神奈川県 神奈川県史 通史編 6 近代・現代(3) 産業・経済1 東京横浜往返蒸気船ノ図 明治初期 2代国輝 神奈川県立文化資料館蔵 明治3年(1870)7月 横浜の弘明商会が横浜・海岸通りと東京・築地河岸にそれぞれ発着所をおき 蒸気船による横浜-東京間の通航をはじめた 横須賀造船所で建造した弘明丸(250噸40馬力)が就航し航程時間90分 毎日2往復の営業であった この絵は弘明丸が外輪を回転し 品川沖航海中のものである 横浜波止場ヨリ海岸通異人館之真図 明治初期 3代広重 神奈川県立文化資料館蔵 当時は港の桟橋が完備されていなかったので 船舶は沖に碇泊しハシケによって荷役がおこなわれていた 手前の波止場は異人波止場とよばれ 外国貨物用であり 中央に見える波止場が日本波止場とよばれ 国内貨物用であった 横浜海岸各国商館図 明治4年3月 3代広重 神奈川県立博物館蔵 横浜居留地海岸通りに建並ぶ各国商館の風景である 居留地は慶応2年(1866)の大火以後 建物は瓦ぶきの屋根 煉瓦造または石造にするという規則に従って耐火・耐久性のすぐれた建築物がつくられていった横浜浮世絵の中では 3代広重が最も多くの西洋建築を描いている 横浜海岸鉄道蒸気車図 明治初期 3代広重 神奈川県立博物館蔵 明治5年9月12日(1872年10月14日)横浜-新橋の間に間通した鉄道は蒸気船などとともに文明開化のシンボルとされた 当時の人びとの目には「あたかも人間に羽翼を付して空天を翔けるに似たり」とうつったのである この図は汽車を描いた数多くの錦絵のなかでもかなり忠実に車輛を描写している 明治五年(一八七二)三月 神奈川県令陸奥宗光は横浜市街地改革-地券制度を実施した ここに示すのはその際に発行された地券のひとつである この地券はタテ二六㌢㍍・ヨコ四四㌢㍍の大きさで和紙を用い 規則の部分が木版刷のほかは すべて筆書である 地券交付はほぼ三か月かかり 同年六月ごろには完了したようである 横浜市街地地券 横浜市史編集室蔵 明治前期 地租改正の実施に伴って作成された田畑宅地および山林原野の地図 本県では1874(明治7)年7月から県下の各村でこの地図の作成が開始された 各村の戸長・副戸長・村用掛の手で編製されたが 1間を1分に縮尺した精密なもので地目により色分けがしてある 大船村は現在の鎌倉市大船 相模国鎌倉郡大船村地引絵図 鎌倉国宝館蔵 横須賀造船所首長ウェルニーとその功績 横須賀市広報課提供 フランスの造船技師ウェルニー(左下)は慶応元年(1865)幕府に招かれ来日し横須賀造船所の設計および着工にあたり 明治政府成立後も同首長として事務を総覧し1876(明治9)年帰国 川村海軍大輔は東京・延遼館に離別の宴を開き書棚・花瓶を贈ってその功労に報いた 写真はこのときに贈られた感謝状(上)と現存の花瓶および直孫のF.ウェルニー氏の近影(右下)である 堤石鹸のラベル 神奈川県立文化資料館蔵 1873(明治6)年 横浜の堤磯右衛門が三吉町に製造所を設けたのがわが国の石鹸工業の始めといわれている 1877年の内国勧業博覧会で花紋賞を受けてから堤の石鹸は全国的に有名になった その後は 中国・東南アジア方面など広く海外へも輸出された 堤石鹸製造所は1893年まで操業を続けた アメリカ向け輸出茶商標 横浜商工会議所蔵 生糸と並んで輸出の花形だった茶は 国内の産地から横浜に集まり外国商館の「お茶場」で再製の上茶箱につめられて海を渡った 明治に入る前後から輸出先はイギリスに代わりアメリカが主流となった ジャパン・ティーの茶箱には初め木版刷の商標が張られ その絵を描いたのが横浜浮世絵師であった 相愛社は明治の中ごろ 愛甲郡下の養蚕組合が神崎家の屋敷内に設けた養蚕伝習所 社長の神崎正蔵は 荻野村(現在 厚木市荻野)では一、二位を争う豪農地主で「荻野の殿様」とまでいわれた人正蔵は相州の自由民権家でもあり 講学会の常議員として尽力した 相愛社社長神崎正蔵の屋敷図 厚木市 神崎栄三郎氏蔵 明治十年代の中ごろ 津久井郡では八割の農家が養蚕を営み 糸に挽いていた この生糸は 生糸商人の手を伝わり 横浜へ運ばれた 写真(着色してある)は 農家の主人がそろばんを片手に 訪れてきた仲買人に生糸販売の交渉をしているところで 繭を煮る釜や糸挽き器などもみえる 横浜への道沿いに栄えた養蚕農家 津久井町 高城治平氏蔵 秦野煙草製造水車器械とその運転使用書 秦野市 石塚利雄氏蔵 秦野は1904(明治37)年の煙草専売法公布までは 民営煙草製造の一大中心地であった 製造器械は母屋に隣接した作業所内に設けられ分水路にかけられた水車で動かされた 写真の器械による製造高は従来のものより約8倍も多い1人1日16.5㎏であった 横浜の貿易商たち 横浜市図書館蔵 横浜が開港場となって貿易が始まると 全国から一獲千金を夢みる商人が続々と集まってきた これら冒険商人の成功組の横綱が原善三郎と茂木惣兵衛(のち保平)で 初期の横浜経済界に君臨した ここに掲げた肖像集には このふたりのほか若尾幾造・大谷嘉兵衛・小野光景・渡辺福三郎らの顔が見えている 人車鉄道は明治の後半 東日本を中心に二〇余の路線が開始された 豆相人車鉄道はそのひとつで 一八九五(明治二十八)年七月十三日 吉浜-熱海間の営業を開始し 翌年三月に小田原-熱海間の全線が開通となり 両駅の間二十五㌖を四時間前後で走った 全線の運賃は下等五〇銭で三等級制であった 運賃だけでなく 接続列車の時刻も表示されている 豆相人車鉄道の時刻表 小田原市 市川健三氏蔵 京浜電気鉄道(現在 京浜急行)は 一九〇五(明治三十八)年十二月二十四日には品川-神奈川間の全通を達成した この絵はがきは 全通を記念して発行されたものである 入場券は神奈川駅一九〇九年鎌倉駅一九一四(大正三)年のもので日付スタンプは右から読む注意書は明治初年の「…スベシ」の命令調から候文に変わっている 明治末年以後の営業政策の反映である 京浜電気鉄道全線開通記念絵はがきと官設鉄道神奈川・鎌倉両駅の入場券 小田原市 市川健三氏蔵 横浜市 長谷川弘和氏蔵 序 神奈川県史における近代・現代通史編は、政治・行政と産業・経済に大別いたしました。 この巻は、そのうちの産業・経済の上巻で、明治維新期から第一次大戦前後までの産業・経済、県財政の推移を取り扱っております。その間の農林・漁業、工業、労働市場、貿易、金融、海陸交通、港湾及び県財政について、中でも横浜港の貿易、海運、京浜工業地帯の発展、これに伴う経済の動向等、この時代の背景と特徴をつかんで叙述しております。 この巻の刊行にあたり、数多くの調査や困難な執筆及び監修にあたられた皆様と貴重な資料の提供に御協力下さった方々に対し、心から感謝申し上げます。 昭和五十六年三月 神奈川県知事 長洲一二 凡例 一 本巻は、神奈川県史通史編6近代・現代(3)産業・経済1として、明治維新以降ほぼ第一次世界大戦(一九一四-一八年)前後までを対象として叙述した。 一 人名では、敬称を略させていただいた。その読みは、外国人を含め一般的に用いられているものに従った。以上について、ご了承をえたい。 一 地名は、原則として記述されている時代の用例を用い、その下に( )で囲んで現在の地名を示した。 一 職業や職種の呼称等歴史的用語は、原則として記述されているその時代の用例によった。 一 年号は、明治五年(一八七二)十二月三日に太陽暦を施行して明治六年一月一日と改めた時までは、日本年号に西暦を( )で囲んで示し、それ以降は、西暦に日本年号を( )で囲んで示した。日本年号を西暦で示す場合、実際には年数にずれのある場合もあるが、とくに年月日を換算して記述した場合以外は、現在の一般の慣行に従い、単純換算を行った。 一 神奈川県史資料編を引用する場合は、『資料編』16近代・現代(6)一五のように、巻名と資料番号(必要に応じて、ページ数)を示した。 一 本巻の編集は、安藤良雄・山本弘文・丹羽邦男・寺谷武明・三和良一・林健久が担当し、執筆については、このほかに専門研究者の協力を得た。監修は、安藤良雄が当たり、全体の統一・調整を行った。 表紙題字 元知事 津田文吾 目次 序 凡例 はじめに 総説 第一編 明治維新期の神奈川県経済 第一章 維新期の農林業 第一節 概観 一 一般的な特色 対象とする地域 畑作地帯としての特色 二 農業形態による地域区分 横浜隣接の五郡 内陸部の四郡 相模川以西四郡 第二節 横浜隣接五郡 一 宿駅と町場 横浜周辺の宿駅 藤沢駅西村の職業構成 橘樹郡二子村・溝ノ口村 二 農村 溝ノ口周辺の農村 第五区三番組諸村の農業 橘樹郡末長村の農民 北綱島村のほおずき 幕末維新期の都筑郡諸村 寺山村 勝田村 上白根村 岡上村と片平村 第三節 内陸部四郡 一 維新期の政情 武州騒動 荻野山中陣屋の焼き打ちとお札降り 新政府支配の樹立 明治二年の新政府支配の実態 二 農村 多摩郡三輪村外四か村の農業 高座郡相原村外七か村の農業 津久井郡上川尻村の農業経営 愛甲郡中津川沿いの諸村 田代村と三増村 厚木町と周辺の諸村 第四節 相模川以西の四郡 一 大住・淘綾郡の水田沿海地帯 愛甲郡との対比 花水川水田地帯 淘綾郡沿海部 高麗村の農具市 二 内陸畑作地帯 煙草作地帯-足柄上郡萱沼・土佐原村 大住郡土屋村 三 酒匂川沿岸平野 足柄上郡狩野・中沼村 四 箱根山間部 足柄下郡大平台村 第二章 維新期の商品流通と交通 第一節 居留地貿易の展開 一 居留地貿易体制の形成 明治維新と横浜貿易 外商 外商の優位性 売込商・引取商 貿易関連機構の形成 二 初期の輸出貿易 輸出品の構成 生糸輸出 製茶輸出 蚕種輸出 三 初期の輸入貿易 輸入品の構成 綿織物輸入 綿糸輸入 毛織物・交織物輸入 砂糖輸入 四 貿易政策と横浜貿易 五品江戸廻し令 横浜鎖港問題と生糸規制 明治政府の蚕糸規制政策 横浜生糸改会社 蚕種恐慌と蚕種紙買入所 第二節 明治初年の内陸輸送 一 宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の設立 宿駅制度の改廃 各駅陸運会社の設立 二 神奈川・足柄県下の陸運会社 宿駅制廃止時の県域 甲州街道の陸運会社 脇往還の陸運会社 横浜の陸運会社 三 新道開拓の出願 物流の変化と新道開拓 第三節 鉄道の創業 一 外国人による建設計画 ウエストウッドの出願 ポートマンに対する免許 二 政府の建設構想と横浜における資金調達計画 ブラントンの進言 政府の構想と資金調達計画 三 神奈川海岸の埋立工事 工事の開始 神奈川築堤の埋立て 四 工事完成と開業式 工事の完成 開業式 五 京浜間鉄道の効用 運輸営業の開始 鉄道の効用 第三章 土地制度の改革 第一節 市街地への地券交付と地租改正 一 横浜市街地への地券交付 横浜市街地の土地所有関係 陸奥の市街地地券交付建言 明治四年十月陸奥の地券交付方式 関内町地への地券交付 地券税法への変換 一八七三年大火跡地の地価再調査 「沽券」交付後の状況 市街地地租改正の実施 二 小田原・箱根宿等市街地への地券交付 足柄県下の市街地 小田原への地券交付 箱根宿等への地券交付 小田原市街の地租改正 第二節 郡村地への壬申地券交付 一 旧神奈川県での地券交付 地所永代売買解禁と地券交付 神奈川県での地券交付着手 「田畑其外直段書上帳」の作成 「高反別其外取調書上帳」の作成 地代金の算定 地券の交付 地引絵図の調製 二 足柄県での地券交付 地券交付の着手 小前一筆限帳の作成 地引絵図の作成 地券の交付 柏木権令の地税法改正建言 第三節 地租改正の実施 一 改租事業の着手 神奈川・足柄両県での着手 旧神奈川県での地引絵図編製 野帳の作成(反別調査) 足柄県での地引帳作成(反別調査) 二 地価決定作業 神奈川県での小作米金調査 小作米金による地位等級の編成 関東諸府県共通方式による地価調査の開始 旧神奈川県への足柄県併合 模範村での地位等級検査 旧足柄県での地位等級設定 収穫・地価の決定 改租の結果 第四章 維新期の神奈川県財政 第一節 県財務機構の整備 一 県行財政機構の特徴 対内・対外の二重行政機構 中央官庁機能の代行 二 県行財政機構の縮小・整備 沿革 租税課など 第一-六課 第二節 定額金の制度と実態 一 定額金の制度 初期の定額金制度適用除外 定額金制度の採用 予備金制度の特殊性 為替方の機能 二 定額金の実態 定額金勘定 各勘定科目の性質 定額常費・額外常費の収支部門 本庁の定額常費内訳 本庁の額外常費内訳 土木費・警察費など 第三節 県内の国税と県税等 一 国税 種類と徴収額 二 県税 種類と徴収額 賦金 歩合金 民費 第四節 県・区町村の経費 一 県の経費 県の経費 二 区町村の経費 民費 第二編 明治前期の神奈川県経済 第一章 地租改正後の経済発展 第一節 農林水産業の近代的再編 一 地租改正期の土地問題 明治維新の変革と農業 地租改正後の地価修正 地租改正前後の質地紛争 真土村騒擾 山林の官民有区分の結果 木曽・根岸村秣場騒擾 二 勧業政策の展開 勧業課・勧業掛の設置 初期の勧業着手状況 横浜牧畜会社 相模原開田計画 仙石原勧業試験牧場・耕牧舎 初期勧業政策の性格 共進会等の開催 三 養蚕業の発展 養蚕業発展の概観 養蚕業の地域的性格 不況後の養蚕業 武相蚕糸協会の設立 蚕糸業組合の設立 直輸出政策と蚕糸業組合 四 明治十年代後半の不況と農業 物価の低落 負債の激増 在村地主の動向 農民の窮乏と大地主の成長 五 漁業の再編と製塩 漁場の再編 漁業の地帯区分 東京内湾漁業 三崎とその周辺の漁業 相模灘の漁業 塩田の存続 第二節 在来工業の展開 一 農村工業と都市雑工業の勃興 明治前期の県内加工業 二 製糸・撚糸および織物業の発展 製糸業の勃興 撚糸・織物業の発展 三 煙草製造業 秦野煙草の発展 四 醸造業 醸造高の推移 県内の産地 五 雑工業 横浜周辺の加工業 第三節 近代工業の形成 一 幕末期の工業 黒船来航と浦賀造船所 石川島造船所の設立 佐賀藩と薩摩藩 戸田の君沢形建造 長崎製鉄所の開設 横浜製鉄所の建設 横須賀製鉄所の設立 二 明治前期の重工業 横須賀造船所の経営 横浜製鉄所の経営 浦賀および石川島造船所の動向 民営石川島造船所の創立 横浜船渠会社の設立 第四節 労働市場の形成と労働者状態 一 明治前期における労働市場の形成 近代的労働市場の形成とマリア=ルス号事件 都市人口の増加と農民分解 工場労働者の蓄積 二 繊維工業の労働市場 製糸業を中心とした発達 三 その他の軽工業などの労働市場 煙草工業の労働者 再製茶工場の労働者 建築・建設業の労働者 運輸業の労働者 四 重工業の労働市場 横須賀造船所における労働力の編成と養成 鋼船の建造と職種構成の変化 五 労働市場の形成と労働者の状態 労働者の類型と賃金水準 貧窮や犯罪の増加 第二章 近代的流通機構の形成 第一節 交通機関の整備と商品流通の発展 一 東海道線の延長と横須賀線の建設 新橋-横浜間の改良 東海道線の延長 横須賀線の建設 二 神奈川-八王子間鉄道の計画 八王子鉄道論 民間の計画と政府の対応 三 車輛交通の増大 馬車輸送の登場 人力車の普及 馬車取締規則の制定 四 鉄道貨物取扱業の誕生 鉄道貨物輸送の開始 三井組の鉄道貨物取扱い 五 河川舟運と渡船・渡橋 鶴見川の舟運 渡船と渡橋 第二節 貿易機構の整備 一 売込商体制と直貿易 資本主義の発達と横浜貿易 連合生糸荷預所事件の発生 商権回復運動の内部矛盾 連合生糸荷預所事件の結末 直貿易の発達 二 明治前期の輸出入動向 輸出品の構成 生糸・絹製品・茶の輸出 輸入品の構成 第三節 金融機構の形成 一 横浜為替会社 横浜出張商法司の機能 横浜出張通商司の機能 横浜為替会社の設立 横浜為替会社の経営 二 第二国立銀行 第二国立銀行の設立経過 第二国立銀行の初期の経営 三 「国立銀行条例」の改正と県下の国立銀行 県下国立銀行の設立 横浜第七十四国立銀行の設立経過 県下国立銀行の経営状態 国立銀行の預金銀行への転形 四 私立銀行・銀行類似会社の設立 県下私立銀行・銀行類似会社の概観 県下私立銀行・銀行類似会社の経営 第三章 三新法期の神奈川県財政 第一節 三新法と三部経済制 一 三新法 郡区町村編制法 府県会規則 地方税規則 二 三部経済制 三部経済制への動き 地方経済郡区分離条例 三府神奈川県区郡部会規則 県会区部会郡部会議定事件分別条例 三部経済制導入の意義 九〇年府県制と三部経済制の否認 九二年改正による三部経済制の規定 第二節 県の財務機構 一 予算編成機構 七八年の事務章程と予算担当部課 八〇年六月改正 八〇年十月改正と庶務課取調掛の設置 調査課 八三年調査科へ編成替え 調査課の復活 これまでの機構整備の意義 八六年の地方官官制と県財務機構 九〇年の改正地方官官制による財務機構 二 徴税機構 前史 租税課の業務 国税徴収 地方税の賦課と徴収 七八年十月改正 八〇年六月および十一月改正 調査課と地方税掛 収税課設置 地方官官制と収税部 地方官官制改正と直税署・間税署 地方官官制改正と収税部 収税部廃止 第三節 県財政の実態 一 歳入 県全体の歳入 郡部の歳入 区(市)部の歳入 二 歳出 県全体の歳出 三部の歳出分担 連帯支弁の歳出とその負担割合 郡部の歳出 区(市)部の歳出 第三編 明治後期の神奈川県経済 第一章 工業の発展 第一節 県下産業発展の趨勢と特色 一 明治後期の諸産業の動向 流入人口の増大 農業生産の停滞 商工部門の増伸 商・工業の資本金額 二 県内の地域的特色 行政区の変遷 人口増加の地域別動向 農業生産の動向 三 明治後期の県内企業 銀行・商業会社の発展 工業化の進展 一九〇〇年代の新設工場 内陸工業の動向 第二節 重工業の発展 一 日清戦争後の重工業 海軍工廠の成立 横浜船渠の経営 石川島造船所の浦賀進出 浦賀船渠の開業 二 日露戦争後の重工業 海軍工廠の発展 横浜船渠の好調 浦賀船渠の不振 川崎へ工場進出 埋立地の造成 日本鋼管の創立 第三節 労働市場の展開と労働者状態 一 明治後期における労働市場の展開 近代的労働市場の展開と労働組合期成会 横浜を中心とした人口増加 農家と農業人口の動向 貿易・商業などの発展 工場労働者の増加と重化学工業化 家内工業の発展と停滞 二 重工業の労働市場 重化学工業の発展 熟練工などの不足と労働力移動 賃金上昇と官民格差 賃金変動と労働時間 旧型熟練の解体と技能養成 親方請負制の解体と直接管理方式 三 繊維工業の労働市場 製糸業の発展と停滞 製糸女工と寄宿舎生活 製糸女工の賃金と労働時間 絹綿紡績工場と労働条件 その他の繊維業の状況 四 港湾荷役などの労働市場 横浜市内の港湾労働者 下層雑業層の生活状態 五 労働者状態と労働運動 職工・職人などの賃金変動と生活状態 労働争議の頻発と労働組合の結成 労働争議の主体と成果 女子労働者の抵抗と移動 第二章 明治後期の農業 第一節 商品生産発展の地域的性格 一 三多摩分離後の県農業 多摩地方の分離 多摩分離後の県下農業 二 横浜周辺五郡 水田裏作と谷戸田 馬鈴薯と片栗粉製造 三浦大根・梨・桃 西洋野菜など 麦稈真田・経木真田 三 内陸養蚕地帯 副業としての養蚕 麦の商品化 甘藷栽培の発展 四 相模川以西三郡 裏作水田と煙草栽培 落花生栽培の拡大 蜜柑経営発展の端緒 五 農家養豚の発展 豚飼育の急増 副業としての養豚 鎌倉ハム 第二節 地主制下の農家経済 一 地主制の成立 大地主の成立 在村地主の動向 地主としての自覚 二 農家経済 在村の地主層 小作農の生活 自作・自小作農の存在形態 横浜近郊の自小作農家 農民生活の変化 第三節 農業団体の結成と農事改良政策の展開 一 農会と農事試験場 神奈川県農会の成立 農事試験場の設置 農事試験場の役割 二 農事改良政策の展開 農政の基調 日露戦後の農事改良 耕地整理の進捗状況 共同苗代の実施状況 第三章 貿易・金融の発展 第一節 条約改正と横浜貿易 一 条約改正と商権回復 横浜貿易の発展 生糸売込商の活動 生糸直輸出の拡大 製茶売込商と陶磁器売込商 直貿易の拡大 二 明治後期の輸出入動向 輸出品の構成 生糸・絹織物の輸出 輸入品の構成 第二節 貿易金融の発展 一 明治前期の貿易金融 洋銀騰貴防止政策の展開 貿易金融機関設立の要請 二 横浜正金銀行の設立 銀行設立の動機 創立願の提出 銀行の開業許可 正金銀行の資本構成 三 横浜正金銀行の初期の性格 外国為替制度の内容と意義 経営の行詰り 四 経営の改善と「横浜正金銀行条例」の制定 経営の改善 経営の発展 横浜正金銀行条例の制定 五 明治後期の横浜正金銀行 業績の推移 政府・日本銀行との関係 外債の発行 第三節 明治後期の地方銀行 一 普通銀行の発展 銀行条例の制定と普通銀行の発展 普通銀行の設立ブーム 普通銀行経営の特質 普通銀行の動揺と合併 二 貯蓄銀行の発展 貯蓄銀行条例の制定 神奈川県下の貯蓄銀行 三 神奈川県農工銀行の設立とその性格 不動産金融機構設立の理念 神奈川県農工銀行の設立 神奈川県農工銀行の経営上の性格 四 その他の金融機関の発展 庶民金融 保険業 第四章 海陸交通の発展 第一節 官私鉄道の発達と特色 一 東海道線の輸送力増強と京浜電気鉄道 改良工事と輸送力増強 京浜電気鉄道の建設と延長 二 横浜鉄道の建設 横浜-八王子間鉄道の競願 横浜鉄道の建設と開業 三 小田原電気鉄道と大日本軌道 小田原馬車鉄道の開業 小田原電気鉄道の開業 豆相人車鉄道 熱海鉄道と大日本軌道 四 江ノ島電気鉄道と湘南馬車鉄道 江ノ島電気鉄道 湘南馬車鉄道 第二節 鉄道時代の道路輸送 一 近距離道路輸送の増大 鉄道時代の進展 乗合馬車・馬力・荷車の増加 自転車・自動車の登場 二 街路・車輛取締規則の制定 一八八〇年代末の取締規則 明治後期の取締規則 三 道路の建設と改修 道路の建設・改修坪数 経費の負担区分 四 河川舟運の衰退 県内河川の舟路 河川舟運の推移 第三節 港湾施設の拡充 一 開国後の港湾情勢 開港後の横浜港 東京築港案と対立 パーマーの築港計画案 二 パーマー築港計画案の採択 パーマー案の審査 内務省デレーケ案に賛成 外務省の築港政策 パーマーの反批判 外相大隈の勝利 三 第一期築港工事の完成 防波堤の築造 防波堤の崩壊 工事の完成 四 第二期築港工事の完成 第二期工事の着手 第二期工事の進行 第二期工事の完成 第四節 海運業の発展 一 日本郵船会社の成立 明治政府の海運奨励 三菱の躍進 三菱と共同運輸の死闘 日本郵船の成立 中小船主の動向 二 海外航路の発展 ボンベイ航路の開設 三大航路の開設 東洋汽船会社の創立 明治末期の海運 第五章 明治後期の神奈川県財政 第一節 改正「府県制」と県行財政制度 一 県行財政制度 改正府県制・郡制 三部経済制 分賦制度 分賦制度批判論 戸数と人口 県の行財政機構 県・郡の会計規程 第二節 市郡間経費分担問題 一 分担をめぐる対立 三新法期における分担方式 治水費負担問題 若干の問題点 監獄費国庫支弁移管 二 妥協の成立 郡部の新要求 市郡協定の成立 告示第三八号 一九〇九年治水堤防費建議 第三節 財政の実態 一 財政の構造 県内の財政の概観 三部経済の財政構造 三部経済の構成変化 二 歳出 県の全歳出 連帯歳出 市部歳出 郡部歳出 三 歳入 連帯歳入 市部歳入 郡部歳入 第四編 第一次世界大戦前後の神奈川県経済 第一章 第一次世界大戦と京浜工業地帯 第一節 京浜工業地帯の発展と内陸工業 一 重化学工業の好況 戦争景気の到来 浅野造船所の設立 横浜船渠の造船開始 浦賀船渠の回復 内田造船所の設立 日本鋼管の発展 東京電気の躍進 窯業工場の進出 二 日米船鉄交換と造船業 アメリカの鉄材輸出禁止 船鉄交換契約の成立 浅野造船所と船鉄交換 浅野製鉄所の創設 横浜船渠と船鉄交換 浦賀船渠と船鉄交換 内田造船所と船鉄交換 三 大正前期の内陸工業 製糸業の活況 器械製糸地帯 座繰製糸地帯 撚糸業と織物業 第二節 戦後恐慌・軍縮と官民工業 一 戦後恐慌と重工業 戦後景気と恐慌 造船業の動揺 鉄鋼業の不振 諸工業の動き 二 軍縮と官民工業 八八艦隊計画 ワシントン軍縮条約 戦艦陸奥 民間工業の打撃 三 反動恐慌後の内陸工業 恐慌と製糸業 撚糸業の動向 織物業の衰退 第三節 労働市場の変動と労働者状態 一 大正前・中期における労働市場の変動 労働市場の変動と友愛会の組織化 重工業を中心とした産業の変動 拡大と分散を含む人口変動 農村・農業人口の変動 二 重工業の労働市場 大戦前後の雇用増大とその反動 共済組合の設立と企業別熟練の形成 日本的労務管理体制の形成 定期昇給制度と賃金・労働時間 三 繊維工業の労働市場 女工の比重低下と繊維工業の動向 低賃金と長時間労働 麻真田工場の発展と衰退 四 酒造業の労働市場 酒造業の発達と出稼ぎ労働者 雇人規定と労働者の性格 五 労働者状態と労働運動 物価と賃金の変動 友愛会の組織化と大戦中の賃上げ争議 友愛会の労働組合化と恐慌下の争議 第二章 貿易・海運・交通の動向 第一節 大戦前後の生糸貿易 一 大戦と横浜貿易商 大戦と横浜貿易 帝国蚕糸株式会社(第一次)の活動 帝国蚕糸株式会社(第二次)の活動 横浜貿易商の浮沈 二 大戦前後の輸出入動向 輸出品の構成 生糸・絹織物の輸出 輸入品の構成 第二節 大戦前後の海運業 一 大戦中の海運 海運業の好況 船成金の誕生 日本郵船の発展 大阪商船の躍進 東洋汽船の活況 二 戦後の海運 海運の不況 日本郵船の整備 大阪商船の整備 東洋汽船の破綻 第三節 大戦前後の鉄道 一 国鉄京浜間電車運転の開始 東海道本線の改良工事 京浜間電車の開業 二 臨海工業地帯と港湾における鉄道の整備 輸送需要の増大と改良計画 臨海工業地帯と鉄道 三 箱根登山鉄道の建設 登山鉄道の建設計画 登山鉄道の建設と開業 四 熱海線の建設 国府津-沼津間の改良計画 熱海線の工事 鉄道の発展と観光開発 第三章 金融界の動向 第一節 大戦期の輸出金融問題 一 大戦期の貿易と金融 貿易の拡大と為替事情 二 横浜正金銀行の業務 内外資金の調整 内地市場の開拓 第二節 大戦期の県下各種金融機関の推移 一 普通銀行・貯蓄銀行 地域別・銀行種類別分類 二 銀行行政の展開と県下の銀行の動き 銀行行政 金融行政への対応 中小金融機関の発展 銀行における業容の拡大 大戦後への推移 第四章 第一次世界大戦前後の神奈川県財政 第一節 大正期の県行財政機構 一 変遷と特徴 制度安定期 一四年・二二年の府県制改正 郡制廃止 県の行財政機構 第二節 戦時戦後の財政動向 一 財政問題 大正期の財政問題 三部経済制 治水費 三崎築港 都市計画地方委員会費 大戦期の物価騰貴 社会事業費貸付資金特別会計 米騒動・社会問題対策 高等工業・高等商業学校建設 郡制廃止の事後処理 第三節 財政の実態 一 県歳出 財政規模 県の全歳出 連帯歳出 市部歳出 郡部歳出 二 県歳入 連帯歳入 市部歳入 郡部歳入 三 郡財政 歳入出 執筆分担一覧 年表 付表 度量衡換算表 現行市町村別旧村一覧 あとがき 口 絵 東京横浜往返蒸気船ノ図(神奈川県立文化資料館蔵) 横浜波止場ヨリ海岸通異人館之真図(神奈川県立文化資料館蔵) 横浜海岸各国商館図(神奈川県立博物館蔵) 横浜海岸鉄道蒸気車図(神奈川県立博物館蔵) 横浜市街地地券(横浜市史編集室蔵) 相模国鎌倉郡大船村地引絵図(鎌倉国宝館蔵) 横須賀造船所首長ウェルニーとその功績(横須賀市広報課提供) 堤石鹸のラベル(神奈川県立文化資料館蔵) アメリカ向け輸出茶商標(横浜商工会議所蔵) 相愛社社長神崎正蔵の屋敷図(神崎栄三郎氏蔵) 横浜への道沿いに栄えた養蚕農家(高城治平氏蔵) 秦野煙草製造水車器械とその運転使用書(石塚利雄氏蔵) 横浜の貿易商たち(横浜市図書館蔵) 豆相人車鉄道の時刻表(市川健三氏蔵) 京浜電気鉄道全線開通記念絵はがきと官設鉄道神奈川・鎌倉両駅の入場券(市川健三氏・長谷川弘和氏蔵) 装てい 原弘 (裏表紙・遊び紙のマークは県章) はじめに この巻は、明治維新以降ほぼ第一次世界大戦(一九一四=大正三年-一九一八=大正七年)前後にいたる間における、神奈川県域における経済の発展過程を叙述するものである。 この時代区分は、二巻にわたって述べる近代・現代の「産業・経済」に関する通史編全体の分量の関係にもよるのであるが、神奈川県域経済の歴史に焦点を合わせても、明治維新以降現代にいたるまでの日本経済の発展過程を時代的に二分すると、日本資本主義が第一次世界大戦による輸出・運輸の画期的な活況を契機として量的に大きく発展し、また、構造的にも資本主義としての最高の発展段階に到達しようとするにいたった第一次大戦期を以て区切るのが、学問的にも適当と考えられるからである。したがってこの巻は、いわば、日本資本主義の形成・発展の段階における神奈川県経済史である。 ところで、この巻では具体的には、総論のほか、一「明治維新期の神奈川県経済」、二「明治前期の神奈川県経済」、三「明治後期の神奈川県経済」、四「第一次世界大戦前後の神奈川県経済」の四編に分かち、さらにこれをおおむね農林漁業、工業、労働市場、海陸交通・港湾、貿易、金融、県財政の別によって、章・節に分かって論述している。いわば、全体を大きく時期別に横割りにしたうえで、それらをさらに経済部門別に縦割りにしたかたちで叙述するわけであるが、この場合、各時期を機械的に縦割りにしているのではなく、それぞれの時期の特徴にしたがって章・節だてを行ったのである。したがって、常に問題史的視角も考慮されているわけであって、章・節の見出しもそれぞれの時期の特徴を示すよう心がけられている。 編集と執筆に当たっては、なるべく経済全般にわたるよう意図したが、いっぽうでは、重点的な編集・執筆をも行っている。これは紙数の制約にもよるが、できうる限り平板な叙述を避け、各時期において重要な問題点を積極的に取り上げて掘り下げ、各時期の特徴を浮彫りにしようとする配慮によるものでもある。 なお、部門によっては、その時期における当該部門のもつ問題の特殊性から、各章が主として対象としている時期の前後について、あるいはさかのぼり、あるいは下って叙述することもあることをあらかじめおことわりしておきたい。 最後に、通史編では十分解明しえなかった重要な諸問題については各論編において収めて取り上げ、より詳密に論じられることになっている。 総説 一 「はじめに」において述べたように、この巻では、明治維新以降ほぼ第一次大戦期にいたる間、すなわち、日本資本主義の形成、発展期における神奈川県域における経済の推移を論述する。 まず第一編「明治維新期の神奈川県経済」は、明治維新(一八六八=明治元年新政府成立)以降ほぼ六年ないし十年までの間を対象としているが、この時期の神奈川県経済は、神奈川県が開港(一八五四=嘉永七年日米和親条約、一八五八=安政五年日米修好通商条約調印)後、日本の対外接触の最大の舞台となった横浜とその後背地を擁するだけに、日本の他の道府県の経済とは非常に異なった様相を呈したのである。他にも江戸時代以来の特殊事情によって、幕末・維新以降特異な展開を示した県もあったが、神奈川県の場合は、名実共に日本の首府となった東京に隣接し、また全く新たな、そして全面的な対外接触のまさに中心舞台だったのである。したがって、いま挙げたこの時期の神奈川県経済においては、対外接触がもたらした影響はたんに貿易のみではなく国内商品流通、工業、交通、港湾、金融、さらに農業にまで広く及んだのである。この点は財政においてもしかりであって、対外接触の接点であり、とくに外国人の圧力を受けて、急激に発展していった新興都市横浜を擁するだけに、東京・大阪両府とならび、かつそれらとも異なった独特の道を歩んだのである。 また、ここでは当然のことながら明治維新の最大の課題の一つであり日本の土地制度史上最も重要な変革である「地租改正」(一八七三=明治六年)をも取上げるが、この場合、特異な意味をもつ横浜の市街地に対する地券交付等を封建都市の系譜にたつ小田原等と比較しつつ論述する。 二 第二編では、第一編につづいて、原則としてほぼ一八七〇年代なかば(一八七五年は明治八年、部門によっては維新期にさかのぼる)から明治二十年代(明治二十=一八八七年)初頭(部門によっては明治二十年代終り)にかけての県域経済と県財政の推移について論述する。 この時期は、政府の強力な保護政策のもとで、資本と労働力の形成等日本において資本主義の基礎的諸条件がつくり出され、またいわゆる産業革命の進行が開始された時期である。したがって、この時期においては、新たな条件のもとでの在来工業の展開、移植工業、とくに造船業等重工業の導入、港湾をふくむ近代的海陸交通施設の整備、そしてこれらを支える近代的な金融制度・機構が形成されていったのである。しかも神奈川県の場合、これらはいずれも横浜という日本においても稀な特殊の条件をもつ新興都市の存在によって特徴づけられていた。また、この時期には横浜貿易も伸長したが、一八八〇(明治十三)年には外国銀行、外国商人に対抗し、日本商人による貿易の発展をはかるため、その後も日本の金融界において大きな役割を果たした横浜正金銀行(現在の東京銀行の前身)が貿易金融専門銀行として半官半民のかたちで設立された。 この期の県財政はいわゆる「三新法」(一八七八=明治十一年太政官布告によって「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」をいう)のもとでの財政の再編成(それは一八九九=明治三十二年以降の改正府県制時代に対しては中間的なものであったが)の時期に当たるのである。 三 第三編は、明治後期から大正初期、第一次大戦開戦までの年代、すなわち、ほぼ明治二十年代(明治二十五年=一八九二年)のなかばごろ(部門によっては明治三十年代から、なお明治三十年=一八九七年)から一九一三(大正二)年ごろまでの時期を対象とする。 この時期には、日清・日露の両戦争を経て、日本資本主義は大きく発展し、いわゆる産業資本の確立、そして端緒的ではあるが金融資本確立の段階を迎えた。この間、国内的には、一八九七(明治三十)年金本位制を成立させたが対外的には、日清戦争後の、一九世紀の末には「条約改正」を果たし、日露戦争後の一九一一(明治四十四)年には関税自主権をも実現させた。 以上のような日本全般をめぐる動向は、神奈川県経済にとくに大きな影響を与えた。まず、この時期には中央資本の投資による重工業その他の新産業部門の工場建設が相ついで行われ、神奈川県はいわば商業県から商工業県へと発展していったのである。そしてとくにこの期の終わるころには、鶴見地区を中心とする埋立工事、すなわち後年の京浜工業地帯の造成が開始されたのである。また、この間金本位制の成立、条約改正、関税自主権の確立という過程を通じて、横浜貿易もいちじるしく伸長したが、とくに生糸売込商をはじめ日本商人は「商権回復」を達成し、また横浜正金銀行を中心とした貿易金融体制も発展したほか、その他の地方金融機関の発達にも注目すべきものがあった この時期には、官私鉄道を中心とした陸上交通の発達も顕著であるが、貿易の発展と関連しつつ横浜を起点とする海外航路の開設等政府の保護を背景とした海運の拡大、二次にわたる横浜築港の推進による港湾の整備等もそれぞれ画期的な意義をもつものである。いっぽう、横浜を中心とした市部では農業人口が減少したが、郡部では農業人口が依然圧倒的であった。しかし、東京・横浜の大消費地に近接しているだけに商品作物の普及が進捗した。そして産業、海陸交通、港湾の発展は、労働市場をも変貌させたが、労働問題の発生と労働運動の展開も日本全体の動向の一環をなすものであるとともに、横浜を中心とする神奈川県特有の問題が展開した。 財政では、一八九九(明治三十二)年改正「府県別」「郡制」が全国一斉に施行されたことに伴う問題、とくに市部・郡部の経済の分別による「三部経済制」(市郡連帯・市部・郡部)の採用、これに関連する「分賦制度」の実施と、市部・郡部の経費分担問題、新府県制に基づく県行財政機構の改革等新たな諸問題が生じたが、財政全体の実態にも、資本主義の発展、とくに県下商工業の発展、警察・教育の拡充、風水害対策等による変貌がみられる。 四 第四編は、第一次世界大戦(一九一四=大正三-一九一八=大正七年)前後からほぼ関東大震災(一九二三=大正十二=年九月)直前にいたる間を対象とする。この時期の日本は、第一次世界大戦に参戦したが、国内経済は、開戦直後の一時的衝撃を脱したのち、輸出と海運の未曾有の活況、輸出産業と造船業、これらに連なる鉱山業をふくむ諸産業、従来ドイツからの輸入に依存していた化学工業部門等の画期的な拡大がもたらされた。また大幅な輸出超過、貿易外受取超過、対外債権と保有正貨の激増等ももたらしたのである。いわゆる「戦争景気」の到来である。 しかしながら、大戦終了直後の反動不況、戦後ブーム等を経て、一九二〇(大正九)年春襲った本格的な戦後恐慌は、戦時好況および戦後ブーム期に繁栄を謳歌した日本の貿易、産業・金融に甚大な影響を与えたが、その後の日本経済は十数年間にわたって好況を再現しえず、慢性的沈滞のうちに大正時代を終わっていった。しかも、このような状況のさなかに関東大震災が起こったのである。 第四編では、このような時期における神奈川県経済の展開過程について、前三編と同様部門を分って論述する。 まず、工業部門では、第一次大戦期における日本経済の「繁栄」のなかでの「京浜工業地帯」の本格的な発展と内陸工業の動向について述べ、さらに戦後恐慌と軍縮が県下工業に及ぼした影響を検討する。ついで、労働運動のぼっ興、日本的労務管理体制の形成等をふくむ労働関係における大きな変動について分析する。 第一次大戦前後はまた横浜生糸貿易にとっても歴史的な時期であって、大戦によって異常に拡大したが、戦後恐慌によって甚大な打撃をこうむった。海運においても同様である。貿易と海運の浮沈はまさに第一次大戦前後の横浜-神奈川県経済、そして日本経済全体の動向を象徴するものであった。そして横浜には「生糸と海運」というパターンによる繁栄はその後ふたたび戻ってこなかったのである。ついで、人口の増加と産業の拡大と京浜工業地帯の発達、箱根から静岡県下にまたがる観光地の発展、電化の実現等によってもたらされた県下官私鉄道変貌の過程について述べる。 第一次大戦金融界も輸出金融の活況を中心として横浜正金銀行を中心として大きく発展し、繁忙をきわめた。しかしながら、戦後恐慌は金融界をも襲い、大きな影響を与え、とくに輸出金融に関係する金融機関の受けた打撃はきわめて大きかったが、関東大震災はこれに追い討ちをかけたもので、これらの後遺症は昭和年代にまで持ち越されたのである。 ところで、この期の県財政は、いっぽうでは、二度の府県制の改正(一九一四=大正三年、一九二二=大正十一年)、郡制の廃止(一九二一=大正十年)による影響、他方では経済社会情勢の変化を反映するものであった。前者では郡制の廃止の意味が大きかったが、後者に関連しては、社会事業関係費がクローズ・アップされてきたが、これは本県をふくめて「社会問題」、「労働問題」が日本全体において大きな意味をもつようになったということを直接に反映している。またこの間、勧業費・警察費・治水費なども膨張し、これらの比重が増加したことも目立っている。 五 以上のように、明治維新以降大正末期、ほぼ関東大震災にいたるまでの日本を経済史的にみると、資本主義成立のための基礎的諸条件の形成、産業革命の進展と産業資本の成立、そして金融資本の成立という過程を、先進国に比較するときわめて短縮したかたちで歩んだ時期で、とくにこの間、日清、日露の両戦争、第一次大戦という三つの戦争を経て、しかもこれらを跳躍台として資本主義を急速に発展させ、西洋から近代的諸制度、技術、教育体系を導入するとともに、社会、経済の「近代化」も非常な速度を以て進展していった。しかしながら、これに伴って日本は資本主義としての矛盾、問題点をも擁するにいたったのである。そしてとくに後発資本主義国としての独自の矛盾とおくれ、ひずみ等から免がれることができなかった。この間、とくに第一次世界大戦は、日本資本主義に漁夫の利を与え、国内的な「繁栄」と中国への強力な進出とを果たさせ、英・仏・米の諸国とともに戦勝国となった日本は、ベルサイユ講和会議(一九一九=大正八年)を通じて国際的地位をも向上させた。しかしながら列国の間で大戦期から芽生えていた日本の中国進出に対する警戒と不信は戦争終了後顕在化し、とくにワシントン会議(一九二一~二二、大正十~十一年)後日本は国際的に孤立化していった。そして、戦後恐慌によって日本経済は不況に陥り、しかもそれが慢性化した。しかもつづく関東大震災によっても大きな打撃を受け、さらにその際の救済政策は重大かつ困難な問題を後年にのこし、これらは金融恐慌(一九二七=昭和二年)となって爆発したのである。 この期間、神奈川県経済は、右のような日本経済全般の歩んだ道そのままに歩んだが、その間に展開した諸事態、すなわち、資本主義化、近代化、そして第一次大戦期における繁栄、戦後恐慌による打撃と不況の慢性化、関東大震災による被害とそれに伴って起こった諸問題等は、すべて日本全体の動向の縮図なのであった。というよりはむしろそれらの中心的舞台であったというべきであろう。 本巻は、以上説明した編別構成と問題意識により、この間における神奈川県域経済の発展と変貌、あるいは問題点を県財政の変遷とともに分析しようとするものなのである。 第一編 明治維新期の神奈川県経済 第一章 維新期の農林業 第一節 概観 一 一般的な特色 対象とする地域 ここで対象とするのは、一八七六(明治九)年四月の府県統合で神奈川県の管轄下に収められた、相模全国と武蔵四郡(久良岐・橘樹・都筑・多摩)とからなる地域である。このうち、多摩郡は一八九三(明治二十六)年東京府に移り、以後残りの部分が神奈川県として現在にいたっている。 この地域は、開港場横浜の後背地をなし、維新期にあって開港の政治的経済的影響を特殊に受けたところである。安政五年(一八五八)に締結され、明治政府がそのまま継承した日米修好通商条約は、開港場一〇里四方の外国人遊歩地域を設けることを規定している。 明治元年「神奈川在留外国人遊歩規定図」(『資料編』10近世(7)口絵)が示すように、ここで対象とする地域は、この遊歩区域とほぼ合致する。 明治新政府は、まず、慶応四年三月横浜に横浜裁判所を置き、ついで旧神奈川奉行支配地をその管轄下に収めたが、同年六月これを神奈川府と改め、八月二十五日には、神奈川宿一〇里四方の地を管轄下に置いた(「鎮将府日誌」第八)。この管轄範囲は、「神奈川府最寄東は六郷川西は酒匂川を限り南北は直径拾里を限り神奈川府より取締として肥後藩人数差出巡羅致させ候間……」(明治元年七月布達留藤沢市青木四郎家文書)あるいは、「元年八月日未詳、始て神奈川十里部内を管す、其境域東北多摩川に、南海浜に至り、西酒匂川を限る」(『明治十四年神奈川県統計表』沿革)などとされ、足柄上・下郡の一部、多摩郡の一部が管轄外(韮山県・東京府・入間県の管轄)であるほか、ここで対象とする地域に合致する。しかし、実際には、この神奈川府(明治元年九月神奈川県と改称)神奈川宿一〇里以内の地域以内には、韮山県・六浦藩・荻野山中藩・小田原藩の所轄地が内包されていた。廃藩置県後の明治四年十一月の府県廃合で、右のうち神奈川・六浦県が合して神奈川県に、韮山・小田原・荻野山中県が合して足柄県に統合され、さらにこのとき、「外国人十里部内遊歩」の地を開港場県庁で一括管轄するとの理由で、新置神奈川県管轄下に、多摩・高座二郡が加えられた(『資料編』11近代・現代(1)一)。ついで、一八七六年四月の府県廃合で、これまで足柄県に含まれていた足柄上・下・大住・愛甲・淘綾・津久井六郡が神奈川県に加えられた。 以上にみられるように、本文で対象とする地域は、日米修好通商条約が定めた外人遊歩地域とほぼ合致するため、この地域の維新以後における行政区画変遷は対外的な事情の影響を受けて複雑である。 畑作地帯としての特色 まず、この地域が、全体として神奈川県下に入った一八七六(明治九)年時点での農林業を概観する。一毛作・二毛作別水田面積が初めて判明する一八八四(明治十七)年度統計によれば、神奈川県下水田の二毛作田はわずか三・六㌫(相模四・三五㌫、武蔵二・六一㌫)にすぎず、ほとんどが一毛作田であった。この前提に立って、『明治九年全国農産表』所掲農産物を、作付方式を考慮して分類し、その価額構成比を示したのが表一-一である。 概して、諸農産物中、米の比重が最も高いが、圧倒的ではなく、農産物総価額中五〇㌫を超える郡は、一三郡のうち五郡表1-1 1876(明治9)年農(林・水)産物の価額構成 注 1 *雑穀は粟・稗・黍・蜀黍・玉蜀黍・ソバ。 2 **原数値は単位が1桁違っているので修正した。 3 生糸は産額が繭と重複するので表から除外した。 4 橘樹郡製茶は1877-1879年の数値の30倍以上で明らかに誤りだが,そのまま計算した。 5 『明治9年全国農産表』より作成。 にすぎず、その最高は久良岐郡の六〇㌫に止まる。一八七六年の米価は一石三円七四銭-五円一銭で、大麦の一円四四銭-二 円二〇銭、小麦の二円六七銭-三円六一銭、粟の一円五四銭-二円三九銭、稗の八一銭-一円一九銭よりはるかに高い。にも かかわらず、農産物価額構成で米の比重が右のごとくなのは、この地域で畑作が優越しているからである。現に地租改正の結 果によれば、この地域の水田化率(耕地のうち水田の占める面積比率)は約二八㌫で、関東七府県のうちで最低なのである。その 畑作の内容は、冬作-麦・夏作-雑穀、または、冬作-麦・夏作-大豆という自給的な作付体系が主軸をなしている。とくに、 雑穀(とくに粟・稗)の総価額中での比率が、その価格が低いにもかかわらず、八郡で一〇㌫を超える事実が自給性の高さを示 している。一般には「商品作物」といわれる実綿の比率も低く、ここでは自給用でしかない。わずかに淘綾・足柄下郡で若干 の商品化が考えられる。 この地域で、商品化される畑作物(またはその加工物)は、繭・製茶・煙草・藍である。いずれも局地的で、全域に広がって いるものはない。なかで、養蚕-繭は、横浜に最も近接した諸郡ではほとんど展開しておらず、むしろ遠い山間・内陸部四郡 に偏在している。また、多摩郡では、藍の生産があって、すべての生糸が横浜へ向けられるのではなく、それを原料とした織 物生産も存在していることをうかがわせる。開港後一九年間の生糸輸出の激増は、横浜の後背地であるこの地域の自給的畑作 構造を大きくは変えていない。 二 農業形態による地域区分 この地域の農業は、その形態から三つの部分に分けることができる。一は、横浜を中心とした沿海部久良岐・都筑・橘樹・ 鎌倉・三浦の五郡(ただし都筑郡は海に接していない)で、東は多摩川、西は境川で他と区分される。二は、この地域の内陸・山間部高座・愛甲・津久井・多摩の四郡で、なかで高座郡のみは海に接しているが、その内部に広大な原野相模原を擁している。三は、相模川以西の沿海部大住・淘綾・足柄上・下四郡(ただし足柄上郡は海に接してはいない)で、西は、南北に走る山岳によって、甲斐・駿河・伊豆に接している。 横浜隣接の五郡 第一の横浜をとり巻く五郡は、県下では水田化率が高い地帯である。したがって、農産物の価格構成で、米の比重が高い。『明治九年全国農産表』(表一-一)は、そさい・果樹類を掲げていないので詳細な検討はできないが、この五郡のうち、橘樹郡を別にすると、米の比重の低い郡では、補完的に雑穀または大豆の比重が高い。ここに、普通畑での畑作の自給的性格の強さが示されている。ただ橘樹郡では、雑穀に代えて、横浜など近在市町の需要にこたえる夏作そさいの栽培が推定される。ここでの土産物の商品化は、むしろ普通畑以外の部門でみられる。すなわち、桑畑・茶園の部門、さらには、沿海部新田地先での塩田、水産物としての海苔栽培など(『全国農産表』には、水産物は表一-一所掲のものだけが載せられている)がそれである。しかし、養蚕-繭は、都筑・鎌倉二郡だけに限られている。塩田は、橘樹郡大師河原・池上新田・潮田、久良岐郡平沼新田・金沢(泥亀新田・寺前・町谷・洲崎)・三分、三浦郡浦郷・林・逗子など主に東京湾沿岸の村々で、旧幕期から引き続き製塩がなされていた。掲載の物産種類が限られている『明治九年全国農産表』の欠陥を補うために、一八七五年現在の著名物産を、『神奈川県地誌略』(川井景一著、明治八年十月刊)によって次に掲げる。 久良岐郡-塩(金沢)・梅(杉田) 都筑郡-瓜・繭・炭・柿・筍 橘樹郡-生糸・蚕種紙・蓮根・梨子・桃・杏・酸漿・縄・莚・素麺・塩・海苔・貝類 鎌倉郡-藺蓙・苫・海苔・若布・荒布・鹿尾草・鎌倉海老・江之嶋貝細工 三浦郡-水飴・魚介・若布・荒布・心太草・鹿尾草 これによって、橘樹郡での果実、都筑郡での林野生産物、三浦郡での海産物などの特産の存在を知ることができる。これらはいずれも、田・普通畑以外の部門に属し、田・普通畑の自給的性格を裏付けている。また、養蚕-繭生産は、局地的であることが確認される。総じて、ここにみられるのは、以後急速に姿を消す産物を含んだ雑多な特産物で、なお色濃く旧幕期の姿を存している。 内陸部の四郡 内陸・山間部の四郡は、水田に乏しく、麦・雑穀が、農産物価格構成のなかで半ばに達するほどの高い比重を持つ。ここから、他の二地帯より一段と生産力の低い自給的な畑作が想定される。しかし、一方、この地帯には、繭および生糸の集中的な生産がみられ、繭産額は、農産物総価額の一一-二五㌫ほどの高い比重を占めている。そして、この四郡での繭生産は、五万六八二一斤、二四万〇〇九五円に達し、生産額で当時の神奈川県全体の八八㌫、価額で九一㌫という圧倒的部分を占めていた。 多摩郡・高座郡は『神奈川県地誌略』、津久井郡愛甲郡は明治十一年『神奈川県治一覧表』によって特産物をみると次の通りである。 高座郡-小麦・茶・繭・桃・松露・三昧漬 多摩郡-繭・蚕種紙・生糸・藍玉・八王子博多・黒八丈・縞八丈・牛蒡・大根・唐茄子・薩摩芋・里芋・真桑瓜・小麦粉・梨子・柿・栗・桃・梅・柚子・山葵・蕨・目籠・莚・茅根・雪駄表・竹・薪・炭・石灰・多摩川紙・多摩川鮎・鹿・猿 愛甲郡-生糸・縷糸 津久井郡-川和縞・生糸・縷糸・繭 繭・生糸を特産とするこの地帯でも、内部には、在来からの織物生産が行われ、また他にも多様な特産物が、生産量は少ないにせよ商品化されていたことがわかる。 相模川以西四郡 相模川以西四郡のうち、足柄上・下郡で水田化率が高いのは、酒匂川沿岸平野部を内包するからである。ここでの特徴は、普通畑の作付体系の一部に、商品作物である煙草ないしは実綿が組み込まれ、一方、桑園・茶園などの永年作物栽培はほとんどみられないという点にある。ここには、開港の経済的影響は全くといってよいほどみられず、むしろ、旧幕期を通して農業が順調に発展し、その結果として、足柄上郡、大住郡の曽屋村を中心とした煙草作地帯が形成されている。 『県治一覧表』は、この四郡につき次の名産を掲げている。 淘綾郡-魚介 足柄下郡-湯ノ花・紫蘇巻梅・木地挽物・寄木指物・炭・建築石・蜜柑・〓魚・塩辛 足柄上郡-米・煙草・炭 大住郡-煙草・落花生・菜子・蔬菓 これによれば、煙草作地帯でも、商品作物は単一化せず、落花生・菜種・その他そさい・果実などの商品化がみられる。また、足柄上・下郡では、『農産表』所掲の麻・椎茸・漆汁のほか、山間部でいわゆる箱根細工といわれる寄木指物・炭・石材・果実など、多様な産出があり、一方、淘綾・足柄下郡の沿海部では魚獲物とその加工がみられる。 第二節 横浜隣接五郡 一 宿駅と町場 横浜周辺の宿駅 ここでは、前節で、農業形態によって三つに大別した地域のそれぞれについて、さらに立ち入って検討する。相模・武蔵四郡地域のなかで、開港と、それによって始まった維新の動乱との影響がまずあらわれるのは、東海道・甲州街道筋の駅村である。しかし、東海道筋で発生した生麦事件などの外国人殺傷事件は、その大きな政治的影響にもかかわらず、地域住民に直接関わるものではなかった。維新の動乱が、地域住民の生活をゆり動かしたのは、慶応二年(一八六六)、幕府が第二次長州征討の準備をすすめるなかで起こった諸物価の高騰をもって最初とする。この物価騰貴による生活窮迫によって、江戸・横浜に近い東海道駅で、同年五、六、八月に打ちこわしが発生し、同じころ、多摩郡一帯、甲州街道筋に広がる武州騒動が起こった(『資料編』10近世(7)六三三)。 打ちこわしは、まず五月二十三日、品川・川崎宿で起こったが、その主体は借家人であった。八月二十九日の藤沢宿の場合(『資料編』10近世(7)六四三)も、打ちこわしの頭取二人は、いずれも借家人、その他逮捕者も、借家人または「地借」人で、ここでは彼らの職業も判明している。すなわち、大工・左官・木挽・鳶人足・旅籠屋・居酒屋・刻煙草渡世・農業(一人は持高三石)等で、打ちこわされた側は、持高五八石の高持で薬種・荒物渡世を兼ねる年寄役の家をはじめ、農間升酒・搗米、あるいは雑穀渡世などを営む六戸であった。この打ちこわしには、右の逮捕者のほか、「名前不存もの多人数」が参加しているが、明治四年現在、藤沢駅のうち西村住民の職業構成(表一-二)から、打ちこわしの原動力となった社会階層の存在が確認できる。 藤沢駅西村の職業構成 藤沢駅は、行政区画としては、大小区制の下では境川を隔てて、高座郡に属する部分と鎌倉郡に属する部分とに分かれ、正式には、高座郡大久保町、坂戸町をもって藤沢駅とする。しかし、幕末には郡境をこえて、事実上一つの町となっていた。後に一八八八(明治二十一)年十二月十四日、市町村制発布にあたり、両郡の諸町が共同して県に提出した「一駅内各町合併郡境変更願」(青木四郎家文書)によれば、高座郡・鎌倉郡それぞれに属する諸町は、「境川ト唱ル一小川ヲ以郡ノ境ト為スト雖トモ、旧時ハ一駅相通シ駅務ヲ弁シ、区別アル事ナク況ンヤ、街衢相連、商肆櫛比連担、農家トモ又相接シ、自然一区域トナリ、世人藤沢駅名アルヲ知リ、村名アルヲ知ラサルモノ多キニ居リ……民情風俗等毫モ異ナルナク」云々という状態であった。なかで、西村(のちに西富町)は、元来、石高一〇五石余、田四町八反、畑一七町四反余の農村であったが、明治四年の総戸数一四六戸のうち、六七㌫は、他所から来て西村に居住するにいたった借地(宅地の)・借店人が占めている。これにともない、農家の過半(三七戸)は、これらの者に宅地あるいは店を貸す地主または大家になっており、とくにぬきんでている一戸(戸長青木勝蔵家)は、この村唯一の太物商を営み、宅地を一五人に貸し、他に一二人の店子を持っている。しかし、農家のなかでも、日銭稼ぎや零細な賃仕事に従事する者も多くみられ、階層分化が進んでいることがわかる。ここでは農業はすでに副次的かつ自給的な産業になってしまっている。 ここには、駕籠舁・日雇稼・駄賃稼・賃仕事洗濯を業とする家二五戸(うち農間稼ぎ一一戸)のほか莨切渡世・箸削り渡世・箒作り渡世・綿打ち渡世・按摩など、明らかに零細な自営業者が多数存在していた。さらに、彼らの日常的な需要を対象にした諸業種、医者のうち借店の二家(うち一戸は鍼医)、借店の習字の先生をはじめ、薬湯渡世・古着売買渡世・煮豆屋・餅菓子屋・青物渡世等々、および彼らに主食を斗売りし、慶応二年の米価騰貴時には打ちこわしの対象となった穀物渡世・雑穀・芋表1-2 明治4年(1871)現在藤沢駅西村(鎌倉郡)の職業別戸数 注 1 明治4年5月「伍長規則証 西村」(青木四郎家文書)より作成。 2 ここで借地とは宅地の借地をいう。 3 表中「無職」の大部分は,いわゆる「鰥寡孤独」の家である。また,大工職などの業種は,必ずしも零細な職人とばかりはいえない。大工職のうち借店の一戸大貫兵吉家は,後年(1880年)鎌倉郡の同業者中最大の稼ぎ高をあげている棟梁である。 図1-1 藤沢駅地図(1890年) 建設省国土地理院 家内作業中の煙草屋 『続巻 写された幕末1』より 渡世が存在する。 このような、米価など諸色の高騰が、直ちに生活困難をもたらすその日暮らしの労働者、零細な職人・商人らの存在が、藤沢駅とほぼ同規模の戸口を有する他の東海道宿駅-神奈川・保土ケ谷・川崎・戸塚-にも共通していたとすれば、慶応二年の打ちこわしが、これらの宿駅で連鎖的に起こったことを理解できる(表一-三)。やや後の数字であるが、一八七七(明治十)年現在、藤沢駅の戸口は、一一九六戸、五六八九人で、横浜周辺五郡で、この程度の戸口をもつ町場は、三崎町・城ケ島村・浦賀町などの漁村を別とすれば、右の四つの東海道宿駅があるのみであった。 橘樹郡二子村・溝ノ口村 しかし、横浜周辺五郡のなかには、右のほかいくつか規模の小さい町場が存在していた。矢倉沢往還の橘樹郡二子村・溝ノ口村などがその一例である。 図1-2 二子村・溝ノ口村地図(1885年) 建設省国土地理院 表1-3 東海道宿駅における戸数 注1878(明治11)年『神奈川県治一覧表』により作成(1877年1月1日現在) 矢倉沢往還は、東京渋谷から出て、多摩川を越えて橘樹郡二子村にいたり、溝ノ口村・長津田村を通り下鶴間村で相模野を横断し、厚木町・伊勢原村・曽屋村・岡本村を経て矢倉沢村から足柄峠を駿河に抜ける街道で、大山詣りや富士詣が、しばしば利用した脇往還である。また、後述するように、慶応三年(一八六七)十二月十四日、三田薩摩藩邸を発した浪士三一人(『資料編』10近世(7)六五七)は、なぎなた・槍・鉄砲を持って途中からこの往還を通り、鶴間村一泊ののち厚木町を経て愛甲郡下荻野村荻野山中陣屋にいたっている。脇往還のため、東海道と違って幕府の取締りが弱く幕末には武器を持った浪士の通行さえ可能だったのである(とくに鶴間村出発の際は馬一五疋を徴発している)。一八七八(明治十一)年現在村別荷車台数(農業用荷車を含ま表1-4 橘樹郡のうち溝ノ口村ほか17か村の職業構成1873(明治6)年 注 1 ( )はうち農業兼業の戸数。 2 *子母口村は寺領上知分のみ。 3 二子村のみ明治5年現在,他は6年2月又は5月。 4 (1)は「数目調書」により作成。(2)は1874年4月「田畑反別戸数人員其他総計簿,第5区」により作成。(3)(4)は1878(明治11)年「諸営業数目録5大区」より作成。 ない)の多さは、幕末以来の矢倉沢・中原往還における物資運輸の繁栄をうかがわせる。橘樹・都筑郡内の矢倉沢往還沿い村村のなかでは、溝ノ口村が最大の町場をなし、これに二子村はほとんど連接している。一八七四年四月現在で、溝ノ口村戸数一三三戸、人員七二二人、二子村戸数八八戸、人員四九三人(一八七四年四月「田畑反別戸数人員其他総計簿 第九区」、筑波大学蔵田村家文書)。前掲東海道宿駅に比すれば、一〇分の一程度の規模で、近隣農村と比べて戸数が特に多いわけではない。しかし、この二か村は、農家が総戸数の半ばに止まり、農家割合が七三-九〇㌫におよぶ近隣農村と明らかに異った町場の様相を示している。この職業別区分(表一-四)では、日雇稼・駄賃稼はほとんど調査されておらず、また二子村では農間稼ぎか否かが不明である。しかし、二子村・溝ノ口村には、とくに後者での借家数や荷車・人力車数の多さから、表には掲げられていない駄賃稼・車夫等の存在をうかがいうる。さらに工・商・雑の内訳をみると(表一-四・一-五)宿駅の特色である、喰物飯店・料理休泊所・菓子商・湯屋などの諸業のほか、下駄職・草履傘職 『続巻 写された幕末1』より 作り・足袋職・煙草刻み職・傘職など、周囲の農山村で産する原料を加工する職人による小規模な手工業や、同じく周村の農産物(米・菜種・大豆・茶など)を用いた酒造・絞油・醤油製造・製茶業が存在している。表一-五と一-六を照合すると、たとえば二子村に傘職四人がいて、溝ノ口村には皆無だが、物産では、溝ノ口村で傘年産一万五〇〇〇本とあって、二子村は皆無である。濁酒・足駄の場合も同様である。二子村に居住する職人が、溝ノ口村の作業場で傘を作っているのか、あるいは二子村で製造した傘が溝ノ口村の問屋で売られているためか、種々の理由が考えられるが、いずれにせよ、両村は連接して一つの町場を成しているの表1-5 明治5(6)年現在工・商・雑業の内容 注 1 明治5-6年「数目調書」より作成(二子村明治5年、溝ノ口村明治6年5月)。 2 溝ノ口村には他に医1私塾1馬医1がいる。 3 溝ノ口村( )内の数字は,うち農間稼ぎの数を示す。 4 表1-4(明治5,6年現在)の業種別戸数と、本表の数とはかなり異る。5年から9年へかけての営業者が増大したのではなく、表1-4の場合の調査不備(日雇・駄賃稼ぎを把握していないことにも示されている)によると考えられる。表1-5は、地方税(営業雑種税)徴収の基礎資料で,戸数はほぼ正確と思われる。 表1-6 明治5(6)年特産物(橘樹郡二子村・溝ノ口村) 注 表1-5と同じ で、両村あわせてとらえるべきであろう。 また、溝ノ口村では、箒製造、溝ノ口・二子両村で、ろうそく製造がなされている(表一-六)。竹皮草履を例にとると、これを九戸の草履作り職が、一戸平均年間生産額七七七七足を製造している。年間三〇〇日働くとして、一戸一日約二六足の生産にすぎない。きわめて零細な、精々家族の婦女子を補助者とする程度の作業で、おそらく冬季間だけか、夜なべ仕事に限られていたと思われる。原料は、下野川村から筍二六駄の産出が記録されており、同村辺りからの供給で充分賄われたであろう。 ついで、この両村に集中している旅籠屋・料理屋・居酒屋・煮売渡世・鰻渡世・蕎麦渡世などの営業規模をみよう(表一-七)。 旅籠兼料亭を営む三戸は、年間売上高が一四三円余から三六二円に達する。溝ノ口村の一八七六年一-六月中、米一石平均価表1-7 1876(明治9)年7月現在1か月平均売上高(旅籠・煮売・居酒・蕎麦) 注 1 「明治9年7月ヨリ煮売々揚高書上 区務所」(田村家文書)より作成。 2 (二)は二子村,(溝)は溝ノ口村。 3 1か月平均売上高は1876年1-6月までの半年平均高。 格六円九六銭八厘(「米麦価書上」前掲田村家文書)で米に換算すると、二〇石五二二余から五一石九五一余の現米収入に相当する。この地域の平均的水田小作料額、中田一反当たり八斗で換算すると、右の収入は、ほぼ水田二町六反-六町五反からの収入に匹敵する(もちろん売上高は純所得ではないが、小作料収入も、地租・地方税・村入費を控除しなくては純所得にはならない。ここでは、粗収入を対比することによって、営業規模のおおよその見当づけを行った)。 これら三戸は、村での富裕層に属するといえる。ほかの旅籠はいずれも小さく、木賃宿であろう。煮売渡世の売上高と大差ない収入である。煮売渡世は、平均して一戸一か月二円一一銭余の売上げである。これは年間約三石六三七の米を得たことと等しく、近村での米反収で換算すると、この額は、水田約三反三畝を自作して得る収穫米に等しい(一八七九年橘樹郡末長村「稲作概算」高津区 中山家文書)。煮売渡世専業で家族を養うことは、かなり困難で、とくに借地人二名はこれのみでは生活不可能であろう。蕎麦渡世の場合は、困難の程度はさらに著しい。一方でわずかでも農業を営んでいなければ、米価など諸色の高騰によって直ちに飢餓に直面することになりかねない。 注 (1) なおこの戸数中に社寺は含まない。したがって、表一-四の戸数と少異がある。 (2) 表一-七に掲げた一か月平均売上高は一八七六(明治九)年の一-六月の毎月売上高を平均したものなので、米価も同じ期間の平均をとった。 (3) 橘樹郡末長村、都筑郡下谷本村のばあい(「明治八年十月、反当地位書上」)をとりあげた(末長村は川崎市高津区中山清家文書、下谷本村は横浜市緑区 吉浜俊彦家文書)。 二 農村 溝ノ口周辺の農村 町場をなす二子・溝ノ口村と対照的に、その周辺の村々は、農家が支配的で、大工・鍛冶・木挽・杣・石屋・桶屋・草屋根葺・左官・紺屋・畳刺・綿打・建具職などが、おおむね村に一戸、または数か村に一戸所在し、また、質屋・穀物渡世・居酒屋・濁酒造り・絞油渡世・菓子屋・髪結なども適当に散在している。ただ、下駄職が久本・坂戸村にそれぞれ二戸、傘職が清沢村に三戸あって局地的な特産物製造があることをうかがわせる。要するに、近世以来、さしたる変化もない安定した関東農村の姿がここにみられる。各村では、蕎麦・粟・稗・黍等、雑穀や麦・大豆・菜種が土地に応じた割合で栽培されている。なかで、多摩川に沿う水利の便が悪い砂礫土地帯では木綿が栽培され、久地村で一〇〇貫、上小田中村で一〇〇貫、下小田中村で八〇貫、新城村で三二貫の産出がみられる。山間部に入ると、炭薪や藁製品(草鞋・縄)の生産がある。炭・薪は、馬絹村で炭一二〇駄、薪三五〇駄、上野川村で炭五〇駄、薪三〇〇〇束、下野川村で、炭七〇駄、薪二二二〇束が生産されている。上・下野川村では、さらに草鞋・縄およびこの地の竹を原料とした筆(一〇四〇貫)、傘(三〇〇本)、筍(二六駄)の産出がある。下野川村では、毎年十二月八日から十二日まで影向寺境内で市が立つ(現在は十一月三-四日)が、傘・筆などは、このとき取引されるのであろう。以上の特産物は、いずれも量は多くなく、局地的な需要をみたす程度のものである。注意すべきは、この一帯には、まだほとんど養蚕が入っていない。わずかに子母口村で二石四斗の繭産出をみるのみである。したがって、製糸も、二子村で三貫の製造があるにすぎない。二子村では、多摩川堤内地などへの桑の栽植が進んでいるようだが(桑十二束)、この村だけの現象でしかない。茶についても同様で、前述のように、二子村と溝ノ口村で計二一五貫の生産があるほか、馬絹村で五貫の生産があるに止まる。茶樹は、どの村にもあるが、自家用に供するだけである。溝ノ口村などでの製茶は、これら周村から少量ずつ集めてきた生葉を原料としているのであろう。前節でのべたように、いまだ開港による経済的影響を被っていない姿がここにみられる。 第五区三番組諸村の農業 以上の農村地帯のなかから、第五区三番組に属する上小田中・下小田中・新城・坂戸の四か村をとりあげ、農産物商品化の程度を明らかにする(表一-八)。 この四か村は、矢倉沢往還とその南部を雁行する中原往還とに挟まれる位置にあり、この両道と直角に、中野島・宿河原村地先で多摩川から引水する稲毛・川崎二ケ領用水が貫流している。この一帯は、高場で水田用水が不足勝ちのため、前述のように木綿が作付されているが、綿はすべて自家用である。繰綿にされ農閑期の婦女子の夜なべ仕事で、布に織られ、自家用の衣服に供されるのであろう。商品化される農産物の主なものは米で、収穫高の五・八㌫(明治六年)ないしは七・三㌫(同五年)ほどが現在も開かれている影向寺の市(1980年) 販売されるが、その金額は、菜種・大角豆・そら豆の販売高合計をはるかに凌いでいる。また、米の自用費消のなかには、村内で製造販売する酒の原料米も含まれており、さらに副産物の藁を用いて、馬沓・塩俵・菰が作られ販売される。藁製品の加工は、農家の副業として農閑期にされるのであろう。なかで塩俵は、同じ橘樹郡の海岸部大師河原の塩田で産出する塩の容器に供給し、馬沓は、街道の馬方の需要にこたえるものであろう。いずれも遠隔地への販売を目的としていない。この地農民にとって、水田-稲作は、最大の現金収入源として重要な意味をもっている。農産物でこれにつぐ現金収入源は菜種(および菜種油)であろう。大角豆は、商品化の量も少なく、毎年販売されるとは限らない。 また、浅草紙の製造がみられる。さきの一八七三(明治六)年各村「数目調書」には紙漉き職、紙屑渡世の記載はない。これ表1-8 明治5,6年自用費消・移出別農産物(橘樹郡上小田中・下小田中・新城・坂戸村) 注 1 1874(明治7)年1月第5区3番組「物産調書」より作成。 2 自消とは自用費消。 が粗漏によるのでなければ、この製造も農家の余業ということになる。足駄については、坂戸村に二戸の下駄職の記載がある。一戸当たり一年約二五〇〇足、年間三〇〇日働くとすれば、一日八足の生産で、溝ノ口・二子村の足駄生産規模の半ばにも達しない。これも農間余業であろう。 橘樹郡末長村の農民 前述四か村と隣接する末長村は、ほぼ同じ自然条件の農村である。明治三年(一八七〇)二月、同村は、溝ノ口・久本・新作・清沢・岩川・子母口、坂戸の各村とともに、当時県が計画した横浜水道布設に反対して嘆願書を提出している。 横浜市街地の飲料水供給のための水道建設は、明治三年初めころ県によって計画され実行に移された。その計画は、多摩郡中野嶋村および橘樹郡宿河原村地先で多摩川から引水する稲毛・川崎二ケ領用水を久地村地内字いやのめで分水し、ここから新たに建設する上水路で、横浜表へ引水しようとするものであった。嘆願書はこの計画に反対したものである。県は、この計画にもとづき工部省土木司による測量を行ったようであるが、「地理準せさる所あり、経費巨大なるを以て」(『神奈川県史料』第二巻一七五ページ)、計画を中止した。この嘆願書に示された地元村々の反対もこれにあずかって力があったと思われる。以後、県は改めて、添田七郎右衛門(市場村名主、後に知通)の議を入れ、二ケ領用水の井筋を拡大整備して、現在の二ケ領用水(久地付近) 流末鹿島田村まで、そのまま利用し、そこから横浜上水を分水する計画に改め、一八七三年十二月にいたって、旧関内はほぼ竣成をみた。さて、その嘆願書は、右諸村一帯の水利条件等を次のようにのべている。 ……当村之儀は、一体地所高場ニ而、平常水乏敷、在来之用水ニ而ハ水引足リ不申、雨水相待田方養いたし来リ候土地柄、殊ニ近年違作打続物価高直ニ而、村々疲弊致、銘々夫食引足リ兼、麦作取入迄之凌難相成、一同心痛罷在候……(「明治三年二月 上水引方ニ付嘆願書」川崎市高津区中山清家文書) この村も、水田-稲作主体の村で(表一-九)、商品化されるのは、米を主とし(商品化率五・四㌫)、ほかにその副産物の縄・馬沓、畑作物では若干の小麦・大豆、特産物では柿が一〇〇駄販売されている(この年は豊作であったようで、一八七四年の産額は三〇駄(四二円)にすぎない)。 前記四か村に比べると、足駄・塩俵・浅草紙・酒などの特産を欠くという点で、さらに平凡な農村である。そして、主産物の米の約四二・五㌫を現物で貢納していた幕末・維新期では、冬から春にかけての間の夫食に事欠き、米などの諸物価騰貴のため、不足分の購入も充分にできず、農民は麦の収穫まで持ちこたえるのに苦しむ有様であった。この時期の末長村農民の石高構成は表一-一〇のごとくである。ここでも、営業税賦課の対象とならない日雇稼などは表からもれている。しかし、明治表1-9 明治5年(1872)橘樹郡末長村物産 注 1 「物産表」(高津区 中山家文書)より作成。 2 *米合計中には貢納分179石5をも含む。 3 柿1駄は14貫目、価額は1874(明治7)年の価格を用い推算した(縄・馬沓も同様)。 四年十一月末長村「諸職人手間書上帳」は、当時の物価騰貴に応じて賃金の「当分増」の協定を行ったものだが、大工・桶工・草屋根葺・木挽・根伐職のほか、農日雇や「小荷駄馬等稼方」が存在していたことが示されている。七二戸の農家のうち農業だけで経営を維持している層は、最上層のみである。持高三〇石台の二戸は明治二年現在いずれも名主役で、下男一人、下女一人および下男二人を雇用している。二二石の一戸とともにいずれも馬を所有する。持高一〇石以上層一七戸は、内に名主役一人、年寄役四人、百姓代兼年寄一人、百姓代一人を含む上層農である。うち六戸(三五㌫)が兼業を持つが、醤油絞職という農産加工業のほか、杣・草屋根葺・木挽(二戸)、大工兼木挽である。これらは、たとえば、芹田惣治郎家では、長男清五郎が農業、惣次郎が木挽に従事し、また芹田彦七家では、彦七が大工、長男甚五郎が農業、次男平蔵が木挽というように、すべて家族内で分担されているのを特色とする。なお、この村(および近傍)での木挽には、「海方」と「山方」の二種がある。前者は、山から積み出された木材を河岸で挽板にする仕事で、後者は、山元で木材を挽割りする仕事である。 次の持高五-一〇石層では、兼業農家が六〇㌫に達する。兼業の内容は、穀物・鶏売買(二戸)・玉子売買・小間物渡世・下駄職・ごまめ売買・木挽・杣と雑多だが、経営のなかでの兼業の占める比重は高い。関口福松家(持高九石余)では、福松自身が穀物売買を、養子鎌吉が鶏売買を営み、また渋谷庄三郎家(持高六石余)のごとく戸主自身が鶏売買を営むなどの例が多い。 持高五石以下層になると、かえって兼業農家の比重は減ずる。日雇稼・駄賃稼が調査もれになっていることがその一因であろう。しかし、それだけではなく、家族の一部、主に子供を他家へ奉公に出している家の多いことが、この層の特色である。渋谷そめ家(持高二石四斗)は、長男卯三郎が菓子渡世を営み、ほかに二十一歳の娘を二子村子之吉方へ、十六歳の伜を中村弥平方へ奉公に出している。また、芹田市太郎家(持高二石六斗)は、市太郎自身が、あめ渡世をするとともに、二十三歳の娘を東京芝神明前喜兵衛方へ、二十歳の娘を馬橋村平助方に奉公に出している。この層では、兼業をしても一家の生計は支えられず、子供を他へ奉公に出して口べらしを図っているのである。なお、持高八石三斗、組頭役で、農馬一疋を持つ梅原良助家 も、十八歳の娘を奉公に出しているが(良助自身玉子売買をなす)、それは「東京松平左京大夫内丹羽亦右衛門方へ奉公」という 表1-10 橘樹郡末長村農民の石高構成(明治5年3月) 注 1 「明治5年3月橘樹郡末長村戸籍」,兼業は「明治6年11月農間渡世書上帳」,桑植付数は「明治4年2月桑植附覚帳」より作成(いずれも高津区中山家文書)。 2 *うち3戸は潰家。 3 寺社,他村入作者を含まない。 4 日雇稼などは不明。 表1-11 明治5年(1872)-6年橘樹郡北綱島村の農産物商品化 注 1 明治5,6年「物産表」(横浜市港北区 飯田助丸家文書)より作成。 2 *米は産額のうち,明治5,6年とも115石4斗余を貢納している。 武家奉公で、下層農子女の奉公とは趣きを異にする。 以上維新期の橘樹郡諸村では、養蚕は全くといってよいほど普及していなかった。これは表一-一一での考察を裏付けている。しかし、末長村では、明治四年二月、県によって、全農家に持高に応じた桑の植付が半ば強制的に奨励され(表一-一〇)、養蚕の普及が図られた。しかし、末長村の場合、一八七九-八〇年の『農産表』にも、繭の産出は計上がみられず、県の勧農策は徒労に帰したとみられる。 北綱島村のほおずき さきにみたように、『神奈川県地誌略』は、橘樹郡の特産品として、鬼燈をあげている。その主産地は、北綱島村とその周辺である。北綱島村は、作付構成では、これまでみてきた同郡諸村とさして変わらないが、各種農産物が少量ずつ販売されている。なかで際立っているのが鬼燈の栽培で、愛玩品として、主に町場での特殊で限られた需要しかないのにもかかわらず、特産地として一町五反というまとまった作付面積をもち、仲買人によって横浜・東京へ販売されていた。菊名を経て神奈川駅にいたる里道に沿ったこの村では、商業的農業の発展がみられる(表一-一一)。 幕末維新期の都筑郡諸村 慶応二年(一八六六)にはじまる物価騰貴は、東海道宿駅の打ちこわしや武州騒動の後も引き続き農村へ動揺を及ぼした。慶応三年三月から五月にかけて、都筑郡諸村に廻達された関東御取締出役の申諭(『資料編』10近世(7)五三五)には、「近来物価騰貴、別して米穀は日を追い高価に至り……矢張穀相場相進み、窮民共当夏麦作収入迄取締方出来兼候哉に申唱、人気不穏、既野州筋にては窮民騒立、身元宜者の金子掠奪致、又は人家打毀、其他右の萌しは所々に相聞候…」とあるが、この「萌し」は、右の廻達があった膝元の都筑郡下白根村で同年二月にみられた。すなわち、二月二十一日、鎮守不動社に小前・組頭・百姓代が残らず集まり、名主五郎左衛門に対し、(一)「追々穀物高値にて暮し方相立申さず候に付」村内で米所持の者は、去年暮の年貢米貢納相場で、米を残らず小前に売り渡すこと、(二)また、村内米所持の者は他へ米を売却しないよう、名主から申し付けてほしい、(三)伝馬役はそれぞれ持高分だけを勤め、他人(持高百姓)の分までは勤めない、等を申し出た(卯二月廿三日牧之丞より父あて、「急書取ヲ以申上候……」前記高橋基家文書)。隣村上白根村名主牧之丞のみるところでは、困窮の小前へ「腰押」しをしているのは、弥五郎・弥三郎兄弟で、不動社寄り合いの砌、両人は、「村内米所持の者から米を去年暮の相場(一両に白米一斗一升六合壱勺)で買い請けるよう要求する。買い取る金子がない困窮者の分は弥三郎らで引き請け、それを皆に銭百文に付白米一合三勺で分売しよう」と述べた。分売の値は一両=銭七貫文換えとして、一両に白米九升一合となる。すなわち、弥三郎らは、その差額白米二升五合一勺を儲けようとする魂胆なので、困窮人へは、物持ちが、施しなどと称して米などをくれようとしても、もらってはいけないといっているのだとみる。この名主の理解の真偽はともかくとして、物価騰貴を機に、村内の複雑な対立が表面化してきたことがわかる。このような村内対立の激化・農民の生活困窮は、幕府取締りの弛緩とあいまって、一方では盗難・押し込みの頻発をも生んだ。こうした治安の乱れは、以後明治二、三年のころまで続いた。 寺山村 明治二年(一八六九)五月、寺山村小前一同は、神奈川県裁判所に対し、村方旧菅谷平八郎知行所名主権蔵を「不実謀叛之企人」と訴え出た(明治二年五月「乍恐以書付訴訟奉申上候」前記高橋家文書)。それによれば、権蔵は、不正の年貢、御用金割をして横領し、加えて明治元年七月「廻村合力人」二人を盗賊とみなして突き殺し、白根・上猿山三か村境に埋めたという罪業をもあげている。この二人は、「徳川様家来王臣之家臣」(または「上州高崎城主家来弐拾壱歳津田寅之助」「松平伊豆守家来年拾七歳房之助」)で、男女子供含め九人ばかりで、近在の村々を回り、合力していた。これは、近在の百姓なら皆知っていることだったという。しかし、権蔵は、元年七月十一日夕刻「大音声ヲ懸ケ」、「権蔵貝吹忠兵衛悴鐘ヲならし」て突き殺し、また「右弐人のもの生かへり候処、又候突殺し」た。武士が零落して合力となって村々を回り歩き、それを名主らが盗人とみなして突き殺すなど、平時ならば考えられないことである。 勝田村 強盗もしきりに出没し、また、野荒しも横行した。これは、とくに都筑郡に限らず、相武一帯にみられた現象である。村々は、種々の自衛手段をとったが、次の都筑郡勝田村の場合は、やや特異な例に属する。 明治二年(一八六九)十一月、勝田村では、「当節は此所彼所にて耕作諸品取込置候もの迄盗取候もの数多これ有」という状況に手を焼き、村方小前一同を集めて、次のように「議定」した(明治二年十一月十四日「村方取究議定一札御支配所武蔵国都筑郡勝田村」横浜市港北区関恒三郎家文書)。すなわち、野荒しの犯人を「村内厳重穿鑿」したが判明しない。よって、今後村内で諸品が紛失したら、直様急触して「男女老若共役所江呼寄」せ、「神仏江一同にて信心いたし紀州熊野山烏御府亦は三田有間様水天狗御札」などを銘々飲ませ、苦しむなどの兆をあらわして「盗取候もの相知れ候ハゝ直様御支配所御裁判所」に届け出る。その節どのような「御咎メ」をうけても、当人はもちろん家内中恨がましいことを言い立ててはならない、というのである。この議定書には、村内すべての小前とその女房が連署印形を押している。このような方法がどれだけ有効だったかは疑問だが、野荒しの犯人が村内の者であることを前提とし、共同体の心的な紐帯をよりどころにして野荒し防止を図っている。 この村は、明治五年の物産-米二五〇石、麦一一二石、雑穀(粟・稗・ソバ)一四一石、ほかに菜種一五石、大豆二〇石等を産する三七戸の純農村で、養蚕は行っていない、きわめて自給性の強い村である(明治六年五月「村方明細書上帳都筑郡勝田村」横浜市旭区 桜井栄一郎家文書)。 上白根村 上白根村の場合は、一般的な方式での取締りを定めている(「明治三午年八月八日 取締議定一札上白根村」前記高橋家文書)。 同村では明治三年(一八七〇)八月八日、「田畑山林諸作物紛失流行、一同悉く難渋少なからざる」ため、次のような村議定を行った。すなわち、(一)養蚕季節中、他から買い入れた訳でもないのに、「何方ゟ取出売桑」をする者があるが、以来「何村誰ゟ買、何方江売渡」したかが不明な取引きをする者は「急度取調」べる。(二)今後、他人の田畑山林に断りなく入り込んだ者、または諸作物枝木等を取荒した者を見かけたら隣家の者であっても遠慮なく差し押さえ、「御取締御出役様」へ差し出す。(三)炭焼渡世でないのに炭を売り、薪山買入れもせず薪枝を売る者は、その品の出所を糺し、出所不明ならば「盗物に付差押へ」御出役様へ差し出し吟味してもらう。右等のために要した費用は、軒別四分、高割六分の割合で村中で出金する。また盗人を見つけ差し押さえた者は褒美として、右の出金を免除する。この議定は、戸主のみの連印である。ここで特徴的なのは、勝田村の野荒しは、その日の食料に窮しての犯行が主とみられるのに対して、上白根村の場合は、盗品売却による貨幣の獲得が野荒しの目的である。農民の生活に貨幣が不可欠なものになっていることを示すものであろう。とくに売桑は、養蚕の盛行と桑不足がその背景にある。これは、養蚕地帯に固有な現象といわねばならない。このことを念頭に置き、さきの橘樹郡諸村とは異なり養蚕業を主な現金収入源とする都筑郡のいくつかの村の農業形態を検討する(表一-一二)。 岡上村と片平村 岡上村と片平村とはほぼ同一規模の村だが、水田の比重が異なり、岡上村では米の商品化は少なく、年によっては、かえって米の購入も必要となる。ただし、表の「自用費消」高は、一人一日一合五勺の米を食べるとして計算したもので、村民全体が、半ばは米、半ばは麦または雑穀を混食していることが前提になっている。「他所移出」高はこれによる推計値で、実際に六七石余の米を購入したわけではなく、主食を麦・雑穀のみに頼れば購入は避けられる。岡上村での主要な商品は、米よりもむしろ甘柿・繭・生糸である。濁酒は、造り石高一〇石の免許を得た一戸が酒造して近村へ売捌いているにすぎない。甘柿は、竹籠に入れ(籠四つで一駄)、東京または神奈川宿へ売捌かれる。この辺り一帯の特産物である繭は、すべてがそのまま他へ売却されるわけではない。明治四年(一八七一)では繭一二五貫、此生糸二五貫と記され、繭一貫から生糸二〇〇目を生産するとして繭産額から生糸産額を計算している。これによれば、同村で産する繭は、農家でそのまま手挽き糸に製せられ販売されていた。しかし、明治五、六年には、さらに多くの収繭があり、四〇〇貫程度は繭で売却されている計算になる。いずれにせよ、この村では、製糸は、まだ農家の副業として、手挽きによって営まれていた。片平村は、水田勝ちの村だが、繭・生糸の生産もあり、また甘柿・炭をも産出している。一戸当たりの繭・生糸生産量は岡上村ほど多くはな表1-12 都筑郡岡上村・片平村の農産物商品化(明治4年-6年) 注 1 岡上村 梶景三家文書,片平村 安藤資次家文書,なお同村明治5年は「数目調書」。 2 岡上村 貢納明治5,6年には「村役人給米・庁中諸費その他」を含む。 3 ( )内数字は商品化率を示す。但し岡上村小麦・大豆明治5,6年分は,産額が明治4年と同額として推計。 4 岡上村 明治6年〔 〕内数字は明治7年の数字をあてた。 5 片平村 「農産表」は過少な数字が掲記されているので個票により訂正した。〔 〕内数字も同様。 6 なお,明治5年正月20日「辛未歳出品取調書上帖 武蔵国都筑郡片平邑」の表紙には,「右帖面之義者我等下相談之上取調書上但シ米ハ反ニ三俵弐斗積其外雑穀之義者有目通糸繭三分一炭五分柿四分通書出ス。後年之ため朱書ニ而記置もの也」との朱注があり,「物産表」提出の際,過少申告がなされたことを示している。実際に計算してみると,表掲値では,農家別集計値の糸は2分の1,繭は約6分,炭5分,柿4分である(表1-13は農家別集計値に訂正した)。しかし,農家別の糸・繭産額自体にも過少記載が考えられる。 いが、この表の原資料、各農家別物産書上帳をみると各農家とも、繭生産額は、繭のまま販売した分のみの額で、自家でそのまま糸にした分は載せていない。したがってこの村では総額六七貫弱の養蚕がなされていることになる。 片平村は、前述のように水田を基幹とする農業が営まれているが、全農家五五戸を米の収穫高別(反収一石四斗として換算すれば、そのまま水田耕作面積の広狭別を表示する)に区分すれば、水田を全く耕作しない零細農家三戸、自給できるほどの水田を耕作していない下層農家二八戸、ほぼ自家用の米を賄いうる中層農家一九戸、米の恒常的な販売が可能な上層農家五戸に分かれる(表一-一三)。甘柿は、主に庭先き、宅地内の柿の木から採取販売するもので、零細な農家でも、販売量は大差ない。これに反し、製炭は、雑木山の所持を前提とし、その所持の大小は、一般に水田の所持の大小と相関する。販売する炭のなかには、中・下層農の一部が他から買い入れ再販する炭も含まれている。この買入れ炭を除いて一戸当たり製炭量をみれば、上層農は、平均の三倍近い量であるのに対し、中層農は平均の二倍、下層農は平均の六分の一と、明白な階層差があらわれている(買入れ炭を入れてもこの階層差は変表1-13 片平村米収量別農家の商品化傾向(明治4年) 注 1 「辛未歳産出品書上帳」(安藤資次家文書)より作成。 2 仮りに繭1貫目より糸200匁を製するとして分類した。 3 炭( )内数字は買入れ俵数,なお1俵2貫目入り。また1戸当たり炭俵数( )内数字は買入俵を除いた自家生産俵数。 4 繭・糸農家戸数( )内数字は,うち、明治6年3月「生糸製造人名前書上」に名前のある家数。 わらない)。 これに対し、養蚕・製糸は、主に中層農によって担われているのが特徴的である。この村では、養蚕・製糸は、多かれ少なかれ、ほとんどの農家(五五戸中四五戸、八二㌫)が営んでいる。そしてその内、養蚕のみで製糸を行っていない農家は、一〇戸にすぎない。多くは「繭自分飼あげ嶋田糸ニ製候者」である(明治六年三月「生糸製造人名前書上」川崎市多摩区安藤資次家文書)。これら農家のうち、生糸にして六〇〇目以上を製する、村で最も養蚕・製糸規模の大きい一〇戸は、すべて中層農および下層農に属する。ここで、養蚕・製糸発展の担い手となっているのは、中・下層農なのである。 上層農は、ゆとりある水田経営を主体にし、持山での製炭を行い、旧来から引き続いて安定した経営のなかで、養蚕・製糸をも大きな損失を招くことがない程度に小規模に行っている。これに反して、中・下層農の一部は、水田・製炭の面での発展が制約されている条件下で、新たに有望な現金収入源として養蚕・製糸に自己の経営の発展を賭けている。しかし、商品生産の急速な発展の道が開けたと同時に、価格の変動・気候・疾病発生等による経営破綻の可能性も絶えず存在している。養蚕の主な担い手が、このような中・下層農である故に、さきにみた上白根村の事例のごとく、急激な養蚕規模の拡大、気候不順による桑の成育不良などが、たちまち桑不足を招き、買桑やそれをめぐる野荒しの発生を生むことになるのであろう。中・下層農による養蚕・製糸は、このような不安定性をもつために、製糸三〇〇目以上の製糸をいとなみながら(表一-一三)生糸製造人名前書上にもれたり、あるいは八王子製糸改会社へ加入していないなどの経営も存在している(これに反し、同じ製糸規模の上層農はすべて把握されている)。 下川井村の戸長を勤めた豪農桜井光興は、一八七七年蚕種会議所に対し「養蚕増益井蚕種性劣恢復之論」(『資料編』17近代・現代(7)二二前記桜井栄一郎家蔵)を提議したが、なかで、「近年は蚕業多くして桑高値なり、人々桑より多く養蚕を致し、高価の桑を買て養う故至て利益なし、亦甚敷に至りては桑を買得の力尽て五三日の近きに及ひ、悉皆蚕を投捨する者あり、夫は偖置、繭の収穫は多しと雖とも、品粗悪にして糸の量目少なし」とのべている現状は、右の片平村でのような、資力に乏しい中・下層農による養蚕製糸の拡大によって生じたものにほかならない。 注 (1) 明治二年六月「御廻米津出場其外書上帳浅井政之丞上知、松波俵三郎上知、国領正太郎上知、武州橘樹郡末長村」によれば、貢米は、二子村川岸まで三四町を陸路で運ばれ、そこで船積みされ、多摩川から海上一六里を船で東京まで運ばれた。 (2) 同文の文書は、横浜市旭区白根町 高橋基家文書(神奈川県立文化資料館蔵)のなかにもある。 第三節 内陸部四郡 一 維新期の政情 武州騒動 慶応二年(一八六六)五月二十三日、東海道宿駅での打ちこわし勃発の報はたちまち内陸部へも広がった。甲州街道の宿駅多摩郡日野宿の河野清助(一八七五年現在田一町六反、畑三町四反、宅地八畝、山林二町八反所有)は、日記の同月二十九日の条に「是に諸色高値に付世間騒乱夥し、東海道品川にて一夜にて五十三けん打こわし有と云々、米小うり一合七勺位い」(東京都日野市 河野正夫家蔵「日記」)と記した。同宿では、六月七日、「諸色高値にて難渋にて組寄合ある。しちや七てんよりすくい米でる」(前掲「日記」)という応急措置をとったが、その一週間後の十三日には、秩父郡飯能町で、周辺山村民による打ちこわしが勃発し、騒動勢は次第に多摩川沿いに南下して八王子に迫った。この状況を「河野日記」の見聞に従って摘記する。 (六月)十六日、八ッ半時大騒動有之、其故ハ諸色高直ニ付、難渋人集リ打コハシ有之、前十四日飯能扇町屋・所沢引又町所々ヲ打破リ今朝福生村十兵衛打コハシ、夫ヨリ拝嶋坂口一軒夫ヨリ中神邑久二郎ヲ打コハシ、夫ヨリ宮沢田村ヤト云酒蔵ヲ打コハシ、夫ヨリ玉川ヲ渡リ、既ニ八王子江罷通ル、前築地舟場等所ニハ日野農兵ニ鎗剣又ハ十五ヨリ六十迄男タル者ハ得モノヲ以テ早鐘ニテ集リ、皆築地川原江打寄、既ニ打コハシノ人数千人参リ川ヲ渡リ候所、川原ヨリ鉄砲打カケ、ヲヒチラシ、テッポウ切致、即死人十四人、手ヲヒ人数ヲ知ラズ、生ドリ四十一人計リ、実ニアハレヘキハ打コハシノ人ナリ、実ニ古今マレナルソフドフナリ 十六日、亦福生川サキ羽村ヘンサハガシキトテノヲ兵クリ出ス、玉川渡シツヒデ渡シ等ハ相人数ニテツメヲル、兵良タキ出シイタシ、サハカシキコト夥シ 十七日、打コロシ人見分相スミ、引トリニ相ナル 十八日、亦二ノ宮滝ノヘンサハガシキチウシン有之、ノウヘヒクリ出ス。農兵八王子江クリ出シ出向ニ行 十九日、愈々騒動シツマリ 廿二日、打コハシノ罪人四十一人江戸江送ラル 廿七日、打コハシノ人二十五人江戸江送ラル いわゆる武州騒動がこれである。武州騒動の報は直ちに多摩川右岸村々にも伝わり(『資料編』10近世(7)六三五)、これを機に、橘樹・都筑郡諸村でも、自衛組織として農兵隊結成がすすめられた(『資料編』10近世(7)六三七・六三九)。 荻野山中陣屋の焼き打ちとお札降り このころから、内陸部四郡にも維新の動乱が波及してくる。この地帯村々の支配層が、「公方様大坂にて御他界」、「(大坂で)一ツ橋将軍様切らると云風聞」(大政奉還をめぐる誤聞)、「所々方々に荒高なる神札ふること多し」(前掲河野家蔵「慶応二丙寅年日記控」、「慶応三丁卯歳日記帳」)などのニュースから予感した動乱の到来は、慶応三年(一八六七)十二月十五日愛甲郡下荻野村荻野山中藩陣屋の焼き打ち事件によって現実となった。 討幕の密勅をうけた薩摩藩は、江戸三田藩邸を拠点に関東地方の攪乱行動を始め、慶応三年十二月十四日、同藩邸を出た浪士三一人は、先にのべたように、矢倉沢往還を通って翌十五日夕刻愛甲郡下荻野村にいたり、荻野山中藩陣屋を焼き打ちするとともに、近村の名主・大惣代らから合計三三〇〇両近くを徴収し、多摩郡小比企村を経て十七日八王子宿に入り、甲州街道を下って江戸に帰った。彼らが通った下荻野村から津久井郡根小屋村にいたる道は、後述するこの地帯の主要な商品流通路である。ここを人足・駄馬多数を徴発して通行し、さらに八王子からは「長持三棹、駄馬夥敷、人足六十人相雇、宿々継立を以御府内に」(『資料編』10近世(7)六五七)帰っていった。また、このとき別の浪士九人は、甲州街道を上り、十五日八王子宿に泊ったが、ここで、日野・駒木野の農兵隊に踏み込まれ打ち取られた。前述「河野日記」によれば、 (十二月)十四日、江戸ヨリ浪人来ル云風聞アル 十五日、昼八ツ時浪人九人道行、八王子伊セヤ孝右衛門江浪人止宿致シ、夜中ニ日野宿農兵内六人踏込、右浪人ヲ六人切トル。此内二人死、扇ヤ市三郎・出市兼助両人死、宿中大騒キナリ この直後前述浪人隊がまた八王子へ入り込んできたのである。 一七日、又浪人者四十人下リ江道行ク、宿中又大サハギ、右浪人相州荻野山中陣屋ヲ焼ホロボス 脇往還のみならず甲州街道までも、こうした浪人隊が堂々と通行するところに、すでに無力化した幕府の地方支配の実態が示されている。甲州街道筋では、日野宿などの農兵隊が「秩序」を保っていたが、それもしばらくの間にすぎなかった。 新政府支配の樹立 翌慶応四年(一八六八)三月十一日、甲州勝沼で幕軍を破った官軍は、八王子宿に入り、一帯は新政府の支配下に組み込まれた。 この間の経過について、前掲「河野日記」の関係部分を掲げると次のとおりである。 (二月)七日、江戸ヨリ歩兵ノ浪人凡四百人程登ル、所々ニ而乱ボフス、金子押カリス、九ツ時上リ早駕籠通ル。同七ツ半トキ上リ、騒カシキ事夥シ(以下九日、十二日、十三日と頻繁な早駕籠通過の記事が続く) 十四日、先七日浪等歩兵登リノ族、江戸ヨリ奉行登、引返に相成ル、夕方通リ下ル、府中泊リ 十八日、又残党歩兵百四十人下リ日野江泊ル、宝泉寺江右ノ内六十二人泊ル (三月)二日、大久保剛様甲州御城国ニ通ル、馬上二人、一人剛サマ近藤勇、一人同門人石田歳蔵 三日、右ノ人ヲ日野農兵廿二人甲府迄送ル 六日、石田出生、土方年蔵早打ニテ下ル、日野農兵廿二人甲府行事不叶、郡内猿橋手前ニ扣居ル、駒カヒ宿□□又跡江八日引返シ荷物番ス、大久保剛様兵ヨリ四リ先ニ居陣 七日、早打登リ下リ不数知、混雑スル事夥シ、信州高島様江戸ヲ立、郡内迄登リ、行事不出来又江戸江返ル 九日、去ル六日昼八ツ時ヨリタ方迄甲州勝沼宿ニテ合戦有、江戸方敗北ス、農兵夕方返ル、早打登リ下リ不数知、騒敷事ヲヒタタシ。鎮撫隊夜中逃去ル、諸家ニテ物ヲカタ付ル、鎮撫隊日野農兵チョウテキノ名ヲ請ル 十一日、上方ヨリ勅使トシテ訪諏様御家来八ツトキ当所江乗込ニナル、八王子宿ニ数百人逗留ス、宿中農兵改有之、皆々心配ス、農兵九人呼寄ラル、皆々ニゲチル、夜中ニ下名主宅江スハノ家来踏込、アハノス忠左衛門・平山惣二郎・日野久兵衛シバラル 十二日、早打登リ下リ数不分、宿中騒乱ス、心ハヒ無際リ 十三日、土佐家来小嶋捨蔵殿三十人昼飯休ミ、先テ土佐ト因州ト同勢凡二千人ノ通、皆鉄砲持通ル、大砲数十挺、荷物ハ勝手道具迄持行、宿中惣人足ノ惣介郷ナリ、夜スハサマ人足二十六人宝泉寺江泊ル、賄人数十人 (十三日追記)土・因ノ中央江人数凡五十人計リ皆鉄砲ヲ持、勅使様錦ノ幟二流ヒルカヘシ偸口御通リアル、其年廿歳位 前十一日ノシハラレ人御チヒニテ十二日ノ夜下ケニナル、日ノ万兵衛殿千人隊ニメンヂテ下ル 二十九日、京都ヨリ柳原侍従殿様為勅使先触ニ而道筋普請、往来端ノ木悉皆切、原道ハタノ桑不残切ル、横道江ハ竹矢来ヲ結、不浄ナル場所ハ青葉ニ而抱立、寔ニ古今稀代ノ道フシンナリ 三十日、柳原侍従様御馬ニテ御通リアル、御ケヒエヒトシテ遠州浜松城主高六万石井上河内守様同勢七百人ニテ通リ、宿中相賄、府中江泊リ (四月)十一日、江戸御城鑑軍勢乗取入替ル、一ツ橋様水戸江引渡シナル 朝敵となった農兵らの逮捕・放免、飯能戦争での官軍勝利(五月二十三日)(前掲「河野日記」、五月二十三日、「朝明方扇町ヤノ黒須川原ニテ官軍ダッソト合戦有夫ヨリ飯能に打寄大合センハンノフ大ニ焼失ス。大砲・小砲ノ音雷ノ如クニ聞ユル」)を経て、新政府支配は固まり、多摩郡日野宿では、九月二日、宿の上下に「御料知県事江川太郎左衛門支配所」と記した棒杭が建てられ、さらに、明治と改元された十月二十五日、「是より東韮山県支配」なる棒杭に改められた(さらに明治四年十一月神奈川県へ編入、前掲「河野日記)。同じころ、浪人隊の襲撃をうけた荻野山中藩下荻野村でも、七月八日高札が、「五榜」の高札に掛け替えられ、村民一般に朝廷支配下に入ったことが周知せしめられた。 なお、これは五榜の制札が発表された三月十四日より、約四か月遅れている。なお、この村でも、当初、定三札のうちの第三札は「きりしたん邪宗門の儀堅く御制禁たり、若不審なるものこれ有らは其筋の役所へ申出へし、御ほうひ下さるへく事」であったが、後に「一 切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁の通、固く相守るべき事、一 邪宗門の儀は固く禁止の事」に訂正された(「御高札写」厚木市難波武治家文書)。 同藩はそのまま存続するが、九月四日同藩の駿河・伊豆国領の上知が命じられ、同月二十三日代知を愛甲郡の内で与えられた。ところが新たに同藩領に指定された村々は、領主が「御非道の御扱これ有る哉にて夫々奔走箱訴等」して反対し、二年十月に入ってようやく新領引き渡しとなった。これらの村々は二年六月旧領主大久保教義がそのまま藩知事となり、四年七月、荻野山中県、同年十一月にいたって足柄県に合併された。 多摩郡拝嶋村・田中村・下柚木村、愛甲郡田代村・八菅村・栗原村は、村全部ではないが、三千石旗本太田運八郎の知行地に属している。太田は慶応二年八月幕府第二次長州戦争の中の銃隊改役となり、大坂まで出兵したが、翌三年七月帰府、改役も免ぜられ、維新に際しては早く、慶応四年三月には朝廷方に帰順し、明治元年十一月、本領を安堵された。しかし、そのときの行政官からの「被仰渡書」は「万石以下知行所の議、最寄の府県支配たるべし」とあって武州三か村は韮山県、柳川三か村は神奈川県の支配下に入った。ただし、元年の年貢収納は「是迄の領主取納申事すべき」とされた(「慶応二寅年八月吉日諸書上物帳」愛川町大矢ゑひ家文書)。このような形で、内陸四郡においても新政府の支配が樹立されてゆくが、明治二年の時点では、なおその体制は整っていない。 明治二年の新政府支配の実態 愛甲郡田代村は、明治二年(一八六九)、近年まれな違作のため、同年年貢の検見引方を地頭に上願したが、検見は神奈川県が実施することになっているとして受け付けられなかった。しかし、「神奈川県も朝臣の分未御規則聢と御取極に相成らざる」有様で、県の体制が整うのを待つうちに九月になり、このままでは刈取時期におくれ、田方麦作の仕付けも出来なくなるとして、地頭から、当年年貢米のうち三五石を借用している(明治二年九月「奉差上御請書之事」前掲大矢家「諸書上物帳」より)。この神奈川県の明治元年分の年貢徴収については、明治二年二月、同県管下の一名主の、多摩郡布田宿の名主原惣兵衛あて書状(東京都八王子市野口正久氏蔵原豊穣文書)は次のように述べている。 一、金川県十里部内、当二月昨辰年分収納御出役は調済、納方ハ村々同所ヘ出頭と存居候処、去月廿一、二日俄ニ森田様壱人出役御取立ニ相成、如何ニモ大急之事ニ而、最寄村々殊之外困リ候風説、拙村上下ハ去冬中大凡取立置候故、此度ハ至而都合宜敷御座候、其上正金納之心得ニ候処、兼而御約言之通、正金金札取交、上納勝手次第之旨被申渡候ニ付、二ケ村之儀即刻金川江飛脚差立、金札引替上納、相場百両ニ付百廿両、買入候。相場ハ百両ニ付六拾七、八、九両、惣納高差引候得ハ多分渡金出来、不計天幸ニ付、家別今日之暮方ニ応シ高下ヲ付、先々割渡候心得ニ御座候、昨年不作引方之一助ニモ致積ニ御座候、但村々之内不日ニ而金札納候トモ俄之事ニ付不□之処、幸寄場ヘ金札売人参リ居、此モノヨリ取引、百両ニ付九拾五、六両ゟ九十八両迄追々引替、弊村抔トハ格外之相違、中ニハ正金而已納候モ間々有之、村役人不働之様ニ候ヘバ、村方之モノモ動揺可致カニ奉存候、木曽村ゟ八王子駒木野辺、取立出役ハ一切金札不受取、正金而已村々納ニ相成申候、是ハ内実如何敷相覚候、当辺出役ハ極正義之人ニ御座候……右火急租税出役御取立ハ、内実御再幸御入用金之内ニ相成候由、森田氏内密被申聞候、上ニモ御金ハ以之外御不足哉ニ相見候、通用金此度ハ多分円キ形ニ御吹替ト申事ニ候(下略) すなわち、神奈川県では、明治元年分の貢租を、二年一月二十一、二日に、官員が村々に出張して急拠徴収をしたが、それは天皇の再度東幸(東京奠都)の費用にあてるためといわれ、新政府財政の窮迫は、県管下の名主層に感知されている。政府は、元年十二月二十四日の会計官達で、「諸上納物金納の分」を、太政官札(金札)で、正金一〇〇両に付札一二〇両の公定相場での上納を認めた。神奈川県での右の措置も、この達にもとづく。しかし、出張官員によっては、金札での上納を認めない者があり、また、多くの村では、金札が不足し、「金札売人」から公定相場は金札一〇〇両が正金八三両余であるのに正金九五-九八両の相場で購入している。しかし、書状の名主は、機敏に横浜表で、金札一〇〇両に付正金六七-九両で金札を買い上納し、多額の利得を得て、これを、元年の不作に苦しむ村民に割りもどしたいとしている。当時、横浜では、「外国人方にて更に金札を受不申」(明治二年六月「上」〔甲州街道中仙道筋金札流通状況探索書〕大隈文書第四巻九ページ)、金札相場は最も安かった。 いずれにせよ、こうした内陸四郡での、貢租収取の不統一、非組織性に加えて、太政官札流通の停滞は、新政府の地方支配がまだきわめて不徹底であったことを示している。 明治二年五、六月の金札流通状況「探索書」によれば、たとえば高座郡国分村では、地頭から金札通用の触れがなく「通用悪敷」、高座郡大塚村・愛甲郡厚木宿などでは、神奈川県および地頭から達しがなされているが、金札がまだ出回っていない、などの景況が報告されている。さらに加えて、さきに都筑郡でみた治安の乱れは、ここでも存在し、明治二年五月の「探索書」は、高座郡一之関村辺の見聞として、同村名主小林源内方で放火があったこと、「当節近辺盗賊多く至て不穏旨口々申居候事」を報じている。この地帯に近接する多摩郡原町田周辺についても、同様の盗難事件が頻発している。(『町田市史』下巻、五ページ以下。) このような情勢下にある、幕末・維新期における内陸部四郡の農業と農民の姿を次に明らかにする。 注 (1) 慶応二年(一八六六)八月二十七日(但し家茂は七月二十一日死去)。同三年十月二十二日。同年十二月四日。 (2) 『維新史料綱要』(巻七、四四四ページ)は、十二月十五日の項に「和歌山藩士ト称スル徒数十人、荻野山中藩ノ陣屋ヲ襲ヒ、発砲掠奪ス。尋デ、厚木相模国愛甲郡ニ至ル。旧幕府神奈川奉行水野良之若狭守兵ヲ派シテ之ヲ鎮緝セシム」とあるのは事実とかなり異なる。 (3) 文久三年(一八六三)韮山代官江川太郎左衛門の支配地に農兵隊が編成された。維新期の日野農兵隊その他については『町田市史』下巻九ページ以下参照。 (4) なお、下荻野・中荻野村など旧領村々は、この反対運動に対し、「御慈悲深キ御領主様未御領民とも不相成何ヲ以而」非道というか、と反撥している(明治二年十月九日、山中民政役所あて「御伺書」厚木市下荻野 難波家文書)。 二 農村 多摩郡三輪村外四か村の農業 多摩郡三輪・能ケ谷・真光寺・大蔵・広袴の各村は、多摩川右岸の都筑郡に接する丘陵地帯で、前述都筑郡岡上村・片平村とほぼ同様の農産物構成を示している(表一-一四)。米は三輪村の外は、産額の約三〇㌫が販売されるが、これは前述岡上村同様、一人一日一合五勺を消費するとした上での推計値である。また繭は生産額で、そのほとんどが生糸に製造されて販売される。「物産表」に、「繭何程此生糸何程」とあるのがこれを裏付けている。甘柿・炭なども販売されるが、これら諸村での主たる現金収入源は米と生糸である。都筑郡片平村の事例から推せば、旧来からの村落上層農家では米の販売を、中層以下農家では生糸の販売を主としていると思われる。その養蚕-製糸規模は、生糸一人当たり七・表1-14 明治4年多摩郡南部(多摩川右岸)5か村の農産物構成 注 1 明治5年4月「物産表」(梶景三家文書)より作成。 2 他に醤油製造が三輪村に製造家1戸があるが「当人病災ニ相成未タ相始不申候」。また絞油は,真光寺村に1戸あるが「菜種払底ニ付相休申候」。 3 炭は1俵2貫目。 五-二一・七目、一八七六年の多摩郡平均価格で換算すると二九-八五銭となる。一農家七人家族とすれば、大よそ二-六円ほどの収入で、米五斗-一石四斗を販売して得る収入にあたる。養蚕・製糸を営まない農家をも含む平均値とはいえ少額であり、自家で収繭し、それを農閑期に製糸するという生産形態にふさわしい。 高座郡相原村外七か村の農業 高座郡諸村では様相が異なる。高座郡は、中央に水利の便のない広大な相模原台地が展開し、古くからの村落は、高座川(境川)および相模川の河岸段丘下に開田し、両川に沿って所在している(表一-一五の田名表1-15 高座郡相原村外7か村農産物価額構成(1874-1879年) 注 1 山口徹「幕末期における養蚕・製糸業の展開と質地金融」(『神奈川県史研究』22)第4,5表による。なお若干の誤植を改め,円以下切捨て,%は小数2位を4捨5入した。ただし磯部村は相模原市立図書館古文書室蔵『明治11年農産表』より作成。 2 磯部村の場合のみ繭産額が掲記され,その1部が生糸に製せられたと考えられる。なお田名村も繭産額を掲げるが繭1貫を生糸200目としてすべて生糸産額に換算している。 ・下溝・磯部・新戸の諸村)。そして、台地上には、漸次水田の全くない村々が形成されてきた(表の相原・橋本・小山・清兵衛新田の諸村)。しかし、台地上にはなお広大な未開地が存在し、明治以降県あるいは、還禄士族らによってしばしば入植開墾が企てられた。 水田をもつ村でも、耕作中水田の割合は低く、新戸村一九㌫余を最高に磯部村が一四㌫余とこれに次ぎ、下溝・田名村はそれぞれ五㌫、四㌫にすぎない。したがって、米の商品化は、新戸村で二〇㌫が移出(「明治五年新戸村物産調書」『相模原市史』第六巻五七九ページ)されているほかは皆無に近い。これを間接的に示すのが、岡穂(陸稲)の栽培である。水田をもちながら、新戸村を除く三か村では農産物価額構成の上で、水田の全くない村々と同じまたはそれ以上の割合の陸稲を作っている。「住民常食」は「米或は麦粟これに亜く」(明治十二年「磯部村戸数住民調書」前掲『市史』五八五ページ)状況であったが、その主食の米は、畑作の一部に陸稲を作付けることによって自給し得たのであろう。水田を全くもたない村々では、この陸稲が、唯一の収穫米として主食の貴重な一部をなしていた。こうした純畑作村の、主要な現金収入源は、養蚕・製糸・織物であった。表では、磯部村を除き、産繭はすべて村内で生糸に加工されるとして、繭産額は計上していない。また、繭・糸産額が掲げられていない新戸村でも、「明治五年物産調書」には、明治四年分として、繭二〇四貫目、内繭一二〇貫目、生糸一七貫目と記されている。産繭二〇四貫のうち八四貫は加工され生糸とし、また残り一二〇貫は繭のまま販売されるという意であろう。仮りに一八七九(明治十二)年もこれと同じ産額とすれば、価額にして糸・繭計六八二円(磯部村での単価で換算)、一戸当たり四円七一銭弱となる。以上を考慮すれば、米の一部が商品化される新戸村を除き、農産物価額構成のなかで、生糸の占める割合はきわめて高い。とくに水田を全くもたない諸村では、全体の半ばを超え、安政三年(一八五六)開発に成功し、初めて検地をうけた新開の清兵衛新田を除き、一戸当たり生糸生産額も二〇円を超えている。水田のない四か村では、これに加えて、織物が生産されている。四か村合計で絹織物一八五〇円、木綿織物六六五円で、絹織物が総額の七三・六㌫を占める。しかし、村によってその割合は異なり、小山村では木綿織物が全体の七五㌫、清兵衛新田ではすべて木綿織物である。「物産表」には綿産額の記載はないが、綿はすべて織物の原料とするため、繭の場合同様に記載を省いたのであろう。木綿織物の多くは、自家用衣料の生産を目的としていると思われる。これに反し、相原・橋本村では、販売を目的とした絹織物生産が主体を占め、それはとくに相原村に集中している。八王子の周辺織物地帯の一部をなしているのである。やや後年になるが、「明治十二年相原村皇国地誌」は、物産として、繭・生糸・織物・製茶をあげ、「但武州八王子駅、本郡上溝村へ輸贈す」(前掲『相模原市史』第六巻二六ページ)と記している。右に記された上溝村は、「横浜・東海道・八王子・厚木等へ来往するもの概ね本村を経過し、四方の便地に位するを以て、過客常に絶えず、商家櫛比一小街をなせり、明治三年庚午各月六回三七市を立たり、相模原の各村及び愛甲・津久井郡等に産する生糸を売買す、開市の始明治三年金額八百市場開設50年祭の上溝市(1919年) 相模原市立図書館古文書室蔵 円、同九年金高拾五万円、同十一年金額弐拾万円に至る」という、維新期に新たに形成され、急速に繁栄をとげた市場であった。以上からうかがえるように、この地帯の畑作村に在来から存在していた自給的な木綿織は、幕末・維新期の養蚕・製糸の発展とともに急速に絹織物生産に切り換えられつつあった。そして、これにともなって明治三年上溝に市場が開かれ、あわせて農民の衣料としての古着・小切等の商いもここで行われた(「上溝村皇国地誌」『相模原市史』第六巻四五〇ページ)。 こうして、相模原台地の水田をもたない村々では、維新期に自給的な農業形態は大きく変容をとげつつあった。ただ、清兵衛新田のように、とくに生産条件の悪い貧村では、この転換が遅れ、比較的条件の良い相原村では、養蚕・製糸のみならず、絹織物生産の発展もみられた。このような相模原台地諸村の農業発展にともなって、市場も開設されたのであった。一般に、ここでの農業経営は、養蚕・製糸、部分的には絹織物という商品生産部門を主軸とするようになった。畑作村では、村で最大の土地所有者である最上層農家もまた、養蚕製糸に力を入れている。相原村小川家(田嶋悟「養蚕畑作地帯における地主経営」『神奈川県史研究』二〇所収)は、村で最大の土地所有者(一八七八年現在で小作地一三町以上、手作地約三町六反)で、手作のための季節雇いを含む奉公人六人(男性)と糸挽き女性数人を雇い、村内で最大の養蚕経営を行っている。その収繭量は、村全体(総戸数一九六戸)の約四・八㌫、製糸量では約七・四㌫(明治五年の推計値)に達する。同家が手作経営を重視していることは、手作地には良質の土地をあてて下畑・下々畑を小作地としている点からもうかがえる。しかし、この小川家はじめ、一般の農家は、「農業を専とす、養蚕を務む、女は農閑紡織す」(「明治十二年相原村皇国地誌」『相模原市史』第六巻二六ページ)とあるように、養蚕・製糸・機織をあわせて営んでおり、これから分離した製糸場・織物場の存在はまだみられない。製糸・機織は農家経営の中心になってはいるが、いまだ農間余業の域を出ていないのである。そして、しばしば当時の「皇国地誌」等では、製出した生糸の質の劣悪さが指摘されている。ここに、当時の商品生産発展の限界があった。 津久井郡上川尻村の農業経営 津久井郡川尻村は、津久井郡の「出入咽喉を扼」(明治九年調、同十八年二月稿「川尻村皇国地誌」『神奈川県皇国地誌残稿』下巻、六四五ページ。)する交通の要衝である。すなわち、甲州街道吉野・与瀬宿はじめ相模川上流渓谷の諸村や、支流道志川渓谷の諸村から横浜・八王子にいたる交通路は、すべて川尻を経過し、また、前述したように、愛甲郡厚木町から中津川に沿って、半原あるいは角田村を経てそれぞれ峠を越え、津久井郡長竹・根小屋村に入る道は、さらに川尻を経て八王子にいたる。このように、川尻駅は、津久井郡諸村と、横浜・八王子・厚木とを結ぶ物資輸送路の結節点をなしている。総戸数は寄留を含め、四一八戸(寺社を除く、一八七六年一月一日現在)、農家の多くは、何らかの余業に従事している。一八七六(明治九)年調「川尻村皇国地誌」民業の項は、不完全な男女別職業従事者数を掲げているため、総数が総戸数と合致しないが、整理すると(表一-一六)、専業農家は総数の約二㌫にすぎず、他は何らかの営業に従事している。そし表1-16 1876(明治9)年津久井郡川尻村男女別職業従事者(戸)数 注 1 1876(明治9)年調「川尻村皇国地誌」より作成。 2 *諸職とは,鍛冶・大工・建具職・屋根職・桶職・畳職・木挽職・理髪職・足袋職・傘職・提燈職・職猟で大工9人が最も多い。 3 男合計63戸と159人、女合計373人となる。「戸」では複数の人が従事しているのであろう。 て、ほとんどの農家で婦女子は、養蚕・紡織に従事し、また農間織物業を営む男子四九人を数える。ここでも、養蚕・製糸に加え、織物業が盛んである。このような諸営業の発展によって一定の富の蓄積がもたらされていたことは、慶応二年(一八六六)ここを通過した荻野山中陣屋襲撃の浪人隊が、上川尻村から三五〇両を奪い取ったことからうかがうことができる。 ここは維新期には上下二村をなし、このうち右の上川尻村(高七四五石余、反別一四二町九反余、戸数約二〇〇戸うち農家一九〇戸)について、明治六年現在の平均的な農家経営が、足柄県行政の参考として、同村副戸長によって示されている(『資料編』17近代・現代(7)二)。 ここでモデルとして描かれた農家は、五人家族で、主人と、父・子供(合わせて成人男子一人分の労働に見積る)とが農業に従事する。持高三石九斗二升余、所有耕宅地反別七反五畝、水田はまったく持たない自作農である。養蚕・製糸を自家で営み、繭はすべて糸に挽かれ、糸の販売が現金収入の約半ばを占める。機織は行っていない(表一-一七)。畑は、麦-雑穀、麦-大豆または芋という作付体系を持ち、収穫物はすべて自家食料に供される。他に居屋敷(一畝)に付属した畑(庭畑)四畝があり、桑苗や日々の野菜(冬作に菜・ねぎ、夏作に大根・ごぼう・芥子・にんじんなど)等雑多なものが自家用に栽培される。ところが、右の耕宅地七反五畝には桑も植え付けられ、桑葉が養蚕用に約一六駄ほど採取される。これは、特に桑園を仕立てることなく、畑の四囲・畦畔などに植えられた桑樹から桑葉を採取し、それが「壱反歩の桑凡弐駄余と見積」り、約一六駄となり、これに見合う養蚕をしているのである。茶樹もまた、右の耕宅地のうちに栽培され、自家用に供される。しかし、茶樹は年々成長して採葉量が増え、自家消費量を超過するようになり、これを販売して年一円を得るとしている。また、燃料用の粗朶は冬期一-三月のうち休日を除く七二日間に一日二束ずつ計一四四束を山から採取する。毎日半束ずつ消費すると三六束不足するが、この分は桑の「こき柄」(葉を採取した後の枝)で補充する。そして、年間二か月の燃料に収穫した麦や雑穀のもみがらをあてることによって、さらに三〇束が残り、これを販売して五〇銭を得る。薪は、入会山から採取され、採取量は山の広さによってではなく、家族の労働人数によって規定されている。 桑・茶・粗朶いずれも自給を目的とする畑作、山野利用を崩すことなく、表1-17 1873(明治6)年津久井郡上川尻村のモデル農家 注 「明治6年12月農民一戸一ケ年稼暮方概積 相模国津久井郡上川尻村」より作成 剰余の分を販売にあてている(桑のばあいは自給用畑地の余地の利用)。表で仮に「農間稼」としたのは、必ずしも現実に賃仕事に出ることを想定してはいない。「年中雨風の休日の稼有と見」て三円、農業に従事する七か月の間、農業従事者二人として、のべ五八人半、手間があく勘定になる。この分ほかで何らかの稼ぎをするとして五円八五銭、女房の年中の稼ぎが七円と計算し、一五円八五銭の稼ぎを見込んでいる。すなわち、働ける家族のすべてが、農業・養蚕のない日も草鞋作り等の家内作業や賃仕事などで稼ぎをすると仮定しての収入である。したがって確実な現金収入は、養蚕-製糸の収入だけであるが、とにかくも、この農家では年三五円一銭の現金収入が計上されている。しかし、必要やむをえぬ現金支出が一方に存する。地租・村入費の三円六八銭、前述自給的農業維持のための購入肥料代一七円二六銭三厘、養蚕の必要経費-種紙代三円七五銭、さらに自給的生活の補完として家屋根の修理代、「年中下駄・草り・足袋・手拭・鼻紙・髪ゆい・義理等」や塩購入のための現金支払い、九円六五銭などがそれである。この現金収支の差引で六六銭七厘の剰余が出るが、これは「学校又は衣服等の手当て」にあてられる。むしろ生活の必要経費であろう。さきの「農間稼」の収入がなく、また天候不順・糸価の低落等で糸代金が減収すれば、たちまち、この農家の自給的生活に破綻が生ずる。この農家経営を、養蚕・製糸部門の現金収入の大きさのみに注目すれば、商品生産経営とみることも可能である。自給に供されるその他の農産物すべての貨幣換算額は三四円三四銭三厘、生糸販売をはじめとする現金収入額は三五円一銭で、この農家の総収入の半ば以上が、現金での収入という計算である。しかし、右のように経営の機構にまで立ち入ってみると、自給的な体制は、養蚕-製糸等の商品生産によって崩れてはいない。現に、この農家の主食には、自家で収種した麦・雑穀があてられ、不足分(一か月分)は、やはり自家産の芋によって補われている。養蚕-製糸による現金収入は、米などの食料の購入を可能にするまでにはいたらず、辛うじて、自給的な生活を維持するに役立っているのである。 さきの表一-一七を改めてみると、このような農家のモデルは、高座郡畑作諸村にもほぼ適用できると思われる。一八八三(明治十六)年調査では、高座郡矢部新田村の「貧民の常用食物の種類」は、「食物粟・麦尤も多し、芋・甘藷これに次く、野菜は蘿蔔の類」であって、津久井郡上川尻村の場合とほぼ同じである。 開港後の養蚕・製糸の発展が、県下で最も著しいこの地帯で、一般的農家の商品生産度は、幕末・維新期にはほぼ以上のようなものであった。 愛甲郡中津川沿いの諸村 厚木町から中津川を遡上して、津久井郡境にいたる間の両岸に所在する諸村でも、養蚕・製糸の展開がみられる。表一-一八に掲げた一〇か村のうち、田代・下川入村以外は、いずれも主食の米を購入しなければならない畑地勝ちの村である。しかし、前述高座・津久井の畑作村と異なり、繭・生糸・織物のほか林産物を中心に多様な産物の商品化がみられる。なかで養蚕・製糸は、収穫した繭をほとんどすべて生糸にして販売する村と、繭のまま販売する村とにわかれ、前者のなかには、さらに織物業が発展している村がある。半原村では、木綿を原料とする男女帯地の生産もなされている。養蚕・製糸の規模は、前述養蚕・製糸に現金収入のほとんどを求めている高座郡畑作村よりも小さい(表一-一八)。ただし、この一八七三(明治六)年の数値は、一八七五年の額がわかる田代・三増村についてみるときわめて少なく、過少表示の疑いが濃いが、一八七五年の糸価で推計すると、田代村で一戸当たり平均一三円九七銭、三増村で一九円二五銭となる。また、一八七四年の繭価で推計すると、主に繭のままで販売する村の一戸当たり平均収入は一四円を超えない。なお、この一戸当たりは、村の全戸数(社寺は除く)で除した平均値で、養蚕・製糸農家一戸当たり平均を求めれば、多額になる。また、織物は、一八七三年の表では半原村でのみ掲上されているが、一八七五年資料では、田代・三増村にも生産があることがわかる。 表1-18 1873(明治6)年愛甲郡角田村外9か村における産物の販売量 注 1 各村「明治7年1月物産書上」(愛川町大矢ゑひ家蔵)より作成。但し,下荻野村は明治6年3月調、明治5年分,厚木市下荻野難波武治家蔵。 2 ( )内は商品化率を示す。単位パーセント。 田代村と三増村 以上の概観を補うため、水田が多く、米の販売がみられる田代村と、水田を全くもたない三増村との生産物構成を一八七五(明治八)年について対比する(表一-二一・一-二二)。田代村では二戸の酒造家と三戸の醤油醸造家があって、計四二七四円を生産・販売し、他に漁家・水車営業・鍛冶屋・豆腐屋・菓子屋などの諸営業があり、これらによる販売額は、推計で村の産物販売総額の半ば以上(五三㌫)に達している。これを除けば、生糸・織物の販売(約二一〇〇円)が最も多く、貫材・板・薪などの林産物がこれに次ぐ。米の販売額は、さしたる額ではない。同村では、総戸数の約七〇㌫にあたる農家が養蚕をいとなんでいるが、その規模は、ほとんどが繭販売量三貫以下である(表一-二三)。前述津久井郡上川尻村の平均的農家の養蚕規模は、収繭量三貫三七五目であったが、田代村養蚕農家の九五㌫は、それを下回っている。田代村の養蚕農家は、この繭をすべて自家で糸を挽いて販売しているのである。この田代村の養蚕・製糸規模は、この地帯諸村のなかで最小の部類に属し(表一-一八)、一方、水田を基盤とした安定した上層農・酒造家の存在がみられる。 これに対し、三増村では、大きな酒造家・醤油醸造家は存在せず、村の推定産物販売総額の半ば(四九㌫)を、生糸・織物が占め、小麦粉と薪・炭・建具その他林産物がこれに次ぐ。同村では一戸当たり平均収繭量は、四貫一三七目(ただし一八七五年)で、表一-一八諸村と較べ表1-19 1873年愛甲郡角田村外4か村1戸当たり製糸量 注 1 原資料は表1-18と同じ。 2 戸数は「皇国地誌」による。 表1-20 1873年1戸当たり収繭量 注 1 原資料は表1-18と同じ。但し,田代村は1874(明治7)年1月「繭出来高下調書上」。下荻野村は表1-18の資料による。 2 ○印は繭のまま販売する村を示す。 3 ( )は養蚕農家1戸当たり収繭量。 4 〔 〕は価額。 表1-21 1875(明治8)年愛甲郡田代村物産(価額表示) 〔〕内数字は推定販売額 注 「明治15年田代村皇国地誌」による。但し1876(明治9)年1月1日調。 表1-22 1875年愛甲郡三増村物産(価額表示) 注 1 原資料は表1-18と同じ。 2 〔 〕内は推定販売額。 てきわめて多く、やはり、そのすべてが自家で糸に挽かれる。その技術がなお低度であったことは、生産された生糸に対する熨斗糸、玉糸、皮剝糸の高い比率が物語っている。同村では、この熨斗糸で織物を作っていた。一戸当たりの平均製糸量は、当然のことながら田代村より多い。この村での養蚕規模は明らかではないが、水田に乏しく(水田一七町、畑一二一町)、三増村と同様主食の米をほかから購入して、一戸当たり収繭量でも同村をしのぐ下荻野村(旧荻野山中藩陣屋所在地)では、田代村と鋭い対照をなしている(表一-二三)。下荻野村では三増村とことなり、とれた繭はそのまますべて販売される。その販売規模を同村の養蚕農家七一戸(販売総額から推して同村の養蚕農家の一部とみられる)についてみると、同村名主難波武平家の二一貫を頂点に、三貫以上の繭販売農家が五五戸(全体の七七㌫)もある。難波武平家の売却高は一〇五円で、米にして約二一石、同村の中田小作米額、反当一石二斗一升五合(明治六年四月「田畑山林屋館地代金小作入費貢米永控帳下荻野村宿」厚木市難波武治家文書)で換算すると、一町七反三畝の小作地からの所得に匹敵する。もちろん、養蚕の場合苛酷な労働を経ての収入なのであるが。また、二五円七四銭余という平均的な養蚕農家では、米五石一四八の収入と同額で、反収一石五九四(田代村のばあい)として、約三反二畝余の水田を自作するにひとしい。 しかし、養蚕・製糸は、水田耕作とことなり、天候や市場変動の影響をうけること多く、経営は著しく不安定である。ところが、上述愛甲郡諸村では、かかる繭・生糸収入を補う林産物収入が存在している。もちろん、これは、他の山間部諸村でも表1-23 愛甲郡田代・下荻野村養蚕規模別農家数(1873・74年) 注 下荻野村は原資料表1-24と同じで村の1部のみの数字である。田代村は表1-18と同じ。但し,繭1枚を300目に換算した。 同様だが、一般に、雑木山から採取する薪炭が主な販売林産物であるのに対し、ここでは、用材山から伐木によって貫材・松板・杉板・椹板、さらには手桶・たらい・樽・障子などが作られ、総販売量はさして大きくはないが、安定した現金収入を村にもたらしている。このことの背後には、さして深くない山で、村内で加工する所要量に応じ、一定量の木材を年々伐採しつつ、用材林を維持する努力がともなっている。こうした林産物収入が、農家経営の安定に大きな役割を果たしている。 さて、以上、愛甲郡中津川沿い諸村で商品化された物産は、多く八王子宿へ向け運ばれた。三増村では、「雑穀・木材・薪炭・蔬菜等は厚木町へ、繭糸・織物・製茶等は武州多摩郡八王子駅及横浜へ輸送し、酒類は村内及近村のものに売却す」、田代村では、「繭糸・織物・竹木・薪炭・米穀・茶・川魚等は武州八王子駅及高座郡上溝村或は東京厚木町等へ輸送」(明治九年一月一日調、「皇国地誌」『神奈川県皇国地誌残稿』下巻、六〇四ページ)された。他の諸村もほぼ同じであろう。八王子への運輸は、志田峠または三増峠を経て津久井郡長竹・根小屋から、川尻に出て八王子にいたる道路によった。この道路は、また、県西部と八王子とを結ぶ経路でもあった。一八七三(明治六)年、八菅村で、農間荷継渡世を営む大野平七の届書(明治六年十二月二十八日。二十七日付足柄県権令あて「届書」愛川町大矢ゑひ家文書)は、 当八菅村ヨリ西之方曽屋村迄五里 一 人足壱人 金弐拾四銭 一 馬壱疋 金三拾七銭五厘 当八菅村ヨリ北之方八王子迄五里 一 人足壱人 金弐拾四銭 一 馬壱疋 金三拾七銭五厘 右ハ当国産物煙草・水油等ヲ曽屋村荷主方ゟ附出シ、八王子道通リ当八菅村私方ヘ継来リ、夫レゟ北之方八王子買主方ヘ継送リ申候……とのべ、また、同年角田村農間荷継渡世斉藤長吉の「届書」(前掲大矢家文書)は、 当角田村ヨリ南ノ方神戸村迄五里 (人馬賃銭前に同じにつき略) 当角田村ヨリ北ノ方八王子迄四里 一 人足壱人 金十九銭弐厘 一 馬壱疋 金三十銭 右ハ当国産物橙密等ヲ曽我国府津ノ地ヨリ附出シ、伊勢原道ヲ継来リ、南ノ方神戸村農間荷継渡世万屋与吉ヨリ、当角田村私方ヘ継来リ、夫レヨリ北ノ方八王子買主ヘ継送リ申候……とあって、この道路を経て、県西部の名産が八王子へ運ばれていたことを示している。下荻野村で売却された繭の行先を表一-二四・一-二五で示す。一八七四年、下荻野村の養蚕農家七一戸(延べ七三戸)の繭は、四二人の者に売却された。うち二六人、代金で九九一円余(全体の五五㌫)は、周辺の愛甲郡諸村の者が購入している。購入は、平均二戸程度の農家から、その年の繭全部を買い入れる形をとるが、遠隔地から訪れる購入者にくらべ、少額を安価で買い入れている。彼らは、自村での製糸に不足する分の購入と、他への転売に従事する農間仲買人とみられる。他郡から繭購入に訪れる者の大半は、八王子およびその周辺の製糸の盛んな諸村(片倉・鑓水・大塚村)からで、とくに八王子からは八名の商人が来て計四二二円余(購入総額の二三㌫)を買い、また鑓水村の八木下清之助は、一人で三戸の農家から計二二六円余(総額一二・六㌫)を買っている。ほかの仲買の買った繭の表1-24 1874年下荻野村産繭の購入者と購入量(1) 注 1874(明治7)年10月27日「繭貫目代金取調帳 愛甲郡下荻野村」(厚木市難波武治家文書)より作成。代金,銭以下切捨て。 かなりの部分が八王子へ集まることを考えれば、この地帯の産繭のほとんどが、同地と周辺の製糸地帯へ向けられていたことは明らかである。 このように、愛甲郡の厚木町以北中津川沿い諸村は、主要な物産、繭・生糸・織物の商品化を通して、八王子と経済的に強く結ばれていた。一方、三増村の場合が示すように、雑穀・木材・薪炭・そさい等の副次的な物産は、厚木町へ売られた。 厚木町と周辺の諸村 厚木町は、矢倉沢・八王子・大山などの脇往還、および前述の津久井往還が分岐する愛甲郡交通の要衝で、物貨の集散地であった。同町周辺の水田地帯諸村で商品化される米はすべてここに集められた。すなわち、愛甲・船子・戸室・恩名村では(「皇国地誌」明治九年一月一日調の部分による。前掲『残稿』下巻)、いずれも「米穀類は厚木町へ輸送」(船子村)されている。そして厚木町に集められた「米穀は津久井郡へ」向けて移出され、また「香魚は東京へ、繭生糸は武州八王子駅へ輸送」される。津久井往還によって、前述のように、木材・薪炭・鮎・雑穀などが厚木町へ運ばれ、逆に米穀が厚木町から前述の諸村や津久井郡へ向けて運ばれていく。さきにふれたように、愛甲・戸室・恩名村はじめ厚木町周辺の水田地帯諸村でも、繭・生糸が作られているが、これらは、厚木を経て、八王子往還は通らない。前述厚木以北諸村とは異なった経済圏を形成しているが、ここでも生糸の直接横浜向け出荷はみられず、八王子と結びついているのである。 前述慶応三年(一八六七)荻野山中藩陣屋を焼き打ちした浪人隊の、この地域での的確な行動表1-25 下荻野村産繭の購入者と購入量(2) 注 原資料表1-24と同じ (下荻野村周辺の豪家からの御用金徴収、人足・駄馬を多数徴発しての八王子への退去等)は、以上にのべたこの地帯の事情を知悉する地元の者の手引きなくしては不可能であったろう。 注 (1) 農家数が不明なので、原表が米の自用費消額算出に用いた人数によって、一人当たり生産額を求めた。 (2) このような方式が高座郡で一般的だとすると、さきに繭・生糸産額は重複するとして、生糸産額は表から除外した表一-一の数値は産繭額をかなり低く表示したことになる。 (3) 「上溝村皇国地誌」『相模原市史』第六巻四一二ページ。なお、同書には「明治九年皇国地誌」とあるが、明治十二年の誤りである。(4) この村の地味は、「野ハクニシテ其質至テ悪、且肥ノ助ヲ以諸作少シク実ノルノミ、如斯ノ瘠地ナレハ旱ニ殆ト窮ス」(「明治十年清兵衛新田皇国地誌」『相模原市史』第六巻三〇ページ)とされ、同じ台地上の近村に比してもさらに劣悪である。 (5) この村の地味は「其色黒ク壚土或ハ腐壚、其質中ノ下等、梁菽麦蕎麦蕃薯及ヒ桑茶ニ適シ蘿蔔ニ可ナリ、水利不便旱ヲ恐ル」(「明治十二年相原村皇国地誌」『相模原市史』第六巻二三ページ)とあって、前記清兵衛新田と比べ相対的に優っている。 (6) 小山村のばあいも同様「男皆農業ヲ務ム、女モ又農業ヲ専ラニス、尤モ糸引縫織等其間ニセリ」とある。 (7) 田代村では、明治三-五年の生糸生産額がわかる(明治五年十月「養蚕取調書上」大矢ゑひ家文書)。それによれば次表のごとく年々急速に増大しているが、それにしても一八七五(明治八)年にいたって生糸四二貫、糸一五貫に急増したとは考えにくい。なお「繭ニ而売払一切無御座候」と注記されている。 生糸 屑糸 明治三年 六貫〇〇〇目 四貫〇〇〇目 四年 七貫六八〇目 五貫一二〇目 五年 一一貫五〇〇目 七貫六〇〇目 六年 一五貫一〇〇目 六貫三四〇目 注 明治六年は表一-一八による。 第四節 相模川以西の四郡 一 大住・淘綾郡の水田沿海地帯 愛甲郡との対比 相模川右岸の大住・淘綾と足柄上・下四郡は、養蚕・製糸がほとんど展開していないという点で、これまで述べてきた諸郡と明確に異なる(表一-一)。これは、大住郡と、同じく相模川右岸に位置し、同郡に隣接する前述愛甲郡とを対比しても明白である。たとえば、大住郡上糟屋村は、伊勢原村に近い大山街道上の山付けの農村で、前述した愛甲郡厚木町北方の山付け諸村と、さして隔っていない。しかし、ここでの主要な農産物は、表一-二六のごとくで、養蚕は、明治三年(一八七〇)の時点でようやく「近来試中」(表一-二六と同じく、「明治三年十二月大住郡上糟屋村明細帳」伊勢原市山口匡一家文書)であり、同村で養蚕が展開するか否かはまだ将来の問題なのである。 花水川水田地帯 さらに花水川下、中流部の水田地帯に位置する淘綾郡高麗村・大住郡小嶺村の物産構成は、表一-二七・一-二八のごとくである。高麗村は、大磯宿に近い、水田の少ない村であるが、特に顕著な商品作物はなく、しかし、雑穀の栽培も多くない。畑では麦-大豆、麦-薩摩芋、そさいの作付が支配的で、結局、麦・大豆・芋・そさい等が、少量ずつ販売されているのであろう。こうした平凡な農村に、酒造家が存在し、価額では村の総物表1-26 明治3年大住郡上糟屋村農産物 注 「明治3年12月村明細帳」(山口匡一家文書)より作成 産額の三四㌫余の酒類を生産している。小嶺村も、水田の多い村として米の比重の高いほかは、高麗村とほぼ同じ農産物構成である(表一-二八)。ここでも特別の商品作物はなく、米のほか、小麦・大豆が商品化されている。とくに小麦は、大麦を一方ではほかから買い入れながら、その多くを販売している。 淘綾郡沿海部 この両村の周辺諸村の農業もほぼ同様であろう。淘綾郡国府本郷村ではその物産は「大抵村内各家の自用に消費す、其内甘薯・蘿蔔(大根)・麦・豌豆・大豆は小田原・大磯へ、網縄は大磯・平塚・須賀・南湖等へ、魚類は近村及東京へ輸送す」とされ、同郡国府新宿・西小磯等も魚・小麦・大豆・甘薯・粟等が大磯・平塚へ販出、また寺坂・生沢村でも、薪・米・大豆・大麦・甘薯・粟が小田原・大磯・二宮・平塚等へ販出されている。いずれも、農産物の大部分を「村内各家の自用に消費」した上でのことである。大住郡四之宮村でも物産は、「豆・麦・瓜類を最と」し、同真土村は、「米・麦・粟・大豆を産」する。八王子往還上の四之宮や八幡村とこれに接する真土村では、商品化されたこれら農産物は、厚木町または、相模川河口の須賀村へ運ばれる。しかし、これは少数の村に限られ、小嶺村周辺の下吉沢・大島・丸島・大句諸村の物表1-27 1874(明治7)年淘綾郡高麗村の物産 注 1 『物産表」(曽根田家文書)より作成。 2 そさいは胡麻・菜・茄子・牛蒡・大根・人参。 産は、すべで伊勢原村へ輸送された。 すなわち、大住郡の相模・花水川にはさまれた水田地帯・沿海部、淘綾郡の大部分の村々では、特定の商品作物栽培はみられず、男は主に農業に従事し、女は「農間木綿を紡績して布を織り以て自用に供す」る自給的生活を基礎にし、自給を超える米・麦・大豆・瓜・甘薯等一般の農作物を、近くの町-東海道沿村では、平塚・大磯・小田原・須賀、内陸諸村では主に伊勢原村へ販売していた。八王子往還上の限られた村を除いては、厚木町へはほとんど出荷されない。そして、伊勢原村へ集められた諸物産は、そこで消費され、一部は伊勢原村の物産「大小麦・菽・粟・繭糸」とともに「本郡須加港・大山町・津久井郡・或武蔵国南多摩郡八王子駅へ輸送」されていった。 高麗村の農具市 以上のような農業構造に照応して、右地域内に古来から小規模な市場が形成されていた。前述淘綾郡高麗村では、毎年祭礼の日に農具・種物の市が立つ。先述高座郡上溝村の市のように遠隔地から農産物(生糸・繭)を買い付けに商人が集まる市ではない。 ……毎年三月十七日ゟ十九日迄、当村祭礼ニ而神輿麓ゟ登山、十八日農具市と相唱ひ、古来より農道具・種物等商ひいたし、高麗明神境内ゟ往還百姓家軒下通り商人売物出し、近郷弐、三里村々之百姓、此所ニ而農具・種物等相調来リ候 という近郷農民のその年の農業を始めるにさいしての需表1-28 1873年大住郡小嶺村の農産物 注 「御用留」(平塚市 福井よし子家文書)所掲「癸酉産物表書上」より作成 要を満たすための年一度の市である。 注 (1) 同村、「明治四年十二月村明細帳」(大磯町 曽根田重和家文書)によれば、 「農間稼方村内百姓之内酒造壱軒・濁酒造壱軒・醤油造壱軒・質屋弐軒・米商ひ候者五軒・油商ひ壱軒・居酒弐軒・古着屋壱軒・こんにゃく商ひ壱軒、外に菓子まんちういたし候もの十軒、其外百姓一統わら仕事、女は木綿糸業仕候」 とある(引用文中傍点は筆者)。 (2)(4) 明治十五年二月編成「皇国地誌」、ただし、本文で引用した淘綾郡「物産」の部分は、「明治九年一月一日調」と注記されている(前掲『神奈川県皇国地誌残稿』上、下巻)。大住郡諸村のばあいはこの注記を欠くが、同様明治初年から地誌編成時点を通して変わらない事実を掲げているとみて差し支えないであろう。(戸数・人口・馬・車・舟の数は、明治九年一月一日調と注記されている)。 (3) 「大住郡四之宮村皇国地誌」中「民業」においては他の諸村の記述もほとんど同文である。 二 内陸畑作地帯 煙草作地帯-足柄上郡萱沼・土佐原村 大住郡から一部足柄上郡にわたる内陸畑作地帯は、特産物として煙草の栽培がみられる。煙草の生産は、曽屋村を中心としているが、維新期の状況は、その外縁部にあたる足柄上郡萱沼・土佐原村と、大住郡土屋村とについてのみ知りうる(表一-二九-一-三一)。 足柄上郡萱沼・土佐原村は、水田がほとんどなく米を購入している山村である。一八七三(明治六)-七四年の数値・掲出物品にかなりの相違があるが、大豆・菜種・芋・漆、炭などが、わずかずつ、近村やせいぜい下郡の小田原・古市場辺りまでを対象として売捌かれている。これは、さきにみた地帯の諸村と変わらない。しかし、ここでは、さらに、生産額で総農産物価額中三二㌫を占めるほどの煙草が栽培されている。したがって、商品化される農産物中での煙草の比率はさらに高いであろう。そして、この煙草だけは、東京・神奈川・厚木という遠隔地へ向けて販売されている。いい表1-29 1873(明治6)年足柄上郡萱沼・土佐原村の販売物産と販売量 注 1 「明治7年1月産物書上」(二宮町 安藤安孝家文書より作成)。 2 炭1俵は3貫500目一4貫。 表1-30 1874(明治7)年足柄上郡萱沼・土佐原村物産 注 1 1875(明治8)年「物産表」(安藤安孝家文書)より作成。 2 豆類は蚕豆・隠元豆・豌豆・大角豆・小豆。雑穀はソバ・粟・黍・稗。そさい類は菜・大根・にんじん・ごぼう・里芋・薩摩芋・茄子・葱・瓜・生姜・胡麻。野生動物は,野猪・鹿・狸・狸皮・兎・山鳥・鳩。 かえれば、遠隔地の需要にこたえることによって、初めて右のようなまとまった面積の煙草栽培が成り立っている。 大住郡土屋村 丘陵地帯に属し、右村とは自然条件がかなり異なる大住郡土屋村の場合も、農産物商品化の構造は、ほぼ同じ形である。土屋村は、淘綾郡境の丘陵地帯にある水田五八町七反、畑一七町六反、山林八四町一反(うち用木林一四町一反)、戸数二一八戸の村である。明治五(一八七二)、六年では、かなり数値が異なるが、米のほか、普通畑の作物では大麦・小麦・菜種・大豆・小豆が販売されている。この村には二戸の酒造家が、五六〇〇石の清酒を醸造しており、村で商品化される米のすべてはこの酒造家へ売却したものである。また、大麦の自用を超える分は、村内四軒の水車稼人の手で搗麦とされ、小田原宿へ移出され、小麦・大豆・小豆は、小田原宿のほか大磯宿・須賀村あるいは羽根尾村(大小豆のみ)へ販売される。菜種は農家一戸につきほぼ二斗が自家用の油にあてられるほかは、村内に一戸ある絞油稼人に売られる。前述村内酒造家が造った酒・焼酎もまた、隣村のほか曽屋村・伊勢原村という大住郡内陸部の主要町部と、山西村、平塚・大磯・小田原など東海道各宿村へ売られた。さらに林産物(用材はすべて自家用で薪だけが商品化されている)もまた同様で、村内の酒造家や絞油稼人、隣村さらには大磯・平塚宿へ売却された。このように、以上の諸物産は、すべて近隣町村を対象に商品化されている。相模川以西四郡での物産商品化は、基本的にはこうした構造をなしているために、他地域とは、明瞭に異なる農業構成を保持し、独自の経済圏をかたちづくっているのであろう。他地域へ移出されてゆく物産は、土屋村についてみれば、水油と煙草だけである。すなわち、水油は、隣村のほか、藤沢宿・厚木町・八王子町へ、煙草は、主要な集散地である曽屋村のほか藤沢宿へと移出された。さきに藤沢宿西村に、一二軒の莨切渡世が存在する(明治四年)ことをみたが(表一-二)、彼らが加工する葉煙草は、大住郡内陸畑作地帯から東海道を運ばれてきたものであった。土屋村でも、村内一戸の絞油業者によって売却される水油は別として、煙草は、一般農家の主要な現金収入源であったろう。 明治五年(一八七二)の「産物取調書上」表一-三一は、戸別調査ではなく、作物別に作付反別一反当たり、または一戸当たりの収量、作物によっては一戸当たり作付面積を推定し、これらから村全体の総収量を算出している。したがって、右「産物取調書上」から、これを作成した村戸長(副区長を兼ねる)が想定した同村の平均的農家の姿を、逆に明らかにできる。それは、田二反七畝、畑八反二畝、計一町九畝、山林三反八畝を所有する表一-三二のごとき農家であるが、このなかで煙草の作付面表1-31 明治5(1872),6年大住郡土屋村の諸産物 注 1 明治6年3月,7年1月「産物取調書上」(蓑島家文書)より作成。 2 雑穀は,大豆・小豆・大角豆・粟・黍・稗・胡麻・豌豆・ソバ。そさいは,里芋・薩摩芋・大根・牛蒡・にんじん・茄子。1荷は13貫。 3 薪木1駄は18把,およそ40貫。 4 ( )内数字は商品化率。 積は、全く自家用に供される木綿と同じ三畝にすぎず、反当たり四〇貫目取りとして収量が一二貫と計算されている。かりに前述萱沼・土佐原村と同じ価格(貫当たり五銭八厘-一八七四年)とすると、六円二五銭の収入となる。水田約五畝一四歩からの米収量に匹敵するほどの収入でしかない。経営内での煙草生産の比重の低さは、土屋村が煙草生産地帯の外縁部にあるためと思われるが、同村では、上述のように畑の諸種普通作物や薪が少量ずつ販売され、現金収入を補っている。したがって、煙草の不作・不況が、農家経営に大きな打撃を与えることはないであろう。 土屋村では、その一部地域、土屋村庶子分五二戸について、個別農家の生産状況がわかる(表一-三三)。耕作面積も田畑ともにぬきんでている最上層の三戸は貸付地を有し、下男・下女を雇用する自作地主(うち一戸は質屋兼業の副戸長)であるが、煙草栽培はうち一戸表1-32 明治5年大住郡土屋村平均農家作付面積 注 原資料は表1-31と同じ。 ○印は商品化される作物。 表1-33 1874(明治7)年大住郡土屋村(庶子分)農家の耕作規模別煙草生産 注 1875(明治8)年3月「産物取調書上帳 土屋村庶子分」(蓑島家文書)より作成 にすぎず、それも村平均を下回る規模のものである(一五貫を生産し、うち一二貫を販売)。最上層農家にとって、煙草栽培はさしたる意味をもたない。他の一般農家は、それぞれ二反前後の水田をほぼ均等に耕作している。収穫米の多くは飯米と小作料に費消され、販売はほとんどなかったとみられる。経営規模の大小を決定するのは畑の部門で、村の平均耕作規模を超える畑一町-一町五反耕作層一四戸が、農業生産の中心的担い手である。そして、この階層の大部分が煙草を栽培し、一戸当たりの生産量も際立って多い。平均一戸当たり三〇貫余という量は、先の換算法によると作付面積八畝で、平均農家の作付規模をはるかに超えるが、経営の自給的基礎を犠牲にするほどではない。五二戸の農家のほとんどは、味噌・醤油を自給し、または木綿を作付け、それによって自家衣服用として、平均六・五反を織っている(四四戸)。畑耕作規模五反以下の最下層九戸は、農業だけでは生活できないと考えられる階層である。このうちの二戸は、農間駕籠舁渡世を営んでいる(「手控帳」、明治六年五月山駕籠人名副区長蓑島宗次郎-平塚市蓑島武夫家文書)。「山駕籠」とあるから、大山街道での稼ぎであろう。なお、この村庶子分五二戸からは、男六人、女四人が他村へ出稼奉公に出ており、一方、主に最上層三戸が奉公人一〇人を雇っているが、彼らは、大住郡南金目村・今泉村・北矢名村・南矢名村(二人)・菩提村・蓑毛村・西田原村・淘綾郡一色村・下大槻村という近村から来ている。いずれも下層農家出身と思われるが、やはり同じ地域内で雇用被雇用関係が成り立っているのである。 三 酒匂川沿岸平野 足柄上郡狩野・中沼村 酒匂川沿岸平野もまた、水田農業がいとなまれ、特別な商品作物の展開はみられない。足柄上郡狩野・中沼村は、その山付け部分に所在する。狩野村は、田三一町五反、畑五〇町六反、戸数八五戸の村で、農産物価額総額の約六八・六㌫(明治四年)を米が占める(明治九年六三・二㌫、表一-三四、三五)。耕地の二八㌫にあたる水田の主な用水源は、巌島神社境内に湧出する清水池で、ひでりの年も用水に不足せず、安定した稲作を営んでいる。しかし、一戸当たり水田面積は三反七畝にすぎず、大部分の農家では、米の販売量は少ない。そして、明治四年(一八七一)と一八七六年とでは、物産の掲出品目数・数量がかなり異なるが、いずれにせよ米以外の農産物もほとんど商品化されず、農産加工品も、村内で一戸の農間酒造家が造る清酒・絞油稼人が絞った菜種油のほか、販売量はわずかである。林産業も薪炭が主で、板・貫材・屋根板の生産は多くない。水田を主体にした、安定しているが自給的性格の強い農業である。そして、農間稼として、男は「薪樵、日用取、荷駄賃附等」に、女は「木綿織、莚打、落葉掻」に従事している。すなわち、この村の農家は、必要な貨幣は、主に日雇取・荷駄賃附(馬二三疋)に依拠しているとみられる。またこの村の人口三八〇人のうち一五人が出稼奉公に出ている(明治四年「村明細帳」狩野自治会蔵)。 狩野村の隣村、中沼村は、さらに平野よりに位置し、農産物価額総額中、米の占める割合は七八・五㌫で狩野村よりさらに稲作の占める比率は高い。農産加工品も、大部分は、少数の酒造家・醤油醸造家・絞油業者の造る酒・醤油・油類で(農産加工品総額の九三・二㌫)、林産物も少額である。水田主体の農業経営で、水田の少ない中・下層農家は、やはり日雇取・駄賃附等に現表1-34 明治4年(1871)足柄上郡狩野村物産 注 「村方産物書上直段購入帳,狩野村」(狩野自治会蔵)より作成 表1-35 1876(明治9)年足柄上郡狩野・中沼村の物産構成 注 「明治10年物産書上」(狩野自治会蔵)より作成 金収入を求めるほかはないであろう。 四 箱根山間部 足柄下郡大平台村 箱根山中の足柄下郡大平台村は、右の二か村とは異なり、農業で主食の自給を図ることのできない山村である。総生産価額のうち、ぜんまい・山葵・蕗などの山菜をも含む農産物は約三〇㌫を占めるに過ぎない。大部分(七九㌫)は林産物で、しかもそのうち、山萱・板・材・薪炭はとるに足らず、主要部分(七五㌫)は根附・盆等の木細工である。その内容は、一八七四(明治七)年と一八七六年で異なるが、数多くの多種多様な挽物漆器が、箱根山中の木材を原料にして作られていた。村民のこの地での生活は、一にこれら木製品製造にかかっている(表一-三六)。これらは、たんに東海道旅客や浴客を対象とするに止まらず、すでに幕末期には江戸組合が形成され、江戸への移出が行われていた(『資料編』17近代・現代(7)四七二ページ)。木製品は、前述愛甲郡三増村などでも製造されていたが、それらは近村の需要を対象とする桶・たらい等の日用品で、また、これの農家経営内での比重も農間余業の域を出ていない。 以上、旧神奈川県域(一八七六年四月)諸町村の考察から、漁村は外しているが、これについては、後に第二編第一章第一節で明治前期漁業の実態をみる際あらためてとりあげることにする。 表1-36 1874(明治7)年足柄下郡大平台村物産の価額構成 注 1 1875(明治8)年3月「産物書上」(箱根町宮ノ下・温泉小学校蔵)より作成。 〔参考〕は明治10年3月届(同上蔵)による。 2 雑穀は粟・稗・黍・ソバ・蜀黍・玉蜀黍。 豆類は豌豆・大角豆,そさいその他は,胡麻・菜・薩摩芋・里芋・大根・茄子・にんじん・牛蒡・葱・白瓜・黄瓜・薯蕷・山葵・ぜんまい・蕗。 第二章 維新期の商品流通と交通 第一節 居留地貿易の展開 一 居留地貿易体制の形成 明治維新と横浜貿易 徳川幕府が倒れて新政府が誕生した明治元年(一八六八)の横浜の貿易について、神奈川駐在イギリス領事L=フレッチャーは、入港商船の数が、過去のどの年にくらべても、非常に著しい外国貿易の増大を示していると、H=パークス公使に報告している(『英国領事報告』、『資料編』18近代・現代(8)四)。外国軍隊の緊急警備のもとで、平穏に幕府から新政府への移管がおこなわれた横浜では、維新の激動をよそに、活発な貿易活動が続けられていた。開港以来一八七六(明治九)年までの横浜における外国貿易の推移を、イギリス領事の報告をもとにしてみると、図一-三のようになる。一八六八年の貿易額は、輸出一七七〇万ドル、輸入一二四〇万ドルで、フレッチャー領事の報告のように、高い水準を示している。安政六年(一八五九)六月から開始された横浜貿易は、政権交替によっても、大きな影響をこうむることなく、ほぼ安定した姿で継続していたことがわかる。 全国の貿易も図一-四にみるように、同じような安定した姿を示している。慶応三年十二月に、兵庫が開港、大阪が開市図1-3 横浜の貿易(1859-1876年) 注 『英国領事報告』による数値。1867年までは,『横浜市史』第2巻548ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編267,75ページによる。 図1-4 全国貿易と横浜(1859-1876年) 注 貿易額は,輸出額と輸入額の合計。横浜の割合は,横浜貿易額の全国貿易額に対する百分比。『英国領事報告』による数値。1867年までは,『横浜市史』第2巻548ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編2 7,15ページによる。 (慶応四年七月に開港に切替え)となり、明治元年十一月には東京が開市、新潟が開港となって、日本の貿易は、安政条約で約束されたように、六港一市を門戸としておこなわれる体制となった。このなかで、横浜は、幕末の三開港体制期には、全国貿易(輸出入合計額)の八〇㌫前後の割合を占めており、明治の六港体制期にはいってからも、七〇㌫前後の割合を占めている(図一-四)。 横浜を基軸港とする貿易は、安政条約の取決めに従っておこなわれた。新政府も、安政条約の履行の義務を認めていたから、維新ののちも、貿易の制度面では、しばらく変化は生じなかった。安政条約にもとづく貿易は、一面では、自由貿易原則という近代的通商原則を基準としていたが、他面では、領事裁判権・居留地制度・協定関税・片務的最恵国約款など後進国特有の制度的枠組を与えられたものであった。この条約上の不平等性は、さまざまな仕方で、日本の貿易を制約し、ひいては、日本の経済構造にも影響を及ぼした。法権・税権の回復のために、明治の外交史のうえで、いかに大きな努力が払われたかは周知のとおりである。 ところで、強力な武力を背景に不平等条約を押しつけた先進諸国に対して、幕府が最後まで譲歩しなかったのが、外国人の国内自由旅行権であり、明治新政府も、先進諸国の度重なる強い要請を拒否して、領事裁判権の存続する限り「内地開放」を認めなかった。居留地では広範な自治権を享受し、治外法権に近い強い法的保護を受ける地位にあった一般外国人も、居留地から一定範囲(おおよそ一〇里四方)の外に出て国内旅行をする自由は与えられていなかった。居留地を根拠地としながら、国内消費地に出向いて商品を売り込み、国内生産地をまわって直接に製品を買い付けたいという外国商人の願望は、外国資本の国内市場支配を危惧する日本政府の強硬な抵抗で実現をはばまれた。外国商人の商業活動は、とりあえず居留地の内側に局限されることとなり、いわゆる「居留地貿易体制」が形成されたのである。 横浜の場合にも、関内地区の居留地の外国商人と日本側の売込商・引取商との内国取引を経て、外国貿易が実現されるという、典型的な居留地貿易が展開された。横浜貿易の品目別構成などの検討に先立って、まず、横浜における居留地貿易体制の形成を概観しておこう。 外商 幕府管理下の長崎貿易が続いていたとはいえ、実質的には、外国貿易が禁止されていた鎖国状態から、いっきょに、外圧による開国を余儀なくされた時、日本には、外国貿易を主体的に展開する準備は、まったくなかったといってよい。一七世紀以来の長い鎖国の間に、イギリスを先頭とする西欧諸国は、資本主義を発展させ、機械制生産と高度な社会的分業を基礎とした国際貿易体制を築きあげていた。それにたいして、日本は、国際貿易に資本主義的商品を持って参加することはできなかったし、国際商品市場についての情報も、国際商品取引に関する知識も、また、商品輸送のための外航海運能力も、国際決済のための金融機能も、皆無に近い状態にあった。この歴史発展段階の格差は、開港後しばらくの間の日本貿易の直接的担当者を、外国商人、いわゆる外商とすることとなった。 開港とともに、横浜には、各国の商人が来航し、居留地が、神奈川東京大学史料編纂所蔵 宿に設けられるか横浜村になるかの外交交渉が未決定のうちから、立地条件の良い横浜の仮居留地に店舗をかまえはじめた。香港を本拠とするイギリスの貿易商社ジャーディン=マセソン商会は、社員W=ケスウィックを派遣して、開港直後の安政六年七月ごろから横浜で商業活動を開始した。ケスウィックは、横浜居留地でのちに一番と呼ばれた区画地を借地し、商館を建築した。二番区画地は、上海で活躍していたアメリカの貿易商社ウォールシュ=ホール商会のG=ホールが借地して、商館を建築した。開港約一年後の神奈川奉行の報告によると、仮居留地内の借地権を得た外国人は、イギリス人一八名、アメリカ人一一名、オランダ人五名、合計三四名となっている(『横浜市史』第二巻七三九ページ)。借地権者のなかには、土地投機を目論む者も含まれていたらしいが、この数字は、外国商人の横浜進出の出足のはやさを示しているといってよいだろう。 その後の外商の進出ぶりは、断片的にしか判明しないが、かなり浮き沈みははげしかったようであり、一八七六(明治九)年時点では、横浜の外国商社は総数一五八社、その内訳はイギリス五四、フランス三六、アメリカ二六、ドイツ一九、スイス七、イタリア六、オランダ1864年の外国人居留地 四、オーストリア・ハンガリー二、スウェーデン・ノルウェー二、デンマーク一、ベルギー一であった(Commercial Reportsby Her Majesty’s Consuls in Japan, 1877, Irish University Press Area Studies Series, Japan 6, P. 125)。このほかに、清国商人の貿易商社が存在したが、社数は不明である。外商といっても、経営規模は大小さまざまで、一八七三年五月以降一年間の横浜貿易(輸出入取引額)のうち、五四㌫が、外商上位一五社に集中していたとの推計もある(海野福寿『明治の貿易』五二-五三ページ)。 外商は、居留地の店舗を取引場所として、日本商人から生糸をはじめとする国内産品を購入し、それを海外市場に輸出し、また、綿・毛織物など海外産品を輸入して、それを日本商人に販売した。外商と日本商人の取引は、日本国内の商取引であり、対外取引つまり外国貿易は、外商の手でおこなわれたのである。日本商人の手による貿易、いわゆる直輸出・直輸入は、明治十年代以降、積極的に開始されたが、それまでは、たとえば、一八七六(明治九)年の輸出(全国数値、船用を除く)の九八㌫、輸入(全国数値、官省分を除く)の九九㌫が、外商の手でおこなわれる状態であった(大蔵省『大日本外国貿易四十六年対照表』)。外商の優位性 外商は、制度面では、領事裁判権によって特別に保護されていたうえに、実態面では外国貿易を完全に支配していたから、日本商人との取引関係では、圧倒的に優位に立ち、きわめて有利な取引条件を実現させることができた。とくに、価格の面では、日本の国内市場価格と国際市場価格との格差を利用して、いわゆる譲渡利潤を獲得する可能性が大きかった。たとえば、生糸の場合、「明治初年ノ頃ハ日本生糸ノ価、英貨二十二、三志ニテ輸出セシモ、外国ニ於テハ之ヲ四拾五志乃至五十志ヲ以テ販売スルニ至ル」(明治十六年製糸諮詢会における橋本重兵衛の発言、農商務省「製糸諮詢会紀事」)など、外商への売込価格が、国際市場価格にくらべて、大幅に安値であったことを指摘する史料が数多く残されている。推計によると生糸(前橋一番格)、のリヨン市場価格を一〇〇とする横浜売込価格は、一八六一年が四三、六四年が五〇、六七年が六一であり(高橋経済研究所『日本蚕糸業発達史』上六五ページ)、外商の間の競争関係が、この市場価格の格差を縮小させる作用を持っていたことがわかるが、価格格差は、外商に大きな利潤をもたらすに十分大きかったといえよう。 価格面以外でも、外商は、有利な取引条件を享受していた。たとえば、生糸取引の場合には、(一)売込商との間で見本にもとづいて、買取価格・買取数量を契約し、(二)買取生糸全量を商館倉庫に搬入させ(引入れ)、(三)見本生糸と対照させながら品質検査をおこない(拝見)、(四)秤による量目検査をおこない(看貫)、(五)代金を支払うという取引慣行が形成された。この際に、(二)の引入れの時に、預証券類を発行せず、引入れから拝見までの期間が一〇日以上という場合もあり、この間の海外市況の変化によっては、拝見時に故意にきびしく検査して不良品を破談(ペケ)にし、また、(四)の看貫では、風袋の量目を実際より多く差し引いて生糸を過小秤量するなどの、不公平な慣行が一般におこなわれた。外商は、清国における貿易活動で効果が大きかった買弁制を、初期の対日貿易にも適用して、商売上手の清国商人を、日本商人との仲介者に用いたが、これが、さきの不公正な取引慣行の形成の一因となった。 外商の優位性は、金融能力の大きさによっても維持されていた。外商が売込商に生糸や茶の仕入資金を前貸しする事例は、開港直後からみられた。ジャーディン=マセソン商会が万延元年から高須屋清兵衛に生糸仕入代を前貸ししたが、コゲついて不良債権となって紛糾した例は、外商がかなり大規模な資金前貸をおこなっていた事実を示している(『横浜市史』第二巻七一一-七一五ページ)。あとで述べるように、売込商は、一般に資金力に乏しかったから、外商からの資金借入によって、金融面から従属的地位に置かれる可能性が大きかった。外商の金融能力は、外国銀行が横浜に進出するとともに、いっそう強化された。 一八六三年三月に、セントラル銀行 The Central Bank of Western India(本店ボンベイ)が横浜支店を開設したのをはじめとして、同年四月にマーカンタイル銀行 The Chartered Mercantile Bank of India, London, and China(本店ロンドン)、同年十月にインド商業銀行 The Commercial Bank of India(本店ボンベイ)が横浜に進出した。その後、一八六四年には、オリエンタル銀行 The Oriental Bank Corporation(本店ロンドン)、ヒンドスタン銀行 The Bank of Hindustan,China and Japan, Limited(本店ロンドン)、一八六六年には香港上海銀行 The Hongkong and Shanghai Banking Corporation(本店香港)、一八六七年にはパリ割引銀行 Comptoir d’Escompte de Paris(本店パリ)、一八七二年にはドイツ銀行DeutscheBank(本店ベルリン)が、横浜支店を開設した(石井寛治「イギリス植民地銀行群の再編」(1)(2)-東京大学『経済学論集』四五巻一・三号)。このうち、一八六六年恐慌に際して閉鎖されるなど、進出に失敗した銀行もあったが、マーカンタイル、オリエンタル、香港上海、パリ割引の諸行は、初期の日本の貿易金融に絶大な力を発揮したのである。 外商は、資金前貸によって間接的に輸出商品の内地市場に接近しようとしたばかりでなく、日本人を使用人(小使・手代)に雇って、産地に派遣して、内地市場から直接に買い付ける方法も用いた。安政条約は、外国人が日本人を雇用する自由を認めていたが、前述のように、外国人の国内自由旅行権は認めていなかった。「内地開放」を拒否した趣旨は、外国資本の国内市場支配を阻止することであったから、外商の日本人使用人を用いた直接買付によって、「内地開放」拒否の条項は実質的に骨抜きにされることになる。そこで、日本側は、日本人を使った直接買付は、開港場外での貿易取引であり、条約違反であるとする見解をとった。しかし、現実には、外商の直接買付を封ずることはむずかしかった。 一八七三年十月に、ドイツ外商クニッフレル商会の日本人手代が上州で蚕種(蚕卵紙)を買い付けたが、政府の蚕種生糸取締政策(後述)に抵触してトラブルが発生し、ドイツと日本の外交折衝がおこなわれた(『横浜市史』第三巻上一二三-一四〇ページ)。争点はいくつかあったが、そのひとつは、直接買付の是非で、外務卿寺島宗則は、条約で許されていない場所で商業を営むことはできないことは明瞭であるのに、クニッフレルは、日本人を使って実質的に条約に違反したと主張した。フォン=ブラント公使は、条約違反か否かは裁判で決めることであり、日本側は訴訟を起こすつもりなのかと開き直った姿勢を示した。この場合の裁判は、ドイツ領事による領事裁判になるから、日本側の主張が通る可能性はない。結局、日本側はクニッフレルの直接買付を条約違反としてそれ以上追及することはできなかった。 クニッフレル事件でも明らかなように、安政条約が、領事裁判権を認めていることは、外商の商業活動の自由な展開を保証することとなり、外商の優位性は、著しく強化されたのである。 売込商・引取商 外商と商取引をおこなった日本人商人は、売込商・引取商(買取商)と呼ばれる。生糸・茶などの輸出商品を外商に売り込むのが売込商、綿織物・毛織物などの輸入商品を外商から買い取るのが引取商であるが、もちろん、同一商人が、売込みと引取りの両方をおこなう場合もある。開港初期には、売込・引取兼営の商人が多く、次第に、いずれかに専業化した商人が増えていったといえる。 開港の準備を進めるなかで、幕府は、開港場への商人の進出を勧奨する布令を発した。横浜の場合には、幕府は、とくに江戸の商人の出店を期待し、三井に外国奉行が出店を命令するなど、なかば強制的に江戸商人を、新開港地に誘致した。幕府の意図は、江戸の特権的商人を頂点とする国内商品流通体制を、そのままのかたちで外国貿易に結びつけ、江戸商人を基軸とする外国貿易の管理体制をつくりだすことにあったといえる。開港直後の安政六年(一八五九)七月時点で、横浜に出店した重要商店九六店のなかで、江戸とその周辺からの出店であることが明らかなものは三一店あり、その大半は、各種の問屋であった(『横浜市史』第二巻六三二ページ)。横浜の売込商・引取商の源流のひとつは、これらの江戸の特権的商人に代表される都市商人であった。 これとは異なるもうひとつの源流は、在方出身の新興商人である。外国との貿易が、新しい利潤形成の舞台となるであろうことを見込んだ冒険心にあふれる地方の商人は、幕府の出店自由の布令に応じて、横浜に参集してきた。初期横浜貿易商人の典型といわれる甲州屋忠右衛門の場合は、開港前の安政六年(一八五九)三月に外国奉行に出店を出願して許可され、四月に借受地を決めて横浜に進出した(石井孝『初期横浜貿易商人の存在形態』による)。忠右衛門は、甲州八代郡東油川村の豪農で、在方商人としても活躍していたところ、開港の情報を得たので、近隣の豪農と協議して、共同出資で横浜に甲州産物会所を出す計画をたてた。しかし、なんらかの事情で共同出資計画は実現せず、忠右衛門は、個人商人として横浜で奮闘することとなった。はじめは、資金不足に悩み、村に残った長男に、衣類を質入れして資金を調達するよう指示するほどの有様であったが、生糸・繰綿・蚕種などの売込みに成功して、富を蓄積し、染料など輸入品の引取り、宿屋・両替屋・質屋な表1-37 大手売込商(1873-1874年) 注 1873年5月17日より1874年5月16日までの『横浜毎日新聞』よりの集計。『横浜市史』第3巻上 587-588,604ページによる。 どを兼営して経営を多角化していった。甲州屋忠右衛門は、生糸・綿・蚕種の生産地である郷里と密接な関係を保つことによって、資本蓄積を進めた。郷里の荷主の商品を外商に売り込んで口銭を得るばかりでなく、自己資金あるいは「乗合」というジョイント・ベンチャーのかたちで調達した他人資金で、郷里を中心に商品を買い付けて自らが荷主となって外商に売り込み、大きな利鞘を獲得したのである。甲州屋は、蚕種ブームの崩壊とともに没落してしまったが、その盛期の資本蓄積の方法は、横浜に進出した在方商人の典型的なパターンを示している。 生産地価格と横浜売込価格との格差や両者の価格変動を利用した商業活動は、いわゆる譲渡利潤や投機的利益をもたらす可能性を持つと同時に、逆に思惑はずれの大損を生む危険性も大きい。甲州屋忠右衛門の例が示すように、初期横浜貿易商人の浮沈は激しかった。生糸売込商の場合、慶応二年(一八六六)の生糸売込商仲間一三一名のうちで、一八七三(明治六)年の横浜生糸改会社に参加したのはわずかに一六名であり、この間の売込商の廃業・転業が多かったことを物語っている(『横浜市史』第三巻上九七ページ)。 一八七三-七四年ころの売込商のなかから、生糸と茶の大手商をとりだしてみると、表一-三七のような顔ぶれになる。生糸売込商の第一位井筒屋(三井組)と第三位越後屋(小野組)は、いうまでもなく十人両替の雄で都市特権商人の代表的存在である(小野組は一八七四年に破産した)。これにたいして、第二位の原(武州児玉生糸売込問屋 亀屋(原)善三郎 県立博物館蔵 郡渡瀬村)、第四位の茂木(上州高崎)、第五位の吉田(上州勢多郡新川村)、第六位の小暮(豆州下田)らは、在方商人の系譜に属する。第八位の敷島屋は、前橋藩が横浜に設けた出張店の後身で、庄三郎は藩の重臣であったと伝えられる変わり種である(『群馬県蚕糸業沿革調査書』)。 製茶売込商の第一位茶屋順之助は、伊勢の津に本拠を置き、江戸で茶問屋を経営していた中条瀬兵衛の横浜店である。第三位の岡野屋利兵衛は、茶問屋を中心とする駿府商人が共同で出店した横浜店の支配人から上昇独立した人物で、系譜としては、都市商人に属する。第二位の大谷嘉兵衛は、伊勢出身で、同郷の江戸茶問屋小倉藤兵衛の横浜店に入り、ついでスミス=べーカー商会(アメリカ)の茶買入掛に雇われて、問題の外商産地直接買付をおこない、明治元年(一八六八)に独立して売込商となった。 生糸売込商には在方商人系譜が多いのにたいして、製茶売込商には都市商人系譜が目立つという特徴がみてとれる。この違いは、後述する幕府の輸出規制政策と関係がある。すなわち、「五品江戸廻し令」の対象となった生糸の場合には、江戸問屋は、横浜売込商のうえに立って統制する役割を与えられたために、自らの横浜進出は抑制されたが、五品外の製茶の場合には、問屋は積極的に横浜に出店することで、自らの営業を守る必要にせまられたわけである。 表一-三七で、生糸・茶の両方に、越後屋と糸屋平八の名がみられるように、売込商は、単一商品の売込みに専業化しているとは限らない。また、製茶第七位の伊勢屋平造のように、引取商を主業としながら、売込みもおこなう商人も存在したのである。 引取商については、資料が乏しい。慶応三年に「引取商仲間規則」がつくられた際には、中屋藤助ほか二四名が連名で、規則制定を神奈川奉行に請願しているから、引取り、つまり輸入を主業とする商人が登場してきたことはたしかであろう(『横浜市史』第二巻七〇四ページ)。鎖国期の長崎貿易で輸入された商品を取り扱う唐物問屋の系譜や呉服太物問屋の系譜に属する引取商のほかに、新興商人も多かったと推定される。慶応三年の「引取商仲間規制」に、輸入品引取は、売込みとちがって誰にでもでき、仲間外で引取りをする者が多いから鑑札による取締りをきびしくするとのくだりがある。外商が輸入品を店頭に展示して現金で販売していたから、資金があれば、輸入商品を購入することは簡単であった。また、輸入品は日本人にとって新しい商品であり、必ずしも、旧来の商品流通経路にとらわれずに流通したから、新興商人の活躍する余地はひろかったといえる。 貿易関連機構の形成 外商と日本商人の取引は、商業手形によってではなく、現金おおむね洋銀(メキシコ・ドル)でおこなわれる慣行になっていた。短期の信用授受、つまり、掛売・掛買はおこなわれたが、個人信用にもとづくものにとどまり、商業信用制度は、明治初期には、まだきわめて未熟である。 安政条約は、内外貨幣の同種同量通用を規定していたが、実際には、洋銀は自然相場で流通し、その相場の変動ははげしかった。外商と日本商人の商取引の支払手段となった洋銀に対する需給関係が、輸出入の変動に応じて変化し、日本通貨との交換比率、つまり為替レートが変動するのは自然である。しかし、洋銀の取引機関が整備され、洋銀需給が為替市場を通して調整される機構が成立するまでは、洋銀相場は、投機的に不自然な変動を繰り返したのである。 幕府は、三井に横浜出店を命ずると同時に、外国方御金御用達に指定したが、その際に、三井に洋銀引替を取り扱わせようとした(『横浜市史』第二巻六八五ページ)。ところが、三井はこれを拒絶したので、幕府の洋銀引替制度構想は挫折した。その後、三井も文久元年(一八六一)に横浜に洋銀購売所を開設したが、一年で閉鎖した。横浜には、投機的洋銀取引を媒介する両替商が、八〇軒以上も発生したといわれ(大塚良太郎編『蚕史』前編九五ページ)、投機の盛行が、正常な取引機関の形成を妨げたのであろう。 維新後、新政府は、商法司・通商司に洋銀売買をおこなわせ、ついで、横浜通商会社(明治二年)、横浜為替会社(明治三年)を設立させて、洋銀取引・洋銀券発行をおこなわせるなど、洋銀取引機構の創出につとめた。一方、横浜商人の手で、金穀相場会所(明治五年)、洋銀相場所(明治八年ごろ)が設けられたが、ながくは続かなかった。結局、洋銀相場の投機的変動を正常な範囲におさえ込むには、本格的な外国為替銀行である横浜正金銀行の登場(明治十三年)が必要であった。 前出の甲州屋忠右衛門の例にもみられるように、売込商、とくに在方商人系譜の売込商は、自己資金の蓄積が乏しく、資金調達に苦心する場合が多かった。のちの時期には、生糸売込商が、地方荷主に対して前貸しや荷為替立替えなどの金融をおこなうことが一般化するが、開港初期は、「問屋と荷主との関係は、宛で今とは反対で、荷主は何れも地方の資産家であるから金力も有るが、問屋の方は多くは金力に乏しく、荷主に対して只賃銭の立て替へ位なもので、為換を付けると云ふ事もなく、今の様に問屋が地方の荷主に資金を融通するといふ様なことは無論なく」(橋本重兵衛『生糸貿易之変遷』二一ページ)という状態であった。もっとも、原善三郎のように、明治初年にすでに蚕種買付のために前貸金融をおこなう事例も、個別的には存在した(『横浜市史』第三巻上五七三-五七七ページ)。しかし、一般的には、金融機関が整備されるまでは、売込商の資金運用には限界があったといえよう。 貿易商人に対する金融機関として、幕末期に存在したのは、既述の外商(資金前貸)や小規模な両替屋・金貸しのほかには、三井組であった(『横浜市史』第二巻六八五-六九七ページ)。外国方御金御用達を命ぜられて幕府公金を預っていた三井横浜店では、手代の裁量によって、かなりの浮貸しがおこなわれた。商品担保による貸付けで、前出の甲州屋忠右衛門も借りている。この公金浮貸しは、文久元年(一八六一)ころから慶応二年(一八六六)まで続けられ金額も大きかったから、初期の貿易金融としては、かなり重要な役割を果たしたといえよう。浮貸しは発覚し、慶応三年に三井手代が処罰されるなどで幕となった。 これとは別に、江戸では三井御用所が、慶応二年から江戸市中融通御貸付金の取扱いをはじめた。幕府は、三井に関税収入の一部を貸し下げて基金とし、それに一般からの預金を加えて、商品担保貸付をおこなわせたのである。慶応三年からは、横浜商人に対しても、この制度が適用され、茂木惣兵衛ら八名の横浜商人が荷物為替組合を組織し、連帯責任制で御貸付金の融通を受けることとなった。この三井御用所の商品担保金融が、横浜における、はじめての本格的な貿易金融制度であった。 三井御用所の貿易金融機能は、維新後、商法司・通商司・横浜為替会社、そして第二国立銀行(明治七年開業)に引き継がれ、やがて、横浜正金銀行を軸とする貿易金融機構へと発展したのである。 二 初期の輸出貿易 輸出品の構成 開港以来一八七六(明治九)年までの横浜における輸出貿易の特徴を概観しよう。輸出総額の推移は、前掲図一-三でみたように、開港後六-七年は輸出が急速に拡大し、その後は、横ばい気味に漸増傾向をたどっている。同じ『英国領事報告』の数値をもとにして、各年の輸出品のなかから、上位五品目をとりだすと、表一-三八のようになる。 各年とも、第一位の輸出品は生糸である。ただし、輸出総額に対する構成比では、初期には八〇㌫をこえる年もあったが、維新前後から四〇-五〇㌫台に低下している。第二位、第三位は、慶応元年(一八六五)以降は、茶と蚕種とが交替に占めている。茶は開港当初から、第二位または第三位に位置する重要輸出品であった。蚕種は、元治元年(一八六四)から上位五品表1-38 横浜主要輸出品(1860-1876年) 注 『英国領事報告』による数値。1867年までは,『横浜市史』第2巻370,371,372,375,505,512,519ページ,1868年以降は,『横浜市史』資料編2 63,65,67ページによる。1866年は,横浜大火のため数値不詳。 目に登場し、急速に重要輸出品となり、慶応三年(一八六七)から明治三年(一八七〇)までは、第二位を続け、明治四年(一八七一)から第三位になっても、なお構成比は一〇数㌫以上であったが、明治七年(一八七四)に構成比五・八㌫に急落してから、重要輸出品の座を離れていった。一八六三-六四年には、一時、原綿が第二位の輸出品となっている。これは、いうまでもなく、アメリカの南北戦争によって世界の綿花需給が逼迫したためのもので、一時的な現象であった。このほか、水油・銅・漆器・干魚・木材・繭・真綿・屑糸・熨斗糸・玉糸などが表一-三八には登場するが、いずれも構成比は小さい。この時期の横浜輸出貿易の中心は、生糸・茶・蚕種の三商品であったといえる。 生糸輸出 生糸輸出の推移を、『英国領事報告』の数値を用いた指数でみると図一-五のとおりである。輸出数量は、開港後から文久三年(一八六三)まで急増するが、そののちは、漸減傾向が明治三年(一八七〇)まで続き、明治四年に急増したあと、横ばいの状態がしばらく続いている。輸出価額は、輸出単価の上昇のために、慶応元年(一八六五)まで急増し、慶応二年(一八六六)から明治三年(一八七〇)にかけて減少傾向を示し、明治四年(一八七一)の急増ののちは、再び明治八年(一八七五)にかけて減少傾向を示している。開港直後に、生糸輸出が急増したのは、生糸の国内価格が、国際価格にくらべて、大幅に安かったという価格的要因のほかに、たまたま、ヨーロッパで蚕病(微粒子病)が流行し、フランス・イタリアなどの養蚕業が大打撃を受けていたという事情によるものであった。当時、ヨーロッパで生糸需要量が多かった国は、フランス・イタリア・イギリスであったが、一八五〇年代にフランス全土、六〇年代にイタリア全土にまん延した蚕病が、フランス・イタリアの生糸生産を激減させたので、ヨーロッパ諸国は、アジアからの生糸輸入を拡大せざるを得なかった。日本は、先進輸出国清国のあとを追って、ヨーロッパ生糸市場に参入したのである。 広大な輸出市場が開かれたものの、生糸輸出(数量)は、開港数年後に頭打ちになり、漸減する傾向すら示した。これは、基本的には、国内生糸価格が急騰して国際価格への鞘寄せが進んだことと、輸出生糸の供給が生糸生産能力の限界にぶつかったことによって生じたといえる。国内価格の上昇が、国内生産を刺激し、供給を増大させ、それが、価格の低下をもたらして輸出を増加させるという経済的過程が進行しそうに思われるが、そうはならなかったところに、この時期の日本の経済構造の特質があった。つまり、幕藩体制下の封建的諸規制は、養蚕の基盤となる桑園の拡張にブレーキをかけていたし、農民・小生産者の生糸生産の拡大に必要な資金の供給体制はととのえられていなかった。さらに、後述する幕府の輸出規制政策・流通規制政策が、マイナス要因として作用した。 維新後も、生糸輸出数量は、伸び悩み状態を示している。明治四年(一八七一)の廃藩置県後、封建的諸規制の廃止が進んだが、ただちに、生糸生産・輸出への影響があらわれるわけではなかったし、生産資金供給体制も、依然、不備であった。さらに、のちに述べるように、蚕種の輸出ブームが、生糸生産の足をひっぱるという特殊要因も作用した。また、生糸生産能力をこえる需図1-5 横浜からの生糸輸出(1860-1876年) 注 1860年数値(輸出数量7,703ピクル,輸出価額2,594,563ドル)=100。『英国領事報告』の数値による。1867年までは,『横浜市史』第2巻370,371,372,375,505,512,516,519ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編263ページによる。 要の継続が、生糸の粗製濫造を招き、海外市場における日本生糸の需要を減退させるという悪影響もあらわれていた。ヨーロッパ蚕糸業が日本からの蚕種輸入と、パスツール式予防法で蚕病を克服して回復に向かったことも、日本生糸の輸出環境をきびしいものにした。 横浜貿易の最重要商品生糸は、輸出第一位の座にあったものの、この時期には、まだ、克服されなければならない問題点を多くかかえていたわけである。 製茶輸出 生糸に次ぐ重要輸出品であった製茶の輸出の推移を、『英国領事報告』の数値によってみると、図一-六のようである。輸出数量は、この期間を通して、かなり急テンポで拡大を続けている。輸出価額の伸びは、輸出単価の上昇が加わって、きわめて急速なものとなっている。この結果、一八七四-七五年ころに図1-6 横浜からの製茶輸出(1860-1876年) 注 1860年数値(輸出数量23,852ピクル,輸出価額308,452ドル)=100。『英国領事報告』の数値による。出典は,前掲図1-5と同じ。 は、前掲表一-三八にみられるように、製茶輸出額は横浜輸出総額の四〇㌫近くになり、生糸輸出と肩をならべるほどに成長した。横浜からの輸出が一〇〇㌫に近かった生糸の場合とは異なって、製茶は、長崎・神戸からも輸出されており、横浜輸出は、輸出数量では、全国輸出の六〇-七〇㌫を占めていた(『横浜市史』第二巻五六〇ページ、第三巻上四八七ページ)。 製茶輸出が、生糸輸出にくらべて、順調な伸びを示した要因は、ひとつは、輸出仕向先が、南北戦争後急速な経済成長を示したアメリカを中心としていたことであり、もうひとつは、国内の供給力が順調に拡大したことであった。生糸が奢侈品であり、天保改革以来国内生産が抑制されていたのにたいして、茶は必需品として全国で栽培されていたから、開港直後の時点では、茶のほうが供給拡大の余力が大きかったし、封建的規制の圧力も、茶生産にはあまり及んでいなかった。さらに、養蚕・製糸にくらべて、製茶は、生産工程が単純で、必要な資金も少なくてすんだから、各地の豪農クラスの農民の資金によって、急速に生産を拡大させることが可能であった。また、幕府は、生糸の場合と異なって、茶の流通規制には消極的で、「江戸廻し令」の対象にもしなかったから、茶輸出は、自由に伸びることができた。 国内で製造された茶は、そのままアメリカに船積みされるのではなく、再製加工をほどこされてから輸出された。海上輸送・長期保管にたえられるように、再煉つまり火入れをおこなってじゅうぶん乾燥させることと、インディゴなどの染料で着色することが再製加工であった。再製加工は、中国茶輸出の慣行であり、はじめは、日本製茶を香港・上海に回送して、再製のうえで、アメリカに積出ししていた。文久二年(一八六二)ころから、外商の経営する再製工場が横浜居留地内につくられ、外商は、買い付けた国内製茶を横浜で再製加工し、直接アメリカに輸出するようになった。再製工場は、「お茶場」と呼ばれ、三〇〇坪ほどの石造りの建物のなかに、二〇〇~三〇〇くらいの炉が築かれ、直径六〇㌢㍍、深さ四〇㌢㍍ほどの鉄鍋を用いて、再煉・着色作業がおこなわれた。一八七三(明治六)年ころ、横浜では一五工場が操業し、二〇〇〇人くらいの日本人女工が就労していた(『日本茶輸出百年史』三八-三九ページ)。このような外国資本による再製工程の支配と、そこにおける日本人女工の低廉な賃労働によって、茶輸出の順調な伸びは、支えられていたわけである。 蚕種輸出 元治元年(一八六四)ころから登場した蚕種の輸出の推移を、『英国領事報告』の数値でみると、図一-七のようである。蚕の微粒子病に悩むヨーロッパ蚕糸業は、微粒子病対策の一環として外国産蚕種の使用を研究し、インド産・中国産より、日本産の蚕種が適当であると判断し、日本からの蚕種輸入を強く希望した。幕府は、生糸輸出規制との関連で、蚕種と繭の輸出を原則的に禁止していたから、各国は、輸出解禁を強く幕府に迫った。幕府は、元治元年から、輸出禁制を大幅に緩和したので、以来、蚕種は急速に重要輸出品として伸びた。 元治元年(一八六四)の蚕種輸出価額は約二〇万ドルであったのが、翌六五年には三・三倍の六六万ドル図1-7 横浜からの蚕種輸出(1867-1876年) 注 1867年数値(輸出数量738,156枚,輸出価額2,144,468ドル=100。『英国領事報告』の数値1867年は『横浜市史』第2巻519ページにより,1868年以降は,『横浜市史』資料編263ページによる。 になり、六七年には二二〇万ドルをこえて、横浜輸出品の第二位におどり出した。ところが蚕種輸出は、翌一八六八年をピークに、その後は、数量は横ばい、価額は減少する傾向となった。そして、一八七四年には、輸出価額は激減して、一八六五年とほぼ同じ水準にまで落ち込み、以後、横浜輸出品第三位にとどまってはいたものの、輸出総額に占める割合は小さく、重要輸出品の座をすべり落ちてしまった。その原因は、ヨーロッパ蚕糸業が、微粒子病の克服に成功し、蚕種自給力を回復させたためであったことはいうまでもない。 この一時的な蚕種輸出ブームは、生糸輸出に、かなりの悪影響を及ぼした。まず、突然の蚕種の大量輸出は、国内養蚕用蚕種の需給を逼迫させ、蚕種不足と蚕種価格騰貴が、繭生産を圧迫した。つぎに、蚕種価格騰貴は、生糸用繭よりも蚕種用繭の生産に養蚕農家の関心を向けさせ、生糸原料繭供給を圧迫した。さらに、ブームにのって蚕種供給が急増し、蚕種価格が下落しはじめるなかで、優良蚕種が選択的に輸出され、低品質の蚕種が国内に出回るようになって、生糸原料繭の品質低下が生じた。蚕種輸出ブームは、原料繭の生産量と品質とにマイナスの影響を及ぼして、生糸生産の足をひっぱった。一方、輸出された日本産優良蚕種は、ヨーロッパ蚕糸業を、蚕病の打撃から立ち直らせるのにひと役かったのであるから、蚕種輸出は、日本生糸の輸出市場を狭めたことになる。蚕種輸出のもたらした悪影響は、大きかったのである。 蚕種ブームとその急速な消滅は、横浜貿易商人にも大きな影響を与えた。前に引例した甲州屋忠右衛門も、蚕種ブームの反動で没落したのであり、この激動を乗り切れるか否かが、横浜貿易商人にとって、開港以来、最大の試金石となったといってよいだろう。蚕種恐慌とも呼べる事態が生じた際の横浜商人達の対応策については、のちに述べることとする。 三初期の輸入貿易 輸入品の構成 万延元年(一八六〇)から一八七六(明治九)年までの、横浜における輸入貿易を概観しよう。輸入総額は、前掲図一-三でみたように、開港以来一八六五年までは、急速に増加し、以後、六九年まで停滞気味となったが、七〇年の一時的な急増をきっかけに、増加傾向に移っている。『英国領事報告』の数値によって、横浜輸入品の主要なものの構成比をみると、表一-三九のようになる。 横浜輸入総額に対する構成比第一位の数値をゴチック数字であらわしてあるが、ゴチック数字が一番多いのは、綿織物であり、初期の横浜輸入貿易の最重要商品は、綿織物であったといってよい。幕末期には、毛織物が第一位であった年が二年ある。毛織物と毛綿交織物とを合計した額では、維新後も、輸入第一位となる年があるから、毛織物・交織物も、初期横浜輸入の重要商品であった。維新後の時期に、構成比が大きくなった綿糸(綿織糸)は、四回輸入第一位になっている。維新以降、綿糸は綿織物に代わって、横浜輸入最重要商品になりつつあったといってよいだろう。綿糸と同じように、維新後に輸入構成比が拡大しつつあった商品として、砂糖が目立つ。砂糖は、綿織物・綿糸・毛織物に次ぐ四番目の重要輸入品であった。これらの輸入品ビッグ・フォーについては、のちにやや詳しく検討しよう。 特殊事情から、一時的に輸入第一位になった商品として、一八六二年の金属と一八七〇年の米がある。錫・鉛・亜鉛の輸入が、一八六二年、六三年に多かったのは、貨幣鋳造用・軍需用に幕府が大量購入したためであった(『英国領事報告』一八六二年、『資料編』18近代・現代(8)二)。軍需用品輸入としては、兵器と艦船があり、一八六二年には、汽船四隻、帆船二隻が輸入さ表1-39 横浜主要輸入品(1860-1876年) 注 『英国領事報告』による数値。「その他」は,表出数値の残差として計算した。不明のため空欄とした品目の数値が,「その他」に含まれる場合もあり得る。空欄となっている交織物欄の数値は,「毛織物」に含まれている可能性がある。1866年は,横浜大火のため数値不詳。ゴチック数字は構成比第1位のもの。1867年までは,『横浜市史』第2巻388,391,392,393,527,530,537ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編267,69,71,73,75ページによる。 れ、イギリス汽船三隻分の代価は四〇万ドルに及んだ(『英国領事報告』同上)。一八六八年に兵器輸入が激増しているのは、いうまでもなく、戊辰戦争の影響であり、イギリス領事フレッチャーは、最新式火器は売り手の言いなりの値段で売れ、さらにもうけようとして、商人が本国に火器を発注したところ、休戦になって投機家は見込みがはずれ、多量の在庫が残ったと報告している(『英国領事報告』一八六八年、『資料編』18近代・現代(8)四)。 フレッチャー領事の同じ年の報告に、不作予想で相当量のサイゴン米の思惑輸入がおこなわれたが、米作柄はよく、思惑は失敗に終わったとの記事がある。幕末の米価騰貴とともに、一八六七年から米が新しい重要輸入品として登場し、投機的商品として思惑の対象になったのである。幕府が、外米輸入を許可した背景には、征長の役をきっかけとした米価暴騰が、全国で打ちこわしという民衆暴動を発生させ、慶応二年(一八六六)五月には、江戸でも打ちこわしが起きるにいたったという事情がある。物価騰貴に外国人がひと役かっているとの世評は、民衆の外国人に対する反感をつのらせ、投石などの暴行事件も生じた。アメリカ公使・イギリス公使らは、幕府に外米を輸入して事態に対処するよう勧告し、幕府もこれに応じたのである(『横浜市史』第二巻五四〇-五四一ページ)。一八七〇年の米輸入の激増は、前年の大凶作による需給逼迫のためであり、七〇年前半期の高米価が、輸入を刺激し、米輸入資金の需要は、他の商品輸入資金不足を生じさせるほど大きかった(『英国領事報告』一八七〇年、『資料編』18近代・現代(8)五)。 綿織物輸入 初期横浜輸入貿易の重要品であった綿織物の輸入額の推移を、『英国領事報告』の数値でみると、図一-八のとおりである。全国綿織物輸入額のなかで、横浜輸入の占める割合は、一八七一年までは、ほぼ八〇㌫をこえていたが、七二年以降は、六〇-七〇㌫台に低下している。はじめ横浜から関西方面に回送された綿布が、神戸に直接輸入される傾向があらわれてきたためである。 綿織物の輸入額は、一八六四年から急増したが、六八・六九年に一時減少し、七〇年から七三年にふたたび急増したのち、七四年から減少傾向を示している。綿布は、日本人の常用衣料品であったが、機械紡績糸を力織機で織りあげた輸入綿布は、手紡糸を手機で織った在来綿布との品質差が大きく、開港後、ただちに需要が急増したわけではなかった。一八六〇年の織物輸入について、イギリス領事ヴァイスは、太平天国の乱で上海での取引が停滞したために、綿・毛織物が日本市場に無理やりに持ち込まれ、はじめはよく売れたが、数か月で供給過剰になってしまったと報告している(『英国領事報告』一八六〇年、『資料編』18近代・現代(8)一)。また、一八六二年のヴァイス領事の報告では、日本綿花が豊作で、綿布は潤沢に供給されており、国産綿布図1-8 綿織物の輸入額(1860-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1860-63年の全国と1866年は数値不詳。1867年までは,『横浜市史』第2巻388,391-393,527,530,537,561ページ,1868年以降は,『横浜市史』資料編2 7,9,67,69ページによる。 より不釣合いに高い価格の輸入綿布は敬遠されていると指摘されている(『資料編』同上二)。この時点では、輸入綿布は、在来綿布より高品質ではあるが、価格も高い舶来品であった。 ところが、一八六一年からはじまったアメリカの南北戦争の影響で国際綿花需給が逼迫しはじめ、綿花価格が高騰すると、日本綿花の輸出が開始され、一八六三-六四年の二年間は一時的に大量の繰綿が、横浜と長崎から船積みされた。余剰綿花ではなく、内需用綿花が輸出されたから、国内の綿花需給は逼迫し、繰綿・木綿糸・綿布の価格は急騰した。一八六五年春には南北戦争が終わり、アメリカの綿花の輸出が回復したから、綿花国際価格は低図1-9 綿織物価格の比較 注 国産綿布は,白木綿大阪価格で,1860年価格(1反銀7.5匁)=100。大阪大学近世物価史研究会『近世大阪の物価と利子』による。 輸入綿布は,金巾横浜輸入単価で,1860年価格(1反3.16ドル)=100。『横浜市史』第2巻553ページによる。なお,国産綿布1反と輸入綿布1反は布面積が異なるので,価格の直接比較はできない。 下し、綿製品の国際価格も下落したが、日本では、この年の綿作が凶作となったために、逆に綿製品価格は高騰した。万延元年(一八六〇)を基準年とする価格指数で、国内産白木綿と輸入金巾の価格動向を比較すると、図一-九のとおりであり、元治元年(一八六四)ころから、両者の指数は、大きく開差がついていく。両者の価格を直接比較することはできないが、この指数値の動きは、高騰する国産綿布にくらべて、輸入綿布の価格が相対的に安くなる傾向にあったことを示している。 一八六四年からの綿織物輸入の急増は、このような事情によって生じたものであり、品質がよく、しかも価格が安くなった舶来綿布は、在来綿業を衰退させるほどの勢いで、日本に流入を開始した。輸入綿布の品種は、金巾(生金巾、晒金巾、色金巾等)、唐桟、更紗、ビロード、天竺布、雲斎など多種類であったが、最も大量に輸入されたのは、和服裏地用の需要が多かった金巾類であった。推計によると、一八七四(明治七)年の日本国内の綿布総需要量の約四〇㌫は、外国製綿布の輸入によってみたされる状態であった(中村哲『明治維新の基礎構造』二二一ページ)。輸入綿布への依存度がいっそう高まっていけば、日本は、生糸を輸出し、綿布を輸入するという後進国型の経済構造、さらには植民地的モノカルチャー型の経済構造になる恐れがあった。ところが、綿布輸入は、一八七三年をピークに、以後、漸減する傾向を示しはじめた。その原因は、綿糸輸入の増加であった。 綿糸輸入 輸入綿布によって、市場を蚕食されて大きな打撃をこうむった国内の綿織業は、ほどなく、原料を国内産手紡糸から輸入紡績糸に転換させることによって、新しい発展の方向をつかんだ。輸入綿糸の品質の良さは、織布工程における機械制生産技術によるよりも、原料糸の紡績工程における機械技術の優秀さによって生まれるといってよい。そこで、機械製紡績糸を使用して、在来の織機で綿布を生産すれば、かなり上質のものができることになる。また、生産費も、輸入糸を使用することによって低減させることができる。経糸に輸入糸、緯糸に国産糸を用いた「和唐」、「半唐」などと呼ばれる織物や、経糸・緯糸とも輸入糸を用いた織物が、各地でつくられるようになった。 綿糸輸入額は、図一-一〇のように推移した。早くから輸入がはじまってはいたが、輸入額が増加するのは、一八六七年ころからであり、綿布輸入が減少傾向に入った一八七四年以降も、綿糸輸入は増加傾向を保っているのが特徴的である。この時期には、綿糸輸入額のほぼ九〇㌫以上が、横浜へ輸入されている。輸入糸は、横浜から、東京と大阪に回送され、両地から、東日本・西日本の需要地へ輸送された。 綿織物輸入から綿織糸輸入へと綿貿易の重心が移動したことは、国内の綿織物生産体制が再建されたことを示し、それは、日本綿業が近代的綿業として発達する拠点が確保されたことを意味していた。植民地的モノカルチャー型経済とは異なった方向で、日本経済が発展する可能性が大きくなったといって図1-10 綿糸の輸入額(1861-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1861-62年の全国と1860,63,66年の数値は不詳。1867年までは,『横浜市史』第2巻388,391,392,393,527,530,537,562ページ,1868年以降は,『横浜市史』資料編29,69ページ。 よい。そのためには、近代紡績業が発達して、綿織糸輸入からさらに原綿輸入へと綿貿易の重心が移ることが期待されるが、この時期の綿花輸入は、前掲表一-三九のように、小さい割合しか占めていない。神戸への綿花輸入もまだ少量であり、綿花輸入が本格的に拡大するには、なおしばらくの時間が必要であった。 毛織物・交織物輸入 毛織物は、鎖国期にも長崎貿易を通して、日本に若干は流入し、領主層や富裕な商人層を中心に用いられていた。開港後は、庶民層に新奇衣料として、次第に需要がつくりだされていくとともに、洋式軍隊や警察の制服用として大きな市場がつくられた。毛綿交織物は、毛織物より下級の織物として、庶民層を中心に需要をつくり図1-11毛織物・交織物の輸入額(1860-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1860-62年の全国と1866年の数値は不詳。1876年までは,『横浜市史』第2巻(参照ページは図1-10と同じ),1868年以降は,『横浜市史』資料編 2 9,69ページ。 だしていった。 毛織物・交織物の輸入額は、図一-一一のように推移した。開港後、慶応元年(一八六五)までは一貫して輸入は伸びたが、それ以後は減退傾向をたどり、一八七二-七三年には急増し、七四年には急減するなど、かなり不安定な輸入動向を示している。これは、毛織物が普及初期で需要が未成熟であり、また、軍需という変動的な需要に依存する度合が大きいところから生じているといえる。 輸入された毛織物の品種としては、はじめ、鎖国期からなじまれてきた呉絽服連(らくだ織呉呂) Camlet が多かったが、やがて、ラシャとモスリンが中心となった。そのほかは、毛布が多く、フランネルもかなり輸入された。交織物では、オルレアンスとイタリアン・クロスが中心であった。 毛織物・交織物輸入における横浜の地位は、はじめ高かったが、一八七〇年代にはやや低下して、全国輸入の六〇-七〇㌫を占める程度となった。 毛織物・交織物の輸入も、ある程度競合関係にある綿織物の国図1-12 砂糖の輸入額(1861-1876年) 注 『英国領事報告』の数値による。1861,62年の全国と1860,63,66年の数値は不詳。1867年までは,『横浜市史』第2巻,388,391,392,393,527,530,537,563ページ,1868年以降は『横浜市史』資料編213,73ページ。 内生産に打撃を与え、日本綿業の再編成をうながす要因となった。 砂糖輸入 砂糖の輸入額は、図一-一二のように、明治期に入ってから毎年かなり高い水準を示している。このうち、横浜輸入は、はじめは八〇㌫台を占めていたが、一八七二年ころからは七〇㌫台の構成比となった。量的には、中国南部と台湾産の赤砂糖が中心であり、中国商人の手を経て輸入される場合が多かった。 砂糖輸入の増大が、在来糖業に打撃を与えたことはいうまでもない。 四 貿易政策と横浜貿易 五品江戸廻し令 安政条約は、自由貿易を原則としてうたっていたが、幕府は、その原則の遵守者であったわけではない。逆に、幕府の基本姿勢は、鎖国期の長崎における管理貿易に近い体制を再編する方向に向いていたといってよい。開港直後の時期には、輸出によって価格が騰貴しはじめた商品について、横浜運上所が輸出数量を制限する措置をとった。これにたいして、外国側は、条約違反であると抗議したので、幕府もやむをえず、運上所による直接的な輸出規制をとりやめた(『横浜市史』第二巻二八四-二八五ページ、以下本項の記述は、同書による)。とはいえ、幕府は、輸出規制をあきらめたわけではなく、直接規制方式から間接規制方式に戦術を転換させ、万延元年(一八六〇)閏三月に、「五品江戸廻し令」を布告した。雑穀・水油・蝋・呉服・糸(生糸)の五品について、産地から横浜に直売することを禁止した「五品江戸廻し令」(正文は『続徳川実紀』第四篇二五三ページ参照)は、江戸問屋を媒介とした間接的な輸出規制をねらいとしていた。最重要品である生糸の場合には、(一)産地荷主は内国向・輸出向ともに、江戸の糸問屋に販売する、(二)江戸糸問屋は、国内需要に対して、供給不足にならないよう配慮したうえで、横浜貿易商人に輸出向として生糸を販売する、(三)横浜に江戸問屋共同の出店を設け、輸出向生糸の搬入を管理し、江戸問屋送り状のない隠売品を摘発する、(四)横浜商人は、江戸問屋に三分五厘の改料を支払う、(五)江戸問屋は、幕府に運上を納める、という流通体制が構想された。これは、生糸を、江戸糸問屋の独占的支配のもとに置き、国内需給の調節、輸出生糸の数量および価格の調節をおこなわせ、さらに独占利潤の一部を幕府に上納させるという「一石三鳥」の構想であった。 しかし、この構想が、そのまま実現される状況にはなかった。まず、横浜商人が、江戸問屋による流通支配に反対して、神奈川奉行をうしろだてに、糸問屋の横浜出店、売渡口銭取得に強硬に抵抗した。神奈川奉行は、江戸町奉行支配下の糸問屋が、自己の管轄地に入り込んで勢力を張ることに反発し、さらに、外国側の輸出規制に対する抗議をおそれて、「江戸廻し令」の実施に批判的な態度を示したのである。江戸糸問屋は、町奉行のうしろだてで、横浜商人を流通規制に組み込もうとしたが、神奈川奉行の妨害にあって、当初の構想は、結局実現できなかった。 そして、万延元年(一八六〇)六月から、(一)産地荷主は、横浜送り生糸を、いったん、江戸の改所に送る、(二)改所には糸問屋が交替で詰め、生糸の品質・量目を検査し、名目的な買い主となり、改所費用として一分五厘程度の口銭を取って、荷主指定の名義人に売り渡す、(三)改所の送状を得た名義人が横浜へ出荷する、という流通規制が実施された。江戸問屋による生糸流通の数量面・価格面からの規制は実現せず、輸出生糸が、江戸の改所を経て、横浜に流れるというだけの規制になったわけである。「五品江戸廻し令」は、その本来のねらいが実現されないままに、形式的には実施されるにいたったといえる。 横浜鎖港問題と生糸規制 三年ほど経過したのちの文久三年(一八六三)六月ころ、養蚕不作予想から生糸価格が急騰したのをきっかけに、生糸輸出規制の必要性が唱えられ、江戸糸問屋は、改所からの横浜回送高を、一か月約一五〇〇箇に制限しようとした。これにたいしては、外国側から抗議が出され、幕府は、輸出制限はしていないと回答し、糸問屋による回送制限は撤回された。その直後、同年九月に、横浜鎖港問題が発生し、幕府は、朝廷対策として、外国代表と横浜鎖港談判を開始した。もちろん、諸外国は鎖港を拒否したから、幕府は、横浜貿易を制限することで、朝廷の意向にこたえたかたちをととのえようとした。そして、幕府は、九月下旬に、「五品江戸廻し令」の励行触書を発して、流通規制の強化をはかった。 同じころ、京都や江戸・横浜で、攘夷派浪士による貿易商人の脅迫事件が頻発し、天誅を加えると名指しされた商人たちが貿易から手を引いたり、横浜店を閉じて退去するなどの動きが目立った。そのなかで、糸問屋も脅迫の対象とされ、問屋仲間は、文久三年(一八六三)十月に生糸改の仕事を返上したいと申し出たが、町奉行はそれを認めなかった。ところが、同じ十月下旬に、糸問屋仲間の書役の家が襲われて殺害される者がでるという事件が起こり、問屋一同は、生糸改方を辞してしまった。町奉行は、糸問屋の改方辞任を認めたあと、新しい措置を講じないで放置したままにしたから、横浜への生糸回送はストップしてしまった。 事態を重視したイギリス領事らの強硬な抗議を受けて、神奈川奉行は、町奉行に生糸回送再開を要請した。町奉行は、老中の意向も受けて、糸問屋仲間に横浜回送再開を命じた。糸問屋仲間は、貿易生糸送り方引請人として四名の問屋を決め、四名が全責任を負って輸出生糸を取り扱うこととした。輸出生糸の数量は問屋仲間全員で協議決定し、その数量分は、四名の引請人が荷主から完全に買い取って、横浜商人に売り渡すという方式がとられた。当面、輸出数量を一か月五〇〇箇に限定して、元治元年(一八六四)正月から、横浜への生糸回送が再開された。 一方、幕府は、元治元年四月に、田畑に新規に桑を植えることを禁止する布令を発し、五月には「物価引下令」によって糸問屋に高値生糸の買入禁止を指示し、六月には生糸・茶を輸出向の特別な製造方法で製造することを禁止した。これらの措置は、封建的経済構造を維持するという一般的な目的のほかに、上洛した将軍家茂が朝廷に約束した横浜鎖港の布石というねらいを持っていた。糸問屋の買入価格規制は、事実上、輸出生糸の買入れを停止させることになり、横浜への生糸回送は、再びストップしてしまった。生糸輸出が停止した横浜は、事実上、鎖港状態になったといってよい。 事実上の横浜鎖港を打ち破ったのは、イギリス公使オールコックの主導でおこなわれた四国連合艦隊による下関攻撃であった。萩藩に対する実力行使の成功を背景に、元治元年八月、四国代表は、外国奉行と会見して横浜鎖港反対の意向を伝え、生糸回送再開を要請した。外国奉行は、生糸回送を約束し、九月には、町奉行が、糸問屋に対して、輸出生糸買取制は廃止し、検査のうえで送り状を出して横浜に回送させるよう命じた。万延元年(一八六〇)六月からの改所を経た輸出生糸回送の際にも、問屋買取制は形式的に実施されていたのにくらべると、買取制の正式廃止は画期的であり、「五品江戸廻し令」は、実質的に廃止されたといってよい。以来、生糸は、堰を切ったように横浜に流入し、横浜貿易は、再び活況を呈したのである。 その後、幕府は、江戸・横浜における流通規制の強化を試みることはしなかったが、産地における規制によって、品質検査と課税をおこなおうとした。慶応二年(一八六六)五月から実施された「生糸蚕種改印令」は、江戸問屋による検査を廃止して、産地における検査に切り換え、公領は代官、私領は大名が検査をおこなって改印を押し、改方手数料をとり、その一部を幕府が冥加として収納するという新制度であった。これとともに、「五品江戸廻し令」は廃止され、生糸は、検印があれば、横浜に直送できることになった。 新制度は、生産者の側から強い反発を受け、おりから高揚した農民一揆の攻撃対象にもなった。結局、改印制度は、所期の成果が得られないままに、幕府崩壊を迎えたのである。 明治政府の蚕糸規制政策 維新後、新政府は、主として財政収入を得る目的で、生糸と蚕種の輸出規制をおこなった。明治元年(一八六八)五月から、輸出向生糸・蚕種は、江戸の改所の改印を受けないと、横浜関門を通れないこととなった(この件は、『横浜市史』第三巻上による)。改印は、印税徴収済証明であると同時に検査済証明であり、改印の実務は、江戸糸問屋が担当した。十一月からは、生糸・蚕種取引の鑑札制度が実施された。鑑札を得た生産者または商人が、生糸・蚕種を江戸(東京)の改所に送り、印税を会計局(東京収税局)に納入し、改印を受けてから横浜に送るという手続が実施されたわけである。 印税は、品質検査の手数料である限りは問題ないが、財政収入を目的とする課税であるとすると、輸出品に対する二重課税となるから、条約違反の疑いが生じる。明治二年(一八六九)九月に、民部省は品質検査体制を強化する意図から、東京以外に、大阪と各開港場付近にも改所を設ける旨を布告し、改印の際の税則も明文化した。ところが、これにたいして、外務省が、条約違反のおそれがあるとして強く反対したので、民部省は、布告を取り消した。横浜などに改所を新設し、荷主・売込商の負担を軽くする案は実現されなかったのである。東京改所の改印が、いつまで続けられたか確認できないが、あるいは、このころに、条約との関係から廃止されたのかもしれない。 財政収入の観点とは別に、粗製濫造を防止する必要から、明治政府は、蚕糸蚕種規制をおこなった。明治三年(一八七〇)の「蚕種製造規則」の公布にはじまる蚕種規制と、明治六年(一八七三)の「生糸製造取締規則」による生糸規制がそれである(この件、『横浜市史』第三巻下、『商工政策史』第五巻貿易(上)による)。 「蚕種製造規則」は、明治四年、五年、六年、七年と毎年のように改訂され、そのたびに規制内容が緩和されたが、制度の趣旨は、蚕種の品質検査と供給量調節にあった。蚕種紙の原紙の供給調節と、種付の終わった蚕種紙への検査証印または免許印紙貼布とによって、粗製濫造を防止し、さらに国内の蚕種需給をバランスさせるとともに、蚕種輸出量を規制することがはかられた。この蚕種輸出規制に対する外国側の反発が、たび重なる規則改訂をもたらしたのである。 「生糸製造取締規則」は、同時に決定された「生糸改会社規則」とともに、次のような規制体制を定めていた。(一)大蔵省が、生糸に結用する印紙を地方官に渡す、(二)地方官は、各地につくられる生糸改会社に印紙を売り渡す、(三)生糸改会社は、印紙を生糸製造人に売り渡す、(四)製造人は、生糸等の製品に印紙を結びつけ、住所氏名を明示して封印する、印紙のない製品の売買は禁止し、違反者には科料を課す、(五)地方の生糸改会社は、生糸を検査して改済の押印をする、そして、輸出向生糸を開港場に設けられる生糸改会社または、それに加入する売込問屋に送る、(六)開港場の生糸改会社は、輸出向生糸を検査し、粗製濫造品があれば、押印した地方生糸改会社から罰金をとる(地方生糸改会社は、その製造人から罰金をとる)、(七)地方生糸改会社と開港場生糸改会社は、たがいに会社加入者以外とは取引をせず、それに違反した場合には罰金を払う。 この体制のうちで、(四)までは、政府による強制的規制であるが、(五)以下は、生糸荷主・生糸商人ら同業者仲間の申合せ規制というかたちをとっている。(五)以下の規制は、品質検査を目的としてはいるが、運用いかんによっては、流通独占が形成される可能性を含んでいたし、その背後では、政府が、一種の行政指導のかたちで介在していたのであるから、この新しい生糸規制は、外国側の強い反発を引き起こさざるをえなかった。 横浜生糸改会社 一八七三(明治六)年五月に、開港場の生糸改会社として、横浜の生糸売込商三三名が、横浜生糸改会社を設立した。三越得右衛門(越後屋)、小野善三郎(井筒屋)、原善三郎(亀屋)、茂木惣兵衛(野沢屋)、上原四郎左衛門(郡内屋)、金子平兵衛(小松屋)の六人を社長、吉田幸兵衛(吉村屋)、鈴木得兵衛(鈴木屋)、手塚清五郎(芝屋)、田中平八(糸屋)の四人を副社長として、横浜生糸改会社は、六月から業務を開始した。 業務は、各地の生糸改会社から送られてくる生糸を、〇・五㌫の手数料をとって検査することであったが、横浜売込商全員が加入していたから、生糸改会社の実態は、売込商の同業組合で、改会社手数料〇・五㌫のほかに、従来の売込商口銭など一㌫を、荷主から徴収した。また、外商への売込みに際して、売込商の立場を強化するような共同行為、たとえば、看貫料の是正などにも着手したらしい。 新しい生糸規制が、取引慣行の是正にまで発展したのにたいして、外国側は反発した。十月の横浜外国人商業会議所の決議をもとに、十一月に六国公使が外務卿寺島宗則を訪れて、生糸改会社は貿易の自由を妨げており、条約違反であると抗議を申し入れた。寺島外務卿は、生糸改会社が、輸出生糸取引を独占することはないと回答し、その趣旨を明らかにする布告を発する約束をした。また神奈川県当局が、鉄道寮と協議して、横浜駅着の生糸・蚕種等については、生糸改会社の添翰を持参しない荷受主には渡さないという手続規定をもうけている点を、外国側が指摘したのにたいして、外務卿は、その手続が誤っていることを認めた。 新規制制度は、大蔵省が中心に立案・実施したもので、外務省はそれに冷淡であった。神奈川県権令大江卓は「生糸改会社規則」の策定者である租税頭陸奥宗光の腹心であったから、横浜生糸改会社に力を貸して、鉄道荷物引渡しの際に改会社の添え状を必要とする手続を創設したのであった。外国側の抗議をそのまま受け入れた外務省と、新制度に固執する大蔵省との間で折衝がおこなわれたが、結局、大蔵省も国際的圧力に屈して、十二月に生糸改会社の独占を否定する布達を府県に発した。 大蔵省は、生糸改会社が強制加入制ではなく、非加入者の輸出生糸取扱いも自由である旨を布達したが、なお、生糸改会社を通しての流通規制には積極的であった。十二月の布達の直後には、租税権頭松方正義が、地方長官あてに通達を送って、新制度発足以来、生糸品質が向上したことを指摘するとともに、横浜生糸改会社が、看貫料など悪習慣の是正につとめて商権の回復もすすめられているから、今後ますます生糸検査に力を入れるよう、生糸改会社に諭達するよう依頼している。大蔵省は、生糸の粗製濫造防止という主目標のほかに、商権回復をもねらいとして、新制度の維持をはかったのである。 地方の生糸改会社では、大蔵省の意向を受けて、入退社の自由を認めるように規定を改めるとともに、新たに、開港場の外では、外国人とその使用人に対して産地直売をしないこと、開港場の外商に直売する場合にも、看貫料は支払わないことなど、商権回復につながる会社規定を設ける動きを示した。一八七四(明治七)年四月には、横浜生糸改会社と地方生糸改会社が協議のうえで「申合規則」を作成し、改手数料を〇・三㌫に減額すること、開港場外で外国人の使用人と取引した者からは、取引金額の五㌫の科怠金を取り立てること、看貫料は出さないこと、看貫の際の金巾袋の目方は実量とすること、紙元結は一〇〇斤について二・五斤とすることなどを決めた。看貫料・金巾風袋量・紙元結量などの項は、外商との取引慣習の悪習是正を目指したものである。 横浜生糸改会社を頂点とする生糸規制は、制度としては、一八七七(明治十)年四月の「生糸製造取締規則」廃止まで続いた。この制度は、生糸検査の面では所期の機能を果たしたが、商権回復という面では、どれほどの役割を果たしたか疑問である。「申合規則」で是正が目指された悪習慣は、その後も残ったから、この点では、横浜生糸改会社は無力であった。ただし、外商の産地直買を防ぐという面では、横浜売込商と地方荷主の結びつきが、この制度によって強化されたことを考えると、効果があったとみてよいかもしれない。 蚕種恐慌と蚕種紙買入所 横浜生糸改会社の本来の活動ではないが、そこに結集した横浜商人の共同行為として注目すべきものに、一八七四(明治七)年の蚕種紙買入所設置がある(この件は、『横浜市史』第三巻上、『商工政策史』第五巻貿易(上)による)。蚕種の粗製濫造防止策として明治三年(一八七〇)以来続けられてきた「蚕種製造規則」による規制は、イタリアをはじめとする外国側の強い圧力によって、次第に緩和され、一八七四年六月には、輸出規制面では廃止された状態になった。それとともに、それまで規制されていた国内用蚕種の輸出用への転換がはじまり、横浜には、低品質のものも含めて、多量の蚕種が殺到した。 一八七四年九月五日から十月五日までの一か月間に、横浜には、一五一万枚の蚕種紙が流入したが、これは、前年一年間の蚕種輸出一四〇万枚をはるかに上まわる供給量であった。このため、蚕種価格は暴落し、蚕種恐慌ともいうべき状況が発生した。 政府は、蚕種輸出規制の廃止によって、このような事態が発生するであろうことを予想し、政府が蚕種の買上げをおこなって、次年の国内用の蚕種を確保し、同時に価格暴落を防止する案を七四年五月ころから検討していた。しかし、政府が直接介入することは、対外関係からして不適当と判断されたので、「蚕種製造規則」の実施のために設けられていた民間の蚕種大総代の自主的活動のかたちで、次年用蚕種の貯蓄、つまり輸出数量の制限をおこなわせようとした。だが、民間自主規制には限界があり、横浜に蚕種は大量に流入したのである。 懸念された事態の発生をみて、政府は、前年大蔵省を辞任して第一国立銀行の総監役になっていた渋沢栄一に対策を相談し、渋沢の構想に従って、蚕種買入を実施することとした。渋沢は、渋沢喜作ら横浜商人・蚕種荷主らと協議し、横浜商人を中心とする蚕種紙買入所を設け、政府(内務省勧業寮)から提供された資金を第一国立銀行が供給するかたちで運用して、蚕種買入を実施する計画をたてた。そして、十月七日に、原善三郎・小野善三郎ら六名の発起人の名で蚕種貿易挽回方法が勧業頭河瀬秀治に提出され、十月八日付で蚕種紙買入所開設が発表され、翌九日から買入れが開始された。 蚕種紙買入所は、十月九日から十一月二十日までの四二日間で、四四万八四一三枚の蚕種紙を購入し、そのうちの最上品五二四九枚を残して、あとはすべて公開焼却してしまった。一八七四年の横浜入荷高約一七六万枚のうち四四万枚以上の蚕種を焼却したのであるから、需給バランスはかなり回復し、買入れ直前の時期には一枚五銭でも買い手がつかなかった蚕種紙が、買入焼却後は一枚三〇銭から五〇-六〇銭で取引された。蚕種紙買入所は、一枚平均一八銭九厘で買い入れたから、必要資金は約八万五〇〇〇円であり、これは、勧業寮が秘密裡に支出したのである。焼却しなかった最上品は、五〇〇枚が試験のために外商に売却されたほかは、次年の原蚕種として保存されたようである。 政府・渋沢・横浜商人の連繋プレイによって、一八七四年の蚕種恐慌は、どうにか鎮圧され、暴利を期待した外商の思惑ははずれた。とはいえ、蚕種輸出平均価格は、前年価格の約四分の一程度までにしか回復せず、以後、蚕種は横浜重要輸出品の座を降りた。蚕種紙買入所の活躍は、横浜における蚕種輸出の掉尾を飾る出来事となったのである。 なお、一八七五(明治八)年二月には、「蚕種製造組合条例」「蚕種製造組合会議局規則」が設けられ、蚕種製造者の自主規制のかたちで、蚕種生産量の調節、輸出数量の調整がおこなわれることになった。しかし、蚕種輸出の退潮は続き、一八七六年には、渋沢栄一の構想による蚕種抵当貸付所が、蚕種価格維持のために活躍して、かなりの効果をあげたが、大勢を変えることはできなかったのである。 第二節 明治初年の内陸輸送 一 宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の設立 宿駅制度の改廃 戊辰戦争を通じて、維新政府が幕府から引き継いだ輸送制度は、公用定賃銭と宿・助郷賦役を軸とした人馬継立制度であった。いうまでもなくこの制度は、もともと江戸幕府の軍事・行政上の必要にもとづいて整備された、封建的な輸送制度であった。江戸を起点とする放射線状の五街道と、これに連結する主要街道および沿道の宿駅は、幕府および諸藩によって整備・管理され、問屋・年寄以下の宿役人によって輸送業務の運営がおこなわれた。諸道の宿駅には、一定数の常備人馬(東海道は一〇〇人・一〇〇匹、中山道は五〇人・五〇匹など)と付属助郷が配置され、武家の通行に対しては各級の人馬遣高に応じて、時価の半額前後の定賃銭で輸送サービスが供与された。もちろん、これらの街道や休泊施設は、武家の通行に支障のない限り、庶民や商人にも開放され、人馬・駕籠などの輸送サービスも時価で提供された。そして、こうした生活道路ないし商業道路的な機能は、二世紀以上の泰平によって次第に増強された。しかし、こうした機能は宿駅制度にとって、いわば付随的なものであり、本来の軍事・行政施設としての性格や機能が、幕藩制下において副次的なものになることはなかったのであった。 宿駅制度が持ちあわせたこのような軍事・行政的な機能は、戊辰戦争によってクローズ・アップされた。宿役人による人馬の割当てと動員は、機動性を必要とする大量の軍事輸送に、きわめて適合的であった。事実、新政府は、内戦の開始とともに直ちに街道と宿駅の掌握に着手し、既存の制度を最大限に利用して軍事輸送を進めたのであった。 しかし、このような宿駅制度の利用は、内戦時にとどまらなかった。集権制形成期に固有な重要産業の専掌政策が、継立制度とこれに対する政府の管掌を引き続き存続させたからであった。事実、政府はすでに勝利の見通しが明らかになった明治元年(一八六八)六月、旧来の宿駅制度を補強するための大規模な改革に着手し、従来宿駅近隣の村々に課してきた助郷賦役を、国内一円に拡大した。もっとも、当時の布告は、その理由を負担の公平化に帰したが(明治元年三月四日達、同三月二十九日弁事達、同六月八日駅逓司布告)、引き続き増大しつつあった公用輸送需要のもとで、それが負担の公平な増加に帰結することは疑う余地がなかった。事実、軍事・行政上の通行は、北越・東北戦争や東幸などによって相変わらず盛んであったし、人馬遣高の制限も従来と大差なかった。また、すでに旧幕時代に施行された公用定賃銭(正徳元年制定の元賃銭の七・五倍、すなわち基準賃銭人足一人一里につき一五〇文、馬はその二倍)も、向こう一年間据置きとされたのであった。 このような事情は、あらたに労役を課せられた村々に、布告に対する強い抵抗小田原の宿(明治4年) 徳川黎明会蔵 を呼び起こした。領主の添書をふくむ各種の嘆願や怠業、「奸曲」などの行為が相次ぎ、人馬の調達は次第に困難になった。公用定賃銭は内戦時の物価騰貴のため、すでに時価の半額にも及ぼなかったし、不時の継立賦役も、日常の農作業に対して、きわめて攪乱的な作用を及ぼしたからであった。もちろん、抵抗に直面した政府は、繰り返し布告を発して怠慢を叱責し、あるいは宥和につとめた(明治元年九月十二日駅逓司布告、二年四月二十七日民部官布告、三年二月〔日欠〕民部省達など)。しかし結局、時価の半額以下で大量の輸送労働を調達することは、不可能であった。そして、三年初頭にいたってもなお「不勤之村方不少」(明治三年二月〔日欠〕民部省達)という状態を脱することができなかったのである。 このような事情は、旧制度の維持をきわめて悲観的にする一方、相次ぐ定賃銭の値上げや宿駅助成金の支出、監督官員の派遣などによって、新政府の管理負担を耐えがたいものにした。そして、新橋-横浜間鉄道の建設が進むなかで、ついに旧制度の維持を政府に断念させ、明治五年一月十日には東海道の、同年八月末には全国諸道の伝馬所・助郷が廃止されることになったのである(明治五年正月十日大蔵省達、五年七月二十日太政官布告)。 各駅陸運会社の設立 しかし、伝馬所・助郷の廃止は、継立所と継立業務の存廃を自由に任せるものではなかった。旧来の官府的な宿駅制度は、もはや政府にとって管理上耐えがたいものだったとはいえ、全国的な継立網の維持は、軍事・行政上依然として欠くことのできないものであった。鉄道は、まだようやく新橋-横浜間で運行しはじめたばかりであり、内陸部の輸送は、一部の河川・湖沼を除けば、相変わらず諸道や往還の人馬継立に依存しなければならなかった。したがって、伝馬所・助郷の廃止に踏み切るについては、これに替わる継立組織をあらかじめ用意しなければならなかったのである。陸運会社と呼ばれた継立組織が、それであった。 伝馬所廃止に先立って用意された陸運会社は、官製の規則にもとづいて諸道の宿駅や往還の継場に半強制的に設立された、特殊な継立組織であった。設立に当たって下達された政府の指令(明治四年七月二十七日史官達)によれば、予定された新しい継立組織は当局によって人馬請負人と呼ばれ、旧来の政府専掌業務の請負人とみなされていた。いいかえれば、政府は、手製の「陸運会社規則案」を条件として旧来の専掌業務を各駅に請け負わせ、これによって管理負担からの解放と、継立網の維持をはかったものと考えることができるのである。他方、「陸運会社規則案」はその代償として、宿駅と近傍の輸送独占を各駅陸運会社に付与したのであった。 このような陸運会社は、宿駅制度の廃止に先立って諸道各駅や往還の継場に設立され、伝馬所・助郷廃止とともに相次いで業務を開始した。しかし、その営業は、一般にきわめて不評であった。いうまでもなく、地域的な輸送独占と引換えに従来の助成措置を打ち切られ、かつ半強制的に設立された陸運会社にとって、存立の道はその輸送独占を最大限に行使するよりほかなかった。事実各駅陸運会社の営業は、発足以来きわめて強権的な色彩が強く、継通しの妨害や刎銭の強要、社外の人馬の徴発など「兎角伝馬所ノ旧弊ヲ存シ……却テ運搬自由ノ意ヲ妨」げる結果をもたらした(明治六年四月二十四日大蔵省伺、『法規分類大全』「運輸門駅逓」三七二ページ)。もっとも、伝馬所の旧慣になじまず、継立荷物に恵まれた往還の陸運会社のなかには例外もあったが、廃藩以来公用貨客の激減した街道の場合は、このような傾向が一般的であった。 しかし、こうした陸運会社の欠陥は、もともと設立の経緯に照らせば、大部分政府の政策上の欠陥に帰さなければならないものであった。事実、所管の大蔵省は、明治六年十二月十八日付の太政官への伺(前掲書三七一-三七二ページ)のなかで、「抑此会社ノ弊害タル、伝馬所廃止ノ際官ヨリ之ヲ誘導シ、或ハ強ヒテ之レヲ結ハシメ候ニ原因致シ、名ハ私会ト雖トモ其実官立ノモノニ均シキヨリ相生候ニ付」と政策上の欠陥を認め、抜本的な改革のために陸運会社を解散し、旧定飛脚問屋によって設立された陸運元会社に、全国的な継立網の再編を命ずるよう建議している。この建議はほどなく太政官によって裁可され、翌一八七四(明治七)年春、元会社に対して継立網再編の作業が指示された(前掲書三六三-三七〇ページ)。そして、その完了をまって一八七五年四月には、五月末限り陸運会社の一斉解散を命じた、内務省布達甲第七号(前掲書三五六ページ)が発せられることになったのである。なお、陸運元会社は、各駅陸運会社の解散に先立って、一八七五年二月、社名を内国通運会社と改称した(明治九年十二月「改正内国通運会社定款」)。 陸運会社の一斉解散によって、継立業務の許認可権は府県に委譲され、その判断によって、かなり自由な開業が可能になった(明治八年四月三十日内務省布達甲第七号)。しかし、他方では内国通運会社への特別助成も、継立業と運送請負業の両面にわたって続けられた。自由化と特別助成というこのような二元的な政策は、各駅陸運会社の輸送独占に対する反省と、全国的な継立網の維持というふたつの要因にもとづくものであった。そして、このような政策は、継立業の免許をめぐってしばしば現地の府県で、通運会社と系統外の免許申請者との間に紛議を呼び起こした。しかし、府県の判断で認可される継立業者は年と共に増加し、一般免許制への移行がなしくずし的に進んだ。また、明治六年六月の布告第二三〇号(前掲書三四九ページ)にもとづく運送請負業者の制限と陸運元会社(内国通運会社)の特別助成も、鉄道線路の延長や輸送需要の増大にそぐわないものとなり、明治十二年五月布告第一六号(前掲書三七三ページ)によって撤廃された。もっとも、内国通運会社に対する事実上の助成は、官営郵便関連業務の委託などを通じて一八九〇年ころまで続いた。しかし、法制上の助成策は、各駅陸運会社の解散から一八八〇年ころにかけて、相次いで撤廃されることになったのである。 注 (1) 東海道駿府以東の「宿駅警備・兵食取計・人馬継立」は、明治元年(慶応四年)二月十八日、左記の代官・旗本・大名に命じられた。 府中ヨリ蒲原迄 駿府中代官 田上寛蔵 久能交代旗本 榊原越中守 蒲原ヨリ三島迄 駿 沼津 水野出羽守 三島ヨリ藤沢迄 相小田原 大久保加賀守 同山中 大久保長門守 藤沢ヨリ神奈川迄 武 金沢 米倉丹後守 神奈川ヨリ品川迄 豆 韮山 江川太郎左衛門 (『復古記』第九冊二一六ページ) (2) 「陸運会社規則案」は明治四年五月、所管の民部省駅逓司によって作製され、「社中申合」「沿道駅々申合」「旅人心得書」から成っていたが、このうち「旅人心得書」は同年十月駅逓寮によって改正され、「旅人エ為案内会社エ張出シ候規則書」として一般に公示された。なお駅逓司は明治四年七月二十七日、民部省廃止によって大蔵省に移管され、同年八月十日駅逓寮に昇格した。 (3) 「陸運会社規則案」の「沿道駅々申合」には、「会社之法則整粛セハ、社外ノ人馬相対稼ヲ禁止スヘシ」と明記されていた(『駅逓明鑑』第六巻十篇六八ページ)。 (4) 陸運元会社(一八七五年二月、内国通運会社と改称)は、一八七三(明治六)年六月の布告第二三〇号によって、河川・湖沼をふくむ内陸運送請負業の事実上の独占権を付与されたほか、一八七四年五月の太政官の認可によって、継立業(運送請負業者や旅客に対する人馬斡旋業)の営業権も付与された。しかし、これにともなって、全国的な継立網の整備と保全の義務も負わされた。この義務は、一八七九年五月の布告第一六号によって、運送請負業の特権とともに廃止された。 二 神奈川・足柄県下の陸運会社 宿駅制廃止時の県域 明治四年(一八七一)七月の廃藩置県によって、現県域内の藩領は小田原県・荻野山中県および六浦県となり、明治元年以来の神奈川県(横浜を中心としたほぼ方一〇里の区域)、韮山県(津久井地方を中心とした旧韮山代官所支配地)とあわせて、ほぼ五つの県域に分かれることになった。しかし、ほどなく同年十一月の府県統廃合によって小田原県荻野山中県・韮山県は、伊豆国をふくめて足柄県に統合され、また神奈川県には六浦県管下の武蔵国久良岐郡のほか、多摩郡・都筑郡・橘樹郡および相模国三浦郡・鎌倉郡・高座郡が編入された。その結果、現県域内の各地域は、一八七六年四月の府県大廃合まで、ほぼ相模川をはさんで、神奈川・足柄両県に分属することになったのである。 一八七六年四月十八日の府県大廃合によって、足柄県は管下の伊豆国を静岡県に、残りを神奈川県に移管して消滅した。その結果、後者の県域は、現在の県域に多摩郡を加えたものとなり、一八九三年四月一日に多摩郡を東京府に移管するまで、この県域を維持することになったのである。 宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の設立が進んだ明治五年(一八七二)は、現県域が神奈川・足柄両県に分属した時期であった。そのため、各種の布達や願書は、いずれも両県を経て送達された。 維新期の駅逓資料を集めた『駅逓明鑑』には、当時現県域内に設立された陸運会社の関係資料が一部収録されている。また、沿道の旧関係者の手もとにも、同様の資料が残されている。そのおもなものは、さきに刊行された『資料編』18近代・現代(8)に収録されているが、いまこれを列記すれば左のとおりである。 明治五年四月 神奈川県より横浜陸運会社之儀に付伺 明治五年四月 与瀬駅陸運会社関係資料 明治五年四月 吉野駅人馬賃銭御請負書 明治五年四月 関野宿人馬賃銭御請負書 明治五年五月 小原駅陸運会社人馬賃銭請負願 明治五年五月 足柄県より陸運会社開業之儀に付伺 明治五年六月 足柄上郡関本村陸運会社関係資料 明治五年八月 足柄県より脇往還陸運会社之儀に付伺 明治五年九月 足柄上郡神山村陸運会社議定書 明治五年九月 愛甲郡三田村陸運会社の儀に付伺 明治五年十月 津久井郡荒川駅陸運会社関係資料 明治五年十月 足柄県より陸運会社開業届出 明治六年一月 箱根駅陸運会社関係資料 以上の残存資料のなかには、一八七三(明治六)年一月の箱根駅陸運会社のほか、東海道各駅の関係資料がふくまれていない。それらが『駅逓明鑑』に収録されなかった理由は、つまびらかでないが、これまでの現地調査においても、残念ながらほとんど発見することができなかった。よって、ここでは上記の資料によって、甲州街道と脇往還および横浜の模様を概観してみたいとおもう。 甲州街道の陸運会社 宿駅制度が廃止されたころ、足柄県管内には関野・吉野・与瀬・小原の甲州街道四宿駅が、また神奈川県管内には同じく小仏・駒木野・八王子・日野・府中・布田・高井戸の各宿駅が存在した。ところで政府は、さきにふれたように、東海道各駅伝馬所・助郷廃止(明治五年一月十日)に続いて、諸道各駅伝馬所・助郷廃止の方針を固め、その前提となる各駅陸運会社の設立を強く推進した。その結果、同年四-五月には前記両県管下の甲州街道各駅からも、相次いで設立願書が提出されることになったのである。 これらの願書はいずれも、所管の県庁を経て大蔵省駅逓寮へ進達された。前記『駅逓明鑑』によれば、このうち足柄県関係の願書は五月十七日付、神奈川県関係のそれは七月十三日付で大蔵省へ進達されている。願書はすべて、駅逓寮から示された雛型にもとづいて、同一形式(隣駅までの里程と賃銭・営業規則・出願人氏名)をとっていた。いま『駅逓明鑑』所収資料によって、関野宿の例を紹介すれば次のとおりである。 陸運会社人馬賃銭御請負書 足柄県管轄甲州道中関野宿 東之方吉野駅ヘ里程二十六丁 但御定元賃銭人足壱人ニ付拾九文 一、人足壱人賃銭弐百四拾八文 一、宿駕籠壱挺同六百弐拾文 一、垂駕籠壱挺同八百六拾八文 一、引戸駕籠壱挺同九百九拾弐文 一、長棒駕籠壱挺同壱貫弐百四拾文 一、馬壱匹同六百文 西之方上野原駅エ里程三十四丁 但御定元賃銭人足壱人ニ付廿五文 一、人足壱人賃銭三百三拾七文 一、宿駕籠壱挺同八百四拾弐文 一、垂駕籠壱挺同壱貫百七拾九文 一、引戸駕籠壱挺同壱貫三百四拾八文 一、長棒駕籠壱挺同壱貫六百八拾五文 一、馬壱匹同八百四拾弐文 右者今般陸運会社取建、公私之荷物共、都而公平至当之相対賃銭ヲ以、継立方被仰出、右御取調トシテ御順駅ニ付、私共儀書面之賃銭表ヲ以、御請負仕、聊無遅滞継立候様可仕、尤会社申合書并規則書左之通。 旅人エ為案内会社エ張出候規則書 陸運会社之儀者、一切之御旅行便宜相成候儀ヲ旨ト致シ取結候モノニ付、何レ之方何レ之御身分ヲ論セス当会社ニ御申入被成候ハハ、何時ニ限ラス総而定式賃銭ニテ人馬之継立御世話可申事。 一、継立之儀者総テ御申入並御着順ニ随ヒ、早追之外、何様高貴之御方様ニテモ、格別ノ継立ハ堅ク御断申候事。 一、早追或ハ昼夜兼行之御急、其他多分之継立御申入被成候御方ハ、前以案内状御差出シ可被成事。 但右案内状継送賃銭、本道之分不申受候得共、三府内エ持込、或ハ脇道之分ハ、相当之賃銭御払可被成事。 一、諸荷物共目方七貫目迄ヲ人足壱人、四拾貫目迄ヲ馬壱匹之度ト定メ、是ヨリ相増候分ハ、左ノ割合ヲ以テ分増賃銭請取可申事。 人足 七百目迄ヲ壱分、七百目以上壱貫四百目迄ヲ弐分、其他是ニ準ス。 馬 四貫目迄ヲ壱分、四貫目以上八貫目迄ヲ弐分、其他是ニ準ス。 一、早追ハ定賃銭之七割五分、但酉ノ上刻ヨリ丑ノ下刻迄五時之間ハ、壱倍五割之賃銭御払可被成事。 一、通常人馬夜継之分、酉ノ上刻ヨリ丑ノ下刻迄ハ、五割増之賃銭御払ヒ之事。 一、御旅行之御都合ニ寄、前後二三駅宛継越可申、尤賃銭ハ表面之割合ニテ可申請候事。 一、人足之強壮ニ寄、弐人或ハ三人払ヒ之荷物ヲモ壱人ニテ運送可致事。 一、会社之都合其時之模様ニ随ヒ、駄荷ヲ車力ニテ継立候儀モ可有之、尤賃銭ハ駄荷之定ヲ以請取可申事。 但山川嶮路、車力難相用場所ニ而、馬遣払候節者、相当之人足賃銭御払可被下候事。 一、会社之人馬者、総而左之雛形之通鑑札相渡置候間、万一不礼不法之所行有之候節者、其者所持之鑑札番付御見留置、前宿会社ヘ御申聞可被下、会社之法ヲ以屹度糺明致シ、御迷惑不相成様精々取扱可申事。 一、途中ニ而替荷之儀申出候ハハ、会社鑑札之有無御取糺シ、無鑑札之者ヨリ何様之儀出来候トモ、一切会社ニテ御構ヒ不申候事。 一、宿駕籠御借入之方者、壱挺ニ付壱里迄ハ銭百文、壱里以上ハ壱里三拾弐文宛之割合ヲ以、損料御払可被成事。 右之通会社一同、申合規則相定申度奉存候間、何卒御免許被成下置候様、奉願上候。以上。 明治五壬申年四月 甲州道中関野宿陸運会社総代 中村万五郎 中村雄三郎 秦杢左衛門 中村又右衛門 諸角源五兵衛 前書取調候処、不都合之儀モ無之候間、御允許相成候様、奥書ヲ以、申上候。以上。 足柄県駅逓掛 大久保忠重 右の文書は、「人馬賃銭御請負書」という表題や、「私共儀書面之賃銭表ヲ以御請負仕」という表現によって明らかなように、一定の賃銭および営業規則にもとづいて、人馬継立業務を政府から請け負う、一種の誓約書のかたちをとっている。と竪二寸八分 横二寸 ろで、この「書面之賃銭表」は、駅逓寮官員の調査・巡駅の結果認可された公定賃銭で、賃率は元賃銭(正徳元年の公用賃銭)の約一三倍に相当した。しかし『法規分類大全』「運輸門駅逓」一七六ページ以下によれば、明治元年(一八六八)五月、人馬定賃銭が元賃銭の七・五倍に改訂された際、主管者の内国事務局督徳大寺実則自身、この賃率を「其実尚雇賃銭之半ニ不過」と述べ、相対雇賃銭が当時すでに、元賃銭の一五倍程度の水準にあったことを暗に認めている。また、翌二年二月、三都定飛脚問屋から駅逓司に提出された嘆願書によれば、当時本馬一匹一里の相対雇賃銭は、元賃銭の二五倍に相当した。そして明治三年四月には、公用定賃銭も元賃銭の一二倍に改訂されたのであった。前記の陸運会社賃銭表は、この公用定賃銭をわずかに上回る程度のものであり、一般貨客に適用される相対雇賃銭としては、かなりの低賃銭といわなければならないように思われる。なお、小仏峠越えを含む小原-小仏駅間については、元賃銭の一七倍の新賃率が認められたが、小原駅の願書によれば、これも二〇倍の要求を削減され、「無拠宿役ト相心得、御請負仕」った賃銭表であった。いずれにしても、請負の条件となったこうしたきびしい賃銭査定や宿駅助成金の廃止は、公用貨客の激減した各駅(陸運会社)を圧迫し、継通しの妨害や刎銭の強要などを引き起こす、ひとつの有力な動機になったものと考えることができるのである。 他方、「営業規則」(「旅人エ為案内会社エ張出候規則書」)の方も、前年秋大蔵省駅逓寮において起草され、同年十月十四日の省議で決定された官製の規則であった。したがって、「右之通会社一同、申合規則相定申度」という自発的な表現は、単なる建前に過ぎず、実際はあらかじめ官から示された設立認可の要件であった。事実、この「営業規則」は、沿道各駅から提出された設立願書に例外なく添付され、隣駅までの里程・賃銭表とともに、願書の主要内容をなしていた。また、出願も明治五年四月から五月にかけて一斉におこなわれた。こうした点からいって、各駅陸運会社の設立は、政府の強い指導によって、半強制的に進められたものとみることができるのである。いま『駅逓明鑑』によって、各駅出願人の氏名を列記すれば次のとおりである。なお、同資料にはまま誤植が認められるので、現地資料が残存する場合は、これによって訂正した。 吉野 船橋七左衛門・大房仁左衛門・大房与兵衛・船橋八左衛門・船橋太郎兵衛・守屋歌之助・渡辺杢右衛門・吉野彦次郎・岩崎多三郎船橋甚五左衛門・大房清十郎・佐々木吉兵衛・吉野十郎 与瀬 清水四郎兵衛・福島六郎左衛門・坂本瀬兵衛・朝比奈六兵衛・坂本平右衛門・荒井太平・橋本金兵衛・森久保喜右衛門・石井七十郎・石井市郎右衛門・清水佐五左衛門・馬場三郎左衛門・坂本内蔵助 小原 清水一郎・尾形橘郎 小仏 峯尾喜兵衛・鈴木藤右衛門・峯尾助左衛門 駒木野 川村新六郎・川村久太郎・井出新左衛門 八王子 川口寛一郎・川口与三郎・柴山孝三・岩崎三郎右衛門・石田郡三・中川徳左衛門 日野 佐藤芳三郎・佐藤彦右衛門 府中 清水斎兵衛・比留間長左衛門・矢島九兵衛 布田 荻本伝四郎・糟谷市之助・杉崎甚五左衛門・熊沢茂兵衛・箕輪重郎右衛門 高井戸 細渕三左衛門 これによれば、出願人数は駅によってかなりまちまちであるが、その肩書は小仏・駒木野両駅を除いて、いずれもその駅の「陸運会社総代」となっており、駅(宿)役人がそのまま総代として出願人となったことを推測させる。事実、布田駅(五宿)の出願人はすべて名主(三名)または年寄(二名)で、その役名が氏名の上に付されている。他方、小仏・駒木野両駅の出願人には「小仏駅(駒木野駅)陸運会社受負人」という肩書が付されているが、おそらくこれも駅(宿)役人として、その駅(宿)を代表するかたちで出願したものと考えることができよう。いずれにしても、街道上の各駅(宿)の場合には宿駅制度の遺制が強く、旧来の継立組織(問屋場と宿役人・人馬差・継立人足など)を、単に陸運会社と改称しただけのものが多かったように思われるのである。当時、陸運会社についてしばしば指摘された、いわゆる「伝馬所ノ旧弊」は、このような事情によるものとみることができる。 脇往還の陸運会社 脇往還の陸運会社については、足柄県管下の足柄上郡矢倉沢村・大住郡伊勢原村・同下糟屋村・愛甲郡厚木町・同三田村・同田代村・津久井郡三ケ木村の資料が、『駅逓明鑑』に収録されている。もっとも、このうち三田村以外は、足柄県の進達書と路線図だけの不完全なもので、賃銭・出願人等の詳細を伝える資料を含んでいない。しかし、さいわい二、三の村落については、現地資料が残存するので、これによって『駅逓明鑑』の欠をある程度補うことができる。 これらの資料を総合すれば、明治五年(一八七二)九月ころまでに設立された同県管下脇往還の陸運会社は、次の一二か所であった。 足柄上郡矢倉沢村・同関本村・同神山村・大住郡曽屋村・同伊勢原村・同下糟屋村・愛甲郡厚木町・同三田村・同田代村・津久井郡三ケ木村・同上川尻村・荒川駅 しかし、残存する現地資料によれば、同年十月ころには、津久井郡若柳村・寸沢嵐村などにも陸運会社設立の動きが認められるので、こうした脇往還筋の陸運会社は、その後もふえ続けたものとみることができよう。 ところで、陸運会社の設けられた前記の町村はいずれも、甲信地方あるいは駿遠地方から東京・横浜に通じる津久井往還、ないし矢倉沢往還沿いにあった。いうまでもなく、甲信地方や駿遠地方は、当時輸出商品の中心を占めた生糸と茶の主産地であった。そして、街道にくらべて、生活道路としての色彩の強い脇往還は、こうした商人荷物の通行により適合的であった。津久井往還や矢倉沢往還沿いの陸運会社の背後には、このような商人荷物の通行とより自発的な設立の動機があったと考えることができるのである。設立願書に付された足柄県の進達書にも、こうした様子があらわれている。 相州矢倉沢往還並津久井郡吉野駅ヨリ脇往還陸運会社願出候ニ付、人馬賃銭之儀申上候書付 当県管下相州足柄上郡矢倉沢往還之儀ハ、駿遠州ヨリ之産物、東京・横浜エ継来候往還筋ニ有之、甲州街道吉野駅・三ケ木村・川尻村等ハ、甲信両州ヨリ東京・横浜其他小田原及ヒ厚木町等ヘノ脇往還ニテ、諸荷物継来候地ニ有之、右両道陸運会社御允許相成候様、矢倉沢村外拾壱ケ村ヨリ、別紙之通人馬賃銭請負書ヲ以テ願出候ニ付、駅逓掛官員奥印之上差出候間、及検査候処、不相当之儀モ無之存候間、其儘進達仕候。可然御差図被下度、此段申上候也。 壬申八月廿七日 足柄県参事 楫取素彦 足柄県権令 柏木忠俊 大蔵大輔 井上馨殿 このように足柄県進達書は、吉野駅から南下する津久井往還と足柄峠から神山・曽屋・厚木を経由する矢倉沢往還が、甲信・駿遠地方の産物の有力なルートになっていたことを示している。そして、このことは、後述の横浜陸運会社の開業や、御殿場から箱根湖上を経て、真鶴にいたる新道開拓などによっても、裏付けることができるのである。 他方、厚木町近傍の三田村(現在厚木市三田)陸運会社の資料も、横浜周辺の内陸部で始まった活況を暗示している。すなわち、申請路線は三田村才戸から曽屋村・伊勢原村、糟屋村・厚木町・橋本村・八王子宿の六か所に及び、添付の足柄県進達書も、三田村が秦野産物や周辺の山方荷物を八王子に運ぶ往還筋に当たり、その継立に従事してきたことを明らかにしている。正田健一郎編『八王子織物史』上巻(昭和四十年七月刊)によれば、会社設立地の三田村および周辺の村落(上依知・猿ケ島・山際・川入・坂本・長坂・関口・中依知・金田など)は、江戸時代から繭の取引を通じて、八王子周辺の村々と深い関係にあった。曽屋(現在秦野市曽屋)から伊勢原・糟屋・厚木・三田・橋本を経て八王子にいたる右の路線は、このような原料繭をはじめ、煙草・薪炭・織物などの流通路として、開港後にわかに活況を呈しはじめたものと考えることができるのである。 横浜の陸運会社 他方、輸(移)出入貨物や乗下船客で賑わった横浜にも、明治五年(一八七二)五月ころ、横浜陸運会社が設立された。同年四月二十五日付、神奈川県令陸奥宗光の進達書によれば、当時横浜では、陸送荷物の地方向け発送を中心に人馬の不足が目立ち、また賃銭も区々多額で、旅行者の不便が大きかった。よって陸運会社開業希望者を求めたところ、鈴村要蔵以下九名の出願をみることになったのであった。出願者の鈴村要蔵は、工部省鉄道寮が横浜停車場(現在桜木町駅)の用地拡張のため、明治四年五月、地続きの海面を埋め立てた際、その工事請負人となった者であり(埋立面積三万五五一三坪余、立坪七万七五三八坪余、請負金額七万一三三両余)、鉄道当局とも関係の深い業者であった。陸運会社の出願も、おそらくこの請負工事が機縁になったものと考えることができよう。 「営業規則」は一七則から成り、内容も市内輸送という特殊性を反映して、一般の陸運会社とはかなり異なっていた。先ず店舗は、波止場に近い馬車道通り相生町五丁目の会社のほか、四か所(旭町通り西運上所側・元町西ノ橋側・野毛町野毛橋側・芝生村街道端)に出張会社が設けられ、市内の配送や継立貨物の発着取扱をおこなった。とくに芝生村街道端の出張会社は、八王子・木曽・原町田・鶴間・瀬谷・厚木・伊勢原方面からの貨客を受け入れ、この方面への貨客を送りだす、いわゆる口駅業務を担当したユニークな店舗であった。津久井・八王子・矢倉沢往還などを経由した輸出用その他の貨物は、この出張会社を経て市内に配送され、また市内で集荷された地方向け貨物は、ここで往還の人馬継立に託送されたのであった。出張会社が神奈川・程ケ谷両駅に設けられず、中間の芝生村に設けられたのは、両駅の営業権の及ばない前記往還経由の貨客を対象としたからであった。「営業規則」第五、六則は、神奈川・程ケ谷経由の貨物にいっさい関与せず、取扱貨物が前記往還経由に限られることを明記している。しかし、同出張会社の開設は、この方面の貨物がかなり増加しつつあったことを示すものといえよう。いずれにしても、この横浜陸運会社は、輸(移)出入貨物の輸送ルートと結びついた、ユニークな陸運会社ということができるのである。 三 新道開拓の出願 物流の変化と新道開拓 宿駅制度の廃止にともなう道路交通の発展は、既存の道路の改修や新道開拓の気運を、国内各地に呼び起こした。もともと、江戸時代を通じて軍事・行政上の見地から整備された既存の道路網は、経路や地形などの点で商人荷物の流通に不便な場合が多かったし、また、開港にともなう物流の変化も、新道開拓の必要を高めたからであった。 このような道路の改修や建設の動きは、明治五年(一八七二)ころから各地で、住民の請願や自普請のかたちではじまった。たとえば、『内務省第一回年報』(明治九年十二月刊)によれば、一八七五(明治八)年度中(一八七五年七月から一八七六年六月まで)に各地でおこなわれたおもな改修・建設工事(四一か所)のうち、政府直轄工事は八か所にすぎず、ほかはすべて民費によるものであった。また、収録の統計によれば、同年度の道路費は総額六六万四四六八円にのぼったが、うち国費支弁はわずか九・五㌫にすぎなかった。 神奈川県下の改修や建設工事も、おもに横浜向けの物流増加を背景に、地域住民の請願や自普請のかたちではじまった。たとえば明治五年六月には、足柄上郡矢倉沢村・神山村・関本村の合意によって、従来近隣村民の通行しか許されなかった矢倉沢-神山村の間道が、あらたに貨客の輸送路として認められることになったし、また同年九月には、甲州黒駒村から御坂峠・谷村(都留)・秋山村・相州津久井郡を経て、東京・横浜にいたる新道の開拓計画が、沿道の村々によって合意された。そして、同年十月には東海道箱根宿からも箱根湖上経由の新道開拓願書が、足柄・静岡両県に提出されたのであった(『資料編』18近代・現代(8)一一九・一三三・一三四)。 このような変化の背後には、上述のような東京・横浜向け荷物の増大があったが、箱根宿の願書には、そうした事情がよりはっきりとあらわれていた。左の願書がそれである。 乍恐以書付奉願上候 当御管下箱根宿天野平左衛門奉申上候。当駅之儀は山上無高之場所ニテ、是迄御往来下筋之御助力ヲ以、渡世仕来候処、近来御通行更ニ無之、殆生活之道ヲ失ヒ疲弊難渋仕居候処(中略)今般愚考憤発仕候義ハ、当駅ヨリ西北之間ニ方リ、湖上ヲ歴、甲信エ往復近道有之、猶南之方山越僅之里程ニテ相州門川村ニ至リ候順路有之候処、旧来関門要害之為メ通路厳禁ニテ、愚民之志願行届兼、数年歎息罷在候処、御維新已来寛太之御所置ヲ以、既関門御取除相成、自然近傍通路自由ヲ得候折柄、右湖上エ荷船製造、両岸ニ運送会社取建、甲信ハ勿論、其余最寄之諸荷物相海エ運輸、又豆相之魚荷ヲ始、諸荷物甲信エ運送取扱ヲ以、窮民共一同生活之方策相立度、行程之儀ハ凡西北之間湖上二里ヨ、尚湖尻ヨリ長尾山ヲ越一里、夫ヨリ御殿場エ一里半余、猶二里八丁ヲ経テ須走村ニ至、同所ヨリ十一里廿六町ニテ石和甲府ニ到着、直ニ信州エモ通信相成、将南之方三里之山越ニテ宮上村字湯ケ原ニ至、夫ヨリ平地三十二丁ニテ門川村、吉浜村ニ至、相海ヲ廻漕、浦賀エ十八里余ニテ着港仕候。右海浜エハ荷船等補理候得ハ、一層之助益相成可申、且道筋営繕、人馬渡船之規則相立、両国之便利ヲ得候ハハ、乍恐御公用モ急速相達可申哉ト奉存候。是迄甲信ヨリ陸路嶮岨ヲ経、駿河エ荷物積立、豆海之迂遠数日ヲ費シ候故、風波之難モ不少候処、右近路相海ヨリ廻漕相開候得ハ其難モ相省ケ、万端軽便之儀ト奉存候(下略)。 右の願書によれば、当時箱根宿は、廃藩後の公用通行の途絶によって「疲弊難渋」を極め、早急に打開策を講じなければならない状態に置かれていた。出願された新道開拓計画は、通行量の激減した箱根宿へ、甲信地方の横浜向け荷物を誘引するため、御殿場から長尾峠を越えて芦の湖を渡り、箱根・湯河原・吉浜を経て海路横浜にいたる新ルートを開拓しようとしたものであった。願書には箱根宿・元箱根村のほか、函南の宮上村・宮下村・堀之内村・門川村の村役人が連署し、翌一八七三(明治六)年二月、足柄県の認可を受けた。もっとも、その後箱根-湯河原-宮上-宮下-門川のルートは、地形険阻のため着工不可能となり、一八七四年三月、あらためて箱根-鍛冶屋村-真鶴村へのルート変更を足柄県へ出願しなければならなかった。この出願は同年五月認可されたが、その後の工事の進捗状況はつまびらかでない。しかし、『山梨県史料』所収の甲斐国中馬会社関係資料(「中馬分会社人名簿」)によれば、一八七五年七月現在、同分会社が真鶴村に開設されているので(取扱人橋本甚三郎・尾守治八)、このころすでに、この新道経由の輸送がはじまっていたものと考えることができる。いずれにしても、この新道計画は、廃藩後の物流の変化と横浜向け貨物の増大を、象徴的に示すものということができるのである。なお明治十年代には、このような自普請中心の状態を脱して、府県主導型のかなり大規模な工事が各地でおこなわれた。神奈川県でも、十年代末から小仏峠を迂回する甲州街道の付替工事が山梨県の協力を得て実施され、一八八八年五月竣工をみることになったのである(『資料編』18近代・現代(8)一三五)。 第三節 鉄道の創業 一 外国人による建設計画 ウエストウッドの出願 慶応三年一月二十八日(一八六七年三月四日)、横浜居留地在住のC=L=ウエストウッドは、幕府外国奉行に宛てて江戸-横浜間の鉄道を建設したい旨の請願書を提出した。この請願は、幕府の出資をまたず、外国人が投資をおこない、建設にあたって、幕府がこの事業を管轄する役人を出すこと、建設関係労働者は日本人を雇い入れ、賃金は外国人側から支払うことなどがその内容であった。鉄道の経営権は投資者側が保持し、事業利益のいくらかを幕府に納入するという方式をウエストウッドは考えていたようである。 横浜の開港以後、江戸と横浜との交通は非常に盛んになっていた。これは、とくに生糸などの輸出品の輸送や、外交・貿易などのための人の往来がはげしくなったことによるものである。 このような交通量の増大からみて、在留外国人の眼に、江戸-横浜間の鉄道が採算のとれるものとして映じたことは、およそ想像に難くない。しかも、この区間に鉄道を開通させることになり、当時開市の状態になかった江戸に活動範囲をひろげる可能性も、彼は考えていたのかもしれない。いずれにしても、横浜で商業活動を開始した外国人が、当然考え出すような計画であった。しかも、当時外国人たちは、通商活動の安全と効果増大のためのさまざまな施設、たとえば港湾の整備や燈台の建設などについて、重大な関心をはらっていた。さらに、国内における資源開発についても、調査活動が開始されていたという。 このようにみてくると、外国公使館などの公的機関による働きかけだけでなく、このような情勢を見た貿易商人などの間に、より大きな利益を求めて鉄道建設を構想する者があらわれることも十分考えられる。ウエストウッドの請願も、このような情勢が生み出したものであろう。 しかし、幕府は「当分即時鉄道建築等之儀にも及び難く」として、これを拒否するむねの回答書をつくった(『続通信全覧』「電信及鉄道一件」)。この回答書は発送されず、またウエストウッドの計画も、その後の情勢の激変にともなって具体化せずに終わった。 ポートマンに対する免許 慶応三年十二月二十三日(一八六八年一月十七日)、幕府は日本駐剳アメリカ合衆国公使館書記官A=L=C=ポートマンに対し、江戸-横浜間鉄道建設の免許書を与えた。ポートマンの出願の内容については不明であるが、幕府の与えた免許書と、これに付属する規則書の写しは残されている。それによると、米国側はこの免許書下付のときから五年以内に着工して、着工から三年以内に完成させること、建設にさいして東海道の交通を妨げないようにすること、単線・複線の別は問わないこと、ただし安全保護施設は堅固なものとすること、田地の灌漑排水設備を線路が妨害しないようにすること、測量・工事にあたっては日本政府が便宜を計ること、とくに用地の取得には日本政府が六か月以内に地主・住民の立退きをさせて引き渡すこと、旅客・貨物の運賃は英米両国のそれよりも二割五分以上高くしないこと、日本政府の役人は運賃の半額で乗車できること、日本政府はいつでも点検をおこない、必要があれば会社の負担で修理をおこなうこと、日本人がこの会社の株主となり利益の分配にあずかることができること、会社は毎年年末に経営状態を日本政府に報告すること、日本政府が必要と認めるときは原価の五割増で買収できること、以上のようなことが定められていた。これらは、この企業が鉄道の敷設・経営を通じて米国側の権益に属することを意味しており、幕府が監督権をもち、一部に経営参加権を保持するかたちをとったのである。 もともと、幕府に対してフランス側は軍事力の強化を勧告し、援助の姿勢をとっていて、慶応二年(一八六六)四月には、フランス駐在幕府代表に任命されたフリューリー=エラールが、このような見地に立って鉄道建設を献策した。また慶応三年(一八六七)二月には、将軍徳川慶喜の諮問に駐日フランス公使ロッシュが答申し、これにもとづいて幕府が作成した職制改革案に鉄道建設の計画が含められていた。 したがって、幕府側にしても先に挙げたウエストウッドの請願を含めて、当時鉄道建設計画についてなんらかの考慮を必要とする客観的条件は成熟しつつあったのである。しかし、幕府はエラールの勧告も、またウエストウッドの請願も、これを受け入れなかったし、また職制改革案のなかに示した建設計画も具体的な内容のものではなかった。それを、アメリカ公使館員の申入れに答えたのはなぜか。この点については、さまざまな要因が考えられるが、この免許書が、当時の幕府老中・外国事務総裁小笠原長行の名で出されたこと、またこれがいわゆる「王政復古」布告の半月後であることなどから、成立したばかりの京都の政権に対し、なお幕府が日本の正統政権としての立場を保持しようとしていたことをうかがわせるのである。 また、それ以前にも薩摩藩の五代友厚らがベルギーで鉄道建設計画を勧誘され、彼らを援助したモンブランとの間に契約を結んだことがあったが、これは京都-大阪間のものであった。江戸-横浜間と、京都-大阪-神戸間とは、外国人が鉄道権益について重大な関心をはらった区間であり、明治政府成立後も、ポートマンの免許追認をふくめ、列国の利権がこの区間に集中したのである。 二 政府の建設構想と横浜における資金調達計画 ブラントンの進言 慶応四年(一八六八)から翌年にかけて、江戸(慶応四年九月三日東京と改称)-横浜間の鉄道建設計画には、かなり緊迫した動きが繰り返された。すなわち、さきに幕府老中小笠原長行から免許を得たアメリカ公使館書記官ポートマンは、函館にたてこもっていた小笠原に対し、さきの免許書の確認を求めた。しかし、明治元年十二月二十八日(一八六九年二月九日)小笠原は返書を送り、「只今は、何事も内地は京師之御処置、当所は自今旧政府之者鎮定致居候得共、自ら情実も不相通、如何共取計方出来不致、乍残念御断申上候」(『大日本外交文書』第二巻第一冊)と事情を述べて、ことわった。小笠原は、すでに旧幕府のおこなった免許が有効性を失ったと判断したのであろう。 ポートマンは、明治二年一月十二日(一八六九二月二十二日)神奈川県を通じて政府と交渉を開始した。文書は外国官に回付されたが、外国官は否定的見解をとった。一月二十九日(三月十一日)アメリカ側は外国官に督促、二月十日(三月二十二日)外国官はこれに対し拒否の回答を発した。その文書には「鉄道設方之儀は既に我政府に而評議之趣有之、我内国人民合力を以而取設候積に有之候故」(『大日本外交文書』第二巻第一冊)とあり、日本政府が鉄道建設を計画していることをにおわせていた。 その直後、横浜在住のイギリス人アレキサンダー=カンフェルが、三月十日(四月二十一日)付で東京-横浜間の鉄道建設請願書を神奈川県知事寺島宗則に提出したが、日本政府はこれも拒否した。 日本政府が、このように外国人の申し出をすべて拒否するにいたった背景には、どのような事情がはたらいていたのであろうか。ここに、駐日イギリス公使ハリー=パークスの進言を考えることができる。さきのポートマンの督促申入れを取りついだ神奈川県の文書に外国官副知官事東久世通禧は「右事件は我国民にて鉄路出来候様兼而英公使議論有之候」という付箋をつけた。すなわちパークスが、当時日本政府側に、独自の手で鉄道を建設するよう働きかけていたことが、この付箋から想像できる。そして、日本側が、ポートマンやカンフェルに対して、拒否の態度をとっていたとき、雇イギリス人器械方R=ヘンリー=ブラントンが神奈川県を通じて外国官に意見書を提出した。ブラントンは、一八六八年に燈台建設技師として来日し、列国が日本側とかわした取決めによる燈台建設工事に当たっていた。そのブラントンに対し、外国官が神奈川県を通じて鉄道建設について非公式に意見を求めたと考えられる。 「蒸気車鉄道」と題するこの文書は、そのような諮問に答えたものであろう。 ブラントンは、イギリスで最初に鉄道を建設したときの反対意見や妨害について述べ、しかし「人之仕事は器械之助け耳にある事故、機械之発明する毎に仕事も亦其為めに巧を得べし」(『大日本外交文書』第二巻第一冊)と、新しい機械のもたらす効用を述べた。そして、鉄道のもたらす経済的・文化的効果を挙げ、鉄道がなければ起こるはずのない繁栄が起こってくると説いた。 そして、イギリスでは投機的な鉄道建設のために、損失や弊害をもたらすことがあったが、「日本之鉄道は其御政府より御取建に相成候事故、英国にて取建たる時之如く六ケ敷事はなかるべし」(同書)と、すでに日本政府がみずから鉄道建設をおこなう方針を決めたような表現をとっている。 このようにして鉄道を建設するとして、最初どのような鉄道を建設すべきか。ブラントンは短区間の鉄道をまず建設すべしと説く。 それは、「短き物を立つれば、是を手本として、世間に出ざりし者に鉄道といへる者之此様に驚べき働きを知らしめ、又人民之是れを好む事幾なる哉、此手本を以て試むべし」(同書)という効果を期待できるというわけである。このようなモデル線ともいうべき短区間の鉄道に最も適しているのは、ブラントンによれば「横浜と江戸の間より外に都合能所なし」(同書)という。 その理由としてブラントンは、次の五つを挙げている。 第一 地面平にして鉄道を作る事容易し。入費も少かるべし。 第二 右両所之隔り適宜にて、鉄道之働き顕わすには十分なる隔り也。 第三 右之地は京都并南国へ通行之大道路故、後日是れに鉄道をつぎたす時は重なる鉄道之根本となるべし。 第四 江戸は船之近寄り難く、外国との交易には不便なる所ゆへ、横浜より其地へ鉄道に而も作らざる時は決して盛んとなるべからず。第五 此両地当今は商売多く、通行繁き故、入費を少にして一個之鉄道を作る時は、其金主慥に利を得るべし。 (同書) ブラントンは、建設費をおおまかに見積っている。すなわち、一マイルに四万ドルとし、東京-横浜間二〇マイルに八〇万ドル、そのほかに車輛その他の設備を一五万ドル、合計九五万ドルとした。建設期間は約三年、また経営収支は、一日の収入が旅客・貨物をふくめて五六七ドル、一年で二〇万六九五五ドル、一年の経営支出をその半額として、一年で一〇万三四七八ドルの利益を挙げられるとしたのである。 政府の構想と資金調達計画 このようなブラントンの進言は、当時の政府関係者、とくに、いわゆる「開明派」と呼ばれる官僚を強く動かした。それは、パークスの勧誘とあいまって、政府の手で鉄道を建設しようという構想を具体化させることとなった。 明治政府が、その発足以来中央集権制の強化をめざして、さまざまな施策を展開したことは周知の事実である。鉄道の建設構想も、「全国ノ人心ヲ統一スルニハ、此運輸交通ノ斯ノ如キ不便ヲ打砕クコト」が必要であるという立場から出発していたといえよう。この立場は、当時外国官判事・会計官副知事から大蔵大輔・民部大輔などを歴任した大隈重信の回想に出てくる(大隈、帝国鉄道協会第五回総会における回顧演説、『帝国鉄道協会会報』第三巻第七号)。大隈はこれに続けて、次のようにいう。 又封建的割拠ノ思想ヲ打砕クニハ、余程人心ヲ驚カスベキ事業ガ必要デアルカラ、之ニ向ツテ何カ良イ工夫ガナイカト云フ考ノ起ツテ居ル時ニ此鉄道ノ議論ヲ聞キ、是等ガ動機トナツテ、何ンデモ鉄道ガ一番良イト云フコトニナツテ、夫カラ鉄道ヲ起スト云フコトヲ考ヘマシタ。(同書) つまり、大隈らの構想には、封建制の打破、中央集権制の強化という立場が強く作用していた。彼らは東京-京都間という、新旧両都を結ぶ幹線鉄道の建設を構想し、これによって中央集権制の強化という効果をあげ得るとした。しかし、当面は東京-横浜間の鉄道で「余程人心ヲ驚カス」効果は期待できる。ここから東京-横浜間の建設計画は現実的意味をもってくる。またそれは、さきに挙げたブラントンの計画とも一致するはずであった。 このような立場に立って、政府の方針はにわかに具体化した。それを支援するかのように、明治二年十月十一日(一八六九年十一月十三日)外務省は、太政官に対して建議書を提出した。その内容は、将来日本国内に幹線鉄道を建設することにより、鉄道のもつ経済的・軍事的役割を期待することはできる、しかし、当面は東京-横浜間に建設すべしと次のようにいう。 追而遠路まで連続し候発起之見本として、差向東京より横浜迄の間は、土地平坦に而、河も少く、初発之業には功成り易く、田畝を廃し直路を開き候とも、纔之廃地に而高千石迄には及申間敷、且汽車荷物車買上鉄道土木之費迄は金五十万両余も有之候はば粗出来可致候哉に有之(『大日本外交文書』第二巻第三冊) そして、この区間に鉄道を建設することの意味を、次のように示している。 勿論横浜と東京之間は、海路運搬自在に而、汽車備候とも無用に可有之との議論も可有之候得共、横浜之繁昌は一日は一日より相増、東京とは声息相通、商法之懸ケ引呼吸に至候而は、寸刻之時間を争候儀に付、車道相開候得ば比隣一町内も同様に相成、老幼婦女に至迄安楽に往来いたし、貿易益盛大に可相成、去迚従来之輿丁馬夫舟子駅店等は繁昌之余沢に浴し、矢張相当に作業可有之…(同書) すでに、東京-横浜間にはかなりの交通量があり、いまさら鉄道など不要という議論もあったようで、この建議書は、それに反駁している。鉄道が、さらに両都市の間の交通を盛んにし、両都市の関係を緊密にするであろうという論旨である。 しかし、資金はどうするのか。建議書によれば、次のように民間資金を集めようとしていた。 右入費出方之儀は、現今神奈川之海岸埋立入用金弐拾万両余之高すら横浜商人共出金いたし候程之儀に付、猶蒸気車之儀も御布告相成候はば、後来之利金を目的に出金いたし、鉄道を仕懸け候志願之者も有之様子に承り及び、敢而政府御出費に不相成、其功成就可仕と被存候間(同書) すなわち、「横浜商人」の出資によって、この鉄道は完成するとみたのである。前にも挙げたように、この建議書は鉄道の建設費を五〇万両とみていた。この後、租税権正前島密が明治三年(一八七〇)に提出した「鉄道臆測」では、東京-神戸間一五〇里の建設費を、施設・車輛費まで含めて一一〇二万五〇〇〇両と試算していた。一里当たり約七万三五〇〇両となる。東京-横浜間七五里として約五五万両ということになる。しかし、前に挙げたブラントンの「蒸気車鉄道」では東京-横浜間の距離を二〇マイルとして建設費八〇万ドル、車輛その他の購入費一五万ドル、合計九五万ドルとみていた。一ドル=一両とした場合九五万両となり、これはのちに実際の建設費として明らかになったが、約一一五万円という数字により近い。資材その他をすべて輸入して建設する場合、いかに費用が多くかかるかという事情をまだ経験しない日本政府が、費用を少なく見積って五〇万両といった額を出したのであろう。 ところで、この資金を政府がどのようにして横浜の商人から調達しようとしたか、その史料は見当たらない。ただ、明治二年十月中屋譲治らが神奈川裁判所に提出した建議書のなかに、次のような一節がある。 東京より横浜之間え蒸気車取建候入費之儀、事馴候二三之外国人えも相談致し算計仕候処、大凡四十万ドル相懸可申趣申聞、不容易企とは奉存候得共、右蒸気車之儀は実に多少之御国益相成候事に有之、且外国人之内旧御政府様之節、東京横浜之間え蒸気車取建候儀、御差許候趣を以、即今右取建御指許之儀願出候趣をも窃に承及居候に付、右様御国益可相成儀外国人之手を借り候儀は、如何にも残念之至りに付、不及ながらも私共自力を以、取建申度と段々心配も仕、仲間中えも評議相尽し種々説得仕候得共、何に分其理に暗く衆議一決仕兼、殆と手段尽果歎息罷在候処(下略)(「大隈文書」) つまり、自力調達は不可能であると述べ、アメリカ商人が資金を調達しようと申し出ていると、この後に続く文章で述べているのである。五〇万両に及ぶばく大な資金は、結局当時の商人たちにとっても大きな負担であったと考えられる。したがって、彼らの資金拠出に期待した外務省の建議も、そのままでは実現の見通しを失うこととなった。 政府は、しかし、この時すでにイギリス側との資金借入交渉をすすめていた。外務省が建議書を提出した一八六九年十一月には、駐日イギリス公使ハリー=パークスを介してホレーシオ=ネルソン=レーとの交渉が最終段階にはいっていた。 借款の内容は、十月二十日(十一月二十四日)に成立したとされている。そして、十一月五日(十二月七日)には、東京の右大臣三条実美邸で、大納言岩倉具視、外務卿沢宣嘉をはじめ、民部・大蔵大輔大隈重信、同少輔伊藤博文も列席して、イギリス側との非公式会談が開かれた。 この会談によって、建設区間は東京-京都間および支線とされ、建設主体は日本政府、建設資金・資材・技術者はイギリスが提供することが定められた。そしてさしあたり、東京-横浜間および大阪-神戸間を建設することが決定された。 なおこの時、東京-横浜間は支線の扱いを受けていた。このようにしてみると、東京-京都間の幹線を中山道経由で建設しようとしていたようにみられるが、その確証は見当たらない。ともかくも、この取決めによって、東京-横浜間の建設は具体化することとなった。十一月十日(十二月十二日)政府はこれを正式に決定し、十一月十二日(十二月十四日)レーとの間に資金借入れの正式契約を結んだのである。 借入金額は、イギリス通貨で一〇〇万ポンド(メキシコ・ドル四五〇万ドル)、すなわち約三〇〇万両、利率は年利一割二分、返済期限は一八七三(明治六)年から一年一〇万ポンドで一〇か年とした。レーはこれを明治三年五月一日(一八七〇年五月三十日)までにロンドンで調達し、七月三日(七月三十日)までに横浜へ送ると約束した。 この借入問題は、レーがロンドンで公募し、しかも三分の利鞘をとったことが判明し、解約問題をひき起こした。また、政府はこのうち六〇万ポンドを貨幣の鋳造などに使い、鉄道に使用したのは一〇〇万ポンドとなった。こうして、資金はようやく調達されたのである。 三 神奈川海岸の埋立工事 工事の開始 政府の鉄道建設準備は、さまざまな障害とたたかいながらすすめられた。明治三年(一八七〇)にはいると、技師長エドモンド=モレル、副技師長ジョン=ダイアックをはじめとして、雇イギリス人技術者たちがつぎつぎに来日した。政府は三月十九日(四月十九日)東京築地の元尾張藩邸に鉄道掛をおいた。三月二十三日(四月二十二日)には、横浜野毛町の元修文館に鉄道掛横浜出張所をおいた。鉄道掛の総監督は監督正上野景範、副監督は土木権正平井義十郎、横浜の出張所長は監督大佑橋本小一郎であった。 工事は東京・横浜の両端から取りかかることとなった。東京の停車場は汐留、横浜の停車場は野毛山下と定められた。その決定のいきさつは明らかでない。東京の場合には、都心に鉄道がはいることを危険視する立場から、築地居留地に近い汐留が選ばれたことが推測できる。これにたいし、横浜の場合は、横浜港と、現在の山下町にあった外国人居留地にできるだけ接近させることをはかりながら、しかし、その手前の相生町、住吉町などに線路を敷設し、停車場を建設することができないため、完成したばかりの埋立地の、いわば付け根にあたる部分に停車場をきめたと考えられる。 このため、のちに在住外国人から「居留地から離れすぎている」という苦情が出たといわれるが(杉本三木雄『汽笛一声蒸気車事始』)、両方のターミナルを、居留地に近づけることを設定の条件のなかに入れていたことは事実であろう。 三月十七日(四月十七日)政府は神奈川・品川の二県に対し、「鉄道製造ニ付、東京ヨリ神奈川迄道筋測量被仰付、御雇入外国人引連、伎々出張可致候条、為心得相達候事」と通達を発した(『太政類典』第一編第一〇三巻、運漕)。横浜側では、四月三日(五月三日)野毛山下の海岸埋立地から測量が開始された。 野毛山下から石崎までの埋立地一万一八七五坪二合五勺(三万九二七〇・二平方㍍)は、明治三年五月(一八七〇年六月)これを埋め立てた内田清七から買収した。買収価格は三万一〇三四両二分、永四〇文六分であった。しかし、停車場の用地の範囲を確立することが困難で、決定は翌年に持ち越された。結局、不足の部分をさらに埋め立てて用地を拡張すエドモンド=モレル (桜木町駅構内) ることとなり、鈴村要蔵がこれを請け負って実施した。埋立面積は三万五五一三坪六合五勺六才(一一万七四〇〇・五平方㍍)という(日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史』1)。 着工後の埋立面積が、すでに埋立てを終わっていた部分の三倍にあたるわけで、鉄道用地に必要な面積が、当事者にとって予想をはるかに越える大きいものであることが認識されたとみてよいであろう。 神奈川築堤の埋立て この埋立地を鉄道線路に使用することを決めた理由には、もちろん当時形成されつつあった横浜市街地を避けるという点が挙げられるであろう。しかし、それとともに、この横浜と神奈川を結ぶ場合に、横浜の石崎と神奈川の青木町との間に海中に築堤をつくって線路を通せば、かなり距離の短縮が可能になるという点も挙げられよう。当時は、現在の金港橋から高速道路西口・楠橋・真勝橋・平沼橋・高島橋を結ぶ線までが入江となっていた。したがって、当時の神奈川宿から横浜に入るには、東海道沿いに青木町を抜け、そこから岡野・平沼へ、この入江の海岸を大きく迂回しなければならなかった。そこで、鉄道を通すためには、野毛山下の埋立地から、この入江に築堤をつくり、石崎と青木町とを結ぶという構想が生まれたと考えられる。 明治三年四月二十六日(一八七〇年五月二十六日)、民部省鉄道掛は東京府および品川・神奈川の二県に対し、この築堤工事を請け負う者を募る告示を発した。この告示に応募したのは、横浜入船町の高島嘉右衛門だけであった。六月十一日(七月九日)、高島は鉄道掛との間に契約をかわした。この契約は、「埋立地仕様書」によれば、長さ七七〇間(約一四〇〇㍍)、幅四二間(七六・四㍍)の円弧を描く築堤をつくり、このうち幅五間(九・一㍍)を鉄道用地に、六間(一〇・九㍍)を道路に使用し、鉄高島嘉右衛門 『呑象高島嘉右衛門翁伝』より 道用地の分は、調印の日から晴雨にかかわらず、一三五日で完成することとした。 このほか、神奈川宿青木町住民の立退き代替地にあてるため、青木町海岸に二〇一七坪(六六五六平方㍍)を埋め立てさせることとした。これは、五割増しの三〇二五・五坪(九九八四平方㍍)を埋め立てさせ、政府使用地と道路以外は請負人が使用することができると決めた(『鉄道寮事務簿』巻二四)。 高島嘉右衛門の回顧談によると、「殊に鉄道の工事は外国人の眼前にて見事速成せしめんとの趣向なれば、余は埋立工事中大綱山に見張所を構へ、望遠鏡を以て海陸人夫数千人の勤惰を一目に見渡し、極力奨励に努めて毫も欠くる所なかりしが……」(『呑象翁懐旧談』)とある。付近の人びとが誤解して、高島に瓦礫を投げたこともあったという。 この工事は、期限に遅れた場合には一日について埋立地のうち、長さ六〇間(一〇九㍍)、幅五間(九・一㍍)ずつ請負人が使用できる部分を削るという罰則がついていた。 埋立工事は、一八七〇年中に日限どおり完成し、鉄道用地と道路とは政府に引き渡された。この工事には、横須賀製鉄所の蒸気式「泥揚器械」を使用、土砂の運搬にはトロッコも使用された。埋立用の土砂は野毛側は戸部伊勢山を、神奈川側は神奈川台の西側を切り崩して運んだ。 この工事の費用は、基礎・石垣などに九六二五円、埋立てに八万〇五一〇円、合計九万〇一三五円であったという(『鉄道寮事務簿』巻二四)。契約によれば、鉄道用地と道路以外は、請負人が使用してよいこととなっていて、しかも地税のほかは、いっさい無税と決めてあった。工事費を支払わないかわり、土地の権利を与えるという方式がとられたのである。のちに、一八七四(明治七)年になって、この免税措置が、特定の人物に特権を与えることは好ましくないとして問題となった。政府は、一〇万円を下付することとして、以後この免税措置を破棄する決定をおこなった。 四 工事完成と開業式 工事の完成 神奈川から六郷川まで神奈川県下の工事は、神奈川台の切取り以外は、おおむね平坦な田畑を縫って走るため、路盤工事そのものは比較的容易であった。ただし、六郷川をはじめとする橋梁工事が開通の遅速を左右する要因をなしていた。川崎-神奈川間の用地の買収は、表一-四〇のとおりであった。買収にさいして、道路の付けかえや水路の変換・拡張、溝渠の敷設などについて、住民からしばしば陳情が出され、その処理にかなりの時間がついやされたという。 これらの路盤盛土の延長は、六郷川から横浜まで七〇〇三間余(約一万二七三三㍍)とされている。また、神奈川台の切取りは延長一三二間(二四〇㍍)で、これらの工事は、盛土区間については一八七一年七月には完成したと考えられる。切取り区間は明治三年十月十日(一八七〇年十一月三日)に着工、明治五年五月二十日(一八七二年七月二十五日)に完成した。 第1-40 川崎-神奈川間買収面積および価額 注 「川崎ヨリ神奈川迄鉄道敷潰地田畑其外調査控」(『日本国有鉄道百年史』2)より 橋梁については、神奈川県下については表-四一のとおりである。六郷川はじめ各橋梁は、桁・橋脚ともに木製で、六郷川の場合、川をまたぐ本橋部分は径間五五フィート(一六・五㍍)のひのき製ラティス形構桁七連を架設、桁上に板を張ってその上に道床を設けた。鶴見川橋梁は、最初川幅二〇間(三六・四㍍)の部分に架設しようとした。しかし地元住民は、堤防内に築堤を建設すると、氾濫しやすくなるという理由からこれに反対し、同時に川幅を拡張することを求めた。その結果、四七間(約八六㍍)の橋梁となったのである。 神奈川跨線橋は、東海道が線路をまたぐもので、品川八ツ山の跨線橋とともに、鉄道表1-41 神奈川県下の橋梁 注 「従東京新橋至横浜野毛浦鉄道諸建築個所分費用綱目」(『日本国有鉄道百年史』2)より。日付は太陰暦による。 神奈川跨線橋(『ザ・ファー・イースト』より) 徳川黎明会蔵 と道路の立体交差の最初のものといえる。 高島の三つの川の橋梁は、埋立地をつなぐもので、埋立地は、外海と入江とを連絡するため、水路をつけてあった。 横浜停車場には機関車庫・客車庫・荷物庫・石炭庫・鍛冶製作場・官舎など四二棟の建物が建設され、これらの建物は、早いものでは明治四年一月(一八七一年三月)に完成、イギリスから輸入される車輛・レールなどを格納するのに使用された。また、一八七一年には造船寮所属の観光丸を借り受け、機械や石炭の倉庫として一時的に使用した。鍛冶職場を横浜に設けたのは、輸入車輛の組立てのためであった。停車場本屋は、新橋駅のそれと同じ様式で、アメリカ人R=P=ブリジェンスの設計により、木骨石張りの桁行約二〇㍍と梁間約一〇㍍の二階建二棟を並べ、これを木造平屋建の桁行約一四・五㍍、梁間約一〇㍍の建物でつなぐ方式をとった。乗降場は、長さ約九一㍍、幅約一一㍍、高さ約一・二㍍のものを、停車場本屋の山側につくった。 神奈川県下の中間停車場は、川崎・鶴見・神奈川の三か所で、駅本屋はいずれも木造平屋建、川崎と神奈川には行違設備が設けられたが、鶴見は片面乗降場であった。 これらの建設工事は、明治四年九月には横浜から川崎まで、列車の試運転に差支えない程度に進行していた。当時、すでに機関車や客貨車が横浜に到着し、組立ての終わったものもあった。そこで、試運転が開始された。 参議木戸孝允の日記、明治四年八月六日(一八七一年九月二十日)の項に、次のような記述がある。 曇又雨又晴、九字前大隈に至る。大隈、後藤、吉井源同車にて金川に至る。今日蒸気車の乗試也。……神州蒸気車の運転今日に始れり。条公昨日より横浜へ出張、再度蒸気車へ乗しとき同車なり。条公金川より直に御帰京、余同行の一連皆高島屋に泊せり(『木戸孝允日記』第二)。 この日が、試運転の初日ということになる。おそらく、木戸の一行は横浜から運転してきた列車に乗って、神奈川から横浜へ行き、横浜からは前日から横浜に出張していた三条実美と同乗して神奈川に向かったのであろう。木戸はこののち、八月二十九日(十月十二日)と九月三日(十月十六日)にも試乗した。十月十六日には川崎まで乗った。試運転区間が、このころまでには川崎まで延長されたのであろう。 十一月三日(九月二十一日)には大蔵卿大久保利通も試乗した。 三時より蒸気車に而川崎迄三十分之間に着す。始而蒸気車に乗候処、実に百聞一見に如ず。愉快に堪ず。(『大久保利通日記』下巻) 政府高官が試乗して、この試運転は政府内部の鉄道に対する関心を高めるうえで、かなり効果があったとみられる。 開業式 工事は、六郷川以北の部分も進んでいて、明治五年五月七日(一八七二年六月十二日)には、品川-横浜間が仮開業した。当初は一日二往復(翌日から六往復)、運賃は品川-横浜間で、上等一円五〇銭、中等一円、下等五〇銭であった。六月五日(七月十二日)には、川崎・神奈川の停車場が開業、運賃は上等九三銭七厘五毛(三分三朱)、中等六二銭五厘(二分二朱)、下等三一銭二厘五毛(一分一朱)に値下げされた。これは区間制運賃で、品川-川崎間、川崎-神奈川間を二区、神奈川-横浜間を一区とし、一区の運賃を上等一八銭七厘五毛(三朱)、中等一二銭五厘(二朱)、下等六銭二厘五毛(一朱)として決定し、「新貨条例」公布後も根強く残っていた旧貨幣による賃率を採用したのである。なお、のちに新橋-横浜間が正式開業した時、新橋-品川間を一区としたので、新橋-横浜間の運賃は、上等一円一二銭五厘(一両二朱)、中等七五銭(三分)、下等三七銭五厘(一分二朱)となった。 利用者は次第に増加し、七月には一週間一万人、八月には同一万五〇〇〇人といわれた。八月十五日には、中国・西国巡幸からの帰途、風波のため軍艦が品川沖に接岸できなかったことから、明治天皇も臨時の措置として列車を利用、「〔午後〕第六字火輪車ニ乗御、同所〔野毛山下鉄道ステーション〕御発シ六字四十五分品川ステーションニ着御」という記録がある(「明治五年壬申五六月巡幸日誌』)。 開業式は太陰暦九月九日すなわち重陽の節句の日に予定されていたが、風雨のため十二日に延期された(太陽暦十月十四日)。 この日、午前一〇時新橋を出発した客車九輛編成の御召列車は、午前一一時横浜停車場に到着した。市街では紅白の幔幕や日章旗、日の丸の提燈をかかげたという。 横浜駅本屋の便殿で開業式が挙行された。勅語は文武百官に対するものと、内外庶民に対するものと、二つが出された。後者は次のとおりであった。 東京横浜間ノ鉄道朕親ク開行ス自分此便利ニヨリ、貿易愈繁昌庶民益富盛ニ至ランコトヲ望ム(『太政官日誌』明治五年第七五号) つづいて、駐日各国外交官代表イタリア公使コンテ=アレッサンドロ=フェ=ドスティアーニが祝詞奉呈、勅答を下賜、さらに在日外国人代表イギリス人W=マーシャルと横浜市民代表原善三郎が祝詞を奉呈した。これに対する勅答は、それぞれ外務卿副島種臣と神奈川県権令大江卓を通じて下賜された。 こうして、横浜における開業式は終了した。天皇をはじめ一行は、正午発ふたたびお召列車で新橋に向かい、今度は東京における開業式が挙行された。この横浜における開業式は、天皇の臨幸というかたちをとり、市民までふくめた公式の横浜停車場における開業式 『横浜商業会議所月報』より 祝賀行事としておこなわれた。その意味でも当時の殖産興業・文明開化の政策や風潮が、こうした行事によって、より強く一般市民の意識にも浸透していったのである。 五 京浜間鉄道の効用 運輸営業の開始 明治五年九月十三日(一八七二年十月十五日)、開業式の翌日にあたるこの日から、新橋-横浜間の旅客運転営業は開始された。時刻表は表一-四二のとおりで、発駅午前八時から午後四時まで、一二時・午後一時発を除き、一時間等間隔で運転された。客車の編成は各列車上等車一輛、中等車二輛、下等車五輛の八輛編成、運賃は、前に述べたとおりであるが、一八七四(明治七)年六月十五日改正を実施し、一区間上等一五銭、中等一〇銭、下等五銭とし、これを基準として計算することとした。これは下等一区間の基本運賃を五銭として厘毛の端数を処理、新しい貨幣制度に合わせたものである。この基準によると、新橋-横浜間の上等運賃は九〇銭となるが、ここだけは一円と定めた。しかし、新橋-神奈川間七五銭と新橋-横浜間一円との差が大表1-42 新橋-横浜間列車時刻表 注 『鉄道寮事務簿』巻4による きく、神奈川で乗降する上等旅客が多くなり、そのため一八七五年七月十日、上等運賃を変更、新橋から品川までを二五銭、川崎までを五五銭、鶴見までを七〇銭、神奈川までを八五銭に引き上げた。 到達時間は時刻表からみられるように五三分の等速運転であったが、一八七五(明治八)年六月の時刻改正にさいし、川崎にのみ停車する急行運転が実施され、この列車の到達時間は五〇分となった。それまでに、列車本数は徐々に増加し、一日一二往復となっていた。 これは、輸送需要が予想以上に多かったことによるものと考えられる。一八七二年から一八八八年までの各年度の輸送人員をみると、表一-四三のとおりである。 また、臨時列車の運転もかなり早い時期から実施された。とくに、沿線寺院の縁日などの人出に対応する輸送が多く、開通直後の明治五年九月二十一日(一八表-43 新橋-横浜間旅客輸送人員 注 『日本国有鉄道百年史』第1巻より作成 七二年十月二十三日)川崎大師の護摩供には、午前七時から午後六時まで、正規の運転時間の前後に三往復を増発して一二往復とし、以降川崎大師の縁日には増発が実施された。池上本門寺の御会式についても、一八七三(明治六)年以降新橋-川崎間に臨時列車の運転を実施、一八七六年六月大森駅が開業すると、輸送人員はさらに増加した。 一八七三年六月二十八日、東京両国の川開きに横浜から出向く人びとの便利のため、横浜発午後七時三〇分、新橋発午後一一時三〇分、一二時(午後七時発を振替)の上り一本、下り二本の臨時列車を運転した。 鉄道の効用 このような臨時列車の運転は、ほかにもたとえば東京や横浜で催される外国人などを招待する夜会の時のものもあった。たとえば、一八七九(明治十二)年一月二十日横浜で開かれた夜会の参加者のため、二十一日午前二時三〇分横浜発の臨時列車を運転した。また、十一月三日の天長節夜会の参加者のためにも、一八七九年と一八八〇年には夜半に臨時列車が運転された。 鉄道の効用は、このような臨時列車の運転にもあらわれてきた。西南戦争の際の動員兵力輸送にも、その効用は明白にあらわれた。このような異常時だけでなく、横浜における船舶の出入港に接続する臨時列車の運転も試みられた。すなわち、一八八一(明治十四)年五月八日から「三菱飛脚船」の出港日に、新橋発午後一時の臨時貨物列車に客車を増結した。また、木曜日「三菱飛脚船」の入港日には、横浜発午前九時の臨時列車を運転した。この試みは約一か月半で終わったようであるが、この時以外にも汽船に接続する臨時列車の運転がおこなわれたようである。 とくに、東京-横浜-大阪-神戸間の輸送体系は、一八七四年の大阪-神戸間の鉄道開通によってさらに変わり、両端を鉄道で輸送するというかたちが成立したのである。 貨物輸送は、一八七三年九月十五日に開始された。しかし、運賃が船舶や車馬にくらべて割高であり、輸送手続が理解しにくく、利用度はきわめて低調であった。しかし、運賃の引下げや輸送手続の簡略化によって、次第に利用度が高まり、一八七八(明治十一)年には年間一〇万トンをこえるようになった。このことは、京浜間の貨物輸送のかなりの部分を、鉄道が負担することになったとみてよいであろう。 以上のようにして、東京-横浜間に開通した鉄道は、旅客・貨物両面において新たな輸送機関としての効用を明らかにしていった。そして、開港場としての横浜の、輸送中継基地としての機能も、この鉄道開業を契機として飛躍的に高まっていったのである。 第三章 土地制度の改革 第一節 市街地への地券交付と地租改正 一 横浜市街地への地券交付 横浜市街地の土地所有関係 横浜市街地は、幕末、開港にともない、幕府によって急拠造成された。したがって、その土地所有関係は、小田原が本来の封建都市として、武家地と地子免除地である町地とから成っているのとは異なっている(以下『横浜市史』第二巻第一編第三章第一節および第三巻下第六編第一章第二節による)。すなわち、貧しい農漁村であった横浜村などの高請百姓所持地その他を、幕府が御用地として接収し、貢租を高内引として免除するとともに、元所持百姓には、年々一定の作徳金(明治四年十月大蔵省あて神奈川県「作徳金下渡方伺書」によれば、それは「年々十月中之値段を以米麦を金ニ替右江歩通五分増加」して算出した)を交付し、居住者を、元町へ移住させた。そして、この接収地を、外国人居留地と内国人居住地に区分し、後者をこの地に移住してきた町人に拝借地として割渡した(表一-四四)。この拝借人からは四等級に分かれた土地等級に応じて月々「地代金」を徴収した。したがって、この土地は、「高内引町並地」と呼ばれるように、本来は高請地であるものを公収して御用地としたのであって、元所持の百姓にはなお潜在的に土地保有権が保留されている。一方、借地人である町人には、貢租にみあう高額の「地代金」が課され、土地の売買質書入は禁止された。東京や小田原などの町地が、無税、かつ売買質書入が認められている私有地であるのとは、性格を異にする。ただし、このような官地としての性格は、この地での活発な商業活動の結果として、次第に有名無実化しつつあった。明治四年(一八七一)四、九月神奈川県は、横浜関内外地所拝借人に対し、拝借地の又貸しや拝借地担保の金融を禁止する布達を発しているが、かかる禁令じたい、現実に拝借地担保金融や事実上の所有権移転がなされていたことを示している。 明治四年四月の拝借地貸渡禁止第一五号布達では、拝借人が地所を、「貸長屋之名義ヲ以分借ト唱、余人ニ貸渡」すのを禁止しているが、「是迄之儀ハ出格之訳ヲ以、別段不及沙汰」と、既成事実をすべて公認し、「其名分借ニして其実自分拝借同様ニ相成候分(事業上の借地権の移転)、并分借いたし居候分共、来ル十五日迄に改而上知拝借可願出候」として、実際の関係を把握し、これをもとに地所拝借人を確定しようとした。こうした「地所拝借人」は、高額の「拝借料」を負表1-44 高内引による横浜市街地形成の内訳(明治5年6月現在) 注 1 『横浜市史』第3巻下,583ページ第118表による。 2 反以下,石以下は切捨て。数値は第118表の原数値のまま。したがって合計値は若干相違する。 担するとはいえ、すでに事実上の土地所有者であり、右の布達が命じる、今後の拝借地又貸しの禁止も、貫徹は困難であったろう。この横浜港関内地は、横浜・太田町の高請地から高内引された八万五〇〇〇余坪からなるが、面積は水中無税地の埋め立て、「縄延び」のはじき出し等によって八万八〇〇〇余坪に増加した。幕府-県は、右の高内引として公収した地の元所持主に対し、年々二五五四両余の作徳金を支払い、一方、拝借人からは一万七五六〇両の地税を徴収した。したがって、差引一万五〇〇六両余が、年々県の収入となるわけである(表一-四五)。 陸奥の市街地地券交付建言 この横浜市街地の土地所有関係を改革する動きが、廃藩置県直後の明治四年九月十八日、初めて、神奈川県知事陸奥宗光によって提起された。大久保大蔵卿・井上大蔵大輔あての「地所拝借之儀停止、改而地券売渡之儀伺」がこれである。 これより先、明治四年三月二十日、大蔵省は、三府五開港場に統一的な地租賦課法を定め、もって「漸次ニ全国一般ニ拡行セント」し、この旨を太政官に建議し、まず東京府下はじめ、二都開港場そのほかの地子免除市街地に対し、地券を発行して地租を賦課する方法(当時大蔵省はこれを「沽券税法」と称している)を策定しつつあった。そして、これがまだ表1-45 横浜関内地の旧地種・地税と下渡作徳金額(明治4年10-12月) 注 1 『横浜市史』第3巻下,584ページ第119表による。 2 数値は第119表の原数値のまま。 成案をみないとき(最初の地券発行規則である東京府下「地券発行地租収納規則」は、十月七日伺、十一月五日正院裁可、十二月二十七日太政官より東京府へ布告、翌年一月大蔵省が同規則を東京府へ達、六月二日東京府管内へ布達)、陸奥の伺は、これまで拝借地であった横浜町人居住地を、彼らに売渡して私有地とし、地券を交付し相当の地租を徴収することを提案(ただし具体的方式は調査の上、伺出るとしている)したのである。したがって、この伺は、やがて全国一般の地への地券交付・地租改正へと発展してゆく政府土地改革政策の先駆をなすものであった。 明治四年十月陸奥の地券交付方式 陸奥の具体的な地券交付の方式は、十月(日付不明)にいたって大蔵省に提出された。その伺文はまだ紹介されていないので、主文のみを次に掲げる。 当港地所拝借之儀は停止いたし、改而地券下ケ渡方相伺候処、方法取調見込とも可申立旨御指図ニ付、勘考候処、当港ハ三都府下等と異り、本年貢地ニ付開港以後御用地ニ相成、町人共拝借為致候後も、地代四等ニ分チ取立来候得共、追日当港繁栄いたし候ニ付而ハ、地位不適当之分も可有之候ヘ共、即今一挙ニ難差定候間、別紙を以申上候通、先ツ関内之分丈ケ地所御買上取計候上、地券相渡公私判然ニ区別相成候上にて、後日確当之地税金取極候儀は、右地券を沽券ニ改革いたし候事も容易ニ可有之、依之地券案相副、此段相伺申候、以上 辛未十月 神奈川県 大蔵省 御中 これに付された「作徳金下渡方伺書」によれば、まず関内の高内引町並地について、元所持百姓に、これまで年に下渡してきた作徳金の五か年分を一時に下付して、この地を彼らから買い上げる。その上でこの地の拝借人に地券を交付し、所有地たることを認め、「公私判然」とさせる。しかし、従来拝借人に課してきた地代はそのまま据え置き、後日適当な地税を定め、地券を「沽券」に切り換える、という内容である。この措置によれば、関内の町人居住地は、高請地から外され、旧所持百姓の手から完全に切り離された官地となる。しかし、これは従来の地代金を据え置いたまま、拝借人の私有地と認めるというのであり、条理の上では、官地を無償で私有地に切り換えたことになる。当然、大蔵省は、この点に難色を示すが、県は、「横浜は、東京・兵庫と違い、従来官地なので地価が形成されておらず、右の二地のように入札公選法で地価を求めるわけにはいかない。ひとまず地券を渡し、私有地とし、売買譲渡を自由にし、一般地価が形成されてきた上で、地価を定め、従来の地代を地租に切り換えたい」と主張してついに十二月五日、この案を横浜港に限り、かつ早急に地価を改定し百分一税を布くという条件で大蔵省に認めさせた。 しかし、先にのべた、明治四年四月の県第一五号布達が、それまでの「分借」などの名儀での土地移動の結果を、すべて公認せざるをえなかったように、事実上の売買・質書入はすでに一般化していた。官地をそのまま私有地に切り換えるこの案は、すでに実際には私有地化していた横浜市街地の実態の追認にほかならなかった。 関内町地への地券交付 こうして、政府の承認を得た県は、十二月十二日、横浜五区市長・副市長あてに、地券交付取調を命じ、一般に対し、地券交付の触示を行った。 関内之町地は都而地券相渡候に付、自今華・士族、卒、平民に不拘売買指免し候事 外国人居留地山手雑居之地所を除き、其他町地は外国人江質地売地ニいたし候儀、決而不相成候事 今度関内拝借地は都而地券相渡し、向後所持人之所有ニ相成候間、拝借地之坪数間数等委敷取調、来十二月十七日迄可届出候事 是迄内借地いたし居者は、其拝借人と示談之上、前条之地券相渡、其者所持地へ可申付候事、地券相渡候上は是迄相納有之候身元金及糴金ハ向後御下渡不相成候事 道路は都而六間ゟ狭小ニしてハ繁栄之土地雑沓ニ可及候、若道巾六間以下之町々は双方家並之中、相当之削地可申付事 但、右町地家並共即今取払ニ不及候事 右之通末々迄不洩様可触示者也 さらに、これらを詳細に定めた「心得書」(全文は『横浜市史』第三巻下六〇五ページ以下参照)も布達されている。 地券交付の事業は、県市政掛、小島典事・丹波大属・太田権少属・石川史生(四年八月任命)によって、五年正月から始められ(明治七年一月十七日、県少属・地券課町方掛田村可行「事務順序書」)、同年三月四日から町ごとに地券の下付がなされ、事業は六月ごろほぼ完了した。関内町地から徴収した地券手数料は九八二両、手数料は坪数にかかわらず地券一枚に付一両との規定からすると、発行地券数は九八二枚であった。また、五年五月からは、関外町並地のうち、羽衣・姿見・吉原町への地券交付が始められた。 この結果、改めて従来の地代が、そのまま地税として確定したが、関内について町別に示すと表一-四六のごとくであった。これによれば地税(旧地代)は、一〇〇坪当たり二三円六銭余となる。なお、これに先立つ四年十二月に、元所持主に対し、明治四年から五か年分の作徳金が買上代として下付されたが、その総額は一万二七七三両永八九文五分(表一-四五所掲作徳金の五倍にあたる)であった。 表1-46 横浜港内町別地税額(明治5年分)明治5年3月調 注 「地券書類」(宇田川家文書)より作成 地券税法への変換 以上の経緯によって、横浜市街地に交付された最初の地券には、前述のように従来の地代と同額の地税が記されているのみで、地価額の記載はない。 しかし、県は、この地券交付事業がまだ完了をみない明治五年四月二十日、早くも、横浜市街地への地価の設定にとりかかった。 大蔵省は、五年三月、各府県に対し、東京府下地子免除地への地券発行地租収納規則案を示し、これに準じて、各地地子免除地に「沽券税」を施行すべき旨を達した。しかし神奈川県のばあい、さきに関内町地への地券交付が許可になった際(四年十二月五日)、「自今施行之後漸次沽券へ更正之処置無之而ハ、後来外々之指障ニ相成候間、見込取調出来次第、早々可申立事」との条件が付されていた。よって、早々に地価設定にとりかかったと思われる。この地価とは、「東京府下地券発行地租収納規則」によれば、地主が申告した現今の売買価で(不当に低価申告したときは入礼糴売の法がとられる)、その一〇〇分の一が地租となるはずであった。 さて、五年四月二十八日の県触達は次の通りである(宇田川家文書「地券書類」)。 兼而相渡置候地券、裏面江別紙之通正価相認可遣間、地所と家作と之別を分チ、買請候節之直段、或は当今所持人適宜之直段にても不苦間、篤と取調来ル五月十日限可指出候 右之通相心得早々順達留ゟ可相返者也 壬申四月廿八日 神奈川県庁 (別紙) 表書何誰所持之地所、金何千何百両之代価有之旨申出候段、聞届置者也、 年号月日 陸奥神奈川県令宗光 こうして、同年六月には、地価設定を終え、従来の地税に代えて、地価一〇〇分の一の地税徴収体制が整った。これを極めて短期間になしえたのは、県市政掛が、四等級に分かれた旧地税を町毎の盛衰を考慮して増減し、ここから地価額を導き出して地主に受諾させたからに違いないが、それには総額三九六〇両余の減税になることが、大きな力となっている。 以上の地価設定と、それによる地券税法施行に伴う新たな地券「心得書」案は、七月九日大蔵省の承認を得た。なお、これまで神奈川県令として横浜港地券交付を推進した陸奥宗光は、六月、大蔵省に登用され租税頭となっているので、県と大蔵省との交渉はきわめて円滑に進んだであろう。 こうして、七月二十五日、県は次の触書を順達し、横浜港内町地への地券税法施行を宣言した(前掲「地券書類」)。なお、県・政府は、この地価を記載した地券を「沽券」と称している。 先般当港内町々江地券相渡候処、此度沽券ニ変革いたし、従前之地租は当六月を限り相廃し、以来之儀ハ此程持主共ゟ適宜に書出し候、地価之百分一税金として年々前納ニ取立候筈、尤当年分ハ七月ゟ施行いたし候儀ニ付、半ケ年分当七月晦日限可相納事 一沽券相成候ニ付、心得方之儀ハ心得書壱冊ツヽ可相渡間、右にて得と相弁可申事 一渡置候地券へは裏書いたし可遣間、心得書相添、一区二日ツヽ之日取を以区順ニ指出可申事 右之通相触候間地主共ヘ無洩落申達、至急順達留ゟ相返者也 壬申七月廿五日 神奈川県庁 右に示されているように、「沽券」への切換えは、すでに交付した「地券」の裏面に地価を記すことで済ませた。よって、この作業は、遅くも九月半ばには完了している。 なお、横浜関外町並地のうち、羽衣・姿見・吉原の各町は、右関内地と同様に措置され、それ以外の関外町並地は、地券交付を行わず、直ちに「沽券」を交付することとし、八月七日大蔵省の許可を得て、同年十一月二十八日に、まず、芝生村・平沼新田・岡野新田(藤江新田地先)・北方村・根岸村の町地に「沽券」を交付し、六年一月に、吉田町・野毛町を終えた。なお、このころは後述のように郡村耕宅地にも地券(壬申地券)交付が進められており、尾張屋新田・平沼新田・藤江新田(芝生村地先)・岡野新田の田畑にたいしても、右の「沽券」交付と同時期に郡村地券が交付されている。 一八七三年大火跡地の地価再調査 一八七三(明治六)年三月二十三日の横浜大火は、関内町地の約三分の一におよび二六の町、約二〇〇〇軒の家を焼き尽くした。県は、これを「至極之好機会」として、復興にあたり焼失地の地揚げ・地画整理事業を実施し、同年十二月までにほぼ完了をみた。ついで、十二月一日、右作業を担当していた県営繕課から、地券課町方掛りに、地画割替図面が渡され、以後同掛りによって、地揚げ地の地価再調査が始められた。同掛りでは、まず右図面によって、地価の欄を空白にしたまま、地券大帳を作り、ついで地券状作成に着手し、十二月二十三日ごろには、跡地地主三七五人へ地価記載のない地券の交付を終了した。以後、地主からの申告にもとづいて地価決定がなされた。しかし、実際には、焼失地は大火後一年半は免租で、さらにその期間が切れる一八七四年十月には、地主らは運動してふたたびむこう一年半の免租をかちとった。そしてこの再免租期間に、後述市街地地租改正により地価が改定されたので、右の焼失地再調地価による地租は、結局徴収されないで終わっている。 「沽券」交付後の状況 横浜市街地の地代が高額であることは、従来県も認めるところであったが、「沽券」交付のさいの地価設定によって、若干の減税がもたらされた後も、右の事情は変わらなかった。 地価設定の当初、県は土地売買が行われたばあいも、地価三か年据置きを定めたが(「心得書」第四条)、一八七三年三月四日、大蔵省は、とくに神奈川県に対し、右規定を廃し、常に売買地価によって地租を収入すべき旨を令達してきた(「地租改正例規沿革撮要」『明治前期財政経済史料集成』第七巻二七五ページ)。よって県は、翌四月、「横浜港町々沽券税の儀は、地所売買代価昇降ニ不拘、壬申年ゟ三ケ年之間税額据置之積候処、詮議之次第有之、右は取消以来代価昇降ニ随ヒ、税額増減可致事」を布達した。 この結果、横浜大火後の不景気にあたって、土地売買のさいの売買価は、従来の地価より低下し、地税の減収傾向があらわれるにいたった。加えて、売買されない地所の地価減額を要求する願書も県に提出されてきた。これに対し、県地券課は、実際の売買価に見合う額にまで引き下げると、従来一坪の地価一五円が五円に、あるいは四円が二円に低落すると述べて、地価修正に反対した。ここからも、県当局者は、横浜市街地地価が不当に高いことを自覚していたことがわかる。 市街地地租改正の実施 郡村での地租改正が進むにつれ、政策上、市街地税法を是正し、両者を「公平画一」にする必要が生じてくる。同時に、各都市の特殊事情によって生じた都市相互間での地税不均衡の修正も必要であった。こうして、一八七五(明治八)年八月二十八日政府は、太政官布告一三三号をもって「府県市街地是迄地価百分一収税致来候処、明治六年第二百七十二号布告ノ通、地租改正法各管内一般ニ施行候節ハ、右改正法ニ準拠シ、地価百分三税ニ改正候条、此旨布告候事」を達した。この布告にもとづいて実施されたのが市街地の地租改正である。その具体的方式は、一八七六年三月七日、地租改正事務局別報達「市街地租改正調査法細目」によって定められ、各都市での画一的な事業実施が図られた。 横浜港市街地の地租改正も、一八七六年から着手した。ほぼ右の「調査法細目」に従って土地の実測・区画の確定・地積の算出をした上で、地主総代に、各地を表裏に分け、商業の盛衰・運輸の便否などによって地力を鑑定させ、その優劣に応じた地位等級を定め、これを組織して各町連合表を提出させ、県官がこれにもとづいて、地価を定めていった。その結果は旧税の約四・六㌫の増税であるが、単位面積当たりの税額は、旧税(地価一〇〇分の一の際の地券税)は旧地坪一〇〇坪につき六円三六銭、新税は改正地坪一〇〇坪につき六円三四銭(いずれも宅地のみ)で、かえって減少している(表一-四七)。右の増加は、主に精密な実測によって地坪が増加したことによると考えられる。 市街地地租改正によって、東京はじめその他の都市では大幅な増租(東京では地租が約四倍、大阪では約六、七倍に増加)が結果したのに比すれば、増租はきわめてわずかであった。しかし、この改正によって、東京市街地(宅地のみ)は、改正地坪一〇〇坪につき新税は四円一六銭となったのであって、横浜市街地の六円三四銭よりもなおはるかに軽い。ここから判断しても、横浜市街地の幕末・維新期の地代-地租負担が他の都市にくらべ、いかに重かったかがわかる。 注 (1) 宇田川家文書「地券書類」。全文は『横浜市史』第三巻下五九一ページ、および丹羽邦男『明治維新の土地変革』二五〇ページに所掲。 (2) 「大蔵省沿革志」(『明治前期財政経済史料集成』第二巻三一四ページ)、「地租関係書類彙纂」(同前掲書、第七巻三〇五ページ)。 (3) この伺に付された別紙のうち、地券書式およびこれに掲げられた地券規則の全文は、福島正夫『地租改正の研究』六四ページ以下参照。 (4) 「地租関係書類彙纂」『明治前期財政経済史料集成』第二巻三〇九ページ。同書の五年正月と表1-47 横浜市街地(元町・山林原野を除く)の地租改正の結果 注 1 免税地中には「免税可伺出分」をも含む,その他は論地6,924坪。 2 「新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資料』下巻)より作成。 あるのは誤り、「地券諸伺届纂録」(宇田川家文書)に掲げられている足柄県あての同達写しによれば三月である。 (5) 全文は、『横浜市史』第三巻下六〇五ページ以下参照。 二 小田原・箱根宿等市街地への地券交付 足柄県下の市街地 足柄県下での市街地への地券交付は、神奈川県よりはるかに遅れ、明治五年(一八七二)十一月になって着手された。すでにのべたように、この年の三月には、大蔵省租税寮は各府県に、「東京府下地券発行地租収納規則」を送付し、各地方地子免除地に追々これを及ぼすべき旨を達している。そして、一方郡村地に対しても、「田畑永代売買解禁布告」につづき、七月には一般の地への地券発行が「十月中に渡し済み」という期限付きで達せられている。このような中央の動きからみても、足柄県での地券交付の第一着は遅い。これは、元小田原県からの事務引継の遅延によるのであろう。例えば、足柄県は、置県後一年を経た五年十一月にいたって、元小田原県に対し、畑地等の内にある士族・卒屋敷引の事由・年暦等を問い合わせ、「貞享度(一六八四-一六八七年)稲葉家より引附請候地所にて、年暦は勿論詳細の儀は更に相分らず候得共、旧藩においては夫々授与申付置候儀にて貸地は一切これ無し」との回答を得ている。こうした管下事情の把握の遅れに加え、管下の行政機構も、この五年十一月にいたって大区小区制が設けられ(『資料編』11近代・現代(1)第一編第二章)、ようやく新置県として統一した行政機構が整えられている。 さて、県下で市街地地券交付の対象となったのは、小田原の武家地・地子免除地である町地のほか、無高無税地であった箱根宿・元箱根村・芦ノ湯であった。 小田原への地券交付 明治五年(一八七二)十一月十五日、まず、小田原武家地(貫属住居屋敷地)への地券交付・地価一〇〇分の一の「沽券税」施行(明治五年から)が伺い出され(「貫属屋敷地券渡方ニ付伺書」)、ただちに同月二十三日、租税寮から申し出の通り許可が下りた。 貫属居住屋敷地は、往古稲葉家が家臣に割渡したのに始まり、貞享度大久保家が授与し、以来家臣が住居してきた武家地であり、したがって、地代金を取らず、そのまま従来の住居者に地券を交付した。その内容を表一-四八に掲げる。地価は、三等に区分して定めているが、「土地柄相当之地価」というものの、後にみる町地とくらべてきわめて安価である。右につづいて、小田原町地その他について同様の伺が出され(「地券渡方之儀ニ付伺書」)、これも十一月二十八日許可となった。 町地への地券交付結果を直接に示す資料は不明であるが、表一-四九にみるように、一八七四(明治七)年分地券税の小田原小一区・小二区合計の数値は、旧武家地・町地合計のも表1-48 小田原貫属屋敷地への市街地地券交付結果(明治5年) 注 「地券諸伺届纂録」(宇田川家文書)より作成 表1-49 足柄下郡1874(明治7)年分市街地地券税 注 「地券諸伺届纂録」(宇田川家文書)より作成 のと考えて差し支えないので、これから表一-四八の貫属屋敷地(武家地)の分を控除した残りが町地の数値ということになる。それによれば、町地の地坪は、八万六三〇二坪二〇六、地価(地券金高)三万六四一〇円二五銭九厘、沽券税(地価一〇〇分の一)三六四円一〇銭二厘余、一〇〇坪当たり地価三一円一二銭同地租三円一銭二厘である。貫属屋敷地に比して、はるかに高い。しかし、前述の横浜市街地に較べると、その半ばにみたない。 地価は、場所によって高低がある。電信局設立のため買い上げられた旧高梨町(一八七五年改め万年町三丁目)の土地(五二坪)の地価は、一〇〇坪当たり四一円七〇銭であり、また、元助郷会所跡地、茶畑町(改め幸町三丁目)の土地(一一七坪)は、一〇〇坪当たりの地価が二二円二六銭六厘であった。 なお、市街地地券の発行枚数は、幸町外四か町(一八七五年町区画改正前の町名、以下同じ)を構成する貫属住居屋敷地に対し一〇六〇枚、山角町外一八か町から成る町地に対し一三八七枚、計二四四七枚であった(注(3)に同じ)。 箱根宿等への地券交付 足柄県は、小田原市街地への地券交付作業に着手すると同時に(明治五年十一月)、従来無高無税であった芦ノ湯への地券交付作業にもとりかかり、ついで一八七三(明治六)年二月には元箱根村・箱根宿に対してもその作業を開始した(注(3)に同じ)。そして、以上の結果をとりまとめ、一八七三年四月、右三地への市街地地券交付、七三年からの「沽券税」施行を大蔵省に伺い出て、同月二十三日裁可を得た。その調査結果は表一-五〇のごとくである。地価はきわめて低価であるが、これを伺は、次のように説明している。 箱根宿は、耕地が全く無く、従来往来する旅客の休泊を業としてきたが、近来旅客の往来が少なくなり、「潰退転」する者も出て、当今では山稼ぎ等をしてわずかに生活している有様である。また元箱根村は、箱根神社領上知の地で、旧神官らが旧小田原県へ出願して一村を作ったのだが、箱根宿同様、「山上ノ孤村」で「耕地等ノ本業モ無之」地である。よって表掲のような低価が「土地柄相当」であるとする。芦ノ湯もやはり、「古来無高無税ノ地ニテ山間ノ一孤村作地等ハ聊モ無之」地だが、湯税を納め温泉を営み、小坪数ではあるが「全一区商店ノ躰ヲ為シ」ている。よって、前二地よりも高い地価が相当としている。 なお、県は、後に元箱根村のうち姥子の大縄四反分に対しても地価一二〇円と定め(芦ノ湯と同様一〇〇坪当たり地価一〇円)、これに村持の地券を下付し、地価一〇〇分の一の地税を収入し、別に湯税年三円を従来通り納めることを伺い出て、六月二十五日大蔵省の許可を得た。姥子は、万治年間、村方から箱根神社別当に願い出て、湯小屋を建て、湯治人から湯代を申し受け、村入費で湯亭を修営するなど、古来から村持で進退してきた。県は、この事実にもとづき村持地券下付を申請した表1-50箱根宿・元箱根村・芦ノ湯への市街地地券交付結果 注 前掲「地券諸伺届纂録」より作成 表1-51小田原駅市街の地租改正結果 注 1 小田原駅「新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資料』下巻)による。 2 沽券税法施行中の旧地坪・旧税金(宅地)は,表1-49の数値(小1区,小2区の合計値)と一致しない。これは本表が明治8年度分の数値を掲げているからである。8年には官地の新規払い下げがあり,坪数・税額ともに増加した。 が、租税寮は、現実の面積を調べ、村名受の公有地として地券を下付することを命じている(「租税寮改正局日報」明治六年三三号『明治初年地租改正基礎資料』上巻二四二ページ)。芦ノ湯と同じく「沽券税」を施行したのであるが、村受公有地の地券を交付した点が特異である。 小田原市街の地租改正 前述のように、一般郡村地での地租改正進捗にともない、市街地での地価一〇〇分の一の「沽券税法」を、郡村同様地価一〇〇分の三に改定する地租改正が行われるが、小田原においても、これが一八七六(明治九)年から着手され、七九年十月二十四日地租改正事務局の裁可を得た。この時には、小田原も神奈川県管轄下に入っており、統一した方針の下にすべて横浜と同様の方式で実施された。「沽券税法」下では、一〇〇坪当たり一六銭二厘余であった地税が、改正によって五八銭五厘に増加している(貫属住居屋敷地と町地とを合した市街地の数値)。しかもなお、横浜市街地よりは格段の低額である(表一-五一)。 参考までに、市街地地租改正で、郡村地と同様地価一〇〇分の三の地税を負担することになった全国主要都市と横浜・小田原の地税負担を表一-五二に掲げておこう。これによれば、前述したように、横浜市街の地租は全国でもぬきんでて高く、一方、小田原市街は、近くの三島あるいは、関東の地方都市とくらべても低位にある。神奈川県は、市街地地租負担で、いわば両極に位置する都市を持っているといえよう。 表1-52 市街地地租改正による新地租額 注 各「新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資科』下巻)より作成 注 (1) 「地券諸伺届纂録」「旧足柄県諸伺届」(宇田川家文書)。 (2) 明治五年十一月十五日足柄県「貫属屋敷地券渡方ニ付伺書」(「地券諸伺届纂録」)。なお、これと同主旨の「足柄県大意」が、「租税寮改正局日報」、明治五年四一号(『明治初年地租改正基礎資料』上巻一一二ページ)にも掲げられている。 (3) 注(1)「地券諸伺届纂録」 (4) 「租税寮改正局日報」、明治六年二三号(前掲書二〇六ページ)所掲。また、同文のもの(若干字句の違いがある)が、前掲「地券諸伺届纂録」にも載せられている。 第二節 郡村地への壬申地券交付 一 旧神奈川県での地券交付 地所永代売買解禁と地券交付 明治五年(一八七二)二月十五日、政府は、地所永代売買を解禁し、同月二十四日、売買譲渡地への「地券渡方規則」を布達して、前述東京府下など市街地にひき続いて、郡村地への地券交付に着手した。 このとき、さきに横浜市街地への地券交付を伺い出た神奈川県令陸奥宗光は、抱懐する「田租改革」意見を太政官に上申した。同年四月のことである。この建議は五月裁可され、大蔵省で検討されることになったが、これにともない、六月十八日陸奥は大蔵省租税頭に抜擢された。この陸奥租税頭の下で、七月四日、全国一般の土地への地券交付が発令され、同月二十五日、租税寮内に改正局が新置されて、新たな地租法の準備が進められた。 当時、現神奈川県および三多摩からなる地域には、神奈川・足柄の二県が置かれ、したがって、壬申地券交付と地租改正の初期段階とは、二県でそれぞれ別個に進められていくことになる(一八七六年四月まで)。 神奈川県での地券交付着手 神奈川県での地券交付事業の開始は、まだ陸奥が県令であった明治五年(一八七二)五月ころと考えられる。すなわち、同月付、陸奥の大蔵省あて「神奈川県地券心得書」公布方伺(後述)の初か条に「(今般地所永代売買解禁と地券渡方規則公布があったので)田畑及び山林等近傍売買直段其他持主において適宜之価書き出すべき旨、村々江触示し置候間、書出次第、譲渡の分同様、悉皆地券相渡候様仕るべく存じ奉り候」(『明治初年地租改正基礎資料』上巻補遣四ページ)とあって、県は、遅くも五月に、地券交付の作業を命じる触示を発したことがわかる。 ところで、県が右の伺を出した時点では、政府はまだすべての地への地券交付は発令していない。また、同伺の第二条では、県独自に、地券交付にあたり、種々の形態をもつ在来の質地を整理するための「心得書」案一〇か条を作り、裁可を求めている。いずれも、陸奥宗光を県令とした神奈川県が、政府の地券交付・地税改革の方針にきわめて積極的な姿勢をとっていたことを示している。この伺は、両条とも、七月に大蔵省から許可された。このとき、陸奥はすでに租税頭となっており、いってみれば、自分が県令として提出した伺を、自ら租税頭として裁可したわけである。 さて、右伺が裁可された五年七月、県は、地券取調掛附属等外一等に、添田七郎右衛門(知通・橘樹郡市場村名主)、下田半兵衛らを任命するとともに、管下各村に、前述五月「触示」(正確な日付と全文は不明)にもとづき、「田畑其外直段書上帳」の雛形を木版で印刷し配布した。多摩郡蔵敷村に配布された同雛形(東京都東大和市蔵敷内野禄太郎家文書)には、「壬申七月各村ヱ壱冊ツヽ御渡」と記され、その配布時点が確認できる。なお、質地「心得書」も印刷・配布されたものの日付は、七月となっているが、右蔵敷村へ配布された分の表紙(前掲内野家文書)に「壬申八月廿三日各村長ヱ壱冊ツヽ御渡」とあるように、実際に村方へ渡されたのは、書上帳雛形より一か月遅い八月であった。 「田畑其外直段書上帳」の作成 こうして、神奈川県の村方での地券取調べ作業は、政府がすべての地への地券交付を布告したのと、ほぼ同時に開始された。 橘樹郡末長村では、七月二十八日付で、この区域を担当する地券取調掛附属添田七郎右衛門から次の「順達」(川崎市高津区末長中山清家文書)が届いている。 今般地券取調、左之日割之通巡廻可致、尤其已前調方行届、県庁江差出し候村々差除、未タ取調中之分は精々実地適宜之取調致置、我等巡廻之上一覧、夫々談判可及候得共、郡中一般稠密調上之義、悉ク手数も相掛候ニ付、各区元戸副長において、区内エ協力注意いたし、一同申合勉強可致様、御沙汰之次第モ有之、依而は各区村々其節出会は申触候様いたし度、且差向調方都合左ニ 一 検地帳其外名寄小拾帳等ヘ番号引合候様可致事 一 一筆之田畑ヲ切畝歩ニいたし、弐人、三人、幾人ニて所持罷在候とも、其原歩肩書ニ顕シ遣可申事 一 有高無反別之村方は田畑一枚限見面反別新ニ番号ヲ極可申事 一 切添・切開等ニ而無高有反別之分は、是又一枚限番号を付、別帳ニ可認事「田畑其外直段書上帳」(部分) 内野禄太郎氏蔵 一 質地年季中之分は質入之払主方ヘ仮ニ引付、旧弊ニ不抱、当今之直段ニ準照シ、払代金可書出事 右之通概略申達候、尚巨細着々と可申談、此状不限昼夜至急順達、従留可被相返もの也 (明治五年) 壬甲 七月廿八日 神奈川県出役 地券取調掛附属 添田七郎右衛門 地券取調掛附属は、分担区域を巡回するとともに、右のような順達を、随時村々に回し、村では、これらを筆写して調査の拠りどころとし作業を進めた。 右順達は、「田畑其外直段書上帳」作成の基本方針を指示したものである。要約すれば、(一)書上帳は、一筆ごとに検地帳などと照合して作成する、(二)その際、高があって実際には土地がないもの、無高で土地のみがある切添・切開・隠田など検地帳等旧公簿と照合できない分は、別記し明らかにしておく、(三)年季中の質地は、仮りに質取主の分に載せ、現在の相場で質代金を記載する、という内容であった。 県は、各村から、日限通り作業を完了するとの請書をとって「田畑其外直段書上帳」の作成を急いだが、上述の方針は、実際に直面して種々の難問が生じ、容易に進捗しなかった。 多摩郡では、県地券掛附属下田半兵衛が、九月三日付で発した触達(「明治五年御用留戸長尾崎次郎右衛門」東京都八王子市上恩方 尾崎知三家文書、および「触達」同草木兵治家文書)のなかで、「先般地券取調御用に付廻在の上、区毎宿村一筆限り地価書上方(「田畑其外直段書上帳」作成のこと)日限請書差出され候処、未た遅れにおよび候村方多く、県庁に於て取調方差支」えていると、作業遅延の現状をのべ、さらに廻村するから、未提出の村は、印形・書上帳下書の出来ている分を持参し、宿所に出頭するよう命じている。上恩方、上・下川口村など一五か村からなる三九区では、右触達をうけて九月五日と七日付で地券掛附属永嶋亀一郎の廻村が達せられ(前掲尾崎知三家文書および草木兵治家文書)、「書上帳」未提出の村に、「本紙或は下調帳共引合すべき検地帳の類、割付等の書類」持参の上出頭が命じられている。永嶋は、同月十二日二ノ宮を出立して、昼、伊奈村にいたり、ここに三九区諸村役人に、諸書類・印形持参集合を命じ、種々「談判」を行った。 こうした督促にもかかわらず、三九区では、一八七三(明治六)年二月二十四日現在、引田村上知分、上・下川口村、上恩方村の四か村がまだ「地券一筆地価書上帳」を提出しておらず、「甚等閑の至にて不都合に付、至急差出候様」との催促をうけている有様であった。 都筑郡片平村では、五年八月に、戸長が小前惣代を集め、この村の「田畑其外直段書上帳」作成には、検地帳の代わりに「天保度一筆限帳」を用いることを定め、異議ないよう「請書」(川崎市多摩区片平「田畑直段付請書」安藤資次家文書)をとり、作業にとりかかった。「請書」の全文は次の通りであった。 差出申一札之事 御一新ニ付、今般国中一般地所ニ関係いたし候分、一筆限地代取調可差出旨、御触達并ニ地券御渡ニ相成候ニ付而は、右地所江突合へく、検地帳・名寄帳取揃、是又可差出旨御触達之趣、一同承知奉畏候、然ル処、当村之儀ハ往古ゟ検地帳・名寄帳無御座候ニ付、天保度御書上ニ相成候地所一筆限取調帳を以、此度御取調可被下候、右ニ付従来持高入狂ひ候共、今般改正之儀ニ付一言之義申間敷候、右天保度帳面を以御認御書上可被下候、為後日小前惣代連印、如件 明治五壬申年八月 武州都筑郡片平村 小前惣代(以下人名略) 御役人中 また、橘樹郡末長村では、五年八月、一応「書上帳」を作成したが、廻村の添田地券取調掛附属から、書上げの反別・地代金額が過少だとして再三の説諭をうけた(前掲中山清家文書)。 以書付申上候 今般地券為御取調御巡廻被成、兼而御布告之通田畑・山林・小物成場等総而生地之分一筆限実地取調、当今適当直段地代金積立、可書上は勿論之義ニ候処、持主・小前之内中ニは心得違いたし、見面減歩ニ申来し、又は小作米金等減少ニ申出、自然作徳ニ走リ方ニ為差響、兎角今高相劣りを是とし、如何之懸疑を見越し居候者も可有之哉、左候而は御旨趣ニ悖リ候而已ならす、後日再応券証御書替相願候節は、眼前ニ不都合之義ニ付、精〻正路ニ調方可致旨、厚御説諭之赴承知仕、小前持主之者共へ篤と申聞、夫〻取調書上候処、隣村〻江見平均候而は格段金高相劣り、不相当之義と尚再三御説得御座候得共、元来当村之義ハ悉薄地ニ而、外村〻之振合ニ比較候而は実以地味相劣、全当時流用質地之直段ニ引付、精算調方およひ書上候義ニ而、此上何様御検査有之候とも、右之外金高可進様無之候間、此段以書付申上候 明治五年壬申九月 武蔵国橘樹郡末長村 戸長 中山重兵衛 副長 渋谷定右衛門 副長 渋谷武七 小前惣代 川野市三郎 神奈川県 地券取調掛御出役 添田七郎右衛門殿 これによれば、巡回地券掛は、末長村の書上げた地代金額に満足せず、その引上げを求め、村では、当今の質地直段を基準とした地味相応額だとして、これに反発した。一応「書上帳」を作成した村でも、このような問題が生じていることは、地代金の決定が容易でないことを示すものであった。 「高反別其外取調書上帳」の作成 このため、県は十月にいたって、「反別高貢米小作明細書取調ノ事、反別高貢米作徳等取調ノ事」(『神奈川県布達全書目録』明治元年-十年神奈川県立文化資料館蔵)を布達し、各村に、「高反別其外取調書上帳」の木版雛形を配布して、その調査作成を命じた。これは、一村の田畑その他各地目ごとに(一筆限調査ではない)、川欠等を除いた現反別を書き上げ、それの貢米(正租・本途米)・作徳米(「小作取立米之内貢米江相掛り候口米・延米・拵賃米・海陸運賃米其外諸般高掛り村入費等迄総而代米ニ而引去り地主全作徳米之分」)・作徳永を調べようとするものであった。このとき県は、実際の売買質入価にもとづいて地代金(地価)を定めるのは困難であり、地代金決定の基礎として、地主の作徳額を把握する必要があると判断したのであろう。 この「高反別其外取調書上帳」が村から提出されたのは、地区により異なり、明治五年(一八七二)十月ないしは六年九月のようである。このときの調査結果の一端を表一-五三に掲げる。同じ中田でも、村によって当然土地条件(肥沃度など)は異なるが、これと関係なく貢租諸掛りに厚薄があるため、水田では、小作料の高い地でかえって地主作徳が少なく、小作料の低い地で、地主作徳が多いという傾向があらわれている。すなわち、小作料高は、土地の生産力によってではなく、貢租の多少によって規定されているようである。畑では、小作金額・貢租諸掛りそれぞれが無関係に「高反別其外取調書上帳」(部分) 吉浜俊彦氏蔵 高下し、一定の傾向は認められない。 地代金の算定 ついで、この調査を基にして、各村で地代金の算定が行われた。県は、この算定法を、「触達」などで明示せず、地券掛附属を通し、指示した。この算定法は、当時の土地売買の際の地価の定め方によったと思われる。それは一八七三(明治六)年四月、大蔵省による地方官会同へ提出するために県が作成した資料(「地方之儀ニ付申上候書付」)に、次のように示されている(水田についてのみ掲出 大蔵省蔵松方文書)。 在〻田畑売買は土地之肥瘠并売手・買手之存意・見込ニ而、一村内ニも悉異同有之、何分ニも難差定義ニ候得共、管内一般相糺、上中下押平均凡之目的取調候処、左之通 一 田高壱石 石盛十 此反別壱反歩 此貢米四斗 外米壱升壱合四勺 口米 小以米四斗壱升壱合四勺 貢租 表1-53 神奈川県諸村「作徳米永取調書上」の結果(明治5-6年) 注 ( )内は,小作米金中に占める比率 此斗立四斗三升四合九勺 永六百弐拾五文 高壱石ニ付金弐分弐朱之積高掛入費 此米壱斗八升七合五勺 但 金壱両ニ付 凡米三斗替 合米六斗弐升弐合四勺 見面壱反弐畝歩 但弐割縄延之積 此小作米壱石壱斗四升 但 壱反ニ付 九斗五升積 残米五斗壱升七合六勺 作徳利益 此代金壱円七百弐拾五文三分 但 金壱両ニ付 凡三斗替 右代金江十倍増 原価拾七円永弐百五拾三文 但原価ニ割合利益壱割ニ当ル (ただし、右の算定法は、大蔵省の「地所売買之節原価ニ割合、一ケ年之利益何朱ト定メ、売買いたし候哉、実際之模様取調之事」という質問に答えたもので、この解答をした一八七三年四月の時点で、県下では、すでに地代金の算定が始められていた。したがって、右には、当然県が村々に指示した地代金算定法が逆に反映しているとみなければならない。) さて、県が指示した地代金算定法は、完全に画一的なものではなかったようである。それは、「在々田畑売買は……一村内ニも悉異同有之何分ニも難差定」い現状の反映とみることができる。 神奈川県は、前述のように、「高反別其外書上帳」により、小作料から地主作徳高を調査したので、一般には、この作徳高を一〇倍して地代金を求める方式をとった。これは、橘樹郡梶ケ谷村(明治五年十月「田畑貢米永并諸入用永作徳取調帳」筑波大学蔵川崎市高津区田村義員家文書)、愛甲郡棚沢村(明治五年十月「地券御渡ニ付田畑字付直段書上仕出帳」厚木市棚沢関原徳三家文書)の 事例から、うかがうことができる。 この方式は、単純で、短時日のうちに地代金算定が可能で、かつ、右に掲げた実際売買の際の地代金の決め方と合致してい る。しかし、表一-五三からわかるように、現実の貢租は、村内同一地位の耕地でも、所領の違い・村入用・諸掛りの多少で 軽重があり、したがって、この算定方式によれば、同一村内の同一地位の耕地でも、地代金に差違が生じることになる。 これに対し、さらに異なった地代金算定法(「地券ニ付地代金積出算法」前掲関原家文書)が、県から村に提示されている。愛甲 郡棚沢村にその例をみるが、同村で、実際の地代金算定に際し、いずれの算定法を採用したかは明らかでない。この「地券ニ 付地代金積出算法」は次のようなものである。 一 上田壱反 此小作米壱石弐斗 但シ、両ニ弐斗 五升見込 代金拾弐円 内米四斗壱升五合七才 村費 (六六二文八分カ) 此代永壱〆六百六十文三分 但 六ケ年平均ニして壱ケ年分 永壱〆三百八十三文五分 残米七斗八升四合九勺三才 此代永三〆百三十九文七分弐厘 是ヲ十倍ニして 合三十壱両ト永三百九十七文 是ヲ五公五民ニして 合十五両ト永六百九十八文六分 内金三両ト永百三十九文七分二厘 右利弐割引 引残而金拾弐両ト永五百六十文七分 是ヲ以代金定 一 中田壱反 此小作米壱石 代金拾円 内米三斗四升五合八勺七才 村費 此代永壱〆三百八十三文五分 六ケ年平均 残米六斗五升四合壱勺三才 代金弐両ト永六百十六文五分弐厘 是ヲ拾倍ニして 金弐拾六両ト永百六十五文二分 二ツ割 金十三両ト永八十二文六分 内金弐両ト永六百十六文五分 右利二割引 引〆金拾両ト永四百六十壱文 代金ニ出ス 一 下田壱反 此小作米九斗 但シ、両ニ弐斗五升 見込相場 代金八両 代永三貫六百文 是ハ水かぶり内永壱〆百六文八分 六ケ年平均壱 ケ年村費 其外荒事度々 引残而永弐貫四百九十三文二分 有之見込直引 是ヲ拾倍ニして 致 金廿四両ト永九百三十弐文 二ツ割ニして 金十二両ト永四百六十六文 内金弐両ト永四百九十三文一分 右利二割引 引〆金九両ト永九百七十弐文九分 代金成 この算定法は、二つの特徴をもっている。一は、「高反別其外書上帳」調査で明らかにした地位別の小作料額だけに依拠し、貢租率は、村内一率五公五民として、地代金を算出する点である。二は、小作米から村費・貢租を控除して得た地主作徳から、さらに「右利二割引」をした額を一〇倍している点である。「右利二割引」とは、先に掲げた実際売買の地価算出において、検地帳記載反別には、二割の縄延びがあり、その分だけ地主作徳が多いとしていることから理解される。すなわち、この算出法は、縄延びのある公称反別一反歩の地代金ではなく、現実に一反歩の地の地代金を求めようとしているのである。いいかえれば、この算出法では、現実の小作料額と村費を基礎にし、貢租額は一率に五公五民とし、二割の縄延びを前提にして地代金を算出しようとするもので、貢租の均等化と縄延びの是正とがなされた上での地代金額にほかならない。 このような操作をすれば、地代金の算出作業はさらに簡易になるだけでなく、明治五年(一八七二)九月、租税頭陸奥宗光が各府県に内達した「地価取調規則」案が、太政官の裁可を得て実施に移されたとき、神奈川県では、同規則にもとづく地価決定を容易になしうることになる。すなわち、同規則「沽券税法」における「耕地ノ利益ノ全料」からの「土地ノ真価」は、神奈川県では、壬申地券時に調べた地代金を、ただ二倍するだけで(五公五民としたので)、得ることができる。 以上を理解する上での参考として、「地価取調規則」案一二条のうち第五例の地価算出法を次に掲げておこう。 一 高拾石 此反別一町歩 此貢米六石 此代金二十一円 四公六民ノ法ニシテ 一 作徳米九石 此代金三十一円五十銭 二口合金五十二円五十銭 内十円五十銭 諸費二割引 種子糞料其他必用ノ入費 残金四十二円 是レヲ十倍シ元価トス 原価四百二十円 (この例で、神奈川県が壬申地券で調べた地代金は、作徳米部分だけからの算出地価にあたり、これに貢米部分からの算出地価-五公五民ならば、作徳米からの地価と同価である-を加えれば、右例の「原価」が得られるのである。ここにおける作徳米代金から二割を控除して一〇倍する方式が、「二割引」の意味づけは異なるが-「地価取調規則」案の「種子糞料其他必用ノ入費」という説明は不合理である-結果において両者とも合致していることは、偶然ではないように思われる。) おそらく、神奈川県は、「地価取調規則」案の公布を予期して、地代金算出法を考案したのであろう。 しかし、多くの村でなお右の地代金算定作業がなされているときに、「地価取調規則」案とは内容が一変した地租改正法の公布をみ、その作業は中絶し、これに携わった農民の労苦は徒労に帰したのである。 地券の交付 地租改正法公布以前に、地代金決定も終わっていた地区では、地券(壬申地券)の交付がはじめられていた。一八七三(明治六)年一月と推定される大蔵省租税寮改正局「地券渡済期限表」(早稲田大学蔵大隈文書A二〇五七)は、神奈川県は「不日」と記し、遠からず渡し済みと予想していた。しかし、同年四月の県参事高木久成の井上大蔵大輔あて上申(前掲大蔵省文庫松方文書)では、地券交付済みは、管下八九五か村中三五五か村、約四〇㌫に止まっていたことがわかる。このような最終段階にいたって、地券交付・改租事業は、ふたたび最初からやり直さねばならなくなったのである。 地引絵図の調製 管下の諸村で、地券交付が進められていた一八七三(明治六)年五月、県は、交付状況点検のため、各村へ「隠田及ヒ無税地・潰地等調査官員巡廻ニ付書類差出方」を命じ、一村全地を色分け記載した地引絵図の作成を行わせた。地券交付後の官員検査の便宜のためのもので、後述足柄県のばあいも同様である。一八七三年十月、県が各区長へ行った「触達」によると、それは次のように説明されている(第一一大区一一小区長が郷会所での区長集会に際して達しをうけた折写してきたもので多摩郡蔵敷村内野家文書「地租改正掛筆誌」の最初に収められている)。 地引絵図ハ一村中ノ地所無遺漏、重復ナク、区画部分一目瞭然、検閲ニ便ナルヲ以テ要トス、故ニ旧帳簿ニ不関現地ノ景状ヲ摸写シ、色ヲ以テ景ヲ分チ、字番号ヲ以テ地順ヲ示シ、所有ノ名ヲ記入シ、区画部曲ヲ明ニス、其歩数ノ如キハ、図中記載ニ及ハス、是ヲ製スル外、囲内地悉ク分間坪詰ニスルニアラサレハ正図ヲ不得ト雖モ、素ヨリ地画ノ順序ヲ検スルマデノ供用ナレハ、略図テテ可也、然レトモ一村全形ヲ得スンハ内地ノ部曲位置スル能ハス、故ニ先ツ周囲方法分間シテ、外郭ヲ定メ、次ニ道路川渠等縦横条達スルモノ、池沼・山岳ノ類標拠トスベキモノ屈曲間数ヲ量リ、位置ヲ求メ、而シテ其間ノ各地ハ見取ヲ以テ模写セハ、容易ニ図成ラン歟、云爾、 明治六年第十月 郷会所ニテ各区長写ス すなわち、このときの地引絵図は、一筆ごとの丈量を必要とせず略図でよいとされている。しかし、この作業は容易に進捗せず、県地券課は、十一月五日、橘樹・都筑・多摩郡の第三-一三区の正副区長に対し、十一月十日迄の提出を再度督促している。しかし、この作業は、おそらくこのまま停滞し、後に、県下で地租改正実施が緒につく、一八七四(明治七)年七月六日にいたって、県は、地租改正事業のための地引絵図編製を、改めて命じたのである(後述)。 二 足柄県での地券交付 地券交付の着手 足柄県相模国管下での地券交付事業は、神奈川県より遅れ、明治五年(一八七二)九月初め、地所永代売買許可とそれにともなう売買・譲渡地への地券交付布達から始まった。このとき、中央政府では、すでに一般の地への地券交付を達していたにもかかわらず、足柄県(小田原本庁)が、足柄上・足柄下・淘綾・大住・愛甲・津久井各郡あてに達したのは、五年二月大蔵省達の「地券渡方規則」であった。しかも、この規則そのものではなく、そのうちの数か条は省かれ、さらに「検地帳・名寄帳等総而地所ニ懸リ候書類は可差出事」という一条が加えられていた。この全九か条からなる「規則」を、足柄県は、相模六郡あてに、「右の通相心得、来ル□日迄ニ地券渡方願出べく候、廻状村下受印の上、至急順達、留より相返すべきもの也」として順達したのである(表題欠綴厚木市温水山口忠一家文書)。そして、同時に、前述神奈川県地券「心得書」(明治五年七月公布)をも、「右の通、神奈川県において公許を経、管内布達に及び候儀にて御趣意は全国一般の儀に付心得として相達候条、篤と披見の上、写置、刻付をもって早々順達、留村より相返べきもの也」として順達した。前者の順達で、村方からの地券交付出願期限を、空欄にしていることから知られるように、県は、この時点で、まだ地券交付の事業計画を立てていなかった。 しかし、県は当面、五郡村々に対し、九月十日までに田畑売買直段の調査を命じている。これは、次に掲げるように、簡単なものであった。 何国何郡 何村 一 上田 壱反ニ付 金何両何分 字何 一 中 同 同 一 下田 同 同 一 下〻田 同 同 一 見付田 同 同 一 上畑 壱反ニ付 金何両 字何 一 中畑 同 同 一 下畑 同 同 一 下〻畑 同 同 一 見附畑 同 同 一 屋敷 同 同 右之外田畑名目コレアラハ、位限同様可認事 一 前同断 何字 一 前同断 右之通字モ可認事、字限幾廉ニ而も 右は当村田畑売買直段取調候処、書面之通相違無御座候 以上 (明治五年) 壬申八月 何村 名主 組頭 足柄県御庁 百姓 戸長 別紙之通売買直段取調、来ル十日中迄無相違可差出、廻状村下受印之上、至急順達可有之候也 壬申九月 日 足柄県庁 足柄上郡 同下郡 淘綾郡 大住郡 愛甲郡 津久井郡 これによって、県は、地券に記載する地代金のおおよその実態把握を試みたのであろう。このことは、前述のような順達をしたにすぎないにもかかわらず、すでに、県は、すべての地への地券交付を考えていたことを示している。 地券調べの作業が、実際に開始されたのは、明治五年十月二十日からであった。 この日、県の相模五郡地券担当官が次のように示された。 権典事平松保雄 大属吉田政定 等外一等出仕渡辺栄英 同小牧克房 等外二等出仕渡辺勝 また、同時に一郡から一人ずつが選出されて地券取調御用掛(等外二等出仕)を拝命し(明治五年十一月「地券并戸籍控帳」愛川町田代大矢ゑひ家文書)、県からの示諭をうけた(厚木市温水山口忠一家文書)。 その人名および示諭は次のとおりである。 大住郡 尾尻村梅原脩平、淘綾郡 生沢村二宮貞勝、足柄下郡 池上村宮内大次兵衛、足柄上郡 沼田村安藤為之助、愛甲郡 山際村中丸重郎平、津久井郡 小原村清水隼之助 地券調 御用掛中江 今般全国地券方ヲ公布アルハ、人民地禄ニ就キ、所有ノ権ヲ益固シ、随テ国益ノ産出スル所ハ、田畑ヲ論セス勝手ニ耕種スルヲ得セシメ、他ヲ尽シ、耕作ヲ勉メシムトノ厚キ御趣意ニ有之候処、万一心得違ノ者アラハ能々申諭シ、引受、一郡限リ迅速ニ調上リ候様、精々尽力勉励可致候、尤全国地券方定リシ後ハ、従前ノ租法ヲ廃シ、地ノ実価ヲ以テ基本トナシ、其部分ヲ政府江納メ、検地ノ紳縮又ハ往昔ト肥瘠ヲ異ニシ、其他種々錯乱不公平ナルヲ斉平均一ニスルノ御改正被御仰出哉茂難計、此義ハ各心得迄ニ申聞置候、猶委細者掛リ官員ト可打合事 壬申十月 小前一筆限帳の作成 そして、この日、新任の六人の地券取調御用掛に対し、早速、地券調方の新たな方針が示され(後述)、同時に村々へは、前述の「地券渡方」出願(地券願書の提出)を求めた達を取り消して、新たに「小前一筆限帳」の早急な作成を命ずる廻状が発せられた。 今般地券渡方ニ付、別紙案之通、小前一筆限帳相仕立可差出、尤至急之儀ニ付、廻状披見次第即刻取調、大村ハ格別、小村之分ハ取調出来次第、来ル廿五日迄無相違可差出、且案書解兼候廉も候ハゝ、左之者ヘ地券取調御用掛申付有之候条、最寄之方ヘ及尋問、聊遷延不致様、急度相心得、廻状刻付を以至急順達、留村より可相返もの也 壬申十月廿日 足柄県権令柏木忠俊㊞ 村〻役人 (地券取調御用掛人名略) 追而先般相達候地券願書ハ、今般差出ニ不及候条、取消ト可相心得事 別紙「小前一筆限帳」雛形は、先に掲げた神奈川県「田畑其外直段書上帳」のそれとほとんど同一である。足柄県は、先進的に事業を進めている隣接神奈川県にならいつつ作業遂行を図ったのであろう。 この廻達をうけた村々は、早速これの請書を差し出さなければならなかった。 今般前書地券御調御布達之趣、逸〻被 仰渡奉承知候、依而は御調中諸雑費其外人足御入用等多分可有之趣被仰聞、是又承知奉畏候、御沙汰次第、無遅滞、急度相勤、御差支不相成候様可仕候、依之一同連印御請差上申処如件 明治五壬申年十月 (村五人組別の人名略) 御役人中 (明治五年十月「地券御達請印帳」農林水産省農業総合研究所蔵 伊勢原市上糟屋 山口匡一家文書) すなわち、前もって、地券調で予想される「多分」の入費を負担することをも承諾させられたのである。さて、地券取調御用掛は、任命の日に、県係官から統一した調査方針を指示された(前掲山口忠一家文書および同大矢家文書)。 地券調方 一 金壱両ニ付 米三斗換 一 同 高掛米直段同断 一 徳米直段 同断之事 一 小作預リ 米一割減之事 一 貢米 一割増之事 一 金一両ニ付 大麦壱石 一 同 粟九斗 一 同 小麦四斗 一 同 大豆四斗五升 一 同 米三斗 一 作徳米 三斗 地代金 拾両之事 これによれば、「小前一筆限帳」記載小作米額は実際の一割減、記載貢米額は実際の一割増という地代金を引き下げる操作がなされ、また、米価は一石三円三三銭余に統一され、地代金は、神奈川県と同様、作徳米をこの米価で金額換算したものを一〇倍して得ることとされた。この調査は、前述のように小村は五日間での速成が要求されたが、これが不可能なことは明らかであった。よって、例えば愛甲郡二二、二四、二五区の村々は、十一月九日付で「地券取調猶予願」(前掲山口匡一家文書)を権令あてに提出し、提出の日限の延期を表一-五四のように求めている。しかし、これらの町村を含め管下の大部分の村々では、一八七三(明治六)年に入っても完成をみなかった(後述)。 一八七三年一月九日、愛甲郡地券取調御用掛中丸重郎平は、県からの指示をうけて管下の第三大区小一区副区長に対し、さきの「小前一筆限帳」雛形の補正および「高反別貢米永并作徳取調書上」の雛形を指示した(前掲山口忠一家文書)。 各〻様益御安康被成御座、喜悦奉存候、然者地券取調之儀ニ付、美濃紙江二行ニ相認メ、且壱人分区別之処ヘ、朱書ニ而小以寄可致旨御沙汰ニ付、此段雛形相添ヘ、外取調方書体且一郡表雛形都合三口、以廻達仕候間、早〻御順達被下度、留村ゟ私方迠御返却可被下候、最早御認メ相成候御村方ハ認替ニ不及、草〻御差出し可被成候、猶又申兼候得共、精〻御尽力被成下、至急出来候様呉〻御願申上候、以上 一月九日 中丸重郎平 第三大区小一区 副区長御中 この廻達に添えられた雛形をみると、「小前一筆限帳」は、「田畑山林一筆限取調代金書上帳」と改められている。また、右廻達にいう「一郡表」とは、実はすでに十月二十日、地券取調御用掛に対し、その作成が「一郡表江可記載田畑作徳調之事」と命じられていたのであるが、この時期にいたってはじめて、そのために村々が調べ提出すべき書き上げの雛形が示された。 「高反別貢米永并作徳取調書上雛形」がこれである。 「一郡表」調査とは、明治五年八月七日、大蔵省が第一〇〇号達をもって、「地券調査参考ノ為メニ、各府県管内一郡限リ田畑ノ等位・反別・石高・租額・作徳・地価、之カ表ヲ製シ本年十二月ヲ限リ租税寮ヘ進達スヘシ」と命じたのをうけて(九月雛形改正)、足柄県が実施したもので、村ごとに明治四年につき、田畑ごとに右諸事項の一村総額を計上させた。大住郡土屋村では六年五月に、同郡石田村では六年十月に提出している。 このように、一八七三(明治六)年一月に入っても、まだ県によって雛形の訂正がなされる仕儀であってみれば、作成遅延も当然である。しかし、県は、二月、未提出の村村に二十五日までの提出を強く求め、そのために官員の派出を考慮するにいたった(前掲山口忠一家文書および同山口表1-54 足柄県22,24,25区村々地券調査延期の日限 注 明治5年11月9日「地券取調猶予願」(山口匡一家文書)より作成 匡一家文書)。 記 今般地券渡方ニ付、持地壱人別帳取調可差出旨、兼而相達、猶右御用掛り附属之者巡村及説諭置候儀之処、日延而已申立、日限過去候而も何等之儀も不申出、等閑之至りニ候、右ハ調方期限も有之候条、来ル廿五日限り無相違可差出、万一地所鎖雑等いたし居、調方難出来分は官員差出場所ニおゐて可取調条、右日限以前其段急度可申出候、廻状村下受印之上、至急廻達、留りゟ可相返者也 明治六年二月十日 足柄県庁㊞ この廻達は、表一-五四のうち伊勢原から子易村にいたる一一か町村(二大区小七区)に向けても達せられており、これら町村がいまだに完了をみていないことを示している。同日、愛甲郡地券取調御用掛中丸重郎平は、担当区域(三大区小一区)の副区長あて急状を発し(前掲山口忠一家文書)、さらに督促を加えた。 急状ヲ以申上候、然は地券取調方村〻延行ニ相成候処、村〻申合、地価取扱ひ奸曲之者真価ヲ偽リ候者有之旨御聞込ニ相成、至急帳面可差出旨御沙汰之上、其御村〻ヘ御三名宛も御出役被遊候趣、昨日権令様記録局ヘ御来臨之上、御重役様方ヨリ内談被為在候趣ニ承知仕候間、心配罷在候処、今朝私義典事様ゟ愛甲郡村〻及遅延ニ候旨御沙汰ニ付、地券請方之儀ニ付、彼是差縺居候趣承及候間、右ニ付延日ニ相成候哉之趣奉申上候処、右ハ無名ニ取調書出し可申旨、兼而達置居旨厳重御沙汰ニ付、無余義此段奉申上候間、乍御手数御区内村〻ヘ懇篤ヲ申諭之上、下書之儘成共、且未タ難決分ハ無名ニ而早〻取調帳持参致し呉候様、無洩御通達御願申上候、己上 二月十日 中丸重郎平 小一区副区長 御中 これによれば、作業の遅延は、農民による金額操作などによって地代金決定に手間取っただけではなく、地券交付を機に、質地をめぐり、金主・地主間での紛争が生じ、地券名請人が容易に定まらなかったことにもよっている。 地引絵図の作成 しかし、県は、この期に及んで事業推進に強硬であり、同十四日には、官員の実地点検の用に供すべく、さらに、村々に地引絵図の作成提出を命じた(前掲山口忠一家文書および同山口匡一家文書)。 記 今般地券渡方ニ付而ハ、追而現地及点検候条、地引絵図取調、無税地・小物成場等詳細色分之上、精〻取調出来次第、早〻可差出候、此廻章村下令請印、至急廻達留り村ゟ可相返もの也 明治六年二月十四日 足柄県庁㊞ 村〻 こうして、各町村では地券交付のための、「田畑山林一筆限取調代金書上帳」(当初の「小前一筆限帳」)、「一郡表」作成のための「高反別貢米永并作徳取調書上」の作成に加え、さらに地引絵図の調製も命じられた。これらに要した労力と入費はばく大なものであったと思われる。 地引絵図は、村内すべての土地、「田畑山林其外共反別番号字持主姓名」を、「多人数にて墓地にいたし又は斃牛馬捨場等に至迄寸地も漏落これなき様、詳細実地書載」することが要求された。そして、さらに「地引帳」を作り、これに、地引絵図へ記載した場所を官員の「御検査順次宜敷案内の都合を注意致し、不順不都合これなき様」に、すべて書載することが命じられた(「地方要誌」前掲山口忠一家文書)。しかし、地引絵図・地引帳作成の作業は、これを命じた県廻達が「地券証御渡済相成候村方は、随つて村々実地検査これあり候に付」、これらを作成せよとしていることから、地引絵図・地引帳完成に先立ち、まず地券状が、「田畑山林一筆限取調代金書上帳」の完成した村へ下付されたと思われれる。そして、管下各町村への地券下付完了に先立ち、地租改正法が公布されたために、地引絵図・地引帳作成作業は中絶され、後に地租改正のための作業として改めて始められることになる。 地券の交付 一八七三(明治六)年九月、松方租税権頭への柏木足柄県権令の進達によれば(『静岡県史料』、国立公文書館蔵『明治初期静岡県史料』第一巻)、この時点で相模・伊豆の両国を含む「管下ノ半ハ地券渡済」みとなっており、一八七三年中には悉皆下付が完了する見込みであること、しかし、地引絵図提出は、まだ「管内纔ニ四分ノ一」程度にすぎず、しかもそのうち、「疎脱対照ニ供シ難」いものも多数あるとしている。 大住郡上糟屋村士族上知分(二大区小七区)のばあいは、地券は、一八七三年十月十日に下付された(「地券御渡ニ付差上候受書控」前掲山口匡一家文書)。このとき、村方は、次のような受書を、足柄県権令あてに提出して同村分の地券証一六二六枚を受け取り、さらに以上の分の地券証印税計八九円を上納した。 今般地券御渡相成候ニ付、大切ニ所持可致は勿論、万一水難・火盗難等ニ而地券を失ひ候節は、二人以上之証人を立、村役人連印を以御書替之儀奉願事 但し、右失ひ候分、後日相知れ候ハヽ速ニ御届可申候也 一 地券御渡ニ付、書立候外落地等一切無御座候事 一 地券御渡し之後ニおゐて、隠田も有之候節は御規約之通、御処分被 仰出候事 一 地所外国人江対し売渡、并金銀取引之為地券等書入いたし候儀は、決而不相成候事 右之趣堅ク可相守旨、被仰渡承知奉畏候、若相背候ハヽ何様之御処分ニも可被仰付候、仍而御受書差上候、如件 明治六年十月十日 大住郡上糟屋村 戸長 山口作助印 副 鵜川九兵衛印 小前惣代 大津亀次郎印 足柄県権令柏木忠俊殿 このように県は、一八七三年七月地租改正法公布後も、ひき続き地券交付を行い、七四年五月に相豆全管への交付を完了した。一八七三年中にすでに全体の「十分ノ九ヲ下附シ僅ニ其一分ヲ残」す状態であったが、壬申地券にもとづく租税改正はしないことが歴然とした七四年になっても、最後までこれの交付を行ったのは、「地所売買質入等一国中所分不同ニテ民間不都合モ少カラズ渡シ方願ヒ出ルモノ多キヲ以テナリ」(前掲『静岡県史料』)という理由からであった。当初、政府の新税法実施のための手段という側面を強く持っていた地券交付が、実施過程で、おのずから人民土地所有権の確証という性格を強めるにいたったことがわかる。 柏木権令の地税法改正建言 これよりさき、一八七三(明治六)年四月、大蔵省が全国府県長官を召集し、地方官会同を開催したとき(この会同で地租改正法案が討議・決定された)、柏木忠俊足柄県権令も、「地券税施行方法実際ニおゐて着手順序見込御尋」に答えて、「地税法御改正之儀建言書」(静岡県田方郡韮山町柏木俊孝家文書)を呈出した。ここで彼は、県下で交付中の壬申地券記載の「一筆限リノ段別ニ至リテハ悉ク現在実地適当ノモノト言フ可ラス、且其地価モ地ノ真価ニ非ス」(同建言書草稿には、さらに「今般相渡シ候券状面ノ段別ハ、従来税法ノ基本タル真価ヲ求ルノ準拠トナシ難キモノ多ク有之可申奉存候」の文言がみられる)といい、前述陸奥が各府県に内達した「地価取調規則」案による入札法の実施を提案している。権令柏木忠俊は、他の多くの府県長官とは経歴を異にし、江川太郎左衛門英龍・英敏の下で、相豆幕領を支配する韮山代官所の書記・公事掛・手代を歴任し、地方の事情に精通した者であるが、右提案の理由は、「辺境の愚夫・愚婦と雖も己れ所有の田畑その坪数を知らさるものこれなし、又その地価にをける自ら土地普通の品評あり、至て知り易」いにもかかわらず、「唯上下の情貫徹せす細民狐疑を懐く」ために、官がそれを把握できないでいる、というものであった。それでまず、「税額農に重きを御憐察、関東畑永を除の外、何程か御容赦成下され」と減税の実行を強く望み、農民の信頼を回復した上で、入札法によって土地の反別・真価を求めることを提案している。この根底には、明治政府の支配となって以来新政施行によって、租税・民費の負担が著しく増えて農民を苦しめており、ために農民は、政府不信の念を抱くにいたっているという認識があった。 抑モ近年民費ノ大ナル戸籍法ノ改革、戸口簿冊ノ新製、区長ノ俸給、丁兵ノ徴募、小学校ノ設立、物産ノ書上ケ、社寺上知ノ調査、及ヒ酒・醤油・絞油・廻船・猟銃ノ税・畑米石代ノ増税、地券調ヘノ村費・印税等民費ニ休息ヲ得ス、今般金銀貸借ノ証券及ヒ受取手形ノ類、総テ印紙買受粘着シ候様御布告有之、是亦多分ノ税上納ノ筋ニ相当リ申ス可クカ、如斯屡新税御取立相成候上ハ、従前重苛錯乱ヲ極メ候地税ニ於テハ、此際ニ方リ、断然御決議ノ上、減税ノ御盛典御施行有之候様仕度、学校或ハ説教等厚ク御周施有之候得共、民衣食ヲ欠キ候様ニテハ、遷善改過ノ実効容易ニハ相立申マシク、方今ノ急務ハ民ヲシテ少シク休息ヲ得セシメ、地力ヲ尽シテ物産ヲ蕃殖スルニ在リ という草稿の文言は、これをよくあらわしている。しかし、提出のときこの部分は大幅に削られ、きわめて微温な表現になってしまっている。 第三節 地租改正の実施 一 改租事業の着手 神奈川・足柄両県での着手 神奈川・足柄両県による管下への地租改正実施の布達は、地租改正法公布から八か月遅れた一八七四(明治七)年三月に、ほぼ同時に行われた。 三月三十一日、神奈川県は、「地価税則確定ニ付取調方并反別地価及ヒ無代価地反別書上雛形并地租改正規則」(『神奈川県布達全書目録』神奈川県立文化資料館蔵、『横浜市史』第三巻下六五二ページ)を管下に布達した(全文は『資料編』16近代・現代(6)財政・金融一二五)。それは、前文で、地租改正の主旨と、とくに地券渡済の村と未済の村とにかかわりなく、改めて「実地ノ反別地価取調」を行うことを明らかにし、これに「反別地価等書上方心得書布告」三四条と、それにもとづいて村方が作成する「反別地価書上帳」・「無代価地反別書上帳」の雛形が付されている。前者は、各地目を通して一筆ごとに地番が打たれ、地引絵図のそれとあい照応するようになっている。なお、小作地には小作人名と捺印、小作米金額も記載される。後者は、官林・無税の溜池・堤敷・荒田畑・墓所地・茶毘敷地・死馬捨場を登載するが地番は付されない。これらは、「租税寮改正局日報」明治六年第四四号、同年十月四日指令千葉県伺の「地租改正ニ付人民心得書」(全二三条)、「地価取調帳」雛形(『明治初年地租改正基礎資料』上巻二九六ページ)とほぼ同じ内容で、神奈川県独自の特色はみられない(両県の大きな違いは、千葉県「地価取調帳」は、官林など無税地も一貫した地番を打ち、一帳に組み込んでいるが、神奈川県ではこれを二帳に分け、無代価地は地番を付せず作業の速成を図った点にあった。しかし、これは同年六月十六日の二-二〇大区区長あて第一七四号達で訂正され、無代価地も一様に地番が付されることになり、千葉県雛形との違いは解消した)。 足柄県もまた、一八七四年三月十七日、管下一般に地租改正実施を布達した。同県では、神奈川県のように、とくに独自の規則を作成せず、次の廻達(『静岡県史料』国立公文書館蔵、『明治初期静岡県史料』第一巻)をしたに止まった。 先般地租改正被仰出候ニ付、千葉県伺御指令、人民心得書并地価取調絵図面等毎村一部ツヽ案文布達置候ニ付、熟読了解致シ候儀ニ可有之、右ハ至大至重ノ事件ニテ、一時不容易手数ニ候得共、一旦調査出来候上ハ、地租ノ偏重偏軽ヲ免レ、後来ノ便利タル論ヲ俟ザル儀ニ付、区長ハ勿論、村々正副戸長等勉テ尽力、右案文ニ照準シ精密調査可致事 (以下、絵図作成・実地丈量・検査についての条略) すなわち、とくに足柄県独自の心得書規則等は作成せず、前述千葉県の規則・雛形を、そのまま上木して、県下に廻達したのである。 こうして、両県はほぼ同時に管下への改租布達を行ったが、いずれも、「租税寮改正局日報」所載の千葉県伺指令をモデルとしたもので、一般的な改租の方針・方法を示したに止まった。管下での実地着手には、さらに、管下の実情に即した具体的方法の指示を必要としたのである。 神奈川県で、改租事業の第一着をなす地引絵図編製についてこの具体的方法が示されたのは一八七四(明治七)年七月六日のことであった(後述)。同県の改租事業は、実際上はこの時をもって開始された。 足柄県では、前述のように、地租改正法公布後も、壬申地券交付を続け、完結させた。このため、「旧地券発行の業務、及社寺上地処分等の調査を畢らざるが故、着手遷延」し、県では、ようやく「明治七年十一月に於て土地丈量法人民心得書を起稿し、これが施行順序を内務卿に具陳し、一方人民に向ては懇篤改正法の旨趣を諭達し、郡村総代専担者等を公撰するの計画を示し、且庁内地租改正掛を置く」などの準備に入った。しかし、各村での作業開始を可能にする「地租改正地図調査其他達書」(全一三条)(「明治八年五月地券掛諸控大矢武平」愛川町田代大矢ゑひ家文書)が達せられたのは、実に一八七五年十月(愛甲郡第三大区事務扱所がこれを管下各小区へ順達したのが十月十七日、第一小区でこれを受領したのは同二十三日早朝)(「地方要誌」厚木市温水山口忠一家文書)になってであった。しかも、千葉県雛形をもとに地租改正総代人・担当の県官らが考察を重ね作成した「地租御改正地引帳」・「地租改正字限絵図」雛形が、各村へ達せられたのは、同十二月三日のことである(前掲大矢家文書)。ここからすれば、足柄県での村方での改租事業の着手は、一八七五年十月または十二月ころであり、地租改正法公布から、二年三一五か月を経過した後であった。そして、これからわずか四-六か月後に、足柄県は廃止され、管轄のうち相模の部分は神奈川県に合併されることになる。 なお、足柄県では、一八七四(明治七)年八、九月ころに、小作米金調査がなされている。内容は、旧来の地目位付のまま、例えば上田一反歩につき、一か年作付収穫物総額を此米二石とし、内訳として貢租・諸懸・小作所務・全徳米のそれぞれの額を書き上げ、村方から提出させたものである。しかし、この調査は、雛形として「小作米其外取調書上」、「 何神社 何寺院 上知 田 畑 歟小作年貢其外取調書上」の二通を提出することが命じられており、しかもその提出期日は、県官が、村々の社寺領元朱印地・除地・大縄場上知の処分方法を定めるため廻村する日割に応じて定められている。例えば愛甲郡では県少属大越直温が、八月二十七日厚木町泊、二十八日小野村泊、二十九日中荻野村泊と巡回するが、この宿泊地へ出頭を命じられた村々は、右書上を明治七年八月付とし、九月一日以降に出頭を命じられた田代村などの村々は、明治八年九月付としている。おそらく、これら書上は、官員宿泊地へ出頭の際持参したものであろう(厚木市下荻野難波武治家「明治七甲戍年五月吉日御用留」、愛川町田代 大矢ゑひ家「社寺上知小作年貢其外取調書上」その他による)。したがってこれらは、社寺上知払下げの代金を定める資料として、早急に作成させたもので、地租改正事業とは直接関係をもった調査ではない。この小作米金調査は、前掲『静岡県史料』の「旧足柄県」の部では同県の地租改正事業着手が遷延した理由の一つにあげている「社寺上地処分等ノ調査」の一環をなすものにほかならない。 旧神奈川県での地引絵図編製 さて、神奈川県では、一八七四(明治七)年七月三日、二-二〇大区正副区戸長あてに、 先般地租御改正被仰出候ニ付、差向地引絵図編製方追〻相達置候処、未タ成功不申出、不都合之至リニ付、右糴立として不日官員出張為致候条、諸事承リ合セ、速ニ地図落成候様、一同協利尽力可致、此段更ニ相達候事 七年七月六日 神奈川県令 中嶋信行 との達を発し、前述一八七三年十月に命じた地引絵図作成を改めて督促した。そして、同日各大区一名ずつの地租改正取調総代人を任命し、「地引絵図を始め反別地価書上帳差出し方等諸事協議の上致すべき」ことを命じた(総代人名は『通史編』4近代・現代(1)一三四ページ・第四表)。ところで、さきに県が命じていた地引絵図は、すでに交付した壬申地券にもとづき地券税法を実施する心算に立ち、同地券交付後の土地点検を目的とするもので、したがって略図でよいとしていた。しかし、一八七四年三月の県「心得書布告」は、地租改正は壬申地券交付にかかわりなく、改めて土地調査をして実施することを明らかにし、これにともない地引絵図も、測量にもとづく正図の作成が要求されるにいたった。県は絵図作成遷延を「不都合の至り」などといっているが、仮りに村方が県の指示通り絵図を作成していても、改めて編製のやり直しをせねばならず、その労費は全く徒労に帰したであろう。 ついで翌七日、右達しにもとづき「地引絵図編製方糴立又は伝法として」村々へ出張することになった県地租改正掛官員は、出発を前にして「申合せ」を行い、これもまた村方へ廻達された(注(1)に同じ)。この申合せを行った県官は権大属添田知通・少属中山信明・少属太田鎌吉・権少属千阪和一・権少属中村惟清・史生篠崎常孝・県掌石川直・県掌斉藤万三・一五等出仕中田藤蔵であった。彼らは、持場を分担し「各手当港出発、先ツ一順持場ヲ巡回し、絵図ノ仕立振、又は製し方等ヲ伝習、夫より事実不手廻村方江罷越、戸長村用掛等ヲ為立会、地図調製可致、尤実地之景況ニ依リ各手持場内は三周之巡村隅々無残行届候様可致事」とし、作業時間を「毎日午前第七時出発、同十一時より二時迄休ミ、二時より六時迄場所調査可致事」と定め、調査方法が区々にならぬよう細部にわたり申合せ、これを各村にも廻達したものである。 厳密に測量して地図を編製することは、農民の手に余る作業で、官員の巡回・技術指導を必要とした。神奈川県の地租改正事業は、実際には、この時をもって始められた。 第一一大区(南多摩郡のうち)では、右の廻達につづいて、ただちに、同大区担当官篠崎・太田の巡回が達せられ、「正副戸長は勿論、村用掛并小前之内五、六人集会待請候様」取り計らうことが命じられた(注(1)に同じ)。彼らの最初の巡回は表一-五五のように行われている。 その後第一一大区には、八月中旬に、篠崎史生に同大区地租改正取調総代人下田半兵衛が帯同して巡回し、十三日には高木村で測量器械・水縄を用いて、午前に耕地一か所、午後に山林一か所を「検地」し、実地に測量方法の伝習を行った。その上で同月十九日、同大区一小区の各村用掛・正副戸長は一同連印して、 今般地租御改正ニ付地引絵図編製方夫〻御伝習委細承知仕候、因而ハ迅速測器相調ヘ、本月廿八日より取掛、精〻地図相仕立可申候間此段御届ケ申上候以上 との届書を太田・篠崎担当官に提出した(注(1)に同じ)。こうして、第一一大区では、ほぼ八月末ごろから各村で、地図編製の測量作業が始められたのであった。しかし、同大区一小区蔵敷村での作業はようやく九月二十二日に始められ、十一月二十五日限完了と上申しながら、実際に完了したのは十二月末になったと思われる。その作業日程の内容は表一-五六のようであ表1-55 地引絵図編製のための官員巡回表(第11大区) 注 11大区2小区は10大区巡村の組が巡回したのであろう。 「地租改正掛筆誌第11大区10小区表」(東大和市蔵敷内野家文書)より作成。 った。同小区の他の村々の作業も同じ様に遅れている。作業遅延の原因の一つに、測量の困難があった。そのため、第五大区(橘樹郡のうち溝ノ口村外三六か村)では、各小区戸長が協議し、共同で測量師(とその補助者二名)を三〇日間雇っている(「地租御改正ニ付測量掛エ手当取極簿第五大区」筑波大学蔵 川崎市高津区 田村家文書)。 測量掛月給 一 金拾弐円五拾銭 関山与五郎江給与之分金拾四円也 日当金三拾三銭三厘表1-56 第11大区10小区蔵敷村での地引絵図編製作業 注 原資料は表1-55と同じ 三毛 金弐円五拾銭 弁当代一日ニ付金八銭三厘三毛 〆 一 金八円五拾銭 中等之もの日当金弐拾八銭三厘三毛 一 金七円五拾銭 下等のもの日当金弐拾五銭 〆 右は地租御改正ニ付、測量之もの江手当方協議之上、確定いたし候事 明治七年七月廿九日 第五大区 壱小区戸長 松原庄右衛門㊞ (以下二-九小区戸長各略) この測量師の給与は、県の下級官吏並みの額で、地図編製に従事する正副戸長の日当二五銭よりはるかに高い。五大区では、農民にとって重い負担となる測量師雇用をも行い、地図編製を急いだ。作業の早急な完成は、県へ提出した請書によって強要されていたからである。 御請 今般地租御改正ニ付、田畑宅地及其他山林野税地等迄、村中悉皆之地形画図編製方糴立として御巡回被成、兼而先般御布告之御旨趣懇〻御説諭ヲ蒙リ、夫〻了解仕候、然ル上は、差向地図編製着手之儀、各小区測量地器械ヲ造シ、即今より取掛り、一同協力、奮而勉強し、凡左之日数割之通、成功候様可仕候、尤粗図認方出来次第御覧ニ入、尚御差図請候儀と可相心得と被仰渡、承知奉畏候、依之御請書差上申候、以上 第五大区八小区 本月四日ヨリ 一凡日数十五日 武蔵国橘樹郡 堰村 八月十九日ヨリ 一凡日数三十五日 宿河原村 九月廿三日ヨリ 一凡日数四十日 登戸村 明治七年第八月 右堰村用掛り 保谷八代八㊞ 右宿河原村用掛り 小倉幾太郎㊞ 右登戸村用掛り 井上五郎右衛門㊞ 右八小区地租改正取調掛り 戸長 関山粂蔵㊞ 第五大区 片山正義殿 (片山は第五大区の地租改正取調掛り総代人。なお小区によっては宛名を直接県担当官添田・千坂あてとしたところもある) こうした請書の提出は、五大区のみならず全管下の村々に要求された。そして、一一大区にみた官員巡回による作業の厳しい指導・督責も、他大区で同様に行われた(八大区については、『町田市史史料集』第七集参照)。五大区の進捗状況は八小区諸村(表一-五七)では一一大区よりやや早いようであるが、九小区菅村では、一八七四(明治七)年十二月三十日にいたって、「玉川附にて水災のごと、田畑変狂、殊に山林嶮岨のみならず周囲境界は各村接居り、思の外手数相掛り」、到底年内完成は難しいとして、七五年一月二十日までの日延願いを提出している(「御日延願」前掲田村家文書)。また、八大区では、七四年十二月十五日前後になって、「地図差出方一層至急勉励」のため担当中村少属の廻村がなされており、年内に地図完成をみない村が少なくなかったことをうかがわせる(前掲『町田市史史料集』第七集)。県地租改正掛が、七四年十二月四日に県下各大区へ達した廻達(後述)によると、「地図全備差出し方之儀、先般請書日限之趣も候得共、本月中ヲ限り差出し候儀と相心得、右順次之都合ヲ以取調可致候事、但天嶮山岳之地等ニ而意外手数相掛候共、来八年二月中ヲ限り、管下一般成功ノ筈ニ候」とあり、県全体としては、一八七五年三月には、ようやくほぼ地図編製を終えることができたとみられる。 表1-57 第5大区のうち21か村における地引絵図編成予定期間 注 川崎市高津区(田村家文書)より作成 野帳の作成(反別調査) 以上の地引絵図編製作業は、一村全地を、地目ごとに色分けして掲出し、さらにそれぞれ一筆(一枚)ごとの四囲境界を測量によって確定し、それらに地目にかかわらず一貫番号(地番)を打ち、落地のないよう全地の掲出を図ったもので、一筆ごとの面積・所有主等についての調査は次の段階に属する。この次の作業の具体的方法は、地引彩図編製が終わりに近づいた一八七四年十二月四日、県地租改正掛から、各大区へ廻達された。その冒頭に、 地引画図編成差出相成候上ハ、先般御布告(注-明治七年三月三十一日布告)ニ基キ、段別調査并収穫・地価等検査之積ニ候得共、悉皆一時ニ検査ヲ遂候義ハ、事多端ニ渉リ、一村之卒業存外手数差重リ、却而錯雑ニ押及ヒ可申哉ニ付、方今漸次成功、地図差出方之順序ヲ以テ、来八年一月中ゟ官員派出、先反別ヲ調査及ヒ巡回先ニ而改正反別申渡、夫ゟ兼而御布達之通、収穫地価書上差出候儀と相心得、右ニ付反別調査方法并野帳書式等、別紙雛形ヲ以相達し候条、早〻取掛、手操次第野帳可差出事 と、今後の改租事業の手順を示し、まず一筆ごとの反別調査を行い、その結果を「野帳」に編製することを命じた。すなわち、先の明治七年三月三十一日布告で命じた「反別地価書上帳」の作成に直ちに着手せず、まず、「野帳」(「田畑其外反別取調野帳」)作成にとりかかることとなったわけである。 作業の概要は、まず、実地に臨み、土地一筆ごとに、十字に縄を張って縦横の長さを量り、それにより一筆の面積を算出する。そして、さきに作成した地引絵図と照合し、そこに記載された地番の一番の地から順次野帳に、字・地番・地目縦横の長さ・面積・所有者を一筆ごとに記載していく、というものである。こうして、ある地の所在・面積・所有者は、地番によって連結した地引絵図と野帳とによって表示されることになる。県は右作業の終了(野帳の提出)を持って反別検査を実施する。それは、耕地一筆ごとに、地番・所有者を記した畝杭を立てさせ、派出官員が現地で、地引絵図(切絵図=字限絵図)と畝杭を照合しつつ、地順に落地・重複地がないことを確かめ、うち二、三か所を丈量して、野帳記載の面積に誤りがないかを検査する。誤りがあれば、ときに一村全地の丈量やり直しをも命じる、というものであった。 そして、一村の反別検査が終わると、野帳に土地所有者各自の調印をとり、反別改正を申渡し、村から「旧新反別比較増減簿」を県へ提出させて、実地丈量の作業は終わりとなる。 反別調査(野帳作成)は、地引絵図完成に引き続いて行われた。第五大区では、一八七五(明治八)年二月二十三日から三月十一日にかけて、逐次村々に巡回して来た県官に対し、それぞれ三月十六、十七、二十、二十一、二十五、三十一日を日限として野帳を提出する旨の請書を差し出している(前述のように同大区で地図編製が最もおくれたとみられる菅村では、野帳差出しの期限も二十五日と下菅生村の三十一日に次いで遅くなっている-「御請」前掲田村家文書)。この請書差出しの日をもって、村方での反別調査作業開始とみてよいであろう。 一八七五年四月、県下地租改正事業の実質上の指揮者である添田権大属は、当時の管下での反別調査の進捗状況をもとに、以後における改租事業の「見据」を立て県令に上申した(「段別検査其他順次見据申上」浜田新太郎「地租改正雑集弐」福島正夫氏蔵)。 それによれば、県は、村方から請書をとり野帳提出期限を四月中として作業を督励しているが、「村民之情願」を視察したところ、今はあたかも、田方は苗代を作り、畑方は麦作出穂前、養蚕地帯では桑葉が繁茂する前の時期にあたっている。農民は、まだ農繁期にならない今のうちに、反別調査を受けられるように競って勉励している。よって官側でもこれに応じて「非常之手配奮発」をしなければ、農繁期に入り農民は農事(「民情ノ義務」)に切迫され、機会を失し、事業が大幅におくれることになる、と述べている。すなわち、村方では野帳作成を農繁期前に済ますべく作業を急いでいたことがわかる。 そして、五月に入ると、第一二大区(多摩郡のうち七一か村)各小区正副戸長連名で県に対し、五月二十-二十五日に各村から野帳を提出するから六月十日までに反別調査を終えてほしいという強い申出がなされた(前掲「地租改正雑集弐」福島正夫氏蔵)。それによると、同大区では地引絵図完成後、「掛リ御官員ヨリ伝習」された方法で「十字検地」を行いほぼ完成にいたったとき、「猶今般御巡廻之上、転変之御差図ヲ受、再三検地被仰渡当惑至極」であった。しかし、「人民私有之権ヲ失シ候而は、往〻不相成義ニ付、百事ヲ投打頻ニ勉励」している、と述べている。ここに指摘されたように、土地丈量法につき、派出官員の指導は、途中で「転変」し、ために再丈量を余儀なくされ作業に遅延を来たしたのであった。農繁期前に反別検査を終えてほしいとする上述の要求には、一貫した指導をなしえなかった県に対する強い忿懣が込められている。この要求をうけた添田権大属の庁内廻議(前掲「地租改正雑集弐」)によると、このように反別検査の早急施行の必要に迫られているのは第一二大区だけでなく、多摩郡の第八、九、一〇、一一大区、高座郡の第一九、二〇大区の計七つの大区(いずれも養蚕地帯)も同様であるという。県は、この廻議にもとづき、第一二大区に対して、五月二十九日、「書面申立之趣、事情無余儀相聞候間、六月十一日ヨリ七月九日迄日数三十日之間猶予可致候条、右期限過去候ハヽ検査順序無差閊様可被致事」と、反別検査を農繁期後に延期することとし、他の七つの大区にも事実上同様の措置をとったのであった。そして、県はその養蚕繁忙期中、右八つの大区の担当官員を、他の非養蚕地帯の大区(第一-七、第一四-一八大区)に分派し、これら大区担当官と協力してここでの反別検査を悉皆終了させてしまおうとした。以上の経緯をみれば、実地丈量の遅延が、県官指導の不手際に起因していることは明らかであろう。 さて、前述一八七五(明治八)年四月添田権大属の「段別検査其他順次見据申上」は、反別検査の作業計画を次のように立てていた。それは、(一)第一大区は、村数は一〇か村ばかりなので第二大区に組み込む。そして、第二-二〇大区に官員を一大区につき二名、計三八名を派出分担させる(この三八名の人名は『横浜市史』第三巻下六六一ページに掲げられている)。管下の全村数九一二、一か村平均して田畑山林の筆数(地番の数)約一五〇〇とすると、筆数総計一三六万八〇〇〇番となる。(二)これを三八名の官員が二名ずつ一九隊に分かれ、反別検査をすると、一隊一日に五〇〇番を検査するとして、全体で一日に九五〇〇番の検査をなしうる勘定となる。これにもとづいて日程を立てると、(三)四月五-三十日まで二十二日間に二〇万九〇〇〇番の検査を終える。(四)五月一日-六月三十日までの六十一日間に五七万九五〇〇番の検査を終える。(五)同じ時期、さらに一九名を増員し、これに総代人一九名を加え、各大区それぞれ一隊を増加し、さらに五七万九五〇〇番を検査し、以上八十三日間で悉皆反別検査を終える(雨天の日は野帳の検算などにあてる)、というものであった。すなわち、県は、四月三十日までに村方の野帳作成(反別調査)を悉皆完了させ、六月三十日までに県の反別検査をすべて終えると計画していた。そして、以後七月から九月の間に地価収穫調査をして、明治七年三月三十一日達で示した「反別地価書上帳」を作成し、改租事業を成功させ、十月中に、右の結果を「反別貢額旧新比較」表に編纂し、大蔵省へ進達の上許可の指令をうけ、一八七五(明治八)年から新租額施行の運びにする、との「見据」を立てたのである。 しかし、この「見据」は、前述のような経緯と「見据」の甘さとによって、大幅に遅延することになった。四月三十日に終わるはずであった村方での野帳作成(反別調査)は、第一二大区をとっても、早くとも五月一杯はかかっており、これら養蚕地帯大区の反別検査は、予定通りとしても七月十日の開始である。 さらに、五月十八日付で添田権大属・飯嶋中属が、「地租改正反別検査運搬ノ儀」を県令に上申したところによれば、これまでの反別調査の結果、前述のように一大区当たり七万番、管内計約一四〇万番とした予想は、大幅に相違し、「各大区漸次野帳ノ合計拾万番以上十五万番ニ及、概略管内総計二百三拾万番余ニ至リ可申、最前見込トハ百万番之増聴」が見込まれるにいたった。それで一大区への派出官員ら二名、戸長らを三手に分け反別検査を実施しても、平坦地の田畑宅地ならば一手一日五〇〇番、一大区計一五〇〇番を検査しうるが、山林は、一手二〇〇番がやっとで、このままでは大幅に検査終了期日は遅れるとしている。よって添田らは、まず田畑宅地のみを検査し、山林は後にすることを提議したのである。県が、こうした措置をとっても、第一二大区など七つの大区は、検査を予定通りに行ったばあいでも一か月余りは要するので、これら大区の検査終了は、八月に入ってのことと推察できる。現に、第一一大区では、検査を終え、区長が残務処理を指示したのは八月四日のことである。この日、同大区の区長下田半兵衛は、一、九、八、一〇小区会所あてに次の廻達を発している。 当区内一般反別検査落成ニ付而ハ、兼而派出之官員ゟ談事置候検査済、諸請書并野帳認直し等被申付、未タ差出不相成村〻ハ、拙者手許ヘ至急御差出相成候様御取計有之度、且出張之官員各所ニおゐて人足賃其外喫飯料払落之分も可有之候間、小区限村〻ヘ御申談し、無腹蔵請取書御差出可被成候、依而此段及回達候也 第八月四日 第拾壱大区〻長 下田半兵衛 足柄県での地引帳作成(反別調査) さきにのべたように、足柄県の村方で、地引絵図編製・反別丈量調査にとりかかったのは、神奈川県で、県による反別検査が終わり、地価算定作業に入った一八七五(明治八)年十月のことである。これよりさき、足柄県では、壬申地券交付にあたって「地引絵図」・「地引帳」の作成を進めていたが、県は一八七五年十月にいたって、「地租改正地図調査其他達書」(全一三条)を達し、事実上、これまでの作業のやり直しを命じた。これに対し管下地租改正総代人から、達書のいくつかの箇条につき疑問が寄せられ、県はこれに答えるところがあったが、十二月三日、足柄県地券掛は、各大区正副戸長に対し、「地租改正地引帳書式地図折□寸法書」を達し、地租改正総代人および各村への通達を命じた。これによって、村方での「地租御改正地引帳」と「地引絵図」(字限地図および全図)作成作業が緒に付くこととなった。「地租御改正地引帳」は、神奈川県での「野帳」に当たるもので、「地引帳」・「地引絵図」とも、神奈川県とほぼ同一の書式である。 右の布達の直後、十二月四日に地租改正事務局から有尾敬重らが韮山支庁に来て、これまでの調査状況をたずねるとともに、翌七六年を期しての新地租法施行を求め、指導・督促を行った。その結果は直ちに本庁へ通報されるとともに、管下各大区地券掛へも報知された(「明治八亥年五月地券掛諸控大矢武平」前掲大矢家文書)。 本年十二月地租改正事務局御用掛租税寮七等出仕有尾敬重・内務省御係真田右三郎・租税寮御係小寺成蔵入来、是迄之調等ヲ尋問、来九年ヲ期シ公布之通改正相成候様いたし度旨談有之候ニ付、従前取調之模様演述、且数件問合為来、調方ノ手続・差図ノ条欵等別紙之通有之候間、此段及御報知候也 明治八年十二月十二日 韮山支庁 地券調所印 本県 地券調所 御中 (別紙略) 有尾は、このとき、韮山支庁の「絵図面の義先般諸県改正局へ集会の際協議の通一分一間の縮図は一厘壱間に仕立申候、尤最前五厘一間に取調候分、再調と申ては入費すくなからず苦情もこれ有り候間、其儘据置申候」、「(地引絵図へ)着色之儀道は朱にて、川溜井等は藍にて、堤堰は薄茶にて相分け、其他は着色いたさず、尤縮図は千葉県伺雛形通り着色いたし候」「絵図面には番号及田畑宅地の名称のみ相記し申し候」等という措置は、そのまま認めたが、実地丈量の方法については異議を唱え、「地引帳へ竪何間、横何間書入の儀、地形により竪も横も実地に当らさる分儘これ有り、不都合に付、一筆一ト縄に歩詰致し難き所は、二縄にも三縄にも出歩・入歩を以歩詰の上」云々とより精密な丈量を求めた。次の足柄県地券掛の正副戸長あて達は、右の有尾の指示にもとづくものであろう(「地方要誌」厚木市温水山口忠一家文書)。 地租改正ニ付、実地現歩仕出方之儀、十字縄ヲ以可取調旨、兼而相達置候処、右者十字縄ニ限リ無之、実地斜詰或ハ図上斜詰成リ、適宜取調不苦候、尤官員派出改之節ハ、十字縄相用候間、予而其段相心得、改之期ニ臨ミ、現歩ニ相違無之様、精密ニ可取調旨、村〻ヘ至急御達可有之候也 明治八年十二月十三日 本県 地券掛 すなわち、実地丈量が後れた足柄県では、神奈川県と異なり、さらに精密な丈量が要求されたのである。 以後、村方での反別調査は急速に進められたが、この作業がまだ完了をみない一八七六(明治九)年四月十八日、足柄県が廃止され、同県相州の部分は神奈川県へ合併されることとなり、五月一日この旨が管下へ達せられた。 この時点で、相州部分村々の反別調査は、第一大区(神奈川県第二一大区となる)では八割、第二大区(同第二二大区)では九割、第三大区(同第二三大区)では七割が完了し、完了した村では足柄県官員による反別検査が始められていた。このようなときでの廃県は、村方で事業を担当していた者たちに大きな衝撃を与えた。すなわち、改租指導県官の交代によって、これまでの作業がすべてやり直しとなるのではないかという強い危惧の念を抱いたのである。よって、各大区の地租改正総代人は、廃県の達しをうけた翌五月二日、ただちに神奈川県権令野村靖あてに、連名の上願書を提出した(「明治八亥年五月地券掛諸控」前掲大矢家文書)。 地租改正調査方居置ノ儀願 御管下第二十一大区・第廿二大区・第廿三大区地租改正総代人共、謹奉悃願候、這般地租改正調方之儀第廿一大区八歩通リ、第廿弐大区九歩通、第廿三大区七歩通出来、既ニ旧県官員御派出之上、調査方御検査も相済候村方も有之、引続御検査可相願村々黽励従事罷在候、然ル処諸般御庁御指揮の如ク、再調ヲ促シ候節ハ、従前取調一モ用ユル処ナク、巨額ノ用費并村吏人民ノ苦情ヲ亦総テ水泡ニ帰シ、実ニ憫然之至リニ御座候、此上取調替之御達有之候節ハ、前陳用費冗煩免ル可ラスハ勿論、改正急務之御諭達モ自然悖戻候哉も難計推量仕候、何卒旧県制度ヲ以落成為致度、此段奉懇願候也 なおこのとき、旧足柄県相州部分への支庁設置願も同時に提出されている。 しかし、反別検査は、神奈川県合併後も、そのまま進められたごとくで、第二三大区に属する愛甲郡温水村では、五月二十七日から六月二十一日にかけて計二一字二六八二番の検査が行われ、引き続き地引絵図・地引帳の清書にとりかかっている(前掲「地方要誌」山口忠一家文書)。そして、神奈川県地租改正掛は、七月九日、同村はじめ一小区の村々に、地引帳を来る十五日までに提出するよう求めた。ところが、地引帳清書は大幅に遅れ、八月十四日、厚木町に出張してきた県一四等出仕天野喜四郎は、一小区の温水村など九か村、二小区の二か村に対し、 其村〻請地引帳兼而日限之通リ可差出筈ニ相心得居候処、其儀無之、右当手支庁江引換之期日ニ切迫し、甚タ以差閊候間、至急取揃ヘ差出し可被申、因之右申達候也 との督促を行っている。 後述のように、旧足柄県部分で、地価決定のための具体的な調査方法を最初に指示した「模範地位等級取調方心得」が達せられるのは、一八七六(明治九)年十月に入ってのことである。ここから推定すれば、旧足柄県部分で、地引帳が完成・提出を終えたのは、一八七六年九、十月のころであろう。 注 (1) 「明治七甲戍年第九月ヨリ 地租改正掛筆誌 第十一大区拾小区長」東京都東大和市蔵敷 内野禄太郎家文書。 (2) 「御請」川崎市高津区 田村家文書。 (3) 「坪詰之儀ニ付御達書」前掲田村家文書、『町田市史史料集』第七集 九六ページ。 (4) 「明治八年第二月 反別調査心得書 右ニ関する諸廻達御派出相成御請書 第拾壱大区拾小区長」 前掲内野家文書。 二 地価決定作業 神奈川県での小作米金調査 一八七五(明治八)年四月、反別検査担当官員が、巡回に先立って庁内で行った協議の席上、反別検査済み後の作業の方針についても次のような申合せがなされた(前掲「地租改正雑集弐」)。 改正検査済ノ村々逐次地価収穫書上帳ノ義先般御布達(注-七年三月反別地価等書上方心得書布告)雛形ニ做ヒ、差出方手操申渡ヘク、尤民情自己見込ノ儘書上サセ候而者、必地価低寡ヲ以テ先トスルハ民慾ノ慣習ニ付、地位不適当ヲ記載スヘシ、然ル時者、再三調査等ノ手数ヲ重ネ、夫カ為ニ整理卒業ノ際会モ遅延候、サレハ其目途トスルノ概略方則ハ不日総代人迄達方及候趣ニ可申聞置事 但シ田畑ハ地味ノ肥瘠ヲ以小作上ノ多少、宅地ハ土地ノ盛衰、山林ハ海河運輸ノ便否ニ拠リ、地価昂低ヲ確定スルモノトス、故ニ見込申上、県詮ヲ尽シ、長官ノ御決議ヲ乞、相達ノ義ト可心得事 ここから一八七四(明治七)年三月心得書布告にもかかわらず、七五年四月まで具体的な収穫地価調査の方法は、何ら定まっていなかったことがわかる。そして、この申合せで、はじめて、収穫地価は人民の申告に任せることができないので近日その「概略方則」を総代人に達する予定であること、田畑の地価は、土地の肥沃度を小作料の多少にもとづいて定める方針であること、等が示された。 ここで予告された収穫地価調査方法についての達しは、村方での反別調査がほとんど終了した一八七五年六月十五日、第七一号達として、「横浜港内ヲ除クノ外各区正副戸長」に対し布達された。「反別位当部分書上」の作成がそれである(『資料編』16近代・現代(6)二一六ページ)。 この調査は、まず全村の田畑宅地林野の面積を、それぞれ従来の小作米金・貸地代等の多寡によって、いくつかの等級に区分する(ただし、等級と称えず、上ノ上、中ノ下といった位付けの方式によっている)。その際「自作地ハ隣地ノ小作ヘ比較」して小作料を仮定し等級づけをする。この等級区分(「反別位当部分書上」)は、正副戸長・村用掛り・代議人が立会い、地主らが地位の肥沃度を参考にして熟議して行うとされた。これにもとづく「一筆限収穫地価算量等ノ義ハ」、不日達するとしてまだ明らかにしていない。しかし、これの村方での実施にあたって、県はこの達の督促・修正をたびたび行った。まず、一八七五(明治八)年八月七日第一四一号達で、「反別上中下位当書上」げを八月二十日限り提出すべき旨を督促し、さらに十月十四日には第一九二号・一九三号達で、各村とも、改正反別にもとづき地主・小作人間で、新たな小作証を作成するよう命じるとともに、小作料等級別面積調査についても内容の修正を行った。まず第一九一号の達では、さきの督促にもかかわらず書上げ提出は、二か月を経たこの時点でも「追々差出候向モ有之候」という有様であったが、これまでの提出分の中には、「民情区々ノ見据ヲ立算出」した「実際不適当」なものが多くみられたので、まず、小作料等級別面積の根拠となる村内小作地の小作料を改正反別による地位適当の額に改訂することを命じている。当初、県は、農民は「必地価低寡」を申告する「民慾ノ慣習」があるが、従来の小作料額は、偽ることはできない。よって、実際の小作料額の多寡からその地の地位を定めることができると考えていた。すなわち、地租改正法の地方官心得第一四章「小作米ハ……収穫ノ多寡ヲ推知スヘキ確証ニシテ、人民互ニ欺隠スル能ハサル者タルヲ以テ第二則(小作米金からの地価算定)ヲ適実ノ者トス」にもとづく考えである。しかし、管下現存の小作料額は旧反別にもとづき定められており、縄延び・縄縮みが小作料額に影響を与えている。また、当時の不均等な貢租制度と種々の形態をもつ地主小作関係の下では、地力の高低を反映しない小作料額が数多く存在していた。このような事実が、小作料等級別面積調査の進行につれ、県の認識するところとなったのであろう。よって、現存の小作料の額にそのまま依拠せず、まず、改正反別にもとづく地力適当の小作料額を地主・小作人間で締結させ、これを基礎に小作料等級別面積を調べようとしたのである。この達しには「小作証」雛形が示されているが、それには、小作人が一地主から借り受けた小作地につき、一筆ごとに前述反別調査にもとづく(野帳記載の)字・地番・地目・面積とそれに対する契約小作料額、その基準となった反当小作料額とが記載され、「右ハ地位適当ヲ以テ壱ケ年書面小作米 金高ノ約定ニ極、当何年何月ヨリ来ル何年何月迄何ケ年季ニ定メ、相預リ候処実正也」云々という文言が付されている。ついで凶災の際は地主・小作人立会、検見の上適当な減免をすること、年期中小作料不納の節または「地主自作ニ付入用ノ節」は、小作人は収穫後明地にして返地すること(十一月二日の第二〇六号達で、小作料不納のばあいは保証人弁納と文言を一部改訂)、作付のまま返地する際は、作毛代金を地主が支払うこと等の諸規定が続き、地主・小作関係の内容が示されている。 元来、地租改正によって私的土地所有権が確定した土地の上に成立つ地主・小作関係は、法的には私的な契約にほかならないのであるが、以上の県の措置は、これを公権力をもって所定の内容に一率に改変しようとするものであった。しかも、この雛形によると、「小作証」には、小区戸長の奥書を必要とし、また「小区会所ニ於テハ、兼テ小作証台帳備置、其度々一筆限記載・割印致シ、腹書ニ年季ヲ付シ継年季ノ節ハ朱書ニテ附置」くこととされた。これは一面、地主・小作関係に対する公証制度ともいえるが、他面では、自由な私的契約を制約する公権力の規制を意味した。当時の県官は、このようなことにまで思いをいたすことなく、いわば地価算定の技術的手段として、既存の地主・小作関係の画一的改変にまで手をつけようとしたのである(ただし、この達文末尾には「尤地主・小作人トノ間ニ従前格別ノ約定有之分ハ其趣意小作証ヘ書加ヘ置候様可致」として、例外を認め、強引にすべての地主・小作関係を一挙に画一化することは考えていない。このような「従前格別ノ約定有之」分は、地位決定上では不適当なものとして除外する心算であったのであろう)。ついで第一九三号達では、「反別位当部分書上」は、「田畑作毛上無難豊熟ノ年柄」の小作料額(契約小作料額とみてよいであろう)にもとづいて等級区分したものを一通、さらに「十ケ年以内ニ於テ違作水旱凶災等ノ内損ヲ引去リ平均一ケ年ニ当」る一〇か年平均実納小作料額によって等級区分したものを一通、計二通提出するよう命じた。 小作米金による地位等級の編成 さらに同年十一月二日、各区正副区戸長あて第二〇六号達で、ふたたび書式が修正され、「書式ノ内上中下部分之儀は詮議之筋有之、取消シ右上中下ヲ更ニ一等・弐等・三等と配称シ、地位ノ沃瘠ニ従テ、幾級ニモ等名ヲ以テ比格」することとされた。ここで地位等級制の形が整ったわけである。 こうして、一八七五(明治八)年六月から十一月にかけて、「反別位当部分書上」作成の方針は漸次詳細なものに修正されておのずから地位等級編成が進められていくが、管下諸村からの提出はおおむね十二月下旬までにはなされたようである。この短い期間からすれば、十月第一九二号達が命じた村内の地主・小作関係に、新「小作証」を締結させて変更を加えるという困難な作業は回避し、さしあたり「反別位当部分書上」作成に専念したのであろう。 第五大区(橘樹郡のうち四二か村)に廻達された、明治八年十一月付けの「小作証」雛形(おそらく県下一般に廻達されたものであろう)は、このことを証明している。それは、次に掲げるごとく、先の十月十四日第一九二号達が掲げた前述「小作証」雛形は完全に換骨奪胎され、現実の地主・小作関係に直接なんら影響を与えない、改正反別にもとづく小作料額のたんなる証明書に姿を変えてしまっている。 小作 証 何大区何小区何村 地主 苗何兵衛 何村 小証人 苗何兵衛 第何大区何小区何村 何十何番 一 田何反何畝歩 但反米何程 此小作米何程 右之通相違無御座候、以上 右地主 苗何兵衛 小証人 苗何兵衛 明治八年十一月 何小区何村 村用掛御中 さて、県は、この諸村から提出された書上の内容を検討して、十二月二十一日、各区戸長に対し、次の達(第二五七号)を下した(注(1)および前掲「地租改正雑集 弐」)。 各区 区戸長 地租改正ニ付、田畑宅地及山林野税地等地位ニ従テ等級ヲ部分シ、小作米金代・地代(注-宅地の貸地料のこと)、歳〻上リ高書上帳夫〻算量検閲候処、土地之沃瘠耕耘之難易ヨリ、入額異同ヲ生スルハ固ヨリ論ヲ竣タスト雖モ、隣地ニ接渉シテ自他区画ヲ界シ、殊異昂低アルハ、区戸長・村用掛等ノ注目ヲ要スルト、要セザルトニヨリ自然民心ノ方向ニ関シ、真偽二途ニ出候義ニモ可有之哉、故ニ其不可ナル者ハ当否再調ノ上、孰モ平準ニ帰シ可差出筈、各区々長、此程県会之節決議候条、曩ニ差出セシ帳簿ハ平均表ヲ添ヘ、一ト先下ケ渡候間、此上区内集会反覆審議ヲ尽シ、隣区接渉ノ地ハ各区会同、渾而実際正覈ニ取調、右書上帳ヘハ四周村〻左ノ書式ノ通奥書調印取揃、早〻差出シ候義ト可相心得、此旨相達候事 明治八年十二月廿一日 神奈川県令 中島信行 すなわち、諸村から提出した書上には、隣接村のそれと不均衡があって調整を行わねばならなかった。よって、これを一旦各村に下戻し、各大小区ごとに区戸長が集会して手直しを行うよう指示したのである。そして、村から改めて提出する書上には、隣接村による 何村田畑其他位当部分取調ニ付、当村ニ立会、小作米金等渾而算量見届、比較候処、各地位相当之儀ニ有之候ニ付、奥書調印いたし、此段申上候、以上 何大区何小区何村 代議人 何誰 村用掛 何誰 戸長 何誰 という奥書を付することを命じた。ここには、村内の地位等級決定にともない、村相互間での、いわゆる村位の決定が、おのずから必要となってきたことが示されている。 ところで、この達しが発せられた翌日(十二月二十二日)、第五大区では、地租改正取調総代人片山正義(副区長)から、各小区戸長あて、次の廻達がなされた。 明治九年一月十五日県官派出、収穫調督貴有之候趣、就而は、収穫書上雛形御達可有之候得共、為心得別紙之通雛形廻達候間、一覧之上、早〻継送、収穫取調方ニ掛リ候様、御注意有之度、此段申進候也 明治八年十二月廿二日 第五大区 総代人 片山正義 (別紙) 田畑収穫書上 第五大区幾小区 何村 一 改正田段別何程 此収穫 米何程 麦何程 但 壱反歩平均 米何程 麦何程 内訳 一等何町歩 内 一毛何町歩 此米何程 二毛何町歩 此 米 麦 何程 但 壱反歩ニ付 米何程 但同断 米何程 麦何程 二等何町歩 (中略) 一 改正畑段別何程 此収穫 麦 何程 反別何程 粟 何程 反別何程 大豆何程 但壱反歩平均麦何程 同断 粟何程 但 大豆何程 内訳 一等何町歩 此 麦何程 粟何程 但壱反歩ニ付 麦何程 粟何程 二等何町歩 (中略) 夏作ハ 粟 大豆 ノ内其土地ニ応スルヲ以算出スヘシ 以下、書式右ニ做フ 右は当村田畑地位等級ニ従テ、一歳ノ収穫取調候処、前記之通相違無之ニ付、連署ヲ以テ此段申上候、以上 年号月日 右何村 代議人 何誰 村用掛 何誰 戸長副 何誰 地租改正取調掛総代人 区長副 何誰 神奈川県令中島信行殿 すなわち、一方では、小作料による地位等級の設定の再調整が全管下で進められながら、他方では、収穫調が、まだ公式の達しは発せられてはいないものの新たに始められた。しかし、心得として示された右雛形をみれば、小作料によって定めた「田畑地位等級ニ従テ、一歳ノ収穫取調」べるというもので、両者は、異質の調査ではない。「反別位当部分書上」調査にもとづいて収穫高調べがなされるという関係なのであった。 したがって、収穫高調べが始められた後も、小作米金による地位等級の隣接諸村と対比しての調整と、それにともなう村位の決定作業は、さらに県によって推進された。すなわち、一八七六(明治九)年二月八日、県地租改正掛は、さらに次の申合せを行い、小作料による地位等級を全管下に設定すべく、諸村に対する県の態度を固めた(前掲「地租改正雑集弐」)。 申合 一 田畑宅地及ヒ山林野税地等総而位当部分等級ニ従テ小作米金貸地代等実地適不適ヲ検閲算量シ、其増減ニ出ル処ヲ篤ト参考シテ、隣接四周平準ニ帰セシムルヲ要ス 一 総代人正副戸長ニ寄〻会同シ、禀議細論シテ覈実之算則ト判決セシ分は、其都度幾ケ村ニ而も簿冊取纒メ、直チニ本県江逓送申付ベシ 一 四隣接続ノ地区々異同ニシテ再審査照考可及ノトキハ、会議所ヲ指シテ当日ヲ通知シ、各手対辺シテ夫〻適スヘき向ト比準ニ充様懇切ニ勧解シ、再審査可申付、若村民頑固其事項書面差出サセ、克〻其偽ノ景状ヲ察知記帳シテ、其帰県之上、見込逐一具陳スヘシ 但地味ノ肥瘠、耕耘ノ難易、総而人民活計上ノ便否、土地ノ厚薄等予メ推知スト雖モ、此際尚村位ノ実景注意索求スヘシ 一 水旱両様反別実地書出スヘキ旨ヲ曩ニ公達アリ 旱損ハ 漏ナク、逐〻取調方運ヒ居候義ニ可有之、右は実地反別之可否推問シテ、粗漏之分は再審査申付、此際取纒、前便一同本県江逓送スヘシ 明治九年第二月八日 地租改正掛 さて、第一一大区を例にとると、ここでは、一八七六年一月二十九日、各小区正副戸長・各村の村用掛らが田無村に集まり、前述明治八年十二月二十一日の達しにもとづき、県からの「御談事」によって「区内一同打寄、不平これ無き様一時に決評の上」「高上げ方」、すなわち、低く申告したとみなされた村の等級別小作米金高の引上げが行われた。しかし、この日九、一〇小区は出頭せず、他の小区村々は三〇日も滞留して両小区を呼び出し、ようやく結着をつけ、二月十一日には、添田権大属外三名が小川村小川屋幸蔵方に出張し、七-一〇小区の用掛・代議人を集め、右の結果にもとづき、「小作等級部分書上方之義区内各村適不適」の「照準」がなされた。ついで三月三日、県令自ら磯貝大属・添田権大属ら数名を率いて田無村に来て、点検があり、同大区内各村の「小作等級書上簿」はすべて承認された。こうして、三月十日、第一〇大区の地租改正取調掛総代兼区長下田半兵衛は、各小区に対し次の廻達を行った(注(2)に同じ)。 当区内各村小作等級部分書上簿不残納済相成候ニ付而ハ、最早此上増方等之御談事ハ有之間敷候得共、兼〻県官ゟ御説明之通、来四月中ゟ収穫検査として内務省ゟ官員派出、県官其外立会取調可有之候間、追而御沙汰、此儀尚詳細御達可申候得共、全図・切図・野帳等各村控之分悉皆整置、其節ニ至リ差支候様ニ而ハ甚以不都合ニ付、今より心掛ケ差支不相成様、正副戸長衆ニおゐて厚御注意御取計有之度、呉〻も小区限各村江御説諭可被成候、依之為□及廻達候也 これによれば、県は、第一〇大区については、三月初めに県の意図通りに小作等級編成を終え、これにもとづき、四月に地租改正事務局員が出張して来て、収穫検査が行われる予定になっていたことがわかる。 このように県は、村が申告してきた小作等級を不適当として、その小作米金額の引上げを村方に強いていることから、このとき、すでに県は小作米金とそれから算定する地価について、一定の「見据」を持っていたことがうかがわれる。正確な作成月日は不明だが、地租改正掛の長であった添田権大属と下僚浜田新太郎(一八七六年三月、一五等出仕)の所蔵資料によると、それは表一-五八のごときものであった。 この新旧地租額増減見込表は、各大区村々から提出された「反別位当部分書上」にもとづいて作成した、県全体の小作米金等級別地価表(表一-五九)から計算したものである。小作米金等級別地価表は、県が各村「反別位当部分書上」にもとづき、水田については、県下全水田を、契約小作料(「無難豊熟ノ年柄」の小作料)によって一五等に配分し、等級ごとに一〇か年平均実納小作料を求め(一率二割引)、これと県下一五か所五か年平均米価とから、地方官心得検査例二則の方式によって地価を試算したものである。利子率は、同一九章、「地価ヲ検スルノ際……小作地ハ五分利ヲ以テ其極度トスヘシ」により、極度である五分を用いている。さらにここから県平均水田一反当たり地価額を算出して、それがほぼどの等級の地価に該当するかを知ることができる。本表では、その結果、小作入口米八斗五升の等級の地価が、ほぼ県平均の水田予定地価を表示していることが確められた。同様にして畑・宅地・山林の予定地価も求めることができる。この県平均予定地価を用いて、新旧地租額の比較を行ったのが表一-五八で、それによると、水田では九万九一八四円余の減、畑宅地では、逆に八万六四五三円余の増、山林の増二万〇一五一円余を加表1-58 旧神奈川県における地租改正の当初見込額(土地検査終了後) 注 1 「田畑宅地及山林等民有地旧貢・新租額比較表」(添田家文書)より作成。 2 畑のうちに宅地も含まれている。 3 換算米価は明治3-7年5か年平均相場金1円ニ付米1斗9升1合(米1石5円235)。 表1-59(1) 旧神奈川県における小作米金等級別地価予定表 注 1 ( )内は米価を1円に付米1斗8升7合に訂正したのにともなう変更値(平均等級のみ掲記した)。 2 地価の算出方法は,地方官心得検査例第2則により,(2)×(3)-(4)=(5),(5)÷0.05=(6)。 3 ゴシック数字が平均に当たる。 え、全体では七四二〇円余の増租になる。旧租に対し約一八・五㌫の増租である。しかし、表一-五八畑のなかには宅地も含まれ、そのうち六〇町余は「八王子神奈川横須賀等ノ如キ輻湊地」として反当地価二〇〇円、地租六円、一八〇町余は「街道宿駅并浦賀・青梅村ノ如キ人家稠密地」として反当地価一〇〇円、地租三円、両者合計新地租額は九〇〇〇円余と見込んでい表1-59(2) (単位 円) 表1-59(3) (単位 円) 注 「右田畑宅地ノ外山林萓野芝地秣場等ノ類各収穫ノ多寡ニ応シ地価位当ヲ知ルコト畑方小作ニ同シ」 る。これら準市街地の旧租額は不明だが、少なくとも倍以上の増租であることは確実である。したがって、表一-五八の新旧租比較では、準市街地を除く、一般耕宅地について、地租改正によりごくわずかな増租を見込んでいるにすぎない。ただ内容では、水田の減租・畑の増租を意図していることは明らかである。 当初県は、以上のような「見据」のもとに、水田では県平均反当地価が四二円七二銭二厘になるよう、小作米等級別面積の調整を、大区-小区-村に命じたと思われる。 なお、このとき小作米の換算に用いた米価は、管下一五か所(保土ケ谷・神奈川・川崎・溝之口・原町田・八王子・府中・田無・五日市・青梅・三崎・浦賀・戸塚・藤沢・一之宮)の、上・中・下米平均、明治三-七年までの五か年平均価格(一円に付米一斗九升一合-米一石五円二三銭六厘)が用いられた。しかし、これを改正事務局に伺を立てたところ、中・下米五か年平均価格一円に付き一斗九升二合と、貢米買石代(上米値段)五か年平均一円に付き一斗八升一合とを平均した価格一斗八升七合(一石五円三四銭七厘)を使用するよう命じられた。これにより、表一-五八の水田に関する数値は修正され、県平均水田反当地価は四三円六三銭六厘となり、増租額はさらに大きくなった。 関東諸府県共通方式による地価調査の開始 こうして、県が見込んだ県平均予定地価額の実現を目途とした小作米金等級の設定は、管下各村で、ほぼ一八七六(明治九)年三月ごろには一応の完成をみたと思われる。しかし、右の県平均予定地価額は、あくまで県がたてた目標額であって、地租改正事務局の承認を得たものではなかった。四月に入って、地租改正事務局は、これまで県が実施した事業を検査し、これを中央の改租方針に整合させるため、改正事務局員を派遣してきた。これによって、県下各村は、さらに新しい作業を課せられることになる。このとき、中央の改租方針は、地租改正事務局明治九年三月三日達「関東八州地租改正着手ノ順序」によって改正局員に示され、派出局員はこれにもとづいて、新たな地位等級編成を県に求めた。 このときの改正事務局の指導は、右「着手ノ順序」(全一二条)には明文化していない模範村の設定など、さらに具体的な内容におよんでいる。しかも、関東一府六県の地価決定は同一の方法で実施するという強い方針が堅持されていた。本県にも出張し指導を行った有尾敬重は、これを後年次のように語っている(有尾敬重「本邦地租の沿革」日本勧業銀行内毎月会 大正三年十二月)。 関東は御承知の如く、一府六県畔一重で其境を接して居るのであります。従って此県の流儀は斯で有り又此県の流儀は斯で有ると云ふ様に異た方法でやりかけては比較上甚だ困ると云ふ感じが致しました。そこで関東地方は何うしても一府六県を仮に一地方と見て調べ上げた上、隣県に接続する所等は甲県から言ふても乙県から言ふても大抵値柄も合ふ様にしなければならぬと云ふ様なことを予め考へて調べに掛ったのであります。其上段段各地方で改正をやった為めに手並も出来て参りましたもので有りますから役人の方でも然う素人計りでない、経験を積んだ者も幾らか有る様になったので、先づ模範村と云ふものを立て、之を基として調べをする事になりました。 改正事務局の方針が以上のようなものである以上、これまでの県の小作等級による地価決定方法も、何らかの変更を余儀なくされることになった。この改正事務局の方針が、第一一大区に下りてきたのは、四月二十四日のことである(注(2)に同じ)。 九小区 榎戸新田 十小区 高木村 右収穫地価調査模範地相成候、依而ハ此程兼而巡回相成候官員衆より御談示も有之候義ニハ可有之候得共、一筆限書上ケ帳来ル廿八日迄ニ御県ヘ差上可申義ニ付、右認方其他御談判いたし度義有之候間、明廿五日午前第十時右村用掛当会所被出頭候様、御達有之度、此段及廻達候也 第十一大区 会所 九年子四月廿四日 右区戸長副御中 追而先般御渡相成居候収穫地価書上帳雛形加除相成候廉有之ニ付、雛形持参、写取可被成候也 模範村は、各大区四-一〇か村ずつ選定された。一模範村には最寄の五-一〇か村が組合となり、これらの村のこれまで改租事業を担当してきた総代人・戸長らが、模範村に集まって、まずここで地位等級を立て、どういう地が一等地か等々、あるいはまた、各自の村の一等地は模範村の何等に当たるか等を会得する。このとき地位等級は、収穫米麦一斗の間隔で設立し、一筆ごとに等級を付すものとされた。 この模範村での地位等級設定作業の開始とともに、五月十三日、第一二〇号達で各大区正副戸長に対し、各大区内の村用掛・代議人・正副区戸長・総代人らが会同し、銘々見込投票によって村位等級(村等)を定め、二十日までに製表し県へ提出することが命じられた(『資料編』16近代・現代(6)一四一)。なお、この村等は一〇等以内とするよう指示されている。 旧神奈川県への足柄県併合 旧神奈川県下で、関東諸府県統一の方式による地価決定作業が新たに始められている最中、足柄県相州部分が神奈川県管轄下に入ることが布告され、五月一日、その「土地人民」の受け渡しが行われた。前述のように、このとき足柄県相州部分では、まだ反別調査も完了していない。しかし、神奈川県への併合によって、旧神奈川県と同じ画一化された方式で改租事業を遂行し、しかも旧神奈川県と同時にこれを完了させる必要に迫られた。そのためにまずとられたのが、五月十九日第一二五号達による「地租改正ニ付、段別地価書上方人民心得書及ヒ地価書上帳雛形」更正の布達である。この布達は、これまで改租実施について県独自の規則を作っていなかった旧足柄県部分にとっては、形式上初めての改租施行規則であり、旧神奈川県部分と同じ方式により改租事業が実施されることが明らかにされたわけである。一方、旧神奈川県部分にとっては、文字通り一八七四(明治七)年三月布達の更正で、すでに進められている関東諸府県共通の方式による地位等級設定作業によって死文化した部分(小作入レ附高調査など)が削除され、右作業に適合した規則に改められた。そして、提出すべき「反別地価書上帳」雛形にも、末尾に等級別に反別・収穫米麦・地価の合計を付するなどの修正がなされたが、この点は、旧神奈川県では、先の引用文に明らかなように、この布達以前に、廻達ですでに修正が伝えられていた。また、以上の改正によっても、現に進行している地位等級調査の方法が登載されたわけではない。ただ「書上帳」雛形に「一年限収穫地価ハ全村調済ノ上、認入候義ト心得可シ」と新たに注記され、地位等級調査がまず先行し、事後、官の承認を得て収穫・地価が記入されることが示されているに止まる。この「反別地価書上帳」も、実際には、この更正布達前から「田畑其他一筆限収穫地価書上帳」と呼ばれており、以後の県布達でも、公然と右の称呼が用いられている。要するにこの「人民心得書」更正布達は、旧足柄県相州部分を含む新神奈川県における地租改正実施の基本的法規として布達され、実施に必要な具体的な措置は随時県布達・廻達などの形で村方に伝えられたのである。 模範村での地位等級検査 さて、旧神奈川県下では、「人民心得書」更正布告後も、引き続き、関東諸府県共通方式による地価調査作業が進められていた。先に述べたように、模範村(本県ではしばしば模範地と称している)での地位等級の決定と、各村用掛・総代人らの投票による村位の決定がそれである。 六月五、六日、改正事務局から出張してきた七等出仕有尾敬重、同吉田六三郎、一三等出仕浅井謙蔵、同池田緯太郎は、県庁において、県地租改正掛・各大区総代人を集め、模範村が提出した収穫書上帳および村位等級表を点検し、今後の作業を指示した。それはおおむね次のような内容のものと推定される(注(2)に同じ)。 (一)模範村での地位等級設定を、「四至隣接村々用掛・代議人両人立会」の上あらためて実施する。(二)等級はその村の地味の肥瘠に応じ一〇等以内に区分し、「其他ハ等外何等ト記載」する。(三)等級設定にあたっては、「収穫何程書上ケ之事ハ論スル事ナシ」(等級設定の際、等級ごとに収穫高をどれほどと書き上げるかの討議はしない)。(四)したがって模範村等級書上帳には収穫地価は記載におよばず、等級別反別のみを記す。(五)模範村の地位等級が出張改正事務局員の検査を受け承認されて後、収穫算量を行う。(六)ついで収穫検査済の上地価を決定する。 ここから明らかなように、模範村での地位等級設定は、「地味ノ肥瘠・耕耘ノ難易、或ハ水旱・罹災ノ有無、土地運搬ノ便否等相顧テ実況ヲ推索シ」て決め、収穫高は書き上げない。もちろん、収穫高を仮定して(後述)、その一斗差で等級を分けてゆくが、正式に等級ごとの収穫高の決定は行わず、その算量は、地位等級の検査・決定後になされる。したがって、事実上収穫高は官が決定することになる。そしてこのとき、田・畑をそれぞれ上・中・下等にわけ一反当たりの所要肥料と自給肥料作成の労力の費用を調べる「田畑養肥取調書上」の提出が村方に求められた。 地租改正事務局は、神奈川県に、関東諸府県共通の方法で統一的に地価を設定するため、局員を派出して模範村に対し、集中的な指導・検査を行った。以後局員は数度にわたって来県するが、それはもっぱら模範村の巡回に費やされている。「各模範地ノ中ニ彼我ノ村位ヲ比較シテ、該村ハ優劣何等ニ位置スヘキモノト予メ検査官ノ見込意見ヲ合議シ、然ル上ニテ」模範村内の実地について「等位ノ最低ニ就テ衆議対談ヲ尽」すなどして検討を加え、「全村検査済ノ上ニ於テ地元及組合村吏等総テ立会タル人民ヘ各地比格ノ当否懇篤推問シ」て、彼らの「聊遺憾無之旨」の請書を取る(注(3)に同じ)。これによって、他の組合各村の地位等級設定の帰趨は、出張局員の監視がなくてもおのずから定まるのである。 しかし、管下の村々は、これまで改租事業に長い労苦を重ねており、その上ようやく提出した小作米金等級編成が無駄となり、また改めて改正事務局が要求する地位等級の調査を行うとあっては、到底甘諾するわけにはいかなかった。しかも、収穫高を論ぜず明確な指標なしに地位等級を早急に設定するのは技術的にも困難である。よって、第一一大区総代人兼区長下田半兵衛は、六月五、六日、有尾派出局員らからの指示をうけ帰村すると、ただちに十月、管下小区正副戸長・各村用掛らを召集し、「当春中各村ゟ等級部分書上方其外廉々」につき協議した後、十二日再び出県して、三月に各村から提出した小作米金による等級区分をそのまま、今回の地位等級調査に転用したい旨を申し入れた。この交渉の結果は、六月十三日付で下田が、一、八、九、一〇小区正副戸長あてに廻達した次の通報に明らかである(注(2)に同じ)。 本月十日会議上におゐて談判仕候、各村田畑其外等級部分再調之義、昨十二日出県之上改正掛主事(注-添田権少属)江申立候処、右ハ先般書上候等級部分据置之義、採用可致品ニ無之、改正事務局長(注-有尾敬重か)立合之上、申渡候義ニ付、其区内村〻再調ニも不及、帳成調向ニ相違無之見居候ハヽ、先前書上候等級部分之振合ヲ以書上候共、県庁ニおゐて差支無之旨御沙汰ニ付、右之御心得ヲ以、不都合無之様各村江即刻御通知有之度、乍去末等ニ至リ、格外段概不相当之分ハ、一、二番飛越候共不苦趣ニ付、能〻御注意御取計可被成候 (以下略、傍点は引用者による) やや文意に曖昧な箇所もあるが、要するに、県の意向は、先般提出した小作米金による等級区分書上は、そのまま採用するわけにいかないが、その「振合ヲ以」って今回の地位等級書上をするのは一向差支えない、ということで、出張改正事務局員もその場に同席しこれを黙認したのであった。下田は、この廻達で、各小区模範村とその他の村々に対し、等級書上帳を六月中に県へ提出するよう求めているが、右のように実質これまでの小作米金等級を生かせば、その作業は比較的簡単であろう。ここに明らかになった県の方針は、当然、第一一大区のみならず旧神奈川県下全般に及ぶものであった。第九大区二小区では、八月二十日の集議で、地位等級表作成に「小作等級」を用いることを決め、田は小作米を一・六倍し、畑は小作金を一・八倍して収穫高を出すこととしている。 さて、第一一大区では、以上の地位等級再調に対し、一八七六(明治九)年八月、改正事務局員が出張して検査を行った。検査はもっぱら模範村に対して、十八日一小区大沼新田、十九日九小区榎戸新田、二十日八小区野口村というように行われ、そこでの地位等級点検には、組合村用掛・代議人・正副戸長らも立ち会った。この局員による模範村の点検が終わると、組合村々は次のような請書を提出し、各村々等級書上帳・合計帳編成を行った(注(2)に同じ)。 御受書 先般地位等級為御点検、事務局官員并県官御附添当大区壱小区大沼新田外九ケ村模範地御選定之上、私共村〻立会、御検査済相成、因而ハ右模範ニ做ヒ、接連村〻前書日割(略)之通リ、其村地位等級一筆毎持主ノ私偽ヲ不用、戸長及ヒ用掛リ代議人立会、村〻一同清論ヲ尽シ、平等ニ附シ、等級書上帳并合計帳来ル九月五日限リ迄無遅延上納、可奉御検査請取、依之連印請書差上申候処如件 明治九年第八月廿五日 第十一大区十小区 多摩郡狭山村 代議人 粕谷市郎左衛門印 村用掛 真野新左衛門印 (以下四か村略) 神奈川県 地租改正掛御出役 芦谷治作殿 ついで各小区は、各村の村等に応じ、それぞれの地位等級の連関を示す「各村地位等級比較表」を作成し、いずれも、一八七六年十月上旬にはほぼ完成をみた。なお、第八、九、二〇大区などの「地位等級比較表」が完成したのは、同年十一月である。 以上、旧神奈川県の改租事業は、一八七六(明治九)年四月にいたって地租改正事務局の指揮によって関東諸府県共通の地位等級方式へ変更を余儀なくされた。しかし、内実は、村方がそれまでに完成させた小作米金による等級設定が、実質的に生かされ、そのために、ほぼ十一月中には、管下地位等級の編成を終わらせることができたのである。しかし、次に、この地位等級にもとづき、収穫・地価を決定するという難事業が控えていた。 旧足柄県での地位等級設定 一方、一八七六(明治九)年五月神奈川県管轄下に入った旧足柄県部分は、当時、まだ反別丈量も完了しない状態であった。よって県は、管下村々に対し、「一層鞭達ヲ加ヘ、在来ノ管下ト一斉ニ並立センコトヲ督促シ、反別丈量済之上引尋……模範村及ヒ組合村各村」の地位等級調査に入った。それは一八七六年十月のことである。すなわち、この月、県地租改正掛は、「模範地位等級取調方心得」、ついで「地位等級比較表編製方心得書」・「田畑其他等級総計書上帳」雛形をあいついで発し、事業の速成を促した。以上の諸「達」は、県の正式の布達ではないが、すでに右作業の大半を終わらせていた旧神奈川県部分と同じ方式での実施方を指示したもので、旧神奈川県で行った実施方法を、ここに要約して知ることができる。よって、これを次に掲げておく(前掲「地方要誌」厚木市温水山口忠一家文書)。 模範地位等級取調方心得方 第壱款 各小区之内地味之厚薄村位之異同ニ拠リ、弐ケ村乃至三ケ村四隣接渉便利ナル村方ヲ以テ模範地ト選定シ、該村ノ地位等級ヲ部分シテ取調帳ヲ差出スヘシ 第弐款 模範地タル村方ニ於テハ、自村ハ勿論、四至組合村用掛及地主総代人トシテ代議人一両名立会、全村耕地実際ニ臨ミ、地味優劣ニ従ヒ、討論討議シ、権衡ヲ要ス、而テ彼我公平ト看認ヲ以テ等級ヲ付シ、反別合計帳差出スヘシ 第三款 等級位階之儀ハ通常之年柄収穫上ニ於テ田畑共凡米壱斗内外ノ甲乙ニ拠テ級階ノ位当トス、譬ハ田畑壱反歩ニ付米麦壱石八斗田米壱石八斗 畑大麦壱石八斗 之収穫ヲ以テ一等トス、田ハ壱石七斗ヲ以テ弐等トスルカ如シ、以上、以下之ニ準ス(但書追加)「但宅地添総テ人家接近ノ田畑ハ耕耘ノ便否ヲ参考シ、地味均キ遠隔ノ耕地ヨリ一級位階ヲ進メ等級ヲ付スヘシ」 第四款 全村之内川附堤外ノ地及ヒ用悪水附窪地等、水災地或ハ天水之外水理ヲ失スルコト旱田其他無比ノ薄地ニシテ、順次之等級付スルコト不能ノ図形、権衡ニ拠テ地位相当ノ級階ニ付ス、書ハ壱等ヨリ五等迄順次ニ至リ、以下亜テ準位ニ難堪ノ分ハ零ヲ置、可成丈十等以内ノ段階ヲ付スヘシ、但本条ニ於ケル級階ノ比準ニ寄、尚位当ヲ得サルノケ所ハ等外何等トスルモ可ナリ 第五款 地位級階ヲ立ルニ於テ、官収穫上壱斗内外ヲ以テ段階トスルカ故ニ、其差実ヲ一級内ニ平均シテ、甲乙ヲ分チ、反別ヲ部分スルハ民ニアリ、然レハ則チ、公論衆議ヲ尽シ、之ヲ彼我地主ニ克決定セシメ、而シテ本位ノ等級ヲ保存スルコトト知ヘシ 第六款 総テ等級ヲ付シ、甲乙反別部分スル等、自村限ニテ決スヘカラス、組合村〻立会人共協議ノ末、之ヲ定ムルヲ要ス、若クハ所有者私論主張シ、決シ難キ際会アラハ、投票ヲ以テ確定スヘシ 第七款 書上簿ハ兼テ布達セシ雛形ノ通相心得、其他切画図面ヘハ等級ヲ記載セシ小札ヲ張懸、位階ノ換ル区域一ハ色紙 黄 青 ノ内ヲ以テ細ク截チ、其区域ノ系ニ傚ヒ、之ヲ見易キ様注意ス、但一ト区域ヲ作シタル同等ノ図形ハ、一筆毎小札張懸ニ不及、該区ノ中央エ何等ト壱枚張掛ヲ以テ可トス 第八款 四隣村界、一ハ篠竹等建置、彊域ノ標目トシ、耕地切図ノ換ル区域モ、葭萱又ハ小篠竹等ヲ見通シニ建置ベシ 概略取調方順序相達候、尚難決儀ハ掛官員巡回先江申立、差図受候儀相心得事 明治九年十月 神奈川県 地租改正掛 地位等級比較表編製方心得書 模範地検査済之上ハ、各組合毎村共引続右方法ニ傚ヒ、四隣接歩之村〻一同立会、該村之地位等級ヲ部分シ、捗取次第担当官江差出シ、検査ヲ受ルコト前成規ニ均シ、順次相済候以上毎村連合等級之比較表ヲ編製差出スヘシ、比較表ヲ編製スルハ、嚮ニ等級校正之節、接歩組合村〻立会、地位之優劣ハ各自視認モ有之、一己私論ノ主張等無之筈ニ付、相須テ公平均一ニ帰着セシムルコトヲ要ス 甲乙模範地ヘ孕リ、双方ヘ地先接続シタル村方ハ該村之位置耕地之盤□ニ拠リ、甲村ヘ何分、乙村ニ何分ト、分通ヲ以テ分裂シ、比較スルヲ以テ可トス 一 表目編製ヲ甲乙二様トス、模範組合限リ比較セシヲ甲表ト称シ、甲乙模範地之中連合之為メニ比較スルヲ乙表ト名ツク (「模範地組合村〻地位等級比較表 甲」、「甲乙模範組合中接続地比較表 乙」雛形略) 第二二、二三大区では、右で作成を指示された田畑宅地等級総計書上帳は一八七六年十一月から十二月初めにかけて各村から提出され、第二三大区三小区のばあいは、これについで十二月十五日に「及川村模範地組合田畑其他之地位等級比較表」が完成し、十七日には、模範地組合中接続地比較表の編成にとりかかっている。同大区では田畑については、大部分は、一八七六年中に地位等級編成をなしとげたとみられる。こうして、一八七七年初頭の時点で、旧足柄県部分の改租事業はほぼ「在来ノ管下ト一斉ニ並立」するにいたった。 収穫・地価の決定 さて、一八七六(明治九)年十一月中に完了した旧神奈川県下での関東諸府県共通方式による地位等級編成では、等級ごとの収穫・地価額については論ずることなく、地位等級編成の後にいたってはじめて収穫高を定め、ついで地価額を決めるとされた。しかし、七六年十一月県に提出された、第八大区地位等級比較表の、多摩郡図師村用掛鈴木弥右衛門「控」(『町田市史史料集』第七集)の分には、 前記等級段階仮地価ノ義者各自接会平均ノ甲乙視認シ供スル迄ノモノニシテ、真ノ予定ニアラス、若クハ之ヲ村民ニ照会流布スルトキハ、過当云々等ヲ生シ、夫カタメ表目編成ノ渋滞ヲ醸シ、取極之節ハ大クハ不都合ヲ極メ候ニ付、嘗テ総代人ノ胸間ニ含ミ、秘シテ漏ス事ヲ禁ス との注記があって、各村総代人は、このとき仮定した等級ごとの地価額をもとに地位等級編成を行ったことがわかる。これなくしては、実際の地位等級編成は不可能だったであろう。前述のように、県は、一八七六年三月、小作米金による地位等級編成に際し、県全体で、やや新租増という概算のもとに、小作米金等級別一反当たり地価予定表(表一-六〇)を作成し、各大区地租改正取調掛総代人・区長らに提示した。これにもとづいて彼らは、管内小作米金による等級を調整するとともに、今後の地価決定作業に備えたのである。 その後改正事務局は、この県の方式を否定し、新たな方式による地位等級編成を命じた。しかし、村方にあっては、事実上、既成の小作米金による地位等級をもってこれにあてることとし、出張改正事務局員・県の黙認を得た。このことによって、さきに県が示した小作米金等級による予定地価は、おのずから、そのまま新しい地位等級における仮定地価と目されることになったと考えられる。 表1-60 田方1反歩全収穫算則 注 1 「以下等級ノ順次此概略ニ做フ」。 2 添田家文書より作成。 しかし、県は、一八七六年五月、小作米金による地位等級設定を行っていない旧足柄県を管轄下に収めたことによって、改めて、全管を通しての改租額予想、収穫・地価予定額を算定する必要に迫られた。 よって、県は、前述のように、六月、全管村々に「田畑養肥取調書上」を提出させ、表1-61 畑方1反歩全収穫算則 注 1 「以下ノ等級ノ順次此概略ニ做フ」。 2 添田家文書より作成。 さらに、一模範村組合ごとに編成した地位等級表(区内表・甲表)と、これをもとに編成した「模範各村ヲ連合シ夫ヨリ一大区内ニ連及」した大区地位等級(比較)表(大区表・乙表)を十一月ごろまでに提出させ、これらによって、まず、管内平均一反歩当たり田畑予定収穫高を算定し、もって各村地位等級別収穫・地価決定のための目途とした(表一-六〇・一-六一前掲添田家文書)。 これは、等級別の反当たり予定収穫高を、それぞれの所要養肥量・平年収穫高から算出したもので、さらにこの各等級別予定収穫高を平均して、「県官見込」の県平均反当たり予定収穫高をも示している。それは、田では米一石二斗五升で、七等乙に属し、畑では麦九斗で八等乙に当たる。この等級が、県平均の収穫高を表示することになる(注(4)沢木論文、渡辺隆喜「神奈川県地租改正事業の特色」『神奈川県史研究』第四号)。なお等級は、前述のように一斗間隔で付けられたが、村方では便宜上一等級を五升間隔の甲乙に分けることが認められた。このばあい、七等乙は、八等甲と一斗の差があり、七等甲とは五升の差がある。さて、この算則では、田は、「養肥取調」で判明した所要肥料代が、地方官心得検査例一則(自作地)の規定する種肥代(収穫の一割五分)を超過する分だけを、平年収穫高から減らした額が、等級予定収穫高となる。畑は以上のようにして得た額に、夏作の収穫高が加算され、それが等級予定収種高となる。すなわち、田方では、実際の収穫高よりかなり低い額が、等級予定収穫高とされ、畑方では、夏作が加算されるので、実際収穫高と少差の低額となる。 こうした目途を立てた県は、一八七六(明治九)年十二月から一八七七年一月にかけて、管下各村に、等級ごとの収穫書上(「田畑其他収穫地価算量書上」)を命じた。その雛形の奥書には「右は税法御改正に付、田畑其他収穫地価算量の儀、全村地位等級を以四囲村に比準し、適実の取調候処、書面の通りにこれ有り、因て此段申上候也」とあって地価も記載する欄があるが、その注記に地価は、「算出記載におよばず此条明置へし」と指示されている。これによって、県は、右の田畑「一反歩全収穫算則」にもとづき、村方が等級別収穫高を計上することを求めたのである。 県がことさらに、実際収穫高より低い収穫高の計上を求めたのは、旧神奈川県当時の、全体としてやや新租増(田方減・畑方増)という改租見込みを維持していたからと思われる。すなわち、県は、さきにこの見込みにより、小作入口米金等級別に予定地価表を作成したのであったが、ついで、これにもとづき地方官心得検査例の自作地算則による、収穫高等級別予定地価表をも作成していた。それによれば、ここに用いる収穫高を、小作入口米金額に、三分の二を乗じた額とすれば、ほぼ同一の予定地価が得られる計算であった。つまり、ある等級の土地について、その等級の基準となる小作入口米金、またはその三分の二にあたる収穫高のいずれから計算しても、ほぼ同額の地価が得られることになっていた。しかし、この計算には、全作徳から地価を資本還元する利子率に、自作地の極度とされた七分利を用いていた。しかし、旧足柄県合併後の時期にいたって自作地の地価算定に七分利の使用を許さず、検査例が示す六分利を用いるとする改正事務局の方針が明らかになった(改租穀価も一石につき米五円一五銭、大麦一円七五銭に改訂)。これらによって計算するときは地価は大幅に昂進することになる。したがって、当初見込みを維持しようとすれば、上記のごとき操作で収穫高表1-62 田1反当たりの県指示算則による試算表 注 第5大区区長田村義員「控」より作成 を低下させる必要があったわけである。また、このとき、表一-六二試算表が示すように、肥代金の多寡を加減することによって、等級の組替えや等級の細分化を行うことが可能となった。右表によるときは、田方の反収を四段階に分けることで、おのずから二四段階の等級区分がなされることになる。こうして、収穫書上げをめぐって、さらに地位等級編成が検討されることになった。ところが一八七七年二月西南戦争が勃発し、地租改正事務局は、戦争終結の九月まで、一時改租事業の村方での推進を中止させた。しかし、神奈川県では、四月から七月にかけて、改正事務局から浅井謙蔵・池田緯太郎の二名が出張して来て、模範村を再度「一視通観として」巡回し、「嘗て村方差出せし表簿と検査官の見込表とを対照し余考に要せん」(注(3)に同じ)とした。 其区地位等級撰定、模範地村〻実地再巡視トシテ、地租改正事務局官員二名ヘ当課御用掛高橋佐吉郎附属、来ル四月一日当地出発、左ノ区順廻村致シ候条、模範村ニテハ戸長及心得候村吏切図持参、村境ヘ出張案内可致候、且休泊等ハ差紙可申付候間、総代人ニ於テ廻村順之都合ニ寄可被取計候、此達章早〻順達可被致候也 十年三月卅日 神奈川県 第五大区 第十大区 第十一大区 第十二大区 第十三大区 右地租改正取調掛総代人御中 尚以五大区ニテハ一日午前第十時小杉村江総代人出張可被致候也 七月、巡視を終えた出張局員は、県掛官と、闔管連合表(全管連合表)編成の協議に入った。席上、局員は、従来の「収穫米麦壱斗内外ヲ以テ一段階トナシ」た等級分けを、「薄地末等ニ至リ位当ニ苦ムモアリテ窮屈」という理由で「壱斗五升ノ段階ニ更正スル」ことを提議し、県官も賛成し、直ちに全地租改正取調掛総代人・区長を召喚し会議を開き、それを「速ニ決議」した。一斗五升段階に区分するというのは、従来の一等級を甲・乙・丙の五升間隔にさらに区分するということである。この決議により、総代人らは「尚商議ヲ尽シ、各区既ニ毎村ノ収穫上ニ於テ斟酌セザルヲ得サルモノハ、表面数字ノ段階ヲ昇降シ、内部ニ甲・乙・丙ヲ有セシヲ彼我権衡ヲ要シ、実際適当ニ至ラシメント数回算量ヲ為シ、折衷以テ整合ヲ表」わし、隣大区接壌村々の連合等を再組織し、九月「更正表」を完成した。これは「闔管完全セシモノナレハ容易ニ之レヲ動ス可ラサルモノト」し、十二月中に各村から請書を徴収することとした。 しかし、これに対し、第一一大区の全五五か村、第一二大区のうち二四か村、第一四大区のうち二七か村、第一五大区のうち一か村、第一七大区のうち五か村、計一一二か村は調印を拒み、一八七八(明治十一)年三月にいたっても応じようとしなかった。一八七七年十二月二十六日付第一一大区各小区正副戸長連印の上申書は次の通りである。 上申書 第十一大区 各村 右は地租改正ニ付、田畑等級之義壱斗之段階を以書上候処、此度壱斗五升之段階ニ更正シ、闔管連合表御編製相成、夫〻御参査之上、当区内、野塩村を元トシ、村位ト合、比準等御説示相成候得共、過般差出候当大区等級表とハ段階ニ差異も有之、然ルニ顛末収穫額御命令無之、特ニ壱斗五升之格而已ニ而ハ何分了解難仕、尤右位当を以収穫地価算量ニ可為用旨被仰渡ニ付而ハ、当区壱等地ハ連合表四等ニ適循いたし居、殆高等ニ被存、且当大区江接続之村〻ニおゐても少異有之、右ハ何レも収穫上比格之表目ニ付、管内壱等地ハ収穫之数位何程より起計スト申義不相分候而ハ、此度御編製相成候連合表ヘ調印仕兼候旨、一同申居候間、私共連署を以申上仕候也 明治十年十二月廿六日 (人名略) 要するに、「更正表」を提示されたが、この等級表によってどれだけの収穫高が算量されるかわからない状態では、調印いたしかねるというにある。県は、「未タ予定伺済己前ニシテ概略ノ見込ヲモ組ミ難キ旨」を申諭したが(注(3)に同じ-後述のように、このころにはすでに伺済みとなっている)、「頑論而已申募誘説ノ道無之」、請書をとらぬまま、放置せざるをえなかった。 県も、右にのべているように、九月改正事務局との折衝で、全管予定収穫高が、伺済みとなるまでは、これを総代人らに示しえなかったのである。しかし、九月、地租改正事務局は、関東諸府県地方長官(または次官)に来局を求め、硬軟種々折衝の末、収穫量の最終決定を行った(大蔵省蔵松方文書)。神奈川県では、長官所労のため代理として添田権大属が、全管調整を終えた等級表・収穫一反歩当たり平均額算出の簿冊を携えて出席し、局見込では「到底民力に堪えがたし」と論弁し、結局「局官の調成したる収穫予定の内、幾分か減石更正して確定の石数御書正しに相成」った(注(3)に同じ)。すなわち、表一-六三のごとくである。決定額は、神奈川県案より、田で一升四合、畑で六升九合の増額であった。ついで使用利子額も、六分と確定し、ただ深山僻邑の地には六分五厘ないし七分の利子を用いることが認められた。 県は、これにもとづき、既成の等級表によって、全管一村限収穫地価を算量し、これを各村に承諾させる作業にとりかかった。一八七八(明治十一)年四月、ようやく、「改正御施行御請書」が、都筑・久良岐・三浦・鎌倉・高座・大住・淘綾・足柄上・足柄下・愛甲の各郡村々から提出され、同六月、表1-63 神奈川県田畑1反当たり収穫高地租改正決定額 注 (1)(2)は「関東各府県見込ノ租額ト局見込トノ比較増減」大隈文書A2047早稲田大学蔵。(3)は「神奈川県管下之内改租承服1212カ村新旧税額比較表」(『明治初年地租改正基礎資料』下巻)。 橘樹・多摩・津久井各郡から提出された。これらは、県令またはその代理添田二等属が、出張改正事務局員とともに巡回し、請書をとったものである。 なかで第二三大区津久井郡の山奥部村々は、平野寄りの隣大区のみと接するため、均衡上、等級が上昇し、苦情を唱えてやまなかった。これに対し県は、第二〇大区の相模原、第一八大区の海岸砂浜地帯に、現況は芝地であるにもかかわらず丈量検査の際畑地とした部分があり、これに鍬下年季を附すると、この部分の予定収穫高、麦五三三一石が減少する。県は、この減少高を、津久井深山の村々に改正局の許可を得て「特別に分当」して収穫高を減らすという便宜の措置をとり、苦情を抑えた(注(3)に同じ)。しかし、三浦郡のうち一五か村(第一四大区)、鎌倉村のうち七か村(第一七大区)、前述した多摩郡第一一大区全村、第一二大区のうち川東村々は、「改租ヲ増額ナリト云々申唱」え容易に請書に調印せず、県はやむをえず懇諭の末、出張改正局員と協議し、第一一、一二大区各村に対してはその減租要求願書に「上申之趣ハ改正年度(五年後の地価改定が地租改正条例追加第八章で約束されていた)ニ至リ僉議之上、何分ノ所断及候儀ト相心得ヘク事 神奈川県印」と奥書してようやく請書をとることができた。第一一大区各村が請書を提出したのは、七月のことである。 一般に小区から提出された請書は次のような文言のものであった(『町田市史史料集』第七集)。 改租御施行御請書 右者地租御改正ニ付、当小区内田畑宅地之義者毎村ニおゐて地租等級ヲ立、隣村接壌地等者各自立会、比準ヲ要シ、嘗テ表目上申致シ候ニ付、彼我権衡等夫〻検査之末、全管連合表御編製、各等級段階等御示告之趣、予テ承認仕、則右位当ニ基キ、収穫地価等精密御調理法復御細議之上、算出表御示シニ相成、篤与視認候処、実地ニ於テ不適等之義も無之、右ヲ以各段階之収穫地価算量候トキハ、前記ノ如クニ有之該地価ニ応シ、御成規之通地租御賦税相成候ニおゐてハ、聊違義無御座候、依而連署御請申上候也、但シ毎筆算量ニ付而者、全村総計上ニ致リ、金額 四捨五入自位 止ナルヲ以 差異生スル分有之候共、都而寄上之儘記載差出候義与可相心得、尚御示命之趣、逐一承知奉畏候也 明治十一年六月七日 第八大区三小区各村 総代人 村用掛 戸長 地租改正取調掛総代人 神奈川県権令 野村靖殿 右但書にあるように、村内各筆に計算して地価額を記入する作業は、この請書提出後に行われた。なお、第一七大区鎌倉郡瀬谷村外六か村は、遂に最後まで承服せず、改正事務局から七等出仕有尾敬重が自ら同村々へ対し説諭を加えたが、「頑民固結して誘説の道相絶」え、県は止むを得ず、この七か村を除いて一八七八(明治十一)年七月二十五日出張改正局員の復命書とともに、一八七六年度からの新租施行伺を提出し、八月六日改正事務局の允可を得た。また右七か村に対しては、明治九年五月太政官六八号布告を適用し、「近傍類地等の比準を取り、相当の地価を定めこれに地券を渡し収税」することに決した(『通史編』4近代・現代(1)一四五ページ)。 なお、山林原野については、以後改租事業に着手し、一八八〇年九月(改正事務局による山林原野雑地等地租改正許可)にいたって完了した。 改正地券 大久保稔氏蔵 改租の結果 壬申地券交付から数えれば、明治五年(一八七二)五月にはじまり、一八八〇(明治十三)年九月にいたる七年四か月の歳月を費し、地租改正事業は終結を迎えた。この間、担当村吏はもちろん、一般農民のこれに投じた労費はばく大なものであった。改租に要した民間の費額は、公式に計上されたものだけで七四万八二六七円余(「府県地租改正紀要」上)、その他に地券発行業務にあてる費用として地券証印税一四万二二五八円余が徴収されている。この合計八九万〇五二五円は、改租後における一年分の田畑宅地地租八五万五〇四二円を優に上回る金額である。こうした長期にわたる歳月と多額の労費を費して、農民が得たのは、所持地に対する私的土地所有権(地券)と重い地租の納付義務とであった。地租改正によって県の田畑宅地合計地租は増加した(表一-六四)。一八七七年以降地租は、土地百分の二・五に減額されるが、その減租後の額と対比しても、旧租に比し表1-64 神奈川県の地租改正による地租の増減 注 (1)(2)は「関東各府県見込ノ租額ト局見込トノ比較増減差引書」大隈文書A2047早稲田大学蔵。 (3)は「神奈川県管下武蔵相模国之内改租承服1212カ村新旧税額比較表」『明治初年地租改正基礎資料』下巻。 (4)同上から算出。 表1-65 地租改正による増減租の村数 注 南多摩郡は沢木武美「地租改正による神奈川県内陸部畑作地帯の増租と小作料」(注(4)参照)。橘樹郡は「明治6,7,8,3ケ年旧租平均改租百分ノ二ケ半ト差引」(添田家文書)。 三万八〇〇〇円余の増加となっている。その内訳は、田方減租・畑方増租で、畑方の著しい増租が、田方での減租額を上回っている。ここに、畑地勝ちの神奈川県における地租改正の特色があらわれている。畑方での増租は、すでに当初の段階で県が見込んでいたところであるが、一八七七年減租の後でさえ、旧租の二・五倍という農民にとってきびしいものであった。しかも、ここでいう旧租は、明治六、七、八年の貢租額の平均、すなわち、明治五年(一八七二)政府の安石代廃止措置で畑租が倍増した後の額である。したがって、旧幕期の畑租と対比すれば、新租の増加は四倍以上に達するであろう。したがって、地租改正は、県下でも、とりわけ内陸畑作地帯(多摩・高座・津久井・愛甲郡等)に深刻な影響を与えた(注(4)沢木論文)。畑作地帯南多摩郡のうち五五か村と水田地帯橘樹郡一二一か村との改租による増減傾向を対比した表一-六五は、南多摩郡が、地租を地価百分の三としての計算なので、いくらかの斟酌を要するが、畑作地帯増租・水田地帯減租の傾向は明らかであろう。この結果はやがて、明治十年代後半において、畑作、とくに養蚕地帯の農民に深刻な影響をおよぼすこととなった。 注 (1) 「地租改正位当部分書上 第五大区四小区末長村」川崎市高津区 中山清家文書。 (2) 「明治八年十二月 反別等級上達止 第拾壱大区拾小区長」東京都東大和市蔵敷 内野禄太郎家文書。 (3) 「明治十二年十月 河野少書記官殿ヨリ推問ニ付呈ス 地租等級組織方法及改租調理順序施行差示ニ至迄概略手続書 添田」横浜市鶴見区 添田茂樹家文書。 (4) 沢木武美「地租改正による神奈川県内陸部畑作地帯の増租と小作料」(神奈川大学大学院『研究論集』第一号)。関順也「多摩の地租改正」(『創価経済論集』六巻一号)。 (5) 「第九大区地位等級比較表」第九大区九小区横川村横川家文書、八王子市鈴木弘明氏蔵。「第八大区地位等級比較表」四小区図師村鈴木弥右衛門、『町田市史史料集』第七集。「第二十大区村々地位等級比較表」座間市大矢純一家文書。 (6) 前掲「地租改正雑集 弐」。第五大区地租改正総代人田村義員(区長)「控」筑波大学蔵 川崎市高津区 田村家文書。 (7) 「明治十年一月起公用日誌 田村」前掲田村家文書。 第四章 維新期の神奈川県財政 明治前期の地方行財政制度は、日本全体についてそうであるように、神奈川県の場合も一八七八(明治十一)年のいわゆる三新法(「郡区町村編制法」、「府県会規則」、「地方税規則」)の制定を境にして、二つの時期に分けて考えることができる。それに先立つ一〇年間は、さまざまな試行錯誤を重ねながら、古い封建的な制度を改廃して、新しい時代に適応する制度をつくり出していった時期であり、三新法がそのいちおうの到達点をなしているのである。もっとも、神奈川県の場合はのちにみるように、三新法の適用に当たって、他の諸県と多少趣を異にし、東京や大阪などとともに市部(区部とよばれた)と郡部とで、県の財政を分離する制度が採用され、その制度が県の行財政のうえで大きな意味をもったから、時期区分の画期をその導入の一八八一年にしたほうがよいのかもしれない。しかし、それも三新法体制の一変種なのであるから、広い意味ではやはり三新法を画期とするといってよいわけである。したがって、「明治維新期の神奈川県経済」を対象とする本編で財政を採り上げる場合、維新のはじめからこの時期までを扱うのが適当であろう。 第一節 県財務機構の整備 明治元年(一八六八)四月二十日、旧幕府の神奈川奉行所が新政府に接収されて神奈川裁判所と改称され、新しい時代の県行政が、したがって県財政が発足することになる。この時、同裁判所の管轄はわずか一万二〇〇〇石だったが、間もなく周囲一〇里郡内の所轄へと拡大された(県立図書館『神奈川県史料』第一巻二ページ。以下、本書を示す場合はたんに『県史料』と記し、同『県史料』の他の巻を示す場合にのみ、たとえば『県史料』第四巻のように、巻数を記す)。ところで、神奈川県の場合は、はじめから他府県とはかなりの違いをもっていた。というのは、本県は維新期に中央政府が全国一律に策定する地方行財政制度では処理しきれない問題をかかえており、それが成立当初の本県の行財政機構にも反映されたからである。本節では、その点を中心にして、この時期の行財政機構の変遷をたどることにしよう。 一 県行財政機構の特徴 対内・対外の二重行政機構 維新の動乱期にも、横浜ではたいした混乱なく平穏裡に幕府から新政府へと支配が移行したが、その背景には、イギリスをはじめ当地にある外国勢力の武力による横浜管理があった。いうまでもなく、開港地として横浜は外国人居留地をもっており、旧体制崩壊と新体制成立との間隙に生ずるであろう混乱をさけるために、たんに居留地のみならず横浜全体について、一時的な外国の管理がなされ、新旧権力は双方ともこれを尊重したからである(くわしくは横浜市『横浜市史』第三巻上第一章を参照)。ここに示されるように、横浜=神奈川県は他に例をみない特殊な対外関係をもっていて、それが成立当初の県行財政機構に著しい特色を与えることとなる。もっとも、成立当初はほとんどすべて旧神奈川奉行の制度をそのまま引き継ぎ、機構や役職の名称を変えたにとどまっていた。まず、神奈川裁判所を横浜裁判所と戸部裁判所に分け、それぞれを対外・対内行政の担当とした。両裁判所はのちに合併されるが、その際はそれぞれ神奈川府(明治元年六月に神奈川裁判所から改称)の外政局と内政局となり、つづいて九月に府が廃されて県となっても、この制度は引き続く。なお、明治三年(一八七〇)二月には、内政局・外政局の呼称が内庁・外庁と変わったが、二本建ての組織はそのままである。いま、『県史料』にしたがって、内政局・外政局の組織を図示すると、左のようになる。 ここでは、内政担当の知県事は、同時に外交担当の外国官判事を兼ねており、かれに統率される内外担当の組織は、いずれも等しい機構をもっている。当時はまだ全国的な府県行政組織は定められていなかったが、しかし、こうした内政外政について、たがいに同じ比重をもつ組織をもった府県は他に見当たらないのではなかろうか。それぞれの役職の職務は、『県史料』一一九ページ以下に記されているが、そのうち財務に関するものが『神奈川県史料』全巻 内閣文庫蔵 特記されているのは、庶務であって、「外政内政ノ市政農政収税会計……等ノ数課ヲ分配シテ諸般ヲ施行スヘシ」とある。 明治二(一八六九)年七月に「県官人員並常備金規則」によって、全国府藩県官定員が定められたが、神奈川県としては、対外関係をはじめ貿易の拡大や人口移動にともなう係争増加など特別な事情があるゆえ、他県と同じ取扱いをされないよう、くり返し中央に要請し、結局はそれがかなり認められている(「県官人員並常備金規則」については、自治省『府県制度資料』下四-六ページを、神奈川の対応については、『県史料』一一九-一二二ページを参照)。その場合、右の神奈川県の要請は多くの定員外職員を必要とするということであったらしく、「外政ハ固ヨリ制外タルヲ以テ常ニ職員ノ定数ヲ限ルコト無ク」(『県史料』一二〇ページ)という文から推すと、対外担当についてはおそらく右の定員に拘束されず、従前からの外庁をそのまま持ち越したのであろう(この点『横浜市史』第三巻上二二ページの解釈とくいちがうが、引用した『県史料』の文面からは本文のように推測しうると考え(『県史料』第一巻一一八ページ) る。なお『県史料』一二二ページをも参看されたい)。こうした対内・対外にわたる二重の行政機構は、そうでない府県にくらべて、当然その裏付けとなる例外的な財源を必要とするが、その点については第二節で述べることにする。 中央官庁機能の代行 県が担当した外交事務は、整備された政府機構を前提とすれば、いうまでもなく中央政府の機能たるべきもので、県はそれを代行したのであったが、対内行政でもやはり中央政府未整備のために、県が代行したものがかなりあった。これは、当時としては神奈川県に限ったことではなかったが、この時期の県行財政を特徴づけたものであったことに変わりはない。 その第一は、税関事務である。これは対外関係であるから、前項で述べた領域に含まれるが、のちに大蔵省に吸収されるので、ここに含めておく。はじめ、神奈川裁判所が神奈川奉行を引き継いだ際、自動的に当時の税関に当たる運上所も引き継いだ。そののち、明治四年(一八七一)八月に開港開市場の税務は大蔵省の管轄たるべき旨が決定されて、同年十一月から東西運上所は同省へ引き渡された。 その二は、軍事である。軍事はいうまでもなく中央政府専管事項であるが、過渡期の現象として県が所管したことは、前掲の県役職図で示されているとおりである。これも旧神奈川奉行から引き継いだもので、判官事=知県事の職務のひとつに「県兵ヲ監スル」(『県史料』一一五ページ)ことが含まれている。もっとも、中央政府としては兵制統一の必要から、明治元年八月にいちはやく各府県に対して府県兵を禁止する旨を布告したのであるが、これについて、神奈川県は他府県とはちがって「右兵員之儀ニ付テハ各国ヨリ申立モ有之……一日モ不可欠急務ニ付」(『県史料』第五巻五三二ページ)存置することを認めてほしい旨上申し、その結果が前掲図のような県軍事組織となったのであり、およそ五〇〇人ほどの府兵ないし県兵を保有していた。もっとも、軍監や大隊長などは中央から派遣されていて、これによって中央の統率が維持されたもののようである。 その三は、裁判機構である。これは全国共通だと思われるが、はじめ「部内人民ノ訴訟ヲ裁断」(『県史料』一一五ページ)するのは知県事の役目であって、具体的には、財務と同じく庶務の担当であった。さきに、本県が全国一律の定員に従い難い旨を上申したと述べておいたが、その際ふれたように、県の理由付けのひとつとして、当地の貿易の拡大に伴い「移住内外商民相増随テ他所出入ノ者公事聴訟ヲ始メ」(『県史料』一一九ページ)事務が繁多であるので、定員では不足すると主張されていた。 その四は、官業である。新設の神奈川裁判所が旧神奈川奉行を引き継いだ際、同時に同裁判所は旧幕府が経営していた横浜製鉄所および横須賀製鉄所を接収してその管轄下においた。そのほか、明治に入ってから設置されたものであるが、伝信機・燈明台というような施設も、当初、県の仕事としてはじめられていた。前掲図にかかわらせていえば、このうち製鉄所と燈明台が庶務で扱われていたことは明示されているが、伝信機についてもそうであっただろうと推測される(『県史料』一一六ページ、同書第五巻四七五ページ)。これらが、財政的にみてどれほどの意義と機能をもっていたかを数量的に分離してとり出すことは、目下のところ不可能であるが、県当局がしばしば主張しているように、それらの多くが、他府県にくらべての神奈川県の特色であり、かつ特別な負担であったことは明らかであろう。しかし、それらは中央における統一的地方行財政制度確立への歩みにしたがって、次第に整理され、本県も他府県並みのより縮小された行財政をいとなむようになっていく。その点を、次項でとりまとめることにしよう。 二 県行財政機構の縮小・整備 沿革 今までみてきた様相は、いずれもひと言でいえば、中央政府権力機構の未確立を前提とした過渡的な、それゆえ、県としてはいわば過度の負担を示すものであったから、それらは中央政府の整備にともなって次第に縮小され、解消し、神奈川県が他府県と同様の行財政制度をもつようになっていくのは、自然の成行きであった。本項ではその点を追跡することにしよう。 まず、本来中央政府が担うべき機構で、はじめに中央へ引き上げられたのは、横浜・横須賀の両製鉄所で、これらはいずれも明治二年(一八六九)十月に大蔵省に移管された。つづいて、明治三年十月に伝信機が民部省へ、明治四年七月燈明台が大蔵省へそれぞれ職員ともども移された。もっとも、これらはいずれも中央と地方を通ずる行財政制度としては枢要なものではなく、その移管が本質的に大きな意味をもつとは思えない。しかし、明治四年八月の県兵廃止、十月の運上所の大蔵省移管は、中央集権制度の整備およびそれと表裏をなす県行財政の縮小・整理として重要な意義をもつ。このことは、それらがいずれも国家権力の存立にかかわるものであることを考えれば、容易に理解されるであろう。おそらく財政負担としても、この二つは中央政府の肩代わりとしては最大のものだったのではあるまいか。 同じ明治四年十一月に全国的な「県治条例」が発布され、いちおうそれにのっとって、神奈川県裁判所にも、左のような分課が置かれた。 内庁………庶務・租税・聴訟・出納 外庁………庶務・聴訟・文書・出納・条約未済国事務取扱・邏卒 一般の府県は、このうち内庁に当たるものをもつにすぎないのであって、神奈川県はそれまでに対内的な中央政府業務からは解放されてきていたとはいえ、この時点では、なお依然として内庁をしのぐ大規模な外庁をもつ特異な県だったことに変わりない。明治五年八月には、裁判事務が新設の神奈川裁判所(従来の「県庁」を意味するものとちがって、これは近代的な意味でのそれ-筆者)に移されるとともに、聴訟課が廃止され、官員は司法省に移管された。一年たらず前、全国共通の体系的な規定として施行された「県治条例」に含まれていた聴訟課が、こうして廃止されたわけで、これはいかにめまぐるしく中央レベルで地方制度を改廃・整備していったかの一例といえよう。そして、これまでの整理によって、内政面での過渡的な中央政府機能肩代わりはほぼ解消したとみなしてさしつかえない。さらに、維新初期の神奈川県行財政を特徴づけた大規模な対外事務機構も、一八七六(明治九)年七月をもって終えることとなる。すなわち、この月、内外庁の区別が廃止されて内庁庶務課は庶務課となり、外庁庶務課が対外面を総括する外務課に変わり、他の諸課は内外併合され(条約未済国事務取扱課は前年に廃止されている)、神奈川県もはじめて他の諸府県並みの機構へと縮小・整備されたのである。ここにおいて、神奈川県行財政史は、維新期のひとつの転機をむかえたといってよいであろう。もっとも、右の変更の結果、神奈川県事務章程 県史編集室蔵 各課がそれぞれそのなかに多かれ少なかれ対外事務を含むことになったのであるから、「内外ノ各課混合シ職員ノ制限復タ定規ニ準スルヲ得ス」(『県史料』一二三ページ)というかたちで、むしろ特殊性が内向したといえばいえなくはないが、組織として大幅に整理されることになったことは明らかであろう。それが体系化されたのは、九月一日からである。 すなわち、大綱として「県治条例」に立脚しつつ、県の具体的な事情に適応させて作成された「神奈川県職制」および「神奈川県事務章程」にもとづく組織が、この時からはじまったからである。この体制によって、県は録事・外務・租税・地券・警保・出納・庶務・営繕・訳文・監察の一〇課を置き、その事務を遂行することとなった。このうち、租税・地券・出納が直接に県財政を担当する課であることはいうまでもないが、その他の課も、さまざまなかたちで財務行政に関与していることが「事務章程」からわかる。そこで、維新期を代表するこの「事務章程」によって、当時の特徴的な財務行政をとり出してみよう。 租税課など まず租税課は、「租税一切ノ事務」(以下、『資料編』16近代・現代(6)二三および『県史料』三-九ページによる)を司どるが、その意味は中央政府の租税および県限りのいわば県税を取り扱うということであって、同「章程」の同課に関する規定の大部分は、中央の租税の賦課徴収にあてられ、問題のある場合は、大蔵省に具状して指揮を乞うべきことが、繰り返し記されている。「毎月米穀ノ時価ヲ検シテ大蔵省ニ報知スルコト」も、地租が米納から金納へ変わろうとする当時としては重要な役目であった。ともあれ、県の租税課の大部分の役割は、中央の租税の徴収機構たることにあったといってよいようである。これに対して、県の税についてはごく簡単に「本県ノ費用ニ供スヘキ諸税ノ管下ニ賦スルモノハ例格ニ照シ徴収シテ之レヲ出納課ニ交附ス」、「毎月賦金取立帳簿ヲ精算浄写シテ長官ノ検印ヲ受ケ之レヲ課中ニ蔵ス」とあるにとどまり、規定全体の一〇分の一程度の分量を占めているにすぎない。なお、この租税課や出納課の規定には、当然租税を示す語がみられるが、それがかなり多様であって、まだ中央・地方の租税体系が整備されていないこと、および地方のなかでもさまざまな呼称があったことが示唆されている。租税・正租・公税などが中央の租税をさし、県の税は「本県ノ費用ニ供スヘキ諸税」・県税(金)および賦金などとよばれている。 地券課は、従来なくて新設されたものであり、「地券ニ属スル一切ノ事務ヲ管シ土地ノ実価ヲ得テ税法ヲ改正スルヲ以テ主任トス」とある。すでに横浜の市内で地券交付がすすんでいて、地券に関する事務そのものはここではじまったわけではないが、ちようど地租改正事業が全国的に開始されようとしており、県レベルでそれを担当する課として新設されたのであろう。地租改正事業関係文書にしばしば登場する「県官」というのは、当時はこの課に所属していたのであろう。 出納課が「総テ金穀ノ出納ヲ管シ其計算ヲ正シ一切ノ用度ヲ支給」するのは当然であるが、「総テ金穀」の操作は、当時の状況を反映してかなり多彩である。「穀」は、まだ原則として物納だった地租であることは当然である。具体的にはのちにみるように、管下各村の倉庫に保管されたもののようである。他の租税でもそうしたと思われるが、いわば国税を県の手で収納し、それをすべて中央へいったん納入してしまうのではなく、収納した金穀を「全ク大蔵省ニ納ルモノ」と「其内ヲ割テ直ニ県下ノ用ニ供スルモ「神奈川県事務章程」抜すい 県史編集室蔵 ノ」とに分け、国の出先機関として、県内で必要なものは、そこで直接費消するというやり方がとられていたのである。したがって、「大蔵省ヨリ定額金ヲ受領」(「定額金」については、本章第二節で立ち入って検討する)するのも出納課の重要な役目であるが、実際には、右の県内で徴収された分で定額金に当たるものをとめ置いた、ということなのであろう。このほか、同課は「雇外国人ノ月給」や「貫属家禄ヲ給」することなど、この時期ならではの役目を帯びている。 これらは、課名からして財務担当であることは明らかであるが、他課にあっても重要な財務機能をもっているものがある。まず外務課は、外政局・外庁以来の役目で「居留外国人ニ附与スル地券ヲ作リ」、「居留地々租及ヒ各国官衙ノ家税ヲ追徴シ」、「居留外国人諸免許ヲ管シ其税ヲ収メ」るなど、要するに、居留外国人の税務は、関税を除いてすべて取り扱っていたわけである。諸務課はいわば当時の産業政策・県民生活全般の担当で、経費支出の大きなルートであり、その意味でむろん財政と関係があるが、せまい意味の財務では「新旧公債金札公債ノ事務」をここが取り扱っている。営繕課はすべての土木事業と営繕を司ったが、「官費民費ヲ区別シテ」おこなうという重大な責務があった。というのは、維新期には土木事業などの経費を、中央・府県・区町村のいずれがいかなる割合で分担するかのルールが未定であり、しばしば、従来官費でまかなったものは中央で、他は府県・区町村で負担するという方針が示され、それをめぐってトラブルが絶えなかった。これによると、県の営繕課の手でその区分けがおこなわれたことがわかり、たんなる営繕というよりは、中央-地方の負担関係を実質上確定していくという機能をもっていたことが考えられる。 こののち、三新法にいたる間の行政機構の改革で財務関係のものをとり出すと(『県史料』一三七-一三八ページ)、七五年に地券課が廃されて租税課中に正租掛と地理掛がおかれている。これは、土地丈量と地価測定が最大の課題である地租改正事業の本格化に対応したものと考えられる。同じ七五年十一月には、太政官達第二〇三号で「県治条例」が改定され、外務課が廃止された。神奈川県としては、例によって他府県とは異なる当県の特殊事情を申し立てて同課の存続を求めたが、今回は中央に認められず、その業務は庶務課と租税課に分割して引き取られた。維新当初、外務省が神奈川県にあるかのごとき観を呈していた時期から、中央の対外行政機構の整備されてきた時期への移り変わりが、神奈川県の抵抗をあまり強力にさせえなかった理由であろう。もっとも、庶務課のなかに含まれた外務掛は「令直管」すなわち県令に直属することとされたから、やはり県としてはたんなる課中の一掛以上の重みをこの掛にもたせていたのであった。このほか、録事課・営繕課が廃されて、庶務課や他の諸課に分割吸収された一方で、勧業課が新設されている。 第一-六課 つづいて、七六年十一月に課名が第一-六課と変わり、順番に庶務・勧業・租税・警保・学務・出納を担当した。第三課と第六課が、財務関係であることはいうまでもない。ところで、第三課の掛をとり出してみると、従来になかった特徴が見出される。第一は、国税掛と県税掛を置いたことである。それは七五年九月の太政官布告第一四〇号で、従来の租税を国税と府県税とに分離したこと(この点、くわしくは林健久『日本における租税国家の成立』二二八-二三〇ページを参照)を受けた処置で、それぞれに対応する掛を置いたことを意味しており、中央-地方の租税体系の整備と、県の財務機構の整備との対応が示されている。第二は、外地掛が置かれたことである。これは、もちろん上述の外務課廃止にともなって、居留民関係の税務事務を引き継いだことによるものであり、中央のやや杓子定規的な府県の課の改廃の指示を、対外関係をもつ県が受け止めるに当たって、必然的にうみ出されたものというべきであろう。第三は、地租改正掛である。地券課が置かれた際、それがすでに地租改正の方針にそったものだったことは前述したが、当時はまだ実際に改正事業に着手していたわけではなかった。今や、改正事業は全国にわたって進行中であり、遅れ気味であった関東地方も、六七年あたりからピッチが上がっている。県では、租税課のなかの正租掛と地理掛とにまたがって担当するのでは事業の進展に間に合わず、独立の地租改正掛を置く必要にせまられたのであろう。こののち、三新法にいたる間、あまり大きな職制の改正はなかったようである。 注 (1)『県史料』一二三ページ。なお、同ページに「章程条例等ハ之ヲ禁令ノ部ニ掲ケリ」とあるが、禁令の部にはそれらはのせられていない。ただし、『県史料』三-九ページには「神奈川県事務章程」が採録されているし、『資料編』16近代・現代(6)二三には財政関係部分を抄録しておいた。しかし、『県史料』のものについていえば、警保・訳文・監察の三課を欠いている。そうなるのは、一八七四年一月に訳文課が廃されて外務課に合併され、四月には監察課が廃されて警保課に合併されたこと、および「警保課職制」は県の事務機構の一環ではあるが、当時は中央政府でも警察制度の改正を進めており、むしろそれと対応させて独自の「警保課職制」および「警保課事務章程」が七四年五月に作成されていたこと、などによっている。このことは、右の「神奈川県事務章程」が、七三年九月の発足当初のものではなく、少なくとも右の二つの合併と「警保課事務章程」制定後のものであることを物語っている。事実、同章程の文中に「明治六年十一月十一日増加(追加の意味-引用者)」とか「明治七年七月九日増加」とかの注記が見出され、少なくとも七四年七月七日以降のものであることがわかる。また、「庶務課」がこちらでは「諸務課」となっているが、その変更がいつであったかは不明である。 なお、『資料編』所収のものについていえば、右の三課を欠いている点は同じであるが、学務課がのせられている。 第二節 定額金の制度と実態 維新期の府県レベルの会計制度については、全体としてはっきりしないことが多く、神奈川県の場合も、その例外ではない。それは、一般に資料が系統的に得られないとか、信頼するにたる研究がほとんどないとかということのほかに、もともと中央-府県-区町村というような財政機能の分離がはっきりしておらず、むしろ試行錯誤を繰り返しながらその分離が進行しているのがこの時期であり、実態そのものが不分明だったことにもとづくところが大きい。 それでも、中央の出先機関としての側面に関する県の財政については、中央政府の財政統制の必要から比較的早くにある程度制度が整えられ、県もそれに従うことが要求されたため、資料もいちおうは残されているようである。『県史料』の「会計」の部に載せられているものがそれに当たり、以下では主として同資料によって、この時期の会計の制度と実態をみることにしたい。それは、いわば国税の一部分を県が費やして国の仕事をするという会計、ときとして官費とよばれた会計である。しかし、府県には中央出先機関としての機能のほかに府県独自の機能があり、それを裏づける財政・会計、いわば県税で県固有の行政をおこなう会計が存在する-しばしば中央ないし区町村と重なり合っているが-のであるが、この部分については、維新期には系統的な資料はえられない。また、中央と府県の関係が不分明だったくらいであるから、府県と区町村の財政-それらは合わせて「官費」に対する「民費」とよばれることが多かったが-については、いっそうその傾向が強かったうえに、系統的な資料に乏しい。それを前提にしたうえで、以下では『県史料』や『資料編』16近代・現代(6)などに所収の資料を手がかりにして、ある程度見当をつける作業を進めることにしよう。 一 定額金の制度 初期の定額金制度適用除外 明治政府は成立早々、支配下の各府県の会計制度として「定額金制度」を設けた。これは中央政府の出先機関としての府県に対して、それぞれ旧石高に応じていわば基準財政需要を見込み、各府県がその範囲内で行政を効率的に遂行すべきことを定めたものである。『県史料』による限り、この定額金制度ないし「定額金」なる名称は一八七九(明治十二)年度まで用いられていたようで、八〇年度からは代わって「県費」という語が用いられている。したがって、本章が対象とする時期の県会計(中央出先関機としての)は、ほぼすべて定額金制度で覆われているということになる。なお、この定額金なる名称のほかに、定額常備金・定額常費・定額常費金・常備金・備金・定備金などという名称が、『県史料』のなかにみられるが、定額金と同じものをさしているとみなしてほぼさしつかえない。そして、このせまい意味の定額金のなかに収まりきれない出費には、額外常費・臨時費・県庁臨時費・非常臨時費などという名称が与えられ、それぞれ中央から特別に定額以外の支出として認められたもののようである。また、これは重要な点で必ずしもはっきりしないのであるが、定額金およびそれを補完する額外常費や臨時費等はほとんど消費的な経費に限られているらしく、のちにみるように、土木費や営繕費などは、それと別に計上されたものとみなされる。さらに、警察費についても、基本的には別途計上されているように思われる。いずれにせよ、定額金をはじめそれらの具体的な内容については、のちに立ち入って検討する。 ところで、神奈川県ははじめ全国共通に設けられた定額金制度の適用外におかれた。というのは、前節で述べたところから容易に察せられるように、本県は固定的な枠になじまない対外関係の収支が多く、全国共通の制度では律しきれなかったからである。まず、神奈川奉行から神奈川裁判所へと支配権が移行した当初は、まだ中央政府にほとんど財源がない時であるから、官員の月給にせよその他の経費にせよ、いわば現地調達のかたちとならざるをえなかった。すなわち、はじめは幕府から接収した資金および関税収入その他の収入金をもって、外務や正金兌換を含めた裁判所の行政費用を支弁していたのである。しかし、このような関税収入による外交費用をもつものが地方権力としてふさわしいはずがなく、政府は明治二年八月、大蔵省から監督司および出納司を派出して、当地の財政を直轄することとし、同年十二月からは、すべての金穀出納は両司にまかせ、県としては必要のたびごとにそこから支給を受けることになった。したがって、定額金は必要でも可能でもなかったのである。ということは、逆に言えば、中央政府の機能とくに対外機能を代替することがなくなってくれば、神奈川県も全国共通の定額金制度に従わざるを得ないことを意味しているのであって、事実、前節で述べたように、多くの中央政府機能を中央へ引き渡した明治四年からそれが実現するにいたる。 定額金制度の採用 一八七一年九月二十五日の大蔵省達により、神奈川県財政は「以来ハ地方ニ属スル諸入費ハ管轄高相当常備金ヲ置御規則ノ通仕払」「臨時御出方ノ儀ハ一々当省エ申立可請差図」などと定められた。「地方ニ属スル諸入費」はいわば県内の内政費で、これはすべて他県なみに定額金制度に従えというのである。一方、「外務関係ノ人費ハ別ニ常備金ヲ置仕払」うことにするから「是迄月々諸費ニ拠一ケ年用途ノ見込」(以上、『県史料』八一五ページ)を調べて申告するようにと指示された。ここにいたって、神奈川財政の出納司・監督司直轄時代は終わり、内外経費いずれも常備金(定額金)制度でカバーされることになった。なお、定額金採用に関する右の大蔵省達は、当然それに付随して次のような問題をうみ出している。すなわち、これまで中央政府と県とが合体して運用していたため区別を必要としなかった収支について、ここで改めて中央と県とがそれぞれ何を担当すべきかが、対外関係費を含めて深刻な問題となったのである。大蔵省は右の達のなかでこの点について左のような重要な指示をおこなっている。 (一)各国公使館や居留地修復などの営繕費については、「兼テ定約有之候歟全外務ニ属シ候分ハ金三百両ヲ限内務ノ廉ニテモ格別急キ候歟又ハ定規有之修繕等ノ分ハ金高三拾両以下」(『県史料』八一五-八一六ページ)は工事開始後上申する。ただし、新規の分はあらかじめ伺を提出する。(二)現物納の米穀については、「米倉并有米共当九月限出張出納寮エ引渡以後貫属秩禄老養扶持棄児養育米囚徒々刑人飯米其外諸渡方一ケ年分当御物成米ノ内ヲ以最寄村々エ凡積置米イタシ」ておいて引き渡す。(三)「道路橋梁修繕并学校病院等創設或ハ街市邏卒等其他右ニ属シ候諸入費ハ以来都テ積立五厘金并別廉御用積立金等ヲ以取賄官費不相成様方法相立」(『県史料』八一六ページ。なお「積立金」「五厘金」はいずれも横浜の商人の拠出によるもの)てなければならない。 すなわち、営繕費については、対外関係で欠きえないものは三〇〇両、内務には三〇両の支出権限を県に与えて摩擦をやわらげる。とくに『県史料』によれば、中央へ伺出ておこなう工事の遅延を、外国から繰り返し指摘された神奈川県が、中央政府と外国との間に入って苦慮している様子がうかがわれる。第二の米穀の取扱いの意味は、必ずしも十分には理解できない。中央と県との共管のようになっていた、地租としての収納米をすべて出納寮に引き渡すのは当然であり、以後「貫属秩禄老養扶持」などについては、もよりの村などに一か年分を積み置いて引き渡すというのは、現物の米を物理的に中央に集中し、改めて必要な配分をするというのにともなう、無駄をはぶく意味であることは当然考えられるし、従来からもそれはおこなわれていたことである。だが、「貫属秩禄」以下の費目は、本来、県ではなくて中央が担当すべき業務なのに、その配分すべきものがたまたま米であるから、便宜上その米については各地へ貯蔵しておいて配分する、という含意であれば、なぜこれらの経費について、かかる決定がなされたかが問題となる。というのは、定額金勘定をみると、それらが中央固有の業務であるかのように扱われていると読めるのに、その理由がのちにふれるように、必ずしも十分推測できないからである。 さらに、経費の負担区分についていっそう大きな問題は、「道路橋梁修繕」以下のものについて、以後すべて積立金などでまかない「官費不相成様」にせよという指示であろう。事柄の重大さの割に、文面が簡単すぎて意味がとりにくいが、これが実施されるに当たっては、負担について繰り返し中央と県との折衝がおこなわれている。とりわけ、居留地にかかわる諸経費について、県は「官費」負担を要求している。たとえば、居留地内の橋梁道路関係費を官費としたことはもちろん、居留地および港内の合計五つの区の邏卒のうち、三つの区は全市民保護のためであるから積立金で月給を払うとしても、残りの二つの区は外国人居留地のものであるから官費でまかなうことなどの要求がそれに当たる。また、たんに対外関係のみでなく、管内全体について、従来官費でまかなってきた橋梁懸替修繕などは従前どおりにしたいことなどをも求め、中央から承認されている。なお、これより先、明治三年九月に県庁改築をめぐって官民費負担区分が問題となった際、一般の県庁建築の規定に従えば「御入費三分ノ一官金三分ノ二ヲ郡中ヘ割当」(『県史料』八二九ページ。なお、この規定は前掲「県官人員並常備金規則」によるもの)てるべきであるが、「当庁ノ儀ハ港内市政事務格外有之儀ニ付……総高ノ内二分五厘官金ヨリ御出方二分五厘市中積立金ヨリ差出シ五分通ヲ郡中ヘ割付」けることにした。すなわち、神奈川県の場合、県庁の機能が他県に比して市政に偏っているから、官費と民費の区分および民費の内部における市郡の間の負担区分も、それに応じて全国の規定とは異なった比率にしたいというのでである。さらに興味深いのは、県庁のうち外国人応接所などはまったく内務に関係ないので「民費ヘ充候テハ事理相当不仕」(以上、『県史料』八二九ページ)、したがって官費でまかなうこととなった。こうした動きから、対外関係をもち、都市的色彩をもった神奈川県の特殊性をふまえて、次第に官費・民費の区分が具体化していく過程を読みとることができよう。 ところで、定額金は県ごとにいちおう石高に応じて定められたのであるが、外務を含み他県におくれて採用した本県の場合、むしろ過去の実勢にもとづいて定められたようである。といっても、それまでの実勢は、一か月二万二〇〇〇円程度の支出であったのを、大幅な節約を前提にして一か月一万八〇〇〇円計上し、十月から十二月まで三か月間試験的に実施し、その様子をみて内政費は規定どおり「管轄高ニ応シ候定備ヲ以仕払」い、「外務ニ属シ候分ハ全額可伺出候」(以上、『県史料』八一六-八一七ページ)こととなった。その結果をみると、一か月平均一万三七〇〇円余であった。これにもとづいて、県では向こう三か月間さらに節約した一万三〇〇〇円をもって再度の試験を重ね、結局内務五〇〇〇円、外務八〇〇〇円を常備金として、明治五年四月から本格的に実施した。これらは、それぞれ内務定額および外務定額・外務常備金などと呼称される場合もあったようである。こうして、本県の定額金制度が定着したのである。 しかし、これで制度が固定したわけではない。前節で述べたように、明治五年八月に神奈川裁判所が置かれて、神奈川県から「聴訟断獄」の事務が司法省に移されると、当然それにともなって人員も減り、内務定額三〇〇円、外務定額一三〇〇円が削減されている。さらに、一九七三(明治六)年六月には、常備金の内外務の区別が廃止された。というのは、「当県事務ノ儀内外ト引分リ居候得共東京出張所等内外引分リ不申」「出納課邏卒課営繕課等官員ハ内外引分リ居候得共事務取扱上ニヲイテハ混淆ニ付内外諸費判然区分難相立」(以上、『県史料』八二二ページ)いからである。さらに、実質上大きな意味をもつ改正は、第二常備金ないし予備金の新設である。 予備金制度の特殊性 県は前述した定額金一万三〇〇〇円の試験的実施に際し、これはまったく「庁内入費丈ケノ見込」であり、別途三万円の予備金を支給すべきことを求めた。その理由は「御国官員ノ内外国ヘ罷越居候筋ヨリ差越候荷物米国在留御国領事ヨリ届ケ越候船賃其他御国人民漂流救助ニ逢ヒ候節等入費領事立替相払置都度々々日限リノ為替手形差越候節差懸リ一時操替分其他諸外国ヘ引会無拠失費ニ不相成候テハ不叶分或ハ各省ヘ操替分并追テ管轄石高ヘ割当候営繕向入費等無余儀廉々一時操替」(『県史料』八一九ページ)などに必要だからである。開港地および外交基地としての横浜-神奈川県は、たとえ内務を大幅に上回るほどの外務常備金の枠をもっていても、なおかつそれではカバーしきれない臨時の立替払に利用しうるような性質の資金を手許におかねばならず、主としてそのために予備金を設ける必要があると上申したのである。 これに対して政府は、とりあえず仮の予備金として一万五〇〇〇円を認め、県は繰替払など臨時の費用にあてていたが、七四年五月に改めて開港場のある諸県に予備金が置かれ、前の一万五〇〇〇円の使い残りの分は引き揚げ、代わりに年間五〇〇〇円が与えられることとなった。しかし、神奈川県はこの金額ではとうていまかない切れないので、「内務五千円外務一万円ト積従前ノ金額一万五千円御渡被下度」と申請した。ところが、これに対して内務省は、今回の予備金は「必竟其県管民ノ救急不時ノ賞与或ハ天災等ニテ難閣修繕ノ類其他内外交際上非常ノ失費等ニ被相備候儀」(『県史料』八二四ページ)であって、繰替金などをまかなうものではないから申請は認めないが、格別三〇〇〇円だけを増額しようと回答した。この内務省の説明は、開港場とくに横浜に認められた予備金の説明としては焦点がはずれているが、神奈川県はその点をとりあげて、開き直った形で次の伺を提出した。政府が予備金の性格を右のようにいう以上、「已後各国在留公館ヨリ当港バンクエ可仕払物品買上代価其外為替金当県ニテ操替仕払候ニ不及儀」(『県史料』八二五ページ)と心得て、今後は右公館等から日限の為替手形などがまわってきても当県では払わないことにする。それは、関係する外国人に対して不都合とはなるが、政府の方針である以上、当県では断わるから、政府としては至急各公館に連絡してほしい。政府でその決断がついたら、当県は先の一万五〇〇〇円の代わりの八〇〇〇円を受け取るつもりである云々。これに対して、内務省は七〇〇〇円を追加して一万五〇〇〇円を下渡すので、これで繰替金もまかなうようにと、先の指令を全面的に撤回し、県の言い分を認めた回答をして、この件は落着した。 ただし、開港県にはこの予備金がおかれ、これが第二常備金に当たるとされたが、「県治条例」で定められた第二常備金は「管下堤防橋梁道路等難捨置急破普請等ノ入費」にあてることとなっていたので、その本来の意味の第二常備金を神奈川県は実際上もたないことになる。そのため、右のような出費の場合、しばらくは出納寮からの当面の前借りないし内借りによってしのぐという、従来官費による工事の場合にとられていた方式が踏襲されていた。その後、七三年八月大蔵省命令「河港道路修築規則」により、七〇年から七二年の平均七万二〇〇〇円余を、民費二万七〇〇〇円余(三八㌫)、官費四万五〇〇〇円弱(六二㌫)と分割し、この後者を以降の定額と定め、七四年から実施した。 こののち、三新法下で制度が変わるまでの間、『県史料』所載の資料による限り、あまり大きな変化はないようである。というのは、そこにみられるのは、西南戦争にともなって七七年に「(非常)臨時費」が、また同年のコレラ流行にともなって「臨時費」が支給されたことが目立つ程度であって、ほかは大部分常備金の受取りと期限・増減額・流用などについての資料だからである。 為替方の機能 定額金制度の一環として、簡単に為替方についてふれておこう。もともと、神奈川県の為替方は三井組が担当していたが、同組が三井銀行と改称した際、改めて県との間に交した一八七六年十一月の「為替方約定書」(『県史料』八五九-八六二ページ。以下の説明および引用はすべて同約定書による)によってその機能をうかがうことができる。為替方の役目は「東京本店ヲ根拠トナシ兼テ横浜ニ設ケアル分店ニ於テ諸貢租金ヲ始メ官金及大蔵省其他ヨリ可請取金銀ノ取扱」をすることであった。具体的にみると、租税等の諸納金の場合、為替方はそれらを横浜分店で受け取り、真贋検査の後、為替方の預り券を渡し、納主はこの預り券を租税課に納めて納税したことになる。租税課は預り券金額を取立帳と照合して預け帳に記載し、為替方は預り帳へ記載し、双方証印して預り券を為替方へ返す。一方、出納課から各課へ渡す支出分については、金額および渡し先を記した切符を支払い、それが為替方で現金化される場合には、印鑑と照合のうえ、現金を渡し、元帳と差引計算し、切符は出納課へ返す。右のようなかたちで、為替方は国庫ないし県金庫の役割を果たしたのである。 このほか、同「約定書」で目につく規定は、(一)出納課の都合による各種貨幣の交換、(二)預け金抵当としての一〇万円の大蔵省への納入、(三)納金については納主から金高の一〇〇〇分の一を取り立てて手数料とし、定額常費金など大蔵省その他から受け取って支払うものは、一か年一五〇〇円を官金取扱給料とする、(四)東京・横浜間の為替金打歩(手数料-引用者)は、すべて一口一〇〇円以上は一〇〇円に付き五銭、一〇〇円未満五〇銭以上は一銭とする、などである。なお、ここでくわしく論ずる余裕はないが、中央・地方を問わず、民間預金の未発達だった当時としては、このように地方から吸い上げた税金を中央へ送付するまでの間、および逆に中央から地方の支払いにあてるために送付されて、実際支払われるまでの間に預金として滞留する資金は、公金預金として銀行の貸付活動のための重要な資金源であった。 注 (1) 民費については、のちに立ち入って検討するが、一般的な語義や全国の様相などについては、藤田武夫『日本地方財政制度の成立』第三章を参照。 御用為換座三井組 三井文庫提供 (2) 第一節で紹介した明治二年七月「県官人員並常備金規則」にもとづく。しかし、「常備金」という呼称よりは、「定額金」とよばれることが多かったようであり、本章でも「定額金」という呼称を用いておく。 (3) 『県史料』八一七-八一八ページ。なお同七一年八月に神奈川県が県兵を廃して取締(警官の意-引用者)を置いた際、居留地などの外国人保護のため取締経費は官費で、内地のためのものは積立金など町方の負担にしたいと県が伺い出たのにたいして、大蔵省はやはり「右諸費ハ積立有之候五厘金等ヲ以テ取賄可成丈官費不相成可致事」と指令している(『県史料』第五巻五四四-五四七ページ)。神奈川県の言い分が、明らかに合理的であると思われるが、本文で述べた例の場合同様、この時点では大蔵省はなるべく多くの経費について「官費不相成可致事」を府県に求めていたのであろうか。 (4) 『県史料』八二一ページ。なお、このあたりの『県史料』は、貨幣単位を表示するのに「両」「金」「円」を同じものとして用いているので、本文ではいちおう「円」に統一してある。 (5) 『県史料』八三二ページ。なお、次項でおこなう定額金の分析の際依拠した『県史料』八八四ページ以下には、この「第二常備金」ないし「予備金」という名目の勘定が見当たらない。制度上、どのような関連なのか、目下のところ不明である。 (6) 「第二常備金ノ儀当港ハ内外ノ事務相跨定額他県ト比較難致……堤防入費等ハ右ニ相籠リ居不申候」(『県史料』八三二ページ)。 (7) この「定額」なる語は、『県史料』八三三ページによるのであるが、次項で述べるように、定額金に関する勘定のなかで、定額常費や額外常費は土木費を含んでいないと思われるので、この「定額」は、それらのほかにある(と思われる)「土木費」勘定についてもやはり定額が定められていたことを示すのであろう。そうだとすれば、同書八三二ページに「管轄高三拾五万石余ノ常備ハ金六千七百五拾両ニ相成」とあるのは、神奈川県の土木費の常備(定額)は、六七五〇円に当たるという意味になりそうだが、そういってよいかどうか。 (8) くわしくは、加藤俊彦・大内力編著『国立銀行の研究』を参照。 二 定額金の実態 定額金勘定 『県史料』には一八七五(明治八)年度以降の定額金の勘定がのせられている。それ以前のものは今のところ見出しえないので、以下ではそれに従って、三新法下で経理の仕組が変わる前の七五-七七年度の定額金勘定の内容を検討することにしよう。表一-六六以下は、それにもとづいて全体をとりまとめたものである。年によって違いがあるが、定額金勘定というのは、表一-六六が示すように、定額常費・額外常費・臨時費・税外収入・雑部・貸下などという勘定科目から成っている。各科目とも収入は、すべて「大蔵省カラ受取」の一行だけであって表一-六六はそれを整理したものであり、表一-六九・七〇に示したのは、定額常費・額外常費の支出内容である。各勘定とも大蔵省から受け取って支出し、残額が出れば「大蔵省へ還納」項表1-66 年度別定額金勘定収入内訳 注 『県史料』884-893ページより作成 目にかかげられている。 各勘定科目の性質 つぎに、各勘定科目の性質を、それを構成している費目から推察してみてみよう。まず定額常費が、その名からもわかるように、いわゆる定額金制度の主柱をなす勘定であることは明らかであろう。これは原則としては、各府県の経常的な業務をまかなうためのもので、管轄石高に見合って全国共通に定められた金額から成っていると思われる。これに対して、「額外常費」は、中央政府出先機関としての府県がかなり恒常的になすべき行政であっても、全国一律の定額常費ではカバーしきれないような行政費をまかなうのが、おそらく原則であろうと思われる。全国共通であっても、府県の経常的な業務とはいえない、中央政府直轄たるべき性質のもの-たとえば秩禄や徴兵費など-はここに含まれてくるし、また当該地方特有の、しかし中央政府がなすべき業務-たとえば吉田新田埋立費のように横浜特有であっても、外交問題がからみ、中央政府の責任で処理すべきもの-などもここに含まれている。「臨時費」で計上されているのはコレラ病予防費と西国鎮静費(薩賊征討費)だけであって、純粋に臨時的な経費として処理されうるものであろう。 「税外収入」という科目の性質はわかりにくい。たんに「租税以外の雑多な収入」というのとはちがった用法で、「国税の一部を割り当てられる定額常費や額外常費とちがって、国税の収支でない資金の出入」を意味するもののようである。このうち表一-六六のなかの添書にあるように大蔵省から受け取って貸し下げたり、逆に貸下げの返納を受けて大蔵省に納めたりするのは、明治初期に中央政府の政策としておこなわれた各種の殖産興業のための資金貸付・返納を、県が仲介していることを示すものと考えられる。七六年度の場合に「貸下」勘定が独立しているが、これは前年には税外収入に含まれていたものとみなしてさしつかえない。しかし、同じ税外収入のなかで添書のない部分、たとえば七五年度の一一万円余と洋銀一万三〇〇〇ドル余とがいかなる性質の資金なのか、はっきりしない。洋銀を含み、定額常費に匹敵するほどの多額の資金を「大蔵省納」めとするのは、いかなる操作なのかをはっきりさせるのは今後の研究にまつほかはない。 定額常費・額外常費の収支部門 つぎに、これらの勘定がどのような部門で、どれだけ受け取られ、支出されたかをみたのが表一-六七・六八である。これによると、神奈川県の場合、本庁・支庁・船改所・神社が定額常費の出入部門であり、額外常費も船改所を除いた右の三部門にかかわっている。金額の大部分は本庁の手で処理されているうえ、支庁の分も、実質上は本庁と同じ性質の出入と考えてよい。これに対して、船改所は、機構上いかなる地位にあり、なぜ独立の別勘定を立てているのか不明であるが、金額はそれほど大きなものではない。なお、船改所は、会計方式が変わっても、七九年度までは存続しているようである。神社というのは、官幣中社鎌倉宮および国幣中社寒川神社であって、神官月給・賜饌料などを含んだものである。これは、無視していいほど小さくはないが、ことさら論ずるほどの問題もなさそうなので、以下では主として本庁の定額常費について、立ち入って検討することにしよう。 本庁の定額常費内訳 表一-六九には、本庁の定額常費内訳がかかげてある。使途別と目的別のいり混じったこの表で表1-67 定額常費受取部門別金額 注 『県史料』884-893ページより作成 表1-68 額外常費受取部門別金額 注 『県史料』884-893ページより作成 は、それぞれの費目区分の原則は、必ずしも明確にはとらえられないが、年々の金額一一万円前後、そのうち俸給・給与・旅費などの人件費で六〇-七〇㌫、庁中費一〇㌫、囚獄関係費で一三-一六㌫、対外関係費で六-一三㌫といったところである。七七年にあらわれる従前民費諸費というのは、おそらくそれまで民費として支出されてきていて官費の負担でなかったもののうち、この時点で官費支出がふさわしいとして移されたものであろう。しかし、その細目は不明である。 本庁の額外常費内訳 つぎに、表一-七〇によって額外常費を調べよう。額外常費の大きさは、七五年度の場合、洋銀を除いても定額常費の二倍にのぼり、このほかに洋銀三〇万ドルがあるのだから、いかに当時の額外常費が大きかったかがわかるであろう。翌七六年にも、定額と額外とはほぼ等しい大きさで、七七年にいたって額外が定額を下回ってくる。さらに、額の大きさもさることながら、その内訳をみれば、質的にもこれが中央政府出先機関としての、県の財政を特徴づける主要な要因となっていることがわかる。といっても、ひとつひとつの費目をみると、なぜそれが、ほかなら表1-69 定額常費(本庁)内訳 注 『県史料』884-890ページより作成 表1-70 額外常費(本庁)内訳 注 『県史料』885-892ページより作成。1875年の計は227,632円になるが,『県史料』の227,680円によった。 ぬ額外常費に含まれていて、定額常費や臨時費など他勘定科目でないのかは、必ずしもわからないし、とくに定額常費のなかでも重要だった囚獄関係費などは、いかなる基準で両者の間に振り分けられたのか疑問なしとしない。居留地諸費や外国人諸費にしてもそうである。また、救薬諸費や疫牛撲殺費などは、官費でなく県税ないし民費による負担であってもおかしくないようにみえる。いずれにせよ、当時の勘定の振分けについては、目下、直接それを示す資料を欠いているため、根拠が明確でないうらみはあるが、それにもかかわらず、表一-七〇を一見して額外常費の特徴は明らかであろう。 すなわち、まず第一は、それが秩禄支払を最大の役目としていたことである。支出中の八〇㌫を占める七六年度はいうまでもなく、七五年度も一〇万円に近い金額で四三㌫に当たり、支出中とびぬけて第一位を占めている。さすがに、秩禄処分が進んだ七七年度には、金額も比率も落ち込むが、それでも七〇〇〇円、二三㌫を示している。なお、維新期の中央政府財政支出にとって、秩禄が重い負担であったことはよく知られているが、具体的にそれが末端の旧武士層の手に渡るのは、府県の額外常費というかたちで支出されることによってであったことが、この表から確認される。 第二に、七五年度の地所買上代および吉田新田埋立費の大きさが目につく。両者を合わせれば一二万八〇〇〇円と洋銀三〇万ドルとなって、単一費目としては、この三年間のどの費目よりも大きいことになる。これらは、『県史料』(八五〇-八五二ページ)によれば、外国人居留地買上・焼跡地買上・吉田新田埋立のためアメリカ一番館ウォルシュ=ホール商会への支払い(洋銀三〇万ドル)、同埋立てにともなう潰地作徳金および同埋立てにともなう臨時工業資金などのようである。ここで立ち入る余裕はないが、吉田新田埋立はいうまでもなく、他の地所買上げについても、ひと言でいえば、開港地横浜の市街整備や土地整備の基礎作業だったのであり、いわばそのための先行投資がこういうかたちで金融されたのである。それは、特別会計としての額外常費にふさわしい役目だったといってよいであろう。 第三に、秩禄が処分されて少額になり、土地整備費も計上されない七七年度には、囚獄関係費の大きさが目立つようになる。この費用については、定額常費との間の分担関係がはっきりしない-定額常費の方は物にまつわる、額外常費の方は囚人・懲役人・復籍人など人にまつわるもののようにもみえる-が、全体として、県レベルの経常的な財政負担のなかで、当時はこうした費用が大きかったことがわかる。また、松方財政の紙幣整理期に、中央政府がその負担軽減のために、県庁や監獄などの建設費をすべて府県負担としたことは周知のところであろうが、いずれにせよ維新期にはこの費目がかなり大きく、かつ中央・地方の負担区分、府県内部の会計間の区分なども、まだ流動的であった様子がうかがえよう。 第四に、金額としてはごくわずかであるが、各種印紙・罫紙など中央が導入した新しいタイプの徴税に関する経費や徴兵費のように新軍隊組織確立を裏付ける経費が登場しているほか、各種貨幣交換費にみられるように、維新混乱期を特徴づける貨幣政策のアフター・ケアーの費目があるなど、動乱がようやくおさまろうとしている時期を象徴する費目が並んでいることも、注目すべき点であろう。 土木費・警察費など ところで、『県史料』会計の部(八八四-八九三ページ)に、上記のとおり定額常費や額外常費などの計数がのせられているのに続いて、八九三-九〇一ページには七五-七七年度の「神奈川県警察費遣払明細表」「明治八年-十年度土木及営繕費」がのせられている。さらに、七八年度については「明治十一年度本県定額常費額外常費及其他ノ諸経費等左ノ如シ」という書出しで、定額常費・額外常費・臨時費・雑部・税外収入・貸下金・警察官費・警察県費・土木費・営繕費・県税(七八年七-十一月)・雑課(同上)・仮地方税(七八年十二月-七九年六月)などに関する計数が、並列して記載されている(九〇一-九一〇ページ)。このうち、県税・雑課・仮地方税などは、のちにふれるとおり県独自の収支で、中央の直接の出先機関としてではなく、いちおう県独自の行政をおこなっているものとみなしうるが、ここで問題としたいのは、警察官費・同県費・土木費・営繕費についてである。 前述のとおり、土木費や営繕費は定額常費や額外常費のなかには含まれていないと考えられる。だが、警察費の大部分は人件費なのであって、これが含まれている可能性はあるが、今のところたしかでない。ともあれ、資本的支出が上記の定額金に含まれていないとなると、中央の出先機関としての県の業務を裏づける会計は、人件費などの消費的経費については定額金制度でまかない、資本的経費については、個々の土木費や営繕費という勘定をたてて経理して表1-71 土木費 注 『県史料』896-900ページより作成 表1-72 警察費財源内訳 注 『県史料』893-896ページより作成 いたということになる。しかも、営繕費はそうなっていないが、警察費には収入の内訳が、それぞれ警察費・県税・区費・課出金と分けてのせられており、土木費も七五-七七年度については官費とならんで県税が財源としてあげられている。したがって、少なくともこの両経費は、中央と県との双方の資金でまかなわれていたことが示されているわけである。いずれにせよ、これら諸会計の関係についてはなお追究すべき点が残されているので、その結果いかんでは当時の県財政(中央出先機関としての)の像はかなり大きく変わりうる。というのは、これら独立勘定と思われるものの金額が著しく大きいからである。 たとえば、表一-七一によれば、県税を別にして土木費は七五年度四万円、七六年度一三万円、七七年度九万円にのぼっているから、当該年度の定額金各一一万円をときには上回るほどの額に当たっている。営繕費はそれほど大きくはないが、それでも各年一-二万円ずつある。警察費は土木費を上回る大きさであるが、官費と県費などを区分してみると表一-七二のように官費は四-七万円となっている。なお、土木費の官費が経費と経費外に分けられているのは、年々の基礎的な土木費がまず「経費」として定められ、それをこえる例外的なものが「経費外」として、とくに許可を得て別途支出されたからであろう。具体的にみると、神奈川県の場合、「明治三年ヨリ五年ニ至ル河港道路修築金額三ケ年ヲ平均シテ金三万五千弐百弐拾八円九拾五銭八厘トス乃明治八年五月中上申シテ右金額ヲ以テ明治八年度ノ経費ト為ント請」い、内務卿からは「一ケ年金三万五千弐百弐拾八円ヲ以テ本年ヨリ向四ケ年経費金額ト」すべき旨の指令があった。これらを、「経費(金)」「一周(歳)経費」などとよんでいる。ただし、それをこえる場合を、「経費外」とよぶという文書は見当たらないが、そういってほぼ間違いない。 警察費については、総額の五-六割が官費、三-四割が県・区費でまかなわれており、原資料には費目ごとに、たとえば七五年度の場合、警部月給はすべて官費であるが、巡査月給のうち二万一一五七円は官費、一二万四三五九円は県税等によるとか、被服費のうち六四九三円は官費で、五八四一円は県税等などと、こと細かに分割された計数が示されている。ただし、その分割の基準は必ずしもはっきりしていない。なお、この警察費財源のうち、区費・課出金が、のちにみる民費による警察費ということになるのであろう。 注 (1) のちのことになるが、八一-八三年度などには、ここの「税外収入」の後身と思われる「雑収入」があり、そこでは「洋銀」「紙幣及銅貨」とか「壱円銀」「補助銀」「紙幣及銅貨」とかが、年々一〇万円以上も「大蔵省納」されている。おそらく貨幣制度の整理統一にからんだ操作で、ここに示された貨幣を吸い上げているのであろうが、しかしそのためには、それに見合う対価を与えているはずで、年々一〇万円をこすその資金はどこから生まれているのか、やはり不分明というほかはない。 (2) 吉田新田埋立てをめぐる外交と金融については、とりあえず『横浜市史』第三巻上、三二八ページ以下を参照。 (3)(4) 『県史料』八九六ページ。ただし、ここでいう「経費」と前項注(7)でみた「定額」との関係は不明である。 ・第三節 県内の国税と県税等 前節で検討した定額金制度を中心とする会計は、いわば中央出先機関としての県の業務を、中央政府の手許の国税の分与を受けてまかなったものであった。それに対応して、神奈川県内から国税が徴収されていることはいうまでもないが、同時に県には県段階で徴収して費消する県税および類似の収入もある。本節では、それら租税をとりあげることにしよう。ここでも利用しうる資料は、『県史料』所収のものであるが、やはりまとまって計数がえられるのは一八七五(明治八)年以降であり、それ以前については今のところ不明である。 表1-73 県内国税徴収額 注 『県史料』69-78ページより作成。75年のかっこ内は,米価を1石=6円とした計算であり,比率はそれを含めた869,943円による。 一 国税 種類と徴収額 一八七五-七七年は、中央の租税に関していえば、地租改正が進行中であり、かつ旧来の雑税の大部分が整理される一方、新しく印紙税などが導入されて新旧交替がようやく終わろうとする時点に当たっている。その点は、表一-七三にもあらわれている。まず、国税であるから収入の大部分が地租から成っているのはいうまでもないが、七五年度にもなお部分的に米納がなされている。七七年度には、いちおう地租改正は終わったがまだ市街地は完了せず、「地税仮額」として旧来の額を徴収している段階である。地租地券関係の税を除くと、あとはいずれも少額のものばかりであるが、なかで酒・煙草の税がやや大きく、印紙税・車税などがこれに続く。この租税構成を全国平均とくらべてみると、地租(全国平均六六・六㌫、七七年度、以下同じ)は、ほとんど同じ比重であるが、酒(六・七㌫)、煙草(〇・五㌫)、印紙税(一・一㌫)などは、全国平均よりもいずれも高くなっている。これら消費税・流通税の比率が高いのは、本県内における商品流通が他県に比して盛んであることを反映しているといえよう。 ところで、同表からわかるように、神奈川県からは毎年国税として七〇-九〇万円が吸い上げられる一方、前節でみたように中央から国税の分与を受けるのは、定額金制度を通じて定額常費一一万円のほか、額外常費は変動が大きくて一般化しえないが、七五年の二二万円プラス洋銀三〇万ドル、七六・七七年は一〇万円と三万円、土木費も変動が大きいが四-一三万円、営繕費二万円、警察費四-七万円であるから、どう計算しても、中央は神奈川県へ分与している国税の二倍から数倍は吸い上げていることになる。さらに、前述のとおり、内容不詳の税外収入として「大蔵省納」されている一一万円ないし洋銀一万三〇〇〇ドルがある。もしこれが、何らかの見合いなしに県から一方的に中央へ向かって流出した資金だとすれば、その分が追加されることになる。他府県では、どのような姿になっていたのであろうか。あるいは、これと逆の形を示すものがあるかもしれないが、現在までの研究では明らかになっていない。 注 (1) 国税と府県税の区別が、いちおうはっきりなされたのは、前述のとおり七五年九月太政官布告第一四〇号で「従来ノ租税賦金ヲ国税府県税ノ二款ニ分」けたのにはじまる。だが、体系化されたのは、七八年の「地方税規則」においてであって、それ以前は国-府県-区町村の租税や賦課が重畳したり混在したりしており、しかもそれらに関する法令制度の改廃は頻繁かつ複雑であり、とうていここで叙述しえない。それについては、たとえば藤田武夫『日本地方財政制度の成立』、林健久『日本における租税国家の成立』などを参照されたい。ここでそれを前提として、やや先取り的にではあるが、国税と県税とを分離して示すことにする。『県史料』二三ページ以下の取扱い方も同じである。 (2) 『資料編』16近代・現代(6)一八三には、『県史料』に依って七五年度の計数を掲げてある。 (3) この点、『資料編』16近代・現代(6)一四八を参照。 二 県税 種類と徴収額 県税についての計数も、やはり『県史料』に七五年度以降のものがのせられている。これは、国税と対照的に土地にではなく、各種商工業や娯楽などに課せられる営業税・免許料・消費税などという性質のものであり、種目は多い。しかし、年次を追ってみる必要があるほど大きな変化はなさそうなので、ここでは事例として七六年度のものを表1-74 県税内訳(1876年) 注 『県史料』74-76ページより作成 のせておくにとどめよう。表一-七四にまとめてかかげたものがそれである。サービス業、娯楽を含めた当時の商工業の大部分が、ここにカバーされているのであろうが、ごく零細なものまで徴税の対象としたため、個々の業種から得られる収入が、いずれも零細であることは一見して明らかであろう。当時の県布達などをみると、これら雑多な県税の取扱いに関するものが数多く出てくるが、わずらわしいのでいちいちとりあげない。 表一-七四によると、まず第一に、県税の収入額が三万五〇〇〇円程度であることが知られるが、この前後の年度をみてもほぼ同額である。これは、国税の七〇-九〇万円の二〇分の一ないし三〇分の一という大きさにすぎない。ただし、県が県内の住民から国税のほかに徴収するのは、この県税だけではない。すぐ次にみる賦金などを別にしても、前述のとおり、区町村と重畳してとくに、土地や戸数に課せられる「民費」を徴収しているからである。七五年度の地租額は表一-七三によれば七八万円であったから、仮にその三分の一が県・区・町村の民費の地租割だったとすると、二五万円となる。ただし、そのうちの県の取り分はわからない。また、そのほかに、戸数割・人口割などの民費のうちの県取り分もあったはずであるが、これも正確な計数はつかめない。それにしても、国税の大きさにとうてい及びもつかないことは明らかであって、こうした大きさのコントラストは、財政上の県の位置づけを考える上で記憶されねばならない。 第二に、いずれも零細ななかで、比較的大きなものとして一〇〇〇円以上収納されたものを、大きな順にとり出すと、諸車五九八八円一七・二㌫、芸妓五三八四円一五・五㌫、芝居三二二七円九・三㌫、質屋三一二七円九・〇㌫、酒食店二八九一円八・三㌫、旅泊一三七一円三・九㌫、などがあげられる。これら上位七種合計で、総額の六六㌫に当たる二万三〇〇〇円をあげており、遊興・娯楽・飲食への課税依存が著しく高いことがわかる。 賦金 明治初期に何を「賦金」とよんだかははっきりしないが、全国的には、七四年一月太政官布告第七号で、「各府県限取立タル諸税」を「賦金」とよばせている。さらに、七五年には中央の雑税整理がおこなわれ、そこで廃止されたもののうち、地方で営業取締りに必要なものは地方限りで税として課税しうることとなったが、内務省はそれらをもすべて賦金と称して自省で管轄したいと計画し、大蔵省と争って失敗した例がある。この限りでは賦金というのは、「内務省の許可をうける賦課」をさすものだったようにみえる。ともあれ、この時点で府県は、賦金と、この営業取締りのための税と、民費とよばれていた区町村と重なっている賦課との三つの財源をもっていたことになる。 ところが、七五年九月太政官布告第一四〇号で従来の租税を国税と府県税とに分け、営業取締りの税ともども「従来ノ賦金ヲ府県税」と改称した。ここで、全国的には賦金という名称は、従前のような意味では存在しなくなり、府県税と民費(の一部)とで県の業務をおこなう体制になったはずであるが、神奈川県の場合は、特殊な用法でなお賦金が存続している。というのは、『県史料』には前述の県税の計数をかかげたのに続いて、毎年「賦金収入調書」およびのちにみる「諸歩合金収入調書」がのせられているからである。その賦金をまとめると表-一七五がえられる。 県税収入が年々三-四万円程度だったことを考えると、わずか四種目だけで三万円近い収入をあげている賦金収入の県財政にとってもつ意味は大きく、県税に加えてみれば、県の税収の表1-75 賦金収入 注 『県史料』72-80ページより作成 遊興・娯楽への依存がいっそう高まることはいうまでもない。ところが、これらはいちおう「税」とか「鑑札料」とかの名称が付されているのに、前掲の県税からこれらだけが分離されているのはなぜかについて、明示的な説明は見当たらないが、これらはいわば目的税として特別会計的に経理されていたのである。というのは、のちのことになるが、『県史料』によれば、七九・八〇・八二年度の会計には、地方税収支とは独立に「雑課」として、娼妓賦金・貸座敷賦金・引手茶屋賦金などを収入とし、黴毒病院費・警察探偵費・業体取締費・産婆養成処費・衛生巡視員費などを支出項目とする勘定がのせられているし、八一・八三年度には「賦金収支」として同じものがのせられているからである。この種の税が、はじめて設けられたのは一八七二年十月の「遊女渡世規則」からであろうが、おそらくその最初から同じ取扱いだったと思われる。 歩合金 『県史料』には、「租税(国税のこと-引用者)決算額」「県税収入金調書」「賦金収入調書」とならんで、前項でもふれたように「諸歩合金収入調書」がのせられており、七七年度に廃止された旨が記されている。それを表示すれば表一-七六がえられる。 五万円から七万円という、ときには全県税収入の二倍にも達する大きさのこの歩合金は、七七年以後の県当局と横浜商人との間の最大の政治的争点となった。それにつ表1-76 歩合金収入 注 『県史料』72-80ページより作成 いてここでくわしく述べる余裕はないが、当面必要な限りで関説しておく。まず、紛争の原因は、元来この歩合金の性格があいまいだったことにある。すなわち、県側ではこれは県へ納めるべき県税の一種であるとしたのにたいして、横浜商人側は、任意の拠出金であるとしていたのである。これは、万延元年(一八六〇)からはじまったもので、横浜の売込商(のち引取商も含む)から売込高(引取高)の一〇〇〇分の五を町費として徴収して町会所で保管し、町の費用にあてていたものである。新政府も、これを直接保管し、実際には県税に加えて横浜の道路橋梁修復その他の費用をまかなってきた。したがって、実質的には県の行政機構の一端としての大区の費用をまかなっていたのであって、その意味で県税を補うものであったが、由来としては商人たちの自発的な拠出・積立になるものであった。それを七七年にいたって廃止し、区費の一部をまかなうものとしての第一営業割(従来の歩合金とほぼ同じ方式で徴収、金額五万円)と第二営業割(小売業者に利益金の一〇〇〇分の五を課する)とに分けることとなった。商人らがこの機会に、歩合金会計の明細が明確でなく、区長が専断で徴収するのに反発して積立金の引渡しを拒否し、県と争ったのが紛争のあらましである。長いいきさつののち、七八年に商人の自発的な徴収と保管を前提とし、正租五分の一の区費で不足するところを補うために歩合金を区務所へ引き渡す、という建前が確認されて争いは落着した。この歩合金紛争は、金額が大きいこともさることながら、実力ある商人の自発的な拠出金というこの資金の伝統的な性格と、それを県・大区・小区制を支える県税ないし区費に完全に組み込み、県の徴収体制を完成させようとする県官僚の立場との衝突がうみ出した、いわば近代的地方税制確立前夜のエピソードであったといってよい。 民費 県には、上記の県税・賦金・歩合金などのほかに、「民費」とよばれる収入部分があった。それは金額からいえば、おそらく一〇数万円にのぼったはずで、たとえば、すぐ次にみる七八年度の場合には一三万二九五五円が計上されている(『県史料』九〇八ページ)が、その詳細を示す資料はない。とくに民費というのは、のちに区町村財政と関連して述べるように、「収入」と「支出」をいずれも民費とよぶということ、および県の収支のうちの県税・賦金・歩合金などを除いたもの(地租割・戸数割など)に加えて大小区の収支や町村の収支すべてを民費とよんでいるため、あらゆる意味で区別がしにくい。また、そのこと自体に当時の財政の実態があらわれているのである。したがって、民費に関する資料がえられる場合も、それらが合わされたものである場合が多く、結局、県の収入としての民費だけをとり出すことは、目下のところ不可能である。 注 (1) ここでの「県税」の定義にかかわるが、地価(地租・反別・石高)割や戸数割・人口割などで徴収されたものは、県レベルのものでも「県税」に加えられず、おそらく後述の「民費」に加えられているのであろう。 ただし、同じ『県史料』の九〇七ページにある「県税」は、その大きさからみて(一五万円余)、「民費」を含んでいるものと考えられる。この点、後述の「区町村の財政」を参照。 (2) 前項注(2)の資料に七五年度分県税が含まれているので、参照されたい。 (3) おもな県税については、『資料編』16近代・現代(6)一六七に、その成立の由来と課税方式についての説明がある。また県税の大部分は営業税・免許料などであるが、『県史料』禁令の部ないし規則の部には、ほとんどすべての営業種目に関する規則がのせられており、それらは同時に営業税・免許料の根拠法規でもあるので、関連して参照をこいたい。 (4) 七五年度、三万二七九五円、七七年度、四万〇二二二円である(『県史料』七八-八〇ページ)。 (5) くわしくは林健久『日本における租税国家の成立』二二四ページ以下を参照。 (6) 『県史料』二七ページには「県租即チ賦金」として、すべての県税を賦金とよんでいる用法も見られる。 (7) 神奈川県だけの特殊な用法とはいえないと思われるが、他府県については、目下不明である。 (8) 『県史料』九一八-九六二ページ。なお、これらの資料が出てくる時期には、この「雑課」ないし「賦金収支」にのせられている「賦金」のほかに「地方税収入」や「地方税元受」のなかに、地方税や国庫下渡金とならんで、もうひとつの「賦金」がのせられているが、その実態は不明である。 (9) 『県史料』六二六ページに七四年三月の「遊女渡世規則」がのせられており、そのなかに「明治五年十月相定候」との記述がある。 (10) この件については、『横浜市史』第三巻下第三編がくわしく論じている。 第四節 県・区町村の経費 一 県の経費 県の経費 さきに述べたように、定額金制度等は、県の行政のうちいわば中央の機関としての収支を示すものであったが、県が独自におこなう収支はそこに含まれていなかったので、ここではそれをとりあげることにしよう。『県史料』には七八年度について、ややまとまった支出内容がのせられている。もっとも、同年度は、途中から「地方税規則」によって会計が処理されるように変わったため、七-十一月の「県税」(『県史料』九〇七ページ)と、十二月から翌七九年六月までの「仮地方税」(『県史料』九〇八-九一〇ページ)の二つに分けて掲げられているが、通年の様子をみるためには、両者を合わせてみる必要があるので、多少のくい違いはありうるが、いちおう合計して表に示したのが表一-七七である。 表1-77 県費内訳 注 『県史料』907-910ページより作成注 これでみると、年間三六万円の支出となっており、これをまかなったのは、表にはのせなかったが県税二〇万円、民費一三万円、雑課三万円などであった。このうち、県税・雑課(賦金)については、既述したところであり、民費の詳細は前述のとおり不明である。しかし、ともかく県独自の行政というのは、この三者によってまかなわれたのであった。ところで同表によると、この時点での県の最大の費目は「瓦斯燈諸費」である。これは周知のように、横浜を象徴するガス燈に関する経費であるが、実はこの前後の年にはこの費目は見当たらない。おそらくこの年度特有の支出であって、当時進行中のガス局事件(ガス局をめぐる紛争については、『横浜市史』第三巻下第一・二章を参照)と何らかの関係があったと察せられるが、断定はできない。また、金額はそれほど大きくはないが、十全医院や黴毒病院関係の費用がここにのっているのは、収入側で雑課がのっているのに対応しているものである。しかし、これもこの時かぎりで、前述のとおり、これ以前もこののちも雑課ないし賦金として特別会計的に取り扱われているものが、ちょうど制度変更の境目に当たるこの時だけ、この一般会計に含まれたものとみえる。 そこで、それらを除いて考えてみると、最も大きいのは「戸長以下給料」の一四・四㌫であるが、これに「同旅費同職務取扱諸費」「民費補出」などを加え、さらに「郡区吏員給料」など郡区関係費を加えると、いわば県の出先としての郡区町村に関する費用だけで二七㌫にのぼることになる。県独自の行政の最大のものがこうした経費であるというのは、中央-府県-郡区町村という行政組織を確立しようとしていた当時の日本全体の流れに沿ったありかただったといってよい。これに次いで「水道費」が大きいが、これもガスと並んで、当時最も先進的な水道事業を神奈川県なり横浜なりがもっていたことの反映であり、この時点では、他府県に例をみない大きさだと思われる。「警察費へ補出」がこれに続いているが、これは『県史料』九〇五ページに、「警察官費」に続いて掲げられている「警察県費」の元受高(収入源)四万四六三六円のうちの、課出金一万〇八三五円を除いた賦金八六九三円と地方税二万四一〇六円の合計と対応している。以下、道路関係費、勧業関係費、衛生・病院関係費などが比較的大きいものとしてあげられよう。 二 区町村の経費 民費 さきに述べたように、「民費」というのは区町村の収支に限らず、県の収支のうち、県税・賦金・歩合金などによらない部分をも含んでいる。したがって、区町村財政として、民費をとり出すのは問題が残るが、しかし逆にいえば、わずかに得られる民費の計数のなかに、少なくとも区町村の収支はほぼすべて含まれているといえるので、いちおうここではそういう取扱いをすることにする。むしろ積極的にいえば、「地方税規則」施行の七八年以前には、県・区・町村の財政とくに民生関係の財政区分は必ずしもはっきりしておらず、そのことがそれらを総称する民費という言葉をうみ出しているのであって、こういう取扱い方が実態を反映しているともいえるのである。 ところで、三新法以前の町村財政は、明治五年(一八七二)四月の「大区・小区制」採用と七三年以降実施された地租改正事業によって大きな影響をうけた。前者についていえば、この制度の採用以前の町村はほとんど江戸時代そのままの制度と財政とを続けていたのに、大区・小区制の採用によって、少なくとも形式的には町村は行政の単位ではなくなり、区制のなかに吸収されてしまったことになる。実態は必ずしもそうはいえないが、行政制度としてはこののち三新法で甦生するまで、町村はいったんその姿を没したことになるのである。これに伴って、伝統的な名主や年寄は廃されて、区長・戸長がそれに代わり、大小区行政の中心となるにいたった。つぎに、地租改正についていえば、一般的にいってもこれが封建社会から近代社会への表1-78 神奈川県民費 注 『資料編』11近代・現代(1)76-77ページより作成。計,総計はそれぞれ348,066円,563,314円になるが,表では『資料編』の数値によった。 移行の中心をなしたのであるから、その影響が大きいのは当然であるが、町村財政としていえば、その収入源がこれによってきびしく制限されたことの意味が大きい。というのは、ぼう大な改正事業の費用を町村が負担したことを別としても、町村はもともと県のように独立した税を持っておらず、民費の財源は反別割・石高割などという土地への貢租への付加金か、戸数割・人口割などであったのに、「地租改正条例」によって土地への賦課は地租の三分の一以内とされ、それさえ七七年の減租の際、五分の一へと引き下げられたからである。したがって、その制限でまかない切れない度合が多くなればなるほど、戸数割や人口割への依存を高めなければならなくなり、そうするためには、その範囲内である程度は能力に応じた負担の方式をあみ出さざるをえない、というように、実質も制度も大きくゆさぶられたのであった。 ところで、全国的な民費についての統計は、『日本府県民費表』というかたちで残されており、むろん神奈川県もそのなかに含まれている。一方、『資料編』16近代・現代(6)四五五には七三年度分が、同11同(1)四四には七五年度分がのせられていて、こちらのほうが全国のものより経費の分類がこまかい。ここでは、そのうち、後者を整理した表一-七八を掲げておく。これによってみると、七五年度の民費総額は五七万円であって、同年の定額金(定額常費・額外常費・臨時費)三五万円・洋銀三〇万ドル、土木費(官費・県費)四・三万円、警察費(官費・県費)五・四万円、営繕費一万円、合計四五・七万円・洋銀三〇万ドルという、これまでみてきた官費・県費支出にくらべて、その大きさがわかるであろう。とくに、洋銀三〇万ドルはこの年だけの例外的な支出だから、これを別にすると、県内の官費・民費合計の総行政費は一〇二万円で、官費(県費を含む)四四㌫、民費五六㌫となる。 ところで、表一-七八で地租改正入費と国役金とをいちおう別掲したのは、原資料の説明によれば、民費として恒常的なものとはいえないからである。それを別にして、民費の構成比をみると、区務・区戸長関係費で三五㌫、道路堤防等の土木費二〇㌫、学校費一六㌫などがきわだって大きい。ところで同表中※印を付したものは、義務的な色彩が濃いと思われるものをとり出したのであるが、それだけで三五万円のうちの六八㌫に当たるし、もし、これに地租改正入費と国役金を含めて総額五七万円と対比すると、八〇㌫が義務的な経費に当たることになる。この数字はむろんいちおうの試算にすぎないが、民費といっても、全体の重心は、中央政府を頂点とする統治機構の一環としての、ないしはその形成のための経費にかかっていたことはたしかであろう。それだけに、国全体としては民費によってなされる区町村の行政を、慎重にかつ確実に遂行する必要があった。とりわけ区町村は、それ自体の民費収支のうちに、徴税の末端機構として国税や県税を確保するといった機能をもっていたから、各種の「区戸長心得書」や「戸長副戸長事務取扱」「区長事務章程」などには、民費に関して正確な収支を帳簿に記入し、住民の納得を得つつ併せて国税・県税の収納を確保すべき旨の規定が、繰り返し定められている。それに対応して、県会・大小区会議・町村会議などの条例や議事規則や会議心得などには、民費賦課の方法・支出・検査などが、最も重要な役割として定められている。 ところで、表一-七八に示されるように、七五年度の民費は五七万円弱であったが、上述のとおり七七年に民費のうち、土地へ賦課しうるのは地租の五分の一と制限された。ところが、同年の地租額は七八万円弱であったから、その五分の一とすると、わずか一六万円弱にすぎず、四一万円も差がある。仮に、地租改正入費と国役金を除いても三五万円と一六万円との差二〇万円弱が生ずる。七七年初の県会に、この件について「民費賦課法議案」(『資料編』11近代・現代(1)四四)が提出されている。それによれば、もともと民費を土地所有者だけに課すのは不公平であるし、土地賦課制限一五万円ということであれば、七七年度現在の計数でみて、三五万円のうち一五万円に近い三五㌫を土地へ、残りの六五㌫を戸数に課すことにすれば、平準を得ながら民費をまかないうることになるとされている。さらに、戸数に課するに当たっては、資産の厚薄により一二級にわけて賦課するのが望ましいと、応能的な課税方法を提言している。ちなみに同案によれば、当時の現戸数は一二万七一五五戸であるが、この一戸が平均三戸を兼ねるものとみなせば四倍の五〇万八六二〇戸が得られ、これで負担すべき額を除すれば一戸につき四三銭六厘四毛余がえられる。これを一二級の一戸に課する最小単位(一個)とするのである。しかし、「家産ノ厚薄ヲ調査スルハ実ニ至難ノ要件」であるから、「区戸長村吏及代議人等ニテ親ク実際ヲ考究シテ篤ト商議ヲ尽シ衆評ノ可トスル所ヲ以テ」等級を定めるべきこと、および、町駅村の表、小区の表、大区の表、県全体の表の四葉を作成し、それぞれを通じて等級の全県的な平衡の確保を可能ならしめるべきことが求められている。 この民費は繰り返しのべたように、県-区-町村各段階にまたがったものであるが、同案では、これを「一般ニ賦スヘキモノ」「一大区ニ賦スヘキモノ」、「組合一小区一村」に賦すべきものに分け、その区分を左のように示している(『資料編』11近代・現代(1)四四)。区分の原則は、当該経費の効果の及ぶ範囲によっているようである。 一般ニ賦スヘキ科目 一 県庁営繕費 一 徴役場及監獄営繕費 一 国道県道営繕費 一 布告書類頒布費 一 管内一般臨時諸費ノ諸費 一 国道掃除費 一 巡査給料及警察費 一 復籍人逓送費 一 掲示場建築修繕費 一 難船救助費 一 支庁及出張先官員往復書郵送費 一 徴兵下調費 一 中学校入費 一 中学校吏員教員以下月給旅費 一 師範学校入費 一 師範訓導吏員以下月給旅費 一 学区取締月給旅費 一 巡回訓導月給旅費 大区限賦課スヘキ科目 一 正副区長筆生小使月給 一 正副区長筆生筆墨料 一 区務所借地料并家賃 一 用紙用度品買入費 一 正副区長筆生出庁及区内巡回旅費 一 租税金庁納迄ノ入費 一 脚夫賃 一 区務所営繕費 一 区務所諸器物買入費 一 臨時雇入物書給料 一 大区限取調物入費 一 勧業掛月給 小区限賦スヘキ科目 一 正副戸長書役小使月給 一 正副戸長書役筆墨料 一 扱所借地料並家賃 一 用紙用度品買入費 一 布告配達費 一 租税金徴収入リ区務所ヘ送致迄ノ入費 一 正副戸長県庁ヘ出張旅費 一 脚夫賃 一 扱所修繕費 一 扱所諸器物買入費 一 臨時増置書役日給 一 小区限取調物入費 一村限賦課スヘキ科目 一 村用掛月給并雇小使日給 一 村用掛筆墨料 一 村用掛用紙用度品買入費 一 村用ニ付村用掛出庁旅費 一 火水盗難猪鹿予防費 一 戸籍調費 一 一村限取調物諸入費 実際ニ応シ組合ヲ設ケ賦課スヘキ科目 一 用悪水路修繕費 一 小学校諸費 一 小学校教員世話役等月給 一 暴漲水防費 一 養蚕世話役給料 一 井堰守給料 一 時鐘費 一 溜井修繕費 一 里道修繕費 この区分は、それまでの慣行をやや整理したかたちにまとめたものとみなすことができそうで、これを手がかりにして、当時の民費の県や町村の間の配分が、ある程度は見当をつけられるかもしれない。ただし、表一-七八をこの区分にしたがって各段階に割り付けることは、目下のところ無理のようである。 注 (1) 神奈川県では、七四年六月までは「小区」といわず、二〇〇〇石をめどに数か村を合併して「番組」とよんだようである(『資料編』11近代・現代(1)一四・三〇を参照)。 (2) 藤田武夫『日本地方財政制度の成立』四二-四三ページ)。 (3) たとえば、『資料編』11近代・現代(1)三・一四・一八・二〇・二八・三一・四二などを参照。 (4) たとえば、『資料編』11近代・現代(1)第一編第二章第二節を参照。 (5) 『資料編』11近代・現代(1)一一五に「足柄上郡民費額ノ内訳抜萃」がのせられている。 第二編 明治前期の神奈川県経済 第一章 地租改正後の経済発展 第一節 農林水産業の近代的再編 一 地租改正期の土地問題 明治維新の変革と農業 明治に入ると、農民は、自由に農作物を栽培・販売できるようになり、また、土地の売買も解禁され、従来の所持地には私的な所有権が与えられた。農業に限らず、一般に営業の自由が認められ、資本の自由な活動の場が開かれた。こうして、県下で、一八七八(明治十一)年、山林原野を除き地租改正事業がほぼ完了し、高額ではあるが定額金納の地租が新定され、地券が交付されたとき、法制の上では、神奈川県農民の前には、自由な経済活動を通して近代的発展をなしとげる大きな可能性が開かれた。このとき、政府の新たな一連の金融法令の公布によって、農民は生活・経営資金の借入れを、土地建物を抵当にして容易になしうるようになっていた。すなわち、一八七三(明治六)年以降公布された地所質入書入規則・動産不動産書入金穀貸借規則・金穀貸借請人証人弁償規則など一連の金融法令は、これまで各地に存在した質地慣行などを否定して、手厚い債権の保護を図り、整備された裁判所機構が、これら法令の施行を保証した。この結果、遠隔地に対する土地金融は旧幕期にくらべはるかに安全確実なものとなった。あたかも、地租改正終了時には、農産物の価格は騰貴しつつあり、農民は生活の向上・経営発展のために資金を借り入れてもその返済は可能と思われた。しかし、深刻な正貨不足による財政危機に端を発した一八八一(明治十四)年以降の政府の紙幣整理実施は、農産物はじめ諸物価の低落・市場の退縮をもたらし、商品経済に入りつつあった農家経営を一挙に破滅に追いやった。借入金は、たちまち返済不能となり、これに対し、新たな金融法令は、容赦ない担保物件の公売処分・身代限処分をもって答えた。 不平等条約のために、これまで在来商品作物栽培の伸長などを通して歩んできた農業発展の道が閉ざされてしまっていた当時の状況を考えると、この状況下において、以上にのべたような形で農民に与えられた近代とは何であったのか、という問題に行き当たらざるをえない。 地租改正後の地価修正 前述のように、神奈川県の地租改正は、耕宅地は一八七八(明治十一)年、山林原野は一八八〇年に事業を終え、それにともない地券が、耕宅地の分は一八七九年、山林原野の分は一八八一年に交付された(このとき農民は、これと引き換えに地価一〇円につき五銭の地券証印税を納めねばならなかった。また、さきに交付された壬申地券はすべて回収された)。しかし、改租施行は、一八七六(明治九)年からとされ、一八七六年以降納めてきた旧租とほぼ同額の仮納額は、新地租額と差し引きされ、不足分をさらに納入せねばならなかった。これは、地租改正によって増租となった多くの村々にとって耐え難い負担であったが、一八八二(明治十五)年、県は、これの延納年賦を認め、甲第九〇号年賦延納規則によって差額の多少により、五〇か年以内の年賦上納の措置をとった。 また、前述のように県は、改租に強い不服の意を示した多摩郡その他の村々に対し、地租改正条例追加第八章が定めた地価再改定年度(改租年から六年目)に至れば、地価を再検討するとの約束を与え、改租を承諾させたのであったが、一八八一年が、その改正年度にあたっていた。政府はその前年一八八〇年五月に地価をさらに五か年間据置く旨の太政官布告第二五号を発したが、その第一条但書に「府知事県令ニ於テ当初定メタル地価不適当ナリト思慮シ、其事由ヲ具申スルトキハ、大蔵省ハ調査員ヲ派遣シ、実地調査ノ上、一町村又ハ一郡区限リ、特別修正スルコトアルヘシ」とその例外を認めた。上述の公約を負った神奈川県令は、この第一条但書にもとづいて管下西多摩・北多摩・津久井郡(旧一〇、一一、一二大区の内)の一部の村々に対し、耕地地価の特別修正を行った(明治十四年「明治公文編年集九」東京都東大和市蔵敷内野禄太郎家文書)。 丙第二百六十三号 西多摩郡役所 北多摩郡役所 津久井郡役所 戸長役場 其郡村々之内、耕地々価別紙之通本年ヨリ修正候条、此旨相達候事 明治十四年十二月廿四日 神奈川県令沖守固代理 神奈川県少書記官 磯貝静蔵 このときの修正村は次のごとくであった。なお、津久井郡については明らかでない。北多摩郡-田無村・小山村・神山村・前沢村・柳窪村・柳窪新田・下里村・南沢村・牟礼村・北野村・中仙川村・新川村・吉祥寺村・上蓮雀村・下蓮雀村・井口新田・関前村・西窪村・境村・鈴木新田・野中新田与左衛門組・大沼田新田・野中新田善左衛門組・廻り田新田・貫井村・小金井村・小金井新田・梶野新田・関野新田・砂川村・小川村・小川新田・榎戸新田・野中新田六左衛門組・平兵衛新田・蔵敷村 西多摩郡-多摩村・石畑村・殿ケ谷村・岸村・箱根ケ崎村 なお、右の修正村は西多摩郡においても全村ではなかった。その間の経緯を、蔵敷村地所所有者総代、県会議員内野杢左衛門は、自村に関し次のように記している。 内野曰、明治九年改正、大麦反当八斗弐升六合ナリシガ( 当時明治三年ゟ七年迄五ケ年平均 麦壱石ニ付金壱円七拾五銭定メ )、地価ハ此収穫麦壱石ニ対シ金拾四円八拾七銭五厘ニ当リ、新租ハ(百分ノ三)四拾四銭六厘ニ当リ、旧租ニ比スレハ甚シキ増額ニ付、右差示(明治十一年六月十四日)ニ不服ヲ吹ヒタリシニ此後ノ改正年度(当時五ケ年目地租改正ノ法律也)ニ至リ、減額スベキ旨説諭アリシ故ニ其上申ヲ為シ、其指令ヲ待テ差示ニ対シ受書ヲ出シタリ、依テ第一次ノ改正年度即チ明治十四年ニ至リ、地価ノ修正ヲ請フニ至レリ、然ルニ芋窪・奈良橋ノ二村ハ修正セズ、砂川・小川ノ二村ハ此表(略)ニ示スガ如ク修正スルニ至リ、修正セザル村〻ヨリ当村ニ阻害ヲ与ヘラレ、其筋ニ窃異議ヲ唱フ、其際如此歎願的ノ上申ヲ為セシ也 芋窪・奈良橋村が何故修正上申をしなかったかは不明だが、地位等級編成時の村間の対立がなお尾を曳いており、ために蔵敷村は、改正時畑反当収穫麦八斗二升六合を大幅に二斗余を減額する意図をもちながら、七斗九升一合への修正、すなわち三升五合の減額に甘んじなければならなかった。 以上のような諸措置によって、県は地租改正に対する農民の不満を乗り切ったが、それは、当時における農産物価格の騰貴に助けられて、初めて可能となったのである。しかし、ひとり鎌倉郡瀬谷村ほか六か村のみは、前述の強制地価決定の処分をうけた後も、改租反対の態度を崩さず、一八七九(明治十二)年六月には、東京上等裁判所に「地租改正処分不当之訴」をおこし、引き続き地価不当を主張してやまなかった。県は、これに対し、無利子で六〇〇〇円を貸与することによって和解を成立させ、この闘争に終止符を打った。瀬谷村は、こうして得た同村分二九〇五円を、 (地位等級反対のために)村民一同共議ノ上、惣代人ヲ択ラビ、神奈川県庁ニ請願シ、陳情弁理数十回、其ノ間惣代人ガ幾多ノ辛苦ヲ甞メ、就中川口(注-儀右衛門)平本(注-平右衛門)二氏ノ如キ不幸ニシテ其際不帰ノ客トナラレシ如キ、実ニ悲々惨々タルノ結果、終ヒニ給助金トシテ貸与セラレシ恩恵義金ナルヲ以テ、当時村民熟議ヲ遂ゲ、年息壱割弐分ヲ以テ村内所望ノ人々ニ貸与シ、且ツ担当人ヲ択ラビ、該年息ノ内弐分ヲ以テ其ノ手数料ト定メ、壱割ヲ積ンデ他日奉還ノ期ニ備ヘ る村の共有財産とし、以後長く村民の生活資金の融通・村内経費の補助に活用したのであった(瀬谷区の歴史を知る会編『瀬谷区の歴史』「生活資料編二」)。 地租改正前後の質地紛争 一方、地租改正による私的土地所有権の決定も、県下各地に紛議を簇生させた。 その初めは、明治五年(一八七二)壬申地券交付のときにさかのぼる。すなわち、県下の土地に対し初めて地券を交付するに際し、質地について、地券名請者=土地所有者を、元地主(質入主)、金主(質取主)のいずれにするかで、多数の紛議が起こった。 神奈川・足柄両県は、壬申地券交付に際し、明治五年、地券心得書を公布したが(両県とも同文)、土地質書入の契約内容については、地主・金主の「相対示談」にゆだねるに止まった。しかし、一八七三(明治六)年一月には太政官布告第一八号「地所質入書入規則」が公布され、質入・書入の区分を明確にし、質入については年季三年以内という短期に限定するとともに、現在年季中の質入書入地については、すべて一八七三年七月までに、この規則に準じ契約証を改変すべきことを命じた。 当時県下の質地取引は、質地の年季を定めてはいるが「年季明何ケ年相立候ても、金子有り合せ次第請戻すべし」と記した証文や、年季を定めず「金子調達次第受返すべし」とした証文によって行われるものが多く、これらは「郷法」として広く慣習化していた。従って農民は、年季の有無に拘わらず、土地を質入して何年経過しても、「未タ地所ニ不離心得」(明治六年一月二十七日租税寮改正局指令・神奈川県伺『明治初年地租改正基礎資料』上巻)、すなわち、まだ土地の所有権を失っていないと考えていた。これに対し金主の側では、旧幕府質地条目によって、年季のある質地は、年季明け後一〇年、無年季の質地は、質入後一〇年経てば流地となり、質地の所有権は金主に移るとの理解に立つばあいが多かった。しかし、右質地条目は、幕府へ訴え出たばあいに処分する基準であり、訴訟にならない分については、前述「郷法」が生きていたのである。壬申地券交付にあたって、管下各村では、前述「地券心得書」にもとづき以上のような慣行を基礎にしてそれぞれ「村方議定書」を作製し、これに沿って質地の地券名請者を定めた。 多数の村方議定が現存しているが、ここでは二例を掲げる。 一は、明治五年月不明の大住郡上粕屋村議定書で 農政調査会「地租改 正関係農村史料集」 、八か条からなるが、その第三条で、 一 従来質入置候地所、今度古地主方ニて地券を受候とも、亦ハ持主方ニて受候共、相対示談ニ可仕、雖然、古地主方ニて引受元価切金相立候分ハ無利息借用之証書相添、地券共金主方江相渡、年季七ケ年ニ相定、万一期満、受戻兼候得ハ売渡之地券願、金主方江可相渡事と定め、基本的には県地券心得書の通り、相対示談で地券名請人を決めるとしているが、旧地主(質入主)が地券名請人となったときは、質金の借用証を別に新製し、七年以内に返金・土地請戻しをすることとし、もし出来ないときには土地の所有権は金主に移ることを申し合わせている。 明治五年(一八七二)十一月の足柄下郡府川村「村方規定書」 府川村稲子 正治家文書 は次の通りである。 一 今般地券御改ニ付田畑山林村方取極メ規定左之通 一 田畑山林請戻之儀は、当申年之義は来酉ノ一月廿五日限り受戻可申、巳来之儀は年〻十二月廿五日限之事 一 田畑山林請戻ニ相成へく分は、売主之地券ヲ請可申事 一 田畑年季売買致来候分は、年限立払候節受戻可申事、若又其年限受戻兼候ハヽ、流地ニいたし、地券証持主方へ相渡可申候事 一 年限ニ不拘受戻しニ可相成分ハ、当申ヨリ来ル巳年迄拾ケ年之間ニ受戻可申、若又其年限中ニ請戻し不申候ハヽ、流地ニ致し地券証持主方江相渡可申候事 一 山林年季無之請戻ニ可相成分は、従前之通、当申ヨリ来ル巳迄拾ケ年之間、上木伐払候節地所受返可申、若又受返不申候ハヽ流地ニいたし、地券持主方へ可相渡事 一 地券御改ニ付、諸入費割合方之儀は、地券ヲ請候者ゟ差出し可申、但年季之儀は掛高拾ケ年ニ割付、其割合を差出し、受返し可申、尤拾ケ年立払請戻候分は右入費差出スニ不及候事 右者今般村方一同相談之上、示談仕候処、相違無御座候、依之小前一同連印仕候処、依而如件 明治五壬申年十二月 (連名略) ここでは、地券交付に際し、大幅に質地の受戻しを認め、質入主を地券名請人とする方針のごとくであるが、その受戻し期間は一〇年以内(年季売買のばあいは年季切れの年)に限定され、この間に受戻しができなければ土地は金主の所有となる。いずれにせよ、一〇年後には、従来の質地関係は悉皆整理されることになる。 このような村議定の締結も、質入・質取主間の紛争を抑えることはできなかった。一八七三(明治六)年以降、県あるいは裁判所へよせられた質地係争訴訟は、夥しい数にのぼった(渡辺隆喜「神奈川県地租改正事業の特色」『神奈川県史研究』4)。 一、二の例をあげると、津久井郡牧野村副戸長井田金平は、同村柿沢八左衛門を相手取り、一八七三(明治六)年四月十四日足柄県裁判所に質地請戻しの訴状を提出したが、それは同家が柿沢家へ、文化九年(一八一二)、天保五年(一八三四)に一〇か年季で「年季明ケ不受戻候ハヽ流地ニ可致契約」旨の証書を渡し質入した土地であった。井田はこれら質入後すでに五、六〇年経過した地を、「証文面ニ不拘慈愛を以何時ニ而も受戻可申筈、前〻ゟ約定仕置候」として返地を求め、裁判所から政府の法律によればすでに取り戻しの権利はない旨を説示され、即日訴状下渡しを乞うている(農林水産省農業総合研究所蔵伊勢原市上糟屋山口匡一家文書)。また、大住郡根坂間村農高橋五郎平方から、一八七三(明治六)年三月足柄県へ訴え出た訴状によると、同家は、壬申地券交付に際し、同村農熊沢国太郎・栢間角次郎・高橋六次郎から譲り請けた地を返地してくれるよう交渉をうけたが、譲り請けてすでに長年経ち、加えて同地はすでに他人に譲渡してしまったとして、申し出を拒絶した。ところが、熊沢らは、長年経過しても質地であることに変わりないから「村議定之通可相戻」と申し立て、「村役人馴合」いで、高橋が同村本庄喜太郎方へ一〇年季の質に入れている地その他を、右の替地として勝手に、熊沢ら三人の名請で地券帳に書載してしまったというのである。また、このような措置をとりながら、高橋方から村役人へ質入した地については、質入主である高橋の名請とせず、質取主の村役人名義にするという「如何ニも依怙勝手之仕儀向」をしていると訴えている。同村の村議定は「譲地之外ハ村議定ニ而何ケ年相立候共元地主ヘ可受戻約定」であったというが、村役人の処置方法いかんによっては、かかる紛争が生じたのである(平塚市土屋 蓑島武夫家文書)。以上はすべて旧足柄県管下の事例であるが、神奈川県管下においても、地券交付をめぐる質地訴訟の頻発は同様であり、それが大審院にまで争われたもの三件を数える。 それをあげると次のとおりである。 原告鎌倉郡小菅ケ谷村農田中保之助、被告同村農三橋清兵衛「質地受戻上告」(明治十一年四月二日判決)。原告橘樹郡程ケ谷町清宮与市・被告同町加藤勘次郎「質流地受戻一件上告」(同十一年五月二十八日判決)。原告程ケ谷町池田兵左衛門、被告前掲加藤勘次郎「質地取戻一件上告」(判決年月日前に同じ)。 右の小菅ケ谷村では、「質地証ハ従来流地ノ文言ヲ認メス、多クハ無年季ノ証ナリ、仮令年季ヲ書載シタルモ返金スレハ地ヲ戻ス 『明治前民事判決 期大審院録』二 のが「郷法」であり、程ケ谷町でも、原告は、流地証文を交付しない限り決して流地とはならないのがこれまでの習慣であると主張している。 真土村騒擾 これら壬申地券交付に際しての質地紛争が、最も激化した形態をとってあらわれたのが、大住郡真土村騒擾であった(事件の詳細は『資料編』13近代・現代(3)一ページ以下及び『通史編』4近代・現代(1)一四二ページ以下)。同村では、壬申地券交付時、質取主二三名、質入主六五名の間に質地関係が結ばれており、同村の慣行によれば、それらの質地は、「如何程年数相立候とも、金子調達の者へは」請戻しをなすこととなっていた。すでにのべたように、この慣行は、県下一般に広く存在するところで、一八七八(明治十一)年十二月右大臣岩倉具視あて県令野村靖の「真土事件顛末上申書」がいうごとき「外村々ト一種別ノ慣習」ではない。しかし、壬申地券交付に際し、同村区戸長を兼ねた松木長右衛門がとった措置は、特異であった。すなわち、質入主一同が同村慣行にもとづき地券名請を申し出たのを拒んで、「真土村の儀は一円の質地悉く質取主え(地券を)相請」けることと定め、その上で副戸長外百姓代ら立会いの下で、後日これらの地の請戻しを行う旨を口約した。既述のように、管下の多くの村では、質入主の地券名請を原則とし、質取主が名請をする旨の申合せは、多摩郡鑓水村の一例が知られているのみで(渡辺隆喜前掲論文)、そのばあいも「村方新規約定書」に明文化している。しかも松木は、このことによって自ら村内で最大の質取主として、多くの土地を自分の名請にしたのである。そして、口約の実行を、質置主一同からの度々の申入れにも拘わらず遷延させたため、ついに質置主一同は一八七六(明治九)年十一月、横浜裁判所へこれを提訴し、勝訴をかち取った。ところが松木はこれを不服として東京上等裁判所へ控訴し、逆転勝訴の判決を得たのであった。以上の松木の所為は、当時の管下各村戸長が、一般にはその村の慣行を配慮して、地券の名請人を決めようとしたのと対照的に、従来の慣行を全く否定し、自らの主張を上級裁判所に控訴してまで貫こうとしたもので、村落の秩序維持にあたる戸長の務めを忘れ、私利を追及した行為とみられたのは当然である。訴訟に敗れ、万策尽きた冠弥右衛門ら二六名は、一八七八年十月二十六日夜松木宅を襲い、長右衛門はじめ家族雇人七名を殺し四名を傷つけるにいたった。この一挙に対し、大住・淘綾・愛甲三郡の戸長・副戸長・村用掛はじめ一万五〇〇〇戸の農家は助命嘆願運動を起こし、県令野村靖もこれに動かされて、右大臣岩倉に助命上申書を提出した。すでにみたごとく、管下一般の村々でも、もし、区戸長が、松木のような措置をとったならば、村民の多くは土地を失い、真土村と同じく「一村幾ト滅亡ノ姿」になる共通の可能性をもっていた。それだけにこの事件は、広く県下耕作農民に衝撃を与え、冠らの行動に強い同情が集まったのである。一方、松木の行為は、政府の新土地金融法に照らせば、完全に合法的なものであった。しかし、当時の県にとって、それは、「所謂民法ノ制、猶未タ全タカラス、徒ニ新規成文ノ律アル為ニ旧来習慣ノ法ヲ破ルノ弊アルニ似タルヲ以テ、奸人これニ乗シテ其意ヲ逞シフシ、此際最行政事務ノ障碍ヲナス」(前掲県令「真土事件顛末上申書」)ものにほかならなかった。地券交付・地租改正事業実施期の県下では、旧慣の破壊を顧りみず、新土地金融法を強引に貫徹していくときは、真土村のごとき騒擾は、県下各地で起こる状況にあったといえよう。したがってまた、富裕な者が致富を目的として土地を大規模に集積する条件も生まれていなかった。これを強引に行えば、「奸人」とみなされる空気が強かったのである。 山林の官民有区分の結果 山林原野の地租改正に先立って、公有地に認定された一村持・入会林野などに対しては、まず、それを官有・民有のいずれかに区分する作業が実施される。しかし、神奈川県のばあい、この官民有区分では、一部地域を除き、大部分は民有に編入されたので、これをめぐる大きな紛争は起こらなかった。官民有区分の結果をみると官林は、県の総山林面積のうち、わずか一六㌫弱にすぎず、その多くは足柄上郡に集中している(表二-一)。ここは、駿河・甲斐に接する深山を擁し、しかも川など木材搬出の手段を欠き、木材・林産物の表2-1 所有形態別山林面積(1884年) 注 1 反以下は切捨て。 2 ( )は1884(明治17)年の数値に疑問があるので1885年のそれを代替した。従って合計も補正してある。 3 『神奈川県統計書』より作成。 商品化も最も遅れた地帯であった。一方、同じ山間部でも、西多摩・津久井郡は、多摩川・相模川の上流部に位置し、木材流送の便に恵まれて早くから民間林業が発展し、ここに官林を設立する余地はほとんどなかった。両郡の官林比率は、それぞれわずか五・二、六・六㌫にすぎず、足柄上郡と鋭い対照をなしている。こうして官林比率は、足柄上郡だけが五二㌫とひとりぬきんでており、これに次ぐのは、愛甲郡の一四・五㌫、南多摩郡の一二・八㌫で、他はすべて一〇㌫にもみたない。概して本県では、美林地帯の大幅官林編入という強引な措置はとられなかった。 足柄上郡の官林は、西丹沢の中川・玄倉村に所在する旧小田原藩の御留山約五七〇〇町歩で、杉・檜・樅・栂・権・槻の六木を御留木とし、他の雑木は村民の自由な伐採が認められていた。前述のようにここは木材流送ができず、幕末(安政ごろ)期にここから藩主用材として、樅・栂約二万尺〆を伐採したとき、これを五寸角長二間に造材し、山北以北沿道の村から人夫を集め、四人で造材一本を担い搬出したといわれている(『資料編』17近代・現代(7)四八二ページ)。村民もまた伐採した雑木を商品化するには、杓子などの木地・下駄に加工し、あるいは炭を製して販売するほかなかった。愛甲郡の官林比率が一〇㌫を超えているのは、同郡宮ケ瀬煤ケ谷村にやはり旧小田原藩藩有林、丹沢山御林約一八〇〇町があり、これが官林に編入されたからである。ここでも、杉・檜・槻・樅・栂・栗は御用木として村民の伐採が禁じられていたが、目通五寸廻以上の雑木をもって御用炭の焼出しが行われ、万延元年(一八六〇)から慶応元年(一八六五)にいたる五年間に七万俵(一俵六貫目)が上納され、跡地に苗木が植栽されている。以上官林に編入された旧藩有林でも、旧幕期、なんらかの村民の用益がなされているのであるが、恐らく官林編入後も、雑木払下げ等の形で、旧慣は存続したのであろう。ただし、足柄上郡官林について、一九三七(昭和十二)年県『神奈川県の林業』(『資料編』17近代・現代(7)四六)は、 …地元村民は旧来些細の料金を以て殆んど自由に雑木を伐採し得たるに拘らず、維新後旧慣全く廃し、立木入会権は勿論、雑種物に関しても何等の用益権を遺さざりしは、県として一大幸福と云はざる可からず とする。該官林はのちに御料林となり、一九三一(昭和六)年県に下賜されたが、右によれば、この時点では村民の用益慣行は廃絶していたことが知られる。しかし、この廃絶は、官民有区分の際一挙に行ったものではないと思われる。ついで、南多摩郡の官林比率がやや高いのは、同郡内の旧幕府御鷹場の一部が官有地に編入(宮内省の御猟場となる)されたことによる。ここでの従来からの農民入会慣行も、すぐには否定されなかったようで、官有地編入反対の紛争は起こっていない。しかし、周囲の農民がこれを好まなかったことは明らかで、入会山野官有化に対する農民の危惧が、後述する木曽・根岸村騒擾勃発の遠因となった。 以上、神奈川県では、山林の土地所有権決定に当たって、官有地編入反対の紛争はみられないが、これを機に、入会山論が各地で起こっている。それはとくに、旧小田原藩領諸郡および津久井郡で著しい。いま、一八八四(明治十七)年の民林のうち共有の占める割合をみると、概して、旧小田原藩領諸郡と津久井郡がとくに高い。この共有民林は、県平均でその六八㌫弱が草山であった。この共有民林中草山の割合も、上記諸郡はとくに高い。共有民林で地目が草山である地のほとんどは、一か村ないし数か村共有の秣山(刈敷山)で、関係村民は、そこから田畑の肥料や家畜の飼料に供する草を入り会って利用していたと考えられる。当時の農民にとって、この秣山は、村での生活に不可欠な存在で、その所有権の帰属は些かもゆるがせにできない問題であった。したがって、地券交付に当たって、とくに秣山が多く存在する旧小田原藩領諸郡と津久井郡で、多くの入会争論が起こったのであった(津久井郡の事例として『資料編』17近代・現代(7)四三三ページ参照)。右諸郡に対し、西・南多摩郡では民林中共有の比率は高くない。西多摩郡では、民間林業の発展が、多くの村山を解体させ、私有林を成立させたのであろう。しかし、残された共有民林の過半は草山である。西多摩郡とことなり、南多摩郡は、丘陵・原野が連なり、ここでの草山(秣山)には、開墾可能地が多く存在していた。開墾-耕地化は、入会利用を侵害ないしは廃絶させる。明治以降の田畑勝手作、土地売買の自由の条件下で生じた開墾の進行は、しばしば入会利用と衝突するが、この郡の木曽・根岸村で起きた騒擾は、この点でも、代表的な事件であったといえよう。 木曽・根岸村秣場騒擾 南多摩郡木曽・根岸村と高座郡淵野辺村は、淵野辺村地内に、三か村入会秣場七六町九反余を共有していたが、山林地租改正実施に当たり、まず、その所有権の帰属が問題となった。 本県で、山林原野の地租改正事業が始められた一八七八(明治十一)年十二月、右区域の地租改正担当官村田茂質(橘樹郡大島村平民。九等属地租改正掛ともいわれるが、正規の官員ではなく、地租改正掛御雇と思われる)は、右三か村戸長らに止宿先原町田村吉田屋へ出頭を求め、 其三ケ村ニ跨ル秣場ノ義、目下地租改正ニ付テハ、未タ官民有地ノ区別不相立、夫々取調中ニ付、談地拙者エ売渡呉候様、然レハ民ノ共有ニイタシ、其三ケ村ノ戸数ニ割、一反ニ付其代金トシテ金五円宛可相渡、若シ熟議不相成時ハ、御布告ニ依リ無論官地ニ可相成者ニ付、然レバ其三ケ村人民ノ困難可有之ニ付、拙者ノ申スル通リニ致候ハヽ村益不少、然ル上ハ其地所拙者ニ於テモ他エハ売渡ス可ク者ニ非ス、該村戸数一同エ弁利ニ割当開墾ヲ任セ、鍬下三ケ年無税ニテ、四ケ年目ヨリ小作金ヲ定メ、永年手作可致 との「談事」を行った(中島孝雄「木曽・根岸村秣場事件」および関係史料『町田市史史料集』第八集、以下主に同書による)。入会秣場の官有地化を恐れた三か村では、協議の上、翌一八七九(明治十二)年四月、秣場を一反歩五円で村田へ売却し、村田は同地を村方に一八八一年まで三か年鍬下年季で開墾を依託し、四年目から小作料を徴収し永小作関係を結ぶ旨を契約した。ところが、このとき淵野辺村は、入会秣場同村分の売渡証を村田へ渡しながら、代金を受け取らず、村田からその売渡証を同村に返却する旨の約定証をとり、一八七九年十一月村田から買い戻した形にして、同村共有名義の地券交付をうけた。すなわち、三か村入会秣場七三町(道敷引三町九反余を除く)のうち木曽村分二九町六反余、根岸村分八町九反余のみが村田に売却され、淵野辺村分三四町三反余は、同村所有として残されたのである。 こうした、山林原野官民有区分の際の、村田茂質とこれに加担した淵野辺村総代の所為を原因として、以後ほぼ一八八三(明治十六)年十二月まで続く「木曽・根岸村秣場事件」が発生した。 ところで県地理課は、一八七八(明治十一)年十月、山林原野官民有区分の方針を、各大区あてに示している。 其区内村〻山林・原野其外一村進退地等ニテ、官民有地ノ区別不判然ノモノハ、別紙書式ニ做ヒ、証書為差出、篤ト検閲ヲ遂ケ、左ノ二ケ条予テ相心得、四隣保証書類等悉皆取纒メ、来ル十五日迄ニ可被差出、此段通達及候也、但、別冊官民有之別不判然地書抜帳壱冊相渡候間、右之外疑敷地所有之候ハヽ、同様書出サセ候様致シ度事 明治十一年十月 地理課 第一条 別冊証書々式甲印ノ如キモノハ、該証書本紙相添可被差出事 第二条 同上乙印之如ク従来ノ成跡上ノミニシテ公証トスヘキ書類無之モノ、並ニ自然生ノ草木ヲ伐採仕来候迄ニテ、村持或ハ誰外何人持ト申立候内ニハ、官民有之別、疑似ニ渉ルモノ有之哉モ難計、該村申立ノミニモ拠リカタク候間、如此類ハ比隣郡村之見込等篤ト承リ糺シ、其四隣ノ村〻ニ於テ、何村持又者誰〻数人持地等ノ事由ヲ瞭知シ、遺証ニ代ツテ保証スル上ハ、詮議之上、民有地ニ相定ヘク筈ニ付、別紙書式之通、保証書面為差出、右取纒メ之上、可被差出事 但、甲印ノ如キ所有之確証アルモノハ勿論ニ候得共、仮令証書一切無之トモ、樹木植附等夫〻労力ヲ尽シ来リ候成跡明瞭ナルモノハ、民有地ト定メ、又従来山野税等納来ル共、自然生ノ草木ヲ採伐仕来リ候迄ニテ、更ニ民有之憑拠無之モノハ、官有地ノ定ムヘキ義ニ付、丙印書式ノ如ク書載スヘキコトニ有之候間、右ノ筋合ヲ篤ト体認シ、万一違口之申立ヨリ後日紛論無之様、他大区接続ノ村落等ハ殊更注意可有之事 なお、別紙は省略するが、右にいう甲印とは、山林・萱野につき (甲印)是ハ当村検地帳・水図帳等ニ誰外何人名受、又ハ一村名受歟ト記載有之、或ハ旧名寄帳等ニ旧来一村共有、又ハ誰外何人持ノ明文アル歟、証書有之歟 また、乙印とは、山林・萱野については、 (乙印)是ハ、前〻( 誰外何人持 一村共有地 村〻入会持 )ニシテ年〻何永ト唱ヘ税納仕来候処、所有之確拠トスヘキ書類等ハ無之候得共、往昔ヨリ( 各所有者 一村人民 入会村〻 )歟ニシテ培栽ノ労力ヲ尽シ、伐採等適宜仕来候分 秣場、芝地については、 (乙印)是ハ従来( 当村進退地 何村何村入会 )歟ニシテ何〻永ト唱ヘ従来永納罷有、別段確証は無之候得共、旧来( 一村共有 何村何村入会共有地 )歟ニシテ耕地培養之タメ自然生ノ( 秣 芝 )苅採進退罷有候分 また、丙印とは、山林・秣場双方につき、 (丙印)是ハ旧来民有ノ証跡等一切無之、官有地ニ相違無御座候分 というものである(二宮町 安藤安孝家文書)。 これによれば、県は、前述三か村入会地のような秣場については、たとえ所有の証拠がなく、また、たんに自然生の草を採取するだけであっても(山林のばあいは、草木培養の労力を費していなければ民有とは認めない)、隣村の保証さえあれば民有地に認める方針であった。村田茂質が虚偽を述べたことは明らかである。また、右の県地理課の各大区あての達は、小区各村へ廻達されたから、当然、木曽・根岸・淵野辺村でも、地租改正総代・戸長ら(木曽村は三沢忠兵衛・石川直昭・飯田茂十郎・石川吉右衛門、根岸村は守屋五左衛門、淵野辺村は河本崇蔵・天野豊蔵・細谷政右衛門ら)は知っていたはずである(従って村田の官有地編入は必至という言が偽りであることも)。とすれば、三か村入会秣場のうち木曽・根岸村割当て分の村田への売却には、村田とこれら地租改正総代・戸長(あるいはその一部)との間に暗黙の了解があったと考えねばならない。村田が買得した入会秣場を、一八八二(明治十五)年に高座郡下九沢村山本作左衛門を経て木曽村三沢忠兵衛・淵野辺村鈴木理平・細谷政右衛門へ売却したことは、この両者間の了解を裏付けるもののように思われる。すなわち、三沢・鈴木・細谷らは、木曽・根岸村割当て分の入会秣場を取得し、自らの手で開墾する意図を、当初からもっていたのではないかと疑われる。彼らは、村田と木曽・根岸村村民との間に契約した開墾竣成の期限三年が過ぎるのを待って、同地を買い取り、三沢は、「此地を買入るゝや否や、大勢の人夫を傭入れ開墾を始め」、両村村民から告訴をうけ、その裁判中も、「東京より開墾器械を取寄せ益々盛大に論地を拓き、又追々該地へ人家を建築し、今は殆ど一新田の状をな」(土屋・小野編『明治初年農民騒擾録』)すまでに事業を進めている。 一方、木曽・根岸村の村民は、ただ入会秣場の官有地編入を防ぐために、村田への売却を承諾したのであった。開墾契約も形式的なものと理解し、実際に開墾する意志は最初からもっておらず、従来通りの入会利用を続けていたとみられる。彼ら一般村民が、淵野辺村の秣場買戻し、木曽・根岸村分秣場の村田から三沢への所有権移転等を知ったのは、一八八二(明治十五)年四月ころであった。これも、木曽村の村役人層の外にある渋谷辰正の聞知ではじめて明らかになったのであり、同村地租改正総代・戸長らはそれまで事態を隠していたと判断せざるをえない。こうして、一八八二年五月一日の木曽・根岸両村の村民集会となり、八王子警察署警部徳尾頴伸の説得により、まず、三沢忠兵衛の告訴という合法的手段をとって、秣場回復の運動を開始した。これが「秣場事件」の発端である。この事件は、一八八三年十一月二十六日の木曽村農民ら数十人による三沢忠兵衛開墾地の新築家屋打ちこわしによって終局を迎え、打ちこわし参加者の拘引・起訴と引き換えに、南多摩郡長原豊穣・同郡鶴間村戸長細野正重・同山崎村戸長高梨才助の仲裁による示談成立(三沢忠兵衛開墾地二八町六反を一反六円で木曽・根岸両村民へ売却)、十二月二十八日横浜始審裁判所の判決(鈴木理平・細谷政右衛門は、木曽・根岸村村民に契約にもとづく買得地の開墾・小作を為さしむべし)によってほぼ結着をみた(経緯の詳細は前掲中島論文『町田市史史料集』第八集参照)。この事件は、当初、入会秣場の官民有区分に際しての改租担当官村田茂質の非道告発に端を発し、やがて、入会秣場をめぐる村の指導的地位にある豪農の特定者と一般農民との対立という本質を明らかにした。そして、ほぼ一般農民の勝利で局を結んだものの、農業不況はこのころすでにこれら農民の生活を破滅に導きつつあった。 二 勧業政策の展開 勧業課・勧業掛の設置 一八七五(明治八)年十二月二十日、当時の神奈川県は、政府の県治条例改定にもとづき、各課の廃置を行い、その際、新たに勧業課が設けられた。課員は、四等属石渡正敏を長とし、七等属水野正連・八等属依田稔らであった。ついで、翌一八七六(明治九)年一月八日、各大区にそれぞれ二、三名の勧業掛を置くこととし、各大区に対し、一月三十一日までに、戸長のうちからこれを兼務する者を選任することを命じた。県の勧業政策実施の体制は、ここに初めて形を整えた。なお、同年五月神奈川県に合併された足柄県部分も、合併後勧業掛が任命されている。右一月八日の県達によれば、当時、管下では地租改正事業で区戸長は多忙を極め、彼らが親しく物産振起に努める余裕はなく、よって「殊更ニ各大区中両三名宛戸長ノ内、有志ヲ撰ミ勧業掛ニ兼任シ、土地実際ニ就テ授産ノ事務ニ与ラシメ」たのであった。勧業掛の任務は、三月二十七日制定された「各大区勧業掛仮定規」によって、「区内人民ヲ説諭シ、諸般ノ良業ニ習就セシメ、専ラ物産ヲ振起スル」とされ、具体的内容は次のごとくであった。 ○勧業関係布達、物価・物産表の整理調製、農事全般につき「内外ノ養殖、培養ノ方法ヲ考採シ、土地実験ヲ尽シ、其利害得失ヲ具状」する。○「牧畜・家禽ヲ拡充スルコト」、○土地改良・山野開墾、○「新規諸製造ノ業ヲ開キ、或ハ従前ノ製ヲ精密ニスルコト」、○「諸器械ヲ発明シ人力ヲ助クルコト」、○津田仙の提唱する新技術「気筒・偃曲・媒助ノ三法ヲ伝播シ、収獲ヲ増加スルコト」、○「貧民ニ肥糞ヲ十分ニ獲セシムルコト」 また、勧業掛は、一-三円の月給が支給され、それは、区内で行う事業に要する費用とともに区費から支弁されることになっていた。 勧業掛の、最初の仕事は、津田仙の禾花媒助法の試験実施であった。津田仙がオーストリアから帰朝後提唱した気筒埋設法(地中に気筒を埋め、土中の通気を図る)・樹枝偃曲法(草木の枝を下方に曲げることによって、養分の枝・葉・幹への適度な配分を図る)・禾花媒助法(草木の開花に、縄を用いて人工的に受粉を助ける)は、(『資料編』17近代・現代(7)解題八ページ以下。なお、同文中農商務省とあるのは内務省の誤り。)当時の内務省勧業寮が熱心に各地への普及に努めたところであり、本県での、大小麦を用いた媒助法の効果実験も、その強い指導によるものとみられる。県は、前述「仮定規」を公布した翌日の一八七六年三月二十八日、早くも正副戸長・勧業掛に対し、 禾花媒助縄之義、為試験今般各大区ヘ二筋宛頒布候ニ付、此程勧業掛出頭候節、及教示候方法ヲ以テ作用可致、尤右器械ハ庁詰書記へ相渡、送達方申付置候条、可得其意、此旨相達候事 と、媒助法実験着手を指示し、さらに四月二十七日、五月十一日にも重ねて示達を行った。津田の前述「農業三事」の普及は、県でも「仮定規」中とくに一項を立てて勧業掛の職務と定めているように、きわめて重視するところであった。しかし、勧業寮ではすでに一八七五年九月、内務省御雇ワグネルの、媒助法を無効とする批判があり、また、その後各地での試験報告に鑑みて、一八七六年四月には、ほぼこれを無益とする結論に達していた。こうして、神奈川県では、「媒助縄の義は、先ず無益の器と存じられ候得共、最早県庁より各大区え(媒助縄を)御下渡相成居候上は、試験も致さず返納いたし候も如何」(『資料編』17近代・現代(7)二五三ページ)、殊に無料のことでもあるので、各大区の試験人は自作のうち五畝でも一反歩でも適宜試験してみる、ということになった。すでに無益と知りつつ、県の体面もあって、当初の方針通り実施したのである。さらに、これの収量比較についても、たまたま地租改正実施中で、「畑主ノ固陋心ヨリ収穫ノ明瞭ナルヲ恐ルルノ情アルモ難計」(五月十一日県達)く、果たして正確な試験結果が得られるかは疑問であった。 初期の勧業着手状況 勧業掛を通して行う県の勧業策は、右の媒助法実験のほかは、さしあたり虫害防除法の報告を各村から求めたり(一八七六年六月十五日)、茶の粗製濫造を戒める(一八七六年七月)など、いくつかの諭告を公布するにとどまった。そして、却って「区・戸長ハ都テ勧業一切ノ事務ヲ之ニ譲リ己ノ責任トセサルノ弊害ヲ醸成」(明治十一年『神奈川県勧業年報』)した。そのため、一八七八(明治十一)年一月、内務省勧農局と地方庁の間に農事通信制が設けられたのを機に、県は勧業掛を廃止し、その事務はすべて区・戸長が管掌することに変更した。このころ、県はいくつかの具体的な勧業策を包懐しており、その一部は実施に移しつつあった(「明治十年府県勧業着手状況」土屋喬雄編『現代日本工業資料1』)。それを列挙すると、○農事小試験場を横浜近郊と小田原に設置し、農業老練の者を雇い、「地味適好ノ草木ヲ移植シ、農具ノ用法ヲ習練シ、相共ニ利害得失ヲ実験」する。 ○横浜・小田原に物産蒐集所を設立し、管内の生産品を陳列し衆人の縦覧に供する。横浜は、とくに貿易品の見本を主とする。 ○管内河川の堤防に桑・楮を栽植せしめ、その堤防使用料をもって堤防修繕の費途にあてることとし、一八七七(明治十)年四月六日この旨を管下正副区戸長・勧業掛・堤防掛に対し諭達を行った。 ○多摩・津久井・高座・愛甲の養蚕・製糸郡を対象に、桑園改良、八王子への養蚕試験場設置を行う。また県が誘導して一八七七年に私費で設立をみた一〇-五〇人取りの製糸場は、「費用巨多ニシテ今後維持ノ計ニ於テ頗ル苦慮」しているので、これを援助する。従来養蚕製糸がみられなかった小田原では、一八七七年、士族授産として桑苗三万本を恵与し各自邸内に栽培せしめ、一方、支庁内と緑町に養蚕試験場を設けた(一八七七年二月設立許可、面積一町九畝)。 ○管内在来の名産、八丈博多糸織・川和縞・青梅縞・二タ子縞・紺飛白等の粗製を改良し、また、洋式機械による輸出用広幅物生産を図る。旧小田原藩士族授産として織場を設け、廃滅した御小屋木綿に代わり飛白縞物生産を再興する。 ○多摩・足柄上郡山間部に椎茸栽培を広め、沿海各村で獲れるなまこの加工生産を興すため、有志者に、資金を広業商会(横浜元浜町一丁目)から貸与せしめた。今後、さらに同商会と「結約」し、生産資金貸与をなさしめ、これら製品の中国輸出を図る。 ○多摩郡御岳山旧神官三一戸の授産として、寒天製造を興させる。製品は、広業商会に委託し中国へ輸出を図り、生産に要する柴薪は、境外官林の雑木を毎年時価で払下げてこれにあてることにする。 ○物産会社を設立し、商品流通を円滑にし、もって物産繁殖を図る。すなわち、「有志者ヲシテ各応分ニ醵金セシメ、官又厚ク保護ヲ与ヘ、本社ヲ横浜ニ開キ、支社ヲ各所ノ港市等ニ分置シ、以テ僻隅所産ノ物品ヲ買収シ、各種時価ニ照拠シ、各地ニ運搬販売スルコトヲ務メ、又篤志之者アル時ハ之ニ起業ノ資金ヲ貸与」する、半官半民の商業・金融会社の設立である。 ○麦藁帽子・石鹸・マッチ等の製造を保護奨励し、輸入の減省ひいては輸出を図る。 ○貧困の婦女への授産と製品生産費の低下を目的として、官の保護の下に「一社ヲ創立シ、各種ノ器械及絹綿糸等ヲ貯置シ、為メニ簡易ノ規則ヲ設ケ、区内ノ婦女ヲ懇諭シ保証人ヲ定メ、請求スルモノハ貧富ヲ問ハス器械ヲ貸与シ各自其家ニ於テ裁縫織紙ノ業ヲ習ハシメ」る。○一八七四(明治七)年十二月、県が設立を認めた三浦郡区長若命信義・小川茂周ら数名による横浜牧畜会社(後述)の発展を図る。 ○一八七七(明治十)年栃木県塩谷郡塩原村産の寒地向けの稲種はじめ人参・落花生等を試作したが、さらに芦ノ湖の水を仙石原大久野村に引水する開田計画を立案する。 ○明治五年(一八七二)東京府士族山田照信ら数名が相模原開田を計画し、本県に出願し、県は、一八七四(明治七)年七月、開拓地所売下げ処分等を内務大蔵両省に上申したが、一八七五年三月、さらに詳細調査すべき旨の指令を得た。よって、出願人に、実地着手の手続、資金募集(水路開鑿等の工費約二〇万円を要するという)等をさらに考定させ、成功が見込めるばあいは、さらに再稟して計画実施を図る。 ○横浜に市街塵芥を選別加工して農家の肥料・薬材を製出する「化芥所」設立を認可し、塵芥選別に救育所窮民を傭役し、貧困廃疾者に生業を与える一助ともする。 ○地元区長らの上願を容れ多摩川上流部、留浦、沢井村間七里の岩石を破砕し水流を疎通して、筏流しを可能とし、上流山間部での林業発展を図る。 以上にみられる県の勧業方針は、士族授産のほか、少数の器械製糸場、東京府士族ら少数者による相模原開田計画への援助、半官半民的性格をもった広業商会・物産会社・女紅場・横浜牧畜会社・「化芥所」の設立援助など、「自ラ事業ヲ興起シ若クハ資金ヲ貸与シテ直ニ農商ノ営業ニ干渉シ僅々数名ノ農商ヲ庇保シ其成蹟ヲ以テ他ノ模範ヲ為ス」(明治十三年十一月、農商務省創設ニ対スル参議大隈重信・参議伊藤博文建議)という、当時の政府殖産興業政策の方針に沿ったものが中心となっていた。実行に移されたその代表的なものに横浜牧畜会社がある。 横浜牧畜会社 横浜牧畜会社は、三浦郡区長秋谷村若命信義、同郡大津村小川茂周外一二名によって一八七四(明治七)年横浜戸部に設立され、同社が飼養する和種牝牛に西洋種牡牛を交尾させ、県下農家に預け繁殖させることを主な事業とし、傍ら洋牝牡牛を飼養し、牛乳を販売し、また、東北、中国等の牛馬産地その他から和牛を買入れこれを販売するなどの事業も行った。同社の発起は、明治五年(一八七二)安石代廃止によって、県下の畑租が一挙に倍増したとき、政府はこれに対する農民および地方官の反対を緩和するため、増租額の二割を勧業授産資金として増租県に下渡すこととしたに始まる。神奈川県は、この政府の方針をうけて、右下渡金による勧農授産の一方法として、この横浜牧畜会社の設立を計画したのである。結社は、一八七四(明治七)年十二月十四日付で内務省の「其県ニ於テ聞置候事」との許可を得、六三九六円余の下渡金を「県庁ヨリ拝借金」として、社中株主一四名からの出金二九〇〇円とあわせ資本金にあて開業した。畑の増租は県下農民全般に関わる事柄であるが、これに対する下渡金は、「僅々数名ノ農商」に交付されたわけである。同社は、その「設置方法」第五九条に「此会社ハ県庁ノ保護ヲ得テ設立セシニヨリ、以後諸規則ヲ変換スルハ勿論、其他一切会社ノ景況ヲ上申シ、指揮ヲ得テ施行スヘシ」(『神奈川県史料』第二巻九八ページ)とあるように、元来が半官的性格をもち、企業として発展する性向を欠いていた。一八七六(明治九)年十二月には、これまで旧足柄県が勧業寮から貸与をうけていた綿羊一四頭を、県から「貸廻し」を受け、戸部牛乳所で飼育しようとしているが、これも「別段費用モ不相掛、剪毛ト比較シ幾分歟ノ利益ハ必然」という、官の牧畜奨励政策に頼って無料貸与を受けることで利益を得ようとするものであった。したがって、政府・県が、一八八一(明治十四)年農商務省設立、官営工場払下げ決定を機に、特定少数者に対する保護による半官的な事業興起から「博ク奨励保護ニ関スル法制ヲ案シ、一定ノ規則ニ拠リテ公平不偏、洽ネク農商ヲ誘導スル」方針へと転換すると、たちまち衰滅に向かった。そして、他の半官半民的会社設立の計画もまた画餅に帰したのである。 相模原開田計画 県が、この時期に援助しようとした相模原の開田も、地元農民が発起したのではなく、外部の少数者によって企てられた事業であった。同地の開田は、すでに明治元年(一八六八)、紀州藩によって、横浜上水道開設とあわせて計画され、同年十二月には、横浜紀州国産会所頭取島田楠右衛門らによる水源調査がなされている(『相模原市史』第六巻、以下も同じ)。明治三年四月三日、東京釆女町中村甚兵衛を願人、同町椿五郎吉・上槙町岡野伊平を差配人として県に提出した開田願書によれば、計画は、津久井郡三井村地内字水神淵から相模川の水を分水し、岩を掘り割って相模原へ引水し、横浜の上水にもあてるというものであった。明治四年十一月の新田開発願やその後の諸願書では、この計画は三井村より上流千木良村字弁天ケ淵から分水することに変更され、山中岩石の場所を三井村を経て中沢村まで二里(約七・九㌔㍍)余を掘り抜き、中沢村から下川尻村まで一里半余は、埋樋で通し、以下相原村から下鶴間村まで約四里半の芝地原野を通水した後、さらに四里半ばかりを流下させ、鵠沼村で海に落とし、一方横浜上水道に分水する分は星川村で帷子川に合流させ、保土ケ谷から横浜港内へ引水する、という内容となった。水路の通る村は、横浜上水道部分を除き、千木良・三井・中沢村・上川尻・下川尻・相原・橋本・大島・小山・九沢・田名・当麻・新田宿・上溝・下溝・磯部・新戸・座間・入谷・鵜野森・上鶴間・四ツ谷・栗原・深見・長後・亀井野・鵠沼の二七か村におよび約一〇〇〇町の原野が開田すると見込まれた。事業は、前述のように当初は、紀州藩横浜国産会所が意図し、明治三年(一八七〇)の願書では、島田楠右衛門は願人として名を出してはいないが、「世話役・頭取万端差配向」を司ることになっている。しかし、廃藩置県後、この事業の主体は、当初からこの計画に参与していた鎌倉の杉村正造(山ノ内)、山口延之輔(十二所)、田中作兵衛(小菅谷)外数名に移り、これに、三年当時の願人と島田も加わり、願人惣代には、東京四谷伊賀町士族山田真三郎(照信)が選ばれ、従来の計画を引き継いで、県へ許可を出願した。山田は、江川太郎左衛門の旧家臣と思われるが、彼もまた、当初からこの計画に参与していた。こうして、明治四年以降開田有志者の中心となった鎌倉住人らは、開田資本金に、鎌倉五山その他諸祠堂の貸付金をあてようとしている。これらはいずれも種々の方面へ貸付中のもので、これを県の力を籍りて取立て、開田資金に振り向けるというものである。右有志は、その後さらに構成が変わり、一八七四(明治七)年六月九日にいたり、東京府士族野本務行・鎌倉十二所村山口延之輔・高座郡大島村斉藤重郎・静岡県士族矢田当義・高座郡磯部村中村大吉・鎌倉郡鍛冶ケ谷村小岩井六郎兵衛連名で、改めて相模原開田を願い出た。右のように計画自体は変わらない(なお、このとき、横浜港へ通じる上水路には、八王子から荷物旅客の通船を通すことを企てている)が、その発起者にしばしば異動が生じているのは、一に資金蒐集が思うに任せないからである。一八七四(明治七)年の出願にあたっては、五年の願人惣代山田真三郎は、資金繰りをめぐり「不都合」があり排除され、資金は、「東京府下有名ノ商両名」からの出金に加え「追々同志出来、華士族衆の内出金いたすべき者多分これあり、費用に於て欠乏足の儀決してござなく」とされている。しかし、県が、一八七三年秋には現地見分まで行いながら許可をためらっているのは、有志らの資金運営に不安があるからで、右一八七四年六月の願書をもって、同年七月県が開拓原野払下げを内務、大蔵両省へ上申したときも、両省は、容易に認可せず、一八七五年三月にいたって、さらに開墾方法・会社規則・資本金員数・掘割其他諸費・空地反別・各村故障有無・開墾年季・水路掘割実形図・地代金などの詳細調査を求めてきた。発起人らは、早速、同三月二十三日「会社仮規則」を締結し、総費金二五万円を二五〇〇株に分かち、株主募集に入ったとみられるが、おそらくこれがうまくゆかずそのまま中絶してしまった。前述のように県は引き続き、この計画の実現を希望しているが、一八八〇(明治十三)年九月にいたってようやく開田出願が提出され、しかも、その出願者は一変し、願人惣代は藤田広得となり、一八七五年の顔ぶれは姿を消し、発起人にはふたたび東京府士族山田照信があらわれている。これに対して、高座郡役所は却下の意向を示し、ついに相模原開田は日の目を見ずに終った。 仙石原勧業試験牧場・耕牧舎 県の、前述芦ノ湖からの引水による仙石原開田計画は、恐らく資金難のため実現せず、代わって一八八〇(明治十三)年一月二十日、県は、勧業資金をもって、仙石原村の共有秣場六九三町二反余を三六三円余で買い上げ、さらに五二町九反余を献納させ、ここに県による勧業試験牧場の開牧を意図し内務省にその許可を求めた。内務省はこれを同年二月六日付で許可したが、その一〇日後、県はこの地に渋沢栄一・益田孝・渋沢喜作および長野県士族小松彰による開牧を許可し、その旨を地元仙石原・元箱根村へ通達している。渋沢栄一らは、この地に大規模な牛馬放牧を計画し、すでに一八七九(明治十二)年末には県に対し、該地の借用願が提出されていることから推せば、県の勧業試験牧場開設は、地元村の共有秣場を買い上げる名目にすぎず、当初から渋沢らの牧場経営を認める方針であったことにほぼ間違いない。渋沢らは、同年五月から牛馬を購入し、耕牧舎という資本金三万円の牧場を開設した。そして、県は九月十七日にいたって、この地を耕牧舎に県の買上価格で払下げたい旨を内務省に伺い出、翌一八八一年二月十八日許可を得た。耕牧舎へ払下げの理由は、「本県ニ於テ開牧ニ着手スルモ資金欠乏ニシテ到底其効ヲ視ルコト覚束ナク、寧ロ払下ノ願意ヲ許容シ、以テ彼等ノ素志ヲ果サシムルニ如カス」(『神奈川県史料』第二巻)というにあった。渋沢らは、こうした県の援助によって、秣場買い上げにともない予想される地元村との紛糾なしに、七六〇町(『県統計書』では七四三町)の牧野を三九一円余(一町歩約五二銭)という価格で入手することができた。また、県は、地元村に無代献納させた秣場五二町九反も払下げたので、その代金二七円九一銭余だけ増収したことになる。この耕牧舎の経営は、半官的な横浜牧畜会社と異なり、成功を収め、後年まで、一三人前後の牧夫を雇い、二〇〇頭を超える牛馬の飼養を続けている(表二-二)。牛は、米国種・純粋短角種・南部種、馬は、米国種・レキシントン種・南部種、い表2-2 仙石原村耕牧舎飼養牛馬数 注 『神奈川県統計書』より作成 ずれも後には和洋雑種が数を増し、外国種は姿を消している。また一八八八(明治二十一)、九年を境に馬の場内飼養が減り、農家へ貸し付ける牛馬が多くなっている。次第に一般農家の需要に応ずる形態をとるにいたっていることがわかる。 初期勧業政策の性格 以上、一八八一(明治十四)年ごろまでの県による殖産奨励策は、特定の有志者を対象にし、これに強く保護・指導を与える点に特色がみられるが、資金の乏しさから、実施されたものは一部に止まり、しかもほとんどが効を奏さなかった。かえって、県が何ら干渉を加えなかった耕牧舎だけが、自らの力で根づき牧場経営を軌道に乗せている。こうして、これら勧業策は、以上の性格から、一般の農民にとっては、ほとんど影響を与えなかった。一般農家の農業技術改良に、大きな役割を果たすのは、農事試験場であるが、それは、一八七七(明治十)年にはすでに計画されながら、一八八〇年三月にいたって、ようやく横浜末吉町に「農事小試験場」が設けられ、しかも翌年八月の通常県会で早くも廃止が決定されている。その後一八九六(明治二十九)年にいたって、初めて横浜市岡野町に農事試験場が開設の運びとなるのである。 しかし、明治政府の強い行政力は、不時の天災などに際しては、近世期には思いもよらなかった威力を発揮した。一八七八(明治十一)年、橘樹郡で大発生をみた蝗に対する県の駆除措置にそれがみられる。 この年七月、同郡末吉村の市場村内飛地字向野の約二〇町歩の原野を中心に異常発生した蝗は、近村の畑作物大豆・小豆・草棉や稲などのほか雑草・小笹までも食い尽くした。権令野村靖は、急ぎ、これの駆除方指揮を内務省勧農局に申請し、同局は、直ちに(七月四日)、少書記官佐々木長淳・九等属小林寿・勧農局試験場雇北原大発智を派遣して駆除にとりかかった。駆除作業は、翌五日は豪雨のため着手できず六日早朝から、雨の中で始められたが、それは次のような大規模なものであった。 午前七時、上下末吉村、市場村から、蓑笠をつけ、鎌・割竹・箒・柳の生枝などを持った人夫二一四人と外に老幼男女が動員され、巡査一人が一手の人夫を指揮し、区戸長がこれに付き、蝗が群生する原野を、四方から囲み、一線に並んで法螺貝で進退を指示し、また、その後方から声を発して蝗が他に散乱するのを防ぎつつ、草を刈り、蝗を撲殺して進み、その後から老幼が死んだ蝗を取り集めた。局員や県官は、原中の小高い所に仮屋を設け休息所とし、ここで老幼らが集めた蝗を、一升(約蝗一〇〇〇匹)三銭で買い上げることとした。午後に入ると権令と県第二課(勧業)全員が出張し来り、さらに第三大区六小区、第四大区五小区の区戸長に人夫の動員を命じ、巡査四名を増員して午後六時過ぎまで作業を続け、一日で買い上げた蝗一石一斗八升二合、焼殺、撲殺を合算して、およそ一石七斗三合、蝗数約一七万七三〇〇匹を殺している。翌七日も雨であったが、動員数はさらに増え、六三七人老幼男女を加え総計一〇〇〇余人に達した。これを四手に分け、上下末吉・獅ケ谷村を一番組、駒岡・師岡村を二番組、市場・菅沢・江ケ崎村を三番組、矢向・南河原村を四番組とし、前日同様の作業を進め、この日は買い上げた蝗三石七斗七升六合八勺、焼殺した分を合算しておよそ一〇石三斗三升四合(蝗数一〇〇万三〇〇〇余)を駆除したと推計された。またこの日は、駒岡村・大師河原村の水田・綱島村・矢口村にも害虫発生の報があり、県官石渡正敏、中井警部、戸長関口源左衛門らが該村に出張した。八、九日は、前日の四組の人夫合計五二八人に加え、生麦、鶴見両村から応援があり、老幼男女を含め合計一〇〇〇余人でさらに巡査四名が増員された。この両日は、直径凡そ三間の叢を、一五-二〇間間隔で五〇余か所ばかり刈り残しておき、これに蝗を追い込み、叢の周囲に乾麦藁を立て掛け火を点じて叢を焼く方法をとり、八日一日で買い上げた蝗一石九斗七升三合、焼殺した蝗一〇石余、合計一一石九斗七升三合を駆除したと計算された。八日は午後七時まで作業し、のち人夫に酒を給している。九日は、同様の作業を行ったが蝗数は著しく減り、そのた橘樹郡で大発生したいなご 飯田助丸氏蔵 め捕蝗の代価を一升五銭に増し、一斗七升五合五勺を買い上げた。焼殺した蝗と合算して九斗二升五合五勺と計算された。この日をもって字向野の原野はほぼ駆除を終えている。また、九日午後からは、佐々木長淳・県石渡四等属・中井十等属に警部二名が大師河原村へ赴き、区戸長らとともに、八日実施した水田への菜種油散布の結果を見るとともに、さらに鯨油を用い菜種油との効果の比較を試みた。すなわち、約一反の田の水面に鯨油半ポンドを撒き、稲苗や畔草を、柔かく細い竹竿で掃い蝗を水中に落とし溺死させるのであるが、菜種油とほぼ同じ効果を得たとしている。また、さらに大師河原村近村諸所に虫害発生の報を聞き、県官を派遣している。こうして、十一日朝、勧農局員は帰京した(一八七八年七月十五日佐々木長淳「神奈川県下害虫駆除復命」『農務顕末』)。 以上にみてきたように、内務省勧農局員の指揮の下で、県権令を先頭に、巡査まで出張して、多数の村民を動員し、大量発生した蝗の駆除に成功している。一般農民にとっては、この時期における県の一見新奇な勧業事業よりも、技術的には在来の駆除法を踏襲し、災害時にだけ発動される、以上のような応急策の方が、はるかに大きな意味をもったといえよう。 共進会等の開催 明治十年代には、本県下で、政府または数府県が連合して主催する共進会が二度にわたって開かれた。いずれも、この種共進会の最初をなすものであった。 一八七九(明治十二)年の製茶共進会は、全国的共進会の初めてのもので、横浜町会所で九月十五日から十月十五日にかけて開かれた。生糸繭製茶共進会として計画されたが、実際には製茶だけの出品・審査がなされた。これが横浜で開かれたのは、ここが茶の最大の輸出港であるためで、出品は全国主要茶産地からよせられ、本県下からの出品は少なかった。本県から製茶審査掛員に入った大谷嘉兵衛は、横浜有数の茶商で、関心は、全国茶産地に向けられ、県下の茶生産についての関心は薄い。また、このとき、共進会参会者中の茶事精通者を集め、十月十四日から十九日までの間茶事集談会が開かれた。 一八八一(明治十四)年十月には、府県連合共進会の最初の試みが八王子で開催された。神奈川・群馬・埼玉・栃木四県の主催で、これらの県の主要生産品である繭・生糸・織物の出品・審査が行われた。これら共進会は、以後、主催県・開催地を変えて、それぞれ回を重ねていく。本県が参加する府県連合共進会は、一八八二年十月に、右四県のほか福島・山梨・長野を加え、第二回目の繭生糸織物(絹織物・木綿織物)共進会が桐生で開かれ、さらに一八八三年二月には、神奈川・東京・埼玉・群馬・千葉・栃木の一府五県連合、米麦大豆菜種綿茶共進会が初めて浦和で、一八八五年五月には、右に茨城を加えて第二回の一府六県連合農産共進会(米・麦・綿・茶・菜種・煙草)が千葉で、翌年四月には、水産物・食用品・肥料・雑用品の、神奈川・東京・埼玉・千葉・静岡・茨城・福島一府六県連合共進会が同じく千葉で開かれた。ついで一八八七(明治二十)年十月には、前記繭・生糸・織物の連合共進会の第三回目が、本県の主催で再び八王子で開かれた。このときには連合区域をさらに広げ、東京・千葉・茨城を加えた一府九県連合となった。さらに翌一八八八(明治二十一)年四月には、前記関東一府六県連合共進会の第三回目が、茨城県の主催で水戸で開かれた(出品品目は、米・麦・実綿・煙草・製茶・織物・家禽)。 こうした共進会の他、政府で主催する内国勧業博覧会が一八七七(明治十)年以降数度にわたって開かれ、また、内務省勧農局は大日本農会に委託して一八八一(明治十四)年三月に全県三府三七県の老農を集め、全国農談会を開催し、一八九〇(明治二十三)年第三回内国勧業博覧会の機にその第二回がもたれた。 以上の共進会、内国勧業博覧会で神奈川県の成績は芳しくない。例えば、一八八七(明治二十)年の一府九県連合繭生糸織物共進会の、出品受賞人を府県別にみると(表二-三)、神奈川県は、主催県でありながら、一、二等賞(計一六人)の受賞者はなく、一-六等までの受賞者の出品人総数に対する割合も、繭・生糸・織物ともに、一府九県の平均値を下回っている。このような県は他に栃木県があるのみで、他の諸府県は、少なくも一部門では平均を上回る受賞率をあげ、とくに群馬・福島県の受賞率はすべての部門で平均を超えている。このことは、神奈川県の養蚕・製糸・織物業の経済的発展の低さというよりは、技表2-3 1887(明治20)年1府9県連合共進会(八王子)の府県別受賞成績 注 「一府九県連合繭生糸織物共進会報告」明治21年神奈川県刊より作成 術の低位性と管下人民のこれら共進会に対する熱意の低さを示すものであろう。 一八八一(明治十四)年の東京浅草寺での全国農談会には、神奈川県からは、北多摩郡砂川村吉沢市之丞・橘樹郡溝口村鈴木直成・鎌倉郡梶原村石井八郎右衛門が出席し、一八九〇(明治二十三)年東京木挽町厚生館での第二回全国農談会には、北多摩郡村山村大岱の市川幸吉・橘樹郡旭村沢野国平・大住郡高部屋村山口書輔が出席した。山口書輔がのちに履歴書に記しているように、農談会出席者は県が「選抜」したのであるが(一八九三年「履歴書山口書輔自記」伊勢原市上糟屋山口一夫家文書)、選抜された者にとってこの全国農談会は、 殊ニ光栄ノ会ニテ各大臣ノ臨席ハ勿論、二重橋内ニテ陛下ノ拝顔ヲ許サレ、亦芝離宮ノ拝観ヲ許サレ、同所ニ於テ茶菓ヲ賜リ其他農商務省ノ厚遇種〻アリ という栄誉あるものであった。一、二回の農談会を通じて、神奈川県の出席者は、麦・養蚕・茶など主に畑作技術について語っている。前記山口は、第二回農談会で「農家経済の現状特に之か上進を図るの手段」という農務局下付の問題に対し、神奈川県出席者を代表して「県下農事の現況は之を陳ふるも参考に資するものなく上進の手段も間接には意見なきに非されとも直接に考案せしものあらす」とのべ、ただ「古来我国農民を賤するの風あるは農業改良上の障害なり」として農家の知識を進め、地位を高めるため「小学校に農業科を加へ幼稚の時よりして農事に習熟せし」めるという「間接」の方法を提案するにとどまった。他県出席者の多くが、県下農家の実状を具体的に報告しているのに対し、著しく観念的である。山口は、この年「農業小学」、「小学農家経済法」の二著を著わしているが(『資料編』17近代・現代(7)一七)、足柄県事務見習・神奈川県地租改正掛雇・同県御用掛・愛甲郡書記・県勧業課九等属をいずれも短期間勤めた経歴をもっている。一八八〇(明治十三)年十二月彼は「世事ノ改進ニ連レ四方ニ民権論盛ンニ興ル、吾亦素心民権ヲ重シ、自由ヲ愛ス、区々タル吏務ニ齷齪スルニ懶シク」(前掲「履歴書」)、官途を辞し、民智改進のため大磯に湘南社を設立し、また、山口左七郎らとともに伊勢原に講学会を組織した。そして一八八二年県会議員に選ばれ、半年後に辞して上糟屋村戸長に一八八三年末まで心ならずも就任した。この経歴からしられるように、彼は、官途を就くのを厭う啓蒙的な農民指導者であったが、自らは農業の経験に乏しく、また、県下農民の実情をよく把握しているとはいいがたい。このように、県下農民の農業発展の意欲は、この時期の全国農談会にはほとんど反映されていない。注 (1) 勧業課は、のちに一八七八(明治十一)年九月の事務章程改正で、興行掛・物産掛の二掛に分けられ、前者は、銀行・諸会社・市場・諸鉱開採願の事務を管掌し、牧場開場、家畜繁殖、土地開墾の事業を管掌し、諸営業人の盛衰比較表の調理・勧業授産の資本金の管理を担当、後者は、博覧会の事務管理とその出品の勧奨・諸物品調査、物価・物産表の編製、種芸試験・生糸・蚕卵紙関係事務の管掌、物産蒐集場の管理、諸工作営業関係事務の管掌を担当するとされた。なお、同年十月の改正で、後者にはさらに、田畑虫害予防事務の管掌、営業税雑種税賦課法査定への参与、が追加されている。 ついで一八八〇年六月の事務章程改正では、興業・殖産の二掛となり、一八八一年九月の同改正で、常務・農務・商工務・山林の四掛に分かれた。事務章程改正は、以後もしばしば行われている。 (2) その器械製糸場は次の通りである。生糸改会社、踏車二四人取(『県治一覧表』では二八人取)、多摩郡八王子駅、一八七七(明治十)年六月二十一日開業。萩原彦七、水車四八人取、同郡中野村、同年六月二十二日開業。田代平兵衛、水車五〇人取、同郡長沢村、同年六月二十三日開業。萩原平蔵、踏車一〇人取、同郡小山村、同年八月六日開業。矢島千七、踏車一二人取(『県治一覧表』では一〇人取)、八王子寺町、同年八月六日開業。(『神奈川県史料』第二巻、三九二ページ、人名は、明治十一年『県治一覧表』による)。 三 養蚕業の発展 養蚕業発展の概観 明治に入って、県下の農業のなかで、養蚕業が最もめざましい発展をとげた。その急速な発展は、明治十年代前半に生じたものである(表二-四・二-五)。連年比較に耐えうる統計が作られた一八八〇(明治十三)年から一八八二年までの三年間に、繭産額は三五㌫増し、また、仮りに一八七七(明治十)年の繭産額(貫表示)を、乾繭一升が四〇匁と低目に換算値をとって推算すると二万四七二石余となり、一八七七年から一八八〇年にかけての繭産額の増加は四倍を超えるほどになる。これを郡別にみると、明治初めの主要養蚕地帯、多摩・高座・津久井・愛甲郡のうち、とくに多摩・高座郡で急激な発展をとげたことがうかがわれる。「物産表」の統計数値は精度が低いので、右の推計をそのまま認めることはできないが、少くも、一八七七(明治十)-八二年の間に、とくに多摩・高座郡で急激な養蚕業の発展がみられたことは確かである。こ表2-4 神奈川県における養蚕業の発展(1880-1892年) 注 1 『神奈川県統計書』より作成。 2 *印は郡別数値のうち明らかな誤りを補正した。 3 1877(明治10)年繭産額(東京府下多摩郡部分を含む)は81,890貫080。 れは、前節でみたところから明らかなように、この時期の勧業政策とはほとんど無縁なかたちで、農民自らがつくりだしたものであった。 しかし、この養蚕業の発展は、明治十年代後半の紙幣整理期にいたって挫折し、とくに農業不況が極度にまで達した一八八四(明治十七)年には繭産額も、一八八〇年の六割ほどに減少した。そして、以後再び立ち直りをみせたものの、一八九二年までの間では、一八八〇(明治十三)年の産額にまでついに回復しない。紙幣整理が県下養蚕業と表2-5 郡別繭産額・養蚕農家割合の変遷(1884-1892年) 注 1 上段 繭産額(石),下段 農家中養蚕農家割合(%)。 2 『神奈川県統計書』より作成。 3 1877(明治10)年は物産表から仮りに乾繭1石=4貫として推算した産額。 養蚕農民に与えた打撃がいかに大きかったかがわかる。 養蚕業の地域的性格 県下養蚕業の中心は、前編でのべたように、多摩・高座・愛甲・津久井郡であるが、明治十年代前半の発展の結果、ここでは農家の五四-八七㌫が養蚕に従事するにいたっている。とくに、西多摩・津久井郡での養蚕農家の割合は、八七㌫にもおよび、ほとんどの農家が養蚕に携わっていたといって過言ではない。ここでは、養蚕農家の多くが自家で製糸していた。津久井郡川尻・小倉・鳥屋・中野・三ケ木村五か村の例をみると、一八八六(明治十九)年現在(中野村は一八八八年現在)で、養蚕農家七一一戸のうち製糸を行っていない家は、わずか一五戸にすぎない(本章第二節二参照)。養蚕農家一戸当たり平均の収繭量は県平均で一・七二石(一八八四年現在)であるが、前記養蚕地帯六郡のそれは、北多摩郡の一・九一石を除き他はいずれもこれを下回っている。養蚕地帯六郡では、零細な農家にいたるまで広く養蚕に従事していることを示すものであろう。これに対し、都筑・鎌倉郡は、養蚕農家の割合は、それぞれ三五・一九㌫と低いが、一戸当たり平均収繭量は、二・六一石、二・二二石と高い。ここでは、中・上層農家を中心に養蚕が行われていることがうかがえる。わずかな土地しか持たない零細な養蚕農民は、桑を買うか、あるいは小作地から桑を得なければならなかった。それで、養蚕地帯六郡では、これに対応した小作関係の展開がみられる。桑附小作・桑放(桑抜)小作という二種の畑小作関係がそれである(沢木武美前掲論文)。桑附小作は、小作人が畑地とともにその周囲に植え付けてある桑樹を借り、あるいは借りた畑の周囲に小作人が桑を植え付け、これを自由に利用するもので、小作人が地主に納める小作料(多くは金納)は、借地料に桑葉代金を加算して定められる(田嶋悟前掲論文)。小作農民は、こうして、養蚕を営むことが可能となるのである。桑放(桑抜)小作は、畑地は小作人が借りるが、そこに植えてある桑樹は、地主が管理・利用する。このばあいは、地主が桑葉を収得し、これによって自ら養蚕経営をいとなむか、あるいはこれを他の養蚕農家(または仲買人)へ販売する。高座郡相原村小川家(一八九二年所有地一〇五町一反、うち畑四二町三反)での桑小作は、すべて桑附小作の形態をとっている。自家も自ら明治二年(一八六九)三四貫五〇〇匁ほどの養蚕をいとなんでいるが、一八八二(明治十五)年には二六貫余に減少している(田嶋前掲論文)。この桑はもっぱら自作地のそれをあてているのであろう。南多摩郡蓮光寺村富沢家(一八八七年田四町二反、畑六町三反、山林三一町一反所有)は、一八七五(明治八)年以降一八八〇年まで畑地(自作桑園五反余と小作畑の畦畔)表2-6 北多摩郡蔵敷村内野杢左衛門家の畑小作料の変化(1873-1883年) 注 1 「十五年壬午,十六年癸未明治公文編年集十」(東大和市蔵敷内野禄太郎家蔵)より作成。 2 大麦1俵は5斗入,大麦の価格は1883(明治16)年内野家は1石2円に換算している。 へ盛んに桑樹植付けを行っているが、養蚕経営は小規模で、自作桑園と桑放小作地からの桑葉は、多くは近くの零細養蚕農家に販売した。しかし、一八八四年には自作桑園を廃止し、それとともに桑葉販売も三分の一近くに縮小した。同家の桑小作地は明治十年代を通じてほぼ六町弱であるが、うち桑放小作をとるものは、一八七八(明治十一)年二町四反から同二三年一町四反へと一貫して減少し、次第に桑附小作が支配的になっている(沢木前掲論文)。また、北多摩郡蔵敷村内野杢左衛門家の小作畑は、一八八三(明治十六)年現在三町一反余(表掲二町九反三畝弱の他に小作料額不明の三筆がある)で、このうち一一筆七反一畝二五歩が桑抜小作であった(表二-六)。内野家は、この地から採取した桑葉で、自ら養蚕・製糸を行っている。同家では、同地帯で急速に養蚕業が発展した一八七三(明治六)-八一年までの間に、大幅な小作料引上げがなされていた。これは、同家のみならず、前記小川・富沢家もまた同様であり、いずれも地租改正による畑租の大幅な増加にもとづくものであった。したがって、内野家のばあい、一八八一年の地価修正で減租になった小作畑では、わずかではあるが小作料を減額させている。また、農産物価格の低落を考慮し、一部を大麦の現物納に改めている。以上の地主の動向をみると、養蚕業の急速な発展の時期は、一方では、畑租の増大、小作養蚕経営にとっては小作料の増大がもたらされているのであり、養蚕経営による貨幣収入の増大は、地主の畑小作料収入を保証しても、養蚕自小作農民の経営発展には結果しなかったといえよう。そして、明治十年代後半の繭・糸価の暴落は、これら養蚕経営を破滅させるとともに、地主の畑小作料収入をも困難にしたのであった。相原村小川家を例にとれば、同家畑小作料収入の滞りは、一八八一(明治十四)年分は八・二㌫であったが、翌一八八二年には三一㌫、一八八三年には六四㌫、一八八四年五〇㌫にも達している(田嶋前掲論文)。 不況後の養蚕業 次にのべる農業不況によって、大きな打撃を受けた県下の養蚕業は、一八八六(明治十九)年に、収繭額が一八八〇(明治十三)年の七三㌫ほどに回復し、以降停滞傾向を示すが、これを郡別にみると、明治十年代には、ほとんど養蚕業が展開していなかった相模川以西地帯にも、養蚕が普及し、とくに大住郡・足柄上郡では平均養蚕農家一戸当たりの収繭額は一石以下という零細な規模ではあるが、全農家の二〇-三〇㌫が養蚕を営むようになった。これに対し、養蚕地帯六郡の繭産額は、ほぼ一八八四年当時の額に停滞し、ただ養蚕農家の割合だけが増大し総農家の七〇-九〇㌫に達した。ここでは、養蚕業は、ほとんどすべての農家にとって、不可欠の現金収入源となったのである。また、養蚕農家の比率は少ないが、その平均一戸当たり収繭量が二・二-二・六石と県下で最高であった都筑・鎌倉郡では、養蚕農家の比率が増大し、それにつれ、平均一戸当たり収繭量は低下し、鎌倉郡では明治二十年代に入ると一石以下にまで落ち込んでいる。この両郡で特徴的にみられた、自作ないし自作地主による比較的大規模な養蚕経営の解体を意味するものであろう。 不況が回復に向かった一八八七(明治二十)年、神奈川県主催で八王子で開催された一府九県連合繭生糸織物共進会において、神奈川県出品繭は他府県に比して遜色あるものが多かった(表二-三)。同会終了後の講話会で、審査官・農商務省属高橋信貞は、神奈川県出品繭の欠点について次のような指摘を行っている。 本県ノ繭ハ前年ニ比スレハ頗ル進歩ノ状アリ、然レトモ、撰種ノ未タ完カラサルカ為メ種類雑駁、一人ノ出品ニシテ数十有余種ノ混同セシモノアリ、養法稍佳良ナルモ、貯蔵法ノ完カラサルヨリ黴気ヲ含ミタルモノアリ、殺蛹法ノ適度ヲ失ヒタルヨリ解舒渋難ナルモノアリ……とくに一人の出品繭中に数十もの種類が混同しているという指摘は、神奈川県に対してだけよせられたものである。この特色は、本県の養蚕経営が多くは零細で、かつ自家製糸と結合しているため、精製された高価な銘柄・蚕種を用いることを好まず、また原料繭の品質統一を強く求める器械製糸業者の影響下にないことを示すものであろう。 武相蚕糸協会の設立 こうした県下産繭の品質向上を意図する動きは、まず八王子の糸商らによる一八八三(明治十六)年六月武相蚕糸改良協会設立に始まる。発起人惣代八王子横山町谷合弥七(一八八六年地価九九八七円余)の亡父弥二は、前述一八八七年府県連合共進会で、「蚕糸ノ粗製ニシテ海外ノ輸販ニ適セサルヲ憂ヒ、夙ニ製糸場ヲ起シテ改良ノ方針ヲ示シ、武相改良協会ヲ開キテ該生糸粗製ノ弊ヲ矯メ、尚ホ、座繰生糸ノ揚枠所ヲ起シテ、汎ク当業者ノ用ニ供」するなど生前多年の刻苦に対し、金一五円の追賞をうけ、また同じく惣代の富田造酒之助は、右共進会での出品人惣代として神奈川県知事の開場の辞に対し答辞を述べている人物である。しかし、同会の申合規則には、協会の検査を受ける対象に、繭類も掲げられているが、主眼はもっぱら生糸類にあった。 蚕糸業組合の設立 県下産出の蚕種・繭に対する検査制度は、一八八六(明治十九)年に始まる各郡での蚕糸業組合と、それを統轄する蚕糸業組合郡部取締所の設立によって、はじめて実施に移された。この動きは、一八八五年六月の全国的な繭糸織物陶器漆器共進会に際して持たれた農談会に出席した各府県代表が連名で、農商務卿に対し、養蚕蚕糸条例の公布を建言したのに端を発している(『農務顛末』第三巻九五一ページ)。この建言は、蚕糸の粗製を防ぐため、蚕糸業者が準拠すべき「一定ノ条例」の制定を求めたもので、その「添申」として「蚕糸組合組織目的」案(全一七条)が付されていた。これによれば、養蚕・製糸に従事する者は、生産者・販売者を問わず郡または町村の単位で組合を組織加入し、これに加入しない者には営業を許さない。組合は、養蚕部と生糸部に分かれ、養蚕部では、「製糸ニ最モ良好ナル種類ヲ育養スル」ために、種々の技術改良を行い、成繭は必ず組合名、製造人または販売人名を記した小札を付し販売することとされる。この建言は、実質は、一八八四(明治十七)年公布された同業組合準則にもとづく農商務省の強い指導でなされたものであった。これに、神奈川県では、前述協会の発起人惣代であった谷合弥七・富田造酒之助が名を列ねている。神奈川県ではこれをうけて明治十九年一月甲第一号達で蚕糸業組合準則を公布し、同年二月十九日には、都筑郡蚕糸組合創立願が、総代桜井光興・織裳勘蔵、同郡各戸長総代、中山村外九か村戸長岩沢源吉名で、県に提出され、同月二十四日認可された。同組合規約は、前述建言書の「蚕糸組合組織目的」案を下敷きにして作成されているが、都筑郡一円の蚕糸業者の組合強制加入の条項は、「当組合締約年期中ハ全ク本業ヲ廃スルカ又ハ組合区域外ヘ移転スル外、決テ組合ヲ退去スル事ヲ得ス」とやや表現を緩めて規定され、また養蚕・蚕種部・製糸部のほか、仲買人を対象とした売買部が加えられている(なおこの規約は、一八八八年五月一部改正された)。これと時を同じくして、ほとんど同一の規約によって、他郡でもそれぞれ蚕糸業組合が組織された。ついで同年四月八日には、これら各郡の蚕糸業組合委員総代によって、蚕糸業組合郡部取締所の認可願が県に提出され、同月十三日許可となった。郡部取締所は「郡部各組合ヲ統轄シ蚕糸業ニ関スル一切ノ取締ヲ為」す上部機関で、本所は八王子寺町に置かれた。ここで蚕糸業組合員の持つ証票・製品に付す印紙が調製され、証票は県庁の検印を受けて各組合に交付され、印紙は各組合事務所に売り下げられる。取締所の経費は、証票料・印紙料・検査料の徴収によって賄われることとされた。こうして、養蚕・製糸業者を、強制的に組合に組織し、製品検査・技術改良の実施等によって、粗製濫造を防ごうとしたのであったが、ひいては輸出拡大・外貨獲得につながるとはいえ、自由な営業活動が妨げられ、結果的には生糸輸出商の利益に奉仕することになる。そして、このような方策が、一八八六(明治十九)年以降における本県養蚕業停滞の一因となったといえよう。しかし、生産者に対するこのような規制は、数年を経ずして破綻を来たした。すなわち、一八八九(明治二十二)年三月二十八日、神奈川県蚕糸組合郡部取締所は、次の建議を県知事あてに提出し、その業務を停止したのである(横浜市旭区 桜井栄一郎家文書)。 建議 明治十九年本県甲第壱号布達、蚕糸業組合準則ニ基キ編成セル現行郡部取締所規約ハ往々不適応ノ条件ヲ生シ、県下当業者ニ対シ実施上差支不少候ニ付、中止致度本会之決議ヲ以テ此段及建議候也 神奈川県蚕糸業組合郡取締所会議 明治廿二年三月廿八日 議長 山田嘉穀印 神奈川県知事沖守固殿 直輸出政策と蚕糸業組合 ところで、以上にみた神奈川県における武相蚕糸協会の設立から、県による蚕糸業組合準則の公布、各郡蚕糸業組合・蚕糸業組合郡部取締所の設立にいたる、蚕糸業生産者規制の一連の動きは、中央における一八八三(明治十六)年五月製糸諮詢会開催に始まる、直輸出政策の推進にあい応じたものであった。右製糸諮詢会における諮問事項の一「蚕糸ノ粗製濫造ヲ矯正シ、勉メテ同一ノ品位ヲ多量ニ製出シ、以テ海外ノ販路ヲ拡張スルノ意見」討議の結果、蚕糸協会の設立が議決され、同会に出席した谷合と富田が、直ちに県下で実行に移したのが武相蚕糸協会であり、中央では一八八四年五月大日本蚕糸協会が設立された。以後、農商務省は、これを通して直輸出体制の樹立を急いだ(『横浜市史』第三巻上第二編第六章)が、その国内体制作りが前述の各地での蚕糸業組合設置にほかならなかった。したがって、一八八九(明治二十二)年三月、中央では、蚕糸業組合中央部会議が中央部の廃止を議決し、神奈川県でも同時に右の建議を行ったことは、農商務省の直輸出政策の生産者把握面での崩壊を意味するものであった。 注 (1) さらに一六人の発起人惣代には、八王子横山町毛利徳兵衛(一八八六年所有地価六八五円余)・同大横町田野倉常蔵(同六五〇円余)・同町畔見保太郎(同四三五円弱)・八日町久保兵次郎(同四四四円弱)・元横山町三好久吉(同四四〇円余)ら八王子糸商が名を連ねている。 (2) 蚕糸業組合委員総代は次の三七名である。 橘樹郡 関山五郎右衛門。都筑郡 秋本九兵衛・桜井光興・小島範蔵。鎌倉郡 露木昌平・仙田由兵衛。南多摩郡 渋谷仙次郎・天野清助・谷合弥二・野崎富大。西多摩郡 指田茂十郎・平岡久左衛門・馬場房太郎・笹本平兵衛・宇津木栄三郎・小山田七兵衛・瀬戸岡為一郎・野崎大助・高島元吉。北多摩郡 江藤栄二郎・中村半左衛門・石川国太郎・原島善兵衛。高座郡 牧野随吉・大島正義・榎本儀兵衛・斎藤省三。津久井郡 吉岡喜左衛門・横溝弥兵衛・井上和気・斎藤政二郎。愛甲郡 杉山七郎・沼田初五郎・清田半兵衛・神崎正蔵。大住・淘綾郡 山田伊兵衛。足柄上・下郡加藤重治。 四 明治十年代後半の不況と農業 物価の低落 一八八四(明治十七)年十一月の南・北・西多摩・都筑・橘樹・高座・愛甲七郡一五〇か村貧民総代(武相困民党)が、北洲社立木兼善に提出した「哀願書」(『資料編』13近代・現代(3)四一)は、 当地帯は畑勝ちの地で、昔から農間蚕桑紡績の業をもって一家を支える生業としてきたが、一八八三(明治十六)年から繭糸類が非常の下落を来たし、養蚕を行っても、蚕種代・桑葉代・日雇代など必要費を差し引けば、一年の生活費の四分の一にも足りない収入しかえられない有様である。また、一八八三年六、七月から秋にかけては大旱で、田畑の作物は枯れ果て、収穫物は家族の食料にも足らないほどであった。加えて一八八四年九月十五日には暴風雨が襲い、平均四分作という被害を出した。しかも穀物の価格は依然として低価で、極貧の困民らは生計の活路を見失った とのべ、さらに公租納入の困難・銀行会社の負債の下での農民の窮迫した状況を縷述している。 また同じころ南多摩郡長原豊穣は、県令に管下農民の窮状を具申し、その原因についても、 一八七七(明治十)年の紙幣増発後、物価騰貴し、農家の資財の時価が大となったため、農家は「金銭ヲ容易視」し、とくに本郡は糸繭の産地で所謂「農間商人」が多く、おしなべて生活を向上させた。ところが一八八一年秋から物価が下落に向かい、糸繭商いで失敗し、生計の収支が償わぬ者も生じた。このころ私立銀行・銀行類似会社から金銭を自由に借りることができたので、これによって当座は切り抜けたものの、その後物価はさらに下落し、「前ニ容易視セシ金銭」は貴重となり、地価は最高値の五分の一にも下ったため、財産を挙げて借金の償却にあてても、なお多額の負債が残り、その元利は加倍して、南多摩郡総計で一六〇万円にも達した。このような景況は、本郡だけでなく隣接諸郡も同様である。 等とのべている(『資料編』13近代・現代(3)一七九ページ)。これらが一様に強調している、当時の物価下落の傾向を、政府統計は表二-七のように示している。しかし、これは横浜・八王子・小田原三か所平均の都邑物価で、農民が自ら生産した農産物の販売価格はさらに低い。南多摩郡の山村上・下恩方、西寺方、小津村は、八王子に、製品を販売する養蚕製糸織物地帯であるが、ここでの一八八四(明治十七)年における繭生糸価の下落は著しく、繭は一八八一(明治十四)年の三分の一表2-7 神奈川県における都邑物価と賃金の変遷(1879-1886年) 注 『日本帝国統計年鑑』より作成。生糸1880(明治13)-1883年は八王子の提糸価格。 1886(明治19)年は座繰糸。 表2-8 南多摩郡上・下恩方,西寺方,小津村の繭糸価格(1876-1884年) 注 「繭生糸産額調査表」「物産表」など(八王子市恩方支所蔵)より作成 以下、生糸は五分の一強に暴落している(表二-八)。いま、一八八四年同様物価が最も落ち込んだ一八八六年における横浜・八王子・小田原の諸物価のあり方を比較すると(表二-九)、これらの町場の周辺で生産される特産物ほど廉価で、遠隔地から供給を仰がねばならない物は、それほど安くない。漁港であり背後に酒匂川流域の米作地帯を擁する小田原では、干鰯・米の下落が著しく、他地方から干鰯・米を移入せねばならない八王子は、小田原より干鰯は約二倍、米は約一割の高値となっている。これに反し、八王子とその周辺農山村が特産地である繭・生糸の価格は、八王子で最も低い。上・下恩方村の例からわかるように、繭・生糸を八王子へ売却する周辺村では、その価格はさらに低いであろう。したがって、八王子周辺の養蚕・製糸農民は、県下三都邑のうち最も安価な八王子における価格より、さらに低い値で繭や糸を売り、三都邑のうち最も高い値で、米麦塩などの食料・肥料その他生活必需品を購入せねばならなかった。また、主に町場に住む職人や日雇取りについてみると、食料品の物価下落よりも、賃金の下落がはるかにはげしい。一八八二(明治十五)年を一〇〇とすれば、一八八五(明治十八)年の米価は九三・五に下っているが、大工の賃金は六三、日雇取りのそれは六八にまで落ち込んでいる(表二-七)。農村における農業日雇の手間代や、下男・下女の給金の下落はさらにはげしく、雇われてその日の食事を給与されればよいとするほどになっている。このような農村の窮乏は、地方都市の職人・日雇取りの賃金をさらに圧迫したであろう。 表2-9 1886(明治19)年における都邑の諸物価 注 表2-7と同じ 負債の激増 先にのべた地租改正後の諸条件(本節一参照)の下で、農家経営の破綻は、まず負債の累積となってあらわれた。一八八四(明治十七)年十月八日付南多摩郡長原の県令あて具申書(前述具申書に先立つもの)によれば、同年九月現在で南多摩郡の一戸当たり平均負債額は一〇八円九四銭六厘に達し、その額の三分の二は、一八八一年以降の三年九か月の間に生じたものという(表二-一〇)(野口正久「武相困民党事件の社会経済的関係資料」『多摩文化』第九号)。しかもこの負債は、各町村戸長役場で公証を経た分だけであって、実際の負債額はこれをさらに上回るとみられる。右の負債額は、その年利一割五分とすれば(本文三六六ページ参照)、年間利子だけで一戸平均一六円三四銭余の支払いが必要となる。これは、一戸平均納入地租額の三倍半にあたる額であった。地租納入さえ困難であった一般農民が、これだけの利子負担に耐えられるはずはない。以上のような状態は、南多摩郡はじめ養蚕地帯のみならずその周辺諸郡でも、程度の差はあれ広くみられた。都筑郡各村について、南多摩郡との対比のために表二-一〇と同じ指標をもって示すと表二-一一のようになる。都筑郡は、南多摩郡に接し、その南部に位置する郡であるが、この五三か村(鴨志田、北・西八朔、上・下谷本村など数か村の資料を欠く)のうち半ば二六か村は、一戸当たり平均負債額の利子支払いがその地租納入額を超えている。南多摩郡の表二-一〇は、戸長役場管轄区域ごとの平均値で、村ごとにみれば、一ノ宮村のごとく、一戸当たり平均負債額表2-10 1884(明治17)年9月現在南多摩郡1戸当たり平均負債額 注 1 下川口・下恩方・南平戸長役場を欠く。 2 野口正久「武相困民党事件の社会経済的関係資料」(『多摩文化』第9号)より作成。 表2-11 1885(明治18)年都筑郡諸村の負債状況 注 1 「貧富一覧表」『資料編』17近代・現代(7))より作成。 2 1戸が数件の負債をし,また,村内,他村双方に負債している場合があるので,総戸数中負債者の割合が100パーセントを超す村もある。 が五一〇円に達する村があり、二〇〇円以上の村だけで一九か村を数える。都筑郡下の負債状況はこれほどではないが、それでも一戸当たり負債額二〇〇円以上の村四か村、一〇〇円以上の村一四か村を数える。負債額の多い村は、地域的に集中している。最も一戸当たり負債額が多く、しかもその半ば以上が他村からの借入れである村々は、鶴見川上流右岸(現在の横浜線沿線)、長津田を経て南多摩郡原町田村に通じる街道沿いに集中している。そして、横浜から原町田に通じる街道沿い(現在の相鉄線沿線)の諸村がこれにつぐ。これらはいずれも、内陸部養蚕・製糸地帯と横浜をつなぐ街道沿いにあって、水田に乏しく貨幣収入を求めて養蚕を急速にのばしてきた諸村であった。ここでは総戸数の半ば前後の家が、他村の者から借金を仰いでいる(一家で数人の名儀で借金をしているばあいがあるので実際の割合はやや少ないと思われる)。こうした現象は、維新前には考えられなかったことで、奈良村の盛運社をはじめ隣郡原町田などでの銀行類似会社等金融機関の簇生と表裏をなしている。一方、都筑郡のなかには、一戸当たりの負債が少なく、比較的安定した生活を保っている村も存在した。これら村々のほとんどでは、他村からの借入れは、一件当たりの借金額は小さくはないが、件数は少なく、金融の多くは村内でなされている。こうした諸村は、鶴見川左岸に展開する水田地帯に集中している。先にみた勝田村(第一編第一章第二節)に代表されるように、これら諸村では、水田の存在が農家経営の自給性を強め、安定させているのである。 以上の負債状況は、おそらく相模川以西地帯でもみることができた。この地帯で大規模な金融活動を展開したのは、淘綾郡一色村の露木卯三郎・大住郡馬入村の江陽銀行・同曽屋村の共伸社・同戸田村の小塩八郎右衛門などで、従来の慣行・情誼を無視し、政府の新たな金融法令を十二分に活用したその金融活動は、子易村・土屋村騒擾、一色騒動、弘法山騒擾等の事件を惹起した(『通史編』4近代・現代(1)第二編第二章第五節)。なかで、一八八四(明治十七)年五月大磯の旅宿で殺害された露木についてみると、その貸付の範囲は広く大住・淘綾・足柄上・下・高座五郡に及んでいた(安藤建二「明治十七年の相模国淘綾郡一色騒動」覚え書『神奈川県史研究』14)。彼の、大住と足柄上郡の一部に対する貸付状況は、特定の地域・人に集中せず、広い範囲にわたっているのを特色とする(表二-一二)。こうした金融活動は、都筑郡のばあいと同様、この地帯の諸村がおしなべて他村の者からの負債を抱えるという状況を作りだした。そのため、前記負債返弁騒擾も、一か村の農民によってではなく、広い範囲の諸村農民が糾合して起こされたのであった。 在村地主の動向 以上にみた明治十年代後半における農民負債の累積は、主に十年代に簇生した私立銀行・銀行類似会社あるいは新興の個人金融業者によってもたらされた。だからこそ、多摩地方はじめ県下各地で起こった負債返弁騒擾では、右の会社・個人が、農民の攻撃の的となったのであった。しかし、一方、村の上層部に位置する在来地主層も、それぞれの規模に応じた資金融通を、主に自村を中心として行っていた。その件数・貸付金額の合計は、都筑郡のばあいから推定すれば、右金融業者のそれに匹敵または凌駕するほどであったろう。しかし、これら在村地主は、貸金の貸付期限が切れても、表2-12 露木卯三郎の1884(明治17)年現在貸付状況 注 1 厘位は切り捨て。 2 土井浩「明治10年代・神奈川県下の土地金融活動について」(『神奈川県史研究』27)表8による。 3 足柄上郡2村については1884(明治17)年「諸綴込」(大井町山田了義寺蔵)から補足した。 4 大住郡の1人当たり平均貸付金額は,すでに処分済みのものも含めた額。 直ちに抵当地の公売処分に付すなどの法や裁判機構に頼る措置はとらないのが常であった。 北多摩郡蔵敷村は、一八八七(明治二十)年現在、負債総額二八五〇円八〇銭、一戸当たり平均負債額が四五円二五銭で、多摩地方では負債の少ない部類に属し、また他村からの負債もほとんどない。これは、この村の有力地主内野杢左衛門家が村民に多くの貸付を行い(一八七六(明治九)-八七年間一九件うち同家小作人へ八件)、また村には共有の備金があり、これの村民への貸出しがなされていることによっている。この村の土地抵当金融(書入)は、一八八〇(明治十三)年から急に活発となり一八八四年に件数・負債金額ともに最高となる(表二-一三)。しかし、一八八二年から次第に返済されない負債額が累増し、これにともなって、一八八三年から新規貸付額が減少していく。とくに一八八〇、一八八二年に年利一割五分、一八八五年六月までという条件で貸し出された村有備金は、一五件のうち一八八七(明治二十)年にようやく三件が返済されただけであったため、基金が枯渇して、以後一八八七年まで貸出しを停めている。一八八七年に入ってようやく三件の返済があり、それは直ちに新規に貸し出された(うち一件は契約更新)。こうして村有備金は、村民の生活が最も逼迫し表2-13 北多摩郡蔵敷村の土地抵当負債(書入)金額(1876-1887年) 注 1 ( )内は件数, ●印は村が貸付けた金額。 2 原資料は「明治公文編年集十一」より作成。 た一八八三(明治十六)-八六年に、本来の機能を発揮できなかった。個人の貸付(年二割の利子が一般的である)もまた、一八八四年での九〇九円をピークに急速に新規貸出しを減じていった。以後の年の新規貸出高と返金(抵当や受戻し)高を対比すれば、新規貸出しをおさえ、貸金の回収を図っていることがわかる。ここに負債返弁騒擾の影響をみることができるが、村内地主層は、村内の平和を破壊してまで貸付活動を強化する意図はもっていなかったといえよう。高座郡相原村小川家のばあいも同様である(表二-一四)。同家は、自村の外、同郡橋本・大島・上矢部・小山・九沢村・津久井郡川尻村・南多摩郡宇津貫・大船・鑓水・小倉村等にも広く貸付を行っているが、その活動は、一八八一(明治十四)年に入ると貸金滞りが急増しはじめ、一八八二年以降は利子収入も減少に向かっている。こうした貸付活動の困難に直面して、同家はいち早く一八八二年から新規貸付を減少させ、その活動の縮減を図った。すなわち、回収不能となった貸金は、抵当地を小川家が買い取ることで決済し、また年々二五〇円程度の棄捐(「捨金」)を行っている。小川家は、旧幕期から村役人的立場を維持しながら領主層への貸付とともに、耕作農民の貢租・諸入費の立替払い、在郷糸繭商人への仕入れ金貸付等を行ってきた(田嶋悟前掲論文)。同家が、このような貸付活動を縮少しはじめたとき、私立銀行・銀行類似会社は、かえってその活動をさらに拡大・強化しつつあったのである。 なお、以上の蔵敷村および小川家の事例などからみると当時の土地担保金融で、利子年二割は、一般的であったようである。当時の県下農村にあって、この程度の利子は「高利」とは必ずしも意識されていない。私立銀行・銀行類似会社の貸付活表2-14 高座郡相原村小川家の貸金動向 注 1 田嶋悟「養蚕畑作地帯における地主経営」(『神奈川県史研究』20)による。 2 厘以下切り捨て。 動が非難されたのは、第一に、「通常利子ノ外ニテ延利・日踊リ・手数料・検査料」(前述「哀願書」)など種々な名目でさらに利子を取る方法に対してであった。 さらに第二には、その貸付期限が一日でも過ぎれば、直ちに訴訟に及ぶという、法を楯にとった仮借ない取り立てであった。負債農民らは、このような「才智モ長ケ以テ法ヲ泳テ貧冒ス」る所業をもって「高利貸付営業」(須長文書「負債問題ニ関スル論文及願書」『資料編』13近代・現代(3)一八〇ページ)とみなしたのである。 当時の農村の状況のなかで、在村地主の動向は複雑であった。前述須長文書は、この点に触れ、 銀行会社の苛酷な貸付けに対し、負債農民は、これの返済を怠れば「国法ニ戻ル」ことになるのでやむを得ず何を措いても返済に努力する。そのため、租税、協議費を滞納したり、「道徳上ヨリノ貸借」すなわち法に拠らず信用・情誼にもとづいて行う貸借に対しては「終ニ利子一銭モ払ハサルニ至」ってしまった。そのため、「旧戸長ノ如キ、及ビ道徳ヲ重ンスル金満家等」の一〇中の七、八は、貸金の元利ともに回収できず負債農民同様「困窮ヲ訴ル者」が少なくない。このような事情で、「淳厚ノ志タル人、貧民ヲ助クルヲ得ス、貧民之ニ酬ルニ道ナシ、道徳頓ニ地ニ墜、倶ニ薄情ニ流ルルニ至レリ」 とのべている。すなわち、これまで在村地主(あるいは旧戸長、「道徳ヲ重ンスル金満家」)が行ってきた耕作農民に対する「道徳上ヨリノ貸借」は不振となり、生活困難を招くにいたっていることを指摘している。「道徳上ヨリノ貸借」とは、いうまでもなく慈恵的な貸与ではなく、前述蔵敷村内野家・相原村小川家など、これまで在村地主が一般に行ってきた自村農民を主な対象とする旧慣にもとづく貸借であり、それが年利二割を普通としていたことと矛盾するものではない。しかし、このような在村地主・資産家層は、自家を没落から防ぎ、あるいはさらに経済的発展を図るために「道徳上ヨリノ貸借」に代わる新たな事業を模索せざるをえない。彼らの一部は、私立銀行・銀行類似会社の株主となり、あるいは役員に就き(色川大吉「三多摩自由民権運動史」『多摩文化』第九号)、一般農民と敵対する性格を備えることになった。なお、この時期には、在村地主の織物業経営も、売価の低落によって損害を招いていた(表二-一五)。南多摩郡上椚田村石川家(源助、一八八六年地価五七五円九二銭)のばあい、実際の小作料入額は三一円五〇銭で、貢租その他諸入費を控除すれば、純益は二円七〇銭でしかない。貸付金利子も一四円二六銭余で、経営の中心は織物業にあった。しかし、それも原料糸代・給金を控除すれば一〇四円六〇銭で、その他の必要経費・自家家計費を充たすに足らず、五三円弱の赤字となっている。この織物業の運転資金が借入れによるばあいは、たちまち倒産の危険に陥ることになろう。これは一例にすぎないが、在村地主層がこの時期経営発展を図ろうとすれば、銀行・銀行類似会社への参加など金融業への進出以外にとるべき道を見い出すのは困難だったといってよいであろう。 農民の窮乏と大地主の成長 一八八四(明治十七)年十月、南多摩郡長原豊穣は、管下に夥しい負債困民が生まれつつあるのを目撃して、強い危惧を抱いた。すなわち、今日の情勢がこのまま進めば、「倒産相踵キ、貧富懸隔ノ社会トナリ」、人民貧富の差が甚だしくないという我国の美俗が消滅し、「無禄平民、夥多ノ水呑百姓ヲ現出シ」、「国体ノ汚下」のみならず、国家の治安もあやうくなるであろうという危機感である(野口正久 前掲論文)。 神奈川県は、もともと、県民のうち県会に被選挙権・選挙権を持つ者の割合が、全国平均よりも低い県であるが、一八八一(明治十四)年以降不況が深まるにつれますますその割合は低下していった(表二-一六)。権限がきわめて制約されている県会表2-15 1885(明治18)年南多摩郡上椚田村石川家の収支 注 石川源司家(八王子市東浅川町)文書「10月26日内調べ」より作成 ではあるが、それにすら政治的権利を認められない県民がますます多くなっている。そして、これはまた、自作農層の土地喪失が全面的に進行していることを意味するものであった。 県会議員の選挙権者は、地租五円以上納入者、被選挙権者は、地租一〇円以上納入者であることを要するが(詳細は『通史編』4近代・現代(1)二九〇ページ)地租五円納入者にあたるモデル農家を、県平均の反当地価・田畑比率から画いてみると、田一反・畑一町余を所有する農家となり、地租一〇円以上納入者は、田二反・畑一町五畝程を所有する農家ということになる。 これら自作農・在村地主の手から離れた土地は、多くは特定の地主に集められていった。私立銀行・銀行類似会社の貸付活動は、土地を抵当とすることがあっても、その取得は目的としておらず、むしろ貸金延滞による抵当地の流れ込みを極力避けた。やむをえぬばあいのみ抵当地を公売処分に付したが、これによっては、債権のごく一部を回収しうるにすぎなかった。一八八四(明治十七)年以降、地価は大幅に下落し、一八八六年ころには、八王子地方の地価の多くは、法定地価額を下回ったといわれる(正田健一郎「明治十年代の地方銀行」『早稲田政治経済学雑誌』一七四・一七八号)。そして、各所で頻繁になされる公売処分が、ますます地価を下落させた。こうしたなかで、特定の地主への土地集積は、いくつかの形をとって行われた。第一は、先述した高座郡相原村小川家のように、自己の貸付金が焦げ付き、それを整理するために、負債主から抵当地を引き取るものであるが、遠隔地にまで広く抵当地が分散し、かつ小作地の管理能力をもたない銀行会社・個人貸付業者のなしうるところではなかった。資金貸付が居村中心表2-16神奈川県における県会被選挙・選挙権者(1881-1885年) 注 『日本帝国統計年鑑』より作成 に限定され、かつ自ら土地を管理できる在村地主にしてはじめてなしうる方法であった。しかし、これも、金主が貸金を無にしないためやむをえずとった措置であった。第二は、銀行・銀行類似会社が、焦げ付いた土地担保の債権を、株主に肩代りさせることによって、その株主の手に負債者の抵当地が入ることになるもので、株主は、自分の銀行会社に対する債務を、この肩代りで相殺することができるので、当時の状況下では損な取引ではなかったとみられる。前述のように、在村地主の一部(自由党員も多く含まれている)は、銀行・銀行類似会社の役員・株主であり、彼らのこの時期における所有地の増大は、主にこの方法によるものが多いと思われる。いま、南多摩郡の自由党員でこの時期(一八八二-一八八六)に所有地を増大させている者をみると、判明している限りでは一名を除きすべてが、銀行・銀行類似会社の役員株主であった(表二-一七)。なかでも八王子横山町成内頴一郎・堀ノ内村鈴木芳良・日野宿高木吉蔵・天野清助らはその代表的な人物である。激動の数年間のうち、同志である石坂昌孝・村野常右衛門らは、所有地を手放し、産を傾けていくのと裏腹に、彼らは地主としての基盤を固めていった。この時期表2-17 所有地を増大させた南多摩郡自由党員(1882-1886年) 注 1 『通史編』4近代・現代(1)399ページ以下より作成。 2 少額の増加者は省略した。 は、在村地主(豪農・旧家資産家)にとっても、盛衰の岐路にあたっていたのである。土地取得の第三は、当時各所で行われた銀行・会社その他金融業者による抵当地の公売処分を通して自己の希望する地を安価に入手してゆく方法である。このばあいは、小作料の購入地価に照らして有利かつ安定した収得を目的として、地主的土地集積を明確に意図して行われた。しかし、繭糸価が暴落している畑作地帯で、しかも負債困民の騒擾が各所に広がっている当時では、こうした志向を示す地主はきわめて少なかったろう。だからこそ公売に付しても落札者がいないというばあいがしばしば生じ、公売執行者が自ら落札人となることも多かったのである。 いま、一八九〇(明治二十三)年四月、貴族院多額納税者議員互選者の資格を得た、本県下で最大の地主である九家をみると(表二-一八)、愛甲郡永野家を除き、他はすべて一八八五(明治十八)-八七年から一八八九年にかけての間、土地所有を伸ばしている。一八九〇年の互選資格の下限は、本県ではほぼ地価一万六〇〇〇円程度であるが、互選資格者のうち山口・田村・関谷・萩原家は、いずれも、一八八五、八六年から三、四年間の土地集積によって、この資格を獲得している。以上からみると、本県における大地主は、ほとんどが、明治十年代後半期に急速な土地拡大を行ったことがうかがわれる。 こうして、明治十年代後半の農業不況は、神奈川県下でも「貧富懸隔ノ社表2-18 神奈川県1890(明治23)年貴族院多額納税者議員互選資格者(地主のみ)の所有地価額 注 明治23年「貴族院多額納税者議員互選名簿」,明治19年南多摩郡「地価大鑑」,明治18年「富民取調表」(『資料編』14近代・現代(4))より作成 会」を現出させたのであった。 この過程は、大規模な負債返弁騒擾によっていろどられた、農民にとって痛苦の過程であった。すでに一八八二(明治十五)年に、三浦郡三浦町で、不漁と金貸の跳梁によって、窮民の不穏な動きがあらわれているが(後述)、一八八三年十月以降、相模川以西地域で、負債農民による騒擾・露木卯三郎殺害事件、その他不穏な動きが各所に起き、一八八四年七月に入ると、騒擾は、多摩・高座郡で、さらに大規模な発生をみた。こうして、同年十一月には、多摩・高座・都筑・愛甲・鎌倉郡三〇〇か村貧民代表による武相困民党の統一組織が結成されるにいたった(『通史編』4近代・現代(1)四四二ページ以下)。困民党総代は、以後、郡長・県令に対する請願を行うが、翌一八八五年一月、県はこれに解散を命じる。このときまでに、銀行・銀行類似会社側は、自由党員ら地方名望家の仲裁に対し、それぞれ一定の譲歩(貧困者に対する負債元金の支払い猶予・利子引下げ等)を行っているが、それがかりに忠実に実行されたとしても、すでに負債農民の破産を止めることはできなかったろう。以後、一八八五(明治十八)年から八六年へかけて、多摩・高座地方を中心として、その日の食料にもこと欠く多数の窮民があらわれている。一八八五年の高座郡相原村の郡長への報告によれば、「目下窮民ノ状態各自糊口ヲ煩ヒ、小作金及負債ヲ償フ事能ハス、債主及地主モ殆ト困難セリ」といわれる。小作農民らは、親族組合ともに困窮して助けを乞えない者は、わずかの知り合いに頼り「金銭雑穀等ヲ乞、辛ク糊口ヲ凌」ぐ有様であるが、彼らの窮迫は、債主・地主らにまで及び、一村困難な状況となっている。そして「郡内挙テ窮民ノ多キヲ加ヘタルカ」という問に「然り」と答え、これが一郡共通の現象であることを明らかにしている(『相模原市史』第六巻六一ページ)。多摩地方の窮状も、右とほぼ同様であるが(『資料編』13近代・現代(3)一七七ページ)、一八八六年三月、五日市に近い山村、西多摩郡入野村では、「扶喰ノ購入ニ差支」えた困窮の者五、六〇名が集会し、不穏となるほどの状況にいたっている(「直轄公用書綴込西多摩郡長」東京都公文書館蔵)。 この地方は、耕地乏しく食料の八、九割は他地方から購入し、山稼等で生活してきた土地柄であったが、一八八四年ころからの不景気で、一日の稼ぎで一日の食料を賄うことができなくなり、一八八六年一月ころから糊口に窮して、村有秣場(戸倉山)に赴いて「トコロ」(山ウドの芽)を採掘し、川中で晒し、割花(大麦の挽屑)・ソバの〆粉(ソバ粉を製するとき皮際に付く粗粉)などを混ぜて食料とする者があらわれ、二月上旬には七、八〇人に達した。二月十三日彼らのうち小峰源次郎外四、五名が樽寿作方を訪れ、生計を保つために村共有物を売却し、代金を村民に配分することを求めた。寿作は、村内困民一三名へ「青梅町貧野民右衛門」なる名義で回状を出し(その内容は明らかでない)、困民が愛宕平の山中に集会するとの風説が流れた。この動きは、五日市分署によって抑えられたが、このように、一八八六(明治十九)年麦秋前には、文字通り飢餓に迫る状態が、各所でみられたのである。 注 (1) 前述「哀願書」は、多摩ほか四郡の糸価を一八八〇(明治十三)年、一貫目五五円五六銭、一八八二(明治十五)年、二三円二六銭ないし二三円八一銭としているが、恩方村などの糸価も、これとほぼ符合している。そして、一八八四年には、一八八二年よりさらに下落するのである。 (2) 高座郡大島村中里宗兵衛も、一八八四(明治十七)年十一月六日「私立銀行及ビ貸付会社ト各郡村困民トノ葛藤ニ付陳ル権衡旨意書」のなかで、「金円ヲ貸渡ス際、利子手数料トシテ四ケ月ノ期内ニ二割(則チ百円ノ金ニシテ二十円ヲ引落シ、残レル八十円ヲ受取如シ)ノ利子ヲ引落シ、或元利或ハ延利月踊リ(即チ一月ニシテ二月分ノ利ヲ占ムルヲ云フナリ)手数料・検査料抔ト名号ヲ区別シ過激ノ利子ヲ占収」するといい、また、須長漣蔵筆と思われる一文書(「負債問題ニ関スル論文及願書」『資料編』13近代・現代(3)一八〇ページ)も、年の初めに一〇円の借金証書をもって借りた八円(二円が利子として初めから控除される)が、十一月には、二〇円九五銭九厘の証書に書き換えられるにいたる事例をあげている。このような事実は、一八八三年神奈川県に巡察使として訪れた元老院議官関口隆吉がその復命書のなかですでに指摘したところであった(『資料編』11近代・現代(1)二三一ページ)。 (3) たとえば、八王子銀行の、仲裁人に対する回答書は、「口述」と記され、八王子銀行の捺印はなされていない(『資料編』13近代・現代(3)一五七ページ)。なおここに「八王子銀行ノ印」とあるのは、「八王子銀行 無印」の誤植である。 五 漁業の再編と製塩 漁場の再編 一八七五(明治八)年十二月、明治政府は、太政官布告第一九五号をもって、「従来人民ニ於テ、海面ヲ区劃シ、捕魚採藻等ノ為所用致候者モ有之候処、右ハ固ヨリ官有ニシテ、本年二月第二十三号布告以后ハ所用ノ権無之候条、従前之通所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ、借用ノ儀其管轄庁ヘ可願出、此旨布告候事」と達し、海面は官有であり、したがって、この布告以後は、従来の村方の漁場占有利用権は消滅する。よってこれまで通りに漁場所用を希望する者は、改めて政府へ出願せよとの新たな方針を明らかにした。さらにあわせて、太政官第二一五号達で、海面借用を出願した者へは調査の上許可し、これまでの漁業税の税額を引き直した額の借用料を徴収するとした。この海面官有宣言とそれにともなう海面借区制施行は、とくに東京内湾の漁村のように、近世以来、錯雑した入会関係にある漁場の利用をめぐって、しばしば紛争をくり返してきたところでは、紛争の激発という結果をもたらした。右宣言により、これまでの漁場占有利用権が消滅したのを機に、村方では自己に有利な漁場借区を獲得しようとする動きがあらわれたからである。そのため、政府は、右宣言の七か月後、七月十八日太政官達第七四号で漁場借区制を取り消し、「以来各地方ニ於テ適宜府県税ヲ賦シ、営業取締ハ可成従来ノ慣習ニ従ヒ、処分可致」旨を達し、「従来ノ慣習」すなわち、これまでの村方における漁場占有利用権を尊重する方針を明らかにした。海面が官有であることは変わらないが、その統轄・取締りは、府県に委ねられ、府県は、管下漁場の、旧来の占有利用の実態を把握し、これにもとづいて、府県税として「捕魚採藻営業税」(のちに「漁業採藻税」)を賦課していった。神奈川県では、明治十一年一月十二日甲第三号による「捕魚採藻営業税則」の達がそれである(『資料編』16近代・現代(6)二六二ページ)。同税則は、その後、明治十二年六月甲第一一一号、明治十三年十月甲第一七九号の改訂を経て、明治十四年五月甲第八七号「漁業採藻税則」、同年六月甲第一〇一号達「漁業及採藻営業規則」に改定された。この改定は、これまで税則のなかに内包されていた漁業取締りを独立法規として分離したものである。漁業・採藻税は、「各地従来ノ慣例ニ依リ之ヲ徴収」し、「若シ其例規ヲ改正シ、又ハ新規ヲ創設セントスルモノハ、府県会ノ決議ヲ経テ府知事・県令ヨリ内務・大蔵両卿ニ具状シ、政府ノ裁可ヲ受」(明治十三年四月八日太政官布告第一七号)けねばならないとされた。しかし、一方、近代的税制における営業税はあくまで個人に賦課する建前で、旧来の漁場占有利用権者である村ないしは入会村々はその対象になりえない。したがって、近代的諸制度が整備され、村も行政村として再編成されていくなかで、従来の村持漁場や数村入会漁場の実態を旧慣のまま維持しようとすれば、これまでの漁業権者である村ないし村々に代る漁業団体を設け、これに法的地位を与えねばならなかった。一八八四(明治十七)年十一月の農商務省達第三七号「同業組合準則」、ついで一八八六(明治十九)年五月同省令第七号「漁業組合準則」は、そのための法的措置にほかならない。以後神奈川県でも、漁業組合が設立され、これが、旧来の慣行による村持入会漁場の漁業権を継承し、管理を行っていった。一八九二(明治二十五)年八月、県令第五五号「漁業取締規則」は、こうした管下での漁業組合設立を前提にして、前述一八八一(明治十四)年六月の営業規則を改定したものである。このような、法的な整備の下で、近世以来の漁業は、急激な変革をみることなく、明治以降にひきつがれてきたのであった。 漁業の地帯区分 こうして、県下の漁業は、ほぼ近世以来の形態を維持して明治に入るが、それは、漁場・漁法等の違いによって、おおむね、東京内湾漁業、三崎とその周辺の漁業、相模灘の漁業および内水面漁業の四つに分けられる(表二-一九、なおこの表は、郡別に漁浦を区分したため、三浦郡には、内湾漁業・三崎周辺漁業が混在して表示されている)。以下それぞれの地帯別に、明治前期の実態とその変化をみていくことにする。 東京内湾漁業 東京湾は、近く昭和期に入っても、 ……其の位置、其の形状、其の底質、其の水深水質、並に之に注く大小河川の数々、更に其内奥に位する大都会等々、有用水族の饒産すべき数多の好条件を具備し、魚類のみで百有余種を算へ、之に烏賊・蛸の類、蝦・蟹の類、各種の介貝、浅草海苔の如き特殊の藻類に至る迄、所謂江戸前の味と賞せられるもの甚だ多く実に海の幸の豊かなるものがある。 といわれる好漁場であった(『東京内湾漁業史料』笠松弥一 横浜市水産会序文 昭和十五年)。そして、明治期では、ここでの主要な海産物は、「内湾漁業ノ国益タル、鰯漁ノ大網ヨリ盛大ナルモノアラス」(織田完之『内湾漁制通考』明治三十六年)といわれる鰯漁で、「各数多ノ漁夫ヲ使用シ、一挙千金ノ利アレハ、忽チ其部下ノ貧漁夫ニ潤沢シ、内湾一年ノ鰯漁ハ数十万円ニ上ルモノニシテ、漁村ノ享利是ヨリ盛ンナルハナク施イテ行商ニ利ヲ頒チ、其搾粕ハ諸国無双ノ上等品ト称シテ陸産ノ肥料ヲ優給」(前掲『内湾漁制通考』)した。さて、沿岸各漁村は、「磯猟は地附根附次第也、沖は入会」(寛保元年「山野海川入会」)の原則によって、地先漁場は、地元村がときには近接村との入会関係をもちつつ占有利用する一方、沖漁場(本猟場)は、神奈川・東京・千葉三府県にわたる従来西四四浦、東四〇浦、計八四箇浦と称する内湾漁村が、近世以来の慣行に従い、三八職に限定した漁具による漁法で、鰯漁をはじめとする諸種の魚猟を入会で営んでいた。この内湾沖漁場は、千葉県の管轄に属するもの七分、神奈川県管轄二分、東京府管轄一分といわれる。この入会漁場の利用・運営は、近世では前記八四箇浦の代表が毎年三月神奈川表2-19 郡別主要漁浦・漁場・水産物(明治前期) 注 『明治18年神奈川県統計書』より作成。明治11年5月『神奈川県治一覧表』『明治26年神奈川県統計書』で補充。 表2-20 神奈川県下東京内湾入会村(浦)の近世-明治前期の変動 注 織田完之『内湾漁制通考』,原暉三編著『東京内湾漁業史料』,『資料編』17近代・現代(7)より作成。 浦で集会決定するのを常としたが、「明治初年ヨリ漸々其規則解弛シテ、其会モ行ハレス、組合モ自然消滅ノ姿ニ至リタルヲ、明治八年神奈川浦ニ於テ四州連合集会ノ緒ヲ開キ、十四年三月、始メテ其契約旧ニ復」(前掲『内湾漁制通考』)した。しかし、これによって、内湾漁業が近世期の「三八職」の漁具-漁法のまま停滞したわけではない。新漁具の出現が、内湾漁村の間に種々の紛議をもたらしつつ、「三八職」漁法の内容をも変化させていった。 文化十三年(一八一六)、武蔵・相模・上総・下総四か国内海浦方の定めた「議定一札之事」(前掲『内湾漁制通考』)によると、内海浦方には相模観音崎以南の鴨居村・久里浜村も含まれている(表二-二〇)。すなわち、当時東京内湾とは、のちに一八九一(明治二十四)年改正東京内湾漁業組合規約第一条が「当組合ハ……神奈川県相模国三浦郡千駄崎ヨリ千葉県上総国天羽郡竹ケ岡村大字萩生ニ相対スル以北ノ内湾漁業者ヲ以テ組織シ」といい、また三〇条で「漁場区域ハ旧慣ニヨリ神奈川県下相模国三浦郡千駄崎ヨリ千葉県上総国天羽郡竹ケ岡村大字萩生ヘ相対スル以北一府二県(東京・神奈川・千葉)ニ連ル内海ヲ以テ当組合ノ営業場ト定ム」と規定した範囲に一致する区域であった。しかし、一八八一(明治十四)年三月二十九日、四か国浦方が神奈川宿に集会し、相互に睦じく漁猟相稼ぐ旨の契約証をとりかわし図2-1 観音崎周辺の図 たとき、神奈川県では、走水以南の浦方、三浦郡鴨居・久里浜の両村は連署に加わっていない。また同年六月九日、右契約の追加箇条を申し合わせたとき、さらに同十二月十一日内湾浦々が神奈川浦に集会し、三八職の「器械ノ子細書ヲ書入連署」したときにも鴨居・久里浜両村は入っていない。さらに、一八八三(明治十六)年九月神奈川町戸長の「桂網漁内海妨害ノ廉上申」も「本県下三浦郡走水ヨリ千葉県下周准郡富津村ヘ見通シ、夫ヨリ内湾ヲ内海ト唱ヘ、該沿海ノモノ夫々契約ヲナシ、漁業ス」(『資料編』17近代・現代(7))とのべている。これらの事実を裏付けるように、織田完之は、一九〇三(明治三十六)年『内湾漁制通考』で (内湾は)西ハ相模ノ走水海堡ト、東ハ上総ノ富津海堡ニ対スル海峡ヨリ其以北ヲ古来裏海ト称シ、内洋ト称シ、是ヨリ以前ハ外湾ニ属シ、内湾ト混セス、其証トスヘキハ、所謂裏海漁業組合ハ古来武蔵・相模・上総・下総四州ヲ連合シ、安房西海組合又ハ相模下浦組合ノ如キハ全ク裏海組合ト殊別ナリシヲ以テ知ルヘシ とする。すなわち内湾(内海・裏海)は、観音崎(走水海堡)以北であって、鴨居・久里浜村はこれに含まれないことになる。ところが、右にいう相模下浦組合は、一八八八(明治二十一)年七月二十五日東京湾漁業各組合連合規約第一五号但書には「……旧慣ニヨリ東京内湾ハ上総国天羽郡小久保村ヨリ相州三浦郡千駄崎以北……相州三浦郡下タ浦組合ハ八幡久里浜以南松輪村剣崎迄トス」とあって久里浜村はこれに属さない。 以上要するに、明治期にあって、東京内湾が観音崎以北か、千駄崎以北か、必ずしも明確ではなかった。この曖昧さは、三浦郡鴨居・久里浜村その他による小晒網使用をめぐる紛争が、明治に入って表面化した結果生じたものにほかならない。 小晒網は、漁夫三人をもってする鰯掛網で、鰯の魚道は、長さ二五尋(間)、丈六尺の網五張で六、七〇間ほどの場所に張網をし、船(一艘)は離れて板子を叩いてこの中に鰯群を追い込む。夜は篝火を三か所に照らすので、鰯は驚いて建網の目に首表2-21 東京内湾38職漁法の明治以降の変化 注 万延元年(1860)は表記の外「竿小釣職」がある。○印は明治以降掲記のあるもの、×印は掲記のないもの。 を掛け捕獲される。なお、この網の規模は次第に大きくなり、後には長さ二〇〇間をこえるものもあらわれた。小晒網は、比較的簡便な手段で一挙に多量の漁獲を可能とするが、一方、「海口数十所ニ小晒網ヲ張ル時ハ、魚隊ハ悉ク内海ヲ去リ、外海ヘ遁逃」し、内海の諸漁はともに大害を受けるとされた。相州での同網の使用は、すでに文化年間、鴨居・走水村でみられ、前述文化十三年(一八一六)の「議定一札之事」は、それに先立つ文化七年(一八一〇)、鴨居・走水村等での既往の小晒網は季節を限って認め、新規開業を厳禁した申合せの再確認の意味をももっている。こうして小晒網は、内海三八職中に含まれることになったが、万延元年(一八六〇)「古職猟業書上帳」に「裏海江戸前ヘハ不相成」とあるように使用箇所に限定が付されていた(表二-二一)。 明治に入ると、内湾各漁村は、「当時流行ノ小晒網営業ノ妨害ヨリ不漁」続きとなったとして、その禁止を強く関係府県に求めるにいたり、千葉県では、一八七八(明治十一)年七月二十日丙第一四七号をもって、「近来裏海海口ノ諸村ニ於テ小晒ト唱フル一種ノ長網ヲ以テ鰮魚ノ来ル咽喉ヲ占メ、外洋ニ駆去カ為メニ独リ鰮魚ノ漁額ヲ減スルノミナラス、之ヲ尾逐シテ裏海ニ入ル鯛・鰹・鰆・鮫等ノ諸魚ヲモ遮絶スルニヨリ、裏海浦々漁獲ノ数日ニ相減シ、難立行向モ有之」として、小晒網の毎年一月一日から七月三十日迄の使用を一切禁止した。因みに鰯は、毎年二、三月ころから海岸沿いに外湾から内海に産卵のため入ってくる。ついで、東京府荏原郡羽田村外二か村の漁夫総代は、東京府知事に対し、「明治年間ヨリ相州三浦郡鴨居村ヨリ八幡久里浜村其他ノ近村……右外洋ヨリ入魚ノ節、小晒網ト相唱候網類ヲ専ラ海口ヘ掛晒シ捕魚候ヨリ、内海ヘ入来候魚類漸々減少、内海漁業ノ者困乏」(前掲『内湾漁制通考』)に陥入っているとして、小晒網禁止を神奈川県へ掛合ってくれるよう上願した。それによれば、毎年六月十日以後に限って長二五尋の小晒網漁を行うという維新前の旧慣を破った村は、相州では三浦郡八幡久里浜・野比・長沢・津久井・鴨居の各村であり、近年はさらにこの網の使用が近村に拡大しているという。これをうけた東京府の掛合いに応じ、神奈川県は、明治十四年五月丙第九八号達で、橘樹・久良岐・三浦の三郡へ対し、小晒網営業を「来ル明治十五年以降毎年一月壱日ヨリ七月卅日迄悉皆禁止」する旨の布達を行った。前述一八八一(明治十四)年三、六、十二月の内湾浦々の契約証は、以上のような内湾諸村々による小晒網差止めの動きを背景としたもので、これに対し、小晒網営業を強く望んでいる久里浜・鴨居村が、右契約証への連署を拒んだのも当然であろう。また、その他の内海の各浦方が、旧慣を破約した、海口部に位置する鴨居・久里浜村を、陰に内海組合から外し、内湾を走水以北としたこともうなずける。 一八八五(明治十八)年五月、同業組合準則に基き、内湾諸町村総代によって東京湾漁業組合規約が締結され、さらに一八八六年「漁業組合準則」の公布によって、右規約が更正されるにおよび、新たに設立された東京湾漁業組合は、東京内湾漁業組合のほか、「地方漁業者組合 府県限リノ沿海 漁業者ヲ指ス 」、「郡区漁業者組合 郡区限リノ沿海 漁業者ヲ指ス 」をも包含することになり、従来内湾の入会利用に加わらず、地先の磯・藻場・干潟で魚貝藻餌等の採取を行っていた沿岸村々も、同組合に編入された(表二-二〇参照)。そして、それぞれにつき「旧慣ニ依」って営業することとされた。こうして、鴨居・久里浜村などもすべてこれに組み入れられたが、以後においても、小晒網の使用は、なお拡大の一途を辿ったのである。 一八九二(明治二十五)年八月一日、東京内湾漁業組合は、通常会の決議によって、一府二県の知事に対し、「小晒網季節外使用差止ノ義ニ付請願」し、翌一八九三年六月三十日には、さらに農商務大臣に対し、同趣旨の請願を行った。それによれば、近来、東京内湾の連年の不漁は、内湾咽喉部で、旧慣・府県の禁止を破って、小晒網を濫用する者が増えたことが主な原因となっている。当時、「千葉県安房国平郡・神奈川県相模国三浦郡(下タ浦及ヒ南浦組合)ノ小晒網漁業者ハ其数殆ント数千ノ多キニ至」っているという。とくに一八九三年は、彼ら小晒網漁業者は「非常ノ漁獲ヲ得タ」のに反し「我々内湾数万ノ漁民ハ之レカ正反対ノ困弊ニ陥リ其惨状実ニ名状スヘカラサル」有様となったことを陳情し、小晒網の季節外使用厳禁の処分を強く求めた。このころの小晒網漁は著しく規模を大にし、この年七月二十五日夜、横浜漁業組合総代福田金蔵外数名が、小蒸気船を雇い、規約違反の廉で押収した千葉県富浦・金吉・保田村漁民の小晒網は、漁船一四艘、網の長さ四〇〇尋、丈は一丈二尺余の巨大なものであった。彼らは、夜半対岸、久良岐郡金沢村地先沖合から横浜市地先沖合の中ノ瀬以西にまで進出し、夜半漁業を行っていたものである。 明治二十年代の県下鰯漁獲高は、総漁獲高の四-八㌫の比重を占めるにすぎない(表二-二二)。しかし、その半ば以上は東京内湾で捕獲されていた。ところが、その捕獲は、年を逐って、湾口部にあたる三浦郡に集中するにいたっている。明治二十年代の統計では、小晒網船は、三浦郡のみに、約一八〇艘を数えるが、この小晒網による鰯漁が右のような傾向をもたらしたのであろう。これに対し、より内湾部の久良岐・橘樹郡では、鰯の漁獲高は減じてはいないものの、海苔養殖を除いた全体の漁獲高は減少傾向にあり(表二-二三)、これを同地帯の漁民は、湾口部での小晒網漁による魚類の散乱によってもたらされたものとして、前述のような強い反対運動を展開したのであった。 以上、一府二県の漁村が入会う東京内湾漁業は、内湾組合を結成し、明治以後も漁具・漁法の制限を行い、安定した漁獲を維持しようとしたのであった表2-22 神川県下東京内湾における鰯の漁獲量(1887-1893年) 注 1 ( )は県合計鰯漁獲量に対する比率。〔 〕は,総海産物(乾物を除く)のうち鰯漁獲量の占める比率。 2 鰯にはウルメを含む。 3 『神奈川県統計書』より作成。 が、上述の小晒網あるいは桂網(『資料編』17近代・現代(7)五一)などによる大量漁獲の出現によって(これらの出現はいずれも近世期に淵源している)、「旧慣」は次第に内容を変えざるをえなかった。「三八職」中のいくつかの漁具も、表二-二一にみられるように、一八九一(明治二十四)年には、その使用時期が延長されるなどの変更がなされている。漁獲の不安定性は避け難いところだが、明治二十年代において、内湾の漁獲高は停滞的で、橘樹郡沿岸での海苔養殖の展開のみが目立っている表2-23 神奈川県海産物価額の推移(1887-1893年) 注 1 乾物・肥料を含まない。久良岐郡の( )内数字は海苔産額を控除した額。 2 『神奈川県統計書』より作成。 注 青海苔・黒海苔を含む。『神奈川県統計書』より作成。 (表二-二四)。こうしたなかで、県下の漁業は、次第に三崎および小田原を中心として発展する傾向をみせてくるのである。 三崎とその周辺の漁業 表二-二五から明らかなように、三崎を擁する三浦郡には、小田原を擁する足柄下郡とともに、県下で最も多くの漁家が集中し、専業漁家の割合も県平均を上回っている。したがって、漁家一戸当たりの漁業従事者数・漁舟数ともに、県下で最も高い部類に属し、もっぱら漁業によって一家の生計を立てている家の多いことを示している(なお、橘樹郡の漁家一戸当たり漁舟数がさして多くはないのに、漁業従事者人数が際立って多く、また一戸当たり所得金も高いのは、養殖海苔表2-25 神奈川県漁家1戸当たりの所得金(1887-1895年) 注 1 〔 〕内数字は原統計数字に明らかな誤りがあるもの。 2 『神奈川県統計書』より作成。 生産の比重が高いことによっている)。にもかかわらず、漁家一戸当たりの年間所得金は、東京内湾諸郡にくらべて、さして高くない。さきにのべた、小晒網による鰯漁の盛行によって、明治二十年代の三浦郡漁獲高は、ほぼ同一水準を保っているが、漁家一戸当たりの所得金は、鰯の漁獲高が増大する一八九一(明治二十四)年以降、かえって減少している。ここからすれば、小晒網漁への積極的進出は、漁業経営の発展というよりは、漁家が、生活を維持するために執った必死の手段だったということができよう。このような三浦郡漁民の明治二十年代の状態をみれば、織田完之が、さしたる大きな資本を要せず鰯の大量の捕獲を可能とする小晒網漁を強く非難し、 凡ソ漁民ノ稟性ハ漁事ニ勇ナルモ思慮ニ乏ク、平時ニ於テ検束ナク、偶大漁ニ逢フ時ハ飲博放縦ニシテ、嘗テ蓄積ノ心ナシ、不漁ノ時ニ及テハ、大網主ニ依頼シテ米金ヲ借リ、辛ウシテ家計ヲ営ム者多シ、故ニ大網主ヲ奨励シテ保護ヲ加フル時ハ、小漁民ハ自ラ此内ニ給養スル所アリ、若シ之ニ反シ小晒網ヲ幇助スルカ如キハ、漁民舟民ノ困難ヲ知ラサルモノヽ所為ニシテ経綸ノ道ニ違フナリ(前掲『内湾漁制通考』) とする主張は、東東内湾の「大網主」の立場に立ち、かえって三浦郡漁民の「困難ヲ知ラサルモノヽ所為」ということができる。 以上概観した三浦郡漁業は、もっぱら専業の漁家によって漁業がいとなまれる三崎町と、その周辺の兼業漁家を中心とする半農半漁の村とからなる。前述、千駄崎から剣崎松輪村にいたる間の下タ浦組合は、その後者に属している。前者は遠洋での漁撈を主とし、後者が主に近海で漁撈を行い、前述のように、東京内湾組合漁村との対立を惹起するのである。三崎町連合役場の管下に属する部分についてみても(一八八七年)、三崎八か町には兼業漁家は存在せず、海産物は、鮪などの遠海物を主とし、六合村など周辺四か村は、兼業漁家が多く、これらの村で、鰯が主要な漁獲物となっていることがわかる(表二-二六)。 さて、三崎町は、一八七七(明治十)年現在、総戸数七八一戸、商四分・漁六分、漁船二五八艘を数え、一八八二年には、総戸数九一三戸、うち漁家五一一戸(いずれも専業)、漁船三一五艘(別の統計では四〇七艘)に増加し、ほぼ同じ規模で一八八七年にいたっている漁村で、また近辺海産物を集散する商業中心地でもあった(丹羽邦男「明治十年代の三崎漁業」『神奈川県史研究』八以下の記述は主にこれによる)。ここは、「近隣漁村中屈指ノ漁業場」で、ときには「他国他郡村ヨリ漁夫ノ出稼人ノ入込毎年二百人ニ不降」という盛況をみせた。漁場は、近海から房州布良沖、御蔵島など伊豆七島沖におよび、漁民は、漁期に応じて遠近の漁場で一年中漁業に従事し(表二-二七)、三崎町は「平素無絶間魚類ノ捕獲有之場所」となっていた。 三崎町の漁民は、大縄船(長さ三間半、幅六尺五表2-26 1887(明治20)年三崎花暮町外11か町村の漁家・漁船と海産物 注 『資料編』17近代・現代(7)より作成 寸、八人乗・てんとう-天当・伝道・天道・澱登などとも書かれる-船、テンマともいわれる)で、房州布良沖・伊豆七島沖にまで進出して、主に延縄で鮪・鰹・鯥などを漁獲し、また縄船(長さ三間、幅四尺五寸、七人乗)も、房州布良村海岸一里沖合におもむいて操業した。一方、小釣船(長さ二間半、幅三尺五寸、四人乗)や丸木船(丸木型の船、長さ二間、幅三尺、三人乗)で、釣竿・銛(突きん棒)などを用い、松輪村から諸磯村にいたる磯根や、その一、二里沖合で、「根付魚」-赤魚(きんめ鯛)・かさご・河豚・目鯛・鯛・鳥賊・鮃・鮑・サザエ・伊勢海老などを漁獲していた。遠海への出漁を主とするとはいうものの、幅わずか六尺五寸の船とあっては、きわめて危険度が高く、出漁の日も制限された。加えて網を用いない当時の漁法では、漁獲は少なく、しかも不安定であった。そのため、一方では、季節に応じ回游してくる魚類を捕獲する、比較的安定した沿岸漁業によって、年間を通じて平均した収入をはからねばならなかった。このように諸種の漁場で季節に応じた魚獲をすることによって三崎町は、「絶え間なく魚類の捕獲ある場所」となっていたのである。 こうして得られた魚貝類は、東京へ向け、押送船によって出荷された。押送船は、長さ三間八尺-六間、幅七-九尺で、七-九挺艪を使い、荷を積むため、帆を大きくし、小矢帆・中帆・大帆を使い、また、船体には、稲藁を女竹につけて編んだ苫を付していた。鮪・鯛・鰹などは、夕方ごろ出帆する「生船」により、貝類・塩干魚などは、朝十時ごろ出帆する「いけもの船」によって出荷され、いずれも翌朝夜明け前に魚河岸に到着した。こうした運輸手段によって、三崎の海産物は、近世以降明表2-27 三崎町の主要漁場・漁期(1880年) 注 1 主に1880年「諸願届綴」三崎町戸長役場(三浦市役所蔵)による。 2 マグロの漁期は,岸近く回游してくるマグロを相模灘で一本釣する時期のみを掲げた。 治にいたっても、江戸・東京市場で安定した声価を保持していた。これら押送船は、主に魚商が営業し、これによって、三崎とその近辺の漁民から買い付けた自分の荷を東京魚河岸へ運んだのである。また押送船を持たない零細な魚商は、売却高の一割を運賃として収める「一割船」に委託して、自分の荷を東京市場へ運送していた(『三崎町史』上巻 昭和三十二年)。 三崎町周辺の漁村での漁業は、以上の三崎町漁業とは形態を異にしていた。城ケ島村を除けばいずれも半農半漁の村である(表二-二六は城ケ島村も兼業家率八八㌫とする。石菜花採取を兼業とみたのであろうか)。そして、漁民も、傍ら農耕に従事する者が多数を占めていた。漁家一戸当たりの漁舟数は、むしろ三崎町より多い。しかし、漁家一戸当たり〇・九四艘(一八七五年)ないし一・三艘(一八八二年)を持つ城ケ島村についてみると、それらはいずれも、長さ二間半(約四・五㍍)、幅三尺五寸(約一㍍)、三人乗の網掛船と長さ二間半、幅三尺五寸、二人乗の小船であり、三崎町のように、七、八人を乗せて遠海に出漁しうる縄船・大縄船は一艘もなかった。城ケ島村の漁民は、網掛船で、西は赤羽根村根続きから東は松輪村根続きに図2-2 てんとう船 『専漁の村』より 図2-3 押送船 『日本国語大辞典』より いたる沿岸で、主にエビ網を操業し、あるいは小船で、同様の磯沿いで「カツキニテ漁具ハ磯金壱挺」で潜水し、主に栄螺・鮑を採取していた。このように周辺漁村での漁業は、もっぱら磯付の漁業であった。したがって、漁船は貧弱だが、各種の魚網を多く備え、城ケ島では総数二九三張に達している(表二-二八)。同村ではエビ網、六合村ではエビ網・ヒラメ網で、主にエビや根付魚を捕獲し、小網代村では、地引網・イワシ網によるイワシ漁が中心であった。三崎町が前述のようにハエナワを用いる縄船・大縄船を備え、魚網は、年間二か月使用するボラ網二張と投網五張とを持つにすぎないのと鋭い対照をなしている。しかし、三崎町に隣接する六合村の向ケ崎では、表2-28三崎町とその周辺漁村の漁業形態(1875・77・82年) 注 1 小網代村の魚網数は1880(明治13)年現在。 2 1882年「諸願届留」(三浦市役所蔵)その他より作成。 表2-29 1877(明治10)年三崎町戸長役場管下町村の魚網数 注 1877年「諸願届留」三崎町戸長役場(三浦市役所蔵)より作成。ただし小網代村は1880年「諸書扣」(同上)による。 沖合漁業も行われ、網掛船や二人乗の小釣船のほか、五人乗りの縄船や八人乗りの大縄船もあって、大縄船は、房州布良村の二里沖合や伊豆下田の三里沖合へおもむき、鮪・カジキ・鰹・鯖・鰤・鮫なども漁獲していた。また、耕地をもたない城ケ島村では、漁業収入を補うものとして、石菜花の採取が行われ、一八八〇(明治十三)年の年間採取高は一万二五〇〇斤、四三七五円に達していた。これはこの年の漁獲高一万六五〇円の四一㌫に相当し、同村漁民の家計補充に欠かせない大事な収入源であったことがわかる。 以上にみたように、一家の生計をすべて漁業に託し、長年の経験と技術だけを頼りに、予測しがたい魚を求めて延縄船で遠海に乗り出してゆく三崎町漁民と、農業やテングサ採りで家計を補いつつ、エビ・ボラ・ヒラメ網など、危険の少ない磯先で、比較的安定した根付魚・貝類の魚獲に従事する周辺の村々の漁民とでは、漁法や生活内容だけでなく気質の上でも違いがあったのである。 このような三崎とその周辺漁業は、一八八二(明治十五)年、政府の紙幣整理がもたらした深刻な経済不況と、折からの不漁とによって、破滅的な打撃をこうむった。とくに、漁業に全生活をゆだねている三崎町漁民のうけた影響は大きく、多くの窮民によって騒擾勃発の直前を思わせる不穏な気運が醸成された。これは、政府の紙幣整理政策が県下人民にもたらした破壊的な影響の最初のあらわれであり、やがて一八八三年以降県下に広がる大規模な負債返弁騒擾を予告するものであった。 一八八二(明治十五)年、三崎町と城ケ島村の漁獲高は、価額にして、一八八〇年の半ば以下に激減し、一漁家当たりの年間表2-30 三崎町外4か村の漁獲高の変遷(1880-1887年) 注 三崎町戸長役場諸文書(三浦市役所蔵)より作成 漁獲高は、一八八〇年、三崎町で一一四円余、城ケ島村で一三五円弱であったのが、一八八二年にはそれぞれ四三円五二銭、六一円三九銭にまで減少した。当時、三崎の漁民の多くは、零細とはいえ、船を所有する独立した漁家であり、魚商あるいは船主・網元への隷属下に入ってはいなかった。勢い、彼らは当面の生活費を、「近頃金貸営業次第ニ増加シ、(三浦郡内で)昨今百人ニ下ラス」(民情「明治十六年甲部巡察使復命書神奈川県の部」)といわれる金貸業者からの借金に求めざるをえなかった。こうして、「相州三浦郡三崎村ノ如キ、数百ノ漁戸挙テ其術中ニ陥ラサル者ナキニ至ル」(前掲書)こととなり、生活を破滅させていったのである。一八八三(明治十六)年の関口隆吉元老院議官の巡察使復命書は、神奈川「県下一般民情平穏ナリ」としながら、ひとり三崎町については、三浦郡長の報告にもとづき漁民の窮状と不穏な状況とを次のようにのべている。 漁民ノ中チ、一家ノ負債計量スルトキハ、殆ト二千円ニ近キモノアリテ、日々捕魚ノ収獲ニテハ一家ノ経費ヲ去レハ、負債ノ子金ヲモ償フヲ得ス、況ヤ母金返済ノ義務ヲヤ、故ニ一漁船ノ帰帆スルヲ見レハ、債主数人之ヲ擁シ、高声ニ催促シ、其収獲ヲ自宅ニ持帰ルヲ許サス、於是漁民ハ、即時飢渇ニ迫リ、僅ニ其日ヲ凌キ、翌日未明ニ男子ハ出船ス、依テ留守居タル婦ニ対シ、債主ハ之レヲ促カシ、甚シキニ至リテハ、之ヲ腕力ニ訴ヘント欲スルノ勢ニ恐レ、婦女子ハ多ク昼間他家ニ身ヲ遁レ、夜ニ入リテ帰宅、寝ニ就クハ午後十二時頃ナリ、此時ヲ窺ヒ、債主再ヒ之ヲ襲ヒ、其門戸ヲ敲キ厳促ニ及ハレ、一家挙テ他郷ニ避在シ( 多クハ房総 海岸ニ寄留 )漁業スルモ間々アリテ、名状スヘカラサルノ情態ナリ、然シテ其残リ居ル負債主共ヘ、裁判所ヨリ召喚状一時ハ、日トシテ百通ノ多キニ至リシ事アリテ、身代ヲ差出ス如キハ、続々絶ス。之レ自業自得ニシテ止ムヲ得スト雖トモ、中ニハ出庭ノ族費ニ困シ、遂ニ喚徴不応ノ罪科ニ問ハレ、其罰金亦完納スル事能ハスシテ、力役ニ替ラルル者モアリテ、家族ハ在宿スルモ無職ナレハ、目下ノ糊口ニモ塗ヲ失ヒ、実ニ憫然ノ極ニ至レリ…… 家具漁具等ヲ抵当ニ引取ラレ、且身代限ニテ負債ノ金額ヲ償フ能ハスシテ、家屋公売所分ヲ得シモノ、一時雨露ノ凌ク可キ所ナキハ、素其地狭ク殊ニ貸店等無キヲ以テ、海辺ヘ仮ニ苫家ノ如キヲ設ケ、生業ノ途ヲ与ヘン事ヲ有志者ニ詢リ、略承諾セシニ由テ、県庁ニ乞ヒ該費ノ内ヘ幾分カノ資助ヲ仰キ置キタリ…… こうして、一八八二(明治十五)年には、生活に窮した婦女子が、社寺の境内に「相率テ」日夜集合し、「生営ノ業ヲ仰カント」相談し、不穏な空気を醸し出した。この報をうけた警察官は、これを説諭して解散させたが、やがて、これら婦女子はうち連れて横須賀にある郡役所にまで押しかけ、負債の永年賦返済等を「哀訴」するにいたった。このような「千有余人ノ難民殆ンド糊口ノ計竭キ、恟々トシテ各所ニ集合シ或ハ粗暴ノ挙ニ出ントス」(一八八三年十一月十六日「戸長加藤泰次郎の県令あて上申書」三浦市役所蔵)る状況は、翌一八八三年においても続いている。一八八三年五月の戸長上申書は、「困難無告ノ窮境ニ陥」った貧民を二〇〇余戸としているが、これは三崎町漁戸の約半数にあたる。彼らは翌一八八四年末には、町内外有志者の寄附により炊飯の施与をうけているが、この窮民は、一八八五年五月になってもほとんど減少せず、一六二戸、六四二人を数えた。これは三崎漁家の三三㌫に達している。彼らは、一八八五年秋収期にいたっても、「家ニ一粒ノ米粟ヲモ剰サス、壱銭ノ余金ヲ留メス、襤褸僅ニ裸身ヲ蔽フニ過ギ」ない有様で、農家の刈り残しの落穂や残り屑のイモ類を拾って食料とし、農家の持山に入って枯木を窃取し薪にあて、科料処分をうける者もあらわれた(一八八五年十二月十二日「県税戸数割免除につき戸長の県令あて上申」三浦市役所蔵)。 こうした窮状を招いた第一の原因は、うち続く不漁であるが、不漁による困窮が、右のような、これまでとは異なる新たな様相を呈したことの原因は、明治政府の維新変革が創出した、資本の自由な活動を保証する新たな法体制に帰せられる。政府の新たな一連の金融法令によって自由な金融活動に法的保護が与えられた結果、各地に金貸業者の簇生をみ、三浦郡でも、「所謂三百代言人ナル者、村落ヲ徘徊」する有様となった。彼らの金融活動は、右の政府新法令に全面的に依拠するものであったから、法律に精通した代言人が債主の代人としてもっぱら負債取立ての衝にあたった。彼らは「三百代言」などといわれながら、当時の新知識であり、「身ニハ洋服ヲ纒ヒ、銀側ノ時計ヲ胸ニシ、頭上ニハ高帽ヲ戴キ、足ニハ靴ヲ履キ、手ニハ洋杖ヲ携ヘ」るという「文明開化」のいでたちで、漁民に臨み、「速ニ其義務ヲ果サズンバ罰金又ハ禁錮ノ処刑ヲ受ケサスベク杯ト強迫ノ手段ヲ示」すのを常とした(横浜裁判所あて、一八八二年「漁民困窮動揺ノ義上申」戸長加藤泰次郎三浦市役所蔵)。 三崎町での彼らの金融活動は、一般には次のようなものであった。 当三崎日ノ出町外七ケ町ノ儀ハ漁業ノ収入アルノ外、他ノ産業ヲ以土地ノ稗益ヲ為ス不能、然ルニ明治十一年以降不漁引続キ当地一般ノ漁民非常ノ困弊ヲ来シ、各自生活ニ欠乏ヲ告ク、其ノ補欠ニ苦シムノ余リ、将来ノ苦難ト可成ヲ不省、高利ノ金円ヲ負債シ、一時ハ其苦境ヲ免ルヽ者ノ如シト雖、如何ニセン債主等ハ酷利ヲ(金壱円ニ付一日金八厘宛俗ニ天保利ト云)収ムル而已ナラズ、少時モ違約アルニ於而ハ代人( 俗ニ三百 代人ト云 )ヲ以直ニ法廷ニ訴ヘ出、該代人等ハ其詞訟状ヲ携帯シ来リ、自ラ負債主ニ対シ談判ヲ開ク……(前掲「漁民困窮動揺ノ義上申」) こうして、裁判に先立ち、まず当事者間での「勧解」(和解)に入るのであるが、その際、代言人の前記のような高圧的な態度に「恐懼」した漁民が解訟を乞うと、漁民の着衣・漁具までも売却・質入せしめて負債の全額はもちろん、さらに訴訟入費や、謝金と称し余分の金額をも支払わせた。ときには、漁民の法的な無知に乗じ、その際借用証書を返却せず、これをもって再び裁判所に訴え、身代限の判決を得るという悪質の詐欺も行われたという。三崎町戸長加藤泰次郎は、このような実情を横浜裁判所や三浦郡長に訴え、その取締りをくり返し要望したが、これら代言人の行為は、元来法令に依拠したもので、少なくとも証拠上はすべて合法的であり、有効な取締りを行うことはできなかった。 以上のような三崎町漁民の窮状は、うち続く不漁が基因をなしているが、それは、一八七七(明治十)年以来または一八七八年以来、あるいは、「維新以来其歩ヲ進メタルカ如シ」(前掲「戸長加藤泰次郎の県令あて上申書」)ともいわれる。すなわち、すでに一八八二年以前から三崎近海の魚群が減少し、漁獲量も低下してきたのだが、たまたま物価騰貴の時運にあたり、減収が表面化することがなかったのであった。戸長加藤泰次郎によれば、この漁獲量低下は、人為的な要因、すなわち、「漁業者ノ増加」、「苛酷ノ漁具」使用の二因から生じたものであった。「苛酷ノ漁具」とは、城ケ島村漁民にとっては、各地での水潜器の流行であり、三崎町漁民にとっては、千葉県漁民の用いる夜流し網はじめ、タタキ網・コマシ袋網による魚類の濫獲であった。水潜器は、一八七九、八〇年ごろから三浦郡各漁村で使用されはじめ、在来の「磯金一挺」で潜る原始的方法では、一人で貝(鮑)五〇〇〇を採るのに八か月を要するところを、水潜器によれば一か月で採ってしまう。城ケ島村先の海面へは、旧慣もあり他から水潜器使用者は入りこまないが、城ケ島村は、元来自村借区内の漁業だけでは生活できぬ村柄で、従来から千葉県下または三浦郡他村の磯先で、地元村と申し合わせの上出稼漁をしてきた。ところが、その地元村で水潜器を使用する者があらわれ、これに駆逐されて城ケ島村漁民の出稼漁は自然廃絶し、一八八三(明治十六)年には、地先だけの漁業になってしまったという。 夜流し網は、一八七七(明治十)年ごろから三浦郡沿海に出現し、夜陰に紛れて盛んに操業し、在来の一本釣に比し格段の魚獲量を得た。加えて一度この網を流すと、魚はその漁場から四散してしまい、翌朝ここに出漁してきた釣漁師にはすぐそれと知れたという(前掲『三崎町史』上巻)。三崎近辺で操業する夜流し網の多くは、千葉県房総六か村の漁民によるものであった。彼らは、いずれも頗ぶる財産に富み、漁業専業の者ではない。その所有する多額の資本を下して、夜流し網を整え、目前の利益のみを追って魚を濫獲し、魚類を近海から遠く大洋に駆逐してしまったという。このため、三崎町漁民が、海面にコマシを散布し、または好餌をもって釣取ろうとしても、魚獲なく、空しく徒手で帰帆するほかなかった。このため三崎町漁民は、やむを得ず工面して大縄船を作り、良具を整備して遠海にでていくことになる。しかし、その遠海での漁業も、決して安定したものではなかった。 数十里或ハ数百里ノ怒涛ヲ越ヘ、極寒ニ、暴風雨及ヒ漲ル高浪ヲ冒シ、孜々漁業ニ従事シ、数日月ヲ経テ偶々収獲アルモアリ、又ハ空シク船中ノ食料ヲモ不得採、就中不漁ニ遭フタル乗組人ノ家族者ニ於ル、又其惨状視ルニ不忍、各自ニ於テモ如斯場合ニ遭偶スル、年ニ数十度ニシテ、既ニ目下ノ状態トハナルニ到レリ、渺々タル大洋ニ於テ、不時ニ大難風ニ出会、船顛覆、溺死スル者、明治十年以降概シテ三拾有余人ニ至レリ(注(1)に同じ) こうして、零細な独立した漁業経営を主体とする三崎漁民は、資本力をもつ網漁業者によって次第に近海から駆逐され、貧弱な装備での遠海出漁に狩り立てられていき、また、城ケ島漁民のばあいも、漁場を自村地先にせばめられていった。そして、一八八二(明治十五)年にいたって、前述のように漁業経営の破滅を迎えることになった。このとき、三崎・城ケ島の漁夫総代がまず県にもとめたのは、彼らの不漁をもたらしたとされる夜流し網・水潜器の使用制限ないし禁止であった。さきに東京内湾でみたと同様の傾向-在来の漁具による旧慣に従った漁法が、一定度の資本を必要とするより大規模な、生産性の高い漁具・漁法によって衰退に向かうという傾向が、さらに露骨にあらわれている。そして、三崎では、零細独立漁民の一般的な没落のあとに、資本制漁業への指向が始められたのであった。当時三崎花暮町外一一か町村戸長役場の戸長であった加藤泰次郎は、土地四町七反九畝余・地価七一二円を持ち自らも漁業を営む城ケ島村の資産家で、若いころ東京で、漢洋の医学・漢学、さらに日新義塾で英学をも学んだ知識人であった。彼は、一八八二、三年には、三崎漁民の救済につとめ、前述のような、夜流し網・水潜器の使用禁止を県に要求する上で、指導的な役割を果たしている。とくに彼は、窮迫した漁民救済のため漁具漁船貸与の法を設け、婦女子の内職として製網業を授産し、さらに、一八八三(明治十六)年四月には、債主が漁民に貸付け回収困難となった負債元利七万円を、債主から「出資」させて、金融会社共益社を結成し、一方、借主である漁民の水揚高の三分の一を会社に積み立てさせ、これを「出資」額に応じ債主に分配する法を樹てた。これによれば、少なくとも漁民は、前述のような「三百代言」の苛酷な取立てから免れることになる。 しかし、一八八二、三年に、このような漁民のための努力を惜しまなかった加藤泰次郎は、これら漁民の没落が動かし難い事実となった一八八九(明治二十二)年、これまでの立場を転じて、積極的に資本制漁業の発展を指向するにいたった。この年彼は、かつての主張を一変させ、夜流し網漁を「有益ノ漁業」として積極的に推進しようとするのである。 ……(漁民全体の経済を)挽回スルノ策如何、古来ノ釣漁ニ交ユルニ網類使用ノ漁法ヲ以テセント、……殊ニ漁獲ハ釣漁ニ比シテ多額ナルヲ以テ、全町ノ産額必ズ増加スルナル可シ、故ニ本職ハ夜流網ノミナラズ各種網類ノ使用ヲ伝播セシメン事ヲ望メリ、今ヤ文化日ニ開ケ、労力時代去リテ器械時代来リ、鉄路東西相通シ、汽船環海縦横馳走ス、生産事業将ニ一変セントス、漁業豈ニ独リ旧態ニ安ンス可キ哉、熟ラ漁業ノ変遷ヲ考フルニ、大古矇昧ノ民、弓矢ヲ以テ魚ヲ捕ル、第一期ナリ、次テ鉾鎗具ヲ使ス、是レ第二期ナリ、釣針ヲ使用スルニ至レルヲ以テ第三期トシ、今日網類ノ使用日ニ益々進ム、則チ第四期ノ時代トス、此日進ノ社会ニ在テ、第三期時代ヲ維持セントスル者ハ、今日ノ生産社会ニ到底独立シ能ハサルニ至ルハ必然トス、尚ホ一歩ヲ進ムトキハ、英国漁業者ノ使用スル、トロール網、独国ノクレル、米国ノブースセインノ如キ、緻巧ナル漁具ヲ使用シ、巨大ノ漁船ヲ使用スルニ至ルハ、勢ノ自然ナラン歟、故ニ本職ハ夜流網ヲ以テ害物ト認メズ、却テ有益ノ漁業トス(一八八九年六月三日郡長あて、戸長加藤泰次郎「上申」) こうして、多額の資金によって網漁を企て、没落した漁民を雇漁夫として再編してゆく、資本制漁業への動きが生まれてくる。そして加藤自身も、東京・三浦間に小型汽船の就航を企画し、企業家としての道を歩み始めたのである。 相模灘の漁業 相模灘の漁業は、須賀(大住郡)・大磯(淘綾郡)・小田原(足柄下郡)での専業漁民を主とする漁業と、根付漁に加え沖合漁が旧来のまま営まれていた半農半漁の村での漁業とからなっている(表二-三一)。ここでは維新以後、とくに小田原を中心とした足柄下郡漁村において顕著な変動・発展がみられた。すなわち、明治二十年代についてみても、県下のほとんどの郡で年間漁獲物価額、漁家一戸当たり所得金額が低下ないしは停滞しているにもかかわらず、足柄下郡だけは、明瞭な増大傾向をみせている(表二-二三・二-二五)。それは、主に一八八七(明治二十)年七月、新橋-国府津間東海道線の開通、一八八八年十月、国府津-小田原-湯本間に馬車鉄道開通(一九〇〇年三月電車となる)によって、ここが横浜-東京市場と直結したこと、また、それにともない漁獲物集散地小田原における水産加工業の発展がみられたことによるものであった。 さて、大磯町では、一八九一年現在、漁船九二艘・漁戸三六七戸があり、そのうち二表2-31 明治初期相模灘沿岸の漁村 注 1 「皇国地誌」(『神奈川県皇国地誌残稿』)より作成。 2 ○印は表2-19所掲の漁村。 九七戸、約八一㌫が漁業を専業としていた。ほかに魚商三〇戸があり、周辺の漁村から年間魚獲物三〇〇〇-一万五〇〇〇円を集め、鰹節・乾鯖・乾鰺・干鰯などを製するとともに、主に横浜・東京へ向け、年間約五万七〇〇〇円の魚類を移出していた(うち東京へ一万〇五六〇円。『資料編』17近代・現代(7)七六、八五-八七ページ)。大磯町での年間漁獲高は、一八八八年二万〇九五七円で表二-三二と対比すれば、淘綾郡の同年の漁獲高のほぼ半ばはここであげられていたことがわかる。さらに、前記周辺漁村からの集荷魚類を加えると、淘綾郡漁獲物の過半が大磯に集められていたことになる。いま、ここで採捕された魚類を季節別にみると(表二-三二)、ほぼ四五〇人前後の漁夫が、春から秋にかけては、鰺・鯖・鰹を追い、ついで冬季には、鯥や近海でキス・甘鯛・ホウボウ・ヒラメを捕り、さらに随時、鮪・イカ・鮫漁に従事することによって、年間を通して、絶え間なく漁業を行っていることがわかる。 小田原町は、一八八四(明治十七)年現在、戸数三一一九戸、うち三一六戸の漁家がもっぱら漁業によって生計を立てていた。 表2-32 1888(明治21)年大磯町漁獲物 注 『資料編』17近代・現代(7)より作成 小田原町漁民も、大磯町漁民とほぼ同様な形で年間漁業に従事した(表二-三二)。近海での網漁は冬季間(十一月-翌年四月ころ)に多く行われた。その主なものは平目網(七目網)漁で、漁夫三人乗の「大仲船」などで、浜から二〇町ばかり沖の二-一五〇尋の海底に晩方に建網を下し、翌朝これを引き揚げるもので、海底を通過しようとする魚は、張った網の目に頭を貫き捕獲される(『資料編』17近代・現代(7)五〇七ページ)。また、三-十二月の間は、網元・網子たちによって、浜で地引網が曳かれた。網元は、それぞれ三〇-五〇人ほどの網子をもち、浜から約八〇〇間の沖までの水域と約一〇間の浜とを用いることが許されていた(陌間次郎編『専漁の村』小田原市第一六区自治会万年公民館)。しかし、小田原漁民が主に従事し、小田原の漁業を特色づけるのは、とくに二-十二月にかけて、小田原沖から伊豆大島近辺・三浦沖・房総沖まで出漁する、「ヤンノー」船・「ズンドー」船による鮪延縄漁であった。「ヤンノー」船は、幅八尺五寸(約二・六㍍)、敷きの長さ三七、八尺(約二・二㍍)、七-九挺艪、二本の帆柱をもつ船で、約一〇名が乗り組んだ。「ズンドー」船は、四国・紀州方面で用いていたのを模したもので、幅九尺、敷きの長さ三五尺ほどの形状からその名が付いたのであろう。九挺艪で、帆は大帆・前矢帆・図2-4 ヤンノー船 『専漁の村』より 図2-5 ズンドー船 『専漁の村』より 肩帆を持っていた。これらは、波浪の高い小田原沖・遠海の漁猟に応じて、「ヤンノー」船では、ウネリの大きいところでも舵が利くよう、とくに舵を長くし、「ズンドー」船では、ミヨシを高く造っていた。しかし、小田原海岸は、浪高く、船溜りもない砂浜への漁船の日々の揚げ卸しには、漁師は寒中でも裸にならねばならぬほどの難業だったという。古新宿では、台風時には、船を浜から新宿の大路まで揚げるほどで、荒天で着岸できず、獲った鮪を三崎港などに陸揚げすることもしばしばであった(前掲『専漁の村』及び内海延夫編『鮪漁業の六十年-奥津政五郎の航跡』)。 この小田原の鮪漁業は、明治の初めころまでこの地漁業の中心をなしていた沖ギスの旅漁から発展したものとされる。小田原沖は、海底が急に四〇〇尋ほどの深さにまで深くなり、浜から近いところで、沖ギスのほか、ムツ・アコウ・クロ(オオヅシ・アブラウオ)などの深海魚がとれる。この沖ギスを原料として、蒲鉾製造が発展し、それがまた、沖ギス漁の範囲を次第に遠くに拡大し、鮪漁への転向を容易にしたといわれる(前掲『鮪漁業の六十年』)。そのため、小田原の万年町・古新宿・千度小路等の漁師は、上・中層の回游魚である鮪漁となっても、引き続き、キス漁に用いられたタテ縄(一人一本の糸に五〇本ほどの釣針をつけ、一鉢一〇〇-一二〇尋のものを一艘一五-二〇鉢つなぎ、全長二三〇〇-三〇〇〇メートルになるという)の曳き釣りが固守された。この点で普通の延縄が用いられた小田原周辺真鶴・酒匂・網一色村とは漁具・漁法を異にしている。タテ縄の曳き釣りは、漁師一人ごとが熟錬であれば延縄より多くの漁獲が可能となる。したがって、沖ギス漁の経験を持ち、漁業専業の小田原の漁師によってはじめてなしうることであった。また、このタテ縄を使用するときは、天候急変に際し、すぐ避難できる利点があった。しかし、これを操るのは、寒中晒木綿の肌襦袢一枚でも汗が流れたというほどの重労働であった(前掲『鮪漁業の六十年』)。小田原には、以上の地元漁民による漁獲物のほか、近在の漁村-東の山王原・酒匂村・西の早川・石橋・米神・根府川・江ノ浦・岩・真鶴・福浦の各村からの漁獲物が集められた。それらは、鉄道開通によって一部はそのまま主に横浜・東京へ送られ、一部は、当地で、鰹節(および鮪節)・塩辛・蒲鉾・ちくわ・はんぺん・乾物・塩物等に加工された上、やはり、東京・横浜さらには八王子・甲府・信州方面へ移出された。なお、上記の水産加工物は、おおむね、前述した同地での漁獲季節にあわせ、随時製造されていた(表二-三三)。また、小田原に集荷された鮮魚と水産加工品とは、荷造りされ、特約した荷馬車で国府津に運ばれ、そこで汽車に搭載され横浜・東京へ送られた。やや後年のことになるが、一八九八(明治三十一)年にあっては、午後九時二三分国府津発の貨物列車一台(一〇〇〇貫積載可能)を金八円で特約し、京浜へ送った(大漁の際はさらに一列車を借受ける)。このばあい、活発な産地にふさわしく、とくに鮮魚については、問屋・仲買人は、京浜と日々数回電報を往復し、さらに沼津・房州・三崎の漁獲いかんを見た上で買い入れ、輸送するなど、機敏な商取引がなされていた(『資料編』17近代・現代(7)五五)。 さて、その漁獲物をほとんど小田原へ販売する同地西方の漁村は、いずれも半農半漁(米神・江ノ浦・岩村などは採石兼漁業)の村であり、地先での定置網漁業(根拵網)を特色とする。 真鶴・福岡村の主張によれば、この地域の漁場は、もともと、地元の村がもっぱら占有利用する地付の海面と、近隣数か村が入会利用する「沖」と、相豆房総諸国漁民が入会利用する「灘」とに分かれていた。ところが明治二年(一八六九)二月、小田原藩から「御一新に付村々の分内を見通し漁業勝手仕つるべき」旨仰せ渡され、地元村による地先海面占有利用が認められ、上記海面への真鶴・福岡村の入会利用など「沖」の入会利用が否定されるにいた表2-33 小田原における水産加工品と魚類の製造・漁獲期(1898年) 注 『資料編』17近代・現代(7)553ページより作成 ったという。しかし、岩村のいうところでは、元来、海岸より三六間まではその村の地付海面で、その余は相豆房総諸国の入会場で、「沖」・「灘」の区別はないとする。また、地元村による地付海面利用は、難船・流物などの救助を受け持つ地元村への「御仁恵」として認められたものといっている。いずれにせよ、一八七五(明治八)年の政府による海面官有宣言以前に、小田原藩による地付海面は地元村利用との申渡しを機に、入会争論が起き、後年にまで続いている。すなわち、真鶴村は、後述のように根拵網張立ての創始村であり、また、従来から石橋村字仏石から伊豆山芦川下までの海面一帯を漁場としてきたと主張し、一方明治二年小田原藩申渡しに力を得た江ノ浦・根府川・米神・石橋・岩村は、新たに自らの地先海面への根拵網張立てを企画し、対立を激化させたのである。この争論の基底にあるのは、各村における根拵網の張立ての盛行であった。根拵網は、吉浜村の同村地先海面における根拵網を例にとれば、縦七〇〇間、横一七〇間、反別三九町六反余にわたって三月から八月の間設けられる大規模な建網で、これに数隻の漁船で、回游してくる魚群(主に鮪)を追い込み捕獲する。神奈川県の明治十二年甲第三号達「捕魚採藻営業税則」も、同網に対しては、「其事業広大ニシテ、且数日間張網シテ大ニ他ノ漁業ヲ障碍スルモノナレハ、第一条ノ外(漁夫乗組人数に応じ六等に分け、漁船に営業税を賦課する。その一等は一〇人乗以上で年税二円)更ニ左ノ通税納可致事」として一か所一季三〇円という多額の税を課している。この地域での根拵網張立ては、比較的新しく真鶴村がその創始である。 明治五年の訴状における岩村の言い分では、加賀の高田屋治助という者が、伊豆山般若院地先海面へ張立てたのが最初であって、それを真鶴村五味台右衛門が学び、同村へ張立て、その後ほかの村でも張立てるようになったので、真鶴村の創始ではないという。しかし、この地域での最初の根拵網張立てが、文政七年(一八二四)真鶴村五味台右衛門による同村字古網での設置であり、後に天保年間「村役人共同張」として真鶴村が最も早くからこれを行ってきたことは争いがたい事実である。真鶴村は、これを早川村字仏石から、伊豆山浦までの地先海面で、張立ての場所を転々と変えつつ、明治期にいたっていた。しかし、前述明治二年(一八六九)二月の海岸附村々一〇か村に対する小田原藩申渡しによって、明治二年には、「隣村岩村字大根崎へ旧来大網張立方の儀は多年の成功を以開業罷在候肝要の場所」であったのが、操業不可能になった。また、このとき福浦村も、吉浜村に使用金を支払い「吉浜村地先海面へ大網張立」てていたのが、以後設置不可能となった。このように、明治期に入ると根拵網漁を早くから行っていた村々の他村地先での設置が不可能となり、代わって、岩村・吉浜村などで自村地先での根拵網設置が新たに行われるようになる。岩村では、新たに自村字大根崎の「大網場所」に自村の根拵網を設け、明治五年真鶴村はこれを自村網場に差障りがあるとしてその移転を求めたが、岩村は、「別段に妨候程の場所にはこれ無く」とこれを拒み、県も岩村を支持したので、一八七三(明治六)年十一月には真鶴村も「岩村大根崎大網張立方御廃止願い奉り候儀は私共心得違にて各村おゐて張立候とも致し方御座なく」と、地元村での大網張立てを認めるにいたった(注(4)に同じ)。また、吉浜村では、一八七六年にいたって、自村地先海面に、根拵網張立てを開始し、以後、隣村福浦・門川村漁師総代人の承諾を得て、五年目ごとに根拵網営業願を県に提出し、認可を得て、三十年代以降もこれを継続している。こうして、明治以降、従来広く漁業を行っていた真鶴・福浦村の入会漁場を圧縮しつつ、これまで「農業或は山稼等にて新漁は相成らず」とされていた他の海岸附村々で、新たな根拵網設置による漁業への積極的進出が始まったのである。前述岩村の字大根崎での根拵網張立てに真鶴村が異論を唱えたとき、岩村は、もしこの網場を移転させると、「隣村江之浦を始め、先々順々に大網場所替いたさず候ては、相成らず」といっている。これまで根拵網を設けなかった地先村々があいついで地先にこれを張立てるにいたると、その場所は、たとえ自村地先であっても、魚の回游をめぐって隣村のそれと相互に密接に関わりをもつことになり、一村で勝手に場所を移動させるわけにはいかないようになった。そして、旧来の真鶴・福浦村の広汎な入会漁業は駆逐されていった。それまでの真鶴村は「沖の釣漁をば致し申さず、根付の漁業廻り」だけで、しかも「海岸根付の漁場とても当村(岩村)の五増倍」はあるといわれていたが、これによって、遠海の鮪延縄漁への進出を余儀なくされていく。岩村側の言い分によると、この頃の真鶴・福浦村は、他の海岸附村々に比し、漁職の者多く、ために入会漁場の減少によって生活が窮迫したというが、福浦村では、寛永ころから営んで来た石切職を、「漁業都合よろし」いため現在では休業し、明治四年(一八七一)で七〇〇〇-八〇〇〇両の漁獲高をあげており、また真鶴村では、石高は岩村と同じだが、さらに岩村の畑高二〇石ほども支配し、石切職六三人、廻船水主一〇〇人余(いずれも家族を含まず)、外に廻船持・商人も多く、漁職の者の割合はさほど大きくはない。難渋の度は他村も同様だといっているが(注(2)に同じ)、確かに他の海岸附村々でも生活の窮乏が、自村地先での根拵網設置へと狩り立てたのであった。この時期の吉浜村の職業構成をみると(表二-三四)、村全体としては半農半漁といえるが、内部では、自作農または地主で、その半ばは廻船業・諸商業を兼ねる層と、諸商・旅宿を営み土地をほとんどあるいは全く所有しない層と、漁業者とに截然と分かれている(なお、表には廻船に乗り組んでいる沖船頭・水主は脱落している)。そして、ほとんどの漁業者は農業を兼ねず(兼ねても零細な小作程度である)、主に根附の漁業に専念している。ここでは、根拵網設置以前は、地引網以外の網漁は全くなされていない。一方、この村で最も富裕な家は、表2-34 1876(明治9)-1878年の足柄下郡吉浜村の職業構成 注 1 *廻船は 神明丸 357石 乗組7人 太福丸 554石 〃 7人 不動丸 100石 〃 3人 2 1876年2月「書上控」,1878年7月ヨリ至12月「諸願伺届控綴込」足柄下郡吉浜村湯河原町役場蔵)より作成。 かなりの土地を持ち、漁業には直接関与せず、漁獲物の小田原への廻送をする廻船を所有・営業し、流通面から同村の漁業を支配している。そして、同村の根拵網設置は、これら富裕層がそれに要する多額の資本を拠出することによって行われたと思われる。こうして、以後東海道線開通によるこの地域漁業の発展は、漁民一般というよりは、これら廻船業者の繁栄をもたらしたと考えられる。 塩田の存続 近世に江戸地廻り塩業として形成された神奈川県の入り浜式塩田は、ほぼそのままの形で明治期にひきつがれた(表二-三五)。塩田は全体として五五町余にすぎないが、一八八七(明治二十)年ころまでは変わらず、以後もごくわずかずつ減少して、一九一〇(明治四十三)年、専売局の第一次塩業整備によって悉皆廃止される時に、まだ三七町余の存在がみられた(表二-三六)。塩の産額も、一八八四、五年、紙幣整理政策による不況が極限に達したとき激減したが、また回復し、一八九六(明治二十九)年からは塩価上昇によって、価額ではかえって増収となった。これらの塩田は、小規模で、明治期における産塩の生産費も金沢(泥亀新田・平沼新田・洲崎など)で、塩一〇〇斤につき一円六五銭で、坂出・赤穂・撫養・三田尻など十州塩の五三-六六銭と対比すると格段に高い(小沢利雄「東京湾沿岸の旧塩田と土地造成について」『日本塩業の研究』第八集 日本塩業研究会)。にもかかわらず、明治末まで神奈川県の塩田で製塩が行われていたの表2-35 1876(明治9)年現在神奈川県塩田反別 注 明治11年5月『神奈川県治一覧表』,なお『明治14年神奈川県統計表』も同一数値。 表2-36 神奈川県塩田反別・塩産額の変遷(1876-1910年) 注 『神奈川県統計書』より作成。1910(明治43)年は専売局「製塩地整理事蹟報告」により,塩1石=約10㎏として換算。 は、十州塩の東京への輸送費・輸送の際の目減りを加えると、両者の格差は著しく縮まるからである。とくに神奈川県の塩田には、すぐ近くに横浜や三崎などの漁村という塩需要地が控えていたので、輸送費は無視することができる。これらの塩田の多くは、新田とともに内湾あるいは入江に開発され、新田を波浪から守る役割を果たすとともに、ここからの収入は、地先海面での海苔養殖などとともに、関係農家の農業収入の補いとなっていた。このような性格が、塩の市況にかかわらず、長くこれら塩田を存続させていったのであろう。 注 (1) 一八八三年十月十一日「歎願書」城ケ島村漁夫総代、および三崎町漁夫総代の各通 三浦市役所蔵。 (2) 明治五年十月「相模国足柄下郡真鶴村福岡村両村江相掛り候海面入会漁業出入追願書」岩村 湯河原役場蔵。 (3) 神奈川県教育委員会「相模湾漁撈習俗調査報告書」(一九七〇年)小田原市米神・江の浦の部、真鶴町真鶴の部。 (4) 一八七三年十一月「乍恐以書付奉歎願候」真鶴・福浦村小前惣代 湯河原町役場蔵。 第二節 在来工業の展開 一農村工業と都市雑工業の勃興 明治前期の県内加工業 明治初期の各種の物産統計によれば、現県域に属する旧相模国全域と旧武蔵国三郡(橘樹・都筑・久良岐)は、もともと商工業化のあまり進んでいなかった地方であった。たとえば内務省勧農局編『明治九年全国農産表』によれば(表二-三七)、相模国の農産額は、穀作物を中心とした一人当たり普通農産額で全国平均をやや上回ったものの(三円六八銭九厘に対して四円九銭四厘)、商業作物を中心として特有農産額でこれを下回り(一円四三銭九厘に対して一円一八銭)、一人当たり生産額で全国平均を上回ったのは、繭(一六銭八厘に対して二九銭八厘)、生糸(二六銭七厘に対して四八銭二厘)、漆汁(一厘に対して二厘)、葉煙草(三銭一厘に対して一六銭七厘)のみであった。また、普通農産額についても、一人当たり米生産額が全国平均をはるかに下回り(二円七三銭に対して一円九二銭四厘)、これをカバーしたのは麦・大豆・雑穀・芋類などの畑作物であった。要するに明治初期のこの地方は、麦・雑穀を主体とした古くからの関東農村の特徴を、まだ多分に残していたということができるのである。 このような特徴は、前記武蔵国三郡を加えた現県域全体にも、ほぼそのまま当てはまった。たとえば『明治十一年全国農産表』によれば(表二-三八)、現県域内に属する地方が一人当たり生産量で全国平均を上回ったのは、麦・雑穀・芋類・繭・葉煙草の五品目のみであり、ほかは米・実綿・菜種・茶などの主要作物をはじめとして、いずれも全国平均を下回った。そして、表2-37 日本全国および相模国農産額 1876(明治9)年 (普通農産の部) (特有農産の部) 注 1.内務省勧農局『明治9年全国農産表』および人口については太政官統計院『統計年鑑』(第1回,明治15年3月刊)により作成。 2.表中・印は,全国水準を上回るものである。 表2- 38 人口千人当たり田畑面積・生産額等 注 1 『明治11年全国農産表』『明治12年1月1日調 日本全国郡区分人口表』『日本帝国統計年鑑』『農商務統計表』および『神奈川県統計書』により作成。 2 表中の神奈川県には多摩郡がふくまれていない。 3 表中・印は全国水準を上回るものである。 生糸も生産量の少ない武蔵国三郡が加わると、全国水準を下回ったのであった(一〇・一匁に対して六・一匁)。こうした点からすれば当時この地方は、製糸地帯というよりむしろ養蚕地帯の色彩が強かったといわなければならないのである。 しかし、このような後進的な特徴は、明治十年代を通じ、海外貿易と横浜港の発展によって、急速に変化しはじめた。わが国最初の鉄道によって首都と結ばれ、出入国と海外貿易の玄関となった横浜は、その商業活動を通じて人口流入の強い磁石となった。そして、一八七八(明治十一)年七月公布の「郡区町村編成法」によって、久良岐郡から分立して横浜区となり、また、一八八九年四月には、「市制・町村制の施行」によって横浜市に昇格した。そして、その人口も、一八七九年一月一日現在の四万六一八七人から、一八八七年十二月末には一一万四九八一人と急増し、県内郡区中の筆頭となったのである。 このような横浜の成長とその基礎となった海外貿易の発展は、周辺地域に新しい変化を呼びおこした。まず、横浜とこれに隣接する久良岐・都筑・橘樹郡などでは、居留外国人や貿易関係の各種の需要をみたす、零細な雑工業(印刷・製靴・マッチ・石けん・煉瓦石・七宝・茶箱製造・花火・製米・製粉・ビールなど)が簇生した。また、輸出品の中枢を占めた生糸貿易の発展は、高座・津久井・愛甲・都筑など内陸地方の製糸業を刺激し、その生産量を著しく増大させた。その結果、一八八七年の県内一人当たり生糸生産量は、一八七八年の六倍強(六・一匁から三七・四匁)となり、全国平均(一人当たり二六・七匁)をはるかに凌ぐことになったのである。また、絹織物・綿織物やその原料糸の製造(撚糸業)も、愛甲郡(撚糸・絹織・綿織・絹綿交織)・津久井郡(撚糸・絹織)・高座郡(絹織・綿織)・足柄下郡(綿織)などで進み、津久井郡中野村(現在津久井町中野)、同川尻村(現在 城山町川尻)、高座郡上溝村(現在相模原市上溝)、愛甲郡荻野村(現在厚木市荻野)、同半原村(現在愛川町半原)などに、繭・生糸・織物などの定期市が相ついで出現した。また大住・足柄上郡を中心に、以前から行われてきた煙草製造業もさらに発展し、二十年代初頭には人力から水力への切換えも進むことになったのである。 二 製糸・撚糸および織物業の発展 製糸業の勃興 先にふれたように明治十年代初頭の神奈川県(ただし、多摩郡を除く)は、一人当たりの繭生産量で全国平均を上回ったが、生糸はこれを下回り、八王子周辺地域に原料繭を供給する繭生産地帯の色彩が強かった。しかし、横浜の生糸貿易の発展は、この地方に大きな影響を及ぼし、明治十年代を通じて、その生産量を飛躍的に増加させた。いまその推移を見れば表二-三九の通りであり、一八八七年の生産量は一八七八年の七・七倍に増加した。なかでも津久井郡の増加率は約三六倍にものぼり、愛甲・高座を加えた三郡で、総生産量の九三㌫余を占めることになった。また、占有率の点ではまだ微小とはいえ、大住郡・足柄上郡もかなり高い増加率を示し、三郡から周辺地域への外延的拡大も始動しはじめていた。 しかし、この時期の県内製糸業は、まだ座繰方式による家内工業が支配的であった。たとえば一八八六(明治十九)年四月の津久井郡川尻村の資料(表二-四〇)によれば、蚕糸関係戸数三四四戸のうち三分の二以上に当たる二五四戸が、養蚕・製糸を兼営し、専業経営はそれぞれ五戸と五九戸にすぎなかった。一八八六年の川尻村総戸数はつまびらかでないが、『築井文化』第五号(昭和四十二年三月津久井郷土研究会)所収の「城山町歴史年表」によれば、一八七六年 四一四戸(「租税及諸費取立帳」)、一八八九年 四一九戸(八木七之助筆記)となっているので、一八八六年のそれもほぼ四一五戸前後とみてさしつかえないであろう。とすれば当時この村では、総戸数の約八三㌫(三四四戸)が蚕糸関係の営業(おそらく農間余業)に従事し、更にその三分の二以上(総戸数の約六一)㌫が、養蚕・製糸の兼業経営だったということができるのである。 このような数字は、自家製の繭を自家で繰糸する、零細な家内工業の広汎な存在を推測させる。また、製糸戸数が三二〇戸(蚕糸関係戸数の九三㌫、総戸数の七七㌫)にのぼったという事実も、その大部分が小農民の農間余業だったことを示すものといえよう。なお、前記梶野家資料にはこのほか、小倉村・鳥屋村・中野村・三ケ木村の分がふくまれているが、その従業様式はいずれも川尻村のそれと大同小異であった。 しかし、このような農間余業の広汎な存在のなかで、周辺の農家の子女を雇用する作業所もあらわれはじめていた。『明治十四年神奈川県統計表』に始まり、一八八四(明治十七)年以降ほぼ毎年刊行された県統計書には、『大正二年神奈川県統計書』まで、県内の主な企業名が記載されている。それによれば現県域内の各地には、明治十年代から二十年代初頭にかけて、表2-39 明治10年(1877)代の製糸業の発展 注 『明治11年全国農産表』および『明治20年神奈川県統計書』により作成。ただし『全国農産表』では斤数で表示されているが,1斤=160匁で換算した。 次のような製糸場が現われていた(表二-四一)。 いずれも数人から数十人の労働者を雇い、改良座繰ないし簡単な器械設備を備えた、手工業的な作業所(マニュファクトリー)と考えることができよう。所在地のうち高座・愛甲・津久井の三郡は、前述のように一八八七年の県内(多摩郡を除く)生糸生産量の九三㌫余を占めた地域であり、また、大住・足柄上郡は急速に生産量を伸ばし始めた地域であった。いいかえればこれらの地域では、十年代を通じる小農民的製糸業の普及のなかで、こうした作業所経営もいくつか出現しはじめていたということができるのである。 ところで表二-四一によれば津久井郡には、三ケ木村と根小屋村に斎藤六兵衛製糸場と久保田製糸場がそれぞれ現われているが、比較的資料が整っているのは後者である。それによれば経営者の久保田(喜右衛門)家は、江戸時代初期から同郡串川沿い表2-40 津久井郡川尻村蚕糸営業種目および戸数(1886年) 注 「明治19年4月20日 蚕糸業目及人名取調 津久井郡川尻村」(津久井町 梶野中家文書)により作成。○印は従事している業目を示す。 の山間部に居住し、山林経営と木材・薪炭などの江戸売りのほか、後期以降、絹の買継ぎや醸造などによって蓄積を進めた地主・問屋商人であった。そして、明治初期からは、八王子・日本橋・京橋・神田などに相ついで店舗を設け、絹織物の直売に従事するとともに、十年代には居宅前の串川沿いに作業所を設け、水車動力による製糸場経営に着手することになったのである。その作業状況は、一八八八年以降、『生糸検査帳』(『資料編』17近代・現代(7)五七-五八)のなかに、各人の生産量のほか、糸目の出かた、糸の太さ(デニール)、光沢などにわたって、日計のかたちで詳しく記帳されている。それによれば繰糸に従事したのはすべて婦女子(おそらく近隣の農家の)で、賃金は出来高制に賞罰制(糸目・デニール・光沢による)を加味したものであっ表2-41 明治10年(1877)代-20年代における製糸場 た。生産量は一八九〇年の場合、四月二十一日から十二月十日までで二六三貫六八五匁三分にのぼった。『第六次農商務統計表』(明治二十四年十二月刊)によれば、神奈川県における一八九〇年の器械生糸平均相場は、一〇〇斤当たり六九一円だったので、右の生産量はおよそ一万一三八八円、当時の県内平均米価で換算すれば、約一二六一石余の米に相当したものということができる。なお、前記『第六次農商務統計表』には、一八九〇年現在の同製糸所の概況が掲載されているが、それによれば当時の規模は、資本金三五〇〇円、株主九人、職工六五人、水車一(三馬力)、蒸気機関一(一五馬力)であった。しかし、それでもなおその生産量は、一八八七年の津久井郡生糸生産量(一万二四〇八貫)の二㌫程度にすぎず、農間余業的製糸業をおびやかすには程遠い存在であった。いずれにしても当時の県内製糸業は、大部分小農民の農間余業的な労働によってささえられていたとみてさしつかえないのである。なお、一八八六年に設立された高座郡の漸進社は、主に周辺農民の座繰糸の仕上げ(揚返し)や共同出荷のために設けられたもので、繰糸を目的としたものではなかった。同郡座間村の光明社も、おそらく同種のものとおもわれる。明治十年代は輸入防遏、輸出増進のために勧業博覧会や共進会がさかんに開催された時期であった。製糸業の分野でも粗製濫造の防止と糸質改良のため、糸繭共進会(第一回横浜 一八七九年)や品評会が各地で開催され、県内でも八王子に、一八八三年六月、武相蚕糸改良協会が設立された。右の漸進社や光明社は、このような環境のなかで共同揚返所を設け、周辺農家で生産された座繰糸の改良を進めたのであった。 撚糸・織物業の発展 製糸業の勃興と工程の改良が進むなかで、愛甲郡・津久井郡などで江戸時代から行われてきた撚糸業や織物業も発展の気運を迎えた。半原撚糸協同組合編『半原撚糸のあゆみ』(昭和四十七年)によれば、山間部のこの地方は江戸時代初期からの蚕場で、農間には婦女子の製糸が行われてきたが、中期以後は紬(川和縞)その他の着尺織物の生産が始まり、また、文化・文政期には撚糸を原糸とする博多織の技術と八丁式撚糸器が桐生から導入された。なかでも撚糸業は、近隣の八王子市場や渓谷の適当な湿気と水力に恵まれて、次第に発展し、天保期には八軒の業者を数え、嘉永期には水車動力も利用するようになったといわれている。 明治前期の模様はつまびらかでないが、旧幕時代からの蚕糸・織物業や撚糸業の発展が進んでいたことは、残存資料によってある程度うかがうことができる。たとえば明治五年(一八七二)一月の「半原村明細書上帳」(愛川町新井義家文書)には、「農間蚕織物之儀は太織縞織申候」とあるし、また、『皇国地誌』には隣村の田代村や三増村の部に、次のような物産が書き上げられている(一八七六年一月一日調)。 田代村 生糸 四二貫匁(一六八〇円) 絓糸 一五貫匁(一五〇円) 繭 一三五貫匁(六七五円) 木綿縫糸 五貫五〇〇匁(一一円) 木綿織糸 四貫匁(八円) 博多帯地 二五〇筋(二九〇円) 木綿織物 一八〇反(一三五円) 三増村 繭中等 四九二貫七五〇匁(一四七八円二五銭) 同下等 一九六貫四〇〇匁(四九一円) 大繭中等 四九貫二七五匁(一六四円二五銭) 同下等 三九貫二八〇匁(九八円二〇銭) 生糸上等 八八貫六九五匁(二五三四円七〇銭五厘) 同中等 二三貫五六八匁(六三六円九六銭四厘) 熨斗糸 三二貫四九三匁(二七〇円七六銭七厘) 玉糸上等 一二貫三一八匁(一五三円九五銭三厘) 同中等 八貫六四二匁(一〇八円二銭五厘) 皮剝糸 五貫六一三匁(一四円三銭五厘) 木綿織物 三五〇反(二六二円五〇銭) 熨斗糸織物 五〇反(七五円) 他方、明治十年代から二十年代初頭の現地資料のなかには、「紡績水車設置願」や水車設置にともなう隣人への念書、「糸より屋敷借用証」など、撚糸関係の資料もいくつか残存している。このうち、「紡績水車設置願」は、撚糸用水車設置のための水路新設と水利用の許可を県に願いでたものであり、また、隣人への念書は、隣人の水利を侵さないことを誓った誓約書であった。後者の内容は『資料編』17近代・現代(7)六四にも収録されているので、ここでは、前者の例を紹介してみたいとおもう。紡績水車設置願 字馬渡 三十七番民有地第一種 宅地反別七畝拾八歩ノ内 相模国愛甲郡愛川村半原 一紡績水車場 壱箇所 願人 大貫作右衛門 此水車壱輌 差渡八尺 但水路樋口 竪五寸 横六寸 平常水深四寸 此紡績器械三組 右者馬渡沢水ヲ引用ヰ水車設置仕度、尤該流ハ本村半原字馬渡山ヨリ流出シ、同字ニ於テ中津川砂礫中ニ注入スルモノニシテ、村内ハ勿論、水下村方ニ於テ故障筋無御座候間、御許可相成度、連署ヲ以テ此段奉願候也 明治廿三年六月二日 設置願人地主 大貫作右衛門㊞ 隣地々主 大貫海蔵㊞ 水路関係地主 大貫作兵衛㊞ 同 小林千代松㊞ 愛川村長 新井定兵衛 神奈川県知事浅田徳則殿 農甲第四百六十七号 書面願之趣聞届候事 明治二十三年九月十二日 神奈川県知事浅田徳則㊞ 右によればその設備は、水車一輛に撚糸器三組を連結して作業を行うものであった。当時の「糸より屋借用証」や「金子借用証」によれば、撚屋の規模は間口二間半(約四・五㍍)、奥行四間程度のものが多く、撚糸器はいずれも八丁式であった。また水車の直径は次第に大きくなり、明治三十年代には九尺五寸(約二・九㍍)、大正期には一丈二尺(約三・六㍍)の大型のものもあらわれた。操車法は当初平坦地の流水を利用した「腰かけ」が主であったが、後には立地上「上がけ」のものもあらわれた。 他方、経営形態は江戸時代から「糸屋と賃撚り屋の二つのかたち」をとり、自己の原料にみずから加工し販売するという業者はきわめて少なかった(前掲『半原撚糸のあゆみ』)。このことは明治期においても同様であり、当時の資料もこうした経営形態が根強く存続したことを示している。表二-四二は明治二十年代初頭に作成された糸屋の手控え(「撚糸控」)を整理したものであるが、この場合も撚加工はすべて賃撚りのかたちをとり、原糸の種類と重量、撚加工の種別に応じて一定の工賃が賃撚人に支払われている。帳末の書き込みによれば、この賃撚人は糸屋の借家人だったようであり、年末の支払工賃二円四四銭九厘のうち、四四銭九厘が十二月分の家賃として徴収され、「差引金五銭一厘家賃不足」と記入されている。半原撚糸協同組合編『半原撚糸のあゆみ』によれば、一般に糸屋は、こうした賃撚人を数軒ないし十数軒かかえ、両者の関係も「親方、子方の関係」が強かった。また「糸屋は、原料となる武相産生糸を、八王子・厚木・上溝・原町田・中野などの市へでかけ、現金取引きで買いつけ……それを自家工場で加工するとともに、賃撚り屋に撚らせ、撚り糸、練り糸として需要地に出荷」した。右の糸屋の場合にも、たとえば「明治廿六年生糸仕入帳」には、「六月廿五日厚木市仕入、七月一日厚木市仕入、七月五日厚木市仕入、七月七日川和市仕入」等の記述が随所に見受けられる。いずれにしても当時の撚糸業は、こうした糸屋と賃撚人による、問屋制家内工業のかたちをとって発展を続けたと考えることができるのである。 表2-42 賃撚りと工賃(1888年9月-12月)-愛川町半原の一例一 三 煙草製造業 秦野煙草の発展 すでにふれたように『明治九年全国農産表』によれば、当時の相模国は葉煙草の一人当たり生産額において、全国平均の五倍以上の実績をあげていた。その理由はいうまでもなく同国中部の秦野地方が、江戸時代以来、有力な煙草生産地となっていたからであった。『神奈川県統計書』、『日本帝国統計年鑑』などの統計書によれば、同地方の葉煙草の生産は、その後も表二-四三のように、全国の伸び率をはるかに上回るテンポで増加した。そして、これにともなって刻み煙草の加工業も、さらに発展することになったのである。 『資料編』17近代・表2-43葉煙草生産高 注 1878年は『全国農産表』。他は『神奈川県統計書』『日本帝国統計年鑑』により作成。 1878年の生産高は1斤=160匁で貫高に換算した。 表2-44 足柄上郡東部の煙草収穫・製造・販売概況 現代(7)第二編第三章には、明治十年代から四十年代にわたる、同地方の煙草製造関係の資料が収載されている。いまこのうち足柄上郡東部の模様を伝える「明治十九年 煙草収穫・製造・販売概況」(資料番号一00)を引用すれば表二-四四の通りであり、現在大井町にふくまれる篠窪・山田・栃窪・柳・赤田・高尾の六か村では、当時約一万貫の葉煙草を収種し(作付面積約四〇町歩)、約四〇〇〇貫の刻み煙草を村内で製造した。他管内との取引高は移入が約三〇〇〇貫、移出が一万二六〇〇貫表2-45 煙草製造所 注 記載事項は初出の『神奈川県統計書』による。 にのぼった。移出高のうち刻み煙草は約四〇〇〇貫だったので、他は葉煙草のまま移出されたものとおもわれる。移出先は横浜と横須賀であったが、『神奈川県統計書』には、当時横浜に荒波煙草製造所(明治四年十一月設立)、小糸煙草製造所(明治十六年七月設立)などの名前が見えるので、秦野地域からも葉煙草の買付けを行ったものと考えることができる。 他方、村内の製造人(加工業者)は、一八八七年八月現在、柳村を除く五か村に計一一人いたが、翌一八八八年六月には二三人に倍増した。また、彼らに雇用された刻み煙草の賃切人は、一八八七年三月現在、右六か村合計三九人にのぼったが、うち二九人は自宅賃切人で、製造所で働く賃切人は一〇人に過ぎなかった。また製造所の規模も三坪(約九・九平方㍍)ないし一二坪という小規模なもので、使用された刻み用具も、四組を越える製造所は皆無であった。こうした点からいって当時の生産形態は、少数の被雇用者が経営者ないしその家族とともに働く作業所と周辺の賃加工人を組みあわせた、初期マニュファクチュアに近いものだったとみることができよう。明治十年代に使用された用具は、「ゼンマイ」と呼ばれた足踏み刻み器械が主流であったが、二十年代初頭には人力にかわって水車が導入され、急速に普及した。また、これにともなって経営規模も拡大し、二十年代なかばには、十数人の職人を抱える製造所が多くなった。表二-四五は当時の『神奈川県統計書』に見える製造所を列挙したものであるが、ほぼ一〇人-二〇人の職人を抱え、マニュファクチュア経営として成熟期を迎えつつあったことを物語っている。 四 醸造業 醸造高の推移 明治前期の酒類の醸造高は、全国的に下降線をたどったが、神奈川県でも同様であった。また、醤油の醸造高は全国的にかなり増加したが、神奈川県はほぼ横ばい状態であった。全国の醤油醸造高が増伸したのは、都市人口の増加と自給的醸造の減少によるものとおもわれる。他方酒類は、紙幣整理期(一八八一-八五年)の不況と増税(地方税・酒造税など)の影響をもっとも強く受けたものと考えることができよう。神奈川県の醤油醸造高が伸びなやんだのは、おそらく野田・銚子など、利根川・江戸川流域の製品の進出によるものとおもわれる。 ところで『日本帝国統計年鑑』や『神奈川県統計書』によれば(表二-四六-二-四八)、この時期の神奈川県の醸造高は、酒類の場合、全国平均よりはるかに低く、醤油の場合はかなり高かった。これは本県の農業が、もともと麦・大豆・雑穀などの畑作を基調とし、米の生産量において全国水準をはるかに下回ったことと軌を一にするものであり、いわば関東農村の共通の属性であった。要するに明治前期の本県は、酒生産県というより、むしろ醤油生産県に属したといってさしつかえないのである。 県内の産地 しかし、このような全県的な特徴は、郡別にはかなりの偏差をもってあらわれる。表二-四九は一八八七年現在の醸造高を郡別に表示したものであるが、これによれば人口一人当たりの醸造高は、酒類の場合県北および県西部の津久井・愛甲・高座・足柄上・足柄下・淘綾の諸郡が高く、醤油の場合は橘樹・足柄下の東西両郡と、北部の津久井・愛甲両郡が高くなっている。このような地域的分化をもたらした背景には、いろいろな要因があったものとおもわれるが、ひ表2-46 酒類醸造高の推移 注 『日本帝国統計年鑑』および『神奈川県統計書』により作成。表中の神奈川県には多摩郡がふくまれている。 醸造高には自家用料醸造高がふくまれていない。業者数のうち1882年度は醸造場の数である。 表2-47 醤油醸造高の推移 表2-48 1887年度酒類・醤油醸造高比較 注 『日本帝国統計年鑑』および『神奈川県統計書』により作成。ただし表中の神奈川県には多摩郡がふくまれていない。 酒類の生産高には自家用料醸造高がふくまれている。 とつの共通の要因として、水の問題を指摘できるようにおもわれる。いうまでもなく丹沢山塊や多摩丘陵の辺縁部は、良質で豊かな水資源に恵まれた地域であった。また、多摩川・相模川・酒匂川などの河川も、酒・醤油などの輸送に好都合だったと考えることができよう。北総地方の醸造業が、利根川・江戸川などの水運と密接な関係にあったことは、よく知られている通りである。いずれにしても良質な醸造用水と水運の便が、この場合欠くことのできないものだったと考えることができるのである。なお『資料編』17近代・現代(7)には、当時の県内醸造業関係の個別資料が収載されているが、それによれば一八七三(明治六)年の淘綾郡の酒造はすべて濁酒で、六名の酒造人の免許高も一率五石という零細なものであった(資料番号八七)。これに比べると北部の酒造業はかなり大きく、愛甲郡田代村大矢源吉家の一八七九年度造石高は清酒二三四石、表2-49 1887年度県内各郡酒・醤油醸造高 注 単位は石。 『神奈川県統計書』により作成。 表2-50 上田家醤油販売高 注 「醤油仕籠簿」により作成 焼酎七石八斗余にのぼった(資料番号九一-九二)。また、やや時期がさがるが、津久井郡の「明治二十一年度 所得金高調書」(前掲梶野家文書)によれば、根小屋村久保田喜右衛門家の同年の造石高は、約三九五石(免許税三〇円、酒造税一石四円、計一六一〇円二八銭三厘)にのぼっている。なお、明治十六年十二月布告第六一号によって酒造税則が改正され、造石税が一石二円から四円に引き上げられたほか、新規開業者については造石最低限が定められたので(清酒一〇〇石以上、濁酒一〇石以上など)、以後業者数とりわけ零細業者の数が急減することになった(表二-四六)。しかし、それまでは淘綾郡に見られたような零細業者が、中小業者の周辺に広く存在したと考えることができるのである。他方、醤油醸造業は、前述のように橘樹・津久井・愛甲・足柄下郡が主産地であったが、とくに橘樹郡は多摩川の水運に恵まれ、明治十年代には、年間七〇〇石以上の製品を販売するかなり大きな業者も現われた。いまそのうち上田(忠一郎)家の販売高を紹介すれば、表二-五〇の通りであり、一八七四年以後の一〇年間は、八一年を除いて毎年七〇〇石前後の販売実績をあげた。しかし、紙幣整理の原資捻出のため、醤油税が設けられた八五年以降急速に減少し、九〇年は一〇〇石を割ることになったのである。その理由はつまびらかではないが、前述のように、このころから急増しはじめた北総地方の製品の圧迫によるものではないかとおもわれる。本県全体の醸造高が一八九〇年以降急減しはじめたのも、同様の理由によるものとおもわれるのである。 上田家の「第三号醤油仕籠簿」(1874-1892) 上田安左衛門氏蔵 表2-51 各業種別企業概要 五 雑工業 横浜周辺の加工業 海外貿易と横浜の発展にともなって、内陸各地で製糸業や煙草製造業などの工業化が進みはじめたころ、横浜周辺では居留外国人や海外貿易に関連した各地の雑工業が勃興した。その業種は印刷・製靴・マッチ・石けん・ビール・ポンプといった新来のものから、精米・製粉・茶箱製造・七宝・花火など多岐にわたった。しかし残念ながら、その企業内容を伝えるような資料は、これまでほとんど発見することができなかった。よってここでは、さしあたり『神奈川県統計書』に記載された企業名と企業概要を列記し、後考をまちたいとおもう(表二-五一)。典拠となった統計書は、『明治十四年神奈川県統計表』と、一八八四(明治十七)年から一八九三年までの『神奈川県統計書』である。 第三節 近代工業の形成 一 幕末期の工業 黒船来航と浦賀造船所 嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、四隻の軍艦を率い、突如浦賀へ来航し開国を要求した。蒸気船二隻、帆船二隻より編成された艦隊は、いずれも真黒に塗装された黒船であり、欧米の近代産業技術を象徴する浮かぶ城であった。この黒船出現以来、日本は政治経済にとどまらず、産業技術の上にも大きな影響をうけ、新たな激動の時代へはいったのである。 黒船の威力に接した日本国内では、海防論議が沸騰し、軍艦建造によって国防を果たそうとする建議が次々に行われ、幕府は同年九月十五日に至り、二〇〇余年来施行してきた大船建造禁止令を解除した。泰平の夢を貧っていた日本では、近代的な軍備も必要なかったし、事実なんの施設もなかった。幕府諸藩とも一隻の軍艦も持っていなかったが、このとき以来国防科学意識が芽ばえ、黒船を国産化する動きから、近代西洋産業技術を移植する過程が始まった。 幕府は、みずから同年十一月に早くも浦賀に造船所を設け、翌年五月には鳳凰丸を建造した。この地を選んだのは、浦賀が江戸湾の入口にあるので、黒船が渡来すれば接触する機会が多く、それに似せた船を造るのに好都合とおもわれたからである。設備は簡単なもので、海にそそぐ谷川を利用し、渠溝を掘り、その溝口を粘土でふさぎ手動ポンプで排水し乾船渠とした。完成した船は、船首が鳳凰の像で飾られ、船長一〇七㌳(一㌳は三〇・四八㌢)、幅三五㌳、深さ一五㌳でかなり大きい。船体構造を肋骨と外板・内板張とで構成し、下半部を銅板で包むという本格的洋式構造を採用している。その他帆装・諸道具・備砲などの艤装もされ、いかりやろくろも洋式と和式とを併用するなど、黒船を直接見聞できる地の利を随所に生かしていた。しかし、見様見真似で造ったので、実際に走らせると、順風のさいは帆走ができたが、風雨にあえば潮の流れのまま漂流する始末で、実用的とはいえなかった。浦賀造船所においての建造は、この一隻のみにとどまり、そののちは修理所に使用され、遣米使節団を乗せ太平洋を横断することになる咸臨丸を修理したのはその一例であるが、大造船所に発展せずに終わった。 石川島造船所の設立 水戸藩主徳川斉昭は、かねてから海防の重要性を熱心に説き、蘭学者から砲術や軍艦建造法の知識を学ぶと、船大工に小型の洋式帆船やその雛形を造らせ、隅田川に浮かべ、世人の啓蒙に努めた。斉昭の警告どおり、ペリーの来航が現実となって国産による大船建造が必要となると、老中阿部正弘は徳川斉昭に洋式船建造を依頼し、費用は幕府負担で造船所を設立させた。 嘉永六年(一八五三)十二月、水戸藩は隅田川の河口に立地し水上交通の便利な石川島の地を造船所敷地に決め、翌嘉永七年一月から木造帆船のバーク型軍艦旭日丸の建造に着手した。蘭学者鱸半兵衛を建造主任にして蘭書をたよりにしたが、鱸がモデルにした大船は一九世紀中葉のものではなく、一七世紀初めの東インド会社の船型であった。建造には苦心し、費用も予想以上にかかり、幕府の勘定所は中止を具申するほどであった。阿部正弘の強い支援で建造はなんとか続行されたが、途中しばしば中断し、オランダ人技術者の助言を仰いだりして、安政三年(一八五六)五月に二年がかりで完成した。旭日丸は長さ七九㌳、幅三二㌳、深さ二四㌳、約六〇〇トン余の大船で船体は堅牢ではあったが、復原力の計算に失敗したため、風波のある海上を航行することができず、船首の吃水が船尾より深く操縦が容易ではなく、ようやく静水に浮かんだのである。世人は旭日丸と呼ばずに、厄介丸と罵称した。鎖国時代の二世紀余の長い空白期間があって、造船技術を知らず、目分量ではかって外型だけを模倣したのであるから、止むを得なかったといえよう(石川島重工業株式会社編『石川島重工業株式会社一〇八年史』)。 佐賀藩と薩摩藩 佐賀藩は、長崎に近く、英明な藩主鍋島閑叟のもとで西欧文化の吸収に熱心であり、全国にさきがけて嘉永三年(一八五〇)十月に蘭書をもとにして、洋式砲鋳工場を設立、反射炉を築造し、自前で大砲鋳造ができるまでになっていた。大船建造禁止令の解禁とともに小蒸気船や軍艦の輸入をオランダ人に依頼し、さらに鍋島十左衛門らに命じ蒸気船建造のため三重津付近に造船所を設置しようとした。安政三年(一八五六)には蒸気船用機械をオランダへ発注し、その到着とともに造船を行う予定であった。オランダ人から造船所の設置や職工の養成などについて教示を受けて準備をしたが、いよいよ実施のとき、三万両の予定資金では間に合わず、工場建設や運営には一二万両というぼう大な資金を要することがわかった。当時の藩財政では捻出できないため、入荷したオランダ製の機械類をもてあました末、幕府へ献上してしまった。幕府はのちにこれらの機械を横浜・横須賀両製鉄所へ転用するのである。以後佐賀藩は造船より造機へと関心を向けたが、それでも慶応元年(一八六五)木造外輪汽船凌風丸を三重津で建造し、先進藩の面目を示している(秀島成忠『佐賀藩海軍史』)。 薩摩藩は洋式海軍の創設にもっとも意欲的であり、琉球防衛という名目で黒船来航の一か月前には、阿部正弘の了解を得て、解禁令以前に、桜島で武装帆船(琉砲船)の建造を始めていた。日本では黒船来航のときにはただこの一隻の大型帆船がつくりかけられていたのであり、すぐに洋式船に模様替えされ、翌年三月完成し、以呂波丸と名づけた。 島津斉彬は嘉永六年十一月、洋式帆船一二隻、蒸気船三隻から成る艦隊の建造を企て、幕府の許可を得て翌年七月桜島で四隻を同時に起工し、安政二年春には完成した。また、以呂波丸より一か月遅れて進水した昌平丸は幕府へ献納され、鹿児島から江戸へ無事回送された。長さ九〇㌳、幅二四㌳、深さ一八㌳、一六門の大砲を装備した三本マストのバーク型帆船であり、回送後、藩主の斉彬と老中阿部正弘が試乗し、江戸の話題となった。このように帆船は実用になるものを造ることはできたが、蒸気船を造ることは不可能に近かった。舶用機関についての知識はなにもないし、それらを製造する機械類もなく、翻訳された蘭書を手がかりに舶用機関を造ろうとしても、ネジ類やボルトを製作したり金属板に穴をあけることに難渋し、仕事は容易に進まなかった。嘉永七年夏、長崎に入港したオランダ軍艦スームビング号(翌年幕府に献納され観光丸と改称)に、薩摩藩の集成館で蒸気船建造を担当していた市来四郎や蒸気工の阪元与市らが実地見学に乗り組み、エンジンやその図面を見て蒸気軍艦全体の構造などを学んだとき、蒸気船を自力で建造することが不可能であることを自覚させられた。結局、蒸気艦の建造を思い切りよく断念して、薩摩藩はオランダなどから買い入れる方針へと転換してしまったので、薩摩藩の帆船軍艦は、昇平丸(昌平丸の旧称)を加えても五隻で終わった(公爵島津家編集所『薩藩海軍史』上)。 戸田の君沢形建造 鎖国時代を通じて日本古来の大和船の建造技術の蓄積がある程度みられたにせよ、和船とは造船技術の系譜を異にする洋式造船業を習得することは難しかった。邦人が黒船を実際に見聞したり、オランダの造船書を翻訳してその図面をモデルに洋式艦船を造りあげても、外観だけの模倣に終わり大きな限界があった。そのような折、先進国の技術に偶然接触し、習得する機会が訪れた。これが伊豆国戸田村における君沢形の建造であった。 ペリー来航の翌月、長崎へ来航して通商を迫ったロシア使節プチャーチン中将は、翌嘉永七年十月伊豆の下田へ入港し再交渉を求めた。たまたま十一月四日、大地震が伊豆一帯を襲い、津波がプチャーチン座乗の新鋭艦ディアナ号を大破した。ディアナ号は修理予定地の君沢郡戸田村へ回航の途中沈没したため、プチャーチンは乗員帰国用に二隻の艦艇を同地で建造することに決めた。幕府はこれに協力し必要な労力と資材を提供し、船大工や木工・鍛冶工などを派遣してロシア人指揮のもとに西洋型帆船建造に従事させたので、初めて洋式造船技術の実地習得の好機を得たのである。 韮山代官江川英龍が造船掛りに任命され、プチャーチンみずから新船の図面を引き設計を行い、十二月中旬に建造に着手し、翌年二月下旬進水、三月中旬には完成した。プチャーチンらは、三月十八日新船に乗り、戸田を出帆し帰国した。この船は、建造地にちなんで戸田号(ロシア側はシコナ号と唱えた)と命名された。同船は、全長二三㍍、最大八㍍幅、三本マスト五〇人乗りのわが国最初のスクーナー帆船であり、沈没したディアナ号の備砲八門を引き揚げ搭載した。 幕府はこのスクーナー船の優秀性を認め、ロシア人から伝習を受けた職人をそのまま使用して同型船一〇隻を建造することにし、六隻を戸田で、残り四隻を江戸の石川島で工事をすすめた。戸田の建造船は安政二年十一月完成し、その職人を招いて石川島で安政四年五月に同型船を建造できた。幕府は建造地戸田村の属する郡名をとって、この一〇隻を君沢形と称し、何番船で区別した。幕府は、君沢形を諸藩に貸与し、洋式船の模範を示すとともに、幕府の練習船として長く使用した。 戸田号の新造にともない、ロシア人から西欧造船技術の初歩から習い、船台の作り方から始まり、龍骨・肋骨を建てる方法、蒸し焼き法や瀝青の製法など、書籍を通じてのみでは理解できない技術を学ぶことができた。また船大工などのうちから、横須賀造船所創業時の工長上田寅吉・緒明造船所創立者の緒明菊三郎・大阪難波に造船所を興した佐山芳太郎などが輩出し、西欧技術移植のにない手になった。このようにペリーの黒船で蒸気船を知った日本人は、プチャーチンからスクーナー帆船を教わったのである(寺谷武明『日本近代造船史序説』)。 長崎製鉄所の開設 戸田の造船が、先進技術習得の第一の機会とするなら、幕府による長崎海軍伝習所の設立とそれにつづく長崎製鉄所は、第二の接触の戸田号の模型 戸田村立造船郷土資料博物館蔵 機会であった。幕府が公式に外人技術者を招聘して西欧工業技術を習得する道であり、オランダ技術に全面的に依存し、体系的に導入しようとする姿勢を当初から見せていた。 幕府は内外情勢の緊迫にそなえて、オランダに頼って海軍を創立しようとし、軍艦の購入を申し入れたが、当時ヨーロッパではクリミヤ戦争が勃発し、オランダは中立政策をとっていたので応じられなかった。しかし、オランダは日本における勢力を維持するためには幕府の歓心を買う必要があり、代案として中古蒸気船である前述のスームビング号をジャワから派遣し、幕府へ献呈した。安政二年(一八五五)六月、砲六門を積み一五〇馬力をもつ同船は長崎へ再び来着し、観光丸と改め、幕府海軍最初の軍艦となった。また、東インド艦隊所属の軍人から選ばれた海軍教師団が同乗し来日したので、幕府は勝麟太郎(海舟)ら幕臣三六名を長崎へ向かわせ、海軍の伝習を命じた。伝習の総責任者は永井尚志であり、同年十一月末から佐賀藩・薩摩藩などの藩士も参加を許され、本格的な海軍の訓練が始まった。長崎海軍伝習所の誕生である。航海術とならんで造船術・砲術・機関学などが、オランダのすぐれた海軍教官により組織的に教育され、しかも練習艦に観光丸を使用した実際教育であった。このように先進技術を恒常的に摂取する機関が開設された意義は大きく、海軍伝習を通じて榎本武揚・勝海舟・中牟田倉之助らの有為な人材が育っていったのである(勝海舟『海軍歴史』)。 海軍伝習のため、軍艦の操練実技を受ければ、破損や故障がおこるし、幕府や諸藩が長崎を通じて艦船を輸入するようになると、これらの艦船修理用の工場が必要になってきた。幕府はその工場建設をオランダに依頼したので、技師の機関将校ハルデスらは、教育班長カッテンデーキとともに安政四年来日し、長崎稲佐郷飽浦を選定し、着工後五年がかりで文久元年(一八六一)完成したのが長崎製鉄所である。鍛冶場・工作場・鋳物工場を中心とし、オランダ製のスチームハンマーや各種旋盤を備え、蒸気機関で動く近代工場であった。日本の近代的重工業の初めである。この修造所は、わが国最初の蒸気船瓊浦形(長さ八九㌳、幅一八㌳)を建造したが、当初の目的は海軍の訓練艦艇の修理や蒸気機関の修繕であり、海軍伝習を兼ねていたのである。 幕府は修理工場にあきたらず、軍艦の建造を目的として、同じ長崎の浦上村立神郷にオランダから技術者を迎え、蒸気軍艦製造所を文久元年(一八六一)三月創設した。元治元年(一八六四)には機械類をオランダから購入するとともに立神造船場と改め、船渠を築造しようとしたが、完成しないうちに明治維新を迎え、長崎製鉄所の管轄下に置かれた。 横浜製鉄所の建設 元治元年(一八六四)十一月、目付栗本瀬兵衛(号鋤雲)は、参政酒井飛驒守に招かれ、幕府海軍の帆船翔鶴丸の修理をフランス人技師に頼んでくれるように懇請された。栗本は交遊のあったカシュン書記官やその筋から面識のあったフランス駐日公使レオン=ロシュに信用があったからである。栗本はすぐ横浜へ至りロシュに依頼したところ、ロシュはフランス東洋艦隊提督ジョーライスの意見をきき、士官ドロートルや職工を十数人派遣し、気缶の修繕や修理に協力した。その工事の交渉にあたっていた栗本が税関からの帰途、騎馬であとを追ってきた勘定奉行小栗上野介から呼び止められ、相談をうけたのが、先年佐賀藩から幕府に献上された蒸気船用諸機械一式の利用についてであった。小栗の話では、献上機械の三分の二は、横浜港の石炭庫に運ばれ、残りは長崎港にあるが、この機械を活用して相模の貉ケ湾(三浦郡長浦湾)にドックや製鉄所を建設しようとしてすでに測量まで行ったけれども、その方面に熟練者がいないため企画倒れに終わった。小栗は、栗本に翔鶴丸を修理するのに功のあったドロートルなどを使って長浦湾でドックを建設するようにと頼んだのであった。栗本はただちに小栗を伴い、ロシュを訪れ意見を求めたところ、公使はジョーライスの助言によりドロートルよりも旗艦セミラミス号の蒸気士官ジンソライを推せんした。ジンソライは、佐賀藩献上機械を鑑定した結果、これらの機械は、全体に小型であり馬力も小さいので小修理には適するが、ドックを造るような大修理工事には向かないので、むしろ横浜近傍に据え付け小船の修理に使用すれば便利であろうと報告した。栗本は小栗と相談し、フランスの友好的な態度に信頼し、その技術をもとに、鍋島閑叟の意思を生かしてその献上機械で艦船修理工場をつくることに決めた。長崎に残っていた機械も全部横浜に取寄せ、ジンソライの調査検分を経て建設のはこびになったのが、横浜製鉄所である(栗本瀬兵衛『栗本鋤雲遺稿』)。 慶応元年(一八六五)二月、横浜本村を選び横浜製鉄所は起工され、同年八月完成した。咸臨丸遣米使節がアメリカから購入してきた工作機械をも加えて据え付け、艦船修理とともに工業伝習をもあわせて目的とし、フランス技術に依存するので、ドロートルが首長に就任した。日本側の担当者はそれまでの因縁から栗本瀬兵衛が任命された(横須賀鎮守府編『横須賀造船史』)。 横須賀製鉄所の設立 横浜製鉄所の建設と平行して本格的なドック建設の計画がすすめられた。イギリス公使オールコックは、西南雄藩と密接な関係を保ちながら極東の外交を主導していた。ロシュはイギリスに対抗して幕府支持の態度をとり、日本における生糸貿易を独占し、自国内の蚕の伝染病による生糸不足を補う意図をもっていたし、幕府はまたフランスの援助を得て軍備を強化し、反幕府の国内の動きを抑えようと望んだので、両者は急速に接近するに至った。 小栗上野介らが予定した相模の長浦湾は水深が浅いため敬遠され、隣りの横須賀湾が湾形曲折し水深があり、フランスの地中海沿いのツーロン軍港に似ているというジョーライスらの判断にもとづき、横須賀湾に大造船所を建設することになった。慶応元年(一八六五)一月、幕府はフランス公使ロシュと約定書をかわし、規模はツーロン軍港の三分の二とし、ドック二か所、船台三か所、製鉄所一か所を一八㌶の地に設け、フランス人四〇名、日本人二〇〇〇名を使用し、年間六〇万ドル、四か年間総計二四〇万ドルで完成させる計画をたてた(『横須賀造船史』)。 これだけの大事業は在日のフランス人技師では手に余るので、ロシュの推挙で中国の寧波に在勤していた海軍技師ウェルニーを首長に招くとともに、機械器具類の調達と多くの技術者や工員を雇用するため外国奉行柴田日向守の一行がフランスへ派遣された。この間、石川島造船所拡張のためオランダへ渡り、工作機械の買い付けにあたっていた肥田浜五郎らは幕命により柴田一行と合流し、横須賀製鉄所の建設に協力することになった。ウェルニーは、肥田らの購入したオランダ製の機械類を引き継いだが、これらの転用を認めず、予定どおりフランスから横須賀用機械を購入した。肥田は、横須賀の地は、外国船が自由に出入する横浜に近いため一朝事があるときは軍事的に封鎖のおそれがあり不利であるとし、石川島造船所の拡張を力説したが、横須賀へ新設を主張するウェルニーと激論の末、敗れるという一幕があった。 慶応二年一月、柴田一行はフランス人技師らを伴い帰国し、三月下旬から工場建設が開始され、ウェルニーの指示により諸官舎・製鋼工場・学校・端船製造所が造られ、翌三年三月、第一船渠の開鑿が始まったが、一年を経ないうちに幕府は崩壊したので、ドックは新政府により明治四年(一八七一)に完成した。横須賀の建設用資材はすべて横浜から運ぶので慶応二年七月両地連絡用に蒸気船二隻の建造にかかった。三〇馬力船と一〇馬力船で、前者のエンジンはフランスへ発注、後者のエンジンは横浜製鉄所横須賀製鉄所ドック開鑿の様子 横須賀市広報課提供 で製造した。結局、幕府が全力を挙げて建造した横須賀製鉄所の実績は、この二船のみにとどまった。 横須賀製鉄所の起工は、オランダ技術の伝習からフランスのそれへ変わったことを示すものであり、幕府がほかの造船所へ関心を失ったことを意味する。オランダ製機械と技術で発足した長崎製鉄所は、追加投資はされずに棄ておかれ、また、オランダへ機械類の購入に派遣された肥田浜五郎らの努力も空しく、石川島造船所の拡張は中止され放棄される運命を招いた。石川島造船所では幕府海軍建設計画の一環として、蒸気砲艦千代田形が文久二年(一八六二)五月起工され、慶応二年(一八六六)に完成した。日本最初の蒸気軍艦である。エンジンはオランダ製、排水量一三八トンの木造スクーナーで、戸田村でロシア船建造に従事した船大工を動員した。幕府が黒船生産を目的として造船所を各地に興したが、鉄製とはいかず、木造の蒸気軍艦の建造の段階で終わり、以後幕府のすべての期待は横須賀製鉄所の建設にかけられる状況となったのである。 注 (1) 南波松太郎・松木哲・石井謙治編「鳳凰丸昌平丸御軍艦諸記事について」『海事史研究』(日本海事史学会編)第七号 昭和四十一年十月。 二 明治前期の重工業 横須賀造船所の経営 明治元年(一八六八)閏四月一日、明治政府は幕府より横須賀製鉄所を接収した。しかし、その直前の二月八日、幕府はフランスのソシエテ=ジェネナル社より五〇万ドル借款を受けた担保として、横須賀・横浜両製鉄所の抵当権設定に同意し、三月一日より七か月後に年一割の利息で元利金を返還する契約を結んでいた。これを履行しない場合、両製鉄所をフランスが売り払うことになっていたので、明治政府は両製鉄所の抵当権をどうするかという難問を抱えた。寺島宗則・大隈重信らが交渉してイギリス公使パークスの紹介でオリエンタル=バンクから五〇万ドルの借款に成功し、さらに両製鉄所に関するフランスからうけた借款は正味約三〇万ドルであることが判明したのでこれを償還し、その抵当を解き、管理権を回復した(『横浜市史』第三巻上)。 政府は接収後もそのまま滞日したフランス人技師の協力を得て、横須賀製鉄所の完成を急いだ。明治二年五月錬鉄工場、三年九月鋳造工場を竣工し、四年一月一日、第一号船渠が完成した。この船渠は、長さ一一九・五㍍、幅二五㍍、深さ九㍍の規模をもち、旧幕府が起工してより四年一一か月かかり、東洋一といわれた。築造費・機械購入費合計で約一六万七〇〇〇両を費した(『横須賀造船史』)。 明治三年閏十月、工部省が新設されると横須賀・横浜両製鉄所は同省の管轄に移された。翌四年四月九日、政府は横須賀・長崎両製鉄所を工場の実態に応じた造船所へと改称し、溶解製鉄を行っていない横浜製鉄所を横浜製作所と改めた(『資料編』17近代・現代(7)一二二)。横須賀・長崎両造船所が本来の性格を現わしてきたといえる。 十月二十五日、横須賀造船所首長ウェルニーは、旧幕臣であるが同省造船頭の職にあり横須賀に在勤していた肥田浜五郎に、創業以来の沿革を報告し、「方今既ニ数箇所ノ工場ヲ設置シテ修船事業ニ一欠点ナキニ至レリ」(『横須賀造船史』)とし、据付機械一一六台、蒸気力一八〇馬力、溶鉱炉その他鋳錬用の炉は五〇に達すると述べた。この年に横須賀造船所の骨組がほぼ出来上ったのである。 明治四年三月、兵部省(明治五年二月、陸海軍両者に分離)は、海軍興隆を旗印にして工部省へ対し同所の移管を主張し、横浜・長崎両所を工部省の管轄に留めれば差支えはなかろうと要求を繰り返した。七月工部省は横須賀の経費の増大を太政官に要請したが、国庫欠乏を理由に十分容れられなかった。その足元を見透かしたように、海軍省は五年四月軍事上交通上の立場から同所の移管を強く訴え、もし裁可されなければ石川島に横須賀造船所と同程度の新造船所を建設する予定なので、毎年三〇万円ずつ七か年間の交付を希望した。移管が認められなければ、石川島へ大造船所を新設することも辞さないという海軍省の強硬な態度に押されて、重複投資の無駄を避けるためにも横須賀造船所は海軍省が望んではいなかった横浜製作所とともに、同年十月八日、海軍省へ移管され、両所とも主船寮の所轄になった(石塚裕道『日本資本主義成立史研究』)。横須賀造船所は製鉄所時代から採鉱機械を製作して生野鉱山へ提供したり、富岡製糸場の建築にフランス人技師を派遣して協力するなど、雇用フランス人と輸入機械を利用して技術センターの機能を果たし、造船部門以外の産業分野にも活用され、「百工勧奨」をめざした工部省の殖産興業政策を支える最大の総合工場であったが、軍部の強圧によって早くもそのような役割は崩され、海軍工廠としての性格が明確になったのである。 海軍省は、軍艦の建造を横須賀造船所の使命と考え、自分の縄張りに移したのであるが、創業以来首長の地位にあるウェルニー、副首長チボディ横須賀造船所(明治4年) 徳川黎明会蔵 エに経営を委任し、フランス側に指導権を握られてきた実績があるので、彼等の意向を尊重して、日本あるいは外国を問わず、いっさいの艦船はすべて申込順に修理せざるをえなかった。海軍省が軍以外の船舶の修理や建造を止めて、軍工廠本来の機能を回復するには、フランス人から実権を回収する必要があった。一八七五(明治八)年五月、主船頭肥田浜五郎は、「横須賀造船所処務規定」を改正し、首長の権限を技術面にのみ限定し、日本人の長官は技術以外の会計・庶務一切を掌握した。さらに海軍省は邪魔になってきたウェルニーらの解職を求め、外務卿寺島宗則を介しフランス公使と交渉したので、ウェルニーらもついに十二月三十一日付をもって解雇を受諾するに至った。一八七六年一月から横須賀造船所の首長に海軍少将赤松則良が任じ、ウェルニーから事務を引継ぎ、日本人が経営のすべてを掌握したのである。彼等の解雇により首長年俸一万ドル、副首長七二〇〇ドル、医師五〇〇〇ドルという高給を節減できたことも見逃せない(『横須賀海軍船廠史』第二巻)。ウェルニーは、一八七六年三月十三日、横浜港を出帆し帰国した(『資料編』17近代・現代(7)一二三)。その他のフランス人技師や労務者も一八七七年中に全員帰国した。海軍省は、こうしてフランス人の指導力を排除し、以後艦船の造修を主体的に行う体制をつくったが、民間造船業が未発達な当時では、内国船や外国艦船の修理作業を一挙に打ち切ることはできない事情を考慮して、以後も内外船舶の修理を継続した。軍以外の修理を廃止するのは、一八九九(明治三十二)年以降であり、それまでは民間造船業の修理能力の不足を補ったのである。 一八七六年六月、横須賀造船所で最初の軍艦清輝(八九七トン、七二〇馬力)が竣工、一八七七年二月二等砲艦磐城(七八〇トン、五九〇馬力)が竣工した。いずれも木製三本マスト船である。軍艦迅鯨(一四六四トン、三五〇馬力)は、一八七三年起工され、一八七六年九月進水した。当時では最大の木製二本マスト艦であったが、試運転中、クランク・シャフトに故障を生じた際、海軍省は同省雇のイギリス人技師の意見にしたがい改造し、一八八一年八月完工した。海軍の軍制がイギリス方式に準拠する大勢に応じて、造船の分野にもイギリス技術を導入するようになった。一八八三年六月、イギリスのペンプローク造船所から二名の技師を三年契約で招き、鉄艦および甲鉄艦の建造に従事させ、一八八四年二月には伊豆の天城山の艦材伐採を中止し、以後木製艦船の建造を取り止めたのである(『横須賀海軍船廠史』第二巻)。 横須賀造船所は、製鉄・製鋼事業研究のため、一八八五年九月工夫庄司藤三郎・加藤栄吉・豊田磯吉の三名をドイツのクルップ社へ派遣したが、クルップ社はその指導を拒否したので、フランスのクルゾー社へ転じて出向させ、さらに翌年十一月工夫長豊田銀次郎を同社へ鋳造研究に二年留学させた(『資料編』17近代・現代(7)一二五)。横須賀造船所がフランスからうける影響は、弱まったとはいえ残っていたのである。 一八八四年六月、東洋最大の第二船渠(一八八〇年起工、全長一五六・五㍍、渠口幅二九㍍、内部幅三二㍍、深さ一一・六㍍)が完成した。同年十月から鉄船機械場(約二一アール)が起工され、錬鉄・鋳造・旋盤・製缶・組立諸工場の拡張や整備がみられ、木造艦から鉄骨木皮艦、さらには鉄製艦、全鋼艦へと世界の急速な造艦技術の進歩に即応していた。同年十二月、横須賀鎮守府が設立されるとともに、横須賀造船所は同鎮守府に所属し、「造船所条令」(同年十二月十五日制定)による海軍造船所となり、海軍艦船汽機の製造修理・艦船の艤装を目的とする(第一条)ことを明らかにした(『横須賀海軍船廠史』第二巻)。十二月二十四日、海軍省から鋼鉄鉄皮の砲艦愛宕(六二一トン)の建造命令をうけ、一八八七年六月無事進水式を行った。その他海防水雷艇や補助艦艇を多く建造し、一八八三年度から始まる第一期海軍拡張計画の有力な一翼を担ったのである。 一八八六年二月横須賀海軍造船所の制定および同年五月横須賀造船所官制の公布により、ほぼ機構が確立した(『資料編』17近代・現代(7)一二四)。建造能力も上昇し、一八八八年には海防艦橋立(鋼製、四二七七トン)を起工し、六か年かかりながらも完工し、一八九〇年三月に三等巡洋艦秋津洲(鋼製、三一八九トン)を起工、一八九四年三月完成するまでに至った(『横須賀海軍船廠史』第三巻)。しかし、これらの大型艦の建造期間がきわめて長いことからもわかるように、国防の急場には間に合わないので、わが海軍の必要艦艇の大半は欧米諸国からの輸入に依存せざるをえなかったし、重巡洋艦や戦艦などの建造には、なおしばらく手が届かなかったのである。 横浜製鉄所の経営 明治四年(一八七一)十月、横浜製作所(同年四月製鉄所より改称)は、海軍省の所管に移されるとともに横浜製造所と改称した。横須賀造船所建設の補助として設けられた同所は、横須賀が整備されればその存在理由を失うことになるし、また、海軍省が初めから同所の移管を望んでいなかった経過もあり、艦船の造修工場として発展する機会には恵まれていなかった。一八七三年十二月五日、海軍省は横浜製造所を手離し大蔵省駅逓寮へ転属した。海軍省主船寮頭肥田浜五郎は、同月七日、同所が多年横須賀造船所と一体になった親密な関係にあるので、たとえ所轄省を異にしても従前通りウェルニーの指揮監督をうけるべきことを駅逓寮に通告した(『横須賀造船史』)。同時に製造所で雇い入れていたフランス人ダルビェー以下六名も同省へ転じ(『資料編』17近代・現代(7)一三五)、横須賀造船所と石川島修船所の嘱託品製造を継続したが、横浜製造所はすぐに郵便蒸気船会社へ船舶修繕のため貸し渡されたのに伴い、同会社へ移ったのである。 図2-6 横浜製鉄所跡の現在図 ところが郵便蒸気船会社は、たちまち破綻し閉鎖したので横浜製造所は駅逓寮へ返還された。一八七四年一月、同寮が内務省へ転属されるとともに同省へ移管され、一八七五年八月から横浜製鉄所と旧称に復し、郵便汽船三菱会社へ貸し渡された。横浜の士族高島嘉右衛門が、長崎県の炭坑経営者の大浦慶・杉山徳三郎と組んで横浜製鉄所の貸与を希望した。三菱会社も積極的に利用する意向がなく、高島らへの貸与を承諾したので、内務省は同年十一月より雇入フランス人とともに同所を五年間貸し下げた(『資料編』17近代・現代(7)一三六)。 高島嘉右衛門は、横浜製鉄所の経営からまもなく脱落し、一八七六年五月長崎県人の平野富二(石川島造船所の創立者)と神代直宝が新たに参加した。長崎県人の共同経営は期待したほどうまくいかず、諸機械製造の営業資本にも不足をきたし、借用期限の満了を待たずに一八七八年八月横浜製鉄所を内務省へ返還してしまった。内務省も同所の処理に困り、十月に古巣の海軍省へ移管した(『資料編』17近代・現代(7)一三七)。翌年になると、今度は平野が後述のように単独で貸下げをうけるというややこしい経過をたどるのである。 横浜製鉄所は、現在の国電石川町駅に近接した一角にあり、中村川と大岡川の交差した三角地に設けられた。現在図と配置図を示すと図二-六および二-七のとおりである。 図2-7 横浜製鉄所配置図 『石川島重工業株式会社108年史』より 浦賀および石川島造船所の動向 横須賀・横浜両製鉄所とならんで幕府が創立した浦賀造船所は、咸臨丸の修理が行われたほかは、あまり活用もされず、明治新政府が接収後も造船所としては再生しなかった。明治五年(一八七二)海軍省の出張所が置かれ、一八七五年浦賀水兵屯集所が設けられ、のち浦賀屯営と改称された。一八八九年横須賀海兵団が設置されると浦賀屯営は撤去された。京浜地方の実業家がたびたび造船所跡の払下げ運動を試みたが、海軍省は認可せず、ようやく一八九六年に至り、浦賀船渠会社が成立した(浦賀船渠株式会社編『浦賀船渠六十年史』)。 水戸藩の設立した石川島造船所は維新後、新政府に接収された兵部省の管轄に入り、小艦船の建造や修理を行った。明治五年二月海軍省主船寮の管理下に移り、同年十月三十日、工場群は船台、ドックなどを抱える石川島修船所とその他の石川島造兵所へと二分されるに至った。石川島修船所は、名称にふさわしい艦船の修理工事を主体とし、新造船は小規模な蒸気船に限られた。しかし、政府が重視した横須賀造船所が充実してくると、艦船の新規建造はすべて横須賀で行う方針に変わり、やがては修理工事さえも横須賀へ移り、海軍の木製練習帆船石川(二五三トン)が一八七六年七月完成すると、八月三十一日主船寮は廃止され、その管轄下の石川島修船所も閉鎖された。一時は施設拡張の夢をもっていた石川島造船所も、横須賀造船所の整備にともない、浦賀造船所とともにその歴史的役割を終えたのである(『石川島重工業株式会社一〇八年史』)。 民営石川島造船所の創立 石川島修船所に近い築地二丁目で活版製造業を経営していた平野富二は、修船所が廃止されるニュースをいち早く耳に入れると、廃止の二か月余り前の一八七六(明治九)年六月十四日に早くも東京府知事に、「海軍省付属石川島ドック拝借願」を提出した。 平野は長崎出身で幕府が操業した長崎製鉄所の機関方を勤め、明治政府に接収されたのちも小菅ドック所長となり、さらには幕府が完成しなかった立神浦修船所のドックを開鑿するなど業績をあげた。明治三年工部省が設立されると長崎製鉄所と小菅・立神両ドックは長崎県から同省へ移管されたので、引継人として出張してきた工部少丞山尾庸三に事務引継ぎを行ったのち平野は辞職した。明治四年、鉛活字を製造し活版印刷の基礎をつくり日本のグーテンベルクと讃えられた本木昌造の経営破綻のあとをうけて、平野は活版製造業に従事するに至った。明治五年に上京して事業を拡大し、平野活版製造所を興し、そのうえ前述のように同郷人と組んで一八七六年五月横浜製鉄所の借用にも加わっていたのである。平野は、東京と横浜の両者を総合的に運営して、造船業を経営しようという意図をもっている。 平野の拝借願を受理した知事は、趣旨を適当と認め海軍省へ伝達した。ときの工部卿山尾庸三の尽力もあり、長崎時代の平野の経歴と盛名は衆知であったので、海軍省は平野の意向を容れ九月十九日貸渡しを許可した。平野は石川島修船所の施設をもとに、旧石川島造兵所の練鉄所・製缶所などの払下げをうけ、山尾が紹介した横須賀造船所の職工長稲木嘉助の協力をえて、九月三十日、石川島平野造船所を設立した。民間人による造船業の最初であった。一八七九年七月、かねてから因縁があり、いったん内務省へ返し海軍省へ移管されていた横浜製鉄所の拝借を願い出て、十二月三十日、一〇年間の貸与を許可された。 横浜製鉄所は、敷地四二九三坪(約一四二㌃)、建物棟数一六、総坪数一一五〇坪(約三八㌃)、蒸気機械その他機械類八〇台を備えていた。平野はこれらの物件に対し倉庫品代金・小道具代として一万三八一〇円を三か年賦で上納した(『資料編』17近代・現代(7)一三八)。 平野は横浜製鉄所を横浜石川口製鉄所と改称し、石川島造船所の分工場とした。一八八〇年一月から営業を開始し、イギリス人技師アーチボルト=キングを招いて、分工場の技師長に任じ船用機関および一般諸機械を製造した。そのほか、横浜正金銀行や第二国立銀行の金庫なども製作している。営業数年を経て、分工場を本社工場へ合併するのを得策と考え、海軍省の許可をえて、一八八四年末工場をとりこわし、石川島へ移築合併したのである。このようにして幕府が創業し、転々と所属を変えた横浜製鉄所は完全に姿を消した。しかし、分工場の用材は幕府が巨費を投じて求めた桧・松・杉の良材であり、移築後も十分使用に耐えたし、また、移転した蒸気ハンマー・ローラー・旋盤・平鑿盤・ドリル盤などは、佐賀藩や幕府が購入したオランダ製品やアメリカ・イギリス・フランス諸国の製品を含んでいたので、新戦力として再活用され、石川島造船所の造船・造機能力を著しく向上させたといえよう(『石川島重工業株式会社一〇八年史』)。 石川島造船所は、橋梁の製作にも従事し、一八八三年一月、神奈川県庁の依頼で大岡川に鉄橋・都橋を架設した。木橋の伝統を打破した外国式の鉄橋は、異人館とならんで港都横浜の異彩を放った。一八八六年ふたたび県の発注で横浜港近くに鉄橋大江橋を架設し、かさねて称讃された。この経験をもとに、翌年には東京府の発注で人道・車道兼用の鉄橋・吾妻橋を隅田川に架設するまでになったのである。 石川島造船所は、一八八五年一月、砲艦鳥海(鉄製、六二四トン)を受注し一八八八年末完工した。海軍は拡張政策の一環として、愛宕・摩耶・赤城・鳥海の同型艦の建造を決定し、愛宕は横須賀造船所、摩耶・赤城は神戸の小野浜造船所と、いずれも直轄の海軍造船所で建造したが、残る鳥海は海軍造船所に余力がなかったため、石川島造船所の建造能力を認め、民営造船所への最初の軍艦発注となった。平野が海軍造船所と互角に砲艦を建造したことは、一大栄誉であるが、軍艦建造は経営上非常な重荷となった。ドックの改修・諸施設の更新・材料手当などにぼう大な資金を必要とし、平野の個人資産ではまかないきれなかった。かねてから資金援助をうけていた第一国立銀行頭取渋沢栄一の勧告を容れて、鳥海の完成とともに、会社組織に移り、一八八九年一月から有限責任石川島造船所(資本金一七万五〇〇〇円)として再出発した。一八九二年末平野は死亡したが、翌九三年には株式会社東京石川島造船所と社名を改め、取締役会長に就任した渋沢栄一とその推せんで入社した東京商法会議所書記長梅浦精一が専務となり、このコンビが積極的な経営活動を展開するのである(龍門社編『青淵先生六十年史』第二巻)。 横浜船渠会社の設立 一八七五(明治八)年八月、郵便汽船三菱会社社長岩崎弥太郎は、ボイド商会と協力し横浜海岸通りに建築中の石井梁平の造船器械所を買収し、三菱製鉄所と改め船舶の修理業を開始した。主要航路が横浜を起点としているので、修理工場が必要であったが、岩崎は横須賀造船所から必要機械を、外国人から資本をそれぞれ借りて操業したのであるから、政商三菱らしい要領のよさである。一八七九年外商との共同経営をやめ、独力で運営した。一八八二年ころには平野の経営した横浜石川口製鉄所と並ぶ大規模な工場になった。一八八五年三菱と共同運輸会社が合併して日本郵船会社が設立されると、従業員・機械設備の一部を三菱経営の長崎造船所へ移し、残りは日本郵船に譲渡し、日本郵船会社横浜鉄工所と改称した(小林正彬「長崎造船所の払下げ」『経済系』(関東学院大学)第七三集、昭和四十二年六月)。 一方、船舶輻輳する京浜間に船渠が不足するため、船舶修繕に横須賀造船所まで回送する不便を余儀なくされていたので、横浜港のちかくに船渠会社を設けようとする動きがみられた。地元の横浜正金銀行頭取原六郎をはじめ、原善三郎・茂木惣兵衛・平沼専蔵らの横浜グループと少し遅れて渋沢栄一や益田孝らの東京グループは、別個に船渠事業を計画したが、やがて両者は合同提携し、横浜船渠会社(資本金三〇〇万円)の設立を協議するに至った。一八八九(明治二十二)年四月発起人総会を開き、前記の実業家にくわえて近藤廉平・大倉喜八郎・大谷嘉兵衛・馬越恭平・浅野総一郎・左右田喜作らの名士を網羅して三三名が連署して神奈川県知事に創立願書を提出した。県知事は一八九一年六月、ようやく設立を認め、免許命令書を交付した。船渠築造・水面埋立・水面使用通則など詳細な命令条項を定めるとともに、工場予定地の長住町地先水面三万六五〇〇坪(約一二・一㌶)の埋立を許可し、全工事竣工ののち埋立地を下付することを約束した。注目されるのは工事中に、「公害ヲ生シ若クハ公害アルヲ発見シタルトキハ知事ハ何時ニテモ無償ニテ本命令書ヲ更改スルコトアルヘシ」(第三十条)と公害条項を明文化していることである。わが国で公害という語を使用したもっとも早い例であろう(『資料編』17近代・現代(7)一四一)。 こうして横浜船渠は創立されたが、一八九〇年の恐慌にまきこまれ株式募集がうまくいかず、計画を変更したり着工を延期し、一八九三年には資本金を五〇万円へと大幅に減額するなど苦しい発足をした。ところが日清戦争後の海運界の好況に助けられ、さらには前述した日本郵船所有の横浜鉄工所を一八九六年九月に譲りうけることに成功し、施設諸器械・倉庫貯蔵品など総代価二〇万七二〇七円で日本郵船の所属船の入渠を専属的に確保するようになって業績が安定してきた。船渠工事が完成するまでは、鉄工所の繁昌が創業時の苦難を救ったし、わが国最大の海運会社と密接な関係を樹立し、その所属船の入渠補修契約を結ぶことができたからである。鉄工所買収と船渠築造のため、資本金を同年一五〇万円、一八九七年三〇〇万円へと増資を重ね、第一・第二船渠を完成し、一八九八年五月一日開渠式を挙行し、船渠会社の営業を始めたのである(『資料編』17近代・現代(7)一四二-一四四)。 第四節 労働市場の形成と労働者状態 一 明治前期における労働市場の形成 近代的労働市場の形成とマリア=ルス号事件 明治前期は、近代的な労働市場の形成に向けてまさしく激動の時代であった。それは、農民層の分解をはじめ、士族・職人・商人などの没落と再編成を内容としていたが、それまでにも進んでいた資本の原始的蓄積の総仕上げの時期だったのである。神奈川県では、横浜・横須賀の官営造船所や輸出産業である生糸業や製茶業をはじめ、いろいろな産業・職業分野で、近代的な労働市場の形成に向けての分解や再編成が展開した。もっとも、近代的な労働市場とはいっても、今日のような近代的な労働者や労使関係の形成を意味するわけでは決してない。資本蓄積にとって自由な労働市場が、封建的な身分関係の解体をはじめ、土地と労働力の売買の自由化などのなかで、法制的に形成されたに過ぎない。したがって、実態としては、資本-賃労働の関係が請負制度や問屋制度などによって媒介されたり、主従関係や家父長的関係を残存させていたとしても、労働者が就業先を法制的に自由選択できるようになること自体が重要だった。 そのことに関連して、明治五年(一八七二)、開港地横浜をもつ神奈川県にとっても、忘れられない国際的事件が発生した。ペルーの船、マリア=ルス号事件がそれである。この事件については、神奈川県労働部『神奈川県労働運動史』戦前編に詳しく記述されているが、ここでは次の点がとくに重要だろう。すなわち、(一)マリア=ルス号は帆柱の損傷を修理するために横浜に入港したのだが、実は同号は清国からペルーへの「奴隷船」だった。清国人の一人が船内の拘禁から脱出し、イギリスの軍艦に救助されたことが事件の発端であった。(二)結局、時の神奈川県権令大江卓などの異例の措置によって、国交のないペルーの船長に対する裁判が開始されたわけだが、そこで次のような興味深い論争が展開された。ペルー側の主張は、日本に裁判権がないことなどのほかに、人身売買とはいえ自由にもとづく契約を結んでいるのだから、同号の取押えを解除するか、あるいは損害を賠償せよ、ということだった。それに対し検事側は、契約書そのものについて本人の承諾の証明に問題があるだけでなく、ペルーの奴隷船についてはすでにヨーロッパでも問題になっているように、人身売買は国際的にも承認できないことなどを主張した。だが、これに対しペルー側は、日本でも年季奉公や娼妓などの人身売買が認められている以上、同船を違法扱いすることは不当だろう、と反論した。(三)結局、裁判長としての権令大江の判決は、ペルー船長は違法だが、この際は不問に付すとして、清国人二二九人は解放し、日本在住の清国人と同様の権利を与える、という内容だった。 その後も、ペルー側は損害補償を要求し、アメリカの仲介で仲裁裁判が開かれ、ロシア皇帝アレクサンドル二世に裁判が委任された。農奴解放をおこなったアレクサンドル二世は、法律上の解釈を超えた世界共通の道義にもとづき、日本の勝訴を宣言した。この事件の処理は国際的な賞賛を浴びたが、ここでの問題は、むしろ事件にともなう国内処理にあった。というのは、ペルー側によって国内における人身売買の証拠があげられたからである。これに対し、神奈川県庁は「当管下在町之婦女子、年季ヲ定メ遊女芸者並ニ宿場飯売人或ハ洗濯女……身売奉公ニ差出候儀向後一切不相成事」と触書を出し、身売奉公を禁止した。それに次いで、中央政府としても太政官布告によって、「人身売買ヲ禁止シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ解放シ之ニ付テハ賃借訴訟ハ取上ゲズ」(明治五年)、「金銭賃借引当ニ人身書入厳禁」(明治八年)の決定が明確にされたのである。 こうして、法制上の自由を保障した近代的な労働市場の枠組は形成されていくわけだが、実態そのものの展開には、以下に記述するようなさまざまな旧来からの慣行が残存せざるをえなかった。その反面、商品経済の展開としては、西南戦争後のインフレーションやその後の紙幣整理によるデフレーションなどが、いや応なく農民や職人などを商品経済のなかに巻き込み、彼らの分解や再編成をおし進めたこともあらかじめ念頭に置いておく必要がある。そして、このように多かれ少なかれ公権力が賃労働の形成に介入するところに、暴力的な資本の原始的蓄積の特質が示されているのである。こうした近代的な労働市場とその周辺部分の増大が、神奈川県ではいかなる展開の過程をたどったか、まずこのことから概観していこう。 都市人口の増加と農民分解 なによりもまず注目されるのは、都市人口の著しい増加であり、なかでも横浜の人口増加は、ひときわ目立っていた。『横浜開港五十年史』や『神奈川県統計書』によれば、明治二年(一八六九)までに二万八〇〇〇人ほどに著増した横浜の人口は、一八七七(明治十)年には五万八〇〇〇人に急増し、一八八七(明治二十)年にはさらに一一万五〇〇〇人にも増加しており、一八九三(明治二十六)年には一五万人以上にも達していた。このように、ほぼ一〇年間で二倍以上にも及ぶ急増のなかで、神奈川県人口に占める横浜の人口の比率は一八九三年には一九㌫にも達したのである。この段階で、人口一万人以上の市町村に拡大してみても全国的には、全人口中のシェアは一五㌫ほどにとどまっていたわけだから、いかに神奈川県の都市人口とりわけ横浜への人口集中がめざましいものだったかが想像できるだろう。もちろん、このような横浜を中心とした都市人口の集中のすべてが、広義の労働者の集積だったわけではないが、労働者やさらにその家族の集積を中心とした事実は、疑うことができない。また、このような都市人口の増加は、さまざまな地方からの人口移動によってもたらされたものであり、市外から移動してきた人口は、おもに寄留者というかたちをとったわけである。さきの横浜の人口についてみると、その約半数は寄留者によって占められ、しかもその六〇-七〇㌫は多摩三郡は別として、他府県からの寄留者によって占められていた。ということは、都市人口の急増ほど神奈川県下の農山漁村からの人口移動が、激しくなかったことを意味するが、それにしても商品経済の発達や農工分離などの農山漁村への影響はきわめて大きかっただろう。現に神奈川県の農家数は、多摩三郡を除いてみても、表二-五二のように減少しており、県全体の戸数に占める農家数のシェアは、一八八四-九一年のわずか七年間で七七→五七㌫に縮小していた。とくに、一八八四-八七年の減少が著しいのは、松方財政のもとでの不換紙幣の整理によって、農家の不況が激化したからであり(松方デフレ後の士農工商の窮乏化については『興業意見』のほか、隅谷三喜男『日本賃労働史論』を参照)、このような農家の減少は農工分離による脱農だけでなく、挙家離村をも反映していた、と推測される。 明治前期における広義の労働市場の形成は、このように県外からの寄留を含めて、農表2-52 明治前期末における総戸数と農家数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。 表2-53 明治前期末における農業者人口の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。増減率は1885年に対する増減をパーセントで,△は減少を示す。 村の分解による労働力移動に負うところが大きかった。ただし、農業人口そのものは、表二-五三のように一八八五-九〇年に二七-三三万人にも増加した。この五年間の増加率は二〇㌫をこえるが、当時は維新後の人口爆発期にあり、もし前述のような脱農化が進められなかったとすれば、これ以上の農業人口の増大をみたはずである。農業人口の推移についてみると、次の諸点に注目すべきであろう。(一)男女別には、製糸業の発達がとくに顕著だった多摩郡では、女子が減少したのにたいし、現在の神奈川県の方では男子の増加率がより低く、したがって男子の脱農化がより著しかった事実を想像させる。(二)専兼業別には、専業人口が四〇㌫ちかくも増加しているのに反し、兼業人口は明確に減少しており、兼業型の農民の脱農化が大規模に展開された事実を示している。(三)自小作別には、とくに自小作農民が四〇㌫以上も増加している反面で、小作農民が一〇㌫ちかくも減少している。 したがって、明治前期末の挙家離村を含む脱農化は、いずれかといえば男子を中心とした小作兼業の、おそらく零細農家を基軸として展開したに相違ない。それによって、余剰化した小作地を零細な自作農民が代わって借入れすることになったのである。そして、農家数が減少したにもかかわらず、農業人口が増加していたわけだから、一戸当たりの農業人口がより大きい、したがって従来に比して経営規模のより大きな農家への農業人口の集中がみられたわけである。そうだとすれば、たしかに農家経済は一般的に不況状態にあったのだろうが、それはとくに零細農家の小作兼業層において顕著であり、その反面で、農家の農業専業化や自小作化による経営規模の相対的拡大がみられた事実も看過できない。こうした現象は、次のようにみることもできるだろう。すなわち、零細農家の小作兼業層には、窮乏化して脱農化した農民も多かっただろうが、なかには、それまで兼業だった者が商工業従事者として専業化した脱農者も含まれていたはずであり、そのために残存した農家の農業専業化や経営規模の拡大をおし進め、全体として農工分離などを展開させることになったのである。 工場労働者の蓄積 蒸汽力を導入したり水力や人力への依存でも工場内分業のマニュファクチュア型の工場制度をとっている、さまざまな工場制工業に目を転じてみよう。県史編集室『明治前期県内企業一覧』によれば、(一)職工数が一〇〇人を上回るような比較的大工場は、製糸業を中心としていた。しかも、一八九〇(明治二十三)年時点の一日平均二〇〇工数を上回る最大規模の萩原製糸をはじめ、大部分は多摩地方に存在していたが、一〇〇人を上回る高座郡の広田製糸などを別とすれば、多くは平均四〇-五〇工数にとどまっていた。ただし、製糸工場や横須賀の海軍工廠以外に、いずれも横浜市にあった日本郵船鉄工所(汽船修繕)と鋳物・器械の太田工場が蒸汽力を利用し、一日平均それぞれ五六〇、二三四工数に達する大工場も存在した。(二)それ以外の一〇-二九人前後の工場としては、蒸汽力を導入していた荒波煙草製造業(二三工数)をはじめとする煙草工場が目立っており、ほかは前述の製糸工場以外に、製靴・マッチ・茶箱・印刷・製本・石鹸・煉瓦および絹・綿の紡績・織物の工場が、少数存在するにとどまっていた。(三)それらのほかは、精米・製粉・陶器・製茶などの工場は、いずれも五人以下の小工場が比較的多数存在しており、これらはすでに居職人などの工業者とほぼ同質の零細工業だった、とみてよい。 民営の工場労働者数の明治前期における変化をみると、表二-五四のとおりである。それによると、一八八五(明治十八)年に陶磁器・漆器・鋳物・汽船修繕などの五工場でわずかに三〇人を数えるにとどまっていたが、一八九〇年には二三工場で一〇〇〇人以上を数えるように増加している。これは、職工延人員から大ざっぱに試算した結果だが、すでにみた民営工場の表2-54 明治前期未における主要工場数・職工数 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。職工数は,職工延人員にもとづき250日稼働として試算。 一部しか把握していないに相違ない。しかも、一八八五-九〇年の変化は、いかに前述した日本郵船の横浜工場の雇用が明治二十年代に入って急増したとはいえ、あまりに極端過ぎる。というのは、一八八七年以前の『神奈川県統計書』の把握が過小であったことを意味するだろう。なお、この間に、後述のとおり官営造船所ではほぼ二〇〇〇人から三〇〇〇人への職工の増加がみられ、外国商館の再製茶工場でもかなりの雇用増加がみられたが、いずれも表二-五四には含まれていない。これらをも含め、かつ国内民営の統計的把握がより十分であれば、労働市場の拡大がより明確になるだろうが、しかしそれも労働市場周辺まで含めた就業全体のなかでは、大海に浮かぶ小島のような規模にとどまった。 二 繊維工業の労働市場 製糸業を中心とした発達 明治期の繊維工業は、輸出産業の中心として顕著な発展をとげたが、その反面でさまざまな質的再編成を余儀なくされた。まず、西日本を中心として自生的に発展してきた綿作-綿工業は、開港後の綿糸・綿布の輸入によって大きな打撃をこうむらねばならなかった。神奈川県でも、現在の横須賀などに綿紡織の工場が存在したが、やがて消滅していった。逆に神奈川県とすれば、大きなウエイトを占めていた絹工業は著しく発展したが、半製品である生糸として輸出されるのが中心となったため、絹織物業とは切り離され、主として製糸業として発展しなければならなかった。もともと製糸業は、養蚕と結びついた農家の副業家内工業として発達していたが、神奈川県でも明治七、八年ごろには、従来の手繰器に歯車をつけて加速された座繰製糸器が導入され、とくに多摩郡のほかにも高座・愛甲・津久井・都筑などの地方において急速な普及をみた。『神奈川県統計書』によれば、一八八七(明治二十)年に一・四万戸の製造戸数を数えている。もっとも、多摩郡を除くと八〇〇〇戸程度になると推計されるが、その大部分が農村の家内工業だった、とみてよい。しかも、大地主・商人の器械製糸による「優等糸」の生産はきわめて限られており、せいぜい改良座繰器による「普通糸」の生産が中心になっていただろう(石井寛治『日本蚕糸業分析』第一章第二節参照)。 こうした状況のなかで、明治前期には都筑郡西谷村の日本絹綿株式会社のおそらく一〇〇人規模の工場をはじめ、高座・鎌倉両郡にも小規模の器械製糸工場が稼働し、高座郡大沢村の漸進社では改良座繰を導入しその製品を共同販売していた。だが、製糸工場と呼ばれるのは、多摩地方を含めて一二工場にとどまっており、雇用されていた職工数もほぼ七〇〇人程度にとどまっていた。したがって、製糸従事者の大部分は農家副業型の従事者だったのである。このほか、製糸の加工業もまた、その多くは農家の副業として問屋資本の支配のもとにかなりの発達をみた。その一つが、津久井郡を中心とした手織器による絹織物業であり、明治前期末には津久井郡だけで二〇〇〇-三〇〇〇戸の機業者数が記録されている(『神奈川県統計書』による)。もう一つの加工業として、愛甲郡半原地方を中心として発達した撚糸業を挙げねばならない。すでに半原撚糸業は、幕末から桐生の八丁式撚糸器を導入するとともに、水力を利用し、博多織や縫製用の撚糸を生産していた。ここでも、前借関係のもとで加工賃を一方的に決定する問屋=糸屋が多数の撚り子を支配していたが、撚り子のなかには農家副業ではなく、二-四人の住込みの女子を雇用する専業者も増加しつつあった(半原撚糸協同組合編集委員会編『半原撚糸のあゆみ』による)。 三 その他の軽工業などの労働市場 煙草工業の労働者 繊維工業に次いで注目されるのが、煙草工業における労働市場の形成である。もっとも、煙草刻みは以前から広く存在し、「葉のし」を丸めて巻玉を作り、それを膝に乗せた板の上で庖丁を使い細かく刻む職人の仕事だった。しかし、明治初期にゼンマイ仕掛けの器械が出現し、煙草刻みの職人を駆逐することになった。さらに、水車の利用が普及する段階から、工場的生産が一般化することになった(日本専売公社『秦野工場史』による)。さらに、こうして工場生産化するにつれて女子労働力への依存が増大し、明治前期末には男子職工の比重が三〇㌫以下にも縮小していた。さらに、一八八六(明治十九)年、横浜で巻煙草が発売される前後から巻煙草の製造が急速に増加していった。いずれも、秦野地方をはじめ横浜などの内陸地においてとくに盛んだったが、工場は一八九〇年でも四工場を数えるのみで、うち蒸汽力工場一、水力工場二であり、その他は家内工業的段階にとどまっていたのである。なかでも、原料が豊富な秦野地方においてとくに煙草工業が発達し、数一〇〇軒の製造業者が集中し、なかには一五〇-二〇〇人の雇用労働者を擁する大規模な工場も存在したが、大部分はせいぜい二-三人の従業員と住居の一部を作業場にした程度の家内工業だった。 このような煙草職工などの賃金水準はどうだったか。まず、煙草職工についてみると、明治前期末において一〇銭を多少上回る水準にとどまっていた。職工の男女構成は、前述のように女子比率が七〇㌫ほどだから、女工の賃金はこの平均水準をも下回っていたに相違ない。そして、家内工業の女子従事者とともに、図二-八に示した農作女子の日給と同水準にあったにちがいない。これにたいし、煙草刻み職人の賃金は、図二-八のとおり二五銭前後の水準にあり、農作男子の賃金よりは高かったが、労働力の需給状況いかんでは日雇人足の賃金を下回ることもある程度の水準でしかなかった。同じ職人とはいえ、在来の大工や新興の洋服仕立職人などに比較すれば、はるかに低水準に位置づけられているのである。そこに、労働負荷も小さく、かつ需要が縮小しつつあった旧型職人の労働市場における地位を認めることができるだろう。 再製茶工場の労働者 つづいて、この時期の神奈川県における特殊な労働市場として、外国商館が経営していた再製茶マニュファクチュアについてみておこう。それについては、前掲『神奈川県労働運動史』戦前編でも記述されているが、とくに次の諸点が重要だった。まず、茶は生糸に次ぐ輸出品となったが、乾燥不十分な粗製茶の輸出品としての仕上げが香港や上海に代わって横浜でおこなわれることになり、その経営が輸出を支配していた外国商館によっておこなわれたのである。そうした商館の加工場が、すでに一八七三年には山下町一帯に一五工場も立ち並び、最盛期の明治中期には二二、三を数えた。茶輸出にあ図2-8 職業別1日当たり賃銭の推移(中等級) 注 『神奈川県統計書』より作成。1888年以前は高座郡,1892年以降は神奈川の数字,うち洋服仕立職のみ小田原の数字。 たっていた外国商館の多くは、一、二の再製工場を経営していたが、石造平家建九九〇平方㍍ほどの工場内には、直径六〇㌢㍍、深さ四〇-五〇㌢㍍ほどの鉄鍋をのせた炉が三〇〇基ほども据えつけられ、女工などが炉内をかきまぜる風景が展開したのである(『横浜茶業誌』による)。 こうした工場は、当時、「お茶場」といわれており、そこで働く「茶焙じ」の労働者はその七〇-八〇㌫が女工で占められ、その大部分は本牧・根岸・相沢・北方・中村・神奈川あたりの農漁民の妻女だったが、のちには大岡川・生麦・保土ケ谷から鎌倉・都筑両郡の遠隔地の農村などにも、その通勤圏が拡大した。こうした「茶焙じ女」は、すでにみた製糸女工などとは異なり、十四、五歳から六十歳くらいまで、きわめて広範な年齢層を含んでおり、すでに明治五、六年ころに一八〇〇-二〇〇〇人を数え、明治前期末には二五〇〇人ほどに達した、といわれている。そして彼女らの賃金水準は、後述のような日雇形態などでとくに労働力の需給状況いかんで大きく変動したが、明治五、六年ですでに一〇銭を上回る水準にあり、明治前期末では一六-二〇銭ほどにも達していた。 建築・建設業の労働者 以上のような工業労働者のほかに、建築・建設業や運輸業などにおける賃労働の形成と展開についてもみておかなければならない。大工・左官などの建築職人は各地域で普遍的な存在であり、かつ都市の職人を別として、大部分は土工などとともに農業の兼業者だったが、この時期においてとくに重要なのは、農業とはかなり切り離された建築・建設労働者の増大である。というのは、すでにみた工場の建設をはじめ、横浜などの都市形成にともなう商店などの建築や道路・橋梁の建設のほかにも、港湾・河川や鉄道などの建設によって、大量の恒常的な労働力需要が発生したからである。そこでこの時期にとくに問題になったのは、建設業においてとりわけ顕著な労働環境や労働条件の劣悪さと作業場所・時期の限定のゆえに、その労働力需要が容易に充足されないことだった。そのために、例えば横須賀などの造船所の建設には、幕末から明治初期まで多数の囚人労働に依存しなければならなかったのである。 もちろん、その後、すでにみた農民や職人などの分解やとくに他府県などからの労働力の流入によって、建設業の労働力需要はより容易に充足されるようになった。しかも、建築関係の大工・左官などの熟練職種とは異なって、建設業の土工などは不熟練職種なので、その意味でもいっそう容易にその供給が確保できるようになったに相違ない。この時期の土工などの「日雇人夫」が、量的にどれくらいの雇用量に達していたかは、『神奈川県統計書』などからは知りえないが、季節的労働者も含めれば前述のような工業労働者とほぼ同数か、あるいはそれ以上の人数に上っただろう。そのなかには、「黒鍬の者」などといわれた専業的な技能者も少数は含まれていたが、多くは農民の兼業に依存しただろう。とくに、この時期には都市下層に形成しつつあったいわゆる「細民・貧民」への依存を深めたことが特徴的だった。さらに、農民の兼業も通勤にとどまらず、出稼ぎによって建設労働者になる兼業者が増加しただろう。彼らの雇用形態は、請負業者のもとで飯場制度型の親分・子分関係に支配され、その多くは日雇形態であり、多分に前期的な労使関係に支配されていた。しかもそれだけでなく、その賃銭の水準はやっと農作男子の日給を上回る程度にとどまり、しかも建設需要の変動や移動などのためにきわめて変動的だった。 運輸業の労働者 このような建設労働者に比較すれば、その何分の一かにとどまっただろうが、多数の交通関係の労働者が存在し、かつ増加しつつあった。まず陸運部門では、旧宿駅制度が解体され、そしてその後の駅陸運会社も解散されたあとは、そのまま自営業化したり、賃労働者化した従事者もいただろう。そうしたさまざまな形態を含めて、とくに都市などでは、陸運部門の就業者が男子就業者の一〇㌫以上も存在したのである。たとえば、小田原地方では一八七七年に、人力車夫五四人、荷車ひき二三人、駕籠かき九人、合計八六人を数えていた。全県としてどれだけの就業者を数えたかは不明だが、『神奈川県統計書』によれば一八八五(明治十八)年には多摩郡を除いて、馬車六〇台、人力車五九六〇台、牛車・大八車などの荷車一万八六五六台が記録されているから、かりにそれらの半分を稼働するだけの就業者が存在したとすれば、それだけで一万人以上に達しただろう。そのなかには、やはり農民などの兼業者も多かっただろうが、とくに横浜などに集中していた人力車夫のなかには都市の貧民が多かった。そして、彼らは人力車を所有する者も少なく、日雇人夫をわずかに上回るほどの賃銭を稼ぐ程度にとどまっていた(『神奈川県統計書』のほか、横山源之助『日本の下層社会』参照)。 さらに、海運部門の就業者も多かっただろうが、神奈川県としては横浜港などの港湾労働者の存在が重要である。開港当初の横浜港にはほとんど港湾施設はなく、すべての船舶は沖合に碇泊し、小舟によって貨物を揚げ降ろし、かつ運搬しなければならなかった。こうした荷役作業には、はじめは各商館の使用人や船夫や近在の農漁民や「立ちん坊」などが臨時的に就業していたが、貨物量が激増するにともない、専業的な港湾労働者が形成された。実は、こうした貨物の沖取・運漕は、少数の荷受業者によって独占されていたので、港湾労働者は事実上彼らと雇用関係を持ったわけだが、実際には親分を媒介とした、かなり前期的な雇用関係のもとに置かれたのである。すでに、明治四、五年ごろには、六組の請負業者のもとに港湾労働者が四〇〇〇-五〇〇〇人も存在した、といわれるが、その大部分は請負業者の持つ建設業における飯場のような部屋に所属しなければならなかった。しかも採用はもちろん、仕事別配置、就業の場所・日時、労働規律・賃金決定・支払いなどのいわば労務管理は、建設業などにおけるとほぼ同様に親分によっておこなわれていた。親分に準ずるほどの高技能者のなかには、各組の部屋には属せず、自由に業者間を渡り歩く者もいるが、基幹的な港湾労働者が部屋に属さなければならなかったのは、彼らのなかには無節制な者が多く、業者としてはそういう労働者を統轄し、貨物取扱い上の信用を確保する必要があったからである。もっとも、業者のなかにも悪徳業者があらわれ、賃金不払いなどの物議を醸し、社会問題を発生させたので、多くの請負業者が協議し公的規制を求める申請がおこなわれた。これにたいし、神奈川県は県令として「人足受負営業並ニ人足取締規則」を一八八九(明治二十二)年に公布することになった。以後、「鑑札」のない請負業者や人足は就業できないことになったのである。後年の記述は、次のような情景も記録している。「当時本港に来集せる人足は非常なる数に上り毎朝埠頭に蝟集し、先を競い、仕事に就かんとする有様は実に騒然たるものにして、警官出張し鑑札を点検し乗船せしめたり」と(横浜市総務局行政部調査室『横浜港における港湾労働の推移』による)。 注 (1) こうした推定の根拠は、海野福寿「原蓄論」(石井寛治ほか編『近代日本経済史を学ぶ』上、一〇-一一ページ)にもとづく。その理論化についてはともかく、そこでは『統計年鑑』などによって、日本全体のこの時期の労働者構成を量的に把握しようとしている。 (2) 山本弘文「北相地方の陸運会社について」(『神奈川県史研究』第一二号)参照。 四 重工業の労働市場 横須賀造船所における労働力の編成と養成 明治前期における重工業の資本家的発展は、きわめて弱かった。『神奈川県統計書』によれば、一八八六(明治十九)年に神奈川県下において蒸汽力を利用していた重工業の民間工場で、職工数が一〇〇人を上回るのは日本郵船会社横浜鉄工所(汽船修繕)のみであった。こうした状況は全国規模でみても同様であり、一八八七年に職工数一〇〇人以上を雇用する重工業の民間工場は、わずかに七工場を数えるのみであり、なかでも大規模な三菱造船所でさえ、その職工数は七四六名であり、日本郵船会社横浜鉄工所の職工数は五三一名であった(『明治工業史』機械篇による)。このように民間重工業の本格的な勃興がみられなかった当時において、重工業の近代化を担ったのは造船業を中心とする官営軍需工場であった。とりわけ横須賀・横浜造船所の占める地位は、神奈川県のみならず全国的にみても圧倒的な比重を持っていた。 横須賀造船所は、慶応元年(一八六五)に横須賀製鉄所としてその建設が始められたが、設備・機械をはじめとして、経営管理から技術指導までフランスに依存していた。近代造船技術の蓄積がほとんどなかった当時にあっては、のちに民間に貸し付けられた横浜の修理工場を含めて外国人技師・職工の指導に依存しており、長崎造船所もオランダに依存していた。明治元年における横須賀製鉄所の労働力編成は、首長ウェルニー以下フランス人技師・職工三二名、官吏・附属員五三名、水火夫等の人員七六名、抱職工六五名、定雇職工一一三名、職工手伝三九七名、寄場人足(貧民・徒刑囚)五四名であった(『横須賀海軍船廠史』第一巻による)。横須賀製鉄所は明治四年(一八七一)に横須賀造船所と名称を改め、一八七六年には職工総数が一五一六人までに増加しており、明治元年の約四倍にまで達している。しかし、当時の海軍が最も重要視していた横須賀造船所の管理権をウェルニーらのフランス人に握られていたため、造船所の実権を奪還するために、一八七五(明治八)年、肥田主船頭は、首長の権限を技術面のみに限定する内容の「横須賀造船所事務改革案」を提示した。その結果、「首長ウェルニーは同案の趣旨に基づいて明治八年一二月三一日をもって首長の職を辞し、改めて顧問として造船所の発展を見守り日本技術者の熟練進歩を見とどけた上、わが任務終われりと、明治九年三月一〇日一〇年間住みなれた横須賀を後に一路故国フランスに帰った」(『横須賀百年史』四四ページ)。他のフランス人技師も、一八七七年には一名を残して全員帰国し、以後、日本の技術者と職工による管理と生産の体制が再編成され、短期間イギリス人職工を雇い入れたこともあったが、フランス人技師ベルタンを招いて鉄鋼艦製造技術を学んだのを別とすれば、一八八九年以降、軍艦の設計、工事監督はすべて日本人の手によっておこなわれることになった。 それでは、こうした新しい生産技術の導入に対して、それに必要な労働者をいかに形成・蓄積したのであろうか。表二-五五は、明治三年の横須賀製鉄所の職種別職工・人足数をみたものであるが、船工職・木工・製綱職・建具職・製帆職などの男子熟練職工は、伝統的な職人としての熟練を引き継ぎ、木工と称されていた。先年、戸田においてロシヤ艦船を建造した経験のある船大工は、横須賀造船所に雇用されることになったのだが、その多くは木工職だっただろう。これにたいして、錬鉄職・製缶職・製図職などの熟練工は金工と称され、近代的な金属・機械工業の職工として新しく熟練の形成がおこなわれなければならなかった。設立当初から熟練工の採用にあたっては「職工ノ雇入ニ当リテ我邦ノ工式ト欧米ノ工式ト相乖戻スル所アルニ拘ラズ務メテ其業務ノ相近キモノヨリ採用スベシ例ヘバ木工ヲ造船工場ニ鍜工ヲ煉鉄工場ニ採用スル類ノ如シ」(『横須賀造船史』第一巻、一二ページ)としていたが、大工と木工・鍛冶職人と鍛冶工などの類似職種といえども、その労働内容には差異があるため再訓練が必要であった。まして、旋盤・仕上・製鑵のような機械工としての職種は、まったく新たに訓練しなければならなかった。そこで、熟練工養成のために次のような方法がとられた。すなわち、「内国人ニ在リテハ鉄工ニ木工ニ各々本邦固有ノ工業ニ熟達スルモノ百名ヲ表2-55 明治3年における横須賀製鉄所の職工・人足数 注 『横須賀海軍船廠史』による 選抜シ仏人ヲシテ之ニ西式工業ヲ伝授セシム」(『横須賀造船史』第一巻、七ページ)。つまり、伝統的熟練を引き継いだ成年労働者を対象として、フランス人熟練工からの個人伝習がおこなわれたのである。『日本近世造船史』によれば、フランス人が横須賀に滞在していた一三年間に、「数千の良工を教育」したとされており、横須賀造船所はわが国重工業の創世期における技術伝習所としての役割を果たしていたのである。 こうした外国人熟練工からの個人伝習がおこなわれる一方、熟練工の養成をより組織的におこなうために、設立当初から職工学校が設立された。この学校は、維新の動乱で一時閉鎖されたが、明治五年に再開され、下級技術者養成を目的とする正則学校と、職長養成を目的とした職工学校の二つが設置された。しかし、熟練職工の養成を目的としたこれらの職工学校は、下級技術者のまったく欠如していた当時にあっては、結果的には下級技術者の養成機関となってしまった。事実、横須賀造船所の職工学校も、一八八二(明治十五)年以降は「専ら技手の養成を務むることとなり、其後校名また改まりて、二十二年には海軍工学校」となったのである(『日本近世造船史』九二二ページ)。この結果、組織的知識をもたない単なる経験工が職長となることになり、その後の日本の職長制を規定する要因となった。明治前期における熟練工の養成は、横須賀造船所をはじめとして長崎造船所・石川島造船所などで、外国の熟練職工から直接養成された熟練職工が中核となって担当することとなった。伝習制が一段落した後の熟練職工養成方法は、年期徒弟制が支配的となった。しかし、この年期徒弟制は、熟練職工の不足が著しかったために、西欧諸国の徒弟制と異なり、年期制も年少労働者の徒弟制に限られたものではなく、成年に達した職人や農民なども「中年年期」として養成するという、きわめて変則的なものであった。さらに、組織的な管理体制が確立されないで親方熟練職工による請負作業が一般的であった造船所も、熟練労働者を中心とした労働力不足による移動の激化によって、特定の親方労働者と徒弟関係を結ばないで、工場の雑役に従事するうちに技能を修得していく年少労働者が出現したり、伝統的な職人的秩序になじまない新しい職種の労働者が形成されてきたため、年期徒弟制は明治二十年(一八八七)代後半には崩壊していった。 鋼船の建造と職種構成の変化 ここで、職種構成の変化を概括的にみておくと、表二-五六の工場別職工数の変化が示すように、木船建造をおこなっていた一八八二年には、船大工を中心とする造船・船渠工場、製帆工、製綱工などを擁する船具工場の職工の比率が高く、これに次いで、鋳物工・製缶工・鍛冶工などで構成される職工が相当数を占め、旋盤工・仕上工などの属する機械工場の職工はそれほど多くはない。だが、鋼製軍艦の建造をおこなうようになった一八八八年になると、基幹職種が船大工から造船工に転化した造船工場の職工が急増するとともに、造機部門を構成する鋳造・製缶・錬鉄・機械の諸工場、とりわけ機械工場の職工が急増し、反面、木船時代に相当大きなウエイトをもっていた船具工場は絶対的に縮小している(兵藤釗『日本における表2-56 横須賀造船所の工場別労働者構成 注 兵藤釗『日本における労資関係の展開』64ページによる。『横須賀海軍船廠史』第2,3巻にもとづく。 労資関係の展開』六三ページ参照)。『職工事情』によれば、伝統的な熟練を引き継いでいる鍛冶工・製缶工・鋳物工などの職種と、新たに養成された旋盤工・組立工・仕上工などの職種とを比較すると、「此二種職工ノ間其生活思想ニ就キ稍其趣ヲ異ニセルモノアリ」としており、年期徒弟制が崩壊していった背景を確かめることができる。 注 (1) 横須賀造船所で実際に働いていた荒畑寒村も、「木工部は……職工はほとんどみな伊豆の下田あたりから来た船大工で近代的プロレタリアートの性格をまったく有しない、純然たる職人気質であった。」(『寒村自伝』上、五九ページ)と指摘している。もっとも「近代的なプロレタリアートとはいかなるものかは問題なのだが、また、次のようにも述べている。すなわち、「職工の中でも、製鑵部や鋳物部の連中と木工部の連中とでは、服装や態度からして相違が目だっていた。前者には、近代的労働者の風格がほのかながらも認められたのに反して、後者はまったく手工業の職人気質を脱していない」(『同書、四四ページ)。 (2) わが国最初の機械制工場である長崎製鉄所(のちの長崎造船所)の幕末期における労使関係を分析した中西洋「日本における重工業経営の生成過程-幕営長崎製鉄所とその労資関係-」(『経済学論集』第三五巻第一-三号)は、横須賀造船所の労使関係を理解する上で参考になろう。そこでは、オランダ人技師・熟練職工が日本人の職人に技能を伝習するとともに、職場のフォーマルな監督者の機能を果たすとともに、日本人職工のインフォーマルな第一線監督者である「頭立候もの」が職場を統括するという、日本的職長制度の萌芽形態が生み出されたこと、また当時の熟練職工となった職人は、きわめて商人的性格を帯びていたために、早い時期から高賃金の職場への移動が頻繁であり、幕末期に早くも定着対策が打ち出されていることなども明らかにされている。 五 労働市場の形成と労働者の状態 労働者の類型と賃金水準 明治前期の労働者は、以上のほかに商業会社などの従業員も含めて、農民層の分解をはじめ旧身分の解体のなかからさまざまな形態をとって形成された。それらを本来の雇用・労働市場に限定してみると、それは官営・民営の造船所をはじめ製糸・製茶などの工場の労働者や商業会社などの従業員などに限られていた。しかも工場の生産労働者にしても、工場内分業の進んだマニュファクチュアのもとに組織されたに過ぎず、自律した機械体系のもとで働く工場労働者はまだほとんど形成されていない、とみてよい。したがって、熟練分野では親方-職人-徒弟の労働者集団による工場内請負制を容易に解体することはできなかったし、前述した建設・運輸労働者や女工などの不熟練分野では、同様な集団のなかでとくにきびしい監督制度を必要としたのである。というのは、単に旧熟練を解体する機械の登場をはじめ組織的な生産管理や労務管理が未発達だっただけでなく、貧民化した日雇人夫などのように、組織的な賃労働に適合していないうえに勤勉と節約どころか、「怠惰と浪費」で特徴づけられるような労働者が多かったからでもある。 こうした本来の労働市場を基軸としてその周辺には、小商人や一人親方などの自営業や、農家副業なども含めた家内労働のような、必ずしも賃労働関係につつみ込まれていない就業分野が新旧織りまぜて広範に形成された。もちろん、商人や地主の支配を受けていた農民層とほぼ同様に、こうした就業分野も決して独立自営だったわけではない。それどころか、大きな商人や問屋の支配を受けており、彼らの取得した工賃などもむしろ賃金以下にとどまっている場合も多く、事実上、賃労働者化したような就業者も多かっただろう。だが、定職を持つだけに、たとえば大道芸人や露店商人などのようにスラムに住んだり、のちにも多少みるような救貧の対象となるような貧民・窮民は少なかっただろうが、いわゆる細民として下層社会を形成するような就業者も多かった。女工を含めて、女子就業者のなかには職工や職人や農家などの家計補充のための就業者が多かった。それは次にみるように、大部分の労働者には生計に十分な賃金や所得が得られなかったからにほかならない。 当時の職種別賃金水準について、図二-九で比較的高水準だった横浜についてみると、かなり乱高下がはなはだしく、それは賃金水準の不安定さを示しているが、職種別にはやはり職人の賃銭が中等級でも一日五〇銭に達し、とくに高水準にあったが、それにたいし横須賀造船所の職工も役付や高技能工を別とすれば、その平均賃金は三〇銭台にとどまっており、職人の地位より低かったのである。もちろん、等しく職人とはいえ、図二-九の図2-9 横浜における1日当たり賃銭の推移(中等級) 注 『神奈川県統計書』より作成 煙草刻みの職人のように需要が縮小しつつあった旧型職人の賃銭は二〇銭を多少上回るに過ぎず、横浜の日雇人足の賃金をすら下回っていた。さらにこれらにくらべて、多くの女工の賃金は、一部の製糸技能工を別として一〇銭を多少上回る水準にとどまっており、農業の日雇女の賃銭と大体均衡するような低賃金でしかなかった。それはまた、横須賀造船所の見習工の最低級とも見合っており、単純な不熟練労働者の賃金相場を示していたのである。 このような賃金水準は、生計基準でみるといかに評価できるだろうか。もっとも、明治十年(一八八七)代から二十年代にかけて物価変動が激しく、そのこと自体が労働者の生計を不安定にしたのだが、明治前期末でみて横浜の米相場から推定すると、一世帯当たり米だけの支出でも一日二〇銭前後は必要だった、とみられる。とすると、さきの日雇人足の賃銭はそれだけで、残りは僅少という低賃金だったことになる。かりにエンゲル係数(生計費中の食料費の比率)を五〇㌫としても、一日の生計費を充たす賃金は少なくても四〇銭以上でなければならなかっただろう。したがって、この水準を充たすのは、大工・左官・洋服仕立職人や横須賀造船所の役付やかなり熟練した職工の賃銭だけであり、男子でも多くの労働者の賃銭はいずれもそれを下回っており、女工などの子女や家族員の多就業化を必要としたのである。しかも、それでも何らかの生活の事故に対する備えを持つ余裕はほとんどなかっただろう。したがって、職さえ安定的に得られなかった人びとにとっては、「怠惰と浪費」しか生活のしようがなかった、とさえいいうるだろう。 貧窮や犯罪の増加 しかも救貧体制がきわめて不備だったから、失業したり病気になったり怪我などをすれば、家族や仲間などの救助が得られない限り、たちまち貧窮の淵に立たねばならなかっただろう。明治政府の唯一の救貧法といってよい「恤救規則」による神奈川県下の救恤人員を原因別にみると、表二-五七のとおりである。それによると明治二十年(一八八七)代の著増が目立つが、それは「恤救規則」の対象である棄児などの救貧対象の増加を示すだけでなく、救貧財政の強化をも示しているのだろう。それにたいして、郡区で管理されていた火災などの災害に対する備荒儲蓄による救助人員の推移をみると、表二-五八のとおりである。それによると、災難の発生状況によっても異なるわけだが、それにしてもさきの救恤人員にくらべて救助人員の方がはるかに多かった。ということは、一人表2-57 国費による救恤人員の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 表2-58 備荒儲蓄金による救助人員の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 表2-59 義捐金による救助人員の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 当たりの救助金額はより多額だったが、救恤の対象がきわめて限られていることを意味するだろう。表二-五八の火災の救助の増大は、横浜などの都市の拡大をも反映しているのだろう。そのことは、義捐金による救助を示した表二-五九からもうかがわれる。そのなかで、貧困を原因とする救助人員は一八八五年に激増した事実が注目される。それは、あきらかに前述した松方デフレによる貧窮化とそれを背景とした農民などの騒動への対応を示している。それにたいし、表二-五七では救恤の増加がほとんど示されていないのは、「恤救規則」の性格なり限界なりを明瞭に示しているだろう。 こうした貧窮化とともに、さまざまな犯罪も発生しただろう。表二-六〇は新入り囚人の職業別構成を示した統計であるが、それによると就業人口の割に農業は比較的少なかったのに対し、商工業、とくに日雇いや無職などが比較的多くなっている。さらに一八八七-九〇年の変化をみると、男女とも増加しているが、とくに女子の増加、無職の減少の反面で、自由業・雑業・工業や日雇いなどが増加している事実が注目されるだろう。これらのなかには、労働争議によって刑事罰に問われた囚人も含まれていただろう。というのは、労務管理などが遅れた不安定な労使関係と低劣な労働条件のもとで、大小の労使紛争はおそらく日常茶飯事だったであろうからである。しかし、明確な記録のえられる労働争議は比較的少ない(『通史編』4近代・現代(1)第三編表2-60 新入り囚人の職業別構成 人(%) 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を含む。 第一章による)。しかも、再製茶女工の賃金引下げ反対の争議を別とすれば、職人の親方に対する紛争が多かったようである。しかも、いずれも後世のような組織的・計画的な争議ではなく、自然発生型の騒動が多かったようである。 第二章 近代的流通機構の形成 第一節 交通機関の整備と商品流通の発展 一 東海道線の延長と横須賀線の建設 新橋-横浜間の改良 新橋-横浜間の鉄道は、開業以来順調な営業を続けた。もともと、明治政府は東京と京都・大阪を結ぶ幹線鉄道の経路については、中山道経由を構想していた。明治三年(一八七〇)には、土木司の佐藤政養、小野友五郎が東海道の実地調査をおこない、翌年「東海道筋鉄道巡覧書」を政府に提出し、幹線の経路は、建設費や地域開発の観点からみて中山道経由がよいと述べた。その後一八七一年に、小野友五郎・山下省三らが中山道の実地調査をおこない、さらに一八七四(明治七)年とその翌年の二回にわたって、雇外国人技師長R=V=ボイルが中山道を調査、これによってほぼ中山道経由が決定的となった。 ボイルの報告書によれば、中山道線の利点として、「此ノ線路ハ東京・横浜線ニ共合シ、以テ営業スルニ於テハ太ダ便益ナルノミナラズ、其ノ工業ハ東京・西京間線路中最軽単ニシテ最小ナル費用ヲ以テ建築シ得ベキ区分ナリ」としている(鉄道省編『日本鉄道史』上編)。すなわち、この計画によれば、新橋-横浜間の鉄道は、この幹線には含まれない別線の性格をもつことになる。ボイル報告書の「共合」という意味は、あまり明らかでないが、接続・連絡運輸・運転と同一管理の営業というほどのものであろう。 こののち、鉄道の建設は、中山道経由の構想のもとに進められた。この間、新橋-横浜間の鉄道は、一時払下げ運動の対象となったり、また改良工事が次々に進められていった。払下げ運動は、明治五年(一八七二)にはじまった蜂須賀茂韶、徳川慶勝らの鉄道会社設立計画が、一八七五(明治八)年一転して鉄道払下げ計画となったもので、同年六月、二七人の華族が鉄道払下げのための組合を結成し、政府は同年十月十二日払下げを通達した。この華族組合は第一国立銀行総監役渋沢栄一の助言により、払下げ金を三〇〇万円とし、六か年賦(年二回納入)、政府が年六分の利子を交付するという条件になっていた。 しかし、一八七七(明治十)年七月、「金禄公債証書発行条例」の施行により、組合に参加している華族のなかには年賦金納入が困難となるものが出て、払下げ辞退の動きが起こり、同年十二月十九日組合は政府に払下契約取消しの願書を提出、政府は翌一八七八年三月九日これを許可するむね組合に通達、組合は同月十八日解散を決議し、還付された納入金は渋沢栄一の提案によって東京海上保険会社の資本として使用された。 この払下げ問題は、鉄道建設という当初の目的が実行不可能となったために考え出された次善の策という性格をもっていた。政府の側には、鉄道払下げが絶対に必要という条件はなかった。政府は、開業直後からこの線路の改良計画をすすめていた。複線化工事と橋梁改築工事がそのおもなもので、複線化工事は、一八七六(明治九)年十二月一日の新橋-品川間をはじめとして、七九年三月一日大森-川崎間、同年十一月一日川崎-鶴見間、一八八一年五月七日鶴見-横浜間が完成・開通した(品川-大森間は一八八〇年十一月十四日)。橋梁改築工事は、当初木橋として架設されたこの区間の橋梁を鉄橋に改築するという計画で、その主要なものは六郷川橋梁であった。最初、経費節減のため、この橋梁の東京寄り避溢橋を築堤とする計画が、ボイルによってきめられた。しかし、沿線住民がこれに反対し、政府も築堤建設を取り止めることとした。この工事は、従来の木橋よりやや川上に鉄橋を架設するもので、避溢橋部分は一〇五六フィート(約三二二㍍)、径間四〇フィートの錬鉄製上路式鈑桁二四連、本橋部分は五九九フィート(約一八三㍍)、径間一〇〇フィートの複線式ワーレン構桁六連、一八七六年から工事をはじめ、翌一八七七年十一月二十七日から使用開始した。このほか、鶴見川(四二・八フィート、一八七八年三月完成)、子安(四八フィート、一八七七年一月完成)、二ツ谷(四八フィート、一八七九年二月完成)、高島町三か所(三二フィート、一八七七年十二月完成、五八フィート、一八七九年六月完成、一九フィート、一八七八年六月完成)の工事が施工され、また神奈川の東海道跨線道路橋(三三・六フィート)も鉄橋に改築され、一八八一(明治十四)年三月に完成した。 東海道線の延長 中山道幹線の計画は、一八八三(明治十六)年十二月二十八日「中山道鉄道公債証書条例」が公布されて、ようやく資金の裏付けを得、本格的工事が開始された。しかし、測量の進行とともに、この区間がいたるところで難工事に逢着することが予想されるにいたった。一八八六年にはいって、井上勝鉄道局長官は中山道幹線の最も工事の困難を予想される個所の調査をおこなわせ、さらに東海道の箱根越えその他難工事を予想される個所をもひそかに調査させた。 その結果、建設費のうえでも線路規格のうえでも、さらに開業後の輸送力・営業収支のうえでも、はるかに東海道幹線が有利であるという結論に達した。井上長官はこの結論をもとに、首相伊藤博文に東海道への線路変更の意見書を提出、同一八八六年七月十九日閣令第二四号で幹線経路の変更が公布された。 全通のために建設を要する区間は、横浜-熱田間と関ケ原付近-大津間であった。井上長官は工事期間短縮のため、測量と工事とを並行させる方式をとった。神奈川県下については、横浜駅をスウィッチ・バック駅とし、程ケ谷・戸塚から藤沢へ抜け、平塚・大磯を経て、国府津から右折して酒匂川沿いに御殿場へ出る経路が採用された。小田原から熱海へ出る経路は、途中の海岸線に沿う地形が難工事となり、さらに伊豆半島の頸部を越える部分の線路選定がきわめて困難であることから採用されなかった。 横浜-国府津間の測量は、この年十一月までに終わり、ただちに工事が開始された。国府津以西については、一時箱根を抜けて三島へ出る経路も考えられたが、かなりの急勾配と多くのトンネル工事が必要とされ、そのために御殿場経由に決められたといわれている。それでも、一〇〇〇分の二五という急勾配と、数か所のトンネル、それに酒匂川、相沢川を何か所かで渡ることが必要となった。 横浜-国府津間は、一八八七(明治二十)年七月十一日に開通した。この区間には、程ケ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯の各駅が設けられた。線路はほぼ東海道に沿っていたが、程ケ谷-戸塚間は、清水谷戸のトンネルを掘って、ここを通ることとした。また、藤沢駅は宿場から南に離れた位置に設けられた。藤沢-平塚間の相模川橋梁は東海道の橋梁の上流に架けられ、延長一三六五フィート(約四五五㍍)で、最初仮橋で開通し、一八八八年八月本橋が完成した。 国府津-御殿場間の開通は一八八九年二月一日で、山北-御殿場間には橋梁二〇か所、トンネル七個が必要となった。また、一〇〇〇分の二五という急勾配が一〇マイル(約一六㌔㍍)以上連続し、のちに東海道線の輸送上のネックとなった。 東海道線は一八八九(明治二十二)年七月一日に全通し、東京-横浜間はこの幹線の一部を構成することとなった。鉄道幹線が県の南部を東西につらぬくことになって、県内各地と横浜との結びつきは、かなり強まる結果となった。江ノ島・箱根など観光地への足の便も改善された。さらに、重要輸出品であった静岡産の茶の輸送が鉄道に転移した。このように、東海道線の延長は、さまざまな影響をもたらしたのである。 横須賀線の建設 一八八四(明治十七)年、横浜にあった海軍の東海鎮守府が横須賀に移転して、横須賀鎮守府と改称、明治初年から建設されてきた海軍基地は、さらに本格的基地として拡張されることとなった。ところが、東京-横須賀間の交通はきわめて不便で、横浜以南の道路には馬車の通行不能の個所があった。このため、一八八五年には馬車道路の建設計画が海軍の手で立てられたが、この案は翌年鉄道建設計画に変更され、このころ三浦半島に砲台を建設していた陸軍でも、輸送路改善の必要性を痛感していたので、一八八六年六月二十二日海軍大臣西郷従道、陸軍大臣大山巌の連名で伊藤首相に対し、横須賀線建設決定のための閣議を求める文書を提出した。 内閣から調査を命ぜられた井上鉄道局長官は、将来建設予定の東海道幹線戸塚付近から分岐して、鎌倉・逗子を経、三浦半島を横断して長浦から横須賀に出る線路を選び、この支線部分の建設費を五〇万円と見積った。建設資金は東海道線建設費から流用することとし、予算額を四五万円とし、一八八七(明治二十)年七月測量に着手、同年十二月完了した。当時は、すでに東海道線が開通しており、戸塚-藤沢間の中間に位置する大船村に停車場を設けて分岐することとした。横須賀の終点は、市街に停車場を設けることが予算上の制約から不可能であるという理由で、長浦からトンネルを通って出たところ、逸見村の当時兵営のあった地点に設けることとした。これには、海軍が将来線路を延長するのに便利な位置として、ここを希望したともいわれている。 横須賀駅 市川健三氏提供 工事は一八八八(明治二十一)年一月着手、翌年六月十六日に開通した。最初は一日四往復、七月一日東海道線全通の日から一日六往復となり、各列車が本線に接続した。直通運転はなかった。横浜-横須賀間の所要時間は接続時間を含め、ほぼ一時間三〇分であった。すなわち、横浜-大船間が三二-三六分、大船-横須賀間が四五分かかっており、横浜から横須賀まではおよそ一時間三〇分ということになる。鎌倉までは大船-鎌倉間の所要時間が一四分であり、横浜から約一時間かかったことになる。 大船-横須賀間の途中駅は、鎌倉・逗子だけであった。この線路は、軍事的な利用目的から建設された線路であったが、とくに鎌倉・逗子と横浜・東京との連絡改善に大きな影響をあたえた。 二 神奈川-八王子間鉄道の計画 八王子鉄道論 一八八五年刊行の『工学会誌』(第六四巻)に、清水保吉「八王子鉄道論」という論文が掲載されている。清水は当時神奈川県の職員であり、工学会の会合における演述をまとめたものであった。その趣旨は、当時立てられていた東京・横浜と八王子を結ぶいくつかの鉄道建設計画を比較し、机上の計画だけで建設を決定することは危険であり、また鉄道企業がばく大な利益をもたらすことはないことを説明し、「世ノ鉄道株ニ惑溺スル人ノ注意ヲ促シ」というところにあった。 当時、八王子は神奈川県下にあり、西・北多摩郡、埼玉県南部、山梨県など各地から商品が集まってきて、ここから東京・横浜へ輸送するための市場として経済活動がさかんであった。それらの商品の輸送手段として、新宿-羽村-青梅間に馬車鉄道を建設しようとする計画があったが、それまで山梨県から大菩薩峠を越えて青梅に出、ここから青梅街道を通って東京に出ていた経路に対し、小仏峠の改良によって甲州街道沿いに八王子に出る経路が重視されるようになったため、新宿からの馬車鉄道の計画も八王子に方向を変えた。 清水はこの線路と、川崎-八王子間の線路、横浜-八王子間の線路などを比較し、直接建設にあたって必要な工事の難易や建設費、営業上の利益などを勘案してみると、川崎-八王子間に建設するのが最も有利であるという結論を出した。 この比較は、商品集散地である八王子を中心に、東京・横浜との鉄道連絡の経済比較をおこなった最初のものとみてよいが、川崎-八王子間に鉄道を建設すれば、既設の新橋-横浜間鉄道を介して、東京・横浜いずれについても便利な輸送経路を実現し得るということになる。そして、この川崎-八王子間の鉄道は、実際に原善三郎らによって計画されたのである。 民間の計画と政府の対応 一八八六(明治十九)年横浜の貿易商、原善三郎ほか一二名は武蔵鉄道会社を発起し、資本金五〇万円で川崎-八王子間に鉄道を建設すべく神奈川県知事沖守固に願書を提出した。神奈川県知事沖は、十二月二十八日内務大臣山県有朋に上申し、三多摩および山梨県産の生糸・織物の多くは横浜から海外に輸出されており、八王子-東京間に鉄道を建設すると迂回路になるばかりでなく、「県治上ニ於テモ三多摩郡地方管民ノ交通ハ常ニ他管タル東京府下ヲ経由セザルヲ得ザル姿ニシテ一県下ニ在リナガラ全然分裂ノ状態ヲ現出スベク」と県政上の問題点をも指摘した(前掲『日本鉄道史』上編)。 これに対し、翌一八八七年三月五日山県内相はこの問題を閣議に提出し、次のように意見を付した。すなわち、東京・横浜などの都市に関係のある地域に鉄道を建設する場合は、「必ス先ツ首府ヲ以テ基点トシ、而シテ他ノ各邑要区ニ連絡スルヲ原則トスヘシ」といい、八王子から川崎に直行する線路を建設すると、青梅・飯能・所沢などはこの線路から遠く離れ、八王子に逆行しないと鉄道を利用できなくなる。八王子から東京に線路を建設すれば、これら各地からはこの線路の途中の停車場に出ることができる。さらに、横浜と八王子との関係は一年のうち特定の季節に、「一時僅々少量ノ生糸其他ヲ輸出スルニ過ギズシテ、東京八王子間ノ如ク一歳百貨ノ出入行旅ノ送迎ヲ絶タザルノ関係トハ大差アルモノノ如ク、横浜ノ便否ニ係ル一点ヨリ謂フトキハ少シク遺憾ナキヲ得ザルモ、之ガ為首府ノ関係ヲ枉ゲテ計画ノ大要ヲ誤ルベカラズ」と主張した(同書)。 井上鉄道局長官も、これとほぼ同じ意見を上申していたため、閣議も内務大臣のこの請議案の立場を認めることとした。 この決定の以前、一八八六年十一月十日には、新宿-八王子間の甲武馬車鉄道会社(十二月、蒸気に動力変更)が免許を受けており、この閣議でも、この計画が支持される結果となった。こうして、川崎および横浜と八王子とを結ぶ鉄道は、この時には実現しなかった。ここには、商品の能率的な輸送体制の確立を求める民間の立場と、首府に基点をおくべしとし、また鉄道の開通による地域開発をあまり重視しない政府の立場とのくい違いがみられたのである。 三 車輛交通の増大 馬車輸送の登場 道路交通にあらわれた新しい変化は、馬車・人力車・荷車など各種車輛の登場と急速な増加であった。周知のようにわが国における馬車の運行は、幕末開港後の外国公館の自家用馬車に始まったが、日本人経営の馬車は、明治二年(一八六九)五月開業した、横浜-東京間の乗合馬車が最初であった。石井研堂『明治事物起源』(明治四十年刊)によれば、この馬車営業は同年二月、川名幸左衛門・下岡蓮杖・木屋与七・中山譲治ら八名によって出願され、官許のうえ横浜吉田橋脇の官有地一六〇坪を借り受け、成駒屋と号して開業した。営業内容は二頭立て馬車に乗客六名を乗せ、一人金三分の運賃で横浜-東京間を運行するものであった。四時間で東京に達したといわれるから、時速は八㌔㍍前後ということになるが、運行回数・馬車数等はつまびらかでない。また、使用された馬車の製造場所なども不明であるが、前記出願人の一人中山譲治ほかが、「当時、外国人持ち乗合馬車を以て東京往復営業を」おこなっていたといわれる点や、明治二年という時点からいって、当初はおそらく外国製だったと考えてさしつかえないであろう。このほか同書には東京芝口一丁目西側家主久右衛門ほか八名も、二年四月乗合馬車営業を出願して免許された旨が記されているが、詳細は同じく不明である。しかし、『東京市史稿』帝都(二)には、東京-横浜間馬車に関する、東京府知事の神奈川県知事宛文書(明治二年四月)が見え、出願人与七(前記木屋与七)手代金太郎に対して、市中雑踏のため日本橋箔屋町へ馬車継立所を設けることを禁じ、運行コースを尾張町一丁目-日本橋から尾張町一丁目-木挽町五丁目橋-南小田原町(築地)へ変更するよう命じた旨が記されている。また、参考のため添付された「東京府馬車規則書」にも「横浜より東京外国人居留地迄の往還のみ差許し候に付き、追って沙汰に及び候迄、其の余の場所は往返致すまじく」とあり、同じく南小田原町から尾張町一丁目経由金杉高輪町までのコースを指定している。当時すでに東京府がこの規則書を制定していた点からいって、同様の開業願書が府内からも提出されていたと考えてさしつかえないであろう。『資料編』18近代・現代(8)一二四に収録されている明治三年三月「東京横浜馬車商社規則」は、関連資料を欠いているため前後関係が不明であるが、おそらく前記の京浜の業者が合併し、東京横浜馬車商社として再発足したのではないかと思われる。なお、この馬車営業は宿駅制度下の東海道で始まったものであり、当然各駅継立業務との対立や調整問題が起こったものと思われるが、手がかりになるような資料はまだ発見されていない。また、鶴見川・六郷川(多摩川)などの渡河の問題もあったが、この点については五年五月に開業した中山道郵便馬車会社の資料(『駅逓明鑑』巻六、第一三編第一八章)に、「渡船敷板、歩み板等の入用、会社より出し、渡し越し賃銀並びに車乗せおろしの手伝料とも、川崎宿の振合を以て、二匹立、一匹立の差別無く、一度金一両宛」とあり、渡し舟によったものと思われる。また『大蔵省沿革史』租税寮第四、明治四年正月の部に「馬車税の如きは一、二年以来、東京府、神奈川県既に之を徴収せり」とあり、運行直後から、府県税として徴収したものと考えることができる。いずれにしても神奈川県は、新橋-横浜間鉄道の開通に先立って、馬車輸送の分野でも先鞭をつけることになったのである。 初期の馬車輸送の第二の例は、一八七四(明治七)年八月、陸運元会社(一八七五年二月内国通運会社と改称)によって、神奈川-小田原間で開始された郵便物の馬車輸送であった。同社は江戸時代初頭から信書・貨幣・高級貨物の運送請負業に従事してきた飛脚業者たちが、官営郵便の開設にともなってその下請業務に転業し、明治五年六月の会社創立以来、政府の特別の保護を受けてきたものであった。神奈川-小田原間の馬車輸送は、鉄道未開通区間での官営郵便の早達を目的として開始され、一八七五年十一月には熱田まで、一八七六年八月には京都まで延長された。しかし、悪路のため小田原-箱根-三島間、島田-日坂間、熱田-桑名-土山間は脚夫、宇都谷-島田間は人力車、浜松-新所間は渡し舟というつぎはぎ輸送で、馬車の運行ができたのは残り七区間にすぎなかった。このうち東京-小田原間は、当時最も良好な道路のひとつに属し、一八七七年十月、イギリス公使パークスが本国へ送った報告書(「日本国内国運輸ノ性質並ニ費用ニ関スル英国領事報告」)でも、東京-高崎間、東京-宇都宮間とともに、ベスト・スリーのなかに加えられていた。神奈川-小田原間の馬車輸送は、さきの横浜-東京間のそれと同じく、こうした良好な道路事情や、早着を必要とする新しい輸送需要に支えられていたと考えることができるのである。 人力車の普及 他方明治三年(一八七〇)には人力車も登場し、急速に普及した。周知のように人力車は、東京在住の高山幸助ら三名によって考案され、同年三月、東京府から営業認可を与えられたものであったが、当時の輸送需要と道路事情に適した簡便さと低速性のため、たちまち各地に普及した。『日本帝国統計年鑑』によれば、一八八〇(明治十三)年末には神奈川県下でも六八〇〇輛余を数え、東京・大阪・兵庫・愛知の諸府県に次いで第五位に位した。もちろん当時の県域には多摩郡がふくまれていたが、『明治十九年神奈川県統計書』によれば、総数六七五四輛のうち多摩郡下所在の車輛は六〇二輛にすぎず、残り六一五二輛のうち二七五〇輛が横浜区に属した。新橋-横浜間鉄道の開通と開港場の繁多な輸送需要が、こうし港町の人力車風景 神奈川県立博物館蔵 た軽便な都市交通手段を必要としたものということができよう。 馬車取締規則の制定 明治初年(一八六八)に始まった車輛交通は、宿駅制度の廃止(明治五年一月十日東海道、五年八月末全国諸道)や各駅陸運会社の解散(一八七五年五月末)によって、発展の機会を与えられた。そして、養蚕・製糸・織物など在来産業の活況が始まった明治十年(一八七七)代には、輸送需要の増大にともなって、かなり目ざましい発展をとげた。いまその模様を『日本帝国統計年鑑』によって見れば表二-六一・六二の通りであり、一八八〇年から一八八九年までの県内各種車輛の増加率は、馬車二四・五倍、荷車三・四倍、牛車一・五倍にのぼっている。とくに荷馬車の増加はきわめていちじるしく、五七輛から二一七三輛へと三八倍余に及んだ。 こうした傾向は全国的にみてもほぼ同様であり、あたかも西欧の馬車時代初期に似かよった状況を示しはじめていたと考えてさしつかえないように思われる。また、乗合馬車もこの間約五倍に増加し、一八八一年五月には神奈川県布達甲第七八号によって「馬車取締規約」も制定された(『資料編』18近代・現代(8)一二九)。この規則は、乗合馬車・貸馬車・荷馬車等の営業出願手続(第一条)、馭者の要件と馭者・馬丁の鑑札(第二、三、四条)、立場(発着所)と運行心得(第五、六条)、賃銭と定員(第七、八、九、一〇条)、警察官の取締(第一一、一二条)などを含んでいたが、運行については左側通行と夜間の燈火(車前左右)、群集区間表2-61 全国諸車台数 注 『日本帝国統計年鑑』より作成 表2-62神奈川県諸車台数 注 『日本帝国統計年鑑』より作成,ただし多摩郡をふくむ。 での徐行と馬丁の先行・警笛などを明示していた(第六条第一-第五項)。しかし、前記「東京府馬車規則書」(明治二年)に記載された下車条項(「途中高貴の方々の通行に行逢い候節は下車致し、其の余常々礼譲心掛け申すべき事」)は姿を消し、より近代的な営業規則の形を整えたものであった。なお、前記運行心得は自家用馬車にも適用され、同年七月一日から県下全域に施行されることになったのである。 四 鉄道貨物取扱業の誕生 鉄道貨物輸送の開始 すでにふれたように、わが国の道路交通は、宿駅制度の廃止と各駅陸運会社の解散によって、自由化の時代を迎えたが、しかし、この時期はすでに世界的には鉄道時代のまっただなかにあり、そのインパクトによってわが国でも、新橋-横浜間その他の鉄道が開通した時期であった。もっとも開通後約一〇年程は、強い官設官営方針と資金不足のため、線路延長が順調に進まなかったので、中・長距離圏の道路交通の分野でも、馬車時代初期に似た活況が現われることになった。しかし、明治十年代なかばからは、中山道鉄道公債の発行や私設鉄道の認可によって、官私鉄道の建設と線路延長が急速に進み、道路輸送の再編成と鉄道貨物取扱業務への転換を迫られることになったのである。 ところでこのような鉄道貨物の取扱業務は、すでに新橋-横浜間鉄道において、一八七三(明治六)年九月から始まっていた。周知のようにこの鉄道は、東西両京間鉄道建設のための試験線として着工されたものであり、ダーリントン=ストックトン鉄道のような、貨物輸送のための産業鉄道として建設されたものではなかった。そのため開業当初は旅客と手小荷物のみを運ぶ客車の運行にとどまっていた。輸出入貨物はすでに鉄道開通前から駄馬や回船で輸送され、外国商船も沿岸海運へ進出し表2-63 東京-横浜間鉄道輸送実績 注 「工部省沿革報告」より作成 ていた。したがって短小なこの鉄道が、輸出入貨物の輸送網のなかで占める地位は、ほとんど取るにたらないものであったと考えることができるのである。事実この鉄道の貨物運賃収入は、明治十年代に入ってもきわめて停滞的で、最大の年度でも全運賃収入の一五㌫程度にとどまっていた。またその輸送量も、横浜港経由の輸出入貨物量にくらべてきわめて少なく、一八八一年度を例にとれば、織物類・紙・雑貨など重要輸出入貨物を除いた輸出入貨物二億二八五三万斤の約三分の一にしか当たっていない。全輸出入貨物の重量換算は統計上不可能であるから、両者の正確な比率を求めることはできないが、おそらく前記の事実からいって、当時の同港輸出入総量の一割前後にとどまったものとみて大過ないであろう。こうした事情はこの鉄道の短小性からいって当然ともいえることであろうが、他方、その運賃が海運にくらべて割高だったこともひとつの理由であった。いずれにしてもわが国の輸出入貨物は、すくなくとも明治二十年(一八八七)代初頭までは、大部分道路や沿岸海運によって開港場に運ばれ、あるいはそこから搬出されたものと考えてさしつかえないのである。(表二-六三) 新橋-横浜間鉄道が貨物輸送において果たした役割は、このように比較的小さなものであったが、しかし、貨物の種類によっては、鉄道のもつ早達性と定時性に大きな価値を見いだしたものもあった。生糸・蚕卵紙のような価格変動のはげしい輸出貨物や、湘南地方の生鮮魚類などがそれであった。これらはいずれも早達性と定時性によって価値を維持し、また、それによって割高な運賃をも負担し得る高級貨物であった。そして、初期の鉄道貨物のなかで重要な地位を占めたのであった。 新橋-横浜間鉄道の貨物輸送は、このような事情のなかで一八七三年九月に始まった。開業に際しては「鉄道貨物運送補則」と品目ごとの「賃銭表」が布告され(九月十三日第三一六号)、また工部省鉄道寮からも各駅に、九月十五日から新橋・横浜両ステーションにおいて、貨物の取扱いを開始する旨の張紙が掲示された(『資料編』18近代・現代(8)一五五)。受付時間は毎日午前七時から午後五時までとされ(「鉄道貨物運送補則」第一二条)、途中駅での取扱いはおこなわれないことになっていた(鉄道寮掲示第二条)。 三井組の鉄道貨物取扱い ところでこのような鉄道貨物輸送の開業は、これを利用して貨物を送達する鉄道貨物取扱業(運送請負業)の開業を促した。そして、新橋-横浜間鉄道においてこの種の業務に最初に進出したのは、三井組であった。高村象平「明治初年に於ける三井組の運送取扱業」(『社会経済史学』第四巻第七号、昭和九年十月)によれば、同組は一八七三(明治六)年七月、「鉄道荷物取扱手続書」を鉄道寮に提出して八月二十日認可を得、新橋駅および横浜駅構内の一部を借り受けて取扱所を設け、営業を開始した。この「取扱手続書」によれば「これ等の場所で受付けた貨物は取り纏めこれを三井組の貨物として、各駅間の運送を鉄道に依託し、更に三井組はまた相当額の配達料金を荷主より受け以って着駅から各戸口に配達することを引受けること」(前掲高村論文)になっていた。したがってその業務内容は、かつて飛脚問屋が宿馬を利用しておこなった運送請負業と、同種類のものだったということができるのである。なお、同年十月四日工部省によって認可された三井組「ステーション為替荷物并送り荷物取扱規則」(『資料編』18近代・現代(8)一五四)によれば、荷物の受付はすべて取扱所でおこなわれ、集荷運送はおこなわれなかった。取扱所での荷物の受渡しは午前八時から午後五時までとされ、受付(運送請負)に際しては所定の鉄道運賃のほか品柄に応じた「持運ひ手数料」が、配達付の場合にはさらに配達料が徴収された。「持運ひ手数料」の性格はつまびらかでないが、おそらく請負手数料と貨車までの運搬賃を合わせたものではなかったかと思われる。また、荷為替の取組や荷為替付荷物の運送取扱い、為替金の書替えも、貸付方と提携しておこなわれることになっていた。鉄道運賃は週末ごとに上納するきまりであった。 このような鉄道貨物取扱業の認可申請は、同年八月、横浜境町一丁目の生糸売込商田中平八からも、支配人(黒崎平七)を通じて提出された。しかし、鉄道寮は同年九月、「既ニ三井組ニ許可有之候故」という理由で「当分之処ハ右ニて取扱」う方針をきめ、申請を却下した。その結果、鉄道貨物創業当初の取扱業は、三井組の独占するところとなったのである。なお、同年十一月には、東京府下安針町平田友七ほか三名から、湘南地方の鮮魚輸送のため、神奈川駅において毎日貨車二輛を借り切り、新橋駅へ送達する件が申請され、認可された(『資料編』18近代・現代(8)一五七)。これは上述の取扱業と異なり、荷主自身が一輛金五円で貨車を借り上げるものであったが、いわゆる貸切扱いの嚆矢として興味ぶかいものということができよう。 一八七四(明治七)年五月十四日、工部省は布達第一四号をもって鉄道運賃を大幅に引き下げ、また一八七五年三月には、従来三井組のみに認可してきた鉄道貨物の取扱業務を、広く一般に開放した。前者はそれまでの鉄道運賃が海運その他の運賃にくらべてかなり割高で、期待した業績が上らなかったためであり、後者も三井組の独占が、鉄道貨物の増伸にとって障害とみられたからであった。そして、このような開放措置にともなって、従来貨物運賃のなかから三井組に交付された取扱手数料(運賃の五㌫)も、以後荷主から徴収することに改められたのであった。 以上の結果、鉄道貨物取扱業者の数はしだいに増加した。すなわち、一八七五年三月二十七日には東京府本材木町西村勝三、同佐内町内国通運会社頭取吉村甚兵衛、四月九日には横浜元浜町田島喜八、九月二十三日には東京府和田力蔵ほか七名と神奈川県和田鉄五郎ほか一名が、鉄道貨物の取扱業務を認可された。そして、その数は明治十年代を通じてさらに増加し、二十年代初頭には、横須賀線の開通(一八八九年六月)や新橋-神戸間の全通(一八八九年七月)によって、急増することになったのである。 五 河川舟運と渡船・渡橋 鶴見川の舟運 河川輸送の分野では、多摩川・鶴見川・相模川などの河川が、江戸時代以来筏流し、薪炭・米麦・肥料・塩などの輸送に重要な役割を果たし、維新後も大正中期ころまで、各種の貨物輸送に利用されたことが、写真や聞き取りなどで確認されている。しかし、残存資料が少なく、全容を明らかにすることはきわめて困難である。 このような資料状況のなかで比較的まとまった形で残存するのは、旧橘樹郡北綱島村飯田家文書のなかの天然氷の輸送資料である。同文書の特徴については県立文化資料館から発行された『資料目録 古文書の部第一集』(昭和四十九年三月刊)に明らかであるが、近世期のぼう大な名主文書のほか、茶・果樹の栽培、天然氷の製造等の近代資料をふくみ、このうちおもに天然氷が川舟その他によって横浜真砂町三丁目や東京日本橋西河岸などの氷室に運ばれたのであった。『資料編』18近代・現代(8)一四二は、一八八四年一月五日から二月二十七日までの間に、綱島付近の鶴見川筋から横浜真砂町三丁目の氷室に送られた天然氷の数量と船頭名を記載した控帳である。表二-六四はこのうち船頭名のみを整理したものであるが、総数三一名、輸送回数計六五回にのぼっている。輸送総量は空欄があるためつまびらかでないが、「二階揚之分〆八万二千四百九十二斤」という記載が見えるので、いま仮に一階にも同量を収蔵したとすれば、合計一六万四九八四斤、すなわち約一〇〇トンにのぼったことになる。また、使用された舟がすべて船頭の持舟かどうかもつまびらかでないが、記帳形式からみておそらく「手舟喜代蔵舟」は飯田家の手舟とその使用人、他は羽根田村太市および小倉村(現在城山町)重次郎・権右衛門を除いて、すべて鶴見川筋の船頭とその持舟だったと思われる。いずれにしても明治十年代には、県内各河川に、かなりの数の川舟が運行していたと考えることができるのである。 渡船と渡橋 ところで内陸部を流下する河川は、舟運によって少なからぬ貢献をする半面、道路交通を各地で遮断する大きな障害となった。そのため江戸時代以来各地に渡船場が設けられ、相対または定賃銭によって貨客の輸送に当たった。しかし、各地の渡船場は、江戸時代を通じてしばしば排他的な営業権を確立し、通行上の不便や近隣諸村との争論を招くこともまれではなかった。 このような事情は、幕府の崩壊や貨客の増加によって、維新以後しだいに変化しはじめた。そして、政府もまた明治四年(一八七一)十二月、布告第六四八号によって新道開拓や架橋を奨励し、落成のうえは工費の多少に応じ、通行料金の取立てを許すことを明らかにしたのであった。 このような方針は一八七三年六月、六郷川架橋と渡橋賃取立の認可、というかたちで具体化された。幕末期に編修された『東海道宿村大概帳』(児玉幸多校訂、吉川弘文館刊昭和四十五年三月)によれば、東海道川崎宿と対岸の八幡塚村を結ぶ六郷川の渡船は、「前々八幡塚村にて相勤候得とも、近来ハ川崎宿にて相勤」め、宿内字船場に川会所一か所、水主頭・会所詰各二人、肝煎四人、渡船一四艘などを常備して、渡船場の川舟で天然氷を氷室へ運ぶようす 『大日本博覧絵』より 運営に当たった。そして、このような川崎宿の権利は維新後も続き、歩行船・馬船などによって旅客や車輛の輸送に従事したのであった。 しかし、このような旧慣に正面から対立する架橋願書が、一八七三年三月、八幡塚村鈴木左内および北品川宿芳井佐右衛門から東京府に提出された(『東京市史稿』帝都十一)。それによれば元来この渡船場は「往復之諸人夥しく、なかんずく横浜開港以来いや増し、馬車其のほか差しあつまる」場所であるが、渡船のため少なからぬ難儀を被っているので、このたび仮橋を架け、経費の消却のため五二か月半有料としたいというものであった。 この願書は東京府を経て所管の大蔵省に進達され、同年六月二十九日認可された。そして、翌一八七四年一月中旬までに架橋その他万端の用意を整え、同十九日付で東京府から、翌二十日以降五二か月半の間、有料橋として使用することを許可されたのであった。なお、認可料金は歩行者一人金三厘、人力車一輛(車夫とも)金一銭、馬一匹(口引とも)金一銭、馬車一輛(馭者とも)金六銭二厘で、ほぼ出願料金と同額であった。また、「従前の渡し舟」はこの時をもって廃止された。 このような大蔵省の方針は神奈川県にもただちに反映し、一八七四年六月、第一七八号によって、渡船・架橋を旧慣から解放した「渡船架橋規則」が布達され表2-64 1884年鶴見川筋の氷舟 注 『資料編』18近代・現代(8)142より作成。人名の右肩の数字は輸送回数,数字のないのは1回のみの輸送,合計延65回。 た。そして、これによって渡船・渡橋の運営は旧慣にとらわれず、すべて地元の村々がおこない、甲村の渡船・渡橋を乙村が支配する等のことを廃止すること、徒歩可能な河川で渡船・渡橋を強要する等の行為・奸計をおこなわないことなどが指示されることになったのである(『資料編』18近代・現代(8)一四〇)。 この規則は県内各地の渡船場に大きな衝撃を与え、近隣村々の間にしばしば深刻な紛争を呼び起こした。たとえば多摩川中流の登戸村と和泉村を結ぶ渡船場では、渡船権を持つ両村から業務を委託されてきた宿河原村が、右の規則にもとづいて一八七五年八月免許を受け、これに気付いた両村との間に紛争を招いたし、また、相模川上流の湘南村と上川尻村(ともに、現在城山町)でも、小倉渡船場の権利をめぐって深刻な争いが起こり、ついに横浜地区裁判所を経て上級審まで持ち込まれることになった。しかし、いずれの場合も旧慣にもとづく排他的な渡船権は、その主張をつらぬくことができず、後者は湘南村の敗訴に、前者は一八八一年七月、渡船・架橋とも三か村の共同経営というかたちで、和解を見ることになったのである(『資料編』18近代・現代(8)一四一)。 第二節 貿易機構の整備 一 売込商体制と直貿易 資本主義の発達と横浜貿易 明治維新は、封建制の社会を資本主義の社会に変える大きな変革であったが、資本主義的な生産と流通の機構が発達するには、しばらく時間がかかった。資本主義が発達するためには、資金の蓄積と自由な労働力の存在が不可欠であり、それらの必要条件がととのえられるには、松方財政の展開をまたなければならなかった。松方財政が、一方で、日本銀行を軸とする資金流通機構を整備し、銀本位による近代的貨幣制度を確立し、他方で、デフレーションの作用による農民層分解、その結果としての労働力(土地喪失農民)創出を促進させると、その後の時期から、資本主義は、急速に発達しはじめた。資本主義の発達は、国内・国外の商品の流通を、質的にも量的にも拡大させたから、横浜における輸出入も、大きく成長することとなった。 一八七六(明治九)年から一八九六(明治二十九)年の横浜の輸出・輸入の推移をみると図二-一〇のようである。この約二〇年間は、一八八五、六年ころを境に、前半の停滞期と後半の拡大期に分かれている。前半期は、一八七七(明治十)年の西南戦争をきっかけとするインフレーションが、一八八一(明治十四)年から開始された松方財政によって鎮圧され、デフレーション状態が続いた時期である。イ図2-10 横浜の貿易(1876-1896年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 66,74,104,131ページによる。 ンフレ期には、輸入が輸出を上回る水準にあるが、デフレ期には輸入は縮小し、横浜貿易は、輸出超過にもどっている。後半期は、企業勃興期とよばれる資本主義的企業の登場が著しい時期にはじまり、一八九〇(明治二十三)年には、最初の資本主義恐慌を経験し、一八九四、五年の日清戦争にいたる時期である。資本主義の発達とともに、横浜の輸出入は、急成長をとげている。輸出は、一八八六年から急拡大を示し、一八九〇年にはかなり激しく落ち込むが、ただちに回復し、一八九五年には、一八八五年の三・五倍の輸出額を記録するにいたった。輸入は、一八八七年から拡大しはじめ、一八九〇年恐慌の影響を受けて九一、二年には縮小するが、九三年以降再び急速に拡大し、一八九六年には、一八八六年の三・六倍の輸入額に達している。 横浜貿易額を全国貿易額との関係でみると、図二-一一のようになる。全国貿易額の動向は、横浜貿易と図2-11 全国貿易と横浜(1876-1896年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。貿易額は輸出額と輸入額の合計。横浜の割合は,全国貿易額に対する横浜貿易額の百分比。『横浜市史』資料編2 6,14,40,60,66,74,104,131ページによる。 同様であり、一八八五年ころまでは停滞し、八六年以降急拡大傾向に入り、九〇年恐慌で一時停滞するが、一八九六年には、八六年の三・六倍の水準に達する。全国貿易額に対する横浜貿易額の割合は、一八七六年の七九㌫から七八年には六九㌫に低下し、しばらく七〇㌫前後の割合が続いたが、八四年以降はまた低下傾向をたどって、九六年には四六㌫となった。これを輸出と輸入に分けてみると、輸出は、一八七六年の七九㌫から、一八九六年には五二㌫に低下し、輸入は同じ年で、七九㌫から四二㌫に低下している。横浜貿易の地位の低下の裏には、神戸港の貿易の拡大がある。神戸の貿易額の対全国比は、一八七六年の一四㌫から、九六年には四二㌫に拡大した(『日本貿易精覧』四〇七、四一五ページ)。とくに、輸入では、神戸が、一八七六年の一六㌫から九六年には四八㌫になって、横浜を追い越すにいたっている(一八九三年以降、神戸が輸入第一位港になった)。日本の資本主義発達の基軸産業である綿紡績業が、関西地方をおもな舞台として発達し、原料綿花を中国・インドから大量輸入し、綿糸を中国に輸出するにいたったことが、神戸港の比重を拡大させた最も大きな要因であった。資本主義の発達は、商品流通の内容を大きく変化させ、そのことが、横浜の貿易港としての相対的地位を低下させたのである。 この時期の横浜貿易は、居留地貿易体制のもとで進められたが、日本商社による直接貿易・直貿易も開始された。つぎに、居留地貿易体制の内部変化と直貿易についてみてみよう。 連合生糸荷預所事件の発生 居留地貿易体制は、外国商館が輸出入業務を専門に担当し、日本商は売込・引取業務をおこなう体制であるから、いきおい、外商による貿易独占・専横的取引慣行が形成されることになる。日本側は、商権回復のスローガンのもとに、外商による貿易独占を打破し、公正な取引慣行を樹立する努力を重ねなければならなかった。すでに述べた一八七三(明治六)年の横浜生糸改会社、翌七四年の蚕種紙買入所の活動のうちにも、商権回復への悲願が込められていた。 一八八〇(明治十三)年ごろから計画されて、翌八一年九月に開業した連合生糸荷預所は、この商権回復を旗印とした横浜生糸売込商を中心とする新しい動きであった(以下、海野福寿『明治の貿易』による)。連合生糸荷預所は、横浜生糸売込商の出資によって設立された、貸付業務をともなう倉庫であり、次のように運用される仕組みとされていた。(一)生糸売込商は、地方荷主から委託された生糸をすべて荷預所に搬入する、(二)荷預所は、生糸検査をおこない、見本品一箇以外の生糸を保管し、預手形を交付する、(三)売込商は、見本品によって、自店において外国商館と売込契約を結ぶ、(四)売込商から契約成立の報告を受けた荷預所は、荷預所内で、計量をおこない、生糸と代金の受渡しをおこなう、この際、荷預所は、売込商から倉庫蔵敷料・検査料・手数料を徴収する、(五)この間、荷預所は、保管生糸を担保とする貸付けをおこなう。 荷預所連合加盟者は、横浜生糸売込商であり、加盟者を通さずに生糸を引き込んだ外国商館と加盟者以外の者に出荷した荷主とは取引を拒絶する申合せが売込商仲間でつくられていたから、荷預所は、売込商の独占組織といってよい。そして、荷預所が、独自に品質検査をおこない、荷預所備付けの衡器・風袋で計量して受渡しをおこなうことは、外国商館による恣意的な取引慣行のはいり込む余地をなくした。 外商は、荷預所の設立計画が進められていた段階から設立反対の意思表示をおこなっていたが、いよいよ九月に荷預所が開業すると、猛烈な反対運動を展開した。九月二十日夜に開かれた集会で意思統一をした外商は、荷預所連合生糸荷預所 『横浜商業会議所月報』より あてに質問状を出すとともに、荷預所との取引拒絶の行為にでた。荷預所が設立主意説明を繰り返しただけの返書を送ると、外商側は、荷預所を非難し、直接取引を勧誘する文書を、全国の地方商人・生糸生産者に発送した。横浜における生糸取引は、全面的に停止するにいたった。 荷預所側は、初志貫徹を期して対抗策を講じた。外商が地方荷主と直接取引をおこなうことになれば、荷預所側は完全に敗北するから、地方荷主を外商から切り離し、荷預所側の味方とすることが基本戦術であった。荷預所は、東京銀行集会所と通運会社などの運送会社に働きかけて、荷預所連合加盟者以外の者が荷受けする生糸については荷為替取組・運送を拒絶するという協力を得ることに成功した。そして、外商が地方荷主あてに発送した文書に対する反駁告知書を地方荷主に送り、商権回復を訴えた。これにこたえて、地方荷主のなかから、荷預所支持の同盟結成の動きが起こり、山梨・群馬・福島・長野・埼玉・岐阜など主要製糸地帯で有志同盟がつくられ、外商との直取引拒絶、荷預所連合非加盟者との取引拒絶が決議された。 この間、新聞や雑誌は、荷預所事件を詳細に報道し、荷預所を支持する論説をかかげて、商権回復のキャンペーンをくりひろげた。横浜に起こった事件は、全国的な商権回復運動に発展するにいたったのである。 商権回復運動の内部矛盾 荷預所を支持する地方荷主たちは、外商の勧誘を拒んで、荷預所連合加盟商に生糸を送ったから、荷預所へは続々と生糸が集まった。しかし、外商は荷預所をボイコットしていたから、荷預所には生糸在庫があふれ連合生糸荷預所設立願書 早稲田大学「大隈文書」蔵 た。外商との対立が続く限りは、日本商人の手によって直輸出をおこなう以外に、生糸を輸出する途はない。商権回復運動に燃えあがった地方荷主のなかから、直輸出の実行を求める声が強まり、一部では、直輸出のための企業の設立計画が進められるにいたった。十一月一日には、荷主総代の会議が横浜で開催され、直輸出実施の決議が採択され、その準備がはじめられた。直輸出をおこなうためには、同一等級品を一定量まとめる必要があったから、地方荷主が出荷した各種生糸が集中的に取引される市場の設立が望まれた。荷主代表は、このために、セリ市場設立を計画し、横浜税関の一部を借用して、地方荷主・横浜商人、それに外商を含む輸出商が参加する公開取引市場を開こうとした。 荷預所側は、表向きは、直輸出とセリ市場開設に賛成したが、内実は、それに積極的ではなかった。荷預所は、そもそも、外商への売込みを前提とした組織であり、売込みの際の日本商の立場を強化し、取引慣行を是正するねらいを持っていたが、外商による貿易独占そのものを打破しようとしたのではなかった。居留地貿易体制の枠内での制度改善が目的であって、直貿易を意図したわけではない。荷預所に参加した横浜生糸売込商にとって、地方生産者・地方商人の手による直輸出会社計画や、地方荷主と内外貿易商を直結する役割を果たすセリ市場計画は、自己の商業活動の基盤をほり崩すおそれのある計画であり、本来、賛成できない性質のものであった。 商権回復のスローガンをかかげて高揚した運動の内部には、売込商と地方荷主あるいは直輸出商の間の利害関係の不一致が潜在していたわけである。この利害不一致は、生糸輸出停止がながびくにつれて、いろいろなかたちで表面にあらわれてきた。直輸出をおこなっていた数少ない日本商社のひとつである同伸会社が、ドイツ向生糸をサーゲル商会に委託したことが背盟行為とみなされて除名処分を受けた事件は、直輸出商と売込商の利害対立を浮き彫りにした。また、上州・武州の有力荷主が、荷預所に質問状を提出して、荷預所が銀行からの低利資金を荷主に高利で貸し付けて利鞘を得ていること、荷主に新たに荷預所手数料を課していることなどについて、不満をぶつける出来事も起こった。 荷預所側は、運動内部の不一致が激しくなるのをおそれ、また、入荷生糸に対する荷為替金融の原資不足も緊急課題となってきたので、事態の早期解決をはかる方針をとることとした。 連合生糸荷預所事件の結末 荷預所を資金面で援助していた第一国立銀行の渋沢栄一は、東京商法会議所会頭として、三井物産会社の益田孝とともに、荷預所を支援する活動をおこないながら、和解の機会をうかがっていた。そして、アメリカ公使ビンガムの調停斡旋に応じて、渋沢と益田は、十一月二日に外商側と会談し、和解案を討議した。和解案は、かねてから仲裁役をかってでていた横浜引取商代表を経由して荷預所に伝えられ、荷預所は、十一月十日、十一日の二日にわたる株主総集会において、激論の末に、和解案を承認することとした。 和解案は、(一)将来は、生糸共同倉庫を設けて取引方法の改良をはかる、(二)当面は、従来どおり外商の倉庫への引込みを続けるが、新たに、約定証書の交換、荷物預書と火災保険証書の売込商への交付を取引慣行とするという内容であった。荷預所側は、共同倉庫とは荷預所と同様のものであり、将来それを設立することを外商に認めさせたのだから、この和解は、荷預所側の勝利を意味すると自賛した。しかし、外商が認めた共同倉庫は、売込商の販売独占の手段とはしないとの保証付きのものであり、荷預所とは異なって倉庫業に力点が置かれたものであった。さらに、その設立には、外商の同意を必要条件としていたから、将来の設立承認といっても、実際上は問題が解決されたわけではなかった。和解案は、形式的には荷預所側の主張が認められたようにみえるが、実質的には荷預所の活動停止を主内容としており、荷預所側の勝利を意味するものではなかったといえる。 新聞報道は、日本側の団結の勝利と評価するものが多かった。大々的なプレス・キャンペーンを収束するに際しては、将来の努力を前提として和解案を過大評価するのが好都合であったのであろう。和解案の内容とは別に、この事件で示された日本側の生産者・商人の統一行動の力は、たしかに、外商の恣意的な取引姿勢に対する強い牽制力として作用した。したがって、全国的に盛り上がった商権回復運動としては、かなりの成功であったと評価することができよう。 十一月十九日からの外商との取引再開に先立って、横浜売込商仲間は、「売込方心得及び検査方」という約束を取り決め、約定証書交換・荷物預証書受取・荷渡しの際の値引拒否・適正計量などを申し合わせ、さらに、不当な引取拒否(ペケ)や値引要求をする外商に対しては、仲間一同が取引ボイコットをおこなうことを決議した。事件で示された荷主と売込商の結合力を背景とすれば、取引ボイコットは、外商の不当な取引慣行を是正する有力な手段となるはずであった。 再開後の生糸取引は、事件中の巨大な在庫の堆積と海外市況の低迷から、低調な状態が続き、折からの松方財政の影響も加わって、生糸不況が出現した。このなかで、買い手優位に立った外商は、取引慣行の是正の約束を実行しようとはしなかった。荷預所事件、商権回復運動の成果は、ただちにはあらわれず、その後の取引ボイコットを武器とする努力のなかで、次第に成果が実現されていったのである。 和解案の共同倉庫設立は、計画の段階で挫折し、結局、渋沢栄一らが東京に設立した倉庫会社、「均融会社」の活動に吸収されることになり、荷預所の倉庫・設備は、それらの横浜支社となった。倉庫会社は、保管商品に対して倉庫証券を発行し、均融会社が、その倉庫証券による担保金融をおこなうという商品金融制度がつくられた。生糸金融の充実には役立ったが、荷預所の当初構想とは別の姿になったわけであり、地方荷主が構想したセリ市場・中央市場とはまったく異なった結末に終わったことになる。荷預所事件は、地方荷主→売込商→外商という取引経路、いわゆる売込商体制を強化させる結果をもたらしたといえよう。 直貿易の発達 荷預所事件を経て強化された売込商体制のもとで、外商との取引慣行の是正というかたちで部分的な商権回復は進められたが、より根本的な商権回復のためには、外商による貿易支配を打破し、直貿易を盛んにすることが必要であった。明治政府も、はやくから直貿易とくに直輸出の重要性を認識していた。一八七五(明治八)年の内務卿大久保利通の直輸出奨励政策の建議では、政府が資本金を貸与して直輸出商社を横浜に設立する計画が提案されている(『商工政策史』第五巻貿易(上)一五二-一五五ページ、以下本項は同書による)。この商社は実現しなかったようであるが、政府は、三井物産会社(一八七六年七月開業)など民間の輸出業に対して、荷為替資金を貸与するかたちでの直輸出奨励策を採用した。大蔵省国債局(寮)から資金を民間商社に貸与し、それを荷為替資金として活用させ、輸出品売上金のうちから、貸与金を在外日本領事に返納させる制度であった。この制度は、一八八〇(明治十三)年二月の横浜正金銀行設立まで続けられた。 横浜正金銀行は、設立されてほどなく、政府準備金のなかから三〇〇万円の預入れを受け、それを直輸出奨励のための為替資金として運用することとなった。横浜正金銀行は、海外に支店または代理店を持つ直輸出会社に対して海外荷為替金を貸し付けるとともに、直輸出品が横浜に輸送されてくるまでの内国荷為替金融(地方銀行、生産者への貸付け)をおこなった。横浜正金銀行から直輸出為替金融を受けた直輸出商社としては、日本商会・同伸会社・貿易商会・扶桑商会・起立商工会社・三井物産会社・丸越組・田代組などがおもなものであった。 明治政府の直輸出奨励は、大蔵卿大隈重信によるいわゆる大隈財政の時期に盛んにおこなわれたが、一八八一年からの松方財政の時期に入ると、直接的な奨励政策は採られなくなる。横浜正金銀行の内国荷為替金融が一時廃止され、準備金の運用も直輸出奨励から正貨吸収に目的が変更されている。紙幣整理を目指す松方財政は、緊縮政策のうえから直輸出奨励資金を捻出する余裕をもっていなかったし、正貨蓄積のためには、直輸出に限らず、外商による輸出も含む輸出一般の伸長が望まれたわけである。一八八二年に廃止された横浜正金銀行の内国荷為替金融は、八三年に「他所外国為替仮渡金」制度として復活されるが、これも、直輸出に対象を限ったものにはならなかった。松方財政以降は、直貿易の直接的奨励政策は採られることなく、資本主義の一般的な発達のなかで、直貿易も発達することとなった。 直貿易がどのように発達したかを、全国貿易における日本商・外商取扱い構成比でみると、表二-六五のとおりである。一八七六年には、輸出・輸入ともに、日本商取扱い分は一㌫台にすぎなかったが、直輸出奨励政策の展開とともに、輸出の日本商取扱い分は伸びて、一八八〇年に一三・四㌫を占めるにいたった。しかし、その後一八八〇年代には、直輸出の割合は一一㌫前後の水準で伸び悩んでおり、一八九〇年代に入ってから急速な伸長を示している。輸入では、直輸入の割合は、はじめ直輸出より低い数値を示しているが、一八八〇年代を通して徐々に伸長し、八〇年代末には、直輸出割合を追い越し、九〇年代央には三〇㌫近い水準に達している。日本の資本主義が、綿紡績業をひとつの基軸として発達し、原料綿花の輸入が一八八〇年代後期から、綿糸の輸出が九〇年代に入ってから急速に拡大するなかで、直表2-65 日本商・外商の貿易取扱い割合 注 大蔵省『大日本外国貿易四十六年対照表』による。輸出総額には船用,輸入総額には官省分を含むので,日本商・外商構成比合計は100にならない。 輸出・直輸入の割合は伸びていったとみてよい。 横浜貿易における直貿易の比重は明らかでないが、一九〇〇(明治三十三)年については、輸出の日本商取扱い分二三・二㌫、外商取扱い分七六・八㌫、輸入の日本商取扱い分二八・六㌫、外商取扱い分七一・四㌫という数値が得られる(『横浜貿易新報』所載数値による山口和雄推計、『横浜市史』第四巻上三四ページ)。これを同年の全国輸出(船用を除く)の日本商取扱い分三七・〇㌫、外商取扱い分六三・〇㌫、全国輸入(官省分を除く)の日本商取扱い分三九・四㌫、外商取扱い分六〇・六㌫という数値(大蔵省『大日本外国貿易四十六年対照表』)とくらべると、横浜における直貿易の割合は、かなり低い。統計資料の相違によるものかもしれないが、対アジア貿易において直貿易比率が高いことを考えると、対欧米貿易の割合が大きい横浜貿易の場合には、直貿易比率が低くなっているとみることができよう。 直貿易の発達は、居留地貿易体制を次第に掘りくずしていったが、明治前期には、なお、居留地貿易が、横浜貿易の基軸であったといってよいだろう。 二 明治前期の輸出入動向 輸出品の構成 一八七六(明治九)年から一八九六(明治二十九)年までの期間の横浜からの輸出の主要品別構成をみると、表二-六六のとおりである。全期間をとおして、生糸が第一位を占めている。第二位は、一八八〇年代までは茶であるが、一八九〇年代には、茶に代わって、絹織物が第二位を占めるにいたる。絹織物単品としては、一八九四年以降、第二位の座を確保するが、絹織物と絹ハンカチーフを合わせた数値では、一八九一年以降、茶を上回っている。生糸・絹織物・絹製品など絹業関係品が、上位輸出品の地位を独占するという横浜貿易の構造は、一八九〇年代に入って確立されたわけである。なお、絹業関係品で、明治初期輸出をにぎわせた蚕種は、一八八〇年までは輸出第三位の地位にあるが、一八八〇年代後半以降は事実上消滅し、繭輸出も構成比は小さい。絹業関係品と茶については、のちに述べることとして、その他の主要商品を概観しよう。 一八八四年から一八九一年まで、輸出第三位にあり、その後も大きい構成比を示しているのは銅である。銅の輸出は、開港以来、幕府・明治政府によって規制されていたが、明治二年(一八六九)二月からは、自由になった。しかし、しばらくの間は、銅鉱山の経営が、明治維新表2-66 横浜主要輸出品(1876-1896年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。「水産3品」は,昆布・干あわび・するめの合計。総額は1000円位で4捨5入。「その他」は表出数値の残差として計算した。『横浜市史』資料編262,64,66,79-81,85,87,88,90,93,96,97,103,104ページによる。 期に官営に移されたり民営に転じたりする変動があって、銅生産は不安定な状態を続け、輸出高も変動が激しかった。別子をはじめとする西日本の産銅は、神戸から輸出され、横浜からは、はじめは阿仁・尾去沢など奥羽地方銅山の産銅が、続いて足尾産銅が輸出された。とくに、古河市兵衛による足尾銅山の再開発が成功した一八八二年以降、横浜からの銅輸出は順調に伸びはじめ、足尾の横間歩大直利採掘が軌道にのった一八八四年以降は、輸出高が激増した(古河については、古河鉱業株式会社『創業一〇〇年史』による)。古河は、一八八八年に、横浜外商ジャーディン=マセソン商会と、二八か月の間に一万九〇〇〇トンの産銅を、定価格で売り渡す契約を結んだ。ジャーディン=マセソン商会は、フランスの銅シンジケートの依頼によって日本産銅の買付けをおこなったもので、シンジケートが世界的な銅買占めに失敗して一八八九年に破綻したのちも、古河との契約は履行した。一八九〇年前後の横浜銅輸出の大きな変動は、このような事情の反映であった。全国銅輸出額のなかで横浜からの輸出が占める割合は、かなり変動的であるが、足尾銅輸出が盛んとなった一八八四年以降は、四〇-六〇㌫の間の数値になっている。 漆器は、横浜を拠点輸出港とする特産輸出品である。開港初期から、江戸と駿河の漆器問屋が横浜に出店して売込みをおこない、まず黒江(紀州)、静岡産品、ついで会津・輪島・山中などの産品を扱った。一八八〇年ころからは、横浜でも輸出漆器の生産がおこなわれるようになった(磯部喜一「漆器工業の発達」、中山ほか編『中小工業の発達』三七〇ページ)。全国漆器輸出に対する横浜の構成比は、一八八〇年代前半期までは八〇-九〇㌫、一八八〇年代後半期以降は七〇-八〇㌫で、きわめて大きな割合を占めている。 陶磁器も、横浜を拠点輸出港のひとつとする輸出品で、はじめは、美術工芸品として輸出されるものが多かったが、やがて、日用品として生産された陶器の輸出が開始された。直輸出商社森村組が、フランス製のコーヒー茶碗などを見本として、瀬戸で素地を生産し、東京の絵付工場で絵付けする日用品向け輸出陶器製造を開始したのち、一八八〇年代後半期以降の横浜陶磁器輸出は日用品中心に発展することとなった。全国陶磁器輸出に占める横浜の割合は、一八八〇年代には、五〇㌫を上回っていたが、一八九〇年代に入ると四〇㌫台から三〇㌫台に低下した。輸出陶器の生産地は瀬戸で、集荷地は名古屋であったから、一八八九年七月の東海道線全通後は、神戸港への荷送が多くなったものである。 水産輸出品には、昆布・干あわび・するめ・いりこ・ふかのひれ・貝柱などがあるが、表二-六六には、代表的な昆布・干あわび・するめの三品合計数値の構成比をあげた。水産輸出品は、主産地が北海道・三陸地方・五島地方、輸出先が中国であり函館・長崎からの輸出も多い。 資本主義発達の基軸となった綿業の製品の輸出は、一八九〇年代から伸長するが、綿糸輸出は神戸港を拠点としておこなわれたので、横浜港からの輸出の割合は低く、横浜輸出に占める綿業関係品の比重も小さい。 生糸・絹製品・茶の輸出 横浜貿易の最重要輸出品である生糸の動向をみると、図二-一二のとおりである。明治維新後の最高を記録した一八七六(明治九)年からしばらくは、生糸輸出は減退傾向を示した。これは、一方で、欧米諸国が一八七三年恐慌以来いわゆる大不況期にあって、奢侈品需要が縮小したのにたいして、他方で、日本では西南戦争をきっかけとする紙幣価値下製茶見本検査の図(『皇国製茶図絵』より) 県立文化資料館蔵 落、インフレーションが進行して輸出品の生産価格の上昇が起こり、また、インフレ景気で生糸の国内需要が拡大して輸出力が鈍化したという事情によるものである。松方財政期に入ると、デフレーション下で生産価格は低下し、国内需要の減退が輸出ドライブを強めたから、輸出拡大の国内的条件はととのった。おりから、南北戦争後、力織機による絹織物生産を発展させていたアメリカが、日本生糸の大量買付けを開始した。従来も、イギリスを経由して日本生糸がアメリカに流れていたが、アメリカ絹業が中国糸から日本糸へ原料を転換するにいたって、日本糸は、横浜からアメリカに直送されることとなった。連合生糸荷預所事件(一八八一年)の影響で持越在庫輸出が加わった一八八二年と、イタリア・中国養蚕不作見込みの思惑需要が大きかった一八八三年の二年間は、特殊事情による輸出昂進年とみれば、一八八一年以降、生糸輸出はアメリカ向けを軸に好調に伸長したといってよい。日本生糸の輸出先は、一八八四年以降、フランス中心からアメリカ中心に転換し、アメリカ向けが輸出の五〇㌫をこえるようになった。 その後も、生糸輸出は、一八九〇年には、アメリカの「シャーマン銀購入法」実施にともなう銀価格の一時的高騰によって激減し、一八九三年には、ヨーロッパ養蚕豊作のために減退し、一八九六年には、アメリカの不況と絹図2-12 横浜からの生糸輸出(1876-1896年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 62,85ページによる。 織物生産過剰のために激減するという変動を示しながら急速な増加傾向をたどっている。本節が対象とする期間の輸出最低年一八八〇年とくらべて、最高年一八九五年の生糸輸出は、数量で約四倍、価額で約八倍に拡大している。 一八九〇年代に急速に拡大して、生糸に次ぐ主要輸出品となった絹織物は、品種では羽二重が中心であり、フランスとアメリカが主要輸出先であった。桐生・足利の羽二重輸出にはじまって、やがて福井羽二重が主流となった。絹織物の横浜輸出額は、一八九五年で一〇六八万円に達しており、これは、同年の生糸輸出の約五分の一の額であり、製茶輸出の約二倍にあたる。絹ハンカチーフは、おもに桐生産の生地を横浜で加工して輸出したもので、一八九五年の輸出高は五二六万円で、同年の製茶輸出高を越えている。絹織物・絹製品は、生糸と同様に、横浜からの輸出が全国輸出の九〇㌫以上を占めていた。 横浜からの製茶輸出の推移は、図二-一三のとおりである。製茶輸出は、その中心であった緑茶のアメリカにおける需要が、紅茶・コーヒー・ココアなどの競合品に押されて伸悩みとなったために、一八八〇年代に入ってからは、停滞状態を示すにいたった。さらに、インド・セイロンの製茶との競合図2-13 横浜からの製茶輸出(1876-1896年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 62,79ページによる。 関係において、小農制に基礎を置く日本製茶は、不利になる傾向があらわれた。全国輸出総額に占める全国製茶輸出額の割合は、一八七六年の一九・七㌫から、一八九六年には五・四㌫に低下した。全国製茶輸出の六〇㌫程度を占める横浜からの製茶輸出の地位も、前掲表二-六六でみたように大幅に低下した。初期輸出において生糸に次ぐ重要輸出品であった製茶は、一八八〇年代までで、その歴史的役割をほぼ果たし終わったといってよいだろう。 輸入品の構成 横浜への輸入品のうち主要なものの構成比をみると、表二-六七のとおりである。一八七六年からの約二〇年間における輸入品構成の変化で最も大きい特徴点は、織物など繊維製品の比重が低下し、鉄鋼・機械・薬品など重化学工業製品の比重が上昇したことである。綿業絹業などの軽工業部門を中心に資本主義的生産が発達するなかで、軽工業製品の自給度が上昇するとともに、原材料・機械・設備等の国内需要が拡大したことの反映である。 綿業関係では、すでに一八七〇年前後の時期から綿織物輸入と先後を競うようになった綿糸輸入が、一八七五年以降、一八九〇図2-14 綿業関係品の横浜輸入(1876-1896年) 注 綿織物輸入の1882年までは『英国領事報告』の数値(単位ドル),それ以外は『大日本外国貿易年表』の数値(単位円)。『横浜史市」資料編2 66-69,74,116,118ページによる。 年まで、途中三年を除いて、横浜輸入第一位を占めている。綿糸の横浜輸入額は、図二-一四のように、一八八〇年をピークに、松方財政期には急減し、一八八六年ごろからの景気回復、企業勃興期には再び急増するが、一八九〇年恐慌後はまた急減する。一八九六年には一時的に回復するが、この年が最後のピークとなって、以後、綿糸輸入は急速に衰退することになる。一八九〇年代に入ってからの綿糸輸入の退勢は、図二-一四の綿花輸入動向に示されるような、日本近代紡績業の発達の結果であることはいうまでもない。横浜の綿糸輸入は、全国綿糸輸入に表2-67 横浜主要輸入品(1876-1896年) 注 1881年までは『英国領事報告』の数値でドル単位,1882年以降は『大日本外国貿易年表』の数値で円単位。総額は,1000円・ドル位で4捨5入。1884年までの「毛織物」には毛綿交織物を含む。「その他」は表出数値の残差として計算した。『横浜市史』資料編2 66-75,106,108,111,112,114,116,118,120,125,129,131ページによる。ただし,毛織物の1887年以降は,『横浜市史』第4巻上14ページの数値による。ゴジックは第1位を示す。 たいして、一八八〇年までは九〇㌫以上を占めていたが、一八八〇年代には比重が次第に低下し八九年には四九㌫となり、一八九〇年代にはやや比重を回復して、五〇-六〇㌫を占めている。初期に横浜から大阪・名古屋方面に回送された綿糸が、一八八〇年代に神戸港に荷揚げされるようになったためである。綿花は、主として神戸に輸入され、横浜輸入は一八八〇年代初めには七〇㌫を占めていたが、八〇年代末には二〇数㌫に比重低下し、九〇年代には一〇数㌫の比重となった。したがって、図二-一四の綿糸・綿花輸入の関係は、全国数値の動向とはかなり異なっており、全国数値では、一八九〇年、九一年をさかいとして綿花輸入が綿糸輸入を追い越して急増する姿になる。綿織物輸入では、横浜輸入の対全国輸入比重は、五〇-七〇㌫で、一八八〇年代より九〇年代が低いが、さほど大きい輸入港変動は示していない。全国数値では、一八八九年、九〇年をさかいに、綿花輸入が綿織物輸入を追い越している。毛織物(毛綿交織物を含む)輸入は、一八八〇年代以降、横浜貿易における比重をやや低下させたが、綿織物の場合とは異なって、一八九〇年代にもなお一〇㌫を越える構成比を示し、一時的に輸入が激増した一八九六年には、横浜輸入第一位になっている。官営千住製絨所が一八七九年秋に本格的に操業を開始し、軍用ラシャの自給体制がととのえられたが、民間の毛織物業の発達は立ち遅れており、輸入依存度は、なお大きかったのである。横浜の毛織物輸入は、全国輸入の六〇-七〇㌫を占めていた。 綿業関係製品輸入の比重が低下したあとを受けて、横浜輸入第一位の座につく年が多かったのは、砂糖である。一八七五年にジャーディン=マセソン商会が香港に精製糖工場を設け、一八八三年にはバターフィールド=スワイア商会も香港に精製糖会社を設立するなど、イギリス系資本による精製糖生産が開始された影響で、一八九〇年代に入ると、日本の砂糖輸入は、赤砂糖中心から白砂糖中心に代わった。輸入量も、年々増大し、一八七六年にくらべて、一八九六年には、赤砂糖輸入量は約一・六倍、白砂糖輸入量は約一六倍になった。横浜の砂糖輸入の全国輸入に占める割合は、おおよそ、一八七〇年代七〇㌫台、一八八〇年代六〇㌫台、一八九〇年代五〇㌫台と低くなる傾向にある。 鉄鋼輸入は、一八八〇年代後半のいわゆる企業勃興期から、拡大傾向が著しくなり、一八九〇年恐慌で一時減退するが、ただちに増加傾向に転じ、一八九六年には、横浜輸入高は七七五万円で、一八八四年の約七・五倍の額に達している。鉄鋼輸入の中心は、鉄道建設・工場建設に用いられるレール・条竿鉄・板鉄などであり、初期には政府需要が多かった。横浜の鉄鋼輸入は、全国輸入の五〇-六〇㌫を占めていた。機械類の輸入は、鉄鋼輸入にやや遅れて拡大傾向が著しくなる。横浜輸入に占める割合は、はじめ鉄鋼より小さかったが、一八八〇年代末からは鉄鋼を上回り、日清戦争期には、船舶輸入の急増が加わって、機械類は横浜輸入第一位になっている。機械類のなかでは、船舶・機関車・紡績機械・ボイラーなどが輸入額が大きい。全国輸入に対する横浜輸入の割合は、変動的であるが、おおむね五〇㌫程度である。薬品・染料の輸入も、企業勃興期以降拡大が著しい。石油は燈火用が主で、横浜輸入に占める地位は変動するが、あまり傾向的な変化はみられない。 第三節 金融機構の形成 一 横浜為替会社 神奈川県下における最初の近代的衣装をまとった金融機関は、横浜為替会社であったが、その設立以前に東京におかれた商法司・通商司が出張してきて、事実上、金融活動をおこなっていた。そこで本項では、横浜出張商法司・同通商司の機能を述べたうえで、横浜為替会社の性格について説明してみよう。 横浜出張商法司の機能 商法司は商業を振興すると同時に、新政府の間接税の収入の増加を図ることを目的に設置された。京都を本司とし、東京・大阪に支署をおいたので、横浜には東京商法司が出張してきて、その業務に当たった。明治元年十二月から同二年三月までの記録をみると、横浜出張商法司の主たる機能は、太政官札(金札)の貸付けと洋銀の買入れであった。この間、貸し付けた金札は総額で二五万八七〇〇両であったが、その対象を用途別に分類すると、生糸金融が五八㌫を占めており、残りは洋銀買入資金であった。貸付けを受けたのは、主として地方商人であった。この場合、横浜在住の生糸売込高(いわゆる横浜商人)が保証人となるケースが多かった。しかし、金札に対する国民の信頼はうすく、その価値も下落したので、商法司は貸付機能を十分に果たすことができなくなった。そして明治二年三月に廃止された。全国的にはまったく失敗に終わったこの機構も、横浜では生糸金融と生糸売込みのための流通手段たる洋銀の売買という役割を果たしており、それはのちの通商司・為替会社に引き継がれるところとなった。 横浜出張通商司の機能 商法司の業務のうち、勧商業務を通商司が受け継いだ。明治二年(一八六九)二月、東京に本司を、支司を各開港場にもつ通商司が設置された。横浜には出張通商司が置かれた。通商司の主たる任務は、外国貿易上の事務をつかさどることや各種商取引の取締りであった。しかし、「大隈文書」にある明治二年から三年二月までの勘定帳によると、横浜出張通商司は、洋銀の円滑な供給と、外国人から横浜商人が得た洋銀を邦貨に交換する機能を果たしていたようにみえる。 この通商司の業務で最も重要なものは、通商会社・為替会社の設立であった。この二会社は互いに相補いあう表裏一体の機関で、明治二年五、六月以後、商業上の要地である東京・大阪・横浜・西京(現在の京都)・新潟・神戸・大津・敦賀の八か所で開業した。 横浜為替会社の設立 二会社のうち、通商会社がとくに外国貿易の振興を図ることを目的としたのにたいして、為替会社はその振興に必要な資金を融通して、通商会社に援助を与え、あわせて民間の金融を円滑にすることを目的とした。もともと「為替会社」という言葉は、Bankの訳語であり、その意味からいっても、わが国最初の金融機関であったといえる。その業務は、政府の貸付金(太政官札)、社中の身元金(自己資本)、諸預り金、銀行券の発行によって資金を調達し、それを貸し付け、為替業務、両換、洋銀および古金銀売買等に運用することにあった。とくに重視されたのは太政官札の貸付機関ということであったが、いずれも経営不振におち入り、解散するにいたった。 しかし、横浜為替会社のみは生糸金融・貿易金融に業績を残したうえで、横浜第二国立銀行に引き継がれた。横浜為替会社の設立は、明治二年五月であった。設立時の株主構成をみると、総額二〇万両のうち、特権商人(三井組)は一〇㌫で、残りはすべて横浜商人であった。さらに、横浜商人のなかが二つのグループに分かれた。一つは昔からの名主層、旧家で総年寄をしたことのある在地地主層で、このなかには、石川徳右衛門・石川又四郎・石川半右衛門等が含まれる。他の一つは地方出身者で、金額のうえからも、業務に従事したうえからも、より重要な役割を演じた。このなかには、原善三郎・茂木惣兵衛などが含まれた。そして、この二人を含めた売込商が主導権を握った。設立初期の機構をみても、田中平八・金子平兵衛・鈴木保兵衛・増田嘉兵衛というような横浜商人たちが主導権を握っていた。生糸売込商を中心とするこれら地方出身の横浜商人は、当時ようやくその経済的地位を高めてきており、その商取引に横浜為替会社を利用することに利点のある人びとであった。 横浜為替会社の経営 横浜為替会社の経営形態を図示すると、図二-一五のとおりである。まず、資金調達の側面からながめてみよう。身元金は自己資本を意味し、初期の構成は前述のとおりであった。これは月一㌫の確定利付証券のかたちをとり、譲渡することも可能であったが、常に総額を満たしていたわけでなく、日締帳では絶えず変動していた。預金は社外の者からのもので、月一㌫の利子のつく要求払預金のかたちをとっていた。このような形式だけみていると、身元金との厳密な区別はなく、ただ、社中・社外の預り金という区別がなされたにすぎなかった。しかも、社外からの預金はきわめて小さかった。後述の私立銀行であった三井組横浜店の預金と比較して、官金預金を含めてきわめて小さかったことが注目される。政府は為替会社を保護し、かつ国民が太政官札を嫌うことによって生ずる正貨に対する紙幣価値の大幅な下落を防ぐため、太政官札の貸下げをおこなった。当時の財政収入に占める政府紙幣発行の比重は高く、明治二年一月から九月においては七〇㌫の、また明治二年十月から三年九月においては二五㌫のシェアを占めていた。このうち、三〇万両が横浜為替会社に貸し付けられたが、この政府貸付金の調達資金全体に占める比率は、常に二〇㌫前後を占めていた。横浜為替会社も他の為替会社とともに、政府紙幣の貸付機関という一面をもっていたことを指摘できよう。 横浜為替会社は、金券、洋銀券、銀銭札の三種類を発行したが、重要なものは前二つであった。会社に許可された金券発行高は一五〇万両で、内訳は二十五両券一四七万五〇〇〇両、一両券二万五〇〇〇両であった。しかし、金券は文字通り正貨(正図2-15 横浜為替会社の経営形態 金)兌換となっていたため、準備金の制約があって、現実には多額の金券を発行するにはいたらなかった。初期においてはほとんど流通せず、そのため東京為替会社の為替札を借り入れていたが、その後、徐々に流通しはじめた。 しかし、その金額はわずかで、たとえば明治六年四月においてはわずか二九万四八七二両が流通したにすぎなかった。洋銀券としては、一〇〇ドル・一〇ドルの二種類が発行された。当時の貿易通貨としての洋銀の相場は、外国商品の輸出入高によって騰落したので、外国商人が自由に相場をあやつることができた。そこで、政府は洋銀相場の権利をわが国の側にも持たせるため、横浜為替会社のみに洋銀券発行を許可した。通商司に対して会社が提出した洋銀券発行の請願書(明治二年十一月)によれば、洋銀券発行の理由としては、横浜商人が外国人の手形を受け取り長くもっていても、その外国人の帰国または不慮の災難等の出来事により洋銀に引き換えられないものがあり、ついには破産したものもあるので、日本側で洋銀券を発行したいというものであった。 洋銀券発行額がどの程度かは資料的に明らかでないが、かなり利用されたものと思われる。この業務がのちの第二国立銀行に引き継がれたことからも、その重要性がうかがえる。 資金の運用において最も重要なものは、貸付けであった。「為替会社規則」によると、(一)原則として担保貸付(貸付金額は担保価横浜為替会社札(金券) 日本銀行蔵 値の七〇㌫まで)に限定され、二人の保証人を要すること、(二)ある種の貸付けについては、とくに担保品がなくとも、頭取・組合役員等が連名で申し出れば貸し付けてよい、(三)諸地方から集荷した商品を担保とする貸付けも証人がいれば可能であること、(四)貸付金利息は月一・五㌫とする、などが当時の貸付けの主要な性格であった。横浜為替会社の貸付けの全貌を理解する資料はない。ただ、為替会社の重要な機能のひとつが太政官札の貸付けにあったことから、ある程度の役割を果たしていたものと思われる。 一八七三(明治六)年九月の第二国立銀行移行の際の「引当貸之調書」と「貸金損金高貸付明細書」によって貸付けの内容を検討してみよう。まず担保別では、四〇㌫が地券地所引当、一九㌫が生糸呉服類引当、三㌫が二分利引当となっており、残りは水道会社・商法社貸付であった。また、貸付対象は主として横浜商人・地方商人であった。一八七三年九月末の貸付金損金日込額一八万三八八一円のうち、社中分(一四人)は六八㌫に当たる一二万三五一五円となっている。その引当ては、生糸・茶・油等であったことを考えると、横浜商人・地方商人の運転資金として貸付額が使用され、彼らは横浜為替会社の媒介を、経済上の地位上昇の一手段としていたのではなかろうかと思われる。 このほか、為替業務も活発で、当時の横浜を中心とした商取引の決済機構として重要な役割を演じた。これは東京為替会社をはじめ、新潟・西京・大阪・神戸各為替会社との間のコルレス取引を通じておこなわれた。 以上を通じて、横浜為替会社が形式的にも実質的にもきわめて不完全な金融機関であったにもかかわらず、その性格は、預金銀行というより発券銀行といった方が正しいと思われる金融機関である。そして、造出した資金と政府からの借入金を、横浜商人に貸し与える貸付機関であったといえる。 このように、横浜為替会社は他の為替会社と異なり、横浜商人にとってひとつの存在理由をもった金融機関であったため、前述のように、他の為替会社が解散していくなかで、ひとり第二国立銀行にその業務を引き継ぐこととなった。 二 第二国立銀行 為替会社が会社組織の不完全性と経営の非近代化によって行き詰まったのち、政府は商業金融機関の新しい形態として国立銀行を設立すべく、「国立銀行条例」(明治五年十一月)を制定した。この条例にもとづいて当初神奈川県下に設立されたのは、横浜の第二国立銀行のみであった。そこで、本項では第二国立銀行の設立経過と初期の性格について述べてみよう。 第二国立銀行の設立経過 「国立銀行条例」には、(一)資本金(五万円以上)の六割に相当する政府紙幣を政府に上納せしめ、政府はこれと引き換えに六分利付金札引換公債証書を下付し、銀行はこの公債証書をさらに発行紙幣の抵当として政府に預け入れ、同額の銀行紙幣の下付を受け、これを営業資金にあてること、(二)銀行はその準備として、資本の一〇分の四に相当する正貨を保有しなければならないこと、が規定された。すなわち、一方では民間の金融を円滑にしようとし、他方では政府発行の不換紙幣を銀行の兌換紙幣におきかえることを国立銀行に期待した。 同条例が制定されると直ちに、横浜為替会社は第二国立銀行へ改業したい旨の願書を提出した。そのなかには、横浜港が他の地方と異なり、外国人との商取引を多く抱えている事情が記載されている。田中平八・増田嘉兵衛・茂木惣兵衛・吉田幸兵衛・金子平兵衛・原善三郎の六名が発起人であることから、地方出身の横浜商人がその推進力であったことがわかる。この願書に対して、一八七三(明治六)年一月に至ってようやく許可がおりたが、その後、生糸暴落、貿易不振などがあり、実際に資本金が集まって設立されたのは、一八七四年七月であった。以上の経過をみて、第二国立銀行が横浜商人にとって、その商取引上きわめて重要な金融機関であったことを知り得る。また、設立理由のひとつに洋銀手形の発行があげられていることは、為替会社の発行した洋銀券が横浜商人にとって重要な意味をもっており、その業務を受け継ぐ機関を欲していたことも理解される。ともあれ、当初一〇〇万円の資本金で出発する構想でいた第二国立銀行が、二五万円という資本金で設立されるまでに、実に二年近くの歳月を要したのである。 第二国立銀行の初期の経営 初期の株主構成は、旧特権商人(三井・小野)四万円、横浜商人(一七名)一九万九九〇〇円、地方商人(六名)四六〇〇円、残りその他となっている。このように、旧特権商人が一六㌫を占めるにすぎないのに、横浜商人は圧倒的なシェアをもち、しかも最大の株主が原、茂木であったことは、横浜商人の発言権が為替会社に比して増大したことを物語っている。 つぎに設立をみる以前の一八七三年八月、高崎・上田に支店を設置することが許可された。その理由としては、(一)遠路金銀輸送の途中、盗難の危険はもちろん、輸送上の妨害のあること、(二)産業の便利をはかる、の二つがあげられている。このような意味から、生糸産地の中心地である高崎・上田に支店が設置されたのである。 また、同じく正式設立以前の一八七三年十二月に、生糸引当の緊急融資をおこなっていることも注目に値する。当時、生糸価格の暴落のあったことは前述第二国立銀行 『横浜商業会議所月報』より のとおりだが、これからの生糸商人を守るため、生糸引当の緊急融資をおこなったわけである。借り手は各地の生糸生産者および商人であるが、いずれも横浜商人の取引先であるとみられる。それは、このような引当貸しに対して、横浜商人である金子平兵衛・吉田幸兵衛・原善三郎・茂木惣兵衛の四人が保証人になっていることからも明らかである。 このように、生糸売込商を中心とする横浜商人の資金需要をみたすことを目的に設立された第二国立銀行も、出発直後から、他の三国立銀行(東京第一国立銀行・新潟第四国立銀行・東京第五国立銀行)とともに、経営不振におちいった。その理由は、本来、政府紙幣にかえて銀行券を発行させ、これによって資金の集積をおこなおうとしたが、銀行券の信用が低下して、その流通が縮小したことによる。そこで、国立銀行は政府関係預金と政府からの借入金に依存せざるを得ず、政府の保護によってようやくその資金を確保できたのである。他方、資金需要は旺盛で、貸付業務は高い水準を維持し、資金の涸渇に悩むところとなった。つまり、第二国立銀行は、資金運用面でその意義が存在したにもかかわらず、発券銀行としての機能を喪失し、その結果、資金の逼迫を生じ、ついには、貸付規模を小さくしなければならないほどの経営不振におちいったのである。そして、政府はこのような経営の行詰りに際して、「国立銀行条例」の改正をおこなった。そして、既存の四国立銀行もそれぞれ新しい改正条例にのっとった新しい国立銀行に転形していったのである。 三 「国立銀行条例」の改正と県下の国立銀行 「国立銀行条例」の改正は、これまで正貨兌換であった銀行券を政府紙幣兌換にすること(事実上の不換銀行券化)、銀行券の発行限度を資本金の八割まで引き上げること、最低資本金の引下げ、銀行券の引当てにあてる公債証書を四分利付以上に拡大すること、などを含んでいたので、銀行の設立がこれまでより容易となった。さらに、一八七八(明治十一)年八月に金禄公債証書の売買抵当約定の解禁によって、国立銀行の設立が旺盛となり、ついに、全国で一五三もの銀行の設立をみるにいたった。 県下国立銀行の設立 「国立銀行条例」の改正により、まず、第二国立銀行が転形をとげた。すなわち、第二国立銀行は一八七六(明治九)年十一月二十八日に新しいかたちの国立銀行として、開業を許可された。資本金は従来のまま二五万円、発行紙幣高は新しい条例にのっとって二〇万円となった。なお、資本金は七七年上期に三〇万円、七八年上期に五〇万円と増加した。 神奈川県下においては、このほか新しい国立銀行が設立された。一八七八年四月二十三日に八王子第三十六国立銀行(資本金五万円、銀行券発行限度四万円)、同年七月三十日に横浜第七十四国立銀行(同二五万円、同二〇万円)、翌七九年五月二十一日に程ケ谷第百三十二国立銀行(同七万円、同四万円)がそれぞれ設立された。このうち、八王子第三十六国立銀行は、国立の二文字がとられたあとの一八九三(明治二十六)年、多摩三郡の東京府移管に伴って、経営状態が思わしくなく、一八八三(明治十六)年四月から七月まで営業停止にあったりしたが、結局九二年に整理に入り、東京三十六銀行と改称した。また、程ケ谷第百三十二国立銀行は、同じく国立の二文字のとれた九三年に東京の株式仲買商金禄公債証書 日本銀行蔵 加東徳三によって買収され、増資のうえ東京に移り、東京第百三十二銀行と改称し た。そこで、ここでは横浜第七十四国立銀行を中心に設立事情を述べてみよう。 横浜第七十四国立銀行の設立経過 設立時の株主構成をみると、特定の大株主が存在せず、広範に株主が分散しているのが特徴である。比較的大株主とみられるのは、田中豊次部(大阪)、森二三(和歌山)、岩崎轍輔(和歌山)などの横浜以外在住のものである。条例の改正により、他の新たに設立された国立銀行と同様に、広い地域から資本金を集めることが可能となったことを示している。しかし、のちの一八八六(明治十九)年当時の株主構成から大口株主をみると、茂木惣兵衛・箕田長二郎・近藤良薫・大谷嘉兵衛・原善三郎・西村喜三郎・樋口登久次郎などである。これら大株主の大部分は、設立時には株主でなかったわけで、約九年の間に株主構成が大きく変動しているのを知ることができる。この間における生糸取引の異常な拡大が、横浜商人をして、第二国立銀行の資金量では少なすぎると感じさせ、第七十四国立銀行をも横浜商人の機関銀行として活用するよう仕向けたのではないかと思われる。 もう一つの地域的基盤は、福島県(岩代)二本松である。設立の当初に支店が設置されているが、設立時の株主構成でも株主二六名で二三・二㌫の株数のシェアをもっている。第二国立銀行が横浜→前橋・高崎・上田の生糸取引を媒介したのにたいして、第七十四国立銀行は横浜→岩代・福島の生糸取引の資金的媒介機能を果たしたものとみることができよう。 横浜第七十四国立銀行 神奈川県立博物館蔵 このような経過を経て、明治十年代の末ごろには、茂木惣兵衛の発言力が非常に強くなっているのが目につく。すなわち、第二国立銀行において原善三郎が中心に立つのと同じような意味で、第七十四国立銀行においては茂木惣兵衛が中心的地位に立つのである。 つぎに、第七十四国立銀行の初期の経営状態をながめておこう(図二-一六)。資金調達をみると、資本金が四〇万円と高く、次いで銀行券の発行高が三二万円と大きく、この二つだけで調達資金の大部分を占めている。これにたいして、預金については、第二国立銀行に多かった政府預金もゼロに近く、民間預金も比較図2-16 第七十四国立銀行の経営形態(1879年下期中,単位千円) 的小さい。この結果、自己資本と銀行券の発行に依存する、発券銀行としての性格が強かった。自己資本と銀行券は、密接な関係をもっていた。すなわち、図二-一六の資金調達面にのせられている資本金と銀行券発行残高を加えたすべてが運用されていたのではない。資本金のうち、銀行紙幣抵当公債証書購入にあてられた部分は運用できない。したがって、資金の大部分は銀行券発行によったものとみなすことができる。民間預金の大部分は、商人からの営業預金の受入れであった。インフレーションが急速に進行していた当時としては、貯蓄性預金の吸収は困難であったようである。 他方、資金運用面では貸付け・当座貸越等信用供与の比重の高いことは、図二-一六からも明らかとなる。貸付けについては、全体的に商人の比重が高く、動産貸し・信用貸し・荷為替前金等の形態の貸付けが多かった。士族の割合も低くないし、土地担保のものも多い。しかし、士族の場合は、件数が大きいので、一件当たりの金額が小さくなっており、あまり重要でない。これに反して、商人の場合は件数が少なく、一件当たりの金額が大きいから、銀行と商人の結びつきは強まる。当座貸越にも同様の傾向がみられる。したがって、同行は横浜商人を中心とし、地方商人を含めた商人のための信用供与機関とみることができる。株主構成から、この商人は生糸取引に関係する横浜商人・地方商人ということになる。そこで、生糸取引に直接間接に関係する横浜商人または地方商人のための銀行と評価することができよう。さらに、割引手形・荷為替手形をみると、ここでも生糸・茶取引の資金的媒介という同行の性格をとらえることができる。 県下国立銀行の経営状態 当時神奈川県下には、四つの国立銀行が存在したことはすでに述べた。そこで、ここでは三つの国立銀行支店を含めた、県下の全国立銀行の経営状態について分析してみよう。 県下の全国立銀行についても、第七十四国立銀行の場合と同じく、資金調達面で自己資本と銀行券発行高の比重の大きいことが認められる。もっとも前述のように、自己資本から紙幣抵当公債証書分を差し引くから、自己資本の金額はそれほど高くはない。しかし、現実に調達資金の一番大きな部分はこの二つから成り立っていたとみてよい。預金も、一八八一(明治十四)年から紙幣価値が安定化に向かうとともに変化をみせ、民間預金を中心に急増している。調達資金全体に占める比率はまだまだ小さいが、預金の伸びは、この時期が松方デフレ政策により通貨安定への努力、金融構造の整備というような、資本蓄積方式の変革の動きのみられる時期にあたることを示しており、国立銀行も発券銀行から預金銀行へと転換する過渡期にあったとみることができる。 つぎに、資金運用の側面をながめてみよう。一八七九(明治十二)年十二月末に全運用資金の四三・五㌫を占めていた諸公債証書保有は、八二年十二月末に三九・一㌫に落ち、反対に貸付金は三九・九㌫から四一・五㌫へと上昇している。また、運用資金量は一八八一年まで急増したあと、八二年以降低下している。これは、インフレーション下においては、企業活動が活発であったが、その後、松方のデフレ政策下において低下をみせたことによるものであろう。この結果、貸付金が一八八一年までは急増し、そのあとは絶対額でも低下している。この間、公債証書への資本の投下はほぼ同じ残高にとどまっていた。さらに、割引手形・荷為替手形の伸長が、この間のひとつの特徴となっている。企業に対する資金の運用形態として、それまでは貸付けまたは当座貸越のように担保付きのものが多かった。これにたいして、商品流通過程において生じた商業手形の割引を通じて、信用を供与する形式が徐々に増大してきた。これは、国立銀行が生糸や茶の流通の促進に寄与してきたことを示すものであろう。また、これは国立銀行が発券銀行から預金銀行・商業銀行化への道を歩みつつあったことを示すものとして注目されよう。 国立銀行の預金銀行への転形 松方正義のデフレ政策が銀行経営に大きな影響を及ぼしたことは、すでにふれた。松方のとった金融政策は、(一)紙幣整理によって過剰に発行されていた紙幣の収縮をはかるとともに、中央銀行としての日本銀行の設立と日本銀行のみに兌換銀行券の発行を許して通貨制度の統一を確立すること、(二)日本銀行を「銀行の銀行」として位置づけ、通貨の管理と金融の円滑化の機能を果たさせること、の二点を基本とした。そしてこのような措置によって、これまで銀行券の発行を認められていた国立銀行は預金銀行に転形せざるを得なかった。政府は「国立銀行条例」を改正して、国立銀行の預金銀行化を促進した。神奈川県下においては、前述のように、八王子第三十六国立銀行・程ケ谷第百三十二国立銀行の二つが、いずれも一八九三(明治二十六)年になって東京へ移るので、本項では第二国立銀行と第七十四国立銀行の預金銀行化をとりあげてみよう。なお、この時点では、すでに横浜正金銀行(次編で記述)が設立されていたが、一八八六(明治十九)年末における上記三つの銀行の資力を比較してみると、横浜正金銀行資本金三〇〇万円、預金二二三万円に対して、第七十四国立銀行資本金四〇万円、預金四七万円、第二国立銀行資本金五〇万円、預金四五万円となっており、規模においては、横浜正金銀行が圧倒的に大きかった。 まずはじめに第二国立銀行の預金銀行化をとらえるために、おもな資産・負債項目の全金額に対する比率を表示(表二-六八)してみよう。まず、資金調達面については、自己資本の比率が比較的高いことがあげられる。この場合の自己資本には、株式資本金だけでなく、諸積立金が含まれており、一度その構成比が低下するが、明治二十年(一八八七)代に入って再び上昇する。つぎに、発行紙幣は消却が進められて、徐々にその調達資金に占めるシェ横浜正金銀行(1880年設立) 神奈川県立博物館蔵 アも下がってくる。こうして、自己資本の比率は依然として高いが、当然のことながら銀行券への依存度が徐々に低下し、代わって預金のシェアが上昇する。とくに、民間預金が政府預金・国庫預金に比較して相対的に高くなり、預金銀行としての色彩を強めてくる。さらに、預金の内容では、貯蓄性預金の比重が高くなってきている。しかも、貯蓄性預金の預金者は企業とみられ、したがって、商況が活発化すると、会社企業は定期預金を払い戻して資金として活用し、商況不振の際には利子が高い定期性預金に預入れするという行動をとっていたとみられる。総じて預金銀行化の過程において、政府資金の活用、企業資金の吸収手段として、預金が適応していくことが明らかとなり、これによっていちおう近代的預金銀行の衣装をまとっていく姿が浮彫りにされているように思える。なお、後述の第七十四国立銀行の場合と異なり、借入金、とくに日銀借入金に依存する度合はあまり高くない。 つぎに、資金の運用面について分析してみよう。公債証書の全運用資金に占める比率が比較的安定していたのは、前の時期表2-68 第二国立銀行の主要貸借対照表 の特徴であったが、この時期においても同様の現象がみられる。その内容では、五分利付の整理公債が最も大きな比率を占めていた。低利のこの種の公債は、市場の事情によって売買されたようである。その結果、一八八六-八七年ごろには公債証書売買益を計上している。第七十四国立銀行と比較して、第二国立銀行の場合は、貸付金の比重が小さい。このため、収益勘定においても受取利息より諸公債証書利息の比重が高くなっている。資金量の規模はそれほど大きくないが、生糸取引の拡大とともに生糸担保の貸付けが著増するなど、第二国立銀行の貸付けの生糸取引に果たした役割もきわめて大きかったとみてよいであろう。また、シェアの高い当座貸越も生糸の商況、生糸輸出と貸越残高の伸びとが一致しており、ここでも、生糸金融機関としての第二国立銀行の性格が明確になっている。 つぎに、第七十四国立銀行についても、主要な勘定科目について貸借対照表を作成してみると、表二-六九のとおりである。第二国立銀行に比較して政府預金の比重が小さく、代わって借入金のシェアが高いことが資金調達面の特徴である。そこで、この点表2-69 第七十四国立銀行主要勘定貸借対照表 だけをここで説明しておこう。借入金は、すべて日銀より借り入れたものである。第七十四国立銀行が日本銀行に依存しなければならなかったのは、やはり政府預金・国庫預金の低かったことと密接に関連しているように思える。預金銀行化しつつあるとはいえ、民間預金だけでは資金需要を十分にみたすことができず、さりとて政府資金による補強が期待できないとすれば、日銀信用に依存せざるを得なかったこともうなずける。 このように、第七十四国立銀行がオーバー・ローンになった背景には、貸付水準の高さがあったように思える。前述のように、同行の貸付残高の総運用資産における比率は高く、六〇㌫をこえることもしばしばあった。これに当座貸越を加えると、七〇㌫をもこえることとなる。職業別貸付残高をとると、ほとんど全部が商人であり、抵当別貸付残高をとると、やはりほとんどが生糸であるという事実は、第七十四国立銀行がこの時期において、生糸売込商を中心とした横浜商人を中心とした機関銀行という性格を強くもっていたことを示している。そして、その点では第二国立銀行よりもその度合が高くなっている。 以上、第二国立銀行と第七十四国立銀行が、発券銀行から預金銀行化していく道程を追究してみた。資金の調達が変化しても、資金運用面の機能は本質的に変化していないところが明らかになった。このようなかたちで、預金銀行の色彩を濃くしていった国立銀行も、やがて普通銀行への道を進むこととなるが、それは「銀行条例」(一八九三年制定)の施行以後本格的に展開されていくのである。 四 私立銀行・銀行類似会社の設立 本項では、一八八七(明治二十)年ごろまでの神奈川県下の私立銀行・銀行類似会社を取り扱う。前項までは、政府が制度の育成をはかった金融機関、すなわち為替会社・国立銀行について述べてきた。政府が上から育成を試みたこのような金融制度のほかに、民間の意欲によって、いわば下から成長をみせた金融機関が生まれてきた。古くから庶民の間に「講」とか「無尽」のような相互金融組織があったり、高利貸しが存在した土壌と、開港地や農村を中心とした旺盛な資金需要は、自然発生的な民間金融機関の育成の大きな要因となった。まず、為替会社の経営が行き詰まり、解散したあと、国立銀行の経営に携わらなかった為替会社の役員のうち、ある者は野に下って金融機関を設立した。「国立銀行条例」制定後、同条例によらない金融機関が銀行と呼称することを禁じたため、いわゆる銀行類似会社として出発する。民間の金融機関で最初に銀行を名のったのは、三井銀行(一八七六年)だといわれている。この三井銀行と共立銀行以外は、銀行という名称を使えなかったようである。以上のように、一八七八(明治十一)年ころまでは、主として銀行類似会社というかたちで、民間金融機関が育成された時期である。 次いで、一八七九年以降、国立銀行の新しい設立が許可されなくなるや、私立銀行が相次いで創立をみた。なかには、従来の銀行類似会社が私立銀行へと名称を変えたものもあったようで、設立をみた私立銀行の数は多数に上った。このように、私立銀行と銀行類似会社とは明確に区別されながら育成されたわけではない。政府が私立銀行に一定の準則を定めるのは一八八四(明治十七)年で、それまでかなり数多くの私立銀行が破綻したのではないかと考えられる。そうした苦い体験が、のちの「銀行条例」制定へと結びついていくからである。ともあれ、こうしてはじめは銀行類似会社と私立銀行との明確な区別がないままに出発し、徐々に金融制度の発達のなかに位置づけられていき、結局は私立銀行と銀行類似会社という二つの体系へと分かれていくのである。そこで、この時期に関しては、両者をあまりきびしく分けないで説明していった方が分かりやすいのではないかと思われる。 県下私立銀行・銀行類似会社の概観 一八七七(明治十)年以前に、県下に設立された銀行類似会社が数社存在したと類推できる資料はあるが、正確な数は不明である。たとえば、積小社(一八七五年五月二十九日設立、のちに小田原銀行に改名)、誠資社(一八七五年七月一日設立、のちに誠資銀行、横浜)の二つの存在は少なくとも確認されている。また、これより早く、前掲三井組が横浜に店舗をもって金融業務を営んだ記録が、明治四年(一八七一)以降について明確になっている。 ところが、一八八〇(明治十三)年以降の段階になると、私立銀行・銀行類似会社の設立数・資本金額等が資料的に明らかとなる。『日本帝国統計年鑑』によって、その実態を示してみると、表二-七〇のとおりである。この間の全国全体を、同じく前掲『統計年鑑』でみると、一八八〇(明治十三)年末には三八行(一行当たり資本金一八・四万円)にすぎなかった私立銀行は、八一年末には九〇行(同一一・六万円)へと急増し、さらに八二年末には一七六行(同九・七万円)、八五年末には二一八行(同八・六万円)へと急増している。銀行類似会社も、これとほぼ同じテンポで増加している。すなわち、一八八〇年六月末には一二〇社(一社当たり資本金一・〇万円)だった銀行類似会社が、八二年末には四三八社(同一・八万円)、八四年末には七四一社(同二・〇万円)へと急増し、ピーク時八六年末には七四八社となっている。神奈川県の場合には、行数では私立銀行・銀行類似会社とも一八八二(明治十表2-70 神奈川県私立銀行・銀行類似会社の推移 注 朝倉孝吉『明治前期金融構造史』188-195ページより作成。1880年の銀行類似会社の数字のみ6月末。 五)年まで急増を続け、その後はやや減少している。また、一行当たりの資本金、すなわち規模では一八八一年がピークで、それ以後は、むしろ小さくなっている。このような傾向の特徴を明らかにするため、東京・大阪を除いた他の府県と比較してみよう。私立銀行・銀行類似会社を府県別に分類してみると、大きく二つに別れる。すなわち、一つは長崎・横浜の開港地であり、他の一つは養蚕・米・茶等の農産物をもつ府県である。このうち、とくに後者の農産米の場合は全体の動きを敏感に反映し、明治十年(一八七七)代を通じて増加している(以上、朝倉孝吉『明治前期金融構造史』一八八-一九〇ページ参照)。神奈川県の場合には、いわゆる郡部の農業的要因で設立されたものと、開港場での資金需要にこたえるため、横浜で設立されたものと二種類が考えられ、前者は一貫して増加傾向を示すが、後者は明治十年代の後半には若干減少したのではなかろうか。それは、横浜正金銀行の設立によって、貿易金融機構が拡充したこととも関連しているように思える。ともあれ、県内の民間金融機関は活発で、その数・資本金総額からいって、最も高い水準の府県のひとつに入れられる。 つぎに、具体的に設立された私立銀行・銀行類似会社の内容については、必ずしも明らかでない。『第一回銀行総覧』(一八九五年六月末現在)でみると、一八八二(明治十五)年末までに設立された私立銀行として、前掲小田原銀行(資本金一五万円)、前掲合資会社誠資銀行(資本金三万円)、共洽株式会社(一八八一年一月二十日、共洽社として設立、資本金二五万円、足柄上郡南足柄村)、横浜貯蓄銀行(一八八二年一月六日設立、資本金五万円、横浜)、江陽銀行(一八八二年四月十八日設立、資本金八万円、平塚)の五行が確認される。前掲『銀行総覧』刊行時までに廃業した旭銀行・上溝銀行(一八八一年五月設立)や一八九三(明治二十六)年に東京府に移管された多摩三郡の銀行(たとえば、青梅銀行・八王子銀行)も含まれていたので、統計では数が多くなっていたのであろう(日本銀行調査局図書資料課編『神奈川地方金融史年表』一〇九ページ参照)。その他、銀行類似会社として、共益社(一八八三年四月十六日設立)、共伸社(一八八一年三月「申合規則」制定-『資料編』16近代・現代(6)五〇七)、盛運社といった名前を見出すことができる。また資料のなかに、一八八四(明治十七)年三月の武相銀行の預金元帳とみられるものがあり、県北部で営業していたひとつの私立銀行の名前を確認しうるが、同行もまた東京府に移管されたのではないかと思われる。さらに、東港銀行(一八八〇年十月設立、資本金二〇万円)の名前もみることができる。 県下私立銀行・銀行類似会社の経営 以上あげたほとんどの金融機関については、名前だけでその経営内容を明らかにすることができない。そこで以下、把握しうる範囲で、経営上の性格についてふれておこう。 横浜貯蓄銀行は、大谷嘉兵衛・箕田長二郎・茂木惣兵衛・近藤良薫等、当時第七十四国立銀行を経営していた人びとによって創立された。いわば、第七十四国立銀行の資金吸収ルートとして利用されたもので、本店も同行内におかれていたようである。支店についても、同行とまったく同じところにおかれ、同行の貯蓄銀行部という色彩が濃かった。のちに、貯蓄銀行制度が発達をみて、多くの銀行が系列の貯蓄銀行を設立するが、その県内における最初のケースとみられる。 また、共洽社については、一八八五(明治十八)年の株主名簿と資本株高帳が残されているが、株主は足柄上・下両郡にわたっており、農村に広く根をおろしていたことが推測できる。月末における財務をみると、資本金に比して、預金はきわめて小さくなっている(一〇分の一以下)。さらに、資本金の八〇㌫以上を貸付けにあてている。このことから、同社は持ち寄った資本を貸し付ける機関で、預金銀行的色彩はもっていなかったとみるべきであろう。 最後に、資料的に明確になっている三井組横浜店に若干ふれておこう。同店の勘定帳で残っているのは、三井組が正式に三井銀行となる以前の明治四年(一八七一)から一八七四(明治七)年までのものである。まず、資金調達の側面であるが、預金吸収が中心であり、それも初期は政府関係預金が圧倒的に高かったが、後半、民間預金の伸びが著しくなっている。他方、資金運用面では貸付けが中心となっているが、その貸付先には、横浜為替会社をはじめ、その役員であった原善三部・橋本弁蔵等の名前も出ていて、信用力・実績ともに高かったことを示している。また、担保についても、土地地券より商品の方が比重が高く、商業金融的性格がよくでている。 以上、わずかなケースについて、当時の金融機関の経営をながめてきた。県下の資金需要が貿易をめぐる商品取引から生じたものと、農村の米・養蚕等から生じたものに分かれ、それぞれに適合した民間金融機関が設立され、育成されてきたように思える。しかし、県下の金融機関がその活動を本格的に展開するのは、明治二十年代以降とみられる。したがって、地方銀行として形成されていく姿については、次編でとりあげたいと思う。 第三章 三新法期の神奈川県財政 この章では、一八七八(明治十一)年から一八九八(明治三十一)年までの二〇年間の県財政をとりあげる。この間、神奈川県は三新法とよばれる「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」にもとづいて県政運営をおこなっていたが、この時期の県政は、三新法のなかった前の時期にくらべて飛躍的に整備される一方、新しい「府県制」にもとづいておこなわれた九九年以降の県政とも、いろいろな点でちがった様相を呈している。それは全国的にみても、先行する混乱に満ちた維新の試行錯誤期と、後続の制度完成期とにはさまれた中間的な時期であった。それがいかなるかたちで県の財政に投影されており、歴史的にいかに位置づけられるかを検討するのが、ここでの課題である。 第一節 三新法と三部経済制 一 三新法 一八七八(明治十一)年七月二十二日、太政官布告第一七・一八・一九号として公布された「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」を、三新法あるいは三大新法という。新しい法律はつねに「新法」なのだから、この三つだけをことさら新法とよぶのは、おかしいようにみえる。しかし、秩禄処分も地租改正もいちおう順調に進展し、中央政府の権力確立のめどが立ったこの時点で、今度は地方制度について新法が制定され、これによって中央のみならず地方をも通じて維新の混乱を抜け出す見通しが立ったのであるから、当時人びとがこれを新法とよんだのは、あながち見当はずれではなかったといってよいのではなかろうか。それはともあれ、三新法については、すでに多くの解説があり、とりわけ『通史編』4近代・現代(1)においてもとりあげられているので、詳細はそれらにゆずり、ここでは県財政をみるうえで必要なかぎりで、簡単に説明しておくにとどめたい。 郡区町村編制法 まず「郡区町村編制法」は、明治四年(一八七一)以来の大区小区制を廃止し、代わりに旧来の町村を行政単位として復活させた。というより、必ずしも定着していなかった大区小区制とちがって、むしろ実質上行政単位として生きていた町村を表面に出すことによって、地方行政をスムースにおこないうるようにしたというべきであろう。なお、「人民輻輳ノ地」は「区」として郡から独立させうることとなったが、神奈川県では、これにもとづいて横浜が区となったのみならず、それまでも進行していた農村部と市街部との利害の対立が、この制度を契機にいっそう明確なかたちをとって、三新法時代の県政の焦点となったのであって、この制度は重要な意味をもつ。 府県会規則 「府県会規則」は、はじめ四章三五条から成っていたが、施行後数年間ほとんど毎年改正が重ねられた。この制度以前にも、神奈川県を含めて全国各地で「民会」などという名で実質上の府県会や大小区会が開設されていたが、ここにいたって全国を通じて統一的な代議制議会が県レベルで創設されたのである。この府県会の最大の機能は、「地方税ヲ以テ支弁スヘキ経費ノ予算及ヒ其徴収方法ヲ議定ス」(「府県会規則」第一条)ることであった。府県会の権限としては、このほか決算報告を受ける権、建議の権、諮問答申の権、議事細則制定の権、選挙の権などがあった。ただし、会議の議案はすべて府知事・県令が発し(同第三条)、議決は府知事・県令の認可をまってはじめて施行され、もし府知事・県令がその議決を認可しえないと認めた場合には、内務卿の指揮を仰いでこれを拒否しうる(第五条)などという強い制約があった。また、被選挙権は、満二十五歳以上の男子で県内に本籍をもち、満三年以上居住し、地租一〇円以上を納める者、選挙権は満二十歳以上の男子で県内に本籍をもち、地租五円以上を納める者が有資格者であった。一八八四(明治十七)年の『神奈川県統計書』によれば、選挙権者は三万一〇〇〇人余、被選挙権者一万六〇〇〇人余で、それぞれ県人口の三・八㌫、二・〇㌫に当たっていた(『通史編』4近代・現代(1))。だが、横浜区は選挙権者の比率がわずか〇・八㌫にとどまり、だいたい五-六㌫を占める郡部と著しい対照をなしていた。というのは、資格要件が地租納入に限られていたからである。これ以後の財政をめぐる県会におけるはげしい対立は、郡部・区部の経済構造の違いにもとづくことはいうまでもないが、県会のもつ県民代表としての機能に、はじめからこうした偏りがあったことも見逃せない。 地方税規則 「地方税規則」は全文七条からなる。ここでの地方税は府県税を意味し、各区限り町村限りの経費はその区町村内人民の協議にまかせ、地方税が支弁する限りにあらず、とされた。その地方税は、(1)国税たる地租の五分の一以内、(2)営業税ならびに雑種税、(3)戸数割、の三税目で構成される。さらに、この規則はたんに地方税のみならず、それによって支弁されるべき一二費目を、以下のとおり定めている。(1)警察費、(2)河港道路堤防橋梁建築修繕費、(3)府県会議諸費、(4)流行病予防費、(5)府県立学校費及び小学校補助費、(6)郡区庁舎建築修繕費、(7)郡区吏員給料旅費及び庁中諸費、(8)病院及び救育所諸費、(9)浦役場及び難破船諸費、(10)管内限り諸達書及び掲示諸費、(11)勧業費、(12)戸長以下給料及び戸長職務取扱諸費。 なお、同規則によれば、会計年度は七月から翌年六月までの一か年で、府知事・県令は年度開始前の二月までに地方税で支弁すべき経費の予算および地方税徴収の予算をたてて府県会に提出し、その議決をまって執行し、五月に内務卿・大蔵卿に報告することを義務づけられている。同様に、決算についても、府知事・県令は毎年七月、一年度間の出納を計査して上記両卿に報告し、かつ翌年通常府県会に報告すべきこととされている。 こののち、同規則はたびたび改正が繰り返される。一八八〇年四月第一六号布告(全文改正で、新たに予備費を設けたことと、府県会が予算を議決しなかった場合に、内務卿が前年度の予算額により徴税しうる旨の規定が重要であった)や、同年十一月の第四八号布告(中央におけるいわゆる松方財政の緊縮方針により、地方税を以て支弁すべき費目として新たに従来国庫支弁であった、(一)府県庁舎建築修繕費、(二)府県監獄費、(三)府県監獄建築修繕費の三つを追加したほか、府県土木費中官費下渡金を廃止し、これらを補うための府県での財源として従来の「地租五分一以内」を「地租三分一以内」に改めた)、八二年一月第二号布告(警察庁舎建築修繕費・区町村土木補助費・区町村教育補助費の各費目追加、および列挙以外の費目も府県会決議と政府の裁可を条件として可能になる)などのように、全国的に地方財政に大きな影響を与えたものは、もちろん神奈川県にとっても重要な意味をもつが、何といっても以後の本県財政にとって深刻な影響を与えたのは、次項でとりあげる一八八〇(明治十三)年五月二十七日第二六号布告「地方税規則中追加」であった。 二 三部経済制 三部経済制への動き 第二六号布告は、「地方税規則」に区の経費と郡の経費とを分けうる旨の第一〇条を追加したものであり、以後、神奈川県が東京・大阪・京都などとともに採用する三部経済制を認めたものである。というより、この改正は、もともと二度の神奈川県からの内務省あて上申を受けてなされたものであった(『府県制度資料』下巻二五一ページ)。 それによってみると、この上申より先、神奈川県は県会自体を区と郡とに分離したいと申し出て中央から拒否され、それではせめて財政(当時の用語では「経済」-引用者)だけでも分離したい旨を上申しているのが、右の二つの上申なのである。ちなみに、大阪府では、すでに一八七八年に同様の伺を提出していることが『府県制度資料』下巻二五二ページからわかる。その理由は、いずれも同様であって、「横浜区ト他拾四郡トハ情態大ニ異ニ随テ地方税ノ経済上郡区甚タ不平均ヲ生」ずるというような、都市部と農村部との経済的なアンバランスにもとづく、財政上のアンバランスであった。とくに、神奈川県の第二の上申書では「十二年度合一経済ノ実験ニ於テモ其事情ヲ徴シ得ラレ候」と、明治十二年度の郡市対立の経験(『神奈川県会史』第一巻参照)をふまえての強い希望を示している。このため、おそらくそれまでは「一般法律ニ対シ大ニ特典ヲ請望候訳ニ付御詮議ニモ及ハレ難」いなどと拒否していた内務省も、やむなく「支出上郡区ノ権衡平準」を得るために余儀ないものとして、県会分離は認めないまでも財政だけは認めることにしたのである。なお、東京府は七九年の「郡区地方税分離条例」によって、すでに分離をおこなっていた。こうして、全国を画一的に規制しようとした三新法は、まず先進的な都市をかかえる地域でその無理が露呈し、分離財政を認めざるをえなくなったのであるが、三府はともかく、県としてはこの時は神奈川県のみが分離にふみ切ったのである。 地方経済郡区分離条例 右の「地方税規則」改正を受けて、神奈川県として分離を制度化したのが、一八八〇(明治十三)年八月十八日甲第一四二号「地方経済郡区分離条例」(『資料編』16近代・現代(6)三一)である。同条例は四条からなっている。まず、第一条で郡と区の経費は、それぞれ郡と区から徴収される地方税をもって支弁するという一般的な定めがなされ、第二条では営業税・雑種税の税目の取捨選択および地租割・戸数割の税額は郡区でべつべつに定めうることとした。第三条は地方経済郡区分離条例 県史編集室蔵 「郡区合一ニシテ支弁スヘキ費目」とその「郡区負担ノ割合」を定めている。これによると、警察費は人口を目安として割り振るが、区部は一人当たり郡部の五倍とする。また十全医院費は、前三か年間の郡区の患者数割で、県会諸費、衛生費、県立学校費及小学校補助費でまかなわれる小学生徒賞与金、救育費、浦役場及難破船諸費、管内限諸達書及掲示諸費などは郡区の人口割で、勧業費のうち勧農費は郡、勧商費は区、勧工費および博覧会費などは人口割とする、などとなっている。したがって、「地方税規則」に含まれていて、ここにあげられていないところの河港道路堤防橋梁建築修繕費・郡区庁舎建築修繕費・郡区吏員給料旅費及庁中諸費・戸長以下給料及戸長職務取扱諸費が、それぞれ郡と区に分離される費目ということになる。 三府神奈川県区郡部会規則 ところで、地方税収支を郡区に分けることになった以上、それを審議する府県会の組織をそれに応じて区分することが必要になるのは当然であろう。前述のとおり、もともと神奈川県はそれを求めていたし、一八八〇(明治十三)年末ごろには京都府からもその旨の上申があったらしく(『府県制度資料』上巻一八五ページ)、政府は八一年二月太政官布告第八号「三府神奈川県区郡部会規則」によってそれを定めるにいたった(前掲書一八四-一八五ページ)。 これによって、三府と神奈川県は、「府県会ヲ分テ区部会郡部会トナシ区部郡部ニ分別シタル事件ヲ議定」(第一条)しうることとなり、それぞれの部会および全体の府県会で何を議定すべきかについては、府県会で定めることとされた(第二条)。さらに、区部の営業税・雑種税は区部会の議決にもとづいて府知事・県令が内務・大蔵両卿に具状し、政府の裁可を得れば、郡部とちがった制限を適用しうる(第六条)し、支出費目についても、同様の手続で「地方税規則」に定められたもの以外を含みうること(第七条)などという、実質上重要な差別的取扱いを認める条文をこの規則は含んでいる。なお、この規則は、神奈川県と同じような事情にある兵庫県からの強い要請により、八一年三月太政官布告第二〇号で三府神奈川以外の区制採用県にも適用しうることとなった(前掲書一八八ページ)。 県会区部会郡部会議定事件分別条例 右の「規則」にもとづいて、神奈川県では一八八一(明治十四)年十月甲第一七五号「県会区部会郡部会議定事件分別条例」(『資料編』16近代・現代(6)三二)を制定した。これは二つの条文からなる。まず、第一条は、「区郡連帯シタル経費其他法律規則ニ遵ヒ議定スヘキ全県ニ係ル事件ハ県会ニ於テ議定スルモノトス」として、次の一八項目を挙げている。「一警察費ノ事、二県会諸費ノ事、三衛生及病院費ノ事、四教育費ノ事、五救育費ノ事、六浦役場及難破船諸費ノ事、七管内限リ諸達書及掲示諸費ノ事、八勧業費ノ事、九県庁舎建築修繕費ノ事、十監獄費ノ事、十一監獄建築修繕費ノ事、十二地方税取扱費ノ事(但以上各費中区郡部限負担ノ費用ハ此限ニ非ス)、十三漁業採藻税ノ事、十四備荒儲蓄ノ事、十五郡区町村連合会並水利土功会ニ於テ関係アル区町村若クハ人民中其集会ニ応セサルトキ之ヲ決スル事、十六衛生会委員公撰ノ事、十七地方税支弁区郡部負担割合条例ノ事、十八郡区連帯負担ノ経費中ニ収入スヘキ雑収入金ノ事」。 つぎに、第二条は「地方経費ノ郡区連帯セサル経費其他法律規則県会区部会郡部会議定事件分別条例 県史編集室蔵 ニ遵ヒ議定スヘキ区郡各部ニ係ル事件ハ区郡各部会ニ於テ之ヲ議定スルモノトス」として、区部・郡部の順で、一二項目と一一項目を掲げている。両者にほとんど違いがないので、区の分をかかげ、次に違いのある部分のみ郡について記す。「一区部土木費ノ事、二区庁舎建築修繕費ノ事、三区吏員給料旅費及庁中諸費ノ事、四区部戸長以下給料及戸長職務取扱諸費ノ事、五教育費中幼稚園費ノ事、六県会諸費中区部議員賄料及区部会並区部常置委員会諸費ノ事、七管内限諸達書及掲示諸費中区部ニ設クル掲示諸費ノ事、八勧業費中勧商費ノ事、九地方税取扱費中区役所ニ設クル取扱所費ノ事、十予備費中区部限予備費ノ事、十一区部地方税ノ事、十二郡区連帯セサル区部負担ノ経費中ニ収入スヘキ雑収入金ノ事」。 郡部については、右のうち「区」とある部分を「郡」とするほか、「五教育費中幼稚園費ノ事」がなく、したがって、第六項以下がひとつずつ繰り上がり、全体が一一項目となり、第五項が「五県会諸費中県会郡部議員旅費滞在日当及郡部会並郡部常置委員会諸費ノ事」と変わり、第七項が「七勧業費中勧農費ノ事」に変わる、などが区部の規定と異なる部分である。 三部経済制導入の意義 こうして、この時点で、以後昭和初年まで続く神奈川県のいわゆる「三部経済制」の基本的な枠組が形づくられるにいたった。それは、全国共通に施行された三新法体制が、都市部と農村部という二元的な経済構造をもつ先進地帯である神奈川県に適応的なかたちに組み変えられたものであった。逆にいえば、中央政府において三新法を立案した当局者たちが、当時すでにかなり進展していた都市経済の実態およびそれにもとづく都市と農村の利害対立関係を軽視したのにたいし、現地の実情からその修正が余儀なくされて、この制度が登場したものと評しうる。 なお、一八八八(明治二十一)年四月の「市制」にもとづいて、横浜区が横浜市に変わったのちも、区部会が市部会と名称が変わっただけで、この制度は引き続いていく。 九〇年府県制と三部経済制の否認 ところが、一八九〇(明治二十三)年五月公布の「府県制」においては、これが逆転して、三府以外には県会に部会を設けず、したがって、財政をはじめ、各事業を分離して施行しえない規定となった(「府県制」第二七条)。神奈川県が、この九〇年の「府県制」にもとづく県制を、結局一度も採用せず、九九年の全面的に改正された「府県制」までいたるについて、その理由は必ずしも十分明らかでないが、少なくとも当初においては、右の点が重要なポイントであったことは疑いない。というのは、『帝国議会議事録』九二年六月四日衆議院本会議に、右の点の改正を求める修正案が(前年に引き続いて)提出されているが、その提案理由説明をおこなっているのは横浜選出の島田三郎であるからである。かれは主として、横浜や神戸の例を引きながら、土木・橋梁・消火・流行病・水道・警察・税源税率など、どれをとっても、市と郡とでは大きくかけはなれており、それを分離して処理している現状に不都合がないのに、「今日ニモ府県制ヲ斯様ナ所ニ施行スルト、只今成立テ居ル所ノ特権ト云フモノハ、其日カラ消エ失セマス」としてその修正を求め、「只今迄成立テ居ル所ノ便利ヲ保存セントスル」提案への賛成を求めている。横浜や神戸のような都市部をかかえた県が、「府県制」採用に踏み切らなかった一因が、少なくともこの時点までのところ、ここにあったことが読みとれるであろう。ちなみに、この修正案の貴族院における委員会審議の席上、政府委員の白根専一は、三府以外の県に分離を認めなかったのは、不注意ではなくて積極的な意図にもとづいてのことであったことを示す発言をしている。それによれば、分離を認めれば、郡区(市)の対立がはげしくなり、県治上に障害が起こるうえに、従来分離してきた県にのみ認めるといっても、同じような条件の他県がそれを求めた場合、断わりきれず、きりがなくなるからである。「府県制」で三府にのみ分離を認めているのは、たんにその現状からのみでなく、沿革をも考慮しているからである。 九二年改正による三部経済制の規定 ともあれ、島田らの提案にもとづく一八九二(明治二十五)年六月法律第七号「府県制(改正)」は次のごとく分離を定めた。「明治二十三年法律第三十五号府県制第二十七条第三項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ。市部会郡部会ヲ置キタル県ニ於テ県会ノ職権ニ属スル事件ニシテ専ラ市ニ関スルモノト専ラ其他ノ部分ニ関スルモノト分別スルコトヲ要スルモノアルトキハ県会ノ議決ニ依リ之ヲ分別スルコトヲ得但分別シタル県ニ於テハ此法律中特ニ東京府京都府大阪府ニ関シ定メタル各条項ハ之ヲ適用ス」。もっとも、これが定められたにもかかわらず、神奈川県も兵庫県も、この「府県制」にもとづく県には移行しなかった。ほかに、「郡制」施行の困難さなど、移行をはばむ理由があったからであろう。そのため、神奈川県としては制度的には、依然として、三新法による八一年の三部経済制が存続し、次編でとりあげる一八九九(明治三十二)年の「府県制」にいたるのである。 第二節 県の財務機構 第一節で述べたような三部経済制の大枠のなかで、県財政が運用されたのであるが、それを担った具体的な機構・組織がどのようなものであったかをみるのが、本節の課題である。 一 予算編成機構 七八年の事務章程と予算担当部課 三新法成立に応じて、神奈川県では、一八七八(明治十一)年九月の「事務章程」で、それまでの第一-六課の県庁組織を、次の九課へと拡充改組した。庶務課、外事課、勧業課、租税課、地理課、学務課、衛生課、土木課、出納課(『神奈川県史料』第一巻一三九ページ以下。なお、以下の県事務機構についての記述は、とくに断わらない限り、同書による-引用者)。三新法にともなって決定された「府県官職制」(七八年七月、太政官布告第三二号)には、県の組織を具体的に指示していないから、これは神奈川県独自のものであろう。 ところで、右の諸課のうち、財政にかかわる業務を担当したところを、明らかにするのは必ずしも容易ではない。租税について、租税課が担当したことは当然と思われるし、次項でもふれるのでここでは措くとして、県全体の予算を編成する責任がどの課にあったのかがはっきりしない。「事務章程」のなかの各課・掛(係)の業務のなかから、関連のありそうなものをひろい出しても、庶務課常務掛に「議会ノ事務ヲ管掌スル事」「地方税賦課方法ヲ査定スル事」があり、出納課主簿掛に「収入経費予算簿ヲ調製スル事」という文言が見当たる程度である。したがって、これらをつなぎ合わせて、計数整理は出納課でおこない、とりまとめは庶務課でおこなったとでも推測しておくほかない。 八〇年六月改正 「事務章程」はこのあとすぐ続いて一八七九(明治十二)年十月に改正されるが、右の点については変わりない。だが、八〇年六月の改正では、庶務課常務掛から前述の「地方税賦課方法ヲ査定スル事」が削除され、一方、出納課主簿掛の前述の部分が「収入経費報告書ヲ製スル事」「地方費ノ精算書ヲ製スル事」と変わり、同課雑務掛に新たに「地方税収支精算及予算報告書ヲ調理スル事」「収入経費予算ノ事務ヲ管掌スル事」がおかれた。そして、この時の改正では、他の課や掛に予算編成を担当したとみなすべき事項がないところから、この時点では、右の出納課雑務掛が単独で予算編成に当たるべきことが予定されていたと思われる。 八〇年十月改正と庶務課取調掛の設置 だが、こうした予定はすぐくつがえされ、実施されることはなかった。というのは、同年十月に庶務課のなかに、新たに取調掛が置かれたが、それは予算編成担当のために置かれたとみなされるからである。「事務章程」によれば、その担当事項は次のとおりである。「県会及常置委員ニ関スル一切ノ事務ヲ管掌スル事」「地方税及備荒儲蓄金ノ収与ニ関スル事業ノ法案ヲ調理スル事」「地方税ニ連帯スル費金収与ノ考案ニ参与スル事」「地方税及備荒儲蓄金ニ関スル布達達指令等ニ参与スル事」「地方税及備荒儲蓄金精算及予算報告ノ事務ニ参与スル事」。右の章程について、注意すべきことが三つある。第一は、右の取調掛の章程では予算編成とか経費というような用語はなく、「地方税」という語のみが目立つことである。卒然と読めば、たんなる地方税についてのみ管轄したともいえそうである。しかし、この点は「地方税及備荒儲蓄金ノ収与」「地方税ニ連帯スル費金」(傍点は引用者)というような表現からみて、地方税およびその支出の双方という意味だとみなすこととする。第二に、この取調掛の事務と前述の出納課雑務掛の「収入経費予算ノ事務ヲ管掌スル事」という事務との関係についてである。出納課のほうが「収入経費予算ノ事務」という一般的な書き方をしているのに、取調掛のほうは「地方税」ノ収支というような書き方をしているところをみると、前者の一部に後者が「参与」するとも読めそうである。だが、ここでは、前記の理由により「地方税の収与」は、収入支出いずれをも意味するとみなされること、および「県会及常置委員会ニ関スル事務一切」をおこなうと同時に、「地方税ノ収与ニ関スル事業ノ法案ヲ調理スル」ために、わざわざ新しく取調掛を置いたということ自体からみて、この時点では出納課雑務掛の一般的な規定はありながらも、予算業務の中心はこちらに移すつもりだったのだと推定しておく。第三に、この取調掛を置いた結果、たとえば同じ庶務課常務掛の「議会ノ事務ヲ管掌スル事」などというような重複する業務が廃止されたのかどうか明瞭でない。ともあれ、ここではじめて、県庁機構のなかに、独立してもっぱら予算編成を担当する掛がおかれることとなったことは、県財政史としては画期的な出来事であった。とはいえ、なぜこの時点でそうなったのかは、必ずしも明らかでない。県会開設以来、県会の論議の大部分は予算に向けられており、しかも自由民権運動が高揚しようとしているこの時期、県当局と県会との最大の係争点となる予算を、出納課中のひとつの掛のひとつの業務にすぎない(同掛は章程によれば、一八の業務をおこなっている)ものとしておくことができなくなったということであろうか。 調査課 この推測を裏付けるかのように、翌一八八一(明治十四)年九月には、この取調掛はさらに調査課へと機構が拡充され昇格している。新設された調査課の改正「事務章程」には、業務が次のように記されている。「地方経済ノ全体ニ関シ県会地方税備荒儲蓄等ノ事務ヲ掌ル、地方費ニ関スル一切ノ事件ニ参与シ其事業ノ権衡ヲ考量シ起廃得失ヲ勘査スル事、地方費ノ予算及其収受ノ方法ヲ査定スル事、県会及常置委員会ニ関スル事務ヲ管掌スル事、地方費ニ関スル諸達伺指令等ニ参与スル事、賦金支出ノ予算及徴収方法ニ参与スル事、備荒儲蓄方法ヲ調理シ其収支ニ参与スル事、地方税ノ精算及備荒儲蓄金穀ノ出納報告書ヲ調理スル事」。みるとおり、ここでは取調掛にくらべて広い範囲にわたって政策決定・立案・予算査定をおこなうべきことが明示されていて、独立の課にふさわしい姿が認められよう。ただここでは、さきの取調掛の場合と反対に、「地方税」という語はほとんどなくなり、逆に「地方費」という用語が目立つ。地方税については、最後の項目に「地方税ノ精算」があるのみである。この「地方費」という語は、これまでの「事務章程」にほとんどあらわれておらず、わずかに八〇年六月改正の出納課主簿掛に「地方費ノ精算書ヲ製スル事」があったにすぎない。さきにみたように、取調掛の場合は、収入支出いずれについても、予算編成に当たったとみなしておいたが、その場合とちがって、ここでの「地方費ノ予算」は文字通り支出のみの予算だと思われる。というのは、この同じ改正章程で租税課地方税掛に、「地方税収入予算ヲ調理スル事」という、それまでの地方税掛になかった業務がわざわざ記されているからである。経費に関する予算は調査課で、税収についての予算は地方税掛でという体制が、ここで明示的にととのったといえよう。もっとも、この改正で出納課が会計課と改められ、雑務掛は常務掛と変わり、その業務のなかに前同様「地方経費収入予算ノ事務ヲ管掌スル事」が含まれていて、この規定と上記の調査課や地方税掛との間の関係はやはりはっきりしない。会計課の文言は従前と同じとはいえ、一方で調査課や地方税掛の予算業務が明確化されているのであるから、内実からすれば、会計課のほうは、単純な計数整理や、日常の収支事務へと単純化されたということなのではなかろうか。「予算ノ事務」(傍点は引用者)という語を、調査課の「権衡ヲ考量シ起廃得失ヲ勘査」「方法ヲ査定」などと比較してみると、そういっていいように思われる。 八三年調査科へ編成替え 一八八三(明治十六)年一月に「事務章程」の改正があり、県庁は一局九課に分けられ、局には科が、課には係が置かれた。この際、上述の調査課は本局の下の調査科へと編成替えされた。もっとも、業務については大差なく、調査課の「賦金支出ノ予算及徴収方法ニ参与スル事」「地方税ノ精算及備荒儲蓄金穀ノ出納報告書ヲ調理スル事」がなくなり、「県会及常置委員会ニ附スル議案諮問案報告書等ヲ調理スル事」が、新たにつけ加わった程度である。賦金だの出納報告書だのという、二次的ないし技術的な業務をやめ、予算編成や政策形成をもっぱら取り扱うというかたちになり、調査課とくらべてみれば、県会や常置委員会との関係で、より包括的な業務を担当することになったといえそうである。しかし、この組織は実際にはほとんど機能しなかったと思われる。というのは、同年十一月の改正ではやくも局が廃され、本局調査科は再度調査課に変わったからである。 調査課の復活 新しい調査課は以前の調査課にもどったわけでなく、その性格は直前の本局調査科と同じであった。というより、予算編成、県財政に関する包括的な権限がいっそう明確になったといえそうである。たとえば、「地方税経済ヲ統括シ及地方税ノ支弁ニ係ル一切ノ事件ニ参与シ其事業ノ起廃得失ヲ勘査スル事」「地方税及備荒儲蓄ノ経済ニ属スル財産管理ノ方法ヲ監査スル事」「地方税ヲ以テ支弁スヘキ経費ノ予算及其徴収方法ヲ査定スル事」などという文言は、その内実は調査科と大差ないとしても、表現としては、権限の包括的な性格を明示しているといってよい。その一方で、この時の改正で会計課常務係の業務から、「収入経費予算ノ事務ヲ管掌スル事」が消えた。この項については、調査課や調査科の機能との関係で疑問がある旨、これまで指摘しておいたが、ここにいたってすっきりしたかたちに整序されたのである。もっとも、会計課常務係には「地方税収入(原文では「支」-引用者)及支出ノ事務ヲ管掌スル事」という項目が、新設されている。これは、技術的な税の収入と支出の管理ということで、これまでのように「予算」にかかわるという意味ではない。 これまでの機構整備の意義 『神奈川県史料』第一巻にのせられているのは、この一八八三(明治十六)年十一月の改正までであり、その後の「事務章程」は入手できない。しかし、こののち八六年の「地方官官制」による編成替えまで、県庁組織とりわけ調査課については、大きな改正はなかったと思われる(『神奈川県会史』第二巻「神奈川県庁分課分掌一覧」を参照)。こうしてみると、三新法制定からこの時点までの間に、自由民権運動や県会でのはげしい予算論議を背景に、県庁内の予算編成機構はほとんど連年の改正を続けてきたことがわかる。その改正の方向は、当初むしろ出納課に中心があったのが次第に独立した機構を生み出す一方、出納課は逆に技術的な出納や帳簿作成へと業務が収斂していく、というものであったことが読みとれよう。それは、県を単位としてはじめて導入された議会制度に対応すべく、県庁レベルで試行錯誤のなかから、県の機構が整備されていく過程であったといってよい。というのは、この間の改正には、その基準となるような制度が中央政府から示されたとは思えないからである。少なくとも『府県制度資料』(上・下)には、そうしたものは採録されていない。ところが、八六年、それまで県独自で県庁組織を編成してきたのにたいして、新しい方針が中央から指示されるという事態が生じるにいたった。 八六年の地方官官制と県財務機構 一八八六(明治十九)年七月勅令第五四号「地方官官制」は、三新法の際に制定された「府県官職制」にかえて、新しい内閣制度と対応した地方の官制を定めたものであり、府県庁の組織の大枠についての条文を含んでいる(第二四・二五条)。それは、府県庁を第一・二部および収税部に分け、それぞれの部の管轄すべき事項を列挙している。そのなかの、財政関係事項は、第一部の「地方税区町村費備荒儲蓄ニ関スル事項」、第二部の「会計及公債証書ニ関スル事項」および収税部(後述)である。そして、「部中便宜課ヲ設ケ」ることができることとなっている。 これを受けて、神奈川県が採用した県庁機構は、「本局」「第一部」「第二部」「収税部」「警察本部」である。それぞれのなかには、いくつかの課がおかれており、多少の改正はありながら、九〇年の新しい「府県制」にもとづく改正までそれが続いていく。ところで、第一部所属の課は、会議・外務・文書・農商・庶務の五課であるが、このなかで「地方官官制」の規定する地方税区町村費などを取り扱ったのがどれかは、「事務章程」が見当たらないので、はっきりしない。課・係名からすれば、庶務課常務係あたりであろうし、会議課県会係も関係したかと思われる。また、「地方官官制」にない「本局」が予算編成にタッチしたかもしれないが、これも不明である。ともあれ、県の側からいえば、予算編成のための専任の課を生み出すまでのこれまでの発展が、ここで、たとえば庶務課常務係へと制度上逆転させられたことになるといわざるをえない。もっとも、官制の規定は前述のとおり、「便宜」により課を設けうるというのであるから、調査課というようなものを積極的に排除しているわけではない。したがって、県がなぜここでこうした変更をおこなったのか、疑問は残っている。これにたいして、第二部には「会計課」がおかれ、これが「地方官官制」の「会計及公債証書ニ関スル事項」を所管したことは明らかである。 九〇年の改正地方官官制による財務機構 一八九〇(明治二十三)年十月勅令第二二五号で「地方官官制」が全部改正され、府県に内務部・警察部・直税署・間税署・監獄署の二部三署を置くこととなった(第二一条)。九三年におこなわれた「地方官官制」全部改正でもこの点には大差なく(直税署・間税署にかえて収税部をおく)、九六年改正で収税部がなくなったことを別にすれば、九〇年の「府県制」から新「府県制」施行の九九年まで、基本的には変わりなかったといってよい。この府県庁組織は、かつてなく簡単なものとなっていて、予算担当は内務部以外には考えられない。ところで、九〇年の「地方官官制」では、第二三条に「内務部ニ左ノ四課ヲ置ク」として、第一-四課を示し、おのおの分掌を掲げている。県庁組織として、部のみならず課のレベルまで列挙して、設置を指示したのは、今回がはじめてであり、中央において画一的な県庁システムづくりを目指していたことが読みとれる。ともあれ、示された分掌のうち、財政に直接かかわるものは、第一課の「府県税、備荒儲蓄並郡市町村ノ経済ニ関スル事項」および第四課の「府県費ノ会計ニ関スル事項」「府県税及備荒儲蓄ノ収支出納ニ関スル事項」である(なお租税については第二五条に別途示されている。この点、後述)。九三年改正でも、この点変わりはない。 ところで、こうした官制は、いずれも九〇年五月の「府県制」を前提にしたものであって、その「府県制」をまだ採用していない神奈川県が、これらの改正に自動的に従わなければならなかったのかどうかははっきりしないが、『神奈川県会史』第二巻によれば、九〇年現在、県庁組織は新「官制」に従った内務部・警察部・収税部(直税署・間税署)・監獄署および知事官房からなっている。このうち、租税にかかわる収税部を別にすれば、財務機構としては内務部以外には考えられない。神奈川県も、「地方官官制」どおり内務部に第一-四課を置いたが、その構成は第一課(会議係・庶務係)、第二課(農商係・土木係・地理係)、第三課(学務係・衛生係・戸籍係)、第四課(国費係・地方費係・調度係)であった。このうち、「府県税、備荒儲蓄並郡市町村ノ経済」を取り扱うのは、「地方官官制」によれば第一課であったが、神奈川県の第一課のうち、議会係はおそらく「官制」の第一課業務のうち「議員選挙及府県会、郡会、市町村会、公共組合会等ノ会議ニ関スル事項」に対応するものであろう。とすれば、第一課にはもうひとつ庶務係があるにすぎないから、「府県税……経済」はそこで取り扱われたと考えるほかない。そして、神奈川県庁にあっては、新しい「府県制」に従った県となる一八九九年まで、この組織に変更はなかった。 二 徴税機構 前史 もともと中央政府の出先機関として出発した府県は、国税を徴収するという機能がその主要な業務のひとつであった。たとえば、明治四年(一八七一)の「県治条例」は、庶務課・聴訟課・租税課・出納課の四課を府県に置くべきことを定めているが、租税課は「正租雑税ヲ収メ豊凶ヲ検シ及ヒ開墾通船培植漁猟山林堤防営繕社倉等ノ事ヲ掌ル」ものであった(『府県制度資料』下巻一八ページ)。当時、まだ国税と地方税の区別がはっきりしていなかったとはいえ、県に置かれた「租税課」の徴税の役割は、もっぱら「正租雑税」という国税についてのそれなのである。 一八七五年の「府県職制並事務章程」でも、職制の部で、「第三課」が租税を取り扱うことが規定されているが、それが「事務章程」に掲げられているどの機能を分担したのかは明示されていない。地租・地券税などを取り扱ったことは疑いないが、「地方限収入スヘキ雑税」や、七六年に追加された「府県税ヲ賦課」することが、はたして第三課(租税)の機能たることが予定されていたのかどうか定かでない。しかし、神奈川県では、これを前提にして改正された七六年十二月の分掌では、「第三課」に国税掛・県税掛・地理掛・外地掛・地租改正掛を置いているから、ここで取り扱われたことが明らかとなっている。この第三課は、三新法に対応しておこなわれた七八年九月の改正で、「租税課」と改称された。 租税課の業務 一八七八(明治十一)年九月の「事務章程」は、租税課の業務を左のように定めている。 租税課 国税及ヒ地方税ヲ徴収シ右ニ関スル事務ヲ掌ル 但課中ノ事務ヲ分テ三掛トス 国税掛 一 地租ノ収額ヲ査定スル事 一 土地ノ変換等ニ拠リ其租ヲ増減シ又ハ免除スル事 一 国税ヲ徴収シ及ヒ右ニ属スル諸鑑札料ヲ収入シ之ヲ出納スル事 一 船税ニ関スル事務ヲ管掌スル事 一 酒類ニ関スル事務ヲ管掌スル事 一 煙草ノ事務ヲ管理スル事 一 証券印紙及訴訟用罫紙等ノ事務ヲ管掌スル事 一 度量衡ノ事務ヲ管掌スル事 一 牛馬売買ノ事務ヲ管掌スル事 一 銃猟ノ事務ヲ管掌スル事 一 諸車ノ事務ヲ管掌スル事 地方税掛 一 地方税ヲ徴収シ及右ニ属スル諸鑑札料ヲ収入スル事 一 収税ニ関スル事務ヲ管掌スル事 一 海川ノ捕魚採藻営業ヲ管掌スル事 一 諸工芸劇場見世物芸娼妓及芸人等ノ諸営業事務ヲ管掌スル事 一 客船運送船ノ営業ヲ管掌スル事 市街地改租掛 一 市街地租改正ノ事務ヲ管掌スル事 これによれば、租税課の役割は、まずもって国税とりわけ地租の徴収であったことが読みとれる。 国税徴収 いうまでもなく、国税徴収は中央で定められたところを執行するにすぎず、県においてこれを変更すること、とりわけ減収になるようなことは、きびしく制限されている。 たとえば、その点は「府県官職制」のうち「府県ノ事務主務省ニ禀請シテ後ニ処分スヘキ者」のなかに、つぎのように規定されている。「水旱災ニ罹リシ者ノ租税延納ヲ許ス事」「水火災ニ罹リ家屋蕩燼スル者租税皆済期限後二ケ月以内延期ノ事」「地種変換ノ事」「土地ノ変替ニ依リ地租ヲ減スル事」「地価ヲ検シテ租額ヲ定ムル事」「鉱山借区税猶予並減免ノ事」。これらは、必要な税収を全国的統一的に、確保するための当然の規定であり、国税掛が「査定」したり「増減シ又ハ免除スル」ことなどは、いずれも「主務省ニ禀請シテ後」にのみおこないえたのである。 地方税の賦課と徴収 地方税については、むろん「地方税規則」にもとづいているかぎり、県の自主性が発揮されたのであるが、租税課地方税掛としては、地方税の賦課方法の決定に参与したわけではないようである。というのは、「事務章程」の文言でも、地方税掛は地方税を徴収したり、納税に関する事務を管掌するにとどまっているし、何よりもほかに賦課徴税方法を担当した部課があったからである。すなわち、「事務章程」によれば、庶務課常務掛が「地方税賦課方法ヲ査定スル事」を、その業務のひとつとしている。前項でも述べたように、当時全体として、予算編成がいかにおこなわれたかは必ずしもはっきりしていない。しかし、「政令ノ要旨ヲ体シ地方ノ民情ヲ認メ戸籍ヲ編シ議会ヲ管シ其他社寺徴兵編輯等ノ事務ヲ掌ル」べき庶務課が、県政全体を統轄していたことは、ほぼたしかである。とくに、常務掛は「議会ノ事務ヲ管掌」していたのであって、当時予想された県会での最大の係争事項である地方税賦課方法の策定は、地方税掛とむろん連携しつつではあろうが、この常務掛においておこなわれたとみるのが自然であろう。 七八年十月改正 一八七八(明治十一)年十月の改正でも、国税掛・地方税掛・庶務課の分担方式に大差はない。ただ、地方税掛に「玉川神田両上水ノ賦金ヲ徴収スル事」が、勧業課物産掛に「営業税雑種税賦課法査定ニ参与スル事」が加わったことが、やや目立つ変更だといえる程度である。「興業授産ノ方法ヲ按シ職芸ヲ奨メ物産ヲ興ス等ノ事務ヲ掌ル」勧業課とりわけ「諸工作営業等ニ属スル事務ヲ管掌スル」物産掛としては、営業税雑種税という営業にかかわる税について、発言する必要をもっていたであろうし、逆に、地方税賦課を立案する庶務課常務掛や徴収に当たる租税課地方税掛としても、物産掛からの情報を入手することは事務遂行上、必要だったにちがいない。 八〇年六月および十一月改正 一八八〇(明治十三)年六月の改正は、前項でもふれたように、庶務課常務掛から「地方税賦課方法ヲ査定スル事」がなくなったほか、すぐ前でみた勧業課物産掛の規定がなくなったりしているのに、それらをどこの課掛が引き継いだのか明文を欠いていて、やや理解しがたい改正となっていた。しかし、前項でも述べたとおり、この改正は実際にはおそらく実施されず、すぐ続いて同年十一月に庶務課に取調掛がおかれ、地方税の収支に関する政策立案は、ここが一手ににぎったものと考えられる。なお、六月の改正で、国税掛に「会社税ノ事務ヲ管掌スル事」「地券証印税帳ヲ調査スル事」が加えられた。また、地方税掛では左にみるとおり、営業関係事務が拡大したほか、「賦金徴収法」に関する事務も管掌することとなった。 地方税掛 一 地方税徴収事務ヲ管掌スル事 一 第三項ニ掲クル種目ヲ除クノ外有税ニ関セス諸営業ニ係ル事務ヲ管掌スル事 一 新規劇場芸娼妓貸座敷ノ箇所諸会社市場及衛生上ニ係ル営業ノ許否ニ参与スル事 一 賦金徴収法ニ関スル事務ヲ管掌スル事 一 神田玉川両上水ノ賦金ニ係ル事務ヲ管掌スル事 なお、これまでの市街地改租掛にかえて、「郡村及市街地ノ改租事業ヲ管理スル」ために、地租改正掛がおかれたが、ほとんど地租改正が完成したあとで、こうした改正がなされたのは理解しがたい。改正事業の事後処理ということなのであろうか。 調査課と地方税掛 一八八一(明治十四)年九月の改正は、前述のとおり調査課がおかれた改正である。この際、国税掛にも多少改正があったが、むしろ地方税掛の改正が重要であった。というのは、ここで「地方税賦課方法ノ事務ニ参与スル事」「地方税収入予算ヲ調理スル事」という新しい機能が付加されたからである。調査課についても前述したように、地方費予算は調査課で、地方税賦課方法策定および地方税収入予算は地方税掛でという、地方税掛としてはかつてない大役が、ここで割り振られたのであった。八三年一月の改正でも、租税課の分掌には国税掛・地方税掛とも何らの変更もなかったし、同年十一月改正でも、国税掛にわずかな業務が追加されただけで、地方税掛には変化はない。もっとも、前述したように、この改正で本局調査科が再度調査課に変わり、それが「地方税経済ヲ統括」するにいたったのに、租税課地方税掛の分掌はもとどおりであるから、当然両者の間に重複が生じたと思われる。ここでは、おそらく調査課が経費についてと同様、税収についても予算編成の主役となり、地方税掛は脇役にまわったのであろう。 収税課設置 一八八四(明治十七)年には、租税課に大変動があった。同年五月、租税課が廃されて収税課がおかれたのである。これが、同年五月二十日太政官達第四八号「府県官職制中増補」の「収税長」設置を直接うけた改正なのかどうかは、はっきりしないが、同じ「収税」という語を用いているところから、つながりがあるとも思われる。だが、変わったのは名称よりも内容である。「収税課事務章程」によれば、同課のなかに庶務係・地租係・雑税係・収税係・地方税係がおかれている。一見して明らかなように、従来地租改正掛などを別にすれば、つねに国税掛と地方税掛とが一対で租税課を構成していたのに、ここにいたって、国税関係の係三(収税掛は分掌からみて国税担当と思われる)に対して一つの地方税掛と、バランスがまったくくずれた。そして、当然のことながら、国税については、これまでになく詳細な規定が列挙されているのにたいし、地方税掛については、これまでの規定と大差ないものとなっている。この時点で、県庁内部の国税徴収機構を一挙に拡大したのは、国会開設の接近、反税運動をあわせた自由民権運動の高揚、松方デフレの進展による滞納増加など、政治的経済的な諸要因が働いてのことと思われる。だが、それは「地方官官制」にいたって、いっそうはっきりしたかたちとなってあらわれる。 『神奈川県会史』第二巻によれば、八五年末現在、収税課には検税係・庶務係・賦税係・収納係・地方税係の五係が置かれていた。とすれば、八四年五月からそこまでの間に改正があったことになるが、詳細は不明である。ただ、おそらくは、ここでも国税係三対地方税係一という割合だったという点で、前年と違いないと考えて大過あるまい。ところが、八六年に再び県庁の徴税機構は、大幅に改正されることになる。 地方官官制と収税部 一八八六(明治十九)年七月の勅令第五四号「地方官官制」にもとづいて、県庁機構が改編され、収税部が置かれた(第二九条)ことは、すでに述べた。県の機構を構成する五つの部のうちのひとつが、収税部なのであるから、従来の収税課にくらべて、県機構のなかでの収税部の地位は飛躍的に強化されたといわねばならない。部のなかに、いかなる課をおくかは「地方官官制」では各県の便宜にまかせてある(第二九条)。そこで、神奈川県では、賦税課(地租係・雑税係)、徴収課(国税係・地方税係)、徴税費課(常務係・統計係)、検税課の四課六係を置いた。ここでも、係の配置からみて、国税徴収機能が中心であったと思われるし、そもそも収税長-収税部を設置したのが、地方税のためとは思われず、国税徴収確保のための改組であったことは疑いない。ちなみに、地方税についての政策や予算作成が、この収税部ではなく、おそらく第一部の会議課ないし庶務課の機能であったであろうと思われる点については、前述した。その後、『神奈川県会史』第二巻によれば、八九年末現在では収税部は国税・地方税の区別が廃されて、税務課(賦税係・徴収係・検税係)、徴税係(常務係・用度係)の二課五係へと簡素化された。 地方官官制改正と直税署・間税署 一八九〇(明治二十三)年五月の「府県制」に対応して、「地方官官制」の全文改正がおこなわれ(九〇年十月勅令第二二五号)、それまでの収税部にかえて直税署・間税署がおかれた。しかし、『神奈川県会史』第二巻によれば、神奈川県では収税部を存続させて、その内部を直税・間税二署に分け、その内部を賦税・会計・賦税・検案の四課に分けた。神奈川県が「府県制」にもとづく県制をとらず、旧来の「府県会規則」にもとづいた制度を継続させていたために、このような裁量ができたのかどうかはわからない。また逆に、「府県制」にもとづく県制を神奈川県がとらないのに、県庁組織のほうは基本的に新しい「地方官官制」に従ったのはなぜかなどといった疑問は残るが、直接にそれを解く資料はえられなかった。ところで、この時の「地方官官制」第二五条によれば、「直税署ハ直税ノ賦課租税ノ徴収及徴税費ニ関スル事務」を、「間税署ハ間税ノ賦課及関税犯則者処分ニ関スル事務」をそれぞれ掌り、第三八条によれば「府県内須要ノ地ニ直税分署及間税分署ヲ配置ス其配置及管轄区域ハ大蔵大臣之ヲ定ム」ることとなっていた。ここでの文面、とりわけ配置や区域を「大蔵大臣」が定めるとしているところからみて、この組織は国税徴収を主体にしたもの、いな、むしろそれだけのためのものだったとさえ考えられる。とすると、地方税ないし府県税の徴収組織はどうするのかが問題となるが、それは九〇年十月法律第八八号「府県税徴収法」第一条「市町村ハ其市町村内ノ府県税ヲ徴収シ之ヲ府県ニ納付スルノ義務アルモノトス」にもとづき、市町村→郡→府県(神奈川県では内務部第一課または第四課)というルートでおこなわれたものと考えてよさそうである。といっても、国税徴収については、ここではまだ明示的ではない。それがそうなるのは、九三年の「地方官官制(改正)」によってである。 地方官官制改正と収税部 一八九三(明治二十六)年十月勅令第一六二号によって、「地方官官制」が全文改正され、再び府県に収税部が置かれることとなった。そこは、「国税ノ賦課徴収並間接国税犯則者処分及徴税費ニ関スル事務ヲ掌ル」こととなっていた。これまで折にふれて、県の収税機構の機能の中心が、国税徴収におかれている旨を述べてきたが、しかし、それは条文の上に明示されたものではなかった。ところが、ここにいたって、収税部が「国税」の賦課徴収をおこなう機構であることが明示されたのである。とすると、以前もそうだったのかもしれないが、収税部が国税のみ取り扱うこととなると、地方税なり府県税なりは、「府県制」により「府県費ノ会計ニ関スル事項」「府県税及備荒儲蓄ノ収支出納ニ関スル事項」を掌ることと定められている内務部第四課が、もっぱら管掌したものということになりそうである。神奈川県は九三年現在、それまでの収税部(直税署・間税署)に代わって、収税部(第一・二課)を置いている旨が、『神奈川県会史』第二巻に記されている。この収税部は、むろん国税だけを取り扱うものだったにちがいない。 収税部廃止 ところで、右のような経緯をたどってきた収税部は、一八九六(明治二十九)年十月末をもって廃止された(九六年勅令第三三七号「地方官官制中改正」)。というのは、同勅令によって「税務管理局官制」が施行され、中央政府がそれ自らの手で国税を徴収する体制が整備されたからである。それは、中央政府が財政の面での全国統治の機構をほぼ完成させたことを意味し、逆に地方の側からいえば、維新以来おこなってきた中央政府の出先としての主要な機能のひとつから、ようやく脱却したことを意味している。 こののち、改正「府県制」施行までの県庁組織は、知事官房・内務部・警察部・監獄署からなっている。そのうち、部課係名からして、徴税機能を担当したと思われるものは、内務部第四課地方費係以外には見当たらないが、「事務章程」がないため確認はできない。 第三節 県財政の実態 この時期の神奈川県には、狭い意味での県財政(当時の用語では地方税収入・同支出)のほかに、国庫支出金および賦金収支がある。以下の各項では、狭い意味での県財政の収支を検討することになるが、それ以外のもの、とりわけ国庫支出の県政においてもつ意味が大きいので、ここではそれらいずれもとりあげて、その大きさを示しておくことにしよう(表二-七一。ただし、制度が不分明なため、この間に重複があるかもしれない)。これでみると、県内の財政全体の規模は、だいたい七〇-一三〇万円程度であり(表出しなかった年のなかには、九三年五〇万円、九七年二〇〇万円などという年もある)、八〇万円前後の年が多い。そのうち、国庫支出は三〇-五〇㌫、地方税支出が六〇㌫、賦金支出が四-七㌫に当たっている。なお、これらのほか、全国的な制度の一環であるが、県管理の基金として備荒儲蓄基金がある。これは、その設置・負担をめぐって、とくに初期に県会ではげしい議論がなされた(『神奈川県会史』第一巻参照)が、ここではとくにとりあげない。 ところで、国庫支出が何に向けられているかをみると、何よりもまず官庁としての県機構維持のための県費(本庁費・国税徴収費)であり、ついで土木費・営繕費・警察関係費が大きい。その他、備荒儲蓄補助金・軍人恩給・官林保護費・在県獄囚徒費など多数の費目にわたっている。 賦金収支は、ほとんど貸座敷・娼妓・引手茶屋など、いわゆる「業体」に関するもので、これらから徴収した賦金を、検黴費・黴毒病院費・業体取締などのほか、警察探偵費・内務省納付などに支出するものである。おそらく、収支の性質を考慮し表2-71 県の財政規模 注 『神奈川県統計書』より作成。比率は4捨5入(以下,同じ)。 表2-72 地方税・税外収入 注 『神奈川県統計書』より作成。科目名は『県統計書』による(以下,同じ)。 て、一般会計=地方税から分離し、目的税による特別会計のようなものにしたのであろうが、八九年からは一般会計に移された(収入科目としては「雑収入」に編入された)。 一 歳入 県全体の歳入 県の地方税収入統計をみると、年によって税収のみしかのせられていない場合と、税外収入ものせられている場合とがあって、取り扱いにくく、年による変動も小さくはない。しかし、概していえば、税収が三〇-四〇万円、税外収入が一〇-二〇万円(明治二十年代末に四〇-五〇万円)、合計四〇-五〇万円(ただし、明治二十年代末八〇-一〇〇万円)程度の規模である。 税収についてみると(表二-七二)、地租割や営業税・雑種税・営業税付加税などが大きく、それぞれ三〇㌫ずつで合計六〇㌫を占めている。ただし、一八九八(明治二十一)年度はすでに営業税が国税に移管されているため、その比率が大幅に落ち込んでいる。戸数割・家屋税は、一割強であるが、この税は、制度上、他の税や税外収入で支出をまかないきれない部分を補充するクッションの地位を占めている。 税外収入は、年によってかなり違いがあるが、それは中心をなす雑収入の変動によるところが大きい。それまで、外部で別勘定となっていた賦金収入が含まれるようになった八九(明治二十二)年度以降、雑収入はつねに収入全体の二〇-三〇㌫(一〇万円前後)を占め続けている。繰越金は、事の性質上変動が大きいのは当然であるが、制度上大きな影響を与えたのが国庫下渡金である。これは、八〇年度には一三㌫を占めているが、松方財政政策で、こののち大幅に削減され、地方財政窮迫の一因をなすにいたっている。なお、借入金は九六・九八年の二回計上されているにとどまる。 右にみた県全体の収入は、郡区にどのように分けられているであろうか。表二-七三がそれを示している。これによると、八〇年には連帯二〇㌫、区一〇㌫、郡七〇㌫であるが、連帯分が計上されなくなる八二年以降、区二〇㌫、郡八〇㌫の割合となり、八七年以降は郡区の区別がなされていない。郡区収入については以下でふれるので、ここで連帯収入について述べておけば、それは雑収入・国庫下渡金・寄付金・賦金のみからな表2-73 三部歳入額 注 『神奈川県統計書』より作成 表2-74 地方税・税外歳入(郡部) 注 『神奈川県統計書』より作成。×印は区分なし。 っている。金額をみると、たとえば八〇年には、国庫下渡金が全体の九〇㌫(八一年には六〇㌫)を占め、雑収入一〇㌫となっている。国庫下渡金は、警察費と監獄費がほとんどであるから、それが連帯支弁となっているため、収入としても連帯収入となったのである。 郡部の歳入 収入を郡区に分け、それぞれの内容をとり出してみると、その間に大きな差があることがわかる。そこで、まず郡をとり出してみよう(表二-七四)。年によって違いがあるが、税外収入はあまり詳しいことがわからないので、もっぱら税収についてみると、まず地租割がほぼ半分を占めていることが目立つ。もっとも、八〇年には他の税の合計のほうが大きいが、それ以外の年はほとんど例外なく過半を占め、表に示した年次でもそうなっている。これに対して、営業税・雑種税が二〇-三〇㌫、戸数割二〇㌫未満といった構成である。税収入がこのような構成を示すのは、郡部の産業構造が農業を主体としている以上、当然のことといってよい。したがって、産業構造のちがう区(市)部はこれとちがった様相を呈表2-75 地方税・税外歳入(区・市部) 注 『神奈川県統計書』より作成。×印は区分なし。 すことが当然予想されるであろう。 区(市)部の歳入 区(市)は郡と対照的な税構成をみせている(表二-七五)。ここでは、地租割は一〇㌫前後なのに対して、営業税・雑種税が五〇-八〇㌫にのぼり、表示した年次でもそうなっている。営業税と雑種税には、税の本質的な違いはなく、いずれも営業税・免許税の性質をもつものである。なお、営業税はつねに雑種税の二倍ちかい大きさをもっているが、九八年には四六〇〇円対二万円で、後者が四倍以上と、まったく逆転している。これは、雑種税自体の伸びもあるが、主としては九六年度から営業税が国税に移されたことによる。郡部でも、当然その影響はあったものの、営業税依存の大きい区部への打撃は、比較にならないほど大きかった。したがって、税収の水準も九八年には、九〇年の四万七〇〇〇円を大きく割り込んで、三万五〇〇〇円にとどまっている。家屋税(八三年までは戸数割)は、他の収入で支出をまかないきれない場合に、不足分補充に必要なだけ徴収することになっているため、変動が大きく、数㌫から三〇㌫に分散しているが、一〇㌫から二〇㌫程度の年が多い。 二 歳出 県全体の歳出 歳出(表二-七六)も当然収入と同じく、三〇-六〇万円程度の年が多く、九七-九八年に七〇-八〇万円といったところである。構成をみると、初期には郡区吏員や戸長以下の給料・旅費・庁中諸費など県の下部行政機構のための支出が半分ちかくを占め、警察費がこれに次いで二〇-三〇㌫に当たり、それ以外は衛生費・教育費などがせいぜい数㌫でこれに続くといったところであった。ところが、「市制」「町村制」が施行された八九年度から、それまで二〇㌫を占めていた戸長以下給料旅費が県支出からはずされたこと、および監獄費が八一年以降県の負担になっているため、構成比が大きく変わり、警察費および監獄費がそれぞれ二〇㌫強と、両者でほぼ支出の半ばを占め、さらに土木費・区町村土木補助費も二〇㌫強であるから、この三者で全歳出の六〇-七〇㌫を占めることになる。もっとも、この土木関係費は年によってはかなり変動がみられることもあるが、概していえば、時とともに歳出中の比率を高めており、九七年のごときは四〇㌫をこえている。ただし、それは土木費であって、区町村土木補助費は初期の数㌫が九〇年以降二〇㌫をこえて、ピ表2-76 歳出(県総額) 注 『神奈川県統計書』より作成。 ークの九二年には三〇㌫(一三万円)となるが、のち一〇㌫台へ落ち、九七年以降は一㌫を割り込み、金額も二〇〇〇-三〇〇〇円とわずかな額である。この変化は、土木費をめぐる、県と市町村の分担関係に制度上の変更があったためと思われる。そして、重要なことは、上記の警察費や監獄費は、ほとんど県独自の政策的な判断が入る余地のない、全国的な施策の一端なので、これを除けば、県歳出のうちで、政策費と目すべきものでは、土木関係費のみが飛び抜けて大きく、これに次ぐものとしては、衛生及病院費・教育費がそれぞれ数㌫ずつを占めるにすぎないことである。事実、『神奈川県会史』の記すところによれば、警察費や監獄費を区と郡がいかに分担するかという、分担の区分を別にして、実質上の支出額という見地からいえば、土木費は県議会における最大の係争事案であったとみなしうる。 三部の歳出分担 こうした県全体の歳出が、三部経済制を採用することによって、連帯・区・郡の三部によっていかに分担されていたかをみたのが、表二-七七である。収入の場合、前述のとおり「連帯」収入があるのは、統計上は八〇・八一年の二か年だけであり、しかも税については、はじめからこの分類はない。だが、歳出については、連帯の意味は大きい。すなわち表の示すように連帯は歳出全体の五〇㌫程度、のちには六〇㌫以上を占める。これに次いで郡が三〇-四〇㌫となり、残り一〇㌫を区が分担している。しかし、「市制」が採用されて制度に変更が生じたのを契機に、九〇年代になると市の比重は一-二㌫へと激減し、結局、連帯六〇㌫、郡四〇㌫と、県財政統計上はほとんどこの両者のみといいうるような状態になる。『神奈川表2-77 三部歳出額 注 『神奈川県統計書』より作成 県会史』が記しているような連帯支弁経費をめぐる、市部と郡部の連年にわたるはげしい対立は、県財政のなかにおける連帯支弁分のこのような大きさを背景にしてのことであった。 連帯支弁の歳出とその負担割合 県全体の歳出のなかで、大きな比率を占めていた郡区長郡吏員・戸長以下の給料などや土木関係費およびかなりの比率を占めていた衛生費が、それぞれ郡と区の分担だったのに対し、県支出で最も大きかった警察費と監獄費は、連帯支弁費目であった。連帯支弁のなかでのそれらの大きさをみると、警表2-78 連帯費負担割合 注 『神奈川県会史』第2巻より作成 (1)可決額不明のため原案の比率で修正額合計を按分した (2)比率は円未満の実額による (3)継続費を含む 察費が三〇-五〇㌫、監獄費が二〇-四〇㌫、末期には五〇㌫以上となっている。このほか、教育費および土木費が数㌫から一〇㌫前後で、それ以外ほとんどみるべきものはない。しかし、県支出中の最大費目である警察費と監獄費が、ここに属していることから、その負担を郡と区のいずれが、どれだけ担うかが、この時期の県会における係争点となったのは当然であろう。その論議や分担制度の詳細は『神奈川県会史』にゆずるとして、ここでは表二-七八に、各費目ごとの分担を予算によって(決算とはくい違う)表示しておくことにしよう。これでみると、八二年一六万円、九七年三二万円と、この間金額は二倍になっているが、分担割合は区が二〇-三〇㌫、郡が八〇-七〇㌫と大差ない。ただし、各費目ごとに分担制度は異なっている。たとえば、最大の警察費についてみれば、区部は一人当たり郡部の三-五倍、監獄費は二倍などというふうに負担させられているため、総額の場合よりは、はるかに区部負担割合が高くなっている。これに対して、教育費は戸数割であって逆のかたちがあらわれてくる。総じて、『神奈川県会史』などをみると、県会議員の構成が圧倒的に農村部に偏っているため、区部に対して負担をかなり無理に押しつけていた様子がうかがえるようである。 郡部の歳出 郡部の歳出(表二-七九)をみると、「市制」「町村制」施行の八九年以前は、支出のほぼ七〇㌫以上が郡区吏員や戸長以下の給料旅費などで占められており、これ以外には、土木費ないし区町村土木補助費の二〇㌫強(八〇年は、例外的に両費目が計上されていない)があるほかは、ほとんどみるべきものがないという状況である。だが、四〇-五〇㌫を占めていた戸長以下給料旅費の支出を「町村制」にもとづいて町村にゆだねた九〇年以降は、右の比率は逆転し、土木関係費が五〇-七〇㌫を占めるのに対して、郡区吏員給料旅費が二〇㌫から一〇㌫へと低下していく。この両者の残りを、衛生及病院費を筆頭に、郡部会諸費や地方税取扱費などが数㌫ずつで分け合っているが、教育費は八二・八三・八四年の区町村教育補助金以外は、まったく計上されていない。もっとも、衛生費についていえば、末期には県としての衛生及病院費は絶対額・比率とも低下し、代わって市町村衛生補助費が増えはじめている。これは、はじめもっぱら区町村土木補助費を支出していて、のちそれをほとんどなくして、県としての土木費に収斂させていく土木関係費の支出の仕方と、ちょうど逆のパターンを示している。 区(市)部の歳出 区(市)部の歳出構造(表二-八〇)は、七九年から八〇年および八八年から九〇年の二回、大きく変わっている。八〇年は表示しなかったが、土木費が計上されておらず、歳出の九〇㌫が区・戸長給料などに向けられている点で、特殊であった。それが八一年以降は、土木費が最大費目で五〇㌫前後を占め、戸長給料などが二〇-三〇㌫となって、この二費目が大きいという点で郡部と共通の面が強い。しかし、その間でも、衛生及病院費(八〇年度には計上されていない)が多い年には八九年の七〇㌫、少ない年には八七年の六㌫と大きな振幅を示しつつ、だいたい一〇-二〇㌫を占めているという違いがある。それは、郡部と区部とで、衛生政策に違いがあり、と表2-79 歳出(郡部) 注 『神奈川県統計書』より作成 りわけコレラなどの流行に対する対応の必要という面と、病院をもっているか否かの違いによるところが大きいと思われる。この違いは、そののち、さらに統計上大きくなる。というのは、表示したとおり八九年からは土木費が、さらに表示しなかったが、九〇年からは「市制」によって区・戸長給料が区(市)郡の歳出として計上されなくなり、市部の歳出は、衛生及病院費および(市)町(村)衛生補助費が大部分を占めることになるからである。九八年の数字はそのパターンを示している。衛生関係費の残りは、一〇-二〇㌫が地方税取扱費、同じく一〇-二〇㌫が区部会諸費、末期に数㌫が教育費にあてられている。この限りでは、極端にいえば、郡部の土木関係費に対して、区(市)部の衛生関係費という対比ができそうにみえる。しかし、統計上そうなるのは、「市制」施行にともなって、土木費や区(市)・戸長給料などが県支出からわかれて、横浜市支出に組み入れられたところからくる面が大きい。したがって、右の対照は、すでに八一年にも認められることか表2-80 歳出(区・市部) 注 『神奈川県統計書』より作成 らわかるように誤りとはいえないが、最終的な対比は、市町村も含めて郡部と市部を比較する作業を必要とする。しかし、現在のところは、その指摘にとどめておくほかない。 第三編 明治後期の神奈川県経済 第一章 工業の発展 第一節 県下産業発展の趨勢と特色 一 明治後期の諸産業の動向 流入人口の増大 明治後期の神奈川県は、東京湾臨海部への人口流入と農業生産の停滞、商工業の発展によって特徴づけられる。表三-一と三-二は、県内および全国の人口・主要農産物などの十年毎の数値を、『神奈川県統計書』および『日本帝国統計年鑑』によって表化したものであるが、それによれば、この時期の本県と全国の数値には、かなり大きな開きが認められる。すなわち、まず人口増加についていえば、一八八七(明治二十)年から一九一七(大正六)年の間の、全国の増加率約四四㌫に対して、神奈川県の場合は二倍近くの八六㌫にのぼっている。全国の増加率が出生率の上昇と死亡率の低下による自然増とすれば、こうした自然増を上回る本県のそれは、もっぱら流入人口による社会増ということができよう。そしてその磁石となったのはいうまでもなく、横浜とその周辺地域の商工業の発展であった。東京湾臨海部への人口集中は、このことを雄弁に物語っている(表三-九)。 表3-1 神奈川県人口・生産額等(1878年-1917年) 注 1 1979年は内務省勧農局『明治11年全国農産表』および内務省戸籍局『明治12年1月1日調 日本全国郡区分人口表』,その他の年次は『神奈川県統計書』による。 2 表中の神奈川県には多摩郡が含まれていない。 表3-2 全国人口・生産額等(1878年-1917年) 注 1878年は内務省勧農局『明治11年全国農産表』および内務省戸籍局『明治12年1月1日調 日本全国郡区分人口表』,その他の年次は『日本帝国統計年鑑』および『農商務統計表』による。 農業生産の停滞 ところでこのような商工業の発展と非農業部門へのはげしい人口流入は、当然のことながら農業生産の成長率が鈍化した。まず穀作物についてみると、一八八七(明治二十)年に対する一九一七年の全国生産量が米一三六㌫、麦一五三㌫、雑穀一二三㌫、芋類(甘藷・馬鈴薯)二二八㌫に相当したのに対して、本県のそれは米一一〇㌫、麦一四一㌫、雑穀六六㌫、芋類三一三㌫にとどまり、全国平均を上回ったのは芋類だけで、雑穀にいたっては一八八七年の実績を大幅に下回った。このような傾向は、人口当たりの生産量でみるとさらに顕著になる。すなわち、いま表三-三によって一八八七年に対する一九一七年の人口千人当たりの生産量をみると、全国のそれが米九五㌫、麦一〇六㌫、雑穀八五㌫、芋類一五八㌫に相当したのに対し、本県のそれは米五九㌫、麦七六㌫、雑穀三五㌫、芋類一六八㌫となり、芋類を除いていずれも全国水準をはるかに下回った。このことはこの時期の本県が、非農業部門への人口流入を通じて、農業部門の比重を急速に低めつつあったことを示すものといえよう。一九一七年現在、人口千人当たり生産量が全国平均を上回ったのは麦・葉煙草・果実と養豚頭数および牛乳に過ぎず、千人当たり耕地面積も全国平均を大幅に下回った。明治初年以来重要な地位を占めてきた蚕糸業も、一八九七(明治三十)年には生糸が、一九〇七年には繭も全国平均を下回るにいたっている。 商工部門の増伸 ところで右のような流入人口の磁石となり、農業部門の比重を急速に低下させた商工部門の発展は、どのような足どりをたどったのであろうか。表三-四から三-七は、農商務省編『農商務統計表』によって一八八七(明治二十)年から一九一七年にいたる毎一〇年の府県別会社資本金額をしらべ、上位一〇府県の分を表化したものである。これによれば本県の会社資本金額は、一八八七年の九四万六〇〇〇円から一九一七年の一億五四二七万八〇〇〇円へと一六三倍に増加し、全国の四五倍(六九九六万一〇〇〇円から三一億七一五六万円)をはるかに上回っている。また人口千人当たりの資本金額も、全国のそれが三一倍余(一八八七年の一七九一円から一九一七年の五万六二九七円へ)にとどまったのに対して、本県の場表3-3 人口千人当たり生産額等(1878-1917年) 注 1 本稿表3-1および3-2により作成。 2 表中の神奈川県には多摩郡が含まれていない。 3 表中・印は全国水準を上回るものである。 表3-4 府県別会社資本金額(1887年) 注 1 農商務省総務局『第4次農商務統計表』(明治23年10月刊)により作成。 2 神奈川県には三多摩郡が含まれている。 表3-5 府県別会社資本金額(1897年) 注 農商務大臣官房統計課『第14次農商務統計表』(明治32年5月刊)により作成。 表3-6 府県別会社資本金額(1907年) 注 農商務大臣官房統計課『第24次農商務統計表』(明治43年3月刊)により作成。 表3-7 府県別会社資本金額(1917年) 注 農商務大臣官房文書課『第34次農商務統計表』(大正8年3月刊)により作成。 合には一〇六倍余(一〇八二円から一一万四七三八円へ)と、全国の三倍以上の伸びを示している。その結果、全府県のなかで占める本県の地位は一八八七年の第一〇位から一八九七年の第五位、一九〇七年の第三位、一九一七年の第四位とほぼ着実に上昇し、全国会社資本額のなかに占める比率も、一八八七年の一・四㌫から一八九七年の四・〇㌫、一九〇七年の五・六㌫、一九一七年の四・九㌫と大幅に増伸することになった。もっともこの場合、基準年となった一八八七年の本県の資本額には多摩郡がふくまれており、その意味では同一県域内の正確な成長率を示すものということはできない。しかし、右に示した一八八七年の本県の資本額から多摩郡のそれを除けば、その資本額はより小さく、一九一七年にいたる成長率はより高くなるはずであるし、また人口千人当たりの資本額も、多くの製糸・織物工場を擁した多摩郡を除けば、一八八七年当時の千人当たり資本額が、右の数値より大きくなることはなかったと考えてさしつかえないであろう。一八八七年の本県の資本金のなかで、工業会社資本金の比率が異常に高いのも、多摩郡がふくまれていたためと思われる。 商・工業の資本金額 他方、本県の会社資本のなかに占める商・工の比率は、一八九七(明治三十)年にはまだ商業会社が全体の九割近くを占め、工業会社のそれは一割に過ぎない。また、その後一〇年間の工業会社資本金の伸び率(四・一倍)は、商業会社のそれ(一・四倍)の三倍近くにのぼったが、一九〇七年の工業会社資本金は、まだ全体の一七・五㌫に過ぎなかった。また、全国工業会社資本金のうちに占める比率も低く(二・八㌫)、上位一〇府県の第七位に過ぎない。したがって、この時期の本県が、商業県から商工業県へ体質的変化をとげたと考えるのは困難であり、むしろ、次の一〇年間(一九〇七-一九一七)に求める方が妥当といえよう。事実一九〇七(明治四十)年から一九一七年にいたる工業会社資本金の伸び率は三・九倍にのぼり、同期の商業会社資本金の伸び率(〇・九倍)の四倍以上に相当した。また、県内会社資本総額に対する比率も三四・五㌫と三分の一以上に達している。橘樹郡臨海部の埋立てや浅野セメント・日本鋼管・明治製糖・味の素などの大規模工場の進出が始まったのもこの時期であり、横浜周辺の雑工業や内陸部の製糸業などとは違った新しい体質を、本県経済に付け加えたものということができる。こうした意味において、一九〇七年以後の一〇年間は、本県経済の体質変化の重要な転換点といってさしつかえないのである。 二 県内の地域的特色 行政区の変遷 以上のような明治後期の経済発展は、地域によってかなりの偏差をともなった。以下『神奈川県統計書』によって、この時期の郡別の特徴を考察してみたいと思う。 ところで、こうした郡別の特徴を明らかにするうえで念頭に置かなければならないのは、この時期の行政区の変遷である。まず一八八九(明治二十二)年四月一日に市制・町村制が施行され、従来の横浜区(一八七八年七月、郡区町村編成法によって久良岐郡から分離)が横浜市に昇格した。市制施行に先立つ一八八七年十二月末の横浜区の人口は一一万四九八一人にのぼり、すでに県内郡区中の筆頭となっていた。また一八九六年四月一日には大住・淘綾両郡が合併して中郡となり、さらに一九〇七年二月十五日には三浦郡横須賀町も市制を施行し、同郡から分立した。同年十二月現在の同市の人口は、六万二八七六人にのぼった。なお、これに先立って一八九三(明治二十六)年四月一日には南・北・西多摩郡が東京府に編入され、旧相模国全域と旧武蔵国橘樹郡・都筑郡・久良岐郡から成る現県域が確定することになったのである。 人口増加の地域別動向 次に人口増加の地域別動向についてみることにしよう。すでにふれたように一八八七年から一九一七年にいたる現県域の人口増加率は八六㌫にのぼり、全国のそれ(四四㌫)の二倍近くに相当した。表三-八はこれを毎一〇年でみたものであるが、これによれば、もっぱら自然増加に起因する全国の増加率は一貫した上昇傾向をたどっているが、本県の場合は、終始全国平均を上回る高い増加率を示す反面、波状的な人口流入を反映するかなりの凹凸が認められる。また、これを地域別にみると(表三-九・三-一〇)、もっとも増加率の高いのは横浜をふくむ旧武蔵国三郡、つぎが相模川以東の旧相模国三郡で、相模川以西がもっとも低くなっている。このことは当時の人口流入が、東京湾臨海部の発展に起因したことを、雄弁に物語るものといえよう。相模川以西の増加率は全期を通じて全国平均に近いが、一九〇七年以降はこれを下回っている。 農業生産の動向 つぎに農業生産の動向についてみることにしよう。先にふれたように一九一七(大正六)年の穀作物の生産量は、雑穀を除いて、一八八七年のそれより増加したが、その増加率は芋類のほかすべて全国平均を下回り、千人当たり生産量は芋類以外すべて一八八七年より減少した。ところでこれを郡別にみた場合、どのような特徴をみいだすことができるであろうか。まず米については(表三-一一)、従来、絶対量・千人当たり生産量とも群を抜いていた橘樹郡の低落が目立ち、絶対量では中郡が、千人当たり生産量では足柄上郡が首位を占めた。また鎌倉・三浦両郡の低落と都筑郡の上昇も目立っている。 麦作では(表三-一二)旧武蔵国三郡を除いていずれも一八八七年の生産量を上回っているが、千人当たり生産量は、橘樹・都筑両郡のほか、鎌倉・愛甲・足柄下郡も下回った。絶対量・千人当たり生産量とも首位を占めたのは高座郡であった。要するに米麦の生産については、大まかにいって都筑・足柄上(以上米)、高座・中・津久井(以上麦)など内陸部の上昇と、橘樹・三浦・鎌倉・足柄下など臨海部の低落を指摘することができるのである。 表3-8 全国・神奈川県人口増加率 注 1 本稿表3-1および3-2により作成。 2 全国は朝鮮・台湾を,神奈川県は三多摩を含まない。 三 明治後期の県内企業 銀行・商業会社の発展 さきにふれたように神奈川県下の会社資本金の増加率は、一八九七(明治三十)年頃まで商業会社が圧倒的であり、以後工業会社資本金の増加率が商業会社を上回るようになったが、一九〇七年の商・工会社資本金の比率は、まだ七四対一七にとどまっていた。したがって、この時期までの本県は、すでに活発な工業化が進みはじめていたとはいえ、基調としてはなお商業的な色彩の強いものであった。このような基調をささえたのは、いうまでもなく横浜市であった。事実『明治三十年神奈川県統計書』によれば、当時同市は県内銀行資本の九四㌫、商業会社資本の八七㌫余を占めていた。同統計書には県内の主な企業名が収録されているが、それによれば当時同市には横浜正金銀行・第二銀行・第七十四国立銀行・茂木銀行・左右田銀行・横浜若尾銀行などのほか、生糸売込表3-9 県内地域別人口数 注 1 『神奈川県統計書』,『日本帝国統計年鑑』,『農商務統計表』により作成。 2 第1グループには横浜区ないし横浜市,第2グループには横須賀市が含まれている。 表3-10 県内地域別人口増加率 注 表3-9より作成 ・製茶売込・陶器売買・倉庫業などの各種の商社が店舗をつらねていた。また郡部にも秦野銀行・伊勢原銀行・松田銀行・小田原銀行・江陽銀行・平塚銀行・鎌倉銀行・藤沢銀行などの中小銀行や、繭・生糸・織物・たばこなどの売買に従事する中小商社が、各地にあらわれていたのであった。 工業化の進展 明治後期の県内の工業化は、内陸部の在来工業(製糸・織物・たばこ製造業)・横浜周辺の雑工業と東京湾臨海部への大企業の進出という、ふたつの対照的なかたちで進行した。 表3-11 郡市別米生産量 注 『神奈川県統計書』により作成 表3-12 郡市別麦生量産 注 『神奈川県統計書』により作成 一八九〇年代に臨海部にあらわれた大工場は、いずれも東京・横浜の企業家グループによって設立された横浜船渠株式会社と浦賀船渠株式会社であった。このうち前者は原・茂木・大谷・若尾などの有力な横浜商人と渋沢・浅野・大倉・益田・小室など中央の大資本家の出資によって一八九三(明治二十六)年十二月設立され、翌年十月から海面の埋立てとドックの築造に着手した。そして、一八九六年九月には日本郵船株式会社横浜鉄工所を買収し、鉄工と修船の作業を開始した。当初は日本郵船所属船舶の修理が主であったが、一九一六年十二月からは造船部門にも進出し、一九三〇年代には二万トン近い大型客船(秩父丸・氷川丸など)も建造したが、一九三五年十一月、三菱重工業株式会社に吸収された。現在の三菱重工業横浜造船所はその後身である(『資料編』17近代・現代(7)、『三菱日本重工業株式会社史』)。 他方、浦賀船渠株式会社は、横浜の渡辺・安部、東京の浅野・安田・塚原などの企業家によって一八九六年十月設立された。設立と同時に月島機械製作所を買収して、鉄工および各種機械製造の基礎とし、ついで一九〇二年六月には石川島造船所浦賀分工場を買収して基盤を強化した。同社は当初から一般商船の修理のほか、小汽船の建造にも従事した。また、軍艦の修理や建造にもはやくから進出し、一九〇二年には米国政府の発注によってフィリピン向け砲艦五隻を建造した。その後第一次大戦中の好況によって名実ともに大造船所の列に加わり、今日にいたっている。現在の住友重機械工業株式会社浦賀造船所は、その後身である(『資料編』17近代・現代(7)、『石川島重工業株式会社一〇八年史』)。 なお、この時期には電気産業も発足し、一八九〇年十月には照明用電気を横浜市内へ供給する横浜共同電燈会社(初代社長高島嘉右衛門)が、また一八九六年七月には横浜電線製造株式会社も横浜市高島町に設立された。そして一九〇八年には、東京で成長をとげた東京電気株式会社(一八九六年十一月設立)が、川崎町堀川に新工場を建設することになったのである。東京芝浦電気株式会社堀川工場はその後身である。 表三-一三 県下工場一覧 一八九八年十二月三十一日現在(『明治三十一年神奈川県統計書』) 他方、内陸部の蚕糸業については、一九〇〇(明治三十三)年ころまで絶対量・千人当たり生産量ともかなりの伸びがみられ、その地域も境川・相模川・酒匂川沿いの、鎌倉郡・中郡・足柄上・下郡などへ広がった。『明治三十一年神奈川県統計書』によれば(表三-一三)、県下の製糸場は五〇にのぼり、動力も大部分蒸気力に変わっていた。しかし、全国の生産量も一九〇〇年以後大幅に増加し、伸び率で本県を上回ったため、明治末から大正初期には人口当たり生産量で繭・生糸とも全国平均を下回ることになった。このような結果は、いうまでもなく上述の流入人口によるものであったが、小農民の零細経営や組合製糸が多かったことも一因と考えることができる。なお、中郡秦野町を中心とした煙草製造業も引き続き発展を続け、一八九七年現在の製造所の数は、県下全体で三六にのぼったが、使用動力は大部分水力であった。 一九〇〇年代の新設工場 一九〇〇年代の工業化は、東京湾臨海部への大資本の進出によってさらに進展し、製造部門も多様化した。すなわち、横浜周辺では東京に本社を置く富士瓦斯紡績株式会社が、一九〇三(明治三十六)年八月、保土ケ谷に従業員二〇〇〇人の大工場を建設したのをはじめ、一九〇六年四月には、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社合併によって成立した大日本麦酒株式会社(一八九六年八月設立)も、保土ケ谷に工場を建設した。また一九〇七年二月には、外国人経営のビール会社を継承した麒麟麦酒株式会社が、三菱の出資によって横浜に設立され、また同年十月には保土ケ谷に宝田石油株式会社横浜製油所が、一九〇九年八月には日清製粉株式会社横浜工場が神奈川埋立第二区に設立された。 他方、それまで広大な田畑と牧歌的な風景を残していた川崎町周辺へも、相ついで工場の進出が始まった。すなわち、一九〇五年十二月に京浜電気鉄道(現在 京浜急行)の品川-神奈川間が全通したのに続いて、一九〇六年九月には横浜の砂糖貿易商阿部・増田らによって横浜製糖株式会社(現在 明治製糖株式会社)が多摩川沿いの橘樹郡御幸村(現在 川崎市幸区)に設立され、また一九〇八年には御幸村に東京電気株式会社川崎製造所が、翌一九〇九年三月には川崎町久根崎に日本蓄音機製造株式会社(現在 日本コロムビア川崎工場)が相次いで進出した。また一九〇六-一九〇七年には、中央の有力者桂次郎・守屋此助・浅野総一郎らによって子安村海岸の埋立てが計画され、また一九一二年には浅野総一郎・安田善次郎・渋沢栄一らを株主とした鶴見埋立組合が設立された。そして、一九一三年から一九二八年にかけて、多摩川河口から鶴見川河口にいたる、総面積五キリンビールのポスター(1903) 『麒麟麦酒株式会社五十年史』より 〇〇㌶の大規模な埋立工事が進行することになったのである。 内陸工業の動向 このような臨海部の変化に照応して、内陸部でも、製糸業や煙草製造業を中心としたゆるやかな工業化が進行した。こうした内陸部の工場や作業所は、一八九〇(明治二十三)年前後にはその動力をほとんど水力にたよっていたが、『明治三十三年神奈川県統計書』では、煙草製造業を除いて大部分蒸気力への転換を終えていた。また、作業所や雇用労働者も一八九〇年代から一九〇〇年代にかけてかなり増加した。しかし、その規模は一作業所当たりせいぜい一〇-五〇名程度で、一〇〇名前後の労働者を雇用した作業所は、盛進社(製糸揚返し、鎌倉郡中和田村)、関東製糸場(足柄上郡吉田島村)、若尾製糸場(高座郡藤沢町鵠沼)、持田製糸場(高座郡渋谷村長後)など数例に過ぎなかった(『明治四十三年神奈川県統計書』)。こうした零細性は煙草製造業の場合さらにいちじるしく、『明治三十三年神奈川県統計書』によれば、一〇-二〇名の従業者を抱える作業所がほとんどであった。そして、一九〇四-一九〇五年には煙草専売法の施行(明治三十七年四月一日公布、同七月一日施行、刻み煙草は明治三十八年四月一日施行)によって、その営業権をすべて没収されることになったのである。 しかし、このような零細工業は、内陸部だけでなく横浜・川崎周辺にも広く存在した。いま『明治四十二年神奈川県統計書』によってその状況をみると(表三-一四)、横浜周辺にはいずれも一〇-三〇名ほどの従業者を抱えた輸出用絹ハンカチ製造業や洋家具製造業、印刷・インク・石鹸・楽器などの小工場が、また、川崎周辺には洋式建築材料の煉瓦やモスリン・毛布などの洋風織物、麻真田・ちり紙などを製造する小企業が存在した。こうした小企業はもともと市場的にも技術的にも大資本になじまないものであったが、他方また、わが国特有の過剰人口によって絶えず再生産され、その後いわゆる中小企業として、日本経済のなかに特有の座を占めることになったのである。 表三-一四 県下工場一覧 (『明治四十二年神奈川統計書』) 第二節 重工業の発展 一 日清戦争後の重工業 海軍工廠の成立 横須賀造船所は、横須賀鎮守府設置とともにその管轄下に置かれたが、一八八九(明治二十二)年五月、いったん廃止され、鎮守府造船部および造船工学校に分けられた。一八九一年呉、九四年佐世保、九六年舞鶴の各鎮守府造船部が操業するに至り、海軍艦艇の国内生産体制がつくられた。明治維新から日清戦争までの国内の艦艇建造費は一七隻、二万五〇〇〇トンであるのに対し、輸入艦は一四隻、四万トンであった。平均排水量は、国産一五〇〇トン、輸入艦二九〇〇トンに示されるように国内では水雷艇・砲艦・通報艦などの小型艦艇を造っていた。横須賀鎮守府造船部が、海軍造船所の中では一番先輩格であり、施設も整備され、日清戦争以前では艦艇建造の主力工場であったが、海防艦橋立の完工に六年、三等巡洋艦秋津洲に四年かかったように、建造期間が長すぎ、経費が高くなる欠点があった。造艦事業にも一般工業と同じように迅速・安価・精巧の三要因が望まれるが、横須賀の場合、時間さえかければ精巧な艦艇はどうにかできたが、迅速・安価の点では問題にならないほど外国造船部との競争力において劣り、限られた造艦費用で海軍拡張を急ぐときには致命的ですらあった。日本海軍は、黄海海戦の決戦を輸入艦を主力にして戦った。 日清戦争中は、横須賀鎮守府造船部は多忙をきわめた。出陣する艦船の艤装工事や機関部修理・速射砲装備などから歴戦艦船の復旧修理に追われ、徹夜工事を余儀なくされた。しかし職工を毎日徹夜させることはむりであり、昼夜の二交代制にしたところ、職工数は二倍必要となったが、臨時募集をしても他の会社の造船工も忙しいため応募者は少なく労力不足に苦しんだ(『横須賀海軍船廠史』第三巻)。 一八九二(明治二十五)年八月起工した乙型巡洋艦須磨(二七〇〇トン、速力二〇ノット)は、九五年三月進水、九六年十二月竣工した。巡洋艦明石(二八〇〇トン、速力一九・五ノット)は一八九四年起工、九七年十一月進水式というゆっくりした調子で、軽巡洋艦級を建造した(同右)。 一八九七年九月、海軍造船廠条例が公布、十月八日から施行され、各軍港に海軍造船廠が設けられることになり、横須賀鎮守府造船部は横須賀海軍造船廠と改称され、造船科と造機科が置かれた。一九〇〇年五月、海軍兵器廠条令が定められ、横須賀・佐世保・舞鶴の各造船廠兵器部は兵器廠として独立した。呉のみは、大製鋼工場を抱えていたので、一八九七年に呉仮兵器製造所を呉海軍造兵廠と改称していた。一九〇三年十一月海軍工廠条令が制定され、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各鎮守府に、従来の造船廠と兵器廠、造兵廠を統合して海軍工廠を設置した。こうして四大海軍工廠が成立し、このうち横須賀と呉が戦艦の国内自給をめざし、整備されていくのである。横須賀海軍工廠は、横須賀製鉄所から始まり横須賀造船所、海軍造船所、鎮守府造船部、海軍造船廠といくたびか名称変更を重ねたが、このとき以後敗戦まで変ることはなかった。 艦艇建造の技師および労働者の技能養成は、建艦技術の向上をはかるために、組織的に行う必要があり、努力が払われた。明治三年(一八七〇)三月にはやくも横浜造船所黌舎を新設し、寄宿舎に生徒を収容し、フランス人技師によるフランスの学術や造船技術を教授した。その卒業生はフランス本国へ留学し、帰朝後は造船所の首脳となった。一八八二年以後は、造船技師の養成は工部大学校(東京大学の前身の一)に委託し、生徒の募集をやめ黌舎は通学工夫の教育のみを行った。通学工夫の制度は、明治四年末から設けられ、フランス海軍の職工学校の教科書を使って四年間の通学で一人前の職工に養成した。学科目を充実し修業年限を五年に延長して、一八八四年に定員六〇名に増加した。 一八八九年五月、黌舎は海軍造船工学校に編成替えされ、各鎮守府造船部に在職する工夫を教育し技手にした。一八九三年海軍機関学校に技手練習所が設けられ、海軍の造船・造機などの職工を選抜し、まとめて技手に教育することになり、横須賀海軍造船工学校は廃止された。しかし各鎮守府造船部が操業を始め、技手の増員がさらに望まれると、一八九七年九月横須賀海軍造船工練習所を設立し、養成を再開した。練習工は年齢二十一歳より三十歳未満の三年以上の経験者から選抜し、三年の在学で技手に育てあげた。一九〇六年十月に造船工練習所は廃止され、官立高等工業学校卒業の者を採用し技手にした(『資料編』17近代・現代(7)一三二)、こうして海軍の中堅技術者を養成するかたわら、現場の職工養成には一八九五年一月、職工入業内規を制定し、二十五歳未満の者を見習職工に採用して、技術を習得させ、半年ごとに試験を実施し、技能に応じて増給した。一八九六年この内規を廃し、見習職工規則に改ため、二十歳未満の者のみ採用し、見習中の年数と同じ期間の就業業務を課した。一八九九年製図見習は十八歳以上二十五歳以下で中学校・工手学校・職工徒弟学校を卒業した者、写図工見習は十六歳以上二十歳未満で高等小学校を卒業した者、それ以外の職種は十六歳以上二十歳未満で尋常小学校を卒業した者を採用することになり、熟練工の養成制度を整えた(『資料編』17近代・現代(7)一三三)。 横浜船渠の経営 海軍工廠のような官営工場の造艦やそれに付随する兵器生産に対し、民間企業の重工業の中枢を占めたのは造船業であった。東京湾外に立地した諸造船所は、この時期にそれぞれ特色のある企業戦略を採用して日清戦争後に対応したのである。 横浜船渠は、地元の実業家を中心にして創立され、日清戦争後の海運界の活況を背景にして業績があがり、一八九七(明治三十)年下期に初めて一割の配当を行った。日本郵船所有の鉄工所を譲渡されたのが、有力な収入源となって、創業期の経営を助けた。同年六月、資本金を三〇〇万円へと一挙に倍額増資を決め、払込みが進み資本金が増加にしたにもかかわらず、一割配当を継続し、一九〇一年上期から一割二分に増配し業況は盛んであった。 横浜船渠は、開業当初から日本郵船の船舶修繕を営業の主体としたが、同社船のみでは経営の維持も難しくなることを予測し、さらに横浜築港工事の進捗に伴い、出入外国船の入渠修理を期待して外人を株主に勧誘し、すすんで取締役すら選出する方針をとった。日本の造船技術が外国船主に信頼されていないために講じられた苦肉の策である。一九〇〇年上期に横浜市居住のジョン=ホールが最初の単独外人株主となり三〇株を所有し、同下期に一三名が加わった。その後も外人株主は増え、総株主数の一七㌫、発行株数の一〇㌫を占めるまでになった。また工場の職工長はイギリス人であったので、一九〇一年九月、外国船の修理施工の統率上の便宜を考え、イギリスのグラスゴー在のマクファーレン商会に依頼し、同地の造船所副支配人をしていたトンプソンを高給(月給五〇〇円)で技師長に招いた。一九〇二年下期、イギリス船籍に属する船舶が多数横浜に来航する情勢に応じ、イギリス本国に事業を広げようとして同商会に代理店を依嘱し、つづいて株主になってもらった。同年六月、事業のおもな対象に外国船を狙ったので、外人顧問が必要となり、横浜在住のイギリス人ジェームズ=ハチソンを名誉顧問に推薦し、十二月取締役に選んだ。同時に開業以来専務の職にあった川田龍吉が辞職し、会長朝田又七、専務来栖荘兵衛、取締役近藤廉平、原六郎、ハチソンの五名が経営陣を形成し、外人との合弁会社のような観を呈した(『資料編』17近代・現代(7)一四五)。 このようにイギリス人を技術長や役員に参加させ、彼らの名前を宣伝に利用して外国船とくにイギリス船を入渠させる手段としていたが、以後も同社の外人依存政策は第一次世界大戦の勃発直前まで続けられ、経営の特徴になっていた。同じ東京湾に面した同規模の浦賀船渠にはこのような外人依存の態度はみられなかったし、また石川島造船所は一八八七年イギリス人技師との契約が満了すると、その後は外人を雇わず日本人技師のみで技術を担当する方針を打ち出し、横浜船渠とは顕著な対照をなしていた。 ハチソンが取結役に就任してから外国船舶の修繕入渠は、一九〇二年下期七隻、一九〇三年下期一六隻、一九〇四年上期五六隻、同下期三二隻、一九〇五年上期二七隻というように増加し、一九〇四年上期の日本船二〇隻、下期一一隻の入渠をはるかに越え、イギリス人技師長などの存在とともに外国船入渠の呼び水となったことは疑いない。こうしてハチソンの経営参加は、外国船主間に信用を高め受注が増大するなどの利益をもたらしたが、反面ではそれ以上ともおもわれる不利益が生じてきた。外人の経営加入とともに、その会社の所有船はすべて日本国籍を喪失するため、横浜船渠は会長朝田又七と特約を結び同社所有の小蒸汽船その他の全船舶を朝田名儀で登記し、日本国籍を保存しなければならなかったし、日露戦争に際し、国策に協力することができなかった。なぜならば、外人との共同経営の実状にあるため、その工業能力を戦時用務に提供できず、戦局に中立的立場をとらされるに至り、日本人の国民感情からみれば堪え難い苦痛であった。横浜船渠は軍事国債に応募してわずかに満足せざるをえなかった(陰山金四郎『横浜船渠株式会社史稿』)。 石川島造船所の浦賀進出 石川島造船所は一八九三(明治二十六)年に資本金を一七万五〇〇〇円から二五万円へ増資を決め、工場の改善に努力したが、施設が小規模であるため大型船舶の建造ができず、相変らず小型船舶の新造や修繕をなすにとどまった。折から日本海運界の大勢は木造船から鋼船へ移り、しかも大型化しつつあった。企業が情勢の変化に取り残されないためには、それに対応できるような施設の拡張が望まれた。 取締役会長渋沢栄一は、石川島造船所の個人経営を廃止し、梅浦精一を専務に任じて社業の再建に努め、業績が向上したので前途に自信を抱き、石川島の弱い柱である造船部門を一気に拡張しようと決意した。一八九四年六月、渋沢は神奈川県三浦郡浦賀町に分工場を建設し、大規模なドックを設ける案を取締役会にはかり、同意を得、九月の株主総会でも認められた。位置を浦賀町字川間館浦海岸に選び、工費二〇万円、期間一年の予定で、長さ一三七㍍、幅二七㍍、深さ九㍍の規模のドックをつくる計画であった。浦賀に目をつけたのは、東京湾の入口を押える絶好の位置にあり、水深に恵まれ、船舶の出入に便利なことにもよるが、渋沢はすでに一八八四年と八五年の再度にわたり、同地に船渠会社を興す案をたて、海軍省御用地払下げを政府に上申して却下された前歴があり、浦賀の地はかねてから意中にあったのである。 翌九五年七月、分工場建設のため現地調査をすると、石垣の築造や港湾の浚渫工事などに工費の増大が予想され、二五万円の増加を決めるとともに、資本金を同額増資して倍額の五〇万円にした。一八九六年二月工事に着手したが、三月に造船奨励法、航海奨励法の二法が公布され、造船業のいっそうの発展が見込まれたので、工事中途であったが、より大規模なドックに改良することにした。ドック敷地を整備するため、海面を約五五〇〇坪(約一・八㌶)埋立てる一方、山地を約四五〇〇坪(約一・五㌶)切り取り、その土石で海面埋立てに使い、ついで潮止波堤工事やドックの築造・付属諸工場の建設に取りかかった。一部の据付機械はアメリカへ発注し、大半は石川島本社工場で製作した。計画の変更により工費はいよいよ増大したので、一八九七年三月、資本金を一挙に一〇〇万円にして分工場設置の資金需要に応じた。 一八九八年十月、ドックは付随する扉船や排水ポンプなどとともに完成した。海底浚渫や潮止工事も終わり、十一月一日から浦賀分工場は船舶の入渠修理を開始した。ドックが完成すると、それにふさわしい造船設備が必要になってきた。開渠後まもない一八九九年一月、半額増資をして新資本金を一五〇万円とし、造船台の新設・クレーンの設置・各種機械の据付けに全力をあげ、同年五月末完成した。六月十一日、石川島造船所は、浦賀分工場で開業式を挙行した。そのあいさつに立った会長渋沢栄一は、起業の沿革を述べるとともに、堂々たる自信を表明した。石川島が大規模な分工場を建設する際、世評には「粗暴」であるという非難がみられたが、渋沢は真向うからしりぞけ、「斯カル毀誉ハ元ヨリ余等ノ敢テ問フ所ニアラズ」、「報国ノ赤心止ムル能ハ」ぬため大胆な計画を立てたのであり、「成業永遠ニ期」するという格調の高い意気軒昂とした演説であった。当日は来賓が多数集まり、一二〇〇人余が参列した。海軍大臣・逓信大臣・農商務大臣・東京府知事・神奈川県知事などの政府の顕官も列席していた(龍門社『青淵先生六十年史』第二巻)。 浦賀分工場の施設は、構内の総坪数三万七〇〇〇坪=約一二㌶(石川島本社工場七五〇〇坪)、工場その他建物三一〇〇坪(約一㌶)であり、機械・製缶・撓鉄・銅工鋳鉄・造船などの工場群が並び、九〇〇〇トン級の大型船が建造できるほどの飛躍的な生産能力をもっていた。浦賀分工場が稼動すると、石川島造船所は造船部門を分工場にまかせ、本社工場では小型船または一般機械を製作することにして、業務を専門化した。分工場は、大型航洋船の国内建造を奨励する造船奨励法の適格船をつくることをおもな目的にして発足したが、修理部門の方が多忙であり、開渠以来一九〇二年まで一二〇隻に達した。職工は一八九九年九九一名、一九〇〇年一五〇〇名を越え、県内の有数の大企業であった。 新規造船としては、大阪市から石材運搬船二隻の発注をうけ、幸先よいスタートを切った。つづく第三船として一九〇一年有名な北前船主の大家七平の発注で鋼製汽船交通丸(一六〇四トン)を建造し、最初の造船奨励法適格船に合格し、政府から三万六〇〇〇円の奨励金を交付された。交通丸は、東京湾上で進水した最大船であり、同年八月二十八日の進水式にのぞんで、会長渋沢栄一は、この建造に満足せず、今後数千トンもしくは一万トン以上の大船も容易に建造できるようにすると抱負を語り、将来の発展を夢見ていた。ところが交通丸進水式のこの日が、浦賀分工場にとってはなばなしい最良で最後の一日となった。そののち、二度と渋沢が期待したような航洋船の発注はどこからも来なかったし、それどころか間もなく分工場自体が廃止に追いこまれるに至るのである。 交通丸建造は、会社の威信を高めたけれども、経営採算的には政府の奨励金を加えても五万三〇〇〇円の出血受注に終わった。新造船に経験がとぼしかったので経費がかさみ、採算がとれなかった。ぼう大な最新機械工場群と一五〇〇人以上の人夫や職工を抱えていながら、受注がわずかに交通丸など三隻しか得られず、完全操業をするまでに至らないので、過剰施設や遊休人員の負担が経営の重荷になってきた。やむをえず、修理船工事に施設を活用して時期の到来を待ったが、それすらも断念しなければならなくなった。浦賀船渠会社が、競争相手となって石川島造船所を圧倒したからである。 浦賀船渠の開業 浦賀は、幕府が造船所を最初に設立した歴史的旧地であり、明治政府は官収後、ここに浦賀屯営を置いた。のち横須賀海兵団が設けられると、屯営は陸軍要塞司令部に転属した。日清戦争後の海運界の盛況に際し、既設の造船所は拡張をはかったり、新しく船渠会社が設立されたが、一八九六(明治二十九)年七月創立された浦賀船渠会社(資本金一〇〇万円)もその一つで、東京および浦賀の有力者が集まり、浦賀町谷戸に一大ドックを開鑿し、船舶の入渠修理を目的とした。逓信省管船局長の塚原周造を専務(社長空席のため事実上の社長)に仰ぎ、浅野総一部・安田善四郎・渡辺治右衛門・臼井儀兵衛・荒井郁之助らが協力し、ときの農商務大臣榎本武揚が荒井らと旧幕臣仲間であった縁故から、裏面で支援して便宜をはかった。工場の散地を当時の陸軍要塞司令部の所在地に求め、政府に請願し、土地の交換を行い、一八九六年石川島の館浦における分工場建設と同時に工事に着手した。港湾を浚渫し、諸機械を購入したりして、石川島造船所分工場の開業に半年遅れて一九〇〇年一月に開業した(『資料編』17近代・現代(7)一五一・一五二)。 こうして小さな浦賀港に、一八九九年から一九〇〇年初めにかけて、石川島造船所分工場と浦賀船渠の両社がほぼ同時に開業し、激烈な競争を展開する羽目に陥り、当時の一大異変として世間を驚かせた。入渠修理の受注獲得をめざして採算を割る低価格で、顧客を奪い合った。安い修繕料のうわさを聞いて、修繕船は全国から多数浦賀へ集まり、両社のドックに入ったので、合計して一年一二〇隻の入渠船が見られ、浦賀港は開国以来の繁栄を迎えた。しかし、両者とも収益はあがらず、連年損失を繰り返すようになったが、それでもいずれかが倒れるまで、赤字受注競争が続く形勢であった。 浦賀船渠は湾奥の風波を避けた内港に位置し、石川島の分工場は風当たりの強い多港にあったため、一般船主はもとより、外国船も内港に出入するようになり、アメリカ艦隊などは浦賀内港を入渠修理地として大いに利用する有様であった。それゆえ、外港の石川島分工場は、だんだん営業不振に陥り、自立できなくなってきた。放置すれば、石川島側が先に倒れることは明らかであった。無益な競争を避け、自滅寸前の事態を収拾するために、渋沢栄一は積極的に両社の合併策に乗り出し、横須賀鎮守府長官の海軍中将井上良馨(のち大将・元帥)に合併の調停を依頼した。海軍は、競争の行きつくところ両社が共倒れになることは国防の見地からもゆるがせにできないので、海軍工務総監石黒五十二ら五名に両社の財産調査を依嘱し、合併案を作製した。両社の重役会は海軍の意思を尊重し無条件合併を決めた。ところが、一九〇一年八月石川島造船所の臨時株主総会は、異議なく合併案を可決したのに対し、十月十六日開かれた浦賀船渠の株主総会は石川島の業績が悪いことを理由にあげて合併案を否決し、合併は一頓挫した。 石川島造船所にとっては、造船のみならず修理業も先行きが悲観的であったので、合併を希望したのであり、浦賀船渠の拒絶にあっても営業を継続できる状況ではなかったし、そのまま推移すれば分工場のみならず石川島造船所全体の命取りになる可能性が強まってきた。渋沢栄一は、やむをえず一九〇二年に入り、分工場の売却を提案した。浦賀船渠はそれに応じついに分工場の施設いっさいを一〇〇万円で買収することになった。五月十五日、分工場の作業を停止し職工や人夫を解雇し、三十日分工場を廃止し、六月浦賀船渠に引渡した。職工は、一部は浦賀船渠へ、他は横浜船渠・海軍工廠などへ転職させ、大規模な工場の解散ではあったが、失業問題を起こさずにすんだ。石川島造船所は売却代金のうち九〇万円は浦賀船渠の株式で支払われ、一〇万円のみ現金で受け取った分工場を売却したので、資本金一五〇万円を九〇万円減じて六〇万円にした。一方、浦賀船渠は資本金を九〇万円増やし一九〇万円になった(『資料編』17近代・現代(7)一五三・一五四)。 石川島造船所は分工場閉鎖という大手術を敢行したが、後遺症は深い傷跡を残し、同年末にはさらに減資を余儀なくされ、三六万円に削減した。分工場開業から廃止まで、まる三年間の短い営業にすぎないが、増資分の一二五万円を投資した工場を一〇〇万円で売っただけではすまず、それに伴う損失も多額にのぼったため、徹底した整理や減資を行い、結局日清戦争以前の水準に逆戻りをして、隅田川河口の石川島の地に再起を願うほかはなか1902年ころの浦賀工場 『浦賀船渠六十年史』より った。大型航洋船建造の初志が貫けず、小型船舶の建造に限定されたが、造船部門の将来性はとぼしいので、陸上機関部門に企業の再挙の手段を求め、橋梁・電機・車輛・鉄構工場などを新設・拡張して、よろず屋のように多品種にわたる製品をつぎつぎに生産し、発電機や起重機の生産では独自の進歩を示し、機械メーカーのような営業活動によって社運を徐々に持ち直した。一九〇六(明治三十九)年には資本金を五一万円に増資し、翌一九〇七年には一〇二万円へと倍額増資をするまでに至り、窮境を脱却し業績を回復した。 一方、石川島の浦賀分工場を買収後の浦賀船渠の営業は、不振の一語に尽きた。船主はダンピング競争に乗じて入渠利用したにすぎず、浦賀船渠の独占に帰したため修繕料が旧状に復し引上げられるものと予測し、潮が引くように浦賀を去っていった。浦賀船渠は資本金や工場施設が、ほぼ倍増したにもかかわらず、意外にも工事量は増加しなかった。入渠船は合併前の一社にも及ばず、大きな誤算であった。造船部門では一九〇二年専務塚原周造自らの現地出張により、フィリピンのマニラ政庁から沿岸警備用の砲艦五隻を受注した。第一船ロビンソソン号(三五〇トン)の進水式を同年十月五日に行い、当日を浦賀船渠の開業式と兼ねた。最初の外国艦建造であり、将来を期待させたが、工事進行中船体設計についてマニラ政庁と見解に相違を生じ、二隻のみ納入しただけで、第三船以下は解約された。このように渉外事務に失敗し、建造途中のキャンセルという悲運に見舞われ、業績は伸びず、相当に苦しくなり、一九〇三(明治三十六)年上期から一九〇五年上期まで五期間無配に転落した。 株主の間にも物議をかもし、塚原周造は開業式後、半年しかたたない一九〇三年四月には責任をとり辞職した。渋沢栄一は、石川島分工場の売却代金が浦賀船渠の増資新株券で支払われたため、一九〇二年末浦賀船渠の大株主となり、翌一九〇三年には石川島造船所専務名儀の株券が他の株主に分散されたので、新旧両株合併後は一六一二株を持ち、浦賀船渠の筆頭株主になり、相談役を引き受けていた。渋沢は、この間しばしば海軍省を訪れ、大臣、次官など要人と面会し、社長人事やマニラ政庁受注船の後始末を相談し、さらに業務不振打開のため、金融などについても奔走していた。渋沢の推薦で、一九〇三年六月専務に海軍予備少将早崎源吾が就任し、再建にあたった。 二 日露戦争後の重工業 海軍工廠の発展 日本海軍は、日清・日露の二大戦争では、主力艦の全部と補助艦艇の大部分を外国とくにイギリスから輸入して戦った。日本海海戦で、イギリス製の三笠(一万五〇〇〇トン、速力一八ノット)以下六大戦艦を率いた連合艦隊が、ロシア艦隊を一挙に撃滅し、戦艦が海戦の主役であることを実証した。しかし、三笠級の国内生産は技術や材料の面からも無理であった。日露戦争以前では横須賀造船所が竣工した橋立(四二七七トン)が最大艦であり、世界の大勢から遠く離れていた。軍器の独立をはかるために、花形である戦艦を建造できるように海軍工廠を充実しなければならず、一度に戦艦二隻以上を同一工廠で同時に建造できるように、四大工廠のうちでも、呉と横須賀の設備が増強されたのである(『資料編』17近代・現代(7)一二九)。 呉工廠で日露戦争中に起工し、一九〇七(明治四十)年一月完成した装甲巡洋艦筑波(一万三八〇〇トン)が、わが国では最初の一万トンを超える大艦であった。つづいて生駒(一万三八〇〇トン)と伊吹(一万四六〇〇トン)が呉で建造され、生駒は一九〇六年四月進水、一九〇八年三月完成、伊吹は一九〇七年十一月進水、一九〇九年十一月完成した。横須賀工廠では伊吹と同型艦の鞍馬を造り一九〇七年十月進水、一九一一年二月完成した。横須賀工廠は戦艦薩摩(一万九三五〇トン)を一九〇六年十一月進水、一九〇九年三月完成、呉工廠は姉妹艦安芸を一九〇七年四月進水、一九一一年三月完成した。海軍大臣山本権兵衛の強い支持や宮原汽缶のように国産汽缶が軍艦へ装備されるなど、国産技術の進歩に助けられ、日露戦争後は建艦能力は急上昇した(防衛庁戦史室編『海軍軍戦備』(1)、池田清『日本の海軍』下)。 日本海軍が、世界の水準に到達できると期待した戦艦薩摩と安芸の建造中に、思いもよらなかった軍艦の一大革新にあい、日本の既成艦はもとより新鋭艦も生まれながらにして旧式艦へ転落した。それはイギリス海軍が日本海海戦で大口径砲をもつ戦艦が優位にたつという教訓を生かし、一九〇六年末に従来の戦艦の二倍以上の砲力をもつドレッドノート(一万七九〇〇トン、速力二一ノット)を完成し、在来艦を時代遅れのものにしたからである。ドレッドノートは単一主砲主義をとり、片舷発射の中口径副砲を廃し、艦の中心戦に大口径主砲をならべ、両舷への発射を可能にしたものであるが、薩摩は複合主砲主義で両舷に主砲が二分されるので、片舷砲力は前者の一二インチ砲八門に対し、後者は一二インチ砲四門、一〇インチ砲六門となって戦力に大きな開きが生じた。イギリスがひきつづき建造した装甲巡洋艦インビンシブル(一万七〇〇〇トン、速力二五ノット)は一二インチ砲八門をもつが、伊吹や鞍馬は四門であり、速力は二二ノット内外と遅いので、たちまち無用艦となってしまった。インビンシブルはドレッドノートと、トン数・砲門数ともあまり差がないので、以後軍艦薩摩 『日本近世造船史』より 装甲巡洋艦と呼ぶようになり、高速で戦艦と対等に決戦できる艦種として、ドイツや日本でも建造された。 アメリカが一九〇九(明治四十二)年ミシガン級を建造し、単一種の巨砲を中心線に積載する方針で、ドイツとともにイギリスの後を追った。イギリスは、ドレッドノートを制圧する超ドレッドノート型戦艦(二万二〇〇〇トン、速力二一ノット)を造り、一三・五インチ砲一〇門を、すべて艦の中心線にならべた。列国が大艦巨砲主義による新戦艦をつぎつぎに建造し、軍備拡張に狂奔する風潮に、日本海軍も横須賀工廠で戦艦河内(二万八〇〇トン、速力二〇ノット)、呉で同型艦摂津を一九〇八年に起工し、一九一二年に完成した。日本最初のド級艦であったが、超ド級戦艦の前には旧式艦に等しかった。海軍は戦力の充実を急ぎ、一九一一年世界の建艦技術の最先端にたつイギリスへ、ライオン型超ド級巡洋戦艦を改良した巡洋戦艦金剛(二万七五〇〇トン、速力二七・五ノット)を発注し、日本国内で同型艦比叡・榛名・霧島の建造に着手した。榛名を川崎造船所、霧島を三菱長崎造船所へ発注し、民間造船所にとっては主力艦の最初の建造であった。比叡は横須賀工廠で起工され、一九一二(大正元)年十一月進水、一四年に完成した。比叡は後年練習戦艦に改装され、しばしば御召艦となって国民の間に広く知られた。金剛は一九一三年完成したが、その際日本の技術者が多くの現地のビイッカース社に滞在して、船体や機関・砲塔の設計・製造などを実習し、その後の日本の建艦技術の向上に大きな貢献をした。金剛の発注を最後にして以後日本海軍は、艦艇の建造をすべて国産化し、技術的にも自立化に成功したのである。 金剛型四隻に続き、一九一二年以降超ド級戦艦四隻の建造に乗り出し、呉で扶桑、横須賀で山城(ともに三万六〇〇トン、速力二二・五ノット)、川崎造船所で伊勢、三菱長崎造船所で日向(ともに三万一二六〇トン、速力二三ノット)を建造し、第一次大戦中に完成していった。いわゆる八八艦隊のうち四四艦隊にあたるものである。大戦勃発時には、新式戦艦・巡洋戦艦の保有量をくらべると、建造中のものを含めて日本は一〇隻を数え、イギリス三四隻・ドイツ二八隻・ロシア二二隻・フランス一八隻アメリカ一四隻についで世界第六位の海軍国となった(海軍有終会編『近世帝国海軍史要』)。 このように横須賀海軍工廠は、世界の止まることを知らぬ大艦巨砲主義の時代を敏感に反映して、呉工廠とともに日本海軍の軍事力の一大源泉となり、日本の代表的な主力艦を生み出していった。 横浜船渠の好調 官営軍事工業から目を転じて、民間造船業の動きを見よう。横浜船渠への入渠船は日露戦争中は、外国船が日本船を上回っていたが、戦後は日本船の軍事徴用が解除され修繕船は増加した。毎期六〇隻から八〇隻の入渠船があり、二〇万トン台を恒常的に維持し、需要の増加に応じきれなかった。沖合いに船を繋留したまま、船内にろうそくを立て、お寺の祭壇のようにして修繕を施すので、火を消し忘れ火事を起こすこともあった。乾ドック二台では処理できないので、潮入ドックを一九〇八年十一月に完成、乾ドック一台を一〇年十二月に増設して、大幅に修理能力を増強した。 日露戦争後の不況で一九〇七年から海運界は第一次大戦まで沈滞し、造船業もその影響をうけたが、横浜船渠はそのような不況期にもかかわらず、一定の入渠船を確保できたのは、横浜港に近接するという絶好の立地に恵まれていたことや、日本郵船の支援があったからである。一九〇五年上下両期に一割二分の配当をし、一九〇六年上期から一九〇七年上期まで一割五分に増配したのち、同下期から一九一四(大正三)年までの長い間一割二分を安定配当としていた。 横浜船渠は、一九一〇年四月、同社の敷地を借りて営業していた中央倉庫を合併し、資本金を七五万円増やし三七五万円とするとともに、従来の船渠部・鉄工部に加え、倉庫部を増設して営業種目を広げた。恐慌が入渠船数あるいは鉄工工事に沈滞をもたらせた際、倉庫部には逆に在庫が満腹して好況を謳歌できたので、横浜船渠が倉庫部を兼営したことは大きな強味であった。倉庫と船渠・鉄工部門が異質であることが、相互に補完しあって経営の基礎を支えたといえよう。同業他社が、多くは無配あるいは低配当に苦しんでいる不況期に、横浜船渠の収入は減少することはなく、毎期ほぼ一八万円台の利益をあげ、水準以上の配当を維持できたのである(横浜船渠株式会社各期『報告』)。 浦賀船渠の不振 横浜船渠の好況にくらべこの時期の浦賀船渠は、極度の不振にあえいでいた。日露戦争中、海軍省から水雷艇三隻、駆逐艦二隻の発注をうけ、戦後は修繕船舶が増え、社業もやや有望になった。海運界の隆盛を見越し、造船事業を積極化するため、一九〇七(明治四十)年二月資本金二三〇万円を増加し、四二〇万円へ増資決議をしたが、戦後の恐慌が襲うと、同年十月増資を全面的に取消したのみならず、経営を安定させるため、現在の資本金一九〇万円を逆に半減し、営業損失金にあてなければならなかった。営業はますます逆境にむかい、株主からも非難の声が高く、同じ十月に事実上の社長であった専務早崎源吾は退任し、取締役でありまた東洋汽船社長の浅野総一郎が会長になり、渋沢栄一と協力し海軍省とも連絡をとって再建にあたった。浅野は資本金半減や銀行借入金の整理など荒療治を施したが、同業者間の競争は激しく利益をあげることができず、工員や臨時工の定期昇給をせずに二年間据置いたので、一九一〇年七月には工員の給料値上げを要求するストライキが起こり、苦境を脱するには遠かった。同十月、浅野は会長を辞任し、取締役に退いた。代わって鉄道や炭鉱経営に経験の深い足立太郎が社長に就任したが、技術者との間に意志の疎通を欠き、優良社員も退職する者が増え、業績もさらに低下したので、一九一一年十二月辞任した。このとき、取締役にとどまっていた浅野総一郎も辞職し浦賀船渠を去って、まもなく自前の浅野造船所建設へと邁進するのである。 浦賀船渠はこのように業績は沈滞し、経営陣も動揺を重ね、首脳部の更迭があいつぎ混迷状態に陥った。戦前の一九〇三年上期から無配になり、日露戦争の余慶で一九〇五年下期五分、一九〇六年上期六分九厘の配当をしたが、同下期から無配に転落し、一三年上期まで続いた。一九〇九年下期から常に赤字決算であり、回復の見込みがたたず、苦悩は深まるばかりであった。 渋沢は債権者代表の第一銀行と再建策を協議のうえ、一九一二年二月千住毛織会社の整理に腕を振るった町田豊千代を社長に推し、町田は第一次大戦をはさんで八年余在職し、ついに再建に成功した。 町田が社長に就任した一九一二年は、負債の利払いに収益が完全に吸収され、斜陽化の一途であった。同年下期(同年七月から一九一二年十一月)の営業は、海運界の活況のもとに用船料は騰貴してきたが、社外船の輻輳する関西方面から修繕のために、わざわざ浦賀方面まで回航する不便を冒す船主はなかったので、「修繕工事頻ル不振ヲ免カレズ」、また造船部門も「商船建造ノ注文ハ皆無ニシテ」という有様で、修理・造船とも進退きわまっていた(浦賀船渠株式会社『第参拾弐回事業報告書』)。 ここにおいて町田は、損失金調査委員会をつくり調査を依嘱するかたわら、債権者とも懇談を重ね、再建策を講じた。委員会の調査報告書が提出されると、それを踏まえて同年十二月、町田は抜本的整理案を臨時株主総会に提案した。内容は資本金九五万円のうち五七万円を減資して三八万円にし、減資分は繰越損失金の補塡および資産勘定の減価償却にあてたのち、新たに四二万円を増資して新資本金を八〇万円にするものである。この減増資案により、多額にのぼる積年の損失を一挙に整理し、身軽な事業体として再出発することが可能であった。例によって渋沢が奔走し、渋沢が頭取をしていた第一銀行の役員などが新株の大口引受人となって、翌一九一三年五月払込みが終わった。この結果、大株主に顕著な変化が起り、筆頭株主渋沢栄一のほか第一銀行の関係者が上位を占めるようになった。大手術を完了したので全役員は辞職し、渋沢の指名で社長町田のほかは総入替えをして経営陣を一新し、新生の第一歩を踏み出した。町田は、事務と現場の連絡を密にし、工場組織を改め、人事を刷新し、工場整理に努力したので、一九一三年下期に至り、ようやく業績も回復し、六分配当を復活できた。一四年になると、ノルウェー捕鯨船やイギリス汽船などの外国船が数年ぶりに入渠するなど、修理船工事にも復調の気配が見えてきた。業況が上向いてきたとき、第一次大戦を迎えた。 川崎へ工場進出 明治末年になると、東海道線川崎駅から多摩川河口の臨海部へかけて工業用地が造成され、大工場の進出が盛んになった。原料の搬入や製品の搬出に水運が利用できるうえ、鉄道輸送も引込線を敷設すれば東海道線へ連絡できたし、京浜電鉄の品川-神奈川間の開通があり、水陸交通の便に恵まれていた。さらに東京や横浜という大消費地に近接している利点にくわえ、地元では工場誘致に熱心であった。電気鉄道へ送電する火力発電所が川崎町久根崎に設立されると、その電力を利用できることが工場進出にはずみをつけた。 最初に乗り出したのが、横浜精糖(資本金二五〇万円)である。一九〇六(明治三十九)年九月横浜の砂糖輸入商増田増蔵と安部幸兵衛が輸入粗糖を原料にして精製糖をつくるために設けた会社であり、川崎町と御幸村の境の南河原に工場敷地を選んだ。その地は、元川崎町長であり大地主の石井泰助の所有地であったが、石井の積極的な協力により、隣接地の買収もうまくいき、一九〇七年末に工場を完成し、操業を始めることができた。横浜製糖は川崎工業地帯の近代工業の先駆をなしたが、一九一一年八月明治製糖(資本金一一〇〇万円)に合併された。 つづいて進出したのは、東芝の前身の一つである東京電気であった。アメリカでエジソンの発明した白熱電球を見て心を動かされた藤岡市助が、三吉電機工場を経営していた三吉正一らとともに一八九〇年四月、白熱電球の国産を目的にして創立した白熱舎がはじまりである。白熱舎は、芝三田に工場を建設し九六年東京白熱電燈球製造会社(資本金五万円)に改め、九九年一月さらに東京電気(資本金一五万円)と改称を重ねた。同社は安い舶来電球に圧迫され、一時は経営難に陥ったが、藤岡はアメリカの世界有数の大会社ゼネラル電気会社(G・E)の駐日代表ゲーリーと交渉し、一九〇五年一月同社との提携に成功し、融資と技術の導入を得ることができてから、技術および製造能力は著しく好転した。資本金も同年四〇万から翌一九〇六年一六〇万円へ一挙に四倍増資をして、電球だけにとどまらずいっそう事業規模を拡大し、総合電気機器メーカーに脱皮をはかり、大規模な新工場建設を川崎方面に物色した。御幸村の横浜製糖の南側一帯の土地を、石井泰助が提供し、付近の地主の協力を得て、東京電気は一九〇七年五月、二万八〇〇〇坪(約九・三㌶)の土地を買入れ、翌年ソケット工場・変圧器工場を建設し、一九〇九年七月タングステン電球工場を完成し、翌年から電球の生産を始めた。一九一一年一月電球にマツダの商号を使い、そののちマツダランプは全国に名前を広く知られるようになった。川崎工場の施設が整備してきた一九一三年七月に、本社を川崎工場に移し(現在東芝堀川町工場)、旧三田本社を東京工場と改称した。新鋭川崎工場を生産の中核として、東京電気は神奈川県に深く根を下ろすに至った。同年九月、資本金を二〇〇万円増額して三六〇万円にした。増資額のうち一〇〇万円は別途積立金を崩してこれにあて、株主に報いているが、業績の向上を表すものである(東京芝浦電気株式会社編『東京芝浦電気株式会社八十五年史』)。 一九〇七年横浜在住のアメリカ人機械貿易商F・W・ホーンが中心となり、日本蓄音器製造会社を設立したが、一九〇九年七月、川崎町久根崎に土地八〇〇〇坪(約二・六㌶)を買い入れ工場を建設した。新式の蒸気機関を原動力とするアメリカ製機械を据えつけ、蓄音器やレコードを生産し、一九一〇年十月ホーンは製品の販売機関として設立した横浜の日本蓄音器商会を通じて輸出した。一九一二年四月、両社は合併したので、工場は日本蓄音器商会川崎工場になった。 一九〇六年九月、富士紡績は東京瓦斯紡績と合併して富士瓦斯紡績と改称し、静岡県の主力工場が手狭になったので、一九一二年にはいると京浜地方に新工場建築の用地を探していた。そのころ石井泰助は一九一〇年末から川崎町長に再び就任していたが、工場誘致を町是とする方針をとり、議会の承認を得て、地元の熱意を背景に富士瓦斯紡績の招致に全力をあげた。同社の取締役が日本蓄音器商会川崎工場に接して久根崎の競馬場跡に九万坪(約三〇㌶)の土地を所有していたが、それに加え、隣接する五万坪(約一七㌶)を地元で買収あっせんをする約束で、明治年号最後の一九一二年七月三十日富士瓦斯紡績の川崎進出が決まった。翌一九一三年買収を終わり、工場を建設し、一四年七月一部操業を始め、翌年一月から完全操業に移った。 富士瓦斯紡績の進出のあと、一九一二年日本電線川崎工場、翌一三年味の素川崎工場というように、川崎の臨海部に大企業の進出がつづき、大工場の集中地域が形成された。 埋立地の造成 東洋汽船社長浅野総一郎は、欧米視察の体験から欧米の代表港に比し、東京湾の港湾施設が貧弱であることを痛感し、東京湾の埋立てと築港計画について将来の夢を描くに至った。京浜間に大運河を開き、東京築港が完成すれば大船の出入が自由になるので、途中鶴見・川崎付近の遠浅海岸を埋め立て工業地帯を造成し、製品は工場の側面に大船を碇泊させ積み込むという構想である。浅野は、神奈川から東京方面にかけて海岸を実地踏査し、鶴見・川崎海岸に白羽の矢を立てた。この地域は多摩川と鶴見川の間にはさまれた三角洲にあたり、両河川から流出した土砂により浅瀬となっていた。浅野は港湾土木の権威である広井勇や山形要助に依頼して、埋立て造成の具体化をはかり、設計をすすめた。一九〇八(明治四十一)年に鶴見川河口から川崎の田島村まで延長四・五㌔㍍、幅一・四㌔㍍、面積約一五〇万坪(約四九七㌶)の工業地帯を建設し、一万トン級船舶の泊地および東京と横浜へ連絡する運河を浚渫する計画案をつくり、神奈川県へ埋立て許可の願書を提出した(浅野泰治郎・良三編『浅野総一郎』)。 神奈川県は、その必要性を認めてもあまりに雄大すぎる計画に、浅野の資力が伴わないことを懸念し、すぐには許可しなかった。浅野は安田銀行を主宰した安田善次郎を訪ねて資金援助を懇請した。安田は、生来太っ腹を好み、事業自体が有望であると判断すると、たとえ発起人が堅実ではなく、危険と見られるものに対しても投資を惜しまなかった。これまでも浅野の事業を詳細に検討して、有利とみれば大胆な貸付を行ってきていたので、安田は技師を同伴し、みずから三日三晩現地を調査し、この埋立て事業が将来性に富むことを確かめ、資金援助を約束した。浅野は、さらに第一銀行頭取渋沢栄一や横浜の貿易商安部幸兵衛、大谷嘉兵衛らにも協力を求め、これらの人びとと一九一二年三月鶴見埋立組合をつくり、組合の名儀であらためて神奈川県へ事業許可を申請した。今度は、申請人の顔触れが当代随一の実業家であり、信用もはるかに高まったので、翌一三年一月末県知事大島久満次は埋立てを認可した。漁業権の買収、工事用機械の発注などの準備のあと、同八月からイギリス製の電動式三五〇馬力のサンドポンプ船を使い、工事に着手した。組合は、一九一四年三月鶴見埋築株式会社(資本金三五〇万円)に改組し、翌年春には田島村の大島海岸に約一〇万坪(約三三㌶)の埋立地を造成できた。以後、埋立ての進歩とともに、造成地に第一次大戦中の好況に乗じて大工場の進出があいついだ。 日本鋼管の創立 日本鋼管は、わが国最初の鋼管製造を目的とする企業であり、今泉嘉一郎と白石元治郎の主導のもとに、一九一二(明治四十五)年六月創立された。官営八幡製鉄所の勅任技師長をしていた今泉は、海外の鋼管事情を視察調査したのち、当時の大勢であったスケルプ(帯鋼)から鍛接鋼管を製造する方法よりも、ドイツで発明されたばかりのマンネスマン兄弟が、特許をもっていた継目無しの鋼管の製造法の方が、用途も広く鋼塊より直接鋼管がつくられるので有利であると判断し、一九一〇年四月休職のまま、民間でいちはやく鋼管製造会社の設立を企てた大倉喜八郎に協力した。はじめ製管会社を、製鉄会社とともに大阪に設立する予定であったが、一一年九月販路に自信を失った大倉が手を引いたのち、今泉は大阪の鉄商岸本吉右衛門の支援を得て、尼崎の岸本製釘所の近辺に製管工場を建設することに変更した。鋼管の製造には原料の銑鉄をどのようにして獲得するかが困難な問題であり、今泉の頭を悩ましていた。八幡製鉄所の製銑供給力はとぼしかったし、自前で高炉を建設していては、経費が嵩んで大倉のように悲観的になるのもやむをえないといえた。今泉と大学の同期生で、浅野総一郎の女婿の白石元治郎が、たまたま東洋汽船の航路開拓のためインドへ出張した際、同地のベンガル製鉄所の銑鉄が、日印間の船荷として有望ではないかと考え、専門家の今泉の意見を求めに来訪した。インドから廉価な銑鉄が供給されれば、日本の鉄鋼業の振興に大きな貢献をすると評価した今泉は白石と協議をし、岸本吉右衛門の賛成を得て、岸本商店が輸入を担当し、のちにベンガル銑鉄の日本における一手販売者になった。今泉にはなによりの福音であったインド銑鉄輸入の方法により、原料銑鉄の問題はひとまず解決するに至った(今泉嘉一郎『日本鋼管株式会社創業二十年回顧録』)。 今泉は鋼管製造事業の中心人物に白石を想定し、熱心に勧誘説得した。白石は東洋汽船の仕事が一段落し、独立する気持を抱いていた折であったので、今泉の熱意に動かされ、岳父浅野の了解を得て一九一二年一月、新事業に参加を決意した。白石は、工場の建設を東京付近にするよう強く主張し、その意見にもとづき事業の中心を東京に移すことになった。今泉は上京して白石の旧友伊藤幸次郎らと創立準備を始めた。大川平三郎が協力し、大倉喜八郎・渋沢栄一・大橋新太郎・浅野総一郎・馬越恭平・安倍幸兵衛のような財界の有力者を発起人にして、三月発起人総会を開いた。工場を関東に変更したので、大阪では株式公募がうまくいかなかったが、不足株は発起人たちで引き受けた。工場敷地として、水陸の便がよく将来の拡張に都合のよいところを探し、川崎町あるいは神奈川町の海岸一帯を調査し、さらに横浜根岸海岸や屏風浦海岸をも実検したがなお選定できなかった。六月八日、創立総会を開催し、日本鋼管(資本金二〇〇万円、当初の払込五〇万円)は発足した。白石・今泉のほか、大川平三郎・大橋新太郎・岸本吉右衛門・太田清蔵・大倉喜三郎が取締役に就任、互選により白石が社長に推され、本社を横浜市寿町に置いた。軍需に依存せず、民間の鋼管需要の将来性に着目して準備された新会社の事業計画は、さすがに今泉らの当代の権威の頭脳をしぼっただけに、客観的に数字で詳細に裏付けられ、技術的な説得力をもつものであった(『資料編』17近代・現代(7)一七二)。 創立直後の六月十一日、白石は発起人の一人若尾幾造から、川崎海岸田島村字渡田の埋立未成地の若尾新田一五万坪(約五〇㌶)を廉価で提供するとの意向を知った。白石・今泉らは現地へ行き、今後埋立工事に相当費用を必要とするが、運輸施設を整備すれば海陸連絡の便利がよくなる見込みがあるので、この地を工場敷地に決定した。七月一日一括して一三万五〇〇〇円で買い入れることにしたが、とりあえずそのうち三万坪(約一〇㌶)だけを購入した。白石と今泉は、敷地を選定してすぐ機械および材料購入のため欧米へ出張し、ドイツ人技師や職工長の雇入れ、工場本設計の依頼、建築用鉄骨・機械類の注文をすませ、一九一二(大正元)年十二月に帰国した。その間、工場敷地の埋立てについで、地ならし工事や船溜り場工事など基礎工事がすすみ、翌一三年二月ドイツから機械の一部が到着、三月には技師たちが来日した。四月に工場家屋用鉄骨が着いたので工場建設を始め、六月からは機械を据え付けた。工場が体裁を整えてきた六月二十五日定款を改め、本社を横浜から工場のある若尾新田に移し、ここを名実ともに会社の本拠地にした(『資料編』17近代・現代(7)一七四)。 桂川電力会社と特約した電力供給にもとづき、十月から送電が開始された。二〇トン平炉二基をもつ製鋼工場の平炉と製管工場の加熱炉にガスを通し、マンネスマン式穿孔機や圧延ロールの試運転を始めた。一九一四年一月平炉から初めて出鋼した。試運転を三月末で打ち切り、四月一日から作業会計に移って営業を始めた。細物の二インチガス管製造に着手すると、機械の故障が多く仕事にならなかったので、大川平三郎の提案により三インチ以上の鋼管に全力を注ぎ、生産高の増加をはかった。これより故障も減り、工員や機械もしだいに仕事になじみ、日一日と生産は増え、工場はようやく活況を呈してきたところへ、第一次大戦が勃発し、鋼材や鋼管の輸入が止まり、市価は急騰を続けた。会社の営業成績は鋼材市場の盛況を背景に向上し、一九一四年下期には創業以来二年半にして最初の株主配当を五分実施することができ、前途に曙光を見るに至った(今泉嘉一郎『日本鋼管株式会社創業二十年回顧録』)。 第三節 労働市場の展開と労働者状態 一 明治後期における労働市場の展開 近代的労働市場の展開と労働組合期成会 明治後期は全国的には綿紡績工業を中心とした産業革命がいちおう完了し、工業資本を中心として資本・賃労働関係にもとづく自律的な資本蓄積が展開されると同時に、早期の独占資本の形成に向けて明治末期には慢性不況が発生した、複雑な時代だった。しかしながら、神奈川県では明治前期でもみておいたような事情から、機械製綿工業の発達は著しく遅れざるをえなかった。もちろん、横須賀海軍工廠は綿紡績の原動機などを製造したが、何よりも県内の機械製綿工業が発達しなかったことが、神奈川県全体の民間産業の発達を著しく特殊なものとした。ということは、横浜を貿易港とする商業などの繁栄を余計浮き立たせることになったと同時に、海軍工廠や造船業などの重化学工業化が神奈川県の産業構造を大きく特徴づけた事実をも含意している。 とりわけ、重工業を中心とする男子労働者の蓄積は、電鉄や海運などの職人以外の分野も含めかなり高度の組織をもちうる近代的労働者の形成を意味した。その意味で忘れえないのが、東京における労働組合期成会の結成の神奈川県に対する影響である。労働組合期成会は、一八九七(明治三十)年、多くの自然発生的な労働争議が頻発するなかでアメリカ帰りの高野房太郎を中心として結成され、その年のうちに横浜の港座や蔦座で演説会が開かれた。そして、期成会によって組織された鉄工組合に横浜鉄工組合一八五名が参加したのである。 鉄工組合はアメリカのAFLにならって、同職の熟練工を中心として組織され、反社会主義で労使協調の路線を採り、病気・負傷・死亡時などの組合員相互の共済や消費組合運動をはじめ、労働者の社会的地位を高めるための教育活動に力を入れていた。しかしながら、当時の熟練職工の社会的・経済的地位は容易に高まる状況には決してなかった。このことは神奈川県でも例外でなかった。そのために、横浜の鉄工組合も主として財政難のために間もなく衰退していくが、しかし一九〇〇(明治三十三)年の「治安警察法」による労働者の団結禁止にもかかわらず、同職型を中心とした労働組合はいろいろな分野に繰返し繰返し組織されていくことになった。たとえば、次第に賃労働者化しつつあったさまざまな職人組合のほか、重工業の工場や電鉄や海運などの近代産業を中心として労働組合が結成されていったのである。もともと近代的な労働市場でもなんらかの労働者の集団行動がおこなわれるわけであり、労働力移動や労働争議もまたそのあらわれだとみてよいが、組織立った労働組合の結成によってますます労働市場が組織化されていくのである。労使関係もまた、自然発生的な集団関係としてでなく、組織的な集団関係になっていき、そのことを前提とした労務管理もそのなかで整備されていった。 横浜を中心とした人口増加 明治後期においても、前期に引き続き神奈川県の人口は著しく増加した。県全体の現住人口は、一八八七(明治二十)年の七二万人から一九〇七(明治四十)年の一一五万人へと約一・六倍の増加をみたのだが、その増加率は全国のそれを二倍以上も上回っていた。大正期に入ると、さすがの人口増加も鈍化するだけに、明治期の人口爆発は神奈川県の大きな特徴だったのである。こうした人口増加は、横浜を中心とした県東部においてとくに著しく、明治三十年代には横須賀などを含む中部でも著しかった。人口増加の中心だった横浜では、一八八八-一九〇七年に一二→三八万人のように人口が増加し、県全体に占めるシェアも一六→三三㌫にも増大したのである(増加率については表三-一五)。 こうした人口増加のかなりの部分は、前期に続いて後期でも他府県からの寄留者の流入によってもたらされた。しかも他府県からと県内の寄留者の九〇㌫以上は、実に横浜への寄留者であり、とくにそのなかで他府県からの寄留者が七〇-八〇㌫もの比率を占めていた。もっとも横浜への人口流入は、日露戦争前後から川崎などの工業発展の影響を受けて鈍化するが、その過程で横浜への他府県からの寄留者のウエイトはより増加している。このような変化がみられたにせよ、横浜の人口吸引力がこのように大きかったのは、貿易都市としての横浜の発展が著しかったことを反映しており、日清戦後の一九二一年における横浜市人口の社会的増加率は東京・大阪・神戸各市の三〇-四〇㌫を上回り、五〇㌫ちかくに達しており、全国でも最高級に達していたのである(神奈川県労働部『神奈川県労働運動史』戦前編八九四ページ)。 農家と農業人口の動向 このように、明治後期においても横浜などへの人口流入に占める県内寄留者の比率が比較的低かったということは、本籍上の流入についてもそうだったろうが、県内の農村などの人口移動が引き続きあまり大きくなかったことを意味するだろう。そこで、まず農家数の動きに目を転ずると、明治十年代に著減したあと、表三-一六のとおり明治二十年代から三十年代にかけて多少増加したが、明治三十年代から四十年代にかけては再び減少に転じている。この間、前述の人口増加によって県全体の戸数は一・五倍ちかく増加したから、そのなかに占める農家数の比率は五七→三八㌫のように大幅に低下した。そして農業人口もまた、表三-一七のように明治二十年代にはかなり増加したが、明治三十年代には減少に転じた。明治三十年代に入ってから、凶作表3-15 神奈川県の地域別人口増加率 注 山本弘文「神奈川県経済の発展と地域的特色」(『神奈川県史研究』第18号)より作成。三多摩郡を含む。なお,東部には橘樹・都筑・久良岐郡,横浜区(市),中部には三浦・鎌倉・高座郡,横須賀市,西部には津久井・愛甲・中・足柄上・足柄下郡を含む。 や風水害などのため農家労働力の流出が増加したからだった。したがって、農村からの人口流出は県全体からみれば比較的ウエイトは小さいとはいっても、明治三十年代の脱農化は相当顕著だったことが想像される。 しかも表三-一七については、とくに次の事実に注目しなくてはならない。まず、明治二十年代は男女ともほぼ同様に減少し、それほど女子の減少が男子のそれを上回っていなかったのに対し、明治三十年代は全体の減少テンポは変わっていないにもかかわらず、男子の方は微減にとどまり、女子の方は一〇㌫台の減少を記録した。明治後期に入って農業人口が減少しはじめたことは、後述のような商工業が本格的に拡大したことを反映するが、後期の明治三十年代にはとくに織維工場などの不熟練労働者の需要が拡大したことが、農家の女子を大幅に減少させたのだろう。これにたいし、男子の農業者の減少テンポが顕著に落ちたのは、とくに明治三十年代には農家そのものが減少したにもかかわらず、前期の自作・自小作と同様に、いわば粒揃いの農家が残存し、農家そのものが男子の農業者を需要したと同時に、農家の子弟はそう簡単には工場の熟練労働者に適応できなかっただけでなく、港湾労働者などの不熟練労働者はさきにもふれた都市の「細民」や「貧民」によってもっぱら供給されるようになった、という労働市場の変化を反映しているのだろう。 つぎに専兼業別にみると、明治二十年代は前期とは逆に兼業が増加し、専業が減少した。それはおそらく、明治前期の農工分離が旧型副業を一度整理したあと、再び座繰製糸や絹織物などの商品経済型の新しい副業の増加が兼業従事者を大幅に増加させたのだろう。だが、明治三十年代に入ると農家の副業も停滞しはじめ、再び兼業従事者の減少をみたのである。つづいて自小作別にみると、明治前期とは一転して自小作、とくに自作が減少して、小作の農業人口だけが増加す表3-16 明治後期における総戸数と農家数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。 るように変化した。というのは、一面ではそれは再び兼業が増大したので、小作兼業として農家として踏み止まる人口が増加したのと、さらに他面では、農業生産力が高まってきたためにより小さい小作地でも、たとえば食糧の自給力が高まるなどの人口扶養力が増大したことも反映しているのだろう。 貿易・商業などの発展 前述のように横浜を中心として他府県からの人口移動を吸引し、その反面で県内の人口移動がそれほど活発でなかったのは、次のような産業発展の特質を示していた。当時の神奈川県は、農業や工業の発展より以上に商業を中心として発展・膨張していた、ということである。全産業の会社形態をとった企業の払込資本金は一八八七-一九〇七年に六六倍にも増加し、工業会社は六〇倍にも増加したが、工業資本のシェアは二三㌫から一八㌫に縮小している反面、商業・運輸業資本のシェアは七七→八二㌫に拡大したのである。もちろん、全国の資本金総額はこの間に二〇倍ちかくの伸びにとどまったわけだから、神奈川県の商業資本を中心とした著しい伸びはまさに刮目に値するほどであり、とくに日清戦争前後からの発展はめざましいものだったのであり、商業県として東京・大阪に次ぐ確固たる地位がこの過程で築かれたのである。 工場労働者の増加と重化学工業化 他府県に比して神奈川県の商工業間格差はきわめて大きかったが、工業労働者の増加はいかに展開したか。まず、表三-一八によって、主要な工場数と職工数の推移をみると、多摩郡の製糸工場などを除い表3-17 明治後期における農業者人口の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。三多摩郡を除く。△は減少を示す。 て一八九〇(明治二十三)年には二四工場だったのが、日清戦後には一〇〇工場を上回り、後期末には二〇〇工場ちかくに増加し、一〇〇〇人台だった職工数も一万人以上に増加している。この間に一工場平均の職工数は一度減少し、零細工場の増加を示したが、後期末に向けて工場の増加が鈍化したのに対し、一工場平均の職工数は著増し、雇用の集中を示している。この過程で一貫して男子比率が低下しているのは、煙草工場をはじめとする男子労働者の後退の反面で、絹綿麻紡績などをはじめ煙草・電線などの工場の女子労働者が急増した事実を示している。この間に、横須賀工廠の職工数は前期末の三〇〇〇人ほどから、明治三十年代に入ると五〇〇〇人を上回り、日露戦争直後には一・五万人ちかくに達するほど増加したのである。 これらの工場の明治後期末における業種別構成などについてみると、表三-一九のとおり、(一)製糸業をはじめ、その他の繊維・染色業、煙草工業において工場数がとくに多く、全体の六五㌫をも占めている。(二)これにたいし、造船業をはじめとする機械工業、精糖・ビール・製粉などの食品工業、火薬などの化学工業、印刷業などのウエイトは小さいが、とくに機械・化学・食品工業の生産額のウエイトは大きく、それだけ生産集中が進んでいた事実を示している。 つづいて表三-二〇によって、主要工場の職工などの従業員規模別構成とそれから推定した職工などの業種別構成をみると、次のとおりである。すなわち、(一)工場の過半は三〇-九九人規模にとどまっており、三〇〇人以上の大工場はさきの造船所などの機械工業と製紙業に少数存在するだけだった。これにたいし、三〇人未満の小工場は製糸業などの織維工業をはじめ機械・化学工場表3-18 明治後期における主要工場数・職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。職工数については,1893年以前は年間延職工数を300日で割った数字。1904年以降は職工および徒弟に労働人夫を加えた数字を示す。 などに多数存在していた。(二)一工場平均の職工数でみても、造船所などの機械工業と製紙業で一〇〇人以上に達していただけで、製糸以外の繊維・染色業、茶箱工業、煉瓦も含むガラス・土石工業などは四〇-五〇人程度にとどまっていた。しかしながら、明治前期には一〇〇人以上が四工場に過ぎなかったのが二四工場にも増加しており、そのことが職工規模の平均を二倍以上にも増大させているのである。(三)それより重要なのは、推定職工数の業種別構成である。それはやはり製糸などの繊維工業と煙草工業が大きなウエイトを占めており、合計六〇㌫ちかくに達していたが、前述のように生産集中の進んだ機械工業をはじめ、化学・食品・製紙工業でもあわせて三〇㌫を上回るウエイトを占めていたのである。 このように、横須賀工廠の工場労働者を別としても、比較的大工場が早くから形成されており、しかも多摩三郡などの製糸工場以外の重化学工業が比較的早くから進出していた。ここに、神奈川工業の大きな特質をみることができる。このような重化学工業化は、日清戦争前後から顕著になってきており、(一)造船業では、地元資本の横浜船渠が日本郵船の修理工場を買収し、石表3-19 明治後期末の動力類型別工場数 ( )内比率 注 『神奈川県統計書』より作成。1908年12月末について示す。 汽機にはガス発動機,石油発動機を含む。 川島造船所の浦賀工場の設立のあとを追った浦賀船渠がその浦賀工場を合併し、さらに後期末には浦賀船渠の横浜工場が操業を開始した。(二)さらに金属・機械工業では、明治二十年代末に横浜電線が株式会社になったほか、明治四十年代には現在の東芝や日本コロンビアの川崎工場が設立され、食品工業では、四十年前後に横浜製糖・麒麟麦酒・日清製粉などの工場が川崎や横浜に設立された。(三)同じく明治四十年前後には、南北石油・日本火薬の化学工場も横浜と平塚に設立され、(四)明治末には横浜製鋼や日本鋼管の製鋼所が建設されはじめた。 家内工業の発展と停滞 だが、それと同時に職人や家内工業を中心とする零細規模のさまざまな工業もまた、依然として大きな比重を占めていた事実にも注目しなければな表3-20 明治後期末の職工数別工場数と推定職工総数 ( )内比率 注 『神奈川県統計書』より作成。1908年12月末について示す。職工には従業と人夫を含む。 職工数の推定には中間値を用いたが,7人以下は5人,300人以上は500人とした。 らない。表三-二一は日露戦争以後の主要な家内工業について、その製造戸数の推移を示したが、それによれば次のとおりである。すなわち、(一)まず座繰製糸は相変わらず一万戸内外も存在しており、のちにもみるとおり器械製糸工場の生産量と肩を並べるほどの地位を維持していた。(二)次いで多いのが絹織物の機業であり、二〇〇〇戸を多少上回る規模を示しており、新興の絹ハンカチやスカーフやレースの縁どりなどの製造戸数もかなりの数を示していたほかに、表示しなかったが、明治前期から増加していた半原の撚糸も五〇〇戸ほどの存在を持続していた。そのなかで、新興のハンカチやスカーフの絹製品の戸数が日露戦争後の不況から急減しているのは、あるいは統計上の問題もあるかも知れないが、零細な業者が整理され生産が集中された面も反映しているのだろう。(三)それに反して、経木真田・和紙・陶磁器・漆器の製造戸数も相当の数に達しているが、いずれも減少する傾向を示しているのは、なかには生産が集中する面を含みつつも全体として衰退しつつあった、とみてよい。 つづいて、これらの家内工業の職工数をみると、絹ハンカチ工は一時は一万人をも上回っており、一戸平均一〇〇人前後に達しており、小工業の域を脱している。あるいは「ハンカチ娘」などといわれたハンカチ工場の職工が含まれているかも知れない。経木真田工も一時は一万人をこえており、一戸当たりの平均職工数もときには二〇人前後に達しているが、きわめて不安定だっただけでなく、全体として縮小していっている。そ表3-21 明治後期における主要家内工業製造戸数の推移 注 『神奈川県労働運動史』戦前編 88ページにより,『神奈川県統計書』にもとづく。 れらにたいし、絹織物工・陶磁器工・漆器工は、一戸当たり二-三人の小工業であり、女工中心の絹織物工は三〇〇〇人を上回る大きな存在だったのに比して、男工中心の漆器工などは一〇〇〇人を下回る程度に過ぎず、かなり変動的だっただけでなく、縮小する傾向も示されている。もっとも、絹織物工も日清戦争前後の急増に比べれば、すでに停滞化していた事実も看過できないだろう。 二 重工業の労働市場 重化学工業の発展 明治前期に官営横須賀造船所を中心としてある程度の発展をみた重工業は、日清・日露戦争を直接的な契機として、すでに前述のように民間企業の設立が相次ぎ、明治三十年代後半になるとかなりの発展をみるにいたった。この時期に設立された代表的な民間の重化学工業の工場は、すでに示したとおり、石川島造船所浦賀工場・浦賀船渠・横浜船渠・横浜電線・南北石油・日本火薬・東京電気川崎工場・横浜製鋼などである。だが、民間工場の発展にもかかわらず、この時期においても、県内重工業に占める横須賀造船所の比重は、なお圧倒的なものがあった。しかも日清戦争を契機として、その施設拡張と生産拡大はいっそう顕著となり、一八九七(明治三十)年には横須賀海軍造船廠と改称され、さらに一九〇三年には横須賀海軍造兵廠と合わせて、横須賀海軍工廠と改称された。明治末期における県内全機械・器具工業の総馬力数が二六五三・八馬力であるのに対して、工廠は実にその約四・八倍の一万二七七一馬力にも達していたのである。 こうした重工業の発展は、当然のことながら職工の増大をもたらした。『神奈川県統計書』によれば、日露戦争中激増した民営工場の男子職工数は一九〇五(明治三十八)年において六二四九人であったが、一九一二年には九三二三人と約一・四倍に増加し、男工中心の重工業県としての特徴を明確化してきたのである。 このように、神奈川県は重工業における大企業の男子職工比率が著しく高いといえるが、こうした傾向は、官営工場である横須賀海軍工廠の職工を加えたならば、いよいよ顕著なものになってくる。表三-二二は、県内重工業部門の主要企業の男子職工数を示したものであるが、やはり横須賀海軍工廠の職工数は、勃興しつつあった民間企業と比較しても、いかに圧倒的な比重を占めていたかがわかる。だが、日露戦争中に約二・三倍も職工数が増加した海軍工廠も、戦争後の工廠不拡大政策の結果、一九〇六年を頂点として、以後急激に職工数を減少していった。逆に、明治前期では職工数一〇〇人をこえる工場は日本郵船鉄工所だけであった民間企業も、後期になると、一〇〇〇人をこえる浦賀船渠をはじめとして、横浜船渠、ヨコハマ=エンジン、横浜電線などの職工数一〇〇人以上の企業が出現し、後代の本格的な重工業の発展の基礎を築きはじめたのである。 熟練工などの不足と労働力移動 以上のような造船業を中心とした重工業の発展は、熟練労働者を中心とした労働力不足をいっそう促進させ、明治前期以来の職工の移動をさらに激化させることになった。まず、わが国造船業などの中心的な存在であった横須賀海軍工廠も、日清戦争が勃発した翌年の一八九五(明治二十八)年には、「職工ノ人員ハ恰モ倍数ヲ要シ大ニ其ノ不足ニ苦シミ臨時之カ募集ヲナサントスルモ全国ノ機械造船職工ハ業務多忙ニシテ応募者少ク最モ困難ヲ感セリ」という状況であった(『横須賀海軍船廠史』第三巻二〇六ページ)。 表3-22 主要企業の男子職工数 注 『神奈川県統計書』より作成。工廠1906年分は『横須賀市史』による。 こうした状況は民営工場でも同じであり、のちにみるとおり、夜業や二交替制を導入したりして労働力不足をカバーしており、当時の実労働時間は過酷なまでの長時間労働であった。 日清戦争を契機とした労働力不足の激化は、熟練労働者だけではなしに、不熟練労働者なども含めた労働者全般に拡大し、労働者の移動はきわめて頻繁なものとなった。表三-二三は、当時の勤続年数別労働者構成を示したものであるが、設立されて間もない浦賀船渠はともかくとして、石川島造船所の勤続三年以上の職工は、わずか三四・二㌫にしかすぎない。しかも、全国九大工場を合計したものと比較すれば明らかなように、石川島造船所の勤続三年以上の職工の比率は、むしろ高い方だったのである。これによっても、当時の職工の移動がいかに激しかったかがわかるが、『職工事情』も当時の状況を、「聞説芝浦製作所、石川島造船所等ニ於テ職工ノ交迭ハ一年間ニ凡ソ半数ナリ」と記している。こうして工場間を移動していく職工は、労働力不足を背景とした賃金の上昇に乗じて、より高い賃金の工場へと渡り歩く「渡り職工」となっていった。これらの渡り職工は賃金をはじめとする労働条件にきわめて敏感であり、『職工事情』も「事業繁忙職工ノ欠乏ヲ告クル場合ニハ単ニ僅少ノ給料ノ差異ニヨリ軽々シク他工場ニ行キ事業ノ閑ナルニ及テ又大工場ニ移ル」と記している。 こうした職工の移動に対して、さまざまな定着対策が実施されたのはいうまでもな表3-23 職工の勤続年数(1901年) 人(%) 注 『職工事情』第2巻より作成 い。まず海軍工廠では、一八九六年に「職工心得」を改定して、海軍工廠を解雇された職工は一年間採用しないことにし、海軍の軍工場相互間で労働者が移動することを制限しようとした。また、「定期職工制度」を設けて、雇用契約期間を定めるとともに、満期賜金を給付することにした。他方、民営工場においても定期職工制度などの定着対策が実施された。横浜船渠では、日給の強制的積立なども実施され、当時の新聞によれば、「他の工場に転ずるもの多く為めに工事に差支を生ずる場合となりしを以て自今同場各職工の日給の二割宛を積立させ以て職工の足留め策を講ずるに至り職工の不平甚だし」という状況であった。こうしたさまざまな定着対策の実施にもかかわらず、渡り職工に象徴される当時の職工の性格と、熟練の内容にかなりの手工的性格を残していたことによって、それぞれの職種では熟練に相当な社会的通用性が存在していたため、熟練職工の移動を防ぐことはできなかった。 賃金上昇と官民格差 つづいて男子職工の賃金状態をみると、表三-二四・二五からも明らかなように、海軍工廠の職工については造船職工を中心として持続的な賃金上昇がみられ、一八九六年から一九一一年の一五年間に、平均日給額で二八銭の上昇をみており、明治前期では民間企業の職工よりも低かった賃金水準も、表三-二六と比較すれば明らかなように、後期になると逆転していることがわかる。他方、主要民間企業の賃金をみると、海軍工廠の職工ほどには賃金の上昇がみられず、しかも浦賀船渠や横浜船渠などの造船職工の賃金が相対的に高いことがわかる。とくに、海軍工廠の部門別平均賃金をみれば、この点はいっそうはっきりする。すなわち、一九一二年には、最も高表3-24 横須賀海軍工廠職工の平均賃金の推移 注 『横須賀海軍工廠沿革誌』より作成 表3-25 横須賀海軍工廠各部職工の平均賃金(日給) 注 『神奈川県統計書』より作成 い造船部と最低の造兵部とでは、平均日給で実に一一銭もの格差が存在している。もっともその差は縮小してきており、なるほど日清・日露戦争による造船ブームは造船工不足を激化させたが、造機部門や造兵部門でもそれ以上に職工が不足すると同時に、こうした部門の勤続構成も高まってきた事実を示している。 以上は、職工の賃金水準をみたものであるが、賃金構造についてみると、以下のとおりである。まず、職工の日給について、もっともよく成文化されていた海軍工廠の場合をみると、すでに一八八六(明治十九)年に「等級別日給制」が定められていたが、一九〇一(明治三十四)年の規定によれば、造船工は特別一等二円から三六等一〇銭までの四二等級、その他の職工については特別一等二円から四二等一二銭までの四八等級の大きな格差が設定されていた。だが、最高額まで上昇しえたのは職長のみであり、一般職工の賃金は、かなり低い水準で日給の上昇が頭打ちとなっていたものと思われる。事実、すでにみたとおり一九〇二年の職工の平均賃金は五五銭であった。また、表三-二七からもわかるように、組合工と記されている一般職工の最高日給は八五銭、最低日給は一二銭であった。 他方、民間企業においても、以上のような賃金構造が形成されていた。表三-二八は、一九〇一年における浦賀船渠工場と石川島造船所の日給別職工数を示したものであるが、前者が四〇-七表3-26 男子職工の平均日給額 注 『神奈川県統計書』より作成。1901年分は『横浜市統計書』より作成。 表3-27 横須賀海軍工廠の職階別人数と最高・最低賃金(1899年) 注 『横須賀海軍工廠史』第4巻による 九銭、後者が三〇-七九銭を中心として、かなり広い範囲に分布している。 賃金変動と労働時間 このように重工業における男子職工の賃金は非常に大きな格差を含んでいたわけであるが、このような職工の賃金を職人などの賃金と比較すると、依然として造船工の賃金ですら職人の賃金を大幅に下回っていた。まず『県統計書』によれば、一九一二年の職人の日給の平均水準は、石工一円二五銭、鍛冶職一円二三銭、左官一円一七銭、船大工一円一五銭などのように、大半の職人の日給は一円を上回っていたが、役付を別として職工で最も高いと思われる海軍工廠の造船工でさえ七七銭であることから考えて、職工の経済的社会的地位は相対的に低いものだった、とみてよい。事実、職工・職人などの賃金指数を示した図三-一によれば、横浜硝子の職工の賃金を除いて、いずれの職工の賃金も米価の上昇を下回っており、実質賃金は低下していたものと思われる。横浜船渠などの場合は一九〇一年から一九〇九年の九年間に名目的な賃金の上昇さえみられなかったようである。 こうした状況を反映して、当時の労働争議の大半は、賃上げに関するものであった。当時の新聞も、次のように報じている。「横浜船渠会社の諸職工中賃銭の他に比して低廉なると労働時間の長きと職工足留策として毎日日給の一割宛を会社に貯蓄せしむる等の事より苦情を唱へ……同会社の大工職総計百名程ある内十余名を除くの外去六日より悉く同盟罷工を為せり。其次第は現今横浜一般の大工手間賃は物価騰貴の為め一日七十五銭に値上表3-28 民間造船所における職工の賃金分布(1901年) 人(%) 注 『職工事情』第2巻より作成。合計は全国主要企業9社の合計である。 げして既に実行し居るに拘らず同会社のみは依然として従来の儘にて概ね四五十銭(中には七十五銭位の者もあるべし)の賃銭にて就職し居るのみならず前記の一割貯蓄を引き去らるゝ次第なれば目先他の職工に比して殆んど半額の賃銀を得るに過ぎざる有様なれば……」(『東京朝日新聞』一八九七年六月九日)なり、という状態だったのである。 さらに、職工の労働時間に目を転じると、まず『県統計書』によるかぎりでは、海軍工廠をはじめとして、石川島浦賀分工場・浦賀船渠・横浜船渠などの民営工場においても、一〇時間労働制が定着していることがわかる。しかし、これはあくまで就業規則で決められた所定内労働時間で、残業時間を含んでいないことは確実である。日清・日露戦争による造船ブームは、当時の労働者に過酷ともいえる夜業を強いたのである。たとえば横須賀海軍工廠の状況については、次のように記されている。「明治二七年を迎えると六月以降徹夜作業がはじめられ、早出残業などを加えて、職工一日の平均作業時間は一七時間三分余と計算された。ことに六月二日には、全員直ちに徹夜作業にはいり、各艦の竣工期を厳守するように励むことを命ぜられた。……二八年には……工事が昨年から引き続き昼夜をわかたず行なわれ……その多忙さは言語に絶するものがあった」(『横須賀百年史』六九-七〇ページ)。 また、民営工場においても、ほぼ同じような状況にあった。石川島造船所にあっても、「始業午前六時半、終業午後五時、休憩時間は一一時半から一二時までの三〇分であった。図3-1職工・職人・人夫の賃金指数と米価指数の変化(1901-09年) 注 『神奈川県労働運動史』戦前編97ページより作成 夜業は午後五時から一二時までで、その間に三〇分の休憩を含んでいる」(『石川島重工業株式会社一〇八年史』三二一ページ)。このように、明治後期の造船職工の労働時間は、紡績・製糸女工をも上回るほどのものであり、こうした長時間労働は、社会的にみた相対的な低賃金とともに、職工の労働力移動をいっそう激化させた。 旧型熟練の解体と技能養成 日清・日露戦争を契機とした重工業の発展は、生産の急激な拡大にともない、さまざまな新鋭生産設備の導入を促進し、その結果、職工の熟練の性格を大幅に変化させた。まず、日清戦争前後では、造船業で従来の木船・鉄船から鋼船への転換にともなって職種の分化がある程度みられ、労働の単純化と客観化が進んだ。横須賀海軍工廠でも、鉄工職が鋲打職と鉄部塡隙職に、機械工が旋盤職と仕上職に分化している。だが、この時期では依然として手工的万能的性格をかなり残存させていた。だが、日露戦争時の大艦建造を契機として、それ以後機械化が急速に進められ、手工的熟練の解体と作業の分化・単純化が著しく促進された。横須賀海軍工廠をみると、造船工場における生産設備の新設数が、一八九八(明治三十一)年から一九〇三(明治三十六)年までの六年間で三三件であったのが、一九〇五年から〇七年の三年間には一二五件にも増加している。こうした新鋭設備の急激な導入によって、作業の分化・専門化が著しく進んだ。たとえば、造船工場では、一九〇四年には職場が、現図場・機械場・鍛冶場・亜鉛鍍場・建具場・船台の六職場であったが、一九〇七年には、撓鉄場、鉄工場、鋲工場、管工場、ニッケル・鉛鍍場が新設され、一一工場にまで増加している。こうした職場の分化にともなって、職種の細分化・専門化も進展した。一例をあげれば、造船工は鋲打工・鉄塡隙工・鉄木工・鉄工・穴孔工・鍍工に分化している(『横須賀海軍工廠史』第四巻による)。だが、こうした職種の分化は、この時期にすべての造船所でみられたわけではなかった。設備能力が質量的に劣る民営工場では、こうした分化の時期はかなり遅く、その程度にも限界があった。一般に、民営工場で造船工の分化が起こったのは、大正初期のことであるといわれている。 以上のような新鋭設備の導入による職場の変化は、技能養成方法や管理体制についても大きな変化をもたらしたのである。まず、技能養成の方法についてみると、明治前期に支配的であった親方労働者による技能養成システムとしての職人的徒弟制は、新たな生産技術の導入によって技能の修得が多少容易になったことと、労働力不足による賃金上昇などによって年少労働者の移動が増加したため、日清戦争後にはほとんど消滅してしまった。そこで、新たに熟練職工を養成するために、見習期間を設けて年少労働者の技能養成をおこなう「見習職工制度」が普及していった。横須賀海軍工廠でも、一八九六(明治二十九)年に「見習職工規則」を定め、二一職種について十六歳以上二十歳未満の若年者を、日給三〇銭にいたるまで見習職工として技能修得にあたらせた。見習期間中は、単身で生活しうる程度の賃金を支給するとともに、強制貯金の制度や見習期間修了後の就業を義務づけることによって、若年労働者の定着対策をも兼ねるものであった。 だが、見習職工制度も実際の技能養成を職長などの古参労働者にまかせていたため、「技術ノ教習ヲナスコトヲ怠リ徒弟ヲ自己ノ私用ニ使用スル」(『職工事情』第二巻三七ページ)傾向があり、それほどの成果をあげえなかった。また、「特に或る工場と云はじ、孰れの工場に於ても見習職工にして能く見習年月を勤め上ぐるは少なく、二年三年にして多少の賃銀を得る技倆に達せば、大抵其の工場を逃走して他に雇はる」(横山源之助『日本の下層社会』二三七ページ)と記されているように、見習職工の移動を防止することはきわめて至難のことだった。こうして、見習職工制度も短期間に形骸化したため、熟練職工の大半は、見習工や雑役工などとして見よう見まねによって技能を修得していった農家ないしは都市雑業層出身の若年労働者から補充されることになった。だが、日露戦争を契機とした生産の拡大とそれを担うための新鋭設備の相次ぐ導入は、新たな技術的知識を持った職工の養成と定着を促進する必要に迫られたのである。こうした要請にもとづいて新たに実施されたのが、工業補習学校などの公的職業教育機関に職工を通学させて、新しい技術的知識を修得させることであった。当初は基幹的労働者の再訓練として実施されたが、その後、見習職工の養成手段としても活用されるようになった。 親方請負制の解体と直接管理方式 明治後期における生産設備や技能修得方法の変化は、工場内の管理体制にも強い影響を及ぼした。まず、鋼船製造に移行した明治二十年代には、技術者がきわめて少数であったことと生産が手工的熟練に強く依存していたため、職場を直接統率するのは依然として親方労働者であり、それを通じて管理者=技術者が間接的に職場を管理するという方式が支配的であった。横須賀海軍工廠では、一八九〇年に「職工組合内則」を改革し、職工のなかから選ばれた組長・伍長に率いられたいくつかの協業集団(職工七-一五名程度からなる「組」)を、下級技術者たる班長が管轄する管理体制が築かれている。また、こうした間接的な管理体制では、職工の採用・解雇・昇進・賃金などの決定に関して、職長たる親方労働者は非常に大きな権限を持っていた。それというのも、当時は職長が入札によって一定の金額で仕事を請け負い、作業の指揮監督にあたり、配下の職工に賃金を配分するという、「親方請負制」が支配的となっていたためであろう。だが、こうした親方請負制による間接的な管理体制も、日清戦争後にはかなり変質してきた。すなわち、管理組織の拡充にともなって、職工の募集、出退業管理、賃金の決定、組長・伍長への昇進、賃金支払いなど労務管理上の事項に対して、経営管理者層がある程度の規制力をもつようになった。横須賀海軍工廠においても、「計理掛、庶務掛、工務掛」など六つの係が新設され、管理事務の集中化が進むとともに、職場管理者の職工に対する権限が強化されていった。 その結果、職長の持っていた人事管理・作業管理上の権限を縮小させることになった。とくに、従来、親方請負制のもとで競争入札によって決められていた請負金額に、経営側が請負金額の上限を算定することによって入札価格を規制するようになった。 また、請負利益の配分が客観化され、親方労働者としての職長が、「ピンハネ」などをおこなう余地があまりなくなってしまった。横須賀海軍工廠でも、「工事担当掛員ヲシテ関係職工ノ工賃ヲ就業工数及請負前ノ各自ノ日給額ニ比例シテ配分額ヲ定メ……請負工費ハ職工給料渡日ニ於テ関係職工各自ニ分配支給ス」(『横須賀海軍工廠史』第四巻一五四ページ)とあるように、請負金額の配分比率が職工の就業日数と日給額を基準として客観的に決められるように変革され、分配金の支払いも経営が直接おこなうようになった。とはいえ、職長の発言権がまったくなくなったわけではなく、採用・賃金などの決定や仕事の割振りについて、かなりの権限を依然として持っていたようである。 ところが、日露戦争後になると、生産技術の変化や経営管理機構の整備にともなって、経営側による職場の直接的な管理体制が築かれるように改革された。海軍工廠では、一九〇五年、作業の促進をはかるために新たに加給方式による「工費請負規定」を定め、従来の入札方式を廃止するとともに、加給額決定の基礎となる作業人員および予定時間・予定単価が職場管理者によって指定されるように変化した。また、一九〇四年に「工事費予算編成順序」を定めて、「工務掛」による工費の見積りを厳格化するとともに、一九〇七年には「工事費整理規程」を定めて、実際の所要経費を捕捉する体制を強めていった。他方で、一九〇四年に各職場に組長から選抜した工手を置き、下級技術者たる班長を補助して組長以下の職工を管理させるようにした。 こうして、親方請負制は廃止され、親方労働者として職場を統率していた職長も、職場管理者の補助者という位置に後退し、経営側による直接的な職場管理体制が築かれていった。官営工場で成立したこのような直接的な管理体制は、やがて民間の大工場にも普及していった。横山源之助も、日露戦争後の労使関係の変化を、次のように記している。「今日に至っては、砲兵工廠は固より、一般の鉄工場でも、此の親分的職工は、殆んど見へない、親分的職工の減少の結果、工場主と職工との雇用関係も、従来の如く工場主対親分的職工対職工といふが如きは殆んど廃絶し、工場主対職工の二者の関係となった」(横山源之助『日本の下層社会』二三三ページ)のである。 三 繊維工業の労働市場 製糸業の発展と停滞 前述のように重工業の男子中心の労働市場さえ、職人の労働条件を下回る程度の労働条件しか形成することができなかった。これにたいし、不熟練な過剰労働力の圧力がより大きかった女子中心の労働市場の再生産水準は、もっと低かったに相違ない。全国の工場労働者は、当時はまだ綿紡績女工を中心としていたが、神奈川県の繊維労働者は製糸女工を中心としていた。まず、製糸業そのものは明治前期に続いて後期になるといっそうの発展をみた。表三-二九のように、工場数は明治二十年代末から三十年代に急増したが、日露戦争後には減少しており、職工数もほぼ同様の傾向をたどった。一工場当たりの職工数にはやや変動がみられるが、五〇人弱というのがおおよその規模であった。 こうした器械製糸を中心とした工場制製糸業とは別に、家内工業的な座繰製糸家が県内には多数存在した。その製造戸数も職工数も、日清・日露戦争をピークとする点は似ているが、職工数は日露戦後の不況でかなり減少するのに対し、座繰の戸数はそれほど減少せず、かなり異なった動きを示している。実は生産額も、日露戦争後しばらくの間は器械製糸が座繰製糸を上回っていたが、明治末にはその地位が逆転したのである。ということは、神奈川県の器械製糸が、この期でも発展が続いていた他府県の製糸業や県内の座繰製糸業の発展によって圧迫されたことを示している。 製糸女工と寄宿舎生活 製糸業労働力構成はなによりも若年の未婚の「女工」を中心としているのが大きな特徴だったが、神奈川県の製糸工場の女工数は一八九九(明治三十二)年に二五七九人、一九〇二年に二一〇七人を数え、それは男女合わせた職工のそれぞれ九〇・三㌫、九五・三㌫を占めていたのである。さらに製糸女工の六〇㌫は二十歳未満であり、十五歳未満も二〇㌫弱も含んでいたことはすでに知られているが、彼女らは満足に義務教育を終えることなく十歳を少し過ぎたころから製糸工場に勤め、結婚するまでの十数年間を勤めあげるのが普通であった。たとえば、一八九八年に高座郡に生まれた古木サクさんは、十二歳で盛進社持田工場に入り、小作農家に嫁ぐ二十歳まで勤めたのである(長田かな子「母たちの時代聞き書ノート抄」-『神奈川県史研究』第四一号)。こうした事情は、製糸業がいまだマニュファクチュアの段階にあり、基本的に女工の手先の労働に依存し、またとくに器械製糸の場合は、煮繭・再繰等の工程に分化しており、それだけ個々の作業が単純化していた面もあり、比較的短期間に作業に習熟しうる条件が作用していたのである。 製糸工業は養蚕地帯に立地していたので、多摩三郡以外にも、明治二十-三十年代には高座郡をはじめ、鎌倉郡・中郡などの養蚕地域に製糸工場が多数設立された。そして、主として近傍の貧農などから労働力が供給されることになった。したがって、通勤形態が主流であったが、大きな労働力需要が発生した地域では、供給地域も拡大し、募集人制度や寄宿舎の設置が必要となった。前述の古木サクさんの入った鎌倉郡の盛進社持田工場も、一九〇七年に工女数一二〇人を数え、全員が寄宿舎に住み込んだのである。その寄宿生活は不自由であった(詳しくは、「母たちの時代聞き書ノート抄」参照)。 寄宿制度については、のちに紡績女工についてみるときに再びふれるが、一九一一年には通勤と寄宿を合わせた女工に対する寄宿女工の比率は、製糸紡績表3-29 製糸工場・職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。1893年以前の職工数は年間延職工数を300日で割って算出。座繰製糸戸数は多摩三郡を含む。…は不明を示す。 製綿工場の場合、七八㌫に及んでいる。『県統計書』によれば、製糸・綿紡績・製綿工場に次いで寄宿女工比率が高いのは、織物工場の六六㌫、製紐真田工場一八㌫などである。 製糸女工の賃金と労働時間 つぎに繰糸女工の賃銭についてみると、図三-二のように明治二十年代半ばまでは十数銭にとどまり農業日雇いとほぼ同水準であったが、二十年代後半から三十年代初めに急上昇した。もっともこの時期には物価も上昇していたから実質賃金の伸びは割り引かなければならないが、一八九三(明治二十六)年から一九〇二年にかけて米価が約二倍上がったのに対して、繰糸女工の賃銭は約四倍にも上昇したのだから、実質の伸びはかなり大きかった、とみてよい。この時期には女子の農業就業人口の伸びも大きかったから、労働力の需要が供給よりもかなり大きく、そのことによって賃金が引き上げられ図3-2 女子労働者の1日当たり賃銭 注 『神奈川県統計書』,『神奈川県労働運動史』戦前編による。1902年以降の農作日雇いについては賄つき。*は1900年,**は1892年の数字を示す。 ていったのである。その結果、女子の農作日雇いや機織職の賃銭とはかなりの格差が生まれることになった。しかし、製糸業の発展が鈍化しはじめた明治三十年代末以降になると賃銭は四〇銭に停滞してしまい、他の職種との格差はやや縮小したのである。 製糸業の場合、繰糸という技術的な性格や労働力管理の特質から独特の賃金の支払方法がとられた。すなわち、きびしい検査と、「糸の素性のよしあしで、賃金が違う」(前掲「母たちの時代聞き書ノート抄」)という管理方式が採られていたのである。しかも、繰糸成績の絶対的基準によって賃金を払うのではなく、品質に応じて工女を格差の大きな等級に序列づけることによる「等級賃金制」が採用されたのである。これによって、品質の向上をはかろうとする工女の不断の努力を引き出し、また賃金総額を一定に保つことが可能となったのである。 繰糸工女の賃銭は平均的にみれば、女子としては高水準であった。しかし、男子の諸職人や職工に比べてはるかに低い水準であり、農家の家計補充的な賃金の性格をもっていたといえる。 また、なによりも繰糸工女の相対的な高賃金も、次のような長時間労働によって支えられていた。古木サクさんは次のように語っている。「まず朝は明るくなり次第に、ドーンドーンと大太鼓の音でおこされます。……私らは朝飯の前に二時間位一働きする……夜は大てい夜なべがあって、一日たっぷり働きました」。『神奈川県労働運動史』戦前編には、高座郡綾瀬村の蓼川館に勤めた人の話がのっているが、それによれば「始業は朝七時、終業は冬期七時、夏期八時が通常で夜業をすることも多かった」という。また作業は「汗をふくまのない死ぬ苦しみ」であり、「工場住いは監獄住い、鉄の鎖がないばかり」というような事例についても回想している。製糸工場の平均的な労働時間は、所定内だけで一一時間から一二時間に達していた。こうした長時間労働は、紡績業とともにこの時期の大きな特徴であった。 絹綿紡績工場と労働条件 つぎに、綿紡績業の労働市場に目を転じよう。神奈川県の綿紡績業は明治前期に小企業が整理されたあと、明治二十年代のはじめに、絹綿兼業の日本絹綿紡績が設立され、一八九二・一九〇二年には、その職工数は三〇〇人ほどから五〇〇人以上に増加していた。一九〇二年の女工数は三九六人であったから女工比率は八四・五㌫であり、製糸工場に次いで大きな比率を占めていた。ただし、日本絹綿紡績は一九〇三年には鐘淵紡績に次ぐ全国第二位の大紡績資本である富士紡績に吸収され、富士紡績は〇六年に八大紡の一つである東京瓦斯紡績を合併して富士瓦斯紡績と名を改めた。そして、一九〇六年に保土ケ谷工場の拡大をはかり、本県軽工業界の雄たる地位を確立した。一九〇八年には職工数一〇一七人、うち女工数七五二人、女工比率七三・九㌫に達した。それ以後、明治末期には四〇〇〇人ちかくの女工を数えるまでにその雇用を増大させていったのである。紡績女工の場合は、製糸女工に比べてよりいっそう若年女子に依存していた。というのは、わが国の多くの紡績業はアメリカのリング紡績機を導入したので、かつてのイギリスのミュール紡績機よりも熟練と体力を必要とせず、操作は簡単であったから、わずかの訓練を受けた若年の女子労働者でことたりた。さらに、こうした紡績工場は当時、都市に立地するように変化したので、都市貧民層の婦女子も雇用するようになっただろうが、労働力需要がさらに拡大するにつれて、募集人による遠隔地からの労働力調達をおこない、寄宿舎に収容するようになった。絹綿紡績工場の場合も保土ケ谷という横浜近郊に立地したので、横浜の貧民子女を多く吸引したが、労働力需要が急増した一九〇九年以降は東北地方の貧農子女を調達するように変化した。しかも東北農村の出稼ぎ女工の募集に際しては、募集人によって欺瞞的な方法が用いられ、それは『職工事情』に詳しい。すなわち、「此勧誘ヲナスニ就テ職工生活ノ快楽ヲノミ説明シ毫モ其疾苦ノ状ニ及バザルヲ常トス、……都会見物ノ好機会タルコト等甘言致ラザルナキガタメニ地方細民ノ婦女ハ之ガタメニ心ヲ動カサレ此勧誘ニ応ジ」ることになった。 しかし実際の賃銭は、富士瓦斯紡の場合、明治四十年代にかなり上昇したが、それでも図三-二のとおり農作日雇いに及ばず、副業的な機織職程度の水準にとどまっていた。また労働時間は、所定内一三時間という長労働時間であった。そのうえ紡績業では、巨額な設備投資を回収するために、幼年工・女工を含めて昼夜交代の就業が強行され、業務の都合によって残業を要請されることが多く、「夜業部ノ職工欠席多キトキノ如キハ昼業職工ノ一部ヲシテ翌朝マデ継続執業セシムル」こともまれではなかった(『職工事情』)。なお、年間の休日数については不明だが、富士瓦斯紡における年間操業日数は一九〇八年には三三四日に及んだから、年間の休日は三週間ほどにしかならなかったのである。 紡績女工の場合、寄宿女工が多くを占めたことはすでに示唆しておいたが、この寄宿舎制度は職工の移動を防止し、昼夜業の労働力を確保するために設けられた。寄宿舎の非衛生的な状況や一人当たり居住面積の狭さ、寝具の不備などについても、『職工事情』に詳しいが、この富士紡の状態については、次の新聞等の記事がいきいきと伝えている。「富士紡の保土谷工場は常に男女二千名内外の職工を使役して居るが、其大部分は構内の寄宿舎内に起臥するもので、通勤する者は一少部分に過ぎない。構内の寄宿舎と云へば稍立派に聞こえるが、其実際は一種の牢屋の如きものである。シテ其勤務の劇しいのと、食物の粗悪なのと、衛生設備の不行届なのと、………其中三分一強が常に病の附く職工で、……本社の調査した所では去る六、七月両月中の罹病者は孰れも七百名を超えて、七月以来昨今まで腸チブス患者の発生するに及んでは無慮八百名を超過して居る。……殊に結核性、伝染性の内科疾患が大部分を占めて居る」というのである。さらにつづけて、「此の事実に対して会社の当事者は、果して如何なる措置を執りつつあるかと云ふに、些とやソツトの病気では遠慮会釈なく漕き使って止まぬのである、愁訴、泣訴、幾度に及んで漸く工場内の医務所で診察が受けられるのであるが、其医務所と云ふのが、亦頗るのヘナチヨコで只だ名計りの医務所」(『実業の横浜』第七巻第一七号、一九一〇年八月十五日)だったという。そして、低賃金、長時間労働、過酷な寄宿舎制度によって、契約年限前に移動してしまう女工はあとを絶たなかった。 その他の繊維業の状況 これまで繊維工業の労働市場の特徴を明らかにしてきたが、その周辺に多数の家内工業による繊維業が存在していたことは、すでにその概況をみたところである。明治末期においても、一万戸ちかくの座繰製糸家をはじめ、三〇〇〇人を優にこえる絹織物工、五〇〇〇人ちかくにも達する絹ハンカチ女工などが存在図3-3 職業別1日当たり賃銭の推移 注 『神奈川県統計書』,『神奈川県労働運動史』戦前編による。1902年以降の農業日雇いは賄つき。なお,農業日雇いの1902年以前は神奈川,1905年以降は横浜の数字。洋服仕立職の1902年以前は横浜,1905年以降は横須賀の数字。*は1910年,**は1906年,***は1900年,****は1901年の数字。 したのである。なお、さきの統計には登場しないが、横須賀に多かった内職による麻布刺繍のバテンが一万人以上の就業者を数えていた(『神奈川県労働運動史』戦前編九二ページ)。これらのうち、座繰製糸や機械などの農村工業には、若いころは製糸女工だった女子が農家に嫁し、主婦として副業に従事していたような就業者も多かっただろう。それらの一日当たりの工賃は、すでに掲げた図三-二の機織職の賃銭のように農作日雇いの賃金に相前後する程度の水準にとどまっていたのである。 ここではとくに、明治後期に対米輸出が増大し、横浜で発生した絹ハンカチ加工業について、立ち入ってみておこう。実は横浜スカーフ業の発祥は古く、一八七三年ごろからその製造が始まっていた。当初は色無地であったが、一八九〇(明治二十三)年にフランス人によって木版印刷による意匠物ハンカチ製造の技術が持ち込まれ、急速に発展したのである。さらに一九〇八(明治四十一)年には毛刷式が考案され、大判物の捺染が可能となった。ハンカチ加工の工程は捺染と縁取り・刺繍に大別されるが、前者は水洗の必要から大岡川・帷子川流域に集中した捺染屋によっておこなわれ、親方が四-五人の男子職人を使用していた。後者はもっぱら女子の仕事で、この段階では、まだミシンが開発されていなかったので手縫いであった。そのため、眼が疲れる根気のいる仕事であったという(神奈川県商工部『神奈川県の産地産業・横浜スカーフ編』および聞取りによる)。 絹ハンカチ加工業には、一九〇八年に一四人の女工を雇用する田中工場のようなやや規模の大きな工場も存在したが、ほとんどが家族労働と数人の女子を雇用する家内工業であった。なお、大正期になって仮縫いが内職に依存するようになるが、それまでは内職は用いられなかったという。捺染の木版刷りに従事した版摺職の賃銭は、一九〇八年に六五銭(横浜・中等)であったから、図三-三に示した活版植字職や工廠職工並みの賃銭であったが、熟練職人とはいいながら日雇人足並みの水準であった。 四 港湾荷役などの労働市場 横浜市内の港湾労働者 明治前期から顕著に始まった「都市貧民」の集積は、この段階になっていっそう進み、横浜ではいくつかのスラムが形成された。そのうちのひとつは港湾労働者を中心とした点で特色を示し、そこには「多くの木賃宿が建ち並んで幾千人の人足共がゴロゴロして居る。先づ横浜で輸出入貨物の揚卸しに従事する人足は総体で六、七千人……税関の中丈でも毎日九百以上千何百人と云ふ多勢が入込み又元居留地に沿うた川筋乃至は倉庫許りでも五六百人以上は働いて居る。併し是等は大抵人足部屋と云ふものがあって此に人足請負の親分が控え兎に角其日々々の定まった仕事を持って居るのに引換え、……親方も持たなければ定まった仕事もない本当の立ン坊見た様な今日あって明日が分らぬ否寧ろ其日の生命さへも覚束ない極く心細い世渡りをして行く者許りが集って居」たのである。 また「朝はまづ四時五時まだ全く夜の明けぬ内に宿を出て仕事を求める、行く先きは大抵波止場で立ン坊と出懸けるのだが、船が這入た時などは人足の請負がチヤンと待って居て、何百人、何十人と雇ひ上げては伝馬、艀船で本船へ漕ぎ付け、正午になれば握飯の弁当が出る、それで此弁当代を差引かれて手数料を刎ねられて尚ほ平均四五十銭位の収入があるのだから、少し顔が売れて親方に可愛がられでもすると仕事も楽で一円以上の収得がある。オコボレと云って抜荷、落ち荷の米砂糖其他何でも手当り次第に拾って、インダラ袋と云ふに入れて来て他所へ売る朝から晩まで斯う云ふ具合で荷物の揚卸から石炭の運搬何や彼や真黒になって働いて扨て暮方になると一同帰る」(『時事新報』一九〇一年二月十二日)という状態であった。 こうした港湾労働者は屋根代六-八銭の木賃宿に寝起きしたのであるが、この木賃宿にはほかに「下駄直し、人力車の挽子、研屋、巡礼、越後獅子、チヨボクレ、祭文、法界節、夜流し等有らゆる連中が」(『時事新報』同日付)泊るのであり、港湾労働者などの下層労働者は都市貧民として存在していたのである。先に県外からの横浜への人口流入が大規模であったことをみたが、多くはこうした都市貧民として堆積されたのである。港湾労働者などはかなりの賃銭を得ていたのだが、「外に楽しみのない丈けに銭の有る丈旨いものを食べる」ので使い果たしてしまうことになる。したがって「女房持ちの数は全体の二十分の一位しか」いなかったのである。家族を養うにふさわしい相当の労働の対価を得て、節制をはかり、労働者世帯を再生産していこうという近代的な賃金労働者のエートスはみられない。 下層雑業層の生活状態 ちなみに、別のスラムをみれば、ここは雑業を中心とした世帯持ちからなるのが特色であった。「住んで居る者の種類は何かと云ふに……全体の人口五百の内大人小児を総じて三百人位は先づ此の紙屑拾ひの連中で、其外は人足、人力車挽子、車力、土方と云ふ類の集まり」であった。「屑拾い」も「一日三十銭から五十銭位までの収入を得る事がある、女子供も左様は行かぬが銘々に米代位は取って来るから先づ人並の活計は出来るので……大抵は小遣銭にも困らない様子である」。彼らの場合には、家族を立派に養い、貯蓄心もあり、「一統の団結心の厚い事は此上もない……便りない不幸の者があれば共同一致で助ける、お互であるから恩も売らない代り又有丈けの親切を尽す……、それだから彼達の仲間には悪事を働くものも甚だ少ない」(『横浜新報』一九〇二年一月二十七日)という状態もみられたのである。 五 労働者状態と労働運動 職工・職人などの賃金変動と生活状態 すでに図三-三には明治後期の職人・職工などの賃金水準とその変動を示しておいたが、おおむねいずれの職種の場合も、明治二十年代には停滞的に推移し、三十年代以降に著増している。工廠職工の一日当たり賃銭は、一八八六(明治十九)年の三〇銭強から一九一一(明治四十四)年の七〇銭強まで二倍以上にも上昇している。工廠職工賃銭は、日清戦争の好況期にそれほど増大しなかったが、戦後の好況期には急増し、また明治三十年代半ばの不況期にはやや鈍化した反面、日露戦争後の不況期にもかなり増大している。同じく工場労働者としての活版植字職や、不熟練労働者である日雇人足の賃銭も工廠職工とほぼ同様の推移をたどっている。しかもその水準自体もこの段階では、まだ熟練工と日雇人足などの不熟練労働者との賃銭にはそれほどの格差は認められなかった。もちろん、そろそろ整備されはじめた企業内福利厚生の恩恵を享受でき、収入の安定した大工場労働者と、なんの福利厚生もなく、収入の安定しない日雇人足などの生活様式には大きな差異が形成されつつあったが、この時期ではまだ熟練労働者と日雇人足などでは、生活水準にそれほど大きな隔たりはなかったと推測される。とはいえ、日露戦争後の不況期に日雇人足の賃銭は急落し、この時期から両者の生活水準の隔たりは大きくなってくる。これらにたいし、職人層の大工や洋服仕立職の賃銭は、工場労働者より以上の水準にあり、また上昇率も高くなっていた。もっとも、労働日数は職人の方が少なかっただろうが、たとえば大工のそれは、一八八六年の五〇銭から一九〇七年には一円以上にもなった。このことは、この時期ではまだ職人の社会的地位が大工場労働者のそれを上回っていたことと対応している。 とくに神奈川県に限定した叙述ではないが、横山源之助の『日本の下層社会』(二二七-二三二ページ)によれば、一八九七(明治三十)年前後の労働者世帯の生計状態についての調査が明らかにされている。それによると、一部の職人や役付工や熟練度の高い職工を除いては、労働者の生活は余裕のないものであったと考えられる。もっとも、前述のように明治三十年代以降賃銭は急上昇するが、この時期の物価上昇も激しかったから、実質賃金の増大はそれほど大きくはなかっただろう。また商品経済の拡大による貨幣需要の高まりによって、横山の叙述する状態は明治末でも本質的には変わりなかったであろう。 諸物価の動向を卸売米価の水準に象徴させてみると、賃銭水準と同じく明治二十年代における安定と三十年代以降における急騰が著しい。横浜市の米価は、一八九六(明治二十九)年の一升一〇銭強から一九一一年の一九・五銭までほぼ倍増している。さきにみた賃銭の上昇はそれ以上であったから、収入が実質的に増大したのも事実である。こうした賃金の上昇は、のちにみるような労働運動の活発な展開によってもたらされた側面もあるが、何よりも労働力の需給関係、とくに労働力需要の増大によってもたらされた側面が強いだろう。 こうした余裕のない労働者生活は、失業・疾病・災害などの事故が発生した際には、たちまち窮乏化し、不安定な状態であっただろう。この時代では、社会保険制度は存在せず、前期から存在している公的な救恤政策も、一九一一年には県内の救恤者総数一五一人、救恤者一人当たり米高七六八合、代金一三円という微々たる制度でしかなかったから、生活上の事故に対しては公的な援護措置はほとんどなかった、といってよい。そこで熟練職工の間では、後述するように共済制度が発達したのである。また、軍工廠をはじめ大工場では、企業内の福利厚生も共済制度を補完するかたちで導入されていった。また、親方請負制に包摂された労働者の場合には、親方・子方の家族主義的な関係が存在したので、労働者の生活上の事故に際しては、親方が面倒をみることとなった。しかし、人足や車夫などの不熟練労働者の間では、事故が生じた場合、即窮乏化を意味し、それに対しては、前述のような地域的な共同体的な援護が重要な役割を果たしたのである。 労働争議の頻発と労働組合の結成 この時代の労働運動の特徴は、労働者の労働条件に対する要求が高まり、それをめぐって労働争議が発生したことである。それは、この時期の著しい物価騰貴、そして非近代的な労働条件や労務管理という条件が背景に存在したこととともに、前述のような工業発展の必然的結果である男子労働者の蓄積にともなう労働者意識の高揚があったことを理由としている。争議件数の推移をみると、表三-三〇のように日清戦争後の一八九七年から活発化し、とくに日露戦争後の明治四十年代に入るといっそうその数が増加している。一八九四(明治二十七)年以前には、指物職人や仕立職人などの職人、製茶女工などの争議がわずかに数例記録された程度であったが、一八九七年以降はそれとははっきりと違った状況を示している。しかし、この九七年以降の争議の大部分は自然発生的・非組織的におこなわれたのは前代と同様である。つまり、まだ労働争議が労働組合によって組織的におこなわれたのはまれであったのである。ただし、左官とか船大工のような職人の場合には、その同業組合をして組織的におこなわれることが多かったが、工場労働者などは労働争議を契機として労働組合への組織化も進むような状態にあったのである。 この段階の労働組合としては、この節の冒頭でもふれたアメリカAFL流の「労働組合期成会」によってつくられた鉄工組表3-30 労働争議件数の推移 注 『神奈川県労働運動史』戦前編より作成。争議には不穏・要求・紛擾等を含む。1912年は7月までの数字。 合が有名である。同組合は鉄工のような高度の熟練工によって組織されるクラフト=ユニオンであり、労働者相互の親睦と共済活動をおこなうものである。県下でも、横浜船渠や横須賀造船所に支部がつくられた。また従来から組織化の進んでいた西洋家具職工も、一八九七年にこの鉄工組合に加盟している。そのほか、期成会の支持のもとに明治三十年代に成立した労働組合としては、日本鉄道矯正会と活版工組合があるが、県内労働者と深い関わりをもったのは後者である。こうしたクラフト=ユニオンの中心的活動は、失業や疾病などの際の共済活動にあり、賃上げ闘争などは第二義であったが、わが国の熟練形成の仕方からくる労働力供給の規制力の弱さ、財政的基盤の脆弱さ、経営者側の抑圧などのゆえにほどなく衰退してしまった。当時の日本では、こうした穏和な労資協調的運動さえ受け入れられる条件がなかったのである。しかし、明治三十年代初頭にみられた活版工組合の場合は、明治四十年代に再びよみがえり横浜欧文会が再結成され、賃上げなどの闘争をおこなっている。また船員の場合には、一八九六(明治二十九)年に海員倶楽部が結成され、一九〇七年に海員協会に発展している。これは高級船員の組織であったが、一般海員も一九〇二年に海員共同救済会を組織し、さらに機関部員は一九〇六年に機関部同志会(のちに船員同志会と改める)を組織し、共済活動とともに、賃上げなどの運動を活発におこなったのである。 労働争議の内容に立ち入ってみると、表三-三一のとおり、最も多いのが賃上げ闘争であり、この時期の持続的な物価騰貴を反映していた。次に多いのは、上役の虐待や不公平な扱いに対する争議であり、この時期の労務管理の未発達を如実に示している。また待遇改善要求のなかには、労働者の尊厳を主張する要求がかなり含まれている。たとえば、一九〇八年の横浜電鉄のストライキでは、車掌・運転手が監督その他の社員によって呼捨てにされているので、「さん」もしくは「君」づけせよとの要求を提出している。ここにも社会的地位の上昇を求める、この時代の労働者階級の心意気がみられる。日露戦争以前においては、解雇を不満とした争議はきわめて少なく、スト指導者の解雇に反対して起こった横須賀工廠兵器部と石川島造船所浦賀分工場が浦賀船渠に買収される際の職工整理の不手際に原因する争議が二件あったのみである。しかし、日露戦争後の不況期になると、労働強化・賃下げ、あるいは解雇がひろがったため、それらに反対する争議が増加した。しかし、そうした解雇反対闘争も、解雇の仕方が即日解雇というような労働者の意向をまったく無視するようなことがおこなわれたので、紛糾化してしまったケースが多いのである。この段階までは不況時の解雇は常態であり、長期雇用の慣行は一般的ではなかったのである。なお、注目すべきはこの時代の長時間労働という状態に対して、時間短縮要求がまったくといってよいほどみられなかったことである。わずかに、一九〇一年の小田原電鉄労働者の勤務時間短縮争議が一件だけである。この段階では、低賃金水準のゆえにむしろ就業日数・残業時間の確保の方が要求されたのである。たとえば一九一〇年に横須賀海軍工廠では、夜業を「全廃し日曜日及び祭日を休業する事に略決定せるが如し夜業廃止の一条は数千の職工間に一方ならず恐怖を醸し職工大会を開きて善後策を講ぜんとする形勢あり」というような状況だったのである。 労働争議の主体と成果 つぎに、労働争議の主体について考察しなければならない。表三-三二のとおり日露戦争以前には、大工・裁縫職・石工など職人の争議が大きなウエイトを占め、工場や近代的な交通機関における争議は三分の一程度に過ぎなかった。また工場の争議にしても、パン職人や船大工といったような事実上職人的性格の労働争議が含まれており、近代産業の争議は少なかった。しかし、日露戦争後になると職人の争議のウ表3-31 労働争議の原因別件数 ( )内は比率 注 『神奈川県労働運動史』戦前編より作成。1894-1905年は1905年8月まで,1905-1912年は1905年9月から1912年7月までの数字。原因が複数である場合はそれぞれについて集計した。 エイトは減り、工場や近代的交通機関や海員の争議が目立ってくる。こうした分野における労働者の蓄積と彼らの労働者意識が高揚したことを物語っている。そのほか、わが国最大の貿易港である横浜港をひかえているために、港湾に関係する労働者の争議が多いのも神奈川県の特徴である。さらに、日露戦争前後を通じて数は少ないが、注目しなければならないのは「人力車夫」の争議である。それはあたかもイギリス産業革命期のラダイト=機械打ちこわし運動の性格を再現したものであった。すなわち、明治三十年代に入ると地元資本による県内の交通革命が進み、大師電気鉄道・小田原電気鉄道・江ノ島電気鉄道・横浜電気鉄道・湘南馬車鉄道・横浜鉄道などが開通した。これらの建設にあたっては、車夫らは自己の存立基盤が脅やかされるというわけで反対し、妨害活動をおこない、各地で打ちこわしなどの騒擾事件をひき起こした。しかし、交通の発達の必要という時代の要請には勝てず、彼らの運動はおさえ込まれ、やがて、車夫営業に対する減免運動という型に姿を変えていかざるをえなかったのである。 これらのさまざまな争議の結果について総括的にみれば、結果のわかっている争議が、日露戦争以前では二三件中成功一八件(七八・三㌫)であり、とくに賃上げ要求についてみれば二〇件中一六件(八〇㌫)と成功率はかなり高かったのである。しかし、日露戦争後になると、解雇・賃下げ反対争議はほとんど完全に失敗し、賃上げ争議に限ってみても三二件中成功一〇件(三一・三㌫)のように成功率はきわめて低くなっている。この違いは、日露戦争以前には不況は短期間に終わり、すぐ好況へと推移した状況があったが、日露戦争後は恐慌から慢性的不表3-32 労働争議の主体別件数 ( )内は比率 注 『神奈川県労働運動史』戦前編より作成。1894-1905年は1905年8月まで,1905-1912年は1905年9月から1912年7月までの数字。 況へと推移していったことに求められるだろう。そのほか、一九〇八年以降、警察の介入が増大し、それが労働者側に大きな圧力をかけたことも理由としてあげられねばならない。 女子労働者の抵抗と移動 以上は男子労働者の運動が中心であったが、長時間労働・低賃金・寄宿制というような原生的労働関係のもとにあった多数にのぼる女工の運動はどうであったろうか。日清戦争以後、政府によってたびたび女子・年少労働者の就業時間制限を中心とした「工場法」の制定が企てられてきたが、「工場法」の制定は雇主・労働者の関係を権利義務関係として明確化してしまうばかりでなく、産業の国際競争力を弱めてしまうという理由から、紡績資本をはじめとした企業経営者側の強力な反対にあい、その都度流産を重ね、一九一一年まで制定されることがなかった。しかも、一一年に制定ののち実施されたのはその一五年後であった。こうした事態のもとでも、県内の女子の労働運動はまったくといってよいほどみられず、たまたま運動を組織する者があっても、経営者側の抑圧によって挫折させられてしまった。たとえば、平沼青柳麻真田工場の女工二人(二十六歳と十七歳)が主謀者となって同盟罷工をおこなったが解雇されてしまい、「解雇後も同工場の職工仲間を煽動する形跡あるより真田組合にては職工雇傭規定に基き右両人の雇入れを禁止することとし組合員一般に通告したり」(『神奈川県労働運動史』戦前編一三〇ページ)という状態であった。 このため、女工は労働条件の改善を経営者側につきつけるというより、頻繁な企業間移動、あるいは逃亡という消極的な抵抗を試みるほかなかった。 第二章 明治後期の農業 第一節 商品生産発展の地域的性格 一 三多摩分離後の県農業 多摩地方の分離 一八九三(明治二十六)年、多摩三郡は東京府へ移管され、神奈川県管轄下から去っていった。これによって、神奈川県が管轄する内陸部畑作養蚕地帯は、高座・津久井・愛甲三郡だけに縮小し、県下の経済構成に変化が生じた。これより先、一八八九年、東京-八王子間に甲武鉄道が開通し、八王子は、より強く東京と結び付いたようにみえた。しかし、このことは、ただちに八王子と横浜との商品流通を弱めはしなかった。それは、かえって八王子と津久井郡・高座郡・愛甲郡中津川上流部などとの経済的結びつきを強めさえしたのである。多摩地方の生糸・製茶は、従来、馬背などで直接横浜へ運ばれていたが、それは鉄道開通によってすぐには変化をみせていない。生糸を鉄道で運送するときは、従来の駄送に比べ運賃が一〇〇斤につき約一銭二、三厘の増加となり、加えて汽車輸送では荷物の取扱いが粗漏で、往々貨物が損傷し、「意外ノ損失」を招くことが少なくない。そのため汽車便に託すときは特に堅固な荷造を要し、その費用も無視できないものがあった。よって、「依然馬背ヲ用フル者多クシテ汽車便ニ托ハルモノ甚タ僅少」(一八九〇年「神奈川県農事調査現況」)であった。製茶は、汽車便によれば、特別の荷造費を加えても、駄送よりは、運賃一〇〇斤に付二銭内外減少するが、一八九〇年は鉄道開通後、最初の製茶期なので旧来の慣行によって、やはり馬背を用いるものが多かったという。しかし、この年三月五日県に出願し、同十五日認可設立された神奈川県茶業組合郡部連合会議所(本部津久井郡川尻村、議長市川幸吉、副議長秋元九兵衛)は、それに先立つ三月十二日、「神奈川県茶業者総代タル郡部連合会議」の決議にもとづき、甲武鉄道会社に「鉄道積茶荷物運賃引下ケ願」を提出している。これによれば、同社は、「東京-横浜間、官設線路」、「東海道線」と同様、一貨車貸切りの製茶荷物に限り割引運賃を定めてはいるが(一貨車一マイル三銭)、当地では「一ケ所ニシテ一荷車ニ積載スヘキ荷物ノ輻輳スル土地ハ僅々ニシテ、殊ニ製茶ノ如キハ迅速ノ運送ヲ要スルモノ」(川崎市高津区田村家文書筑波大学蔵)なので、一貨車貸切りに限らず、どの停車場から積み入れても割引運賃にしてほしいというものであった。当時の多摩・津久井地方の製茶のように、零細な生産者によって生産され、一か所に大量に集荷されることのない商品は、貨車貸切りという汽車運輸の特典は利用困難であった。したがって、旧来のままの車馬による運送が続けられたのである。また生糸・茶以外の貨物も、「種類ニ依リテ各運送費ニ増減アリト雖トモ、一般ニ車馬ニ依ルモノヲ以テ多シトス」という状態であった。しかし一方、鉄道開通は、八王子に、迅速かつおよそ二割程度安い運賃で、東京から消費物資をもたらすこととなった。そのため、津久井郡は、「古来ヨリ輸入ヲ愛甲郡厚木ニ仰キシモ、今ハ転シテ多クハ八王子ニ仰クニ至」(前掲「神奈川県農事調査現況」)った。こうして、甲武鉄道の開通は、かえって、津久井郡などを生活必需品の購入を通して強く八王子と結びつけたのである。このように、三多摩の分離以降も横浜市や神奈川県の一部地域は、依然として多摩地方とくに八王子との経済的結合を保持し続けた。 多摩分離後の県下農業 以上を念頭におきつつ、多摩分離後間もない明治三十年(一八九七)前半期(一八九七-一九〇一年の五か年間平均数値を用いる)の県下農業形態を概観しよう(表三-三三)。 表3-33 1897(明治30)-1901年平均農家1戸当たり耕地面積・耕地利用状況 注1 「神奈川県統計図幅説明書」(『神奈川県農会報』第26号)より作成。 2 雑穀は粟・稗・ソバ,豆類は大豆・小豆・えんどう・そらまめ。 3 作付延面積は表掲作物の作付面積の合計で桑園・果樹園・表掲以外の作物を含まない. この時点で、県下総戸数一五万戸のうち、半ば以上(五四㌫)が農家である(八万二〇〇〇戸)。非農家の半ば以上(五三㌫)は横浜市とその周辺に集中し、他はほとんど小田原および沿海漁村地帯に分布している。横浜市とその周辺での商工業の発展が、農家比率を右の程度に下げているのであり、横浜市を除けば、農家比率は七一㌫になる。横浜市での商工業発展と対照的に、他地域では依然として農漁民が圧倒的な比重を占めていた。 その農業形態は、維新期にみられた地域的性格(第一編第一章第一節)が、基本的にはそのまま保持されている。しかし、この時期にあっては、各地域農家はそれぞれの形で商品生産を発展させていった。 二 横浜周辺五郡 水田裏作と谷戸田 横浜周辺五郡のうち、多摩川に沿った水田地帯を含む橘樹郡は、県下で最も水田の比重が高い。また、同地帯と鶴見川沿岸水田地帯(都筑郡)は、かなりの裏作が行われていた(表三-三四)。しかし、その他都筑郡の一部から鎌倉・三浦郡に広く存在する水田は、丘陵間の谷戸田を典型とする天水による単作湿田で、降雨が少ないときは直ちに旱害をうけるのを常とした。ここでは、例えば遠く相模川上流津久井郡部分から取水し、相模原を貫く用水路を布設するといった大規模な水利事業を施行することなしには、生産力の向上はほとんど望めない。現にこの時期にあっても、近世期と変わらない反当収量が維持され、停滞が続いていた。 馬鈴薯と片栗粉製造 したがって、この地帯農業の明治期以降の発展は、むしろ畑作の部門にみられた。表三-三四では果樹・近郊蔬菜の動向はわからないが、横浜市・久良岐郡で馬鈴薯、三浦・鎌倉郡で、甘藷・大根の作付比率が、他郡に比しとくに高い。明治前期にはみられなかった現象である。前者は保土ヶ谷を中心に、明治初期から急速に栽培を増し、これに付随して、澱粉(片栗粉)製造も勃興している。一八九六(明治二十九)年横浜市岡野町に設立された県立農事試験場で、当初から、数十種の外国種馬鈴薯の比較試験・栽培法研究が試みられているが、これはこの地帯での馬鈴薯の盛んな栽培状況の反映であるとともに、またそれの一層の発展を促す役割を果たしたであろう。片栗粉製造は、一八八〇年ころ保土ヶ谷の田口利一郎が、甲州その他での見学調査をもとに簡単な製造器械を発明したのを始めとするが、これによって農家は馬鈴薯の市場での値崩れによる損害を免れることができたという(富樫常治『神奈川県園芸発達史』)。片栗粉製造は普通、一〇坪ほどの板敷の仮小屋に器械(約三〇円)を据え、井戸または流水場を設け、四斗樽五〇、篩その他、合計三〇〇円位の設備で、馬鈴薯収穫後約七〇日間ほど、毎日男女各三人ずつで操業した(「明治三十八年『神奈川県農会報告』第二三号)。薯六〇〇斤(六俵)から片栗一箱(一二貫)、粕一俵(片栗一斗に対し粕一斗の割合)が得られた。片栗は、蒲鉾の原料・機の糊料・菓子の原料用に主に東京へ、粕は、牛豚の飼料として横浜へ出荷され、その額は、一九〇四年現在片栗二〇〇〇箱一万円、粕二〇〇〇俵八〇〇円ほどで、農会調査では、上述規模の操業で、年間収入一六五五円、支出一六五〇円、流通資本はすべて自家出資なのでその年利一割二分として九〇円を純益の部に算入して、はじめて九五円の利益となる計算で、さして有利な営業ではなかった。ところが、この地帯の馬鈴薯は、一九〇五年ごろになると東京市場で次第に北海道産に圧倒され、澱粉製造とともに次第に生産額を減ずる傾向を示すにいたっている。 表3-34 水田裏作率 注 1894(明治27)年は,『神奈川県農会報告』第1号,1909(明治42)年は『神奈川県統計書』より作成。 三浦大根梨・桃 三浦郡の大根(秋大根)は、高円坊大根と称する在来種を、練馬系尻細種など、同地の温暖な気候に適した晩生種に移行させながら明治以降栽培を増やした。 以上のほか、橘樹郡大師河原村・綱島村を中心とした梨・桃、都筑郡柿生村を中心とした柿、橘樹郡子安村を中心とする東海道沿い諸村での西洋野菜(セロリ・花野菜・ラデイッシュ等)などの特産にそれぞれの発展がみられた。梨・桃の産地では、いずれも品質よく経済的にもすぐれた品種が発見され、急速な普及をとげ、特産地としての地位を固めた。梨にあっては、赤梨の優良品種「長十郎」の出現である。「長十郎」は、一八九三(明治二十六)年、橘樹郡大師河原村出来野の当麻辰次郎(家号長十郎)の畑から初めて発見されたものであるが、一八九七年ころ黒星病によって梨が全滅に瀕する大被害を蒙った際、「長十郎」だけが何ら被害をうけなかったことから、以後急速に普及して他品種を圧倒し、明治末には梨栽培品種の八割にいたった。「長十郎」は甘味多く、豊産で隔年結果の弊少なく、病害に強く、果型よく色沢良好というすぐれた商品性をもち、やがて全国的な普及をみた。桃では、一八九八年、橘樹郡田嶋村吉沢寅之助によって中生種(七月中旬成熟)「伝桃」(または伝十郎桃)が製出され、一九〇二年から販売された。同種は、色沢・品質とも当時の栽培品種に比し格段にすぐれ、これの普及によって、神奈川県の桃の品質統一がなしとげられ、栽培面積を拡大するにいたったという(前掲『神奈川県園芸発達史』)。これと時を同じくして(一八九九-一九〇〇年ころ)、大師河原村伊藤市兵衛は、中熟種(七月下旬-八月上旬成熟)で樹性強健・豊産・品質の優れた新品種を発見、「早生水蜜」(上海水蜜より熟期が早いのでこの名がある)と名付けた。さらに、一九〇七年ころ、大綱村池谷道太郎は、極早生種の「日月桃」を選出し、ここに、熟期の異なる優良品種が揃い、この地帯産出の桃は、市場での評価を高めた。 西洋野菜など 子安村を中心とした西洋野菜栽培の発展はやや遅れ、日露戦後の好況期に始まるといわれる。そして、一九一一(明治四十四)-一二年ころには、鶴見川境から神奈川町境にいたる東海道に沿って、作付面積は五〇町歩弱となり、栽培農家一二〇戸、一戸少なくとも五反、多くは一町五反を栽培し、七割を東京へ、残りを横浜に出荷し、二〇〇〇円以上の収入(全体で年産二〇万円)をあげる黄金時代を現出した(前掲『神奈川県園芸発達史』)。その他、久良岐郡六浦荘村釜利谷、根岸村等でも、維新期から種々の西洋野菜を栽培してきた経験の上に立って、子持甘藍・輸出用百合根・アスパラガスなどの作付がなされているが、市場が極めて限定され需要・価格が不安定で、かつ種子の自家採取などの技術が確立せず、特記すべき発展はみられない。また、維新期、橘樹郡綱島村でみられたほおずき(鬼燈・酸漿)の特産も、小倉・矢向・江ヶ崎・塚越等の諸村に広がるにいたっている。ほおずきは、一株に一四、五-二〇果、一反歩で竹笊に一〇〇杯(笊一枚は二斗入約一五〇〇-一六〇〇果)を産し、価格は変動がはげしく笊一枚につき上等一円三〇銭-下等七〇銭の年から、上等四五銭-下等三五銭という安値の年まであり、一反歩で三五円-一〇〇円以上の収益が得られた。これらは早朝農家が採取したものを、昼ごろ仲買人が来て買い集め、選別した後、東京・千葉や県下の市町へ仕向け、あるいは塩漬にして保蔵された(神奈川県農事試験場技手小林滝太郎調査明治三十七年『神奈川県農会報』第二〇号)。 麦稈真田経木真田 さらに橘樹郡川崎では、一八七八(明治十一)-七九年ころから急速に発展した麦稈真田・経木真田の製造がみられる。麦稈真田は、夏用帽子の原料として、一八七八年横浜二百四番館ストラーフ商会が、東京府大森にこれを求めたのに始まり、翌年以降米国からの注文が激増するにともない、その製造がまず川崎に伝播し、農家副業として急速な伸長をとげた。これはさらに全国的に拡大して四、五年のうちに、輸出年額二〇〇-三〇〇万円に達する主要輸出品の一つとなり、一八九二年に最盛期を迎えた。しかし、一八九八年ころから「大森真田」とよばれる川崎の真田生産は、注文が減少し、廉価となり衰退に向かった。しかし、これに代わる商品として、一八九四-九五年ころから経木真田の生産が興り、一九〇二(明治三十五)年には、川崎および大崎地方では麦稈は真田生産のうち一〇-二〇㌫で、他はすべて経木真田に切り替わった。原料の麦稈は、普通の麦から抜き取る(穂首から一または二節以上)。農家はそれの袴を取り六寸に切り揃え、風雨に当たらぬよう菰包みとして、仲買に売る。一反の麦稈約九〇貫のうち一、二割(約一〇貫)を選んで抜き取り、四、五円の収入になるという(一九〇二年現在)。抜き取った麦稈は、問屋によって選別の後、硫黄で漂泊し、時には染色したのち、製造人に渡し、製造人は農家などに配布して、これを編ませる。農家はこれを副業として一日に一-一反半を編み、編み賃として六、七銭-一九銭を得た(麦稈一貫から四、五反を得るとされる)。経木新田の原料は、八戸・盛岡等から送られてくるドロヤナギで、やはり問屋・製造人を経て農家に配布された。このように、麦稈真田から経木真田への転換は、川崎地方の麦作からの原料供給を廃絶させ、農家にとっては、たんなる婦女子による農閑期の工賃獲得の手段となった(明治三十五年五月「神奈川県農会調査」『神奈川県農会報』第一一号)。以上からうかがえるように、その生産は、海外市場の状況に左右されてきわめて盛衰がはげしい。 以上、横浜周辺五郡において、水田面では一部での裏作の拡大を除けば停滞を続け、畑作面では内部に小規模ながら、いくつかの特産地が形成されるという発展がみられた。また、これにともない、澱粉製造や麦稈真田・経木真田製造という、特産物ないしは農家の余剰労働力を利用した新たな加工業が生まれている。 三 内陸養蚕地帯 副業としての養蚕 高座・津久井・愛甲三郡農業の主要な貨幣収入源である養蚕は、明治後期においても、生産はとくに顕著な拡大を示さなかった。しかし、蚕種改良・温暖育の普及・秋蚕飼育の拡大・桑園改良といった技術的改良が進められた。これによって、養蚕は農家経営のなかで、労働力の均等な年間配分など、経営他部門(耕種・養畜)との整合が図られ、主要な「副業」としての地位を固めていった。すなわち、県下で最も養蚕業が発展したこの地帯でも、養蚕規模を一層拡大していく方向-養蚕大経営への発展はみることができない。高座郡相原村についてこの時期の収繭量の変遷をみると、その明治三十(一八九七)-四十年代における増加は、もっぱら秋蚕の増加によるものであることがわかる(表三-三五)。同郡大沢村の秋蚕は、一八八〇(明治十三)-八一年ころからわずかに行われていたが、一八八六年ころから漸次増加し、一八九四年ころに掃立枚数一三〇〇枚位(一枚から繭四-五斗をとるとして、収繭量約五二〇-六五〇石)に達し、一九〇五年には、蚕種に風穴種を用いてさらに掃立量を増し、同時に秋蚕専用の桑を植栽するにいたり、一九一〇(明治四十三)年にはその反別が三六町余におよんだ(一九一一年「大沢村治概要」)。これによって、農作物の作付面積は減少し、収穫量も当然減じたように考えられるが、事実は、そのようにはならなかった。前掲「村治概要」は次のように述べている。 養蚕業ノ発展ハ、各農家ガ収入ノ増加ニ従ヒ、肥料ノ購入充分意ノ如ク購求シ、特ニ産業組合創立以来(一九〇五年六月設立)確実ノ肥料ヲ低価ニ購買シ得、及資金ノ乏シキモノハ信用組合ヨリ資金ノ融通ヲナシ購買ニ充用セシメ、加フルニ近来牛豚ノ養畜ハ大ニ繁殖シ、従テ堆肥ハ充分ニ造作シ得……少シモ農作物ノ収量ニ影響セス とし、一例として、一八八九(明治二十二)-一九〇〇年ころは、麦は、肥料に米糠を多くて反当八斗位(一九一〇年ころの時価で二円二〇銭)施し、反収一石八斗ほどであったが、一九一〇(明治四十三)年ころには、充分な牛馬の堆肥に加え、米糠・豆粕・化学肥料等、合算して基肥に五-六円、追肥に約一円五〇銭という以前の二倍以上の施肥をなすことによっ表3-35 1892(明治25)-1911年高座郡相原村の収繭量・家畜数の変遷 注 1 『相模原市史』第6巻第19,20表より作成。 2 家畜数は1909年の数字。 て、三石以上の反収を得るにいたったとしている。 麦の商品化 麦は、表三-三三、三-三六のように、この養蚕地帯三郡での主要な農作物である。畑は、麦-陸稲・雑穀、麦-大豆という本来は自給的な作付体系が、依然として支配的であるが、明治二十年(一八八七)代後半以降、その平均反当収量は、わずかではあるが着実に上昇を示している。いま、高座郡綾瀬村での作付麦の品種をみると(表三-三七)、大麦ではゴールデンメロン、小麦ではふるづ・阿弥陀寺という、いずれも多肥性の新品種が部分的に導入されており、販売を目的とした栽培が一部に行われていることがわかる。また同郡大沢村でも、小麦は総耕作反別の三二・七㌫、大麦は一六・六㌫に作付され、品種には、小麦で阿弥陀のほか、県農事試験場の推す優良品種、赤坊主・白ボロなど、大麦ではゴールデンメロンの導入がみられ、一九一〇(明治四十三)年現在で、小麦は「近年販路拡張ノ結果増加ノ趨勢ヲ呈シ来レリ」、大麦は「ゴールデンメロン種ハ近来麦酒醸造用トシテ特約販売(大日本麦酒会社との)ヲナスニ至レリ、更ニ一層ノ増加ヲ来セリ」(前掲「村治概要」)とされている。一方、高座郡農会は一九〇一(明治三十四)年に第一回の麦作立毛品評会を開き(五月二十一日から一週間)、対象を大麦ゴールデンメロン・早生美濃(みのごろ)に限定し、各町村から優良なもの五点ずつを選出させ、審査を行った。褒賞授与式において、一等となった座間村農会は、「歓喜ノ中ニ……当日受領シタル優旗ヲ掲ケ会員一同ニ護送セラレツヽ勇マシク帰村」(「郡農会記事」『神奈川県農会報』第一〇号)したという。また、この麦作立毛品評会は、村農会の主催で、座間・鶴嶺・御所見・海老名・小出・明治・渋谷・六会・綾瀬の諸村でも開かれた。こうした農民の熱意に促されつつ、多肥性の品質の良い麦の新品種表3-36 内陸養蚕地帯3郡での大麦反当たり収量の変遷 注 1 『神奈川県統計書』より作成。 2 1905年以降は畑作のみの数値。 の普及が進み、反当収量の増大とともに、麦の商品化が進展していった。 甘藷栽培の発展 さらに、この時期には、麦-甘藷という作付体系をとりつつ甘藷の栽培が、高座・愛甲および中郡に拡大している。 甘藷は、明治初期にあっては、主に高座郡南部や藤沢から平塚にいたる海岸の砂地に栽培され、他村では、わずかずつ、主に自給用に栽培されていたにすぎなかった。品種も、中郡大野村八幡原産の「八幡」あるいは「相州白」など地元品種を主としていた。しかし、明治三〇年(一八九七)代に入ると、高座郡中部以北で栽培を増し、とくに一九〇七年以降、全般的な作付の拡大をみた(表三-三八)。茅ヶ崎町など海岸砂地では、七月中旬からの早掘り販売が行われ、一反歩四〇円もの収穫をあげる一方、高座郡北部でも、一九〇八(明治四十一)年横浜鉄道開通後、この沿線諸村は、信州方面への甘藷移出を意図して急激に作付を増すなど、総じてこの表3-37 1904(明治37)年高座郡綾瀬村における麦の品種 注 『神奈川県農会報』第18号より作成 時期の栽培の拡大は、甘藷の販売による貨幣収入の増大を意図して行われたものであった。藤沢・茅ヶ崎町では早生の「八幡」が多く栽培され、初夏から、茅ヶ崎は茅ヶ崎停車場、藤沢は藤沢停車場から移出された。また六会村は「川越」種が多く、同様藤沢停車場から移出され、大和村からは「南京」が神奈川地方へ出荷された。相原・大沢村は、横浜鉄道開通の影響を強くうけ、同鉄道橋本駅から信州へ、秋末から早春にかけて多く移出がみられた。品種は貯蔵性に富む「南京」を主とした(一九九一年現在)。 このような甘藷栽培の発展に県も積極的であり、高座郡役所は、一九一〇年に大和村・大沢村に甘藷模範場を置き、郡農業技手が大和・大沢村の担当人を監督表3-38 高座郡甘藷作付面積・収穫高の変遷 1902(明治35)-1911年 注 1 1911(明治44)年高座郡役所「甘藷模範成績」第2報より作成。 2 麻溝村1902(明治35)年の欄には1903年の新値を掲げた。 して実地試験を行った。翌年には、この模範場をさらに六会村・茅ヶ崎町に増設している。 同模範場の試験結果を記した「甘藷模範成績」緒言(第二報)は、当時の郡下甘藷栽培増加の傾向をもってすれば「殆んと全郡一帯甘藷地となり近き将来に於て巨万の輸出のあるへしと信す之れ郡是として模範場を設置せし所以」なりとしている。同場では種々の品種の比較試験を行い、「販売用として利益多からんと認めらるゝ種類」として川越(在来および本場)、南京など、自家食用として三良主・枇杷嶋、乾燥藷製造用として琉球・紀州・四十日等が適しているとした(高座郡役所 明治四十三年度「甘藷模範場成績」第一報 明治四十四年度「甘藷模範成績」第二報)。在来種の早生白(相州白)は、食味・収量とも最も劣るとして斥けられ、一九一一年からは比較試験の対象からも外されている。この試験結果にもとづき、郡農業技手池田儀作は、とくに川越(本場)の栽培を奨励した。また彼は「甘藷栽培法」を記して「本郡農土に適する栽培標準」を農家に示したが、その末尾の項、甘藷の連作において「甘藷は年々同一地に栽培するときは、其の収量年を遂って減少の傾あり、且つ病害に侵され易きも、形状正しく品質可良なるものを産す、故に販売用の甘藷は連作するに利あり」と述べていることから、同郡栽培指導の対象が、主として販売用甘藷にあることは明らかである。 以上、養蚕地帯三郡では、依然として主要な現金収入源は養蚕であるものの、むしろそれ以外の麦・甘藷などについて商品化が進み、自給的な雑穀・大豆に代わって、商品作物として甘藷の栽培増加が目立っている。 四 相模川以西三郡 裏作水田と煙草栽培 相模川以西三郡(大住・淘綾郡は、一八九六-明治二十九年-合併、中郡となる)とくに酒匂川流域の水田裏作地帯では、県下で最も水稲の作付比率が高く、また水田裏作率も最高である。農家一戸当たりの水田面積は決して多くはないが、水田の存在が、この地域農家の経営を安定させ、それがまた農業が大きく変化しない原因ともなっている。 この地帯で、里芋・大根という旧来からの蔬菜の作付比率が最も高いことがその証左であろう。ただ、内陸部中郡の西北部と足柄上郡の北部の畑作地帯では、農家の主要な現金収入源として煙草が栽培され、その裏作に麦・菜種を作付して主に自給に供していた。 煙草は、明治二十年(一八八七)代後半期にさらに栽培面積を増し、とくにそれは秦野煙草生産地の周辺で著しく、生産地帯の拡大傾向を示していた。しかし、一八九八(明治三十一)年からの専売制施行は、これに大きな打撃を与え、作付面積は一挙に激減をみた。落花生栽培が増加してくるのは、このころのことである。煙草栽培は、その後再び回復に向かうが、その栽培地域は縮小し、中郡の限られた地域内だけに集中する傾向を示し、一九〇五(明治三十八)年以降には全体として停滞するにいたっている(表三-三九)。専売制によって強い制約を受けることになった煙草に代わる新たな商品作物として登場したのが落花生である。 落花生栽培の拡大 県下での落花生栽培は、明治四年(一八七一)、淘綾郡国府村渡辺慶次郎が、横浜から種子を得て試作し、一八七八(明治十一)年には四反一畝から二七二〇貫を得るにいたったのが初めといわれるが、その後、次第に各所表3-39 相模川以西3郡の煙草・落花生作付面積の変遷 1891(明治24)-1911年 注 『神奈川県統計書』より作成 で栽培されるようになり、一九〇一(明治三十四)年には五三七町余に達している(表三-四〇)。このころ、落花生の国内需要は小さく、そのほとんどは輸出向けに小粒種を栽培し、またその産地も、県下各郡に散在し、中郡・足柄下郡では、県下の全作付面積のうち三三㌫ほどを占めるにすぎなかった(表三-四一)。しかし、煙草専売制施行後、煙草生産地帯で急速に落花生栽培が増加し、一九〇五(明治三十八)年には県全体の作付面積のうち六六㌫余、一九一一(明治四十四)年には七七㌫が、中郡、足柄上・下郡に集中するにいたった。従来、相模川以西三郡は、輸出向け商品作物の栽培は少なく、これが農家経営のなかに組み込まれたのは、落花生が初めであろう。落花生は、普通、麦の間作として畦間に四月中旬ないし五月中旬に播種される(この際、甘藷・大小豆と混作することもあり、作付面積の統計的把握を不確実にしている)。収穫は、十月下旬から十一月下旬にかけてで、収穫すると、一日日乾ししてから茎葉と実とを分離し、さらに筵に拡げ三-四日乾かした後、仲買人に売却した。県下の地方相場は、横浜市場の取引相場から運賃手数料などおよそ一割前後を控除したものであった。なおこの時期、しばしば黒斑病(葉面に黒斑を発し、次第に広がって、一面黒変し、ときに茎幹にまで及ぶ)の発生がみられたが、当時の栽培技術は「此被害に付ては何等施設なく傍観するのみ」(明治三十七年『神奈川県農会報』第一九号)という状態に止まっていた。 蜜柑経営発展の端緒 一方、日露戦後にいたって、足柄上・下郡での蜜柑栽培において商品化を目的とした諸種の技術的改良が始められた。同地帯は、気候温暖で、すでに旧幕期から柑橘が栽植され、これが漸次普及して、明治三〇年(一八九七)代には、温州と紀州とが混在し、果実は主に近在に向けて販売されていたが、果樹の管理にはほとんど意を用いることはなかった。しかし後年、表3-40 神奈川県における落花生作付面積の変遷 注 1 『神奈川県統計書』より作成。 2 ( )は中郡,足柄上・下郡3郡の占める割合。 「現在(注一九四三年)温州の中三〇年前後の樹齢を経たるものが一番多い、是等は日露戦争直後に栽植せられたもので、全面積の六割位占め現今収穫全盛を極めて居る」(富樫常治『神奈川県園芸発達史』)といわれるように、日露戦後に、はじめて温州の大規模な栽植がなされ、ついで一九〇五(明治三十八)年ころ、ボルドー液による病害虫予防が初めて柑橘に施用され、急速に普及した。また、このころ、県立農事試験場技師富樫常治は、蜜柑剪定の必要を唱え、一九〇七年、足柄下郡土肥村の講習会で、初めて実地に剪定を施した(前掲『神奈川県園芸発達史』)。しかし、この剪定をはじめ、施肥の改良、果実貯蔵の実施等が一般に普及するのは、大正期に入ってのことである。足柄下郡下曽我村、足柄上郡曽我村・福沢村等を中心とした梅林も、歴史は古いが、やはり日露戦後、急速に増植され、観梅のみならず果実採収にも関心が寄せられるようになった。しかし、果実採収を専用とする梅の栽植は、大正期以後のことに属する。 ところで県は、一九〇八(明治四十一)年、県立農事試験場園芸部(二宮園芸部)を中郡吾妻村に設置し、柑橘類を中心とした試験を実施し、あわせて果樹経営者に対する講習・実地指導を行った。足柄上・下郡における蜜柑栽培は、これによって経営発展のための技術的基礎を与えられた。 表3-41 1903(明治36)年ころの県下落花生生産の概況 注 『神奈川県農会報』第19号より作成 五 農家養豚の発展 豚飼育の急増 神奈川県下の養豚は、一八九九(明治三十二)年現在では、総数二〇六七頭にすぎず、その半ばが高座郡で飼育され、残りは他郡に少数ずつ散在し、これらの六七㌫は在来種であった(表三-四二)。横浜には、すでに維新期に外国種の豚が輸入され、その交雑した雑種のなかから、「谷戸種」(または「谷頭種」)という固定した一雑種が形成されていた。この谷戸豚は、飼養が容易で、早熟という利点から広く普及していくが、一九〇〇年現在、久良岐郡の豚二二八頭のうち二一一頭までを占める雑種は、この谷戸豚にほかならないであろう。この時点では、他郡雑種は、まだ総数の半ばにみたない(愛甲郡のみ五六㌫)。しかし、以後一〇余年間における豚飼育の増大は急激で、一九一一年には、一八九九年の約六・六倍に達し、全国でも有数の養豚県となった。とくに、高座郡での増大は著しく、愛甲・鎌倉・中郡がこれについでいる。この過程で、雑種は全郡に普及し、内国種はほとんど姿を消すにいたった。一九〇六(明治三十九)年から県は、ヨークシア・バークシアなどの優良種表3-42 品種別養豚頭数の変遷 1899(明治32)-1911年 注 1 『神奈川県統計書』より作成。 2 内国種の( )内は,総頭数中の割合。合計の( )内は1899(明治32)年を100とした指数。 牡豚に補助金を交付し、品種改良を奨励したこと(のち県立農事試験場による種豚配付に切り替えられる)もこれに与っているのであろう。 副業としての養豚 一九〇二(明治三十五)年、県農事試験場技手玉那覇徹は、『神奈川県農会報』の誌上(一〇、一一号)で、養豚業の振興を主張し、豚の他の一般家畜と異なる特質として、次の八点を挙げた。すなわち、(一) 農家経済上、豚は、牛馬等の飼育を妨げない(とくに飼料面で)、(二) 地面気候を選ばない、(三) 豚は台所の残物・雑穀の掃寄せ、澱粉糟等をも食す、(四) 豚肉は貯蔵し易い(ハム・塩漬等)、(五) 需要者の多少に応じ、それに相当した大きさのものを屠殺する便がある、(六) 繁殖力大、(七) 豚にはほとんど廃棄物なく、各部分を利用できる。(八) 大小農家何れも飼養できる、というものである。彼は、農家が「悉く主業として養豚すべしと勧誘するものにあらず」、右の特性を活かし「農家の廃物利用的に副業として、各自相当の豚数を飼数せんことを希望」すると主張した。県下の急激な養豚の増加は、ほぼ、玉那覇徹のこの主張に副って進められたといえる。高座郡相原・大沢村については先にふれたが、同郡綾瀬村の豚飼養状況をみると、一九〇四年現在農家八四九戸中、三二七戸(三八・五㌫)が豚を飼養するが、うち、四頭以上飼養が一戸、三頭飼養五戸、二頭飼養二七戸で、残り二九四戸(飼養農家の九〇㌫)は一頭だけの飼養である。その収支として掲げる例によれば(表三-四四)、仔豚を一年育成後販売して、表3-43 郡別養豚頭数の変遷 1899(明治32)-1911年 注 『神奈川県統計書』より作成 二円五〇銭の損となる。しかし、「普通には飼料を買はず手間代を払はざるを以て此損金あることを知らざるもの多きなり」(「高座郡綾瀬村是調査書」)とする。また中郡豊田村では、明治三十五年「村是調査書」(『神奈川県農会報』第一四号)によれば、 沿革 近年流行する所にして一昨年の如き高価なりしより頓に増加したるも、昨年より俄に下落したる為め利益薄少の嘆あり、為に増加せず 飼育の方法は仔豚を求め簡単なる小屋を作り庖厨の残物、農産物の余剰、桴糠の類などを与へ、大抵一戸一頭にて二三頭を養ふものは少し、飼料は大部分は自家の生産に係るものを用ふと雖も、亦購入すること少からず 損益を計算するに、先づ仔豚を一円にて求め飼料一ケ月四十五銭と見積り、一ケ年には金五円四十銭合計金六円四十銭を支出し、二十貫目の豚となる、現今一貫目三十銭なれば六円となる、此の他肥料代を一月十五銭として一年一円八十銭合計七円八十銭の収入あり、差引残金一円四十銭の利益あるなり、即ち普通一般に「肥料が儲け」なりと云へりとしている。このような飼料・労力をほとんど自給する農家の一頭飼育が、本県の全国有数な養豚業を支えたのであった。 鎌倉ハム しかし、こうした農家飼養においても、豚価格の不安定は大きな打撃となる。一九〇六(明治三十九)年十月、横浜市長住町陸軍糧秣廠倉庫内で開かれた第一〇回関東実業大会で、神奈川県農会は、「豚肉加工業模範場ノ設置ヲ其筋ヘ建議ノ件」を議題に提出して大会の可決を得たが、豚肉の恒常的な需要を作りだす加工業の発展は、県下養豚農家の希望するところであったろう。県下では、こうした豚肉加工業-「鎌倉ハム」-は、すでに一八八二(明治十五)年、鎌倉郡川上村益田直蔵・斎藤満平によって創始され、その後、県下の豚飼育の拡大に応じて発展し、一九〇九年には、ハム製造業表3-44 高座郡綾瀬村養豚収支の1例 1904(明治37)年 注 1 明治37年6月『神奈川県農会報』第18号(「高座郡綾瀬村是調査書」)による。 2 内国種牡仔豚を3月15日購入,翌年3月15日販売とする。 は一〇余戸、年産六〇万斤の規模に達し、海外(朝鮮・南洋諸島)への輸出も行われていた。 第二節 地主制下の農家経済 一 地主制の成立 大地主の成立 すでにのべたように、明治十年代後半の農村不況の後、県下でも大地主の成立がみられた。一八九〇(明治二十三)年から一九一一(明治四十四)年にいたる『貴族院多額納税者議員互選名簿』に登載されている県下で最大級の地主は表三-四五のごとくである。一八九六(明治二十九)年時点で、県下最大の地主は、中郡成瀬村の石川虎之助で、所有地地価三万二一六一円、概算して水田約五八〇町歩を所有、一九一〇(明治四十三)年になると、中郡相川村小塩八郎右衛門は、所有地地価九万一〇八五円、概算水田約一六四〇町を所有するにいたっている。これら大地主とその小作地は、県下の主要な水田地帯にほぼ集中している。すなわち、一は多摩川沿岸橘樹郡の水田地帯(河川灌漑により裏作率も高い)、一は相模川右岸の八王子-厚木-平塚街道に沿った水田地帯(相模川・中津川・荻野川・小鮎川・恩曽川・玉川・渋田川・鈴川・金目川等による漕漑、裏作も行われている)である。ほかに酒匂川沿岸水田単作地帯と三浦郡沿海部にも大地主の存在がみられるが、少数であり、かつ後者はその小作地が漁村に限られていることから、漁業関係の金融を通して獲得したものと推察される。また、これら県下で最大級の地主の小作地は、居村周辺だけではなく、広範囲にわたっていることを特色とする。そして、それは、明治十年代における農民に対する金融活動と密接に関連するものであったことは、とくに活発な金融活動がみられた中郡・三浦郡の地表3-45 明治中・後期における県下の大地主一覧 1896(明治29)年基準 域と小作地の所在地域とがほぼ合致することからも推定できる。これら大地主は、この時期には、急激な土地集中はすでに終わりを告げ、主に所有地からの小作料収入の安定化・経営の堅実化を図りつつあった。彼らは、その土地取得の経緯からして、元来小作地所在村の農業生産については関心薄く、農業改良などへの消極的姿勢は一貫して変わらなかった。 在村地主の動向 居村とその周辺に土地を所有する在村地主も、この時期には、ほぼ安定した経営基盤を固めることができた。彼らは、営利計注 明治23,30,37,40,44年『貴族院多額納税者議員互選名簿』より作成 算のみにもとづき遠隔地に小作地を取得することをあえてしないから、その所有規模は、ほぼ地価一万円前後を限度としているが、多くはなお手作地をもち、この時期、小作料収入が安定するにつれて、農業生産への関心は薄らぎつつあったものの、多くは農村指導者としての意識を依然として保持していた。数例をあげると、高座郡相原村の小川(成道)家は、田七反弱、畑四二町三反、山林六二町一反を居村中心に所有(一八九二-明治二十五-年)するが、約三町余の畑手作地を持ち、当主が年々農業日誌をつけ耕作に従事していた。この畑作地帯で最高の土地所有者は、同郡小山村原清兵衛で、地価一万三八二九円、所有地二〇四町余(山林を含む、一八八四年現在)、であった。その他、橘樹・都筑郡で、郡農会創設に尽力した橘樹郡綱島村飯田快三(助太夫)家、都筑郡下川井村桜井光興家はじめ、この時期、地域の農業指導者として活躍した愛甲郡温水村山口忠太家、同郡恩名村和田伝左衛門家、中郡(大住郡)表3-46 愛甲郡恩名村和田伝左衛門家自作畑作付の変遷 注 1 和田家「作付帳」より作成。 2 ( )内の作物は附随的な作付を意味する。 3 明治4(1871),12年は地租改正丈量前の面積。 上糟屋村山口書輔家、同郡下荻野村難波武平家、同郡土屋村蓑島吉平家などいずれもこのクラスの在村地主層で、一-二町程度の手作地をもっていた。いま、その手作りの内容を和田伝左衛門家について示すと表三-四六のごとくであった。同家の手作畑は、幕末期からほぼ二町前後の規模を一貫して保ち、うち字萱山・中道の五筆六反四畝弱は、終始自作地として保持し、夏作に粟・大豆・芋(里芋)・冬作に麦・ソバ・大根を作っている。他の自作地は、ときに場所が変わっている。ここには自給用衣料作物として、明治四年(一八七一)までは麻が、一八九〇(明治二十三)年までは木綿が作られていたが、以後姿を消し、代わって薩摩芋・陸稲(おかぼ)の作付が増大している。陸稲は、一八八一(明治十四)年から五畝前後作付が始まっているが、一八九三年から主に粟に代えて二反余に増大した。また、薩摩芋も年々作付を増している。同家の自作地は、基本的には自給用であるとはいえ、商品生産の発展に無関心でなく、一八八七年半ばごろから薩摩芋など明らかに販売を目的とした栽培をも行っている。また、養蚕地帯の在村地主は、多くが養蚕経営を行っており、養蚕技術の改良に工夫を凝らしている。愛甲郡の山口忠太家もその一例である(『資料編』17近代・現代(7)三三)。こうした手作地経営を通して、農業生産への積極的関心を持続している在村地主は、畑作地帯はじめ県下一帯に広く存在した。この時期における県の勧農政策は、これら在村地主によって、主に農会組織を通して推進されたのであった(後述)。 しかし、一方、この時期、小作料収入が安定し、また日清・日露戦後に、都市でめざましく商工業が発展したことから、地主が農業生産への関心を失ってゆく風潮も次第に強まりつつあった。こうした状況のなかから、地主の階級的自覚ともいうべき主張があらわれてくる。神奈川県農会の幹事で、一九〇三(明治三十六)年からは副会長として活躍する福井準造の主張は、その代表的なものであろう。 地主としての自覚 福井家は、中郡豊田村小嶺(旧大住郡小嶺村)にあり、一八七八(明治十一)年現在、居村を中心に宮下・豊田本郷・平等寺村(以上合併して豊田村となる)に四七九俵一斗余、周辺の村々に四六六俵余の小作米収入のある水田小作地と他に若干の畑小作地(小作金三〇円九〇銭)を持ち、さらに手作地から米一九俵三斗、大麦二一俵四斗、大豆二二俵二斗を得ていた。一九〇一(明治三十四)年には耕地四二町二反余、地価一万四四九八円余の地主に成長している。準造の父直吉は一八七九年県会議員、翌年県会副議長となり、自由党に属し、この年、元老院に対する相模九郡有志二万三五〇〇余人署名の国会開設建白運動に代表の一人として参加するなどの活躍を行っている(『通史編』4近代・現代(1)三四五ページ以下)。後に県会議長・衆議院議員を経て神奈川農工銀行頭取となる(長谷川博「十九世紀のわが社会主義」『社会労働研究』法政大学社会学部六号)。準造は一八九一(明治二十四)年慶応義塾大学英文科を卒業しているが、直吉らによる国会開設建白は、福沢諭吉の草案作成など周旋によったもので、この関係から準造も慶応へ入学したのであろう。準造は、卒業後、病気勝ちで、「新潮」(神奈川県自由党系の雑誌)への寄稿、『近世社会主義』の出版(一八九九年)などを行っていた。彼は、すでにこの著書の自序で、「日本今日の形勢は、……貧富の懸隔の弊、亦将に漸く大ならんとする徴候を指示するものの如し。これ決して、経世憂国の士が平然看過すべきにあらず」と述べているが、明治三十四年『神奈川県農会報』第一〇号の論説欄に「百姓弁」なる一文を寄せ、 額上の汗は千顆の玉よりも尊く、一人の田舎漢は、千人の都人士よりも貴し。活発なる国家は常に強盛なるが如く労働せる人民は常に富有なるを得べし、労働の貴重なるを悟り、労働者の国家に欠くべからざるを覚知するに至らば、百姓てふ語は、卑賤なる意味に使用すべからずして、最も尊敬貴重すべき意味を有するものを覚知するに至らん。百姓豈に賤しからんや と論じた。準造が、神奈川県下の農業界に目を向けたのは、このころからと思われるが、彼のこれまでの経歴が示すように、その主張は未だ観念的で、「労働せる人民は常に富有なるを得」られない農村の現実への認識は著しく不足している。しかし、結婚後次第に健康も回復した彼が、その後県農会幹事として、県農会主催第一回甲種農事講習会を運営するなどの活動を通して、この観念性はようやく払拭されてきた。明治三十五年六月『神奈川県農会報』第一一号の論説「農事改良の方策如何」は、遠からず父から所有地価一万五〇〇〇円の豪家を引継ぐ者としての自覚に裏打ちされ、具体性を帯びた主張となっている。 ここで彼は、重商主義・重農主義・自由貿易主義等に簡単に触れ、英・独とも現今では、農民保護が重要な施政方針・政治問題の一つとなっているとし、ついでわが国の現状を次の様にとらえている。 「小作人・小農夫ハ〓々として労役に従事し」「所謂農事改良に余念」がない。しかし、「中級以上の人士」は、「憂国の士徒に多くして、眼前農民の苦難を思ハず、徒らに日英同盟に随喜感涙するの念あるも、配下の小作人が日々辛労を知らず、政党の分合、内閣の交迭に狂奔する大憂国士独り多くして、田地の改良、農業資本の融通を謀らんとする小愛国者に至りては、寥々暁星の如し、………地主は自己の田畝を知らず、播種の時期を知らず、収穫の方法を知らず慢に大言壮語して曰く、我は有志なり、志士なり、我には何々の名誉職あり、這般の細事乃公の関する所にあらずと。我国目下の状態斯の如し」 ここには、相州自由党の名士として活躍した父直吉に対するきびしい批判がこめられているように思われる。少なくも、準造が幼少時から身近に見聞してきた、家事を顧みず政治に没頭する相州の在村地主の現状に対する批判であった。民権運動期から一〇余年を経たこの時点では、地主らの政治活動は、この批判を正当なものにする内容に変質していたということができる。さて、右のような「農業社界」の改善策は次のようなものであった。 先づ他の方向に傾斜せる有志家の頭脳を改め、地主に向て農事改良の必要なるを覚らしめ、彼等本来の職業が、有志家たり、名誉職たるにあらずして、所謂農民の柱石たることを覚らしめ、彼等の声を以て農事改良の必要を叫ばしめ、彼等の口を借りて農業社界改善の法を講ぜしめ、或は資本の必要あれば、彼等自から其衝に当りて、資本融通の法を講じ、耕地整理の計画あれば、彼等卒先して此業に身を委ね、其農業上に関する百般の設備経営を、彼等の双肩に荷ハしめ、小作人、小農夫は、其補助となり、手足となり、時に或は其器械となり、所謂上下一心以て斯業の改良を謀る…… すなわち、地主が小作人・小農を指導し、進んで農業に投資し、その改善事業を推進すべきだとする。したがって、現時実施すべき農業改善策として、耕地整理・農民への実業教育・農業団体の活動等々があげられているが、これらを実施するにはまず何よりも「事実農家の柱石たるべき地主及上級流者の心田に用水灌漑を施すこと」が急務だというのである。地主は「農家の柱石」であり、小作人・小農を率いて農業改良を進める役割を担っているとする、この主張は、準造自身の地主としての自覚にほかならなかった。そして、それは、県下在村地主の、新しい社会的役割を一般に明示するものであったのである。 注 (1) 貴族院多額納税者議員は、県下で、直接国税納入額が最も高額な者一五名から互選で選ばれるが、その互選者となるには、他に満三十歳以上の男子、過去一年以上その府県下に本籍を持ち住居していること、神官・僧侶・教師・軍人でないこと等の条件を満たしていなくてはならない。また、地主によっては互選者になるのを嫌い、所有地の一部を家族名儀にするなどのこともあるので、必ずしも県下最大の地主がすべて記載されているわけではない。また、とくに神奈川県のばあい、多額の直接国税納入額(商業からの所得税、および横浜など市街地その他別荘地所有からの地租)を納める富裕な横浜商人(原善三郎・渡辺福三郎・高島嘉右衛門・大谷嘉兵衛等々)が居て、大地主の互選者資格獲得を圧迫していた。とくに一九〇四年、直接国税総額中に営業税が加えられ、互選者資格が商工業者に有利になると、大地主は一五人中一、二人に減少してしまった。しかし、これが大地主層の没落傾向を示すものでないことはいうまでもない。 (2) この著書(有斐閣刊)は、社会主義の各潮流を広く紹介し、とくにマルクス主義について三六ページにわたる詳細な解説を行った点で、当時としては比類ないものだったとされる(長谷川博 前掲論文)。また、郭沫若「十八年ぶりの日本」(『中央公論』一九五六年二月 南原繁との対談)によれば、「お国の福井準造という人が書いた『近代社会主義』という四巻になっている本が、私どもの方に翻訳されたのです。私どもの方で、マルクス、エンゲルスを知ったのは、この本によって知ったのです」というほどの意義をもつものであった(長谷川博 前掲論文)。 二 農家経済 在村の地主層 一九〇二(明治三十五)年から一九〇四年にかけて、神奈川県農会が実施した村是調査は、この時期における農家諸階層の経営・生活の実態を明らかにしている。これによれば村民は、おおむね生計の方法・難易が異なる三ないし四の階層を構成していた。 この諸階層の頂点に立つのが地主層である。前述した福井準造の居村では、この階層は「極少数(福井家外一戸)の大地主にして、一村枢要の地を占め、古来の名望と多大の資産とを擁し安泰に生計を営む」とされ、足柄上郡金田村では「多くの動産不動産を有し、概ね地方の名望を負ひ郷党の事務に当たり、傍ら農商雑業に従事する」といい、三一八戸中一五戸がこれに属する。都筑郡中川村では、この「多くの地所を所有し所謂地主として暮らすことを得るもの」は、五〇〇戸のうち五分、二五戸であった。この地主層の生計は、「一に是れ其家産を維持して子孫長久の計に勖むるのみ、大は愈々大となり強は益々強となるの勢あり」(豊田村)、「生計は年々良好となるや明なり、即ち支出の増すことよりも収入の加はることの方大なるを以て残益は漸次多きを致すべし、今日村内にて余裕を生ずべきは之れを措て他に求むべからず」(金田村)、「唯だ余計の仕事に手出しせずんは大は愈々大となり家運長く栄ゆべし」(中川村)と、いずれも益々発展に向う傾向にあると指摘している。まだ小作人との対立は顕在化せず、経営発展のためにとくに努力する必要もないまま、富裕化が進みつつある。地主制は隆盛期にあることがうかがえる。 小作農の生活 こうした地主制下での小作農の生活は悲惨であった。彼らは「土地は少しも所有せざるか所有するも僅少にして常に矮屋に起居し……皆其身体を唯一の資本とし終歳営々労働に従事し僅に糊口渡世するを得るのみ」(豊田村)で、小作の傍ら現金収入となる何らかの余業をしなければ生活していけない階層であるが、豊田村では、全戸数の大部分、中川村では五割、金田村では約五七㌫を占めていた。すなわち、村民の少なくも半ば以上は、この階層に属している。 都筑郡中川村の田四反、畑五反を小作する六人家族の経営を例にとれば、彼らは農耕の傍ら、 風雨の日農閑の夜は藁細工などして小遺ひ銭の取込みに忙はし、作物豊饒なれば、一年の食料は不足を告けす、よし粗食なりとて餅あり団子あり蕎麦・温飩・青芋・大根・四季折々の野菜を欠くことなし、唯だ不作の年に遭へは、作物は二割三割と減し、肥料代は損となり僅かに手細工の売り上げを頼みとなすのみ、平素は別に金銭の必要なく、働く限り暮らし向は何とか立ち行くものなるが、少しにても手を休みては忽ち困苦に陥り而かも他人の融通を得ること能ハざるなり、此故に衣服器具などの新調は中々覚束なく、継き〳〵の野良着、風呂敷包みの嫁入り、之れが先づ並なるべし という生活であった。 余業の種類は、地域によって異なっている。都筑郡中川村では、藁細工を主とし、他に奉公人・日雇などがあった。藁細工は、草鞋の他、草履・縄・俵・筵・畚・簇などで、草鞋は糯藁・琉球・ボロを原料に農閑の日や夜業に男女を問わず従事し、一日一〇-一五足作り、一〇足平均二〇銭位で村外から来る買取り人に売却し、東京・横浜の車夫・人夫などの需用に供せられた。昔は草履作りはなんとなく卑しめられたが、今は公然と精出すようになり、「朝晩到る処才槌の音聞えざる谷戸もなし」という有様であった。しかし、日銭は取れるが、「単に其日を暮す丈」で余裕は生まれず、耕作と半々に営む者は、農耕が未熟となり、秋に小作米を買って納める始末となり、夏は肥料代にあてる穀物なく困窮することになる。奉公人は、十-二十五歳の男女で、村内では主人の家の家事または農耕に、東京・横浜へ行く者は、男は小僧、女は下働き、八王子へ行く者は、主に女子で糸取り・機織に従事した。日雇は夏秋の農繁期だけに限られ、さしたる稼ぎにはならない。中郡豊田村では、地理的条件もあって右の中川村のような余業はない。出稼ぎ・「小商い」がその主なものであったが、これに従事すると「家計を助けんとして却て其家業に怠り、一家和熟せず、事志と違ひ、予期の利益を見ることなく家道漸く傾き来りて遂に困苦救ふべからざるに至」る傾向があるという。 足柄上郡金田村でも、余業の種類は多くなく、日雇取り・奉公人・駄賃取りを主とする。奉公人は、少女は子守りから年経て「御膳炊き」「中働き」となり、小児は、馬の鼻取りから、半季を経て作男、商家のばあいは小僧番頭に進む。当面は口べらしが目的で、年経れば、若干の現金収入や将来の独立が期待できた。日雇取りは、「壮男壮婦」が自家の仕事を繰合わせて農家日雇となり多少の銭取りをするものであった。駄賃取りは、荷車一輛を元手として、小田原-秦野間等を往来し、一日六〇銭の賃銭を取った。 こうした小作農は財産なく、そのため他から資金の融通を受けることができない。したがって、豊田村を例にとれば、 ……既に融通なきが故に、器具も肥料も購ふに由なし、即ち粗雑となり無肥料作となり調整の不完全となり、品質の良、収穫の豊なるは遂に見るべからず、偶々借金を忍び肥料を求むれば、不幸虫害水害風雨の難あり、半歳の丹精爰に皆無に属することなどありて独り丹精の効果なきのみならず、負債の償還に任せざるべからざることあり、僅に農家は甘藷の売上げ、繭の代価の幾分を投して肥料の臭ひを作物に嗅がせるに過ぎず、地は荒れて収穫は減少し、小農は細農と換り、細農は貧農と変ずるを見ることなくんばあらず ということになった。また、余業に精出せば、前述中川村のように、やはり農耕がおろそかになる。農民の過半が、このような小作農であれば、農業生産の発展は望めないばかりか、却って生産力低下の恐れすらある。地主・小作関係は、この時期すでに農業生産力の発展を阻む要因となっていたといえよう。前項で述べた福井準造の農業改良政策は、こうした地主・小作関係それ自体を変えることは、全く念頭になかった。 自作・自小作農の存在形態 以上のべた地主と小作層の中間に位置する階層として、自作ないし自小作農が存在していた。しかし、この経営内容は複雑で、必ずしも単一の階層としてとらえられない。 一は、「少しは地所を所有し、少しく小作をも作り余暇には種々の副業を営むもの」(中川村)、または「祖先伝来の宅地と多少の田畑と住家とを所有」する「自作農及自作兼小作農」(豊田村)であり、一は、「地所は自分にて作るには余りあり、多少小作せしむるを得べく常に部落の世話などするもの」(中川村)、または「土蔵を備へ一村の重要なる地位に居る小地主」(豊田村)である。中川村では前者が全戸数の三五㌫、後者が一〇㌫を占めている。なお、金田村では、両者をあわせ地主・小作の中間層と把え「地主あり自作あり自作及小作あり地主兼小作あり」としている。 以上のうち、自作または自小作層は、農業生産発展の担い手というべき階層であった。中川村を例にあげれば、「最も百姓に精出し、田地は人に勝りて良く作らんと常々心に懸け、肥しも余分に用ひ、草取り・苅芝・粗朶売り怠ることなく、蚕も能く当たり、藁細工も精一杯作りて年中隙間なく、小供多ければ奉公に出し、手都合しては日傭も取る。年豊なれば米の一俵麦の二俵は売出す余裕あり、繭の売上げ・藁細工の売溜めは人知れず村外に預けて利殖を計り、若し地所の売り物あれば少し位ならば借金を足しても手に入れんことを願ふ」という経営であった。この階層は不作の年は生活に「稍困苦を覚」えたが、年間絶えず働くことによって、小作をやめ自作農に上昇する可能性をもっていた。ただし浪費や投機に手を出せば、わずかの貯金・少しの地所も処分してたちまち没落せねばならなかった。これに対し、小地主層は、「地所も資本も自分の物、一家五人八分の外に奉公人あり、人手も亦乏しからず、田畑の耕作は行き届き、良い肥料を多く用ひ、良い種類は早く作り、小作人などの真似たくも出来ざる作毛は毎年のこと、従て作得豊かなり、夫れに小作米は這入り来りて庭の飾り俵は常に田家の豊饒なるを示す、独り耕作と限らず養蚕も林業も皆相応に利益あり、貯蓄貸金の利息も中々に多し、従て年中気楽に暮らすことを得るの資力あり」という経営で、残益をもって貸金をし、やがて抵当流れ地を買得するなど土地所有を拡大する可能性をもっている。しかし、「何にか一仕事をと目論見ては往々失策するものなきにあらずして、私かに村外のものに地所の所有権を移し、金を借りて預け金をなすの窮策を採るに至る」者もあった。この階層は、「智恵あり信用あり地位財力あるが為」に「考へ次第にて禍福忽ち其処を異にす」る。前述地主層が、ただ座して「大は愈々大とな」るのとは異なり、「一は栄へ、一は衰へ、昨は富強にして今は貧苦となる、其差忽ちにして甚だしく異る」(豊田村)という不安定な地位にあった。この小地主層は、農業発展の推進者とはみられていない。とくに中郡豊田村では、次のように、この層の保守性が指摘されている。 其祖先伝来の田畑あるを恃みて力を家業に尽さず、只管意を当世に用ひて家産の日に傾くを知らず、日常患ふる所は如何にして融通を付んか、金策を得んか、書入れ質入れに是れ奔走するのみ、進んで産を興すの計なく、退きて家を保つの意なし このようにみると、当時、農業発展の担い手は、自作ないし自小作層に期待されていたといえよう。 横浜近郊の自小作農家 いま、この階層の農家経済の一例を、横浜近郊(一里を隔てる)の一農家(自作-田一反三畝・畑二反、小作-田三反七畝・畑五反・宅地五畝、経営規模-田五反・畑七反)にとって、その内容(一九〇〇、一九〇一年現在)をみよう(表三-四七)。 この家は、主人夫婦(男四十歳、女三十六歳)とその父母二人、子供四人の家族で、農繁期には日雇延二三人(男八人、女一五人)を雇う。一五坪の母屋に住み、他に八坪の納屋を持っている。牛馬はなく、鶏六羽・荷車一台を持ち、二二円の貯金がある表3-47 1900(明治33)-1901年横浜近郊一自小作農家の経営収支 注 『神奈川県農会報』第13号より作成 (年利息一円七六銭)。負債はない。横浜へ菖蒲・野菜・卵などを販売し、また市内から下肥を得ることができる近郊農家で、比較的豊かな部類に属するであろう。都市近郊に位置しない一般自作・自小作農では、現金収入はこの経営を下回ると思われる。この経営は水田五反から三〇俵(一二石)を収穫している。反収二石四斗は当時の県下では高い水準である。しかし、うち、一一俵を小作料として納め、八俵を販売すると、残り一一俵(四石四斗)しか残らない。したがって、八人家族では、これだけの米を作りながら、麦・粟との雑食をしなければならなかった。副食・嗜好品は、酒・煙草・砂糖・菓子等の購入がほとんどで、そのほとんどは自給であった。衣服も、多くは自家で糸を買い機を織って自給している。魚・肉類の購入は、祭り・祝儀・不祝儀のときに限られたであろう。こうした切り詰めた生活をしながら、一年の利益として手許に残る現金は六円四三銭、貯蓄金からの利子収入を除けば、四円六七銭、すなわち、年間の煙草代ほどの額でしかなかった。しかも、農業のみによっては経営は維持できず、横浜等への出稼ぎ・機織りや卵・鶏・沢庵・菖蒲・藁細工品などの販売という副業(余業)をすることによって始めて、右程度の「利益」を得ることができた。したがって、不作・家族の病気等の事故があれば、たちまち赤字に陥ることは必然であった。この経営の長所・欠点として、 長所-横浜に近き故、野菜などを売り又肥料など買ふに便なり、田の用水十分にて水旱の患なし、農閑には日傭稼ぎをなせば日当を得るの利あり。欠点-交際費生計費の増加すること多大なり、作物に病気と虫害とを生ずるの損多し、酒煙草砂糖の高価なるは閉口、瓜が早く上ってしまふには困る。 という諸点があげられ、また、経営主は希望として、「作物の病気と虫とを退治する工夫をなしたきものなり。野菜物の直段さへ高くなれば他のものどうでも宜し。毎年懸りは殖る、売る物は減るので困る、早く子供が育って一パシヤルやうになれば良いが……」と述べている。商品経済の浸透が、この経営の将来に不安を与えている。しかし、横浜近郊であることが現金収入に有利な条件ともなっていた。しかし、県下一般の自作・自小作農家では、「毎年懸りは殖る」一方という状態に対応して、現金収入拡大の方途を探すことは、この経営よりも、さらに困難であったろう。このようにみてくると、当時、農業発展の担い手と目されていた自作・自小作農にあっても、農業に専念するだけでは経営を維持できなかったことがわかる。 農民生活の変化 以上にみた、明治後期における県下農家経済の態様は、農民の生活が、維新後三〇余年の間に大きく変わったことを物語っている。一九〇二(明治三十五)年「都筑郡中川村村是調査書」は、家の経済が、今では一村一郡一国の経済に密接に関係するようになったと述べ、村民の生活の旧幕・維新期ころとの変化を次のように要約している。 昔は学問勝手だったが今は就学の義務がある。昔は畳・天井は贅沢とされたが今はこれが無くては人並でない。昔は衣服を買わず今は手織は少ない。昔は羽織袴は不要だったが今は時々入用となる。昔は草鞋懸けで半天・手拭を冠り握飯を持ち、今は下駄で羽織を着、帽子・洋傘を持つ。昔は太子講・稲荷講・地神講が休日、今は紀元節・天長節・新暦の一月一日も休む。昔は赤十字・婦人会もなく、今は各種団体に加入する。昔の手習は草紙に椎の実(注-太書き用の筆)、今は白紙に鉛筆。昔の百姓は腕で作物を作り、今の百姓は肥しで作る。昔は大抵は自給で、不足は物品で交換し、今は大半買物で賄い、勘定はすべて金銭。昔の賄いは甚だ安く、今は入費が嵩む。収入は、昔は米麦粟豆の農作物のみ、今はその他に繭・藁細工・粗朶・車挽き・奉公稼ぎがある。 以上は農家経営の発展といってよいであろう。しかし、それによって生活にゆとりができたわけでもないのであった。すなわち、昔は村の者が年々伊勢参りに出掛けたが、今は五年に一度位。昔は社寺も寄進で立派に拵えたが今は各自の住居さえ行き届かない。昔は、夏冬に仕着を拵えたが、今は夏物一枚すら新調がむつかしい。昔は、盆・正月に三〇日休んだが今は半月も休まない。昔の祭は四、五日行ったが今は三日。昔は晩酌に手作りの濁酒を飲んだが今は買って甜める程度で、休日・祝日が減り、酒・煙草も仲々のめない。昔は百姓に心配なく、今は農家に楽しみが少ない……。 このように、「一村の繁栄及其発達を図らむが為めに将来に於て採るべき方針」=村是を定めるための調査書で、かえって昔が懐しまれている。そして、その第五編経済の部は、「今の苦しみは明の楽しみを期し、朝の楽しみに夕の苦しみを忘れ、来者の益々好望なるを信じて、其楽境に近くものなるを思ひ、以て現在の苦を忍び、過去の難を忘れ、唯だ一心不乱に去年よりも今年の方が……今年は悪るくとも来年こそ……と一縷の望みを明日に残して其日其日を送らんとする而已」という語で結ばれている。 注 (1) 村是調査は、神奈川県農会の町村是調査規程にもとづき、まず一九〇二(明治三十五)年一月十三日-五月二日にかけて中郡豊田村で実施された。同村を最初に選んだのは、前述した県農会副会長福井準造の居村だったからと思われる。ついで、同年九月一日-十月三十日に都筑郡中川村、同じく九月一日-翌一九〇三年五月一日に足柄上郡金田村、また一九〇二年十一月二十一日-一九〇四年五月六日に高座郡綾瀬村で実施された。内容は、緒論・所在・戸口・土地・生業・風俗・損益・資産・参考・結論・村是の一一編にわたるぼう大なもので、当該郡の郡農会長を掛長、同村農会長を主任とする村是調査委員会を作り、数名の調査員を任命して、各戸調査を含む諸調査を行った。 (2) これは、当時県下農家一般にいえることであった。水田地帯である足柄上郡金田村のばあいも、一般に「米麦各四分粟二分」を常食とし、「米は一人一日二合即ち年分七斗三升あれば足るとなせり」(「村是調査書」)とされている。本文の農家も、この程度の混食であったろう。 第三節 農業団体の結成と農事改良政策の展開 一 農会と農事試験場 神奈川県農会の成立 明治二〇年代に入ると、勧農に熱心な豪農有志によって県下各地に郡農会が結成された。これらは、「汎ク農事ノ経験知識ヲ交換シ専ラ該業ノ改良進歩ヲ図ルヲ以テ目的ト」(都筑郡農会規則)して、ほぼ一郡の範囲で篤農家を組織した任意団体で、講話会・農談会・農産物品評会・新品種作物等の試作・雑誌発行などを会の事業とした。 まず、一八八七(明治二十)年、大住郡上糟屋村の山口書輔は、大住・淘綾両郡の篤農・豪農を対象として神奈川県農会を結成した。これとほぼ時を同じくして(一八八七年十二月)、都筑郡では、下川井村桜井光興ら有志が、都筑郡農業会結成を決め、同会規則を定め会員募集を開始した。この会はやがて都筑郡農会と改称され、規則も改定され、翌一八八八年初めには、通常会員一八一人、特別会員二九人からなる都筑郡農会が発足した。この会の会員募集は、戸長役場によって、特定の「有志」に順達されていることから、これが県の指導によって行われたことがわかる(『資料編』17近代・現代(7)三六)。ついで、一八八九年六月には、橘樹郡農会規程が出来、橘樹郡農会が結成された。 神奈川県農会は、その後、一八九一(明治二十四)年に改組を行い、湘南農会と改称し、山口書輔が会長となった。同会は、小冊子ではあるが「湘南農会報告」を発行し(第一回二十四年四月、第二、第三回同年七月)、また、同年七月には、繭・生糸・大小麦品評会(神奈川県農会時代から数えて三回目)を開催し、褒賞授与式には、県知事内海忠勝・大住・淘綾郡長曽根盛鎮も臨席した。なお、この時の祝辞の中で郡長は、「本会ノ事業豈啻品評会ノミナラン、農事試験場設置ノ如キ、農業組合法ノ如キ、農具改良法ノ如キ、講究施設ヲ要スヘキモノ鮮カラス、之ヲ要スルニ本会ノ前途ハ甚タ有望ニシテ」云々と述べている。さらに、山口書輔は、すでに以前から小規模ながら個人で試作場を持ち、品種比較試験・肥料試験等を続けていた。 都筑郡農会の活動は、さらに活発であった(『資料編』17近代・現代(7)四一六ページ以下)。また、都筑郡では、都田村外一一か村が、一八九一年、田奈村恩田の土志田清兵衛から勧業資本金として、一八八九年七〇〇円、一八九〇年一〇〇〇円の寄附を受け、都田村川和(都筑郡農会の事務所所在地)に清兵衛農事試験場を設け、麦・稲・大豆・粟等の種類試験・肥料試験その他を開始した(郡制成立にともない郡農事試験場となる)。 こうして、県・郡の奨励下で豪農有志による勧農活動が拡大するなかで、一八九五(明治二十八)年、右郡農会を基礎にした全県的な組織、神奈川県農会の設立が企てられた。これは、一八九四年十二月東京で開かれた全国農事大会で決議された方針の実行として県の側から提起されたものである。そして、この県農会設立のために、まだ郡農会の結成をみていない郡での、郡農会設立が急ぎ行われた。一八九五年七月、県農会創立委員会(委員長県内務部長荒川義太郎)は「県農会ハ郡農会成立ノ上ナラテハ其決議ノ完成ヲ期シ難キ義ニ有之候ニ付テハ郡農会ノ設立ハ実ニ目下ノ急務」として、「郡農会ヲ設立シ其規則並ニ役員会員名簿等ハ遅クモ来ル八月末日迄ニ県庁ニ差出ス」ことを申し合わせている。こうして、短期間のうちに、勧農活動の不活発な郡にも郡農会が形式的に作りあげられ、一方、既成の郡農会の農会規則も、県農会創立委員会が立案した郡農会会則案にのっとり、大幅な改正がなされた。こうして新定または改正された各郡農会規則は、必ずしも一様ではない。会員の資格も、久良岐・橘樹・足柄下郡では「本会ハ町村農会員ヲ以テ組織ス」とされ、町村農会の設立がすでに前提されている。ただし、久良岐・橘樹郡は、「但町村農会ノ設ケ整頓スル迄ハ会員組織トス」(橘樹)等として過渡的に会員組織をとるとし、同様に高座郡も、「町村農会員及農事篤志者ヲ以テ組織ス」と定めている。これに対して、鎌倉・三浦・愛甲・津久井郡は、「本会ハ有志者ヲ以テ組織ス」るとし、都筑郡は、会員資格にふれず「会員タラント欲スル者ハ最寄幹事ニ申込ヘシ」としているにすぎない。大住・淘綾と足柄上郡は、両者の中間で、「本会ハ町村農事有志者ヲ以テ組織ス」(大住・淘綾)等と定めている。以上のうち、久良岐・橘樹・足柄下・高座郡は、会の経費も、「各町村農会ニ於テ負担スル」ことを原則としており、少なくもこれら郡では、町村農会-郡農会-県農会という系統組織を作ることが意図されていた。これに対し、鎌倉郡では会員の会費を一か年五〇銭、津久井郡では一か年三〇銭とし、三浦・足柄上・愛甲郡は、「本会ノ経費ハ会員ノ負担トス」ると定めている。また、都筑郡は「本会ノ経費ハ会員ノ会費及都筑郡都田村外十一ケ村組合補助金ヲ以テ支弁ス」とし、会費は年一〇銭と定めている(発足当初の規則では、特別会員が年六〇銭、通常会員が二銭であった)。 以上の各郡農会規則整備のなかに、一八九四(明治二十七)年十一月全国農事大会で打ち出された前田正名・玉利喜造・沢野淳らによる系統農会組織化の意図が明瞭にあらわれている。しかし、これはまだ全体を支配するにはいたっていない。とくに、早くから、最も活発に活動していた都筑郡農会では、改正規則においても、会長・幹事は会員の互選によることを明記するなど、依然として従来の有志者の結合という性格を色濃く残していた。前田らが分離した後の大日本農会は、横井時敬らによって、篤志者による研究連絡機関という性格を強くするのであるが、都筑郡農会・湘南農会などのこれまでの活動は、むしろこうした大日本農会とあい通ずるものがあった(なお、大住・淘綾郡の湘南農会は、その指導的人物山口書輔が、一八九四年六月早逝し、活動が頓挫していた)。横井と対立した前田ら全国農事会派の意図は、活動が不活発な郡に急ぎ作られた農会の規則において実現しているといえる。このような不統一を内部に孕みながら、神奈川県農会は一八九五(明治二十八)年十一月二十九日、発会式が農商務大臣榎本武揚を迎えて華かに挙行された。 神奈川県農会は、その農会規則によれば、郡農会員(および市の農事有志者)をもって組織され、会の経費は、郡農会負担および会員の会費を以て支弁するとされた。ただし会員の会費徴収義務は、郡農会員以外の会員(農事篤志者で会員二名以上の紹介で会長が承認した者)についてのみ規定されているので、一般の郡農会員は会費を支払う必要がなかった。所属郡農会は評議員を互選し、評議員会が会長・副会長・幹事を選挙する。これら役員はいずれも名誉役とされた。したがって役員は、自から官吏または富裕な豪農・地主に限定されることになろう。役員の外、会長の選定によって、学術または実業に熟練した「農芸委員」、会の事業を拡張するため地方を巡回する「臨時巡回委員」を置くとされた。発足当初の役員は表三-四八のごとくで、県農会長は県知事、郡農会長は郡長が就任し、新たに系統的に組織化された県・郡農会が、半官的機関にほかならないことを示している。 表3-48 1896(明治29)年現在神奈川県農会役員と会員数(郡農会員) 注 『神奈川県農会報』第1号による 以後県農会は、発足当初にみられた内部の不備・不統一を急速に払拭し、県勧農政策の農民への伝達機関としての性格を強めていった。従来農会活動のなかった郡では、県・郡からの補助金支出と指導とによって、急速に村農会が作られていった。また、篤農の自主的な活動がみられた都筑郡でも、一八九七(明治三十)年一月、郡農会規則の「村農会員ヲ以テ郡農会員ト」する内容への全面改定が行われた。新規則は、形式上は極めて整備されているが、内容的には空疎なものとなり、会費の徴収等についても、「会費ノ分賦及収入ハ本会ノ決議ニ従ヒ之ヲ徴収ス」、「本会ノ経費ハ其ノ年度ノ歳入ヲ以テ支弁スヘシ」等とあるのみである。しかし、この全面改定が行った、文書による事務処理・歳入出予算書の調製・経費精算書の作成等々処務・会計についての諸規定の整備は、県・郡からの補助金交付のために必要不可欠なものであった。こうして農会は県・町・村に系統化し、行政執行機関としての形式性を急速に整えるにいたった。一八九九(明治三十二)年農会法の成立は、この動きを一層促進させた。いま、一九〇一年以降における県農会の歳入中、国庫・県費補助金の比重は(表三-四九)、日露戦争期に国庫補助の減少によって一時五五㌫前後に低下したが、他の年は六〇㌫以上の高さを常に保っ表3-49 神奈川県農会の歳入中・会費・補助金比率(1901-08年) 注 『神奈川県統計書』より作成 ている。ここから明らかなように、県農会の活動は、補助金によって支えられ、篤農有志の会費による運営という自主性は完全に失われている。 農事試験場の設置 農事試験場の設置は、神奈川県農会結成の際、同会のなすべき事業の主要なものと考えられていた。それは、前述県農会規則が、同会が施行すべき事項一一項目を列挙した冒頭に、「農事試験場ヲ設クル事」を掲げたことからもうかがえる。一八九五(明治二十八)年一月、県関係者が、一八九四年十二月全国農事大会決議の方針に従い、県農会創立を県下有志者と協議した際にも、農事試験場設置は、「県農会ヲ開設スルニ方リ」議定すべき要項の一つに入れられていた(『資料編』17近代・現代(7)三七)。この協議で県が示した構想は、県農会-農事試験場・農事専門技師の招聘、郡農会-試験田・農事試験掛の雇用というものであった。なお、一八九六年、津久井郡青根村で村農会が創立された際、村農長(村長)から、村立農事試作場設置が提案されている(「未タ創始ニ属スルヲ以テ暫時延期」に決定)ところから推すと、県・郡・町村の段階に、それぞれ試験場・試作地を置くことが考えられていたと思われる。一八九六(明治二十九)年六月三十日県告示第九七号による神奈川県農事試験場の設置(七月一日から開業)は、右の構想の具体化にほかならない。これより先、一八九五年の県会で、県立農事試験場設置が可決され、それにもとづき一八九六年五月から橘樹郡保土ケ谷町岡野欣之助が寄付した岡野新田所在水田一町歩、畑・敷地一町四反七畝、計二町四反七畝の地を用地として、建物(本屋三一坪余、農具室・収納舎三〇坪、肥料舎・家畜舎・農夫室二四坪)の建築・圃場整備が始められ、七月一日に開業した。こうして、一八九六年にとにかくも夏作物播種・田植がなされたが、本格的な活動は、「神奈川県農事試験場事務取扱規程」(明治三十年一月十八日庁訓第四七号)が定められた、翌一八九七(明治三十)年を初めとする(山田宗孝・今村新・神戸正『神奈川県農業試験場史』)。場長は技師矢崎亥八、外に技手下山格三、書記兼技師村山才次郎の二人というきわめて小規模な構成であった(外に農夫・小使若干名を雇用)。 ついで一九〇〇(明治三十三)年二月、県令第一五号「郡農事試験場処務規程」が定められ、これにもとづいて各郡で一斉に郡立農事試験場が開設された(表三-五〇)。都筑郡だけは、県立農事試験場よりも古い歴史をもつ、前述清兵衛農事試験場を改称し郡農事試験場としたが、ほかは、一九〇〇年に急拠設定したもので、その面積もほとんどが二、三反程度にすぎなかった。しかし、高座郡では、このほか町村農会に補助金を交付して試作場を設置させ、郡農事試験場長の監督下で種々の試験を行った。一九〇一年度には、明治・松林・茅ケ崎・鶴嶺・寒川・小出・有馬・海老名・座間・田名・大沢・相原の一二か村農会に試作地が設けられている。こうして、前述した県農会設立の際の構想は、曲りなりにも実現をみた。 その後、県農事試験場は、一九〇七(明治四十)年六月県令第六二号「神奈川県立試験場規則」(明治四十三年二月県令第七号、大正二年三月県令第三九号で改正)が制定され、試験場の管掌事項が詳細になるとともに、職員(場長・技師・技手・書記)の分掌が明確化された。こうして職員は場長・技師三名(種芸・化学・園芸)、技手表3-50 明治30年(1897)代における郡立農事試験場一覧 注 『神奈川県統計書』その他より作成 六名(病虫・畜産・種芸二名・化学・園芸)という陣容に強化された。ついで、一九〇八年二月には、試験場を保土ケ谷町帷子の地(建物敷地三反歩、田一町四反三畝内二毛作田八反三畝、畑二町八反九畝内蔬菜試験地七反二畝、果樹見本園六反八畝)に移転した。この地は、一九〇二年、やはり岡野欣之助の寄付で取得し、一九〇七年から移転工事に入り、一九〇八年二月竣工・移転を行ったものである。また同じ一九〇八(明治四十一)年四月には、中郡吾妻村(現在 二宮町)に園芸部分場設置が定まり、同年から一九一一年にかけて、敷地の整備・事務所建設・果樹植付を行い、技師一名・技手一名・助手一名・外に常備農夫数名という陣容で業務を開始した。一九一四(大正三)年には、蔬菜部も、本場から移転してきている。さらに一九〇九(明治四十二)年四月、高座郡藤沢町の二町三畝余の地に蚕業科(のちに蚕業部、一九一三年四月、神奈川県立原蚕種製造所となる)が設置され、同年から一九一〇年にかけて、試験桑園・生徒実習園・建物(本館の外伝習室・試験室・乾繭舎・堆肥舎等)が整備され、一九一一年から試験研究を開始した。 こうした県農事試験場の整備強化とともに、一九〇七-一九〇九年にかけて施設が貧弱な郡農事試験場が廃止された。財源の貧困とそれに基因する県会の消極的姿勢にもとづくものであった。しかし、三浦郡では、一九〇七(明治四十)年九月、郡農会試作場設置規程を作り、郡農会が補助金を出し、郡下三-六か所に五畝-一反ほどの試作地を設け、郡内重要作物の模範耕作法の展示と応用試験、良種子の増殖などを行い、また、高座郡も、一九一〇年以降甘藷模範場を郡内数か所に設け(前述)、中郡では一九一三年、郡農会が金目村片岡に模範園芸場(圃場六反)を設立し、郡農業技術員監督の下に技術員一名、農夫・農婦各一名を置き、果樹模範栽培、果樹苗木仕立配付、蔬菜種子採取配布、園芸生産物加工品製造、園芸組合指導、講習・実習会、見習生養成などを開始するなどの動きがみられた。 農事試験場の役割 県農事試験場は、場内での各種試験に止まらず、その「有益ナル試験成績ヲ普及セシメ」(明治二十七年農商務省訓令二七号「府県農事試験場規程」)るため、講話・種苗の配付・報告の刊行・模範圃の設置などを行うとされていた。これをうけて、神奈川県農事試験場でも、実施事項として、「種類・選種・耕耘・栽植・肥培・収穫・貯蔵・製造・耕地・農具・病虫等ニ関スル試験」のほか、講話・種苗の配付など、場外における農民指導活動も規定していた(同場事務取扱規程)。郡農事試験場の実施事項もこれに準ずるものであるが、圃場設備が貧弱なため、事実上は、県農事試験場よりも一層農民指導活動に重点が傾いていた。県と、県・郡農事試験場とは、郡農事試験場長会(協議会)を定期的に開き、県下農事改良の具体策を協議・決定した。この内容を一九〇二(明治三十五)年についてみれば、次のようなものであった。 〇四月二二-二五日。参加者-郡農事試験場長一一名。昌谷県第四課長、高橋県農事試験場長、平野属、草柳・富樫県農事試験場技手、下山県農会技師。知事諮問事項-一 稲作及麦作改良法ヲ普及セシムル方法如何、二 農事講習会ノ状況如何、三 耕地整理ヲ普及セシムル方針如何。議題-県農試提案、一 水田ニ雑生セル水稗芟除ノ件、二稲架乾燥法励行ノ件、三 町村試作地ニ関スル件、四 本年度夏作試験設計ニ関スル件、五 各郡農事試験場ニ広面積ノ模範田ヲ設ケ其収支計算ヲ精査シテ公表スル可否如何、六 各郡主要作物収支計算表ヲ編製スル件、七 農家副業ニ関スル件、八 本県農事試験場ニ対スル希望如何、九 第五回勧業博覧会出品ニ対スル件、一〇 農事調査ニ関スル件。(前回よりの持越し議題)農家ニ奨励スヘキ模範堆積場ノ構造及経費ノ程度如何。(三浦郡農試提案)農業労働者減少ヲ来シ経営者ノ困難少カラサル傾アリ之ニ対シ如何ナル方針ヲ採ルヘキヤ。(県農会提案)農事奨励ノ為メ県庁勧業主任者県郡農事試験場員及県農会技師ヲ一団トシ巡回講話ヲナスノ可否如何(決議「可トス」)。 〇九月二三-二六日。知事諮問事項-一 米ノ種類改良の方法如何、二 農家副業の状況如何、三 農作物病虫害の現況及び其駆除予防を普及せしむる方法如何。議題-一 試作物調査方法の件、二 共同購入及共同販売の実行策如何、三 農具改良の方法如何、四 麦作経済試験施行の可否若し可とせば其方法如何。 以上から明らかなように、当時の農事試験場にあっては、圃場試験は、その活動の一部にすぎず、場外活動-県の農事改良策の実施に重要な役割を果たしている。また、例えば、水稗芟除につき「郡町村農会ヲシテ芟除規約ヲ設ケシメ……」と決議しているように、系統農会と一体化して、農事改良策実施が図られている。県知事・郡長・町村長がそれぞれの段階の農会長に任じ、補助金によって活動が定まる農会は、こうして国-県の農事改良政策の実施機関となったのであった。 二 農事改良政策の展開 農政の基調 明治三〇年代から大正初期にいたる農政の基調は、一九〇三(明治三十六)年十月、農商務省の農会への諭達に集大成されている。この諭達は、これまで農事の改良増殖に関する試験研究が、農事試験場その他の機関で着々進められ実際に適用すべき成績も少なくないのにかかわらず、「世間之を実地に施行して効果を挙たる者多からざるは極めて遺憾」であるとして、一四項目をあげて農会にその実施を求めたもので、農事改良における農事試験場と農会との関係が明示されている。 この諭達一四項は次の通りで、神奈川県下でもその多くはすでに実施の努力が始められていた。 大麦種子の塩水選、麦黒穂の予防、短冊形共同苗代、通し苗代の廃止、稲苗の正条植、重要作物・果樹・蚕種等良種の繁殖、良種牧草の栽培、夏秋蚕用桑園の特設、堆肥の改良、良種農具の普及、牛馬耕の実施、家禽の飼養、耕地整理の施行、産業組合の設立。右のうち最初の五項目は、とくに、「市町村農会に於て規定を設け会員をして挙て之を実行を期すべし」とされた。 神奈川県の、この時期における農事改良策も、すべて基本的には右諭達の内容に沿って実施された。実施の方法は、県(および県表3-51 神奈川県における農事改良の主要措置(1897-1916年) 農事試験場)-郡(および郡農事試験場)-町村という行政機構と、県農会-郡農会-町村農会という系統農会組織の双方を通して、各種農事改良の実施を農民に強制しようというものであった。そのために、県・郡は種々の令達(告諭・諭告、訓令・令・達・告示・通牒)を発し、また、補助金・奨励金を交付して、実施を促がした。県・郡農会も、これに応じて総会・評議員会・郡農会長協議会・郡農事試験場会議等で実施の具体案を決定しつつ、随時、各種の規程を作り町村農会を通し、農民に実行を強制した。以上の実施方法の特色は、上から規則・規程と補助金・奨励金をもって、農民に農事改良を強制する点にあり、農民は、講話会・講習会などで啓蒙はうけるが、自らの経験や意見によって自主的に行動する余地を与えられなかった。この時期、農事改良のために県・県農会などがとった主要措置を年表で示すと表三-五一のごとくになる。この他、県の年々異注 大正10年『神奈川県普通農事要覧』,大正12年『神奈川県之蚕糸業」,昭和30年『神奈川県農事試験場史』その他から作成。〔 〕は全国事項。 なる補助金交付に応じ、県農会は、種々の補助金交付規程等を随時定めているが、徒らに煩雑となるので省略した。 日露戦後の農事改良 一九〇六(明治三十九)年二月十五日、県庁内で開かれた郡農会長協議会で、県農会長周布公平は一場の演達を行い、日露戦後経営にあたって、県農会のとるべき方針を披歴した(なお、この会議は、県農会長が県知事であり、郡農会長が郡長なのであるから、実質は郡長会議と変わらない)。それによれば、日露戦争終結までの県下農会が実施・経営した事業は、主に米麦耕種方法の改良とその収穫増加とを目的としたものであった。それによって農業生産の増大については「漸次其の実功」があらわれているが、農業の商品経済的発展については考慮されることなく、「要するに増殖したる農産物をして、最も収益多からしむべき有効なる経済的の施設が未だ振作せられざるは甚だ遺憾」であるとする。よって、日露戦争の戦後経営にあたっては、農業の商品経済的発展、なかでもそのための農業諸団体(産業組合その他)の成立を助成することが、「最も機宜」に適したことであるとした。そして、一九〇六-一九〇八年度の三か年間に県・郡農会がなすべき事業を大要表三-五二のごとく提議し、「協定」をみた(『神奈川県農会報』第二八号)。このうち、「農業組合を奨励する」事業が、日露戦後新たに加えられた事項である。一九〇七(明治四十)年、高座・中郡農会が、郡内で生産されるゴールデンメロン種の大麦を大日本麦酒株式会社と特約して共同販売をすることになったのは(表三-五二)、この種事業の主な成果の一つであった。 耕地整理の進捗状況 前述した一九〇六(明治三十九)-一九〇八年度の農事改良事業の一つの柱となっている耕地整理事業は、神奈川県では、一八九五(明治二十八)年郡農会創設の際すでに実施の意図が示されていた。すなわち、同年の久良岐・鎌倉・高座・三浦・大住・淘綾・足柄上・足柄下・愛甲の諸郡農会規則には、郡農会の施行すべき事項の一に「耕地区画改良ノ模範ヲ示スコト」が掲げられている。いずれも同文であることから県の指導によるものと思われる。しかし、それが実際に日程にのぼったのは、一八九九(明治三十二)年耕地整理法公布の二年後であった。一九〇一年十月に開かれた郡農会長協表3-52 1906(明治39)-1908年度県・郡農会実施協定事項 注 『神奈川県農会報』第28号より作成。その他農事統計作成・会報発行・調査視察旅行実施等については省略した。 議会は、議題の一に「耕地整理ノ奨励ニ関スル件」をとりあげ「一模範整理ヲナスコト、二設計ヨリ監督マテノ労ヲ(郡農会が)執ルコト、三補助金ヲ交付スルコト」を定めたが、その模範地に高座郡明治村(のち藤沢町に入る)大庭字広池が選定され、同年十二月十八日耕地整理の発起認可を申請し、一九〇二年一月二十七日農商務大臣の認可を得、二月三日施行認可を申請し、同月二十五日知事の認可を得て、二十六日工事に着手し、四月五日竣成をみた。同月十二日には県知事・書記官・参事官・県農事試験場長・県農会役員その他県会議員・郡村吏を招待して、盛大に竣工式が行われた。この耕地整理の結果、旧耕地田五町一反余、畑三反六畝余、計五町四反七畝三歩が、田五町七反三畝となり、二反五畝二七歩の増歩となり、平均田二畝六歩、畑一畝一三歩であった一筆が、七畝一三歩余に拡大された。これが本県での耕地整表3-53 神奈川県における耕地整理の進行 (1913-大正2-年までに工事完了の分) 注 『神奈川県統計書』より作成 理の第一着である。ついで久良岐郡金沢村泥亀新田・中郡豊田村・橘樹郡保土ケ谷町帷子で、それぞれ企画・設計が進められたが、泥亀新田ではついに実現をみなかった。その後の事業拡大は必ずしも顕著とはいえず、一九〇六-一九〇八年度でも、着手は三か所に止まっている(表三-五三)。一九〇九(明治四十二)年耕地整理法の大幅改正後になると、かえって事業は小規模なものが多くなり、整理実施面積の増大は鈍化している。これらの耕地整理は、中郡豊田村の例が示すように(前掲「村是調査書」)、馬耕普及を意図してはいなかった。区画整理による水田面積の増大、溝渠道路整備による乾田二毛作化と肥培運搬の便利化等が目標とされ、当事者は、主に土地所有者にとっての利益を強調していた。 耕地整理前(保土ケ谷町帷子) 『神奈川県農会報』第号22より 耕地整理後(保土ケ谷町帷子) 『神奈川県農会報』第22号より ところで、以上の本県での耕地整理の進捗状況は、全国的にみて、必ずしも立ち遅れてはいない(『日本農業発達史』第四巻二二八ページ)。それは神奈川県が畑作県であるにもかかわらず、当時の農政の方針に従って水田における農事改良に力を注いだことの結果なのであって、むしろ、本県の農政が国の農政にたいして自主性を欠いていることの証左にほかならなかった。 共同苗代の実施状況 この傾向は、また、共同苗代の奨励についてもみることができる。一九一三(大正二)、一四年の中郡農会支出奨励費は、六-九項を数え、うち三項目が全国共通の普通農事関係、三-五項目が日露戦後期に特徴的な商品経済発展に対応する農事改良への奨励費で、その項目は増加の傾向にあった(表三-五四)。しかし、項目は多様であるが、その奨励金額は僅少であった。それが増額された一九一四年でも、普通農事改良事項の金額を下回っている。普通農事改良事項のうち最大額を占めるのは、病虫害駆除予防奨励費であるが、その主なものは「小学校生徒ヲシテ教員監督ノ下ニ稲苗代期ニ於テ害虫ヲ駆除セシメ之ニ対シ金銭又ハ学用品ヲ交付」するもので、他に麦奴予防・「稲鞘枯ノ採取」の奨励と、穀倉害虫駆除を実行した時に支出された。これにつ表3-54 1913(大正2),14年中郡農会奨励費支出予算額 注 『神奈川県中郡報』第6号より作成 ぐのが共同苗代の経費への補助と堆肥舎新設費への補助で、一九一四年は半減したが、水田関係農事改良への奨励費の比重は、依然として高い。水田苗代については、早くから全国共通の必行事項として短冊苗代(一名狭苗代、幅を三尺ないし四尺とし約一尺の溝を添えた長方形の苗代)の作成が違反者の処罰という強制措置をともなって奨励された。一九一四年の中郡でも、約一万の苗代のうち約五㌫が作り直しを命じられ、約一㌫余が罰せられている(表三-五五)。また、共同苗代は、本県では明治三十八年四月十九日訓令第一一号「共同苗代設置奨励ノ件」によって、「苗代ノ管理ヲ容易ニシ稲ノ種類ノ統一ヲ促シ害虫駆除ノ便利ヲ助クル等稲作ノ改良発達上ニ至大ノ功益アルモノ」として普及が図られた。すなわち、農民に共同苗代組合を結成させ、これに補助金を交付するものであった。中郡での同組合は、次のような規約の下に作られている。 表3-55 1914(大正3)年中郡苗代違反者と共同苗代数 注 『神奈川県中郡報』第2,15号より作成。なお違反者のうち拘留はない。 一 本組合ハ水稲耕作上ノ経費ヲ節約シ、良好ナル一定ノ稲苗ヲ作ルヲ目的トス 二 本組合ノ苗代設置ニ就テハ、郡技術員ノ指揮ニ従ヒ、管理ハ組合員順番ニ之ニ当ルモノトス 三 郡農会ヨリ受ケタル補助金ハ、本組合基本財産トシテ之ヲ蓄積スルモノトス 四 本組合ノ費用ハ組合員ノ負担トシ、各自ノ所要、苗代面積ニヨリ、惣代人ニ於テ之ヲ分賦徴収スルモノトス これによれば、組合参加の農家は、自分が栽培する水稲の品種、早・中・晩生の配分等に大きな制約をうけることになり、一方で、郡農会からの奨励金も自由に使用できず、却って組合からの脱退が難しくなる。こうしたことから共同苗代の普及は、中郡二七町村のうち一一か村に止まり、その一一か村も、一大字のうちのごく一部でこれを実施しているにすぎない。一戸が一箇所の苗代を作ると仮定すれば、右一一か村のうち最も普及している城島村でも、全農家の一二㌫が加入しているだけであった。 前述のように、本県で商品経済への対応を図る農事改良が行われるようになった日露戦後期でも、普通農事とくに耕地整理・苗代改良など水田関係農事改良の比重は高い。このことは、畑作を主体とする本県にあっても、水田を中心に展開している地主制にとって有効な政策が実施されたことを意味している。しかし、以上にみたように、それは実際には、わずかな効果しかあげることができなかった。 第三章 貿易・金融の発展 第一節 条約改正と横浜貿易 一 条約改正と商権回復 横浜貿易の発展 日清戦争の勝利をスプリング・ボードに、急速に資本主義的発展をとげた日本は、日露戦争にも勝利して、世界の帝国主義列強に仲間入りすることとなった。この間、一八九九(明治三十二)年七月には、日英通商航海条約をはじめとする改正条約が実施され、治外法権は撤廃され、関税自主権もいちおう回復された。開港以来の貿易を規制していた、居留地と協定関税という二つの制度的枠組がとりはらわれたのである。また、一八九七年十月からは、銀本位制に代わって金本位制を実施し、イギリスを軸とする国際金本位制に、日本も参加することとなった。条約改正と金本位制採用によって、日本は、制度的には、欧米先進諸国と対等な立場に立つにいたったのである。 治外法権の撤廃は、一方では、偏った領事裁判による日本側に不利な商事紛争裁決などの事例の発生を根絶し、商権回復を促進させることとなったが、他方では、外国人に、いわゆる内地雑居を認め、国内の商業活動を自由化したことから、国内経済に対する外国資本の影響力が拡大する可能性を含んでいた。居留地が廃止され、外国商人は、日本の法秩序のもとで、国内どこにおいても自由に活動できることになった。しかし、実際には、すでに、四〇年近く続いてきた居留地貿易は、居留地という枠がはずされても、大きく変化することはなく、日本商社による直貿易の拡大という方向で外国商館の貿易支配体制の解体が徐々に進行したのであり、国内活動の自由を獲得した外国商館の国内流通への勢力拡張・巻返しというような事態は生じなかった。外国商館と国内市場とを結ぶ流通体制、とくに売込商体制の強力な存在が、外国商館の国内進出をおさえたといえる。この時期の横浜売込商体制については、のちにやや詳しくみることにする。 関税自主権は、原則的に回復され、一八九九年から「関税定率法」が施行されるにいたった。しかし、条約改正の際に、協定によって税率を定めた協定品が、合計一〇四品目にわたって存在したので、自主的な国定税率の適用範囲は狭く、実質的には、なお関税自主権は、部分的に回復されたにとどまった状態であった。改正条約の有効期間一二年が満期となるに際しての第二次条約改正(一九一一年)によって、図3-4 横浜の貿易(1896-1911年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 104,131ページによる。 協定税品目は削減され、関税自主権は、ほぼ完全に回復されるにいたった。関税自主権の回復は、産業政策の手段として関税率を操作することを可能にしたのであり、一九〇六年の「関税定率法」改正では、国内工業保護のために原料関税を軽減して製品関税を引き上げ、農業保護のために米穀関税を設けるという方針がとられている。産業政策としての関税政策の展開は、貿易のあり方にも大きな影響を及ぼすこととなった。 条約改正と金本位制採用の時期から明治末にいたる期間の横浜貿易の推移を概観すると、図三-四のようになる。輸出は、一八九六年から一九一一年の間に三・七倍になり、輸入は同じ間に二・四倍となっている。輸出は、一九〇六年ころまでは、ほぼ順調に伸長しているが、その後は、やや停滞する傾向を示している。輸入は、一八九八年までは急増し、一八九九年から一九〇二年ころまでは停滞的で、その後一九〇五年まで急増し、その後は、再び停滞する動きを示してい図3-5 全国貿易と横浜(1896-1911年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。貿易額は,輸出額と輸入額の合計。横浜の割合は,全国貿易額に対する横浜貿易額の百分比。『横浜市史』資料編2 40,60,104,131ページによる。 る。 全国貿易は、同じ期間に図三-五のように推移しているが、増減傾向は、横浜の輸入額の動きと同様である。すなわち、日清戦争後の好況が、一八九七-九八年の一時的景気後退で沈静化し、一九〇〇-〇一年には恐慌が発生するという景気変動が、貿易面では、一八九六-九八年の貿易額増加とその後一九〇二年までの停滞としてあらわれてくる。そののち、日露戦争にかけての時期には、景気回復過程に、戦時輸入増が加わって、貿易は急増するが、一九〇七年の世界恐慌をきっかけに、一九〇八年には日露戦後恐慌が発生して、以後、不況が慢性化したかたちとなり、貿易額も、停滞傾向を示すのである。 横浜貿易は、輸出では生糸類の割合が特に大きいために、その主輸出先であるアメリカの景気・経済動向に応じて輸出額変動が生ずる傾向があるので、横浜輸出動向は、日本国内の景気変動を反映しない場合が多く、むしろ、横浜輸出の変動が、国内景気の動向を左右する場合もみられる。これにたいして、横浜輸入は、国内景気動向を事後的に反映して変動する場合が多いといってよいだろう。横浜貿易の構成については、のちに検討することとして、つぎに、横浜貿易をささえた売込商体制を中心に、横浜における貿易活動の特徴をみておこう。 生糸売込商の活動 横浜の代表的輸出品である生糸を取り扱う生糸売込商については、すでに本書第一・二編で述べてきたが、ここでは、明治三十年(一八九七)代の生糸売込商の活動を、同時代人の観察資料によりながらみてみよう。 横浜生糸売込商は、地方荷主(製糸家または地方生糸問屋)と横浜輸出商(外国商館または日本直輸出商社)の間の流通を媒介する商人であり、開港直後から登場し、次第に、問屋金融を含む問屋機能を充実させて、生糸輸出の拡大に重要な役割を果たす存在となった。横浜生糸売込商の、問屋として完成された活動ぶりを、明治三十三、四年の東京高商(現在の一橋大学)学生の報告書(『資料編』16近代・現代(6)五三二、『資料編』18近代・現代(8)一八・一九)を中心にみると、おおよそ次のようである。 生糸売込商は、地方荷主から委託された生糸を、輸出商に売り込む業務をおこなうのが本筋であり、自己の思惑で生糸を買い取ることはほとんどない。生糸売込商は、顧客である地方荷主に対して、原料繭の購入資金の一部を前貸しする前貸金融をおこなう。地方製糸家が、製造生糸の売込委託を予約する場合に、問屋が購繭資金を供給するもので、製糸家は約束手形を振り出し、問屋は、それに裏書きして横浜市中銀行で割り引いてもらって前貸資金を調達するのが普通であった。製糸家は、この原資金で繭を購入し、さらにその繭を担保に地方銀行より資金を借り入れて繭を購入するというかたちで、必要量の原料繭を確保した。この前貸金融は、生糸売込問屋の荷主獲得競争のなかから、明治二十年代に発生したものであったが、製糸家の原料繭資金の安定供給によって、輸出生糸の生産拡大に大きく寄与することとなった。 製糸家は、製出した生糸を生糸売込商に送るが、普通は、荷為替を取り組む。つまり、製糸家は生糸を運送会社に託したのち、保険付貨物受取証とともに、生糸売込商あての為替手形を地方銀行に持参して荷為替の取組みを依頼する。生糸売込商が為替手形を引き受ければ、地方銀行は、為替手形を割り引いて、製糸家に手形金額から割引料(利子)を差し引いた金額を支払う。生糸売込商は、為替手形の期日に、横浜の市中銀行に手形金額を支払って、銀行の倉庫に到着している生糸を受け取る。この場合に、生糸売込商は、委託された生糸を担保にして約束手形を振り出し、それを横浜の市中銀行で割り引いてもらって支払いに充当することも多い。 生糸売込商は、製糸家から送られてきた生糸を、外国商館や日本輸出商社に売り込む。見本によって仮契約が成立すると、全量が商館・商社の倉庫に搬入され、品質検査(拝見)・計量(看貫)ののちに、代金が支払われる。外国商館の専横に対する横浜生糸売込商の「商権回復」をスローガンとした対抗努力は、この生糸売込みに際しての取引慣行をおおむね正常化することに成功していた。第二編で述べた一八八一(明治十四)年の連合生糸荷預所事件ののちも、「商権回復」運動は続けられ(『横浜市史』第四巻下四五五ページ以下を参照)、一九〇〇(明治三十三)年に「横浜生糸貿易規則」が設けられて、生糸取引の正常なルールが確立された。 条約改正によって、一九〇〇年から外国人にも「度量衡法」(一八九一年公布、一八九三年施行)が適用されることとなったが、生糸の看貫に使用する新しい衡器をめぐって、生糸売込商と外国商館の間で対立が起こった。それをきっかけに、取引慣行の是正交渉がおこなわれた結果、「横浜生糸貿易規則」が、内外商の合意事項として定められた。従来のポンド単位の衡器を和斤単位の衡器に変更するにあたって、日本側は、八分の一目盛(最小目盛が〇・一二五斤)のものの使用を主張したが、外商側は、四分の一目盛(最小目盛が〇・二五斤)のものを主張した。看貫では、最小目盛以下は切り捨てる慣例になっていたから、買い手には粗い目盛、売り手には細かい目盛の衡器が都合よかったわけである。折衝の結果、日本側は、衡器については妥協して、四分の一目盛のものを使用することを認めたが、いくつかの不当な取引慣行を廃止させることに成功した。 生糸を秤量する際に用いる木綿袋は、六〇匁ほどの重量であったが、慣行では、九〇匁ないし一二〇匁を風袋料として差引秤量することとなっていた。これを、正量で秤量するよう改めさせたのが第一の是正事項であった。第二に、品質検査のために抜き取った生糸は、外国商館の取得物とされ、また、見本品・参考品として若干(二梱について一本)の生糸を無償で提供する慣行があったのを改め、検査生糸は売り主に返還し、見本品は有償とすることを規定した。そのほか、生糸荷造りに用いられる結束糸(括糸)・帯紙の重量の評定方法を改正したり、看貫に籠を用いる場合には売り主が自由に籠を検査し不正を防止するなどの事項が規定された。 「横浜生糸貿易規則」では、必要に応じて、生糸の正量を定めるために生糸検査所の水分検査を受けることとした。生糸の含有水分の多少は、取引生糸の重量確定の際に常に考慮される点であり、外商は、生糸無水量に規定水分量(一一㌫)を加えた正量による取引を主張したが、日本側は、正量取引の即時実施には検査体制などに問題があるとして反対した。結局、正量取引は実施せず、従来通り原量取引とするが、水分量が多いと買い手が判断した場合には、生糸検査所の水分検査を受け、正量と原量の差が原量の二㌫をこえる数値となったなら、買い手は弁償を請求できることと取り決められた。 生糸検査所は、その必要性が早くから唱えられていたが、ようやく一八九五年に「生糸検査所法」が公布され、翌年、横浜と神戸に新設された(神戸検査所は一九〇一年に廃止された)。横浜生糸検査所は、生糸の委託検査を無料でおこなう業務を開始し、とくに、一九〇〇年に「横浜生糸貿易規則」がつくられてからは、活発に利用されるようになった。生糸取引の前提となる品質・重量の評定が、不当な慣行の是正と生糸検査所の活用によって、次第に合理的におこなわれるようになったことは、生糸輸出の促進につながったといえる。 「横浜生糸貿易規則」の制定交渉のなかで、外商側は、生糸の代金支払を、拝見後一四日以内にするという二週間延払い制を提案した。これにたいして、日本側は、強く反対し、従来通り、拝見後三日以内という現金決済制を、そのまま続けさせることに成功した。問屋レベルの取引が、延払いや手形によらずに、即時現金で決済されるという事例は、国際的にはもちろん日本の商慣習のうちでもかなり異例に属するものであり、これは、売り手側にとってきわめて生糸検査所 『横浜商業会議所月報』より 好都合な慣行であった。生糸売込商は、売掛金のこげつき、手形の不渡りなどのリスクを負担する必要がなく、短期間に取引を完了することができる。このために、生糸売込商は、容易に生糸荷為替を引き受け、為替金支払から売込みまでの期間の金融(荷為替立替払)を分担することができるのであり、したがって、製糸家も、生糸代金を短期間に手にすることができ、効率よく資金を回転させることが可能となるわけである。 購繭原資金の前貸しから代金決済にいたるまでの生糸売込商の活動は、生糸輸出の拡大をささえる大きな要因となったのである。 生糸直輸出の拡大 生糸輸出の拡大を促進した要因としては、日本商社による積極的な輸出活動、いわゆる直輸出の発展をあげなければならない。横浜で生糸を取り扱う日本商社のおもなものは、生糸合名会社・三井物産会社・同伸会社・原輸出店の四社であり、生糸を扱う外国商館約二〇社とならんで、生糸輸出活動を展開した。日本商社(内商)と外国商館(外商)の輸出生糸取扱高の推移をみると、図三-六のとおりである。 日本商社取扱高は、一八九七年で約一万俵、全輸出高の約一七㌫であったが、五年後の一九〇二年には約二万俵二四㌫に増え、一九〇六年に約三万俵三九㌫に達したのち、急激に伸長した。そして、一九一二年には、九万俵をこえて、外国商館取扱高を追い越し、全輸出高の五三㌫が直輸出によるものとなった。一八九七年と一九一二年の数値をくらべると、輸出高増加分は約一〇万七〇〇〇俵であるが、そのうち日本商社取扱高の増加分は約八万俵で、日本商社の輸出拡大寄与率は約七五㌫という大きな数値になる。輸出生糸の仕向地をヨーロッパとアメリカに区分してみると、日本商社の取扱生糸の大部分はアメリカ向けである。アメリカ向け生糸の取扱高に限ってみると、一九〇六年に、日本商社取扱高が外国商社取扱高を追い越し、一九〇七年以降は、日本商社の取扱分が六〇㌫以上を占めている。日本商社は、アメリカ向け生糸を中心に、直輸出を拡大させ、いわゆる商権の回復を実現させたのである。 日本商社のなかでは、一九〇六年ころまでは生糸合名会社が取扱高第一位にあったが、以後は、三井物産会社が第一位となった(『横浜市史』第四巻上一五六・一五七ページ、第六四表参照)。三井物産会社の取扱高は、明治末期(一九一〇-一二年平均)で日本商社取扱高の約五二㌫、全輸出高の約二六㌫を占めている。同じ時期に、外国商館のなかの取扱高第一位のシーベル=ヘグナー商会は、全輸出高の約一一㌫を占める程度であったから(同上書、第六〇表)、三井物産会社は、日本からの生糸輸出の最大手商社であった。 日本商社は、輸出生糸の一部を、直接に製糸家から買い入れる場合もあったが、多くは、外国商館と同じような仕方で、横浜生糸売込商から買い付けていた。日本商社による生糸輸出の拡大も、いわゆる売込商体制のうえにのって進められたわけである。 明治初期からの懸案であった直輸出は、このようにして、明治後期には大きな割合を占めるにいたった。この間、政府の直輸出奨励政策として、「生糸直輸出奨励法」が制定されたが、短期間で廃止されるという一幕があった。生糸直輸出奨励策の立法化は、蚕糸業図3-6 内外商別・地域別生糸輸出高(1896-1913年) 注 『横浜市史』第4巻上122ページ第57表によって作成。原資料は原合名「生糸貿易概況」。1903-1906年は,各年7月から翌年6月までの生糸年度の数値。 関係者の宿願であり、一八九三年の第三帝国議会から毎年衆議院に提出されていた。そして、一八九七年の第十帝国議会で政府提案の「生糸直輸出奨励法」が成立し、翌九八年四月から施行されることとなった(以下、『商工政策史』第五巻三三八-三五五ページによる)。この法律は、国産生糸で検査に合格したものを輸出した日本商人・日本商社に対して、奨励金を交付する旨を定めていた。ところが、実施間近い改正条約のなかには、奨励金等では条約締結国民は相互に平等に扱われるとの条項があった。したがって、新条約実施後には、「直輸出奨励法」は、廃止されるか、一般的な生糸輸出奨励措置に改正されるかのいずれかにならざるを得ないわけで、はじめから、きわめて短期的な立法の性格を持っていた。このことは、議会の審議過程でも問題とされたが、政府は、短期間でも必要な措置であると主張して議会を通過させたのであった。 「生糸直輸出奨励法」が公布されると、諸外国は、たとえ短期間であっても、輸出奨励金によって在日外国商の商権がおびやかされるし、また、生糸生産国は競争上不利になるという観点から、これに強く反発した。とくに、新日仏条約の批准を議会審議中であったフランスでは、「生糸直輸出奨励法」に対する反発が、新条約批准反対につながるおそれもでてきた。政府は、諸外国の反発に対して、外商排除の意図はなく輸出生糸の品質向上のための措置で、新条約発効後は外商にも奨励金を交付すると陳弁につとめた。しかし、フランスとの新条約締結三井物産合名会社横浜支店 『横浜商業会議所月報』より が危惧されるにおよんで、政府は、ついに、「生糸直輸出奨励法」の廃止を内密に約束せざるを得なくなった。 廃止の内約で諸外国の反発をなだめた政府は、一八九七(明治三十)年十二月の第十一帝国議会に廃止法案を提案しようとしたが、開会直後の内閣不信任案提出で議会解散となり、廃止法は制定できなくなった。政府は、対外内約の手前から「生糸直輸出奨励法」の施行関係の勅令を制定しないことで事態を乗り切る緊急方策も検討したが、法制上は実行困難で、結局、一八九八年四月から、同法は施行されるにいたった。そして、同年五月の第十二帝国議会で廃止法案が成立し、「生糸直輸出奨励法」は、五六日間施行されただけで廃止となった。 五六日の施行期間中、約四万斤の生糸が、同法の検査対象となったが、奨励金の交付基準に達して合格したのは約一万斤にすぎなかった。検査対象量も過少であり、合格量も著しく少ないところから、同法は法的には施行されたとはいえ、行政的に施行効果を極小にする政策的配慮が払われたのではないかとの疑問が残る。「生糸直輸出奨励法」は、後進資本主義国の経済政策展開の限界を示す典型例であるといってよいだろう。 直輸出に限らず生糸輸出一般に対して促進要因となった政策として、生糸輸出関税の廃止がある。政府は、産業政策上の配慮から、綿糸などの輸出税を順次廃止する措置をとってきたが、生糸輸出税などは、財政収入を得る目的で存続させていた。生糸輸出税廃止は、早くから蚕糸業関係者から要望されており、一八九六年十二月には、横浜商業会議所が、生糸・製茶・海産物など残された輸出税賦課を全廃する建議(『資料編』18近代・現代(8)三七)を政府に提出した。政府も、すでに、輸出税廃止の方針をとっており、新条約実施を機会に、一八九九(明治三十二)年七月から、残る輸出税を全廃することとした。生糸・製茶・海産物・銅などの横浜主要輸出品の輸出税が廃止されたことは、横浜輸出を拡大させるひとつの要因としてはたらいたのである。 製茶売込商と陶磁器売込商 生糸のほかの輸出品取引でも、売込商の活動がみられるが、商品によってその実態にはかなりの相異がある。生糸に次ぐ重要輸出品となった絹織物の場合には、生糸とちがって、外国商館が、直接に生産地で買い付ける形態も発達し、やがて、日本商社の直輸出が拡大すると、日本輸出商社による生産地直接買付けが大きくなった。そこで、横浜の絹物売込商は、次第に活動範囲をせばめられることになり、輸出商に対する立場も弱くならざるを得なかったわけである(絹織物輸出機構については、『横浜市史』第四巻上三五七ページ以下を参照)。 初期貿易において生糸に次ぐ重要商品であった製茶の場合には、かなり生糸と似たかたちの売込商活動がみられる。製茶売込商の活動ぶりを、明治三十三年の東京高商学生の報告書(『資料編』18近代・現代(8)二〇)でみてみよう。製茶の場合も、外国商館による産地直買はなく、売込商が、産地の製茶問屋が仲買人・摺売商を通して集荷した製茶を、外商に売り込んだ。売込みの手順は、(一)見本品によって外商と口頭契約が結ばれ、(二)外商倉庫に現品が搬入され、(三)拝見場で抜取検査がおこなわれ、(四)合格すれば看貫場で計量がおこなわれ、(五)三日以内に代金が支払われるというもので、生糸売込みと同様であった。看貫料として一〇〇〇斤について五〇銭程度が徴収される慣行も、初期貿易以来の悪習とされながら続いていた。 製茶売込商は、地方問屋からの送り荷を、そのまま外商に売り継ぐのではなく、組合せという作業をおこなう点で、生糸売込商とややちがう活動をする。外商に売り込む単位量が大きいために、地方問屋からの送り荷をいくつか合同させる必要があることと、外商の望む品質の製茶にするためには数種の製茶を配合する必要があることから、製茶売込商は、組合せをおこなう。製茶売込商は、それぞれ、コンクリートの床をもつ製茶組合所を持ち、配合すべき製茶を層をつくりながら積み重ね、端から切り崩しながら混合する。この組合せ、つまりブレンドの技術によって、製茶売込商は、下級茶を格上げさせることもできるわけで、技術の良否、ブレンドの手腕が、売込みの成否にかかわったのである。 また、売込商仲間の間での製茶売買が広くおこなわれていたのも、生糸商と異なる点である。製茶売込商間の取引は、才取と呼ばれる仲次人によって媒介され、一五日以内に代金を支払う現物取引であった。仲間取引は、短期間に巨大な利益をもたらす可能性があるので、売込商の業務のなかでも重要な部分を占めていたといわれる。このほか、製茶輸出が、横浜独占ではなかった関係もあって、送荷した荷主が、市況に応じて、東京・神戸など他の市場に売り先を変更することがあり、送り荷の転送がしばしばおこなわれた。生糸商が前貸金融などで地方荷主と強く結合していたのとは対照的である。 製茶の直輸出は、横浜の日本製茶株式会社、神戸の関西貿易合資会社などによっておこなわれていたが、直輸出が伸長するのは一八九九年に清水港が開港されて以後である。これと同時に、製茶貿易における横浜の地位は急速に低下することになるが、この点は、次項で述べる。 陶磁器の横浜からの輸出も、はじめは、売込商から輸出商へという経路が主流であった。陶磁器売込商のなかでは、生産地に支店または本店を置いて、自家生産品または自家仕入品を、外国商館に売り込むという商店が多く、地方荷主から委託を受けて売り込むというかたちは、きわめて少なかった。日用品陶磁器の場合は、形状と図柄が外国需要者の嗜好に合わなければならないから、外国商館が指示したデザインの商品を、国内で生産する方式が主流となり、生糸・製茶の場合とは異なった流通機構がつくられたわけである。 陶磁器売込商の活動を、明治三十三年の東京高商学生調査報告書(『資料編』18近代・現代(8)二五)でみよう。ヨーロッパ向け陶磁器は、デザインの嗜好が安定しているので、売込商は、定形的なデザインの製品を生産地であらかじめ仕入れて、外商に売り込む場合が多かった。アメリカ向けは、デザインの流行性が強いために、まず外商から注文を受けてから生産者に発注する場合が多かった。外商からの発注には、売込商が、あらかじめ用意した見本を外商に呈示すると、外商は取引先に見本を送って注文を聞き、その結果で、売込商に買入れ注文を出すという場合(帰注文と呼ばれた)と、取引先から送られてきた見本によって、外商が売込商に買入れ注文を出す場合(本国注文と呼ばれた)とがあった。注文を受けた売込商は、注文の形状の陶磁器素地を仕入れ、注文の図柄の絵付けをおこなわせる。素地の形状は定形的な場合が多いので、売込商は、あらかじめ、素地を見込みで仕入れておき、外商からの受注後ただちに横浜周辺の絵付加工業者にまわして短期日に納入できる態勢をととのえておくこともしばしばある。 売込商は注文品が揃うと、外国商館に搬入し、拝見と呼ばれる検査を受ける。拝見では、製品全部について、見本品と照合し、寸法・形状・絵付け・疵をチェックし、不合格品をペケとする検査がおこなわれる。ペケとした製品を値引きさせて買い取る商館もあり、過度にきびしい検査によってペケを多くする悪慣習も存続した。代金の支払いは、一-二週間以内が普通であった。なお、横浜からの陶磁器輸出では、米国向けを扱う中国系外商(清商)の活動が盛んで、一九〇〇年ころで、外商の取扱高の約四〇㌫を清商が占め、欧米系外商が約六〇㌫を取り扱っていたといわれる。陶磁器の直輸出は、森村組の手で開始されたことは第二編で述べたが、一九〇九年の横浜からの陶磁器輸出のうちで日本輸出商の取扱い分は、約三四㌫で、なお外商の取扱い分が大きかった(『横浜市史』第四巻上 三四ページ)。 直貿易の拡大 明治後期の外国貿易において、日本貿易商による直貿易が拡大したことは間違いない事実であるが、それを数値によって実証することは、資料の制約からして困難である。内外商別貿易取扱高の全国数値は、第二編で利用した一九〇〇(明治三十三)年までのものしか得られない。それ以後は、神戸税関が調査した神戸港貿易の数値が、公的資料の唯一のものである。それによると、神戸港輸出品の日本商取扱割合は、一九〇一年で二四・八㌫、一九〇六年で三六・五㌫、一九一一年で五一・五㌫、一九二〇年で七〇・一㌫であり、同じ年次の輸入品の日本商取扱割合は、三七・〇、四六・六、六三・八、九〇・二㌫である(『日本経済統計総観』二三六ページ)。神戸港の場合には、明治末には日本商取扱高が外商取扱高をこえていることがわかる。 横浜については、同様な資料は得られないが、一九〇〇年と一九〇九年の数値が推計されている(『横浜市史』第四巻上三四ページ)。それによると、横浜輸出品の日本商取扱割合は、一九〇〇年の二三・二㌫から、一九〇九年には、四一・四㌫に増え、横浜輸入品の日本商取扱割合は、同じ年間に、二八・六㌫から四五・三㌫に拡大していることがわかる。直貿易の拡大は、かなり急速に進んだことがうかがわれる。一九〇九年の数値には、商品ごとの内外商取扱高が示されている。輸出品では、生糸の日本商取扱割合が四七㌫と高く、羽二重も三九・七㌫、絹ハンカチーフは二七・二㌫で、銅は一七・六㌫、製茶は一〇・四㌫となっている(同上書三六ページ)。輸入品では、油粕と米の日本商取扱割合が、九〇㌫をこえ、砂糖は八五・九㌫、繰綿は五五・九㌫と高く、羊毛は四六・五㌫、機械類は四五・三㌫、鉄類は四〇・二㌫、毛織物は三六・八㌫、綿織物は一三・一㌫などとなっている(同上書三六ページ)。 商品によって日本商の取扱割合は異なるが、明治末期には、いわゆる商権回復の課題はおおむね実現されたということができるだろう。 二 明治後期の輸出入動向 輸出品の構成 一八九七(明治三十)年から一九一一(明治四十四)年までの期間の横浜からの輸出の主要品別構成をみると、表三-五六のとおりである。生糸・絹織物が輸出品の第一、二位を占めるという、一八九〇年代に確立した輸出構成が、この時期にも続いている。綿糸・綿織物の構成比はあまり変わらず、日本の代表的輸出品である綿業製品も横浜貿易においては低い地位を占めるにすぎない。 製茶の横浜輸出に占める割合は、この期間に大幅に低下し、一九〇〇年代後半には、銅の輸出を下回る状態になった。日本の製茶輸出が、インド・セイロン産の製茶におされて伸び悩むなかで、一八九九年に清水港が開港されて、清水港からの製茶輸出が開始されたことが、横浜の製茶輸出を減少させたのである。一八九七年には、約二七〇〇万ポンドの製茶が横浜から輸出されていたが、一九〇六年以降急減しはじめて、一九一一年には、約九〇〇万ポンドに減少した。清水港からの製茶輸出は、一九〇五年に静岡市に静岡製茶再製所が設けられ、一九〇六年に北米航路の往航船の清水港寄港が開始されてから、急増し、一九〇九年には、横浜輸出を追い越して、以後、清水港は製茶の第一輸出港となった(『日本茶表3-56 横浜主要輸出品(1897-1911年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。「水産物」の1897年は,昆布・あわび・するめ3品の合計。総額は1000円位で4捨5入。「その他」は表出数値の残差として計算した。『横浜市史』資料編2 79-81,85,87,88,90,93,96,97,103,104ページによる。 輸出百年史』二〇四-二〇六ページ)。一九一一年の清水港製茶輸出は、約二三四〇万ポンドで、横浜輸出の約二・六倍となった。清水開港後、横浜の製茶売込商や外国商館が、清水や静岡に移転したり、支店・出張所を設けるケースが多かった。横浜の日本製茶株式会社も一九〇六年の再製工場火災ののちには、静岡に工場を再建した。製茶輸出において横浜が果たしてきた重要な役割は、一九〇〇年代中ごろでほぼ終わったといってよいだろう。 銅輸出は、横浜輸出の三-四㌫を占めており、銅は、明治末期には、生糸・絹織物に次ぐ重要輸出品であった。一八九七年の横浜からの銅輸出額は、約一一三六万斤、二六九万円であったが、一九一一年には、二一五〇万斤、七七五万円と数量では一・九倍、価額では二・九倍に拡大した。もっとも、横浜の銅輸出額は、一八九七年ころには全国の銅輸出額の四五㌫程度であったが、日露戦争後にシェアは縮小し、一九一一年には三八㌫となっている。 漆器と陶磁器の輸出は、一八九七年から一九一一年の間に、ともに約一・三倍になったが、横浜輸出に占める割合は減少する傾向を示した。全国輸出に占める横浜輸出の割合は、漆器は、一八九七年が約七七㌫、一九一一年が約六六㌫と、高い数値を示しているのにたいして、陶磁器は、一八九七年で約三一㌫、一九一一年で約一三㌫となっている。 水産物の横浜輸出額は、一八九八年の約一二〇万円から一九一一年には約三〇〇万円に拡大した。水産物の全国輸出額に対する横浜輸出の割合は、一八九八年で約三三㌫、一九一一年で約四〇㌫と、かなり高い数値を示している。 明治末期になる、前掲表三-五六の「その他」欄の数値が大きくなってくるが、「その他」欄に含まれるものとしては、生糸以外の蚕糸類(熨斗糸・屑糸など)・砂糖・魚油・テーブルクロス・紙類・真田(経木真田)・百合根などが、比較的価額が大きい輸出品である。 生糸・絹織物の輸出 横浜生糸輸出の動向を図示すると、図三-七のとおりである。価額・数量ともに、変動はかなり激しいが、大勢では急速な増加傾向を示している。一八九六年から一九一一年までの一五年間で、横浜の生糸輸出量は、三九二万斤から一四四六万斤へと約三・七倍、輸出額は二八八三万円から一億二八八八万円へと約四・五倍に拡大している。生糸輸出は、横浜がほぼ一〇〇㌫担当しているから、全国輸出の動向は同一である。 生糸輸出相手国は、アメリカ・フランス・イタリア・イギリス・ロシアなどで、一八九七年の輸出価額の相手国別構成比は、アメリカ五八、フランス三六、イタリア四、イギリス〇・四、一九一一年には、アメリカ七〇、フランス一六、イタリア一一、ロシア二、イギリス〇・三である(『横浜市史』資料編二一六五ページ)。アメリカ向けが増加する傾向にあり、生糸輸出は、アメリカ市場の動向に左右される状態にあった。 アメリカの生糸輸入量は、一八九七年の一〇〇五万ポンドから一九一一年には二二三八万ポンドへと約二・二倍に拡大したが、そのうちで、日本からの輸入が占める割合は、五三㌫から六二㌫に増えている(『横浜市史』第四巻上一一六ページ、第五六表)。日本からの輸出生糸は、たんに量的にシェアを拡大したばかりでなく、質的にも優等糸の市場をイタリア糸との競争のなかで拡大させた。絹織物の緯糸として用いられる普通糸から、経糸用の優等糸の輸出へと質的に高度化したことは、輸出生糸の単価を引き上げて生糸の外貨獲得力をいっそう強化させたのである。 輸出生糸のラベル 県立文化資料館蔵 絹織物・絹製品の輸出の中心は、羽二重である。横浜からの絹織物輸出は、一八九七年の九五六万円から一九一一年の三二六八万円へと、約三・四倍の増加を示した。このうち、羽二重は九〇㌫以上を占めている。羽二重の全国輸出における横浜の割合は、九四-九九㌫で、生糸輸出とほぼ同様に、一港輸出体制となっている。 羽二重の主要輸出先は、フランス・アメリカ・イギリス・インドなどで、一八九七年の輸出相手国構成比は、アメリカ三七、フランス二八、イギリス(香港を含む)一八、インド一二、一九一一年は、フランス三一、イギリス(香港を含む)二一、インド一七、アメリカ一二であり、生糸とは異なって相手国は特定国に集中せず順位も変動的である(『横浜市史』資料編二 一八一ページ)。アメリカやフランスの絹織物業と図3-7 横浜からの生糸輸出(1896-1911年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 85ページによる。 の激しい競争のなかで、両国政府の自国産業保護のための関税政策に大きな影響を受けながら、日本の絹織物輸出は拡大したのである。 輸出絹織物の生産地は、一八九七年ころは、福井・群馬・栃木が主であったが、一九一一年ころには、福井・石川・福島・新潟が主となった。福井は、重目羽二重、福島は軽目羽二重と、産出品種には地域差がみられる。 輸入品の構成 横浜輸入の主要品の構成比をみると表三-五七のとおりである。明治後期の横浜輸入の特徴は、綿織物・毛織物の比重低下とそれにかわる綿花・羊毛の比重増大、砂糖の比重の低下、紙類・油粕など新しい重要輸入品の拡大などである。綿業関係三品、綿織物・綿糸・綿花の横浜輸入額の推移を図示すると、図三-八のようになる。綿織物輸入はほぼ横ばいであり、綿糸輸入は、減少を続けて一九〇二年以降はほとんど無視できる程度の大きさとな表3-57 横浜主要輸入品(1897-1911年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。総額は1000円位で4捨5入。「その他」は,表出数値の残差として計算した。『横浜市史』資料編2 106,108,111,112,114,116-118,120,123,125,129,131ページによる。但し,「綿織物」の1898-1906年,毛織物の1897-1906年,「鉄鋼」の1907-1911年は,『横浜市史』第4巻上14ページの数値による。 った。綿花輸入は、一九〇四年ころまでは横ばい状態であるが、一九〇五年の急増以降、増加傾向に入り、一九一一年には、一九〇四年の四倍をこえる額に達した。全国の綿花輸入も、一八九七-九八年、一九〇〇-〇一年の二度の恐慌による紡績業の停滞を反映して、一九〇四年ころまではあまり伸びず、一九〇五年以降に急増する。とはいえ、全国綿花輸入額は、一九〇四年から一九一一年にかけて約二倍に拡大した程度であるから、横浜の綿花輸入の拡大傾向は、特に著しい。これは、富士紡(富士瓦斯紡)や日清紡など関東地方に出現した大紡績会社の活動が盛んになったことを反映している。 綿花の輸入相手国は、明治末期の全国輸入では、インド・アメリカ・中国・エジプトの順に多かったが、一九〇九年の横浜輸入では、アメリカ・中国・インド・エジプトの順となっており、アメリカ綿花の比重が高いという特徴があらわれている(『横浜市史』第四巻図3-8 綿業関係品の横浜輸入(1896-1911年) 注 『大日本貿易統計年表』の数値。『横浜市史』資料編2 116,118ページによる。綿織物の1898-1906年は,『横浜市史』第4巻上 14ページの数値。 下六六一ページ、第六一表)。これは、高番手の細糸を生産する紡績会社が東日本に比較的多かったために、良質長繊維のアメリカ綿花の需要が大きかったことによる。急増した綿花輸入は、横浜輸入における綿花の地位を高め、一九〇九年以降、綿花は第一位商品となった。全国輸入額に対する横浜輸入の割合は、一八九七年の一二㌫から一九一一年には一五㌫に若干拡大している。 羊毛の輸入も拡大した。一八九七年の羊毛輸入は、八八万斤、九六万円であったのが、一九一一年には、一三四万斤、二五四万円となり、数量で一・五倍、価額で二・六倍になった。綿花とは異なって、羊毛輸入では横浜が主要港であり、全国輸入に対する横浜輸入の割合は、縮小傾向にはあるが、一八九七年で八〇㌫、一九一一年で六六㌫となっている。 砂糖輸入は、一八九〇年代に入ってから、横浜輸入の第一位を占める年が多かったが、一九〇〇年代に入ると急速に縮小していった。これは、日清戦争によって台湾を領有し、原料生産基地を確保したのちに、日本の精糖業が急速に発達した結果であった。いうまでもなく、台湾からの粗糖・精糖の移入は拡大し続ける。 紙類の輸入は、国内の洋紙需要の拡大とともに増加したのであり、中国からの油粕輸入も、一八九〇年代末ころから急速に拡大した。 第二節 貿易金融の発展 一 明治前期の貿易金融 すでに第二編で述べたとおり、横浜の金融機構の発展は生糸金融によって代表される国内商業金融と貿易金融を二つの軸としてなされてきた。このうち貿易金融については、商法司→通商司→横浜為替会社→前期第二国立銀行→後期第二国立銀行を経て、横浜正金銀行の設立へと展開していく。この流れは、また生糸金融の機能を果たす金融機構の発展の姿でもあることから、初めは同一の金融機構が生糸金融と貿易金融の両者の機能を果たしていたのであるが、徐々に両者が分かれ、結局は別々の金融機構によってそれぞれの機能を分担するにいたるのである。その底には、居留地貿易から直輸出運動の展開への大きな飛躍があり、またその成功のあとがみられるのである。すなわち、直輸出の比率が高くなるまでは、居留地貿易であり、その限りでは貿易金融といっても、国内の生糸金融と截然と分ける必要はなかった。全国の為替会社のなかで、横浜替為会社のみが横浜第二国立銀行に移行したひとつの大きな理由が洋銀券発行業務の継承であったことも、この間の事情を説明している。しかし、直輸出が開始されると、独自の貿易金融機関を必要とするようになる。これが、横浜正金銀行である。また、そこに横浜正金銀行のみが、他の横浜の銀行と異なって、全国的な基盤で設立される必然性があったのである。そこで本節では、直輸出運動を背景に、独自の貿易金融機構である横浜正金銀行の設立過程と同行の果たした役割を考察してみよう。 洋銀騰貴防止政策の展開 明治十年(一八七七)代前半において、紙幣の過剰発行によって激しいインフレーションをひき起こし、紙幣価値の著しい低下をもたらしたことは第二編でふれたとおりである。この結果、輸入の増大、正貨の流出という事態を招き、さらには銀貨に対する需要増加から銀貨の異常な騰貴を生じた。ロンドンの銀塊相場が低落し、世界全体における銀の対金価値が低下するなかで、ひとりわが国の銀貨相場のみ上昇を続けた。そこで、わが国の貿易収支の均衡をはかるためには、銀貨の騰貴をおさえ、物価の安定に努めることが必要となった。当時の大蔵卿大隈重信は、インフレーションの原因を紙幣の過剰発行より銀貨の供給不足に求め、この観点からする洋銀騰貴防止政策を実施した。その内容には、(一)準備金における銀貨貸出し、(二)洋銀取引所の設置、(三)殖産興業のための準備、(四)銀貨供給のための金融機関の設立の四つが含まれていた。 まず、準備金からの洋銀貸出しについては、一八七九(明治十二)年、第二国立銀行および三井銀行の二行に銀貨二四〇万円を託して、市場に売却せしめた。この結果、一時的には銀貨は下落を示すが、売却をゆるめると再び騰勢を示した。そこで一八八〇年にいたって、さらに第一、第二両国立銀行および三井銀行を通じて六〇〇万円の銀貨を、また横浜正金銀行を通じて一八万五〇〇〇円の銀貨を売却した。このため、銀貨相場は下落を示すが、今回もまた銀貨の売却を少しの間でも中止すると、再び銀貨の騰貴を招いた。そこで政府は、銀貨相場を低い水準にとどめるだけの銀貨売却の続行は不可能であるとし、一八八〇年九月をもって銀貨の売却を中止するにいたり、この政策は失敗に帰した。 第二は、洋銀取引所の設置および取引所における銀貨の上場であった。横浜洋銀取引所は一八七九年二月に設立認可となり、翌三月に開業した。資本金は一二万円、初代の頭取は茂木惣兵衛であり、「株式取引所条例」にもとづいて運営された。この洋銀取引所設立に際して大隈重信が太政官にあてた上申書には、一八七八年以降の洋銀騰貴の原因が主として洋銀の投機取引に求められており、そのことから洋銀取引所の設置が不可避であると述べられている。横浜洋銀取引所のほか、東京株式取引所・大阪株式取引所においても金銀貨の上場がおこなわれ、正貨の取引の活発化を通じてその需給の調節と相場の安定をはかろうとした。こうした意味で、横浜洋銀取引所の設立も洋銀騰貴防止政策のひとつであるとみなすことができる。 銀貨騰貴防止政策の一環として、このほか準備金の殖産興業政策への使用もあげられるが、何といっても防止政策の最大のものは貿易金融機関設立計画であった。 貿易金融機関設立の要請 洋銀騰貴防止政策のひとつとして、貿易金融機関設立の要請がなされたことは前述のとおりである。当時、政府は銀貨騰貴の主たる原因が銀貨の不足にあり、銀貨の不足は銀貨の集散のための中心機関がなく、したがってその調節が不可能であると考えていた。こうした意味から、銀貨の需給を調節するための貿易金融機関の設立が要請されたのである。 貿易金融機関設立の要請は、これとは別の観点から、とくに横浜商人などによってなされてきたが、ここでは比較的大きな提案を二つをとりあげておこう。それはバッチェルダーJ=M=Bachelder(アメリカ人)による建白書と「貿易銀行条例」草案である。 まず、バッチェルダーによって提言された建白書「貨幣ノ政ヲ救匡スルノ策」(一八七九年と推定される)の主要な内容は、次のとおりである。すなわち、日米両資本を合して一大シルバー=バンクを設立し、もって銀の需給の調節をはかろうとするものである。この銀行の資本金はいちおう一〇〇〇万円とし、業務の拡張に応じて五〇〇〇万円まで伸長することが可能となっている。また、この提言の基礎となった考え方は、銀の供給不足が紙幣価値の下落の原因であるという主張であって、その点、前述の大隈重信の考え方と相通ずるものであった。 つぎに、横浜正金銀行の設立以前と思われる時期に作成されたと思われる「貿易銀行条例」草案をとりあげておこう。同草案は、はじめに貿易銀行を政府が創立かつ管理する政府金融機関として位置づけている。このことから、政府部内にすでに貿易金融機関設立の意図があり、これがたまたま時期を同じうして起こった横浜正金銀行設立の運動と一致したものと思われる。さらに、同草案は貿易銀行はその本店を横浜港に置き、支店を全国各地に設置することと規定している。また、資本金は三〇〇万円を最低とし、日本貿易銀をもって払い込むこと、政府出資が半額を下らず、政府はたえず株主たること等を規定しているが、この条項も政府出資の比率が若干減少した以外、横浜正金銀行設立時の事情と同一のものとなっている。銀券発行については、資本金の一〇分の八を限度におこないたいとし、そのため銀券流通高の三分の一以上の貿易銀を支払準備として保有することも、草案に規定されていたが、この条項ものちの横浜正金銀行設立願のなかに示された考え方と共通している。以上、いくつかの草案における条項を示してみた。この結果、政府の意図した貿易銀行構想とのちの横浜正金銀行の設立構想が類似していることが明らかとなった。このような意味で、政府側に、すでに銀貨騰貴防止政策の一環として、貿易金融機構を設立する計画が存在したということができる。 以上述べてきたように、洋銀の騰貴に対して、政府はつぎつぎとその防止政策を展開したのである。すなわち、はじめは銀貨の売却のような消極的なものであったが、やがて正金銀行のような銀貨の需給調節機能をもった貿易金融機関の設立へと結実していったのである。したがって、このような流れのなかで、横浜正金銀行設立の意義もとらえられなければならない。 二 横浜正金銀行の設立 銀行設立の動機 横浜正金銀行設立の動機については、いくつかの説明がなされていて、いずれが正しいのかを確定するのはむずかしい。しかし、どの説をとるにせよ、同行設立について二つの動機があったことは確実である。一つは前述した大隈重信による経済政策(洋銀騰貴防止政策)上の観点からする貿易金融機関設立の動機である。この大隈の政策の理念には、福沢諭吉の考え方が大きな影響を与えた。すなわち、福沢は大隈に再三書簡を送り、洋銀騰貴に際して、相場調整のため政府資金を貸し出す貿易金融機関の設立を強く提議している。もう一つの動機としては、一八七八、七九年ごろ、丸屋商店の経営者早矢仕有的および同店と関係の深い中村道太は、洋銀相場の高騰、外国銀行の専横によるわが国外国貿易の受ける障害をのぞこうとして、貿易金融機関を設立しようとしていた。この二つの動機を結びつけたのは、福沢諭吉と中村道太の交友である。中村は以前から福沢に師事し、福沢も中村を信頼していた。そこで、貿易金融機関設立について、福沢は大隈に対して中村を強く推挙したのである。以上述べたように、横浜正金銀行の設立は、政府の経済政策と丸屋商店を中心とする民間からの設立要請の合致点に求められるのである。 創立願の提出 以上の経過をふまえて、いよいよ一八七九(明治十二)年十一月十日に、中村道太ほか二三名によって「創立願」が提出された。この創立願におり込まれた創立目的は、(一)「国立銀行条例」の改正以後、銀行がいくつも設立されたので、国内商業については不便はないが、ここ数年来貿易収支の不均衡から貿易通貨の騰貴と不足をきたしたこと、(二)そのために、金銀貨幣の流通を促進する機能を果たす正金銀行の設立が必要であること、の二点におかれた。この設立目的は大隈大蔵卿によって支持され、設立に向かうこととなる。当初、丸屋商店関係の小規模な銀行を設立する構想であったものが、政府の洋銀騰貴防止政策の重要な一手段をになうという、大きな意義と目的をもった銀行として設立される運びとなった。正式の創立願が提出される以前の十月に、正金銀行発起人総代の中村道太の名義で、正金銀行の名称を国立東海銀行と称したいという「銀行名称願」が提出された。これは中村道太の故郷ということから、東海銀行という名称を使用する案があったことを示しているが、結局、許可にならなかった。 つぎに、設立発起人二三名の内訳を出身地別にみると、東京一一名、山形一名、新潟二名、愛知四名、横浜五名となっている。この点、発起人のほとんどが横浜商人によって占められていた第二国立銀行・第七十四国立銀行とはまったく相違している。他府県から名を連ねた人びとは、地方の華士族・銀行家などであるが、中村道太の銀行経営能力を信頼して発起人となったもの、福沢・大隈の正金銀行に対する考え方や熱意に動かされたものなどに分かれよう。ともあれ、第二、第七十四両国立銀行が横浜商人の機関銀行として設立され、成長していったのと異なり、横浜正金銀行は、横浜に存在していても、横浜商人というよりはもっと大きな政策上の必要から設立された銀行であり、その意味から発起人も広範だったわけである。 創立願には、(一)「国立銀行条例」に準拠して設立すること、(二)資本金は三〇〇万円とし、うち一〇〇万円は自分たち発起人で出資し、残りは株主を募集すること、(三)金札引換公債抵当証書を抵当として銀行紙幣を発行したいこと、の三点が述べられていた。しかし、このうちの(三)の紙幣発行権のみは、結局認められるにいたらなかった。 銀行の開業許可 「正金銀行創立願」の提出を受けた大隈大蔵卿は、同年十二月十一日に太政官あてに上申書を提出した。その内容は、(一)正金銀行設立について許可願が出されたので許可したいこと、(二)明治初年以来の通貨制度・銀行制度の整備によって、国内商業の発展に大きな役割を演じてきたこと、(三)金銀貨幣集散の中心的機関として正金銀行が設立されることの必要性を力説すること、の三点である。要するに、貿易銀を中心とした金銀貨幣がひとたび市場に流通すると、集散の中心がないから退蔵してしまい、その結果、洋銀価格の騰貴をもたらす。そこで、そのような集散を機能とする新しい銀行の設立が必要であるというのが、主たる内容であった。 この上申書を受けて、一八八〇(明治十三)年二月十一日に正式の開業許可が正金銀行に与えられた。当時の新聞は「横浜正金銀行は一昨十一日いよいよ許可になり、近々設立の様子、その響きか昨日は洋銀相場が俄かに下落した」と報じている。この結果、設立準備がおこなわれ、二月九日までに資本金もいちおう集まり、いっさいの準備を完了したので、同日創立証書が提出され、それにもとづいて開業免許が下付された。開業は一八八〇年二月十三日であった。 正金銀行の資本構成 横浜正金銀行の当初資本金三〇〇万円が、政府出資と民間出資とから成っていたことは前述のとおりである。まず、政府出資についてふれてみよう。政府は、国庫準備金のなかから銀貨一〇〇万円を支出して交付した。その理由について、「準備金始末」は次のように述べている。政府が資本金を出資する例はこれまでなかったが、(一)目下輸出入不等、金銀貨騰貴の際、財政上欠くべからざる重要事件であるので特別の保護を加え、内外人民の信頼をかち得ることが大切であること、(二)正金銀行が漸次内外貿易の間に介して、財貨流通のための重要な手段を提供するために、欧米または中国の各国に向かって為替の事業を開設し、ひとつの外国為替銀行となることが必要であること、の二つの事情から特別に正金銀行への出資を許可するというものであった。とくに、ここではフランス銀行の例をひき、フランス銀行が半官半民の資本形態であり、かつ頭取・副頭取は政府が任命し、資本金の増減にいたるまでみな政府によって決定されているが、政府の保護と特権付与によって非常に大きな発展を示したと述べている。 政府が正金銀行に対して出資し、保護する立場をとることは、同時に政府から監督を受けることを意味する。すなわち、政府は出資するとともに管理官を派遣することを早くから決めていた。一八八〇年四月に制定された「横浜正金銀行管理官心得」によれば、管理官は銀行いっさいの業務を監督し、銀行に常駐して、定例および臨時の集会に出席し、自らが必要と認めた時は発議もおこなう任務をもっていた。正金銀行は、政府からこのような強い監督を受けることとなったが、のちに特殊銀行として位置づけられる萌芽がすでに創立時にあったことが明らかとなる。つまり、横浜正金銀行はわが国の金融制度において、外国為替銀行として位置づけられていたのである。 つぎに、民間出資について述べよう。資本金三〇〇万円のうち、一〇〇万円が政府出資であったことは前述のとおりであり、残り二〇〇万円は民間出資によってまかなわれた。当初、このうちの一〇〇万円を拠出するとされた発起人出資分が、結局八〇万円あまりにしかならなかったので、残りは公募によって集められた。しかし、開業前に五割を払い込む条件で、銀貨での資本調達はきわめて困難であった。そこで、資本金の払込みを五回に分割しておこなうことの許可を得た。しかし、それでも洋銀で払い込むことはむずかしかった。株式の応募者が正銀を購入することが、容易でなかったからである。また、銀行も一時に多額の正銀を必要としないことが明らかとなったので、結局、払込高の五分の四は紙幣でよいこととした。銀行はこの資金で金札引換公債証書を買い入れておき、おって正銀の必要がある時、この公債証書を抵当として政府から正銀の貸下げを受けることとなった。このようにして、民間出資の分についても出資を完了した。 民間出資者で発起人以外のものは全部で一八七名(発起人とも二一〇名)で、このうち神奈川県の在住者は四二名と約五分の一を占めるにすぎなかった。正金銀行の場合は、政府の銀行政策と結びついて、ひろく全国的基盤のうえに設立されたことを示すものといえよう。第二、第七十四両国立銀行がほとんど横浜商人のみに基盤をおいていたのと、まさに対照的であった。しかし、大口の株主のなかには、丸家善八・近藤良薫・木村利右衛門・早矢仕有的・茂木惣兵衛・小野光景・村松吉平・大谷嘉兵衛・大西吉松・安部幸兵衛・田中平八・原善三郎などの顔ぶれが見られ、横浜商人あるいは横浜の銀行家たちが積極的に協力していったことがわかる。横浜以外の地方のなかでも、大手の貿易商や銀行家が多く、正金銀行の規模や設立意義・業務等が高く評価されていたものと思われる。以上のように、横浜正金銀行の株主構成は、政府による強力な保護と全国的基盤に立脚した貿易金融機関としての特色をよく示している。銀行設立直後、福沢諭吉は大隈重信あての書簡においては、正金銀行の資本金三〇〇万円は過少であるとし、一五〇〇万円まで増資することを説いたが、これは結局実現せず、現実に正金銀行が増資したのは一八八七(明治二十)年で、金額も四五〇万円にしたのにすぎなかった。 三 横浜正金銀行の初期の性格 外国為替制度の内容と意義 横浜正金銀行の設立の意図が、銀貨の供給機関としての機能を発揮することにおかれたことは前述のとおりであるが、実際に営業を開始してみると、正金銀行の取引の媒介をおこなうだけでは経営に行詰りをきたした。とくに一八八〇年に入って、金融市場の事情が一変し、逆に紙幣不足を生ずるようになり、経営政策の転換を迫られ、外国為替業務を中心とせざるを得なくなった。正金銀行設立三か月後に、銀行は政府に「紙幣御貸下願」を提出し、年五㌫の利子で政府から紙幣を借り受けた。そして、この紙幣を貸し付けて正洋銀で返却せしめるという制度を通じて、国内輸出産業の保護にあたり、同時に貿易収支の均衡、ひいては銀貨騰貴の抑制をはかろうとした。この間に、明らかに政府の経済政策に転換があったように思える。つまり、従来は銀貨騰貴の原因を銀貨の供給不足に求め、そのため銀貨供給機関を設立するという考え方であったのが、このころになると、むしろ貿易収支の不均衡に銀貨騰貴の原因があるとしている。そこでまず、国内輸出商品を保護奨励して輸出を伸ばし、これによって貿易収支の均衡をはかり、もって銀貨騰貴の防止に寄与しようとしたものと考えられる。 この紙幣貸出制度をみると、紙幣貸出しは他の一般の銀行業務と切り離しておこなわれた。貸付期間は三か月以内で、金利は抵当や貸付期間の長短に応じて適宜決定されたが、返済は必ず一円銀をもってなさなければならなかった。紙幣貸出制度は出発後順調な発展をみせ、かなりの取引をみせた。ところが紙幣貸出しの活発化にともない、本来の銀行専業のいわゆる正金銀取引の勘定と混同される弊害が生じた。そこで、銀行内に新たに紙幣部が設置され、本来の銀行業務をつかさどる本部と計算上も二分されることとなった。つまり、紙幣と正洋銀の取引については、両者の間に貸借勘定を設けて明確に区分し、混同をさけたわけである。以上、紙幣貸出制度について述べてきたが、この制度の意義はきわめて大きく、次の三点に要約できよう。(一)この制度は、政府の洋銀対策・銀行対策の転換のなかで、その流れにそって設けられたものであること、(二)この制度の開始によって、横浜正金銀行が貿易金融機関としての内容をいよいよ充実させていったこと、(三)この制度を契機として、外国為替業務が正金銀行の主業務となるような銀行の経営政策の転換へと進んでいったことなどである。 そこで、つぎに初期の経営上重要な地位を占めた「御用外国荷為替制度」について概説しておこう。同制度を設けたことの意義は、(一)海外直輸出の奨励、(二)その取立て代金で政府の在外支払いに充当すること、(三)海外よりの正貨の回収、の三つに求められる。すなわち、直輸出の奨励、紙幣の貸出しによる正貨の回収が、同制度の意義といえよう。当時、わが国の貿易収支の回復をはかるためには、生糸・茶等の直輸出を奨励する必要があったが、それらの荷為替取組みの需要がきわめて大きかった。そこでこれに応ずるためにはイギリス・アメリカ両国へ出張官を派遣して、荷為替業務をおこなわせる必要があった。そして、そのための資金を政府から借り入れなければならなかった。具体的には、政府からの預入金(借入金)は御用別段預金と呼ばれ、直輸出業者に対する貸付けないしは荷為替資金の提供にあてられた。資金の規模としては、三〇〇万円を限度とし、必要に応じて請求され次第、紙幣をもって預け入れされ、その輸出業者への貸出資金が返済されるに応じて返納されることとなっていた。御用荷為替制度の内容は以上のとおりだが、つぎにその実績を簡単にみておこう。当時生糸流通のための資金需要が高いにもかかわらず、一般の金融機関による生糸金融のための資金量が少なかったので、正金銀行は次の九銀行と約定をむすび、これらの銀行を通じて貸出しをおこなった。すなわち、東京第三十三国立銀行・東京第百国立銀行・豊橋第八国立銀行・東京丸家銀行(以上、いずれも上州または信州の支店)・松代第六十三国立銀行・福島第六国立銀行・須賀川第百八国立銀行・三春第九十三国立銀行・福島第六国立銀行三春支店・上田第十九国立銀行である。貸出しは甲(内地各地方より海外直輸物品を開港場に輸送する荷為替資金)と乙(開港場より海外各国に向けるべき荷為替資金)とに分かれていた。このうち、甲資金の貸付けは各地方の銀行と約定書をかわして、同銀行を通じてその為替取組みをおこなうものであり、乙資金は直輸営業諸会社の手を経て、英米その他に在留している正金銀行の出張員に向けて荷為替の取組みをおこなったものである。荷為替資金を貸し付ける時に、その約定書をかわした銀行は横浜第七十四国立銀行ほか十五行であった。この御用荷為替制度は一八八〇年後半から八一年にかけて活発に利用されるところとなった。そして、とくに直輸出のための荷為替金融は条件が有利ということもあって需要が大きく、ついには「御用別段預金」の一五〇万円増額を必要とするにいたった。ここに、初期の正金銀行が政府資金による外国為替銀行という性格を強くもっていたことが示されている。 経営の行詰り 一八八一(明治十四)年末にいたって、新たに大蔵卿に就任した松方正義は、政策の変更をおこない、紙幣整理の断行につとめた。すなわち、一方では紙幣を消却するとともに、他方においてはその兌換準備に充当すべき正貨の増殖をはかるべきだと考えた。そして、このために正金銀行の利用が嘱望され、荷為替制度の運用により正貨を海外から吸収することの重要性が認められた。このように、紙幣整理のための積極的方策のひとつとして、直輸出の奨励、同荷為替の実施によって兌換準備にあてる正貨の増加をはかろうとしたのである。この点は、従来の大隈・佐野両者の考え方(貿易収支の均衡をはかることを第一義とする)とは根本的に異なっていた。また、大蔵卿松方は「御用荷為替制度」の運用に粗雑な面があるとして、同制度の改正をおこなった。すなわち、(一)外国為替の取組みにあたって、為替券には渡した紙幣の金額、受けとるべき金額、および両者交換の際の為替相場・為替料の明記を規定した。これによって、紙幣価値の変動を利用しての投機を防いだ。(二)正金銀行自体が為替荷物につき厳重な検査をおこなうことを規定した。 このように、政策面からも外国為替制度の拡充が重視され、同時に荷為替資金の需要も激増したことから、一八八二年の一時的停滞を除いて、その後も一貫して同制度による運用資金の伸長がみられた。まず、政府から「御用外国荷為替資本預金」や「御用外国為替預金」として、正金銀行に預入れされた金額は年々増大をみせ、これにともなって正金銀行の海外荷為替取組高も著しい伸長を示した。 以上述べたように、横浜正金銀行の業績は外国直輸出荷為替資金の供給を中心に順調に推移したようにみえるが、経営面においては、一八八一年末から八二年にかけて非常な苦境に立つにいたった。その原因は、内外商況の激変、得意先の破産、荷為替および貸出金の一時的停滞、貸出しの放漫などに求められた。前述のように、八二年に一時的な停滞を示したが、この時期がまさにこれにあたった。他方、大蔵省は経営の悪化を経営の散慢化によるものと考え、経営の行詰りの調査すらおこなわれていない点を強く批判した。この間の正金銀行の損失見込みはきわめて大きかったが、とくに銀貨よりも紙幣での損失見込みがより大きかった。紙幣による全貸付金の約九一㌫が損失という有様であった。この時期が紙幣整理期にあたり、紙幣価値が徐々に回復していくなかでおこなわれただけに問題が大きかったといえよう。また内外荷為替資金の運用についても、ほぼ同様のことがいえた。内国の場合は約五三㌫、外国の場合は約四一㌫が損失となるという経営の乱脈ぶりがみられ、経営の散慢化が明らかとなった。こうして銀行経営の破綻を招いた正金銀行は、頭取を中村道太から小野光景に、さらに小野から白州退蔵に変えたが、抜本的な経営の改善をはかることができなかった。そして、経営の改善は一八八三年三月に就任した原六郎頭取にいたって、ようやく実現することになったのである。 四 経営の改善と「横浜正金銀行条例」の制定 経営の改善 白州頭取時代にも正金銀行の改善案が生まれたが、その骨子は政府の保護をいっそう強めることにあった。しかし、政府の保護を受けることは同時に政府の監督が強化されることを意味するので、銀行内にも官民分離論に立っての反対意見が生じた。そこで、松方大蔵卿は反対分子の所有する株式を大蔵省で買収し、いっさいを排除した。正金銀行の経営の改善は、まず反対派を排除し、行内を統一することからはじめられた。 原頭取の改善策も、考え方の基本において白州頭取時代のものと変わらなかった。原は銀行の損失見込み、評価できる担保物権を徹底調査し、その確定損失を補塡するため、別段積立金を滞貸し準備金に振り替えた。つぎに、基本的な改善方策として資本金の本位を通貨に改めた。その理由は、帳簿上三〇〇万円の資本金の半額以上は金札引換公債証書や紙幣からなっており、これを正金三〇〇万円というのは事実に反すること、紙幣価値の回復でやがて銀紙の差がなくなることが予想されるので、今のうちに銀貨本位を廃止して通貨にかえておくことが好ましいことなどがあげられた。このほか、(一)積立金および別段積立金を通貨に改め、ことごとくこれを滞貸し準備に組み入れること、(二)所有の金札引換証書を金禄公債証書と交換すること、(三)市場の需要高に相当する銀貨を備えておくこと、(四)業務を区別して、紙幣部(主)、銀貨部(従)をおくこと、などが改善策の主要内容であった。原頭取の銀行改善方策のなかには、松方正義の財政金融政策に対する考え方が非常によくでている。当時、松方はすでに紙幣整理の完了と兌換制度の実施に自信をもっており、これを前提としての銀行改善案だからである。正金銀行は、これを受けて紙幣部を主体にしたわけである。 原頭取の改善策をすすめるためには、政府の多大の援助が必要であったが、その特別の配慮を受け、一八八五(明治十八)年には経営の立直しを完了することができた。損失を全額補塡したうえで、十分な積立金勘定を保有したかたちで再出発することができたのである。 経営の発展 以上のような経過を通じて、いちおうの経営上の改善をみせてからの横浜正金銀行の業績は伸長し、外国為替銀行として次第に大きな位置を占めるにいたった。外国為替の取組高は年々増加をみせ、一八八七(明治二十)年には八三年の四倍の規模に達した。とくに、外国為替金業務(為替相場をもって取り組むもの)と、外国為替仮渡金業務(外国へ輸出する生糸に対し、為替金の前渡しや産糸地方から横浜までの為替金に使用するため、諸銀行へ貸し付けたものなどからなっている)の伸長が目立っていた。このなかには、内地荷為替制度の復活も含まれており、これが直輸出を伸ばすために果たした役割も大きかった。つぎに、この時期の外国為替業務のなかで重要なもう一つの問題は、外国商人に対する輸出荷為替取組の開始である。正金銀行は政府預入金である外国為替元預金の紙幣をもって銀貨を買い入れて為替を取り組み、この勘定をすべて原価で政府と決済するとともに、取組高に対して一〇〇分の二の手数料を支給されるのが、この制度の内容であった。 外国為替業務の活発化にともない、その原資としての政府関係預金の必要性も高まった。政府は御用外国為替預金のかたちで巨額の預金を正金銀行に預託し、その期待に応えた。日銀関係の預金・借入金を加えると、資金の大部分は政府資金ということになり、やがて特殊銀行としての位置に立つこととなる。 横浜正金銀行は経営の発展をみせたが、その性格は政府資金の運用機関、外国為替業務の担当機関という性格がきわめて強かった。松方財政の成果が挙がる過程において、正金銀行も松方の意図した兌換制度の開始による通貨の安定に協力して、外国からの正貨の吸収につとめた。しかし、政府は外国為替銀行として正金銀行をよりいっそう強く管理することをのぞみ、やがて「横浜正金銀行条例」の制定をみることとなった。 一八八四(明治十七)年、ロンドン出張所を支店に昇格させた。ロンドン支店の営業内容は、外国為替業務と政府の対外業務の代行であった。ロンドン支店の開設により、横浜正金銀行の位置はいっそう高いものとなった。 横浜正金銀行条例の制定 横浜正金銀行は「国立銀行条例」に準拠しながらも、政府と特殊な関係に立つ特殊銀行の性格を強めてきたことは、これまで述べてきたとおりである。正金銀行の特殊銀行としての性格は、「横浜正金銀行条例」(一八八七年七月制定・公布)の成立によっていっそう明確となった。当時、特別法にもとづいて創立された銀行は、中央銀行としての日本銀行だけであったことから、政府がいかに横浜正金銀行の役割を重視したかが理解される。 同条例によって、特殊銀行としての横浜正金銀行の制度上の特徴をみておこう。まず業務としては、内外国に支店を設置し、他の銀行と「コルレスポンデンス契約」を締結することによって、外国の為替、荷為替をおこなうことにおかれた。政府との関係については、(一)政府の命令を受け、内国または外国で公債や官金の取扱いをおこなう、(二)取締役の互選で決定された頭取について大蔵大臣の認可を受ける、大蔵大臣が必要と認める時には、日本銀行の副総裁が正金銀行の頭取を兼ねたり、正金銀行の頭取が日銀の理事を兼ねることができる、(三)大蔵大臣は官吏を派遣して業務や財産の状況を検査したり、銀行が条例に違反する行為があったとき制止することができることなどが規定されていた。 こうして横浜正金銀行は、名実ともに政府の保護・監督を受けた特殊銀行への道を歩むのである。 五 明治後期の横浜正金銀行 明治後期の横浜正金銀行は、景気変動にともなう一時的な業績の停滞はあったものの、概して好調な推移を示した。まず明治二十年代においては、「横浜正金銀行条例」の制定を受けて、政府および日本銀行との関係が改めて明確にされ、名実ともに大規模な外国為替銀行としての地位を確立した。次いで三十年代においては、海外店舗網の拡充、外債発行、満州地域における銀行券発行等、業務の伸長、営業範囲の著しい拡張をみた。そこで、本項では、貿易金融を中心に横浜正金銀行の業績を概観し、次いで経営上とくに問題となった制度の改善とその意義について述べてみよう。 業績の推移 創立以後明治年間における横浜正金銀行の業務の推移を表示してみると、表三-五八のとおりである。この表のとおり、横浜正金銀行の規模は創立初年末に比較して、一九一〇(明治四十三)年末には、払込資本金で八倍、定期当座通知預金等で二五二倍、諸貸金で三六倍、過去一年間の外国為替売買高で実に一七〇〇倍、資産総額で四〇倍、本支店出張所数で八倍と、いずれも著しい伸長をみせた。資本金の拡大、積立金の充実は、銀行が大規模銀行にふさわしい基礎を築いたことを示しているし、預金・貸金の急激な成長は銀行の業務の伸長を意味する。とくに、一年間における内外の各店間の外国為替売買高の急膨横浜正金銀行(1904年設立) 『横浜商業会議所月報』より 張は、同行が外国為替銀行として、わが国貿易金融の中核を占めるにいたったことを物語っている。この結果、一九一〇(明治四十三)年における輸出入高に占める同行内地各店における荷為替取扱額の比率は、きわめて高いものとなった。おもな商品別に示すと、輸出では生糸・屑糸五三㌫、綿糸四三㌫、羽二重・絹織物三二㌫、茶四七㌫、米三二㌫、その他とも輸出総計で三四㌫となっている。また、輸入では、綿花六一㌫、時計・機械・金属等で三二㌫、大豆・豆粕四五㌫、砂糖三二㌫、雑品二五㌫、その他とも輸入全体で三八㌫となっている。貿易高に占める同行為替取扱高の占める重要性をこの数値が物語っているといえよう。 しかし、このような業績の発展がまったく順調になされたわけではない。明治後半における貿易高と同行内地各店の外国為替取扱高を比較してみると表三-五九のとおりである。貿易高の伸悩みとともに、外国為替取扱高が停滞を示したのは、一八九〇-九一年、一八九九-一九〇〇年、一九〇八-〇九年であり、貿易高が伸びたにもかかわらず、外国為替取扱高が低下したのは一九〇三(明治三十六)年である。この期間を除くと、わが国の貿易高も同行外国為替表3-58 横浜正金銀行業務比較表 注 『横浜正金銀行史』 386ページ。単位1,000円以下切捨て。 取扱高も、ともに趨勢的に増大している。また、とくに、貿易高に占める外国為替取扱高の割合も上昇傾向を示し、明治二十年代後半以後は五〇㌫台を維持している。外国為替取扱高を示したなかでは、一八九〇年が特筆される。同年には、原頭取から園田孝吉頭取へと引き継がれたが、たまたま前年の凶作による米価の騰貴と国内商工業の不振が相次ぎ、また外国為替相場が変動し、外国貿易がはなはだしい打撃を受けた年にあたった。外国為替相場には、世界の銀価の暴騰が大きな影響を与えた。そして、世界的な銀価の暴騰は、アメリカの「シャーマン法(銀貨自由鋳造法)」の成立によるものであった。同法成立にともないロンドンの銀塊相場は騰貴し、わが国の外国為替相場も対米・対英とも騰貴した。しかし同年末にはアメリカの「シャーマン法」もその遂行が頓挫し、一八九一年に入ると、銀価の下落と為替相場の安定がもたらされたのである。 政府・日本銀行との関係 政府との関係では、まず一八八九(明治二十二)年における「横浜正金銀行条例」の改正があげられる。これによって、大蔵省が監理官をおいて特別の監督をおこなうこと、同行取締役の就任は大蔵大臣の認可を要すること、同行において条例表3-59 わが国の総輸出入高と同行内地各店外国為替取扱高(仕向高および被仕向高) ・定款に違反する行為があった時は、大蔵大臣はこれを制止しうるばかりか、場合によっては取締役の改選を命じうることなどが規定されるにいたった。こうして正金銀行は政府のいっそうの強い監督を受けることとなったが、反面のちに述べるように、手厚い保護がこれにともなっていたことが指摘される。 つぎに、御用外国荷為替制度の廃止があげられる。御用外国為替制度が正金銀行の業績の発展に寄与してきたことは、これまでにふれたとおりである。しかし、一八八九年三月で満期となり、廃止されるにいたった。そこで、松方蔵相は輸出を奨励し、正貨の吸収策を継続するため、日本銀行に対して正金銀行との外国為替手形再割引契約を結ぶよう要請した。日本銀行がこれを受け入れ、一〇〇〇万円を限度とし、日銀は正金銀行所有の外国為替手形を年二㌫の利息で再割引し、正金銀行は日銀のためにこれを取り立てること、また日銀の希望によっては、銀塊またはメキシコ銀を買い入れてわが国に回送することの契約を正金銀行と締結した。日銀との間には、すでに条例制定時から密接な関係があったが、御用荷為替制度の廃止、外国為替手形再割引契約の締結によっていっそう緊密なものとなった。もっとも、日銀の低利資金(年三㌫)の正金銀行への融資は、これより先の一八八八年に、一か年三〇〇万円を限りおこなわれていた。その時も、返済は海外から銀塊を購入して充てることとなっていた。この制度は八九年三月で終わり、前記の新しい再割引制度に受け継がれたのである。 一八九二年に、正金銀行は日銀との間に当座借越契約を結んだ。そもそも外国荷為替の買入れをするには、その振出人が荷物を買い取り船積みを完了するまで、為替銀行が為替資金の前貸しをおこなう慣例があった。正金銀行も外国銀行との競争上前貸しを認める場合がでてきたので、そのための資金を年二㌫で日銀から当座借越のかたちで融通を受ける契約を結んだのである。当初は、その借入れ限度も二〇〇万円であったが、徐々に拡大していった。 さらに明治三十年代に入ると、正金銀行は外債事務に関して日銀の代理店となったり、政府からイギリスのポンド貨の預託をロンドン支店に受け、その資金で為替業務の拡張をおこなったりした。 以上、正金銀行の政府・日銀との関係の展開をながめてみた。この過程を通じて、政府は正金銀行を日銀の代理店として、同行との密接な関係を維持しつつ、外国為替業務の責任者として位置づけていったようにみえる。この結果、正金銀行は自己責任で外国為替業務をおこない、為替相場の変動によるリスクに対処しなければならなくなった。前述のように、ロンドン支店にポンド貨の預託を受けたり、「為替出合法」を実施したのもこれに対処するための方策であった。なお、「為替出合法」は正金銀行の内外店舗を金貨国と銀貨国とに分かち、それぞれロンドン支店と横浜本部で集中管理することによってリスクを防ごうとする制度であった。 一八九七(明治三十)年清国から得た賠償金をもとに、「貨幣法」を制定し、わが国は金本位制度に移行した。これ以後、金貨国との為替相場は安定したが、外国為替の取扱高の約三分の一を占める清国(銀貨国)との間の為替相場はかなりの変動が予想された。正金銀行は前述の金貨国・銀貨国とに店舗を分かつ制度を廃止し、各店銀為替および清国内の各店舗の資金の持ち高を少なくするように努めた。また、各店舗に資金を配置し、各店舗間の利息をともなう貸借制度を採用して、独立採算制をとった。当時の正金銀行の資金は、払込資本金・積立金・預金のほか、政府からの借入金、日銀からの再割引資金、当座借越金等であったが、これら調達資金を各店舗に割り当て、為替業務のための資金として保有せしめた。政府・日銀からの資金が、大きな役割をもっていたことはいうまでもない。 外債の発行 外債発行事務に関し、正金銀行が日本銀行の代理店となったことはすでに述べた。そのおもなものとしてまず、政府の四分利付ポンド貨公債一〇〇〇万ポンドのロンドンでの発行に、当地のパース=バンク、香港上海銀行などとともにシンジケート団を組織して引き受けたことがあげられる。この資金の用途は、鉄道敷設およびその改良、製鋼所設立ならびに電話事業拡張であった。 さらに、第一回から第四回にいたる軍事外債の引受け募集をおこなった。すなわち、一九〇四年には七分利付政府軍事外債を二回にわたり、合計二二〇〇万ポンド発行したが、正金銀行はシンジケート団の一員となり、これを引き受け、ロンドンとニューヨークで半額ずつ売却することに成功した。さらに同じ方法で、第三、四回の軍事外債を翌一九〇五年にそれぞれ三〇〇〇万ポンドずつ引き受け、売却した。加えて同年には、六分利付の高利軍事外債の借換債を四分利付で二五〇〇万ポンド発行した。また、一九〇七年には五分利付借換債を二三〇〇ポンド引き受け、その売却に成功している。いずれのケースにおいても、正金銀行はシンジケート団の有力な一員となっている。 明治後期の横浜正金銀行の営業が、中国大陸に広がっていったことも大きな特色となっている。同地域における支店・出張所の設置数の増加、満州地域における金庫事務の取扱い、軍票預金および為替業務、さらには銀行券の発行と多岐にわたる営業をおこなった。しかし、貿易金融との直接的関連は弱いので、本項ではこの点の指摘のみにとどめておきたい。 第三節 明治後期の地方銀行 一 普通銀行の発展 明治前期の神奈川県下における銀行の発達が国立銀行と私立銀行の二つを軸としてなされたことは、すでに第二編で指摘したとおりである。日本銀行の創設により、銀行券を発行していた国立銀行も私立銀行と同様の預金銀行に転形し、一八八七(明治二十)年ころには、ほぼ日本銀行-預金銀行の銀行体系が制度的に形成されたのであった。しかし銀行業そのものを制度的に整備するのは、日銀がその依拠する「日本銀行条例」をもっていたのに比較して立ち遅れていた。そこで、次の課題は預金銀行をいかに制度的に整備していくかであった。明治後期においては、一八九三(明治二十六)年公布の「銀行条例」によって預金銀行を普通銀行として位置づけ、その健全な発展をはかることが考えられた。「銀行条例」によって制度的な基盤を与えられた普通銀行は、その後日清戦争後のブームを背景に数多く設立され、一九〇一(明治三十四)年には全国合わせて一八六七行のピークに達する。しかし、なかには経営基盤の貧弱なものも少なくなく、やがて恐慌時に産業界の変動を支えきれず、倒産や合併を余儀なくされるにいたるのである。強固な経営基盤の下に健全な発展をとげる普通銀行と劣弱な経営基盤の下で低迷を続ける普通銀行との間に、格差が生まれてくる。ともあれ、明治後期の産業の発展に寄与した普通銀行の役割は大きい。わが国の普通銀行の多くが個々の産業・企業と密接に結びついていただけに、このことが強調されるのである。 銀行条例の制定と普通銀行の発展 「銀行条例」は、当初「普通私立銀行条例」としてすべての私立銀行に適用される法律となる予定であった。しかし、その後貯蓄銀行などには特別法を別に制定することとなり、「銀行条例」として、私立の普通銀行のみを規制するものとなった。「銀行条例」は、わずかに一一条のみであった。第一条は、「公ニ開キタル店舗ニ於テ営業トシテ証券ノ割引又ハ為替事業ヲ為シ又ハ諸預リ及貸付ヲ併セ為スモノ」と、銀行を定義している。この条文は銀行固有の業務を規定しているのであり、その内容はほぼ預金銀行とか商業銀行とかといわれている銀行の基本的業務を含んでいるが、のちの「銀行法」(一九二七年制定)と比較すると興味深い。すなわち、「銀行法」では、銀行とは銀行業務をおこなうものとし、銀行業務とは、(一)預金の受入れと金銭の貸付けもしくは手形の割引、(二)為替取引、をなすことの二つとされている。預金の受入れとその運用が基本であるという考え方は、いわゆる「銀行法」においてより明確にされている。 つぎに、「銀行条例」において大口融資規制の規定がなされていることが注目される。すなわち、第五条に「銀行ハ一人又ハ一会社に対シ資本金高ノ十分ノ一ヲ超過スル金額ヲ貸付又ハ割引ノ為ニ使用スルコトヲ得ス」という条文がある。この規制は今日の大口融資規制に比較してもきびしいもので、銀行経営の健全性に対する配慮が強かったことを物語っている。しかし反面、後述のように、明治後期における普通銀行が日銀から多額の借入金を受けていたことは、政府からの大きな保護を意味し、健全性の内容に問題があったことも指摘できよう。また、大口融資規制については銀行界からの批判が強く、ついに一八九五年の「銀行条例」の改正によって規制がはずされることとなった。普通銀行が産業・企業の育成に貢献するためには、普通銀行の自己資本を増やすことが重要な意味をもっていた。しかも、明治後期には紡績業をはじめ産業・企業の側にも資本の集中傾向が強かったのであるから、その要請はいっそう強まったといえよう。こうして一八九六(明治二十九)年公布・施行された「銀行合併法」の意義が大きく認められるのである。いわゆる「雨後の筍」のように乱立された普通銀行の大部分は、中小規模であり、なかに経営内容の阻悪なものも少なくなかった。そこで同法に、「既存ノ銀行ヲシテ可及的に合同セシメ、以テ過度ノ競争ヲ避ケ、資力ヲ充実セシムルコトニ努メ」と規定したのである。この結果、銀行合併は促進され、前述のように、普通銀行数は一九〇二(明治三十五)年以後激減傾向を示すのである。 普通銀行は制度の整備以後、預金の調達力を急速に高めていく。一八九三年には三八四二万円(一行当たり平均七〇・五万円)であったものが、一九〇一年には四億五〇一八万円(一行当たり平均二四一・一万円)と約一二倍の預金増加がみられる。しかも銀行数が減少するその後も、預金残高は増大を続けた。このように預金の伸びも著しかったが、同時に貸出しに対する需要の伸びも大きく、この間の普通銀行の貸出残高規模は約一三倍にもふくれたのである。さらにこのほかに、有価証券引受けの伸長もあったので、預金と今日より比重の高い払込資本金と積立金を合わせた貸付資金だけでは、とてもまかなうことができなかった。それほど産業資金の需要は、大きかったといえるのである。この結果、普通銀行は多額の借入金、とくに日銀からの借入金をもたざるを得なかった。一八九三年はまだ借入金ゼロであったが、その後は借入金が拡大し、いわゆるオーバー・ローンになったのである。 普通銀行の設立ブーム 神奈川県下においても例外でなく、一九〇〇-〇一年ころまで普通銀行数の急激な膨張がみられる。すなわち、一八八七年までは、のちに国立銀行から普通銀行に転形する第二、第七十四両銀行のほか、私立銀行として共洽社・江陽銀行・積小社・誠資社・共益社・上溝銀行の設立が数えられるにすぎなかったし、またその後「銀行条例」制定前の一八九二年までをとっても、相模銀行・秦野銀行・厚木会社・藤沢銀行・横浜銀行を数えるにすぎなかった。しかし、条例制定の一八九三年以後は銀行の設立が相次ぎ、乱立の傾向すらみられるにいたった。つまり神奈川県下にも、銀行設立ブームが到来したのである。そこで、一八九三年から一九〇二年にいたる間に設立されたおもな銀行名を、次にあげておこう。 (一) 一八九三-九七(明治二十六-三十)年に設立された銀行 小田原銀行(一八九三年設立、足柄下郡小田原町に設立) 横浜若尾銀行(一八九三年設立、横浜市本町) 若尾商店および若尾銀行 『横浜商業会議所月報』より 当初若尾幾造が個人銀行として設立したが、その後一八九九年に資本金四〇万円の合名組織に変更した。生糸貿易・製糸業をはじめ、多方面の事業をおこなっていた若尾家の機関銀行であった。 共益社(一八九三年設立、九五年には相陽銀行と改名) 横浜商業銀行(一八九五年設立、横浜市弁天通) 木村利右衛門(洋糸織物商、のちに横浜共同電燈等各社の社長に就任)、佐藤政五郎(銅鉄商)などが、「横浜綿糸綿花金属株式取引所」の機関銀行として資本金二五万円で設立した。 根方銀行(一八九五年設立、翌年駿東実業銀行と改称) 左右田銀行(一八九五年設立、横浜市南仲通) 左右田金作が資本金三〇万円(左右田一族が、うち二〇万円を出資)で設立した。 茂木銀行(一八九五年設立、横浜市弁天通) 二代目茂木惣兵衛が茂木商店の機関銀行として、資本金一〇〇万円で設立した。なお、第七十四銀行も茂木の出資率が最も高く、頭取にも就任した。 松田銀行(一八九六年設立、足柄上郡松田町) 資本金五万円で設立された。設立時の頭取は地元の吉田清太郎、取締役は同じく中村規矩平・中村直次郎であった。 神奈川銀行(一八九六年設立、横浜市青木町) 資本金二〇万円で設立されたが、頭取には米塩雑穀問屋商加藤八郎右衛門、取締役には米穀商水橋太平、和洋酒商伊藤与右衛門、米穀肥料商渡辺喜八郎等が就任していた。 横浜人民銀行(一八九五年、横浜市に資本金三〇万円で設立) 伊勢原銀行(一八九六年、中郡伊勢原町に資本金一〇万円で設立) 平塚銀行(一八九六年、中郡平塚町に資本金五万円で設立) 取締役に藤沢の豪商稲元屋の分家今井政兵衛(呉服商、書籍・紙商)が就任していた。 武蔵商業銀行(一八九六年、横浜市元浜町に資本金一五万円で設立) 頭取は大谷幸兵衛、取締役は黒部与八(回米問屋)、稲垣弥三郎(回米問屋、米穀肥料輸入商)が就任していた。 積塵(一八九六年、足柄上郡川村山北に資本金二万円で設立) その後一九〇〇年に川村銀行と改称し、資本金も五万円に引き上げた。 横浜蚕糸銀行(一八九六年、横浜市南仲通に資本金一〇〇万円で設立) 「横浜蚕糸外四品取引所」の機関銀行であったが、頭取には平沼専蔵、取締役には若尾幾造・安部幸兵衛・浅川広湖が就任神奈川銀行と横浜貿易銀行の広告 『横浜商業会議所月報』より していた。 横浜貿易銀行(一八九六年、横浜市相生町に資本金三〇万円で設立) 同行は主として生糸金融をおこなっていたが、専務取締役に金子政吉(生糸売込商)、取締役に原富太郎、古谷徳兵衛(呉服太物商)が就任していた。 大雄銀行(一八九六年設立) 横浜起業銀行(一八九六年、横浜市に設立) のち(一九〇一年)、本店を東京の日本橋区吉川町に移し、起業銀行と改称した。 酒田銀行(一八九七年、足柄上郡酒田村に資本金三万円で設立) 専務取締役に地元の草柳善太郎、取締役に中野仁右衛門・草柳政吉が就任していた。 鎌倉銀行(一八九七年、鎌倉郡鎌倉町に資本金九万円で設立) 足柄銀行(一八九七年、足柄上郡足柄村に設立) 小田原通商銀行(一八九七年、足柄下郡小田原町に設立) 大正初期の資本金は五〇万円、頭取は内野種三郎であった。 (二) 一八九八-一九〇二(明治三十一-三十五)年に設立された銀行 吉浜銀行(一八九八年、足柄下郡吉浜村に資本金一〇万円で設立) のちに、称号を改めて東京に移転した。 金田興業銀行(一八九八年、足柄上郡金田村に資本金一〇万円で設立) のちに、頭取には地元の名士善最倉蔵が、また監査役には渡辺幸造が就任した。 中原銀行(一八九八年、橘樹郡中原村に資本金六万円で設立) 頭取には地元の朝山信平(後藤毛織経営)が就任していた。 桜井共益銀行(一八九九年、足柄上郡桜井村に資本金三万円で設立) 専務取締役に地元の石井良平が、取締役に同じく石井文右衛門・二宮格郎が就任していた。 相模共栄銀行(一八九九年、高座郡藤沢町に資本金六万円で設立) 戸塚銀行(一八九九年、鎌倉郡戸塚町に資本金一〇万円で設立) 頭取には内山敬三郎(横須賀商業銀行の頭取などを歴任)が就任した。 浦賀銀行(一八九九年、鎌倉郡浦賀町に資本金二〇万円で設立) 設立者は浦賀町の豪商臼井儀兵衛ほか六名であった。 高津銀行(一八九九年、橘樹郡高津村に設立) 鞠子銀行(一九〇〇年、足柄上郡谷ケ村に資本金三万円で設立) 専務取締役には地元の武尾善間太が、取締役には武尾善之助・岩田光太郎・山崎佐右衛門・山崎徳次郎が就任した。 吾妻銀行(一九〇〇年、中郡吾妻村に設立) 大磯銀行(一九〇〇年、中郡大磯町に設立) 横浜実業銀行(一九〇〇年、横浜市不老町に資本金三〇万円で設立) 専務取締役には石川半右衛門(回漕問屋)が、取締役には田中利喜蔵(銅鉄器械船具商)・間宮勇左衛門(貸地貸家業)・中山新平(回漕業、石炭商)、田中林蔵(製茶売込商)が就任していた。 国府津銀行(一九〇〇年、足柄下郡国府津町に設立) 足柄農商銀行(一九〇〇年、足柄上郡福沢村に資本金一〇万円で設立) 川崎共立銀行(一九〇〇年、橘樹郡川崎町に設立) 川崎銀行(一九〇〇年、橘樹郡川崎町に設立) 大師銀行(一九〇〇年、橘樹郡大師河原村に資本金六万円で設立) 石橋銀行(一九〇〇年、橘樹郡中原村に資本金三万円で設立) 原伝蔵の個人銀行的色彩が強かったといわれる。 相生銀行(一九〇〇年に設立され、一九〇三年に廃業した) 横浜中央銀行(一九〇〇年、横浜市扇町に資本金二〇万円で設立) 頭取には平沼専蔵(生糸売込商)、専務取締役に浅井房吉(煙草商)、取締役に堀田隆治(菓子商)・大貫房吉(材木商)・松永吉左衛門(材木商)・鈴木善兵衛(醤油酒商)が就任していた。 曾我銀行(一九〇一年、足柄下郡下曾我村に資本金五万円で設立) 以上、「銀行条例」制定から一九〇二(明治三十五)年までの時期を二つに分け、県下で設立された銀行名をあげてみたが、その数は第一期が二〇行、第二期が二一行の多きに達した。まさに神奈川県下も、銀行設立のブームにわいたといえる。とくに、経済界の中心的位置に立った横浜市が全体の約半分を占め、その他の地域では足柄上・下両郡、橘樹郡などに比較的多いのが目につく。銀行の設立数も明治三十年代の後半以後はきわめて少なくなり、設立に当たってもきわめて慎重な態度で臨むこととなった。これは軽率に開業したものの、経営不振に陥るものも少なくなかったことによるものであろう。なお、一九〇三年以後の明治年間において、県下に設立された銀行は次の六行であった。 渡辺銀行(一九一二年、横浜市元浜町に資本金一〇〇万円で設立) 同行は渡辺福三郎をはじめ、渡辺一族が役員となった同家の機関銀行であった。渡辺福三郎は海産物貿易商であった。 平沼銀行(一九一〇年、横浜市本町に資本金一〇〇万円で設立) 平沼専蔵が頭取をしていた横浜銀行を解散して、そのあとに設立した銀行であった。同行の設立には、若尾幾造・石野義次なども加わった。 瀬谷銀行(一九〇七年、鎌倉郡瀬谷村に資本金五〇万円で設立) 同行の取締役には、小島政五郎(小島景為、神中鉄道の代表者)や川口義久(神中鉄道取締役)が就任していた。 横須賀商業銀行(一九〇六年、横須賀市元町に資本金五〇万円で設立) 設立者は平沼延次郎(横浜の資産家)、戸塚千太郎、横須賀の浅羽長左衛門(横須賀土地・横須賀介立社常務)などであった。 玉川銀行(一九〇三年、橘樹郡中原村に設立) 東陽銀行(一九〇七年、横浜市尾上町に資本金一〇〇万円で設立) 設立者は平沼亮三、岡野欣之助などであった。 普通銀行経営の特質 明治後期の県下の銀行経営の性格をみると、いくつかの特徴をあげることができる。まず第一は、銀行の設立者の多くが事業経営者、とくに商社の経営者であることである。なかには、銀行業そのものに関心があって銀行経営に専念したとみられるものもあったが、大部分は他に事業をもち、いわばその事業の機関銀行として銀行を設立するタイプが多かったのが特徴となっている。とくに、役員を一族で占めて、自家の事業の資金調達機関として銀行を利用しようとするものもあったほどである。左右田銀行のように、銀行業に専念したのはむしろ珍しい例であった。 第二に、銀行の預金・貸出残高の伸長が著しかったことがあげられる。横浜銀行集会所組合銀行について、その預金・貸出残高をみると、一八九八(明治三十一)年末では、預金残高一一七六万円に対して、貸出残高は一五六九万円、一九〇二年末では預金残高一六〇一万円に対して、貸出残高二二一六万円、一九一〇年末では預金残高三六八二万円に対して、貸出残高は五九〇二万円となっている。この間、預金の伸びも著しかったが、それ以上に貸出残高の伸びが大きく、オーバー・ローンの度合が高くなっていることがわかる。事実、預貸率は第二銀行二九二㌫、茂木銀行一七九㌫、七十四銀行一四六㌫とかなり高く、一〇〇㌫以下は左右田銀行(六九㌫)のみであったといわれる。銀行は貸出しのほかに有価証券投資をおこなっており、資金の不足額はきわめて大きかった。そこで、各銀行は自己資本でこれを埋めるべく、増資を活発におこなった。当時の普通銀行において自己資本の果たした役割は、今日よりかなり大きかったといえる。とくに、郡部の銀行ほどこの傾向が強かった。しかし、それでも十分に資金をまかなうことができず、比較的大規模の銀行は日本銀行からの借入金に依存し、中小規模の銀行はより大きな銀行からの借入れによらざるを得なかった。このように、普通銀行に対する資金需要は大きく、それだけ銀行の産業発展に果たした役割の大きいことが認められよう。 普通銀行の動揺と合併 景気変動に対応して、県下の普通銀行も大きな波動を受けた。しかしその度合は、当初全国的レベルのものよりもかなり小さかった。たとえば、一九〇〇-〇一年の恐慌において、県下の銀行も影響を受けた。横浜蚕糸銀行の休業をはじめ、かなりの銀行が取付けを余儀なくされたが、その打撃はそれほど大きくなかった。しかし、一九〇七(明治四十)年の銀行界の動揺には、県下の銀行も大きな影響を受けた。同年、取付けを余儀なくされたものに、鎌倉銀行・大磯銀行・左右田銀行・神奈川銀行などがあり、さらに神奈川銀行が一週間の休業をおこなったり、中原銀行が解散したり、さらには厚木銀行が減資したりして動揺が相次いだ。そのほかにも、貸出しの焦付きから取付けを余儀なくされたものがあった。この傾向は、一九一〇(明治四十三)年から大正初年まで続いた。 中小普通銀行の経営不振を打開するため、「銀行合併法」を制定したことは、前にもふれた。神奈川県下における当期の合併の事例としては、浦賀銀行・藤沢銀行・相模共栄銀行(それぞれ資本金二〇万円)の合併による関東銀行(一九一〇年設立、資本金一五〇万円)があるのみである。 付記 本項の執筆に際しては、日本銀行『神奈川地方金融史概説』Ⅱ、『横浜市史』第四巻(上)を参照した。 二 貯蓄銀行の発展 貯蓄銀行条例の制定 一八八〇(明治十三)年に東京貯蔵銀行が設立されて以来、全国的に貯蓄銀行が数多く設立されたこと、神奈川県下においても、いくつかの貯蓄銀行の設立されたことなどは、第二編で述べたとおりである。しかしながら、当時の貯蓄銀行は、(一)高利貸し的であり、不健全であったこと、(二)有力な国立銀行などと密接な関係を有していたこと、(三)信用に対する不安が強く、貯蓄吸収面においても実績は低く、資本金額を下回る預金量しかなかったものが半数以上もあったこと、など経営面に大きな問題を抱えていた。このような状況の下で、明治二十年代に入って、貯蓄銀行の新設や、普通銀行による兼営の要望が高まった。そこで、政府は「貯蓄銀行条例」を制定し、一八九三(明治二十六)年施行することによって、貯蓄銀行制度の整備に努めた。 「貯蓄銀行条例」においては、貯蓄銀行が庶民の零細小口な貯蓄預金の安全確実な保管機関であることを規定し、預金者保護に徹した貯蓄銀行の健全性維持に重点がおかれた。そして、このような理念の下で経営に対する厳格な制限を加えた。すなわち、(一)貯蓄銀行を複利の方法で公衆のために預金の受入れをするものと定義、(二)貯蓄銀行は資本金三万円以上の株式会社に限られる、(三)資本金の半額以上を国債で借託、(四)資金運用を、貸付け、公債の引受け、証券の割引に制限する、(五)普通銀行が貯蓄銀行業務を兼営する時は大蔵大臣の許可が必要であること、などであった。 このように、経営の健全性を基本にした「貯蓄銀行条例」は、一八九五(明治二十八)年に早くも改正されるにいたった。とくに問題になるのは、資金運用に対する制限のいっさいの撤廃である。これによって、貯蓄銀行の量的拡大がはかられることとなったが、健全経営・非営利理念は実質的に消滅してしまった。 こうして、貯蓄銀行と貯蓄銀行業務を兼営する普通銀行とが同質化するとともに、貯蓄銀行数は急増を示した(一八九三年末、専業二三行、兼業一行、合計二四行→一九〇〇年末、専業四一九行、兼業二六二行、合計六八一行)。また、資金運用制限の撤廃は貯蓄銀行経営を不健全なものとし、たとえば普通銀行と親子関係を結んで親銀行の預金吸収のための機関となったり、担保のないものや不確実なものへの貸出しを親銀行に代わっておこなうという補完的役割を果たしたりした。利用者のなかには勤労者や恩給生活者が多く、一口当たりの預金高は普通銀行のそれより小さかった。このような貯蓄銀行の経営上の脆弱性は、明治後期のたび重なる金融恐慌による影響を大きくし、取付け・休業・吸収合併・廃業等に追い込まれたものが少なくなかった。とくに、弱小貯蓄銀行にその傾向が強かったことはいうまでもない。 神奈川県下の貯蓄銀行 明治初年に横浜貯蓄銀行が存在していたことはすでに述べたが、その後設立された貯蓄銀行名をあげれば、次のとおりである。 金叶貯蓄銀行(一八九〇年設立) 藤沢貯蓄銀行(一八九六年、高座郡藤沢町に資本金五万円で藤沢銀行の子銀行として設立、その後一九一〇年に関東貯蓄銀行と改称) 武蔵貯蓄銀行(一八九七年、横浜市元浜町に武蔵商業銀行の子銀行として資本金三万円で設立) 横浜実業貯蓄銀行(一九〇〇年、横浜市太田町に横浜実業銀行の子銀行として設立) 野毛貯蓄銀行(一八九九年横浜市野毛町に資本金三万円で設立、設立者は清水栄ほか四名であった) 戸部貯蓄銀行(一八九九年、横浜市戸部町に設立) 元町貯蓄銀行(一九〇〇年、横浜市元町に資本金三万円で設立、設立者は田辺嘉平ほか四名であった) 左右田貯蓄銀行(一八九九年、横浜市南仲通に左右田銀行の子銀行として資本金五万円で設立) 武相貯蓄銀行(一八九九年、横浜市青木町に資本金一〇万円で設立、頭取は中郡成瀬村の石井虎之助であった) 横浜中央貯蓄銀行(一九〇〇年、横浜市扇町に横浜中央銀行の子銀行として資本金三万円で設立) 東洋貯金銀行(一八九九年、横浜市南仲通に資本金一〇万円で設立、設立者は若尾幾造ほか五名であった) 川崎共立貯蓄銀行(一八九九年、橘樹郡川崎町に川崎共立銀行の子銀行として、資本金五万円-大正初期-で設立) 石井貯蓄銀行(一八九九年、横浜市神奈川町に設立) 横浜貯蔵銀行(一八九九年、横浜市花咲町に資本金五万円で設立) 以上のほか、なおいくつかの小規模貯蓄銀行が設立されたようであるが、資料的に明らかでない。この時期に設立された県下の貯蓄銀行の特徴としては、大部分が普通銀行の子銀行として資金調達の役割を演じたこと、地域別にみて横浜市の比重が圧倒的に高いことがあげられる。 神奈川県下の貯蓄銀行も経営基盤が脆弱であったので、一九〇〇(明治三十三)年以降の金融恐慌に際しては、大きな波を受けることとなった。たとえば、神奈川貯蓄銀行の休業、野毛貯蓄銀行の臨時休業、戸部貯蓄・武相貯蓄両銀行の取付けなど、普通銀行とほぼ同様な対応を迫られた。とくに、親銀行の不振に影響されるところが大きかったことはいうまでもない。こうした動揺をきりぬけるため、減資を余儀なくされた貯蓄銀行もあったほどである。 三 神奈川県農工銀行の設立とその性格 不動産金融機構設立の理念 明治初期における経済政策の中心が、殖産興業政策におかれていたことはいうまでもない。この殖産興業政策の一環として、長期資金供給の機能をもつ専門金融機関設立の要望が、朝野において早くから叫ばれた。その主要な経過をたどると、次のとおりである。 (一)松方正義(当時内務卿)は、一八八一(明治十四)年九月に勧業銀行の設立を建議した。この銀行は民立であり、その目的は「専パラ資本流通ノ便ヲ謀リ物産ヲ興隆シ事業ヲ進渉セシムル」こととされた。 (二)次いで、大蔵卿に転じた松方正義は、翌八二年三月、紙幣整理政策の一環として「日本銀行創立趣意書」を建議したとき、その最後に中央銀行と相助け合う「興業銀行」の設立を強く主張している。 (三)さらに、一八八五年七月にいたって、松方正義は「日本興業銀行条例」の発布を上申した。 (四)他方、民間にも不動産銀行設立の要望は強まった。これは、資本主義経済への移行にともなって蓄積された遊休資金を、「農工者」に供給する媒介業務をおこなう金融機関を設立しようとするものであった。 諸外国、とくにドイツ・フランスでは早くから不動産金融機関等の長期金融制度が発展していた。すなわち、不動産金融機関はフランス・ドイツにおいて最も典型的に発達していた。そこで、これらの制度がわが国で調査研究され、さらにわが国の土壌、とくに殖産興業政策にあったかたちで移殖されるにいたった。わが国の不動産金融制度の草案には、一貫してフランス不動産銀行が大きな影響を及ぼしており、部分的にドイツの制度が採り入れられていた。前掲一八八五年の条例草案は、フランスの制度を母法とし、これにわが国独自のものを盛り込んだものとなっている。すなわち、銀行の貸付けは農業および工業の改良発達を目的とする事業に限られ、その貸付対象も輸出産業や豪農等に主としておかれた。 ところが、一八九〇(明治二十三)年の恐慌以後、不動産金融機構の設立構想は大きな転換をとげた。日本興業銀行(のちの日本勧業銀行)、動産銀行(のちの日本興業銀行)、農業銀行(のちの農工銀行)のいわゆる三本立構想がうまれた。このうち動産銀行はフランスのクレディ=モビリエを、日本興業銀行は同じくフランスのクレディ=フォンシエを、農業銀行はドイツのシュルツエあるいはライファイゼン式の農業信用組合の制度をとり入れたものであった。とくに、興業銀行と農業銀行の関係は、次のように考えられた。まず、農業銀行は各地方に設置されて中小農民や下級地方団体に融資するものであり、信用組合と関連をもつとされた。そして、この農業銀行に対して中央の機関として援助するのが、興業銀行の役割とされた。 この三本立構想にもとづいて、「日本勧業銀行法」(先の興業銀行構想)と「農工銀行法」(先の農業銀行構想)とが、一八九六(明治二十九)年に成立した。そして、同年末から具体的に設立手続に入り、一八九七年から一九〇〇年にかけて、日本勧業銀行と各府県の農工銀行が相次いで設立されるにいたった。日本勧業銀行は、殖産興業を目的とし、割増金付債券の発行によって得た資金で、農業・工業の改良発達のための資金を貸し付けることとなった。また、貸付方法は長期年賦の不動産抵当貸付または地方公共団体に対する無抵当貸付に限られた。さらに、日本勧業銀行は全国農工銀行に資金の援助を与える中央機関としての機能を果たすものであった。他方、農工銀行は信用組合(当時まだ法制化されていなかった)の親銀行となるべきであると考えられた。勧業銀行と農工銀行は、いわゆる「唇歯輔車」の親密な関係に立つものとされた。二元的な組織であった両銀行の具体的な関係を整理すれば、次のとおである。 (一)農工銀行は、資金調達において払込資本金の五倍までの債券発行を認められたが、この債券を勧銀が引き受けることによって、両者が責任は別であると同時に同一の目的に向かい、その役割を果たす関係に立つこと、(二)農工銀行には、小作金融・小農保護・直接生産者保護のため、二〇人以上連帯貸付制度のような対人信用貸付を認めたこと(勧銀はあくまでも対物信用の原則を守った)、(三)農工業者の貯蓄を奨励するものとして、農工銀行には勧銀に認められなかった定期預金業務がとくに認められたこと、などである。 農工銀行の主要業務は、このほか三〇か年以内の年賦償還の方法により不動産抵当貸付をなすこと、年賦貸付金の五分の一に相当する金額に限り、不動産を抵当として五か年以内の定期償還貸付をなすこと、市町村または法律をもって組織された公共団体に対して無抵当貸付をなすこと、などであった。 神奈川県農工銀行の設立 神奈川県農工銀行は、一八九八(明治三十一)年五月二十日に開業したが、その設立経過は、次のとおりである。 (一) 一八九六年十一月、神奈川県知事が神奈川県農工銀行設立委員一三名を任命した。設立委員長には県書記官李家隆介が、また幹事には浅野長道が、さらに常任委員には永島亀代司・岡野欣之助・梅原修平が選任された。 (二) 設立委員会は資本金額を四〇万円と決定したうえで、定款を定めた。そして、この定款が認可を受けた九六年十二月に、株式の募集をおこなった。 (三) 株式の募集に当たっては、県から各市町村に対して、人口・土地面積・地価を基準にして算定した募集勧誘の基準を示した。この結果、好調裡に株式の募集をおこなうことができ、株式総数二万株から県引受け分六二四二株を控除した公募株式一万三七五八株に対して、約二万八〇〇〇株の応募があった。そこで、設立委員は農工銀行設立の意図にもとづいて、なるべく多数の者に株式を配分する方針を採用し、五株以下の申込みはすべてこれを認め、五株をこえるものには按分比例によって割り当てた。 (四) 一八九八年二月に、神奈川県農工銀行の創立総会が開かれた。翌三月に設立免許を取得し、五月に第一回の株式払込みが完了したうえで、前述のように開業にいたった。 (五) 設立当初の役員は不明だが、第二期営業報告書(一八九八年十二月三十一日)によると、頭取に梅原修平、取締役に岡野欣之助・永島亀代司・原清兵衛が就任している。また監査役として、原善三郎・福井直吉・露木昌平が名を連ね、監理官には神奈川県書記官李家隆介(設立委員長)があたり、随時監督していたようである。 (六) 本店は一八九八年十二月末に新築落成したが、その場所は横浜市平沼町三丁目三十四番地であった。それまでは、仮社屋が他の場所にあったものと推測される。 神奈川県農工銀行の経営上の性格 まずはじめに、神奈川県農工銀行の銀行資本の構成と資金運用を、同行の貸借対照表によって分析してみよう。 (一) 銀行資本の構成 神奈川県農工銀行の銀行資本の構成を、五つの決算期について示してみると、表三-六〇のとおりである。当時期における銀行資本においては、株式資本金が中心的な位置を占めている。株式資本金四〇万円のうち、当初は二〇万円の払込みで出発した同行も、第八期には全額の払込みを完了している。そして、一九一〇(明治四十三)年にいたって、ようやく倍額増資をおこなっている。したがって、それまでは四〇万円の株式資本金に農工債券の発行によって得た資金を加えたものが銀行資本の主成分となっている。このうち、農工債券は、表三-六〇に示されているように、第一四期をピークに減少しており、代わって日本勧業銀行代理貸付基金・年賦償還貸付金保証が比較的大きな比重を占めるにいたっている。一九〇〇年の「農工銀行法」改正により、一九〇三年から日本勧業銀行の代理貸付けをおこなうことができるようになったので、農工債券の発行高を減らし、勧業債券の引受けと勧銀の代理貸付けを増加させることによって、銀行経営の健全性をはかったものと表3-60 神奈川県農工銀行の銀行資本の構成 思われる。 (二) 銀行資金の運用 神奈川県農工銀行の資金運用をみるために、同行の貸借対照表から、五つの決算期について銀行預金の運用を整理してみると、表三-六一のとおりである。一部の当座預け金、日本勧業債券の保有を除くと、資金の運用対象は貸出し(年賦償還貸付金・定期償還貸付金・保証年賦償還貸付金)と有価証券保有(政府公債証書・横浜水道公債)との二つであるが、このなかでは貸出しの比重が圧倒的に高い。政府公債への投資も明治の末期になって、その金額が急増しているが、貸出しに比較するとなおその資金運用水準は低い。そこで、ここでは貸出しを中心に若干の説明をおこなってみよう。 この間の貸出しの実態をみると、景気変動の諸局面において資金需要の動きが大きな相異を示す表3-61 神奈川県農工銀行・銀行資金の運用 ことがわかる。とくに神奈川県下産業・農業の好不況が資金需要にきわめて大きな影響を与えており、この結果、貸出資金の供与には大きな波動がみられる。表三-六一でとりあげた時期についても、第二期、第八期、第二〇期は好況期で、比較的高い資金需要をもっていたが、第一四期は産業の沈滞を反映して資金需要の低下をきたしている。さらに、第二二期はようやく不況から県下の産業が立ち直りつつあった時期で、資金需要も回復の兆候を示している。 つぎに、産業別に傾向をながめてみよう。まず、年賦貸付金の各期の残高を借り主別にみると、表三-六二のとおりである。口数・貸付残高とも農業者が圧倒的に高いが、一口当たり貸付高になると工業の方が大きい。また、これを抵当別にながめると、表三-六三のとおりである。土地、とくに田・畑・山林等の比重が圧倒的に高く、市街住宅とか建物のウエイトはきわめて低いことが明らかとなる。こうして借り手と抵当物件をながめてみると、農業者に対する田畑等農地抵当金融の比率が最も高く、次いで同じく田畑等を抵当に入れての工業者の借入れが大きな比重を占めていたものとみられる。いわゆる土表3-62 神奈川県農工銀行借り主別貸付残高(年賦貸付金) 単位:円,カッコ内は口数 表3-63 神奈川県農工銀行抵当別貸出分類(鑑定価格による) 地(不動産)の資金化、とくに工業資金への活用に農工銀行が積極的な役割を果たしていたことが理解されよう。一九〇三(明治三十六)年から始まった勧業銀行代理貸付(前述のように農工銀行が保証、したがって貸方の保証年賦償還貸付金と貸方の年賦償還貸付金保証とは常に同額)も、ほぼこの年賦償還貸付金と同じ傾向を示している。同科目による貸付残高が第二〇期以降減少しているが、これはその分を勧銀代理貸付が埋めたことによるものと思われる。 しかし、定期償還貸付は若干異なった性格のものであったように思われる。この方法での貸付けについても、その借り主別分類、抵当物権別分類を表示してみよう。表三-六四のように、定期償還貸付の残高自体は第一四期、すなわち、一九〇四(明治三十七)年をピークに低下しており、これは勧銀代理貸付の伸長にもとづくものと思われるが、農業者と工業者の比重がほぼ同じ点が注目される。他方、抵当別貸出残高では他の貸付けと同様に、田・山林が圧倒的に大きいので、不動産の資金化、とくに工業資金への転換機能という点では年賦償還貸付よりも役割が大きかったように思える。定期償還貸付のなかには、公共団体や農業組合ないしはそれに近い性格の表3-64 神奈川県農工銀行定期償還貸付残高・借り主別・抵当別分類 (単位:円,カッコ内は口数) もの、信用組合に対する資金供与も含まれている。農工銀行の設立意図のひとつに、信用組合の中央機関的機能を果たすことが考えられていたことは、すでに述べたが、農業組合・信用組合が設立されるにおよんで、農工銀行がそれとの関係を深めていったことをここからよみとることができよう。 以上述べたように、神奈川県農工銀行は、自己資本と農工債券の発行によって調達した資金で、農業・工業に長期資金を供与することを主たる業務としていた。しかし、一九〇三年以後は日本勧業銀行との関係が従来にもまして緊密となり、勧業債券の引受けと勧銀代理貸付の比重が高くなってくる。勧銀との結びつきを強めながら、その業務を拡大していったことが明らかとなった。 農工銀行の性格について、もうひとつふれておかなくてはならないのは、政党との関係である。農工銀行は「その資本組織力が府県の持株を中心としたものであり、また地方勧農行政など地方行政との関連がきわめて強かったことも原因して……しばしば政争にまきこまれ『政党扶殖の具』として利用された」(池上和夫「政党と農工銀行」、『一橋論叢』一九六五年九月号、七一-七七ページ)ようである。農工銀行からは、党費資金や自党派の者への産業資金を融資していたともいわれている。本項で対象とした時期より遅れるが、神奈川県農工銀行の一九一七(大正六)年における監査役を含む役員のうち、政友会所属の者が三名いたようで、同行がいずれかといえば、政友会系と目されよう(日本銀行『神奈川県地方金融史概説』Ⅱ、八八ページ参照)。 四 その他の金融機関の発展 以上、地方銀行と神奈川県農工銀行を中心に、明治後期におけるその発展の概要を説明してきたが、この時期にはその他の分野でも多数の金融機関が設立されるにいたった。外国の制度が移植され、経済の発展とともに多様化するニーズに対応して、金融機関の分野もまた広がっていった。そこで本項では、その態様を明らかにしてみよう。とくに神奈川県の実態に即して、庶民金融と保険の二つの分野にしぼって説明していきたい。 庶民金融 わが国において古くから発達をとげ、庶民の生活に密着してきた「無尽」や「頼母子講」を基盤として、明治三十年代の半ばころより営業無尽を業とする会社が設立されるにいたった。神奈川県下の無尽会社は、一九一三(大正二)年末にすでに四五社(資本金額四四万六〇〇〇円、したがって一社平均九万九〇〇〇円)に達していたといわれている(大蔵省『本邦に於ケル庶民金融機関調査』)。一社当たりの平均資本金額からいって、小零細なものが多かったが、その平均資本金額は無尽会社の全国平均よりかなり低い水準にすぎなかった。すなわち、株式組織のものは七社(平均資本金約三万円)にすぎず、他は合名会社組織六社(平均資本金約八〇〇〇円)、合資会社組織三二社(平均資本金約五〇〇〇円)という小規模なものが圧倒的に多かった。具体的な会社名もほとんど明らかになっておらず、明治期に設立されたものとしてはわずかに金港無尽(横浜市中区羽衣町)の名があげられるにすぎない。小零細企業がこのように乱立していたから、経営の不健全なものも多かった。こうした傾向が、やがて全国的レベルでの問題とつながり、一九一五(大正四)年の「無尽業法」制定へと展開していくのである。 無尽会社と関連して、当時の信託会社の性格について若干ふれておこう。神奈川県下においても、一九〇八(明治四十一)年以後信託会社が相次いで設立され、一九一三(大正二)年末には一六社に達したといわれている。ところが、県下信託会社の平均の一社当たり資本金額は一万八〇〇〇円であって、全国平均をはるかに下回っていた。とくに、神奈川県下ではこのように小規模であったため、無尽会社と異ならない信託会社も多数存在していたように推測され、神奈川県下においては信託会社は庶民金融の一環として位置づけられていた。全国的にも当時の信託会社は無尽会社・高利貸し的性格のものが多かったようであり、かつ不動産業・証券業・証券割賦販売業を兼営しているものもかなり存在していたといわれている。おもな県下の信託会社としては、不動信託株式会社(横浜、資本金五万円)、浦賀信託(浦賀、資本金六万円)、浦賀介立社(浦賀、資本金三万円)などがあげられる。 庶民金融の第三は、信用組合である。信用組合が「農工銀行法」の制定との関連で、その設立の意義を評価されていたことについては、すでに述べた。また、神奈川県農工銀行の貸付け対象に信用組合が入っていたことについてもふれた。神奈川県の産業組合運動は、他の地方に比較して遅れていたが、それでも明治二十年代に、三つの信用組合が産業組合として設立されていたようである。一九〇〇年の「産業組合法」の公布、一九〇六年の同法の改正を通じて、全国的に信用組合の設立数は急増した。神奈川県下においても、一九一二(大正元)年には六二組合までに増加したが、全国的な規模に比べると、きわめて少なかったといえよう。 庶民金融の最後は、銀行類似会社の設立である。明治前期において、銀行類似会社が相次いで設立をみたことは、第二編で述べた。銀行類似会社のなかには、経営のいかがわしいものも少なくなかったので、「銀行条例」(一八九三年施行)の成立にともない、解散するか、または銀行に昇格するとか、吸収されるとかの道をたどることとなった。このように制度的には銀行類似会社は、わが国金融機関のなかから姿を消すこととなったが、その後もいくつかのものが存続したばかりか、一九〇六(明治三十九)年から一九一三(大正二)年の間に全国的に二九六もの銀行類似会社が設立されるにいたった。神奈川県下では、一九一三年に一三社(平均資本金額五〇万八〇〇〇円)の銀行類似会社が営業していた。このうち、株式会社組織のものはわずか二社にすぎず、合名会社組織のもの一社を除くと、残りはほとんど合資会社組織であり、平均資本金額も約九〇〇〇円ときわめて小規模なものにすぎなかった。この銀行類似会社の営業内容は、貸付け・手形割引・預金・信託預金・荷為替業というような銀行の一般的業務のほか、倉庫業・物品運送業・物品保管・一般信託業・不動産業など広範にわたっていたといわれる。また、質屋会社も神奈川県下に九社あり、株式会社組織(一社、資本金五万円)、合名会社組織(三社、平均資本金額二万五〇〇〇円)、合資会社組織(五社、平均資本金一万円)の三つの会社形態をとりつつ、この時期に発展を示した。 保険業 生命保険会社ないしその類似会社の設立の動きは、明治十年代のはじめから活発であった。神奈川県下においても、かなり多数の生命保険会社あるいはその類似会社の設立が企画されたり、開業したようである。いま、その事例を年代順にとりあげてみると、次のとおりである。 (一) 日東保生会社 一八八〇(明治十三)年東京で設立の申請がなされ開業したが、一年足らずで解散願を提出した生命保険会社である。この会社の設立発起人に、横浜の原善三郎・茂木惣兵衛も参加していた。 (二) 共恵社 一八八〇年、横浜弁天通四丁目製紙分社内に設立され、翌八一年に開業した生命保険会社である(『東京横浜新聞』)。 (三) 横浜生命保全会社 一八八九(明治二十二)年、横浜弁天通四丁目での設立の申請のなされた会社(資本金三万円)で、横浜の高橋権三・秦順一・大沢留三郎等が申請人となっていた(『読売新聞』)。 (四) 生命保寿社 一八八九年に横浜高島町で設立が企画された生命保険会社として、生命保寿社があげられる。設立運動は横浜の藤野善輔・須藤鉱作などによっておこなわれたようである(『毎日新聞』)。 (五) 帝国生命十全会社 一八八九年に株式募集をおこなったという記録のある生命保険会社である。横浜太田町に設立され、資本金は七万円とのことであった。時期の点や設立発起人に、高橋権三・秦順一・藤野善輔・須藤鉱作などが名を連ねていることから、前掲横浜生命保全会社と生命保寿社の設立計画が合体したのではないかとの推測も成り立つ(『毎日新聞』)。 (六) 大日本生命保険会社 一八八九年、藤沢町の角倉賀道(医師)、鎌倉郡村岡村の山下八蔵(農業、県会議員)、同瀬谷村の露木昌平(商業)が、東京の有志者とともに設立の申請をおこなった会社である。場所は東京府京橋区であり、資本金は三五万円で同年に開業したようである。 以上、横浜に設立されたり、神奈川県下に在住した人びとが設立運動に加わった会社をとりあげてみた。県下には、このほかまだ多数の生命保険会社ないしはその類似会社が設立されたり、設立が計画されたようである。全国的レベルにおいても同様の傾向がみられ、会社乱立による経営の不健全等問題が生じたので、政府は一九〇〇年に、「保険業法」を公布した。「保険業法」制定後、神奈川県に設立された生命保険会社は、共慶生命保険会社と横浜生命保険株式会社である。 共慶生命保険会社は、厳密には一九〇〇年に東京で申請され、東京で設立されたが、設立申請人にも設立後の役員にも横浜の財界人が加わっていた。すなわち、大谷嘉兵衛(社長)、箕田長三郎(監査役)、長井利右衛門(取締役)などである。資本金は当初一〇万円、その後五〇万円に増資し、のち一九〇五年に東洋生命保険会社と改称した。 他方、横浜生命保険会社は一九〇六(明治三十九)年に設立が申請され、翌一九〇七年に開業した。横浜財界人であった大谷嘉兵衛・原善三郎等が設立発起人となっていたが、その設立意図には内外生保会社の横浜への進出と資金の流出を防ぐこともあげられていた。まさに、横浜財界をあげての、地域独自の生命保険会社であった。社長には小野光景が就任し、資本金も一〇〇万円と大きかったので、地元での信頼が厚く、開業当初から順調な業績の発展がみられたといわれる。 以上の各社のほか、大日本兵役保険会社(一九〇〇年橘樹郡中原村小杉に設立、資本金一〇万円)、敷島生命保険会社(のちに大正生命保険と改称、一九一四年になって開業)などの名前もみられる。 貿易地横浜においては、損害保険事業に対する要望も高かった。開港当初より外国の損害保険会社が数多く進出し、横浜は外国会社の市場となっていた。そこで一八九六(明治二十九)年に、横浜財界人によって横浜火災保険株式会社の設立の申請がなされた。その設立意図には、外国保険会社の進出に対抗し、わが国の利益をはかることがあげられていた。設立発起人には、渋沢栄一・高田鉄之助とともに、横浜財界の小野光景・原善三郎・若尾林平・茂木惣兵衛などが就任した。同社は申請の翌年にあたる一八九七年に開業するにいたったが、資本金は五〇〇万円と大きく、社長には土子金四郎、取締役には原・小野のほか若尾幾造・茂木保平・渋沢作太郎が選任された。開業の場所は、横浜市弁天通であった。事業としては、運送保険・信用保険・海上保険等多岐にわたっていた。名称もその後、横浜火災運送保険株式会社→横浜火災運送信用保険株式会社→横浜火災海上運送信用保険株式会社と、業務の拡張に応じて改めた。 このほか、国際火災海上保険会社の設立運動などがおこなわれた記録もある。 付記 本項は、主として日本銀行『神奈川地方金融史概説』Ⅱによっている。 第四章 海陸交通の発展 第一節 官私鉄道の発達と特色 一 東海道線の輸送力増強と京浜電気鉄道 改良工事と輸送力増強 政府は、一八九六(明治二十九)年度以降官設既成鉄道改良費によって東海道線の改良工事を施工したが、東京・横浜近傍では、新橋-品川間の複線区間を四線とし、また海陸連絡線として、横浜停車場(現在桜木町)から税関埋立地にいたる延長四二チェーン(約八四〇㍍)の線路を建設するという計画で、前者については、一九一〇(明治四十三)年電車専用線が開通、後者については一九〇六年着工、一九一〇年に開通した。 これらの改良工事とは別に、日清戦争による臨時の工事が、横浜付近の東海道線の輸送に大きな変化をもたらした。すなわち、一八九四(明治二十七)年八月、日清戦争が開始されると、軍部は、当時開通していた青森-広島間その他の鉄道を使って、出港地宇品に兵力を集中した。この輸送に際して、大崎-大井間および神奈川-程ケ谷(現在保土ケ谷)間に直通線を敷設し、品川・横浜における列車の方向転換、機関車の付けかえなどの作業を省略することとした。この工事は、両線とも軍事費支弁とされ、大崎-大井間約一・四㌔㍍は同年八月、神奈川-程ケ谷間約三・五㌔㍍は同年九月に完成、軍用列車の直通運転を開始した。 この直通線は、日清戦争終了後も廃止されず、一八九六年には陸軍省から鉄道局に移管された。この年は前述のように鉄道局が東海道線の改良工事に着手した年であり、また新橋-神戸間に最初の急行列車の運転を開始した年でもあった。この改良工事は、日清戦争後の「戦後経営」の一環とみるべく、資本主義の発展にともなう輸送力増強の方策として計画されたと考えられる。この年に、軍用直通線の移管を受けた鉄道局は、とくに神奈川-程ケ谷間の直通線の輸送効果を重視し、ここに直通列車の運転を計画した。 これにたいし、同年六月二十六日横浜商業会議所は、農商務・逓信両省、神奈川県に建議して、このような直通線に列車を移すことによって、「全国ニ対シ横浜市民・横浜商民ノ受クル不便不利」の大きいことを説き、この計画に反対した(「東海道官設鉄道複線工事並ニ線路変更ニ付建議」『横浜商業会議所月報』第一号、明治二九・一〇・一〇、「横浜会議所録事」横浜商工会議所商工図書館蔵)。 八月一日商業会議所常務委員朝田又七・同大谷嘉兵衛、書記長飯田旗郎は、鉄道局長松本荘一郎を訪問して鉄道局の意向をただした。松本局長は、横浜駅は従来どおりとし、京浜間の運転回数は増加する、横浜以西との利用については神奈川または程ケ谷で接続させるか、または神奈川-程ケ谷間の中央、平沼新田付近に「小規模ノ停車場」を設けるかする、と答えた(前掲「横浜会議所録事」所収、明治二九・八・一「復命書」)。 結局、一八九八(明治三十一)年八月一日の時刻改正から、新橋-神戸間の四往復(急行・直行各二往復)と新橋-大垣間一往復の直行列車は直通線を通過させ、急行列車は上り下りとも程ケ谷に停車させて、横浜-程ケ谷間に接続列車を運転することとした。ほかに横浜-程ケ谷間に五往復を運転、新橋-横浜間の区間列車に接続させるなどした。こののち、一九〇一(明治三十四)年十月十日平沼停車場(新橋起点一七・一マイル、神奈川-平沼間〇・八マイル、平沼-程ケ谷間一・四マイル-以上営業マイル)を開設、急行・直行列車をここに停車させた。これによって、横浜-程ケ谷間の接続列車は廃止された。 横浜商業会議所は、この年十二月十八日逓信省に対し「平沼停車場に関する建議」を提出、平沼が横浜市街の中心地から離れていて非常に不便であると述べ、接続列車の復活を強く要望した。 軍用直通線を利用して幹線の輸送力を強化しようとする鉄道当局の措置が、横浜の企業家・市民にとって不便をもたらすという結果となったのである。 しかも、このころ横浜停車場における滞貨問題が起こっていた。一八九七(明治三十)年十二月九日横浜商業会議所陳情委員三名が上京して、内閣総理大臣、大蔵・逓信および農商務各大臣に陳情、滞貨による被害の大きさを訴えた。この滞貨問題は、資本主義の発展とともに活発となってきた貨物の輸送需要に対して、鉄道のもつ輸送力が対応できないというところに、根本的な原因があったとみてよいであろう。 とくに、貨物列車運転本数や貨車の不足、また横浜停車場における貨物取扱設備の欠陥が、このような問題を引き起こす原因となっていた。ここから横浜築港の計画とならんで、鉄道の海陸連絡設備の充実への要望も生まれてくるようになった。 新橋-横浜間の旅客輸送については、前にふれた一八九八年八月二日の時刻改正から、一日二往復新橋-横浜間に快速列車の運転を開始、所要時間下り三八分、上り三九分で、各駅停車列車の五五分にくらべ、かなりの時間短縮を実現した。これは、東京-横浜間の業務旅行者の便宜をはかったものと考えられる。すなわち、一往復は下り午前九時、上り午前九時一〇分、他の一往復は上下とも午後四時三〇分に各始発の列車を運転する方式をとったのである。 京浜電気鉄道の建設と延長 日清戦争後、東京-横浜間の交通が急速に頻繁となってきた。この段階に、東海道線以外にあらたに電気鉄道が開業して、輸送需要の増大に対応したのである。この計画は、すでに一八九三(明治二十六)年からいくつかの企業から出願されていた。雨宮敬次郎らの「軌道条例」によるもの、中野武営らの「私設鉄道条例」によるもののほかに、若尾幾造らによる出願(一八九五年四月)、高瀬理三郎らによる横浜-川崎-大師河原間電気鉄道(横浜電車鉄道)の出願(同年七月)が加わった。 さらに、一八九六(明治二十九)年三月十八日には、川崎の旅館経営者田中亀之助、東京の弁護士で電気鉄道の経営に意欲をもやしていた立川勇次郎らが、川崎電気鉄道(川崎-大師間)を発起、願書を提出した。翌年に入って、横浜電車鉄道と川崎電気鉄道との両者の合併契約が成立、六月二十九日社名を大師電気鉄道株式会社(資本金九万八〇〇〇円)として更生起業目論見書を提出、八月二十六日川崎町久根崎(六郷橋)-大師河原間鉄道敷設の特許状が下付された。 川崎の地元では、これまで川崎停車場・川崎宿と川崎大師とを結んでいた人力車業者が強く反対したが、会社は一八九八(明治三十一)年二月二十五日、東京市京橋区南鍋町二ノ四立川勇次郎方の設立事務所で創立総会を開き、三月十七日設立免許大師電気鉄道(六郷土手) 市川健三氏提供 を得た。そして、六月十日起工、同年十二月に線路工事を完成、一八九九年一月二十一日川崎大師平間寺の縁日から営業運転を開始した。 六郷橋-大師河原間一マイル四分の一(約二㌔㍍)、単線で軌間は四フィート八インチ半(一四三五㍉㍍)、車輛は当初電動車三輛、付随車二輛で、電動車のうち一輛は、一八九〇年東京上野の内国勧業博覧会の会場で運転した一輛を所有者の三吉商会から借り入れたものであった。 開業時から同年五月三十一日まで、一日平均乗客は一二二四人、運賃収入は六三円六二銭九厘であった。期末配当は年一割一分二厘となり、小規模ながら経営成績は良好であった。 大師電鉄は、さらに線路を横浜・品川に延長しようと計画した。そして、さきに出願していた「軌道条例」「私設鉄道条例」による電気鉄道の発起人と協議、一八九九年四月五日合併仮契約に調印、四月二十五日社名を京浜電気鉄道株式会社(資本金八五万円)と改めた。 同年十一月二十八日川崎-品川橋(目黒河岸)間(のち八ツ山橋に延長)、翌一九〇〇年十一月二日川崎-神奈川間の敷設特許を受け、それぞれ工事を開始した。一九〇二年九月一日、六郷橋-川崎停車場間が開通したのを皮切りに、一九〇四年五月には品川(八ツ山橋)-川崎間が全通し、さらに一九〇五年十二月二十四日には、川崎-神奈川間が全通して、東京-横浜間が全通したのである。 社寺参詣客の輸送をおもな目的として開業したこの電気鉄道は、ここにおいて、当初の目的である京浜間の都市間旅客輸送の交通機関となったのである。この時までに、施設は次第に充実し、車輛は従来の四輪単車は三〇輛となり、このほかに一九〇三年九月から定員七六人のボギー車一五輛を増備、輸送力は増強された。 全通当日の輸送量は八ツ山橋-神奈川間全線を通じて、一万〇五〇五人、運賃収入一〇三〇円二〇銭、年末・日曜日という条件のうえに、好奇心から乗ったという人がかなりあったといわれるが、停車場・停留場も運転回数も官設鉄道にくらべてはるかに多い、電気鉄道の優位をはっきりと示していた。運転時間も、京浜電鉄の八ツ山橋-神奈川間は二九分三〇秒とされ、東海道線の新橋-横浜間普通五五分よりはるかに速く、官鉄の快速列車三五分運転に匹敵した。 このため、官設鉄道では新橋-横浜間二七分の快速列車の運転を計画するなど、これに対する対抗策を進めたのである。官設鉄道は十二月二十七日から、新橋・横浜両停車場を午前八時、午後四時に同時発車する最急行(快速)列車の運転を開始した。これは、平均速度を四〇㍄/時(六四・四㌔㍍/時)とし、所要時間を二七分としたもので、列車の編成は一・二等合造車、二等車、三等車各一輛、三等緩急車二輛のボギー客車五輛をD9形(六二〇〇形)機関車が牽引した。当時の列車としては最も速度のはやい列車で、これによって京浜電気鉄道に対抗しようとしたのである。 しかし、都市間旅客輸送には、すでにこのころになると頻繁運転が要求されるようになっていて、その意味では、京浜電鉄は都市間輸送の新方式を提示したものということができる。しかも、この電鉄は部分的に道路から離れて専用軌道を設け、速度の向上と安全の確保を図っていた。当時、甲武鉄道などが、電車といえば路面電車という観念を打破しつつあったが、この電車も、新しい都市間高速電車のあり方を示唆するようになったのである。 二 横浜鉄道の建設 横浜-八王子間鉄道の競願 前にもふれたように(第二編第二章第一節)、横浜・川崎と八王子とを鉄道で結ぼうという計画は何回か立てられながら「鉄道敷設法」制定のころまでそれが具体化することはなかった。当時、八王子はその周辺や山梨県から運ばれる生糸・絹織物の集散地であり、青梅・所沢・飯能などの木綿や狭山茶などもここに集まっていた。一八八九(明治二十二)年には新宿-八王子間の甲武鉄道が、一八九四年には立川-青梅間の青梅鉄道が開業した。しかし、三多摩地方や山梨県下の輸出向け生糸・絹織物の輸送には、東京経由よりも、八王子と横浜を直結する鉄道が有利であるという見方は強かった。 そして政府もまた、この線路の建設について、強い関心を抱いていたのである。すなわち、「鉄道敷設法」には八王子または御殿場を起点とする中央予定線が組み込まれており、比較線の調査の結果、八王子を起点とすることになって、一八九四(明治二十七)年法律第六号により八王子起点が正式に決定された。ところが、八王子で他の官設鉄道と接続していないという問題がとりあげられるようになり、八王子から横浜まで、この中央予定線を延長すべしとする議論が政府部内から起こった。 一八九五(明治二十八)年十二月十一日、逓信大臣白根専一は閣議においてこの問題をとりあげ、中央線を神奈川-名古屋間とすべき旨を説いた。その理由は、横浜またはその近傍から八王子にいたる線路は、地形が平坦で工事費も低廉である。しかし、これを私設にまかすときは「中央線ト既成官線ト接続ノ便益ヲ得可カラズ」、そこで、この区間を官設とし、「中央線ノ東端ヲ直ニ既成官設線ニ接続スルトキハ、八王子以西非常ニ巨額ノ工費ヲ投シテ建設スル鉄道開通ニ依テ、同所以東比較的ニ小額ナルノ工費ヲ以テ建設シ得ヘキ平原鉄道ノ享受スル収益ヲ全線上ニ平衡セシムルヲ得、特ニ運転上ニ最モ緊要ナル全線ノ列車運転ヲ同一ノ管理者ノ手中ニ置ク便益アリ、又中央線建設工事上ニモ直接ニ其東端ヲ既成官設線ヨリ起ストキハ至大ナル便利ヲ受クヘシ」(鉄道省編『日本鉄道史』中編)というものであった。 当時、多くの計画が立てられた。これを概観すると、次のようになる。 (1)横浜鉄道-八王子-原町田-恩田-小机-神奈川-横浜 二六㍄ 一八九年五月出願 原善三郎他一二人 資本金七五万円(一八九五年二月武相と合同再願) (2)武相鉄道 八王子-原町田-程ケ谷-横浜 二六㍄ 一八九四年五月出願 雨宮敬次郎他九人 資本金七〇万円 (3)南武鉄道 八王子-原町田-程ケ谷 二三㍄ 一八九四年五月出願 伊藤茂右衛門他四人 資本金七五万円 (4)多摩川鉄道 八王子-矢野口-登戸-溝ノ口-川崎 二五㍄ 溝ノ口-品川 七・五㍄ 出願時期不明 青木正太郎他三一人 資本金一〇〇万円 (5)武州鉄道 横浜-八王子-熊谷 五六㍄ 一八九四年六月出願(八月八王子-平塚間支線追願、十一月横浜-八王子、八王子-平塚削除、八王子-熊谷間、飯能-川越間、寄居-高崎間に訂正) 上杉茂憲他二五人 以上、武州鉄道以外、一八九六年四月すべて却下。 (6)南武蔵鉄道 横浜-八王子 二四㍄ 中山-国分寺 一四㍄ 一八九六年三月出願 田代坦之他一一人 資本金一五二万円 (7)横浜鉄道 (1)と同じ 一八九六年四月再願 (8)武蔵鉄道 赤羽-与瀬 忠生-八王子-五日市 忠生-今宿-程ケ谷 計六一㍄ 一八九六年出願 柴原和他二二人 資本金二〇〇万円 (9)武相両岐鉄道 神奈川-八王子 二六㍄ 原町田-片瀬 一七㍄余 一八九六年五月出願 青木正太郎他一四人 資本金一二五万円 (10)八王子鉄道 八王子-相原 五㍄ 一八九六年七月出願 山田東次他九人 (11)八王子鉄道 八王子-横浜 二六㍄ 一八九六年八月出願 徳川篤敬他一四人 資本金一〇〇万円 以上は、一八九七年五月却下。 (12)神王鉄道 神奈川-八王子-青梅 三〇㍄ 一八九七年四月出願 柴原和他一三人 資本金一二〇万円 (13)神奈川鉄道 八王子-神奈川 二五㍄ 一八九七年五月出願 前武州鉄道関係者 資本金一〇〇万円 (14)武蔵鉄道 (8)と同じ 一八九七年五月再願 (15)横浜鉄道 (1)、(7)と同じ 一八九七年五月再願(九月経路を変更、二七㍄とし、資本金一五〇万円とする) 以上は、一八九八年六月却下(以上、『日本鉄道史』中編による)。 以上のように、横浜-八王子間をめぐる鉄道敷設の計画は、日清戦争前後の時期にかけて非常に多かった。しかし、政府はこの段階においては、依然として官設の方針を捨ててはいなかった。そのため、これらの出願は、横浜-八王子間以外については、すべて却下という結果となったのである。 横浜鉄道の建設と開業 原善三郎らは、一八九八(明治三十一)年六月に、横浜鉄道の第三回目の出願が却下されると、その翌月、七月十三日に第四回目の出願をおこなった。発起人たちは、出願上申書のなかでこの鉄道の重要性を指摘し、「我政府ガ其等ノ願ヲ拒却セラルヽノ理由常ニ官設云々ニアルヲ見レバ、本線鉄道ノ必要ナルハ亦既ニ熟知セラルヽ所ナルヲ信ズ」と述べ、そのような政府が「其官設云々ヲ明言セラレタルニモ拘ハラズ、第十一議会・第十二議会ニ於テ何等ノ提案ヲ試ミラレザル所以ノモノ、亦財政上ノ事態大ニ非ナルモノアルニ外ナラザルベシ」(「横浜鉄道株式会社発起御認可之儀ニ付上申」鉄道院文書『横浜鉄道株式会社』巻一所収)と、政府の立場を衝いた。 発起人の側では、この線路に「殖産貿易上」の意義をみとめており、それは前にもふれたように八王子周辺や山梨県、あるいは長野県諏訪地方の生糸や絹織物の輸送、またこの地方への雑貨その他の消費物資の輸送について、この線路が大きな役割を果たすという期待があったと考えられる。 一年おいて一九〇〇(明治三十三)年二月十四日、発起人は上申書を提出し、免許を求めた。このころ、政府では鉄道国有論議が盛んであり、甲武鉄道新宿-八王子間の国有化を構想するようになっていた。とすると、八王子-横浜間を官設鉄道として建設する必要性は、あまり大きくはなくなってしまう。そのような事情から、政府の側でも、この横浜-八王子間の線路を私設鉄道にまかせてもよいという気運が生まれたようである。 情勢は大きく変わってきた。一九〇二(明治三十五)年三月四日、こんどは発起人四〇人という多数の名をつらねて、第五回目の出願がなされた。資本金も二〇〇万円とされた。この発起人には、一八九八年の出願の際の原善三郎が原富太郎に変わったほか、一三人中四人が脱けたが、八人はそのまま名をつらね、その意味では、それまでの出願と同様の発起人に、あらたに二七人が加わったことになる。そして資本金の増額も、こんどの態勢の強化を反映していた。 同年十二月二十七日仮免許状が下付され、計画はようやく軌道に乗った。一九〇四年四月、本社を東神奈川におき、一九〇五年五月二十三日本免許状を得、六月には資本金を二三〇万円に増額した。免許状には付帯条件として、(一)建設工事が遅延した際には、政府がいったん実費で買い上げ、他の鉄道会社に売り渡すことがある、(二)政府が必要と認めた場合には、いつでも免許を取り消し、鉄道・付属物件を買収することができる、という二項が挙げられていた。 この第二項については、前に挙げた一八九八年七月の願書にも「中央鉄道敷設ノ材料運搬若クハ線路ノ買上等ニ関シテハ、如何ナル条件ヲモ甘諾スベキ旨ヲ誓願」していた(前掲「横浜鉄道株式会社発起御認可ノ儀ニ付上申」)。それにしても政府が、この鉄道線路について、いったん私設を認めながらも、国有化についての条件を保留したことは、政府がこの線路の国有化の意図を、なお捨てていなかったことを示している。 建設工事は一九〇六(明治三十九)年六月に着手され、一九〇八(明治四十一)年八月に完成した。建設費は二三五万四六六一円であった。工事完成を待って、同年九月二十三日開業、東神奈川-八王子間二六マイル三五チェーン(約四二・三㌔㍍)の旅客・貨物の運転営業が開始された。東神奈川停車場は、横浜鉄道株式会社が東海道線との接続点に設けたもので、同社が建設して無償で国有鉄道に貸し渡す形式をとった。また八王子については、国鉄の八王子停車場を使用することを帝国鉄道庁と協定した。こうして横浜鉄道は、東神奈川と八王子で国有鉄道の連帯運輸を実施することとなった。 このほかに、同社は東神奈川から海岸まで線路を延長し、埋立地に海陸連絡設備をつくることを計画した。この計画は、一九〇六年二月仮免許状下付、同年十二月十四日免許状下付、一九〇八年四月着工、一九一〇年十月に完成した。車輛は、開業当時機関車五輛、客車一六輛、貨車一〇四輛であった。旅客運賃の賃率は、三等一マイル一銭七厘、二等は三等の五割増、一等は二等の五割増であった。 創立当時の役員は、専務取締役社長朝田又七、取締役渡辺福三郎・若尾幾造・千坂高雅・青木正太郎、監査役名村泰蔵・石川徳右衛門・村野常右衛門が就任した。資本金は、一九〇六年には三五〇万円に増額した。 この鉄道は、一九一〇(明治四十三)年四月一日から鉄道院に貸し渡されたので、会社による表3-65 横浜鉄道営業成績 注 『日本国有鉄道百年史』第6巻より作成 営業期間は、一九〇八年九月から一九一〇年三月末までということになった。その営業成績は表三-六五に示すとおりであるが、走行マイル程は、列車走行マイル程では混合列車の比率が高く、車輛走行マイル程では客車の比率が高い。輸送量・収入ともに旅客が貨物よりはるかに大きいことがわかる。 これらから判断すると、この鉄道は、貨物輸送の成績が予想以上にふるわなかったと考えられる。それは東神奈川からの海陸連絡線が完成しても変わらなかったともいえよう。結局は国鉄に貸し渡して、貸渡料金で会社の経営を維持するという結果となったのである。 三 小田原電気鉄道と大日本軌道 小田原馬車鉄道の開業 神奈川県西部の中心都市小田原は、明治維新によって大きな変貌をきたした。近世の幕藩体制のもとで、もともと小田原は城下町であるとともに、箱根越えの根拠地であり、箱根・三島の両宿とならんで、馬方・駕籠かき・人足など、運輸労働者を供給する公営の問屋場がおかれていた。宿場としての本陣・脇本陣もあり、東海道を往復する人馬の賑いを常にみせていた。 しかし、明治維新によって、小田原城は天守閣以下の楼閣をすべて破壊された。また、明治二年(一八六九)には箱根関所が廃止され、明治五年には宿駅制も廃止されて、問屋場・本陣・脇本陣も廃止された。 近世以来の交通機関や制度が廃止されたために、小田原は一時火の消えたような衰微の状態をみせた。しかし、ここにも新しい交通機関が入ってくるのに長い年月の間隔はなかった。一八七〇年、東京で考案された人力車が、翌年か翌々年には小田原にもあらわれて、箱根に赴く湯治客や外国人がこれを利用するようになった。その後、一八七九年ごろには横浜-小田原間に定期馬車が走りはじめた。また箱根の仙石原や宮城野では、その近傍を運行する馬車が登場した。このころまで、箱根の山越えは馬車はもちろん、人力車でも不可能であり、馬や駕籠にたよるほかなかった。そして、おもに膝を折り曲げることが苦痛な外国人たちのために、籐椅子の脇に竹棒二本を取りつけたチェアと称する乗物が登場した。人力車が箱根の山越えに活躍するようになるのは、湯本から宮ノ下を経て箱根町にいたる新道が完成する一八八七年ごろのことであった。 箱根の交通機関は、こうして徐々に変化をみせてきた。時を同じくして一八八六年には、前に述べたように幹線鉄道が東海道経由に変更され、横浜以西の鉄道建設が開始されたが、計画された線路は国府津から松田・山北を経て御殿場に達するもので、小田原はいわば置去りにされたかたちとなった。 このような事情が、国府津-小田原-箱根を結ぶ馬車鉄道を生んだともいえる。一八八七(明治二十)年十一月二十日、小田原の吉田義方ら七人が発起人となり、国府津-湯本間の馬車鉄道敷設請願書を神奈川県庁に提出した。社名は小田原馬車鉄道会社、資本金は六万五〇〇〇円であった。翌年二月二十一日認可の指令を受け、同年三月測量を開始、ただちに工事に入った。線路は、国府津停車場前から湯本旭日橋手前までの約一二・九㌔㍍で、ほとんどが国道敷を通過するようになっていた。軌間は四フィート六インチ(一三七二㍉㍍)、車小田原馬車鉄道 春日俊郎氏蔵 輛は英・米両国から一一輛(うち荷物車一輛)を購入、同一八八八年十月一日営業を開始した。二頭立ての馬車が国府津-小田原間約三〇分、小田原-湯本間約三五分で走った。下等運賃は前者が六銭、後者が八銭であった。 沿線の人力車・馬車の営業関係者の反対は強く、また車輛の動揺や脱線、馬糞や泥土の被害、馬の疫病など、この馬車鉄道は多くの問題を投げかけた。しかし、利用者は年々増加していった。それだけに、この区間の交通機関を、早急に改良する必要が関係者に痛感されたのである。 小田原電気鉄道の開業 馬車鉄道は、馬にかかる経費が大きく、会社の経営状態は必ずしも良好とはいえなかった。そのような時、一八九〇(明治二十三)年五月東京上野の内国勧業博覧会会場で、日本ではじめて電車が運転された。馬車鉄道会社では、同年六月社長田島正勝と取締役吉田義方とが東京に赴き、電車の導入・運転に当たった東京電燈会社技師長藤岡市助に、電気鉄道についての教示を受けた。 同年十月十一日の株主総会に、会社首脳部は電気鉄道に動力変更をしようという議案を提出したが、時期尚早として見送られた。そして、各方面からの調査を実施することとし、逓信省技師五十嵐秀助、工学士井口在屋、外人技師二人に、電力設備・線路設備などについての調査を依頼した。一八九一年十月一日株主総会で電気鉄道への変更についての増資が決定された。しかし、その実行については、当時の経済的事情が許さず、着手にいたらないままに過ぎた。 一八九三年六月、会社は電気鉄道についての設計工事全般について藤岡に依嘱、工事施行を武永常太郎に、水路調査を田辺朔郎に依嘱した。同年十月十二日武永の設計にもとづき、馬車鉄道を電気鉄道に変更する件を、神奈川県を経て内務大臣に出願、翌年一月二十一日の臨時株主総会で、会社に電気鉄道改良委員会をおくこととし、資本金を二〇万円に増額することとした。 一八九五年一月京都に電気鉄道が開業し、動力変更の機運は高まった。結局、資金導入のために株式譲渡がおこなわれ、同年十月取締役に中野武営・牟田口元学・藤岡市助・吉田義方・田島正勝が就任、とくに中野が社長に就任すると、計画は急速に実現の方向に向かった。一八九六年七月十八日、電気鉄道についての特許状が下付された。 十月十五日には商号を小田原電気鉄道株式会社に変更、資本金は七〇万円となった。工事は湯本茶屋発電所の建設(一八九八年一月着工)、電化のための線路・橋梁の改良(一八九九年二月着工)などで、発電所は一九〇〇年二月、線路その他の工事も一九〇〇年三月に完成、三月二十一日から営業運転を開始した。 車輛は電動車一四輛、付随車一輛、ほかに馬車鉄道時代からの車輛の一部七輛(うち五輛は付随車、二輛は荷物車)を使用、合計二二輛を整備した。いずれも四輪単車で、電動車は二五馬力電動式二個をそなえていた。 客車等級は一、二、三等に分かれ、一・二等混合車の定員は三五人(一等一五人、二等二〇人)、二等車四〇人、三等車五〇人とされ、運賃は馬車鉄道時代と同額とされたが、一等運賃は全線九三銭であった(箱根登山鉄道株式会社『箱根登山鉄道の歩み』)。こうして、全国で第四番目、神奈川県で第二番目の電車の営業は開始された。 小田原電気鉄道(酒匂橋) 市川健三氏提供 豆相人車鉄道 箱根にくらべると、熱海はかなり後まで、いわば「陸の孤島」といった状況におかれていた。熱海の温泉は古くから開発されていたにもかかわらず、ここが東海道から遠く離れており、また小田原や三島から熱海にいたる交通路は険峻な山地を通過しなければならなかった。このような地形の条件が、熱海への交通路の開発を遅らせたといえよう。 鉄道が国府津まで開通した当時、東京から熱海へ行くには、途中小田原で一泊し、小田原-熱海間は徒歩で一日、駕籠で半日といわれた。このような条件を打開するため、一八八六(明治十九)年に茂木惣兵衛・高島嘉右衛門・雨宮敬次郎・大倉喜八郎・平沼専三ら東京・横浜の実業家、石渡喜右衛門・樋口忠助・露木準三ら熱海の旅館経営者が、小田原-熱海間に人車鉄道を建設する計画を立てた。 人車鉄道は、狭軌の軌道に小型の車輛を載せ、人力で押していくもので、比較的少額の資金で鉄道を建設運営するために考案された方式といえよう。この場合も、建設費を少なくするため、道路沿いに線路を敷設するように設計し、その結果、曲線・勾配など蒸気その他の動力車を使用するのに適さなかったと考えられる。 一八八九(明治二十三)年内務大臣に特許を申請、翌年十一月二十日特許を得たが、資本金募集などの理由から延期を出願、一八九一年六月から、宇野柄吉・佐分利一嗣らに依嘱して、再び測量を実施、当初の計画より簡易な線路を選ぶこととした。豆相人車鉄道 今井利久氏提供 結局、線路が開通したのは、熱海-吉浜間六マイル四〇チェーン(約一〇・四㌔㍍)が一八九五年七月十日、吉浜-小田原間九マイル(約一四・四㌔㍍)が一八九六年三月十二日であった。こののち、一九〇〇年六月二十日小田原町内二六チェーン(約五二〇㍍)が開通、全線約二五・三㌔㍍となった。 全線が単線、軌間は、当時二フィート(約六一〇㍉㍍)、最急勾配は一〇〇〇分の四〇、最小曲線半径七・五㍍であった。途中の停車場は、小田原方から早川口・石橋・米神・根府川・江ノ浦・城口・吉浜・門川・伊豆山で、各停車場に行違設備があった。車輛は客車が四一輛、いずれも二軸車で、長さ一六二一㍉㍍と一五三〇㍉㍍と二種類があり、定員は上等四人、中等四-五人、下等六人、貨車は無蓋車八輛で、多客時には屋根を張って客車として使用したこともあった。 一八九八年の時刻表によると、一日六往復、所要時間は三時間四〇分-四時間、小田原-熱海間の下等運賃は五〇銭(中等は五割増、上等は下等の二倍)であった。乗客が多いときは、数輛が列をなして運行された。上り勾配にさしかかると、乗客も降りて押し上げたという。 熱海鉄道と大日本軌道 人車鉄道は輸送力が小さく、とくに下り勾配や曲線では脱線・転覆の危険が大きいというので、その改良が計画された。一九〇四年、同社は米国のボールドウィン社に小型機関車を発熱海鉄道 市川健三氏提供 注、一九〇五年一月十八日、この機関車によって小田原-熱海間で試運転がおこなわれた。この試運転では、二三人を乗せ、二時間二三分で走った。 同社はその結果、同年四月動力変更の特許を受け、社名を熱海鉄道株式会社と改めた。社長には雨宮敬次郎が就任、一九〇七年四月二十四日軌道線路改修工事の認可を受け、改良工事に着手した。これは軌間を二フィート六インチ(七六二㍉㍍)に改め、レールも従来のものより重いものに取り換えるという工事で、同年八月十一日熱海-湯河原間が完成、十二月二十二日には湯河原-石橋村榎戸間が鉄道大隊により、石橋村榎戸-小田原間が請負により完成、これによって蒸気運転が開始された。 この列車は、蒸気機関車が定員二四人の客車一輛を牽いて走るもので、所要時間は約二時間四〇分であった。当時社長の雨宮敬次郎は、各地でこのような軽便鉄道を経営していたが、これらを統合することを思い立ち、一九〇八(明治四十一)年七月二十八日、熱海鉄道をはじめ、熊本・静岡・伊勢・広島・浜松・山口・信達の八社を合併して、大日本軌道株式会社を設立した。熱海鉄道は、大日本軌道の小田原支社の路線となった。 一九〇八(明治四十一)年十一月十日、会社は、東京を午後二時半から三時半ごろに出発して熱海に向かう人の便判のため、夜間運転の許可を逓信大臣に求めた。さらに、一年後の一九〇九年十二月六日同趣旨の請願を内閣総理大臣・内務大臣におこなった。もともと線路の条件などから夜間運転が禁止されていたのであるが、線路を改築し、運転係員も熟練し、利用者の需要にこたえたいというのがその趣旨であった(鉄道省文書『熱海軌道組合』)。政府は十二月二十七日付で、機関車に前照燈をつけることを条件に、午後九時までの運転を許可した。 こうして、夜間運転が開始されたが、一日の運転回数はそれまでの七往復に、二-三往復が増加した程度で、国府津-熱海間の所要時間は二時間二七分-二時間四四分であった。人車鉄道時代にくらべると、いくらか輸送状態が改善されたという程度であった。したがって、熱海・湯河原は東京からの所要時間が六時間前後であり、依然として箱根にくらべると不便な場所であり、「陸の孤島」という条件は変わらなかったのである。 四 江ノ島電気鉄道と湘南馬車鉄道 江ノ島電気鉄道 一八七七(明治十)年に江ノ島を訪れた米国の人類学者エドワード=モースは、横浜-江ノ島間は人力車を使わなければならなかった。当時、鉄道は新橋-横浜間しか開通していなかったからである。いわゆる「江ノ島詣で」は、東京からの場合最低二泊三日の行程とされていた。一八八七年に東海道線が開通すると、江ノ島はかろうじて日帰り可能となった。鎌倉もこの年、横須賀線が開通したので、同様に東京からの日帰りが可能となった。 交通機関が便利になることによって、観光地には多くの人が訪れるようになった。そのような観光客誘致の目的もふくめて、より便利な交通機関を実現しようという動きが起こるのは、当然のことであった。一八九五(明治二十八)年には、二つの鉄道建設計画が立てられた。いずれも横浜と鎌倉・江ノ島・藤沢を結ぶもので、ひとつは八月三日若尾逸平ら一五人が出願した電気鉄道、他のひとつは十月三日安場保和ら一一人が出願した蒸気鉄道であった。前者は鎌倉電車鉄道、後者は鎌倉鉄道と呼んでいた。このほかに、一八九六年二月には、福井直吉ほか五人から出願のあった藤沢-鎌倉間電気鉄道につき、神奈川県知事が当時の鎌倉郡川口村に諮問書を発している(『藤沢市史』第三巻)。したがって、三つの計画が競争のかたちとなった。 このうち鎌倉鉄道が、横浜-鎌倉間を削除して認可され、一八九七年九月これにもとづく軌道修正認可を出願、翌年一月十四日仮免状を下付された。しかし建設にいたらず、一八九九年八月一日免許状を返納した(鎌倉電気鉄道は、どのような結果になったか不明)。一方、福井直吉らの出願はいったん却下されたが、一八九八年十二月二十日付で仮免状を得た。江ノ島電気鉄道の計画は、こうして軌道に乗った(鎌倉鉄道と重複する路線認可となるので、すでに鎌倉鉄道が事実上敷設権を江ノ島電気鉄道にゆずったのではないかという憶測は、『江ノ電六十年記』にも『藤沢市史』第六巻にも記されている)。 江ノ島電気鉄道株式会社は、一九〇〇年十一月二十五日に設立、社長は青木正太郎、資本金二〇万円であった。一九〇一年四月二十一日施工認可を得、翌年一月二十五日工事を開始した。第一期工事は、藤沢-片瀬間二マイル一二チェーン(約三・四㌔㍍)で、一九〇二年九月一日開業した。第二期工事は、片瀬-迎山(極楽寺)間二マイル五五チェーン(約四・三㌔㍍)で、まず片瀬-行合(現在七里ヶ浜)間が一九〇三年六月二十日、行合-追揚(現在七里ケ浜ホテル付近)間が同年七月十七日、追揚-迎山間が一九〇四年四月一日開業した。第三期工事は日露戦争などによる空白期があった。この区間、極楽寺-小町間一マイル五〇チェーン(約二・六㌔㍍)は一九〇六年着工、大町までが一九〇七年八月十六日開業、大町-小町間は、横須賀線との交差を立体化することとなって、横須賀線の杠上工事決定までに手間どり、一九一〇年一月着工、十月二十六日小町までの敷設が竣工、十月三十日から藤沢-鎌倉間の全線が開業した。 全通時の車輛はいずれも四輪単車で、電動車八輛、付随車六輛、貨車二輛、運賃は一等と三等の二等級制であり、一日一マ江ノ島電気鉄道(鵠沼停留場) 高松吉太郎氏提供 イル平均平均収入は一四八円四七銭(藤沢-片瀬間のときは、一四円七〇銭)であった。 利用者数は次第に増加を続け、一九〇三年の年間総乗客数一七万五六九一人が、一九〇六年には二七万四五四二人となっていた(『江ノ電六十年記』)。 江ノ島と鎌倉という二つの観光地を結ぶ電車の開通は、観光客の増大をうながした。この電鉄の経営は、その後一九一一(明治四十四)年十月三日、横浜電気株式会社が江ノ島電気鉄道株式会社を合併、横浜電気の江ノ島電気鉄道部として営業を継続することとなった。さらに、同社は一九二一(大正十)年五月一日東京電燈株式会社に合併され、東京電燈江ノ島線となった。鉄道の業務がふたたび独立した会社組織となったのは、一九二八(昭和三)年七月一日以降である。このような紆余曲折はあったが、いわゆる「江ノ電」は、観光地の電車としての機能を一貫して果たしたのである。 湘南馬車鉄道 矢倉沢往還の宿場町である秦野は、神奈川県西部にひろがる盆地における生産物の集散地でもあった。とくに、この地方の葉煙草の加工の中心となり、専売制の実施とともに、一九〇五年には専売局の収納所や製造所が開設された。このころまで、交通機関は、馬・荷車・人力車であり、いうまでもなく、その輸送能力は低いといわなければならなかった。そして輸送路としては、秦野と平塚との間のように、すでに開業している東海道線の沿線に出る交通路が注目されるようになっていた。 一九〇一(明治三十四)年九月二十日、湘南馬車鉄道株式会社発起人山中喜十郎ほか三二人に対し、馬車鉄道営業の特許が、内務大臣から命令された。この命令書では、平塚-厚木間、平塚-秦野間、吾妻村(二宮)-秦野間を路線として挙げていた。この計画は、ほぼ在地の人びとの立てたもので、資本金は五万五〇〇〇円、いずれの線路も、東海道線の沿線と内陸部の都市とを結ぶものであった。 湘南馬車鉄道株式会社では、このうち三番目の吾妻村-秦野間だけを建設することとした。吾妻村には、沿線住民の運動が実って、一九〇二年四月十五日に二宮停車場が開設されたため、秦野との最短距離にあたる吾妻村(二宮)を秦野と結ぶのが最も有利と考えられたのであろう。 一九〇五年二月着工、線路の延長は六マイル(約九・六㌔㍍)で、軌間は二フィート六インチ(約七六二㍉㍍)であった。この線路は、秦野の台町から秦野-二宮の往還に線路敷をつくって敷設され、二宮駅の北に達するもので、翌年八月四日営業開始が許可された。 開通当時の運賃は、秦野-二宮間片道一〇銭、往復一八銭で、一区間二銭とされていた。馬と馬丁は、付近の農家から借り出したといわれる。一日一一往復の馬車が運行をはじめた。運賃は翌一九〇七年八月九日、片道一三銭、往復二四銭、一区間三銭に引き上げられ、またこの年十二月二十八日には東海道線二宮駅構内に線路を延長し、旅客の乗換えや貨物の積換えは便利になった。 こうして、馬車鉄道は発足したが、一九一一年十二月八日、同社は動力変更願を提出した。これは旅客の増加に対処するためには、一個列車の輸送能力を大きくしなければならないとし、また貨物についても、秦野専売支局発着の葉煙草や製品が年間一五〇万貫(約五六二五トン)に達し、そのほか丹沢からの木材や、木綿・織物、その他湘南軌道(水無川橋) 森徳隣氏提供 雑穀・肥料などがぼう大な量に達していて、馬車鉄道ではとても輸送しきれないという状況になっていたからである。 このように、湘南馬車鉄道は、この地域の重要な輸送機関となっていた。一九一二(明治四十五)年七月十二日動力変更が許可されて、ただちに必要な個所の線路変更その他の工事に入り、一九一三(大正二)年一月三十日から蒸気列車による運転を開始した。社名は湘南軽便鉄道株式会社と改められた。同時に、輸送力を増強するため、この蒸気列車は客車二輛を連結して機関車に牽引させる方式をとったのである。 輸送力は増大したが、こののち経営は悪化し、一九一八(大正七)年には、ほとんど運転休止の状態となってしまった。これは、営業経費の高騰によるものと考えられる。会社は専売局の煙草輸送を全般的に引き受けている内国通運株式会社に営業引受けを依頼した。しかし、内国通運でも会社の事業として引き受けることはできず、結局同社役員の個人出資のかたちをとって、湘南軌道株式会社を設立し、一九一八年十月九日ここに湘南軽便鉄道の軌道特許権を譲渡する契約を結んだのである。譲渡金は八万八〇〇〇円、この譲渡契約は十一月三十日許可、この鉄道は新しい経営の段階に入った。 第二節 鉄道時代の道路輸送 一 近距離道路輸送の増大 鉄道時代の進展 明治後期の陸上輸送は、鉄道時代の進展にともなって大きく様相を変えた。周知のように、当初、官設官営方針と財政資金の欠乏によって伸びなやんだわが国の鉄道は、明治十(一八七七)年代なかばの政策転換と私設鉄道の認可によってはげしい〝鉄道熱〟の時期を迎え、路線延長は一八八〇(明治十三)年の一五七㌔㍍から一八九〇年の二七二七㌔㍍、一九〇〇年の六一九三㌔㍍へと急伸した。神奈川県下においても一八八九年には、横須賀線・東海道線(以上官線)、甲武鉄道(新宿-八王子、私線)が開通したほか、一八九九年には大師電気鉄道(六郷橋-大師河原、私線)、一九〇〇年には小田原電気鉄道(国府津-箱根湯本、私線)、一九〇二年には江ノ島電気鉄道の藤沢-片瀬間が相ついで開業した。また関東・東北・信越地方でも八九年には前橋-小山-水戸間(両毛鉄道会社)、九一年には上野-青森間(日本鉄道会社)、九三年には上野-軽井沢-直江津間などが全通し、鉄道時代の本格的な開幕を迎えることになったのである。 このような鉄道の発展は、これと競合する道路輸送を沿線から駆逐する半面、鉄道貨客の集配を中心とした近距離の輸送需要を鉄道駅周辺に呼び起こした。中・長距離の駅馬車や荷馬車にかわって乗合馬車や馬力があらわれ、大小の荷車も急増した。いわゆる長距離鉄道輸送と補助的道路輸送の時代が始まることになったのである。 乗合馬車・馬力・荷車の増加 このような変化は、乗合馬車・馬力・牛車・荷車など、近距離輸送手段の増加となってあらわれた。いま『神奈川県統計書』によってその推移を見れば表三-六六の通りであり、右の各種車輛は、一時的な減少をともないながらも、ほぼ大正初期まで、いずれも増加傾向をたどっている。このうち、一八九七(明治三十)年の減少は多摩郡の分離によるものであるが、一八八七年以後の客馬車の一時的急減と九七年の牛車の増加はつまびらかでない。牛車については一九二二年の数字にも疑問があるが、後考をまちたいとおもう。 以上の各車に対して荷車と荷馬車は、一九九七年を除いて一貫した増加傾向をたどっている。このことは、たとえば一八九二年十月、津久井郡湘南村旧小倉組の「渡船賃額増加願」にも見受けられるところであり、近年、腕車(荷車)・馬力等の通行が増加したが、その賃額規定が無いので追加させてほしいと記述されている(『資料編』18近代・現代(8)一四五)。このことからすれば、内陸部でも、このころから荷車・馬力の通行が目立つようになったと考えることができよう。そして、統計上の荷馬車も、このころから牽引型の馬力が主流になったものと表3-66 県下諸車台数 注 1 『神奈川県統計書』により作成。 2 1892年までは多摩郡を含む。 考えることができるのである。当時の道路輸送の変化は、疾駆型から牽引型へのこのような荷馬車の変化をともなったのであった。 しかし、以上のような各種車輛の増加傾向のなかで、一八七〇年代に激増した人力車は、一八八二(明治十五)年をピークにして漸減傾向をたどった。もっとも一八八〇年代の足どりは、松方財政の不況期に急減したあと一八八〇年代末には上昇に転じたのであったが、一八九〇年代に入ると再び漸減傾向に転じ、一九〇〇年以降さらにその傾向を強めることになった。『日本帝国統計年鑑』によれば、全国の人力車台数が減少局面に入るのは一八九七年であり、その点本県の台数減少は、きわめて早い時期に始まったといわなければならない。その理由はかならずしもつまびらかでないが、ひとつにはおそらく、この種の営業に従事した都市雑業層にとってより有利な就業の機会が、一八八六年ころからの企業勃興によって、増加しはじめたためと考えることができる。一九〇〇年以後の減少は、川崎大師、鎌倉・江ノ島、小田原・箱根などの行楽地に敷設された前述の電気鉄道のほか、自転車・自動車の実用化によるものであった。 自転車・自動車の登場 維新前後に渡来し、当初娯楽用にとどまっていた自転車は、その後欧米諸国における改良(前後輪同型の安全車にチェーン・空気タイヤなどを着装)と価格低下によって一九〇〇(明治三十三)年ころからとみに輸入量を増し、実用化の時代に入った。また国内でも、このころから手工業技術や輸入部品によって自転車製造を始める業者が続出し、工作機械や電動機の導入などによってしだいに国産化の基礎を整えた。その結果全国の保有台数も、一九〇〇年の三万一六〇〇台から一九〇五年の八万九九〇〇台、一九一〇年の二三万九五〇〇台と激増することになったのである。本県においても一九〇一年には、『県統計書』にはじめて保有台数が計上され(一七五五台)、以後表三-六六のように年を追って急増することになった。横浜市瀬谷区仙田允治家文書の場合にも、一九〇六年ころから、自転車の修理・塗りかえなどを伝える書簡(平沼町西山自転車店から仙田製糸場宛)が、かなり目立つようになる(横浜市総務局編『横浜市史料所在目録第五集、瀬谷区』)。おそらくこのころには、実用車として広く利用されはじめていたと考えることができよう。 他方、自動車は、一九〇〇年ころから蒸気・電気・ガソリンを動力とした乗用車が相ついで輸入されたが、当初は数も少なく(一九一一年度末全国保有台数二一〇台)、試用ないし興味本位のものが多かった。しかし、大正期に入ると、一部の高級輸送需要をまかなうハイヤーのほか、乗合自動車やメーター制のタクシーもあらわれ、新しい道路交通手段としての足場をしだいに固めはじめた。本県の自動車台数が『県統計書』にはじめて計上されたのは一九一三(大正二)年であるが(九一台)、取締規則の方はすでに一九〇五年八月、県令第五三号によって定められ、また一九一二年にも新規則が公布施行された。したがって明治末期には、おそらく個人・会社などの自家用車を中心に、運行が始まったと考えることができるのである。 いずれにしても明治後期の道路交通は、従来の馬車・人力車・馬力・牛車・荷車などの運行に、自転車・自動車・オートバイなどを加え、同一路面上の混合交通の度合を、一段と強めることになったのである。 1914(大正3)年当時の自動車 富士屋ホテル蔵 二 街路・車輛取締規則の制定 一八八〇年代末の取締規則 以上のような車輛交通の発展は、街路・車輛等に関する取締規則の制定・改正を必然化した。本県の場合このような取締規則は、すでに一八八一(明治十四)年五月の「馬車取締規則」、一八八一年八月の「道路営業取締規則」など、必要に応じて制定されていたのであったが、一八八九年四月には県令第二一号-二五号によって、「街路取締規則」、「営業人力車取締規則」、「乗合馬車取締規則」、「宿屋営業取締規則」、「営業荷馬車取締規則」が一括制定され、街路・交通・旅宿に関する有機的な取締規則が、一応整備されることになった。その内容は多岐にわたるものであるが、当面の交通規則については夜間無燈火の禁止、対向車馬・歩行者に対する左側通行、左折は小回り・右折は大回り、発進時の合図、右側追越し、雑踏地の疾駆禁止、駐車場所の制限など、車輛交通の安全に不可欠な問題をほぼ網羅していた。もっとも左側通行の規定は、そこではまだ対向通行・追越し・左右折についてのみ明記され、歩行者をふくむ一般原則として明記されるまでにいたっていなかった。 しかし、明治二年四月の「東京府馬車規則書」や同五年四月の「東京府人力車渡世心得規則」(『東京市史稿』帝都(二)および(四))などに萌芽的に見られた左側通行方式は、右の諸規則のなかで、ほぼ定着化の域にさしかかっていたと考えることができるのである。 明治後期の取締規則 明治後期の取締規則は、右のような一八八〇年代末の取締規則を改編・整理するとともに、新参の自転車・自動車に対する規則を加えたものであった。一八九二(明治二十五)年七月の「人力車営業取締規則」、一九〇〇年十二月の「荷車取締規則」、一九〇二年七月の「自転車取締規則」、一九〇三年五月の「改正街路取締規則」、一九〇四年八月の「自働車取締規則」、一九一二年五月の「自働車取締規則」などがそれである。 右のうち「人力車営業取締規則」は、一八八九年の規則を改編・整理して、営業組合などに関する不必要な規制条項を削除したものであり、また「荷車取締規則」は牛車・馬力・荷車などの増加にともない、これらを包括的に取り締るための規則であった。そして、これらの牛馬諸車は、一九〇三年五月の「改正街路取締規則」によって、常時左側通行を義務づけられることになったのである(第五五条 牛馬諸車ハ道路ノ左側ヲ通行スベシ)。 これに対して「自転車取締規則」と「自働車取締規則」は、あらたに道路交通に参入した新種の車輛に対する、最初の取締規則であった。このうち前者は、号鈴・号笛の装着、曲乗・競争・定員外乗車・並列走行の禁止、急坂の乗車下降禁止、市街地における両手手放し運転の禁止、夜間点灯の順守、軍隊以外の対向者に対する左側通行(軍隊の場合は右側へ待避)、右側追越しなどを定めた比較的簡単なものであったが、後者は営業免許手続、運行道路の制限(道幅四間以上)、車検、車体・部品の規制、営業設備、車掌・運転手の要件および順守事項など、全文二九条におよぶ煩雑な規則であった。出願の際の記載事項が、蒸気・ガス・電気式のそれぞれについて列挙され(第一条)、最高時速を八マイル(横浜市その他警察官署の指定地域では六マイル)とするなど、揺籃期の自動車交通の模様を伝える、興味ぶかい取締規則ということができる。しかし、ほどなく一九一二年には、新しい「自働車取締規則」の制定によって廃止されることになったのである。新規則は全文一七条に整理され、最高時速も一二マイル(街路は一〇マイル)に引き上げられた。以下は前記「自転車取締規則」と「改正自働車取締規則」である。 自転車取締規則 第一条 道路ニ於テ自転車ヲ乗用スルトキハ他人ニ警戒ヲ与へ得ヘキ号鈴又ハ号笛ヲ車体ニ装置シ若ハ携帯スヘシ 第二条 道路ニ於テハ左ノ行為ヲ為スヘカラス 一、乗車ノ練習ヲ為シ又ハ曲乗若ハ競走スルコト 二、車輛ノ定員外ニ乗車スルコト 三、二輛以上ヲ並ヘ乗車スルコト 第三条 交通頻繁ノ道路ヲ通行シ若ハ街角ヲ廻ルトキハ号鈴又ハ号笛ヲ鳴ラシ徐行スヘシ 第四条 坂路又ハ狭隘ノ道路ニ於テハ徐行スヘシ但シ急斜セル坂路ニ於テハ乗車ノ儘降ルヘカラス 第五条 市街地ニ在リテハ乗車中同時ニ両手ヲ「ハンドル」ヨリ離スヘカラス 第六条 軍隊又ハ学生生徒其ノ他葬儀等ノ列伍ニ行遇フトキハ軍隊ハ右側ニ其ノ他ハ左側ニ避クヘシ 第七条 諸車ヲ追越サムトスルトキハ右側ヨリ通過スヘシ 第八条 夜間乗車スルトキハ燈火ヲ点スヘシ 第九条 警察官吏ニ於テ危険其ノ他必要ト認ムルトキハ下車ヲ命シ又ハ乗車ヲ停止スルコトアルヘシ 第十条 本則第一条乃至第五条並ニ第八条ニ違背シタル者及第九条ノ命令ニ従ハサル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス 自働車取締規則 第一条 自働車ニ依リ運輸ノ業ヲ営マムトスル者ハ左ノ事項ヲ具シ知事ニ願出許可ヲ受クヘシ之ヲ変更セムトスルトキ亦同シ 一、原籍住所氏名年齢但シ法人ニ在リテハ其ノ名称事務所々在地及代表者ノ氏名ヲ記シ定款ヲ添付スヘシ 二、営業ノ種別 三、営業線路図面(道路幅員記入)及停車場ノ位置 四、営業時間及客車ニ在リテハ乗客ノ定員賃銭額貨車ニ在リテハ貨物ノ積載量運賃額 五、動力ノ種類名称構造図面(寸法記入) 車輛ノ重量箇数構造図面(寸法記入) 六、制動機制御機音響器其ノ他附属機械器具ノ構造及図面(寸法記入) 保安及衛生上必要ト認ムル事項ハ許可ノ条件トシテ命令スルコトアルヘシ 第二条 自家乗用又ハ賃貸用トシテ自働車ヲ使用セムトスル者ハ左ノ事項ヲ具シ知事ニ願出認可ヲ受クヘシ之ヲ変更セムトスルトキ亦同シ 一、原籍住所氏名年齢但シ法人ニ在リテハ其ノ名称事務所々在地及代表者ノ住所氏名 二、動力ノ種類原動力機ノ名称製造年月日及車輛ノ重量寸法個数 第三条 自働車ノ運転ヲ為ス者ハ其ノ原籍住所氏名年齢及履歴書ヲ具シ知事ニ願出免許証ヲ受クヘシ 前項ノ場合ニ於テ必要アリト認メタルトキハ試験ヲ行フコトアルヘシ但シ之ニ要スル費用ハ受験者ノ負担トス 第四条 車輌ハ左記各号ノ構造又ハ施設ヲ要ス 一、車輛ハ当庁ニ於テ指示スル形状ノ車輛番号ヲ前部及後部ノ覩易キ箇所ニ標示スヘシ 二、自働車ニハ二個ノ制動機ヲ備ヘ一ハ必ス車軸又ハ車輪ニ固着シタル「ドラム」ニ作用セシメ直ニ運転ヲ停止シ得ヘキモノ他ノ一ハ機関各部ノ逆働ヲ阻止スヘキ装置ヲ有スルモノニシテ各自働的ニ原動力機ヲ停止シ且速度ヲ調節シ得ヘキ装置ヲ為スヘシ 三、験速器及音響器ノ装置ヲ為スヘシ 四、蒸汽瓦斯石油其ノ他爆発性又ハ可燃性ノ物品ヲ容ルヘキ管匱場所及電線ハ堅窂ニ造リ漏洩又ハ危険ノ虞ナキ装置ヲ為スヘシ 五、明ニ認メ得ヘキ煤煙蒸汽又ハ多量ノ有臭有害ノ瓦斯若ハ運転中騒響震動ヲ発セサル装置ヲ為シ尚ホ泥除ヲ設クヘシ 六、短半径ノ曲線ヲ以テ容易ニ方向ヲ変シ得ル為メ「ヂフエレンシャルギーア」及「ステーリングギーア」ヲ装置スヘシ 七、車輛ノ前面ニハ「ヘツドライト」ヲ後面ニハ燈火ヲ備ヘ本条第一号ノ車輛番号ヲ照スノ装置ヲ為スヘシ 八、車体ハ全長外法十八尺以内幅外法七尺以内ノ構造ト為スヘシ 前項各号ノ外必要アリト認メタルトキハ危険予防ノ装置ヲ命スルコトアルヘシ 第五条 車体及之ニ附属スル機械器具ハ当庁ノ検査ヲ受ケ其ノ検査証ヲ有スルモノニ非サレハ使用スルコトヲ得ス 検査証ハ車内覩易キ箇所ニ之ヲ標示スヘシ 検査証ヲ有スルモノト雖モ前条ノ構造又ハ施設ヲ具備セサルニ至リシ車輛ハ之ヲ使用スヘカラス 第六条 検査証ヲ下付シタル車輛ニ対シ第四条第二項ニ依リ危険予防ノ装置ヲ命シタルトキハ其ノ装置ノ完了スル迄検査証ノ返納ヲ命スルコトアルヘシ 第七条 車体及之ニ附属スル機械器具ハ毎年五月一回当庁ノ検査ヲ受クヘシ但シ必要ト認メタルトキハ臨時検査ヲ施行スルコトアルヘシ前項ノ検査ニ合格セサルモノハ検査証ヲ返納スヘシ 第八条 検査ノ際ハ検査官吏ノ指示ニ従フヘシ検査ニ因リ生シタル費用及損害ハ受検者ノ負担トス 第九条 運転ニ関シテハ左記ノ事項ヲ遵守スヘシ 一、速度ハ街路ニ在リテハ一時間十哩其ノ他ノ道路ニ在リテハ一時間十二哩ヲ超過スヘカラス但シ雑沓ノ場所ニ於テハ歩行者ニ等シキ速度ニ依ルヘシ 二、乗用車輛ハ其ノ幅二倍半未満ノ道路貨車ハ四間未満ノ道路ヲ行進スヘカラス但シ特ニ所轄警察官署又ハ警察官吏ノ承認ヲ受ケタル場合ハ此限ニアラス 自家又ハ他人ノ家ニ出入スル為メ他ニ規程以上ノ通路ナク已ムヲ得サル場合ニ於テハ三町以内ニ限リ前項但書ノ承認ヲ受ケサルコトヲ得 三、運転ニ従事スルモノハ免許証ヲ携帯シ警察官吏ノ求メアルトキハ之ヲ提示スヘシ 四、運転者ノ免許証ハ之ヲ貸与スヘカラス 五、警察官吏ニ於テ停車ヲ命シタルトキハ直ニ之ニ応スヘシ 六、夜間ハ制規ノ燈火ヲ点スヘシ 七、運転手ハ就業中其ノ車体ヲ離ルヘカラス但シ已ムヲ得ス其ノ位置ヲ離ルヽトキハ危険予防ニ適当ナル方法ヲ為スヘシ 八、他車ト併行シ又ハ競争スヘカラス 九、自働車二輛以上連続行進スルトキハ後車ハ前車ニ対シテ三十間以上ノ距離ヲ保ツヘシ 十、往来雑沓ノ場所、第二号ニ依リ規程未満ノ道路ヲ行進スルトキ又ハ街角橋上坂路等ヲ通過スルトキハ絶ヘス音響器ヲ鳴ラシ徐行スヘシ 街角通過ノ際ハ右ハ大廻リヲ為シ左ハ小廻リヲ為スヘシ 十一、街角橋上其ノ他往来ノ妨害ト為ルヘキ場所ニ停車スヘカラス 十二、消防機械又ハ郵便用車馬若ハ軍隊其ノ他ノ隊伍及葬儀等ニ行逢ヒタルトキハ其ノ進行ニ障害ヲ与ヘサル様徐行シ又ハ停車スヘシ 十三、馬匹ニ近ツクトキハ速度ヲ緩メ恐怖セシメサル様注意スヘシ但シ馬匹驚奔シ又ハ其ノ虞アルトキハ直ニ停車シ若ハ路傍ニ避クヘシ 第十条 左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ自働車営業又ハ自家乗用及賃貸用自働車ノ使用ヲ停止若ハ禁止シ又ハ其ノ許可若ハ認可ヲ取消スコトアルヘシ 一、本則又ハ本則ニ依リ発シタル命令ニ違背シタルトキ 二、公安ヲ害スルノ虞アリト認メタルトキ 第十一条 従業者本則又ハ本則ニ依リ発シタル命令ニ違背シ若ハ就業上不適当ナリト認メタルトキハ就業ヲ停止シ又ハ免許ヲ取消スコトアルヘシ 前項ニ依リ免許ヲ取消サレタルトキハ速ニ免許証ヲ当庁ニ返納スヘシ 第十二条 左ノ場合ニ於テハ三日以内ニ当庁ニ届出ツヘシ但シ第一号ノ場合ハ検査証又ハ免許証ノ書替若ハ再下付ヲ受ケ第二号第四号ノ場合ハ検査証又ハ免許証ヲ返納シ第五号ノ場合ハ戸主又ハ家族ヨリ其ノ手続ヲ為スヘシ 一、車輛ノ検査証又ハ運転手ノ免許証ヲ亡失毀損シ若ハ其ノ証書記載ノ事項ニ異動ヲ生シ又ハ其ノ文字不分明トナリタルトキ 二、車輛ヲ譲与シ又ハ使用ヲ廃止シタルトキ 三、運転手ヲ雇入タルトキ 四、運転手ノ解雇死亡又ハ所在不明トナリタルトキ 五、営業者又ハ所有者ノ異動死亡又ハ所在不明トナリタルトキ 第十三条 本則ニ依リ当庁ニ差出スヘキ願届ハ所轄警察署ヲ経由スヘシ 第十四条 第一条第一項第二条第三条第五条乃至第九条第十二条ニ違背シ又ハ第一条第二項ノ命令事項若ハ第十条及第十一条ノ処分ニ違背シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス 第十五条 営業者賃貸業者又ハ自家用自働車ノ使用者ハ其ノ代理人家族雇人其ノ他ノ従業者ニシテ業務又ハ其ノ使用ニ関シ前条ノ違背行為アリタルトキハ自己ノ関知セサル故ヲ以テ処罰ヲ免カルヽコトヲ得ス営業者賃貸業者又ハ自家用者カ未成年又ハ禁治産者ナルトキハ本則ニ依リ適用スヘキ罰則ハ之ヲ法定代理人ニ適用ス 法人ノ代表者又ハ其ノ雇人其ノ他ノ従業者法人ノ業務ニ関シ本則ニ違背シタル場合ニ於テハ本則ニ規定シタル罰則ヲ法人ニ適用ス 法人ヲ罰スヘキ場合ニ於テハ法人ノ代表者ヲ以テ被告トス 附則 第十六条 明治三十七年八月神奈川県令第五十三号自働車取締規則ハ本令施行ノ日ヨリ之ヲ廃止ス 第十七条 本令施行以前ヨリ使用スル自家乗用又ハ賃貸用ノ自働車及運転手ハ本令施行ノ日ヨリ三十日以内ニ本令ノ手続ヲ為スヘシ 三 道路の建設と改修 道路の建設・改修坪数 車輛交通の発展のなかで、道路の建設と改修も進んだ。『神奈川県統計書』には、一八八四(明治十七)年度から一九〇九年度まで、毎年度の新道開拓と修繕の坪数・金額が、郡市別に計上されている(ただし一八八四年度は坪数欠)。表三-六七と表三-六八はそれを集計・整理したものであるが、それによれば、同期間に約五五万坪(一八一万九五〇〇平方㍍)の新道が開拓され、一九九〇万坪(六五七八万四一〇〇平方㍍)の道路が修繕された。このうちまず新道開拓についてみると、明治十年代は、開拓坪数のなかで国道が大きな比率を占め、ついで一八八九(明治二十二)年ころから一九〇〇(明治三十三)年までは県道の開拓が進み、一九〇一(明治三十四)年から里道に集中するというかたちをとっている。この推移は、他府県においても大同小異であり、明治十年代には大多数の府県で、統治のかなめともいうべき国道幹線の整備が進んだ。そして、これは他面では、発展しつつあった長距離道路輸送の必要にも見合ったものであった。これに対して二十年代から三十年代は、国道幹線の整備がほぼ終了し、道路輸送も鉄道貨客の集配に転換した時期であった。そのため鉄道駅を中心とした地方主要道の整備の必要がにわかに高まったものと考えることができるのである。 経費の負担区分 ところで上記期間の県下国道の新開は、一八八五(明治十八)年度から一八八七年度にわたった甲州街道小仏峠の付替工事(坪数六万六七七六坪)と一八九四年度の横浜市高島町-橘樹郡神奈川町間第一号国道開さく工事(坪数三四七坪)、および翌一八九五年度におこなわれた津久井郡吉野駅-小渕村間第一六号国道(甲州街道)新開工事(坪数二八三一坪)の三件であった。このうち小仏峠の付替工事は、一八八二年ころから、案下往還(上野原-佐野川-恩方-八王子)沿いの村表3-67 新道開拓と経費の負担区分 注 1 合計は1884年を含まない。 2 1892年までは多摩郡を含む。 表3-68 道路の修繕と経費の負担区分 注 1 合計は1884年を含まない。 2 1892年までは多摩郡を含む。 々と甲州街道沿いの村々の間で、誘致をめぐって争われた工事であったが、一八八三年三月案内通り経由大垂水越えの路線が決定され、一八八五年度から一八八七年度にかけて施工された。工事費は、同期間に南多摩郡で新開された県道一九一八坪、里道五三八坪をふくめて、六万七〇六八円余にのぼり、うち四万一八〇二円余が国庫負担であった。工事坪数のうち国道坪数が九六㌫、国庫負担分は六二㌫で、一部を地方費と寄付金にたよったのであった。新道の開通式は一八八八年五月三日、神奈川・山梨両県知事の臨席のもとで盛大におこなわれ(明治二十一年五月九日、神奈川県公報一三八号)、近隣の小学生六〇〇余名も参列した(沼謙吉「明治二十年前後の川尻小学校」、『公報しろやま』昭和五十五年九月一日号所収)。新道の開通によって小仏峠越えの旧道は国道(甲州街道)から除かれ(同右神奈川県公報所収、告示第三八号)、駒木野・小仏両宿も運命を共にすることになったのである。 他方、高島町-神奈川町間および吉野-小渕間の国道新開工事はすべて地方費でまかなわれ、県道四八七五坪分をふくめて合計二万五三九八円余の県費が支出された。その結果一八八五年度から一九〇九年度までの国道新開工事は、全新開工事坪数の一三㌫にのぼったが、国庫負担分は全新開費の四㌫にとどまることになったのである。このような国道費の地方負担は、わが国の道路交通が「道路時代」の名に値いするような長距離道路交通の成熟期を経験せず、前近代的な地方交通時代から、ふたたび鉄道時代の地方交通時代に編入されることになったためであった。いうまでもなくそのような状況のもとでは国道もふくめて、道路の受益者や破損者は、主として当該地域住民と見なされたからであった。そして、こうした地方負担主義の修正のためには、第二次大戦後のモータリゼーションの進展と、それにともなう長距離道路交通の復活をまたなければならなかったのである。 なお道路の修繕については、当然のことながら、国道・県道・里道の道路坪数にほぼ照応した規模の工事がおこなわれ、経費の負担区分も国・県五〇㌫、町村・寄付金五〇㌫の線を中心に、振幅をくりかえしたということができるのである。 四 河川舟運の衰退 県内河川の舟路 県内河川の舟路に関する資料は、『明治二十年神奈川県統計書』に初出し、『明治四十四年神奈川県統計書』を最後に姿を消している。いま前者によってその模様をみれば表三-六九・三-七〇のとおりであり、多摩川・鶴見川・片瀬川・相模川の四河川のほか、横浜市街と隣接地を流れる短小な帷子川・大岡川・中村川が掲出されている。また市街部にはこのほかふたつの堀河(桜川・堀割川)があり、それぞれ一五町前後の舟路が開かれていた。また、このほか『明治二十九年神奈川県統計書』には、いずれも横浜市街に入る大岡川支流・日ノ出川・吉田川の小河川が掲出され、『明治四十四年統計書』にいたっている。『県統計書』に掲出された明治期の主な河川舟路は、以上の一〇河川と二堀河であった。酒匂川については明治期を通じて、統計上ほとんど舟運を認めることができない。 河川舟運の推移 川舟の輸送実績は、『県統計書』によって十分捕捉されていない。『県統計書』には一八八二(明治十五)年度から毎年度、「船舶ノ所表3-69 河川の舟路 注 『明治20年神奈川県統計書』により作成 有者及船数」が掲載されているが、河海の区別はつまびらかでない。よってここでは臨海部の郡市を除き、ほぼ川舟のみとおもわれる内陸部四郡(都筑・津久井・愛甲・足柄上)について、保有状況を追ってみたいとおもう。表三-七一はこれを一八八六年から一九二〇年まで、ほぼ七年間隔で抽出したものであるが、これによれば鶴見川・帷子川上流の都筑郡と酒匂川上流の足柄上郡には、全期を通じてごく少数の小舟が認められるだけで、輸送実績も全く統計上にあらわれていない。これに対して相当数の川舟が認められるのは相模川上流の津久井郡・愛甲郡で、とりわけ津久井郡は一九〇一年八月まで鉄道の開通をみなかった(一九〇一年八月一日、八王子-上野原間開通)こともあって、終始一〇〇隻以上の川舟を保有した。『県統計書』所収の「河川の舟路」によれば、相模川の溯行極限は吉野駅(現在藤野町吉野)であり、そこから河口の大住郡須賀村(現在平塚市)までの六八㌖が舟路として利用できた。また、愛甲郡も相模川と支流の中津川に臨み、舟運への依存度の高い地域であった。このほか相模川沿いには高座郡と大住郡、片瀬川(境川)沿いには高座郡と鎌倉郡、多摩川沿いには橘樹郡があり、当然川舟の運行があったものとおもわれるが、統計上、海舟と分離して捕捉することはできない。 次に輸送量を見ることにしよう。『神奈川県統計書』には一八八七年度から一九〇二年度まで毎年度、各郡市別の水陸貨物発着箇数と重量が計上されている。しかし、ここでも河海の区別がなく、川舟の輸送量を捕捉できるのは前記四郡に限られて表3-70 通船の堀河 注 『明治20年神奈川県統計書』により作成 表3-71 川舟の推移 注 『神奈川県統計書』により作成 いる。しかしこのうち都筑郡と足柄上郡にはどの年度にも輸送量の記載がないので、結局統計上確認できるのは、津久井・愛甲の二郡だけということになる。表三-七二はこれを表示したものであるが、残念ながらそこには、明らかに統計調査方法の変動をおもわせる数字上のギャップが認められる。とりわけ従業戸数の急激な増減とこれにともなう発着貨物量の大幅な変動は、そのような疑問を抱かせるに十分なものといえよう。よってここではまず、調査方法の安定性が持続した各期について推移を観察し、ついで全体の傾向を考えてみることにしたいとおもう。 ところでこのような視点によれば、両郡川舟の発着貨物量は、明治二十年代はほぼ横ばい状態を続けたが、愛甲郡は一八九五(明治二十八)年から、津久井郡も一八九六年から減少に転表3-72 河川舟運の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 じ、八王子-上野原間が開通した一九〇一(明治三十四)年には津久井郡が、翌一九〇二年には愛甲郡も激減期に入ったとみることができよう。明治前期を通じて道路輸送の挑戦に耐え抜いた河川舟運は、鉄道の開通によって大きな打撃を受け、以後衰退の一途をたどったと考えることができるのである。このような事情は、他府県においてもほぼ同様であった。 第三節 港湾施設の拡充 一 開国後の港湾情勢 開港後の横浜港 横浜は今日国際港都といわれ、あるいは港湾都市ともいわれ、自他ともにそれを任じている。しかし、横浜港がどのような歴史的過程のもとに築港が具体化されたのか、必ずしも明らかとはいえなかったので、一八八九(明治二十二)年四月、神奈川県知事が築港局長を兼ね、指揮監督して始められた第一期築港工事の挙行に至るまでの経過を述べなければならない。 安政六年(一八五九)六月、横浜は本邦最初の開港場の一つとして開港されたとはいえ、崩壊前夜の幕府に外国貿易用の新しい港づくりに着手する財力はなかった。明治政府も海運業の育成に意を用いたがぼう大な資金を固定化する港湾の築造にまで手をまわす余裕はなく、横浜港は開港後三〇年間という長期にわたって貿易港としての施設をもたず、外航船は天然の地形を利用し港内に仮泊して艀舟で荷役をする状態のままに放置されていた。海岸には幕府時代の東波止場・西波止場・新波止場と名付ける三か所の貧弱な物揚場があるにすぎず、港内には防波堤や外航船の接岸する岸壁などの基本的な施設を欠き、およそ近代的港湾の姿からは遠かったのである。 明治五年(一八七二)、東京横浜間に鉄道が開通し、内外貿易商人の横浜移住はさかんとなり、海岸の埋め立て造成が進み、市街地が形を整え、出入船舶数が増大し商港として横浜が発展すると、港湾施設の不備は誰の目にも明らかとなり、その整備が望まれた。一八七四年五月三十一日、大蔵卿大隈重信は、太政大臣三条実美宛に、「横浜港大波止場新築之儀ニ付伺」を建議し、税関業務の不便や大型船碇泊の不備を解消するため埠頭の新設を訴えた。大隈はすでに一八七二年五月同じ提案をしており、その際一〇万ドルで築造の許可を得たが、費用を精査すると材料費やその輸送費だけで五〇万ドル以上に達し、そのほか技師や人夫の俸給賃金を加えるとばく大な費用になるため、同年十一月着工を見合せた経過があった。その後、横浜港の貿易が盛大になり、「全国之首港」の地位を保持している港勢を背景にして、「特別御詮議」をもって許可するよう改めて求めたのである(『資料編』18近代・現代(8)三一九)。 これを審議した左院は、波止場を新築すれば船舶の出入や貿易の状況も繁昌することはわかるが、予算の費用がどの位に達するかわからないし、今二、三年すぎて築造しても遅くはないと内申した。大隈の建議提案後四か月余をへた同年十月十日に至り、太政大臣は、「当分見合可申事」と決裁し、大蔵卿の当然ともおもわれる案を却下した。埠頭の新設の必要を理解はしても、財源に苦しむ政府は、当分見送るほかはなかったのである(『資料編』18近代・現代(8)三二〇)。 とはいえ、政府は築港の調査・計画の予備作業として、まず内務省雇工師のオランダ人ファン=ドールンに命じて一八七四年横浜港最初の港湾調査を行わせた。ドールンは、湾の東南側に係船埠頭を兼ねた防波堤をつくり、その内側に桟橋を設けるプランを復命した。翌七五年工部省燈台寮雇技師イギリス人ブラントンは、東波止場から沖へ延長一・五㌔㍍の埠頭をつくり両側に大船を係留させる案をたてた。両人の計画は、地質調査を行わないので、港湾計画の素描にとどまった。政府は外人技師に依嘱して港湾調査をやらせ、築港工事を準備しているというポーズをとって、時間をかせいでいたふしが見うけられる。 一八八〇(明治十三)年五月に横浜の貿易商人を主体として成立した横浜商法会議所(八五年商業会議所に改組)は、翌年三月二十三日、「横浜波止場建築ノ建議」を決定し、貿易商の立場から接岸埠頭の早期新設を要望した。政府の負担を軽減するため、官民一体となって出資する共同企業の設立によって工事を行うことを強く主張するとともに、神奈川県令野村靖や横浜税関長本野盛亨などに協力を求め、その実現に努力した。会議所は、一八八四年七月、調査委員七名をあげて埠頭新築計画の費用、その調達計画などの調査にあたらせ、工事の具体化をはかった(横浜商工会議所編『横浜商工会議所八十年史』)。 東京築港案と対立 東京府は、ほぼ同じころ東京築港計画を立案し、あたかも横浜と対立するようになった。東京港修築については一八八一(明治十四)年一月より五月まで築港計画が論議されたのが最初であり、佃島以南から芝高輪浦砲台までの水域に築造する海港案と隅田川下流に築造する河港案の両説がみられた。その選択を内務省土木工師のオランダ人ムルデルに諮問したところ、ムルデルは調査のうえ、同年十一月海港案を採用するよう答申した。 両案の築造方法や費用を精査し、一八八五年二月に至り、東京府知事芳川顕正は、ようやくムルデルの海港案採択を決意し、品川沖に築港する「品海築港ノ議」を内務卿山県有朋に提出した。欧米のグラスゴー、リバープル、ニューヨークなどの大都市が港湾を抱き繁栄している例をあげ、東京築港が帝都の発展につながることを力説する一方、東京港を横浜港の補助港とする考え方に強く反対した。築港費用の概算として、一二五五万円余を計上した。 内務卿山県は、すぐ府知事の上申を認め、太政大臣に伝達し裁可を得たのち、三月に東京市区改正審査会の査定をうけるように指令した。審査会は、経済的立地条件にまさる首都に築港することが、国民経済上においても利益になることを明らかにし、横浜が東京築港の結果衰退しても止むを得ないとの立場をとった。 東京市区改正審査会は、品川沖築港について再調査をつづけ、修正を加えた最終築港意見書を議決し、工費を一八九三万円余へと大幅に増額して、十月八日、内務省へ復申した。内務卿山県は、ただちに承認し、太政大臣の裁可を求めたところ、なぜか容易に得られず、東京築港案は棚上げされ、立消えとなったのである。府知事芳川は、後年回顧して、神奈川県が激しい政治的反対運動を政府の要人に行ったため、ついに政府の決定が変更されるに至り、横浜築港説に譲歩し、東京築港を断念したと語っている(東京市役所編『東京市史稿』港湾篇第四)。 首都築港が実現すれば、予想される横浜の没落を死活問題と受け止め、猛反対をした神奈川県の政治的暗躍も一つの原因になったかもしれないが、こののち数年をへずに着工した横浜築港の工費約二〇〇万円の資金すら、捻出にひとかたならず苦慮した政府の立場からみれば、いかに経済的合理性をもち、机上案としてすぐれていても、一九〇〇万円にちかい巨費を必要とする東京築港案を採択し、実行する可能性はほとんどなかったというのが真相であろう。 パーマーの築港計画案 一八八六(明治十九)年五月、内務省は雇工師オランダ人デレーケに命じて横浜港における乾船渠の適地を選定させた。デレーケは神奈川方面を適地とし、二条の突堤で約三六万坪の海面をかこむようにすれば、乾船渠だけにとどまらず小型船舶の碇泊にも便利であり、その際港内の水深を維持するため帷子川および大岡川を港外に導出する必要があると述べ、さらに大港湾を築造する場合港湾全体を防波堤で包むべきであると付言した。これが本格的な港湾調査の皮切りである。 同年九月、神奈川県は横浜築港の調査および設計を、県付顧問土木師イギリス陸軍工兵大佐パーマー(H.S.Palmerのち少将)に命じた。パーマーは一八八三年香港政庁から来日し、県の依嘱で横浜水道敷設工事の調査と設計にあたり、八五年に着工し八七年九月に完成させた人である。パーマーは、水道工事と平行しながら、実地調査を踏まえ、詳細で本格的な設計案を考え、八六年一月、長文の「横浜港埠頭築造計画意見書」を県に答申した。 この築港案が、現在の横浜港の基礎をなしたものであり、またオランダ人技師から激しい批判を浴びるに至った問題作であった。 パーマーは築港の目的を、小型船舶の碇泊場所として便利な商港を築造することに置き、大型航洋船や軍艦は従来とおり港外に係留させることにした。防波堤を二条つくり、北堤は神奈川砲台の東方より延長六五〇〇㌳とし、東堤は中村川河口より延長五三八〇㌳を北方へ突き出し、北堤と向かい合わせた。防波堤内の水上面積は一五〇万坪に達し、このうち商港として絶好の碇泊地を四四万坪得られる見込であった。帷子川の濁水は、港内埋没の主因であるため、延長七七〇〇㌳の導水堤を造り港外へ排出させ、大岡川に連絡する弁天川は、デレーケの計画に従い掘割川に通じさせて根岸方面へ導き、中村川は堤外に放流し、これら河川と港内の通い舟は小型水閘を利用することにした。 防波堤の築造については、北堤は起点より五六〇〇㌳にわたる海底は粘土岩の上に砂礫層が位し堅固であるため、海底より干潮面までは袋詰コンクリートを累積し一層ごとに一㌳の階状を造り、干潮面以上には両側に塊を積み重ね、その中軸には粗図3-9 横浜築港概念図 『横浜市史』第4巻上より 石を詰め堤心とした。東堤も起点から二四三〇㌳間の海底は堅固であるので、同じ構造とした。その他の部分は、両堤とも海底粘土の上に柔泥が積もって軟弱であるので、築堤の重量を軽減し、堤の底を広くして荷重を分散させようとした。さらに貨物の揚降の便宜をはかるため、商港に不可欠な鉄製桟橋(二〇四〇㌳)を、西波止場から海岸通りに対して直角に架設し、桟橋上に軌道を敷き、税関構内を経由して横浜停車場に至り、東海道本線に連絡させる計画であった。 パーマーは、イギリス測量技術を駆使し、実地にボーリングを行い、地質調査や深浅測量を実施し、港内に良港の適地が得られるかどうかを確かめ計画案をまとめたのであり、工費予算を一九九万九二四八円と予定した。おわりに、築港工事が落成すれば船舶は港内で安穏を享受し時間を浪費せずにすむので、欧米の諸港の例にならい該港湾を使用する船舶から港税を徴収すれば築港工事に費した資金の利子や維持費を支弁するに足りる収入を得られるであろうと、港湾収支の明るい予想を述べ、築港の利益を力説したのである(臨時横浜築港局編『横浜築港誌』)。 神奈川県がパーマーに港湾設計を依嘱したことは、横浜商業会議所に結集した横浜の実業家を鼓舞し、パーマー案に便乗して港湾埠堤会社の設立へと立ち上がらせた。原六郎、小野光景、朝田又七、来栖荘兵衛、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛、馬越恭平ら一七名が創立発起人となり、一八八七(明治二十)年六月十五日、神奈川県知事沖守固あてへ設立願書を提出した。政府による着工が期待できないので、横浜埠堤会社を設立しパーマーの計画により埠堤を造り、その埠堤の内部に船渠を建設しようとする案であり、民間資金を動員してパーマー案を実現しようとする意気込みにこそ、横浜貿易商人の切迫した焦燥感が反映されている。結局、横浜築港は民間に任せず国の直轄事業として実施されたので、埠堤会社は成立しなかったが、のちにほぼ同じ顔ぶれを含み、修理船渠業を目的として横浜船渠会社という別の形で日の目を見るに至った(『資料編』18近代・現代(8)三二三)。 知事沖は、同月十七日、内務大臣山県有朋宛に、埠堤会社設立認可の請願上申書を提出した。知事は、パーマーの設計案を確実で将来維持できる見込みがあると考え、さらに会社の設立を妥当し、パーマーの築港意見書と埠堤会社の設立願書をともに提出し、内務省の判断を求めた。会社の設立自体、パーマー案の採択を前提としているので、その良否が重要な問題となってきた(『資料編』18近代・現代(8)三二四)。 二 パーマー築港計画案の採択 パーマー案の審査 内務省は、パーマー案の工学技術的な審査を、専門家の同省雇工師ムルデルに依頼した。ムルデルは一八八七(明治二十)年十二月七日、土木局長西村捨三宛にパーマー案を採用すべきではないと詳細に論じ、代案として自分の横浜築港計画案を示した。パーマーには、横浜が将来東京の海港となる場合を考えて計画をたてたのか、あるいは横浜近辺のみの商業発達を考えたにとどまるのか、その基本的観点が欠落しているので、計画案自体が中途半端なものになってしまった。もし東京および横浜両地方の商業や貿易の便をはかるためなら、パーマー案の碇泊地は狭隘である。また横浜地方のみの利便のためなら、他日品川湾に築港が完成すれば、横浜寄港船舶は大いに減少するので、それでも間に合うが、その際は横浜築港費用はかかりすぎて償われないであろう。結局、横浜築港は東京の海港になるのか、否かをあらかじめ決定するのが計画案のかなめになる。 東京に完全な築港が実施されれば、貿易は東京へ移り、横浜港は近辺の需要に供給する船舶の寄港地にとどまり、緊要度を失うのは自然の勢いである。さらに、横浜の地形は周囲が連山であり、運河に適する河川に恵まれず、物産を産出する沃野にもとぼしく、港としての生命は尽きるであろう。横浜に大規模な港を築造する必要はないが、東京築港の完成には多年の歳月がかかるので、それまでの一時的工事として横浜築港が必要ならば、大岡川や帷子川を誘導放流し、港内埋没を防げばそれで十分である。もし東京築港説が廃止され、横浜が東京の海港となることが決定した場合には、その時点から埠頭などを建設しても技術上支障はないし、その際には十分資力を尽くして広大な碇泊地を設けなければならない。このような観点から、ムルデルはパーマー案を検討すると、全く計画案に同意できないだけにとどまらず、波止場構造の方法の点でも不満であるとし、全面的に否定した。パーマー案の碇泊地は、市街地より遠く不便なうえに狭いし、築堤の構造についても海底の軟弱な箇所において、水中にイギリス方式のコンクリート・ブロックを打ち込み、長大堤を築くのは無暴であると非難した。ムルデルは、北堤を八〇七〇㌳(パーマー案六五〇〇㌳)東堤を五七四〇㌳(パーマー案五三八〇㌳)に延長し、碇泊地の位置を市街地の前面に移し、碇泊面積を二倍に広げ、築堤についても海底の軟弱な部分には良質の砂礫を敷きつめ、オランダ特有の築造法により、粗朶沈床を投下して堤の重量を海底に分散する方法を主張した。 結論として、ムルデルはパーマー案はいかなる事情を考慮しても、採用を勧めることができないという手きびしいものであり、東京築港工事が未定の間は、横浜築港を実施すべきではなく、もし横浜が東京の海港に決まれば、そのときムルデル案に従って工事を施工すればよいと答申した(『資料編』18近代・現代(8)三二五)。 内務省は改めてオランダ人技師デレーケに、工費一六〇万円を限度に横浜築港の詳細な設計をするよう命じた。デレーケは、一八八六年に復命したみずからの報告書をもとにして、海底の載荷力に至るまで実地調査を行った結果を加え、設計各部の明細図をつけて一八八八年九月復命した。パーマー案と異なるところは、防波堤内の面積を一七一万坪に広げ、堤の構造をムルデルと同じように粗朶沈床方式をとったことである。 内務省デレーケ案に賛成 このように、横浜築港計画について、イギリス人のパーマー案とオランダ人のデレーケ案の二つの計画が出てきたので、内務省は再度ムルデルのほかに内務省二等技師古市公威、同三等技師田辺義三郎を加え、三名に両案を審査させた。ムルデルは一八八八(明治二十一)年十一月、審査結果を報告した。要旨は、パーマー案は前述のごとき防波堤の配置および構造の欠陥を指摘し、採用できないと自説を繰り返し、デレーケ案は細目に少し修正をする必要はあるが、全体的にパーマー案よりはるかにすぐれていると結論を下し、オランダ人技師側の肩を持った。さらに横浜港を東京湾内の唯一の港にすることは、日本の将来にとり不利益であり、あくまでも首都に築港するよう熱心に勧告した。 日本人技師の古市公威・田辺義三郎両名も、ほぼムルデルと同じ根拠に立ち、デレーケ案の採用を答申した。 このように内務省土木局の関係技師は、オランダ人、邦人を問わず、デレーケ案採用に一致したので、内務大臣山県有朋は、ただちに十一月二十日、首相黒田清隆宛に、デレーケ案にもとづき横浜築港に着手するよう請議を行った。内務省技師の審査報告をくわしく紹介し、技術的にも工費の点でもデレーケ案を有利と判断したのである。邦人両技師は、いずれが良いか決しかねたけれども、防波堤が天変地異により崩れた際の修繕工事で、デレーケ案の方が再築容易であるため、採用を進言した事情がわかり、後年の防波堤崩壊事件を暗示していて注目される。山県は、ムルデルの意見を引用し、パーマー案は二〇〇万円の巨額に達しなお不足のおそれもあるが、デレーケ案は修正した工費を加算しても一八四万円にとどまるので、「前者ニ比シ予算確実ニシテ且其工法モ亦較々安全ナルヲ以テ本省ニ於テハデレーケノ計画ヲ採用センコトヲ欲ス」と閣議の採択を迫ったのである(『資料編』18近代・現代(8)三三六)。 外務省の築港政策 デレーケ案を推す内務省の動きに対し、横浜築港になみなみならぬ関心を抱き、やがてパーマー案を擁護するに至る外務大臣大隈重信を中心とする外務省側の動向に目を転じよう。 一八八三(明治十六)年四月、アメリカ合衆国政府は、突然下関事件の賠償金として日本から受け取った七八万五〇〇〇ドルを全額返還してきた。元治元年(一八六四)、英・仏・米・蘭四か国連合艦隊が長州藩の下関を砲撃し陸戦隊が上陸して砲台を占領したいわゆる下関事件が起こり、幕府は四か国に総額三〇〇万ドルの賠償金を支払う約束をしたが、支払い終らぬうちに幕府が倒れたため、残額を明治政府が一八七四年七月払い終ったのである。日本にとっては欧米の武力の威嚇に屈し、壌夷運動の高いつけを払わされた、という印象をぬぐい切れず後味の悪い事件であった。当時国のうちアメリカ一国だけが、上院下院両院の決議をもって、日本に対する好誼と公正の道理を表明して返還した。この「義挙」に報いるために、日本政府は公債を買い入れ利殖をはかりながら、返還金の使途を考慮してきたが、一八八八年四月には元金と利息を合わせて一二四万円余に達した(『資料編』18近代・現代(9)三三〇)。 外務省はアメリカからの返還金を、八七年ころには開港場に埠堤を造る資金を充当することに固まっていた。合衆国政府が使途に条件をつけなかった好意を最大限に生かすためには、日米貿易ルートの一極である横浜の築港工事や神戸港の改良工事に使用するのが、アメリカ政府と人民に満足を与えるうえからも適当である。通商局長浅田徳則は、このような趣旨により、神奈川県知事が、一八八七年六月内務大臣に稟請した横浜埠堤工事には賛成するが、それを民間人に経営さすことには港のもつ公益的な性格を考えると問題であり、むしろ横浜全区の人民に資金を出させる方法がよく、地方債もしくは国債を購入させるようにするか、それが難しければ全額を政府が負担してはどうかと外相大隈に提案した。ついでムルデルなどのオランダ人技師の計画案の良否について、ムルデルの計画は現実性にとぼしく費用もぼう大で実施は容易ではないとの消極的な評価を示している。外務省内の冷たい空気を伝えるものであり、内務省内におけるムルデルの威信の高さとくらべると、対照的であり、のちに外相大隈がパーマー案の擁護者となる伏線をなしている。 外務省は横浜の港勢についても独自に調査を始め、横浜港の船舶出入数量および貨物トン数、その品物の明細・艀賃・曳舟賃などの荷役費用について、横浜税関・神奈川県さらには日本郵船会社に調査を依頼し、実情の把握に努力するとともに、築港完成後の船舶課税・埠頭税の賦課方法を欧米の諸港の例を参考にしながら検討を加えていた(『資料編』18近代・現代(8)三二一・三二七・三三三-三三五)。 外務省内部で、埠頭建設の際、わが国の権利や利益の変化を広い視野から考慮し、外交的な配慮だけでなく、埠頭新設後に生ずる艀営業者などの失業問題に至るまで細心な心構えを見せ、政治経済的な得失を総括したのである(『資料編』18近代・現代(8)三二九)。 一八八八年四月二十三日、外相大隈は外務省内の慎重な研究を踏まえたうえ、首相伊藤に「横浜港改築ノ件請議」を提出した。築港が通商発展のためには最大の急務であり、その財源に下関事件の返還金をあてるのが、アメリカ政府人民の好誼に対する適切な処置であり、不足分は国庫で負担すればよく、完成後の収入予定金額は、過去三年間の出入船舶と貨物量から割り出し、低率の噸税を課しても投下資本額に対し年五分以上の利率相当分の利益は得られるので、経済的にも採算がとれると外務省の調査を基礎として主張し、速かに起工するよう請うたのである(『資料編』18近代・現代(8)三三一)。 国際通商の見地から横浜築港の重要性を痛感していたので、同年五月八日、首相黒田(四月三十日就任)は、外相の請議を承認した。 パーマーの反批判 横浜築港が確固とした財源を得て、政府自らの手で着工する大筋の方針は決定したが、残る難問は、イギリス人技師のパーマー案か、オランダ人技師のデレーケ案か、いずれの築港計画を選択するかにあった。内務省は土木・治水工事を所管事項とし、築港工事を管轄していたので、具体的な港湾設計を試み、雇工師のオランダ人技師の意見を重視して、デレーケ案の採用を決め一八八八(明治二十一)年十一月にその採択請議をしたところまですでに述べた。 外相大隈は、このような内務省の動きに釈然とせず、内相の請議に付属していて内務省見解の背景となっているオランダ人技師たちの築港案審査結果報告書などの関連書類を、大臣秘書官加藤高明(のち外相、首相)を通じてパーマー本人に閲覧させた。閣議資料を、部外者に見せることは、今日ではありえないことであるが、パーマーは自分の立案した計画がオランダ人技師によって否定され、日本政府がデレーケ案に傾いている形勢に、はげしく憤り、イギリスの面目にかけて厳しい抗議をし、オランダ人技師の見解に反批判を加え、外相大隈の正義心に訴えたのである。 パーマーは一八八八年十二月十三日付甲号と朱書された「横浜築港意見書」を外相宛に提出し、自分に加えられた批判につき、デレーケに対しては一六項、ムルデルに対しては一四項、計三〇項にわたって容赦なく技術的反論をあびせた。測量方法や防波堤の構造・費用につき、パーマーは自分の設計を詳細に弁護し、コンクリート製防波堤の堅固不朽であることを強調するとともに、オランダ人技師の得意とする粗朶堤の耐久力に疑問をなげた。さらにオランダ人側の予算が一見低廉に見えるが、内訳科目を検討すると横浜方面の物価の実状に無知なため、材料代など実際より低く見積っているからにすぎない。デレーケ案と自案を同じ項目を揃えて修正すればデレーケ案は二〇三万三〇〇〇円になり、自案は一九六万円に減少するので、パーマー案を高いとして非難するオランダ人技師の論拠は崩れてしまう。またムルデルが東京築港説をしきりに唱えているが、これは日本の内治政策および商業政策に属することであって、土木工学には関係しないので論題外のことであると賢明にも棚上げにし、意見書を結んだ(『資料編』18近代・現代(8)三三七)。 パーマーは同じ十二月十三日に、秘書官加藤に乙号と朱書した「内密書」を渡し、オランダ人技師の政治的裏工作やそれに左右される日本政府の弱腰を痛撃した。外相宛の公式文書では個人的感情を抑え、技術的財政的見地から冷静に反批判したパーマーが、若い秘書官宛の「内密書」では一変して自分の感情を爆発させた。内務省の不公平な取り扱い方を非難し、オランダ人技師の経歴や学歴が取るに足らず紳士ではないことを指摘して舌鋒が鋭い。オランダ人技師がむやみにパーマー案を攻撃しているのは、実際の工事経験を知らないところからくる「臆説」にすぎない。ムルデルは、「其朋友ノ太鼓ヲ叩キ、徹頭徹尾余ヲ非評シテ終リニ至リ、余ヲ陥穽ニ蹴落トシテ意気揚々」としているが、技術や財政的な反批判は、外相宛の「意見書」で述べたように、ムルデルの見解は「全ク無効」である。内務省土木局の日本人技師は、多くはオランダ人技師に養成されたので、その説に賛成するのは当然であり、オランダ技術案が優勢になる真相も明らかとなってくる。パーマーは、オランダ人技師から邪魔物とみなされ、さらに「彼等ハ自身ノ目途ヲ達スルタメ、是非トモ余ヲ無キ物ニセント欲シ、大胆ナル企ヲ起シテ余ヲ斃サントナセシガ其効一モアラザリキ」と述べるように生命の危険をおぼえるほど脅かされたという。両者の深刻な確執は、予想以上にすざまじかった(『資料編』18近代・現代(8)三三八)。 外相大隈の勝利 大隈は、パーマーの「甲号意見書」と「乙号内密書」を熟読し、内務省側から総攻撃され孤立化して不利な立場にあるパーマーに深く同情した。外務省内がパーマー案に傾いていることを確かめ、一か月余をへて、翌一八八九(明治二十二)年一月十七日、大隈は首相黒田清隆宛に、パーマー築港計画案採択請議を提出し、内務省が尻押しするデレーケ案を否定する意思を明らかにした。自案を確信をもって守り抜こうとし、オランダ人技師案に徹底的に反駁を加えるパーマーの執念が大隈を動かしたのである。 大隈は、パーマーの意見書と内密書を参照のため添付し、首相の閲覧に供しながら、パーマーを全面的に弁護した。イギリス人技師とオランダ人技師がけわしく対立している時、相互に感情的な非難の応酬を繰り返すような技術的論議は打ち切り、政治的な判断を展開した。大隈は、パーマーがわが国最初の横浜水道敷設工事を成功させたこと、学識や人物がオランダ人技師たちよりはるかに優れ、イギリスの工兵少将であること、またロンドン・タイムス記者を兼ね、しばしば同紙上に日本の文明開化の状況を紹介し、日本に対し好意的な世論の形成に努力していることなどを例にあげて、工費などに差異がなければ、パーマー案の採択が、「今後外交政略上ニ於テモ得策ナリ」と進言した。条約改正交渉を目前に控えている大隈は、日本の代表港をイギリス人技師の設計で造り、イギリスの対日印象を良くすることが、外交政略的に望ましいと考えたのである。さらにパーマー案の採用後、築港の管理を内務省に属させるとオランダ人技師らと意見が対立しているため論議をよび、工事が渋滞するおそれがあるので、以前横浜水道工事費を国庫より支出しながら神奈川県知事に管理を任せた例にならい、築港も同県知事の管理下におくようにしたいと付言した(『資料編』18近代・現代(8)三三九)。 大隈の請議は、パーマーの意見書や内密書を、そのまま忠実に代弁したといえよう。大隈のパーマーに対する深い傾倒ぶりが読み取れ、公文書には珍らしいほどの人間的息吹が感じられる。 こうしてオランダ人技師の設計を支援する内相山県とイギリス人技術を弁護する外相大隈が、閣議で対立し容易ならぬものがあったが、二か月間の論議の末、三月三十日首相黒田は内相山県を押さえ、外相大隈案の採択を決定した。外交政略を重視した大隈の政治的深謀が、出足の早かった内務省案を覆したのである。築港は大隈の意向どおり内務省土木局が管理せず、県知事が臨時横浜築港局長として管理責任者となり、パーマーの設計および監督のもとに着工することになった。 このような事情から、外務省の意向は、築港事業にも反映し、県知事は築港用工事機械やその他の関連道具類の購入についても外務省の海外情報網に頼り、外務大臣を通じて在米各総領事をわずらわし、機械メーカーの所在地や性能、値段などを調査させているのはその一斑を表わすものであろう(『資料編』18近代・現代(8)三四二・三四三)。 横浜築港は、アメリカ合衆国からの返還金を原資に、外相大隈の外交政策に対する現実感覚が大きな推進力となって、オランダ人技師との競争に勝ち抜いたイギリス人技師の指導のもとに敢行されたのであり、国際政治の縮図をみるおもいがして、国際港の名に恥じなかったのである。 注 (1) 「米国政府ヨリ返還セシ下之関償金ヲ以テ開港場ニ埠堤ヲ築造スル件請議案」『横浜築港一件』(外務省外交史料館蔵) 三 第一期築港工事の完成 防波堤の築造 横浜港築港工事は、一八八九(明治二十二)年九月から四か年の継続事業として起工された。防波堤の築造は、オランダ人技師との最大の論議の的となっただけに築港工事の要部をなし、もっとも主力がおかれた。北防波堤は九〇年四月、東防波堤は同年六月に着手され、両堤ともにその両側に捨石を投下する作業から始まった。海底の堅固な部分の工事は簡単であり、潜水夫が海底をならし、袋詰めコンクリートを水深に応じ二層か三層に累積した。コンクリートは台船の上で、人力で混合し南京米袋に詰め、木槌で打ち固めて潜水夫が水平に所定の高さまで積み上げ、方塊を積み重ねる土台にした。海底の柔軟な部分は、堤身の両側に重量半トンないし二トンの粗石を投下して、築堤により柔泥が左右に流れ出さないようにした。その量は堤重三〇㌢㍍につき、堤の両側を合わせると平均九トンにおよんだ。堤頭には、その周囲に八〇〇トンの粗石を沈め、その上に砂を積み重ね、潜水夫が水底地盤の高低を平均させ、砂層が三〇㌢㍍ないし六〇㌢㍍に達すると、土炭岩を沈めて積み上げ、予定の高さに達すると、潜水夫が堤の正面を平均させ、斜面に勾配をつけた。捨石工事が終ると、いよいよコンクリート塊の積み上げにとりかかった。 コンクリート塊の製造は、わが国では経験にとぼしかったので、工師パーマーが詳細な仕法書を示して自らその任に当たり、一八九一年三月から造り始め、二年間で所定数のほぼ半数に達した。でき上った土塊は、製造後二四時間以上を経てその側板をはずし、二週間経過したのち、乾燥場へ移し、製造して三五日ないし六〇日後に海中に積むという慎重ぶりであった。初めのうちは、パーマーが人夫を監督し作業を指揮していたが、工事の進行につれ早く土塊を製造しなければならなくなると、しだいに粗製濫造に流れ、コンクリートのつき固める工程はかなり省略された。 材料となるセメントは、イギリス製を輸入し使用した。パーマーは、日本のセメントの品質を信用せず、イギリスのセメントを使わなければ工事の責任を負えないと強く主張したからである。しかしぼう大な量のセメントを海路はるばるイギリスより運ぶのは、時間がかかりすぎ、コストの点でも相当の負担になった。当時、セメントの需要は、各省官庁の建築、鉄道の敷設など建築土木事業の増大を背景に伸びていたので、浅野セメント会社を先頭にしてわが国のセメント産業は発展の好機を迎えていた。それゆえ、セメント業界の将来を見越して、値段がはるかに安い国産品使用へと切り替えたかったので、やがて品質もイギリス製にくらべ遜色がないという口実の下に、一八九一年以降は全面的に国産品のみを購入し、使用した。 築港工事用のセメントを納入したのは、浅野・愛知・大阪の三セメント会社であった。港湾の基本施設である防波堤の築造には、均等な高品質のセメントが望ましい。パーマーは、セメント工場を巡視調査をしたり、品質試験を繰り返し、浅野セメント以外の製品は不良であることを知ると、以後は浅野製のセメントをおもに使った。パーマーが、国産のセメントの質に神経質なほどこだわったのは、粗悪品の多い日本の業界の水準を知り、さらに海中投下後の状態について懸念したからであろう。 防波堤の崩壊 パーマーのセメントに対する不安は、まもなく現実のものとなった。防波堤の捨石工事の上に、コンクリート塊の積み上げ作業がすすめられたが、一八九二(明治二十五)年十一月に至り、北防波堤に積んだコンクリート塊に亀裂を生じ、水に融解し、そこから防波堤が崩れるという事故が起こり、工事関係者を驚かせたのである。翌九三年一月以降、主査技師は両防波堤築造のコンクリート塊を点検し、五〇〇余箇の亀裂塊を発見した。コンクリート塊が海水に侵蝕され、崩壊したため、工事は失敗した。セメントの品質について疑惑がもたれたが、確証することはできなかった。一新聞は、亀裂融解した塊は、愛知セメント会社製のセメントを使っていたと報じた(「国民新聞」明治二十六年三月二十六日)。 臨時横浜築港長を兼ねる神奈川県知事中野健明は、防波堤の崩壊の原因および将来の予防策を調査するよう内務大臣に要請した。事態が重大であると認めた政府は、すぐコンクリート塊の製造を中止させ、三月二十五日、調査委員会を設置し、亀裂の原因と予防策を検討させた。委員会は、コンクリート塊製造の原料、ことにその主要部分である膠灰やコンクリート塊ならびに海水の分析実験、塊の製造から沈下の方法に至るまで精密な科学的調査を行わねばならず、答申はすぐにも出される見込みはなかった。神奈川県知事は、六月十二日委員会の調査結果がわかるまで工事を中止すること、それにともない竣工期限の延長と経費増大の予算措置を講ずるよう内務大臣井上馨に内申した(『資料編』18近代・現代(8)三四八)。これをうけて内相は六月三十日閣議へかけ、首相伊藤博文は七月七日決裁した(『資料編』18近代・現代(8)三四九・三五〇)。 こうして防波堤工事は中止され、すべては調査委員会の報告待ちとなった。調査委員会は、八か月にわたる各種調査を完了し、同年十一月ようやく「横浜築港工事用材料混凝土塊調査報告書」を提出した。亀裂の原因として、セメントの砂に対する分量が少なかったこと、小割栗石の形状が大きすぎ原料の混和が均一でないために塊の内部に空隙を生じたこと、つき固めが十分行われなかったので内部の構造が空疎になったことなどを指摘し、あわせて技術的改善策を答申した。結局、コンクリート塊は、つき固めが浅かったので、そこに空隙ができ海水が浸透し、ひびが大きく割れ、ついには防波堤が崩壊したのであった。製造当時の塊の表面は、なんら異常はみられないが、一度水中に浸すと多量の水を吸収するので、引揚げるときには滝のように水が流れ出し、内部が多孔体になっていることを察知できた。 工事の責任者パーマーは、この年二月十日亀裂崩壊が世間の耳目を集めた最中に、心労のためか病没した。享年五十五歳である。内務技師石黒五十二が、後任となり、築港の完成まで在任した。調査委員会の答申にしたがい、そののちコンクリート塊の製造法を改め、慎重に材料の配合や工程を確かめるようになった。またコンクリート塊の崩壊は、セメントの質を問題とさせ、調査の結果は必ずしもそれが原因ではないことを明らかにしたが、なお世人の疑惑を晴らすまでには至らなかった。そのため政府はいっそうセメントの選択を重視するようになり、一八九五年二月セメントの入札業者の資格を厳しくし、弱小業者の締め出しをはかったのである(『資料編』18近代・現代(8)三五一)。 工事の完成 防波堤の亀裂塊の回収など予期しない事故のため、完成期限を延長し、工費も追加しなければならなかった。伊藤第二次内閣が、第六議会(一八九四年五月十二日召集、六月二日解散)に横浜築港補充費の協賛を求めると、条約改正交渉をめぐって政府の対外政策の弱腰を攻撃していた野党は、防波堤崩壊事件は「大失態」であると一斉に非難を始めたのである。 板倉中は、横浜築港の「不始末」について政府が何らの責任をとろうとせず、なお追加予算を要求するのは失当であると叫び、草刈親明は大亀裂をきたした原因を政府が明らかにせず、工事を強行すればまた亀裂を生じるだろうと警告した。すでに一八九三年の十一月に調査委員会が「報告書」を答申しているのに、一般にはその内容が知られていなかったのである。 加藤喜右衛門は失敗の責任をとってから工事を再開せよ、「築港の醜聞は天下に聞える」と責めた。木暮武太夫は品質の悪い材料の使用を認めた監督の責任を追及し、同じ人物に監督をさせるのは危険ではないかと質問したところ、政府委員の内務省土木局長古市公威は、前年二月パーマーは死亡し石黒五十二が代わって指揮しているので、監督は同一人物ではないと答え、木暮の非難は当たらないとしりぞけたため、野党はその挑発的な答弁に大変憤激したのである。 斉藤珪次は、政府の責任が不明だから否決せよ、工事の中に弊害があることを少しも認めないのはけしからぬ、「先刻古市君がパーマーが死んだから仕方がないと云ふことで、パーマーなる者だけにその責任を被せるという事柄は政府は甚だ宜しきを得ない」と難詰し、さらにすすんで内務省技師が猛反対したにもかかわらず、当時の黒田内閣がパーマーの設計を採用したのは外交上イギリスの歓心を買うためであったと批判し、パーマーを積極的に推せんしたときの外相大隈重信の責任をも追及する有様であった(『大日本帝国議会誌』第二巻)。 防波堤の亀裂崩壊は、日本中の注目を集め、議会で激しく政府を非難する火が燃えさかり、前途は見通しがたたなかった。ところが、九四年八月一日、日清戦争が勃発したため、戦前の政争は一変して消滅し、十二月召集された第八議会ではぼう大な軍事予算を満場一致で可決するという野党の協力がみられ、横浜築港費の追加予算も、翌九五年になんなく議会を通過した。こうして築港工事を再開できることになった。 作業人夫は戦争による徴用のため不足したし、また防波堤築造用の蒸気脚船が故障し修繕に手間どったり、地震により堆積したコンクリート塊が転覆する不測の災害があったりして、防波堤工事は延引をかさね、ようやく予定より三年遅れて一八九六(明治二十九)年五月三十一日に二条の防波堤は完成した。 防波堤とならぶ基本施設の桟橋は、すでに一八九二年十一月着工され、九四年三月末に付帯施設を含めて竣工していた。延長七三〇㍍、陸端の幅員一二㍍、水端の幅員一七㍍で西波止場の海岸から水上へ丁字形に突出し、桟橋から税関構内へ通じる鉄道も敷設した。 このほか、帷子川を港外へ導き、泥土の港内注流を防ぐ導水堤を築造したり、多年沈澱した海底の泥土を浚渫し水深を整え、港内碇泊船の利便をはかるなど、付属工事も終了し、防波堤に囲まれた碇泊面積は一五〇万坪に及び、規模においては欧米諸港に劣らないまでになり、横浜港の面目は一新したのである。 工事は当初四年の予定であったが、一八八九年九月起工以来九六年五月完成まで六年九か月の歳月を費したが、九三年七月から九か月間と、九四年七月から六か月間の工事中止期間を含んでいるので、実際の施工期間は五年五か月であった。また九六年七月末、臨時築港局を廃止し、出納を閉鎖したところ、築港費に二三四万七三二六円を出費し、職員俸給・庁費などを控除した工費は、一九九万七一七五円であった(『横浜築港誌』)。 四 第二期築港工事の完成 第二期工事の着手 第一期工事の完成により、横浜港は欧米諸港並みの碇泊面積をもつに至ったが、海陸の連絡手段を欠き、税関施設も不完全なものであった。桟橋には旅客船が数隻係留するほかは、大小の船舶は沖懸りをせざるをえず、いたずらに港内の水上面積をふさぎ荷役は艀に頼っていた。また桟橋係留の船舶にしても、鉄道の駅との連絡がないので載貨の大部分は同じように艀荷役に依存した。これらの艀荷役の貨物は、一部の直接回漕の特許を得たもののほかはすべて税関構内に揚陸し、調査分類ののち、多数の貨物はふたたび艀で港内の船舶に移送し、それから海路で東京へ輸送するか、もしくは荷馬車で鉄道駅まで運んだのである。 いずれにしても碇泊日数の増大をまねき、運送費用は増加するし、貨物の損傷の危険はさけられなかった。日清戦争後の横浜の貿易は増大を続けたので、税関構内は激増する貨物の収容のため狭隘となり、上屋倉庫も不足するようになり、その結果輸出入貨物の損害や商品取引の渋滞を生じ、貿易に障害を与えた。このような状況を解決するためには接岸埠頭を新設し、荷役を容易にする海陸連絡鉄道を敷設して輸送方法を改善する必要があった。また船舶も大型化し吃水が深くなってきたので、浚渫事業を続行し水深不足の碇泊地を改良しなければならなかった。 貿易の当時者である貿易商や商工業者の意向を代表する横浜商業会議所は、日清戦争後の貿易の発展に対応して、港湾諸施設の整備を求め、一八九七(明治三十)年に「税関貨物停滞ニ関スル建議及請願」、翌九八年に「港湾修備ニ関スル建議及請願」を行い、碇泊区域の拡大・桟橋の増設などを希望した(横浜商工会議所編『横浜商工会議所八十年史』)。 一八九八年横浜税関長大越成徳は、税関先の海面を埋築し税関を拡張する意見を申請し、つづいて水上浩躬が税関長となると、さらに税関拡張の計画を推進し、主務者の大蔵省に稟申したところ、主税局長目賀田種太郎はかつて横浜税関長に在任したことがあり、商港設備の改良が重要であることを唱え、理解を示していたので、両者はあい協力し運動を進めた。政府もその必要を認め、横浜税関拡張工事の設計調査を古市公威に依嘱した。古市は若くして帝国大学教授のまま内務省土木局長に任じ、全国の河川治水・港湾修築を指導し、近代土木技術の権威者であった。一八九九(明治三十二)年度の予算作成の時期が迫っていたので、パーマーが行った地質調査にもとづき測定した図面を基礎として、古市は税関の海岸通り前面を埋め立て、その外側に係船埠頭を造り、上屋倉庫・クレーン・鉄道を完備して東海道線の横浜駅へ連絡する案をまとめ、九八年九月、「横浜税関拡張工事計画説明書」を提出した。横浜港の輸出入貨物量を計算して年間二五万トンの数字を出し、それをまかなえる岸壁の延長を求め、大岡川の吐口と税関地先との間に埠頭を築造し、内側を倉庫敷地とする案である。また埋立は八万坪を予定し、税関上屋・倉庫の敷地を十分に確保し、埋築に必要な土量は埠頭の造成によって掘り下げる土や碇泊区域を浚渫して取ることにした(臨時税関工事部編『横浜税関海面埋立工事報告』)。 古市は工費を三〇〇万円と見積ったが、政府は二六〇万円へと減額し、一八九九年度から一九〇三年度にわたる継続事業として、第十三帝国議会(一八九八年十一月七日召集、九九年三月十日閉会)へ提出したが、議会はこれを約一割削り、二三四万円に修正可決した。古市案が提出された九八年は、一年のうちに内閣が伊藤、大隈、山県と三回も交替する政治的混迷のなかにあり、政府の政策が貫きにくい状勢にあった。 古市の計画は、短期間のうちにまとめた予定案であったので、これを実行に移すためには、さらに埋立地の位置形状、とくに埠頭岸壁の基礎である地盤の精密な測量調査が必要であった。工事担当の臨時税関工事部設置とともに、測量調査に着手し、一九〇〇年三月終了した。その結果、係船埠頭埋立地の形状の変更や一万トン級船舶の係留できる岸壁の造成も新たに必要になり、古市は一九〇一年九月、あらためて「横浜税関拡張計画変更意見書」を提出した。政府は十月古市の意見にしたがい埋立工事計画を変更した。埋立地の形を土炭盤の形状に沿って凸字形から凹字形へ変え、総面積六万八六〇〇坪を埋立て、延長一九八〇㍍の岸壁を築き、大小船舶一三隻を係留できることにした(『横浜税関海面埋立工事報告』)。 工事の変更は、予算より一二八万円という工費の大幅な増加が必要になり、政府は追加予算を要求するか、または既定の工費でその一部を竣工し他日の完成を待つか、二者のいずれかを選ばなければならなかった。桂内閣は、議会とのまさつを避け、後者の方針をとったので、埋立面積をさらに少なくして、四万六九〇三坪、岸壁延長も八七〇㍍へと縮小したのである。 第二期工事の進行 一八九九(明治三十二)年五月から係船岸壁埠頭工事は、起工された。土炭盤の表面の土砂を除去し、砕岩機で土炭盤を破砕し、水深八・五㍍以内の部分は、潜水夫が盤面を切りならし、袋詰コンクリートを積み上げ、水深八・五㍍以上の深さでは、石川島造船所で製作した潜水函を使用し、盤上にコンクリートを敷いて、方塊の土台とした。コンクリート塊の製造は、一九〇〇年六月から始め、一九〇五年七月には終わった。大小合計七二九〇個を製作し、さらに小型方塊を一万二三三〇個製作した。セメントは、品質に信用のできる浅野セメント会社製のものをおもに使い、愛知セメント会社の製品で補充した。 このほか物揚場や護岸石垣を設け工事は進行したが、陸地と埋立地の間に水路を通じ、船溜りを設ける工事や橋梁を製作して市街に連絡する工事など予定外の仕事も増えたので、予定年度内の竣工ができず一九〇四年まで一年延長した。一九〇四(明治三十七)年二月、日露戦争が始まるとその影響をうけ、同年中は工事は停滞し、翌年に繰り越され、同年十二月二十八日に至り、ようやく終了した。本工事は、既定工費により制限され、計画を中途で変更縮小するなどやりにくいところがあったが、なお改善に努力し、一九〇五年三月から、岸壁の延長や埋立地の追加工事を行い、岸壁総延長九二〇㍍、埋立面積四万七八〇三坪とやや増加した。以上が古市公威の計画した第二期工事のうち、前期と呼ばれる部分の経過である。 第二期工事の完成 前期工事は古市の計画の一部にすぎず、横浜港の出入貨物は、増加の一途であり、ひきつづいて全部の工事を実現しなければ、やはり埠頭岸壁は不足し、貨物置場は狭隘であった。既成埋立地も上屋倉庫の建設・起重機の配置・道路や鉄道の敷設など陸上諸施設を整備し、鉄道の駅と連絡しなければ利用範囲も制限され、海陸連絡工事の効果がでてこないのである。ところが、政府は日露戦争の遂行のため、築港どころではなく、工事も進まず、やっと前期工事が終る目途がたつと以後の工事は打ち切られる形勢にあった。 そのような事情を知った横浜商業会議所は、財源難にあえぐ政府にのみ築港を任せていては完成が見込めないで、横浜港修築を横浜市の経営とするよう建議案を、横浜市参事会に提出した。参事会は、これをうけて一方では政府と交渉するとともに他方では港湾改良期成委員会を会議所内に設けて、大いに港の啓蒙活動をし、世論を喚起して国市共営築港案を立案した。横浜市は後期工事の施行を強く希望し築港費の三分の一を負担するので、工事を速成するよう政府へ申し入れた。重要港湾はすべて国費で造成するという建前であったが、政府は横浜市の提議を認め、一九〇六(明治三十九)年から予算八一八万円で後期工事に取りかかることになり、そのうち二七〇万円を横浜市に負担させ、同年から六か年にわたり分割納付させた。政府と地方公共団体が工費を分担し、国と市の共同経営を行ったのは横浜市が初めてであり、のちの神戸港の築造の際にも採用されたが、この国市共同経営方式を考え出し、築港工事を継続させる原動力となった横浜商業会議所の貢献は大きかった(横浜商業会議所『横浜商業会議所八十年史』)。 政府は横浜市と共同経営にあたるため一九〇四年六月勅令で臨時横浜港設備委員会を設置し、官民合同の委員会を発足させ、築港に関して重要な議題を審議し、港湾工事の施行に万全を期した。委員長に大蔵次官、委員に政府機関の関係部図3-10 横浜築港第二期工事完成図 『横浜市史』第4巻上より 局長や地元を代表して横浜市長・市議会関係者・商業会議所会頭をはじめ会議所の選出者など計一八名が任命された。 予算の裏付けができて、一九〇六年四月から後期工事が着手された。既定海面埋立の完成とその陸上設備を目的とするもので、前期工事の継続である。既定海面埋立の残部面積の続行および埠頭岸壁の延長や岸壁に沿い上屋・倉庫を設けるなど陸上設備の工事を行い、一部予定計画を変更し延期を重ねながらも、一九一一年に海面埋立工事が終了した。一九一七(大正六)年三月に陸上設備工事も終わり、ここに第二期築港工事はすべて完了したのである。一八九九年の着手以来実に一八年におよぶ長期工事であった。 前後期を合わせて第二期工事の完成工事数量をあげると、海面埋立六万九七二七坪、岸壁延長二〇二五㍍、鉄造上屋一一棟九八二八坪、木造上屋三棟二八九六坪、煉瓦倉庫二棟一九二七坪、大桟橋を拡張して旅客貨物用に上屋二棟を設け水深を増したことなどがおもな内容である。いわゆる新港埠頭の誕生であり、今日でも一九一一年に造られた赤煉瓦の倉庫が明治時代の遺風を伝えてい図3-11 横浜港略図 『横浜市史』第4巻上より る。第二期工事の完成図を示すと、図三-一〇のとおりである。 第一期・第二期築港工事の竣工により、図三-一一のように横浜港は、係船岸壁をそなえ、陸上ターミナル諸施設を完備し、わが国の代表的港湾の姿を整えたばかりでなく、東洋においても有数の大港になったのである。 第四節 海運業の発展 一 日本郵船会社の成立 明治政府の海運奨励 長い鎖国の間に世界の海運は産業革命を経て、推進力は風力から蒸気力へ、船体は木材から鉄鋼へと進歩の道をたどっていた。維新直前の文久二年(一八六二)にはイギリスで最初の鋼製汽船が建造され、全盛を誇っていた大型快速帆船クリッパーの地位に代わろうとしていた。わが国は鎖国のもとで二本マストを備えた船底竜骨使用の外航船建造を禁止され、一本マストの平底の大和型帆船だけが建造を許されていたので、世界の情勢に大きな遅れをとった。幕府が崩壊の前夜に設立した造船所も、力を発揮するまでに至らず、幕府や諸藩は開国後、諸外国から多数の艦船を購入し、国防の備えを急いだのである。 維新後、新政府も明治二年(一八六九)十月布告を出し、外国汽船の購入に熱心な諸藩に老朽船を買わないように警告し、優秀船の輸入に努めるよう奨励した。海運を振興するため、手っ取り早い方法は、外国蒸気船の輸入であるが、幕末期から幕府諸藩が大量に輸入した船舶はボロ船が多く、外国商人から不当な高値で掴まされ、諸藩の疲弊を深める一因となっていた。経済的な考慮を払わず、海防あるいは軍事的な要請から中古船を買い入れたが、操船技術の拙劣なこともくわわり、船の寿命は短かく遭難は絶えなかった。そのような反省から、外国製蒸汽船であっても老朽船を排除し、質の良い船の導入を布告したのである。維新以前に輸入した外国船は、すべて幕府あるいは諸藩が所有者であり、一般大衆は一隻も所有していなかった。 新政府は改めて百姓町人に至るまで蒸汽船の所有を許し、その製造または買入れを認める通達を出し、一般民間人の購入に期待した。 明治三年一月、商船規則を公布し、それとともに日本の在来船は難破が多く、人命や荷物の損傷が少なくないので、性能のすぐれた西洋船への転換をすすめ、西洋型船舶の所有者を厚く保護する布告を発した。政府は、日本の和船より西洋船へ、西洋船もボロ船を避け優秀船の所有を奨励して、海運業の近代化をはかろうとしたのである。しかし、一片の布告で、船舶購入に多額の資金がかかる海運業が振興するわけではない。政府は、率先して近代的汽船会社の第一歩として、同年一月、半官半民組織の回漕会社を設立した。 政府は旧幕府から引き継いだ汽船五隻を回漕会社へ貸し付け、貢米輸送の特権を与え、郵便物の逓送を委託するなどの保護を加えた。回船問屋などの商人や政府の役人が経営に参加し、政府の通商司の管轄にあった東京為替会社から資金の援助をうけたが、為替会社は三井を筆頭とする富商の経営下にあり、結局回漕会社は、政府と富商との共同経営といってよかった。回漕会社は、東京霊岸島と大阪中之島に事務所を設置し、郵便物の逓送と旅客貨物運送のため、毎月三回、一日、十一日、二十一日にそれぞれ東京と大阪を同時に出航し、横浜と神戸に翌日寄港一泊し、五日目に神戸または横浜へ、六日目に大阪または東京へ到着するという定期航路を開始した(『資料編』18近代・現代(8)二八九)。 しかし役所風の仕事振りと就航船が老朽であったため、経営は不振であり、同年十二月には行き詰まり、回漕会社は解散してしまった。政府は翌四年五月、三井組の手代吹田四郎兵衛らに新たに回漕取扱所を設立させ、回漕会社の所有船を引き継がせた。同年七月廃藩置県が実施され、藩債の抵当となっていた諸藩の所有船はすべて政府の所有に帰した。政府はそのうちの優良な船舶一〇数隻を選び、五年八月、回漕取扱所の業務を広げ日本国郵便蒸汽船会社を創立させ、同社へ二五万円、一五年賦無利息の償還の条件で払い下げたうえに船舶修理費六〇万円を大蔵省が補助するという恩恵を与えた。郵便蒸汽船会社は、本社を東京に置き、東京-横浜と大阪-神戸間の定期航路及び横浜-石巻-函館間の不定期航路を中心に営業を始め、旅客貨物のほかに貢米ならびに郵便物の輸送に従事した。東京-大阪間は、一か月一二回の就航を行い、さらに年額六〇〇〇円の補助を得て沖縄航路を開いた。一八七三(明治六)年から東京-鳥羽間、東京-新潟間の航路を増設し、九州へも伸びた(住田正一編『海事史料叢書』第二〇巻)。 しかし、郵便蒸汽船会社の使用船は幕末時代のままの老朽であり、日本人海員の技術が未熟であるため外人船員を多く雇用し経費がかかりすぎたことや、政府の厚い保護をたよりに保守的な経営に終始し、進取的な経営ぶりで擡頭してきた三菱会社との競争に太刀討ちができず、経営が次第に困難になってきた。回漕会社にしても蒸汽船会社にしても半官半民的経営はうまくいかなかったのである。 三菱の躍進 明治三年(一八七〇)閏十月、土佐藩士の岩崎弥太郎は、藩の汽船二隻を借り、東京-横浜、大阪-神戸-高知間の航路を開き、廃藩置県ののちは汽船を高知県から払い下げをうけた。五年十一月、横浜に支店を設け、一八七三年三月、三菱商会をつくり海運業に専念する体制をとり、本店を大阪から東京へ移した。 三菱の競争相手は、日本国郵便蒸汽船会社にとどまらず、幕末以来サンフランシスコ-上海間に航路をもち、明治三年に横浜-神戸-長崎-上海を結ぶ定期支線を開いて表日本の運送を支配していたアメリカの太平洋郵船会社があった。一八七四年台湾征討がおこったとき、日本国郵便蒸汽船会社の所有船のうち軍事輸送に堪えるものは少なかったので、政府は太平洋郵船会社に依頼しようとしたが、清国との紛争を危ぶんだアメリカ政府は局外中立を宣言したため、それもできなくなった。政府は同年五月から翌七五年三月にかけて外国船一三隻(内一二隻は鉄製汽船)を購入し、日本国郵便蒸汽船会社に委託するはずであったが、台湾への軍事輸送に尽力している間に、内国海運を三菱に制されることをおそれた同社は、消極的な態度をとっていた。この間にあって頭角を表わしたのが三菱商会であり、政府へ建白して三菱の汽船をあげて運輸に協力する姿勢を明らかにしたので、政府はついに一八七四年七月、三菱に購入船をゆだね軍事輸送を命じた(『横浜市史』第四巻上)。 三菱は政府の軍事輸送を担当してよく任務を果たしたので、大きな利益を得ただけではなく政府の信頼をうけ、とくに大蔵卿大隈重信や内務卿大久保利通らと緊密な関係をもつことに成功し、将来の貴重な人脈をつくった。台湾征討の終了後も、三菱はひきつづき一三隻の汽船の使用を許されたので、郵便蒸汽船会社に対し優勢な立場を占め、競合する航路で圧倒した。一八七五年六月、政府は経営不振に陥った郵便蒸汽船会社の所有船を買い上げ同社を解散した。こうして政府の海運業奨励の表われとして期待された郵便蒸汽船会社は、台湾征討を契機として政府に食い込んで恩恵を得るに至った三菱の軍門に降ったのである。 政府は半官半民の海運会社の育成に失敗したうえ、台湾征討の際、外国汽船会社にたよることがあてにならぬことを痛感したので、すでに強力な海運業者に成長した三菱商会を援助して外国汽船会社と競争させ、これを駆逐する方針に一転し、一八七五(明治八)年二月、三菱に命じ上海航路を開設させた。三菱商会は、政府から委託されていた東京丸・新潟丸・金川丸・高砂丸の四隻を就航し、横浜-上海間に週一回の定期航路を開いた。これが日本最初の海外定期航路である(入交好脩『岩崎弥太郎』)。 太平洋郵船会社は以前から同航路を経営し、設備も整い経験にも富んでいたし、競争力は三菱よりまさっていたので、当初から三菱は成績が振るわなかった。一八七五年五月、三菱汽船会社と改称し、社則をつくり、陣容を整備しながら、岩崎は長文の訓戒を与え社員の奮起を促した。政府の命令による上海航路の開設であるから、政府の保護は当然期待できたが、政府は海運政策の樹立に手間どった。ようやく同年五月十八日内務卿大久保利通の建白書に始まり、九月十五日の第一命令書の伝達に至って三菱への積極的な保護政策が具体化した。三菱へ委託していた一三隻の汽船を無償で払い下げ、年二五万円の補助金を交付し、さらにさきに解散した郵便蒸汽船会社の所有船一八隻を政府が買い上げていたが、これもすべて無償で三菱へ払い下げたのである。三菱汽船会社はこの直後の九月十八日郵便汽船三菱会社と改称した。 三菱会社と太平洋郵船の競争は激烈であった。 三菱の定期船が出帆した翌日、太平洋郵船は発船し、はやい速力を誇示したり、蒐貨や配船を妨害した。運賃の引き下げがひんぱんに行われ、採算は完全に無視されたので、三菱にとっての頼みの綱は政府の援助だけであった。競争の中心となった横浜-神戸間で、旅客運賃上等二五円が一〇円以下、下等一〇円が三円五〇銭に引き下げられ、ついには上等図3-12 三菱汽船上海航路運賃一覧表(1883年) 県史編集室蔵 が五円、下等が三円にまで落ち込んだ(佐々木誠治『日本海運競争史序説』)。 こうした運賃引下げ競争は、両社に多大の損失を生じた。太平洋郵船会社は本国を遠くはなれた極東の一支線航路で損失を重ねる愚かさを悟り、妥協の態度をみせてきた。岩崎弥太郎はこの機に乗じ大蔵卿大隈重信に働きかけ、八一万ドルの買収費を一五年賦、利息年二分の低利の条件で貸付けを受け、十月十六日、太平洋郵船会社の就航船や神戸・長崎などの港湾陸上設備一切を買収し、以後三〇年間同社が本航路に就航しない旨の契約を結ぶことに成功した。 ところが、三菱が一息つく暇もなく、一八七六年二月、イギリス屈指の大海運会社である彼阿汽船会社(Peninsular andOriental Steam Navigation Co.)が、香港-上海-横浜間航路を開いて、三菱に挑戦してきた。アメリカの汽船会社が横浜-上海線を撤退したことは、イギリス海運にとって日本進出の絶好の機会であり、勝った三菱も競争により被った損失を回復していないあいだに、一気に三菱を圧倒し、日本沿岸の航権を掌握しようとしたのである。三菱は、強大な敵を迎え、苦しい闘いを余儀なくされた。競合する上海-横浜間の争いといっても、その中心区間は横浜と神戸間の旅客輸送であり、上等運賃は二五円が一〇円へ、競争絶頂期には五円、下等運賃は一〇円が三、四円へ、さらには二円五〇銭へと引き下げられ、太平洋郵船会社との競争以上の低運賃になった。当然、会社の経営は悪化し、三菱は岩崎弥太郎自ら月給を半減して社員の給与の減額や人員整理を行い、人件費を節約し、悲愴な決意で競争を続けたのである。 政府はようやく回復した自国海運による沿岸航権を失えば、これまでの三菱への財政支出も水泡に帰するので、運航助成金の支給を続けるとともに、三菱を保護する目的で、外国船乗船の取締法を公布し、彼阿汽船への利用を制約したり、また同汽船へ積み込む海上貨物は、阪神間の鉄道便を利用させないようにするなど、有形・無形の援助を与えた。三菱もまた世論の支持を得るため、新聞を利用し、民族意識をあおって外国汽船のボイコットに努力した。その結果、彼阿汽船を利用するものは激減し、就航船舶は減り、七六年八月、彼阿汽船は上海-横浜航路を放棄するに至った。こうして三菱は米英の二大先進国の汽船会社との競争に勝って、横浜-上海線を継続し、沿岸航権を支配した。このとき、岩崎弥太郎は一夜、両国中村楼にかつての競争相手である外国汽船関係者を招いて盛大な酒宴を催し、「我輩ヲシテ日本沿海ニ雄飛セシムルニ至レリ」と豪語したのである(日本郵船株式会社編『日本郵船株式会社五十年史』)。 政府は一八七六年九月十五日、日本沿海の航権を独占するに至った郵便汽船三菱会社に第二命令書を出し、上海航路、京浜-阪神航路、横浜-函館航路、横浜-新潟航路、横浜-四日市航路、長崎-釜山航路の六つの命令航路を指定し、これに年額合計二五万円の運航助成金を一四年間与えることを約束し、各航路の維持を助けた。こうした助成金の交付により、蒸汽船の定期航路が継続できた。これらの主要航路の大半は、横浜を起点としたので、郵便汽船三菱会社の根拠地は横浜となった。七六年初め、それらの船舶の修理を目的としてイギリスのボイド商会と共同して、海岸通りに三菱製鉄所を完成させたのである。 三菱会社は、翌七七年の西南戦争で外国航路就航船を除く全船舶を挙げて、兵士・軍馬・軍需品の輸送に従事し、政府から融資を引き出し船腹量を増加しながら、運賃と用船料を稼ぎまくり、財閥の基礎をつくった。 三菱と共同運輸の死闘 一八七八(明治十一)年以後の三菱は、倉庫業・為替業・海上保険業など関連業務を兼ね、海上輸送にともなう一切の独占的利潤を吸収する多角経営を展開し、旅客貨物運賃を不当に引き上げ、独占価格を押しつけ、専横をきわめるようになった。三菱会社の独占による横暴ぶりに非難や反発が生ずるのは当然である。三菱の海運独占を破るためには、外部の資本を動員して三菱に対抗できる汽船会社を設立しなければならない。三菱の高率運賃のため、もっとも痛手をうけていたのは、当時の最大の貿易会社の三井物産であった。三井物産は取扱貨物も大量であるため、運賃をはじめ荷為替・保険料など、三菱に支払う諸料金は多額であった。三菱の独占にたまりかねた三井物産の大番頭益田孝は、海運会社を興こす決心をし、渋沢栄一や地方の問屋、回漕業者の協力を得て、一八八〇年資本金三〇万円の東京風帆船会社を創立したが、三菱側の猛烈な妨害工作にあい、頓挫した。 一八八一年の政変で三菱の支援者であった大隈重信が下野した。さきに七八年大久保が暗殺されていたので、政府との密月関係は終わった。八二年二月、大隈失脚後の政府はすぐに三菱の特権を奪うため第三命令書を交付して、兼業の禁止をはじめ、無償で払い下げた船舶は一定条件を満たさない限り質入れや売却を禁じ、さらに船舶改良や機関検査の責任を負わせた。また自由放任主義を主張する田口卯吉が主宰した『東京経済雑誌』も三菱の独占攻撃の論陣を敷いた。こうして三菱は、官民双方からはさみうちにあい、受難の季節を迎えた。三菱打倒の急先鋒は、農商務大輔(今日の次官)品川弥二郎であり、その背後には井上馨や渋沢栄一が控え、新会社設立をすすめた。同年六月、三菱は副社長岩崎弥之助の名前で、長文の「意見書」を政府へ提出し、会社新設に反対したが、政府もまた長文の「弁妄書」を与えて反駁を加え一蹴した(「三菱会社内幕秘聞録」『海事資料叢書』第二〇巻)。 一八八二年七月、農商務省で新会社の創立発起人会が開かれ、共同運輸会社と命名された。新会社は郵便物逓送や海軍兵学校卒業生の実地練習に任ずる義務を負い、船舶は海軍の付属となった。社長は海軍少将伊藤雋吉、副社長は海軍大佐遠武秀行であり、海軍色が濃かった。当初資本金は三〇〇万円であったが、三菱を相手には不足とみられ、すぐ六〇〇万円に増資し、二六〇万円を政府が支出し残余を一般公募にした。品川は政務を放棄して自ら株式募集に飛び回った。八三年一月、共同運輸会社は東京風帆船会社など三社を合併し、これらの船舶を引き継いで営業を始めた。伊藤社長は、新船購入のためイギリスへ出張し、翌八四年にこれらの新汽船が横浜へ回着するころから、三菱との競争は激しくなった。共同運輸会社は、横浜を起点として、不定期航路を広げていたが、同年から三菱と競合する横浜-四日市間、横浜-神戸間、神戸-高知間などの定期航路を開き、新鋭汽船を集中的に配船したので、両者の争いは白熱化した。乗客の誘引にしのぎを削り、運賃の引下げやスピード競争、あるいは景品などによる宣伝が行われた。三菱独占時代の横浜-神戸間の運賃下等五円五〇銭が、わずか五五銭にまで下った。同じ港を同時に出帆し、速力を競い合うようになり、無暴な運転を演じ、坐礁や衝突などの事故が続出した。 こうした経済性を無視した競争は、三菱・共同両社に深刻な打撃を与えた。三菱会社の運賃収入は独占を誇った一八八一年の四五九万円を最高にして八二年三九八万円、八三年三〇三万円、八四年二三〇万円へと急下降をした(『日本郵船株式会社五十年史』)。他方、共同運輸も新造汽船の威力で三菱の独占によく食いこんだが、十分な利益をあげることができず、赤字経営を続けた。二年間の激烈な競争で、両社とも疲れ切ったが、とくに設立後日が浅く寄合い所帯の共同運輸内部では、経営に自信を失うきざしが見え、株価は下がり市場に出回るようになった。岩崎は、運賃切下げ競争などでは勝敗が決し難いことを知り、ひそかに株の買占めをはかり、相手会社を支配する作戦に切り替え、財力にものをいわせて一八八四年末までに過半数の株を制してしまった。 共同運輸を後援していた政府も、予想を上回る激烈な両社の競争に驚き、共倒れになることをおそれ、農商務卿西郷従道は一八八五(明治十八)年一月両社に妥協を勧告するに至り、二月五日両社の協定が成立し、競争は静まった。同月七日岩崎弥太郎は死亡した。弟の弥之助が社長を襲うと共同運輸と結んだ新協定も束の間の和解に終り、三菱は四月六日違約の責任は共同側にあると唱えて競争を再開した。また一連の運賃引下げや無暴運転の過程が再現し、横浜-神戸間の運賃はついに二五銭にまで低下した。おそるべきダンピングであった。このような競争を長く続ければ両社とも自滅するのは明らかであった(『日本郵船株式会社五十年史』)。 岩崎弥之助は、弥太郎の弔合戦と称して思い切った運賃切下げで短期決戦を狙う一方、あるいは三菱の全船舶を品川沖に集めて爆沈し、会社を解散する覚悟までしているとのうわさを流布し、三菱側の旺盛な闘争意思を印象づけた。 日本郵船の成立 一八八五(明治十八)年四月、共同運輸の軍人社長・副社長は、海軍に復帰し、代わって農商務少輔森岡昌純、書記官加藤正義が社長と副社長に就任した。森岡社長は営業状態を調べ、巨額な損失を知り、西郷農商務卿に両社合併が急務であると具申した。政府は両社の競争が日本の海運業自体を危くし、長年の海事奨励政策が無意味になることを避けるために、なんとしても収拾を図らなければならなくなった。三菱側がさまざまに政府要人に裏面工作を働きかけたり、共同運輸の株を買い占めていたことも三菱の立場を強めた。 政府は七月末両社に合併の趣意を伝えた。三菱はすぐに承知の請書を出したが、共同運輸の内部では反対勢力が強く混乱をきわめたが、八月十五日の臨時総会で投票採決により合併を決めた。 政府は三菱側から荘田平五郎・岡本健三郎を、共同運輸側から堀基・小室信夫を創立委員に任じ、森岡昌純を同委員長に任命し、規則の制定に当たらせた。合併新会社は、日本郵船会社と命名され、資産評価額を三菱分五〇〇万円、共同運輸分六〇〇万円と見積り、それを引継ぎ、合計一一〇〇万円を資本金とした。九月二十九日、創立は認可され、十月一日から営業を始め、森岡昌純が新社長に就任した。新会社は額面五〇円の株券二二万株を発行し、三菱へ一〇万株、共同運輸側へ一二万株(内政府出資分五万二〇〇〇株で、のち皇室財産に編入)を交付した。共同運輸側の株を買い占めたことを考えれば、三菱側の新会社に対する支配力は大きいものであり、合併に際し、三菱の本支店で祝盃をあげ、勝利を祝い合ったのも当然であった。 政府は新会社に対し、開業から一五年間年八分の利益補給を約束するとともに、同期間中の社長と理事の任命権を保持した。新会社が三菱から引き継いだ船舶は二九隻、三万六六〇〇トン、共同運輸から二九隻、二万八〇一〇トンであり、合計五八隻、六万四六一〇トンに達し海運界最大の会社になった(『日本郵船株式会社五十年史』)。 こうして成立した日本郵船は、経営航路として、横浜-上海間、横浜-神戸間、横浜-四日市間、横浜-函館間など定期航路一四線を政府の命令書により指定され就航したが、開業後は一八八六年九月末一八線にまで増加した。はじめ本社を東京日本橋に置いたが、営業の根拠地へ本社を移すのを便利として、八六年十月、横浜の尾上町へ移転した。しかし、東京を離れると予想以上に不便なことが多く、半年後の八七年四月にはまたも本社を東京へ戻した。 日本郵船の営業航路は、全国的に広がっていたが、とくに阪神以東が中心であった。大阪以西の群小業者のうち、五五名の海運業者が合同して一八八四年五月、大阪商船会社(資本金一二〇万円)が成立し、同社が政府の命令をうけて阪神から四国・九州方面への定期航路を営業していた。日本郵船を中心に、大阪商船が補完するという形で、日本の沿岸航路網は整備され、やがて近海航路から遠洋航路へと進出するのである。 神奈川県の海運業は、横浜を起点とし進展する宿命にあるため、全国的であり、また国際的にもわたるので、日本海運史そのものと重複する性格をもつ。神奈川県を舞台の一部として展開された明治初年以来の政府の海事奨励政策は、半官半民会社の育成から特定企業の三菱保護へと変り、やがて三菱抑圧へと転じたのち、ついに、日本郵船の成立を結果として招いたのである。 中小船主の動向 三菱会社のような大船主のほかにも、地方的な中小船主の活動がみられるので、そのおもなものについて述べたい。幕末から明治初年にかけて、横浜の外国人居留地に居住する外人が同地を起点として小型外輪汽船を使用し、東京の築地との間を毎日就航した例が、わが国の近代客船航路の第一である。日本人も多数利用したが、明治五年の鉄道開通により航路も廃止されたので、わずか数年の客船サービスにとどまった。 石川島造船所を経営した平野富二は、石川島製の汽船を使って一八七九(明治十二)年十一月、稲木嘉助と共同して、東京-浦賀-館山間に航路を開き、旅客および貨物の運送を始め、一日に二便就航した。八一年、平野や稲木らが発起人になって東京湾内汽船安全会社を設立し、新しく東京-横須賀間の航路を営業した。平野は会社とは別に個人としても同一区間の航路を八五年から始め、翌年には東京平野汽船組合に改めた。一八八九年十一月、東京湾内の汽船会社のうち、平野汽船組合・第二房州汽船会社・三浦汽船会社・内国通運の四社が合併し、資本金二五万円の東京汽船会社(現東海汽船)を設立した(『石川島重工業株式会社史一〇八年史』)。 一八八一年四月、横浜に輸出向けの茶の輸送を目的として、静隆社が創設され清水間に航路を開いた。静岡県産の茶を清水港から積出し、横浜港を通じて輸出したが、八九年東海道線が開通すると、茶は多く鉄道で運ばれるようになって積荷を失うに至り衰えた(『横浜市史』四巻上)。 一八八六年末、浅野総一郎は、渋沢栄一の支援を得て浅野回漕店を設け、海運業へ進出した。浅野は、従前からセメント工場を経営していたし、その燃料である石炭やコークス、あるいは製品のセメントの輸送費を軽減するために、古中蒸汽船を買い入れ、海運業を兼営したのである。前年に日本郵船が開業し、大阪商船とともに「社船」業者と呼ばれ、政府の助成金を得て命令航路を営業する大手船主に対し、それ以外の中小船主を「社外船」業者と一括して呼ばれ低くみられていたが、浅野回漕店は「社外船」の先頭に立ち、「社船」の定期航路の間を縫って競合しないように沿海の不定期路線を随時営業し、利益をあげた。九一年、浅野総一郎は社外船主の団結をはかり、日本海運業同盟会を組織し、みずからその委員長に就任し、「社船」と対抗する勢力をつくりあげた(佐々木誠治『日本海運業の近代化』)。 注 (1) 山田廸生「本邦客船事始め」『横浜海洋科学博物館報』二号 二 海外航路の発展 ボンベイ航路の開設 日本郵船は国内沿岸航路に主力を置き、対外航路として上海やウラジオストックなどへの近海航路を政府の助成のもとに、国策に協力する趣旨で営業していたが、遠洋航路は試航にとどまっていた。先進国の先発企業が海運同盟を結び、固い縄張りをもっている中へ飛び込み、挑戦することは危険であった。しばらくの間、所有船舶の増強、とくに質的向上に努力し、三菱会社時代の旧式老齢船を整理し新船を購入したので、船隊はめざましく充実した。 当時の日本紡績業は、国内市場を制し、中国へ進出するまでに発展したが、主要原料であるインド綿花の積取は、彼阿汽船ら三社の海運同盟が独占し、一方的に決定された高率な運賃を押しつけられ、はなはだしい不利益をうけていた。紡績業者は、海運同盟に対抗し、割安な運賃でインド綿花を輸送する海運会社の登場を望んでいたので、日本郵船が輸送を引き受ければこれを協力支援する態勢にあった。インド綿花積取りに圧倒的な力を占めた海運同盟の横暴に苦しむのは、インド綿花商も同様であった。日本とインドの両後進国共通の経済的不利益を除くために、一八九一(明治二十四)年ボンベイの豪商タタが来日し、両国の合同によるボンベイ航路の開設を日本郵船など関係業者に提案して以来、具体的な話し合いがすすみ紡績連合会の積荷保証・タタ商会の出荷保証・日本郵船とタタ商会の配船という契約が成立した。 一八九三(明治二十六)年十一月七日、日本郵船は第一船広島丸を神戸から出港し、ボンベイ航路を始めた。同社の最初の遠洋定期航路にとどまらず、日本海運業が沿海海運から航洋海運へと発展する端緒として重要な意義をもつものである。彼阿汽船ら海運同盟三社側は、ただちに思い切った運賃引下げで反撃に出た。綿花一トン一七ルピーの運賃を、ついには一・五ルピーまで下げ、日本郵船を屈服させようとした。日本郵船は、一トン一二ルピーの契約で輸送したので、積荷契約外の綿花は海運同盟側に移るおそれがあったが、紡績連合会加盟会社は綿花全量を日本郵船へ委託する方針を堅持した。綿花商人が同盟側の低運賃を利用して積み込んで日本へ到着しても、日本の紡績業者は結束して買い付けなかったので、空しくその積荷を持ち帰るほかはなかった。九五年二月、赤字に堪えかねてタタ商会が脱落したのちは、日本郵船が単独で配船を敢行した。同盟側の運賃引下げによる綿花コストの低下という一時的な利益を断念して、あくまでも将来の利益を考え、紡績業者は日本郵船を支援しつづけたので、ボンベイ航路は着実に伸長した。海運同盟側は、ついに屈服し、一八九六年五月、同航路同盟に日本郵船の加入を認め、日本側の勝利のうちに競争は終った。 逓信大臣は、同年八月二十六日、本航路を特定航路に指定し、起点を神戸から横浜へと延長して、十月から四年半にわたり、助成金を交付し、毎月一回横浜とボンベイを出帆させた(『日本郵船株式会社五十年史』)。 三大航路の開設 日本郵船は、ボンベイ航路の競争が終らぬうちに、欧州航路を開き、一八九六(明治二十九)年三月十五日、落成まもない横浜港大桟橋から第一船土佐丸がアントワープへ向けて出帆した。当初は月一回の運航であったが、新船をイギリスへ発注しその完成につれ一八九八年五月から二週一回に増便した。極東航路は、イギリスの汽船会社が極東向け往航および欧州向け復航ごとに同盟を結び積取量の割当てを長年行っており、同盟側は運賃引下げで日本郵船の参入を阻んだため、運賃は下がり激しい競争になった。ヨーロッパ向けの生糸は横浜の外国商人が同盟側の船を使うし、またヨーロッパからのイギリス商品も同じく同盟側が支配していたので、日本郵船が積荷を獲得できずに苦しい赤字航海を続けた。日本郵船は、極東同盟と協調方針をとり、終着港をロンドンではなくアントワープとし、往航ではロンドンへ寄航したが、復航では寄航せず、ヨーロッパ大陸から直航してイギリス側を刺激しないように努めた。やがて同盟の各社と交渉し、マンチェスター製綿布の積取りを認められ、一八九九年二月から欧州往航同盟へ加入し、ロンドンへの寄港と同地の積荷ができるようになった。一九〇二年には復航同盟へ加入し、上海寄港を始め、生糸輸出品の積載が増大した。 一八九六年八月、日本郵船は北米航路を開いた。サンフランシスコ綿花は、太平洋郵船会社などアメリカの二社が押さえ、割り込む余地はなかったので、シアトルを終着港に選び、グレート=ノーザン鉄道会社と提携し、同鉄道でアメリカの中心市場であるニューヨークへ連絡した。毎月一回ずつ香港とシアトルを出港し、神戸・横浜へ寄港した。第一船三池丸は八月一日、神戸を出港した。この航路は、復航はアメリカから東洋向けの綿花や小麦の積荷が多かったが、往航は少量である日本の生糸などの積荷をめぐって集荷競争が激しかった。 一八九六年八月、政府は濠州航路をボンベイ航路とともに特定助成航路に指定し、十月から毎月一回横浜とアデレードを発船するよう命じた。四年半の間、補助金を交付し、貨物の都合でしばらく横浜とメルボルンを結び、十月三日、第一船の山城丸が横浜を出帆した。本航路は、旅客輸送で期待した移民が、まもなく白人濠州主義を唱える濠州側の移民排斥運動により入国禁止の状態になり中絶したし、貨物も一九〇〇年七月北ドイツロイド会社などの新規参入がみられ競争が激化し、困難な経営になった。政府へ請願し、一九〇〇年四月から助成金の増額を得るとともに、マニラ寄港を始め蒐貨に努めたのである(『日本郵船株式会社五十年史』)。 土佐丸の欧州航路開航記念 『日本郵船株式会社五十年史』より こうして日本郵船が、一八九六年の一年間のうち三大遠洋航路をつぎつぎに開設し、驚くべき発展をとげたが、これは日清戦争後の日本経済の拡大を反映するものであったし、また同年三月、政府が「航海奨励法」・「造船奨励法」を公布し、十月から実施したことと、照応しているように、政府の積極的な保護政策がささえになっていた。航海奨励法は、日本の海運業者が、一〇〇〇総トン以上、最大速力一〇ノット以上の鉄鋼製汽船が外国航路に就航する場合、トン数と速力に応じて奨励金を交付し、造船奨励法は日本の造船業者が七〇〇総トン以上の鋼船を建造すれば奨励金を与えるものであった。両法は海運業の船舶構成の大型化と船齢の若返りを促し、国内造船業の市場拡大を期待し、また特定航路助成措置によって重要な航路に助成金を与え、海運業者の経営を保護した。これらの一連の海事奨励政策によって、日本郵船の遠洋航路は安定し、競争によく堪えて、既成の海運同盟へ参加することができたのである。 東洋汽船会社の創立 政府の海事奨励立法に刺激され大阪商船が中国の揚子江航路に進出したり、あるいは社外船主が中国や南洋への対外航路を開くものが続出したが、いずれも近海航路にとどまった。そのなかで、最初から遠洋航路の経営を目的として東洋汽船会社を興したのが浅野総一郎である。 浅野は、中古蒸汽船を使って浅野回漕店を営業し、同業者と共同して日本郵船の独占に対抗したが、日清戦争が勃発し、国内の船舶が軍需輸送に徴用され、国内競争が解消されたのを機会に、浅野は沿岸航路に見切りをつけ、所有船四隻を同業者に売却し外国航路進出の好機をねらっていた。戦後、海運界の活況を迎えると、浅野の雄志は具体化し、一八九六(明治二十九)年七月、渋沢栄一・大倉喜八郎・安田善次郎・原善三郎ら当代の有力な実業家と組んで東洋汽船会社を創立した。資本金七五〇万円(翌一八九七年六月、六五〇万円に減資)の大会社である。浅野はただちにカナダおよびアメリカへ渡航し、当地の海運会社や鉄道会社と連絡協議し、サンフランシスコを寄港地に選定した。ついでイギリスへ渡り、九七年二月サミュエル商会の仲介で、日本丸・香港丸・アメリカ丸(各六〇〇〇総トン級)の建造契約を結んだ(『資料編』18近代・現代(8)二九〇)。この三船は翌年から順次横浜へ回航されたので、一八九八年十二月十五日、第一船日本丸が香港を出帆し、神戸-横浜-サンフランシスコを結ぶ北米航路を開設した。政府は同航路を特定助成航路に指定し、一九〇〇年一月から一〇年間助成金一〇一万円を交付して援助した(『資料編』18近代・現代(8)二九一)。 同一航路を経営するアメリカの太平洋郵船会社が、一万二〇〇〇トンの新客船コレヤとサイベリヤの二船を配置する計画をたて、東洋汽船に大きな脅威を与えた。浅野はこれに対抗するため大汽船を新造して北米航路を維持する構想を抱き準備したが、日露戦争が始まり、しばらく延ばされた(『資料編』18近代・現代(8)二九二・二九三)。一九〇五(明治三十八)年六月にいたり、浅野総一郎は三菱造船所へ、天洋丸・地洋丸・春洋丸(各一万三五〇〇総トン級、二〇ノット)の三隻を発注した。これらは日本の造船史上でも画期的な巨船であるにとどまらず、世界的な優秀船であり、日本郵船すら発注したことのない大型船であった。海外造船所へ発注しないで、一段と建造能力が劣る国内造船所へ、三隻も同時発注した浅野の放胆さに世間は驚きあきれた。受注した当の三菱造船所すら驚いて、浅野に建造計画の縮小を忠告する有様であった(浅野造船所『我社の生立』)。 しかし、浅野の決意は変わらず、一九〇八(明治四十一)年にはいり天洋・地洋の両船が完成し、北米航路に就航した(『資料編』18近代・現代(8)二九五・二九六)。この両豪華船の航行によって、太平洋郵船会社を圧倒し、コレヤ・サイベリヤの二船の譲渡天洋丸 『日本郵船株式会社五十年史』より を余儀なくさせ、東洋汽船の北米航路は固まった(原正幹『浅野造船所建設記録』)。一九一一年に姉妹船の春洋丸があいついで就航したので、横浜港は空前の華麗な客船時代を迎えた。東洋汽船は、はなやかに多くの乗客を集めたものの、日露戦争後の不況やこれらの巨船の建造費の調達に苦しみ、経営は悪化し、一九〇九年から損失を生じ無配に転落した(『資料編』18近代・現代(8)二九六・二九七)。この経営不振を支えたのは、安田銀行を主宰した安田善次郎の金融力であり、また政府の航路助成費であった。 明治末期の海運 日露戦争中も日清戦争の場合と同じく一般商船は軍需輸送に徴用され船腹不足に陥り、多数の他国船を輸入してしのいだ。戦争が終ると、船腹量は九二万総トンに達し、戦前の一倍半に激増した。とくに遠洋航路に就航可能な大中型船の増加が著しく、質量とも充実した日本海運業は、新航路をつぎつぎに新設した。東洋汽船は、南米諸国との貿易の将来性を予測して一九〇五(明治三十八)年十二月、香港から神戸-横浜-アメリカ東海岸を経由してチリのバルパライソに至る南米航路西岸線を設けたし、大阪商船も一九〇九年六月、香港を起点に上海-神戸-横浜-シアトルを経てタコマと結ぶ北米航路を開いた。日本郵船は既設の欧州航路や北米航路の就航船を大型化し、次第に新船に切り替え、競争力を強めた。このように遠洋航路は定期航路の新設や充実がみられ、そのすべては横浜を起点とするか、または寄港地としていたので、横浜港は著しく繁栄したのである。さらに社外船業者も近海定期航路や遠洋不定期航路に乗り出し、海運界は盛んになった。 政府は海外航路の発展に対応して海運助成を改めた。航海奨励法と特定航路助成を併行したことは、海運業に競争力を与え、定期航路の開設や維持に大きな貢献をしたが、一面では国庫の支出を激増させたし、また一般奨励の弊害として航海奨励金が不定期船の空荷航路を補助する結果を招いたり、同一航路に航海奨励金受給船と特定航路助成船とが重複するなど、運用上にも矛盾を生じてきた。政府はこれらを整理し統一するため、一九〇九年三月、遠洋航路補助法を発布し、翌年一月から実施するとともに航海奨励法を廃止した。同法は補助対象を船舶から航路へと転換し、欧州・北米・南米・濠州の四大航路に定期就航する三〇〇〇総トン以上、時速一二ノット以上、船齢一五年以下の日本製鋼船を対象に航路補助金を交付した。海運政策が、不定期船を含めた一般的奨励から定期航路の維持・拡張へと変化したのであり、不定期船業者は保護対象からはずされた。 こうして海運助成は形式に推移はみられたが、政府の保護の重点は外国航路の発展に向けられていたので、補助金の大部分は海外航路に就航できる資力をもつ社船業者に独占的に吸収されるのは当然であった。とりわけ日本郵船の得る補助金は圧倒的であり、補助金が交付されなければ、毎期はほぼ欠損になり無配となるべき経営内容であり、営業益金よりも助成金額の方が多かったのである(『日本郵船株式会社五十年史』)。日本を代表する日本郵船といえども、政府の手厚い保護のもとにおいてのみ、欧米先進諸国の先発企業との激しい競争に堪え、航行権を伸長できたのである。 第五章 明治後期の神奈川県財政 第一節 改正「府県制」と県行財政制度 一 県行財政制度 改正府県制・郡制 一八九九(明治三十二)年七月一日、改正「府県制」「郡制」が全国一斉に施行され、神奈川県もそれに従った(一八九九年五月、県告示第七一号「府県制施行ノ件」、『資料編』16近代・現代(6)三九)。神奈川県は、一八九〇年の「府県制」「郡制」を採用せず、制度上は一八七八年の三新法にもとづいた行政をおこなってきていたのであるが、ここにいたって、全国共通の制度を採用するにいたったのである。今回の改正の重点は、県会選挙の複選制から直接選挙制への改正、郡会選挙における大地主特権の廃止などであるが、県の法人性の明文化、府県会や知事の権限の拡大・明確化、財務規定の整備などを含んでいる。 もっとも、神奈川県をはじめ、大府県がこれまで旧「府県制」を採用せず、今回改正「府県制」を採用したのが、右の改正のせいかどうか、逆にいえば、右の諸点が改正されていなかったことが、大府県にとって旧「府県制」採用の障害だったのかどうか、明確でない。少なくとも神奈川県については、これまでのところ、こうした疑問を解きうる資料はないようである。ただ、国全体としていえば、日清戦争後、「河川法」「砂防法」「伝染病予防法」「獣疫予防法」「害虫駆除予防法」などに示される、内治の全国的な統一・向上を実現するために、中央の政党政派の紛争からある程度独立し、かつ、全国画一的な府県行政の確保が期待されて、こうした改革になったといってよい。 三部経済制 旧「府県制」では、はじめ三部経済制を三府以外には認めないことになっており、これが神奈川県において旧「府県制」を採用するうえでのひとつの障害となっていた。これは、一八九二年の改正でいちおう解消された(「府県制」第二七条第四項)とはいえ、それは応急の、例外的な規定との感をまぬがれなかった。ところが、改正「府県制」では三部経済制は、次のとおり、はじめから法文上完備されたものとなっている。まず、改正「府県制」第一四〇条は、「従前郡市経済ヲ異ニシタル府県ノ財産処分ニ関スル規定ハ内務大臣之ヲ定ム 特別ノ事情アル府県ニ於テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ市部郡部ノ経済ヲ分別シ市部会郡部会市部参事会郡部参事会ヲ置キ其ノ他必要ナル事項ニ関シ別段ノ規定ヲ設クルコトヲ得」と基本的な枠組を定めている。そのうえで、「市部会郡部会等ノ特例ニ関スル件」(九九年六月、勅令第二八五号)は、さらに具体的に左のとおり三部経済制を定めた。 第一条 従来市部郡部ノ経済ヲ分別シタル府県ニ於テハ内務大臣ハ其ノ区域ニ依リ市部郡部ノ経済ヲ分別シ市部会郡部会市部参事会郡部参事会ヲ設ケシムルコトヲ得 第二条 市部会郡部会ハ各市部郡部ニ於テ選出シタル府県会議員ヲ以テ之ヲ組織ス 市部又ハ郡部ニ於テ選出スヘキ府県会議員ノ数十二名ニ満タサルトキハ府県制第五条ノ定員ニ拘ラス之ヲ十二名トス 第三条 府県会ノ権限ニ属スル事件ニシテ府県会ノ議決ヲ経ヘキ事件ト市部会郡部会ノ議決ヲ経ヘキ事件トノ分別ハ府県会ノ議決ヲ経内務大臣ノ許可ヲ得テ府県知事之ヲ定ム若許可スヘカラスト認ムルトキハ内務大臣之ヲ定ム 第四条 市部会郡部会ヲ設ケタル県ニ於テハ名誉職参事会員ノ定員ヲ十名トス 市部会郡部会ヲ設ケタル府県ノ名誉職参事会員ハ各会ニ於テ其ノ定員ノ半数ヲ選挙ス市部参事会郡部参事会ハ府県知事府県高等官参事会員及各部会ニ於テ選挙シタル府県名誉職参事会員ヲ以テ之ヲ組織ス 第五条 府県費ニ関スル市部郡部ノ分担及収入ノ割合ハ府県会ノ議決ヲ経内務大臣ノ許可ヲ得テ府県知事之ヲ定ム若許可スヘカラスト認ムルトキハ内務大臣之ヲ定ム 第六条 第三条第五条ノ事件ニ付テハ議員定員ノ五分ノ四以上出席スルニ非サレハ会議ヲ開クコトヲ得ス 第七条 本令ニ規定スルモノヲ除ク外総テ府県制ノ規定ヲ準用ス 第八条 市部会又ハ郡部会解散ヲ命セラレタルトキハ其ノ議員ハ府県会議員ノ職ヲ失フ 附則 第九条 本令ニ依リ市部会郡部会ヲ設クル府県ニ於テハ従来市部若ハ郡部ニ関スル事件及市郡部連帯ニ関スル事件ハ本令ニ於テモ亦其ノ効力ヲ有ス 第十条 本令ハ明治三十二年七月一日ヨリ施行ス また、「市部会郡部会等ノ特例ニ依ル府県指定」(一八九九年六月、内務省令第二五号)は、神奈川県のほか、東京府・京都府・大阪府・兵庫県・愛知県・広島県の、合わせて三府四県がこの制度を採用しうる旨を定めている。 分賦制度 右の三部経済制を支えて、神奈川県財政の大枠を定めた重要な規定に、「分賦制度」がある。これは、九九年六月勅令第三一六号「府県費ノ分賦及不均一賦課ニ関スル件」の第二条「市部会郡部会ヲ設ケタル府県ニ於テハ府県会ノ議決ヲ経テ其ノ市部ニ属スル部分ヨリ徴収スヘキ額ヲ市ニ分賦スルコトヲ得」の規定にもとづいて採用された制度である。また、第三条は「法律命令中別ニ規定アルモノヲ除ク外市部会郡部会ヲ設ケタル府県ニ於テハ府県ノ費用ヲ以テ支弁スヘキ事件ニシテ其ノ市部ト郡部ト利益ノ程度ヲ異ニシ均一ノ賦課ヲ為シ難キ事情アルトキハ其ノ費用ニ限リ不均一ノ賦課ヲ為スコトヲ得」と不均一課税を定めている。この二つの規定にもとづいて、神奈川県では、一九〇〇(明治三十三)年以降、県内の郡部と市部とでまったく異なった県財政が施行されることになるのである。 すなわち、一九〇〇年一月の県令第八号「市部所属ノ県税額分賦ニ関スル件」(『資料編』16近代・現代(6)二一七)は、「市部ヨリ徴収スヘキ県税額ハ横浜市ニ分賦スルモノトス」と定めた。これによって、市部から徴収すべき県税は、県から市に分賦される。したがって、まずそれは市税(特別市税)として横浜市が徴収し、それが県の三部経済のうちの市部歳入に「市予算編入額」として計上される。それは、むろん市部自体のさまざまな経費をまかなう歳出に充当されるわけであるが、その一部はあらかじめ指定されている他の数項目の歳入分とともに「分賦負担額」として支出され、三部経済のうちの連帯歳入として受けとられる。連帯歳入は、一方ではこうして横浜市部から納入される分担分とともに、他方郡部からの分担分によっても支えられるのであるが、こうした関係は、のちに統計にもとづいて検討し、図示する。ともかく、ここでは県税収入が、いったんは横浜市の歳入として市の予算に計上され、ついでそれが県の市部歳入をへて市部歳出および連帯歳入になるというかたちで、市に依存していることに注意を喚起しておきたい。それは、もともと三部経済制を採用しなければならないほど、市部の経済的行政的実力が強かったことからきた制度であるといってよい。なお、神奈川県では、横浜市についで一九〇七(明治四十)年二月に横須賀市が誕生する市部所属県税額分賦の公報 県史編集室蔵 が、三部経済制の「区部」ないし「市部」は横浜市(区)のみをさし、横須賀市やさらにのち一九二四(大正十三)年七月誕生の川崎市などは、郡部に含まれるので注意を要する。この分賦制度に支えられた三部経済制が、この時期の県財政の骨格をなすこととなる。 分賦制度批判論 分賦制度は横浜市の独立性を尊重しつつ、同市を県の課税・徴税機構として利用したものであって、県としては摩擦の少ない、具合のいい方式であったとみえて、そののち、三部経済制の続く限り利用された。しかし、これにたいして、批判が皆無だったわけではないこと、およびこの制度がいかなる問題点をはらんでいたかを示すという意味で、つぎに一九一〇(明治四十三)年県会市部会でなされた議論を紹介しておこう(『神奈川県会史』第四巻八一ページ以下)。 一九一〇年八月三日、牧内元太郎は、「県税ガ府県制デ県会ニ附与セラレテアルノニモ拘ラズ之ヲ市ニ委ネテ、市会ハ特別市税トシテ取立ツテ居リマス、是ハ県会トシテ県会其物ノ権能及ビ県ノ権能ノ上ニ付イテ甚ダ面白クナイ」として、県側に対して質問をおこなっている。その要旨は、こうである。委任制度は九九年の県会ではじまったが、すでに一〇年以上経過して事情が変わっている。仮に委託するとしても、「寧ロ改選毎ノ県会ニ委任スベキヤ否ヤノ発案ヲ御出シニナツテ、其全員ノ協賛ヲ得」たうえでおこなうのが、時勢の変遷に適応しうる道である。また、横浜市側からみても迷惑である。というのは、同市の一般会計は一〇〇万円、特別会計をいれると二〇〇万円にのぼるが、そのなかで、四〇万円もの県予算を編入して議するのは、繁雑で負担過重であるからである。県側としても、自ら課税・徴税に当たれば、税源や課税物件について、時の変化につれて新しい把捉が可能になる。納税者側からいえば、県税は県税、市税は市税として徴収され、それと県や市の事業とを比較考量してこそ、税の良否が判定できる。そもそも、議会の生命は租税を議する点にあるのに、その予算だけは議して賦課徴収法を議しないというのでは、県民の意思を十分反映させえない。市会を通じて反映させるといっても、不明確にしかできず、「市ノ情態カラ見マスルニ、市税ト同ジ方法ヲ以テ賦課徴収サレ、市税ト県税トノ間ニ甚シキ区別若ハ区別アル思想ノ下ニ議決サレタト云フコトハ聞キマセヌ」。さらに、もし市会が不公平な賦課徴収をした場合に、県会でも審議することになっていれば是正しうるが、現在の制度ではそれができない……。 これにたいして県側は、当局においても十分比較研究してみるが、利害得失は断定できないと、ほとんど無内容の答弁をしたにとどまる。また、これを契機に、議員なり県民なりが、この制度変更のために、動いた様子もない。おそらく、議論としてはある程度傾聴に値するものがあると考えたとしても、この制度変更がもたらすであろう混乱と現状とを比較してみて、積極的に改正するメリットがあると認められなかったのであろう。 ところで、県財政は県行政の一面なのであるから、県財政検討の前提として、つぎにごく簡単に行政組織を中心に、この時期の行政にふれておくことにしよう。 戸数と人口 「府県制」が施行された一八九九年には、神奈川県の戸数一五万戸、人口九〇万人であったが、明治末にはそれぞれ二〇万戸、一三〇万人へと大幅に増加している。ちなみに、「市制」「町村制」が施行された年に当たる八九年には、一八万戸、九六万人であったが、三多摩が東京府に編入されたため、九三年には一四万戸と八〇万人へと減少している。したがって、減少した底に当たる一八九三年から一九一二年までの二〇年間をとってみれば、明治後半を通じて六万戸、五〇万人が増加したことになる。また、一三〇万の県民は、郡部に七九万人、市部に五二万人(うち、横浜四四万人、横須賀八万人)と分布しているから、市部とくに横浜市が、いかに県内行政で大きな比重を占めているかが読みとれよう。 これにたいして、一一郡のうち人口最大の中郡(五町二三か村)は一二万人、最小の津久井郡(三町一九か村)は三万人であり、人口密度では平方キロ当たり横浜市一万三四三四人に対して、最も疎な足柄上郡は一三一人、密な郡でも三浦郡の七一一人であり、市部平均一万一八五六人、郡部平均三一一人、県平均五四四人となる。当時、県会議員は、横浜市一二名、郡部二六名、合計三八名であった。 一般に、戸数・人口の急増とりわけ都市部の拡大および都市部と農村部の格差の存在は、しばしば行政や財政を膨張させ、複雑にし、しかも摩擦や衝突を生み出しがちである。たしかに、神奈川県の場合も、のちにみるとおり、財政はかなり膨張したし、摩擦や衝突もはげしかった。しかし、それは明治三十年代初頭までのことで、それを過ぎると県政はスムースに進展したようにみえる。そうなる要因を財政面からいえば、ひとつには前述したように、市部の県税を市に分賦することによって、さもなければ生じたであろう課税・徴税にともなう摩擦を市の内部で解消させることに成功したということが考えられる。だが、それ以外にも、前期の三部経済制を特色づけていた監獄費をめぐる市郡対立が、同費の全額国庫負担への変更によって、自然消滅したこともあずかって力が大きかったと思われるが、この点、後述する。また、この時期全体として、日本がそうだったように、県の経済が比較的スムースに拡大し、新たに増大する財政需要をそれほどの困難なしにまかないえたことが、背景としては重要であったにちがいない。またそれが、すぐ次にみるような、県行政機構の安定性をももたらしていたとみるべきであろう。 県の行財政機構 新しい「府県制」に対応して、一八九九(明治三十二)年六月勅令第二五三号「地方官官制中改正」がおこなわれた。これによって県庁の組織は、知事官房のほか、内務・警察の二部および監獄署となった。この官制では、財務に関して、内務部第一課の分掌中に「府県経済並郡市町村其ノ他公共団体ノ経済ノ監督ニ関スル事項」、および第五課分掌中に「府県ニ属スル国庫費ノ会計ニ関スル事項」「府県経済ニ属スル収支出納ニ関スル事項」などと定められている。県ではこれを受けて、「神奈川県庁処務細則」(『資料編』16近代・現代(6)四一)を定めた。それによると、右の財務関係事務は内務部第一課の地方掛、第五課の国費掛・県費掛で処理されたことがわかる。 こののち、九九年十二月内務部第六課新設、一九〇二年三月勅令第七三号により港務部設置、一九〇三年監獄署の司法省移管などの改正があるが、内務部と警察部を主柱とする県行政の体制は、一九〇四年まで変わっていない。というのは、新設の港湾部は、もともと内務部第六課だったもの(『資料編』16近代・現代(6)四一)が昇格したものであり、しかもその財政は、おそらく、すべて国庫によって負担されていたと思われ、県の財政としては表にあらわれてこないからである。 だが、一九〇五(明治三十八)年四月勅令第一四〇号「地方官官制中改正」によって、各府県は第一-四部を置くこととされた(神奈川県には、このほかに港務部がある)。これにもとづいて、県では「知事官房各部事務分課」(『資料編』16近代・現代(6)四三)を作成し、事務分掌を定めたが、財務関係事務は、第一部地方課地方掛、同部会計課国費掛・県費掛・調度掛などで処理されることとなった。 ところが、一九〇七年ないし〇八年五月以前にさらに変更があり、再び内務部・警察部・港湾部の三部にもどり、以後明治期はこのままで経過する。ここでは、財務は内務部会計課・同部地方課などの所管であった。 こうしてみると、途中で第一-四部というかたちになった三年間を含んで、前後一四年間、すなわち、本章で対象とする時期のすべてを通じて、県庁機構は内務部・警察部および一九〇二年以降の港務部から成っていたことになる。そのうえ、途中の三年間も、事実上は内務部を第一-三部に、警察部を第四部にと組みかえたにすぎなかったと思われる。したがって、ここには明治前期のめまぐるしい部課の変遷とはうって変わった、行政機構の安定が見出されるといってよい。それは、維新以来三〇年間の試行錯誤をへて、地方制度がようやく制度として安定・定着したことの一環を神奈川県においてあらわしているのであろう。なお、この時点で、港務部をもつにいたったのは、日本最大の港をもつ本県として、港湾行政が本格的に県レベルで内務部から独立した組織としてとりあげられたことを意味しており、この港務部は一九二四(大正十三)年税関に吸収されるまで本県の機構として存続した。 ついでながら、偶然かもしれないが、県知事もこの間ほとんど同一人物で占められている。というのは、一九〇〇年に着任した周布公平が、以後一九一一年まで一二年間にわたって在任しつづけたからである。一般に、県知事の同一任地での在任期間がどれほどであるかについて定かでないが、少なくとも、これ以前の神奈川県知事の最長が沖守固の八か年、次が中野健明の五か年であったのにくらべて、異常に長いことは事実である。あるいはこれも、この時期の全体的な「安定」のひとつのあらわれなのかもしれない。事実、長年県政における紛争の焦点をなしていた市郡対立は後述のとおり、就任早々の周布知事の調停もあって、いちおうの妥協にいたったのであって、かれはたまたま県政安定の時運に際会したにすぎない面も多分にあるとはいえ、それなりの手腕もあったのであろう。 県・郡の会計規程 新しい「府県制」のもとで、県の財務機構は、右のように整備されたが、その機構を前提にして、具体的・技術的な会計諸規程も当然整備されることになる。すなわち、県レベルでは一九〇一(明治三十四)年三月訓令第一六号「神奈川県会計規程」(『資料編』16近代・現代(6)九六)で、一〇章八一条に及ぶ詳細な会計の規程が定められた。 また、新しい「府県制」は、同時に新しい「郡制」を伴っているが、県の下部機構としての郡についても、財務会計制度が整えられた。「郡郡会計整理規程 県史編集室蔵 会計整理規程」(一八九九年六月、同書九三)や「郡財務規程」(同書九五)が、それに当たる。 また、神奈川県は、旧「府県制」を採用しなかったため、それにもとづく「県税」ではなく、三新法の「地方税規則」にもとづく「地方税」を徴収してきていたのであるが、新「府県制」採用にともなって「県税」を徴収することとなり、九九年七月県令第五〇号「県税賦課規則」(同書二一六)を制定した。これは県税一般に通ずる規定であるが、この県税を市部に分賦するための根拠規定が、前述のとおり「市部所属ノ県税額分賦ニ関スル件」であり、その細則が「市部県税分賦額徴収細則」(同書二二一)である。同じく郡部に関する細則が、「郡部県税徴収細則」(一九〇〇年四月県令第二四号、同書二二〇)である。 第二節 市郡間経費分担問題 三部経済制採用以来、繰り返し県政をゆさぶってきた郡市間の経費分担問題は、新「府県制」採用前後に最後の高揚期を経過し、それに結着がつけられることによって、県政ないし県財政はいちおうの安定期をむかえることとなる。その意味で、この時点での妥協の成立は、その後の県財政の出発点とみなすことができるであろう。そこで、本節ではその経緯をたどっておくことにする。 一 分担をめぐる対立 三新法期における分担方式 三部経済制成立以来、郡と市の負担問題の焦点は、市郡が連帯で負担する監獄費・警察費と郡の治水費とであった。というより、多くの場合、県会における多数をたのんで、郡部が市部に監獄費・警察費を多く負担させる方式を主張し、市部はやむなく、一人当たり五倍なり二倍なりの負担をしのび、その代わり、郡部が市部にも負担をせまっている治水費は、大部分が郡部に関わるものであるところから、郡部のみの負担とするというかたちで妥協をしてきていたのであった。それも、決して安定したものではない。たとえば、監獄費についていえば、郡と市の負担は平等たるべきであるという建前から、県提出の予算原案はつねに平等な人口割であり、それを、郡部議員が多数を占める県会が、市部一人当たり二倍などと修正するかたちをとっていた。ところが、一八九四(明治二十七)年の場合、県の原案がはじめから市部一人当たり二倍であったことから、市部議員が連袂辞職するという事件となった。そして、この紛争のため、九五年度予算は知事により原案執行されることとなった。ちなみに、神奈川県では、この時期しばしば知事の原案執行が繰り返されているが、そのほとんどは、こうした県会自体における市郡対立に根ざした審議未了からくるものであって、県会の一致した意向を、内務大臣の権力をバックにした知事が無視するというようなパターンではない。 ともあれ、たえず動揺しながらも、市郡負担問題は監獄費を市部一人当たり二倍、警察費を二・六倍などとし、その代わり、治水費は郡部負担とするというかたちで、危うくバランスをとって展開していた。ところが、九八年度にいたって、それをくつがえす主張があらわれ、また一波乱がひき起こされることとなる。 治水費負担問題 一八九八(明治三十一)年十一月、通常県会に提出する九九年度予算の準備のための常置委員会が開かれ、席上、郡部議員から、相模川・多摩川・酒匂川の三大川の治水費を、従来の郡部負担から郡市連帯にすべしとの提案がなされた。知事原案では、従来通り郡部負担とされていたが、常置委員会での郡部と市部の議員数は七対五であり、このため、右のような郡部の修正案が県会に提出される運びとなったのである。治水費についての郡部の言い分は、この三大川は、その性質上県下全体の利害に関係するものであるからというのであったが、市部側は他の重課を負っている以上、従来通りそれは郡部の負担とすべしと反論した。加えて、郡部側は、土木費中の国道に属する道路橋梁費の負担割合が、従来人口割負担であったのを、地租・営業税・雑種税・戸数割・賦金を基礎とするよう変更すべきであると主張した。その理由は、人口調べが不完全で、市部人口が過少に計上されているからというのであった。これも、市部への新たな重課をもたらすものである。市部側は、これまた従来の慣例をたてに反対した。しかし、会が成立すれば、多数の郡部側に制せられることが自明であるため、市部側はもっぱら欠席戦術にうったえて抵抗した。 この件は、同年末、知事や県選出代議士らの斡旋もあって、(一)警察費は原案の人口割および常置委員会案の巡査配当数割に代えて、人口割とする。ただし、市部は一人当たり二・六倍とする、(二)土木費は人口割とする、(三)三大川治水費は原案どおり郡部負担とする、(四)賦金収入は郡市とも各三万五〇〇〇円を連帯収入に繰り込み、道路治水の修築費にあてる、という条件で折り合った(『神奈川県会史』第二巻五〇二ページ)という。最大のポイントである治水費についていえば、市側の主張が通ったものといえよう。 若干の問題点 主として『神奈川県会史』によって述べてきた右の経緯について、なお、いくつか明確にしえない点が残っているので、今後の解明のための捨て石として以下に問題点だけ記しておきたい。まず、第一は警察費である。右の説明では、最終的に「人口割、ただし市部は一人当り二・六倍とする」ことで結着がついたという。この市部警察費分担の倍率については、例年多少変動があり、前年は「三倍三分」、前々年は「三倍四分」であった。こうした年々の倍率の変化が、何にもとづいているのか、『県会史』のかぎりでは、必ずしも明らかでない。したがって、この年の「二倍六分」という倍率の根拠も、必ずしもはっきりしない。さらに、警察費については、こうした問題もある。同書第二巻四九五ページには、この県会での「議決摘要」からの引用として、一八九九(明治三十二)年度警察費の当該箇所に「二倍六分」とあるから、同書五〇二ページの記述にもとづいておこなった、これまでの本書の記述は、それと平仄が合っている。ところが、同書第三巻九四五ページには、同年の「警察部及巡査教習所ニ関スル費用」は、「市郡連帯当該年度巡査配置数(傍点は引用者)ニ割合分担」となっている。このままでは、いずれが正しいのかはっきりしない。 第二は、監獄費である。同書第二巻四九六ページには、上述の「議決摘要」からの引用で九九年度監獄費は、「負担割合前項ニ同シ」とあり、その意味は同書四九五ページに従えば、「郡市人口ニ割合負担ス」ることである。この負担割合は、これまで繰り返しふれてきたように、ずっと「市部一人当り二倍」であった。それが、もしここで記されているように、九九年分から単なる郡市の人口割に変わったとすれば、それは市部の大幅な負担軽減を意味するはずである。なぜにわかにそうなったのか、これについて、県会でいかなる論議があったのか、『県会史』からだけではその経緯がたどりえない。なお、同書第三巻九四九ページによれば、一八九九・一九〇〇年の二か年(一九〇一年からは国庫支弁に移管、後述)の「監獄費」の負担割合は、第二巻四九六ページがいうように、単なる郡市の人口割ではなく、「在監人員ニ割合分担但本県在籍者ハ其ノ本籍地ニ……算入ス」るということとなっている。このくい違いが何に由来するのか、明白でない。また、そのいずれが正確であるにせよ、それと、前述の市郡紛争とのからみも、したがって明確でない。 第三は、治水費である。これこそ、議論の焦点なのに、用語などの点で、なお不分明な点があるようである。まず、同書第二巻四九五ページ以下の「明治三十二年度県会郡部会市部会議定事件及郡市連帯地方税負担並収入割合」には、「治水費」という文字はなく、したがって、その負担割合もあらわれていない。ところで、同書四九九ページには「従来同県会に於ては三大川の堤防費は郡部の負担なりしを以て、本年も知事は従前の如く郡部負担として議案を常置委員会に提出せしに、同会にては右の如く郡市連帯の地方税にて支弁することに修正」とあるから、右の文書に治水費がないのは、知事提出の議案だからであって、常置委員がおこなったという修正ではないからだ、と解釈できるかもしれない。しかし、それでは知事提出の郡部予算案(同書五一〇ページ)のほうはどうかというと、そこにも「治水費」という文字はなく、「土木費」のなかに「治水堤防費」がある。これが、問題の費目なのである。ところが、これをさすのに『県会史』では、「治水費」「土木費」、あるいは上記のように単に「堤防費」などという文字を用いていて、統一されていない。おそらく当時の用法もそうだったのであろうが、読者としてはよほど注意しないと、それらが同一の費目を意味することを見失うおそれがある。また、その金額はわずか三七一六円であって、対立の激しさの割に少額なのに驚かされる。金額より原則の争いだった、ということなのであろうか。 さらに、判断しにくいのが、同書第三巻九四六ページである。これは年次ごとの分担割合の一覧表の一部であって、一八九九年の土木費の分担がのせられており、その第三項に「郡内河海治水ニ関スル費用 郡部負担」とある。これは、前年まではなかった部分であって(同書第二巻七八八-七九四ページ)、この年からあらわれたものである。しかし、もともと知事原案は、従来のやりかたを引き継いだものであって、さまざまないきさつの結果、治水(堤防)費は原案どおりになった、というのであるから、この年からはじめて、右の文があらわれるのは、理解しがたい。また、原案は治水費をすべて郡部が負担する、となっていて、そう決定したというのならば、右の「郡内」という表現の意味がわかりにくい。「市内」は市が負担した、と読めるからである。 監獄費国庫支弁移管 以上みてきたような郡市の対立は、「府県制」採用の一八九九(明治三十二)年にいたってその様相を一変させた。というのは、一八九九年一月法律第四号により、一八九九年十月から監獄費を国庫支弁に復帰させることになったからである。もともと、監獄費は国庫負担であったのに、松方財政政策によってなされた中央政府の財政緊縮のあおりで、地方負担に移されたものであった。それゆえ、この負担をめぐる神奈川県内での郡市対立の際、郡部が、犯罪は市部に多いゆえに市部に負担を多く負わせるのは当然だと主張するのにたいし、市部はこう反論していた。元来、この種の経費は地方ではなく、国全体の問題として国庫が負担すべきものであり、それができないとすれば、止むを得ないから地方で、つまり郡と市とで負担せざるをえない。とはいえ、国庫に代わるのであるから、別に市部が多く負担する筋合いのものではない、と。もっとも、この反論は少数説のゆえにつねに破れてきていたのであった。それゆえ、この監獄費をもはや県で負担する必要がなくなるというのであれば、積年の市郡対立の火種の最大のものが解消するのであるから、県内にはようやく宥和がもたらされるかにみえ、多くの人びとはそう期待したようである。だが、事実はそうはならなかった。 二 妥協の成立 郡部の新要求 「府県制」最初の通常県会は、一八九九(明治三十二)年十一月末に開かれたが、ここでも負担割合をめぐって市郡が対立し、結局、「議決事件及分担収入ノ区分」「明治三十三年度神奈川県歳入歳出予算」などは議決されず、従前と同じパターンの原案執行となった。今回も、三大川の治水費がからんではいるが、それは、どうやらまとまりかけた郡市協調を破壊せんがための「自由党」のたくらみだったらしく、本筋は、賦金収入の取扱いだったようである。すなわち、十二月六日に参事会は、(一)警察費を巡査配置数に応じて配分する、(二)衛生病院費を連帯支弁にし、それをまかなう賦金収入も連帯収入とする、(三)勧業費・教育費・監獄費をいずれも戸数基準により配分する、などという案を決定した。ここでの重点は、いずれにせよ、すぐに負担の必要がなくなる監獄費を県財政史上はじめて郡市平等負担にしたという「名」にあるのではなく、新たに市部から大幅の持ち出し(三万二〇〇〇円)になる衛生病院費連帯支弁=賦金の連帯収入移管という「実」のほうであった。これは、さまざまな妥協策がめぐらされたものの、結局、市部議員の欠席戦術によって成功せず、前述のとおり、本会期の議案は審議未了、原案執行となったのである。この賦金の連帯収入移管要求は、三大川治水費連帯支弁要求ともども、監獄費というこれまでの重い負担が今後なくなるのだから、市部は今後はこれによって郡部の負担を肩代りすべきだ、とする郡部の新しい要求を意味している。 市郡協定の成立 右の紛争のおよそ一年後、一九〇〇(明治三十三)年十二月、周布知事の斡旋で左のとおり(『神奈川県会史』第二巻五〇九ページ)、新たな協定が成立した。そして、それが結局、明治後期を通して、県政・県財政に平安をもたらす半恒久的な協定となったのである。 一、警察費及警察部庁舎費の外、他の諸税は戸数を以て割合負担の事 二、県費支弁に属する国県道費用及河海の護岸費用に就て市の地籍に在る部分は市部単独負担の事、但他の道路の費用は従前の例に依る事 三、第四十五号国道費は他の国道の例に同じく連帯支弁する事 四、現在市郡各部所属の衛生及び病院費は、連帯支弁の事、但し現在病院敷地は市郡各部の所属に据置く事 五、貸座敷の賦金は連帯収入の事 これは、たとえば最大の焦点であった三大川治水費についていえば、第二項によって、市部は市部地籍にある部分のみを負担するのであるから、ほぼ市部の主張が通ったといいうる。一方、賦金・衛生病院費については、第四項・第五項により連帯に移すのであるから、郡部の要求が通っている。その他、国道負担などを含めて差し引きし、長い眼でみてどちらの側に有利な解決だったのか、にわかに判定しがたい。しかし、少数派で、つねに多数派の郡部に押し切られ、欠席戦術によってのみかろうじて主張を通してきた市部が、この協定によって、ひとつの安定的な地歩を固めたことは確かであろう。おそらく、それは議員定数によっては表現しきれない市部の商工業の経済的・政治的力量の高まりの投影であり、逆にいえば郡部の地主的・農業的利益が、議員数こそ多いものの、これまでの政治的な優位を保持し続けえなくなったことを示しているのであろう。当時の言葉づかいでは、「市民=進歩派(党)」と「農民=自由派(党)」の力の交替期に当たっていたのかもしれない。 ともあれ、新しい「府県制」が発足し、監獄費が国庫支弁に移されたという状況のもとで、郡部と市部とは、当時の相互の力関係を前提にして、こうした妥協点を見出すことによって、バランスをとったのであった。それがもたらす県政・県財政の安定は、政治的・経済的に上昇気流に乗ろうとしていた新興資本主義国家・近代国家日本の内治面における重要な支点となったとみなされよう。 告示第三八号 右の協定は、一九〇一(明治三十四)年告示第三八号「県会市部会郡部会ノ議決ヲ経ヘキ事件市部郡部ノ分担及収入ノ区分改正ノ件」となって、公布・施行された。それは、前年の告示第一三号「県会市部会郡部会議決事件及分担収入区分」(『資料編』16近代・現代(6)四二)を改正したものであって、全体はほとんど同文であるが、問題の個所を対比すれば、左表のようになる。これによれば、土木費の国道の項に、前年になかった「市ノ地籍ニ属スル部分ハ除ク」とあることや「郡内河海治水ニ関スル費用」が前年通り「郡部負担」となっていること、「衛生及病院費」が、すべて「市郡連帯………戸数ニ割合分担」となっていることなど、前述の協定が、そのまま制度化されていることがわかるであろう。 一九〇九年治水堤防費建議 神奈川県における分担問題は、こうした経緯を経て完全に鎮静した。というのは、その後、明治期を通して分担関係にはまったく変化が生じなかったし、変化を求める議案が理事者から提出されることもなくなったからである。とはいえ、その動きが少しもなかったわけではなく、一九〇九(明治四十二)年十二月の県会に、郡部議員から治水費負担変更の建議案が出されたことがある。ここでは、簡単にそれを紹介しておこう。建議案は、「従来郡部支弁ニ属スル多摩川、相模川、酒匂川ノ治水堤防費ハ市郡連帯支弁トナスヲ至当ナリト信スルカ故ニ来県会ニ於テ其負担割合更正ノ議案ヲ(『神奈川県会史』第三巻より) 提出セラレンコトヲ望ム」というもので、市部議員の一斉退場ののち、建議と決まった。提案者や賛成者の主張では、「兎ニ角県全体ヲ以テ支弁スルノガ至当」「相模川ニ就テハ、非常ニ横浜市ニ関係ヲ有ツテ居リマス」「東京府ノ方ハ連帯支弁デヤツテ居リ、神奈川県ノ方ハ郡部支弁」「相模川ノ如キハ飲用水ニモ大関係ガアリ」「東京府ノ方デハ完全ノ仕事ヲスルガ、コチラデハ、不完全ノ仕事」などという理由のほか、「元来此治水ナルモノハ国家事業、所謂国庫支弁ガ相当………併シ今日ノ処デハ県ノ事業ニ属シテ居リ………県ノ事業トシタ以上ハ矢張リ連帯支弁ガ相当」であるという、かつて市部が監獄費について用いたのとまったく同じロジックの主張もあった(引用は、いずれも『神奈川県会史』第三巻七九二-七九三ページ)。 建議の背景として、この前後神奈川県では風水害による河川の損壊が多く、郡部はその負担にたええないという事情も働いていたと思われるし、やはり、もともと治水費は連帯支弁にすべきだという要求が郡側には一貫してあったのであろう。しかし、この建議が生かされて、分担方式が変わったということはなかった。この時点で、改めて県政を混乱させるような改正が、実現しうる条件はなかったからであろう。 第三節 財政の実態 一 財政の構造 県内の財政の概観 神奈川県が新「府県制」にもとづいて、新たな県財政を本格的に発足させた一九〇〇(明治三十三)年をとってみると、その歳出規模は八三・七万円であった。それは、のちに詳しくみるように、連帯・市部・郡部の三部から成っている一般会計支出を合計したものであり、そのおのおのは、二四・九万円、一七・八万円、四一万円であった。しかし、いうまでもなく、県内の財政はこれに限られるわけではない。県についても、多くの特別会計や基金があるし、県財政のほかには市町村財政などもあるからである。といっても、それらすべてを合計することには問題があるので、いちおう一般会計的な性格のものについて、県のほか、国庫・郡・市町村の歳出をとり出して集計したのが、表三-七三である。ここで一九〇七年をとりあげたのに、特別な意味はない。本章で取り扱う時期のほぼ半ばに当たっており、かつ日露戦争も終わって、財政がいちおう平時化した時点なので、例示に便利だからである。 これによると、県内の歳出合計六六三万円のうち、県はわずかに三一・六㌫の二〇九万円を占めるにすぎず、市町村が三八四万円(五七・九㌫)で、過半を分担していることがわかる。また、国庫から支出されているものが一割ちかくある。これは、『県統計書』では「本庁経費」として載せられているものであるが、このなかでは、たとえば県庁の官吏の俸給旅費や、地方費補給、横浜の港湾費などが大口であり、県内で、中央政府が直接責任を負う部門についての支出といってよい。小口なが表3-73 県内総支出額(1907年) 注 『神奈川県統計書』より算出。市町村歳出額は『県統計書』によれば4,174,308円であるが,ここから県税部分に当たる300,792円(市部歳入の「市予算編入額」)と郡部の収入に当たる「町村分賦額」31,004円とを除いたため,上記の3,842,512円となっている。比率は小数点第2位を4捨5入(以下,本章中の表について同じ)。 表3-74 県内徴税額(1907年) 注 『神奈川県統計書』より算出。市町村税額は,『県統計書』によれば,1,494,768円であるが,ここから県税部分に当たる300,792円を除き,それを県税806,184円に加えたため,それぞれ上記のような金額になる。 ら、徴兵費などはその端的なあらわれといえよう(ただし、内務省所管のみで、他省分については、目下のところ不明である)。郡の支出は、わずか一㌫程度である。その財源は町村分賦額、国・県補助金、財産収入、雑収入、寄付金などから成っており、支出内容では、教育費・勧業費・各種補助などが多い。金額的にはわずかな意味しかないが、「郡制」廃止前のこの時期には、県の出先とはいえ、このように、いちおう独立性をもった財政が運用されていたのである。 なお、県内の各財政の相対的な地位をちがった角度からみるために、税の徴収額をみておく必要がある。表三-七四がそれを示している。これでみると、県内から徴収される租税全体は、五八六万円にのぼるのに、そのうち六〇・七㌫、三五六万円は国税として国庫に吸い上げられ、残りの二三〇万円を県と市町村とで、ちょうど二〇㌫程度ずつ折半していることがわかる。なお、この年には、国庫は右の国税のほか、国庫雑収入として六二万円ほどを吸い上げている。ただし、このうち五〇万円は横浜港湾設備納付金であって、それは、同年国庫が支出している港務費と海港検疫費の合計と、ほぼ見合う大きさである。このように、国庫による吸上げは、一方での支出によってある程度相殺されるが、差引きどうなるであろうか。まず、国庫からの支出をみると、前掲国庫支出県経費六一・五万円のほか、『県統計書』によって計算すると、県への補助金・補給金・下渡金計三九・八万円、市町村への補助金・補給金・交付金一〇万円、郡への補助金一三五〇円などがあり、合計すると一一一万円となる(ただし、制度が不分明なため、この間に重複があるかもしれない)。一方、国庫の吸上げは国税・雑収入合計四一八万円であるから、国庫への吸上げ超過は三〇七万円という計算になる。したがって、量的にみるかぎり、県内で観察される財政現象のうち、最大のものは国庫への資金吸上げ、ということになるわけで、市町村歳出がこれに次ぎ、県財政は第三位という位置づけである。 以下、その県財政(一般会計)に立ち入って検討するわけであるが、そこで正面からとりあげえない特別会計について、ここで一覧表をかかげておくことにしよう(表三-七五)。県財政が三部から成っていることに対応して、特別会計も三部それぞれに設けられている。とはいえ、一九〇七年の場合、市部・郡部については、それぞれに土木基金・教育基金の二会計がおかれているにすぎず、しかも両部とも、二会計は同額ずつ(市部二一八七円、郡部四三七四円)が歳入にあがっているにとどまる。そこで、表3-75 連帯部特別会計(1907年) 注 『神奈川県統計書』より。金額は円未満4捨5入。 ここでは連帯部の特別会計にかぎって表出したわけである。みるとおり、特別会計はすべて基金・資金を保有したり積み立てたりする、いわば「資金会計」から成っている。 三部経済の財政構造 前項では県全体の財政をながめ、そのなかに県財政を位置づける作業をしたのであるが、今度は、県財政をとり出して、その三部経済としての財政構造をしらべることとする。 改正「府県制」が本格的に発足した一九〇〇年の場合、県財政支出は、連帯二四万八八五八円、市部一七万七九一一円、郡部四〇万九九六八円、合計八三万六七三八円であった。ところが、それはいわば純計であって、『県統計書』によってそれぞれの支出の総計をみると、一〇八万五五九六円となっていて、この総計と前の純計との間には、二四万八八五九円の差がある。すなわち、総計のほうには、その分だけ重複があることになる。そして、この額が連帯収入=支出額そのものであることはいうまでもない。というのは、連帯は市部と郡部からの納入を受け入れて成り立っているのだからである。今それを図示すれば、図三-一三がえられる。以下、便宜上郡部の数字を用いて説明するが、図からわかるように、市部の場合もまったく同じ構造となっている。 まず、最下段の歳入からみていこう。郡部歳入は七三万四五七〇円であるが、このうち、翌年への繰越し一五万二〇〇〇円を差し引いた残り五八万二五七〇円は、郡部歳出額と一致する。ところで、この繰越し分を除いた歳入額は、予算・決算上は大きく税収入と税外収入に分けられている。このうち、連帯との関係でいえば、まず第一に税外収入のなかの市郡部連帯郡部収入は、図で示されたとおり、郡部歳出をへて連帯へ納入される。だが、連帯へ納入されるのはそれだけではない。図からわかるように、それ以外の税外収入と税収入を合わせたものの一部も、連帯へ納入される。すなわち、その二者が合わさって、中段の郡部歳出中の(市)郡部分賦負担額をなしているわけである。逆にいえば、郡部歳出五八万二五七〇円(一〇〇㌫)のなかには、郡部自体の支出分四〇万九九六八円(七〇・四㌫)と、郡部支出とはいっても、連帯へ納入する(市)郡部分賦負担額一七万二六〇二円(二九・六㌫)とがあるわけである(図中(イ)印)。 ところで、この一七万二六〇二円が連帯の郡部収入に当たるわけであるが、この連帯郡部収入の予算・決算のなかに、(市)郡分賦額一四万五三〇五円と表記されているものがある。これは、もとへもどって郡部歳入と対応させれば、そこで(市部)郡部連帯部収入とされていたものを除いたもの、すなわち税収入や連帯部収入以外の税外収入などの一部から、連帯へ納入されたものに当たっている。連帯の収入のうち、右の(市)郡部分賦額以外のもの-郡部歳入のうちで(市部)郡部連帯部収入と記されていたもの-は、連帯の予算・決算では、ひとまとめにされておらず、たとえば、財産収入のうちの郡部収入とか雑収入のうちの郡部収入とかいうふうに、個別に計上されている。 図3-13 連帯部・市部・郡部の歳入出関係 注 比率の(イ)(ロ)(ハ)は,対応することを示す。 まったく同じ方式で、市部からも連帯に納入されて、郡部からのこのような納入分と合わせたものが、連帯歳入=連帯歳出二四万八八五八円となるわけであって、前掲図の最上段がそれに当たる。したがって、同図で斜線をほどこした三つの部分が、各三部の支出であり、それを合計すれば、県支出の純計がえられ、市・郡部歳出中に斜線のない「市郡分賦負担額」を含ませ、かつ連帯の支出を合算すれば、全体としては、当然その部分が重複勘定となり、前述の総額一〇八万円余がえられるわけである。 つぎに前掲図によって、それぞれの内部構成をしらべてみよう。純計でみると、歳出は、連帯二九・七㌫、市部二一・三㌫、郡部四九・〇㌫と分担されている(図中(ロ)印)。しかし、それのもとになる郡部と市部の歳入は、下段に示すとおり、郡部六九・六㌫(五八万二五七〇円)に対し、市部三〇・四㌫(二五万四一六七円)と、七対三に分割されている(図中(ハ)印)。中段の歳出をみると、郡部と市部はおのおのの収入を、さらに七対三の割合に分割して、それ自体の支出と連帯支出とをまかなっている。そこで、上段に示すとおり、結局、郡・市部双方からの納入による連帯二四万八八五八円は、郡部からの収入六九・四㌫(一七万二六〇二円)、市部三〇・六㌫(七万六二五六円)から成り立っていることになる。 三部経済の構成変化 ところで、このような三部経済制の財政構造自体は、三部制が続く限り、こののちもほとんど変わりない。また、右でみたようなさまざまな分担の割合も、あまり大きくは変わらないようにみえるが、むろん固定的ではなく、ときとして変化をみせる。といっても、必ずしもすべてが明確に一定の方向をさして動くとはいいえない。というのは、県財政レベルでは、たとえば県庁舎や学校の建築、災害復旧や道路建設などが、ひとつおこなわれれば、一時的に財政全体を大きく動かしうるので、仮に財政に一般的な傾向があっても、それはしばしば攪乱されるからである。とはいえ、以下にみるとおり、大まかにいえば、この時期、県財政のカラーが農村的なそれから都市的なそれへも、次第に移り変わっていくことはたしかなようである。 表3-76 県歳出 円,(%) 注 『神奈川県統計書』より作成 表3-77 歳入 注 『神奈川県統計書』より作成 まず、表三-七六によって歳出をみると、県全体の歳出は一九〇〇年の八四万円から一〇〇万円をへて、日露戦後多少縮小したり膨張したりしながら、結局、明治末期には三〇〇万円に近づく。この間、三倍以上の膨張である。このなかで、三部がそれぞれどのような地位を占めたかが、つぎに問題となる。 まず、連帯の歳出は一九〇〇年の二五万円から四〇万円、二〇万円などと波をうちながらも、明治末期には一〇〇万円をこえるようになる。この間、それが県歳出全体のなかに占める割合をみると、だいたい二〇-三〇㌫台であるが、一九〇七年や一九一二年などのように四〇㌫をこえることもある。全体として、大正期までを見通すと、二〇㌫台から三〇㌫台へと、やや比率を高めているということになろうか。これに対して、市部は二〇万円から四〇万円の水準で、二〇㌫台と一〇㌫台が交錯しながら多少比率は下がり気味である。郡部もときには六〇㌫に達しつつも、五〇㌫台から四〇㌫台へ、金額では五〇万円から一二〇万円へと増えるが、これまた、比率では多少下がり気味ということになる。 これにたいして、つぎに郡部と市部との歳入をみてみよう(表表3-78 租税収入 注 『神奈川県統計書』より作成 三-七七)。両者の合計は、いうまでもなく歳出と同じく、一〇〇万円から三〇〇万円へと上昇しているが、その市郡割合をとってみると、波をえがきながらではあるが、だいたい、市部が二〇㌫台から三〇㌫台へと上昇し、したがって、郡部は七〇㌫台から六〇㌫台へと下降している。 さらに、租税収入だけをとり出してみよう(表三-七八)。これでみると、市部と郡部の逆方向への動きは、はるかに鋭くあらわれてくる。すなわち、はじめの数万円にすぎなかった市部の税収は、日露戦後の一九〇五・一九〇六年あたりに落ち込むとはいえ、一〇万円から三〇万円、五〇万円と一〇倍程度増加し、比率も一〇㌫台から三〇㌫台へと飛躍する。これに対して、郡部は四〇万円から一〇〇万円へと二・五倍になったにとどまり、比率は九〇㌫から六〇㌫台へと落ち込む。こうなるのは、歳入全体のなかには、国庫からの補助金や県債など、一時的に変動の大きいものが含まれているのに対して、租税のほうは(しばしば税率を動かすとはいえ)、はるかに直接に経済の動きを反映するからである。すなわち、この時期、日本経済全体の成長気運のなかで、神奈川県経済も拡大したが、それはとりわけ、市部における商工業の発展に負っていたのであり、税収もいきおい市部において、大幅に伸びることになったのである。 こうした傾向は、連帯収入を支える市部と郡部からの納入の割合にも、はっきりとあらわれている。連帯の収支額は、波をえがきながらも、一九〇〇年の二五万円から、一九一二年の一二〇万円へと増加していることは、すでに表三-七六で確認したとおりである。その支出をまかなう市部と郡部の負担割合は、一九〇〇年の場合は、前述のとおり三対七であったが、その後の動きをみると、表三-七九のとおりである。みるとおり、ここでは、ほとんど一方的な市部の上昇と郡部の下降が記録さ表3-79 連帯郡市負担割合 注 『神奈川県統計書』より作成 れ、出発点と到達点では、一三㌫ポイントの変化が起こって、四対六からやがて五対五へせまる趨勢を示している。 ひと言でいって、こうした県財政の都市化が、この時期の基本的な動向であるが、つぎに、そうした全体の傾向のなかでの、三部の財政の内部について検討をすすめることにしよう。 二 歳出 県の全歳出 県の歳出全体の各年の数字は、前掲表三-七六に示されているとおり、一九〇〇年の八四万円から一〇〇万円をこえたのち、日露戦後に九〇万円まで減少するが、のち二〇〇万円から三〇〇万円へと近づく。このように、振幅が大きいのは、日露戦争期に、支出が全体としてかなり抑制されたうえ、その反動でその後の支出圧力が強く、かつ風水害の復旧工事や学校建築など、支出を大幅に動かす要因が時々介在するからである。ただ、そのような変動があるとはいえ、全体として膨張傾向にあることは、否定しがたいところである。ただ、紙幅の関係で、この間の年次をすべてカバーするわけにはいかないので、以下、すべての項目について、初期を代表させるために市・郡部の分担関係が安定した一九〇一(明治三十四)年を、明治末期を代表させるために一〇年後の一九一一(明治四十四)年の数字をとって検討することにする。 そこで、まずはじめに県の歳出全体をとり出したのが、表三-八〇である。これによると、費目数がかなり多く、県の事業が多方面にわたっていたことが示されている。しかし、金額からみると、土木費・警察費・教育費の三項目で七〇-八〇㌫を占めており、県行政の主要な領域が、この三分野にあったことが明らかとなる。これ以外で、やや大きいものとしては、各種建設事業の拡大にともなって上昇している県債費が四㌫から七㌫、下降グループに郡役所費(四→二㌫)、衛生及病院・市町村衛生補助費(七→二㌫、最高は一九〇四年の一九㌫)などがある。ところで、こうした県全体の歳出は、三部の財政によってかなりはっきりしたかたちで分担されている。その点を、以下順次検討していこう。 連帯歳出 連帯歳出の内訳をみると、一九〇一年の場合、教育費(六一㌫)、衛生及病院費(一五㌫)、土木費(一二㌫)、警察費(七㌫)の四項目だけで九五㌫となり、ほとんどすべてが、ここに集中している(表三-八一)。のみならず、それ以外の事務の数は少ない。これにたいして、一九一一年には事務の数は大幅に増加しているが、目立って大きいものは県庁舎建築修繕表3-80 県歳出総額 注 『神奈川県統計書』より作成。科目名は,『県統計書』による(以下,同じ)。 費(一九一〇・一一・一二年の三か年がとくに大きい)ぐらいで、やはり教育費・土木費・警察費が大きく、衛生及病院費は後退している。教育費が大きいのは、師範学校・中学校・高等女学校・農学校・商業学校・工業学校など、この時期続々と新設整備された学校をはじめ、県の教育費がすべてここで計理されていることによっている。市部・郡部には、教育費は皆無なのである。衛生及病院費(衛生諸費と検黴費からなる)は、一九〇〇年以前は、大部分が市部支出で、郡部も僅少の支出をしていたのに、一九〇一年以降すべて連帯支出のみとなったため、大きくなっている。なお、連帯には、薫育院費・感化院補助費のような特殊な教育費や、神社費・地方改良費・神職講習補助費など、明治末期に出はじめた中央による地方へのイデオロギー指導費といった性格で、他部にないものが含まれているが、金額はとるに足りない。 市部歳出 市部歳出の構造(表三-八二)は、連帯よりもさらに単純である。というのは、大表3-81 連帯歳出 注 『神奈川県統計書』より作成。 表3-82 市部歳出 注 『神奈川県統計書』より作成 表3-83 郡部歳出 注 『神奈川県統計書』より作成 部分が警察費であり、それ以外でやや目立つのは明治四十年代に入って土木費がふえ、それにともなって、県債費がふえている程度であり、これらだけで九〇㌫以上を占めているからである。ただし、流行病発生年次には市町村衛生補助費が急増し、たとえば表示しなかったが、一九〇四年のごときは四四・三㌫と、ほとんど警察費なみの比率を記録した。その他の年にも、この費目はつねに数㌫を占め、ときには土木費を凌駕することもある。市部で警察費の比率が高いのは、都市であるという一般的な性格から当然であるが、そのうえに、外国人居留地をもっているという本県特有の事情にもよっている。したがって、県全体の警察費支出のうち、市が占める割合も当然高くなる。たとえば一一年の場合、県全体の警察費は四五万円であるが、そのうち市部は二五万円で五七㌫を占めているのに対し、郡部は一四万円で三二㌫にすぎない。なお、金額は数千円から一万円程度であるが、郡部はその数分の一しか支出していない救育費がある。これは、生活能力のない「貧民」を対象とする救済費であって、都市に下積みになっている貧困層が相対的に多か表3-84 土木費分担割合 注 『神奈川県統計書』より作成 ったのであろう。 郡部歳出 郡部では、土木費が断然大きくて六〇-七〇㌫、金額にして二〇-一〇〇万円を占めている(表三-八三)。もっとも、支出が抑制された日露戦争期の土木費は、絶対額・比率とも大幅に落ち込んだ。すなわち、一九〇一・一九〇二年に四〇-三〇万円で六〇-五〇㌫だったのに、一九〇四-一九〇五年には二二万-一五万円、四三-三二㌫となっている。これに次ぐ費目は、警察費が一〇-二〇㌫、県債費が数㌫-一五㌫、郡役所費が数㌫といったところである。 土木費は、事の性質上、絶対額・比率とも振幅が大きいが、概していえば、日露戦争期以外は県歳出全体の三〇-四〇㌫を占めて第一位にあった。その土木費はまた郡部支出のなかでは、右のとおりとびぬけて高い比率を占めているのであるが、土木費が三部によって、どのように分担されているかをみたのが、表三-八四である。これでみると、郡部は前半期にほぼ九〇㌫を、やや下がっても七〇-八〇㌫を支出しており、土木費は郡部のものとの色彩が強い。これが、教育費は連帯のもの、警察費は市部のものという、それぞれの特徴に対して、県の主要な歳出項目を郡部が分担している姿である。 なお、同じ土木費でも、郡部と他の二部とでは、内容にかなり違いがある。というのは、連帯と市部の土木費はほとんどすべて道路橋梁費からなっているのに対し、郡部のそれは、しばしば他の費目のほうが多いことがあるからである。年によってかなり違いがあるので、必ずしも適例ではないが、たとえば一九一一年の郡部土木費内訳は表三-八五のとおりである。これでみると、最大の費目は五八万円(六三㌫)の災害復旧であり、これに次ぐものは、経常・臨時部の治水堤防費(一九㌫)で、道表3-85 郡部土木費内訳(1911年) 注 『神奈川県統計書』より作成 路橋梁費は一六万円(一七㌫)にとどまる。したがって、郡部は土木費というのを、もっと立ち入っていえば、郡部は災害復旧費、ということになろう。もっとも、この費目は決算では一九〇六年以前にはまったくあらわれず、それ以後ほとんど毎年あらわれるようになる。これは、おそらく計上の仕方に変更があったせいであろうと思われる。災害復旧費は、その性格からして年によって大幅に変動するとはいえ、計上されるようになって以降つねに三〇-六〇万円にのぼって郡部支出費目のなかでは最大項目であり、これが郡部支出をリードしていることは明らかである。さらに、治水堤防費も、とくに臨時支出の場合は、災害復旧費の性格をもつことが多いことを考慮すれば、ますます郡部は災害復旧費、ということになるといってよい。 三 歳入 連帯歳入 三部経済制の財政構造について述べた際図示しておいたように、連帯歳入というのは、すべて市部・郡部経済から支出されたものが納入されるのであって、連帯経済それ自体の収入というものがあるわけではない。したがって、連帯歳入に関する数字は、表三-八六に示すとおり、経常部・臨時部ともすべて市部収入と郡部収入とからなっている。その割合が、はじめは三対七だったのに、次第にその差がちぢまって、明治末には五対五に接近したことは、やはり前述したところである。その内部構成は、経常部・臨時部を通じて、市郡分賦額とそれ以外のものとからなっている。このうち、後者は表に示したとおり、財産収入だの国庫からの支出金だの多数の項目からなっているが、前者は、やはり前述したように、市郡部の租税収入を中心としたものから納入される部分である。連帯収入は時の変化とともに、ある一定の傾向をたどるとはいいにくく、たとえば市郡分賦額をみると、一九〇一年には経常部一四・五㌫、臨時部三二・三㌫なのに、一九一一年に表3-86 連帯歳入 は五八・三㌫と収入なしとなっている。かと思えば、一九〇一年にはない積立金繰入が一九一一年には一五・三㌫もある、という具合である。ただ、全体を通じて、賦金収入(四四・八㌫と一四・五㌫)と市郡分賦額が、連帯歳入を支える二本の柱だということはいえそうである。 市部歳入 市部歳入の特徴は、何といっても「市予算編入額」という項目の存在であろう。これは既述のとおり、県税のうち横浜市地域から徴収すべきものを、市税として市が市予算に編入し、それから県に収納されるものを指している。それは市部歳入のなかで、およそ半分程度を占め(表三-八七)、飛び抜けた第一位となっている。それらは、むろん地租割・営業税・同付加税・雑種税・家屋税などからなっているのであろうが、その数値は県統計にはあらわれてこず、それを知るためには、市側の統計をみなければならない。そのため、ここでは制度変更直前の数字のえられる一八九九年の内訳を、表三-八八として掲げたわけである。おそらく、一九〇〇年代のはじめごろまでは、金額は次第に増加していっても、構成にそれほど大きな変化はなかったとみてよいと思われ表3-86 連帯歳入(つづき) 注 『神奈川県統計書』より作成 るからである。これによれば、税収=市予算編入額の大部分は雑種税からなり(代表的なものは表中に内訳が掲げてある)、家屋税・営業税がこれに次ぎ、地租割はごくわずかしか占めていないことになる。 これに次ぐものは、国庫補給金・補助金・下渡金など国庫からの収入であるが、年によっては県債(一九〇七・一九〇八・一九一〇年)や繰越金(一九一一年)が大きい時もある。なお、市郡連帯市部収入額は、前述のとおりあらかじめ連帯収入表3-87 市部歳入 注 『神奈川県統計書』より作成 たるべく定められたものである。その内訳は、連帯収歳の表のなかで市郡分賦額とされているものを除いたすべての項目のうち、「市部収入」と記された部分の合計に等しい。なお、表三-八七にはあらわれてこないが、一九〇〇年以前には「賦金」があった。これは既述のとおり、一九〇一年からは市部と郡部の協定成立によって、連帯収入(雑収入)に移されたため、市部歳入としては市郡連帯市部収入額のなかに計上されるようになったはずである。ただし、統計を追ってみると、そこではなくて、市予算編入額がこの年から一挙に五万円ほどふえ(前年の賦金は七万円ちかくあった)ているところをみると、ここに入れられたのかもしれない。というのは、連帯市部収入のほうは、この間わずか二万円程度ふえているにすぎず、前年七万円ちかくあった賦金が、ここに移されて計上されたにしては少なすぎるからである。 郡部歳入 郡部の場合、収入のなかに市部の場合の市予算編入額に当たるものがなく、直接に県税収入が表に出ていることはいうまでもない。これが形式上、ほとんど唯一の市・郡部の違いである。表三-八九によって金額をみると、八〇万円から二三〇万円へとこの間三倍ちかく増加している。表3-88 市部歳入(1899年) 注 『神奈川県統計書』より作成 この内部構成を税収入と税外収入に分けてみると、表では税収入が七〇㌫と五〇㌫程度であるが、この時期全体としては、概していえば税収が六〇-七〇㌫、税外収入が四〇-三〇㌫となっている。ただし、年による変動が大きく、税収の最高値は八〇・九㌫(一九〇六年)、最低値は翌一九〇七年の三九・七㌫という具合で、一定の傾向はとらえ難い。また変動をみると税収のほうは、一九〇〇年代前半は四〇-五〇万円、後半から明治末にかけて六〇-表3-89 郡部歳入 注 『神奈川県統計書』より作成 一〇〇万円と途中上下しながらも、概していえばなだらかな増加傾向を示すのに対し、税外収入はほとんど傾向をとらええないほど大幅に上下する。たとえば、表出してないが、一九〇六年一三万円ほど(一九・一㌫)なのに、翌一九〇七年には一二〇万円(六〇㌫)となり、一九〇九年に三三万円(三三㌫)に下がるかと思えば、一九一一年には表出したとおり一二〇万円(五三・八㌫)になる、といった具合である。こうした、大きくかつ非傾向的な変動をもたらすものをとり出してみると、繰越金(たとえば、一九〇六年の一〇〇〇円、〇・二㌫から一九〇八年六一万円、四一㌫へ)と県債(たとえば、一九〇九年のゼロから一九一〇年の六四万円、三一・六㌫へ)がおもな要因となっている。こうして、税外収入に大幅な変動があるため、収入の過半を占め、絶対的には必ずしも大きくは変わらない税収入の相対的な地位が、前述のように大きく動くことになるのである。 ところで、四〇-五〇万円から、のちには一〇〇万円にいたる税収入の構成をみると、市部の場合とはかなりちがったかたちがあらわれる。すなわち、次第に比率を下げていくとはいえ、歳入全体の四〇㌫から二〇㌫を占める地租割が断然第一位を占め、一〇㌫前後の雑種税および戸数割がほぼ拮抗して、これに続いている。しかし、多少立ち入って前掲表にもとづいて伸び率をとり出してみると、税目ごとの格差がかなりはっきり認められる。たとえば、一九〇一年と一九一一年との間で、地租割は一・五倍、雑種税は一・九倍、戸数割は二・五倍となっており、市部にくらべれば、依然として農業部門への依存が高いとはいうものの、郡部にあっても人口増(戸数増)や商工業拡大にもとづく税収増加のほうが、農業・土地からの税収増加よりも趨勢としては大きいことがわかる。 第四編 第一次世界大戦前後の神奈川県経済 第一章 第一次世界大戦と京浜工業地帯 第一節 京浜工業地帯の発展と内陸工業 一 重化学工業の好況 戦争景気の到来 一九一四(大正三)年勃発した第一次世界大戦は、日本の政治・経済・社会各方面にきわめて大きな衝撃を与え、とくに資本主義の発展に大きな転機をもたらした。とくに経済界に及ぼした影響は顕著であった。大戦直前の日本経済は、日露戦後不況のただなかにあり、累積した外債の元利支払いにも困り、国内では会社や銀行の倒産もあいつぐ深刻な状況であった。開戦当初は、戦争の行方を測りかね、日本経済は一時的に混乱した。欧州財界の混乱のため、貿易は減少するか、または途絶し、日本の産業に打撃を与えた。とくに生糸の輸出が激減し、その結果生糸価格の暴落を招き、農村は大きな痛手を被った。開戦後一年ないし一年半を過ぎた一九一五年後半から一六年前半ころにかけて形勢が一変し、戦争景気が到来した。 戦争が長期化してきたので、連合国から兵器・軍需品・食料品などの注文品をはじめ、インド・中国などの諸地域からヨーロッパ諸国の製品が減退するに至り、その代替品として日本商品への需要が増大し、輸出は急増した。一方、内地産業の勃興につれ、外国産原料品に対する需要は激増し、輸入も急伸した。一九一六年以来、貿易総額は未曽有の膨脹を示した。一九一五年から一八年までの戦時四か年に輸出総額五四億円、輸入総額四〇億にのぼり、差引きすると一四億円の出超であった。また海上運賃や用船料が暴騰し、海外貿易の活況が一段と運賃収入を増大させた。さらに保険料収入が増加したので、貿易外受取勘定が増大し、戦時中に受取超過額は約一三億円に達した。貿易の出超と貿易外受取勘定の増大により、約二七億円の正貨が流入してきたため、国際収支は好転し、日本が保有する正貨は著しく増加した。開戦時の正貨は、わずかに三億五〇〇〇万円にすぎなかったが、戦争の終わった一九一八年末には一五億九〇〇〇万円をかぞえ、戦前の四倍になった。日本は、開戦前までは伝統的に債務国であって対外債務の利払いにさえ苦しんでいたが、戦時中に債務は急減し、逆に外国債へ応募するまでに余裕ができ、一挙に債権国に変わった。 輸出貿易が増え、国際貸借関係が好転したことに、物価騰貴が拍車をかけたので、直接に内地産業界に好刺激を与え、戦乱が拡大するにつれ、各種の事業が勃興した。戦前と開戦後の諸事業の新設や拡張の状況を概観すると、一九一四年の計画資本二億五〇〇〇万円が一八年には一〇倍余の二六億七〇〇〇万円を超える盛況であった。そのなかでは、造船業を中心とする製造工業がもっともさかんであり、大戦中の重工業発展の花形であった(日本銀行調査局編「世界戦争終了後ニ於ケル本邦財界動揺史」『日本金融史資料明治大正編』第二二巻)。 浅野造船所の設立 大戦中、世界的な船舶不足に乗じ、日本海運業はばく大な利益を収め、隆盛をきわめたが、そのことは当然に船舶の需要を活発にし、造船業の繁栄をもたらした。造船業を先頭にしてこれと関連する鉄鋼業・機械工業などの発展を刺激しながら、大戦前とは様変わりに、日本の重工業は大きな前進をとげた。 阪神地方および長崎県とならんで神奈川県は、古くから造船王国を誇ってきたが、大戦中、既存の造船所の拡張だけではなく、新たに大規模な造船所が設立された。その代表的な企業が浅野造船所であった。 浅野造船所は、浅野総一郎が一九一五(大正四)年四月創立した横浜造船所を同年十二月に至り改称したものである。浅野は第三編第一章で述べたように、鶴見川河口以東から多摩川に至る海岸を一五〇万坪埋立造成する計画をたて、一九一三年初めに神奈川県知事大島久満次の認可を得て着工したが、鶴見川河口の西側でも埋立造成を計画し、造船所を建設する構想を抱いていた。 東洋汽船の社長であった浅野は、船主と造船業者とは密接な連繋が必要であると考え、浦賀船渠の会長を兼ねていたが、一九一一(明治四十四)年末退職後は自分の意思の通じやすい自前の造船所を横浜港の近くに経営する意欲をもち、一九一二年子安・生麦地先海面一一万坪の埋立てを県知事に出願した。ついで翌一九一三年七月十五日、安田善次郎と連署のうえ、計画を三四万六〇〇〇坪に拡大して、造船所用地のほか一般工業用地の造成を付け加え、再度出願した。造船台六基、船渠二か所をもつ大造船所案で、埋立工費と造船所設備費として四八〇万円を計上した。早くも一九一二年九月には、東洋汽船技師の原正幹をヨーロッパへ派遣し、造船所の設備や組織を視察させ、造船所の設計案を作成させるという手順の良さであった(『資料編』17近代・現代(7)一七一)。 これよりさき一九一一年三月、横浜市が工場招致政策の一環として市営埋立事業を経営する計画をたて、子安と生麦地先の海面三四万坪余の埋立てを出願していた。浅野の計画は横浜市案と埋立地がほぼ重なるものであり、両者の折衝は難航していた。一九一二年二月県知事になった大島久満次は、先願者の横浜市案を許可せず、さきの一五〇万坪造成許可につづき、今回も浅野案を認める意向であった。裏面には浅野と政友会系知事との政略的な結び付きがあったといわれる。横浜市は、一九一四年八月、ついに子安・生麦地先海面の埋立出願を取り下げるに至り、浅野の出願が認められるかにおもわれた。ところが、内務省管下の港湾調査会が航路保安のため沖合の一定線外に施設の築造を許さない方針を堅持し、浅野の計画にある防波堤の築造がそれに触れるとして反対したため、ついに浅野の埋立案は許可されないで止んだ(『横浜市史』第五巻上)。 浅野は、造船用敷地が未定のままに、会社の設立を急ぎ、一九一六年四月十五日、横浜造船所(資本金三七五万円、うち四分の一払込み)を設立し、社長を兼ねた。社名に、浅野を冠しなかったのは、造船所を横浜港内に求め、横浜地方の有力者の援助を仰ぎ、横浜船渠(資本金三七五万円)と提携する意図によるものであり、資本金を同額にしていたのもそのような配慮にもとづいた。浅野は、造船所の経営方針としてイギリス流の造船分業法を採用し、設備は造船組立工場のみにとどめ、造機・製缶は他の専門工場と特約して製作させることにした。先発の同業者が、よろず屋式に船舶用品を自社内で製作し、施設をぼう大化している傾向に対し、浅野は分業に徹して船体の製造と組立てのみを行い、標準船型を設計して同型船を反覆建造し船価を安くする方針を決めた。その前提としては、造機・製缶の特約者が必要であり、浅野は内心では横浜船渠を予定し、会社の設立以前からその隣地の倉庫用地や周辺の鉄道院、大蔵省の官有地の貸下げや買収を試みたが、いずれも不調であり、横浜船渠との交渉も進まなかった。ついで高島町所在の大蔵省所有地前海面埋立てを県知事に出願した。横浜港内の埋立てには、横浜市会と港湾調査会の承認が必要であり、知事有吉忠一(一九一五年八月就任)は、市会に諮問した。市会は工場招致の横浜市の方針に合うので、基本的に承認したが、六月末に至り港湾調査会は造船所建設のための港内埋立てを認めないとの決議をして、またもや浅野の造船所建設案をつぶしたのである(浅野造船所編『我社の生立』)。 東洋汽船はA型船(八三〇〇トン、速力一五ノット)三隻をすでに造船所へ発注済みであったし、造船所の準備も、原正幹が東洋汽船保船課長を辞し、造船所へ専属となってA型船設計や創立事務を担当していた。川崎造船所技師加藤良が関西方面の技術者を集め、創立とともに入社し、原とともに取締役になった。原料鉄材も創立以前にアメリカへ発注してあった。大戦の影響で大平洋の海上輸送は輻輳し、一般の造船所では入荷見通しがたたないところがあったが、横浜造船所の鉄材輸送は東洋汽船が担当したのでそのような不安はなかった。こうして人材を集め、材料を手配し、東洋汽船という大船主を背景にして横浜造船所は開業したが、敷地が決まらずに六月末まで待ちながら、結局は港内の建設は否認された。浅野は、港湾調査会の決議が出た翌日、顧問寺野精一や造船所の首脳部を鶴見に召集し、埋立権を得て造成を進めている潮田村地先を展望しながら、社長を兼ねる鶴見埋築会社の第六区埋立予定地に造船所新設を提案した。すでに鉄材の一部が到着し、陸揚地を一刻も早く決めなければならなかったし、造船所の立地が再々変更し宙に浮いていては、会社の信用にもかかわり、これ以上延引できなかったので、ただちに鶴見に造船所建設を決断せざるをえなかったのである。 浅野総一郎は、毎月一万坪を埋築し、でき上がった順に工場建設を急がせれば遅れを取り戻せると考え、七月末から鶴見埋築会社に突貫工事を開始させた。九月中旬に七〇〇〇坪、翌一九一七年二月までに四万五〇〇〇坪を造成し終り、工場建設も一九一六年十月から一七年三月にかけて第一工場から第一一工場まで総延坪四〇〇〇坪を完成した。サンドポンプ浚渫船で海底土砂をさらい、護岸防波堤、桟橋を同時に施工するかたわら、埋立てが完成しないうちに一九一六年八月上旬から造船台建設に着手し、海上はるかの沖合工事に小舟で往復しながら工事を進め、一九一七年三月までに、四基の造船台を、七月までにさらに二基を増設した。造船台間を移動して使用するタワークレーンは、当時世界でも珍らしかったが、国産の石川島造船所製品を採用し、五月までに一二台を装置した。 浅野総一郎は、鶴見沖に埋立造成が進行し、新造船所の姿を整えつつあった一九一六年十二月、浅野造船所と改称した。すでに横浜港内設置案が挫折し、さらに横浜船渠との提携に失敗し鶴見沖に立地した以上、あえて横浜造船所と名乗るいわれがなくなったからである。一九一七年二月、第一船の起工を皮切りに、三隻を起工し、四月七日、浅野造船所の開業式を挙行した。前年夏から八か月余の短い間にもかかわらず、一漁村潮田村の沖合に約五万坪の工場造成地、六基の造船台や大工場群が、突如として出現したのであるから、臨席した人はただ唖然として驚嘆したという(前掲『我社の生立』)。 横浜船渠の造船開始 一九一〇(明治四十三)年に中央倉庫を合併以来、ほぼ一八万円台の利益をあげていた横浜船渠は、一九一四年上期に一二万七〇〇〇円に急減した。一般産業界の不振による影響であるが、外人経営の効果が万能ではないことを知り、これを再検討して局面を打開しようとする動きがみられた。一九一四年六月三十日、役員の改選を行ったところ、ハチソンは辞任した。技師長トムプソンもまたハチソンの後を追って辞職した。外国船の入渠勧誘や外資借入れに役立ったハチソンや船舶修理の監督にあたったトムプソンが同時に去ったので、横浜船渠は外人との合弁経営を廃し、すっきりした姿になったが、その翌月第一次世界大戦が起こった。 戦争の余慶は船渠部門にもおよび、入渠船は一九一六年上期から急増し、倉庫の保管高も伸び、好況を迎えた。同業他社が積極的に造船部門の拡張や新設にあいついで乗り出しているとき、横浜船渠は外人株主が多いため、新造船に対し造船奨励法の恩典をうけることもできず、消極的な経営に馴れてしまい、船舶建造のような積極的事業に必要な人材を育てなかったとがめが出てきた。造船奨励法は一八九六(明治二十九)年制定公布され、当初七〇〇トン以上、一九〇八年改正後は一〇〇〇トン以上の鋼船建造者に一定の奨励金を交付し、民間造船業の発展を図ったものであるが、保護対象を日本人のみを社員または株主とする企業にきびしく限定していた。外資の影響力を脱しナショナリズムを前面に出した特徴ある政策であるが、横浜船渠にとっては、保護の対象外に甘んじるほかはなかった。外人社員が去ったので、外人株主の存在が新造船へ展開する方向を阻むおそれがあった。 横浜船渠は、経営体質の消極性を表現するともみられた外人株主の排除を目指し、一九一六年六月、定款を改正し、株主を日本人に限った。経過措置として、現株主は現在所有株数の限度内であればひきつづき株主として認めることにした。改正直前の五月末日には、外人株主六五人、株数六九〇一株で、発行総数七万五〇〇〇株の九・二㌫を占めた。住所を調べると、京浜地方在住者が多数であったが、少数の株主はイギリス本国やフランス、スイス、アメリカなど欧米各国に広く分布し、国際色の濃い会社であった。以後、外人株主は激減したが、過渡的な例外措置を認めていたので、一年後の一九一七年五月になっても八人、四五二株が残り、そののちも減少したが根絶するまでには至らなかった。数名の外人株主とはいえ、存在そのものが、造船奨励法の適格造船所資格を得ようとしていた横浜船渠の新造船進出を制約しつづけたのである(寺谷武明『日本近代造船史序説』)。 横浜船渠が、船渠業や倉庫業を固守していても、十分に利益をあげることはできたけれども、そのような消極的経営を揺るがしたのが、浅野造船所の出現である。浅野造船所は横浜船渠を機関製作メーカーに想定し、その隣接地の払下げや海面埋立てを計画していたので、もし実現すれば、横浜船渠を外側から囲い込む新造船所が設立されたはずであったが、前述のようにすべては不調に帰し、鶴見沖に工場を建設し、一九一七年四月開業式を挙げた。日の目を見なかった浅野の雄大な計画は、造船部門を欠いたまま安閑としていた横浜船渠に対し強い衝撃を与えた。浅野がまったく新しく土地の埋立造成から始めて、造船業を興してさえ採算がとれる見込みがあるとすれば、すでに船渠業で長年の実績をあげ、小型船なら五〇隻前後の建造経験をもつ横浜船渠の方が、容易に本格的な造船部門進出を果たしえよう。株主が船渠業固守の消極的姿勢にあきたらなく感じるのは当然であり、経営陣といえども、これらの動向を黙殺できるものではない。海運業の盛況の持続がなおも予想されたので、首脳部は造船部門の進出を検討するに至り、その際は造船奨励法の適用資格を得るにこしたことはなく、その条件をつくり出すため外人株主の排除を敢行したのである。しかし、その残存株主を除去できなかったことを口実にして造船部門の創設を断念できる状勢ではなかった。 一九一七年一月、依然として続く船舶不足の風潮に逆えず、造船部門開業を決定し、造船台の新設に着手した。弱点である新造船の熟達者の欠如を補うため、前逓信省船舶課長・工学博士の今岡純一郎を造船事業の計画および事業遂行担当者として専務に迎え入れた。今岡はたんなる技術行政官ではなく、その論説が業界や学界でも注目されていた人材であり、このような権威者を技術の最高責任者に据えてこそ、新部門へ乗り出すことができた(『資料編』17近代・現代(7)一四六)。 一九一七年五月末、第一号造船台の一部が出来上ると、完成まで待たずに、すぐに二〇〇〇重量トンの鋼船を仕入船として新造にとりかかり、九月進水、十一月完成した。入札の結果落札した岸本汽船へ売却した。これが新造船の一番船であった。横浜船渠が受注生産方式をとらず、仕入船という見込生産を開始したことは特徴的であった。造船市況が一方的な売手市場であるため、比較的容易な中型貨物船を仕入船の対象に選び、工程に馴れてから大型船へ向かう方針であった。そのためには、大型船台や造船・造機工場の新設が必要であり、一九一八年三月第一号船台の完成につづき、二号から五号までの四船台の完成を急ぎ、迅速に操業した(『資料編』17近代・現代(7)一四七)。 浦賀船渠の回復 一九一三(大正二)年下期にようやく無配から六分ながら復配し、業績が上向いてきたとき、浦賀船渠は大戦を迎え造船ブームに乗り大躍進をとげることができたので、その直前の整理はタイミングに恵まれたというべきであろう。一九一四年下期に海軍から二等駆逐艦桐(六六五トン)を受注した。海軍は同型艦一〇隻を発注したが、浦賀船渠の分のほかは四つの海軍工廠へ各一隻ずつ、川崎造船所へ二隻、三菱長崎造船所へ二隻、大阪鉄工所(現在日立造船所)へ一隻という内訳である。日本が連合国側に立って参戦したが、日本海軍には沿海用を除くと遠く大平洋を越えて転戦できる駆逐艦がなかったため、急造することになった。この一〇隻はすべて一九一四年十一月に起工され、一五年の三月から四月にかけて竣工した。半年という建造期限の制約があり、昼夜兼行を余儀なくされたが、無事完工したことは浦賀船渠に大きな自信を与えた。軍艦にとどまらず創業以来最大の鋼製貨物船第五長久丸(二一三八トン)を建造し、造船奨励金を交付された。一九一五年上期には同型貨物船五隻の発注をうけて、造船所として雄飛できる絶好の機会をつかみながら、造船用鉄材の入手難のため受注の一部のみを消化するにとどまった。一九一六年四月にはイギリスが鉄材輸出禁止策をとったので事情はいっそう苦しくなったが、二二〇〇トン級五隻を竣工し、さらに東洋汽船から七〇〇〇トン級の同型貨物船五隻を受注するというように、造船ブームの恩恵を除々に受けてきた。創業以来の最大船を多量に受注するに至り、造船台を増設し、機械を増やし、工場建物の増築をはかるなどして整備した。しかも浦賀本工場のみならず、一九〇二年に石川島造船所から買収し、修理工事に使用していた浦賀分工場で、一九一六年から再び一〇〇〇トン以上の船舶の建造を開始し、建造能力は一段と増強された。 一九一七年上期には、新造船の注文が殺到したけれども、「限アル工場能力及ビ材料供給ノ関係等ハ多数ノ注文ニ応ズル能ハサリキ」(浦賀船渠『第四拾壱回事業報告書』)という有様であった。この年は七隻、三万三〇〇〇トンを完成させた。戦前には予想されなかった盛況である。建造量の上昇に応じて業績も向上し、利益は一九一五年上下両期の五万円台が一六年上期に一挙に二五万円に挑ね上り、同下期にはさらに六〇万円へと急上昇した。一九一七年上期に四七万円と反落したが、下期に急転し六六万円ととどまることを知らぬ好調である。配当も臨時分を含めて一九一五年上下両期七分が一九一六年上期一割五分、下期二割と増配を重ね、一九一七年上期には実に六割の高配当を実施し、浦賀船渠の空前絶後の記録をつくった。下期以降は四割にとどめた。このような繁栄のただなかにあった浦賀船渠の経営陣は、強気の積極政策をとり、一九一七年八月、現資本金八〇万円に、四二〇万円を増資して、一挙に五〇〇万円にすることを決め、一部を第三者割当ての大型増資を敢行し、工場能力の増強に踏み切ったのである(『資料編』17近代・現代(7)一五五)。 内田造船所の設立 内田造船所は、第一次大戦中の造船ブームを背景にして、突然横浜の地に現われ、数年の操業をしたのち消えたように企業生命はきわめて短かかったが、関東地方の造船所でも最大の建造能力を示した注目すべき造船所であった。 事業を興したのは、のちに本編第二章第二節で述べるように、「船成金」の内田信也である。内田は神戸で内田汽船会社を設立し、機敏な汽船の売買や用船によりばく大な利益をあげ、関西の本拠地にあき足らず、関東に進出して造船業を経営しようとした。浅野造船所の例のように、船主が自家用の造船業を兼営するのは、船価が高騰を続け船舶の入手難な時代には総合的な強味を発揮することを期待できるからであろう。内田は浅野のように造船業をまったくの新規から開始するのではなく、既存の造船所への経営参加をしてのち、やがて経営権を手中に収めるというかたちをとった。第一次世界大戦中の造船ブームに便乗するためには、一日を争って早く開業しなければならないからである。 内田は、山下町に所在した横浜鉄工所に目をつけ、経営に加わった。その前身はイギリス人が一八九八(明治三十一)年に創業した横浜機関鉄工所であり、開戦前年の一九一三(大正二)年には年間売上高四〇万円、職工数三〇〇人、原動力機関八台、一七五馬力の施設を持っていた。横浜市内の機械船舶工場は一七を数え、そのうち年間生産額の首位は横浜船渠であり、断然他工場を引き離していたが、二番目に、規模は内田造船所造機工場 『株式会社内田造船所概要』より その約三分の一程度にとどまるとはいえ、この鉄工所が格付けされるので、零細工場の域を脱した中堅工場であった。これを、イギリス人から進経太が一九一六年十二月買収し横浜鉄工所と改め、従来のように船舶の修理や製造および機械の製作を続けた。進は長州出身で一八八五年工部大学校機械科を卒業し、フランスとイギリスで造船工学を研究し、帰朝後石川島造船所へ招かれ、取締役技師長へ累進したが、一九〇一年に退社した。同年工学博士の学位をうけ、逓信省や鉄道院の顧問を経て機械類輸入に従事していた。進はこのように造船技術の熟達者であり、横浜で船舶の造修業を始めたが、事業拡張のために、内田を資金提供者として迎え、一九一七年から共同経営にはいった。 一九一八年四月、横浜鉄工所は千若町に新しく造船工場を設ける時、内田造船所と改称した。こうして内田信也は進経太の造船技術を地盤にし、豊富な資金を利用し、関東地方へ足場を築くことに成功した。内田の資金力をもってすれば、共同経営から単独経営に移るのは容易であり、社長に自ら就任し、進経太とともに長兄を専務に据え、経営を全面的に掌握した。 内田造船所は、資本金二〇〇万円、山下町に造機工場、千若町に造船工場、守屋町に分工場をもち、職工や人夫数は同年末に三〇〇〇人を越えた。イギリス人経営時代に比すと、目を見張る膨脹ぶりである。造船工場の施設は、造船台三基をそなえ、いずれも最大六〇〇〇トン級船舶の建造が可能であった。建造能力では横浜船渠を抜き、京浜地方最大の造船所へのしあがった。千若町の大規模な造船工場で、ただちに一二〇〇トン級の仕入船二隻、二二〇〇トン級の同型船四隻の建造を始め、短い間に完成し、大戦末期にかろうじて間に合った(前掲『日本近代造船史序説』)。 日本鋼管の発展 大戦中、日本の重工業は造船業をはじめ大きな飛躍をとげた。機械工業の発展は基礎資材である鉄鋼の需要を増大させたし、また戦争により外国から鋼材の輸入が難しくなり、各種鋼材は高騰を続け、わが国の鉄鋼業に二重の好影響を与えた。 日本鋼管は試運転時代を終わり、本格的な操業に入ったときに、大戦の勃発にあい、出帆早々に満帆に順風を得たような予期しない幸運に恵まれ、活況を呈した。鋼管を造る専業会社として平炉二基と鋼管圧延設備のみで開業したが、各種鋼材は需要が激増する情勢に向かっていたので、製品の種類を広げるため、つぎつぎと工場設備を拡張した。 一九一五(大正四)年三月、鋼管材料以外にも多量の鋼塊を生産できる余力があるので、月産一二〇〇トンの製条工場の建設に着手した。建築材料には自社製の鋼管を使って鉄骨工場を建築し、合理的な工場建設ぶりを見せた。鋼管利用の日本最初の建物といわれる(『資料編』17近代・現代(7)一七五)。七月に完成し、八月から一インチ以下の小型製条を生産したが、それ以上の二インチから三インチまでの製品の需要が多いので、一九一六年七月に中型製条工場を完成し翌年には当初の月産一〇〇〇トンが一五〇〇トンまで生産を増大した。鋼塊生産能力を増強するため一九一六年に平炉二基を増設したほか、製鉄工場の建設・拡張や直径三インチ以下の細管工場の建設にとりかかった(『資料編』17近代・現代(7)一七六)。 鋼塊の原料である屑鉄は、アメリカから入手が難しくなり、原料を屑鉄以外のものに切り替えるため、スエーデンのヘガネス会社からスポンジ鉄製造法を譲り受け、その製造工場の建設に着手した。一九一五年四月、戦乱のヨーロッパへシベリアを経由し、スエーデンで特許の買収や技師の雇用などの交渉をしたのが今泉嘉一郎であった。二か月余で交渉をまとめ帰国した。原料自給をめぐって、すばやく情報を活用し、行動に移すところに、発展期の企業の若さが感じられる。また一九一六年十一月には、イギリスのロイド委員会から工場施設や製品の審査を受けた結果、ロイド規格に合格との通知をうけ、一定の技術水準に達したことを内外に明らかにした(今泉嘉一郎『日本鋼管株式会社創業二十年回顧録』)。 一九一七年に平炉二基、一八年にも三基を増して合計九基になった。銑鉄の需給がひっぱくして価格も暴騰したので、一九一七年末には小規模な二〇トン高炉を建設し、一八年十一月から銑鉄の生産を始め、原料の自給をはかった。スポンジ鉄の鉱石を日本の国内で自給するため、群馬や福島などで磁鉄鉱の鉱山を買収した。合金鉄の自給策に一九一七年十月電気炉を造り生産を開始するなど、日本国内でやりくりする自給対策を進めた。製条工場のほかにも年産九〇〇〇トンの厚板工場を建設し、一九一八年末から生産を始めた。このように大戦中の日本鋼管の工場施設の拡張は、すさまじいものであった。工場敷地は、創業時の三万坪が一九一八年には一五万坪にふくらんだし、生産能力も著しく増大した。一九一四年の鋼塊生産七〇〇〇トンが一八年に六万七〇〇〇トン、鋼管と鋼材三〇〇〇トンが同じく四万一〇〇〇トンに増大した。一八年には、さらにスポンジ鉄五五〇〇トン、銑鉄五〇〇トンを生産した。生産の急増は、業況にそのまま反映し、一九一四年下期に五分の初配当をしたのちは、毎期増配を重ね一五年下期一割、一六年上期二割、一七年上期三割であったが、同年下期から一九一八年下期までの三期間は実に五割配当を行った。好況時とはいえ、操業わずかに数年の鋼管メーカーが、このような高配当をしたので、さすがに世人の注目を集めた。生産施設の拡張費をまかなう資金需要も巨額なものになり、資本金二〇〇万円が一九一六年三月五〇〇万円へ、一八年四月には一六〇〇万円へと急増し、それにつれて払込資本金も一九一四年末一四〇万円から一八年末に九四〇万円へと六・七倍に膨脹した。このように戦時景気という好条件に恵まれ、日本鋼管は民間最大の平炉鋼塊企業として急速に発展し、国内に強固な地位を確保したのである(日本鋼管株式会社『四十年史』)。 東京電気の躍進 大戦は電気製品産業に好影響を与えた。日本製品と競争関係にあった欧米製品の輸入が途絶したので、好況を迎えた。東京電気はゼネラル電気会社(G・E)との資本および技術の提携以来、経営体質は強化され、業況は上向いていたが、大戦中の好機を巧みに生かしてさらに繁栄した。ドイツ製品の輸入が止まったので、医療用レントゲン管球の試作に成功し将来のレントゲン装置製造の基礎をつくったり、積算電力計の需要急増に応じて電気計器の製造を始め、国内生産の大きなシェアをもつまでになり、国産技術の開発に努力した。 業績は、輸入原材料の不足にもかかわらず、伸び続けて二割の配当を確実にしたほかに、多額の利益金を積み立てた。一九一七(大正六)年四月、資本金三六〇万を六〇〇万円へ増資したが、増資分は別途積立金二四〇万円を当て、株主に全額無償で交付したようにめざましい高収益をあげた(『東京芝浦電気株式会社八十五年史』)。 窯業工場の進出 大戦中に、浅野セメントおよび旭硝子の工場が、川崎・鶴見の埋立て地域に進出し、神奈川県の工業を多様化した。 浅野総一郎は渋沢栄一の協力を得て、一八八四(明治十七)年に官営深川セメント工場の払下げをうけ、鉄道敷設や建築土木事業の発展にともなうセメント需要の増大に恵まれ、急速に成長をとげ、一八九八年二月浅野セメント合資会社(資本金八〇万円)を設立した。セメントの焼成方法に大進歩をもたらしたのは回転窯の発明であった。イギリスで発明されたのちアメリカで工業化され、原料の乾燥・粉砕・焼成・冷却の生産工程を連続的に操作できる回転式の焼窯であるが、浅野は一九〇二年に早くもアメリカから一基を購入し、翌年から試運転を始めた。竪窯全盛の時代に、日本最初の回転窯を導入するパイオニアであった。つぎつぎに回転窯を増設し、生産能力を高めた。一九〇七年五月、新商法に基づき、資本金を一挙に五〇〇万円に増資し、一九一三(大正二)年二月株式会社組織に改め、一五年七〇〇万円に増資を重ね、日本のセメント業界の王座に君臨する大会社に発展し、浅野財閥の中核となった。 セメント産業は、降灰除去をどうやるかが大きな問題であるが、竪窯式の焼成の間は、まだ住民鎮撫の努力と防塵機械の採用により大きな社会問題にならなかった。新式の回転窯の増設により生産高が増大すると、原料が乾燥した粉末であるうえに、連続焼成のため飛散する降灰量も増加するようになり、深川のような人口密集地では社会問題になった。降灰をめぐって浅野セメントと住民との対立は険悪となり、当局の斡旋により、両者は妥協し深川工場を一九一七年末までに徹去することに決まった。この住民との約束が動機となって、浅野は川崎方面の埋立事業を急ぎ、あわせて新工場建設用地の問題も一挙に解決しようとした。 一九一三年四月、田島村大島新田の湿地一〇万坪を買収し、盛土を行ったのち、一五年から川崎工場を起工し、一七年五月完成すると、ひきつづき川崎第二工場を起工し、二〇年九月に完成した。一方、深川工場はアメリカから輸入したコットレル式電気収塵機の効果が予想以上に良好であったため、一九一七年六月住民側も工場徹去の要求を取り消し、降灰問題は解決した。こうして川崎新工場が操業を始めたうえに、深川工場の能力が保存されたので、首都圏市場における浅野セメントの供給力を飛躍的に上昇させたのである(浅野セメント株式会社『浅野セメント沿革史』)。 一九一五年末に鶴見埋築会社が鶴見沖の海面埋立工事を完成すると、旭硝子の工場がそのうちの二万五〇〇〇坪を取得して進出した。旭硝子は、一九〇七年九月、資本金一〇〇万円で兵庫県尼崎に創立された(一九三一年東京へ本社移転)。社長は岩崎俊弥で三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の甥である。一九〇九年尼崎工場を建設し、ベルギー式手吹法を使って企業化が難しいといわれた窓ガラスの製造を始めた。一九一四年五月、福岡県戸畑に牧山工場を建設し、コストが割安であるアメリカのラバース式機械吹法を導入して窓ガラスを製造した。さらに京浜地方の需要にこたえて一六年四月、鶴見沖の造成地に浅野造船所と接して鶴見工場を建設し、六月からラバース式の窓ガラス製造を開始し、生産は順調に伸びた。鶴見工場は以後、磨き板ガラス、安全ガラス、有機ガラスなど品種を広げ、鶴見埋築会社が造成した埋立地進出工場の草分けとして県内に足場を固めた(『資料編』17近代・現代(7)二〇二)。 以上のように、明治末期から鶴見川河口以東多摩川河口にかけて、遠浅海岸を埋立て、工業地帯に造成する動きが活発になり、さらに川崎町の工場誘致策が功を奏し、まず川崎の多摩川沿いに東京電気などが立地し、ついでその臨海部へ工場が進出した。日本鋼管の創業が隣接村の海面埋立てをいっそう促進し、川崎方面の工業化が広がる中核になった。つづいて浅野総一郎の計画した鶴見沖から川崎町南部への埋立造成の進行とともに、第一次世界大戦中に浅野セメント・浅野造船所など浅野系企業の工場が建設され、これに旭硝子の進出が加わり、鉄鋼・造船・化学など重化学工業が集中し、一つの新工業地帯をつくりあげた。また、横浜東部の横浜船渠や内田造船所の発展が、大戦中の重工業化の中では目を引くが、これにとどまらず隣接する神奈川方面の中小機械工場や化学工場の増加も著しかった。そののち、工場の進出がさらに東へ広がり、川崎や鶴見方面の工業地帯と結びついて、一体化して京浜工業地帯を形成していくのである。 二 日米船鉄交換と造船業 アメリカの鉄材輸出禁止 大戦前の日本鉄鋼業は官営八幡製鉄所によって代表され、一年四五万トンの生産能力をもっていたのに対し、民間諸会社の生産は振るわず、一社で四万トンすら生産するものはなく、群小の二〇余社を合計してもなお八幡の三分の一に達しなかった。開戦後、鉄鋼需要が激増し製鉄業は発展を刺激され、戦前の六〇万トンに満たない生産力は、一九一七(大正六)年までにほぼ倍増したとはいえ、造船業や機械工業が勃興したため需要の増加もまた著しく、鋼材の自給割合は大戦盛期には三五㌫を越えなかった。外国から輸入されるかぎり、鉄類を素材とする日本の重工業は発展できるはずであるが、主要輸入先であったドイツやスウェーデン・ベルギー・オーストリア諸国とは、開戦と同時に取引は中絶し、これらの国の鉄類は、わが国の市場からいち早く姿を消し、以後最大供給国となったイギリスも自国の需要に忙しく、一九一六年四月鉄材輸出禁止策をとるに至ったため、わが国は鉄鋼供給不足と需要激増が重なり、深刻な鉄飢饉状態に陥った。一般機械工業は好機を迎えながら、鉄鋼窮迫に制約されたし、さらに鉄鋼価格の高騰のために少なからぬ打撃を被った。 いきおい中立国のアメリカから輸入して補う結果を招き、鉄材輸入は激増を続けた。ところが一九一七年四月、アメリカは連合国側に加わり、参戦したのち、対外通商政策にきびしい貿易制限を加え、八月二日、日本に対しても戦時必要品輸出禁止政策を断行した。わが国の対米貿易品のおもなものは、鉄類・石油・石炭・コークス・食用穀物・獣肉・肥料などであるが、鉄類を除けば禁輸による影響は小さく痛痒を感じなかった。ただ灯用石油は、需要高の約四五㌫を輸入していたので、打撃をうけるかともおもわれたが、電気事業の発展に伴ってその需要は減少していたし、日本の石油業はかえって輸入石油激減のため興隆する余地が開けてきた。それゆえ石油禁輸も堪えられない苦しみにはならなかった。結局、日本に重大な影響を与えたのは、銑鉄および造船用鉄材の禁止であった。 イギリスの禁輸以来、アメリカからの造船用鉄材輸入は増大の一途をたどり、一九一七年には輸入鉄材の総額の九〇㌫を占め、金額は一億六七〇〇万円に達し、前年に比べ一億円の急増であった。このようにアメリカへの依存度がもっとも高まった時点で、突然供給が停止されたのであるから、造船業の被った打撃はきわめて大きかった。禁輸令により、積出が不能になった日本側の注文済み造船用鉄材は四六万トン余にのぼり、これで船舶を建造すれば一二〇万トンになり、時価八億五〇〇〇万円の収入が失われることになった。鉄材の供給が止まったため、造船業の生産計画は混乱したのみならず、基礎の弱い二流以下の造船所は廃業のおそれすら生じてきた。日本の造船業はぼう大な受注を抱えながらも、素材を絶たれ、生産を続けることができなくなった。国内の鉄鋼業が十分に発展していないため、鉄鋼材を自給できないという弱点が暴露され、深刻な危機となって立ち現れたのである。 船鉄交換契約の成立 アメリカの鉄材輸出禁止は、供給源を他国へ代替できないものであったので、政府および民間諸団体はやむを得ず、さまざまのルートによる解禁運動を始めた。造船業者・貿易商社・海運会社などが協力し、米鉄輸出解禁期成同盟会を結成し、日本政府を突き上げ、アメリカ政府へ解禁を働きかけたが、いずれも成功しなかった。また政府間の交渉も不調に終わった。 一九一六(大正五)年に年間建造量が史上初めて一〇万トンを超え、以後も急増を続け、空前の黄金時代のただなかにあった造船業は、アメリカの禁止令にあい、一挙に奈落の底に突き落とされただけに、焦燥感は深刻なものがあった。関西側では傘下に播磨造船所をもち、川崎造船所などからも多量の鉄鋼材の受注を抱えていた鈴木商店や、関東側では浅野造船所が中心となり、日本から船舶を提供し、アメリカは見返りに日本向けの既契約の積出し鉄材凍結を解除するという案を何度か練り直し、駐日アメリカ大使と交渉を続けた。浅野造船所は、船鉄交換交渉の参謀本部となり、連絡場所を提供したにとどまらず英訳や通信・交渉などの事務を担当した。鈴木商店の番頭金子直吉は天性の渉外能力を駆使し、駐日大使R=S=モリスを説得した。ついに一九一八年三月、造船業者を代表して浅野良三(浅野造船所)、長崎英造(鈴木商店)の両名とモリスの間で協定がまとまり即日仮契約に調印した。引渡し期限について条件を細かく規定し、四月正式にアメリカ政府との契約が成立した。日本側は現存する船舶一五隻、一二万七八〇〇重量トンをアメリカへ提供し、アメリカは船舶の重量トンと同量の既約鉄材を解除し日本側へ引き渡すことになった。これが日米船鉄交換第一次契約である。現存の船舶を提供する条件であったため、ストック・ボート生産(注文によらない見込生産のこと、仕入船・在庫船ともいう)を敢行し、船舶を大量に保有していた川崎造船所が有利な立場に立ち、重量トン六万三〇〇〇トンを提供し、ほぼ全契約の半ばを占め、鈴木商店二万二三〇〇重量トン、日本汽船二万四二〇〇重量トンが大口であり、浅野造船所は一隻、一万一五〇〇重量トン、浦賀船渠は一隻、六八〇〇重量トンにとどまった。 つづいて、五月に第二次契約が成立し、日本側は船舶三〇隻、二四万六三〇〇重量トンを提供し、アメリカはその重量トンの半分にあたる一二万三〇〇〇トンの鉄材を引き渡す条件である。第一次契約は供給可能な余裕船舶を抱えた造船所に限られたので、提供すべき現存船舶をもたない造船所は参加できなかった。ところが、第二次契約は船二重量トンと鉄一トンというように第一次契約に比べると船の鉄に対する交換比率が半減したものの、今度はアメリカから引き渡される新規鉄材を入手後、半年ないし一年以内に建造すればよかったので、多数の造船所が参加できることになった。しかし、アメリカは六〇〇〇重量トン以上の大型航洋船を条件とし、実際は五〇〇〇重量トンまで許容範囲は広がったけれども、これを最低の線と決めたので、それ以上の建造能力をもつ造船所のみが参加を許されたのであり、多くの中小造船所は締め出された。事実、原田造船所・小野造船所・大阪造船所などは、参加を希望していたのに、アメリカ大使から契約を断られたのである。それゆえ、船鉄交換に参加した造船所は、当時のわが国を代表するすぐれた造船所であることをアメリカ政府から認められたことにもなり、企業の威信を高めた。 第二次契約に加わった造船所は、川崎造船所の五隻を筆頭に、大阪鉄工所四隻、浦賀船渠四隻、横浜船渠三隻、帝国汽船・三井物産造船部・浅野造船所・三菱造船所・石川島造船所・内田造船所各二隻、藤永田造船所・新田造船所各一隻であった。浦賀船渠・横浜船渠・浅野造船所・内田造船所など神奈川県内の造船所が、くつわを並べて進出しているのが目を引く(前掲『日本近代造船史序説』)。 浅野造船所と船鉄交換 浅野造船所は一九一七(大正六)年四月、前述のように開業式をあげて同型船の大量建造に乗り出した。浅野は、工場敷地未定のときに、鉄鋼材二万トンの買い付けを手配した後も三万トンをアメリカへ発注した。浅野造船所は、ニューヨークの浅野合資会社支店に技師を派遣し、たえず輸入を促進するとともに、東洋汽船には優先的に輸送する特別の便宜をはかってもらったので、鉄鋼材の入荷は好い成績をおさめた。創業時の工場選定などの遅れも、材料の円滑な輸送で相当に補われた。職工の心理は、工作すべき材料が眼前に山積されていると就業にはげむ気持になるので、材料手当が潤沢なことは職工の生産能率を大いに助長した。材料の入荷が順調であるかぎり、浅野造船所の盛況は約束されていた。 しかし、一九一七年八月アメリカの禁輸令にあい、建造計画に大きな変更を生じた。鉄鋼材輸入に立地条件や運輸上の利便をもっていても、供給源が絶たれてしまえば、秋風落莫として殷盛な業況は一転して停頓状態に陥った。同年秋、台風が鶴見沖から上陸し工場建物に大きな被害をうけたことも重なり、鋼材難はただちに職工の転職を誘い、毎月潮の引くように減少した。一九一八年にはいると、禁輸時の一七年八月に比し、工事分量は五八㌫、在籍職工数は六五㌫に落ち込んだ。残業はなくなり、歩増率も縮小されたから、職工の実収入は減る一方であり、退職者は増大した。一九一八年一月在籍者五二九〇人が五月に三七二〇人まで減少した。アメリカの禁輸令が、工事量の半減、職工の大量流出という難局を招いたのであり、いかに痛烈な打撃を与えたかがわかる(原正幹『浅野造船所建設記録』)。 浅野造船所が社長浅野総一郎を先頭にして、窮境打開に奔走し、船鉄交換契約成立の原動力となった事情が推察される。第一次契約で得た鉄鋼材を六隻に割り振り、一九一九年一月から五月までに完工し、船価高という好条件もあってその純益は一四〇〇万円に達した。アメリカからの鉄鋼材入手は、生産の再開を可能にしただけではなく、巨利を生んだ。このように鋼材の確保が、企業の禍福にそのまま結びついた(前掲『我社の生立』)。 第二次契約による鉄鋼材を七隻の建造に割り当てたが、大戦が終わりアメリカが船舶を必要としなくなったので、積出しも遅れがちとなった。そのためアメリカへの建造船引渡しも一九二〇年初めに延びたが、この鋼材が到着した一九年の下期から二〇年にかけて造船工程は非常に活気を帯びるに至った。 浅野製鉄所の創設 造船業経営の死活を左右するのは鉄鋼材が確保できるかどうかであった。大戦中の鉄鋼材の需給関係が逼迫してくると、浅野総一郎は窮極的には自ら製鉄所を創設しなければ自給が安定しないと判断し、一九一六(大正五)年暮から一七年春にかけて調査を開始し、八幡製鉄所から技師荒牧竹吉を招き製鉄所設立の準備にとりかかった。鋼塊年産九万三〇〇〇トンのほか鋼板を生産する予定であったが、鋼材の需要は急迫してきたので、鋼塊は他社の供給に委ね、浅野は厚板・鋼板・圧延の諸工場を建設し、のち平炉と溶鉱炉を増設する計画に改めた。同年六月、浅野合資会社内に製鉄部を設け、アメリカの禁輸令に接し、いっそう設立を急ぎ、九月から工場建設に着手した。 当時三菱造船所および川崎造船所も製鉄部門を創設するため、八幡製鉄所の援助を求め、指導をうけたが、浅野も同様にして八幡の指導のもとに必要図面を借り、それに基づき工作機械を発注した。新設製鉄所は、潮田地先埋立地の造船所隣地に定め、造船所内に事務所を設けた。造船所はすでに、道路・職工宿舎・電燈の設備は整っていたので、製鉄工場の急設に対しても、十分に施設を共用することにより支援できた。工場建設に見通しがつくと、一九一八年三月から職工八〇名を八幡製鉄所へ見習いに派遣し、六月には圧延作業を実験した。初め浅野合資会社製鉄所と称したが、工場建設が完成に近づいた四月浅野製鉄所(資本金六〇〇万円)と改称し、浅野総一郎が社長に、浅野良三が副社長に就任した。九月に初めて製品を出し十一月に開業式を挙行した。ところがその月に大戦は終わり、鉄鋼市価の高い好機は去ろうとしていた。創業時代は鋼塊を八幡製鉄所・日本鋼管・富士製鋼から供給をうけ、職工三五〇人の規模で圧延を始めた。当初は供給鋼塊の品質に良質品が少なく、そのため浅野の製品も成績は振るわなかった。一九一八年は四〇〇〇トンの鋼板生産にとどまったが、一九年には一躍二万五〇〇〇トンを生産し、おもに造船用と鉄道用に納入した。生産が上向きになったとき、鉄鋼市況は落勢の一途をたどり、先行きは楽観できない状態であった(前掲『我社の生立』)。 横浜船渠と船鉄交換 横浜船渠は一九一七(大正六)年一月、造船台の新設に着工し、未完成の船台を使い五月に早くも第一船を起工し、造船部門を開業した。標準船型を四種類定め、建造経験を積んで大型船に着手する予定であったが、日本の工業界は鉄飢饉に直面し、造船用鉄鋼材の入手は難しかった。さらに一七年八月、アメリカの鉄材禁輸令にあい、材料のストックを持たない新設造船所の被った打撃は大きかった。横浜船渠の仕入船建造は、アメリカからの鉄材輸入が円滑であってこそ効果を発揮するものであっただけに、経営の基本であった仕入船建造の方針自体が揺らいできた。 専務の今岡純一郎が、東京の解禁期成同盟会の実行委員として政府に陳情するなど奔走し、一九一八年五月第二次契約に参加し、六三〇〇重量トン級三隻の船を提供し、アメリカからその半分の重量にあたる九四五〇トンの鉄材を得る契約を結んだ(『資料編』17近代・現代(7)一四七)。横浜船渠は社勢好望のとき、鉄材難のため発展を制約されていただけに、船鉄交換契約の成立は朗報であった。「米国ヨリ得可キ鉄材モ来期早々之レガ到着ヲ見ル可ク、将来ニ於ケル当社事業ノ殷盛ハ期シテ待ツベキノミ」(横浜船渠株式会社『第四拾七回報告』)と強く期待されたのは、反面鉄不足の深刻さを表すものといえよう。それゆえ、アメリカからの鉄材入手は、提供船三隻のほか同型船一隻に対する材料を確保したので、新造船計画の遂行に支障がなくなったのである。こうして同一船型の大型船四隻を一挙に建造できるようになり、新参ながら国内の有力造船所の一翼につらなるに至った。 大戦中、外国船の入渠は減少したが、日本船は著しく増加したので、全体として増加しつづけた。同業他社が新造船に追われ修理を顧みる暇がなかったので、修理船は横浜船渠へ殺到し、一九一七年に一六三隻、七一万トンに達し、創業以来最高の記録をうちたてた(『資料編』17近代・現代(7)一四七)。造船業界がもっとも好況を謳歌していたとき、遅れて造船部門を開業し、まもなく休戦になったため、戦時中の建造船舶は、一九一七年は一隻、一二五〇トン、一八年は六隻、五〇九〇トンにとどまり、業績には寄与しなかった。船鉄交換船にしても戦後の建造であり、本格的な建造は造船施設が完成した一九一九年以降にもちこされた。それゆえ大戦中の好業績は、船渠部門が中心になって稼動したものであり、倉庫部門がわずかに補充した。株主配当は一九一四年下期から一五年下期まで九分に減配し気迷い状態が続いたのち、一六年から上昇へ転じ、同上期一割三分、下期一割五分、一七年上期一割八分と増配を重ね、下期には三割、一八年上期三割五分へと爆発的に伸び、同下期三割に復した。この間、資本金は三七五万円から一九一七年下期に一〇〇〇万円へと大幅に増資をしたにもかかわらず、利益のすさまじい激増が、このような高率配当を実現できた。利益は一九一七年下期一五二万円、一八年上期二二八万円、下期二〇八万円を計上したが、各期が戦前のほぼ一〇期分に相当するほどの好況を享受したのである。 浦賀船渠と船鉄交換 浦賀船渠の経営者は、造船ブームがなおつづくことを予期して、積極的に造船施設の拡張を急いだが、鉄鋼材を確保しなければ生産能力は稼動できないので、一にも二にも材料の入手が重要な課題であった。鉄鋼材の供給が円滑でないため、受注の引受けすら、躊躇していた浦賀船渠にとって、日米船鉄交換契約の成立は、旱天の慈雨であり、造船の受注を可能にさせるものであった。 浦賀船渠は第一次契約に参加し、山下汽船所有の船を一時借用して、これを提供し鋼材六八〇〇トンを獲得し、手持ちの既約材料と合わせて六五〇〇重量トン四隻の建造に成功した。第二次契約では同型船三隻建造の代償に一万トンの鉄材を輸入し、その残材でなおも一万重量トン船を建造できた。一九一七(大正六)年七隻、三万三〇〇〇総トン、一八年一〇隻、五万一七〇〇総トンと建造量のピークを示した。業績もこれに応じて、利益は一七年下期六六万円、一八年上期一八二万円、下期一九三万円と天井をつくった。開戦時の一九一四年上期の約三〇倍に達するすさまじい好況である。戦前の資本金八〇万円を一九一七年下期に五〇〇万円へと大増資を敢行しても、なおこの三期間は余裕をもって四割の高率配当が可能であった。戦前の浦賀船渠の経営状態からは想像もできないほど、短い間に業績は急上昇し、大手造船所の有力な一角を占めた(『資料編』17近代・現代(7)一五五)。 内田造船所と船鉄交換 内田造船所は、一九一八(大正七)年四月、横浜鉄工所を改称したばかりの新興造船所にすぎないが、日米船鉄交換の第二次契約に食い込むという要領のよさをみせた。参加資格は、六〇〇〇重量トンの船舶建造経験をもつか、または現在建造中である企業に限られていたので、多数の造船所が船鉄交換を希望したにもかかわらず、中小造船所は排除され、大手造船所に独占された。ところが内田造船所は過去に大型船を建造したこともないし、建造中というわけでもないのに、五月中旬の第二次契約に加わり、二隻一万七〇〇〇重量トンを引き受けたのである。これは四月に内田の潤沢な資金を投下して、千若町に大造船工場を建設し、六〇〇〇総トン級の航洋船を建造できる船台三基を整備しつつあったことが有力な決め手になったのであろう。 石川島造船所が二隻で一万重量トン、横浜船渠が三隻で一万八九〇〇重量トン、三菱造船所が二隻で一万六八〇〇重量トンと比べると、内田の一隻当たりトン数は先発三社のうち石川島と横浜船渠を大幅に上回り、三菱と肩を並べるまでに大型船の建造能力は上昇していることがわかる。内田造船所の急追ぶりが著しい。内田造船所は、アメリカからの鉄材の入荷を待って翌年春に起工し、暮れから一九二〇年一月にかけてそれぞれ進水し、アメリカへ引き渡した。内田信也は、横浜鉄工所の経営に参加して以来、一年余りで、中堅工場からまったく未経験の大型船建造という分野に進出して、日本を代表する大造船所にまで雄飛させた。好況下において目を見はらせるような企業の珍しい急成長の例である。 第一次世界大戦の深刻な鉄飢饉という体験は、鉄鋼の自給体制の確立が何よりも必要であることを明らかにした。政府は一九一七年九月、製鉄業奨励法を施行し、民間の鉄鋼業の保護・奨励政策を展開した。これとともにアメリカの鉄材禁輸令後の価格の暴騰とあいまって、民間の鉄鋼業は大いに刺激され、興隆の気運を迎えた。しかし、大戦中の造船業の需要を満たすには間に合わず、日本造船業は国際的にも珍しい船舶と鉄材を交換するという発想に基づき、アメリカとの間に契約を成立させ、難局を打開し活路を開いたのである。大戦前では船の輸出をするほどの実力をもたなかった造船業が、四五隻、約三八万重量トンという未曽有の大量船舶をアメリカへ輸出したことは、なによりも建造能力の進歩を物語るとともに、国際的な水準にようやく到達した証明であった。 三 大正前期の内陸工業 製糸業の活況 大正前期とりわけ第一次大戦中の内陸地方は、製糸業と織物業の空前の活況に恵まれた。もっとも日露戦争後から一九一五(大正四)年夏ころまでは、製品価格・生産量とも停滞的な足どりをたどり、とくに一九一四年には、大戦勃発の衝撃で一時減産を余儀なくされた。しかし、翌一五年九月から急速に回復に向かい、十一月には、にわかに活況に転じることになった。いま『神奈川県統計書』によってその模様をみれば表四-一、四-二のとおりであり、年次別集計ではいずれも一九一六年から著しい上昇に転じている。すなわち、生糸の場合は前年の一九一五年にくらべて、生産量で約一・五倍、価格で約二倍となり、また織物の生産額も二・七倍に急伸したのであった。 ところで当時の県内の製糸業や織物業は、主にどの地域でどのようなかたちで行われていたのであろうか。表四-三、四-四、四-五はおなじく『神奈川県統計書』から作成されたものであるが、これによれば、一九一六年当時の業態は、製糸業で表4-1 蚕糸生産額 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-2 織物生産額 注 『神奈川県統計書』より作成 はまだ座繰が、織物業では手機が支配的であった。すなわち、製糸業では生糸生産量六万六五八三貫のうち三五㌫(二万三六三二貫)が器械糸、六五㌫(四万二九五一貫)が座繰糸で、後者がまだ全体の約三分の二を占めていた。しかし『第三十三次農商務統計表』によれば、同年の全国比率は、生糸生産量四一七万五三七二貫のうち、座繰糸の占める比率はわずか一五㌫(六三万六四五四貫)にすぎない。また『第十一次農商務統計表』によれば、わが国の器械糸生産量は、すでに一八九四年に座繰糸生産量を凌駕していた(座繰糸五六万二四一五貫に対して、器械糸は七三万四三六八貫)。こうした事実からいって本県の製糸業は、大正期のわが国製糸業のなかで、きわめて後進的な地域に属したということができよう。 器械製糸地帯 しかし、こうした座繰製糸の優位は、必ずしも各郡共通の現象ではなかった。事実表四-三、四-四によれば、鎌倉郡と足柄上郡では器械糸が大部分を占め、中郡でも器械糸が座繰糸を大きく上回っていた。『大正二年神奈川県統計書』によれば当時鎌倉郡には、境川沿いの瀬谷村や中和田村に本郷製糸場(女工八五名)・川口製糸場(同七五名)・小沢製糸場(同六〇名)・盛進社持田製糸場(男工四名・女工一一三名と男工四名・女工九八名の二工場)などが、また、足柄上郡には牧野製糸場(金田村、男工三名・女工六〇名)・中村製糸所(松田町、女工四五名)・小林製糸場(桜井村、男工二名・女工五九名)などが、中郡には佐藤製糸場(平塚町、男工四名・女工七五名)・帝国器械製糸場(豊田村、男工一名・女工五二名)など、多くの器械製糸場があった。また、境川西岸の高座郡でも富沢製糸場(大和村、女工四二名)・持田第二工場(渋谷村、男工六名・女工一六〇名)・大成社(六会村、女工九〇名)・三觜製糸場(藤沢町、男工一名・女工四一名)・徳増製糸場(同町、男工一名・女工四〇名)などの器械製糸が操業を続け、一九一六年の同郡の器械糸生産量も、鎌倉郡に次いで県内第二位を占めていた。しかし、同郡の場合は北部を中心に座繰糸の生産量もきわめて多く、器械糸の約二倍近くにのぼった。周知のように同郡北部は、八王子周辺の製糸織物地帯に隣接し、一八八六(明治十九)年にいちはやく共同揚返所(漸進社)を生みだした座繰製糸の中心地であった。しかし、その後鎌倉・足柄上郡などと同じく、一九〇〇年ころから南部地域に器械製糸が勃興し、終始県内生糸生産量の第一位を保持することになったのである。 座繰製糸地帯 以上の各郡に対して座繰製糸に完全に依存し続けたのは、愛甲郡と津久井郡であった。事実表四-三、四-四によれば、両郡にはこの時期にいたっても器械製糸が全くなく、完全な座繰地帯の様相を維持していた。なかでも津久井郡は製糸戸数約三七〇〇戸、一戸当たり平均釜数一・二釜という、典型的な家計補充的座繰地帯であった。同郡の一九一七(大正六)年当時の人口は三万三〇〇〇人余に表4-3 郡別器械製糸生産高(1916年) 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-4 郡別座繰製糸生産高(1916年) 注 『神奈川県統計書』より作成 過ぎなかったから、一戸平均家族数を五人とすれば、戸数のなかば以上が座繰製糸に従事したと考えることができる。『大正二年神奈川県統計書』によれば当時同郡には、女工二〇名を雇用する座繰製糸工場(斎藤工場、湘南村)一か所を数えるのみであった。こうした事実からしても同郡の製糸業は、当時まだほぼ完全な小農民的副業の状態にとどまっていたと考えてさしつかえないのである。 これに対して愛甲郡の方は、製糸戸数約二一〇〇戸、一戸当たり平均釜数五釜となっていて、津久井郡とはやや違った姿を示している。しかし、明治末から大正初期の『神奈川県統計書』には、同郡の場合、製糸工場の記載を認めることができない。こうした点からいって同郡の場合は、広汎な副業的座繰経営のなかから、ある程度専業的な経営が現われはじめたが、まだ統計書に反映する程の規模に達していなかったとみることができよう。人口(一九一七年現在の愛甲郡人口は約四万三〇〇〇人)に対する製糸戸数の比率が、津久井郡よりかなり低いことも、こうした推測(分解が進行中であるという)を可能にするように思われる。 ところで右のように多かれ少なかれ両郡に共通した副業的座繰経営の特徴は、相模川東岸の高座郡北部にも認められた。上述のようにこの地方は八王子表4-5 郡別玉糸・真綿生産高(1916年) 注 『神奈川県統計書』より作成 南部の製糸地帯に隣接し、県内において、もっとも早く座繰製糸に手を染めた地域であった。事実明治十年代の『全国農産表』や初期の『神奈川県統計書』によれば、同郡北部は津久井郡・愛甲郡などと並んで、生糸生産量のもっとも多い地域に属し、一八八六年には有志の発起によって相模川沿いの大沢村大島に共同揚返所・漸進社を設立し、整理・仕上工程の統一と製糸法の改良を進めたのであった。一九一三年刊『漸進合資会社要覧』(『相模原市史』近代資料編二九一ページ以下)によれば当時同社は、一府三県下に所属揚返所一四二か所、加入製糸家一万二〇〇〇余人を擁し、社員製出の年間五万一七五〇貫に及ぶ生糸の整理と出荷を行っていた。社員の製糸家は「多くは自己の産繭を以て製糸の原料と」し、繰糸に当たった者も、「多くは他人の雇用人に非ずして一家の主婦・姉妹」であった。また、製糸用具も「工女自ら足にて踏」む「足踏製糸器械」と呼ばれた簡易な用具で、「今日は本社の全部此の器械に依て製糸するに至れり」と記されている。これによれば当時漸進社は、高座郡北部から関東南西郡座繰地帯の全域にわたって、小規模座繰生産者を組織し、製糸法の改良や仕上げ、出荷などに当たっていたと考えるこ表4-6 郡市別織物生産額(1916年) 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-7 高座郡上溝市場販売高 注 「高座郡溝村上溝市場史料」(相模原市立図書館古文書室蔵)より作成 とができるのである。いずれにしても本県北部では、当時まだこうした小規模な座繰製糸業が、農耕その他の生業と固く結びついていたのであった。 このような事情は、この地方に、地方的な蚕糸市場を根づよく残存させた。表四-七は、明治三年(一八七〇)十一月以来引続き開設されてきた高座郡溝村上溝の繭糸市場(毎月三日、七日、十三日、十七日、二十三日、二十七日に開設される六斎市)の販売高を整理したものであるが、郡役所に対して毎期提出した報告書によれば、同市場の売買方法は仲立人・仲買人・問屋等を全くふくまず、路上および借店において行われる完全な相対売買であった。一九一八年二月の報告書によれば、このうち売手は生産者と商人が半々、買手は小売人三、消費者(撚糸・織物業者)七の割合で、売手は路上借用の場合三銭(一九一四年下期までは二銭)、借店の場合は四銭(同三銭)の「見世賃」を市場経営者に支払うことになっていた。販売者の数は表四-七に見るように一九一一年五五六九人(一回平均七七人)、一九一二年五五二五人、一九一三年五四二五人、一九一四年五三一九人などとなっており、いずれも多数の小生産者の市場参加を推測させるものということができる。そして、その販売額は大戦中のブームによって、一九一五年下期から急上昇したのであった。 撚糸業と織物業 このような大戦中のブームは、撚糸業や織物業にも活況をもたらした。いま『神奈川県統計書』によって撚糸業の模様を見れば表四-八の通りであり、一九一七(大正六)年ころから生産数量・価額とも顕著な伸びを示している。また、これを郡別にみると愛甲郡が圧倒的な比率(生産量の八五㌫、価額の八九㌫)を占め、高座郡と津久井郡がはるかに少額でこれに続いた(表四-九)。このような発展のなかで一九一八年一月には、一九一六年三月に改正された重要物産同業組合法(一九〇〇年三月制定)にもとづいて、愛甲郡愛川村に法人格をもった半原撚糸同業組合が設立され、同地区同業者の強制加入(定款第八条)、詳細な製造規定(同第六八-九〇条)、使用人規定(第九一条以下)などが定められた。その結果同地区の撚糸業者は、従来の半原撚糸業同盟組合(一九〇二年設立、任意団体)から新しい同業組合に再組織され、厳しい自主規制によって製品の向上と発展をはかることになったのである。 他方、織物業も表四-二に見るように、一九一六年からめざましい活況を迎えた。すなわち一九一八年の生産額は、一九一五年にくらべて絹織物九・三倍、絹綿交織七・二倍、綿織物三・二倍、毛織物その他七・七倍にのぼり、これら総計でも一九一五年の六・一倍にのぼった。 ところでいま、一九一六年を例にとってその種類別分布を見ると表四-六の通りであり、絹織物は津久井郡・橘樹郡・高座郡、絹綿交織は津久井郡・横浜市・高座郡、綿織物は中郡 足柄下郡・横浜市、毛表4-8 絹撚糸および絹練糸生産額 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-9 郡別絹撚糸および絹練糸生産額(1916年) 注 『神奈川県統計書』より作成 織物その他は橘樹郡・愛甲郡に集中している。要するに内陸部では津久井・愛甲・高座・中の諸郡、臨海部では橘樹・横浜・足柄下の郡市が、何らかの織物業に従事したのであった。ところで、このうち臨海部の機業地と中郡は力織機が多く、その他の内陸部には手織機が多かった。いうまでもなく後者は絹織物を中心とした在来の手工業的セクターであったが、これに対して前者は固定資本の比率のより高い近代的なセクターと見ることができよう。こうした点からいって中郡・足柄下郡の綿織業や横浜市・橘樹郡の絹・絹綿交織業は、津久井・愛甲・高座郡の織物業と類型の異なったものと考えることができるのである。事実一九一六年の『神奈川県統計書』によれば、横浜市や橘樹郡の絹織物は、羽二重・広巾絹織物など、主に輸出向けと思われるもので、甲斐絹・紬・太織などを主体とした津久井郡のそれとは全く異質のものであった。また、中郡や足柄下郡の綿織物も、大量生産に適合的な白木綿が主で、手工業的な縞木綿を主とした高座郡のそれとは異質のものであった。いずれにしても大正前期の本県の織物業は、こうした在来手工業型と機械制大量生産型の二重構造を形成しつつ、大戦期のブームを迎えたと考えることができるのである。なお、一九一六年の県内力織機の全織機に対する比率(三五㌫)は、同年の全国比率(二〇㌫)にくらべてかなり高かったが、これは輸出や京浜市場向けの大量生産に適した立地に恵まれたためと思われる。 第二節 戦後恐慌・軍縮と官民工業 一 戦後恐慌と重工業 戦後景気と恐慌 一九一八(大正七)年十一月、第一次世界大戦が終結すると、戦時中大膨脹をとげた日本の産業は、その反動で大きな打撃を受けた。海上運賃・用船料をはじめ、株式価格や一般商品価格は暴落した。このため、戦時中急成長した金属工業・造船業・海運業の諸部門は大きな痛手をこうむった。ところが休戦直後の経済的反動は、翌一九年四月ごろになると静まり、一転して戦時中にもまさる戦後景気が訪れ、ほぼ一年間にわたって日本中は熱狂的好景気に湧いた。 このような好況が再現した理由としては、ヨーロッパの交戦諸国の荒廃は予想以上に大きく、復興用資材やヨーロッパ製品の代用品の役割をした日本製品に対する需要が少しも衰えず、かえって輸出が増大したことや、もっとも有力な貿易相手国であるアメリカが好景気を持続したことなどがあげられる。日本は戦争が終わればヨーロッパ諸国がすぐに輸出を再開するかと恐れていたが、容易には市場へ復帰できない事情が明らかになると、休戦によって一時混乱した日本経済は、一息いれることができ、かえって将来に強気な見通しを持ったのである。こうした海外の条件とならんで国内的にも好景気の条件が生じた。戦時中に蓄積された対外債権の回収により、正貨の流入が著しかったし、また、原敬内閣が戦時中に発達した産業を萎縮させないように積極的なインフレーション政策をとって景気を維持し、産業の整理発展をはかろうとしたからである。 一九一九年春から生糸や綿糸布の輸出は増大し、商品市場は回復し、海運界も活況をとり戻した。株式市場は高騰し、物価もまた騰貴したが、戦時中に蓄えられた国民の購買力は旺盛であったし、通貨や信用の膨脹は戦後の景気を刺激し、投機や思惑の流行、企業熱の勃興を引き起こした。企業活動は、大戦中よりさかんになったし、新設や拡張に投じられた資金は異常な巨額に達し、株式市場や商品市場に猛烈な投機をともなった。秋ごろから常軌を逸するまでに投機熱は白熱化し、一段と事業計画を膨脹させ、それが逆に投機を助長するというように、加速度的に激しくなり、一九二〇年一月ころに極点に達した。 投機思惑的な性格が強い戦後景気は、いつまでも続くものではなく、絶頂期に達すると、本格的な戦後恐慌の危機が迫ってきた。一九二〇年三月十五日、東京株式市場の崩落や地方銀行への取付けがおこり、五月二十四日、横浜の貿易商社茂木商店とその機関銀行が破綻し、銀行取付けは大銀行にまでおよび、恐慌は広がった。六月以後アメリカやヨーロッパ諸国でも恐慌が勃発し、その影響で日本もますます深刻になった。貿易は停滞し、海運業は衰え、貿易業・織物業・製糸業さらには銀行に倒産や休業が続出した。戦後恐慌は、明治以来もっとも激しいものであり、主要産業は根底から動揺し、深刻な事態に陥った。政府は、恐慌の沈静化に全力をあげ、日本銀行をはじめ日本興業銀行・日本勧業銀行・大蔵省預金部資金を動員して救済融資を行い、株式取引所・銀行・産業界の救済につとめた。政府資金の大幅な放出による救済インフレーション政策の断行により、さしもの戦後恐慌も下半期には終わったが、戦争中に急膨張した日本経済の整理は十分にされず、そのまま昭和時代までもちこされた。 一九二一年十一月、ワシントンで世界の列強が海軍軍備縮小会議を開き日本も参加し、一九二二年二月軍縮条約に調印したので、軍備拡張を遂行して不況対策の柱とする財政膨脹政策は転換を余儀なくされ、いっそう日本経済は不況へ沈み込み、暗雲に覆われたまま大正時代の後半が過ぎた。 造船業の動揺 休戦直後の不況、つづいて戦後景気・恐慌と目まぐるしく日本経済は、景気の山と谷を上下したので、産業界の動揺は激しかった。ことに戦争中、黄金時代を享受した造船業は、船舶の過剰と船価の暴落に見舞われ、不況に翻弄された観があった。各社の業況をみよう。 横浜船渠は、造船諸施設の完成が休戦後にずれたため、一九一九(大正八)年になり目ざましい活動をした。日本郵船から一万重量トン級大型貨物船八隻を受注し、海軍からも最初の艦艇発注として給油艦佐多を起工するなど、一九年中に一三隻三万九〇〇〇トンを起工し、八隻一万四〇〇〇トンを竣工した。一九二〇年に海軍からつづいて同型艦尻矢、一等砲艦安宅の発注があった。この年、起工七隻四万五六〇〇トン、竣工一〇隻四万八〇〇〇トンに達し、ともに最高を記録した。二一年は起工七隻二万三六六〇トン、竣工七隻三万九〇〇〇トンを保ったが、二二年の起工は一〇隻と数は多いが一万七八七〇トンにトン数は減小し、翌年は一万二三〇〇トンへと急減し、受注量は先細りになった。休戦後の三年間、造船部門は遊休化しないで順調に稼動したが、その後は苦難期を迎えた。造船諸設備を、すべて戦争中の物価高の時代に整えたので、十分に償却がすまないうちに恐慌に遭遇し、過大な施設の負担がようやく経営を圧迫するようになった(陰山金四郎『横浜船渠株式会社史稿』)。 業況は一九一八年下期に三割配当をしたが、休戦直後の一九年上期には利益が三分の一に急減したため、一割五分に減配した。ところが下期から生産能力の拡大にともなって造船部門は活動し、利益は急増したので二割に増配した。二〇年上期の収入は、大戦末期に比べるとはるかに少ないが、利益はほぼ同額を計上して二割配当を維持した。一九一九年から二〇年にかけての竣工量に示されるように、造船部門の躍進が、偶然に横浜船渠の戦後景気現出に貢献した。こののち、造船界の不振の影響は免れず、急速に業績は低下し、恐慌にいたみつけられ、決定的には二三年九月の関東大震災のため壊滅的な打撃を被り、容易に復興はできなかった。 浦賀船渠は一九一七年八月資本金を五〇〇万円に増資して工場施設を整え、日米船鉄交換契約に基づく鉄材輸入が約束され、完全操業にはいる矢先、休戦になったので、既契約船とアメリカへの提供船の建造に専念し、予想された不況を乗り切ろうとした。ところが、悲観人気に反し一九年は戦争中の沈没船舶の補充を見越して新船注文が殺到したので、下期には修理船の仕事を断わり、新造船に全力を注いだ。貨物船にとどまらず、海軍から軽巡洋艦一隻、駆逐艦一隻を受注し、繁忙をきわめ、工場設備の拡張を必要とするに至り、二月の臨時株主総会で倍額増資を決議し一挙に新資本金を一〇〇〇万円とし、第一回払込みとして一二五万円を八月に払い込んだ。休戦後も新造船の引合いが衰えない現象をみて、大増資を敢行するとは勇断であるが、眼前の利益を収めることに追われていた。造船界は、まさに戦後景気の頂上に達し、退勢に向かうきざしを見せていた。そこで浦賀船渠は艦艇受注に主力を置き、商船建造の減少の対策に、修理船工事を復活し、工場の操業につとめた。 一九二〇年の戦後恐慌が襲うと、新船の受注はなくなり、前途はきびしくなった。契約ずみの新造船工事が継続し、外見は忙しかったが、物価騰貴や賃金の上昇のため工費がかさみ、利益はあがらなかった。五月からは原則として工員の残業を廃止し、経費節減の一助にした(『資料編』17近代・現代(7)一五九)。 こうした先細りを補ったのが、軍艦の受注であった。軽巡洋艦一隻、駆逐艦二隻の追加建造命令をうけて相当の仕事量を確保できた。明治末期に倒産に直面していた浦賀船渠の経営を引き受け、大戦中の好況に恵まれたとはいえ、再建に成功した社長町田豊千代は、一九二〇年十二月病気のため退任し、かわって山下汽船を創立し、一九一七年から筆頭株主であった山下亀三郎が社長に就任した。一八年五月社長と意見が衝突し、横浜船渠を退いた今岡純一郎は、同年八月浦賀船渠の役員に迎えられ、一九年二月専務になり艦艇建造に腕を振ったが、ここに山下と組んで経営を担当することになった(『資料編』17近代・現代(7)一六〇)。今岡は一九二二年二月山下の後任として社長に就任し、一九三四(昭和九)年まで不況の難しい時代を切り抜けた。 建造船舶をみると一九一八年一〇隻四万五〇〇〇トンを進水させ、一九年に九隻四万六〇〇〇トンの進水量のように好況を持続したが、二〇年になると九隻三万三〇〇〇トンへ落ち込み、二一年にはわずかに山下汽船発注の大華丸二二〇〇トン一隻という惨落であり、以後大型商船の建造は昭和初期までみられなかった。特殊船や曳舟・浚渫船などの小型雑船を細々と建造するくらいで浮沈の波は激しかった。業績は、一九一八年の四割配当が一九年上期にも続けられ、下期三割に減ったが、なお戦争中とほぼ同額の利益をあげ好調であった。二〇年上期以降、恐慌のなかで利益は減少し、配当は二割へ、同下期には一割五分へと減配を重ねた。二一年上期には利益は一八年各期の四分の一以下に激減し、配当も一割へと減る一途となった。二三年上期まで、横ばい状況が続き、一割配当を維持した。 浅野造船所は一九一六(大正五)年の創業以来一年足らずのうちに、海面埋立造成から始めて造船工場を建設し、急発展をとげた。一九一七年十一月に資本金三七五万円の全額払い込みが終わると、翌一八年八月一〇〇〇万円へ増資をし、六二五万円をまず払い込み、一九年七月には全額込い込みを実現した。二〇年三月、不振に陥った浅野製鉄所を合併し、資本金を一挙に五倍増資をし、五〇〇〇万円を唱え、うち半額の二五〇〇万円を払い込んだ。わずか三年余りの短い期間にすぎないが、仕入船建造中心の浅野造船所は、著しい躍進をした。 進水量をみると、一九一七年に四隻三万二七〇〇トン、一八年では八隻三万二六〇〇トンが、一九年に一三隻七万四〇〇〇トンへ大幅に伸び、二〇年一〇隻五万五〇〇〇トンとまだ戦後景気の余熱が残っていたが、二一年には恐慌の影響をうけてわずかに三隻一万九〇〇〇トンへと急低下したにとどまらず、翌二二年には進水船がまったくなくなった。海運界の不況が、そのまま起伏に富んだ進水量に反映されている。進水量の減少を補ったのが、海軍から発注された航空母艦鳳翔の建造であり、一九二〇年十二月起工、二一年十一月進水した。ひきつづき航空母艦を発注される予定であったが、軍縮会議の締結により中止された。こうした内外の造船界の悪条件のもとで、浅野造船所はやむなく造船計画を縮小し職工の大整理を余儀なくされた。二〇年六月以降残業を廃止し、二一年三月から一時採用していた一日八時間労働制を九時間制に改めたのみならず、職工数を三〇〇〇人にまで減らしたので、一年前の盛況時の一七㌫に過ぎなくなった。鳳翔の進水がすんだ同年末にはさらに職工の解雇がすすみ、在籍人員は一九〇〇人に減り、浅野造船所はこのような徹底した人員整理で苦境をしのごうとしていたのである(浅野造船所『我社の生立』)。 内田造船所の経営者内田信也は、一九二〇年三月上京の際、日本興業銀行総裁土方久徴を訪問し、財界の変調を注意されると、すぐに総選挙を控えて多忙な政友会総裁原敬を訪れ、経済界の様子がおかしくなって選挙資金が集まりにくいとの打明け話を耳に入れた。内田はただちに恐慌の到来を覚悟して、海外支店あてに手持ちの船舶を即刻に全部売り払えと電報命令で処分し、本業の汽船会社の各支店の営業活動を中止させ、戦後恐慌の寸前に身軽になり、打撃を最小限度に食い止めた。内田は蓄積した富をもって政治家へ転進を志し、事業を整理し、一九二三年までに内田汽船と内田商事の二社を残して大戦中に手を拡げた事業を閉鎖した(内田信也『風雪五十年』)。 大戦中目ざましく発展した内田造船所は、戦後恐慌のなかでなおも造船所の拡張をはかり、新たに千若町の造船工場や守屋町の分工場の海面二万坪(約六・六㌶)ちかくを埋立てたが、造船界の不況が深刻化したので経営は困難に陥り、造船工場の増設を中止した。一九二一年七月、ついに造船所を大阪鉄工所(現在日立造船)に譲り渡す羽目になった。大阪鉄工所は、社名を旧称の横浜鉄工所に戻し、関東地方へ進出する足懸りとして船舶の修理を基本方針に定めた。二年後の関東大震災のため工場施設は壊滅し、大阪鉄工所は工場の復興を断念し、隣接海面の埋立工事のみを続行した末、ついに工場を閉鎖し、大阪へ徹退した。この埋立地は、現在の横浜市神奈川区出田町一帯であるが、その町名は当時の横浜市長有吉忠一が、埋立地造成に尽力した横浜鉄工所専務の出田孝行を記念して命名したことに基づいている。大阪鉄工所は関東進出に頓挫したが、売手側の内田造船所からみればこの上ない好運であった。 鉄鋼業の不振 休戦と恐慌の影響をうけてわが国の鉄鋼市場は急速に崩れ、鉄鋼価格は低落を続け、とどまるところを知らなかった。一九一八(大正七)年夏の高値に比べて半年後の一九年三月ごろには銑鉄と丸鋼は三分の一、鋼板は四分の一以下に下落し、二三年夏には銑鉄は八分の一、丸鋼四分の一、鋼板は実に一〇分の一以下になる暴落ぶりであった。鉄鋼の在庫は激増し、価格は低落したので、戦争中に設立されて基礎が固まっていない企業は多く倒産したり、あるいは減資や吸収合併に追い込まれたりして業界の整理がすすんだ。一九一九年春には熱狂的な戦後景気を招いたが、重工業は戦争中のぼう大な軍需が消滅したため、休戦直後からただちに不況に見舞われ、戦後景気の恩恵に浴することもなく長い間苦難の道を歩んだ。 大戦中、順風満帆の発展をした日本鋼管も、休戦後は急転して深刻な苦境に陥った。一九一九年上期は一八年下期から販売数量は一万五〇〇〇トンから一万八〇〇〇トンへ二割増加したにもかかわらず、売上高は一四〇〇万円から六四〇万円へ半減したため、利益は三七四万円から二八万円へと一〇分の一以下に低落した。鉄鋼市況の暴落が深い傷痕を残していた。前期まで三期間五割配当を続けただけに、一挙に無配にするわけにいかず、戦時中の社内留保積立金を崩して一割配当にとどめた。下期の販売量は三万三〇〇〇トンとほぼ倍増にちかいが、売上高は七三八万円とわずかに一割五分増にすぎず、利益は三一万円にとどまり、配当も一割を据え置いた。このように生産量を増大しても、製品単価の暴落が著しいのに反し、原料と労賃はそれほど下落せず、採算が悪化せざるをえない状況であった。一九二〇年上期に無配に転落し、下期にはついに作業開始以来初めて二〇万円の欠損を生じ、二一年上期に三五万円へと欠損額は増加し、容易ならぬ事態に直面した(日本鋼管株式会社『五十年史』)。 製銑部門はコスト高のため、安い輸入銑鉄に太刀打ちができないし、鋼材部門もコスト高に加えて同業者間の採算を無視する過当競争があり、民間鉄鋼業者は進退がきわまった観があった。日本鋼管もその例にもれず、一九二一年下期には抜本的な再建策を断行しなければならなかった。六月には創業以来の社長白石元治郎を更迭し、副社長に格下げをし、新社長には創立当初の長老である大川平三郎を登用した。大川は会社将来の経営策を研究し、減資や優先株発行などの問題提起をした(『資料編』17近代・現代(7)一七八)。 同年十月、資本金二一〇〇万円を半減し、一〇五〇万円として固定資産の切り捨てなどの整理をした。同時に一〇五〇万円の優先株(一割二分配当を優先)を募集し、一九二二年三月資本金二一〇〇万円にした。こうした整理が功を奏し、二二年上期には二一万五〇〇〇円の利益を計上し、優先株に一割二分の責任配当、普通株に二分の復配をしたが、下期には普通株配当を一分へ減らし、一九二三年上期も同様であった。このような激しい盛衰は、株価によく表れ、戦時中に三三七円の高値をつけたほどの花形株であったが、一九二〇年の最高七二円、最低二〇円、二一年最高二四円、最低八円という惨状を呈した(日本鋼管株式会社『五十年史』)。 窮境に陥った事情は、産業財閥の旗手ともいえる浅野総一郎の経営した浅野製鉄所も同様であり、日本鋼管に比べ、発足が遅れただけに痛手を被りやすかった。やっと一九一八年から鋼板を生産し、一九年に軌道に乗ったかにおもわれたが、鉄鋼市況の暴落の前には抵抗力がなく、前述のごとく二〇年三月同系の浅野造船所へ合併され、造船所の一部門になった。経営の悪化はそれだけでは抑え切れず、六月になると製鉄部門の大整理を行い一時工場を閉鎖し、職員および職工を解雇せざるをえなくなった。将来に大拡張される海軍の八八艦隊の実現にともなう需要増のみを頼みの綱として期待したところ、ワシントン軍縮条約の成立で日の目を見ず、せっかく新設した製鉄所は、業績不振のため長い間にわたって悲境のなかに呻吟したのである(前掲『我社の生立』)。 諸工業の動き 東京電気のマツダ電球生産は好調で、ドイツ製電球が大戦中に日本から駆逐された空白を埋め、さらに中国へ輸出するまでに伸びた。休戦後も、一般の民需・官公需が安定していたことと電球生産についてはほぼ独占体制を確立していたので、販売高が少し減少した程度にとどまり、業況は恐慌の打撃をあまり受けないで順調な歩みをたどった。シンガポール・タイなど東南アジア方面にも輸出を広げた。業績は安定し、一九二〇(大正九)年二月、資本金六〇〇万円を一〇〇〇万円(払い込み八〇〇万円)へ増資し、同年下期に九〇〇万円へ払い込み、二三年上期に全額を払い込んだ。東京電気は戦時中も営業利益の大部分を社内留保して、配当は一貫して二割にとどめていたので、戦後恐慌にも十分耐えることができた。二〇年上期まで二割配当、下期と翌二一年上期一割五分、同下期以降昭和初期まで一割二分を維持している。不況期に、かえって固定資産や諸積立金などを増加したので、他社のように無配に転落することなく企業の実力を蓄えた(東京芝浦電気株式会社『東京芝浦電気株式会社八十五年史』)。 浅野セメントは川崎の埋立地に一九一七年五月川崎工場を完成、二〇年九月川崎第二工場を完成し、供給量を増大した。深川工場や門司・北海道・台湾工場と合計すると、一八年末に年産二五七万樽(約四四万トン)に達し、わが国セメント生産高の四〇㌫から五〇㌫ちかくのシェアを占め、業界における支配は揺るぎないものになった。大戦中の好調は、戦後もなお続き、回転窯の新増設や、アメリカから余熱利用自家発電の設備を輸入して工場内動力の自給策を採用するなど、生産増大とともに製造原価の引下げに努めた。一九二一年に資本金を一五〇〇万円から三三〇〇万円へと大増資をしたにもかかわらず、株主配当は大戦中の二割五分を越えて、ついに三割五分の高率配当を行い、不況時代に社勢の華やかさを誇った(浅野セメント株式会社『浅野セメント沿革史』)。 日本石油は、内藤久寛らが一八八八(明治二十一)年新潟県に資本金一五万円の有限責任会社として創立された。三島郡尼瀬町の海上に井戸を掘り機械掘りによる石油採取に成功し、以後もアメリカから輸入した新式機械を駆使して社運を開いた(『資料編』17近代・現代(7)二〇〇)。一九〇〇年ニューヨークに本社を置くスタンダード石油が新潟県直江津にインターナショナル石油会社を設立したが、経営がうまくいかず一九〇七年に売却を申し入れてきたので、日本石油は一七五万円で全資産を買収したほか、技師や社員を引き継ぎ、発展の基礎をつくった(『資料編』17近代・現代(7)二〇一)。第一次世界大戦後、石油需要が急増し外油の輸入が増大したので、その対応策として、日本石油は鉱区を接し石油業界の好敵手であった宝田石油と対等合併し、一九二一年十月、新しい日本石油株式会社が生まれた。二四年六月、日本石油は初めて外国原油を精製する目的で、太平洋岸製油所を神奈川県鶴見町(現在横浜市鶴見区)に二万坪(約・六六㌶)の地を選び建設した。原油生産地に製油所を建設する常識を破り、石油需要の増加と外国原油依存度増大という将来の動向に備えて、消費地中心の最新装備の製油所を設けたことは画期的であり、これより神奈川県が営業の主力地盤になってきた。 二 軍縮と官民工業 八八艦隊計画 一九〇七(明治四十)年四月、日本最初の国防方針および用兵綱領が制定され、海軍は対米戦争に備えて、艦齢八年未満の最新鋭戦艦八隻、巡洋戦艦八隻を主力艦隊にもち、これに相応する補助艦艇を整備する計画を決定した。この海軍兵力量を八八艦隊と通称し、その後海軍の軍備増強方針の目標となった。 しかし、日本の国力からみて一挙に実現するのは難しく、具体化の第一段階として大隈内閣の海軍大臣加藤友三郎は八四艦隊案を提議し一九一七(大正六)年の第三九議会で承認され、新戦艦として陸奥・加賀・土佐の三隻の建造が決定した。すでに明治末年に扶桑、一九一三年に山城・伊勢・日向の三艦、一六年に長門の建造が決まっていたので、戦艦はここに八隻になった。巡洋戦艦は金剛の代艦として天城を、比叡の代艦として赤城を新造して、榛名・霧島と合わせて四隻を予定した。八四艦隊の完成する一九二三年には金剛(一九一二年竣工)比叡(一九一四年竣工)は艦齢八年を過ぎるので第二戦線部隊へ編入する予定であった。ついで一九一八年三月、第四〇議会で八六艦隊が認められ、巡洋戦艦高雄、愛宕の建造が決定した。二〇年六月、海軍大臣加藤友三郎は八八艦隊案を提出し、第四三議会で可決された。海軍多年の懸案であり、待望した八八艦隊計画が、ようやく実現される目途がつき、海軍はもとより民間造船業をはじめ造機・造兵その他関連業界は多大の期待をかけた。 この計画が完成する大正十六年度(昭和二年度)には、艦齢八年未満の新鋭戦艦八隻(長門・陸奥・土佐・加賀・紀伊・尾張・一一号・一二号)、巡洋戦艦八隻(天城・赤城・高雄・愛宕・八号・九号・一〇号・一一号)を第一線兵力とし、既成の八年以上の超ド級戦艦扶桑・山城・伊勢・日向、ド級戦艦摂津、ド級艦金剛型四隻の巡洋戦艦を第二戦線兵力とするぼう大なものになり、イギリス・アメリカとならぶ世界屈指の海軍の建設であった(防衛庁戦史室編戦史叢書『海軍軍戦備』(1))。 ワシントン軍縮条約 一九一六(大正五)年五月末日、北海で争われた英独主力艦隊のジュットランド海戦で、防禦力が劣った三隻のイギリス巡洋戦艦は一万数千㍍離れたドイツ戦艦の砲撃に命中弾を浴び火薬庫が爆発し轟沈した。測距儀が発達し大砲が大口径化したので、巡洋戦艦も戦艦と同じように敵主砲弾に対し防禦を強化しなければ戦えないことがわかった。そのため巡洋戦艦は、ますます大型化する一方、戦艦は劣速では戦列に加われなくなり、高速力となる傾向を生み、高速戦艦の時代に入った。海戦の教訓をとりいれ、甲板や砲塔天蓋などの水平防禦に力を入れた高速戦艦を、ポスト=ジュットランド型戦艦と称するが、長門がその一号艦であり、陸奥が二号艦であった。ジュットランド海戦以降、列強の高速戦艦の建艦競争は激化し、各国ともにその国費負担に苦しんだ。 第一次世界大戦が終わり、戦敗国のドイツ海軍が列強海軍から脱落し、戦勝国のイギリス・アメリカ・日本の三国が、今度は太平洋をめぐって戦後の経営を競う情勢になった。しかし、激甚な建艦競争による軍事費の増大は各国の戦後財政に大きな重圧となった。イギリスは大戦で疲弊していたし、アメリカはそれに乗じて世界最大の海軍を建設しようとして、一九一六年に拡張三年計画、ついで第二次三年計画をたてて、一九二五年末までに戦艦三二隻、巡洋戦艦一六隻を含む大艦隊建設を目指したものの、さすがに手に余り、二一年にようやく一隻が完成したにとどまった。日本も八八艦隊の建造に着手したが、二一年には海軍予算が国家歳出の三二㌫を占め、重圧になってきた(海軍大臣官房編『海軍軍備沿革』)。完成の暁には、その維持費は国家予算約一五億円に対し、約六億円を見こまれ、国家歳出の四〇㌫を占める過重なものになり、やがては行き詰まると海軍省上層部間では憂慮されるに至った(前掲『海軍軍戦備』(1))。 一九二〇年の戦後恐慌は、世界を襲い、社会不安は増大し、労働運動や農民運動も盛んになり、人命と物資を消尽する戦争へ対する嫌悪感も強くみなぎっていたので、軍備縮小の声は世界に高まってきた。このような情勢のなかでアメリカの提唱をうけ、イギリス・フランス・日本・イタリアが加わり、ワシントンで一九二一年十一月から海軍軍備の制限会議が開かれ、翌二二年二月調印された。日本は海軍大臣加藤友三郎が全権となり、対米七割以上の兵力保有を目途に交渉したが、対米協調を基本的な考え方にもつ加藤の大局的判断に基づき、主力艦の保有率はイギリス・アメリカのそれぞれ五に対し日本は三という協定を受け入れた。イタリア・フランスは対米一・七五に決定した。 主力艦の廃止は、つぎのような原案であった。アメリカは第一次拡張計画のうち、完成したメリーランド一隻を除き、一五隻の主力艦と老齢戦艦一五隻を廃棄する。イギリスは計画中の新フッド型四隻を取り止め、ド級前第二戦線戦艦とド級戦艦一九隻を廃棄する。日本は未起工の戦艦紀伊以下四隻、巡洋戦艦四隻の建造を中止し、すでに進水または建造中の戦艦陸奥・土佐・加賀・巡洋戦艦天城・赤城、材料収集済みの未起工艦愛宕・高雄の七隻を廃棄し、摂津以外の老齢艦一〇隻を廃棄するものであった。第一次代艦は一〇年間起工せず、ネイバル・ホリディ(建艦休止期)を置き、一〇年後の代艦トン数はイギリス・アメリカそれぞれ五〇万トンに対し日本は三〇万トンに制限される。主力艦は艦齢二〇年に達したとき代艦を建造できるが、三万五〇〇〇トン以内に限られた。 審議の過程で日本は陸奥を復活し、代わりに摂津を廃棄する案を主張し、承認されたが、日本の実力が増大するので、その代償としてイギリスとアメリカに二隻ずつの新造もしくは保有を新たに許すことになった。 こうして八八艦隊の計画は中絶し、制限からはみでる主力艦は解体され廃棄処分された。残る戦艦は、長門・陸奥・伊勢・日向・扶桑・山城の六隻、巡洋戦艦は金剛・比叡・榛名・霧島の四隻という六四艦隊になった。既成または建造中の主力艦のうち二隻を利用して航空母艦の建造が特例で認められたので、戦艦加賀と巡洋戦艦赤城は航空母艦に改造が決まった。 加藤友三郎は運命の人であった。一九一五年八月、大隈内閣の海軍大臣に就任して、以後三代の内閣に留任し八年間も海軍の経営を担当し、宿望の八八艦隊案を成立させた直後、全権として軍縮会議に参加し、六四艦隊縮小を自ら決め、帰国すると再び海軍大臣として海軍縮小の難事にあたった。 戦艦陸奥 陸奥は長門の同型艦で、八八艦隊主力艦の第二艦であった。長門は呉海軍工廠で一九一七(大正六)年八月起工し、二〇年十一月竣工した。陸奥は一八年六月横須賀海軍工廠で起工し、軍縮会議直前の二一年十月完成した。陸奥は排水量三万三七五〇トン、八万七五〇〇馬力の減速タービン機関を備え、速力二六・五ノットを出し、主砲に大口径一六インチ(四〇㌢㍍)砲を八門備えた。当時の諸外国の戦艦の最大口径はイギリス・ドイツが一五インチ、アメリカが一四インチ、日本の最新鋭戦艦伊勢が一四インチであったし、イギリスの最新戦艦クイーンエリザベスが二万七〇〇〇トン、二五ノット、一五インチ砲八門であるから、すべての点で陸奥が優れていた。二六・五ノットの性能(試運転では二六・七ノットを出す)は、戦艦としては例を見ない高速であり、厳重に秘密とされ、二三ノットと公表された。アメリカが日本に対抗し、一六インチ砲をもつメリーランド型を建造中であったが、軍縮会議の時には一隻が完成していたにすぎない。イギリスがのちに陸奥復活の代償として、長門型を上回る強力なネルソン・ロドネーの姉妹艦を建造するが、これとアメリカのメリーランド・その同型艦のコロラド・ウェスト=バァージニアと陸奥・長門を合わせて、世界の七大戦艦とうたわれた(福井静夫『日本の軍艦』、池田清『日本の海軍』下)。 陸奥が未完成艦では、軍備縮小制限で廃艦になるので艤装を急いだ。日本海軍は陸奥が完成した事実を宣伝するため、各国の記者たちに横須賀繋留中の陸奥を見学させる計画をたてた。しかし、新鋭艦の詳細を知られたくないので、見学時間を短くするため記者を横浜で下車させ、現在のホテル・ニューグランドでゆっくりワインをふるまい昼食をとらせた。こうした苦肉の策を弄したりして、記者団の到着時間を遅らせたりしたが、そのような努力も報いられず、イギリス・アメリカは陸奥を廃棄リストに船艦陸奥 『横須賀海軍工廠史』第六巻より 入れた。戦艦は同型艦二隻以上が艦隊編成を組むのが好ましく、最新戦艦長門も単艦では活動を減殺されてしまう。長門の戦力発揮のためには同型艦の陸奥の存在が欠かせなかった。全権加藤友三郎が陸奥の復活に全力をあげたのも、このような理由に基づいた。前述のようにイギリス・アメリカ両国にその代償を許すという大きな譲歩をしてまで、陸奥を存続させた。陸奥は長門と艦隊を組み、長い間日本海軍の象徴であった。ところが一九四三(昭和十八)年六月八日、瀬戸内海柱島の泊地で原因不明の火薬庫爆発事故で轟沈し、今日まで謎を秘めたまま海底に眠っている(吉村昭『陸奥爆沈』)。 横須賀海軍工廠は、軍縮条約の成立により、主力艦建造に関係する拡張工事のうち、未着手のものは取り止め、工事中のものはやむをえないものを除き、現図場・山形鍛冶工場などの工事を中止した。 未成艦の処理としては、川崎造船所で一九二〇年起工し、二一年進水した戦艦加賀を、横須賀海軍工廠で航空母艦に改装し一九二八年三月に完成した。戦艦尾張は二一年十月横須賀工廠に建造命令が発せられていたが、未起工のまま建造は取り止めになった。巡洋戦艦天城は横須賀工廠で二〇年十二月起工されたが、建造は取り止めになり、航空母艦に改造を予定した。ところが関東大震災により大破したので、加賀に変更され、天城は二四年七月解体処分された。また、浅野造船所で進水した航空母艦鳳翔は、横須賀工廠で二二年十二月に完成した。軍縮条約の規定で保有を認められなくなった戦艦は、多くは廃棄処分にされたが、なかには軍籍から除き、特務艦や標的艦に編入されて寿命をながらえた艦もあった。日本海海戦の連合艦隊旗艦であった三笠は、二三年九月除籍し関係各国の承認を得て、名誉ある記念艦として、永久保存することにより、戦闘ができない状態にして横須賀の陸岸に固定し、現在に至っている(前掲『海軍軍戦備』(1))。 民間工業の打撃 一九二〇(大正九)年の戦後恐慌が静まり、二一年下期に中間景気の様相が現れたとき、軍備拡張を中心とする財政膨張政策が軍縮会議の結果、ストップがかけられたので、経済界は動揺し不況色は濃くなった。軍縮により、海軍軍人の整理が行われ、将校・兵七五〇〇名が退職し、海軍工廠の職工は一万四〇〇〇名が整理された。直接に海軍だけにとどまらず、八八艦隊関係の受注量が増大したので、設備の拡張を行っていた民間の鉄鋼会社や造船所は、一挙に頼みにしていたぼう大な海軍需要が激減し、大きな打撃を被った。 八八艦隊の予算が成立すると、各年度の予定注文に従って設備投資を始めていたところ、突然の中止で、大戦中の過剰設備の運営に困っていたのにまた不用設備を不況期に抱え込むことになり、企業経営への圧迫は加重された。主力艦の建造は制限されても補助艦の建造は認められていたから、海軍の需要がまったくなくなったのではないが、海軍の歳出は軍縮後は減少し、半分ちかくまで低下したから、当然海軍からの艦艇建造や兵器類の受注は期待できなくなったし、予定工事も相当に取り消された。 造艦用鋼材や大口径砲身などの製造に力を入れていた神戸製鋼や日本製鋼所、主力艦の建造を中止された川崎造船所・三菱造船会社をはじめ補助艦艇の予定を取消された浦賀船渠や横浜船渠も、海軍軍需へ依存度を深めていただけに困惑した。 民間側から補償を要求する声は高く、海軍もまた一九二六年三月衆議院における海軍大臣財部彪の説明のように、「政府ノ勧告ニ基キマシテ或ハ設備ヲ拡張致シ、或ハ会社ヲ新設致シ、而モ是ガ国際条約ノ実施ノ為ニ莫大ノ損害ヲ被ッタモノニ対シマシテ、何等補償ノ途ヲ講ジナイト云フコトハ甚ダ失当ノ譏リヲ免レナイモノ」(前掲『海軍軍備沿革』)と考え、民間企業の技術水準や兵器製造設備の維持のため、二〇〇〇万円の補償金が民間一三社に国債で支払われた。民間各企業は、この補償により不用設備の償却や整理を行ったが、補償額は要求額にくらべれば三分の一以下であるから、企業の損失を十分に補うものではなかった。補償額の内訳は、日本製鋼所九八〇万円を筆頭に三菱造船会社二四〇万円・川崎造船所二三七万円・大倉鉱業二〇〇万円・帝国火薬九三万円・浅野造船所五〇万円・浦賀船渠四五万円・横浜船渠四〇万円・住友伸銅所四〇万円・神戸製鋼三五万円などがおもなものである(前掲『海軍軍備沿革』)。 浅野製鉄所は、業績が振るわず一九二〇年三月浅野造船所に合併され、一時工場を閉鎖し、八八艦隊の拡張をひたすら待望していたが、軍縮によりその望みも消えたし、本体の造船所も航空母艦鳳翔進水後に、翔鶴の建造を予定していたのが中止になり、二二年五月には造船部を閉鎖する羽目に陥った。 浦賀船渠は八八艦隊の受注に備えて海面を埋立て、山を崩し、造船台の新設や延長を着手しようとしたところ、埋立計画に手間をとったため、拡張を行う前に軍縮が成立し、設備能力の過重という負担を偶然にも免れた。それでも巡洋艦五隻建造の予定が五十鈴、阿武隈の二隻のみで打ち切られた。建造中の駆逐艦四隻はそのまま継続ができたうえに、その後も駆逐艦二隻の追加命令をうけたので、大型汽船建造皆無の二三年ころには幸いであったとはいえ、操業を維持するためには、小量の艦艇工事では過小なので、鉄骨鉄塔橋梁などの鉄構部門を積極的に経営するようになり、陸上工事へ進出した(『浦賀船渠八十年史』)。 横浜船渠は、造船部門の開業が遅れ、大戦中建設に着手した造船諸施設が、休戦後ようやく完成するというずれがあり、十分償却をすまぬうちに不況に直面した。そのおり、海軍から一九二〇年十月砲艦安宅、二一年にはいって二等巡洋艦那珂を受注し、艦艇建造に活路を見い出そうとしていただけに、軍縮の影響で海軍の発注がなくなり、以後の経営の見通しが暗くなってきた。こうして造船業を中心とする重工業は、不況のうえに軍需の縮小というダブルパンチをくい、長く沈滞を余儀なくされた。 三 反動恐慌後の内陸工業 恐慌と製糸業 一九二〇(大正九)年三月の株価の暴落にはじまった戦後恐慌は、茂木商店と七十四銀行の破綻(五月下旬)によって一挙に深刻化し、製糸・絹織物業に大きく依存していた内陸部の経済に、激しい打撃を与えた。前年来、思惑買いによって暴騰を重ねた生糸相場は、一九二〇年一月の一〇〇斤当たり四四四〇円(横浜先物)をピークとして反落に転じ、四月には二一〇〇円(同上先物最低)、五月には一四三〇円(同上)、六月には一二七五円(同上)と暴落を続けた。そのため横浜生糸取引所は四月十六日-十九日、五月二十五日-二十六日など休業を繰りかえし、また、横浜蚕糸貿易商組合も、五月以降、一定価格以下での販売停止や荷受制限を決議して相場の維持につとめた。しかし、思惑買いと輸出不振によって累積した生糸の滞貨は、横浜だけで六月には六万梱、八月には八万梱にのぼり、糸価も一一〇〇円台に暴落したのであった。このような状況のなかで全国の蚕糸業者は、八月十日、横浜で全国蚕糸業者大会を開き、操業時間の制限(毎日九時間以内)と休業(毎月四日間)、横浜への出荷制限などを決議し、また、全国蚕糸同業組合中央会も九月下旬、資本金一六〇〇万円の帝国蚕糸株式会社を設立し、預金部資金五〇〇〇万円の特別融資を受けて糸価の維持につとめた。そして、十一月にはさらに第二次全国蚕糸業者大会が横浜で開催され、十一月末日以降七八日間の操業休止を決議したのであった。 しかし、このような決議にもかかわらず、一九二〇年の生糸生産量は五八三万貫にのぼり、前年のそれ(六三六万貫)を八㌫下回ったに過ぎなかった。これは製糸業の場合、一般に小規模な器械製糸や零細な座繰製糸が多いため急激な減産に耐えることができず、また、中央の指導や決議も徹底しにくかったからであった。とくに本県の場合には北部に根強い座繰地帯を擁し、器械製糸の生産額が座繰製糸のそれを凌駕したのは、大戦中の一九一七年のことであった。そのため一九二〇年の本県の生産量(八万三四四〇貫)は、前年のそれ(八万三五八三貫)とほとんど変わらず、減産率はわずか〇・一七㌫にすぎなかった(表四-一一)。そして、座繰戸数および釜数はかえって増加することになったのである(表四-一〇)。 しかし、生産量がほとんど不変だったにもかかわらず、価額の方は、前年の一表4-10 器械・座繰製糸戸数・生産額等の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-11 蚕糸生産額 注 『神奈川県統計書』より作成 二七五万円から六八〇万円へとほぼ半減した。このことは玉糸・熨斗糸・生皮苧その他を加えた総額においても同様であり、前年の一三六八万円から七一五万円へとほぼ半減したのであった。 一九二〇年恐慌が県内製糸業に与えた影響は、このようにきわめて激しいものであった。しかも、恐慌によって暴落した糸価はその後も低迷を続けた。もっとも一九二四年には、大震災後の復興景気と円相場の低落にともなう輸出増によってやや持ちなおしたが、その後ふたたび低落に転じ、一九二七年および一九三〇年の恐慌を迎えることになったのである。な表4-12 蚕糸郡別生産額(1926年) 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-13 絹撚糸および練糸生産額の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 お、この間製糸戸数は、器械・座繰ともに逐年減少し、ことに後者は一九二六年には、最盛時(一九一九年)の約七五㌫となった。いま『神奈川県統計書』によって、一九二六年の県内製糸業の分布状況を見れば表四-一二のとおりであり、高座郡が全体の過半を占め、器械製糸を主とした鎌倉郡と足柄上郡がこれに続いた。しかし、伝統的な座繰地帯の津久井・愛甲両郡は凋落が著しかった。こうした点からいって一九二〇年恐慌とその後の不況は、零細な座繰農家にもっとも大きな影響を及ぼしたと考えることができるのである。 撚糸業の動向 他方、製糸業と並んで伝統産業の一角を占めた撚糸業も、恐慌とこれに続く不況の大きな影響を受けた。いま『神奈川県統計書』によってその模様を見れば表四-一三のとおりであり、生産量は一九二一(大正十)年まで逐年増加したにもかかわらず、単位当たり価額は一九一九年をピークとして逐年低落し、二三年以降は生産量も大幅な減少に転じている。 他方表四-一四は恐慌後(一九二一年)の生産状況を郡市別にみたものであるが、これによれば生産は引き続き愛甲郡に集中し、総生産額の八〇㌫が同郡によって占められていた。そして、加工作業の大部分が、平均六〇ないし一〇〇錘の撚糸機を備えた賃加工業者によって行われたのであった。ところで上述の『半原撚糸のあゆみ』(半原撚糸協同組合編、昭和四十七年四月刊)や『愛川町史年表4-14 郡市別絹撚糸および練糸生産額(1921年) 注 『神奈川県統計書』より作成 表』(愛川町教育委員会、同郷土誌編纂委員会編、昭和五十二年九月刊)によれば、撚糸業の技術改良は、不況下においても不断に続けられた。すなわち一九二〇年三月には、半原撚糸同業組合に長谷式撚糸機一台(四〇錘)が県から貸与され、試用を開始したのに続いて、翌二一年には八丁式撚糸機の静輪が竹製からホーロー製に改良され、また、二二年には県からイタリア式撚糸機の貸与を受け、洋式撚糸機の試用が開始された。そして、二五年七月には産業組合法にもとづいて、有限責任半原撚糸業信用販売購買利用組合が組織され、組合員に対する資金の融通、製品の一括販売、原料その他の購買と組合員への供給、組合員に対する機械・器具等の利用サービスの供与等の事業を進めることになったのである。 しかし、こうした試みにもかかわらず同地の撚糸業は、引続く不況下において一九二三年には関東大震災の、翌二四年には中津川の洪水による大きな被害を受け、二三年以降、製造戸数・生産量とも逐年減少を続けた。そして、二六年には『県統計書』からも姿を消し、激しい昭和恐慌期を迎えることになったのである。 織物業の衰退 すでにふれたように県内の織物業は、大戦中のブームによって未曽有の活況を経験した。このようななかで北部の在来織表4-15 織物生産額の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。1923年以降の機業場数の内訳は,織機10台未満および10台以上。 物産地では一九一五(大正四)年十一月、高座・津久井・愛甲三郡の業者によって北相織物同業組合が組織され、製品や設備の改良が進められた。また、中郡・足柄下郡などの綿織物産地では力織機の導入が急増し、橘樹郡の富士瓦斯紡績川崎工場(一九一四年新設)でも、広幅絹織物を中心とした兼営織布が開始された。その結果県全体の生産額も、一九一四年の九四万円から一九年の七九八万円と、八倍以上に増伸することになったのである。 しかし、このような活況は、上述の製糸業や撚糸業と同様、反動恐慌によって無残に断ち切られた。そして、その後の慢性的な不況下において急速な退潮を余儀なくされることになったのである。表四-一五は『神奈川県統計書』によってその推移を整理したものであるが、これによれば、機業戸数・織機台数とも一九二〇年以降急減し、一九二六年には戸数は一九一九年の四〇㌫、織機数もおなじく六〇㌫に減少した。もっとも生産額の方は恐慌時の一九二〇年に著増したように見えるが、これはこの年に限って橘樹郡の絹織物統計に五二〇万円余の数字が計上されているためであるが、その実体は統計ミスか他の理由によるものかつまびらかでない。しかし、いずれにしても一九二一年以降は、絹綿を問わず、一様に減産・減価を続けたと見てさしつかえない。なかでも手織機の減少は著しく、一九二一年には力織機に凌駕され、二六年(表四-一六)表4-16 織物郡市別生産額(1926年) 注 『神奈川県統計書』より作成 には一九年の約三分の一となった。その中心地はいうまでもなく高座・津久井など県北の着尺物や帯地の産地であり、座繰製糸とともに恐慌の打撃をもっとも激しく受けた地域と考えることができるのである。事実『愛川町史年表』によれば、一九二〇年には七月から年末にかけて愛甲郡半原村・中津村・高峰村などで相次いで小作争議が発生した。農産物価格の下落のほか、製糸・織物など余業収入の大幅な減少が、農民家計を強く圧迫したものと考えることができよう。いずれにしても県北の機業地は、繭・生糸・織物の全面的な沈滞のなかで、大正期を送り、昭和期を迎えなければならなかったのである。 第三節 労働市場の変動と労働者状態 一 大正前・中期における労働市場の変動 労働市場の変動と友愛会の組織化 大正前・中期は、主として第一次大戦の勃発とその後の反動恐慌、さらに関東大震災の発生によって神奈川県の労働市場などにも、きわめて大きな変動をもたらした不安定な時期だった。日露戦後の恐慌後の慢性不況によって、重工業などの人員整理が強行されたことは明治後期についてみておいたが、その後本格的に景気が回復することなく、第一次大戦の勃発を待たねばならなかった。だが、大戦が発生すると間もなく商工業をはじめとして非常なブームを迎えることになったが、そのなかで、神奈川県ではとくに重工業の男子労働者を中心として著しく労働市場が拡大した。だが、大戦後の反動恐慌以降は一転して労働市場が縮小し、重工業をはじめとして明治末より以上の大規模な人員整理が強行されねばならなかった。もちろん大戦後の恐慌は、いわゆる泡沫企業を整理したが、すべてが初発に戻ってしまったわけではない。とりわけ神奈川県にとっては、川崎を中心とした京浜工業地帯の重要な一角の形成が大きな意義を持った。とくに川崎の工業地帯では明治期の造船所とは異なり、鉄鋼業とくに電気機器を中心とした新興工業の構造的発展がみられたことが重要だった。それも関東大震災で大きな災害をこうむったが、新興の工業地帯としての発展は挫折することはなかった。しかし、なおも商工業分野では家内工業や小商店などの大きな周辺部を残存させ、港湾労働者などの不熟練分野も含んでいたが、大工場の男子労働者を中核とする労働市場の基幹部分が、この過程において確立されたのである。 その点に関連して見逃すことができないのが、こうした新興の基幹的な労働市場を中心として展開した労働組合の組織化であった。明治末期以後、労働運動は高野房太郎などが主導した労働組合期成会の挫折や「治安警察法」の制定のもとで著しく後退したが、大正という「民本主義」などに象徴される新時代を迎えると、あたかも不死鳥のように息を吹き返した。それは一九一二年八月一日、鈴木文治を中心とした友愛会の創立にはじまった。友愛会は「治安警察法」の影響も受け、労働組合期成会より以上に労使協調的な修養団体としてそのスタートを切らねばならなかった。そういう初発の性格は、のちに東京電気(東芝)の社長となる川崎工場の工業部長新荘吉生工学士が友愛会の評議員となり、後述のような重要な役割を果たしたことからも想像される。神奈川県では、一九一三年に友愛会の川崎支部が結成されたが、その会員が川崎の東京電気・日本蓄音器という新興工業の労働者であった事実にも注目しなければならない。 しかも、その川崎支部の組織が拡大するきっかけは次のような日本蓄音器の労働争議によってあたえられた。同社はアメリカ人によって経営されていたが、一九一三年、不況で夏季休業を強いられ、その賃金保障をめぐって労働争議が発生したのである。その経過は、神奈川県労働部『神奈川県労働運動史』戦前編に詳しいが、そのなかでとくに次の事実が重要だろう。まず、若冠二十九歳の鈴木文治が一人でアメリカ人経営者と交渉したことである。結局は前述の新荘の仲裁によって、休業期間を短縮すると同時に、一か月の休業に一週分の賃金保障を取りつける成果を挙げたのだが、より重要なことは、鈴木の交渉などが三〇〇人ほどの全従業員の結集とその意見集約をバックとして展開されたことである。この実績にもとづいて、友愛会川崎支部の組織は拡大すると同時に、一時解散していた横浜や横須賀などの労働組合も再組織化されていったのである。その間に、鈴木会長がアメリカのAFL・カリフォルニア同盟を視察し、友愛会の運動が次第に本格的な労働組合運動として展開していき、その名も友愛会総同盟に改称されていった。新時代の波は、港横浜などにひたひたと押し寄せてきていた。一九一七年、革命のロシアにアメリカから帰国するブハーリンが途中で横浜に上陸し、堺利彦と会見したのも、その一幕だったろう。国内では一九一八年に米騒動が発生し、労働運動にも大きな影響をあたえた。さらに大戦後の反動恐慌は、大工場の解雇問題などより深刻な労働問題を多発させ、労働争議を激発させたのである。そして、こうした過程で友愛会の労働運動も、職業別組合から産業別組合としての運動に転換していかなければならなかったのである。 しかも大戦後は、のちにもみるとおり大工場を中心として終身雇用・年功体制が確立し、労働組合の活動は工場委員会の労使協議制度や健康保険組合などの福利厚生制度などに吸収されていったのである。他方、請負親方制度や職人型組合などが残存した分野も多かったが、大工場の労働市場は主として企業別に分断される構造に変化したのである。そうした状況のなかで注目されるのが、友愛会系列以外で港湾労働者が労働組合を結成した事実である。「沖仲仕」は、船会社-荷扱い業者の支配のもとで二〇をこえる人夫請負組合にいわば組織されており、それまで労働組合の組織化が禁止されていたのだが、一九二〇年の反動恐慌のなかで労働争議が発生し、それによって労働組合が結成されたのである。そして、日本の初のメーデーは実は五月二日におこなわれたのだが、沖仲仕だけは組合の創立大会を兼ねて五月一日に横浜で初のメーデーの行進を実施したのだった。このような港湾労働者の労働組合も経営者が組織した仲仕共済会の対抗に悩むことになるが、中小企業の争議団だけでなく、こうした古い不熟練労働者の組織化にも新時代の息吹きが示されていたのである。 重工業を中心とした産業の変動 第一次大戦前後における神奈川県の産業構造は、第一次大戦の勃発を契機とする重工業の飛躍的な発展によって著しく高度化した。第三次産業以外の生産部門における生産額の推移をみると、製造業の生産額が大幅に増大し、第一次大戦が終わった一九一八年には、全生産額の実に八四・七㌫を占めるまでに拡大した。他方、第一次産業の各部門の生産額は、いずれも増大したにもかかわらず、あまりにも製造業の発展が急激であったために、いずれも全生産額に占める割合を減少せざるをえなかった。とくに第一次大戦を契機とした製造業の顕著な発展をみると、このように、製造業の飛躍的な発展は、機械工業が主導していたことがわかる。一九一八年をピークとして、機械工業の生産額は一九一五年の実に一八・五倍にも増加しており、全体に占める割合も三八㌫にまで拡大したのである。 こうした産業構造の変化にともなって、就業構造も第一次産業中心から第二・三次産業中心へと、かなり構造的に変化した。表四-一七によって一九二〇(大正九)年の産業別就業構造をみると、第一次産業の就業者は三三・〇㌫であり、全国レベルの第一次産業就業者比率が依然として五〇㌫をこえていたことと比較すれば、神奈川県の農業人口の相対的地位がいかに縮小していたかがわかる。他方、第二・三次産業の就業人口の占める割合は非常に高く、第二次産業は二六・八㌫、第三次産業は四〇・二㌫となっている。貿易をはじめとして、重工業を中心とした工業化の進展は、就業構造の都市化・商業化を促進したため、第三次産業就業者の比重を著しく高めている。さらに、男女別の就業構造をみると、男子は重工業の発展を反映して、鉄鋼・造船業、運輸・通信業などの就業者比率が高く、逆に第一次産業の就業者比率はいっそう低くなっている。他方、女子は依然として第一次産業や繊維産業の就業者比率が高いが、サービス業や運輸・通信業の就業者比率もかなり高い水準に達している。 表4-17 産業別就業者数(1920年) 注 『国勢調査』より作成 表4-18 製造業の部門別工場数と職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。横浜市についてだけは3人以上,その他の郡市は5人以上の工場を調査対象としている。( )内の数字は構成比を示す。 つぎに、工場数と職工数の推移をみると、表四-一八のとおり、第一次大戦中の三年間に、工場数は一・一倍の増加であったのに対して、職工数は二・二倍にも増加していた。このことは、第一次大戦期の工業発展が、大企業を中心にして達成されたことを示している。とくに生産額と職工数の急激な増大をみた機械工業では、工場数はそれほど増加していない。実際、第一次大戦期には、既在の横浜船渠・浦賀船渠といった大企業が本格的な経営の拡大をはかるとともに、浅野造船所・内田造船所・日本鋼管といった民間大企業が相次いで創設され、急速にその経営規模を拡大していった。農商務省の『時局の工場及職工に及ぼしたる影響』一九一七年十月調査によると、神奈川県の新設工場は一八二工場を数え、そのほか拡張工場二九も含めて、これらの工場が吸収した職工数は二・四万人ちかくに達していた。このように、第一次大戦期は、造船・鉄鋼業といった重工業の大企業を中心として顕著な発展をみたのであり、のちの京浜工業地帯の基礎を固めたのであるが、このことは、職工数の推移にも明確にあらわれている。一九一五年から一八年の三年間に、女子職工は一・四倍しか増加しなかったのに対して、男子職工は実に三倍近くも増加し、職工全体の七〇㌫を占めるまでになっている。ちなみに、『工場統計表』によれば一九一九年における全国の男子職工比率は四六㌫であり、いかに神奈川県の雇用構造が重工業中心に形成されていたかがわかる。だが、ここで注意しなければならないのは、統計上の差異から直接比較することは困難であるが、一九二〇年における製造業の就業者数と職工数の間に、大きな開きがあることである。すなわち、就業者数約六〇万人に対して、職工数は約六万人である。このことは、第一次大戦期の工業の急速な発展が、重工業の大企業を中心として達成されたことは事実であるが、その周辺にぼう大な零細企業が存在し、家内工業などの自営業における業主とその家族従事者が就業していたことを示唆している。 拡大と分散を含む人口変動 第一次大戦期における重工業の急激な発展は、熟練職工を中心として労働力不足を深刻化させ、日露戦争以降やや沈静化していた職工の移動を再び激化させ、労働市場を著しく流動化させた。そこで、地域別の人口動態をみておくと、おおよそ次のような特徴がみられる。『神奈川県統計書』によれば、一九一三年から一七年の四年間に、神奈川県の人口は約一三万人増加したにとどまり、明治期よりも鈍化した。増加の著しい地域は、横浜市(六万四〇〇〇人)、橘樹郡(二万二〇〇〇人)、横須賀市(一万四〇〇〇人)だけであり、他の地域はいずれもわずかな増加にとどまっている。また、一九一七年における人口の流出入の状況をみると、神奈川県全体では、他府県へ流出した人員が九万人であるのに対して、他府県より流入した人員は三二万人にものぼっている。さらに、市郡別の流出入状況をみると、流入人口が流出人口を大幅に上回っているのは、横浜市(二〇万人増)、横須賀市(四万人増)、橘樹郡(二万人増)であり、逆に流出人口が大幅に上回っているのは、中郡(七〇〇〇人減)、高座郡(六〇〇〇人減)、愛甲郡(三〇〇〇人減)などである。 このように、第一次大戦期における神奈川県下の人口動態は、横浜市・横須賀市、それに川崎を抱えた橘樹郡の工業地帯への県内および県外からの人口流入が著しく、労働市場の側面においても、京浜工業地帯を形成しつつあることがわかる。他方、中郡・高座郡・愛甲郡をはじめとした京浜業工地帯の周辺地域では、農村人口の流出が増大した、と推察される。 それにたいし、大戦後の反動恐慌や関東大震災によって、また異なった人口現象が現出された。何よりも横浜・横須賀両市をはじめ多くの地域でそれまでの増加が減少に転じ、神奈川県全体の人口も一九一七年をピークとしてさしもの増加も減少に変化したのである。ただし、川崎を含む橘樹郡は、この間にあって一貫してその人口が増加し続け、一九一二-二三年に一〇万人足らずから一七万人に著増している。そのほか、三浦郡などもわずかながら増加し続けているが、橘樹郡の著増は新興工業地帯への人口集中を示していた、とみてよい。 農村・農業人口の変動 逆に愛甲郡・津久井郡をはじめ、足柄上、中、高座、都筑の各郡では、現住人口の方が本籍人口を下回っており、これらの農村を中心とした人口の流出を示している。こうした農村人口のなかでも、高座郡などを別として多くの郡では、本籍に対する現住の比率の低下は大戦中よりも大戦後において顕著になっていた。ということは、大戦中までの工業地帯を中心とした人口増加は、主として他府県からの人口流入に依存していたのに対し、大戦後の川崎などの人口増加はむしろ前述のような県内の農村人口の流出に依存するところが拡大した、とみるべきだろう。その結果、神奈川県全体の人口も増加から減少へと変化したわけだが、このことはさきの農村人口の流出が東京などの他府県にも向かっていたことを示している。 このように農業人口が減少したのは事実だとしても、これほど大幅の減少となっているのは、明らかに統計調査そのものの変化にもとづく見せかけの現象だろう。むしろ大戦後の減少の方が大幅だったことは、さきの農村人口の減少や表四-一九の農家数の動向からも想像されるところである。そこで表四-一九で農家数の推移を自小作別にみると、次のとおりである。(一)農家総数は明治後期において減少気味だったのが、明治末-大戦中に逆にかなり増加しており、明治後期に続いて小作農家の増加が著しかった。(二)おそらく小作兼業の増加が続いたのだろうが、大戦中あるいは一部の農村に限定すれば、農家の青年労働力などが工場などに吸収され、「小作人の払底」表4-19 農家数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 や「耕作の荒廃」が問題になる側面もみられた(『大日本農会報』一八二四年四月号など参照)。(三)しかしながら、農家の減少は表四-一九のとおり、大戦後とくに著しくなり、とくに零細な自作農家の減少が大規模にみられたのである。こうした五〇アール未満などの零細農家がある程度整理されたあと、比較的規模の大きい農家では、大戦中から需要が増加した野菜・果実・畜産などの新しい商品生産が拡大していったのだろう。 二 重工業の労働市場 大戦前後の雇用増大とその反動 一九〇七(明治四十)年の恐慌以来沈滞していた重工業も、第一次大戦の勃発によって一挙に活況を呈した。横須賀海軍工廠をはじめとして、横浜船渠・浦賀船渠などの民営大工場も、生産量と職工数が急激に増大した。またこの時期には、浅野造船所・日本鋼管・日東製鋼・富士製鋼・内田造船所などの民間大企業の創設が相次ぎ、京浜工業地帯としての発展の基礎を固めた。とくに海岸に臨む若尾新田全域に工場を建設した日本鋼管は、臨海工業地帯を形成する契機となった。こうした第一次大戦の勃発を契機とした重工業の発展が、いかに急激なものであったかは、表四-二〇からもうかがうことができる。神奈川県下の工場数は、一九一二年から第一次大戦が終結した一七年の六年間に六・九倍、同じく職工数で三・二倍に増加している。他方、機械器具工場は、工場数で六・五倍、職工数で四・八倍に増加しており、そのなかでとくに大工場における職工の増加がきわめて急激であった。このことは、主要企業の職工数の推移をみればより明確になる。表四-二一によれば、第一次大戦が終わった一九一八年には、浦賀船渠・横浜船渠・浅野造船所は、いずれも職工数が四〇〇〇人を上回っており、創業間もない日本鋼管もその職工数が三〇〇〇人をこえていたのである。 だが、こうした第一次大戦による活況も、大戦の終結とともに終息し、一九二〇年には反動恐慌におちいった。翌二一年には、「ワシントン軍縮条約」にもとづく八・八艦隊計画の削減や、欧米先進工業国の世界市場への復帰などによって不況が長期化し、大戦中に簇生した弱小経営の整理が進展していった。表四-二〇からも明らかなように、一九一七年から二三年の間に、神奈川県下の工場数と職工数は大幅に減少しており、機械・器具工場の工場数と職工数もほぼ半減した。横須賀海軍工廠や前述した民間大企業も、この間の生産縮小によって職工数の減少をみており、創業後急速に職工数を増加させた日本鋼管も、一九一八年をピークに二一年には職工数が一七八二人にまで減少した。こうした職工数の減少は、たびたび職工の大量解雇をひき起こし、のちにみるような労働争議を多発させたのである。 まず、明治後期の重工業の労使関係に大きな影響を与えた職工の移動の状況からみていくと、明治末期から大正初頭にかけて職工の移動はかなり沈静化していた。というのは、一九〇七(明治四十)年以降の不況によって労働市場が収縮したことと共済組合を中核とした企業内福利施設が導入されて「経営家族主義」的な労務管理が浸透してきたことの反映だった。しかし、こうした職工の移動の沈静化と勤続の長期化がみられたことは事実であるが、それと同時に、「渡り職工」も根強く残存しており、経営家族主義も重工業大経営の労使関係を律する新たな秩序として強固に定着するまでには、な表4-20 重化学工業における工場数と職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-21 主要企業の職工数推移 注 1912年は『神奈川県統計書』,1918年は『日本近世造船史』,日本鋼管については『日本鋼管30年史』より作成。 お相当の時間が必要だった。こうしたなかで、第一次大戦を契機とした重工業の飛躍的な発展は、労働力需要の著しい増大をもたらし、重工業の企業間で熟練職工のはげしい争奪戦が演じられ、再び労働市場は流動化していった。実際、第一次大戦中の一九一七年に創設された浅野造船所では、創業を開始した年の九月には月間職工増加数がマイナスとなり、十月には職工在籍数が減少に転じており、「運搬工や雑工や未熟練工のみ多くて、全工場の調整を得る迄には約一ケ年を要した」(浅野造船所『我社の生立』二三ページ)といわれている。さらに、「当時の鶴見・子安地域は漁村であって、阪神地方からの移住職工の住宅も極度に不足を来し、土着民たちはかかる移住者をかならずしも歓迎しなかった。そこで、『独身者合宿所』や『職工長屋』を建てて、その屋賃の支払を保証した」(『横浜市史』第五巻上六六二ページ)のである。 こうして、重工業の大経営では、再び熟練職工の定着対策に苦慮しなければならなかった。そのなかで実施されたいくつかの対策をみると、まず明治末期に実施され、その後形骸化していた職工の争奪・移動防止協定の復活と拡大がある。たとえば横須賀海軍工廠では、一九一七年に「誘引其ノ他不自然ニ起ル職工ノ移動ニ対スル予防」のために、相互に在職中の職工の引抜きを慎しむこと、依願退職の者についても退職後六か月以内は採用しないことなどを取り決めた協定を、三菱長崎造船所・川崎造船所・大阪鉄工所・石川島造船所・神戸製鋼所など一五の大経営と締結している(『横須賀海軍工廠史』第五巻五〇七-八ページ)。こうした協定に加えて、勤続奨励のための付加的給付が実施された。勤続賞与と中元・年末賞与がそれだった。前者の勤続賞与は、一定年限以上の勤続者に対して給付され、海軍工廠では一九一八年に毎月日給の三日分以内を加給することとした。同じような勤続賞与が、横浜船渠でも実施されていた。他方、中元・年末賞与は、一九一八年に海軍工廠で期末賞与が支給されたのをはじめ、横浜船渠などの民間企業でも同種の賞与が設けられた。しかも、これらの賞与は多くの場合、勤続期間が出勤状況などとともに重要な支給基準となっていたのである。しかし、こうした定着対策も、協定締結企業の範囲が狭かったことや職工の賃金上昇が顕著だったために、職工の移動をほとんど沈静化することができなかった。そのために職工の移動が低下したのは、一九二〇年の反動恐慌以降であった。二〇年以降の不況過程では、職工の大量解雇などによって職工数が著しく減少し、労働市場は著しく弛緩していた。こうした状況のもとで、労働者の定着と企業帰属意識の強化をはかろうとした一連の施策が重工業の大経営を中心として導入されはじめたため、職工の移動は著しく減少していったのである。そこで、次にこうした一連の施策をみることにしよう。 共済組合の設立と企業別熟練の形成 まず第一に、日露戦争後、共済組合を中核とした生活扶助施設が企業内福利施設として登場したことである。たとえば、海軍工廠では一九〇七年に職工共済組合、一二年に共済組合が設立された。また浦賀船渠では、一六年に共済会、横浜船渠でも同じころに共済組合をそれぞれ設立している。そして、注目すべきことに、これらのある種の給付については、加入年数によって給付額が差別されていたのである。しかも海軍工廠などの例では、加入年数の短い者の場合、自己都合による組合脱退の際は脱退給付を支給しない、というケースもあった。これらのことは、職工の長期勤続化を促進させようとしていたことを意味している。 つぎに、第一次大戦の勃発とともに職工のはげしい移動に悩んだ大経営は、熟練職工の養成に対する関心が非常に高まり、従来の実業補習学校などに実技以外の教育を委託する委託教育方式に代わって、企業内養成施設による教育がおこなわれるようになった。重工業大経営が、自ら養成施設を設け、就業時間内に年少労働者の技能教育をおこなうようになったのは、そのほかに、この時期における生産技術の発展が労働者に個別企業型の熟練を要求するようになったからでもあった。 日露戦争以降、先進的な大経営でみられた職種の細分化が、この時期には一般化するとともに他方でよりいっそう深化したのである。つまり、この時期の重工業大経営における生産技術の発展は、たんに手工的熟練を分解したばかりでなく、経営内分業の特殊な発展をよりいっそう進めたのである。そして、こうした生産技術の変化は、労働者により知的な熟練を要請したため、見習職工の採用資格を高等小学校卒業者に引き上げる傾向があらわれた。海軍工廠でも、一九二一年、「海軍工務規則」を改正し、見習職工は原則として高等小学校卒業者から採用することになったのである。 第一次大戦期におけるこうした職種の細分化の進展を具体的にみると、造船業における先進的大経営の船体部門では、造船工はすでに日露戦争のころからいくつかの職種に分化していたが、第一次大戦期にはこうした分化が大工場で一般化するとともに、大戦後の不況過程での合理化によって、新たに鉄木工から現図工・取付工などの職種が分化していった。一九二一年当時の浦賀船渠の船体部門では、鉄木工・穴明工・鉸鋲工・塡隙工などのほかに、現図工・鉄工などの分化がみられる(『浦賀船渠六十年史』一七三ページ)。また海軍工廠では、一九一八年に写真工・計器工・実験工などの職種が新設されており、知的熟練を必要とする新しい職種が出現してきたことを示している。 こうした職種の細分化・専門化の進展は、それを基礎とした分業組織の編成方法に、個別企業ごとでかなりの差異を発生させた。こうした個別企業的な技術体系と分業組織に適合した技能を養成するには、外部の教育機関よりも企業内養成施設の方が、はるかに適合的であった。しかし、職種の細分化・専門化の進展によって熟練の手工的性格が分解され個別企業的な性格を持つようになったとはいえ、依然として手工的熟練を残存させていた職種もかなりあり、それらの職種では熟練の社会的通用性が高いために移動率もかなり高く、職種別の流動的な労働市場を残存させていた。大正末期から昭和初頭にかけて造船業大経営労働者の職種別移動率を調べた調査によれば、表四-二二のように造船部門の鍛工、撓鉄工、鋲打工、木工、鉄木工、艤装部門の建具工などはかなり高い移動率を示している。このように、一部の職種で個別企業内的な性格が強まってきたとはいえ、依然として手工的性格を残存させた移動性の高い職種も数多く残存していたため、労働者の個別企業への定着性と帰属意識を高めるために、技能の企業内養成施設以外にもいくつかの方策が実施された。まず、第一次大戦中に勤続奨励的な意味をもった勤続賞与や中元・年末賞与は大戦後も維持されるとともに、大戦後の反動恐慌による人員整理の実施に際して、退職事由と勤続年数に応じて支給額を異にする退職(解職)手当制度が新たに導入された。浦賀船渠や横浜船渠では、共済組合による脱退手当の支給に加えて新たに退職(解職)手当を支給する制度が登場している。これらの制度は、支給率が勤続年数に応じて上昇し、自己都合退職に対しては支給されなかったり、支給されても大幅に減額されたため、労働者の長期勤続化を促進する役割を果たしたのである。 こうして第一次大戦後の重工業大経営においては、個別企業的性格の強い職種を中心として、高等小学校を終えた年少労働者が企業内養成施設において三-五年程度の技能養成を受けたあと、順次経験を積みながらグレイドの高い職務についていくという企業内昇進による労働力の編成体制が形成されはじめたのである。それにともなって、経営側の雇用管理体制も整備されていった。まず、海軍工廠では、一九一三年に見習職工の募集は毎年四月におこなうことが定められていたが、二五年には、従来満十二歳以上二十五歳未満であった見習職工の採用年齢を、高等小学校卒業者の年齢にあわせて十四歳以上十七歳未満表4-22 職種別移動率(1925年) 注 中央職業紹介事務局『職業別労働事情(3)機械工業』91ページ。ただし移動率=(雇入数+解雇数)÷年間平均職工数。 に限定している。また、熟練職工の移動が低下した第一次大戦後には、熟練職工を定期職工として雇用する制度に代わって、職工一般を期限の定めなき常用工として雇用する制度が一般化していった。海軍工廠では一九一〇年に定期職工制を事実上廃止しているが、民間大企業でも第一次大戦後には定期職工制を廃止している。こうした常用工制度が確立するにつれて、企業内昇進制度から排除された臨時工・社外工制度が形成されていった。こうした臨時工・社外工は、生産変動にともなって起こる雇用変動の主たる調節弁としての役割を担わされたのである。こうして、いわゆる終身雇用と労働市場の二重構造が形成されたのだった。 日本的労務管理体制の形成 このように、第一次大戦後の重工業大経営においては、労働者の個別企業への定着化と内部昇進化が著しく強まったため、経営側の生産過程に対する管理体制も著しく強化された。まず、一九二一年以降、労働組合の団体交渉権を拒否した経営は、その代替機関として労使協調的な工場委員会を導入し、労働条件をその付議事項とすることによって、労働者の苦情処理をおこない、労働組合の機能を無力化させることに成功した。こうした工場委員会体制の成立と慢性的不況下の労働市場、さらに生産技術の発展による熟練の客観化などを背景として、経営側の職場管理機構は著しく強化されたのである。 たとえば海軍工廠では、一九一九年に各職場に工事主任・計画主任などの新しい末端管理者層が配置されるとともに、企画工・記録工などの生産管理を補佐する間接工が設けられた。そして、こうした職場管理者層による労働条件決定への関与が強まるとともに、労働条件に関する経営機能が専門的な管理部門に集中されていった。こうした経過のなかで最も重要な機能を担ったのが労務担当部門であった。浦賀船渠では一九一九年に職工係が設置され、二三年には職工課として拡充されている。同じように海軍工廠では二三年には総務部、浦賀船渠でも同年に職工課がそれぞれ設置された。こうした労務部門の重要な機能は、採用・配置・解雇・労働条件に関する管理の集中化であった。とりわけ、初任給・昇給管理の画一化は、企業内昇進制が成立しつつあった当時においては、労務部門の重要な機能であった。海軍工廠においても、一九二三年総務部を通じて労務管理の集中化をはかった際、総務部に課された職能は、全体的見地から「職工及雇員傭人ノ維持並増減給ニ関スル」画一的管理をおこなうことであった。こうして、日本型終身雇用に対応する日本的な生産・労務管理が整序されていったのである。 定期昇給制度と賃金・労働時間 第一次大戦後、依然として移動の多い職種を残しながらも、基幹的な職種分野において企業内昇進制が形成されてくるに対応して、賃金管理においても定期昇給制度が導入されはじめた。横須賀海軍工廠では、すでに一八九三(明治二十六)年に「職工増減給内規」によって、年四回の増給詮衡をおこなう方式が定められていたが、反動恐慌が勃発した一九二〇(大正九)年には、昇給詮衡を年二回に減らすという改変がおこなわれた。こうした定期昇給制は、第一次大戦後、重工業大経営に広く普及していったが、浅野造船所のように、成文化された昇給規則をもたなかったところもあった。しかしながら、第一次大戦後に成立した定期昇給制は、昇給決定の基準がきわめて曖昧であり、勤続年数序列によって技能序列を十分に包摂することができなかった。すなわち、当時の生産管理体制は、生産過程の管理を強化したとはいえ、まだ作業内容の細部まで確定し把握したうえで管理していたわけではなく、しかも手工的な熟練を残した職種もかなり存在していたため、昇給の基準もきわめて抽象的で多分に職場管理者の主観的判断に依拠しており、中途採用者といえども技能に応じた格付けをなしうる余地があった。実際、横須賀海軍工廠でも、昇給対象者は「其ノ技能及勤怠ヲ考査」して決定するという、きわめて抽象的かつ曖昧な基準しか定められていなかった。また、既経験者を採用する場合も、「初メテ職工ヲ傭入ルルニ当リ仮ニ賃銭ノ等級ヲ定メタルトキハ爾後一回ニ限リ……相当ノ増給ヲ為スコトヲ得」としており、勤続年数を無視して技能に応じた格付けをなしうる余地を与えていた(海軍艦政本部「海軍工務規則」一九二一年)。 このように定期昇給制が成立しつつあった第一次大戦後の職工の賃金水準をみると、大戦前と比較すれば大幅な上昇がみられたが、社会的にみると依然として低水準にあった。浅野造船所の職工の平均賃金(日給)は一九二一年に一円八〇銭であったが、その時の日雇人夫の日給は二円五〇~六〇銭であった。また横須賀海軍工廠の職工の平均賃金(日給)は一九二五年に二円であったが、横須賀市の日雇人夫の日給は二三年にすでに二円五〇銭であった。職工のこうした状況は、一九二一年に浅野造船所で実施された「職工生計費調査」の結果にもよくあらわれており、「本調査に依れば、平均日給一円八十銭以下の各世帯に於ては、皆収支相償はざる生計を営み、僅かに家族内職為による支払繰延によるか」して赤字を補塡していると記されている(『浅野造船所建設記録』二四七ページ)。 さらに労働時間についてみると、一九一九年初頭に開かれた国際労働会議において八時間労働制が一般原則として採択されたことを背景として、わが国でも八時間制あるいは九時間制をとる経営が多数あらわれた。神奈川県下の重工業大経営においても、一九年に浦賀船渠と浅野造船所が一〇時間制から八時間制に移行している。しかし、不況と労働争議が発生した二一年には、所定内労働時間を一時間延長し九時間制を復活している。したがって、第一次大戦後においても、もちろん明治期よりも改善されたとはいえ、長時間低賃金労働が支配的であったのである。 注 (1) こうした労働市場をはじめ労使関係や労務管理の形成については、兵藤釗『日本における労資関係の展開』第二・三章、それを批判的展開した、中西洋『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』補論2、それらを踏まえて概説した、小林謙一「日本的労務管理の形成」、森川英正ほか編『日本経営史を学ぶ』2、参照。 三 繊維工業の労働市場 女工の比重低下と繊維工業の動向 明治末から大正期を通して重化学工業が著しく発展するのにつれて、女子職工数が男子職工数を上回っていた状態は逆転された。すなわち、一九一五(大正四)年に男子職工数が女子職工数を凌駕し、大戦ブームの一九年には男子職工比率が六八・一㌫、二〇年には六七・九㌫にまで高まった。このことは、女工比率の高い綿糸・絹糸紡績や織物の工場の比重が相対的に小さくなったことによる。染織工場は、震災の年や特殊な年を別とすれば、絶対数は着実に増大しているが、全工場に占める割合は二〇㌫程度に低下した。それは表四-二三のとおりであるが、染織工場の職工数もほぼ同様の傾向を示し、全職工数に占める割合は、五〇㌫以上から三〇㌫程度に縮小した。なお、一工場当たりの職工数は染織工場の場合、一九一二年七四人、一九年六五人、二一年四五人と段々に少なくなっている。これは、大戦ブームを契機に小工場の新規参入が多かったためであろう。もっとも、重化学工業も含めた全工場の場合、一工場当たりの職工数は、同時期に八三人、六六人、二五人と染織工場以上に規模が小さくなっているので、中小工場の創設が全体として多かったことを示している。とはいえ、紡織業においても、川崎・横浜などに大表4-23 染織工場数・職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 工場が設立されたのも確かである。一九一四年の富士ガス紡の川崎工場、一七年の日本人絹、一八年の東洋紡績横浜工場・横浜撚糸織物工場・池畑メリヤス工場、一九年の東洋麻糸紡績横浜工場・宮川メリヤス工場などの新設が相次いだ。それらのうち、少数であるが、最も規模の大きな綿糸と絹糸の紡績工場については、『県統計書』にやや詳しい記載がある。それは表四-二四・二五のとおりであるが、それによれば、綿糸紡績工場の場合、大戦後の不況や震災にもかかわらず職工数を着実に増大させ、一工場当たり職工数も一九一五年の一二六七人から二三年の二二二五人へと、著しく大規模になっており、職工一人当たりの使用馬力数も、同じ時期に〇・七馬力からほぼ一馬力へと増大したのだから、生産性も著しく上昇しただろう。それにたいして、絹糸紡績工場の方は一工場で三〇〇〇人以上、大戦ブームの一九年には六〇〇〇人以上の職工を雇用する巨大なものが存在した。しかし、この絹糸工場の場合は大戦後の不況期と震災時には著しく縮小してしまったのである。 表4-24 綿糸紡績工場・職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-25 絹糸紡績工場・職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 低賃金と長時間労働 こうした紡績大工場では、明治後期と同様に、十二歳から二十歳代前半の若年女子労働者が、低賃金のもとで長時間の労働に従事していた。『県統計書』によれば、一日の就業時間は二二ないし二四時図4-1 繊維工場の1日当たり賃銭 注 『神奈川県統計書』より作成 間と記されている。この時期では昼夜二交代制がとられていたから、一人一日の労働時間は一一時間から一二時間にのぼったであろう。また賃金水準についてみれば、図四-一のとおり男女職工とも大戦中の好況期にかなり上昇している。しかし、女工はおろか、男子職工にしても、のちに示す他の職業の賃金水準に比べてかなり低い水準にとどまっていた。後述するように、一九一八年ごろの職工の生活費(酒、煙草、娯楽費を除く)は、二人家族で一日八八銭、五人家族で一円三〇銭程度であったから、男子職工についても余裕のない生活状態が想像される。なお、一九一七年の『県統計書』衛生統計によれば、寄宿女工と通勤女工あわせた合計のうち、寄宿女工の割合は、紡績工場では八五㌫、製糸工場では九五㌫であったから、大部分の女工が劣悪な寄宿制度の拘束下にあったといえる。このように、紡績工場労働者が引き続き明治後期と同様の劣悪な労働・生活条件下にあったのは、「工場法」が明治末に成立したとはいえ、その実施がこの時期になっても引き延ばされていたことにもよる。 このような都会の大紡績工場とは別に、農村部に多くの製糸工場が存在したのは大正期に入っても変わりない。表四-二六のように、こうした器械による製糸工場は県内に大正期を通して四十数工場程度存在したが、その平均的な規模は一工場当たりの職工数約五〇人(一九一二年)、釜数七二(一九一七年)程度のものであった。こうした製糸工場の一つである横浜市の光塩社については、「製糸工女規則」が残っているが、それによれば、就業時間は冬期は「午前五時ヨリ午後六時マテ」の一二時間、夏期は「午前四時ヨリ午後七時マテ」の一五時間にも及んでいた。その間二〇分の食事時間と夏期には一〇分ないし二〇分の休憩時間が与えられるに過ぎないのである。もっとも、休日は毎日曜日と定められていた。また「接近地ノ者ハ通勤スル表4-26 製糸場・戸数と釜数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成。( )内は釜数を示す。 モ妨ケナシ」とされたが、「製糸工女ハ総シテ寄宿セシムルモノトス」とされ、外出はきびしく制限されているのも他の工場と同様である。年季は、十二歳以上二十歳までと定められ、その前に退職する場合は違約金をとられていたのである。 賃金は表四-二七のような、等級と繰糸の質および量によって決定された。等級は毎日の小試験、毎月の中試験、年二回の大試験によって決定された。そのうち小試験は、糸の光沢良否、テトロ均否、糸量多少、糸目、纇節多少、切断多少、勤惰などについてそれぞれ毎日テストされ、その結果が点数で記録された。この小試験を合算して中試験となるが、その点数の高さによって等級付けされたわけである。ここに、典型的な等級賃金制の採用をみることができる。平均との関係で等級を決めるという等級賃金制は、マニュファクチュア段階の製糸業において必然化した賃金算定方式だったが、わが国だけにみられる制度であり、明治中ごろから諏訪地方の製糸工場で普及し、全国に広まり、大正期になって確立されたのである。この制度によって、(一)平均成績を得た者に対する標準日給額を定めることにより、経営者はあらかじめ大体の賃金支払総額を決定しうる。(二)平均からの成績の偏差に対して賃金格差をつけることにより、女工間の競争を激化させ、作業能率を引き上げることができ、(三)賃金格差を女工の能力差に直結して宣伝し、高賃金女工をおとりに使って、低賃金水準のままで女工募集することが可能となったのである(石井寛治『日本蚕糸業史分析』二九一-三一五ページ参照)。また同「工女規則」によれば、デニール、光沢および糸目については、賞罰制が採用されており、この賞罰制がさきの等級賃金制の機能を補強していたのである。なお、この賞金・罰金制については、諏訪製糸家笠原家の例では、罰金総額の方が賞金総額よりはるかに多く、また工女に精神的負担を与えたこと表4-27 製糸女工の等級・製糸質量別日給表 (銭・厘) が指摘されているが(滝沢秀樹『繭と生糸の近代史』)、光塩社の場合にもこのように機能しなかったとは断言できないだろう。 麻真田工場の発展と衰退 つぎに、やはり女子労働者のウエイトが大きい麻真田工業についてみよう。麻真田というのは、マニラ麻の織維を機械で編んで、平べったく真田ひものように仕上げたもので、多く婦人帽の材料に利用された。このひもを製織するのが麻真田工業であり、輸出産業として成長していた。海外ではそれをきれいに縫い合わせ、高級婦人帽に仕立てたが、それが欧米で非常に流行したのである。神奈川県では、一九一〇(明治四十三)年に製紐機を用いた近代的工場が設立されて以来、もっぱら横浜を中心に短期間で急速に発展し、一九一六(大正五)年ごろに生産・輸出ともピークを記録した。輸出された横浜産の麻真田は品質も良好で、しかも価格が安いので、海外から引っ張りだことなり、にわかにブームを呼んだのである。 こうした麻真田工場はすべて電力を使用する近代的工場であり、一九一五年には二一一工場を数え、大きい工場では製紐機が一〇〇台ぐらいにも及んでいた。表四-二八のとおり職工数は、大正はじめに男女あわせて五〇〇〇人ほどに達したが、その九割以上が女工であった。そして一工場当たり平均二〇数人の職工を雇用し、大きな工場では立派な寄宿舎をもっていた。製糸や綿糸の工場などと比べて、寄宿女工の割合が少ないのはこの工業の特徴であり、『県統計書』の衛生統計によれば、一九一七年の寄宿女工の割合は一二㌫にとどまっていた。しかも、麻真田工業の女工の賃金水準は比較的高く、作業も清潔であったので、製糸女工や紡績女工などはそれにあこがれ、かなりの労働力移動がおこなわれたほどだった。このように、麻真田表4-28 麻真田工場・職工数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 工業は大正期において女子に有利な雇用機会を提供したのであるが、やがて、第一次大戦後の不況、関東大震災、昭和恐慌と重なる打撃をこうむるなかで、麻真田生産は衰退し、その意義を失っていったのである。 四 酒造業の労働市場 酒造業の発達と出稼ぎ労働者 明治期についてもみてきたとおり、神奈川県の労働市場はそれだけで完結していたのではなく他府県と強い結びつきをもって形成され、なかには他府県の労働者にほぼ全面的に依存する産業もあった。たとえば、日本酒の酒造業がそれである。酒造業においては生産活動が冬期に限られていたことから、農村出稼ぎ労働者への依存が伝統的・慣習的に形成されてきており、また、水田単作地帯・山村積雪地帯では手近に就業機会がないため農閑出稼ぎが定型化しており、両者は相互依存関係をもっていた。それは丹波杜氏・越後杜氏・南部杜氏などとして名高いところである。こうした農民労働に依存したことにもとづいて、酒造業においては古い独特な労使関係が形成されてきたが、それもこの段階になると一定の変様=近代化を遂げたが、以下ではそうした点も含めて、酒造業の労働市場と労働者状態の特質についてみておこう。 神奈川県における酒造は、量的には大した規模をもたなかったが、幕末以前古くから中・足柄上・足柄下・愛甲・高座の各郡など県北部と中部において地酒生産として定着していた。とくに明治期になると、小作米に依拠する地主経営型の酒造業としていっそう発展した。大正期になると表四-二九のように一〇〇戸ほどの酒造家が存在していた。そこで雇用される労働者数は一〇〇〇人に満たないが、一工場当たり六-一〇人の労働者が雇用されていた。このうち、酒のびん詰めやレッテル貼りや出荷などの単純労働は地元の農家主婦などの余剰労働力によって担われたが、基幹的な酒造り工程は、杜氏に率いられた地縁・血縁的なチーム=職能組織化された労務者集団によって担われた。このチームは、杜氏を頂点に、三役(頭・麹屋・酛屋)、舟頭、釜屋、精米、下働き(雑役)などの職務によって構成されており、一チームは七-八人で編成された。これらの職務は賃金序列を示すとともに身分的序列も示していたが、実際の一人一人の仕事内容には職務間に代替性があった。たとえば、麹屋は麹をつくる責任者であるが、麹造りの仕事が終われば他の仕事も手伝ったのである。下働きから順次に各職階を経て杜氏に昇格していくわけであるが、それまで一四-一五年を要したという。杜氏は、酒造りに全責任を負うばかりでなく、こうしたチーム作り、労務管理にも責任を負ったのである。そのため、酒造りに失敗し、自殺までした杜氏もあったという(愛甲郡愛川町大矢孝氏談)。 なお、大正も後期になると男子労働者のウエイトが減り、女子の比重が増加しているが、これはこの時期に電力が使用されるようになり、とくにびん詰め段階の輸送が容易になったために女子労働者がより多く就業するようになったのだろう。さらに一九二一-二三年に従業員が減少したのは、不況の影響であろうが、この階段から精米を請負いに出すことが多くなったことも反映しているだろう。また、酒しぼりに関しては天びん棹締めからねじ締めへ、釜屋の仕事も燃料が薪から石炭へと変わったので、仕事が軽労働化したこともつけ加えておかなければならない。 神奈川県における杜氏の出身地は、新潟県が多く、それを愛甲郡愛川町大矢酒造などでは埼玉県川越市に存在した田中卯吉なる「口入れ屋」を通して調達していた。『埼玉史談』には、こうした口入れ屋という親分の元締めであろう「関東唯一の酒表4-29 酒造業と従業員数の推移 注 『神奈川県統計書』より作成 造杜氏周施養成業」酒井家についての記事が載っている。同家は、宝暦以来酒造従業員紹介を業としてきた家柄で、「労働者と資本家の仲立ち、公平なる立場を以て労資の協調を天職とし」てきたという。そして「責任は頗る重大で、失業救済、争議調停、病傷、死亡、墓の世話より傭主への損害賠償、其他人事百般の事情に責任を尽し専ら思想善導に」努めたのである。しかし、こうした周旋業も、昭和になって公的な職業紹介機関が充実するにつれて、その役割を終了することになる。 酒造労働者の賃金は、口入れ屋と酒造家との間で取り決められ、明治期については、かなりの地域間格差が存在したが、大正期になると関東酒造組合連合会によって上の資料(写真)のような標準給料が定められた。とはいえ標準給料が定められたのは頭役以下の者であって、杜氏についてはまだ取り決められていなかった。もちろん頭役以下の標準賃金にしても、それはあくまで標準賃金を決めたに過ぎなかったので、企業間あるいは地域間で賃金格差は残ったであろう。しかしながら、こういう協定のもとで、少なくとも頭役以下については賃金だけでなく、それに対応する仕事の標準化もある程度進んだのだろう。先述の大矢酒造の場合、杜氏の月給は一九二二年ごろ六〇円ほどであったというから、杜氏はかなりの高給をえていたことになる。それは杜氏が前述のように生産管理から労務管理まで幅広い責任を負っていたことによるのだろう。なお、酒造労働者の賃金は、いちおう月給制ではあった大正11年酒造雇人給料標準表 大矢孝氏蔵 が、正月と仕事が終了する春の二回に分けて支払われていたようである。 雇人規定と労働者の性格 関東酒造組合連合会は、一九二二年に前述の「雇人給料標準表」と同時に、「酒造雇人規定」を取り決めた。それは上の資料(写真)のとおりだったが、雇人の引抜きを禁止したり、あるいはまた賃上げの要求とかストライキの企てなど、経営者側に圧迫を加える労働者の雇入れを禁止した業者間の取決めであった。さらにまた、よりよい労働条件を求めて渡り歩く頭・麹屋・酛屋などの熟練職人の移動を防止しようとするものであった。おそらくこのような規定によって、酒造家側の労働者に対する地位を強化しようとしたのであろう。したがって、さきの「雇人給料標準表」もこうした雇人規定とともに理解されねばならないだろう。その反面、こうした労使関係上の規定や賃金協定が必要だったことから逆に考えると、酒造労働者の移動はときにはかなり激しく、企業間競争にもとづく賃金変動もかなり激しかったのだろう。杜氏の賃金は一九二二年において月給六〇円ほどだから、一日当たりに換算すれば三円にはるかに満たない数字となるだろう。ただし酒造労働者の場合、住込みで賄付きだったとはいえ、この時期のその他の職人の賃銭水準に比べるとかなり低かった、とみなければならない。 酒造雇人規定 大矢孝氏蔵 五 労働者状態と労働運動 物価と賃金の変動 明治末以来の慢性不況からやっと脱出し第一次大戦勃発後のブームを迎えると、それまで鎮静化していた物価がいっせいに上昇しはじめた。食料品の卸売物価をみると、とくに一九一八-一九年の上昇には金融緩和や凶作の影響も加わっていたのであり、小売物価の上昇は著しかった。こういう状況のなかで米騒動が発生し、賃上げを要求する労働争議が多発したのである。大戦が終了した反動恐慌が発生すると物価も下落したが、今度は賃下げや人員整理が強行されることになり、労働者生活は動揺し続けたのである。横浜船渠では一九一九(大正八)年九〇〇人、二一年には二五〇〇人にも上る解雇がおこなわれたのをはじめ、浦賀船渠や浅野造船所などでも大量の人員整理が強行され、それらに反対する争議が激発したのだった。そのため、失業者の救済が社会的な問題となり、公共的な帰農政策や職業紹介政策も実施されたのである。 他方、職人や職工などの賃金もきわめて大きく変動した。一九一五(大正四)年までは停滞していたが、それ以後二一年にかけて著しい上昇を示した。繊維工業についてはすでに図四-一でみたが、その他の職種についてみると図四-二のとおりである。このように大戦中の賃金上昇は物価上昇を上回り、大戦後の下落は物価のそれより小さかったから、実質賃金の動向とすれば大正期全体として上昇したことは疑いえない。しかし短期的に一九一八-一九年に限定すれば、物価上昇の方がはるかに急激であり、名目的な賃金上昇はそれに追いつかず、そのためにも、米騒動が発生したのである。しかもこの段階になると、明治前期からの顕著な国内米生産の増大、明治末以来の外米の輸入量増大によって、山間部など一部の地域を除き、農民を含めたほとんどの庶民が三度三度米を食べるという「近代日本食」の慣行が確立した事実にも注目しなければならない。それだけ米価の高騰は庶民に大きな打撃をあたえたのである。 試みに一九一八(大正七)年における職工の生活費の一部をみておくと、表四-三〇のとおりである。ただし、酒・煙草・娯楽費の選択的消費を除いた基礎的消費をカバーしているに過ぎないが、それでも家族四-五人だとすると、一日の生計費は一円二〇~三〇銭に達していた。それを基準としてさきの賃金表を見直すと、この平均水準を上回っていたのは船大工などの職人や高度の熟練工だけであり、活版植字職や日雇人夫などはぎりぎりの賃金水準にとどまっており、図四-一でみた紡績男工などはその水準にすら達せず、女工の賃金と合計してやっと酒・煙草などを除いた生計費水準に達するかしないかと図4-2 職工・職人一日当たりの賃銭(横浜市) 注 『神奈川県統計書』より作成 いう状態にあったのである。 富山県の漁村に端を発した米騒動は、短期間のうちに全国三府三〇余県に飛大し、米の廉売哀願運動、米の所有者・投機業者などへの脅迫、家屋の破壊、デモなど多彩な形態をとって展開された。これにたいして、警察・軍隊の武力が行使され、運動は制圧され、検挙者数は全国で数万人に達した。神奈川県でも一九一八年八月に、横浜・横須賀市で不穏な動きがあったが、大きな騒動にはならなかった。それは、騒動の波及を察知した県当局がいち早く外米の廉売をおこない、また富豪による多額の寄付が集まり、いろいろな対策が比較的タイミングよく実施されたことによるといわれている。 こうした騒動の反面、この時期の工業を中心とした産業の発展により、労働者の文化的な生活は確かに豊かになった。たとえば、電燈が横浜を中心とした各地に広く普及し、また川崎の工業地帯では「女工らしい若い女性が派手な衣裳を身につけて、活動写真館へ吸いこまれてゆく。一方羽織に水色縮緬の兵児帯をしめ中折帽子に二重廻しを羽織った服装は、どうみても若紳士だが、……これが職工成金の連中だ」(神奈川県知事室『神奈川の近代化』一四六ページ)といわれるような情景も、大戦ブーム期にはみられたのである。川崎の町にも、工場の煙の下、料理屋・待合・寄席・活動写真館などの歓楽街が急速に形成されていった。 友愛会の組織化と大戦中の賃上げ争議 一九一〇(明治四十三)年の大逆事件以降「冬の時代」にあった労働運動も、大正期になると重工業を中心とした産業の急速な発展と「大正デモクラシー」という雰囲気のなかで再び活発化し、わが国における本格的な労働運動の抬頭の時期となったのである。雪解けを告げたのは、前述した一九一二年八月の鈴木文治を中心とする友愛会の設表4-30 職工の生活費(1918年) 注 『神奈川県労働運動史』戦前編より作成。1日当たりの数字は1月当たりの生活費を30で割った。酒,煙草,娯楽費を除く。 立であった。相互扶助的・修養団体的な性格が強かった友愛会は、設立当初は労使協調主義的な職業別組合主義を目ざしていた。一九一三年六月には、友愛会の最初の支部である川崎支部が、東京電気川崎工場や日本蓄音器商会の工員数十名によって設立された。しかし、友愛会の声価が一躍高められたのは、前述のように日本蓄音器商会の争議の仲裁に成功したことであった。もっとも翌一四年には日本蓄音器は従業員の三分の一にも及ぶ人員整理が実施されたが、それに対し友愛会川崎支部は、退職者に対する同情ある告別式をしただけであった。しかし、その後、友愛会は組織を拡大させ、のちの日本海員組合に発展した友愛会海員支部なども設立され、一九一六年には会員数一万九五五四人を擁するまでになり、東京に次ぐ支部となった。こうした発展とともに、共済組合的な性格の強かった友愛会も、、漸次近代的な労働組合に脱皮していったのである。だが、大正前期の労働運動はまだそれほど活発ではなかったが、第一次大戦期になるとロシヤ革命やドイツ革命などの影響、さらに前述のような戦争による好況と激しい物価騰貴などによって、労働運動は活発化し、労働争議も頻発した。米騒動が発生した一九一八年、労働争議はにわかに活発化し、米をはじめとした諸物価が高騰したため、賃上げを要求するストライキが相次ぎ、一部では米騒動に関連して暴動化するほどであった。 一九一八年二月に起きた浦賀船渠の同盟罷業は、社内の酒保に対する不平と賃金の三割増額を要求したものであったが、この争議で注目されるのは、労働者側に組長レベルの職場管理者が含まれていたことと、最終的な調停を警察がおこなったことである。すなわち、同盟罷業をおこなったのは、職工五三一四名、伍長六九九名、組長一四九名、常雇四〇〇名であり、職工会社の調停役としてこの組長が活躍しており、この段階では現場監督者が職場の古参労働者として労働者の要求を会社側と交渉していたのである。しかし、生産過程の管理体制が強まるとともに、徐々にこうした現場監督者は末端職制としての機能を強めていくのである。また、交渉がもつれた段階で、調停を警察部長に一任し、その後の協議によって争議を解決していたのである。また日本人造絹糸では、職工の賃上げと臨時手当を要求して同盟罷業をおこなったが、会社側がスト参加者の全員解雇を通告したため、「内外に待ちいたる男女三〇〇余名大いに憤慨し、工場内に入り機械・器具・製糸等を手当り次第に毀損、殊に女工等の暴行振りはめざましきものあり」(『新報』一九一八年八月十九日)とあるように暴動化している。このように、労働争議の経験の浅いうえに労働者の組織も労使関係も成熟していなかったために、しばしば争議そのものが暴動化する場合が多かった。 翌一九年は、戦後景気のなかで物価騰貴は一段と激化し、実質賃金は戦前を下回るようになったため、ロシア革命・米騒動などの影響も加わって、労働運動は激しく盛り上がった。七月、横浜船渠の職工三〇〇〇人が賃金三割増額を要求して一割五分増に成功したのを皮切りに、横浜市内外印刷工二三〇〇余名の賃上げ要求、横浜港沖人足五〇〇名の増給二割達成、内田造船所の七月二三〇〇名と八月の一三〇〇名の再度にわたる争議、十月の浅野造船五〇〇〇名および日本鋼管三〇〇〇余名の八時間制要求争議などがみられた。さらに、争議は規模の大小、業種を問わず、ビール工・石工・ペンキ工・郵便局員・染色工・車力から湯屋三助まで、広く及んでいる。このうち、印刷工・石工・ペンキ工・沖仲仕人夫などは、争議集団を組織して交渉にあたり、職工組合の設立準備を整えたところもあった。これらの争議の要求は、物価騰貴による大幅賃上げが多いが、他方で新たに八時間労働制の要求も本格化した。一九二〇年に八時間労働制を実施した工場は、全国で二一九、神奈川県では一〇工場あった。また、二〇年の県下争議件数は四二件、参加人員三〇六三八名(うち八件は人員不詳)、スト参加者は不明一件を除く一五件で五五九〇人にも達している。総争議のうち成功一〇件、半成功八件、失敗四件、ほか不明二〇件となっている。また、県下の組合組織は、一一団体一万三六六五人が組合に組織されていた(『神奈川県労働運動史』戦前編による)。 友愛会の労働組合化と恐慌下の争議 こうした労働運動の高揚のなかで、友愛会も一九一八年に職業別組織化への思い切った改革をおこない、鉄工組合の組織化をおこなった。さらに一九年には、大日本労働総同盟友愛会と改称し、従来の共済組合的性格の強い組織から、近代的な労働組合へと脱皮していくとともに、徐々に戦闘的な組合主義を確立していった。一九年になると、戦後景気は一転して反動恐慌となって労働者を襲った。とくに戦時中急膨張した造船業の受けた打撃は深刻であり、大量の人員整理が相次いだ。一九年の横浜船渠の九〇〇名解雇を手はじめに、二一年の横浜造船所(二五〇〇名解雇)、内田造船所の閉鎖による全員解雇(一六〇〇名)、浅野造船所、浦賀船渠もこれに続いて人員整理を実施した。こうして、戦後反動恐慌は、労働運動を攻勢から防御に転換させ、要求は賃下げや解雇の反対となり、ストライキ件数は減少する反面、争議は激化ないし長期化していった。内田造船所の閉鎖にともなう争議は、鈴木文治の応援もあって解決したが、争議の過程で横浜造船工組合が結成され、のちに横浜船渠その他の造船工も含めた組織となり、翌二二年三月まで京浜の造船関係の争議を指導することになった。また二二年に解雇手当と退職手当の増額を要求して起こった横浜船渠の大争議は、労働者側の敗北に終わり、以後、労働組合は組織的な後退を続けて自然消滅してしまった。闘争は当初、御用組合であった造機技工連合会と横浜造船工組合が合体して、横浜造船造機同盟会を組織して職工全員が一致して会社に対抗したが、会社側の徹底した組合壊滅方針と警察の圧迫とによって、組合側の完全な敗北に終わった。 他方、一九二〇年に起きた横浜港沖仲仕争議は、それまでの前期的な労使関係を崩壊させ、横浜仲仕同盟会を結成させたのであった。それまで荷役の仕事は、船会社-荷扱業者-人夫請負組合という系列のもとでおこなわれ、港湾労働者は人夫供給業者の同業組合である人夫請負組合に支配されていた。港湾労働者は、鑑札を持っている「甲種人夫」とそれを持たない「乙種人夫」からなっていたが、二〇年三月二十七日から四月五日までの一〇日間、賃金引上げと待遇改善を要求して、甲種人夫、乙種人夫合わせて一五〇〇名が、ストライキとサボタージュによる争議を起こした。四月七日には横浜港労働組合が結成され、人夫請負組合は明文化された待遇条件が打ち出され、争議は労働者側の勝利で終息した。その後、人夫請負組合は、横浜港労働組合を横浜港仲仕共済会へと吸収したが、共済会から排除された乙種人夫は、独自に横浜仲仕同盟会を結成した。結成当初の組合員は三五〇名で、そののちも組合員数はあまり伸びなかったが、二〇年五月一日に、全国に先がけてわが国初のメーデーを挙行するとともに、沖仲仕の休憩所を設置するなど、その活動は活発であった。 第二章 貿易・海運・交通の動向 第一節 大戦前後の生糸貿易 一 大戦と横浜貿易商 大戦と横浜貿易 日露戦争ののち、一九〇七(明治四十)年の世界恐慌の影響をうけて戦後恐慌に見舞われた日本経済は、恐慌からの立直りがはかばかしくなかった。一九一一年前後には、一時、中間景気が出現したものの、一三年には再び景気は後退してしまい、日本経済は、行詰りといわれるような不況状態を続けていた。そこに一九一四年七月に、第一次世界大戦が勃発し、日本資本主義は、大きな転換をとげることとなった。大戦勃発直後は、先行きの見通しがたたないために、むしろ恐慌状態に近い混乱が生じたが、やがて輸出急増にはじまる大戦ブームが訪れ、重化学工業をはじめ諸産業は飛躍的な発展を示した。一九一八年に大戦は終わったが、一時的な反動不況ののちに、日本経済は戦後ブームを迎え、大戦時にまさる好況局面が展開した。しかし、一九二〇(大正九)年には、世界各国にさきがけて、本格的な戦後反動恐慌に見舞われ、急膨張した日本経済は、激烈な収縮期を経験したのである。 大戦前後の横浜貿易の推移をみると、図四-三のとおりである。一九一三年までゆるやかに拡大していた輸出入額は、大戦勃発の一九一四年には、かなり大幅に減少し、翌一五年に入っても、輸出はやや回復したが、輸入は減少を続ける状態であった。ところが、一九一六年から、輸出は急速な拡大傾向に入り、輸入もやや遅れたかたちではあるが、同様に急拡大を示すにいたった。輸出額は、一九一五年の三億〇五九五万円から一九年には一〇億一九三一万円と約三・三倍に拡大し、輸入額も同じ期間に一億四〇三五万円から六億八九四三万円へと約四・九倍に拡大した。横浜輸出額が一九一三年に三億円に達するまでには、一八九九年に一億円をこえて以来一四年間、一億円に達するまでには、一八八六年に三〇〇〇万円をこえて以来一三年間の時間の経過が必要であったのであるから、わずか四年間で輸出が三・三倍の拡大をとげたことは、横浜開港直後の初期成長を別として、横浜貿易にとって未曾有の出来事であった。輸入拡大も、それまでの輸入急増期である日清戦争をはさん図4-3 横浜の貿易(1911-1922年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 104,131ページによる。 だ一八九一年から九八年の七年間で三・八倍、日露戦争をはさんだ一九〇一年から一九〇五年の四年間で二・一倍という数値とくらべて、四年間で四・九倍は、まさに驚くべき伸び率であった。 拡大が急であっただけに、その反動もまた激しかった。一九二〇年春からの戦後恐慌のなかで横浜輸出は、一九二一年には六億〇二九九万円に激減した。輸入も戦後ブーム期発注分の着港で一九二〇年にはなお増勢を示したものの、一九二一年には五億二〇四〇万円に激減した。ピーク時に対する減少率は、輸出が四一㌫、輸入が二七㌫に達している。開港直後の変動は別として、それまでの貿易収縮例とくらべると、輸出は、一八九〇年恐慌時(一八八九→九〇年)の減少率が二三㌫、生糸不況の一八九六年が対前年二七㌫減であり、戦後恐慌の一九二〇年の対前年二五㌫減、一九二一年の対前年二二㌫減は、単年減少率では新記録ではないが、二年連続の大幅減少は未曾有な事例であり、ピークからの落込みは、かつてない激しいものであった。これにたいして、戦後恐慌時の横浜輸入の減少率は、一八九〇年恐慌時(一八九〇→九一年)の二九㌫や、日露戦争後のピーク時からの減少率三一㌫(一九〇五年に対する一九〇九年の減少率)、あるいは大戦勃発直後の減少率四〇㌫(一九一三年に対する一九一五年の減少率)にくらべると、やや低く、輸入減退の程度は、未経験のものではなかったといえる。 全国貿易の動向は、図四-四のように、ほぼ横浜貿易と同様の変動を示している。全国貿易額(輸出入合計額)に占める横浜貿易額の割合は、一九一一年の四二㌫から一五年には三六㌫にまで低下し、その後の貿易急増期には三七㌫前後の水準を保つが、一九一九年、二〇年、二一年と高低が著しい。明治期を通しての横浜貿易の地位の傾向的な低下は、おもに神戸・大阪両港の貿易額の拡大によるものであったが、一九一〇年代前半のそれは、とくに大阪港の伸長によるものであった。全国貿易に占める大阪港の割合は、一九一一年の六・六㌫から一五年には一一・六㌫に拡大している(『日本貿易精覧』)。横浜は、神戸に続いて大阪にも追い上げられるかたちになりはじめたわけである。また、一九一四年には、輸出入合計額で、はじめて、横浜は神戸に抜かれた。一九一六年には、横浜が第一位にもどるが、その後、一七年、二〇年と神戸が第一位になり、関東大震災(一九二三年)以降は、完全に第一位港の座を神戸に譲ることになる。日本綿業が綿糸輸出から綿布輸出へと高度化しつつ発展するなかで生じた変化であった。なお、一九二〇年恐慌の影響は、全国貿易額では、二〇年にほとんど増勢が止まり、二一年に急減するというかたちであらわれているが、横浜貿易は、一九二〇年から二一年と二年連続の減退のかたちになっている。これは、一九一九年の横浜輸出が、生糸輸出の急伸で高水準に達したところに、翌二〇年の生糸輸出崩落が生じたためであり、横浜貿易の特殊性を示すものといってよい。大戦にともなう生糸貿易の激変は、横浜貿易史に、いくつかの大きな痕跡を残した。 図4-4 全国貿易と横浜(1911-1921年) 注 『大日本外国貿易年表』の値数。貿易額は輸出額と輸入額の合計。横浜の割合は,全国貿易額に対する横浜貿易額の百分比。『横浜市史』資料編2 40,60,104,131ページによる。 帝国蚕糸株式会社(第一次)の活動 第一次大戦の勃発は、国際商品である生糸の取引には、悲観要因と受けとられ、生糸相場は暴落した。一九一四(大正三)年六月の新糸市場では、一〇〇斤一〇〇〇円(信州上一番格)をこえる高値で取引がはじまっていたが、ドイツとフランス・イギリスの間に戦端がひらかれた八月初めには、七八〇円に暴落し、十月には七〇〇円という安値にまでいたった。横浜蚕糸貿易商同業組合は、八月に各地の製糸家に通牒を送って、生糸市場の前途は不明であり、海上保険料の暴騰、外国為替の暴騰と取組困難で、輸出商談は停滞しているので、夏秋蚕向けの資金融資を中止する旨を告げ、生糸生産を縮減するよう勧告した(『大正三、四年蚕糸業救済の顛末』。本項は、特記のほかは本書による)。 このような事態にたいして、大日本蚕糸会は、八月に製糸家に文書を発して、アメリカの富力が戦争によって増大し絹の需要が激増するのは火を見るより明らかであり、欧州からの輸入が途絶すると、日本生糸に対する需要が増加するのは疑いないところであるとの見通しを述べ、一時の混乱に狼狽することなく、生産費の節減に努めて難境を切り抜け、来るべき需要勃興に備えよと激励した。一方、大日本蚕糸会は、政府に適当な処置を要請し、政府当局はとりあえず、鉄道運賃の低減と「戦時海上保険補償法」の制定、日本銀行の特別融通などの措置を講じた。日本銀行は、それまでおこなっていなかった夏秋繭買入資金の供給を開始し、本支店合計で四〇〇万円近くまで特別融通枠をひろげて、製糸資金の需要に応えた(日本銀行「戦時ニ於ケル日本銀行ノ施設」、『日本金融史資料』明治大正編第二二巻所収)。 横浜蚕糸貿易商同業組合の呼びかけで九月に開かれた全国製糸家大会では、夜業廃止と十二月以降の繰業休止が決議され、十月には、横浜蚕糸貿易商有志総会で、最低売却価格を七〇〇円(信州上一番格、一〇〇斤)とし、十一月十日以降荷受けを停止することが決議された。このころから、生糸相場はやや持ち直しはじめたが、横浜の滞荷生糸は、十一月末で五万梱をこえており、滞荷金融対策が緊要課題となった。日本銀行と市中銀行は、とりあえず融資回収の延期に応じることとしたが、蚕糸関係者は、生糸担保の特別救済融資の実施を政府・日本銀行に要請した。十二月開会の第三五回帝国議会では、政友会提案の蚕糸業救済補償法案と政府提案の蚕糸業救済法案とが審議されるはこびになったが、二箇師団増設問題で十二月二十五日に衆議院が解散となり、救済立法は流れてしまった。政府は、緊急勅令による蚕糸業救済措置をはかるべく、翌一九一五年一月に、緊急勅令案を枢密院に回付したが、枢密院の同意が得られず、いたずらに時が過ぎていった。 農商務省は、二月末に蚕糸業諮問会を開催し「時局に対し今後蚕糸業者の執る可き処置如何」などの諮問審議を求めたが、出席者は、政府の救済政策実行が先決問題であると政府側に迫り、諮問審議に入ることを拒否するという、異例な事態となった。同じ時に、横浜蚕糸貿易商同業組合は、緊急協議会を開いて、政府の救済措置が実行されるまでは春挽製糸を延期するよう製糸家に勧告すること、最低売却価格を七六〇円(信州上一番格、一〇〇斤)とすることなどを決定した。一方、大日本蚕糸会は、救済政策実現のための実行委員会を組織して、益田孝を委員長に、渋沢栄一らと連繋しながら政府に働きかけていたが、二月二十七日には、蚕糸救済組合設立案を政府に提案した。これは、政府出資金五〇〇万円、民間出資金二〇〇万円の組合を設立して生糸の買上げをおこない、相場の回復をまって保有生糸を売却する案であった。かつて、一八七四(明治七)年に蚕種紙買入所を設けて蚕種恐慌に対処した経験(本書第一編第一章第一節四参照)が、甦ったかたちの対応策である。 政府は緊急勅令による救済をあきらめて、行政的手段で対策を講ずることとし、三月三日に開かれた三回目の全国蚕糸業者大会の解散間際に、官民協同組織の生糸買入機関設置を発表した。そして、三月二十日に帝国蚕糸株式会社の創立総会が開かれ、救済措置が実行に移された。帝国蚕糸は、資本金二〇〇万円(払込資本金一〇〇万円)を、横浜生糸売込商に地方製糸家をまじえた民間人が全額出資し、政府は五〇〇万円を営業資金として出金するかたちで設立された。同社には政府命令書が発せられ、政府の監督下に、生糸の買入れ・売却をおこない、会社解散時に損失が生じた場合は政府出金で補塡し、利益が残る場合(配当年八分支払い後)には政府に納付することが規定された。社長には原富太郎、副社長には茂木惣兵衛が就任し、相談役に渋沢栄一・益田孝・小野光景らを配した。 帝国蚕糸は、内規によって、横浜在荷生糸を八〇〇円未満(信州上一番格、一〇〇斤)の価格で買い入れることとなった。生糸買入資金は、払込資本金一〇〇万円に政府出金五〇〇万円を加えた元資金と、借入金一八〇〇万円の合計二四〇〇万円で、約二七〇万斤、四万八〇〇〇梱を買収し、約一年間積置(保管)後、適宜売却する予定であった。横浜滞荷は二万梱、春挽糸入荷高は六万梱と見積られていたから、当面横浜に集まる生糸の六〇㌫を買い上げる計画である。帝国蚕糸の設立がひとつの好材料となって、生糸市況は、一九一五年四月には八〇〇円以上に回復したから、しばらくは帝国蚕糸の活動する余地はなかった。四月下旬に市況が軟化したため、帝国蚕糸は第一次買収に着手し、横浜生糸合名会社と三井物産横浜支店に買入れを委託し、三二九四梱分約九万斤を買い入れ、市況回復をはかった。その後、五月中旬に再び市況が軟化し、第二次買収に出動する必要が生じたが、その時には、帝国蚕糸の存続問題が起こっていた。 一九一五年新糸の登場期を前にして、帝国蚕糸の役員は、現在の資金力では新糸救済に出動するのは困難であり、政府出金をさらに五〇〇万円追加する必要があるとの意見を持って政府と折衝した。しかし、政府は追加出金を拒否したので、会社存続か解散かが問題となったのである。結局、政府は五月二十一日の閣議で会社解散を決定し、ただちに命令書を発して、会社の現有資金の範囲で一九一四年度生糸の買入れをおこなったうえ解散するよう指令した。 帝国蚕糸は五月二十七日から五日間、第二次買収に出動し、約五九万斤を委託買い入れし、活動を停止した。二回の買入れ活動で、五六一万円の資金をついやして約六八万斤を買い入れたことになった。帝国蚕糸の解散決定後、生糸市況は七三五円(信州上一番格、六月四日)まで下落したが、新糸は七五〇円(六月二十三日)を初相場に、次第に回復し、八月下旬に八〇〇円台に乗り、九月に九〇〇円、十一月に一〇〇〇円と高騰することになった。開戦直後の混迷期を脱して、大戦ブームが訪れたのである。帝国蚕糸株式会社は、六月十五日に解散を決議し、清算に入った。そして、翌一六年春に買入生糸を売却し、結局、一六九万円の残余利益を国庫に納付して清算を完了した。帝国蚕糸の存在は、一九一五年春の市況維持に大きな力を持ったわけで、蚕糸業界が最も苦しい時期をしのぐ力となったといえよう。 帝国蚕糸株式会社(第二次)の活動 大戦ブームのなかで生糸市場は活況を続け、一九一六(大正五)年には最高一三五〇円(信州上一番格、一〇〇斤)、最低一〇三〇円、一七年には最高一七五〇円、最低一一二五円、一八年には最高一六五〇円最低一三〇〇円、と生糸価格は上昇傾向をたどった。一九一八年十一月の大戦終結も、一時的な価格下落をもたらしただけで、翌一九年二月以降、生糸価格は上昇し、六月には二〇〇〇円を突破してなおも熱狂的なブームが続き、十二月には三四三〇円に達した。そして一九二〇年一月には、ついに四三六〇円という空前の高値が出現した(『大正九、十年第二次蚕糸業救済の顛末』。以下、本項は本書による)。 しかし、この高値は、投機価格であって実需はともなっておらず、すでに、アメリカ市場には八万梱に近い滞荷が存在する状態であったから、投機的糸価高騰は限界に達していた。二月には、海底電線の故障をきっかけに市況は反落し、そののちも乱高下が激しく、不安定な様相を呈するにいたった。三月十五日の株式市場における株価暴落は、戦後恐慌の発端となったが、この時には生糸市場の混乱はさほどではなかった。しかし、四月に入って、大阪の増田ビル=ブローカー銀行の破綻から株式市況が再度の暴落を演ずるにおよんで、恐慌現象は生糸市場にもあらわれ、四月十六日から四日間横浜生糸取引所は立会いを停止するにいたった。四月初め三三六〇円の現物相場(信州上一番格)は、四月末に二〇〇〇円に下落した。五月に入って横浜生糸取引所は再び五日間立会いを停止し、現物相場は五月三日に一八〇〇円となった。五月二十四日茂木商店の破綻によって七十四銀行が休業するにいたると、横浜経済界は大混乱におちいり、生糸取引所は三度目の立会い停止をおこない、現物相場は一五〇〇円に下落した。 生糸暴落に対処して、横浜蚕糸貿易商同業組合は、五月三日の有志会で、一八〇〇円以下売止めの協定を決議したが、効果はなく、六月三日の蚕糸業同業組合中央会の臨時総会では、政府が糸価維持の目的で帝国蚕糸組合または新たに設立するシンジケートに補償金を支出するという救済措置を要求することが決議された。このころ、糸価は一三〇〇円にまで下落していたが、政府は、シンジケートが民間出資で結成されれば、低利資金を融資するとの意向を示したにとどまり、損失補償はしないとの姿勢をとった。このため、シンジケート結成案は流れ、市況はさらに悪化して、七月末には一一〇〇円の安値となった。横浜蚕糸貿易商同業組合、蚕糸業同業組合中央会は、とりあえず生産制限が必要であるとして、いくつかの措置を講じたが、実効をあげることはできず、横浜の生糸滞荷は増大する傾向をたどった。 九月に入って、再びシンジケート結成案が蚕糸業同業組合中央会を中心に検討され、政府も、低利資金五〇〇〇万円の貸付けと生産制限の厳重な実行による蚕糸業救済策を決定した。そこで、帝国蚕糸株式会社(第二次)が設立されることととなり、九月二十五日に創立総会が開催され、資本金一六〇〇万円(当初払込資本金四〇〇万円)の生糸買入機関が誕生した。政府は、日本興業銀行と日本勧業銀行から五〇〇〇万円を融資させることとし、政府の監督下に活動するよう命令書を発した。帝国蚕糸(第二次)は、生糸価格を一五〇〇円見当に維持することを目標に、十一月十八日に第一次買入れを開始し、三井物産横浜支店など九輸出商社に委託して、六四五二梱、約三七万斤を買い入れた。買入れに際しては、十一月十日開催の全国蚕糸業者大会の操業短縮決議(一九二〇年十一月三十日より二一年三月二十日まで全国一斉操業休止)を厳守し、違反の場合には違約金を支払う旨の契約書を製糸家から徴収した。全国一斉操業休止というかつてなかった生産制限措置を前提に、帝国蚕糸は、糸価維持に乗り出したのである。これと歩調を合わせて、横浜蚕糸貿易商同業組合も、十一月十七日の総会で、一五〇〇円以下売止めを決議した。 帝国蚕糸(第二次)の活動開始も、ただちに市況を好転させる効果は持たなかった。第一次買入れの規模が小さかったために、市況は、第二次買入れ待ちの様相で低迷したのである。帝国蚕糸の側では、当初の期待に反して、興銀・勧銀の融資が、担保生糸の八掛にとどまり、利率も年五・六㌫と高かったので、買入資金量が十分でなく、活動に限界があった。そこで、恐慌下の困難な状況ではあったが、株主の追加払込みによる自己資金の拡大をはかりながら、十二月四日から第二次買入れ、十二月三十一日から第三次買入れを実施した。三次にわたる買入れで、二六一六万円が投入されて、二万八九七四梱、約一六九万斤が市場から吸収された。 一九二一年に入ると、アメリカ生糸市場にやや回復の気配がみえはじめ、輸出商談も再開されたが、なお市況は低迷を続けた。操業休止の解除を目前にした一月二十四日の蚕糸業同業組合中央会総会は、帝国蚕糸へ助成金三〇〇〇万円を交付することを政府に要請する決議をおこなって、陳情活動を活発に展開した。そこでは、操業開始後の生糸在荷を二一・五万梱と見積り、うち八万梱が輸出、四万梱が内需にさばけるとして、九・五万梱が滞荷になるが、帝国蚕糸の現状では、そのうち一万梱の買入れが限度であり、八・五万梱が処理困難になるとの見通しがたてられ、政府の助成金で七万梱を買収する計画の実行が要請されていた。政府も、ながびく不況に対して措置を講ずる必要を感じていたために、三月四日に蚕糸業救済貸付金補償案を議会に提出した。それは、興銀・勧銀の帝国蚕糸への貸付けについて、三〇〇〇万円を限度に政府が損失補償するという案であった。この案は、三月二十五日に議会を通過し、帝国蚕糸は、買入資金量を拡大することができた。 四月九日から、帝国蚕糸の第二期の買入れが開始され、五月十八日までで、四万三六八六梱、約二五五万斤が、三八八二万円を投入して買い上げられた。五月末の横浜市中生糸在荷は三万五〇〇〇梱程度となり、一九二〇年産生糸については、帝国蚕糸の活動によって、ほぼ市況は安定することとなった。一九二一年新糸市況は、はじめは低迷していたが、九月以降着実に回復に向かい、十二月には、二〇二〇円の高値で取引がおこなわれるほどの活況を呈するにいたった。帝国蚕糸は、十二月から保有生糸の売却を開始し、翌二二年九月まで一一回にわたって入札をおこなって保有分を完全に売却した。そして、十二月一日に帝国蚕糸(第二次)は株主総会で解散を決定、純益金八七三万円を生糸検査所拡張費・絹業倉庫設置費として政府に寄付するなどの仕方で処分して、清算を完了したのである。帝国蚕糸株式会社の活動は、大戦開始期と大戦後の二回にわたって、生糸市場を安定させる効果を発揮しながら、成功裡に終わったといえる。 横浜貿易商の浮沈 生糸を軸としながら、大戦前後の横浜貿易が大きく変動するなかで、横浜貿易商の浮沈もまた激しかった。大戦ブームのなかでは、投機的取引によって巨利を得た商人たちが、糸成金・船成金・鉄成金・株成金などと呼ばれて、豪奢な生活を競う情景が繰りひろげられた。横浜貿易商のなかにも、投機的取引に参加する者があらわれたし、ブームのなかで、事業の飛躍的な拡張をはかろうとする企業も多かった。 幕末期以来の生糸売込商茂木合名会社は、若い三代目惣兵衛の采配のもとに、大戦期に事業を拡張し、一九一八(大正七)年には、生糸売込部・生糸輸出部・絹物部・綿糸布部・機械部・金物部・羊毛皮革部・油肥工業部・雑貨部の九部からなる総合貿易商社に変容した(『横浜市史』第五巻上)。茂木合名の生糸売込高は、明治末期から、原合名と一、二位を競いあっていたが、大戦ブーム期には、原をおさえて第一位を続けていた。茂木は羽二重の直輸出でも最大手であり、外国商社や三井物産をしのぐ取扱量を誇っていた。絹業関係品以外でも、綿糸布・綿花の取扱いは上海支店・大阪支店で活発におこなわれ、投機的取引の仕手としてもマークされていた。茂木の拡張は、茂木銀行・横浜七十四銀行を機関銀行とする資金調達で支えられ、一九一八年には両行の合併によって七十四銀行が誕生し、いっそう緊密な資金供給体制がつくられた。 砂糖・石油等の引取商の第一人者であった増田商店も、大戦期の事業拡張が著しかった。大戦中に増田合名会社を統轄本部として、増田貿易が外国貿易、増田商店が内国商業を担当する体制がつくられ、砂糖・穀類・石油をはじめ、肥料・パルプ・鉄鋼・金属・羊毛・綿花・薬品・ゴム・木材など多くの商品を取り扱う総合商社として活発な取引をおこなうにいたった。同じく、砂糖・石油引取商の大手であった安部商店も、大戦中に個人企業から株式会社に改組し、海外支店を増設して、砂糖・穀類・石油・肥料・綿糸・綿花・マッチなどの国内外取引を活発に展開した。このほか、横浜の生糸直輸出商社の草分け的存在である横浜生糸合名会社の後身、横浜生糸株式会社も、大戦中に、綿花・綿糸布の貿易に手をひろげた。このように、大戦ブームは、横浜貿易商の営業の姿を大きく変化させたのである。 一九二〇年の戦後恐慌の勃発は、横浜経済に大きな衝撃を与えたが、なかでも、ブームのなかで不健全な事業膨張をはかった企業や、投機思惑に深入りしていた企業は、致命的な痛手をこうむった。一九二〇年五月二十四日には、七十四銀行とその関係銀行である横浜貯蓄銀行が休業し、同時に茂木合名も休業した。七十四銀行は、貸出金の五〇㌫近くを占めていた茂木合名への貸出し分について、茂木合名の資金繰り悪化のために回収見通しが立たなくなり、日本銀行からの借入金でかろうじて横浜生糸合名会社 『横浜商業会議所月報』より やり繰りしていた。そこに、茂木の危機を察した大口預金者の預金引出しがあり、ついに本支店一斉に三週間の臨時休業を発表する事態にたちいたったのである。事業を無理に拡張させ、商品投機に手を染めていた茂木合名は、恐慌の渦中でついに破綻した。茂木合名は、生糸売込商の最大手として、とくに信州諏訪地方の製糸家との取引が大きかったから、その破綻は、蚕糸業へも悪影響を及ぼすことになった。 一九二〇年九月には、増田貿易株式会社も破綻して整理に入り、続いて十月には株式会社安部商店も休業し、整理に入った。そのほか、休業にはいたらなかったが、大きな損失をかかえるにいたった企業は多く、横浜生糸株式会社も、横浜正金銀行の救済を受けてかろうじて破綻をまぬがれる状態であった。明治以来の大手貿易商のいくつかが、戦後恐慌の荒浪のなかで姿を消したのである。 二 大戦前後の輸出入動向 輸出品の構成 一九一二(明治四十五・大正元)年から一九二〇(大正九)年までの期間の横浜からの輸出の主要品別構成をみると、表四-三一のとおりである。 生糸・絹織物が、一位、二位を占める構成は、この時期も変わっていない。ただし、一九一五年以降の生糸の構成比は、一九年を除くと四五-五二㌫で、明治後半期の生糸構成比がおおむね五五㌫以上であることからくらべると、相対的に生糸の比重は低下している。大戦期の特殊な海外需要の変化が、生糸以外の商品輸出を促進した結果であり、横浜輸出の多様化のあらわれといえる。絹織物の構成比は、日露戦争前後の時期をピークに減少気味であったが、大戦終了後の時期には、再び増加傾向を示している。 綿糸と綿織物の構成比は、明治期にくらべると増大しているが、両者合計しても、一九一八年の三・四㌫が最高であり、横浜貿易における比重は低い。そのなかでは、綿織物の比重が高くなる傾向がみられ、日本綿業輸出の構成高度化が、横浜の場合にもあらわれている。横浜の綿織物輸出は、その中心が綿縮であり、全国の綿織物輸出が金巾や綾木綿を中心としているのとくらべて特徴的である。 横浜の代表的輸出品のひとつであった製茶は、この時期にはますますその比重を低下させ、輸出価額も、一九二〇年には一六〇万円と、一九一二年の半額に減少してしまった。また、製茶とならんで横浜貿易を代表していた銅の輸出は、大戦による軍需の急増とともに活況を呈し、一九一五年から一七年までの表4-31 横浜主要輸出品(1912-1920年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。総額は1,000円位で4捨5入。「その他」は表出数値の残差として計算した。『横浜市史』資料編2 78-80,85,87,88,90,93,95-99,101,104ページによる。 三年間は、毎年四〇〇〇万斤前後の量にのぼった。銅価格は高騰し、銅輸出価額は、一九一五年二〇八九万円、一六年二七二五万円、一七年二九六〇万円と画期的な額となり、横浜輸出に占める割合も、一五年に六・八㌫と史上第二の記録的数値となった(史上最高は一八九〇年の九・四㌫)。ところが、大戦終了とともに世界の銅需要は縮小して国際価格は暴落するにいたり、日本産銅の輸出は激減した。そればかりか、生産費の安いアメリカ銅・オーストラリア銅が、国際銅市場を制圧し、一九一九年以降は、日本国内市場にも外国産銅が流入し、日本は銅輸出国から銅輸入国へ転化する有様となった。こうして、横浜からの輸出銅は、大戦期の華々しい活況を最後に、こつ然として重要輸出品から姿を消してしまったのである。 大戦という特殊事情によって輸出が拡大したものに、機械類・鉄類・豆類がある。機械類といっても、汽船が大部分であり、戦時海上輸送の活況と船腹の戦時損耗のために、船舶需要は巨大になり、新造船・中古船をとわず、船舶輸出が急増した。船舶輸出は、関西諸港の取扱い高が多かったが、横浜からも、一九一七年に五隻、一六九〇万円、一八年に一四隻、三六三二万円が輸出された。鉄類も、関西諸港からの積出しが多かったが、一九一七年から一九年には横浜からも、多少の輸出がおこなわれた。豆類はやはり軍需物資として、大戦勃発直後から輸出が拡大し、一九一八年には、二二二四万円にまで輸出額は伸びた。 雑貨の内容は多種であるが、この時期には真田、とくに麻真田が多い。明治末期から横浜の地場産業として発達した麻真田工業は、輸入マニラ麻を原料に、帽子製造材料としての麻真田を製織製反する工業であった。麻真田輸出は、関東大震災後は不振となるから、この時期が最盛期であり、ピークは一九一五年の二七四四万束、八七三万円であった。玩具は、大戦中に急増して以後安定した輸出品となったもののひとつであり、電球も同様である。 水産物も、関東大震災以降は横浜輸出が激減する商品のひとつであり、この時期が、最盛期で、輸出額ピークは一九一九年の四〇四万円である。 生糸・絹織物の輸出 横浜輸出の基軸である生糸の輸出高の推移を図示すると、図四-五のとおりである。前述したように、この時期の生糸市況は激動したわけであり、輸出価格変動の激しさは、この図の数量線と価額線の動きのズレからも読みとることができる。生糸輸出は、大戦勃発後しばらくは減退したが、一九一六(大正五)年から急増し、大戦終結の一八年に一時停滞するが、一九年には再度急増し、二〇年に激減するという推移を示している。輸出数量は、開戦年の一九一四年の一七一〇万斤から一九年には二八六二万斤、約一・七倍に増えるが、二〇年には一七四五万斤と開戦初期の水準に落ちてしまう。価額では、一九一四年の一・六億円から一九年には約三・九倍の六・二億円に拡大し、激落した二〇年でも三・八億円と開戦初図4-5 横浜からの生糸輸出(1911-1921年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。『横浜市史』資料編2 85ページによる。 期の約二・四倍の高水準にある。一九一九年の輸出額六・二億円は、もちろんそれまでの最高値であり、それ以降も、一九二二、二五年にこれを上回る輸出額をみるのみで、横浜港輸出額としては、史上第三位の記録的数値である(全国輸出額では、震災後神戸港輸出が加わるので、一九一九年輸出額は史上第八位である)。 生糸の輸出先としてはアメリカが圧倒的に大きいが、大戦中でも西部戦線の戦闘が激化した一九一八年を除いて、フランス向けがなおかなりな量を持続している。一九一七年を例にとると、総輸出価額を一〇〇として、アメリカ向け八六、フランス向け一〇、イギリス向け二、ロシア向け一の割合となっている(『横浜市史』資料編二 一六六ページ)。なお、一九一七年の革命後は、ロシア市場は消滅する。アメリカ市場における日本生糸のシェアは、大戦の影響でヨーロッパ産生糸が減退した時期(一九一七、一八年)には八二㌫に達したが、その前後の時期にはほぼ七〇㌫程度である(『横浜市史』第五巻下 第二八表、一七五ページ)。 生糸輸出が、一九一二年以降、日本輸出商を中心におこなわれるにいたったことは、前に述べたとおりであり(第三編第三章第一節参照)、その後も、日本商社の取扱い分は拡大して、一九二〇年には、日本商社取扱割合は八〇㌫近くに達した(同上書 第三四表、一九三ページ)。日本商社の力が弱かったヨーロッパ向けでも、一九二〇年以降は、日本商社の取扱割合が五〇㌫をこえる年があらわれるようになり、アメリカ向けでは、二〇年以降ほぼ八〇㌫以上を日本商社が取り扱うようになった。このように、内外輸出商の力関係は変化したが、産地製糸業者・産地商人と輸出商を媒介する生糸売込商の立場には、この時期には大きな変化はみられない。茂木合名の破綻など、生糸売込商のなかで浮沈はあったが、依然として生糸金融の要をにぎる生糸売込商が、横浜入荷生糸の大部分を取り継ぐ体制が続いていたのである。 絹織物の輸出は、羽二重が中心であるが、大戦末期ごろから縮緬・繻子の伸びが目立ちはじめ、さらに一九二〇年ごろからは、ポンジー・富士絹も登場して、絹織物輸出は多様化する傾向を示すようになった。横浜の絹織物輸出額は、一九一二年の二八五四万円から、一九年には一億五〇五三万円へと激増し、二〇年、二一年と減少して、二一年は八〇七七万円となった。この時期には、横浜が絹織物の独占的輸出港の地位を維持し、全国輸出額の九〇㌫以上を取り扱っていた。 絹織物の中心である羽二重の輸出先は、一九一二年ごろはフランスが第一位であったが、大戦期以降はアメリカが第一位、イギリスが第二位という順位に変わった。一九二〇年の羽二重輸出先構成比(価額)は、アメリカ二九、イギリス二三、フランス九、インド七、オーストラリア六、カナダ四である(『横浜市史』資料編二 一八一ページ)。羽二重以外の絹織物を含めた絹織物全体の輸出先構成比は、表4-32 横浜主要輸入品(1912-1920年) 注 『大日本外国貿易年表』の数値。総額は1,000円位で4捨5入。「その他」は,表出数値の残差として計算した。『横浜市史』資料編2 106,108,110-112,114,116-118,120,123,125,129,131ページによる。 一九二〇年で、アメリカ二六、イギリス一九、オーストラリア一二、インド八、フランス六、カナダ六、中国二となっている(同上書 一八〇ページ)。 輸入品の構成 一九一二(明治四十五・大正元)年から二〇(大正九)年までの時期の横浜の重要輸入品の構成比をみると、表四-三二のとおりである。綿花が、ほぼ毎年輸入第一位を占めているが、一九一六年から一八年までの三年間は、鉄鋼が第一位になっている。輸出の場合と同じように、大戦という特殊事情が、横浜輸入の姿をかなり変化させているわけである。 綿花輸入額は、一九一二年の三二二九万円から一九二〇年には一億〇二八八万円と約三・二倍に拡大しているが、これには、綿花の国際価格が高騰したことの影響が大きく、実際の綿花輸入量は、同じ期間に九二・三万ピクルから九三・五万ピクルに微増したにすぎない。大戦期に綿糸布の内外需要は拡大したが、供給をイギリスにたよっていた紡績機械の輸入が大戦の影響で制限されたために、日本紡績業の生産設備の拡張は思うにまかせず、結局、綿花消費量もそれほど伸びなかったわけである。綿花の全国輸入では、この期間中インド綿が第一位であったが、大戦後のアメリカ綿の拡大は著しく、一九二一年には、一時、インド綿をこえる輸入額を示した。横浜輸入では、すでに一九〇〇年代末からみられた原料高級化の傾向が、大戦後は全国的にあらわれたといってよい。全国綿花輸入額に占める横浜輸入の割合は、大戦中やや低下して、一九二〇年で一四㌫程度であり、やはり、日本綿業の地理的配置関係を反映して、地位は低い。 同じ繊維原料の羊毛も、毛織物(ラシャ)が軍需品でもあったために、国際価格騰貴が激しく、輸入額(全国)は一九一二年から二〇年に八倍近くに拡大したが、数量はそれほどでなく、同じ期間に三倍近くに拡大した程度である。横浜輸入額は、同じ期間に価額で三・八倍、数量で一・五倍になった。軍需物資としてイギリスが一時羊毛輸出を規制したので、イギリス・オーストラリアからの輸入が縮小し、その穴を、南ア連邦・アルゼンチン産の羊毛が埋めるという輸入先の変化も生じた。 一時輸入第一位を占めた鉄鋼類の横浜輸入は、鋼材が中心であり、銑鉄の横浜輸入は少ない。鋼材の全国輸入額のなかで横浜輸入の占める割合は、一九一二年で四八㌫、一九二〇年で四三㌫と、かなり大きな値を示している(『横浜市史』第五巻上第一六二表、四九九ページ)。大戦をきっかけとして、京浜工業地帯の形成が急速に進められたことが、鋼材需要を拡大させ、横浜輸入高を増大させたわけである。鋼材輸入は、大戦前はイギリス・ドイツ・ベルギーなどヨーロッパからが大きかったが、大戦中は、ヨーロッパ鋼材輸入はほとんど途絶し、アメリカからの輸入に依存するかたちになり、戦後もしばらくはその姿が続いた。 機械類は、大戦中はむしろ輸入困難のために輸入額が減退し、大戦終了とともに大量に輸入されるにいたった。横浜輸入に占める割合も、一九二〇年には七㌫に達している。これも、京浜工業地帯の発展と深い関係を持っていることは言うまでもない。輸入先は、鋼材と同様、大戦中・大戦後はアメリカが主であった。 かなり輸入量の変動が激しいのが、米穀である。大戦中は、むしろ日本産米の輸出がはかられたほどであり、輸入高は激減したが、シベリア出兵等による米価騰貴が、米騒動をひき起こす事態となった一九一八年とその翌一九年には、ラングーン米とサイゴン米の大量輸入がおこなわれたのである。砂糖の輸入は、一九一一年の関税改正による粗糖輸入税の引上げ以後、台湾粗糖移入の増大におされ気味であった。しかし、ジャワ粗糖を原料として中国向け輸出精糖を製造するという、戻税制度を活用した加工貿易も発達したので、粗糖輸入は増加傾向を示している。砂糖の全国輸入に占める横浜貿易の割合は、一九一〇年代末で三〇㌫程度になっている。 第二節 大戦前後の海運業 一 大戦中の海運 海運業の好況 大戦直前の海運業は、明治末年以来沈滞していた。第一次世界大戦が始まってしばらくの間は戦争の見通しがつかず、気迷い状態がつづいたが、一九一五(大正四)年後半から戦争の本格化とともに戦争景気が急速に訪れてきた。戦争遂行のための海上輸送量の増大や、ドイツ潜水艇の攻撃による連合国側船腹の喪失の増加などのため、世界的に船舶は不足し、外国船も日本へ来航するものが激減した。一方、日本の対外貿易は連合国への軍需品の輸出や、ヨーロッパ諸国製品の代替品として日本商品への需要が増大したことなどから急速に伸び、船舶の需要は急増したので、海上運賃や用船料は暴騰をつづけ、海運業者はばく大な利益を得た。そして、事業の規模を大きくし航行範囲を広げ、海運国日本の地位を高めたのである。 運賃の上昇ぶりを、業界のバロメーターである若松・門司と横浜間の石炭一トン当たりの運賃でみると、一九一四年七月六三銭、一五年十月一円五〇銭、一六年五月三円、一七年三月六円、同九月一〇円九五銭というようにとどまるところを知らない。ボンベイ航路の雑貨一トン当たり運賃は戦前一一円が一七年十二月四〇円、米国航路では戦前の六ドル五〇セントが同じ期間に九ドルへと上昇し、臨時航路あるいは自由航路では一〇倍、二〇倍という例も多かった(日本銀行「欧州戦争ト本邦金融界」『日本金融史資料 明治大正編』第二二巻)。 海運市況の好景気に応じて日本商船隊は船腹量を増やし、一九一四年一八五万トンが一八年に二四八万トンへと発展した。内外諸航路や遠洋航路が盛況になると、用船の需要増加により用船料も騰貴し、戦前中型船一トン一円七五銭であったが、一五年八円、一六年一四円、一七年二六円をつけ、一八年五月には三五〇〇トン級で四三円、五〇〇〇トン級で四七円の高値を呼んだ。 こうした海運界の好況は、社外船業者の比重を高めた。社外船は、一九一四年七月三四隻一四万トンが、一六年十一月末には三一七隻八三万トンに達し、活動区域も戦前の近海航路中心から開戦後は欧米航路をはじめ南米・南阿航路へと全世界へ乗り出し、著しい発展をとげた。日本を戦前世界第六位から戦争終了時にイギリス・アメリカにつぐ第三位の海運国へと押し上げたのは、社外船業者の活躍に負うところが大きい。日本郵船・大阪商船に加えて東洋汽船の三社をふつう社船業者に分類しているが、社外船は社船を上回る船腹量を占めるに至り、日本の海運業界は明治期の社船中心時代から社外船時代へと変化したのである。 こうして日本海運業は、空前の隆盛期を迎え、造船界にも大きな影響を与えた。運賃・用船量ともに高騰したので、海運業者の収入増加は支出の増加をはるかに越え、船舶の収益力は増大したので、船舶需要を旺盛にし、ひいては船舶の売買価格を上昇させた。たとえば新造船は一六年一月トン当たり一三六円が同年末三〇四円、一七年末七二五円、一八年六月一二〇〇円に激騰した(日本銀行調査局編「世界戦争終了後ニ於ケル本邦財界動揺史」『日本金融資料 明治大正編』第二二巻)。 船主は、船舶の購入に腐心したが、戦前のように外国から購入できなくなったので、需要船舶を内地の造船所に求めるようになった。日本の造船業にとっては、願ってもない大きな市場を一挙に与えられ、繁栄の機会を得て急速に発展したのである。 船成金の誕生 このような船舶の短期間の高騰や海運市況の活況は、他面では思惑と投機を誘った。わずかの資金で、大もうけをした百万長者が続出した。戦争景気でいち早く金持になった人を、将棋で「歩」が敵陣にはいると「金」に「成」ることにたとえ、世間では成金と呼んだ。この言葉には羨望と軽蔑の気持が含まれていて、またもとの「歩」に戻ることを暗示している。大戦中には各分野で、多くの成金が生まれたが、きわだったのが海運業で巨万の富をつかんだ船成金であった。成金の多くは、事業を拡張しすぎて戦後の不況を乗り切れず、あわのように消え、「歩」に逆戻りしたが、成金の基礎をうまく固め、本物の「金」になった人も少数ではあるがみられた。内田汽船を創設した内田信也や山下汽船をつくった山下亀三郎などの人である。 内田信也は、三井物産船舶部に一〇年間勤めたのち、第一次世界大戦が始まった一九一四(大正三)年七月に退職して独立し、神戸で汽船売買業を始めた。内田は船舶不足に乗じて大もうけをし、翌一五年に内田汽船を創立し社長におさまり、買船と用船の二本建てで順風満帆の収益をあげ、六〇割配当という日本企業史上例をみない新記録をうちたてた。船成金の面目が躍如としている。三十歳代の若さで、数千万円の資金を得た。一七年には横浜へ進出し、本編第一章第一節で述べたように一八年に内田造船所を設立するなど幅広い活動をしたのち、政界へ転じるに至った。 山下亀三郎は、明治二十年代の終わりころから横浜で石炭商を営んだ。石炭の価格のうちで、海上運賃が大きな割合を占め、石炭を売っても金をとるまでに時間がかかるのに対し、海運業は運賃を支払われたのち物を運ぶか、あるいは前払いでなくとも着港して運賃を払わない限り商品を渡さないというように、現金が早く入手できる固い商売であることに山下は着目し、自分で海運業を経営しようと考えた。一九〇三(明治三十六)年に、横浜にあったイギリス系のサミエル=サミエル商会の世話で外国の古船を一隻購入した。資金は、左右田銀行から三万円借り、第一回の手付金一万円を渡して船を引きとり、船主になった。翌年に日露戦争が始まり、海軍の用船に使用され大きな利益をあげ、さらに第二船を買い、横浜の社外船主として一時は活躍したが、戦後の不況でついに破綻してしまった。山下は横浜の店を閉じ、一九〇八年に東京へ移り、神戸へ店を持ち、一九一一年山下汽船を設立して再挙をはかった。運よく大戦に遭遇し大きく伸び、早くも数隻の古船を連合国に提供して巨額の用船料を獲得し、その利益をもとに海運ブームにうまく乗り、内田と並ぶ船成金になった。 山下亀三郎は、有能な人材を多数採用し、若い社員に戦時ブームを利用して積極的な運航を任せ、遠洋航路へ進出し、本格的な不定期船の運航業者に成長した。山下汽船は、社外船主の代表的企業として海運界に確固とした地盤をつくった。船主として成功した山下は、事業の本拠を神戸と東京に置いたが、横浜にはついに戻ってこなかった。そのため山下が初めて船を持った場所は横浜であり、左右田銀行が金融を助け、サミエル=サミエル商会が最初の古船輸入を仲介するなど、横浜を舞台にしてできかけていた海運事業へ展開するせっかくの取引ルートが消えてしまった。山下の失敗以後、数十年の間、横浜の人で船主になったり、あるいは横浜を本拠として成功した船主は存在しない。横浜は大貿易港で、多くの船舶がここを起点として出入りしているにもかかわらず、横浜で船主が成長しないのは不思議である。同じ貿易港の神戸では、明治時代の終わりに船を持つ人が増え、第一次世界大戦に便乗して、多くの船成金が生まれ、日本の海運業、とくに社外船は神戸を活動の中心地として発展した。大正時代の海運の盛況に際して、横浜はなんらの役割を果たすことができなかった。なぜ横浜で船主が育たなかったのか、考えられる理由は、横浜が定期航路の中心港であり、アメリカあるいはヨーロッパの定期航路の出入貨物が集散する性格をもち、社外船主の対象とする荷物は横浜では動かなかったことがあげられる。さらに横浜を本拠にする日本郵船や東洋汽船の規模が大き過ぎるので、これらの大会社と張り合ってまで船を自分で持とうという意欲を起こさせなかったのである(脇村義太郎「横浜財界の人々」『神奈川県史研究』第一号)。 日本郵船の発展 日本郵船は一八八五(明治十八)年十月開業以来一九一五(大正四)年九月までの三〇年間に、所有船舶は六万七〇〇〇トンから四二万八〇〇〇トンへ、航海海里数は一四〇万八〇〇〇海里から四〇〇万五〇〇〇海里へ、資本金は一一〇〇万円から四四〇〇万円へと著しく伸びた。大戦中は外国船舶が東洋市場より撤退した好機をとらえ、航権をさらに世界へ拡張し、大きな利益をあげた(『日本郵船株式会社五十年史』)。 欧州航路は交戦区域にはいり、危険ではあったが、航海を継続した。ドイツの巡洋艦エムデン号がインド洋に出撃し連合国側の船舶を襲ったので、日本郵船の欧州線・ボンベイ線・カルカッタ線・濠州線は、危険に陥り、エムデン号が一九一四年十一月撃沈されるまで、滞泊日数の増加を余儀なくされ、右四線で約二〇〇日に達する損害をうけた。欧州航路では地中海・北海などドイツ潜水艇の封鎖区域を通過するので、さらに危険であった。一五年十二月、大阪丸が地中海で無警告撃沈の災難に遭ったので、それ以後、欧州航路の経由は地中海を避け、南アフリカ喜望峰回りに変更し、十二月三十一日横浜出帆の三島丸から実行した。一七年一月ドイツは潜水艇の無制限活動を宣言し、いよいよ危くなったため、欧州航路船は同年三月横浜出帆の宮崎丸から武装を加え、船体にカムフラージュを施し、さらに八月からは連合国軍艦の護衛のもとに就航を続けた。 日本郵船は戦前に純貨物船の将来を研究し、イギリスで最新式経済的貨物船の徳島丸や鳥取丸を建造した。これをさらに改良し、T級船(七三〇〇トン級、船名に鳥羽丸のようにローマ綴りでTから始まることによる)を国内の造船所へ発注していたが、戦争が激化し船舶不足が著しいときに順次竣工し、配船ができるようになり輸送力の増強に大いに役立った。戦前の日本とロンドン間の雑貨運賃トン当たり四〇シリングが一八年には一〇〇〇シリングを唱える有様であり、日本郵船は命令線のほかに新造のT級貨物船を臨時船として欧州航路に回し、軍需品や食糧を満載して連合国側に提供するとともに空前の運賃収入を収めたのである。 日本郵船は新船を投じて新航路をつぎつぎに開設し、遠洋航路を一三線、近海航路を三線新設し、航路網を世界に広げた。主なものをあげると、まず第一に世界一周線がある。一九一四年八月パナマ運河が開通していたので、欧州臨時船の徳島丸はロンドンからの帰途をドイツ艦の出没するインド洋を戻らずに、大西洋を横断し、パナマ運河を経て、同年十二月横浜へ帰った。徳島丸が日本船のパナマ通過の第一船であり、記念すべき世界一周をなしとげたのである。以後、欧州定期命令線は往復とも南アフリカ経由であったが、臨時船の往路は南アフリカを迂回し復路はパナマ経由で、大西洋・太平洋を横断し横浜へ着くという雄大な航路を運営した。 つぎにパナマ経由の東航ニューヨーク線を一九一六年六月から開き、香港とニューヨークを両端港としてフィリピン・上海・神戸・横浜・サンフランシスコに寄港した。 また、一七年五月イギリス西岸へ達するリバプール線を開いた。同方面はイギリス船主の強固な海運同盟があり、通常では進出する見込みはなかったが、大戦中の船舶不足に苦しむイギリス政府は、日本郵船に配船するよう要望してきたので、極東とイギリス西海岸を結ぶ交通を担当することになった。戦後、イギリスは船腹充実を理由に、この航路からの撤退を迫ったが、日本郵船は応じないで既得権を守った。 ドイツ諸港は、ドイツ船主の地盤が固くて戦前では定期寄港はできなかったが、休戦直後、ドイツはもとより欧州諸国は船腹が足りず、配船ができなかったので、日本郵船はいち早く貨物船をハンブルクとブレーメンに寄港する方針をとり、一九年徳島丸 『日本郵船株式会社五十年史』より 十月横浜出帆のデラゴア丸を第一船としてハンブルク線の定期航海を始めた。 インドの当時の首府で、商工業の中心地であるカルカッタとの間の航路開設を希望した日本郵船は一九一一(明治四十四)年九月、神戸出帆の仁川丸を第一船として就航を行っていたが、英印社らの海運同盟線の範囲にあったため、劇甚な競争が起こり、運賃引下げや積荷の妨害など泥試合の有様であった。日本郵船は配船を増やし、神戸止まりを横浜まで延長して屈しなかったが、大戦が始まると、同じ連合国側の船主の競争は好ましいものではなく、また、海運同盟側の力は長年の競争で衰えたことにより、日本郵船へ妥協を申し出てきた。ついに一八年三月ロンドンで新同盟規約が結ばれ、六年余の競争に勝った日本郵船は同盟に参加することになって、インドにおける航権を伸ばしたのである。 このように、戦時中もしくは休戦直後にかけて、世界各国の定期船が撤退した空白を埋めるようにして、日本郵船は続々と新航路を開いたし、また主要海運国が戦争に忙殺された隙間を縫って巧みに浸透したので、一時は世界主要定期航路を独占した観があった。 日本郵船は一九一五年資本金を四四〇〇万円に倍額増資したが、一七年十一月さらに五六〇〇万円を増資し、新資本金を一億円にした。また、戦前の配当はほぼ一割に終始していたが、一五年後期九割、一七年前期七割、同後期五割、一八年前期五割、同後期一一割という法外な、大会社としては驚くべき高率配当を実施した。大戦中のめざましい躍進は、資本金の増大・配当率の上昇に、はっきり表れていた(『日本郵船株式会社五十年史』)。 大阪商船の躍進 大阪商船は遠洋航路の拡張をはかり、一九〇九(明治四十二)年七月、香港-タコマ間の北米航路を開いたのち、インド綿花が阪神地方に大量に輸入されていることに着目し、ボンベイ航路の開設を計画した。日本の紡績業の中心は大阪であり、綿業関係者の支持のもとに、一九一一年ボンベイ航路同盟への加入あっせんを日本郵船に依頼した。日本最大の産業である綿紡績業を背景にした大阪商船の申し入れを日本郵船は断ることはできず、同盟参加を認知したので、一九一三年彼阿汽船を盟主とする同盟も、大阪商船の加入を承認した。大阪商船は神戸-ボンベイ間(一九一八年から横浜ボンベイ間に延長)に配船を重ね、大戦勃発後は外国船が撤退したので積取貨物も増大した。北米とボンベイ両航路の好調に自信を抱き、一四年九月資本金を一六五〇万円から二四七五万円へと半額増資を行い、その払込金と社内積立金をもって新船を大量に建造し、両航路に就航させ競争力を増した。 一九一五年十月からサンフランシスコ線(門司起点、神戸・横浜寄港、一九一七年六月廃線)、一六年十月濠州航路・南アフリカ経由南米東岸航路とあいついで新航路を開いた。多年の希望であった欧州航路への進出をめざしたが、航路同盟の加入を初めは認められなかったので、一八年四月から盟外船としてボンベイーマルセイユ線、五月ボンベイーゼノア線を、十二月から横浜-ロンドン線を開始し、世界海運の桧舞台へ登場したのである。盟外船としての競争期間も長くならずに、一九年一月には航路同盟に加入が認められた。 このように拡大した諸航路は、大きな収益をもたらし、さらに大増資を可能にするものであった。一七年八月、一挙に資本金を五〇〇〇万円へと倍額増資を断行し、ひきつづき払込金で船舶の増加をはかった。好況の絶頂である一八年の総収入額は一億六八〇〇万円、利益金八七二〇万円に達し、年六割の高率配当を記録した(『大阪商船株式会社五十年史』)。 大戦中の船腹不足で欧米船主の配船が困難になり、在来の航路が休廃になったりして手薄になったことも大きな支援材料となって、大阪商船の遠洋航路進出は各航路同盟の抵抗はみられたにせよ、日本郵船が長年かかって参入できた各同盟航路へつぎつぎとごく短期間で割込みに成功した。明治時代に日本郵船が、最初の日本船主として遠洋航路へ進入し、厳しい競争にさらされながら、やがて同盟参入を認められていったいばらの道に比べると、二番手の大阪商船は先輩格の日本郵船が同盟参加をあっせんしてくれることを期待できたし、事実、日本郵船は日本海運業の王者としての鷹揚な経営方針から、多くの場合大阪商船の加盟に積極的に協力した。こうして大阪商船は、大戦中に容易に遠洋航路を拡張し、経営基盤を固め、往年の内地航路経営の一汽船会社の域を脱し、世界的な海運会社へ飛躍的に成長した。そして、営業の中心も阪神地方にのみ局限されることはなくなり、横浜港へも根をおろすようになった。 東洋汽船の活況 明治末期に損失を生じ、無配へ転落した東洋汽船は、大戦が勃発しても苦しい経営を続けた。ドイツ軍艦が太平洋上に出没し襲撃のおそれがあったため、北米航路・南米航路の就航船は途中で数一〇日の停船や、または航行の中止を余儀なくされた。荷主は戦時保険料の安い中立国船舶に託送したし、戦争により日本へ向かう観光客は皆無となったので、経営は赤字であった。ところが一九一五(大正四)年にはいり、世界的な海上運賃高騰の影響と、サンフランシスコ航路で競合していたアメリカの太平洋郵船会社が同航路から撤退したことが、東洋汽船に好況をもたらした。太平洋郵船はパナマ運河の開通とアメリカ海員法発布により、アメリカ内地の鉄道貨物はその大半が運河を経由するに至り、兼営している鉄道と海運業ともに従来のような多量の貨物と高運賃を得られないと予測して手を引いたのである。実際は予想が外れ、日米貿易量は増大し、いっそう船腹が不足し、東洋汽船の船客と積荷は倍増した。社長浅野総一郎は病気を押して渡米し、太平洋郵船からペルシャ丸を一八万ドルで買い入れたほか、さらに他社からも三隻を用船したが、同社の不足船舶の半ばも補充できなかった。一九一六年後期は特別配当三分を加え、一割東洋汽船ポスター 『明治大正図誌』より 五分の配当を行い、苦境を脱した(『資料編』18近代・現代(8)二九九・三〇〇)。 一九一六年には東洋汽船がサンフランシスコ航路をほぼ独占したので、盛況になった。天洋丸の姉妹船である地洋丸が三月三十一日、香港沖で座礁し放棄されたので、船腹はさらに不足した。新船七五〇〇トン級二隻を浦賀船渠へ、三隻を浅野造船所へ発注し、太平洋郵船の就航船であったサイベリア号とコレア号を購入して配船を増やした。海運界の好況は、とどまるところを知らず、ペルシャ丸はわずか二回の航海で船価を償却したほどであるから、東洋汽船も積極的に船舶の獲得に努めたのである。これまで天洋丸などの巨船には、外人船長を採用してきたが、地洋丸の遭難で外人の操船技術が必ずしも信用できないとして、東洋汽船は以後から日本人船長に切り替えた。大阪商船はタコマ線にすでに外人船長を排し日本人を使っていたので、大手船主では日本郵船のみがなお外人船長に依存するだけになった。日本海運の操船技術の自立化として注目されよう。一九一六年後期は、船腹量の増加に貨物運賃の上昇が加わり、増収は著しく二割配当をしたほどである(『資料編』18近代・現代(8)三〇一・三〇二・三〇四)。 一九一六年六月臨時株主総会で、資本金一三〇〇万円を一挙に三二五〇万円へと二・五倍に達する増資を敢行した。一七年後期には配当五割を決め、一八年さらに増収益を重ね、社運は急伸長した。海運市況が今後とも好調であることに自信を抱いた浅野は、東洋汽船の基盤が十分固まったことに満足せず、すすんで四七五〇万円を投じて新船一三隻を発注し、一挙に海運界を制覇しようとした。しかし、大戦が終わるとともに海運市場は軟化し、ふたたび不況に沈むようになり、浅野の野望は空しくつぶれ、船代金の不足額二二五〇万円の調達は、東洋汽船に重くのしかかってきた。浅野は、また安田善次郎の経営する安田銀行に社債一〇〇〇万円を引き受けてもらい、危機を越えたが、社運の低下は免れなかったのである。 二 戦後の海運 海運の不況 大戦中天井知らずの好況に恵まれた海運は、一九一八年十一月の休戦後は深刻な打撃を被った。海運市況は悪化し、運賃や用船料は暴落し、収益は激減した。用船料は、一トン当たり大型船が一八年七月四七円の高値から一九年三月一〇円に低落し、小型船でも同じく二八円から七円に下がった。若松-横浜間の石炭運賃は一トン当たり一八年六月の一一円七〇銭から一九年七月五円二〇銭、二〇年四月四円二〇銭へ激落した。欧州航路の雑貨トン当たり運賃は、一八年六月八〇〇シリングが一九年七月四〇〇シリング、二〇年四月一三〇シリングへと暴落した。休戦直後の反動不況を経て一九年四月ごろから一時的な戦後好況が到来したものの、二〇年三月の株式暴落に端を発して本格的な戦後恐慌が襲い、海運は衰退するばかりであった。 大戦中、社船業者の命令航路は運賃率が逓信省の認可が必要なため自由に上げることができず、低率に押さえられていたのに対し、輩出した社外船業者はその自由な地位を利用して、用船や、所有船の売買、あるいは自由航路で高い運賃を稼ぎ、巨利を得、めざましい活動をしただけに、戦後の反動の打撃は大きく、多数の「成金」はまたもとの「歩」に戻ったのである。戦時中に一二〇〇万トンの大商船隊を擁するまでに拡大したアメリカは、採算を無視して太平洋上に配船し、運賃の低下に拍車をかけた。戦後は一転して世界的な船腹過剰の状態となり、さらに大戦末期に大量に建造に着手した新船が、戦後に至り竣工し、海運市況をますます圧迫した。運賃が暴落したので、船主は多数の係船のやむなきに至り、暗雲にとざされた。 過剰船舶を抱えこんだ造船所あるいは海運業者を救済する一策として、政府は日本興業銀行を動員して一九年七月資本金一億円の国際汽船会社を神戸に設立した。手持船を多数所持していた川崎造船所をはじめ、東洋・山下・内田などの汽船会社が新会社の創立に参加し、計六〇隻五〇万重量トンの船舶を現物出資した。国際汽船は、二一年十一月川崎造船所や川崎汽船の過剰船腹を一手に集め、いわゆるKラインを組織して共同運営に乗り出すなど、整理や統合の動きがみられた。各船主は不況を切り抜けるため、二二年には日本郵船や大阪商船との社船業者間にとどまらず山下汽船・国際汽船・川崎汽船など社外営業者の間にも航路の協定をはかり、無益な競争を回避する動きがみられた。 海運業者は、経営難を打開するために、経費の節約・航路の調節あるいは従業員の整理などを行ったが、船舶機関の改良もその一つであった。戦時中は粗製濫造に流れ、造船技術にあまり進歩はなかったが、不況下では船質の改善によって優秀船を使って競争力を強化する動きが生じ、石炭燃料から重油燃料へと移り、さらに推進機関として効率のよいディーゼル機関を装置するようになった。一九二三年大阪商船は日本最初のディーゼル船音戸丸を建造し、さらに遠洋航路用大型ディーゼル貨客船を建造して内燃機関の進歩に先鞭をつけた。 日本郵船の整備 驚くべき高収益をあげて発展した日本郵船は、戦後恐慌の波に洗われ大きな影響をうけ、営業収益は年を追い急減した。一九一八年の利益が八六〇〇万あり、同年後期に一一割配当をしたが、二一年には利益はほぼ十分の一の八九〇万円にまで落ち込み、同年後期は二割にとどまった。急坂をころがるように、二二年五四〇万円の利益に減り、一割五分の配当に甘んじたが、二五年には利益は三〇七万円に減少し大正年間の最低を記録し、同年前期一割、後期八分に減配するのやむなきに至った。日本最大の海運会社といえども、恐慌でじん大な損害を被り、前途の予測を許さない実情であった(『日本郵船株式会社五十年史』)。 恐慌に苦しみながらも、日本郵船は航権の維持に努力し、外国船主と激しい競争に耐えていた。戦時中こそ、外国の有力汽船会社は船舶を本国の軍事輸送に徴発され、太平洋から姿を消したので、太平洋航路は日本海運の掌中に帰したが、戦争が終わるとすぐにイギリス船はあいついで復帰し、二万トン級のエムプレス型二隻を加えて競争力を増大したし、アメリカ船も一万四〇〇〇トン級の優秀客船プレジデント型一〇隻を配置するに至り、日本郵船はもとより日本船主は一段と苦境に陥った。英米船が快速を利用して一〇日内外で太平洋を横断するのに対し、本邦船は一四日ないし一六日を要する鈍足ぶりで、著しい劣勢が明らかであった。 日本郵船は、このまま放置すれば船客ならびに優良貨物は英米船に独占され、政府が長年補助金を与えて経営してきた北太平洋航路が崩壊することを怖れたので、一九二三年七月、社長名で政府へ長文の稟申書を提出し、対策として快速優秀船を建造するよう訴えた。新船は一万七〇〇〇トン級、速力一八ノットを要し、シアトル線、サンフランシスコ線にそれぞれ四隻計八隻を配船する必要があり、これらの建造費はばく大な資金がかかり、当然に一海運会社の負担を越えるものである。日本海運の使命および、さらには国防上の一助となる観点からも低利資金の融資と運航補助を政府に期待したのである。ついで翌二四年八月、日本郵船は同じ趣旨を首相以下関係各大臣と、統帥部の参謀総長と軍令部長にあて、建議を繰り返した。それだけに苦境が深刻であったといえよう。 政府も逓信大臣を会長とする海事委員会を設け、海運情勢を検討し、優秀船建造とその前提として、低利資金融通や国際競争力を高めるための海運業の合同整理を行うようにとの建議をうけたが、会社合同問題に世上の論議が百出してまとまらず、空しく業界の不況を見守っているのみであった。 日本郵船は、社業全般にわたって整理刷新を断行し、諸経費を節約に努力した。遠洋航路に経営の重点を置く方針をとり、沿岸および近海航路は経営を分離独立させ、一九二三年近海郵船会社を設立した。さらに大戦中に多く開設した遠洋航路を不況対策として整理したり、または廃止したので、創業四〇周年にあたる二五年九月では、遠洋命令航路はつぎの八線に縮小され、うち四線が横浜を起点もしくは寄港地とした。すなわち欧州線(横浜-ロンドン間)、米国線(香港-シアトル間、神戸-シアトル間)、濠州線(横浜-メルボルン間)、横浜-上海線、神戸-上海線、日中連絡線(神戸-長崎-上海間)、大阪-青島線である。ほかに横浜から大戦後日本の委任統治領となった旧ドイツ領の南洋群島へ向かう南洋庁命令航路として、リバプール線(横浜-リバプール間)、ハンブルク線(横浜-ハンブルク間)、南米東岸線(横浜-南アフリカ経由南米東岸間)、ボンベイ線(横浜-カルカッタ間)などの航路を維持したのである(『日本郵船株式会社七十年』)。 大阪商船の整備 大阪商船は戦後も積極的経営をとり、航路をつぎつぎに伸ばした。一八年十二月開いた横浜-ロンドン線を、アントワープ、ロッテルダム、さらにはハンブルクまで延航した。一九年六月東洋各地とアメリカの東南部およびキューバを結ぶ香港-ニューオリンズ線を開き、翌年にはカルカッタまで延長した。 戦時中にわが国最初のブエノスアイレスに至る南米直通航路を始めていたが、戦後はさらに充実させた。ブラジル行き開拓移民のほかに南米渡航者も増加したし、この航路は南アフリカを経由したので、東アフリカ行きの貨物を積み込むこともできた。日本の綿製品や雑貨が、大半は直航路で南米へ輸出され、帰路もそのまま往復したが、往航は荷客満載にかかわらず帰航は閑散としていた。その対策として帰航をサントスから北米へ向け、ブラジル産コーヒーをニューオリンズへ運び、陸揚げしたのち、テキサス綿花や銑鉄をパナマ経由で日本へ輸送する計画をたて、しばらく試航をしたところ成績がよかったので、一部の船舶の復航を北米経由にして運航した。二〇年二月から就航船を増やし年七航海から一〇航海にし、復航は全面的に北米経由に切り替え、スケールの大きい世界一周航路を開拓した。この航路は収益はあがり、同年政府の命令航路に指定され、ますます安定した。起点を横浜から神戸に変え、横浜は往復航とも寄港地になった。綿花を大阪の紡績業者に供給する便宜のためであろう。大阪商船は、同航路の就航船腹をいっそう増強し、二四年末から新造大型貨客船におきかえ始め、二五年末から南米行き渡航客輸送船として新造した日本最初の大型ディーゼル船さんとす丸(七三〇〇トン)を就航させ、神戸-サントス間を従来の航行期間六三日から四六日に短縮した。大阪商船の南米回りパナマ経由の世界一周航路が成功し安定化したので、アメリカの南部産綿花は太平洋岸まで鉄道で運び船積する必要はなくなり、日本向けの綿花はすべてガルフ諸港から直積みとなった。アメリカ綿花の輸入が増えてくると大阪商船の船舶だけでは不足するようになり、日本郵船をはじめその他の外国船もガルフ湾へ回航するようになった(『大阪商船株式会社五十年史』)。 こうして不況のなかでも積極的な経営で航路を拡張していったので、事業拡張の資金として二〇年一月資本金を倍額にして一億円とし、日本郵船と肩をならべた。しかし、不況が深刻になると、一部の非採算航路の整理や事務組織の縮小などを行ったり、遠洋航路に乗り出すようになって、競合路線がふえてきた日本郵船と協調をはかって二二年七月から、運賃率の厳守・配船量の調節・運賃合同計算などで協定を結び提携した。このような企業努力や世界一周航路の好成績にもかかわらず、恐慌の影響を回避することはできなかった。一八年の総収入一億六七九〇万円が二三年には五二〇〇万円へ急低下し、利益も五〇三八万円から一二〇万円へ減小したので、配当も六割から六分配当へと一〇分の一に落ち込んだ。景気の山が高かっただけに不況の谷は深く、日本郵船や大阪商船のような海運界の王者でもはげしい変動に揺さぶられたのであった。 東洋汽船の破綻 北米航路にイギリスのカナダ太平洋汽船、アメリカの太平洋郵船とアドミラル=オリエンタル=ラインが、それぞれ政府の強力な支援をうけ、新鋭快速船を就航させ、激しい競争を挑んできたが、わが国の海運業者でもっとも苦境に追い込まれたのが東洋汽船であった。東洋汽船の豪華船であった天洋丸型も船齢が一〇年余を数え、速力は外国船に遠く及ばず、業況は沈滞した。一九二二年上期には九三万円、二三年下期に二五〇万円の多額の損失金を計上し、前途は多難であった(『資料編』18近代・現代(8)三〇六・三〇七)。 東洋汽船の経営難を憂えた渋沢栄一は、日本郵船と合併させてサンフランシスコ線を維持しようとし、日本郵船にしばしば交渉した。交渉が円滑にすすまないうちに、外国船の圧迫はさらに強まった。それはダラー汽船会社が一九二三年九月、米国船舶院よりプレジデント型貨客船七隻、七万三〇〇〇トンを払い下げられ極東経由世界一周航路を開き、二五年四月からプレジデント型優秀客船五隻、七万トンの払い下げをうけてサンフランシスコと極東を結ぶ航路を運航したからである。さらにこのころには天洋丸型は船齢が一五年を越え、政府の補助金受給資格を欠くに至り、ますます経営基盤を弱くした。 渋沢栄一は、東洋汽船の救済を急ぎ、財界の有力者である井上準之助・郷誠之助と協力して日本郵船との合併あっせんに乗り出した。日本郵船は再度調査審議の末、東洋汽船全体との合併を避け、たんにサンフランシスコ線および南米西岸線の営業権とその使用船舶のみを継承したいと表明した。逓信大臣安達謙蔵も、外国船に対抗すべき優秀船の就航にとくに補助方法を講ずると述べ、両社の合併を助けた。渋沢らは、両社から出された希望や採算を慎重に考慮し、裁定案を作成して示した。内容は、日本郵船の希望どおり、東洋汽船は両航路一切の営業権とその使用船八隻を譲渡し、日本郵船は対価として株式一二万五〇〇〇株(額面六二五万円)を交付するものであった。両社ともに協議がまとまり、一九二六年二月十六日に、日本郵船社長白仁武と東洋汽船社長浅野総一郎との間で合併の調印を行った。合併準備として、東洋汽船は航路の営業権と使用船を現物出資して資本金六二五万円の第二東洋汽船会社を新設し、これを日本郵船に合併して解散する方法をとった。五月十四日合併契約を実行し、日本郵船の資本金は一億六二五万円になった。こうして日本郵船は、香港-サンフランシスコ線と香港-メキシコーバルパライソ(チリ)の南米西岸線を引き継ぎ経営し、昭和初期に天洋丸・地洋丸らの代船に浅間丸型の豪華船三隻を太平洋に浮かべるのである(『日本郵船株式会社五十年史』)。 東洋汽船は、苦労して約三〇年維持してきた定期船事業を譲り渡したので、以後は不定期船事業にのみ営業範囲を局限し、浅野海運業の命脈を保った。浅野総一郎が海運史上に大きな業績をとどめるのは、日本郵船・大阪商船につぐ本邦第三位の大定期船企業となった東洋汽船の創始者としてであった。これまで数多くの船主が出現したものの、社船業者の仲間入りできたのは浅野が最初であり最後であった。「社船」トリオの一角を戦後の恐慌は、振い落したのである。 第三節 大戦前後の鉄道 一 国鉄京浜間電車運転の開始 東海道本線の改良工事 東海道本線の輸送需要は、すでに日清戦争前後からにわかに高まってきた。政府は一八九六(明治二十九)年度から七か年度継続事業として改良工事に着手した。しかし、一九〇三(明治三十六)年日露戦争をひかえてこれを繰り延べ、一九〇九(明治四十二)年度までの一四か年度の継続事業とした。この改良工事が終期をむかえた一九〇九(明治四十二)年には、日露戦争後のいわゆる戦後経営の諸政策が軌道にのりはじめ、その輸送需要は、この改良工事が計画された当初をはるかに上回るものとなった。 また、それまでの改良工事で未完成に終わった部分も多く、そのため、改良工事は、さらに規模を拡大して継続されたのである。この改良工事の内容は、大都市周辺の輸送力増強と横浜・神戸の海陸連絡線の整備に重点がおかれていた。とくに、東京-横浜間の改良と横浜海陸連絡線の建設と、この二つがここでは問題となるであろう。後者については、項をあらためてふれるとして、まず、横浜を中心とした東海道本線の改良工事について述べることとする。 この工事は、新橋-程ケ谷(現保土ケ谷)間の改良工事として実施されたものである。東海道本線の東京と横浜周辺については、東京中央停車場(のちの東京駅)の建設や、電車運転計画にともなう改良など、さまざまな内容の工事がおこなわれてきたが、新橋-程ケ谷間の改良工事は、それらの改良工事の中心をなすともいうべき内容のものであった。 この工事は、同区間の線路および停車場を全面的に改築することを内容としており、その意味では、この区間に新たに線路を建設するほどの大規模な工事であった。品川以南についてみると、ここではのちに述べるように、東京-横浜間の電車運転の計画があるため、複線を増設し、老朽化した六郷川橋梁を架けかえる必要があった。そして、鶴見-程ケ谷間は、この改良工事の最重点区間とされ、横浜海陸連絡線の工事とならんで大きな工事が実施された。 それまでの神奈川-程ケ谷間は、前にも述べたように(第三編第四章第一節)、神奈川から横浜に入り、そこでスウィッチ・バックして程ケ谷に達する本線と、神奈川から平沼を経て程ケ谷に達する直通線があって、三角形の線路を形成していた。そのため、東海道本線の直通列車を利用する旅客の便宜をはかること、横浜駅におけるスウィッチ・バックの不便を解消することが、緊急の課題とされた。そこで、平沼駅と横浜駅との中間にあたる高島町一丁目に横浜駅を新設し、この駅を横浜の中央停車場とすることにした。これによって、市街地に近接して中央停車場を設置することとなり、旅客の不便は解消され、また本線列車のスウィッチ・バックも必要なくなるとされた。 在来の横浜駅は、その構内の大部分を貨物停車場に切りかえ、また一部に東京-横浜間の電車の停車場設備をつくることとした。平沼停車場は、廃止されることとなった。この新設線路は、神奈川から在来の横浜駅に向かう線路よりも海側(神戸方に向かって進行左側)にまわり、帷子川橋梁からこんどは右にまわることとし、この曲線の上、在来の本線との交点のあたりに横浜駅を新設することとした。ここから西平沼町と西戸部町との間を程ケ谷に向かうというもので、旧本線とも旧直通線とも異なる新線路が建設されることとなった。 新設の横浜駅は一九一三(大正二)年十月十日基礎工事に着手し、一九一五(大正四)年八月十日竣工、同月十五日開業式を挙行した。駅の本屋は煉瓦造り二階建で、建坪は四九五坪六一三(約一六三八・四平方㍍)、階上に便殿・貴賓室・待合室・改札口などを設け、階下に出札所・手小荷物室・駅長室・駅員室・電信室などを設けた。この建物は、東海道本線と電車線との分岐点に駅を設けたため、両線にはさまれるような形の三角形の建物となり、旅客は二階に上り改札口を経てそれぞれのホームに向かうという方式をとった。 この新駅の開業にともなって、それまでの横浜駅は桜木町駅と改称し、電車専用駅となった。また、平沼駅はこれによって廃止され、本線の旅客列車はすべて新設の横浜駅に発着することとなった。したがって、在来の直通線は廃止されることとなったが、この沿線にはこのころ多くの工場や倉庫がつくられるようになったため、複線のうち単線だけ残し、沿線の工場・倉庫との連絡をはかることとした。 以上のようにして、六郷川橋梁の改築とならんで、横浜付近の本線の改良工事は、一九一五(大正四)年までにほぼ完成した。この新設線路は、のちに一九横浜駅 市川健三氏提供 二三(大正十二)年の関東大震災によって横浜駅が大きい被害を受けると再び改築の必要が生じ、神奈川駅寄り、現在の位置に停車場設備を新設し、直通線を本線として復活させることとなるのである。 京浜間電車の開業 東京-横浜間の輸送需要の増大に対応するためには、高速・頻繁運転の可能な電車の導入が必要とされた。すでに京浜電気鉄道が品川-横浜間に運行されていたが(第三編第四章第一節参照)、この電車は、東京で都心に入っておらず、またその輸送力も大きいとはいえなかった。そのため、従来の電車の観念を打破した二-三輛編成の高速電車を運行させ、これを新設の東京駅に乗り入れ、横浜では在来の横浜駅に乗り入れるという方式をとることによって、東京-横浜間の都心間大量輸送機関としようというのが、その目的であった。 この電車は、前に述べた新橋-程ケ谷間改良工事の一環として、電車専用線を田町-横浜間に建設することとした。すでに、新橋-品川間には山手線電車のための別線が建設され、これは一九〇九年十二月に開業していた。そこで、東京-田町間は山手線と共用することとして、田町から東海道本線列車線の山側に別線を建設し、鶴見-子安信号所間で本線の列車線を乗り越して海側に出るようにした。 そして、横浜駅は前に述べたように列車線との分岐点につくり、高島町で在来の本線に接続して旧横浜駅に至るという方式をとった。しかし、横浜の新停車場の工事と、旧停車場の改築とが完成しないため、とりあえずは高島町に仮の駅を設け、ここを横浜のターミナルとして使用することとした。 この工事は一九一〇(明治四十三)年から開始され、線路の増設工事とならんで、矢口発電所(東京府荏原郡矢口村・現東京都大田区)の建設工事が進められた。電車は一〇五馬力電動機四個をそなえた総括制御式の電動車を製作し、二輛以上の電動車の総括制御を可能とする方式をとった。電動機は、米国ゼネラル=エレクトリック社製、その他は国産で、二・三等電動車二〇輛、三等電動車二〇輛、二・三等付随車一五輛を製作することとした。二・三等車の定員は二等二四人、三等五一人、計七五人、三等車の定員は一〇三人であるから、電動車二輛編成の定員は一七八人、付随車を加える時は二五三人となり、輸送力はかなり大きくなることが予想された。 この電車は、一九一四(大正三)年十二月十八日東京駅の開業に合わせて、東京-高島町間を開業することとして準備を急いだ。 ところで、十八日東京駅開業式当日、この電車は、第一次大戦青島攻略軍司令官神尾光臣中将の一行を品川から東京駅まで運び、また貴族院・衆議院の議員を東京から横浜まで試乗させることとした。神尾中将の一行は無事東京駅に着いたが、議員の試乗者を乗せた電車は、いっこうに横浜に着かなかった。調査してみると、先頭の電車が子安跨線橋のあたりで、後続の電車が大森-蒲田間で、いずれもパンタグラフを架線に引っかけて停止していた。試乗者には議員のほかにも、報道関係者がおり、この事件はいっせいに報道された。鉄道院総裁は、翌日の新聞に謝罪文を発表した。 原因は、開業式に合わせて十分に試運転をおこなわず、道床のつき固めが不十分なまま運転したこと、そのため重量の大きい大型電車が、曲線部分などで横揺れを起こし、パンタグラフが架線からはずれるという結果を招いたのである。 このため、十二月二十六日いったん電車の運転を中止、支障個所の手直しをおこない、翌一九一五(大正四)年五月十日東京-高島町間の運転を開始した。さらに、旧横浜駅を整備して、八月十五日には横浜-桜木町間が単線で電化開通、高島町駅を廃止して、横浜-桜木町間の短区間運転を実施した。同年十二月三十日東京-桜木町間の直通運転を開始、翌一六(大正五)年四月一日横浜-桜木町間は複線運転を開始した。同年五月十七日桜木町駅は改築を終わって、新駅の使用をはじめた。 運転頻度は、当初東京-高島町間開業の際には一五分間隔であったが、一九一八(大正七)年一二分間隔とし、一九二一(大正十)年には、混雑時に、この間に一二分間隔の不定期電車を挿入して平均六分間隔とした。当時、東京周辺・横浜周辺に通勤者の数がかなり増加したためである。 電車の編成は、最初は、前に述べたような三輛編成四本と、二輛編成五本とをあてていたが、東京-桜木町間の直通運転開始の時には三輛編成七本、二輛編成二本、ほかに不定期用に二輛編成二本を増備した。さらに、一九二二(大正十一)年には全編成を五輛編成とし、輸送力の増強をすすめた。 運転速度は東京-高島町間を四九分で運転し、のちに桜木町まで延長した際にも、五〇分の線をまもったが、この速度は、かつての快速列車の新橋-横浜間二七分運転には及ばなかった。関東大震災ののち、東京-横浜間四二分、平均時速四一・五㌔㍍に達したが、かつての快速列車に及ばないとはいえ、一二分間隔という頻繁運転は、横浜周辺はもちろん、東京との往復に画期的な変化をもたらしたということができる。すでに開通していた京浜電気鉄道とならんで、ここに二本の都市間電車が横浜と東京とを結ぶこととなったのである。 二 臨海工業地帯と港湾における鉄道の整備 輸送需要の増大と改良計画 日清戦争ののち、資本主義の発展とともに、横浜に集散する貨物の量は増加の一途をたどった。しかし、当時の鉄道施設では、横浜駅(のちの桜木町・東横浜駅)が、鉄道で扱う貨物を集約しており、設備の貧弱が著しく目立ってきた。前にもふれたように(第三編第四章第一節)、一八九七(明治三十)年十二月九日横浜商業会議所陳情委員三名は上京して、内閣総理大臣、大蔵・逓信および農商務各大臣に、滞貨による被害の大きさをうったえたが、この時、提出した「貨物停滞ノ儀ニ付陳情」によると、横浜駅の滞貨量は二〇〇〇-三〇〇〇トンに達し、おもに貨車の不足のために輸入品が数日滞留し、しかも倉庫設備が不完全なため、山積みにされて雨ざらしとなることさえあったという。さらにこの滞貨は、重要輸出品の横浜延着の原因ともなり、貿易上大きな損失をもたらすとされた。 この陳情には、横浜駅構内の規模の拡張ばかりでなく、貨物専用線の建設など根本的な解決の方策がかかげられていた。 当時、横浜の築港工事が進められ、貿易港としての設備がととのえられつつあった(第三編第四章第三節参照)。本来、築港工事には、連絡運転のための臨港鉄道線が必要とされていた。日本の場合、代表的な開港場である横浜でも神戸でも、このような臨港線の設備はきわめて貧弱であった。そのために、前記のような陳情がおこなわれたとみることができる。政府はこれに対応するため、官設鉄道改良工事計画のなかに、横浜および神戸の「海陸連絡線」建設の計画を入れることとしたのである。 この計画は、前に述べた東海道線の改良工事の一環として進められることになり、神戸の場合は一九〇二(明治三十五)年から起工し、一九〇六(明治三十九)年に竣工した。しかし、横浜の場合は日露戦争のため起工が遅れ、一九〇六年にようやく起工された。しかも、横浜の海陸連絡線は、横浜駅から税関埋立地にいたる四二チェーン(約八四〇㍍)の短いもので、これでは、貨物輸送の隘路を打開することは、とうてい望むことができなかった。 そこで、前に述べた新橋-程ケ谷間改良工事にあわせて、さらに大規模な海陸連絡線の整備をおこなうこととした。この計画では、まず、従来の横浜駅の跡地に大規模な貨物取扱設備をつくること、表高島町の埋立地に貨車操車場を新設、仕訳線その他の側線を敷設して横浜駅につくる貨物取扱設備と連絡させて、貨物輸送の円滑化をはかること、また、高島操車場は貨物を取り扱う停車場としても使用できるようにし、この高島貨物駅には、東海道本線鶴見駅から貨物線(複線)を分岐させて連絡させ、高島貨物駅からは、二組の複線を分岐させ、一方の複線は、新設される横浜駅の付近で、横浜から桜木町にいたる電車線の上を高架横断し、程ケ谷に出て東海道本線に連絡する。他方の複線は、程ケ谷に出る連絡線と分かれて旧横浜駅のほうに左折し、電車専用線に沿って旧横浜駅に達し、前に述べた税関線に連絡することとした。 以上のような改良工事の計画が立てられ、一九一〇(明治四十三)年から起工された。当時、大都市における旅客・貨物の取扱数量は増大し、旅客駅と貨物駅とを分離する傾向が生まれていた。東京・新橋と汐留、京都と丹波口、大阪と梅田といった例がこれである。横浜における横浜貨物駅や高島貨物駅の開設も、このような傾向を示すものといえる。 この貨物線は、一九一三(大正二)年六月二日に高島操車場が高島荷扱所として開業し、さらに一九一五年十二月三十日には貨物専用の高島駅とした。また、この日には電車専用の桜木町駅と東京との電車直通運転が開始されたが、これに合わせて旧横浜駅の貨物取扱設備が完成し、東横浜駅として開業した。そして、旧横浜駅から程ケ谷に通じていた旧本線は廃止されて、線路を撤去したのである〔鶴見-高島間四マイル一二チェーン(約五・七㌔㍍)の開業は、一九一七年六月十七日〕。 これらの工事によって、横浜における客貨分離の工事は完成し、このとき同時に進められた品川操車場設置工事とあいまって、東北・信越・高崎・中央の各線と横浜との貨物輸送は非常に円滑となった。このほか、一九〇八(明治四十一)年に開通した横浜鉄道を、鉄道院は一九一〇(明治四十三)年四月一日から借り受け、また一九一一年十二月十日同鉄道の東神奈川-海神奈川間貨物線一マイル一六チェーン(約一・九㌔㍍)が開業すると、鉄道院はこれをも借り受け、さらに一九一七(大正六)年六月十七日、鶴見-高島間の開業と同じ日に東神奈川から高島にいたる貨物線(単線)一マイル三〇チェーン(約二・一㌔㍍)が開業した。 このほか、東横浜から横浜税関埋立地に伸びた線路は、一九一一(明治四十四)年以降使用を開始したが、一九二〇年七月二十三日複線化を完成し、同時に横浜港駅として開業した。関東大震災直前までに、横浜の港湾設備の整備とならんで、鉄道の海陸連絡設備はこのようにしてととのえられたのである。 臨海工業地帯と鉄道 京浜地区の臨海工業地帯がこの時期に形成されていった事情については、本編第一章で述べられているとおりである。このような工業地帯の形成は、当然鉄道輸送についても大きな変化をもたらすこととなった。 いま、横浜市内各駅および浜川崎の鉄鋼・石油発着トン数について、一九一二(大正元)年と一九二二(大正十一)年とをくらべてみると、表四-三三のようになる。 このように、鉄鋼・石油ともに発送トン数がふえ、とくに鉄鋼の場合、高島やのちに述べる浜川崎の進出が著しいことは、京浜工業地帯の形成と関連づけて考えてよいであろう。そして、横浜市内各駅および浜川崎における取扱品目には、在来の輸出入品に加えて、このような重工業関係品目が加わってきたのも、この間の変化を示している。 たとえば、上記の資料によって、茶の到着トン数をみると、一九一二年の横浜四五一二トン、横浜荷扱所(のちの横浜港駅)一六三三トンが、一九二二年には東横浜一三五八トンとなって減少を示している。また、生糸は前者が横浜一万八三二六トン、程ケ谷五一二トンであったのにたいし、後者では東横浜二万六七九〇トンとなっている。絹織物では、前者が横浜一四五一トン、後者が東横浜二八九三トンで、表4-33 鉄鋼および石油発着トン数 注 1912年は,鉄道院『本邦鉄道の社会及経済に及ぼせる影響』付図。1922年は,鉄道省運転局『鉄道輸送主要貨物数量』により作成。 生糸・絹織物の取扱数量はいずれも増加しているが、重工業関係品目の相対的比重が大きくなっていることがわかる。しかも、たとえば鉄鋼の発送トン数については、一九一二年の場合は輸入品の発送が中心と考えられるのにたいし、一九二二年になると、京浜工業地帯における製品の発送が含まれているとみられる。 このような変化は、京浜工業地帯の形成と鉄道貨物輸送とのかかわりとしてみることができる。また、このような工業地帯の形成にともなって、川崎・横浜の二つの都市に対する人口集中が進み、通勤輸送も活発になっていったことが想像できるのである。 これらの輸送について、工業地帯の各工場に専用線を敷設し、またはそれらを集約する貨物線を敷設することは、早晩大きな課題となってきた。一九一八(大正七)年五月一日川崎から浜川崎まで二マイル五六チェーン(約四・三㌔㍍)の貨物線が開通、この線が、この臨海工業地帯に入る最初の貨物線となった。浜川崎駅は、橘樹郡田島村渡田(現川崎市川崎区南渡田町)に設けられた。ここは日本鋼管株式会社の製鉄所に接し、ここから専用線を各工場に引けば、貨物集約のうえで大きな機能を発揮すると考えられた。 以上のほか、こののちとくに関東大震災後、高島や海神奈川などの貨物駅も、浜川崎と同様の機能を果たすようになっていく。東海道本線の海側に、このような線路網が伸びていったわけである。 この線路は、すべてが国鉄線とは限らなかった。一九二四(大正十三)年二月十二日、浅野総一郎・大川平三郎・白石元治郎・岩原謙三らが発起人となり、鶴見臨港鉄道敷設免許の申請を鉄道大臣あてに提出した。この計画は浜川崎から埋立地に沿って線路を敷設し、橘樹郡潮田町(現横浜市鶴見区弁天町)にいたる地方鉄道を敷設し、貨物輸送をおこなうというものであった。鶴見付近には、一九一六年十二月二十五日安田善二郎らが海岸電気鉄道敷設願書を内閣総理大臣・内務大臣に提出、会社は一九二〇年に創立、一九二四年に起工、鶴見駅付近から埋立地に沿って浜川崎・川崎大師にいたる五マイル七二チェーン(約九・四㌔㍍)を一九二五(大正十四)年六月五日までに全通させた。 鶴見臨港鉄道の計画は、この海岸電気軌道と一部並行する区間があったが、海岸電気軌道の場合は軌道であり、貨車二輛を配置してはいるが、あくまでも旅客主体の輸送機関であるという事情が考慮されて免許され、一九二四年七月二十六日会社創立、一九二六年三月十日浜川崎-弁天橋間二・二マイル(約四㌔㍍)と大川支線〇・七マイル(約一・一㌔㍍)、四月十日には安善支線〇・六マイル(約一・〇㌔㍍)が開業し、蒸気運転により貨物列車の運行が開始された。 これによって、浜川崎の貨物ターミナルとしての機能は、より大きなものとなったのである。鶴見臨港鉄道は、こののち扇町への線路の延長、また弁天橋-鶴見間の開業、さらに鶴見-扇町間の電化、電車による旅客運輸の開始など、臨海工業地帯における旅客・貨物の輸送機関として、その役割はさらに大きなものとなっていったのである。 以上のようにして、川崎・横浜地区の工業地帯では、国鉄線ばかりでなく、埋立地における企業家が中心となって鉄道を建設していくという方式がとられたのである。 三 箱根登山鉄道の建設 登山鉄道の建設計画 箱根の温泉郷が、たんなる湯治場から観光地として注目されるようになったのは、日露戦争後のことと思われる。東京音楽学校教授鳥居忱の詞に、当時同校生徒であった滝廉太郎の応募曲がつけられた「箱根八里」が、『中学唱歌』に掲載・発表されたのは、一九〇一(明治三十四)年八月のことであった。この段階では、「天下の嶮」とうたわれ、かつての重要な交通路としての役割を鉄道にゆずったあとは「山野に狩する剛毅の壮士/猟銃肩に草鞋がけ/八里の岩ね踏み破る」とされていた。 しかし、日露戦争後外国観光客の誘致は、戦後における国力増進策の一環として考えられるようになった。国内観光地の整備や、さらにジャパン=ツーリスト=ビューロー(日本旅行協会、のちの日本交通公社)の設置など、外客誘致の方策が次々に実施されるようになった。箱根も、かつての湯治場から脱して、観光保養地としての衣更えを要請されるにいたった。しかし、箱根に入る交通機関は、小田原から湯本までは小田原電気鉄道が一九〇〇(明治三十三)年に開通していた(第三編第四章第一節参照)が、湯本から奥、宮ノ下・強羅にいたる各地に分布する温泉への交通機関は、わずかに馬車がある程度で、徒歩か、場合によって山駕籠を利用するほかない状態であった。 このような交通機関の欠陥を改善することは、緊急の課題であった。箱根登山鉄道株式会社編『箱根登山鉄道のあゆみ』によると、井上馨・益田孝ら交詢社のグループで、湯本以西に電気鉄道を建設し、外客誘致をはかろうという意見が起こり、小田原電気鉄道に対して登山鉄道建設の勧奨がおこなわれたという。この勧奨とは別に、同社でもすでに箱根に登山鉄道を建設しようという計画があり、そこでこのような勧奨を受けると、社長草郷清四郎はさっそくこの計画の調査・研究を進めさせ、同時に一九一〇(明治四十一)年一月二十九日の臨時株主総会で「電車線路延長ノ件」と「資本金増加ノ件」が決定された。この決定によって、湯本-強羅間約五マイル(八㌔㍍)の電気鉄道を建設すること、また資本金をそれまでの八七万五〇〇〇円から、一三二万五〇〇〇円増額して二二〇万円とすることとなった。 そして、測量と設計とを、かつて官設鉄道直江津線(のち信越本線)の横川-軽井沢間建設の際、設計にあたった吉川三次郎と、工学士小川東吾に委託し、同年四月三つの比較線が得られた。この三線のうち湯本から早川の左岸を進み、早川を横断して大平台・宮ノ下を通過、強羅にいたる約七㌔㍍の第三線が採用された。 この調査・測量にもとづいて、同年十月十一日には、「軽便鉄道法」による敷設免許を内閣総理大臣に申請、翌一九一一年三月一日免許を取得、一九一二年二月十七日工事施行認可を得た。 当初の計画では、湯本-強羅間七・一㌔㍍に、軌間四フィート六インチ(一三七二㍉㍍)、最急勾配八分の一(一二五パーミル)で線路を敷設し、急勾配区間ではアプト式軌道を採用、電気機関車が歯車制動車・客車各一輛を牽引させる方式をとっていた。しかし、湯本-強羅間七・一㌔㍍の標高差が四四四㍍、最急勾配一二五パーミルという線路では、アプト式軌道は適当といえないという意見が強まった。 会社は、一九一二年七月主任技師長半田貢を欧米に派遣、登山鉄道の実情を視察させた。翌一九一三年一月半田技師長は調査を終えて帰国、スイス東南部のベルニナ鉄道とイタリアのマルティニー=シャトラール鉄道の方式を参考にして改訂案が作成された。この改訂案では、アプト式は廃され、ヨーロッパ各国の登山鉄道で当時多く採用されていた粘着方式を採り、スウィッチ・バック線を出山・大平台・上大平台の三か所に設けることにより、勾配を一二・五分の一(八〇パーミル)に緩和することとした。そのため、線路延長は八・三㌔㍍と、当初の設計より一㌔㍍余り伸びる結果となった(のちに八・九㌔㍍となる)。自然景観の保護も考慮に入れられて、線路が山ひだを縫うようになり、その結果、曲線は増加し、最小曲線半径は三〇㍍ということになった。とくに半田技師長は各国登山鉄道のブレーキ試験のデータを集め、急勾配を下る列車の安全性を確認して、この設計に織り込んだ。 一九一三(大正二)年三月二十七日、同社は「軽便鉄道線路及び工事方法変更願」を鉄道院に提出、六月二十三日認可された。同年十二月八日、大株主幹事会で建設費予算総額の問題が審議され、一九一四年六月二十四日、臨時株主総会で、この線路の建設にあてるべき社債の募集が決定された。 登山鉄道の建設と開業 建設工事は、設計変更願が出される前、一九一二(大正元)年十一月八日に着手された。しかし、その直後に設計変更の問題が起こったり、また不況のあおりを受けたりしたため、一時中断された。工事が再開されたのは、一九一五年八月一日であった。工事は湯本-強羅間を二区に分け、大平台で区切ることとし、第一区の湯本-大平台間から着手、第二区の大平台-強羅間は一九一七年四月十六日に着手された。工事は鉄道工業合資会社が請け負い、工期二年の予定であった。 ところが、資金の調達や用地買収などの問題が起こり、さらに線路が温泉の湧出地点にかかるなどの事態から、線路変更を余儀なくされたり、また当時第一次大戦が開始されていて、輸入品が着かなかったり到着が遅れるなど、さまざまな難問題が、次々にあらわれた。しかも、八〇パーミルという急勾配の工事は、日本の鉄道建設工事においてもはじめての経験であり、こうした地形の克服という問題も起こってきた。 結局、これらの問題のために、工期更新は四回に及び、工事の完了は一九一九(大正八)年五月二十四日となった。最初の起工から数えて七年半、工事再開から数えても三年一〇か月となった。軌間は、最初の計画では四フィート六インチ(一三七二㍉㍍)であったが、工事の途中で四フィート八インチ半(一四三五㍉㍍・国際標準軌間)に改められた。そして、湯本で在来の小箱根登山鉄道(上大平台) 『神奈川の写真誌』より 田原-湯本間の線路と接続することができるような設備をつくり、のちに在来線の軌間も、四フィート八インチ半に改軌した。このため、従来の湯本駅を移転し、登山鉄道開業の直前、一九一九年四月十日、箱根湯本駅と改称した。 この工事で、塔ノ沢-出山の間、早川をわたる橋梁は径間長六〇・六五㍍、水面からの高さ四三㍍で、最初はアーチ・トラスを国内で製作する予定であった。しかし、世界大戦のため材料の輸入ができず、国産材料は価格が騰貴して購入できず、止むなく鉄道院が払い下げた天竜川橋梁の一連を転用することとした。この決定に対し、神奈川県知事から再考を求める指示が出た。それは、景観を害することになるおそれがあるという理由によるものであった。しかし、社長自ら陣頭に立って鉄道院に陳情を繰り返し、鉄道院から神奈川県に通達を出して転用が決定された。この橋梁は、東海道線建設の際、一八八八(明治二十一)年十一月に天竜川に架けられた二〇〇フィート(約六六㍍)のダブル・ワーレン・トラスで、現在も使用されている。 車輛は、車体を日本車輛製造株式会社に発注し、電気部品はアメリカのゼネラル=エレクトリック社、ウェスチングハウス社、ブリル社製のものを使用した。登山電車として、電圧六〇〇ボルト一〇五馬力モーターを四個装備し、レールの摩耗防止のために登山電車では油を塗ることができないため、屋根上に水タンクをそなえて水をまくこととした。また、下り勾配における安全を確保するため、電気ブレーキ、空気ブレーキ、手動ブレーキ、電磁コイルを内蔵した制動靴によるマグネットブレーキの四種類をとりつけた(マグネットブレーキは、のちにカーボランダムブレーキに変更された)。 こうして、一九一九年六月一日箱根湯本-強羅間八・九㌔㍍の営業は開始された。途中の駅は、塔ノ沢伝言所(一九二〇年十月二十一日駅となる)・出山・大平台・上大平台・仙人台・宮ノ下・小湧谷・二ノ平(のち彫刻の森)で、出山・大平台・上大平台にスウィッチ・バックが設けられた。 小田原電気鉄道は、箱根一帯に鉄道網を広げる計画をもっていた。そして、早くから強羅から湖尻にいたる交通機関の建設を計画し、その第一着手として、一九一三年六月、下強羅-上強羅(のち早雲山)間ケーブルカーの免許を申請、一九一五年四月二十三日免許され、一九二一年着工、同年十二月一日一・二㌔㍍の同区間を開業した。軌間は一〇〇〇㍉㍍、最急勾配二〇〇パーミル、巻上装置は電動機一八〇馬力、客車(二輛)は定員三〇人、手荷物一五〇〇キログラム、所要時間一〇分、中間に公園下・公園上・中強羅・早雲館の四駅を配した。ケーブルカーとしては、一九一八年に開通した生駒山宝山寺線に次ぐわが国二番目のものであった。 このケーブルカーの開通によって、小田原から湯本・宮ノ下・強羅を経て早雲山にいたる経路が、電車・ケーブルカーによって結ばれることとなった。同社は、このほかにも二ノ平から元箱根・箱根町を通って三島に抜ける路線や、強羅から御殿場に抜ける路線、さらに芦ノ湖を周回する路線を構想し、一九二〇年から二二年にかけて敷設免許を出願していた。これらの計画は、いずれも実現せずに終わり、小田原電気鉄道株式会社は一九二八(昭和三)年一月日本電力株式会社と合併、同年八月十三日箱根登山鉄道株式会社(資本金五〇〇万円)として再生する。 その理由は、箱根におけるこのような観光鉄道の経営が、つねに景気に左右され、また自然災害の脅威を受けたことなどにあるといえる。また、登山鉄道開始の日に富士屋自働車株式会社が国府津・箱根町のバス営業を開始し、関東大震災のころには二〇〇台のバスで営業するなど、競合交通機関が開業したことも電車の経営に影響したといえよう。 小田原電気鉄道は、このような条件のもとで、一九二一年には、小湧谷-芦ノ湖-元箱根-箱根町間にバスの運行を開始し、箱根では電車とバスとが競合しながら、多くの観光客を運ぶという態勢ができあがっていったのである。 四 熱海線の建設 国府津-沼津間の改良計画 東海道線の国府津-沼津間は、一八八六(明治十九)年同線の建設が決定した時から、線路選定のうえでさまざまな比較がおこなわれ、結局、御殿場経由の迂回ルートが決められたという経緯があり、開通後も東海道線のネックともいうべき区間となった。いうまでもなく、それは箱根火山をどのようにして越えるかという問題であり、御殿場ルートは、箱根を避けて迂回したわけであるが、それでも海抜四五七㍍の御殿場を経由するため、最急一〇〇〇分の二五という勾配が約二〇㌔㍍も連続することになって、補助機関車を連結しても、その輸送力は平坦線の半分以下に落ちるという結果になったのである。 しかも日露戦争後、東海道線が幹線としてさらに大きな輸送量をもつようになると、この区間が輸送力の増強をはばむことになった。そのため、この隘路を打開することが緊急の課題となったのである。 この課題を解決するために、鉄道院は、この区間に別線を建設する計画を立て、実地調査をおこなった。この調査がいつおこなわれたかは明らかでないが、この調査によって、鉄道院は箱根山の下をトンネルでくぐる三つの線を選定していた。この三つの線は、いずれも国府津から小田原を経て湯本にいたり、そこから一六-一九㌔㍍のトンネルを掘削して芦ノ湖の下をくぐり、三島付近で地上に出るという思い切った長大トンネル建設の計画であった。 しかし、当時このような長大トンネルは、スイス・イタリア国境のシンプロン、スイス中部のサン=ゴタルドなどで完成しつつあったが、日本ではまだ実現の可能性はきわめて小さかった。そこで、一九〇九(明治四十二)年鉄道院は、熱海経由の別線計画の調査を実施し、十一月一日技師辻太郎は鉄道院総裁後藤新平に復命書を提出した。 この復命書では、勾配を一〇〇〇分の一〇におさえ、曲線半径は最小一五チェーン(約三〇〇㍍)として、小田原・早川・根府川・真鶴・湯河原・熱海を経由し、軽井沢峠の下を長大トンネルでくぐって三島に出るという線路を選んだ。こののち、一九〇九年から翌年三月にかけて、再び調査がおこなわれ、ほぼ前記のルートに沿って三つの比較線が検討された。そして、一九一二(明治四十三)年四月十五日この三線のうちの熱海経由線が最も適当とされた。この線は、熱海から玄岳の下をくぐって三島に抜けるルートで、七〇〇〇-八〇〇〇㍍級のいわゆる丹那トンネルを掘削することとなった。こうして、丹那トンネルを掘削する線路が選ばれ、さらに細密な調査が進められ、一九一五(大正四)年十月、最終案がまとめられた。 この経緯をみると、それまでのいくつかの計画のうちで、国府津-熱海間はほとんど手を加えることなく、丹那トンネルの位置を最終的にどこに選ぶかが大きな問題となっていたことがわかる。すでに、国府津から小田原を経て熱海にいたる線路についても、小田原付近でいくつかの比較線が考えられていたが、ほとんど問題なく選定がおこなわれた。山側から海側にかけて、三つの比較線を考え、そのうちの中央を経由する路線をとった。ただ、この線路は、小田原-早川間の小峰トンネルが閑院宮別邸の下をくぐるというので躊躇したという(鉄道省熱海建設事務所『丹那隧道工事誌』)。しかし、この問題も解決されて、この中央ルートが現在の東海道本線となったのである。 熱海線の工事 熱海線の工事は一九一六(大正五)年十二月、まず国府津-早川間五マイル四四チェーン(八・九㌔㍍)の工事からはじめられた。この区間は、国府津で東海道本線と別れ、鴨ノ宮から左折して酒匂川橋梁を渡り、小田原から、小峰トンネルを経て、東海道を乗りこし、早川を渡り、早川駅にいたるもので、一九二〇年十月二十一日に開通した。東海道線開通以来、本線から取り残されてきた小田原では、いわば町を挙げて鉄道開通を祝った。それは、この区間の開通によって、小田原が横浜その他東海道沿線の県下各地、さらに東京と結ばれることは大きな意味をもったといえる。 隣接地域との商品の集散地としてばかりでなく、また箱根をひかえて観光都市としても発展しはじめていた小田原にとって、この鉄道の開通は、その発展をさらに促進するということになった。小田原電気鉄道の国府津-小田原間が受ける打撃はもとより大きかったが、東海道本線に接続する鉄道が開通し、さらに、何年かのちには、ここが本線となるという見通しが立ったために、小田原のさらに大きな発展が、これによって約束されることとなったのである。小田原電気鉄道のこの区間は、熱海線の開通とともに十二月六日廃止の運命に立ちいたった。 同様の変化は、早川から南の区間の開業にともなって起こってきた。すなわち、小田原-熱海間の大日本軌道小田原支社線は、同線の熱海線が建設されれば、当然その影響を受けて、輸送機関の意味を失ってしまう。そこで、同社は関係各方面に働きかけ、一九二〇年七月一日、熱海線の国府津-小田原間開業に当たって、小田原-熱海間の軌道を国鉄に買収させることに成功した。国鉄熱海線(国府津駅沼津寄り分岐点-上方熱海線) 『熱海線建設要覧』より は、熱海までの工事が完成するまで、この軌道線を、熱海軌道組合に貸し渡して熱海線の開業までは営業を継続することとした。 このようにして、熱海線の工事は、それまでの交通機関の使命を終わらせ、新しい幹線鉄道をここに建設するというかたちで進められた。早川から南の工事は、熱海街道に沿って、相模湾に面する断崖に、いくつものトンネルを掘って進むこととなった。根府川から真鶴を経て湯河原にいたる間は、こうした地形のけわしいところに線路を建設しなければならなかった。 真鶴までの開業は一九二二年十二月二十一日、湯河原までは一九二三年十月一日開業の予定であった。ところが、湯河原まで開業の直前、一九二三年九月一日に関東大震災が起こり、このために熱海線は大きな被害を受けた。酒匂川橋梁のトラス転落、小田原駅構内の線路崩壊、小峰トンネルの崩壊、玉川橋梁におけるトラス転落、さらに根府川駅付近で列車が断崖から海中に転落するなど大きな損害が各所に起こった。このような被害のため、当初の予定は大幅に遅れ、熱海までの開通は一九二五年三月二十五日となった。なお、複線開通は、国府津-小田原間が一九二六年八月十五日、小田原-湯河原間が一九二八年二月五日、湯河原-熱海間が同年三月二十七日であった。 また、電化工事も進められ、一九二六年一月二十九日国府津-小田原間、一九二八年二月二十五日小田原-熱海間の電気運転が開始された。 鉄道の発展と観光開発 熱海線が湯河原・熱海まで開通したことにより、この地域の温泉におもむく人びとは急速に増加した。一般に箱根の場合でもそうであったが、交通機関の発達は観光地としての開発を非常に促進した。神奈川県西部に広がる箱根や湯河原の温泉は、もともと、いわゆる湯治場であり、けわしい山道を徒歩や山駕籠で登っていった時代には、いったん目的地に着けば少なくとも数日以上滞在するのが通例であった。しかし、交通機関が発達すると、一-二泊の滞在で帰る習慣が一般となっていった。いわば観光保養地としての性格が強まってきたといえる。 馬車鉄道から電車へ、人車鉄道から蒸気鉄道へという交通機関の発展は、明治末年に箱根でも湯河原・熱海でも、まずこれらの温泉場を訪れる人の数の増加をもたらした。そして、第一次大戦前後には、箱根登山鉄道の開通や熱海線の延長など、さらに交通機関が便利となり、とくに熱海線が延長すると、東京や横浜と鉄道による直通が可能となったため、真鶴・湯河原・熱海は、大都市のいわゆる「奥座敷」としての機能を果たすようになってきた。 それまで蒸気鉄道で小田原-熱海間二時間四〇分かかっていたものが、わずか三〇分程度の所要時間に短縮された。このような例からも、これらの温泉地帯が時間・距離のうえで大都市に近づいた事実をみとめることができるのである。「奥座敷」としての地位は、このような便利さによって保証されていったのである。こののち、昭和初年にかけて、これらの地域は、旅館設備の改良に加えて、公園・ゴルフ場の開設などにより、多角的な観光・保養地としての性格を強めていった。 第三章 金融界の動向 第一節 大戦期の輸出金融問題 一 大戦期の貿易と金融 貿易の拡大と為替事情 第一次大戦中における貿易の拡大については、生糸貿易を中心に本編第三章で述べたとおりである。輸出入貿易高の飛躍的増大は、当然為替取扱高の上昇をもたらす。いま、この間の事情を明らかにするために、両者の推移を表示してみると、表四-三四のとおりである。また、一九一九(大正八)年について、輸出入品目別に貿易高と為替取扱高の比率を示すと、表四-三五のとおりである。表四-三四で明らかなとおり、輸出入貿易高は明治末期から大正の初期にかけて増大傾向にあったが、その後一度低迷したのち、第一次大戦がはじまってから激増をみせている。すなわち、一九一四(大正三)年に比して一五年はまだ四-五㌫増にとどまったが、一六年には五八・七㌫増、一七年には二・二倍増、一八年には三・一倍増と伸び、一九年にはついに三・六倍増へと拡大するにいたる。しかもこの間、貿易高の上昇と貿易高に占める横浜正金銀行の外国為替取扱高の比率にある程度の相関がみられる。すなわち、一九一四年までは輸出入貿易高に占める横浜正金銀行の為替取扱高の割合が六〇㌫台にとどまるが、その後の貿易高の急激な伸長にともなって同比率も増大し続け、一八年には八九㌫をこえるにいたっている。こうして、横浜正金銀行外国為替取扱業務は急成長をとげ、同行の業務は繁忙をきわめた。さらに表四-三五は輸出入の品目について(一九一九年)、輸出入高に占める横浜正金銀行の外国為替取扱高の割合を示しているが、ここでも主要貿易品目についてその比率が五〇㌫近くなっており、輸出合計四三・八㌫、輸入合計四〇・六㌫という高い比率が示されている。本表で取り上げた一九一九年は、前表によって正金銀行の外国為替取扱高が若干の低下を示すことが明らかであるから、他のそれまでの各年においてはもっとこの比率が高かったものと思われる。このように品目別にみても、主要貿易商品を中心に貿易高に占める正金銀行の外国為替取扱高のシェアが高かったのであるから、貿易の伸長とともに正金銀行の外国為替業務が繁忙をつげる前述のことがこの表によって裏付けられるのである。 他方、国際収支の動きをみると、一九〇七年ごろから一四年の第一次大戦の勃発時までの貿易収支は、毎年約一〇〇〇万円の入超を示すほど悪化していた。とくに一九一二年の入超は一億一七〇〇万円、一四年のそれは一億二七〇〇万円にまで達した。このため、貿易収支の支払超過(外債の利払分中心)を加えた国際収支の赤字分を、地方債・民間債を主とした外債増加によっ表4-34 わが国の輸出入貿易高と横浜正金銀行内地各店外国為替取扱高 注 『横浜正金銀行史』515-517ページより作成 て埋めねばならず、外債総額は一九一四年末に一九億円にも膨張したのである。反面、政府・日銀の保有する正貨は約三億五〇〇〇万円と減少し、兌換制度の維持すら困難視されるにいたった(土方晋『横浜正金銀行』一四三ページ参照)。ところが、第一次大戦以後は様変わりを示し、一九一四年から休戦の一八年末までの国際収支はぼう大な受取超過となり、受取勘定は二七億八〇〇〇万円に達した。また、このうち政府・民間の外債償還または買戻しおよび対外投資合計は一二億七〇〇〇万円にもなったが、それでも政府および日銀保有の正貨は一二億三〇〇〇万円余増加して一五億八〇〇〇万円余となるほどであった。しかし、このうち金表4-35 わが国の輸出入品別高と横浜正金銀行内地各店における為替取扱高(1919年) 注 『横浜正金銀行史』518-519ページより作成 で取り寄せることのできたのは三億円にすぎず、残りは横浜正金銀行を中心とした外国為替銀行の在外資産として保有された。いわゆる為替の買持制度である。とくに正金銀行はぼう大な為替の買持ちをなさなければならなかった。第一次大戦勃発後、交戦国は相次いで金輸出禁止措置をとったためで、わが国も一九一七年にはアメリカに追随して金輸出を禁止するにいたった。この間、円はドルやポンドに対して騰貴を続け、ニューヨーク向け電信売正金銀行建値の最高で、一九一八年のピークには521/8ドル(一〇〇円に対して、法定為替相場は497/8ドル)にもなった。このため、正金銀行は日本銀行と密接な関係を保ちつつ、為替相場の安定化につとめたが、一八年の大戦終結による輸出の低下から生じた輸入超過が円為替の下落をもたらすまで円為替の騰貴が続いた。 二 横浜正金銀行の業務 このような対外取引の変遷のなかで、正金銀行の業務が重要な位置を占め、その多様化をはかったことはいうまでもない。以下、輸出金融を中心として、この時期の横浜正金銀行の業務の概要を述べてみよう。 内外資金の調整 正金銀行がきわめて複雑な国際金融環境の下で、為替買持制度の中心的な地位に立っていたことはすでに述べた。交戦各国が金輸出を禁止したため、わが国のぼう大な受取超過のすべてを金の輸入によって賄うことができなくなったため、そのかなりの部分を対外資産として為替銀行の為替買持業務によって保有せしめることとならざるを得なかった。のちに述べるように、この買持制度は為替銀行に種々の問題を生ぜしめることから、その削減がはかられたが、それでも一九一八(大正七)年末の正金銀行の為替買持ちは、五億五〇〇〇万円(海外支店に対する国内店舗の貸越残高は五億九七〇〇万円)をこえるほどであったといわれる。すなわち、当時は国全体として買越(balance overbought)の増大であったが、これを正金銀行としてみると、在外支店が買持ポジション(overbought cash position)にほぼ相当する外貨資金を保有していたため、国内店舗はこれに対応した円資金を国内で調達し供給しなければならなかった。内外資金の調整業務とはこのための具体的業務をいい、それは次のようなものから成っていた。(一)内地コール資金の吸収-前述のように正金銀行は巨額の為替買持を保有していた-が、この対外貸残(約五億五〇〇〇万円)に見合うのは日本銀行からの外国為替借用金四億四二〇〇万円、その他の借入金三二〇〇万円の合計四億七四〇〇万円であった。元来、正金銀行が日銀との特約で年二〇〇〇万円の低利融資を同行から受けていたが、これとは別に日銀が外国為替貸付金制度を設定し、為替円資金の涸渇に悩む為替銀行を救った。しかし、これでも十分に為替資金を賄うことができず、正金銀行は金融緩慢化にともない、低利率となった内地コール市場で資金を調達したのである。 (二)外貨資金の取寄せ……正金銀行は一九一五年以後、その為替買持について、対政府売上げ、対外投資、金の現送取寄せなどにより、その消化回収につとめた。(ア)政府への売上げ……正金銀行は一九一五年から毎年政府へ外貨を売り上げた。これは本来内地においておくべきポンドやドルを、政府が一般会計・国債整理基金・預金部資金などをもって買い上げたもので、その一九一八年までの累計額は一二億円に達した(前述の在外正貨一二億円に相当する)。(イ)対外投資……一九一六(大正五)年、正金銀行はイギリス国庫債券一億円の引受けに参加し、その代金五〇〇〇万ドルをニューヨークで引き渡した。さらに一九一七年以後、国内の投資家のためにイギリス・フランスの公債の買入れを先物買為替予約付で斡旋することによって、買持の負担を軽減した。(ウ)金の現送取寄せ……一九一九年六月のアメリカの金輸出解禁から九月までの間に、正金銀行は同国から日本向け四九五〇万ドルの金現送を実行した。 内地市場の開拓 以上のような措置をとって在外資金の内地への回収をはかったが、それでもまだ日銀借用金に依存する部分が大きかった。市中コール資金の取入れのほか、後述のように増資によって自己資本でその軽減をすすめたが、日銀借用金の解消はなお困難であった。そこで、正金銀行は日銀借用金を市場を通じての資金に転換するために、何らかの制度的な措置をとることが必要と考え、日銀と協議のうえ、銀行引受手形制度とスタンプ手形制度の二つを新たに制定するにいたった。 (一)銀行引受手形制度……対外貿易上の決済(送金または輸入手形の支払い)には、できるだけ自国資金を利用し、なるべく外国の資力に依存することをさける(円貨による円為替の決済)ために生まれた制度である。これは、一九一九年に導入された制度で、その骨子は、(ア)輸入手形に対しては、戦後外国貿易金融をいっそう円滑にするため、貿易上の実際取引にもとづく銀行引受手形を日銀において再割引するものとし、その割引利率は日銀公定歩合中最低の優遇レートとすること、(イ)事業会社手形については、戦時中拡張された産業の維持または整理に必要な資金の調達のため、事業会社などが振り出した銀行引受手形のうちで、優良と認められるものをとくに再割引する方法を定め、その割引利率については株券その他の見返品を担保とする手形の例に準ずることの二つであった。 (二)スタンプ手形制度……対外貿易に要する資金(輸出前貸しないし買為替)には、できるだけ市場資金を利用し、なるべく政府または日銀の援助(対政府外貨売上げまたは日銀借用金)に頼らないために設けられた制度である。銀行引受手形制度が輸入手形を対象としたのにたいして、スタンプ手形制度は輸出手形を対象としている。すなわち、正金銀行が内地において買い取った輸出手形のうち、ロンドン・リヨンおよびニューヨーク向け(のちにリヨンは除外)の分に限り、これを日銀へ担保として差し入れ、担保手形および付属書類は海外到着後十分な監督の下に保管されるようにし、この担保金額の範囲内で正金銀行は自行引受けの日銀を支払い場所とする六〇日または九〇日払い手形を振り出し、これに日銀の検印(スタンプ)を受けて売り出すものであった。このような売出手形は、これを割り引いた銀行が日銀との取引をもっていると、いつでも日銀の本支店で商業手形の再割引の最低利率で再割引を受けられるだけでなく、日銀から元のレートで買い戻すことができるのである。したがって、投資家にとっては最も安全な投資対象といえた。しかも、この制度によって貿易のための資金と国内の資金が共通となり、欧米と同様の割引市場を確立することも可能になろうという期待が寄せられた。スタンプ手形制度の内容は以上のとおりであるが、結局一億三四〇〇万円程度の発行をみたといわれている。 横浜正金銀行は一九一一(明治四十四)年に四八〇〇万円に増資し、その払込みも一九一九(大正八)年までに完了した。しかし、大戦中の業容の著しい拡大は、自己資本のいっそうの充実を必要とした。また、大戦中の好景気は増資のためにきわめてよい環境であったので、一九一九年資本金を五二〇〇万円増加して、新しい資本金は一億円となった。その増資資金の払込みは一九二〇年に完了し、名実とも巨大為替銀行となった。ぼう大な自己資本を背景に、常時巨額の為替買持を保有することができるようになった。また、このような規模の拡大にともない、海外支店の増設も相次いだ。一九一九年当時の本支店出張所数は三六、コルレス契約を結んだ海外為替取引銀行は一八七行に及んだ。 最後につけ加えておかなくてはならないのは、貿易金融業務の拡大とともに、この分野への民間金融機関の参入が進んだことである。貿易の拡大、外国為替業務の伸長は、正金銀行だけでこれに対応することは困難であった。元来、第一次大戦前からすでに正金銀行のほか、台湾銀行・朝鮮銀行が貿易金融業務を扱っていた。しかし、欧米に支店・出張所をもっていたのは正金銀行のみで、この分野においては正金銀行は独占的な地位を保っていた。そこへ、大戦中から新たに民間銀行が加わった。具体的には、住友銀行・三井銀行・三菱銀行でそれぞれ海外店舗を保有していた。ただ、この時期においては各種業務についての制約があり、正金銀行と民間銀行の間に大きな差があり、貿易金融の分野における正金銀行の地位は、日銀や政策当局の配慮から依然としてきわめて大きかった。 注 (1) 横浜正金銀行の業務については、東京銀行『横浜正金銀行全史』第二巻一九二-二〇一ページを参照した。 第二節 大戦期の県下各種金融機関の推移 一 普通銀行・貯蓄銀行 地域別・銀行種類別分類 すでに第三編で述べたごとく「銀行条例」「貯蓄銀行条例」制定以後、神奈川県内に数多くの普通銀行・貯蓄銀行が設立された。その動きは明治末年まで続き、それぞれ産業金融に重要な役割を演じた。しかし、日露戦争以後の激しい経済変動のなかで、経営基盤の脆弱な普通銀行・貯蓄銀行は損失を招いたり、取付けにあったり、減資を余儀なくされた。そこで、政府は合併を通じての規模の拡大によって経営の安定化を進める政策を採用するにいたり、神奈川県内にもそうした政策に対応して合併したり、廃業するものがでたことについても第三編で述べたとおりである。 以上のような推移を明治後期に示しつつ、神奈川県内に本店を有し、県内で一九一三(大正二)年十二月末現在において活動していた普通銀行・貯蓄銀行は(『銀行総覧』第二一回による。横浜正金銀行と神奈川県農工銀行を除く)、五九行に達していた。その銀行名を地域別・銀行種類別に分類して示すと、次のとおりである。 (一) 横浜市内(普通銀行一四行、貯蓄銀行一一行) 普通銀行……神奈川銀行、横浜貿易銀行、横浜商業銀行、第二銀行、横浜七十四銀行、横浜実業銀行、横浜中央銀行、東陽銀行、渡辺銀行、茂木銀行、横浜若尾銀行、誠資銀行、左右田銀行、平沼銀行 貯蓄銀行……平沼貯蓄銀行、横浜貯蓄銀行、養老貯蓄銀行、戸部貯蓄銀行、武相貯蓄銀行、左右田貯蓄銀行、元町貯蓄銀行、横浜実業貯蓄銀行、横浜中央貯蓄銀行、石井貯蓄銀行、神奈川貯蓄銀行 (二) 橘樹郡内(普通銀行四行、貯蓄銀行一行) 普通銀行……大師銀行、川崎銀行、川崎共立銀行、高津銀行 貯蓄銀行……川崎共立貯蓄銀行 横浜実業銀行 『横浜商業会議所月報』より 戸部貯蓄銀行と左右田銀行の広告 『横浜商業会議所月報』より (三) 横須賀市内(普通銀行一行) 普通銀行……横須賀商業銀行 (四) 高座郡内(普通銀行一行、貯蓄銀行一行) 普通銀行……関東銀行 貯蓄銀行……関東貯蓄銀行 (五) 愛甲郡内(普通銀行一行) 普通銀行……厚木銀行 (六) 中郡内(普通銀行七行) 普通銀行……秦野銀行、江陽銀行、平塚銀行、吾妻銀行、大磯銀行、相模銀行、伊勢原銀行 (七) 鎌倉郡内(普通銀行四行) 普通銀行……鎌倉銀行、戸塚銀行、日本実業銀行、瀬谷銀行 (八) 都筑郡内(普通銀行一行) 普通銀行……石橋銀行 (九) 足柄下郡内(普通銀行五行) 普通銀行……小田原銀行、小田原通商銀行、国府津銀行、足柄銀行、曽我銀行 (一〇) 足柄上郡内(普通銀行八行) 普通銀行……金田興業銀行、酒田銀行、松田銀行、桜井共益銀行、鞠子銀行、川村銀行、共洽(株)、足柄農商銀行 以上、神奈川県下の全普通銀行、全貯蓄銀行の名称をあげてみたが、この内容からも明らかなように、普通銀行は全県下にあまねく存在していたのにたいして、貯蓄銀行はわずかに横浜市内・橘樹郡内・高座郡内の地域に限って存在しており、しかもその大部分は普通銀行の子銀行であり、その資金吸収手段として活用するために設立されたものであった。 神奈川県下に存在した大正初期の銀行群は、その後の第一次大戦の活況を通じて、どのような役割を果たし、どのような推移を示したであろうか。以下、本節では大正前期における神奈川県下の普通銀行・貯蓄銀行の態様を明らかにしていってみたい。 二 銀行行政の展開と県下の銀行の動き 銀行行政 この時期における金融行政は、金融機関の健全な経営を促し、金融秩序の維持と信用不安をなくすことを目的になされた。当時、まだ体質の脆弱な銀行が多数残っていて、これらの銀行が経済の変動に耐え得ないと、取付けなど信用不安を助長しかねなかったからである。一九一二(明治四十五)年、大蔵省が地方長官に対し、銀行合同の機運の強まったのに対応して合併方法の基準を決定するために、銀行合同に関する手続きを通達したのも、上のような銀行行政の方向に沿うものであった。 また貯蓄銀行についても、「貯蓄銀行条例」の第一次改定以後、貯蓄銀行業務を兼営する普通銀行と貯蓄銀行との同質化と貯蓄銀行数の急増がみられたことは、すでに第三編において述べたが、その後の経済変動とくに金融恐慌において、休業・吸収合併・廃業等に追い込まれるものがあとを断たなかった。これが信用不安を醸成することはいうまでもなく、そこで政府は一九一五(大正四)年に「貯蓄銀行条例」の第二次改正をおこなった。この時の改正は、貯蓄性預金を普通銀行に扱わせるのは適当でないという見地に立って、貯蓄銀行の業務分野を拡大し、新たに定期積金・据置貯金を加え、しかもこれらの業務を貯蓄銀行以外のものが取り扱うことを禁止した。また、認可事項の拡大などを主務大臣に付与し、その監督権限を強化した。しかし、資金運用面についての制限はいっさい設けなかった。この措置によって、貯蓄銀行経営の強化とその指導方向を明確にすることとなった。 さらに大蔵省は一九一八年にいたって、地方長官に対し、普通銀行・貯蓄銀行の別なく、人口一〇万人以上の都市における新設銀行の資本金許可限度を二〇〇万円に引き上げるように通達し、経営規模の拡大による経営の安定化を目ざした。 以上が、この時期にとられた普通銀行・貯蓄銀行に対する金融行政の具体的な内容である。 金融行政への対応 このような金融行政の流れに対応して、神奈川県内の普通銀行・貯蓄銀行も、業容を拡大するなかで活発な動きを示した。まず第一は、資本金の増加である。すなわち、この時期が第一次大戦中および戦後のブームに当たり、わが国の経済発展が著しかったので、これにともなって銀行も規模を拡大するため増資をおこなったものである。このように銀行に増資を促した契機は、(一)預金債務の伸長に対応して、それの担保ともいうべき資本金を増加せざるを得なかったこと、(二)産業規模の増大、とくに重工業の発展が産業企業の規模、とくに固定投資の規模を大きくし、これが銀行の規模、とくに資本金の規模を拡大させたことなどにあった。全国的にみても一九一五年から一九年の間に増資をおこなった銀行の数は四九一行、増資額は四億四四〇〇万円に達したという数字や、一九一七-一八年では二四五行が一億九〇〇〇万円の増資を、また一九一九-二〇年では五八六行が七億三〇〇〇万円の増資をおこなったとする数字もみられる。神奈川県下においても、一九一四年から一九年の間に、県下銀行数の三割にあたる一八行が増資したといわれる。そのおもな内容を示すと、表四-三六のとおりである(日本銀行調査局『神奈川地方金融史概説』Ⅲ参照)。さらに、このあと一九二〇年には川崎共立銀行・渡辺銀行・鎌倉銀行・足柄農商銀行・大師銀行・相模銀行・曽我銀行・小田原銀行などが増資をおこなっている。表のようにこの時期の増資規模は大きく二倍・三倍と増資するものから、なかには一〇倍もの増資をおこなっているものもある。しかし、増資後の県下の銀行の規模は依然として小さく、資本金が前述一九一八年の通達の新設銀行の資本金の最小規模二〇〇万円をこえるものは、ほとんどなかった状態であった。さらにこの間において、逆に減資を免れることのできなかった銀行も少なくなかった(厚木銀行・横浜中央銀行など)。これらの銀行は、経営面に不正があったり、経営政策の失敗から不振に陥ったものである。 つぎに、合併による規模の拡大は、この時期にはきわめて少なかった。わが国の普通銀行の合同の歴史において、この時期はいわば「安定の時代」ともいわれている。これは、大多数の銀行の経営発展が順調であり、とくに合併を表4-36 神奈川県下銀行増資状況 注 (1) 厚木銀行はこの時に相模実業銀行と改称している。(2) 1917年に共洽(株)から改称したもの。 促す契機が弱く、わずかに営業地盤を拡大する目的をもつ積極的な合併がみられるにすぎなかった。神奈川県下においても、一九一八年の大磯銀行による吾妻銀行の吸収合併と、茂木銀行による横浜七十四銀行の吸収合併の二例がみられるだけであった。吾妻銀行の場合は、専務取締役の変死から取付けをひき起こし、大磯銀行に合併されたうえ、解散することを余儀なくされた。 最も大きな合併劇は、茂木銀行と横浜七十四銀行とのそれである。第一次大戦前後のブームを通じて、茂木合名会社の飛躍的発展には著しいものがあった。貿易業界の麒麟児として、「東に茂木惣兵衛、西に伊藤忠兵衛あり」と称された三代目茂木惣兵衛は、戦時ブームに乗って積極的な経営政策をとり、三井物産に対抗し得る一大商社への発展を目論んでいた。このため、同店の資金的基盤を強化する必要に迫られ、一九一八年に茂木惣兵衛は自己の経営する合名会社茂木銀行を改組して、横浜七十四銀行と合併し、一躍資本金五〇〇万円の株式会社七十四銀行を設立して自ら頭取に座った。横浜七十四銀行も茂木一族が大口株主であったから、この合併は容易に進行した。合併は茂木合名会社発展の重要な礎石になるとともに、全市の小口零細預金を吸収して一大預金銀行となっていた横浜七十四銀行に一大転機をもたらした。合併はまた実質的には、茂木銀行による横浜七十四銀行の吸収合併であった。第一次大戦のブームを通じて、茂木合名会社は貿易横浜七十四銀行 『横浜商業会議所月報』より 利潤の増大による拡張を続け、七十四銀行はほとんど茂木合名会社の機関銀行の観を呈していた。茂木合名会社の資金の大部分は七十四銀行から供与されたので、七十四銀行はその資金量を確保するため預金吸収にかなりの無理を余儀なくされ、さらには日銀借入金、コール・マネーの取入れ、為替尻の利用などあらゆる方策をとらねばならなかった。設立当初の七十四銀行は、総貸出しの四割以上を茂木合名会社に向けるとともに、その性格から横浜市内に流入する生糸関係荷為替手形の五割以上を占め繁忙をきわめていた。しかし後述するように、一九二〇年の恐慌によって茂木合名会社は倒産の危機に追い込まれ、七十四銀行も運命をともにするにいたった(以上、『横浜銀行四十年史』参照)。茂木銀行と横浜七十四銀行の合併は、まさに営業基盤拡大、規模利益追求のためという積極的な意味をもつものであり、ここに横浜にも資本金が五〇〇万円という一大普通銀行が生まれるにいたった。神奈川県下の他の普通銀行に比較して、当時七十四銀行が群を抜いていたことはいうまでもなかった。 なお、これより先一九一七年に同族銀行であった日本実業銀行が、一族の者の投機の失敗から取付けにあい、翌一八年駿河銀行に買収されて任意解散した例がみられる。 以上が、増資と合併による銀行の規模拡大の推移である。ここで、この時期における普通銀行の他の側面における動きを概括的に説明しておこう。まず新設であるが、この時期における神奈川県下に新設された銀行は、一九一九年設立の管理銀行(資本金二〇万円)のみであったといわれる。この管理銀行も経営不振で、その後、減資→増資をおこなったのち、一九一六年には龍王銀行と改称して東京へ移転するにいたった。つぎにこのほかにも、他府県へ移動する銀行がいくつかみられる。すなわち、一九一二年には大雄銀行の黒羽商業銀行と改称しての栃木県那賀郡黒羽村への移転と、相陽銀行の日本昼夜貯蓄銀行と改称しての東京への移転がみられる。一九一三年には、吉浜銀行の日東銀行と改称しての東京への移転がみられ、一四年には石井貯蓄銀行の昌栄貯蓄銀行と改称しての翌一五年の東京への移転がみられる。さらに、一九一八年には川崎共立貯蓄銀行の小浜実業銀行と改称しての福島県への移転がみられる。 また、解散した例としては、前掲吾妻銀行・日本実業銀行のほかに、一九一五年には頭取石井虎之助ほか重役が背任罪で拘引取調べを受けた武相貯蓄銀行が任意解散しており、翌一六年には川崎銀行が任意解散にいたっている。また、改称の例としては上にあげたもののほか、一九一七年に養老貯蓄銀行の横須賀貯蓄銀行への改称がみられた。 中小金融機関の発展 神奈川県農工銀行の設立によって、県下信用組合の活動が徐々に活発になってきたことについては、すでに第三編で述べたとおりである。もともと信用組合は、小農に対する保護政策の意味をもっていたことから、(一)信用組合に対して、地方自治体による設立の勧奨や助成の措置が与えられたし、(二)一九一〇(明治四十三)年から大蔵省預金部の資金が勧業銀行や農工銀行を通じて信用組合に供与された。また一九〇六年の「産業組合法」の改正によって、信用組合の他事業兼営が認められたり、一九〇九年の改正によって連合会・中央会の設立が認められた。こうした措置は、信用組合数の増大や信用組合の事業規模を拡大させた。とくに第一次大戦下においては、貯金の伸びが著しく、一九一七年には貸出しを凌駕するにいたった。神奈川県下においても、大正はじめに信用組合数が六二を数え、この時期に活発な活動をおこなっていた。 信用組合については、いわゆる農村信用組合の発展に比較して、都市の中小零細企業のための信用組合組織の結成が立ち遅れた。そこで、政府は一九一七年に「産業組合法」を改正し、市街地信用組合制度の創設をはかった。すなわち、信用組合をこの分野に積極的に育成することによって、中小零細企業の相互扶助金融を拡充しようとした。市街地信用組合は「産業組合法」にいう産業組合の特別的な存在として認められ、市または主務大臣の指定する信用組合は、一般の信用組合には認められていなかった組合員外からの貯金の受入れや手形割引業務が認められていた。この結果、市街地信用組合が徐々に設立されるにいたったが、その主たる役割はむしろ大戦後の恐慌時に発揮されたので、次巻において神奈川県下の市街地信用組合について一括して説明することとしたい。 市街地信用組合とともに、中小零細企業に対する金融、庶民金融の分野で、重要な機能を発揮してきたのが無尽会社である。わが国には古くから無尽講ないしは頼母子講といわれる相互扶助金融組織が発達してきたが、明治後期に零細商工業者を対象に、無尽を業として営業するものが増加した。しかし、営業無尽がゆきわたり、多数の無尽企業が設立されると、なかには詐欺的な行為をなすものも続出するところとなった。そこで、政府は金融秩序の混乱を防止するため、無尽会社に対する規制をおこなうこととなり、一九一五年に「無尽業法」を制定するにいたった。同法により、無尽会社も銀行などと同様に免許事業となった。また、三万円以上の出資金が求められたり、他業の兼営禁止、余裕金の運用方法の制限なども同法によって規制されるところとなり、これによって無尽会社の経営の安定化がはかられることとなった。同法施行時における神奈川県下の無尽業者数は三七(資本金合計六一万二〇〇〇円)であったといわれるので、当時の信用組合数と比較してみて、かなり関心が高かったものとみられる。同法制定の一九一五年には、横浜興産無尽株式会社が資本金二〇万円で横浜市花咲町に設立されたのをはじめ、翌一六年には商栄無尽が資本金六万円で横浜市久方町に設立された。無尽会社の活動についても、次巻でふれてみたい。 これと関連して、中小金融機関とはいえないが、一九一八年に、商工信託株式会社が資本金五〇万円、社長左右田棟一で、横浜市に設立されている。信託についての説明も、それが本格的に展開する時期の分析を含む次巻にゆずりたいと思う。また生命保険・損害保険の分野についても、次巻でまとめて取り扱うこととしよう。 銀行における業容の拡大 最後に第一次大戦下における銀行の業容の拡大を計数でとらえてみよう。いま都市部の銀行の一例として横浜七十四銀行、郡部の銀行の一例として小田原銀行をとりあげ、その主要勘定科目の推移を示すと、表四-表4-37 横浜七十四銀行諸勘定の推移 注 『銀行通信録』より作成。1918年下期は茂木銀行と合併した七十四銀行の数字を参考までに示した。 表4-38 小田原銀行諸勘定の推移 注 『銀行通信録』より作成。1917年下期の数字は誤りではないかと思われる。 三七・三八のとおりである。一九一二(明治四十五)年上期と比較した一九一八(大正七)年上期の貸付資金残高(払込資本金+積立金+預金残高)の倍率は、横浜七十四銀行が一・五一倍であるのに対して、小田原銀行は二・二一倍と高い。両者とも高い伸び率を示しているが、郡部にある小田原銀行の方がとくに預金残高の伸びの著しさから、貸付資金はより高く伸長している。この結果、貸出金残高の伸びについても、上の二つの時期を比較して、横浜七十四銀行は横這いであるのに、小田原銀行は二・二九倍もの倍率を示している。以上の比較は、たまたま横浜市と郡部から選び出した二つの銀行についてのものであるから、つぎに、二つのグループに全部の県下の銀行を区分して全数的な計数によって貸付資金の伸びをみると、表四-三九のとおりである。資本金の倍率は横浜地区の銀行グループの方が高いが、積立金・預金については郡部銀行グループの方が高い。とくに預金の郡部銀行グループにおける顕著な伸びは、先の小田原銀行の数字が偶然のものでないことを裏付けている。郡部銀行グループの預金にお表4-39 銀行グループ別比較(貸付資金) 注 『神奈川地方金融史概説』Ⅲより 表4-40 銀行グループ別比較(資金運用) 注 『神奈川地方金融史概説』Ⅲより いては、定期預金が圧倒的に高い構成比を示していたといわれ、農村からの定期預金を中心に、ようやく県下の普通銀行も預金銀行としての性格を強めてきたと指摘することができよう。 つぎに、資金運用の側面をながめてみよう。資金運用についても、貸出金と有価証券別に、横浜地区銀行グループと郡部銀行グループについてその伸び率を示すと、表四-四〇のとおりである。先の横浜七十四銀行と小表4-41 貸出種類別残高 注 『神奈川地方金融史概説』Ⅲより 表4-42 銀行の担保別貸出残高(1918年末) 注 『神奈川地方金融史概説』Ⅲより 田原銀行の例と異なり、貸出金・有価証券保有量のいずれの伸びも、横浜地区銀行グループの方が高い。調達した貸付資金の伸びが低いのに、横浜地区銀行グループがかなり高い運用資金量の伸びを示し得たのは、借入金に負うものであろう。横浜港を通じての活発な貿易取引に根ざしての国内資金需要の旺盛な伸びに対応して、銀行もその期待に応えていったものと思われる。とくに、この時期が第一次大戦下の貿易量の大幅な拡大期にあたったことは、貿易金融の伸長の必要性をいっそう高めたものといえよう。当期の経済発展の態様からして、横浜地区の銀行グループの貸出量の伸びが五年間で九倍に近い伸びを示し、郡部銀行グループのそれをはるかに凌駕したことがうなずけよう。 つぎに『銀行局年報』によって、神奈川県下銀行と全国の全銀行の合計分について、貸出しの種類別残高とその構成比の推移を示すと表四-四一のとおりである。神奈川県下の銀行の場合、全国の合計分と同様に証書貸付の比重が趨勢的に低下し、手形貸付の比重が上昇しているが、手形貸付・手形割引の構成比の水準そのものが全国の総計分より高くなっているのが特徴的である。全県分の合計といっても、金額の大きさからいって横浜市内の銀行の占めるシェアが圧倒的に高いであろうから、証書貸付のような長期貸付の比率が低下し、手形貸付・手形割引のような短期貸付の比率の上昇したことが理解できよう。さらに貸出しの内容を分析するために、担保別貸付残高を神奈川県下の銀行分と比較的よく似かよった兵庫県・愛知県のそれとを対比してみると、表四-四二のとおりである。この表で明らかなように、神奈川県の場合、他県より商品担保の構成シェアがきわめて高い。ここにも、神奈川県における貿易金融の位置づけが明確に示されているように思われる。また、保証・信用といった項目の構成比の低いことも注目されよう。 なお、二-三の統計によって銀行経営の性格をみておこう。まず、預金残高を預金種類別に分類して示すと、表四-四三のとおりである。神奈川県下の銀行を全国の銀行の合計分と対比すると、定期預金の比重が低く、しかも趨勢としては低下している点が特徴である。これに代わって、当座預金・普通貯金のような要求払預金の比率が高いわけで、預金についても貸出しとも対応して、より短期的な性格のものの比重が全国分の合計より大きいことを捉えることができよう。つぎに、貯蓄銀行について全国分の合計と神奈川県のそれを比較すると、表4-43 預金種類別残高 注 『神奈川地方金融史概説』Ⅲより 表4-44 貯蓄銀行の比較 注 『神奈川地方金融史概説』Ⅲより 表四-四四のとおりである。二年間の比較にすぎないので、長期的趨勢を把握するのは困難であるが、全国分に比して伸び率の低いことが注目されるが、その原因を明らかにすることは困難である。 大戦後への推移 以上、大正前期(第一次大戦下)の神奈川県の金融機関の動向を説明してきた。この時期は貿易を中心に経済が活況を呈していただけに、銀行業もほぼ順調な推移を示したことはすでに述べたとおりである。ところが、大戦終了直後の一九二〇年には、早くも反動恐慌を体験することとなった。これによって、金融機関は大きな打撃をうけたが、さらに一九二三(大正十二)年の関東大震災後の恐慌で、金融機関は追いうちをかけられることとなった。大正後期の神奈川県下の金融機関は、まさに恐慌による経営への圧力をいかに克服するかという課題を与えられた。具体的には、合併や再編成を通じての経営基盤の強化を余儀なくされたが、この道程はやがて一九二七(昭和二)年の金融恐慌を頂点とする長期沈滞への金融機関の対処へと展開していく。したがって、大正後期の金融史はむしろ昭和初期と結びつけて、ひとつの流れにおいて記述することが読者に正しい理解を与えることとなろう。その意味で、本章では大正前期までの動きの理解にとどめ、後半の部分を次巻にゆずることとしたい。 第四章 第一次世界大戦前後の神奈川県財政 第一節 大正期の県行財政機構 一 変遷と特徴 制度安定期 本章では、大正のはじめから第一次大戦をはさんで大震災にいたる一〇年余、すなわち大正期の大部分を対象とする(以下、本章で用いる「大正時代」「大正期」は、すべて大震災前の大正期をさす)。この時期の財政は、これまでの各編でとりあげてきた時期とちがって、あまり大きな制度上の変化がないことを特徴としている。すなわち、第一編では維新にともなう旧制度から新制度への移行、第二編では三新法・府県制(神奈川県は採用しなかったが)・市制・町村制および三部経済制の制定・採用、第三編では改正「府県制」といったように、それぞれ地方制度の画期的な改革を含んでおり、それに応じて県財政がどのように新しい制度と態様を示してきたかを対象としてきたのであった。ところが、ここでとりあげる大震災前の大正期には、それらに匹敵するような制度的な大改革はなかった。むろん、小規模な手直しは、中央レベルでも神奈川県でも試みられているが、根本的なそれはなかったといってよい。すなわち府県の行財政制度としては、一八九九(明治三十二)年の改正「府県制」が、明治後半期に引き続いて大正期にもほぼ安定的に機能していたものとみなすことができる。とくに財政制度については、この間、ほとんどみるべき改革はなかった。すなわち、震災前の大正期を通じて、やや規模の大きい「府県制」の改正は一九一四(大正三)年と二二(大正十一)年の二回おこなわれているが、そのいずれについても次のとおり、財政に関する大きな改正はない。 一四年・二二年の府県制改正 一九一四(大正三)年四月法律第三五号で「府県制」の一部が改正された。これは一八九九年の改正「府県制」の実施のなかから見出された不備や不都合を是正し、とりわけ選挙に関する諸規定の整備を目的にしていたが、同時に一一年におこなわれた「市制」「町村制」の改正-これは全文改正であり、かつ市の参事会に代えて市長を執行機関とするとか、市のなかに法人の区を設けうるようにするというような重要な変化を含んではいるが、しかし全体としては、二〇年にわたる市制・町村制実施の経験をふまえ、行政組織の能率向上、執行機関の権限強化などをはかったもので、根本的な改正というわけではない-と歩調を合わせて、事務の簡捷をはかったものである。改正の中心は、府県会議員・参事会員の選挙方法の改正や府県組合の新設などにおかれていたが、財務関係では、各種事務とならんで主務大臣の監督の緩和がはかられたことが目をひく。たとえば、使用料・手数料に関する細則についての内務大臣の許可、寄付、補助、夫役現品の賦課、特別会計設置などに関する主務大臣の許可、地租三分の一をこえる付加税賦課に関する内務大蔵両大臣の許可などが、いずれも不要とされた。実はこれより先、一九一二(大正元)年十一月勅令第四九号「府県郡行政ニ関シ主務大臣ノ許可ヲ要セサル事項ニ関スル件」において、実質的には右の点を含めた一六項目に及ぶ事項について、主務大臣の許可を必要としない旨が定められており、右の改正はそれを「府県制」にとり込んだものである。さらに右の勅令と同一の標題をもつ一四年六月勅令第一四一号も、支出額三〇万円以内の府県継続費、元本総額二〇万円に達するまでの府県債、借入れの翌年度に償還する府県債などについて主務大臣の許可を不要とする旨を定めている。これらの改正から、この時期、県の財政運用についてかなり急速に県の裁量の幅が広げられていることがわかる。 一九二二年の改正は、何よりも府県会議員の選挙権・被選挙権について、納税額の制限をはずし国税を納めることのみを条件とすることによって、選挙権を拡大したことに特徴がある。ただし、財政関係改正ではあまり大きなものはなく、課税のための立入調査・納税督促・滞納処分など、主として課税徴税手続に関するものにとどまっている。 こうしてみると、制度面からみれば、この時期の改正は抜本的なものというより、選挙権拡張や事務についての許可事項の縮小に示されるように、明治以来の「府県制」のもつ強度の中央統制をゆるめて民意の吸収につとめ、それによって、複雑化し都市化しつつある現実に府県行政を適応させようとするものであったことがわかるであろう。 郡制廃止 「府県制」はあまり変わらなかったが、「郡制」には大変化が生じた。というのは一九二一(大正十)年四月法律第六三号「郡制廃止ニ関スル件」によって、郡制自体の廃止が決定され、二三年三月勅令第四四号により、同年四月一日から実施されることとなったからである。郡制廃止については、それまで衆議院で数回決議されたにもかかわらず、貴族院の反対で実現しなかったのであったが、ここへきて実現することとなった。廃止の理由は、自治体としての郡の活動は、府県や市町村とちがってみるべきものがなく、したがって住民の郡に対する自治観念も希薄であり、府県や市町村の基礎が強固で、郡は自治体としての必要がない、というのであった。財政的にみると一九二〇(大正九)年の場合、全国の郡費歳出予算は三一〇〇万円で、北海道・沖縄を除いた全府県歳出二億〇六〇〇万円の一五㌫、市区町村歳出五億四七〇〇万円の五㌫に当たっているにすぎず、しかも郡費のうち事務費や補助費を除いた事業費は一八〇〇万円、一郡平均わずか三万五〇〇〇円にとどまる。さらに郡単位でみると、事業費が五〇〇〇円に満たないものが全国五三七郡中一二七郡にものぼっていた。いかに郡が弱体であったかが知られるであろう。 とはいえ、郡制廃止が大正期における地方制度改正の最大の事件であったことは、たしかである。そこで、本章ではのちに一九二〇年の例をあげて、神奈川県内の郡財政がいかなるものであったかをとりあげることにする。 県の行財政機構 府県の制度があまり変わらなかったことから当然予想されるように、県の行財政機構は、それほど大きく変わっていない。 第三編で述べたように、明治後半の県庁機構は、知事官房のほか内務部・警察部・港務部から成っていたが、それはほぼそのまま大正期にもあてはまる。というのは、大正期に入って一九二〇年まではそのままの機構であり、二一年に産業部が内務部から分かれて新設(ただし、のち二四年に廃止され内務部に吸収された)され、二四年に港務部が廃止(税関に吸収された)されたのが、部編成にみられるわずかな変化だからである。したがって、ここでの変化はごく小さかったというべきであるが、各部内でまったく変化がなかったわけではない。たとえば、一九一三(大正二)年には内務部が教育・勧業・地方・土木・会計の五課から県治・財務・勧業・土木の四課へと改組されたほか、警察部に高等警察課がおかれた。さらに、一九一五年には勧業課が廃されて農務・商工の二課がおかれ、翌一六年には、勅令第六号「地方官官制」改正で各府県に工場監督官がおかれることになったのに応じて、警察部に工場監督課が新設された。一七年には内務部に教務課が、一九年には社会課がそれぞれ新設され、二一年には産業部が内務部から独立して農務課と商工課はここの所管となった。こうした改正は、第一次大戦前後の都市化・工業化・商業化および社会問題の展開に応じて、中央-地方を通じてとられた対応策の県レベルでの姿だといってよい。それらは、県の行政機構の全面的な改革を求めるほどの急激・深刻なインパクトを与えるものではなかったにせよ、日本社会の近代化ないし現代化が、こうして徐々に、しかし確実に県庁機構の漸次的な変化をうみ出していったことが、ここから読みとれるであろう。 しかし、この間にあって、財政財務機構は終始一貫内務部内の一課としてほとんど目立った変化をみせていない。せいぜい明治末期の会計課が大正に入って一時的に財務課と改名し、一七年に会計課に逆もどりして以後そのままで存続する、といった程度であり、おそらく実質において何ら変わりはなかったものと想像される。行政機構のほうは、右のように新しい事態に応じて多少の手直しを続けていかざるをえなかったとしても、財政機構はそうした変化に応じて直接変わる必要があるわけではなく、前期に定着したものが、ほぼそのまま続いていくことになったのである。 第二節 戦時戦後の財政動向 一 財政問題 大正期の財政問題 前節で述べたように、大正期の県行財政をみると、郡制廃止を除けば制度上の大きな改正はなかった。しかし、そのことはこの時期に財政上の問題がなかったことを意味するわけではない。そこで、本節では、この時期の県会における論議を手がかりにして、大正期の行財政上のおもな問題について検討しておくこととしたい。といってもいうまでもなく、県会での論議はきわめて多岐にわたっているので、ここではそのうち、財政的な意味の大きいものに焦点を合わせて、左の諸項目をとりあげることとする。 三部経済制-市郡負担問題 治水費 三崎築港 都市計画地方委員会費 大戦期の物価騰貴 社会事業費貸付資金特別会計 米騒動・社会問題対策 高等工業・高等商業学校建設 郡制廃止の事後処理 三部経済制 三部経済については、時の進展とともに批判が強まり、結局、一九二五(大正十四)年大阪府の廃止に続いて、神奈川県も一九二七(昭和二)年には廃止することになる。したがって、本章で取り扱う時期はまだ廃止にいたらず、次第に強まる批判のなかで県としても調査のために財務調査会を設置したり、県会でさまざまな議論が繰り返されるという状況であった。そこで、以下、何が当時の批判の焦点だったのかをさぐってみることにしよう。 一八九九(明治三十二)年、改正「府県制」とともに新たに三部経済制が再出発した際、横浜市の戸数三万四〇〇〇戸に対して、郡部は一二万六〇〇〇戸であった。しかし、そののち、明治後半から大正期にかけて横浜市は神奈川町・子安町・大岡町など周辺の町村を編入したほか、この時期の経済発展によりそれ自身の戸数・人口とも郡部にくらべてはるかに速やかに増加し、大戦をへた一九一八(大正七)年には戸数は九万一〇〇〇戸対一三万四〇〇〇戸へと変わった。かつて郡部は市部の三・七倍だったのに、いまや一・五倍にすぎなくなったのである。これに象徴されるような経済ないし経済力の跛行的な発展にもかかわらず、二〇年近く前の市郡負担割合のままで県財政を負担するのは不合理ではないか、というのが、主として郡部からの三部経済制批判の骨子である。それだけが理由かどうかわからないが、たしかに市部と郡部の一戸当たり負担をとってみると、たとえば一九一一(明治四十四)年には五円八九銭三厘対九円三〇銭六厘、一七(大正六)年には六円三八銭七厘対九円三銭などとなって、郡は市より三割も過重の負担を負っている。さらに、一戸当たりの負担をよく示すために、戸数割(家屋税)だけの負担をとり出してみると、一一年は一円四六銭八厘対二円七五銭、一七年一円六二銭対二円九二銭となり、郡部は市部の約七割増の負担となっている。郡部から負担の公平を求めた「負担割更正」要求が繰り返し出されるのは、この点にその根拠があったのである。 その要求の事例を、一、二あげておこう。たとえば、一九一八(大正七)年八月の臨時県会で若命源吾が、郡市の負担力が著しく変わり、負担に不均衡が生じたことを県側はどうみるかと問い、有吉知事が、慣例を破るのは好ましくないと考えるが、郡費による営造物が市費に影響し、市の営造物が郡費に影響する場合は個々的に考えることにする、と答えている(『神奈川県会史』第四巻-以下、本章では『県会史』と略記する-六六五-六六六ページ)。また、一八年十二月には郡部会から知事に対して同趣旨にもとづき、「当局者ハ速ニ適当ナル負担割合更正ノ案ヲ具シ本県会ニ提出」することを求めた意見書「市郡連帯費ノ負担割合更正方ニツイテ」を提出している。さらに、二一年十二月の通常県会には郡部議員から、従来の分担が時代遅れになっているうえ、「今回実施せられる戸数割規則の精神に反するを以て明治三十四年告示第三八号第一条に掲記せる各種目の但書神奈川県財務調査会規程 県史編集室蔵 中市郡連帯前年度若くは前々年度末日戸数割(「戸数」の誤記か-引用者)に割合分担の制を定め(「改め」の誤記か-引用者)前年度若くは前々年度末日現在直接国税及戸数割に割合分担を相当なりと認む理事者は速に案を具して本県会に提案」すべしとする「郡市負担割更正意見書」が提出された。しかし、この場合は、市部議員が抗議・退場して散会となり、結局、負担割合更正調査のため一九年以降設けられていた財務調査会(『資料編』16近代・現代(6)四四)の活動をうながすことでけりがつけられた(同書第五巻 三六六ページ)。 これらは、いわば一般論として負担不均衡問題をとりあげたものであるが、より切実で具体的な問題としては、郡部の最大の負担となっている治水費について、その利益は市部にも及んでいるのであるから、市部もこの負担に任ずべきであるという、かねてからの郡部の主張が、断続的に噴出するかたちであらわれてくる。その点を次にとりあげてみよう。 治水費 治水費については、例によって三大川をめぐるそれが、この時期にも主として問題となっている。もっとも、たとえば最大の負担となる多摩川治水費について、この時期には、まず何よりも国庫による全面的な負担を求め、それがなかなか中央政府によって認められないため、問題が内向して、市部も負担するように連帯支弁にすべきだという主張がなされていく。中央政府に対するこの種の意見書は、明治末期一九一〇年にも提出されているが、大正に入って一九一五(大正四)年十二月(『県会史』第四巻 四八三ページ)、一六年十二月(同書 五五七-五五九ページ)および二二年一月(同書第五巻 三七七-三七八ページ)と繰り返し提出されたが、実現をみなかった。 こうして、郡市一致して全額国庫負担を求める一方、それが実現しない以上、それに代わって郡部としては市部への負担分任を求めることとなる。まず一九一七(大正六)年二月の通常県会では、政府の二分の一補助という方針を前提にした一八年度予算の一環として、県側財源をすべて公債とした多摩川改修費予算が郡部会に提出されたが、審議未了に終わっている(同書第四巻 六五五-六五八ページ)。県当局としては、実現の見込みのうすい全額国庫負担要求よりもこのほうが賢明だとしているが、全額公債とはいえ、やはりすべて郡の負担となるこの案には、郡部会が賛成しなかったのであろうか。さらに、この件は翌一八年五月の臨時郡部会で再度とりあげられた(臨郡第二号議案「自大正七年度至同十四年度神奈川県郡部土木費継続年期支出及方法」)。これは総額三二九万円余という、一議案としては県会始まって以来の大型事業であったこともあって、やはり郡市間の負担および受益の不均衡を理由として、連帯支弁を求める郡部の要求をめぐって激しい議論があり、結局、原案通り成立している(同書 六七八-六八七ページ)。 治水費負担をめぐる問題は、ひとり多摩川にとどまらない。多摩川についてはその負担を連帯支弁にすることを受けいれなかった県当局が、相模川については連帯支弁にしようとしたところから、今度は県当局対市部会の対立が表面化する。ことは一九一九(大正八)年度予算にかかわって惹起された(同書第五巻 一〇九-一一二ページ)。有吉知事は一八年十一月の通常県会に一九年度予算を提出したが、その際予算中に含まれている相模川改修調査費にかかわって、県第一号議案「議決事件及分担収入ノ区分中改正ノ件」を同時に提出した。そのなかの問題の個所は次のとおりである(同書第五巻 一一一ページ)。「相模川筋改修調査ニ関スル費用(市郡連帯十分ノ五ヲ前々年度十二月末日現在人口ニ十分ノ五ヲ同現在地租額ニ割合分担)」。これについての提案理由で、知事はいう(同書 一〇九-一一〇ページ)。「相模川改修調査費ニ関スル費用ハ是迄ハ斯ノ如キ費用ガ郡部経済ニ属シテ居リマシタルモノヲ、連帯経済ニ致スト云フ是ハ案デアリマス……本年ノ臨時会ニ多摩川改修ニ関スル費用ヲ郡部経済ニ於テ支弁スルト云フ案(前掲臨郡第二号議案のこと-引用者)ヲ提案イタシマシタ時分ニ、各種ノ議論ガ此所ニアツタコトヲ記憶イタシテ居リマスガ、多摩川改修ニ対シテハ県当局ハ当然負担割合ヲ変更スル必要ヲ認メテ居リマセヌノデアリマスガ相模川改修調査費ニ関シマシテハ是ハ私ハ連帯経済ニ於テ支弁スルコトヲ適当ナリト考ヘマシテ……其理由ハ……相模川ガ与ヘル所ノ利益ハ、単ニ郡部ニ於ケル住民ガ受クルノミナラズ市部ニ於ケル住民モ亦恩沢ニ預リツ、アルノデ……調査研究スル費用ハ、其利益ヲ共ニ享受スル所ノ住民ガ相当負担スルコトガ適当ナリト考ヘマシテ、〓ニ之ヲ連帯経済ニ移シマシタ」。 ここで県は、多摩川は横浜市民に利益を及ぼさないが相模川は及ぼす、したがって後者については市民にも負担させるため連帯支弁とする、といっているが、はたしてこの二川についてそれほど明確な区別が可能かどうか。ことによると、県としては知事自身もいっているように、直前の多摩川についてのはげしい論議をふまえ、前回いわばゼロ回答にした郡部に対して今度は何がしか色をつける、というような配慮をしたのかもしれない。 なお、負担区分の基準に地租額をとりあげたことについては「単ニ人口ノミヲ以テ区分ヲ立ツルト云フコトハ其地域ガ……其所ニ所在シナイ住民ニ対シテ同一ノ負担ヲサセルト云フコトハ是ハ大ニ考慮スベキ点ト考ヘマスガ故ニ、其地域ノ標準ト見ルベキ地租ヲ半バ標準トシ、他ノ適当ナル標準ヲ人口ニ採ツテ、其両者ノ標準ニ基イテ其負担区分ヲ定ムル」ことにしたのだと説明している。市部に新たに負担を求めるとしても、他の大部分の連帯費目のように人口割ないし戸数割というのでは、相模川筋に居住していない横浜住民の納得は得られそうもない。また、治水による利益が直接には土地保全というかたちで地租に反映されることは明らかであるから、その受益に着目し、かつ市民の反対をやわらげることをねらって、この新しい方式を提案したのであろう。しかし、従来郡部経済に属していた相模川治水に関する費用を市部にも負担させようとするこの案に対しては、当然市部会で反対があった模様で、県会では審議未了となり、知事は内務大臣の指揮を得て原案を執行している。久し振りの原案執行は、やはり市郡負担問題をめぐって生じた審議未了によるものであって、この点でも大正期は明治期と同じパターンを繰り返しているということになる。 三崎築港 市部負担にかかわる紛糾は、治水費に限らない。一九二〇(大正九)年十一月の通常県会に提出された二一年度予算のなかに三崎漁港修築費があり、これが土木費でなく勧業費に含まれていたことが市部議員の批判の的となった。批判者によれば、防波堤工事を内容とするこの費目は土木費に計上すべきものであり、したがって市郡分担方式にもとづいて、郡部土木費は当然に郡部負担にならなければならない。ところが、県は郡部多数議員に迎合してこれを勧業費として計上したため、その負担は市郡連帯となる(勧業費は農事試験場の例外を除いて連帯負担である-執筆者)が、それは不当である、というのであった。これにたいして県側は、これは漁業奨励の勧業費とみるのが正当だということのほかに、中央政府からくる補助金が、地方漁業奨励のための補助金で農商務省所管であり、中央から補助金をもらう以上、中央と歩調を合わせるのが当然であると考えて勧業費に入れた、と説明して乗り切っている。ここには、三部経済制と中央からの補助金とがからんで興味ある論点が提示されているが、もっぱら治水費や監獄費がらみだった市郡負担問題が、意外なかたちで新たに登場した点に注目すべきであろう。 都市計画地方委員会費 大正期は日本全体を通じて都市化が進み、法的にも「都市計画法」が制定されるなど整備がはかられたが、これがまた、本県においては市郡負担問題となってあらわれてくる。県予算に都市計画に関する経費がはじめて登場したのは、一九一九(大正八)年十一月の通常市部会に提出された一九年度神奈川県市部歳入歳出追加予算の都市計画地方委員会費一万円余であろう(『県会史』第五巻 二三一ページ)。ところが、この委員会には府県会議員三名以内が加わることになっていて(「都市計画委員会官制」第八条第四項)、県でもその方針を出していた。これについて、市部会では、県会から三名選出ということになれば、郡部二名市部一名という割振りになることが予想されるが、問題が都市計画であり、しかも負担はすべて市部というのだから、郡部議員が入るのは筋違いで市部会から三名を選出すべきだ、との要求が出された。さらに一九二〇年十一月の市部会における二一年度予算審議に際しても、六万円計上されていた当該費目について、他府県ではすべて連帯負担となっていることや県側の答弁があいまいであることなどもあって、はげしい議論の応酬があったらしい(同書第五巻 三二八-三三一ページ)。この時は県の方針通り市部負担に決まったようであるが、『県会史』第四巻七九〇ページによると、一九二六年現在、負担区分は横浜市都市計画地方委員会費は市部負担、それ以外の都市計画委員会費は郡部負担となっている。途中で変更があったのであろうか。 こうしてみると、伝統的な治水費のみならず、新たに進められている勧業政策や都市政策をめぐっても、三部経済制がつねに県政上の紛議の種になっていることがわかるであろう。 大戦期の物価騰貴 市郡負担問題は、三部経済制が続く限り、つねに神奈川県行財政に困難な問題をもたらすものであって、必ずしもこの時期に限られるわけではない。しかし、いうまでもなく、本章で対象とする時期にはこの時期特有の財政の問題が新しく生じている。それは一言でいえば、第一次大戦とそれに続く時期がもたらした新しい社会状況に対応する財政、ということになろう。それは、以下の数項でとりあげるように多岐にわたっている。それらは量的には必ずしも大きくないものでも、大戦前後の社会的変遷をよく反映している財政現象だという意味でとりあげたのである。まず、はじめに本項では、財政全体に影響を与えた好況と物価騰貴をとりあげることにする。 大戦が県財政にもたらしたものとして、直接に軍事にかかわるものはほとんどなく、県会での議論にも戦争が直接に投影されてはいないようである。それは地方財政が一般に内政に限定されていることや、この時の大戦が地方の財政まで軍事色に染めあげるほどのインパクトを与えなかったことなどによるのであろう。大戦が県財政に与えた最大の影響は、収入面では戦争景気・物価騰貴にともなう税収増加が、支出面では同じ理由および新規の需要拡大からくる経費膨張があげられよう。実際、県財政は大戦の前後で数量的には大きな違いがある。くわしくは次節で検討するが、たとえば、県の支出総額をみると、大正の初めから大戦中の一九一七(大正六)年ごろまでは、二〇〇-二五〇万円程度でほとんど水準が変わっておらず、むしろ下がり気味に推移しているのに、一八年以降は急角度で膨張に転じ、四〇〇万円、八〇〇万円から二二年には九〇〇万円をこえるにいたる。大正期財政の最大の特徴は、この前半期における停滞と大戦以後の急上昇にあるといってよい。そして、毎年のように臨時手当や給与引上げなどを含む追加予算が組まれ、知事による予算提案理由説明および質疑・応答では、物価騰貴および各種事業の拡大・新設が追加予算提出の理由としてあげられているのである。 しかも、物価騰貴はたんに従来の支出額を名目的に引き上げるだけではない。物件費についてはそうだとしても、人件費には次のような問題があった。物価騰貴により生活困難におちいった中等学校教員がより高い給与を求めて一時に多数他府県に流出し、各府県は互いに争奪合戦を繰り広げ、それを防ぐためにいっそう待遇改善を図らねばならなかった(『県会史』第五巻二〇七ページ)。あるいは、中央政府が臨時手当や改定旅費を支給するのに歩調を合わせて、県レベルでも手当の支給をしなければならなかった(同書 一六一・一七四ページ)、というように、県内部のみならず、外部との比較で、物価騰貴はいっそうの重荷を県財政に背負わせたのである。 また、戦中から戦後にかけて、好況を背景に教育・土木・警察など伝統的な県の主要事業をはじめ、各種事業の拡張がおこなわれているほか、社会事業・米騒動対策など、この時期ならではの新しい事業も開始された。つぎに、それをみておこう。 社会事業費貸付資金特別会計 一九一九(大正八)年八月十五日、第二回臨時県会において時の井上知事のおこなった開会挨拶・追加予算提案理由説明は、そのなかにはじめて「社会問題」「労働問題」「食糧問題」という語句を用い、かつ演述の大部分をそれらの説明に費やしたという点で、県政史にその名をとどめるに値するものだといってよい(『県会史』第五巻 一七二-一七四ページ)。もっとも「社会問題ニ対シテ直接ナル関係ヲ有ツテ居ル教育家並ニ警察官……一般ノ中デ最モ苦痛ヲ感ジテ居ル現況ニ照シマシテ、相当ナル増給ヲ為ス」のを主たる目的としてこの追加予算を提出しているという文脈で、「社会問題」が利用されている面もあるが、しかしやはり大戦後の日本が全体として直面したこれらの問題を真正面からとりあげていることに変わりはない。だが、県財政にはじめて「社会」を冠した制度が登場するのは、一九二〇(大正九)年十一月の通常県会に県第三七号議案「特別会計設置ノ件」として提案され、決定された社会事業費貸付資金特別会計であろう(同書 三二一-三二三ページおよび『資料編』16近代・現代(6)四二七)。これは「市町村其ノ他ノ社会事業費ニ貸付ノ為」設けられた特別会計で、「公債収入並貸付金ヨリ生スル収入其ノ他ノ歳入ヲ以テ歳出ニ充ツル」ものであり、具体的には二〇年度に三六万円余を起債して四分八厘の低利で大蔵省預金部の引受けを受け、これを市町村や住宅組合にやはり四分八厘で住宅建設費として貸し付けようというものである。 県としては救育費によって、社会から脱落した階層への支出をおこなってきてはいたが、ここにいたって、それとは原則が異なる新しい社会事業のための財政制度をはじめて設けたことの意味は大きい。また、それが、一般会計の拡大ではなく、預金部資金の転貸という金融のかたちでおこなわれたということ、その規模が県の特別会計としても、また県が預金部から受ける融資額としてもきわめて大型だということ、内容が脱落者の生活保護一般ではなく、住宅建設費貸付という、すぐれて都市中産階級ないし都市労働者を対象としたものであったこと、などいずれも注目に値する特徴である。県会では、無担保貸付にともなう不良貸しの懸念が表明され、県側は市町村相手の場合は「特別ノ方法ヲ命ジテ其損害ヲ補塡」しうるから心配なく、住宅組合相手の場合は、農工銀行を介して貸し付けるかたちをとり、県はいわば保証するだけであって心配なかろうという説明をしている。 米騒動・社会問題対策 米騒動が県財政に何をもたらしたのかは、はっきりしない。というのは、以下でみるように米騒動およびその後の対策としてあまり県費は用いず、寄付を中心にして処理をしたように見受けられるからである。県がはじめてこの間題をとりあげたのは、一九一八(大正七)年十月の第二回臨時県会においてであった(『県会史』第四巻 六八八-六九二ページ)。そこで、有吉知事は追加予算を提出し、その提案理由説明で「北陸ノ或地点ニ思ヒモ寄ラヌ騒動」が起こったことにふれ、本県にも「稍々不安ノ気分ガ現ハレテ居ルコトヲ認メ」、警察が警戒を強めている旨報告している。それに対処するため、県としては農商務省から外国米の配給を受けて売り出すことを案出したところ、県下の富豪からの寄付が相次ぎ、それによってこの事業をおこなったという。その寄付額は、九万円余であるが、このほかさらに商業会議所一〇万円弱、横浜市七万円余、中央政府七万円余、恩賜金七万円(『資料編』16近代・現代(6)四)、など合計四一万円弱にのぼった。これによって政府から外国米を廉価で供給してもらい、低所得階層中心に廉売し、一部は東北地方で内地米を購入し、警官・教員などには多少廉売したが、主として郡部に時価で販売したという。したがって、この説明の限りでは、ほとんど県の支出にはなっていないものとみなされる。 翌一九一九(大正八)年八月、第二回臨時県会でおこなった井上知事の開会挨拶のなかでも、この問題が社会問題・食糧問題という角度から、以下のようにとり上げられている(『県会史』第五巻 一七二-一七四ページ)。消費の半分ほどしか生産しえない神奈川県としては、何よりも節米に努めることが必要であり、他県では「米ノ準備モ県費ニ仰イデ居ル」ところや「社会的ノ施設ニ致シマシテモ之ヲ公費ニ仰ギ県費ニ仰グ」例が多いが、本県としてはそうでなくても経費の膨張が著しいので、そのような負担は困難である。一方、「篤志富豪ノ公共的ノ義捐ニ待ツト云フコトガ、最モ社会問題ニ対スル好感ヲ以テ迎ヘラレルベキ挙デアル」と考えられるので、一五〇万円の基金募集を計画し、「未ダ百万ニハ達シマセヌ」が、それに近づきつつある。この基金によって県の「救済協会」は、節米運動、米の備蓄をおこなうが、「其数額ハ一万石、是ハ既ニ疾クニ集メアツテ蓄積」してある。さらに、協会は「小サナル住宅ヲ準備」し、「労働者ノ為ニ共同ノ住宅」や「無料ノ宿泊所ヲ造ツテ労働者ノ職業紹介等ノ便ニモ供」し、「乳呑児ヲ預リマシテ其母親ニ労働ノ便ヲ与」えることなどを、実施しつつある。こうしてみると、米騒動・社会問題・労働問題・住宅問題など、大戦を契機に横浜など大都市を中心に起こってきた現代的な諸問題に対処するのに、当時は県財政ではわずかに前述の社会事業費貸付資金が目立つにすぎず、その他の対策のための財源はもっぱら寄付金に頼っていたもののようである。それは「単リ県費ニ多クノ負担ヲ此際仰グコトヲ要セザルノ利益デアルバカリデナシニ、全ク社会上下ノ関係ニ於キマシテ、貧富ノ懸隔ノ甚シイノガ問題ニナリマスル今日ニ於キマシテ、最モ適切ナル所ノ帰着点デアラウト考へ」られたところからきたのである。とすれば、県自体の活動ではないため、その活動が県財政に反映していないとはいえ、当時の最も先鋭な問題の県レベルでの処理の仕方をさぐる意味で、井上知事が言及している「救済協会」の実態が明らかにされることが望ましい。 高等工業・高等商業学校建設 この時期までの県内の教育費は、小学校を市町村が、中等学校を県(連帯経済)が担当するというかたちとなっており、いずれも拡充されてきているが、さらに大正期の商工業の急展開を背景にして、それを支える人材養成のため高等工業学校(以下「高工」と略記する-執筆者)・高等商業学校がそれぞれ設置され、県財政も少なからずこれの負担に任ずることとなった。まずはじめに、高工が設立される。 大戦さなかの一九一六(大正五)年十一月の県会に提出された一七年度の追加予算とそれに関連する三-四の議案として高工設立が議題となった(『県会史』第四巻 五五一-五五五ページ)。有吉知事の説明によれば、これはまず中央政府が発案し、もし県が建設費を負担すれば経常費は中央政府がもつ、ということで、県としても工業招致、工業研究の便宜、技術招聘などの便宜を得て地域発展がはかり得ると判断し、設置が予定されている横浜市も賛成した。負担については、敷地のほか、建築費五〇万円、設備費・初度調弁費二五万円、計七五万円を地元で負担しなければならず、横浜市が四五万円、県が県有地(一三万円)と三〇万円計四三万円を、それぞれ負担することとなった。そのために県は、この時かぎりで「勧業資金」「土木資金」の二特別会計を廃止し、その資金を設立のための「教育寄附金」に充当して一七-二一年度に支出することとした。また、翌一七年にはさらに「秀才教育積立基金」をも廃して、その資金を同様に充当することとしたうえ、「議決事件及分担収入ノ区分中改正ノ件」に「教育寄附金」の一項を追加し、その分担は「市郡連帯前々年度十二月末日現在戸数ニ割合分担」と定めた。ただし、これについては、県会で、郡部は高工から受ける利益が少ないので、「市部戸数ハ郡部戸数ノ二倍ヲ分担スルモノトス」を付け加えるべきだとの修正意見が出されている。 高等商業学校は戦後の一九一一年度から建設されたが、ここでは創立費八七万円を中央と地元が折半し、地元分四三万五〇〇〇円のうち一八万円を県、一八万円と土地を横浜市が負担した。県の負担分は、やはり「教育寄附金」というかたちで当初一一年度から一三年度まで各六万円ずつ支出された(『県会史』第五巻二五二ページ)。この時もやはり、市部と郡部の負担割合が郡部議員から問題とされ、財務調査会にはかって決めるよう希望意見が述べられているが、その結果は不明である。 なお、右二校とは性質がちがうが、やはり商工業の発展を背景に一九一九年に商工実習学校が設置された(『県会史』第五巻二一一-二一三ページ)。これは、横浜市の安部幸兵衛の寄付金一〇〇万円を神奈川県商工実習学校資金特別会計とし、このうち五〇万円を創設費とし、残りを維持基金・作業資金とするほか、授業料や国庫補助金などを維持費とするものである。おそらく、一〇〇万円という金額が一個人から寄付された例は、これまで皆無であり、それが特別会計として商工業の実習学校が設置・維持されるというのも、この時期ならではのことというべきであろう。 郡制廃止の事後処理 郡はそれ自体の事業は小さかったから、郡役所の資産などを県に移すくらいで、廃止がそれほど深刻な財政上の問題をもたらしたとはいえないが、県会では、郡道の県道移管と郡営学校の県移管が議論の的となった。おそらく全国的にも、神奈川県としても、郡制廃止の事後処理としては、郡道のうちどれほどを(府)県道に昇格移管しうるかが最大の問題であったと思われる。内務省としては、全国的に六㌫だけを昇格させるのにとどめるという方針をもって厳選しており、県としてはそれに従えば、一六八線二〇〇余里の郡道中、わずか一五-一六線、二五-二六里程度しか昇格しえないことになると予想され、郡部議員は県と、県は内務省とそれぞれ積極的に交渉し、結局、二七線五一里余が決定した。そのために一九二三(大正十二)年度追加予算として、維持費一里当たり三〇〇円で約一万五〇〇〇円が計上された(『県会史』第五巻四一四ページ)。 郡道とならんで問題となったのは、郡営四学校の県への移管であった。当時、県内には足柄上郡農林学校・愛甲郡実科高等女学校・同郡農業学校・津久井郡蚕業学校の四つの郡営学校があった。それらは「何れも貧弱を極め県営など到底覚束ない事情にあるも教育分布の点と地元町村民の奮発により」(同書 三九三ページ)、右のうちはじめの二校が県移管と決まった。「地元の奮発」というのは、移管に際して地元から設備の拡張費を寄付したことをさしており、県としては二三年度予算連帯の部にそれぞれ一万円余、一万三〇〇〇円余を計上して両校移管に対処している(同書 四〇七ページ)。 第三節 財政の実態 一 県歳出 財政規模 大正期の県の財政(歳出)規模は、明治末期の二八〇-二九〇万円よりやや下がった二三〇-二五〇万円程度の水準に停滞していた前半と、三〇〇→五〇〇→九〇〇万円と急膨張していった後半という顕著なコントラストを示している(表四-四五)。前半期最小規模の一九一三(大正二)年と後期最後の二二(大正十一)年とをくらべると、この一〇年間に四・一倍の膨張となる。このうち、前半期の大部分は第一次大戦期であり、後半は戦後好況から不況の時期に当たっているから、右の動きが一方ではそうした日本の社会全体の動向に左右されつつ、同時に、前節でみた県内政治行政によってもたらされたものであることはいうまでもないであろう。三部おのおのの大きさは、多少上下しつつも前半期には連帯八〇万円台、市部四〇万円台、郡部一〇〇万円前後といずれも停滞しており、したがって相対的な大きさも三五㌫、二〇㌫、四五㌫程度に固定していた。ところが、三部それぞれの後半期の膨張の速さの差が大きく、したがって比率も大きく変わることとなる。たとえば、一三年と二二年とをくらべてみると、連帯七八万円(三六㌫)→四三〇万円(四八㌫)、市部四四万円(二〇㌫)→一五〇万円(一七㌫)、郡部九六万円(四四㌫)→三二〇万円(三六㌫)といった具合である。連帯はこの間に五・五倍膨張したのに、市部・郡部とも三・四倍にとどまったため、こうした差が生じたのであり、二〇年にはそれまで一位にあった郡部をぬいて、連帯が三部中最大のシェアを占め、その後ますますその開差をひろげていく。こうして、大正後半期の県財政の膨張が、連帯によって牽引されていたことは明らかである。そこで、連帯のなかの何がこうした独走をもたらしたのかが、次の問題となるが、その前に前期・後期にわたって県の歳出全体がいかなる様相を示しているのかを検討しておこう。 県の全歳出 以下、歳出・歳入の検討については、大戦直前の一九一三(大正二)年と震災直前の二二(大正十一)年をとりあげることにするが、大戦中は金額・パターンとも戦前からのそれを引き継いでいるので、あえてとりあげる必要はないと考えられる。なお、表四-四五に示されていたが、一二年の支出額が一三年以後の数年にくらべて大幅に大きいのは、明治末の災害復旧のための土木費および県庁舎建築費が、それぞれ一〇〇万円および三二万円ときわだって大きかったことによっている。そこで、はじめに県歳出全体について、表四-四六を掲げよう。 まず、支出費目で新たに追加されたのは、わずかに名勝旧蹟表4-45 財政規模(歳出) 円,(%) 注 『神奈川県統計書』より作成 表4-46 県歳出(全体) 注 『神奈川県統計書』より作成。科目名は『県統計書』による(以下,同じ)。 保存補助費と県吏員職員恩給金補充費(『資料編』16近代・現代(6)九九)、都市計画地方委員会費、恩賜賑恤基金のみであり、そのいずれも〇㌫ないし一㌫未満で、支出構造にはなんの影響も与えていない。大正期県財政の支出構造の大枠には、変化はなかったのである。では、既存の費目についてはどうか。表四-四六でみるかぎり、県全体の歳出費目の構成にもあまり大きな変化は認められない。といっても、土木費などは年ごとに金額が大きく動き、そのため全体の構成比が大きく左右されることになるので、確定的なことはいえないが、それでも、金額の大きな費目とその変化をとり出してみると、以下のようになっている。土木費・市町村土木補助費五四万円(二五㌫)→三〇六万円(三四㌫)、警察費・同庁舎建築修繕費五二万円(二四㌫)→二四〇万円(二七㌫)、教育費・同補助費三六万円(一七㌫)→一五三万円(一七㌫)、勧業費・同補助費一九万円(九㌫)→八七万円(一〇㌫)、県債費一九万円(九㌫)→二一万円(二㌫)。金額はむろんそれぞれ膨張しているなかでも、土木費が大きく伸びて比率を高め、県債費が金額はほとんど変わらず、したがって比率が大きく下がっているのが目立つ。しかし、全体の順位はまったく変わらず、両年ともこれらが一位から五位を占めて、それだけで八四㌫と九〇㌫となっているのである。このうち、県債費の低下については、省略した他の年の数値からみて大正期を通じての傾向といってよいが、土木費の増大はそうはいえず、年次をずらすと一九一四・一五年などは三一㌫、三八㌫などとなっているから、傾向的な増大でないことがわかる。ちなみに、明治後期には上位三者は同じであったが、県債費や県庁舎建築修繕費・郡役所費が四位ないし五位などとなっていた。したがって、それと対比すると、大正期は勧業費の地位が高まったことに特徴があるということになる。 連帯歳出 連帯歳出は、一九一二(大正元)年を別にすると(県歳出全体検討のさい、述べておいたこの年の臨時的な支出、すなわち明治末の災害の復旧費と県庁舎建築修繕費とがここに入っている)、前半期に八〇万円、後半期に一〇〇万円台から四〇〇万円台へと膨張しているのは、前述のとおりである。全体を通じて教育費が中心で、勧業関係費・土木費・警察費などが続いていることに変わりはないが、しかしそれぞれの構成はかなり変わっていく(表四-四七)。また、大正期に新たに全体の県歳出に追加された前述四費目のうち、名勝旧蹟保存補助費と県吏員職員恩給金補充費と恩賜賑恤基金とが、ここの所管であるのみなら表4-47 連帯歳出 注 『神奈川県統計書』より作成 ず、すぐ次にみるように、勧業費がここでは大きく伸びている。したがって、あまり変化のないようにみえた県全体の歳出のうちでも比較的変わった部分は、ほとんどこの連帯で生じているということになる。 連帯歳出の中心となる教育関係費は、はじめの三〇万円台からのち一五〇万円余へと膨張しているが、構成比は四五㌫から三五㌫へと一〇ポイントも下がっている。これは省略した他の年を考慮すると、明らかに傾向的なものである。代わって増えているのは、何よりもまず六万円(八㌫)から一〇〇万円(二七㌫)へと一七倍になり、構成比で二〇ポイント近く上昇した土木費である。むろん土木費は上下の波があるが、しかしここでも省略した年を考慮に入れれば、明らかに趨勢的なものであるといってよい。これに次いで、警察費や勧業関係費などが数ポイントずつ構成比を高めているが、とくに勧業費は、明治後期には三-四㌫しか占めていなかったのであって、それと対比すれば、ここにこそ特色があるといいうるし、前述した県の歳出全体に認められた同じ傾向は、実は連帯に由来していたことがわかるであろう。土木費については、連帯でカバーする領域が増加したうえに、たとえば橋梁を木材から鉄材に切りかえる傾向がこのころから強まったことなどがひびいている。 勧業関係費の増加は、年とともに産業奨励策が拡充されていくためであって、明治後期には勧業会費・測候所費、および勧業諸費程度だったのに、大正期に入って水産試験場・原蚕種製造所・種畜場・穀物検査所などの諸施設をはじめ、林業・耕地整理・土地改良の各事業といった第一次産業関係のほか、内外販路拡張奨励費まで登場しているからである。これらは、大正期に入って県が直接手がける産業奨励政策がにわかに活発化したことを示している。さらに『資料編』16近代・現代(6)の所収資料、三二八「畜産補助規程」、三二九「桑園改良増殖奨励費交付規則」、三三〇「製糸改良奨励補助規則」、三三二「遠洋漁業奨励金交付ノ件」、三三四「主要穀物改良奨励規則」、三三六「養蚕組合設置奨励規則」、三三七「町村農業技術員設置補助規則」、三四一「神奈川県農会農業倉庫補助規則」、三四二「米麦増収競作奨励規則」、三四三「農事実行組合設置奨励規則改正」、三四七「地方改善奨励規程」など、この時期に簇生している農業生産力向上を中心とした市町村や各種組合を対象とする奨励金や補助金の大部分は、おそらく経常部勧業費のなかの勧業諸費(項)勧業諸費(目)ないし臨時部勧業補助費のなかに計上されているのであろう。 市部歳出 四〇万円から一五〇万円へと膨張した市部歳出(表四-四八)で、大正期に起こった最大の変化は、一九二〇(大正九)年から土木費が姿を消したことであろう。これは大正期には四-六万円(構成比一〇㌫前後)、多い時(一八年)には一二万円(一八㌫)を占めていたのであるから、これが歳出から消えるのは、市部としては大事件だったと思われるのに、『県会史』第五巻では詳細に知ること表4-48 市部歳出 注 『神奈川県統計書』より作成 はできない。おそらく、この年から横浜市内の土木費は、すべて横浜市が管轄することになったからだと思われるが、確かでない。このため、もともと市部歳出は警察費が大きな部分を占めていたのに、いっそうその比率が高まって八〇㌫をこえるにいたっている。といっても、むろん相対的に増加したにとどまらず、絶対的にも警察費は三〇万円未満から一三〇万円へと四倍以上に増加している。この時期は、都市化の進展、人口増加、社会問題発生および人件費高騰などで警察費膨張時代だったのである。これら以外の費目には、あまりみるべき変化はなく、表4-49 郡部歳出 注 『神奈川県統計書』より作成 ただ一九一九年から都市計画地方委員会費が新設され、わずか四-五㌫ながら、長年二-三㌫にある救育費をこえて、支出額第二位となっているのが目をひく程度である。 郡部歳出 郡部歳出は、市部歳出よりいっそう変化に乏しい。金額では一〇〇万円から三二〇万円に膨張したが(表四-四九)、市部の場合とちがって、この間、費目にはまったく変更がない。のみならず、各費目の構成比をみても、あまり大きな変化はなく、明治後期と同様、土木費が四〇-六〇㌫とほぼ過半を占め、警察費・県債費がほぼ一〇数㌫ずつでこれに次ぎ、さらに勧業関係費・郡役所費が数㌫ずつといったところで、いずれも大正期を通じてあまり変化がない。ただ県債費が、はじめ一〇-二〇㌫を占めていたのに、後半になると金額も多少小さくなり、比率はわずか数㌫に落ち込んでいるのが目立つ。おそらく、明治末期に集中的に発行した公債の償還が進んだうえに、大規模起債を必要とする災害が少なかったことなどが理由であろう。同様に災害が少なかったため、郡部歳出中最大の割合を占める土木費のうち、災害復旧費が後半期に縮小したのち、数年間はゼロになっており、それがこの時期の郡部歳出の負担を軽くしたことは疑いない。というのは、この費目は明治末期から大正初期にかけて、ときには五〇-六〇万円にものぼっていたのだからである。 なお、郡部歳出といっても、連帯部へ納入する市郡分賦負担額は、この間に四四万円から二六〇万円へと六倍にのぼり、歳出総額の増加三・四倍を大幅に上回っている。この点は、市部の場合に同じような状態であり(市郡分賦負担額四・一倍、歳出総額三・四倍)、前述したとおり、この間拡充された連帯部歳出をまかなうために、市部・郡部の負担が大きく増加したことが示されている。 二 県歳入 連帯歳入 連帯歳入は、例外的に土木費の国庫補助金と積立金繰入が大きくて、一〇〇万円をこえていた一九一二(大正元)年を別とすると、八〇万円から四〇〇万円へと、とくに後半期に増加している(表四-五〇)。なかで上昇が急だったのは、四六万円から二八〇万円へと六倍以上に増加した市郡分賦額である。この項目の内容は大部分租税であって、もともと連帯歳入の過半を支えてきたが、この間さらに比率を高めている。なお、前期と後期とをくらべて、あまり構成に違いはないが、県債収入やわ表4-50 連帯歳入 注 『神奈川県統計書』より作成 ずかながら国庫補助金中に教育関係や地方改良費が登場したことが目立つ。 市部歳入 市部歳入も、零細な寄付金、納付金が加わった以外、新しい構成変化はない(表四-五一)。やはり、市部の県税たる市予算編入額が六〇㌫を占め、連帯へ納入することがあらかじめ定まっている市郡部連帯市部収入額(市部から連帯へ納入するのはこれだけではない)が二〇㌫弱、国庫からの下渡金・補助金・補給金が一〇㌫前後、繰越金が一〇㌫前後、といったところで、前期も後期もあまり違いがない。ちなみに、国庫から支給される資金は、下渡金と補給金はいずれも警察費にかかわるもので、補助金は市衛生補助費補助金と勧業費補助金からなっている。なお、一九二〇(大正九)年以降、市部歳出のなかから土木費が消えたことは前述したが、もしその際推測しておいたように、それが市内土木工事がすべて横浜市に移管された結果だとすれば、それを裏付ける収入も横浜市に移管されたとも思われるが、しかしそれについての資料はえられず、この前後の数字をみる表4-51 市部歳入 注 『神奈川県統計書』より作成 限りではそれらしい変化はないようにみえる。 郡部歳入 郡部歳入は二〇〇万円前後から六〇〇万円へと三倍増加したが、税収入が六〇㌫前後、税外収入が四〇㌫前後という二部門の構成は変わらない(表四-五二)。税収入の内部では、地租割と戸数割・家屋税が第一・二位を占め続け、構成比もあまり変わらないが、地租割の場合はやや下がり気味、戸数割は停滞気味である。これにたいして、この間に高まったのは、構成比としては小さいが、雑種税中の私法人建物税、営業税付加税および、表には掲出しなかったが、自転車税・不動産取得税などの新しい税である。たとえば、私法人建物税は前期の二万円から後期の二〇万円、営業税付加税も四万円から三九万円へそれぞれ一〇倍もの増加を記録し、構成比もそれぞれ一→三㌫、二→六㌫へと三倍増となる。大正期の産業発展が、郡部税収入には、こういうかたちで反映しているのである。これらにたいして、伝統的な営業税や雑種税の車税・芸妓税などは、地租割などと同じく、金額も比率も停滞している。そのため、たとえば長い間雑種税中最大の収入をあげてきた車税は、一九一九年になってもそれまでの収入と大差ない九万円弱にとどまり、不動産取得税(前年までの水準に比して、この年いっ挙に三倍の一九万円に増加した)に第一位をゆずり、二二年には私法人建物税(前年に比し、二倍以上増収となった)に大幅に追い越され、自転車税にもほとんど追いつかれることとなった。また金額はともかく、大正期に新しく採用された税をみると、電柱税(一九一七年、『資料編』16近代・現代(6)二三二)、水力発電用動力税(一九一八年、同書二三五)、芝居茶屋税(一九一八年)、屠畜税(一九一九年)、倉庫税、鉱業税(一九二〇年)、遊興税・遊船宿税・幇間税(一九二一年)などであり、一方、廃止されたのは乗馬税・芝居茶屋税(一九一九年)、水力発電用動力税(一九二〇年)などである。いくつかは試行錯誤的に採用されてすぐ廃止されているが、残ったものである程度は収入をあげているのは、いずれも新しい産業に対応したものであったといってよい。 表4-52 郡部歳入 注 『神奈川県統計書』より作成 三 郡財政 歳入出 前述のとおり、郡制は一九二一(大正十)年法律第六三号をもって廃止された(ただし、施行は二三年四月一日)。存続していた時でも、郡はそれ自体としてあまりみるべき活動をしていたとはいえず、それが廃止理由となったのであったが、しかし、ともかく二〇年にわたって地方財政の一環をなしてきたことに変わりはない。そこで、ここでは、最後の時期といえる一九二〇年の県内各郡の財政の状況を『神奈川県統計書』によって示しておくことにする。 歳入の表(表四-五三)からわかるように、郡財政の規模は表に示された一六-二〇年の五か年間に一四万円から四〇万円近くへと膨張している。この間、県財政は前掲表四-四五に示したとおり、二三〇→七〇〇万円となっており、重複を無視していえば、郡財政は県財政の六㌫程度に当たっていたことになる。また一方、『県統計書』によって市町村の方をみると、二〇年の財政規模(歳入)は横浜市一〇〇〇万円余、横須賀市七七万円、町村が七九〇万円で合計一九〇〇万円余であるから、郡は市町村の二㌫に当たっているにすぎず、町村だけとり出してもその五㌫に当たるにとどまる。神奈川県においても、日本全体と同じく、郡はやはり弱体だったと評せざるをえまい。その点は、歳入の構成に最もよくあらわれている。というのは、二〇年の郡の歳入三八万円の七七㌫に当たる二九万円は各町村分賦額に、一一㌫に当たる四万円余は国・県補助金に依存しているから、合計すれば九〇㌫ほどがいわば依存財源なのである。ちなみに、県内で最大規模の郡は橘樹郡の六万円、最小は久良岐郡五〇〇〇円である。 歳出面(表四-五四)では、経常・臨時部を合わせて勧業費一一万円(三二㌫)、勧業補助費三万円(八・九㌫)が大きく、土木表4-53 各郡歳入(1920年) 注 『神奈川県統計書』より。円未満4捨5入。 表4-54 各郡歳出(1920年) 注 『神奈川県統計書』より。円未満4捨5入。 費九万円(二二・二㌫)、教育費四万円(一一・一㌫)、教育補助費二万円(四・九㌫)などがこれに次ぐ代表的な支出費目であり、これら勧業・土木・教育の三分野だけで八〇㌫を占めている。ということは、一方では土木・教育・警察および勧業の諸費を中心とする県と、他方では教育費が大半を占める市町村との間にあって、郡が何らか独自で特殊な機能を果たしてはいなかったことを物語るものといってよい。もっとも、その点を確認するためには、同じ費目でも、県・郡・町村の間でどのように業務が分担されていたのか、その財源はどこからきたかなど、全体としての資金の流れを解明しなければならないが、『県統計書』からでは、これ以上立ち入った解明は望みえない。しかし、前述のような郡の財源構成と経費構成からして、右のような推測がほぼ確かであろうことは疑いないであろう。 執筆分担一覧(掲載順・昭和五十六年二月一日現在) 安藤 良雄(東京大学名誉教授) はじめに 総説 丹羽 邦男(神奈川大学教授) 第一編第一章 第三章 第二編第一章第一節 第三編第二章 三和 良一(青山学院大学教授) 第一編第二章第一節 第二編第二章第二節 第三編第三章第一節 第四編第二章第一節 山本 弘文(法政大学教授) 第一編第二章第二節 第二編第一章第二節 第二章第一節三項 四項 五項 第三編第一章第一節 第四章第二節 第四編第一章第一節三項 第二節三項 原田 勝正(和光大学講師) 第一編第二章第三節 第二編第二章第一節一項 二項 第三編第四章第一節 第四編第二章第三節 林 健久(東京大学教授) 第一編第四章 第二編第三章 第三編第五章 第四編第四章 寺谷 武明(横浜市立大学教授) 第二編第一章第三節 第三編第一章第二節 第四章第三節 第四節 第四編第一章第一節一項 二項 第二節一項 二項 第二章第二節 小林 謙一(法政大学教授) 第二編第一章第四節 第三編第一章第三節 第四編第一章第三節 原 司郎(横浜市立大学教授) 第二編第二章第三節 第三編第三章第二節 第三節 第四編第三章 1911(明治44) 1912(明治45大正1) 1913(大正2) 1914(〃3) 1915(〃4) 1916(〃5) 1917(〃6) 1918(〃7) 6-10 耕地整理及び土地改良奨励規則公布 10-1 (株)日本蓄音器商会設立 10-30 江之島電気鉄道,藤沢-鎌倉小町間全通 9-2 臨港鉄道,横浜新港-横浜間開通 11-1 横浜・吉田橋開橋(初のコンクリート橋) 3-31 横須賀海軍工廠,わが国最初のド級戦艦「河内」を完成 4-1 県水産試験場設置 6-8 日本鋼管(株)設立 6- 富士屋自働車(株),横浜-宮ノ下間バス路線の営業を開始 8- 鶴見埋立組合,鶴見埋立工事着手 8-1 糸価大暴落,横浜生糸市場後場休会 9-2 横浜で全国蚕糸同業者協議会開催,操業短縮を決議(朝夕の操業廃止など) 12-20 東京-高島町(横浜)間に電車運転開始 3-20 横浜に帝国蚕糸(株)創立 9-27 横須賀海軍工廠創立50周年祝典挙行 11-3 津久井織物同業組合創立総会開催 4-15 (株)横浜造船所設立(12月(株)浅野造船所と改称,’40-10 日本鋼管(株)へ合併) 6-21 日本郵船(株),パナマ経由東航ニューヨーク航路を開設,第1船対馬丸,横浜を出港 5-5 信州純水館,茅ケ崎製糸場操業開始 6-17 東海道本線貨物支線,鶴見-高島間,東神奈川-高島間間通 9- 横浜に日本輸出真田同業組合連合会設立 9- 湘南電気鉄道(株)設立 12-1 横浜港大桟橋(俗称イギリス波止場)延長改修工事終了,横浜築港第2期工事(新港ふ頭造成・大桟橋改修)完了 12-2 神中軌道(株)(’19-5 神中鉄道と改称)設立 12-28 日本郵船(株),南洋線(横浜-南洋群島)を開設,第1船秋田丸,横浜を出港 1-18 半原撚糸同業組合設置認可 3-25 日米船鉄交換の契約成立(第1次) 5- (株)内田造船所((株)横浜鉄工所が改称)設立 8-1 横浜第七十四銀行,茂木銀行と合併,七十四銀行と改称 11-7 横浜で全国蚕糸業者大会開催 12-9 大阪商船(株),横浜-ロンドン線を開設 3- 工場法公布 3- 蚕糸業法公布 7-30 大正と改元 2- 大正政変 8- 第1次世界大戦に参加 7- 製鉄業奨励法公布 9- 金輸出禁止 10- 株式市場大暴落 4- 軍需工業動員法公布 7- 米騒動ぼっ発 11- 第1次世界大戦終結 1899(明治32) 1900(〃33) 1901(〃34) 1902(〃35) 1903(〃36) 1904(〃37) 1905(〃38) 1906(〃39) 1907(〃40) 1908(〃41) 1909(〃42) 1910(〃43) 1-21 大師電気鉄道,六郷橋-大師河原間開業 2-18 原合名会社設立 5-2 横浜船渠会社開渠式挙行 2-1 横浜手形交換所開業 3-20 小田原電気鉄道(馬車鉄道が改称),国府津-湯本間電車運転 11-15 インターナショナル=オイル=カンパニー,横浜に設立(’07 日石(株)が買収) 2- 橘樹郡田嶋村地先海面埋立工事に着手 4-30 稲作改良方法の励行を訓令 8-1 中央線,八王子-上野原間開通 4- 半原撚糸同盟組合結成 9-1 江之島電気鉄道 藤沢-片瀬間開業 10-15 浦賀船渠建造,第1号「ロンブロン」進水 9-9 芦ノ湖用水水利事件調停 11-6 横須賀鎮守府造船廠を横須賀海軍工廠に改組 12-23 県下第一の耕地整理(厚木町)出願 6-25 (株)芝浦製作所創立総会開催 7-15 横浜電気鉄道,神奈川-大江橋間に市内電車の営業開始 12- 煙草専売局秦野試験場設置 5-15 横須賀海軍工廠,国産最初の戦艦「薩摩」を起工(’06-11-15 進水) 12-24 京浜電気鉄道(大師電鉄が改称),品川-神奈川間全通 4-20 県製糸同業組合創立会開催 8-4 湘南馬車鉄道,二宮-秦野間開通 9-28 耕地整理及土地改良奨励規則制定 12-30 箱根水力電気会社創立総会開催 2-23 麒麟麦酒(株)創立総会開催(2-28 設立登記) 3-1 日清製粉(株)創立総会開催 4- 二宮に県農事試験場園芸部設置 9-23 横浜鉄道,東神奈川-八王子間開業 12- (合)鈴木製薬所(のちの味の素(株))逗子工場で「味の素」製造を開始 この年,浅野総一郎ら鶴見埋立組合を設立 5-1 味の素,市販開始 11-26 箱根物産同業組合設立許可 1-15 第1回神奈川県海苔品評会開催 3- 富士瓦斯紡績(株)保士ケ谷工場設置 3- 新商法公布 3- 耕地整理法公布 6- 農会法公布 3- 産業組合法公布 2- 八幡製鉄所操業開始 4- 漁業法公布 3- 日本興業銀行設立 2- ロシアに宣戦布告 4- 煙草専売法公布 1- 塩専売法公布 9- 日露講和条約調印 3- 鉄道国有法公布 4- 水利組合法公布 10- 三井合名会社創立 11- 帝国農会設立 1892(明治25) 1893(〃26) 1894(〃27) 1895(〃28) 1896(〃29) 1897(〃30) 1898(〃31) 1-13 横浜貿易商組合,共同倉庫を設立・開業 6-6 東京内湾神奈川県地方漁業組合横浜地方組合設立 9-1 横浜蚕糸貿易商組合設立 3-23 横浜港防波堤崩壊事故(7-7 工事中止) 4-1 多摩3郡を東京府へ移管 9- 川崎・当麻辰次郎,梨の新種を育成し,長十郎梨と命名 11-7 日本郵船,神戸-ボンベイ航路を開設(’96-8-26 起点を神戸から横浜へ延長) 12- 横浜蚕糸外四品取引所設立認可 2-20 横浜築港大桟橋完成 3-21 横浜四品取引所設立認可(7-1 開業) 3- 横浜外人生糸屑糸商組合設立 2- 横浜築港防波堤工事再開 7-13 豆相人車鉄道,熱海-吉浜間開業(’92-3 熱海-小田原間全線開通) 8-30 横浜商業会議所(’80 設立の横浜商法会議所の改組)設立認可 9-1 左右田銀行設立認可(9-19 開業) 11-29 神奈川県農会発会式挙行 3-15 日本郵船(株),欧洲航路(横浜-ロンドン-アントワープ間)開設,第1船土佐丸横浜を出港 4-1 横浜生糸検査所開所 4-1 神奈川県農事試験場設置 7- 東洋汽船(株)設立 7- 横浜港築港第1期工事竣工 8-1 日本郵船(株),北米航路(神戸-横浜-シアトル間)開設 9-28 浦賀船渠(株)創立(10-22 設立認可) 10-3 日本郵船(株),濠洲航路(横浜-メルボルン間)開設,第1船山城丸横浜を出港 4-19 株式組織横浜商品取引所設立 9-24 横須賀鎮守府造船部(横須賀造船所が改称)を造船廠に改組 1-1 秦野葉煙草専売所開設 3-3 神奈川県農工銀行設立 8- 足柄蜜柑改良組合結成 11-1 石川島造船所浦賀分工場開業 12- 東洋汽船,北米航路(香港-横浜-サンフランシスコ間)開設 7- 日英改正通商航海条約調印 8- 清国に宣戦布告 4- 日清講和条約調印 3- 航海奨励法・造船奨励法公布,葉煙草専売法公布 4- 農工銀行法公布 3- 蚕種検査法公布 4- 森林法公布 10- 金本位制実施 12- 地租増徴法可決 1883(明治16) 1884(〃17) 1885(〃18) 1886(〃19) 1887(〃20) 1888(〃21) 1889(〃22) 1890(〃23) 1891(〃24) 2-13 多摩川に六郷橋架橋 5-1 共同運輸会社,横浜-神戸間に航路開設 6- 八王子に武相蚕糸改良協会設立 7-1 横浜生糸売込問屋,申合規則を制定 4-21 横浜市茶業組合を設立 9-30 地租条例取扱心得書を制定 9- 内国通運会社,東京・横浜から船便で各府県庁所在地までの貨物輸送を開設 10-24 鎌倉・石井鉄之助,木綿紡績器械発明 10-31 会計年度改正(’86年度から実施) 12- 横浜石川口製鉄所,東京石川島に移転 1-6 同業組合準則を制定 4-9 小作慣行調査実施 9-29 日本郵船会社(三菱会社と共同運輸会社の合併)設立(10-1 開業,’86-10 本店を東京から横浜に移転,’89-4 本店を東京に復す) 2- 横浜に明治屋開業 3- 横浜蚕糸売込商組合設立 7- 横浜にジャパン=ブルワリー会社設立 12-9 横浜株式取引所設立(10日立会開始) 12-28 地方税及び備荒儲蓄金徴収規則制定 この年,相模原に漸進社(共同生糸揚返所)創立 4- 浅野回漕部(東洋汽船の前身)設立 7-7 横浜正金銀行条例公布 7-11 官鉄,横浜-国府津間開通 10-27 豆相汽船会社,国府津-熱海間汽船開業 11-4 横須賀造船所で初の鋼鉄軍艦「葛城」竣工 5-3 甲相武3国の国境道路が開通 5-14 ジャパン=ブルワリー,麒麟ビールを発売 10-1 小田原馬車鉄道,国府津-湯本間開業 2-1 官鉄,国府津-静岡間開通 6-16 横須賀線,大船-横須賀間全通 9- 横浜築港工事(大桟橋・防波堤の築造)着手 11-4 横浜共同電燈会社設立(’90-10-1 開業) この年,山北・尺里山に温州蜜柑を栽培 6-9 秦野・石塚重太郎,煙草製造水車器械を発明 6- 鈴木三郎助,葉山で本格的にヨード製造を開始(味の素(株)の起源) 6-4 横浜船渠会社設立許可 3- 地租条例制定 この年松方デフレ政策により農村の不況深刻化,全国に負債返弁騒擾起こる 12- 鎮守府条例制定 5- 日本銀行,兌換銀行券を発行 12- 内閣制度発足 3- 所得税法公布 5- 私設鉄道条例公布 5- 漁業組合準則公布 4- 市制・町村制公布 2- 大日本帝国憲法公布 3- 土地台帳規則公布 7- 東海道線全通 4- 商法公布 5- 府県制・郡制公布 8- 銀行条例公布 12- 電話開業 1875(明治8) 1876(〃9) 1877(〃10) 1878(〃11) 1879(〃12) 1880(〃13) 1881(〃14) 1882(〃15) 会社を改組,横浜第二国立銀行設立 -地租改正実施による地引絵図の作成各村で開始 8- 陸運元会社(’75-2 内国通運会社),神奈川-小田原間に郵便物の馬車輸送を開始 12-14 横浜牧畜会社設立 2-3 三菱商会,横浜-上海間の航路を開設 3-5 横須賀造船所で建艦第1号「清輝」進水 10-5 神奈川-八王子駅間の新道工事落成 12-20 神奈川県に勧業課を設置 4-18 足柄県廃止,相模国7郡神奈川県に編入 5-25 小田原支庁設置(’78-11-30 廃止) 6-22 県庁に物産振興のため勧業掛を設置 8- 東海道郵便馬車開業 9-2 英国P&O汽船,横浜-上海航路を開設 9-21 横浜生糸相場,開港以来の高値を記録 2-9 県養蚕試験場を小田原に設置 4-2 横須賀-横浜間往復便船開設 10-13 横浜生糸商,生糸商人申合規約を制定 7-30 横浜第七十四国立銀行開業 11-7 多摩郡を3郡に分割 3-7 横浜洋銀取引所設立(9-22 横浜取引所) 3-11 神奈川県会開会 7- 地方税則・営業税雑種税則施行 9-15 第1回製茶共進会を横浜で開催 11-1 第1回生糸繭共進会を横浜で開催 1- 横浜製鉄所,横浜石川口製鉄所と改称 2-6 仙石原に勧業試験牧場(のちの耕牧舎)開設 2-28 横浜正金銀行開業 4-13 横浜商法会議所設立(5-25 開所) 9-13 横浜取引所,株式取引所と改称この年.生糸同伸会社設立(1909年解散) 3-29 武蔵・相模・上総・下総四か国浦方漁業契約を締結 5-23 馬車取締規約を制定 6-16 漁業及採藻営業規則を制定 7-6 水車規則を制定 8-29 人力車並挽夫営業取締規則を制定 9-17 横浜連合生糸荷預所開業(’82-6 解散) 12- 神奈川魚市場開設 3- 横浜スカーフ染色工場「伊豆庄」開設 5-1 南多摩郡木曽・根岸村秣場騒擾起こる 9- 租税・賦金を国税・府県税と改称 12- 海面官有宣言布告 7- 三井物産会社設立 8- 金禄公債証書発行条例公布 1- 地租軽減 8- 第1回内国勧業博覧会開催 5- 金銀複本位制 7- 三新法公布 11- 工場払下概則制定 11- 土地売買譲渡規則制定 4- 大日本農会設立・農商務省新設 11- 日本鉄道会社設立 12- 大日本水産会設立 6- 日本銀行条例制定 10- 紡績連合会設立 年表 1 本年表は,1868-1918年までの事項を県内と国内に区分して収めた。 2 収録事項の年月日は,西暦を基準とし,1872(明治5)年までは陰暦によった。 西暦(年号) 1868(慶応4明治1) 1869(明治2) 1870(〃3) 1871(〃4) 1872(〃5) 1873(〃6) 1874(〃7) 県内 3-19 横浜裁判所(4-20 神奈川裁判所)を設置 閏4-1 横浜裁判所,旧幕府の横須賀・横浜の両製鉄所を接収 5- 横須賀製鉄所,最初の修船台を竣工 6-17 神奈川裁判所を神奈川府(9-21 県)と改称 12-6 金札を発行(’69-12-23廃止) 1- 横浜に丸屋商社(’94丸善(株)と改称)開業 2- 相模灘海岸村々,根拵網張立てを設置 2- 横浜為替会社設立 5- 成駒屋,横浜-東京間に乗合馬車を開業 10-4 横浜為替会社,金券を2種発行 11-3 横浜に鶴屋呉服店(現松屋百貨店)開業 1- 回漕会社,横浜-神戸間に定期航路を開設 4-1 横浜為替会社,洋銀券取扱規定を制定 7- 弘明商会,横浜-東京間に蒸汽船を就航 11- 人力車営業,川崎・神奈川で開始 2-8 横須賀製鉄所(4-9 横須賀造船所),第1期工事竣工 9- 神奈川県に定額常備金設置 11-14 足柄県設置 3- 神奈川県,横浜市街地改革-地券制度実施 5-23 横須賀造船所で御召艦「蒼龍」進水 5- 横浜に横浜陸運会社設立 7-9 横浜市中から地券税,村方町地から沽券税を徴収 9-12 横浜-新橋間に鉄道開業 9- 足柄県管下脇往還の陸運会社,足柄上郡矢倉村など11か所に設立 2- 僕婢・馬車・人力車・駕籠・乗馬・遊船等諸税規則を制定 6-1 横浜に生糸改会社開業 6- 横浜・堤磯右衛門,石鹸製造を開始 9-15 横浜-新橋間の鉄道,貨物輸送を開始 3-31 地租改正施行規則を告示,反別地価等書上心得を制定 7-7 横浜・内田町海面埋立完成 -18 横浜為替 国内 1-3 戊辰戦争開始 5- 太政官札発行 9-8 年号を明治と改元 5- 戊辰戦争終結 6- 版籍奉還 7- 大蔵省設置 12- 電信創業 1- 蒸気郵船規則制定 4- 郵便創業 5- 新貨条例公布 7- 廃藩置県 9- 田畑勝手作許可 2- 土地売買の禁解除 6- 陸運元会社設立 7- 壬申地券交付 11- 国立銀行条例公布 11- 太陽暦を採用 6- 三菱商会設立 7- 地租改正条例布告 6- 北海道屯田兵制度設置 市町村名 茅ヶ崎市 逗子市 相模原市 三浦市 秦野市 厚木市 大和市 伊勢原市 海老名市 旧町村数 23 8 18 23 32 41 7 35 17 旧郡名 高座 三浦 高座 三浦 足柄上 大住 大住 愛甲 高座 大住 高座 旧町村名 谷津 板橋 風祭 水野尾 入生田 後河原 早川 石橋 米神 根府川 江ノ浦 山王原 網一色 今井 中島 町田 池戸新田 荻窪 池上 堤新田 井細田 久野 多古 穴部 穴部新田 府川 北ノ久保 飯田岡 清水新田 新屋 柳新田 小台 成田 堀之内 蓮正寺 桑原 西大友 東大友 永塚 延清 千代 高田 別堀 中里 下堀 矢作 飯泉 鴨宮 上新田 中新田 下新田 酒匂 小八幡 国府津 前川 羽根尾 中村原 小船 上町 沼代 小竹 曽我谷津 曽我岸 曽我原 曽我別所 田嶋 中曽根 小和田 菱沼 赤羽根 室田 茅ヶ崎 下町屋 松尾 柳島 中島 萩園 浜之郷 矢畑 円蔵 西久保 高田 甘沼 堤 香川 下寺尾 行谷 芹沢 平太夫新田 今宿 小坪 桜山 沼間 逗子 山根 池子 久野谷 柏原 新戸 磯部 上鶴間 鵜野森 淵野辺 上矢部 上矢部新田 上相原 橋本 小山 上九沢 下九沢 大島 上溝 下溝 当麻 田名 清兵衛新田 城 本和田 和田赤羽根 和田竹之下 入江新田 三戸 上宮田 下宮田 小網代 諸磯 三崎 二町谷 中之町岡 東岡 原 宮川 向ヶ崎 城ヶ島 松輪 毘沙門 金田 菊名 高円坊 八沢 菖蒲 柳川 三廻部 上大槻 下大槻 南矢名 北矢名 落幡 曽屋 蓑毛 小蓑毛 寺山 名古木 落合 東田原 西田原 羽根 菩堤 横野 戸川 三屋 堀川 堀斉藤 堀沼城 堀山下 千村 渋沢 平沢 今泉 尾尻 大竹 上岡田 下岡田 酒井 下津古久 戸田 長沼 上落合 愛甲 船子 恩名 厚木 戸室 温水 長谷 岡津古久 小野 愛名 上古沢 下古沢 林 妻田 及川 関口 上依智 中依智 下依智 山際 金田 三田 上荻野 中荻野 下荻野 飯山 猿ヶ島 棚沢 川入 七沢 川入五ヶ村新田 山際村新田 原地新田 尼寺原新田 上和田 下和田 福田 深見 上草柳 下草柳 下鶴間 上糟屋 下糟屋 東富岡 西富岡 粟久保 高森 石田 見附島 下落合 小稲葉 上谷 下谷 沼目 上平間 下平間 伊勢原 田中 大竹 板戸 馬渡 大句 善波 串橋 笠窪 白根 神戸 栗原 坪之内 三之宮 上子安 下子安 大山 日向 池端 坂本 本郷 上河内 中河内 杉窪 大谷 河原口 国分 今里 上郷 中野 中新田 社家 門沢橋 上今泉 下今泉 柏ヶ谷 望地 市町村名 座間市 南足柄市 綾瀬市 葉山町 寒川町 愛川町 清川村 大磯町 二宮町 中井町 大井町 松田町 山北町 開成町 箱根町 真鶴町 湯河原町 城山町 津久井町 相模湖町 藤野町 旧町村数 5 26 8 6 11 8 2 11 5 16 10 10 14 8 12 2 7 5 13 5 8 旧郡名 高座 足柄上 高座 三浦 高座 愛甲 愛甲 淘綾 淘綾 大住 足柄上 足柄上 足柄上 足柄上 足柄上 足柄上 足柄下 足柄下 足柄下 津久井 津久井 津久井 津久井 旧町村名 座間宿 座間入谷 新田宿 四ッ谷 栗原 狩野 中沼 三竹山 沼田 岩原 塚原 駒形新宿 和田河原 炭焼所 竹松 班目 千津島 壗下 怒田 雨坪 飯沢 猿山 関本 福泉 弘西寺 苅野岩 苅野一色 矢倉沢 内山 小市 平山 吉岡 上土棚 本蓼川 蓼川 深谷 寺尾 早川 小園 堀内 一色 長柄 上山口 下山口 木古庭 一之宮 田端 上大曲 下大曲 中瀬 宮山 岡田 大蔵 小谷 小動 倉見 熊坂 半縄 八菅 八菅山新田 角田 田代 三増 半原 煤ヶ谷 宮ヶ瀬 国府本郷 国府新宿 寺坂 生沢 虫窪 黒岩 西ノ久保 大磯宿 東小磯 西小磯 高麗寺 二ノ宮 川匂 山西 一色 中里 五分一 古怒田 鴨沢 雑色 松本 比奈久保 遠藤 北田 田中 久所 半分形 藤沢 井之口 境 境別所 岩倉 上大井 西大井 金手 金子 山田 赤田 高尾 栃窪 柳 篠窪 神山 松田惣領 松田庶子 萱沼 弥靭寺 中山 土佐原 大寺 宇津茂 虫沢 川村向原 川村岸 川村山北 皆瀬川 都夫良野 湯触 川西 山市場 神縄 世附 中川 玄倉谷ヶ 平山 吉田島 牛島 宮ノ台 中之名 円通寺 延沢 金井島 岡野 仙石原 宮城野 芦野湯 湯本 湯本茶屋 須雲川 畑宿 箱根宿 底倉 大平台 塔之沢 元箱根 岩 真鶴 福浦 土肥吉浜 土肥鍛治屋 土肥門川 土肥堀之内 土肥宮上 土肥宮下 上中沢 下中沢 上川尻 下川尻 葉山嶋 青根 鳥屋 青野原 中野 青山 三ヶ木 又野 太井 上長竹 下長竹 根小屋 三井 小倉 千木良 若柳 寸沢嵐 与瀬 小原宿 吉野宿 沢井 佐野川 小淵 名倉 日連 牧野 関野宿 現行市町村別旧村一覧(昭和56年2月1日現在) (注)「新編相模国風土記稿」,「新編武蔵風土記稿」,「旧高旧領取調帳」によった。 市町村名 横浜市 鶴見区 神奈川区 西区 中区 南区 港南区 保土ヶ谷区 旭区 磯子区 金沢区 港北区 緑区 戸塚区 瀬谷区 旧町村数 15 17 6 6 10 14 17 18 13 14 27 36 39 4 旧郡名 橘樹 橘樹 橘樹 久良岐 久良岐 久良岐 久良岐 鎌倉 橘樹 都筑 都筑 久良岐 久良岐 橘樹 都筑 都筑 鎌倉 鎌倉 旧町村名 駒岡 上末吉 下末吉 鶴見 生麦 獅子ヶ谷 東寺尾 馬場 北寺尾 市場 菅沢 矢向 江ヶ崎 小野新田 潮田 神奈川町 青木町 三ッ沢 松本 沢渡 西寺尾 三枚橋 東子安 西子安 神奈川町耕地 白旗 片倉 下菅田 神大寺 羽沢 六角橋 新宿 芝生 岡野新田 藤江新田 戸部 尾張屋新田 平沼新田 本郷 北方 横浜 根岸 吉田新田 太田 中村 堀之内 井土ヶ谷 蒔田 下大岡 中里 弘明寺 別所 永田 引越 宮ヶ谷 金井 宮下 吉原 雑色 松本 関 上大岡 最戸 久保 上野庭 下野庭 永谷上 永谷中 保土ヶ谷町 上岩間町 下岩間町 上神戸町 下神戸町 和田 帷子上町 帷子町 下星川 坂本 仏向 今井 今井新田 川島 上星川 新井新田 上菅田 市野沢 今宿 鶴ヶ峰新田 白根 小高新田 岡津新田 本宿 二俣川 三段田 密経新田 川井 上川井 下川井 坂倉新田 膳部谷 榛ヶ谷 二又川 川島 氷取沢 滝頭 磯子 岡 森公田 森雑色 森中原 杉田 峯 中里 矢部野 栗木 田中 社家分 寺分 平分 洲崎 泥亀新田 町屋 谷津 柴 富岡 宿 坂本 赤井 寺前 野島 矢上 上駒林 中駒林 下駒林 駒ヶ橋 北綱島 箕輪 小机 南綱島 大曽根 樽 師岡 大豆戸 菊名 太尾 篠原 岸根 鳥山 新羽 高田 牛久保 山田 茅ヶ崎 勝田 大棚 大棚下山田 吉田 猿山 中山 榎下 台 青砥 西八朔 十日市場 北八朔 本郷 川向 東方 折本 大熊 池辺 佐江戸 恩田 黒須田 上谷本 下谷本 寺山 鴨居 川和 荏田 上鉄 中鉄 下鉄 市ヶ尾 石川 奈良 小山 成合 寺家 鴨志田 長津田 大場 久保 笠間 長沼 上倉田 下倉田 戸塚宿 吉田町 矢部町 上之 鍛治ヶ谷 中之 小菅ヶ谷 公田 桂 舞岡 上柏尾 下柏尾 平戸 前山田 後山田 品濃 秋葉 名瀬 上矢部 中田 和泉 岡津 上飯田 下飯田 長尾台 飯島 金井 小雀 田谷 原宿 深谷 汲沢 東俣野 上俣野 山谷新田 宮沢 阿久和 瀬谷 瀬谷新田 市町村名 川崎市 川崎区 幸区 中原区 高津区 多摩区 横須賀市 平塚市 鎌倉市 藤沢市 小田原市 旧町村数 15 10 13 28 20 43 56 35 36 93 旧郡名 橘樹 橘樹 橘樹 橘樹 多摩 橘樹 都筑 三浦 淘綾 大住 鎌倉 高座 鎌倉 足柄上 足柄下 旧町村名 小土呂町 砂子町 新宿町 久根崎町 下新田 渡田 小田 大島 池上新田 堀之内 大師河原 川中島 稲荷新田 中島 田辺新田 鹿島田 南加瀬 北加瀬 南河原 戸手 小向 古川 小倉 塚越 下平間 井田 今井 宮内 小杉 上平間 上丸子 中丸子 苅宿 木月 上小田中 下小田中 市ノ坪 新城 上菅生 下菅生 五段田 長尾 上作延 下作延 久地 溝ノ口 二子 久本 末長 平 土橋 馬絹 有馬 梶ヶ谷 久末 清沢 上野川 下野川 子母口 明津 蟹ヶ谷 岩川 新作 坂戸 諏訪河原 北見方 中野嶋 金程 細山 菅 高石 天真寺新田 登戸 宿河原 堰 万福寺 古沢 黒川 栗木 伍力田 片平 上麻生 下麻生 早野 王禅寺 岡上 浦ノ郷 芦名 秋谷 佐島 長坂 荻野 林 大田和 須軽谷 長井 長沢 津久井 武 衣笠 大矢部 小矢部 岩戸 久里浜 久村 内川新田 東浦賀 西浦賀 西浦賀分郷 公郷 金谷 深田 中里 不入斗 上平作 下平作 池上 田浦 船越新田 長浦 横須賀 逸見 佐野 大津 走水 鴨居 森崎 佐原 野比 山下 高根 万田 出縄 八幡 田村 四之宮 下島 大神 吉際 馬入 須賀 豊田本郷 宮下 小嶺 平等寺 大島 小鍋島 打間木 新土 西海地 城所 上入山瀬 下入山瀬 矢崎 大畑 丸島 寺田縄 北大縄 入野 飯島 長持 長持入部 中原上宿 中原下宿 南原 平塚宿 徳延 平塚新宿 久松 松延 根坂間 河内 公所 上吉沢 下吉沢 千須谷 広川 片岡 土屋 南金目 北金目 大句 馬渡 真田 朝氏 山之内 雪下 大町 小町 扇ヶ谷 二階堂 西御門 十二所 浄妙寺 材木座 乱橋 長谷 坂之下 極楽寺 峠 山崎 台 小袋谷 大船 岩瀬 今泉 城廻 関谷 植木 岡本 上町谷 寺分 梶原 谷合四ヶ村 常葉 津 腰越 手広 笛田 山谷新田 藤沢宿 大久保町 坂戸町 稲荷 大庭 石川 今田 亀井野 西俣野 鵠沼 羽鳥 辻堂 遠藤 葛原 打戻 獺郷 宮原 用田 円行 菖蒲沢 下土棚 長後 七ッ木 千束 高谷 小塚 宮ノ前 弥靱寺 大鋸 柄沢 渡内 片瀬 川名 江島 西 猟師町 下大井 鬼柳 栢山 曽比 上曽我 曽我大沢 新宿町 万町 高梨町 宮前町 本町 中宿町 山角町 茶畑町 欄干橋町 筋違橋町 代官町 千度小路 古新宿町 青物町 台宿町 一町田町 大工町 須藤町 竹花町 小田原城(侍屋敷) 〈尺貫法〉 1石=10斗=100升=180.391リットル=英国制39.6815ガロン=米国制(液)47.655ガロン=米国制(穀)40.952ガロン 重量 〈メートル法〉 1トン=1000キログラム=0.98419英トン=266.667貫 1キログラム=1000グラム=2.20462ポンド=266.7匁 1グラム=1000ミリグラム=0.03527オンス=0.2667匁 〈尺貫法〉 1貫=1000匁=3.75キログラム=8.2673ポンド=0.0036908英トン=0.0041337米トン 1斤=160匁=0.6キログラム=1.32277ポンド 特殊単位 米1俵=60キログラム=約4斗(玄米) 小麦粉1袋=25キログラム(紙または布袋) 綿花1俵=478ポンド=216.8キログラム 綿糸1梱=400ポンド=181.437キログラム 綿糸番手=1綛(840ヤード)にて重量1ポンドを単位とする。10綛にて1ポンドのものを十番手という。その他これに準ず。 生糸1俵=132.275ポンド=60キログラム 1ピクル(砂糖・米など)=60479キログラム=16.128貫=100斤=133.33ポンド デニール(生糸・人絹繊度)=長さ450メートルにて重量0.05グラムを単位とする。 羊毛(豪州)1俵=300ポンド(脂付羊毛重量) 木材1石=1尺角長さ10尺=10立方尺,1立方メートル=3.594石 石油1バーレル=42米国ガロン=0.159キロリットル 石油1ドラムカン=200リットル 石油1カン=5ガロン=18リットル 1キロワット=1000ワット,1キロワットの電力が1時間続くとき,その電力量は1キロワット時。 1海里=1.852キロメートル=0.47157里 ノット=海里数で示す1時間の船の速力。 1尋(水深)=1.818メートル=5.54フィート=6尺 船舶トン 排水量トン=軍艦に用い,船の重量を排水量であらわすもので,1トンは海水35立方フィートの重量。 総トン=主として商船に用い,船の全容積をあらわすもので,1トンは100立方フィート(約2.83立方メートル)。 重量トン=貨物船に用い,1トンは2240ポンド(即ち英トン)。 度量衡換算表 長さ 〈メートル法〉 1キロメートル=1000メートル=0.62137マイル=0.25463里=9丁10間 1メートル=3.28084フィート=39.370インチ=3.3尺 1デシメートル=0.1メートル 1センチメートル=0.01メートル=0.3937インチ=0.33寸 〈ヤード・ポンド法〉 1マイル=1760ヤード=1.6093キロメートル=80チェーン=14丁45間=0.4098里 1チェーン=22ヤード=20.1168メートル=66.3854尺 1ヤード=3フィート=0.9144メートル=3.0175尺 1フィート=12インチ=0.3048メートル=1.0058尺 1インチ=2.5400センチメートル=0.8382寸 〈尺貫法〉 1里=36丁=3.9273キロメートル=2.4403マイル 1丁=60間=0.1091キロメートル=119.303ヤード 1間=6尺=1.8181メートル=1.9884ヤード=5.9652フィート 1尺=10寸=0.30303メートル=0.9942フィート=11.930インチ 面積 〈メートル法〉 1ヘクタール=100アール=2.4711エーカー=1.00833町歩 1平方キロメートル=1000000平方メートル=0.38610平方マイル=100.833町歩 〈ヤード・ポンド法〉 1エーカー=4840平方ヤード=40.469アール=40.806畝 1平方マイル=640エーカー=2.5899平方キロメートル=261.1584町歩 〈尺貫法〉 1町歩=10反=99.174アール=2.4506エーカー 1反=10畝=9.9174アール=0.24506エーカー 1畝=30歩(坪)=0.99174アール 1歩=1坪=1間平方=3.30579平方メートル=3.95369平方ヤード 体積 〈メートル法〉 1リットル=1000立方センチメートル=0.26417ガロン=0.55435升 1立方メートル=35.315立方フィート=5.5435石=35.937立方尺 〈ヤード・ポンド法〉 1ブッシェル=8ガロン=英国制36.3677リットル=2.0161斗=米国制35.238リットル=1.9534斗 あとがき 神奈川県史の構成は、次のとおり、資料編・通史編・各論編・別編の合計三十六巻(三十八冊)である。 -資料編- 1古代・中世(1)古代~建治 2古代・中世(2)弘安~鎌倉末 3古代・中世(3上)建武~永享 3古代・中世(3下)嘉吉~天正 4近世(1)藩領1 5近世(2)藩領2 6近世(3)幕領1 7近世(4)幕領2 8近世(5上)旗本領・寺社領1 8近世(5下)旗本領・寺社領2 9近世(6)交通・産業 10近世(7)海防・開国 11近代・現代(1)政治・行政1 12近代・現代(2)政治・行政2 13近代・現代(3)社会 14近代・現代(4)文化 15近代・現代(5)渉外 16近代・現代(6)財政・金融 17近代・現代(7)近代の生産 18近代・現代(8)近代の流通 19近代・現代(9)現代の経済 20考古資料 21統計 -通史編- 1原始・古代・中世 2近世(1) 3近世(2) 4近代・現代(1)政治・行政1 5近代・現代(2)政治・行政2 6近代・現代(3)産業・経済1 7近代・現代(4)産業・経済2 -各論編- 1政治・行政 2産業・経済 3文化 4自然 5民俗 -別編- 1人物 2資料所在目録 3年表 本巻は、このうち、通史編の第六巻近代・現代(3)産業・経済1である。 本巻の発行にあたっては、竹内理三総括監修者のもとに、監修・編集・執筆には、安藤良雄主任執筆委員、編集・執筆には、寺谷武明・丹羽邦男・林健久・三和良一・山本弘文各執筆委員がそれぞれ当たられ、以上の委員のほか小林謙一・原司郎・原田勝正の諸氏に執筆をお願いした。以上の方々に対し、ここに心からお礼を申し上げる次第である。 本巻には、すでに発行した神奈川県史の各資料編に収録した資料はもとより、これまで県史編集室で長年にわたって調査・収集してきた多くの資料を利用し、さらに新たに提供していただいた資料を利用させていただいた。これら関係各位の御協力に対して感謝申し上げたい。 なお、部落差別問題(同和問題)についての本県の基本方針は次のとおりであり、本県史の編集もこの方針に沿って編集したものであることを付言したい。 同和問題は、日本の歴史の過程で人為的につくられたものである。江戸幕府は、封建的身分制度として、士・農・工・商とさらにその下の身分をつくった。このような身分差別に基づいて日本国民の一部の人びとが社会的、経済的、文化的に低い状態におかれ現代の社会でも著しく基本的人権が侵害されている。しかし、世間の一部の人びとの間では、同和問題は過去の問題であって、今日の民主化、近代化が進んだわが国にはもはや存在しないという考え方があるが、同和問題は結婚差別などに見られるように厳然たる事実として存在し、日本国民のだれにも等しく保障されている市民的権利と自由が、完全に保障されていないという最も深刻にして重大な社会問題となっている。 この問題の解決をめざして、県では「これを未解決のまま放置しておくことは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ行政の責任であって、同時に国民的課題である。」との基本的認識のもとに、同和対策を、新神奈川計画に盛り込み、県の重要施策として位置づけ、関係市町と協力し、各種の事業を行っているところである。 昭和五十六年三月 神奈川県県民部県史編集室長 主な関係者名簿 神奈川県史編集懇談会会員(順不同)昭和五十六年二月一日現在 長洲一二 神奈川県知事(会長) 石井孝 津田塾大学教授 上野豊 神奈川県商工会議所連合会会長 小串靖夫 神奈川県中央会・信連・経済連・共済連会長 呉文炳 元日本大学総長 清水末雄 神奈川新聞社会長 高村象平 慶応義塾大学名誉教授 永田衡吉 芸能史家 脇村義太郎 東京大学名誉教授 岩本直通 神奈川県議会議長 中井一郎 神奈川県市長会会長 柳川賢二 神奈川県町村会会長 神奈川県史編集委員会委員(順不同)昭和五十六年三月一日現在 委員長 知事 長洲一二 副委員長 副知事 湯沢信治 副委員長 県史総括監修者兼主任執筆委員 竹内理三 委員 県史主任執筆委員 大久保利謙 〃 〃 児玉幸多 〃 〃 安藤良雄 〃 県総務部長 八木敏行 〃 県県民部長 高瀬孝夫 〃 県教育長 阿部治夫 〃 県立図書館長 堀池慶一 〃 県立川崎図書館長 楢原良彦 〃 県立博物館長 戸栗栄次 〃 県県民部参事兼県史編集室長 島田昭一郎 顧問 (東京大学名誉教授) 坂本太郎 神奈川県史執筆委員(五十音順) 昭和五十六年二月一日現在 原始・古代及び中世 赤星直忠 元県文化財保護審議会委員 岡本勇 県文化財保護審議会委員 ○竹内理三 元東京大学教授(県史総括監修者) 貫達人 青山学院大学教授 百瀬今朝雄 東京大学教授 近世 青木美智男 日本福祉大学助教授 川名登 千葉経済短期大学教授 神崎彰利 明治大学講師 木村礎 明治大学教授 ○児玉幸多 学習院大学名誉教授 近代及び現代(政治・社会・文化担当) 今井庄次 東京外国語大学教授 江村栄一 法政大学教授 ○大久保利謙 元立教大学教授 金原左門 中央大学教授 山口修 聖心女子大学教授 近代及び現代(産業・経済担当) ○安藤良雄 東京大学名誉教授 腰原久雄 横浜国立大学助教授 寺谷武明 横浜市立大学教授 丹羽邦男 神奈川大学教授 林健久 東京大学教授 三和良一 青山学院大学教授 山本弘文 法政大学教授 ○印は、各時代担当の県史主任執筆委員を示す。 神奈川県史編集参与(五十音順) 昭和五十六年二月一日現在 秋本益利 横浜市立大学教授 浅香幸雄 専修大学教授 大岡実 日本大学教授 大藤時彦 成城大学名誉教授 小出義治 神奈川歯科大学助教授 酒井恒 東京家政学院大学教授 佐野大和 国学院大学教授 玉村竹二 元東京大学教授 辻達也 横浜市立大学教授 長倉保 神奈川大学教授 服部一馬 横浜市立大学教授 藤田経世 跡見学園女子大学教授 本阿弥宗景 元県文化財保護審議会委員 見上敬三 横浜国立大学教授 三上次男 青山学院大学教授 宮脇昭 横浜国立大学教授 森栄一 元県文化財保護審議会委員 山中裕 東京大学教授 吉川逸治 東京大学名誉教授 神奈川県史通史編6近代・現代(3) 第29回発行 昭和56年3月10日印刷 昭和56年3月25日発行 非売品 編集 神奈川県県民部県史編集室 発行 神奈川県 横浜市中区日本大通1 印刷 大日本印刷株式会社 東京都新宿区市谷加賀町1丁目12番地