは、郵便料金の全国均一制が実施された。書状の基本料金は、全国一律に二銭(市内は一銭)となる。 ところで郵便物は、主として脚夫によって運送された。各駅ごとに、原則として八人の脚夫を配置し、郵便物を入れた行李をかついで、次の駅へ継立てたのである。やがて郵便物は、鉄道が開通すると汽車によって運ばれ、馬車が走る区間では、これに乗せることがあった。 一八七四(明治七)年八月には、神奈川―小田原の間に郵便馬車が走るようになる。すでに新橋―横浜の間には鉄道が開通していた。この間は鉄道輸送である。神奈川からは馬車に乗せられ、小田原から箱根をこえて三島までは、脚夫が運んだ。そして一八七五(明治八)年十一月から、箱根ごえのような特別の道を除いて、東海道の大部分に、郵便馬車が走るようになったのであった。このころ東京―横浜の郵便は、一日十二回の往復に達していた。 三 鉄道の開通 鉄道建設の開始鉄道の建設を政府の手によって行うことが正式に決定されたのは、明治二年十一月十日(一八六九年十二月十二日)のことである。東京から京都・大阪をへて兵庫まで、鉄道を敷設することも、同時に決定されたが、路線を東海道経由にするか、中山道経由にするかは、軍事上の問題も考慮されて、決定に至らない。そこで、まず距離も近く、地形も平坦で、建設が容易と考えられた東京―横浜の間に鉄道を開設することが、決定されたのであった。 建設のための資金は、イギリス東洋銀行を通じて、三十万ポンドの外債がロンドンで募集された。工事を進めるためには、エドモンド・モレルをはじめ、多数の技術者がイギリスから招かれた。そうした「お雇い外国人」の指導者のもとに、鉄道工事は明治三年三月(一八七〇年四月)から始められたのである。 東京の起点は汐留、横浜の終点は野毛浦の埋立地と定められた。汐留からは、品川をへて六郷川を渡り、いまの神奈川県に入る。六郷川には長さ六十三間(約百十四㍍)の橋梁(木橋)を架し、川崎をへて鶴見川を渡り、鶴見からは生麦、子安をへて神奈川台に達する。神奈川から横浜に至る線路予定地は、そのころ海が入りこんでいて、渡船で往来していた。この間の測量は、モレルの指導のもとに、明治三年四月三日(一八七〇年五月三日)から始められた。そして野毛台地に迫る海岸は、石乗車券のかたちをしたモレルの墓 横浜・山手外人墓地 崎(現在高島町)まで埋め立て、その先は入江のなかに突堤をつくって、青木町に達する、という計画が立てられた。この工事は、告示によって民間から募集したが、これに応じて、予定の期間内(百三十五日間)に完成させたのが、高島嘉右衛門であった。よって石崎から先の神奈川築堤のあたりは、高島町と名づけられたのであった。 線路の建設工事は、横浜と東京との双方から始められた。横浜側の工事がほぼ完成したのは、明治四年(一八七一)八月である。六郷川の橋梁工事も完成した。そして明治四年九月二日(一八七一年十月十五日)、横浜停車場の本屋が落成した。石造の二階建てであり、わが国における最初の鉄道駅であった。この建物は、一九二三(大正十二)年の関東大震災によって焼失している。なお汐留停車場も、横浜と同じく石造であったが、中間の停車場は木造とされた。そのころ京浜地帯には煉瓦を製する者なく、沿線に良質の粘土もなかった。そこで全線に煉瓦を用いることなく、もっぱら石材を用いた。石材は主として真鶴の石山から調達した。 鉄道仮開業東京―横浜の鉄道工事のうち、まず完成したのは、品川―横浜の間(二十三・八㌖)であった。そこで正式の開業にさきだち、明治五年五月七日(一八七二年六月十二日)から、この区間で「試験のため運輸開業」すなわち仮開業を行うことになった。 仮開業の当日、品川から横浜まで、一日二往復の汽車が走った。途中に駅はないから、両駅の間は直通、所要時間は三十五分であった。時速およそ四十㌖であったが、当時の目には「あたかも人間に羽翼を付して空天を翔けるに似たり」(『横浜毎日新聞』明治五年六月十日付)とうつったようである。乗車賃銀は、上等一円五十銭、中等一円、下等五十銭であり、当時の物価からみれば、驚くばかりの高額であった。なお翌日から、汽車は一日六往復となる。 こえて六月五日(七月十日)には、神奈川と川崎の両駅が開かれた。このときの神奈川駅は、現在の横浜駅の北方、東京寄りの位置に設けられている。そして両駅の開業とともに、乗車賃も大幅に値下げされた。横浜からの運賃および運行時刻は、別表の通りである。また七月八日からは、汽車も一日二往復が増発となった。乗客がおいおい増加したため、と当時の記録は述べている。七月十二日には、天皇が初めて汽車に乗った。中国巡幸から海路によって帰途についたが、暴風にあって大しけとなったため、横浜に上陸して、品川まで汽車を利用したわけである。これが「お召し列車」の最初であった。 この間にも、品川―新橋の建設工事は進み、八月には完成する。さきに設けられた汐留停車場は、新橋停車場と改称された。新橋と横浜との間に設けられた停車場は、品川・川崎・神奈川である。線路は単線であった。開業式は初め九月九日に挙行と予定されたが、当日は雨天となったため、十二日に延期された。 新橋―横浜の鉄道明治五年九月十二日(一八七二年十月十四日)の鉄道開業式にあたって、諸官庁は休暇となり、また品川―横浜の鉄道営業は休止された。この日、天皇は直衣を着し、午前九時に出門、四頭立ての馬車に乗って、新橋停車場に着した。それより特別仕立ての列車に乗り、午前十時に発車、五十四分にして横浜に着く。 横浜停車場においては、午前十一時から開業式が挙行された。天皇は内外の諸員を前にして、東京横浜間ノ鉄道朕親ラ開行ス自今此便利ニヨリ貿易愈繁昌庶民益富盛ニ至ランコトヲ望ム との勅語を賜わった。ついでイタリア公使、外国商人頭取の総代(イギリス人マーシャル)が祝詞を奏した後、横浜在住の商人頭取の総代として原善三郎が祝詞を奏した。それぞれに勅答があって、式は終わり、天皇は楼上の一室にて休憩、こうして再び列車に乗り、正午に横浜を発して新橋に向かった。新橋停車場においても、午後一時より同様の開業式が行われた。 翌十三日より、いよいよ新橋―横浜の間が開通となる。両駅の間、十八マイル(二十九㌖)を五十三分、一日に九往復の旅客列車が運転された。鶴見駅も、この日から開かれた。新橋―横浜の料金は、上等一円十二銭五厘、中等七十五銭、下等三十七銭五厘であり、品川―横浜の間は従来と同額であった。 一八七三(明治六)年三月一日より、列車の往復は十回に増加された。一八七四年六月十五日からは、旅客の賃金も改正となり、新橋―横浜の間は上等一円、中等六十銭、下等三十銭に値下げされた。 また開業後しばらく、鉄道は旅客のほかは郵便物を輸送するばかりであったが、一八七三年九月十五日からは貨物の運送も開始した。すなわち新橋・神奈川・横浜の三駅に、荷物取扱所を設け、貨物の集配を扱うようになったのであった。そのほか、横浜駅においては、一八七三年八月から雑品の販売店が開かれ、蒸気車出発時刻賃金附(三代広重画) 神奈川県立博物館蔵 一八七五(明治八)年八月からは旅客に座布団を貸す営業が許されている。当時の座席は板敷きであった。 鉄道の建設は東京―横浜につづき、一八七三(明治六)年十二月には京都―大阪の間が起工された。こうして明治七年五月十一日には大阪―神戸の間が開通し、九年九月五日には京都―大阪の間も開通する。京都―大阪―神戸間の鉄道が正式に開業するのは、十年二月五日のことであった。しかし東京―横浜から先は、工事が遅れ、ようやく一八八七(明治二十)年七月に至って横浜―国府津の間が開通する。それまで東海道をつないだ乗物は、短区間の人力車を除けば、馬車であった。 馬車と人力車馬車もまた、汽車と同じように、開化の文物であった。まず外国人が持ちこみ、開港の直後から乗りまわしていたものである。多くは一頭立て、または二頭立てで、個人の所有に属する、いわゆる自家用の馬車であった。乗りもの第17表 新橋・横浜間運賃(明治5年9月13日から施行 )『日本国有鉄道百年史』から といえば駕籠しか知らぬ日本人にとって、異人の馬車は異様なものと映ったに違いない。横浜浮世絵にも、馬車に乗る異人の姿が、もの珍し気に描かれている。 今日まで地名として残った横浜の馬車道は、慶応三年(一八六七)三月に完成した。横浜の領事館と江戸の公使館とを結んで、外国人は馬車を駆った。公用の場合だけでなく、私用の出歩きに利用することも多かった。やがて同年の秋からは乗合馬車も運行されるようになる。居留地三十七番館において外国人が開業したものであり、横浜―江戸を走った。これより、さまざまの馬車会社が出現したが、いずれも外国人の経営であった。 日本人による乗合馬車の営業は、明治二年(一八六九)五月、横浜の川名幸左衛門ら八名の出願により、成駒屋と称して開業したのが最初であった。横浜の吉田橋ぎわに溜場を設け、野毛―戸部―平沼―神奈川台をへて、新橋―日本橋に達した。三頭立ての馬車に乗客は六人とし、一人につき金三分(七十五銭)の料金をとり、片道四時間を要して東京に着いたという。翌三年三月には東京横浜馬車商社の名が記録に見えるが、成駒屋をはじめ、二、三の業者が合併して、新しい商社をつくったものであろうか。 このように開化の交通機関としての馬車は、まず横浜―東京の間に走っ東京横浜鉄道往返之図(三代広重画) 神奈川県立博物館蔵 た。しかし明治五年(一八七二)になると、横浜―品川の間、ついで新橋との間に、鉄道が開通する。馬車の客は、たちまち鉄道に奪われてしまった。これから後の馬車は、鉄道の開設されていない路線の輸送機関として存続してゆく。一八七四(明治七)年八月より神奈川―小田原を結んで発足した郵便馬車も、まさしく鉄道が開設されていない路線を結んだものであった。 新しい乗物として登場したもののうち、人力車ばかりは日本人の発明である。発明者といわれる和泉要助は、横浜において異人の馬車に接したが、馬のかわりに人間に車をひかせることを思いたち、人力車を考案した。明治三年(一八七〇)三月、人力車の営業を東京府に提出、許可を得て開業したが、十一月には横浜でも出願し、営業を始めた。 人力車の構造は、初めはすこぶる簡単、かつ粗末なものであったが駕籠にくらべればはるかに速く、料金も安かったため、もの珍しさも加わって、その営業は大いに繁昌した。明治四年(一八七一)正月からは、川崎―藤沢の間にも営業が始められている。さらに明治五年二月には、人力車を郵便逓送にも用いるに至った。馬車にさきだって、郵便にはまず人力車が用いられ、東京―大阪の間に配置されたのである。県下では、東京―小田原の間に、二台が備えられた。しかし当時の人力車は、やはり過度の使用には堪えられなかったのであろう。破損が多く、脚夫が運ぶのよりも遅くなる。という理由のもとに、同年七月には人力車の使用も廃止されてしまった。 この間の明治五年(一八七二)五月、神奈川県は人力車取締規則を設けて、車税を徴するとともに、川崎―平塚の間を六区に分け、おのおの組合をつくって営業させている。こうして人力車は、汽車や馬車と並び、むしろ短距離を結ぶ簡便な交通機関として、庶民に親しまれるようになったのであった。このころ横浜で発行された新聞(『毎週新聞』)には、人力車の流行を述べて、次のように記している。 ……駕夫各〻外国風の小車を造りて当時其数殆と五万に及び而して之を牽く者亦一人の力を以てし此客車甚た流行にして東海道江戸横浜の間に充満し内外の民争て之に乗り四方に往来するなり 四 通信網の伸張 電信線の延長電信は東京―横浜につづいて、明治三年八月二十日(一八七〇年九月十五日)には大阪―神戸の間に開通した。また同年閏十月二十日(十一月十二日)には工部省が新設され、電信事務はその所管に移された。それまで実際の事務を処理していたのは神奈川県であったがやがて電信施設と職員とを、工部省に引き渡すことが命ぜられ、明治四年(一八七一)四月二十日、神奈川県は「横浜ヨリ東京マテ掛渡シ有之候伝信機ノ儀、其掛官員トモ」明細を付して、工部省へ引き渡した。折りから長崎においては、デンマークの大北電信会社が日本政府の許可を得て、長崎―上海、長崎―ウラジウォストークに至る海底電信線を建設していた。明治四年六月二十六日(一八七一年八月十二日)には長崎―上海の線が完成し、通信を開始する。さらに明治四年十二月二十一日(一八七二年一月一日)にはウラジウォストークとの間にも、通信が開始される。長崎を起点として、日本から海外へ電信が通じたのである。こうした状況のもとに、東京―横浜の線を長崎まで延長する計画が、政府(工部省)によって進められることになる。 横浜から長崎まで、電信線の架設工事が始められたのは、明治四年八月四日(一八七一年八月十八日)のことであった。第一号柱は、神奈川鉄道橋(現在青木橋)前に建てられた。そこから東海道を西に向かって、保土ヶ谷―戸塚―藤沢―平塚へと、工事は進められた。お雇い外国人(神奈川県下は英人フォストル)の監督のもとに、路線を測量し、電柱を建て、電信線を張ってゆく。路線の保全のために、東海道の並木を伐採することも多かった。 もっとも並木を切る一方、街道に沿った立木を、そのまま電柱に代用することも行われた。保土ヶ谷―戸塚の間においては、松の立木や、槻の立木を利用している。これは当時の人びとにとっても珍妙な風景とうつったようで、錦絵にも描かれた。平塚から進めば、東海道は小田原をへて箱根を越える。しかし電信線は、箱根越えの道をとらず、矢倉沢街道を選んだ。その理由は明らかでないが、箱根を越える工事は困難が多いと判断したものであろう。工事は平塚から梅沢村(現在二宮町)―塚原村(現在南足柄市)をへて、矢倉沢に至り、そこからは足柄峠を越えて、静岡県の竹之下村(現在御殿場市内)に達したのであった。ここまでの工事が終わったのは、八月九日である。 このようにして電信が、東京から東海道をへて、京都(―大阪―神戸)まで開通したのは、明治五年九月七日(一八七二年十月九日)のことであり、さらに長崎までの電信は、一八七三(明治六)年十月一日に開通を見た。音信料は明治五年四月から距離制となり、新局が開かれるごとに、各局相互間の音信料が公布された。基準料金はカタカナ二十字までであり、それ以上は十字ごとに半額が加えられる。横浜から主要な各地への音信料は、一八七三(明治六)年十一月現在、次のとおりであった。 ―東京 七銭 ―神戸 二十三銭 ―静岡 九銭 ―岡山 二十七銭 ―名古屋 十三銭 ―広島 三十一銭 ―京都 十九銭 ―福岡 三十七銭 ―大阪 二十一銭 ―長崎 四十一銭 これに届け賃を要する。十町までは無料とされたが、それ以上は東京横浜名所一覧図会・生麦風景 (三代広重画) 神奈川県立博物館蔵 五町ごとに二銭を徴された。また二里以上の遠方は、電報も郵便によって届けられた。 電信局の増設この当時まで神奈川県下における電信局は、横浜の一局のみである。しかも電信線は、絶えず保守につとめねばならない。その取締りは、各県の責任となっている。当時、馬入村(現在平塚市)から足柄峠までの線路は、足柄県に属していた。その間、約四十八㌖であり、交通上の難所でもある。これを保守することは、足柄県にとって、きわめて困難な仕事であった。そこで工部省は、線路の保守を期するため、横浜と沼津との間に電信局を増設する必要を認めた。こうして選ばれたのが、古くから交通の要地となってきた小田原であった。足柄県は工部省の要請によって、小田原の高梨町に局舎を買収し、ここに電信局を新設する。 小田原電信局が開かれたのは、一八七四(明治七)年六月十日であった。小田原から横浜、沼津の両局に達する音信料(和文)は七銭、東京その他の局から小田原局への音信料は沼津局と同様、と定められた。ところで小田原局が開かれた後においても、小田原―矢倉沢―足柄峠の電信線は、保守が困難であり、よって線路を箱根越えに変更することとして、一八七五年四月には新線の架設に着工、六月七日に工事を完成した。ここに電信線は東海道を経由することになったわけである。 横須賀には幕末に建てられた製鉄所があり、明治に及んで新政府に収められている。造船所として施設が発展するにつれ、これを管轄する海軍省は、電信の必要を痛感するに至り、明治八年四月には太政官に対して、別途の費用をもって電信を架設したいことを上申した。これが認められ、工部省に下達される。こうして明治八年末、横浜から横須賀まで、約三十㌖の間に電信線が架設されたのである。この電信は、海軍省と横須賀造船所との間の通信のために設けられたものであった。しかし横須賀の電信局においては、公私一般の電報も取り扱うに至っている。そこで工部省は布達を発し、公衆通信のために一八七六年三月二十日をもって、横須賀電信局を正式に開局したのであった。 横須賀局から横浜局への音信料(和文)は七銭、東京その他の局から横須賀局への音信料は、小田原局と同様であった。なお当時、横浜―横須賀の電信線は、海軍省の所管であったが、同年十月には修理などの都合によるという理由で、これも工部省に移管された。 こうして一八七七(明治十)年までに、神奈川県下には横浜・小田原・横須賀の三局が開かれるに至る。そのほか東京―横浜の鉄道沿線にも、汽車の運転のために鉄道用の電信線が敷設され、各駅の間では鉄道用の通信を取り扱っていた。これら各駅の電信施設が一般公衆のために開放されるに至ったのは、一八七八年十二月五日のことである。各駅の電信局は鉄道報のほか、公私一般の電報を受け付けるようになったが、横浜と新橋の両駅は鉄道の乗客より差し出す電報のみに限られた。また一八八五年一月一日には、横須賀についで浦賀電信局が開かれている。 外国郵便の開業わが国内の郵便制度は、一八七三(明治六)年に至ってほぼ確立されたが、外国に対しては、まだ正式に郵便を交換する道は開かれていない。そればかりか、当時は日本国内に外国の郵便局が設置されて、内外の郵便を取り扱っており、郵便主権が侵害されたままの状態であった。すなわちイギリス・フランス・アメリカ三国は、横浜など開港場の居留地に自国の郵便局を開き、独自の活動を営んでいたのである。 日本人もまた、外国へ郵便を差し出そうとする場合には、こうした外国郵便局を利用しなければならなかった。横浜などの外国郵便局へおもむき、その国の郵便切手を求めて、これを貼り、投凾するわけである。郵便事業を統轄した駅逓寮も、横浜における外国郵便局を中継として、外国への郵便差出し、および受け取りを斡旋した。しかし、これは郵便主権の侵害を認めたまま、やむをえずとった一時の便法に過ぎない。郵便の国権を回復するには、まず外国との間に郵便交換条約を結び、本格的な外国郵便を開始することが、先決であった。 一八七三(明治六)年二月、政府はアメリカ人ブライアン(S. M. Bryan)を駅逓寮に雇い入れ、まずアメリカとの間の郵便条約の交渉に当たらせた。こうして同年八月六日に調印されたのが、日米郵便交換条約である。 条約によって日米の間の郵便は、一八七五(明治八)年一月一日から開かれることになる。その料金は、書状一通、半オンス(約十六グラム)までごとに日本は十五銭、アメリカは十五セント、と規定された。ただし実施してから一年後には十二銭(十二セント)となる。 日米条約の成立につづいて、政府はブライアンをヨーロッパに派遣し、イギリスおよびフランスとの交渉に当たらせた。しかし両国とも、日本の申し入れには応じない。日本における郵便制度、とくに外国郵便の制度が整備されていない、というのが、主たる拒否の理由であった。たしかに当時の日本においては、外国郵便の事務に通じた者は、ほとんどいなかったのである。ブライアンは再びアメリカに渡り、日本の外国郵便局に雇い入れる書記官の人選や、器材の購入に当たった。国内においては、横浜をはじめ、神戸と長崎に郵便局を新設するための準備を進めた。 横浜郵便局は、本町一丁目の税関付属地に、県庁に面して建てられた。着工は一八七六(明治九)年十月である。煉瓦造、二階建ての堂々たる建築であって、内国および外国郵便のための設備を整えている。ブライアンほか、数名のお雇い外国人も常駐して、外国郵便に関する主要な業務は、ここで処理されることとされた。 日米の間の郵便交換条約も、一八七五(明治八)から施行されることが決定された。アメリカの在日郵便局は、一八七四(明治七)年十二月三十一日をもって廃止される。外国郵便の開業にそなえて、新しい郵便切手(鳥切手)三種も、一八七五(明治八)年一月一日付をもって発行の運びとなった。 外国郵便の開業は、一八七五(明治八)年一月一日である。横浜郵便局においては、同日から事務を開始したと記録されているが、新年のことであり、実際に何日から執務が始められたか、明らかでない。 横浜郵便局において、外国郵便の開業式が盛大に挙行されたのは、一八七五年一月五日であった。この日、局舎の中央には国旗と郵便旗を高く掲げ、前面には瓦斯燈をめぐらせて、とくに正面玄関の楼上には、大きく菊花を模した瓦斯燈を点じた。夕刻に至って、昼をあざむく燈光のもとに、東京から内外の貴賓が、つぎつぎに馬車で到達する。式典および祝宴は午後六時過ぎから始められ、九時半過ぎまでつづけられた。 こうして外国郵便は開業されたが、実際に横浜から外国むけに郵便物が差し立てられたのは、一月八日であった。この日に、この年の第一船が横浜を出帆したので、すでに受付けられた郵便物には、当日の日付印を押して積み立てたものと考えられる。横浜には、また一つ、海外にむけた大きな窓が開かれた。 その後、一八七七(明治十)年六月一日、わが国は万国郵便連合(UPU)に加盟し、ひろく世界各国と郵便交換の道を開く。イギリス・フランス両国にも、郵便局撤去の交渉をつづけた結果、イギリス郵便局は明治十二年末までに撤去した。フランス郵便局も一八八〇年三月三十一日には閉鎖され、ここにわが国の郵便主権は完全に回復されたのであった。 横浜郵便局開業之図(三代広重画) 神奈川県立博物館蔵 第二節 キリスト教の移入 一 禁教下における宣教師の活動 宣教師の渡来横浜は、日本のプロテスタントにとって、横浜バンドとよばれ、熊本・札幌・静岡とならんで、初代の指導者を生みだした所であり、キリスト教界にあって重要な意義をもっている。プロテスタントの宣教師が、日本にはじめて赴任してきた安政六年(一八五九)以来、一八七三(明治六)年二月二十四日のキリシタン禁止の制札撤去の日までに来日した宣教師とその夫人たちは、およそ六十名に及んでいる。その初めの宣教師たちは、中国伝道の経験をもっており、また漢文に翻訳された聖書を使用したように、中国伝道のわが日本伝道に与えた影響は大きかった。その中国伝道は、一八〇七年に中国に赴任したロバート・モリソンによって始められたといわれている。 また、インド、中国へのプロテスタント伝道は、超教派的な運動として展開され、その代表的な例として、ロンドン伝道協会(一七九五年創立)と、アメリカ伝道協会(一八一〇年創立)とがあげられる。モリソンは前者の所属であった。この東洋伝道における超教派的伝統は、日本での初代教会の形成に強く影響している。 わが国の歴史上、はじめてプロテスタント教会が創立されたのは、まだ禁教下の明治五年二月二日(一八七二年三月十日)のことであった。場所は横浜の居留地で、日本基督公会(横浜公会)がそれである。次にその創立の由来を、J・C・ヘボン、S・R・ブラウン、ジェイムス・バラの活動をたどることによって明らかにしたい。 安政六年(一八五九)の秋、旧暦九月から十月(陽暦では十月から十一月)の間に、長老教会のJ・C・ヘボン、改革教会のS・R・ブラウン、D・B・シモンズが神奈川に、改革教会のG・H・フルベッキが長崎に来ている。ブラウンとヘボンとは、日本赴任当時は米国に帰っていたが中国において宣教師としての経験をもっていたのであり、ともに、米国から直接に日本宣教のために来日した。 ヘボンの活動ヘボンの所属する米国長老教会の外国伝道局は、東洋では主として、中国、シャム、インドにおいて活動していたが、とくに宣教医師による活動で注目される。医療伝道は、アジア各地における期待にこたえるものであったといえるが、アジアの一国である日本の場合にも、医師ヘボンが派遣されたのである。また、同派の中国宣教師が翻訳または著作していた中国語のキリスト教書出版は、日本伝道に大きな力となったことは周知のことである。幕末、わが国に持ちこまれていた中国語キリスト教書は、百種類をこえていたが、その半分近くは、長老教会宣教師の手になるものであった。 ヘボンは、日本への宣教師を志願したとき、ニューヨークで病院を開業して成功を収めていたのであり、親族、知人の反対にもかかわらず、夫妻で来日したほどに、日本伝道に熱意をもやしていた。ニューヨークから横浜への船中で、すでに日本語の学習につとめている。そして、滞日中に『和英語林集成』(慶応三年印刷完了)を著した。これは、聖書和訳に重要な役割を果たしたが、いわゆるヘボン式ローマ字は、この編纂にあたって考案したものである。そのほか、伝道用小冊子や聖書の和訳に尽力した。明治五年(一八七二)、米国聖書協会から、ヘボン訳ヨハネ伝のローマ字版(英文対照)が刊行された。聖書翻訳については、明治三年(一八七〇)から改革教会のS・R・ブラウンと共同し、一八七四(明治七)年以降は、ブラウンが新約聖書翻訳委員長となって、ヘボンはその一員として協力した。この訳は、一八八〇(明治十三)年に完成したが、一八八二(明治十五)年以降、ヘボンは旧約聖書翻訳委員会の委員長となり、一八八七(明治二十)年末、その翻訳は完成した。 ヘボンを日本人に親しませたことは、何といっても、その医療奉仕の活動であった。彼は、文久元年(一八六一)春、神奈川の宗興寺で、施療所兼病院を開いた。眼科医であったのに、外科手術や内科の治療まで担当しなければならなかった。あまり沢山の日本人患者が集まったため、五か月ばかりで、幕吏により閉鎖を命じられた。それでも患者は、ヘボンの住む成仏寺にたずねていった。彼は、往診にもいった。とくに文久二年(一八六二)夏に、コレラが流行したときは大変であった。同年暮、横浜居留地三十九番館に、新しく施療所を設け、改めて医療活動を始めた。今度は、居留地内であったから、幕吏の干渉をうけることはなく、患者は増加するばかりであった。俳優の三代目沢村田之助の脱疽を手術し義足を作ったことが「もしほ草」や「日要」などのジャーナリズムにとりあげられ、ヘボンの名は、いよいよ有名になった。しかし、健康上の理由から一八七九(明治十二)年で医療は廃止した。その幕末以来十八年間に施療した患者は、六千人から一万人に及んだという。それと同時に彼は、禁制下の時期に、これらの患者に伝道用の冊子を配布していた。 ヘボン塾といわれるものは、ヘボン夫人が三十九番館の施療所において、日本人のための英語教授をはじめたもので、日本居留地39番のヘボン邸見取図 高谷道男『ヘボン書簡集』から で最初のキリスト教学校教育ということができる。その開塾の直接の動機は、ヘボン夫人が、医師林洞海から、その養子桃三郎のために英語の教授を依頼されたことにある。この桃三郎はのち、林董として英国大使・外務大臣として活躍した人物である。林と同時期の塾生に、林の実兄佐藤桃太郎や、高橋是清、益田孝など、後年に政界・財界の指導者になった人物があり、佐賀藩派遣の青年やヘボン門下の医学生も、夫人から英語を学んでいた。ヘボン夫妻が上海にいったとき、一時閉鎖されたが、横浜に帰ってくるとともに再開され、いよいよ盛んになって、明治二年(一八六九)ころには女子クラスも設けられた。明治三年八月(一八七〇年九月)、改革教会の婦人宣教師メアリー・キダーがブラウンの紹介で塾の教師に就任した。(高谷道男『S・R・ブラウン書簡集』による)キダーは山手二百十一番のブラウンの家に同居してヘボン塾に通勤していた。 明治四年(一八七一)から五年にかけて、ヘボン夫妻が上海にいっている間に、キダーがその留守に教えていたが、このとき男子生と女子生とが区別され、キダーは、女生徒だけを教えていた。ヘボン夫妻が帰ってくると、キダーは、明治五年(一八七二年七月)神奈川県県令大江卓の斡旋で、野毛山の官舎の一部を借り、そこで独自の女子教育をおこなうようになった。これが、のち、フェリス・セミナー、現在のフェリス女学院へと発展してゆく。ヘボン夫妻は、明治五年秋(一八七二年十月)ヨーロッパ経由で米国に帰り、一八七三年十一月三十日横浜にもどってきた。この間に、キリシタン禁制の制札は撤去されていた。この留守中のヘボン塾は、長老教会宣教師ヘンリー・ルーミスらによって支えられていたのであろう。一八七三(明治六)年末からは、宣教師ルーミスが加わり、教会教育としての安息日学校(日曜学校)がさかんになった。ヘボン塾生のなかから、そのバイブル・クラスに参加するもフェリス女学院の創立者ミス・キダー女史 『フェリス女学院六十年史』から のもふえた。一八七四年(明治七)七月五日に、ルーミスが洗礼を授けた日本人十名のうち、八名までが、ヘボン塾の生徒であった。 ブラウンの活動ブラウンは、米国・オランダ改革派教会に所属していた。同派は米国においてはプロテスタント教会の一小教派にすぎず、独自の外国伝道局をもったのは安政四年(一八五七)であった。しかし日本伝道に熱意を示し、安政六年(一八五九)に、三人の宣教師を派遣してきた。同派の日本伝道の拠点は、神奈川(のち横浜)と長崎で、ブラウンは神奈川で、フルベッキは長崎で活動した。宣教医D・B・シモンズは、横浜で医療に従事した。 ブラウンは、安政六年十月七日(一八五九年十一月一日)シモンズと共に神奈川に到着した。ブラウンは旧知のヘボンが住む成仏寺にはいった。翌万延元年(一八六〇)には、江戸で日本語教師として矢野隆山(元隆)を雇った。「一刀を身につけている日本の医師で、四十六歳です」とブラウンは記している。(『S・R・ブラウン書簡集』)文久二年(一八六三)十月、神奈川奉行は、横浜運上所の官舎で、通訳養成のため、英学所を開校した。ブラウンは、そこの教師に任命された。 この年、矢野隆山が死亡したが、慶応元年九月十七日(一八六五年十一月五日)、彼は病床にあって、家族の面前で、家族一同の承認のもとに、バラより洗礼をうけたのである。日本最初のプロテスタント信者である。 ブラウンは、このように希望が見えてきた段階においても、なお伝道について慎重であった。宣教師は説教の罪は問われないけれど、その聴間者の日本人は罪に問われるからである。彼は、キリスト教国の政府が、日本の支配者に対して、キリシタン禁制の撤廃を要求するよう訴えている。どこまでも合法的に伝道しようとしていたのである。 ブラウンは、慶応三年(一八六七)米国に帰ったが、二年後に、明治新政府の招きに応じ、新潟の男子の英学校を管理する教師として、再度来日した。このとき、伝道協会は、日本へ最初の未婚婦人宣教師を派遣することを決定し、ミス・キダー(M・E・キダー)が、ブラウン夫妻に同行することを命じられた。 ブラウンは、明治二年(一八六九)十月から翌年六月末まで新潟にいたが、日曜日に自宅で聖書を教えたことが原因で再び横浜にもどった。横浜では、修文館の校長格の教師に就任した。この修文館は、幕府が、役人の子弟に漢学を教えるために、慶応二年(一八六六)に設けたもので、幕府滅亡とともに廃止となったのを、明治政府が再興したものである。ブラウンが招かれた当時は、英学中心に教授することになったときであり、ブラウン招聘と時を同じくして、約二十名が入学し、合計三十名の生徒が、全国各地から集まっていた。ここで、ブラウンに学んだ青年のうちに、佐藤昌介・都築馨六・小野梓・浅野広輔・白石直治・井深梶之助・宮部金吾・真木重遠らがいたのである。ブラウンの教育は、やがて信仰の指導にまで、ひろがっていった。 ブラウンが一八七三(明治六)年八月、修文館との契約が満期になり同校を辞したとき、生徒のなかには、同校をやめて、ブラウンのもとで英学を修めようとする者があった。ブラウンは、ついに彼らの願いをいれて、私塾を開くことにした。これがブラウン塾で、横浜山手二百十一番で開かれた。同年秋のことである。 この塾には、これらの生徒のほかに、熱烈な伝道者であるジェイムズ・バラのもとで聖書をも学んでいた青年たちが加わってきた。押川方義・熊野雄七・植村正久・藤生金六・吉田信好らである。これによって、ブラウン塾は、伝道者養成のための神学塾へと変わっていった。このようになったのは、同年二月二十四日(二月十九日説もある)、キリシタン禁制の制札が撤去されたからであり、日本基督公会は、すでに禁制下の明治五年二月二日(一ブラウン塾に入る頃の井深梶之助 『井深梶之助とその時代』から 八七二年三月十日)横浜居留地において創立されていたからである。 バラ塾と日本基督公会ジェイムズ・バラは、文久元年(一八六一)に来日した米国・オランダ改革派教会派遣の宣教師で、ジョン・バラの兄である。ジョンは平信徒で横浜の高島学校の英語教師として来日した。 ジェイムズは、慶応二年(一八六六)から、自宅に数名の日本人を集めて、礼拝とバイブル・クラスをはじめた。そして、明治四年(一八七一)には、横浜居留地一六七番地で、十数名の青年学生に英語を教授するかたわら、聖書を教えた。このバラのもとでそだてられた信者が、わが国最初のプロテスタント教会である日本基督公会(横浜公会)を組織することになる。小沢三郎『日本プロテスタント史研究』によれば、日本基督公会の創立以前に受洗した日本人は、二十名であるが、そのうち、長崎で受洗した者十名、横浜・神奈川で受洗した者六名で、その他は、外国かまたは不明となっている。 日本基督公会の第一回洗礼式は、明治五年二月二日(一八七二年三月十日)におこなわれ、九人の男子がJ・H・バラから洗礼をうけた。このとき、日本基督公会が成立したのである。一八七二年一月一日は、旧暦の明治四年十一月二十一日にあたる。この陽暦の正月に、横浜に居留していた外国人らが初週祈禱会(年の最初の週の礼拝)を開催した。それを見て、バラ学校の生徒たちは、篠崎桂之助が発起人になって、J・H・バラに依頼し、旧暦一月二日(土)から、初週祈禱会を開始した。その場所は、「横浜海岸百六拾七番館石造の小会堂」であった。出席者は、主としてバラ学校の生徒で、指導者はバラであった。この初週祈禱会は、日曜以外、毎日午後四時から開かれ、さらに長期連日祈禱会に転化し、熱心に続けられた。また一月中の日曜日には、日に三回集会があり、盛会であった。このような熱気のうちに、日本基督公会は創立された。 明治五年(一八七二)二月二日の午後三時からの馬太伝講義が終わってから、J・H・バラの司式で、九名の洗礼式がおこなわれた。ついで、小川義綏が長老に選ばれ、長老の権を授ける按手礼式(手を人の頭の上において祝福を祈り聖霊の力の付与を祈ること)がおこなわれた。この九名の受洗者と、これより以前に受洗していた小川義綏・仁村守三の二名が参加した合計十一名で、日本人による日本最初のプロテスタント教会が、横浜居留地のバラ学校で創立されたのである。この教会の仮牧師は、米国・オランダ改革派教会宣教師J・H・バラ、長老は小川義綏であった。ところが、この十一名のうちに二名の諜者が混入していて、すべてが、政府側に通報されていたのである。その二名とは、仁村守三と安藤劉太郎なる人物であった。バラが仮牧師になったのは、当時、日本人で教職にある者がなかったからであるとされている。また、「教会」ではなく「公会」とされたことについては、欧米の教会の教派性から、日本の教会を解放しようとしたものであると考えられている。信仰箇条も、万国福音同盟会の九か条の「教理的基礎」と同じ内容で、きわめて簡潔なものを採用した。これは、バラを除いて、S・R・ブラウン、ヘボンら外国人宣教師が、中国に長いこと伝道した経験に基づき、超教派がよいと判断したと推測される点がある。また、日本人信徒のナショナリズムが多分にからんでいたのである。 バプテスト派の伝道バプテスト派の日本における伝道の最初は、万延元年(一八六〇)ジョナサン・ゴーブル夫妻が、米国自由バプテスト伝道協会の宣教師として来日し、横浜で伝道を始めたことにある。ゴーブルは、はじめ、将来の福音伝道の準備として日本のことを視察するためペリー艦隊の水夫として、旗艦サスケハンナ号に乗り組み浦賀に来日本基督教公会会員名簿 横浜海岸教会蔵 た。帰国後ハミルトン神学校(別科)に学んだ。そのかたわら、漂流民の仙太郎に教育をほどこし、上記の万延元年春、横浜に到着、ヘボンの住む神奈川成仏寺に入った。ゴーブル夫妻と子供らは寺の境内に小家屋を作りそこに住むことになった。仙太郎は、ごく平凡な人間で、伝道の役に立たなかった。ゴーブルは文久二年(一八六二)横浜山手に移った。神奈川に上陸して五年後苦しい自給伝道生活のなかにあって、元治元年(一八六四)四福音書と使徒行伝とを訳したが、そのうち、明治四年(一八七二)に、『摩太福音書』を、伝道師ゴブリ訳として、横浜で出版した。これは、日本で出版された最初の聖書であった。禁制下の出版であったから、版木の作成を依頼するのに非常に苦労している。このゴーブル訳は、ごく通俗を旨とし、庶民階級を目標とし、全部平仮名を使用し、しかも口語体であった。彼はまた、さんびか集をも翻訳した。『摩太福音書』の出版後、同年十一月、岩倉遣外使節の一行と同船して米国に帰り、もう一度来日する。 バプテスト派の本格的な伝道は、一八七三(明治六)年二月、米国バプテスト宣教師同盟から派遣されたネサン・ブラウンのときに始まる。キリシタン禁制の高札が撤去される直前のことであった。明治五年(一八七二)、米国北部バプテスト大会は、自由伝道協会の事業を引き継ぎ、日本に宣教師を派遣することを決議し、ゴーブル並びにネサン・ブラウンの両名を指名した。彼らは夫人を同伴し、サンフランシスコを出発して一八七三(明治六)年二月七日、横浜に到着した。その本格的な活動については次節に記すことにしたい。 ひらかなで書かれた聖書 神奈川県立文化資料館蔵 二 外国人を対象とした教会 プロテスタント教会幕末の禁教下において、もっぱら在留外国人のために創設され、終始その性格を維持した教会に、ユニオン・チャーチとクライスト・チャーチとがある。ユニオン・チャーチの創立については、高谷道男『ブラウン書簡集』の一八六三年三月二日の書簡に、「最初の米国プロテスタント教会の設立」という見出しで、記されている。同年陽暦二月十八日に、教会組織の問題を討議する目的で、横浜の米国領事F・S・フィッシヤー大佐の自宅で会合を開いた。そして、「この港においてキリスト教会を組織することは適当である」ということが、万場一致で可決された。教会成立の文書が作成され、それに署名したものは、それによって、米国・オランダ改革派教会関係の教会を組織することに同意したものとみなすということを表明した。これに、ブラウンら同派の人びとと、長老教会、組合教会、バプテスト教会、イギリス監督教会の会員たち、諸教派からなる信徒十三名の名が、書き加えられた。このうち一人は日本人仙太郎であった。二月二十三日、教会の役員を選ぶ目的で、別の会が開かれた。その席で、長老、執事が選ばれ、ブラウンに対しては、仮牧師になるよう要請がなされた。礼拝の場所としては、当分の間、米国領事館内の一室をあてようという申し出が、米国領事からなされた。三月の第一安息日には礼拝がそこでおこなわれ、米国人三十六人が出席した。午後は、神奈川成仏寺のブラウンの家で何時ものように聖餐式がおこなわれた。列席者は二十五名であった。聖餐式(洗礼式とともに、すべての教会において最も重要視されている礼典)をおこなうまえに、選ばれた長老と執事は改革派教会の形式に従って、その職務を分掌し、そこで初めて教会組織が完了した。 この教会設立の動機は、次のようなことである。横浜港の米国人居住者のうち、プロテスタント諸教会に所属する教会員が当時十六~十八名いた。この人たちは、ある程度、お互いに孤立しているので、このような教会が必要であった。それに、この居留地の商人たちのためにも、また、それらの人びとから大きい影響をうける異教徒日本人のためにも、信仰を維持しさらに宣教をすすめるために教会が必要とされたのである。横浜には、すでに英国教会があるけれど、不幸にも礼拝は極端に排他的なもので、米国市民がそこに出席することは不可能である。さらに、新しい教会をオランダ改革派教会にする理由は、居留地の大部分を構成するオランダ人の協力を得るためである。オランダ人は、教会を支えるために資金の授助をしたいと望んでいる。この小さい教会は、喜望峰以東の諸国に建てられた最初の米国の教会である。 この教会は明治五年(一八七二)になって正式に外国人だけの教会であるユニオン・チャーチとして成立した。その一方で、日本人の教会として、日本基督公会が創立された。ユニオン・チャーチの集会は、その後、あちらこちらを移動して続けられた。居留地六十八番(本町通り)の外国人演劇場ゲーテー座を使用したこともあった。一八七五(明治八)年居留地百六十七番(現在海岸教会のある場所)、に立派な会堂と牧師館とが建てられ、日本基督公会も、ユニオン・チャーチも、これを交互に、礼拝に、祈祷会に、伝道集会等に使用していた。この会堂は、改革派教会の資金と、ユニオン・チャーチとして幕末から献金されていたものなどと合わせて建設したものである。 つぎにクライスト・チャーチは、文久二年(一八六二)のころ、横浜居留英国人の同教派信徒が、教会堂建設基金として献金し、このとき、英国政府からも、ほぼ同額の補助金が出された。その資金により、旧居留地百一番並びに百五番のところに敷地を入手することができた。こうして、教会並びに牧師館が建設された。 その後、引き続いて、毎年、英国政府から幾分の補助金の給与をうけていた。しかし、一八七四(明治七)年、英国政府からの補助金の交付が中止された。翌七五年、新しく、クライスト・チャーチの名称で独立し、それ以後、この教会には、財政および教務に関する委員が、教会員中から選出されることになった。その後、教会堂が山手二百三十四番地に新設されるが、それは一九〇一(明治三十四)年のことである。 横浜天主堂開国後、最初に建立されたカトリック教会堂は、横浜の聖心教会(Church of the Sacred Heart)である。この教会は、横浜居留外国人に宣教の目的をもって建立されたもので、その意味では「在留外国人を対象とする教会」に入れてよいものである。 安政六年(一八五九)、江戸に来たジラール神父は、翌万延元年(一八六〇)、住居を攘夷運動から安全な横浜居留地に移した。そして、フランス領事館の公務に従事するとともに、日本人の教師について日本語を学び、また、横浜在留外国人のために聖堂を建立しようとして寄附金の募集に奔走した。建立予定地は、フランス政府が、幕府より永代借地権を獲得していた横浜居留地八十番(現在山下町本町通り)である。この万延元年(一八六〇)末、琉球から横浜に移ってきたフランス人宣教師ムニクウ神父が、聖堂の工事監督にあたった。こうして、木造の聖堂および宣教師館の建築工事は進み、翌文久元年十月九日(一八六一年十一月十一日)に落成した。そうして、同十二月十三日(一八六二年一月十二日)、献堂式を挙行した。それと同時に、この日をもって、幕府から在留外国人に対する布教の許可を得ている。 この日の儀式は盛大なもので、駐日フランス公使ドシェーン・ド・ベルクールをはじめ、フランスの陸海軍将校などが多数参列した。プロテスタントの日本人教会が、ひそやかに官憲の眼を気にしながら創立されたのと対照的である。 この天主堂を、人びとは耶蘇寺とよんで、好奇心から見物に来る者が続々と集まってきた。みな、おとなしくフランス人宣教師の日本語説教をきき、キリスト教に関する質問をする者が、毎月、数百人に達したという。なかには、祈祷文を書いてもらって、持ち帰るものもあった。そのため、文久二年一月二十日(一八六二年二月十八日)には、神奈川奉行が、教会堂で、福井藩の歩卒・商人農民など三十人を捕縛するという事件が起こった。 慶応二年(一八六六)の末、プチジァン神父は、香港で日本の教皇代理に任ぜられ、叙品式(叙階に同じ)をあげ、間もなく横浜にもどってきた。 このころ、聖心教会の宣教師は、仏和学校を横浜洲干町(現在中区北仲通六丁目)に開き日本人にフランス語の教授をしていた。フランス語の教授については、多分にプロテスタント宣教師のおこなう英語教授と対抗する意識を抱いていたように思われる。 慶応三年九月九日、本教会堂主任司祭ジラール神父が亡くなり、遺骸は聖堂内に葬った。明治元年四月、プチジァン司教は、横浜に本拠を定めた。一八七三(明治六)年二月二十四日、太政官布告をもって、キリシタン禁制の高札は、他の制札とともに撤去され、元町浅間坂付近(前田橋畔の高札場)に建てられてあった高札も撤去された。 この解禁にそなえて、プチジァン神父は、日本人神学生のために、横浜天主堂付設の神学校を開設した。これが「横浜天主堂学校」の起源である。明治四年(一八七一)のことであるが、明治五年ころからは、日本人への布教のために、漢文・文語体の教書(司教が前教区の聖職者または信徒に対し教導のために発する公的書簡)を出版しようとして、神学校付属の石版印刷所を開設した。ここで、同神父は、在清宣教師によって漢訳されていた『聖教理証』の和訳出版を試みたのである。 それは、長崎地方の旧キリシタンの後裔のみでなく、新しい地方に、儒教的教養をもつ知識層にカトリック布教が伸展するためには、キリシタンという歴史的陰影をさけるためにも、あまりにも特殊な、伝統的キリシタン術語を使用することは、望ましいことではなかった。プチジァン司教は、このことを早くも悟っていたのである。 本書は、横浜天主堂において、一八七三(明治六)年に開版された。本書出版は、プチジァン司教の横浜滞在中に翻訳が完成し、石版刷を修得した信者三人を主として、十三名の協力によって出版されたと思われる。本書は、再版が、一八七六(明治九)年に、三版が七九年に、そして四版が八二年に刊行された。四版は、内容に大改訂を加え、自由に日本事情や外教者の疑問・論難をとりあげて答えており、キリシタン伝統をもたない京浜地区の知識人への布教書として、明治初期の教会内外に迎えられたのである。 またプチジァン司教は、漢学的教養のうちにある京浜を中心とする新布教地に対するカテキズム(教理問答)として、一八七五(明治八)年、キリシタン伝統術語主義から脱して、漢書系の『聖教初学要理』を出版した。そして、翌年には、同司教の献策によって、日本教会は南北両教区に分割されたが、横浜に司教座をおく北緯聖会は、一八七七(明治十)年以来、右の書を幾分改訂しながら連年のように出版した(海老沢有道「キリシタン典籍研究余録」『聖心女子大学論叢三』所収)。 サン・モール修道会わが国に初めて修道院と孤児院を創立したのは、フランスのサン・モール修道会である。明治五年(一八七二)、シンガポールにあるサン・モール修道院長のサン・マチルドは、五名の修道女を引率して横浜港に到着した。陽暦六月二十八日のことである。それは横浜に上陸した最初のカトリック修道女であった。そして、同年秋ごろ、山手五十八番(現在横浜雙葉のテニスコートの地)に小さい家を借りて、「仁慈堂」と名づけ、孤児や捨子の世話を始めた。これが横浜における最初の社会事業施設であった。そして、翌一八七三(明治六)年三月十四日には、はじめて日本人のための布教の許可を得たのである。 サン・モール修道院の起源は、延宝六年(一六七八)ごろのことで、パリのサン・モール街に修道女養成を目的とする一つの修道院が設立されたことに発している。サン・マチルドは、明治五年(一八七二)のはじめ、プチジァン司教から近いうちに日本でキリシタンの禁制が解除される見込みがあるので、いそいで修道女派遣の準備をしてほしいという連絡をうけた。そこで、マチルドは、パリ本部から修道女を日本に派遣することの承認を得て横浜に来たのである。プチジァン司教は、横浜に孤児・棄児が、うろついている有様を、マチルドに説明した。実際、明治二年(一八六九)の米価騰貴により、貧民の窮迫がはなはだしく、神奈川県では、明治二年(一八六九)十月、吉田新田八丁縄手に、かゆ炊き出し小屋を設けて、横浜周辺の窮民に施粥を実施している。しかし、それに集まる窮民は絶えることなく、翌年に入っても炊き出し小屋を閉鎖できなかったほどであった。そして、彼らは、その子女を人買いに売るほかない有様であった。政府は、明治四年(一八七一)六月「棄児養育米給与方」という棄児・孤児などの救済規則を布告した。それくらいに棄児・孤児が多かった。マチルドは、不幸な子どもを救済することが、自分に課せられた仕事であると決意し、ここに「仁慈堂」の開設となったのである。 マチルドら修道女の奉仕によって、横浜で唯一の児童保護施設であるこの仁慈堂では、要保護児童が増加していった。収容児童には、さきの「棄児養育米給与方」によって、給与米が支給されたが、それだけでは、多数の児童を養育するのは、とても困難であった。それで、マチルドは、内外の協力者に援助を求めたのである。 その後、さらに、マチルドは、山手八十八番地に、サン・モール・スクール(外国人子女の教育のため)と横浜菫女学校(貧児教育・養育のため)との二施設を設立した。後者は仁慈堂にかわる施設であった。一八七五(明治八)年八月、マチルドは、東京にも、サン・モール・スクール、薫女学校、女子語学校を設立した。そのころまでに、横浜菫女学校が扱った児童数は、児童三百五十人、乳幼児八十人、嬰児里子二百五十人に達したといわれる。当時としては、非常に大きな数字であったといえる。 菫女学校の児童増加につれて、資金の調達と職員の養成に力をいれる必要があった。ことに、日本人修道女を養成することが、マチルドの念願であった。そのような事情のなかから、日本人修道女マルグリット(姓は山上)が生まれた。この菫女学校は、一九二三(大正十二)年九月一日の関東大震災によって潰滅したので、数人の生き残り児童を東京菫女学校に移し、横浜菫女学校は閉鎖するにいたった。 横須賀天主公教会この教会は、慶応二年(一八六六)、幕府の横須賀製鉄所を建設するために来日したフランス人技術者のために、フランス人官舎とともに建設されたものである。横須賀製鉄所の首長として来日したウェルニーは、慶応二年(一八六六)四月二十五日に横浜に到着し、ついで横須賀に赴いている。 製鉄所に招聘を予定した技術者は、首長ウェルニー以下、頭職人十一人、職人二十四人(二十六人か?)であったが、彼らフランス人技術者のために宿舎が建てられ、「小さな居留地」がつくられたのである。このフランス村は、「小奇麗でハイカラで礼拝堂もあり宣教師も居り正に吾等の同国人に愧ぢざる生活を営んでいる」と記されている。その宣教師とは、フュウレ神父である。また天主堂は、学校としても利用され、その広さは、八十坪余り、経費は二千六百五両余りであった。慶応三年(一八六七)年春、伝習生の増補とともに職工生徒を募集し、その生徒らにフランス語を教授していたのが、フュウレ神父であった。一八七四(明治七)年に、パリ外国宣教会から横須賀天主公教会主任司祭としてデマンジュール司祭が赴任した。このときすでに洗礼をうけた信者が三人以上いたという。この一八七四年から一九〇七(明治四十)年までの三十三年間に受洗者は百八十八人である。一八八六年には、信仰堅固の象徴として堅信の秘蹟を、オズーフ司教より受けた信者は五人あった。一九〇七年、ゲラン司祭がデマンジュール司祭に代わり、一九〇九年レイ司祭、一九一二(大正元)年ジランディア司祭が赴任した。大正年間は、横浜教区に属し、多くの信者がいた。 第三節 開化の文物 一 日刊新聞の誕生 『横浜毎日』の発刊わが国における最初の日刊新聞として『横浜毎日新聞』が、明治三年十二月八日(一八七一年一月二十八日)に発刊された。発行所は、元弁天町(現在中区北仲通二丁目)の英仏語学所に開設された横浜活版社である。ところで『横浜毎日新聞』は、創刊当初の紙面が久しく発見されなかったために、その創刊日について、従来さまざまの説がとなえられていた。あるいは明治四年四月発刊といい、あるいは明治三年十二月十二日に『横浜新聞』として片面刷りで発刊、四年四月十五日に『横浜毎日新聞』と改題した、という。こうした諸説に対して、日付の綿密な計算により、十二月八日発刊を提唱する新説(近盛晴嘉)があらわれたが、現物が確認されない限り、推測にとどまった。 ところが一九六四(昭和三十九)年に至り、群馬県高山村の旧家(佐藤家)から、十二月八日付の創刊号が発見されたのである。発刊の日付は、こうして確定した。新聞は、大阪の西洋紙を用い、両面に鉛活字をもって印刷していた。鉛活字が不足したところは、木版活字をもって補充している。すなわち第一号から、今日の新聞と同じような体裁をもっていたのであった。 しかし日刊といっても、最初から毎日、発行したわけではない。第一号の冒頭には、全段を通して創刊の辞を掲げ、その最後に「当十二日より毎日摺出す」と記している。つづいて社告ともいうべき「新聞告白」を掲げ、そのなかで休日は、正月松の内(一月一日―七日)・五節句・氏神まつり・毎月朔望(一日と十五日)とするが、そのほかは「毎夕摺立、翌朝売出し可申候」と述べていた。 こうした記事によって見れば、新聞は十二月八日に第一号を発刊した後、数日を休んで、第二号を十二日に印刷、十三日に発行、以後は休日のほか日刊として発行をつづけた、と推定される(近盛説による)。なお四年一月一日には第十八号を発行、つぎは七日まで休んで、第十九号は八日に印刷し、九日に発行したと考えられよう。 いま発刊の地の跡には、国立横浜生糸検査所が建てられている。その構内に一九六二年十月十日、「日刊新聞発祥の地」 『横浜毎日新聞』第1号上段表,下段裏 (明治3年12月8日付) 国立国会図書館蔵 記念碑が除幕された。碑文には、この地で『横浜毎日新聞』が誕生したことを告げるとともに、同紙が「冊子型木版刷りの旧型から、活字一枚刷りの現代型へと踏切った我が国最初の新聞」であったことを明記している。ただし発刊の日付は旧説にしたがって、十二月十二日とした。 さらに碑面には『横浜毎日新聞』第二十九号の紙面を原寸大に複製し、金版ではめこまれた。当時は第二十九号が、現存する最古の新聞だったからである。この第二十九号は明治四年一月二十日発行であり、さきの計算によれば日付と号数はぴったり符合している。 『横浜毎日』の発展当時の神奈川県知事井関盛艮は内外の事情を報道する媒体として、新聞を発刊したいと考えていた。たまたま長崎のオランダ通訳本木昌造が鉛活字の製造に成功したことを聞き、本木の助力を求めた。よって本木は、門人の陽其二に活字および印字機を持たせ、上原鶴寿とともに横浜へ向かわせた。井関は、かつて横浜に輸入する外国図書の検閲官であった子安峻を招き、子安を編集人として『横浜毎日新聞』を発刊させたのであった。 発行元の横浜活版所においては、やがて社勢を伸張するため、横浜の豪商であった原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛らの協力によって業務を拡充し、島田豊寛を社長に迎えた。この島田の養子が三郎であり、のち『横浜毎日』の後身である『毎日「日刊新聞発祥の地」記念碑 (横浜市中区北仲通) 新聞』を主宰したほか、代議士として政界に活躍する。 さて記事は、横浜に出入港する船舶の紹介や、貿易に関する情報を主体とし、これに内外のニュースを加えた。広告の分量も、すこぶる多い。同紙の経営が主として広告の収入に頼っていたためであった。広告の文面も当時の世相を反映していて興味深いものがある。 紙面は明治四年四月から、四ページ建てとなった。記事の内容も、それだけ豊富となる。翌明治五年(一八七二)、発行所は本町六丁目に移り、社名も横浜毎日新聞会社と改めた。当時における気鋭の人士は、ぞくぞくと新聞会社に集まり、思うままに健筆をふるった。 創刊当時の紙代は、一日につき一匁(一銭六厘六毛)、一か月につき二十四匁(約四十銭)、一年分では二百五十匁(約四円)であった。それが明治五年六月十六日から、「紙幅を相拡め」るためと称して、一日につき一匁五分に値上げする。一か月で三十六匁、一年で三百六十匁、となった。なお広告料は、十日までならば一字につき一分、一か月以上になると一字につき五厘であった。そこで百字分の広告を一か月にわたって掲載するときは、五匁(八銭三厘)を要したわけである。 こうして社業は日を追って発展し、一八七三(明治六)年六月には妻木頼矩を編集長にむかえた。月俸五十円であった。これは当時としては高給である。同年のうちには文章方(記者)として栗本鋤雲『横浜毎日新聞』(明治4年8月25日付) 国立国会図書館蔵 や島田三郎が入社し、一八七四(明治七)年には仮名垣魯文も雑報記者となった。同年十二月には島田が編集長となり、一八七五年には肥塚龍も入社した。 これらの記者たちが、折りから高まってきた民権の論を展開する。政府は一八七五年六月二十八日、讒謗律を発して、言論の弾圧を加えたが、これに屈することなく新聞は政府攻撃の論陣を張ったのであった。この間、発行所は本社屋を新設するため、一八七三(明治六)年五月から元浜町四丁目に仮社屋を建てて移っていたが、一八七五年には広壮な西洋館が落成し、再び本町にもどったのであった。 『横浜毎日』の後身やがて明治も十二年をむかえる。同年十一月『横浜毎日新聞』は、創刊このかた号数も二千六百八十号をこえた。しかし横浜は、貿易港として発展をつづけているとはいえ、すでに政治や経済、さらに文化の中枢は東京に移っている。当時の東京においても『東京日日新聞』や『朝野新聞』また『郵便報知新聞』など有力な日刊新聞がつぎつぎに発刊されており、これに対して横浜は「七里僻地ノ不便ナキ能ハズ」という状況におかれていた。もはや「政策方向ノ如何ヲ探リ、……内国商況ノ如何ヲ察セントセバ、東京ヲ除テ他ニ其超過シタル場所アルヲ見ズ」と考えられた。ここにおいて『横浜毎日新聞』を主宰する島田三郎は、東京で共に政治を論じてきた知友の沼間守一とはかり、出資者の了解を得て、本社を東京に移転するに至ったのである。すなわち明治十二年(一八七九)年十一月十八日、第二千六百九十号をもって、発行所を東京の京橋に移し、紙名も『東京横浜毎日新聞』と改めた。本町の社屋は「横浜局」となった。社長には沼間が就任し、島田は主筆となる。 本町の社屋には「従来ノ編輯員数名ヲ置キ、横浜内外ノ商況ヲ詳ニシ、以テ読者ニ報道スルヲ怠ラズ」という姿勢をとったけれども、また紙名に「横浜」の文字が残されたけれども、もはや『東京横浜毎日』は、横浜の新聞ではなくなった。このときをもって神奈川県下には、有力な新聞が消えたのであった。 これより『東京横浜毎日』は東京における有力紙として、中央の政界や言論界に重きをなす。さらに一八八六(明治十九)年五月一日には、紙名から「東京横浜」の文字も削られ、単に『毎日新聞』と称するようになった。本社も尾張町に移された。 このころの同紙は、一八八一年四月に結成された改進党の機関紙となっている。社長は沼間、主筆が肥塚、監事が島田であった。一八九〇年に沼間が死去すると、島田が社長となり、一九〇七年に及んだ。その間の明治三十年八月七日『毎日』は横浜で創刊されてから八千号を数えている。なお、この『毎日新聞』は、そのころの競争紙であった『東京日日新聞』はもちろん、『大阪毎日新聞』およびその後身である現在の『毎『東京横浜毎日新聞』第2690号(明治12年11月18付) 国立国会図書館蔵 『毎日新聞第』4623号(明治19年9月1日付) 国立国会図書館蔵 日新聞』とは、まったく関係のない、別箇の新聞である。 二 初期の新聞と雑誌 各種新聞の発行さきに『横浜毎日新聞』を発行した横浜活版社は、この新聞とは別に、明治四年(一八七一)十一月から『金港雑報』を発刊した。これは広告文に掲げられた通り「毎日新聞紙中より抜萃致し、且遺漏の分を増補して出版」した冊子型のものであった。一冊の代価は銀二匁(約三銭三厘)であり、翌五年四月の第二十九号まで、つづけて刊行された。 明治五年二月二日からは、同じく横浜活版社から『毎週新聞』が発刊された。これも冊子型で広告文によれば「外国の新聞紙を翻訳すれ共、長文にして毎日新聞紙へ摺出兼候分を一冊に纒め」たものであった。代価は明らかでない。週刊をめざしたが、実際には十日ほどの間隔で『金港雑報』と並行して発行された。しかし『毎週新聞』も同年八月、第十二号を発行したまま、廃刊されてしまった。 その後、一八七四(明治七)年六月には『五州雑報』が発刊された。発行所は横浜新聞会社、印刷所は横浜活版社である。やはり『横浜毎日』とは違った編集方針をとり「中外各種の新聞に就て、其最も奇事美談に渉る者を拾ひ、凡天地万物の創見・器械・技芸・農桑・牧畜の発明等、「毎週新聞」第1号(明治5年) 東京大学法学部明治新聞雑誌文庫蔵 世に稗益ある者、及才智を益すべき者を輯録し」た。今日の科学記事まで採録したわけであって「萃を抜き英を結び、机上の珍玩に供せん」としたのである。しかし、これも所期の売行きを得なかったらしく、同年十一月に第十六号をもって廃刊された。 これよりさき、明治五年(一八七二)十一月には、当時の足柄県において『足柄新聞』が発刊されている。足柄県の境域は、今日の神奈川県西半から静岡県の東部(伊豆)にわたっており、県庁は小田原に置かれた。これまで神奈川県下の新聞といえば、ことごとく横浜において発行されている。ここに及んで、横浜にくらべれば開化の遅れた足柄県からも、独自の新聞が誕生したことは、注目に価すると言えるであろう。 発刊にあたっては、足柄県の地域が「地勢狭隘、人民固陋、随テ新見異事ノ伝播極メテ遅ク、刊行ノ料に充ルモノ亦多カラザルベシ」と称している。けれども記事は、県の人事から県政一斑、さらに県下の事件など、多岐にわたっており、中央からの布達も掲げている。まさしく地方新聞として、独特の報道をなしていたのであって、この地方の動きを見る上には貴重な記録ということができよう。明治五年(一八七二)には第一号および第二号を発行、一八七三(明治六)年一月に改めて同年の第一号を発行した。以後、五月発行の第八号までは存在が確認されているが、いつまで続刊されたかは明らかでない。 『仮名読新聞』東京においては、明治五年二月『東京日日新聞』が創刊され、三月に『日新真事誌』、六月に『郵便報知新聞』が発刊した。これらは『横浜毎日新聞』と同じく、いわば政論新聞として知識層を対象とし、当時は〝大新聞〟と呼ばれた。記事も固い文章で、大衆には難解であった。これに対して平易な文章「足柄新聞」第1号(明治5年) 東京大学法学部明治新聞雑誌文庫蔵 で、世上のできごとを、時には興味本位の筆致で報道する〝小新聞〟があらわれる。一八七四(明治七)年十一月に創刊された『読売新聞』や、一八七五(明治八)年四月発刊の『平仮名絵入新聞』は、まさしく読者を大衆に求めた小新聞であった。 つづいて一八七五年十一月一日に横浜で発刊されたのが、仮名垣魯文の『假名読新聞』であった。魯文は神奈川県庁に勤めながら、『横浜毎日新聞』の雑報記者として活躍し、文名すこぶる高かった。そして一八七五年には県庁を退職し、新聞を発刊するに至る。発行所は横浜新聞社で、支局を東京新橋の文明社に設けた。第一号の巻頭に曰く。 東西〱発行の三番叟より五評判に預かり升た読売と平仮名の両新聞の中間を潜り鵜の真似するからす飛も毎日新聞元祖の本社開業以来のお得意を外へはやらじとすゞりを鳴らし曲りなりにも仮名釘流お邪魔にのたくる蚯蚓書弥々今月今日より隔日毎に出刷升れバとつは一偏にお購求をねがひ升 このような文体で、横浜や東京をはじめ内外の風聞を興味深く報道した。官庁よりの布達を「官令」とし、ニュースを「新聞」として掲げたほか、投書の「寄書」には端唄や狂歌も収める。また「広告」ものせた。したがって「モシ旦那へ此節ハ新聞がはやり升が大きいのハ(大新聞は)わたくし共にハわかりませんから半分程は読ません其上に毎月の事だから読にひまがかゝるのでいけません子エ夫につけても読売絵入今度出来た仮名読此三ツに限り升ヨすこし読たりないくらいであしたを待のが楽しみです子エ」(第二号)というような好評を得たのであった。 体裁は構長の紙面に二段組、二ぺージ建てであった。当初は発刊の辞にもあるとおり隔日刊であったが、明治九年(一八七六)八月十七日からは日刊となる。定価は一枚につき七厘五毛、一か月では前金九銭、三か月では二十五銭であった。この代金について、一部を八厘で売りつけられたと、元町の読者から投書があった。これに魯文は次のように答えている(第五号)。 元町の坊ちやんお前贔負にしてよく買ておくれだねへ有難たう一枚売ハ七厘五毛に違ひないのハ新聞の末に書た通りだよ若し売子が八厘だといったら定価部を証拠に扱ひ所へでも引張てお出なさい後の為だから思ふさまいぢめておやり頼みましたよ 編者 かながきうぶん こうして『仮名読』は「四方看客の愛顧により漸々盛大に」なっていった。しかし当時の新聞は「専ら東京の事情を記するを面目と致すに付き何分七里間の鉄道にて府下の種子を持越してハ腐れ易いと申す処より」一八七七(明治十)年三月からは、発行所を東京の京橋に移してしまったのである。社名も「仮名読新聞社」と改められた。評判の新聞が、ここでも神奈川県下から消えている。文明開化のさきがけをなした横浜であったが、明治十年代には新しい文化の舞台が、つぎつぎ横浜から東京へと移っていったのであった。ポンチ絵の登場幕末の横浜には、英文の漫画雑誌も発行されていた。洋画の技法をわが国に伝えたワーグマンCharles Wirgmanの発行によるものであり、題名を『ジャパン・パンチThe Japan Punch』という。創刊は文久二年(一八六二)七月といわれている。体裁は、和紙を十余枚つづって、第一頁を表紙とし、大きさはタテ35〓、ヨコ25〓であった。初めは木版刷であったが、のちに石版刷となっている。題名のパンチとは、パンチネロPunchinelloを略したもので、あやつり人形の主人公であり、大きな曲った鼻をもっていた。ロンドンでは、すでに一八四一(天保十二)年『パンチ』の題名で雑誌が発行され『ジヤパン・パンチ』表紙(1866年) ている。これを模してワーグマンは、横浜居留地の外人むけに、諷刺をこめた絵入り雑誌を発刊したのであった。 ワーグマンについては、その生年月日も、横浜に来た正確な日付も、さまざまの説があって明らかではない。しかし外人墓地にある墓碑や、イギリスの記録から見て、一八三二年八月、ロンドンに生まれた、と考えてよいであろう。日本へは、『イラストレーテド・ロンドン・ニュースThe Illustrated London News』の特派員として、おそらくは文久元年(一八六一)七月、横浜に着いた。日本に来る前は中国にあって、取材に当たっていたのであった。訪日のとき、二十九歳に達していた。 横浜に住みついたワーグマンは、その目にふれる日本の風物や生活、また幕末の諸事件を、丹念にスケッチしてはロンドンに送った。その絵と記事がロンドンの紙面をにぎわせたことは、いうまでもない。同時にそれは、日本を紹介する資料ともなった。このように記者として活躍するかたわら、日本における漫画雑誌の先駆ともいうべき『ジャパン・パンチ』を発刊したのである。刊行は不定期であったが、明治に及んでも続刊され、一八八七(明治二十)年六月に廃刊されるまで、約百七十号を数えた。発刊の一年あまり後(文久二年あるいは三年)には小沢カネと結婚し、その間に男子、小沢一郎(charles)をもうけている。ワーグマンのもとに出入りして油絵を学ぶ者も多く、明治前期の画壇に登場した五姓田芳柳、その子の義松、高橋由一、川上冬崖、山本芳翠、小林清親らは、いずれも直接に教えを受けた者たちであった。 さて『ジャパン・パンチ』は、日本人の間では「ポンチ」と呼ばれた。福地桜痴も「西洋新聞紙中、ポンチといふものあり、是は鳥羽絵の風にて、可笑き絵組を取認め、基中に寓意あり……」と註している(明治元年『江湖新聞』)。ここから〝ポンチ絵〟という語が生まれた。 一八七四(明治七)年七月には『ジャパン・パンチ』をまねて、仮名垣魯文が『絵新聞日本地』を、横浜桜木町から発行した。発行に当たっては「自今在留の英人ワクマン氏が鼓筆のポンチに模擬し号して日本地と題す」と記している。この雑誌は二号で廃刊されたが、やがて一八七七(明治十)年三月、東京において『團々珍聞』が発刊されるに至る。 ワーグマンは一八八七(明治二十)年秋、いったんイギリスに帰った。そのため雑誌も廃刊されたのである。しかし住みなれた横浜を忘れることができず、再び来日する。間もなく病床に伏し、一八九一(明治二十四)年二月八日に死去した。五十八歳であった。その墓は山手の外人墓地にある。毎年二月八日には「ポンチはなまつり」が営まれている。 三 洋式の建造物 鉄橋と洋風建築いわゆる関内と関外とをつなぐために、吉田新田の堤から、太田新田の堤にかけて、その間を流れる堀割の上に架けられたのが、吉田橋である。安政六年(一八五九)の開港直後、応急の施設として長い木造の橋が架けられ、当初は新大橋と呼ばれた。やがて、この大橋も使用に耐えられなくなったため、文久二年(一八六二)には、その南方に新しい橋が架け替えられた。しかし港ヨコハマの発展にしたがって、交通量は日ましにふえ、新しい橋も損傷がはげしくなる。慶応三年(一八六七)九月には、とりあえず仮橋を設けて、本橋の補修をほどこした。 このとき地元の住民からは、永代の使用に堪える鉄製の橋を架けてほしいとの要望があがり、居留地の外交団もまた、鉄橋の建造をうながした。こうして幕府も、ついに鉄橋を架設する計画を立てるに至ったが、やがて時勢は変わって明治の世となる。新政府は、燈明台役所のお雇い技師ブラントンに設計を委任し、明治二年(一八六九)の初めから工事に着手した。まず堅固な護岸工事をほどこし、イギリスから取り寄せた鉄材をもって、十一月には日本最初の鉄橋が完成する。幅五㍍、長さ二十四㍍、工費は七千円余りであった。鉄橋の威容に、当時の人びとは驚きの目を見はり、とくに〝かねのはし〟と呼ばれて、その名は全国にひびきわたった。 ところが関内と関外の埋立てが進むにつれて、橋詰めの地点が低くなる。明治四年十一月に吉田橋の関門が撤廃されてから後、交通量はますます増大し、橋台を引き上げる必要が痛感されるに至った。この難工事を請け負ったのが、信州出身の土建業者、宮坂初太郎と土屋茂十郎の両名である。一八七三(明治六)年三月、七日間昼夜兼行の工事をもって、みごとに引上げを達成した。 こうして吉田橋は、一九一〇(明治四十三)年、新しい鉄橋に架け替えられるまで、長く交通の要衝として、大きな役割を果たしたのである。横浜の中枢に架けられた〝かねのはし〟は、まさしく開化の産物であった。 開化の建造物は、鉄橋だけではない。開港から数年をへると、横浜の街頭には洋風の居館が建ち始めている。外国人の要求にしたがって、日本人の大工が指示されるままに建てたものであった。日本人には洋風と感じられても、実質は日本在来の木造建築にほかならなかった。 ところで慶応二年(一八六六)十月二十日、横浜は空前の大火に見舞われる。いわゆる〝豚屋火事〟であって、居留地のめぼしい建物もことごとく灰になった。しかも、この大火の経験から、今後の建物は耐火構造であること、また街区に防火設備をほどこすことの必要が認められたのである。居留地はもちろん、これに近接する日本人町の建物は、瓦ぶきの屋根、煉瓦造または石造(あるいは厚い石灰)にするという規則も定められた。日本人もまた、洋風建築の家に住むことが求められたのである。 こうして横浜には、つぎつぎに洋風建築が建てられてゆく。慶応三年(一八六七)九月には、本町一丁目(現在神奈川県庁所在地)に石造二階建ての横浜運上所が落成した。これはわが国における最初の洋風建築と見なされている。ついで横浜役所が落成した。これは明治時代に及び、横浜裁判所および神奈川県庁として、明治十五年まで引き続いて使用される。 明治三年(一八七〇)には本町三丁目に、横浜為替会社(のちの第二国立銀行)と横浜商社の建物が、二階建て洋館として落成した。この建物は十二月の大火によって焼失したが、翌四年にはさらに堅固な石造の洋館として再建された。明治五年には木造であるが二階建て漆喰塗の横浜電信局が落成し、また横浜停車場が石造の壮麗な外観を呈してあらわれ、一八七四年には横浜郵便局が外国郵便の取扱局にふさわしく、モダンな姿を見せたのであった。 同じく一八七四年には本町一丁目に横浜町会所が完成した。石造二階建ての純洋式建築であり、正面中央には四階建ての塔を配し、大時計をつけたので、時計台と呼ばれて親しまれた。もちろん横浜における最大の洋館であった。しかし一九〇六(明治三十九)年十二月に類焼し、その跡には大正に及んで横浜開港記念会館が建てられた。 ホテルと洋風旅館横浜には外人のためのホテルも建てられた。ホテル経営の最も古いものは、海岸五番の地に建てられた英人シメッツの居館である。シメッツは幕末(文久三年)から、自宅を同国人の社交クラブにあて、また横浜をおとずれる同国人の宿泊にも供した。慶応二年(一八六六)の〝豚屋火事〟にも類焼をまぬがれたから、その後は五番クラブとして、各国人のために開放され、実質上のホテルとなった。 やがて明治二年(一八六九)、五番クラブは、その名もクラブ・ホテルと改められ、英人ヴァン・ビューレンが経営するようになった。このホテルは関東大震災まで営業をつづけ、その後は山下町に再建されて昭和五年に及んだ。さて明治の世になると、居留地には幾つかの小規模なホテルが開業しているが、六年九月には海岸二十番にグランド・ホテルが新築され、営業を開始する。 グランド・ホテルは、その名にふさわしく広大な洋風建築であって、広告(『横浜毎日』に掲載)によれば「諸事欧洲の例に做ひ、家具美麗を尽し、万器清潔を極め、……食事は常食、非常食の両種に別ち、……非常食は四人より百人に至るまで、御誂ひ次第急速出来仕候」という次第であった。まさしくミナト横浜を代表するホテルとして登場したのである。なお同ホテルは大震災で焼失したが、一九二八(昭和三)年には海岸通り十番の地に、ホテル・ニューグランドが開業した。 ところで居留地の外人のなかには、東海道を西へ下って、箱根のあたりまで足を伸ばす者も少なくなかった。富士登山のためにも、箱根を越えねばならない。また箱根は、外人には珍しい温泉郷であった。こうした外人の宿泊に供するため、洋風のホテル建築を考えたのが、湯本村の福住九蔵(正兄)である。福住は一八七四(明治七)年、出入りの棟梁を伴って、横浜や東京におもむき、さまざまの洋風建築を見てまわった。 一八七七年五月、湯本村には外観に洋風を取り入れた福住旅館が出現した。その構造は、左右に三階建ての建物を並べ、それを二階建ての建物で結んでいる。まさしく横浜停車場と同じような外観を呈していた。ただし横浜停車場は左右が二階建て(中央は一階)であったが、福住旅館はその上に小さな三階を設けた。これは東京の第一国立銀行を模したものと思われる。二階までは石造(木骨石張)であり、三階は木造漆喰塗であった。 室内は和風にしつらえられた。しかし窓は細長い洋風であり、窓の扉をあければ、外側には鉄の洋風グリルがつけられた。階級はラセン状を呈し、その上部には彎曲した手摺がつく。この手摺りも、これを支える小柱も、洋風であった。階段の天井には、丸い木彫りの装飾がほどこされた。これも洋風の発想であったが、図案は和風(木に飛鶴の図)であった。福住旅館の全体は、いわば和洋折衷となっていたわけである。 福住につづいて一八七八(明治十一)年に開業したのが、宮ノ下の富士屋ホテルであった。これを建てた山口仙之助は横浜の出身で、明治四年には米国に渡り、三年間にわたって海外の事情を学んだ。帰国の後は慶応義塾に入学、福沢諭吉の勧めにより、実業界に身を投ずるに至る。ここで思いついたのが、外人専門の旅館経営であった。一八七七年、箱根の宮ノ下において藤屋旅館を買収し、横浜から職人を招いて三階建ての洋館をつくる。そして翌年、富士屋ホテルと改称して開業した。外人の間に最もよく知られている富士山にちなんで命名したのであった。 宮ノ下には、明治以前から藤屋のほか数軒の宿屋があった。そのうち外人の利用が多かったのは、奈良屋である。新しく開業した富士屋は、旧来の奈良屋と競争し、奈良屋が純日本風の宿屋であったのに対して、洋風の建築に洋風の設備をほどこし、洋式の経営によって、しだいに外人の人気をあつめていった。パンや肉類は横浜から取り寄せた。 しかし富士屋は一八八三(明治十六)年十二月、宮ノ下の大火によって全焼する。すべてを失った山口は、血のにじむ苦悶の末、翌八四年に洋館を再建し、その後は年ごとに新館を増築して、後年の繁栄に至るのである。 四 文明ことはじめ 十全医院の開設欧米に発達した近代文化は、まず横浜に伝えられ、ついで首都の東京に及ぶ。文明開化の「ことはじめ」は、おおむね横浜に発した、と称しても過言ではない。西洋医学による治療も、イギリス人によって居留地のなかで行われていた。ただし、これは外人を対象としたものである。日本人に対して治療をほどこしたのは、宣教師としても活躍したヘボンであった。 明治元年閏四月、戊辰戦争で負傷した政府軍の兵士を治療するため、洲干弁天にあった語学所を仮病院として開いた。これは横浜病院と呼ばれ、主としてイギリ人の医師ウイリスが外科治療をほどこした。当時の新聞には「其疵の重き者は、コロロホルムと云ふ麻薬を用ひて裁断術を行ふ。……当人は勿論傍観の者に至るまで、驚嘆せずといふ事無し」と記している(『中外新聞』明治元年六月三日付)。しかし、この病院も七月二十日には東京の下谷に移された。 市民のための病院が開かれたのは、明治四年(一八七一)のことである。県権令の大江卓は本格的な病院の設立をめざし、市内の資産家に建設費の寄付を求めたところ、たちまち金六千円余を集めることができた。これより野毛山上に病院の建設を始める。その落成まで、仮病院が元弁天(現在中区北仲通)に設けられ、九月一日から治療を始めた。 時に東京の大学南校(のちの東大医学部)では米人医師D・B・シモンズを招聘していたが、神奈川県は改めてシモンズを招き、週一回の治療に当たらせることにした。仮病院とはいえ、最初の県立病院であった。 やがて野毛の病院も建設が完成し、一八七三(明治六)年十二月一日には開業される。それまでの仮病院も移転し、ここに本格的な病院として診療を開始した。病院は内院(入院患者用)と外局(外来患者用)とに分けられ、入院費や診療費も公示された。さらに「払方なりがたき貧民は、無代にて一広室に置」き、寄付金によって施用することも示達されている。すでにシモンズも専任の医師として県当局に招聘され、連日の診療に当たっていた。 明治七年二月、野毛山の病院は「十全医院」と命名され、県が経営する公立病院として、日ごとに名声を高めていった。シモンズに対する信頼も厚かった。当時の新聞も、シモンズについて次のように記している。 医師は亜米加人ニシテ哂門士ト云此人日本ニ居住スルヤ年既ニ久シ故ニ能ク風儀ニ習慣シ病者ニ対スル至テ懇切ナリ 加之ズ諸病ヲ治スル其奏功挙テ云フヘカラズ殊ニ黴毒労擦及ヒ眼病等ヲ治スルコト極メテ巧ニシテ又外科ニ妙ヲ得タリ (『横浜毎日新聞』明治七年四月十八日付) こうしてシモンズは一八八〇(明治十三)年、辞職して帰国するまで、治療に誠意を尽くした。のち再び来日、一八八九(明治二十二)年二月に死去して東京の青山墓地に葬られた。シモンズは、また〝セメンズ〟とも呼ばれた。虫下し薬として普及した「セメン円」は、セメンズ、すなわちシモンズの医方を伝えたものである。 十全医院は一八七八(明治十一)年から往診も始めた。そして創立以来、県が管理したが、一八九一(明治二十四)年四月には横浜市の経営に移される。この後は市立病院(戦後は市立大学病院)として今日に至った。 横浜ゲーテー座横浜居留地のなかでは、幕末の文久年間から、在住の外人のために、外人による芝居や音楽会が開かれていた。旅興行の一座が来演することもあれば、在住のアマチュア仲間が演技を競うこともあった。元治元年(一八六四)には、米国からリズリーのサーカス団が二か月にわたって公演している。これは日本において興行された最初の外国サーカス団である。当時は「中天竺舶来軽業」と呼ばれ、外人ばかりでなく日本人も多数つめかけた。その情況は錦絵にも描かれている。 芝居や音楽会は開かれても、専用の劇場はなかった。多くは居留地のなかの空倉庫などを利用したものであろう。サーカスは空地にテントを張って行われた。やがて明治の世となり、居留民の数も増加するにしたがって、劇場の開設を望む声も強くなった。こうした要望にこたえて、明治三年(一八七〇)秋、本町通六八番(現在中区山下町六八番地)に、オランダ人N・ヘフトの建てたのが、ゲーテー座であった。 ゲーテー座の原名はThe Gaiety Theatreである。すなわち娯楽の劇場という意味をもっており、のちの有楽座(東京)や喜楽座(横浜)という命名と共通している。もちろんフランスやイギリスに、この名称をもった有名な劇場があり、横浜の劇場も、それにならって名づけられたのであった。正しい発音は〝ゲイェティ〟であろうが、横浜の人びとはゲーテー座と呼び、その名によって親しまれた。 さてゲーテー座は、明治三年閏十月十四日(一八七〇年十二月六日)に開場した。出演したのは横浜のアマチュア劇団である。これよりゲーテー座は、アマチュア劇団のために提供され、居留地の重要な施設となってゆく。劇場は石造の平屋で、建坪百二十五坪(約四百十三平方㍍)、二百人ほどは収容することができたという。 ゲーテー座を管理、経営したのはアマチュア劇団であったが、明治五年(一八七二)の秋、劇団は財政困難におちいって解散してしまった。そのままに放置すれば、せっかくの劇場も閉鎖され、倉庫などに転用されてしまうであろう。そこで居住地の有志は集会を開き、この後は公会堂として運用してゆくことに意見が一致した。居留地から出資者をつのり、委員会をつくって運営に当たる、という方式が採用された。 こうしてゲーテー座は、明治五年(一八七二)末から公会堂〝Public Hall〟として運営されてゆく。演劇や音楽会のほか、各種の催物にも利用された。いち早くガス燈による照明も設備された。 盛況をつづけたパブリック・ホールも、やがて一八八〇年代になると、規模の小さいことが痛感されるに至った。そこで新しい劇場の建設が計画される。資金難のために計画はしばしば頓座したが、ようやく一八八五(明治十八)年、山手居留地の二五六番・二五七番の地(現在中区山手町二五四番地)に、新しいパブリック・ホールが完成し、四月十八日、アマチュア管絃楽団の演奏会によって開場した。地上二階、地下一階の煉瓦造、建坪は二百七十坪(約八百九十一平方㍍)であった。 山手パブリック・ホールが開かれた後も、旧ゲーテー座も公会堂として、なおしばらくの間は運営されていた。しかし、数ゲーテー座(1870年) 徳川黎明会蔵 年後には倉庫に転用される。所有者のヘフトは一八九四年に死去し、のち建物は競売に付されたが、なお倉庫として一九二三(大正十二)年の大震災に焼失するまで使用がつづけられた。 山手パブリック・ホールは、一九〇八(明治四十一)年から、新しく設立された会社によって運営されることになり、十月には改めて「ゲーテー座」と名づけられた。商業劇場にふさわしい改築が行われた。ここに「ゲーテー座」は名実ともに復活し、横浜における特異な劇場として、さまざまの新しい演劇や音楽、のちには映画まで上演・上映しながら、一九二三(大正十二)年の大震災まで、活動をつづけたのである。 ビール醸造の開始オランダ人ヘフトは貿易商として、一八六〇年代の初めごろ(文久年間)に横浜に来て、住みついた。商社を経営するかたわら、ゲーテー座を設立したが、別に山手六八番においてビールの醸造も試みている。その年代は明らかでない。 わが国においてビール醸造が始められたのは、横浜の山手居留地であった。ゲーテー座の歴史に詳しい升本匡彦氏は、ビール醸造についても各種の資料にもとづいて、旧来の説を訂正している。その推定によれば、最も早く開かれたのは、おそらく山手四八番におけるJapan Breweryであった。開設は明治二年(一八六九)ごろで、ドイツ系の米人E・ヴィーガントWiegandが支配人となった。やがてヴィーガントは、新しく開かれたヘフトの醸造所に移って、その支配人となる。ヘフトのビールは明治四年(一八七一)六月には、長崎で売り出されているから、開設は同年、またはその以前であることは確実である。 しかしヘフト醸造所は、一八七五(明治八)年前半に廃業し、そのあとにヴィーガントみずから経営するババリア・ブルーワリBavavia Breweryが設けられた。 いっぽう山手一二三番には、明治五年(一八七二)ごろ、米人コープラントが経営するスプリングバレー・ブルーワリSpringValley Berweryが開かれていた。コープラントとヴィーガントと、二つのビール釀造所は数年にわたって並立していたが、一八七六(明治九)年六月、両者はスプリング・バレーの名のもとに合同する。独占による利益の増大をはかったものであった。 しかし三年あまり後、両者は感情の阻隔によって合同が破れ、一八八〇(明治十三)年からコープランドの単独経営となる。醸造所の主力も一二三番に移り、かつてヘフトの経営した六八番の醸造所では、明治十年代の初めから生産を中止していた。 いまや横浜におけるビール醸造を独占したコープランドは、順調に販路を拡大していったが、技術者の出身であったから、やがて経理に失敗したのであろう。一八八四(明治十七)年には、ついに倒産してしまった。その醸造所も買却に付された。 ここに在留外人の有志が集まり、新しい会社を設立して、コープランドの事業を継承することが計画される。各地に在留する外人から出資を求め、さらに一部を日本の政財界から出資を仰いで、一八八五(明治十八)年九月には新会社の設立を決完した。社名は「ジャパン・ブルワリー・コンパニーJapanBrewery Compang」と名づけられた。日本名は「日本釀造会社」と称している。 ビールの醸造は、ドイツから教師を招き、一八八八(明治二十一)年から始められた。製品は、一八八六(明治十九)年に磯野計が横浜の北仲通りに開いた個人商店「明治屋」から発売された。新しいビールの名称は、三菱の荘田平五郎の発案によって、東洋のビールにふさわしく「麒麟ビール」と定められた。明治屋は一八八八(明治二十一)年五月、ジャパン・ブルーワリと一手販売の契約を結び、新聞紙上に大きく麒麟ビールの発売広告を掲げたのであった。明治屋が主体となってジャパン・ブ横浜山手のジャパン・ブルワリー工場(1885年) 『麒麟麦酒株式会社五十年史』から ルーワリを買収し、麒麟麦酒株式会社が設立されるのは、一九〇七(明治四十)年二月のことである。 第四節 廃仏と神道の再編 一 神仏分離の実情 鶴岡八幡宮明治維新の前、すなわち江戸時代の末まで、多くの神社と寺院は同じ境内のなかにあり、神も仏もいっしょに祀られ、参詣者は区別することなく礼拝していた。いわゆる神仏習合の形態であった。神社の祭神であって仏名を称し、あるいは本地垂迹の思想にもとづいて、本地である如来(仏)を設定しているものも少なくなかった。 たとえば八幡宮の祭神は八幡大菩薩と仏号を称し、また本地を阿弥陀如来としていた。いま鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝する者は明治元年(一八六八)まで、その境内に多数の寺院があり、仏式の行事が営まれていた事実を、想像することもできないであろう。かつて鶴岡八幡宮は、神社であると同時に寺院であり、むしろ仏教の霊場としての色彩が強かったのである。 参道を進んで鳥居(三の鳥居)をくぐり、神橋に達すれば、その右に放生池があり、弁才天祠が建てられていた(いまは再興されている)。仁王門には鶴岡山の額を、ついで桜門には八幡宮寺の額を掲げていた。さらに境内には護摩堂・経蔵・多宝塔(大塔)・鐘楼・薬師堂など、仏教の堂塔が立ち並ぶ。そこから下宮四社をへて石段を上り、上宮三座に至る。 上下の両宮をはじめ、もろもろの祭神は、それぞれ本地仏を有していた。上宮三座の中央(応神天皇)は阿弥陀如来、東(神功皇后)は聖観音菩薩、西(如大神)は勢至菩薩であった。また下宮の中央(仁徳天皇)は十一面観音であった。しかも上宮の神体は石の僧形像であり、下宮の神体は木の僧形像だったのである。 社内では読経の声が絶えることなく、神事を掌るのも供僧が主となり、十二か院を数えて、新義真言宗に属していた。その下に神主があり、小別当・社僧・社人などの諸職があった。八幡宮だけでなく、多くの神社において、支配権をにぎっていたのは僧侶であり、神官はその指揮を受けていたのである。 ところが慶応四年(明治元年一八六八)三月には、神仏の混淆が禁止、ついで「神社において僧形にて別当あるいは社僧」と称してきた者は復飾(還俗)を命ぜられ、さらに「仏像をもって神体と」してきた神社は、仏像や仏具の類を取り除くよう達せられた。神仏分離の政策が、新政府によって強く押し出されてきたのである。 これを受けて八幡宮では、十二か院の供僧をはじめ、社僧のことごとくが復飾した。僧侶たちが還俗して、神官となったのである。ところが八幡宮には、鎌倉時代このかた大伴氏が神主となっていた。その地位は供僧より下であったから、還俗した供僧たちは、あらたに総神主という名称を考え出し、神主の上に立った。つまり八幡宮では、総神主が十二人、神主が一人、という奇妙な構成になった。下位の僧職も、小別当が大称宜というように、それぞれ神職としての名称に変わった。 社内の由緒ある堂塔も、つぎつぎに破壊された。梵鐘は三代将軍家光の寄進した名鐘であったが、鉄槌で打ち砕かれた。仏像や仏具もすべて取り払われ、古物商の手に移った。こうして明治三(一八七〇)年五月までに、八幡宮からは仏教の色彩がまったく除かれ、今日のような姿になったのである。 阿夫利神社大山に鎮座する阿夫利神社は、古くから上下の信仰をあつめ、とくに江戸時代には夏の二十日間、いわゆる大山詣でにぎわった。この神社の起源は、古代の山岳信仰より発したものであろう。神体は大きな自然石であるといわれる。しかも大山信仰は、仏教と習合することによって発展した。大山は真言宗に属して、修験道の浄域となり、中腹に不動堂が建てられたのをはじめ、あまたの堂塔が立ち並ぶに至った。 山頂の本社は、石尊大権現と呼ばれた。本地は十一面観世音菩薩とされた。この社を中心にして、別当八大坊、十一坊そのほかが立ち並ぶ。そして大山ぜんたいが雨降山大山寺とよばれていたのであった。 江戸の日本橋から大山まで十八里(約七十キロ)、歩いて二日の道のりであった。人びとは大山に登って、中腹にある不動堂に詣で、さらに頂上の石尊大権現に達し、授福除興を祈願した。五穀豊饒、商売繁昌、そのほかは何ごとでも、大山の神はかなえてくれる、と信じられていた。六月二十七日の初山から、七月十七日の盆山まで、大山に至る道は、各地からの参詣客で埋まった。 大山を支配したのは、やはり供僧であった。その下に属して、修験があり、神家があった。また師職があった。神家は師職を兼ねていた。師職、すなわち御師は、土地ごとに分担をきめ、それぞれ担当の土地をめぐっては、御札をくばり、大山講の結成をうながした。そして大山詣のときとなれば、人びとは、なじみの御師の家に至って草鞋をぬぎ、御被をうける。山に登るにも御師が先導し、護摩も神楽も、御師の斡旋に頼ったのであった。 明治元年(一八六八)、神仏分離のあらしは大山をも巻きこむ。不動堂は取り払われて山麓に移され、その他の堂塔も破却された。本社の名称も阿夫利神社に復し、祭神は記紀などの古典に登場する大山祗命とされた。 しかも大山では幕末に及んで、神主や御師たちのなかに、平田神道の門に入り、尊王論を唱える者が少なくなかった。維新に際しては、政府軍の東征に従う者もあった。それ故に大山における排仏は、徹底して実行されたのである。供僧と神主および御師と、その地位は逆転した。 さらに一八七三(明治六)年七月三十日、大山では権田直助を阿夫利神社の社司に迎えた。権田は武蔵国入間郡(埼玉県)の医家に生まれ、江戸に出て医術をまなんだが、二十九歳のとき平田篤胤の門に入り、それより平田神道を奉じて、尊王のために奔走する。また篤胤の志をついで国語の研究にもつとめ、大山に迎えられに時は六十五歳であった。 権田社司のもと、大山では排仏を完了し、東海から関東・奥羽にまたがる信者を糾合して、敬慎教会が組織された。一八七六(明治九)年十二月には神道大山分局が設けられ、生徒寮に学生を集めて、権田は神道や国語を教える。こうして敬神の思想を〓奏し、大山学派の名声は天下にとどろくに至った。まさしく大山は、真言の霊場から、神道の道場へと変容したのであった。権田は一八八七(明治二十)年に没し、その墓は大山の麓に建てられている。 江島神社かつて大山詣にくりだした人びとの多くは、帰りみちに江の島へ寄った。金沢から鎌倉をめぐり、さらに江の島へまわる遊客も少なくなかった。風光は絵のように美しく、その姿は水のなかに浮かぶ緑の亀にたとえられた。そこに鎮座するのが弁才天であり、江の島は観光の名所であるとともに、弁天の霊場として知られたのであった。 江の島では弁才天を神として祀った。すなわち江島明神である。やしろは本宮・上宮・下宮に分かれ、それぞれ社殿が営まれた。しかし、ここでも神仏習合の形態がとられ、金亀山與願寺と称した。江戸時代になってからは、岩本院(本宮)・上之坊・下之坊の三院が真言宗に属し、仁和寺の末寺として全山を釆配した。 こうして江の島には、三宮のほか、七堂伽藍が立ち並び、竜宮を思わせるような壮観となった。全島が仏教の色彩で塗りつぶされ、神社でありながら、供僧たちが上に立って、御師の御札くばりから、旅籠の営業まで、一切を取りしきった。 明治の世に及んで神仏の分離令が発せられると、岩本院はさっそく還俗を願い出る。島内の堂塔をはじめ、仏像や仏具の類は、つぎつぎに破壊された。祭礼の形態も、仏式から神式に改めた。僧侶たちは、自己の保身をはかり、かつ伝統の権威をまもるために、たちまちにして旧来の信仰をすて、あえて神職への転換をめざしたのであった。 金亀山の山号も捨てられた。いまや江の島は弁才天のやしろではない。その名も江島神社となり、三宮はそれぞれ奥津宮・中津宮・辺津宮と呼ばれて、祭神も古典にあらわれる三女神があてられた。また岩屋には天照大神ほかの諸神を祠った。かつての祭神であった弁才天の像は、宝物陳列所に安置されるに至る。 こうして江の島も変容した。江の島から表むきは弁才天の信仰は消えた。しかし金亀山から江島神社にかわっても、参詣におもむく人びとは、依然として弁才天のやしろと信じこんでいる。三宮に祀られている神代の三女神の名を知る者は、果たしてどれほど存在するであろうか。神仏分離は強行されたものの、長い歴史のなかでつちかわれた民衆の信仰まで改めることは、できなかった。二 神社の創建と社格 鎌倉宮の創建明治の新政府は神仏分離の政策を推進して、神社から仏教色を排除し、あわせて仏に対する神の優位、ないしは僧侶に対する神官の地位の優位を確立することをめざした。こうして江戸時代には一般に「寺社」と呼ばれていたものが、明治以後は「社寺」と呼ばれるようになってゆく。 同時に政府は、神道を国教化する政策をおし進めた。すなわち国家の祭祀として国家神道を確立し、神道は宗教を超えた祭祀として位置づける。そうした国家神道の中核をなすのが、伊勢の皇大神宮を頂点とする神社であった。全国の神社は政府の方針にしたがって再編成され、あらたに社格が定められるとともに、国家神道の教義にふさわしい神社が、つぎつぎに創建されていった。歴史の天皇や皇族を祀る神社、天皇に対する〝忠臣〟を祀る神社、また靖国神社のように天皇のために戦って倒れた将兵を祀る神社が創建されたのである。 鎌倉の二階堂に創建された鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子として建武中興のために働き、のち足利氏のために殺害された護良親王を祀る。護良親王は皇族として非命に斃れ、しかも南北朝時代の〝忠臣〟であった。鎌倉宮の建立は明治二年(一八六九)二月、天皇の仰せによる形で決定されたが、皇族を祀る神社としては最も早い。 社殿の造営が成ると、明治三年(一八七〇)七月二十日、神体は宮中を出発、その日は鶴岡八幡宮の社家を仮神殿として一泊し、翌二十一日に鎮座した。神社と称さず、鎌倉宮として宮号を称したのは、皇族を祀る故に、神社よりも高い社格を与えられたものである。また二階堂の地は、親王が幽閉され、殺害された地と伝えられ、本殿の裏手に当時の土牢と称するものがある。ただし親王が入れられたのは、土の塗籠牢であった。 こえて一八七三(明治六)年四月、天皇は鎌倉に行幸、鎌倉宮に親拝された。天皇みずから伊勢の大神宮に親拝されたのは、明治二年(一八六九)三月の例が最初のことであり、皇族とはいえ、個人を祀る神社に天皇が親拝するというようなことは、かつては考えられなかった。いまや神社の祭神は、現人神とされた天皇が礼拝する対象となったのである。 伊勢山皇大神宮明治の世になって、国民ひとしく最も尊崇すべき神社とされたのが、伊勢の皇大神宮であった。伊勢の両神宮に対して、天皇が親拝する例を開いたのをはじめ、明治二年(一八六九)九月には両神宮の正遷宮を行い、公式機関において遙拝式を挙行した。 こうした中央の動きに応じて、神奈川県においても、伊勢神宮についての積極策を展開する。横浜の戸部町に「伊勢山ト唱へ、天祖ノ神廟ヲ奉斎」するところがあった。古老の伝えによれば、むかし国郡に詔して創建したものであるという。いまは小さい祠殿が残っているのみであるが、ここに「高敞ノ地ヲ撰ヒ、旧祠ヲ其儘移シ」、大いに造営して「管内の宗社」にしよう、という計画が立てられた。大神宮の再建につき、神奈川県から政府に伺いを立てたのは、明治三年正月のことである。新しい社地が選定されると、同年十一月には重ねて伺いが立てられ、再建の意義について「万民ヲシテ祭政一致ノ実ヲ瞻仰シ其方向ヲ定メシムルハ不及申、皇国ノ神威、海外異域ニ光被スルモ亦此一挙ニ有之候ト奉存候」と打ち上げた。 新しい社地は、かつて野毛山と呼ばれたが、いまや伊勢山と名づけられ、明治三年(一八七〇)十二月から「県内上下ノ協心戳力ヲ以テ輪煥ノ美ヲ致」すため、造営が始められた。すなわち民衆の負担において建築が進められたのである。 明治四年(一八七一)四月、造営は完成した。よって四月十五日、正遷宮の儀を盛大に挙行する。かつて伊勢山の神事を掌ったのは、近隣にあった延命寺の僧職であったが、神仏分離の後は神奈川県の管理するところとなり、あらたに神官が任命された。当初の神官(龍山親砥)の回顧談は、そのころの状況をよく伝えていて興味ふかい。 ……私は丁度その時は十七歳で羽衣町の弁天社の社掌と云ふ役目でありました。その当時は面白いことには真言宗の僧侶が神職に早替りをする者が沢山に出来ました。最も旧来よりの神官も神奈川・川崎など幾人かありましたが、僅かで多くは復職の者でありました。私なども復職と云ふ名義で神官になったのでした。其故、祭神など心得伊勢山皇大神宮全景(1902年) 『横浜名所図会』から て居る者は殆ど無いと云ふ有様で伊勢山の御遷宮の時なども其祭式には大分困ったものでした。旧来からの神職は、おのつと復職の者を軽蔑すると云ふ風でありましたから、伊勢山の社掌に誰を命ずるかに就ては、中々県でも相当苦心したさうでした。処がはからずも十七歳の私に其白羽の矢が立ったのでした。私の父は当時元町の名主を勤めて居りましたので、父が御請けをして参りまして、非常に喜んで、大に奮励せよと申して、其祝として黄金作の大小を求めて私に呉れました。…… 正遷宮の祭礼にあたっては「遠村は組合惣代両三人、近村は一村毎に惣代のもの見計らひ、何れも参拝」するよう、県から命ぜられた。こうして伊勢山皇大神宮は横浜の総鎮守として、かつ県下における伊勢崇敬の中心として、神道興隆の役割を果たすことになるのである。 社格の決定明治四年五月には、太政官布告をもって、神社は国家の宗祀と宣せられ、その社格が定められた。すなわち全国の神社は、官社と諸社とに分けられ、さらに官社は官幣社と国幣社として、それぞれ大中小の社格が定められたのであった。県下において最も高い社格を与えられたのは鎌倉宮であり、一八七三年六月九日、官幤中社に列せられた。官幣社とは本来、神祗官から奉幣する神社をさす。古代から皇室の崇敬がとくに厚く、由緒の格別に重い神社、歴代の天皇、あるいは皇族を祀る神社が、官幣社に列せられた。鎌倉宮は皇族を祀る創建の神社として、初めて官幣中社に列せられたものであった。 国幣社は元来、国司が奉幣する神社をさしたが、改めて例祭に国庫から奉幣する神社とされ、古くから一国の一の宮あるいは総社として崇敬をあつめてきた神社が、これに列せられた。県下には高座郡一之宮村(現在寒川町)に寒川神社が鎮座し、相模国一の宮として古くから尊崇されてきた。よって寒川神社は明治四年五月十四日、国幣中社に列せられた。 寒川神社の由緒は、県下で最も古い。平安初期に編修された『延喜式』神名帳にも録せられ、相模国一の宮として高い社格を保ってきたのであった。一宮郷あるいは一之宮村の名称も、これに由来する。 しかし寒川神社の祭神については、むかしから定説がなかった。平安時代の史書(六国史など)には、寒川神あるいは寒河神と記されている。のち寒川大明神とも呼ばれ、江戸時代には祭神を八幡神(八幡大菩薩)とする説が有力となったほか、菊理媛、沢女神、あるいは素戔鳴尊を祀ったとする説もあらわれた。ところが一八七四(明治七)年、政府(教部省)が『特選神名牒』を撰するに当たり、皇大神宮の末社である牟瀰乃神社の祭神が寒川比古、寒川比女である、というところから、寒川神社の祭神も、これと同じであろうと推定した。さらに一八七六(明治九)年『官社祭神考証』において、寒川神社の祭神は寒川比古命、寒川比女命と決定したのである。かつては寒川神社の神事も、僧転が掌ってきた。別当として薬王寺があり、供僧として神照寺など四寺院があった。しかし神仏分離によって、薬王寺や神照寺は復飾として神職となり、他の寺院は神社から離れて独立した。 さて官社に対して諸社と呼ばれる神社は、県(府)社・郷社・村社に分けられた。地方において尊崇される神社が、祭神と由緒の面から社格が定められた。地方の生活に密着しているから各社は氏子を有する。大山の阿夫利神社は一八七三(明治六)年、江島神社も六年、県社に列せられている。伊勢山皇大神宮も一八七五(明治八)年に列せられた。鶴岡八幡宮は、はじめ県社に列せられたが、一八八二(明治十五)年、国幣中社に昇格した。元箱根に鎮座する箱根神社も、一八七三(明治六)年七月、県社に列せられている。この神社も箱根山の鎮守として創建は古く、かつては箱根大権現と称して、関東から東海の一円に、ひろく信者を擁していた。そして江戸時代まで、神社を支配していたのは曹洞宗の東福寺であり、その金剛王院の住職が別当をつとめていた。それが明治の神仏分離によって、別当も箱根太郎と改名し、伽藍を廃却して箱根神社となったのである。なお社格は一九二八(昭和三)年十一月に至り、国幤小社に昇格した。 三 丸山教の開教 丸山教の基盤江戸時代の末期には神道のなかに、黒住教や天理教、また金光教など、新しい教派がつぎつぎに開かれ、しだいに広範囲の信者を獲得しつつあった。これと並んで山岳信仰にもとづく富士講や御岳講も、教勢を拡大していた。いまの神奈川県下にも、これらを信仰する者が多かったことは、いうまでもない。こうした新しい神道各派は、いずれも民衆のなかから起こり、幕府や新政府の権力に頼ることなく、むしろ権力と対決しながら、民衆のなかに信者を開拓していったものであった。そして明治に及んでは、県下に新しく丸山教が開かれるのである。 明治政府は国家神道の確立をめざし、神社を主体とする国家神道を国家の祭祀として、宗教から切り離した。いわば国家神道は、宗教を超越したものとされたのである。そこで民衆の間に普及した神道各派は、宗教としての神道ということになり、教派神道と呼ばれるに至った。教派神道として政府から公認されたものが、布教をゆるされる。公認に至らぬ各派は、もとより弾圧の対象となった。丸山教もまた、開教の当初は激しい弾圧をうけたのである。 丸山教は明治三年(一八七〇)、武蔵国橘樹郡登戸村(現在川崎市多摩区登戸)において、農民の伊藤六郎兵衛によって開かれた。六郎兵衛の生家(清宮家)は、登戸の貧しい農家であった。ここに文政十二年(一八二九)、次男として生まれる。農家であるから、幼少のころに受けた教育も、寺子屋における読み、書き、算盤にすぎない。しかし当時の通俗者から得た教養が、のちの丸山教における教義の基本となったのであった。登戸は大山詣の街道筋に当たり、小さな宿場町を形成していた。富士山を信仰の対象とする富士講も、早くから伝わっている。富士講のひとつに、丸山講があった。六郎兵衛の生家の近くには富士塚が勧請され、本家にあたる清宮伝左衛門が丸山講を指導していた。したがって六郎兵衛も、幼少のころから丸山講の影響を強く受けていたわけであった。とくに青少年期、三度にわたる大病を、富士講の祈禱によって克服してからは、熱心な信者となった。さて六郎兵衛は十四歳のとき、隣村の農家に作男として住みこんだ。そこは叔母の嫁ぎさきであったが、十年にわたって懸命に働いた。倹約を重んじ、律義と謹直を旨とする毎日をつらぬいた。そうした生活態度は寺子屋で教えられたものであり、勤労精神を与えたものは富士信仰であった。 六郎兵衛の誠実は認められ、二十四歳のとき、登戸の伊藤家に婿として迎えられる。伊藤家は相当の田地を所有するほか、酒類や新炭の商売も営み、登戸では裕福な家に属していた。ここでもまた入婿として、慎みぶかく家業に励んだ。 やがて明治の世となった。旧来の権威は否認される。登戸にも新しい時勢の波は押し寄せてきた。そうして六郎兵衛の身にも、思わぬことから生涯の転機がおとずれたのであった。 六郎兵衛の開教明治元年(一八六八)の十二月、六郎兵衛の妻は重い熱病にかかった。不動行者に祈禱を頼み、幸いにして全快したが、明治三年(一八七〇)の秋、六郎兵衛に神のお告げが下った。不動行者を頼んだことが責められ、この後は六郎兵衛みずから神の声をきくよう、命ぜられたのであった。ときに六郎兵衛は、四十二歳であった。 いまや六郎兵衛は、家業をすてて信心に専念するに至る。つづいて「天地の神と同根同体を悟れ」とのお告げが下り、三七、二十一日の間の断食修行をつとめて悟りを開くと、さらに「地の神一心行者に命ずる」とのお告げがあった。こうして新しい信仰の道が開かれる。 六郎兵衛は、食行、烟行、水行など、はげしい修行を怠りなくつとめた。周囲には多くの信者があつまった。しかし警察からは、淫祠邪教と見なされ、しばしば干渉をうけた。家族や親戚からは、信仰をすてるように強要された。入婿ゆえに、いっそう悩まねばならなかった。ついに明治六年と七年には、二回にわたって警察に拘引される。信者たちも弾圧された。釈放された六郎兵衛は七年秋、死を決して雪の富士に登った。断食して入定しようという覚悟であった。 そのころ富士講の糾合運動を起こしていた宍野半という者があった。宍野は平田派の国学を修め、いったん明治政府(教部省)に出仕したが、明治六年に辞官し、浅間神社の宮司となって、富士一山講社を結成した。宍野の結社は政府から公認されている。この宍野が、六郎兵衛の活動に着目したのであった。よって六郎兵衛に下山をうながし、富士吉田の浅間神社で会見した。 こうして明治八年の春、六郎兵衛は富士一山講社に加入することとなった。その布教も、この後は公然と認められる。信者も急速にふえてゆき、教勢は関東一円から中部地方にまでひろがった。明治十三年には信者が十万に達した祝祭を多摩の川原で挙行し、一八八二(明治十五)年には登戸に本殿を建てた。 富士一山講社は六郎兵衛の活動に支えられて発展し、明治十五年には扶桑教と称した。しかし十七年に宍野が死去すると、扶桑教のなかで対立が表面化し、ついに六郎兵衛は扶桑教から脱退する。十八年七月、六郎兵衛は独立の教団を立て、その本部を神道丸山教会本院と称した。この後も六郎兵衛は、布教をつづけるかたわら、修行も怠らず、かずかずの奇跡もおこなっ丸山御本院之図(1890年) 神奈川県立文化資料館蔵 た。六郎兵衛は教祖であるとともに、信徒にとっては生き神様であった。そのことばは、すなわち丸山教の教義にほかならなかった。そうした教義を、六郎兵衛は晩年に至って、みずから記述し、あるいは口述している。一八八八(明治二十一)年旧暦六月から書き始めたものが「おしらべ」であった。それは六郎兵衛が二十七年三月、六十五歳で死去する直前まで、折りにふれて書きつがれた。この「おしらべ」は全体で三十五万字に及び、いまは丸山教本庁に『教祖親蹟御法』全八巻として蔵せられている。これにさきだって一八八七(明治二十)年旧一月からは、教義の大要ともいうべきものが記述されていた。それは『親蹟御法壹之前附』と呼ばれ、「おしらべ」の前文として重んぜられている。 こうした「前附」「おしらべ」は、半紙に筆で記してあり、あて字や誤字が多く、かつ特殊の文字を創案して用いた。したがって判読は、すこぶる困難である。『神奈川県史資料編14近代・現代⑷』には、この『前附』全文と「おしらべ」最後尾の部分を収録し、また『日本思想大系67民衆宗教の思想』(岩波書店)には「おしらべ」の主要部分(全体の七分の一)を収録している。「おしらべ」の思想丸山教は富士信仰より発し、したがって丸山教においては富士山を神格化して、最も尊んだ。「おしらべ」のなかにも、次のように述べている。()内は筆者。 抑(そもそも)ふじはせかへ(世界)一の山。又八日の元。このところをよ(主)に高砂ともうますこと。この山のぬしハ天竜、地竜、毎竜とゆうてせかへのぬし(主)とゆう。すべてくうき(空気)をつかさどるやくめのもの。くうきハ火水と風あめやゆきこうり。かようなもの、せかへにまきちらすもみな竜王のなすわざ。かようのなん(難)をのがれるも、又ハはやりやまへをのがれるも、ミなつゝめたるところの天明、海天にて、たすかります。 かって富士講では、富士の神を仙元大菩薩と称したが、この伝統をうけついで丸山教では「月日仙元大菩薩」と称する一方、あらたに「参明藤開山」と称した。すなわち「丸山の元そハ天地海。抑こゝが参明藤のはじめともうす」というわけであった。しかも「参明藤開山」は太陽神のことであり、太陽神の象徴として、日の丸が礼拝された。 また富士講では「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えたが、これに六郎兵衛は独特の解釈を加えて「南無あ身田宇す」とし、さらに「〓〓あ身田宇す」と書きかえた。農民のなかから起こった丸山教は、唱え言葉にも農耕を主とする意味をふくませたのであった。そして一八八五(明治十八)年からは「天明海天」が丸山教の神言となる。天明とは太陽神のことであり、海天とは太陽神の光うけて輝く海面、さらには世界ぜんたいと、そこに生きる人間を意味する。すなわち「天明海天」ならば、天も地も海も明るく、そこには神の心がひかえており、神の心にすがれば、邪念をいだいた人間も、本然の明るい心に立ち帰ることができる、というのであった。しかし世は明治となり、維新の改革によって、本来の神の心はそこなわれ、「世上はくらやみ……耶蘇だ、きりしたんのとゆう声ばかり」となった。世はおしなべて文明開化の風潮がみなぎる。そうした邪悪な世相に対して、六郎兵衛は「文明をなげう(ち)て天明にみちびく」ことをめざしたのであった。天明海天は、まさしく文明開化に反語する語であった。丸山教においては、農民こそ国の基本である。農民による「五穀成就」こそ、この世における至高の価値であった。天皇も、丸山教では「天農」と書かれ、〝てんのものつくり〟と読まれる。天は農民の味方である。天下も「下をかへして上とあたらめれ(ば)泰平となる」のであった。こうした考えかたから、世直しの思想が生まれた。明治十年代の後半、自由民権運動がさかんになると、丸山教もまた、世直しの思想に支えられて発展する。神奈川県から関東、中部にわたって、信徒の数は百数十万人に達した、といわれる。各地において、信徒による騒動も起こされた。文明開化を諸悪の根源と見なした丸山教が、時勢の進運に取り残された民衆に、ひろく受けいれられたのであった。しかし丸山教も、国家権力による弾圧のため、さらに教義上の問題もあって、明治二十年代の後半からは教勢も衰えてゆく。教義そのものも、この後は勤勉や倹約を強調することにより、支配体制に妥協し、同化していったのであった。 第二編 明治前期 第一章 地方三新法の成立 第一節 大区・小区制 一 統治機構の再編成 寄場組合村から戸籍区の成立へ廃藩置県と新県の行政区画設定にともない、中央集権への地固めのために地方制度も整備され、地域の統治、機構の編成替えがすすめられていった。 文政十年(一八二七)、治安の維持を目的に、関東取締改革の一環として組合村が設定された。組合村は、代官支配所、旗本知行地、寺社領の区別なく、数か村を組み合わせた小組合、小組合を数組連合した大組合で構成されていた。小組合には各村の名主から選出される小惣代と、大組合の統轄者としての大惣代が、小惣代の中から数名選ばれて組合の運営にあたった。大組合のいわば事務局にあたる村を寄場村と呼んだので、この組合村を寄場組合村と称していた。 組合村を設けた目的は、関東取締出役の活動に協力することにあったが、なかでも、各種の「触書」の伝達は、広域支配の組合村の機能を十分に発揮させていた。触書はまず、寄場村に持ち込まれ、その写しが、あらかじめ決められている順に各村の名主・村役人を廻状するというルートを経て、触書の要旨が、村民に知れわたる仕組みとなっていた。犯罪者の逮捕と護送が主な任務であった組合村は、関東取締出役の職能が拡大するとともに、このような触書の廻状触継とか、農間渡世調査など取り扱う仕事が増加し、維新政府成立の頃には、一種の行政区としての機能を持つようになっていた。 明治元年(一八六八)八月十八日、維新政府は、「府藩県三治制」を施行していくなかで、関東取締出役を廃止した。しかし、組合村自体はそのまま残り、新政府からの触書や沙汰書などが、従来のルートに乗り廻状の形式で組合村々に通達されていた。政府・県の法令伝達に、組合村がそのまま利用されのであった。この年十月、民政裁判所は、取締組合の重要性に気づき、改めて、関東郷村支配の組織として存続することを明らかにした(伊藤好一「神奈川県における大区小区制の施行過程」『駿台史学』第1 7号)。組合村は残り、そして地方行政の末端組織になる各村も、村の意志決定をおこなう「村寄合」と名主・組頭・百姓代などの村方三役が村政を引き続きとりしきるなど、村はなんの変更もなく幕末以来の姿をとどめていたともいえよう。新政府のもとで、「府藩県三治制」、「版籍奉還」、「廃藩置県」など一連の集権化政策によって、村々が、新たな行政管轄地域に編入され、支配機構の改革措置が順次おこなわれた。だが、村の組織には急激に手をつけることはなかった。そのため、村にとってみれば、これらの改革措置はこれまでの錯綜した分割支配が無くなった、「支配替り」として映る程度のことであったかもしれない。しかし、確実に地域の統治機構の再編へつながる政策がつぎつぎと打ち出されてくる。まず明治五年(一八七二)から六年にかけて、旧幕時代の庄屋・名主・組頭などの村役人を廃止して、区戸長を設置し、従来の町村区画にかえて、大区小区を地域の統治機構とすることが法制化された。この新しい制度の実施経過は、県によってかなりの違いがあるが、この村組織の編成替えは、廃藩置県前におこなわれた。 明治四年(一八七一)四月、おもてむき「全国人民ノ保護」をうたっているが、実際は、国にとって人的資源の調査を目的とした戸籍法(太政官布告第一七〇号)が公布された。この法律は、実施にさいして、従来の村落を棚上げにして戸籍区を設置し、区ごとに戸籍事務を担当する戸長と副戸長をおき、これまでの村役人や五人組にかえて、事業を進める組織をつくりあげようとした。 戸籍区の設定にあたっては、寄場組合が土台となった。韮山県では、明治四年(一八七一)五月に、管内を十七の区に分けたが、従来の寄場組合をそのまま新しい戸籍区に移行した。また品川県では、明治二年(一八六九)に管下の寄場組合を再編して、二十四の番組に区分されていたこの組織をそのまま戸籍区とした(前掲「神奈川県における大区小区制の施行過程」)。 明治四年(一八七一)、改めて神奈川県が設置されたのにともない韮山・品川両県の一部を統合して、明治五年(一八七二)一月、戸籍区は、武蔵国四郡で六十区、相模国三郡が二十四区に再編された。ここでも、戸籍区の編成は、組合村を基準にしておこなわれた。組合村の数が多くて戸籍調査が不十分となる恐れがある場合には、二ないし三里四方で、人口五千人から一万人程度を目安にして村々を組み合わせて戸籍区を編成することになった(『町田市史』下巻)。 再編成された区は、本来、戸籍事務を取り扱うのであるが、神奈川県は、国や県の布告類を伝達する廻状継の機能を持つことを認めた。それは戸籍区が、寄場組合村の転身といってもよい性格をもっていたことによる。明治五年(一八七二)五月に、県からの諸布達類が廻状で伝達される方式から、印刷物にして配付する方法に変更されるが、その際、いったん県から区に印刷物が渡され、その後区が町村へ渡すというように、戸籍区は、国や県の意志を町村に伝える行政の中間機関のような性格が与えられていく。 戸籍編成事業を進めるにあたって、区には戸籍吏として、戸長・副戸長が新たに設けられたが、これによって旧来の村の組み替えがおこなわれたわけではない。このことは、戸籍法の第二則但書に「戸長ノ務ハ是迄各地ニ於テ荘屋名主年寄触頭ト唱ル者等ニ掌ラシムルモ又ハ別人ヲ用ユルモ妨ケナシ」とうたわれているように、庄屋・名主を認めていた関係から考えてみても、村の根本的な組み替えは考えられていなかった。ただ戸長が、戸籍法第三則に明示されているように、「四五町若クハ七八村」で構成される戸籍区を管轄することになって、維新政府の末端行政官としての性格をもたされ、しかも、村が戸籍区のなかに編入されたことから、これまでの村の秩序をつきくずしていく要素になっていたとみることはできよう。このことは、戸長の取り扱う職務にあらわれている。戸籍吏としての戸長、それはたてまえにすぎなかった。明治五年(一八七二)三月に出されたとみられる「戸長副戸長村役人御規則書」(資料編11近代・現代⑴一〇)では、戸長・副戸長の職務として、布令、諸達類を区内へ通達することを、先ずあげている。そのうえで戸籍編成にかかわる職務を規定し、さらに、「田畑山林并廻舟私馬」などの「民産」と郷社・村社などの取り調べを明示し、「其他区内一体ニ関係之事件」を「入念取扱」うことを指示している。立前上は、あくまでも戸籍吏にすぎなかったが、実際には、土地人民一般の事務をも取り扱うことになっていたのである。そのため旧来の村役人との間に「一事両様に渉リ主宰抵抗ノ弊害」を生ずることにもなりかねなかった。とくに、名主・組頭などが、戸長を兼務すれば、現実の問題として、職務が混乱する恐れがあった。 こうして、戸籍編成のための区が、県から村に配付される租税の割付を取り次ぎ、また村が納める租税をまとめて県へ渡す役割とか、滞納の督促などをするようになる。さらに、村々の概況調査も区を単位としておこなわれるようになり、徴兵の徴募単位も区を単位にしておこなわれるなど、神奈川県の戸籍区は、廃藩置県以後、地方行政の単位としての性格をもたされていったようである(前掲「神奈川県における大区小区制の施行過程」)。 区番組制から大区小区制へ明治五年(一八七二)四月、維新政府は、庄屋・名主・年寄などの制を廃止して、戸長・副戸長などの設置を布告した。この布告の目的は、旧来の村役人がおこなってきた村政事務を、戸籍区の戸長・副戸長に引き渡そうとしたことにあったといわれるが、布告文の表現が名主・年寄を戸長・副戸長と改称すると、読みとられるような文章であった。神奈川県は、この布告をそのように理解したようで、村に、戸長・副戸長を置き、戸籍区の戸長・副戸長は廃止するが、戸籍編成事務に限って、従来通り区の戸長・副戸長が処理することを指示した。戸籍区の戸籍事務を取り扱う戸長・副戸長と、村政一般を取り仕切る、村に置かれた戸長・副戸長とが併存することになった。名称上たしかに紛らわしい。そこで、戸籍区の戸長・副戸長を、「元戸長・元副戸長」とよんで区別した。 戸籍区は、県から出される諸布達類を、村々に伝達する行政の中間機関としての性格を与えられていた。それだけに、名主・年寄などの廃止と新たな戸長・副戸長の設置は、県―戸籍区―村という行政支配のルートが成立したとみなすことができる。この年十月、政府は、戸籍法上の戸長ではなく、「一区総括ノ者」として、新たに区長・副区長を設置することを認めていくのは、このような行政組織が成立したからである。 神奈川県では十一月十七日、権令大江卓の名で、従来の寄場組合制度に関する大小惣代、組合村、道案内などすべてを廃止し、区に区長・副区長を選任し、土地人民にかかわる一切の事務を担当させることを区内に布達している。区長・副区長↓村の戸長・副戸長という関係で、村落を統治体系に組み入れようとしたが、実際には、新たに区長を選任するのではなく、戸籍区の戸長・副戸長がそのまま、区戸長・副戸長とされたに過ぎなかった。この点は、足柄県でもほぼ同じで、明治五年(一八七二)十一月には、県内を五大区五十二小区に区画して大区小区制の実施にとりかかっている(資料編1 1近代・現代⑴一〇)。神奈川県に、名称の上からも大区小区制が敷かれるのは、一八七四(明治七)年の六月であるが、その前に、一八七三(明治六)年五月の区画改正で区番組の制が実施される。 戸籍区が、県と町村の間の中間的な行政機関となるにつれて、従来の区では、学校の設立をはじめとする、「百端之事務」をおこなうにあたって、「迂遠」であるという事情から、神奈川県も戸籍区の改変が必要であると考えていた(一八七三年三月四日神奈川県参事高木久成の告諭)。一方、戸長・副戸長の人選をめぐって、村の実情にそくした選出方法を認めることを要請する声も各地でたちあらわれてきていた(資料編11近代・現代⑴一三、小林孝雄『神奈川の夜明け』)。 一八七三年四月、神奈川県は、五月一日から、従来の区画を大幅に変更する区画改正の実施に踏み切ることを「区画改正之大略」という布達をもって県下に明らかにした(資料編11近代・現代⑴一四)。 「区画改正之大略」によると、管内を二十区に分けて、区に区長・副区長を置き、区内の村々を、高二千石を目安にして組み合わせて番組を設けた。二十区百八番組九百四か村に編成された。番組には戸長・副戸長を、駅町村に村用掛を置いた。戸長・副戸長は、小前百戸につき五人の代議人を選挙して、その代議人の間接選挙によって選出する方式をとり、正副区長は、その区内の正副戸長が「入札」をして選び出したうえ、県令がこれを認可するということになった。正副区戸長は、原則として「高拾石以上之者」という資格要件がつけられていたから、人的な面では、旧来の村方三役とつながりをもつようになることは否定できない。しかし、新設の正副区長の職務は、これまでのような戸籍事務を取り扱う内容とは大幅に異なり、その性格も一変していた。職務の内容は、一県からの布告・布達類を区内へ通達すること二戸長提出の調書をもとに戸籍調査をおこなうこと三区内の風俗の粛正、勧業・物産の促進、開拓や道路の修理監督四学校の保護と開化進歩をはかること五孝義・奇特者の褒賞六県庁へ提出する番組経由の諸願届を精査すること七訴訟の仲裁や上裁の申請八戸長・副戸長の勤務調査九雑税、冥加金を区内取りまとめて上納することなどである(資料編11近代・現代⑴二一)。 こうしてみると、旧来の村方三役担当の人びとが、区長に就任したとはいえ、数か村をまとめた番組を統率し、県庁の指揮に従って、区内の事務一切を取り仕切る責任者となり、また、維新政府の末端官僚として県官に準じた身分の取り扱いも受けていた(資料編11近代・現代⑴二九)。大区は戸籍区の区とは違い、明らかに地方行政組織の中間機関として位置づけられている。区番組制大区が地方行政組織の中間機関であるとすれば、その末端機構は番組であり、その行政責任者ともいうべき役割を課せられているのが番組の正副戸長である。正副戸長は、「戸長副戸長事務取扱大略」に従って、「区長学区取締ニ次キ制限ニ従ヒ」、番組の一切の事務を取り扱うことになっていた(資料編11近代・現代⑴二〇)。整理して主なものをあげると、およそつぎのような内容になっていた。一番組内訴訟の説諭、風紀の取締り、二租税取立ての事務、三定免切替、年季増願の出願、四地所の売買、質入れ書入れ事務、五出火、洪水のさいの指揮、防御策、六戸籍事務、七番組入費事務、八堤防、道路、橋梁などの修繕事務、九社倉積立金取立ての事務、十田畑耕作状態にかんする区長への報告、十一布達の掲示、十二公祭の執行、十三勧学の奨励、十四鎮守祭礼にかんする事務、十五衛生思想の普及等々。正副戸長の執行する職務の内容は、布達の掲示、戸籍の整備、租税の取り立てなどの国政事務を主軸にして、番組内の風紀の取り締り、道路、橋梁、堤防などの修繕、出火・出水時の指揮、鎮守祭礼等々、村に固有の事務を、維新政府の打ち出してくる方針にそくして、推進する役割を担わされていたといえよう。このことは、「戸長副戸長事務取扱大略」で、「番組内各村公用ニ関スル一切ノ書類ハ悉ク番組会所へ備へ置クヘシ」として、村の公用書類一切が番組会所へ集中されて、番組の事務が取り扱われたことからも強化されていった。 このようにみてくると、区番組制のもとでは、あたかも村が解消して番組がこれに代わったかのようにみられるが、実際は、村の存在を前提として番組の事務が執行されたのである。たとえば、番組がおこなう土木工事の事務も、番組として土木工事を実施するのではなく、工事のための入費や「村役無賃人足」などは、村が拠出するものであって、番組武州片平村(現在川崎市)戸長への辞令 神奈川県立文化資料館寄託安藤資次家資料 は、それをとりまとめるに過ぎなかった。だが、村の存在を前提にするとはいえ、番組の事務執行の方針は、たとえば、租税の取り立てにあたって、「村々ヨリ種々迂遠ノ旧習ヲ固守シ無謂手数ヲ費ス事不少ニ付更ニ簡便ニ取計フ可シ」と、必ずしも村の意志や、実際の生活体としての村の実情を認める方向ではなかった(資料編11近代・現代⑴二〇)。 このような村と番組の関係をみていくうえで、ひとつの手がかりとなるのが、村に置かれた村用掛である。村用掛は、区戸長に選ばれて、番組会所において、戸長の指揮を受けて村政事務を取りおこなうことになっていた。それだけに、村用掛の権限については、県と区とでは、違ったとらえ方をしていた。一八七三年十月十六日付で、第一区を除いた全区の区長が、村用掛の権限について、つぎのような伺を申し立てている。 区長たちは、「貢納并村入費共番組会所ニ而取立村用掛立合割付小札者村用懸リ認メ戸長見留印之事」というように、村用掛の権限を拡大する考えをとっていた。これに対し県では、十一月十一日に、つぎのような指令を通達している。 「貢納并村費とも番組戸長ニ而取集候義ト可相心得事」(資料編11近代・現代⑴一八) この指令は戸長が村政事務の最終責任者であるという考えに立つとなれば、村用掛は村の代表としての性格はまずないことになる。それだけに、村用掛が、区戸長の任命制であったこともあって村民とも物議をかもしだしかねない。一八七四(明治七)年十月九日付の県達で、村用掛の選任も、戸長などと同様に、代議人による投票で採用する方式をとることにしたのも、従来の選任方法では、「民情兎角物議ヲ生シ動モスレハ出訴シ夫カ為メ……往々迷惑及ヒ候者不尠趣ニ相聞」といった弊害があらわれてきたからである(資料編11近代・現代⑴二六)。この弊害を取り除くための鍵として代議人がクローズアップされてくる。 番組の正副戸長は、前に述べたように、県官に準じた維新政府の行政吏としての機能をもちながら、数か村の総代としての性格も持たされていた。しかし、県政のもとで小前↓代議人↓正副戸長↓正副区長という統治のメカニズムにそくしてみると、正副戸長は、村々の代議人を媒介に数か村を代表し、村用掛を通して村民に責任を負う形式で村固有の事務を執行するのである。ここでいう村総代的性格は、もはや旧来の「寄合総代」ではなく、集権的な明治国家をつくりあげていくうえでの村総代として変わりつつあった。 地方行政の組織が、近代的な衣をまといながら、上からつくり出されてくる過程は、一面ではその効果を生み出すために、これまでの村の実情を利用しながらも、その根底においては、機構的に変容を促進していかざるをえない。区番組制のもとにおける、県↓区↓番組↓村という村落統治の機構と、県令↓区長↓戸長(副戸長)↓村用掛という村落統治の機関の形成は、そのことを示している。 二 大区・小区制の展開 大区・小区制一八七四(明治七)年六月二日、区番組制が発足してから約一年後の、六月十五日から「区・番組制」の区を「大区」、番組を「小区」と改称して新たに、大区・小区制を実施することを県下に通達した(資料編11近代・現代⑴三〇)。小区の編成にあたって、手直しを加えたほかは、これまで維持してきた区番組制をほぼそのまま移行したものであった。二十大区百八十二小区に編成され、一八七六年、足柄県の廃止による管轄替えで、二十三大区二百八小区に再編される。この大区・小区制は、一八七八年七月の「郡区町村編制法」による地方制度の改正まで存続する。 大区・小区制は、地域や村や住民にたいしてどのような役割をはたしていたのであろうか。新しく設定し直された地方統治機構である大区・小区制は、大区に区長・副区長、小区に戸長・副戸長をおく点は、従来と変わることがないが、さらに村落統治機構の一環として、それぞれの大区に区会を設け、小区ごとに小前一同の投票による代議人を選出するとしたことは注目しなければならない(神奈川県達一八七四年第四一号・一五六号)。この年三月、神奈川県達番外号で「地租改正施行規則」を通達し、「反別地価等書上心得」を定めて地租改正事業に着手していた神奈川県としては、「政府人民其間決シテ離隔スヘカラス荀モ離隔スレハ上ノ下ヲ待チ下ノ上ニ対スル事皆乖戻シ」「国家ノ衰弊殆ト将ニ是ヨリ起ラントス」るような事態を、あらかじめ避けるような手段を講じる必要があった。区会も、「政府人民ノ間一致親睦其便益ヲ謀ルノ方法」としては「輿論公議ヲ取ルノ外決シテ他ニ在ルヘカラス」という観点から設置されている(資料編11近代・現代⑴三)。実際、この頃ともなると、三大改革と呼ばれる地租改正と学制と徴兵制が実施に移され、しかも、そのほか続々と打ちだされてくる殖産興業や民政上の諸政策を、地域に浸透させていくにあたって、役人と民間の人びとの間が疎遠になり、上下の関係にへだたりが生ずるという弊害がおき出していた。このような状態を打ち破っていくために、区長・副区長は、「官民ノ媒酌人」としての立場から「上下情意」の融通をはかることを強く要請されていた(資料編11近代・現代⑴二八)。この区長・副区長のもとで、村の利害にかかわる仕事、たとえば、村内の租税収納や、地租改正作業の補助などを担当していたのが、村用掛である。村用掛は、区戸長の任命制であったが、その職掌からいっても村の住民と職務執行をめぐってさまざまな紛議がひきおこされたようで、この年十月九日、「神奈川県庶第五五号」で、任命制を改めて代議人の投票で採用する方式に変更されていった。 こうみると、区会の設置と村用掛の選任方式の変更は、「県治民情相背馳セスシテ国家開明ノ盛治ヲ賛助スヘキ」ためにとられた方法であって、代議人が、クローズアップされてくるのもそのためであった。代議人は地方行政の場で、統治を円滑に推し進めていく秩序をつくりだしていくことができるかどうかの重要な鍵として考えられていたようである。 この点の事情は、足柄県下の動きからもうかがうことができる。足柄県では、神奈川県よりもはやくに、名実ともに大区・小区制を設置していたことは、前に述べたとおりであるが、一八七五(明治八)年の頃は、大区と小区に正副区戸長と議員、書記を、各村町駅に里長と立会人と議員をおく統治組織をとっていた。正副区戸長が一般人民の公選のかたちで推挙し、里長・立会人は一般人民の公選によるとりきめでそれぞれ決めることをたてまえとしていた(資料編11近代・現代⑴三二)。地域の人びとの公選をへて、統治機構としての大区・小区制を推し進めようとしていたことは明らかである。そして、この制度の実効をあげるためにとられた手段が、大区会議、小区会議であった。神奈川県と同様、地方事務(勧業、治安、民費節減など)の実効をあげるために「上下協和気脈流通」をはかるという意図から、設置されて第1表神奈川県下の大・小区区域(1875年1月) 川井景一「神奈川県地誌略全(1875年)」から いった。 このように神奈川・足柄両県とも、大区・小区制を敷くなかで、旧来の村役人層の者を県官に準じた行政吏として待遇し、旧来の村の組頭・百姓代などの機能を代議人の制度に解消して村の秩序を編成し直そうと試みたのである。 大区小区と民費つぎに、編成し直された村の、民費支出という面から大区・小区制のもつ機能の一端をみておきたい。大区・小区制の施行によって村の出費が増大することに対しては、すでに、一八七三年十一月二十九日、県当局も県参事の名で、「諸入費之義一際節減不致候而ハ不相成筋ニ候」と民費をできるだけ減額することを通達していた(資料編11近代・現代⑴二二)。 しかし、大区小区のために村が出費する経費は、村方の出費をはるかに越えていた。その一例をあげると、一八七六(明治九)年度のある村の民費総額は、約六十七円六十二銭で、そのうち大区小区費の占める額が約三十八円で、民費の五六㌫以上にも達している。また別の村では五八㌫になっているところもあり、さらに民費の五分の三以上を大区小区費として負担している村さえもあった(「吉浜家文書」『町田市史』)。大区・小区制の実施にともない民費が増大することは避けられない勢いであっただけに、「小前末々ニ至リ候テハ…苦情ヲ唱へ候」という状況も、しばしばみられたのである。そのために、「区長副区長事務条例」や「区長戸長事務取扱心得書」、「区長事務章程」を定めて、諸経費について詳細に記帳した帳簿を備えておくことなどを指導していったのである(資料編11近代・現代⑴二一、二八)。一八七五(明治八)年十二月、民費の徴収に予算制度を取り入れようとして民費賦課法を改めて、県会の「衆議一決」を経た「民費予算収入規則」を、県下に布達していったのも、民費費目の整備と民費徴収をスムーズにとりおこない、大区小区の運営に支障が来たさないための配慮でもあった。民費総額の半分以上が、大区小区費であって、しかも大区小区費の費目のほとんどが、第二表にみられるように、大区・小区制を実施していくうえでの行政管理費であった。それだけに大区小区費の徴収がうまくいくかどうかは、大区小区という地方統治組織の実効性にかかわることでもあった。一八七六年六月八日、神奈川第2表民費予算収入費目 『1875年神奈川県達第260号』から 県権令野村靖は、「臨時議事会緒言」と題して、議員に訓示を与えているが、議事会の開設については、「区費徴集ノ適不適ハ区内人民ノ寧不寧ニ関係スルニ於テヲヤ」という見地から説明していた(資料編1 1近代・現代⑴五六)。地域や民衆のことにかんする諸問題を議論し、将来人民の権利を確保するための「公論讜議」も、じつは、県(政府)の立場から、いかにして民費徴収の実をあげるかをくめんする手立てとして考えられていたのである。このように、大区・小区制が地方統治組織として軌道に乗りうるか否かが、ひとつには大区小区の経費の徴収にかかっていた。 会議体の股置維新政府は、地租改正事業に着手したのにともない、改租作業を円滑に推し進めるうえでも、大区小区の地方統治組織を重視していた。一八七四(明治七)年六月、県布達一九一号で「地租改正取調総代人」の制度が設けられるが、総代人を、各大区の区長ないしは副区長に、各小区の戸長には地租改正の「専務」を命じて、大区小区の行政機構と一体となって強力な改租推進のかたちをつくり出していくのである。地租改正着手方法協議の名目で大区の集会、会議、代議人会議などが開かれて、代議人―区会の役割は高まらざるをえなくなる。代議人が文字通り地方統治を推し進めるうえで重要な位置を占めるようになるのである。 大区・小区制の前身である区番組制のもとで、戸長・副戸長は、毎月二十日区会所に集まり、論議することを義務づけられていた。この会議は、「事務創業ノ際取扱振等総テ衆議スル」とされていたように、県治の立場からの上意下達の機能を受け持たされていた。後に区会議と呼ばれたものの前身である。また正副区長も交代で県庁へ出庁して、実際に施行する事務について説明することをとおして、「政躰ノ主意」を理解し、上下の関係を円滑にはこぶことを要請された。 このような上意下達の性格を持つ会議体を設置したことは、区番組↓大区小区を段階的な地方行政単位として位置づけた統治組織にみあうものであった。県は、区番組制の施行以来、代議制の導入をかなり積極的に推し進め、維新政府の諸政策を地域に浸透させようとして、あれこれと、それこそ朝令暮改的に会議体の制度変更を試みるのであった。とくに、一八七五年以降、これらの会議体は大区・小区制による地方統治を遂行していくうえで、重要な位置を占めるようになり、組織のうえでも整備されて、急速に「民会」の体裁を持つようになったといわれる。 では、こうした会議体が、地方統治行政の場でどのような役割をはたしていたであろうか。 一八七四年八月、二つの県達が、県内をかけめぐった。一つは、「神奈川県庶第二〇号」で、各大区が選出した代議人を認可し、「民情実際ニ験ス」事項はすべて代議人へ「下問」することを命じたのである。もう一つは、足柄県権令柏木忠俊と、同県参事城多薫の連名で出された「足柄県大小区議事概則」である。「民情実際ニ験ス」事項は、柏木らの言葉でいえば、「民産富ヲ殖ニシ安寧ヲ保護シ民智ヲ開闡シ民権ヲ保全」する地方事務を実施し効果をあげることにかかわっている。実効をあげるために肝心なことは、「上下協和」し気脈をつうじ、合同して協議することであると説いて、大小区の会議を設置していったのである(資料編11近代・現代⑴四五)。 足柄県の大小区会議は、会頭、幹事、議員など、すべて一般人民の公選に基づいて組織、運営することとなっていたが、当初は軌道に乗るまでの措置として、大区会議の場合、長官が会頭になり、担当の県官が幹事、正副区長を代議員として運営され、小区会議は、副区長のなかから会頭と幹事を選び、代議員は、各村町駅ごとに正副戸長のうちから一名と、有力者一名を公選することとしていた。足柄県の大区会議は、月に一回開くことになっている小区会議で議論し決定したことがらを中心に、年に春秋二回開催することを義務づけられていたが、取り扱う議事項目は、つぎのような事項であった。 旧染ノ陋習ヲ破リ開化ヲ勧誘スル事民費賦課ノ方法并費用ヲ検査スル事学校病院ヲ設立シ并保護維持スル事勧業ノ事済貧育幼授産方法ノ事水利堤防道路橋梁ノ事保護警察ノ事予備凶荒ノ事(資料編1 1近代・現代⑴四五)。 これらの議事項目をあつかい、一般人民の公益を保護することが、大区会議の目的であったし小区会議も同様であった(『明治小田原町誌』上巻)。 このように大区会議、小区会議、区長会議、代議人会議などは、大区小区が地方行政区として組織されたことに対応して発足したのであり、県の意志を、県内の村々に徹底させるための組織としてほぼ一八七四(明治七)年以降に作りあげられていった。 いずれにしても大区・小区制のもとでの大区会議・小区会議などの「集議」組織は、地方の人々に「文明開化」を散布し、人びとの生活をどのように保障して民力をたかめていき、その秩序をどう維持していくかをめぐって、「上下ノ気脈ヲ通達シ壅塞ノ疾病」のないようにするための媒介としての役割を強く要請されていたようである(宮城好彦氏所蔵『代議員触書写』)。これらの「集議」組織が、一八七五年以降にいちだんと整備されていくのも、一般に維新政府が、地方行政の場をつうじて、地租改正事業をはじめ、学制、徴兵制の実施や、殖産興業や民政上の諸政策を推し進めていくうえで必要とされたためであろう。だからこそ、「足柄県大小区会議心得」の一節で、足柄県当局が、「公同資益」の観点から地域の問題の利害得失を議論し、そこでの決定事項を実施するさいには、正副区長らの指揮のもとで一糸乱れずおこなっていかなければならないことを、強調していることにもあらわれているように、「集議」組織は、明らかに地方統治の要石であったといえよう。 摠テ議員ノ任タルヤ一己ノ私見ヲ主張スルヲ聴サス公同資益ニ注意シ其ノ施設方法ノ利害得失ヲ論定ス可シ譬エハ道路ヲ修繕スルニ方リ其ノ道幅ヲ画定シ其ノ工役ヲ賦課スル法ヲ立ル如キニシテ此一例ヲ推シテ其他ヲ知ル可シ然レトモ之レヲ実際ニ挙行スルハ正副区戸長及里長ノ権内ニアリ必ス此権限ニ於テ毫モ乱ル可カラス (資料編11近代・現代⑴四八) 大区・小区制が地方統治組織として機能するうえで、当初足柄県の場合は、大区会(副区長会議)↓小区会(正副戸長・代議人会議)、神奈川県の場合は、区長会議(県会)↓大区会(戸長会議)↓小区会(村用掛会議)↓代議人会(村会)という系列の「上意下達」の「集議」機関が設けられていたが、実情を明らかにすることができない。そこで、神奈川県の「集議」機関の制度上の推移と、これらの機関に期待されていた地方統治組織としての役割をみていく。 代議人制度『明治十二年七月村会日誌蔵敷村会議場』と表紙に筆墨された、一冊の簿冊が、保存されて来ている(『内野家文書』)。その簿冊には「代議士設置ノ沿革」と題して、一八七三(明治六)年から一八八〇(明治十三)年にいたる神奈川県の代議人制、町村会、小区会、大区会などの変遷が年表風に記載されているので、まずそれを整理してみる。 一八七三(明治六)年四月 小前百戸につき五人の代議人を選び戸長・副戸長の選挙人とする 一八七四(明治七)年六月 代議人の数を戸数五十戸まで二人、六十戸まで三人、八十戸まで四人、百戸まで五人と改定 八月 代議人に正副戸長の「任選ヲ始メ民情実際ニ験シ候義ハ可及下問」と布達 この年五月毎月毎木曜日、県官と区長による会議を開設する(区長会) 一八七五(明治八)年五月 区長会を県会と改称 七月 町村議事会心得と町村会議事仮規則を定めたが、「詮議ノ次第有之」と、施行を見合わせる 十月 従来の代議人の数を改めて、五十戸から百戸まで十五人、百戸から二百戸まで二十人、二百戸から三百戸まで二十五人、三百戸以上三十人とし、代議人に「民費ノ割合ヲ相談シ及其遣払ヲ検査」する権能を与える 一八七七(明治十)年八月 従来の代議人、小前総代、五人組を廃止し、町村総代人兼小区会議員選挙規則并心得書を定める 九月 小区会議事規則、大区会議事規則を定める大区会議員は戸数三百戸につき一人の割合で、町村総代人の互選投票による 一八七八(明治十一)年一月 大小区会議に民費賦課法議案、貯金法議案が諮問される 二月従来の県会と教育会議規則を廃止し、新たに県会議事規則を定めて、県会を設置県会議員は各大区議員の互選投票で二人を選出 というような経過をたどっている。 代議人の制度は、まず一八七三(明治六)年四月の「区画改正」のさいに、戸長・副戸長の選挙人として設置されたが、実際には翌年の一八七四(明治七)年六月から七月にかけてようやく代議人の選出が実施にうつされていった。この時点における代議人の職務は戸長・副戸長の選任と同時に、民情の実際に関係するものすべてが下問されていたし、戸長、副戸長、村用掛などの事務の正・不正を監視することにもなっていた(『町田市史』下巻)。けれども、代議人の定員が、五十戸まで二人、六十戸まで三人、八十戸まで四人、百戸まで五人という割合では、いくら小前の投票によって選ばれ、その行為はすべて村全体の承認を意味するものであったにしても、少なすぎるきらいがあった。実際この定員では、一村二~三人の代議人が置かれるにすぎない村もででくることから、「諸般指支」えるという理由で、代議人の増員を要求する村々もでてきたし、また県当局も、代議人の選挙規則と、職務規定が確立していないことから代議人が困惑しているという状況に、しばしば悩まされていたようである(資料編11近代・現代⑴四七)。 代議人の増員一八七五年十月、「代議人規則」を制定して、代議人制度に大きな変更を加えたのは、このような状況を打破することにあったといえよう。 制度上の主要な変更点は、まず代議人の大幅な増員である。五十戸から百戸までの町村で十五人、百戸から二百戸までが二十人、二百戸から三百戸までが二十五人、三百戸から五百戸までを三十人とし、いかなる村でも(五十戸以下の村は隣村と合併して定員を確保する)最低十五人の代議人を確保できることとなった。代議人の選挙権と被選挙権は、町村に本籍をもつ二十歳以上の男子の戸主と規定された。代議人の増員と同時に、代議人の職能も明示した。「代議人規則」第四条で、代議人は町村用掛の代理あるいは補助者ではないことをはっきりとうち出し、その職能も町村住民の疑念をとりのぞくために、民費の賦課方法を話し合い、その出納を検査することにあると強調していた。こうして従来の代議人にまつわりついていた村用掛の代理ないしは補助者のような性質を取り除こうとしたのである(資料編11近代・現代⑴四七)。 代議人制度の充実の背後には、この頃一般化してくる民会開設をめぐる論議のたかまりなども影響していたようである。当時の神奈川県令中島信行は、第一回地方官会議(一八七五年六月)で公選議員による民会の開設を強力に主張していた。中島は、一八七五年七月五日、「管下一般衆庶公同之利益ヲ計ラン」ために、町村会を設立するとの方針をかかげ、「町村議事会心得」と「町村会議事仮規則」を県下に布達して、「町村会ノ体裁大略相立チシ上ハ大区会県会ト推シ及ス」という政治姿勢を明らかにした(資料編11近代・現代⑴五二)。この二つの規則は、実際には施行されなかったが、代議人制度の充実という結果をもたらしたともいえる。代議人が、「町村会議事仮規則」の議員と違って、選挙権被選挙権ともに、財産上の制限(不動産所有)要件がないことから、定数増もあって、町村内のあらゆる階層から選ばれることになっていた。それだけに、代議人は小区会議を構成するのをたてまえとしていたけれども、行政単位として公認されていない村が、実際上、村用掛による行政上の諸調査の単位となっていたことや、民費の賦課単位としても機能していたことから、代議人の協議という形式は、村会のような性格をもあわせて持つことになった。 新しい制度下の代議人会議は規則改正後一か月、一八七五年十一月にはほぼ全県で成立したようである。代議人によって構成される小区会議で、審議された事項をみてみると、たとえば、第八大区の各小区では、正副戸長、村用掛の事務不正の監視、地租改正地引絵図作成、道路修繕方法の協議とか、地租改正のための反別調査の取りきめ、改租事業にかかる経費の節約方法等々である(『八王子市史』)。これらの審議事項からもうかがえるように、民費の賦課方法だけでなく、民情の実際に関する村方の重要事項がふくまれていた。 代議人会議が、小区内の議決機関として機能するようになったとはいえ、議案を直接提出する権限もなく、県令―区戸長の下問に答えるという性格が強かったのは事実であるが、たんなる協力機関として機能するだけとは限らない。地租改正、学制、徴兵制の三大政策をはじめとして、「富国強兵」「殖産興業」を推進していく上で必要とされる諸政策を、地方行政の場をつうじて具体化していくための秩序を形成していくのには、どうしても町村民の自発的な賛成をうることが必要とされる。代議人会の開設はそのような統治上の必要から開設されたのであるが、県(政府)の推進する政策を、民費負担増を口実にして反対するなど、行政上のたんなる協力機関として機能するだけにとどまらないこともあった。たとえば、人民保護の名目で設置される邏卒(巡査)にたいし、民費が増加することを理由にしてその実施を渋るような事態もたちあらわれていた(『八王子市史』)。それだけに、この頃ともなると、地租改正事業の進行にともなう費用負担の増大が、町村財政の運営をむずかしくし、その矛盾がずっしりと重く町村民のうえにかかってきた。例をあげると、一八七五(明治八)年七月から一八七七年六月までの二年間のある小区(四か村で構成されている)の区費の経費の支出内訳は、地租改正費が区費総額の四五・四㌫を占め、またある村では、一八七五年の民費総額の七三㌫が地租改正費で占められていた(『八王子市史』)。 代議人制度の変質このような巨額の地租改正費の負担をともなう町村財政を維持し、新しい行政に対する自発的協力を引き出すうえでも、代議人会議は重視されたのである。 一八七六(明治九)年十月、太政官布告第一三〇号「金穀公借共有物取扱土木起功規則」が出されて、神奈川県の代議人制度にも一定の変質がもたらされる。従来の代議人制度が、民費問題だけでなく住民の生活に関する万端の重要事項を協議し、会議自体は行政諮問機関的な性格をもってはいたけれども、代議員の資格にも特に財産上の制限がつけられていなかったので、原則上村のすべての階層が、自分たちの生活範囲内の政治にかかわることが認められていた。しかし、太政官布告によって、不動産所有者の総代としての総代人制度が全国的に強制される。一八七七年八月、神奈川権令野村靖は、甲第八九号をもって、従来の代議人、小前総代、五人組を廃止して、あらためて町村総代人兼小区会議員の選出を命じた。そして九月には「小区会議事規則」、「大区会議事規則」を布達して、小区会、大区会の開設を命じている(資料編11近代・現代⑴五七)。 新たな町村総代人は、村ごとに置かれたが、戸数百戸まで二人とし、百戸ごとに一人を増員するということで、人員が縮小され、総代人の選挙被選挙資格も男戸主で、不動産を所有し国税あるいは県税を納める者に限られた。また総代人は小区会の議員を兼任し、大区会の議員を互選することとなった。町村総代人は、不動産所有者(土地持ち)の総代という性格をおびたのである。ところがこの総代人の役割は、町村の一般住民の利害得失に関する事項について区戸長らの尋問をうけ、それに答えることにあったが、総代人の「答議」が、「人民ノ一同答フルモノト見認ル」とされて、後日、「人民ヨリ異議ヲ称フル権理ナキモノトス」とされたため、町村内人民の代表としての機能も持たされていた。 この町村総代人が小区会の議員を兼ね、「民費予算非常予備ノ蓄積法道路橋梁ノ修造教育上其他共有物保存等」などを協議決定し、その決定について町村民は異議をさしはさむことができないものとされた。このような性格を与えられた町村総代人のうちから、三百戸に一人の割合で互選した議員でもって大区会が運営されることになり、七八(明治十一)年二月には、従来の区長・学区取締らの会議であった県会・教育会が廃止されて、各大区議員の中から二名ずつ互選された議員で構成される県会を新しく設置していった(資料編11近代・現代⑴六二)。 不動産所有者の総代である各町村二名の者が、町村民の意志を代表する形式をとるこれらの代議人制度は、町村民↓町村総代人=小区会↓大区会議員(大区会)↓県会議員という代議人のピラミッドのような構成をとっていた。しかも各段階の会議体の構成員は、従来と違って行政担当者が除かれていることに示されているように、かつて政府が時期尚早として否認していた公選民会に近いものとなった。公選民会といっても、あくまでも、不動産所有者層(地主層)の民会であった。 地主層を大区・小区制という地方統治の場に引き入れて、旧来からの村秩序を編成しなおそうという試みは、なによりも、貢租改革としての地租改正事業をやり遂げるためであった。だからこうした地方制度の改革をつうじて、地方行政の最大の任務である「富国強兵」のための民産の富殖と民智の開発を推進して、政府(県)のめざす集権的な秩序をつくり出していくためにも、大区・小区制の制度の変更がたびたび試みられなければならなかったのである。こうした制度変更の試みが、県の意図する地方統治の秩序をつくり出しえたかという点では、たとえば、一八七七(明治十)年から鎌倉郡瀬谷村でねばり強くつづけられた地租改正不服運動などに象徴づけられているように、決して容易なことではなく、県(政府)の推し進める施策とその線上に立つ大区小区の村方役職者の動きと、住民の利害関係が相反し、しかもその渦中で、県(政府)にたいして批判的な村吏もあらわれていく実情にあった(資料編1 1近代・現代⑴解説)。一八七八年三月、県権令野村靖が、大小区会や県会では「官令制規等」の是非を論議してはならないことをわざわざ通達しなければならなかったのも、「横浜毎日新聞」が報道していた「村会議人会ニ至リテハ徒ニ民権自由ヲ表張」(一八七六年四月十四日付)するような反政府的な空気の流れともかかわっていたのではなかろうか(資料編11近代・現代⑴四三)。もちろんこうした地方統治のありかたは多かれ少なかれ全国的な傾向であり、そのためにこそ、政治の安定をはかるために一八七八(明治十一)年七月郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則といういわゆる地方三新法と、一八八〇(明治十三)年四月に区町村会法を公布していくこととなる。 第二節 初期の県会 一 地方三新法と神奈川県会の発足 地方三新法一八七八(明治十一)年七月二十二日、「府県会規則」・「地方税規則」・「郡区町村編制法」が公布された。これらは通常一括して地方三新法と称され、この下での地方体制を三新法体制と呼んでいる。 三新法は地方政治に大きな変化をもたらした。行政上の便宜から区画した大区小区制を止め、旧来の歴史的町村を行政単位として復活し、そのうちでも「人民輻輳ノ地」を区として独立させ、他の町村を郡の下に統轄せしめたことも重要な変更であったが、府県会の開設もまた画期的変化であった。それ以前においても「地方民会」と総称される府県会・大小区会等が各地の開明的県令の下で開設されたが、神奈川県でもこれが開かれている。 しかし、全国的にみればまだ未開設のところも多く、開かれた場合でも権限は一様でなく、しかも県令等の諮問機関的性格の強いものであった。それに対してこの「府県会規則」による府県会は全国統一のものであり、府県財政について審議・決定する権限も明確に与えられた。その意味で、近代的公選議会の創始、住民の参政権行使の始まりといってよいものであった。 県会の権限と議員資格県会の主要な権利は、「地方税ヲ以テ支弁スヘキ経費ノ予算及其徴収方法ヲ議定ス」ることにあった(府県会規則第一条)。 ここでいう「地方税」とは三新法の一つ「地方税規則」に定められており、地租五分の一以内の付加税(地租割)、商工業者を対象とした営業税・雑種税、家にかかる戸数割の三税目から成っていた。 それまでの県費・区費を廃止し、統一したのである。また「地方税ヲ以テ支弁スヘキ」費目は、警察費・河港道路堤防橋梁建築修繕費・府県会議諸費・流行病予防費・府県立学校費及び小学校補助費・郡区庁舎建築修繕費・郡区吏員給料旅費及び庁中諸費・病院及び救育所諸費・浦役場及び難波船諸費・管内限り諸達書及び掲示諸費・勧業費・戸長以下給料及び戸長職務取扱諸費の十二項目であった。このほかに県会は、府県内の利害に関することで政府(内務卿)の施策を促すために建議する権利が認められている(同前第七条)。 しかし、議案の提出権が県令にのみあり(同前第三条)、県令は県会議決を拒否することもできる(同前第五条)という制限が付されており、さらに地方税に関しない事柄については、県令からとくに諮問のあった場合を除き関与できない前提であったから、県会が開設され右の権利が与えられたといっても、県政全体におけるその権限ははなはだ限定的なものであった。 県会議員の被選挙権は、満二十五歳以上の男子で、県内に本籍を定め、満三か年以上居住し、直接国税たる地租を十円以上納める者に、選挙権は満二十歳以上の男子で、県内に本籍を定め、地租五円以上を納める者に与えられた。但し官吏・教導職にある者等は除かれている(同前第十三・四条)。 神奈川県の場合、この厳しい資格要件を満たす者がどれほどであったかというと、一八八四(明治十七)年の県統計書によれば、選挙権者が三万一千人余、被選挙権者が一万六千人余で、これを人口に比すると、それぞれ三・八㌫、二・○㌫にすぎないから、選挙自体も大幅な制限選挙といわねばならない。また、選挙権者の人口比を各郡区別にみると、郡部では高座郡が六・六㌫と最も高く、以下、足柄上郡六・二㌫、都筑郡五・九㌫、鎌倉郡および愛甲郡五・○㌫とつづき、低いのは津久井郡一・八㌫、西多摩郡二・○㌫の順で、一般に平場の農村地帯に選挙権者の高かったことがわかる。だが、郡部が最低でも一・八㌫であったのに対して、横浜区は○・八㌫ときわめて低い。それは納税資格要件が地租であったためであることはいうまでもない。地方税が地租割だけでなく、営業税・雑種税、戸数割で成りたつものであったことからみて、この資格要件は住民にとって、はなはだ理解しにくい性質をもっていた。 『横浜毎日新聞』の論評このような権限と資格制限をもった県会に対し、県民がどのような意見をもったかは、詳しくはわからない。ただ『横浜毎日新聞』が社説(明治十二年三月十三日付「神奈川県会ノ開設」)でつぎのような論評をしているのは、県民の有力な意見の一つとしてよいであろう。 それは、「参政権の実利」が「人民各自ガ払出セル地方税収支ノ方法ヲ議定シ其出税ヲシテ行政官ノ為メニ曖昧ニ附シ去ラレザル」点にあることを説き、県会の果たすべき任務が「府県官ノ専恣郡区吏ノ貪墨ヲ禁ジテ之ヲ擅ニセシメザル」「地方入費ノ利害緩急ト地方民力ノ能ク堪ユルト否トヲ詳査シテ其権衡ヲ失ハザル」等のことにあると、積極的に評価している。この期待はまた、国会開設への展望にもつながっていた。右の任務を県会がよく果たすことによって、行政官吏、世の識者に「議会ノ果シテ貴重ス可キ信依ス可キヲ知ラシムル」ことができ、国会開設を促すことになるのだ、というのである。そして第一回の県会で石坂昌孝議長も同趣旨の発言をしているから、これが県下の県会に対する世論の大勢であったといえよう(一八七九(明治十二)年三月二十六日付の発言。『横浜毎日新聞』同月二十八日付の「議事傍聴筆記」による。以下、本節での議員・県会の発言、議事に関するものは断らないかぎりすべて同紙所載の「傍聴筆記」による)。 しかし、議員の選挙・被選挙権の資格については批判的であった。同紙はこの問題について、最初は沈黙していたが、一八七九(明治十二)年二月十五、十六日付の社説「議員選挙ノ区限」で、「府県会規則」の選挙資格が狭隘であるとする世論を報じつつ、「普通選挙法」と「租限選挙法」をとりあげ、双方の問題点を指摘した。ついで、第一回県会終了後の同年九月二十八日付社説「議員選挙」では、一歩進めて、選挙権は租限選挙でもよいが、被選挙権は納税資格を廃止して、「政事広通ノ学士」「世故練磨ノ通材」等の有識者が議員になれる道を開くべきだと主張している。これは、「府県会規則」に基づく実際の県会が、「豪農商ノ門閥会議タル有様」であったという認識に立つものであった。 この主張は、同年十二月四日付の社説「高知県会ノ建言ヲ読ム」(沼間守一筆)にもくりかえされているが、ここではさらに注目すべき批判点が出されている。すなわち、県会が地方税を扱うものでありながら、選挙資格が地方税に拠らず直接国税(地租)によっている点で、そのため議員構成が郡部偏重になっていることを批判したのである。郡部と区部の権衡をめぐるこの問題は、神奈川県会でも一争点となるものであった。 選挙の実施と県会議員の群像さて、三新法の布告後、およそ半年の準備期間をおいて郡区・町村の編制が実施され、ついで県会も開設となった。一八七九(明治十二)年二月五日、県は議員定数を四十七名と定め布達した定数は郡区ごとにその大小によって五人以下と定められている(府県会規則第十条)。県は郡部については、二人以上五人以下において、戸数三千五百戸に付き議員一人の割合で決めたのであった(『神奈川県会史』第一巻)。 投票は二月下旬、各郡区毎に実施された。郡区の庁舎でおこなうのが原則であり、有権者は自分の姓名・住所・年齢を明記のうえ、選ぶ人の名を定員数だけ書いて郡区長に提出するのであった。記名・連記制と呼ばれる方式で、今日の無記名・単記制とは全くちがっていた。投票用紙は代理人に託してもよかった。同点の場合は、まず年長の者を当選とし、なおかつ同年齢の場合には「くじ」によって決めた。また立候補制でないので、当選者が辞退するときもあり、その場合には次点者のくりあげ当選となった(以上、府県会規則第十六~十八条)。 第一回選挙の投票率は不明である。そこで第二~四回(一八八〇~八二年)のものによってみると、全県平均で九二~九三㌫と高い数値である。郡区別でみると、鎌倉郡の一〇〇㌫、北多摩郡の九九㌫を筆頭に郡部は概して高いが、横浜区は五〇㌫台と低く、隣接する久良岐郡も八〇㌫台で、市街化しているところほど低い傾向が見うけられる。 選出された四十七名の議員の顔ぶれをみると、資産家・名望家といわれる人びとが多く、大小区長や戸長の経験者も少なくない。それだけに言論をたたかわせる議員としては必ずしもふさわしくない人もいたようである。例えば、横浜区では平沼専蔵・戸塚千太郎・木村利右衛門・原善三郎・早矢仕有的が選出されたが、平沼と原は多病と称してあまり議会に出ず、早々に辞職している。初の県会だけに期待はさまざまであった。一方、右の戸塚千太郎や橘樹郡の椎橋宗輔・池上幸操、西多摩郡の田村半十郎、北多摩郡の内野杢左衛門、三浦郡の若命信義・永嶋庄兵衛、高座郡の菊地小兵衛・山本作左衛門、大住郡の福井直吉、淘綾郡の中川良知のごとく、第一回当選以来七~十三年も在職し、初期の県会を担っていく人びともいた。 県会の組織一八七九(明治十二)年三月十一日、県令野村靖は、三月二十五日より横浜町会所にて最初の県会を開く旨、布達した。いよいよ開会であった。だがそれに先立って、二十二日、同所に県会議員が召集され、正副議長の選挙会がおこなわれた。十九票を得て南多摩郡の石坂昌孝が議長に選ばれ、十二票で次点となった足柄下郡の小西正蔭が副議長に選ばれた。ついで県会議事規則が審議に付され、二十四日に議了した。県側の事務上の都合から会議時間は午後三時開会・九時閉会に、という原案が、午前十時開会・午後四時閉会に改められている。 このような準備を経て、三月二十五日午前十時四十五分より開場式がおこなわれた。県令は一場の訓示的演説をなし、第3表選挙郡区別定数 「県会は一地方の事務を割出す根源」であり、予算審議においては「可成入費のかゝらざる様人民の安きを願ひ又一方にては此事務の能く整頓し差支なき」ように、と述べた。 二 最初の予算と県会審議 新しい予算編成案開場式が終わって小休止した後、県会は早速、一八七九(明治十二)年度(この年七月から翌年六月まで)の予算審議にとりかかった。県令はまず第一号議案として、地方税規則に「地方税ヲ以テ支弁スヘキ経費」として掲げてある十二項目のうち、第二項の「河港道路堤防橋梁建築修繕費」を除く十一項目の歳出予算案を提出した。第二項を除いたのは、町村の協議費によって支弁すべきものとの区分を県会審議に委ねる必要があり、それを盛り込んだ議案を第二号として別にしたからであった。 さて、第一号議案として提出された分の歳出総額は二十六万四千四百九十七円余、第二号議案のそれは十四万二千五百八十六円余で、合計四十万七千八十三円余であった。この額は一八七七(明治十)年度の実際額を基礎に、今後の事業を勘案して組まれたものであり、県令の開場式での演説に示されたように、従来の予算規模をある程度縮小してあった(「号外議案〈予備費〉説明書」、『横浜毎日新聞』明治十二年五月八日付)。 第一号議案における予算編成上の特徴をみよう。第一に、警察費については国庫(官費)支出もあり、決して地方税だけで最初の県会議場となった横浜町会所 『神奈川県会史』から 負担したのではない。むしろ前者のほうが、七万九千八百四十六円余と、地方税の四万三千五百七十五円余より多かった。第二に、流行病予防費はコレラ対策を主眼とし、一八七七年流行時の実費の十分の一を平時の額として、腐敗物検査、下水浚い等をおこなうというものである。第三に、県立学校及び小学校補助費のうち、県立学校とは、横浜・小田原にある師範学校と横浜にある中学校の費用であった。但し、小田原師範学校はこの年十月で廃校の予定であり、中学校費は本来なら中学区で負担すべきものながら、本県にはまだ横浜区にしかないので、暫時これを県立中学校とみなす、という前提条件が付されていた。また小学校補助費は、学齢一人に対して一か年三銭四厘を補助する案であった。第五に、郡区役所建築修繕費は足柄下郡を除く郡区十四か所に三年間で郡役所を建築する計画のもとに今年度は五か所を新築する。一か所に付き千円を基準とするが、横浜区だけは人員が多いなどのことから倍額とする、というものであった。第六に、病院及び救育所諸費は、県立横浜十全病院と、これも横浜区にあって「赤貧無告の窮民」のために設けられている救育所に対する支出であった。前者はこれまで横浜区費と県税とをもって支弁してきたが、それをすべて地方税に移したものである。第七に、勧業費は、小田原養蚕試験場・相沢農事試験場費をはじめとする勧農費、器械製造等の試験費・研究補助費等の勧工費、商況調査費などの勧商費、物産陳列所及び博覧会費よりなっている。第八に、戸長以下給料及び職初期県会当時の県庁舎 『神奈川県会史』から 務取扱費のうち、戸長・筆生の給料(月額)は、戸数二百戸までは十戸に付き五十銭の割で、戸数二百戸以上は十戸増すごとに二十五銭を増加するという案であった(以上、「第一号議案説明」、『横浜毎日新聞』明治十二年三月二十六、二十七日付)。 つぎに河港道路橋梁堤防建築修繕にかかる第二号議案をみよう。この予算案の大枠は、「明治八年ヨリ同十年迄三ケ年間官民ニ於テ修築シタル費額ノ内官費ト協議費トニ属スル部分ヲ除キ、其他ヲ地方税ヨリ支弁スヘキモノトシ、以テ一ケ年平均ノ額ヲ得」たものであった(「第二号議案説明」、同前三月二十八日付)。ここで問題となるのは、いうまでもなく、町村協議費との境界をどこに引くかであった。これについて予算案は、まず道路橋梁は国県道および横浜区内にかかるもの、河川堤防関係は数郡あるいは数町村にまたがるものをそれぞれ地方税支出と定め、また海岸波除堤防等はすべて地方税支出とした。田地灌漑については、用水本路とその附属施設を地方税とし、用水支路等は町村協議費とした。なお、ここでいう国県道とは、一八七六(明治九)年六月の太政官達第六〇号により調査された仮定のものを指し、本県の場合、国道は東海道(川崎駅~箱根駅)・東京往還(横浜~神奈川駅)・甲州街道(北多摩郡烏山村~津久井郡小淵村)の三道で、県道は県内各地要所を結ぶ十三道であった。そしてこの年度は九万六千三百四十五円余が道路橋梁費に計上されたが、その内訳は通常の定式修繕費に五万五百六十円余、特別の事業として甲州街道のうち烏山~八王子間修造に二万九千七百八円余、横浜区橋梁架設費に一万六千七十五円余であった。河川堤防費三万三千二百七十六円余はすべてが定式修繕費である(以上、同前)。 県民の地方税負担一方、歳入予算案はどうであったか。予算額を決める前に、「地方税規則」に基づいて、県下の賦課法を決める必要があった。そのため、県令は賦課法を盛り込んだ地方税税則を第三号議案として提出した。第一条には地租割を限度額一杯の地租五分の一とする案が提示され、第二条には営業税の各種税額が掲示されている。そのうち第一類の諸会社は一率年額十五円であり、第二類の諸卸売商は業種によって第一から第六に区分され、税額も十五~三円と差があった。第三類は諸仲買商で七円、第四類は諸小売商で第一から第五に区分され、その区分内がさらに雇人数によって二、三等に分かれており、五円~五十銭の差があった。第三条は雑種税で、船、車、諸市場、料理屋、質屋、芸妓等々二十六類三十三業種に対して課税され、課税方法も一様でなかったが税額は最高で十五円であった。第四条は本県特殊な漁業税・採藻税であって、前年一月の採魚採藻営業規則によって徴収されることになったものをここに組み込んだのである。第二~四条は零細な商工業者や雑業者に対しても課せられるものであった。 このほかに、第三号議案には戸数割税賦課算則があり、戸数が同じでも豊かな町村とそうでない町村の差があることを理由に、戸数割の算定はつぎのようなややこしい方法がとられた。まず県下の全戸数と地租金の全数を合わせた値を戸数割における基本個数とし、地方税戸数割として徴収したい総金額をこの基本個数で除した値を一個当たりの税額とする。そのうえで各区町村の負担額を、その区町村の戸数と地租額とを合わしたものに右の一個当たりの税額を乗じて算定する。これがその方式であった。この年の一例をみよう。三浦郡三崎町は戸数が七百八十九戸、地租金が百十円五十一銭三厘であったので同町の負担すべき個数は八百九十九個五一三である。そして県下全体の一個当たりの税額が十九銭一厘七毛一絲であったので、同町の負担すべき税額は百七十二円四十四銭六厘とはじき出されたのである。なお戸数割の区町村段階における賦課法は、その区町村に委ねられ、一部を地租割としてもよいとし、有力者が請け負う慣習によってもよいとしていた(第一条地租割も、逆に、その一部を戸数割としてもよいとした)。他の税の徴収が住民側の所有状態によってあ三崎漁港 『神奈川県会史』から る程度一定せざるをえなかったのに対して、戸数割はまず県下全体の徴収額を一方的に定めたうえで区町村に賦課するのであったから、県としてはそれでよかったのである。しかし、このような賦課法のために、財政規模が大きくなると安易に戸数割を増加させて財源を確保することにもなり、零細民からも一率に徴収することを原則とする関係上、彼等の負担過重になりやすい性格をもっていた。 ともあれ、こうした賦課法によってこの年度に計上された徴収額は、地租割が十四万二千八百四十七円余、営業税・雑種税および漁業税・採藻税が九万八千六百二十四円余、戸数割が十六万五千六百十円余、計四十万七千八十一円余であった(以上、「第三号議案説明」、同前四月四~六、八~十三日付)。 県会の二割削減この予算案に対し県会は、第一号議案第一条警察費の冒頭審議から削減案を提出し、以後の予算についてもほぼことごとく削減しようとして対立した。 三月二十八日、警察費の原案四万三千五百七十六円余に対して、愛甲郡選出の中丸稲八郎議員より、できるだけ民費を減少したいとの考えのもとに、総体として四万円にとどめる意見が出されたのがきっかけであった。しかしこれは、費目の細部と原案の組み立てについて立ち入った検討をしての結果ではなかった。県側は、「原案を草するに当りて細かに計算し昨年度より幾分かを減少して原案を組立たるに此上また減少を加ふれば警察署の立ち難きは勿論のことなり然るに突然と雲を捉むが如き減少説を発するは甚だその意を得難し」と反論している。高座郡選出の菊地小兵衛議員はこの県官の言い分に賛意を表し、「若し費額を減省せんとする時は其細目中に就て何々は無益なり何々は過当なりと所見をたてて仕舞計算をなし然る上にて減少致したし」と建言する。議事の方法に未熟さがあるのはやむをえないことであり、それだけに住民の利益を代表しようとする議員の姿勢と為政者として臨む県官のそれとが、まっすぐにぶつかったのである。 警察費は、その第二項の給与を二千百二十九円を削減し、他の三項は原案通りの可決となったが、中丸議員によって提案された削減の勢いはその後もやむことがなかった。いま、第一号議案、第二号議案について県側の原案と県会の査定額とを比較一覧すれば、第四表のようになる。およそ二割の削減であった。 このうち大きな削減を加えた費目について二、三をみてみよう。県立学校及び小学校補助費は三一㌫余の削減であったが、横浜にある中学校の費用を全面削除し、中学区の協議費で支弁すべきものとしたのが大きかった。これは西多摩郡の田村半十郎議員の発議に基づくもので、横浜中学校には現在、横浜の中学区の生徒のほか、多摩地方から一人、津久井から一人が入校しているが、学区外生徒は退校させてもかまわないという強硬な趣旨である。この意見は圧倒的多数の支持を受けた。一方、小学校補助金三千六百五十円についても、木村利右衛門議員(横浜区)から、削除して協議費に移す案が提出されたが、否決されている(なお、この審議には後述する郡部・区部の対立が背景に第4表 1879年度歳出予算額 備考1 以上の外に号外議案として追加された「予備金」がある,これは6,578円余で,原案通り可決されている 2 本表は「神奈川県会議事傍聴筆記」(『横浜毎日新聞』所載),『神奈川県会史』,『神奈川県会々会日記』第二号(内野家文書)から作成 あった)。郡区庁舎建築修繕費は実に七五㌫余の削減となった。それは菊地小兵衛議員の発議により、五か所の郡区役所新築費を「民力の堪へざること」を理由に全面削除したからであった。勧業費は少ないが、これも四〇㌫近くの削減をうけている。そのなかで最も問題になったのは五千六百八十四円の勧農費で、原案支持説や、増額して試験場を県内八か所に設置すべきだ、あるいは生糸製造所を設けたい等の説もあったが、木村利右衛門議員の三千円に減額する案が可決されたのである。木村議員の案は、試験場を多く設けても名のみで実効に乏しいから、今年度は農事改良は農民に委託して新設はやめたほうがよいという説で、かつ既設の相沢試験場は横浜に近接して農地も少なく不適当だから、八王子等の適地に移すべきだとも主張している。勧農費を減じたため、勧工費千百一円も七百円に減額された。戸長以下給料及び戸長職務取扱諸費は、戸長が準官吏の性格を帯びると同時に、町村の自治機関的性格を半ば有するため、町村協議費との境界をどこに引くかが問題となる。町村協議費に全面移管せよという説もあったが、県会は原案を了承し、そのうえで削減の方向をとった。この費目のうち第一項戸長以下給料については、原案に対して、田村半十郎らの議員から第五表の内容をもつ「戸長月給々与法」が出され、採択された。これにより戸籍人口を精査する委員が選出され、それに基づき原案を三千七十七円減じて六万四千二百五十八円とした。第二項旅費は原案通りであったが、第三項需用費(役場経費)は、原案三万八百十一円を二万二千円に大削減した。 第二号議案についてみよう。土木関係の町村協議費と区分し地方税支出の方法を定める箇条については、ほぼ原案通り可決されている。ただ、道路橋梁費については多くの修正案が出された。審議は最終的に、福井直吉議員(大住郡)の地方税支出は三国道と横浜区内の県道に限るという説と原案維持説に分かれたが、採択の結果は議員同数となり、代理議長をつとめてい第5表 戸長月給給与法 た中丸稲八郎副議長の一票で原案に決まった。しかし、この年度に支出すべき予算案については大幅な減額がなされた。定式修繕費は原案の三分の二説が採択され、甲州街道の修造費は一万円の削減、横浜区内八か所の橋梁架設費は二分の一に減額されたのである。 こうして歳出予算の審議が終了した。総額およそ二割の削減となったが、もっぱら「民費に堪へざること」を名として、可能なかぎり減額した結果であった。それだけに、議員側には為政者意識があまりみられない。これは、県会全体としては一八八一(明治十四)年に常置委員会が発足するまで変わらないと思われる。県政上の知識情報に疎いことも理由の一つであろうが、基本的には、民力休養という住民側の要求を実現したものと評価できよう。 『横浜毎日新聞』は、このような県会に対し、「議員各位ノ動議専ラ入費減省ノ一方ニ在ルモノ、如シ」と述べ、細目にわたって精査せず、単に二割を目標に削減しようとするのは「向フ見ズノ目暗勘定」と批判しこのようなことをくりかえしていたら、県側は二、三割の掛値をつけて提出するかもしれない、と反省を促している(四月八日付社説「神奈川県会(第三稿)」)。 横浜歩合金問題と郡区の対立つぎに歳入予算に移ろう。歳出予算が以上のごとく減額となった以上、歳入予算案も修正せざるをえない。県会は第三号議案において、地租割、営業税・雑種税、漁業税・採藻税を原案通りとし、零細な住民にも等しく負担のかかる戸数割を七万一千五百八十二円余減じた。これも民意を反映したものといえよう。 しかし、この審議の過程で郡区間の対立が表面化した。横浜区には開港場があり人民輻輳の地であるため、警察費や道路橋梁費などは郡部に比して多大な支出となっていた。西多摩郡の指田茂十郎議員所蔵「十二年度予算郡区割合表」(『神奈川県会史』第一巻三三九ページ)によると、予備費を含めた総歳出のうち、郡部に支出されるものは二十七万一千三百三十一円余、区部に支出されるものは六万四千百六十九円余で、他方、歳入中、郡部からのものは二十九万九千三百七十七円余、区部からのものは三万六千百二十三円余であった。すなわち、郡部からみれば、二万八千四十六円余だけ区部のために余計な出費をしていることになる。こうした認識に立って、同じ西多摩郡の田村半十郎議員は、横浜区に特別課税を設ける提案をおこなったのである。 その提案は、横浜区の売込引取商(貿易商)にかかる営業税徴収額が原案に十五円とあるのを、商い高の千分の一・五に変更して徴収するという案であった。これまで横浜区には歩合金と称し、第一営業税民費として売込引取商から商い高の千分の三を徴収する慣例があり、この半分を地方税に組み入れようというのである。そして五月九日、県会は、これを伊藤博文内務卿に建議することを採択したのであった。 これに対し、県会内でも反対した木村利右衛門議員は、売込引取商の総代人として、他の二十五名とともに、六月十六日、右建議を採用しないようにとの建言書を内務卿に提出した(『神奈川県会史』)。それによれば、歩合金は「元来横浜市民の協約議束より成立つ所の積立金」であり、税金ではないという。また『横浜毎日新聞』も強く反対した。五月十一、十三日付社説「神奈川県会(第五稿)」は、歩合金の成立事情を述べたのち、区民の負担が増して不公平となるのはもちろん、輸入物品は関税以外に課税されることがないとした外国との条約に反することになるなどと批判している。 県会はこのほかにも洋銀取引所をとり上げ、同所からはすでに純益金の十分の一が国税とし徴収されているが、それに加えて、国税を引いた残りの益金の五十分の一を地方税として徴収させてほしい旨建議している(『横浜毎日新聞』五月二十三日付)。これらの建議はいずれも採用されなかったが、税負担のありかたをめぐる横浜区への県会の態度には、郡部議員が圧倒的に優勢な県会構成だけに、強硬なものがあった。そして、この郡区対立を契機に、県会は郡部と区部の財政を分離する方向に展開していったのである。 三 郡部会・区部会の設置 地方経済郡区分離条例の成立一八八〇(明治十三)年六月八日、政府の地方官会議開催等の都合で規則より三か月遅れて、第二回通常県会が開かれた(以下「議事傍聴筆記」が見れないので、本項の第二通常会関係の資料は『神奈川県会史』第一巻四一九ページ以下所載のものによる)。県会は議事に先立ち正副議長の選挙をおこない、議長には高座郡の今福元頴、副議長には横浜区の早矢仕有的を選出した。なお、第一回県会の正副議長であった石坂昌孝・小西正蔭・中丸稲八郎はすでに退職していた(途中から小西が議長に、中丸が副議長の職にあった)。 県令はこの議会に、第一号議案として、「地方経済郡区分離条例」を提出した。「郡区経済ヲ分離シ郡ノ経費ハ郡ヨリ徴収スル地方税ヲ以テ之ヲ支弁シ区ノ経費ハ区ヨリ徴収スル地方税ヲ以テ之ヲ支弁スルモノトス」(第一条)というのがその主旨である。県会審議に先立っておこなった冒頭演説で、県令野村靖はその趣旨を、「昨年経験上ニ於テ郡区ノ経済ハ実ニ不平均ヲ生シ殊ニ郡区ノ間ハ諸事趣ヲ異ニスルモノナレハ其経済ハ別ニスルヲ至当ナリト考フルカ故ニ斯ク此議案ヲ編製セシモノナリ」と述べており、これが第一回県会における郡区対立の解消策として提出されたものであることが知られる。 同条例案によれば、河港道路堤防橋梁建築修繕費・郡区庁舎建築修繕費・郡区吏員給料旅費及び庁中諸費・戸長以下給料及び戸長職務取扱諸費が郡と区で分別される費目であった。他の費目はすべて郡区合一(郡区連帯ともいう)ということになるが、ただ勧業費のうち、勧農費は郡、勧商費は区と分割され、勧工費および博覧会費のみが郡区合一であった。さらに郡区合一費目であっても、税の負担割合については分別の規程があり、警察費は、人口一人当たりについて区部は郡部の四倍を負担する。横浜十全病院費は従前三か年の郡区の患者数に比例して負担する。その他の県会諸費・衛生費等の残る費目は郡区の人口比に応じて負担する、となっていた(以上第三条)。 この条例案は、六月十一日から小会議(質問会)に付されたのち、七月十二日、本会議にかけられた。廃案説も四名から出されたが、大勢は原案の趣旨に賛成であった。ただ警察費の負担割合について、区部の一人当たり負担率を郡部の五倍と修正したのみで、他は原案通り可決したのである。 この県会では経費と負担の分離にとどまったが、この勢いはやがて郡部会・区部会の設置に至るのであった。 一八八〇年度歳出予算における三割削減本会議では六月二十八日からすでに予算案の審議が始まっていた。県令の提出した予算総額は四十万七百二十六円(但し予備費を含む)で、前年度予算の原案とほぼ同じ規模であった。もとよりこれは地方税にかかるもののみで、ほかに約十三万円に達する国庫下渡金(警察費に五万九千円余、河港道路堤防橋梁建築修繕費に六万四千円余、師範学校および小学校補助金五千円余)と病院等からの収入金があったから、実際の県財政規模は五十四万三千五百七十六円余となる。県会はこれに対して、前回同様の激しい削減攻勢にでた。ただ県会諸費だけは、原案千六百六十五円余を六千百九十一円余に大幅増額した。これは第六号議案として別建された「県会議長以下旅費日当及書記小使給料定則」において、議会開会中の滞在者の日当を、原案に比し倍額の一円としたことなどが大きかった。お手盛り議決のようにもみえるが、議員生活の実情が不明のため、なんとも言いがたい。警察部庁舎 『神奈川県写真帳』から このほかに増額はなく、浦役場及び難波船諸費三百六十七円余が原案通りに可決されたものの、それ以外はすべて消滅か削減となった。 消滅になったのは河港道路堤防橋梁建築修繕費で、原案は五万八千六十円余(このほかに前出の国庫下渡金がある)とあったが、県会はこの案件自体を消滅させた。一方、減額修正されたもののうちで大きいものをみると、横浜十全医院経費に当てられる病院費のうち、小田原・八王子・横須賀・藤沢の四か所に設置する予定の支病院関係の費用七千四百二十一円(すべて郡部負担)が全面削除され、県立師範学校費及び小学校補助費のうち、県立中学校費二千七十六円が前回にひきつづき全面削除されたのが目立っている。 以上の結果、一八八〇(明治十三)年度予算(地方税関係分)の査定額は、消滅した費目も含めれば実に原案の七一・一㌫で約三割の削減となり、消滅分を除いても平均八三・一㌫に削減されたのであった。 同歳出予算における変化このような歳出予算に対する歳入予算をつぎにみよう。あらかじめ指摘しておく必要があるのは、地方経済郡区分離条例によって、歳出予算審議のさい、郡部負担額と区部負担額はすでに確定されていることである。そのうえに、つぎのような変更があったのである。 第二十号議案「地方税則」の審議では、まず、地租割の原案五分の一を、区は五分の一、郡は七分の一に修正した。農民負担の軽減を意図したものであったが、区部にはそれが適用されなかった。つぎに、戸数割の賦課法が、昨年の戸数と地租金の数の合計値に応じて区町村に割り付ける方法を廃し、必要とされる金額を単純に戸数で除して割り付ける方法に改められた。但し郡と区とでは、町村段階での賦課法に若干の違いがあり、郡部は単純に戸数に応じて町村に割り付けたうえ、町村内での賦課法は各町村会に委ねたのに対し、区部は区内各町に等級を設け、その等級をふまえて各町に割り付けることとした。したがってこの戸数割では、豊かな村も貧しい寒村も、戸数さえ同数であれば同一の負担額となる。地租割率の減少といい、これといい、農民の上・中層にとっては減税を意味したが、寒村や下層の人びとには必ずしもそうではなかったのである。 こうした賦課法の変更と新しい郡区経済の分離の下で、郡区の負担割合がどのようになったかをみると、第六表のごとくである。すなわち、郡部は前年度に比して六万一千七百四十八円余の減額となったのに対し、区は一万一千二百三十八円余の負担増となった。ここに明らかなように、郡区経済の分離は、郡部に有利に、区部に不利に作用したのである。 郡部会・区部会の設置明けて翌一八八一(明治十四)年二月、太政官布告第八号をもって、三府神奈川県区郡部会規則が制定された。それは、東京府会においてのみ認められてきた郡部会・区部会の設置を京都府・大阪府・神奈川県にも拡大適用するもので、その第一条には、「三府神奈川県ニ於テハ府県会ヲ分テ区部会郡部会トナシ区部郡部ニ分別シタル事件ヲ議定セシム」とある。何を分別するかは各府県会の決定するところであったが(第二条)、区部選出の議員定数を増員してよいことも規定されていた(第三条)。神奈川県令野村靖は、内務卿の許可を得て、翌三月十七日、横浜区の定数を二十名以下とすること、当面十五名と定めること(十名の増員)を布達した(県達第四十二、三号)。これにより議員の総定数は五十七名となったのである(なお、この年八月、北多摩郡選出議員をさらに一名増加している)。 また、右の規則に先立つ一八八〇年十二月、府県会規則が追加改正され、一八八一年三月第6表 1880年度歳入予算額(郡区別) 『神奈川県会史』第1巻から作成 の通常会より、常置委員会が設置されることになっていた。それによれば、常置委員とは、議員の中から五~七人選出され、県会の議定により地方税で支弁する事業の執行方法・順序について県令の諮問に応じ、「臨時急施」を要する場合は県会に替わって地方税支弁の経費を議決し、さらに、県令が県会に提出する議案について前もって協議し、その意見を県会に報告する、という職務内容をもつ。県令の諮問機関として、また県会の副議決機関として、常置委員会は年中、かなり頻繁に開催されることになる。ただ、常置委員会の議長は県令であり、その会議所も県庁舎内に置かれたことに示されるように、この設置は、県令に対する県会の権限を強めるのではなく、両者の関係を円滑ならしめることにそのねらいがあった。それはともかく、神奈川県では、このたびの郡部会・区部会の設置にさいして、政府の「郡区経済ヲ異スル府県ニ在リテハ定員内ニ於テ其郡区選出ノ人員ヲ定ムルコトヲ得」(一八八〇年十二月、内務省達「府県会規則追加ニ付心得達」)に基づき、郡部より七人、区部より五人が常置委員に選出されることになった。 こうした県会組織の変更のため、一八八一(明治十四)年六月七日より、臨時県会(第四回)が開かれた。そして同日、直ちに郡部会・区部会が開かれ、役員選出に当たった。郡部会は議長に谷合弥七(南多摩郡)、副議長に福井直吉(大住郡)を選出、さらに常置委員に、右二名のほか、古谷正橘(三浦郡)・吉野泰三(北多摩郡)・山本作左衛門(高座郡)・田村半十郎(西多摩郡)・中川良知(淘綾郡)の五名を選出した。一方、区部会は、議長に戸塚千太郎、副議長に来栖壮兵衛を、常置委員に、右二名のほか、木村利右衛門・朝田又七・田辺郷左衛門の三名をそれぞれ選出した。このように選出母体は異なったが、郡部七名、区部五名、計十二名の委員が単一の常置委員会を組織したのであった。この臨時県会は、若干の前年度追加予算等三件を議決したほかは、郡部会・区部会で審議が進められ、それぞれ常置委員の定数や月手当旅費支給規則等を議定し、六月十六日、ともに閉会した。 郡区の経費と負担をめぐる対立と、その解決方法を求めての動きは、ここで一応の組織的決着をみたといってよいであろう。しかし、郡区の負担割合については今後も争われる余地が少なくなく、それはやがて「商人派と地主派の対立」として全国に宣伝されるごとく、長い間、解消できなかった。 四 県会と政府の対立 県令公選論郡区分離の問題が県会の懸案となっていた時期はまた、自由民権運動が隆盛に赴いた時期であり、その大波は直接に間接に県会をおおいはじめていた。そうしたなかで、『東京横浜毎日新聞』紙上では、県令公選論をはじめとした県政のありかたの変革を求める論が展開されている。 一八八〇(明治十三)年九月二、七、二十四、二十五日、十月十、十二日付に掲げられた「地方政府ノ改革」という社説では、現今の府知事県令は「官撰ナルガ故ニ…知ラズ識ラズ官権ヲ張ラントスルノ傾キアリ」とし、だから「今此官撰法ヲ廃シ地方議会ト地方長官トニ連絡ヲ通ジ地方長官ハ必ズ地方人民中ヨリ撰挙スルノ法」となすべきであり、その具体的な方法は、英国流の議員の中から選出する法がよいと主張されている。また、官民対立の焦点ともなっている、県令が県会と意見を異にした場合は内務卿の指揮を仰ぐという府県会規則第五条の規程を廃し、県令が直接可否を決定できるようにすべきだ、とも説いている。これらの点を通じて、同社説は、府県自治の確立をめざそうとした。 およそ二年後のことになるが、県会の一部にも、県令公選を政府に建議しようとする動きがあった。これは橘樹郡の民権家で後に県会議員にもなった添田知義の関係文書に残されている一八八二(明治十五)年の「県令公撰ノ建議草稿」(資料編11近代・現代⑴九九)である。官選県令では、「其政ヲ施スヤ信シテ以テ便トスル所ニシテ反テ人民ノ不便ヲ招キ其制ヲ設クルヤ視テ以テ利トスル所ニシテ反テ衆庶ノ不利ヲ惹クモノアリ」となり、県民の実情と利害を理解できないというのであった。実際には、この建議案は提出されなかったが、こうした要求が住民の側から出はじめていたことがうかがわれる。 備荒儲蓄規則の再否決と原案執行『東京横浜毎日新聞』がさきに指摘した府県会規則第五条の発動が神奈川県会に対してもなされる時がきた。それは一八八〇(明治十三)年十二月の第三回臨時県会での出来事であった。 一八八〇(明治十三)年六月、政府は太政官布告第三十一号をもって「備荒儲蓄法」を公布した。その趣旨は、凶荒・災害があったとき、府県が罹災した窮民に食料・農具料等を給与し、罹災によって地租を納めることができなくなった者にそれを補助ないし貸与するというものであった(第一条)。そして、その費用たる備荒儲蓄金は、各府県において地租割で徴収される公儲金と各府県の地租額に応じて下渡される政府補助金(全国総額九十万円)とからなり、かつ公儲金は政府配布金を下らない額とされた(第二条)。また公儲金のうち、その半額は政府の公債証書に交換すべきものとされた(第五条)。なるほど政府も年々百二十万円支出することにはなっているが、それにほぼ匹敵する額が新たに府県の負担となるのである。政府はそれで地租の徴収を確保し、公債を引き受けさせることもできる。一挙両得であった。それに対して府県会の側は民力休養を掲げて過去二回の議会で大幅削減の査定をしてきていた。問題にならないほうが不思議なほどであった。 公儲金額やその徴収方法の細目は府県会の議決によるものとされたから、県令は一八八〇(明治十三)年十二月六日に臨時県会を開催した。このとき提出された議案は「備荒儲蓄規則」「明治十三年度下半期備荒儲蓄方法」「明治十三年度備荒儲蓄金収支予算」ほか一件であった。しかし、第一号議案「備荒儲蓄規則」の審議は冒頭から反対説が百出した。 来栖壮兵衛議員は、備荒儲蓄は必要であるが、この法は窮民救助と地租不納額の補助・貸与を意味するので「備荒ノ二字ニ適合」しない。これは「官ニ便ナルモ人民ニ不便ナル者」だと述べ、佐藤貞幹議員(都筑郡)は、備荒儲蓄は人民に欠くべからざるものであって、政府の法がなくとも人民が各自おこなうべきものである。この法は「頗ル民情ニ適セズ」といい、さらに「恐クハ全国ヲ挙テ之ヲ可トスル者ナカラン」とまで述べ、反対した。このような認識は多くの議員に共通するもので、賛成説はほとんどみられない。 議案「備荒儲蓄規則」が政府の成法に基づくものであるため、その取り扱いは難しく、意見も分かれた。来栖議員は、「国民ハ法ニ遵フノ義務アリ」として、内容には反対だがこの場はいちおう可決して、建議権のある来年の通常会で改正を建議する、という提案をした。佐藤議員は来栖と同じ認識に立ちつつも、来年の通常会まで「延会」し、政府に建議すべきだと主張した。これに対し山本作左衛門議員や吉野泰三議員は廃案説を主張した。これに対し、番外一番として臨んでいた県の妻木少書記官は、「今之ヲ廃サバ議会ヲ中止シ或ハ之ヲ解散シ種々ノ手数ヲ要スル迄ニシテ公儲ハ必ズ為サヾルヲ得サルナリ徒ニ風潮ニ雷同シテ廃案ト為ス如キハ最モ忌嫌スベキコト」と強い姿勢で恫喝した。この恫喝を前にして、山本らの廃案論者は、備荒儲蓄法そのものを批判することは県会の中止・解散を招き、さらには成法誹毀罪に問われかねないことを考慮し、ただこの案は不十分だから廃案するという論法で対応した。県官が来栖議員の、審議可決のうえ来年の通常会で改正を建議するという説を暗に支持していたため、山本・吉野議員と来栖議員との間にやりとりもあった。吉野議員は、そのなかで、「某議員ノ如キハ行政事務ニ関セリトノ風評ナキニシモアラズ」と非難を来栖議員に加えている。 意見の対立がつづくなかで、議長は採択に移ることを指示した。結果は三案ともに過半数を得られず、また、さらに審議を継続する動議も否決されたため、この議案は消滅に帰したのである。県令野村靖は、十二月十四日、これを不服として内務卿松方正義に具申し指示を仰いだが、内務卿は再議を命じてきた。そこで同月十七日より県会が開かれ、再議に付されたのであるが、結果は前回と同様、原案消滅となった。再び県令は内務卿に指示を仰いだ。事ここに至ってはやむなしと見て、内務卿は原案の執行を命じた。県令は翌一八八一(明治十四)年一月、甲第三号をもって「備荒儲蓄規則」を布達・施行した。 消滅という方法によって県会は中止・解散を命ぜられるに至らなかったが、政府との対立が誰の眼にもはっきりと映った出来事であった。県会の動向に対し『東京横浜毎日新聞』は再三、論評を加えている。だが、その趣旨は来栖議員のそれと同一で、廃案説に批判的であった。このような言動は、国会開設の大目的を前にして、それを「民智未開」を口実に拒否している官権者流を利すると述べ、県会は与えられた権限を守り順を踏むべきだというのであった(同紙、明治十四年一月十一日付社説「神奈川県備荒儲蓄法」)。 監獄費等の地方税移管と土木費国庫下渡金の廃止政府は一八八〇(明治十三)年十一月、大政官布告第四八号をもって地方税規則をつぎのように改正する旨公布した。それは、地租割課税限度額を五分の一から三分の一に引きあげて増税を可能とし、これまで国庫の支弁であった府県庁舎建築修繕費・府県監獄費・府県監獄建築修繕費を地方税支弁に移管する。土木費(河港道路堤防橋梁建築修繕費)における国庫下渡金は廃止する。というもので、いずれも一八八一年度から実施されることになっていた。これは当然ながら地方負担の大幅増加を意味する。政府のねらいは、紙幣整理のための財源確保にあり、備荒儲蓄法と合わせて、政府と県会の矛盾対立をいっそう強めるものであった。なお、一八八一年二月、さらに地方税支弁費の一部改正がおこなわれ、河港道路堤防橋梁建築修繕費は、県に属するものと区町村に属するその補助費とを内容とする「土木費」に改められ、県立学校及び小学校補助費も、県に属する教育の費用および区町村立学校の補助費を内容とする「教育費」に改められ、新たに「地方税取扱費」が追加された。地方税取扱費は、為換方の給料および手数料や送料などに充てられるものであった。 一八八一年度予算の審議これらの変更と、前節でみた郡部会・区部会の設置、常置委員会の新設という組織変更のもとで、一八八一(明治十四)年度予算を審議する第五回通常県会が開かれたのは、規則より遅れること五か月余り後の八月十五日であった。その遅れについて、県令野村靖は、開場式の演説で、「新ニ法制ノ出テシヨリ議案調製ノ遷延シタルニ由ルモノ」と述べている。なお、議事に先立って、常置委員会からの意見書が書面で議員に明らかにされた。 その第一号議案は、県会区部会郡部会議定事件分別条例であった。前年度の地方経済郡区条例に似たものであるが、県会の組織が二重となり、三つの会議組織をもつものになったため、ここでは、負担割合などは掲示されず、もっぱら三会議に付すべき議事対象のみがあげられている。その第一条は県会(郡区合同会議)にかかるもので、十八項目から成っているが、この中で注目すべきことは、移管あるいは追加された四費目がここにあること、前々回の臨時県会で問題となった備荒儲蓄関係が入っていることである。第二条は区部会と郡部会に分別する議事対象を掲げたもので、例えば区部会のそれは区部土木費・区庁舎建築修繕費・区吏員給料旅費及び庁中諸費・区部戸長以下給料及び戸長職務取扱諸費・教育費中幼稚園費・県会諸費中区部議員賄料及び区部会并区部常置委員会諸費・勧業費中勧商費・「地方税取扱費中区役所ニ設ケル取扱所費」・区部地方税・「郡区連帯セサル区部負担ノ経費中ニ収入スヘキ雑収入金」の十二項目から成っていた。郡部会のそれは、第五項の教育費中幼稚園費を削除し、第八項の勧業費中勧商費を勧農費と変え、他は区を郡に変えるだけであった。 県会はこの第一号議案第一条にとりかかろうとしたところ、そのなかに備荒儲蓄関係があったため、早速前の議論のむし返しとなり、容易に収拾がつかなかった。そうしたなかで、菊地小兵衛議員(高座郡)から、第二条にある土木費を第一条に移して郡区連帯支弁にする意見も出され、議場はこの二問題をめぐって賛否が激しく入り乱れたのであった。菊地議員の主張の背景には、地方税支弁の額以上もあった土木費国庫下渡金が廃止されたことによって、郡部負担だけでは急施を要する堤防治水がなしえないとの危機感があり、この説に賛成した霜嶋久円議員(愛甲郡)は、「一村挙ツテ其他価幾何アリト云ハゝ僅々千円ニ出テスシテ其土地ニ要スル堤防費ニ千五百円ヲモ費スモノアルニアラスヤ」と述べている。しかし、区部議員が反対したのはもちろん、郡部議員においても土木費中の巨額を占める堤防費にあまりかかわりのない議員もいた。こうした議論の後、議長は第一条の採決を指示したが、原案・各修正案とも少数否決となった。しかし、再議に付する動議が可決され、同様の議論をくりかえした後、再び採決に移り、今度は原案が可決されたのであった。そして、郡区分別の第二条も、原案通り可決となった。 ついで第二号議案「地方税支弁区郡部負担割合条例」の審議に移った。これはいうまでもなく、第一号議案第一条にかかる経費を対象としている。常置委員会は、「本年度ハ地方税ノ増加セシヨリ民力ニモ堪へ難ケレハ止ムヲ得ス」(常置委員の来栖議員の発言)として衛生及び病院費中の病院費と救育費を全廃する。また教育費中の但書は中学校費に関するものなので、これも廃棄の意味で削除する、との意見書を提出していた。第二号議案は具体的な予算額を審議するものでなく、単に郡区の負担割合を定めるものにすぎなかったが、もし費目自体を削減するとすれば、第二号議案中のその費目も削除する必要があり、実際には、予算額ともにらみ合わせて審議せざるをえなかった。審議の結果、警察費の、人口一人当たりにおいて区部は郡部の五倍という原案がまず可決され、浦役場及び難波船諸費・管内限諸達書及び掲示諸費・県庁舎建築修繕費・衛生費及び病院費中の衛生費・常置委員関係費を除く県会諸費・勧農費と勧商費を除く勧業費が最終的にいずれも原案通り、郡区の人口比に応じて負担することに決まった。衛生費及び病院費中の病院費は、常置委員会が削除の意見を述べた費目であったが、これも原案通り、前回同様の過去三か年平均の郡区別患者数に比例して負担することになった。しかし、救育費(救育所費に充当)は、一度は二次会で原案が可決されたものの、戸塚千太郎議員(横浜区)の動議が採択され削除となった。削除に賛成した議員のなかには、常置委員の意見のような考えとともに、救育所は横浜にしかないのだから、郡区分別の費目にまわしたほうがよいという考えがあった。 最も紛糾したのは、新たに県に移管された監獄費と監獄建築修繕費の二つで、原案は単に人口比に応じてということであったが、前年度予算審議における警察費の場合と同様の意見が郡部議員に強く、二度にわたる原案消滅、さらに県会の再討議といった迂余曲折があり、結局、人口一人当たりにして区部は郡部の二倍と修正された。 第二号議案が議了したのは十一月の末であり、八月十五日の開会日から三か月以上たっている。この間、二度にわたって会期の延長がおこなわれており、また十一月八日付をもって県令が野村靖から沖守固に替わり、同月十六日は県会の正副議長が替わって福井直吉(大住郡)・戸塚千太郎になるという異動があった。そして一方では、県会(郡区合同会議)・郡部会・区部会で予算案審議が進められていた。 一八八一年度の歳出予算(但し地方税支弁分)の原案は、郡第7表 1881年度郡区連帯歳出予算額(地方税支出分) 備考 1 実際以上の外に雑収入(30,301円),国庫下渡金(47,616円),賦金(7,305),計85,223円があるので,予算規模としては,もっと大きい 2 浦役場及難波船諸費は,県会の減額修正に対し,原案が執行された 3 『神奈川県会史』第1巻(457~493ページ)から作成 区連帯が十六万四千五百四円余、郡部限りが二十一万五千五百六十三円余、区部限りが四万一千八百十四円余、計四十二万一千八百八十一円余であった。これに対する県会の議決した額は、各郡区限りの予算については不明であるが、郡区連帯関係は二四㌫削減の十二万五千七百三十二円で、合計額では九㌫余減の三十八万五千八百八十六円余となっている。第七表によって郡区連帯関係歳出予算をみると、地方負担が著しく増加したなかで、病院費(十全医院費)・教育費(中学校・県立女子師範学校費)・救育費(救育所費)・勧業費・県庁舎建築費などを大幅に削減し、事態をのりきろうとしたことがわかる。そのため、住民取り締りを本旨とする警察・監獄関係費が、合わせて全体の八三㌫にのぼる結果となり、県民のための県会でなく政府のための県会との感を強くさせるのであった。なお、浦役場及び難波船諸費三百八十一円余を削減したところ、県令が認可せず、内務卿の指示により原案が執行された。 一方、県会の議決した歳入予算における郡区負担をみると、郡が三十一万五千六百六十一円、区が七万二百二十六円で、かつてない額であった。とりわけて区は前年比五割増となっている。郡区連帯支弁に入っていた十全医院費、救育所費が削除されたため、この二つが区部議定事項として追加されることとなり、それが区の負担をいっそう大きくしていた。このため、区は、地租割を限度額一杯の三分の一とし、営業税の最高額を三百円に、雑種税の最高額を五十円にまで引きあげ、かつ一戸当たり四十八銭の戸数割を徴収した。これに対して郡部のそれは、地租割四分の一、営業税・雑種税の最高額は従来と同じ十五円、一戸当たり二十八銭の戸数割であった。 一八八一年の政変と県会県会が議事を終え閉会したのは十二月十日のことで、区部会の閉会は同二十日であった。翌一八八二年三月になると、前年の政変で下野した島田三郎や肥塚龍といった著名な民権家が横浜区の補欠選挙に当選し、県会議場に登場してきた。その最初の議会、すなわち第六回通常会では、島田が県会議長に選ばれている。このときは在職四か月の短期間であったが、県会の島田への期待のほどをものがたるものといえよう。 この通常会では一八八二年度予算が審議された。地方税にかかる予算の原案は四十一万四千七百七十七円で、県会の決議は三十三万二千五百三円(原案比八〇㌫)であった。また、翌一八八三年三月~五月の第九回通常会での一八八三年度予算は、原案四十三万八千六百七十七円に対し、県会議決額三十六万七千二百四十四円(原案比八三・七㌫)であった(「明治十六年甲部巡察使復命書神奈川県ノ部」〈資料編11近代・現代⑴一〇三〉)。このように県会は負担軽減をめざしつづけている。だが予算の枠組や県会組織の問題は、ほぼ一八八一年までに出つくした感があった。ただ一八八二年一月、太政官布告第二号をもって地方税で支弁する費目が改正され、新たに、土木費のほかに区町村土木補助費が、教育費のほかに区町村教育費が設けられたため、神奈川県の場合、土木費に仮定三国道の修繕費をもりこんで郡区連帯の費目としたという変化がある。 初期神奈川県会の特徴は、県民負担の軽減をめざしつづけたことと、郡部と区部の対立の激しさにある。この両者は矛盾するものではなく、前者を追求すればするほど後者の問題がでてくるのであった。自由民権運動の側からみれば、それは県議層および住民同士の分断の一条件を形づくったことになるが、下野した島田が県会議長に迎えられたごとく、一八八二年前半までは少なくとも、県会全体が住民側に立ちつづけていたといえよう。 島田三郎 第三節 郡区・町村の編制 一 郡区の編制と機構 郡区町村編制法一八七八(明治十一)年七月公布の「郡区町村編制法」によって、地方制度は一変されることになった。府県の下に郡と区が置かれ、郡の下には町や村が置かれて末端の行政単位となった(同法第一条)。また、郡と町村の区域と名称はすべて旧に依るとして大区小区制以前の状態にもどされたが、郡の区域が広すぎて施政上不便な場合は一郡を数郡に分けてもよかった(同法第二、三条)。 区は「三府五港其他人民輻輳ノ地」を独立の行政単位としたものである(同法第四条)。同法はさらに、各郡と区に郡長と区長を置くことを定めたが、郡が狭小な場合は数郡に一郡長を置いてもよいとした。 一方、各町村には戸長一人が置かれることとなったが、場合によっては数町村が連合で一人の戸長を置くことができ、区内の町村は戸長を置かずにその職務を区長に兼ねさせてもよかった(同法第六条)。 県はこの法の施行にあたり、十月二十三日、内務卿伊藤博文に対して、武蔵国多摩郡は「区域広濶」で「風土人情ノ異ナル」ものがあり、また「山川自然ノ境界アリテ之ヲ一括スルハ施政上及人民ノ不便不尠」との理由から西南北の三郡に分けること、久良岐郡の内、市街地八十一町を横浜区にしたいと伺い申した。この伺いは、十一月七日付をもって許可されるところとなった(『神奈川県史料』政治部、県治〈復刻版、第二巻、四ページ〉)。このうえで県は、十一月十八日、県達甲第百四十五号をもって県内の郡・区の編制を公布したが、このなかで、大住郡(百四十四村)と淘綾郡(二十町村)を連合させて、一郡長を置くことを明らかにした。 郡役所の設置と紛議右と同じ日、県は甲第百四十六号をもって郡役所の位置を公布し、甲第百四十七号をもって県の小田原支庁を十一月限りで廃止する旨布達した。この日にはまた、郡区長が発令されている。ついで役所の庁舎に関する指示が、十一月二十六日、甲第百五十六号県達でなされた。もちろん、独自の庁舎を建築するまでの仮りのものであった。これらを 第8表 郡区役所位置及び仮庁舎,町村数,初代郡長一覧表 郡区役所位置及び仮庁舎については『神奈川県史資料編』11所収の資料63―⑴・⑵その他から,町村数は『横浜毎日新聞』1878年11月19日付所収の県達甲第145号から,郡長については『神奈川県資料』「附録部,郡区吏履歴全」(復刻版,第八巻所収)によった 第八表にして掲げてみよう。 郡の区域と郡役所位置との関係をみると、北多摩郡・都筑郡・高座郡・大住・淘綾両郡・愛甲郡などの郡役所は、郡内の一隅に位置しており、郡役所に出頭する機会の比較的多い戸長や重立ちたちにとって、不便なことであった。東海道にそった郡は、いずれも道沿いの宿場町に設置されている。戸塚や小田原などは郡のほぼ中心に位置しているから問題はない。しかし、藤沢や大磯はそうでない。とくに、境川と馬入川を東西の境界とし、北は橋本・相原村に及ぶ、南北に長い高座郡の郡役所が海に近い藤沢に置かれたことは、郡民の強い反発を招いた。 一八七八年十二月十三日、柏ケ谷村をはじめとする二十五か村の人民総代として、北嶋政吉・中村鉄之助・山本作左衛門が連署し、「郡役所位置藤沢駅タルハ遠隔村民ノ困難堪エ難」いので、実情を酌量して「至当ノ箇所御撰定御更設」するよう、県令に嘆願している(資料編11近代・現代⑴六三)。前節でみたように、総代の一人で郡内最北部に属する下九沢村の山本作左衛門は、この後、第一回の県会議員に選ばれ、一八八六(明治十九)年四月までの七年間余り、県議として活躍していく人物である。しかし、この嘆願は却下された。 一方、これよりも早い十一月三十日には、都筑郡三十四か村の住民総代六名が連署した「郡役所位置変換願」が県令に提出されている。そして、これが無回答であったので、十二月十四日に再願したところ、同月十八日付をもって聞き届けがたいと指令があったが、これにひるまず、同月二十六日には「郡役所位置変換之儀再三願」の提出に及んだ。「再三願」によれば、県の指示した川井村は「当郡の西南端に偏倚し四方の路程等しからず人民の不便なるを以て郡内中央なる川和村」へ変換してほしいというのがその主旨で、そのさい五か条にわたって理由を挙げている。不便であり、旅費等の民費がかさむという主張が基本的なものであった(『横浜毎日新聞』明治十一年十二月二十八日付雑報)。この主張は高座郡の場合も同様で、風雨や雪の日には、郡役所へ行くのに二日もかかると述べている。その後の経緯は不詳だが、翌一八七九年七月七日、ついにこの要求は実現し、川和村への移転が公布されたのであった(県達甲第百二十一号)。 また、足柄上郡役所は関本村と定められたが、一八八〇(明治十三)年八月四日、松田総領へ移す旨公布された(県達甲第百三十四号)。関本村は郡内の西南に「僻在」し、施政上に不便があったといわれる(『神奈川県史料』政治部、県治〈復刻版、第二巻、十一ページ)。それが民衆の運動につき動かされたものかどうかは定かでない。 ところで、都筑郡の場合は、川井村が県庁に近く、県庁にとって便利であったからにほかならない。東海道筋の場合も同様で、住民の便利よりも県庁の便利が優先されたのである。これはそもそも、つぎにみるような郡役所の性格に由来していた。郡役所の職務内容新設の郡役所(区役所)の機能は、一八七八(明治十一)年十二月一日より動き始めた(同年十一月二十六日県達甲第百五十六号)。 三新法体制における地方行政官(戸長を含む)の機構・職務は、同月七月二十五日の太政官達「府県官職制」で定められている。これによると、郡長(区長)はその県内に本籍を有する者から県令が任命し、郡長の下に置かれる郡書記(定員なし)も郡長の具状により県令が任命し月給はともに地方税支弁であった。郡長の職務内容は、「事ヲ府知事県令ニ受ケ法律命令ヲ郡内ニ施行シ一郡ノ事務ヲ総理ス」ることを基本とし、法律・命令・規則による委任事項、県令から指示された分任事項を専決処分することもあった。また郡長は、「町村戸長ヲ監督ス」という職務をもっていた。こうしてみると、郡長・郡役所は、まさに県会・県庁の出先機関として位置づけられていたといえよう。 郡長が専決処分し、のちに県令に報告すべき事項(十項目)をみると、第一に「徴税并地方税徴収及不納者処分ノ事」、第二に「徴兵取調ノ事」とされ、政府にとって緊要な事柄がまずあり、以下、身代限財産処分の事、逃亡・死亡絶家の財産処分の事、官有地の倒木・枯木を売却する事、電線・道路・田畑水利に障害ある官用樹林を伐採する事、河岸地借地検査の事、職遊猟願・威銃願の事、印紙・罫紙売捌願の事、小学校資本金の事があげられている。そして、この末尾には、「右ノ外府知事県令ヨリ特ニ委任スル条件」と付記があった。神奈川県令が、これに基づいて、郡区長委任事務に関する件を布達したのは、翌七九年二月四日の県達甲第一号である。そこでは、四十九項目が掲示されている。それらは「改宗改式改壇届ノ事」、「人民ヨリ他府県へ出願ノ節添翰ノ事」、「改名復姓願ノ事」、「士族ノ転居寄留届ノ事」、「諸船舶検査ノ事」、「酒類営業願ノ事」、「煙草営業願ノ事」、「諸興行出稼等ノ為社寺官有ノ境内拝借願ノ事」、「河海漁業鑑札付与ノ事」、「小学校舎修繕願ノ事」、「種痘術開業願ノ事」等々で、地方民衆の生活や営業に関することが多く、その中心が届出・許認可事項にあることは容易に察せられよう。人民支配の前線機関としての本質を示すものといえる。 郡役所内の機構についてみよう。一八七九(明治十二)年の「足柄上郡役所各掛事務仮章程」(資料編11近代・現代⑴六六)によれば、同郡役所は、庶務掛(常務・勧業・社寺・戸籍・学務・衛生)、租税掛(国税・地方税・土木)、出納掛の三掛に分かれていた。そこに掲げられている職務内容は、出納掛を除くと、前出の府県官職制や県令の委任事項とほぼ一致する。しかし庶務掛には、「民費ヲ調査スルコト」、「戸長筆生等ノ職務ニ関スル諸事ノ事」、「戸長及議員撰挙事務ノ事」、「暦史郡区役所設置に関する布達 県史編集室蔵 ヲ編輯叙記スル事」、「農事通信ノ事」、「郡長ヨリ号付ヲ以テ各村戸長及人民へ達スル諸書ヲ各掛へ回覧ニ供スル事」などの事項もあり、全体としてかなり詳細な規程となっている。 初期の郡区長第八表にみえるように、初代郡区長には県五等属や旧大区長からの転任が多い。一八七九年十二月に任命された横浜の山田雪助区長を含めると県五等属からの転任は五名である。いずれも士族で、郡区長に任命されたとき本籍を神奈川県内に移してはいるが、松尾橘樹郡長は埼玉、稲垣高座郡長は静岡、内山足柄下郡長と山田横浜区長は山口、中山愛甲郡長は東京が元来の本籍であった。他の十名の郡長は三人の旧大区長を含め、すべてが平民である。このうち中溝都筑郡長を除く九名はその郡内出身であって、大小区制下の正副戸長などを勤めるなかで、行政手腕が認められて上位の役職に就くようになった人びとで、住民の信頼も厚かった。なお、中溝郡長は南多摩郡大蔵村の出身で、一八八一(明治十四)年六月二十八日には南多摩郡長に任ぜられている。年齢も、わかっているものだけをあげると(数え歳)、松尾が三十三歳、内山が四十歳、稲垣と山口が二十九歳、中村が三十一歳、中山が三十二歳と、三十歳前後ものが少なくなかった(『神奈川県史料』付録部、官員履歴弐第八巻)。 理由は定かでないが、県令野村靖は、三名の県会議員を任期中に居村の郡長に任命している。一八七九(明治十二)年十月二十二日付で任命された愛甲郡長中丸稲八郎、一八八〇(明治十三)年六月十日付で任命された津久井郡長吉野十郎、一八八一(明治十四)年五月五日付で任命された高座郡長今福元頴である(前掲『神奈川県史料』付録部、郡区吏履歴全)。中丸は、前節でみたように、第一回県会で民費削減の意図から県の原案を削減させる口火を切り、途中からは副議長としても活躍した人である。中山郡長を五等属にもどしての起用であった。また今福は、第二、三回県会で議長を勤めた人である。この三人の県会議員になる前の経歴は、中丸が愛甲郡書記、吉野が津久井郡書記(いずれも一八七八年十一月)、今福が県八等属(一八七七年一月~九月)で、いずれも県官の経歴をもつことから全く異例な人事とはいえないが、県議として民衆の信頼が厚かった人びとだけに、それを住民支配に利用しようと考えたのであろうか。なお、津久井郡長三樹十右衛門は、吉野十郎とその職を替わった直後の補選で県会議員となり、一八七九(明治十二)年九月に鎌倉郡長を辞職した山本庄太郎も一八八一(明治十四)年一月の半数改選で県会議員になっている。またやや後のことになるが、大住・淘綾両郡長山口左七郎と南多摩郡長中溝昌弘も、それぞれ一八八二年十一月、一八八五年十一月に県会議員になった。 こうしてみてくると、郡区長・郡区役所が人民支配の機関であったにもかかわらず、神奈川県の初期の郡区長はかなり住民側に密着したものであったといえる。明治政府の支配力の弱さをそれは意味することになろう。そして郡区長が民権運動の一翼を担う面すらあったのである。一八八〇(明治十三)年の相州の国会開設運動は、福沢諭吉=交詢社系の影響下で展開されたが、この背後では、各郡長が国会開設請願書に署名するよう民衆を勧誘している(一八八〇年六月七日、県会議員で請願書提出者の一人である今福元頴の県令への答弁〈野崎昭雄「初代大住淘綾両郡長山口左七郎について」、『神奈川県史研究』38、四~八ページ、一九七九年三月〉)。 その一人でもある山口左七郎は、第二章で詳しく述べるように、郡長在職中の一八八一(明治十四)年八月、元神奈川県令中島信行の協力の下に、「湘南社」という演説討論方式による政治学習結社を創立した。そして同年十月中央政府内で政変があり、国会開設の勅諭が発布されたとき、山口は郡長の職を辞して野に下り、民権運動に邁進する。勅諭発布後、県令野村靖は県下の郡区長を招集し、この勅旨に甘んじない「過激急進の徒」には不穏の説を湘南社 山口多恵子氏蔵 述べて王室に抗する勢いがあるが、郡区長らは彼らを誤まらせないようにしなければならない。諸君には諸君の主義もあろうけど、職を奉ずる以上は王室の鞏固を図らなければならない、と訓示した(『東京横浜毎日新聞』明治十四年十一月二十九日付雑報)。この後、山口ほか二、三の郡長との間で勅諭に示された国会開設の時期、欽定憲法の性格に関する問答があったが、山口は政府の方針に従って職を勤めることができないとして、同調する他の二、三の郡長と共に辞表を提出したのである(同前)。この同調郡長の氏名はつまびらかでないが、そのうちの一人が高座郡長今福元頴であったことは、後に述べる県会の郡区長公選に関する建議によって知られる。しかし、十一月八日付をもって転任してきた新県令沖守固は、同日二十二日、山口の辞表のみを受理、他は慰留した(同前)。この後、山口は湘南社の社長となり、翌一八八二年十月には自由党に加わり、十一月には県会議員に選出されていく(野崎前掲論文)。 このようにみてくると、人民支配の前線機関として制度化された郡区が、神奈川県において実際の機能を果たすようになるのは、一八八一(明治十四)年の政変を契機に、郡区長にあった開明的性格を払拭させはじめた以後のことといえよう。しかし、これとて曲折に満ちており、政府の意図は容易に貫徹しない。山口の辞職に対して大住・淘綾両郡の各町村戸長は連署して、山口が郡長の職に留まるよう「勧誘」していただきたいとの「御願書」を県に寄せた(『東京横浜毎日新聞』同前)。願書は、そのなかで山口について、「戸長及人民ヲ待遇スル平易ニシテ且懇切能民情ヲ料渉シ諭スニ善行ヲ以テス故ニ両郡ノ人民大ニ属望モ有之」と、人望の厚いさまを述べている。これこそが住民側の郡長像であった。 このような郡長像が政府によって否定されるとき、すなわち山口らの辞職問題を契機として、郡区長公選論が神奈川県において強く唱えられるのであった。 二 戸長と町村会 戸長と戸長役場の設置各町村には、前述のように、行政機関として戸長が置かれた。その執務の場が戸長役場である。そこには書記に当たる筆生が置かれ、戸長を補助した。 戸長は各町村に一名を置くことを原則としつつも、小村の場合は数か村が組合連合して一名の戸長を置いてもよいとされ、また、戸長一名に対して一つの戸長役場を設けることを原則としつつも、数戸長に一つの戸長役場を設けることもできた。いずれも旧来の町村を基本単位として認めながら、それが行政上不便な場合にのみ認められる組合連合の措置であった。 しかし、神奈川県の場合、できるだけ組合戸長を置くようにさせている。すなわち、一八七八(明治十一)年十一月二十六日の県達甲第百五十五号は、町村戸長配置方に付き至急決定し、各郡区ごとに取りまとめて十二月十日までに上申するよう指示した後、「尤給料支払方ニ就テハ精々費額ノ減省ヲ要シ候儀ニ付成ル可ク最寄町村組合戸長設置候様可致」と付け加え、かつ戸長以下給料を、十戸に付き月給五十銭、二百戸以上は十戸に付き二十五銭増加するという「戸長以下給料支給法」が添えられている。これは、戸長配置方について、前述の一般規程により各町村の自主性に任すとしつつも、できるだけ組合戸長化せよということで、その狙いは地方税支出を減少することにあった。この戸長以下給料は、やがて県会決議により増減されるため、暫定的なものであることはいうまでもない。このような県の方針が、実際にどのようにおこなわれたか、二、三の例をみてみよう、 横浜区八十一か町では、町総代人の協議により旧来の組ごとに連合して九人の戸長を置くことになり、八王子駅では、駅内各町ごとに一名置くか、それとも連合して一名置くかで紛議となったが、結局町総代人の協議により、従来の通り連合して一名の戸長を置くことになった(『横浜毎日新聞』明治十一年十二月十一、二十五日付雑報)。愛甲郡では、郡長中山信明が一八七九年三月十四日付で県令に提出した上申書(資料編11近代・現代⑴七一)によると、大村は一名の戸長を置き、二十~三十戸の小村には連合して一名置くように指示したところその連合を指示された村方は不服を唱えて小村にも一戸長を置くように要求したとある。以上の例から、戸長配置方についてはかなりの紛議があり、住民側は一町村一戸長方式を要求していたと考えられる。しかし、地方税支出を減少するという県達もかなりの説得力をもち小村の多くは組合戸長を受けいれていたのではあるまいか。 一方、小田原駅五か町では、一八七九(明治十二)年一月十五日、各町ごとに一名の戸長を置き、戸長役場は五か町連合で一つを幸町に置いた(片岡永左衛門編著『明治小田原町誌』、一九三一年中、八ページ、小田原市立図書館編刊、一九七五年十二月)。このような、戸長は各町村に、しかし戸長役場は連合で、という方式も少なくなかったと考えられ、設置方式はかなり多様であった。そして一町村一戸長役場が貫徹したのは、比較的大きな村に限られた現象といってよい。なお、関口隆吉の「明治十六年甲部巡察使復命書第八号神奈川県ノ部」(資料編11近代・現代⑴一〇三)は、戸長役場の数は九百四十で、町村数千三百七十六に比しておよそ一町村半に一役場が置かれていると報告している。 戸長等給料支払方法および組合戸長設置の布達 県史編集室蔵 戸長役場は、旧小区の扱所などを使用する場合もあったが、多くは戸長宅に開設され、独自なものを新設することはほとんどなかった。ただ小田原のような大きな町場では、そのための独自な家屋をもつことがあった(前掲『明治小田原町誌』中、十五、十六ページ)。 戸長の性格と公選制戸長は、「行政事務ニ従事スルト其町村ノ理事者タルト二様ノ性質ノ者」とされた(一八七八(明治十一)年七月十二日太政官達「郡区町村編制法府県会規則地方税規則施行順序」)。「行政事務ニ従事スル」とは、県令や郡長を通じて指令される政府の施策を町村に実施することである。「府県官職制」(前出)に掲げられた「戸長職務ノ概目」(十三項目)によってその内容をみると「布告布達ヲ町村内ニ示ス事」・「地租及諸税ヲ取纒メ上納スル事」・「戸籍ノ事」・「徴兵下調ノ事」・「町村ノ幼童就学勧誘ノ事」・「官費府県費ニ係ル河港道路堤防橋梁其他修繕保存スヘキ物ニ就キ利害ヲ具状スル事」など、政府の支配にとって必要な事務を遂行することが職務の第一にあった。戸長はまず政府・府県の官吏に準ずる者として位置付けられ、戸長以下給料及び戸長職務取扱諸費は地方税より支弁されたのである。第一回神奈川県会でこの点が問題になったことは前節でみた。 一方、「其町村ノ理事者タル」とは、各町村内の公共事業について統括することを意味している。「戸長職務ノ概目」の但し書には、「其他町村限リ道路橋梁悪用水ノ修繕掃除等凡ソ協議費ヲ以テ支弁スル事件ヲ幹理スルハ此ニ掲クル所ノ限ニアラス」とあるが、具体的にはここに例示されたような内容を指すといってよい。 明治小田原町誌 小田原市立図書館蔵 こうした戸長の性格の二面性は戸長の給料が地方税支弁であったにもかかわらず、公選制をとったことにも示されよう。一八七八(明治十一)年十一月十八日、県達甲第百四十八号で、「戸長選挙規則」が定められた。第一条は、「戸長ハ公選ヲ以テ挙ケ県令ノ裁可スル処トス」ある。公選制の明示でありながら、「県令ノ裁可」を要すとしたところに不徹底さが残り、第八条では、最多数を当選者にするとしながら、「然リト雖モ時宜ニ依り更ニ再撰セシム」と、官選がありうることも公言される不十分なものであった。だが公選制に移行したことは、小区制下の正副戸長が官選であったことに比べれば前進であった。 戸長に選ばれるための資格要件は、満二十歳以上の男子でその町村内に本籍を定める者ということであった。一方、選挙権資格は右の要件にさらに戸主であることが必要とされた。なお、投票法は選挙人が自らの住所と氏名を記入し加印する記名制であった。 戸長の公選制はそもそも郡区町村編制法の主眼の一つが町村自治の認容であったことに由来する。大区小区制という人民支配の意図をあらわにした制度と機械的行政区画は、政府と人民の関係をあまりにもぎくしゃくしたものにした。それでは人民の国家政策への自発的協力が得がたい。そこで行政区画を旧にもどし、人民の自治を認めようとしたのである。だが、自治といっても、あくまでも国家政策への協力を得ることが目的だから、内容も形態も真の自治とは大きくかけ離れている。だから自治を認容し公選制を布きなが戸長選挙法を定めた県達148号 県史編集室蔵 らも、戸長を官吏に準ずる者として取り扱い、多くの国政委任事務を担わせ、かつ郡長をして町村を監督せしめ、県令に公選戸長の取り消し権を与えたのである。戸長の性格についてみたことは町村会等についてもいえることであった。 県独自の町村会規則大区小区制下においても、小区会や町村総代人(兼小区会議員)の制度が設けられていた。郡区町村編制法はこの点についてまったくふれていない。しかし、三新法の「施行規則」(前出)では、区町村はその地方の便宜に従い「町村会議又ハ区会議」を開くべきこと、その章程規則は内務卿の認可を受けるべきことと指示している。神奈川県令はこれに基づき準備を進めた。まず、一八七九(明治十二)年一月十六日、町村総代人はこの年二月に半数改選となるが、「詮議ノ次第有之」として、六月まで改選を延期するよう布達し(甲第十号)、ついで同年六月十三日、県達甲第百壱号をもって「町村会規則」を定め公布した。全国統一的な法令は翌一八八〇年四月八日の区町村会法が最初であるため、これは神奈川県独自のものであった。なお、町村会規則制定後の六月二十五日、県達甲第百七号で従来の町村総代人は廃止となっている。 町村会規則に定められた町村会の議決すべき事項は、町村限りの経費をもって支弁すべき事業の興廃・伸縮、その経費の予算と賦課法、町村共有財産の処分および維持方法、その町村に割り当てられた地方税戸数割の賦課法、議事細則をそれぞれ定めること、の六項目である(第一条)。議案提出権はただ戸長のみにあり、議員にはない。もし議員が提出したいときは、まず戸長に意見書を出し、戸長が妥当と判断した場合に、それが戸長から提出されるというしくみであった(第六、七条)。このほか、県令・郡区長よりその町村に施行すべき事件に付き諮問を受けた場合、審議し答申する義務があり(第十一条)、一方、町村内の利害に付き県令に建議する権利があった(第十条)。町村会は通常会と臨時会に分けられ、通常会は毎年五月と十一月に十日間以内の会期で開かれるべきものとされた(第二、三十四条)。なお正副議長は議員から選出された。 町村会の議員数は、町村内戸数の多少により定員が定められ、百戸未満は十人以下、百戸以上二百戸未満は十五人で、それ以上は二百戸刻みで五人ずつ増加し、上限は千戸以上四十人であった(第十三条)。被選挙権資格要件は、満二十歳以上の男子で、その町村内に本籍と住居を定め、かつその町村内で土地を有する者であった。選挙権もこれと同じである。ただし、双方ともに若干の除外規程があるが、そのうち官吏・教導職・県会議員は前者のみの除外規程で、とくに県会議員は戸長を兼任することはできたが、町村会議員を兼任することはできなかった(第十四、十五条)。また土地を有する者という要件は、先行の町村総代人の被選・選挙資格にもあったとはいえ、これで、小作農民や店借の商工人は依然として選挙権をもたないことになった。また投票方法は戸長選挙の場合と同一である。議員の任期は四年で二年ごとに半数を改選することとされた(第二十四条)。そして議長を含めて議員の俸給はなかった(第十二条)ので、余裕のある人びとのみ議員となることが想定されたのである。 町村会における議員の権限の弱さは、前述の議案提出権の欠如と共に、戸長や県令が町村会の活動を停止する権限をもっていたことにも示される。すなわち、発言および議事内容が「法律又ハ規則ヲ犯シ或ハ権限ヲ超ユル」と認めた場合、戸長は会議を中止し、郡長を介して県令の指揮を仰ぐことができ、これに対して県令は閉会や議員の解散を命ずることができた。解散の場合は全議員の改選となる(第三十六~三十八条)。 町村会規則(明治12年6月13日) 県史編集室蔵 ところで、町村会規則には、連合町村会に関する規程もあった。第四条の「町村会ハ其議事スヘキ事件ノ数町村ニ関渉スル者ハ該町村ノ議員連合シテ開クコトヲ得」というのがそれである。そのときの議員数は、町村間の協議により、各町村会議員の半数以上において定められた(第五条)。 以上にみてきた町村会規則は県下統一的なものであり、各町村は議事細則を除いて他に規則を設ける必要がなかった。各町村では七月にはいると議員定数や選挙人名簿などを作成し、その準備にとりかかっている。小田原駅五か町(三千六十七戸)では、戸数が多いため規則通りにすると百余名の定員となるので、五か町合わせて千戸以上四十人の規程を採用したいが、との伺書を提出し、郡長によって認可された。そしてこの月、各町より八名ずつの町会議員を選出し、町会を開設した。また翌一八八〇(明治十三)年一月には、足柄下郡町村連合会議員の選出が同駅であった(前掲『明治小田原町誌』〈復刻版〉中、九、十、十五ページ)。 区町村会法による再編こうして県独自の町村会規則に基づく町村会・連合町村会が各地に発足していったが、それがちょうど軌道に乗りはじめた一八八〇年四月八日、政府により区町村会法が発布され(太政官第十八号)、以後、全国の町村会はこの法の下に置かれることになった。十か条からなる同法の主要な点は、区町村会は「其町村ノ公共ニ関スル事件及ヒ其経費ノ支出徴収方法ヲ議定ス」(第一条)とされたこと、区町村会・区町村連合会・水利土功会の規則はそれぞれの会が定め、県令の裁定を得ること、区町村会決議の施行権は区戸長にあり、区町村連合会のそれは戸長ないし郡区長にあると明記されたこと、郡区長の議決施行停止権(県令の指揮を乞う)、県令の中止・解散権が明記されたことなどである。水利土功会というのは、公共の水利土功事業がその町村全体に関係せず、しかし数町村の部分にまたがって関係するというように、既存の行政区画と一致しない場合、町村会の議決を経て、関係者だけで組織されるものである。 区町村会法の制定により県の町村会規則が廃止となったことはいうまでもない。規則は各町村が制定し県会の裁定を仰ぐことになった。県令はこの年五月十日、甲第八七号をもってその規則の制定方法について布達した。しかしこうして制定された規則は、現存する「大住郡子易村村会規則」(明治十三年十二月二十七目議決・翌十四年十二月四日認可、資料編11近代・現代⑴八三)、「愛甲郡上荻野村会議規則書」(議決年月日不詳、明治十四年二月十日認可、県史編集室蔵「愛甲郡役所文書」)、「高座郡下鶴間村々会規則」(明治十四年三月一日議決・同年五月二十七日認可、大和市役所蔵)などによると、いずれも大同小異で、かつ以前の県の町村会規則に拠った内容であることがわかる。ただし、第一条の規程が区町村会法のそれと同じものが多いこと、議員の被選挙権の欠格事項から県会議員が除かれていること、選挙権の資格要件の一つとされた戸主をそれからはずした規則もあることなどが異なる点であった。また、この段階で横浜区会の発足をみるのも新たな点であった。 連合会は、例えば高座郡の場合(「神奈川県高座郡町村連合会規則」〈明治十四年十一月八日議決、資料編11近代・現代⑴八五〉)、郡下全町村規模の連合会と数町村規模の連合会の二種類があり、前者は各町村会の議長をもって議員とし、後者は、四か町村以内は各町村の半数の議員、五~十か町村は正副議長、十一か町村以上は議長をもって議員とした。開会は毎年四月に十日以内で、というのが原則であった。 大住郡子易村村会規則 伊勢原市役所蔵 水利土功会は、例えば「愛甲郡沿川壱町拾七ケ村連合水利土功会規則」(明治十五年十一月二十日議定、十二月八日認可、県史編集室蔵「愛甲郡役所文書」)をみると、議員は一町村二名ずつで三十六名とし、その選挙法は各町村の便宜に任すこと、会議の終了時に次会までの事務をおこなう常設委員三名を選挙すること、高座・大住・愛甲三郡沿川町村連合水利土功会に出す委員九名を選挙すること、便宜のため若干名の担任戸長を置くこと、会議は不定期に開き、議案は郡長あるいは担任戸長が発すること、となっている。また、北多摩郡拝島村・田中村・大神村三か村の「水利土功会規則」(前掲関口隆吉復命書所収)のように、議員資格に水害土地三反以上をもつ者を加えた場合もある。 以上のようにして、戸長と戸長役場、区町村会と区町村連合会、あるいは水利土功会といった機関や組織が生まれ、町村行政を展開させていくことになった。なお、町村行政に関する他の組織に、学務委員・衛生委員がある。このうち学務委員は、一八七九(明治十二)年九月二十九日の教育令により、従来の学区制が廃止されて小学校の設置および管理が町村に委ねられたことによって、学区取締に代わり設置されたもので、小学校を設置する町や村、あるいは組合村において一~二名選出され、教員の勤務状態の監査、就学の督促、学校の維持、試験の実施などを広く取り扱った。なお学務委員・衛生委員の給料は町村の負担であった。 三 三新法体制の展開と動揺 達書の流れ当時の町村行政はどのような形でおこなわれていたのであろうか。 郡役所から戸長役場へは、毎日のように墨筆やこんにゃく版といわれた墨筆コピーによる指示・達しが届けられた。そこには、警察署からの村内人民への呼出状なども含まれている。戸長もしばしば郡役所への出頭命令を受けた。淘綾郡高麗村(現在大磯町)の戸長曽根田重兵衛は、それらを丹念に保管し、「郡役所ヨリ御達書綴込(明治十五年)」(大磯町、曽根田重和氏蔵)として後世に伝えている。そして戸長から村民へは、自然の地理的区画でまとまった地域ごとに、廻文をもって周知せしめる方法がとられた。「重立ち」といわれた有力者たちは、それらを日記に書き留める場合が多い。津久井郡川尻村(現在城山町)の八木熊三郎の『萬代諸事記』(現存するのは一八七九年、八〇年、八二年、八四年と断片的ではある。城山町、八木平作氏蔵)もその一つである。 八木熊三郎が七十歳の一八八〇年末に所有していた土地は、田地が一反二畝十九歩、畑地が一町四反八畝三歩、宅地が一反七畝二十五歩で、地価の合計は三百八十四円十六銭八厘、地租納入額は九円六十銭余であった。米以外に小麦・大麦・大小豆・桑などを畑作し、養蚕もやっていた。一八七九・八〇年の日記には、そうした生産活動に関する記述の間に、村内(戸主)総出で行われる社寺の祭礼や火事場の灰掃き、あるいは無尽のことなどの共同体的な出来事、村費徴収や県会議員・村会議員選挙のこと、生糸製造印届の督促・励行、郡長交替の通知、国民軍役取調に付き年齢届のことなどの回達が書き留められている。年齢的に第一線から退いている彼は、公事との関わりはあまり密接とはいえない。だが、そうした彼にも行政の支配はこのように及んでいた。 町村の協議費八木熊三郎は、一八七九年五月十六日、同年三月から六月までの四か月分の村費負担金を出している。それは、反別割四十二銭一厘、地価割八十七銭五厘九毛、戸数割七銭一厘、人員割(七人)十銭八厘五毛、計一円郡内の指示達しを書き綴った『萬代諸事記』 八木平作民蔵 四十七銭七厘一毛である。これを一年間にすれば四円余ともなろう。地租納入額の半分近い負担である。ここに人員割というのがあるが、政府は、区町村費(政府は「協議費」という)の徴収方法は、各地の慣習に任したから(前出、三新法の「施行順序」)、このような場合もありえたのである。 協議費の実態を示す史料は、断片的なのは多いが、まとまったものはほとんどない。そこで、後人の編んだものだが、『明治小田原町誌』(前掲)によって、小田原駅五か町の事例をみよう。 第九表は、その協議費総額を示したものである。松方デフレの影響が現れる一八八三年以前の四年間は、年々増加していることがわかる。協議費は表のごとく二期に分けて編成されたが、一八八〇(明治十三)年第一期(一~六月)の科目を、支出額の大きい順にみると、小学校費(千百五十九円余)・中学校費(百九十六円余)・地租改正費(百四十五円余)・衛生委員給料及諸費(七十二円余)・小仕給料(六十九円)・筆生増給(五十七円)・氏神費(五十五円余)・用水費(三十三円余)・時鐘撞費(三十一円余)、以下、町会議諸費・筆生臨時雇・新聞紙料・役場新築年賦・消防費・宿直料・小使臨時雇・救助から成っている。用水費や消防費、さらにこの場合は計上されていない衛生費などは、災害・流行病の発生により一挙に増額される場合がある。しかし、最大の科目であり、毎年全体の約六割を占めるのが小学校費であった。小学校費は啓蒙校・幸校・宮前校の諸経費であり、同年の町会では、「従来其度ヲ定メス過不足ノ弊アリ」として、一八八〇年七月から七年間、定額とすることが決議されている。また右の場合、学務委員の給料が計上されていないが、一八八一(明治十四)年一月、衛生委員に学務委員を兼任させたからであった。費用を減少さ第9表 小田原駅五か町連合戸長役場の協議費(決算) 『明治小田原町誌』から作成 せるためであった。このような例は他にもあり、愛甲郡下入川村(現在厚木市)では、一八八三(明治十六)年二月十四日、筆生一人のほかに役場手伝いを一名置き、彼に学務委員と衛生委員を兼任させている(小宮保次郎「明治十六癸未年日誌」、厚木市小宮守氏蔵)。なお下川入村の場合、同年前半の予算額は、役場及び堰費が百円、学費が百円、負債償却費が二百円、堤防平年費が五百円、計千円で、小田原に比べると治水関係が多いのが目立っている(同前、一八八三年三月二十二日)。 さて、小田原駅における協議費の負担のありかたはどのようなものであっただろうか。一八八一年第二期(七~十二月)の予算の場合、用水費三十五円の「水掛リ戸」(千七百八十五戸)および氏神費七十九円の松原社・大稲荷社・居神社の各氏子に対する一率の戸数割を除く他の協議費は、折半して地価割と戸数割に分けられた。地価割は地価一円に付き一銭一厘であった。戸数割は家持戸(千九百九十五戸)・借家戸(六百六十九戸)ともに一戸三十二銭四厘一毛としたうえで、借家戸負担のうち三割を地価に割り当て直し、結局、借家戸は一戸二十二銭六厘九毛となり、地価割は地価一円に付き八毛八絲増加して、一銭一厘八毛八絲となっている。地方税戸数割の負担方法も含め、一般に、下層人民の負担を軽くする方法が講じられていた。しかし、彼らが政治的無権利状態という、他で量りがたい差別を受け続けたことも忘れることはできない。 町村行政の民主化の動き三新法体制は、土地所有者に一定の参政権を与えて、国家・政府への自発的協力を引き出そうとしていた。それは不十分とはいえ民権の伸張である。だが、それを享受できた者は町村内の「重立ち」といわれる有力者層であり、下層民衆には無関係のことのようにみえる。しかし、彼らもそうした動向に主体的にたち向かいつつあった。 丹沢山塊に源を発し北部を迂回しながら厚木町付近で相模川(馬入川)に流れ込む中津川の中流に、下川入村がある。ここは自由民権家で県会議員(一八八二(明治十五)年五月~翌年三月)にも選ばれた小宮保次郎の居村であった。ちょうど県議時代のことである。堤防治水をめぐり対岸の棚沢村などとの争論もあり、堤防費の不足を借入金でまかなうなど、村政の状態はよくなかった。彼は戸長の松野平作や村会議員を後援し、戸長役場財政の再建に努力していた。ところが、一八八二年十月十七日、村内人民惣代として小宮由五郎・飛川唯助・鈴木長太郎の三人が彼を訪れ、役場勘定について意見を述べた。十一月十三日にも同じような訪問を受けている。そして同月十九日、つぎのような要求を彼はつきつけられたのであった。彼の当日の日記(前出)にはつぎのように記されている。 夜村方人民惣代飛川唯助清水愛次郎笹生角太郎来リ左ノ証書へ捺印ヲ乞フ 委任確約 愛甲郡下川入村 本村儀不規則ニシテ諸事不都含ニ決定シ小前一同甚タ迷惑ニ存入候因テ今般一村ニ係ル諸事公論ニ決度ニ付小前一同貴殿方へ懇願致偏ニ委任仕候条件左ニ 第一条 当村ニ係ル経費事件費及堤防諸費取調之事 第二条 当村共有金及共有地取調之事 第三条 当村ニ係借財取調之事 第四条 当村ニ係ル諸事匡正致度ニ付前三条取調之上一般之協議ヲ遂ケ向後以正道万事件御処分被下候事 右之条々小前一同改正致度ニ付貴殿方へ強願仕候御委任申処確実也就テハ前書之条件以正道公平御取調被下度因テ右之条ニ付如何之困難相生候共小前一同決テ〓儀申間敷候為該証小前一同以連印入置候仍如件 明治十五年十一月日 小前連署 本文中第一条第二条第三条 取調方ヲ限リ委任也 十一月十九日 小宮保次郎 如斯附箋シ捺印候事 事は村の財政のあり方全般を問題としている。問題の内容は、これまでのところ不詳だが、それを村会に任せず、「小前一同」の監視と承認の下に置くという要求であった。彼らは小前集会を重ねて団結していた。十二月三十一日も下川入学校で集会し、議員を通じて戸長に質すことを決議した。これに対して、議員たちは「元旦ノ祝式ヲ行ハス加フルニ人民相互ノ取引迠止ムル」との反撃をおこなおうとして、事態は険悪に赴いた。小宮保次郎らがそれを調停して事なきを得、以後平静化する。そして、翌年三月二十二日、前出の役場経費予算を作成、翌二十三日、笹生藤吉宅に集会した人民にそれを報告した。二十四日人民惣代が「村方経費結算実行委托書」に調印して、この事件は幕を閉じたのであった(以上は前出の「日誌」による)。 騒擾化しなかった事件ではあるが、戸長・村会議員と「小前」の民衆との間に乖離が生じ、それを民主化の方向で解決したものといえよう。それは、三新法体制が旧来の共同体的な全戸の総意に基づく村政のありかたに反するものであったためである。表面に現れにくいことだが、こうした動きは県下に少なからずあったと思われる。 しかし一方の有力者たちも政府との関係では対決的姿勢を強めていた。 郡区長公選の建議一八八二(明治十五)年の春に開かれた通常県会(郡区合同会議)で、五月一日、高座郡選出の菊池小兵衛議員より、内務卿に対して郡区長公選を建議したいとの提案がなされた。その意図や方法について来栖壮兵衛(横浜区)・肥塚龍(横浜区)・佐藤貞幹(都筑郡)・内野杢左衛門(北多摩郡)・指田茂十郎(西多摩郡)議員から質問や意見が出され、菊池の説が、可決したら委員に立案させ、それを再び審議するという順序であることを確認した後、満場一致で可決し、肥塚・菊池・指田・来栖・戸塚千太郎(横浜区)の五議員が委員に指名された。五月四日の会議に建議案が提出されたが、異論が出、立案委員が修正案を起草して再提出することになった。それは同日午後の会議に付され、審議の末、可決されたのであった。この建議(「大要」としつつもほぼ全文が『東京横浜毎日新聞』明治十五年六月十三日付の「神奈川通常県会」欄〈傍聴筆記〉にあり、添田茂樹氏所蔵文書中にその筆写がある。後者は資料編11近代・現代⑴六七)は、「二三年以来ノ経験ニ依ルニ神奈川県民ハ郡区長ノ公撰トナラザルガ為メニ大ニ不便ヲ被リシモノ少ナカラス」と動機をまず述べている。そして、その経験とは、「現ニ県内大住、淘綾、高座ノ三郡ハ昨年郡長ニ欠員ヲ生シ之レガ為メ郡内ニ不便ヲ起シタル事アリ当時県令ハ百方郡民ヲ諭シ公撰同様ノ手続ヲ以テ郡長ヲ定メタレドモ其間三郡人民ノ不便ヲ訴ヘシ事実ニ筆記ノ尽クス所ニアラス」というもので、前にみた大住・淘綾両郡長山口左七郎らの辞職事件が背景にあることを示していた。高座郡長は今福元頴であり、辞表が受理されないため、サボタージュを続けていたものとみられる。建議の末尾には、右の事態のときに考案した「郡区長公撰大綱」が追申されたが、それは、郡区長はその郡区内の町村会議員が選挙する。郡区長に選ばれるための資格要件は県内に本籍を定め三年以上居住する二十五歳以上の者、任期は四年、というものであった。 建議は、もし採用せずして官選を続けるなら、県下一区十五郡の人民がこぞって郡区長欠員の不便を被るに至るかもしれない、と語気激しく述べている。自由民権運動の隆盛を背景にした自信の現れであった。なお、五月一日の議場で、来栖議員が、「郡区公長撰ノ事ハ十三年度ニ於テ本会ノ決議ニハアラサリシガ前県令へ建議シタル程ノ事」と述べている点が注目される。詳細は不明だが、今回の建議が、実権のない県令にではなく、内務卿に対してであったことは、その対決姿勢の強さを示すものといえよう。だが、自由民権運動への反動的対決の態勢をかためた政府がこの建議を一蹴したことはいうまでもない。そして、本編第二章第五節でみるように一八八四(明治十七)年五月、区町村会法の大幅な改正をおこない、郡区長のみならず戸長までも官選化しその他の施策ともあいまって、人民支配を一段と強化していく。 一八八三(明治十六)年、巡察使関口隆吉は神奈川県の郡役所について、「他県ニ比スレハ事務ノ挙行遅緩ナルカ如シ」と政府に復命したが(前掲の復命書)、このころまでの県下は政府の支配力があまり徹底しなかったといってよい。その大きな背景としては、民衆の抵抗運動とともに、関口が続けて指摘する「県庁ニ於テモ外国交際ニ多事ナルカ為メ内政上ニ充分力ヲ用フ隙ナキニ因ル」こともあったと思われる。 第二章 自由民権運動 第一節 国会開設運動 一 その前夜―運動の発端― 八王子・三浦・小田原の動き神奈川県下の自由民権運動は、一八八〇(明治十三)年六月の国会開設運動をもって本格的な幕明けの時代を迎える。この国会開設運動を通じて、神奈川の民権運動は、はじめて全県的な広がりを実現し、また多数の活動家を生み出すことによって、運動の統一性と組織性を確保することができた。さらにまた、この運動を通じて、それまでのおくれを急速に克服し、民権運動の全国的レベルにまで達することが可能となった。しかし神奈川においても、国会開設運動は突如起こったものでなく、すでにその前夜に、二、三の注目すべき動きがあった。ここでは、まずその前史から述べていこう。 『東京横浜毎日新聞』によれば一八七九(明治十二)年十二月、八王子で成内頴一郎ら五十名の有志が第十五嚶鳴社を設立する準備にとりかかり、翌年一月七日には、同社の沼間守一を招いて開業式をあげている。嚶鳴社というのは、沼間守一の率いる都市知識人の政治結社で、東京横浜毎日新聞を機関紙に嚶鳴雑誌を発行し、当時東日本に二十余の支社と千名の社員を擁していた。嚶鳴社の支社が八王子にできると、そこを拠点に直ちに活発な演説会が開始された。一月末には八王子学校で、二月には西多摩郡五日市で、三月には津久井郡吉野駅で、あいついで嚶鳴社員による演説会が開かれている。こうしてその後には、第四嚶鳴社のある「横浜ヲ始メ府中ニ二宮ニ五日市ニ吉野ニ久保沢ニ八王子ニ日野ニ皆有志者ノ結合ヲ為シ、毎月演説者ヲ招聘シテ大会ヲ開ク」(『朝野新聞』明治十三年十月二十日付)という盛況ぶりであった。そして一八八一、二年ともなれば、この地方の民権家と嚶鳴社との結びつきは強まり、神奈川県(明治二十六年までは多摩三郡を含む)は嚶鳴社の最大の基盤となったといわれる。(色川大吉『近代国家の出発』)。 武州八王子を中心とする嚶鳴社の活動と平行して、一方の相州でも国会開設運動の前ぶれともいえる運動が起こっていた。一つは三浦郡三崎町で一八八〇(明治十三)年一月末、町会議員、関直道が「三浦郡諸君ニ告グ」という国会開設願望の檄文を発表して、すでに五、六十名の賛同者を得たといわれ(『東京横浜毎日新聞』明治十三年一月三十一日付以下『毎日』と略す)、また三月初めには、同町議の大野彦兵衛が「国会開設建議諮問案」を起草して話題をよび、以来三崎はもちろん近傍の各村よりも之を聞き陸続同意する者多く、同意者殆んど八百七十余名に及んだといわれる。いま一つは小田原の動きで、同年三月当地へ遊説にきた愛国社の社員が、「民権拡張」を仁恵社社長吉野直興にはかったことから、「民権論者各地に輩出し、弥々同志結合して国会開設を政府に請願せんと同地は勿論各近在より有志者相会合してその委員を選挙」(『毎日』明治十三年三月十七日付)するという動きを見せている。 「三浦郡諸君に告ぐ」 『東京横浜毎日新聞』明治13年1月31日付 三崎や小田原のこうした動きが、一八八〇年六月の全相州の国会開設運動とどのようにつながるのかはっきりしないが、恐らく中途で後者の大運動に合流していったものと思われる。ここで参考までに、三崎町の国会開設願望の二つの文書である「三浦郡諸君ニ告グ」と「国会開設建議諮問案」の内容をかいつまんで紹介しておこう。 「三浦郡諸君ニ告グ」は一種の檄文で、国会開設が今日の急務であることを力説し、すでに千葉、岡山、福岡、広島、宮城等の諸県の有志は陸続と請願に立上っている。然るに我が神奈川県は、首都東京に隣接する「全国中ノ大県ニシテ開化先進ノ地」であるにもかかわらず、「今日ニ到ルマデ未ダ一人ノ議事ニ関シテ人民ノ連結ヲ謀ルノ義挙アルヲ聞カズ」(『毎日』明治十三年三月二日付)とのべて慨歎し、郡民の奮起をよびかけたものである。 もう一つの「国会開設建議諮問案」は、請願書の草案に相当するものである。この中で起草者は、人類に天賦の自由権利があることを確認した上で、国民の権利意識にふれながら次のように言う。日本人民は千数百年に及ぶ専制政治の下で、「唯命之従ノ卑屈心」に慣れ、自由の行使については禽獣にも劣る有様である。しかし我が国のおかれた現状をみるとこのままでいるわけにはいかない。「宣シク衆智ヲ集メ公議与論ノ帰スル所ヲ執テ」政治を行うべきである。公議与論の政治とは、「有司ノ権限ヲ度節スルニ有リ、有志ノ権限ヲ度節セント欲セバ宣シク憲法ヲ立ツルニ有リ、憲法ヲ立テント欲セバ則チ国会開設セザルベカラズ」(『毎日』明治十三年三月三日付)。このような論旨で国会開設を主張しているのである。この二つの文書は、思想的には素樸な天賦人権論と他県人への競争意識に根ざすものであるが、それなりにまた当時の地方民権家の政治意識がうかがえて興味深い。 桜井提案と第三回地方官会議さて、以上のような武州八王子を中心とした嚶鳴社の宣伝活動と、相州の三崎及び小田原における国会開設請願の動きは、県下における民権運動の先駆をなすものであるが、それはちようどこの時期に全国的な規模ですすめられつつあった国会開設大請願の余波でもあった。 この大請願を推進した愛国社は、一八七九(明治十二)年十一月の第三回大会で画期的な国会開設請願を決定、翌八〇年三月の次期大会に向けて全国的な規模で請願運動を組織していった。そして三月の第四回大会では、二府二十二県八万七千余人の総代百十四名が大阪に集まり、これまでの愛国社を改組して国会期成同盟と改称し、代表片岡健吉、河野広中によって全国各地の署名人代表の名を連ねた「国会を開設する允可を上願する書」を天皇に提出することにした。この請願は結局政府によって拒否されたが、しかしそれ以後全国各地からの請願は一層活発になる。なおこの国会期成同盟には、神奈川は加わっていない。 国会開設運動は全国的に見れば、愛国社系政社の潮流・都市民権派の潮流・在地民権結社の潮流とよばれる三つの推進母胎をもっていた。本県の場合、大きく見れば在地民権結社の潮流に入っていく県議路線でまず国会開設運動が進められた。県議路線というのは、各府県の県議グループが連合または単独で主導した請願運動で、後述するように神奈川もこの範疇に入る。県議路線の特徴は「士族社会を軸とした愛国社路線に対して農工商の職業にあり平民の族籍をもつ府県会議員を指導者とする組織路線」(内藤正中『自由民権運動の研究』一六四ページ)といわれるが、この路線成立の上で画期的な役割を果したのが千葉県の一村議桜井静の提案である。桜井は一八七九(明治十二)年七月、「国会開設懇請協議案」なるものを『朝野新聞』に発表、同時に一万部を印刷して全国の府県会議員に発送した。それは、この年開設された府県会の権限の狭少さを慨歎し、国会開設こそ府県の自治を確立する道だとのべて、全国の府県会議員が東京に集って協議し、国会開設を政府に懇請しようと訴えたものであった。この桜井提案は岡山県会の支持決議をはじめ各府福井直吉 県に大きな反響をよんだ。神奈川の県議たちにもこのよびかけはあったらしく、大住郡出身の県議、福井直吉の文書中にもその写しが現存している。 ともあれ、一八八〇(明治十三)年後半には先にふれた三潮流の合流によって、国会開設運動は空前の高揚を示した。一八七四(明治七)年以降、全国からの建白・請願は今日わかっているものだけでも五十数件、署名数にして二十六万人以上にのぼった(江村栄一「国会開設建白書・諸願書の考察」『近代日本の国家と思想』)。 ところで、神奈川県下の本格的な国会開設運動は、愛国社=期成同盟や他府県の運動とくらべると大分おくれてスタートした。 まずその発端からのべていこう。 一八八〇(明治十三)年二月、政府は第三回の地方官会議を東京に招集した。この会議には、さきの桜井のよびかけもあって、全国から百四名の府県会議員が傍聴のため上京した。そして同月二十二日その有志が両国中村楼に集合した際、茨城、岡山などの議員から国会開設の提案があり、日を改めて論議することにした。次いで開かれた二十四日の会議では三十七名の有志議員が集って意見を交したが、結局直ちに請願行動を主張するグループと「帰県の上、有志者を団結して更に建議する」(『新聞集成明治編年史』第四巻一七三ページ)グループとに分れ、前者の意見をとる一府九県の代表二十五名はその場で元老院に建白した。この会議に神奈川県からも、神藤利八(高座郡)、今福元頴(同)、杉山泰助(大住郡)の三県議が出席していたが、採決では後者の意見にくみした。神奈川の三代表がそのような態度をとったのは、何よりも自県の運動のたちおくれからであった。ここにその辺の消息を語る一資料があるので紹介しておこう。これは県議で請願運動の総代となった福井直吉の演説草稿であるが、さきの府県会議員の会議の模様を伝えていて興味深い。 其節諸県ノ人ノ様子ヲ聞クニ、何レモ国会ノ説ナラザルハナシ。某県ニテハ己ニ昨年国会開設ノ事ヲ御願申シタト云イ、又某県デモ同様御願イ申シタ云々、或ハ此度願書ヲ持参シタト云イ……或ハ其事ニ着手シタト云イ、僅カニ数県ヲ除クノ外ハ夫々手続ヲ終リ、実ニ他県ノ進ンダニハ恐入マシタ」 (「福井直吉文書」) まさに神奈川県は運動のおくれている点では、残りの「僅カニ数県」の中にいたのである。会議に出席した三県議が他府県の運動の高揚に驚くとともに、自県の運動のたちおくれを痛感させられたことは想像にかたくない。かくして神藤らは、「今直ちに賛成はできないが帰県後総代を選出し各府県とも一致団結」(内藤正中、前掲書一七四ページ)して運動することを誓って別れたのであった。 二 広がる運動 典型的な県議路線地方官会議から帰った神藤、今福、杉山の三県議は、直ちに国会開設請願の準備に入った。まず相州出身の県会議員を中心に十四名で県総代を構成した。その顔ぶれは第十表の通りであるが、一人をのぞいて全員が平民の族籍をもち、現職または後の県議である。 ところでこの十四名の県総代は、相州を代表して全体の指導に当ると同時に、各郡の指導責任を分任していた。そして郡レベルでも県総代の下に、数名から数十名の郡総代を選出した。このような構成をとったのは、郡を単位に運動を組織したためであり、事実、県議主導の運動においては、県議の選挙区としての郡を基盤にすることが最も合理的であった。郡総代には郡役所書記、戸長、学区取締、村会議員など、郡村の有力者が多く選ばれた。また各郡の郡長の中にも、民権思想に理解を示し運動を側面から支援する者がいた。そのような郡長に、足柄上郡の中村舜次郎、大住淘綾郡の山口左七郎、愛甲郡の中村稲八郎らをあげることができる。県議で筆頭総代の今福元頴が運動に着手するにあたって、相州各郡の郡長はもちろん有志諸氏と計ったと語っているのも、その辺の事情をさしているのであろう。 なおここで、神奈川県内のうち、相州(九郡)だけを取り上げて武州(六郡)にふれないのは、組織だった運動が確認できないからである。一説によれば、同時期に武州でも石坂昌孝らが発起人となって、国会開設請願の檄文が廻されたが、有志の多くが当時横浜を中心とする商権回復運動に忙殺されて、国会開設運動にまで手がまわらなかったと言われている(『町田市史』下巻)。 さて、郡段階の総代がきまり態勢が整うと、次に国会開設請願の檄文と総代の氏名を連署した締盟書(又は締約書ともいう)が郡ごとに作成され配布された。これらの文書は署名運動に活用したものであるが、足柄上郡などでは、村ごとに締約書を署名簿のあたまにつけて回覧している。ここで少々長くなるが、締盟書の全文を掲げて内容を紹介しておこう。 締盟書 我叡聖ナル 天皇陛下ハ天地神明ニ誓ハセラレ 第10表 相州国会開設運動の総代人名簿 資料編13近代・現代⑶『国会開設ノ儀ニ付建言』から作成 聖意ヲ詔シテ曰ク、広ク集議ヲ尽シ万機公論ニ決スト、是実ニ明治初年即位ノ始メタリ、当時国民未タ封建之余習ニ慣レ、其ノ羈絆ヲ脱セズ、卑屈ニ安ンズルノ風俗尚存スル有テ此ノ聖意ノ所在ヲ顧慮細志スル者アラザリ、然リ而シテ気運漸ク変遷シ今哉勅諭ノ責ムベキヲ知リ、且自治ノ重ンズベキヲ覚リ而シテ国会開設ヲ政府ニ請願シ、以テ至仁ナル 聖意ニ報ヒ奉ラント欲スルモノ陸続東西ヨリ起ルニ至レリ。鳴乎時既ニ如斯、時己ニ如斯ナルヲ以テ我高座郡有志輩苟モ此ノ時運ニ際シ豈傍観座視ヲ分トシテ甘ンズベケンヤ、因テ今回同志者憤然締盟約結シ、以テ国会開設ノ議ヲ政府ニ願望セント欲ス。抑モ此ノ挙タルヤ下ハ以テ国民ノ自由福祉ヲ永遠ニ保存スルノ志望ニシテ、上ハ以テ天皇陛下ノ隆恩へ報ヒ奉ラント欲スルニ在リ。故ニ此一事ニ関シ将来多少之艱難ニ会フモ敢テ志向ヲ変スル事ナカラン為ニ茲ニ締盟約結ノ連署スルモノ如斯也 (以下署名略) 締約書 明治元年我叡聖文武ナル 天皇陛下ハ天地神明ニ誓ヒ玉ハセラレ、詔シテ曰ク、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシトノ勅諭ニ奉答セント、既ニ今回吾郡人民同志ト謀リ締盟締約シ、国会開設ヲ請願シ国民ノ福祉ヲ永保セントシ、后来変心挫折ナカラシメン為メ締約連署スル如斯也 明治十三年四月 前者は郡総代の「締盟書」で、現在高座郡と大住・淘綾郡から発見されているが、文面は全く同じで、総代=署名人の数だけが高座郡の三十二名、大住淘綾郡の四名と異なるだけである。恐らく全県共通の締盟書のモデルがあって、それを郡名と署名者だけ変えて用いたものであろう。一方後者は足柄上郡の各村の請願署名簿のあたまにつけた「締約書」で、同様のものが愛甲郡半原村(資料編1 3近代・現代⑶一三)にも残っている。 これら二つの文書は長短のちがいはあるが、内容的には同じもので今回の国会開設運動は明治初年の「五箇条の御誓文」にある「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という「聖旨」にこたえる運動であり、それによって国民の福祉を永く保存しようとするものである。そのため運動の途中で変心挫折しないよう盟約するものだ、という趣旨である。五箇条の御誓文という体制側の論理を、自己の主張の論拠にとりこむというこのような発想を、色川大吉氏は民権期の明治人に特有の「読みかえの論理」とよんでいるが、たしかにこうした方法が当時としては最も説得性があったのであろう。 さて、一八八〇(明治十三)年三月五日からはじまった請願署名郡村ぐるみの運動運動はたちまち大きな反響をよび、六月初までに相州九郡五百五十九町村で二万三千五百五十五名という大量の署名を集めた。この成果は他府県のそれと比較しても遜色はなく、署名数では高知、広島、岡山、長野などとともに、全国でもトップレベルの地位(第十一表参照)を占めている。また、当時の相州九郡の総戸数は七万六千二百戸(明治十四年『神奈川県統計書』)であるから、署名者を戸主とした場合、三戸に一戸の割合で署名が行われたことになる。まさに空前の壮挙と言えよう。しかしこのような大量署名の運動は、相州ではこれが最初ではなかった。二年前の一八七八(明治十一)年十一月、大住郡真土村で起きた悪徳地主、松木長右衛門殺害事件の被告に対する助命嘆願運動でも、大住、淘綾、愛甲の三郡で百三十六か村一万五千人の署名を集めている。そのときの経験が国会開設運動にも大きく役立ったにちがいない。 それにしても二万三千もの大量の署名が、しかもわずか三か月間にどのようにして集められたのであろうか。後藤靖氏は福島、福井、長野など国会開設運動で大量の署名を集めた民権運動新興地域における運動を総括して、次のような特徴づけをさ国会開設請願署名 小田原市立図書館蔵 れている。 「運動の指導層は豪農層で、多くは県会議員や村役人ないしその子弟である。そのすぐ下に中位の農民層の中から輩出してきた積極的な運動推進者があり、その下に広汎な全農民層が支持基盤として存在していた、ということである」(後藤靖『自由民権』一〇七ページ)と。国会開設運動におけるこのような「階級構成」は、そのまま神奈川の運動にも適用できると思う。県会議員(大豪農=地方名望家)―戸長、郡書記(中小豪農=在村有力者)―農民という序列が、この大運動の組織構成をなしているからである。この序列は当時の村落共同体の階層制をあらわすものであるが、このような共同体組織と郡村の行政機構とをフルに利用したところに、大量署名獲得の秘密があったのである。 大量署名の秘 密とその分析ここで若干、署名簿の分析をしておこう。小田原の市立図書館に保管されている有信会文庫に、足柄上郡及び大住・淘綾郡(この二郡は郡長兼任の行政区)の署名簿があるので、それを用いて考察してみる。それによると、両郡の署名数は第十二表の通りで、足柄上郡の署名数が数においても率においてもはるかに上回っていることがわかる。足柄上郡では、湯触村(戸数二十七戸)の一〇〇㌫、川西村(同九十八戸)の九五㌫をはじめ、全体として高率で郡平均でも八三・三㌫に達している。それに対して大住・淘綾郡は、郡平均の署名数も二〇・七㌫と低く、署名数五~十人未満の村数が五十村にも上っており、全く無署名の村も三村ある。また、村会議員だけの署名にとどまっている村が八村ある。 さらに両郡における署名数の分布状況を検討すると、県総代及び郡総代の居第11表 請願署名数上位10県 江村栄一「国会開設建白書・請願書の考察」『近代日本の国家と思想』 村が高いことは当然であるが、全体としては平場の米作地帯よりも、山村の畑作地帯の方が多くの署名を集めているようである。あとでふれるように、神奈川県下の自由民権運動は、主として東山養蚕地帯の辺縁部にあたる県内内陸の諸地域で展開されるのであるが、ここに早くもその地域的特色が形成されつつあったことがわかる。 さいごに署名獲得の方法についてひと言ふれておこう。先述の二冊の署名簿を見ると、署名者の筆跡が村ごと同一人のものであることがわかる。このことは村の代表に署名を一括して委任したことを示している。同様の方法が上記の二郡だけでなく他郡でもとられたようである。たとえば愛甲郡では、「有志百十余人ノ集会ヲ厚木町長福寺ニ開催、請願人ノ調印ヲ執ルコトハ総代ニ一任」(天野政立文書)している。このような署名方法には色いうな問題があろう。たとえば署名者個人の意志がどれだけ尊重されたかという問題である。大量署名をめざす意味からも、村の共同体組織と郡村の行政機構をそのまま利用するという方式のもとでは、個人の意志を無視して署名を強制するというケースも十分考えられる。しかし同時に留意しなければならない点は当時の一般民衆に国会開設の意義やそれを訴えた文書が、どれだけ理解できたかということである。県議で県総代の今福元頴はそのことにふれて、「無知の細民には初めより憲法又は国会など六ヶ敷事を説くも通暁すまじきゆえ、自由の人民には必ず参政の権利ある旨を示し、漸くにして了解するを得て、始めて参政の権を得るは国会を起すにあると説き、遂に請願書に連署せしめた」(『郵便報知新聞』明治十三年六月十二日付)と語っているが、しかし自分の姓名すら書くことのできない民衆に、このような説得がどれだけ通じたか疑わしい。つまり、署名簿が村ごと同一人の筆跡であったり、一第12表 足柄上,大住淘綾両郡の署名状況 小田原市立図書館所蔵の署名簿から作成 括して調印をとるような署名方法がとられたのも、当時の民衆の知的ないし教育水準を考慮した措置だと考えることもできよう。なお、このような一括署名の方式は、神奈川だけでなく広く他県でも行われていたようである(内藤正中『自由民権運動の研究』)。 三 県令の妨害 野村県令の妨害と干渉相州の国会開設運動は、はじめから大した妨害もなく、請願署名も比較的順調にすすんだようである。地域によっては郡長の積極的な支援のもとに、郡書記、戸長などが運動の先頭に立つところもあらわれた。こうして、二万三千余という大量の署名をかなり短期間に集めることができた。 さて、六月五日、県総代たちは各郡ごとにまとめた署名簿をたずさえて、元老院へ建白のため上京した。建白前後の行動については、最近発見された大和市上和田の小川正人文書(「棒呈日誌」)に詳しいので、以下これを参考にしてのべていく(遠藤憲雄「郷土における国会開設運動」『大和市史研究』創刊号)。 上京当夜、総代たちは都内芝区紫井町の旅館、和泉屋に投宿して翌日を迎えたが、足柄上、津久井二郡の総代の到着がおくれたため、建白を七日に延期しなければならなくなった。この二郡の総代の遅延には大分苦慮したようである。六月八日からは定例の県会がはじまるため、大部分の総代は帰県しなければならず、最悪の場合は足柄上、津久井を除く七郡だけの建白も覚悟しなければならなかった。 ところがそこへ、思いがけない事件が起きた。神奈川県書記官、河野通倫が使者を通じて次のような書簡を届けてきたのである。「今回国会開設ノ儀ヲ建議スルノ由、依テ本県令ニ於テ一応諸君ノ御意見拝聴仕度由ニツキ、成ル可クハ上京ノ各位一同此者ト同道御出港下サレ度云々」。つまり今回の建白について、県令から尋ねたいことがあるから全員横浜の県庁まで来て欲しいというのである。 ここに至って国会開設運動は、はじめて権力の思いがけない干渉と妨害に出合ったわけである。それに対して総代たちは、「我われはいやしくも二万有余の県民の委任を受けて国会開設建議のために上京したのだから、たとえ県令の命令とあっても応ずるわけにはいかない」と言って、その場で使者を追い返した。ところがその夜十一時すぎ、再び県令から、「明七日午前十時登庁致スベキ旨」の伝言があった。その夜総代たちは県令の「御用状」をめぐって明け方まで論議したが、結局県庁へは今福元頴と福井直吉の両県議を出頭させ、他の八名は予定通り元老院に建白することにした。 六月七日元老院に向った一行は、足柄上、津久井を除く相州七郡の名で願書を提出し、建白をおえた。そして八日には事故でおくれた二郡の総代、下山万之助、梶野敬三も到着したので、一旦提出した願書の返却を求め、訂正の上、再提出した。小田原市立図書館所蔵の『国会開設ノ儀ニ付建言』という、建白書の原本が、「相模国七郡四百七拾一町村一万八千七百六拾一名」とあったのを朱筆で消して、「相模国九郡五百五拾九町村二万三千五百五十五名」と訂正し、また「建言」の末尾に遅参した二総代の氏名を「国会開設ノ議ニ付建言」 小田原市立図書館蔵 追加してあるのは、この間の事情を物語るものである。 県令と対決する請願総代一方、今福、福井の二人は、七日県庁に出頭して、県令から今までの運動の経緯について質問を受けたあと、「斯ル重大ノ事件ヲ行フニ方リ何故拙者ニ一応相談ハセザリシ」と詰問された。これに対して今福は、過般の地方官会議以来の経過を卒直にのべたあと、「此ノ重大ノ事件ヲ予メ閣下ニ御相談ヲ致サザリシハ、全体拙者等ノ思想ト閣下ノ思想トハ丸デ反対ナルヲ以テ、御相談申スモ無益ト初メヨリ断念セシ故ナリ」(『扶桑新誌』第一一七号)ときっぱり答えている。この今福の言葉には、二万有余の県民の総代としての強い責任感と自負の念がこめられていた。その気迫に押されてさすがの野村県令も、今後のことを注意しただけで、それ以上追及しようとしなかった。 しかしこれだけで県当局の干渉と妨害がおわったわけではなかった。出京総代の一人、中川良知が同郷の郡長山口左七郎に送った書簡には、その後も次のような事件のあったことを報じている。 総代の中で中川と杉山泰助は「建白書」の印刷を託されたため、それを都内のある印刷屋に注文し、出来上ったら横浜の出入の旅館へ配送するよう依頼して帰った。ところが数日後その旅館に政府の密偵らしい男が現われ、届けられた印刷物を引き渡すよう強硬に迫った。さいわいその場は旅館側の機転で切り抜けたが、代って今度は県の書記官が直接二人に圧力をかけてきた。いま中川の書簡からその部分を引用してみよう。 「書記官ヨリ迂生、杉山宛ニ書状来リ、翌日則廿日迂生始メ一同着候処、右ノ始末ニ付(探偵が来たことをさす―筆者注)、荷物ハ無事受取置、夫ヨリ書記官ノ書面被見候処、着次第直グ罷越候様トノ事故、夜ニ入迂生杉山罷出候処、活版摺ハ過日県会ヨリ焼却候様申聞候由、然ルニ夫々配布イタシ候也ニ聞込候故、一応相尋候度候。依テ答ルニ未ダ配布不致、尤□□各郡出精上篤ト協議シ県令へ□□相答其上配布スルトモ又ハ焼却スルトモ致候心得、迂生等一両人ニテハ回答ハ致シ兼候度候」(「山口左七郎文書」) この書簡によれば、政府と県が一体になって「活版摺」の建白書の配布を妨害していることがわかる。中川ら二人が旅館で無事に荷物を受取ると、今度は県の書記官からの出頭命令である。そして「活版摺」は県会でも焼却するようにきまったはずだが、それでも配布するつもりかと追及されている。つまり県側は種々の口実を設けて建白書の配布をあくまで阻止しようとしたわけである。だが中川らは頑として屈しなかった。 建白書の配布をめぐる県側の妨害はその後も執拗に続いたようである。それは中川が前記の書簡の中で、「其後モ探偵有之候間、其答ニテ郡内失策不被成様ノ心得有之度」と、同志たちに忠告していることでもわかる。ともあれ、このときの活版摺の建白書が、当局のきびしい監視の目を潜って、地方の民権家にひそかに配布されたことは、現にそれが県下の各地に保存されていることからも明らかであらう。 ついでにここで、相州の国会開設運動に関する当時のジャーナリズムの論評を紹介しておこう。『扶桑新誌』一一七号は、先にのべた建白をめぐる県総代と県令との問答を詳細に伝えたあと、神奈川県民は「平素暗愚ノ称」あるが今回は別である。「抜目ナキ県令野村氏其ノ人ヲシテ驚愕周章、鳴乎亦致シ方ナシノ嘆アラシムルニ至ル、何ゾ其痛快ナル」とのべて、建白総代の快挙をたたえたのであった。 四 福沢諭吉と相州 建白書の起草者・福沢の企図ところで、相州の総代たちが元老院に提出した建白書―正式には「国会開設ニ付キ建言」という―は、慶応義塾の福沢諭吉が起草したものである。福沢は建白書の代筆を、教え子にあたる小田原の松本福昌から依頼された。松本は旧小田原藩の下級士族の出身で、明治九年から十一年まで慶応義塾に学び、福沢とは師弟関係にあったのである(内田哲夫「相州九郡国会開設建言書をめぐって」『小田原地方史研究』一号)さきに県総代の中で、県議からただ一人松本が選ばれたのも、建白書起草の仲介者という関係からであろう。建白書をめぐる松本と福沢の接触については、たとえば福沢の次の手紙が証明している。 「相州九郡より国会開設の建白、三万人計の連署、本月初旬書面を奉呈いたし候。其周旋は専ら松本福昌なり」 (『福沢全集』第十七巻、「江口高寛宛書簡」) ところで、建白書の件は松本を通じて行なわれたが、この外にも相州の関係者と福沢との接触があったようである。たとえば福沢側に次のような記録がある。 十三年四月 相模国七郡国会開設ノ件 高座郡 今福 神藤利八 大住郡 梅原修平 愛甲郡 中麿 大住郡 山口左七郎 小田原 吉野直興 大久保清 上足柄郡 中村舜次郎 (『福沢全集』第十九巻「明治十年以降の知友名簿」) この八人が「十三年四月」「相模国七郡国会開設ノ件」で、福沢に面会しているわけである。右の八人の中で、今福と神藤は県総代であり、山口左七郎、中麿(中九稲八郎のこと)、中村舜次郎の三人は、大住淘綾、愛甲、足柄上各郡の現職郡長で、かねてから民権派郡長として知られており、また吉野は最初にふれたように小田原仁恵社の社長で、国会開設請願の先駆者とも言うべき人物である。これだけのメンバーが国会開設の件で福沢を訪れたとすれば、福沢は単に建白書の起草だけでなく相州の運動そのものにかなり積極的にコミットしていたものと考えられる。 福沢が国会開設運動をどのように見ていたかは、この時期のかれの著作である『国会論』や『時事小言』で知ることができる。たとえば『時事小言』では運動に参加する人民を非難して、「世の国会開設を願望する者を見るに幾千名の調印と云ひ、幾万人の結合と称するも事実其人の大数は国会の何物たるを知らず、其開設の後には如何なる利害が我身に及ぶべきやも弁へず、唯他人が所望する故に我も亦願望すると云ふに過ぎず」とのべている。総じてかれは自由民権運動を「駄民権」と罵倒し、それに敵意さえ示していたのである。 その福沢が相州の国会開設運動について、一定の支援を惜しまなかったのはなぜであろうか。その疑問を解く一つのカギとして交詢社の存在が浮んでくる。交詢社は一八八〇(明治十三)年一月二十五日、福沢及びその門下の慶応義塾関係者によって創立された都市の啓蒙機関であった。この結社は社則では「知識を交換し世務を諮詢」する社交クラブを自称していたが、はじめから政治色が強く一八八〇(明治十三)年三月段階ですでに全国千八百人の会員を擁し、いわゆる福沢理論で武装されていた(後藤靖「自由民権期の交詢社について」(『日本史研究』一三三号))。神奈川県下でも同時期に七十七人の会員がおり、広い分野にわたって隠然たる勢力を有していた(第十三表参照)。 第13表 府県別交詢社員数(上位5位まで) 後藤靖「自由民権期の交詢社について」『日本史研究』133号から作成 注目しなければならないのは、県下の交詢社員の中に国会開設運動の指導者が多数いることである。いまその主な顔ぶれをあげて見よう(第十四表参照)。これを見ると十四人の県総代中五人までが、また二人の郡長が交詢社員であることがわかる。この辺に福沢と相州の密接な関係が指摘できよう。つまり福沢にしてみれば、交詢社員の主要メンバーが国会開設運動の指導者であるところから、乞われれば運動に対する応分の援助を提供せざるを得ない立場にあったのであろう。しかも交詢社は、発足時から国会期成同盟系の民権運動に対抗する企図をもち、運動が高揚した地帯ほど多くの社員を組織していたといわれる。そうすることによって、自由民権運動の内部に、福沢流の官民調和論をもちこみ、運動の分断をはからうとしていたわけである(後藤靖、前掲論文)。 福沢の国会論と相州の運動このように見てくると、福沢と相州の関係も自ら明らかになろう。つまりかれは、大きく高揚した相州の国会開設運動のヘゲモニーを国会期成同盟でなく、交詢社=福沢系の側に確保しておくために、敢て支援のポーズを示す必要があったのであろう。福沢系の『郵便報知新聞』が、「相模九郡ノ国会願望者」と題して、「今春愛国社員ノ相州ヲ誘説シテ、其他ノ名望アル人士ニ説クニ協力合体ノ事ヲ以テスルヤ、相州ノ主人断然之ヲ辞シテ曰ク、国会開設ハ我輩ノ希望スル所ナリ、国会開設ノ事タル我輩意見ノ存スルアリ……我ト我ガ欲スル所ニヨリテ我ガ意見ノ存スル所ヲ行フアランノミ。敢テ他人第14表 神奈川県交詢社員名簿 後藤靖「自由民権期の交詢社名簿」(立命館大学『人文科学研究所紀要』第24号)から作成 ノ為ニ灯ヲ提ゲザルナリ」(同紙十三年六月十一日付)とのべて、相州の独自性をことさら強調しているのも、同じような企図からである。 これに対して期成同盟系の『愛国新誌』が、「夫レ代議政体ハ広ク公衆ノ意見ヲ容ルベキ者ニアラズヤ、然ルニ此政体ヲ希望スル人民ニシテ、他人ノ説ヲ容レズ、徒ニ自己ノ意見ヲ以テ之ガ開設ヲ計ラントス。何ゾ代議政体ノ趣旨ヲ知ラザルノ甚シキヤ」(『明治文化全集自由民権編(続)』)と反論しているのも、あながち不当とは言い切れまい。 さいごに、福沢の起草した建白書の内容にふれておこう。福沢は国権拡張と財政論の立場から国会開設の必要性を説いている。 「方今世界万国ノ交際ハ徳義人情ヲ以テ接スベキモノニ非ズ、又約束法律ヲ以テ制ス可キニ非ズ。唯恃ム所ハ兵力ニシテ求ムル所ハ利益ノミ」(資料編1 3近代・現代⑶一二) このような「万国交際」の中で、「我国モ独立シテ国威ヲ世界ニ輝サントスル」のは容易なわざではなく、まず第一に「兵備ヲ厳重」にしなければならない。しかも今日財政衰頽の折から、財源の確保には「国債ヲ募ツテ急ヲ救フ」以外に方法はないが、現状では人民の協力も得られない状態である。そこで政府が国債募集のために人民の協力を得ようとするならば、国会開設しか道はない。要するに国会開設は、「人民ヲシテ困難ニ当ラシムルノ方便」だというのである。以上が福沢の起草した建白書の要旨である。 ところで、この建白書と先に見た諸郡の締盟書とでは、その主張に大きな懸隔があることに気付く。建白書が専ら国権拡張と財政難打開から、国民の支持をひき出す「方便」として国会開設を説くのに対して、締盟書は素朴ではあるが公議与論と天賦人権論に基づいて国会論を展開している。この締盟書が国会開設運動の地元の論理と主張を代弁したものとすれば、建白書はそれを依頼した地元とは別個の、福沢自身の国会論をのべたものと見るべきであろう。 ともあれ、その後の神奈川県下の自由民権運動が、福沢の政治的企図とその思想的限界をこえて、大きく前進したことは後述する通りである。さし当ってここでは、交詢社に加盟していた国会開設運動の指導者たちが一、二年後には全員が脱退(第十四表参照)し、その主要メンバーが自由党へ結集していったことを付記しておく。 五 県会のたたかい 経費削減と民力休養をめざして国会開設運動で発揮された民権運動のエネルギーは、同年(明治十三年)の県会における民権派の活動にもあらわれた。この年の通常県会は六月八日からはじまったが、その雰囲気は前年とはうって変ったものであった。 昨年は県会の開設の年ということもあって、県令と議会との関係は極めて平穏であった。野村県令の柔軟な姿勢と県会側の協調的態度とが相まって、議案の審議もスムーズに運んだ。たとえば議会側は、地方税収支の議案について、「人民一般ノ休戚ニ係ル」ものとして全項目にわたって減額修正したが、県令もそれをうけて「悉ク認可」するという具合であった。県会の開設にあたってその社説で、「県官ノ専諮」を警戒していた『東京横浜毎日新聞』も、その平穏な審議状況を評して「官民共和」の県会と呼んだほどであった。 その状況が国会開設運動を契機に大きく変った。もともと、三新法体制下の県令と議会との関係は極めて一方的なものであった。県令は県会の召集、中止、解散権をはじめ、議案提出権を一手に握り、県会の議決についても認可するかどうかの決定権を持ち、不当と認めた議決については再議に付する権限と、内務卿の指揮による原案執行権を有していた。それに対して議会側は、「府県会規則」によれば「地方税ヲ以テ支弁スベキ経費ノ予算及ビ其徴収方法ヲ議決」(第一条)し、「前年度ノ出納決算ノ報告ヲ受ケ」(第六条)、「其府県内ノ利害ニ関スル事件ニ付政府ニ建議」(第七条)する程度の権限しか認められてなかった。このように当時の府県会は、地方自治の代議機関というよりも、明治政府の地方統治のための補助機関的性格が強かった。 さて、十三年六月の議会は最初から激しい対立が予想された。国会開設運動の成功で勢いづいた民権派議員は議席の三分の二を占め、県民の要求である「民力休養」「経費節減」をかかげて、予算案の全費目にわたる修正を迫った。なかでも歳出予算額の二三㌫を占める港湾道路堤防橋梁費など土木費の攻防が焦点となった。民権派はこれらの土木費を全額国庫負担(国庫下渡金)にするよう要求して廃案に追いこんだ。第十五表は同年度の歳出予算の原案及び修正額をあらわした第15表 1880年度神奈川県歳出予算一覧表 ⑴ ○増額,△減額,×廃案 ⑵ 上の表は色川大吉「明治前期における地方統治と地方自治」(東京経済大学『人文自然科学論集』No.5)から転載 ものであるが、減額修正は土木費を筆頭に殆んどの費目に及び、総額にして予算原案の実に三分の一、十八万円にのぼっている。 六月議会における県令と議会側との攻防は、五十余日という異例の長期議会となったが、十二月の臨時議会において遂に両者の対立は絶頂に達した観があった。この時の最大の争点が悪名高い「備荒儲蓄法」であった。この法案は政府が凶歳時でも租税の確保に支障が起きないよう常時国民に一定の備蓄を義務づけるもので、実質的な増税を意味していた。そのため全国的にも多くの府県で反対運動が起こり、法案審議をめぐって議会は紛糾した。 神奈川でもこの法案が県会に上程されるや、はじめ議会内では修正案、廃案、延期案の三案に意見が分れたが、結局どの意見も多数が得られず廃案となった。これに対して野村県令は、法案を再議に付したがそれも議会側は多数でほうむった。そこで県令は内務卿の指揮を乞い、ついに絶対多数の反対を押し切って原案執行を強行したのである。 このように十三年度の神奈川県会は、国会開設運動の高揚にはげまされて、藩閥政府=県令の収奪財政政策に果敢に抵抗する民権勢力の橋頭堡の役割を果したのであった。国会開設運動と県会闘争を連続してたたかった県議たちは、このあと「地方の団結」「実力の養成」を旗印に、それぞれの地域で民権結社の結成や学習活動にとり組んでいく。なおこの両度の県会で議長をつとめたの第16表 1979~80年の『東京横浜毎日新聞』の県会関係の社説 は、建白をめぐって野村県令と対決した今福元頴であった。 『東京横浜毎日新聞』の役割次に民権派の県会活動を側面から掩護した『東京横浜毎日新聞』の活動に若干ふれておきたい。同紙は一八七九(明治十二)年十月まで、横浜に本社を置いたこともあって、神奈川県内に多数の読者をもち、編集面でも県内の動向に強い関心を向けていた。一八七九(明治十二)年十一月、沼間守一が同紙を買収して社長に就任すると、『東京横浜毎日新聞』は、嚶鳴社の機関紙としての役割もかねて、東日本を代表する有力な民権派新聞となった。また、沼間自身もそのころ東京府会副議長の職にあり、府県会における民権派の動向にはことさら注目していた。 ところで、『東京横浜毎日新聞』は神奈川県会の開設以来、会期ごとの議会傍聴記を連載するとともに、時々の社説で県会活動の重要な指針となる論説や記事を系統的に掲載した。いまその主なものを同紙から拾ってみよう。 第十六表に見られる通り、この中には神奈川県会を直接扱った社説が三編あり、同県政への関心の強さをあらわしている。また、「地方政府ノ改革」という前後六回に及ぶ長文の論説は、中央集権化を排除して府県の自治を保障するため、議員選挙権の拡大、県令の議会からの選出、書記官等の冗官の削減、府県会規則第五条にある内務卿の指揮監督権の廃止など、抜本的な制度改革を提唱している点で注目される。同じく「地方官ハ宣シク議会ノ下ニアルベシ」という論説も、県令の行政権に対する府県会の立法権の優位を主張していて興味深い。さらに太政官布告第四八号等の増税布告や備荒儲蓄に関する論説は、議会での議案審議にあたって少なからず参考になったであろう。 このように、『東京横浜毎日新聞』の活動が、明治十二、三年の民権派議員の県会活動に、重要な指針を与えたことはまちがいない。同紙と県内民権勢力との親密な関係は、一八八二(明治十五)年、自由、改進両党の分立という民権勢力の二大陣営への分裂まで続くのである。 第二節 結社の発展 一 多彩な結社の誕生 神奈川県におけるもっとも早い結社としては、南多摩郡の責善会と横浜区の鶯鳴社をあげることができる。ともに一八七八(明治十一)年の成立である。 しかし、これから述べるように結社が多く組織されるのは国会開設運動が展開する一八八〇(明治十三)年以降である。結社といっても政治結社(政社)だけではないが、多彩な結社の誕生が、わが国に民主的な国会を創設しようという新しい政治の気運と深く結びついていたことはたしかである。ここにいう結社とは、当時の主として農民や一部の商人たちが、共通の目的を掲げ、対等な資格で組織した団体である。 今日の研究会や政治団体の源流と考えればわかりやすい。農民たちのこのような組織づくりは、封建社会に見られなかった新しい動向であり、その自立した姿勢は注目にあたいする。それだけでなく、ここで結社のまとまった認識が必要なのは、その活動が自由民権運動や政党結成の基礎になっているからである。幸いなことに神奈川県の場合、結社の研究は全国的に見てもっとも進んだ県の一つに入っている。それでは、蓄積された諸研究をふまえ、現在までに判明した結社を郡区別・年代順に整理し、その概要をまとめてみよう。叙述に多少の差が出るのは、資料に制約があるためである。 結社を個別に調べる前に、わかりやすくするため結社を全体として概観しておこう。その場合、結社の活動が社会において占める比重が大きく独自の意義を持っていたのは明治十年代であると考えるので、考察をこの時期に限定することをあらかじめことわっておきたい。その明治十年代の県下において、現在判明する結社の総数は百二になる。いまのところ百をこえる結社の内容が不十分ではあれ判明したのは、全国でも本県だけであろう。さて、その内訳を見ると、横浜区九、橘樹郡九、都筑郡四、西多摩郡十五、南多摩郡二十一、北多摩郡九、三浦郡三、鎌倉郡一、高座郡三、大住郡・淘綾郡あわせて二、愛甲郡十四、津久井郡三、足柄下郡三、在東京六になる。この数からわかるように、南多摩郡が断然多く、結社全体の二〇㌫を占める。さらに三多摩をあわせると実に全体の四六㌫になる。現在の横浜市・川崎市に重なる横浜区・橘樹郡をあわせると同様に一七㌫強、愛甲郡が同様に一三㌫強になる。これは次節で見る自由党員の分布にほぼ照応する数値であり、政党組織でいえば南多摩郡自由党・北多摩郡自由党・西多摩郡自由党・愛甲郡自由党に対応する。さしあたり政治面だけで見れば、結社の組織なくして政党の組織化はありえなかったことがよくわかる。多彩な結社は、大きく政治結社・学習結社・産業結社に分けられるが、その内容と考察については本節の結びにまわしたい。 横浜区 一 鶯鳴社 一八七八(明治十一)年十月十三日、横浜区太田町の料理店「佐の茂」で発会式をあげた。当日、有名な嚶鳴社を主宰する沼間守一が招かれて演説をしている。社員は、戸塚・早矢仕・木村・本多以下二十余名と報じられているが、この中心になっている社員は、のちにいずれも県会議員となる戸塚千太郎・早矢仕有的・木村利右衛門・本多武右衛門と思われる。鶯鳴社の集会は毎月土曜日、傍聴自由と定められていた(『横浜毎日新聞』、明治十一年十月十一日・同十六日付)。 二 第四嚶鳴社 一八七九年、沼間守一が主宰する第一東京嚶鳴社の影響下に成立、横浜区だけでなく五日市・府中・八王子・日野・吉野・久保沢などの有志の招聘に応じ、毎月演説会を開催した(色川大吉「明治前期の民権結社と学習運動」『東京経済大学人文自然科学論集』二一号、以下「色川論文」と略称する)。 三 横浜苦楽府 一八八〇(明治十三)年七月十七日、横浜に設立された。南多摩郡日野宿の民権家天野清助も入社している(新井勝紘「自由民権の昂揚―結社の活動を中心に」『三多摩自由民権史料集』上巻、以下「新井論文」と略称する)。 四 顕猶社 政談演説会を主要な活動とした県下の代表的な政治結社の一つである。「顕猶社仮社則」は一八八〇(明治十三)年十一月二十一日にできており、届出認可を受けたのが翌月の八日であった。斎藤忠太郎・最上幸吉・青山和三郎の三人が発起人で、戸塚・小田原などの加入者も含めて当初約二百余名横浜に結成された顕猶社仮社則東京経済大学図書館蔵 の会員がいた。後に同社は、「顕猶社討論会概則」を定めている。この討論会は、毎月第一第三土曜日に、社員のみで政治・法律・経済などの問題を討論により深めようというものであった。顕猶社の表看板は、何といっても演説会である。横浜鉄橋際の富竹亭で多く開かれた演説会の演題を見ると、国政の在り方を論ずる政治問題や法律・経済などにわたる学芸関係が圧倒的に多いことがわかる。演説者は社員だけでなく、東京横浜毎日新聞記者や嚶鳴社員が招かれており、全体として嚶鳴社の影響が強かった(渡辺奨「自由民権運動の高揚期における横浜政治結社の動向」『神奈川県史研究』五号、資料編1 3近代・現代⑶一六)。 五 政談自由演説会 一八八一(明治十四)年二月二十七日、伊従勝五郎を会長として設立された(色川論文)。 六 政談横浜演説会 一八八一(明治十四)年四、五月ごろ設立された。漸進的な顕猶社にあきたらず退社した伊従勝五郎・高橋親義らが主宰した(渡辺前掲論文)。 七 横浜学術討論会 一八八一(明治十四)年九月二十五日の『東京横浜毎日新聞』に設立広告が出されている。それによれば、会費毎月十五銭、開会二回、法律・経済その他学術に関する事項を討論するというものであった。連絡責任者は宮川町の鈴木券太郎で、鈴木は顕猶社の有力なメンバーでもあった(渡辺前掲論文)。 八 愛林社 一八八二(明治十五)年二月二十六日に発会式を行ったと推定される。長者町の最上幸吉ほか数名が発起人で、規則を作り、樹木の培養に従事することを目的にしていた(『東京横浜毎日新聞』明治十五年二月二十一日付)。 九 研磨会 一八八四(明治十七)年六月に、横浜商人の有志が設立し、知識の研磨、元気の振起、商業の改良を目指した(新井論文)。 橘樹郡 一〇 橘樹郡親睦会 一八八一(明治十四)年二月十一日、溝ノ口桜鶴楼で開催された。会主は郡長松尾豊材、幹事は浅田定賢・添田知義・鈴木直成・荒波孫四郎・石井直方・田中光弼・河合平蔵の七人でいずれも戸長、賛成者は百八十五名に達した。当日、県会議員の岩田道之助は他府県の有志結合・演説会・討論会の例を引き、本郡の進歩を促すため有志の団結をはかり、毎月あるいは隔月に政談演説会を開こうと演説している。この親睦会に刺激されて発足したのがつぎの旧五大区親睦会である(小林孝雄『神奈川の夜明け』)。 一一 旧五大区親睦会 一八八一(明治十四)年七月一日、溝ノ口で開かれた。旧五大区は溝ノ口村ほか三十六か村であるが、当日村々より百二十名の参会者があった。この親睦会の幹事長には溝ノ口村戸長の鈴木直成があげられた(小林孝雄前掲書)。 一二 武相同盟会 横浜住吉町の森屋善三郎ら幹事が、一八八一(明治十四)年九月十七日、神奈川町名古屋楼にて会費一円で同会を開催する広告を出している。その他同会についての詳細は不明である(『東京横浜毎日新聞』明治十四年九月六日付)。一三 「神奈川駅政談演説会」(正式の名称不明) 一八八二(明治十五)年一月三十日に東京横浜毎日新聞の島田三郎ら三名を招き政談演説会を開いているので、それ以前に発足したことがわかる。神奈川駅の鈴木金助・木村秀哉らの発起によるもので、三十日の演説会が二百四、五十名の盛会だったことから以後毎月一回開催を予定、会員募集にのり出している(『東京横浜毎日新聞』明治十五年二月四日付)。 一四 学術演説会 一八八二(明治十五)年五月ごろ、郡下の発起人数十人の名を連ねて発足、中心人物は島田三郎・中村久太郎・井田文三で、本拠を川崎村に置いた(色川論文)。 一五 頼母子懇談会 一八八二(明治十五)年十二月、井田文三(郡書記を辞職、県会議員)を会主とし井田啓三郎・山根喜平・新井市左衛門・鈴木久弥・城所範治・河合平蔵・田村義員・鈴木直成らによって組織されたが、集会条例により禁止され、通常頼母子講に改められた。同会は、頼母子講によって会維持の資金を得るとともに講の会衆で演説会を開くという一石二鳥をねらったユニークな方法を考え出している。一八八三年四月一日、溝ノ口宗隆寺で会衆六十余名の政談演説会を開き、島田三郎・赤羽万二郎・波多野伝三郎らを招いている。一八八四年一月六日にも会衆七十余名が等覚院で学術演説会を開いた(小林孝雄前掲書)。 一六 神奈川相親会 鈴木金助らが一八八二(明治十五)年に神奈川駅青木町に設立した。知識の交換を目的としたが、十七、八回開催して解散した(新井論文)。 一七 神奈川談話会 一八八四(明治十七)年二月、神奈川駅に設立された。会員四十名で、横浜より自由党員佐藤健治郎、関貞吉らが参加しており、毎土曜日に開会した(新井論文)。 一八 酔飽会 一八八四年四月八日、神奈川駅に設立された。神奈川談話会に横浜の有志が加わったものである(新井論文)。都筑郡 一九 育英社 一八八〇(明治十三)年四月八日以前に、石川村の金子馬之助により設立された(『東京横浜毎日新聞』明治十三年四月八日付)。 二〇 共愛社 一八八〇(明治十三)年四月八日以前に数名の発起人により設立された。育英社の金子馬之助が社員として参加している。同社の目的は貧民救助、育英資金の提供などであるが、毎月数回の演説講談会を開催することも協議している(『東京横浜毎日新聞』明治十三年四月八日付)。 二一 攻玉会 一八八一(明治十四)年二月、大谷教曹・佐藤貞幹・飯塚民治郎らにより池辺村に設立された。知識の交換、井田文三 学術研究を目的とし、毎月一回演説討論会を開いた。翌八二年一月に規則を作成し、弁士の招聘も行った(新井論文)。 二二 相東社 一八八一(明治十四)年、久保村の佐藤貞幹、下川井村の桜井光興らによって設立された。この二人はいずれも後に県会議員・自由党員として活躍している(色川論文)。 西多摩郡 二三 学芸講談会 五日市村の内山安兵衛・土屋勘兵衛・深沢権八らにより結成されたもので、学芸全般について講談演説・討論することを目的とし、毎月三回五の日(当初は一の日)に開会した。嚶鳴社員の波多野伝三郎が、一八八一(明治十四)年十一月一日の懇親会に招かれたとき、同地の演説のすばらしさに驚いて質問したところ、「昨年より毎月三回宛学術講談会を催」してきたためだとの答があったという(『東京横浜毎日新聞』明治十四年十二月四日付)。この記事によれば、学芸講談会は一八八〇(明治十三)年に存在していたことになる。この会に、放浪の思想家千葉卓三郎が名を連ねるのは一八八一年からである。(色川論文、色川大吉編『民衆憲法の創造』)。 二四 五日市討論会 「私擬五日市討論会概則」と表記された墨書の文書によれば、この会は、政治・法律・経済など学術全般の内より重要な事項を選んで討議し、多数決によってその日なりの結論を出す方法をとっていた。開会日は毎月三回五の日であるが、前記の学芸講談会の幹事の判断により延会や臨時開催も認められているから、学芸講談会によって設立されたものと考えられる。その時期は、一八八〇(明治十三)年十二月以降と推定されている。この学芸講談会と五日市討論会の活動が、全文二百四か条、そのうち「国民ノ権利」に三十六か条、「立学芸講談会盟約 東京経済大学図書館蔵 法権」に七十九か条をあてて、人権保障に周到な注意を払った「五日市憲法草案」を生み出したのである(色川前掲書)。 二五 耶蘇講会 『東京横浜毎日新聞』(明治十三年三月二十六日付)の「武州西多摩郡五日市の近況」と題した記事のなかにその名が見えるが、詳細は不明である。 二六 茶談会 右と同じ記事中に、小学校教員によるものとある以外は不明である。 二七 自助筆談会 一八八一(明治十四)年九月、八尾玄益・深沢権八・木崎雄蔵・坂本次郎左衛門・石川保助ら発起人十三名によって青梅町に設立された。同会は各自の思想を印刷して討論し、知識の交換をはかった(新井論文)。 二八 箱根ケ崎有志者懇親会 比留間(雄亮か)・山田・関谷・佐々・宮崎らの首唱で、一八八二(明治十五)年二月以前に結成、毎月一回開会した。一八八二年二月十三日の場合、嚶鳴社の島田三郎・草間時福の演説を会員百余名が聞き、夜に入ると、県会議員内野杢左衛門・指田茂十郎も加わり、会員二十余名が討論会を開いている(『東京横浜毎日新聞』明治十五年二月十六日付)。 二九 南風社 三〇 玉成社 南風社は多摩村に、玉成社はその隣村平井村に設立された結社で、学習会や演説会を開いて活動していたようである。一八八二(明治十五)年四月七日、東京横浜毎日新聞の細川瀏・鈴木券太郎が多摩村有志に招かれ当地の懇親会に出席したときの感想に、両社が演説に習熟していると述べているから、この懇親会を開催した日以前に結成されていたことがわかる。この会に尽力した人びとは、須藤・坂口・比留間・佐々木・鈴木(氏名不詳)であった(『東京横浜毎日新聞』明治十五年四月十二日付)。 三一 建極党 一八八二(明治十五)年ごろ、千葉卓三郎らが、自由の拡充と社会の改良を掲げて、五日市町に設立した(新井論文)。 三二 時習社 一八八三(明治十六)年十二月、静原寛十郎・坂本次郎左衛門、田村半十郎らにより青梅町に設立された。会員は百四十名、地方の漸進的改良をはかることを目的とし、懇親会を開催した(新井論文)。 三三 西多摩郡私立教育会 一八八四(明治十七)年三月二十三日、石川保助・嶋田六助・木崎雄蔵・佐々木基らによって設立され、本部を青梅町に置いた(色川論文)。 三四 積善社 一八八四(明治十七)年三月二十八日、上成木村に設立され、貧民救助を目的とした(色川論文)。 三五 交進会 一八八四(明治十七)年四月、土屋勘兵衛・山野熊太・東海林保定・秋山文一らにより五日市町に設立された(新井論文)。 三六 憲天教会 内山安兵衛・深沢権八・名生父子らにより、一八八五(明治十八)年三月、五日市町に設立された。この会は、「釈尊ノ大教ニ憲トリ天地ノ公道ヲ明カニシ以テ社会ノ開明ヲ補翼スル」ことを目的とし(第二条)、毎月講談会を開き、費用は有志の寄附金によると規約に定めている(色川論文)。 三七 英語学会 一八八六(明治十九)年、内山安兵衛・深沢権八らにより、五日市町で発起された。その趣意書によれば、文明の発展、外人との交際を予想して、世界に広く使用されている英語を「速成」(六か月)で修得させようというものであった(色川論文)。 南多摩郡 三八 責善会 「責善会規則」には一八七八(明治十一)年五月の日付があり、現在までに判明している神奈川県の最初の結社である。橋本政直・石坂昌孝(野津田村)・薄井盛恭(上小山田村)・中溝昌弘(大蔵村)・若林有信(下小山田村)・嘉山荘助(小野路村)・村野常右衛門(鶴川村)・榎本重美(真光寺村)ら各村落の有力者十九名により創設された。会の目的は、「社友相共ニ協心同力シテ過失ヲ格正シ疑事ヲ討議シ非ヲ責善ニ導キ知識ヲ開達シ産業ヲ振興セシメ其佗百般各自ノ便益ヲ計」ることにあった(第一条)。そのため毎月第二日曜日の午前九時から午後四時まで会合し、場合によっては臨時会を開き、「親戚長幼尊卑ヲ論セス」自主対等に討議を尽すことがもとめられていた。知識を深める討議、産業振興策についての意見交換、「自己ノ身上ニ於テ未決ノ事」などあるときの相談(第十条)という会の趣旨は、参加者の要求に深く根ざしており、その意味で農民的結社の原型を見るように思われる(色川論文)。 三九 八王子第十五嚶鳴社 東京の嚶鳴社の影響下に、一八八〇(明治十三)年一月十七日、成内頴一郎ら五十名ほどで八王子に発足した(色川論文)。社則によれば会の趣旨は、「交誼ヲ厚クシ智見ヲ広メ学識ヲ長シ物産興起ノ途ヲ求メ」ることにあり、そのためには何よりも意見を交換する「演説討論ノ会」を設ける必要があると述べられている。会合は毎月十二日、二十二日を定則とし、午後六時に開会、論題(其の場で出されるものと宿題になっていたものと二種ある)についての討論会、ついで演説、また討論会という方式で運営された(資料編1 3近代・現代⑶一五)。 四〇 琢磨会 一八八〇(明治十三)年四月、細野喜代四郎(小川村)・井上光治(鶴間村)らが中心になり、「学術演説討論等ヲ研究」する結社として出発した。会員は、細野・井上のほか、能ケ谷村の神蔵喜六・同長造・同要吉、岡上村の梶竹次八王子第十五嚶鳴社々則 内野悌二氏蔵 郎・和知春吉・同光美、高ケ坂村の小島豊一・市川堯造、小川村の前田幸之助・野村吉寛・上鶴間村の渋谷常次郎・同徳次郎・恩田村の三部原二良、鶴間村の細野彦太郎の十六名で、南多摩・高座・都筑の三郡七か村にわたっていた(『町田市史』下巻)。 四一 政談演説会 一八八一(明治十四)年一月十二日、八王子・三沢・豊田村を範囲として設立された。発起人は成内頴一郎・川口寛一・谷合弥七・吉田忠左衛門・赤松良折・梅村由五郎・土方円・今井匡之・師岡豊之助ら十名で、毎月一回東京より弁士を呼んで演説会を開くことにしていた(新井論文)。 四二 養英館 一八八一(明治十四)年一月、青木勘次郎(校主)・島崎伊右衛門・吉川宗右衛門により、相原村に八年制の私立小学校として設立された。同年七月五日、中島信行の演説会が養英館で開かれており、学習結社としての役割も果たしていたと考えられる(『町田市史史料集』第八集)。 四三 武相懇親会 石坂昌孝・榎本重美らを発起人とする武相懇親会は、一八八一(明治十四)年一月三十日、原町田村の旅館吉田屋で開催された。最初に、招待された松沢求策・上条信次(東洋自由新聞)、肥塚龍(東京横浜毎日新聞)、末広重恭(朝野新聞)を弁士とする演説会があり、その後宴会に移った。後日印刷された「武相懇親会第一回姓名録」によれば、参加者総数は二百三名で、南多摩郡内二十九か村百四十九名がもっとも多く、ついで高座郡二十九名、都筑郡十六名、鎌倉郡六名、橘樹郡一名、愛甲郡一名、大住郡一名となっている。発起人の石坂は、県下の指導的な民権家であり、野津田村の豪農で一八七九年の第一回県会議員に当選、初代県会議長に推されているし、「姓名録」に見える村野常右衛門・中溝昌弘・細野喜代四郎・青木正太郎・林副重・日野義順・山本作左衛門・神藤利八・桜井光興・佐藤貞幹は前後して県会議員になった人びとであり、その他の参加者も戸長層に属する者が多かった。武相懇親会は、いわゆる一回かぎりの懇親会ではなく、「姓名録」の緒言によれば「将来保続益拡張ヲ計ルヲ期ス」ものであり、「人類ノ開明ニ向フ」という時代において、同心結合し「武相ノ地ヲシテ善美ノ楽土トスル」ことを目指していた。同会は、やがて融貫社から南多摩郡自由党へと発展する(渡辺奨「民権運動昂揚期の地方政社の組織過程」『日本歴史』一五〇号、『町田市史史料集』第八集)。 四四 教育演説会 一八八一(明治十四)年四月以前に成立、会員は石坂昌孝(野津田村)・青木正太郎(相原村)・小池(上小山田村の九平か)・岡見らである。同年四月三日、東京横浜毎日新聞社の肥塚龍・吉田次郎を招き、原町田村の吉田屋で教育演説会を開催、その後の懇親会には有志百余名が参加した(『東京横浜毎日新聞』明治十四年四月一日・同五日付)。 四五 融貫社 『明治十四年第八月融貫社規則』と題するパンフレットは、この社についての最初の構想を示す文書で、溝ノ口の上田家所蔵のものには「融貫社世話人」という丸印が押されている。これは正確にいえば世話人による規則案である。正式の「融貫社規則」は、同年十一月三日、原町田村の吉田屋で開かれた創立大会で確定された。両者を比較してみると、民権を拡大し立憲政体の基礎を確立するという目標に基本的な変化はなく、また責善会の場合と同様に社員のかかえる問題について相談にのるという一項もそのまま生かされているが、組織方針は変った。最初の構想では、第十二条に「常設議員ハ原町田ヨリ三里以内ニ居住スル者」と限定されており、原石坂昌孝 融貫社規則 上田安左衛門氏蔵 町田村に本社を置いて南多摩郡を中心とした結合が考えられていたようである。加入方式については、個人加入と既存政社の加入ないし連合方式がとられていた。確定した規則では、個人加入方式に限り、本社は仮に原町田村に設置するとし、常設議員の地域を特定せず支社を分設して県下全域にわたるように配慮されている。組織論に見られるこのような変化は、自由党の結成と関係しているものと思われる。この年十月二日から始まる自由党結成大会には、つぎの節で述べるように十名が参加している。南多摩郡を中心とする政社として構想されていた融貫社に神奈川県の自由党としての役割りを果たすことが大会参加者に意識され、融貫社を首唱した石坂昌孝ら世話人もその方向に進むことを了承し、全県的な組織編成方法がとられたのであろう。神奈川県平民大久保常吉編『日本政党事情』(明治十五年九月刊)にも神奈川県の自由党として融貫社の名が挙げられているし(同書の「貫融社」は誤植)、融貫社の行動自体もそれを物語っている。 融貫社員名簿は不明であるが、社員数は百五十名から三百名の間であったと推定されている。渡辺欽城『三多摩政戦史料』によれば、主な創立委員(○印は自由党大会出席者)、賛助員(△印)はつぎのようであった。〈南多摩郡〉石坂昌孝・村野常右衛門・細野喜代四郎・青木正太郎・林副重・△渋谷仙二郎。〈北多摩郡〉吉野泰三・○中村克昌・△中村重右衛門。〈西多摩郡〉△瀬戸岡為一郎。〈高座郡〉○山本作左衛門。〈都筑郡〉○佐藤貞幹・金子馬之助・桜井光興。〈津久井郡〉△梶野敬三。原町田村の渋谷仙二郎宅に事務所を置いた融貫社は、演説会などの活動を展開し、自由党に連なる旗色を鮮明にしていったが、詳細については不明の点が多い。後述するように、各郡に自由党が結成されることにより、融貫社はその役割を閉じたものと思われる(前出四三の結社の典拠に同じ、資料編1 3近代・現代⑶二三)。 四六 川口青年会 一八八一、二年頃、秋山国三郎・秋山文一・秋山文太郎・大矢正夫らにより、川口村に設立された(色川論文)。 四七 博愛社 一八八二(明治十五)年以前に設立された。大塚村の村吏・教員を中心とする百二、三十余名により組織されたもので、同年一月十一日、自由党幹事柏田盛文・大石正巳を招待した懇親会で自由党への加盟を表明した(『朝野新聞』明治十五年一月十五日付)。 四八 融貫社講学会 融貫社の外郭団体として、一八八二(明治十五)年七月に組織されたものと推定される。学術の研究を目的とし、本を用いて教師から学ぶ形式がとられており、別に生徒を教育する「義塾」も構想されていた。発起人には、青木正太郎・武藤佐太郎・渋谷仙二郎・細野彦太郎・長谷川彦八・露木昌平・安藤忠兵衛・桜井光興・佐藤貞幹・石坂昌孝が名前を連ねている(横浜市旭区桜井栄一郎氏所蔵文書)。 四九 開進社 一八八三(明治十五)年十一月五日、中嶋仙助ら六人が発起人となり下恩方村に設立した。同社は立憲改進党系で、月二回立憲改進党員を招聘し、刑法講義と学術演説会を開いた(新井論文)。 五〇 凌霜館 野津田村の村野常右衛門が自分の所有地に私財で建設したクラブで、近隣の青年に剣術を指導し、あわせて師範学校出身の篠原某による学芸の教授を行うことを目的としていた。一八八二(明治十五)年十二月に起工、翌年二月六日の開場式には剣術試合を催している。会員は三十~五十名位と推定されている。村野は二十二歳で戸長に挙げられ、民権家として活躍、大阪事件に参加、県議を経て、後年政友会の幹事長を勤めた(村野廉一・色川大吉『村野常右衛門伝―民権家時代』)。五一 保信社 栗原政蔵・浜弥一郎・増田道次郎を発起人として、一八八三年六月、八王子に設立された。同社は立憲改進党系である(新井論文)。 五二 八王子共立政談討論会 梅村由五郎・川崎有則が発起人となり、一八八三年九月、八王子町に設立、毎土曜日に討論会を開いたが十一月より政談演説会を開催した。会員は三十人、立憲改進党系の結社であった(新井論文)。 五三 多摩講学会 一八八三(明治十六)年十月十日、林副重・平野友輔・小林幸二郎・青木正太郎らによって、八王子町に創設された。同会は、政治・法律・経済等の学習と学術関係の演説討論を行うことを主旨とし、会場も八王子だけでなく日野・相原・柚木・図師・原町田村に適宜輪番に設けるようにしていた。最初、講師には英学者で民権家でもあった佐々木三郎を東京から招いたようである(色川論文)。 五四 八王子広徳館 三多摩および津久井郡の有志によって、一八八三(明治十六)年十月十三日に星亨・北田正董を招待し開業式をあげた。八王子町に設立された同館は、東京広徳館と連絡をとりながら、訴訟の相談・弁護人の紹介・紛争の仲裁・訴訟関係書面の作成など人権の保護伸張に従事することを目的とした在野法曹機関であった。林副重を館主とし、石坂昌孝・青木副太郎・石原金左衛門・青木正太郎・高木吉蔵(南多摩郡)、吉野泰三(北多摩郡)、梶野敬三・中里市左衛門(津久井郡)が同館の重立った人びとである(色川論文、『自由新聞』明治十六年十月十六日付)。 五五 共立会 一八八三(明治十六)年十一月二十五日、細野喜代四郎・平野友輔・森久保作蔵・土方啓次郎らにより、八王子町に設立された(色川論文)。 五六 有恒社 梅村由五郎・川崎有則が発起人となり、一八八四年五月、八王子横山町に設立した。立憲改進党系の法律事務所で、訴訟の鑑定・代言紹介・示談仲裁を主な仕事とした。同社の代言人には浜弥一郎・依田銈次郎がいた。依田は明治法律学校八王子分校の校長でもあった(新井論文)。 五七 鴻武館 一八八四年十月一日、山口重兵衛・山上作太郎・山上卓樹・林副重らによって、元八王子村に設立された(色川論文)。 五八 神奈川県苦楽府 一八八三(明治十六)年十一月に設立され、当初本部を仮に八王子町に置き、神奈川県居住者は男女の別なく加盟できること、春秋二回の大集会を催すことなどを規定した簡単な規約が判明するが、詳細は不明である。自由党解散後の組織維持策であろうか(資料編1 3近代・現代⑶三四)。 北多摩郡 五九 五宿駅の演説会(正式名称不明) 一八八〇(明治十三)年春ごろより、甲州道中の五宿駅(上石原・下石原・上布田・下布田・国領駅)には演説会が設けられており、ときどき嚶鳴社員が招かれていた。一時同会は中絶状態になったが、翌年三月二十日、嚶鳴社員堀口昇・東京横浜毎日新聞の竹内正志を招き、調布小学校で学術演説会を開いて再開、以後毎月第三土曜日を会日と定めた。中村克昌(上石原)・中村重次郎・粕谷有隣・原録之助・間橋重太郎・谷戸市衛・新川銀司・蘆川紋太郎・里見理勝らの努力によるものである(『東京横浜毎日新聞』明治十四年三月二十二日付)。 六〇 府中演説会 一八八〇(明治十三)年十一月に開設され、会員は百余名、矢島新吉・島治郎右衛門・小川慮助・小川儀三郎・渡辺寿彦らが世話掛になっていた。会日は第一日曜日、演説者は会員中に十余名あり、また東京より西村玄道、東京横浜毎日新聞社の吉岡育・狩野元吉、嚶鳴社の波多野伝三郎らを招いていた(『東京横浜毎日新聞』明治十四年二月二日・同四月十九日・同十二月一日付)。 六一 武蔵六郡懇親会 一八八〇(明治十三)年十二月五日、北多摩郡府中駅高安寺で開かれた武蔵六郡(北多摩・南多摩・西多摩・橘樹・都筑・久良岐)の懇親会である。「上田正次日記」(『神奈川県史編集資料』第一集)によれば、この会の推進者は、一週間前に東京の枕橋で開かれた神奈川県民懇談会(後掲)の世話人石坂昌孝・佐藤貞幹だったと思われる。懇親会の広告に名を連ねた仮幹事はつぎの五十一名で、県会議員十三名を含み、六郡の指導的人物であった。 〈北多摩郡〉吉野泰三・矢島信吉・小川慮助・比留間雄亮・紅林徳五郎・小川儀三郎・中村克昌・板谷元右衛門・中島治郎兵衛・西野芳寛・比留間熙・本多儀太助・内野杢左衛門・指田忠左衛門・田中三四郎・矢島次郎左衛門・本多定年・中村半左衛門、〈南多摩郡〉加藤茂・谷内弥七・土方喜久太郎・富沢政賢・薄井盛恭・佐藤俊宣・富永重倪・成内頴一郎・林副重・若林有信・天野清助・石坂昌孝、〈西多摩郡〉静原寛十郎・土屋勘兵衛・田村半十郎・指田茂十郎、〈橘樹郡〉上田忠一郎・鈴木久弥・河合平蔵・池上幸操・鈴木直成、〈都筑郡〉金子馬之助・佐藤貞幹、〈横浜区〉最上幸吉・斎藤忠太郎・青山和三郎、〈不明〉矢部積蔵・中村重太郎・青木寛司・萩原隆三・清水斎兵衛・石坂実行・有竹利三郎(小林孝雄『神奈川の夜明け』)。 六二 自治改進党 自治改進党の結成には、第三節で後述するように、自由党準備会に参加した内野杢左衛門(蔵敷村)・吉野泰三(野崎村)の経験が重要な契機になっている。たとえば、自治改進党総則第一条・第二条は、その時期の内野の手帳に記入された政党組織草案の第一条・第二条と符合するからである。その後、『東京横浜毎日新聞』によれば、北多摩郡の有志本多定年・中村克昌・吉野泰三・中島治郎兵衛・比留間雄亮・横川規一らが発起人となり、一八八〇(明治十三)年十二月より懇親会を計画し、翌年一月五日、府中駅新松本楼で開会した。当日、『東京横浜毎日新聞』の肥塚龍ら三名も列席している。席上発起人より自治改進党結成の提案があり、参加者全員が賛成、盟約案が起草された。引き続き同月十五日、府中駅高安寺で内野・吉野を含む六十九名が参加して「自治改進党総則」「社則」「議則」を決定、社長に砂川源五右衛門、副社長に吉野泰三、幹事に本多定年・中村克昌・板谷某・比留間雄亮・中島治郎兵衛を選出した。同党の目的は、「人民自治ノ精神ヲ養成シ漸ヲ以テ自主ノ権理ヲ拡充」することにあり、目的達成のため毎月一回演説又は討論会を開催し、適宜の事業を行うことにしていた。「自治改進党名簿」によれば、党員数は百四十四名であった。同党は、北多摩郡自由党の前身である(『東京横浜毎日新聞』明治十四年一月六日・同二十日・同二月二日付・資料編1 3近代・現代⑶一九)。 六三 新聞雑誌講読会 自治改進党の結成が決議された一八八〇(明治十三)年一月五日に、同党の主旨を広めるための外部組織として、新聞雑誌講読会を別に組織することが決められた。「新聞雑誌講読会開設法」によれば、同会の目的は、各居村の会員が率先して「町村ノ子弟ヲ集メ各種ノ新聞雑誌及布告布達類ヲ講読或ハ縦覧」し、「見聞知識ヲ博メ人才養成ノ一助タラシメン」とするものであった。購読の費用は会員有志の拠金でまかなうこととし、当面、府中・谷保・柴崎・大神・拝島・砂川・小川・蔵敷・中藤・田無・粂川・清戸・石原・布田・烏山に開設すると定められていた(『東京横浜毎日新聞』明治十四年一月八日付)。 六四 中和会 現在の東大和市のほぼ中央部、中藤・芋窪・蔵敷・奈良橋・高木・小川・野口村近辺の有志百二十余名を会員として、一八八一(明治十四)年二月十五日に発足、自治改進党に加わった。尽力者は、内野杢左衛門・内野佐兵衛・内野藤左衛門・斎藤靖海・川島秀之介・比留間邦之介・関田栄七郎・石井権左衛門・渡辺竹七郎・渡辺九一郎・小島龍叔・川鍋八郎兵衛・宮鍋正兵衛らであった。中和会は、「天賦ノ自由ヲ伸張シ人生ノ福祉ヲ増益スル」ことを主旨とし、そのために毎月一回適宜会場を定めて演説会あるいは討論会を開くことにしており、同年三月二十七日には、中藤村真福寺において第三回の演説会を開いている。また、同年五月六日、芋窪村の昇隆学校を会場にして行われた学術演説会の場合には、東京横浜毎日新聞社の竹内正志・吉岡育が招かれ、聴衆百余名が集まる盛会ぶりであった(資料編1 3近代・現代⑶二〇、『東京横浜毎日新聞』明治十四年三月二十九日・同五月十日付)。 六五 奈良橋懇親会 一八八一年十一月、鎌田喜十郎ら村山郷十六か村の有志数十名が発起人となり、申合規則を作成して発会した。奈良橋村所在の同会には、「五日市憲法草案」作成の中心になった千葉卓三郎も参加している(新井論文)。 六六 武蔵野叢誌社 一八八三(明治十六)年八月二十八日、府中駅の民権家渡辺寿彦は、雑誌『武蔵野叢誌』を発刊した。「忠君愛国」と「人民ノ自由」拡張のために言論活動を展開するというのが刊行の意図であった。翌年十一月の同誌二五号所載「日東家伝勅命丸」は、薩長土の有司専制を風刺した戯文にもかかわらず不敬罪に処せられ、有志による救援カンパ募集までも弾圧されるという事態を生じた(渡辺欽城『三多摩政戦史料』、色川大吉「三多摩自由民権運動史」『多摩文化』八号)。六七 府中義塾 一八八三年十一月、府中駅に開設され、英学と漢学を教授した。同塾には幼長、職業を問わず自由に入学できた。創立には高潮豊三の援助があった(新井論文)。 三浦郡 六八 相東社 一八七九(明治十二)年か八〇年ごろ、鈴木中心・江頭正五郎・古谷正橘が中心になって組織し、社員七、八十名に及んだ。毎月一回懇親会を開き、時々東京より弁士を招いて演説会を催したが、一八八二年には衰退し廃社したという(資料編13近代・現代⑶一八)。 六九 「横須賀親睦会」(正式名称不明) 県会議員古谷正橘が首唱者となり、一八八一(明治十四)年二月二十日、第一回親睦会を横須賀町の福島楼で開いた。参加者五十余名、阿保某・一条某両名の演説などがあり、以後毎月一回開催し、追々東京より演説者を招くことも決められた。第二回は三月十三日、前回を越える参加者を集めて同町鳥新楼で開催、会長に古谷正橘、幹事に高須恒外三名を選出した(『東京横浜毎日新聞』明治十四年二月二十三日・同三月十六日付)。 七〇 「浦賀町懇親会」(正式名称不明) 一八八一(明治十四)年四月二十三日、浦賀町宮の下の学校で開催、東京より演説者として高橋基一・堀口昇を招き、盛会であった(『東京横浜毎日新聞』明治十四年四月二十六日付)。 鎌倉郡 武蔵野叢誌 東京経済大学図書館蔵 七一 友文会 戸塚村に一八八一(明治十四)年七月二十一日以前に発足、山田某・内田某らの会員が中心だったようである。演説会と会員による学術研究会を主な活動内容とした。演説会には東京横浜毎日新聞社員の肥塚龍、嚶鳴社員の丸山名政らを呼んでいる。研究会は毎月六回を予定していた(『東京横浜毎日新聞』明治十四年七月二十一日・同十二月十四日付)。 高座郡 七二 相国社 一八八一(明治十四)年八月以前に、神藤利八(相原村、同年八月死亡)・山本作左衛門らによって結成された。神藤・山本は、二人とも県会議員である(渡辺欽城『三多摩政戦史料』)。 七三 真友会 一八八三(明治十六)年八月十五日に第一回真友会懇親会を座間村で開いているので、このころ発足したと思われる。第二回は、高座郡自由党員岸尾文太郎・伊藤武助および秋山・比留川・多田(名不明)らが首唱して、深谷村長龍寺で開かれた。この日申合規則を審議し、ついで幹事に山口寛一・長谷川彦八、井上光治(南多摩郡)を選出した。出席会員は、ほかに大矢保太郎・高島正領・新井蔵之助・山本与七・安藤忠兵衛・牧野随吉・石井・宇多川、佐藤貞幹(都筑郡)、石坂昌孝(南多摩郡)ら八十余名であった(『自由新聞』、明治十六年九月十四日付)。 七四 法律研究会 一八八三年八月ごろ、長後村に設立され、東京より法律学士を招いて研究会を行った(新井論文)。 大住郡・淘綾郡 七五 湘南社 一八八一(明治十四)年八月五日、大磯宿で創立大会を開いた(小宮保次郎日記)。創立委員は前郡長の山口左七郎、県会議員の中川良知らであった。当日の懇親会には相模全域から約千名の参会者があり、東京より中島信行・大石正巳・赤羽万二郎も出席した。湘南社規則第一条によれば、「諸般学術ノ研究ト智識ノ交換ヲ図リ漸次社会改進ノ気脈ヲ貫通セシメン」ために結成したとあり、そのために順次各地において毎月一回演説会ないし討論会を開くことを定めている。社長には民権家で前大住・淘綾郡長の山口左七郎、幹事に前郡書記の伊達時が選出された。事務局は淘綾郡大磯駅に置かれ、また大磯宿、曽屋・金目・伊勢原村には支所が置かれ、学習活動を進めるための講学会が組織された。 伊勢原講学会の場合、山口左七郎が、設立について中島信行にも相談し、講師には沢田弸・細川瀏を東京から招き、書籍を用いて歴史・経済・法律・政治の大要を学習し、討論により内容を深めるというもので、会員は当初六十余名であった。この講習会が憲法論について学習した記録は、農政調査会『地租改正関係農村史料集』に収録されている。それを見ると、例えば主権の所在については、議会主権説・法律帰属説もあるが、猪俣道之輔・宮田寅治などははっきりと人民主権説を唱えているし、ほかに人民の政府論なども主張されており、民権思想が相当深く理解されていたことがわかる(資料編1 3近代・現代⑶二一『東京横浜毎日新聞』明治十四年八月七日・同十五年一月二十一日付、大畑哲「民権期における地方政社の憲法論議」『倫社・政経研究』九、大木基子「細川瀏覚え書き」『季刊日本思想史』七号)。 七六 相陽自由会 一八八三(明治十六)年一月、大住・淘綾・愛甲三郡の有志が武相の団結をはかろうと結成したものであるが詳細は不明である(新井論文)。 愛甲郡 七七 共話会 一八八一(明治十四)年七月二十三日に「共話会規則」を決定、会長に黒田黙耳、幹事に霜島久円を選出して発足した。共話会は、毎月二回「一席ニ会シ利害を論ジ得失ヲ議シ珍話新説異事奇談ヲ演話」して「智識ヲ研磨拡張」しようというものであった。演説・討論の会場は当分の間厚木村と定められた。会員は当初五十四名であった(資料編1 3近代・現代⑶二二)。七八 共和社 小宮保次郎の居村下川入村に結成したもので、恐らく一村程度の結社であろう。「小宮保次郎日記」の一八八一年二月十八日の部分に記載されているが、詳細は不明である。 七九 相愛社 「小宮保次郎日記」の一八八二(明治十五)年一月二十五日に相愛社の会議招集の記述があるから、それ以前に結成されていたことがわかる。会長黒田黙耳、副会長霜島久円、幹事小宮保次郎・天野政立・難波惣平・神崎正蔵・井上篤太郎という役員構成で、厚木村に本拠を置いた。黒田は郡役所主席書記、霜島・小宮は県会議員、他の者も戸長クラスである。郡下小結社の指導的人物を会員とし、町村会議員クラスを組織対象としていたから、全郡下に影響力を持つ結社であることがわかる。事実、同年二月一日の懇親会には、千二、三百名を集めるほどの組織力を見せている。融貫社、湘南社とともに、県内三大結社の一つである。相愛社は、学術研究・討論を主要な活動とし、懇親会・演説会には嚶鳴社の肥塚龍・島田三郎らを招いている。同社が自由党との接触を深め始めたのは八二年三月ごろからで、やがて小宮・難波ら九名が自由党に加盟した(第三節参照)。八三年三月ごろ、相愛社はその活動を閉じた(大畑哲『相州における自由民権運動と豪農の実態』私版)。 八〇 乃有社 一八八二年一月二十七日以前に、小野村に結成された。同村の蘭医三橋某の指導下に会員四十余名を有し、肥塚龍が招かれた同年一月二十七日の懇親会には三、四百名を集める力を持っていた。「神奈川ノ自由ハ大山近傍ノ森林中ヨリ生ズルヤノ思ヲ為シタ」と肥塚は『東京横浜毎日新聞』(明治十五年二月一日付)に記し、続いてつぎのような結社名を参会者から聞いたと紹介している。 八一 共研社 煤ケ谷村(詳細不明) 八二 晩成社 入山村(同右) 八三 有津社 長谷村(同右) 小宮保次郎 八四 興眠社 上荻野村(同右) 八五 草風社 中津村(同右) 八六 講学会 郡内の自由党員を中心に相愛社の活動と平行して講学会の設立計画が進められていた。一八八三(明治十六)年一月十日、下荻野村法界寺において、学術研究会設立につき発起人会が開かれ、小宮保次郎・天野政立・難波惣平・井上篤太郎・川井房太郎・永野信太郎・三橋某・村上安太郎・橘川文治郎が参集した。同月十六日、会員四十名が細川瀏と客員十七名ほどを招いて講学会発会式を挙げ、十九日には役員を選出し時間割を決定した。役員の構成は、幹事小宮保次郎・難波惣平、幹事補助天野政立、常議員川井房太郎・神崎正蔵、霜島久円・黒田黙耳・沼田初五郎、常議補助井上篤太郎・村上安太郎である。 講学会の時間割は、午前七~八時『通俗民権論』(福沢諭吉)、同八~九時半『利学』(ミル・西周訳)、同九時半~一〇時半「経済」(書名不詳)、さらに午後七~八時『通俗国権論』(福沢諭吉)、同八~九時半『立法論綱』(ベンサム・島田三郎訳)という内容で、一週間から十日間にわたる集中的な短期学習計画が組まれていた。細川瀏を講師とするこのような学習会は、翌八四年にも五回開催されたことが確認されている(大畑哲前掲書、資料編13近代・現代⑶二九、この史料に一八八二年と注記したが一八八三年と訂正する)。 八七 同楽会 一八八三年七月、厚木町に設立された結社で、自他の見聞拡張を活動の目的としていた(新井論文)。 八八 愛国会 一八八三年十月二十七日、依知村に設立され周辺七か村を区域とした。荻原英助を会主とし、学識の培養、立憲政体に備えての良民養成を目指した(新井論文)。 八九 相愛協会 一八八四(明治一七)年四月に「相愛協会申合規則」が定められている。その第一条によれば、同会は、すでに活動を開始していた自由党を助成することを目的に設立されたもので、会員は愛甲郡内の「有志」、すなわち自由党員と支持者により組織されていた。同会には、監督二名の下に庶務・文事・武事・会計・制裁担当が各二名置かれていた。事務執行の経費は会員より徴集したが、自由党助成の費用はまた別に考えられていた。「明治十七年四月相愛協会申合規則」という文書の最後には、佐伯十三郎・加藤政福・森豊吉・沼田初五郎・井上篤太郎・難波惣平・橘川文次郎・村上安次郎・石塚初五郎・森甚太郎・大沢勝丸・岡本与八の名が記されている。なお、同会と相愛社の関係、愛甲郡自由党とのかかわりについては、さらに第三節の愛甲郡自由党の項を参照されたい。(資料編13近代・現代⑶三一)。 九〇 愛甲婦女協会 発起人や日付を欠く「愛甲婦女協会創立趣意書」が残されているのみであるが、相愛協会などの資料とともに難波文書にあることから、一八八四(明治十七)年に結成されたものと思われる。同趣意書は、婦人が隷属的地位から「男子の朋友相談相手」へと男女平等に進むことを訴えている。そのためには、学問によって智徳を養い、さしあたり演説会・懇親会に積極的に参加することが近道であるとしているが、他方において、身を慎しみ、家事・育児を大切にすることもあわせて説いている(大畑哲「明治女性史に関する二つの新史料」『神奈川県史研究』二八号、資料編13近代・現代⑶二四)。 津久井郡 九一 定期法律研究会 一八八一(明治十四)年十一月ごろ、中野村の梶野敬三が中心となり設立した。梶野は自由党員、八四年から九一年にかけて県会議員を勤めた(色川論文)。 九二 吉野政談演説会 一八八二年九月二十日、吉野村に設立され、年四回政談演説会を開催した(新井論文)。 九三 経世社 中沢村に設立されたが、創立年月日や活動など不明である(色川論文)。 足柄下郡 九四 仁恵社 一八八〇(明治十三)年一月七日以前に、小田原町の吉野直興を社長として結成されていた。同年三月ごろ、愛国社員の働きかけがあり、吉野らは国会開設の請願にとりくんだと報じられているが、詳細は不明である(『東京横浜毎日新聞』明治十三年三月十七日付)。 九五 足柄倶楽部 渡辺欽城『三多摩政戦史料』に、一八八一(明治十四)年十一月以降、中村舜治・武尾喜間太らにより創立されたとある以外は不明である。中村舜治は、小田原町で民権論を唱えた『足柄新聞』の社長で足柄上郡長に任じられた中村舜次郎のことかと思われる。 九六 忠友社 一八八二年一月ごろ、足柄・大住・愛甲郡の有志約六十名によって設立され、毎月二回小田原町で「学術討論演説会」を開くことを決めている(『東京横浜毎日新聞』明治十五年一月二十九日付)。 在東京の結社 九七 神奈川県懇親会 石坂昌孝・板谷良作・荻生田信敏・小笠原鐘・佐藤貞幹を世話人とし、一八八〇(明治十三)年十一月二十八日、第一回を東京の枕橋八百松楼で開いた。参会者は六十余名であった。第二回は八一年十二月で三十余名、第三回は八二年五月で二十九名、第四回は八二年十一月五日八百松楼で二十一名と減少している。国会開設運動が全国的に高揚している時期に開かれた第一回懇親会は参加者に大きな刺激を与えたようで、この直後に前述した武蔵六郡懇親会が開催された(小林孝雄『神奈川の夜明け』)。 九八 東京生糸商会 村野常右衛門が日高次郎・石坂昌孝とともに、二、三の商人の賛助を得て、一八八〇年七月ごろ設立し、事務所を東京本石町に置いた。この企図は、村野の言によれば、外国商人の貿易支配に対抗し、輸出の花形である生糸を直輸出することによって商権回復運動を行おうとするものであった。商会の活動は中途で取り止めになったが、産業結社の一形態を示すものといえよう(村野廉一・色川大吉『村野常右衛門伝―民権家時代』)。 九九 静修館 一八八三(明治十六)年十一月二十三日、神田錦町に開設された。佐藤貞幹を館主とし東京に在学する神奈川県人の寄宿舎であったが、佐藤をはじめ石坂昌孝・中村克昌・深沢権八・内山安兵衛・細野喜代四郎・村野常右衛門・林副重ら在京メンバーが活動する拠点でもあった(新井論文)。 一〇〇 同志会 山口俊太らにより、一八八四(明治十七)年一月、谷中に設立された(新井論文)。 一〇一 神奈川県人談夢会 一八八四年六月、本郷龍岡町に設立された。石坂昌孝・若林美之助ら東京在住の神奈川県人の会合であった(新井論文)。 一〇二 読書会 在京の神奈川県人によってつくられ、一八八四(明治十七)年十月十八日に発会した。「読書会規則」には、「本会ハ専ラ政治法律経済哲学等ニ関スル諸書ヲ講読シ以テ各科ノ学理ヲ討究スルモノトス」という目的が掲げられている。会員は、石坂公歴(昌孝の長男)・若林美之助ら二十名である。会員は、各自好むところの学会に加入するか学会誌を購入してその内容を報告することとされており、講読書は四十七冊予定されている。残された記録によれば、同年一月十七日までに九回開かれており、若き日の北村透谷も会員として一度顔を見せている(色川大吉「明治十七年読書会雑記」『文学』二七巻六号)。 結社については、なお明治二十年代に入って結成された神奈川県通信所・神奈川県倶楽部・協立衛生義会・武陽倶楽部・小宮青年会・北多摩郡正義派などかなりの数を挙げることができる(色川論文、『町田市史史料集』第八集、とくに新井論文参照)。しかし、明治二十年代に入ると政治や経済の情勢は変わってきており、この時期に入って組織された結社については、前記結社との同質性とともに差異性も考える必要があるので、結社が独自性を発揮した明治十年代で筆を止めておきたい。 二 結社の総括 これまで郡別・成立年代順に整理してきた結社について、つぎに内容にたち入り簡潔に総括してみよう。 まず第一は、さまざまな結社の分類である。すでに色川大吉「明治前期の民権結社と学習運動」(『東京経済大学人文自然科学論集』二一号)で分類の試みがあるが、ここでは、これまで調べてきた県内諸結社をもとに、全国的な結社との関連も考えて、政治結社・学習結社・産業結社という分類をしておこう。 政治結社とは、政治運動を主な目的とする結社であり、天賦人権論をふまえ、目指す国家構想をイギリス流の立憲制にもとめる場合が多かった。顕猶社・融貫社などをこの代表例に挙げることができる。政治結社(政社)が政党結成の基盤になったことはいうまでもない。政社の活動なくして自由党、立憲改進党の成立はありえなかったのである。 学習結社とは、社員(会員)が学習や討論によって諸分野の認識を深めることを目的とする結社で、地域に根ざして自主的な教育活動を展開した教育機関も含めることができる。学芸講談会・融貫社講学会・相愛社による講学会・養英館・各地の学術や教育関係の結社などがこれに入り、三種類の結社のうちもっとも数が多いといえよう。 産業結社とは、農業生産の改良や産業問題を主要な課題とする結社であり、明治十年代の農民的「企業」の多くもここに加えることができよう。東京生糸商会・愛林社など事例はまだ少ないが、一八七二(明治五)年、養豚により学校経営費をまかなった得郷学校養豚所(現在調布市)のような先例もあり(田中紀子「中村重右衛門伝」『多摩文化』九号)、今後の事例発掘が期待される。 しかし、諸結社は実際の場合、三種類の性格のうちいずれかに重点を置きながら、それぞれ二種類ないし三種類の性格をあわせ持つ場合が多かった。八王子第十五嚶鳴社は、学習結社と産業結社の性格を、湘南社は学習結社と政治結社の性格をあわせ持っていた。また、弾圧を配慮して、政治結社の性格をかくし学習結社の形をとる場合も多かったようである。なお、すでに述べたように、各種懇親会が結社の組織化に大きな役割を果たしていることも注意しておく必要がある。以上のことから、結社については、上のように図示してみることができるであろう。結社の規模については、一村ないし数村にわたる小結社と、融貫社・湘南社・相愛社のように一郡ないし数郡にわたり、各小結社の指導的人物を結集した大結社がある。このような大結社は、すでに政党化への前段階にあるものと考えられる。結社の活動については、都下の民権派ジャーナリストとの関係が深いが、この点については、渡辺奨「自由民権運動における都市知識人の役割」(『歴史評論』一六五・一六六・一六八・一七〇~一七二号)に詳細である。 第二は、結社の歴史的意義であるが、その核心は結社の思想の誕生にあると考えられる。すなわち、自主対等な組織原理に基づいて社を結成し、自主的な諸活動を展開することにより、自己の成長、地域の発展、ひいては日本の在り方を模索しようとする精神の誕生である。 これは明治維新後の新しい動向であり、現代へとつながっている。もっとも、このような結社誕生の歴史的前提は近世以来の私塾などであり、さらに維新後の明六社や嚶鳴社などの新しい活動形態が手本になったものと思われる。明治三、四年(一八七〇、七一)年ごろ、現在調布市に、相良某を教師とし、原泰輔・中溝昌弘がリーダーとなり、白鳥昌順・鈴木久弥・比留間定右衛門らが参加して洋学研究会が持たれていた(田中紀子前掲論文)。この会の活動は、教師を中心とする私塾と会員を中心とする結社の中間形態を示すものとして興味深い。 第三は、結社の存在が県内の自由党・立憲改進党の結成にあたり、不可欠の前提になっていたことである。もっとも、この点については、つぎに節を改めて述べることにする。 第三節 自由党と立憲改進党 一 自由党の結成 本県の自由党員数は、後掲のように二百八十八名、一位の秋田県、二位の栃木県についで全国第三位に位置している。また、自由党解党の直前に落成した文武研究所の有一館に入館できる人数を見ると、本県は東京と同数の六人で、高知県の八人、新潟の七人についで第三位を占めている。 入館者数は、自由党への寄付金千円について一人の館生を出せる割合であったから、本県自由党の活動力がいぜんとして強固であったことを示している(『自由党史』)。この二例からわかるように、全国的に見て本県は、自由党の拠点県の一つだったのである。 県内でも、自由党総理板垣退助が自由党のとりでと評価した三多摩地域の比重は大きく、多摩三郡の党員数百六十二名は、県下党員数の六割弱にあたる。とりわけ南多摩郡自由党は県下の三割強の党員を集め、最強を誇っていた。南多摩郡についで党員数の多いのが、横浜区の四十二名であるが、その活動状況はまだ良くわかっていない。 これにくらべると、後で見るように立憲改進党員は、横浜を中心に十六名で、驚くほど少ない。一八八四(明治十七)年の党員名簿によれば、この数は全国第十九位にあたる。ちなみに関東の諸県をあげてみると、東京府九十六名、千葉県三十六名、埼玉県百五十四名(全国第二位)、群馬県十五名、茨城県八十七名、栃木県百四十八名(全国第三位)である。立憲改進党創立に参加する嚶鳴社の県下における活発な活動、改進党系になる横浜の有名な顕猶社の存在などを考えると、十六名という党員数は意外であるが、その理由はまだ十分に解明されていない。 自由党準備会への参加これまで神奈川県の自由民権運動が全国組織の運動と交流するのは、『自由党史』により、自由党結成大会への参加が最初であるとされてきた。しかし、最近の調査によれば、交流の時期は自由党準備会結成時までさかのぼることがわかってきた。 一八八〇(明治十三)年十二月十日、北多摩郡蔵敷村の内野杢左衛門は、愛国社の有志と会していた。翌十二日の愛国社員有志による築地寿美屋会議には、内野とともに吉野泰三(北多摩郡野崎村)の名もあるから、はじめから二人は一緒だったのであろう。二人とも県会議員、少し前の十二月五日に開かれた武蔵六郡懇親会にそろって出席していた。すでに内野は、地方官会議を二回、元老院議事を一回傍聴しているし、一八八〇年七月十日には井生村楼の演説会を聞いているから、全国的動向に深い関心を持って行動していたことがわかる。内野・吉野が参加した愛国社有志の会合については、少し説明が必要である。 国会開設運動が発展する過程で、政党結成という新しい組織論が出されたのは一八八〇年十一月の国会期成同盟第二回大会であった。その背景には、同年四月に出された集会条例の第八条「政治に関する事項を講談論議する為め其趣旨を広告し、又は委員若くは文書を発して公衆を誘導し、又は他の社と連結し及び通信往復することを得ず」により、弾圧が強化されるという事態があった。政党の結成は、河野広中・郡利・松沢求策・山際七司らによって提案された。しかし、これらの提案は大会で否決されたので、政党結成論者は大会の外で活動をはじめた。 一八八〇年十一月の段階で、政党結成の運動を推進している二つのグループがあった。一つは河野広中・植木枝盛ら愛国社系政社に属する積極的な政党結成論者である。大会中の十一月二十六日、愛国社関係者の会合で杉田定一・河野広中が「自由主義一大政党」の組織を主張したところ、参会者はほぼ似たような見解であった。『植木枝盛日記』によれば彼らは十二月一日、六日と自由党結成の討議を重ねている。もう一つは、山際七司(新潟)・佐野広乃(山梨)・松田正久(長崎)・林正明(東京・共同社)らであり、在地民権結社および都市民権派の潮流に属する人びとである。山際らのグループは、自由党組織趣意書・自由党結成総則・自由党申合規則からなる活版の『自由党規則』を作成し、新聞発行の資本金分担まで話を進めていた。 十二月七日、山際らは愛国社の河野に面会して合同を申し入れた。こうして両派は合同して政党を結成することを十二日に決定し、十五日には沼間守一ら嚶鳴社員も加わり盟約・規則を議決した。ここに成立した「自由党」は、まだ組織も整わず翌年には国会期成同盟とともに自由党へ発展的に解消するから、「自由党準備会」とした方が実状にふさわしいのである(江村栄一「自由党の結成と政体構想」『史潮』八九号)。 草間時福の紹介であろうか、内野と吉野が愛国社を訪れたのは、このように両派合同吉野泰三 内野杢左衛門 の直前であった。その十二月十日、河野らは「自由改進党盟約」八か条を草し、さらにこれを五か条に仕上げた。この案文は、翌十一日、築地寿美屋の会議で再確認された。内野・吉野を含む十二名の出席者の中に、草間時福・吉田次郎・野村元之助と三人の嚶鳴社員の名が見えるのは注目すべき事実である。立党の事を決した十二日、愛国社関係者は「秘密会」を開き、内野も含め二十五名が調印をしている。彼らの団結を誓ったものと思われる。この氏名一覧には、先の嚶鳴社員と吉野の名は見えない。これらのことを記した内野の手帳に、続いてつぎのような草案が書かれている。 第一 我党ノ主義ハ人民自治ノ精神ヲ養成シ漸ヲ以テ自主ノ権利ヲ拡張セシメントス 第二条 前条ノ主義ヲ拡張セン為メニ毎月一回会日ヲ定メ演説又ハ討論ノ会ヲ開ク可シ(以下無し) この案文は、ごくわずかな字句の異同があるが、上述した北多摩郡の自治改進党総則の第一条、第二条に符合する。このことは、のちに北多摩郡自由党に発展する自治改進党結成の契機が、武蔵六郡懇親会を背景にしながらも、直接には自由党準備会の結成過程のなかで育くまれたことを物語っている(内野杢左衛門「明治十三・十四年手帳」・同「覚書」、内野悌二氏蔵。資料編13近代・現代⑶一九)。 自由党結成への参加一八八一(明治十四)年十月二日、国会期成同盟第三回大会は、自由党の結成を決議し、大会を自由党結成大会にきりかえた。この前後の動きについては省略し、大会の推移だけをごくかんたんに示すとつぎのようになる。〈二日〉自由党結成大会にきりかえ、自由党組織案起草委員五名を選挙。〈六~十一日〉起草委員原案作成に従事。〈十二~十六日〉毎日自由党組織相談会を開催。〈十七日〉自由党親睦会。〈十八~二十七日〉議事に入り、三次会を経て盟約・規則を決定。〈二十八・二十九日〉役員選挙。自由党結成大会はここで事実上終了したが、三十日から数度の懇談会を開き、十万円の募金によって自由党の機関紙を発行することを決め、十一月四日に閉会した(江村前掲論文)。 さて、神奈川県の参加者は、資料上、十八日から出席していることがわかる。十名の出席状況をまとめてみると第十七表のようになる。伊達・水島・中川は湘南社、佐藤・山本は融貫社、中村は自治改進党と融貫社、成内は八王子第十五嚶鳴社の指導的人物であり、指田と永嶋も結社の活動歴をもつ県会議員である。中川と山本が国会開設の建白書提出に尽力したことについてはすでに前述した。この参加者たちの資格はわからないが、県下の自由党の成立にあたり、自治改進党・湘南社・融貫社のような一郡ないし数郡にわたる大結社が初めから関係を持ったことがわかる。県下の大結社にはもう一つ相愛社があるが、この相愛社も間もなく社をあげて自由党に参加してくる。結社の基盤があってこそ、神奈川県下の自由党は誕生できたのである。この点を自由党本部との関係でもう少したち入ってみよう。 地方部の股置第17表 1881年10月自由党結成会議参加者(神奈川県) 典拠:Ⅰ…「国会期成同盟本部報・ハノ123報」,Ⅱ…『東京横浜毎日新聞』明治14年10月7日,Ⅲ…植木枝盛「東京通信」(『高知新聞』明治14年11月2日),Ⅳ…岩波文庫本『自由党史』中・81~84ページ,Ⅴ…関戸覚蔵『東陲民権史』,Ⅵ…『朝野新聞』明治14年11月6日および「明治14年10月自由党会員名簿」。ⅣとⅤの期日は,『河野磐州伝』上などにより推定した。 明治十五年一月十九日付の自由党本部発「第六報」には、各地に地方部(自由党支部)の設立を促すとともに、幹事大石正巳・柏田盛文が招待されて一月九日から出張し、神奈川県南多摩郡に地方部が設立されたことを報じている。『朝野新聞』(明治十五年一月十五日付)によれば、十日、二人を迎えた懇親会の有志は七十余人で、社員百五十人を持つ融貫社が自由党に連合し地方部を設立することに決定したこと、翌十一日は、大塚村で懇親会、社員百二、三十余名の博愛社が自由党に参加することを表明したとある。 同じ月の二十八日、自由党員伊達時・水島保太郎らの湘南社の招きにより、自由党本部の末広重恭が出張し、同社との懇親を深めた。末広の目に映った神奈川県は、「山村僻地ノ隅ニ至ル迠党員ノ有志者立込テ結合ヲ計リ日々ニ党員ノ増加スル勢ナリ且現ニ各郡ニ成立スル結社員ハ頗ル開進ノ域ニ達シ之ヲ他府県ニ比スレハ遙ニ勝レル趣ナリ」と評されている(自由党本部発「第七報」)。 翌二月四日、今度は三浦郡の三崎町・長井村・横須賀町他の有志の招待に応じ、本部の加藤平四郎・藤公治が同地の演説親睦会に出席した。この席上、自由党に参加を希望する者があり、近いうちに近傍の有志を結集し、地方部を結成することが決定された(同上「第七報」)。しかし、その後の詳細は不明である。 続いて、三月十日付自由党本部発「第八報」は、愛甲郡の相愛社が組織をあげて自由党に加盟すると同社会長の黒田黙耳が申し出たことを全国に報じている。 北多摩郡の場合、内野・吉野を通じて、自由党準備会の影響下に自治改進党が結成されていたことはすでに述べた。同党は第18表 県下の自由党員数 『三多摩自由民権史料集』下巻所収「県下の自由党員名簿」に,「小宮保次郎日誌」により愛甲郡に10名を追加した。もちろん,この氏名は『自由党員名簿』に記載されていない。 北多摩郡自由党へと発展するので、結社と政党の中間形態を示すものといえよう。他地域についての詳細は不明であるが、ほぼ前述のような形態をとったものと思われる。 このように、神奈川県の場合、一郡ないし数郡にまたがる大きい結社が主体的に自由党本部と連絡をとり、正式にあるいは事実上自由党の地方部となり、結社の活動と地方部の活動を並行させながら氏名を公表して差し支えない党員を登録し、各地域の自由党として組織を明確にしていくのである。県下の自由党員数については、第十八表を参照されたい。 それでは、県下に地方部はいくつ設立されたのであろうか。登録自由党員は、三浦郡・足柄上郡を除いてほぼ全県下に見出されるとはいっても、各郡単位に一地方部が設立されたわけではない。地方部がやがて内規をもつなど県下の自由党を名乗ったものとして、南多摩郡自由党、北多摩郡自由党、西多摩郡自由党、高座郡自由党、愛甲郡自由党の五つが知られている。したがって、五つの地方部が存在したことは確認できる。愛甲郡の自由党員小宮保次郎の日記に「五部有志親睦会」を大住郡の伊勢原に開いた旨の記事があるから、愛甲・大住両郡が地方部の第五部を称していたと考えられる。しかし、上記の郡以外に横浜区やその周辺の郡にもかなりの自由党員がいるのであるが、その組織については不明である。つぎに、判明する県下の自由党を例にとり、やや詳細にたち入ってみよう。 二 三多摩地域の自由党 南多摩郡自由党本県の自由党員数は二百八十八名、全国でも屈指の拠点県であった。その中心が南多摩郡で、県下全党員の三割強にあたる九十七名の党員数を誇っていた。 南多摩郡自由党が内規を決定し組織を整えたのは、一八八三(明治十六)年八月であった。この内規により、石坂昌孝が全郡内の党務を総括する「理事」に選出された。今でいえば委員長である。野津田村と東京の両方に居を構えてたえず往復した。神奈川県懇親会・武蔵六郡懇親会・責善会・武相懇親会・融貫社へと続く石坂の指導的活動を考えれば、適役というほかはない。つぎの名簿に見られるように、石坂家は野津田村きっての豪農である。彼の歩んだ道は、渡辺奨「石坂昌孝の生涯」(『多摩文化』九号以下)に詳しい。余談になるが、北村透谷の妻ミナ(美那子)は、昌孝の長女である。 党員の所在地から、同党は七区に分けられ、各区ごとに「通信委員」が置かれていた。いわば幹事役で、理事の下にあって党務の通信往復・集金がその任務であった。七区と通信委員は、以下のようである。 原町田組(渋谷三郎)……原町田・鶴間・小川・成瀬・高ケ坂・森野村 野津田組(鈴木雄之助)……野津田・図師・山崎・上小山田・下小山田村 大塚組(井上隆治)……東寺方・和田・大塚・東中野・堀ノ内村 三沢組(土方啓次郎)……三沢・高幡・程久保・落川・南平・新井・石田村 日野組(高木吉造)……日野宿 八王子組(青木副太郎)……八王子の各町・相原・鑓水・片倉・下一分方村 平尾組(黒田尚雄)……平尾村(資料編1 3近代・現代⑶三〇) 南多摩郡の自由党員名簿多摩地方における自由民権研究は二十年以上の研究史を持っている。運動の展開、そこに活躍した群像については、『多摩文化』各号所収の多数の論文、色川大吉『新編明治精神史』などに詳しい。また最近、色川大吉責任編集『三多摩自由民権史料集』も刊行された。これらの成果により党員についてまとめてみれば次のようになる。 (典拠)氏名・住所・生年月日・経歴その他は、すべて『三多摩自由民権史料集』下巻所収「神奈川県下の自由党員名簿」による。なお、経歴その他については、沼謙吉「南多摩自由民権運動史―日野地域を中心にして」(『神奈川県史研究』一七)、南多摩郡自由党の「第一報」・「第二報」(資料編13近代・現代⑶三〇)により、一部加筆した。地租額は、「明治十五年一月納租額取調書南多摩郡」・「大日本武蔵国南多摩郡地価大鑑」(いずれも町田市史編さん室蔵)からひろいだし銭以下を切り捨てて記した。()は推定を示す。なお、若林高之助(亮)については、明治十五年の場合は下小山田村分だけ、明治十九年の場合は、下小山田村に九百五十五円、上小山田村に同名で四百九十六円とあるので、同一人物と考え、合算した。 南多摩郡自由党員の社会的位置いま示した党員の一覧表により、判明する著名な党員が、高い経済的地位を背景に、村内外の要職を担っていた名望家層であることは明瞭である。このような特色をまとめてみる前に、先ほどの「納租額取調書」・「地価大鑑」・「自由党員名簿」から作成した、地価額四百円以上の所有者全員と自由党員の関係を示す表を掲げてみよう。 第十九表と先の自由党員名簿から、南多摩郡自由党について、さしあたり次のような特色を指摘することができる。さしあたりというのは、なお地価額・経歴など不明の五十名近い党員がいて、全体としての分析ができないからである。 第一に、地価千五百円以上所有者の各層において、その一〇~二〇㌫が自由党員になっているというはっきりした照応関係が読みとれることである。同党の指導的人物や自由党員の県会議員は、ほとんどこの層、当時の言葉でいえば「豪農」層から出ている。地価額千円以上に全党員の三分の一が集中しており、一般的には多いといわれる地主的富農層に属する党員はきわめて少ない。 第二に、同党全体の経済的地位の構成から見れば、農民層の分解を激化させたあの松方デフレ後もほとんど変化が見られないことである。もちろん、個々には、石坂昌孝・村野常右衛門などのように主として政治活動により資産を減じたり、成内頴一郎のように急上昇した者もいる。 第三に、名望家で資産家の彼らは、区長・村用掛・戸長・県会議員などの政治上の要職経験者が多かった。 第四に、幹部クラスの党員の中に金貸しを主要な業とする銀行類似会社の要職にいる者ないし株主が多数いることである。成内・天野清助・青木正太郎・土方啓次郎らを「党員名簿」で見ていただきたい。とりわけ日野宿の党員にこの性格が顕著である。やがて南多摩郡自由党内のこの部分と、武相困民党がきびしい敵対関係に入ることは後述のとおりである(先行する研究に色川大吉「三多摩自由民権運動史」『多摩文化』9号がある)。 南多摩郡自由党の階層構成を一口でいえば胴がくびれた形である。上部約三割の党員は寄生地主ないし商人資本家の性格が強く、一割弱の党員が地主的富農層、あと約六割が地価額四百円以下、すなわち県会議員選挙権の資格を持たない層に属している。松方デフレ下に立ち上った武相困民党に直面し、複雑な党内事情が出てくる理由はここにあったといえよう。 それでは、同党のこのような構成が、県内自由党にも一般的なのであろうか。たとえば高座郡淵野辺村の「鈴木理平覚書」(『相模原市史』第六巻)には、自由党員名簿に記載されていない同郡の未登録自由党員二十八人の氏名と地価額が記されてい第19表 南多摩郡地価額400円以上の所有者と自由党員 る。もっとも、この資料は明治二十年代のものとも考えられるので、前記党員数には含めなかった。これを整理してみると、五千~四千円(一人)、四千~三千(○)、三千~二千(四)、二千~千五百(二)、千五百~千(八)、千~六百(十三)となり、その階層構成はピラミッド型になる。したがって設問の答はまだ出せないのが現状である。 北多摩郡自由党西多摩郡自由党この二つの自由党については、南多摩郡自由党ほど詳しくわからない。党員名は、すでにふれた「神奈川県の自由党員名簿」で容易に見れるので、紙数の関係からここでは省略しておきたい。 北多摩郡自由党の場合、同郡の先行する自治改進党との関係が問題になる。いま両方の名簿を比べてみると、中村克昌(上石原駅)・中村重右衛門(同)・内野杢左衛門(蔵敷村)・本多定年(谷保村)・吉野泰三(野崎村)などの重立った会員十七名が自由党に入っているが、自治改進党会員百四十四名という人数からすると意外に少ない感じがする。また、同郡自由党員三十九名中二十二名の氏名は自治改進党名簿に見当たらない。党員のうち、前後して七名が県会議員になっている。中央の自由党解党後の十一月二十日、同党は府中甲州屋に集会を持ち、解党を止むなく了承し、将来の連絡のため府中地方と村山地方に一つずつ集会所を設けることを決めている。なお、この集会報告書には、党員数は三十五名になっている(資料編1 3近代・現代⑶一九・三三、『三多摩自由民権史料集』下巻)。 党員数二十六名の西多摩郡自由党については、これまでのところ資料を見出せない。党員のうち、前後して五名が県会議員になっている。中心的な民権家深沢権八の所に、自由党本部寧静館から報道書が送られているので、彼が同党の要職に就いていたものと思われる(深沢家文書・東京経済大学蔵)。 三 愛甲郡自由党 相愛社との関係愛甲郡自由党の母胎となったのは相愛社である(大畑哲『相州における自由民権運動と豪農の実態』(私版)・同「自由民権期における在地自由党の組織形態」『倫社・政経研究』八号)。相愛社については、前節でふれたように、自由党本部の明治十五年三月十日付「第八報」に、「神奈川県相愛社ヨリ我党へ加盟ノ事ヲ同社黒田黙耳ヨリ申来ル」と報道されている。相愛社が事実上自由党地方部の役目を果たすことになるのである。しかし、政党が支社を置いたり他の社と連絡通信することを禁じた集会条例の改正追加や相愛社の自立性などからであろうか、結局、別組織にすることになった。同年七月九日の小宮保次郎の日記には、山川市郎・村上安太郎・沼田初五郎・小宮保次郎・難波惣平・霜島久円・佐伯十三郎・川井房太郎・斉藤貞輔の九名が、同社を脱退し自由党に加盟の届書を出すことになったとある。その後、同社の動きは不活発となり、翌年三月には廃会照会状が出されているので、このころ消滅したと思われる。すでに同社にあった教師を招いて学習会を開くという計画は、やがて同党員の指導下で一八八三(明治十六)年一月に発会する講学会のプランとしてよみがえることになる。 党員の名簿同党の組織や活動にふれる前に、ごく簡単に自由党員を紹介しておこう。 難波惣平……荻野村新宿、弘化四年生れ、田畑合計二町程度、醬油醸造営業、明治八年村用掛、同九年地租改正掛、相愛社・講学会幹事、同二十三~二十五年県議 佐伯重三郎……千葉県士族、荻野村寄留、明治十四年山中学校教員、同十八年大阪事件に参加 井上栄太郎……下荻野村 山川市郎……飯山村、相愛社員、明治十八年大阪事件に参加 森豊吉……飯山村、後に郡会議員 斎藤貞輔……厚木村、父は戸長 沼田初五郎……及川村、後に戸長・郡会議員 村上安次郎……三田村、後に郡会議員 井上篤太郎……戸長、相愛社幹事、明治十八~二十二年県議 小宮保次郎……下川入村、田畑合計三町二反三〓(明治十年下川入村反別地価書上帳)、同十四年十一町六反一〓・同二十二年十五町五反一〓(大畑前掲書)、酒造業・製茶・養蚕を営む、相愛社・講学会幹事、同郡自由党監督、明治十五~十六・二十一~二十三年県議 霜島久円……戸室村、相愛社副会長、同郡自由党監督、明治?~十八年県議 杉浦花吉郎……三増村、後に郡会議員 岡本与八……三増村、筆生、後に郡会議員 川井房太郎……妻田村、筆生、父が安太郎なら田畑其他計八町七反九畝(田畑其他反別取調地引帳) △ 天野政立……中荻野村、安政元年生れ、士族、戸長、郡役所書記、相愛社幹事、明治十八年大阪事件に参加 △ 黒田黙耳……厚木村、士族、郡役所主席書記、相愛社会長 豪農民権家小宮保次郎家 小宮守氏蔵 △村上安太郎……三田村、村上安次郎の兄 △小長井崎太郎……中津村 △梅沢董一……中津村 △三橋久四郎……恩名村 △原田喜一……小野村 △斎藤某……上荻野村 △熊坂芳造……山際村、教員 (大畑哲『相州における自由民権運動と豪農の実態』(私版)、同「自由民権期における在地自由党の組織形態」『倫社・政経研究』八号、「神奈川県下の自由党員名簿」『三多摩自由民権史料集』下巻、『神奈川県史編集資料集第六集』難波家・自由民権関係文書、明治史料研究連絡会『明治前期府県会議員名簿』上、△を付した者が「自由党員名簿」に見えない党員である。) 大衆組織を持った愛甲郡自由党当初同郡の自由党員は、協議事項があると党員会議を開いて決定するという方法で活動していた。たとえば、一八八三(明治十六)年六月二十二日には、総理板垣帰朝宴会に出席する総代決定の件で三田村の金子屋に集会を持っている。また、板垣らを迎える遊説運動の展開のために、同年七月十日から党員会議を開くのであるが、この時には同郡の霜島・難波・井上・川井・岡本・小長井・沼田・斎藤・三橋・天野・黒田・小宮のほかに、大住郡から宮田寅治、高座郡から山本作左衛門が参加している。このような党員愛甲郡自由党員内規 難波春美氏蔵 会議は、同年八月二十九日、十一月十四日、同十六日にも開かれている(資料編13近代・現代⑶二九)。 翌一八八四年(明治十七)五月十一日、愛甲郡自由党員内規が決定された。この内規は、「愛甲郡自由党員ノ総務ヲ整理スル為メ」すなわち組織と運営を明確にするために設けられたのである。党の会議は毎月一度第二日曜日と定例化し、任務分担と人事はつぎのように決められた。 鑑督二名(小宮保次郎・霜島久円) 内部担当 二名(難波惣平・佐伯重三郎・兼務村上安次郎) 外部担当 二名(井上篤太郎・岡本与八) 会計担当 二名(村上安次郎・森豊吉・兼務小宮保次郎) 制裁担当 二名(当日三名選出、沼田初五郎・山川市郎・杉浦花吉郎) 監督は、いわば委員長役であるが、複数制になっている。内部担当については、「常ニ郡内ヲ遊説シテ党員并ニ賛成者ヲ誘募スル事ヲ掌ル但重要ノ事起ル時ハ必ス監督ニ商議シテ後チ之ヲ決行スベキ者トス」、外部担当については、「他郡若クハ他府県ニ向フテ主義ヲ拡張スル事并ニ他郡若クハ他府県ノ同志者ト往復通信スル事ヲ掌ル但同上」と規定されている。 この内規が採択される前月に、相愛協会申合規則が一足早く設けられている。同会については、すでに前節でふれたが、「自由党ヲ助成スル」組織で、会員は党員と賛成者で構成されている。この規則を見ると、二、三の点を除き内規とほとんど同文である。違いの一つは担当事務規定で、規則の場合、監督二名、庶務担当二名、文事担当二名、武事担当二名、会計担当相愛協会申合規則 難波春美氏蔵 二名、制裁担当二名になっている(資料編1 3近代・現代⑶三一)。それでは、この自由党後援会とでもいうべき大衆組織は、実際に動いていたのであろうか。現存する資料では、財政上重要な機能を果たしていたことがわかる。「明治十五年十月二十二日自由党本部分担金課出簿」には、神崎正蔵・橘川文次郎・川井房五郎・神崎正兵衛が、党員と同額の一円を拠出しているし、「明治十七年一月 党与資金寄附応募収入簿」には、党員以外に森甚太郎・松井日明・土屋重吉・加藤政福・柳田富三・難波富雄・難波清太郎・高橋吉重郎・石射清太郎・三浦政憲・小島直吉・大沢勝丸・石塚初五郎・難波安太郎・小林茂平・三栖宮造・佐藤市太郎・難波富五郎・難波孫次郎・難波正太郎・伏見喜作・斉藤作太郎・神崎正兵衛・中村得治・小野沢龍吉という支持者が醵金しており、その数は党員を上回るのである(『難波家・自由民権関係文書』)。このような自由党を支える二重の組織の存在は、きわめて注目すべき事実であり、相愛協会発足前にすでに実体があったことがわかる。同党をとりまく大衆組織には、このほかに講学会・愛甲婦女協会があった。 愛甲郡自由党の主な活動としては、一 講学会による学習活動、二 総理板垣退助・中島信行・加藤平四郎・内藤魯一ら党幹部を招いて展開した遊説活動と大懇談会(一八八三年七月二十~二十五日)、三 自由党本部の資金募集への積極的な対応、四松方デフレ下における地租軽減運動(第五節参照)を挙げることができる。 四 県下の立憲改進党 自由党結成の翌年、一八八二(明治十五)年四月一日に発足した立憲改進党は、いうまでもなく下野した大隈重信ら元高級官僚と都市民権派知識人の一部によって結成された政党である。自由党が、その基盤を小ブルジョア的発展をとげつつある農民層と非特権的商工業者に置いていたのにたいし、改進党の場合、都市の商工業者と地方の名望家・資産家にその基盤を置いていたと推定されている。両党は、議院内閣制や財政共議権の要求など一致点も多かった。もっとも現実には両党の共闘はなく、むしろ対立した。両党の政治理論における違いは、「皇権と民権」の関係をどう考えるかにかなりはっきり出てくる。両者の関係を自由党は逆比例関係でとらえるのにたいし、改進党はそれを正比例するものとしてとらえている。 少ない党員県下の改進党員は自由党員に比べるときわめて少ない。一八八二(明治十五)年から八四年にかけて、『東京横浜毎日新聞』が掲載した同党名簿に見える党員はつぎの十六名である。これによれば、著名人島田三郎・肥塚龍も居住する横浜区に党員が多く、一定の商人層の支持を得ていたことが推定される。また、演説会で有名な顕猶社の発起人三名のうち青山和三郎と斎藤忠太郎の二名が参加しているのが注目される。 島田三郎……嘉永五年生まれ、横浜区、明治十五~二十年県議、東京横浜毎日新聞社員、嚶鳴社員、のち衆議院議員 肥塚龍……嘉永元年生まれ、横浜区、明治十五~十七年県議、東京横浜毎日新聞社員、嚶鳴社員、のち衆議院議員 来栖壮兵衛……横浜区北仲通、平民商、交詢社員、明治十四~二十一年県議 茂木六兵衛……元治元年生まれ、横浜区浅間町、木久屋醬油譲造店を営む旧家、肥料販売業兼営 中山忠次郎……横浜区、平民商、明治十六~十七年県議、戸長 青山和三郎……顕猶社発起人、同社演説会で活躍 関島守兵衛……横浜区、明治二十三~二十四年県議 斎藤忠太郎……安政六年埼玉県生まれ、明治十年横浜に移住、家業質商、修文館で英学を学ぶ。顕猶社発起人、同社演説会でもっとも活躍、早稲田専門学校に学ぶ。明治二十二年日本絹綿紡績会社の支配人、同二十九年渡米、のち東京移民合資会社設立、移民二万五千余人に及ぶ。神奈川県参事会員、横浜市会議員、商業会議所議員 横地安次……横浜区元町、菓子製造業、交詢社員、顕猶社員 そのほか大野甚右衛門(橘樹郡笠生村)田中晋、下田彦兵衛、桜井金八(北多摩郡吉祥寺村)、吉田英一、柳下藤一郎、福島浜吉については、詳細を明らかにすることができない。 (林茂「立憲改進党員の地方分布」『社会科学研究』九巻四・五号、明治史料研究連絡会『明治前期府県会議員名簿』上、高橋昌郎『島田三郎』、松尾章一『自由民権思想の研究』(第三章)、『横浜成功名誉鑑』、後藤靖「自由民権期の交詢社名簿」立命館大学『人文科学研究所紀要』二四号、渡辺奨「自由民権運動の高揚期における横浜政治結社の動向」『神奈川県史研究』五号) 本県の場合、のちに改進党に加わる嚶鳴社の影響がもっとも強かった県である。例えば、一八八一(明治十四)年十一月より一八八二(明治十五)年六月までの嚶鳴社・東京横浜毎日新聞社系の演説会は三十二回で、自由党系十八回の二倍に近い(渡辺奨「自由民権運動における都市知識人の役割」『歴史評論』一六六号)。にもかかわらず組織率が低い理由については、東京の知識人を中心に上から組織化しようとする政党組織論に反発したためではないかなどの推測もできるがまだ不明の点が多い。 それでは県下の立憲改進党員の組織化はどうなっていたのであろうか。「立憲改進党趣意書及ヒ規約、立憲改進党神奈川県支部規則」という表題の文書に立憲改進党趣意書及び神奈川県支部規則 広瀬宣昭氏蔵 よれば、県支部規則ができたのは一八九五(明治二十八)年十月十四日になっている。したがって、前述した南多摩郡自由党や愛甲郡自由党のような組織は県下の改進党の場合まだ成立せず、その組織化はおくれたと考えてよいであろう。 全般的に見て、立憲改進党についての研究や資料発掘は、自由党のそれに比べるとまだ少なく、今後の調査の進展に待つところが大きい(資料編13近代・現代⑶三五)。 第四節 自由民権運動の思想 一 自由民権思想の普遍性 全国的にみて自由民権運動は十年ほどで敗退するので、整然とした思想の体系をうちたてるまでにいたらなかった。さまざまの思想が混沌として存在するなかで、人権思想を豊かに展開する可能性を秘めつつ、体系化して根をおろす余裕のないままに歴史の伏流と化した。県下の事情もまた同様である。 自由民権運動は、すぐれた政治運動であった。民権運動が要求したものをごく簡潔にまとめてみるならば、国会開設・憲法制定・地租軽減・地方自治・不平等条約改正の五つになるであろう。このうち、国会開設と国民議会方式による憲法制定の主張は、無限の天皇大権を前提とする有司専制を国民の側から限定しようとするもので、日本の民権運動が、いかに早産ではあれ、ブルジョア民主主義革命運動という歴史的性格をもっていたことを物語っている。したがって、自由と民権の思想は、まず何よりも政治の思想であった。県下民権派の憲法構想にこめられた思想の検討からはじめるのもそのためである。自由民権思想が政治思想に限定されていたわけではない。その中には、人間解放の思想、文化運動の思想、経済思想、法思想も含まれている。もっとも、このような思想の全体を、個人のレベルから社会思想にいたるまで過不足なく書くことは困難であるし、研究もそこまでは進んでいないようである。ここでは、今はすっかり有名になった『五日市憲法草案』に、やや詳細な考察を加えてみることに主眼を置こう。そして最後に、県下民権思想の問題点の根源を、人民に対する認識のあり方にもとめて述べてみる。 ところで、当時の人びとは、民権思想をたんに先進的な異文化の輸入の問題としてとらえていたのであろうか。これは、まだ解明されたとはいえない難問である。さしあたりここでは、たんなる輸入思想として受け入れたのではなく、民権思想を世界に普遍的なもの、人類一般の問題としてとらえていたと考えておこう。五日市町の豪農深沢権八が、百姓一揆を民権運動の先駆とした『朝野新聞』の記事を書きとめたのも、新潟県の小豪農小山宋四郎が請願権をフランスだけでなく日本を含めた普遍的なものと認識していたのも、そのような一例としてあげることができよう。 少し後の一八八八(明治二十一)年になるが、久永廉三『暁鐘 一声国会之燈籠』にも、「史上の変遷に熟察せば、吾が東洋社会とても、人民国政の主権者たるの実は、異名にして暗々の間に存在具備せる所以を信認するに足るべし」とあり、人民主権説のような普遍的な政治思想が東洋にも異なった言い方ではあるが存在していると主張している。普遍的な思想が、それぞれの地域に固有の姿をとってあらわれているという考え方は、当時からあったことが推測されるのである。このような思考を可能にした歴史的条件は、県下の例でいえば、丸山教の親神のような高度に抽象的な唯一神を創造した登戸の農民伊藤六郎兵衛に見られるように、農民層のなかにすでに蓄積されていたものと考えられる。 二 憲法構想 肥塚龍の一院制論肥塚龍は、兵庫県に生まれ、一八七二(明治五)年に上京した。肥塚が横浜に居を移したのは、一八七五(明治八)年十二月、『横浜毎日新聞』の編集主任だった島田三郎が、元老院書記官に任官したため、島田三郎の養父で同新聞の実権者であった島田豊寛のすすめでその後任に入ったためである。肥塚は一八八二年に横浜で県会議員に選出されている(松尾章一『自由民権思想の研究』)。良く知られているように、彼はまた著名な立憲改進党員であった。 肥塚の「国会論」が紙面を飾るのは、一八七九(明治十二)年十一月二十一日からである。この年、『横浜毎日新聞』は沼間守一に買われて東京に移転し、十一月十八日から『東京横浜毎日新聞』と改題したから、その直後に連載されたことになる。国会を「経国ノ一大要器」ととらえた肥塚は、近年、民権論者が国会開設を要求するだけで、どのような方法で開設するのか、どのような内実をもった国会を開設するのかについては意見が聞かれないと指摘し、たんに欧米の国会をそのまま模範とするのではなく人情、風習、法律、知識を考慮して主体的に構想しなければならないと述べている。この翌年に国会開設の建白書・請願書提出のピークが来ることを思えば、彼の見解はまことに卓見である。「国会論」の冒頭で、「国会トハ一国人民ノ集会ナリ一国主権ノ集ル所ナリ」と書いているから、肥塚は議会主権説者であったと推察される。ついで彼は、欧米の二院制について略述した上で、日本に一局議院(一院制国会)が妥当であることをつぎのように説明した。二院制の肥塚龍 場合、下院(衆議院)のほかに貴族院・元老院・上院のいずれかが置かれることになる。まず貴族院から検討してみると、日本の現在の貴族は、土地所有においては一般人民にまさるが、もはや封建社会と異なり、土地所有だけでは「政権ヲ出スノ資本」とならない。また、知識の面からみても、貴族は人民よりすぐれているとはいえない。このように、実際上の価値をもたない貴族院を日本に設けるならば、「無用ノ政堂」となる。つぎに元老院の場合であるが、国家に功労のあった元老を議員に選出する基準をどう設けたらよいのだろうか、また、「才学兼備」の者を元老院議員にするというならば、下院は「才識浅薄ノ士」の集合となるであろう。それでは米国のような上院はどうであろうか。この場合、上下二院の選出方法を異にせざるを得ないが、そうすると両院の議員間に精粗の差を生じ、結局下院が「粗悪」になる。また、財政の観点から見るとき、一院制の方が税負担が軽くなるから、国民は一院制を希望するであろう。このようにして、肥塚は日本に一院制が実現することを期待したのである。選挙権については、普通選挙権が理想ではあるが、現在のところ、英国ほどではないにしても多少の財産制限を設けざるをえない、としている。しかし、被選者については、思想・知識・才能が大切なのであるから、その資格に財産制限をつけるべきではないとした(松尾前掲書、資料編13近代・現代⑶二五)。良く知られているように、嚶鳴社憲法草案は二院制をとっているから、同グループの中で肥塚の一院制論は個人的見解の色彩が濃いものであったと思われる。 埋もれていた憲法草案いまはすっかり有名になったこの憲法草案は、一九六八(昭和四十三)年の夏に発見されるまで、西多摩郡五日市町深沢の深沢家跡にのこる土蔵の二階に、八十七年間、ひっそり埋もれていた。色川大吉氏を中心とする研究グループによって発見されたこの憲法案は、薄い上質の和紙に清書されており、「葉卓」の朱印が四か所におされている。「日本帝国憲法」と標題があり、「陸陽仙台千葉卓三郎草」と起草者名が書かれている。しかし、その後の色川氏らの共同研究により、この憲法案は、たんに千葉卓三郎個人が構想した草案ではなく、五日市に成立した学習結社が共同で創造したものであり、その成果を千葉がまとめたものであることがわかってきた。色川グループにより、「五日市憲法草案」という名称が与えられた理由もそこにある。 今日、大日本帝国憲法に先立つ明治前期の憲法案が発見されることは学界でもまれである。しかし、そのことだけでこの草案が貴重なのではない。五日市憲法草案を有名にした理由は、民衆的性格をもつ草案の集団的な創造過程がほば解明されたことにあり、また同案が詳細な人権保障規定を持つという思想性の高さにある。すでにこの憲法草案については、色川大吉・江井秀雄・新井勝紘『民衆憲法の創造』、ついで、いっそう研究を前進させた新井勝紘「民衆憲法の創造・解説」(『三多摩自由民権史料集』上巻)という研究成果がある。それではこの特色ある憲法案を紹介し、その検討をとおして同時期の憲法案中における位置づけを行ってみたい。 特色ある五日市憲法草案五日市憲法草案は、全文二百四か条からなり、つぎのような編別構成を持つ。下段は同案が参考にした「嚶鳴社憲法草案」(仮題)である(嚶鳴社案については江井秀雄「嚶鳴社憲法草案の研究」『民衆憲法の創造』、江村栄一「嚶鳴憲法草案の確定および国会期成同盟本部報の紹介」『史潮』一一〇・一一一号参照)。 日本帝国憲法(五日市憲法草案)(原標題不明・「嚶鳴社憲法草案」) 第一編 国帝 第一編 皇帝 第一章 帝位相続 第一款 帝位相続 第二章 摂政官 第二款 摂政 第三章 国帝ノ権利 第三款 皇帝ノ権利 第二編 公法(以下編款を欠く) 第一章 国民ノ権利 国会 第三編 立法権 上院 第一章 民撰議院 下院 第二章 元老議院 国会ノ権利 第三章 国会ノ職権 国会ノ開閉 第四章 国会ノ開閉 国憲ノ改正 第五章 国憲ノ改正 国民ノ権利 第四編 行政権 行政権 第五編 司法権 司法権 (前掲書、資料編13近代・現代⑶二六) 新井勝紘『民衆憲法の創造』によれば同案の特色を四つにまとめることができる。 第一は、この憲法草案全体としての独創性である。五日市憲法草案が、起草の基礎にしたと考えられる嚶鳴社憲法草案百九か条と比較してみるとそのことがよくわかる。すなわち、五日市案は、前掲下段の嚶鳴社案の編別構成をほぼ採用してはいるが、国民の権利規定の編を独立させて国帝の権利のすぐ後に置き、大幅に嚶鳴社案の関係条文を補修するとともに、新条文を二十五か条も付加している。また、国会の職権、司法権にも同じく大幅に手が加えられている。 第二は、三十六項目におよぶ詳細な人権規定で、その思想性において最高の地位を占める植木枝盛の『日本国々憲案』につぐ内容をもっている。人権規定の内容、両案の比較この人権規定に関する検討については後述する。 第三は、「時世、風土、民情」という現実をリアルにつかみ、それに応じた現実的な立憲政体を構想したことである。すなわち、君民共治の政治理論に基づき、国帝・国会(とりわけ民撰議院)・政府の三者がお互いの逸脱を相互にチェックしあう仕組みになっているというのである。このようなチェックス・アンド・バランシスの理論にたつ憲法構想という特色の指摘については、後でなお再検討してみたい。 第四は、この憲法案が、青年思想家千葉卓三郎を中心にしつつも、五日市町の学習結社に集う人びとによって集団的につくり出されたということである。民衆憲法と性格規定がなされている所以である。この点については、すぐ次に見出しを改めて紹介しよう。 千葉卓三郎と学習結社すでにたびたび名前に出た千葉卓三郎は、仙台藩の下級武士の子として宮城県栗原郡白〓村(現在志波姫町)に生まれた。十二歳ごろから大槻盤溪に就き、十七歳のとき奥羽越列藩同盟軍に加わり戊辰戦争に従軍した。破れて「賊軍」の名を負い、その後、多難な思想的彷徨がはじまることになる。石川桜所の下で医学、ついで鍋島一郎の下で第20表 五日市憲法草案と嚶鳴社草案の内容との比較 新井勝紘「民衆憲法の創造・解説」「三多摩自由民権史料集』上巻 国学を学んだ。いずれも事情があって短かった。その後、浄土真宗の僧、桜井恭伯の門を訪れたが、すぐにギリシヤ正教の主教ニコライを慕って上京した。一八七二(明治五)年頃である。もっとも長く続いたのがこのニコライのもとでの四年間であった。ところが、突如反転してキリスト教排撃論者として著名な安井息軒のもとに入門したが、一年もたたないうちに師に先立たれ、またフランス・カトリックの伝導師ウィグルスの門に入った。しかし、その後も数学者福田理軒に入門したり、横浜山手のメソジスト派の牧師マクレーのもとについたりもした。千葉卓三郎が五日市と関係をもったのは、ウィグルスの多摩地方布教に従った一八七五、六(明治八、九)年のことと推定されており、やがて彼は、同郷の先輩永沼織之丞が校長をしている五日市勧能学校の教員となる(『民衆憲法の創造』)。 この勧能学校は、「浪人壮士の巣窟」といわれ、公立小学校であるとともに民権派学習結社の観を呈していた。のちの大阪事件に関係する窪田久米・長坂喜作・大矢正夫も、ここの教員であった。 この勧能学校に流入した放浪者型インテリ層ともいうべき教師たちと在地の住民で結成した結社が学芸講談会であり、その付属組織として五日市討論会(学術討論会ともいう)があった。他地域から流入したこの新しい血液と深沢権八ら豪農を中心とする在地の活力が結合して、爆発的な政治活動、思想活動を展開した例がここにある。 五日市憲法草案の内容は、この学芸講談会、とりわけ五日市討論会で議論されたようである。たとえば、少し後の例になるが、明治十四年八月二十七日付の学芸講談会の回状に、九月五日の討論会議題の予告として、「一局議院ノ利害」「米穀ヲ輸出スルノ得失」「死刑廃スヘキカ」の三題があげられている。また、深沢権八が記録した「討論題集」所載の六十三題を見ると、憲法構想、法律、人権に関係するものが三十ほどあり、憲法起草にかかわる論題が非常に多い。いくつかの例をあげてみると、「女戸主ニ政権ヲ与フルノ利害」「国会ハ二院ヲ要スルヤ」「女帝ヲ立ツルノ可否」「出版ヲ全ク自由ニスルノ可否」「上院議院ノ職掌権力特許如何」などがある。もっとも、この討論題集には、「日本酒ト西洋酒ノ利害」などという楽しいテーマも少し入っている(色川大吉「明治前期の民権結社と学習運動」『東京経済大学人文自然科学論集』二一号)。 このような討論を展開するには、参考文献が不可欠である。実際、深沢家の土蔵から発見された関係書籍は二百余点、メモ類から推察すると当時の蔵書は三百七十点をこえていたらしい。そこには、『泰西国法論』『英国憲法』『欧州各国憲法』『仏国憲法講義』『代議政体論』などの訳書がそろえられ、「東京ニテ出版スル新刊ノ書籍ハ悉ク之ヲ購求シテ書庫ニ蔵シテ」いたといわれる。千葉卓三郎は、この深沢家の図書を十分に活用したようである。書籍のほかに、『東京横浜毎日新聞』、『朝野新聞』、『東京日々新聞』、『自由新聞』などの主要な新聞、『溺濘叢談』、『近事評論』、『愛国志林』、『進取雑誌』(仙台)などが定期購入されていた。コピーをとることのできない時代であったから、会員たちが、重要な論説類を筆写して学習のテキストとする方法もよくとられた。民権運動の展開を背景にして、このように盛りあがった学習活動が五日市憲法草案へと収斂していったのである。作成への直接の契機は、一八八〇(明治十三)年十一月に開かれた第二回国会期成同盟大会における、翌年の大会に「憲法見込案ヲ持参研究ス可シ」との決議にあったと考えられる。 未完の人権憲法ゆたかな人権保障を最大の特色としながらも、条文がまだ形式的に整備されていないだけでなく、国帝(天皇)の大権と国民の権利規定の間に矛盾を内包し、言及した府県の自治規定が展開されないままに終わっているという意味で、五日市憲法草案は、未完の憲法構想にとどまったというべきであろう。 この点を、国民の権利規定の部分を中心に考察してみたい。その自由と権利の規定については、これまでの研究に若干の事項を加え、さらに条文の典拠をさぐってみる。整理番号の次の()内は発見者によって五日市憲法草案に付された条数を示し、下の〔〕内には筆者が推定した典拠、他を記した。数多く参照されたポルトガル憲法第百四十五条第一項以下に列記された国民の権利は、ポ・第(項数)と略記する。また、福地源一郎「国憲意見」(『東京日日新聞』、明治十四年三月三十日~四月十六日付)には条数が付されていないので、便宜上、最初の条文より順次付した条数を用いる。なお、五日市憲法草案が発見された深沢家から、墨書の「立志社規則」(明治十三年七月以降に改正されたもの)や「海南御帰郷後」(千葉卓三郎宛白鳥書簡)や「海南行資まで御厄介願上」(深沢権八宛千葉書簡)が見つかっており、憲法案起草中の植木枝盛や立志社を千葉が訪れたといわれている。(新井前掲論文)そのため、〔〕に備考として、必要なかぎりにおいて、五日市草案より数か月後に完成する植木案、立志社案にも言及する。 一(四五)国法(憲法)の保護をうけて国民が各自の権利自由を暢達する権利〔永田一二「国会論」(『愛国志林』)、備考、植木枝盛「日本国々憲案」第五、六条〕 二(四六)議員として国政に参与する権利〔五日市案第八十条で再規定、「嚶鳴社憲法草案」下院第四条〕 三(四七)法律の前に平等の権利〔「嚶鳴社憲法草案」国民ノ権利第一条、以下の条の同様〕 四(四八)同一の法律で保護をうける権利〔福地源一郎「国憲意見」第八条〕 五(四九)身体を保固する権利〔備考、前掲植木案第四四条〕 六(四九)生命を保固する権利〔永田一二「国会論」(『愛国志林』)、備考、前掲植木案第四四条、なお、五日市草案は次に財産を保固する権利(永田前掲論文)が続くが、後掲するように同案第六二条の一部と重複しているので省略する〕 七(四九)名誉を保固する権利〔備考、前掲植木案第四四条〕 八(五〇)法律適用における不遡及の権利〔ポ・第二〕 九(五一)思想・言論の自由〔ポ・第三〕 十(五一)著述・出版の自由〔「嚶鳴社憲法草案」第六条、ポ・第三〕 十一(五一)講談・討論・演説の自由〔同右第六条、ポ・第三〕 十二(五三)法律による以外の不当な権力支配を受けない権利〔ポ・第一〕 十三(五四)奏呈・請願・上書・建白の自由〔「嚶鳴社憲法草案」第七条、ポ・第二八〕 十四(五五)文武官僚に就く権利〔「嚶鳴社憲法草案」第七条、ポ・第十三〕 十五(五六)信教の自由〔同右第八条〕 十六(五七)産業・職業の自由〔ポ・第二三〕 十七(五八)結社・集会の自由〔「嚶鳴社憲法草案」第六条〕 十八(五九)信書の秘密を侵されない権利〔ポ・第二五〕 十九(六〇)法律によらなければ拘引・召喚・囚捕・禁獄されない権利〔「嚶鳴社憲法草案」第四条、ポ・第七〕 二十(六〇)住居不可侵の権利〔同右第十条、ポ・第六〕 二一(六一)居住の自由〔ポ・第五〕 二二(六二)財産所有の権利〔ポ・第二一〕 二三(六三)公規による没収にたいして正当な賠償を得る権利〔「嚶鳴社憲法草案」第五条、ポ・第二一〕 五日市憲法草案の国民の権利 東京経済大学図書館蔵 二四(六三)国会の決定、国帝の許可のない租税は賦課されない権利〔前掲福地案第三一条〕 二五(六四)当該の裁判官および裁判所でなければ糾治裁審されない権利〔ポ・第一〇〕 二六(六五)一度処断をうけた事件については、再び糾弾をうけることがない権利〔前掲福地案第八条〕 二七(六六)裁判官が署名した文書で理由と劾告者と証人名を告知しなければ拿捕されない権利〔ポ・第七〕 二八(六七)拿捕されたら二十四時間以内に裁判を受ける権利〔デンマーク憲法第八十条〕 二九(六七)裁判官が理由を記した宣告状のない場合は禁錮されない権利〔同右第八十条〕 三十(六七)裁判の宣告は三日以内にうけられる権利〔同右第八十条〕 三一(六八)控訴、上告する権利〔同右第八十条〕 三二(六九)保釈を受ける権利〔「嚶鳴社憲法草案」第九条〕 三三(七〇)何人も正当な裁判官より阻隔されることがない権利〔ポ・第一六条〕 三四(七一)国事犯のために死刑は宣告されない権利〔ポ・第一八、増補律例第一六〕 三五(七二)違法な命令、拿捕にたいして損害賠償をうける権利〔オーストリア憲法第一篇第八条〕 三六(七六)教育の自由〔備考、前掲植木案第五九条、立志社案第四五条〕 三七(七六)小学校教育(義務教育)をうける権利〔条文の規定は、児童の就学を親の義務としている〕(なお稲田正次「五日市憲法草案(千葉卓三郎草案)」『明治憲法成立史』を参照されたい) 以上のような国民の権利規定の典拠を見ると、ポルトガル憲法と、ついで嚶鳴社憲法草案をもっとも多くとり入れ、その上に福地の「国憲意見」やデンマーク憲法・オーストリア憲法を部分的にとり、また永田一二の「国会論」(『愛国志林』所収)も参照したようである。その『愛国志林』を、千葉卓三郎が第一号から十号まで入手していることは、明治十四年一月と表書した彼の「備忘録」でわかる(『三多摩自由民権史料集』上巻)。千葉の高知行が推測されることを新井氏は指摘したが、民権運動における最高の理論家植木枝盛との交流を直接示す資料は、まだ見つかっていないとのことである。植木の民権思想の核心は、国権よりも人権に最高の価値を与えた点にある(家永三郎『植木枝盛研究』)。植木案と五日市案の二つだけが、とびぬけて念入りな人権保障規定を持っているのであるから、両人の高知における交流を想像してみることは興味深い課題である。 もし、五日市憲法草案の人権保障規定を、よせ集めという人がいるならば、それは皮相な見解である。憲法案作成中の各地にたいし、明治十四年七月十四日ごろと推定される「国会期成同盟本部報」は、憲法構想の重要事項として、帝位君権・院の構成と選挙・立法権・内閣の組織と権限・地方制度・「民権」などがあると項目を列挙している。このような報道に先立つ時期に、いちはやく、とりわけ国民の権利(民権)を中心にすえた憲法構想を成文化できたという事実は、五日市における思想的営為が、同時期にあって卓抜なものであったことを物語っている。すでに指摘されているとおり、抵抗権・革命権の規定をもち一院制をとった植木枝盛の「日本国々憲案」にまでおよばないが、国民の権利を詳細に規定し、植木案についで基本的人権を強く保障していることこそ、五日市憲法草案の最大の特色である。 その権利規定のうちで、冒頭に位置している第四五条「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」は、現在の日本国憲法に通ずるきわめてユニークな条文で、他に例を見ない。もっとも近い例は、植木の「日本国々憲案」であるが、そこでは、「第五条日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス」と消極的な規定になっている。先にふれたように、筆者は五日市案の第四五条は千葉が読んだ永田一二の「国会論」にヒントを得たのではないかと推察している。「人民ニ参政ノ権理ヲ与へ、以テ其固有ノ権利自由ヲシテ充分ニ伸張発達セシムル」ために「国会ヲ起シテ確乎タル憲法ヲ制定スル」ことこそ「国会論」の精髄であり、この主張を千葉は深く理解して条文に具体化する力をもっていたと考えることができるからである。 ここで、五日市憲法草案の成立時期について付言しておこう。すでにふれたように同案は、明治十四年三月三十日から四月十六日にかけて『東京日日新聞』に連載された福地源一郎「国憲意見」を参照しており、条文を比較するかぎりでは、これが参考案の最後のものと考えられる。他方、千葉卓三郎は、同年七月十三日、旅行先の北多摩郡奈良橋村より五日市の深沢権八宛に葉書を出しており、その中に「小学校教員ハ准官吏ト云フコトニ愈々取極メラルゝ様子ニ付、其時ハ生ハ断然辞職ト相決シ居候」と勧能学校辞任の意を示しており、同じく七月三十日の葉書には「廿七日安着[]私立政事法律学校教師其他之事ハ、帰りまて御待相願候」とあって、まだ五日市に本居を置いていることが推察される。しかし、同年九月三十日付の深沢権八宛の手紙は北多摩郡狭山村から出されており、「愚生貴地在勤中不残御厚恩ニ沐浴シ」とあるから、すでに五日市を去っていることは明らかである(『三多摩自由民権史料集』上巻)。したがって、五日市憲法草案が、未完のまま一応浄書されたのは、一八八一(明治十四)年四月後半から九月中の間であると考えてよい。それでは、この期間をもう少ししぼることはできないであろうか。先述したように、五日市憲法草案の核心をなす国民の権利規定は、ポルトガル憲法にもっとも多く典拠をもとめたものであった。ところで、国会期成同盟がその「本部報」ハノ第八報で、「各国憲法ノ華ヲ抜キ順次御報申スベシ」として掲げたのがポルトガル憲法第一四五条の第一から第三四にわたる国民の権利規定であった(江村栄一「嚶鳴社憲法草案の確定および国会期成同盟本部報の紹介」『史潮』一一〇・一一一号)。推測になるが、国会期成同盟の事務局が取捨選択の末、ポルトガル憲法に豊かな民権保障の範を見出して提示したことは、各国の憲法を検討しながら人権規定の再構成に苦心している千葉卓三郎らに何らかの示唆を与えたのではなかろうか。そのように考えるならば、第八報は「明治十四年七月八日」付であるから、五日市憲法草案の成立は、七月中旬から九月中の間であると推定される。 五日市草案の核心が詳細な人権規定にあることはくり返しふれたが、同案をよく読んでみるとそこに矛盾が存在することもわかってくる。人権保障と矛盾する規定は大別して二つある。第一は、自由権に法律の範囲内という枠をはめていることで、思想・言論・出版の自由に法律の遵守を求めた第五一条、結社・集会の自由に法律の抑制を加えた第五八条などがその例となる。第二は民撰議院・元老議院を通過した法案にたいする「国帝」の不認可権である(第三八、三九条)。民撰議院(衆議院)の議決が実現するには、元老議院(貴族院)と国帝の認可という二重の関門を通らなければならない(第一〇九条)。このような国帝大権と法律による人権の制約、優越性を欠いた民撰議院の規定が、人権規定を限りなく空洞化していく危険をともなうことを、のちの明治憲法下における歴史的体験として私たちは知っている。そのような矛盾は、憲法構成の内部だけでなく、千葉がかいま見せた思想との間にもある。元老院蔵版『法律格言』(明治十一年刊)への千葉の書き入れを見ると、該当部分の価値観を逆転させて読みかえていることがわかる。「国王ハ死ス国民ハ決シテ死セス」、「若シ人民権利ト人君ノ権利ト集合スルトキハ人民ノ権利ヲ勝レリトス」、「国王ニハ特権を与フルコト勿レ」、「全国民ノ允許ハ確実ノ允許トス可シ」などは、その好例である(前掲書)。ここに散見する思想からすれば、事実上の人民主権説に基づき、民撰議院の権限が最終的に優越するような憲法構想が浮かんでくるであろう。しかし、五日市草案は、そのような案としては結実しなかった。強大な天皇大権の規定の背景には、どのような幻想があったのであろうか。恐らく千葉らは、伝統的権威をもつ天皇を道徳の中心にすえる会沢安『新論』(一八二五年)以来の水戸学ないし国学の思考からまだ十分に解放されていなかったのだと想像される。「王位ハ正理ニ由テ立ツ者ナリ」、「国王ハ公道ノ源ナリ」などの『法律格言』に見られる書きこみは、その一例といえよう。千葉卓三郎とその周辺の人びとにどのような思想上の矛盾と葛藤があったのか、もはやわからない。ともあれ五日市憲法草案は未完の人権憲法と呼ぶのがふさわしい。 湘南社員の主権論湘南社が大磯・曽屋・金目・伊勢原の四か所に支所を置き、講学会という学習会を設けたことについては、すでに述べた。このうち、金目・伊勢原両講学会の学習記録の一部が、湘南社社長山口左七郎家に残り、農政調査会『地租改正関係農村史料集』に収められている(大畑哲「民権期における地方政社の憲法論議―相州・湘南社の学習記録」『倫社・政経研究』九号参照)。 これは、学習上の試問に答えた文書で、直接憲法構想にとりくんだものではない。たとえば、「自由ハ法律ノ結果ナリ」という設問にたいする答には、憲法における自由権の規定、それと法律の関係の両方とも論じていない。しかし、「主権ハ何ニ帰属スルヤ」の設問にたいする答えには、一八八一(明治十四)年「十二月第一月曜日」の日付を持つものがあることから、憲法案論議後同年十二月から新聞紙上で展開される主権論争を意識していたことは、明らかである。県下の一部豪農の主権論がわかるので、貴重な記録といえよう。 まず、山口書輔は、主権を「他ニ比類ナキ無上ノ権」とし、君主宰相人民を拘束できる法律に主権は帰属するという。氏名不詳者の同じような議会主権説もある。今井国三郎は、主権を「一国ノ政事ヲ左右スル者」とし、それを人民や法に帰属させた場合「千変万化」するから、主権は「正理トユエル一種ノ無形物」に存するとしなければならないという。これは『東京横浜毎日新聞』十一月九日付を参考にしたものと思われる。猪俣道之輔は、主権を「一国憲法ノ利害ヲ廃置シ一国ノ施政ノ方向ヲ左右スルモノ」とし、国は人民を本にするものだから、主権は人民に帰属するという。宮田寅治は、主権を「第一貴尊ナルモノ」とし、イギリ宮田寅治 ス議会の例から主権は正理に在るように見えるが、この見解は正理が永遠不変ではなく進歩するものであり人民の「使用物」でもあることを見ていないと批判し、結局主権は自由自治の国民に帰属するという。その議論は簡潔で抽象的であるが、人民主権説・議会主権説がとられ、学習会で討論されていることは注目に値する。 もし、このような主権論から憲法が構想されるならば、恐らく「国民の権利」が重要視されるであろうし、立法における民撰議院の優位性が条文にはっきり規定されることになるであろう。先述した五日市憲法草案では、主権は天皇と両院の間に在ることになるから、主権論に限定すれば、国民主権説をとる猪俣・宮田の思想は、五日市案のそれを超えているといってよいだろう(江村栄一「自由民権運動とその思想」『岩波講座日本歴史』近代2)。 三 人民に対する認識の問題 県下で展開された民権思想は、全国のそれと同じように、多様な領域にわたっている。しかし、民権思想の核は、先ほどみたように民主主義、とりわけ人権の問題に帰着する。社会・国家を構成している人民をどう見ているか、ここに民権思想の試金石がある。しかし、この問題にすぐ入るまえに、多様な思想の営みについていくつか事例的にふれておこう。 地方自治の主張国会開設を要求する思想と行動は、地域において地方自治の主張となる。その地方自治を、憲法上に規定することによって保障しようという考え方を早くも提起したのが、先にみた五日市憲法草案である。同案の第七七条には、「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖トモ之ヲ侵ス可ラサル者トス」と明文化されている。もっとも、この部分の典拠は、東京日日新聞の福地源一郎「国憲意見」(第四八条)「府県会ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラルベシ府県ノ自治ハ之ヲ妨碍スベカラザル事」であると考えられる。福地は、この条文を「第八章特法」に入れているが、五日市案では、より厳密に規定し直し、「国民ノ権利」の章に入れている点がユニークである。ちなみに、地方自治規定の典型は、植木枝盛の「日本国々憲案」と立志社の「日本憲法見込案」である。 当時、もっとも具体的な問題に、民権運動に対抗した明治政府による、村支配の再編があった。一八八四(明治十七)年の区町村会法の改正と官選戸長管区制の実施による村支配の再編成は、地方社会に「管民躁激」の風潮が充満しつつあった事態に対するカンフル的施策であったが、のちの「地方自治」制成立の内在的契機をも示していた。再編成の要点をまとめれば、つぎのようになる。⑴従来の戸長公選制をやめて官選制を採用し、一区域五百戸を基準として戸長役場を置く戸長管区制を設け、戸長を区町村会の議長にあて、召集権・議案発議権を独占させ、そのうえ、議会の停止・解散、不成立や審議未了のさいの施行権を認めた。⑵それに応じて、区町村会も構成と権限が、全国的に統一され、議定範囲は区町村費にかかわることに限られ「区町村会規則」も任意裁可制から知事の施行制へと変えられ、議員の選挙・被選挙資格は地租納入者に限られた。あきらかに町村会が、町村における支配方式を確立する要として位置づけられている。 町村内の公共事項の審議をタテに、町村会が、住民の統治への反発や協力を拒否する政治の舞台となりつつあった状況のもとで、町村会の権限を「区町村費ヲ以テ支弁スヘキ事件及其経費ノ支出徴収方法」に限定し、議員の選挙資格を二十歳以上の町村に居住する地租納入者としたことは、町村会が、町や村をあげての住民行動の拠点となる事態をふせぎ、地租納入者、つまり町村内の有産者=地主たちのみで構成される会議体に再編成されたことを意味する(桜庭宏「明治国家の民衆支配」『日本民衆の歴史』六)。 このような動向を、吉野泰三「鳴門野史ノ戸長論ヲ読ム」は強く批判している(『三多摩自由民権史料集』上巻)。吉野は北多摩郡野崎村(現在三鷹市)の人、自由党員で県会議員でもある。吉野は、戸長民選を子供も知る常識とし、政府の広域行政化志向を、「官ノ便利」は「人民ノ不便」になると批判、「人ニシテ自主独立アラハ一村モ自主独立アリ」と結んでいる。人間としての権利を基礎に地方自治が認識されていることがわかる。なお、そのほかに、政府による地域行政区画の度重なる変更を批判した井田文三『神奈川県治論』なども、地方自治論の線上に位置づけられるものである(小林孝雄『神奈川の夜明け』)。 前後するが「明治十五年五月本県々会議員建白」も地方自治をふまえた一行動である。これは、同年一月、県知事が、集会に学校を借用することに加えた制限を取り消すように要請した建白である。この建白の論理で少し気にかかる点は、言論の自由という観点より、地方税納入者として公共建築物を使う権利があるという観点を前面に出していることである。財政共議権思想をふまえた論旨は説得的である反面、人民の平等性に税負担の階層性をもちこむ危険を内包しているといわなければならない(資料編11近代・現代⑴一二四)。 多彩な論点県下各地の結社などで語られた民権思想の具体的な内容を示す史料はあまりない。それで、一つの接近方法として、演題を調べてみることにしよう。事例としてここでは、演説会を主体にした有名な横浜の顕猶社をとりあげてみる。 一八八一(明治十四)年四月二十四日、横浜太田町六丁目今村楼で開かれる政談演説会の演題はつぎのように紹介されている。 市川原三郎「誰カ明治ノ廟堂ニ其人ナキト云フ乎」堀谷佐次郎「君主政体ノ利害」森澄徳聴「咄々怪事」横田熊三郎「人間階級論」樋口忠五郎「富国策」星野光多「自由ノ大敵」青山和三郎「秘密ノ□」斉藤忠太郎「自由ノ加減」客員、肥塚龍「政府ヲ置クノ基礎トハ何ゾヤ」同、沼間守一「国民之気象」その他不明(『東京横浜毎日新聞』、明治十四年四月二十二日付) 同年五月八日、同じく今村楼で開かれる演説会の題名は、つぎのように紹介されている。 斉藤忠太郎「政党之気象」青山和三郎「露国果シテ恐ルベキ乎」森澄徳聴「世ニ偽民権党ノ多キヲ嘆ズ」横田熊三郎「東京横浜毎日新聞ヲ読テ感アリ」市川原三郎「専制政府ノ大敵トハ何ゾヤ」堀谷佐次郎「君主政体ノ利害」青木匡「議院果シテ二局ヲ要スル乎」(『東京横浜毎日新聞』、明治十四年五月八日付) ついで、翌明治十五年の例をあげてみよう。二月十二日、横浜鉄橋際の富竹亭での場合はつぎのような演題である。 横地安次」言論ノ保護」斉藤忠太郎「条約改正論」大塚成吉「誰カ我国ニ真正ノ自由ナシト云フヤ」矢野祐義「何者カ言論ヲ蛇蝎視スルカ」堀谷佐次郎「利息制限法ヲ論ス」客員、浅井幸次郎「紙幣銷還ノ実行如何」同、高梨哲四郎「勤王論」ほか不明(『東京横浜毎日新聞』、明治十五年二月十二日付) もう一つだけ、同年二月二十五日、同じ富竹亭での演題を掲げてみよう。 蔭山広生「官民ノ調和ヲ望ム」斉藤忠太郎(演題前回ノ続キ)矢野祐義「気運論」小林幸次郎「政治ノ大体ハ輿論ニ出ヅ」客員、藤野政高「結合論」同、浅井蒼介「我党ノ急務」同、内山蘆雪「気慨論」波多野伝三郎「如何ナル政体ガ目下我国ニ適当ナルカ」その他(『東京横浜毎日新聞』、明治十五年二月二十五日付) このような例からわかるように、顕猶社員の関心は、憲法論、政治論、時事問題、自由論、経済論、外交論等にわたっている。一八八一(明治十四)年五月八日から翌年の六月十八日まで、『東京横浜毎日新聞』に記載された演題百五十二題を分類した渡辺奨氏によれば、第一位は政治情勢や政党論などの政治問題(五十五題)、第二位は法律・経済・演説会場となった富竹亭 『横浜成功名誉鑑』から 言論・文明開化などの教養関係(四十題)、第三位は時事問題(三十題)、第四位は民権思想(十九題)、第五位は外交問題(四題)その他になる。顕猶社の政談演説会の参加者は、普通四、五百名であった(渡辺奨「自由民権運動高揚期における横浜政治結社の動向」『神奈川県史研究』五号)。このような多彩な論点から、民主的な立憲制下で、より前進した生活を営むことを願った民衆の意識をかいま見ることができよう。 自由民権思想は自由と平等を掲げたのであるから、最底辺に置かれてもっとも抑圧された層に、どのような視座を持ったかが試金石となる。底辺への視座とは、女性認識・部落認識であり、対外的には朝鮮認識である。女性の問題については女性自身の女権のめざめとともに、一般化するにはとうていいたらなかったが、男性の側にも対等な人間として女性をみる平野友輔のような民権家が出てきたことをつけ加えておきたい(色川大吉『増補明治精神史』、本巻第三編三章三節参照)。また、朝鮮認識については、大阪事件と関連するので、後述することにしよう。当時県下の部落認識の問題については、沼謙吉氏の「部落解放運動の先駆け」(『歴史評論』一二五号)、「部落解放運動におけるキリスト教と民権運動の役割」(『部落問題研究』第十輯)という先駆的な研究があるので、その成果を借りることにする。沼氏によって明らかにされた運動は、福岡県を中心とする「復権同盟」(一八八一年)の計画とともに、全国的にも早い事例である。一八七六(明治九)年、元八王子出身の三好萬蔵(箭蔵と思われる、沼謙吉氏談)は、横浜で学校の先生をしながら修道女の世話をするうちに洗礼を受けた。三好は親交のあった八王子在の被差別部落の青年山上卓樹に手紙を送り、クリスチャンになるようにすすめた。山上は横浜の八十三番教会(現在山手カトリック教会)で仏人テストヴィド神父に面会、ほどなく洗礼を受けた。受洗した山上は、一八七七年五月から故郷の被差別部落を中心に、宣教師とともに積極的に布教を開始した。この地域の著名人山口重兵衛の入信も大きな力になったようである(『八王子教会百年史』)。神の前に人間は平等であることを説くこのカトリックの教えに、山上・山口は不当に差別されている部落民を解放するための思想を見出したであろうことは想像するに難しくない。山上・山口についで、その部落の有力者である山口の実兄、山上の父ら四名が入信した。卓樹が残した『漫草録』によれば、信者の拡大を恐れて、県庁は吏員を出張させたり大区に命じて活動家を譴責させたりして妨害し、集会に警官を出席させて圧力を加えたという。しかし、彼等は、「其圧迫ニ抗シ又ハ哄笑ヲ以テ之レニ酬ヒ聊カ躊躇逡巡スル所ロナク邁進遂ニ明治十一年ニ於テ会堂(後焼失シタリ)ヲ設ケ大司教ヲ迎へ盛ンニ開堂ノ式ヲ行ヒタル如クナレバ部落及ビ他方ニ多数ノ信者ヲ出シ」た。信者数は八十名をこえたと推定されており、同地の寺社は、廃寺、廃社に追いこまれたほどであった。 ここに見える「会堂」とは聖嗎利亜教会(天主堂)のことであり、落成後、天主堂「学校」が開設された。被差別部落の児童が(そして夜は青壮年が)公立の学校ではない天主堂「学校」へ通学したのは、一八七一年の太政官布告や翌年の学制にもかかわらず部落差別に基づく教育差別が存在したからである。本県の「達」(一八七六年十二月二十八日)や「示達」(一八七七年七月十日)もそのような実状を認め、文明開化の立場から不十分ながら事態の解決を命じているが、早急に改善されなかった。天主堂「学校」の設置は、そのような現実に抗議し、被差別部落の人びとが自らの手で奪われた教育の権利をとりもどし、文化の水準を高めるために自主的にたちあがった運動であった(川村善二郎「明治の教育と部落差別」『画報日本近代の歴史』3付録)。 さらにこの部落の人びとは、キリスト教が約束する精神界の平等にあきたらず、地上に平等を実現しようとし、それを自由民権運動に求めた。山上についていえば、彼はそのころ慶応義塾とならび称された中村敬宇の同人社で学業を修め山手カトリック教会(横浜) た知識人でもあった。ミルの『自由之理』・スマイルスの『西国立志篇』を訳した中村のもとで、山上が自由民権思想にふれたこともまた容易に想像される。一八八二(明治十五)年、自由党に入党した山上卓樹・山口重兵衛ら四人が中心となり、鴻武館をもうけて民権運動を展開した。 人民認識の問題性自由民権運動が底辺の視座を持ちえたとともに、それが先進的な部分に止まり萌芽的状態に終わったことも事実である。民権運動の敗退がその政治的理由になるが、きびしくいえばその思想にも問題があったと見なければならない。つまり、民権思想における人民認識が不十分であった点に究極の原因があると考えられる。 前述したように南多摩自由党は、武相困民党を前にして、なす術を知らなかった。そこで自由党員は、負債主より信用された者、努力した者、一応努力したが問題のある者、敵対した者、に分裂した(資料編13近代・現代⑶四〇、四五)。抽象的な平等の理念は、現実の経済情勢の悪化のなかで引き裂かれたといえよう。当時、全国的に見て少しも遜色がない五日市憲法草案においても、「婦女」に選挙権のない男子普選であり、被選挙権には財産と学識の制限が付されている。税を納める者は、発言権があるという当時の議論は、わかり易く説得的である反面、財産を持つ者の民主主義に限定されていく危険を常に内包していた。このような人民認識の不徹底が、底辺への視座を不透明にしたのである。後述する県下の大阪事件参加者の朝鮮認識にしても、天賦人権論と社会進化論的文明認識との矛盾を深刻につかみえなかったという当時の思想界の制約もあるが、根本的には人民認識の不十分さが、対外認識に投影されたものと考えられる。もっとも、県下の民権思想がもったこのような問題性は、本県に固有のものではなく、全国的に民権思想が担った問題性でもあったのである。 第五節 松方デフレと県下の情況 一 松方財政と地域の状況 不況にあえぐ農村十四年政変で、大隈に代って大蔵卿の地位についた松方正義は、長年の懸案であった通貨の安定と財政整理を至上の課題として、急激な緊縮(デフレ)政策を推進した。 そのため諸物価は一八八二(明治十五)年以降急激に下落し、金融は逼迫し、一八八四(明治十七)年は日本の近代史上でも稀な不況の年となった。 いま物価の値下り状況を、当時の代表的な農産物である米麦と蚕糸についてみると、米麦は一八八一(明治十四)年以降わずか三、四年の間に半値以下に下落し、また繭や生糸についても十五年の横浜相場の暴落以来値下りしたままである(第二十一表参照)。 さらにこれらの農産物価格の変動を、農民側が生産点で算出した資料でみると第二十二表のようになり、米麦、生糸とも十三年時の三、四割に暴落しており、事態は一段と深刻であることを示している。 ところでこれらの農産物は、当時の神奈川の農村における最も主要な物産であった。たとえば愛甲郡では、「米麦ノ一半ヲ以テ貢租ニ充テ、他ノ一半ヲ食料トナシ、而シテ日常必需ノ物品ヲ購買スルノ資ニ至リテハ、余之ヲ桑蚕ノ所得ニ取リテ辛ジテ其生活ヲ営ム」(「租税軽減哀願書」資料編11近代・現代⑴一七七)というのが、農家経済の一般的形態であったが、これは神奈川県下の農村の平均的な姿でもあった。 十七年不況は、まさに農家経済を支える主要農産物に大打撃を与え、農家の「歳入ノ三分ノ二ヲ失ヒタルト一般ノ思ヒ」をさせることになった。 諸物価の低落に加えて、公租公課の負担の増大も不況期にはきびしいものがあった。明治政府は一八八二(明治十五)年十二月、太政官布告六一~七〇号を発して、酒、煙草などの大増税を行う一方、「地方税規則」を改正して地方税の増徴を図った。地方税についてはこれまでの地租割部分の課税限度を、地租の五分の一から三分の一に引き上げたうえ、それまで国庫負担であった土木費、監獄費、府県庁舎建築修繕費などを地方財政に移管して住民負担をつよめた。このような十五年以降の相次ぐ増税政策が、不況と重なって住民に一層の重圧感をあたえたのである。 しかし、農民にとって何と言っても最大の負担は地租であった。地租は一八七七(明治十)年の改正以来、地価の二分五厘という率に固定したままであったが、農産物の激しい値下りの中での地租率の固定化は、実質的な増税を意味した。その上に神奈川県は、地租改正によって地租額が旧貢租とくらべて重く、とくに畑作地帯は旧貢租の約三倍に増徴されたため(第二十三表参照)、従来から地租に対する不満が強かった。この地租の重圧について、大住・淘綾郡の戸長らの連名による「地租延納上第21表 神奈川県物産相場変動表 (注) 色川大吉氏「明治前期の多摩地方調査と民権運動研究ノート」『東京経済大学,人文自然科学論集』から 第22表 生産点における農産物価格の変動 (注) 武相困民党の「哀願書」資料編13近代・現代⑶から作成 申書」はこう訴えている。 「茲ニ地租金五円ヲ納ムルモノアラン。昨年ニ於テハ凡米六斗内外ヲ以之ニ充足致シ候ヲ今年ニ至リテハ米壱石二、三斗ヲ要セサルヲ得ズ……是即チ昨米拾石ノ収獲アリタルモノ今年減ジテ五石ノ収穫ヲ得タルト毫モ異ナルコト無之」。これでは「農民ニ取ツテハ恰モ凶歳ト同一」であると(資料編11近代・現代⑴一七六)。 さらに地租の徴収に関連して、地租徴収期限の問題も不況期には重大問題となった。この徴収期限は過去三回改正されたが、それまで六期に分かれた徴収区分を四期に短縮するなど、改正のたびに納税者に不利となった。ことに、第三期の納入期限が、年内の十一月一日から十二月十五日に置かれたため、「未ダ田方ノ収穫ヲ以テ金ニ代フベカラザルノ時期ニ属スル」ため、この不景気の中で「真ニ三期ノ貢納ヲ弁済スルニ耐フベキ者ハ殆ンド百中ノ二、三ニ過ギズ。而シテ他ハ悉ク負債ヲ以テ此ノ義務ヲ果サヾルヲ得サラン」(「上元老院議長建白書草案」資料編13近代・現代⑶五三)という状況であった。 こうして、十七年には地租軽減運動と並んで、地租の延納(納入期限延期)の運動も各地でさかんに行われることになる。 高利貸資本の跳梁と収奪さて、以上のような農村の困窮につけこんで出現したのが、「銀行類似会社」と呼ばれる高利貸資本であった。これらの銀行会社は、ほぼ一八八一年~八三年という不況下の金融難を背景にして設立されたもので、苛酷な高第23表 神奈川県の改正地租表 「地租改正報告書」『明治前期財政経済史料集成』第7巻から作成 地租延納が綴られた「上申録」 伊勢原市役所蔵 利をむさぼる典型的な高利貸資本であった。 もともと神奈川県では、開港以来生糸輸出のブームにのって、養蚕業が急速に発達し、農村の商品経済化も急激であった。とくに、一八八〇(明治十三)年をピークとする金融の緩慢期には、養蚕農家の資金需要がさかんで、これが逆に不況期の負債を増幅した。銀行類似会社はちょうど、この景気の下降期に出現し(第二十四表参照)あくどい高利貸付で農村地帯を跳梁したのである。しかも会社の営業規模は大きく、八王子銀行を例にとると、その営業圏は武州南多摩、都筑郡のほかに相州の高座、愛甲、津久井の各郡に及んでいた。その意味ではこの銀行会社は、主として一村内で小口の生活資金の金貸しを営む在来型の農村金融とは質を異にする、原蓄期特有の新しいタイプの高利貸資本であった。 さて、この時期の銀行会社の債法は、明治政府の高官も嘆くほどの「峻酷」さであった。一八八三(明治十六)年、巡察使として神奈川県に派遣された元老院議官関口隆吉は、その復命書の中でこう述べている。 銀行類似会社中誠実ニ業務ニ従事スル者尠トセス雖モ往々高利ヲ貪リ、毎月縛天利ト唱ヒ、最初悉ク期限内ノ利子ヲ引去リ、且別々ニ不当ノ手数料ヲ取リテ貸金ヲ為シ、期限ニ至レハ峻酷ニ其返弁ヲ督責シ、毫モ仮ス所ナク義務者延期ヲ請フモ奇貨トシ、証書ヲ書キ換エ更ニ期限内ノ利子及手数料ヲ出サシムル者アリ、細民ノ之カ為ニ窮淵ニ陥ルモノ少カラス、為メニ身代限ノ処分ヲ受クル者尤多シト云フ(資料編11近代・現代⑴一〇三) 第24表 主な銀行類似会社 『神奈川県統計書』から作成 ここでいう「月縛(つきしばり)天利」のような仕方で、負債額を算出すると、一年たらずで元利合計が二倍、十円の借金が二十円九十二銭になるといわれる(「武相困民党の社会的背景に関する資料」資料編1 3近代・現代⑶四七)。そして返済不能に陥った農民に対しては、容赦なく裁判を通じて身代限りの処分が発動された。その際公売に付される田畑の価格は、地券面地価の二、三割という安値で買いたたかれる始末であった。 十七年不況下の神奈川県では、このような銀行会社の活動が全県的に見られるが、ことにこれらの銀行が集中している八王子周辺の南多摩郡では、一八八二(明治十五)年ごろより負債のため身代限りの処分を受ける者が激増しつつあった。南多摩郡長、原豊穰の記録はその間の事情を生なましく伝えている。 近来郡下人民ノ破産スル日一日ヨリ多ク、既ニ本年(明治十五年―引用者註)一月ヨリ八月ニ至リ、八王子治安裁判所ヨリ身代限処分財産調査ヲ本衛ニ照会セルモノ実ニ四百二十名、昨明治十四年ニ比シ其数二倍半ヲ多クシ、一昨十三年ニ較スレバ凡六倍ヲ増加セリ。一年ヲ統計セバ必ズ六百名ニ下ラン。一名ノ家族平均三人トスルモ総員一千八百人、夫レ恒産ナケレバ恒心ナシハ古今ノ通患人情其極処ニ陥テ事何カ為サラン。仮令大悪ヲナサヽルモ無財無産ニシテ徒食スルモノ必ズ良民ノ權利ヲハ害スルモノナリ。鳴呼斯ノ憐ムヘク悪ムヘキ事態ヲ現出スル原因多端ナルベシト雖トモ金貸会社ノ如キ実ニ其尤ナルモノナリ(「原家文書」『八王子市史』) 一八八四(明治十七)年九月、南多摩郡では郡下百三十五町村のうち百二十一町村が負債をかかえ、負債総額は百五十八万四千五百七円余に上った。この額は同郡下の地券面地価の五七・九㌫にあたり、また、当時の神奈川県の財政の約三倍に相当する。まさに、銀行会社=高利貸資本は、松方財政をテコとする日本型原蓄政策にはげまされて、県下の農民収奪に狂奔したのであった。 以上、主として農村における松方財政下の状況を考察してきたが、都市部の横浜などにおいても生活の困窮ぶりは変りなかった。たとえば横浜区内では、一八八三(明治十六)年下半期に戸数割追徴税の不納者が大量に出て、目下区役所で毎日四、五名ずつの不納者を召喚中であると報道されている(『自由新聞』明治十六年九月二十一日付)。 二 激化する農民騒擾 露木事件(一色騒動)ところで、農村不況が最も深刻化した十七年は、同時に農民騒擾が燃えさかった年でもあった。とりわけ神奈川県は、全国有数の騒擾件数を記録し、その激しさにおいても、露木事件を頂点にきわだった様相を呈している。また、初期の自然発生的な騒擾が、その最終段階で武相困民党という巨大な農民組織に発展し、かなりの組織性と計画性をもって行動している点でも、全国的に一つの特色ある事例を提示していると言えよう。 この農民騒擾は、銀行会社等の債主に向かって負債者である農民が、負債の延納、年賦払い、利子の減免などを要求する、いわゆる負債返弁騒擾が主なものであった。そこに、この時期(松方財政下)の農民運動の特色があったのである。 さて、このような騒擾は、本県では、一八八三(明治十六)年の暮れから八四年(明治十七)全体にわたって発生しているが、本項ではその前期にあたる八四年半ばまでを扱う。 前期の騒擾は県の西部、相州を中心に起きているが、いまその主なものを列挙すると第二十五表のようになる。この表は騒擾の一方の当事者である債主を中心にしてその概要をまとめたものであるが、八件の騒擾のうち四件までが露木卯三郎に関するものである。このように露木関係の騒擾は、相州地域で極めて大きな部分を占めているが、それだけでなく、最後には債主・露木の殺害にまでエスカレートしていることでも判るように、前期における激化のピークをなしている。そこでまず、露木の騒擾から述べていこう。 露木事件の萠芽は早くも子易村騒擾にみられるが、本格的なものとしては次の土屋村騒擾と吉岡村騒擾であろう。このうち土屋村騒擾は、大住郡赤田村外数か村、足柄上郡井ノ口村外数か村など農民百名が、土屋村字十国峠に集合して、露木が「予てより非常の高利を貪り借主を責むること残忍なりければ、いざや竹槍蓆旗を打たてて卯三郎の家へ攻めこみ、家族残らずをみな殺しにして腹癒せん」(『東京横浜毎日新聞』明治十七年五月十八日付)として協議していたものである。この土屋村騒擾は、一 露木に対する襲撃計画が公然化したこと、二 のちに露木の殺害に加わった足柄上郡井ノ口村、大住郡赤田村などが加わっている点で重要な意味をもつ。 以上のような経過を経て、一八八四(明治十七)年五月十五日、露木が大磯の旅館、宮代屋に止宿中のところを、負債者十名によって襲われ惨殺されるのである。さて、ここで注目したいのは加害者たちの出身村(第二十六表)と、事件を大きく報道した『東京横浜毎日新聞』の次の記事である。 右の連累は二、三百人ある由にて、実は同日同時に一手は卯三郎の居宅を焼打にし、一手は即ち大磯にて同人を殺す手筈なりしが、大磯の方が刻限を早く発し、為に早くも警察官の数多駆け来りて卯三郎の居宅を守る様なりしかば、居宅の方は遂に発するを得ざりしなりと(『東京横浜毎日新聞』明治十七年五月十八日付)。 第25表 相州西部における明治16年末から17年前期の農民騒擾 土屋,小野編『明治初年農民騒擾録』から作成 つまり、加害者たちの出身村を見ると、相当広汎な地域(三郡六か村)に及んでおり、また先の報道記事にある「二、三百人」の連累者がいたとすれば、この事件は、単なる偶発事件ではなく、その背後に各地の負債者集団の緊密な連絡と計画があったことを暗示している。極言すれば、加害者たちは各郡村の負債者間から選抜された決行グループではないかということである。そうだとすれば、ここにすでに負債者集団=困民党の原型が形成されていたと考えられるわけである。ついでにここで、殺害された露木卯三郎について一言ふれておこう。露木は淘綾郡一色村出身の典型的な高利貸で、その「残忍な債法」は、「相卯」の名で全相州になりひびいていた。そのため早くから負債者たちの恨みを買い、事件当日も身の危険を感じて娘の嫁ぎ先である宮代屋に身を隠していたといわれている。露木の負債圏は足柄上・足柄下・大住・淘綾・高座の諸郡に及び、五百人にのぼる負債者をかかえ、殺害された当時十四、五万円の巨富を蓄えていたという。そのうち、大住郡の負債関係だけでも、件数にして百二十四件、債権額一万八千七百円、抵当にとった田畑の面積は六十三町五反余にのぼっている(土井浩「明治十年代神奈川県下の土地金融活動について」『神奈川県史研究』二七号)。 弘法山騒擾さて、相州の農民騒擾は、露木事件を契機に一挙に激化した。この事件の前後に相州では二つの騒擾―大住郡曽屋村の共伸社と大住郡馬入村の江陽銀行(第二十五表参照)―が起きていたが、露木事件に触発されて尖鋭化していった。供伸社をめぐる騒擾では、五月二十七日、大住郡四十四か村の農民三百名が、突如、笠窪村の元戸長、添田団右衛門を「首魁」として、秦野の弘法山に立てこもって集団的な動きを見せはじめた。六月四日の『自由新聞』は、現地から第26表 露木事件関係者一覧 なお事件の主謀者といわれた石黒長兵衛(大住郡土屋村)近藤甚蔵(淘綾郡山下村)は無罪となっている の報道としてこう伝えている。 神奈川県相模国大住郡(以下村名略―引用者)四十四ケ村の人民凡そ三百余名には、不景気の余り同郡矢名村なる弘法山に楯寵り相議して曰ふ各自の負債は益々嵩み来って到底返弁の目途なし然る時には抵当として差入れ置きし祖先伝来の田畑は全く他人の有となり、我々は小作をなすも為さざるも一切所有人の権内にあれば祖先へ対し申訳之れなしさりとて金円の弁償すべきなければ此上は債主へ迫りて飽迄年賦返済の儀を照会し全く帳消し同様の談判に取懸るべし。もし肯かざる時には暴行に及ばんと衆議一決して去月廿七日より、或は十名或は十五名宛連れ立ちて第一番に同郡曾屋村即ち十日市場の共伸社へ押懸け、本年より無利息三十五年賦返済の儀を申入れたり(後略)自由新聞はこの記事のはじめに「類似社会党」という見出しをつけて、このままでは「幾んと蓆旗を翻へし竹槍を提げて手に唾して起たんとする勢」だと憂慮している。 そして、この「勢」に火がついたのが、共伸社社長、梅原修平の私宅に貼られたはり紙事件であった。 願の筋聞届け呉れ候はずば、如何程堅固防禦をなすと雖も屹度焼打候間其段承知せよ つつがなき命はきのう共伸社 あすは露木の友となる身ぞ (土屋、小野編『明治初年農民騒擾録』) 何者かの手で貼られたこのはり紙は、梅原を動転させ、放火殺人の噂も飛んで付近をパニック状態におとし入れた。露木事件の二の舞を恐れた小田原警察署は、事件の「首魁」として添田らを逮捕した。 つづいて六月十一日、今度は大住郡馬入村の江陽銀行の社長、杉山泰助宅に放火するという脅迫状が投げ込まれ、ここでも騒擾は激化の様相を見せはじめた。 このような不穏な状況のなかで、さすがの債主側も次第に態度を軟化させた。江陽銀行の社長、杉山は、事態を打開するため、村の祭礼にかこつけて負債者に酒肴を供応し、戸長、仲裁人を交えて徹夜の交渉の結果、ようやく和解にこぎつけた。こうして、六月に入ると、共伸社など他の債主も、「利子を引下げ或は年賦を承諾」に応じていった。その際の和解条件がどのようなものか全部は明らかでないが、江陽銀行の和解内容は「十七年六月より約三ケ年に一割二分の利を付する事、三年後に更に三ケ年の延期を許し此金額に限り八分の利を付する」(前掲「騒擾録」)というもので、債主側にしてみればかなり大幅の譲歩を盛ったものであった。 ともあれ、一八八三(明治十六)年末から相州を震撼させた農民騒擾は、露木事件を契機に負債者側を有利に導き、債主を示談に追い込んで一応の解決を得たのである。とりわけ、露木関係の負債については、その遺族が大方の債権を放棄したこともあって、画期的な解決を得たのであった。 こうして、県西部の騒擾はひとまず鎮静に向かい、騒擾圏は東部へと移動していった。 三 武相困民党のたたかい 御殿峠の大騒擾一八八四(明治十七)年の六月まで、県の西部に吹き荒れていた農民騒擾は、七月に入ると東部へ移動した。七月三十日、まず高座郡上鶴間の鹿島神社に同村の農民三百人が集まり、原町田の武相銀行と奈良村の盛運社の負債の件で協議するという動きがあった。この事件は次にくる一大騒擾の前ぶれであった。 八月十日、高座・南多摩・都筑三郡の農民が、武相の国境いにある御殿峠に大挙して集合し、事態は一挙に重大化した。この日御殿峠に集まった農民の数は千人とも数千人ともいわれ、沿道を大八車に大釜や食糧を積んで行進し、これから八王子の銀行会社を打ちこわしに行くのだと言って気勢をあげた。「其勢ヒ恰モ仏国革命党ノバスチール獄ヲ破ツテユク」が如しだと、戸長の細野喜代四郎はその日誌(『町田市史史料集』第八集)記している。この報が八王子に伝わるや、市内はまるで打ちこわし前夜のような恐慌状態を呈したという。 御殿峠といえば、武相の境にあって八王子の市街が眼下に見下せる場所である。当時の八王子は、関東最大の織物生糸市場として多数の銀行会社が集中していた。これらの銀行会社に負債のある農民が、債主との交渉のため此の地を選んだのは極めて自然のことであった。 農民蜂起の報に驚いた八王子警察は、署長の原田東馬以下総員でかけつけ、懸命の説得にあたった。集会の目的をきかれた参加者たちは、負債の返済ができないので全員で債主に延期を交渉しにいくのだと答えている。警察側の徹夜の説得が効いたのか、さしもの大群集も夜明けと共に解散しはじめた。しかしそのうちの二百余人は、疲労と空腹を理由に立退きを拒否したため全員検挙された。検挙者の所属は、三郡二十二か村に及んでいるが、高座郡上鶴間村の六十七名をはじめ、南多摩郡の高ケ坂村十九名、南大沢村十九名、木曽村十六名などが主力をなしており、これらの諸村ではすでに困民党が組織されていたものと推定される。 ともあれ、この御殿峠事件は、困民党運動の最初の大結集を示したものであり、運動が郡村段階を越えて大きく連合への第一歩をふみ出したことを告げるものであった。 困民党運動の第二の事件は、南多摩郡川口村の農民指導者、塩野倉之助に対する弾圧困民党結集の上鶴間青柳寺(鹿島神社) 事件である。九月一日、八王子署は塩野の自宅に困民党の事務所が設けられたという情報を得て、家宅捜索を行い、塩野の書記の町田克敬を逮捕した。この事件を聞いた農民側は、塩野を先頭に続々と八王子署へつめかけ、町田の釈放と押収品の返還を要求した。その数二百余人、激昂した農民の中には、署員の制止を無視して署内になだれ込む者もいた。そのため、不退去を理由に全員検束されるという結果を招いた。この時の逮捕者は南多摩、西多摩、北多摩の三十三か村二百十名であった。この事件は、これまで騒擾の圏外にいた多摩北部の地域が新たに運動に加わり、困民党に結集しはじめたことを示している。この弾圧の報を聞くや、南部の人民は北部に呼応し合流すべく、再び御殿峠へ結集しはじめるが、横浜本署からの警官隊の増派の報を受けてひいていった。 以上のような武相諸郡の運動のほかに、いま一つ津久井郡人民の動向に注目する必要がある。御殿峠事件から三日目、津久井郡八か村三百余人が御殿峠へかけつけるが、すでに解散していたため方向を転じ、そのうちの百人が歎願と称して郡役所へ向かった。そこで郡長、警察署長らの説諭を受け、一旦引き揚げたが、十六日再び別の場所に集合するという陽動作戦を用いて当局を悩ませた。この津久井人民の行動は極めて尖鋭で、自ら「困民会」と称し、八月二十六日には同郡三井寺に十か村の代表十三人が集合し、警官が解散を命じたところ、目下負債の件で仲裁人を通じて債主と掛合い中で、「其返答あるまでは決して解散せず」(「騒擾録」)と抗弁して全員逮捕されている。また津久井困民党は、他郡の困民党が地下にもぐった九月末から十月末にかけても、十数人から百人程度の規模で、絶えず騒擾を繰り返している。 武相困民党の大連合なるさて、九月五日の八王子署の弾圧事件で、それまで連日のように小規模な騒擾を展開していた困民党側も、やや沈静するかに見えた。警察側が隊列を強化して警備を厳にしはじめたからである。こうしたなかで、九・五事件の逮捕者も大方釈放され、八王子警察署は九月三十日、事件落着の意味で横浜本署に「借金党鎮圧」の報告を行うまでになった。 しかし、この一か月間こそ困民党にとって組織の大結集をはかるための時間かせぎの時期であった。各地の困民党グループは、この間地下深く潜行し、相互の連携を図りながら、困民党の大連合を準備していった。武相困民党の結成がひそかにすすめられていたのである。 もともと困民党は、「上鶴間組」「木曽組」というような一村若しくは数か村が基本組織となっており、それが横に大きく連合するという組織形態をとっていた。このような連合は、運動のなかで次第に発展していったが、それが武相困民党として大同団結し、正式に名のりをあげたのは、十一月十九日の困民党大会であった。この日困民党は相模原で、武相七郡(多摩三郡と愛甲・高座・都筑・鎌倉の諸郡)三百か村の代表を集めて結成大会を開いた。大会は、「申合規則並ニ維持法」とよばれる規約と当面の方針を審議し、また新指導部を選出した。大会審議の中では、これまでの活動にあらわれたセクト主義と分散主義が厳しく自己批判され、何よりも団結の強化が叫ばれた。さらに選出された役員(第二十七表)をみると、監督四、幹事九、会計五、周旋四、計二十二名からなっており、監督と幹事には若手を起用し会計と周旋第27表 武相困民党の指導者一覧この表は色川大吉「困民党と自由党」,『町田市史』(下巻)などを参考にして作成した。また,このほかに,御殿峠事件の指導者,渋谷彦右衛門,同彦兵衛,各村段階での総代人もいるが省略した には年長者を配し、また武州と相州同数とするなど、年齢構成や選出地域に細かい配慮をしていることがわかる。 大会は最後に、次のような檄文を発表して幕を閉じた。 諸君知ラスヤ吾曹ノ対手ハ最モ強敵ニシテ最堅壁ニ拠レリ。吾進撃ノ前途ニ横タハルノ荊莿雖然正理ヲ以テ剣トナシ公道ヲ以テ鉾トナシテ薙倒蹂躍シテ倍進テ主義ヲ貫キ目的ノ域ニ至リ而シテ全勝ノ功ヲ奏シ凱歌ヲ天下ニ揚ルコト何ゾ難シトセンヤ 是只衆心団結力ノ強弱如何ニアルノミ 請吾ガ同胞兄弟ヨ豈卑屈スルノ時ナランヤ、宣シク速ニ奮起シテ希望目的ヲ徹底スルコトヲ務ムベシ 只是楽境ニ遊ブト倍困苦ニ陥ルトハ同胞兄弟ノ奮発スルト否トノ気力ニアルノミ……諸君請活動セラレヨ 諸君請奮励セラレヨ(資料編13近代・現代⑶四三) 困民党が大会で決めた当面の方針は、各郡長と県令に対して負債処分の請願をすることであった。郡長あての請願では、負債の返済について、無利息満一年据えおきの上、五年ないし七年の年賦払い、それに少々の利子という大変控え目なものであった。困民党は当初、負債満五か年据えおき五十年賦という極めて大胆な要求を打ち出していたからである。しかし、この程度の要求ですら銀行側は受入れようとしなかった。銀行側はすでに九月末、騒擾の仲裁役を買って出た自由党県議らに対して、負債者のうち貧困な者に限って五年以内の年賦払いを認める、利子は年一割五分以上二割までという最終回答を出していた。 困民党結成大会で決定した「申合規則並ニ維持法」 須長松市氏蔵 県令交渉と困民党の終末困民党が当事者間の交渉を打ち切って、郡長、県令という行政当局に対する請願に切りかえたのは、行き詰まった交渉を、当局の職権に頼って打開しようという目算からであった。ところが、郡長あての請願は各郡長からにべもなく拒否された。願書を一応受理したのは、かつての民権派県議で現高座郡長の今福元頴だけであった。一方、県令あての請願は、大会で「吾国勇名ノ国士」として指名された代言人、立木兼善を代理人に立てて行われた。立木は前横浜裁判所の所長で、当時民権派の法律事務所、北洲社を経営して困民党の信頼が厚く、すでに木曽組、鶴間組などのグループとは以前から接触があった。 困民党の依頼を受けた立木は、年が明けた十八年の一月早々、神奈川県令・沖守固に書簡を送り、善処を求めた。それに対して沖県令も、趣旨はよくわかった、近く各郡長から事情を聞いて善処したいという返事を寄せた。この情報は直ちに地元の困民党に伝わり、そこで困民党は総代数名を横浜に送って、直接県令に歎願することにした。このときの総代は、監督の中島小太郎、佐藤昇之助、若林高之亮、金子邦重、大曽根作次郎それに事務主任の須長蓮造の六名であった。 一八八五(明治十八)年一月九日、一行は横浜の名望家、海老塚四郎兵衛に伴われて県庁に出頭した。ところが、県側の態度は先日の立木の情報とはうって変ったものであった。当日は県令の姿はなく、田沼大書記官、花田警部長らが応対したが、最初から総代の辞任と困民党の解散を要求する高圧的なものであた。翌日は沖県令に招かれたが、此処でも前日と同様であった。総代たちが必死になって訴える負債処分の問題には耳をかさず、「速ニ出頭総代ノ名義ヲ去り団結ヲ解ケ……若シ強テ申立ル以上ハ無余儀警吏ニ引渡処分スルノ外無シ」(明治十八年一月十二日中島小太郎宛若林高之亮書簡色川大吉「困民党と自由党」『歴史学研究』二四七号)と言って、説諭と脅迫が繰り返された。 今やすべての望みは断たれた。その夜、悄然として宿舎に帰った総代たちは、県令あてに一通の上申書を作成した。それは県令の命に従って、しぶしぶ歎願総代の辞任を文書で誓約したものであった。しかし県令のもう一つの命令である困民党の解散については、きっぱりとはねつけた。上申書ではその理由をこう述べている。 困民党は誰が主唱して出来たものではない。貧苦の底に突き落された農民が、債主に対する怒りから自然と集ってできたものだ。だからわれわれには困民党を解散する権限はない。われわれは今日限り総代を辞任するが、その代り今後どんな事態が起っても責任をとるつもりはないと。 そして最後にこう付け加えている。 従テ向後其団結中ノ貧民一人若クハ数十百人、何様ノ事出来候共私輩ニ連及不仕義ハ今更余計ノ贅言トハ奉存候得共、多勢ノ中心得違ノ族無之モ不限仍之杞憂ニ不堪此段奉具上候以上(資料編1 3近代・現代⑶四四) 表現はひかえ目であるが、ここには県令に対する精一杯の抵抗の気持がにじみ出ており、しかも最後の一句には、挑発的とも言える言葉のトゲが含まれていた。危惧した通り、この一文が権力側に弾圧の口実を与えた。その翌日、総代たちは上申書に不穏のかどありとして、出頭を命ぜられ取調べを受けた。困民党への弾圧が真近いことを察知した総代の若林高之亮は、その翌日疾駆して帰村した。 さて、そのあくる日の一月十四日、歎願委員が予想もできなかった事件が勃発した。困民党傘下の農民三百人が相模原大沼新田に決起集会を開き、その一部が県庁をめざして抗議のデモを繰り出した。困民党の怒りがどたん場で爆発したわけである。しかしこのデモ隊も、瀬谷村付近で官憲に阻止され鎮圧されてしまう。この困民党最後の決起が、どのような意味をもつのかはっきりしない。しかし歎願総代が事件の直後、各村に配布した回章の中で、この事件について、「人民相互ニ路傍ノ風説カ、亦二、三ノ煽動者ノ為ナルカ、少シク不穏ノ挙動ヲ成シタル故ニ……事悉皆齟齬意表ニ出候」(資料編1 3近代・現代⑶四六)と述べているところをみると、色川大吉氏の言うように、歎願総代若林らの報告を聞いて憤激した「没落中農のジャコバン分子」が、「このさいごの瞬間に運動のヘゲモニーをにぎったのであらうか」という「想像」も成立つわけである(前掲色川論文)。これが武相困民党の終末であった。 あとには幹部の逮捕と捜索が続いた。中島、須長、若林ら十数名の幹部は、次々と「兇徒衆嘯」の罪で捕えられ、横浜監獄に拘留された。 四 地租軽減運動 自由党主導下の運動十七年不況は、困民党に結集した中貧農層を経済的破綻に追い込んだだけでなく、地主豪農層にも深刻な打撃を与えた。小作年貢の未納や減少、米価の下落等で、地主豪農層も危機にさらされる状態であった。十月三十日の『自由新聞』の社説は、「地方ノ困究」と題して相模地方の近況にふれ、「農家ノ困究ハ実ニ言語ノ得テ之ヲ伝フベキ者ニハ非ズ……地主モ小作人モ共ニ斃ルルノ勢ナリ」と報道している。 加えてこの年、二度にわたる秋台風(九月十五、十七日)が、神奈川県下を襲い、農作物に甚大な被害をあたえて、危機感を一層つのらせた。 こうして、この年、豪農層も地租軽減運動に立ちあがった。 ところで、地租軽減運動は最初から在地の自由党組織ないし自由党員によって組織され指導されていた。自由党は結党以来、農村を支持基盤とする政党として、地租軽減を山口書輔 党綱領の中心に据えており、とくに一八八三(明治十六)年の春季大会では、この運動を当面の最重要課題にしていた。そのため、地租軽減運動は、その年の後半ごろから全国各地ではじまっていた。 神奈川県でこの運動に真先にのり出したのは、湘南自由党であった。そこではまず、一八八三(明治十六)年十月下旬、大住・淘綾郡の八十一か村の戸長らが、県令あてに「地租延納上申書」を提出している。この運動にも山口書輔ら民権派戸長による自由党=湘南社の影響がうかがえるが、ほぼ同時期に行われた同郡百三十三か村納税者の名による「地租徴収期限延期」の元老院あて建白運動には、在地自由党の指導性がはっきりとあらわれている。 大住・淘綾両郡で先〓をつけた地租の延納ないし納期改正の運動は、一八八四(明治十七)年に入ると、不況の深化と共に一層切実なものとなり、他郡にも波及していった。明治十七年十一月、高座郡では、二町百九か村の戸長の連名による、「山林原野雑種地税未納分及田畑追徴金ノ義ニ付上申」という請願書が県令あてに提出された。これは下鶴間村の戸長で自由党員の長谷川彦八らが発起したものであるが、それは納期のきた山林原野の雑種地税と田畑地租の追徴分を今後五か年賦払にして欲しいというものであった。これと同じ内容のものに、南多摩郡諸村の地租追納の延期運動や西多摩郡戸倉村など七か村の地租上納延期願などがあるが、ここでも自由党員の活躍が目立っている。 愛甲郡の地租軽減運動以上述べた幾つかの運動は、地租の軽減そのものでなく、各種の地税の徴収期限の緩和や延期を要求したものであった。 さて、地租そのものの軽減を要求して、最も大規模に取り組まれたのは、愛甲郡の運動であった。同郡では一八八三(明治十六)年末から有志の会合をもって「減租ノ請願」を決定し、「規約」をもうけ通信委員を選ぶなどして準備にとりかかっている。通信委員は六名中四名が自由党員であった。この運動はその後、政府の地租条例の取扱いを見守る必要があってしばらく休止していたが、八四(明治十七)年九月から再開し出した。まず九月一日の有志集会で、すでに作成ずみの次のような「規約書」に基づいて行動することを確認した。 今ヤ吾々農民ハ殆ト名状スベカラザルノ苦境ニ陥リ、国民最大ノ義務タル租税ヲ払フニモ尚困難ヲ極ルニ至レリ、然レドモ目下他ニ之レヲ救済スルノ良策在ルナシ。是レ寔ニ故ナキニアラザルナリ。見ヨ物価ハ頓ニ低落シ紙幣ハ著シキ騰貴ヲ来タシ、之レヲ両三年前ニ比スレバ農民ハ自然ニ倍以上ノ納税ヲナサザルヲ得ザルノ状景在ルニアラズヤ。左レバ今日ニ於テノ救済法ハ唯租税ノ減額ヲ請願スルノ一途アルヲ信ズルノミ。依テ左ノ条項ヲ規定シ諄々之レニ従事セン事ヲ盟約スルモノ也。 第一 極メテ温和ニ請願ヲナス事 第二 該請願ノ為メニ要スル費途ハ総テ有志者ノ義捐金ヲ以テ之レニ充ツベシ。 第三 請願委員若干名ヲ選定シ総テ之レニ委任スル事。(以下略)(資料編1 3近代・現代⑶五〇) そしてこのあとに、郡下二十六か村から選ばれた総代四十八人の氏名が続く。そのうち十名が党員、九名が講学会のメンバーである。さらにこの中から、郡レベルの請願総代六人が選ばれたが、うち五名が自由党員―難波惣平、天野政立、井上篤太郎、山川一郎、第28表 愛甲郡地租軽減運動署名数村別分布 愛甲郡哀願書及び同建白書より作成 沼田初五郎―であった。 村の総代の選出方法は、村ごとにまちまちであるが、下荻野村では村の伍長三十二名の連名で、次のような文書にして確認している。 依頼証 右ハ今般明治六年第七十二号布告ニ基キ地租納期変換及減額ヲ広ク各郡人民ト聯帯シ政府へ出願ス可キニ於テハ難波惣平、小林茂平ノ両氏ヲ人民総代ニ依頼ス(「難波家文書」)こうして、各村に配置された総代を中心に、請願署名と義捐金募集の運動が精力的に展開された。そこで集めた署名の数は、一町二十六か村で三百九十一人、義捐金の額は百三十余円に達した(第二十八表参照)。なお義捐金の募集では小口の一般募金のほかに、大口として郡内の「資財家」を上位から二つのランクに分け、第一ランク(四戸)に一戸あたり二十円、第二ランクには五円とするなど、資産に応じた割当てをしている。そしてトップの四戸には、郡長・中丸稲八郎、自由党員・小宮保次郎らがいた。第二ランクは十九戸としてあるが、このクラスに自由党員の半数が入っており、このあたりが愛甲自由党の平均的な所属階層と考えられる。 愛甲郡の減租歎願運動は、十一月下旬と十二月中旬の二度行われた。最初は大蔵卿に請願しようとしたが拒否され、一か月後今度は請願を建白に代えて元老院に提出し、漸く受理された。二度目の建白運動では署名数はさらにふえて五百八十七人にのぼり、義捐金もさらに五十一円余集まっている(前表参照)。 以上、愛甲郡を中心に幾つかの地租軽減(延納)運動を紹介したきたが、最後に、二、三の特徴点をとり出して検討してみたい。 減租請願資義捐有志者名簿 難波春美氏蔵 まず第一の特徴は、これらの運動が在地自由党の指導で取り組まれている点であろう。愛甲郡の場合はまさに郡党の総力をかけた運動であった。第二は運動の組織対象が地主豪農層に限られ、その要求も租税負担者としての地主に限定されている点である。例えば最も大衆的な規模で取り組まれた愛甲郡の場合ですら、請願、建白の署名数は郡下全戸数の七㌫、一〇㌫程度であり、同年度の郡下の県会議員の被選挙資格をもつ地租十円以上の納入者(八三七名)の約半ばである。したがって多数の勤労農民、とりわけ中貧農層には無縁の運動であった。第三には、運動がすこぶる「温和」で、徹底した合法主義をとり、急進主義をきびしく排除していることである。この点は後述するように、農民騒擾=困民党を警戒し、それと一線を画するための措置であった。その意味では、地租軽減運動は、困民党に対抗してその蔓延を「未萌」のうちに防止する役割と任務をもつものであった。 ともあれ、これらの地租軽減運動は、政府、元老院、県当局の拒絶にあって、ことごとく失敗に帰した。 五 困民党と自由党 二つの困民党論―秩父と武相―さいごに、神奈川県下における困民党と自由党の関係を考察して本節の結びとしたい。 困民党と言えば、ちょうどこの年、県境一つ隔てた埼玉県秩父に、有名な秩父事件が勃発している。秩父事件は日本の近代史上、「稀有の武装蜂起事件」として、史家の間でつねにその意義が問い続けられてきた事件である。武相困民党の結成はこの秩父の蜂起におくれること、わずか二十日後であった。 ところで、この二つの困民党を比較するとき、まず、その時期と場所の類似性に気付くであろう。場所的には、二つの事件は県境一つ隔てた隣接地帯に起きている。秩父事件の報を聞くや、神奈川県警は直ちに県境を閉鎖し、事件の県内への波及を厳重に警戒している。言うまでもなく、両困民党の接近ないし連携を極度に恐れたためであろう。当時「関東決死派」とよばれる自由党激化グループの間で、「革命の軍を甲、武、野、常の間にあげ」(加波山事件研究会著『加波山事件』)るという、一斉蜂起計画の動きもあったからである。 また時期的にみれば、直前に起きた秩父事件の蜂起と敗北の鮮烈な教訓が、武相困民党の戦術と行動に、決定的ともいえる影響を与えたであろうことは想像にかたくない。武相困民党が秩父事件を契機に、尖鋭さを失い、もっぱら経済要求にしぼった合法的請願行動に転換したのも、そのためであろう。 しかし、武相と秩父の両困民党のちがいは、そのような外的状況だけにとどまらなかった。つまり両組織の構成と指導面には、質的とも言える相異があったのである。その最も基本的なちがいは、困民党と自由党の関係であろう。たとえば秩父では、困民党は在地の自由党によって組織され、組織的には一体のもの(自由困民党)として、自由党の指導性が貫徹していた。いわゆる指導―同盟型の関係である(井上幸治『秩父事件』)。 では、武相の場合はどうか。結論を先に言えば、神奈川の自由党組織のなかで、秩父型の関係にあるものは一つもない。組織的にはどの地方においても分離・雁行したままである(自由党員で困民党に参加したのは、若林高之亮一人だけである)。そのころの武相の自由党内には、農民騒擾=困民党に対する二つの潮流があった。一つは困民党を「貧民」「窮民」として同情する潮第29表 仲裁人グループ(但し自由党員のみ) 仲裁人全員で27人中自由党員のみを摘出した。色川大吉『困民党と自由党』から作成 流であり、他方は「乱民」「暴民」として敵視するそれである。前者は十七年の九月以降、困民党と銀行会社との間に入って紛争の仲裁役を買ってでたグループに代表される。このグループには、石坂昌孝や佐藤貞幹らの古参幹部や、県議、戸長などの役職者が多い(第二十九表参照)。 これら仲裁人グループの立場は、かれらがまとめた「上願書」によくあらわれている。この中でかれらは、困民党の負債額が四万三千九百七十五円余に達していることを指摘し、一部の銀行会社が苛酷極まる取立てによって、多数の農民が身代限りの処分に陥っている状況を、「実ニ破廉恥ハ論ヲ俟タズ」と慨嘆し、無利息年賦返済等の処分を官側に訴えている(資料編13近代・現代⑶)。この上願書を読むと、仲裁人グループは困民党へ強い同情を示していることがわかる。そして、このような同情論に基づいて、やがて「利子制限法の改正」や「銀行会社の廃止論」などの大胆な主張が現われてくるのである。 対立する自由党と困民党しかし仲裁人グループは、単なる同情や善意で仲裁活動にあたったわけではない。かれらを行動に駆り立てたのは、むしろ「国民カ苦悩ニ陥ツテ活路ヲ失ナヒ死地ニ至ラントキハ無知無分別数千ノ困民等真土村ノ松木ニ於ケル一色村ノ露木ニ於ケル暴挙及ハサルモ云カタシ」(『明治史料第五集』明治史料連絡会刊)という恐怖感と危機意識であった。社会秩序壊乱に対する危機意識は、党幹部や県議、戸長などの役職に在る者には、とり減租請願日誌 難波春美氏蔵 わけ強かった。これと同じ危機感は、地租軽減運動に取り組んだ愛甲自由党のなかにもあった。すなわち愛甲郡では、地租軽減運動に取り組くむにあたって、その目的、任務を次のように規定している。 有志相会シ去月以降貧民所々ニ屯集シ人心恟々タリ。是レ全ク不融通人民困苦ノ致ス処ナルヲ以テ、我々ハ最モ之レカ救済ニ注意シ、以テ困民ヲ救護シ且ツ社会ノ安寧ヲ維持シ、荀モ乱民ノ蜂起スルカ如キ事ヲ未萠ニ防カザルベカラザルヲ議シ、而シテ困民ノ屯集スルハ之因リ唯貧苦ニ迫ルノミナル由ニ付、先ツ諄々乎トシテ減租ノ請願ヲ為シ社会ノ平和ヲ保タント云フニ決ス。 (「減租請願日誌」資料編13近代・現代⑶四八) つまり、請願運動のねらいは、減租そのものよりも、「困民の屯集」「乱民の蜂起」を未然に防止し、社会の安寧と平和を保つにある、というのである。もはや、愛甲自由党がこの運動に何をかけていたかは明らかであろう。そのころ武相困民党の組織圏は愛甲郡にまで伸び、一部の村(上依知村)では困民党の幹部を送り出していた。この困民党組織の蔓延をいかにして防止第30表 銀行会社における自由党員 色川氏前掲論文から作成 第31表 共伸社の党員株主 梅原は党員ではない。出資額中の()の数字は出資者人中,出資額の大きさを示す順位をあらわす。「山口左七郎文書」から作成 するかが、地方自由党の焦眉の課題であったわけである。 自由党内の第二の潮流は、困民党に敵対する銀行会社の役員、大株主らに代表されるグループである。これらの党員たちは、銀行会社の社長、頭取、顧問として、負債返弁方法をめぐって困民党と真っ向から対立していた(第三十表)。このほかにも、銀行会社の大口出資者(株主)として、困民党と対立関係にある多数の豪農党員がいた。第三十一表は、大住郡の共伸社の党員株主であるが、このようなケースがほかにも多数あるはずである。しかも、これらの党員は、党の地方幹部あるいは有力者として党内で大きな発言力を有していた。 かくして、神奈川県下における自由党と困民党の構図はところによっては、指導・同盟どころか、公然または陰然たる対立・抗争の様相を呈しているということができる。 周知のように明治十七年をピークとする明治十年代後半の不況は、戦後の農地改革にも比すべき経済的社会的変動を、当時の農村社会にもたらしたといわれる。十七年には農民の耕地を抵当にした全国負債総額は約二億円―これは同年の国家経常歳入の二・五倍にあたる!―に上り、翌十八年納税不納に陥って土地を公売処分に付された農民の数は、実に十万八千人を突破した(マイエット『日本農民ノ疲弊及救治策』)。自由党と困民党の対立・抗争の背景には、以上のような全国的規模での農村の解体と変動があったのである。この解体と変動の過程で、自由党内外の有力豪農層は、窮乏化する中小農民の犠牲の上に、土地の集積集中を推進したのであった。 最後に、武相困民党の指導者について一言付言しておきたい。 困民党傘下の大衆は、「没落に瀕した中小農民」を主体とする広範な勤労農民からなっていたが、その指導者となると意外に豪農出身者が多い。一、二の例をとろう。 秦野弘法山騒擾の指導者・添田団右衛門は、笠窪村の元戸長であり、不況前には五町余の田畑を所有し、養蚕・葉煙草を兼営して小田原の魚会社にも出資するという小豪農であった。 また、武相困民党の初期の指導者で、御殿峠事件の「首魁」となった渋谷彦右衛門は、明治十七年五月まで上鶴間村の戸長をつとめ、田畑山林合わせて二十六町、その地価三千三百三十円(明治十一年時)という豪農であった。そして両者共に十七年には深刻な資産の喪失に遭遇するのである。武相困民党の事実上の責任者であった須長連造については、いまさらふれる必要もあるまい。 かつて色川大吉氏は、武相困民党の指導者層を「小豪農」と規定されたが、その後の調査研究によっても、この規定が基本的に正しいことを教えている。「小豪農」指導下の困民党という性格づけからも、秩父困民党とのさまざまな対比―組織の自然成長性、戦術上の合法主義、要求面での経済主義など―が可能であろう。 第六節 自由民権運動の変容 一 国会開設期限短縮の建白 自由党の解党と国会開設期限短縮の建白自由党内に形成された急進派のうち、関東の決死派によって先ず引き起こされたのが加波山事件である。この事件の直後、すでに明治政府との妥協的方向を強めていた板垣退助ら幹部は、党の統率に自信を失い、急進派と同一視されることを恐れて解党を決意した。解党の大会は、一八八四(明治十七)年十月二十九日、大阪で開かれた。このとき、「解党大意」を朗読したのが、本県都筑郡の自由党員で党幹部を勤めていた佐藤貞幹である。大会は解党を決定した。 この後、植木枝盛・高橋基一によって、一八九〇(明治二十三)年に予定されている国会開設の期限を短縮する建白書を提出することが発議され、これも同意を得た。すぐ後で述べるように本県から提出される同趣旨の建白書二通は、この解党大会における動向に沿うものであることは明らかであり、そのうちの一通には佐藤貞幹も署名している。したがって、この二通の建白書を考察する前に、解党大会で提出を決議された建白書の論旨を先ず見ておこう。 この建白書が要請する内容は、「陛下乞ふ国家今日内外の大勢を熟察深思して、非常の英断を以て国会開設の期限を短縮し、速に先づ民撰議院を設立せられよ」という一節に尽きている。なお、国会早期開設に関連して、言論・出版・集会・結社・請願の権利の制限撤廃が要望されている点も重要である。それでは、ここで強調される内外の危機的情況とは何か。国内において、人心は専制の政治に倦み、はなはだしい場合「憂憤自から迫り、法を犯して激動するもの」ある状態になっている、という。これは、福島事件、とりわけ加波山事件を指したものである。そして、言論・出版・集会・結社の自由がないこともその背景にあると指摘している。国外については、清仏戦争にふれ、列強の東洋侵略の形勢下にあって「国権益々危殆の極に迫れり」としている。 この建白書には、これまでにはっきりとしてはいなかった一つの傾向が出てきている。すなわち「我国今日は大に人民の心志を一にし、且つ盛んに兵備を張り、以て国力を養い、国権を確めざる可からず」という国権論優越の傾向である。つぎに見るように、本県から出された建白書には、この点が一段と増幅されているのである。なお付言すれば、解党大会の建白書は、その文面が天皇への請願になっているためか、元老院では受理されなかったようである。元老院編『建白書一覧表』には記載されていない。 吉野泰造らの建白吉野泰造らによるこの「建白」は、一八八五(明治十八)年一月に案文が作成され、恐らくその直後に提出されたようである(色川大吉「西多摩郡で発見された国会開設期限短縮建白書」『東京経済大学会誌』六二号)。ただ、『元老院建白書一覧表』に同建白は見当らない。何らかの理由で受理されなかったか、あるいは太政官に請願して例の如く却下されたのか、建白作成後に提出を中止したのか、その辺はまだわからない。建白の末尾に、北多摩郡からは吉野が一人、西多摩郡からは深沢権八・瀬戸岡為一郎・馬場勘左衛門ほか七名が署名しているから、解党後の北多摩郡自由党と西多摩郡自由党の有志によるものであることがわかる(資料編13近代・現代⑶五八)。 建白は「内外ノ大勢」に見られる不安な情況を説き、天皇に国会開設期限短縮の英断を下されたいと、訴えている。内外の大勢はどのような事態になっているというのか。建白によれば、国家の治安の基は究極的に人民が安らかな生活を送れることにかかっている。人民には二種類あるが、比較的「上流ニ位スル者」は、個人的には自由の伸張・権利の強化を望み、社会的には政体の変革、政治の改良を望んでいるが、その希望を達せられず、心安らかでない情況にある。また、「下流ノ人民」は、窮迫のため生計困難に陥り、その心恟々として常に安らかに生活することができない。そのため、官民の間に親愛の情が失われて離反し、国家を強力にすることもできない状態である。国外に目を移せばどうか。我が国は、幸いに実権を外国に握られているようなことはないが、北からロシア、西から英仏がうかがい、清も強い猜疑を日本に抱いている。したがって国家を強国会開設期限短縮建白書 東京経済大学図書館蔵 くすることが要請されているのである。内外のこのような事態を打開するには、五か条の誓文以来の約束である国会開設を、期限を早めて実施する以外に良い方法はないと思われる。それ故、陛下は非常の英断を下されたい。建白書の内容は、ほぼ以上のように要約される。 石坂昌孝らの建白「国会短縮議建白」と題されたこの建白は、一八八五(明治十八)年四月、元老院に提出された。南多摩郡の石坂昌孝・若林三右衛門・杉豊常右衛門・薄井盛恭・鈴木雄之助・林副重・土方房五郎・高木吉造・森久保作蔵・青木正太郎、都筑郡の佐藤貞幹の十一名が署名している。佐藤貞幹が自由党の解党大意を大会席上で読みあげた人物であることは先にふれた。 主として南多摩郡自由党有志によるこの建白書の文面は、きわめて簡潔で、「内外の急」を説き、「非常ノ断」によって早く国会を開設されたいと要望している。その論理を要約すれば、次のようになる。東洋の形勢は日毎に切迫し、日本は列強の足下からわずかにのがれているけれども、まだ不平等の関係にある。今日の日本は「上下一致シテ外ニ向ハ」なければならない。しかるに、最近の国内情勢を見ると政府の財政対策の失敗から国民は「流離顚沛ノ惨」におち入り、法を破る者さえも出てきている。このような内外の急に処するには早く国会を開き、官民ともに国を守る策を立てなければならない。このような論旨からわかるように、この建白には「今日ノ日本宣シク上下一致シ以テ外ニ向ハサル可カラス」という情勢判断が前提にあり、国会の早期開設もそのための重要な手段とされかねない民権変容の萌しが現れている(資料編13近代・現代⑶五七)。 民権変容の萌しこのような二つの建白の内容をたどると、何か変わってきたという気持がわいてくる。第一は、広く人民と結合することなく、有志の署名に終わっているという運動方法の退化である。第二は、吉野泰造らの建白に見られるように、「下流人民」が、国会早期開設という方法により「尉撫」されるという受身の存在に置かれていることである。武相困民党の事件以後、「上流」と「下流」の人民の分裂が、社会的に進んだことの反映であろう。第三は、民権から国権への転換、すなわち、「国家」を第一義とする観念への傾斜が始まったことである。それはまた、自由党解党大会の建白に主張されていた言論・集会・結社などの自由に一言も言及されていないことと表裏の関係にあるといえよう。加波山事件・群馬事件・秩父事件の報道、武相困民党の運動という急激な情勢展開を眼のあたりに見て、武相の豪農民権家は、当時客観的に存在したとは考えられない対外危機という情勢認識と、国家に第一義性を置く価値観の転位によって、「下流」の民衆と訣別しはじめたようである。民権から国権への変容がここに明確に萌したのである。大阪事件への政治的思想的地ならしを、すでにここに見ることができよう。 二 大阪事件への参加 自由民権期における激化諸事件の最後に位置するのが、この大阪事件である。事件の指導者大井憲太郎のいう目的によれば、第一に旧自由党員の壮士を朝鮮に送り、独立党(開化派)を援助して、清朝支配下にある事大党の政府を倒し、独立の政府を樹立すること、第二に、この挙によって日清間に対立が生ずることを利用して日本政府に立憲的国内改革の実行を迫るというものであった。しかし、この計画は事前に発覚した。大阪での公判は、当時の大ニュースであった。しかしながら、この事件は、情勢の分析、朝鮮認識、決行の手段方法などに多くの問題点を抱えており、大井のいう目的だけで評価できるようなものではない。しかも、この事件には、本県から十六名ともっとも多く参加しているし、軍資金集めの「非常手段」決行も本県が一つの舞台になっていた。この点を詳述する前に、ごく簡単に事件の背景にふれておく必要があるだろう。 大阪事件の背景埼玉・群馬・長野の三県にわたる秩父事件が敗北した一八八四(明治十七)年末は、いわば民権運動閉塞の状況であった。旧自由党の「決死派」に指導者と仰がれていた大井憲太郎にしても、孤立分散的な蜂起に加わることはできず、それにかわる展望も見出しえないでいた。このような時、正確にいえば、一八八四(明治十七)年十二月四日、隣国朝鮮に甲申事変が起きた。この事変の実情と、日本国内における報道のくい違いはたいへん大きい。そして、その違いがまたゆがんだ反応、「清韓」二国を撃つ義勇軍結成運動をまき起こすのである。後述する大矢正夫の法廷陳述によれば、「郷里愛甲郡に立帰り見るに、天野等は既に義勇兵を募り居り自分も加入せしが談判遂に平和に帰し志士亦眠りを催したり」とあり、本県にも天野政立らの義勇軍結成運動があり、このような動向がまた大阪事件参加の一因になっていると推察されるのである。 甲申事変は、朝鮮国内の内的発展に基づくもので、ブルジョア的改革を意図する開化派(独立党)の金玉均らによって指導された。金玉均らは全体の戦略的計画のなかで、戦術的に、つまり副次的に日本の勢力を利用しようとした。もちろん日本の関係者も、清国を朝鮮から追い出して日本の進出をはかるために開化派を利用しようとした。その尖兵となったのが、外務卿井上馨と福沢諭吉の意を受けた福沢門下の井上角五郎であり、朝鮮駐在公使竹添進一郎もこの事変に直接関係した。しかし、清兵の援助を受けた当時の政権を担当する事大党の巻返しにより、このクーデター的改革の行動は、結局失敗に終わった。日本側も公使館を焼かれ、数十人の死傷者を出した。金玉均は日本に亡命した。 ところが、この事変は、日本の官報では、「我公使ハ急激ノ際国王ノ請求ニ依リ王宮ニ赴キタルニ、同地駐在ノ清国将官亦兵ヲ率ヒ王宮ニ到リ我カ兵トノ間ニ紛争ヲ生ジ、終ニ彼レヨリ砲発ニ及ヒ、互ニ死傷アリタリ」と、加害者清国、被害者在朝日本人関係者として報じられた。『時事新報』、『自由新聞』などもこの立場をとり、このため、翌年一月十八日には上野公園で排外主義的な大デモ行進が行われたり、各地で義勇軍結成運動が展開されるこ