神奈川県 神奈川県史 通史編 5 近代・現代 (2) 政治・行政2 大正自由教育の始まりをつげる尋常高等元街小学校校誌「学之窓」 横浜市立元街小学校蔵 震災と同時におきた横浜市の火災を示す図 『神奈川県震災誌附録』から 焦土となった横浜市街 -上は海岸寄り・下は山の手方面- 『大震災写真画報』から 昭和恐慌下の世相 上 食事をする労働者-神奈川県匡済会横浜社会館食堂で 一九三一年七月中旬- 神奈川県匡済会蔵 下 寿署内に正月用の餅と米の配給を受けに集まった人びと-一九三四年十二月末- 県立文化資料館蔵 戦意高揚をはかった雑誌・百人一首 津久井郡郷土資料館蔵 上右 少年倶楽部 昭和12年8月号 上左 キング 昭和15年7月号 下右 少年倶楽部 昭和17年9月号 下左 愛国百人一首 昭和17年刊 出征兵士を送るために使われたタスキ・のぼりと弾よけとしてつくられたチョッキ 平本正義氏蔵 平塚の戦災の様子を描いた電話局付近(上)と焼夷弾(下)の絵 杉山泰一氏蔵 川崎市内の戦災状況 -六郷橋付近から下流を望む- 武藤光蔵氏蔵 敗戦直後の住宅難(上)と食糧難(下)の状況 『KANAGAWA 1945-1955』から 戦後県政で重要な役割を果たした内山岩太郎知事の『日記』 内山小太郎氏蔵 戦後教育民主化政策の一つとして実施された教育委員の公選ポスター 永野勝康氏蔵 人口増にともない都市は大きく変貌した 上 藤沢駅付近-1965年ごろ-藤沢市文書館蔵 下 同 -1982年2月現在-県史編集室蔵 県庁屋上からみた鶴見・川崎の工場地帯 県史編集室蔵 第1回「地方の時代」シンポジウム -1978年7月14・15日に開かれた- 神奈川県庁蔵 序 神奈川県史の近代・現代に関する通史編は、政治・行政と産業・経済に大別して、それぞれ二巻をあてています。 この巻は、そのうちの政治・行政の下巻にあたるもので、大正のはじめから今日までの神奈川県の政治・行政を中心に、社会および文化の各分野に関する出来事をとおして、県下の時代の推移を叙述しております。 したがって、ここでは第一次世界大戦下から筆をおこし、関東大震災、昭和恐慌、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、敗戦、連合国軍の駐留、朝鮮戦争、高度経済成長、その後の低成長と、この数十年間の本県域における政治・行政、人びとの生活、各種団体等の動きをえがきました。 この巻を刊行するにあたり、数多くの調査や困難な執筆および監修にあたられた皆様と、貴重な資料の提供に御協力下さった方々に対し、心から感謝申し上げます。 昭和五十七年三月 神奈川県知事 長洲一二 凡例 一 本巻は、神奈川県史通史編5近代・現代⑵政治・行政2として、大正初頭(一九一〇年代)から現在(一九七〇年代)までを対象として叙述した。 一 人名は、敬称を略し、そのよみは、外国人を含め一般的に用いられているものに従った。 一 地名は、原則として、記述されている時代の用例を用い、その下に( )で囲んで現在の地名を示した。 一 職業や職種の呼称等歴史的用語は、原則として、記述されているその時代の用例を用いた。 一 年号は、西暦で表記し、必要に応じて日本年号を( )で囲んで示した。 一 神奈川県史資料編を引用する場合は、「資料編11近代・現代⑴一五」のように、巻名と資料番号(資料番号のない資料編はページ数)を示した。 一 本巻の編集は、大久保利謙・金原左門が担当し、執筆については、このほかに専門の研究者の協力をえた。監修は、大久保利謙が当たった。 表紙題字 元知事 津田文吾 目次 序 凡例 はじめに 総説-大正・昭和時代の社会と政治の推移- 第一編 大正期 第一章 第一次大戦と県政 第一節 開戦と県民および県行政 一 県民の参戦観 27 戦時気分へのたかまり(27) 不景気な社会状態(29) 戦時下の横浜貿易への影響(30) 二 戦時下の地方行政 33 県民への参戦事情の徹底(33) 戦争と政治的要請(34) 節約と物資動員(35) 三 「戦時気運」と産業奨励策 38 時局講演会の開催(38) 農村の産業振興策(39) 第二節 大戦下の県政と市政 一 工業化と政治問題 42 生糸相場の浮沈と工業化政策(42) 横浜市の工業振興策(44) 工業化の促進と広がり(46) 二 実業と立憲意識の広がり 48 商工業振興と県会(48) 商工立市と選挙区問題(49) 工業化のなかの自治(51) 横浜市政と県政(54) 三 立憲政治への底流 56 自治権擁護運動(56) 商工業の振興と刷新派(59) 第三節 立憲政治と地方改革への動き 一 「国民の政治」への道 61 たかまる立憲政治への関心(61) 政治争点になる地方自治改良(62) 二 地域ぐるみの環境改善 65 工業化と地方利益(65) 「アミガサ事件」(67) 「県民本位」にたつ知事の決断(69) 第四節 米騒動と社会行政の展開 一 米価問題と米騒動 72 物価暴騰と生活難(72) 米価の動き(74) 米廉売の状況(78) 米騒動と県民の動静(80) 二 地方行政の変化 82 「思想問題」と行政の強化(82) 産業振興と社会政策(84) 第五節 民力涵養運動 一 民力涵養大会 87 自治観念の強調(87) 民力涵養実行要目(90) 二 民力涵養実施の事情 91 村の実行要目(91)  村民参加の諸行事(95) 三 民力涵養運動の実績 97 民力涵養協議会(97) 民力涵養計画の特徴と実績(99) 第二章 「大正デモクラシー」と社会問題 第一節 「デモクラシー」下の社会情勢 一 友愛会支部の成立と発展 103 川崎支部の結成(103) 川崎支部の活動と性格(105) 川崎支部と争議(108) 支部の増加と横浜連合会(110) 支部の衰退(112) 二 ヴェルサイユ講和と世論 115 戦勝祝賀とシベリア出兵兵士(115) 戦後論の展開(117) 戦後の「世界の大勢」(119) 講和会議と世論(120) 第二節 普通選挙運動 一 一九一九年から二〇年の普選運動 123 『横浜貿易新報』の選挙権拡張論(123) 普選論と県下の動静(125) 労働団体による普選運動(127) 憲政派の普選運動(130) 総選挙と普選問題(132) 二 一九二二年から二三年の普選運動 134 普選運動の再高揚(134) 横須賀での普選運動(135) 横浜の普選断行市民大会(136) 一九二三年の普選運動(138) 県下の普選運動の特徴点(141) 第三節 教育条件の整備 一 初等教育の変貌 143 就学奨励と出席奨励(143) 二部教授の増加(144) 臨時教育会議(147) 大正自由教育運動の根拠(149) 二 国民道徳の養成と中等学校 152  中等学校制度の変化(152) 中等学校生徒の増加(154) 入試競争(158) 師範学校第二部の増置(160) 女子師範の移転(161) 三 社会教育と青年団 163 社会教育(163) 青年団の全県連合(164) 青年訓練所と軍事教育(166) 第四節 本格化する労働運動 一 戦後恐慌前後の労働運動 169 激増した労働争議(169) 労働団体の結成へ(170) 仲仕共済会と仲仕同盟会(172) 横浜造船工組合の結成(174) 一九二二年の横浜船渠争議(176) 海員組合の結成(178) 二 労働運動の分裂と拡大 181 横浜合同労組と総同盟分裂(181) 総同盟神奈川連合会の結成(182) 県下の評議会組織(184) 横廠工友会の労働組合化(187) 武相労働連盟の結成(188) 横浜市電共和会の運動(190) 横浜労働組合協議会の活動(191) 第五節 農村の変化と小作争議 一 大戦後における小作争議の展開 194 大戦期の農村の変化(194) 県下農村の地域的特徴(196) 小作争議の開始(199) 穀物検査の実施と小作争議(200) 農産物価格下落と小作争議(202) 小作地返還の戦術(204) 小作争議の結果(206) 二 農村社会の変化 208 単独小作人組合の組織と性格(208) 系統的農民組合の成立と活動(210) 地主団体の動向(213) 小作人の社会的進出(214) 流動化する青年たち(215) 第六節 都市の発展と都市改造運動 一 本格化する都市問題 217 大気汚染問題の発生(217) 難問となったゴミ処理(219) 深刻化する住宅難(221) 二 都市改造の試み 224 「新都市論」の提唱(224) 社会行政・都市計画の開始(226) 神奈川県匡済会の成立と事業(229) 第三章 関東大震災と県民・県政 第一節 災害の実情 一 地帯別にみた被害状況 231 九月一日(231) 県内各地の被害状況(234) 震害による損害の実情(238) 二 災害と県民の動静 241 「朝鮮人来襲」の流言と自警団(241) 県下の朝鮮人殺害(243) 朝鮮人救護(247) 第二節 県下の戒厳令と災害対策 一 戒厳令と災害処理の経過(一)252 戒厳令発令(252) 戒厳令施行下の町村(253) 治安維持と救恤保護(255) 食糧確保と伝染病の発生(257) 二 戒厳令と災害処理の経過(二) 262 陸軍の配備(262) 軍隊の活動(264) 災害の復旧(265) 第三節 県民の復興作業の実情 一 震災復興の組織づくりと町村長会 269 神奈川県復興促進会と震災救護(269) 町村財政不足の克服(271) 地域復興会の活動(273) 二 市町村の復興作業の一端 276 横浜市の復興作業(276) 復興財源と市民負担(279) 川崎市の復興作業(281) 第四節 震災後の社会情勢と郡制廃止問題 一 思想善導のなかの社会状態 283 震災後の動揺と思想善導(283) 社会変化と県民感情(285) 二 郡役所廃止と町村自治の涵養 287 町村長会と自治権拡張(287) 町政と自治観念の普及(289) 第二編 昭和前期 第一章 昭和恐慌前後の県政 第一節 金融恐慌の社会への影響 一 行財政問題と社会不安 295 県市町村税滞納(295) 左右田銀行の休業(298) 二 恐慌下の県民の社会生活 302 労働・農民運動の展開(302) 不敬発言と県民生活の窮乏(305) 失業問題の深刻化(308) 第二節 不況下の普通選挙の実施 一 普選による総選挙と県民 313 普選と「善政政治」論(313) 県民の普選観(315) 第一回普選の結果(318) 二 県会議員選挙の動向 320 普選による県議選の動向(320) 政党競合と選挙干渉(322) 政党地図の変化(324) 進出する批判勢力(325) 第三節 恐慌と県政・町村政 一 恐慌対策の基調 327 消費節約への道(327) 経済生活の改善(329) 公私経済緊縮運動の具体化へ(330) 二 公私経済緊縮運動の実情 332 村での実践(333) 運動と農家経済の実情(335) 生活態様調査からみた運動の効果(338) 第二章 「非常時局」の展開 第一節 農山漁村経済更生計画 一 昭和恐慌下の都市と農村 341 零細商工業者と労働者の人員整理(341) 繭暴落下の農村(344) 養蚕農家の窮乏(346) 恐慌下の町村行政(349) 二 経済更生計画と運動の推進 351 農村の困窮と救済請願運動(351) 農山漁村経済更生運動(352) 国民更生のねらいどころ(355) 第二節 満州事変と「国体明徴」運動 一 「時局匡救」のかげの民衆行動 359 労使の対立とエントツ男(359) 消費組合と農民組合(362) 恐慌下世相の推移(364) 二 準戦時体制への道 366 満州事変と在留中国人(366) 召集の拡大と県民(368) 非常時局対応策(369) 第三節 準戦時下の文化と教育 一 教育運動の弾圧と軍国青年の養成 371 県下の新興教育運動(371) 郷土教育(373) 教化総動員と教員給与の減額(375) 中等学校生徒の野外演習(378) 「左傾運動」の防止(380) 国民精神総動員の徹底(382) 二 中等学校進学の道と勤労作業への道 387 中等学校入試制度(387) 中等学校の学区制(390) 集団勤労作業(390) 第三章 太平洋戦争下の県民と県政 第一節 日中戦争と県民の動向 一 戦時体制への道 395 「準戦時」下の県会(395) 戦時体制整備と県民(397) 軍都建設と周辺農村(401) 二 軍需工業地帯の形成 404 運河の建設と電力・工業用水の確保(404) 経済統制強化と横浜港(406) ばい煙と有毒ガス(407) 三 「聖戦」と労働運動 408 労働災害の増大と労働争議(408) 反ファシズムの動きと労働組合の解体(410) 第二節 国家総動員と社会状勢 一 統制強化と農村 413 戦勝祝賀と消費生活(413) 庶民生活の実態(415) 労働力不足と食糧生産(417) 農業生産確保の諸方策(419) 二 工業地帯の拡大と労働者 421 労働者の増加と住宅問題(421) 工業地帯の生態(423) 国防献金(424) 悪化する労働条件と産業報国会(426) 第三節 翼賛政治の状況 一 戦時下の政治統制 428 一九四〇年の県議選(428) 部落会・町内会の創設(429) 統制と増税(431) 二 食糧統制の強化 432 節米と増産(432) 減少する自作農民(434) 「満州」移民(435) 三 軍都の建設と拡張 437 軍都建設事業(437) 軍事色を増す港(440) 四 産業報国会組織の底辺 442 特別高等警察と産報(442) 節米の強要(444) 労働組合・在日朝鮮人への抑圧(445) 第四節 戦時下の教育行政・財政 一 小学校から国民学校へ 448 国民学校の成立と天皇の神格化(448) 市町村義務教育費の国庫負担(450) ミッション・スクールへの弾圧(451) 二 中等学校制度の変更 454 中等教育の総合制(454) 学徒動員(455) 動員生活(459) 三 決戦下の学校と言論統制 461 学童集団疎開(461) 疎開先の生活(465) 言論の統制(467) 第五節 太平洋戦争下の県民生活 一 「聖戦」下の県民 469 「紀元二千六百年祭」(469) 太平洋戦争の開始と県民(471) 二 食糧増産体制の不安 474 食糧自給と農村の再編(474) 米価値上げと貯蓄(477) 三 都市機能の低下 478 配給の地域差(478) 軍事優先の街(480) 四 「銃後」の総動員 482 生産増強にかげり(482) 底をつく労働力(484) 第六節 県民の戦争災害 532 一 戦争破局の状況 488 広がる不穏言動(488) 警察統制の強化(489) 空襲の脅威(491) 二 本土決戦の根拠地 493 食糧の欠乏(493) 本土決戦の準備体制(495) 三 都市無差別爆撃の展開 498 空襲対策(498) アメリカ軍の戦略爆撃(499) じゅうたん爆撃の拡大(500) 四 「終戦」をむかえる県民 502 戦争災害の地域的特質(502) 広がる逃避と厭戦気分(504) 不安と期待の「終戦」(505) 第三編 現代 第一章 占領・復興期 第一節 連合軍の進駐と神奈川県 一 進駐軍と神奈川 511 敗戦直後の混乱(511) 進駐受入れの準備(514) 二 占領下の神奈川県政 518 間接統治のはじまり(518) 神奈川県の特殊性(519) 渉外行政(521) 三 占領下の県民生活 527 進駐兵士との事故(527) 接収問題(531) 占領軍と労働者(534) 基地と風俗(536) 基地と子供(537) 第二節 過渡期の県政 一 戦後県政のスタート 541 戦後県政の出発点(541) 政府施策の浸透(543) 一九四五年の県政の課題(544) 食糧問題(546) 戦災復興(548) 県行政の新しい指針(549) 二 変化への胎動 551 行政機構の混乱(551) 町内会の改組(552) 戦時指導者への批判(554) 政党の動き(555) 公職追放令(556) 三 過渡期の課題 558 外交官出身知事の誕生(558) 憲法草案の発表と総選挙(561) 食糧対策(564) 渉外知事(566) 四 転換する地方制度 570 地方制度の改正(570) 特別市制問題(572) 区域変更をめぐる問題(575) 第三節 社会運動の再生 一 戦後労働運動の出発 577 労働運動の復活(577) メーデーと食糧メーデー(579) 民主戦線運動(583) 二 労働組合運動の発展 585 総同盟と産別(585) 十月闘争から二・一ストへ(587) 民同運動の展開(589) 三 農漁民運動の再生 590 農民組合の組織化(590) 農地改革と農民運動(591) 漁民運動の再生(593) 四 かわりゆく社会運動 594 ドッジ攻勢(594) レッドパージ(596) 労働行政(598) 第四節 教育の再建 一 占領下の教育 601 戦時教育と占領軍指令(601) 教育適格審査(605) 奉安殿の撤去(606) 神奈川県教員組合の結成(608) 平塚太洋中学校長問題(611) 神奈川県教員組合の分裂(612) 鎌倉大学校の設立(613) 二 新教育制度の発足 615 教育基本法の施行(615) 新制中学・高等学校(616) 新しい学区(618) 教育委員会の成立(621) 第五節 日本国憲法下の県政 一 新しい県政の担い手 623 四月知事選挙(623) 市町村長選挙(624) 地方議会議員選挙(625) 二 新憲法下の県政の構造 628 新憲法と県政(628) 地方自治法下の県の位置(629) 県と市町村(631) 町内会・部落会の解散(633) 三 新県政の課題 635 公選知事就任演説(635) 民生・福祉(636) 労働行政(637) 観光行政(638) 警察制度(639) 国の出先機関(641) 職員の問題(642) 四 復興の模索 643 都市の復興(643) 旧軍用施設の転換(644) 都市と農村(646) 水資源(647) 災害復旧(648) 第六節 「経済復興」期の県政 一 県財政の状況 649 「県財政の実態報告書」(649) 新税の創設(651) 電気ガス税をめぐる問題(653) 二 「経済復興」への道 654 吉田内閣とドッジライン(654) 行政整理(656) 貿易(657) 三 行政手法の変容 660 占領政策の変化(660) シャウプ勧告と事務再配分(661) 専門委員の調査(663) 広報活動(664) 公安条例(666) 四 講和後への動き 667 地方選挙(667) 接収地解除への期待(669) 復興諸施策の軌道(671) 新たな制度改正の動き(673) 第二章 高度成長期 第一節 県行政と市町村の再編 一 町村合併の社会的背景 675 合併前史(675) シャウプ勧告(676) 自治体財政の危機(678) 町村合併促進法の成立(679) 二 町村合併の推進過程 680 県下の気運(680) 県の合併計画(682) 全国一の達成率(684) 合併の実態(686) 三 町村合併をめぐる争論と紛争 688 渋谷町の紛争と分村(688) 泉地区の問題(691) その他の紛争と分村問題(693) 紛争の原因(695) 四 町村合併と高度成長 696 促進法の失効以後(696) 町村合併の功罪(696) 新市町村建設と高度成長(699) 第二節 人口の急増と都市化の進展 一 県域工業開発の進行 703 工業化路線の採用(703) ためらいの中の市町村(705) 川崎市の繁栄(706) 都市再建にのりだす横浜(707) 根岸湾埋立てと漁民の反対(709) 盛り上がる工業化熱(710) 二 都市化のなりゆき 711 貧しい住宅事情(711) 放置される都市生活環境(713) 首都圏のベットタウン化(714) 近郊農業の変化(716) 土地利用の混乱と水不足(717) 三 都市化社会と県政 719 定着した近代化の趨勢(719) モータリゼーションの進行(720) 消費社会と都市の変貌(721) 水資源のゆきづまりと水没住民(723) 福祉優先を求める市町村と資源保護の課題(724) 第三次総合計画の策定へ(726) 第三節 平和運動と基地反対闘争 一 平和運動の展開 727 ストックホルム・アピール(727) 全面講和要求運動(729) 水爆マグロと死の灰(730) 広がる原水爆禁止運動(732) 母親運動の開始(735) 二 広がる基地反対闘争 736 占領下の基地問題(736) 岸根基地反対闘争(738) 基地闘争(740) 三 六〇年安保闘争 742 エリコン・警職法反対運動(742) 安保闘争の開始(744) 安保闘争の展開(746) 原潜寄港反対運動(748) 県の対応(749) 第四節 労働組合運動の展開 一 地評の結成と全労神奈川の組織化 751 概観(751) 地評の結成(753) 電産ストと日産争議(755) 全労神奈川の組織化(758) 二 春闘労働組合運動 759 春闘の開始(759) 生産性向上運動(761) 鉄鋼争議(762) 安保闘争と労働組合(764) 三 労働組合運動の再編 765 春闘の拡大(765) 中小企業争議(767) 神奈川同盟の発足(769) 労政行政(771) 第五節 工業化と公害問題 一 取締体制から調整体制へ 773 ふたたびはじまった被害(773) 産業の優先か健康の優先か(774) 県条例と初期公害紛争(777) 二 復興する京浜地帯の公害反対運動 780 朝日製鉄熔鉱炉建設問題(780) 川崎のばい煙追放市民運動(782) 朝日製鉄の操業強行(784) 三 都市環境の悪化と市条例制定の要求 786 工業立地の促進(786) 悪化する都市環境(787) 健康被害の現実化(788) 市民の市条例制定要求(790) 四 公害事前防止へ 792 激変する県下の環境条件(792) 工業化のゆきづまりと住民(793) 住民生活防衛のための地方自治へ(795) 第六節 拡大する教育条件 一 苦悩する教育 797 二部授業の実態(797) 川崎市の二部授業(799) 基地と教育環境(801) 環境浄化運動(802) 二 勤評神奈川方式と高校教育 804 勤評誕生の背景(804) 勤評神奈川方式(806) 高教組の分裂(808) 高校生急増対策(811) 私立学校への助成(814) 第三章 「工業化」以後 第一節 開発の中の社会問題 一 高度成長政策の帰結 819 神奈川県の総合開発計画(819) 開発政策の矛盾と転換(822) 社会問題発生の背景(825) 二 悪化する生活環境 828 住宅問題(828) 下水道と清掃問題(830) 不足する教育施設(833) 三 荒廃する県土 837 道路・交通問題(837) 災害に弱い県土(839) 乱開発と農業(842) 第二節 自治と住民参加 一 住民福祉と地方自治 845 地方自治の課題「すみよさ」(845) 横浜市の自治体改革(847) 都市問題と自治体(850) 二 自治体経営と住民運動 852 県域の再開発計画(852) 居住環境を守る住民の運動(853) 要綱行政と都市づくり(855) 自治体行政と住民運動(856) 三 地域住民と参加型自治 859 地域福祉とボランティア活動(859) 参加型自治体の進出(861) 第三節 公害反対運動 一 公害行政先進地帯としての神奈川 865 県の新条例体制(865) 横浜市の「公害防止協定」(867) 新設工業地帯と既設工業地帯の明暗(870) 市民の啓蒙とその限界(871) 二 コンビナート公害と住民生活環境 874 川崎市反公害住民運動のスタート(874) 公害対策基本法制定前後(876) 湘南のコンビナート進出反対運動(878) 硫黄酸化物環境基準と京浜地帯(879) 日本鋼管の扇島への再立地計画(881) 三 公害への憤り 883 日常生活をとりまく有害物質(883) 環境をとった日本鋼管(884) 東京湾ヘドロ事件とカドミウム米(885)  公害病の告発(887) 四 良好な環境の回復に向かって 888 良好な環境を求める住民(888) 汚染総量の削減へ(889) 県民を震憾させる未知の公害(890) 回復の徴候と新たな課題(892) 第四節 自然・文化財保護運動 一 胎動する市民・住民の保全運動 893 江の島観光開発と指定解除問題(893) 動きはじめた住民グループ(894) 鎌倉御谷宅造反対運動と風致保全(896) 散在孤立する住民運動(898) 二 「環境」から「自然生態系」へ 901 「相模湾を守ろう」から「神奈川自然保護連盟」へ(901) 乱開発の進行と地域自治(904) 公害・環境破壊と「自然を返せ」(906) 三 自然と人間の共生する地域社会へ 909 自然への憧れと荒廃する都市(909) 都市内部に自然を創造する(911) 高度成長下の都市化のつけ(914) 自然回復への闘いのはじまり(915) 第五節 住民運動の現段階 一 消費者運動の発生と背景 917 消費者問題の背景(917) 消費者運動の発生と発展(919) 二 消費者運動の発展 921 啓蒙期の消費者運動(921) 発展期の消費者運動―生活学校(924) 生活協同組合の運動(927) 三 石油パニック下の運動 929 石油パニック(929) 消費者団体の活動(930) 石油パニック以後(932) 四 消費者行政の展開 934 消費者保護基本法の成立(934) 神奈川県の消費者行政(935) 石油パニックと県の対策(937) 県消費生活条例の制定(938) むすび 「地方の時代」への模索 執筆分担一覧 年表 付表 度量衡換算表 現行市町村別旧村一覧 年号一覧表 あとがき 口絵 大正自由教育の始まりをつげる尋常高等元街小学校校誌「学之窓」(横浜市立元街小学校蔵) 震災と同時におきた横浜市の火災を示す図(『神奈川県震災誌附録』) 焦土となった横浜市街(『大震災写真画報』) 昭和恐慌下の世相 食事をする労働者(神奈川県匡済会蔵) 寿署内に正月用の餅と米の配給を受けに集まった人びと(県立文化資料館蔵) 戦意高揚をはかった雑誌・百人一首 少年倶楽部・キング・愛国百人一首(津久井郡郷土資料館蔵) 出征兵土を送るために使われたタスキ・のぼりと弾よけとしてつくられたチョッキ(平本正義氏蔵) 平塚の戦災の様子を描いた電話局付近と焼夷弾の絵(杉山泰一氏蔵) 川崎市内の戦災状況(武藤光蔵氏蔵) 敗戦直後の住宅難と食糧難の状況(『KANAGAWA1945-1955』) 戦後県政で重要な役割を果たした内山岩太郎知事の『日記』(内山小太郎氏蔵) 戦後教育民主化政策の一つとして実施された教育委員の公選ポスター(永野勝康氏蔵) 人口増にともない都市は大きく変貌した 藤沢駅付近-一九六五年ごろ(藤沢市文書館蔵) 同-一九八二年二月現在(県史編集室蔵) 県庁屋上からみた鶴見・川崎の工場地帯(県史編集室蔵) 第一回「地方の時代」シンポジウム(神奈川県庁蔵) 装てい 原弘 (裏表紙・遊び紙のマークは県章) はじめに 通史編の近代・現代は四巻からなり、そのうち、⑴と⑵を政治・行政編、⑶と⑷を産業・経済編に大別した。なお政治・行政編は広く社会及び文化・教育をもとりいれ、あわせて記述している。 本巻、政治・行政編2は、政治・行政編1でとりあつかった明治前期から大正初頭までの記述をひきついで、第一次大戦下の県内の政治・社会状況から筆をおこし、一九七〇年代までを対象にすえている。そして、全体を総説と三編に分けて構成した。 総説は、大正と昭和の時代の神奈川県を時代の社会変化と政治の推移として、日本の近現代史の中で総体的にとらえ、各編の理解を助けるように記述した。 本論にあたる各編は、政治行政の展開と県民のそのときどきの生活とか、政治や社会への動きを主軸にすえ、社会状態、教育・文化等の状況をからめて叙述し、総合的に本県の発展の跡と現状を明らかにすることにつとめた。 第一編は「大正期」として、第一次大戦下の県内の政治状況や政治運動・社会改革とデモクラシーの影響のもとであらわれた労働運動をはじめとするさまざまな社会運動についてふれた。なお、ここでは、東京とならんで全国でもっとも大きな災害を受けた関東大震災について特に一章を設けてこれをあて、政治・社会問題の角度からあつかった。 第二編は「昭和前期」として、恐慌下の県内の諸相から、「準戦時」体制への道についての解明をこころみた。そして、日中戦争、太平洋戦争下の県民の動静を含めて、さまざまな統制や戦災による被害の実体についても言及した。 第三編は「現代」として、敗戦後から今日の神奈川県の現況をとりあげ、まとめてみた。この時期は、占領、民主化政策、制度改革など戦後の混乱と新しい時代への模索の跡を叙述した。また、その後の経済発展のなかでもたらされた諸問題、すなわち、環境・公害行政についてもふれ、時代の変化をも考慮して、そこで新しくくりひろげられた県民の動向を併記した。 むすびは、通史編4・5を総括する「『地方の時代』への模索」と題して、「地方」のもつ意味について神奈川県の実状にそくして検討してみた。 総説 大正・昭和時代の社会と政治の推移 一 大正デモクラシーと「先進県」 「明治」と呼ばれる長い時代をたどってくるなかで神奈川県も徐々にその姿を変えてきた。その様相については『神奈川県史通史編4近代・現代⑴』の総説「明治時代の地方政治と社会風土」であきらかにした。ここではその叙述を受けついで大正から昭和時代にかけての県下の社会と政治に関する変貌の跡を、大づかみながらあきらかにしておきたい。 大正政変・第一次護憲運動とその後の各地の中小商工業者を中心とする営業税等々の廃税運動は、近代日本に一つの節目をきざみながら、政治のうえに新しい「時代」を切り開きつつあった。横浜を中心とする政界、実業界もこの激しい変動の波に巻き込まれ、政友会系と横浜市政刷新派(立憲同志会系派)の競合・対立というこの地特有の政党のつばぜりあいの浮上によって県政界の空気もその様相を変えていた。 このような「時代」の流れのなかで、あらためて強調しなければならないのは、神奈川県が工業化という名のもとで「先進県」として大きくはばたきはじめていたことである。事実、川崎町とその周辺の多摩川の下流や鶴見川下流沿岸地帯を拠点として、京浜工業地帯は第二の発展期にはいっていた。浅野総一郎が埋立組合-鶴見埋築会社をもち、県の事業許可をえて田島村の大島海岸、鶴見川沿岸の埋立事業を行ったのは一九一三(大正二)年から一五年にかけてであり、「京浜の高炉」で名をとどろかせた日本鋼管が稼動したのは一九一四年であった。この工業化の進展のかげには、その後、朝鮮人が労働者として県内に移住してさまざまな労働に従事し、工業化を推進していく支えとなっていた事実を見逃すことはできない。朴慶植編『在日朝鮮人問題資料集成第一巻』によると、その数は一九一七(大正六)年には二百十六名であったのが、二〇年末には五百十四名、二四年には四千二十八名となり、なお増えつづけていた。また、京浜工業地帯には、沖縄県から移住してくる者も多かった。沖縄県の海外・県外移民は、親泊康永『窮乏日本の新興政策』も指摘しているが、「ソテツ地獄」の名が示すとおり同県の窮乏化のなかで一九二〇年代には、年平均七千七百九十名を数えていたのである。そのうち、神奈川県への移住は、大阪府に次いで多く、一九二五年夏現在、二千八百四十五名を数え、その多くが富士瓦斯紡績をはじめ、土木建築業の労務にたずさわっていたことがあきらかになっている(『沖縄県史』第七巻)。この沖縄県民の存在を抜きにしては、京浜地帯の工業化を語ることはできない。 ところで、この間、第一次世界大戦が勃発し、日本も参戦を決定した。一九一四年八月八日のことである。ときの首相大隈重信は、日本の参戦は日英同盟に基づく「義戦」であるとともに、中国における日本の権利を伸長するためであると説いた。また、この大戦を「大正時代の天佑」であると名づけたのは元老井上馨である。そこには、この大戦を利用して、東アジアにおける日本の利権を確立しようとする意図と護憲運動以来とみに高揚してきたデモクラシーや廃税等々の諸要求や運動をおさえて、これまでの経済不況を脱し、国論を統一していこうとする意味がこめられていた。 しかし、大正デモクラシーと呼ばれる潮流や政治的雰囲気をかき消すことはできない。たしかに大戦下において、地方行政の場でも、「挙国一致」の力をあわせて国運の発展に努力をかたむけることが強調されていたが、この日本の「国益」涵養とともに、立憲政治というような用語が行政指導の基準にすえられるようになってきていた。この立憲政治を重視する立場は、政党政派にたいする「厳正中立ノ態度」をとることの代替表現であるが、しかし、政党政派の進出と社会的混乱が広がるなかで、民力の向上をはかりながら、「町村自治ノ基礎」を確立し、地方自治体の発達をうながしていく鍵にもつながっていたのである(資料編11近代・現代⑴二二七・二四二)。そこには、大正デモクラシーの時代の趨勢がそれとなく反映していることは否定できない。 工業化と時代環境の変化を背景に、政友派と刷新派-横浜自治倶楽部は、横浜市域の拡大による選挙区条例改正とか、電気事業計画、道路整備計画等々争点となるものはことごとく政治問題にとりあげ、県会・横浜市会の内外で対立をふかめていた。その舞台も時代がくだるにしたがって横浜周辺から県下一円に広がっていく気配をみせていた。 政党・政派の対立が人目をひくようになったのは、工業化・都市化の進展のなかで商工業者に足をすえた刷新派と地主層の利害関係を重視し、既成秩序を保守する政友派との政治的差異が明確になってきたからでもある。と同時に、立憲政治を要求する世論におうじて「官権・金権」政治への批判の風潮もまた高まっていた。しかし、その反面、明治後半期からめだちはじめた地域間の利害にからむ内紛等をめぐって、政党・政派の確執、それにとくに選挙のさいにおける買収・饗応・情実にからむ現象も渦を巻きはじめていたことも否定できないが、そうじて、政治の世界はあきらかに移り変わりつつあった。 また、大正期にはいると、中小商工業者以下労働者・農民層たちの政治的・社会的進出もめだち、神奈川の諸地域のすみずみにまで変化をおよぼしていく気配があらわれていた。とりわけ、京浜工業地帯の工業化と都市化の急速な進行のもとで、明治から大正はじめにかけての経済不況を背景に改良主義の空気が流れはじめていたのが目につく。そのかなめとして、一九一三(大正二)年六月に川崎町に友愛会川崎支部が誕生した事実をみのがすことはできない。 川崎支部は、友愛会のはじめての支部であり、当初、東京電気と日本蓄音器商会の工場労働者を中心にして会員百十余名を擁していた。そして、支部設立の三か月後には、前川崎町長石井泰助が支部長に就任し、その後、会員には町の在郷軍人分会長、小学校長、町内の有力者層が実質的に参加していた。友愛会の川崎支部は、たしかに労資協調を本位として出発したが、支部結成直後、日本蓄音器商会川崎工場での争議を手がけていた。この争議は、工場の全従業員の委任を受けた会長鈴木文治の個人的奔走により労働者側に有利なかたちで結着をつけた。この結果、友愛会の信用は高まり、新入会員が続出するなかで、支部は、医療部の無料診察など厚生事業の活動をつうじて広範な民衆に影響力をおよぼしていった。 神奈川県下における友愛会の活動は、翌年にはいると、程ケ谷、横浜、横浜海員の三支部の設立をみて活発化していった。このなかで、とくに横浜海員支部は、浜田国太郎が中心となって創立したもので、のちの日本海員組合の前身となる。こうして、京浜工業地帯は、友愛会が労働組合としての性格をもち、第一次大戦後、大日本労働総同盟友愛会と名称を改め、さらに戦前日本の労働組合運動の主流をかたちづくった日本労働総同盟に成長していく足がかりの場となっていた。 このような「時代の趨勢」のなかで、一九一五(大正四)年八月から一九一九年四月まで県知事をつとめた有吉忠一は、その『回想録』(資料編11近代・現代⑴二二九)のなかで、「自分の地方長官としての心構へは、常に県民本位であり、県民のために公害を除き、県民のために公利を計り、管下の進歩繁栄」をつくりだすことを方針としていたと回想している。これは、川崎の民権家井田文三などが多摩川の改修をとりあげて以来、長年にわたる沿岸住民の強い念願を受けいれて、有吉知事が河川法の施行区域外に里道を設けることを許可し、そのために内閣の譴責処分を受けたときの考えであった。有吉知事は、一説によると「上の人を恐れない」「万人の幸福のため」という信念の持ち主であったらしい。「多摩川堤防問題」は県行政担当者が「県民主義」の立場からの行政を推進していかなければ効果をあげえない事情の一端をものがたっている。 しかし、政治機能とか行政作用が時代の流れや社会の動きに適応しなくなり行詰りをみせていくとき、往々にして激しい社会変動を呼びおこしていく。第一次大戦期の後半には、そういう徴候があらわれ、大戦景気のなかで未曽有の経済成長をみせた日本の経済は「成金天下」を出現し、各地で労働力の不足をもたらす一方、米価をはじめとする諸物価の高騰をまねき、中産階級以下の民衆は生活難にあえぎはじめていた。こうした事態にたいして、ときの寺内正毅内閣の米価調節、暴利取締りなどについての政策はまさに無為無策というべきであった。一九一八年の夏、青森・岩手・秋田・栃木・沖縄の五県をのぞいて一道三府三十八県で三十八市、百五十三町、百七十七村にわたってひきおこされた米騒動は、民衆がみずからの手で生存権を要求し、生活危機を打開しようとした近代史上最大の規模の民衆蜂起である。 神奈川県下の米騒動の実情は、横浜市の場合、八月十五日夜、約三千名(一説によると二千名)の群衆が二度にわたって横浜公園に来集したが、この日は拘引者をだしたので解散し、翌十六日夜、横浜公園に集合した群集が十七日午前三時ごろまで、伊勢佐木町を中心に商店、民家に投石したり交番を破壊し、十七日も吉田橋から伊勢佐木町大通りを経て足曳通りから長島橋にいたる区域で群衆が不穏な行動にでた程度で、ここで多少の不穏な形勢を残しながらも、この日の騒動をもっていちおう終わりを告げていた。その他の地域では、横須賀市において八月十五、十六日に諏訪公園内で民衆が集会をもったが、暴動にまでいたらなかった。また橘樹郡保土ケ谷町では十六日株式会社保土ケ谷曹達工場のばい煙公害問題とのかねあいで、群集が同会社に押しかけ工場の一部に火を放ち、暴動状態を呈していた。このほか騒動までにはいたらないけれども不穏な動きをみせていた地域としては、橘樹郡御幸村南河原の日本製鋼会社、足柄下郡小田原町などをあげることができるていどである。 神奈川県下の騒動の実情は、騒動が全般的に激化した東海道、山陽道の地域のなかでは平穏な部類に属していた。というのは、第一に県当局が県令第六六号で「十人以上連行、または集合、佇立する」ことを禁じ、違反者は拘留または科料に処する取締りの措置をこうじていたからである。しかも有吉知事の「県政回想」にもあるように、小田原の閑院宮別邸に泥棒がはいり、そのため県下全域にわたって大がかりな捜査を行い、事実上警戒体制をとって、そのために「米よこせ」のビラやチラシを発見し不穏な動きを事前に防止することができたのが騒動を抑制しえたひとつの要因になっていよう。第二には、有吉知事が不穏な情勢をとらえて外米を大量移入して騒動に先手を打ったことが大きくものをいっていたようである。 米騒動後、日本ではじめての政党内閣である原敬政友会内閣が誕生した。と同時に、米騒動を契機として第一次大戦後には「争議の時代」「民衆の組織化」と呼ばれる社会風潮がうねりをみせはじめていた。横浜・川崎の都市、工場地帯での労働運動とか、政治的自由獲得運動も盛り上がりをみせ、そのため政治の衝に立ってみると、「危険思想ガ充満シテ不穏ノ状態」にあると判断せざるをえない世相が広がっていった。 このような社会情勢のもとで第一次大戦後の「戦後経営」は、行政内容の多様化、複雑化とともに、「政治的牧民官」的な行政の域を脱して「社会政策」的視点を加味していかざるをえなくなっていた。また一方では、一九二〇年の恐慌により町村財政は決定的な打撃をこうむりその救済問題が大きな課題となっていた。地域の指導者が「郷党の中心」となり「地方の進歩」をうながすことを要請されるようになるのもこのころである。こうしたなかで、県知事井上孝哉が訓示しているように、「国体ノ精華」「立国ノ本義」というような伝統的観念にくわえて、「時運ノ趨勢」とか「憲政有終ノ美」を実現するように「責任観念」「自治観念」を強調し、大正デモクラシーの社会風潮に順応する観点をとりいれざるをえなくなっていた。有吉県政から井上県政の時代にかけては、大正デモクラシーの時代の影響を反映しながら労資協調とか貧困者の福祉問題をとりあげるようになってきていた。たとえば横浜匡済館、川崎匡済館の設立の援助とか、公衆浴場、授産所、託児所の設置などはそのあらわれである。 また、県では、県内に水平運動の影響があらわれるころ、被差別部落の人びとを対象とする融和団体を設立した。一九二四(大正十三)年の夏、円覚寺の塔頭黄梅院の住職で県社会課嘱託でもあった中村無外を中心につくられた青和会がそれである。 「社会連帯の人類愛」を基調にすえた青和会は、青年を中心に社会啓蒙を行おうとした(藤野豊「地方融和団体の理論と運動-神奈川県青和会の検討」『部落問題年報』二)。デモクラシーの流れのなかの行政作用の一つのあらわれである。 二 関東大震災・昭和恐慌下の県民と県政 一九二三(大正十二)年九月一日、関東地方の南部を大地震が襲った。この大地震は、日本の政治・経済の心臓部ともいうべき東京・横浜を壊滅状態におとしいれ、政治・行政のあらゆる分野が麻痺状態におちいった。また、その未曽有の災害は自然現象にとどまらず、人災の感すらあり、しかもこの災害ショックによって社会は混乱の渦に巻き込まれた。そして、罹災者をさらに混乱のなかにおとしいれたのは、横浜・川崎の一部にとんだ社会主義者、朝鮮人、一時釈放された囚人の襲撃の流言であった。この件について警視庁警保局長が全国に「不逞朝鮮人取締」りを打電し、翌九月三日には関係地域の郡市町村に通達がおろされ、「不逞朝鮮人」が暴行をくわえるだけでなく井戸水などに毒薬を投げこむ事実もあるから、「伍人組」などを活動せしめて自衛の道をこうずるよう指令していたほどである。こうして各地に自警団が組織され町や村の要所を固め、その任には消防組、在郷軍人分会、青年団などがあたった。この自警団は、民衆の極度の恐怖心に基づいてつくられたものであるとはいえ、その暴虐さは歯止めを欠き、「朝鮮人虐殺騒ぎ」をおこしていった。もちろんなかには迫害されている朝鮮人を保護したり救護した良識ある民衆もすくなからずいた(西坂勝人『神奈川県下の大震火災と警察』)。しかしこのような動きは、殺害事件に対抗する秩序をつくりだすまでにはいたらなかった。 災害と社会混乱のなかで九月三日、神奈川県に戒厳令が施行された。戒厳令は一種の臨戦態勢のもとで外患、内乱にさいして適用されるのであって、地方行政事務、司法事業も軍事に関係のあるかぎり、いっさいの権限が現地の司令官の手にゆだねられ、糧食分配のさいの秩序紊乱、不穏破廉恥行為を注意するとともに、「不逞団体蜂起」の誇大流言を戒しめていた。各戒厳地区指揮官は、それぞれの地区内で「治安維持ヲ担任シ地方官憲ト協力シテ罹災民ノ救恤保護」につとめることを任務とし、地方行政のあらゆる分野にわたり、すべての社会関係を規制していた。 震災という異常事態を乗りきっていくためには、災害対策とともに復興運動を進めていかなければならない。九月十三日の三浦郡町村長会議は、震災救護運動の先駆的なとりくみであった。震災が県財政から町村財政にあたえた打撃は絶望的であり、県下の町村長会をはじめとする震災救護運動は十月にはいると活発をきわめ、徴収不能な町村税の欠損分・小学校費・土木費などの地方公共団体の経費に属する施設復旧費の国庫負担を要求し、国税・県税を免税にしようとしていた。また、神奈川県民を網羅しての神奈川県復興促進会をはじめ、横浜復興会を先がけとしてさまざまな復興会が組織されていった。 震災から二か月半たった十一月中旬、戒厳令が解除され、そのころ「国民精神作興ニ関スル詔書」が発布された。この詔書は国民に「浮華放縦」の気風、「危険思想」を断ち切り、国力の振興をはかるために精神をひきしめるべきであるという趣旨のものであった。 大正末年から昭和恐慌期にかけての思想善導運動は、すべて「国民精神作興ニ関スル詔書」の線上に沿って進められ、地方行政の場では「綱紀ノ粛正」「質実剛健」「節約貯蓄ノ奨励」というかたちをとって推し進められていく。ところが、大正末期から昭和初年にかけて、町村財政のいちじるしい悪化と諸産業の衰退-慢性的不況にくわえて、経済状態は悪化し、震災手形のこげつきなどでついに金融恐慌の波のなかに巻き込まれて、民力は極度に疲弊していく。こうしたなかで、郡役所が廃止され、神奈川県町村長会は「自治能力ノ充実」「自治権ノ拡張」をどうはかっていくかを最大の課題として掲げていた。しかし県民の担税力の低下により、震災の打撃とともに地方財源は枯渇しきっていったのである。 ところで、この金融恐慌から昭和大恐慌の局面にかけて、経済的・財政的危機は極度に進行した。その最中、県知事山県治郎は、難局を打開するために「質実剛健」と「勤倹力行」の風を底辺から培養すべきことを強調していた。それは浜口民政党内閣の「財政緊縮」「産業合理化」「金解禁」の政策によるものであるが、ここから教化総動員運動と公私経済緊縮運動が大々的にくりひろげられていく。恐慌の過程でのこのようなキャンペインは、町村長会の運動とともに脆弱な地方自治体を媒介として社会の再編成-「革新」的要素をにじみだしながら国家を直接に支えていくという制度化をうながしていく契機となっていた。 当時、一九三〇(昭和五)年現在の県下の失業者数は約一万八千人で、全国で第三位であったという。この数字は、おそらく内務省社会局の失業者推定数約三十一万五千人の数値の一環で、当時この数値が批判され実際には約十倍と推定されていただけに、実際の数はぐんと高くなる。そして、農村では、恐慌による繭価の大暴落で、県下の全農家の四〇㌫を占める約三万戸の養蚕農家は現金収入の道を断たれ、農家の負債総額は、約六千五百万円に達し、これを農家一戸当たりに手直しすると八百三十五円という額にのぼっていた。この数値は、関東地方でみると茨城・群馬のそれよりもはるかに高い。 このような実情にあったからこそ、一九三二(昭和七)年のあの五・一五事件は「一の社会問題」のあらわれであり、事件のよって立つ理由は奥ぶかいところにあった(『木戸幸一日記』上)。その後、この荒廃し悲惨な状態にある農村救済が大きな課題となった。五・一五事件で政権を担当した斎藤実内閣の農相後藤文夫は、この年の十月、農山漁村経済更生運動を打ち出した。この運動の目的は、農山漁村の病弊の現状に照らして、「其ノ不況ヲ匡救シ産業ノ振興ヲ図リ以テ民心ノ安定ヲ策シ進ンデ農山漁村ノ更生ニ努ムル」という点に置いていた。 その計画の具体的内容は、農山漁民の自覚をうながし、「隣保共助共同融和ノ精神」と「自奮更生ノ熱意」をもって農山漁村の経済の整備改善を、それぞれの地域の特殊事情を考慮して、具体化することにあった。そのために、県から市町村にかけて、更生計画をたて、運動を指導する機関としてそれぞれ更生委員会が設置され、経済更生、市町村財政の再建、公私生活の改善という内容にくわえて、産業全般にわたる組織的統制計画に関する調査立案、更生運動指導者講習会の開催等々、国民のあらゆる階層に自主的に運動にたずさわることを喚起していた。県下の更生指定町村は、一九三二年から六か年間に九十三町村にのぼっていた。農山漁村経済更生運動は、もう一つ大きく国民更生運動としての性格をおびながら、中国東北部(満州)への膨脹と国内改造運動の視座で、「愛国的熱情ト信念」を県民にかきたて、統制経済と国民統合を強め、結果として戦時体制を整えていく方向をたどっていった。 三 戦時から敗戦にかけての神奈川 一九三七(昭和十二)年七月に勃発した日中戦争は戦時体制への移行を推し進めていくきっかけとなっていた。ときの首相近衛文麿が目指していた「国内相剋の解消」という課題も、戦争によってかたがついていった。そして、日中戦争が本格的な戦争として意識され、「祝出征」ののぼりがめだち戦時風景が出現するにおよんで、この年九月には国民精神総動員運動が開始されていった。「国体観念ノ明徴日本精神ノ昂揚」を強調して社会のなかに徹底していくこの運動は、県下においては大船、茅ケ崎、平塚、小田原の東海道沿線にかけての兵器産業を中心とする湘南工業地帯の形成とあいまって、経済から社会の域にかけて戦争体制を固めていく運動のきっかけとなっていた。 さらに、翌三八年三月には、戦時統制法規の集大成ともいうべき国家総動員法と電力管理法が日の目をみて、戦争体制の根幹がつくられた。国家総動員法は、労務、物資、資金、物価諸施設などの経済部門、情報伝達、国民生活のあらゆる面を、政府の統制下におく、いわゆる「戦時動員」であった。この総動員法については、反対の空気も流れるなかで近衛首相は、今回の戦争には直接これをもちいないと言明していたが、はやくも夏には総動員法に基づき労働力への統制が打ち出され、急速に経済統制から物資動員計画がねりあげられていった。 軍需優先主義に立つ経済統制の強化は、とうぜんのことながら、民需にしわ寄せをもたらし、なかんずく非軍需的中小企業を苦境におとしいれており、すでに一九三八年には転失業問題が話題になっていた。統制の強化は、また、国民の諸活動の自由を奪うものであり、不安を醸成していく。それだけに、地域からの体制固めが必要となる。中郡秦野経済報国会の「会則草案」は、すでに「八紘一宇」や「挙国一致」の呼びかけのもとで、消費節約、貯蓄奨励、生活改善運動とか、隣組制度とあいまって戦争の国策に、どう協力しようとしていたか、その傾向の一側面を伝えている。 ところで、戦争遂行の政治革新の担い手として、一九四〇年当時、新体制運動の中心の担い手であった近衛が再び組閣するにおよんで、「大東亜新秩序の建設」のために「国防国家」の建設とあいまって国内の態勢刷新が問題となり、「強力な新政治体制の確立」が国策として定められた。この国内における新体制運動は、日本の南方進出政策とあいまって急速に進み、その結果として大政翼賛会が発足した。一九四〇年十月のことである。「大政翼賛の臣道実践」を旗印として掲げるこの組織は、ドイツのナチスばりに「一国一党」論に基づいており、中央から県、市町村にかけてのさまざまな指導者層を会に組みいれて、「国民家族会議」と称し、地方の隅ずみにまで戦争遂行のための上意下達のパイプを強化し、その「組織細胞の末端」にまで「愛国の赤誠」をみなぎらそうとするものであった。 大政翼賛会は、政権が近衛から東条英機に受けつがれ、一九四一年十二月に太平洋戦争に突入するにおよんで、まったく上から下への官僚統制の組織と化していった。東条内閣は、思想統制を強め、戦争批判の声を封じ込みながら、大政翼賛会のもとに産業、商業、農業、あるいは言論、文学などのあらゆる報国組織を統合し、戦争遂行のために国民を縛りつけていった。たとえば、経済面では、大政翼賛会神奈川支部と県農会、その他の関係団体とが提携して食糧増産の組織運動をくりひろげているし、文化面では「県下伝承芸術ノ振起活用」を、戦争に不可欠なものとして、翼賛運動に組み込んでいた。 県下における翼賛活動のその後の状況については、一九四二年の「総員戦闘配置」を強調する局面にはいると、「空襲は必至」「疎開を行ふ地域」「疎開も戦闘配置の一つ」という、いわゆる防衛策も加味されてきた。そして、戦局が日増しに不利になるにしたがって、一九四三年には、県民にたいして「自省自奮一意決戦生活」の覚悟が強要されていった。こうしたなかでこの年から翌四四年にかけて、ガダルカナル島からの撤退、アッツ島玉砕、サイパン島からの米機の空襲がはじまる時点で、「大東亜共栄圏」の構想も地におち、戦争経済もゆきづまり、国内の戦争体制も自壊していく道をたどっていった。敗戦への坂道を転がり落ちていく実情を示すものである。この間、都市部の横浜、川崎、平塚などの諸都市では、はげしい空襲をうけ、多くの人命を失い、施設を破壊された。 一九四五(昭和二十)年八月十五日、この日は、ポツダム宣言を受諾し、日本が「無条件降伏」という敗戦を迎えた日である。国民の多くは、これまでの日本の劣勢な戦闘能力の実態も知らされていなかったし、降伏のいきさつについても、まったくつんぼさじきにおかれていた。支配層は「国体護持」に望みがもてるかどうか、敗戦の混乱によって革命がひきおこされるのではないかどうかと、もっぱらその点をいたく恐れ、神経をそばだてていたが、国民は、敗戦によって大きな衝撃を受け、「玉音を拝して感泣鳴咽」という心理状態におちいっていた。 たしかに、敗戦は国民にとってみれば「感泣鳴咽」という感情が一般に支配していたが、もちろん神奈川県民のなかには、当時のいろいろな回想録や手記、あるいは日記等を読んでみると、安堵の胸をなでおろした人、将来に不安とおののきを抱く人、徹底抗戦を決意する人などさまざまな反応があらわれていた。こうしたなかで、明治・大正・昭和の風雪のなかを村の指導者として生き抜いてきた相沢菊太郎(相模原市元橋本)は敗戦に直面して、支配層は「下民ニ重圧ヲ加ヘツヽ協賛ノ任」をつくせといいながら、その実は、「組織ハ密ニテ動ケサル様ニテ働ケ」と強制に終わり、結局は「忠臣皆無」ではなかったかと、ユニークなとらえかたをしていた(資料編12近代・現代⑵相沢菊太郎日記)。 ところで、神奈川は、「一億玉砕」の抗戦から降伏へという転換のなかで、連合国軍進駐の計画を無事故で実現し、軍隊と国民に敗北を納得させ、あわせて「国体護持」をいかにはかっていくかという敗戦処理にあたる東久邇宮稔彦内閣の役割を担う主要な舞台になった。実際、八月二十一日、後藤真三男県内政部長らは内務省に呼ばれ、連合軍の進駐を神奈川県でくいとめるよう途方もない命令を押しつけられていた。そのときには、三浦半島に占領軍を釘づけにすべきであるという主張もあらわれていた(西田喜七「敗戦と神奈川の渉外行政をめぐって」『神奈川県史研究』二八号)。結局この会議に出席していた外務、陸・海軍、鉄道の各省の代表らは、中央では進駐の要領も予想できないとの判断で、鈴木九万公使らを横浜に派遣して県と各省代表とで終戦連絡委員会横浜事務局をつくり、県が仕事をまかせられるかっこうになった。とうぜんのことながら、県庁や横浜市役所は蜂の巣をつついたように大騒ぎになったという。そうしたなかで、神奈川県は、マッカーサー司令官以下の連合国軍の受入れ態勢をととのえる命令を受け、物資も労力も不足がちななかで、県と横浜市の職員は、懸命になって深夜作業で進駐受入れの設営、調達にあたったというエピソードもある。マッカーサーら本隊は、八月二十八日、テンチ大佐の率いる先遣隊、アイケルバーガー中将らにひきつづき、三十日に厚木飛行場に降りたった。すでに、抗戦継続を叫んでいた厚木航空隊の将兵も、進駐をまえに徹底抗戦を断念し、進駐は、「流血の惨」をみることなく完了した。この間、県は、政府の命令を実行に移すために、横浜税関を連合国軍総司令部にあてることを決定してホテル・ニューグランド、生糸検査所附近あたりで進駐をくいとめようという設営計画をたてていた。もちろん、進駐軍の宿舎も、おまけに慰安設備もととのえられた。しかし、ことは思惑どおりにはいかなかった。マッカーサーは、ホテル・ニューグランドにはいった。そして、連合国軍と円滑に折衝する機関として設けられた終戦連絡委員会横浜事務局と横須賀終戦連絡委員会が連合国軍の進駐にともなう折衝と事務処理にあたることになった。 四 占領と復興と民主化の道 当初、連合国軍は、きびしい軍事占領の線に沿って、天皇を連合国最高司令官のもとにおき、軍政を全面的に施行していくかまえをとっていた。が、一九四五(昭和二十)年八月末、米政府からマッカーサーに通達してきた「降伏後におけるアメリカの初期対日政策」によって、日本の占領管理は、アメリカの政策が優先することをあきらかにしながら、日本政府をつうじて占領管理を行っていくという間接統治の方式をとることが確定した。しかし、占領軍の接収は徹底をきわめ、横浜の場合をみると、官庁、銀行、大手の商社などが密集する関内一帯はもちろんのこと、盛り場の中心地伊勢佐木町には飛行場がつくられるなど市の主要地帯の大部分は接収されたのである。横浜市の土地の接収総面積は、約八百二十ヘクタールで、計算してみると、日本全土の接収地域の約六三㌫にあたっていた。 占領下でなんといっても重要な行政上の課題は、占領軍と住民との無用な摩擦を避け、廃虚のなかから復興をいかにはかっていくべきか、ということにかかっていた。このへんのいきさつは、敗戦の年、知事藤原孝夫が県下市町村長懇談会において行った訓示要綱のなかにとらえることができる。そこでの大きな眼目は「国民生活ノ安定」をいかにはかっていくかということであり、そのために食糧と生活必需物資をどう確保していくか、悪性インフレーションをどのように防止するかという問題が大部分をなしていた(資料編12近代・現代⑵一〇八)。 たしかに、敗戦後の食糧難とインフレーションにかかわる深刻な社会状態のなかで、県下の民主団体協議会はその対策の一環として、「物価値上反対闘争の全県的な展開」をはじめ、運賃・通信料値上反対、電気・瓦斯税、市電値上反対闘争、食糧獲得運動を掲げてその運動をくりひろげていた。たとえば神奈川民協という団体の運動報告をみると、そこでは戦後の社会問題をすくいあげて「運動の地方協力への闘争」「労働組合を中核」とする「労農市民の闘争」「民主戦線の統一」を実現しようとしている運動の側面を読みとることができる。ここに、労働・経済・社会の諸問題と運動との結びつきを介した新たな社会状態を生みだしている状況をみることができよう。また、戦後の社会状態を示す軸は、さまざまな勤務場所で多様なかたちであらわれてくる労働問題や、農村問題に求めることができる。 敗戦後、労働組合が個々に復活したり、生みだされ、さらに革新政党が旗上げをするなかで、労働組合の全国組織もあらわれた。四六年八月には、日本労働組合総同盟(総同盟)と全日本産業別労働組合会議(産別会議)の二つの連合体がスタートを切った。当時、総同盟には千六百六十九組合、約八十五万五千人が参加し、産別会議は、産業別の二十一組合、約百六十三万の労働者を結集した。このような動きのなかで、神奈川の労働戦線は、総同盟も活発であったが、がいして産別会議の影響力が大きかった。産別会議の結成の発端は、敗戦の年の暮、日本鋼管鶴見造船所労働組合以下九つの組合の呼びかけで集まった神奈川県下二十一組合の代表七十人からなる神奈川県工場代表者会議によっていた。しかも、年をこえて一月には、全関東百三十七工場の代表者によって、関東工代会議が開かれ、そこで勤労所得税の撤廃、生産増大を目指す労働組合による経営管理-生産管理、社会・共産両党の共同闘争を要請するなど、全体で十二項目を討議した。そして、県下では一九四六年秋、産別会議の十月闘争のもとで、政治的性格をおびた長期かつ長時間ストライキをもって、国鉄・海員の人員整理反対闘争を中心に、いわゆる「労働攻勢」「防衛闘争」がくりひろげられた。 敗戦後の労働運動は、「経済生活向上」のための賃上げを中心に展開されてきた。もっとも、十月闘争のなかで「労働問題はたんなる経済問題」ではなく「政治闘争」であるという談話が発表される一方、産業復興闘争的性格ももっていた事実は否定できない。そして、もう一面では、一九四六年の終わりから総同盟と産別会議は、ともに、生活危機突破の共同闘争を盛り上げていったが、すでにこの時期では、労働組合育成に力を貸していた連合国総司令部のコーエン労働課長も、労働組合が「強大な力を発揮」するときは、そこに「責任」がつきまとうとか、「増産をはばむストライキ」は極力避けなければならないと、警告を発するようになっていた。コーエン発言の背景には、労働組合運動にたいする占領政策の転換がすでに台頭していたことを意味している。この傾向は、翌四七年の「二・一スト」にたいするマッカーサーのスト中止指令でますますあきらかになっていった。この「二・一スト」を境に、参加組合の自主性を尊重する連絡協議機関として全国労働組合連絡協議会が総同盟、産別会議、日労会議、農民団体によって設けられていった。 たしかに「二・一スト」後、労働戦線は、関連産業との共同闘争を組むかたちであらわれ、労働争議もその件数が多くなっていった。東神奈川国電闘争を中心に、賃金問題、企業整備反対の動きが活発になっていた。 このような占領下の社会状態を背景に神奈川は、占領軍との渉外関係で政府からとくに重視されていた。一九四六年一月、県知事に、内務官僚出ではなく、フランス大使参事、アルゼンチン公使、仏印大使府サイゴン支部長を歴任した外務畑の元外交官の内山岩太郎が起用されたのは、そのためである。内山知事は「渉外名知事」と呼ばれるほど、占領軍との折衝で敏腕を振い、知事公選後も知事をつとめ、津田文吾知事にバトンを渡すまで二十一年間在任し、県財政の建直し、県民のための食糧買付け、水資源の確保など、数かずの仕事をこなしてきた。 ところで、占領下の戦後改革の一環として憲法の改正が論議され、実施のはこびになっていくにつれ、長年にわたり明治憲法体制下で「国家の基礎」として位置づけられ、内務省に統轄されてきた府県制、市制、町村制も抜本的な改正を行わなければならなくなった。地方自治法をはじめ地方制度関係改正法令が施行される前夜、日本国憲法とともに地方制度改正に関する理解の普及、啓発のための宣伝が強調されていくのも、実は、地方自治体の首長の公選、首長・議長の選挙権、被選挙権の拡張、地方自治への住民の参加など直接民主主義制度のルールが導入されていただけに、まさに地方行政の場では、その機構と運用とともにコペルニクス的転換をはからなければならなかったからである。 地方行政改革の大本ともいうべき地方自治法による地方公共団体の運用は、どのように受けとめられていたであろうか。地方自治の運営は、その財政的基盤の脆弱性と、長年にわたる「官尊民卑」のもとで慣らされてきたいわゆる官僚機構に「依らしむる」風習も影響してか、がいして住民は「無力」であり、地方自治の実はあがっていないとみなされていた。が、そうしたなかでも、観念的には被調査者の四分の三以上の人が、地方行政の運用は「一部のものに委さず自分達の手で治めるのが良い」と評価するようになってきている。 けれども、改正地方制度に問題がないわけではなかった。そのもっとも大きな争点は、自治体警察の設置と廃止にあらわれていたが、廃止の運命をたどらざるをえなかったのは、国家警察と自治体警察との連絡調整の困難さ、自治体警察の装備能力の貧弱性や、管理面での限界が要因となっていたが、なんといっても、町村財政の危機が深刻化していたからである。 ついで、市町村レベルで行政改革の実状をみていくとき、地方自治法に基づく地方公共団体の行政の編成替え以上に実質的な重みをもっていたのは、町内会・部落会の「自治的活動」を実質的にはかる方向を模索しながら、町村行政の地方財源の拡充、財政の自主性の強化をめぐって制度の民主化と財政の貧困さとの間の落差をどううめるかということであった。 ところで、占領下の戦後改革のなかで都市復興は、農地改革、「農村の食糧増産」とともに経済復興の基礎であると考えられ、「平和日本」再建の土台をつくりかえる作業とみなされていた。そのうえでポツダム宣言の「民主化」「非軍事化」を楯とするその線に沿って矢つぎばやに打ちだされてくる戦後改革が、地域にどのように具体化されまたその改革をどう受けとめていたかをみるとき、政治犯の即時釈放、思想警察・弾圧法規の廃止、言論報道の自由の指令、国家主義イデオロギーにまつわる諸行事・慣行の廃止とその修正、緩和の動きなど、意外に地域に受けいれられていた。 敗戦にともなう戦後改革の波のなかで、県民の生活や地域にかかわりのある場で、占領下の民主化政策の流れと影響をみてきたとき、そこには、日本国憲法にたいする理解や関心が徐々にふかまりをみせていくことと関連して、制度としての民主主義が社会に受けいれられていった。その傾向が、よしんば、ただちに民主主義の風土化を意味するものでないとしても、初期占領政策は、地域と県・市町村の民主化という新しい変動をうながしていくきっかけになっていた(白根雄偉「神奈川県政の改革に携わって」『神奈川県史研究』四七号)。 しかし、制度としての民主主義は、その反面、占領政策の軸が憲法体系の方向から、漸次、日米安全保障条約を締結する線に移行していく過程で、県民や地域にたいして初期占領政策の「民主化」と「非軍事化」の理念にたいする文字どおりのリアクションが作用し、安保体制からの内政面にたいする規制が強まってきた。そうなると、民主化という名のもとで種々の社会問題が発生し、同時に、いわゆる戦後体制の内側において、逆説的な意味で制度としての形式的色彩の強い民主主義を保守する動きと、民主化をたえず更新していく革新との対立関係が、時間の経過とともにますます深刻になってきた。 このような戦後社会の状況の移り変わりのなかで争点の一つになってきたのは、占領にともなう基地がかもしだし社会に投げかけてきた波紋であり、いま一つは、京浜工業地帯を中心にして年ごとに大きくなってきた公害問題である。神奈川県下で戦後三十年にわたる社会状態史を構成するとなると、この二つの問題はおとすことはできない。 基地問題については、一九五五(昭和三十)年に神奈川県平和評議会の広田重道が「基地神奈川の実情」という報告のなかで、県下には、「軍事基地の親分と言われている横須賀米海軍基地を始めとして大小とりまぜ約一三〇ケ所の軍事基地とその付属施設」があり、その数は全国の総数約七百の一九㌫弱にあたり、しかも、基地拡張が進められている神奈川県は「文字どおり軍事基地県」であると述べていた。基地の主なものは、厚木基地の約五百十ヘクタールをはじめ、座間キャンプ、横須賀海軍基地、相模原などであり、特徴的なのは県庁所在地の横浜市が、港湾施設以下都市の中心部、建物、公園、学校にいたるまで接収されていて、他府県にまして深刻な状況におかれていた。それだけにこの間、一方では米軍の基地接収の拡張、それに日本の自衛隊の割り込みによる再接収の動きもあらわれてくるなかで、基地返還の運動があちこちで組織された。その共通の訴えは「基地による苦悩」からの解放である。そのため、すでに一九五五年はじめには、県下基地対策懇談会がもたれていた。基地問題は、もちろん軍事関係としてだけで争点になるのではなくして、騒音に代表されるような公害、教育、福祉等等、社会生活にかかわる鍵になっている。その深刻な実情は現在でも消え去っていない。 ところで、もう一つ、工業化・都市化の進行する過程で、大きな問題となってふりかかってきたのは、いうまでもなく公害である。公害は、「パブリック・ニューサンス」の訳語であり、工業化と交通網の発達によって生じる大気汚染、河川の汚濁、騒音、振動などが、住民に害毒を流す状態をさして使用されている。県下の公害は、ヨコハマゼンソクの実態、産業公害による農作物被害、などによってもあきらかなように、すでに、一九五〇年代の前半から問題になりつつあった。公害をもたらしているその被害実情の深刻さと、公害に抗する請願・陳情がふえるなかで、県当局も公害防止対策に積極的に対処してきた。内山知事の後をうけた津田文吾の知事時代の後半には、県内の自然保護対策とあわせてかなりのメリットをあげてきた。当時、それは、生態的危機に瀕する社会状態の一つの回復を指示する意味をおびていた。 このような県政の方向づけは、工業化の新しい局面で県民の福利に根ざす地域社会の改革のその後のあり方を示しているといえよう。 第一編 大正期 第一章 第一次大戦と県政 第一節 開戦と県民および県行政 一 県民の参戦観 戦時気分へのたかまり 一九一四(大正三)年八月二十三日の夕刻、横浜貿易新報社の社員三名を乗せた一台の車が爆声をとどろかせながら横浜市内の目抜き通りを走りまわり、それこそ「落花」のごとく号外をまき散らしていった。号外の内容はこの日、日本がドイツに宣戦布告したその「大詔煥発」の報である。この日は日曜日とあって宵の涼を求めて伊勢佐木町界隈は人出が多く、街筋の多くの家々では縁台を持ちだして夕涼みを楽しんでいたが、車の爆音ととびかう号外に「すわ、なにごとか」と驚き、そしてことのしだいを知り、熱狂の渦と化していったようである。 同紙の新聞記者は、「横浜市民の熱狂」という見出しで、その情景についてやや誇張ぎみにこう伝えていた。民衆の胸のうちには「日本男子起てり」と勇躍の情でわきかえり、とくに、客を待って人力車を並べていた「若い衆の狂喜」は、言語に絶するものがあったと(『横浜貿易新報』大正三年八月二十五日付)。日本が、ドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参加するという時局の新しい展開のなかで熱狂の渦はさまざまなかたちをとっていった。市内北方町日蓮宗善行寺での信徒による「敵国降伏」の祈祷(八月二十四日以降)、市内青木町有志による郷社洲崎神社における「国威発揚」の大祈念会(八月二十五日)、市の名誉職をはじめ有力者が多数参加して伊勢山皇大神宮で行われた「平和克服祈願」の臨時祭はその一つである。この「戦勝祈願」の祭は県内各地の町村の神社仏閣などで行われていった模様で、なかでも鎌倉・山ノ内の巨福山建長寺では宣戦布告の翌二十四日から、管長菅原曇華禅師をはじめ一山の清衆五十余名が朝六時に参集して、平和克服の期まで「敵国降伏皇威宣揚」の祈祷を厳修していくといったありさまであった。 「戦勝祈願」の行事が県下全域で高まっていったことは、県民の緊張を うながし、「挙国一致」の雰囲気をつくりだしていくきっかけにもなる。このような空気を反映してか、厚木地方では、それぞれの町村の在郷軍人分会員は、時局の進展にともないおそかれはやかれ召集を受けるに違いないし、いまこそ「我々の奮起活動するの好期」がきたと、後顧の憂いがないように身辺の整理を急ぎ、戦時気分をたかめ、はやばやと送別の宴を催すところもあらわれていた。また、ちょうどこのころ徴兵検査が行われていたが、たとえば、足柄上郡下ではこれまでままみられた「不合格者」に祝福を述べるようなこともなくなり、検査場への付添人の数もめっきり減って、なんとなく戦時色をそえていたようである(『横浜貿易新報』大正三年八月二十五・二十七日付)。 大正初期の伊勢佐木町 『神奈川県写真帳』から 不景気な社会状態 日本の参戦をきっかけに、県民の第一次大戦への関心は、日常の生活の場にも顔をだしていく。 ◎甲「今度の戦争では大分露国が強いぢァないか」乙「其の筈さ、この前日本の指南を受けて居るもの」 (横浜市野毛町佐久間幸楽)。 青島総督五十余通の遺言状を調べながら、◎「君のが一通ないぢァないか」一士官「僕は捕虜になった場合を想像しますから其な国辱的なものは書きません」(同弁天通紫映生)。 ◎「床屋が大喧嘩をしたさうだが原因は何だらう」「矢張りバリカン問題さ」(同南吉田町柴田生)。 この一口噺の一部は『横浜貿易新報』(大正三年八月三十一日付)に掲載されているものである。もちろん、世相がすべて戦争を中心にして動いているわけではないが、不景気な社会状態もいぜんとして話題の一つになっていて、不況問題と織りなしながら戦争が話題になっていた。したがって、一方で意気天にあがるような「国威発揚」論のもとで、第一次世界大戦はまた民衆の世界に深い影を投げかけてもいたのである。たとえば、中郡大磯町では、新聞報道によると、漁民の家族や生活困窮者が副業として麻真田・レース・リンクなどの輸出品の加工作業に従事し、総計で毎日七十余円の工賃をえていたという。おそらく、そうとうな数の人たちがこれらの仕事についていたことが想像できる。ところが、大戦の勃発とともに、この仕事が中止になり、副業を失った人びとは、生活の困難をきわめ、戦争はこれらの人びとに大きな打撃をあたえていたのである(『横浜貿易新報』大正三年八月二十七日付)。 ところが、日本は参戦したとはいうものの主戦場は遠いヨーロッパの地であり、日本がかかわりあう戦闘場は中国の青島、膠州湾のドイツ租借地である。それだけに、開戦時の緊張の雰囲気とは異質な空気もまた広がりつつあった。『横浜貿易新報』(大正三年八月二十九日付)の記者は、「戦争の気分-其が割合に薄い」という見出しで戦時色の盛り上がり不足を嘆いていた。というのは、「薩張戦争しているやうな気がしません子え」「戦争している気になれぬ」という声をよく耳にするというのである。こういう発言に、これほどまでの動乱を他人事のようにみて「如何にも呑気な気分」であり、「戦国の観念」が欠けていることほど心細いものはないとこの記者は憤慨し、こういうありさまでは「其民驕り其国驕る」ことになり、その「不覚の空虚は戦ひの亀裂」となると説く。また、もう一方では「戦争は遠いのに米が騰る職業は隙になる」という発言にも接した記者は、これら日びの生活のたたかいに疲れきった人びとが戦争の打撃をもっとも痛切に受けとめ、「今が戦争中」だと、「心」と「体」で善戦しているだけにこれこそ「戦国の人々」ではないかと指摘している。そして、この記者は「戦争の気分」の薄い富裕な人びとと生活と苦闘している階層の差に目をそそぎつつ、ともどもに「緊張した心掛けのある軍国の人々」あることを要求し、真の「挙国一致」「戦ひの秋」を要求していたのである。 この横浜貿易新報の記者が、いらいらしているような戦争は向岸のできごとであるという気分が県民の中に流れていたことは事実であろう。そのことは、第一次世界大戦に日本が参加していった状態の日本の縮図であり、それとともに、この戦争にかかわりあう日本の立場をそれとなくものがたっているようでもある。 戦時下の横浜貿易への影響 開戦は横浜港を中心とする横浜の商況にも暗い影をおとしはじめていた。横浜商業会議所の欧州戦乱影響調査委員会は精力的にその調査につとめ、「欧洲時局と当港貿易」という報告でつぎのような見解をあきらかにした。すなわち、横浜港は、国内で最高の貿易額を示し、一九一三(大正二)年度においてはその額は五億五千百万円にのぼり全国総貿易額の四〇・五㌫をしめていた。そのうち、輸出額は全国輸出額の五〇・一㌫にあたる三億千六百万円にのぼり輸入は二億三千五百万円で全国輸入額の三二・二㌫を数えていたのである。しかも、近年、国内工業の発達にともない、輸出貿易はますます盛況をきわめ、もう一方で工業原料および材料などの需要増加にともなって輸入もしだいにのび、五年前にくらべると、輸出入とも毎年平均二千万円ずつ増加してきた。そのうえ、今年度は横浜港のみならず日本の唯一の輸出品ともいうべき生糸の価格が騰貴し、羽二重の売れゆきも良好をきわめ、したがって「本年下半期に於て欧洲戦乱無かりせば当港輸出貿易の成績は恐らく空前の盛観」を呈するであろうと予測していた。しかし、大戦の勃発により、その「鋒銘」はいちじるしく阻害され、その前途はどうなるか、まことに寒心にたえないというのである(横浜商業会議所『月報』第二一五号、一九一四年九月)。 こうして、この調査報告は世界の各州別・各国別の貿易事情、一九一四年八月の貿易概況をはじめ、大戦という時局が横浜における外国為替相場・海上保険率、さらに、外国航路にどういう影響をおよぼしているかを検討している。そのうち、横浜港にとってみれば、ヨーロッパ諸国との貿易が大きな痛手をこうむることは必至で、報告書は、貿易額で上位をしめるイギリス・フランス・ドイツ・イタリアなどの諸国との関係をこう説明していた。つまり、生糸を中心とする輸出額で一位にあるフランスとイギリスはドイツと交戦状態にあり、そのために経済界は混乱をきわめ、イタリアもまたその余波をこうむるおそれがあり、ドイツ・ロシアとの航路はとだえるであろうとみている。そのために、「戦争の継続する限り当港欧洲輸出貿易は尠からざる打撃を蒙るべきは明白」であると、このような事情から、国内生産工業の一時的な衰退および船舶の不足等々戦時のもろもろの影響によって減退を余儀なくされるとの悲観的なみかたをとっていた。 それは、外国為替相場、海上保険率の相場の高騰と安定性が失われ、険悪な事態をまねくこととなった。なかでも、ドイツ・フランス両国支払いの為替手形はその保証を失い、平時においては四ドル八十八セント以下であったイギリス・アメリカ間の為替相場は五ドル五十セントからさらに六ドルにはねあがり、欧米各国の主要地の取引所は、いっせいにその取引を中止していた。また、海上保険率に関しても、大戦の局外にいるアメリカをのぞいて交戦国は戦時保険をつけることを要求された。日本もその例外ではない。日本・ヨーロッパ間の航路で国によって多少の差はあるが、七月の末に為替付荷物百円につき五十銭の海上保険が八月五日には暴騰して百円についてなんと二十円となった。そのために、保険会社が保険の引き受けを拒絶するという騒ぎがおこり、イギリス政府は戦時保険の法律を設けて日本・ヨーロッパ間は百円につき五円と定め、海上の安全も保障されるなかでその保険率も低下し、月末には三円から二円五十銭に低下した。日本・アメリカ間の航路も同じような傾向をたどったが、太平洋方面の安全が確保されるにおよんで、日本の保険会社の率でいくと、百円につき七十五銭となった。 戦時における海上保険率の問題は小康をえたとしても、全体としてみた場合、ヨーロッパ戦乱は日本の商工業者をして「進取活動」の舞台を中国大陸に目をむけさせることになる。「欧洲時局と日支貿易」という記事は、このことを示唆している。この記事は、日中貿易、すなわち、「横浜対支貿易」に調査の焦点をしぼり、中国もまたヨーロッパ交戦諸国からの輸入品目の減少を補うために日本とアメリカに依存せざるをえないので、日本の商工業者にとっては「千載一遇」の好機であること、しかも、アメリカもまたこれまでの不振をばんかいしながら中国貿易を推進するであろうとの観測を行っていた(横浜商業会議所『月報』第二一六号、一九一四年十月)。 大戦は、こうして、日本資本主義にとってと同様に、横浜の商工業者にとっても貿易問題をつうじて新しい問題に直面していかざるをえなくなっていた。 二 戦時下の地方行政 県民への参戦事情の徹底 日本がドイツにたいして宣戦を布告すると、県知事石原健三は、まず、八月二十四日「神奈川県訓令第三二号」で、郡・市役所・町村役場・各学校にたいして、関係者が、二十三日付の文部省訓令第八号の「教育ニ関スル心得方」の趣旨を守り、よりいっそう奮励努力しそれぞれの本分をつくすことを要請した。そして、翌二十五日、県は内務部長名で郡市長・町村長あてに「欧洲動乱ニ関スル件」という政府のとった時局の経過ならびに措置の綱要について、その趣旨の普及をはかるよう通牒を発したのである(『神奈川県公報』第二〇四号、大正三年八月二十五日)。 その通牒の別紙には、まず政府が「東洋永遠ノ平和」を確保するために日英同盟の協約の線にそってヨーロッパの動乱に対処する覚悟があること、そして、紛争が拡大波及せざることを望み、政府は「厳正中立ノ態度」をとることを期待しながらも、戦局の推移変化により日英協約が危機にひんするさいには必要な措置をこうずることを述べ、にもかかわらず、八月十五日ドイツ政府にたいしてつぎのような警告声明を行なった経緯を述べていた。ドイツの慎重な考慮実行を求めた日本政府の警告声明は次の二点であった。 日本及支那海洋方面ヨリ独逸国艦艇ノ即時ニ退去スルコト能ハサルモノハ直ニ其武装ヲ解除スルコト 独逸帝国政府ハ膠州湾租借地全部ヲ支那国ニ還付スルノ目的ヲ以テ一千九百十四年九月十五日ヲ限リ無償無条件ニテ日本帝国官憲ニ交付スルコト 政府のこの警告声明は「極東ノ和平」を攪乱する原因をとりのぞき、日英同盟の「全般ノ利益」を擁護する意図のもとに行われたのである。その背景には、すでにドイツにたいして宣戦を布告したイギリスから、東アジアにおけるその海上貿易を保護するために日本にたいして援助を要請してきたことも強く作用していた。 しかし、政府はイギリスとドイツの戦争状態のもとでは「日英協同ノ働作」をとり戦端を開かざるをえないと踏んでいたが、その前にイギリスの提案の意図を吟味しながら、平和的手段によって東アジアの禍乱の原因を除去しようと考えていた。さきの警告はそのあらわれである。 しかし、ドイツ政府への回答は電信の往復の都合上、八月二十三日正午まで延長したにもかかわらずついにえられなかった。そのために、政府は道府県をつうじて日本が大戦に参加せざるをえなかった事情を国民に徹底させる必要があったのである。 戦争と政治的要請 日本が大戦に参加していくなかで県は政府の意向を受けながら、行政組織をつうじて県民にさまざまなことを要請していった。内務部長名による「寅内県収第五八七四号-一」は、さしあたっての県民の心がまえと実行を求めたものである(『神奈川県公報』第二〇六号、大正三年九月一日)。 この通牒は開戦に関する「神奈川県訓令第三二号」に基づいており、郡市長・県立学校長・町村長・小学校長にあてており、その内容は、次のような三点になっている。 その第一点は、出征軍人を送迎したり、その他適当な方法によって出征していく人びとを勇気づけ後援を行うことは必要であるが、そのためにみだりに学校の課業を中止したりふりかえることは避けること、第二点は出征ならびに応召軍人の子女にたいしては、その修学の便宜をはかり、軍人に後顧の憂いをいだかしめないように、「明治二十九年勅令第五号」の規定をもちいながら、それぞれの学校で事情の許すかぎり授業料を減免したり学用品の給与につとめること、第三点として学校職員で召集者をだした場合には、それぞれ同僚職員をして応召者の職務を分担せしめ、また「公立学校職員俸給令第一五条及小学校令施行規則第一五三条」によって休職給はなるべく多額を支給すること、このように、まずなによりも出征・応召軍人への気のくばりかた、それに戦争と教育の場との関係に神経を使っていることは、第一次世界大戦にむけて日本の「挙国一致」態勢をつちかっていくうえで興味ぶかい。 この事情は、日本がヨーロッパから遠く戦場の局外にたっている関係上、人びとの間で戦時熱がともすれば不足しがちなことへの配慮ともなっているが、もう一面では日露戦争後の農村での景気の落ちこみ、都市での不況を反映した労働争議や小作争議、大正政変、第一次護憲運動、あるいは営業税廃止運動などにあおられて表出してきたデモクラシー運動をおしとどめていく必要があったことと関連している。だから、同じ九月一日、内務部長名の「寅内県収第五九〇七号-一」で郡市長・町村長にたいして「宣戦奉告祭執行等ニ関スル件」を通達したのもまったく無関係ではない。この通牒は「内務省訓令第一三号」と「内務省令第一七号」をもって、神官神職にたいして時局に関する心得方と府県社以下の神社においても適宜に「宣戦奉告祭」を執行することを指導するよう要請したものである。そのさい、奉告祭当日は「勅使ハ勿論府県社以下神社幣帛供進使等祭儀関係職員ニ付テモ特ニ除喪ノ儀被 仰付候」と、その筋の命もあってとくに念入りに「除喪ノ儀」を強調していた。 こうして、日本の宣戦布告趣旨は、地方行政の組織をつうじて、国民の一人ひとりに伝えられていったのである。そこには、民衆を戦時の雰囲気に動員することによって国の基礎を固めなおそうとする意図もこめられていた。 節約と物資動員 県は九月の中旬、日本の大戦参加という時局にさいして経費を節約し国費の充実をはかることの必要性について、庁内一般に内訓するとともに、それぞれの郡市長にたいしても経費節約の訓令を発していった(『横浜貿易新報』大正三年九月二十日付)。こうして行政機関が戦時態勢をつくりだしていく動きとあわせて戦時救護団体および後援団体が相互に気脈をつうじながら時局に対応しつつあった。 なかでも、恩賜財団済生会は、いちはやく戦時救療事業を普及していく方針をうちだしていた。「寅内県収第六一四七号戦時ニ於ケル恩賜財団済生会救療事業施行ニ関スル件」(大正三年九月十八日)によると、第一に出征・召集等を受けた下士兵卒、雇傭人等々下級軍人軍属の家族あるいは遺族で疾患に罹り医薬を自給することができない場合には、済生会でこの医治を引き受け救療に遺憾のないようにすること、第二にヨーロッパ貿易の中断のために、これまで輸出品の生産に従事していた「職工」労働者、輸出入品の取り扱いに従事していた「人夫」等のなかで失職者が続出し、さらには手内職を失った困窮者が輩出し、今後とも増加する傾向にあるので、この事態を重視して、これら失業者のうちで疾患に罹り医薬を自給することが不可能な場合にも済生会が救療にあたろうというのである(『神奈川県公報』第二一一号、大正三年九月十八日)。 また、九月の上旬には出征陸海軍軍人にたいする恤兵金品寄贈の取り扱い組織を陸軍大臣官房に設け、金銭寄付は一口一円として現金または為替を官房あてか、もしくは東京市麹町郵便局の指定にするとともに、物品の寄贈・寄付は、居住地の市町村もしくは区長を経て行うこととしていた。こうした地域からの戦意高揚をこうじていく方向のもとで、帝国在郷軍人会および分会がことのほか重視されていった。帝国在郷軍人会にたいして勅語と内帑金が下賜されたのはそのためである。神奈川県でも、県知事石原健三は、「神奈川県訓令第四六号」(大正三年十一月十七日)で、帝国在郷軍人会の振否のいかんによって、「帝国ノ将来ニ関係スル所特ニ大ナルモノアリ而シテ之カ発達ヲ期スル固ヨリ官民ノ援助ニ俟ツヘキモノ多シ」ととくに訓令を発し、郡市役所・町村役場が聖旨を奉戴しながら今後いっそう助力につとめることを要請していった(『神奈川県公報』第二二八号、大正三年十一月十七日)。 このような動きのなかで、これまでもっぱら予備・後備役の陸軍軍人で組織されていた帝国在郷軍人会に、海軍の予備・後備役の軍人も入会することとなったのである。そこで、横須賀鎮守府司令長官の照会を受けて、内務部長は、十一月十七日、前掲の『神奈川県公報』で郡市長・町村長にたいして区域内の在郷海軍軍人にたいしてその点の周知方を要請していった。 このような要請がだされる前後で、県下各地では在郷軍人分会を中心に大戦にさいして「国民的気象」を発揮するさまざまな試みが行われていた。たとえば、九月五日に開かれた都筑郡二俣川村・西谷村(現在横浜市)の在郷軍人大会連合分会では、かつての日清・日露戦争で戦死した遺族をはじめ、村の有志などをふくめて三百余名集まり式典を行い、君が代・軍人勅諭とともに宣戦の詔勅を奉読し、中出梧堂の「世界戦争と士気の修養」と題する講演を行い戦時気運をたかめていた(『横浜貿易新報』大正三年九月八日付)。また高座郡藤沢町(現在藤沢市)においては、恤兵会を組織し、在郷軍人のなかで召集を受けた場合、後顧の憂いがないようにするために、同会が中心になって各家から月一銭を醵出させる手だてをとるとともに、慰問袋の募集を行うという活動をとりはじめていた(『横浜貿易新報』大正三年九月二十三日付)。このような活動には、各地の動向をあわせみると、町当局・小学校長・青年団・婦人会が積極的にかかわっていたのが特徴で、そこには日露戦争の経験が生かされていたといえよう。 県出身者が入隊した甲府歩兵第49連隊 平野不二男氏蔵 三 「戦時気運」と産業奨励策 時局講演会の開催 日本が第一次世界大戦に参戦して間もない九月二十四日、茅ケ崎町(現在茅ケ崎市)で前陸相木越安綱中将が時局にかんする講演を行なった。 その話しの概要は、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアとの開戦にいたるまでの経緯、そこになぜ日本が宣戦していったか、そのやむえざる事情と戦況の見通しについての説明であった。木越は、この戦争は「人種的宗教的争ひ」にその原因があることを説き、世界地図をもちいながら戦況についての解説を行い、おそらくドイツは、敗北するにちがいないこと、連合国はドイツが再起できないまでにたたきのめすであろうと、戦況の将来を予測した。そして、軍人をして後顧の憂いのないようにするためには、「国民一致して勤勉貯蓄己を持し以て上御一人に対し奉るべし」と聴集に警告を発したのである(『横浜貿易新報』大正五年九月二十六日付)。 この木越の時局講演会は、茅ケ崎尋常高等小学校の定期総会の席上で行われたものである。講演を依頼したのは、伊藤町長であるが、この会場には、二百余名の会員のほかに来賓が数多く参加し、出席者は三百名をはるかにこえていた。その雰囲気は、同窓会の域をこえ、筑前琵琶・薩摩琵琶をおりまぜて、戦争への感動を出席者にあたえたという。さながら、時局講演会の観があった。 戦時色をつよめていくためには、町や村のすみずみから、戦争への協力態勢を具体的にきずきあげていく必要があるが、同時に、戦場と遠く離れ、間接的な参戦のかたちをとっている今回の世界大戦への参加にあたっては、軍関係者が積極的に地域におりてきて戦争気運をあおりながら、人びとの心の安定をはかっていく必要があった。茅ケ崎町での前陸相の時局談はその一環であったとみることができる。 このような試みのあらわれであろうか、横須賀鎮守府では九月二十三日付で、「出征海軍下士卒家族慰問規則」を定めた。その内容は、横須賀市と長浦の近くに居住する下士卒の留守宅をすくなくとも月一回慰問し、留守家族の状況を、出征・航海中の違いを問わないで、また、どんな遠隔地にあっても、本人に伝達するということであった。そしてまた、軍の機密にさしさわりのないかぎり、当事者の所属艦船の現況を家族に説明し、留守家族のなかに病人その他急を要する事態が発生したさいには、救助をこうじようとするものである(『横浜貿易新報』大正三年九月二十四日付)。 横須賀鎮守府で、この規則を実行に移していくその母体は、下士卒集会所と下士卒遺族共励会であった。軍機関が行政機関とあいまっていかにして戦時への国民の協力をえようとつとめているか、横須賀鎮守府の試みは、その一端をものがたっている。 農村の産業振興策 戦時下においてとりわけ必要になってくるのは、諸産業をどのように奨励していくか、その手だてを検討しなおしていくことである。八月二十七日、佐川愛甲郡長は、郡書記をともなって中津村・高峰村の稲作害虫駆除督励のために出張したおり、高峰村で岡本村長・関根農会長と打ち合わせて村のおもだったもの数名を集め、役場で産業の振興、時局と産業の関係について懇談会をかさねていた(『横浜貿易新報』大正三年九月二日付)。 ウィルヘルム2世を諷刺した戦争漫画 『横浜貿易新報』大正3年10月2日付 諸産業の奨励育成に関しては、関係諸機関が実際にひきおこされている既往の阻害を除去しようとする善後措置から、長期的な対策をうちたてようと積極的に計画をたてはじめていた。 その一つが、産業組合中央会・帝国農会・中央報徳会で協議した農村教育の振興である。そこで決定した実行項目は、中央報徳会から文部省に伝えられ、文部省から道府県に通知されてきた(『神奈川県公報』第二一三号、大正三年九月二十五日)。 この農村教育の適切な実行方法の狙いは、教育という言葉で語られているが、日本の産業の根幹である農業への関心をたかめ、すぐれた農村指導者を育成して、将来にむけて産業の発展の基礎をかためようとするところにあった。その内容は、地方の公立農学校の卒業生を「地方開発・小農指導」の任に適切にあたらせるために、農村経済・組合事業・自治経営についての知識と技術を会得させること、さらに、農業経済の実況と農村開発の具体的方法あるいは農村への興味をいだかせるためである。そのために、この通知は、地方の大地主・多額納税者・代議士等々が「虚栄ヲ示スノ風」を誇示することをいましめ、「農業農村ノ貴」を説くことを強調しながら、時代にふさわしい実学の精神を力説し、「地方ニ留リ地方ノ為メ」に尽力する中堅指導者を養成する必要性を一貫してうたっていた。 また、産業振興のためか、内務部長は、「寅内県発第二〇一号」で郡市町村長宛に「各種公益団体ニ関スル件」を発してい農業振興講演・副業奨励などを内容とする『蚕友』第2号 津久井郡郷土資料館蔵 た(『神奈川県公報』第二二二号、大正三年十月二十七日)。この通牒は、「地方ノ開発改良」に関して、青年会・婦人会・納税組合・勤倹貯蓄組合の事業状況についての調査依頼である。まったく新しい試みというわけではないが、社会の戦時への切りかえにさいして、やはりそれぞれの経済事情やそれをささえる諸団体の実情を把握するうえで必要になってきたからではないか。 国をあげて諸産業の基礎調査にのりはじめている実情は、さらに「寅内商発第五〇号」の商工業調査によっても知ることができるが(『神奈川県公報』第二二〇号、大正三年十月二十日)、このようなことがらをてがかりに戦時統制を強めている傾向もあらわれていた。また、当局とすれば、その必要もあったのである。 たとえば「寅内農発第一三六号」の内務部長から郡市長宛の「産業組合事業報告ニ関スル注意事項」と「卯内土発第一号」による同じく内務部長から郡長宛の「災害復旧工事施行ニ関スル件」がそれである(『神奈川県公報』第二四〇号、大正四年一月五日)。前者は各地の産業組合の提出書類の不備がめだち、そのために取締りが不便であるという産業組合中央会の苦情を処理するため、その統一項目を記載したものであり、後者は災害復旧工事の施行にあたって「地元請負」主義をとっているけれども、業者の選定を厳格にし、災害前後の経営の効果をあげるための注意であった。いずれも、戦時下で日本をその底辺からささえていくためにとられた措置である。 第二節 大戦下の県政と市政 一 工業化と政治問題 生糸相場の浮沈と工業化政策 世界大戦が勃発し日本が参戦していくころ、国内の生糸・綿糸の相場は暴落し、米価も大幅に値下がりして農村は、大きな痛手をこうむった。横浜市を中心とする経済状態も、このような農村部の事情を反映して沈滞をつづけていた。なかでも、横浜経済の主軸ともいうべき生糸貿易がうけた打撃は大きく、生糸相場は、戦争勃発前の九百九十円から、一挙に二百十円に暴落した。そこで、横浜蚕糸貿易商同業組合は、応急措置として夏繭秋蚕買入れ資金の融通中止、操業短縮を国内の製糸業者に通告せざるをえなかった。しかしこのような統制がらみの措置は、養蚕農家や製糸業者の反発をかい混乱に拍車をくわえることとなる。こうした事態のもとで、一九一五(大正四)年二月の末、原富太郎ら横浜商人は蔵相若槻礼次郎に「蚕糸救済組合設立案」を提出していった。 原たちの主張は、若槻礼次郎『古風庵回顧録』によれば、生糸価格は、ニューヨークが土台になっているのであるから、ニューヨークの糸価を高くするために日本が「買持ち」して輸出をおさえ、現地で糸価が高騰したら、日本の滞貨を売りさばいていけばよいという趣旨で、そのための組織をつくるべきであるというのが狙いである。こうして翌三月には横浜に出荷された生糸を「買持ち」し生糸価格を維持する帝国蚕糸株式会社がつくられ、やがて、生糸パニックは、一九一五年秋ごろから回復していく。 ところでこのころ、「京浜工業地帯」の建設は「川崎より多摩川下流沿岸」を中心とする第二期から、鶴見川・多摩川間の海岸地帯の埋立地造成という、第三期にはいろうとしていた。日本鋼管・旭硝子・浅野セメントなどの工場が進出して稼動しはじめ、「京浜間に出現せる新工業地」として活況を呈していた(『横浜市史』第五巻上)。 「一個の新工業地」となった川崎町方面から鶴見にかけての工業の発展の中心になったのは鉄鋼業をはじめとする重化学工業部門である。それは、軍需関係の生産の必要に基づくものであった。また、内陸地方においても、製糸業と織物業は空前の好況に転じて、一九一六年からいちじるしく上昇し、生糸の場合は前年にくらべて生産量は約一・五倍、価格で二倍となり、織物の生産額も二・七倍と急速に伸びていった(通史編6近代・現代⑶)。 こうして、大戦下に経済事情が好転していったにもかかわらず、横浜市では、港湾整備問題とともに工業誘致政策がどちらかというと立ち遅れ、そのために工業化をめぐる政治上の問題が生じていた。この事情に関しては、貿易や産業が急激に発展する一九一六年をはさんで市の財政状態をみてもあきらかで、市の財政規模は、歳入額でみても一九一四年が約横浜生糸検査所の作業風景(1913年ごろ) 『神奈川県写真帳』から 四百九十五万七千円、一五年約四百二十五万八千円、一六年約四百九十五万七千円、一七年が約五百九十二万四千円で、一九一三年の約七百五十九万五千円の規模にまで回復していないありさまであった。こうした状態のもとで、横浜経済協会は、一九一六(大正五)年五月「工業振興に関する意見書」を市当局に提出したのである(『横浜貿易新報』大正五年五月四日付)。 この意見書は、横浜市の工業振興をはかるための改善事項を網羅したものである。それによると、市は一九一一(明治四十四)年に工場誘致を企画し市税免除規程を制定して工場の新設を期待したが、残念ながらその期待がはずれたのは、工業地として良港をもち海陸の便利がよいこと、運河をもち運輸に便利で大工場新設の余地があるなど有利な条件をそなえている反面、不利な条件もまたすくなくないとして、つぎの諸点を対策としてかかげるよう希望していた。すなわち、市税負担・水道料の軽減、動力料と地代・日用必需品の低廉、借地契約期間の長期化、原料購入ならびに輸送の便利の企画、労働者の仲介ならびに養成、金融の利便、工業保護奨励の趣旨にそう官庁の監督および取り締まりがその内容である。 横浜市の工業振興策 横浜市の工業振興をはかるための改善事項のうち、工業用水の無料化に関しては、横浜経済協会の原富太郎・若尾幾造の両理事が提案してその実現可能性を協議していた。しかし、すでに市の水道局は大量の用水を使用する工場にたいしては水道料金の割引を実施していた。また、動力料の軽減問題のうち、月極電力については、横浜電気会社は二度にわたって値下げを断行し工業動力優遇への配慮をあきらかにしたが、市瓦斯局は、ガス発動機の使用の伸びがとぼしいので、動力費としてのガス料金を引き下げる意味はほとんどないが、熱源としての需要が高まれば料金の引き下げの可能性も増すであろうと見通していた。となると、実際になによりもネックとなっていたのは地価の高さということにかかっていた。そこで、横浜経済協会は、川崎町方面とすでに多くの工場の進出をみていた保土ケ谷町とを比較しながら、横浜市の工場敷地は、おおむね数年前の埋立てで地盤が固く遅滞なく工場の事業を開始することができること、しかも、市税免除の特典、運輸交通の利便、水道料金の割引、石炭の低廉、労働力の獲得が容易であることをあわせ考えると、「地代の不廉」を償って余りあると述べていたのである(『横浜市史』第五巻上)。 こうした条件づくりのなかで、大戦景気に便乗して工場建設を急ぐ企業家たちは、条件の整った横浜市に進出を試みたという。ただし、これらの新設工場の大部分は内田造船所を例外として中小規模のもので、しかも内田造船所をはじめ「投機的」性格がまつわりついていた。 ところで、横浜商業会議所は、この間、一九一六(大正五)年三月に大戦が長期化することに対処して戦後経済研究委員会を設置した。委員長は会頭の大谷嘉兵衛、副委員長には増田増蔵副会頭と安部幸兵衛常務委員が互選され、対外経済・対内経済をめぐってそれぞれ問題を協議し、必要な場合には建議活動を行なっていく方針をたてた。この委員会は戦時から戦後にかけての経済活動の方向を模索しながら積極的に対処していこうとする意図のもとで、学識経験者・中央官庁の高級官僚を招いて講演会を開いたり、外国航路改善の問題や輸入税表中改正・輸入手続改善の件等々を協議して、これらの問題を場合によっては役員会・総会の議をへて所轄官庁に建議していくという活動を行っていった(横浜商業会議所『月報』第二三五、二三六、二三七号、一九一六年五月、六、七月)。 なかでも、この年の四月二十九日付で総理・外務・大蔵・農商務横浜市の水道管敷設工事(1915年) 『横浜思い出のアルバム』から の各大臣に提出した「商事通信局設置に関する建議」は、「欧洲戦乱は本邦輸出貿易発展上絶好の機会」であるとして、この機会に政府はイギリスの商事通信局の例にならい農商務省に商事通信をつかさどる局もしくは課を新設することを建議したものである(横浜商業会議所『月報』第二三五号、一九一六年五月)。また、翌一七年六月二十日総理・大蔵・農商務大臣に提出された「粗製濫造防止に関する建議」は、輸出増加の趨勢のもとで「粗製濫造の弊」の傾向があらわれたことを憂え、これを防止し、「本邦輸出品の声価」を維持し向上していくために、輸出品の官設検査所を新設して検査官を各県に配当し厳密な検査を行うことを内容とした提議である(横浜商業会議所『月報』第二四九号、一九一七年七月)。 この一例をみてもあきらかなように、横浜の実業界で指導的役割を果している人びとは、大戦下の経済の好況をにらみながら、工場誘致に努力を傾ける一方、貿易港としての横浜の振興をはかるために種々対策をこうじるためのアイディアをひねりだしていた。 工業化の促進と広がり 工業化の波は、大戦下の好況を反映して県内の各地におよんでいった。その徴候は、東海道筋の湘南の地、茅ケ崎町(現在茅ケ崎市)にもあらわれていた。たとえば、朝鮮に煉瓦工場と農園を経営している笠松吉太郎は、茅ケ崎駅の西方に約三・三ヘクタール(一万坪)の用地を買収し、煉瓦製造所を建設し、労働者八千九百名を雇入れて稼動していた。また、火薬製造工場の設置計画も進められ、小山製糸工場も堀板井戸を二個確保し、事業に必要な用水をえて工場建設にとりかかっていたし、この東海道の動脈と湘北・八王子地方とを結ぶ相模軽便鉄道も、すでに認可をえて測量を開始しはじめた(『横浜貿易新報』大正五年九月二十七日、十一月八日付)。 この地域の工業開発の動きは、この時期の工業化の一つの典型的な傾向を示している。というのは、煉瓦製造所の設置のように、そこでの煉瓦生産が、建設中の熱海鉄道工事や京浜工業地帯での需要におうじるかっこうになり、工業化を推進する役割をおのずから担っていたからである。また、相模軽便鉄道の建設とからみあう工業開発も、いわば社会の産業化を推進していく基本的な組み合せになっている。つまり、工場という心臓部を広い地域に結びつけていくうえで、動脈としての鉄道は、工業化の波を広範囲におよぼしていく役割を果すことになるからである。そしてこの工業化のなかで、生産に従事する労働者のなかに遠隔地からの労働者はもちろんのこと、朝鮮人労働者もくわわるようになり、こうした労働力の構成も、大戦下の工業化の姿を浮きぼりにしていた。 実際、その後、相模鉄道の開通を地域開発の重要な環境として受けとめ、工業化のファクターとみるなかで、工場設立の動きは続いていった。第一次大戦から戦後にかけての化学工業ブームにのって重液酸加里の製造をめざした茅ケ崎製薬合資会社などは、その一例である(『茅ケ崎市史』2資料編)。 1916年の生産価額種類別 『県統計書』から 二 実業と立憲意識の広がり 商工業振興と県会 大戦下の商業・貿易の改善向上と工業化の推進の過程は、また、政治のありかたに新しい問題を投げかけていた。 そこで、工業化をめぐる県会での動きをみると、一九一四(大正三)年の通常県会で問題になっていたのは、県の商工奨励費予算が全国で下から五番目という点であった。出口真吉議員は、この点をつきながら、県で商工課を新設して商工業の振興を奨励しようとするのはけっこうであるが、産業視察を行う場合でも、海外に派遣するみちをこうずることをも提案していた。また、出口議員は、参事会意見による工業補習教育の予算削減に反対して、原案にもどすことを主張した。その根拠は補習教育の完全なる確立をはかることにあったが、これには、受講生徒がわずかであり予期の成績をあげていないと激しい反論や妥協意見もだされ、議場では活気を呈し、結局は、参事会修正案がとおったとはいえ、ここにも商工業の振興問題が県政における一つの争点になってきていることが理解できよう(『神奈川県会史』第四巻)。 また、この県会においては、県当局が予算のなかで比較的軽くあつかっていた各種事業奨励費をめぐって県当局に批判を集中していった。この水産奨励費・造船奨励費等々をめぐって、県当局はもっぱら低姿勢をとり、木田川内務部長は「県に於ても固より奨励費を活用し実績を挙ぐる目的なりしも之れが実行に当り充分なる成績を収め得ざりしは何とも陳謝の辞なし将来誓て趣旨徹底に努力する」と言明していた。 各種事業奨励費をめぐってこれほどまでに問題になったのは、それぞれの業界の利益関係にたっての政治発言が強まってきている事情もあるとはいえ、工業化にともない各種産業の振興の必要性をせまられてきているからでもある。 県会の場で商工業の振興、貿易の発展をはかることに大きな関心が寄せられていたのは、この年の通常県会の最終日にあたる十二月五日に大浜忠三郎県議他六名から「商工業の振興貿易のため工業試験場商品陳列館新設の建議」という建議案がだされていることからもうかがえよう。この工業試験場および商品陳列館の設置の請願意見書の提案はすんなり可決された。建議案の趣旨は、神奈川県がわが国最大の貿易港である横浜市を擁し、首都で一大市場である東京市に近接し、海陸の交通の便がよく、しかも、動力の源泉である水力が豊富で、労働力も余裕があり、ことに「近来横浜市を中心とし沿海一帯の地方は将さに工業地」になる傾向を示しているという前提で、以下のように提案していた。この神奈川県商工業の奮進勇躍すべき絶好の機会に県当局も民間も一致協力して商工業の振興と貿易の伸展につとめなければならないが、現状では商工業の施設がはなはだしく欠如し、産業の発達を阻害している。そこで他府県の施設にひけをとらないよう、商工政策の基礎を確立するため、当局に工業試験場と商品陳列館の新設を要求していったのである(『神奈川県会史』第四巻)。 商工立市と選挙区問題 横浜市が「商工立市」を方針にかかげ、「大なる横浜」を建設していこうとする意欲があらわれてくるなかで、こうした気運は市の政治のありかたにまで影響をおよぼすようになってきた。一九一三(大正二)年秋、市会で大きな争点となった選挙区問題はその一つである。 ことのおこりはこうである。この年の九月十八日、市参事会において、市当局が提出した市会議員選挙の選挙区条例の改正案を可決し、市会にかけることになった。その内容は、一九一一(明治四十四)年に大岡町の一部ならびに屏風浦の一部、子安町の一部、保土ケ谷町の一部が市域に編入され、さらに、あたらしく神奈川地先の埋立ても行われたので、これらの地域を一九〇一年に「横浜市条例第七号」で設定された五つの選挙区に組み入れようとするものであった。すなわち、原案は第二選挙区に大岡町・蒔田町、第三選挙区に弘明寺町・井戸ケ谷町、第四選挙区に新浦島町・千若町・子安町、第五選挙区に滝頭町・磯子町・岡村町・堀内町をくわえることにあった。この選挙区条例改正案は、一八九八(明治三十一)年に全市を三区にわけてはじめて条例を制定して以来、一九〇一年の改正につぐ大きな改正案となった。ところが、この改正案が市会に上程され、市当局の説明がおわると、山田福三郎・矢野祐義・戸井嘉作・斉藤忠太郎の四議員から選挙区条例を廃止し、三級議員の選挙の便宜をはかるための選挙分会を設置せよという建議案がだされたのである。この建議案には、市会定員四十八名の過半数をこえる中村房次郎以下二十二名が賛成していた。そのほとんどが刷新派の議員である(『横浜市史』第五巻上)。 この建議案の説明にたった山田福三郎は、商工業都市横浜の発展をはかっていくためには、市会議員も各方面から有為の人材を選出して一致協力していかなければならないと述べて、「横浜と云ふものは日本の横浜ではない、世界の横浜である」ことを強調し、商人派・地主派、関内・関外というような小さい「地方的の観念」「旧思想」を捨てさるべきであると論じた。そのために選挙区を廃止せよというのである。山田は、選挙区を廃止すれば第一に有為の人材を選ぶことができ、とりわけ横浜市役所 『神奈川県写真帳』から 医師・弁護士をはじめ各種同業組合などの代表を選出できること、第二に、各等級の選挙権者の納税額が選挙区によって不統一で公平さを欠いているが、それを是正できること、第三に、選挙区を廃止すると、一級・二級の有権者が現在の一区に集中するために、他の区域の利益を公平に代表できないという意見があるが、一級選挙人、一級議員は、一地区だけの利害を代表するものではないこと、工業が発達すれば、三区・四区にも一級選挙人が生まれると説いていた。 市会議員選挙に一種の大選挙区制を導入しようとする構想は、商業都市として、また、工業都市としての道を一気にたどろうとする横浜市の政治改革の一つとして新しい試みであった。しかし、この建議案にたいして政友会の赤尾彦作は、選挙区を撤廃すれば、横浜の繁栄が可能になるというがその具体的理由を示せとくいさがりながら、この案は、ある一派の富豪が自分の野心から「横浜市を自己の専有物」とするためにくわだてたものであること、人口稠密の都市を構成している各地区・各方面・各階級のそれぞれ人情風俗を異にしている市民の意向を代表する議員の選出が不可能になること、関内在住の少数の富豪が談合すれば、市会議員定数の三分の一の一級議員十六名を思うままに選出しうること、さらに、関内の二級有権者の示し合わせにより関内だけで市会議員の定員の半分を選出することができる、と反論した。また、山崎小三議員も、大選挙区制はそれ自体には賛成であるが、階級制の選挙であることを考えると反対せざるをえないし、「公共心のとぼしい富豪」が専横をきわめることによって「中級の市民」は寒心にたえないと反対意見を述べた(『横浜市史』第五巻上)。 工業化のなかの自治 このような議論をかわしながら、建議案は二十六名の賛成をえて可決にもちこんだ。そして、賛成議員たちは、市当局の提出した選挙区条例改正案を審議延期とし、市長が選挙区撤廃案を提出するのを期待していた。 横浜市の市会議員の選挙区撤廃の可否をめぐる論議は、京浜工業地帯を形づくっていく工業化のなかでの市の発展と自治のありかたを中心にすえてくりひろげられていた。賛成派の戸井嘉作の「横浜市をうって一団」とすべきであり、「横浜市を平等に発展」させるという論拠も、選挙区を撤廃すると市域の特性を生かすことができなくなり、したがって「自治を円満に料理」できなくなると反対論をうつ赤尾彦作の場合でも、「大なる横浜」をどうもっていったらよいかということにかかっていた。 ところで、この問題は、実際には十月十日の次期市会で荒川義太郎が選挙区条例の原案を維持し、撤回をこばむことによっていちじるしく大きな政治問題となった。そして、斉藤松三助役も横浜市の納税者約三万千名のうち、選挙権をもたない非公民一万九千四百余名にいくぶんの安心と満足をあたえていく便法として、貧富の調和をはかるには選挙区をおかざるをえないと論じていた。斉藤助役は選挙区を撤廃すれば「富者と貧者との関係」はますます調和を欠いて選挙運動を激烈にし、選挙費用もかさみ、市政に有用な人間は議員になることを避けるようになり、市政のうえにプラスにならないと選挙区条例廃止論に対決するかまえをみせた。 市当局が撤回をこばんだこの選挙区条例改正案は、審議の結果二十四名の反対により廃案となった。そして、横浜市条例第七号、すなわち、選挙区条例廃止の議案と三級選挙のために四つの選挙分会を設ける議案も、選挙区撤廃に反対する十七人の議員の退席により、二十七名の議員全体の起立で可決されたのである(『横浜市史』第五巻上)。ところが、可決された選挙区撤廃は許可にならず、そのために大きな政治問題になっていった。 市会の決定をくつがえすこの措置は市長の一存ではなく、ときの内相原敬の政治的思惑によっていた。というのは、この間、原敬は横浜市の選挙区問題について、『日記』のなかでこうしたためていたのである。すなわち、横浜市の大選挙区制は、刷新派の運動によって成立する状況にあり、そのため原は神奈川県知事に人口十万人以上の市ではこのような事例はなく、もしそうなれば認可の妨げになるかもしれないと注意し、同様のことを荒川市長や原富太郎にも伝えていた。そして、十月十三日、大島知事が原のもとをおとずれて大選挙区についてすでに政友・刷新両派の妥協が成立して、このことを市長と市参事会に発案済であると報告し、原もそのなりゆきにまかせることとしていたが、しかし、内心は「大選挙区案成立せば、他日必らず市の権利は中流已下に取られて上流は困難することならんと思はる」と反対していたのである(『原敬日記』大正二年十月十三日)。 原は、横浜市会の選挙区問題の動きについては、すでに赤尾ら政友派議員の連絡によってことの経過を承知していたのである。たとえば、一九一三(大正二)年十月九日付の『日記』をみると、原は全市を一選挙区にしようとする刷新派の思惑は「之を以て選挙を壟断せんと企てた」ものであると書きとめ、若尾・赤尾らが陳情にきて、選挙事情のほかに法律問題があることもしたためていた。 横浜市で大選挙区制を実現することに原が懸念をいだいていたのは、市会で斉藤助役が主張していたことがらと一脈あいつうずるが、横浜市の政治の実権が中流階級以下の社会階層によって左右される恐れをみてとっていたことである。しかもすでに、大正政変・憲政擁護運動のなかで民衆も一役買っており、横浜においても刷新派が政友会に対抗するかたちで護憲運動をくりひろげていたし、深刻な不景気のなかで営業税などの廃止を求める運動もひろく商工業者の間にしみわたりつつあった(通史編4近代・現代⑴)。それだけに、選挙区の撤廃は原たちにとってみれば、みのがすことのできない問題となっていた。こうしたなかで、一時大島知事は横浜市の実情にかんがみ、選挙区の撤廃の必要性を認め市会の一級議員十六名は政友・刷新両派からそれぞれ八名ずつ選任することを知事立会いのもとで実施すれば、両派の衝突をさけ、円満に問題を解決することができると考え、協調案を提出していた。大選挙区を前提とするこの案に刷新派は同調するかまえをとっていたらしい。また政友派のなかからもこれに賛成する者もあらわれ、いよいよ実行する段取りをとろうとしていた(戸井嘉作『横浜市政夜話』)。 ところが、すでに述べたように市当局の原案などが否決され、この間荒川市長が病気を理由に知事をへて内相に辞表を提出する経過のもとで、知事は横浜市会の選挙区条例廃止案の議決にたいして不認可の指令書を送付してきた。十一月八日のことである。 横浜市政と県政 荒川市長の辞表提出の理由は、斉藤助役の市会での説明によると、「立憲治下に於て行政を処理するに当って、容易に此議会の意見を無視すると云ふことは採るべき策でない」という考えかたをとっていたからである。市会の議を尊重すれば、市長自身の所信を捨て進退を決めざるをえなかった(『横浜市会速記録』大正二年)。これも立憲政治の気運のなかの一つの対処のしかたである。ところが、刷新派にしてみれば市長のこの態度に冷水を浴びせるかっこうで、しかも選挙区条例廃止案議決にたいする知事の不認可指令書も、また自治権にたいする非立憲的な干渉と受けとめざるをえなくなったのである。 おそらく、大島県知事のこの措置は、原内相の意向をくんだものであり、選挙区廃止の動きは「憲政派が関東地方に党勢を伸長する予備運動」の一つとしてとらえていたからであるという(戸井嘉作『横浜市政夜話』)。一説には、この処置は赤尾議員らと密接な連絡をとり、選挙区条例改正の原案の再議を画策していた水野錬太郎内務次官の画策からでたというふうにもうけとめられていた(『横浜貿易新報』大正二年十一月二十三日付)。 このため、横浜市政は混乱状態におちいっていった。というのは、知事の指令書に憤激した刷新派の二十七名は十一月十一日に全員議員を辞職したからである。そして、辞職した議員たちは、その日に横浜市の有権者に自治権擁護のアピールを送付した。その宣言の内容は、選挙区撤廃の建議の趣旨とその審議決定の経過を述べ、不許可になったいきさつにふれながら知事の措置について「神聖なる市会の決議が党略の犠牲に供せられたりとせば如何、事茲に至って最早道理の争ひに非ざるなり」と述べて市会議員の職務をまっとうすることができないと、その苦衷を訴えた。そして、この二十七名は、あわせて「吾等は既に意を決せり、吾等の決意は牢乎として抜く可からざるなり、吾等若し市民諸君の後援に与ることを得ば、今後も亦た挺身以て市の汚辱を拭ひ、併せて将来の発展を期することに、其余力を存せざらんことを誓う」と決意をしめしたのである(『横浜貿易新報』大正二年十一月二十三日付)。 こうして、横浜市の選挙区問題は、いっきに自治権擁護の争点に転化していき、刷新・政友両派の抗争もしのぎをけずるようになっていった。しかも、荒川市長の辞職も内相によって認められ、市長代理の斉藤助役のもとで、かつて否決された選挙区改正条例と同じ内容の改正条例が、県参事会の代決と内相の許可をへて十一月二十六日に制定されたので、政争はひときわ激しさをくわえることとなった。 こうしたなかで、刷新派は、野党や新聞記者の応援をえて自治権擁護運動をくりひろげていく。十一月十三日には、市内の浜港館で刷新派が同志大会を開いたのをはじめ、その前後に元町・神奈川・本牧をはじめいたるところで町民大会や自治権擁護演説会を開くほどこの問題は市民の関心を集めていた。こうして十一月十八日には、松ケ枝町角力常設館で、政友倶楽部の尾崎行雄・林毅陸、国民党の増田『横浜貿易新報』の演説会案内 大正2年11月18日付から 義一・鈴木梅四郎らの代議士を弁士に迎え、自治権擁護の大演説会を開き、十二月六日には京浜新聞雑誌記者大会を開き、「神奈川県知事大島久満次の非立憲的行動は県治市改を紊乱するものと認む」という決議を行った。そして、この日出席した三十余名を代表して、実行委員牧内元太郎・山下精吾・田中邦繁・服部一郎・宮城藤平・日比野重郎は十五日に大島知事をたずね、知事の行為は非立憲的ではないかと問いただし、知事は監督権を行使したにすぎないと応酬するなかで、委員は辞職を勧告した。また、この間通常県会でも知事の責任が問題になり、最終日の十二月二十四日には、大島知事不信任案が提出された。この不信任案は、政友派議員の退場で定数不足となり成立をみなかったけれども、自治権擁護の輪は県政の場にもおよんでいった(『横浜市史』第五巻上)。この立憲政治の基礎となる自治権擁護の運動は、大正時代の地方政治のありかたをめぐって一つの先鞭をつけることとなった。そして、この動きは横浜市の市民のなかに自治にたいする関心を高めていくもう一つの大きなきっかけになっていたようである。 三 立憲政治への底流 自治権擁護運動 横浜市の刷新派は自治権擁護運動をくりひろげるなかで一九一三(大正二)年十二月十六日に大隈重信を来賓に迎え、横浜自治倶楽部を結成した。その狙いは次のとおりである。 横浜自治倶楽部は横浜市の自治権を其危きに擁護し、進んでは又商工立市の市是を遂行し、以て大横浜の建設に資するあらん事を期するものなり。故に本倶楽部の孰の政党政派に対しても固より何等の関係を有するものに非らず。唯だ横浜市民として切に市の繁栄進歩を希ふが為めに、一致戮力、市政の改善と向上を期せんと欲するのみ。 この文章は発会式の当日の趣意書の一節で、自治倶楽部の活動の目的を示した部分である。倶楽部の当面の活動目標としては、市費の節約、市の財源の涵養、一般市民の負担の軽減をはかることにおいていた。そして、規約の第二条の「本倶楽部は時勢の進運に伴ふ進取的方針に則り市政の改善と市の進歩繁栄を企図するを以て目的とす」という構想のもとに、会員の資格をひろく横浜市民に開いていたのである。すなわち、第七条に「本倶楽部に加入せんと欲する者は横浜市民にして委員の紹介あるを要す」と規定していたのである。この横浜自治倶楽部の発会式には三千余名の会衆を集め、盛況をきわめたというが、その席上、大隈重信は「恰かも帝国の文明が横浜を通じて全国に及ぼせる如く、諸君の奮起が帝国全部の政治的自覚を促がすに至らば、国家の幸福何物か、之に如かんや」と演説して参加者を鼓舞激励した(『横浜貿易新報』大正二年十二月十七日付)。 横浜自治倶楽部の結成は、商工業の発展をうながしな第1表 横浜市市会議員選挙結果 1)『横浜貿易新報』(大正3年1月29,30日付),『横浜市史』第5巻上から作成 2)各選挙区の得票数のうち( )内の数字は候補者のうち落選者の得票数を加算した数である がら市政の自治権を確立していくうえで、大正の新しい時代を切り拓いていこうとする試みであった。しかも、この運動に市民の自覚と参加を要請し、まさに大衆的規模で政治の刷新をはかっていこうとしたところに積極的な意味があった。以後、横浜市では刷新派は自治派と呼ばれるようになった。 自治派の活発な運動によって、横浜市は新しい政治の季節を迎えていた。すでに、旧刷新派の辞職により横浜市の市会は成立をみることが不可能となり、補欠選挙の問題がもちあがっていたが、一九一四年一月が市会の定期改選期にあたっていて、しかも新市制のため市議会議員の総選挙が行われることになった。 この年の一月二十八、二十九の両日に行われた市会議員選挙の結果は、第一表のとおりである。この選挙は全体として自治・政友両派が二十二名ずつの同数の当選者を獲得し、中立系の四名も両派に分かれるという、まさに勢力伯仲の結果をもたらし、選挙まえの予測の刷新派=自治派の優位はくつがえった。たしかに選挙結果調べではそういうことがいえる。しかし、表によってその内容をとらえなおしてみると、そこに自治権擁護の反応が一つの大きな底流となって脈打っている事実を知ることができる。たしかに、市の中心部を構成する本町・相生町・山下町・元町にかけての第一選挙区、伊勢佐木町・長者町・賑町・山吹町・石川町などを範囲とする第二選挙区においては、富有な上層の有権者によって選出された一級議員、あるいは二級議員は政友派が優勢であった。しかし、一級議員の場合でも第三選挙区から第五選挙区にかけては、形勢としては、概して刷新派=自治派に有利に展開していた。そればかりか、二級議員の有権者層は第二・第三選挙区以外は、第一選挙区を含めて、刷新派=自治派に傾き、三級議員を選出する中小商工業者の有権者の多数は、各選挙区とも刷新派=自治派を支持していたのである。この事態をみてとった刷新派=自治派系の線にたつ『横浜貿易新報』は、「官権と金権」の濫使妄用のさまを暴露し非難しつつ「横浜市民の真の与論は、横暴なる官権と朋党との大威嚇を以てしても、未だ正義を棄つる程に堕落せずと謂ひ得べきにあらずや。故に曰く正義は未だ全く亡びざるなりと」論評していた(『横浜貿易新報』大正三年一月三十一日付)。 商工業の振興と刷新派 商工業の振興と立憲政治の実をあげていくことは横浜市においてきりはなせない関係にある。しかも自治の理想を実際の政治の場に生かしていくその推進力は選挙を通してみる限りにおいて、中小商工業者にかかっていた。一九一四(大正三)年一月の横浜市の市会議員選挙は「活発な政戦」がくりひろげられていたとはいえそのことをはっきりとものがたっていた。 ところで、市会を「地域の名門豪家の独占」から解き放ち「茶話会を要する市会」「討議を軽視し且つ嫌悪する市会」「低調なる市会」をどう克服するかということがとりざたされてきた(『横浜貿易新報』大正二年九月十九~二十一日付)。しかし、ようやく横浜市会は「向上進取の精神に充ち」「横浜市の新運命」を開拓する気運がたかまってきているのに、市会そのものは、かならずしもそうはいかなかったようである。市会は、新しい風を求める市民の希望とは異なって消極化し、沈滞していたようである。事実、荒川前市長の後任には、この年六月に安藤謙介が政友・自治派の話合いで就任することになった。安藤は一時外交官をつとめ、内務省にはいり、千葉、愛媛、長崎の県知事を歴任した政友会系の知事として知られていた。その安藤は、山本権兵衛内閣から大隈重信に政権のバトンが移って、神奈川県の大島知事と同様に休職になったばかりであった。 市政の改革を望み、横浜の発展を期待する市民の意向にそぐわない市会の動きは横浜市の財政の伸びがたちおくれていることにもよっていた。そのために、県会でも問題になっていた公共施設の整備も難渋をきわめていたのである。このうち、開港記念横浜会館は、一九一四年の九月から三年を費やして一九一七年の夏には開館式をあげるところまでこぎつけた。この年七月一日の開港記念日に行われた開館式には大隈重信前首相、徳川家達貴族院議長が出席した。他方、横浜市の商工業発展にとって不可欠である工業試験場商品陳列所をめぐっては、政友派の反対により市会で紛糾し続けていた。そこで、この問題をめぐっては、一九一四(大正三)年暮、県会が終了したあと刷新派議員は羽衣座に郡市連合政談演説会を開いて県会報告を行い、政友会が商工振興の県是、市是を党利党略の犠牲としていることを非難した。この県会報告は、横浜ではじめての試みであったといわれている(『横浜市史』第五巻上)。この商品陳列所設置については、市会で建議案がつぶされたいきさつがあるが、それでも翌一九一五年には政友派も、これまで財政面から反対してきたが設置そのものに反対したのではないという意見が提出されて、この年の春には商品陳列館設備調査臨時委員を設けるところまでこぎつけたのである。そして一九一六年の夏には、調査委員会は市商工課を拡張して経常費一万円を計上して調査指導にあたらせることにした。この間工業化のなかの横浜市においては、商工業の発展をはかる動きと関連して図書館の設置、水資源林の買収、横浜商業学校の市への移管と高等商業学校への昇格を推進するという問題が提起されていた。このような問題は、時代の趨勢から生みおとされたものである。 横浜の商工業の発展をいかにはかるか、また、政治の刷新をどのように実現していくかというムードのなかで、刷新派=自治派は勢力をのばしていった。それは大隈政権をうしろだてとしてはいたが、一九一五(大正四)年三月の総選挙では市部・郡部とも刷新派の勝利に終わった。この選挙では市部・郡部をあわせて立憲同志会五、大隈伯後援会一の六議席で、政友会は二議席にとどまったのである。また、この年の九月の県会議員選挙でも、横浜市では刷新派・非政友は八名となり政友派は五名、郡部では刷新派十六名、政友派が十名で、いずれも刷新派の圧勝に終わった。 もちろん、選挙は時の政権のいかんによってその政治地図は大きく変わる。一九一七年の総選挙では、寺内内閣のもとで準与党の政友派は、市郡をあわせて現勢を維持したのにたいし、刷新派の憲政会は三議席を失っている。しかし、こういう浮き沈みの変化はあっても、大戦下の社会問題の噴出と経済発展をどうはかっていくかという課題をめぐって、国民の承認と同意をうるような政治のありかたが地域で具体的に必要になってきた。 第三節 立憲政治と地方改革への動き 一 「国民の政治」への道 たかまる立憲政治への関心 横浜市を舞台とする刷新派=自治派と政友派を中心とする対抗は、工業化の問題を背景としているだけに熾烈をきわめていた。この関係は、一見政党政派の党利益をめぐる争いのようにみえたが、しかし、立憲政治のありかたについての県民の関心を集めつつあり、政治にたいする民衆の自覚もすこしずつ高まりつつあった。 たとえば、一九一五(大正四)年三月の総選挙のころには、もともと政友派の勢力の強かった県下の郡部では、この数年来島田三郎代議士が遊説を重ねてきたこともあって、刷新派を核とする立憲同志会系の勢力が伸びていったという。ちなみに、この総選挙では郡部刷新派は小泉又次郎・山宮藤吉の前議員に戸井嘉作・川井孝策をくわえて四名の公認候補を立てた。また、横浜市内では、横浜自治倶楽部は島田三郎のほかに平沼亮三を候補に推し、政友会打破の気炎をあげた(『横浜貿易新報』大正四年三月一日・四日付)。選挙の結果は、市部では、平沼・島田が当選し、営業税廃止運動に反対してきた政友会の若尾幾造前代議士は落選した。そして郡部では、戸井・小泉・山宮・川井の四候補が一位から四位までを独占し、政友会は、五候補のうち、佐藤政五郎・杉山四五郎が当選したにすぎなかった。このように大隈内閣の与党として立憲同志会五、大隈伯後援会一と与党が六議席をしめたのにたいして、政友会が二議席にとどまったのは、郡部刷新派が、戸井は橘樹・久良岐両郡を、小泉は三浦・都筑両郡を地盤に立ち、足柄上・下両郡の有志がそれぞれを応援し、山宮・川井はともに高座郡から立ち、中・愛甲両郡の有志がこれを支援するという、地盤割りを行っていたからである(『横浜貿易新報』大正四年二月十日付)。 また、この年の九月の県会議員選挙でも、刷新派・非政友は政友派の十五名にたいして二十四名の絶対多数をしめ、選挙まえの政友派の優位は逆転していった。もっとも、選挙による政党政派の勢力配置は、時の政府の与・野党の違いによって異なってくる。寺内内閣下の一九一七年四月の総選挙では、横浜市においては政友会若尾幾造がトップで返り咲き、島田三郎は当選したが平沼亮三は落選し、郡部では、刷新派系は小泉又次郎・戸井嘉作は当選したが山宮藤吉・川井孝策は落選し、政友派は現勢を維持したものの、立憲同志会の後身である憲政会は三つの議席を失った。しかもこの選挙では政府系の無所属として小塩八郎右衛門・松本剛吉・中川隣之助が立ってそれぞれ当選し、松本・小塩・中川はそろって寺内内閣の与党である維新会に参加した。松本は小田原町の古希庵に居をかまえる元老山県有朋のもとに出入りしていた情報通であり、田健治郎逓相の秘書官であったが、その松本は、この選挙で田が大奮闘し彼自身がそれを補佐したことを日記にしたためていた(岡義武・林茂校訂『大正デモクラシー期の政治松本剛吉政治日誌』)。それだけ時の政府が選挙にテコ入れしていたことが知られ、政党の抗争もつのりにつのっていた。しかし、このような事態にもかかわらず立憲政治の道は広がっていた。 政治争点になる地方自治改良 県政や市政の場で立憲政治の軌道をしいていこうとするその推進力をになっていたのは、主として横浜市の例をとってみても、刷新派=自治派であった。この刷新派は、中央政界における立憲同志会=憲政会の政党の線にそって行動し、市部から郡部にかけて政友派と対抗しながらその影響力をもちはじめていた。そしてすでに、神奈川県刷新倶楽部は、あの護憲運動のさなかで、小泉又次郎・山宮藤吉代議士をはじめ県会議員、各郡の有力者が参集して政友会と戦い「憲政済美の為め其の大成」につとめるよう決議を採択した。そのうえで、刷新派の有志は、市部・郡部をあわせて、当時、やがて立憲同志会を名のる新党に入党し、その支部設置のために各郡で準備委員を選び、その実行に着手することを決定したいきさつがある(『横浜貿易新報』大正二年二月五日、四月六日付)。それだけに政友派と立憲同志会=憲政会派の政党間の競合は、憲政のありかたをめぐって、しのぎをけずらざるをえなかった。 こうした政治状態の推移のもとで、政党間の対立もたてまえとしての「正邪」の争いとしてではなく、「主義政見」をもって争わざるをえないということが意識されるようになってきた。たとえば、一九一五(大正四)年三月の総選挙で、山宮藤吉は衆議院議員候補者として、「政は正なり国利民福」をはかることにあると主張して「政党たる以上主義政見を以て戦はざる可からず」と述べていた。『湘南タイムス』(大正四年三月二十五日付)に載っている山宮の主張は、「自党の為めに利益」をはかり「自利を本位」とする政友会を攻撃しながら、「見識を以て政治上に尽瘁する」決心であるという選挙運動用の一文である(『茅ケ崎市史』2資料編)。にもかかわらず、ここには、大正時代にはいってからのデモクラシーの雰囲気が選挙運動のなかにあらわれている。 このような地方政界の動きのなかで、地方自治の改良が政治問題茅ケ崎町役場の前にならぶ町の幹部たち 水越梅二氏蔵 の重要な焦点にすえられてきた。また、そのために尽力してきた人びとが各地に存在したはずである。茅ケ崎町出身の水越良介もまたその一人であった。蜻蜒生「地方自治の貢献者水越良介翁」(『法政新聞』昭和三年六月五日付)によると、水越は明治前期から、高座郡赤羽根村外三か村戸長をふりだしに松林村村長を歴任し、高座郡会議員、そして一九〇三(明治三十六)年に神奈川県会議員となり二期県議をつとめて、その後一九二〇(大正九)年一月、茅ケ崎町長に就任するという経歴の持ち主である。この間、衆議院議員の候補者を何回となく奨められたが、これを固く断って地方自治の確立のためにつくしてきたといわれる。水越は、地方政治家として明治前期の改進党派か刷新派の主要な人物として活動を続け立憲同志会の結成にさいしては創立委員となった。その水越は、県会議員としては小泉又次郎・近藤市太郎などと相はかって刷新倶楽部を組織し、「乱脈の極、累卵の危きにありたる神奈川県政を改善刷新し、地方自治の円満なる発達」に努力したという。また公共事業に関しては、戸塚・保土ケ谷間国道坂路開鑿をはじめ交通・教育の開発に奔走し、「郷党開発」と「県政自治」のために尽力し、徳望を一身に集めていたようである。後年水越が茅ケ崎町長に就任したのは、紛擾と頽廃せる同町の町政を匡救するためであった。そして町長に就任後、水越は乱脈をきわめた町政を建てなおし、その後の町政発展の基礎を築いたという(『茅ケ崎市史』2資料編)。 地方自治の開発は、立憲政治が実を結んでいくかどうかの鍵となっている。「憲政済美」が政治の大きなスローガンになっていけばいくほど、地方改良・改革への関心もまた高まってきていたことは事実である。そうした風潮は、また地域の内側からも形づくられつつあった。 二 地域ぐるみの環境改善 工業化と地方利益 村や町から改革をもとめるのは、時代の流れである。とくに、大工場が進出している工業地帯にぞくする村や町では、人びとの生活をおびやかすような問題が噴出していた。大工場が進出しはじめ、埋立事業が行われ工業化の嵐にまきこまれた橘樹郡川崎町(現在 川崎市)およびその周辺の村々の地域も例外ではなかった。その川崎町の東北よりに、東京府と神奈川県の境をしきっている多摩川が流れているが、この川をややさかのぼっていくと御幸村がある。 そこの村会議員秋元喜四郎は、一九一四(大正三)年九月なかばのある日、多摩川の築堤請願をはじめて十年以上たつけれども、問題解決のあてもないので、いっそのこと、関係村民が大挙して県当局に迫り、初志の目的を貫徹する以外に方法はないと考えていた。 この御幸村上平間から中原村上丸子にいたる沿岸一帯には堤防がない。このことが、御幸、日吉、南・北加瀬、住吉、鹿島田、江ケ崎、小向、小倉、町田などの沿岸の村々の戸数約四千、住民二万余を長い年月にわたって苦しめてきた。それにひきかえ、対岸東京府の矢口・調布のほうは、地勢が高く自然の堤防をかたちづくって被害をまぬかれている。しかも、川崎をはじめ多摩川・鶴見川の下流沿岸地域は、京浜工業地帯の第二の発展期にはいり、そのため下流の排水速度も減じ、上流も完全な堤防をきずかないかぎり、被害はますます大きくなる恐れがあった。秋元は、矢島七蔵・榎本勇次郎・鳥養仁一・斎藤林蔵らとともに、この七、八年来、関係諸村の村びとの連署をえて県費支弁による築堤の陳情を再三くりかえしてきた。県もそれを了解はしていた。しかし、その経費は莫大な金額にのぼり手のうちようもなかった。また、無堤地であるからその「旧慣」に従うという国の方針をくつがえすこともできる徳川期の代官の捺印のある「堤防の存在せし」一葉の地図も、上平間からでていた。しかし、らちがあかない。多摩川堤防を国の費用で改修せよという声がわきおこったそもそものはじめは一八八三(明治十六)年六月にさかのぼる。その先頭に立ったのは長尾村の若き自由民権家で県会議員の井田文三であった(川崎歴史研究会『やさしい川崎の歴史』)。しかも、一九〇〇年以来、関係町村の「河川改修の早期実現」についてのたびかさなる請願を一蹴して、一九一〇年政府の臨時治水調査会は多摩川の改修を第一期の国の直轄事業からはずしてしまったのである(『川崎市史』)。 ところで、築堤問題に関する東京府との交渉について、前年の一九一三(大正二)年八月、大洪水を受けたとき、御幸村村長、斎藤林蔵他十一か村の関係者が、ただちに緊急協議会を開いて新堤築造請願書を県当局に提出していた。その内容は、「御幸村上平間・中丸子及下沼部ニ渉ル一千二百一間及中原村上丸子三百六十間合セテ一千五百六十一間ニ堤塘ヲ新設シ上下ノ堤塘ト接続」させようとするものであった(『川崎市史』)。ところが、県から回答をひきだすことができなかったのは、神奈川県が東京府と交渉したところ、「旧慣」を容易に改正するのはできないから、堤防のないところは無堤地でしのばせるという方針を東京側が盾にとって異議を唱えていたからであった。 秋元が村民による大挙陳情、もはやこの手しか残っていないと決意せざるをえなかったのもむりはない。この年の九月十五日、秋元は、町田・北加瀬・江ケ崎・鹿島田・日吉などの村代表と県庁への請願デモンストレーションの実行方法を協議し、「大挙して県庁に歎願すべし」と議を決定して次のようにとりきめたのである。 一 九月十六日午前二時出発の事 一 服装は羽織を用いざること、草鞋をはき目印としてあみがさをかぶること 一 進路は各字の随意とすれどもなるべく警官の目をさけて目的地に達するようにすること 「アミガサ事件」 村々の行動隊は、十六日未明に県庁に向かって出発した。このときのもようを当時の新聞は、こう報じていた。「十六日午前二時に村会議員秋元喜四郎、日吉村村長深瀬啓次郎、御幸村村長小島晋淵の三人を先頭に村民約千数百名が結束し、御幸村にては前夜宣戦奉告祭をかねて三百余名が村社境内へ勢揃いをなし、日吉村では大字小倉の無量院へ集合し、住吉・町田の二村は各鎮守境内に集まり、各自部署を定めてひそかに出発し警察の警戒を避けて間道をたどっていった」(『横浜貿易新報』大正三年九月十七日付)。 各村十五歳以上のすべての男子が参加し、そのいでたちは、わらじをはき、握り飯のはいったふろしきづつみをたすきにかけ、アミガサをかぶるというふうであった。それぞれの隊は、川崎署の警官の張る非常警戒線をさけるために、日吉村より濁流が渦巻く鶴見川を胸までつかりながら渡るという危険をおかしながら、大きくうかいして県庁に向かった。途中で警官に阻止された隊をのぞいて、県庁に達したその数はおよそ千名。このありさまをみた県警察部は、かれらに横浜公園に集合することを命じ、十名の委員を選んで陳情することを提案した。このとき公園に集合した村びとの情景を、さきの『横浜貿易新報』はさらにこう描写していた。 一団は御幸・日吉・町田三村の者を主とせるが何れも胸先迄水に浸りて濡れ鼠となり一様に風呂敷包を背負ひ草鞋を踏みならしめ編笠を戴き四里の難路を急ぎたる名残りを止めたる姿哀にも亦勇しく見受けられたる このように、気迫のこもった雰囲気をただよわせるような村びとを残して、秋元をはじめ深瀬日吉村村長、小島御幸村村長ら十名は、県庁内で石原知事と面接した。知事は、その席上、水害については心から同情し「築堤急施の必要」を認めその方法を調査研究中であるが、内務省・東京府との関係もあって確約することはできないと述べ、明年度の予算計上の件についても確答をさけた。そして高圧的に大挙陳情は不穏でけしからんとどなるだけで、代表たちがこもごも立って、この数年来の惨害を説明し、築堤は村びとの死活にかかわる問題であるから、ただちに実施してほしいと熱望したが、知事は、ついに責任のある答えをあたえないで退出してしまった。 とりのこされた代表たちは、知事に誠意がないと評議して、県庁を退出し、村びとにその経過と始末を報告し、村に帰ったうえ対策を練りなおそうと提案した。「当局の不誠意」に、村びとは憤慨した。一部の者は、解散するどころか激昂し、秋元の説得でようやく重い腰をあげたといわれる。 この「アミガサ事件」と呼ばれる行動は、知事の態度によって問題解決への展望さえつかむことができなかった。しかし、この事件は、神奈川県政をゆさぶり、具体的に運動をすすめていくうえでの大きな契機になっていた。 この事件の後の九月十九日、市村橘樹郡長は、被害関係村の代表を郡役所に集めて多摩川築堤期成同盟を結成した。この協議会にさきだち、傍聴のため参集した総代資格のない村びとの発言権をめぐって郡当局がこれを堤防をつくるための郡民大会 川崎市教育研究所蔵 規制したため、かれらは、県知事とともに郡長までも「被害民に温情なく誠意なきものなり」「我々村民を無視するものなり」といきどおり、ごたつく一幕も演じられた(『横浜貿易新報』大正三年九月二十日付)。 それほどまでに、村びとは、心底から怒りにもえて築堤にこぎつけなければと決意を固めていた。期成同盟会は、その後、対岸東京府に実情調査を要請したり、沿岸調査を行った。こうしたなかで、堤防をかねた郡道改修問題がもちあがったが、さまざまな運動利害が対立したまま、宙に浮いたままとなった(『川崎市史』)。それでも、地元で、多少のいざこざをみせながらも、多摩川改修への基礎作業を具体化しはじめていた。それから約一年後の一九一五(大正四)年九月、有吉忠一が知事に就任するにおよんで事態は一変した。 「県民本位」にたつ知事の決断 有吉知事は多摩川築堤問題について一日も早く水害という「公害除去」をこうじる必要があると判断した。有吉忠一の「県政回想」によると、有吉は国が許可しなければ、知事の権限内と責任で、ただちに郡道改修工事のかたちで築堤工事を許可し、「河川法の施行区域外に里道を設くること」ということで、県費補助をあたえた。それは、例の無堤防地域にあたる御幸村上平間から中原村上丸子につうじる郡道を水害予防の目的で高くもりあげ改修しようとするものであった(資料編11近代・現代⑴二二九)。 ところが一九一六(大正五)年四月、着工にはいってまもなく、内務次官久保田正周が工事中止命令をくだしてきた。そのいきさつについて、有吉は自筆の「回想録」のなかで、こうまとめている。 高い道路とするのは言ふ迄もなく自然に堤防となる用意である。村民は大喜びで労働に従事した。所が其れを見て対岸の東京側が騒ぎ出した。神奈川の方に左様の築造をやられては、自分等の側が害を蒙むるといふのである。そのため毎日百人位の監視を繰り出して工事を妨害する一方、代議士高木正年、漆昌巌などいう連中が内務省に運動して中止させ様とした。……久保田氏はその前東京府知事であった関係上東京側に同情がある。つひ目と鼻の間にある神奈川県の事なれば一応自分を召喚して能く其の事情を糺すことも出来るのに、それすら行なはず突然工事の中止を命じて来た。 内務省のいいぶんでは、工事中止の命令は河川法違反ということらしい。有吉知事は、郡道改修作業は法の適用範囲内であると抗弁したが、法の解釈は上級官庁が下級官庁のそれを拘束するのが行政法の原則であると判断して、やむなく工事を中止した。そこへもってきて、追いうちをかけるように工事撤去の圧力がくわわってきたのである。しかし、そのころ一木喜徳郎内相が台湾出張から帰京して、「道路としては認めず、堤防として認める」という裁定をくだしたので、工事は六日から再開され九月末に新堤が完成した。しかし、政府は、知事の「多摩川治水工事」にたいする態度はよくないと判断した。閣議の結果、有吉は、譴責処分を受けるはめになった。それほどまでに、知事の尽力をえたというので、この堤は、地元から、その後「有吉堤」と呼ばれるようになっていく。 多摩川改修運動はたしかに長い歴史をへてきている。たび重なる大洪水によって、そのつど甚大な被害をこうむり、水魔におびやかされてきた村びとと村の荒廃ぶりをみかね、地元を愛するゆえに、村々の有力者は政治の川崎市中原区中丸子に残る有吉堤 県史編集室蔵 つるをつうじて懸命に築堤運動をくりかえしてきた。「旧慣」尊重とか、窮状はわかるけれども河川法でどうしようもないとか、経費がかかるとか、国や県当局に、にべもなくことわられ、はねのけられても、かれらは執拗にくいさがってきた。こうしたなかで、「アミガサ事件」は、全村民の意思を結集した。運動への全村民の参加、そして関係町村の横のつながりの強化、それは、地域の底辺からのエネルギーの燃焼であり、周到な準備が重なりあって、県当局にゆさぶりをかけえたのである。 このころ、全国いたるところで、それぞれの地域は、大なり小なり、川や山やあるいは気候にまつわる自然的風土から、社会・経済に関する多様な問題をかかえこんでいたはずである。共同体をテコにして、かかえている問題を政治の場にそれなりにぶつけていくからこそ、まさに、自由の水脈は広がりをみせていたのである。この傾向が強まれば強まるほど、政治固有の場においては、「立憲思想」のムードがかきたてられていく。 これは、有吉知事が、譴責処分を受けたとき、かえって名誉であるとこころえていたと「回想録」のなかでふれている。その文章の一節に、「常に県民本位であり、県民のために公害を除き、県民のために公判を計り、管下の進歩繁栄と国陛下の御民の安寧福祉を造次顛沛も忘れたことはない」としたためてていた。もしそうであるとすれば、「県民本位」「県民のため」という用語のなかに、実は、「立憲思想」の具体的投影を読みとることができるのである。そして、それを語らしめるのは、改造をめざして、「ものをいう」民衆が、社会の表面にあらわれてきたからではなかったか。こういうところに、「大正デモクラシー」が躍動していく根がひそんでいた。 第四節 米騒動と社会行政の展開 一 米価問題と米騒動 物価暴騰と生活難 第一次世界大戦下の好景気のそのかげで諸物価が高騰し、人びとの生活は苦しくなっていった。たとえば、一九一七(大正六)年、横浜市で徴収している小学校尋常科二十銭、高等科五十銭の授業料は、納入総額尋常科七万七千七十七円六十銭、高等科二万二千七百三十三円八十銭のうち、滞納額が三千三百二十四円におよび、前年度の滞納額、千三百八十三円八十銭の一・五倍強となっていた。もちろん「貧困者に月謝免除」の手段があるが、世間体もあって免除願いを提出しない向きがあり(『東京日日新聞』大正七年七月三日付)、こうした事例からみても、民衆の生活の落ち込みの一端を知ることができる。 こうして一九一八年八月には、生活難を訴える声は激しくなりはじめた。たとえば横須賀市で、「近来米価をはじめ必需品」の大暴騰をもたらし、しかも「在港船舶少数となれる結果、商況不振」をきわめるというありさまで、軍港として活況を呈してきたその面影も色あせはじめた。そのために、飲酒量は半減し、ほとんどの商店は使用人を減じて事業を縮小したり、一時休業をするほどで、「軍港の三越」といわれた雑貨屋も閉店すると伝えられ、料理店・待合・遊廓も事業を縮小、使用人の減少をしているところが少なくないという(『東京日日新聞』大正七年八月九日付)。 また、このころ、平塚町は中流以下の労働者がいちじるしく増えてきた新開地であるが、白米が一升五十銭を突破し、外米を商う米穀商店がほとんどなく、「多数の町民はいたるところ生活難を叫」び、そのために、町役場では町農会協議会を開き、さしあたり外米廻付を県に出願しなければならなくなった(『横浜貿易新報』大正七年八月十五日付)。 また、小田原町および付近の村々でも、「細民生活難の叫び」は「漸次拡大せん模様」と報じられ、「小田原町民中、生活難を叫ぶもの数日来、日毎に増加し、古新宿・山王原・千度小路の一部に散在せる漁民は殊にはなはだし」く、足柄下郡では、十余名の郡書記および農会技芸員を各町村に派遣し、町村の状況を視察調査したところ、酒匂村山王原、国府津、前羽および真鶴村等の漁村で、漁民の多い村落は、意外の困窮を呈し、沿岸に非ずと雖も、大窪村板橋などの農民の少ない各村落も窮状におちいっており、郡長は十三日夜に町長・組合長をも加えて徹夜でその善後策を協議し、県外米の斡旋による廉売を以て救済することを決定したほどである。そして、「生活の不安を叫びつつある」これら町村の状態が想像を絶するほどの悲惨な状況であるので多くの町村民に「危惧の念」をいだかさないように、厳重に警戒するという措置にでた(『横浜貿易新報』大正七年八月十五日大正時代の小田原町役場(正面) 小暮次郎氏スケッチ画 付)。 さらに、中郡の秦野町をみても、日雇稼ぎおよび草履等を造って日々の家計を支えている二百数十人は、この年の春以来内地米を手に入れることができず、しかも、外米でも一升三十二、三銭になり、外米も買うことができないので、住民は同町役場へ窮状を陳情していった(『横浜貿易新報』大正七年八月十六日付)。 米価の動き 一方、県下の各工場においても、米価をはじめ未曽有の物価騰貴のため、生活難の声は深刻で、同盟罷業をもって賃上げを要求するものが続出してきた。このように、一九一八(大正七)年の夏、県下各地の人びとの生活は窮迫をきわめ、そのために不穏な空気が流れはじめようとしていたのである。このような事態をまねいた事情を横浜市に例をとってみると、第二表と第三表が示すように、米を先頭にこの三、四年来、生活必需品の価格は、その上限は二倍にも達しており、いちじるしい物価騰貴が社会不安をもたらした元凶であることがわかる。しかも、そのうち、米価は、第四表小田原の物価変動の表がものがたっているように、前年の暮から八月にかけて、白米一升につき十銭も値上がりしているのをはじめ、諸物価はことごとくはねあがっている。その高騰の傾向は、横浜商業会議所の調査によれば、卸売において昨年より百分の二十九、小売はおそらく百分の四十以上の騰貴と推定されている。それにたいして、労働賃金は、昨年第2表 横浜市における穀価の変動 1) 『横浜貿易新報』(大正7年5月29日付)から作成 2) それぞれの価格は1石当たりの単位である 3) 外国米は4月の平均価格が不明であるので,それぞれ3月の平均による にくらべて百分の十四の値上がりにすぎない(『東京日日新聞』大正七年八月二十八日付)。当然のことながら、一般民衆の生活はひっ迫せざるをえなくなる。 しかも、物価の高騰が進行するなかで、生活苦を訴えていたのは下層の民衆だけではなかった。官公吏の場合も同様である。官公吏については、五月ころから国費支弁官吏・県吏員職員・教員・町村吏についてそれぞれ増俸・臨時手当支給等の措置がこうぜられてはいた。その事情について、たとえば「横浜市吏員かつて給与したる手当の外、新たに一割五分ないし二割計約三割前後、横須賀市吏員は二割ないし二割五分、町村吏員は大正四年に比し平均二割四分にして、小学校教員は最も増加の割合良好あるがごとく」と、報じられていた。 第3表 横浜市における食料価の変動 1) 『横浜貿易新報』(大正7年5月29日付)から作成 2) それぞれの品目の格柄はすべて中等品である 第4表 小田原町の物価変動 『東京日日新聞』(大正7年9月11日付)から作成 しかし、一般には、町村吏員の場合、増加の割合も少なく、「ある町村においては、大正四年度に比し、七年度においてかえってその俸給を減ぜしものあり」というありさまであった(『東京日日新聞』大正七年七月十四日付)。 町村俸給を減額した町村は十六、助役俸給減額は十八、収入役は八、書記が十五となり、町村長の俸給を増額した町村は県下百七十三の町村中八十三、助役十三、書記百五十か町村というのが実情であったらしい。しかも、町村長の報酬給料の現在平均額は百八十五円で一九一五年度より三十三円増になっているが、これを一六年末現在の全国平均二百六十七円とくらべてみても相当な開きがある。どうも、これは、神奈川県下の一つの特徴であったらしい。 ところで、米価の値上がりのなかで、生活の危機を打開するうえで一つの重要なことは、米がどの程度存在しているかどうかを確認することである。そこで、県は、七月十九日に、県令第五五号で行った在米調査の結果を発表した。それによると、届出実数は意外に少なく、横浜市内の米穀問屋は四十あるが、なかには十石未満のものがあり、一商店でもっとも多数の量を所持しているのは、約千八百石内外で、問屋側の持米は約九千五、六百内外、小売商の持米約八千石前後ということであった。また郵船会社等のごとく食料を要する大会社では白米を所持しているが、五十石ないし百石の程度にて、個人としての届出は意外に少なく、横浜市における在米の届出総数は二万二、三千石であると計算していた(『東京日日新聞』大正七年八月四第5表 神奈川県における賃金の推移 1) 『東京日日新聞』(大正7年8月28日付)から作成 2) この表には,大工・左官・石工・木挽等々の職人的労働者,造船所・鉄工所等の工場労働者の賃金は含まれていない 日付)。しかし、渡辺内務部長は、「本県には十万石以上在米調べの結果、六万余石あるをたしかめ、市内にも相当の数量がある上、鉄道輸送で移入されつつあるから、決して在米不足を悲観すべき理由はない」と述べていた(『横浜貿易新報』大正七年八月十三日付)。 当時の県下における七月一日現在の見込在米高は以下のとおりであった。 横浜市 五八、八八六石 横須賀市 七、七三〇石 久良岐郡 七、七三〇石 橘樹郡 一九、一〇〇石 都筑郡 一一、一七六石 三浦郡 一〇、三二四石 津久井郡 四五九石 鎌倉郡 九、三七九石 高座郡 一一、三五七石 中郡 二七、一〇八石 足柄上郡 一五、三六八石 足柄下郡 一九、四八〇石 愛甲郡 五、九八二石 総計 一九七、九〇一石 内訳 内地米生産者手持 一〇一、三八三石 商人手持 三八、一四九石 朝鮮米 二六六石 台湾米 一〇五石 外国米 五七、九九八石 10月になっても米価は高く廉売がつづけられた 『横浜貿易新報』大正7年10月4日付 この在米量は、推定すると、県民一人当たりが一日平均三合消費するとして、だいたい一か月弱を支える分量であるといわれていた。にもかかわらず、八月に入り、米価が一升四十銭代に突入し、なお、うなぎのぼりにあがっていく気配にあるとき、「空前の米価騰貴を呪う声は各地に暴動の喊声となり、この暴動がやがては横浜市ならびに県下にその端を発せんもはかり難き状勢」が出現したのである(『横浜貿易新報』大正七年八月十三日付)。 米廉売の状況 こうしたなかで、大野秦野町長が県に外米配給を申請したり、郡役所をつうじて「内地在米ハ相当分量アルコト」「外米分配方法」を県でも検討している通牒を町村宛に発したりした(中収一二二六一号)。そして、県当局は調節策をねって、外米配布の承認方を農商務次官に乞い、許可がえられたので、八月十三日より、横浜全市に供給することとなった。なお県当局は「特に生活の圧迫はなはだしき細民に対し、小売商の売値より廉価にて供給をなすため、市内主要なる三か所に廉売所を設くる計画」があると伝えた(『横浜貿易新報』大正七年八月十三日付)。 このような県の外米売出し決定と相前後して、市内の米商の中からも内地米廉売を申し出るものがでてきた。「市内戸部町三ノ七十七米穀薪炭商諸井角太郎氏は十二日正午頃市役所に内地米廉売を申し出た。それは同業者伊勢崎町宮本嘉吉・戸部六十七高村清蔵の両氏と共同して、各自の精米百俵(四十石)を戸部小学校雨天体操場で、十五日より三日間午後一時より六時まで売り出すという。米は茨城・美濃の混合三等米を一升四十五銭一人一回三升限りとして、なるべく多数の人にいきわたらせたいと希望した相な。なお味噌も時価一円に一貫八百目の物を二貫目の割合、百目(五銭)以上売る相だ。これは米のように制限はない。しかして米・味噌売出し中に時価が下れば、したがって値段を下げるのはもちろんである」という(『横浜貿易新報』大正七年八月十三日付)。 さらに十五日からは、「県の廉売を応援するため、青年会員を以て市内巡回廉売をなさんことを県に申し出て」、当局においてもこれを歓迎し、同日の廉売は午前中から開始されて、午後五時までに二百石をこえ、初日以上の売れ行きであったという。 足柄下郡小田原町および同町周辺の漁民・非農業部落民の窮乏甚だしく、不穏の状も深刻化してきたので、郡書記の調査結果に基づいて、郡長は十三日、岩田小田原町長・今井真鶴組合長を交えて協議した結果、とりあえず県に外米廻付の斡旋を求めることとし、「町は十四日午前十一時より町役場に町会議員を召集し、緊急町会を開き、外米を原価にて廉売することにした」(『横浜貿易新報』大正七年八月十五日付)。また、小田原米商組合は八月十六日から十日間、一升三十五銭で毎日三十石を町内五か所で廉売することになったという(『横浜貿易新報』大正七年八月十六日付)。 すでに、米騒動の火の手が、八月九日にはじまる名古屋の暴動を起点として、西の京都・大阪・神戸から西へのび、さらに愛知・静岡の東海道の地方都市につぎつぎと伝播し(吉河光貞『所謂米騒動事件の研究』)、そのような状態のもとで、神奈川県下では、「官民」の協力により、はやくも外米の販売と内地米の廉売にふみきったのである。その具体化の一例を示すものとして、中郡大磯町の米廉売施米の実施状況を伝える公文書がある(資料編11近代・現代⑴二三〇)。 このなかの一つをみると、八月十六日に、大磯町では、白根鼎三町長の名儀で、外米五十袋を廉売している。それは、「壱石ノ原価拾九円弐拾五銭ノ処御下賜金并県内有志ノ寄付金ヲ以テ壱石ニ付金四円弐拾五銭補給セラレ候ニ付壱石拾五円ニテ販売ス」というように、天皇からの下賜金・寄付金をあてて、原価を割る廉売であった。そして廉売の場所は山王町(山王神社内)、南下町(かづさ屋前)、台町(妙昌寺内)の三か所で、数量は一戸三升を限度とすること、生活困難の者に限り売渡すこと、代金は区長が取りまとめ役場へ納付するという方法をとっていた。さらに、八月二十日をすぎると廉売はさらに拡大されている。そのさい、中郡長の八月二十二日付の通牒、すなわち、「御下賜金ニ関スル件追記第二項ノイ号ニ於テ主トシテ米ノ廉売ヲナス様申シ置キ候ヘ共地方ノ状況ニ依リテハ麦、粟、稗、芋等ヲ代用スルモ差支無之同項ハ号ニ於ケル実際困窮セル者トアル内ニハ俸給生活者ニシテ生計困難ト認メラルヽ者ヲ加フルモ亦差支無之候条」(中収第一二三六六号ノ三)に基づいて、八月二十七日から、外米一升十五銭、台湾米一升二十七銭として、「一 一人一日ノ購入数量ハ七歳以上ヲ五合、七歳以下ハ弐合五勺トス、一 当町ニ現住スル下給官公吏雇員及会社員共同購入ヲナスコトヲ得」というように指定していった。 米騒動と県民の動静 このように県下における米価高騰、米騒動対策は、県や市町村が、県民の生活窮状に対処して先手を打つことにより、大きな暴動を未然に防ぐことに成功したのである。それには、またそれなりの理由があった。というのは、県知事有吉忠一の「回想」にもみえるように、不穏な情勢に対処して予め警戒を厳にしたからである。それは、「当時不穏の徒が暗躍して、夜中密かに不穏のポスターを市中諸所に張って居たのを、非常に早く発見したので応急手配して厳重の警戒を加へたゝめ、あの伝染力猛烈であった米騒動も、横浜だけは幸ひ事なきを得たのである」と。しかも、「不穏のポスター」をはやくみつけることができたのは、小田原町の閑院宮の別邸に泥棒がはいり、そのために、県下いっせいに特別警戒にはいったとき、それらを発見したからである。 しかし、県下で不穏な動きがまったくなかったわけではない。横浜市では八月十五日に「午後五時ごろ横浜公園に来集者あり」、警察官解散を命じたが、午後十時ごろ再び公園に七百名ほど集合したこと、十六日夜十時ごろに、前日同様「横浜公園に群衆集合」し、「伊勢佐木町より長島橋遊廓裏門に到りしも、厳重なる警官の一隊に喰い止められ」たがその後、「勢漸次猛烈となり、閧の声をあげて電車に投石し、またまた裏門を突破」しようとして果せず、遂に二組に分れ、「一隊は伊勢佐木町通りの民家に投石、破壊を企て、関内太田町巡査派出所の硝子戸を破り、相模屋・鶴屋呉服店の表戸を破り、東の端に至り、他の一隊は賑町・足曳町を経て梅枝町に到り、同町の交番を破壊したり。翌十七日午前三時頃鎮静に帰した」(『東京日日新聞』大正七年八月十八日付)という動きがみられた。また十七日には、「夜九時頃より横浜公園に数千の群衆」が集まり、検挙退散の中で、その民衆は「吉田橋方面に雪崩れ行き、新たに群衆を増し、吉田橋より伊勢佐木町大通りを経て足曳通りより長島橋に至る間、数多の群衆あり。時々喊声をあげて電車に投石する騒ぎに電車は午後十時限り危険区域なる馬車道・日本橋間の運転を中止したり。なお群衆は真金町遊廓に至り、喧騒を極め」たという(『東京日日新聞』大正七年八月十八日付)。 こうして横浜市の騒動は、十七日夕方からの騒擾をもって一応終わりをつげた。 また、県下のもう一つの都市横須賀においても、八月十五・十六日に「相木田遊廓付近・不入斗付近等に不穏の文字を書きたる紙を貼付されあり。両夜共五、六百の市民は諏訪公園内埋立公園に集」まったという事実がある。また、「田戸・諏訪公園内に集まりし群衆も、ただ集合」したという程度で、暴動には発展しなかった(『東京日日新聞』大正七年八月十八日付)。 さらに橘樹郡保土ケ谷町の字帷子川岸にある株式会社保土ケ谷曹達工場において米騒動のさい、この工場がもたらすばい煙とガス放散に苦情を提言する動きがあり、これが暴動に発展するが、直接、米騒動というわけにはいかない。 大正7年ころの「貧民救済ノ為餅代配布方ニ関スル件」と題する通達 小田原市教育研究所蔵 この外騒動にまではいたらなかったが、不穏の状態をみせていたのは、橘樹郡御幸村南河原の日本製鋼会社、足柄下郡小田原町およびその付近であったという。したがって、騒動は、まったくといってよいほど大きな渦となってひろがっていない。しかし、にもかかわらず、全国的規模での米騒動の影響は、県民生活の苦境の一端を代弁しており、騒動後においても、物価騰貴の風潮は県内各地に流れていた。そのためにも地方の秩序を建て直し、社会不安を除去していく新しい方向を模索せざるをえなくなる。 二 地方行政の変化 「思想問題」と行政の強化 一九二〇(大正九)年十月十八・十九日の郡市長会で、県知事井上孝哉は、以下のような訓示をあたえていた。その趣旨は、現在の内外の情勢は容易でないと前置きして、欧米諸列強の間では「国際上ノ軋轢、経済上ノ競争激甚」をきわめ、そのなかで、五大国の一つである日本の直面した課題は、かつては東アジアの諸問題に限られていたが、いまや、世界の各方面にわたるようになり、したがって世界的な問題にかかわるとともにまた、その逆に、世界の動きの影響をもろに受け、そのために、我が国の責任はますます重くなり、多額な国費を必要とし、国民的規模で一大決意をもってその対策にあたらなければならない、という点にあった(資料編11近代・現代⑴二四一)。 この考え方は、もちろん、しばらく前の地方長官会議で原敬首相および床次竹二郎内相から指示を受けたことがらを伝達したものにほかならない。しかし、そこには、あきらかに第一次大戦をへた後の日本の国際社会における立場と国内の社会変化を強く意識したうえでの行政の進めかたの基調が示されている。こうして、知事は、つづけて、国民道徳の涵養と思想の善導を主眼とする「敬神」の念を振作すること、「立憲思想ノ涵養ト自治ノ精神」の普及をはかること、「社会政策ノ実行」を推進すること、「道路ノ完成」を期すること、「国民体位ノ改善」を期すること、「教員ノ修養ト待遇ノ向上」を遂行すること、「徴税ノ整善」「国民思想ノ善導」をうながしていくことにふれ、さらに、地方行政機構の一部編成替えともいうべき「産業部ノ設置」と、この年から着手した「国勢調査」をとりあげていた。 この知事の訓示をみるとき、時代の変化に対応しながら、行政のとりあつかわなければならない範囲が拡大するなかで、地方の場からさまざまな社会問題を処理していくための人物養成、制度改善と施策が打ち出されているとみてよい。なかでも、「神祇崇敬ノ淳俗」を振興していくために、政府が、神社経営と神職の地位の向上をはかろうとして、神官ならびに官幣社への供進金、国幣社の例祭幣帛料および府県社以下の神社の神饌幣帛料を増額したこと、官幣社・国幣社の宮司を勅任官待遇、府県社以下の神社の神官を奏任官の待遇にそれぞれ進む途を切り開き、あわせて給与改善をはかったことは、注目してよい。この政府の宗教政策に関連して、すでに神奈川県では、歴史の古い由緒のある神社で維持が困難なものにたいしては神社経費を補助したり、あるいは、神職会経費を補助して神職の講習を奨励し、さらに、県社以下の社司社掌の俸給および旅費規程を設けて神職の待遇改善に努めつつあった。また、次の世代を育て、「民族将来ノ隆替」に大きな影響をおよぼす小学校教員の待遇改善に関しても、神奈川県では、他の府県にくらべてひけをとらないばかりか、先般の俸給令改正によってその地位を確保し、「近時県下教育界ノ面目」がようやく改まってきたとみなされるようになった。 神職や教員の待遇の改善を進め、社会的地位の向上をはかっていくことは、国際的規模でデモクラシー思潮が流入し「思想混乱」がひきおこされてきているなかで国民道徳・国民思想をたてなおしていくうえで必要であるばかりではない。「憲政並自治」にたいする精神を地域から涵養し、地方行政の効果をあげるために、「責任観念ノ養成」をうながすうえで、その担い手として、「地方中心人物」の育成という点でもまた重視されていたのである。この事情は、「立憲思想ノ涵養ト自治ノ精神」のところで知事が、青年団体・戸主会・自治会等々公私団体の自治活動を活発せしめることを強調している点と一脈あいつうずる。 産業振興と社会政策 ところで、第一次大戦後、地方行政の施策の場でとりわけ重視されてくるのが、産業振興と社会政策の面である。前者については、この年、すなわち一九二〇(大正九)年九月、勅令第三八九号で地方官官制を改正し、東京府外二府四県に産業部を設置し、制度の改正をほどこしていった。産業部を新設したのは、工業化の進んだ地域をかかえている府県であり、京浜工業地帯をかかえた神奈川県もその対象になっていた。そして産業部を設けたことにより、これまで県の内務部に属していた農工商・森林・水産および度量衡に関する所轄事項はこの部の所管となったのである。そこで知事は「産業ノ事タル国運進展上重要ナルハ勿論ナリト雖本県ノ産業ハ国策上特ニ一般ノ振興開発ヲ要スルモノアリ」と説明し、県自身が、産業の改善発達を期す抱負を語りながら、この機会に郡市長が率先して各種産業の育成に力を入れていくことを要請していた。また、社会政策の推進に関して、知事は県としては、つとに「此ノ点ニ留意シ昨年八月新ニ社会課ヲ置キ社会的施設ニ関スル行政ノ衡」にあたり、これまでの種々の社会問題に関する既設の事業の徹底につとめることはもちろんのこと、「失業保護、救貧施設、生活改善、民力涵養、部落改善、児童保護其ノ他農村漁村工場等」の社会問題の解決に関する計画を進めていると述べていた。それだけに、また、県の立場としては、郡市長が、時代の進展にそくし、地域の事情を考慮しながら、社会政策の実行に努力するよう強調していた(資料編11近代・現代⑴二四一)。 もちろん、このような地方行政の運用上の重点施策は、こつぜんと提出されたわけではない。すでに、政府は、地方行政の任にあたる者が社会問題の処理を含んだ地方自治の振興の必要性に応じて行政事務量の増大と複雑化に対処する方針をだしていた。たとえば、一九一八年十一月一日の足柄下郡町村長会における郡長の演説をひきあいにだしてみると、町村が政府の発令する法令または県郡を経ておろされてくる政府の方針を受けとめ、町村の事情におうじて、「県郡ト意思相通シ首尾相応シ各其ノ権域」によって町村役場の事務の整理改善の実績をあげるよう要請を受けていた。そのために、町村長・助役は、「町村ノ公事」を担う以上、相互に気脈を相通じ、連繋をもって「毎日必ス役場ニ出勤」し事務を指揮すること、町村役場吏員は、執務に必要な「諸法令例規等ニ通暁」する努力を重ねること、また、「法令例規等の研究」を組織的にもつことが要求されていた(資料編11近代・現代⑴二四二)。 こうした要請がだされたのは、地方行政機関の事務が渋滞したり、吏員の怠惰な傾向が能率の低下をもたらしているという理由だけからではない。行政の諸領域で、諸物価の高騰とか国民生活の変化あるいは階級対立といった問題に対処し、さまざまな諸法令がだされ、そのために、「町村住民トシテ共同ト公共心ヲ涵養」する必要にせまられていたからである。事実、一九一九(大正八)年夏の各郡の町村長会での政府から県をつうじておろされてきている指示伝達事項をみるとき、この二、三年来の地方行政の内容の複雑多様な動きを具体的にとらえることができる。いま橘樹郡の町村長令を例にとってみると、自治体の発展とその条件づくりのために、いかに「健実ナル民風」第6表 大正7年の県庁機構 をつくりだすために苦慮しているか、その一端をとらえることができる。その指示は、まず、民間においては「管内ノ篤志者教育家宗教家在郷軍人分会青年団」等々を協力させて活動せしめること、町村およびその吏員は、政府の施政方針や法令の趣旨、町村条例の要項などを住民に周知、徹底せしめるために「公告式ノ掲示場」を設けるといったような方策をこうじること、そして、「自治体ノ基本財産蓄積条例」を確実に励行せしめ、「善良ナル公民」を育成していくために、町村役場は「各種統計ノ資料」をそれぞれの町村の在郷軍人分会・青年団の人たちを指導して協力せしむることにふれて、以下のような指示事項を掲げていた(資料編11近代・現代⑴二四三)。 その内容を追跡してみると、都市化・産業化の進展する事情を背景とする社会の変化に関連して制定された諸法律の具体化と、それなりの社会改革をはかろうとする行政運用をとらえることができる。たとえば、道路法の制定とその施行にともなって、政府は、自動車・自転車などの交通手段の登場を考慮してか、「交通上危険」の現状を改めるために町村里道の施設の修繕と改善を強く指示していった。この種のことがらに関連して町村管理の「道水路新設変更」の整理の方法を講ずること、「道路堤防並木敷」をはじめとする「官有土地水面」の継続使用の手続を迅速に運用すること、県費補助をうしろだてとする町村主管の「道路橋梁及治水工事」を促進せしめることなどを重視している。これらの指示事項は、いわば、住民の生活環境の急速な変化を含めての環境のたてなおしの施策であるといえよう。また、この環境整備に関連して、地域から産業を育成するきめ細かい指示も打ちだされていたのも一つの特徴である。この事項にかかわるものとしては、町村農業技術員を長期に勤続せしめ定着せしめること、蚕業の奨励に関して桑園の改良などを推進し、養蚕組合の充実をはかること、産業組合の生産物の共同販売、生計用品の共同購入および貯金の奨励など機能をいっそう拡大していくこと、絹織物業における「力織機奨励補助規則」を県令第二七号で改正し、機業奨励の補助の適用範囲を拡大し「小機業者保護」を打ちだしたこと、「家畜家禽其他畜産物」の奨励等々が強調の対象となっていた。 また、軍事救護法の実施に関して、この法の過去一か年余の実情をみると、その適用にいろいろ不備があるので、社会法としてのこの法の趣旨の理解を徹底せしめること、「衛生施設ノ改善」をはかり、「国民保健ノ実績」をあげるために制定された精神病院法・結核予防法・トラホーム予防法、一部改正の医師法・阿片法のもとに、衛生に関する施設の改善を訴えていたことは、社会問題を解決していく一助として強く位置づけられていることを伝えているといえよう。 このように、地方行政に課せられる役割は大きく変わり、その範囲もすこぶる多面的になってきたといえよう。この事情は、地方行政を具体的に担っている市町村の自主的な活動が期待されてきたことを示している。その意味で、第一次大戦は、地方行政の機関とその構成員が、もはや「牧民官」として、国家の諸政策を推進するパイプ役で、社会秩序を監視するだけではすまされなくなってきたといえよう。 第五節 民力涵養運動 一 民力涵養大会 自治観念の強調 一九一九(大正八)年三月、床次竹二郎内相は民力涵養計画について、道府県知事に訓示を発した。その要綱は、一 国家的自覚―立国ノ大義、国体ノ精華、健全ナル国家観念、二 統治的協力―立憲ノ思想、自治ノ観念、精神的協力、公共心ノ涵養、犠牲的精神、三 世界的自覚―世界ノ大勢、日新ノ修養、四 社会的協力―相互諧和、彼此共済、五 個人的自覚―勤倹力行、生産資金ノ増殖、生活ノ安定にわたっている。そして、政府は、この五つの要綱を確定するとともに、その実施にあたって、この趣旨を実際に活用するために「民心を機の動くに察し、善導啓発、地方の実情に適応する方策」をとるべきことを強調していた。 民力涵養計画は、米騒動と第一次大戦後の「戦後経営」の方向づけとして、物価騰貴と社会不安が高まるなかで国民生活の充実としてかかげ、それを体系づけ、国民的運動として推し進めようとするものであった(『内務省史』第一巻)。 こうした政府の意向を受けて、神奈川県ではこの年の十月十五・十六日に、自治功労者の表彰をかねて民力涵養大会を開催した。この神奈川県自治功労者表彰民力涵養大会には、中央から元内相一木喜徳郎、内務省地方局長添田敬一郎を招き、県内各方面を代表した来会者は千二百九十六名にのぼっていた。 この大会において、井上孝哉知事は、自治の振興ならびに民力の涵養に関する問題について、さまざまな事例を織りまぜながら長時間にわたる演説を行っている。井上の講演は、国家秩序をいかに振興していくかという視点から、まず「自治なるもの」のもつ「非常なる力」についての意味を力説していた。この点について、井上は、「自己の運命を自分の責任で定める」ということが「自治の真髄」であると説き、「自治即ち自己が自己を支配すると言ふことは偉大なる力を持って居るものでありまして、同時に世の中の進歩発達と言ふ事も此の力を除いて他に期待することは出来ない」と述べていた。こうして、世界各国がともに「非常なる焦熱の火中」におちいり、「苦心惨憺」「臥薪嘗胆」の状態にあるなかで、日本国家が「優勝の地位」を持続しようとするならば、「挙国一致即ち国土の一畝を遺さず国民の一員を剰さず大に発奮努力しなければならないこと」を強調していた。また知事は、労働問題が必然的にひきおこされてくる状況、物価が暴騰してくる社会状態の推移のなかで、資本家にはその利潤を「公益」のために還元すること、労働者には「節利と規律」を要求し、それぞれの「自分の利益」のために奮闘しながらも「国家の利益」を擁護する義務への自覚をうながしていた。こうして、井上は社会における階級対立をはじめとする諸対立を認めながら、さらに、政治家、役場吏員、町村民のいずれとも対立しつつ「バランス」を保ち、急激な社会変化を阻止すべきことを説いていた(資料編11近代・現代⑴二三五)。 また、内務省地方局長添田敬一郎は、これまで日本社会は、「上下の関係」がたいへんに密接であったが、これからは「横の連絡」「国民相互の連絡」をとっていくべきであると、その事情を説いていた。そして、添田は、「市町村住民が各自自己の責任を自覚して、而して其町村の将来の為めに奮闘する、斯ふ言ふことに相成って来なければならぬ」と話していた。この自治観念の強調は、民衆にすべてのできごとを「知らし」め、そして、国家秩序をつくりだすために「尽力すべし」「倚らしむべし」という理屈になってくる。こうした主張は、地域を建てなおすために個々の人びとの自発的な協力をひっぱりだすことに重点をかけていることがわかる。 このような雰囲気のなかで、「上下の関係」を中心とする整然たる「タテ」社会の秩序をつくりなおすために、「横の連絡」-「ヨコ」社会の関係を強める便法として、民力涵養の実行要目について、それぞれの土地の事情に応じてこれを取捨選択する方式をとっていくことを申し合せている。 民力涵養大会を報ずる記事 『横浜貿易新報』大正8年10月15日付から 民力涵養実行要目 そこで、この大会において、「民力涵養実行要目」に関する協議会を開いた。この協議会は、横浜市長久保田政周を座長にして、民力涵養の訓令要綱の各種の事項を広範囲にわたり網羅している「実行要目」案の趣旨を徹底せしめるために、「土地土地ノ情況」に応じて取捨選択する余地を残してあるその「要目」を討議することを狙いとしていた。まず県内務部長大島直道がいま述べた趣旨にたって民力涵養実行要目を提示した。この実行要目は誰にでも解るようにこと細かく具体的に列挙してある(資料編11近代・現代⑴二三七)。そして、内務部長の発言に基づいて、議事は、「要目」にもられていることがらをめぐっての質疑応答からはじまった。そして、一、二の質問と応答があって、橘樹郡大綱村村長飯田助夫の発議と橘樹郡長の説明により、県作成の「実行要目」をめぐって各町村自治体が自由に検討し、県の調査資料に基づいてそれぞれ適切な加味選択を行い、町村本位の「実行要目」を設定することを満場一致で可決していった。両者の発言の一節を掲げると次のとおりである(資料編11近代・現代⑴二三六)。 大綱村長 此実行要目ヲ此場合討議致シマスト言フコトハ、中々重大問題デアリマシテ、慎重審議ノ下ニソレヲ決メナケレバナラヌノデ、所謂準備ナクシテ其事ニ臨ムト言フコトハ頗ル危険ナコトデ、之ガ適切ノ成案ハ得ラレマイト考ヘル、……自分ノ意見ト致シマシテハ、市町村ヲ単位ト致シマシテ、是等ノ市町村ガ其実行等ニ付キマシテ、茲ニ其調査資料ガアリマス、此調査資料ノ中ニモ各町村ノ事情等ヲ異ニシテ居ル場合モアリマスガ、悉ク之ヲ実行スルト言フコトニハ参リマスマイデアラウト思フノデアリマス、仍テ各市町村ガ此意見ヲ〓メマシテ、之ヲ各市郡ニ提出シテ、サウシテ之ヲ市郡カラ司会者ノ方へ発表サレルヤウニ煩ハシタイノデアリマス 橘樹郡長 一応申上ゲマス、此実行要目普及ト言フコトハ、僅カノ時間デ出来マスレバ結構デゴザイマスガ、事柄ガ多岐ニ渉ツテ居リマス、又斯ク県下ノ御集リノ各地方ノ情況ニ当嵌メマスコトハ、所謂農村ニシテモ自カラ農村ト致シマシテ天ノ地勢、古来ノ慣習、職業ノ異同、諸種ノ点ニ於キマシテ一律ニ之ヲ律スルト言フコトハ少シク無理ノ点ガアリハセヌカト気遣フノデアリマス、夫故ニ此示サレテゴザイマスル調査資料ノ中ノ適切ノ事項ヲ、各町村ノ実行要目ニ取捨シテ、又町村ニ銘々適切ノ事項ヲ尚ホ加味シテ、町村限リデ実行要目ヲ決メルト言フコトニ致シタイト言フ私ハ希望デアリマス この二人の発言のなかには、民力涵養運動を地方や地域でどのように受けとめ推進したらよいかという積極的な態度がよくあらわれている。そして、それぞれの町村で「実行要目」を設けることの時期に関しては、橘樹郡長の「今月一杯」という提案を受けて「力メテ早ク」ということで決定した。この運動を効果的に普及させるためにそれぞれの地域の条件におうじてその方法を考案すべきであるという考えかたは、内相の訓示などにも示されていた。しかも、地方自治体の指導者がその趣旨を受けとめ、協議会で確認したように、細目は「自治体ノ自由」にまかせるという方法をとり、上から画一的に強制力をとる運動を拒否していた。その主張にみえるように、自発的・自主的に町村単位で「実行要目」をたてて適切な運動方法をあみだそうとするのは、「到底町村協力シテヤルニアラザレバ、常ニ強制致シマシテモ画餅ニ属」する(橘樹郡長)という考えかたに基づいていた。この協議の結果、民力涵養運動の「実行要目」は各町村単位で適切なる方策をとることとなった。その後県当局は十一月四日に、「民力涵養通牒」として次のような事項を各郡市に通牒したのであった。「一 各郡市主催として協議会を開催すること、二 各町村毎或は便宜数ケ町村連合して開催し或は数種の合同と併せて開催するも妨げなし、三 期日場所方法等は適当に選定せられたし」(『横浜貿易新報』大正八年十一月五日付)。こうして一九一九年の末から二〇年にかけて民力涵養運動は地域におろされて推し進められることとなった。 二 民力涵養実施の事情 村の実行要目 では、この運動は具体的にどう進められていったであろうか。いまその動きについて、橘樹郡大綱村の場合をとりあげてみることにする。 大綱村は一九二〇(大正九)年三月一日に村主催の「地方改良民力涵養通俗講演会」を開催して民力涵養の普及をはかる企画をたてた。当初、この会の講演予定者は、内野台領(東京高等師範学校講師)、上野清助(県会議長)、岩崎治郎吉(前県会議員)、松坂秀天(宝泉寺住職)、斉藤賢義(本慶寺住職)、飯田干城(海軍少佐)の六名であり、「本村出身者知名」の者を中心とするものであった。しかし村からの正式依頼が、講演会開催日より一週間前の二月二十四日でさしせまったころであったせいか、病気や先約やらでほとんど出席をうることができず、どうやら、この日は他のスケジュールで会をもつこととなった。 大綱村長飯田助夫による『大正九年自一月至六月地方改良民力涵養関係書類』によると、そのスケジュールは次のようなものであった。 一 一同着席 二 開会ノ辞 三 戊申詔書奉読 四 地方改良、民力涵養ニ就テ(大綱村長) 五 民力涵養実行要目協議会 六 農産増収并ニ節米ニ就テ(郡農会長) 七 補習教育奨励ニ就テ(大綱尋常高等小学校長) 八 余興(前後二回薩摩琵琶) 当日の村民の出席者は約三百二十名、約二、三戸に一名の割合の出席率であり、なかなかの盛況であった。村長の民力涵養運動の意味についての説明や、農産物の増収、節米および補習教育の奨励にかんする講演が、民風作興、民力涵養の趣旨についての理論面からの村民教化であるとするならば、余興の琵琶は、村民の感覚に訴えての教化であったといえよう。「記事」はこう記録している。「余興ノ琵琶ハ本村出身者錦心流琵琶教授吉田葦水先生ノ常陸丸、川中島ノ弾奏アリ、其ノ巧妙ナル発音ト弾法トニ一同ヲシテ心酔セシメタリ」と。村民を運動にひきつけるひとつの手段としてかなりの効果があったといえよう。 ところでこの村の民力涵養の「実行要目」を決定するための協議も、さきに示したスケジュールにあるとおり、この大会で行われていた。すなわち、村長の父親である村農会長飯田助大夫を座長にすえて、出席者全員に協議案を配付し、議案要綱を小学校長が説明し、一、二の字句の修、補正を行って決定したのである。その「実行要目」とは以下のとおりである(資料編11近代・現代⑴二三八)。 大綱村民力涵養実行要目 訓令第一要綱 立国ノ大義ヲ闡明シ国体ノ精華ヲ発揚シテ健全ナル国家観念ヲ養成スルコト 実行要目 一 毎朝祖先ノ霊位ヲ参拝スルコト 一 村社ノ祭式及村主催ノ追悼会ニハ小学校児童、在郷軍人分会員、青年団員参拝スルコト 一 社寺ノ構外ヲ通行スル際ハ叩頭シテ敬意ヲ表スルコト 一 三大節及ビ其ノ他ノ祝祭日ニハ各戸国旗ヲ掲揚スルコト 一 高貴ノ御肖像ニ対シテハ之カ取扱ヲ鄭重ニスルコ橘樹郡大綱村と付近の村むら 『大正4年橘樹郡統計一覧』から ト(この項目後日追加―筆者注) 訓令第二要綱 立憲ノ思想ヲ明鬯ニシテ自治ノ観念ヲ陶冶シテ公共心ヲ涵養シ犠牲ノ精神ヲ旺盛ナラシムルコト 実行要目 一 部落的感情ヲ去リ公共ノ福祉ヲ図ルコト 一 納税義務ヲ怠リ又ハ納期ヲ誤ラザルコト 一 言責ヲ重ンジ実践躬行ノ美風ヲ涵養スルコト 訓令第三要綱 世界ノ大勢ニ順応シテ鋭意日新ノ修養ヲ積マシムルコト 実行要目 一 優良ナル書籍雑誌ヲ購読シテ日新ノ智識ヲ修ムルコト 一 補習教育ヲ奨励スルコト 訓令第四要綱 相互諧和シテ彼此共済ノ実ヲ挙ケ軽進妄作ノ憾ナカラシムルコト 実行要目 一 隣保相助ケ組内ノ改善発達ヲ図ルコト 訓令第五要綱 勤倹力行ノ美風ヲ作興シ生産ノ資金ヲ増殖シテ生活ノ安定ヲ期セシムルコト 実行要目 一 農産増収ヲ図ルコト 一 時間ヲ励行スルコト 一 冠婚葬祭ニ際シ冗費ヲ節シ地方改良費ニ寄付スルコト 一 奢侈ヲ戒メ質実ヲ旨トスルコト 一 混食米ヲ奨励スルコト 一 貯金ノ励行ヲ期スルコト 一 道路ヲ愛護スルコト ここには、村の民力涵養運動の進め方の具体的な姿がよく示されている。とりわけ、「実行要目」は町村での運動の実態を知る有力な手がかりとなる。しかも、ここに掲げられていることがらは、県の「民力涵養実行要目」の基本線と深く関係し、かつその要目を具体化している向きが非常に強い。 村民参加の諸行事 もっとも、大綱村の場合、前年の秋、県主催の民力涵養大会の協議会において、町村単位の「実行要目」を自発的・自主的に設定することを提唱した飯田助夫を村長としているだけに、ことのほか運動を進めるのには熱心であったようだ。実際、三月十七日にも、この村では民力涵養講演会を開催し、松本教正「自己を知れ」、椿教正「唯此一途アルノミ」、内海文学士「民力涵養三根本義」、飯田助大夫「薩米混食ニ就テ」という講話が行われていた。ここで講演会での論点にのぼっていることがらをかいつまんで整理してみると、西欧の個人主義を排斥し、国民としての義務を強調して、犠牲の精神を尊び、個人の利害を越えての自覚と大和魂の涵養をうながしながら、いまや五大強国のひとつとなった日本を、国際環境のなかで位置づけなければならないということに集約されていた。その共通した考え方は、西欧のデモクラシーの思想を防止しながら、日本の伝統的な国家意識を町村から盛り上げていこうとした点にある。 もとより地方や地域における民力涵養運動が大綱村のようなところでの限定された動きであるならば、この運動を一般化することは困難であるかも知れない。しかし、この運動が広範囲にわたって進められていることを考慮すると、民力涵養計画は、諸列強との対抗と国内のデモクラシー状況への対決の意味をこめた政策として大きな役割を果していたとみてよい。 したがって民力涵養運動は、さまざまな機会をとらえて種々のかたちをもってくりひろげられていった。たとえば大綱村では四月八日の釈尊降誕祭の日、菊名の妙蓮寺で「日清・日露戦死病没者追悼会」を挙行し、あわせて陸軍士官学校教官と教談師を講師に迎えて通俗講演会を開催していた。この追悼会が民力涵養運動のひとつとして村の指導者層に強く意識されていることは、飯田村長の当日の追悼文をみてもよくわかる。その文章のなかで村長は、日清・日露戦争は「我国ノ所謂大和魂ナルモノヲ世界史ノ上ニ特筆セシメタル戦争」であることを強調し、その戦争に殉じた人びとの大和魂を顕彰しつつ、今日の社会の実情がいかに堕落したものであるかを対比していた。 今ヤ社会ハ欧州戦乱ノ影響ヲ受ケ政治、経済、教育等ノ各方面ニ亘リ非常ノ大変化ヲ斎ラシ、殊ニ欧米ニ於ケル思想上ノ変化ハ我国ニ侵入シ来リ事ニ当ツテ真摯、忠実ヲ欠クノ風アリ、就中近時頻々トシテ起ル怠業沙汰ノ如キハ洵ニ我菊名の妙蓮寺 県史編集室蔵 大和魂ニ対スル怨敵ナリ この一文に追悼会のもつ意義を集約的にとらえることができよう。 なおこの村における民力涵養に関する意欲的・組織的な諸運動の精神と方法は、大綱村青年会の「大正九年度実行要目案」(第二支部)、「予算表」(第一支部)、あるいは「壮丁学力補習会」に関する諸資料をみても、またたとえば第二支部の「実行要目案」に「補習教育ノ奨励ニツキテハ尚一層ノ努力ヲナスコト」というようなことをはじめ農産物の栽培方法についての努力目標あるいは組織の引締め等々を検討してみてもあきらかなように、かたちを変えて村域に浸透していた。 三 民力涵養運動の実績 民力涵養協議会 民力涵養運動が広範に進められていった一例をあげておこう。神奈川県下愛甲郡では、一九二〇(大正九)年三月十日に七百名の参加者のもとに郡教育会、青年団、神職支部会連合総会、地方改良功績者表彰式、地主会米麦品評会褒賞授与式を行い、民力涵養実行要目を協定し、運動へのとりくみの態度を表明していた。その「実行要目」の基本線は「一 自治民育策に関する各種講話会講習会を開き又は先進地方の視察を行ふ事、一 大正七年十二月郡令第四号の精神に基き男女補習教育の完備を期する事、一 産業組合、農事実行組合、養蚕組合、商工業に関する同業組合の普及発達を図る事」で、これらは全会一致で可決されていた。 「民力涵養大会=盛なりし愛甲郡の諸総会」と新聞の見出しに使われるほどに、地方改良、民力涵養をめぐるこのような反応のなかに、運動が経済活動を基礎にすえ、経済的な混乱を解決しようとする努力のうえに立って、人びとの統合をはかっていくという傾向をとらえることができる。このことは、地域の経済諸団体を中心として産業振興をはかりながら、村落とか村の組織化を促進し、「思想ノ悪化及風俗ノ頽廃」を克服するために、民衆の教化を強めていくという地域社会の再編成の方向づけともなっていた。そして「健全なる思想」の涵養とか「富力」の増進をそれぞれ地域の条件に基づいて推し進めることこそが、民衆の「国家観念」の養成、「自治精神」の陶冶につらなり、国家を下から支えていく道につながっていくのである。 こうしたなかで、前年の県が音頭をとった民力涵養計画の「実行要目」の協議や、あるいは、郡市、町村の運動の盛り上がりの過程をへて、一九二〇年六月中旬には、県においても地方改良・民力涵養講習会を行っていた。参考までにそのスケジュールを掲げると第七表のようになる。 この講習会は県下の郡市町村からの代表者(郡市では書記、町村では町村長あるいは助役ないしは書記)を対象として行われたものであり、したがってこれは指導者講習という性格が強かった。いまここでは講習会については「民力涵養」のテーマについてだけとりあつかうことにする。その講義は以下のような項目で行われていた。 民力涵養 一 民力涵養上我国民ノ反省スベキ諸点 1 各国富力ノ比較 2 労働能率減退 3 発明発見ノ能力 4 体力 5 国家的奉仕 6第7表 1920年地方改良民力涵養講習会の時間割とテーマ 『大正9年6月地方改良民力涵養関係書類』から作成  世界文化ニ対スル貢献 7 情操ヨリモ理性的 8 他動的ヨリモ自動的 二 国民自覚ノ事例 1 戦争中ノ発明発見 2 最近実業ノ発達 三 民力涵養訓令ノ五大要綱 1 訓令第一要綱(国家的自覚-立国ノ大義、国体ノ精華、健全ナル国家観念) 2 訓令第二要綱(統治的協力-立憲ノ思想、自治ノ観念、精神的協力-公共心ノ涵養、犠牲的精神) 3 訓令第三要綱(世界的自覚-世界ノ大勢、日新ノ修養) 4 訓令第四要綱(社会的協力-相互諧和、彼此共済) 5 訓令第五要綱(個人的自覚-勤倹力行、生産資金ノ増殖、生活ノ安定) 四 実行要目(覚醒改善ノ標的) 1 郡制定ノ実行要目 2 市町村制定ノ実行要目 3 各種団体ノ実行要目 五 要目ノ励行ニ就キテ 1 申合規約 2 戸主会、自治協会等ノ実行団体 3 小学校、補習学校、在郷軍人分会等ノ団体 4 郡市町村当局ノ指導 5 他府県ノ事例 この講義内容の項目をみてもあきらかなように、民力涵養運動を進める意味づけや根拠づけと地域で計画をどのように実現していくか、その具体化の方策をめぐってキメ細かな指導が行われていた。 民力涵養計画の特徴と実績 とりわけ注目しなければならないのは、訓令の要綱にも明示されていることがらであるが、民力涵養運動を先進諸列強の国家状態と日本の現状とから比較するという視角に立っていたことである。その狙いは、国際的視野のもとで、日本国家の発達をはかるその基礎固めの理論的裏づけを確定しようとしたものである。それは二条嘱託の「自治ト国民修養」の項目―一 進ムベキ道(1 混沌タル思想界 2 何レニ向フカ)二 何ヲ以テ進ムヤ(1 国民ノ質ノ改善 2 公民教育)三 前途ノ障害ヲ除ケ、付欧米ノ実例―における説明をみてもあきらかで、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国などの民力、自然的風土と日本のそれとの比較がふんだんに行われ、またマルクス主義、ソビエト・ロシアの過激派の動きなどにもふれながら、日本の美風をいかに活かすべきかということに焦点がおかれていた。そしてこのような情況認識のもとで地方財政をたてなおす基礎知識を培養しながら地方制度の運用を円滑にするための実践方法をあみだし、民力の向上と民風を作興しようとしたのである。 しかも、この講習の協議会で「民力涵養実行要目」を励行するにあたって、「各地方其状況ヲ異ニスルガ故ニ一様ナル方案ニヨリテ之レカ励行ヲ期スルコト能ハザルベキモ大体ニ共通スベキ方案ヲ」求めるよう説明していたことは、運動の地域における特殊性を認めつつも、またそれを包括する普遍的な内容と方法を確立しようとすることを示すものであった。その意味で個別的に地方や地域の運動の連携を密にしながら、統一化の方向を地域から自主的にさぐりだそうとする動きがでていたことは特筆しておいてよい。 では協議会のテーマである「民力涵養実行要目励行方案」はどのようにもられていたか。いまそれをみると、「各郡市役所町村役場ニ主任者ヲ置キ学事、勧業等ニ直接関係アル要目ニ対シテハ郡市町村ニ於ケル是等事務担当者ト協力シテ適当ニ指導督励スルヲ良策ナリトスベキモ大様左ノ方案ニ依リテ励行ヲ期スルヲ可ナリト認ム」と前置きし、次の七項目をあげていた。 一 各地方ニ適当ナル実行機関ヲ設クルコト 二 実行機関トシテハ戸主会、実行組合会等ヲ特設シ或ハ各地方既設ノ戸主会、地方改良会、在郷軍人分会、青年団、婦人会等ノ諸団体ヲ利用スルコト 三 前項各種団体ノ代表者ヲ以テ組合長トナシ郡市町村ニ於テ組合長会ヲ開クコト 四 実行機関ニ於テハ実行規約申合規約等ヲ定ムルコト 五 小学校補習学校生徒、処女会員等ニ対シテモ講話其他ノ方法ニヨリテ趣旨ノ徹底ヲ計リ励行ヲ期セシムルコト 六 成ルベク各地方ニ於テ実行指導員ヲ置クコト 七 実行機関ニアリテハ台帳ノ備付ケ其実施事項、実施成績、其他必要ナル事項ヲ記入整理スルコト 要するに民力涵養運動の地域における組織化・集団化の促進である。このように、地方・地域の特殊条件を配慮して、これまで運動を進めてきたそれぞれの経験の交流を密にしながら組織だて、そして中央への集中化をうながした民力涵養運動は、第一次大戦後の日本の経済的危機、社会的・思想的混乱を防止するために策定した計画であったことは事実である。しかし、この民力涵養運動はデモクラシーの諸潮流がかもしだす社会情勢と対抗し下から民衆を動員していく強力な運動組織として位置づけられていたことも否定できない。しかもこの運動が地域にかなりの根をおろし、定着しつつあった。 1916年ごろの愛甲郡半原の日向橋付近 鎌田正芳氏蔵 第8表 神奈川県下郡市町村其他別主催民力涵養講演会実績(1919年4月~1924年3月) 1) 神奈川県社会課『民力涵養運動ノ概況』(1925年)から作成 2) 1919年より24年までの5か年間の数字をまとめて再構成した 3) 表中( )内の数字は活動写真会の開催数とその参加人員を示している 4) 原典資料の数字において若干の誤謬があるが,これは推計によって修正した 第二章 「大正デモクラシー」と社会問題 第一節 「デモクラシー」下の社会情勢 一 友愛会支部の成立と発展 川崎支部の結成 一九一三(大正二)年六月七日の夕刻のことである。数日来の降雨によってぬかるみだらけとなった道を川崎町立技芸学校へとむかう人びとの姿がみられた。友愛会の川崎支部の発会式に出席しようとする人びとである。東京電気株式会社川崎工場には、友愛会幹事山口庄吉をはじめ数十名の友愛会員が勤めていた。かれらは川崎支部を設立しようと計画し、五月十日に茶話会をひらき、三名の委員をえらんで計画を具体化していたのである。また、日本蓄音器商会川崎工場に勤務する友愛会員吉岡為雄も川崎支部の設立のために奔走していた。こうして八十余名の新入会者をえて、川崎支部の発会式が挙行されようとしていたのである。 午後七時からはじまった発会式には、会員百十余名、来賓二十名余、傍聴者五、六十名が参加して、会場はほとんど満員となった。友愛会会長鈴木文治が開会の辞として、友愛会の主義綱領・設立の趣旨動機などにつき一時間をこえる大演説を行い、事務報告につづいて新入会者の入会式が厳粛に行われる。支部幹事として、東京電気川崎工場から中西元吉、若松春吉、斉藤光次郎が日本蓄音器川崎工場から吉岡為雄、山中忠三郎、左近清之輔の合計六名が紹介され、中西元吉が幹事および新入会者を代表してあいさつをのべた。その後、支部設立に厚意をもってあっせんを行った来賓による祝辞演説があった。その人びとは、橘樹郡長市村慶三、東京電気川崎工場長伊東二三、京浜電車会社運輸課長秋山理太郎、川崎町長小宮隆太郎、川崎小学校長笠間友作、日本蓄音器庶務課長井合誠治(祝詞代読)である。発会式は、友愛会評議員、裁縫女学校主幹武田芳三郎の「大和魂」と題する講演を聞き、茶菓を喫して午後十一時すぎになって終わった。 友愛会は一九一二年八月、鈴木文治を会長として十五名の会員で創立された。それは「我等同じ労働社会に生活して居る者が、互に相携へて、見聞も広め、智識も研き、道徳品性の修養をも図り、且つ互に相扶け相親睦して、小にしては相互の地位の向上を求め、大にしては進んで我等の力作を通じて、社会国家に尽すところあらんとして、設けられた」(「友愛会とは何ぞや」『友愛新報』第一号)団体で、一言でいえば、労働者の自助的な結合によってその地位の向上をめざす共済・修養団体にほかならなかった。友愛会は労資協調を掲げ、顧問・評議員には有力者を迎えながら労働者のなかに会員をふやしていった。東『友愛新報』第1号 『労働及産業』覆刻版から 京電気株式会社工業部長新荘吉生は、『友愛新報』第六号(一九一三年四月三日発行)から友愛会評議員にその名をつらねている。彼について鈴木文治は、「新荘吉生氏は……評議員となり、会の発展のためには陰に陽に尽すところ甚大であった。川崎工場の大半は会員となり」(『労働運動二十年』)と川崎支部設立とのかかわりについて書いている。 新荘の評議員就任以前に、東京電気川崎工場の技手や事務員が友愛会の賛助会員となっていることからみて(『友愛新報』第五号)、すでに川崎工場の労働者のなかに友愛会員がひろがっていたことはまちがいないであろう。しかし、新荘の評議員就任が会員を増加させる大きな契機になったことも疑いない。川崎支部発会式を報じた『友愛新報』には、新賛助会員として、東京電気会社から九名、蓄音器商会から八名が名をつらねていた。 友愛会川崎支部は、友愛会の最初の地方支部として発足したが、その結成を推進したのは三つの要素が含まれていたといえる。主要な力となったのは、共済と修養によって自分たちの地位の向上をもとめる労働者の意欲であり、幹事となった人びとを中心に会員拡大に奔走した努力にしめされる。第二に、生産発展、労働者の技術向上をのぞみ、労資の協調という友愛会の主張に共感した新荘をはじめとする資本側の人びとである。そして第三に、来賓のなかにみられる橘樹郡長・川崎町長・川崎小学校長という地域有力者である。この人びとは、工業地帯として発展しつつある川崎町の地域の改良の一つとしての期待を友愛会川崎支部に求めたのであろう。 川崎支部の活動と性格 発足後の川崎支部の活動の主軸は、原則として月一回とされた例会の開催におかれた。例会は、鈴木文治会長など本部役員の開会の辞や講演、事務報告、入会式、有力者の講演、会員の五分間演説、余興をへて茶菓を喫して閉会となるのが通例である。そこでは、地域有力者の強い後援がはたらいていた点が特徴的である。たとえば、例会における講演者の顔ぶれの中には、支部一周年大会までの期間で、川崎小学校長笠間友作、橘樹郡長市村慶三、帝国在郷軍人会川崎支部長佐村木勝吉、前代議士田中亀之輔、日本鋼管会社技師渡辺新、医師佐藤莫秀などの地域有力者をあげることができる。また、前川崎町長で川崎銀行頭取である地方名望家石井泰助が、橘樹郡長市村慶三の仲介によって、川崎支部の支部長に就任したことは、地域有力者が川崎支部育成に協力していることを象徴的にしめしていた。地域有力者が、川崎支部の発展に協力した理由は、一九一四(大正三)年七月二十六日に行われた、支部創立一周年大会によせられた祝辞からみてとることができよう。川崎町長小宮隆太郎は、「我町工業ノ発達ハ年ト共ニ著シキヲ加ヘ工場会社ノ新設セラルヽモノ相ツグ」との状況認識のうえに、友愛会員が「本会綱領ノ旨趣ヲ体シ益々奮闘努力セラレンコトヲ希望」し、笠間川崎小学校長も「公共ノ理想ニ従ヒ識見ノ開発徳性ノ涵養技術ノ進歩ヲ図ルヲ以テ綱領ノ第一義トセル」友愛会が「綱領ノ示ス所ニ従ヒ益々奮闘趣旨ノ貫徹ニ努力」することを訴えていた(『友愛新報』第三四号)。地域有力者は、友愛会における労働者の自助的団結の側面でなくて、工業発展適応型の修養向上団体的側面に注目し、工業地における社会的改良団体として、その育成に協力していたのである。 しかし、川崎支部が一周年大会をむかえることができたのは、地域有力者の支援によるもののみではなかった。支部に結集した労働者が自ら組織体制の整備をはかり、支部運営の技術を身につけてきたことが支部の定着を可能にしたのである。 第1表 川崎支部の組織人員の変化 1) 〔 〕内は納入会費金額より算定 2) 新入会員数は,本来6~7月期であるものを6月と表示 3) 『友愛新報』,『労働及産業』から作成 支部発足の直後には、会費納入者数は三百名を越えていたが、一九一三年十月から減少していく。とくに、十一、十二月は二か月分まとめての会計決算報告という混乱を示し、しかもあわせて二百四十四名分しか納入されていない(第一表)。この結果、支部会計は十五円以上の不足をきたす事態をまねいていた。十二月二十六日にひらかれた幹事会では、「川崎支部存置可否の件」が議題となるありさまとなった。幹事会は、支部存続を決め、そのために会計整理・幹事改選をなすこととし、新幹事は翌年二月までかかって支部会員の整理を実施した。こうして支部財政の混乱を切りぬけ、さらに七月の幹事会では、「会員を若干の部に分ち各部に幹事一名宛を置く」「各部係幹事は会費徴集其他につき必要と認むる時は委員を置くことを得」「各幹事は毎月三日、十八日迄に受持会員に配付すべき新報数を支部に届出で其責任を負ふ事」などを決定して組織体制を整備して、一周年大会を迎えたのである。川崎支部の一年間は、労働者自身が支部組織運営の力量を身につけてゆく過程でもあった。 川崎支部の事業活動において、いち早くとりくまれたのは医療部の設置である。一九一三年九月に川崎町堀の内の医師加太押太郎を指定し、会員及び家族は会員証を持参すれば診察無料薬価実費で治療を受けられることとした。「九月二十六日川崎支部よりの報告に曰く、蓄音器商会勤務中の関忠造氏は、ペレス作業中破片が眼中に飛込み、為めに右眼失明…………同鈴木藤吉氏は病気にて休業引籠中、同吉岡為夫氏(川崎支部幹事)は作業中器械に手を巻きこまれ、重傷」というように(『友愛新報』第一四号)、なんの保障もなしに負傷や病気に直面していた当時の労働者にとって医療は深刻切実な問題であったからであろう。事業活動は、その後一九一四年十二月に体育部・接骨部を設置し、一九一五年からは購買部も設置されて次第に拡大していった。 友愛会創立五周年大会記念章 法政大学大原社会問題研究所蔵 川崎支部と争議 川崎支部の性格は、このようにまず修養団体的性格が強く、共済団体的活動が次第に増加するというものであったが、支部の結成は労働者の権利主張の発展にとって大きな意味をもっていた。労資の関係は主従関係のように考えられ、全く無権利状態の中におかれていた労働者にとって、自分たちの組織をもったことは、不当な抑圧に対する抵抗のよりどころをえたものであり、川崎支部は発足直後に労働争議に関与することとなる。 川崎支部が発足してから二十日ほどたった六月二十八日の午後三時ごろである。統一基督教弘道会の機関誌『六合雑誌』の発送を行っていた鈴木文治のところへ、川崎支部から二名の会員が駆けこんできた。蓄音器商会の従業員が、七・八両月は会社の都合により暑中休暇とする、その間の生活費としては例年六月末に支払われる賞与金(日給者)、積立金(請負者)を七月末に半額、八月末に半額支給するとの通告をうけたというのである。従業員は仕事を継続するか、さもなくば二か月分の給料を支給してもらいたいと交渉したが、全く拒否され、事件の解決を鈴木に依頼にきたのであった。 鈴木は川崎支部におもむき、全従業員から全権委任の承諾をえると、まず警察署長を訪れた。経過を説明し警察の干渉を避けうる条件をつくるためである。警察署長の了解をえて、鈴木は蓄音器商会総支配人ラビットとの交渉にのぞんだ。交渉は結局、東京電気会社工業部長新荘吉生の意見を聴いて決することとなった。新荘は、日本においては会社の都合で休業する場合は必ずいくらかの手当を支給する、これを拒むなら日本では仕事はできないと説いた。その結果、七月十五日まで仕事は継続し八月十五日から再開する。その間一か月の休業期間については一週間分の給料を手当として支給する、賞与金は即時全額支給、との蓄音器商会の決定をえたのである。 有利な解決をえて従業員は「友愛会万歳」を唱和して喜んだ。争議が平穏に解決したことについて警察署長も喜び、川崎町長は友愛会に寄附金五十円をよせたのである。この争議は友愛会のかかわった最初の労働争議でもあった。争議経過にみられるように、交渉に威力あらしめたのは、法学士鈴木文治個人であり、鈴木を支援する有力者にほかならなかったが、労働者に有利な解決を実現することで友愛会の発展の踏み台となり、労働者の権利主張を発展させていくこととなったのである。 川崎支部と蓄音器商会との間には一九一四(大正三)年八月にも争議がおこる。蓄音器商会は不景気の中で生産過剰におちいり、前年秋ごろから減員をおこなってきたが、マシン部職工三十七名を日給二十五日分の解雇手当支給の条件で解雇しようとした。これに対し職工側は、川崎支部幹事である辻、斉藤他三名を委員とし、解雇するなら六か月分の日給を支給せよと要求する。それは総支配人が五月の職工解雇の際、残留職工に対してはあくまで衣食に窮せざるよう尽力するとの言質を与えていたからであった。蓄音器商会は、日給三十日分、他に蓄音器一台、円盤音譜二ダースを原価の二割で売り渡す、との条件まで譲歩したが交渉は行きづまった。解雇者は全員友愛会員であったため、鈴木文治がふたたび出馬し交渉にのぞむこととなった。鈴木は警察署長と協議ののち交渉にはいり、蓄音器などの無償交付といったいま一歩の譲富士瓦斯紡績川崎工場の女子労働者 川崎市立中原図書館蔵『富士瓦斯紡績川崎工場写真帖』から 歩を調停案として提示したが、結局会社側の受け入れるところとならなかった。交渉は決裂しようとしたのであるが、鈴木は職工側を説得・慰諭し、蓄音器商会の最終案で妥結、争議を終了させたのである。 この争議においては、川崎支部幹事などの労働者が交渉主体として積極的に活動している。鈴木はこの争議の教訓の第一として「労働者の地位の著しく認められたる事」をあげた。すなわち「従来ならば会社側は専断的に事を決して嫌なら勝手にせよといふやうな態度に出でたかも知れぬ。然るに此度は会社も三労働委員を交渉者とし、職工側も代表者を出して接衝した。これ則ち資本家と労働者とが対等関係にて談判したる最初の例である」というのである(『友愛新報』第三六号)。鈴木は、争議の教訓の第二として互譲の精神をとき、この争議の終わらせ方を模範的解決とするように、労資協調・穏健平穏な秩序的行動を強調していたが、そのわくのなかで、川崎支部の行動は、労資の対等を実現したものと評価されたのである。修養・共済団体的であれ、労働者の団結としての川崎支部の存在そのものが、労資の対等を実現していく可能性を示していた。 支部の増加と横浜連合会 ところで、一九一五(大正四)年にはいると横浜方面を中心に友愛会員が急速に増加していった。『友愛新報』を改題して新たな友愛会機関紙になった『労働及産業』一九一五年三月号には、「大正四年一月五日以降大正四年二月廿日迄に、本会員百名以上出来ると同時に、支部存立を適当と認めたる地に本会支部設立を許可したり」との記事につづき、保土ケ谷支部・横浜支部・横浜海員支部の三支部の名がみえる。横浜支部・海員支部合同の発会式は、四月二十六日に浜港館でおこなわれ、約四百名が参加、早大教授安部磯雄、鈴木文治の講演があった。保土ケ谷支部の発会式は、翌一九一六年になって、二月十一日に富士紡績倶楽部でひらかれ、約二百名が参加している。 一九一五年における友愛会新入会者数の累計は、横浜支部五百四十四、海員支部四百三十八でいずれも川崎支部の三百九十三を上回った。一九一六年一月から十月の累計では、横浜支部九百七十、海員支部千四百五十一で、川崎支部の三百八十七を大幅に上回るのである(第二表)。この結果、一九一六年九月の時点では、海員支部千四百九十三、横浜支部八百四十三に達し、川崎支部の五百五十一を大きく上回り、以下、保土ケ谷支部三百七十、浦賀分会(一九一六年四月分会設立承認)八十二という会員数を数えるにいたったのである。 一九一六年三月号の『労働及産業』には、横浜通信社社長、県参事会員である日比野重郎の横浜名誉支部長への就任が記載されており、横浜支部も、修養・共済的活動を中心とし、地方有力者の援助をえながら急速に発展したものであろう。また、こうした性格をもちながら、それが労働者の権利意識の発展をもたらしたことも川崎支部と共通している。横浜支部は、一九一六年八月、横浜船渠株式会社で争議を行っている。争議のきっかけは、友愛会員が職長によって不当解雇されたことにあり、ストライキを行い鈴木文治の調停により職長排斥以下の一連の要求のかなりを承認させた。この争議のあと、横浜支部と海員支部の共催でひらいた臨時講演会には、四千名の聴衆が参加したといわれ、横浜支部は十一月には横浜連合会に発展するのである。 すなわち、もとの横浜支部を、横浜支部・禅馬支部・入船支部・神奈川支部、山手分会に分離し、これらが連合会を組織する。連合会の事業として掲げられたのは、職業紹介・講演会・幹部修養会・貯金及共済・法律顧問・医療割保土ケ谷支部の新入正会員 『労働及産業』1915年3月号から 引・人事相談・消費組合・会員倶楽部・家族慰安会である。職業紹介は、失職者より紹介を申し込むと、連合会から各支部分会あてに端書で通知し、支部分会の幹事が就職の紹介をなす、という方法で行われた。消費組合は実際には組織できなかったのであるが、市内の諸商店に特約の割引契約をむすぶという方法で消費活動を行っていった。 こうして、横浜連合会をはじめとして、友愛会支部は県下に大きくひろがっていった。一九一七年四月の友愛会五周年大会には、横浜支部四名、海員支部二名、神奈川支部一名、保土ケ谷支部二名、川崎支部五名の代議員が選出されて、東京につぐ友愛会の大拠点の位置をしめていたのである。 支部の衰退 一九一七(大正六)年は友愛会にとって試練の年であった。五周年大会で職業別組合の総連合体への方向を決定して労働組合化の意図を明確にし、また支部の中に争議の担い手となるものがあらわれてきたことが、友愛会に対する官憲・資本家の圧迫を強めたのである。とりわけ、一九一七年三月の日本製鋼室蘭工場の争議以後、軍工廠では圧迫第2表 県下友愛会支部新入会者数 1) 『労働及産業』誌に発表された月号により整理,実際の入会月は1~2か月前 2) *は横浜分会 が露骨にあらわれた。一九一七年四月ごろ、横須賀海軍工廠に友愛会支部がふたたび新設されたのであるが、圧迫をうけ、工場主任から警告されて会員が脱会し支部が全滅する。六月ごろ、支部は再建されるが、支部長名で次のような宣言書をださねばならなくなっている。 一 当支部員は国家直属の職工なるが故に自己の職務に精励することを期す 一 当支部員は公益に障害を与ふるが如き不法なる行為をなさゞる事を期す(中略) 一 当支部員は常に国家的観念を養ひ自己の地位を考慮し深く戒め決して軽挙をなさず以て社会の模範たることを期す(『労働及産業』第七三号、資料編13近代・現代⑶九六-11) 同時に、このころから県下友愛会支部の衰退がはじまってくるのである。もちろん、支部の新設がなかったわけではない。横浜連合会の結成以前に、平塚分会の成立(一九一六年十月)があり、一九一七年中ごろまでに、新たに田浦支部・常盤支部・鶴見支部が成立している。しかし、一九一七年後半になると県下支部の中心である横浜連合会や川崎支部の新入会者数は、著しい減少をしめしてくる(第三表)。この減少は、新設支部や、その他の支部での新入会者の増加によっておぎなわれていたが、会勢は減少にむかっていたと思われ、一九一八年四月の友愛会六周年大会までに、入船支部・禅馬支部・田浦支部・常盤支部が消滅してしまうのである。一九一八年における支部の新設は、千若支部(六月)一つのみであり、新入会員数の減少は数字でも顕著となってくる。 こうした状況への対策としてであろうが、一九一七年には、横浜鉄工組合の創立が企画され、また一九一八年二月には横浜出張所が設けられたりするが、会勢の挽回はできなかった。一九一九年はじめに横浜出張所の廃止が発表され、この年の五月号以後の『労働及産業』からは川崎支部の名称もみえなくなってしまう。 八月にひらかれた七周年大会に、代議員を出席させた県下支部は、海員部としてまとめられた海員支部をのぞけば、従来からの支部としては、横浜支部と浦賀支部のみであり、一九一九年の新設支部として、京浜硝子工組合と潮田支部が加わるにすぎない。そして翌一九二〇年十一月の八周年大会には神奈川県選出の代議員は一人も存在していなかった。 県下の友愛会支部は、労働者の自助組織として、労働者に団結と連帯のあり方をしめし、権利意識を発展させる役割をはたしながらも、友愛会が労働組合化をめざす段階になり、官憲や資本家による第3表 県下友愛会支部新入会者数 『労働及産業』から作成 圧迫に直面し、また労働争議の波が労働者をおおうようになると、その新しい状況に適応しきれずに支部組織そのものは衰退していったのであった。 二 ヴェルサイユ講和と世論 戦勝祝賀とシベリア出兵兵士 一九一八(大正七)年十一月、ドイツは敗北し、キール軍港での水兵の反乱にはじまる革命のなかで、連合国との休戦協定を調印した。こうして四年をこえる第一次世界大戦は終了した。十二日、休戦条約調印の知らせが伝わると、はやくも横浜市内には戦勝祝賀のムードがあふれだした。市役所が各町衛生組合を通じて休戦条約調印のニュースを各戸に伝え、町まちはたちまち国旗でかざられた。山下町の外国商館は戸ごとに連合国国旗をかざり、午後四時からは、在日連合国人らが赤服の音楽隊を先頭にボーイスカウト、三十台余りの装飾自動車で行列し、居留地を、さらに横浜市役所から県庁前へと行進した。午後六時半からは、県市連合の有志祝賀会が、横浜公園内社交倶楽部でひらかれた。横浜市内の各同業組合、青年団、中等学校などへ祝賀会開催が通知され、夕方から打ち上げられた花火の景気にも誘われて、人びとがぞくぞくと横浜公園につめかけてきた。用意されていた二千の提灯はまたたく間になくなり、あわてて五百が追加される。社交倶楽部では、県市の各高等官をはじめとする有力者を前にして、有吉県知事が、「諸君!」、今日は「人道の敵が正義の前に屈服した日」である、「茲に於てか我々は開戦以来連合国と共に至大の努力を費した我帝国の臣民として、陛下の万歳を三唱しようではありませんか」と演説し、万歳の音頭をとっていた。祝賀会は、打ち上げられる花火の中で提灯行列をくりひろげ、爆竹がうち鳴らされるお祭りさわぎを市内にひろげていった(『横浜貿易新報』大正七年十一月十三日付)。 このような戦勝祝賀の行事は、ひきつづき県下の各地でくりひろげられていった。横須賀市では十八日、一万の学童が手に手に日の丸の旗をかざして旗行列をくりひろげた。小田原町でも十九日、昼には小学校生徒の旗行列が、夕刻からは町民による提灯行列が行われた。県下の村むらでもまた、在郷軍人会、青年団、小学校などによって祝賀会が催されていった。こうしたお祭り騒ぎのピークが、二十六、二十七の二日間にわたってくりひろげられた横浜市の大祝賀行事であった。連合国領事、県知事、横浜市長の主催による大レセプション、十八団体一万九千人余の参加による大提灯行列、第二日には全市の官公庁、各銀行、会社などは休業し、内外人連合の仮装行列を数十台の花車とともに展開したのである。 多くの県民が、戦勝祝賀のお祭りさわぎに酔いしれていたちょうどこの時期、『横浜貿易新報』に、横浜出身のシベリア出兵兵士の手紙が紹介されている(大正七年十一月二十日付)。電報頼信紙の裏にかかれた書面で彼は、シベリア出兵兵士への世間の無関心を嘆いていた。零下二十度を超える酷寒のもと、戦友の戦死を耳にするなかで任務についている彼には、一通の慰問状もこないというのである。「内地の在郷軍人団や或は凡ての人々は出征兵士の家族等を時々見舞って呉れるのか、呉れないのか、所属在郷軍人団に手紙を二度三度出しても一通の返事も来ぬ、一度の慰問状をよこした人もない、出征軍人は胸に不快を抱いて故国の人情の薄いのを嘆じて居ます」。さらに彼は、成金が芸妓とふざけまわっていることや、やれ園遊会、やれ戦勝祝賀のようすをつたえる新聞 『横浜貿易新報』大正7年11月13日付 紅葉狩りといった遊興の風潮と、支給の小使い銭ではたばこすら満足にすえない兵士の状況とを対比して、世間の風潮を嘆いている。 はなやかな戦勝祝賀行事への人びとの熱中と、シベリア出兵とその現実への無関心のなすコントラスト、ここに講和会議に直面しようとしていた日本とそこにおける世論の一つの断面をみることができるように思われる。人びとは、さきの有吉県知事の演説にもみられるように、連合国の一員として日本が戦勝をむかえたことを祝賀していた。それは「人道の敵」ドイツの屈服によって、戦後の新しい「正義」の秩序の形成に日本が有力国として加わることを暗黙に了解したものであった。そこでは、「世界の大勢」を主導することになった連合国の一員であったことに満足し、連合国の協力により新しい国際秩序がつくられることが期待されていた。しかし現実には、日本はシベリア出兵の中で米英などとの対立関係を拡大しつつあったのである。そのシベリア出兵に世論は、冷淡さをふくんだ無関心で対応していたのであった。 戦後論の展開 第一次世界大戦の初期から、講和の成立にいかに備えるか、戦後の準備をどうすべきかという議論はだされていた。大戦前期のこうした議論の特徴は、次の二つの点にあったといってよい。一つは、ドイツを主対象とする対外硬、東洋権益の獲得の主張であり、二つには、戦後の経済戦への準備の議論である。いま、こうした点を県下における世論形成に大きな役割をはたしていた『横浜貿易新報』の主張=社説からみてみよう。 開戦の直後、ヨーロッパの西部戦線が膠着状態にはいり、アメリカを中心に講和運動のうごきが出はじめたのに対し、『貿易新報』は「吾人は飽くまでも昨今の平和運動を無用有害と為す」とした。それは、「少くとも膠州湾の防備を粉砕して、東洋永遠の平和を確立する迄は、耳を媾和に籍すを得ざる也」とする立場からである。そこでは、たとえ日本軍の膠州湾占領以前に「欧州の平和」が成立したとしても、その余波にまきこまれず「膠州湾を全く日本軍に引渡し将来独逸軍隊をして、支那大陸に根拠地を得せしめざるの条件」を貫徹する用意を政府に勧告していたのである(大正三年九月十八日付)。 また、一九一七年ロシア十月革命によって、露独の単独講和の動きがあらわれたのに対しても「日本は自ら大に決意する所無きを得ず」と積極的な干渉論を展開する。それは、「東洋平和の維持は日本の職責なり、荀くも之を擾乱するの憂ありとせば、予め備ふる所無かる可らず」とする立場からであった(大正六年十一月十四日付)。いずれも、東洋の覇者日本という立場から、東アジア地域における権益と秩序を維持・獲得するために、連合国側にたって積極的な対外進出政策を主張するものであったといってよい。 もう一つが、戦後経済戦への準備の主張である。この大戦の背景に経済問題があり、平和回復とともにこの経済問題が直接・間接に姿をあらわすこと、それにそなえるべきことは一般的に大戦初期から指摘されていた。それはヨーロッパ交戦国にかわって、商品輸出が増大するにおよび、「平和未だ恢復せられず、独墺商品の輸入絶々たる虚を突きて、之に我商品を輸出し、戦後に至るも尚ほ且つ彼れを排して我に求むるの形勢を持続する所以の方法を講ずるが如き、是れ豈に我戦時中の要務にして、而も亦戦後の大いなる準備」として強調されていった(大正五年四月一日付)。こうした立場から横浜商業会議所が「戦後経済に関する研究を開始せるは、最も機宜を得たる計画」と評価されたのである(大正五年四月十一日付)。いわば、戦後経済論も、貿易商業において、「我帝国の国是を貫き、国威を張り、而して利益を大にするを得べきやを講究」するものとして展開されていたのであった。 ところがこうした戦後論の、自国の政治的・経済的利権、国益の拡張論としての性格は一九一八年のはじめから、急速にかわりはじめる。 戦後の「世界の大勢」 こうした方向を示したものとして、『横浜貿易新報』の社説「国民的理想論」(大正七年一月二日~十三日付)をあげることができよう。この論説は、「亜細亜的日本」か「世界的日本」かという対比のうえに、戦後日本の国際的進路を検討したものである。そこでは次のように述べられている。かつて「小日本主義」か「大日本主義」かという論争があったが、いまや「大日本主義」=「膨張主義」「発展主義」の日本であることは明確になった。しかし、「大日本主義」の理想・目標・手段という点からすると「亜細亜的大日本か世界的大日本か」の抗争が存在している。アジア主義とは何か。それは「支那印度其他の東洋諸民族を糾合し、日本国を其盟主として、白人種と角逐」せんとするの方針である。これに対し「世界主義」は「日本を以て東西文明の融合者、人種的反感の調和者、世界的新文明生活の建設者たる可き使命を有す」となすものである。 論説は、この両者のいずれを採用すべきかについて、第一次大戦の展開にあらわれている「世界の大勢」から二点を指摘する。 一つは、今回の戦争が「民族対抗」に起因していると同時に、「民族の相互尊重」を「新興の勢力」としてうみだし「世界的大勢」としているという点である。そこから戦後世界における「黄白人種の一大血戦」は避けうるという結論が導かれる。もう一つは、現状は「独逸流の軍国主義膨張主義と、英米流の平和主義自由主義と、二大潮流の孰に与みす可きか」という選択にあるという点である。そして英米流の「正義人道」は「王道」に近きものありとし、「独逸流の日本化」にほかならない「アジア主義」を排斥して「世界的大日本」の立場に立つべきことを主張するのである。 この「国民的理想論」という論説は、「アジアの盟主日本」という大国主義的立場を前提にしながら、イギリス・アメリカへの協調外交体制をとることを国際路線上の方針とし、そうした「自由主義平和主義」の潮流がかたちづくる戦後世界体制において能動的に対処しうるべく国内体制も対応することを主張したものと評価できる。 この年一月に、米大統領ウイルソンが講和条件一四か条を発表し、戦争目的が、列国の協調的国際秩序の形成と民族自決の原則の適用とされることで、こうした主張はその勢いを強めた。大戦は「世界の文明問題をして根本より一新するの使命」をもつものとされ、「世界の趨勢」は「民本自主の風潮」が「社会一切の源泉たらんとす」るところに求められる(大正七年十月十日付)。 ドイツ敗戦の気運が強まるにつれ、戦後の「世界の大勢」は、ウイルソンの一四か条に基づき、その「根底」である「世界の民主化」と「永遠の平和」をめざすものであることが強調され、それへの対応が主張され、シベリア出兵についても「善後に速かなるを要す」という指摘のように疑問が提出されるにいたるのである(同年十月十二日付)。 講和会議と世論 一九一九(大正八)年一月から、ヴェルサイユ講和会議が開催されると、この講和会議をめぐってさまざまな議論がみだれとぶことになった。この議論を大きく整理すると、講和会議で決定される戦後国際体制秩序に対応する国内体制をどのように形成するかという問題と、戦後国際体制の形成に対する日本の要求が貫徹せしめえたか―せしめえなかったとするならばそれはなぜかという問題とにわけられる。 前者の代表的議論が、国際連盟の設立と普通選挙権問題の結合であったといってよい。おりからひらかれていた第四十一議会には、原内閣によって小選挙区制と納税資格三円までの引下げを内容とする衆議院選挙法改正案が提案され、これに対し普通選挙の実現を要求する運動がひろがっていった。 この選挙権拡張・普通選挙の議論が、民主化の世界思潮の大勢と国際連盟の参加資格との関係で論じられ、選挙権拡張・普選促行の主張にはずみをつけていく。その議論は、次のようなものである。 「今次の戦争は武断政治と民本政治の戦」いであった。その戦争は「民本政治」の勝利に終わり、戦後の世界思潮は一大変革を促されている。講和会議において設立されようとしている国際連盟について、その「加入国は民本国たるを要件とす」との意見もある。もし日本の現状について「名は立憲国たりとも、事実に於て選挙権を少数国民の特権に附しつゝある現状上、列国より異議疑惑を挟まれ、或は連盟加入資格に波瀾を生ずるなきかを憂ふる」選挙権の大拡張は不可避である、というのである(大正八年二月二日付)。 戦後国際秩序の基礎をなすものと考えられた国際連盟への参加資格と選挙権拡張・普通選挙問題が結びつけて論じられ、戦後世界秩序への国内体制の対応として、選挙法改正の必要性が説かれた。 同様の論理は労働問題にもみられた。講和会議の中で、講和条約の中に労働規約が含められることが決定すると、労働問題への関心は大きく高まり、それへの対応の必要性が主張される。早くから、労働問題についてふれながらも、それを主として「道徳問題」の側面からとらえがちであった『横浜貿易新報』もまた、国際労働規約の成立との関連で「世界の大勢思潮が刻刻此機運を促しつゝあるに、日本国独り此大勢に孤立すべきにあらず」とし、「制度を改め法令を改むる、固とより以て当面の要務」としたのである。 他方、講和会議に対する日本側の主張として、世論の注目をあつめた問題の一つは、「人種的差別待遇撤廃」の問題であった。 『横浜貿易新報』もこの問題を講和会議におけるきわめて重要な問題としていた。それは、「日本人が海外に於て、他国人と差別的待遇」をうける「其範囲の広きと、世界的日本国民の地位に対する一種の侮蔑たる精神的な関係」からであり、戦後の世界秩序が「正義と人道」の名の下につくられようとしている講和会議において、「日本国民に差別的待遇を与ふることと、正義人道の関係」は両立せぬとして注目したのであった(大正八年一月八日付)。 講和会議において「人種的差別待遇撤廃」を国際連盟規約に盛り込もうとする提案が、日本代表によって提出されたが、結局、英米など列国の反対によって提案は留保される結果となった。 この状況について、一面、英米は、自由・正義を「大看板」にしながら、「自由平等の第一要件たるべき人種案を強ひて連盟案中より除外し、自ら連盟の精神を蹂躙して羞づるを知らず」と、英米主導の戦後世界秩序の形成への失望があらわれる(同年三月二十六日付)。同時に、この外交の失敗は、「秘密主義」によって「国民外交の妙締」を発揮させえなかったことに求められ、「大勢達観の明を欠き、徒らに時代遅れ」であった原内閣の責任が追求される(同年四月一日付)。こうして、外交失敗の側面からも、国民的力量の結集を可能にする国内体制への「改造」をもとめて普選実現の声がさらに強まることになるのである。 第二節 普通選挙運動 一 一九一九年から二〇年の普選運動 『横浜貿易新報』の選挙権拡張論 納税資格制限によって、選挙権の有資格者が国民のごく一部に限られていることへの批判は、はやくから存在していた。『横浜貿易新報』も、一九一五(大正四)年、第十二回総選挙が大隈内閣の与党側の大勝利となったことを喜びながら、選挙権の拡張を提唱し、次のように主張していた。日本に約六百万の戸主である男子がいると思われるのに、選挙権者はわずか百五十万内外にすぎない。四百万余の「堂々たる一家の主人」に参政権が与えられていない現状である。だが「政治が今日の世界の大勢の如く、民本的と」なってきた以上、「選挙権に制限を附して、之を唯社会少数の財産家のみに有せしむるは、必ずしも万全の道ならざる」ものである。「直に普通選挙制に移るは、早計に失す」との非難もあるが「戸主の半以上は、皆選挙権あるものたらしむる」べし(大正四年三月三十一日付社説)。 この論説では、選挙権拡張の目標として主張された点は、男子戸主の過半数という狭い範囲に過ぎないのであるが、政治の民本主義化を「世界の大勢」とし、そこに選挙権拡張の根拠をおいた点に大きな意味があった。それは「恒産なくして恒心なし」として財産資格制限を擁護する主張を、「我今日の社会に於ては、財産の有無と人物の上下とは必ずしも常に一致す可らざるものあり」と現実から批判し、立憲政治は「民を本とするの政治にして、保守派の論よりするも、知識人格だに之に耐ゆるに至れるものならば、選挙権は之を及ぶべき丈多くの国民に与へざる可らず」との主張へつながったからである(同年七月三十日付社説)。 さらに、一九一七年の第十三回総選挙では、寺内内閣に対し野党にまわった憲政会が大敗したが、この選挙結果は、『横浜貿易新報』の選挙権拡張論に一層の真剣さを与えたようである。『横浜貿易新報』は今回の総選挙で「意外なる現象」を発見したという。それは「政治思想の発達が、今日未だ選挙権を附与せられ居らざる階級に、寧ろ甚だ顕著」であるということである。そして、選挙権をもっている資力ある階級は、「最も情実や利害の観念に支配され易」く、かれらのみからでは真の国論も立憲政治の発達も期待できない。「既に独立の生活を営み、又た相当教養ある者には、是非共選挙権を有せしむることゝせざる可からず」と主張した(大正六年四月二十八日付社説)。 軍閥官僚によってつくられた寺内内閣に対し、妥協的・協力的姿勢をとる政党が躍進し反寺内内閣の態度を宣言した憲政会が大敗するという選挙結果は、『横浜貿易新報』として、選挙権の思いきった拡張以外に政治改革の可能性はないとの方向をとらせたのである。この選挙権の拡張の主要な対象と考えられたのは「知識階級」であった。選挙権拡張は立憲政治を発達さ選挙演説会のハガキ 県史編集室蔵 せる手段としてとらえられ、その能力の基準が財産よりも「知識人格」の重視へと移ってきた以上、中学卒業以上の「知識階級」に選挙権を拡張せよ、との主張がうまれてくるのは必然的であった。 一九一八年夏の米騒動の結果、寺内内閣は倒れ、政友会による原内閣が成立した。この最初の本格的政党内閣に対し、多くのジャーナリズムからよせられた希望の一つは選挙権拡張であった。原内閣は第四十一議会に選挙法改正案を提出するが、その直前に『横浜貿易新報』は、「選挙権を拡張し、是を知識階級に及ぼすは今日が正に絶好の機運」と述べていた(大正七年十二月十三日付社説)。一九一八年末の時点でも、民本主義とは「一般民衆をして、普く広く文明知識の福音に浴せしめ、政治を知識に置かんとするの運動」であるとの強調がされ「知識階級」への選挙権拡張が主張されるにとどまって、普通選挙は問題にされていなかったのである。 普選論と県下の動静 ところが、一九一九(大正八)年一月になると、東京において普通選挙同盟会や学生団体が、普選実現にむけて活発な運動を展開しはじめる。二月九日には代議士や新聞記者など数百名によって納税資格撤廃同志大会がひらかれ、二月十一日には学生二千名の普選デモが行われる。さらに普通選挙同盟会は、三月一日に約一万の民衆の参加する大デモンストレーションを展開し、普選運動は大衆運動としてひろがっていったのである。また議会内でも、各政党内の普選支持派の代議士が普選実現を期して会合し、これら院内普選論者の間には提携の気運も生じた(松尾尊允「第一次大戦後の普選運動」『大正期の政治と社会』)。 この政派をこえた提携のうごきを『横浜貿易新報』は高く評価した。「人種的差別待遇の撤去」と「普通選挙の施行を促進」との内外二方向の運動については、「在野党も、政府与党も、何れも有志として其党員を参加」せしめている。こうした「政党を超越し、利害を超越したるの新運動」は「政界の新現象」であり、「政界の沈滞に一道の生気を与へんとするもの」であると、議会に新局面をひらくものとしてまず普選運動は評価されたのである(大正八年二月一日付)。 さらに、普選運動が大衆的運動としてのひろがりをみせてくると、『横浜貿易新報』は選挙権拡張論から普選論へと転回をはじめる。「普通選挙の主張は、今や動かすべからざる大勢力」となった以上、漸進の名にかくれた「姑息の選挙権拡張」は時代の思潮の要求にともなわない。とくに原内閣の行おうとしているのは「偏に農村に対する選挙権の拡張にして、都会市民には全然没交渉なる選挙法の改正」で不公平なものである。内閣は「普通選挙を提げて臨む」か、あるいは「今期議会に不徹底なる改正案を提出するを要せず」、選挙法改正の審議を延期すべしと主張した(大正八年二月四日付)。普通選挙運動の大衆的展開が一九一八年末までの選挙権拡張論から普選承認論へ、二か月たらずの間に『横浜貿易新報』の論調を変えさせていったのである。 ところで、この第四十一議会の下での普選運動は、首都東京でのみ行われたわけではない。東京以外の、大阪・京都・名古屋・神戸といった主要都市のみならず、仙台・岡山・広島・盛岡・呉などといった地方の主要都市にまで拡大し、運動が全国的な規模にまで達したことに特徴があった(前掲松尾論文)。ところが県下では、第四十一議会下では普選運動の展開はみられない。その原因は次の点にあったと考えられる。まず第一に、この時期の普選運動の重要な担い手の一つであった友愛会の県下の支部は、前述のようにすでに衰退過程にはいっていた。しかも、友愛会以外に労働団体が簇生してくるのは、ILO労働代表選出問題をめぐって一九一九年の春以降のことである。したがって県下の労働団体の組織についていえば、第四十一議会下では、それはいわば空白に近い状態にあった。第二に、都市中間層を組織するような普選派政治家のうごきが、きわめて弱かったことである。たとえば、憲政会の普選派として会合している代議士のなかには、神奈川県選出の島田三郎や、小泉又次郎などの名前をみいだすことができる。しかし、かれらはこの時には、党議にしばられて普選運動のイニシアチブを県下でとろうとはしなかった。二月二十四日に憲政会の横浜支部の評議員会がひらかれている。そこでは戸井嘉作・小泉又次郎の二人の代議士が出席し、中央政界に関する現状報告を行っているが、「選挙法改正問題に就ては党議を尊重するに決し」て解散したのである(『横浜貿易新報』大正八年二月二十五日付)。 労働団体による普選運動 このように県下の普選運動の出足はおくれたのであるが、第四十二議会にむかって全国的な普選運動の波が一層たかまるのにかさなって、一九一九年秋から運動が展開されることになる。第一次大戦後における普選運動の県下でのもっとも早い動きは、十月十九日に平塚町でひらかれた演説会であろうと思われる。同町の旭座で行われた「普通選挙と労働問題演説会」には、前代議士山宮藤吉が「人権平等」と題し、法学士山口作二郎が、労働ならびに資本家問題について演説し、最後に、この年に立憲労働義会を設立した蔵原惟郭が、労働問題と普通選挙について演説し、聴衆に多大の感慨を与えて盛会のうちに散会した(『横浜貿易新報』大正八年十月二十一日付)。 普選が世論の一般的要求となり、議会では野党が普通選挙法案を提出した第四十二議会のもとにおける県下の普選運動の大きな担い手は、労働団体であった。議会が再開され、大衆的な普選運動が展開されはじめた一九二〇(大正九)年一月中旬、横浜市の友愛会海員部が普選実現の大示威運動を計画中と伝えられた(『横浜貿易新報』一月十八日付)。それは、友愛会を中心に普選期成治警撤廃関東労働連盟が主催して二月十一日に大示威運動を東京で行うが、これに対し友愛会海員部でも昼は旗行列、夜は提灯行列の示威運動を浜田国太郎以下の幹部で計画・協議中であり、これが実行されると「当市に於ける普選運動は蓋し之を以て嚆矢」とする、というのである。この横浜における示威運動の計画は結局実行されず、東京における運動に合流したものと思われる。 また、三浦郡田浦町にあった横須賀海軍工〓造兵部の労働者によって組織された、労働団体啓進会も普選運動を試みていた。一九一九年十一月、三千九百名の労働者によってつくられた啓進会は、「労働者タルノ自覚ヲ光栄アル大日本帝国国民タルノ信念ノ上ニ確立」することを掲げた修養機関的労働団体であった。その会員の一部有志は、研究会という組織をつくって事務所で会合し、労働問題の研究をしていた。全国的に普選実現の世論が盛り上がり運動の展開が報道されるなかで、会合では普選問題が論じられるようになり、一九二〇年一月二十九日には、尾崎行雄をまねいて労働問題・普選問題についての講演会を田浦町の船越小学校校庭で開催しようとした。不幸にも当日は雨天となり講演会は中止となったが、この計画は新聞に報道され反響をよんだ。なによりも、横須賀工〓造兵部が啓進会のこうした動向に驚き、友愛会と気脈を通じ、また憲政会と連絡しての「不穏当軽挙盲動的行為」であるとして圧迫を加え、啓進会は会員の脱退によって衰退させられることとなるのである(資料編13近代・現代⑶一二四・一九四)。 しかしながら軍工〓労働者の普通選挙権への関心は強いものがあった。横須賀海軍工〓の労働者は、二月八日、労働団体汎労会の横須賀支部の発会式をかねて、普選講演会をひらいている。横須賀市山王町公会堂でひらかれたこの講演会には、おりから降りつもる雪にもかかわらず、開会定刻の午後六時には三百余名の聴衆があつまってきていた。汎労会会長・労働新報社長石塚新治の宣言及綱領の朗読のあとには、横須賀支部に属する中川という人物が、おりから横須賀海軍工〓労働者の間で問題になっていた借家家賃五割値上げ問題をとりあげ、借家人組合急設の必要性を力説した。講演は、国民党総務関直彦が「普『横浜貿易新報』の普選マンガ 大正12年2月19日付 通選挙促進の秋」と、鵜崎鷺城が「労働政策と普通選挙」と題して行い、十一時に散会となった。会場には、憲兵をはじめ警察官、「軍法会議の面々」が臨席傍聴し、ものものしい印象を与えていたが、そのような雰囲気にもかかわらず工〓製図課の女工二名が静かに束髪姿で講演に聞きいっていた(同前一九六)。それは、普通選挙運動を通じて、権利へのめざめをはじめた民衆の姿を象徴するかのようであった。 第四十二議会は、二月二十六日に普選法案を討議中に解散となった。政局の焦点は総選挙に移っていったが、労働団体による普選演説会がこれ以降も県下でひらかれている。横浜港の仲仕によって組織された横浜仲仕同盟会は、会則で「立憲労働党ニ団体的加盟」をうたった組織であった(同前一一五)。山口正憲を総理とし、国家主義・協調主義を標榜するその立憲労働党の横浜支部は、四月四日に横浜公園で普選大会を開催することを決定し、山口のほか、永井柳太郎らが演説する予定になっていた(『横浜貿易新報』大正九年三月三十一日付)。横浜仲仕同盟会は、総選挙後にひらかれた第四十三臨時議会に対応し、七月六日にも演説会をひらいている。横浜市内若葉亭でひらかれたこの演説会では、仲仕同盟会理事宍戸定治が「労働法案」、理事長池田義久が「瞞着政治禍」、紫成会加藤理事長が「普選の要求」と題して演説し、東京からは日本交通労働組合理事多田満四郎や山口正憲が応援演説にかけつけた。会は、尼港問題にも関連しながら、「挙国一致国務を進行せん為め飽迄普通選挙断行を迫り原内閣を弾劾す」との宣言を採択し、盛況のなかで終わった(『横浜貿易新報』大正九年七月八日付)。 また、関東労働革新会は、五月十五日に、三浦郡田浦町の劇場船越館で、普通選挙の大演説会をひらいている。関東労働革新会の会長山本延寿は、壊滅させられた横須賀海軍工〓長浦造兵部啓進会の発起人で理事長にほかならない。またこの演説会には、憲政会の議員小泉又次郎、三木武吉が弁士として演説していた(同前大正九年五月十六日付)。 こうしてみると、一九一九~二〇年における神奈川県下の労働団体の普選運動の特徴は、一つには軍工〓の労働者の動きがめだっていることである。国家資本の大経営工場で軍需品生産にたずさわっていた軍工〓労働者は、国家や政治に対する関心が相対的に強く、普選運動にひきよせられたのであろうか。また、もう一つ、県下の普選運動を行った労働団体は、労働組合としての性格をまだ明確にもっていないような組織であったことも特徴といってよい。この時期に急速に設立された労働団体は、修養機関的な性格や労資協調主義を、あるいは横浜仲仕同盟会のように国家主義的性格すらもちながら、普選の実現を叫んだのである。それは労働組合が組織されはじめた、そのゆりかごの時代の不可避の特徴であったが、こうした団体すら普選運動に取り組むところに、この運動の大衆的ひろがりと、政治的権利意識の形成が示されていたのである。 憲政派の普選運動 これに対し、政党の側からの普選運動はどのように展開されたのであろうか。前年の第四十一議会では、普選派代議士の突き上げにもかかわらず、選挙権拡張の立場を固執し、普通選挙を拒否した野党は、第四十二議会には普選法案の提出にふみきった。もっとも憲政会の普選法案は、満二十五歳以上の男子で「独立ノ生計」を営む者を有権者とするという、いわゆる独立生計条項をもっているという点でまだ不十分なものであった。しかし、党としてとにかく普選法案の提出にふみきったために、県下でも憲政会派の政党員らによる普選運動のうごきがはじまる。 まず普選運動が全国的に活発化してきた二月上旬に橘樹郡で憲政会員による普選演説会が計画されていると伝えられた(『横浜貿易新報』大正九年二月四日付)。それによれば、憲政会員小野重行、五十嵐喜三郎や鶴見在住の文学博士荻野万之助らが主唱し、川崎町の橘劇場に東京から尾崎行雄らを弁士として招いて演説会をひらくべく計画中というのである。 この演説会が実行されたかどうか確認することはできないが、二月の下旬には横浜市で憲政派の主催で、「普通選挙促進演説会」がひらかれた。二十三日、松ケ枝町角力常設館で会主を山下精吾としてひらかれたこの演説会には市民がぞくぞくとつめかけた。午後六時の開会にもかかわらず、聴衆は二時ごろから会場につめかけ、四時に木戸をひらくとワッとときの声をあげて入口に殺到し、五時には階上階下とも立錐の余地もなく、天井にまで鈴なりになるほどの大入り満員となって、入場者七千名と称せられたのである。弁士として登壇したのは、憲政会議員戸井嘉作、横浜貿易新報社長三宅磐、横浜毎朝新報社長牧内元太郎、憲政会議員島田三郎であった。演説では「普通選挙に反対する者は民衆の敵である」「納税額の有無に依って其品性の高下を判断するが如き政府政友会の愚や言語同断」と反政友会気分をあおりたて、普通選挙は明治天皇による「御誓文の五か条」を延長したものであるとして、「聖旨」に普選の正当性の根拠が求められていた。また、物価問題やシベリア出兵問題をとりあげ、内政外交における原内閣の失政が指摘され、普選によって議会の内に国民の声が送られてはじめて真に改造された内閣ができると叫ばれた。聴衆もまた「国賊政友会を倒せ」と熱狂し、島田三郎は「島田先生万歳」の声につつまれた(資料編13近代・現代⑶一九七)。 この演説会は大規模であり、熱狂的であったが、第四十二議会下の憲政派による横浜での普選演説会はこれ一回であり、野党が普選運動に継続的、組織的に取り組んだとはいいがたかったといえよう。 ところで、政党の普選運動とはことなるが、普選運動に関連して新聞紙面をにぎわした県下の事件を紹介しておこう。三月七日のことである。一九一九年につくられ、普選運動で活発な行動を示していた青年団体、青年改造連盟の西岡竹次郎ら七名は、ひそかに東京を出発、国府津駅でおちあい、そこから二台の自動車に分乗して小田原町へむかった。別荘の古希奄にいる元老山県有朋を訪問面会するためである。自動車で乗りつけた一行を政府要路の大官とまちがえて、はじめ丁重に出迎えた古希奄側では、青年改造連盟の一行とわかって大あわてとなった。山県有朋との面会は病気を理由に拒絶したものの、小田原に投宿し再び訪問するとの一行のあいさつに「公爵邸にては大に困却」と報道されている。警察は、一行を警察犯処罰令によって拘束しようとしたが抗議されて釈放せざるをえず、青年改造連盟の一行は十一日、小田原町の御幸座に「山県公訪問顛末の演説会」をひらいた。国府津・箱根間に自動車でビラまきをおこなったこの珍妙な演説会は、人気を呼んで二千余名の聴衆があったという(『横浜貿易新報』大正九年三月八日・十三日付)。このエピソードとその報道のしかたのなかにも、元老の権威の凋落のありさまと、普選運動に意気あがる青年たちの傍若無人の行動ぶりがうかがえ、この時期の雰囲気の一端が伝わってくる。 総選挙と普選問題 第四十二議会は解散となり、第十四回総選挙が行われた。第四十一議会で行われた選挙法改正によって小選挙区制を実現した政友会は、それによって、二百七十八議席を獲得するという大勝利をえた。しかし、横浜市・横須賀市という都市部をふくみ、反政友派の強い神奈川県では、当選議員は憲政会六名、政友会四名という結果で、憲政会の優位がつづくことになる。この選挙戦では、全国的にみると政友会が、普選=危険思想説をひっさげ逆攻勢に転じ、野党側には普選問題で政府に対決しようとする姿勢が弱かった。しかし、都市部では、普選要求は根づよく、普選団体は、普選支持候補者の運動に奔走し、市部においては野党の勝利となった(松尾尊允「第一次大戦後の普選運動」『大正期の政治と社会』)。 神奈川県下でも、この選挙戦においては都市部で新しい動向がみられた。憲政会の候補者に対し、普選問題を政策上の焦点として労働団体内の勢力が支援の態度を明らかにするという現象である。横須賀市を区域とする神奈川第二区には、定員一名のところに政友会一名、憲政会二名の候補者が立候補する激戦となり、当落を決する鍵は横須賀海軍工廠内の投票にあるとみられ、各派ともその獲得に必死の状態となった。横須賀海軍工廠の労働者によって、一九〇九年以来組織されてきた共済・修養機関的団体である工友会の「有志多数」によって四月二十五日、要旨、次のような決議がなされた。「普通選挙、労働問題、其他の政策にして所見の合致を見るは独り小泉氏あるのみなれば吾人は此意義に於て極力小泉氏を応援其当選を期すべし、同氏の当選は即ち吾人の真意志を伝ふべき一大鎖鑰たらずんば非ず」。前にもふれたように小泉又次郎は憲政会の普選派代議士であり、その小泉のもとにこの決議文は送られたという(『横浜貿易新報』大正九年四月十七日付)。工友会内部の一勢力が、普選・労働問題などの政策をとりあげながら、憲政会の小泉派の選挙運動と結びついていたことは疑いないところである。 また、久良岐郡・橘樹郡・都筑郡からなる神奈川第三区は、一議席を政友会・憲政会の一騎うちで争う激戦となった選挙区であった。ここでは、橘樹郡町田村にある浅野造船所の社員および職工によって組織されていた浅野工友会が、憲政会の公認候補小野重行を支持して選挙運動を行った。浅野工友会は、造船部長安藤作太郎を会長とするような「縦断組合」的な体制をとった労資協調主義的労働団体であるが、会長の安藤は、候補者小野重行の推薦者となり、副会長や十五名の理事ら全役員が運動員となって大活動をした。その理由は、浅野工友会役員によって決議されたところによると「元来普通選挙は労働階級の権利を伸張する唯一の途なるに横暴なる政府は此提案を受けて非立憲なる議会解散を行ひたる者なれば今回の選挙に際しては政府の与党たる政友会の候補者には一票をも投ずべからず」というものである。こうして浅野工友会役員は各工場にむかって選挙運動を展開した(同前大正九年四月三十日付)。 横廠工友会も浅野工友会も、労働組合とはよべない労資協調的な労働団体で、また普選運動に参加したともいえない組織である。したがって神奈川県の場合、普選運動を推進した組織が総選挙で普選派の候補者を支持応援したというようにみるわけにはいかない。しかし、普選問題が政策上の争点として登場させられたことによって、労資協調的な労働団体が、普選派議員と、とくに神奈川の場合憲政会系の勢力とのむすびつきを形成していく傾向はみられたといってよいであろう。 二 一九二二年から二三年の普選運動 普選運動の再高揚 都市部では普選派が優位をえたとはいっても、第十四回総選挙の結果は、政友会が衆議院の絶対多数を獲得することとなったのであり、それは普選運動の発展に冷水をあびせかける効果をもっていた。第四十三議会、第四十四議会と普選法案は政友会の絶対多数の前に一蹴され、議会外の大衆運動も下火となった。普選運動が低迷状態におちいった大きな原因の一つは、野党第一党の憲政会が独立生計条項に固執し、国民党や無所属議員たちと一致できなかったことにある。議会は政友会が絶対多数をしめているうえに、野党側はそれぞれバラバラに普選法案を提出するありさまで、普選派は迫力のある運動を展開できなかったのである。 ところが第四十五議会を前にした一九二一(大正十)年十二月、憲政会はようやく独立生計条項の削除にふみきった。党下部からの、この条項の削除と統一普選法案提出の要求がおさえがたいものになったからである。 憲政会が独立生計条項をけずったことにより、普選派はよみがえったようになり、野党各派の統一普選法案が作成され、議会提出されることになった。それとともに院外の普選運動も一九二二年春からふたたび高揚をはじめる。東京では、一月二十二日に普選断行大会がひらかれ、二月には、五日、十一日、十九日が「普選デー」とされて民衆大会がひらかれる。二十三日の普選案上程日には数万の民衆が日比谷公園付近に集まり警官と衝突するにいたった。この時期、普選運動は全国各地でも展開され、関西では、五十一の参加団体を数えることとなる西日本普選大連合が、前代議士今井嘉幸を中心として結成される。下層の中小資本家や小ブルジョア層によって構成される市民的政治結社を中心的な担い手として、一部の労働組合・農民組合を含みこんで、一九二二年からの普選運動が展開されることとなったのである(松尾尊允「政党政治の発展」『岩波講座日本歴史』19)。また、新聞記者が新聞紙上で普選を主張するだけでなく、普選派と協力し、各種の大会をひらき、あるいは共同宣言を行うなどの実行運動にのりだした。こうした普選運動の展開の中で、野党、とりわけ憲政会がしだいに運動の指導権をにぎりはじめ、その支持基盤を拡大しようとすることになっていくのである。 横須賀での普選運動 神奈川県下で、一九二二年の普選運動の口火を切ったのは、憲政会の有力な地盤となっていた横須賀市での政談演説会であった。二月十七日、憲政派有志の主催・同志倶楽部後援ということで劇場軍港座で「綱紀粛正普選断行演説会」がひらかれた。従来、演説会には、入場券・招待券を発行し入場者数を限定していたが、今回はそれを発行せず誰でも傍聴無料ということにして行われたのである。五時開会という予定にもかかわらず、午後一時には、もう弁当持参で傍聴人がおしかけてくる。開会を一時間はやめて四時とすることになると、横須賀海軍工廠の労働者が四時半に退廠してからでも入場できるか、できなければ席を二千人分ぐらいあけておいてほしいなどという交渉があったりして、開会前から大にぎわいとなった。開会されて、市会議員や横浜貿易新報社社員などの演説が終わった午後五時、軍工廠の退出時間となるとともにさらに聴衆がおしかけてきた。すでにおおかた満員となっていた場内に入りこみ、階上階下ともかんづめとなって舞台演壇の周囲までとりまき、さらに表木戸からの入場がさしとめられると、裏の塀を乗越え楽屋の窓ガラスを破ってはいりこみ、楽屋から囃子方の席までうめつくされて、入場者総数は七千余名と称された。弁士として登場したのは、小泉又次郎、中野寅吉、三木武吉、下岡忠治、永井柳太郎の憲政会代議士である。かれらは、綱紀・治安・財政・外交などの諸問題における政友会内閣の失政を非難し、普選断行をとなえた。その論理は一言でいえば「普通選挙に到っては綱紀紊乱も外交失敗も皆此法に依らざるが故に起るもので政界の廓清を期する独り之れあるのみ」とするものであった(『横浜貿易新報』大正十一年二月十六日・十八日付、資料編13近代・現代⑶一九八)。 横須賀からは、この演説会のあと、普選法案の議会上程日である二十三日にあわせて、議会請願の上京者が送られている。まず横須賀海軍工廠の労働者は、「院外応援の為め二十二日各工場で相談会を開いた結果工場毎に代表者を出すこととなり総員四十余名は二十三日午前請願書を携へて大挙上京」した。また「横須賀立憲青年党の幹部たる市会議員松本為吉同一本信太郎外四十余名も同様の目的にて上京」した(資料編13近代・現代⑶二〇一)。横須賀立憲青年党とはどのような性格の組織であるのか不詳であるが、市議一本信太郎は十七日の演説会でも弁士として登壇しており、憲政会と連携のある政社の一つであることはまちがいないであろう。横須賀市の普選運動の動向は、横須賀海軍工廠の労働者や、市議を幹部とする地方政社などを動員しながら憲政会の主導権のもとで展開しはじめていったとみられる。 横浜の普選断行市民大会 一方、横浜では二月十九日に普選大会がひらかれた。この集会を計画・主催したのは、京浜新聞・通信十六社―横浜通信、万朝報、国民新聞、中外新報、横浜貿易新報、やまと新聞、東京毎夕新聞、東京毎日電報、横浜毎朝新報、報知新聞、東京朝日新聞、都新聞、内外通信、時事新報、東京日日新聞、読売新聞―であった。集会は最初は横浜公園における屋外集会として計画されたのであるが、県警察部は「警察力の不足」を理由として屋外集会の禁止を命令した。そこで、横浜公園内社交倶楽部で午前中から普選断行大懇親会を開き、午後は社交倶楽部と公園内の二か所の茶亭を会場とし、何人も参加自由として普選大会が開催されることになったのである。 日曜日であった十九日、横浜公園では朝から花火が打上げられて景気をあおり、三台の自動車に分乗した宣伝隊が、十五万枚のビラを市内にまきちらした。午前十一時五十分、東京日日横浜支局長新屋茂樹の司会ではじまった懇親会は、横浜通信社長日比野重郎が開会の辞を述べ、報知横浜支局長国分邦彦が「吾人は今期議会を督励して普通選挙の即時断行を期すると同時に之れを阻止する現内閣の如きは速に其の更迭を期す」との決議と宣言を普選断行横浜市民大会の名で朗読、可決し、横浜毎朝社長牧内元太郎の発声で万歳を三唱して演説会に移っていった。演説会は社交倶楽部内で、その玄関前で、そして公園内の二か所の茶亭内外で行われ、聴衆がつめかけた。主催者となった新聞・通信社の人間以外で、弁士として登壇したのは、憲政会の森田茂・横山金太郎、国民党の清瀬一郎・砂田重政、無所属の尾崎行雄である。横浜の新聞記者の主催する集会ということで、統一普選法案に賛成する野党各派から議員が弁士として登場することになったわけである。もっとも人気が高かったのは尾崎行雄であった。彼が登壇すると「憲政の神」「普選の神」と声がかかり、演説が終わると「尾崎先生万歳」という叫びがおこった。この普選断行横浜市民大会のスターであったわけである。 各会場には三千名といわれる聴衆がつめかけていた。「羽織袴の八字髭」に「印袢〓の職人」、市電従業員から学生、「商事会社の女事務員」といった幅ひろい諸階層の参加があり、「男子と打ち交って多数の妙齢の婦女子も熱心にこの大演説を聴取する」のが見うけられたのである。演説会場では、聴衆が飛び入りで登壇する五分間演説も行われ、そのな尾崎行雄の故郷津久井町に建つ尾崎記念館 県史編集室蔵 かには横浜仲仕同盟会や神奈川立憲青年党を代表して演説する者もあった。普選断行大懇親会の計画が新聞紙上に発表されると「団体としても多数の申込みがあ」ったといわれていることからみて、新聞・通信社主催の市民大会という性格が、普選を支持する小組織の参加の動きをよびおこしたのであろう。こうして、普選断行横浜市民大会は、横浜における普選運動を活性化させる大きなきっかけとなったのである(『横浜貿易新報』大正十一年二月十八日~二十日付)。 普選法案の上程とともに議会請願の動きも活発になっていったようである。中郡平塚町でも、有志二十三名が発起人となって陳情書に町民の調印を求め、有志が上京して普通選挙請願を行うと伝えられ(同前大正十一年二月二十日付)、横浜からも「神奈川県立憲青年党十五名が常任幹事鶴島三郎、幹事長児玉兼吉の両氏に率ゐられて上京」(同前二月二十三日付)と報道された。児玉兼吉は、一九一九年に立憲労働党横浜支部の創立委員長であった人物であり、立憲青年党は横浜仲仕同盟会とのつながりをもった存在であったと考えられる。また、二月二十七日は、日本海員組合横浜支部や郵司同友会などの船員の代表として、浜田国太郎海員組合横浜支部長以下二十名が上京し、日章旗と労働組合旗を先頭にたてて憲政会本部をへて議会にまわり、二千余通の請願書を提出した(水野石渓『普選運動血涙史』)。こうして、県下の普選運動は、新聞記者の動きを一つの結び目としながら、憲政会系の勢力、普選団体、労働団体の連絡をもった動きをつくりだして、新しい高揚をむかえたのである。 一九二三年の普選運動 第四十五議会でも普選法案は政友会によって否決された。しかし、その反対理由は普選=危険思想から時期尚早論へと変化していった。普選実現は圧倒的世論になっていたのである。次の第四十六議会においても普選断行を要求する運動は高揚した。とくに新聞記者の運動はさらに活発となった。東京では一九二三(大正十二)年一月二十日に、普選即行全国記者同盟大会がひらかれる。 この年の県下の普選運動は、横浜において、新聞記者らによってつくられた横浜普選記者連盟、県会議員・市会議員を中心とする横浜普選即行団、そして横浜青年普選連盟の三者によって行われた。まず二月十七日に、社交倶楽部で、横浜普選記者連盟と横浜普選即行団との合同主催で、横浜普選大会がひらかれた。これは参加者二百五十名であり、いわば横浜の普選運動活動家の集会である。大会は、横浜貿易新報社社長の三宅磐の演説を中心として進められ、宣言と「一 吾人はあらゆる立憲的手段により今期議会に普選の実現を期す、一 普選に反対する者は国民の公敵と認め将来断じて一切の公職に選挙せず」との決議を横浜普選大会の名で採択し、東京での示威運動になるべく多数参加することを申し合わせた。この大会で注目されるのは、大会のあとの懇親会で行われた五分間演説である。まず第一に、市会議員や弁護士とならんで各社の一般記者がさかんに演説を行っているのである。横浜における普選運動のリーダーシップにおいて、代議士や支局長・社長といったクラスから市議や一般記者のレベルの人びとが積極的な役割を果すようになってきたと思われる。第二に、この五分間演説には、立憲青年党の児玉兼吉、仲仕同盟会理事の宍戸忠行、海員組合の清水繁造が参加している。かれ衆議院における島田三郎普選演説 平野不二男氏蔵 らは、記者連盟や即行団と結びつきながら普選運動に一層力をいれていたのである(『横浜貿易新報』大正十二年二月十八日付)。 普選記者連盟と普選即行団は、この普選大会の報告をかねて二十一日、普選大演説会を開催した。会場は市内の角力常設館で、定員六千人と称せられる会場は、開会時刻の五時以前に満員となった。弁士として登場したのは、記者連盟から各社支局長・社長クラスの人びとが、即行団から市会議員・県会議員がそれぞれ五、六名ずつ登壇し、東京普選記者同盟から応援弁士として都新聞記者大谷誠夫が出席した。この年も演説会という形式で大衆集会が行われたのである。 だが、この年の神奈川の普選運動で、異彩を放ったのは、横浜青年普選連盟による普選民衆大会である。日本海員組合横浜支部、横浜仲仕同盟会、神奈川立憲青年党らは、青年団の一部を加え、横浜青年普選連盟を名のり、二十二日横浜公園に民衆大会を主催した。正午からはじまった大会は、参加者五千名と称され、各団体の旗がひるがえっていた。開会の辞は、かつて友愛会横浜出張所の責任者であった板倉定四郎が述べ、座長に浜田国太郎がなり、宣言を海員組合の大道寺謙吉が、決議を立憲青年党の鶴島三郎が朗読、採択して演説会に移った。代議士尾崎行雄・湯浅凡平が演説し、仲仕同盟会の宍戸定治、立憲青年党の児玉兼吉、普選記者連盟の宮城藤平・日比野重郎・国分邦彦なども弁士として登場した。参加者は午後四時に演説会をおわると、楽隊・自動車を先頭にして数十本の旗を押したて、普選歌を高唱しながら、横浜公園から本町通りに出て、馬車道、伊勢佐木町をへてお三の宮まで示威行列を行った。これは県下の普選運動における最初で最後の屋外集会であり、デモ行進であった(同前大正十二年二月二十日・二十三日付)。この民衆大会は労働団体を主力としていた。しかし、その宣言が、普選即行の根拠を「先帝夙に万機公論に決するを以て政治の原則と定め」たことにもとめていた一事でもあきらかなように、大会は労働団体による運動としての独自性をおびていたわけではなかった。演説においても中心は尾崎行雄であり、普選記者連盟の応援をえたものであった。それらは、これらの労働団体が、労資協調的・国家主義的な性格をもった存在であったことからくる当然の結果であるが、こうした限界にもかかわらず、神奈川県下の普選運動も労働団体による独自の動きが成立してきたと評価できよう。 県下の普選運動の特徴点 この年、関東大震災のさなかに組閣された山本権兵衛内閣が普選実現を声明する。こうして一九一九年から二三年まで展開されてきた普選運動は、その課題を達成する。神奈川県下で展開された普選運動の特徴を考えてみると次のようにまとめることができよう。第一に、県下の普選運動の中心となっていた地域は、横浜市と横須賀市であった。これは普選運動が都市部を中心とする運動であったことからみて少しも不思議ではない。ただ、この地域に、憲政会の勢力が強力であったことと、東京に近接しているという地理的条件は、運動のあり方に大きな影響を与えたように思われる。すなわち、それは地域に根ざした自発的な普選団体による運動の展開には阻害的な条件として働いたといえよう。横浜・横須賀には都市中間層や労働者が多数存在しており、普選要求のエネルギーも強かった。しかし、それらのエネルギーのかなりの部分は憲政会系勢力の演説会によって吸収され、東京での議会請願に動員されることによって解消されたように思われる。一方普選実施がきまったあとの普選法宣伝の案内 高橋忠雄氏蔵 における演説会の大盛況、他方で普選団体の数の少なさという現象は、それを示していると考えられよう。 こうした問題を克服する方向は、一九二二年以後の運動の中ででてきた。横浜普選記者連盟の成立につながる新聞記者たちの動きは、都市中間層の結集につながり、労働者の普選要求は労資協調的な労働団体の普選運動への参加という形で表現されはじめたといってよい。それは普選実現の要求が、県下の地域自体に根づきはじめたことを示していた。こうして、政治的権利の平等を要求する意識は、国家主義的な論理にたよるような限界や問題点をもちつつ、民衆に定着しつつあった。一九二三年三月、足柄下郡の在郷軍人会の連合分会の総会で、「現役を終えた在郷軍人に選挙権を与へよ」との決議がなされ、当局に陳情することになった事件にもそれはうかがえよう(『横浜貿易新報』大正十二年三月十七日付)。県下の普選運動の、カンパニアとしての規模の大きさと、系統性・持続性の少なさという現象は、以上のように理解でき、また、その克服の動きも進みつつあったと思われる。 第三節 教育条件の整備 一 初等教育の変貌 就学奨励と出席奨励 一九〇七(明治四十)年三月「小学校令」の改正により、義務教育の年限が四年から六年に延長された。これは、その後敗戦までつづいた六年制義務教育のもとになった。六年制に延長されるとともに教育に対する一般民衆の期待が高くなり、広まり、それが定着し、さらに教育内容の高度化を求める面もあらわれてきた。 一九〇七年六月、本県においては、「学齢児童就学奨励規程」の制定、一九一〇(明治四十三)年には神奈川県訓令第一号により、教育上留意奮励すべき事項を示し、その中の最初に、「教育上最急務トスル所ハ義務教育ノ普及ニ在リ」そのため「地方ノ情況ニ応シ便宜ノ方法ニ依リ一層就学ノ督励ヲ周到ニシテ以テ皆就学ノ域ニ達セシメンコトヲ努ムヘシ」として就学の奨励を訓令した。本県の当時の就学率は全国の平均より少し低く、そのため特に就学上昇に意を注いだものと思われる。同時に就学の奨励と「児童ノ出席ヲ奨励スルハ是レ亦緊要ノ事」であるとして、出席の奨励にも意を注いだ。 明治末期から大正期にかけての就学率を示すと第四表のようになる。 県の就学・出席奨励を受けて、郡では各町村に実施すべき事項の規準を定めた。「学童保護義会準則」および「学齢児童就学及出席奨励法準則」がそれである。「学童保護義会準則」(中郡明治四十三年三月各町村に通牒)によれば、貧窮児童を保護救助して義務教育を終了させることを目的として、小学校通学区域内の篤志者で組織し、児童に対して、一 筆・墨・紙等文具の給与、二 硯・石盤・書籍・算盤・傘等の貸与、三 衣・食費の補助、などを定めたものであった。「学齢児童就学及出席奨励法準則」は郡内の義務教育の完全普及を図るということで、学校において団体奨励と個人奨励を行うこととした。団体奨励は学年・学級ごとに毎月の出席率を調査し、優等な学年・学級に対して授賞した。個人奨励は毎月の出席良好な児童には賞詞を、一学年間出席良好な児童には賞状又は賞品を与えるというものであった。さらに、郡から就学率一〇〇で、出席率百分の九十五以上のものを第一等、就学率九八、出席率百分の九十五以上を第二等として町村に表彰状を授与するというものであった。 このようにして、県の訓令を受けて、各地方では就学奨励・出席奨励に努力した。この結果、本県では一九一六(大正五)年に全国と同じ就学率となった。 一方では一九一六年八月三日、「工場法施行令」「工場法施行規則」「工場法第二条第二項ニ依ル就学許可ニ関スル件」が公布され、地方長官によって施行細則が制定され、工場に働く児童に対する保護がはじまったことも見のがせない。 二部教授の増加 大正期は就学率九〇㌫以上と児童の出席奨励とにはじまったが、一方では学齢児童が次第に増加する状況のもとで、校舎の新築・増設をさけ二部教授の実施が見られた。 第4表 学齢児童の就学率 『神奈川県統計書』から作成 二部教授の実施については一九〇一(明治三十四)年の県令に、二部教授を行う場合の認可申請が定められ、一九〇三年、二部教授を行う学級及び学年、二部教授施行の必要な事由等認可条件を細かくし、一九〇九年にはさらに申請書に記載する事項について、前後二部の始業終業時刻、前後の交代方法、学級を担任する本科教員の定数についての事項を追加するなど、二部教授実施の場合、詳細な事項にわたって申請を行い、知事の認可を得て実施されることとなった。一九一三(大正二)年、小学校令施行規則(文部省令)の改正により従来の条件付を改めて、「土地ノ情況ニ依リ小学校若ハ其ノ分教場ニ於テ全部若ハ一部ノ児童ヲ前後二部ニ分チテ教授セルコトヲ得」(第三四条)とされた。これにともなって、本県では同年七月二十九日、二部教授に関する認可申請は、二部教授を行う学級及び学年、二部教授施行の期間、二部教授の必要なる事由のみの申請でよくなった。 本県における公立小学校の二部教授実施状況を見ると第五表のようになる。 この表で見ると一九一五年では児童数一万一千二百七十八名で、鎌倉郡玉縄村立尋常玉縄小学校 鎌倉市教育委員会蔵 全体の七・三三㌫である。表には示さなかったが、このうち横浜市では八千二百七名が二部教授をうけており、全県下二部教授を受けていた児童数の約七二・八㌫となる。 一九二〇(大正九)年は横浜市一万一千九百五十六名で、五一・四㌫、一九二五年は横浜市二万三千五百八十三人で全体の七二・二㌫を占めていたことになる。二部教授を受けていた児童の多いのは横須賀市、橘樹郡、一九二五年の中郡などであった。それにしても、横浜市で二部教授を受けていた児童数の割合は著しく高かった。 横浜市は市域の拡大と京浜工業地帯としての産業の発達、貿易の振興等で人口の著しい増加がその背景にあった。一九二〇年の六大都市における一学級の平均児童数は東京五十六人、大阪五十三人、神戸五十五人、名古屋五十七人、京都五十六人であったが横浜市は六十六人であった。このような状況の中で横浜市は、一九二二年小学校の増設・増改築計画を立てた。それが「拡張計画趣意書」である。 第5表 二部教授実施の学校・学級・児童数 『神奈川県統計書』から作成 この計画によれば「本市の初等教育で改善すべき事項は二部教授の撤廃と、一学級数の減少である」とされた。しかし一学級数減少の実現はしばらく困難であるので、二部教授撤廃の計画のみがなされた。この時横浜市では二部教授の公立小学校数三十六校、学級数八百七十八のうち二部教授学級二百七十六、児童数一万七千三百八十二名に達していた。そこで、四か年計画で、一九二五年までに撤廃するとして立案された。敷地買収費七十五万八千八百九十円、地上物件移転費三十三万九千五百三十九円、地均工事費二十三万千七百四十一円、校舎建築費三百十五万四千二百七十三円等、計四百七十七万八千八百七十三円(『横浜市教育史』上巻)の予算案を作成した。しかし、一九二三年九月の関東大震災によりこの計画は自然消滅してしまった。その後も横浜市の二部教授はつづいた。 横浜市・川崎市・横須賀市の二部教授の児童数を示すと第六表のようになる。この表でわかるように、昭和年代に入っても二部教授はつづき、一九三五(昭和十)年には、川崎市も増加する傾向がうかがわれる。このように、都市部を中心としたいわゆる不正常教授がつづき、昭和三十年代まで二部教授はつづくことになる。大正時代に著しく増加した二部教授は、本県における産業の発達と人口の集中という大きな要素に歩調を合わせて長くつづいた。 臨時教育会議 就学率九八㌫、出席の奨励、二部教授の実施でむかえた大正期は、第一次世界大戦が教育上に大きな影響をおよぼした時代でもある。 政府は一九一七(大正六)年九月、社会情勢の変化に備えて学制改革を行うため、内閣直属の諮問機関(委員四十名以内)を第6表 二部教授児童数 『神奈川県統計書』から作成 設置した。総裁平田東助、副総裁久保田譲、委員に一木喜徳郎・山川健次郎・江木千久・山梨半造・沢柳政太郎らが任ぜられた。それが臨時教育会議である。寺内首相は臨時教育会議の開会に際して、「皇運ヲ隆盛ニシ国威ヲ宣揚スルヲ得ヘシ」とし、国民教育の要は徳性を涵養し、知識を啓発し、身体を強健にして、護国の精神に富める忠良なる臣民を育成するにあると考えて、「実科教育ハ国家致富ノ淵源ニシテ国民教育ト並ヒ奨メ空理ヲ避ケ実用ヲ尚ヒ帝国将来ノ実業経営ニ資セシメサルヘカラス」とあいさつした。 臨時教育会議は一九一九年までの間に、教育制度の全般にわたって審議し、具体的な改革案について答申を行った。その中で注目すべきものは高等教育制度の改革に関することであり、「大学令」「高等学校令」として公布された。私立・公立の大学を認め、単科大学も設置された。 「高等学校令」では高等学校についても、官立のほか公立・私立をも認め、七年制を原則とし高等科三年、尋常科四年とした。その他専門教育、師範教育、視学制度、女子教育、実業教育、通俗教育、学位制度、小・中等教育についても答申を行った。この臨時教育会議の学制問題の答申は、「対外的には第一次大戦、ロシア革命が国内に与えた思想的影響、国内的には護憲運動や労働運動、小作争議など明治時代とは比較にならない強大な民衆の力の抬頭を前にし、明治的教育では実現できなかった強力な国民統合の教育を求めて発せられた支配勢力の声にほかならなかった」のである(本山幸彦「明治国家の教育思想」『大正の教育』)。特に、天皇制国家のもとにあって、国家防衛の精神的支柱として天皇中心の教育が国家の振興のため「神聖建極ノ遺訓ト祖宗恢弘ノ皇謨」とに遵わねばならないとされ、「学校教育ノ効果ヲ完全ニ収メントセハ同時ニ社会ノ状態ヲ改善セサルヘカラス而シテ此ノ事タル教育ニ従事スル者ノミノ能ク成シ得ヘキ所ニアラスヤ朝野一切ノ経営者ノ協力戮力ニ頼ラサルヘカラサルナリ」とした。社会一般の協力を得るにも物質文化に偏向する社会の時弊を救うため、「国民思想ノ帰嚮ヲ一ニシ」「本邦国有ノ文化ヲ基址トシ」ますますこれが発達大成を期するにある、と一九一九年一月十七日の建議第二で述べられている。 このような臨時教育会議の答申はその後の教育思想にも大きな影響を与えることになる。 大正自由教育運動の根拠 初等教育の答申については、「国民道徳ノ徹底ヲ期シ児童ノ道徳信念ヲ鞏固ニシ殊ニ帝国臣民タルノ根基ヲ養フニ一層ノ力ヲ用フル必要」があるとし、第一に国民道徳教育を重視すべきであるとした。そして、従来の教育について、「往々ニシテ……所謂詰込主義ノ弊ニ陥リ動モスレハ複雑多端ナル事項ヲ授ケ」そのため「児童ノ心力ヲ徒費スルノ弊風」があると批判し、「児童ノ理解ト応用トヲ主トシ不必要ナル記憶ノ為」の教育はこれを矯正する必要があると指摘した。さらに「施設ノ実況ト教授ノ実際トハ往々ニシテ国民生活ノ実際ト地方ノ実情トニ適切ナラス」と指摘し、「諸般ノ施設並ニ教育ノ方法ハ画一ノ弊ニ陥ルコトナク地方ノ実情ニ適切」ならしめることが必要であると答申した。このように従来の詰め込み主義・画一主義の教育方法に批判をしているが、「地方ノ実情ニ応シテ適切」な現実主義的教育を受ける人間を目ざしていた。教育の方法として、改めるべき考えは自由教育の実践として、主として師範学校付属小学校、私立新学校で行われた。 明治時代のヘルバルト主義、とくに五段階教授法の教育方法が樋口勘次郎の『統合主義新教授法』(明治三十二元街小学校の授業風景 元街小学校蔵 年)、明石女子師範学校附属小教諭及川平治の分団式教授法などにより、批判されはじめてきていた。分団式教授法は能力差に応じた英才教育の傾向をおびていた。 新しい教授方法は要するに子どもの自発性、個性を尊重しようとするものであってここに自由教育主義的なものがあらわれてきた。特に第一次世界大戦後の戦勝国側がもたらした世界的風潮としての自由主義・デモクラシーの思想が教育における「自由化」のうごきを助長していった。 本県でもこの教育思潮を積極的に取り入れるところも出てきた。平塚尋常高等小学校の井上・猪俣二訓導はこの新教授方法を学習するため明石女子師範学校の視察研究を行ったり、たとえば、また教師が時代思潮を研究し、保護者会が中心となって、子どもの読物・雑誌を発刊する学校も出てきた。 横浜市の元街小学校では雑誌『学の窓』を一九〇九(明治四十二)年に、横浜小学校でも『学の友』(一九〇九年刊)、神奈川小学校では『学の園』(一九一四年刊)を出している。さらに従来の教室中心の、また教科書中心の教授方法を改めて、講演・お伽話・童話・映画・1926年川崎市旭町小学校音楽会の劇 井出泰重氏蔵 音楽会・運動会・遠足などによって自学自習の教育をはかろうとしている。 一九二二年から二三年ごろになると、新しい教育思潮に基づく教育研究、実践が盛んに行われるようになり、本県教育会の機関誌である『神奈川県教育』誌上にその講習会案内が多数掲載された。一九二三年高座郡教育会では郡内を三地区に分け、南部は国語、中部は国史、北部は地理を担当し、研究会の開催、研究物の交換など相互に研究の交換を行うなどをした。鎌倉郡内でも各教科別の研究委員を設け、月づき会合し、教授法の研究、教材の研究調査等を行い、研究発表会・作品展覧会等を開いて青年教員の研究熱をあおった。小学校の教科内容についての県の指導も積極的になり、理科指導員(一九二〇年)、体操指導員(同)、家事裁縫指導員が設置された。以上の教科別指導員も小学校教科指導員(一九二二年)になったが、一九二九(昭和四)年までつづいた。指導員の設置は、小学校教科内容の改革、各地小学校でのさまざまな研究実践に対応するために生まれたものであった。 しかし、個性尊重、自主性尊重も国の国家主義的方針の強化とと1923年9月12日の詔書 元街小学校蔵 もに次第に変節していった。一九二三年に「国民精神作興ニ関スル詔書」が出され国家主義的傾向が強められていった。 一九二七年には文部省訓令の「児童生徒ノ個性尊重及職業指導ニ関スル件」で児童生徒の個性を調査し教育をほどこし、職業選択等の指導、国民精神を啓培することとし、個性尊重と職業選択とを結びつけ児童を進学と就職とに区別する傾向もあらわれてきた。これらは不景気と農村の疲弊に大きく関係するものであった。 横浜市の青木小学校校長も初等教育の問題点として、一 中等学校選択制度の改正、二 児童の個性尊重、三 職業指導、以上の三点をあげている(『横浜市教育史』上巻)。 二 国民道徳の養成と中等学校 中等学校制度の変化 一八九九(明治三十二)年、中学校令、高等女学校令、実業学校令が公布され、大正期はこの構成のもとで中等学校数が著しく増加の傾向を見せた。ことに第一次大戦後の産業の発達、国民生活の変化に即応して、義務教育を修了する学齢児童数が増加して、その後の学校教育を受ける基盤が形成されたことなどがその要因であった。 特に臨時教育会議答申に基づいて、一九一九(大正八)年二月に中学校令が改正され、中学校教育はエリート養成の内容を含むものとなった。 これは、中学校は男子に須要な高等普通教育を行うというほかに、「特ニ国民道徳ノ養成」につとめるべきであるとの条項が追加され、入学資格については年齢限を廃し、小学校卒業者のほか、「同等以上ノ学力アリト認メラレル者」とした。制度としては必要な場合中学校に修業年限二か年の予科を設置しうることとした。この予科は尋常小学校第四学年を修了した生徒を入学させるもので、予科修了者はただちに中学校一学年に入学しうる制度とした。三月、中学校令施行規則の改正では、中学校入学資格に関しては、尋常小学校第五学年の課程を修了し、学業優秀、かつ身体の発達が十分であり、中学校の課程の履習が可能であることを学校長が証明した者は受験することができるとした。これは中等学校への入学競争の激化を助長するものであった。 高等女学校については、中学校と同じく、高等普通教育を施す学校であったが、男子の中学校が五年の課程であったのに対して、高等女学校は四年が原則であり、神奈川県ではただ一校の県立高等女学校も本科四年、補習科一年であった。 臨時教育会議の答申に基づいて、一九二〇年七月高等女学校令の改正で、「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ目的トス」の規定に「特ニ国民道徳ノ養成ニ力メ婦徳ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」を追加し、中学校令と同じく修業年限は五年または四年とし、土地の状況によっては三年とすることができるとした。従来の四年を基本としたのを五年と改めたことになった。これにより神奈川県立高等女学校も、一九二一年三月学校規則を改定して、本科の修業年限を五年とした。 また、五年制の高等女学校規則を適用したのは、一九二〇年十二月設置認可された神奈川県立平塚高等女学校であった。これにより五年制は二校となった。入学資格についても、中学校と同じく、尋常小学校卒業者と「之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者」もつけ加えた。実科高等女学校は一九一〇(明治四十三)年の高等女学校令の改正によって生まれた学校で「高等女学校ニ於テハ主トシテ家政ニ関スル学科目ヲ修メムルトスル者ノ為ニ実科ヲ置キ又ハ実科ノミヲ置クコトヲ得、実科ノミヲ置ク高等女学校ノ名称ニハ実科ノ文字ヲ冠スヘシ」と定めたことによるものである。 実科高等女学校はいわば大正時代に誕生し、昭和年代に成長していった学校であった。 実業学校についての臨時教育会議の答申は第一項に「実業学校ニ関スル現在ノ制度ハ大体ニ於テ之ヲ改ムルヲ要セサルコト」と述べている。その他、国庫補助の増額、徳育の振興、行政機関の整備、学校に関する規定の緩和、職員待遇の改善、実業界との連係、実業補習教育の奨励などであった。 実業学校令の改正は一九二〇(大正九)年十一月に行われた。目的には徳性の涵養を追加したこと、設置主体として商業会議所・農会などの団体も認め、新しく「職業学校規程」が制定(一九二一年)されたことなどである。 実業学校に関しては、従来、実業学校の種別により、農業・商業・工業・商船学校の規程が定められており、さらに甲種、乙種に別れていた。甲種は年齢十四歳以上、高等小学校卒業を入学資格とし修業年限三年のもの、乙種は年齢十二歳以上で、尋常小学校卒業を入学資格として修業年限三年の学校であった。工業学校では乙種に当たるものは徒弟学校であった。一九二一年に実業学校の甲・乙の区別は制度上廃止された。尋常小学校卒業後ただちに中等学校への進学者数も多くなり、実業学校も四年ないし五年のものが多くなったことも原因であった。しかし甲種・乙種の通称はその後も使用された。一九二四年に、文部省は、専門学校入学資格について、実業学校卒業者を中学校・高等女学校卒業者と同等以上の学力をもつものと認め(中等学校等に相当する修業年限のもの)、実業学校も新しい情勢に対応することになっていった。 中等学校生徒の増加 明治末年から、大正・昭和にかけての、中学校・高等女学校・実科高等女学校の学校数を示すと次のようになる。 中学校については、明治末年までは県立中学校四校(第一~第四)、私立中学校一校(逗子開成中学校)であったが、一九一四(大正三)年五月、県立横浜中学校が横浜市青木町に設置された。そして、従来の県立中学校の第一から第四の名称はこのため、一九一三年二月二十二日に、県立第一中学校は県立第一横浜中学校、県立第二中学校は県立小田原中学校、県立第三中学校は県立厚木中学校、県立第四中学校は県立横須賀中学校と改称された。 第7表 中学校・高等女学校・実科高等女学校の学校数 1) ( )内は1910年を100とした指数,但し実科高等女学校は1915年を100とした 2) 『文部省年報』,『神奈川県統計書』から作成 第8表 中学校・高等女学校・実科高等女学校の生徒数 1) ( )は1910年を100とした指数,但し実科高等女学校は1914年を100とした 2) 『神奈川県統計書』,『学制80年史』から作成 中学校設置の運動は各地で活発になった。県立湘南中学校が一九二〇年八月に設置され、翌年四月に開校したのはその成果であった。 校舎も落成し、その祝賀式典が一九二五年十二月五日に行われた際には、赤木校長はじめ池上県会議長、佐藤高座郡長、金子藤沢町長、高座郡町村長が列席し盛大に挙行された。 一九二五年には、中学校、高等女学校、実科高等女学校数が著しく増加したことが判明する。 学校数の増加とともに生徒数の増加も著しかった。第八表で明らかなように、一九一〇年度には、中学校生徒数は千八百二十二人であったのが、一九二〇年度には三千六百五十三人となり約二倍、一九二六年度には七千三百十三人で約四倍、一九三〇年度には約五倍となった。高等女学校の生徒数は、一九一〇年度は九百八十八人であったものが、一九一九年度には約二倍の千九百九十六人、一九三〇年度には七千八百十六人となり約八倍にもなっている。 実科高等女学校生徒数は、一九一四年に、愛甲郡立実科高等女学校が愛甲郡厚木町に設置され、この年に百四十二名であった。大正年代に一時減少をしたが、一九二六年度では千二百四十六人となり約九倍近くになっている。そして、一九三〇年度においては千九百四十二人となり約十四倍にもなった。中学校、高等女学校よりもその伸び率が顕著であった。 以上のように、本県の中学校、高等女学校、実科高等女学校の生徒数の増加は著しいものがあった。全国の増加率より上回り(高等女学校のみ一九二五年度は下位)、ことに、昭和期に入っては、全国の増加率がそれほどでもないのに、本県の場合は年を追って増加をつづけていたことがわかる。 実業学校について、大正初年においては、神奈川県立農業学校(中郡平塚町)、神奈川県立工業学校(横浜市神奈川町)、横浜市本町外十三箇町立横浜商業学校(横浜市南太田町)、津久井郡立蚕業学校(津久井郡三ケ木村)、足柄上郡立農林学校(足柄上郡酒第9表 実業学校数 『文部省年報』,『神奈川県統計書』から作成 第10表 実業学校生徒数 『文部省年報』,『神奈川県統計書』から作成 第11表 実業学校(甲種)の学校種別の生徒数の比較 1) 「二種以上併置」「その他」を除く,1945年度は甲種扱い 2) 『神奈川県教育史』通史編下巻から作成 田村)、愛甲郡立実業学校(愛甲郡及川村)、愛甲郡立実業女学校(同上)、高座郡溝村外二か村組合立鳩川農業学校(高座郡溝村)などがあった。大正年代以降の実業学校数等を示すと第九表から第十一表のとおりになる。 この表によると、学校数については、大正期の増加は必ずしも多くなかったが、昭和に入って増加し、一九三〇年度には十六校、一九三五年度には二十七校、一九四〇年度には三十五校と増加した。 入試競争 大正中期以降、中学校、高等女学校数も増加したが、入学志願者の要求に応ずることができず、特に都市における入学試験競争は激しく、このため小学校における中等学校入試のための準備教育がさかんとなり、その弊害が指摘されていた。 県会でも取り上げられ、そこでは、中学校設立の問題(横浜の第三中学校)、既設の中学校に講堂のない中学校もあり、講堂を先にすべきではないかとの議論の中で行われた。 当局では「殊ニ横浜市ニ於テハ第一第二ノ志望者ハ千十七人、サウシテ之ニ入学許可ヲ得ル者ハ三百九人、約三割シカ入学ガ出来ナイ」ため、さらに一つの中学校を建設して、入学者を多少とも増加したいと中学校建設案を出した。郡部の講堂のない学校はどうするのかとの問題も出されたが、結局、第三中学校建設費が可決された(一九二三年一月設置認可)。そして、少しでも入学試験の競争を緩和しようとした。 横須賀市域の場合でも高等女学校設立当時は入学志願者が少なく勧誘する程であったが、大正中期以降入学志願者が激増し、入学難の状況となった。入学試験の程度も高くなり、小学校では一人でも多く入学者を出すために入試準備教育をはじめた。小学校五年のころより入学試験準備教育がはじまり、六年になれば電灯を設けて夜に入るまで準備教育を行った。 一九二七(昭和二)年十一月に文部省は中学校令施行規則を改正し、中等学校への入学者選抜方法として、従来の学科試験を廃止し、文部次官通牒で、中学校入学者選抜方法に関する基準を示した。これによれば、小学校長の報告書、人物考査、身体検査による入学者の選抜を行うもので、人物考査は口頭試験の方法を用いるようにした。 本県でも、これを受けて知事池田宏は十二月二十七日神奈川県訓令を出した。「従来中等学校入学志願者ニ対シテ小学校ニ於テ正課時間外ニ教授ヲ為シ又ハ特別学級ヲ編制シテ特別教授ヲ施シ若クハ私宅教授ノ嘱ニ応スル等ノ者アルヤノ聞アル」このようなことのないように部下職員を統督し遺憾なきようにと市長・公私立小学校長あてに訓令を出した。 県学務部長は同日、公私立中等学校長、公私立小学校長に、「県下中等学校入学者選抜方法ニ関スル件」の通牒を出し、具体的方法を示した。それによれば、入学者の検定は第一次は小学校長提出の調査書により、第二次は人物考査と身体検査によることとした。また調査書の様式などを定めた。 第12表 中学校第1学年入学志願者数と入学者数の状況 『神奈川県教育史』通史編下巻から 第二次検定の人物考査については「尋常小学校教科ヲ基礎トセル常識ヲ口頭試問ニ依リ考査シ兼ネテ素質性行等ニツキ調査ス」とした。筆答試験は廃止されたが、口頭試問で学科の試問をすることが残された。 一九二七年度と一九三〇年度における中学校第一学年入学志願者数と入学者数の状況を示すと第十二表のようになる。 師範学校第二部の増置 一九〇七(明治四十)年に制定された「師範学校規程」は、従来の師範学校に関する諸規程を総括して整理したものであった。同時に義務教育年限の延長にともない教員養成の整備をはかったものである。 師範学校には本科と予備科を置き、本科を第一部・第二部とした。修業年限は本科第一部は四か年、本科第二部は男生徒一か年、女生徒は二か年または一か年とした。予備科は修業年限二か年の高等小学校卒業者を、本科第一部は予備科修了者または修業年限三か年の高等小学校卒業者を入学させることとした。本科第二部は中等学校卒業者を入学させるものであった。師範学校と中等学校を連絡させる教員養成史上大きな改革となった。文部省は本科第二部の設置について訓令を発し、従来の短期の講習科では十分でないので、一定の課程の下に第二部を設け正教員養成の途を開くことにしたと述べている。師範学校規程の公布は一九四三(昭和十八)年まで、師範教育の体制を維持することになる。 同規程で、教員養成について「忠君愛国ノ志気ニ富ムハ教員タル者ニ在リテハ殊ニ重要トス」として生徒をして平素忠孝の大義を明らかにして志操を振起せしめること、「精神ヲ鍛錬シ徳操ヲ磨励スル」こと「規律ヲ守リ秩序ヲ保チ師表タルヘキ威儀ヲ具フルコト」などを教養させることを特に注意した。 神奈川県師範学校においても、新しい神奈川県師範学校学則が一九〇八(明治四十一)年四月から実施され、本科第二部が新設された。一か年で卒業する二部生と一部四年生との間で、敬礼をどちらが先にすべきかといった問題も真剣に討論されたようである。一九〇九年九月に内堀維文が校長に就任し、内堀校長の在任中(一九一三年まで)に、体育、ことに「撃剣及柔道」が体操科目中に加えられ、「敬礼法」が定められ、各種競技の対抗試合がさかんに行われるようになったといわれている。 一九一三(大正二)年三月十七・十八日の夜、学校の化学室・理化学室から火が出て、嫌疑をかけられた書記が割腹自殺する事件、四月二十九日にも出火、五月一日にも出火、後の二回の出火は生徒の放火事件で、四年生二名が自白した。原因について職員間の軋轢があったとうわさもされた。師範学校に問題をかかえる時代となった。 師範学校生徒の生活は、個人についての学業成績から学資の状況、読物の状況等まで学級主任を中心に調査され、その指導結果を職員会議にまで報告されるという指導体制がある一方、生徒の要望で雑誌部が作られ文学運動に関心を持つものも出てきた。河上肇の『貧乏物語』、福田徳三の『国民経済講話』なども一部の生徒に熱心に読まれ、物価高、米騒動といった社会問題も作文の時間にとりあげられることもあった。 女子師範の移転 神奈川県女子師範は一九〇七(明治四十)年一月に、県立高等女学校に併置された。初代校長に新原俊秀が就任した。高等女学校長との併任であった。 神奈川県女子師範学校に本科第二部が設置されたのは一九二二(大正十一)年六月からである。修業年限一年、定員四十名であった。 女子師範学校は県立高等女学校との併置や関東大震災に同校の破壊等によって不便をきたしていたが、一九二四年の春の県議会で、高等女学校と分離することを決定した。分離先を県当局は三つの移転先候補地から横浜市根岸町立野の附近としていたが、その土地の寄附がままならぬ状態になっていた。 一方では一九二四年の二月二十八日に保土ケ谷町長から、保土ケ谷町神戸の敷地を寄附するという申し出があったのに県は無視していた。県会議員飯田助夫ほか三名はこの問題をとりあげて、横浜市では根岸の土地を買収することができる、寄附することができるといっているが、それがかなわない状態であるから保土ケ谷町神戸にすべきだという主旨の意見書を県会に出した。この意見書は一九二四年十二月八日、内務大臣若槻礼次郎あて提出することが可決された。市部議員と郡部議員との対立の様子をうきぼりにしていた。清野知事は県の知事なのか、横浜市の知事であるのか激しく非難された。しかし、ようやく根岸の土地も寄附行為により県に移管され、女子師範学校校舎の着工は一九二五年十二月二十三日となった。そして一九二七(昭和二)年九月に新校舎が完成した。移転先を決めてから実に四年近い歳月がたっていた。 女子師範学校は一九二五年の師範学校規程の改正により、本科第一部の修業年限は五年に延長され、修業年限一年の専攻科を設けることが定められた。本科第二部は従来通りであった。 第13表 神奈川県師範学校生徒数 『神奈川県教育史』通史編下巻,『神奈川県統計書』から作成 師範学校の生徒数は第十三表のようであった。 三 社会教育と青年団 社会教育 一九一一(明治四十四)年五月文部省に「通俗教育調査委員会」が設置され、通俗教育(社会教育)に関する事項を調査審議することとなった。この委員会は文部大臣の監督に属し、通俗教育に関する講演あるいは材料の収集、製作、通俗教育全般に関する検討がなされた。 調査委員会は読物の編集、通俗図書館、巡回文庫等の事項を担当した第一部、幻灯映画、活動写真に関する事項を担当した第二部、講演会に関する事項を担当した第三部からなっていた。 調査委員会は通俗図書審査規程および幻灯映画ならびに活動写真のフィルム審査規程を定めて、通俗教育に関する行政を行うようになった。一九一三(大正二)年六月通俗教育調査委員会は廃止されたが、前述の規程を設けたことによって、書籍および娯楽施設に関する指示を与えた。通俗教育の主眼は「国民道徳ヲ涵養シ健全ナル思想常識ヲ養成スル」ことにあるとされ、地方教育会、青年団、師範学校などを利用して、目的を達成させる方針であった。 一九一四年八月に、県内務部長は郡市長あてに、教育会等に通俗教育会開設のときは補助金を交付するから経費等予算を相談して申請するよう通牒した。 第一次世界大戦の勃発とともに、それまでの神奈川県教育会主催の通俗教育講演会の演題であった「世渡りの心得」(増田義一)、「赤穂義士に就て」(福本日南)、「講談明治の楠公」(天野雉彦)、「処世に必要なる勇気」(石井勇)などが、「欧洲戦争に関する講話」(長野歩兵中佐)、「富国に関する講演」(佐々木吉三郎)、「皇国精神」(筧古彦)などの演題でも講演された。 神奈川県教育会は『神奈川県通俗教育講演集』を一九一六年十月に発行し、通俗教育に力を注いだ。特に有吉知事は巻頭で、本県は外来からの人が多くなって、結核療養者の保養地と利用されている。その結果、結核による死亡率が高くなったこと、小田原、国府津などに都会風俗が持ち込まれ、「白昼公然と醜態を現はしている風俗」現象が生じていることを指摘し、通俗教育によって、これらを改善すべきだとしている。 このように、本県では教育会が中心となって通俗教育がおしすすめられた。 青年団の全県連合 明治の末から大正期にかけて、文部省・内務省によって青年団の振興政策がとられた。指導方針として、青年団体は青年修養の機関ととらえ「団体員ヲシテ忠孝ノ本義ヲ体シ品性ノ向上ヲ図リ体力ヲ増進シ実際生活ニ適切ナル智能ヲ研キ剛健勤勉克ク国家ノ進運ヲ扶持スルノ精神ト素養トヲ養成セシムル」ことを目的とした。従来地域に自然発生的な機関であった青年団を国家的な教育組織の中に組み込んでいった。 このような背景には、青年団(会)の中には本県などにすでに、「政治運動ニ干与」したり「町村政ニ容喙スル等」「常軌ヲ免スルノ行動」をするものがあったりして、「政治運動等ニ熱中スルカ如キハ然ルベカラサル義ニ付」として、青年団体の政治運動にかかわることをいましめる風潮があった。 本県においては、明治三十年代に村単位に青年会、青年連と呼ばれるものが、各地に存在していた。文部省・内務省訓令(大正四年九月十五日)を受けて、一九一七(大正六)年二月九日、青年団指導のために、「青年団指導委員規程」を制定した。特に、有吉知事は青年団に訓令を発し「団体的修練ニ依リ克ク国家ノ進運ニ伴ヒ皇運ヲ扶翼スル精神ヲ体得シ健全ナル国民善良ナル公民タルノ素質ヲ得テ益々国家富強ノ基礎ヲ鞏固タラシメンニハ亦大ニ先輩練達ノ士ノ指導」に負うことが多いので、青年団指導委員を設置したと述べた。そして、五月二十二日には「青年団規約標準」を定めて、郡市長あて通牒した。この規約第一条に「本団ハ教育ニ関スル勅語並ニ戊申詔書ノ聖旨ヲ奉体シ団体的修練ニ依リ団員ヲシテ智徳ヲ涵養シ身体ヲ鍛錬シ以テ健全ナル国民善良ナル公民タラシムルヲ目的トス」とある。特別の事情のないかぎり、これに準拠すべきであると指示している。これによって、市町村青年団としての男子青年団の統一を意図した。 本県ではさらに一九二二(大正十一)年、郡市連合青年団が合同して、神奈川県青年団連合会が創設された。 男子の青年団に対して、女子の団体は処女会としてスタートした。鎌倉郡では各小学校を通じて、処女会設置に関し通牒を発し、一九一八年十一月八日の郡長通牒によると「将来良妻賢母トシテ健全ナル家庭ヲ組織シ国家ノ発展ニ資スヘキ」として、学校教育の効果を補習、時勢に適応する素質を具備するために処女会の設置を奨励した。同時に「処女会設置標準」を示した。これによれば「女子ニ必要ナル知識及技能ヲ授ケ婦徳ヲ涵養シ倹素、勤労ノ風ヲ奨メ貞淑温良ニシテ健全ナル主婦ヲ養成スル」ことを目的とした。義務教育修了者、未婚の女子で組織し、町村、あるいは部落単位、小学校通学区域を単位として組織し、指導者には、小学校長、女教員、篤志婦人、町村長大井青年会館 津久井郡郷土資料館蔵 などがなった。 処女会の設置奨励は他郡でも行われた。一九二一年には団体四十五、会員数六千人弱であった。 本県では各郡市に連合女子青年会が設けられるようになり、一九二七年七月、横浜市を除く、二市十一郡の女子青年会が連合して、神奈川県連合女子青年会が組織された。 横浜市では、一九三二年十一月に横浜市女子青年連合会を設立し、県連合青年会に加盟した。 このような青年団体は、青年の補習教育機関として設置されていた実業補習学校と「連繋シ」て、補習教育の実績をあげた。 実業補習学校は修業年限、授業季節、学科課程等は土地の情況により適宜斟酌することができるので、勤労青少年、青年団体との結びつきをつよめていった。 青年訓練所と軍事教育 一九二六(大正十五)年六月から七月にかけて県下で一斉に設置された青年訓練所も青年団と密接に連絡して作られたものであった。青年訓練所は一九二六年四月、「青年訓練所令」(勅令)が制定されこれに基づくものであった。「青年訓練所令」によれば「青年ノ心身ヲ鍛練シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ以テ目的トス」と定められ、1916年高座郡大沢村青年会報 久保田昌孝氏蔵 十六歳から二十歳までの男子を四年間軍事訓練を主として行う機関であった。 本県では同年六月四日に「青年訓練所細則」を定め、また六月八日に堀切知事は青年訓練所の趣旨と実業補習学校等との関係について訓令を出した。この中で青年団との関係について、「訓練ヲ受クル者ノ多数ハ青年団員タルヘキ年齢ニ在ルヲ以テ本施設ハ之ヲ青年団ノ修養機関トシテ相互ノ連絡ヲ保チ訓練ヲ受クル者ハ成ルヘク之ヲ青年団体タラシメ」ると青年団との密接なることを強調した。青年訓練所は小学校、実業補習学校等に設置された。学校数・生徒教・教員数は第十四表のようなものであった。 訓練項目は修身及公民、教練、普通学科(国語、数学、歴史、地理、理科等)、職業科で、特に教練については教材配当、進度標準を定め、「各個教練」「部隊教練」「陣中勤務」(野外訓練)「距離測量」「旗信号」「軍事講話」を定めた。 訓練終了者には在営年限(陸軍兵役)の半年短縮が認められた。 一九二六年十二月には学務部長から、入所、出席についての奨励がされ、一九二七年四月には学務部長の通牒では教練三百時間、その他の訓練項目三百時間を標準として、出席の優良か神奈川県青年団連合会『武相の若草』創刊号(1924年9月) 津久井郡郷土資料館蔵 否か調査されることになった。青年訓練手帳に出席時間数を記入証明の上徴兵検査の際、持参させること等を指示した。 青年訓練所について軍は、一九二八年三月七日に県学務部長名で各青年訓練所主事あてに次のような通知を出している。一 青年訓練所修了証を持っていない者でも、修了証を交付しても差し支えないと判断できる者もある。この点訓練所主事に修了証を交付しない理由を報告してもらいたい、二 修了証・証明書は正規のものであること、三 訓練手帳記入を明確にすること等である。この通知により軍幹部の青年訓練所に対する期待がうかがわれる。 一九三五(昭和十)年四月、「青年学校令」により、青年訓練所は青年学校となっていった。 第14表 青年訓練所学校数・生徒数・教員数 『神奈川県統計書』から作成 第四節 本格化する労働運動 一 戦後恐慌前後の労働運動 激増した労働争議 一九一七(大正六)年は、ストライキが急増し、労働運動の新たな高揚の到来を示した年であったといわれる。全国的にみると、一九〇六、七年の大工場・大鉱山のストライキ、暴動のあとは、比較的低い水準でストライキ件数は推移してきたが、一九一五年が六十四件、一九一六年は百八件と上昇傾向をみせ、一九一七年には、一挙に三百九十八件、参加人員五万七千三百九人に飛躍したのである。この飛躍の原因は、一つには物価の上昇にあり、もう一つには、第一次大戦を契機とする日本資本主義の急成長にともなう労働力需要の急増にあった。労働者は、物価の暴騰による実質賃金減少をとりかえし、賃金上昇を実現しようと労働市場条件の優利さを背景に賃金増加を要求する攻勢的争議を展開したのである。その主力になったのは、造船業・機械製造業といった重工業の労働者であり、これらの産業では労働者数の増加率が他産業に比べてより高かったことに、攻勢的争議の中心部隊となったことの根拠をみいだすことができる(二村一夫「労働者階級の状態と労働運動」『岩波講座日本歴史』18)。 それでは、神奈川県下での争議件数のうごきはどのような特徴を示しているのであろうか。ストライキにまでいたらなかった争議をも含め、業種別に争議件数を分類した第十五表から、次のことをみてとることができる。まず第一に、神奈川県においても、一九一七年から一九年にかけて、重化学工業部門での争議件数が急増していくことである。それらの代表的なものは、一九一七年の平塚アームストロング会社職工七百余名のスト、浅野造船所六千名の暴動、横浜船渠八百名のスト、一九一八年では、浦賀船渠五千名のスト、日本鋼管七百余名スト、一九一九年の横浜船渠三千名スト、内田造船所千三百余名ストなどであり、大経営での短期間の大規模争議が特徴をなす。これらの点は全国的傾向と軌を一にしていたといえよう。しかしながら第二の点として指摘できることは、重化学工業以外の業種では一九一八年までは争議の急増はみられず、一九一九年にいたって、運輸・交通業をはじめとして、重化学工業以外の近代的産業部門でも、仲仕や人夫といった単純不熟練労働者のあいだでも、あるいは職人的性格をもった職種でも、争議が急増することである。あらゆる業種・職種の労働者の争議が急増するという点からみて、県下の労働争議の飛躍は一九一九年とみたほうがよいと思われる。 労働団体の結成へ この一九一九(大正八)年の飛躍は、一九一七年以来の争議増加をもたらした一般的条件にくわえて、ILO労働代表問題の紛糾がまきおこした刺激によっておこったと考えられる。すでに述べたように、ヴェルサイユ講和第15表 神奈川県下労働争議件数 青木虹二『日本労働運動史年表』第1巻に旧協調会資料から作成のカードで補足作成 会議で講和条約第十三篇、国際労働規約とよばれるものが作成され、ILO(国際労働機関)の設置がきまったことで、一九一九年はじめから労働問題は、世論において関心の焦点の一つになった。第一回のILO総会は十月末からワシントンで開催されることになったが、そこに派遣される労働者代表委員の選出にあたって、政府は労働団体から選出しようとせず、各事業所ごとに委員を選び、さらに府県単位に労働代表選定協議員を選出する方法をとったのである。労働組合代表を無視しようとするこの選出方法に対し、友愛会や信友会などの労働団体は反対運動を展開する。さらにこの方式で、結局労働代表は桝本卯平に決定したが、この桝本代表派遣に反対する運動が猛烈に行われた。桝本代表は、ワシントンにむかって十月、横浜から伏見丸に乗船する予定になっていた。友愛会などの労働団体は、横浜を舞台に葬式デモをくりひろげ、桝本官選代表派遣反対の運動を行った。 ILO労働代表選出方法をめぐる紛糾、桝本代表反対の抗議運動がくりひろげられ、それが大々的に報道されたことは、労働者の権利意識の発展に大きな刺激になったと思われる。この年の十月以降におこった、横浜電気工業、横浜船渠、日本鋼管、相模紡績、浅野造船所、禅馬鉄工所などの争議では、国際労働規約において定められた八時間労働制の実施の要求が提出されている。それは、ILO問題が労働者の間にも浸透したことを示すものであった。 ILO労働代表選出問題がきっかけとなって、一九一九年、とくにその後半は、多数の労働団体が組織され、この年設立された労働団体の総数は、全国で二百以上にのぼったといわれる。一九一九年は全国的にみれば、労働団体組織化の飛躍の年であった。神奈川県下においても、この年、欧文印刷工によって横浜欧文技術工組合が、新聞配達人による横浜ニュース労働団が組織されている。また、横浜に本拠をおく海員団体が、この年に四団体、翌一九二〇年に六団体が組織された。こうした労働者が自分たちの組織を形成しようとする動きは、一九二〇年二月の戦後恐慌の勃発後もおとろえなかった。恐慌とその後の不況によって失業問題が大きくなり、労働市場の条件は労働者に不利となるなかで、争議件数そのものは減少した。しかし、賃金の引下げに反対し、解雇手当の制度化などによって、労働条件をまもろうとする労働者の運動は真剣味をました。そこに争議と労働団体が密接な関連をもつようになり、労働組合としての組織的な定着が進行することになる。戦後恐慌勃発以後に、神奈川県下で発足した労働団体として、横浜仲仕共済会、横浜仲仕同盟会、横浜造船工組合、鶴見鉄工組合などがみられ、また、横浜を中心としていた総同盟友愛会海員部は、一九二一年に他の海員団体と合同して、日本海員組合を結成するにいたる。以下、沖仲仕、造船工、海員という、県下の労働者を特徴づける職種の労働者の運動と組織の展開をみることによって、労働組合の定着のありようを考えてみよう。 仲仕共済会と仲仕同盟会 横浜港で荷役などの労働に従事していた沖仲仕は、すでに、一九一九(大正八)年に賃金の増給運動を行って成果をえた経験をもっていたが、一九二〇年三月には、賃金値上げ、待遇改善を要求してストライキを実行した。荷役などの作業は、運送業者や貨物の所有者が行うのではなく必ず人夫請負業者の手をへて行う慣例になっており、沖仲仕はこの人夫請負業者に雇用されていた。人夫請負業者の同業組合である横浜港人夫請負組合を相手に、沖仲仕は二十七日から二十九日までストライキを行い、さらに三十日から四月五日まではサボタージュを継続して要求の実現をせまった。争議は仲裁がはいり、賃金引上げが実行されることでひとまず終了したが、沖仲仕たちは横浜港労働組合を創立、死傷や疾病に対する救済、永年勤続者優遇、時間外賃金支給、特別作業手当制定などの要求を提出し、四月十三日には、人夫請負組合から九か条からなる救護方法、四か条からなる賃金率方法を発表させた(『神奈川県労働運動史(戦前篇)』)。こうして、一九二〇年の横浜港沖仲仕の大争議は、その労働条件を明文化させ、また沖仲仕の組織を結成するまでにいたったのであるが、仲仕の組織化そのものはその後複雑な経過をたどることとなる。 沖仲仕は、人夫供給業者の人夫部屋に属しいわば「定雇」されている甲種人夫と、人夫供給業者に作業によって臨時に雇われる乙種人夫にわかれていた。また、仲仕は、世話役、小頭、平方の三つのランクにもわけられていた。世話役は人夫部屋では部屋を取り締まり、作業では指揮監督にあたって仕事の配置、割当てを決定した。小頭は、一般仲仕である平方の七、八人からなる作業班の班長である。横浜港労働組合の一部幹部と世話役らは甲種人夫のみをあつめ、横浜港仲仕共済会を発足させた。仲仕共済会は、「会員相互ノ救済法ヲ講究シ各自ノ幸福ヲ増進スルヲ目的」とし、負傷・疾病への共済を主な活動とする団体であるとともに、世話役-小頭-一般仲仕という労務管理の機構を組織の原理に組み入れた、会社組合的な団体であった。会の理事は、人夫請負業者直属人夫ごとに二名以上を選ぶことになっていたが、「世話役級ヨリ一名以上其他ヨリ一名以上ヲ選出」するとされ、「評議員ハ各部屋ニ於テハ部屋頭、団体ニ於テハ有力者一名ヲ選出」すると会則に定められていた。また創立委員二十名のなかに世話役総代が十三名をしめていた。こうして仲仕共済会は、傷病者への共済活動を中心とし、医療の便宜をはかったり、購買部を設置したりして、千五百名余の会員を組織していく。それは、親睦・共済団体的組織に他ならず、また発足当初は御用組合的団体であったが、一九二〇年代なかばからは、他の労働組合との共同行動や争議支援にも参加するようになってゆくのである(資料編13近代・現代⑶一一六・一一七・二一九)。 一方、仲仕共済会から排除された乙種人夫らは、横浜仲仕同盟会を結成した。この仲仕同盟会の結成を援助し指導したのは、国家主義的政治団体である立憲労働党であった。山口正憲を総理とする立憲労働党は、一九一九年十一月に横浜支部を創立し、その綱領で、「皇室を敬戴し国家を愛護すべし」と国家主義的立場をうたい労資の協調をとく一方で、民権擁護、社会改良、「団結を確保し地位を改善せしむ」と主張していた。それは、国家主義的立場を基本にしながら第一次大戦後の「改造」の動向に対応した政治団体であった。仲仕同盟会は、会則の第八条で、「本会ハ全国仲仕総同盟ヲ組織シ又立憲労働党ニ団体的加盟シテ目的ノ貫徹ヲ期ス」と規定し、山口正憲を顧問として、五月一日に発足したのである。興味ぶかいことは、この発会式のあと横浜公園まで示威運動を行い、そこで「労働祭」を挙行している点である。その労働祭の宣言では、労働者の解放は「万国共通の労働運動」であることがうたわれ、八時間労働、日曜日公休、治安警察法第一七条撤廃が決議された。こうして、国家主義的団体に指導されていた仲仕同盟会が、日本で最初に五月一日に実施されたメーデーの実行団体となったのである。 仲仕同盟会は、その後、前述のように普選運動を推進する一方、一九二三年まで毎年、横浜におけるメーデーの開催団体になっていく。また、横浜港に沖仲仕休憩所を設置する運動を結成直後から展開していった。その組織人員は発足当初に三百五十名ほどで、その後も量的にはほとんど増大しなかったが、一九二〇年代前半の横浜の労働運動において、特色があり注目される運動をくりひろげていったのである(同前一一三~一一五・一一八~一二〇)。 横浜造船工組合の結成 一九二一(大正十)年は、県下で造船工による争議があいついだ年であった。この年は、戦前における最大規模の争議であった神戸の三菱・川崎両造船所の争議をはじめ全国で重工業労働者による大規模争議が闘われた。戦後恐慌によって失業者が続出する状況にくわえ、海軍軍縮によって失業がさらにひろがる危険に直面していた重工業労働者は、有利な労働条件をかちとるべく全力で反撃したのである。県下では、六月に内田造船所で、九月に横浜船渠・横浜工作所・浅野造船所で、十月には浦賀船渠でと造船工の争議が連続し、翌年二月の横浜船渠争議にまでつながってゆく。この運動の中核となったのは、横浜船渠の労働者を中心として組織された横浜造船工組合であった。 横浜造船工組合は、もともとは内田造船所の労働者によって組織されたものであった。内田造船所は、船成金として有名な内田信也を社長とし、第一次大戦下の造船好況の時期には好景気をほこっていたが、戦後の海運不況の影響をもろにうけ、この年六月大阪鉄工所に売却されて、造船所は閉鎖することになり、全労働者が解雇されることとなった。これに対し、労働者たちは、解雇手当として六か月分の給与支給など五項目の要求を申し入れた。造船部の労働者は解雇手当の増額などの要求を貫徹するべく、友愛会本部を訪れ、鈴木文治に交渉を依頼し、造船部労働者六百名は友愛会に加入し横浜造船工組合を組織することとなり、六月二十一日には発会式をかねた講演会がひらかれる。この争議は、結局帰郷旅費の名目で新たに総額三万七千円が支給されることになって三十日に終結した(資料編13近代・現代⑶九七)。 内田造船所の争議が、このようにして解雇手当の実質的増額を獲得しておわると、横浜船渠の労働者が次つぎと入会し、横浜造船工組合の中心は横浜船渠に移った。造船不況の中で横浜船渠でも四月に千四百八十二名、五月に百二十一名の解雇が実施されていた。業務整理のために職長や職工の一部が解雇されるとのうわさが流れ、自分たちの地位を守るには友愛会に加盟し、総同盟を背景とする組合を組織する以外にはないという気運が盛り上がっていたのである。八月三十一日には、横浜開港記念館に三百名の参加者をあつめて、横浜造船工組合の発会式がもたれた。こうして総同盟友愛会は、ふたたび横浜の重工業労働者のなかに拠点を回復した。 ところが、組合結成はただちに争議につながっていった。欠勤などを理由に造船工組合幹事長・幹事となっていた労働者が解雇されたのである。造船工組合は、この二名の復職、日給二割増、解雇手当を勤続三か月以上六か月未満の者に日給四十日分、勤続一か月増すごとに日給二日分加算などの要求を提出し、さらに造船工組合の会計が解雇されるにおよんで、九月二十七日からストライキにはいった。争議は十月三日にいたって、平均一割以上の増給、解雇手当は前回支給の倍額などの会社側回答がだされて労働者の一応の勝利となった。争議が造船工組合員のみでなく横浜船渠の労働者全体が参加する大争議となったからである。争議団への運動資金の拠出者は四千六百五十名に達し、労働者総数の九〇㌫をこえ、争議団本部へは連日二千五百名の労働者が出動してきた。職長たちも争議団に参加するか、あるいは好意的態度をとった。伍長級の役付職工などは多数争議団に加盟を申し込み、上級職長である組長は、工場委員会制度設定・臨時増給・解雇手当の増額などを要望する嘆願書を作成して、争議団への好意的態度を示していた。こうして九月争議は、労働者の経済要求に関しては大きな成果を獲得し、それは浅野造船所、浦賀船渠の争議へと波及していった。しかしながら、組合員解雇の問題は争議解決条件の中では取り上げられないままとなって、組合加入の自由の保証についてはあいまいなままとなり、また造船工組合の加入者も、ほぼ全労働者の参加する争議を指導し勝利を獲得したにもかかわらず、わずかに増加したにとどまって全工場に基盤をもつにはいたらなかったのである。 一九二二年の横浜船渠争議 こうした状況に対応して、争議後、新しい形をとった造船工組合抑圧策が展開されることとなる。まず十一月、海軍の特務艦が進水すると「冗員」が生じたとして二百六十六名の解雇が行われた。解雇者の大部分は造船工組合員であり、組合の活動に打撃を与えることを目的とするものであったと考えられる。しかし、争議で獲得した解雇手当の支給をともなう解雇であったため、この措置に反対する運動を組織することはきわめて困難であった。造船工組合は解雇手当の増額をかかげて運動を組織しようとしたが、労働者を結集することはできず、「涙金」をえただけで運動は終わってしまい、大きな打撃をうけたのである。これにくわえ、造船工組合に対抗する「御用組合」の組織化が進行した。一九二一(大正十)年末には、各部主任に「御用団体」の組織が命じられ、会社の援助によってその拡大がはかられて、一九二二年一月には、造機部における「御用団体」の統一によって千七百名の造機部技工組合連合会がうまれた。技工連合会は、労働運動の「過激」化をうれい「社内恒久ノ平和ヲ確立セント欲スル」との基本的立場をうたって企業内協調主義にたつことを表明し、技師を名誉会長としており、その点では「御用組合」と呼ばれるような性格をもっていた。しかし、その特徴はなによりも組織のされ方にあった。技工連合会は「横浜船渠会社造機部各工場既成会ヲ以テ組織ス」とされていたように、造機部の各工場を単位として結成された職工団体の連合体であり、その職工団体は基本的には親睦団体的性格をもち、造機部の職工全員を網羅する全員加盟制的な職場組織であった。この職場組織は職長をはじめとする職場の有力労働者を中心としてつくられたのである。こうした親睦団体的な職場組織を基礎として協調主義的労働団体がつくられ、それが組織勢力では造船工組合を圧倒するにいたったのである。 しかし、一九二二年二月、ワシントン会議で軍縮条約が調印されたことは、造船業労働者の失業不安を一層深刻なものにした。造船工組合は軍縮による失業問題を取り上げ、技工連合会と提携して運動を行う方針をたてた。技工連合会では、この提携への反対論も多かったが結局提携と結論した。両者は横浜船渠職工同盟会を組織し、二月二十一日、失業対策同盟大会をひらいて運動を開始した。失業不安が高まり要求運動にのりださざるをえない事情と、組織内に造船工組合員もかかえ、造船工組合に、好意的態度をとる部分が存在していた条件が、技工連合会を共闘へふみきらせることになったと思われる。同盟会は、軍縮その他会社の都合による解雇には全国民間同業者の最大限度の手当を支給、第一・第三日曜をのぞく毎日定時間就業の保証などを要求し、横浜船渠は、軍縮による解雇には関東同業者に劣らない手当を支給、本年中は解雇せず、定時間就業も保障との回答を出した。ここで解雇手当を「全国同業者」なみとするか、「関東同業者」なみとするかを中心争点として争議がはじまり、二月二十七日から三月十三日にいたる二週間をこえる大ストライキが行われることになった。 造船工組合側は、この争議を軍縮失業をめぐる闘争として関東地方の造船職工全体に波及させることを意図し、総同盟関東同盟会が全力で支援した。一方、横浜船渠も争議団幹部の解雇を打ち出し一歩もひかぬ強硬な態度で対応した。こうして争議は、労資双方から軍縮失業をめぐる決戦のような性格をあたえられ、長期で激烈なものになった。ストライキに対し会社側はロックアウトで応じ、争議団側が演説会デモを行うのに対し、警察による弾圧もはげしく多数の検束者がでた。争議の長期化、警察の弾圧は争議団の「硬派」「軟派」の対立を拡大することになる。職長らは争議団切り崩しに動くようになり、組長ら百五十六名は部下の職工を引率して入場するとの声明を発表する。技工連合会も組長らの動きに引きずられながら妥協と闘争の収拾の方向へ進みつつあった。三月十三日、工場再開にあたっては、造船部の「軟派」職工四百名が入場し、つづいて造機部の電工会も五百名が入場、憤慨した「硬派」職工が乱入して乱闘がくりひろげられた。しかし、最初に入場した造船部の「軟派」職工をめぐって、技工連合会は造船工組合の裏切りと主張して両組合は対立し、十三日夜「休戦を宣言」、争議は惨敗に終わったのである。 戦闘的・急進主義的な活動方針にたつ造船工組合は、職場組織に結集した多くの労働者を引きつけ大闘争を行うことで、一九二一年から二二年にかけて神奈川県下の造船業労働者の運動の中心として働いた。この時期の横浜工作所・浅野造船所・浦賀船渠の争議は、造船工組合の運動に影響されたものであったといってよい。しかし、この争議の敗北により、造船工組合そのものは、一握りの弱小組織へ衰退し、やがて消滅するのである。 海員組合の結成 一九二〇年までに県下の友愛会支部が次つぎと消滅していったのに対し、横浜に事務所をかまえる友愛会海員部のみは組織を維持し、海員団体中の最大勢力としての地位を保ちつづけていた。一九二〇年六月にイタリアのゼノアでひらかれることになった第二回ILO総会では、海上労働の問題が取り上げられることになり、その労働代表は海員団体から選考されることになった。政府は二百名以上の団体なら代表選考権を与える方針をとったため、この年には小さな海員団体が次つぎに結成され、四月一日までに逓信省に届けだされた普通海員団体数は全国で四十八、横浜に事務所を置くもののみで二十一にのぼった。これらの諸団体の間で代表選考をめぐり激しい抗争が展開されたが、岡崎憲を代表としてからくも妥協が成立した。ILO総会は、無料職業紹介所の設置をはじめとし、多くの協約案・勧告案・決議案を採択した。これらの国際規約を日本に実施させるためにも、海員団体の大合同を推進しようとする機運が形づくられてくる。 この海員大合同のイニシアチブをとったのは海員同盟友愛会(旧友愛会海員部)であった。友愛会は全国の海員団体に大合同の勧告状を郵送し、多くの団体からは好意的返答をえた。そこで十一月十一日には、横浜にある海員団体の代表者協議会を開いた。この会合には友愛会、海員共同救済会など七団体が参加し、「合同団体ノ名称ヲ日本海員組合トス」以下六項目の草案について検討し、起草案を成文のうえ、神戸市でひらかれる海員団体の全国協議会に提案することとした。こうして友愛会を推進力として、十二月に全国協議会が二十三の海員団体の参加でひらかれ、各団体は解散して新団体を創立することが決議される。一九二一年五月七日には、海員協会専務理事楢崎猪太郎を組合長とし、本部を神戸において日本海員組合が創立された。つづいて五月十七日、日本海員組合横浜支部の発会式が横浜開港記念館で行われる。海員組合はその綱領で「権威アル団体的節制ノ下ニ組合員ノ結束ヲ鞏固ニシ政府当局及船主トノ連絡ヲ保チ海員ニ関スル法律及労働条件ノ改善並ニ雇傭契約履行ノ監視」などを期するに「必要ナル事項ノ研究、主張、接衝、争議仲裁ノ局ニ当リ」として海員同盟友愛会機関紙 法政大学大原社会問題研究所蔵 いたことからもうかがわれるように、修養機関的な色彩もおびた穏健な労資協調的組合主義の方針を打ち出していた。したがって、神戸でひらかれた本部発会式では、「船主其他資本家ヨリ多数ノ祝辞ヲ受ケタ」のであるが、これに対する組合員からの批判もあり、横浜支部の発会式では船主その他からの祝辞は謝絶するという経緯も生じていたのである。 発足した海員組合が重視した事業は、海員の生活にとって重要であった職業紹介と寄宿舎の問題であった。横浜支部では無料職業紹介と海員寄宿所の建設が計画されたが、財政難によりただちに実現することはできず、組合指定の寄宿業者と特別契約を結び、海員組合員には無料職業紹介を実施させることからその事業をはじめた。しかしながら、第二回ILO総会での決議にくわえ、海員組合が無料職業紹介事業を重視したことは、それまでしばしば暴利をえていた海員寄宿業者や紹介業者などの「ボーレン」を脅かし、かれらに海洋労資協会(後に海洋統一協会)という団体の結成を余儀なくさせるなどの対応をさせていくのである。 他方、合同で多くの有給役員をかかえこむことになった海員組合の財政問題は発足当初は、きわめて深刻であった。海員共同救済会との合同が粘り強く追求されたのも、救済会が二千人をこえる大団体であるうえに財政が比較的強固で積立金をもっていたことがその一つの理由でもあった。しかし、救済会は合同に際して積立金を各会員に払いもどす措置をとったので、この合同も財政難の解決にはならず、十月には海員組合副会長浜田国太郎が協調会に対し、金二万円の借用を申し込むにまでいたっている。 こうした困難をかかえ労働組合としての自立性という点では問題点をもちながらも、海員組合は穏健な協調主義方針の下で、しだいに組合員数を着実にのばしていくのである(資料編13近代・現代⑶一〇四~一一二)。 二 労働運動の分裂と拡大 横浜合同労組と総同盟分裂 一九二三(大正十二)年九月一日に勃発した関東大震災は県下に大きな被害を与えた。工場その他の産業施設は倒壊・焼失をはじめとして、多かれ少なかれほとんど全部が損害をうけ、操業を停止した。労働者は多くの死傷者をだしたほか、震災を原因とする解雇によって大量の失業者の発生をみることになったのである。震災は県下の労働運動にも大きな打撃を与えた。横浜支部をかかえた日本海員組合は、罹災者への救援活動に取り組み、その組織を維持したが、小さな労働団体は震災被害による混乱の中で雲散霧消の状態となり、横浜地方には海員組合以外、労働組合の影さえみられない状況となったのである。 こうした状態からたちなおり、労働組合運動が再興してくるのは、翌年になってからのことである。一九二四年の六月に発会式をひらいた関東鉄工組合横浜第一支部、七月に発足した横浜屋外労働組合、それに富士紡績保土ケ谷工場に結成されていた青年研究会の三団体は、八月に合同し横浜合同労働組合が組織され、総同盟に加盟したのである。 ところで、この時までに総同盟の内部では左右両派の対立が激化してきていた。横浜合同労組は、この左右抗争の中で左派の中心組合の一つとなる。十月の関東労働同盟会大会では、議長不信任案採決問題で左派の退場という事態が生じたが、横浜合同労組は、東部合同労組、時計工組合、関東印刷工組合とともに退場組に参加した。これらの組合とさらに、関東鉄工組合を含めた五組合は、関東労働同盟会から除名され、十二月には関東地方評議会を結成する。左右両派の抗争はこの後もますます激化し、左派指導者の除名問題、関東地方評議会の解散問題をきっかけに、一九二五年五月には、左派全組合の総同盟からの除名、日本労働組合評議会の結成へと進み、ここに総同盟は第一次の大分裂を経験することになった。横浜合同労組はこの分裂の過程で一貫して左派に属し、評議会結成の中心組合の一つとなったのである。 総同盟神奈川連合会の結成 分裂によって県下における総同盟の組織は関東醸造労働組合の京浜支部のみとなったが、一九二五(大正十四)年九月には、総同盟京浜出張所が設けられ、総同盟の組織化が進められた。総同盟組織の飛躍点になったのは、十一月に勃発した富士瓦斯紡績川崎工場の争議であった。富士紡川崎工場の労働者七十余名は、十一月八日関東紡織労働組合川崎支部を設立、発会式を行った。これに対し富士紡は、組合の基礎の固まらぬうちにその勢力を駆逐しようとし、組合幹部十数名を解雇し、ここに大争議が展開されることになる。 組合側は十九日、「賃銀問題に就いて適当なる考慮」を行うこととの希望条件と、「寄宿女工の取扱いを改善」「被解雇者全員を復職」「食事を改善」「労働組合加入の自由」の四項目からなる要求書を提出、ストライキの実行にはいり、二十二日からは工場は事富士瓦斯紡績川崎工場で働く女子労働者 川崎市立中原図書館蔵『富士瓦斯紡績川崎工場写真帖』から 実上休業状態にはいった。総同盟関東同盟会は総力でこの争議を支援し、続々と応援部隊を派遣し、富士紡労働者とともに大示威運動をくりかえした。争議の中では、支援にきた総同盟組合員と評議会組合員が衝突・抗争をくりかえすという事態もうまれて、両団体の対立をさらに、激化させる要因ともなったのであるが、争議は大きな社会的反響を呼び、激化するにおよんで、神奈川県知事堀切善次郎が調停にのりだし、二十九日に解決した。調停案は、解雇撤回こそ実現できなかったが、規定の許す限りの解雇手当支給と見舞金贈与、食事その他の改善の実施などを確認し、待遇改善・組合加入をもって解雇せざることを希望条件とするもので、組合側にとって有利な、事実上の勝利といえるものであった。争議後、川崎工場では、労働者が組合加入の必要をみとめ、また加入勧誘の行われた結果、相当の組合加入があり、会員数は千名に達したと称せられた(資料編13近代・現代⑶一二八・一二九)。 富士紡争議の勝利は、川崎・鶴見地区を中心に総同盟組織の急速な増加をもたらした。ライジングサン石油・日本石油を中心に神奈川石油労働組合が、日本鋼管を中心に神奈川鉄工組合が、浅野セメントにセメント労働組合が組織され、一九二六(大正十五)年三月七日には総同盟神奈川連合会の発会式が行われた。出席代議員は神奈川鉄工組合五十二、神奈川石油労働組合二十三、関東合同労働組合川崎支部十六、東京製鋼労働組合十二、セメント労働組合二十二、東京電気従業員組合十二、関東醸造労働組合京浜支部六、関東紡織労働組合川崎支部三十四であって、組織人員七千五百人と公称した。こうして神奈川連合会は川崎地区を中心に総同盟の拠点としての位置を再現したのである(同前一三〇)。 総同盟神奈川連合会のその後の発展の上で特別の形で大きな役割を果たしたのは東京製鋼労働組合である。それは、一九二六年二月に東京製鋼の従業員は原則として製鋼労働組合員たること、会社側は製鋼労働組合を公認し団体交渉権を認めることなどの覚書を取りかわし団体協約を締結したからである。この団体協約は、反面において、組合長に会社書記の資格を与え組合関係事項の一切を委任し、組合が不良組合員に対して責任を負うものであったが、組合の安定的発展を保証し、総同盟の団体協約締結方針の先駆となったのである。 また、総同盟神奈川県連合会は無産政党組織問題では、労農党脱退問題をめぐって県連書記二名を中心とする脱退反対運動を生じるなどの事態はあったものの、一貫して本部政治部の方針を支持し、十二月十一日には社会民衆党第二区支部を発足させた。社会民衆党は、湘南の神奈川鉄工組合を主要基盤とする第三区支部、日本海員組合横浜支部を基盤とする第一区支部を、一九二七(昭和二)年二月と三月とに発足させ、県下に組織を確立した(同前一三一・一三二・一八三)。 県下の評議会組織 一方、評議会も創立後、県下に横浜合同労働組合以外に新たな組織を次つぎと確立していった。まず一九二五年七月に、川崎の味の素商店工場を中心に東京合同労組川崎支部がつくられ、八月には関東鉄工組合川崎支部が組織され、関東金属労組川崎支部に再編されながら日本鋳造会社や川崎トラスコン会社を基盤にしていった。さらに十一月には相模紡績、関東紡績の各平塚工場を組織して湘南合同労働組合が創立され、一九二六年三月には小田原電鉄会社を基盤に小田原合同労働組合がつくられて、組織は県下各地にひろがっていったのである。 評議会の県下組織の中軸の一つになっていたのは金属産業―重工業の労働者であった。評議会は創立大会で、加盟組合の産業別の合同整理をすすめ、全国的産業別組合組織の促進を方針として打ち出していたので、県下での産業別整理は、金属産業労働者を中心に進行することになった。まず一九二六年三月にひらかれた横浜合同労組の定期大会で、「産業別労働組合ノ組織達成段階」として金属産業部門、紡績産業部門、雑工業部門の三つへの整理が提案され、可決された。これをうけて四月には横浜金属労働組合が横浜合同労組から分離独立して発足し、やがて関東金属労働組合横浜支部となっていった。また九月に芝浦製作所の企業別組合であった芝浦労働組合は評議会関東金属労組との合同問題で分裂することになるが、芝浦労働組合鶴見支部はあげて評議会に参加し、その結果関東金属労組川崎支部は京浜支部となっていった。県下評議会の組織人員を一九二七年十月現在でみると、関東金属京浜支部が千二百余、同横浜支部が六百余と称され、県下評議会組織の八〇㌫をしめていたのである。 この金属労働者を中心に評議会組織は活発な運動を展開した。一九二六年十一月には、健康保険料の全額資本家負担を要求する全国最初の争議が日本鋳造会社でおこされ、一か月間にわたる大争議となった。また金融恐慌による解雇・休業・賃金引下げに対する労働者側の反撃として計画された工場代表者会議戦術も県下で積極的に取り組まれている。一九二七年五月には第一回の京浜工場代表者会議が約四百五十名の参加で、四十三工場からと称せられて開催され、六月には、横浜工場代表者会議が約九十名、十五工場以上の参加で、また、第二回京浜工場代表者会議、湘南工場代表者会議が開催されて、労働者の共同闘争の気運を盛り上げる役割を果たした。一九二七年八月には、芝浦製作所鶴見工場で配当制度改正をはじめ十八項目にわたる要求で争議が開始され、富士瓦斯紡績川崎工場女子労働者の服装 川崎市立中原図書館蔵『富士瓦斯紡績川崎工場写真帖』から 評議会は五法律獲得闘争と結びつけて闘争を進める方針をとり、活発な支援運動が展開される。争議はストライキが二十五日間にわたり、最終解決は十一月になる大闘争であったが、解雇手当金増額などをえたのみで終了した。このように評議会県下組織は、その活発な運動で大きな影響力を発揮していったのである。 無産政党組織問題では、労農党創立の二日後に開かれた横浜合同労組の大会(一九二六年三月)で、「アラユル障害ヲ排シテ労働階級ノ解放ヲ目的トスル全国的単一無産政党ノ建設ヲ決議」し、実行方法として「無産政党建設懇談会ヲ応援」し、「本地方ニ於テモアラユル無産者団体ガ協力シテ地方的政治闘争ノ機関ノ設立ヲ提唱」していた。しかし、労農党の左翼排除のもとでは具体的な動きにはならなかったのであるが、門戸開放運動の展開のなかで、十月、横浜市電共和会が神奈川地方無産政党組織準備会を呼びかけ、総同盟などの労農党脱退を経過して、十一月から労農党の県下支部が設立されていった。まず、京浜川崎支部が京浜労働組合協議会を基盤として、関東金属労働組合川崎及鶴見支部、東京合同労働組合川崎支部、川崎労働組合、京浜労働技友会有志、自治会京浜支部有志などの参加でつくられ二十六日に発会式を行った。横浜支部は横浜合同労組、市電共和会有志などの参加で同じく二十一日発会式を挙行し、十二月には湘南地方支部も発足したのである(資料編13近代・現代⑶一三九・一四六・一八三)。 つけ加えておくと、総同盟の第二次分裂でうまれた日本労働組合同盟の県下組織の成立は、一九二八(昭和三)年に横浜出張所がおかれて以後になり、ずっと遅れるのであるが、この中間派の日本労農党の横浜支部は一九二七年七月、郵司同友会横浜支部を基盤として発足し、ここに県下でも労働運動の分裂、無産政党の分立と対立という全国的構図ははやくも波及したのである。 横廠工友会の労働組合化 こうして一九二〇年代の半ばは、県下でも労働運動の諸潮流の分裂が明確になる時期であったが、同時に労働組合運動の範囲が一層拡大していったこともみのがしえない重要な点である。とりわけ、それまでは共済団体的な組織であったものが労働組合としての性格を明確にしていくことになる。それらの代表的なものとして横須賀海軍工〓の工友会、横浜船渠の工信会と浦賀船渠の工愛会でつくられた武相労働連盟、横浜市電の共和会をあげることができる。 横〓工友会の創立は、ふるく一九〇九年にまでさかのぼる。それは、横須賀海軍工〓の労働者全員を会員とし、「会員相互ノ品位ヲ矯正保維」し、公務死亡などに際して金品を贈与する修養・共済団体であり、商店との特約契約による割引販売などの事業をも行って発展してきたのである。一九二三年にILO総会への労働代表選出にあたり、政府は千名以上の工場などとともに、千名以上の会員数をもつ労働団体を基礎として選出する方法をとることにし、工友会は労働団体としての認可をもとめたのであるが、社会局は労働条件の維持改善を目的とせぬ団体は労働団体と認めがたいとして拒否した。翌一九二四年のILO労働代表選出にあたり、政府が千名以上の労働団体のみを基礎とする方針をとったのをみた工友会は、二月、定款の大改正を行い、組織を社団法人とするとともに、会の事業として「労働条件ノ維持改善ニ関スル事」を掲げた。ここに工友会は労働組合化することになったのである(資料編13近代・現代⑶一二一・一二六・一二七)。 横須賀以外の各地の海軍工〓でも、ILO労働代表選出を契機に、次つぎに労働団体が組織された。呉の海工会、佐世保の労愛会、広工〓工僚会、舞鶴工廠共立会などである。三月、工友会はこれらの団体と協議し、海軍労働組合連盟を結成してILO労働代表選出にのぞむことになる。また、工友会をはじめ、これらの各団体は、それぞれの工廠で「交渉組合」としての位置をみとめられ、その目的の範囲内の事項について意見を提出できることになった。海軍労働組合連盟は十月、第一回の理事会を横須賀にひらき、連盟を交渉団体として承認、八時間労働制実施、共済組合規則改正、退職手当改正を決議、希望事項などを決定して、交渉による運動を行っていった。 また、無産政党組織問題では、無産政党組織を助長し「徹底せる社会政策の実行を期す」との議会主義の立場を明らかにし、地方ごとに政党を組織していく地方的無産政党主義の方針をとった。工友会もこの方針に基づき一九二七年十二月には、地方無産政党の民衆進党を結成した。その綱領の「既成特権階級政党の覚醒を要望し併せて過激主義の政党を排除す」との一節からも明らかなように、工友会は、大きな組織人員をかかえながら、労働組合化したのちも共済団体的時代から大きく変わったとはいえないような、もっとも穏健な改良主義・労資協調の路線を歩んでいくのである。 武相労働連盟の結成 横浜船渠では、一九二二年の争議のあとは労働組合は消滅した状態となっていたが、一九二四年三月、工信会が結成された。工信会の結成もILO労働代表選出問題を契機とするものであった。工信会創立の事情について当事者は、遠因は「階級意識が意識されて来て、無力なる労働者は組合を唯一の武器と恃まねばならない」という考えがひろがってきたこと、近因は「労働代表選挙」であると指摘している。政府によるILO労働代表選出方法の転換が直接の要因となって、共済会の幹事が創立委員となり工信会は発足したのである。 工信会は、工場課長との協議に基づき、彼を顧問にすえて創立された点からも明らかなように、労資協調主義の立場の組織として発足したものであり、それは組合員の賃上げ要求に対し重役の定期昇給言明によって運動打切り、一九二五年のメーデーにあたっての不参加決定などの活動のあり方に示されていた。これに対する不満は五月の第一回総会での理事会への批判として噴き出し、八月には創立時の役員の総辞職となった。これ以後、工信会は組織体制の整備を進め、一九二六年七月の臨時大会で過去の「消極的防禦的立場を棄て積極的攻撃的方策を採り堂々の陣を進めて資本主義の牙城に迫らんとする」との宣言を出すことで、資本からの自立を明らかにしたのである。 この工信会に提携を申し込み、武相労働連盟をつくっていく相手となったのが、浦賀船渠の工愛会である。工愛会は、一九二一年十月に浦賀船渠の平職工の手によってつくられた親睦・修養・共済活動団体である。その活動の発展の中で、一九二四年には役付職工も会員にふくむようになって、ほぼ全従業員を包括する組織となり、労資協調的立場は維持しながらも労働条件改善の交渉や、浦賀町議選挙への進出も行うようになっていった。工信会との提携は一九二五年の二月ごろにはじまり、五月には武相労働連盟を発足させるのである。 武相労働連盟は「産業立国」を目標とする経済主義的立場にたち、「和衷互譲の精神を以て吾等の自由と解放との為めに戦はん」との協調主義的階級団結を主張する組織であったが、工信会の資本からの自立に主導されて活動を積極化させていった。工信会は、一九二六年の三悪法反対運動に参加し、横浜のメーデー開催の中心団体になって対外的な政治運動に積極的に進出し、工愛会も解雇・賃上げ問題で資本との交渉に取り組んでいった。そして武相労働連盟は、横浜仲仕共済会などとともに一九二七年八月には地方無産政党の神奈川自治党を発足させるのである。それは中央無産武相労働連盟機関紙『武相連盟』 法政大学大原社会問題研究所蔵 政党の分裂に対する対処であるとともに、共済団体的組織から発達してきた素朴な階級意識にたって「純正無垢なる地方無産政党を樹立し必然来るべき全国的結成の礎石を置かん」と期待するものであった。武相労働連盟の成立とその後の動向は、この時期の労働者の素朴な団結と統一への願いを表現していたと思われる(資料編13近代・現代⑶一四七~一五二・一八三)。 横浜市電共和会の運動 横浜における労働組合運動の中核として活動することになる横浜市電共和会が誕生したのも、一九二四(大正十三)年のことであった。横浜市電の労働者は、一九二一年に横浜電気鉄道から市電への移管直後にストライキを行い、その後も二二年、二三年と待遇改善の運動を行ってきたが、組合はなく労働委員会的な組織があるにすぎなかった。一九二四年六月に発足した共和会は、一、二か月のうちに運輸課・工務課の全労働者を組織し、庶務課の一部も加えて、千名を越える会員を擁するようになった。発足当初の共和会は、会の目的に「労資ノ融合」を掲げていた一事でもうかがわれるように、労資協調主義の立場にたって出発した。しかし、八月には四十八か条にのぼる希望条項を市当局に提出して待遇改善を要求し、一部の希望条項が実現したことを契機に急速にその性格をかえていった。 一九二五年にはメーデーに参加し、十月にひらかれた第一回秋季大会では、日本農民組合から提唱された無産政党準備協議会のよびかけに積極的にこたえ「横浜にも地方協議委員会を設置」するとの提案が満場一致で可決されたのである。この直後、理事長による組合費横領問題が明らかになり、多数の組合脱会者を生じるという波乱をむかえたが、残った組合員によって共和会の左派的性格はますます明確にさせられていった。一九二六年三月には、理事会で日本交通労働総連盟への加入を決定し、四月にひらかれた第二回春季大会では、「本会員ハ全員労働農民党ニ加入スル」との提案が可決された。この大会ではまた、綱領・会則を改正して当初の労資協調的色彩を一掃し、さらに「現存ノ社会ニハ絶対ニ協調融和シ得サル所ノ支配階級資本家ト被支配階級労働トノ二大階級カ対立存在シテ居ル」との大会宣言を発表して階級闘争主義をとることをあきらかにしたのである。 前述したように共和会の労農党地方支部組織化の動きが具体化するのは、労農党の門戸開放のなかでのことであり、しかも無産政党の分立の結果、一九二七年四月の共和会第三回大会では、労農党支持に関する提案は賛否両論相伯仲して、ついに採択しないとの提案が可決され、共和会全体としては労農党支持を決議せずに終わったのであるが、共和会が県下の労働運動における戦闘的潮流の中核であることは、まぎれもなかった。共和会は、メーデー、失業反対運動などさまざまな課題での共同闘争に取り組んだが、一九二七年六月には市電の減車政策反対運動に取り組む。この運動は、横浜合同労働組合、関東金属横浜支部、海員組合、横浜市土木従業員組合、横浜サラリーマンユニオンなどの労働団体による減車政策反対同盟をうみだしたばかりではなく、市民をもまきこみ、横浜市議会で増車要求案が上程・決議されるという成果をあげた。共和会の戦闘的運動は、九月には組合幹部ら十五名の解雇という弾圧をこうむり打撃をうけもするが、これに対し横浜市土木従業員組合と横浜市従業員組合連盟を結成し、市従業員の合同によって対抗する方針がとられる。こうして共和会は、県下の戦闘的組合を代表する存在として一九二九年の大争議をむかえることになるのである(資料編13近代・現代⑶一五八~一六七・一七〇)。 横浜労働組合協議会の活動 以上のように、一九二四年のILO労働代表選出方法の変更を契機として労働組合の新たな結成がすすみ、それに総同盟の分裂が加わって多様の潮流の労働組合が存在することになった。これら労働組合の諸潮流の間では、総同盟分裂の経緯から、さらに無産政党組織をめぐる対立によって、厳しい抗争をはらむことになったのであるが、そのなかでも戦線の統一をもとめる模索はなされていた。県下におけるそうした努力の典型として横浜労働組合協議会の活動をあげることができる。 横浜労働組合協議会は、一九二五年十月、仲仕共済会、工信会、市電共和会、通船共誠会の四団体によって結成された。それは「横浜市内各労働組合ノ提携機関ニシテ失業対策労働教化等ヲ目的」とし、その「決議ハ加盟団体ノ自治権ニ抵触セザル」範囲で活動しようとするゆるやかな臨時的運動機関としての規約をもち、事務所は仲仕共済会におくこととしたが、当初は活発な運動を行っていたわけではなかった。 ところで、横浜では一九二五年のメーデーは、横浜労働組合連盟の主催で行われた。このメーデーに参加したのは、印刷工組合、仲仕同盟会、労働共愛会、自由労働組合、朝鮮労働共助会、横浜合同労組、朝鮮労働愛護会、共和会の八労働団体で、横浜労働組合連盟は単にメーデー開催のための機関にすぎなかったと思われる。翌一九二六年のメーデーも横浜労働組合連盟の主催でひらかれたが、ここには新たに海員組合支部という右派の団体などや、横浜労働組合協議会を共和会とともにつくっていた仲仕共済会、工信会も加わり、参加団体は十二組合となった。しかも、十月の日本郵船会社の属員同志会争議では、横浜労働組合連盟として争議支援を行い、演説会や宣伝を実施したほか、争議に反対し乗務員の補充に協力した海員組合へ抗議行動も行ったのである。 こうしたなかで、政治的には中立的立場をとる仲仕共済会や工信会も共同闘争の気運を強めたものと思われ、十一月に横浜労働組合協議会は、協議会拡大を決定した。この結果、協議会には、新たに印刷工組合、屋外労組、金属労組、合同労組、共愛会、サラリーマンユニオン、土木従業員組合、仲仕同盟会、朝鮮合同労組が加わり、アナーキズム系、評議会系、中立系の諸組合の参加する組織となった。この時、協議会規約も改正され「加盟団体ノ自治権ニ抵触セザル範囲」というゆるやかな結束という性格に変更はなかったものの「共通問題ヲ協議シ其ノ決議ヲ実行スルヲ目的」として共同闘争機関という性格も明確になったのである。しかも、横浜市の全労働組合を結集するという努力もつづけられ、海員組合に対しても参加勧誘が継続されていた。 一九二七年、とくにその前半は、横浜労働組合協議会が共闘機関として活発にその機能を発揮した時期である。毎月、協議会がひらかれ争議支援、労働組合法・出版法・小作法反対運動、健康保険法対策、方面委員問題などで演説会、宣伝活動、対県・市への交渉の活動が展開された。またこの年の横浜のメーデーは、横浜労働組合協議会の主催で開催、参加団体はアナーキズム系から海員組合まで十八団体にのぼり、会場では討論会的状況や野次で緊張する場面もあったが盛会のうちに終わったのである。 横浜労働組合協議会がこうした活発で戦闘的な運動体として活動するのは、まず関東金属労組横浜支部と共和会の存在があったからである。しかしこうした左派系の組織が、工信会や仲仕共済会といった中立的大組織と連携がとれていたことが、その影響力をきわめて大きなものにしていたのであった。だが横浜労働組合協議会は、一九二七年後半からその活動が不活発になり、やがて自然解消してしまう。 一九二八年のメーデーは、三・一五弾圧の影響もあって関東金属横浜支部の指導力は発揮されず、主催団体名も、横浜労働組合連盟にもどってしまう。そして一九二九年八月に横浜の労働組合協議機関としてつくられた横浜労働組合親和会が、仲仕共済会と工信会・海員組合の三者で、主張の同一組合の提携という限界を設けてつくられるあり方の中に、右派の優位が横浜においても成立してきたことが示されていた。 1928年の横浜メーデー『武相連盟』5月から 法政大学大原社会問題研究所蔵 第五節 農村の変化と小作争議 一 大戦後における小作争議の展開 大戦期の農村の変化 第一次世界大戦期の経済好況と京浜工業地帯の形成は、県下の農村地域にも大きな影響を与え、農村の変貌が進行していった。大戦期の工業発展は、県下農村、とりわけ、工場地帯近接地域においては農村からその労働力を急速に吸収していった。たとえば、「一般農村は米価暴騰生糸爆発相場の好景気につれ農耕者の労銀著しく騰貴し殊に中郡地方にありては農家の壮丁が平塚町海軍火薬廠並に相模紡績会社等の職工となり為めに日雇業者の欠乏を来し」(『横浜貿易新報』大正八年十一月二十日付)というような現象である。こうした工業労働市場の開放と農業日雇労賃の上昇は、小作農民に自分たちの労働力の価値についての自覚と、高率小作料の重圧に対する反発をつくりだす契機になっていった。「都会地、工場地附近ニ於テハ開戦以来男女ヲ問ハス壮者ハ収入多キ工業方面ニ吸収セラレ農村ニハ老幼ノミ止ル有様ニテ小作人ハ昔ヨリノ情誼ニ絡マレ義理ニ小作シ居レハ自己ノ生計樹タストナシ漸次土地返還ヲナスモノ多ク地主モ自作スルニハ労力ナク……中略……不得已小作料ハ何程ニテモ宜シキ故小作シ呉レト無理ニ頼」むといわれるような状況には、伝統的な地主・小作の社会関係がくずれ、小作人の主張がふきだすありさまがうかがえる(資料編13近代・現代⑶一八四)。 他方、工業地から離れた地域では、またこれとは異なった現象がうまれていた。「都市ニ遠隔セル純農村ニ於テハ農産物価格ノ昂騰ニ伴ヒ小作人相互ノ小作地争奪又ハ地主ノ策動ニ依リ小作料ノ増額ヲ来セル」という動向である。好況にともなう農産物価格の上昇が、小作農民をより深く商品生産にまきこみ、商品生産者として発展しようとする志向をうみだしながら、小作料値上げをももたらしていたのである。 大戦期の経済が農業にあたえた影響を、郡別に耕地面積の変化についてみてみよう(第十六表)。県全体として耕地面積は、田で二十六町歩余の微増、畑で八百五十六町歩余の増加となっているが、郡別の変化をみると愛甲郡・津久井郡をのぞいて三つのグループにわかれている。第一グループは、京浜工業地帯ないし大工場をもつ、横浜市、横須賀市、橘樹郡、三浦郡である。ここでは、田・畑ともその面積は減少し、耕地減少の傾向がはっきりとあらわれている。第二グループは、その周辺の久良岐郡、都筑郡、鎌倉郡である。ここでは、田は面積減少ないし停滞を生じているが、畑地面積が増加して、全体として耕地は増加をしめした。第三グループは、高座郡、中郡、足柄上郡、足柄下郡といった県央から県西の地域である。ここでは田の面積も増加し、とくに畑地面積が大きく増加して、県の耕地面積増加の中心になっている。耕地面積の変動一つを取り上げても、工業地を中心に同心円を描第16表 郡別耕地面積の変化 『神奈川県農会報』第119号,第155号から作成 くような形で、県下農村は異なった影響をうけていったことがしめされている。 農家戸数についてみると(第十七表)、大戦期には七百戸余の減少に過ぎないようであるが、その内容は大きく変動している。一九一四年には三八㌫をしめて全国平均よりも八㌫も高い水準をしめしていた兼業農家が、一九二〇年には三二㌫へ、絶対数では四千七百戸余も減少した。兼業農家の離農、ないし専業化という分化が進行したのである。 こうして、大戦期の経済発展のなかで、県下農村は、好況という共通の基盤のうえではあるが、地域的に異なった経済変動の波にあらわれたのであった。 県下農村の地域的特徴 ところで神奈川県の農業のもっとも大きな特徴は、畑作生産の優位という点にある。今、全耕地にしめる畑地の面積の比率をみてみると(第十八表)、それは実に六八・九㌫にものぼっている。こうして畑作農業の優位が県全体としての特徴となっているが、郡別にみると比較的水田の比率の高い地域も存在することがわかる。久良岐・橘樹・足柄上・足柄下・三浦の五郡である、これに対し、都筑・鎌倉・高座・中・愛甲・津久井の諸郡が畑地の優勢という特徴をつくりだしている。 次に、小作地率をみてみると県全体としては、田畑とも全国平均にひとしい水準を示している。郡別には、橘樹・都筑・中・愛甲の諸郡が田畑とも平均より高い水準を示し、また、鎌倉・高座の二郡が畑地の小作地率で高い水準をさしている。自小作別農家戸数の比率をみても、橘樹・都筑・鎌倉・中・愛甲の諸郡は小作農の比率が高い。これに対し、三浦・足柄上・第17表 専業・兼業別農家戸数 1) *印は横浜市世帯数と各郡・横須賀市戸数の和 2) 『神奈川県農会報』各年次農事統計表から作成 足柄下・津久井の四郡は自作農の比率が高く、小作農の比率は県平均よりかなり低い。こうしてみると、県下農村は、水田が比較的多く地主的土地所有も展開している橘樹郡、畑作が優位だが地主的土地所有も展開している都筑・鎌倉・中・愛甲の諸郡、水田が比較的多いが自作農地帯である三浦・足柄上・足柄下の諸郡、畑作が圧倒的で地主的土地所有も展開していない津久井郡の四つのタイプにわけられそうである。そして神奈川県を特徴づけているのは、畑作地帯であるが地主的土地所有も展開している地域の存在であるといえよう。 農家の土地所有規模をみてみると(第十九表)五十町歩以上の地主は県全体でわずか二十一戸に過ぎず、大地主の存在がある程度みられるのは、高座・中・愛甲の三郡のみといってよい。「本県ニ於ケル地主ノ大多数ハ十町歩以下ノ耕地所有ノ者ニシテ」(資料編13近代・現代⑶一八五)といわれるように、神奈川県下では地主といっても中小地主が、土地所有者の中心的な存在であったのである。他方、農家を耕作規模別にみていくと、一、二町歩耕作農家の比率が全国平均よりも五㌫以上高い。一町歩以上の耕作農家第18表 1920年郡別田畑率・小作地率・自小作別農家戸数比率 『神奈川県農会報』第147号から作成 第19表 1920年郡別耕作規模別農家戸数比率および3町歩以上所有規模別農家戸数 『神奈川県農会報』第147号から作成 は、とくに鎌倉・中・高座の三郡に多い。畑作地帯であることが耕作規模を大きくしているのであろうが、橘樹郡でも一、二町歩耕作農家の比率は県平均を大きく上まわっており、耕作規模の比較的大きい中農的農家の高い存在も県下の農業を特徴づけていたといえよう。 小作争議の開始 一九二〇(大正九)年の戦後恐慌の勃発は、大戦期・戦後の経済ブームを終了させた。騰貴していた農産物価格も低落し低迷して農村経済は困難に直面した。一九二〇年を境にして神奈川県下でも小作争議が毎年のように起きることになり、その中から小作人組合や農民組合が成立してくる。いま、第二十表によって小作争議件数の動向をみると、一九二〇年が、それ以降の小作争議件数の水準の出発点になったことが明らかである。 県下でも、不作の年には小作人から小作料の軽減を要求する減免慣行は古くから行われていたが、小作人が団結して地主に迫る争議はこれまでみられなかった。ところが一九一九年に、足柄上郡金田村に小作料減額要求の、鎌倉郡瀬谷村に小作料値上げ反対1914年ごろの桑苗木接き木講習会 『神奈川農協30年』から の争議が起こり、とくに後者では刑事被告人を出すほどの事件となって、小作人が結束し地主に対抗することがはじまる。一九二〇年以降毎年、小作料減額要求を中心に二桁の件数の争議が起こることになるのである。争議は、一九二一年の水害と干害、一九二三年の関東大震災と水害、一九二五、二六、二八年の天候不順、病虫害発生というように、不作を理由として引き起こされたものがもっとも多い。しかし、争議原因を細かくみていくと、そこにはたんなる不作を原因とするのではなく小作人の権利意識・生産者意識の発展が基礎になっていたことがうかがえるのである。 穀物検査の実施と小作争議 一九二〇年に急に小作争議が増加した理由の一つとしてあげられるのは、穀物検査制度の導入である。大正初期から県産米検査の必要がいわれるようになり、一九一七年には小作奨励ならびに産米改良を目的とし、郡区域で愛甲郡地主会・橘樹郡産米会などが組織され、一九二〇年度には県事業として産米の検査、二一年度から産麦の検査が実施された(同前一八六)。この穀物検査の実施は、生産者農民に産米改良負担をおわせることになり、その不満を強めることになる。 県営の穀物検査が実施される前、中郡では次のような事件が起こっている。中郡俵装改良組合は、一九一八年末に米麦同業第20表 県下における小作争議件数及び農民組合(小作人組合)数の推移 1) 大畑哲「神奈川県下における戦前の農民運動について」『神奈川県史研究』40所収の表に1934年分を補足した 2) 原資料は資料編13近代・現代⑶の中の農民運動に収録された諸資料である 組合と改称し、一九一九年からの米麦の内容検査と包装改良を決議した。これに対し、神奈川県のような米の移入県では、包装はあえて他府県にならう必要はない、強いてこれを施行するのは「徒らに一部少数の大地主、商人及郡組合当局等遊食の徒を利するに過ぎず」、生産者は年一万円近くの間接税を負担するのみならず、包装作業は三、四倍の手数となるなどとして、成瀬村を中心に反対運動が起こり、実施延期の要求が、組合員四千名の連署で提出された。運動は、郡当局への陳情、郡役所へ組合傍聴を名目として多人数押し寄せるなどしたが、結局、既に製作の俵装は本年限りそのまま使用することを認めるとの条件で解決となった(『横浜貿易新報』大正八年二月二日・四日付)。 このように生産者農民の負担増となる米穀検査の実施は一九二〇年以降の小作争議増加の原因の一つになった。小作農民にとって米穀検査がどれほど負担であったかを物語る次のような事例がある。足柄下郡では、産米改良のため小作人納入の一等米は一俵につき二升、二等米は一升五合、三等米は一升をわりもどした。しかし「等外米の田地を小作し居る小作人は地主の奨励申合せに基き他よりの等級米を以て不地味の地主へ納入せざるべからずして苦痛甚だし」く、等外米納入の場合には反対に小作人から一俵につき二升から一升五合提供しなければならなかったが、「一般小作人は僅の奨励米を得るよりも寧ろ僅少の込米にて等外米を納入する方が利益ありとて漸次此の方法を取る傾向ある」(同前大正九年十二月四日付)というのである。奨励米・補償米が小作農民の労働負担増にみあわぬ低額のものであったことがここにしめされており、米穀検査実施を原因とする小作争議が起こることになる。 その代表的なものとして、足柄上郡金田村の争議をあげることができよう。金田村では、一九二〇年十二月、小作人二十八名が、地主十九名に対し「穀物検査と俵装改良の為め手数が従来の四倍を要する代償として一割五分、財界不況糸価暴落の救済策として一割五分合計三割の小作料軽減運動を起し容れられずんば直に小作地全部を返納」すと連盟調印して争議が始まった。警察の抑圧にもかかわらず小作人側は、翌二十一年二月には、百二十一名の参加で小作組合を発足させ、金田村地内小作地貸借は一切組合に委任し、小作料金も決定する、違反者からは違約金を徴収することを申しあわせた。争議は四月まで継続、途中の地主・小作の交渉では、小作側が「今後小作料納入は旧来の如く無検査米にて納入を承認されたしと要求」し地主側が拒否するといった状況もあったが、苗代期がせまって、七歩五厘の小作料引き下げで一応妥結したのである(同前大正十年二月十七日、三月三十一日、四月三十日付)。このように穀物検査の実施は、労働負担増をおわされた小作農民が、小作料減額あるいは奨励米増額などの要求を提示していく契機となったのである。 農産物価格下落と小作争議 しかしながら、一九二〇、二一年の小作争議で穀物検査実施が争議原因のもっとも主要なものであったわけではない。第二十一表の原因別小作争議件数をみてわかるように、一九二一年の凶不作を原因とするものをのぞくと、値上げ引直し、割高引下げ、物価下落などの農産物価格の低落を理由とするものが、もっとも多い。とくに一九二〇年では、十四件のうち十件までがこうした要求である。一九二一年においてもこうした争議原因が米穀検査実施を理由とするものを上まわっている。一九二〇年の恐慌による農産物価格の低落が小作料の軽減を要求する争議を引き起こしたといえよう。それは、大戦期の農産物価格の高騰にともない純農村地域では、小作料の増額があったという指摘とも関係していたであろう。 ところで、この争議原因が田・畑、いずれの耕地に関係しているかをみてみると(第二十二表)、農産物価格の下落を原因とする争議は圧倒的に畑においてである。畑地における小作争議のうち八〇㌫近くが農産物価格下落を争議原因とするものであ第21表 原因別小作争議件数 1) 原因が2つ以上の場合,それぞれ含めた 2) 『神奈川県農会報』第159号(1922年6月)から作成 り、田あるいは田畑における小作争議で、凶不作を争議原因とするものが大多数をしめているのと対〓的である。 こうしてみると、神奈川県下での小作争議の発生期における特徴の一つは、畑作地において農産物価格の下落を原因に小作料軽減の運動が起こってきたことにもとめられよう。そして小作料軽減の要求は、一九二一年の不作と米穀検査制度の導入を契機としながら水田―田小作料へもひろがっていったといえよう。この点を第二十三表で郡別小作争議件数の分布ともからませながらみてみよう。一九二〇、二一年において小作争議は、久良岐・三浦・津久井の三郡をのぞく県下全郡で発生した。一九二〇年における争議十三件の内、十件までは畑地をめぐっての争議であり、愛甲・鎌倉・高座といった畑作地域で地主的土地所有も比較的展開している地域が中心である。一九二一年には、水田における小作第22表 小作争議原因と関係耕地 『神奈川県農会報』第159号から作成 第23表 郡別小作争議件数 『神奈川県農会報』第159号から作成 争議が中心になるが、第一、二位をしめているのは、愛甲・都筑という畑作優位の地域である。一九二〇・二一の両年をあわせてみても、争議は、愛甲・都筑・高座・中といった畑作優位で地主的土地所有も展開している地域を中心としているのであり、水田優位の橘樹郡でも争議において畑地が関係しているものが圧倒的であった。このように農産物価格の下落を基礎条件に、商品作物として販売する畑地で小作料の軽減がまず要求され、不作をも契機に水田の小作料の軽減もが要求されていったのである。 小作地返還の戦術 この時期―一九二〇年代の前半―の小作争議の特徴の一つは、小作人側が小作地の返還を争議の戦術としてとり、小作料の軽減を実現しえていることである。たとえば、一九二一年からはじまった中郡太田村小稲葉の争議についてみてみよう(資料編13近代・現代⑶一八四)。この争議は、地主二十八人、小作百四十人、関係耕地が水田七十町歩、畑二十町歩で一年余も紛争のつづいた争議である。争議原因は、不作及び地主が不作にもかかわらず小作料軽減をなさなかった「無慈悲ナルヲ憤慨」したこと、「小作人相互ニ於テ小作料ヲ競リ上ケタル為小作料高キコト」を原因としている。小作側が一九二〇年分の小作料の三割から三割五分引を要求し、「小作人一同カオ寺ニ集合シテ連判帳ヲ作リ返地スルコトヲ申合セ」て争議ははじまった。争議は仲裁者がはいり、返地するとの小作側の強要の下で、田畑等級別小作料を定めた「覚書」が調印されることでおさまったかにみえた。しかし小作側は一九二一年末に不作を理由に軽減を要求、「愈々返地スルコトニ決心シテ他部落地主ノ土地ヲ融通シテ貰ヒ尚経営面積不充分ノモノハ子女ヲ工場ニ送リテ収入ヲ仰キ生計ヲ樹ツル」という動きとなる。争議は結局、小作料率を「一等ヨリ五等迄一反ニ付五升軽減」するなどして妥結した。この経過から、大戦期に小作料が引き上げられたことを前提にしながらであるが、小作地返還を背景として小作料率が引き下げられたことが明らかである。 他の小作争議においても小作人側が小作地返還をもって小作料軽減をせまっている事例はしばしばみられる。一九二四年にいたっても「高座郡相原村・大沢村等にては地主小作間意志の疏通兎角円満ならず従って耕地の返還相次ぐので地主は其処分に困りて松の植林をなすもの多く」(『横浜貿易新報』大正十三年十二月十三日付)と伝えられるように、一九二〇年代前半は、小作人側が小作料軽減が実現せねば、小作地返還を行って地主に攻勢的態度をとっていくような条件が存在していたのである。 争議とは別に一九二〇年春から二一年春までの小作地返還は、田二百二十町歩、畑六十五町歩にのぼった。それを原因と処分方法についてみてみた第二十四表から次のことが明らかである。まず、久良岐・鎌倉・橘樹など工業地帯に近接した地域で、転業・出稼ぎなど農外流出による返還がめだっている。そして、これらの諸郡では、返還の結果、小作料割引を行っての第24表 1920~21年の小作地返還 1) 返還事由が2つにわたるものはそれぞれ事由に含めた 2) 処分方法における「地主手作」は返還地全部を手作としたもので一部分を小作料割引,不作付とした手作はふくまない,また「預け替」には一部地主手作,一部預け替をふくむ 3) 『神奈川県農会報』第159号(1922年6月)から作成 預け替を実施するか、不作付とすることを余儀なくされるかなど、地主が損失をこうむる処分方法をとらざるをえなくなっていることがめだっている。ただし、橘樹郡の場合は、宅地化の件数が多く地主が損失をうけているとはいえないであろう。他方、愛甲・高座・足柄上といった諸郡でも農業縮少や転業といった理由で小作地返還はめだっている。純農村的なこれらの地域でも、農業外に生計手段をもとめる方法はひろがっていたと思われる。ただし、ここでは、処分方法では預け替が大部分で、返還によって小作人をもとめえないという状況は小さかったといえよう。 小作争議の結果 このように、農業外に生計手段をもとめうるという状況を背景とし、小作地返還を手段とする小作争議の展開は、地主・小作関係にどのような変化をもたらしたであろうか。一九二〇年代のなかばには「従来地主ノ慣用手段タリシ小作人ノ団体交渉ノ拒否ハ全然無力化シ地主ハ事実トシテ之ヲ認メサルヘカラサルニ至リ従テ争議ノ小字ヨリ大字ニ大字ヨリ町村一円等漸次地域ヲ拡大」してきたといわれる(資料編13近代・現代⑶一八五)。また、「地主ノ小作地返還請求ニ対シテハ孰レモ作離料ノ交付ヲ要求」するようになった(同前一八六)。こうして小作人のなかに耕作権の意識がひろがり、小作関係における地主の諮意性は制約をうけてきたといえよう。 次に、小作料額の推移については、「大正七、八年頃都市近郊地方ノ如キ農業労力激減ノ結果耕地過剰ノ現象ヲ呈シ小作料ノ大低落ヲ見タ」とされ、さらに純農村地域では大戦期の上昇傾向の後、「一般経済界ノ推移及社会思想ノ変化等ニ因リ大正末葉ニ至リ大体ニ於テ小作料漸減ノ傾向ヲ示シ、昭和六、七年頃ヲ底」とすることになったとされている(同前一九〇)。小作料軽減を要求する争議の中で、一九二〇年代には小作料が軽減されていったことは、争議件数の推移からも裏づけられると考えられる。小作争議の動向については、一九二〇年代の前半に争議件数のピークをむかえ、はやく小作料軽減を実現していった近畿などの地方と、高率小作料が後あとまで維持され、小作争議は二〇年代末期から増加して一九三〇年代の農業恐慌のさなかにピークをむかえる東北地方との相違がこれまで指摘されている。 いま、近畿地方、東北地方、それぞれの小作争議件数の推移に、神奈川県の小作争議件数推移をかぶらせた上の図をみると、一九二〇年代の県下の小作争議件数のうごきは、近畿地方のそれと一致することが明らかである。県下の小作争議も、農外労働市場への近接という条件を背景に、いちはやく小作料軽減を実現し、一九二〇年代後半には減少傾向にはいったと思われる。そして、昭和恐慌をむかえて、小作農民は、農業外収入の途絶、小作地需要の激増という新しい経済条件の下で、地主の土地取り上げの増加という事態に直面し、新たな闘争にむかわざるをえなくなるのである。 小作争議件数推移 神奈川県小作争議件数は資料編13近代・現代⑶190から 二 農村社会の変化 単独小作人組合の組織と性格 小作争議の展開は、県下の農村社会にさまざまの変化をあたえていった。そのもっとも大きなものが、小作人の団結のひろがり―小作人組合・農民組合の組織化である。県下における小作人組合の発生については、一九二〇(大正九)年に「鎌倉郡内二箇村ニ於テ大字ヲ区域トスル二組合ノ組織アリタルヲ嚆矢」とする(資料編13近代・現代⑶一八六)とも、「高座郡綾瀬村ニ於テ一小字ヲ区域トスル小作人組合ノ組織アリタルヲ濫觴」(同前一九〇)とするともいわれる。一九二二年までに、地主に対抗するために組織された小作人組合として、鎌倉郡瀬谷村小作人同盟会(組合員二百二十八名)・足柄上郡金田村金子小作人組合(百五十八名)・足柄上郡川村大字向原小作人組合(約百名)・足柄下郡上府中村永塚小作人組合(有名無実)の四組合があげられている(同前一八四)。 これらの小作人団体の組織の状況をしめした第二十五表によれば、次のことをみてとることができる。まず第一に、県下において小作人組合が急速に増加し定着していく時期は、一九二四、五年ごろとみてよいであろう。第二に、小第25表 農民組合の組織・分布状況 大畑 前掲論文所収第2表に1926年以前を資料編13近代・現代⑶183でおぎなった 作人団体の大多数は、上部組織をもたない単独の小作人組合であったことである。県下に全国組織である系統的農民組合の支部がつくられるようになった一九二八年でみても、組合数の三分の二以上、組織人員の八〇㌫以上が単独の小作人組合に所属しており、それはまた県下農業の中心地帯である中・鎌倉・足柄上などの諸郡に分布していた。 これら単独の小作人組合は、ほとんど町村の大字を区域とするものであり、町村をこえて組織されるものはなかった。そして小作料減額などの要求は、小作人組合の幹部をとおして提出され地主の譲歩をせまっていったのである。単独小作人組合の性格を考えるために、鎌倉郡瀬谷村小作人同盟会の規約の要項についてみてみよう。この組合は、瀬谷村の橋戸・中屋敷・上瀬谷の各字に支部をおいていた。そして規約では、「地主が小作人と共通の利益に反し自己の利益のみを欲する行為ある場合は之れに反対し一致の行動をとるものとす」「地主が理由なくして小作地の異動を求むる時は各委員協議の上地主に交渉する」「小作人が植付たる桑園に対し其の小作地の返還をなさし鎌倉郡中川村の小作農家と家族・農地など め又は転売せられたる場合は相当の損害賠償を要求する」「天災地変の時は小作料の減額を要求する」「小作米納入は検査済量器を以て引渡す」などを規定し、地主に対抗し小作人の権利を擁護することをうたっていた。しかし同時に、「義務行為」として小作料の納入期限を定め、「納期内に納入する能はざるは支部内小作人が連帯責任を以て日限内に必ず納入せしめ違反者は相当制裁を受くる」との条項もあって、小作料納入に責任をもつ協調的性格もしめしている(『横浜貿易新報』大正十年一月十六日付)。このような性格の単独小作人組合が主力となって、不作を理由に小作料の一時的減額、補償米金の増加などの要求が提出され、争議が展開されていったのである。 系統的農民組合の成立と活動 これに対し、全国的組織の支部である系統的農民組合が組織されるのはおくれた。この時期の全国的農民組合の中心である日本農民組合は、一九二二年四月に第一回全国大会をもったが、県下では参加はなかった。一九二五年の段階で「日本農民組合関東連盟に加盟したものは県下に二つしかない、そして従来の経験によれば何れも本都筑郡二俣川村の自作農家と家族・農地など 県のは穏健なもの」(『横浜貿易新報』大正十四年五月二十二日付)といわれており、「金目に農民組合ができて、日本農民組合に加盟したのは、大正十四(一九二五)年だったと思う。その時日農に加盟した組合は、神奈川県では、この金目と川崎の生田の二つだけだった」という関係者の談話(大畑哲「神奈川県下における戦前の農民運動について」『神奈川県史研究』四〇号)とあわせると、中郡金目村と橘樹郡生田村の小作人組合が日農関東同盟会に参加したものであろう。しかし、日農機関紙『土地と自由』には、県下組織に関する記事は全くなく、日農との実際的な関係はうすかったものと思われる。 系統的農民組合が県下で本格的に成立するのは、日本農民組合総同盟の神奈川県連合会の結成によってであると評価できよう。日本農民組合総同盟は、日農の第二次分裂をきっかけとして、一九二七年三月に結成された社会民衆党系の組織である。その神奈川県連合会は一九二七年五月に結成された。一九二六年十二月に、橘樹郡稲田村では小作争議が起こって小作料の一割から一割五分の軽減を実現し、二七年一月には日農総同盟の支部が発会式をあげた。この影響は周辺におよび、都筑郡田奈村などでも支部が組織される。こうして、五月二十日には橘樹郡稲田登戸劇場に県連合会の発会式を開会した。支部は、橘樹郡の稲田村・稲田村登戸・向丘村・生田村・稲田村関、都筑郡の田奈村ほか、大和・鴨志田・谷本の九支部で、会長に伊藤新蔵が選出された(『社会民衆新聞』昭和二年一月二十日、二月五日、五月一日、六月一日付)。こうして日本農民組合総同盟の支部は橘樹郡・都筑郡にはじまり、やがて高座郡・鎌倉郡・中郡・足柄下郡などにも支部がつくられて、県下の唯一の系統的農民組合組織となっていったのである。 この日本農民組合総同盟の県連合会結成は、必ずしも小作争議の活発化を意味しなかった。日本農民組合総同盟自身が「昭和二年を絶頂として、神奈川県連合会の活動は、冬眠状態にあった」(『農村運動』昭和九年二月二十二日付)と述べており、それはこの時期の県下の小作争議の減少傾向と対応している。では、これらの組織は何をしていたのであろうか。橘樹郡の支部は、「昭和三、四年時代から、当時大流行の小作争議組合の型を脱して、共同出荷、共同加工、共済等の諸事業等を起して、日常利益の増進に努め組合員の汗血になる農民館を登戸に建設し、笠置弁護士一家を招いて定住させる等、農民生活の現実に即して着実」な運動を行ってきたとしている(同前昭和九年六月二十八日付)。また、県連合会中郡地区協議会の中心であった金目村の日農総同盟金目支部は、「破産状態に立ち到った」広川信用購買組合の再建に一九三〇年から取り組み「組合幹部を以て理事を独占」、整理と復興の業績をあげていた(同前昭和九年四月十日付)。これらの事例は、日農総同盟の県下組織が、この時期、肥料などの共同購入、生産物の共同販売など農事の改良の努力を中心に、経済的向上を経済主義・生産力主義によって追求しようとする方向に傾いていったことをしめしている。 こうした方向は、日農総同盟の組織だけではなく、単独小作人組合でもひろくみられたものであった。その状況の一端は、「小作人組合ニ付テハ……従来ノ如ク単ニ地主トノ闘争団体トシテ活動ナスニ於テハ経済上ノ効果モ思ハシカラサルノミナラス一般町村民ノ反感ヲ買フニ過キスシテ組合ニトリ頗ル不利ナルヲ悟リ漸次養鶏養豚ノ生産事業並物資ノ共同購入生産物ノ共同販売等ヲモ併セ行フモノヲ生スルニ至レリ」と伝えられている(資料編13近代・現代⑶一八五)。一九二五年の段階で神奈川県農会の集計したところによれば、共同作業場百十六、共同倉庫九十四、稚蚕共同飼育所五十三をはじめとして、農事実行組合・産業組合・養蚕組合などをふくめた「農業共同経営組合」の総数は三百五十二にのぼった。その多くは、設立年次からみて関東大震災の被害への応急施設とし、県の災害応急補助規則に基づいて設立されたものであったと考えられる。それらは共同販売・共同購入などを実行し農家経済の向上をはかろうとしていた(『神奈川県農会報』一九二五年七月)。単独小作人組合も日農総同盟県連もこうした波に洗われていたのであり、一九二〇年代後半の小作争議の減少にはこうした背景があったのである。系統的農民組合である日農総同盟の県連合会は成立したものの、こうして活発な動きは当面しめさず、昭和恐慌のなかで地主の土地取り上げが問題となるに及んで、あらためてその存在意義を問いなおされることになる。 地主団体の動向 他方、地主の組織の形成は微弱であった。地主会は、農事改良、小作人保護、小作米品評会開催、二毛作の普及奨励などを目的に、一九一〇年に鎌倉郡に郡地主会がつくられたのをはじめとする。一九一三年には同様の目的で高座郡地主会が設立されており、この時期、他の郡や町村でも地主会の組織がすすめられたようである。高座郡地主会に連絡し、茅ケ崎町に小作地をもつ全地主に「加入スル義務アルモノトス」としていた茅ケ崎町地主組合は、事業として「矯風ニ関スル事項」と「奨励事項」とを掲げていた。前者は、小作人が「地主ノ公益ヲ阻害」した時には「組合員ハ其小作者ニ対シ耕地ヲ返還セシメ」たり、小作人の土地返還に対して「組合ハ之レガ耕作人ヲ斡旋スルノ義務」を定めたりして、小作人に対する地主の支配力を強めようとするものであった。後者は、小作米品評会の開催、優良小作人の表彰などによって農業生産の向上と地主・小作間の融和をはかろうとするものであった(『茅ケ崎市史』2資料編)。 さらに、県の穀物検査が実施されるにいたって、補償米給与による地主・小作の融和協調、小作米品評会などによる産米改良などを目的に、産米改良会あるいは穀物改良会の組織がはかられた。しかしながら、これらの地主会や穀物改良会の組織は、県当局による行政主導の組織化であったためか、一九二〇年代後半には「年所ヲ経ルニ従ヒ孰レモ自然消滅ニ帰シ目下県郡市町村ヲ通ジ所謂地主会ト称スベキモノ絶無ノ状態ナリ」(資料編13近代・現代⑶一八六)となってしまったのである。ただ、このころから小作地の管理を会社組織で行うものがあらわれ、一九三二年には県下で五社、管理小作地面積は合計百七十二町歩(約百七十ヘクタール)余となっていた。 県下の小作争議が量的にも多いとはいえず、また激烈な形態をとらなかったこと、地主も大部分が中小地主でまとまりにくく、小作人の反感を誘発することを懸念して地主組合の組織を回避する傾向のあったことなどが、こうした状況をうみだしたのであり、また地主・小作の協調組合や常設的な農業委員会の設置もみられないという特徴をもたらしたのである。 小作人の社会的進出 こうして地主・小作の対立が激烈な形をとらなかったため劇的な様相こそみせなかったが、小作人の社会的進出は進行し、農村社会には流動的な状況がしだいに形成されていく。一九二三年、新農会法に基づき「婦人迄も参加して」といわれて実施された町村農会の総代および役員選挙の結果について階層別にみた第二十六表にあきらかなように、小作人は総代で一〇㌫余、役員で五㌫余をしめるにすぎなかった。この結果は、当時、「小作人は選挙人数の多い割合に総代数が少い」「総代から選ばれた町村農会の役員の状況を見ると……(中略)……其の割合が小作農は半減し地主が一割方の増加であるのは要するに未だ地主の前に頭が上らない者が多い事を物語って居る」と評せられた(『横浜貿易新報』大正十二年七月十五日付)。しかし、これを町村段階でみると、また違った様相があらわれてくる。総代選挙の結果、地主の当選者に対し小作人の当選者が上まわったか、同様である町村は、県下で四十五にのぼった。こうした町村のなかには、中郡城島村や足柄上郡金田村など小作争議を経験した村がめだっている。そして中郡金目村(二十五名中十二名)、足柄下郡田島村(二十五名中十七名)のように、小作人が総代の多数をしめる村もあった。小作争議を経験し、小作人組合がつくられたような村落では、あきらかに小作農民の社会的進出がみられたのである。こうした動向は、「昭和二年農会総代選挙ニ方リテハ各地ニ於テ小作人中ヨリ相当多数ノ総代当選者(県下ヲ通シテ百三十六人)ヲ出シ漸次気勢ヲ揚ケ昭和六年四月施行ノ農会総代選挙ニ際シテハ小作人中ヨリ百六十人(外自作兼小作農階級ヨリ千八十八人)ノ当選者ヲ出シ」(資料編13近代・現代⑶一八八)といわれるように―この当選者数の階層別基準は第26表 1923年農会総代・役員階層別構成 『神奈川県農会報』第177号(1923年8月)から 一九二三年と相違しているものと思われるが―拡大していった。 また、町村会議員選挙においても「大正十四年村会議員選挙ニ際シ中郡金目村ヨリ小作人組合ヲ背景トセル議員当選者一名ヲ出シタルヲ初メトシ」(同前一八六)、一九二九年選挙では、日農総同盟の支部から数名の当選者がでている。一九二五年の選挙では、「殊に青年の団結による活躍と町村によっては小作者の結束が一大勢力となって地主側の候補者に対抗するので宛然農村は地主小作の勢力争ひの如き観を呈してゐる」といわれ、その例として足柄下郡上府中村で、定員十二名に十八名が立候補し「此村は昨年末の小作関係が解決せぬので小作者の勢力が非常なる結束力を以て抬頭し結果を注目されてゐる」ことがあげられた(『横浜貿易新報』大正十四年三月二十七日付)。このような事例にみられるように、小作農民の社会的進出は、当選をえられないという結果に終わった場合もふくめて、農村社会に流動的な状況をつくりだしていったのである。 流動化する青年たち こうした流動状況の一端を、青年団の動向のなかにみてみよう。神奈川県下では一九二五(大正十四)年の段階で男子青年団が三百四十四団体・四万九千余人の会員であり、女子青年会も百六十六団体・一万八千余人の会員数を数えていた。いま、その会長にどのような人物が就任していたかをみると(第二十七表)男子青年団の場合には名望家が圧倒的に多く、小学校長がそれに次ぎ、会員から会長が選出されているものは一三㌫余しかない。女子青年会の場合も小学校長、小学校教員が圧倒的で、会員が会長に就任している団体はやはり一四㌫弱に過ぎなかった。 このように名望家優位の構成をとった青年団のなかにも、社会的関心の強まりや青第27表 1925年青年団会長の種別 『武相の若草』第18号(1926年2月)から 年としての連帯の要求が強まっていった。一九二四年から神奈川県青年団連合会は、機関誌として『武相の若草』を発行したが、そこに掲載された投稿のなかにこのような傾向がしめされている。青年たちの、社会的・政治的関心が噴出する大きな契機は、普通選挙法の実現であった。「堕落した政治」からの「政界革新」の期待が語られるようになる。一九二五年一月二十日、高座郡新磯村の青年団は、春季総会を兼ねながら「擬国会」を開催していた。これまでもたびたび「自由爛漫な壇上の世界の開幕」が希望され、企画されながら実を結ばないでいたのである。団員の一部が総理大臣以下の政府委員となる。「文相鉄相外相など比較的吾が農村関係の浅い各省に首相兼任」である。一方、政党は「農民倶楽部」「青年労働党」「立憲青年党」「其の他中立党」が登場した。提出議案は「一、奢侈品課税」「二、国防充実案」「三、酒造撤廃案」の三件で、賛成演説・反対演説が闘わされたのである(『武相の若草』第七号、一九二五年三月)。 この「擬国会」は、当時の農村青年の希望と関心のありようを象徴的にしめしているといえよう。かれらは討論と学習に熱気をほとばしらせながら、政治の変革を焦点として社会改革の期待をたかまらせていた。その関心は、深まりゆく農村不況のなかで農村問題の解決へとしぼられていた。普選による議会は「農民倶楽部」や「立憲労働党」など社会の下層とされた民衆各層の利害に表現と解決を与える場として考えられていた。こうして青年たちは、自分たちの生活を新しい開かれた方向へと打開する希望を高まらせていた。しかし、提出議案の第一、奢侈品課税の提案理由が「農村の若い青年男女が都会生活の華美に憧憬して、その天然の恵を捨てゝ、都会に走るものを戒め、また農村の質朴を奨励する」(同前)とされていたように農本主義と勤倹力行主義への強い傾きもしめされていた。「国民精神作興に関する詔書」の影は青年たちに大きくかぶさっていたのである。状況打開への期待とエネルギーの噴出、伝統的「郷土」観念への回帰、この二つの流れが青年たちの内部で交錯していた。 第六節 都市の発展と都市改造運動 一 本格化する都市問題 大気汚染問題の発生 第一次大戦前の一九一三(大正二)年に、三十九万六千人余りであった横浜市の現住人口数は、大戦の好況をへて一九二〇年には、四十二万三千人に近づくまでに増加した。戸数では一九一四年の八万二千九百六十六戸から、一九二一年の九万四千二百九十戸へ、一万二千戸近くの増加がみられたのである。横須賀市の場合も、市制施行当時の一九〇七年、人口十一万三千余、戸数二万五十六戸が、一九二〇年には人口十五万四千余、戸数二万八千九百七十四戸に達していた。 こうした人口の集積・集中は、県の工業総生産価額が全国第五位の位置をしめ、その中で機械工業・化学工業・特殊工業の比重が過半数となるにいたった大戦期の経済発展と結びついたものであった。人口の増加・集中と大規模重化学工業を中心とする京浜工業地帯の形成とがからみあいながら、都市問題の本格化をもたらすことになる。横浜市を中心に、急速に工場の進出がみられた橘樹郡下の鶴見・川崎地域、そして軍工廠をかかえる軍都横須賀市などには、公害・教育施設・水道・清掃・住宅などの都市化にともなう問題がひろがっていった。 工場の進出と住宅の増加のなかで、大戦期からめだってきたのは、悪臭・煤煙問題というかたちで報道される工場による大気汚染問題であった。それは個々の工場が発生源として特定され問題化する形をとった。しかも工場側がなんら有効な処置をとらないために被害住民の深刻な運動が形成される場合がしばしばみられた。橘樹郡下の保土ケ谷町にあった程ケ谷曹達製造会社の煤煙問題はその典型である。工場が拡張に拡張を重ね、大工場となり、好況の中で昼夜運転をつづける一九一六年に問題は発生した。附近の樹木が枯死する様子をみせ、驚いた住民たちは程ケ谷曹達工場の煤煙が原因であると防止を要求して交渉をはじめた。ところが数度にわたる交渉にもかかわらず工場側は、なんの措置もとろうとしなかったのである。憤激した住民によって米騒動のさなかの一九一八年八月十六日の夜、工場は焼き打ちにあった。当日、工場との交渉の報告が工場の正門前空地で行われたが、集まった群衆は工場の門の方へ進み投石するうちに、工場は出火し焼失したのである。暴動の主謀者として、この会合をよびかけた町会議員・学務委員など十二名が逮捕され起訴されるにいたった。裁判で被告らは、煤煙被害の状況について「酸味のある吐気を催す様な風が来て、帷子部落の楓の樹は落葉し、桐の木は夏ながら赤く枯れる」「大豆程の煤煙が一面に降り、五、六寸も地上に積った」と述べている(『横浜住民運動資料集成大正編』)。 深刻な大気汚染は一九二二~二三年にかけて横浜市子安町で、大日本人造肥料・日本化学肥料・横浜化学工業の三社を発生源とする「有毒瓦斯」問題にもみられるが、この時期のもっとも大きな問題であったのは浅野セメント川崎工場の降灰問題であろう。浅野セメント川崎工場は、深川工場が降灰問題をおこし住民に移転を約束せざるをえなくなって建設されたものである。工場敷地は橘樹郡田島村にもとめられ、一九一七年七月から操業を開始した。この工場設置に対しても地元の田島村・町田村の住民の強い反対があったのだが、操業開始とともに降灰被害が発生した。「周囲一方里に亘りて粉末飛散し稲田赤色を帯び、作物の成育を害して収穫半減の状を呈し、梨其他の農作物は素より人体に迄被害ある」の状態をていし、「西北風の際は海面に降灰し、養殖の貝類は死滅し、殊に同地の産物たる海苔には乾燥の際と海陸合せて大被害の虞」をもたらしたのである。県庁は予防装置をつけることを会社に勧告したようであるが、防止設備は設置されず、一九二三年には大師町会が、工場取締規則にもとづき、工場の停止を命ずるよう知事に意見書を提出するにいたった。浅野セメント側は、見舞金支給によって解決をはかり、一九二四年に一万五千円の見舞金支給・防塵装置の設置などの協定がひとまず結ばれた。しかしその後も被害はやまず、紛争がつづくのである(『京浜工業地帯公害史資料集』)。 こうして工場化の進行にともなって大気汚染をはじめ公害問題のひろがりがみられたのであるが、それは大工場の進出のみでなく、住宅地化の進行とも関連するものであった。たとえば、横浜市内中村町の脂肪肥料製造化学工場の悪臭問題は、この典型例である。この工場は魚獣の腸を煮沸するので悪臭を発し住民は悩まされていた。ところが一九二一年四月に工場は火災を発生焼失した。工場主は工場の再建の出願を行ったが、これに対し「同地住民は再び土地の悪臭を放たれては今後新開地として発展上の障害」として陳情をはじめたのである。この工場は一九一二年に建設されたが「当時は民家も少く反対運動もなかったが、其後次第に発展して人家稠密」となったことが工場公害の問題をひろげる原因となっていたのである。 難問となったゴミ処理 人口の増加にともない、生み出される塵芥の量は膨大になり、その処理は衛生上からも重大な問題となってくる。この時期、塵芥処理は県下の市部で解決困難な難問となってきた。横須賀市では、市制施行にともない、一九〇九(明治四十二)年に市内の若松町に焼却場を竣工し昭和初年の川崎市堀ノ内の風景 川崎市立産業文化会館蔵 た。敷地三百五十坪、二連成炉の竈一基で可燃物は焼却し、不燃物は海岸のすて場に投棄することで処理していた。もう一つ、逸見町の海岸に存在していたごみ焼場は、海岸が軍用地となって埋め立てられたため、一九一一年には廃止となり、若松町焼却場のみにたよって塵芥処理が行われていた。ところが若松町の海岸もしだいに住宅がたちならび、住民の衛生面からも、また海岸埋立ての関係からも移転がせまられるようになる。一度は山崎海岸へ焼却場の建設が計画されるが、着工にいたらぬうちに関東大震災にあい、若松町焼却場の継続使用を余儀なくされる。しかも、その間に山崎海岸方面も急速に発展して焼却場の候補地とすることができなくなり、新焼却場が建設されたのは、実に一九三四(昭和九)年のことであった(『横須賀市史』)。 横浜市の場合、問題はもっと深刻であった。一つの処理施設も設置されていなかったからである。一九一九年には一日に排出される塵芥は二百トンにのぼっていた。各戸からの搬出は請負業者にゆだねられ、百五十台の荷車で置場まで運ばれた後、三十隻の塵芥船で一部は千葉県まで肥料として運搬され、他は滝頭の埋立てとして海中に投棄されていた。 横浜市当局も、この塵芥処分には困却していたのであって、すでに一九一四年には、滝頭埠頭の突端の一部分を焼却場の敷地として業者に提供し、試験的に焼却を行うとの計画がたてられたこともあった。これに対し、根岸・滝頭・磯子の町民は反対運動を展開した。この住民運動を支持して、『横浜貿易新報』は次のように主張した。反対運動は「我横浜市の大局的統一的経綸の上より見て、寧ろ大いに感謝す可き理由」がある。今さら「試験的設備」をつくらんとするのも「市理事者」の「怠慢」をしめしているが、「斯かる試験的施設の為めに、態々市是として我横浜市の保健的住宅地区と定めたる所の根岸、滝頭、磯子一帯の海岸を選びたる一事に至りては、吾人をして幾んど其非常識に驚嘆を禁ずる能はざらしむ」(大正三年六月二十六日付)。市理事者が、明確な都市計画をもたず、その場しのぎのやり方で住宅地区と考えられていた地域に焼却場をつくろうとすることが批判されたのであった。計画性をもたない都市化の進行がもたらす矛盾を、この塵芥焼却場問題はしめしていた。 したがって問題の解決は容易ではなかった。市当局も、一九一九年には焼却場設置以外に根本的な解決策はないとの態度をとるようになるが、その場所の選定は簡単にはいかなかった。根岸町の住民は、滝頭での塵芥処理に対し、一九一九年九月には、焼却・埋立ての中止を陳情し、その後も反対運動は継続していった(『横浜住民運動資料集成大正編』)。問題が山積するなかで一九二四年、市会は焼却炉の建築費をふくめ五十八万五千円の予算を可決し、敷地決定は不可避になった。根岸・滝頭・磯子地区をはじめ候補地としてあげられた地域の住民の反対運動がくりひろげられたが、結局、市会は市長に一任を決定、一九二六年に有吉忠一市長は滝頭突堤に決定して塵芥焼却場設置問題はやっと決着をみるのである。 深刻化する住宅難 第一次大戦のさなかから、めだちはじめた問題の一つが住宅難とそれにともなう家賃の高騰の問題である。大戦前までは、横浜の「市中目抜きの場所にTo Letとか貸家とか言ふ貼札が目障りになる位に貼られ」、一九一五年十月の調査では、市内の空屋数は住宅向きが六千四百十五戸、商家向きが千三百四十九戸で合計七千七百六十四戸も存在していた。それが、一九一1928年6月現在の滝頭塵芥処理場 『横浜の清掃事業』から 八年の末ごろには「市中に空屋らしいものが見当らない」「適当な家屋は勿論事務所にするような家屋迄も払底して一戸に二家族以上棲まったり二階借したり間借りしたりするような所謂同居連中が著しく増加して来た、店舗や事務所なども共同して使って居るようなものも決して少なくない」といわれる状況になっていた。しかもそれは、横浜市の棟数が一九一四年の四万八千八十五戸から一九一七年の五万二千二百二十六戸へ増加していながら生じた現象であった(『横浜貿易新報』大正七年十一月一日付)。 こうした住宅難は、家賃をめぐる紛争を引き起こすことになる。横浜市本町の俗称百軒長屋に住む借家人は一九一九年八月、家賃値上げを原因として紛争を起こした。この家屋には三十七戸が居住していたが、新たにこの家屋を買いとった酒商が、家賃倍額への値上げ、敷金五十円の納入をせまり、さもなくば、一週間以内の立ち退きをせまったのである。借家人の側は協議し、五割の値上げなら応ずるとしたが、家主はこれに応ぜず居住者一同にあけわたしを迫り、騒ぎになったのである(『横浜住民運動資料集成大正編』)。この紛争は、前の家主の調停でおさまったが、家賃値上げをめぐる紛争は横浜市設住宅運動場 『社会時報』から ひきつづき続発して「横暴家主」との声が高まることになっていった。 借地料をめぐる紛争もまためだちはじめた。横浜市西戸部町では、二万五千余坪の地所を購入した東京土地建物会社が、その所有地の借地人に対し、一九二二年七月、実に二十割から五十割の地代の値上げを通告したことを契機に紛争がおこっている。驚いた借地人たち百五十余名は、総代人を選び会社と交渉したが、らちがあかず、借地人の大会をひらくなどする運動になっていった。紛争は、一か月以上もつづき、強硬であった会社側も値上げした地代から二割を値下げするとの妥協案がだされるにいたった(『横浜住民運動資料集成大正編』)。 このように、家屋・地所の売買による所有者変更をきっかけとし、借地・借家料の値上げを原因とする紛争は、大きな問題となりつつあった。しかも問題は深刻化しながら、関東大震災をむかえることになるように思われる。一九二三年になると、横浜市富屋町で家賃値下げを要求する紛争が生じている。共同長屋に居住する七十七戸の借家人が、諸物価が下落する今日では、一畳あたり一円十銭から一円二十銭という家賃は、一円に値下げすべきであるとして差配人と交渉をはじめたのである。同長屋の「居住者はいづれも労働者のみ」で「要求の容れられぬ暁は長屋全部が結束して家賃を供託所に供託して、あく迄対抗する申合せ」をなしていたことにも問題の深刻化があらわれていた(同前)。 また、この年、横浜市社会課長が、借地・借家料値上げの斡旋にたずさわったことが問題化した。横浜市南吉田町に借地をもつ地主の依頼により、地代十割の値上げの交渉にたずさわった社会課長は、借地・借家人の側から「社会課長の位置にあって此の無謀たる値上の運動をすることは公権の濫用だ」と憤慨され、交渉から手を引くように要求された。さらに、東京借家人同盟の代表におしかけられて、辞職を勧告される騒ぎになったのである(同前)。ここにも深刻化する住宅問題が、借地・借家人の側に社会的不公正の感覚を高まらせていることがしめされていた。 二 都市改造の試み 「新都市論」の提唱 こうした都市問題の深刻化は、それへの対策を呼びおこすことになる。その中で、一連の本格的な都市計画・都市経営を提唱したのは、横浜貿易新報社社長の三宅磐であった。一九〇八(明治四十一)年に著書『都市の研究』を出版した三宅は、一九一〇年から横浜貿易新報社社長に就任し、横浜市政の当面する諸問題について次つぎと論説を発表していった。まず財源問題として日程にのぼってきたガス局払下げについては、原則的には「独占的事業の市営」を主張しながらも「其の直接経営を困難とし不便とするもの」は年限を限り私的経営に委託し、市民の利益を保つ「報償契約を結ぶ」を「権宣策」として、市会の財源調査委員会案に注文をつけつつ賛成した。また、横浜市第二次市域拡張については、現市域内の設備改良を放棄して工場招致による繁栄策を無条件に推進しようとする動向として、きびしく批判した。一九一三年の市会選挙区制の議決を県知事が不許可とした自治権蹂躙問題では、横浜市民による自治権擁護運動を訴えた(山田操『京浜都市問題史』)。 こうして横浜市政を対象に都市経営と自治を主張してきた『横浜貿易新報』は、一九一四(大正三)年、「新都市論」と題する社説を連載する(二月十二~二十一日付)。これは横浜市民が「横浜の新運命に就ては常に自ら講究し画策する」ための「資料を提供する」として「ホウエ博士が都市論」を掲載したものであった。社説は以下のように述べている。「都市には民主々義発芽し」「聡明なる政治的意識の覚醒」がみられる。また「都市は絶えず新事業を企て、新しき負担を引受けつゝあり、蓋し周囲の事情は都市を刺激し、百般の事物は都市に迫りて斯く為さゞるを得ざらしむる」からである。この都市は、次のような事業に着手しなければならぬ。狭隘なる住宅から広き郊外への移住を可能とする「家宅政策」、市民に休養を与えるために「公園、公衆浴場、運動場」などに加え「倶楽部や冬期娯楽場」などの公共施設、学齢児童就学問題の解決へ、製造工場の監視、児童への教科書・昼食の給与、交通機関の市有による交通費負担の減額、高等教育の普及と義務教育の実施、延長、さらに病人の看護制度、職業紹介所設置、工場の監督、等々である。これらによって「市民は之か為めに監督保護せられ、市を愛するの念養成」され、とくに「只数分間居酒屋に快を貪るの外、何等の慰安を得ざる幾十万の労働者に何物か之与へんとする」ことができる。 この社説は、市民が市政の担い手として自覚をたかめ都市経営が実行されることに明るい展望と期待をもちながら、その都市経営は都市下層階級を対象とする社会行政をふくんだものとして展開されねばならないとの見通しを与えるものであった。それは、京浜工業地帯の形成がはじまり、横浜への工場と労働者人口の集中とが進展しつつある状況に対応したものであった。こうした『横浜貿易新報』の主張は、一九一八年に連載された「新横浜の要求」(二月十四~十八日付)によりくっきりとあらわれている。「今日の横浜は、最早十年前の横浜に非ず」、その横浜に適応する施設がなされねばならない。では、その「新横浜」という由縁はなにか。「即ち今日の横浜は、四十五万市民を一団とせる横浜にして、而も其最大多数は、年々数万宛、断えず新たに加へられつゝある外来移住者たり」。だから「単り地主や家主と謂ふ階級のみを見ず、同時に是等の外来移住者をも包擁したる、四十五万市民全体を対象」とする施設経営がなされねば、それは「所詮時代遅れ」となる。このように第一次大戦下の人口の都市集中の現実をみすえながら、都市行政のあり方として、それが眼目としたのは、市政から「秘密を絶滅」すること、具体的には市会の常設委員制度の廃止であった。 こうして『横浜貿易新報』は、都市計画にもとづく都市改良の実施など抜本的な都市経営を主張しつつ、公設市場設置、職業紹介所の設置、下層階級のための医療施設などの必要を主張する。とりわけ米騒動の後では、市民生活の危機について警鐘をならし社会政策の実行を強調するのである。 社会行政・都市計画の開始 第一次大戦下の経済発展と人口の都市集中がもたらした社会矛盾の累積は、都市問題・社会問題への対応を、行政にとって不可避の課題としていた。物価騰貴による生活難の声は米騒動に先だって無視しえないまでにひろがり、横浜市では一九一八年はじめから民間有志らの手で木炭・米・味噌などの安売りがはじめられ、三月に野菜が暴騰すると市当局は県と協議して、その廉売が十日あまり実施された。次いで、米騒動が全国的にひろがる中で、八月十四日から県が、さらに県市が共同で外米の安売りを開始した。十月に県はこれを中止したが、横浜市当局はなお米廉売の必要をみとめ、この年の年末まで実施したのである。このようななかで公設市場の設置の計画が進められ、市内の富豪からの寄付金が集められ、十月三十日に市会で公設市場案が可決される。市内の青木町・西戸部町・南吉田町・北方町の四か所に公設市場が設けられ、販売を開始することになった(『横浜市史』第五巻下)。 相沢託児園 『社会時報』から 一九一八年、内閣は都市計画調査会をつくり、都市計画の推進をはかりはじめた。横浜市でも、市会は、市区改正、港湾設備と利用、交通運輸、衛生設備、教育及救済、財源調査などの市の改良を調査する横浜市改良調査委員会の設置と東京市区改正条例等の準用を決議した。一九一九年、原内閣は横浜市区改正委員を任命、横浜市にも市区改正局が設置されて市区改正事業がはじめられようとした。その四月に横浜市には大火災が発生した。関外埋立地の住宅密集地域にひろがった火事は関内にも飛び火し、面積にして約六万坪、戸数で三千余戸が焼失したのである。市は大火の善後措置を検討し、本来は第二期にあたっていた罹災地域の市区改正事業を第一期にくりあげ、道路幅の拡張・新設などを中心に事業を進めることにした。計画は、内務省の横浜市市区改正委員会や市会で五月には可決され、復興が進められていった(同前)。 都市計画法の制定・施行にみられるように都市問題への対応は、大戦後には重要な政策課題としてとりあげられるにいたった。横浜市都市計画局長の坂田貞明は、一九二〇年、「大横浜」の建設をめざす都市計画の骨子を発表した。それは、横浜を中心に半径十二㌖を最大限の都市計画区域と想定し、関内・関外・野毛山・神奈川から東神奈川駅附近を商業地域、西平沼町・岡野町・鶴見川沿線・田島村などを工業地域、南吉田から堀割川附近・神奈川の埋立地附近を商工混合地域、他を住居地域と地域指定することを考えたものであった。また、都市計画の中枢として第三期の港湾拡張を考え、上水道・ガス・電力の拡張計画の必要性を論じていた(山田操『京浜都市問題史』)。しかしながら、都市計画区域が一九二一年に決定したものの、商・工・住宅の地域指定は一九二三年まで決定にいたらなかった。市区改正事業も大火罹川崎市内に埋設された木製の上水道管 川崎市立産業文化会館蔵 災地域で進行した以外は、財源難を主要な原因としてほとんど進行しなかった。都市計画は、その必要が叫ばれ、計画立案は着手されながらも、事業としてはほとんど実施されるにいたらずに関東大震災をむかえることになるのである。 ただ、深刻化していた住宅問題へは小規模ながら対策が進められていった。横浜大火の際に集められた罹災者救助金の一部によって一九一九年には市営住宅七十戸が建てられる。八月の市会では、政府の低利資金・神奈川県救済協会からの寄付を資金として、市営住宅約千戸を建設する議案が可決された。実際に建設されたのは、中村町・神奈川町・根岸町・西戸部町にあわせて四百戸余であり、当初の計画を大きく下まわることになるが、こうして市営住宅が成立することになった(『横浜市史』第五巻下)。また横須賀市においても、一九二一年に佐野・逸見・不入斗に市営住宅百十四戸が建設されたのをはじめ、一九二三年までに二百戸以上にのぼっていった(『横須賀市史』)。 また、横浜市は一九一九年一月に慈救課を発足させた。その取り扱う業務は、慈恵を目的とする、諸施設、施療、罹災救助、救護横浜社会館娯楽室 神奈川県匡済会蔵 所、公設日用品市場、済生会、恤救及共済に関する調査及び実行などとされ、やがて社会課と改称されていった。慈救課―社会課は、細民長屋調査を実施するほか、市営住宅建設・公設市場増設を担当し、また職業紹介所も設置していった。こうして都市では社会行政が展開しはじめたのである。 神奈川県匡済会の成立と事業 県もまた、米騒動を契機に社会行政に眼をむけることになった。有吉忠一県知事は、一九一八年八月、横浜市長久保田政周、横浜商業会議所会頭大谷嘉兵衛をはじめ市内の有力者を招集し、社会問題の研究の相談会をひらいた。県が実施した外米の廉売には、下賜金・内務省配当金・県下有志寄付金など、あわせて五十八万円余の資金が集まったが、約十二万円余が剰余金として残っていた。これを資金として、社会救済事業に関する団体として「神奈川県救済協会」を新設するとの方向がうちだされ、十月の会合では、設立趣意書・会則が検討され、十二月には役員を決定するとともに、有吉県知事はじめ有力者三十七名を設立者に社団法人としての設立認可を申請することになったのである。 救済協会は、「県下ニ於ケル細民生活状態ヲ調査シ其ノ救済方法ヲ講シ之カ実行ヲ期スルヲ以テ目的」とし、そのための事業として「救済ニ関スル各種ノ調査研究」「調査ノ結果ニ基キ必要ト認メタル事業ヲ実行」「救済ニ関スル行政ヲ翼賛」するなどを掲げ、事務所を神奈川県庁内においた団体であった。その後、一九一九年十二月には臨時総会で定款における目的を「一般社会状態及生活状態ヲ調査シ之カ匡済ノ方法ヲ講シ」に改め、会名も「神奈川県匡済会」と改めることになった(『社団法人神奈川県匡済会報告』第一輯・第二輯)。慈恵的救済団体から積極的社会改良事業団体への模様がえが、名称の変更にもつながったのである。 救済協会が行った事業は、県が一九一八年実施した米穀廉売の残米の実費販売、木炭の安売りや、「窮民」への木炭および餅代の「恵与」、悪性感冒流行に対する救療費支出といった小規模の慈恵事業に他ならなかった。一九一九年七月の理事会で諸種の社会事業に着手することとなり、とくに第一として内地米一万石の買い付けをすることに決定した。米価が米騒動時よりも高値となり低落する気配もないので「人心動揺」をおそれ、事前防止の策をとることにしたのである。しかし、協会の資金が十万円程度の現状では、こうした社会事業の実行は不可能であった。会員をはじめとして百万円を目標に新たに寄付をつのることとなった。有吉忠一にかわって県知事となった井上孝哉は会長に、大島直道県内務部長は理事に就任したばかりであったが、この計画に大いに賛成し、横浜市及び橘樹郡の著名な会社・工場・富豪に寄付を呼びかけ、四十六口、百四万千円の寄付が集められた。こうして本格的に社会的施設の実施にふみだしたのであるが、計画されたのは、中産階級および俸給生活者のための住宅供給と労働者階級を対象とする「労働者合宿所及附設事業」であった。前者は、横浜市が計画する住宅建設へ資金を交付することとなり、後者は、横浜市高島町に横浜匡済館として六百余名を宿泊させうる施設を建設することとなり、一九二一年五月横浜社会館と名称を改めて開館した(同前掲)。 匡済会が実施した施設は、この他、一九二〇年に川崎公設市場・鶴見公設市場の開設、一九二一年に川崎社会館の開所・川崎公設浴場の開場があり、一九二二年には横浜社会問題研究所を設置し、横浜港内の西波止場と日本波止場の二か所に沖仲仕休憩所が開所している。横須賀市では、若松町に市営の公設市場が一九二〇年設置され、また横須賀市職業紹介所が一九二二年から一般職業紹介を取り扱うようになっていった(『神奈川県社会事業概要』一九二五年)。横浜市営の諸施設、川崎・鶴見方面を中心とする匡救会の施設、横須賀市の施設をあわせてみると、県下の都市部では旧来の救済施設とは異なった社会行政が、きわめて貧弱ながらも関東大震災前に、その展開の緒につきはじめたといえるのである。 第三章 関東大震災と県民・県政 第一節 災害の実情 一 地帯別にみた被害状況 九月一日 一九二三(大正十二)年九月一日、京浜地方は朝からときどき強い風と、ときおり襲う強い雨にみまわれていた。この悪天候も、例年のように二百十日を迎えるということで、人びとにとってはそれほど気にもならない。やがて雲も散り、日がさし、さわやかな秋空となった。いつもとかわらない朝であった。ところが、この空気をひっさくような事件がおきたのである。 午前十一時五十八分四十四秒、関東地方南部を大地震が襲ったのである。震源地は、相模灘北西部、足柄平野を貫流する酒匂川と大島を結ぶ線上の海溝の陥没と隆起によるもので、震度六、マグニチュード七・九といわれた。激しい上下動につづいて、水平動が重なり、最大震幅は約十二〓、周期一・五秒というのだから、歩くことはおろか、立っていることすらできない。 この時、県警察部高等課長をつとめていた西坂勝人は、庁内で地震にあい、「世の中はどうなるのか」と思い、戸棚がひっくりかえり、隣の郵便局がくずれ落ちる事態のなかで「世の中は壊滅するのじゃないか」と感じたそうである(西坂勝人「関東大震災をめぐって」『神奈川県史研究』一三号)。 被害は、東京・横浜・川崎だけでなく、後で述べるように、とくに神奈川県下の小田原・箱根・横須賀・鎌倉などでは大きく、惨憺たるありさまであった。この地震は近代日本の地震史のなかでその規模からみたら六番目であるにもかかわらず、災害が桁はずれに大きいのは、東京湾沿いの地盤のゆるい埋立地が激震地区で、しかも、地震発生時刻が昼食時であったせいもあり、倒壊した家いえから火の手があがり、街がぐれんの炎と化したからである。東京市は六五㌫、横浜市は全滅に近く、火災被害は震害をはるかに上まわっていた。 そのうち最大の惨状を呈したのは、東京では、江東地区の人びとが避難してきた両国横綱町の陸軍被服廠跡の空地である。ここでは、旋風のために火がつむじ風となり「生き地獄」と化して、三万八千人の命が失われたことは、いまなお、多くの書物で語り伝えられている。 当時、横浜市については、「全滅せる横浜-震災より戒厳令まで」という見出しで焼野原と化した市の事情を報じた『報知新聞』(大正十二年九月大正12年9月1日の山手公園 元街小学校蔵 四日付)は、「血みどろ市民」が右往左往し、「当時の光景を叙すべき形容詞は未だ人間によって作られしを覚えず」と、その猛火のすさまじさを伝えていた。 事実、何万人となく炎をかいくぐって難を避けて集まってきた横浜公園は水道管破裂のためにひざがしらまで、ところによっては腰あたりまで水びたし、火の粉とともに揮発性の爆発物が巨弾を発射するような音響を連続してひきおこし、空中で物が飛び散り、焼トタンの落下物がものすごく、手のほどこしようもなかったといわれている。それは、さながら「戦争状態」であった。 震災の日、県知事安河内麻吉の内相後藤新平あての『震災に関する報告(第一報)』によると、横浜市では、猛火がまたたく間に広がり拡するなかで、右往左往しながら黒煙に巻かれたり、灼熱に耐えかねて川中に身を投じて溺死したというような痛ましい犠牲者が続出した。そうしたなかで、九死に一生をえて避難した人びとは、市の山下公園に約五万人、掃部山・伊勢山に約一万人、本牧三渓園附近・磯子方面久保山に約一万人がひしめきあっていたという。そこでの人びとも不安どころか生きた心地すらなかった。 焼けおちた県庁 『大正震災写真集』から 県内各地の被害状況 これだけでも、災害は自然現象にとどまらず、すでに日本の都市文明のもろさをさらけだし、人災の感すらあった。しかも、この災害ショックは、とくに民衆を混乱の渦に巻き込んでいた。 この震災が、都市民衆の、それこそ生活のひだの内側に深くくいこみ、罹災者を激しい恐怖と動揺のルツボのなかに投げこみ、不安にかりたてた。震災地の人びとは、火災と三百回近い余震がくりかえされるなかで生きた心地すらない。横浜では泥とほこりにまみれた一群が、焦げ死んだ馬肉をひきさき、ある一団は下水道の流れでかわきをいやすというさながら「石器時代」にたちかえったようなわびしい光景があちこちでみられたという。 横浜市以外の郡市の状態はどうであったろうか。『震災ニ関スル概況報告続報(第六報)』によって整理して被害の大きい地域をあげると、以下のようになる。 横須賀市は全戸数約一万千八百戸の上は小田原駅前,下は小田原通商銀行付近(現在の本町1丁目付近)の状況 小田原市立図書館蔵 うちほぼ一・七㌫にあたる約千五百戸が被害をまぬがれただけで、ほとんどが倒壊もしくは半壊で、そのうえおよそ四千戸にのぼる家家が焼失した。また、横浜市の南部に接している久良岐郡下(現在横浜市)では、全家屋数の三分の二以上が倒壊するという惨状で、全壊が千二百十二戸、半壊は二千九百九十九戸にのぼっていた。倒壊家屋のなかには、大岡川村の村役場と小学校、金沢村小学校、日下村役場がふくまれており、道路の崩壊や、橋の破損など、惨害は甚大であったと報告されている。 さらに三浦半島の三浦郡・鎌倉郡下も横須賀市とともにたいへんな被害を受けた。三浦郡下では、三崎病院および三崎小学校が全壊したのをはじめ、浦賀船渠会社の工場と三崎警察分署が半壊し、全壊家屋二百五十戸、半壊家屋三百五十戸と報告され、浦賀町は断崖の崩壊などが数か所におよび、ほとんど町全体が全滅状態におちいったという。一方、鎌倉郡下をみると、鎌倉、戸塚(現在横浜市)、腰越・津(現在鎌倉市)の各町村は、ほとんど全滅のありさまで、鎌倉町と腰越・津村では火災が発生した。建築物の主な被害としては、戸塚小学校・役場・警察署・郵便局が全壊し、鎌倉郡役所・鎌倉警鎌倉建長寺 『大正震災写真集』から 察署が半壊するという被害を受けたのである。 ここで目を、京浜工業地帯の一角をしめる川崎町(現在川崎市)を中心とする橘樹郡下の被害状態に転じてみると、郡下の町村の倒壊家屋は、鶴見町(現在横浜市)を除きおしなべて七〇㌫以上に達していた。しかも、ここは川崎町を中心とする京浜工業地帯であるので、工場の被害も大きく、富士瓦斯紡績工場、明治製糖、東京電気をはじめその他工場の被害はおびただしかった。 さらに震源地に近い県西の地域の災害の実情をみると、足柄上郡をのぞいて、足柄下郡・中郡下の惨状はいちじるしいものがあった。足柄上郡は、他の郡市にくらべて被害は軽微であると伝えられているが、それでも倒壊・半壊家屋は、約七〇㌫ぐらいに達していた。県西でもっとも大きな被害を受けたのは、足柄下郡で、なかでも小田原町(現在小田原市)は町全体が全滅の状態であった。 また、中郡下も被害が大きく、倒壊家屋はおしなべて五〇㌫から六〇㌫にのぼったと伝えられている。この郡下で被害が大箱根宮ノ下付近の洋風建築 『大正震災写真集』から きかったのは、平塚の火薬廠で、この火薬廠は爆発をおこすとともに火災を発し、さらに、東海道線の平塚・大磯・二宮の各駅、それに相模紡績会社の工場も倒壊した。 県北にあたる相模原台地や山あいの地域の被害もまた大きかった。愛甲郡では、各地で地震と同時に火災が発生し、厚木実科高等女学校・税務署・郵便局・役場等が全壊もしくは倒壊した。なおこの地方は地勢の関係から崖崩れが随所にひきおこされていた。たとえば、玉川村・煤ケ谷村・宮ケ瀬村の山林では崖崩れは無数におよび、愛川村半原字馬渡では全長百五十㍍ぐらいにわたる崖崩れのため五戸が埋没し十五名が生き埋めになるという悲惨な事態がおきた。また、津久井郡下については、津久井郡長の県知事あての「震災事変報告」(九月六日)、あるいは「津久井郡被害及物資景況」(九月十九日調)でみると、家屋の全壊・半壊は、全戸数の約九㌫にすぎないが、通信・交通がまったくとだえ、陸の孤島と化してしまったありさまである。つまり、中野村より八王子市へ通ずる道路、愛甲郡北部への路、甲州街道への連絡路と主要道路がすべて不通となり、さらにその他の道路・山林・耕地松田町松田停車場付近の状況 『神奈川県震災誌』から は崩壊し、その被害は、まったく「稀有ノ変事」であると報告されていた(資料編11近代・現代⑴二五五)。 地震が火災を誘発し、さらに県下全域が震源地に直面していただけに各地で大小さまざまな規模の崖崩れ、道路破損等々地形を一変せしめるような被害が続出したことが災害を大きくしていた。しかも、鎌倉町方面と真鶴村・岩村(現在真鶴町)には海嘯(津波)が襲っていたのである。鎌倉では、強い地震と同時に、材木座、由比ケ浜、長谷坂ノ下、腰越、さらに、片瀬・江ノ島方面には、およそ十㍍近い津波が襲来し、由比ケ浜海水浴場にいあわせた約百名と、江ノ島桟橋通行中の約五十名は、いずれも行方不明になったと伝えられている。また、真鶴方面を襲った津波は、真鶴の海浜と岩村の一部を洗い去り、家屋および住民の被害は、すこぶる大きかったという(資料編11近代・現代⑴二五一~二五四)。 震害による損害の実情 では震害による県下の損失はどのようなありさまであったろうか。いま、郡市別に県下の被害世帯数をみると全焼・全壊から破壊まで含めてみると八六・五㌫にのぼっていた。このため、神奈川県の損失額は総計六千二十七万五千円という膨大な大山町の惨状 『神奈川県震災誌』から 額にのぼっていた。その内訳は、県歳入千万円のうち徴収残額六百五十万円中徴収不能を約三五㌫と見積り、その額が二百二十七万五千円、道路・橋梁の被害額が約五千万円、県庁・郡役所・警察署・県立学校その他の建物の損害額が六百万円、その他の損失額が二百万円となっている。 また、市郡の損失の状態をみると、横浜市が五千九十万円、横須賀市の場合が、建造物等の焼失・倒壊・損失等をのぞいて、第1表 郡市別被害世帯数 1) 『神奈川県震災誌』から 2) 数字は原本のとおり 百二十三万七千五百円にのぼっていた。なかでも、横浜市の場合、一般歳入千五十万円のうち徴収残額九百五十万円余の歳入の見込みがほとんどたたないありさまで、特別会計の電気・ガス・水道収入九百万円中、損失は六百五十万円にのぼっていた。また、施設の損害額は、道路の破損百二十万円、橋梁三百六十万円、河川損害千四百万円、電車軌道の損失二百五十万円、ガスの損失三百五十万円、水道の損失五百万円、市役所・記念会館・図書館・学校その他市の営造物の焼失、倒壊による第2表 郡市別罹災者・犠牲者数 1) 『神奈川県震災誌』から 2) 数字は原本のとおり 損失が五百万円などとなっている。 このような状態であるから、県知事は内相あての「震災後ノ民心及経済財政ニ及ホシタル影響ニ関スル件」のなかで、「市町村ノ財政ハ……将来目算立タス、将来ノ県市町村財政ハ政府ノ補給ヲ待ツニアラサレハ如何トモ経理スル能ハサルノ状態ナリ」と報告していた(資料編11近代・現代⑴二五四)。 関東大震災は、県下全域でこうして痛ましい数多くの犠牲者をだしながら、県・市町村の機能を奪っていったのである。 それは、県域全体をその根底からくつがえしたのも同様なありさまであった。 二 災害と県民の動静 「朝鮮人来襲」の流言と自警団 震災の渦中で被害に会った人びとは「人心恟々トシテ殆ト死生ヲ知ラサルカ如キ不安」のなかに放りこまれた。交通・通信がまったくとだえ、家族の安否を気づかう人びとの間にやがて「富士山が大爆発した」「大津波がやってくる」というようなデマがとびかった。そして、これにつづいて、一日の夕方から夜にかけて東京・横浜・川崎の一部で社会主義者・朝鮮人の襲来、一時釈放された囚人襲撃の流言が広がったのである。この流言の発生源は、さまざまであり、神奈川県下では国家社会主義者山口正憲が行った演説や罹災民が暴挙にさいして流布したともいわれ、他方では、地震発生直後の午後三時に川崎署、午後八時に横浜寿署からこの噂が流れていたという。 この流言は浮説にとどまっていなかった。九月二日夜、警視庁警保局長は全国に「不逞鮮人取締」を打電し、翌三日には関係地域の郡市町村にこの「注意ノ件」の通達がおろされていた。たとえば、神奈川県三浦郡三崎町(現在三浦市)の『震災関係書類』のなかには、「不逞鮮人」が罹災者にたいして暴行をくわえるだけではなく、井戸水などに毒薬を投げこむ事実もあるから、五人組などを活動せしめて自衛のみちをこうずるよう指令していた文書がある。 これは、れっきとした公文書(号外)で、三浦郡長名で各町村長あてに配られたものである。日付は九月三日になっている。その全文は以下のとおりである(資料編11近代・現代⑴二八四)。 不逞鮮人ニ関スル注意ノ件 今回ノ災害ヲ期トシ不逞鮮人往行シ被害民ニ対シ暴行ヲナスノミナラス井水等ニ毒薬ヲ投スル事実有之候条特ニ御注意相成度追テ本件ニ就テハ伍人組ヲ活動セシメ自衛ノ途ヲ講セシメラレ度 こうして、流言だけでなく、通達によって、この間、各地に自警団が組織され町や村の要所を固めていった。この自衛組織は、関東地方一円で三千六百八十九つくられたといわれる。消防組・在郷軍人分会・青年団などが中心となって、その任についた。かれらは日本刀・竹槍・鳶口・棍棒・猟銃・ピストルなどで武装し、いわゆる「朝鮮人暴動」説で興奮した人びとは、だれかれの別なく通行人を検問し、朝鮮人くさいとなると、たとえ日本人であろうとみさかいなく叩きのめし、虐殺さえした。自警団は、意図的に流された流言によったとはいえ、民衆の極度の恐怖心に基づいてあっという間につくられた。警察の機能が麻痺するなかで、それにとってかわる勢いにのり、その暴虐さは歯止めを欠いていた。こういうところに、明日に生きる目標を失っている多くの民衆のファナティックなあせりがあらわれていた。 自警団の組織はまったくの寄り集まりで、それぞれの思惑によって行動をとっていっただけではない。そこには、それだけの組織ルールがつくられていたことに注目する必要がある。たとえば鎌倉郡戸塚町の自警団組織は次のように決められていた(鎌倉郡役所『震災庶務書類』大正十二年)。 一 本団ハ火災盗難ノ予防匪徒ノ警戒ヲナスヲ目的トス 二 本団ハ戸塚町在住青年団、在郷軍人、其ノ他区長ノ選抜シタル有志ヲ以テ組織ス 三 団員ハ棍棒其ノ他護身用具ヲ携帯スルコト 四 本団ニ団長一名副団長二名ヲ置キ警察署ノ指導ヲ受クルモノトス 五 本団ヲ三部ニ分ツ 一部 元町 矢部 谷矢部 二部 吉田 一二三町目 矢沢 旭町 三部 四五六町目 宮ケ谷 松田 坂下 下郷 六 各部ニ部長副部長ヲ置キ団員ヲ指揮セシム 七 団員ノ勤務ハ午後六時ヨリ午前五時迄トシ二時間更迭ニ一部ツヽ勤務ニ服シ他ハ停車場前広場ニ休憩スルモノトス この自警団の組織ルールをみると、自衛のために上から実に手ぎわよく意図的につくられていることがわかる。ところで「不逞鮮人」が震災という異常事態を機会に「物資の掠奪強姦放火」を行うという流言は、横浜を中心にあっという間に広がっていった。 県下の朝鮮人殺害 この流言のために、都筑郡では余震が続発の最中に、すでに「不逞鮮人ノ襲撃説ハ一層民心ヲ脅威」にかりたて「在郷軍人及青年団員ハ挙テ之カ警戒」にあたり、人心はきわめて昂奮していたと伝えられている。また、久良岐郡の場合も同じ状態で、ここでは九月二日午後三時ごろから追浜飛行場付近の屏風浦・金沢その他隣接の村落に横須賀海兵団の駆逐艦および横須賀航空隊から海軍の兵士が武装上陸し警戒にあたってから人心が安定する傾向を示したという。とすると、海軍ではあるが軍隊の出動も迅速であること、それに、自警団の組織もたいへんはやかったということになる(資料編11近代・現代⑴二五一~二五三)。 自警団があちこちで組織されるなかで、県下の朝鮮人にたいする険悪な空気がみなぎっていた。川崎・鶴見方面ではその緊張度はいちじるしかった。川崎町には、当時約二百名の朝鮮人が居住し、平穏でなんらやましい行為にでる者はいなかったにもかかわらず、東京・横浜方面からの流言で、民衆の間に朝鮮人にたいする「憎悪反感ノ念」がつのりにつのり「殺気横溢」の状態におちいった。そのために、警察署が朝鮮人を安全な所に保護し、民衆に事実無根な事情を説明し鎮撫につとめた。しかし、昂奮した民衆は、勢いに乗じて警鐘を乱打し、法螺貝を鳴らし、竹槍・刀剣などをたずさえて随所で争闘を演じ、ついに死者四人(内地人一・朝鮮人三)、負傷者五人(内地人二・朝鮮人三)という不祥事をひきおこした。また鶴見に居住せる朝鮮人は潮田・鶴見を中心に約三百名に達し、土工部屋と国道事務所所属の土工部屋に寄寓し、善良であえて「不逞」を為すことなどはなかったが、やはり東京・横浜方面からの風評が宣伝せられたため一般の民衆は不安と恐怖に襲われ朝鮮人を憎悪敵視し、各自警団は凶器を持って警戒の任にあたり険悪の気がみなぎったので、保護のため朝鮮人三百八名を安全の個所に収容し極力其流言浮説を説示し民心の鎮静に尽したが、遂に随所に争闘を演在日朝鮮人殺害を報ずる『時事新報』大正12年12月2日付 『大正大震災記』から じ殺傷者をだしてしまった。 さらに、県西の小田原町方面では、熱海線の工事に従事している朝鮮人が、足柄下郡土肥村および吉浜村、箱根あたりに居住し、多くの者が平穏であったにもかかわらず、東京・横浜方面の避難民を装って大挙して朝鮮人が押し寄せてくるとの虚報で民心がいちじるしく悪化し、それぞれ竹槍・刀剣などをたずさえて警戒にあたり「殺気横溢」の状勢を生みだしていた。そこで警察署は「事実無根」であることを発表するとともに、凶器の携帯を禁止し、人心の安定に奔走し、事態を拾収したが、土肥村で労働者同志が衝突し、朝鮮人が日本の婦人を水田に突飛ばした事件がもちあがり、そのため、民衆は婦人を殺害したと誤認し、ただちに警鐘を乱打して消防組を召集し、その朝鮮人を追跡中たまたま他の台湾人二名に遭遇し、彼等を朝鮮人と誤って殺害したほか、真鶴村においても朝鮮人二名にたいして重傷を負わせる事件が発生した。 このような不幸な事件は戸塚地域と茅ケ崎町(現在茅ケ崎市)で朝鮮人殺害となってあらわれた。まず九月二日の午後四時ごろ、戸塚付近の川上村(現在横浜市)国道筋で、朝鮮人の発見に腐心していた青年団たちに触発されてか、通行人が朝鮮人三名を殺害したのである。また、藤沢町(現在藤沢市)の周辺では、朝鮮人とみれば「無抵抗平穏ノ者ト雖モ悉ク之ヲ殺害セントスル状勢」がつくりだされ、このような雰囲気のもとで、ついに茅ケ崎町で朝鮮人と誤認された日本人一名と五名の朝鮮人が殺害された(資料編11近代・現代⑴二八三)。 このようにみてくると、横須賀市在住の朝鮮人二百五十名が警察署の指示で市内の不入斗練兵場に救護収容されたのと、大磯・平塚方面の十数名の朝鮮人が相模紡績会社の死者発掘など労務に服して外出しなかったために、朝鮮人虐殺に巻き込まれなかった数少ない例外であるが、川崎・鶴見・戸塚・茅ケ崎・小田原方面で事件が発生したことは、流言と通達が一気に朝鮮人蔑視と彼等にたいする敵対感情をあおりたてていたかを推測することができよう。 しかも「朝鮮人暴動」説が虚報であり、嘘言で事実無根であるという訂正が九月三日から五日にかけて打ちだされ、地域におろされていたにもかかわらず、あっという間に不祥事件が続発したことは、災害による民衆の異常心理と差別感情が大きな流れとして社会の底辺で渦巻いていたということになる。 事実、九月三日、横須賀鎮守府・横須賀市役所・衛戍司令部の三者名で「当地方ニ於ケル朝鮮人ニ関スル噂ハ概ネ虚報ナリ彼等ト雖皆悪人ニ非ラス妄リニ虐待スルナ」という文書をだしていた。なかなかおもわせぶりな文体で恩恵的な意味をこめ「虐待」を断乎取り締まる強い規制にはなっていないが、不祥事件を防止しようという意図をこめている。そしてつづけて、横須賀在住の朝鮮人収容所を不入斗練兵場に設置したから「朝鮮人ハ同所ニ行ケ、安全ニ保護シテヤル」と、やや、恩きせがましく命令口調で指示していた。横須賀鎮守府司令部では、もちろん「不逞鮮人襲来」の有無を調査し警戒につとめていたきらいがある。その結果の確認から「虚報」を打ちだし、横須賀では、さきにみたようにことなきをえたということになるらしい。このことは、九月四日付の横須賀鎮守府司令部の「情報第二報」からうかがうことができる。この情報の一節に「不逞鮮人襲来」は何れも「虚言」であるという実例をあげているが、それは「陸軍ノ偵察」「海軍デ偵察」の結果とあり、あきらかに陸海軍がこの不穏な事態に干与していたことは、ほぼ間違いない。 このような朝鮮人襲来説にたいする措置は、のちにふれるように、九月三日の関東戒厳司令官の告諭のなかにも現状にたいする注意の一つとして「不逞団体蜂起ノ事実ヲ誇大流言シ却ツテ紛乱ヲ増加スルノ不利ヲ招カサルコト」とあるように、すでに自警団を中心とする自警組織による暴挙を戒しめていた。また、郡市の行政レベルで対処のしかたをみると、鎌倉郡の場合、九月三日の警戒指令をだしたその翌日には、郡長名で管内の小学校長・区長・町村長あてに「軍隊出動並ニ惨害概況通知」という号外文書を発し、軍隊の派遣を要請しているから、不安の念にかられている一般の民衆に「安定」をあたえると同時に「軍人分会及青年団ハ冷静ナル態度ヲ以テ軍隊ノ出動ヲ見ルマデハ従前ト異ナル処ナク防衛ニ努ムル」ことを要請するとともに「貴町村在住ノ朝鮮人ニ対シテハ暴行ヲ為サル」ようにとくに注意をうながしていた(資料編11近代・現代⑴二六〇・二六一)。 軍隊の警備配置を後だてに朝鮮人にたいする暴挙を戒めているわけであるので、そのたてまえと実情を区別することはむずかしいが、「朝鮮人暴動説」を「無稽ノ宣伝」であるとして、これを否定する措置も、わりあい手まわしよくとっているにもかかわらず、すでにふれたようにいくつかの不祥事件がもちあがっていたことは、たいへん大きな社会問題・政治問題となっていた。 朝鮮人救護 しかし、こうしたファナティックないきり立った民衆の一般的な動きとは別に、災難を受けている朝鮮人をかばったヒューマニスティックな動きがあったことも忘れてはならない。その行為の一端を中島司『震災美談』のなかからひろいあげてみることにする。 その一つは都筑郡二俣川村(現在横浜市)でのできごとである。この村の字今井に住む国方登は、毎日保土ケ谷町へ「土工」稼ぎに通っていたが、その現場で労働していた朝鮮人が四人、国方の家へ避難してきた。この村は横浜方面から街道に溢れんばかりに避難してきた人びとが、口ぐちに朝鮮人騒ぎの噂を伝えながらやってきたので、村の青年団や消防組は厳重に沿道を警戒していた。そのなかで今井の消防組頭の清水喜代は配下の消防員を引率して小学校傍の火の見櫓の下に陣取り街道筋の警衛にあたっていた。そこへ橘樹郡方面から二、三十名の自警団が竹槍や白刃を提げて押し寄せ、清水を道端に招き、この村に四人の朝鮮人がいるはずだ、彼らは皆「不逞鮮人」だから俺達に引き渡せ、自分達の方で処分するからと要求した。村内で人望の高い清水はフフンと鼻で笑いながら、四人の朝鮮人はたしかにいるが、君達は他村の人だ、此処は都田警察の管轄で、私らは警察の依頼を受けて彼等を保護している、その朝鮮人は「不逞輩ではない、良民だ」君達に引き渡すわけにはいかない答えて、これを拒絶した。渡せ渡さぬの押問答で一時間ばかり費やしたが、らちがあかないので、清水は立腹して強いて朝鮮人を受け取りたくば署長の許可を受けてこい、さもなくば渡すことは絶対にできない、「それでも無理をいうならこの今井の部落全体で君等の相手になってやる」と叫び、大勢の消防連中が、組頭の指図次第では一気に打ってかかろうとの気勢を示した。清水の威嚇に気遅れしたか一同は退散した。実際、ここでは朝鮮人騒ぎもなく、この四人の朝鮮人も五日に保土ケ谷の旧傭主方へ送り届けることができた。このケースは、自警団を組織しながらも、かえって朝鮮人をかばったさいたる事例である。また、当時、箱根山中の足柄下郡宮城野村字強羅の箱根土地会社には三十三名の朝鮮人労働者が働いていたが、地震のために会社の事業が休止になって彼らは失職し、食うに食われず、行くに行かれない窮状におちいっていた。しかも、朝鮮人にたいする村内の空気は一刻も早く彼らを追い払えと不穏になりはじめた。その時、村長瀬戸花吉は、ふかく朝鮮人に同情を寄せ、村民の反対をおしきって五十円と白米一斗五升其他副食物をあたえて、無事に帰鮮の途に就くよう取り計らってやった。しかも、この三十三名の朝鮮人労働者が九月四日帰鮮の途に就き仙石原村を過ぎようとした時、吉田よしという旅人宿の婦人が、一同を自宅の前に休息させその間に飯を炊いて饗応し、立去る時には握り飯まで持たせてやったと伝えられている。これは、村の指導者と名もない庶民の荒れすさぶ空気のなかでの美挙の一つである。このような朝鮮人に同情を寄せ、彼らをかばった事例は少なくない。 横浜市中村町の木賃宿鈴木作治は、震災当日一人の朝鮮人労働者が、焼け出されて避難先もなくさまよい歩くのをみて気の毒に思い、朝鮮人をかばったら危険な目にあうのを顧みず、その朝鮮人を自宅にともない九月十九日まで保護した。 また、横浜市井土ケ谷町の染物屋の主人佐々木金蔵は震災の際鮮人李徳他一名を自宅に連れてきて救護した。一名は火傷を負っていた。介抱している時血気の若者が数人やってきて、彼等は「不逞鮮人」だから引き渡せと強要したが、侠気に富んだ金蔵は頑として応じなかった。そして九日まで親切に世話してやったという。 さらに橘樹郡田島町渡田(現在川崎市)に住む請負師の鈴木虎助・高須栄吉の両氏は、震災当時田島町字渡田浜居住の朝鮮人約百三十名にたいし、民衆が迫害の挙にでようとする時官憲と力を合せて鎮撫につとめ、なお、食糧其他の配給に尽力した。横浜市花咲町の人夫請負業小西松太郎もまたその一人であった。 また、潮田町潮田二一九七番地、土木請負業の松尾嘉右衛門、田島町下新田の同業渡辺三三は九月二日の午後四時半ごろ鶴見の総持寺境内で、朴道元他十八名の朝鮮人労働者が、「不逞の輩」と誤解されて民衆に包囲され、危難にあっていたのを見てこれを救出して保護した。そして町民の反感をも顧みず彼らのために米五俵を贈り糧食の補いにしてやったという。 このような義侠心で朝鮮人をかばったケースは多く、潮田町土木請負師中田助次郎は九月三日の午後三時ごろ、潮田橋のそばで朝鮮人二名に土地の自警団員らが多勢で暴行を加えようとするのをみて、群集と朝鮮人の間にはいり、ねんごろにその不心得を諭して群集をしずめ、二人の菊名の蓮勝寺にある朝鮮人慰霊碑 朝鮮人を鶴見警察分署に連れて行き保護を依頼した。 それから潮田町の土木請負業山口政吉も九月三日の午後六時ごろ、鶴見町花月園前で通称金川という朝鮮人が群集に殴られようとしているのを救助した。 震災当時、あらかじめ警察署と在郷軍人会・青年団との間に協調が保たれ不祥事を事前にはばみ、事態を円滑に運んだ事例もある。 川崎町では、すでにふれたように、九月二日夜になり、朝鮮人騒ぎが次第に大きくなり、警察では太田署長以下署員が極力鎮撫につとめたが、民衆の気が立っているので、なかなか警察の方針が徹底せず署長もひどく困っていた。其処へ駈けつけてきたのは、町の医師で川崎町青年団長もつとめている高塚幸之助であった。高塚は署長にたいして、朝鮮人はどうするのか「不逞鮮人」は勝手にみつけ次第やっつけてもいいのかとたずねた。沈着冷静な太田署長は突然の問いに面喰いながら、朝鮮人にたいしては青年団の方で保護してくれねば困る、こんな時にこそ君らは警察と協力しなければならないはずと、朝鮮人保護の必要な理由を説いて聞かせた。高塚は「そうですか、いやそうでしょう、実は私もそう思っている」「じゃあ、これから私が団員によく言って聞かせましょう」と述べ、数名の警官とともに、町の内外十数か所に見張りをしていた青年団員にたいして、朝鮮人保護についての署長の方針を説いてまわった。当時、朝鮮人をかばう者がいたらただちに民衆から迫害を受けるような雰囲気であったが、高塚はその危険をおかして、よく民衆の軽挙を戒しめ、民衆から殴られながらも町内の秩序維持に努力した。 以上、紹介してきたように、朝鮮人をかばい保護し、援助の手をくわえる日本の民衆の動きと同じように、朝鮮人のなかにも災難にあっている日本人を助けた例もある。 九月一日横浜市本牧町の高梨勝造一家の四人、谷田芳枝ならびに鈴木重一夫婦、島田ひでとかねの以上三軒の家が無残に倒壊して九名の男女は下敷になり、悲鳴をあげて救いを求めていた。それを見てとんできたのは、本牧町の滝沢方にいた朴元植・李在坤・尹道和の三人であった。三人とも労働者だから、こんな時の働きはお手のもので、屋根をはがし梁をよけ、土砂を排してまたたくうちに九人を救いだした。 また、滝沢方に同居して居た姜福童・李周圭の二人は朴他二人が高梨家其他の救出にあたっている間に、本牧町柏たみ他一名、同町渋谷千代子の三名が全壊家屋の下に苦しんでいるのを、駈けつけて救いだしている。 このように、異常事態のなかで、日本人と朝鮮人の相互の助け合いが行われたことも忘れてはならない。こうした「異常」と「美挙」の明暗のなかで、災害の前後処理に多くの人びとは苦慮しなければならなかった。 第二節 県下の戒厳令と災害対策 一 戒厳令と災害処理の経過㈠ 戒厳令発令 震災による社会混乱の回復を一刻も早くはかるために、支配層は統制を強めていかなければならなかった。政府は、九月二日枢密院の議をへずして準備を重ねていた戒厳令第九条・第一四条を東京市と隣接五郡に、そして翌三日には神奈川県、四日には埼玉・千葉の両県に施行した。一九〇五(明治三十八)年講和条約反対の日比谷焼打事件のさいに発令されて以来二度目である。戒厳令は一種の臨戦態勢のもとで外患あるいは内乱にさいして適用されるのをたてまえとしている。震災はそのいずれであったのか、どちらでもない。流言飛語をきっかけにして発令されたのである。こうして、地方行政事務・司法事務も軍事に関係のあるかぎりすべてが現地の司令官の手にゆだねられ、民衆も法律に認められているいっさいの権利を奪われることになった。 関東戒厳司令官福田雅太郎は、三日、「関東戒厳司令官告諭」を発表し、食糧分配のさいの秩序紊乱・不穏破廉恥行為を注意するとともに「不逞団体蜂起」の事実を誇大に流言し混乱を大きくする不利を戒めた。また、戒厳地域内における通行人の検問は軍隊・憲兵および警察官に限定し、自警団や民衆に武器・兇器の携帯を許可しないことを呼びかけた。「関東戒厳司令官告諭」は以下のとおりである。 今般勅令第四〇一号戒厳令ヲ以テ本職ニ関東地方ノ治安ヲ維持スルノ権ヲ委セラレタリ 本職隷下ノ軍隊及諸機関(在京部隊ノ外地方ヨリ招致セラレタルモノ)ノ全力ヲ尽シテ警備救護救恤ニ従事シツツアルモ此際地方ノ諸団隊及一般人士モ亦極力自衛協同ノ実ヲ発揮シテ災害ノ防止ニ努メラレムコトヲ望ム 現在ノ状況ニ鑑ミ特ニ左ノ諸件ニ注意スルヲ要ス 一 不逞団体蜂起ノ事実ヲ誇大流言シ却ツテ紛乱ヲ増加スルノ不利ヲ招カサルコト帝都ノ警備ハ軍隊及各自衛団ニ依リ既ニ安泰ニ近ツキツツアリ 二 糧食欠乏ノ為メ不穏破廉恥ノ行動ニ出テ若クハ其ノ分配等ニ方リ秩序ヲ紊乱スル等ノコトナカルベキコト 右告論ス 大正十二年九月三日 関東戒厳司令官 陸軍大将 福田雅太郎 この告諭が狙いとする民衆の「救護救恤」と「自衛協同」の効果をあげるという点はともかく、ここで掲げているように朝鮮人虐殺事件を拡大することは、日本の朝鮮統治の上からみても、また、諸外国にたいしても得策ではないとみている点である。駐日アメリカ大使ウッズからは政府に警告が行われたとも伝えられている。この点が一つ。もう一つの面は、にもかかわらず「不逞団体蜂起」の事実を「誇大ニ流言」することを戒しめている文章がものがたるように、朝鮮人・社会主義者の暴動はあながちデマではなく、朝鮮人のなかには善人もいるけれども不穏な動きはあるとにおわせ、ただ誇張してはならないと説いていたことである。要するに、体面を保ちつつ、軍隊によって朝鮮人・社会主義者への弾圧を強めようという狙いがなかったとはいえない。 戒厳令施行下の町村 では、九月三日、神奈川県に戒厳令が施行されるにあたって県民にどのようなかっこうでその事情が説明されたであろうか。その点について、橘樹郡大綱村の場合を飯田家蔵『未曽有大地震関係書類』(大正十二年)にある九月四日付の告示によってとりあげてみる(資料編11近代・現代⑴二五八)。 告示は、まず東京府と神奈川県に戒厳令が執行されるとともに関東戒厳司令官に福田陸軍大将が勅命されたこと、そして近衛及第一師団(甲府・佐倉を含む)をはじめ千葉教導連隊、宇都宮歩兵二個連隊、高崎・高田歩兵二個連隊、その他仙台・弘前・金沢・豊橋・名古屋・広島の工兵諸隊が戒厳の任にあたり、東京市外の諸隊は三日の朝来現地に陸続到着しつつあることを伝えている。そして、この戒厳の意味について、これは「戦時又は事変に際し兵力を以て一地方を警戒する事」であり「地方の行政司法事務を戒厳司令官の管掌に委するものなる事」そして、今回は「特に市町村民の惨害を軍隊の実力を以て救護救恤」しようとする趣旨によっていることを強調し、したがって「市町村民諸君は軍隊の行動に力を協せて同胞の救護と秩序の維持」につとめるよう、告示は切望している。なお、この告示は、このような文言につけくわえて、「不逞鮮人」については「三々伍々放火の事実」はあるけれどもすでに軍隊の配備が完神奈川県内警備部隊配要図(9月中旬) 『神奈川県震災誌』附録から 了に近いから、もはや決して恐れることはない、「数百数千の鮮人」が襲撃するなどという無稽の宣伝に迷わされないことが肝要であると述べていた。 戒厳令についての大綱村の告示は、他の郡市町村の告示にくらべると、すこぶる丁寧である。もっとも簡単なものを鎌倉郡役所『震災庶務書類』(大正十二年)でひろってみると、鎌倉郡の場合、一 戒厳令が施行とともに、九月三日以降、軍隊が到着しつつあること、二 「不逞鮮人」について大綱村のそれと同文で「無稽ノ宣伝」にまどわされないこと、この二点を簡単に記載しているだけであった。では戒厳令施行にともなって、どのような注意が行われたであろうか。 まず、戒厳地司令官の告諭およびその他の情報等々がそれぞれの町村におろされたときには、そのつどそれを大書し、町村内の適当な場所に掲示しその内容を町村民に周知徹底せしめるようとりはかるようにすること、そのためには、町村役場の吏員だけでは手不足であるので、小学校の教員等適当な人物を援助にあたらせることを要請していた(三崎町役場『震災関係書類』大正十二年)。 治安維持と救恤保護 このような戒厳令の施行と民衆との関係のネット・ワークを設定して、そのうえで、どのように具体的に命令事項をくだしていったのであろうか。いま横須賀鎮守府の「横戒司令第一号」(大正十二年九月六日)の命令をみると、横須賀鎮守府内に設けられた戒厳地司令部(戒厳地指令官野間口兼雄海軍大将)を四つの地区に分け、そこに各地区指揮官部を置き、地区指揮官は、司令部の意向をうけてそれぞれの地区内の「治安維持ヲ担任シ、地方官憲ト協力シテ罹災民ノ救恤保護ニ努」めしむることを任務としていた。ここの戒厳地区は、横須賀戒厳地区(逗子町・田浦町・葉山村)、逗子戒厳地区(逗子町・久里浜村・北下浦村)、三崎戒厳地区(初声村・長井村・三崎村・南下浦村)の四地区に分けられている。 そこで、それぞれの戒厳地区指揮官のもとで、治安維持と罹災者の救恤保護のために、以下のような仕事にたずさわることになっていた。その内容を列記すると、一 食糧の徴収ならびに分配、二 建築物およびその材料の徴収ならびに分配、三 衛生材料の徴収ならびに分配、四 被服の徴収ならびに分配、五 燃料の徴収ならびに分配、六 運搬具その他の物件の徴集ならびに分配、七 労務の徴収ならびに分配、八 その他、必要と認められる事項となっている(資料編11近代・現代⑴二六三)。 このような取り扱いの事項を戒厳司令部はどのように対処していったであろうか。その一端について九月八日午前十時現在の模様を「情報第三」(三崎町役場『震災関係書類』)からひろいあげておきたい。 まず食糧の供給についてはその補充作業もだんだんと進捗し、一両日中には食「パン」等も市中に現れ、点灯作業も応急の措置により目下着々と進展し、予定としては十日前後には市内の一部に点灯をみるであろうとの見通しをたてていた。 また、鉄道については、目下陸海軍の応援によって、そう遠くない将来に開通の見込みがたっていること、鎮守府への情報では東京・鎌倉間の開通は十日ごろになると伝えていた。 さらに、問題の伝染病を防止するために海軍では救護所を徐々に設置し、今後悪疫等が流行すれば震災以上の大惨害を来すので生水を飲まないことを互に警戒することを強調していた。また、飲料水の供給に関して、走水水道の復旧工事もようやく進展し、すでに七日から小量ずつではあるが小川町まで水船を曳航して市民に配給をはじめたという。右の戒厳令下において海軍の指導による災害復旧の初期の事情は、横須賀市を中心とする情報であるが、市民の生活に直接必要なことがらについての処置や作業はかなり敏速であった。 ところで、災害復旧と罹災者の生活救助のうち、野間口戒厳地司令官は、伝染病の防止に留意し「横戒令第五号」(大正十二年九月十一日)でこの点についてとくに命令をだしていた。内容は三点にわたっていて、その一は、市町村が伝染病の流行を未然に防ぐことにつとめ、其の手段については横須賀戒厳地区内では鎮守府軍医長、其の他では各戒厳地区指揮官と協議し遺憾のないようにすること、その二は、市町村はすみやかに伝染病院の復旧につとめ患者の収容に支障のないようにすること。その三は、市町村はその地域内の在住医師が伝染病の疑いのある患者を診察した時はとくに警察署に至急届出て患者を隔離するように漏れなく厳達すること、以上である。伝染病を未然に防ぐことは、県下の全域において共通の課題であった。その処理の方式を横須賀鎮守府の戒厳地はみごとに示していたといえよう。 食糧確保と伝染病の発生 また、食糧の確保とその分配に関しても、横須賀市内では、さしあたり主食の米について次のような「告達」(大正十二年九月十一日)をだして混乱を防ぎ、民心の安定をはかる手だてをこうじた。その指示は、現状においては「米の配給」に主眼をおき、十三日以後、米穀商をして米を売渡すようにし、その価格を白米一升四十一銭、玄米一升三十六銭、米国玄米一升三十三銭、外米一升二十四銭と定めた。そして、現在行っている施米を九月十七日から廃止する方針を打ちだしていた。もっとも、窮困者に対しては市役所の証明により米穀商をして配布の任にあたらせることとした。なお、横須賀戒厳地区以外横浜市地蔵坂給水所の飲料水適否掲示 『神奈川県震災衛生誌』から では各其情況におうじて各戒厳地区指揮官に処理させることとした(資料編11近代・現代⑴二六六~二六八)。 こうして、横須賀戒厳地司令部の管轄下では、海軍の各部隊は「日夜寝食ヲ忘レテ警備救護」の任にあたっていたという。そこで、海軍のプライドにかけて、横須賀鎮守府は「横鎮災日報第二二号」(九月二十三日)で「今ヤ応急ノ施設漸ク其ノ緒ニ就キシト雖モ尚戒厳中ニシテ上下共ニ軍隊ニ頼ルノ秋各自相戒メ謙譲自ラ持シ懇切人ニ接シ益々規律ヲ重ンシ節制ヲ守リ以テ其ノ信頼」に応えることをそれぞれの所轄の長に訓示していた。そして、軍艦を特務艦として活用し、警備と救護の効果をあげていたのである。その活動内容は、一般の避難民を大阪方面に運ぶとともに、生活の諸物資や水を運んできたり、朝鮮人を収容保護したり、さらに、通信・連絡や震災地域の海面の測量にあたったりしていた。 このように海軍の機動力のせいもあって、食料の確保とその配給もかなり順調にことが運んでいたようである。また、住居をはじめとする建築物の資材集め等も、第四表が示しているように、かなり広い地域から調達することができ、復興への見通しもたっていた。 この間の事情の経緯については、また、三崎戒厳地区指揮官森初次大佐の「管下町村長警察官憲ニ告諭」(九月十七日)という文章によっても推察することができる。 第3表 横須賀戒厳地司令部内の食糧品の配給概況 横須賀鎮守府「横鎮災日報第22号」(1923年9月23日),三崎町役場『震災関係書類』から 第4表 横須賀戒厳地司令部内の建築材料の蒐集状況 横須賀鎮守府「横鎮災日報第22号」(1923年9月23日),三崎町役場『震災関係書類』から ここにはまず、戒厳態勢をしくにあたって、「治安ノ維持糧食ノ配給災害ノ復旧等」について説明しておいたその目論みが、その後「各官憲ノ協力ト奮励トニ依リ着々其功ヲ収メ今ヤ諸事面目ヲ新ニスル」にいたったことが明示されている。したがって、震害からの回復は短期日のうちにその効果をあげていることが知られる。 そして、この間、九月七日の治安維持の為にする罰則に関する件などの緊急勅令、九月十二日の帝都復興に関する詔書が発布されているので、地区指揮官は、詔書が示す大綱の指示にしたがって官憲がこの際「一層奮励善後ノ策ニ努力シ万遺憾ナキヲ期」すよう指示しながら、現状でもっとも憂慮しなければならないのは「伝染病ノ予防」であることを述べていた。 地震による災害の渦中で罹災者たちは難儀をきわめていた。横須賀市を中心とする地域の場合は、海軍の機動力によって事態の収拾は、ことの他順調に進んでいたようである。しかし、それでも赤痢・チフスなどの伝染病の発生とその蔓延には、神横浜市寿小学校裏の給水場にならぶ人びと 『神奈川県震災衛生誌』から 経を使わなければならないほどの深刻な問題であった。 ところで、県下の他の地域をみると、生活を維持するうえでも困難なありさまであった。横浜市の場合、渡辺市長の説明によると、チフスが発生したうえに、入港してくる食糧も、小船・船員・人夫・燃料不足のため陸揚げが困難であり、急を要する避難所の建設、道路・橋梁の応急修理も、大工・人夫・用具の不足で見通しがたたず、飲料水すらこと欠くありさまである。また燈火がないことも苦痛であると訴え、こうしたために住民を他府県へ避難させようと考えていた。実際、多くの罹災者にとっては、住居・食糧をはじめ日常必需品の欠乏は大きな不安となっていた。あとで述べる救護事務局神奈川県支部の報告によると、避難民収容に必要な「バラック」建設は思うようにすすんでいない。食糧・日常必需品に関しても、橘樹郡大綱村役場の九月十一日の調査を例にとると、塩・米・ロウソク・マッチ・釘という物資が欠乏し、糧食は十四日ぐらいまではなんとかなるが、以後は、村内での供給は不可能であると公表していた(飯田家蔵『未曽有大地震関係書類』)。 こうして、多くの町村は、米の確保につとめるほか、県保有の外米、民間会社の小麦粉・砂糖の供給を受けるなどして食糧を確保しようとしてい横浜市弘明寺の給水場に集まる人びと 『神奈川県震災衛生誌』から たが、近郊町村は東京・横浜からの避難民で身動きもとれなかったという。たとえば、川崎町の人口は、『川崎市史』によると、これまでの二倍に達するほどであった。このような事情のため、物品の調達も円滑を欠き、当局からの配給は町村間で「分捕」同然となり、役場では「強力ノモノ出役ノコト」と村内に触をださざるをえなかった。 「未曽有の大震災は惨憺目もあてられぬ」としるした「大綱時報号外」(九月二十七日)は、伝染病の流行も手伝って「不幸の極実に言に絶す」とどうしようもない絶望的状況を告げていた。にもかかわらず、この悲惨な事態を克服するには「村民が協力一致」してことにあたる以外ない。 二 戒厳令と災害処理の経過㈡ 陸軍の配備 災害の復旧を促進し、民心の安定と生活の保障をはかっていくことは、町村の実情によって多少の違いはあるが、がいして頭の痛い問題であった。こうした課題を解決するためにも、社会秩序の回復を期して、戒厳令のもとで警備隊といわれる軍隊が、陸軍の場合どのように配置されていたか、鎌倉郡下の状態を、同郡役所『震災庶務書類』(大正十二年)によってみておくことにしたい。 この資料によると、戒厳令がしかれたころには、軍隊の各町村への派遣は適切に、しかも、迅速に行われていたとは思われない。たとえば九月八日、永野村村長は、鎌倉郡長あてに「軍隊出動ニ関スル件」(永発第一九六号)で、永野村は横浜市に近接している関係上「不逞団体又ハ盗賊等ノ侵入」の報がひっきりなしに伝えられ、そのために、村民は昼夜とも警戒の任につかざるをえなくなり疲労がはなはだしく、しかも戒厳令がしかれたにもかかわらず「軍隊ノ来村ナク管内戦々恐々」の状態で「日夜安キ心地」もしないから、大至急軍隊を派遣してくれるよう申請していた。このように、軍隊の出動を要請しなければならないほど不安な状態が続いている町村もある。では、村々の警備態勢はどうなっていたか。郡役所の九月十四日付「警備隊配備」に関する調査への町村ごとの報告によると、以下のごとくである。川口村は二十五名の将兵、深沢村は警備隊の駐屯もナシ、豊田村も同じくゼロ、川上村は兵員五名、小坂村玉縄村組合村は大船駅に本部兵員五十名、小坂村台の分遣所に八名、大正村は二十四名の兵員と下士官、戸塚町は歩兵一個分隊、鎌倉町は大隊本部と二個中隊で兵員百六十名、本郷村は兵員下士官七名、中川村は十七名の下士官兵員。このようにみると、郡役所のある鎌倉町や交通機関の要地に重点をおき、兵士の駐屯の配置は町村の実情によってかなりの差異をみせている。そのために、さきにみたように永野村のように軍隊の駐屯を要請するところもあるかと思うと、深沢村・豊田村のごとく駐屯の必要を認めない所、逆に鎌倉町のように、百六十名の兵員でも、現状では「横浜金沢横須賀藤沢ニ通スル主要道路及物資集積所ヲ警備」するのにとどまり、予備隊もないありさまなので「急ヲ要スル場合策ノ施シ様」がないこと、町域には海岸が広く多くの谷地があるので、夜間の安寧を保持するうえでも巡察隊を必要とすることから兵員の増強を一個小隊分訴える町もあらわれていた復旧した酒匂橋に立つ兵士 『大正震災写真集』から (資料編11近代・現代⑴二七三)。 軍隊の活動 では、陸軍では警備隊が各地に配置されているなかでどのような仕事に着手していったであろうか。その一端について、九月十三日付の小田原方面警備隊司令部での事例を、津久井郡役所『庶務回議』(一九二三年)でみておくことにする。これによると、「会報ノ件達」となっていて、つぎのように十項目にわたっている。 一 地方民ニシテ軍人ノ服装ヲナシタルモノヲ取締ノ件 二 伝染病就中赤痢「チブス」ノ如キ飲食品ノ媒介ニ依ル伝染病予防ニ特ニ注意スルコト 三 足柄上郡及各郡内ノ町村字現在人及物資数量ノ概数ヲ調査シ十二日迄報告ノコト 四 食糧品其他諸品ノ配給ノ数量ヲ調査計画シテ報告スヘシ 五 道路ニ倒レタル家屋露店ノ交通ヲ妨クルノヲ速ニ除去セラレタリ 六 電線ノ切断ニ就テハ前回ニモ述ヘタルモ其ノ跡ヲ絶タス罹災民其他ノモノニシテ破壊ノ行為ヲ認メタル場合ニ於テハ軍部ニ通達セラレンコトヲ乞フ 七 会報ニ付上中愛甲等ノ郡吏ハ遠距離ニシテ同情ノ至リナルモ一般ノ事情ヲ顧慮シ出席相成度又自動車ノ御使用願度 八 小田原在郷軍人ハ救助ニ従事セラレタシ 九 郵便局ノ郵便物取扱ハ「罹災郵便」ト表記スヘシ但シ東京横浜横須賀ノ火災ニ罹リタル所不明ナルハ取扱ハス 十 小田原ニ左ノ如ク救護所ヲ開設ス Ⅰ小田原北部 Ⅱ小田原 Ⅲ小田原西部 Ⅳ祥福寺 この内容は、災害復旧に関する指示、秩序回復のための指令、あるいは取り締まり事項等々を雑然とならべたふしがあるが、注目すべきことは、小田原町を中心とする足柄下郡をはじめ県西・県北の各郡と警備隊司令部との連絡を密にして連日のように状況説明の会報を提出させていたことである。そこで、その実情の一端について、地方官公吏会報日を今後奇数日とすることをとりきめた九月二十一日までの間の動きをとりあげておくことにする(資料編11近代・現代⑴二七五)。要するに、九月十四日から二十一日までについてである。 この会報事項でまず指摘しなければならないのは、戒厳令に関することで、この点については、行政事務は平常どおり郡長のもとで取り扱うようにして、軍備に関しては、警備隊司令部より申し達することもあるので、しかるように配慮することとし、さらに、午後九時から午前四時までの「夜中通行禁止」の命令をだしていた。ところで、戒厳に関連してすでに問題になっていた軍用電線の被害が続出し、そのために、電線の切断やとりはずしの事故を防ぐようその保護を注意していた。それほど、物情騒然とした状態が跡をたたないというありさまであった。こうした災害という異常事態のもとで、社会問題に類するようなできごともひきおこされていた。その一例としてあがっていたのは流材の隠匿であり、ようやく通行が可能になった人力車・馬車の乗車賃の暴利問題である。前者については、警察署に通報することとし、後者に関しては、これまでの三年間の運金を調べてこれをもとに運金表を定める方策をとっていた。また、一般に罹災地への救助米慰問品の配給をめぐって公正さを欠いているためか、一般に非難の声があがっていた。 災害の復旧 こうしたなかで、地震による道路の破壊、交通網の切断等の復旧工事はかなり迅速に進んでいたようである。すでに、地震の日から二週間後ぐらいには、小田原町から西方面にかけては箱根の湯本まで、また、東の方へは平塚町を経て中郡相川村戸田丈上まで自動車が走れるようになっていた。そして、東海道線は十八日ごろには平塚から国府津を経由して松田まで開通の手はずが整っていた。こうして、小田原から静岡へ避難民の輸送を開始していたのである。ただ、このような道路復旧工事も仮作業のせいもあり、雨による出水のためにしばしば頓座せざるをえず、中旬の大雨は酒匂川、馬入川の仮橋や橋を流失し、酒匂川の場合は、鉄道橋を歩行するだけとなり、水が引くのを持って、一時、渡船をもちいなければならなかったという。ましてやせっかく開通しはじめた自動車も中止せざるをえなくなり、小田原から根府川、真鶴までは駄馬の通行だけになってしまった。 災害復旧作業と民衆の生活の安定をはかる実際のとりくみは、困難をきわめていた。この間、九月二十日には戒厳令司令官は福田から小梨半造大将にかわり、九月下旬ともなると「軍隊引揚モ近キニアル」といわれるような見通しが軍隊内部から打ちだされ、そのために一刻もはやく「平常ニ復スルコトニ意ヲ用」いることが強調されていた。 なかでも、小田原方面警備隊司令部が、はやくから食糧の欠乏という点で重視し、同司令部から中央へ報告して食糧を八王子方面から輸送することにしていた津久井地域については、十月三日付で津久井郡役所にたいして「震害復旧ノ推移ニ関スル件照会」という調査を依頼していた。この調査依頼は、鳥屋村と破損の多い町村にかぎられ、調査事項も一 小学校の開校の状況、二 商店等の営業開始の概況、三 電燈点火の状況、四 倒壊・焼失家屋復旧の状況、五 井戸水道其他飲用水の破損ならびに復旧の状況、六 建築材料の購入・将来の方針・実行手段等の状況、七 その他復旧の推移に関する参考事項等であった。これにたいして、中野村と鳥屋村(現在津久井町)から、以下のような報告が行われていた(資料編11近代・現代⑴二七六)。 はじめに中野村の現状についてみると、以下のようになっている。まず、小学校の開校の状況について、校舎は破損したが応急修理を行って九月十四日授業を開始したところ、児童の出席の状況は平常どおりであり、焼失・流失等の被害がなかったから教科書は不足していないし教育方法も平常と差違なしと報告されている。また、商店の開店については、震災当時はほとんど停止の状態であったが、九月十五日ごろより漸次開業した商家戸数は大小あわせて百三十戸である。そして、物資の状況であるが日用品は多少所持していたが、米穀はほとんど無く交通が杜絶したために米穀の欠乏から人心は不安をきたし、そのために、消防団・青年団・軍人分会等の手で道路の応急修理を行い、かろうじて八王子方面から米穀を仕入れて販売している状況である。けれども、いまだ潤沢というほどではない。さらに、電燈点火の状況について、応急として幹線を修理し、幹線が通ずる区域は九月二十六日一家に一燈点火し外燈は従前のとおりに点火しているが、現在では幹線区域外へも点火することができるようになり、九月五日調べの倒壊住家七十六戸も不完全ながら全部復旧した。したがって、仮小屋施設の戸数はまったくない。それから井戸・水道・飲用水の破損並に復旧の状況についてであるが、この村では震災まえに井戸はなく、水道(竹樋を以て引用せるものを含む)二十樋が存在していたが、そのうち、十九は修理を行ったが完全でなく、簡易水道は目下、復旧工事中で通水の予定もたっているとのことである。 なお、建築材料の状況であるが、他の郡市から購入した材料は無く近くの村の材木店から購入して間にあわせ、現在では他へ搬出している状況であり、金物材は八王子方面から購入しているが品薄のために価格騰貴の状況であるという。 つぎに、鳥屋村についてである。この村では山林が崩壊し十七名が生き埋めになるという被害がでていた。小学校の開校も校舎が破損したために、応急修理を加え順をふんで児童生徒を登校させていた。すなわち、九月十七日尋常五、六年并高等科、九月二十五日尋常三年以上、十月一日全校生徒というぐあいである。そのためもあってか、児童の出席の状況は平常と大差がなかったし、教育方法も平常のとおり教科書の不足という問題もおきていなかった。また、商店等の営業開始に関して、震災当時はほとんど停止の状態であったが、九月十六日ごろから漸次、在品の販売を開始した。しかし馬石部落の山崩れで交通が杜絶し入荷が皆無となり、したがって需要者は串川村関方面からかろうじて購求するというありさまで、村役場でも食糧(米穀)は八王子方面から購入し、配給しているという。しかもこの村では、十月にはいっても電燈をもちいることができない状態である。 さらに、この村の倒壊・焼失した家屋の復旧状況はどうかというと、修理は九月四、五日ごろからはじめ、倒壊住家五十五戸(全潰・半潰)のうち不完全ながら復旧したものは四十八戸で、この間、井戸・水道、其の他飲料水の破損ならびに復旧状況は、井戸が震災前七十、後二十、復旧三十で其の他の飲料水は震災前七十、後二十、復旧五十という状態であった。なお、建築材料は材料を自給できない者については村有林を伐採し使用させたという。ところで、其の他村内の復旧推移に関してふれると、河川の改修、道路・橋梁の改修ならびに修繕は村民挙て復旧工事に従事し、倒潰家屋の修築は近隣で相扶けて復旧につとめたと説明している。ところで、この村では奥山に至る道路の崩潰がはなはだしく、この点はほとんど修理の見込みが立たず、したがって従来の炭焼業者は半減し竹細工挽物指物等に転進する必要があると伝えている。 なお、馬石部落の道路の開墾ならびに河川改修にあたっては、串川消防組七百人、青野原消防組二百二十五人、宮ケ瀬消防組七十人がそれぞれ工事を援助したという。津久井郡下のこの中野村・鳥屋村の災害からの復旧作業の実情は、警備隊司令部の統括のもとで、軍隊と郡役所との連絡を媒介にして戒厳令のもとにおかれながらも、それぞれの町村が自力更生に似たかっこうでとりかかっていたことを告げている。したがって、やがて十一月十九日、戒厳令が解除されていく経過のなかで、各町村は、災害対策から復興運動へと独自にその方策をあみだしていかざるをえなくなった。 第三節 県民の復興作業の実情 一 震災復興の組織づくりと町村長会 神奈川県復興促進会と震災救護 県では震災復興に関する諸事項をできるだけはやい時期に解決するために神奈川県復興促進会を組織した。その時点は、あきらかでないが、おおよそ十月の初旬もしくは中旬ではないかと思われる。この組織は県民であれば誰でも入会することができるようになっており(第五条)、復興の目的を達成するために、政府その他の機関および政党を動かして、県下の震災復旧・復興に関する政策を実現せしめるよう努力すること、県民一致のもとに各種の宣伝をなすことを掲げていた。その政策としては、「一 当分ノ内県下小学校費ノ国費支弁ヲ仰クコト、二 道路河川耕地其ノ他ノ復旧土木費国庫支弁及低資融通ヲ計ルコト、三 諸税及負担ノ減免ヲ期スルコト、四 焼失及破壊ノ官衙学校ノ再築費国庫補助ヲ仰クコト、五 郡部町村ニ於ケル家屋ノ復興並ニ農工商ノ低利資金融通ヲ計ルコト」をあげていた(第四条)。いずれの政策も、災害の復旧・復興のための資力づくりと財源確保をはかり、市町村の財政状態の回復をねらいとしていた。その推進力となっていたのは、どうやら神奈川県町村長会であったようである。そして会の運営は、総会ならびに幹事会とし、事業の施行に関する大綱の決定は総会で行い、常務幹事は、幹事会の決議によるものとした。ただし、会の経費は、会費とその他の寄附によるとなっており、はなはだ心もとないものであった(資料編11近代・現代⑴三二〇)。 実際、震災という異常事態をのりきるためには国の施策を待っていたのではどうしようもなかった。神奈川県三浦郡では、九月十三日に町村長会議を開き、震災救護運動の先駆ともいうべき動きをみせていた。そこでの協議事項は、被害地の町村会をつうじてすでに小学校教員俸給の国庫負担の運動を行うこと、町村税の徴収が不能なため給料支払いそのほかの支出の国庫繰替を実現するということであった。これは、震災が町村財政にあたえた打撃に基づいてうちだされてきたものであるが、一面では、政府の救済が「中央に厚く地方に薄き」という不均衡に業を煮やしていたのである。県復興促進会の政策要求運動もこうした実情に基づいていたといえよう。県下の町村長会の震災救護運動はこうして十月にはいるとようやく軌道にのり、そのねらいは徴収不能な町村税の欠損分・小学校費・土木費などの地方公共団体の経費に属する施設復旧費の国庫負担を要求し、国税・県税を免税にしようとする点におかれていた。 神奈川県町村長会は、こうして十月九日と推定することができるが、高座郡藤沢町(現在藤沢市)の役場で町村長会幹事会を開き、次のような決議を行った(資料編11近代・現代⑴三三〇)。 決議 震災復旧事務の中枢となった県庁仮庁舎 『神奈川県震災誌』から 一 大正十二年九月一日以後ニ付課セラルベキ大正十二年度及大正十三年度国県税ノ全部ヲ免除セラレタキコト 二 大正十二年九月一日以後付課スベキ大正十二年度及大正十三年度国県税付加税全部徴収不能ニ基ク町村税ノ欠陥ヲ国庫ニ於テ負担セラレタキコト 三 小学校費土木費等公共団体ノ経営ニ属スル施設ノ復旧費ハ国庫ヨリ交付セラレタキコト 四 政府ハ速ニ低利資金ヲ以テ罹災地ノ住宅建設及産業商工業ノ復旧ニ要スル資金ノ融通ヲ計ラレタキコト 五 労働賃金ノ標準ヲ一般ニ周知セシメ之レカ徹底的取締ヲセラレタキコト 六 今回ノ震災救護方法ハ中央ニ重キヲ置キ地方ヲ閑却セラレタル憾アリ相当考慮セラレン事ヲ望ム 七 農産物及肥料ノ運輸ノ途ヲ速ニ開カレンコトヲ望ム こうした震害がもたらした実情をふまえて町村長会は、具体的な要求決議を行っていくとともに、さらに、地方自治権を拡張することをはじめ、町村長会がとりくんできた諸要求をも決議事項として掲げていった。そのなかには、行政および軍事力の整理を断行して経費を節減していくこと、地租および営業税の地方への委譲、災害地復旧に意をもちいるとともに地方振興に尽力すること、穀類ならびに乳製品の輸入税免除のすみやかな撤廃、郵便貯金・簡易生命保険資金などをつとめてこれを地方に融通すること、市町村吏員に国・道府県会議員の被選挙権をもたしめること、衆議院議員の数は、郡市均等の人口をもって標準とすること、国民教育の向上発展、とくに青年教育のためにつとめること、などが含まれていた。ここには、震災を契機に町村長会が、一気にその運動を盛り上げようとしている意向を読みとることができよう。 町村財政不足の克服 この間、罹災地の町村では、財源不足に悩んでいた。ところが、内務省筋では、むしろ町村自身が自力で再建にとりかかるよう要請していたようである。 たとえば、この年の十月十六日に開かれた橘樹郡町村長会において、郡長は、まず郡下町村の被害がすこぶる甚大であったなかで、町村長が率先して激震後ただちに吏員を督励して区長・区長代理、あるいは町村会議員、小学校職員、大字総代、青年団、在郷軍人分会、町村内篤志者等の協力のもとで罹災者の救護、焚出し、糧食の配給、死傷者医療手当、被害調査等に全力をかたむけたことをほめたたえた。しかもさらに、東京・横浜両市の罹災者が一時、難を避けて昼夜の別なく国道はもとより鉄道線路、京浜電気鉄道線路等をあてもなく往来し、いずれも徒歩で飲食することもできないで疲労困憊の者が多いなかで、これらの沿道筋の町村で、焚出しまたは湯茶を提供したり休泊せしめる等応急の措置をなしたこと、あるいは、小学校舎倒潰の処理、水道・道路堤防の応急修理または日用必需品の諸物資ならびに建築材料の買い付けなどにいたるまで指導監督し東奔西走、不眠不休不断の努力をもってこの難局に対処したことに感謝の意を表していた。しかし、こうした難局の打開に努力をかたむけた町村の努力にたいする賞揚とは別に、郡長は、歳入減額という悪化する財政状態のなかで、経理に関しては、焦眉の急を要する費用支出が多くなるので、整理緊縮の方法、事業施設の緩急の要否を仔細に調査したり、町村税負担能力の実状、あるいは起債の適否などを考慮して、対策をこうずるよう努力を要請していた(資料編11近代・現代⑴三二八)。 しかし、罹災町村では、財源の不足を補充することは不可能であった。一例をあげれば、鎌倉郡長茂義孫が十月十九日付で内務省町村課に提出した「不足財源ノ補充方法ニ関スル意見」をみると、郡下町村をつうじて二十九万二千七十五円は、別途に収入のみちをこうじなければならないありさまであった。この意見書によると、町村費歳入総額の七〇㌫以上をしめる町村税は、前期半年度分を賦課徴収したけれども、後期半年度分は、一部をのぞいて大部分徴収の見込みがたっていないからであった。そのため、極度の緊縮、事業の打切り、基本財産の繰入充用を行って歳入出の均衡をはかろうとしても、前記のような金額の不足が生じるというのである(資料編11近代・現代⑴三二七)。このような事情のもとで、十一月二十六日、県の町村長会の幹事金子(久良岐)、小林・遠藤(都筑)、川辺・金谷・安西・長谷川・後藤・田野倉・遠藤(上郡)らは、県会議員の控室に集合して同議事堂において郡部県会議員と会見し、町村長会の決議実行にたいして助力を懇請した。また、さらに安河内知事にも面会してその助力を願い、翌二十七日には上京し、内務・大蔵の両省と総理大臣官邸等を訪問し災後善処の方法として決議七項を陳情し、その後、革新倶楽部、憲政会、政友会を訪問して各幹部に応援助力を懇請したのである。新聞の報道によれば、憲政会の小泉代議士は、党の政務調査会に本会大会の決議事項を報告するという努力をしたそうであり、また、森代議士から熱誠のある書状に接したそうである。天下の大政党たる政友会と憲政会の応援同情をうることができるならば、町村長会の決議は実現するかも知れないと、金子角之助町村長会長は県下の町村長に報告していた(資料編11近代・現代⑴三三三)。 県町村長会の陳情は、蔵相、大蔵省主税局長、内務省地方局長、同町村課長、農商務次官、農商務省農務局長にも行っていた。こうしたなかで、罹災地町村にたいする国庫補給に関しては、内務省において、本年度町村歳入欠陥補てんにあてるため融通資金三千八百万円の支出を大蔵省に要求したところ、大蔵省の査定によって年度内償還の条件で預金部から千五百万円融通することに決定したのである。 地域復興会の活動 災害から立ち直り、復興を推進していくうえで、各地で九月中旬から十月にかけて次つぎと復興会が設立されていった。そのうちもっともはやかったのは九月十四日の鎌倉町復興調査委員会と翌十五日の横浜復興会である。このうち、横浜市では実業家の原富太郎が会長となり、顧問に貴族院・衆議院の議員、市内の官庁、実業家の有力者を推し、委員には商業会議所会頭および県・市会議員、その他市内の有力者をあげていた。そして、総務・計画の二部をおき、計画部のなかに、市財政部・市事業部・港湾部・都市計画部・運輸交通、通信部・生業部・貿易部・工業部・金融部の九部をおいたのである。それぞれの部の事業内容は、十月の中旬現在、一 生業部―㈠建築材料の供給を潤沢にするために農商務省および鶴見町木工会社外十二に交渉中、㈡漬物小麦粉その他食糧品の販売に関して実業連合組合に交渉中、二 都市計画部―目下専門技術者の意見を聴取しているが具体的計画なし、三 金融部―倉庫の準備および銀行営業資金の調達等に関し考究中、四 港湾部―横浜港を自由港とする可否および自由港とした後の港湾、経費の維持等に関し考究中、五 工業部―電力料の低減および工業地帯の架橋と舟艀の航海関係等について調査中、六 貿易部―生糸絹物組合の輸出貿易に関して、すこしずつではあるが、これを実行しつつあるが、海産物、麻真田、綿布、石炭、薬品、雑貨、陶磁器、漆器、加工染色業者の貿易は、ほとんど目途がたたないので、近日中にこれらの組合長を召集して具体的に協議を行うことを計画中、七運輸交通、通信部―港内の掃海、海陸連絡艀船の現状調査、道路の新設および電車の敷設、京浜間高速度電車敷設等に関し調査研究中、八 市財政部―震災前の市税の状態および災害後の財政の欠損補充問題等に関し調査中、九 市事業部―小学校の建設、学用品の充実、未修理橋梁の調査、山下町の地面整理等に関し考究中、となっていた。港都横浜の特質を考慮しての復興計画を目論んでいたといえよう(資料編11近代・現代⑴三二一)。 復興会は、横浜のように、震災の傷手を回復し、復興をはかるには、「一日モ早ク外国商人ヲ此ノ地ニ招致シ貿易ノ復興ヲ為ス」ことを課題としていたように、それぞれの郡市の復興会の事業は、土地によりその目的および事業に若干の差異がみられた。いま、各地の復興会の設立と事業大要を表記すると第五表のようになる。 第五表 復興会の設立 二 市町村の復興作業の一端 横浜市の復興作業 県下で最大の被災地となった横浜市の場合、市当局は、復興予算の作成に苦慮していた。というのは、官公界がすべて焼失し、公簿類はいうまでもなく地図さえ一枚もないありさまで、そのうえ、当時、市の都市計画局長として横浜の都市計画の中心にあたっていた坂田技師が震災後数日を経ずして死去したからであり、このことは横浜の復興にとって大きな痛手になっていたようである(『横浜市史』第五巻下)。 このために、横浜市は、都市計画の担当者をふりだしにもどってさがさなければならなくなり、後藤新平内相の斡旋で前東京市土木局長の牧彦七がその任につくことになった。その牧は、横浜にやってきて、緒方最・後藤慶吉技師と相談して市の内外を偵察し、多くの人びとの手控からそれぞれ調べたさまざまな材料の助力をあおぎながら、約五億千万円の規模の復興予算を作成したのである。その内訳は、横浜港関係費九千万円、公営のため電燈買収費五千万円、市官衙復興費五千万円、永代借地権買収費千五百万円、道路・橋梁・河川・土木関係費二億五千万円となっている。この予算案は、『横浜復興誌』(第一編)にのっている牧自身の発言によると、横浜の復興計画は、東京市の三分の一を標準にしてやればよいとの意向をうけて、新聞に報ぜられた東京の復興計画を目安にして練りあげたものであるらしい。しかし、この復興予算は、大蔵省から財政の限度を超過しているという横槍がはいり、東京・横浜の復興予算は合わせて七億円案に縮小せざるをえなくなって、横浜復興計画は練り直さざるをえなくなった。そして、この練り直し予算案は、大蔵省との折衝を経て帝都復興院評議会で五百万円削除され、帝都復興院審議会にかけられたときは五千二百万円と大幅に減額されたのである。その内容は、街路費が四千二百三十万円、運河費五百六十一万円、公園費百九十六万円、土地整理費二百五十六万円で、このほかに、京浜運河費として千三百七十五万円がくみこまれていた(『横浜市史』第五巻下)。 この横浜の復興計画の練り直しに関して、横浜市長渡辺勝三郎は、復興院は、「東京の予算」がまとまれば「横浜は宜い加減にくっ付けて行けば宜い」とみていたのではないかと思われるほど、横浜の事情を考察していなかったのではないかと不満と遺憾の意をもらしていた(東京市政調査会編『帝都復興秘録』)。ちなみに、東京関係の復興費は約五億五千万円である。もっとも、震災復興に関しては、国家的規模での復興計画も縮小を余儀なくされてきていた事情がある。当初、後藤新平は、復興予算案を三十五億円という膨大な数字でくみ、機関としてあたらしく復興省を設けようと構想していた。それは、官界の省や臨時震災救護事務局横浜出張所 『神奈川県震災誌』から 自治体に属する復興や民間への復興援助をすべて統一的に行い、あわせて都市の徹底的改造、国民生活の革新を断行しようとする発想に基づいていたのである。しかし、この復興省構想は官僚勢力の反発をかい、復興省は復興院へと規模を縮小せざるをえなくなった。もちろん、民間復興援助の多くは復興計画からはずした。それでも復興院の復興計画案は、「帝都将来ノ発達」にそなえる計画を基準として「焼失地域ニヲケル復興」を重点におき、復興経費は東京が十一億円、横浜には二億円をあて、事業存続機関を五か年としていたのである。そして、さらに、後藤は八億円に減じ、大蔵省当局の方針で約七億円となった。 この復興計画は、帝都復興院評議会を経て同審議会、さらに議会で修正を受けていった。評議会では、焼失地域全体にわたって土地区画整理を徹底的に断行するという土地利用の増進をはかる積極的な意見が主流をしめ、横浜関係についても、横浜港震災復旧工事費予算の執行をおそくとも一九二四年度中に完了すること、京浜運河の幅員と水深をできるだけ大きくしてその速成を期すこと、被害甚大の横浜市の負担はとくにこれを低減すること、都市構成の基幹となる高架鉄道の建設をすみやかに行うこと、地下埋設物の整理に関する計画を定めて、すみやかにこれを実行することを決定していたのである。ところが、伊東巳代治・江木千之・高橋是清・加藤高明らは、審議会においてこれらの決定に反対の意向を表明した(『横浜市史』第五巻下)。 彼らの反対論は、帝都復興にのみ膨大な復興予算をくむならば欧米諸列強との軍備競争に遅れをとって国家が危うくなること、東京・横浜の都市計画はそれぞれの自治体の経営にまかせるべきであること、財政窮乏のおり、今日、必要なのは復興ではなく復旧にとどめるべきであることにその論拠をおいていた。この反対論者の眼中にあった優先課題は軍備であり、商工業であり、教育であった。だから、東京湾の築港や京浜運河開鑿、道路開鑿、道路拡張、公園建設というようなことは不要不急事業であったわけである。こうして、約七億円の復興案は一億千万円けずられ、横浜市の予算規模も四千五百七十七万円に修正されていった。しかも、この審議会での修正復興計画案は、第四十七臨時議会でもさらに修正をうけたのである。議会で決定をみた約一億五千万円減の総額四億六千八百余万円の復興予算、復興院を廃止して内務省外局というかたちで規模を縮小した復興局を設けたのも政友会のさしがねであった。この結果、横浜の復興費も三千五百五十一万円に削減されてしまったのである(『大日本帝国議会誌』)。 復興財源と市民負担 第四十七臨時議会の復興事業計画の審議の経過と決定の結果、その事業計画の経費は東京および横浜両市で負担することになった。たとえば、十二間幅以下の街路とそれに関係のある区画整理は、横浜市はもちろんのこと、被災地の自治体で費用を負担して執行していかざるをえなかった。 横浜市の場合、復興関係事業費の総計額は二億七千三百第6表 市執行復興復旧事業費財源調 1) 原典は『横浜復興誌』第1編 2) 『横浜市史』第5巻下から 九十万円となっている。このうち、横浜市が施行した一億九百余万円のうち、市債でまかなわなければならなかった額は七千余万円であった。しかし、全焼に等しい横浜市には財源もなく、また市民にもこのような巨額の経費を負担しうる力はなかったから、財源は市債に仰ぐほかなかった。 しかも、この巨額にのぼる市債の発行は、市民にとって長期にわたって重い負担を強いるものにほかならなかった。一九二四(大正十三)年で横浜市が予想した「大正三十年までの公債負担」は第七表のようになる。この公債額は一九二四年における予想額であるが、市民が復興のために負わねばならない負担の大きさだけは示されている。このように市民に重い負担を負わせていく復興事業の推進の母体は特別都市計画委員会であった。この計画委員会は、会長に内務大臣、委員は警視総監・東京府知事・神奈川県知事・東京市長・横浜市長、その他関係各庁高等官・東京府会議員・神奈川県会議員・東京市会議員・横浜市会議員・貴族院議員・衆議院議員および学識経験者など内務大臣の選任した人びとから構成されていた。このように、計画作成と計画決定の権限は内務大臣を中心とする官僚に掌握され、その事業執行も国家行政として位置づけられ、経費負担だけが自治体もちというかたちであった。 しかも、そればかりか、震災の翌一九二四年以降五か年にわたり、一億二百六十万円を国から補助および貸付というかたち第7表 公債負担予想額 1) 大正13年9月23日付『横浜貿易新報』からなお1928年を戸数92,852戸,人口444,000人,1941年を戸数119,606戸,人口574,000人と予想して計算されている 2) 『横浜市史』第5巻下から で支出されることになったので、市民の背負う重い税負担を内容とする税収入による一般会計とともに、年々百余万円ずつを償還するきびしい計画のもとに市は復興事業を出発させなければならなかった(『横浜市史』第五巻下)。 川崎市の復興作業 一方、震災後めざましい復旧作業が行われたケースもある。川崎町およびその周辺の工業復旧と生産の再開の動きがそれである。ここでは、日本鋼管、浅野セメント、東京電気、富士瓦斯紡績の工場などで建物・人員の双方にわたって被害がでたが、がいして工場の大半は火災からまぬがれ機械類の損傷が比較的少なかったので早急に復旧工事に着手できたのである。震災二か月後には早くも一部操業を再開する工場があらわれ、年が明けるころには大部分が操業を開始した。また、震災前からあった諸工場の再建に加えて、震災後あらたに川崎方面に工場を建設する動きもあらわれた。その中で、震災前までに川崎への進出を決定していたのは富士電機製造株式会社であった。富士電機の工場が設立された前後から、東京方面で罹災した工場で、川崎・鶴見へ進出するものがめだって多くなった。再建に際して、この方面のすぐれた立地条件があらためて注目をひいたのである。 しかし、現在の川崎市域にあたる海岸寄りの田島・大師・川崎の各町の被害は大きく、それだけに町村の財政にあたえた影響は深刻であった。というのは、震災のため、地租・営業税・所得税などの直接国税および戸数割等が減免され、これにともない各町村とも大幅な歳入欠損が生じたからである。たとえば大師町においては一九二三(大正十二)年度二万五千六百七十八円、川崎町も二四年度には三万二千余円の歳入不足を生じた。そのうえ罹災によって損傷した小学校舎・道路・橋梁・用悪水路等の復旧に莫大な財政支出を余儀なくされた。田島町では東京・横浜方面から避難してきた者および家屋の損傷の大きな者にたいする町営住宅建設を含めて十六万五千七百円の低利資金の融資を県から受けなければならなかった。また、大師町においても十四万六百円、川崎町は上水道の復旧費用を含めて三十四万七千四百円と十九か年賦償還で、ともに県から借財するなど窮迫した財政難のもとで各町村は復興計画に基づいて復旧作業を推し進めていったのである(『川崎市史』)。 また、湘南の茅ケ崎町に目をやると、ここの震災復旧は、一九二三年度に町役場・小学校の応急施設工事を行ったのち、翌年度から本格的に着手していた。復旧費は土木費が十一万二千円、小学校営繕費が三十八万三千円、役場営繕費が二万八千円、火葬場営繕費が三千円など、総額五十二万円余にのぼった。その額は一九二二年度の町歳入の五倍近い額であった。この巨額の復旧費は、大部分を町公債によってまかなうことにし、町当局は、翌一九二四年に小学校営繕費として三十九万五千円、その他の復旧施設費として十二万九千円の起債を決定し、同年度から一九二八(昭和三)年度にかけて発行した。このほか、県補助金の三万二千円、寄附金の四千円などを施設費にあてたのである。 こうして茅ケ崎町営関係施設の復旧は、一九二五年度までに「小学校講堂・隔離病舎並ニ土木事業ノ一部ヲ除キ」ほぼ完了した。しかし、このように膨大な出費は、これまで年間財政規模が十万円程度であった町財政によってはとうていまかなえないので、復旧財源の大部分は国および県からの借入金に依存せざるをえなかった。借入金は、無利息一時償還七千円、三十年賦で年利四分八厘の分が八万円、三十年賦で年利五分の額四十四万三千五百円、と合計五十三万五百円にのぼっていた。この元利の償還は以後、町の行財政に重くのしかかっていくことになる(『茅ケ崎市史』4通史編)。 このようにみてくると、被災地の市町村は、その復興・復旧作業のなかで財政上の危機に直面していた。いや、そればかりか、さらに、それぞれの地域の住民のうえに復興のしわ寄せが重くのしかかっていたといえよう。 第四節 震災後の社会情勢と郡制廃止問題 一 思想善導のなかの社会状態 震災後の動揺と思想善導 政府は、震災の直後に支払猶予令・震災手形割引損失補償令・暴利取締令などを公布して、経済のたてなおしをはかろうとして積極的な救済方法をこうじていた。しかし、慢性的な不況にむしばまれていた経済の回復をはかることは、地震による打撃と財源枯涸も作用してとうてい困難で、国の力は期待できなかった。震災から二か月半たった十一月十六日、戒厳令が解除されるが、その少し前の十日に、「国民精神作興ニ関スル詔書」が発布された。その一節にこうある。 輓近学術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縦ノ習漸ク〓シ軽佻詭激ノ風モ亦生ス、今ニ及ビテ時弊ヲ革メズムバ或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル、況ヤ今次ノ災禍甚ダ大ニシテ文化ノ紹復国力ノ振興ハ皆国民ノ精神ニ待チテヲヤ、是レ実ニ上下協戮振作更張ノ時ナリ この詔書は、国民にたいする戒めであり、国民の生活規範をたれたものである。その趣旨は、国民精神がともすれば堕落し、贅沢に流れて放縦に走り、危険思想がはびこり、さらに一般の風潮として勤労をさけ安逸をむさぼる享楽主義が流布するなかで、未曽有の被害をだした関東大震災がひきおこされたのであるから、ここから国力の振興をはかるためには精神をひきしめなければならないという点にある。これはあきらかに思想善導の方向を明示するとともに震災天譴論に立っていた。 震災天譴論といえば、当時の政財界の指導者たちは、おおかたこのような考えかたをとっており、財界の大御所渋沢栄一らは、しきりに「天譴論」を説いていた。なかでも、実業之日本社長増田義一は「天災と大教訓」と題する文章のなかで、享楽主義にかたむき危険思想がはびころうとしている今日、関東大震災こそは「天がわが国民に向って譴責し、かつ一大警鐘をならしたものというべきであるまいか」と述べていた(『実業之日本』一九二三年十月号)。震災はついに「天譴論」にまで昇華したのである。こうした動きのなかで、年末に「虎の門事件」が発生した。この「天譴論」は、社会不安のなかで、多くの民衆の心理に結びつく震災論であったし、「国民精神作興ニ関スル詔書」は、思想統制の方針を指示するものであった。しかも、こうしたなかで「虎の門事件」が発生したことは、またまた社会の動揺をもたらすことになったのである。 当時『中央公論』の編集者であった木佐木勝は、この年十二月二十八日の日記に、「震災後人心の不安動揺がおさまらないときに、年迫ってまたこの事件(虎の門事件)である。年は混迷の中に暗い幕を下ろそうとしている」と、しるしていた(『木佐木日記』)。「混迷の中」での「暗い幕」、この表現こそ重苦しい不安と抗争の波がおとずれることを予測させるのにふさわしいことばであった。 事実、年があらたまって成立した清浦奎吾内閣のもとでは、「思想国難」の名のもとに、「国民思想の善導」が声高だかに叫ばれていた。この間のいきさつは、一月十五日に早くも国民精神を作興しようとして、中央教化団体連合会が結成されたことからもわかる。この組織は、国民道徳・醇風美俗・国民精神・国体観念・思想善導などを旗印にかかげ、民衆に「忠君愛国」の国家観念の養成とか「自治公共心」の涵養・階級調和・共存共栄・勤倹貯蓄の振興をはかることを使命としていた全国のさまざまな教化団体を集め、相互の統制の連絡にあたろうとしたものである。これによって、中央では文部・内務両省その他の中央官庁が、地方では県庁が教化網の中枢機関となり、在郷軍人会・青年団・婦人会・宗教関係の指導者などを動員して、運動を展開する態勢が整えられることになった。 こうして、全国的な規模で国家主義的運動が展開され、地方でもいたるところに国民精神作興会がつくられていった。たとえば、山本内閣の法相平沼騏一郎は、この年三月に鈴木喜三郎・東郷平八郎・上原勇作・宇垣一成・池田成彬・結城豊太郎・小川健次郎ら、官界、陸・海軍、財界、学界の有力者を集めて国本社を組織し、みずから会長となった。国本社は、その創立趣意書の一節に、「客年大災に遭ひて国財多く毀損せられ国力著しく衰退をするや、今にして国民精神を涵養振作し国本を固くし智徳の並進に努め国体の精華を顕揚するにあらずんば国家及民族の前途亦遂に知るべからず」とうたっていた。このような国本社は、「国民精神作興ニ関スル詔書」の線上にたって思想善導運動を展開し、地方社会に大きな影響力をおよぼしていったのである。また、地域の社会でも、自由主義的・進歩的な思潮や運動にかわって「忠君愛国」主義的な風潮が巻き返しをはじめていた。 社会変化と県民感情 「天譴論」の観点から「国民精神ノ作興」をはかろうとする動きは、地方行政のルートをつうじて民衆に徹底させる方法をとっていた。たとえば横浜近郊の橘樹郡の場合をみると、一九二四(大正十三)年一月十四日・三月十三日・九月十二日の三回にわたる「町村長会議録」(謄写印刷物)がある。橘樹郡下は、さすがに甚大な被害を受けた地域であるだけに、「郡長演述」をみても震災の復旧・復興の困難さは想像を絶するものがあり、九月の「演述」でようやく政府低利資金導入の見込みがつく報告が行われていたありさまである。それだけに、郡長は、なお町村財政その他震災復旧・復興の促進の充当資金を「多ク地元工事請負者・請負工、其他一般ノ収入ニ帰スヘキモノト認メラル」と町村長にその協議方を要望せざるをえなかった。 地方当局者としてみれば、こうなると、「節約貯蓄ノ奨励」を強調していかざるをえなかった。この考えかたそのものは、伝統的な色合いをもつ国家への協力を要請する意味が強いが、ここでは、思想対策というよりは復旧・復興のために不可欠な苦悩の措置のようでもあった。 しかし、この「会議録」でみのがしてならないのは、「郡長演述」をはじめ郡からの「指示事項」「協議事項」を一貫して強くつらぬいていたことは、罹災者はもとより一般民衆に「頽風」「浮華放縦」「軽佻詭激」の観念を除去せしめ、「綱紀ノ粛正」「質実剛健」「醇厚中正」をはかって、「民風ヲ作興シ国運ノ振張」を実現する力をいかに培養していくかという課題であった。要するに「国民精神作興ニ関スル詔書」をいかに普及していくのか、ということである。 そのため、一月の町村長会議の協議事項では、「詔書普及ニ関スル件」が重要項目としてとりあげられ、詔書の写しを各戸に配布し、町村の大字・小字にわたり一戸あたり一人以上の出席を求めて奉読式を挙行し、実行項目を定めて実践を徹底せしめるなど案としてかかげていた。しかし、それでも郡長は、九月には「民心再ヒ弛緩ノ状ヲ示シ浮華軽佻ノ傾向ヲ見ルニ至リタルハ洵ニ憂慮ニ堪ヘザルナリ」と報告していた。 このときは、すでに九月一日の震災記念日を迎え、各町村では詔書奉戴式を行った。そして食事・服装を質素にして震災当時の困苦を追想し、犠牲者の霊をとむらう申合せを行ったばかりである。にもかかわらず、郡長が憂えなければならないほど、「国民精神ノ作興」は民衆の心の奥底では受けとめられてはいなかった。 人びとは強制された思想善導にみずからを託しきるほど経済上の困難にあえぎ、安定した生活感情をもちあわせていなかった。また、民衆は社会不安にもおののいていた。 このころ橘樹郡下の大綱村(現在横浜市)の豪農で郡下屈指の資産家、飯田助太夫は、得意の「あほだら経」節で震災のことをうたっていたが、そこに流れている震災観は、渋沢流のお説教的「天譴論」ではなく、皮肉をおびた、みずからをいましめる「天譴論」でもあった。飯田はその末尾を、「無事で居たのは此上ない不足を云ってはとんでもない国のわづらひ仕様がない家内仲よく友(共)かせぎそれにましたる祈祷はなし」としめくくり、「弥上下なしに一切平等のなりわひだ……」とうたっていた(『震惨苦昨日の夢』)。 この飯田の心情は、震災後の多くの民衆の感情を代表していたようにも思われる。 二 郡役所廃止と町村自治の涵養 町村長会と自治権拡張 関東大震災後の県下の社会状態は、地震の衝撃と困難な復興作業を背景にしながら、一方では思想善導の流れを受けつつ、もう一方では労働運動をはじめ種々の社会運動の影響を受け大きくゆれ動いていた。こうしたなか、一九二四(大正十三)年七月、憲政会総裁加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立し、いちおう政党政治のレールがしかれることとなった。憲政会・政友会・革新倶楽部の三政党を与党とするこの政党内閣が誕生したことは、その前提として政党が中心であったとはいえ、第二次護憲運動がくりひろげられたこととあいまって、多くの人びとに一条の光明を投げかけた感がある。 この護憲三派内閣は、その公約の一つである行政整理の一環として郡役所の廃止を決定したのである。 この間、神奈川県町村長会もこの問題にとりくみ、陳情運動などをくりひろげていた。もちろん、すでに一九二三年四月に郡制廃止が行われ、自治体としての機能に欠けていた郡は消滅した。しかし、行政機関としての郡役所は存続し、町村行政の指導・監督にあたっていた。こうしたなかで、地方自治体の権限と地方自治の拡張を求める全国町村長会はこの年十一月に地方自治権の拡張を要求する決議を採択していたのである。 神奈川県下でも、護憲三派内閣の成立をみて、たとえば、高座郡町村長会は「根本的行政整理ヲ断行シ中央集権ノ弊ヲ矯メ地方自治権ノ拡張ヲ図ルコト」を決議していた(『茅ケ崎市史』2資料編)。こうして、この年八月に開かれた全国町村長会で、「府県知事ハ公選ノ制ニ改メ郡長ノ職ヲ廃シ町村行政ハ之ヲ二次監督ノ制ニ改ムルコト」と決議し、郡役所廃止要求を明確に打ちだしたのである。この見解は各県の町村長会の統一意思になっていた。もちろん、神奈川県町村長会でも同様である。町村長会が郡役所廃止を唱えた論拠は、中央集権的な弊にとらわれた官治万能主義を廃し、繁雑な官庁諸機構を整理して政務を統一する必要と町村長の権限を拡張して地方自治の振興をはかることにおいていた。また、行政事務の簡素化、経費節約なども論拠にあげていた。 こうして、郡役所の廃止は、一年の猶予期間ののち、一九二六(大正十五)年七月に実施されることとなった。神奈川県町村長会は第五十一議会で議決をみた「地方制度改正並郡役所廃止」に関して、すでに四月下旬、次のような決議を行ったのである(資料編11近代・現代⑴三四四)。 足柄下郡役所 小田原市立図書館蔵 一 各府県、郡町村長会ノ有機的活動ヲ促カス事 二 町村ノ合併ヲ促進シテ自治能力ノ充実ヲ図ル事 三 自治権ノ拡張ニ伴ヒ其ノ行使ニ関シ細心ノ注意ヲ払ヒ遺憾ナキヲ期スル事 四 町村吏員ノ訓練並優遇ノ途ヲ講シ事務能率ノ増進ヲ図ル事 五 一般自治精神涵養ノ為適当ナル教育施設ヲ講スル事 この「五大要綱」の実施を一致協力して推進する県町村長会は、郡役所の廃止は「自治政ノ一大革新」であると評価して、町村長の「職責使命愈々重キ」をくわえるとその責任への自覚をうながしながら、「五十人ハ自今益々奮励シテ研鑽事ニ当リ以テ自治体ノ円満ナル向上発展ヲ期ス」と宣言した。 町政と自治観念の普及 中間行政機構としての郡役所が廃止され、町村は直接、県の監督を受けることとなった。時の県知事、堀切善次郎は、一九二六(大正十五)年五月の郡市長会議で、「立憲制度の一新紀元」を画するものであると評価し、「町村をして自立独行能く健全の発達を遂げしめ」との訓示を行った(『横浜貿易新報』大正十五年五月十八日付)。 この町村の自治権拡大をもたらした郡役所の廃止は、全国町村長会の活動により実現したものであった。町村自治の確立を求める全国の町村長は、原敬内閣の成立を契機に、各県で町村長会を結成し、一九二一年には全国町村長会を結成したのである。神奈川県町村長会はその前年に結成され、藤沢町長金子角之助を中心に活発な活動を展開してきた。金子は、全国町村長会第二代会長となるなど、県町村長会は全国のなかでも中心的な存在であった。 町村長会は、郡役所廃止運動だけでなく、この間、義務教育費国庫負担、地租および営業税の地方税への委譲、町村長の権限拡張など、地方自治の確立を求める運動を展開し、地方自治権の拡大に大きな役割を果たした。 この県町村長会のなかで一九二二年に評議員となり、その後一九二八(昭和三)年には金子の後任として県町村長会会長となるとともに、全国町村長会理事となった茅ケ崎町長新田信は、一九二一年町長就任以来、町民の自治観念の高揚と町の行政能力の向上につとめてきた人物である。その新田は、郡役所廃止直後の十月、町行政の自立を記念して、鎌倉時代の茅ケ崎の呼称であった八松ケ原の八をデザインした町章をシンボルマークとして制定した。 このように、開かれた町政を展開した新田の活動は、町村長会を通じて、高座郡・神奈川県へと広がっていった。新田は町村長会での活動を通じて、地方自治への認識を深め、それをもとに町政を推し進めていった。町村長会での活動は、新田町政の土壌となっていたという(『茅ケ崎市史』4通史編)。 たしかに茅ケ崎町の新田町政の方針は、自治権を拡大し町民の自治意識の涵養をはかっていくという意味あいでデモクラシーの息吹きをかいくぐっていた。その新田は町政の基本方針について、「真正ナル政治」は「平凡ナル意見ノ実現ニ待ツ処」新田町政下「吾町一般の政治を町民の前に展開し其施設を知らしむる」目的で発刊された茅ケ崎町報(広報紙)の創刊号目次(1928年11月刊) 森英造氏蔵 が多いと考え、「事務ヲ簡捷ナラシメ法令ノ普及徹底」をはかり、「予算其他役場事務」を「町民ニ説明敷衍シテ之ヲ周知セシムルヲ第一要件」と語った。そして、新田は「自治内容ヲ町内一般ニ周知セシムル」ことは、町政を執行していくうえで「町民ヲシテ誠意アル協力」を求める近道であるとして、町内の部落ごとに、部落役員・名誉職員・青年団員・在郷軍人分会員らのほかに各戸から一名の出席を求めて自治懇話会を開催した。また、町会においても、町内融和の回復のためと民力涵養運動に呼応して、町会議員全員の発起により「本町永遠ノ平和ヲ確保シ時勢ニ適応セル町民ノ位置ト利益ヲ助長」するため、茅ケ崎町自治会を設立し、新田町政推進の一翼を担っていった(『茅ケ崎市史』4通史編)。 新田町政は、これまでの町内の一部有力者層に占有されていた町政を町民一般に開放し、自治の観念を普及していくという点で、郡役所廃止後の町村政治のありかたのモデルになっていた。 と同時に、一九二六年四月二十四日付の堀切県知事の諮問の一つ「郡役所廃止後ニ於ケル町村吏員ノ指導訓練ニ関スル方策郡役所廃止と自治行政刷新を報ずる新聞 『横浜貿易新報』大正15年7月1日付 如何」という町村役場吏員の資質の向上も、また町村自治を活力あるものにすることができるかどうかの一つの重要な鍵になっていた。この諮問にたいして中郡町村長会は、「(イ)郡内各区ニ区域ヲ定メ毎月一回会場ハ各町村輪番ニ巡回事務研究会ヲ開催シ春秋二回ニ連合会開催ノコト、(ロ)各郡ニ県費ヲ以テ指導訓練ニ最モ適切ナル講習会ヲ開催シ吏員全般ニ受ケシムルコト」と答申していた(資料編11近代・現代⑴三四三)。さしあたりは吏員の資質の養成が焦眉の急となってくるが、県では、一九二七(昭和二)年に町村吏員の指導養成機関として町村行政の能力の向上をはかるために、神奈川県自治講習所を設置したのである。 しかし、こうした町村自治能力をどう高め、自治権をどのように確保していくかと努力を重ねているとき、その足元から深刻な経済不況の嵐が吹きまくろうとしていた。 第二編 昭和前期 第一章 昭和恐慌前後の県政 第一節 金融恐慌の社会への影響 一 行財政問題と社会不安 県市町村税滞納 関東大震災で大被害を受けた神奈川県下の市町村の財政の状態は、はなはだしく悪化しつづけたままであった。県自体が震災によって受けた応急資金を償還する能力を欠いているどころか、県税・市町村税の滞納額もいちじるしい数字にのぼっていた。いま「県税滞納額調」「市町村税滞納額調」によってみると、一九二八(昭和三)年度末現在の県下の県税滞納額をあげると、一九二六(大正十五)年度以前の分と一九二七年度、二八年度の累計総額は百万六千九百二十九円三十七銭、市町村税滞納額は二百五十七万五千三百六十一円五十六銭を数えていた(大和市役所『自大正十三年至昭和四年町村長会書類』)。このような状態のもとで、財政問題をめぐって大蔵省から厳しい規制を受け、他方で民衆の担税能力が低下していた事情からみるとき、尋常な手段や策をもってしては、事態を好転せしめていくことは困難であった。この地方財政の苦境を打開するために、全国町村長大会が地租付加税の軽減運動や義務教育費国庫負担金増額運動をくりひろげても、財政問題を根本から解決していく点では、ほど遠いありさまであった。事実、一九二八年の十一月、足柄下郡町村長会会長が、震災後の町村経済は余裕がなく「予算ノ如キモ非常ナル緊縮方針ノ下ニ編成セラレ逼迫セル財政ヲ切抜ケ」ている事情にあるから、直接間接に町村が負担する経費に関しては、まえもって郡町村会、もしくは、関係町村長にいちおう交渉のうえ施設の計画をたてるよう、町村長会で決議したことを通知していた(資料編11近代・現代⑴三五〇)。それほど、町村財政はひっ迫していたのである。 この間、市町村の財政危機に関して神奈川県町村長会は全国町村長会が政府に建言をかさねてきた義務教育費国庫負担金の増額、町村自治監督制度の改正、地租および営業税の地方移譲などが実現をみていない実情を遺憾であるとして、その貫徹にむかって進むことを宣言してきた。たとえば、一九二五(大正十四)年五月の神奈川県町村長会の第六回通常総会は三浦郡逗子町(現在逗子市)の逗子尋常高等小学校で開かれた。そこでは、いまあげた三項目の実現を主張しながら、「行政及財政ヲ整理シ事務ノ簡捷並冗費ノ節約ヲ図ルハ勿論、更ニ進ンテ税制ノ整理ヲ断行シ国民負担ノ均衡ヲ保持シ且町村ニ対スル確実恒第1表 市町村税滞納額調 1929年2月20日現在 大和市役所『自大正十三年至昭和四年町村長会書類』から 久的ノ財政ヲ与ヘ中央集権ノ弊ヲ矯メテ地方分権ノ実ヲ示スハ現下ノ国状ニ照シ我カ国政上速ニ改善ヲ要スヘキ事項」であると決議していた。そして、「一 大正十五年度ヨリ必ス義務教育費国庫負担金弐千万円以上ヲ更ニ増額スル事、二 大正十五年度ヨリ郡役所ヲ廃止シ町村長ノ権限ヲ拡張スル事、三 速ニ税制ノ整理ヲ断行シ地租及営業税ハ総テ之ヲ地方ノ財源ニ移譲スル事」をあげていたのである(資料編11近代・現代⑴三四二)。 神奈川県町村長会が財政難を切り抜けようとして地方分権と自治の機能を高めようと努力し、一種の圧力団体まがいの政治行動をくりひろげていたのは、それだけ危機的状況がふかまっていたからである。事実、この年の総会で、高座郡大沢村の村長が農村救済振興策として、「一 主要ナル肥料ヲ政府ノ専売トセラレタキ事、二 米麦及生糸ノ価格カ該生産費ヨリ低落スル場合ハ政府ハ相当ノ方法ヲ講シ買上其他調節ヲ計ラレタキ事」を提出し、都筑郡町村長会が「郡役所廃止後ニ於テハ町村ノ併合ヲ全国的ニ促進方ノ件」を提案してそれぞれ決議事項として採択され、政府に要請することになった経緯をみれば、町村の状態は想像以上に深刻であった。 横浜左右田銀行本店 平野不二男氏蔵絵はがきから 左右田銀行の休業 町村が財政難におちいるという難題をかかえながら、一九二七(昭和二)年三月、全国の二、三流銀行が取付け騒ぎにおちいり、経済界が恐慌の渦中に巻き込まれていく過程で、県民もそれこそ不安のルツボに投げこまれていった。時の若槻内閣は、企業の不良債務の支払い延期と銀行の焦げ付き債券を国家信用で肩代わりしようと目論んでいた。ところが、鈴木商店の破綻と同商店に融資していた台湾銀行の休業により、三月から四月にかけて一流の市中銀行も取付け状態となり、銀行の休業・取付けは全国に枯野の火のように広がっていたのである。金融恐慌である。 「昭和」新政の曙が金融恐慌とともにおとずれたことは、当時新聞紙上で解説をくわえられていた元号「昭和」にこめられた理念「世界平和」と「君民一致」とはまったく逆に、むしろ社会不安、経済不安をつのらせることになった。「昭和」は、中国の古典『書経』の「尭典」の一節、「百姓昭明万邦協和」からとったことは広く流布していたが、新しい時代に期待をかける意味で掲げた「昭和」の幕開けは、この経済事情だけでなく、世相・文化、さらには政治・国際問題というあらゆる領域で多難な新しい気配や動きをかかえこんでいた。問題は、国際収支の落ち込みにくわえて、京浜地帯を中心として関東大震災の災害地の被災企業を救済するためにとられた手形の再割引、すなわち「震災手形」が焦横浜興信銀行川崎支店 『川崎市勢要覧』昭和5年版から げ付き、銀行危機がたちあらわれつつあったことである。金融恐慌の根ぶかい原因は、銀行が企業の貸付を固定化し、過剰資本を累積してきた日本経済の体質にひそんでいた。しかも対外的にも、中国における革命の進展と高まる日貨への排撃、英米からの借款をめぐる圧力、合衆国での景気後退のあおりを受けて、金解禁に必要な正貨準備を喰いつぶし、国際資本に立ち向かっていく見通しもたたなくなっていたのである。 神奈川県においても、この年の三月二十二日、横浜の名門左右田銀行が休業せざるをえなくなった。この事件は、翌日「横浜金融界緊張、左右田銀行昨日から休業、金融界不安の余波及ぶ」と報じられ、本支店・出張所に憂愁の気が満ちていた(『横浜貿易新報』昭和二年三月二十三日付)。この時点での同行の貸出額は実に預金総額の二倍に達していた。しかも預金者の八〇㌫までが小売商人やサラリーマン階層であり、この休業がこれらの人びとにあたえた影響は大きく、左右田銀行の門前には零細な小売商人やサラリーマンの預金者の群がひしめきあったという。 左右田銀行の破綻は県下の産業界に大きな打撃をあたえた。四月下旬には横浜生糸市場も休業状態におちいり、夏には糸価も大幅に下落した。弱少資本の回生はもはや不可能で、明治・大正の二代にわたって神奈川の経済界に多くの貢献を果たしてきた左右田銀行も、一九二八年にいたり、第二銀行・横浜貿易銀行・戸塚銀行などとともに横浜興信銀行に身売りせざるをえなかった。逆に横浜興信銀行は、これら諸銀行を吸収し飛躍的に膨張した。 さらに議会において、政府がこの年一月に提出した「震災手形補償公債法」「同善後処理法」の二法案の審議にあたって、片岡直温大蔵大臣の失言問題につづいて、台湾銀行の神戸鈴木商店への不良貸付けが問題化するにおよんで、金融恐慌は全国的に波及し経済界は空前の大混乱となった。この混乱状態を収拾するため田中義一内閣は、四月二十二日から五月十二日までの三週間緊急勅令で「支払猶予令」を公布した。これは、内地において、私法上の金銭債務の支払延期および手形などの権利保存行為の延期に関するものである。この支払猶予令の公布と同時に、神奈川県は県下の市町村長にたいし人心の安定を期するための通知を行った。これに基づき四月二十五日、川崎市においても各区長・会社工場・各商業組合長あて次のような通牒を行った(『川崎市史』)。 支払猶予令ニ関スル件 今回財界ノ変動ニ際シ不取敢臨機ノ処置トシテ本月二十二日左記要旨ノ緊急勅令公布即日施行セラレタルニ付其趣旨御部内一般ヘ周知方御取扱相成度此段及通牒候也 記 一 四月二十二日以前ニ発生シ同日ヨリ五月二十二日迄ニ支払スベキ私法上ノ金銭債権ハ内地ニ限リ三週間支払ヲ延期スベシ この通牒とともに、川崎市は当然のことながら混乱を避けるために、モラトリアム(支払猶予令)を口実にこれに該当しない支払いまで拒絶することをしないようにとの指示もあわせて行った。 また、神奈川県は、県下の商工業にモラトリアムがどんな影響をあたえたかについて、十三項目の調査を各市町村に依頼した。この調査について川崎市は五月九日付の回答文書で、金融恐慌下の市内の商工業と市民の動向を次のように報告していた。 一 小売業者ノ蒙レル影響 比較的小資本ノ小売業者ニ於テノミ多少ノ影響ヲ蒙リツツアルモ一般的ニアラズ 二 製造及加工業者ニ及ボシタル影響 製品ハ売渡代金回収、原料購入資金ノ調達共ニ困難ナルタメ一割乃至一割五分ノ事業短縮ヲ見タルモ、休業等ニ至リタルモノナキハ幸ナリトス 三 一般商工業者ト休業銀行トノ関係 市内ニ休業銀行ヲ出サザルハ喜ブベキトコロ、而シ乍ラ一部問屋筋ニ於テ、東京及横浜所在ノ休業銀行ト関係アリタルモノニシテ多少ノ影響ヲ受ケタルモノアリタルトモ其ノ営業ノ死活ニ及ボシタルモノナシ 四 物資配給及価格ノ変動状況 物資ノ配給ハ不円滑ナガラモ需用者ニ直接不便ヲ感ゼシムル程度ニ至ラズ、価格ハ幾分ノ下落ノ傾向ヲ示シタルモノアルモ変動極メテ少シ このように、川崎市の報告書によると、モラトリアムは、市の商工業界にあまり影響をあたえなかったように解釈することができる。また市内の金融機関の窓口も『川崎市行政資料』によると、「休日明ノ二十五日ハ相当ノ預金引出アルヲ予想シ其ノ払戻ニ応スベク(開店時刻モ午前九時ヲ三十分繰上ゲ準備怠ラサリシニ)開扉約一時間ハ常時五、六人乃至七、八人位ノ極メテ緩慢ナル取付アリシモ其ノ後ハ殆ンド平常ニモ及バサル少数ノ払戻ニシテ」と伝えているように多くの市民も比較的冷静であったという(『川崎市史』)。 しかし、一般にはモラトリアムによる「三週間の休業は正に死の宣告」であり、人心は動揺し、「株式其他一般商品市場は益々険悪の度を増し、川崎市街 『川崎市勢要覧』昭和5年版から 混沌として凡べて去就の途を知らず」と報道され、浮き足だったのが実情である。たとえば、県西の足柄下郡小田原町方面では、いまのところ比較的平穏であるが、といいながらも、銀行の一般休業により、地元はそうとう打撃を受けたと新聞は報じていた。それによると、四月二十一日の安田貯蓄銀行の取付け騒ぎにより、「深夜町内を狂奔する人影が動いた」し、モラトリアムにより「面喰ひの状」におちいったという。また、小田原町役場では、町内の土木工事費などの支払いはあてがなく、一般商人はもちろん魚市場でも、「毎日約六千円の商い」があるが、これでは翌日払いの網元への支払い、送荷為替も不可能になるので、もし大漁・豊漁ともなると、まったく進退窮すると述べていた(『横浜貿易新報』昭和二年四月二十三日付)。 こうして、金融恐慌は経済界を混乱におとしいれ、かつてない激動を迎えることになったのである。 二 恐慌下の県民の社会生活 労働・農民運動の展開 恐慌の激しさは一九二七(昭和二)年四月二十一日のわずか一日だけで、日本銀行の貸出高および発券高が約十億円余にのぼり、その後、裏地が白地のままの二百円札が印刷発行されるという準備不足と狼狽ぶりを示すような事態も生じていた。こうしたなかで、五月には「日本銀行特別融通及損失補償法」と「台湾ノ金融機関ニ対スル資金融通ニ関スル法律」によってスケールの大きい救済措置がとられていった。しかし、金融恐慌が金融界の再編成―銀行合同を促進していくなかで、中小零細企業を淘汰し、日本経済はますます救いようのない逆境に落ち込んでいった。事実、紡績業などの大幅な操業短縮をはじめ、絹糸・人絹・洋紙・セメント・石炭業界などもカルテルを結成したり、すでにつくられているカルテルを強化して生産の制限や価格の維持に狂奔しはじめた。そのためか、金融恐慌から昭和恐慌の時点にかけて、中小零細企業は、不景気、民衆の購買力の激減、問屋買継商等の中間利潤の吸い上げなどにくわえて、大資本の地方への進出、金融のひっ迫により、ますます苦しい立場に追いやられていた(『日本経済年報』第五輯)。 また恐慌は労働者たちの内部に深刻な「社会問題」を投げかけはじめた。一般的に金融恐慌による工場閉鎖・操業短縮によって労働者は大量に解雇され、失業人口は中小零細企業だけでなく、さらに、大企業を中心として個別企業内の賃金切下げ・労働強化・「冗員」整理という産業合理化によって、ますます激増していった。 この間、神奈川県警察部ではすでに、内務省の取締訓令に基づいて「流言蜚語」をとばし、「安寧秩序」を害する行動をとる者を厳重に取り締まるよう通牒を県下各警察署に発したのである。この点について、蔵原警察部長は、「財界動揺の際お互に軽挙妄動を謹んで貰いたい、若し流言蜚語や不穏な行動に出たものに対しては苛責なく厳罰に処する方針」であることを語っていた(『横浜貿易新報』昭和二年四月二十三日付)。 1927年5月1日の横浜メーデー 斉藤秀夫氏蔵 ところで、金融恐慌を反映して川崎・鶴見方面の工場において労資間の紛争が急増していく傾向をたどりはじめた。その中で、総同盟は、一九二五(大正十四)年の富士瓦斯紡績川崎工場の争議解決後、急速に組織をひろめ改良主義をとって傘下組合の争議を応援ないし指導する一方、労働者教育、協同組合・消費組合運動の強化に努めた。そして五月一日には、総同盟神奈川県連の主催で川崎ではじめてのメーデーを行った。市内の稲毛神社の境内には、川崎・鶴見の労働者を中心に二千五百五十名が集まり、大会宣言・決議、労働協約権の確立・健康保険法改正の要求・婦人および幼年工の深夜業禁止・耕作権の確立・治安維持法反対のスローガンを可決した後、会場から市役所前・旧国道農工銀行前を経て砂子・小川町・八丁綴を通り、さらに新国道に出て鶴見総持寺にいたるコースをたどるデモンストレーションを行った。 また、総同盟系の活動に対抗する評議会は急進的な闘争方針を推関東金属鶴見支部が主催した演説会 法政大学大原社会問題研究所蔵 し進めていた。四月八日には川崎市公会堂において、第一回京浜工場代表者会議を開き、具体的な経済的要求を中心にして各工場代表者による共同闘争という幅広い戦術をとろうとした。そして、さしあたり、解雇・賃下げ・臨時休業などに反対する強力な運動を起こすことを決め、第二回会議で共同闘争の気運を高め、八月には、関東地方評議会の主導で、川崎・鶴見方面の工場に関係のある資本家の団体「六郷会」を相手とする統一闘争を展開することになり、具体的な要求事項と闘争方法を宣伝するビラ十万枚を京浜工場地帯に散布した。さらに九月にはいると、評議会は、失業手当法・最低賃金法・八時間労働法・婦人青少年労働者保護法の制定と健康保険法の徹底的改正を要求する「五法律獲得闘争」を経済闘争とあわせて推進する方針を決定し、ゼネスト決行を企図した。川崎・鶴見方面でも、当時争議中の芝浦製作所鶴見工場を拠点にしてゼネストの準備を進めようとした。しかし、「六郷会」側の切崩し工作と警察の干渉・弾圧により、評議会系の企図は挫折せざるをえなかった。他方、農村部をみても、たとえば、橘樹郡稲田村・向丘村では、この年の一月に日本農民組合総同盟の指導により、伊藤新蔵・村尾誉一が中心となって神奈川県下で最初の農民組合が組織された。そして、十二月には、稲田・向丘・生田三か村の小作人四百五十名が地主に対し、小作料を永久に一割五分から二割の軽減要求をする小作争議をくりひろげた。以後、この種の争議が西北部の農村地帯で頻発していった(『川崎市史』)。 不敬発言と県民生活の窮乏 金融恐慌が社会不安を呼び起こすような状勢を告げる事件が、一九二八(昭和三)年十一月十日の川崎市の市会でもちあがった。ことの起こりは、天皇即位の大礼に賀表を奉呈する議案の審議をめぐってであった。賀表奉呈について、社会民衆党出身の副議長陶山篤太郎は、御即位御大礼の日にあたり賀表を議決することは「無産党議員トシテ微臣市会議員ノ本分」として発言する機会をえたことは深く光栄とするところであると述べはじめた。ところがそのあとで「現在ノ社会ヲ省ミルニ、資本主義制度ノ円熟ト共ニ其矛盾欠陥又漸ク深酷ニシテ、為メニ貧富ノ懸隔甚ダシク、貧シキ人々ノ生活不安ノ声津々浦々ニ満チムトスルトキ、陛下御統治ノ下ニ政治ニ参与スルモノノ責任一層重大ナルヲ痛感イタシマス」と発言し、市当局は無産階級のために社会施設の整備を積極的に進め、人びとの不安を一掃するよう努めるべきだという演説を行った。このくだりが問題になったのである。後日、政友派は、この演説は、賀表奉呈に名をかりて、日ごろ抱いている主義主張を述べたもので、また議題外にわたったことは不謹慎であり、副議長の栄職にふさわしくないということになり、陶山はこれを許した佐藤議長とともに不信任を受けるはめになった(『川崎市史』)。 賀表奉呈の件にかかわって、金融恐慌のもたらした後遺症が問題になるほど社会情勢はきびしかったとみることもできよう。もっとも正副議長不信任案提出は、政友派の策動により民政派の一部の議員をもまきこんだ正副議長の乗取り策の陰謀であるとの見解もあり、民政派の川崎同志会の幹事長中野与右衛門らは不信任案提出の「不合理なる軽挙」をおさえようとしたが失敗し、中野は今回の件は「児戯に等しい」と憤慨していた。また、佐藤議長も、あの発言は一部の議員がいうように「不敬」にわたるものかどうか、また、不信任案提出の動機川崎市公設市場 『川崎市勢要覧』昭和5年版から に「万一不純があるとすれば、大いに考慮」しなければならないとの談話を発表していた。たしかに、陶山篤太郎の発言が、政派間の抗争の論点になり市の政治問題となり、社会民衆党も、十二月三日夜、「正副議長弾劾反対市民大会」を開き、「不純なる正副議長弾劾に反対せよ、市民諸賢の公正な批判訴ふ」というビラを三万枚市中に配布したほどである(『横浜貿易新報』昭和三年十二月三日付)。 このように、資本主義制度の円熟と矛盾・欠陥の指摘と「貧富ノ懸隔」の指摘が政治問題の焦点にすえられたことは、また、それだけ、金融恐慌下の社会状態が悪化の一途をたどっていたことの証拠である。たとえば、川崎市の中心部で、市民の生活必需品の商業センターの役目を果たしていた公設市場の売上げ状況から、このころの市民の生活状態をうかがってみると、生活必需品の総売上高は、一九二七(昭和二)年から昭和恐慌下の一九三一(昭和六)年にかけて、ほとんど年々低下している。『川崎市勢要覧』の「昭和四年版」と「昭和九年版」により、公設市場売上高年次別推移で、たとえば米麦類をみると、一九二七年の売上高は約一万九千五百円であったのが翌年にはほぼ一万七千円、そして一九二九年には約一万六千円と低下している。また、副食物と目される、乾物類・味噌・醤油等が大幅な売上げ減となっているのが川崎市にできた託児所 『川崎市勢要覧』昭和5年版から 特にめだち、乾物類は一九二七年の約一万四千七百円から一九三一年にはほぼ五千六百七十円に落ち込み、味噌・醤油等も、同じ年次で一万五百円から約四千百円へと減少していた。それだけ市民の食生活が弾力性を失い、ぎりぎりの生活を余儀なくされていたのである。恐慌下の市民生活は、まったく灰色におおわれていた(『川崎市史』)。 このような状態のもとで、困窮家庭が増加するにつれ、欠食・長期欠席児童が問題となって表面化しはじめた。『川崎教育史』上巻によれば、このころ「市内各小学校で欠食児童は一学級当り二、三名出るよう」になり、これにともなって「長欠児童」も多くでたそうである。これらの生活困窮者やボーダーライン層の市民にたいして、川崎市は一九二八年二月から社会委員制度をしき、一九三一年には市内を三十五区に分け、貧困者救済・人事相談などの救済事業の徹底のために幅広い社会事業活動を行っていった(『川崎市史』)。 失業問題の深刻化 田中義一内閣が経済財政政策で定見を欠き、無策のままに終始した後を引き継いだ失業救済事業に働く労動者-川崎市下水道工事 昭和5年『失業応急対策事業概要』から 浜口雄幸内閣は、「十大政綱声明」(昭和四年七月九日)のなかで、政府自身が「中央地方ノ財政ニ対シ一大整理緊縮ヲ断行シ依テ以テ汎ク財界ノ整理ト国民ノ消費節約トヲ促進セムトス」と声明し、産業合理化はあとで述べる公私経済緊縮運動とともに政府のとる公式の運動となった。こうしたなかで、金融恐慌から昭和恐慌にかけて、失業問題が「社会問題」と化していったのである。 では、日本が世界大恐慌に巻き込まれていくなかで、失業者数はどのくらいの数にのぼっていたかというと、内務省社会局は、一九二九(昭和四)年十二月一日現在、失業者推定数は約三十一万五千であると発表していた。翌年秋の『国勢調査報告』も失業者数を三十一万九千八百十三人と報じていた。けれども、発表にたいする批判は、当時すでに『日本経済年報』第一輯が、社会局の失業統計は「大正十四年の失業調査に基き、当時の失業率に其後の推定人口増加数を乗じ、之に任意の手心を加えてある」と手きびしく論難していたほどである。このような事情を考慮して、全国の失業者数は昭和恐慌が深化していく一九二九年から三〇年にかけて、雇用全体の動向から推定して、新規供給部分をくわえて三百万人と見積もっても誇大な数字ではないという指摘もでてきている(隅谷三喜男編『昭和恐慌』)。 神奈川県下でも、労働争議・小作争議が激増していくとともに、失業者が増大していった。川崎市でも、一九二九年の千人に対して二年足らずの三一年には四千百二十四人と四倍強に激増し、失業問題は深刻になっていた。この間に一九三〇年十一月、川崎市は内務・大蔵各大臣にたいして失業救済事業にたいする国庫補助金増額要求の意見書を提出した。『昭和五年市議会資料』にあるこの意見書は、川崎市で失業者が急増している状態について「最近経済界ノ恐慌ノ打撃ニ依リ、一般産業界ノ不振ト共ニ市内各工場ノ労働者大量解雇ヲ初メ之等ニ伴フ商工業ノ不振等失業者ハ日ニ日ニ増加シツツアル現状ニ有之候」と述べていた。そして、川崎市が「東京横浜両市ノ間ニ介在スル新興工場地帯ニシテ、自由労働者ノ移動極メテ複雑ナルコト東京横浜両市ト其ノ実情ヲ同フス」と、川崎市の地理的条件も失業問題をいっそう緊迫化させていることをあげていた。こうして、川崎市は、一九二九年以来失業対策事業を起工し、その対策をすすめてきたが、一九三一年十二月に、失業者救済事業部を設置し、失業救済臨時委員十一名の任命も行った。しかし、市独自では、とうてい新規事業を起こすことは困難であった。この窮状について、意見書は「失業者ノ第2表 項目別歳入指数の年度別推移 1) 市税外収入中には毎年度繰越金を算入してある 2) 1925年度を100とする 3) 「昭和12年度川崎市財政概要」『川崎市史』から作成 第3表 項目別歳出指数の年度別推移 1) 衛生費中には上水道費を含む 2) 産業費中には工業用水道費を含む 3) 社会事業費中には住宅費・質屋費を含む 4) 1931年度の公債費が激増しているのは低利債借替えを行ったことによる 5) 1925年度を100とする,ただし都市計画費は1928年度を100とする 6) 「昭和12年度川崎市財政概要」『川崎市史』から作成 救済ヲ目的トスル事業ヲ見ルニ、財政緊縮整理節約ノ折柄県市共ニ全ク数フルモノナク、冬季ニ向ヒ失業者ノ増加ニ伴ヒ生活困難ノ極ニ至レバ如何ナル情勢ヲ招致スルヤモ計リ難キ」と述べ、失業者の増大と財政難の板ばさみを訴えていた(『川崎市史』)。 このために、恐慌下の川崎市の財政は弾力性を失っているのがめだっている。いま、歳出の動向をみると、一九二五(大正十四)年を基準にして恐慌下の財政指数は歳出全体で五〇から六〇㌫ぐらい伸びたことになっているが、その原因は公債費の急増によるもので、財政は硬直化していた。なかでも一九二七年、二八年と落ち込んだ社会事業費が大幅に増加し、一九三二年は五倍の急増となった。これは生活困窮者が激増したため、これにともなう救護費の支出が増加したためである。また、産業費とともに、公債費の増加も非常に大きいが、これは特別会計上水道費の事業起債が含まれている関係によるという。 他方、歳入についてみると、市税収入はほとんど横ばい状態で、一九二九年度より不況を反映して下回っている。しかも、この年十二月には、不況のあおりで営業不振におちいった市内の料失業者や生活困窮者が宿泊等に利用した川崎社会館 『川崎市勢要覧』昭和5年版から 理飲食店組合が、市税の五割軽減の陳情を市に行っていたほどである。このように当時の税収入は不況と市民生活の沈滞を反映して悪化の一路をたどっていった(『川崎市史』)。 県民の生活困窮、社会不安と市町村財政の悪化は川崎の場合だけでなく、いたるところでみられた。たとえば、金融恐慌以来の経済不況の波のなかで、農村部の困窮と農民の苦境を訴え、一九二九年人件費の低減と地租付加税の整理を求めた高橋勘之丞の浜口首相あての請願書は、この当時の農民の窮状を代弁していた(『茅ケ崎市史』2資料編)。高橋は、寒川町出身で、民政党の山宮藤吉のもとで政治運動に参加し、村会議員、町会議員をつとめた人物である。その高橋は、請願書のなかで、神奈川県下の農民が「大震災の惨害の傷あまりに大きくて瘡未だ癒え」ないなかで、負債が「二億円に上り利息の支払に窮し覚束なき前途を辛じて生活し居る」と切実に訴え、地租付加税の整理を請願していた。恐慌と不況の爪跡は、県民各層の生活のなかに、ますますふかく喰いこんでいたのである。 第二節 不況下の普通選挙の実施 一 普選による総選挙と県民 普選と「善政政治」論 金融恐慌後の不況の嵐が吹き荒れている一九二八(昭和三)年は衆議院議員選挙法改正(一九二五年五月五日公布)によるいわゆる普通選挙法とそれに基づく府県制の改正により二つ普通選挙が行われた年でもある。「第一回普選」と呼ばれている衆議院議員選挙が行われたのが、この年の二月二十日であり、六月十日に県会議員選挙が行われた。 神奈川県をはじめ東京・千葉・埼玉の関東四府県だけは、他府県ですでに前年普選による府県会議員選挙が終了していたのにたいして、普選の実施が総選挙が先で府県会議員選挙が後にまわることになった。それというのも、一九二三(大正十二)年九月二十五日の府県会議員統一選挙を前にして関東大震災がひきおこされ、被災府県の選挙が翌年に延期になったからで、その事情がもちこまれてきたからである。 ところで、普選は、財産を資格要件として納税額による選挙権の制限を撤廃し、一定の留保をくわえながらも、無産者大衆も選挙権を行使することができるようになったことを意味している。要するに、民衆が選挙という政治の舞台に登場することになったのである。したがって、普選は、既成の政治勢力、政党の政治地図をぬりかえ、政治秩序を変えていくという新しい政治状況が生じる可能性をみせていた。しかも、金融恐慌後の社会不安や民衆の生活の窮乏化が進んでいるので、普選の施行により、政治の世界も大きくかわっていくことが予想された。 そこでいきおい、普選による総選挙に関心が集まっていった。たとえば、『横浜貿易新報』は、総選挙の直前から当日にかけて選挙に関する三つの社説と与謝野晶子の「一票の威力」という論説を掲げた。まず、同紙は「悪政より善政へ」という見出しで、大正時代の普選運動史で政友会が運動の推進者に迫害をおよぼし運動そのものを妨害して、「普選実行に対して幾多の汚点を残し、国民の要求を蹂躙したる歴史」をもっていると、政友会を徹底的に攻撃しながら、「普選制定の実行者であった憲政会即ち民政党の普選に対する功労に就いて、国民は、充分其の功労を空しうせざる様慎重に心懸くべきである」と、民政党系にたつ新聞らしく、民政党をもちあげる論をはった。そして、社説は、田中内閣を「権力万能」で国民を抑圧する政府であり、「民意に合せず民情に合せず民論に合せざる」と糾弾し、立憲政治下において「善政政治」をうちたてていくことが普選における「国民の重大任務」であると訴えていた(『横浜貿易新報』昭和三年二月十七日付)。 政府ならびに政友会にたいして明確に対抗の旗幟を鮮明にしながら、さらに、翌日の社説で、「棄権せぬこと」というテーマの論陣をはった。これは、選挙にたいする有権者の自覚をうながしたものである。ここでは、イタリア首相のムッソリーニが普通選挙法を白眼視し、さらにファッシズム独裁政治家として「議会否認政治」をしくにいたったこと、また、それを許容したイタリアの轍をふまないように啓蒙していくことに力こぶをいれていた。それは、国内の資源が貧弱で、国民生活が苦しく、国民の自覚を欠いている点で、日本がイタリアとほぼ共通しているとみていたからである。そして、こう論じていた(『横浜貿易新報』昭和三年二月十八日付)。 選挙を他人事のやうに心得てゐると知らぬ間に政治が取引化し、邪道がはびこって正道が引込むのである。その結果は無論悪立法となり重税となって国民の生活を威圧するのは、敢て多言を要せぬ所である。……国家を愛するなら、更に又自己を愛するならば其手に持てる権利を正しく有効に行使すべきである。棄権は普選の道徳的違反である。 『横浜貿易新報』はたしかに政友会を積極的に攻撃しながら、もう一方で、新有権者を含めて選挙民の投票のもつ重みについての自覚をもつよう強調していた。かの詩人与謝野晶子も、また、「一票の威力」(『横浜貿易新報』昭和三年二月十九日付)のなかで、「日本政治を左右する威力」は、普選によってまさしく国民の手に移っていること、したがって、「威力あり効果ある一票」として行使することを強く要望していた。与謝野は、恐慌という「内臓の難病」を克服するためには国民全体の実生活に即して緊縮政策をとらなければならないという立場に立ち、選挙権のない婦人たちと二十五歳以下の青年たちに希望の灯をもたらすよう、有権者の一票が「一国の政治を改造」に導いていくよう説いていた。 県民の普選観 「昭和の新政」を運命づける普選の黎明、「誤らざる一票は国利民福の基礎」と新聞紙上で報じられるにつれ、県下各選挙区の立候補者たちの白熱した運動とあいまって、有権者の普選にたいする関心も、またたかまっていた。 この光景の一端について新聞は、「政策批判の花が咲く露路から裏長屋迄普選が斎した公民教育」という見出しで、街のさまざまな声を報じていた(『横浜貿易新報』昭和三年二月十八日付)。 「何れの弁士も仲々うまいことを云ふので、実は聊か判断に迷う」「俺には奥深いことは分らないから只虫の好く人に投票「是非見事な花を咲かして貰ひたい」と題する第1回普選のカット 『横浜貿易新報』昭和3年2月20日付 する」。このような関心のもちかたは、物見遊山タイプである。そうかと思うと、「清き一票を投ぜよと云ふも其日暮しの我輩等には尊い一日を休んで行くことも出来ぬ、理想の選挙を行はんとするなら少しでもいゝから日当を払ったらよからう」という声もでていた。当時の経済不況のもとで、生活にあえぐ新有権者の切実な願望であるし、またソロバンはじきでもある。計算タイプといってよかろう。 普選にたいするこのような関心の寄せかたも、また、選挙に積極的な姿勢を示している証拠のあらわれである。と同時に、さらに、候補者の選挙活動にふかくたちいって関心をもつ人びとも輩出していた。「けふの演説は内容が誠に貧弱だ」「演説は下手でも筋道が通って居る」「演説の上手はさて置いて熱のある誠の人でなければならぬ」「某氏の演説は大演説で敬服の外はない」「一意国事に尽瘁する人でなければ駄目だ」「いくら物知りでも弁論家でなければ議政壇上に立って充分の意見を吐露する事が出来ない」。このような見解は、まさに、普選の施行をきっかけとする新有権者の政治関心のたかさをものがたるものであった。こうした選挙への盛り上がりのムードのなかで、この記事を書いた記者が述べているように「政党の何派を問わず第一人格者にして真に社会の事情に精通し誠ある弁論の勇者」に投票しなければならないという空気も流れていたようである。 また、このような総選挙の雰囲気は、各候補者の言論戦、文書合戦、ポスターの貼付という演出で、いやがうえにも盛り上がっていた。たとえば、横浜市では、ポスターは、市内の表通りにはもちろんのこと、あらゆる裏路地の隅ずみにいたるまで貼りだされていたありさまである。戸塚付近では庭の植込みにまでポスターが貼られたという。そして各政派の言論戦も、二月十六、十七日を頂点にして白熱化し、各警察署は棄権防止につとめながら、署員を総動員したうえで、なお助勤者の応援を求め、各停車場および市内の十字路の要所で、選挙違反を取り締まるために不眠不休の目を光らせなければならなかったという。 とにかく、総有権者のうち、新有権者が六〇㌫をこえているから、選挙運動は壮絶であった。だから、この選挙でいわゆる政戦が白熱化し、第三区の中郡の平塚・大磯方面では、どの候補者も応援弁士が不足して困りはてたようである。そこで各選挙事務所は、なんらかの肩書がある人を探しまわり、弁士がみつかったとしても、聴衆の耳が肥え、そのために、弁士もなかなか骨が折れ、弁士自身が批評される始末であったという(『横浜貿易新報』昭和三年二月十八日付)。この現象も、また、普選による選挙の一つの風景である。 普選は、さらに、政党配置の地図をぬりかえていく可能性をみせていた。たとえば、第二区の柿生村(現在川崎市)、二俣川村(現在横浜市)の附近は、これまで政友会派の金城湯池であったといわれたが、民政党派の進出がいちじるしく、今回は、「自由の立場」を有する新有権者の勢力がどう動くかで大勢は決するという予断を許さない状態となっていた。ここでは、民政党の小野重行、政友会派の赤尾藤吉郎・川口義久と社会民衆党片山哲がしのぎをけずる運動を展開し、なかでも民政党派は政友会派の牙城をつきくずしながら民政党から立候補し当選した茅ケ崎町出身の岡崎久次郎の演説会案内(右)と当選礼状ハガキ(左) 津久井郡郷土資料館蔵 五分五分の形勢をつくりだそうとやっきになっていたが、「各派とも取らぬ狸の皮算用さへ満足に出来ぬが現状」であると伝えられていたほどである(『横浜貿易新報』昭和三年二月十八日付)。このような状況は、また、それだけ、新有権者が選挙に関心を寄せていたことをものがたっている。 第一回普選の結果 第一回の普選による総選挙の投票日を前にして、池田県知事は、県民全部が投票することを信じて、というまえおきで、「正当なる権利」を正しく行使することを強調しながら、「雄々しく勇敢に正しく投票」することを希望していた。また、有吉横浜市長は、それぞれの有権者が「世界の舞台」に立って「日本国民が立憲政治に対して深く理解ある処を表示」する気がまえで、「自己の良心の命ずる処を自由に公正」に行動することを要請していた(『横浜貿易新報』昭和三年二月十九日付)。この二人の談話は、県当局が市部四〇ないし五〇㌫、郡部が約二五㌫の棄権率を予想し、県民の政治意識、政治的自覚をはかるバロメーターとして、いかに棄権を防止するか、やっきになっていたからでもある。 ところで、投票日の二月二十日、『横浜貿易新報』は、「総ては一票から出発する、巨岳と雖も一握の砂から成るやうに、その一票が重要な一部を為」すと報じ、どのような「誘導、圧迫」があるともこれを排除すること、投票についての注意をうながしながら「独り残らず投票所へ……」と棄権の防止をうったえていた。その結果、この日カラッと晴れあがったこともあって、県下全体の投票率は約七四㌫となり好成績をおさめることができた。もっとも棄権率が高いのではないかと予想されていた第一区の横浜市でもほぼ三五㌫にとどまり、第二区が約二一㌫、第三区がおよそ一八㌫という棄権率で、これこそは「普選の劈頭に於ける喜ぶ可き現象」であるとみなされた(『横浜貿易新報』昭和三年二月二十一日付)。 選挙の結果は、一区が戸井嘉作(民政)、三宅磐(民政)、磯野庸幸(政友)、二区では小野重行(民政)、小泉又次郎(民政)、赤尾藤吉郎(政友)、川口義久(政友)、三区は鈴木英雄(政友)、岡崎久次郎(民政)、胎中楠右衛門(政友)、平川松太郎(民政)が当選した。二区から立候補した無産政党系の社会民衆党の片山哲は落選した。この選挙で一区から三区をつうじて民政党が六議席をしめたのにたいして、与党の政友会が五議席にとどまってしまった。その内訳をみると、第四表に示したように二、三区で両党は半数ずつの当選者をだしたのにたいして、一区では民政党が政友会をおさえ、得票数においても、一、二区では民政党が政友会を引き離し、とくに一区では約二・七倍の票を獲得していた。また、県東部が民政党系に有利な地盤をつくりあげたのにたいして、湘南・湘北から西湘にかけては、民政党系の進出がみられたとはいうものの、一、二区にくらべて政友会の基盤が根強いという違いをみせていた。 民政党が第一回の普選で政友会を一歩リードしたことは、このとき政友会側にたつ警察の干渉が強かっただけに人びとの目をひいた。というのは、当時、神奈川県警察部長は、鈴木喜三郎によってすえられた鯉沼厳であった。この鯉沼は、横浜に島田三郎亡きあと戸井嘉作や三宅磐など民政党の有力者がおり、また横須賀には、のち閣僚となった大物議員小泉又次郎がひか第四表 第四十六回総選挙昭和三年二月二十日 遠山茂樹・安達淑子『近代日本政治史必携』から えていて、優勢を示している民政党を牽制するために、まえの年八月、山手警察署長西坂勝人を抜擢して刑事課長に任命し、枢要ポジションにもそれぞれ政友会系をすえ、強力な鯉沼・西坂ラインをきずいていた。そして、この体制下で選挙違反の取締りをすすめたのである。それは、西坂刑事課長みずからが、「内閣がかわれば、どうせ自分も辞めさせられるのだからという気があるから、随分、思い切ったこともやった」と述懐しているほど政友会に偏した荒療治であったという(『神奈川県警察史』中巻)。 こうみてくると、第一回の普選にたいする県民の政治的自覚はかなりたかいことを示していたといえる。しかも、一区で岡崎憲(社会民衆党)と神道寛次(労農党)があわせて一万九千二百六十四票を獲得したことも、かりに「両者協定成れば優に当選圏内」にはいっていたといううらみは残るが(『横浜貿易新報』昭和三年二月二十二日付)、「普選大衆の進出」として、これまでの総選挙にみられなかった一つの流れをみせていた。このことは、二区の片山哲が、五千八百四十一票をえたことにもつながってこよう。 二 県会議員選挙の動向 普選による県議選の動向 総選挙から数えてほぼ三か月半の後の六月十日、普選による県会議員選挙が行われた。総選挙と同じように、投票日を前にして選挙戦のゆくえは予測をゆるさない形勢となっていた。たとえば、定員十五名に三十四名が立候補した横浜市の場合、総選挙と同じように言論戦中心の運動がくりひろげられ、約二週間にわたって全市で千回以上の演説会が開かれ、「演説責めの市民」といわれるほどの様相を呈していた(『横浜市史』第五巻下)。 新しい有権者を相手にどの選挙区でも言論戦、文書戦が各候補者の運動のタテマエとなっていたことは事実である。そのため、言論戦は、どこもかしこも投票一日前ともなると、しのぎをけずる、火のでるようなたかまりをみせていた。川崎市では、民政党総務松田源治が自派の候補の応援のためにかけつけ、日労党の候補には麻生久がかけつけ、各政派いりみだれて、それこそ「言論の燎火」をあげたといわれるほど時間ぎりぎりまで論戦を展開していた。このような言論戦は、それこそどの選挙区でもみられ、そのために川崎方面では「最後の五分が勝敗の決勝」であるといわれ、横須賀市中部あたりでは、各候補が一喜一憂、まったく予測、予断を許さない形勢と伝えられていた(『横浜貿易新報』昭和三年六月十日付)。 また、県西の足柄上郡の松田・山北方面、足柄下郡の小田原・国府津あたりでは、県の東部と色彩を異にして「旧式選挙」の影をまとって地盤協定を試みたり、地盤割りのうえにたちながら切り崩し作戦をとっていたようである。なかでも、足柄下郡では普選の世であるということで「改新」をさけび、「真に徹底して下郡に選挙新時代」がくるという空気が流れていたところ、三つの議席をめぐって政友会派三、民政党派二の五人の候補の勢力が伯仲し、その苦しさから、「一派が潜航戦」にでればこれに対抗する動きがあらわれるという運動に逆もどりしてしまった。この状態に「有権者も苦笑し乍ら止むを得ない」と黙認するありさまであ第5表 県会議員立候補者郡市別・政派別一覧表 『横浜貿易新報』昭和3年6月10日付から ったという。そのために、言論がどの程度にまで功を奏するか、各候補者の勢力範囲が明確であるだけにかえって予断を許さなくなったようである。他方、一つの議席をめぐって三巴戦を展開している松田・山北方面では、とくに、政友会、民政党の二人の候補者の選挙事務所が、戸別訪問などの取締りが厳重をきわめているので、双方の票田に侵入してそれぞれ効果をあげ「雁行の形勢」にあるので、これまたかえって予想もつかなくなっていた(『横浜貿易新報』昭和三年六月十日付)。 このように、言論戦、文書戦を主要な手だてとしながらも、伝統的な票取り合戦もからみ、有権者のなかには「選挙に恐怖の念」をいだく者もあらわれていたようである。それほどまでに、県会議員選挙は混沌たる様相を呈していたといえよう。 政党競合と選挙干渉 県会議員選挙の運動の過程で一つ問題になっていたのは、政友会派にたっての県警察部の選挙干渉が総選挙と同じように熾烈をきわめたということである。そこで、民政党本部では、元神奈川県警察部長蔵原敏捷を干渉監視員として神奈川県に急拠派遣するというありさまであった。 事実投票日をひかえて、県下各選挙区における選挙違反は四百件ちかくにのぼり、民政党・無産政党系などの運動を妨害するために、運動員の一時留置の人員は千数百人にのぼったという。そこで『横浜貿易新報』などの記者団がこの干渉弾圧をめぐって池田知事に質問したいきさつもある(『横浜貿易新報』昭和三年六月十日付)。以下は、その一問一答の一節である。 問 干渉弾圧の声が甚敷い、それに数百の違反が全部、民政無産に在って政友にないといふのは、干渉を裏書きするものではないか 答 そんな事はない、いつも言ふやうに選挙は厳正公平だ 問 しかし、われ〳〵第三者からみて確かに猛烈に干渉してゐると認める、久良郡などは、あの小郡で民政党の運動員その他の引っ張られたもの三百五十名に達してゐるといふではないか 答 そんな事はあるまい、聞いて居ない 問 或警部が、部下から違反の報告があったのに対して(それは政友会か、ヘマをやると首になるぞ)と命令してゐるのを聞いた新聞記者があるが、これは何う考へるか 答 それは、だれでもヘマをやったら首になるだろう だいたいこんな調子のやりとりである。記者団のたたみかける短刀直入の質問に、答は平行線をたどっていたが、選挙干渉の真相はそうとう深刻であったらしい。それだけに投票日の『横浜貿易新報』(昭和三年六月十日)は、「県会議員選挙」という見出しの論説で、候補の「人々の人格が、如何なるものであるかを先づ鑑別し、然る後更に其人々の政治的主張の如何なるものであるか、又其人々が議員当選後に於ける政治的操守に於て、果して県民の期待を裏切るが如きこと無きや否や」等々についても慎重な考慮をはらわなければならないことを強調していた。そして、県会議員としての適格者は、つねに、「県民全体の公正なる福利を増進」することを信念としてもち、奮闘する「強き善人」であること、いいかえれば、正義、公益、真理、立憲のためにつくす「勇敢なる勇士」でなければならないと主張していた。 ところで、投票の結果をみると、まず目につくのは、総選挙にくらべて棄権率がたいへん高かったことである。有権者は、名簿確定では二十八万三千二百三十二人、そのうち死亡その他の失格で五千八百二十七人で、無投票の鎌倉郡をのぞくと六月十日現在の有権者数は二十六万三千九百五十三人で、このうち投票者数は十六万六千二百一人、棄権者は九万七千七百五十二人にのぼり、棄権率は三七・一㌫にのぼっていた。なかでも、横浜市の場合は、投票総数五万五千七百二十四票のうち棄権率は四六・九㌫にのぼり、かつてみたことのない不成績に終始した(『横浜貿易新報』昭和三年六月十一日付)。 棄権率が高かったのは、ひとり横浜市・神奈川県だけではなかった。東京の市部において四七・七㌫、東京の郡部でも三五・三㌫をしめていた。こうして、とくに都市部における「府県政」にたいする有権者の「冷淡」さが問題になってきた。そのもっとも大きな理由は、『横浜貿易新報』(昭和三年六月十二日)の論説「見よ此棄権率、責任は何処に」がとりあげているように、「中央政治における政争の余弊が次第に地方に浸潤し、地方自治政治が矢張り政争の渦中に投ぜらるゝ悲しむべき傾向」がいちだんとふかまったこと、「人材次第に中央に集りて政争に耽り、二流以下の者府県会に立籠りて或者は利権漁りたる事」とする動きがめだつようになったからかも知れない。 政党地図の変化 県会議員の選挙の結果は、各選挙区ともおしなべて棄権率が高かったことを特徴としていたが、その結果は、選挙干渉などいくつかの問題の禍根を残しながらも与党の政友会にたいして野党の「善戦苦闘」という結果をもたらして終了した。横浜市を皮切りに大接戦を演じ、最高点当選の小川方成(民政党)二千九百十四票、長谷川良輔(政友会)二千八百四十二票、小林歛企(民政党)二千六百五十三票としのぎをけずった当選者にたいし、落選の二人もまた、二千六百四十三、二千四百八十五票を獲得し、それこそ最後まで横一列に並んだ結果に終わった。足柄下郡の開票をしんがりに、「普選県会」の新しい党派別分野が確定した。その内訳をみると、政友派が十九人、民政派十八人、無産政党各派四人ということになる。このうち横浜市では、小岩井貞夫、高橋長治、杉山謙造、小泉由太郎、飯田助夫、佐久間権蔵、飯田兵太郎と民政党が七人の当選者をだし圧勝し、政友会は三木賙三、山崎小三、野方次郎、高木儀兵衛の四人、無産政党系が社会民衆党の堀内長栄、市政研究会の石河京市、自治党の酒井庄平、地方無産党の金井次の四人という構成になった(『横浜市史』第五巻下)。民政党と無産政党のいちじるしい進出が目につく。とくに、県下全域における無産政党系の四議席が横浜市に集中していたことは、「県会議員選挙各派別得票数」でみてもあきらかなように、横須賀市・川崎市、三浦郡、それに農民組合運動の拠点の一つである中郡を例外として無産政党系への票がでていることは都市部と郡部の落差をものがたっていよう。 また、この県会議員選挙では政友会が単独で形勢を左右する勢力配置をつくれなかったことである。横浜市をはじめ市部で民政党に遅れをとり劣勢を余儀なくされた政友会は、郡部の多くの選挙区でようやく態勢を整え、巻き返しをみせたとはいうものの、全体としては民政党とわずかに一議席の差をつけたにすぎなかった(『横浜貿易新報』昭和三年六月十三日付)。 このような選挙の結果をみて、『横浜貿易新報』(昭和三年六月十三日)の論説「府県会選挙の教訓」は、この選挙で政友会は不人気であり、しかも言論が盛んであったことは、「普選政治の特色」であり、「国民の政治思想は、着々政党本位更に国家本位に進みつつある事実」はこれを十分認めることができると主張していた。こうしたなかで、この論説は、今回の選挙で棄権が多かったこと、政党が厳正に国家本位の大局にたって国民の進むべき理想を示すよう反省をうながしてもいた。事実、政治の舞台における普選の実施とは裏腹に、現実の国民生活は不況の波にもまれ、未曽有の危機に直面していた。 進出する批判勢力 恐慌が県民の生活の足元を脅かそうとする一九三〇(昭和五)年一月も押し迫った二十八日、普選によるはじめての横浜市会議員選挙が行われた。今回は、市民の生活に直接かかわりのある選挙であるせいか、ここでは無産政第6表 県会議員選挙各派別得票数(13日午前1時調査) 1) 地方無産党中には神奈川自治党,新自由党,立憲大衆党を含む 2) 中立中の色彩明かなるものは政党中に含む.従って郡部の中立は何れも之を政党中に加算す,尚横浜市政研究会は中立に含み,当選者数には鎌倉郡を含む 3) 『横浜貿易新報』昭和3年6月13日付から 党をはじめ既成政党にたいする批判勢の進出がめだった。五十六の議席をめぐって立候補者数はその約二倍の百九名で、その内訳は、民政党と民政系の同志会三十九名、政友会および政友系二十六名、社会民衆党とその系統十名、日本大衆党三名、労農党三名、革新派三名、自治派四名、中立二十二名となっている(『横浜貿易新報』昭和五年一月十六日付)。この選挙は浜口雄幸民政党内閣のもとで行われたので、数が比較的めだつ中立候補者は、その多くが自称民政系の看板を掲げて票をかき集めようとしていたそうであるが、これもまた、選挙の大衆化という普選のなかの光景の一つであろう。それだけに、選挙戦もポスターと言論が武器となり、演説会場を確保するのが困難であるといわれるほど、政党間の舌戦は火花を散らした(『横浜貿易新報』昭和五年一月十一日付)。ところで、横浜のこの市議選で目をひくのは、有吉忠一が市長に登場して以来、震災復興を名目に、既成政党の民政党・同志会と政友会が相互に妥協し、さらに、市長と協調して市政を運営してきた関係上、両派ともこの選挙で対立がみられなかったことと、この市政のありかたに無産各派が真向から挑戦したことである。民政・政友両派は、多少のニュアンスの相違はあるとはいえ、ともに工場誘致、外人招致、貿易振興、小商工業の救済、失業救済などを政見に掲げ、有吉市長の擁護をうたっていた。これにたいして無産各派は、有産階級の独占する市会を根本的に建て直す機会であり、勤労・無産大衆の「大多数の利益」「下層社会の幸福」の実現をスローガンに掲げ、具体的政策を打ちだして「名望家政治」と対決したのである(『横浜市史』第五巻下)。 選挙の結果は、民政党二十七、政友会十三、中立七、無産政党七(社会民衆党二・日本大衆党三・労農派一・その他一)、革新派二という配置になった。このなかで特筆すべきことは、投票率が約七六㌫という高率を示し、無産各派、中立派、革新派が批判勢力として大躍進した事実であり、『横浜市史』が説くように、無産各派の進出は市民を驚かせ、「協調市会の体質的変化」を意味する指標になったことである。社会情勢の変動は、微妙に市政に反映していた。 第三節 恐慌と県政・町村政 一 恐慌対策の基調 消費節約への道 金融恐慌以降の経済難局を克服する妙案と良策がないことは、一九二九(昭和四)年八月、時の首相浜口雄幸が国民にあてた文書「全国民に訴ふ」をみてもあきらかである。このなかで、浜口は財界の不況、国民所得の減少、財政の悪化を克服し、「奢侈浪費の風」を改善し、「政府の為」ではなくして「国民自身の為」「国家全体の為」に財政の整理緊縮と消費節約を訴えた。このチラシは、産業の萎〓沈衰、貿易の輸入超過、為替相場の低落、関東大震災後の経済不況のもとで、このままでは景気の回復をはかることは望めないという意図から配布されたものである。そして、「国民経済の根抵」を培養しつつ「金の解禁」に踏みきることを示唆した宣伝文章ともなっていた。浜口首相は、そのなかで、次のように述べていた。 「財政の緊縮と消費の節約とが充分に実行せられるに至りまするならば、茲に始めて経済建直し国民生活安定の必要条件であり、且つ財界年来の懸案たる金輸出の解禁も断行することが出来るのであります。……緊縮節約は固より最終の目的ではありませぬが、之に依って国家財政の基礎を鞏固にし、国民経済の根抵を培養して、他日大に発展する素地を造らむが為であります。明日伸びむが為めに、今日縮むのであります。」 それゆえに、経済を建て直して金解禁にまで踏みきるために、「財政緊縮」「消費節約」を掲げて、ここから国民教化の意図をにじみだしながら、「経済緊縮」の計画を進めていくことになる。 ところで「消費節約」を国民的規模ではかるために、公私経済緊縮運動をくりひろげることとなった。八月九日、政府は十九万五千円の予算をもって内務省のもとに安達謙蔵内相を会長として、内務・大蔵・農林・商工等の政務次官クラスを委員とする公私経済緊縮委員会という中央委員会を設置して、さらに府県単位で知事を中心とする公私経済緊縮地方委員会を設け、全国的にこの運動の組織網をはりめぐらし、運動を推進しようとした。 公私経済緊縮委員会は、八月十三日、第一回委員会を開き、「計画要綱」を決定した。その趣旨は以下のようになっている。 「戦時好況時代に馴致せられたる浮華放縦の弊夙に深く人心を浸し、経済的反動及び大震火災に遭遇せるも浪費贅沢の風尚更まる所なし、国民精神著しく弛緩し、他面産業の萎〓不振既に久しく、貿易の逆調比年相亜ぎ、為替相場は平価を下ること遠く経済界に一大暗影を投じつつあるの現況は、真に国家の深憂たるを以てなり。仍て政府は自ら中央地方の財政の整理緊縮を断行して其の基礎を鞏固ならしむると共に、一般国民の自覚奮起を促し、挙国一致消費を節し、冗費、浪費を排して国民経津久井郡内郷村の納税宣伝のポスター 津久井郡郷土資料館蔵 済の根抵を養ひ、以て当面の難局打開に努め、他日躍進の素地を作り、国力の充実伸張を図らんとす」(「公私経済緊縮運動に関する計画要綱」『斯民』二四-二九、一九二九年)。 この運動の基本線は、一 財政の緊縮、公債の整理、金輸出解禁の我が財政経済建て直しのために急務であることを説き国民の理解をもとめること、二 個人経済と財政ならびに国民経済との関係をあきらかにし、国民全般が協力して消費節約をなす必要を自覚励行せしむること、三 質素勤勉貯蓄を奨励し、生活を簡素にし、社会生活における各種の弊習を矯正し、進んで消費経済の各方面に工夫を加味していくこと、という三点に絞ることができる。公私経済緊縮運動の成否の鍵は、国家主義的見地から統制力と組織性をもって推進しようとしており、その意味でこの運動は恐慌下の体制改造にかかわりある性格のものとしてみることができよう。 経済生活の改善 政府が主導権をとって公私経済緊縮運動を実質的に推進しようとしていたことは、政府が運動の「計画要綱」、運動方法を通牒したにとどまらず、具体的に指示事項をあげていたことからもうかがえよう。内務省は八月下旬、道府県学務部長会議を開催し、一 運動にかんするパンフレット、リーフレットを速かに関係筋へ配布すること、二 運動の統計図表を地方の展覧会、講演会で十分に利用すること、三 優良国産品、外国品代用の国産品の種類・品目の使用を一般に奨励すること、四 道府県などの主催により主要地で趣旨徹底のために講演会を開くこと、主要都市で九月中に指導者を主とする講演会を開催すること、五 講演会にかんする隣接道府県の連絡を密にすること、六 講演会講師の派遣については時間的余裕をもたせて申請すること、を指示していた(『大阪朝日新聞』昭和四年八月二十七日付)。 こうして、神奈川県では、九月十七、二十七日付の『県公報』に公私経済緊縮、あとで述べる教化総動員に関する通牒を掲載した。そして、山県知事は、この月開催された市町村長会議で地域の運動の方向づけをあきらかにした。山県知事は市町村長を前にして「国体観念」を明徴にし、「国民精神」を作興すること、「経済生活ノ改善」をはかり「国力」を培養するという趣旨の教化総動員を推進するために各種社会教化機関の「連絡統制ノ機関」ともいうべき委員会を設置することを公にするとともに、公私経済緊縮に関して次のように述べていた(資料編11近代・現代⑴三五二)。 本県ニ於テモ其ノ趣旨ヲ体シテ今回公私経済緊縮委員会ヲ設置シ諸君ノ理解アル協力ニ倚藉シテ中央地方相呼応シテ為政者ノ苦心ノ存スル所ト国民ノ処スヘキ途トヲ一般ニ周知セシメ国民ノ一大覚醒ヲ促カシ相率ヰテ浮華ヲ戒メ浪費ヲ省キ従来吾人ノ日常生活ノ方式ニ関シテハ合理的見地ヨリ之ヲ改善シ真ニ挙国一致節制ト力行トニ励ミ由テ国力ノ回復ト難局ノ打開トニ邁進セムコトヲ期ス 神奈川県におけるこの運動の根拠づけは、政府の見解にならったものである。そして、県当局は、指示事項で「市町村実行予算ニ関スル件」「滞納整理ニ関スル件」「教化総動員ニ関スル件」「生活改善ニ関スル件」などとともに「公私経済緊縮委員会設置ニ関スル件」をあげていた。その内容は『県公報』(九月十七日)と同趣旨のものであり、「県ヲ中心トシタル公私経済緊縮神奈川県委員会ヲ組織スルト共ニ各市町村ニ市町村長ヲ中心トスル該委員会ヲ組織スルコト」を義務づけ、その実績を挙げていくために、「地方ノ財政、生活ノ状態ニ鑑ミ適切ナル実行事項ヲ協定」し、「管下ノ各種団体ト密接ナル連絡ヲ保」って、運動の普及徹底をはかるようにするよう指示していった。 公私経済緊縮運動の具体化へ 「神奈川県公私経済緊縮運動計画要項」が発表され、運動の具体的な推進方法が提示されていた。「計画要項」の内容は、前文と三つの項目、すなわち「公私経済緊縮運動ノ要項」「公私経済緊縮運動ニ関スル機関」「公私経済緊縮運動ノ方法」からなり、付録として「公私経済緊縮神奈川県委員会規程」がついている。このうち「運動ノ要項」は政府の方針を述べたものであり、「運動ニ関スル機関」もすでにふれたような県委員会と市町村委員会についての規定を明示していた。そして、「運動ノ方法」について次のように内容づけられていた。 一 県告諭ヲ以テ公私経済緊縮運動ニ関スル要旨並ニ方法ヲ県下一般ニ諭達スルコト 二 公私経済緊縮運動ノ趣旨徹底方ニ付市町村長ニ対シ内務、学務両部長ヨリ通牒ヲ発スルコト 三 市町村ニ於テハ委員会ヲ設ケ本運動ノ要旨ニ基ヅキ夫々地方ノ事情ニ適切ナル実行事項ヲ協議シ各種団体ト連絡ヲ保チ之ガ実行ニ努ムルコト 四 本運動ニ関スル各種機関ノ連絡統制ヲ図リ諸般ノ計画、宣伝、実施等ニツキ其ノ活動ヲ援助スルコト 五 新聞、雑誌等ト連絡ヲ図リ其ノ協力ヲ求ムルコト 六 実業団体、教化団体、婦人団体等ノ民間団体ト連絡ヲ図ルト共ニ学者、実業家其ノ他ノ篤志家ノ協力ヲ求ムルコト 七 金解禁、国際貸借、列国ノ財政、公債及国富並ニ消費経済改善等ニ関スルポスター、冊子ノ頒布、映画ノ利用、講演会、講習会等ノ開催ヲ為スコト 八 寺院、教会、劇場、活動写真館、其他ノ場所ニ於テ多衆集合ノ機会ヲ利用シ公私経済緊縮ニ関スル趣旨ノ徹底ヲ図ルコト 九 公私経済緊縮ニ関スル優良ナル施設又ハ其ノ実績ヲ一般ニ推奨スルコト 十 国産品ノ使用ヲ奨励スルコト この十項目をみてもあきらかなように、「運動ノ方法」は政府の方針を受けていっそう具体化されている。そのうち、一と二は、県レベルでの役割を中心に各地域での活動との関係を重視した手続上の事項であり、三以下は市町村レベルの運動の推進方法と内容を規定している ところで県知事を会長とする公私経済緊縮神奈川県委員会はどのようなことを試みていたか。委員会は教化総動員神奈川県委員会と名をつらねて開催地市町村との共催により、十一月上旬から中旬にかけて講演会を開催していた。その場所は、小田原町、横須賀市、鎌倉町、厚木町、中野町の五か所である。講演会は公私経済緊縮の趣旨の普及、徹底をはかろうとするものであった。 この間、九月下旬から十月上旬にかけて、公私経済緊縮運動は県内の各市町村におろされていく。 二 公私経済緊縮運動の実情 村での実践 高座郡相原村(現在相模原市)の村長神藤芳太郎は、一九二九年十月十五日、村内の有力者に公私経済緊縮運動の委員を委嘱かたがた、来たる十九日に旭小学校で委員会を開催する旨の通知を発した。その文面の主要部分は以下のとおりである(相原村役場『公私経済緊縮ニ関スル書類』)。 先般政府ニ於テハ公私経済緊縮運動ニ関スル計画ヲ樹テ全国一斉ニ之ガ普及徹底ヲ図ル事ト相成本県ニ於テモ委員会ヲ組織シ中央ト相呼応シテ之ガ実績ヲ挙クル事ト相成候ニ付テハ本村ニ於テモ其ノ方針ニ依リ速カニ地方委員会ヲ組織シ夫々地方ニ適切ナル具体的実施方法ヲ決定シ一般ニ対シ右趣旨ノ普及徹底ヲ期セラルル様本県庁ヨリ通牒シ次第モ有之候ニ付本村モ実施致シ度 相原村の場合、村当局は政府-県の通達に接しこの運動を積極的に受けとめようとする姿勢をとっていたもようである。その事情は、委員の委嘱をかねて同時に至急委員会を開催しようとしていた関係から読みとれる。さらに村長神藤芳太郎が高座郡町村長会長の職にあり、そのため彼は、この村をして郡下の教化総動員、公私経済緊縮運動の中心にしようとしていたようである。 相原村は、今日の相模原市域に属する旧七か町村のうち小作率のもっとも高い村で、『神奈川県統計書』の一九三五(昭和十)年来の数字でみると、農家総戸数五百十五戸のうち、自作農は八十戸の一六㌫、小作農は二百五十一戸の四九㌫、自小作農は百八十四戸の三五㌫となっている。神奈川県下においても「小作ノ割合多シ」といわれていた。民力の程度は、神奈川県経済部『相模原土地利用計画書』(一九三五年)によると、「富ノ程度ハ県下ニ於テ中若シクハ中以下ニアルモノノ如ク、食糧生産ノ不足、繭価ノ不況ニ依ル農家ノ窮乏ハ、畑所ニ於テ殊ニ著シキモノアリ」とみなされていた。畑作地帯である相原村では、農地面積九百三・四ヘクタールのうち、田はわずかに、三・九ヘクタールで、八百九十九・五ヘクタールが畑であり、恐慌の波をもろにかぶっていた(『相模原市史』第四巻)。だから、村長以下村の関係者は、こうした農村の実情を自力で回復していくためにも、公私経済緊縮運動を積極的に推し進めていかざるをえなかったのである。 たしかに、この村は運動への取り組みがはやかった。その事情は、相原村で公私経済緊縮委員会が開かれていたその日に、他町村では運動への着手の督促を受けていたという事態からもうかがえよう。すなわち、十月十九日、神奈川県町村長会長新田信、高座郡町村長会長神藤芳太郎をはじめ郡教育会長、郡連合青年団長、郡連合在郷軍人分会長、郡小学校長会長、郡女子連合青年団長、郡慈教会長、郡神職会長、湘南中学校長の連名で、「客月十七日及二十七日の県公報所載教化団体総動員及公私経済緊縮に関する件は最も事局に適合したる施設と思考する次第に存候、貴村に於ても既に御計画中の事とは存じ候へども至急県の出旨に添ふ様致度候条何分の御努力を煩度右得貴意候也」という通知を発していたのである。 相原村の公私経済緊縮委員会、つまり、公私経済緊縮相原村委員会は、十月十九日午後二時三十分から旭小学校裁縫室で開かれた。村長を会長とするこの委員会は、会長一、副会長一、委員二十四、役場吏相原村役場 相沢栄久氏蔵 員で構成される幹事長一、幹事三、書記一というメンバーでかたちづくられている。この日出席したのは、役場側から会長・幹事長・幹事の計三名、委員は明治・大正年間すでに村の助役・村長職を歴任して瀬谷銀行橋本支店長をつとめる相沢菊太郎他十一名であった、また番外として小学校長が出席していた。まずまずの出席率である。当日の委員会の協議事項は、一 委員会規程および実行事項について、二 委員会協定事項を村内に周知せしむる場合には伍人組部長に委託すること、三 本会役職員は無給とすること、の三点であった。 この協議事項の第一点、公私経済緊縮相原村委員会規程は、全体で六か条で、県委員会の規程を準用し、村委員会は、会長である村長と副会長の村助役が中心になり、そのもとで会長の委嘱する幹事会が庶務を掌理し処理するという規程になっていた。そして、委員会は「公私経済緊縮ニ関スル諸般ノ調査講究」を行うとともに、それを実行していくことをはっきりとうたっていた。公私経済緊縮運動は、こうして、内務省を水源として、その系列をつうじて村落の生活共同体を基礎に行政組織を中心に諸団体と連携して推進されていったのである。 なお「実行事項要目」は次の二十四項にわたっていた。 一 国産品ノ使用ヲ奨励スルコト二 公有物ノ浪費濫用ヲ慎シムコト三 生活改善団体及貯蓄組合等ノ設置利用ヲ奨励シ一層其ノ内容ノ充実ニ努ムルコト四 郵便年金簡易生命保険等ノ加入ヲ奨励スルコト五 副業家庭内職等ヲ奨励シ余剰力ノ利用ニ力ムルコト六 毎月俸給其ノ他収入ヨリ応分ノ金額ヲ貯金スルコト七 生活ヲ簡素ニシ贅沢品ノ使用ヲ抑制スルコト八 努メテ宴会ノ度数及其ノ費用ヲ節減スルコト九 凶事ノ際ニ於ケル飲酒及香典返シ等可成之ヲ廃スルコト十 虚礼ニ亘ル形式的贈答ハ之ヲ廃止スルコト十一 特ニ食事ニ招キタル場合ノ外妄リニ酒食ヲ供セサルコト十二 予算生活ヲ実行シ家計簿ノ記入ヲ奨励スルコト十三 日用品ノ買出シヲ奨励シ努メテ掛買ノ弊ヲ矯正スルコト十四 衣類其ノ他調度品ハ此際成ル可ク新調ヲ差控フルコト十五 禁酒禁煙節酒節煙ヲ励行スルコト十六 廃物利用ヲ工夫実行スルコト十七 衣服ハ成可ク二重生活ノ煩ヲ避クルコト十八 台所ノ改善ヲ図リ能率及衛生ノ向上ヲ図ルコト十九 訪問ハ先ツ用談ヲ済マセ長座ヲ慎シムコト二十 時間ノ利用ト励行ニ努メ規律アル生活ヲ奨ムルコト二十一 勤労ヲ尚フノ気風ヲ養ヒ生産能率ノ増進ヲ図ルコト二十二 宴席ニ於テ酒盃ノ献酬ヲナサザルコト二十三 電燈ハ不用時ニハ消燈シ之ガ節約ヲ図ルコト二十四 道路ヲ愛護シ常ニ之ガ清掃ニ力ムルコト この実行事項要目は、「神奈川県公私経済緊縮運動計画要項」のうちの「公私経済緊縮運動ノ方法」を具体化したものである。その特徴は、村民の私生活の規律づけを中心に、生活改善団体あるいは貯蓄組合等々の諸団体をつうじて生活改善を推し進めようとしている点である。また一方では、「国体観念の明徴」「国民精神の作興」を旗印しに掲げて教化総動員運動をくりひろげているとはいうものの、個人の消費生活における「質素倹約」を骨子として実践要項をたてている点に留意する必要があろう。 運動と農家経済の実情 その後、十月二十一日に村長神藤芳太郎は公文書「相発第四六九号」で県内務部長・学務部長あてに「公私経済緊縮運動ニ関スル件」を報告した。その内容は決定をみた委員会の組織と実行要項を別紙に記載したものであるが、村長はさしあたり運動としては、実行要目を印刷して各戸に配付しその実行を促し、委員もまたそれを督励するということである。この点はその翌日「相発第四七五号」で村内の伍人組部長あてに「公私経済緊縮ニ関スル印刷物配付方依頼ノ件」の通牒を発して印刷物を各戸に配布し、その実行を督励するようにした。この九月から十月にかけて公私経済緊縮運動のおもな内容は、「公私経済緊縮ニ関スル書類」から類推しても、県と市町村、市町村と住民との関係においては、教化総動員運動も含めて運動用のポスター、資料等の配付とか地域における講演会を中心に組みたてられていた。たとえば県は、学務部長名で町村長あてに九月十二日付で公私経済緊縮運動に関する参考資料のパンフレット「台所から見た金解禁」を一部ずつ送付し、同月二十四日には教化講演資料三種類を五部ずつ、「経済難局の打開に就て」一部ずつ配布していた。その後も県学務部長は市町村長あて通牒「教化動員用ポスター送付ノ件」(昭和四年十月二十一日)で、四種の教化動員用ポスターをそれぞれ市役所や町村役場をはじめ各小学校などに掲示して有効に使用するよう配慮することを要請していった。ここに県の公私経済運動への熱のいれかたをうかがうことができよう。県のこの要請を受けて相原村は教化の資料第七輯(文部省)四冊を、役場・小学校・青年団・在郷軍人分会に、教化の資料第一輯(神奈川県教化総動員委員会)九冊を、役場・小学校・青年団・女子青年団・在郷軍人分会・寺院四か所に配付していた。また、公私経済緊縮神奈川県委員会から送付してきた写真ならびに趣旨は、男女青年団・小学校・実業補習学校・在郷軍人分会にそれぞれ一部ずつ送付したのである。 このように教化総動員、公私経済緊縮計画に関する趣旨徹底をはかろうとしたのは、この運動を地域で推し進めることができるかどうかの鍵が、町や村の人びとにどの程度主体的に受けとめられるかどうかにかかっていたからである。だからこそ、精神作興・勤倹週間のポスター 津久井郡郷土資料館蔵 県や町村役場では青年団・在郷軍人分会のような団体を地域の運動の担い手に位置づけていく必要があり、彼らの自覚をうながしていかなければならなかった。そのためには、村長は教化総動員、公私経済緊縮に関する講演会にも村の関係者を積極的に動員していく。たとえば、十一月九日、厚木小学校における教化総動員神奈川県委員会・公私経済緊縮神奈川県委員会主催の講演会には、相原村では村会議員安室健太郎他十五名にたいして旅費を実費支給し、「万障御差繰リ是非共聴講ノ為御出席相成度」と命令ともつかぬ通牒を発していたほどである。 ところで、相原村のように、村長が先頭にたって運動を地域におろしていこうと努力を傾けている反面、養蚕地帯であるこの地域の農家経済の破壊はいちじるしく、経済緊縮どころかすでに生活の破綻が進行しているという厳しい現実がよこたわっていた。 事実、『座間幸造日記』によると、相模原市域の生糸の市況は、一九二九年には前年の一円につき十三匁から十二匁台といくらか景気を回復していたが、春蚕はたいへん悪く、下溝などのように例年の五〇㌫程度しか収繭できなかった村落もあらわれていたほどである。また農作物も不作で早天つづきのため陸稲・芋薯類はほとんど枯死し、陸稲は例年の三〇㌫ぐらいしか収穫できなかった。ただし公私経済緊縮運動がくりひろげられたころの秋蚕収穫は比較的良好であったようである。しかし、上溝町(現在相模原市)の市場での生糸市況を『横浜貿易新報』の「上溝糸況欄」でみると、一九二九年六月には一円につき十二・七匁であったが、その後一九三〇年十月には三十三匁ないし三十八匁へと大暴落への下降線をたどっていた(『相模原市史』第四巻)。 このころ、相沢菊太郎は『相沢日記』(昭和四年六月十五日)で、当時の農家経済の窮乏化の背景を次のようにしるしていた。 目下当地方ハ殆ンド上簇ヲ了ル処、本年ノ繭安ヲ見込掃立ヲ控ヘタルニ、天候順調ノ為メ無肥料ノ桑モ案外繁茂スル有様ニテ、余リ桑頗ル多ク、愈々蚕モ減産一方トナラン、早場ノ繭モ一貫目三円内外ニ始マリシモ、漸次下向ニテ二円六十銭内外ト云フ取引トナリ、当地産ノモノハ二円以上五十銭以下トナラン、実ニ生産費ニモ足ラザル価格ニテ、繭買人モ此安値ヲ見テ買気ナキ有様、蚕業専門ノ当地方ハ殊ニ困難至極ナリ、而シテ蚕ハ何レモ上作ナリ、目下糸相場ハ三十六七匁ナリ 相沢はさらに六月十八日の『日記』に繭価をめぐって「言語ニ絶スル惨状人気消沈」「秋繭モ此分ニテハ一貫目二円以下ニテ張合弱ク、実ニ手モ足モ出ヌ次第、此影響ハ自然地主ノ収入減ヲ見ルベク今后何トナルカ予想モ付カズ」と慨嘆していた。地主層ですら未来への展望をもちえない経済状態であった。ましてや自作農をはじめ圧倒的な比率をしめる自小作以下の農民層にとってみれば、悲惨さは想像を絶するものがあった。 生活態様調査からみた運動の効果 公私経済緊縮運動は、農村の不況がふかまっていく一九二九(昭和四)年から三〇年にかけて、どのように進められていったであろうか。相原村の『公私経済緊縮ニ関スル書類』により、県の公私経済緊縮委員会と、郡市を単位とするこの運動の推進責任者である地方特別委員、さらに、市町村の運動関係をみると、それぞれの地域における生活態様調査をつうじて生活改善実行の基準を明示することに重点をかけていたもようである。こうして、一九三〇年三月五日、公私経済緊縮神奈川県委員会会長は、市町村長あてに、以下のような生活態様調査に関する文書を送付した。 本会ハ曩ニ特別委員会ヲ設ケ私経済調査並ニ国産品奨励ニ努メツツアルモ更ニ県下各地ニ亘リ生活態様ノ実際ヲ調査研究シ本県ニ於ケル生活改善実行ノ基準ヲ明カニシ以テ一層本会ノ目的ヲ徹底セシムルコトト相成候ニ付テハ今般別紙ノ通地方特別委員ヲ委嘱致候間今後ハ右委員ト密接ナル連絡提携ヲ保チ本会施行ノ調査其ノ他ニ関シ特ニ御配慮相成度此段御依頼申上候 なおこの文書の追記部分においては、調査にあたってそれぞれの市町村で小学校、男女青年団等々と連携して適当の方法をこうじること、調査用紙は五種八様それぞれ五枚の計四十枚になることなどがつけくわえられていた。ちなみに、この調査用紙の内容は、「結婚ニ関スル調査票」(一・二)、「出産年祝等ニ関スル調査票」「地方慣習並祖先祭祀ニ関スル調査票」「入退営ニ関スル事項調査票」「葬儀ニ関スル調査票」(一・二・三)となっている。そして、この調査の趣旨は、「調査ニ関スル注意」でみると、「県下各地ニ於ケル生活全般ニ亘リ実情ヲ逐次調査シ之ニ基キテ生活改善実行ノ標準ヲ得ントスルモノナリ」「本調査ノ結果ハ之ヲ整理ノ上美風良俗ハ一層之ヲ助長シ、弊風悪習ハ之ガ改善ヲ期スル様専門家ノ指導ヲ得テ夫々適当ナル方策ヲ講ズルモノナリ」となっている。このように、その目的は、生活改善の実行基準を設定し、「美風良俗」を日常生活の内側から規範化しようとすることにあった。この「美風良俗」を助長し、「弊風悪習」を除去しようとするその狙いは、大正デモクラシーの雰囲気に根ざす思想変化とか、都市化・産業化にともなう生活様式の変化がもたらす奢侈、放縦の意識や態度を断ち切ってくることにもなっていた。 しかし、生活態様調査は、相原村でも、他町村と同様に順調にことが運んでいたとは思われない。その証拠には五月十六日、公私経済緊縮神奈川県委員会地方特別委員新田信の名儀で、生活態様調査の件につき「其ノ筋ヨリ再三ノ提出方請求ノ次第モ有之候ニ付公務御多忙ノ折柄恐縮ニハ候フ共至急御提出相煩度懇望仕リ候也」と督促を受けていたほどである。もっともその後相原村から提出された調査報告をみると、公私経済緊縮運動が村びとにどの程度意識的に受けとめられていたか、はなはだあやしい結果となってあらわれていた。報告から断片的ではあるが一例をあげておこう。まず「結婚ニ関スル調査票」(其ノ一)の設問Ⅰ「媒介者」のうちの問三「媒介者ニ対スル謝礼イ、謝礼方法ハ金銭ニヨルヤ、物品ニヨルヤ、物品ニヨル場合ハ品名」にたいして、回答は「謝礼方法ハ凡テ金銭ニヨル、謝礼程度最高額拾五円最低五円位」となっており、さらに符箋をもって「最高五十円多クハ十円乃至二十円」と記していた。また問Ⅱ「結納其他」の問一「結納品ノ種類及価格等」について、「イ、現在行ハレツツアル様式大要ロ、品種及其ノ価格ハ、結納ニ要スル費用最高最低普通」に関する回答は、結納品はもっぱら結納金で、若干の物品も含めてその価格は五円内外、結納費用は「普通金ハ最高三百円最低五十円位」となっている。そうじて「結婚ニ関スル調査票」の回答の実態部分をみると、個々の家では公私経済緊縮運動はそれほど効果をあげていたとは思われない。このことは「出産年祝等ニ関スル調査票」の出産に関する「産家ニ贈ル祝儀品又ハ産着ノ状況」について、「嫁又婿ノ家ヨリ祝儀品依服ヲ贈ル其価格大体十円乃至五十円位」という実情をみても、あるいは結婚費用が最高五百円、最低百五十円ぐらいで、その出費は年収の三〇㌫分ぐらいであるとか、葬儀費用は最高三百円、最低五十円という状況から推定してみても、「質素節約」の線から大きく逸脱していたといえるであろう。 もっとも、この調査票の回答の実態基準は、村の階層から判断すると、かなり上層の農家を中心としていたようである。とすると、村の自作上層、地主層は「私」経済緊縮の実行要目を日常生活のなかに具体化し実行することにかならずしも積極的ではなかったということになろう。しかも、もう一方で破局状態にある下層農民にとってみても、公私経済緊縮の問題は、おのずから視界の外におかざるをえない。こういうこともあって、公私経済緊縮運動は、行政機関を中心とするレベルの運動に終始していかざるをえなかった。 第二章 「非常時局」の展開 第一節 農山漁村経済更生計画 一 昭和恐慌下の都市と農村 零細商工業者と労働者の人員整理 深刻なる世界恐慌の進行、世界的物価暴落に伴ふ一般大衆、殊に地方農村の窮乏等は同時に中小商工業者に致命的な打撃を与へずにはゐなかった、而して小売業者にとっては大資本の経営たる百貨店の進出と相俟って彼等の窮迫化の加速度に拍車を与へた。 この一文は、アメリカ合衆国のニューヨークのウォール街における株式市場の大暴落に端を発し、日本をもろにのみこんだ世界大恐慌下の社会状態についての『日本経済年報』第五輯の説明である。ここには、農村と地方都市、大都市を結ぶすべての地域で、多くの民衆が恐慌のために、いわば奈落の底の崖淵に追いつめられている事情がよくあらわれている。事実、農村をみると、農業生産額は一九二九(昭和四)年から三一年にかけて四三㌫も落ちこんでいるように、はやくも壊滅に等しい打撃を受けはじめ、農村に生産資材や消費物資を供給していた中小零細商工業者も、またそのあおりをこうむっていた。 また、都市部で生活する労働者のなかにも失業の憂き目にあい、これらの解雇労働者の多くは、都会の「下層社会」を構成している雑業層の群のなかに流れおちていくか、農村に逆流していった。内務省社会局の『工場労働者異動調』『鉱山労働者異動調』でとらえなおしてみると、解雇労働者のうち、一九三〇年には三九㌫が帰農し、三一年以降になると帰農率は上昇カーブをえがき、ほぼ四三㌫から四四㌫になった。また、失業者のうち、「未従業者」と「不詳」をあわせると平均二〇㌫をこえ、そのうち一九三〇年は約二五㌫を数えている。おそらく、これらのある層にくわえて「その他に転職した者」のなかの一定部分が都市雑業層の世界に落ちこんでいったとみてよい。この傾向は、鉱山労働者の「不詳」の比率が二〇㌫から二五㌫にたっしていることも含めて、失業問題が深刻な状態にあることを告げている(労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第一〇巻統計篇)。 ところで、都市の底辺にたどりつかざるをえなかった失業者はどのような雑業に身を投じていったであろうか。都市の雑業層とは、小零細経営や家内工業の労働者、小売商・サービス業の従業員、職人などの手伝い、土建などの人足・日雇などとなっている。その数は一九三〇年当時で推定すると、零細な製造横浜市の失業救済事業就労者が賃金の支払いを受ける状況 1936年『失業応急対策事業概要』から 業・商業で業主・家族従業者は約六百万人を数えるといわれているから、そのほかの幅広い雑業従業者を含めると、これらの層は無慮一千万人に近くなろう。これらの都市雑業層の生活実態は、一九三〇年に調査を行った東京市役所の報告によると、零細商工業者のなかで「年一人当二百五十円迄の者が全商工業の五割八分以上」も存在し、「三割近くのものは年一人当百五十円迄の生活費」しかえていなかった。そして、この層の収入は「衣食住費のみの動物的生活費」にすぎないとみなしていたほどである。しかも、東京の要保護世帯二万戸のうち五八㌫が商工業従事者であったという(東京市役所『中小商工業の実際』下巻)。これらの小売商人の多くは、餓死線上に落ちこんでいたことになる。実際、一九三一年上半期には、東京実業組合連合会加盟店舗のうち約三〇㌫が倒産するというありさまであった。 このような昭和恐慌がもたらした一般的な社会的影響力のもとで、県下の都市部のようすをみると、たとえば、金融恐慌のさいに、生産額を上げつづけてきた川崎市の工業も、昭和恐慌のなかでまったく停滞状態におちいった。川崎市に工場を持つ大企業は横浜市中央職業紹介所における求職者たち(1934年冬) 県立文化資料館蔵 いずれも利益率の減退ないしは赤字経営を余儀なくされ、操業短縮・カルテルの強化、賃金引下げ、人員整理などの経営合理化を推し進めざるをえなかった。一例をあげれば、富士紡績川崎工場では、経営陣を一新するとともに、一九三〇年六月、事務職員約百名、工場労働者三千百名を整理するという措置をとった。このため同工場の女子労働者数はほぼ半減した。このほか日本鋼管・東京電気などの大工場をはじめ市内の諸工場は例外なく人員を整理し、あるいは賃金を切り下げた。また直喜鉄工所・中央紙器川崎工場などは工場閉鎖を断行した(『川崎市史』)。 繭暴落下の農村 また、村むらをみると、どこでも恐慌がふかまる一九二九(昭和四)年の暮から窮乏にあえいでいった。その不況の波は繭価の暴落からはじまった。一九三〇年にはいると二月には蚕糸中央会は生糸価の惨落のために二〇㌫の操短を決定し、五万梱を共同保管したほどである。この措置は恐慌の来襲によってアメリカ合衆国での生糸需要中村町「細民街」訪問の大西横浜市長(1934年末) 県立文化資料館蔵 が収縮したそのはね返りによるためであったが、糸価はその後も低落をつづけ、この年一月の平均百十五円二十銭から六月の中旬には最低七十七円七十銭と落ちこんでいった。糸価の暴落はとうぜんのことながら繭価にまで響き、春繭相場は三円九十三銭となり、一年前のそれにくらべると四七㌫下落した(『日本経済年報』第一輯)。しかも九月下旬には、生糸は一八九六(明治二十九)年以来の安値を示したという。またこの間、米価は大豊作のために、一九一七(大正六)年来の米価の大暴落をきたすというありさまで、農民はこの「暴風的な価格激落」に巻き込まれ「豊作飢饉」に苦しみもがかなければならなかった。 日本の農業の二大支柱ともいうべき繭と米の価格の暴落をめぐって、村むらは大ゆれにゆれ動いて不安はつのっていった。そのため、蚕糸中央会は九月二十五日臨時総会を開き、翌年三月より一か月間全国いっせいに製糸の操業を休止するというような製糸生産調節問題や、補償法による政府支出額を三千万円まで拡張するよう損失償還に関する件とか滞荷処分に関する件を審議したほどである(『東京朝日新聞』昭和五年九月二十六日付)。また、米価問題についても、各新聞は十月四日付の紙面で、微温的な対策ではとうてい円滑に収拾する見込みがつかないため、東京・大阪の両市場は天災か天災に準ずる場合に適用される「総解合」にふみきるという実情を報道し、農林省や帝国農会も大混乱をきたし、この「米」をめぐる異常な騒ぎは、はてしなくくりひろげられていた。この影響は、「国債相場大暴落」というように、あらゆる方面に波紋を投げかけていた。だからこそ、『日本経済年報』第二輯が「昭和五年度三十四半期の特徴の一は、農業恐慌が日本に於て未曽有の深刻さと広汎なる範囲とを以て爆発した」と指摘しているとおり、農村と農業は最大の危機に見舞われていたのである。事実、農民の飢餓寸前の窮乏ぶりは、「金は一円もみることができない」のが実情であり、米一升で煙草の敷島が一箱分、カブ百把が煙草のバット一箱という価値にしかならないありさまで、こういう惨状を伝えるエピソードにはこと欠かない。 農村が「破綻」宣言を受けたも同様なその惨害の深刻さは、なんといっても、農村と農業を世界恐慌が直接巻き込んだという事実であり、その衝撃は、小自作・小作という下層の農民たちにだけではなく、自作農民・在村地主にまでおよんでいたことである。 農村が受けた打撃は、農産物価格の暴落をつうじて税の滞納、負債額の増大というように貧困化の過程にあらわれていた。当時の『農家経済調査報告』によると、調査農家のうち、一九三〇年には自作農のうち五八・六㌫、小作農では七六・四㌫が赤字農家となっている。しかも、負債額は自作農家のほぼ一年の所得にあたっていた。が、さらに深刻な問題は、需要が極度に収縮しているにもかかわらず、失業した労働者の帰農によって過剰労働力が滞留していくという労働の需給関係の悪循環を生んでいた。これまでに、農家は、通常その余剰労働力を農業の内外に売ることによって農家収入の重要な一環を構成してきたが、もはや、それも絶望的となり、労賃は暴落の一途をたどるばかりであった(隅谷三喜男編『昭和恐慌』)。 養蚕農家の窮乏 繭と米の価格の暴落は、県下の農家経済にも大きな打撃をあたえた。当時、養蚕農家は、約三万戸にたっし、全農家のほぼ四〇㌫をしめており、その粗収益は、全農産物額の約二二㌫にたっしていた。しかも繭価は、農家の主要な現金収入源であるから、生産費さえ償いえない繭価ではどうしようもなかった。このころ繭の生産費は、大日本蚕糸会調べでは、上繭で四円十九銭、帝国農会調べで三円九十一銭となっていたが、県下の繭価一貫目あたりの動きをみると、一九三一(昭和六)年で最高が三円五十銭、最低が二円で、平均三円九銭であるから、まったく割があわなかった。 事実、県内の養蚕地帯の一つである相模原地域の農作状況をみると、相原村の相沢菊太郎は、その『日記』(昭和五年六月十一日)のなかで、「蚕桑状況・桑切捨」の見出しをもちいて、次のようにえがいていた。 本年ハ戸毎ニ残桑アリテ売買相場立タズ、桑売ハ皆無金ヲ見ズ、蚕家モ桑ヲ買フ貰フ人ナキ有様ナレドモ、生糸一貫目四円内外ニテ丹精モ徒労ト云フ有様、誰一人成功ト認ムルモノナク、一般悲痛ニ陥リ、蚕上リノ金融亦早速涸レントス、諸物価亦下向、目下生糸モ廿二三匁ノ相場ナルモ猶下向ノ状況ト思ハル 不況の真相をみごとについている。村人の悲痛、苦痛の想いを代弁しているかのようでもある。相沢は、さらに、八月から九月にかけて農況をしるしているが、八月二十一日には「秋作物上々、繭糸ノ状況」として「此好雨ニテ秋作物ハ一層ノ発育ヲ為スベク、目下岡穂モ出穂ヲ始メタレバ、二百十日前ニハ花ヲ治ムベク、愈々豊作ト云フベク、芋サツマ其他諸作皆稀ナル上作ナリ当春ノ不景気ニテ殆ド無肥料ニ蒔付ケタル作物ガ天候ノ加減ニテ珍シキ上作ヲ見タル訳」と農作物の豊作にふれているが、生糸値に関しては絶望的に次のようにふれていた。 只生糸ハ廿五六匁ト云フ安値ニテ、秋蚕一貫目ハ一円五十銭内外ト云フ稀ナル下値、之レガ高クナレバ地芝居神楽ガ見切レヌ時代トナルベキモ、所詮此糸価ハ元ノ如クナル様子無ク、自然本年ハ不景気ノ底ニ通過スルナラン また、九月一日の二百十日の項には「夏作ハ何モ彼モ稀ナル上作、近年比類ナク平年ノ倍収ナラン、全ク天恵、穀物果実野菜好結果、唯遺憾ナルハ繭糸ノ下落(生産過剰外国行不売)」としるしており、九月十九日には「河水増ス、寒気甚ダシク秋熟ヲ按ズル状況ナリ、晩秋蚕モ盛野外条桑育(1928年ごろ) 『神奈川県農協の30年』から ニナレドモ、生糸モ愈々三十匁内外トナレリ、本日川尻村ノ人来リ不景気咄アリ、毎日芋サツマニテ生活スル家多々アリ」と村の人びとの生活の一端について述べていた。この年の十月の上溝市場の生糸相場はついに一円につき三十三匁から三十八匁になった(『相模原市史』第四巻)。 ところがそればかりか、大豊作が予想された米について、十月初旬に第一回内地米作予想六千六百八十七万石という発表があると、一気に五円から六円暴落した。その後相場の下向はおさえることができず、先物十四円という惨落値段をあらわし、この年の石当たり生産費二十七円余にみあうどころの話ではなかった。このため、豊作はかえって農家の貨幣収入にとり、飢饉に等しいというので、「豊作飢饉」という前代未聞の珍語が生じたことはよく知られている(中沢弁次郎『日本米価変動史』)。 一九三〇年の暮、『横浜貿易新報』(昭和五年十二月二十八日付)は「農村の越年難」という見出しで次のように報じていた。 有史以来未曽有の糸価安で、蚕業を唯一の生業としつつあった高北の農家は苦境のドン底に沈淪し、文字通り二進も三進も行かなくなったが、繭も生糸も既に大部分手放した此頃、糸価春相場二十五匁(円替)を気構えて、前途に微かな希望を抱き、金の無い正月を迎える者が多い、而して小作料・肥料代・蚕種代等で決済がつかぬ者がザラにあって、割引内入は上の部で、地主・小作の区別無く越年の苦に悩みつつある。 農家の窮乏は、まさにそのどん底にたっしていた。なかでも農家総戸数の約七〇㌫をしめる小作・小自作農に降ってかかった恐慌の影響は、もっとも深刻であった。これらの農家は、「租税と小作料と商業と貸付資本との収奪」に追いまくられながら、「飢餓を免がれる為には小作料が『賃銀からの控除部分』を多く含むに至ろうとも」土地にしがみつかなければならなかった(『日本経済年報』第二輯)。恐慌の嵐は、ようしゃなく村むらを吹きぬけていたのである。 恐慌下の町村行政 昭和恐慌は、さまざまな風景をえがきだしていた。『東京朝日新聞』(昭和五年九月三日付)の社会面は、高座郡藤沢町(現在藤沢市)の遊行寺境内で「都落ち」する失業者の野宿のさまを報じていた。同紙によると、この寺では、一九三〇(昭和五)年の夏から無料接待所を設けて麦飯をどんぶり一杯ずつめぐんでいた。京浜工業地帯で失業し、旅費にも窮し、東海道を徒歩で郷里にむかう人びとの群がにわかにめだつようになったという。そういう人たちが、七月にはいってからひきつづき、多い日は六十人にものぼり、毎晩境内には三十人以上も「都落する失業者」が野宿し、八月中旬からさらにふえ、このままふえつづければ、とても費用のでどころがないと寺は悲鳴をあげていた。これらの失業者は「年の若い者が多く、いづれも生活苦の波にもまれてすっかり疲れ、中には荒みきった者もあり、京都・大阪方面に行く者や郷里目指して遠く九州の果までかうしたみじめな旅を続けている者」もいたようである。 一方で、このような光景を演出しながら、恐慌のなかで市町村は、政府の緊縮財政の線に沿ってそれぞれの行政のやりくりに苦労していた。たとえば、藤沢町では、一九三〇年二月、町会に提出した、原案をみる現在の遊行寺総門 県史編集室蔵 と、予算総額は二十六万千六百九十七円で、前年度当初予算にくらべて六万四千八百六十二円におよぶ大幅な節減ぶりであった。まず、歳出面では、各款にわたる需用費・行政事務視察費・土木事業費などを削減し、町庁舎増築計画もとりやめるとともに、一方では教員賞与・汚物掃除費をふやし、塵芥焼却場建設費・商工会設置奨励費・町営海水浴場設置費などを新たに計上した。また、歳入面では、国税負担者にたいする町税賦課率を増すとともに、特別税戸数割の負担軽減をはかり、二万二千円におよぶ幽霊繰越金を切り捨てて税収入に充てるという措置をとることにした。総体としてみれば、町民の生活安定と負担の公平、それに町の振興についてできるだけの配慮を示していたようである。町会もこの点を認め、原案をそのまま認めた。なお、葉山繁蔵をはじめとする十六名の議員が、町会の各種委員会を住民に公開することを提案し、可決をみた。これは、町政に対する住民の信頼を回復するための措置であった(『藤沢市史』)。 ところが、どこの市町村でも共通した問題となっていたが、藤沢町でやっかいな難問があった。町税滞納の整理である。この町では三〇年三月上旬現在で、町税の過年度滞納額が二万三千三百十一円、四年度分のそれは五万九千五円余、合計して八万二千三百十七円余にたっしていた。『藤沢市史』は、このような事態が生じた原因として、徴税事務の不手際や一部町民の安易な納税感も一応考えられるといいながら、基本的には、やはり大正末年以来の打ちつづく不況の影響をあげていた。年度末をひかえて、役場の税務課が滞納整理に懸命になっているようすを、『横浜貿易新報』(昭和五年三月二十日付)は、次のように伝えている。 税務課は勿論総動員大童となって其整理に没頭して居るが矢ッ張り思った程に行かず、去る八日附で十五日まで期限付督促状を発したが些か反応を呈した丈けでヤット五分の一の収入、即ち一昨十八日までの納税額は八万二千の数字に対しタッタ一万五千二百二十六円七十七銭、差引いて六万六千七百七十三円二十三銭が未納というのに業を煮やし、更に第二回の督促状を発送、今度期日迄に納めないものには「モウ遠慮しちゃ居られん」とあってビシ〳〵財産差押へ処分を執行する事にした。 町村税の滞納問題は、多かれ少なかれ共通の悩みであった。茅ケ崎町の「昭和五年事務報告」も、「農家ハ元ヨリ商工漁家ノ収入激減ノ為メ納税ノ成績意ノ如クニナラズ、遂ニ滞納処分ノ如キ好マシカラザル手段ニ依リテ、辛フジテ月末ノ支払ライスルノ有様ナリ」としるしていた。そして、ここでは、町役場吏員が給料をさいて町収入の一部にあて、町財政の運用に協力していたというエピソードもある(『茅ケ崎市史』2資料編)。 二 経済更生計画と運動の推進 農村の困窮と救済請願運動 農村の困窮は、一九三一(昭和六)年にはいってもつのるばかりであった。養蚕地帯の相模原地域の生糸相場も下がる一方で、この年の五月、相沢菊太郎は、「生糸ハ昨年秋四十匁近ク迄下落シ、此一月頃迄ニ廿四五匁迄引返シタルモ、亦漸落シツツ、近頃亦四十匁内外の相場トナリ、此分ニテハ春繭モ一貫目三円内外ナラント予想ス、目下掃立初マリシガ前途不安ノ蚕況ナリ」としたためていた(『相沢日記』昭和六年五月十二日)。こうしたなかで、相沢もしるしているように、農業経営の不振を背景に、相原村でも一反歩(十アール)あたり百円の畑が売りにだされていたという。もっとも、生糸の相場は、六月中旬、アメリカ合衆国大統領フーヴァーの支払猶予の提案によって生糸価も上昇の気ざしをみせ、物価の回復・株式の騰貴をもたらし、前途が開けたかのごとき印象をあたえた。しかし、生糸の相場の好転はみられなかった。 もっとも、この年の農作物は、前年の豊作にくらべてたいへんな凶作であった。天候も不順で、入梅もあけ真夏になろうとするのに、冷寒で雨天がつづいていたのである。そのために、農作物の発育は不良で、麦・小麦は『相沢日記』(昭和六年七月二十四日)によっても、「穂打スル日無ク、機械打ヲ為スモノアルモ、何レモ日ニ乾スコト不能、品質不良」というありさまで、相場も下がり、小麦は三俵、大麦は四俵で十円という低い値であった。こうしたなかで、一時は楽観視されていた米作も、八月の半ばから九月にかけての降雨早冷という異常気象のなかで、平年作をはるかに下まわることになった。とくに、北海道は平年作の五五㌫減、青森県ではなんと七三㌫減の凶作となり、米作は、群馬・埼玉・大分・鹿児島をのぞき全国的にみても減収であった。神奈川県も例外ではなかった。しかも、米価は一般に、標準米一石あたり十七円五十銭まで下落し、これ以降も二十円台を低迷し、昭和恐慌前の三十円台とくらべると絶望的な数字を示していたのである。 たしかに、この年の農家収入は激減し、米・麦・繭の総価格は十四億四千万円で、前年比で一億八千万円、その前の年の二九年比では、なんと四二・二㌫減の十億六千万円にたっしていた(『日本経済年報』第七輯)。こうして、ここ神奈川の地にも、北海道・東北地方の凶作の惨状をつげる報道が舞いこんできた。これらの地方の親子心中、いたいけな娘の身売り、学童の欠食という悲劇や、大根の葉、腐った馬鈴薯、蓬・蕨の根を常食としたり、燕麦・玉蜀黍・南瓜・澱粉粕・大根雑炊・ハコベ・クローバーなどをまぜた粥をすすって飢えをしのんでいる悲惨な生活状態は、もはや他人事ではなかった。 このような農村窮状がつづくなかで、一九三二年の五・一五事件後、関東・中部地方諸県の国家主義的農本主義者を中心として農村救済請願運動がくりひろげられていった。その要求スローガンは、「農家負債据置・肥料資金補助・満蒙移住補助」である。 農山漁村経済更生運動 一九三二(昭和七)年の五・一五事件は『木戸幸一日記』によると「一の社会問題」のあらわれであり、事件のよって立つ理由は奥ぶかいところにあった。その後、この荒廃し悲惨な状態にある農村救済が大きな課題となっていった。五・一五事件で犬養毅内閣にかわって政権を担当した斎藤実内閣は、農村救済の請願を受けるかっこうでこの年の夏第六十三帝国議会(臨時)を召集した。「救農臨時議会」と呼ばれたこの議会に、政府は閣議で決定した今年度時局匡救予算(歳入一般会計一億六千余万円、特別会計千三百万余円)を予算追加案として提出し、原案どおり承認をえた。そこで、これに地方負担八千七百余万円をくわえて本年度の時局匡救支出計画をたて、農村における金融の疎通、負担整理、土木事業などの実施を主眼とした時局匡救三か年計画の初年度のスタートをきることになった。また、この年の十月、農山漁村経済更生計画が、農相後藤文夫の手によって推し進められていく。「農山漁村病弊ノ現状ニ鑑ミ其ノ不況ヲ匡救シ産業ノ振興ヲ図リ以テ民心ノ安定ヲ策シ進ンデ農山漁村ノ更生ニ努ムルハ刻下緊急ノ要務タリ」(昭和七年十月農林省訓令)という目的を掲げたこの運動の内容は、不況克服を前提として農村中堅人物養成・産業組合拡充・負債整理を三点骨子としていた。そして、この構想は、後日、戦時体制下に満州分村計画がくわえられ、その範囲は拡大されていくことになる。 農山漁村経済更生計画の神奈川県下での具体的な内容と進めかたについては、この年の十二月十三日、県内務部長名で県下各町村長農家で使われていた「経済更生簿」「農家経済簿」 小山文夫氏蔵 にあてた「農山漁村経済更生計画ニ関スル件」(七農第七九九四号)のなかで知ることができる(資料編12近代・現代⑵二)。その骨子の一部を掲げると次のようになる。 政府ハ曩ニ農林省ニ経済更生部ヲ設置シ農山漁村経済全般ニ亘リ計画的組織的ニ整備改善ヲ図ルコトヽ相成、本県亦之レカ趣旨ヲ体シ神奈川県市町村更生委員会ヲ設置シ農山漁村経済更生計画樹立及実行ニ関スル指導督励ヲ為スコトヽ相成候ニ就テハ部内一般ニ周知ノ上町村ニ於テモ自主的ニ同様委員会ヲ設置セラレ夫々更生計画ノ樹立実行ニ御考慮相成度、尤モ県ニ於テハ毎年十五ケ町村ヲ指定シ次第ニ各町村ニ及サントスル方針ニ付御含ミ相成度……今般農林省ニ於テ農山漁村経済更生計画樹立方針決定相成候ニ付一部及送付候条左記事項御留意ノ上之レカ計画樹立実行ノ指針トセラレ度依命此段及通牒候也 この計画を具体化するにあたって、県はまず農山漁民の自覚をうながし、「隣保共助共同融和ノ精神」と「自奮更生ノ熱意」をもって農山漁村の経済の整備改善を、それぞれの地域の特殊事情を考慮して実施することを強調していた。それは、なんとしても「農山漁家ノ経済生活ノ安定」をはかり、将来にむかって「福利ノ増進」を推し進めるうえで必要であったからである。そのために、県から町村にかけて、更生計画をたて、運動を指導する機関としてそれぞれ更生委員会を設置することにしたのである。 その町村の更生委員会規程準則をみると、第一条には、設置目的として「自主的更生ノ精神ヲ振起セシムルト共ニ経済更生ノ実行」をあげることを掲げ、第四条に「会務ヲ総理シ会議ノ議長」となる会長の職務権能と会長を補佐し会長職務を代理する副会長の権能、そして、第五条に、委員会に幹事および書記を若干名おき、それぞれ会長の指揮を受けて庶務会計に従事するという条項をもりこみ、第二条・第三条で、事業範囲と組織を次のようなモデルで定めていた。 第二条 委員会ハ左ノ事業ヲ行フ 一 経済更生計画ノ樹立 二 県委員会ノ審査ヲ経テ決定セラレタル経済更生計画実行ノ指導及督励 三 町村財政ノ樹直シニ関スル事項 四 公私生活ノ改善ニ関スル事項 五 其ノ他自力更生ニ関シ必要ナル事項 第三条 委員会ハ会長一人副会長一人委員若干名ヲ以テ組織ス 会長ハ町(村)長ヲ以テ充ツ 副会長ハ委員ノ互選ニ依ル 委員ハ町(村)吏員町(村)会議員区長小学校長産業組合長町(村)農会役職員農事実行組合長養蚕実行組合長在郷軍人分会長青年団長其他農林漁業ニ経験アル者ノ中ヨリ町(村)長之ヲ命シ又ハ嘱託ス この町村更生委員会規程準則の組織をみると更生運動をくりひろげていくなかで、町村役場吏員・小学校教員、それに各種団体役員や職員の密接な連絡のもとに、産業組合や農会・青年団・処女会などの団体をそれぞれの分野に応じて十分に活動せしめ協調をたもつことを強調していた。そして、経済更生、市町村財政の再建、公私生活の改善という内容にくわえて、産業全般にわたる組織的統制計画に関する調査立案、更生運動指導者講習会の開催等々、町村民のあらゆる階層に自主的に運動にたずさわることを喚起していることが特色となっている。さらに、経済更生計画は、はじめから固定的にとらえるのではなく、事情に応じて修正をほどこし、計画や実行は漸進主義をとるように注意をうながしていた。 国民更生のねらいどころ 農産漁村経済更生運動は、もう一つこの年の八月の末、内務省からだされていた国民更生運動とやや密接な関係をもっていた。それは、まさに神奈川の「県国民更生運動実施計画要綱」が伝えているように、中国東北部(満州)への膨脹と国内改造運動とのかかわりで、「愛国的熱情ト信念」を県民にかきたて、統制経済と国民統合を強め、戦時体制を整えていく方向をたどっていたのである(資料編12近代・現代⑵一)。 この運動の眼目は、国民をあげて、日本が直面している難局の真相を認識し、「挙国一致国難打開」のために協力して邁進すること、国家の救済保護施設に頼る風習をとりやめて、積極果敢な精神と気鋭をもって自力で生活の確立と向上をはかること、それに、経済の組織化・計画化を実行し、国民をその分に応じて社会公共のために奉仕せしめることにあった。 県では、国民更生運動を積極的にすすめるにあたって、時局匡救の応急対策や施設に関し臨時県会を開いた。その施設事業のなかで重視されていたのは農村振興土木事業と農業土木事業で、これを県直営のものと町村事業、組合個人などの施行に区分けした。この点について、県知事横山助成は、市町村長の会合の席上で次のように説明していた(資料編12近代・現代⑵三)。 まず、農村振興土木事業のうち県で直接に施行するものは府県道改良費二十万円、砂防費二十万円で計四十万円、町村が施行するもののうち、町村道改良費が四十四万円、河川改修費十八万円、港湾改良費三万円で計六十五万円の予定で、町村施行の工事には国庫からその工費の四分の三を補渋谷村(現在大和市)の堰工事(1930年) 『神奈川県農協の30年』から 助し、もし不足財源を起債に求めようとする場合は全部預金部低利資金を融通して今年度から三年度間利子の補給を行うつもりであると。また、農業土木事業に関しては、県の直営に関するものは、わずかに用排水幹線改良費および荒廃地復旧工事費をあわせて八万六千余円にすぎなかった。したがって、この事業はおもに組合または個人など民間の事業にゆだね、そのうち、耕地拡張改良に関する事業が大部分をしめ総額五十八万四千余円にのぼっていた。その事業は、開墾助成法による開墾、小開墾、小用排水、改良暗渠、排水小設備の五種となっている。しかも、これらの事業は、いずれも直接農民に労銀を取得せしめると同時に、将来生産費の低下を図り土地の生産能率をあげようという狙いであった。すなわち、地域の農民の収入増加の源泉にしようとしていたのである。このうち、開墾助成法による開墾に関しては四〇㌫、その他の事業については五〇㌫の補助をすることになっているが、疲弊困憊の農家に五〇ないし六〇㌫の負担を強いることは困難であるので、県では財政窮迫にもかかわらず、これらの事業費にたいし二〇㌫の追加補助をした。 このように、県のとった農村救済の土木事業は、翌一九三三(昭和八)年六月の市町村長会同の席上における県知事の説明によると、一定の成果をおさめていたようである。すなわち、知事は、農村振興土木事業については、「幾多ノ困難ヲ排除シテ各市町村何レモ予期ノ通リ年度内ニ事業ヲ完成シ概ネ良好ノ成果」をおさめたと評価し、農山漁村の時局匡救施設に関しては「官民一致ノ努力ト機宜ノ措置トニ依リ稍更生ノ曙光ヲ望ミ」えたと述べていた(資料編12近代・現代⑵四)。 ところで、県の救農土木事業、あるいは時局匡救施設とともに市町村の更生委員会の活動も活発をきわめていった。もっとも、農山漁村経済更生運動とのかねあいで、市町村財政はむしろますます窮迫におちいり、しかも必要経費が増額していたので、この点が最大の課題になっていたようである。だから、「神奈川県農山漁村経済更生計画再検討の方針」にも示されているように、戦時体制下にはいっていくと、農山漁村経済更生運動の実施項目も修正増補され、更生運動の組織体である産業組合-部落実行組合-家の関連制度のなかで、生産力の維持拡充、「勤労奉仕」をもっての労働力の調整と、体制を支える下部指導者層の養成と精神的結合の強調にくわえ、「満州集団農業移民」の奨励も行われていくようになる。要するに更生計画の海外膨脹版である。 また、県下の更生指定町村は、一九三二年以来六か年間に九十三町村を数えるにいたったが、「特別助成町村」の対象となった中郡成瀬村と足柄下郡吉浜村等の計画と実績を追っていくと、わたしたちは、負債整理を徐々に実現しながら、更生計画をねりあげるなかで町村内で戦時体制をつくりあげていく動きをとらえることができる。事実、特別助成の対象となるのは、一九三六年六月二十三日の「農山漁村経済更生特別規則」(農林省令第一〇号)に基づき、町村の更生計画にたいして、その四分の三を助成金と低利資金貸付で援助することになっていて、「村ノ人的精神的協同ノ力」「時局認識ノ強化徹底」が重視されていた(資料編12近代・現代⑵五・一〇)。たとえば「吉浜村経済更生計画」でみると、この運動のサブ・リーダーとしての「中堅人物」のもとに村落の世帯主のほとんどが委員から調査員の役割を課せられ、組織のなかにはめこまれていった。 このような事情は、農村の経済更生が計画どおり実行され効果をあげていなかったことと無関係ではなさそうである。事実、一九三六年七月の臨時県会で、県知事半井清は「農村負債整理ノ状況、貧窮シテ居ル農村ニ於テ寧ロ行ハレナイ憾ミガアル」と発言していた。当時、県下の農家負債は五千万円をこすといわれていたほどである(『神奈川県会史』第六巻)。このようなありさまであるから、経済更生特別助成は戦時体制にはいると、これまでのたんなる生産助長政策や村民の一時的救済を目的とするものではなく、村民の「自力更生協力一致の精神」をますます強調して、個々の村の実情に応じた町村みずからの経済更生計画をたてるところに照準をあてているのであった(資料編12近代・現代⑵九)。 第二節 満州事変と「国体明徴」運動 一 「時局匡救」のかげの民衆行動 労使の対立とエントツ男 町や村を襲った恐慌の波のなかで、多くの県民は不安と動揺のルツボにおとしいれられていた。こうしたなかで、京浜工業地帯の諸企業では労働争議が頻発し、農村部でも小作争議が発生していた。金融恐慌の発生した一九二七(昭和二)年には、芝浦製作所鶴見工場、ライジングサン石油、京浜電鉄など争議が長期化し深刻化するなかで、主な争議は三十三件を数え、以降解雇反対、賃金切り下げ反対、労働条件改善をめぐって争議内容は熾烈をきわめていった。とりわけ、一九二九年三月の横浜市電の大争議を頂点として失業対策、最低賃金制、組合法、あるいは弾圧諸法規の撤廃をかかげて大小さまざまな職場で争議がくりひろげられていた(『神奈川県労働運動史戦前編』)。こうしたなかで、恐慌の時代を背景として、一九三〇年十月、二千余名の女子労働者を擁する富士瓦斯紡績川崎工場で待遇改善問題などをめぐる争議がもちあがり、一つの特異な事件が発生し、県民の耳目をそばだたせた。いわゆる「エントツ男」事件である。 当時、この会社の従業員の中には、総同盟系の紡績労働組合と労農党系組合の富士紡従組の二つの組合があり、それぞれ組合が会社側に賃上げ要求をだしていた。しかし会社側は、組合の要求を無視していたばかりではなく、経営者の団体である「六郷会」などをうしろだてにして、右翼団体を雇い入れ、組合に圧力をかけて要求を粉砕しようとした。そのために、満足な団体交渉もできないまま、争議はいたずらに長びくかたちとなった。 そういうころ、十一月十二日の早朝に、高さ四十五㍍ばかりある工場の大煙突に、ひとりの男がのぼって、何か叫びながらさかんに赤旗をふっているのを守衛が発見した。そのうち、この男は、赤旗をふりながらビラを撤き、そのうちアジ演説までぶちはじめた。下の女子労働者たちは歓声をあげてこれに応え、そして、労働歌を合唱したりして大いに気勢をあげた。この演出は、恐慌を背景としてあちこちでくりひろげられた労働争議と膠着した労使の対立のなかであみだされた一種の奇襲戦法である。 このエントツ男の出現の報を受けた会社側の幹部と川崎警察署は、この人間を煙突からおろそうとしていろいろ説得につとめたが、男がこれを拒否し効果がなかった。こうして、一日、二日と決定的な良案をみいだすことができないままに、いたずらに時間は経過していた。ところが十一月十六日は、葉山御用邸に滞在中の天皇が東京に還幸する日で、警察としては、天皇のお召列車が通過するまでにはどうしても煙突の上の男をおろさなければならなくなった。 この当時は、高所から天皇のお召列車をながめることは不敬行為として取締りの対象となり、ことに赤旗を振る煙突上の男を、天皇が目にす富士瓦斯紡績株式会社の正面 『川崎市勢要覧』(昭和5年)から るようなことがあったなら大問題になる。そこで、内務省からも県警察部長にたいし、天皇の通過までにはかならず引きおろすことを命じてきた。県警察部も、川崎警察署の香取春吉署長を中心に協議した結果、「エントツ男」をうまく地上におろすには、争議の解決が先決だという結論になり、特高主任川端警部補(のち引野)が、特高係巡査部長秋葉嘉一郎とともに会社幹部と面接し、一刻も早く争議を解決するよう申し入れた。こうして、会社側では幹部が協議して、妥協の線をだしたので、香取署長は十一月十六日午前五時、労資双方の代表者を警察署に招いて、両者間の調停斡旋の労をとり、同日午後一時、両者間で妥協が成立し、ここに二か月にわたって行われた富士瓦斯紡績川崎工場の争議は解決した。しかし、天皇の通過は目前にせまり、それまでには、何がなんでもエントツ男を地上におろすという問題がのこった。 そこで、エントツ男の引きおろしの役をすすんで引き受けたのが秋葉巡査部長で、秋葉は警察署が雇い入れた土建業の仕事師三人とともに、ロープや滑車づきの吊籠などを用意して煙突にのぼり、天皇の通過十分前の十四時五十分にエントツ男を地上におろすことに成功したのである。秋葉は当時を回想して、「そうだな、制服のままのぼりはじめたのは午後二時二十八分だったな。なにしろ高さ百三十尺の煙突だから、上にあがればあがるほどゆれが激しくなってくる。……のぼり切って見たら、男はもう煤煙で顔も体もまっくろ。相当に疲れていた様子だったが、おだやかに争議の解決を話したら、ちょっと笑ったようだったな。そこで、用意してきた吊籠の中に男を入れ、やっと下におろしたわけだが、無事、下におりついた時には、ほんとにやれやれと思ったね」と語っている(『神奈川県警察史』中巻)。 ところで、新聞紙上をにぎわせたこのエントツ男は、横浜市電気局勤務の田辺潔という人物である。この煙突へのぼるなどという行為は、膠着状態におちいっていた富士紡争議を解決する手段として、労農党の幹部糸川二一郎の指示で、当時糸川宅に居候をしていた田辺が行った非常手段であった。かれの滞空時間は実に百三十時間におよび、この事件は外国の新聞で「世界最初のチムニーマン」として写真入りで紹介された。煙突にのぼって争議を解決しようとしたこの奇想天外の新戦術は、恐慌下の争議がすでに厚い壁にぶつかっていた事情を反映していたが、当時、田辺個人が労動運動の英雄的存在になったこともこれまた事実である。また、それだけ労働界が失業・待遇改善問題などで大きくゆれうごいていることを象徴していたといえよう。 消費組合と農民組合 恐慌がふかまり、米価をはじめ農産物価格が下落し暴落していくなかで、広範囲にわたって政府所有米払下運動(米よこせ運動)がひきおこされた。この運動は、一九三二(昭和七)年六月から、米価の暴落で大きな傷手を受けた日本消費者連盟・関東消費者連盟が主導権をとって農林省に請願し、全国的に拡大していったのである(奥谷松治『増補改訂日本生活協同組合史』)。神奈川県下では、まず労働者のうごきをみると、横浜ドックの工信購買組合をはじめ、近代的な重工業の工場を基盤とした購買組合がいくつかみられたが、低米価で、しかも米が過剰であるという事情のもとでは、大工場では米の配給には配慮を欠いたことがなかったので、購買組合にくわわっている労働者も米よこせ運動にはたちあがらなかったようである。 しかし、一九三二年から三三年にかけて、地域においては、米よこせ運動が地下水のように流れていた。また、そういう動きへのとりくみも行われようとした。たとえば、多摩川沿岸で砂利採掘にあたっていた朝鮮人労働者たちは、収入が極度に低く生活も不安定で、払下米の要求は切実であった。そこで、南部一般消費組合などと連絡をとり、関東消費者連盟の指導で高津町(現在川崎市)に多摩川無産者消費組合をつくり、八・一農林省デモにはもちろん参加したほか、払下米配給を引きつづき受けていたようすである。 また、平塚町(現在平塚市)では、土地の運動家たちに「おばさん」とか「お母さん」とかいわれて親しまれていた笹谷京が中心となり、息子の二郎もくわわって、日消連と緊密な関係をもって平塚消費組合をつくり、「平塚米よこせ会」を組織して再三の交渉を重ねて相当数量の払下獲得に成功した。さらに、茅ケ崎町でも湘南消費組合の組織準備をすすめ、茅ケ崎町の漁師清水七郎らが湘南道路工事人夫の間に「米もらう会」(「米もらいたい会」)をつくり、二百八十余名の署名を集め、茅ケ崎町役場に政府米の払下げを請求する動きがあらわれていた。この運動は町役場の拒否にあい、再度陳情したところ、官憲は不穏の行動として発起者六名を引致しておさえつけた。 さらに、一九三三年、足柄下郡足柄村の農民たちは、小田原別荘旅館経営で利益を得ている町の有力者が、小田原町会・足柄村会を動かし、県会議員・代議士らと組んで、遊覧客誘致を目的に上水道設置を計画し、試掘を進めているのに反対し、上水道ができたら農民たちの田はたちまち枯渇し植付けすらできなくなると中止嘆願書を村会にだし、村会がたのむに足らないとわかると、大衆行動で計画を粉砕しようと大のこぎり隊・小のこぎり隊を編成して暴動を起こし、試掘不能にさせた。小田原署は、村民を検束し、県は灌漑ポンプ二台をあたえて憤激を鎮めようとしたが、村民は納得しないという問題が発生していた。 これは小田原の町民と足柄の村民との対立であると一般にいわれていたが、小田原の失業者と無産者たちは農民たちに同情し救援の手をさしのべている。 失業者の増大 『横浜貿易新報』昭和6年9月23日付 この動きは、たんに「米をよこせ」ということにとどまらないで、「救済補助金を出せ、種子をよこせ、排水ポンプをつけろ、救貧土木工事を起こせ、借金取立てを待て、小作料・税金の免除、犠牲者の即時釈放、家族の生活保証」をしろという運動にまで発展し、これをとおして全農全会を拡大し漁民の組織化を試みようとした(山本秋『昭和米よこせ運動の記録』)。 ところで、この間、県下の農民の動静をみわたすと、農民組合は、だいたい小作料の減免というような日常的な経済要求を掲げた運動に終始し、その動機はがいして低調であった。昭和にはいって県下に存在していた組合は、県の北東部の橘樹・都筑・高座の三つの郡に六支部をもっていた日本農民組合総同盟と、中部に二つの支部をおいていた中部農民組合、さらに、中部を中心に鎌倉郡・足柄上郡・橘樹郡などの町村の字単位に点在していた単独の小作人組合にすぎない。なかでも、日本農民組合総同盟、それにすくなくとも昭和のはじめには確認することのできる全日本農民組合は、日本農民組合に対抗して出現した右派系の組合であった。日本農民組合総同盟は、政治的には、社会民衆党を支持し、その幹部には、鈴木文治や片山哲が名をつらねていた。こうしたなかで、小作争議も数がすくなく、一九三一(昭和六)年に十九件、一九三四年には八十六件を数えたが、これらのうち主な内容は、不作・凶作による免引き、地主の土地取上げによる紛議であった。恐慌後の農民組合の動きは農村不況の波にもまれ、一つの底流をなしていたにすぎなかった。 恐慌下世相の推移 恐慌とその後の社会変動は、世相の推移に微妙な影響をもたらしつつあった。このころ、不況のふかまりにつれて、カフェーやバーは、激しい浮き沈みをみせながら増えていた。横浜市の伊勢佐木町から関内界隈は、東京市の新宿・浅草・銀座とともに繁華街の中心となり、「頽廃の夢が酒と踊りの狂乱に黄金の雨」を降らしているとみなされているような享楽の街となっていた。夕暮ともなると、カフェーやバーからは流行歌のレコードが流れ、女給の嬌声が乱れ飛んでいたという。実際、カフェー・バー・ビヤホールなどは、あっちこっちに店開きしていた。 西条八十作詞、塩尻精八作曲「女給の唄」が街に流れて民衆に受けいれられていったのはこのころで、そこには、当時の人びとの気持ちが反映していた。この唄には、恐慌下の世相や生活の重苦しさと哀調が織り合わされて、そこはかとなく人びとの心に迫るものがあった。民衆の不安と哀しさと、自嘲・自棄のいりみだれた感傷をいやがうえにもあおってゆく「流行歌」が、大衆文化の一ジャンルとして生みだされていたのは、柳田国男『明治大正史世相編』の「新色音論」になぞらえれば、ラジオの誕生を皮切りに、レコードなどの新しい「色音」が民衆の生活にさまざまな情報を伝達する手段となっていたからである。あらためて説くまでもなく、東京市の愛宕山に放送局が開設されたのが一九二五(大正十四)年、二七年には日本ポリドール・日本ビクター、翌年には日本コロムビアというように、蓄音器会社が設立されていた。こうしていま『別冊一億人の昭和史昭和流行歌史』をみてもあきらかなように、恐慌に見舞われる前後から、中山晋平作曲の「鉾をおさめて」「出船の港」「波浮の港」「東京行進曲」「紅屋の娘」「愛して頂戴」が次つぎと世に問われ、「酒は泪か溜息か」で作曲家古賀政男がヒットを放ったのが一九三一年である。このころの流行歌は、中山・塩尻・古賀、「祇園小唄」の佐々紅華の曲の傾向に、西条八十・野口雨情・長田幹彦・高橋掬太郎・日比繁二郎らの作詞とを重ね合わせてみると、恐慌のかげりを濃くまとい、民衆のせつない、希望のもてない心情を表現しているものが多い。民衆は、あたかも盛り場に束の間の「うさ」をはらすと同じように、ヒット曲に救いを求めていた。当時、山形県生まれのソプラノ歌手佐藤千夜子が吹き込んだ「東京行進曲」のレコードは、二十五万枚を売りあげたという。 この「虚像の世界」を求めて浮き足だっていく世相のなかで、体制の地すべりにも似たファシズム化の過程でひき起こされている陸軍部内の抗争とか、数かずのクーデター計画・直接行動、浜口雄幸首相狙撃事件、三名合名理事長団琢麿・前蔵相井上準之助の射殺事件というようなテロリズムは、政局内部の激動や財界の腐敗のせいと映り、こうした諸事件は民衆にはおどろきであった。しかし、民衆にとっては、実際には関係がないと受けとめられていたようである。体験をつうじて、こうしるしたフランス文学者の中島健蔵は、『昭和時代』のなかで、にもかかわらず、すでに左翼は、「人民のため」といいながら人民とつながりをもつことができなかったばかりか、「国民のため」とはいわず「国家のため」という右翼が目ざしている敵よりも「多くの敵を国民の中」につくってしまったと回想していた。こうした事態の推移は、民衆の場から社会全体がファシズムへの傾斜をたどっているという一つの証言である。 二 準戦時体制への道 満州事変と在留中国人 恐慌後の社会情勢は、一方では、政局の中枢にいた原田熊雄のいいまわしをもちいれば、「陸軍のクーデター」としての意味をもつ十五年戦争の皮切りとなった満州事変を後立てに、桜会を中心とする皇道派青年将校、民間国家主義団体の国家改造運動が台頭し、他方では恐慌の過程で労働者のなかからは失業者が輩出し、農家負債額はつのりにつのり、社会混乱の輪は広がり、その合い間を縫って無気力な「エロ・グロ」の風潮もまた渦巻いていた。こうした情勢下で満州事変の勃発は、県民のなかに重い問題を投げかけた。 満州事変の発端である一九三一(昭和六)年九月十八日、日本陸軍と中国軍によってひきおこされた柳条溝事件について、新聞各紙はいちはやく「勇ましく翻る日章旗、一番乗りの第二大隊」(『東京日日新聞』昭和六年九月二十日付)「奉天城を占領しわが軍堂々と入城す」(『大阪朝日新聞』昭和六年九月二十日付)というような報道を開始した。そして、いちように中国の排日・抗日のゆえに満州事変はひきおこされたのであり、「日本の生命線」満蒙を守ることは正当防衛だ、と論じていた。 『横浜貿易新報』も九月三十一日付の論説で、「支配の反省を強く促せ」という記事を掲げ、「曲、彼れに在ること」はいうまでもないと断定的に述べ、次のような見解を示していた。すなわち、今回の事件にたいして同紙は、できるかぎり「平和裡に其解決」を欲するものであるが、「侮日行動」をあえてとる中国の態度のとりようによって、事件は今後どう進展するか予測しかねると論じながら、「条約に依って認められたる我権益」を中国が横暴にもこれを踏みにじったのであるから、「之に対しては我国の正々堂々たる国威発揚、国権擁護行動を我等は要望する」と、積極的な行動をとることを主張していた。 こうした雰囲気のなかで、柳条溝事件は、横浜在住の中華民国人に大きな衝撃をあたえていた。そこで、事件が勃発した翌日、中国領事銭天任は、とりいそぎ山県治郎知事を県庁にたずねて、山下町居留地の五千人におよぶ中国人などの保護を十分に行ってくれるよう申し込んだ。この要請にたいして山県知事は、安全を保証するとともに、中国現地における「排日思想」を厳重に取り締まるよう領事から本国政府に伝達することを希望した。そして、県警察部は、中国人の保護をするとともに、「不穏分子」のアジテーションや運動に警戒の目をひからせることとなった(『横浜貿易新報』昭和六年九月二十日付)。 また柳条溝事件は県民の関心をあおりつつあった。県下各地で「戦争話に花が咲く」ありさまとなり、在郷軍人分会などでは、すこぶる緊張の度を増し、はやくも動員令を予想し出征をまつ雰囲気がつくられ、青年団員もまた事態の推移のいかんによっては治安維持に努力しようと協議をかさねはじめたようである。こうして一挙に「戦争気分」が濃厚になるなかで、たとえば、横須賀市では、いちはやく十九日の夜、東京湾要塞司令官秦真次中将の「国防と満蒙問題」に関する講演会を開催した。会場の隣保会館には、定刻の午後七時には二千五百余人の聴衆が押しかけ、入場を制限せざるをえないほどの盛況となり、会場入口前庭の聴集はいずれも興奮していた。ちなみに、横須賀市の講演会では、このときほど多数参加したことはこれまでなかったという(『横浜貿易新報』昭和六年九月二十一日付)。 召集の拡大と県民 柳条溝事件をきっかけとして、戦火はたちまちにして全満州に拡大し、これがやがて「十五年戦争」の発端をかたちづくることとなった。そして、一九三一(昭和六)年の暮から翌年はじめにかけて、あちこちで満蒙問題講演会がさかんに行われるようになった。たとえば現在の相模原市に属する麻溝村では、一九三一年の十月二日に、光明学園・麻溝小学校共同主催で、元青島司令官大村一之・国士館大学教授武田〓の講演、翌三二年三月十日には陸軍歩兵中佐金田三良の講演があった。これらの講演会が、満州事変を合理化するための当局の示唆によるものか、あるいは農村自体の自発的のものかは不明である。しかし、三二年にはいってから、どこの町村でも、動員令による召集がたいへん多くなり、新聞紙上に「殺人的な農村不況」「糸よりも細くやせた農民」という、それこそ名状しがたいまでの農村の困難な状態のなかで、戦時色は強まっていったのである。戦勝祈願祭はもちろんのこと、戦没者の葬儀慰霊祭というような風景もみられるようになった(『相模原市史』第四巻)。 こうしたなかで、相原村の相沢菊太郎のように、満州事変を日本と中国との衝突の問題としてだけではなく、世界を相手とする戦争になるのではないかと、不安げにみている人間もいた。満州国の承認の問題や、この事1933年ごろの横須賀駅前 福本信一氏蔵 件にたいする国際連盟理事会の動きを敏感に受けとめてのことである。相沢はその感慨を一九三二年二月三日の日記に次のようにしたためていた(『相沢日記』昭和編)。 日支事変(注満州事変のこと)愈々急迫し、我国モ増兵ノ必要ニヨリ、一部充員召集始マリ、常盤ノ者一人図師ノ者ニテ橋本ニ居ル横須賀重砲兵へ召集ノモノ明日出発ノコトトナレリ、昨年夏ヨリ双方接戦中ナリシガ、遂ニ事止ムヲ得ザル立場トナリ、支那ノ相手ハ変ジテ英米仏独等殆ド世界ヲ相手ノ戦争トナル訳、実ニ今ヤ人心不安ヲ感ジツツアリ、之ニ付テ思ヒ出スハ、西南戦争ガ明治十七八年(注西南戦争は明治十年)日清戦争ガ明治廿七八年、日露戦争ガ明治三十七八年、日支事変ガ昭和七年ニ至リ始マラントスル等因縁トモ云フベキカ 満州事変が拡大するにつれ、新聞は連日のように戦線写真の特集号外などを発行して「酷寒の野に闘ふ皇軍兵士」の姿を伝えるとともに、「守れ満蒙、帝国の生命線」を強調し、その自衛権を強調していった。そこには、満州事変は、日本民族の生存をまもるためのやむをえない戦争であり、この満蒙問題が解決するならば、日本の政治や経済のゆきづまりも打開することができるということを、恐慌になやむ人びとの感情に訴えようとする意図が目論まれていたのである。 この間、国内のゆきづまりを打開していくためには、「満蒙問題の解決」とともに「国家改造」が必要であるという考えかたが広がりつつあった。この「国家改造」の目のつけどころは、なんといっても農村の窮乏そのものにおかれていた。この危機を打開するためには、国家を忘れ、私利私欲に走っている財閥と腐敗した政党、天皇の奸である元老・重臣を打倒し、国民のめざめをうながすべきであると、青年将校やこれと結んだ右翼団体は考えた。一九三二年五月十五日、「話せばわかる」という犬養毅首相を「問答無用」と射殺した五・一五事件は、軍国主義体制をつくりだそうとした一つの布石であった。 非常時局対応策 一九三三(昭和八)年の夏、神奈川県を含め、関東一円で防空演習が行われた。満州事変によってかもしだされた国民的な昂奮の雰囲気のなかで、しかも国際連盟を脱退した日本の国際的孤立にむかって歩みだしはじめたなかでのできごとである。それは、また、「国防国家」の建設をおしすすめ、軍備拡張の方向をたどろうとする一つの象徴的なできごとである。もっとも、この年の県会で県知事横山助成は予算の編成にあたってみずからは、「日本帝国ノ内外ノ情勢、対外的或ハ国内ノ情勢ガ非常ニ重大ナ時局」であることを痛感していると弁明しながら、極端に「非常時」と「県民ノ緊張努力」を高唱することを避けたと説明していた(『神奈川県会史』第六巻)。その逆説めいた答弁は、国内外の情勢が重大であることを語ることになり、知事も「県政ノ全体ガ非常時局対応策」であると断言していた。 こうした非常時局の意識のたかまりのなかで、一九三四年の秋「国防の本義と其の強化の提唱」と題したパンフレットが発行された。このパンフレットが注目を浴びたのは、「たたかいは創造の父、文化の母」であるという文句にはじまり、国防の目的のために国内の政治や経済の機構改革を提示したからであった。国防の一環として、国民生活の安定と農山漁村の経済更生をはかることを主張の根底においているこの考えは、国防国家建設を力説したものでもある。それぞれの新聞はこの主張を掲げて世論をあおりはじめていたが、もはや、そこには自由主義的経済観念は排除されていた。これと同時に、また、個人主義・自由主義的な考えかたも否定されていったのである。一九三五年、美濃部達吉の天皇機関説が第六十七議会で問題になり、この学説が国体に反し、美濃部は「緩慢なる謀叛人」であると非難された。この急先鋒になっていたのは、貴族院の菊池武夫中将ら在郷軍人関係の議員であり、さらに貴族院・衆議院の軍人出身者、軍国主義者たちであった。こうしたなかで、政友会総裁鈴木喜三郎は衆議院で国体明徴決議案を提出、全会一致でこれを可決し、この後、真崎甚三郎教育総監は、天皇機関説が国体に反する旨の訓示を全陸軍に通達し、文部省も各学校に国体明徴の訓令をだしたのである。また、帝国在郷軍人会でも十五万部のパンフレットを全国的にばらまき、大会を開いて天皇機関説の排撃にのりだしていた。こうして、天皇や団体を楯にとれば、どんな非合理な言辞も大手をふってまかりとおることができるような世論が形づくられていった。 第三節 準戦時下の文化と教育 一 教育運動の弾圧と軍国青年の養成 県下の新興教育運動 一九二九(昭和四)年になると経済恐慌はすすみ、米価・農作物の大暴落、緊縮政策と産業合理化により工場操業は短縮され、工場閉鎖もあい次いだ。失業者の数もふえ、郷里に帰る旅費もなく、東海道を歩いてゆく者がめっきり増え、遊行寺(現在藤沢市)では無料接待所を設け、それらの人びとに麦飯をどんぶり一杯ずつ恵んでやっていたという状態を呈していた。このような状態の中で、一か月の神奈川県教員養成講習を修了し、一九二八年九月に神奈川県平塚の第三尋常高等小学校に勤務し、県内の状態を見ていた青年教師脇田英彦は教育実践の中で、「漠然たる教育愛に対する不安」「ともに愉快に夢中に遊ぶ児童たちは、必ずしもまたともに愉快に熱心に学ぶところの児童ではない」との問題にぶつかっていた。「教壇の上からでなく、児童たちとともに彼等の生活の中へ」ということに試みようとしていた。個人個人さまざまな児童の能力・才能の相違、自分の意図に対して、望ましい傾向の行為をなすもの、反対に無益な望ましくない傾向の行為をなすもの、これらのさまざまな現象が、いったい何に起因をするものかを探求しようと思うようになっていた。そして彼はそれを「児童の生活」の中からとらえようとした。「家庭の分析」と「学級児童の観察」から「児童の生活」にせまろうとした。そしてそれを、当時の農民の生活や労働者の生活の中で見出していった。このような実践が一九三〇年に行われたことは、この年が「新興教育の科学的建設とその宣伝」を階級的任務として、新興教育研究所が創設され、「天皇制絶対権力の教育支配と真正面から対決し、明確な階級的立場に立って教育労働者の解放と教育労働者が『その幼い生活に対して最大の責任を持たねばならないプロレタリア、貧農の解放を支配階級との闘争』を通じて闘いとるべく」と教育労働者組合が結成されたと時を一にするものであった。さらに脇田はこのプロレタリア運動を発展させ「馬入ピオニール」の結成へ向けていった(森谷清『戦争と教師たち』)。 「馬入ピオニール」は御用的学校自治会を自主化し、階級闘争の一機関とし、プロレタリア貧農児をして具体的な闘争に訓練せしむるために自治会自主化闘争を教員の手を通じてなさしめる必要があるというものであった(前掲書)。 一九三一年六月十五日の関東紡績平塚工場のストライキを見学し、それを契機に卒業生、高等科二年生で「馬入ピオニール」を組織していった。県学務部長もこのようなうごきを知って、八月二十八日に各学校長あて、「学校職員ノ思想取締ニ関スル件」を出した。 茅ケ崎の松林尋常高等小学校の香川分校の黒滝雷助(チカラ)、中村武敏らも日本教育労働者組合(教労)の結成の準備をしていた(一九三〇年十一月)。ここは神奈川の拠点となっていた。中村武敏は一九〇六(明治三十九)年宮崎県に生まれ、中学生のとき横浜に移り、本牧中学校から神奈川師範学校の第二部にすすんだ。卒業すると(一九二五年)川崎の南加瀬小学校に勤務、一九二九年に松林小学校へ転勤した。川崎の南加瀬小学校のころの学校は封建的で、若い女の先生は宴会の席で「女中」がわりのように使われ、村長や村会議員がくればお茶くみをやるとか給仕のようだったと述べている(前掲書)。松林小学校では地主と小作、資本家と労働者といった階級的な意識教育については自然に子どもたちの頭の中に入ってきていると述べている(前掲書)。そして、彼もまた学級を中心としてピオニールを組織していった。ピオニールという言葉は子どもたちは知らなかったが、そんなことよりも、ものの考え方を教えようと思ったと述べている。 そして、これらプロレタリア教育運動に参加した人たちが、日本教育労働者組合を結成し、のちに日本医務労働組合および日本映画労働組合とともに、全協日本一般使用人組合に合同し、教育労働部を結成した。 しかし、神奈川支部の人たちは一九三一年十月八日、警察に召喚された。取調べを受けた者は、大体二十四、五人で、その中で、警察当局が検事局に送ったもの二人、県として行政処分を行ったものは懲戒免職十二人で、その中の数名は免許状の剝奪処分をうけた。これらの中に、脇田・黒瀬も含まれていた。 この結果、神奈川支部は壊滅的打撃をうけ当局の追及をのがれたメンバーも多数あったが組織を再建することはできなかった。 一九三一年十一月の県議会で、九鬼書記官は行政処分について小学校令の「小学校教員たるの職務を怠り、若くは教員たるの体面を汚辱したもの」に該当すると述べている。 同じ県会での警察部長足立書記官の答弁は、警察が労働組合運動を取り締まることについて「組合運動ト云フモノヲ必ズ弾圧スベシト考ヘテ居ルモノハ絶対ニ無イト考エマス……勿論、組合運動ノ為ニ赤化騒擾ニナリマシタナラバ之ヲ取締ルコトハ勿論デアリマス」と述べていた。特に共産主義者に対する取締りは強行であったことを示すものであった。 郷土教育 大正末期から昭和初期にかけてわが国の「都市化」現象はさまざまな矛盾を露呈していた。先に見た横浜市での小学校の二部教授もその例である。日本資本主義社会の発展は常に農村を犠牲にしていたが、昭和に入ってからの不況では小作人はもちろん中層以上の農民までも打撃を受けた。そして、その打撃を受けたことが「反都会主義」(久保義三「政治危機と教育」『岩波講座現代教育学』5)という考えに結びついていた。それがさらに、郷土教育という形で学校の中に入っていく。もちろん、臨時教育会議における小学校教育改善に関する答申においても、地方の実情に即した教育の実際化が提案されて、他方で、経験主義的、生活主義的な教育思潮とあいまって、郷土に即した教育実践ということで刺激をしていた。神奈川県ではすでに大正のはじめに神奈川女子師範学校附属小学校で行われた(一九一六年六月十日)小学校教科研究会において郷土室の研究等の発表があり、『神奈川県教育会雑誌』一〇九号(一九一四年)には「教育は郷土的色彩あるべし」という論説が掲載されたりしていたが、郷土教育熱がさかんになったのは昭和に入ってからである。一九二八(昭和三)年一月二十七日から二十九日の三日間にわたって神奈川県師範学校を会場として、郷土中心初等教育研究発表会が行われた。発表会の趣意で次のように述べている。 国民教育ガ国家ノ要望ニ基キ普遍的陶冶ヲナシ国民的志操ヲ練磨スベキハ勿論ナルモ出来得ル限リ地方ノ実際ニ立脚シ其ノ特色ヲ発揮スベク充分ノ調査ヲ遂ゲ研究ヲ重ネ、各方面ニ渉リテ其ノ郷土化地方化ヲ図リ以テ郷土ノ教育方針ヲ確立シ学校ヲシテ真ニ地方教化ノ中心タラシメ郷土振興ノ源泉タラシメザルベカラズ このように郷土教育というものは学校を中心として、地方教化の振興をはかるものであった。さらに小学校における農業教育の振興足柄尋常高等小学校の郷土読本 県立教育センター蔵 が実施され、一九二三(大正十二)年三月、小学校農業教育設備標準を決め、農業教育の改善を示し、農業教育の振興を奨励した。神奈川県教育会主催による小学校農業実習圃場品評会が行われ(一九二五年から三〇年の間に五回)優秀校、優良校を決め選賞式が行われた。 このような背景が「都市化」と「農村」との関係を対立的にとらえ、都市における偏知主義、「資本的、物質的、都会的教育が自己の華飾と魅力を放散して、農村を傷害した」(早川孝吉「近代教育の非農村性」『農村社会研究』)という考え方により、郷土教育、農業教育の活発化が促進された。 教化総動員と教員給与の減額 一九二九(昭和四)年九月になると教化総動員運動が実施されていった。文部省の訓令第一九号「教化総動員ニ関スル要旨」を受けて、神奈川県では同月十七日、教化総動員の実施に関する告諭を出した。 それによると次のようなものであった。「生活ハ甚シク浮華放逸ニ流レ思想亦軽佻詭激ニシテ中正ヲ欠」く、政府の「国民精神ノ作興ト財政経済ノ整理緊縮トノ二項ヲ標榜シテ国民的自覚ヲ喚起セシメ」る。中央と呼応して県下においても総動員を行い、一般県民の覚醒奮起を促すというものであった。 二項を標榜するということで、その二項とは 一 国体観念ヲ明徴ニシ国民精神ヲ作興スルコト 二 経済生活ノ改善ヲ図リ国力ヲ培養スルコト ということの理解を徹底し、そのための方法は、県下市町村長、学校長、教化団体、宗教団体等の代表者を招集して、本運動に関する知事の訓示、新聞社・通信社・雑誌社の協力を求めること、などであった。 神奈川県教化総動員第一回の総会が一九二九年十月に開かれた。そこでの知事の挨拶では特に、神奈川県・横浜市では大震災の影響で財政難であることを強調した。小橋文部大臣も教化総動員について訓示した(『神奈川県教育』第二六〇号、一九二九年十一月)。 国体観念を明徴にすること、経済生活の改善を図ることが、教育における二大目標となっていった。 一九三〇年に入ると農村の極度の疲弊は各地において役場吏員・小学校教員に対する減俸や人員整理を要求する気配が強くなっていった。特に町村歳出の約半額を占める小学校費、しかもその七〇から八〇㌫を占める教員俸給に対して町村民の関心が強くなっていった。相原村(高座郡)では同年七月十五日に同村八幡宮に有志百余名が参集して、一般村民の負担軽減のために小学校教員・役場吏員の減俸、教員整理を決め、村会へ提議することを決定した(『横浜貿易新報』昭和五年七月十七日付)。相原村では八月に入り村会を開き、当初予算を緊縮することを決定した。 このような村民の要求が各地で起こり、陳情団が小学校に行き、校長に寄附を強要したり、父兄が生徒を同盟休校させるといったり、そのため、村会議員、警察署員等が事情聴取にいったりするところも出てきた(『相模原市史』第四巻)。 『横浜貿易新報』の記事によれば、「県下町村三分の一は教員減俸を断行、減額は一割から二割、急速の勢で拡大して行く模様」(昭和五年八月八日付)、「減俸はせざること、寄附問題に県の断案、教育への影響留意して、町村財政も考慮」(同年八月三十日付)などの見出しが出ている。このような時、八月十五日県に対して文部省・内務省の次官通達があり、県でも、各町村長にこの内容を通知した。それは不景気対策として、小学校教員の俸給費を減額したり、教員に対して寄附金を強要したり、小学校の学級を整理したりすることがあるようだが「国民教育上甚ダ憂慮スベキ影響ヲ生ズベキ虞モ有之ニ付テハ充分御監督相成ル様致度」という内容のものであった。文部・内務両次官の通牒したものをそのまま、県は各市町村長あて流した。 同年十二月に、県会でも町村財政難のことが取りあげられ、白井佐吉議員は次のような質問をした。それによれば、義務教育費の支出は「市町村立ノ小学校教員ノ俸給、旅費、其他諸給与、並ニ其ノ支出ノ方法ハ文部大臣ノ定ムル所ノ準則ニ基キ府県知事之ヲ定ムト云フ規程ノ為、市町村ノ立場ヨリ致シマスレバ、殆ンド強制的ニ支出ヲ命ゼラレテ居ルノデアリマシテ……」とし、町村税のうち教育費の占める割合は七割一分五厘にもなっている。そして、その大部分は人件費である。町村の自治体が破壊してしまう、そのためには学級整理を行い、教員を廃してもらうことができるかという主旨のものであった。これに対して、山県知事は「町村財政ハ誠ニ苦シイコトデアリマセウケレドモ……ドウカ我慢シテ相当ノ程度ニ於テ人件費ヲ支出シテ貰ヒタイト考ヘテ居リマス」(『神奈川県会史』第五巻)との答弁にとどまっていた。 一九三一年一月になると県下町村会各郡幹事会が神奈川県庁二階会議室で開かれ、一九三一年度予算編成について協議された。幹事会によって、申し合わされたことは、一 町村予算は緊縮すること、二 教育費については、一割を標準として低減すること、増俸は一か年間中止すること、学級を整理すること、校長においても授業を担任することなどであった。 この結果、町村予算は緊縮された。 一九三二年二月にも、県町村長会幹事会を開き、一九三二年度各町村予算編成について協議した。小学校教員の給料について、「高級教員ノ整理ヲ断行セラレタキコト」とし、さらに、五十円未満の者には二円の増俸、五十五円未満の者については、合議の上決定することなどの方針を決めた。 この年九月政府も「市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法」を制定し、一九三四年まで毎年度約千二百万円の国庫支出金をもって、町村財政負担の軽減を図ることにした。 第1表 県財政に占める教育費の割合 単位千円 『神奈川県会史』第6巻から 国庫補助金の増額については、神奈川県町村会では、一九三一年五月二日の総会において決議し、政府へその対策をせまっていた。 さて、市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法について、神奈川県では一九三一年十一月二十五日に学務部長から市町村長あてに通知を出し、そこで「尋常小学校教員ニ対スル俸給ノ不払又ハ支払延滞或ハ寄附強要ノ事態ヲ絶滅セシメ教員ノ生活ヲ安定セシメントスル」ためのものであるからとし、まず教員俸給に未払いがある場合は国庫補助金をあてること、延滞を生ずるのにあてること、国庫補助金により町村財政に余裕を生じたときには負担過重を軽くすることなど、を示した。 一九三三年になると四月一日から三か年から四か年増俸されなかった教員に対して二円の増俸となった。しかし、一九二九年から一九三八年にかけての教員一人平均月俸額は減俸の傾向にあった。 中等学校生徒の野外演習 一九二八(昭和三)年十二月十五日、夜来の冷雨、「寒雨蕭条」として降り注ぐ中、宮城前広場に、東京、神奈川、埼玉、千葉、山梨、一府四県の中等学校以上の男女学生、青年訓練所生徒、男女青年団員等約七万人が集合した。天皇の「御親閲を賜」ったのである。県内からも約六千人の男女若人が参加した。校旗・団旗を掲げ、参加団員は分列行進をした。県の幹部、池田知事、九鬼三郎学務部長をはじめ公立・私立の中等学校長、配属将校、教諭も参列した。参加者は感激、唯光栄のみ等として当日の様子を語りあった。神奈川県立商工実習学校の生徒大野鉄之助は「夜来の霖雨は一入心を引きしめ此ノ御盛事を一層印象深からしめた。一歩一歩と踏みしめる内にも喜びと感激の情は胸に満ちた。今や、陛下の御英姿を咫尺の間に拝し親しく挙手の礼を賜ふ、あゝ此ノ光栄に誰か感せぬ者があろうか、自我の感なくただ敬虔の念と至誠あるばかり」と書いている(『神奈川県教育』第二五三号)。そして、この御親閲に参列した人たちが、この日の感激と喜びを書きつづった記録として神奈川県教育会は「大礼奉祝諸団体御親閲記念号」を刊行した。 そして、この十二月十五日を記念して、本県では翌一九二九年十二月十五日、県下中等学校連合野外演習が辻堂海岸演習場で行われた。東軍と西軍に分かれ、東軍は横浜一中、同二中、同三中、同工業、同商工、同商業、関東学院、浅野総合中、本牧中、県立農蚕、西軍には横須賀中、逗子開成中、鎌倉師範、鎌倉中、湘南中、藤沢中、平塚農業、奈珂中、足柄農林、小田原中、厚木中であった。総員二千二百二十名によるものであった。 この演習にあたって、陸軍大将白川義則は祝辞を述べ「昨秋……親閲シ給フ、〓来一年、白夜、聖旨ニ感激シテ訓練ニ励ミ、効果著シク挙ツテ本日ノ壮観ヲ呈ス、一ニ報効至誠ノ結果ト謂フヘク洵ニ欣快ニ堪ヘサル所ナリ」(『神奈川県教育』第二六六号)とした。 このように、天皇の御親閲と中等学校生徒による軍事演習が結びついていった。 一九二九年の教化総動員計画の実施、一九三〇年三月に学務部長が出した、公私立中等学校長あての中等学校生徒の思想善導に関する通知は「我国特殊ノ国体、国情、国民性等ヲ明徴ニシテ日本国民タルノ自覚ヲ喚起シ又出来得ル限リ現時ノ思想問題ニ関シテモ公正穏健ナル常識ヲ涵養セシムルニ力メ一般ニ体育ヲ奨励シテ剛健闊達ナル精神ヲ養ハシメ」るような内容のものであり。思1929年神奈川師範の軍事教練 『神奈川師範学校記念写真帳』から 想・行動について制約を行うものであった。 これより先、一九二五(大正十四)年一月に文政審議会は教練の実施についての答申を行い、同年四月に陸軍現役将校学校配属令が定められ、中学校令施行規則も改正され、中学校における体操の毎週教授時数は三時から五時に増加し、軍事教練が実施されていた。神奈川県立中学校規則は一九二七年四月に改正され体操が三時から五時になり、総計も二十九時から三十一時になった。 本県においても中等学校(男子)に配属された将校は同時に各地にある青年訓練所指導補助にもあたっていた。 このように配属将校は、県の中等学校、青年訓練所の軍事教練にたずさわり、県下軍事演習の指導者となっていた。 「左傾運動」の防止 文部省においては一九三一(昭和六)年七月になると文部大臣を会長とし委員三十九名からなる大がかりな学生思想問題調査委員会を設置した。同委員会は文部大臣の諮問事項である「学生生徒左傾ノ原因」と「学生生徒左傾ノ対策」とについて一九三二年五月に文部大臣に答申した。これによれば社会の情勢、思想界・学界の傾向、教育の欠陥などを学生や生徒の左傾の原因としてあげ、その対策として、改善、匡正に全力を注ぐべきであるとしている。社会の指導的地位にあるものは反省・自覚し、学県立小田原中学校の軍事教練 阿部宗孝氏旧蔵 界・思想界は国の独自性を自覚し、国体観念を理論的に闡明し、固有文化の研究をさかんにし、理想主義を高調すべきであるとした。主知偏向の学校教育から、人格完成を重んずる教育へ、国体に関する人生観・社会観を基とした創造力を養い、かつ実践を重んずるような教育の内容や方法へと改めて、教員にも人材をうることであるとした。ことに学生・生徒の左傾運動防止としては、学内・学外を問わず取締りを厳重に行うと同時に、学校の本旨に照らし、指導・訓育に十分な努力をすべきであるというものであった。 さらに学生思想問題調査委員会の答申に基づいて、一九三二年八月に国民精神文化研究所が創設された。神奈川県においては、思想問題についての講演会が盛んになり、たとえば文部省学生部学生課長久慈学を呼んで、「我国思想運動に就いて」講演してもらっている。それによれば、「赤化の手段をよく知っておかねばなりません……自己の不満逆境に同情して来る態度を示す者には一応疑って考へる必要がある。救済金等を求めて来る者、其他一寸品物をおいてくれとか、一寸留めてくれとか、アド(アドレス)と称する一寸郵便物を頼まれてくれとか、又レポ(レポーター)と称する一寸連絡してくれとかいふも横浜戸部実践高等女学校生徒の鉄砲取扱訓練(1934年ごろ) 県立文化資料館蔵 のには考へてみる必要がある」などと教員に対しての赤化防止策などを示している。特に共産主義運動に参加する者には厳しい状態となっていった。 一九三四年十月になると、神奈川県国民精神文化講習所規程が定められ、第一条に「神奈川県国民精神文化講習所ハ本県教育関係者ニ対シ日本精神ニ関スル研究講習ヲ施シ思想問題ニ関スル知識ヲ与へ教育者トシテ必要ナル識見及信念ヲ涵養セシムルヲ以テ目的トス」と規定されている。 思想問題に関することには「如何に処理すべきかが現行教育界に於ける最大の難事であり最重要事であることは言ふまでもない」と川崎市の学校教諭戸倉広は「随感時評」として『神奈川県教育』第二八六号の中で述べている。 国民精神総動員の徹底 一九三五(昭和十)年三月二十三日、衆議院で国体明徴決議案が可決され、翌年七月日中戦争の発端となる蘆溝橋で日中両軍の衝突がおこり、戦時体制へと進んでいった。そして同年十二月八日「国民精神総動員実施要綱」を決めることによって戦時体制はしだいに強化されていった。 国民精神総動員について、県告諭第一号でこれを実施するために、実行委員会を設け、県民の協力により目的を達成することを告示した。市町村長・学校長に対しては、十月十五日に学務部長より「国民精神総動員ニ関スル件」を通牒した。これによると学校においては生徒に対して「朝礼ノ際必ズ宮城遥拝ヲ為ス等凡ユル機会ニ於テ敬神崇祖ノ実践的訓練ヲ為スコト」とし、規律節制ある生活をさせること、体操教練武道の振興を図り、専ら堅忍持久困苦欠乏にたえる精神を練成すること、神社、校舎、校庭の清掃手入れ、勤労奉仕の実践、生徒児童の銃後の後援のこと、生徒児童の学用品、運動用品、身廻品等については無駄を排除して、消費の抑制を図り、貯金・献金等を奨励するようになどの内容であった。 一九三七年という年は、日中戦争の戦時軍需景気で、前年と比べると、横浜市は工場数一七㌫、従業員数二五㌫、生産額は五七㌫もの増加を示し、転失業者の吸収が行われるほどであった。 しかし一方では、大増税、ぼう大予算の発表で卸売物価の暴騰に刺激され、小売物価も物凄いいきおいで奔騰しインフレが進行していた(『横浜貿易新報』昭和十二年一月二十日付)。 横浜高等工業学校の卒業予定者に対する求人は百八十五人に対して、約五倍の六百二十四名をこすものがあり、夏休みには大部分が決定し、実地教育にあたる者、要するに、アルバイトをして、学費を得る者などがあらわれていると新聞は報じている。 しかし、一九三九年三月に入ると第一次賃金統制令が布かれ、翌年十月には第二次賃金統制令が布かれた。 この間、すなわち一九三五年から一九三九年にかけて、学校教育においては「青年学校令」(一九三五年四月一日)が公布され、青年学校の義務制が実施されるにいたった。即ち、「青年学校令」によれば、「青年学校ハ男女青年ニ対シ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共ニ職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ目的ト女性も参加した第15回県下中等学校射撃大会(1934年ごろ) 県立文化資料館蔵 第二表 各科の教授・訓練科目・時数 教授・訓練期間 普通科 男子 普通科 女子 本科 男子 本科 女子 注 研究科については空欄であるので略した 『県公報』から作成 ス」と第一条に規定されている。同時に、「青年学校規程」「青年学校教員養成規程」「青年学校教員資格規程」の公布をし、青年学校制度をととのえた。生徒の大部分は働きつつ学ぶものを対象にしてあるため、教育は簡易なものにしてあった。 青年学校の発足により、従来設置されてあった実業補習学校、青年訓練所は青年学校となった。 青年学校は普通科二年、本科は男子五年、女子三年、研究科は一年と定められた。普通科に入学することのできる者は尋常小学校卒業程度、本科に入学することのできる者は普通科卒業者、高等小学校卒業程度の者と定められた。本県においても青年学校の発足にともない、神奈川県立実業補習学校教員養成所を神奈川県立青年学校教員養成所と改められ、青年学校令施行細則を制定(一九三五年五月十日)、青年学校学則準則(同)を定め、青年学校の教授及び訓練期間、訓練科目等を定めた。それを示すと第二表のようになる。また本県における青年学校数を見ると第三表のようになる。 青年学校における教授及び訓練の結果について教練科査閲と学科査閲が行われた。査閲に際し統制者を定め、これを総司令と称し、総司令の指揮の下に受閲者(生徒)は行動した。宮城遥拝又は御真影奉安所拝礼、国歌合唱からはじまり、教練査閲官立会の下に、市町村の名誉職、在郷軍人分会、青年団体役員、生徒の父兄等の立会で服装検査、閲兵が行われた。 青年学校は発足当時から勤労青年にとってそれほど魅力あるものではなかった。たとえば都筑郡二俣川村立青年学校の就学歩合は村において、入学すべき者百四十名のうち入学者八十四名で、入学歩合は五六・三八㌫(一九三五年十月現在『横浜市教育史』下巻)という状況であった。そのため青年団が、青年学校は青年団員の主要なる修養機関であるから、団員のうち資格年齢者は全部就学させるよう第3表 年度別青年学校数 『神奈川県統計書』,『文部省年報』から作成 督励していた。 神奈川県でも「青年学校の義務制」という印刷物を配布して、入学させるのは親の義務ですとして、「この義務は青年が雇傭出稼等のため親と離れて住んでいても果さなくてはならないのであります。この場合には郷里を離れる前に必ず今まで居た市町村の役場(区役所)に通知すると共に青年の行った先の市町村役場(区役所)にも青年の氏名と居所等を届けることを忘れてはなりません」また「雇主も青年を入学させねばなりません」と書き、雇主は世の親心を持ち保護者にかわって青年の勉学を督励するよう御協力を願いたいというものであった。 一九三九(昭和十四)年四月になると「青年学校令」が改正され、青年学校の義務制が実施されるようになった。満十二歳以上、満十九歳までの青年男子に対して、その保護者は青年学校の課程を修了させる義務を負うものとした。 本県における青年学校の設置状況を見ると、特に川崎市では私立青年学校の割合が多くなっている。義務制が実施された一九三九年に設置された私立青年学校は十九校となり、青年学校の発足以来の数は二十六校にもなった。川崎市立青年学校数は一九三九年では二十七校であり、ほぼ半々の数となった。私立の青年学校は、尋常小学校を卒業して企業に勤務した青少年に補習教育を目的とし其の心身を鍛錬し、徳性を涵養するとともに職業及実際生活に須要な知識技能を授けるということで企業が設置をした。一九四〇年にはこれら企業内の青年学校に就学している生徒数は一万千五百二十四名にものぼり、職員数七百七十三名、学級数二百四十となっている。企業に働く労働者と生徒が一体となって、工都川崎の産業をささえていったことになる。 青年学校の義務制が実施されても、本県では一九三九年度においての義務就学者の普通科第一学年生徒の就学情況はかんばしくなく、学務部長は十一月に就学督励について強く、市町村長・青年校長に指示した。 一九三九年十一月十一、日本県の「青年学校令施行細則」は全面的に改正され、また、「青年学校学則準則」も改正された。この改正された学則準則によれば、教授及び訓練科目とその時数について科目の内容が明示され、特に男子の時数は義務課程時数と増加時数に区分されて、最低限の義務教育の時間が明確化された。 県では一九四〇年五月には青年学校の校数並に位置を定め告示した。それによると横浜市七十三校、川崎市二十二校、鎌倉市二校、三浦郡十校、鎌倉郡五校、高座郡二十四校、中郡二十二校、足柄上郡十二校、足柄下郡二十四校、愛甲郡十二校、津久井郡十六校であった。 一方、青少年の戦時教育は日中戦争の長期化にともないますます強化されていった。一九三九年五月二十二日、宮城前広場に全国千八百校に及ぶ中等学校の生徒代表三万五千人が参加し、学校教練教官配属実施十五周年を記念し、武装分列行進を行い天皇の親閲を受けた。そしてこの日「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が下賜された。「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」は国民精神の作興、国体明徴の理念の徹底等、次代の担い手である青少年に対し、文を修め武を練り質実剛健の気風を振励し、国家の将来に対する自覚を求めたのである。日中戦争、太平洋戦争を通じて「教育ニ関スル勅語」とともに、戦時下における軍国少年を作っていった。 二 中等学校進学の道と勤労作業への道 中等学校入試制度 本県の中等学校入試問題は受験準備のための正課時間外の教科指導、受験準備のための課題を与える、模擬試験の参加などによってその障害が指摘されてきていた。そのために中等学校の増設や学級増などで、入試競争の激化の緩和に努めることが県教育行政の重要な問題の一つとなっていた。一方では震災により市町村の疲弊、経済不況による市町村財政の危機などにより、市町村立あるいは組合立の中学校・高等女学校が昭和に入ると県立へ移管されていった。このように県立の中等学校が増加して行ったが、人口の増加等によって中等学校への入学が厳しいものとなっていった。 このことは県会でも取りあげられて、一九三五(昭和十)年十一月の通常県会では、教育行政に重点をおくべきとして、第二女学校の師範併設よりも独立校としてできないのか、実業学校の定員増により受験難の解消をおしすすめることができるのではないかなど、入学試験の緩和のことが取りあげられた。 同時に十一月二十七日には神奈川県立横浜第一中学校内に併置されている私立神中夜学校の県移管に関する意見書が建議された。このように、県立移管により施設、備品等の整備充実が行われたが、入試に関する準備教育は一向にとどまるところを知らなかった。 県では、一九三六年十二月二十六日、学務部長が準備教育の弊いまだあとをたたず小学校教育を阻害するものであるとして、選抜方法を改正する旨の通知を中等学校長、小学校長に通知した。それによると中等学校入学者選抜方法は、身体検査、人物考査、学科考査、小学校における学業成績の四つを併用して決定するとした。そして、さらにこまかく実施要項を決めたのである。しかし実際には監督官庁の県の視学が小学校に命じ受験準備の禁止を命令しても、その視学が、校長に転出すると率先して受験準備をさせるという状況であった。県当局もこれらの問題に関して、頭を痛めていた。準備教育が潜行的に行われる弊害について、その改善の方法は「鋭意研究中」のみというのが実情であった。 一九三八年十二月十六日付各小学校長へ出した学務部長の通知は「入学試験期日ノ切迫スルニ伴ヒ之等ノ禁制(教員の私宅教授の禁止等)ニ反シテ準備教育ヲナスモノアルヤニ仄聞スルハ甚ダ遺憾ノ次第ナルヲ以テ此際部下職員ヲ督シテ右厳重励行ヲ期セラレ度」というものであった。 一九三九年九月、文部省は入学者選抜問題の主な要因となっている中等学校の収容力の拡張、進学指導の徹底等による入学難の緩和につとめるほか、選抜方法を改めて小学校の教科に基づく筆記試問を廃止するよう指示した。神奈川県ではこれより先の七月に、県の先の通牒を改正し、小学校長の報告書、中等学校における人物考査・身体検査を重視するように決めていた。しかし文部省の指示により再び、同年十二月に「中等学校入学者選抜方法改正ニ関スル件」を通牒した。これにより「三者総合判定ニ依リ」入学者を決定することになった。小学校報告書は学校長、上席教諭、その他学校長の適当と認める教職員五人で委員会を作り、そこで志願者につき厳重に審査して決めることになった。人物考査は口問口答によることとした。 一九四一年六月には公立中等学校への入学の許可について、設立者の管轄区域内の志願者に限ることは「教育ガ国家ノ事業タル本質県立川崎中学校 『川崎市勢要覧』昭和5年版から ニ鑑ミ容易ニ詮議相成難キ儀ト思料セラルルニ付」やむを得ない場合には、あらかじめ県学務部と協議をした上で学則中に相当の規定を設けた場合に限って認めることにした。 中等学校の学区制 一九四二(昭和十七)年一月に、県は選抜方法を改正した。選抜方法は国民学校令の実施にともなうものであったが、国民学校長の報告、人物考査、身体検査の三者総合判定の原則は変わっていないが「地域的考慮」が加えられた点であった。即ち横浜市・川崎市を二区に区分して、その区内に家族とともに居住する児童で県立中学校を志願する者は当該区域内の県立中学校に志願するよう進学指導すること、関係県立中学校は選抜の際に区内居住の志願者を優先入学させるよう考慮することとしている。また、横浜市金沢方面は横須賀中学、戸塚方面は湘南中学、瀬谷方面は厚木中学、港北区北部方面は厚木中学、川崎市生田方面は厚木中学へ志願を認めるようにした。 そして、県立中学校、県立高等女学校の学区制は戦争の激化、交通事情の悪化にともない一九四三年一月に改正された。改正された学区制は第四・五表のようであった。 同年度の公私立男女中等学校の入学志願者は著しく増加し、第一回考査の七十二校は二万三千六百余人、第二回の考査は七千九百余人で、第一回は一万人、第二回は六千二百人余りの志願者超過となっていた。 集団勤労作業 一九三八(昭和十三)年六月、文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を文部次官名で、各地方長官あて通牒した。この運動は夏季休暇を利用して、中等学校生徒に集団勤労作業を行わせるものであった。校庭・農場・農園等の手入れ、神社・寺院等の境内の清掃、設備の修理、都市防空設備その他公共設備に関する作業、開墾その他の農作業、道路改修その他土木に関する簡易な作業等であった。教育訓練の一方法としてとりあげられたものであって、「勤労作業ノ体験ヲ通ジテ団体訓練ヲ積マシメ以テ心身ヲ鍛錬シ国民的性格ヲ錬成スル」ことが目的であった。さらに、翌年第四表 県立中学校学区表 第五表 県立高等女学校学区表 一九三九年三月には文部省は中等学校以上の学校に対して集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休みの時だけでなく、正課に準じてこれを随時行うよう指示した。 県では同年五月三十日に学務部長・経済部長名で「学校ノ生徒、児童ノ農業生産力拡充作業教育」として実施されるようになった。 これによると、作業の目標は出征軍人遺家族に対する労力奉仕と農業生産力拡充計画に対することが中心であった。労働力の不足の援助と農業生産であった。 女子中等学校生徒に対しては農業協力の他に、農繁期託児所保母の手伝、家庭における裁縫・家事の手伝等もさせるようにした。 小学校生徒も夏休みを利用して「草刈勤労作業教育」として実施されるようになった。刈りとられた草は馬糧乾草等として供出された。 これら農作業は郡市農会、市町村と連絡をとりながら所要人員を配当するということであって、必ずしも学校生徒の全員が強制的に作業に従事するところまではいっていなかった。しかし、県は六月三十日には学校長あてに、各地方に散在する空地を利用して、蕎麦、粟、稗、飼料用玉蜀黍、甘藷、菜豆、人参、小松菜などを栽培する応召商工業者勤労奉仕 『小田原市城内国民学校開校70年記念』誌から よう指示した。このことは生徒児童に何らかの集団勤労作業に参加させることであった。 さらに、夏休み前の七月には軍需用の馬糧乾草の生産に協力すること、夏期休暇を利用して小学校上級生に対して繭の増産に協力させることなどを指示し、積極的に農業生産に協力するよう体制を整備していった。 一九四〇年に入ると軍需及び必須民需に応えるため麻繊維の増産のために、野生苧麻の採集を指示した。小学校児童に対しては国内資源開発の為としてトチ、ナラ、クヌギ、アベマキ、ブナ、カシ等の殻斗科植物等の樹実の収集が指示され、タンテン、酒精、カラメル、ブタール等の製造原料に用いられた。 一九四一年二月になると、文部省と農林省では「青少年学徒食糧飼料増産運動実施」に関し各地方長官あてに通牒した。これにより本格的に食糧増産のために、学校は学徒を動員させなければならなくなり、学校も直営の農場を設定し、学徒を食糧増産に従事させ、授業を廃して自家農業に従事させるようにした。さらに一学年を通じて、三十日以内は授業を勤労作業に振替えても差し支えないというものであった。学童・生徒も、軍事体制の中に組み込まれていった。 馬糧乾草作業 『小田原市城内国民学校開校70年記念』誌から 第三章 太平洋戦争下の県民と県政 第一節 日中戦争と県民の動向 一 戦時体制への道 「準戦時」下の県会 一九三四(昭和九)年七月に成立した岡田啓介内閣は、官僚を中心とし、民政党を準与党とする「挙国一致」内閣で、現状維持の性格をもっていたから、軍部の不満をかっていた。しかし、一九三六年二月二十日、第十九回総選挙が行われたときには、「反ファッショ」を求める国民の声に支えられてか、社会大衆党が進出し、「ファッショ排撃」をスローガンにとり入れた民政党が優位にたった。 神奈川県でも、第一区は岡崎憲(社大新)・戸井嘉作(民政前)・飯田助夫(民政新)、第二区は小泉又次郎(民政前)・片山哲(社大元)・川口義久(政友前)・野田武夫(民政新)、第三区は岡崎久次郎(民政元)・平川松太郎(民政元)・胎中楠右衛門(政友元)・河野一郎(政友前)が当選したが、二区では政友会総裁・現職の鈴木喜三郎が落選する有様であった。 岡田内閣のねらった、早期解散・総選挙による政局安定は成功したかに見えたが、二月二十六日早朝に軍部がクーデターを起こした。世にいう二・二六事件である。この「反乱」は鎮圧され、三月九日には広田内閣が、親軍的官僚と政・民両党代表を加えた「挙国一致」内閣として成立した。地方官の大異動は政権の交代と共に行われたが、「準戦時」のかけ声は高く、軍部の政界進出によって、政党との対立は強まるばかりだった。 県政界では、それぞれの思惑もあって、県会議員定例選挙を田植前、天候のよい五月中旬に、という意見ももちあがったが、結局、六月十日、定例の県議選挙が行われた。 結果は民政二十一、政友十五(中立の下条亮・金井芳次、明倫の河野幾造が政友派と見られ、実数十八)、社会大衆党五、愛国政治同盟一、国民同盟二であり、小会派の動向によっては、民政・政友の両党はともに多数になりえない不安な政情となった。しかも、この間、三月二十四日にはメーデーが禁止され、五月二十八日には思想犯保護観察法が公布された。また、六月十五日に不穏文書臨時取締法が公布され、前途はきびしさをましていた。こうした動きのなかで七月十三日から十八日まで臨時県会が開かれた。 当時の知事は半井清で、この年の三月十三日に赴任してきた。半井は、「その時の私はちょうど満四十八歳になったばかり。地方長官としてもかなり経験を積み、最も脂ののった時期」と自負し、「今度こそ落ち着いて後に残る仕事をやろうと、張り切って」いた(半井清『わが人生』)。 半井新知事を迎えた県会では、選挙をめぐる警察官による人権じゅうりん問題が、超党派的に提起された。二月の総選挙において、一九三五年五月公布の選挙粛正委員会令が、はじめて全国的に実施された。「選挙粛正」運動には、内務省の指導で地方団体が動員されたが、これは、新官僚による政党に対する攻勢である。そして、選挙違反に名をかり警察による政党関係者への干渉がつづき、各地で不当逮捕・拘留・拷問などの人権じゅうりん事件が続発した。神奈川県では前後して疑獄や集団放火事件にまつわる拷問事件もあり、特に問題となった。 官公吏と業者との贈収賄を内容とする横浜疑獄事件では一九三四年三月以降に百八十四名が検挙され、一九三八年二月、十九名が有罪となった。農村の不景気を背景として保険金目あてに放火するという松田集団放火事件は一九三五年十一月から検挙がはじまり、被疑者百八十三名のうち有罪二名であり、松田と同様の性格をもつ城ケ島集団放火事件は一九三六年二月から百十六名を検挙したが有罪はわずか一名であった。この両放火事件は、いずれもその苛酷な取調べ方が県会でも問題になった。同年二月の総選挙では浦賀、寒川、伊勢原などで粛正選挙の名のもとに大検挙が行われ、検挙者の中から自殺者がでたことから拷問の事実が明らかになり、警察官の処分まで行われている(『神奈川県警察史』中巻)。 人権じゅうりん事件は、帝国議会でもとりあげられただけに、県議会でも追及がきびしく、七月臨時県会では「県政振興ニ関スル決議」として、「吏道振粛ノ徹底ヲ期スル」という遠まわしの表現であったが、十一月二十一日からの通常県会では、十二月十九日、「警察官人権蹂躙ニ関スル問題ハ実ニ聖代ノ一大不祥事ニシテ甚ダ遺憾トスル所ナリ、当局ハ厳ニ吏僚ヲ戒メ自粛自戒転禍為福ノ実ヲ挙ゲ将来斯ル不法行為ノ絶無ナラシムコトヲ望ム」という決議が、全会一致で可決されるに至った。 戦時体制整備と県民 一九三七(昭和十二)年一月、新装なった議事堂での第七十議会では、政友・民政両党がはげしく軍部・官僚の独善と政治干与を批判した。しかし、軍部の反発の前に、広田弘毅内閣は総辞職し、宇垣一成は組閣を断念し、林銑十郎内閣が政党代表を入れずに軍財抱合によって成立した。 林内閣は、親軍政党を一挙につくりだそうと議会を解散し、四月三十日に総選挙が行われた。しかし政府支持派は大敗し、社会大衆党は三十七名の当選者を出す躍進だった。反面、国民は政治への期待を失い、大阪五一㌫、東京三九㌫、横浜三四・五㌫など、もともと政治関心の低かった大都市は、さらに高い棄権率を示した。林内閣は、わずか三か月間という戦前第二の短命内閣の記録を残して五月三十一日総辞職し、六月四日、近衛文麿内閣が成立した。その一か月後の七月七日の夜、日中戦争がはじまり、八月十五日には「暴支膺懲」声明が出されて、全面的な戦争の開始となった。 すでに一九三六年六月の軍備拡張計画、国防の充実を求める拡張予算の編成などによって、一九三六年秋から軍需景気がひろがっていた。横浜中華街の一九三七年の新春は、E楼だけで、「三日初開き、トタンに流れ込んだ客が五百人、流れ出した酒が四斗樽二本、頭部を痛打されて即死の豚共が十頭、一日の、左様たった一日のですぞ、売上げが千円」「五日の新年宴会の予約が出前二百八十人、店四組百五十人」と、まさに「金の唸る街々」であった(『読売新聞』昭和十二年一月五日付)。 軍需インフレは物価高を招き、一九三七年一月の物価は前年同月比一三・六㌫高にもなり(『横浜貿易新報』同年一月二十日付)、マンホールの鉄蓋や、発動機船を倉庫に横づけして鉄材三百貫(千百二十五㌕)を盗む(『読売新聞』同年二月二十日、三月二十三日付)などの物資不足となっていた。軍需景気も、実は一部の軍需工業に限られていた。一九三六年通常県会(十二月十九日)では、「県下経済界ノ状勢ヲ見ルニ所謂軍需景気ノ恩典ハ一部大産業資本家ノミ之ニ浴シテ中小商工業経営者ノ病弊ハ愈々深刻化シ独リ経済問題ノミデハナク重大ナル社会問題トシテ朝野識者ノ憂慮スル処デアル」として、電灯料・電力料の値下げに関する建議が採択されるほど、中小業者は、インフレ、金融難にあえいでいた(『神奈川県会史』第六巻)。 一方、戦時体制づくりは、県民のすべてをまきこむかたちで急速にすすめられた。この「準戦時」から「戦時」への切換えの第一歩は、一九三七年九月の国民精神総動員計画であり、翌三八年五月五日施行の国家総動員法であった。国民精神総動員計画は貯蓄や国債の購入奨励、一戸一品献納運動などによって国民生活のすべてを戦時協力体制下に組み込み、とくに「国体明徴」という言葉に表現されるように「国民精神の統一」をはかることにあった。こうした「国民精神の統一」を背景に成立した国家総動員法は政府が議会の承認なしに物資、エネルギー資源、労働力などを動員・統制することをねらっていた。県民各層は否応なく戦時協力運動にまきこまれていくことになった。たとえば横浜市寿警察署では特高課が中心になり物資節約・資源愛護の実践をはじめ、一九三八年五月の国民精神総動員健康週間には管内二万戸、約十万の住民に対し一家族一円以上の廃品を集めることを目標に軍用機献納運動をくりひろげ、七月初旬には陸軍省に一機分を献金した(『神奈川県警察史』中巻)。こうした運動は全県に広まり、また、神社参拝や、学校教育の場で皇民化教育がおしすすめられるなど戦時体制づくりは進行していった。しかし、こうした戦時色が庶民の暮らしのすべてに覆いかぶさっていたわけではなかった。一九三七年九月十五日以降横浜で行われた防空演習も、防護団員ですら「部署を捨てゝ花柳界を素見する者やカフェー、バー等で飲食する者、甚だしきは通行の婦女子に戯れる者等早くもダレてしまい、非常時防空演習の意義を遊びの如く履き違へて居り、点呼の際人員不足の醜体」という有様であった(『横浜貿易新報』昭和十二年九月十九日付)。 年末になると、「門松やお飾りは非常時の折柄遠慮しませう」などという運動もはじまったが、「門松廃止なんて縁起でもねえ」と、師走二十七日からは正月飾りが街角で売り出され、横浜の伊勢佐木町では「お顧客様はちっとも変りゃしねえよ」と「向う鉢巻、大した勢ひ」の弋職連もあった(『毎日新聞』同年十二月二十八日付 )。 また、一九三六年八月、第十一回オリンピックがベルリンでひらかれ、「前畑ガンバレ」の実況放送は国民の血をわかし、ⅠOCは次回開催地は東京と決定していた。一九三七年九月三日には、横浜の伊勢佐木町の入口に、「東京オリムピック」(銀座)の支店が開店した。四階建の同店は一・二階は喫茶と食堂、三・四階はカフェーとダンス・ホールになるという状況もみられた。 戦争の本格化とともに県内のいたるところで見られたのが出征兵士を送る姿であった。一九三七年九月以降、各地に召集令がくだった。十二月の通常県会では、県下から出征している軍人は一万七、八千人にも及んでいるのに、時局に関する費用の総額は二十六万九千七百六十八円で、このうち遺家族援護費は十万五千円ほどであった。県会ではこれでよいのか、という追及もされた。 半井知事は「今日戦地ニ於テ働イテ居ラレル将士ノ労苦ヲ想ヒマスレバ、其ノ後援ハ厚ケレバ厚イ程良イト云フコトハ、之ハ勿論申迄モナイコトデアリマスガ、併シ乍ラ我国ノ兵役制度ノ趣旨カラ見マシテ、ドコ迄モ身ヲ以テ公ニ奉ズルト云フ立前ニナツテ居ル」のだから、職業補導・授産ということに重点をおきたいとつっぱね、一人当たり五円八十三銭から六円十八銭という日給三日分ほどの援護費でおしきっていった(『神奈川県会史』第六巻)。 こうした県会の議論は出征兵士の家族の状況が背景にあった。前年の一九三六(昭和十一)年十二月県会でも、「徴兵検査ノ合格歩合ガ社会ノ上流ニ至ツテ少ナク、中流下流ニ最モ多イ」、たとえば小田原町の従軍家庭二十五、六軒の「殆ド全部ガ下級」であり「地方ノ中小都市及ビ農山漁村ヨリ多数ノ肉弾ガ送リ出サレテ居ルノデゴザイマスガ、其ノ各方面ノ家庭ニ於ケル生活ノ状態ヲ見マスト、概シテ悲惨デアル」と、小西尚三郎議員(小田原町選出)から指摘されている(『神奈川県会史』第六巻)。 小田原駅前通りの出征兵士歓送風景 『目でみる小田原の歩み』から 軍都建設と周辺農村 この間、「軍需景気」で、都市の一部に好況がうかがえたのちも農村には「春」はこなかった。たとえば、一九三六(昭和十一)年七月に開催された臨時県会において、高座郡上溝村出身の小林与次右衛門議員は、「津久井郡ニ於ケル農家一戸当リノ一年間ノ農産額ハ、最モ少イノハ僅ニ一戸当リ七十九円ト云フ数字ニ相成ツテ居ル」、しかも、「疲弊困憊セルモノハ啻ニ津久井郡ノ山村ノミニアラズ、県北一体ノ農村ハ津久井ノ各町村ト余リ大差ノ無イ苦シミ方ヲシテ居ル」と実情を訴えていた(『神奈川県会史』第六巻)。一方、横浜市の「労働賃銀」は、一九三六年現在で「下男」が月給十五円、「下女」が十円、日給では仲仕の三円十銭から莫大小編女工の六十銭までであったが、最低でも農家の所得を上回ることは明らかである(資料編13近代・現代⑶一〇〇四ページ)。また小林議員は、農家の日常生活に必要な「焚物」とする「一本ノ薪ノ枯枝」から、県当局が奨励している「堆肥ノ原料ニスル草」まで、「有産階級ノ山持カラ落葉ヲ買ヒマスト云フト其ノ山林ノ落葉ノ代金ニ手間ヲ加算致シマスト云フト金肥ヲ買フノト少シモ計算上違ハナイ」と矛盾をついていた(『神奈川県会史』第六巻)。 この間、都市は、工業地域と住宅地域の確保と造成、そのための財源(納税者)の増大のためにも市域の拡張を急いだし、在地有力者も市域化の流れに身を投じていた。たとえば、一九三六年十月一日横浜市によって久良岐郡が、その後、三八年十月一日川崎市の拡張で橘樹郡が、翌三九年四月一日に都筑郡が横浜・川崎両市の拡張によってその名を消していった。 しかも、首都に隣接し、港湾と工業地帯をひかえた県下では、軍事的な面からも、新しい「都市」の形成が求められ、「準戦時」「戦時」のかけ声で、農民を土地から追い立てていった。 なかでも大きな話題を呼んだのは、高座郡座間・大野・麻溝・新磯の各村にまたがる五百七十町歩余(耕作地三百七十九町歩余、約三百七十六ヘクタール)が、陸軍士官学校用地として買収する内示がだされたことで、それは一九三六年六月二十七日のことであった。その対象となる関係耕作者は六百七十六人で、うち耕作地全部を奪われる者四十二人、五割以上の者は五百七十三人、計六百十五人はほとんど農業を継続できない有様となり、移転を必要とする者五十四戸、耕地獲得の見込みなく転業を迫られる者七十戸内外という一大事であった。 なかでも新磯村磯部部落は耕地の大半が買収予定地であり、離耕小作人が二百四十人に達する状況で、かねてから農民組合に結集していた村民は、七月十七日、四百人が集まって村民大会を開き、陸軍の説明を聞いた。軍は質問にたいし各個人に対する救済の方法は講じてないと答え、場内騒然となると、「諸君ハ陸軍ノ施設ニ反対シテ居ル様ニ見ヘル、当局ハ国防ノ見地ヨリ絶対必需ニ迫ラレテヤツテ居ルノテアル、徒ラニ土地買収ニ反対スルコトハ恥スヘキコトテアル」「絶対必要ト認メル以上国家ハ法律ヲ適用スルノテアルカラ其ノ暁ニハ諸君ハ却ツテ不利益ヲ蒙ラネハナラヌ」と威し、大会は喧騒のうちに散会した。 十月三十日には対策委員の総辞職、十一月二日には学童の盟休事件、十一月十日には村長・助役の辞任など、事態は混乱を極めたが、十二月一日、軍が作物補償料の名目で小作料橘樹郡日吉村の合併をめぐって県に陳情する川崎市合併派の人びと(1934年) 県立文化資料館蔵 二か年分に相当する「作離料」を支払うことで、ようやく解決した(資料編13近代・現代⑶二三二)。 陸軍用地買収問題で表面化したのは、県下農村が恐慌以来その困窮を抜けきっていないことだった。座間地域は純農村地帯で「近年打続ク不況ノ為相当疲弊シ居ルモ別段向上発展ノ方途ナキ」状態であり、地方有力者は士官学校招致が「地方発展」になるとして、「実現ヲ熱望」し、大地主は「小作料滞納等ノ事情モアリ寧ロ買収ニ積極的ニ応スル肚」であった。自作農もまた「買収後代地購入ノ見込ヲ有スル模様ニシテ之亦買収ニ応スルカ得策ナリ」とした。ただ、小作人のみが「即時生活ニ窮迫ヲ来ス」ことから、「将来ノ生活ヲ考慮保証」せよと要求していた(同前)。 こうしたなかで、戦争にともない物価が上昇すると、小作料の現物納入が地主から強要され、近郊農村では畑地まで小作料を米で取り立て、聞かねば土地取上げということから、小作争議となった例もある(一九三七年春の都筑郡新田村新羽、『横浜の空襲と戦災』6)。 食糧自給は戦時体制の根幹ではあったが、なお、地主を制御してまで耕作農民を保護する施策は国も自治体もなしえなかった。一九三七年十月二十三日、農林省令「自作農創設維持補助助成規則」が公布され、簡易保険及び預金部資瀬谷町宗川寺附近の桑・麦畑の広がる農村(1940年ごろ) 小林忠秋氏提供 金から道府県を通じて二十五か年の長期低利資金を融通、あるいは市町村又は知事の認めた団体が農地を一時管理したり、開墾をすすめる場合の資金とすることとした。神奈川県でも、一九三八年二月二十五日、県令第六号でそれが具体化されている(資料編16近代・現代⑹三六四・四四五・四四七)。 これらは、上層小作や自小作層を主体に、小規模の自作農を創設、農村の安定をはかろうとするものであった。しかしその反面には、貧農については、「満洲集団農業移民ヲ実施シ農村ニ於ケル土地ト人口ノ調整ヲ図リ以テ根本的ニ農村ノ更正ヲ図ルコト」(資料編12近代・現代⑵九)が要求された。 県下農村にかげをおとしたもう一つの要因は、出征兵士を送りだした農家などで労働力不足が深刻になりつつあることであった。一九三七年十月十五日、県は経済部長通牒「事変ニ伴フ農山漁村応急施設ニ関スル件」を発し、「事変ニ伴フ人馬ノ応召徴発ニ因ル農林漁家ノ農林漁業経営ノ支障ヲ除去」するため、「勤労奉仕班ノ編成並其ノ活動ニ要スル費用」として、一町村当たり五十円以内を助成することとした(資料編16近代・現代⑹三六〇)。 二 軍需工業地帯の形成 運河の建設と電力工業用水の確保 一九三六(昭和十一)年十二月の定例県会には、追加議案として、県営による十か年継続、総額二千百八十万円に及ぶ京浜工業地帯造成事業が提起され、可決された。もともと、一九三四年十二月、京浜運河株式会社が埋立免許を申請したものを、一九三六年十二月九日、「事業ノ公共性並ニ重要性等ヨリ考へ県ノ直営ニ於テ施行スルヲ至当トスル」という内務省の方針で、急ぎ予算が組まれたものであった。初年度予算百十四万六千六百円のうち、国庫補助金は十一万二千円、他は県債を財源とした。一九三五年度の県決算は歳出総計千三百二万九千百三十六円であったから、事業の巨大なことは想像もできなかった(『神奈川県会史』第六巻)。 県会では、一九三六年度予算の審議にさいして、県西部(足柄上・下郡)は四万六千三十五円、中部(高座、中、愛甲、津久井、平塚)三十二万三千九百円、三浦・横須賀方面は五万六千円に対し、東部(川崎、都筑、橘樹)にのみ七十三万円の新規事業費が組まれていることが批判されていた(同前)。これにたいして半井知事は、「東部ノ方面ニ比較的固ツテ居ルト云フコトハ、是ハ私モ認メテ居リマスガ、ソレハ色々ト特殊ナ事業ガアリマシテ」「是ガ東部ニ偏重スルヤウナ結果ニナツタノデアリマス、其ノ点ヲドウカ御諒解得タイト思ヒマス」と答弁していた。結果として、県会は、この予算を特別会計とすることとし、「一工場招致ヲ促進スル為メ工事ノ速成ヲ計ルコト、一 本工事ト併行シテ鶴見川改修実施ヲ計ルコト、一 事業ノ性質ニ鑑ミ奨来更ニ国庫ノ援助ヲ得ルコト」など八項目の附帯決議を行って、これを可決した(同前)。 京浜工業地帯造成事業計画は、鶴見・川崎臨港地帯から多摩川河口に至る川崎市の大師河原地先海面に京浜運河と埋立てを施行するものだった。工事は戦時下の資材・労働力不足のため、一九四一年末、やっと第一区水江町、第二区大師河原・夜光町の二万坪(六百六十一アール)を完成した。 また、工業地帯にとっては、工業用水と電力の確保が何よりも必要であった。一九三八年一月二十日、前年末の定例県会が閉会して四十日というのに、あわただしく臨時県会が召集された。議題は県営相模川河水統制事業一本であった。総額二千六百八十万円という県予算の二か年分に匹敵する大事業、用地・物件買収の対象町村は県下の与瀬町、吉野町、小原町、沢井村、小淵村、名倉村、日連村、内郷村の三町五か村、山梨県下の一町一村であり、日連村勝瀬部落全域の九十三戸をはじめ計百三十六戸が相模湖の湖底に没することとなり、流域十万の住民に甚大な影響があるといわれた。この間、かねて県営発電計画をもっていた県は、内務省を通じ許可方を求めていたが、臨時県会直前の一月十八日、逓信省から許可内意をえていたのである。 県会側の関係住民に対する補償や生活対策、工業用水の配分、また受益市町の分担金など、数かずの質疑がでたが、当局側は、たとえ「官僚独善」といわれようとも「事変下ノ今日最モ緊急ナ軍需的準備ノ一ツ」であるから、神奈川県としてどうしてもやりとげねばならない、とつっぱねた。こうして、一月十四日から十月十六日まで五団体もの反対陳情を無視し、県会での実質審議二日間で原案を可決させた。しかし、勝瀬部落のねばり強い補償要求などもあって、相模ダムの起工式はおくれて一九四〇年十一月二十五日となり、津久井発電所第一号機の運転開始は一九四四年一月のことであった(山田操『京浜都市問題史』)。 経済統制強化と横浜港 京浜工業地帯の造成といい、相模川河水統制事業といい、国家統制は日ましに強められていたが、県下の財界人は国家統制に対応する意識は弱かった。それは、「そのころによく日華事変の当時に使われたことばを取り上げて書いたことがあるんですが、『蒋介石さまさま』ということばがあったんです」と証言しているような好景気が背景にあった。 『朝日年鑑』一九四〇年版によれば、「特記すべきは事変に伴ふ軍需産業の殷賑が横浜市政一般に齎しつつある未曽有の活況ぶりである。即ち十二年末において七億台であった横浜市の工業生産総額は僅々一年間後の十三年度には実に十億(推算)を突破」という。事実、「昭和十二、三年ごろはネ、十一年ごろからの軍需景気で、ものすごく景気がよかった」という回想もある(『横浜の空襲と戦災』6)。横浜港貿易の全国比は高まり、北アメリカむけが東アジアむけ貿易にとってかわられつつあったとはいえ、生糸は輸出品の六三㌫にも達した(横浜商工会議所『横浜経済物語』)。「ハマ港が神戸、大阪を圧へて貿易額首位を占む、大震災以来の記録」(『朝日年鑑』)となったのは、このころであった。 念願の貿易額首位を回復した横浜港にとって、東京開港は最大の問題であった。「京浜工業地帯」の範囲、内容については論議もあるが、重化学工業を主体とする臨海部よりも、日用消費財中心の城東地区、耐久消費財の城南地区(川崎・鶴見を含む)が生産の中心であった。そして、これらの地域が必要とする原材料は海上輸送に頼ることとなるが、肝心の航路は、横浜港および京浜運河の不備から円滑とはいえなかった。横浜商工会議所が、大型船用の水深十二㍍のバースの建設、艀運河の開設を要望したのも、輸送網を握ることによって、貿易を主体としつつも、京浜工業地帯の繁栄と途を共にしたいと願ったからであった(資料編18近代・現代⑻七四・七五)。 しかし、東京市の月島に外国貿易用の港が開設されれば、京浜運河の開通は逆に横浜の死命を制することになる。一九三八年五月二十五日、横浜商工会議所は首相等にたいし、東京開港反対の陳情を行った。これは一九四〇年に、大々的な運動を展開する問題の出発点となったのであるが、その論拠は、横浜港の歴史的位置、同一地域に二港開港の不経済、外国船の出入による治安上・防疫上の不安、東京の利己主義など、をあげていた(資料編18近代・現代⑻七七)。 ばい煙と有毒ガス 臨海部は、製鉄を中心に重化学工業が集中していただけに、「公害」問題が早くからとりあげられている。日中戦争の展開に対処するため工場の拡張、増設、フル稼動、新設工場と開発製品などによって、公害除去対策が立ち遅れたまま操業が行われたから、公害に関する紛争が激増した。 一九三七(昭和十二)年暮の通常県会では、河野幾造議員(横浜市鶴見区選出)から、京浜工場地帯では「大工場ノ数多イ煙突ハ中空ニ聳ヘテ、黒煙ハ濛々トシテ、工場ヨリ発スル音響ノ騒ガシサハ洵ニ物凄イ状態」であるが、重工業、化学工場の新設により、「之等工場内ヨリ動トモスルト有毒瓦斯ヲ発生シ、或ハ有毒物ノ流出セラルヽモノ、或ハ工場ノ煙突ヨリ著シク煤煙ヲ放出スルモノ等ニ対シマシテ、附近ノ住民ノ保健衛生上洵ニ看過スルコトノ出来ナイ状態」がある、と実例をあげて指摘、対策取締りの徹底が要求された。当局の答弁は技手一名の増員と検査機械等の予算二千数百円を計上したので、通過後対策をたてたいというものであった(『神奈川県会史』第六巻)。こうしたなかで、一九三八年十月二十二日、横浜地方裁判所は、横浜市保土ケ谷区上岩間町の森永牛乳のばい煙事件にたいし、「一般社会政策の見地から言っても此の程度の煤煙は甘受しなければならない」という判決をくだした(『読売新聞』昭和十三年十月二十三日付)。また、新設工場五千といわれる鶴見区で、二十年来、生麦に居住して「洞窟の頼朝」「神武天皇熊野浦御難航之図」などの名作を描いていた日本画家前田青村が、鎌倉への移転にふみきったのは、一九三九年六月であり、当時の新聞はこれを「ハマの煤煙、巨匠を追ふ」と報じた(『朝日新聞』昭和十四年四月二十日付)。 三 「聖戦」と労働運動 労働災害の増大と労働争議 「準戦時」体制下に、京浜工業地帯の生産は飛躍的に増大した。それにともなって問題となってきたのが労働災害や労働争議の増大であった。県下の工場数・従業員数は金属工業、機械器具工業を先頭に増大している(第一表)が、ここに集められたのは、主として東北地方から離農してきた人びとである。それでもなお、軍需工業の人手不足は三万人にも達していた。 労働者の増加と労働強化は、労働災害を激増させた。一九二四(大正十三)年から一九三五(昭和十)年までの間に、労働災害は死者二百二十一人、重傷者五千七百七十二人、軽傷者二万八千七十五人であった(総同盟県連『産業戦士の旗』)。一九三六年には計五千九百七十三人の死傷者があったといわれるが、一九三七年一月から七月までの死傷者は前年同期をこえて、一九三六年には七六㌫に達していた(総同盟県連『進め銃後の戦士』、『神奈川県労働運動史(戦前編)』)。 県工場課調べの一九三八年度の数字は死亡重傷者千五百二十五人(一九三七年度八百八十四人)、軽傷者八千三百八十一人(同七千五百二十一人)となり「災害の悪性化を如実に示す」といわれた(『神奈川県労働運動史(戦前編)』)。 戦争はインフレと増税を呼んだ。横浜商工会議所調査「横浜日用品小売物価表」によると、白米三等一キロが、一九三〇年二十・三銭、三一年十四・五銭、三五年二十二・三銭、三六年二十三・六銭、三七年二十五・二銭、三八年二十六・七銭、三九年二十八銭と、三一年に比べれば倍増していた(資料編13近代・現代⑶一〇一八ページ)。 税制にも変化があった。一九三七年八月、「北支事件特別税」として、所得税の増徴などが行われたが、一九三八年三月には「支那事変特別税」として固定化され、さらに所得税の免税点引下げ、入場税の新設等が行われた。免税点が千円に引下げられたため、横浜・神奈川両税務署では約八千人も納税者が増加する(四四㌫増加)状況で、そのうち一九三八年三月十五日の申告締切りでは「菜ツ葉服」(「職工」)が激増したと伝えられた(『読売新聞』昭和十三年三月十七日付)。 こうしたなかで、インフレに対して、賃上げを中心とする労働争議は激増した。全国では二千百二十六件、参加人員二十一万三千六百二十二人と戦前最高となり、県下でも百八十九件、参加人員一万二百十九人の争議がおきていた(『神奈川県労働運動史第1表 工場数・従業員数増加率表 『統計神奈川県史』上巻から (戦前編)』)。これにさきだち、県では、一九三七年七月十六日、経済部長名で百名以上の県下工場の工場主、労務主任等五十名、さらに労働組合代表十名を召集し、「オ互ヒガコノ事変中出来ルダケ問題ヲ起サナイデ貰ヒタイ、『ストライキ』等ノヤウナコトハ戦局ヲ誤マラシメルヤウナ場合ガナイデハナイノデアルカラ、出来ルダケ国内相剋ヲ避ケル意味ニ於テ、自重シテ貰ヒタイ」という通達を行った。同日、総同盟県連は知事を議長とし、労働・企業・消費三者同数の委員による産業協力委員会を設置することで、「労資協力産業報公の実を挙げ国策遂行に支障なからしめんことを期す」と要望、罷業絶滅・愛国貯金・兵士慰問の三大銃後運動を秋から大々的に展開していった(『神奈川県会史』第六巻、『神奈川県労働運動史(戦前編)』)。 反ファシズムの動きと労働組合の解体 昭和初頭の京浜地帯は、日本労働組合評議会、日本労働組合全国協議会の運動の中心地帯の一つでもあり、三・一五事件や四・一六事件の被告などは、一九三七年前後に出獄している者もあった。一九三六(昭和十一)年四月、春日正一、山代吉宗は鶴見で共同生活をはじめ、鶴見共同購入会(生活協同組合)や『労働雑誌』鶴見支局(七月ごろ組織)によって、労働者との結びつきを強め、『労働雑誌』拡大運動では百部以上を拡大し、これは全国トップの成績であった。それも、十月二十八日の『労働雑誌』関係全国検挙と共に、春日・山代も検挙されて中断した。 同年七月七日、小林陽之助がコミンテルンから派遣されて帰国、鎌倉に住んで反ファッショ人民戦線の結成を目ざして、京浜間の連絡につとめていた。その小林も一九三七年十二月に京都で検挙された。 横浜港にはアメリカ航路の船舶を利用して、人民戦線戦術を紹介する文献が伝えられた。一九三七年六月一日には八種類のパンフレット(『朝日新聞』昭和十二年六月三日付)が、十一日には「反ファッショ、護憲の国民運動を起せ!林内閣の総辞職から軍部打倒へ!」のビラ(同前 六月十二日付)などが送られてきたことが報道された。また、七月はじめ鶴見署、九月に神奈川署・横浜港・平塚駅などで不穏なビラや落書きなど(『読売新聞』昭和十二年七月九日、九月十二日付)が発見された。月中戦争の拡大にともなって人民戦線の動きにも神経をとがらす当局は、十二月十五日、日本無産党および日本労働組合全国評議会の一斉検挙を行った。川崎・鶴見等の労働者である金井忠作、佐藤賢治、島袋正順、坂本基平、韓宇済ら十二名と、鎌倉の山川均、大森義太郎らが検挙された。いわば、人民戦線の合法的結成の芽はすべてつまれてしまった。 いわゆる「人民戦線事件」で、最も大きな打撃をうけたのは京浜電鉄現業員会であった。京浜現業員会は一九三七年春、京浜間のバス・電鉄をおそった争議の波のなかで、東交との連絡のもとに、四月二日、八百名を組織して結成された。しかし、日中戦争の進展と共に、「会社の中間幹部を中心に情実関係をたどって」反幹部運動がはじまり、十二月二十六日には半数の脱退が声明された。一九三八年一月十八日の拡大執行委員会は、「社内統一と和協一致の大乗的見地に基き」組織解散を決定、積立金三百円は陸・海軍国防献金、会社の応召者後援会に各百円を寄附することとなった。いわば、「聖戦」に労働組合ものみこまれたのであった(『神奈川県労働運動史(戦前編)』、資料編13近代・現代⑶二三三)。この京浜現業員会解体が他の労働組合に与えた影響は大きかったものとおもわれる。 一九三七年七月十六日、県特高課発表では、県下の千五百十八工場、従業員十二万六千三百九十四名のうち、労働組合のある工場は百三であり、その組合員数四万六千百九十三名(組織率三六・五㌫)。その内訳は、日本主義・国家主義系組合のあるのが二十一工場・二万八十五名、労働組合主義・社会民主主義系が五十六工場・四千七百二十五名、労資協調主義系十四工場・四千七十七名、労働委員制度十二工場・一万七千三百六名とされ、日本主義のうちには海軍労働組合連盟三工場、一万五千三百八十二名があったと報じている(『朝日新聞』昭和十二年七月十七日付)。また、『京浜工業時報』一九三八年六月号によれば、労働団体数百五十二、組合員数は八万二千七百三十五名で組織率は七五㌫に達していた。うち、社会民主主義系四万二千七百八十五名、日本主義・国家社会主義系二万六千九百六名、その他一万四千四十四名であったという(資料編13近代・現代⑶二三四)。 両者の数字には、余りにも大きな開きがありすぎるが、少なくとも神奈川県下の労働者組織が、企業はもとより、行政にとっても戦時体制をつくるうえで無視しえない組織状況であった。 こうした労働者組織を戦時体制下に組みこむ作業がはじめられたが、まず最も「危険」な存在と考えられた思想犯にたいする処遇が決定された。一九三六年五月二十八日、思想犯保護観察法が公布された。川崎市役所所蔵の『社会事業書類』(一九三七年)には、同法を適用する上での資料が残されている。一九三七年四月末現在、県下の治安維持法違反者は横浜百十一名、川崎二十二名など、県下では計百九十三名であった。原則的に保護観察に付すべき者は、執行猶予期間中の者、仮出獄期間中の者、満期出獄者(概ネ非転向者準転向者ナルノ実状)であり、個別的に、積極的に保護観察に付すべき者は、「生活ノ安定又ハ確保ヲ図リ、又ハ之ヲ充足スルコトニヨリ更ニ転向ヲ促進シ、或ハ又転向ヲ確保セシムルノ必要アルモノ」とされた(資料編13近代・現代⑶二二七)。 一九三七年十月二十五日、東京・大阪・広島と横浜の四市から六名の転向代表が「北支各戦線」慰問に送られたのをはじめ(『朝日新聞』昭和十二年十月二十四日付)、一九三八年四月二十九日、天長節を期して創立された思想犯保護団体湘風会が、県下の保護観察者を掌握する、という全国初の試みがなされた(『朝日新聞』昭和十二年四月二十一日付)。 湘風会では、保護観察所の事業として、対象者の内職あっせんや、思想教育などをすすめ、一九三九年二月はじめには、「大陸において〝赤禍〟の恐怖をといて、支那民衆をして防共の大使命遂行に参加させる」「宣撫工作」に送り出すことも行った(『毎日新聞』昭和十四年二月七日付)。 第二節 国家総動員と社会状勢 一 統制強化と農村 戦勝祝賀と消費生活 日本の国民には日中戦争の真相は伝えられていなかった。いたずらに戦線を拡大したという「要地占領」のニュースに国内はお祭り気分であった。 一九三八(昭和十三)年十月二十五日午後九時に大本営は「漢口の一角に突入」と特別発表をした。これをうけて県内各地で戦勝祝賀行事が行われた。 この年、十月二十七日付で藤沢町長から警察署長あてに「戦勝報告祭旗行列並提灯行列挙行」の届が出されている(資料編12近代・現代⑵三三)。漢口陥落の公報があったあとで横浜市の伊勢山公園忠魂碑前で戦勝報告祭が行われ、その後旗行列があった。この集会には藤沢町から町立小学校六年以上の児童と女学校生徒が参加した。報告祭に参加しない児童生徒も通学区域で旗行列をした。一般町民は午後六時半から辻堂・藤沢駅間の提灯行列、というプランである。武漢三鎮の陥落公報は二十七日午後六時半にあり、以後三十日まで連日連夜、祝賀会がつづいた。 これを横浜市子安小学校訓導川口金太郎の日記には、「十月二十八日(金)晴 漢口陥落奉祝旗行列挙行。後番は午後。夜晩酌して芳夫、美江をつれて伊勢佐木町へ提灯行列を見に行く。松元、矢吹二氏に会い、子供を日ノ出町より帰らせて松元氏とキンパイ及信濃(屋)にて飲み、十一時頃帰安(子安町在住)」と記録している。 しかし、中国での戦線が拡大するにつれ、陸軍は兵力不足になやみ、対ソ戦に備えて満州にとどめていた師団まで動員した。それにともなって国内での「出征歓送」風景は一層拍車がかけられた。こうしたなかで、新婚九か月で夫を召集された若妻が、出征兵士の身替りとなり無事に凱旋できるという浴衣をつくり、それを「十五日なので金比羅様で御祈祷して戴いた。そっと大きい箪笥の三番目、うちの人の着物の一番下へしまった。どうかぶじで凱旋し、この着物を着るようになってほしい」という願いは、ささやかな民衆の願いであった(『横浜の空襲と戦災』2)。一方、こうした戦争の拡大は、県民の生活にさまざまな統制をくわえていくことになった。戦費の調達、軍需生産の拡大のために、あらゆる形での財政の拡張、経済の統制が必要であった。一九三七年九月発動の軍需工業動員法や臨時資金調整法、輸出入品等臨時措置法の制定などは、横浜港と京浜工業地帯をかかえる神奈川県に直接、影響を与えるものであり、一九三八年三月、国家総動員法と電力国家管理法が成立したことは、戦時統制がいよいよ全面化したことを意味していた。 近衛首相は、総動員法は「今次事変には直接これを用いない」と言明したが、わずか三か月後の六月末には、総動員法の発動が決定され、八月以降労働者の雇入れ、解雇、賃金、労働時間などを統制する方向が明らかにされた。まず、庶民生活に「統制」の網がかけられたわけである。 しかも、「国策」の名の下に、精神総動員(思想統制)を展開することで、これらの事業の遂行がされていった。国民精神総動員運動は「物資の消費節約、廃品の回収、物資の活用、代用品使用の奨励、貯蓄の実行、物価騰貴の抑制に対する協力、生産の刷新」などが課題として並び、「現下経済戦ノ実情並ニ今後来ルベキ経済的諸問題ノ真相トヲ一般ニ認識セシメ挙国一致国家ノ目的ニ邁進スルノ決意ヲ固メシムル」ことがその趣旨であった(資料編12近代・現代⑵三七)。 さらに、一九三八年暮ともなると、「広東武漢攻略後ニ於ケル内外ノ諸情勢ニ対応シテ益々長期建設ノ体制ヲ整へ」るための「経済戦強調週間」が位置づけられ、実施要領も「生活ノ刷新、物資ノ節約、貯蓄ノ実行」の三点にしぼられた。これは、年末・年始をひかえて、消費の抑制、貯蓄の強調による民間資金の吸い上げをねらったものである(資料編12近代・現代⑵三八)。 庶民生活の実態 一九三八年の年末「県保安課ではさきにクリスマスに関連した各種の催しは時局柄、銃後の緊張を紊るものとし断乎これを禁止しているが、クリスマスを間近にした昨今ダンスパーテーの開催出願が各署に増加、当局ではその不謹慎を難詰して追かへしてゐる」と伝えられた(『読売新聞』昭和十三年十二月二十三日付)。また、一九三九年正月三が日の人出は、桜木町駅で十四万四千八百六人、横浜駅では開設以来の記録、二十六万五千八百十三人の乗降客があった(『横浜貿易新報』昭和十四年一月五日付)。一九三八年六月から、横浜駅前と伊勢佐木町のデパート間を往復する無料送迎バスは廃止されていたが、伊勢山皇大神宮、川崎大師、鎌倉八幡宮などの初詣や、正月の行楽には横浜駅で一たん下車して乗換える必要があったからである。 横浜歌舞伎座の文芸部員として芸能界に生活していた高野まさ志の日記は、特異な例ではあるが、一九三八年の暮から三九年の正月を次のように記載している。「十二月一日 T氏とともに、来亭、アイリス・イン、大衆ホール等で飲食して、誘われるともなく自動車にて楽天地万兼へ行く」「三日 妓楼にて眼を醒す事昨朝の如し。宿酔なり。茶色冬服、出来、着用す」「十八日 体の具合悪くて(宿酔)煙草喫いてもうまくなし。H氏に晩飯、名物屋で御馳走になる。閉場後、ナポリにてT氏貯蓄奨励絵ハガキ 津久井郡郷土資料館蔵 と逢う。A氏に逢い、三人で浜屋で酒を飲み、それより山田屋にて、ふぐでのみ、中村町の通りで、午前三時頃、密行にひっかかり、交番へ連れて行かれる」「一月十八日 午前十時、Kちゃんが起しに来て、伊勢佐木町へ出る。蛇之目でシチウを飲んで、サンパウロで珈琲をのみ、不二屋でパンを買い、劇場へ戻る。午後一時半頃より雪降り来る。夜に至るまで霏々たりしも、遂に雨となる。寒きため、終日出でずして〝続々曙お照〟のアシストをなす。室にヂャンヂャン炭をおこしてやった」(『横浜の空襲と戦災』2)。 当時、県警察部の調べでも、一九三八年中の映画、演劇、寄席の観客数は六百五万二千六百八十五人であり、前年より百五十四万九千二百九十七人も増加した。なかでも一館増えて二館となったニュース映画館には子供三十万人を含め、百二十三万千八百六十四人がつめかけた(『朝日新聞』昭和十四年一月十二日付)。もちろん、ニュース映画は、戦場の「真実」を伝えており、肉親や知己の誰彼の姿を垣間見ようという民衆の気持の反映でもある。同時に、押しつぶされようとする生活への不安をこめて民衆は娯楽を求めていた。 同じく県警察部のまとめた一九三八年中の風俗営業者の実態は、料理店、飲食店、カフェー、ダンスホールなどが、客・収入ともに減じ、芸妓屋と待合が増加、貸座敷と私娼は激増、さらに遊技場(五百二十七軒)も客二十万人、収入四十四万円の増加となっている(『横浜貿易新報』昭和十四年二月二十四日付)。 これを鶴見署管内で見ると、飲食店三百八、特殊飲食店百四十四、料理店四にたいし、利用客は十二月計二十一万五千二百九十三人、一月三十九万五千五十人、二月二十七万八千六百三十五人、総計八十八万八千九百七十八人となっている。総売上げは五十三万二千八百五十六円であったから、売上げを一人当たり平均でみると、六十銭弱にすぎない。だが、一店当たりの売上げ金額は特殊飲食店七百八十七円、飲食店千三百二円、料理店四千六百五十円となっていて(ただし、飲食店の十二月平均は百四十九円にしかすぎない)、料理店のみが大幅にうるおっていることがわかる(『横浜貿易新報』昭和十四年四月七日付)。もっとも収入が伸びた遊技場も実態はパチンコで一発一銭の「鉛玉を入れてパチンと廻せば、それが運よく八ツ九ツとなって『煙草』となるのだから、一度はパチンとハジイてみたくもなる」程度のものだった(『横浜貿易新報』昭和十四年八月四日付)。 政府は、一九三九年九月一日、生活刷新のために、享楽機関一斉休業という「興亜奉公日」を設けた。しかし、蒔田花街、日本橋花街、貸座敷引手茶屋組合の実績は「当日は勿論相当自粛の跡を示してゐるが、その前日と翌日は自粛の反動で平日のレベルを遥に越してゐる」状況であった(『毎日新聞』昭和十四年十月三日付)。二回、三回と重なると、「二業組合、飲食店は休業する関係で、これ等の関係者は自粛休業の裏面においてこの日を『享楽デー』となし、泉都箱根へ、湯河原へ、熱海へ―とアベックで逃避的遊覧を行ふので、温泉街は興亜奉公日毎に非常に賑ひ、交通業者は天手古舞の繁忙」とまで伝えられた(『毎日新聞』昭和十四年十二月二日付)。 労働力不足と食糧生産 一九三七(昭和十二)年十月二十五日、企画院が設置され、創設と同時に、物資の動員計画がねられた。まず十月から十二月の三か月分の計画が立てられ、翌三八年からは通年の計画となった。また、軍需優先の配給統制が強められるなかで、「ヤミ」は日常のこととなり、三八年八月三日、県警察部でも経済保安課を新設(中央の警保局は七月二十九日)、「経済諸法令ノ違反ニ対シ断乎取締ノ徹底ヲ期スル」こととなった。当初は、まだガソリン(石油)、綿製品、鉄、銅など非鉄金属といった直接軍需品、あるいは軍需品原料輸入のための見返り品が主たる内容であり、「検挙ハ重大又ハ悪質ナル犯罪ニ主力ヲ注ギ軽微ナル事案ニ就テハ、苛察ニ亘ラザル様篤ト留意スル」というゆとりもあった(『神奈川県警察史』中巻)。 こうした物資統制・動員計画のなかで、当局にとって不安な材料は、食糧確保・自給体制であった。とくに労働力不足と朝鮮米移入の減少という事態によって新たな対応をせまられていた。 当局の対策は、第一に食糧増産、第二に米の節約と代用食の普及であった。さしあたっては、庶民の食卓から白米がとりあげられた。一九三八年十一月二十二日、東京警視庁は三九年一月一日から、「精米取締規則」を施行し、無砂搗米を禁止した。この方針は、三九年十一月二十五日、勅令により「米穀搗精制限令」として公布され、十二月一日以降は日本全国どこでも七分搗以下の米となった(『索引政治経済大年表』)。この背景には、都市の米屋に手持米が不足して、廃業者や休業もやむをえないと同業組合が決議するほど、深刻な米不足があった(『横浜貿易新報』昭和十四年十月十四日付)。 食糧危機を解決するためには、農村の増産体制を確立することであったが、そのためにはなによりも、農村における労働力の不足を補給する必要があった。 また都市近郊農村の場合は、労働力不足と、それに起因する肥料不足がさらに深刻であった。一九三八年春の県職業課調査の自由労働者(約四万人)には、「東北六県の農業者が肥料代をかせぐため冬季の農閑期を利用して群をなしてドッと横浜市内に流れ込」むといわれていた(『朝日新聞』昭和十三年三月二十四日付)が、三九年ともなると「ハマ市農家は、若い働き盛りの人達は大部分農村経済より利得のある工業関係に転向して居り、増産は愚か現状維持に汲々たる状態」で、「輸入抑制に依る、硫酸加里及アンモニア、加里酸石灰等の配合不足は人糞に依って行はんとするも、ガソリン統制に依るトラックの運送力の減退は到底これが補充は行へず、又堆肥に依る場合労力不足で如何んともなし得ない実状」であった(『横浜貿易新報』昭和十四年五月二十四日付)。 都筑・鎌倉郡の農村部を合併したためとはいえ、横浜市では五月二十五日ごろから一、二週間、小学校の授業短縮を行い「田植・上簇・除草等に銃後の労力不足に活動」させることとした。対象校は十七、八校という(『横浜貿易新報』昭和十四年五月二十日付)。さらに六月から共設託児所が七月中旬まで旧港北区の荏田・元石川・川和・折本・南山田・烏山、戸塚区中和田などに開かれた(同前、六月二十一日付)。 農業生産確保の諸方策 茅ケ崎農会が、各区総代に「銃後生産力拡充運動」を呼びかけたのは、一九三九年十月十九日付通牒であるが、「緊急実施」の内容は、「勤労奉仕班ノ活動促進、冬作物ノ管理強調、自給肥料ノ増産強調、畜力利用班ノ編成、藁加工ノ増産、軍用兎毛皮ノ供出確保並ニ家兎ノ増殖、共同力ノ強化」などであった。「事変ノ農村ニ及ボセル影響ハ多方面ニ亘リ、且ツ甚大ニシテ動モスレバ農業ハ萎縮・退嬰ニ陥入ラントスル傾向」に危機感をもち、「統一的計画ノ下」に、「農家個々ノ勤労精神ノ発揚ト隣保共助ノ発露」とにより、「農家経済拡充ノ資」とすると共に「軍需品ノ円滑ナル供出ト国内需要ニ支障ナカラシ」めようとするものであった(『茅ケ崎市史』2資料編)。 これらの方針は、すでに一九三八年六月の市町村長会議指示注意事項において、半井知事が強調していたところでもあった(資料編12近代・現代⑵三三)。また、国からの助成もあって、勤労奉仕運動や共同利用機具・畜力利用機具の普及がはかられた。一九三九年における中郡農会の報告によれば、三七年度一万二千円、三八年度二万三千七百五十円の助成金により、町村段階で勤労奉仕部百九十九、部落段階で勤労奉仕班千四百二十二が設置されたという。助成金金額が班に交付されたとしても、一班あたりは十六円七十銭にすぎない。また、農事実行組第二表 中郡の共同利用機具・畜力利用農具の普及状況⑴・⑵ 第二表 ⑵ 合にたいしても、第二表⑴のように奨励金による共同化が推進された。 これを中郡下農事実行組合数千百三十との対比でみれば、第二表⑵のようになる。まず、奨励金の実額が、対象組合数の増加につれ低落するとともに、全体として単位実行組合の貧しさは、畜力導入を不可能に近いものとして、精神的な勤労奉仕の隣保共助によってこれを何とか補てんせざるをえない窮状であった(資料編12近代・現代⑵四一)。 また「養蚕、米等の増産の結果、単価の引下げが行はれた場合、増産しても収入に於て結局何も益することがない様な過去の実績から見て二の足を踏んでる向もある」(『横浜貿易新報』昭和十四年五月二十四日付)という指摘もなされていた。一方では、小作関係からくる問題があった。地主も小作人も利害関係が複雑で、農地の整理そのものが困難であり、機械化や共同耕作はかけ声のみであった。「食糧増産」が国家目的となり、一九三八年四月二日、農地調整法が公布(施行は八月一日)されたが、その結果、地主的土地所有が制限されるようになったとはいえ、生産者の立場を無視して国家権力が大幅に介入するものであった。 一九三八年六月の市町村長会議でも、知事の訓示は、農地調整法が「自作農創設維持」と直線的に結びつけられていた(資料編12近代・現代⑵三二)。神奈労働力不足を補なうための豊川村の女子馬耕練習会(1939年) 『神奈川県農協の30年』から 川県のように、重化学工業化が進んだところでは、「職工農家」の問題も無視できず、その上、耕作農家の現金収入がふえてきたなかで、余剰資金を生産に投資することが、再生産のポイントとなっていた。にもかかわらず、戦時体制は、農家の蓄積を許さなかった。一九三九年七月七日、県総務・経済部長の「通牒」は、「農林水産物売上代金中ヨリ一定割合ヲ申合セ天引貯金ヲ為スコト」「支那事変中之ガ払戻ヲ為サザルコトヲ申合スコト」を実行させ、「本県国民貯畜八億円目標ニ到達セシムル一助ト」することを求めていた。 県下の生産実績は、農村について見るならば必ずしも高くなかった。一九三八年の米作作付面積は二万六千二百町で、収穫は四十七万九千六百四十六石である。また、四〇年の作付面積は二万五千七百二十四町で、収穫は四十七万九百七石(『朝日年鑑』昭和十六年・十八年版)であり、「生産増強」のかけ声にもかかわらず、面積で停滞、生産でも一万石近くを減産していたことは明らかである。 二 工業地帯の拡大と労働者 労働者の増加と住宅問題 一九三九(昭和十四)年九月の第二回臨時県会は、「一躍国内有数ノ工業県ト成ッタ」ため、「人口膨脹ノ結果ニ因ル住宅ノ問題(工場従業員の県営住宅事業)、工業的施設ノ集中ニ基ク新シキ都市ノ形成問題(相模原都市建設区画整理事業)等県政上解決ヲ要スル」ために「緊急差置難キ事業ノ予算案ヲ付議」しようとして召集された(『神奈川県会史』第六巻)。工業化にともなう住宅問題は深刻であって、すでに、五月二十五日、横浜商工会議所は、議員総会の名において、横浜及びその附近に工場従業員住宅を建設することを、県知事・横浜市長あてに建議していた(資料編18近代・現代⑻七八)。県の人口は、一九三〇年を一〇〇として、三五年一一四、四〇年一三五と増加した。なかでも横浜市は一一三から一三七(とくに鶴見区は一四〇から二一三)、川崎市は一二九から二〇三と増えていた。実数でいうなら、一九三九年、横浜市は前年に比べて一万五千世帯、九万人が増加していた。また、全国空家調査によると、一九三六年の空家率は、横浜市六・九㌫(一万七百三戸)、川崎市二・三㌫(七百五十八戸)、横須賀市三・五㌫(千二百六十四戸)であったものが、三九年には横浜市一・六六㌫、川崎市〇・六五㌫、横須賀市〇・〇二㌫となり、「住宅払底と言ふ言葉は既にその頂点を絶して、全く混乱時代に陥入った」(『神奈川県社会事業』第一〇七号)。 京浜工業地帯の主力をなす大企業にとっても、住宅問題は緊急のことであった。一九三九年五月二日、川崎市では、市が八千株、東京電気六千株、東京電気無線、日本光学、三菱重工、富士通、東京ガス・電気、東京自動車工業各四千株、南武鉄道二千株など、計二百万円の資本で、川崎住宅株式会社が発足していた。会社の事業は工員用共同宿舎、分譲住宅の建設を目標とし、川崎市はそのために、交通、教育、公園、小売市場などの社会施設を負担することとなっていた。 いずれにせよ、住宅建設の隘路は経済統制であった。臨時県会での知事提案説明も、「住宅ニアリマシテハ資材或ハ資金ノ関係其ノ他ノ各種ノ事情ノ為新築、増築セラルヽモノガ極メテ少ナク」「結局ハ物資、資材ノ関係上中央ノ発動ヲ俟タナケレバ到底実現困難ナ問題デアリマス」(『神奈川県会史』第六巻)と本音をはいていた。県は、二月、工場労務者住宅対策協議会を開催、工業従業員住宅対策企画委員会の設置などをすすめてはきたが、さきの商工会議所建議に示された大企業の姿勢、戦時下に強まる物資統制には、もはや手のうちようもなかった。 政府もまた、一九三九年から「労働者住宅供給三カ年計画」にふみきった。臨時県会の提案も政府計画に基づき、六百四十八万円の予算で二千余戸の労働者住宅を横浜、川崎、横須賀、相模原に建設しようというものであった。だが、事業は同潤会に委託、附属環境施設の計画皆無という内容では、前途に不安を残すことは明らかだった(山田操『京浜都市問題史』)。 工業地帯の生態 こうした労働者増加の背景には京浜工業地帯の拡大があった。神奈川県『京浜工業地帯の実態』(昭和二十八年版)の百七十七工場調査結果によれば、第三期(一九二一~三四年)に三十三工場、第四期(一九三五~四一)に七十七工場、それも特に金属工業、機械器具、化学工業を主とする工場群が新設された。一九四〇(昭和十五)年になると食料品工業、紡織工業は激減して、金属・機械工業、化学工業の飛躍的発展が顕著になる。金属・機械工業両者で従業員数七一・五㌫、生産額六二・九㌫、それに化学工業を加えると三者で従業員七九・三㌫、生産額八一・九㌫ときわめて大きな比重をもっていた。また地域的集積状況でも横浜・川崎両市で工場数の五九・七㌫、従業者の八三・一㌫を記録している。さらにこの時期には神奈川県工業は直接的兵器生産部門で一三・六㌫と僅少ではあるが、軍需に転用可能な船舶、自動車、通信機器、金属精錬、材料、重電気機器などの生産財生産部門が圧倒的な割合を占めていた。こうして、京浜工業地帯は一九四〇年を境に、日用消費財生産を中核とする阪神工業地帯を、生産額においても、従業員数においても抜きさり、名実ともに戦争を遂行する日本最大の工業地帯の拠点になったのである(山田操『現代日本の地域社会』)。しかし、その優位も下請工場群あってこそのものであった。 京浜工業地帯は、昭和十年代に大きな変化を見せた。特に地域的にいうならば、東京城南地区、内陸地域への工場発展が著しい。 京浜工業地帯は、戦争と共に、成長をとげた(第三表)。しかも、東京各区の機械工業の増加をみると、一九三〇年から三七年の間に、蒲田、品川、芝、大森の地域、いわゆる新市域での増加第3表 京浜地域の対全国比変化 (生産額:百万円) 『京浜工業地帯』から が他の区に比べて著しい。しかも、これらの増加工場の三〇㌫近くは旧市域からの移動工場である。こうした城南地域の発展は、旧集中地域の工場敷地の狭隘化、市街地化の進行、生産規模の拡大などによって、本工場はもちろん、これにともなう中小下請工場群を引きつれての外延部への拡大によって作り出されたのである。また、川崎・横浜においても、山手地域、つまり内陸への工場進出が昭和十年以後、はっきりあらわれていた(第四表)。こうした内陸地域の形成のなかで注目すべきことは、城南、芝浦などこの地域形成以前の工業地から移動してきた工場が数多く存在していたことである(隅谷三喜男編『京浜工業地帯』)。 このころ、全国的には戦時統制の進行による中小零細企業の転廃業が大問題となった。けれども、京浜工業地帯では、進出してきた工場群に数倍する下請工場群を創生することが求められた。一九三八年十一月十二日、県経済部は、「支那事変ノ進展ニ伴ヒ物資ノ需給調整其ノ他ノ経済統制ノ強化ノ影響ニ依リ生ズベキ中小商工業者ノ休失業ノ防止及救済ニ付事業ヲ成ルベク現状ニ於テ維持スルコトヲ主眼」として、転換資金融通対策について通牒したが(資料編16近代・現代⑹四四八)、三九年十一月の通常県会の論戦では、転業よりも物資不足が論ぜられたのも現状の反映の一つであった。 国防献金 一九三八(昭和十三)年六月二十八日付『横浜貿易新報』は、横浜伊勢佐木署扱いの国防献金の状況を「熱し易く冷易き国民性のバロメーター」として報じた。その額は、三七年七月に三千二百七十六円五十四銭、八月には千八百三十六円三十六銭、九月に五百八十一円九十六銭、十一月にはわずかに八円三十五銭、三八年二月に七十一円六十二銭、三月に二円六十銭、四月に八円三銭というありさまであった。国防献金熱が急激に低下したのは、経済統制が強まり、物第4表 横浜・川崎における設立年次別工場数 『京浜工業地帯の実態』から 資不足とインフレが、国民生活を直撃していたからである。横浜商工会議所調べ「横浜日用品小売物価表」から、主要物資の小売価格の変動をみると第五表のようになっている。価格に変動のないものは、零細企業の製品である豆腐と、公共事業の電灯料のみで、価格の下がったのは足袋だけであるが、靴、靴下の高騰に見られるように、第5表 横浜・日用品小売物価表(単位円) 「横浜日用品小売物価表」から 生活の近代化の反映ともいえる。一般に一次産品よりも、二次産品、わけても綿製品、鉄製品の値上がりは特徴的である。しかも、県内には、経済統制のもとで、転失業に追いやられる多数の中小零細業者と従業者がいた。横浜商工会議所所蔵の「物資動員ニ因ル各府県失業状況(昭和十三年七月二十六日)」(資料編13近代・現代⑶二五二)によれば、軍物資の優先充足、輸出振興を目標とする、今日の物資動員強化により「原料難、内需向製造販売禁止ノ為俄カニ事業ヲ休、廃止スルノ已ムナキニ至ルモノ続出シ特ニ中小規模経営ノモノニ在リテハ忽チ脆弱性ヲ示シ軍需産業乃至代用品産業ヘノ転換余力モ無ク」失業、または失業寸前に追いこまれていた。県下では、輸出絹、人絹織物染色整理工場、メリヤス工業、輸出関係(マフラー、シャツ、ハンケチ等)、再生ゴム、鉄工業、綿製品製造・販売、製綿業など、計六万八千八百四十九名が失業におののいていた。 悪化する労働条件と産業報国会 就業労働者も、すでに一九三九(昭和十四)年四月から総動員法第六条に基づく「賃金統制令」の規制をうけていた。三九年十月からは、同年九月十八日の賃金水準に固定する賃金臨時措置令(九・一八禁令)も発動していた。「失業」の味噌小売の公定価格表 金子昭一郎氏所蔵 相模原市立図書館古文書室蔵 おそれのほか、「賃金ストップ」も国策として指示されていた。さらに、労働時間も、三九年三月五日から施行の「工場就業時間制限令」により、「十二時間以内」とされた。この間、一九三八年二月五日、総同盟県連は、大会に代わる事務会議を開催し、三月五日の横浜市議選対策と共に、「銃後三大運動」の強化を決定、五月、六月と京浜で時局問題講座を開き、七月七日に県連、各支部ごとに「戦時生活確立委員会」を結成して、運動を展開することとなり、九月十日、第一回委員会総会を開くまでになった。総同盟傘下各支部は、日の丸弁当や酒・タバコの節約で愛国貯金をすすめ、あるいは「毎月一日、十五日には社内のお稲荷様に参拝、戦勝を祈願する」支部まであらわれた。政府は労働者のすべての自主的な組織を「国策」の名のもとに解体させようとしていた。五月の全国警察部長会議、六月の特高課長会議、労働争議調停主任官会議などを経て、七月三十日、産業報国連盟が結成され、八月二十四日には、厚生・内務両次官名で、地方長官あてに産業報国会設置を強力にすすめることが指示された。県下では十月十三日、総同盟傘下の東京製鋼に産業報国委員会が組織され、十一月三日、富士紡川崎に報国会支部の結成などをはじめ、続々と産業報国会の組織化がすすめられ、一九三九年四月までには、百四十二産業報国会、十一万二千二百二十七名が組織された。 一九三九年一月四日、近衛内閣から平沼内閣にかわると、この政府危機を前に、社会大衆党は東方会との合同を計画するなど、軍部との連携を一歩進めていた。総同盟もまた、二月十一日の紀元節祝賀を全組織に指令し、七月には、総同盟(三六年一月成立の全総)は、旧総同盟系と旧全労系が、産業報国会参加推進をめぐって、反対の関東(総同盟)、推進の関西(全労)に、再び分裂するに至った。さらに、県下の合法左翼の伝統をひく横浜市電懇話会(八月十日)、横浜市バス親交会(九月二十八日)などが解散し、社会大衆党が三九年五月二十九日、労働国策を策定して、産業報国会を全面支持したこともてつだい、産業報国会は労働者組織の主流となっていった。 第三節 翼賛政治の状況 一 戦時下の政治統制 一九四〇年の県議選 日中戦争開始時の知事は、半井清であった。その後、知事は一九三八(昭和十三)年十二月には大村清一に、一九三九年九月には飯沼一省に、一九四〇年四月に松村光磨とかわった。半井知事の在任期間は二年九か月で、大村知事は九か月であり、飯沼知事は七か月、松村知事も一年九か月と、いずれも在任期間は半井知事を下まわる。 松村知事が就任して二か月後の一九四〇年六月十日に、県会議員総選挙が施行された。一九三八年三月の横浜市会議員選挙では、社会大衆党は田上松衛、麻生喜市、松尾常一の三新人と、森栄一、石河京市、平山伊三雄、門司亮の前議員をそろって当選させていた。それだけに、県議選の結果は注目されたが、四十七の定数中、石河京市(横浜)と、土井直作(川崎)が再選されたのみで、一九三六年六月選挙に、一、二位で五名も当選させた無産政党派の衰退がめだっていた。 このころ、すでに一九四〇年二月二日の衆議院本会議において、斉藤隆夫(民政党)議員が、日中戦争処理や東亜新秩序建設問題について、鋭く政府を追及したことが問題となった。そのため挙国一致・聖戦邁進に害ありとする陸軍、それに同調する政党などによって、三月七日、斉藤はついに衆議院から除名されるという事件がおこったのである。社会大衆党では党議でこの除名に賛成を決定したものの、党首安部磯雄はじめ九人の代議士が欠席し除名反対の態度をとったため、反対者らも党から除名されてしまった。県下選出の片山哲・岡崎憲両代議士も社会大衆党を除名され、勤労国民党の結成を計画したが、五月七日、結社禁止を命ぜられた。こうした動揺のなかでの県議選で、社会大衆党の石河、中立の土井が当選したとはいえ、石河二千百七十票(前回五千五百二十三票)、土井四千四百九十八票(前回四千九百七十二票)というみじめな得票に追いやられていた。 これは議会政治、地方自治が極端におびやかされているなかでの県議改選であったが、しかもこれらの当選議員は一九四三年六月、一九四四年三月、一九四五年三月、一九四六年八月・九月とあいつぐ戦時・戦後の特例法によって任期が延長され、実に一九四七年四月三十日まで、六年十か月も議員として在職するに至った。 部落会・町内会の創設 「日米戦えば」のスローガンが国民統合に利用された。しかし、直接、戦争の危機感をあおるものとして、「空襲」は好個の材料でありながら、「神州不敗」の原則といれられず、必ずしも表面にとりあげられたわけではなかった(海野十三「敵機大襲来」『キング』昭和十三年六月号所収は、「帝都上空には、敵機は一機も入れない」と主張する軍によって、仮想とはいえ、激怒をかった〔松浦総三「戦時下の報道統制」『日本の空襲』十〕)。 一九三九(昭和十四)年四月一日、警防団令が施行され、各市町村には警防団がつくられることとなった。しかし、市町村の対応はにぶく、川崎市では一九四一年一月の閣議決定をうけて、八月十六日、はじめて防空関係業務を従来の社会教育課から新設の防衛課に移して総括するありさまで、一九四〇年七月、神奈川県刊『家庭防空消防指導要領』によれば、「家庭防空群ハ原則トシテ他群ニ応援セザルコト」「家庭防空群長ハ警防団又ハ官設消防機関来着シ消防作業ヲ開始シタルトキハ直ニ消防作業ヲ之ニ委ネ其ノ要求ニ依リ之ニ援助スルコト」を規定、国民が自らの生命と財産を守るために団結し、連帯し、自主的に活動する機会をもつことを極度にさけていた(斉藤秀夫「空襲と民衆」『歴史評論』第二六八号)。 神奈川県警察部をはじめ、東京、京都、大阪、愛知、兵庫、広島、福岡の八府県警察部には、防空法施行にともない、一九三七年十月から防空課が新設された。一九三八年の暮から、警防団の設置が準備されたが、ここでも「防空業務の遂行機関として成立された防護団と各種災害にたいする警防機関として存在した消防組とは、その組織および命令系統を異にしていた。しかし構成員は、同一人が双方に加入している場合もあり、その不合理の点が指摘されていた」。しかし「古い伝統をもつ消防組と自衛防空の第一線に立って実績を示している防護団を改組統合し、新団体を結成することは、なかなかの難事」であった。けれども一九三九年一月の勅令、および内務省令により、四月一日までに県下百七十三警防団、七万六千九百十一名の組織化が終わり、横浜開港記念会館で県連合会結成式にまでこぎつけた。さらに、六月一日、防空課は警防課に改組され、この課が消防を含めて統轄することとなった(『神奈川県警察史』中巻)。 それでもなお、国民統合には不安があった。一九四〇年九月十一日付の内務省「部落会町内会等整備ニ関スル訓令」は、町内会・部落会・隣組を、総動員法に基づく国民の道徳的錬成と精神的団結、国策の透徹と円滑な運用、統制経済の運用の三点を目的に組織することを指示した。 神奈川県も、一九四〇年十月八日、訓令第三十四号をもって、川崎市登戸小学校でひらかれた国防婦人会の発会式 井出泰重氏蔵 「部落会町内会等整備規定」を発した。各市町村とも、この訓令に基づき「設置規定」や「施行細則」を制定したが、要は、会長・副会長は市町村長が選任し、規約の制定、変更は市町村長の承認が必要であり、全戸の加入と十戸内外を単位とする隣組の設置、常会の開催と回覧板による周知義務が強制された(資料編16近代・現代⑹二〇)。この段階での隣組・町内会は、なお緊迫感はなかった。横浜市鶴見区生麦方面では、組長選挙に主婦たちが戸別訪問して投票勧誘をしたり(『横浜貿易新報』昭和十五年十一月二十二日付)、県訓令をタテにとっての町内会分離運動などもあったりした(『朝日新聞』昭和十六年三月九日付)。 統制と増税 一九三九(昭和十四)年九月三日、第二次世界大戦がはじまると、直接的な物資統制が強まった。町内会および隣組の設置の目的が「国民経済生活ノ地域的統制単位トシテ統制経済ノ運用ト国民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ発揮セシムルコト」(『神奈県公報』第一四五一号、昭和十五年十月八日)におかれたのも、そのためであった。こうして、一九四〇年には、生活物資の各分野に割当配給制がひろがった。この年の二月地下足袋、五月学童布靴、六月マッチ・砂糖、八月豆炭・煉炭・学童服・作業衣、十月家庭用配給物資購入通帳 座間功氏所蔵 相模原市立図書館古文書室蔵 木炭、十一月乳製品とつづき、一九四一年になると、ほとんどの生活用品は登録・通帳・切符制のいずれかによらなければ手に入らなくなった。 一九三九年九月十八日の水準に物価と賃金とをくぎづけにする九・一八禁令も出されたが、公定価格制度では日用品は手に入らず、いわゆるヤミが横行するようになった。覚えきれないほどの統制法令も発令され、「経済警察」が目を光らせ、検挙をすすめた。 県警察部『事務引継演述書』にみられる「統制諸法令等違反検挙状況調」によれば(おそらく一九三九年中の数字と思われる)、暴利取締令違反一万六千五百八十二件一万四千一名、各種物価取締規則違反九千六百七十三件六千九百二十三名をはじめ、三万五百五十四件二万七千四百三十四名が検挙され、うち五百二件千三十四名が送致されている。「昭和十四年中ニ於ケル各署別統制諸法令違反事件送致一覧表」によれば二百六十六件五百十四名を送致した。また、「昭和十五年一月二月三月中ニ於ケル統制諸法令違反事件送致一覧表」によれば、百三十四件四百四十一名に達していた(資料編13近代・現⑶二三〇㈠~㈢、ただし資料ごとに、該当法令の精粗があるので、数値はそのまま比較できない)。その上に強制貯蓄と増税の完納が、町内会・部落会や隣組を通じて民衆をとらえていった。満州事変から九年、日中戦争から三年、国民生活は「紀元二千六百年」と共にいちだんと窮迫していった。 二 食糧統制の強化 節米と増産 日本の食糧事情は、戦時下にはいよいよ苦しいものとなった。消費都市では、「代用食」や「節米」が強調された。一九四〇(昭和十五)年四月には、「白米節食と外米多食の徹底」のため、県事変課が横浜市内の小学生千数百名の弁当を抜き討ち調査して「三十余名の白米弁当」を摘発した。「この調査を受けた学校父兄側は神聖な小学児童にまで摘発の手を延ばした県当局の態度に対し非難の叫びを挙げ」(『横浜貿易新報』昭和十五年四月二十四日付)、「節米」のため、デパートの食堂で寿司類、カレーライス、オムライスなどが売れ、「最近どの客も食べ残りを出さずキレイに平げなければ承知しない。これは料理の量が減ったばかりではなく、節米?の趣旨がかなり徹底したためだろう」(『読売新聞』昭和十五年五月三十日付)と報じられていた。そのために、たまりかねた県は、まず県庁食堂に「米なしデー」を実施し、七月十六日の䉤入には横浜市内の各デパート食堂、西洋・中国料理店に「米なしデー」の実施を求め、デパートの食堂では親子うどん、おさしみうどん、うなぎうどんやてんぷら、すいとん、すいとんランチなどが登場した(『朝日新聞』昭和十五年七月十七日付)。 しかし、状況は急速に悪化し、一九四一年四月一日から、ついに六大都市に米穀割当通帳制・外食券制が実施された。十一歳から六十歳までの男子一人に一日三百三十グラム(二合三勺)が割り当てられた。 もともと、神奈川県下の米穀生産高は、県内の需要には到底達しなかった。一九四一年六月十日から十四日にかけて開催された、大政翼賛会県支部第一回協力会議における県支部の指示事項の第一は、「戦時食糧増産並節米運動実施方策ニ関スル件」であった。支部参与でもある県振興課長の説明によれば、食糧農作物について県の目標を決定し、町村に割り当て、確保を期するために、第一に技術、第二に土地、第三に労力、第四に肥料の各方面にわたって対策がたてられた。 技術については、耕種の改善や施肥基準の設定、土地については空閑地荒蕪地の活用、開墾並びに耕地改良や桑園の整理があげられた。しかし、最大の難関は「労力の増強」であった。その中心は女子や学生生徒児童の農業動員の「三十日だけは学業を廃して其の労力を勤労の方面に振向けるというもの」であった。そのために共同託児所や共同炊事の奨励により、「自給自足の計画を徹底」した。肥料についても電力事情から金肥の増産は期待することができないので、木灰の収集、さらに「都市家庭婦人の職域奉公」による厨芥雑芥の収集による豚の飼育と堆肥の生産をめざすという方策などが県民すべてを対象にたてられた。 この「指示」は、節米についても、「米を有難く思ふ」こととともに、「其の実施の方法と致しましては代用食混食の励行或は間食の廃止、完全咀嚼の励行、雑炊粥食の励行、共同炊事栄養食の普及」を常会、学校、婦人団体の活動等で徹底させるというものであった。 減少する自作農民 一九四一(昭和十六)年三月六日、足柄下郡仙石原村で常会が開かれた。伝達事項七項目のうち、そのなかに二月一日公布の臨時農地等管理令、臨時農地価格統制令があり、協議懇談事項の一つに、「各部落ニ就テ開墾若シクハ空閑地ヲ利用シ馬鈴薯(種子用二千五百貫)ヲ増産スルコト」があがっていた(資料編12近代・現代⑵五五㈡)。この当時、食糧増産は至上命令であったから、政府の農民対策にも、耕作農民重視の姿勢があらわれていた。一九三八年の農地調整法で小作保護、自作農創設がうち出されたが、それは一九三九年十二月六日公布の小作料統制令、それにさきにあげた臨時農地価格統制令、臨時農地等管理令等々は、一九四〇年十月二十四日の米穀管理規則による供出制度、一九四一年産米からの米価二重価格制実施等によって裏付けられていった。けれども、広大な軍事基地と京浜工業地帯をかかえる神奈川県では、経営面積からいっても、一から第6表 県下耕地面積 単位町 『神奈川県農地改革史』から作成 第7表 県下農家戸数 ( )内は% 『神奈川県農地改革史』から作成 二町耕作の中堅農家の増加は見られるが、耕地面積、農家戸数とも減少する傾向にあり、なかでも専業農家の減少は著しかった。このために、開墾・休閑地利用が大々的に奨励されたにもかかわらず、耕地面積が減少した理由は、「戦時中の労力不足による耕作放棄、或は軍用地、工場敷地等による潰廃も大きい」「ことに昭和二十年における潰廃のうち、人為的変換は九百七十五町四反にて潰廃総面積の九八㌫を占めているが、その中で飛行場用地、運動場及び鍛・訓練場のみにて六百二十八町(六四㌫)を占めていることがわかる」(『神奈川県農地改革史』)といわれていた。こうした事情のもとで、県人口は、一九四〇年から四五年まで、二百万から二百五十万の間にあったから、必要とされる米穀は最低二百万石と考えられていた。強権による供出によっても、県内産米ではその十分の一をやっと補給できたにすぎなかったようである(『神奈川県産業構造の基本問題』一九五七年三月)。 「満州」移民 食糧増産を叫びながら、軍用地・工業用地のために農地が破壊されていくなかで、「満州」移民が奨励された。「満州」への移民は、満州事変直後から、関東軍が計画したもので、一九三六(昭和十一)年、広田内閣の時代に「満州」の推定人口五千万人の一割を日本人で占めようとする「百万戸移出計画」がつくられ、最終的には二十二万第8表 経営耕地広狭別農家数 ( )内は% 数字は原資料のとおり 『神奈川県農地改革史』から作成 第9表 米穀の生産量および供出量 『神奈川県産業構造の基本問題』から 名が移民した。しかし、日中戦争の開始で、青壮年の移民は困難となり、一九三八年一月以来、満蒙開拓青少年義勇軍十万の派遣がとりざたされた。こうしたなかで、一九三八年十一月二十二日開催の通常県会で、百万戸移出計画により、「本県ニモソレノ割当ガ参ツテ、義勇青年七、八拾名、農業移民百五、六拾人」を移民させることとなったが、「如何ニモ振ハナイ」という実情であった(『神奈川県会史』第六巻)。また、県経済部長として「農山漁村経済更正計画」の実施に力を注いでいた大津敏男が「満州」に赴任して、更正村に渡「満」を呼びかけたともいう(山本十九三『腰の手拭と二十年と』)。 一九四一年三月、県経済部策定の「農山漁村経済更正整備計画樹立要綱」には「満洲開拓民ノ送出計画」について、「町村内ニ於ケル資源ト包容戸数トヲ考慮シ満洲開拓民ノ送出ヲ適当トスルカ又ハ其可能性アル農村ニ於テハ分村計画又ハ二三男ニ対スル青少年移民ノ送出計画ヲ立テルコト」を方針とした(資料編12近代・現代⑵五〇)。 こうした方針のもとに、敗戦までに「満州」へ渡った県出身の農民は、神奈川県の単独送出開拓団として「小牡丹神奈川開拓団」をはじめとして六つが確認されており、人数にすると九百九十五名となっている。この他に他県出身者と共同してつくられた混成開拓団としておよそ四百三名ほどが加わっている。また神奈川県から「満州開拓青年義勇隊」に加わった人数は四百十名とされている(数字は外務省引揚課神奈川県庁文書から集計)。これらの人びとは、県内各市町村から参加しており、青根・青野原村のようにまとまって開拓団に加わった例もある。たとえば津久井郡青根村からは、一九四一年の先遣隊派遣から一九四四年の第五次本隊派遣まで牡丹江省穆稜県下城子村仁里屯に、三十六戸百五十六名を送り、青根分村を建設した。村としての形もできないうちに敗戦を迎えた同分村は、生存者五十三、消息不明十五、死亡八十八(死亡率五六㌫)という、痛ましい犠牲者を出した(津久井高校社会部『青根「満州」開拓団』)。 また、青野原開拓団は数次にわたり四十一戸、百五十三人が渡「満」した。このうち五十五名が死亡し、その大多数が栄養失調であったといわれる(津久井高校社会部『青野原「満州」開拓団』)。このころ、厚木に拓務訓練所が設けられ、横浜市の日本婦人海外協会花嫁学校が東京都経済局の大陸開拓移民花嫁学校にかわっていった(中里農協『中里郷土史』)。 三 軍都の建設と拡張 軍都建設事業 一九四〇(昭和十五)年一月十六日、阿部内閣にかわって米内内閣が成立した。四月九日、地方長官の異動にあたって、内務省計画局長の松村光磨が神奈川県知事に赴任してきた。松村は都市防空強化のために新設(一九三七年十月一日)された計画局の初代局長で、防空緑地の設置、警防団の設立、上水道の広域化などの立案にあたっていた。松村は知事赴任直前の三月、東京市政調査会の『都市問題』(三〇巻三号)に、論文「地方計画とその法制」を発表している。 これは、ドイツ、アメリカ、イギリスにおける地方計画、国土計画の概要を紹介したうえで、「特に『総合計画』は地方計画及国土計画を特徴づける本質である」と規定し、国民体位の低下、出生率の減少の危険性、防空条件の低下、各種産業の合理的発展の阻害等のもとで「大都市の弊害は無統制にして乱雑な集塊的集中」を示し、都市の行政区画に局限する統制策が不十分であるから、「一定の統制あり適切なる計画」のもとに「大都市及附近関係地域を包含する、実態的地域に付て企画」する必要性を主張していた。 その松村は「四十七歳とは見えぬ若さでイガ栗頭の国策型」で「明朗軽快」な知事という新聞評をうけていた。松村は県内をはじめて巡視するにあたり、相模川河水統制事業と相模原新軍都建設状況をまず視察した。 松村の神奈川県知事任命は、いわば「軍事拠点」の大改造のための布石でもあったといえよう。おりから、県政には、つぎつぎと重大な案件がつづいていた。三月の税制改革実施、六月の県会議員選挙、八月、臨時県会における相模川河水統制事業の第二段階発足、翌一九四一年四月に終止符をうった東京港開港問題等々がそれである。そのほか、一年九か月の在任中に、川崎工業団地の造成と鶴見川改修、相模原軍都建設、相模川河水統制事業など、いわゆる県下三大事業と呼ばれた建設事業、あるいは、横浜港の改修や、川崎市生田、横浜市鶴見区三ツ池周辺、同保土ケ谷区桜ケ丘周辺の緑地計画、相模原・横浜間の道路建設などの大土木事業がとりくまれた。この結果、県財政は第十表にみるように爆発的に増加し、県民負担は増大していった(『松村光磨先生業績録』)。 一九四一年四月二十九日、高座郡座間町ほかの合併で、相模原町が誕生した。座間町はすでに一九三七年十二月から独立して町制をしいていたので、当初は合併に賛成でなかったし、大和村なども村内が二分し、村長・助役・収入役・村議が辞職する騒ぎまでひきおこし、ついに合併に加わらなかった。面積百八・七一平方㌖、人口四万五千四百八十二人、町としては日本最大の相模原町は、いわば陸軍の必要からつくられたものであった。そして、一九三六年六月にはすでに陸軍士官学校の用地買収がはじまり、一九三七年九月には第一期工事の大部分が完了し生徒が移ってきた。一九三八年三月に落成し、当初五百名ほどの生徒は、戦局の進展とともに、千名をこすようになった。 一九三八年三月一日、臨時東京第三陸軍病院も開所した。収容患者六千名、職員二千二、三百名という大規模なものである。つづいて八月十三日には陸軍造兵廠相模兵器製造所の開所式(一九四〇年六月一日、相模陸軍造兵廠に昇格)が挙行され、一万第10表 歳入歳出決算額指数 『神奈川県会史』第6巻から 名余の従業員が戦車の組立てや砲弾の弾体製作にあたっていた。そして、十月一日には、陸軍工科学校(一九四〇年八月一日、陸軍兵器学校と改称)も移転し、翌一九三九年一月には、電信第一連隊、五月には通信学校が移ってきた。また、一九四〇年三月、原町田陸軍病院(のちの相模原陸軍病院)も開院、相模原は軍都として面目を一新、下請工場なども移転してくるものがふえ、横浜線相模原駅が新設されるほどであった。 県は一九三九年度に入って、相模原地域の軍都建設事業実施にふみきる方針を固めた。六月二十六日、大村清一知事の招請で「相模原開発計画ニ関スル協議会」が県庁第一会議室で開かれた。県、地元、軍代表ら四十二名が参加したが、相模兵器製造所長渡辺中佐は「急を要するこの大事業は、個人の利益をかれこれ論議していては達成できない」「いかなる犠牲を払っても軍と共に行動し、利害を超越してご奉公の一端をつくしていただきたい。無理をおしきるところにご奉公の意味があるのではないか」と発言した。 相模原都市建設区画整理事業案は、この年の九月八日の臨時県会に県営工業従業員住宅事業案と共に提出された。五百三十五万三千坪(千七百六十九万六千平方㍍)の事業区域を、一九四五年までの七か年継続、総計五百七十五万円の費用で区画整理しようという大事業であった。この事業が軍の要望から出発しているということで、県会の反発もあり、十一月二十二日召集の通常県会では、川崎市選出の陶山篤太郎議員が「原則的ニ本員ハ大賛成」ではあるが、大師地区の区画整理事業の遅れとくらべ、「軍都偏在デアル、本県下全体ノ実情ニ対シテ不適切デアル」「此ノ熱意ハ病的ト謂ハザルヲ得ナイ」とまできめつけた一場面もあった。 また、陶山は、県当局の態度に一貫したものがない原因は、「県ノ主脳部がチョイチョイ更ッテシマフコトニアルノカモ知レナイ」と、この四年間に知事は三代、部長級も二代、三代の変更を見たと指摘した。すでに、九月、知事は大村から飯沼に代わっており、十一月三日の相模原建設計画が内閣の認可を得て、内務大臣の施行命令が神奈川県にたいし公示された(一九四〇年二月二十六日)直後に、松村光磨が知事となってきた。この事業は、一九四〇年十二月二十三日に起工式が盛大に行われたが、一年後に太平洋戦争の開始となり、事業は大幅に遅れた。しかし、幹線・補助線街路の土木工事は完了、家屋の移転、換地処分等も進んだ。また上水道工事も三月から着工、一九四五年三月やっと完工した。 こうして、県費を大規模に投入した軍都建設事業の進行につれ、相模原町発足の気運は「県並ニ軍当局ノ斡旋」により急速に高められた(『相模原市史』第四巻)。 軍事色を増す港 相模原軍都建設に象徴的なように、県下の面目は一新しつつあった。一九三九(昭和十四)年十一月三日に鎌倉市、一九四〇年十月一日に藤沢市、同年十二月二十日には小田原市が誕生するなど、市部の拡張がつづいている。 戦争を背景とする状況の変化は余りにも急速であり、その典型的な事例の一つが、東京開港問題であった。この間、一九三八年十二月六日、県会は満場一致、東京開港反対の建議書を採択した。反対の理由は、「京浜運河ノ完成ハ東京港ヲ必要トセズ、港湾統制ノ国策上不可ナリ、二重投資ニシテ国家的不経済ナリ、帝都ノ防犯及防疫上不可ナリ、横浜港ヲ中心トスル経済機構ヲ危殆ナラシム」というものであった。当時の知事は半井清である(『神奈川県会史』第六巻)。以後、一九三九年第一回臨時県会・通常県会でも反対の声をあげ、同一歩調をとることを知事に迫っていった。しかし、東京開港は明治後期以来の懸案であり、関東大震災後はその必要がとくに叫ばれていた。戦時体制の上からも東京の港湾機能の強化が求められており、一九四〇年十一月十八日、内務省の土木会議では、東京開港の前提である「東京港修築に関する件」が可決された。十二月八日、開港記念会館で東京開港反対市民大会が開かれ、「東京開港ハ横浜百万市民ヲ餓死セシムルノ暴挙ナリ、然ルニ政府ハ之ヲ無視シ東京開港ヲ断行セムトス、我等百万市民ハ生活権擁護ノ為蹶然死力ヲ尽シ断乎之ガ撃滅ヲ期ス」という決議がなされ、東京開港反対市民同盟が結成された(横浜商工会議所『横浜経済物語』)。翌九日、横浜商工会議所は政府、大政翼賛会あてに開港中止を陳情した。「帝都の関門」であること、「東京を離れて横浜港独自の存在」なく、もし、東京が開港すれば「横浜に於ける大規模なる海陸の設備は漸次利用を減じ能率を低下し港勢之に伴ふて衰微し市民窮迫の境地に追込まる」というのである(資料編18近代・現代⑻八五)。 けれども、十二月県会での松村知事の議員質問に対する答弁は、土木会議出席後のことでもあり、「軍其ノ他ノ関係デ、東京港ノ改善ヲ図ラナケレバナラヌ」「政府ノ経営セラルル国ノ港デアリマス、其ノ施設ハ政府ニ於テ実行セラレルノデアリマス、又港湾政策貿易政策等モ其ノ根本的ナモノハ政府ニ於テ決定セラレルノデアリマス」と、すでに承認の方向に動いていた(『神奈川県会史』第六巻)。 一九四一年二月、半井清元知事が横浜市長に迎えられると、有吉横浜商工会議所会頭(第二十二代知事)、松村知事とともに、反対運動の方向転換がはかられ、震災後の米貨債の返済を大蔵省に肩代わりさせることを条件に、東京開港を認め、五月八日、市民同盟も解散した。 四 産業報国会組織の底辺 特別高等警察と産報 県下初の産業報国会が浦賀船渠に結成された一九三八(昭和十三)年十月十二日以降、川崎・鶴見の工業地帯を中心に、産業報国会の結成が、県警察部の後援ですすんでいた。一九四〇年二月十六日、県警労政課は、各警察署の工場係を労政係と改称、特別高等警察係と協力して、工場従業員の思想調査、産報運動に力を入れることなどを通達している。さらに、三月四日には特高・労政両課が、県下各警察署の特高・労政主任を集めて、産業報国会結成にたいする指導方針を指示し、四月三日には、横浜に県下産業報国会の代表四千名を集めて、産業報国祭を開催、市中をデモ行進させるなど、気勢をあげさせた。この背景には、県下の労働争議が一九三七年以降も全国的に見て一、二を争う高水準を保っていたことがある。県警察部『事務引継演述書』(資料編13近代・現代⑶二三六)は、県下の労働争議は「社会情勢ノ変化ニ依リ多少ノ消長」はあっても、「減少ノ傾向ヲ持続」していたが、「事変ノ進展ニ伴ヒ物資調整及通貨ノ膨張並ニ昭和十四年施行サレタル賃金臨時措置令、及賃金統制令ニ依リ労務第11表 労働争議年別表 1) 『日本労働運動史料』第10巻から作成 2) 末尾○内の数字は全国順位 3) ( )数字は資料編13近代・現代⑶236から 者ノ収入ニ相当大ナル影響アリテ怠業、罷業等ノ積極的闘争手段ニヨルモノ相当増加スルガ如キ状況」になったとしている。労働争議がいっこうに減少しないのと同時に、産業報国会の組織化はすすまなかった。一九四〇年八月九日、産業報国会県連幹事会は、活動不振打開策を協議し、青年部の組織化や購買組合活動の強化などを話しあった。しかし、労働者にたいする戦時統制をいそぐために、特高の圧力をより強める方向をうちだした。九月十日、県特高課は産報未組織の従業員三十名以上の工場に産業報国会結成をきめ、一方、工場主たちの自主組織であった県工場協会には自発的解散と産業報国会への統合を求めた(解散式は十二月三日に実施)。 こうして県下の産業報国会は、一九三八年の会数十六、一九三九年の会数百七十一、会員数十三万二千八百六十三名、一九四〇年の会数千五百七、会員数二十五万九千六百五十八名へと、おそるべきテンポでひろがっていった(『日本労働運動史料』第一〇巻)。産業報国会が特高がらみでいきわたると、職場の空気も暗くなった。一九四〇年十二月中旬、横須賀海軍工廠内の便所に、「安月給で働く工員の顔が見たいよ、皆工廠をやめろ」「俺達は囚人だ、工廠は格子なき牢獄」という落書が発見されている。 日米開戦時の『産報神奈川』(昭和16年12月16日付) 比嘉盛広氏蔵 節米の強要 一九四〇(昭和十五)年八月から九月にかけて、思想保護団体湘風会が行った『食糧状態実情調査報告』(一九四一年三月、横浜空襲・戦災誌編集委員会『調査概報』第三集に復刻)は、労働条件の低下について、次のように報告している。 同会調査部は、「節米強行前と、節米最も甚だしかった八月を経て九月に入っての実情」を、産報県連、県労政・特高両課の「好意的支援」を得て、百五十会社・企業と一万五千名の労働者を対象にして調査を行った。回答は四十五会社、二十七工場二千二十九名であったが、「節米」調査のため、男子の世帯主に集中し、女子工員の「調査数が非常に少ない」という結果となっている。 しかし、回答者の年齢別構成、稼働日数別人員構成、実働時間別人員構成などからみて、もっとも平均的(基幹的)な労働者の実態が反映しているともいえよう。男子工員で二十五歳以上の者は八二・七㌫、労働日数では二十五日から二十八日までの者七三・二㌫、実働時間では二百時間から二百五十時間の者一二・一㌫、二百五十時間から三百時間の者三七・八㌫、三百五十時間以下三八・九㌫となっていて、「一日平均十時間以下の者が非常に多い」とされている。 節米の状況は、八月までの八万四千百三十七・七キロ(一か月全家族人員合わせて六千五百九十四名)から、九月の六万七千六百七十六・六キロと、約二〇㌫の節米が行われ、その回数は一か月十一回から十五回の者二八・四㌫、十六回から二十回一三・〇㌫、二十一回以上二五・二㌫となっていて、代用食は主としてうどん、パン、小麦粉製品等であった。 代用食を使用したことが、健康および作業状況にどのように影響したかというと、胃腸障害をひき起こしている者七〇・八㌫、体重が低下した者六八・二㌫、一般健康状態の悪化した者五五・三㌫となっていて、作業能率についていえば、普通六六・三㌫に対し、低下二七・二㌫という自覚があった。にもかかわらず、工場側の諸対策は十分でなかった。回答のあった軽工業十九工場、重工業二十四工場について見ると、軽工業では「会社の責任に於て労働者の食糧確保に努力している所を調べて見ると極めて少ない。十九工場の内購買組合をもって居る工場は二工場、購買組合なくとも会社の購買部又は労務係にて米の配給をやって居る工場は四工場である。他の工場は米についての考慮は直接行はれて居ない」、重工業二十四工場でも、「米の配給をやって居る工場が十二、配給について考へて居ない工場が十二」であった。 労働者は、「代用食を夕食に喫するもの千三百八十五名、昼食として喫する者二百四名、朝食として喫する者三十名と云ふ状態であった。短時間で燃消する代用食は、作業中空腹を覚えることが早く、作業にさしつかへる為に、大方は寝る前の夕食に代用食を採る者が多いのである。又妻又は子供に代用食を食はして働く主人が作業に堪へ得る主食を摂ると云ふ例は労働者の報告の中に各処に見られる」のであり、「節米、即ち栄養節約と云ふ方向に好むと好まざるにかかわらず転じて居たのが実情」と報告はまとめていた。 この『報告』は「厳秘」と朱印が付され門外不出となっていた。 労働組合・在日朝鮮人への抑圧 労働者の生活状態が悪化するなかで、自然発生的な反発の動きもひろがった。しかし、特高体制はその芽すらつみとり、産業報国会へ、官制団体へと統合をはかっていた。 一九四一(昭和十六)年七月の県参事会にむけて、特高課長から特高増強の件が警察部長あてに具申された(資料編13近代・現代⑶二二九)。増員のための誇張もあるではあろうが、県下の工場数は一九三二年を一〇〇として、一九三八年には一九九、労働者数も三三九と全国有数の増加ぶりであり、しかも「近時ノ労働態勢ハ産業報国運動ノ展開ニ依リ職域奉公ヘノ実践ヲ積極的ニ指導シツツアリト雖モ頽廃的風潮今尚払拭シ得ズ、為ニ労働紛争議ハ漸増ノ傾向ニアリ本年六月末現在ニ於テ十六件ノ紛争議ヲ見ルニ至リ、殊ニ内八件ハ罷業、怠業ヲ伴ヒ所謂職場抛棄ノ争議形態ヲ採リ極メテ悪質化セルモノ」であった。 また、「共産主義分子ハ徹底セル潜行的乃至ハ合法場面利用ノ蠢動活動ヲ展開スルニ至リ去ル七月一日ヲ期シテ約二十名ノ第一次検挙ヲ断行シ今後引続キ本年中ニ於テ第二次第三次ノ検挙追及ヲ見ントスル状勢」であるとした。 さらに、在日朝鮮人にたいしては「軍需産業部面ノ労働需要ノ激増ニ伴ヒ飛躍的ニ増加シ今ヤ約三万人ヲ算スルニ至リ此間各種社会情勢ハソノ熾烈ナル民族意識ヲ刺戟スル処アリテ漸次純粋ナル民族主義運動ノ抬頭セントスル気運醸成サレツツ」ある。こういった状況であるから、特高課係員のうち、県費支弁約二百名に、さらに九十五名を増員してほしいという要望がでていた。 こうした抑圧体制強化のなかで、総同盟神奈川県連は、一九四〇年七月十一日、解散を「自発的」に決定させられていた。また、社会大衆党も七月二日、県連拡大執行委員会において、八日、本部と共に解散を決定していた。総同盟県連と一体の旧社民系による勤労国民党準備会は、すでに五月七日、結社禁止命令をうけていた。 一九四一年七月一日の「共産主義分子」検挙も、実は『奔流』『創生』などの文学サークルにたいする検挙であり、十一月検挙の『浪漫』グループといい、良心の灯を残そうとした文学サークルへの集中的検挙であったといえよう。 在日朝鮮人の取締りはさらに強化された。神奈川県内鮮協会は一九二六(大正十五)年九月二十九日創立され、労働者「保護」などの活動を行っていたが、その後、新たな全国的在日朝鮮人対策と同一歩調をとり名称を神奈川協和会とあらためた。一九三九年八月現在、十五支部、十九分会、会員四千名であった。その設立は全分会が一九三七年で、日中戦争開始後であり、分会長は特高主任で、その統制下にすべての在日朝鮮人を組みこんだ組織であった。 この協和会は、在日朝鮮人に日本人化=皇民化を強要することも治安対策とともに重要な課題としていた。朝鮮人に国防献金や神社参拝、勤労奉仕、徴用まで要求し実施したのである。さらに、朝鮮人に朝鮮語の使用禁止や朝鮮人に日本人名を名乗らせることまですべてこの協和会の組織を通じて実行していった。また、労働力不足をおぎなうため朝鮮から強制的に連行され、集団的に働かされていた朝鮮人の多かった川崎・鶴見・磯子、津久井郡中野の「枢要地区ノ協和会支部」は一九四三年度から専任指導員まで配置され、「国策遂行ニ協力」させられた(資料編13近代・現代⑶二四二・二四三)。 神奈川県内に強制連行された朝鮮人は、横須賀海軍建築部、金沢海軍工事、陸軍建築部などの軍関係工事で働かされていた人びとが多かったのが特徴であるが、日本鋼管をはじめとする大工場、相模川河水統制事業現場などでも数千の人びとが働いていた。 第四節 戦時下の教育行政・財政 一 小学校から国民学校へ 国民学校の成立と天皇の神格化 一九三七(昭和十二)年十二月、満州事変後における内外諸情勢の変化に基づいて、教育の制度・内容の全般に関する方策を審議する目的で、教育審議会が設置された。教育審議会は内閣総理大臣の監督に属し、その諮問に応じ教育の刷新振興に関する重要事項を調査審議し、あるいはこれらの事項に関して内閣総理大臣に建議する機関であった。この後に行われた教育の著しい改革はほとんどこの審議会の答申に基づいて行われたのであった。一九四一年三月一日、教育審議会の「国民学校、師範学校及幼稚園ニ関スル件答申」に基づいて小学校令の改正として国民学校令が、同月十四日には国民学校令施行規則が公布され、いずれも四月一日から実施されることになった。そして義務教育の就学期間八年制への適用は一九四四年度から実施することとなった。 国民学校の目的は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」というもので、「皇国ノ道」とは教育勅語に示された「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」をさし、教育の全般にわたって「皇国ノ道」を修錬させるということをめざしたのである。国民学校の課程を初等科六年、高等科二年とし、従来の小学校の教科が、根本的に再編成された。すなわち、初等科においては国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(体操・武道)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・裁縫〔女子〕、家事〔高女〕)になり、高等科にはさらに実業科(農業・工業・商業・水産)が加わった。そしてすべての教科は皇国民の錬成に帰されたのであった。四月一日から長く親しまれていた「小学校」が「国民学校」の名に改められた。そして、国民学校の教科書も「文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルベシ」と規定され、すべての教科に国定教科書を使用することが原則とされた。教科書の内容も戦時色の強いものが多く盛り込まれ、国家主義的・軍国主義的色彩が濃厚なものとなっていった。六学級以上の学校には教頭を新たにおき、行事・儀式が非常に重んじられ、施行規則の中に「紀元節、天長節及ビ一月一日ニ於テハ職員及児童学校ニ参集シテ左ノ式ヲ行フベシ」とし、「一 職員及児童『君ガ代』ヲ合唱ス 二 職員及児童ハ天皇陛下 皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ 三 学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス 四 学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス 五 職員及児童ハ其ノ祝日ニ相当スル唱歌ヲ合唱ス」と規定されている。当時、御真影および勅語は奉安殿に安置されて、儀式をする時は、先導校旗、御真影(校長が捧持)、勅語(教頭が捧持)、随員という順に並び、全校職員・児童が最敬礼する中を入退場した。天皇は全く神格化され、児童教職員は毎日の朝礼や、登校・下校の際はかならず奉安殿に向かって最敬礼をし、日本国民としての忠誠を誓った。 横須賀市池上小学校の奉安殿(1938年) 県史編集室蔵 国民学校の発足とともに、少年団の結成がすすめられ、国民学校単位の下に組織された。四月二十六日に神奈川県の学務部長は「少年団結成ニ関スル件」を通牒し、その内容を示した。それによると少年の教養訓練とともに高度国防国家体制建設のために即応できるようにということで、国民学校児童にまでも組織的に戦時体制、国防体制の中に組み入れていった。 市町村義務教育費の国庫負担 教育審議会は一九三八(昭和十三)年十二月、将来、教員給与は全額国庫負担が適当であると答申した。窮乏する市町村財政に禍されて、教員の待遇の向上に困難をきたすものであった。そこで町村支弁を改めて、国庫支弁または府県支弁となすなど方法を研究することが肝要であり、また義務教育の本旨に顧みて経費は国において負担すべき面もあるが、市町村住民の福祉に関する所もあるので、ある程度市町村において負担することも適当であるとの内容の答申であった。これまで市町村小学校教員の給与は国から尋常小学校費臨時国庫補助法により一部補助が出されていたが、なお市町村間の財政力により不均衡が発生し、教員の人事交流が阻害されるなどのことがあった。一九四〇年二月に「市町村義務教育費国庫負担法改正法律案」と、それにともなう税制の改正として「地方税制改革案」が帝国議会に上程された。負担法の改正内容は教員費は教育費とみなし、その負担は市町村から道府県に移管する、道府県の支出した給与の半額は国庫負担とする、というものであり、それにともない「地方税制改革案」は地租・家屋税・営業税を道府県へ還付する、地方財源調整のため、地方配付税を新設する、そのかわり、所得税付加税と戸第12表 県財政に占める教育費の割合 単位千円 『神奈川県会史』第6巻から作成 数割を全廃するというものであった。 これに対して、東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋の六大都市は反対した。その理由は、六大都市の小学校教育の発達は六大都市の出資と責任において成したということと、教員給与の負担者が府県に移ることは、それにともない教員の任命権も移ることになり、財源が国から付与されることは国家的統制の増大にほかならず、地方分権が阻害されることを容認できないということであった(『横浜市教育史』上巻)。しかし、一九四〇年三月衆議院を通過し、「義務教育費国庫負担法」が公布された。この結果、県財政も著しく増加し、また教育費の額も増した。一九三五(昭和十)年度から一九四五(昭和二十)年度までの県財政と教育費の占める割合を示すと第十二表のようになる。 この表のように、負担金額が増加した結果、一九四〇年度から教育費の占める割合が高くなってきた。そこで神奈川県では一九四〇年七月九日「神奈川県義務教育費国庫負担法施行規程細則」を定め、横浜市各区長、市町村立小学校長は教員の俸給精算額を調査し知事に報告するようにした。 ミッション・スクールへの弾圧 国際都市横浜ということで、横浜は英語のできる小学校児童たちを集めて、英会話、唱歌、英語劇などをする催しなどをして外国語、外国人を受け入れるに容易な風土を持っていたが、一九三七(昭和十二)年に文部省は外国と経済関係のある学校は、早い時期にその関係を絶たなければならないという通牒を出した。横浜にはミッション・スクールが多かった。戦争が激しくなるとさまざまな制限がミッション・スクールの外国語の授業にまで加えられた。 そして、キリスト教系の学校は学校長会議を開き対策を協議していった。 フェリス和英女学校は一九三八年七月に財団法人フェリス和英女学校設立認可申請をし、一九三九年五月五日申請が認可された。反米機運が盛り上がりキリスト教系学校関係者の申合せが行われた。すなわち法人の理事長、学校長、学部長、科長は日本人があたるということになった。一九四〇年六月に理事長のホキエ博士が辞任し、日本人の石橋近三にかわった。 共立女学校も財団法人となり、一九三六年にはミ ス・ルーミス校長はその職を辞し、日本人の笹尾条太郎が校長に就任した。そして、一九三八年にはミッションから経済的に独立した。 横浜英和女学校の校長もミス・ハジス校長から大竹清校長にかわり、校名も一九三九年三月には成美学園と改称した。 関東学院は一九三六年ごろまでは教練ものんびりやっていたが、「軍部は最初学校の建学精神を尊重し、温和な態度であったが、しかし月日がたつに従ってだんだん干渉が露骨になってきた」といわれている(坂田祐『思寵の生涯』)。そして、「本校はキリスト教精神を以って教育する」の項を削除するように指示してきた。宣教師も特高警察から圧迫を受けてフィリピンへ転任させられるということも起きた。 一九四一年三月になるとフェリス和英女学校のアメリカ人宣教師の教員は次つぎと帰国させられていった。そして、校名も三月三十一日、横浜山手女学院と改称されていった。 1934年ごろの横浜全市各小学校選抜英語研究会(於本町小学校) 県立文化資料館蔵 これらキリスト教系学校においても国民精神作興詔書奉読会や宮城遥拝式、紀元節の儀式、御真影奉戴、国旗掲揚も実行に移されていった。そして、ミッション・スクールのキリスト教精神を以ってする教育の追放と、外国人教師への本国強制帰宅を促していった。一九四二年七月に入ると県では高等女学校の外国語を随意科目とする通達を、一九四三年八月六日には中等学校制度の改正にともなう中等学校の課程取扱いでは、外国語の取扱いの項をもうけ、中学校・高等女学校ではすでに第三学年以上では選択科目になっていたのを規定の範囲内において増減もでき、適切なる考慮をするようにとして、実質的に外国語科目の廃止を示した。実業学校では外国語は教科とせず、実業科目内の一科目として課すというように、消極的課目になっていった。 英語の追放はさらにすすんで、七月二十三日には、市立横浜商業学校・同商業専門学校の帽章「Y」の文字は敵性文字ということで、商業学校は黒地に「横商」と金色モールに、商業専門学校は黒地に「商専」の文字を使用するというようになっていった。 1941年3月14日に帰国させられたミス・オルトマンとミス・ザンダー 『フェリス女学院100年史』から 二 中等学校制度の変更 中等教育の総合制 一九四三(昭和十八)年度から「中等学校令」による中等学校制度が実施された。これは一九三八年九月の、教育審議会の中等教育に関する答申に基づいたものであった。従来、中学校は「中学校令」により、高等女学校は「高等女学校令」により、実業学校は「実業学校令」により別々に取り扱われていたが、これらをあわせて、中等学校という名称により制度的に統一したものであった。しかし、中学校・実業学校・高等女学校の名称は存続した。 一九四三年一月二十一日公布された「中等学校令」によると、「中等学校ハ皇国ノ道ニ則リテ高等普通教育又ハ実業教育ヲ施シ国民ノ錬成ヲ為ス」と規定され、中等学校は中学校、高等女学校、実業学校の三種とした。修業年限は国民学校初等科修了程度を入学資格とする場合は四年、高等科修了程度を入学資格とする場合は二年か三年、夜間中等学校は国民学校高等科修了程度を入学資格として修業年限は三年または四年とした。 従前は中学校の修業年限は五年であり、高等女学校および実業学校も修業年限は五年を基本としていた。教育審議会の答申でも五年であったが、四年とした理由は、学徒の実務に従事する時期を早め、国力の増強を図ろうとする国家的要請のためというところから、戦争の激化の中で措置されたものであった。三月には「中学校規程」「高等学校規程」「実業学校規程」が制定された。 これらの規程は学校種別の基本的事項を決めたものであった。そしてこの結果、中学校においては中学校間の転校、第三学年以下においての実業学校との間の転校を認めた。 高等女学校においても第三学年以下においての実業学校との間の転校を認めた。さらに実科高等女学校の名称は廃止された。 教科内容は国民学校で採用した統合的な教科組織を基礎とした。すなわち中学校では国民科、理数科、体錬科、芸能科、実業科、外国語科とし、高等女学校では家政科を加えた。実業学校では男子に対しては中学校と、女子に対しては高等女学校と同じ教科を課することになった。 本県においては、一九四三年六月に「神奈川県立中学校学則」の改正を行い、県立中学校は十校とし、生徒定員も年限短縮にともない一学年分の生徒が減少した。県立横浜第一中学校、県立横須賀中学校にそれぞれ定員三百人の夜間に授業を行う課程が設けられた。県立高等女学校については、従前の各高等女学校ごとの学則を廃止して、「神奈川県立高等女学校学則」を制定した。県立高等女学校は八校、生徒定員も四年制への短縮にともない減少した。 県立実業学校についても「神奈川県立実業学校学則」を制定した。県立実業学校は九校となった。 学徒動員 学校生徒に対して集団勤労作業という形で団体訓練を施し、心身を鍛錬するとともに国民精神を涵養するという趣旨のもとで、農作業や神社・寺院の清掃などが行われていた。一九四一(昭和十六)年後半になると国家総動員法第五条により国民を総動員して業務に協力させるようにした。すなわち、十二月一日国民勤労報国協力令が施行され、十四歳以上五十歳未満の男子、十四歳以上二十五歳未満の未婚女子は国民勤労報国隊による協力を強制されることになった。学徒もこの勅令の適用を受けたが、学校長への出動命令は文部大臣と厚生大臣との共同で行われるという点において教育的配慮がされた。十二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。緒戦においては日本に有利に展開していた戦局も、翌年にはガダルカナル島の基地争奪戦に敗北し、侵攻を停止、後退を余儀なくされる状態になっていた。このころ、従来行われていた勤労奉仕をさらに総合的に調整し、本県においても、農村への動員が行われた。一九四二年六月には十五日から五日間、六校二千二百余名の中等学校生徒が麦刈りの援兵として勤労奉仕した。横浜市内の中等学校生徒は市内近郊に援農に出動した。湘南中学校では寒川、茅ケ崎、小出の農村へくり出していった。すでにこの年の四月には横浜・川崎・横須賀の三市を目標に小型爆弾、焼夷弾の投下があった。一九四三年二月、政府はガダルカナル転進を公表、五月にはアッツ島守備隊の全滅、航空機生産の劣勢が明らかとなった。そのため総動員計画が見直され、航空機生産に総力が集中された。このような状況の中で、年間労務需要数は増大され、軍務動員の増加とあいまって、労働力の不足となっていた。そして労務供給源として、学徒が急激に注目を浴びた。 一九四三年六月、政府は閣議で「学徒戦時体制確立要綱」を決定した。これによって、一方では将来の軍務に備えて中等学校第三学年以上の男子には戦技訓練を徹底すること、女子にあっては戦時救護の訓練をすることであった。この年五月二十四日の神奈川新聞には「二市四郡の農村に学徒援兵の総進軍」と見出しをつけ「決戦下の増産確保に、平塚・藤沢・中・高座・愛甲・津久井二市四郡の学徒部隊がいっせいにペンを鍬に代えて学園から水田に出動して、戦時下農村の労力不足を克服して、夏の農繁期に援兵として活動することになった」とあり、第一回六月六日から、第二回六月十四日から、第三回六月二十一日から、第四回七月十二日から、期間はいずれも五日間とある。 農村への勤労奉仕 県立平塚江南高等学校『創立五十年史』から このような動員は幾度かくりかえされていった。出動先の農家に分宿して、早朝から夕闇せまるまで、稲刈り・麦刈り、芋掘り、除草、ところによっては暗渠排水などの作業を行った。同年十月には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定した。これによって、勤労動員におおむね年間三分の一をあてることとした。またこの戦時非常措置方策によって、国民学校制度の発足に際し決定していた義務教育八年制の実施は延期されることとなり、また青年学校の教育は職場の実情に即して生産の増強と戦力の増進に重点をおくものとなった。このことについて、県は一九四三年十一月十九日「国民学校並ニ青年学校ニ対スル非常措置ニ関スル件」と「青年学校ニ於ケル教授訓練ノ臨時措置ニ関スル件」を通牒した。後者において、青年学校に対しては「軍事基礎教育ノ強化ト勤労動員ノ積極的且徹底的実施」を要請した。軍需物資生産関係の工場、事業場に設置する青年学校では、勤労動員を教授、訓練時数と見なす措置をとった。 又一九四三(昭和十八)年の十二月に多数学徒は戦場へ出陣した。 翌一九四四年一月、政府は閣議において「緊急国民勤労動員方策要綱」を決定した。一九四四年度の国民動員計画上の労務需要にはどうしても学徒の動員を必要としていた。そして、同時に「緊急学徒勤労動員方策要綱」をも閣議決定し、学徒動員を「勤労即教育ノ本旨ニ徹シ」強化していった。「動員期間ハ一年ニ付概ネ四ケ月ヲ標準トシ且継続シテ」行うたてまえとした。前年決定した「教育ニ関スル戦時非常措置方策」をさらにおしすすめることになり、継続するものであり、「教育実践ノ一環トシテ」から「勤労即教育」に変化していった。米海軍の攻撃により、打撃を受け、戦線は破綻の危機にあっていた。二月二十五日には「決戦非常措置要綱」を政府は閣議において決定し、国民生活の各分野にわたり非常措置をとった。神奈川県教育課は翌二十六日に、学校当局・学生・生徒父兄に対して次のような心構えを発表した。 学校当局へは校長・教職員は学生・生徒を有力なる隊組織として、生産に非常事態に動員させることとした。それは軍隊における指揮官と何ら異なることはない。従って、態度・行動によって、学生生徒の信頼に応えるものでなくてはならない。 学生生徒へは学業を全使命とする時局にないことを確認し、動員に赤誠を打ち込まなければならない。学業においては動員の寸暇を盗んで、効果昂揚につとめ、常に真剣であらねばならない。 父兄に対しては、家庭にあっては勉学の時間を与え、さらに家事の手伝い、必要なる躾に留意し、勤労動員にあたっては、学生生徒の健康保持に注意を払ってくれることを御願いする、というような内容のものであった。 三月七日になると「決戦非常措置要項ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、文部省はこの決定に基づいて、学校別動員基準を決めて、全国に指令した。そして、これによりあらゆる学校の生徒が一人残らず動員にかかわりを持たなければならなくなった。 四月以降、学徒は通いなれた校舎に決別して続々と軍事工場へ動員された。学力の充実については日曜日又は作業の休日等を利用しなければならなかったし、教科の学習は勤労動員の計画に即応して、一年間の授業数を予定するということであったが、変更を余儀なくされる空閑地利用農耕作業 『小田原市城内国民学校開校70年記念』誌から ことはしばしばで、結果として、ほとんど行われてなかった。 本県において、中等学校生徒の工場への動員を見てみると川崎市のある学校ではすでに、一九四二年には附近の工場に勤労動員に出ていた。たとえば、川崎市立工業学校は富士電機・昭和電工・日本冶金など、市立女子商業学校は昭和電工・富士電機・芝浦製作所・川崎郵便局などであった。 県立横浜第一中学校は一九四四年八月に安立電気吉田工場に動員に行った。そのときの入所式の様子を一生徒は次のように『日記』に書いている。 我等横浜一中生の入所式が行われた。学校側から校長先生始め職業先生方が御出席されれば、工場側からも工場長始め各重役連が臨席され、又先に入所せる湘北中や東亜高女の生徒、その他工員の多くの方々がお忙しい時間をも特に割いて式場に参られた事は我々新入所生にとって大いに感激したものである。校長先生の激励の辞、工場長の訓話、学生代表宣誓、工員代表挨拶等のあと、学徒動員の歌『ああ紅の血は燃ゆる』を斉唱して式を閉じた(『横浜の空襲と戦災』2)。 県立平塚高女の生徒は六月一日に平塚市内の海軍火薬廠・茅ケ崎町日華航空機・寒川町相模海軍工廠へ、県立湘南中学校生徒は六月に入り、寒川町相模海軍工廠・茅ケ崎の東京計器製作所へ、七月に片瀬の東京螺子製作所・茅ケ崎製作所などへ動員に出た。 動員生活 動員は一日中厳しい規律の中で作業が続けられ、時には徹夜のことさえあった。夜間には学校から職員が交替で出張して授業を行ったりもした。 一つの工場に二、三校が出動した所も多く、女学校の生徒も働いていた。戦争が激しくなるにつれて、空襲も激しくなった。空襲警報が出ると生徒はいっせいに防空壕に入る。応召で工員の不足がつのる。さらに七月に入ると文部省は「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒した。動員がさらに厳しくなる。本県では八月十八日に内政部長は中等学校長・国民学校長あて「国民学校高等科児童並ニ中等学校低学年生徒ノ勤労動員ニ関スル件」を通牒し、高等科児童および中等学校低学年生徒も、それぞれの割当て工場に継続動員することとした。さらに九月にはこれらの学徒を通年動員とすること、通勤を原則として作業時間は一日八時間を標準とする、休日は月四回など具体的事項を示した。中等学校一・二年生、国民学校高等科児童も通年動員となった。また動員により深夜作業を女子にまで課すという状況にもなり、ついには病弱者まで出すことになっていた。工場動員された人びとの思い出話の中には、病気やけがで苦労したこと、工場側とのいざこざ、煙草を覚えたことなどがある。また一方では工場で女生徒と行動するのが楽しみで、防空壕に入りたくて、早く空襲にならないかと思っていたなどの淡い青春の思いもあったようである。 十月一日には県内政部長より「工場、事業場ニ対スル派遣職員ノ勤務ニ関スル件」の通牒があった。それによれば、教職員と学校との連絡を密にすること、学徒の就業・生活状況を観察すること、学徒の希望を知り其の指導を適切にすること等、学徒と教職員との密なる関係を維持するよう強調した。教職員もたえず、学徒の身心の状況、受入れ側との連絡、作業状況のこと、合宿のこと、女子学徒のことなど頭に入れていた。 一九四五年三月の中等学校の卒業式は今までのものとは異なったものであった。中等学校令のため四年生と五年生が一緒に卒業するということすらあった。その時の卒業式の様子を『湘南五〇周年記念』(現在県立湘南高等学校)は次のように記している。 式は三月二十三日であった。卒業生以外の一般の生徒は動員中で参加できなかったが、職員は三十三名出席、そのうちモーニング着用の者はわずかに六名、残りはいずれも国民服にゲートルといういでたちであった。そうした中で、五年制の卒業生が百八十九名、四年制卒業生が二百六十六名、そのうち半数が作業服に戦闘帽・ゲートルの勤労動員そのままの姿で参列、学校長の訓辞その他型の如く式が進んだ後、恒例の別れの歌「蛍の光」はなく、それに代わって歌われたのは、なんと「学徒動員の歌」であった。「一、花も蕾の若桜、五尺の命ひっさげて、国の大事に殉ずるは、我ら学徒の面目ぞ、ああ紅の血はもゆる」「三、君は鍬とれ我は槌、戦う道に二つなし、国の使命をとぐるこそ、我ら学徒の本分ぞ、ああ紅の血はもゆる」。まことに悲壮ともいうべき戦時下の卒業式であった。そればかりでなく、この卒業生たちは、その翌日から、また再びもとの職場に戻って、当分の間同じ仕事に従事させられたのである。 三 決戦下の学校と言論統制 学童集団疎開 戦局が決戦段階になると国内の防衛や、重要工業地帯に対して空地帯設置のために一九四四(昭和十九)年一月には都市からの疎開命令が出された。本県では横浜市・川崎市がその区域とされた。これらの地区に居住するものは、他の地区に移住せざるを得なくなった。 生徒・児童疎開の問題については、一九四三年十二月政府は「人口疎開ニ関スル生徒児童ノ取扱ヒ措置要綱」を発表した。 本県では十二月十四日、内政部長から「疎開ニ伴フ生徒児童ノ取扱ニ関スル件」が中等・青年・国民学校長に通牒された。これは学校に在学する者の転学、特に中等学校生徒に対しては特例を認めるようにというものであった。 政府は一九四四年六月三十日、空襲激化に対応するため「一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外特ニ国民学校初等科児童ノ疎開ヲ強度ニ促進スル」ことを閣議決定した。 この決定によって、学童疎開は縁故先への疎開をまず勧奨し、縁故先のない者に対して集団疎開の方法をとることにした。具体的な方法として「帝都学童集団疎開実施要領」を決定した。集団疎開の対象となったのは国民学校初等科三年以上六年までの縁故先のない児童で、保護者の申請によった。七月八日、内務大臣邸に東京都長官、警視総監、神奈川県知事等が招集され、安藤内相、文部省藤野総務局長以下のもとに学童疎開の具体的方法について意見が交換された。 本県では七月十二日、県会議室に県下関係市町村長ならびに地方事務所長が参集し、県教育課と疎開課から学童集団疎開に関する方針が明示され、協力が求められた。 このころから学童疎開に関する準備が急速になされ、受入れ側の市町村長、地方事務所長、警察署長への指示、横浜・横須賀・川崎市の各国民学校長会議の開催等が行われた。 七月十八日付の『朝日新聞』の記事によれば「学童疎開に関する県の大綱方針について観ると、疎開の対象となるのは三市の国民学校(三年以上六年まで)十万人で、まず縁故疎開に重点を置いてしかる後集団疎開を実施する、この集団疎開先は海岸地帯を除く全市町村にわたり、寺院、旅館、別荘、集会所等が利用されるが、県内への疎開といふことが原則となっている、しかしながら対象学童十万に対して県内の受入れるべき能力は目下のところ四万と推定されるので残る六万は極力縁故疎開する必要があり、父兄の真剣な協力が望まれる」と報道している。 文部省は七月二十日になって、学童集団疎開の範囲を東京都区部のほか、横浜・川崎・横須賀・大阪・神戸・尼ケ崎・名古屋・門司・小倉・戸畑・若松・八幡の十二都市を指定した。これらのことから、七月二十日以前にすでに、本県では三市の集団疎開の準備とそれについて発表していたが、文部省はそれらを見極めてから三市の集団疎開実施を発表したことになる。 本県の疎開先は当初、静岡県であったが、当時の責任者の一人であった葛野重雄は「学童を他県に出すと十分な世話ができない。県内ならば物資その他の面について、できるだけのことをしうるという近藤知事の英断のもとに疎開が実施された」(『横浜市教育史』下巻)ということであった。 そして、県は「三市学童集団疎開実施要領」を定めた(『川崎空襲・戦災の記録』資料編)。この実施要項によれば、集団疎開をさせる学童は国民学校初等科三年以上六年までの縁故疎開の困難な者としている。疎開先は三市を除いた地域とし、但し三市の新地域も場所によりよいとしている。宿舎は旅館、集会所、寺院、教会所等を借りあげる。教職員も学童とともに共同生活を行う。疎開先の教育は附添いの教職員が疎開先の国民学校、宿舎等で行う。宿舎における学童の生活指導は教職員があたり、学童の養護・医療には充分準備し、配慮する。そのほか物資の配給、輸送、経費(生活費の父兄一部負担十円、のこりは市で負担)等を定めた。この結果、残る児童は初等科一・二年生、それに何らかの事情で疎開できない者となった。 次に「三市学童集団疎開実施細目」を定め、実施上の具体的な細目を定めた。 これは、集団疎開の希望調査、疎開先の決定、疎開先の宿舎、疎開先における教育養護、食糧その他生活物資学童用品の調達、輸送などを決めたものである。 受入れ側の一つ、足柄上郡では七月二十四日に郡内国民学校長会議を上郡の地方事務所で開いた。松田町では翌日に町内関係者会議を開き具体的な準備作業をした。 同じく、受入れ側の足柄下郡でも、七月下旬に地方事務所の会議室で市町村長会議を開いた。横浜市側ではこの会議に森視学と葛野担当官が出席して、受入れを懇請した。大口の受入れは、箱根の態度いかんによったといわれ、この時仙石原村長・箱根温泉旅館組合長の石村喜作はまっ先に賛意を示し、疎開は円滑に実施された。担当者の葛野重雄は「あの時の石村村長さんの発表は、身にしみてうれしく、感激の涙をぬぐうことができなかった。わたしの終世忘れえぬところです」と述懐している(『箱根町教育史』)。 三市の疎開児童数等はどのくらいの予定であっただろうか。横浜市教育委員会編『横浜市教育史』下巻によれば第十三表のようになっている。 横浜市の学童集団疎開は八月七日下野谷国民学校を第一陣として、二十七日までに完了している。疎開先は、津久井郡、足柄上郡・下郡、小田原市、中郡と市内の保土ケ谷区、戸塚区、港北区、神奈川区にわたっている。出発当初の児童数は、津久井郡には約千四百名、足柄上郡約五千三百五十名、足柄下郡約一万二千二百名、小田原市約六百名、中郡約二千三百名、市内約三千八百名であった。 川崎市では中郡約五千五百名を中心に、市内柿生・登戸・向丘などに約千百三十名であった。横須賀市では二十校で人数約五千四百名。疎開先は愛甲郡、高座郡(相模原町・寒川町・有馬村・大和町など)であった。県・市も最大の努力をはらって実行した(数字は『県教育史通史編』下巻による)。 受入れ側ではたとえば、箱根の各町村の職員、旅館の人たちは疎開者を受け入れる協力委員会を作り準備し、また疎開児童を直接受け入れない町村の人たちも協力した。協力委員一同が発起人となって、疎開学童の歓迎会をしたところもあった。 第十三表 横浜市・川崎市・横須賀市学童疎開児童数 数字は原資料のとおり 疎開先の生活 横浜市豊岡国民学校の児童の疎開生活は(足柄上郡岡本村に疎開)午前・午後の二部教授で、午前六時起床(乾布摩擦・掃除等)、六時十五分礼拝、六時三十分国旗掲揚、先生・両親への挨拶、体操等、七時十分朝食、七時五十分登校(午前組)午後組は作業(清掃・薪取り)、予習・復習、十一時昼食(午後組児童)十一時三十分午後組登校、午後一時午前組児童作業、予習・復習、五時夕食、六時夕礼(職員訓話、反省、両親への挨拶、先生寮母への挨拶)、六時三十分入浴、うがい、八時就寝消灯であった。 父母からはなれた集団生活、慣れない作業、まずしい食事、なれない日課、ふろは月一回農家のもらいぶろ、のみ・しらみの大敵、雑炊ばかりの生活、津久井郡串川村に疎開したある女教師は「児童の状態で目立ったことは、男子の全部が気がぬけた如く、暴れて遊んだりしないことだ。これは栄養の点もあろうが、外部的の問題もあったらしい、部落の児童に何を言われても、おとなしく宿舎にペタンと座っている様子は一層哀れだった」と回想している。 疎開地からの父兄へ伝えるガリ版刷の便りには「紙芝居をやったり、お話会をやったり努めて賑かにさせて」いるが、それでも子どもたちは「星空をながめ、こおろぎの音に耳をたて」「先生面会はいつ、お正月帰れるの」と淋しがる三年生やカレンダーをめくる様な事ばかりしている子どもがあることを伝えている(『大山だより』第二号昭和十九年十月二十八日付)。 時には集団生活からぬけ出して、親の居る横浜市に帰ってしまうものや、病気のため帰宅し、一旦帰宅した後は父母のもとを離れなかった者も漸増していった。 そんな中でもガンバッテ父兄へ手紙の中に、「戦争に勝つまでは面会しない」と書いて、「お山に疎開しているのはお国のためです」と児童の心の中にも戦争への参加意識がうえられ、小さな心の中にじっとガマンする悲しそうな決意もあった。 一九四四(昭和十九)年十二月七日、内政部長は「学童疎開ニ於ケル教育要綱」を決定し「学童疎開が国家的ニ重要ナル所以ヲ認識セシムルノ方途ヲ講ジ日課及諸般ノ行事ヲ通ジテ感傷的退避的気分ノ一掃ニ力メ戦意ヲ昂揚シ士気ヲ鼓舞シ聖戦必勝ノ信念ヲ涵養スルモノトス」と通牒した。 引率教職員は食糧の確保に最大の苦労をした。配給のみでは不足で、買出しに出かけ、家恋しく脱走する生徒の面倒、衛生管理の面、暗いイメージを払拭しようとする懸命の努力が払われた。 一九四五(昭和二十)年一月、政府は集団疎開の継続を閣議で決定した。 三月十八日政府は「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、「全学徒ヲ食糧増産、軍事生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員」するものとした。国民学校初等科を除いて、学校における授業は四月から一年間、原則として停止することとした。また「学童集団疎開強化要綱」を決定した。 このころになると、県内の学校にも軍隊が入り、学校が軍事用に使用されるようになった。 間門国民学校の箱根温泉村への学童疎開 『横浜思い出のアルバム』から また、たびたび空襲を受けていたが、四月以降はほとんど県内各地のどこかに空襲警報、警戒警報が発令された。五月十五日には内政部長は「決戦下ニ於ケル国民学校ノ授業ニ関スル件」を通牒し、防空警報発令をしたとき、児童を下校させるようにしていたのをむしろ学校にとどめておくよう指示した。児童を下校させる際、引率して機銃掃射を受けることさえあって、危険だったためである。 五月二十九日の「横浜大空襲」は本県に最大の被害をもたらした空襲であった。四月十五日の空襲とあわせて横浜市の学校の被害状況は、国民学校三十二校に達した。これは全体の三分の一にもおよんだ。五月二十九日では、そのほか、横浜市立聾学校、横浜経済専門学校(一部)、公立の中学校では県立横浜第一中学校他四校が全焼、私立学校では神奈川高等学校(現在 神奈川学園)他十五校が全焼の被害を受けた。横浜市の国民学校生徒は分散授業を行ったが、横浜市だけでなく、校舎の軍事使用又は学校工場化とあいまって分散授業は各地に広がった。鎌倉市の第一国民学校では熊野神社に机やいすを運び授業を行った。 また、空襲が激しくなるに従い、御真影奉所を特定した。川崎市は、向丘・柿生国民学校に特定奉遷所として集中させた。 そして、五月に入ると工場に動員されていた生徒で学徒隊を作らせ、戦闘的な軍隊組織に似た編制をなし、敵軍の本土上陸を予想して皇土防衛任務に挺身する態勢をとらせた。学校も職場も軍隊化した。 言論の統制 一九四〇(昭和十五)年十二月十三日、横浜貿易新報社と横浜新報社が合併し、改めて神奈川県新聞社となり『神奈川県新聞』を発行することになった。国の新聞統制によるものであった。 この年一月には国民精神総動員の精神に反したという理由で横浜専門学校の教授が逮捕され、九月には起訴された。そしてこのことについて県会でも取り上げられた。質問者は国民精神総動員の時代に教授が起訴され、教育に関して由々しき問題であり、監督者の学務部長はどういうふうに考えているのかということであった。 県警察部では一九四一年六月には県下の観光地の箱根、鎌倉や大磯、藤沢、逗子などの湘南方面で取締りを行った。外人たちが多数流れ込むので、流言蜚語の取締りを厳重にすることとしたというのである。そして街の喫茶店、飲食店、酒場は勿論、駅のホーム、電車・バスの交通機関、銭湯、興行場の廊下、工場など、人の集まるところをどこでも取締りの対象とした、警察官が出没して、摘発するというものであった。 十一月一日には、演劇脚本検閲制度が実施され、横浜を始め、県下の興行関係者をがく然とさせた。上演する四日前に県保安課に提出せよというものであった。すでに、このころ、演劇をやるときには初日前に所轄警察署へ筋書と出演者の原籍簿を出さなくてはならず、警察官が舞台を見て、悪い点があれば指摘され、改めさせられていたのである。当時の人によると「脚本検閲に見事通過する劇団が神奈川県を通じてどのくらいあると思いますか」という質問に対して「先ず、余り無いでせう」(『神奈川県新聞』昭和十六年十一月十七日付)といっている。劇団の一般興行も窮屈な状況になっていた。 一九四二年元旦からは、新聞界は言論奉還の赤誠を以って、県一社の実現に挺身すべく、神奈川県新聞社、神奈川日日新聞社、相模合同新聞社が合併して『神奈川新聞』を発行することになった。このようにして、言論、市民の生活、行動、娯楽までが全く統制の下に入っていった。 第五節 太平洋戦争下の県民生活 一 「聖戦」下の県民 「紀元二千六百年祭」 一九四〇(昭和十五)年は、「神武天皇即位二千六百年」であった。人心の一新を求めて、お祭り騒ぎがくりひろげられた。この年の十月十一日には、天皇も臨席して、横浜港沖で特別観艦式が挙行され、艦艇百余隻、航空機五百余機が参加し、「帝国海軍の偉容」を市民に披露した。この日、港をめぐる小高い丘は市民でうずまった。それから一か月後の十一月十日には、「紀元二千六百年」祝賀行事が全国に展開され、赤飯用のもち米すら特配になった。翌々十二日午後、税関四号屋上で開かれた横浜市主催の奉祝会でも、二千六百名がビールで乾杯という盛会であった。だが、街には「祝ひ終った、さあ働らかう!」の立看板がはりめぐらされていた。 つづいて十三日には「宣言も綱領も要らぬ、〝臣道実践〟に尽くる大政翼賛運動」に、市民を動員するための「大政翼賛三国(日独伊)結盟市民大会」が全国一斉に挙行された。県市共催の大会は、横浜公園に一万名余を動員、「世界を挙げて今や禍乱の裡に在り、我国亦此間に立ちて東亜の新秩序建設の為国運を賭して闘ひつゝあり」「我等は新日本建設の為に大政翼賛の一大国民運動を展開し、聖旨を奉戴し国体の本義を顕現し時艱克服に邁進し、以て聖慮を安んじ奉らん」と宣言した。 また、こうした祭り気分の中で次第にインフレが進行していた。横浜市総務部調査の横浜市生活用品小売価格指数は、一九三六年を一〇〇として、一九三七年一〇二・三、一九三八年一一六・一、一九三九年一三八・七とじりじり高騰していったが、統制の強化された一九四〇年一月には一五九・四、六月一八二・〇、七月一八七・四、八月一九二・七と天井知らずに高騰し、九月以降、若干にぶったとはいえ、十一月に入っても一七七・五というインフレとなった(『神奈川県新聞』昭和十六年一月六日付)。 また、戦時体制が強化されるなかで県警察部が、一九四〇年十二月現在で中小商工業者の転業問題を調査したところ、統制の対象となっている米穀、木炭、菓子、豆腐商は、一九三九年末に比し平均三五・九㌫の減収であったが、それでも転業に関心をもつ者は三百名中八十名、うち転業を考えている者二十九名、さらに転業の決意をもつ者二十一名というのが実情であった(『神奈川県新聞』昭和十六年二月八日付)。こうしたなかで、県民の間には、先行きの不安から、刹那的な享楽に走る傾向もあらわれた。横浜・伊勢佐木町を中心とする盛り場の客は、一九四一年三月には、料理店一万三千二百名、飲食店百三十万四千三百五十八名、特殊飲食店十二万四千百十名、私娼窟飲食店一万四千八百十六名、映画館・劇場六十七万五千五百四十三名、遊戯場四千五百三十八名となっている。前年同月の映画館・劇場人場人員は六十四万四千百二十九名であった(『神奈川県新聞』昭和十六年二月十七日、四月二十八日付)。また、毎月一日の興亜奉公日1940年11月10日に小田原城内国民学校で開催された紀元2600年祭 『目でみる小田原の歩み』から にも「特殊飲食店其他の女給等が客を同伴外出して風紀を紊すもの」が増加の一途をたどり、「不良少年」も一月三十二名、二月百二十九名が検挙されるという激増ぶりであった。たまりかねた県警察部は各署に「少年係」の設置を計画したという(『神奈川県新聞』昭和十六年三月三日付、『読売新聞』同年三月十六日付、『毎日新聞』同年六月五日付)。 太平洋戦争の開始と県民 一九四一(昭和十六)年十二月八日、日本は米英に宣戦布告をした。そのまえ、日本海軍機はハワイの真珠湾の米海軍基地を奇襲攻撃した。この事態に、「来る可きものが遂に来た。何時しか来るぞと予期して居たものが遂に来た」「若き我等は血湧き立つばかりである」「個人主義的な一切の気持は何処かへすっ飛んでしまった。そして愛国的な民族的な大きな気持に支配されてしまった」と書いた高島駅転てつ手の二十二歳の青年もいた(『横浜の空襲と戦災』2)。また、伊勢佐木町では、十二月八日、まだアメリカ映画「シカゴ」を上映している映画館もあったが、九日には自発的に米英映画上映中止をきめた。伊勢佐木署は、カフェー、飲食店の店名から「敵性横文字」を追放するよう、二十四日になって注意した。さらに、「世界地図といふ地図は週報の附録に至るまで皆売りつくし」てしまうほど、関心が高かった(『神奈川県新聞』昭和十六年十二月十日付)。 開戦後、県の対応は、十日に松村光磨知事が県告諭で県民に、「本県の重要地位に鑑み挙県一体、速に戦時体制の整備充実を計る」ことを訴え、また単位産業報国会に「生産拡充に精進する様」と激励通牒を発したことが記録されている。通常県会は、十一月二十二日開会、十二月三日閉会したままであった。 一方、県下各市では、十二月九日に開会予定の藤沢市会はもとより、横浜市会、川崎市会、鎌倉市会等が緊急市会を開催していずれも「聖戦」の目的完遂を決議していた。 こうしたなかで、県民は戦争気運のなかに巻き込まれていった。たとえば、十二月八日は月曜日、九日は火曜日の平日ではあったが、映画館をのぞくとさすがに客足は少なく、横浜・オデヲン座等の一流館も座席はまばらで、支配人にきくと「昨日(八日)の午後からぱったり客足が減った」というし、有隣堂の支配人にきくとここも客足は減ったが、防空読本なども随分出」たようで、某デパートの支配人にきくと、対米英戦第一日は休業であったが、今日は随分客足が減ったけれども、「こゝでも防空用具品と鉄兜等の売場が賑はった」というありさまであった(『神奈川県新聞』昭和十六年十二月十日付)。 市民は情報を求めた。八日、九日の両日で新しいラジオの加入申込みは県下で五百余件もあり、九日から電波管制でラジオの雑音がひどくなったのを、調子が悪いとダイヤルなどをいじりまわし、はては壊してしまって、放送協会横浜相談所に修繕を申し込んだものが九日だけで七十余件といわれた(『朝日新聞』昭和十六年十二月十一日付)。年末年始五日間の人出も横浜市電は一・九㌫、バスは三五・五㌫も前年に比べて減少し、ニュース映画を上映する映画館には長蛇の列ができて「電車軌道にまではみ出し交通巡査が出動して取締りに当」たっていた(『毎日新聞』昭和十七年一月六日付)。 戦地におくる慰問袋 川崎市主催・川崎空襲展示提供 一方、戦局が拡大するにつれ、民衆の不安もつのっていった。一九四二年二月十五日、シンガポール陥落で町並みが湧きかえっているころ、横浜や横須賀汐入町方面で「千葉県の某町で酒屋へみすぼらしい年寄がザルを持って酒を買ひに行った」「酒を入れたところ不思議にも洩らなかった」「この大東亜戦争は一年か一年半で終るが、その後悪疫が流行するであらう、今のうちに小豆飯と梅干し三つとラッキョウ三つを神様に上げればいい、と口走ったまま姿を消した」というような流言がひろがった(『神奈川新聞』昭和十七年二月十八日付)。 ところで、一九四〇年にはじまった生活物資の配給制によって、一九四二年三月ごろになると、ほぼすべての生活物資が切符・通帳・登録制のいずれかでなければ、入手できなくなっていた。すでに、太平洋戦争がはじまるまえ、野菜が切符制になるといわれると、七日の日曜日などは、横浜市の郊外の小机方面に二千名、三ツ沢方面八百名、綱島・日吉方面には、それぞれ五百名など、四千名もの「買出し組」がおしよせたほどである。 また、ハイキングの帰途、野荒しをする者まであらわれ、横浜線中山・長津田両駅、谷本町、荏田町の四か所で検問中の川和署に、男四十三、女十九名が検挙される事件もあった(『読売新聞』昭和十六年九月十日付、『毎日新聞』同年十月二十六日付)。さらに、横浜市の戸塚方面には買漁り人の群が、少ない時でも五、六十人、土曜・日曜の如きは三、四百人のおびただしい数であふれ、戸塚署員は毎日これらの取締りで他の仕事が手につかないありさまで、時どきは非番や署在の巡査までかり出さなければならなかった(『毎日新聞』昭和十六年十二月三日付)。 二 食糧増産体制の不安 食糧自給と農村の再編 県下の米生産量は既述のように、県民の必要量に到底達しなかった。そればかりか、県内農民の米の供出は一九四二(昭和十七)年度政府割当ての八四㌫で、全国下位から二番目という成績であった。そこで、この年のはじめに県知事として着任した近藤壌太郎は、食糧増産激励班を組織し、農村を巡回して時局の真相を語る座談会を開き、直接農民に訴えた。その結果、全く警察権を行使しないで「百㌫の米の供出」を完了した。また麦は「百四㌫の好成績」をみせた(鈴木重信『追想・近藤壌太郎』)ともいわれた。 県下の供出量・供出比率が三倍にもなったことから、一九四三年十一月の通常県会において、知事は「従来本県ノ農村ハ本県ノ特殊事情ニ因リ、動モスレバ利益追求主義ノ農業経営ヲ致ス点ガ見受ケラレタノデアリマスガ、最近農村方面ノ気風ガ一転致シマシテ、皇国ノ嚮フベキ所ヲ自覚シ、農民道ヲ発揮シ、一意国策ニ協力シ、食糧増産ニ邁進致シテ居リマスノハ洵ニ喜バシイ次第デアリマス、今夏行ハレマシタ麦ノ供出ニ於キマシテモ、割当量ニ対シ百四パーセントノ成績ヲ示シ、又目下行ハレツツアリマス甘藷ノ供出並ニ麦ノ増反等ニ付キマシテモ、国策ニ即応シ張切ツテ努力致シテ居ルノデアリマス」と説明していた(『神奈川県会史』第六巻)。 食糧自給は、国にとっても絶対的要請であったから、一九四一年十月二十五日からは、桑園・菜園・煙草・花卉などの作付転換が、農地作付統制規則の実施によってすすめられた。さらに一九四二年一月十日から実施された農業生産統制令により、農会が生産責任をもつこととなり、生産計画の樹立、各農家への生産割当て、労力調整などを行うこととなった。また、耕地三反(約三十アール)以上の経営主とその家族は、引きつづき三十日以上(農繁期は五日以上)農業を放棄するときは、農会の承認が必要であるという規制も強制された。都市における町内会・隣組の役割を農村では農会が果たすこととなった。 部落会整備の方針と農会を通じての生産統制は、共同作業や部落慣行を通じて統合されていた各村間に混乱をもちこんだ。たとえば、一九四一年、茅ケ崎町農会に就職した夏目善治は、農会について次のように記している。 当時の農業団体には、「農会と産業組合(正しくは信用販売購買利用組合)」があり、「農会の業務は、農業指導ということで、技術員と書記がその仕事」をし、産業組合は、「販売事業、購買、信用、利用事業」をあっかっていた。そして農会は、「農業に必要な技能の普及と品種の改良」をなし、「農業に必要な組合を育成、補佐し、農業の発展を図ることを目的」としていて、「収入構成は、大要会費七十㌫、補助金二十四㌫、動力農具使用料その他で三㌫前後で、補助金の構成比」は多く、組織としては「農区と実行組合」があり、「農区は三十区に分かれ、それぞれに総代があ高津区明津の共同田植え 川崎市提供 って農区総代といい、農業行政の区長で、農民と農会、町役場の間に立って上意下達―下意上達の役目で、組織からのものはもちろん、個人ごとにおいても相談を受ける―するという役割」を担っていた。ここには部落のもめごと、個人のもめごとまでもちこまれ、実行組合は、いまの支部組織、生産組合と同様のもので、共同販売、共同購入、共同防除等の業務実施団体として、「登記した法人格団体であった」(夏目善治『組合運動30年の思い出』)。 一方、産業組合については「仕事としては、販売購買利用事業」が多く、「利用事業として、共同精米、精麦所の他、葬具の取り扱い」もしていたが、しかし、経営は苦しく、松村地区などは、一九四二年にはついに解散し、茅ケ崎地区は市街地信用組合に転身という状況であったようである。地主の残っているなかでは、生産や労働力の統制を行うことは困難であった。しかも、部落会・町内会の整備という内務省の指導と、産業組合中央会・帝国農会が農林省の指導のもとに進めてきた「部落農業団体を一地区一団体全農家加入の単一部落農業団体に改組する」方針とは、ムラのなかでことごとにぶつかりあうようになった。もちろん、国も一九四一年二月、農林・内務両次官通達によって、部落会と部落農業団体の区域の一致、役員等の人的結合を求めたりしたが、地主的名望家層を基盤とする部落会や農会、自小作農層を基盤とする部落農業団体(実行組合や産業組合)とのしこりは、なかなか解消されそうもなかった。 「食糧増産と供出完遂」が叫ばれたが農村の実態はいろいろな困難が積重なっていた。相模原地区の例(大野地区中和田第二農事実行組合)でみると、一九四三年現在、五十七町一反一畝(約七百十三アール)の農業経営に従事した人員は、五十八戸で百四十三名、うち二十一歳から四十歳までの男子はわずか八名、同年齢層の女子は三十六名であった。農業生産統制令により農作物の種類や作付反別が限定され、連作を余儀なくされたが、生産は低下した。しかも、肥料・農機具が配給制となり、過燐酸が一反歩(約十アール)一貫目(約三・七五㌕)程度であった。供出は、全町一名の食糧調整委員が指定作付面積から反収量を割り出し、供出量を決定したが、実際には各地区一名の委員を配置しなければ、決定できなかった。供出すれば自家保有米すらないという農家も、中和田第二農事実行組合には多かった。一九四二年度に六か月分以上の保有米を所持できたのは、五十八戸中七戸にすぎなかった。そのことがまた、新しい紛争の種となった(『相模原市史』第四巻)。 米価値上げと貯蓄 政府の食糧政策は、一九四一(昭和十六)年産米から急激に変化する。第一に、地主の小作米は小作人から直接国に出荷され、地主には代金のみが支払われる、実質的な金納制が実現した。第二に、二重米価制が実施される。生産者には一石当たり五円の奨励金が地主米価に上のせしてつくようになり、一九四三年は十五・五円、四五年四月は三十七・五円と、地主米価との間の開きが拡大し、それだけ実質小作料率も反当たり四一年四八・九㌫、四三年三六・八㌫、四五年三〇・二㌫と減少していった(森武麿「戦時下農村の構造変化」『岩波講座日本歴史』20)。こうしたなかで、一九四三年七月十七日付で、足柄地方事務所長は、「米価引上ニ伴フ農家増加収益ノ貯蓄化ニ関スル件」を通牒した。米価の大幅引き上げによる多額の資金が農村に「浮動」しないよう、見込み浪費の抑制、消費生活の自粛、増加収益を「自作農創設土地購入資金土地改良資金等農業増産上真ニ有効適切ナル用途ニ充ツルノ外ハ挙ゲテ之ヲ産業組合ノ定期的貯蓄又ハ負債整理ニ振リ向ケシムル」というものである。なお「事前ニ於ケル大々的ナル宣伝ハ一面ニ於テハ米穀増産運動ニ悪影響ヲ及ボスベキ虞アルニ付之ガ指導ノ取扱方ニ関シテハ克ク農民心理ノ動向ヲ察知シ深甚ナル留意ヲ以テ万全ヲ期スルコト」が付記されていた(資料編12近代・現代⑵六六)。 こうした生産者優遇策、さらに一九四二(昭和十七)年五月二十八日の『相沢日記』に、「サツマモ統制ニテ自由売ヲ為シ得ズ公定価ニ供出スルコトトナリ、不利益ユへ自用ノ外売物ヲ作ルヲ好マヌ次第、凡テ自給自足ガ一般ノ方針トナ第14表 小作争議件数 『神奈川県農地改革史』から リ」とあるような風潮は、土地にからむ小作争議・農村争議を、決戦下にもかかわらず消滅させえなかった。事実、争議は零細自作地主又は新地主による土地引上げが原因の大部分を占め、一九四三年にも十七件中十二件、四四年二十二件中二十件を占めていた。なお、小作調停事件、小作官の法外調停事件においても、この傾向は同じであったといわれる(『神奈川県農地改革史』)。 戦時下の食糧増産体制は、あらゆる面から行きづまっていた。 三 都市機能の低下 配給の地域差 民衆の生活の死活にかかわる割当て配給制も年を追ってひろがっていった。一九四二(昭和十七)年二月一日から味噌、正油、衣料の切符制、三月一日から野菜の登録制、二十日からは配給米にとうもろこし一割混入等々、日常生活は最低栄養標準すらまかなえなくなった。公定価格の何倍かの価格で不正常入手する闇と行列買いは常識となり、「世の中は星(陸軍)に錨(海軍)に顔に闇、馬鹿者(正直者)のみが行列をする」ありさまだった。 配給統制でも地域差があらわれた。六大都市以外は都市でも差別された。すでに、一九四〇年十一月の川崎市議会は「生活環境ニ於テハ六大都市ト基ヲ一ニスルニ不拘、砂糖ニ在リテハ六大都市ハ一人一カ月〇・六斤其ノ他ノ都市ハ〇・五斤トナリ、マッチニ於テモ配給数量ノ制限ニヨリ切符制ヲ実施スルコト能ハス」と六大都市なみの配給を求めて商工大臣に意見書を提出している。一九四一年四月一日、生活必需物資統制令が公布され、生鮮食料品に公定価格制がとられると、川崎市のように中央市場をもたない都市は、入荷が激減して、配給が困難となってしまうありさまで、一九四四年十一月一日、やっと中央市場の開場にこぎつけるようなありさまであった。また、一九四二年二月一日から、繊維製品の点数切符制が実施されたが、これも一か年に都市では一人が百点、郡部は八十点であった。特に制限小切符なしには購入できないものとして、手拭、タオル、足袋、晒、ネルなどがあげられたが、足袋については都市六足、郡部四足となっていた。 衣料切符は一九四三年一月、点数が平均二五㌫引き上げられ、一九四四年には、一月に配布予定の見通しがたたないまま四月まで延期、その上四〇から五〇㌫も削減されるありさまだった。しかも、一九四三年一月末締切りの衣料切符節約競争が行われ、横浜市の戸塚区阿久和町内会第二十三隣組が一人平均六十三・八点を残して第一位、第二位は神奈川区松ケ丘町内会第十四隣組六十一・六点、第三位港北区篠原町表谷戸町内会第三隣組五十八・四点、同二席神奈川区亀住町内会第三十四隣組五十七点がそれぞれ入賞と決定、平均五十点以上を残した隣組は十六に達し、参加隣組の残した点数の平均は二十五点というような「献納運動」も行われた。この運動は、一九四二年五月、市生活課の呼びかけで、全市の約一割、二千二百五十二隣組、世帯員十四万四千三百八十名、切符総点数千四十三万八千点がその競争に参加して、約二百五十万点を節約したといわれる(『毎日新聞』昭和十八年二月二十一日付)。一九四二年中の全国平均切符消費量は七一㌫で、競争対象期間に見合う十か月間では、都市が六五㌫、郡部では五五から六〇㌫であったという(法政大学大原社会問題研究所編『太平洋戦争下の労働者状態』)。横浜市衣料切符 座間功氏蔵 相模原市立図書館古文書室所蔵 の第一位、第三位一席は純農村、第二位は高級住宅地、第三位二席は典形的な密集地域といったように、いずれも地域に繊維品を扱う専門商店が見られないことに特色があった。 軍事優先の街 市民生活は殺伐となりつつあった。一九四三(昭和十八)年二月、県浴場組合は燃料不足対策として、入浴三十分以内、洗髪禁止などを申し合わせて、八月一日から赤ちゃん用のサラ湯をバケツ一杯三銭で特に売り出すというありさまであった。十月一日から「電髪」(パーマ)が禁止、「朝早くからつめかけて一日中待ち続ける有閑婦人」など「平常の二倍の客」がおしかけた。ついには、八月から、塔婆まで廃止になり、「代りに紙片に戒名を記して石碑に貼り供養する」こととなった。 街の軍事色も強まっていった。横浜市では、一九四二年六月下旬、市役所前の横浜公園のベンチで話しあっていた、腕を組んで歩いていたというだけでも「科料処分」となるように風潮が急転していた。また、十二月八日の映画館、劇場では、「適当の幕間に舞台正面に向かって全員起立し、宮城遥拝と戦捷祈念」を行うことが強制され、一九四三年四月一日からは「自粛させる意味と、一朝時に即応すべき訓練と云ふ実践上から、一回毎に全部の入場者を追出」す入替制が実施された。伊勢佐木町の通りも、二月以来、年末までに閉店したもの六十余軒、野沢屋は四階以上、松屋は全館を軍需産業関係に「供出」することとなった。一九四四年四月には、伊勢佐木十四の興行館のうち、常設館、世界館、花月小劇場が密集興行地の疎開対象として「除却」された。夏の海水浴も東京湾・相模湾などの要塞地帯では全面禁止、「所轄署の許可証」がある場合のみ認めることとなった。また、出征兵士を送る壮行会で、「最近どういふわけか士気を鼓舞するが如き軍歌は歌はれず、唾棄すべき俗歌を大声を発して唄ふ歓送者が目立って来た。殊に多く唄はれるのは酔漢が唄ふ〝三島女郎衆はノーエ〟云々の野毛節などで」、県がこれを禁止したのは八月のことである。 三割も空家がある「盛り場」に「昔のような癇癪玉とか射撃とかの健全娯楽店」をおき、「暗いながらも五燭の電灯を軒に一灯づつ」出す更正策が、伊勢佐木町、保士ケ谷銀座、鶴見潮田銀座の三か所を対象として検討されたのは十一月になってからであった。この間、十月四日からは市民酒場二百余軒も開業した。四、五日おきに午後六時から一人一合、百人を対象に販売するというものであった。また、十二月からは「汁ばかりで米粒の少い雑炊の与へる感触は、全く決戦下の人心を暗くする」ということで、一人四勺のかたい飯も販売するようになった(『横浜の空襲と戦災』6)。 地方自治制度も崩されていた。一九四三年六月一日から改正施行の府県制、市制、町村制はその法的確認であった。主要点は、各級議会の権限を制限し、参事会や官選首長の指示、決定権が強められ、国が首長の選任、解職、国政事務の委任などに絶対権をもつようになった。 この改訂が「決戦体制」の名目で、地方自治をうばい、軍主導のもとに集権制度を強化するものであることは、つづいて六月二十五日の閣議決定「地方行政刷新強化策要綱」が、軍管区に対応する地方行政協議会を設置することをきめ、七月一日から発足させたことにあらわれていた。関東地方では山梨県を含む一都七県がブロックとなり、さらに警視庁が独立した行政機関として参加していることが特色であった。 こうして、地方自治体の運営は軍と警察の統制下におかれ、十一月二十四日開会の通常県会では、岩本信行議長ただ一人が、各会派を代表して質問するという異常さであった。また翌一九四四年三月二日の鎌倉市会で市長は予算説明にあたり、「現下市役所ノ行政事務ハ殆ド大部分ガ国ノ命スル戦時事務ナリ、自治団体タル市ノ固有事務ハ洵ニ僅ナリ」と特につけ加えているほどであった(『神奈川県会史』第六巻、『鎌倉議会史(記述編)』)。 軍港都市横須賀の場合は、市財政の大きな部分が海軍助成金に頼っており、「岡本(伝之助)市長はよく軍部に協調し、よく海軍を利用した。そして昭和十八年四月一日、平時ではおよそなし得ない浦賀町以下隣接六カ町村の合併を実現させた」(『横須賀市史』)。しかし、これより先、鎌倉郡・三浦郡内の各町村は、横浜、藤沢、鎌倉三市のいずれかに合併する動きが強まっていた。ことに、逗子町西小坪では地形上・沿革上・経済上からも鎌倉との合併を自然としており、一月二十六日開催の逗子町懇談会も西小坪のみは鎌倉市へと満場一致で決定、代表が鎌倉市を訪問してこれを伝え、鎌倉市会全員協議会も「熱意ヲ以テ歓迎シ、速ニ之ガ実現ヲ期ス」と決議した。しかし、「特ニ県内政部長殿ヨリモ懇篤ナル通牒ニ接シ」、二月六日、市長はこの件をなかったこととするに至った(『鎌倉議会史(記述編)』)。軍の意向は、議会の満場一致の決議すらふみにじったのである。 第15表 横須賀市への海軍助成金 『横須賀市史』から作成 四 「銃後」の総動員 生産増強にかげり 一九四二(昭和十七)年六月のミッドウェー沖海戦、四三年二月のガダルカナル島撤退、五月のアッツ島玉砕等によって、戦況は逆転するばかりで、日本軍は、制空権・制海権を完全に失った。国民の士気の低下は鎌倉市長の市会答弁でも「ガダルカナル以来戦意ニ付テハ多少遺憾ノ点アル」と述べたように誰もが認めるところであった(『鎌倉議会史(記述編)』)。 一九四二年十一月の通常県会で、近藤知事は「生産拡充ガ、殊ニ最近此ノ七、八月頃低下」し原因について「時局ヲ認識シテ居ルケレドモ、其ノ認識ト結ビ付イテ働イテ居ルカト云フ点、茲ニ帰スル」と説明していた。また、設備と労力と原材料の三つが、「日本ノ産業殊ニ重工業ハ最近ノ発達デゴザイマスカラ足並ガ揃ハナカッタ」とも指摘した(『神奈川県会史』第六巻)。さらに、一九四三年十一月の通常県会において、知事は、本県の工業生産は「増産ノ一途ヲ辿」っており、五月の行政査察でも「身ニ余ル御褒メノ言葉ヲ受ケ」たと説明し、そのために、各庁連絡協議会、推進隊、工場の指導班、県の生産増強連絡室などが有効に働いたと誇った。同時に、「唯問題ハ、生産上ノ隘路ト申シマスルノハ、或ル一時ニ隘路ガ打開サレマシテモ現在ノヤウニ次々ヘト困難ナ問題ガ出来テ参リマスルカラ、決シテ安心ハ出来マセヌ、二、三箇月経チマスト又新シイ隘路ガ出テ来ルヤウナ状態デゴザイマス」と付言していた(『神奈川県会史』第六巻)。 事実、たとえば、昭和電工の『営業報告書』(一九四二年四~九月)は、「アルミニウム部門ニ於テハ皇軍ノ雄渾ナル作戦ニヨリテ占領セラレタル南方諸地域ヨリ或ヒハボーキサイト或ハピッチコークスノ入荷サレルアリ」「現有能力ノ最大発揮ト品質ノ優秀性ニ於テ満足スベキ成績ヲ挙グルヲ得タ」と述べていた。しかし、「肥料部門ニ於テハ労務者ノ著シキ不足ト夏期渇水ニヨル電力不足トニヨリ生産減少ヲ見タ」と記している。また、このころのヂーゼル自動車工業の『営業報告書』は、「資材並ニ労力ノ確保ニ相当ノ困難ヲ感シタ」(資料編17近代・銅鉄の供出(1942年) 山本国義氏提供 現代⑺一九九・二〇六)としている。 この事態のもとで、東条首相の命により、第一回行政査察が行われた。査察使は国務大臣か内閣顧問から勅任され、第一回は鶴見・川崎地帯鉄鋼業を中心とする各種行政、生産・輸送等の総合的査察、第二回は七月、東北・北海道の製鉄、炭鉱が対象とされるなど、前後六回派遣された。査察使の『報告書』によれば、日本鋼管の労務事情は、一九四二年四月一日、労務調整令指定工場として、労働者の移動を許可制とした以外の対策がとられていなかったため、「一般ニ労務者ノ離職率高率ナルト共ニ特ニ昭和十六年度夏季在郷軍人ノ大量応召ニ因ル経験工ノ激減」を埋めることができず、年間四千六十八名を国の指示と協力で採用しながら、離職率三七・九㌫という高率であった。労務者不足を「徴用」で補おうとしても、軍管理工場ではないこと、全従業員中に社外工約二三㌫がおりながら常時把握されていなく、賃金体系・厚生施設等の労務管理が不十分等で、「結局半島人労務者ノ移入並ニ各工場労務者緊急募集対策ヲ講ズルコト等ニ依リ年間ヲ通ジ相当数ヲ補充」したものの「質的低下」等は免れなかった(資料編17近代・現代⑺一八二)。 底をつく労働力 日本鋼管の事例にもあるように、いよいよ「決戦段階」で、特に熟練労働力が不足してきた。日本の家族制度が崩れることへのおそれ、「産めよ殖やせよ」の国策に反するという声もあったが、一九四三(昭和十八)年九月から、各種の職場に女子がかりだされ、女子勤労隊も編成された。以後、一九四四年八月二十三日には、学徒勤労令、女子挺身勤労令が施行され、国民学校高等科以上の児童・生徒・学生、および女子が根こそぎ動員で軍需工場で働くようになった。一九四四年以降の国民動員計画における常時要員のほとんどは、勤労動員をうけた学生たちで、敗戦時には全国で百九十二万七千名に達したといわれる。 「徴兵徴用一字のちがい」で、国民登録の要申告者が「白紙召集」されていた徴用も、一九四三年七月の国民徴用令改正により、国家の必要がある場合は、いつでも誰でも徴用できることとなり、それに基づいて、八月、厚生省令による「応徴士服務規律」が定められるなど、軍隊的規律が強制された。 東京芝浦電気では、一九四四年後半に入ると、学徒報国隊、女子挺身隊が大量に動員されて、工場の各種労務に従事した。その勤労意欲と量の多さは、労働力の枯渇していた各工場の期待にこたえ、工場によっては、その労働力の五〇㌫近くを占め、敗戦時には正規従業員数は八万三千名、徴用工・学徒を加えて十万名を越えたという。しかし、膨大な勤労動員は、結果的には労働力の質の低下をきたし、作業能率も低下する一方であった。その要因として、未熟練労働力の増加、資材の不足または偏在、電気・ガス等動力源の不足による手待ち時間の増加、食糧買い出し・家族疎開等による出勤率低下、賃金統制による中小企業への流出、交通破壊による遅刻・早退の増加、農村手不足による一時帰農者の増加、空襲退避による作業時間の空費、夜間空襲による睡眠不足のための気力減退等があげられていた。 とくに敗戦の年、一九四五年の四月十五日の京浜地区戦災後は、工員の出勤率は男子五〇から六〇㌫、女子は四〇から五〇㌫にまで低下し、欠勤率は鶴見・川崎地区では毎月二五から三〇㌫に及び、特に長欠者の増加したのが目立つありさまであった(『東京芝浦電気株式会社八十五年史』、『横浜の空襲と戦災』3)。 労働力を補ったものは、中国や朝鮮から強制連行されたり、捕虜として連行された中国人であった。今日では、その実数すらあきらかにされていないが、一九四二年の一資料では、十二月七日、天皇の関西行幸の予定に際し、県下の朝鮮人特別一斉検索が行われ、取調人員一万千四百二十五名、検束者二百七十三名としている(資料編13近代・現代⑶二四六)。また、一九四三年六月二十四日、天皇の横須賀行幸にさいし、検索の対象とされたのは「朝鮮人飯場二六四九カ所及同人夫部屋、密住地帯等」であり、朝鮮人だけでも数万に達していたという。一九四二年十二月末現在の「協和会」会員数(在日朝鮮人数)は、二万九千百三十三名であった(資料編13近代・現代⑶二四四・二四五)。その後、在日朝鮮人は増加しつづけ、一九四五年には県内では六万余名が労働に従事していた。中国人については、不明の点が多い。 一九四三年度『神奈川県産業報国会事業概要』によると、産業報国会は二千三百単位で三十三万二千七十名が組織されていた。「本県ヲシテ一大兵器廠タラシメ、飛躍的生産増強ヲ図ルタメニハ全産業人ノ勤労精神ヲ昂揚シ、士気ヲ鼓舞スルハ喫緊ノ要務」であるとして、「産業報国精神ノ普及徹底ニ努メタ」とされる。けれども、会員にされた労働者は、産業報国会とは男子会員年額一円二銭、女子会員及び二十六歳未満の男子会員が六十六銭の会費をとられ、山本連合艦隊司令長官が戦死すれば、「飛行機献納運動」に約十五万円が徴集される組織であり、安全運動も一個一銭五厘の安全マークを買わされるものであった(資料編13近代・現代⑶二三八)。 このような状態のもとで、労働時間の延長、労働強化、生活条件の悪化等は、自然発生的な労働紛争議を続発させ、徴用逃れ、「不良工員」(欠勤、二重稼ぎなど)は後を絶たず、一九四四年七月十四日、横浜区検事局は、特に「応徴士」が職場離脱す産業報国会に組織された労働者の訓練 比嘉盛広氏蔵 ることに警告を発し、翌八月二十九日、県警は早朝五時から「不良応徴士」の一斉検挙をすすめ、約五百名を検束した。なお、職場離脱者は三千名以上といわれた。 朝鮮人・中国人の場合は、きびしい抑圧のなかでも、団結して「抵抗」した。朝鮮人の場合、一九四二年以降でも、二月五日に李信八などが、さらに二十六日には金岡雄三(朝鮮人・創氏改名で日本人名を名乗らされていた)などが独立運動、共産主義運動容疑者として検挙された。一九四三年三月二十日には、津久井郡川尻村の熊谷組工事現場の朝鮮人労働者四十五名のサボタージュなども記録されている。 また、中国人の場合は、一九四四年二月十八日の次官会議決定によって、「供出」(労工狩り)されて来たものだったが、脱走者が少なくなかった。時には、「抵抗」した例もあった。熊谷組与瀬作業所のように、七月十七日から八月二十日までに、六名が県外事課に検挙され、取調べ中行方不明一名、取調べ中心臓衰弱で死亡一名、出獄後五日目に脚気衝心で死亡一名、二か月後に胃潰瘍で死亡一名、北海道に移送二名となっている。事業場の証言では「食糧不足やまた周囲の情勢を察知したため、および部内悪質者の煽動などによって」逃亡したが、「連累者三名と横浜外事課に引致とりしらべられた」という。同現場には、二百九十二名の中国人が「連行」され、うち、二十七名が死亡している(中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標』)。 第六節 県民の戦争災害 一 戦争破局の状況 広がる不穏言動 一九四四(昭和十九)年七月七日、サイパン島が陥落し、戦局の不利はだれの目にも明らかになりつつあった。こうした状況下に七月十八日、東条内閣は総辞職をした。二十二日、小磯国昭内閣が成立すると、近藤知事は健康を理由に七月二十八日の第三回臨時県会後辞任を申し出て、八月一日依願免官となった。後任には、軍事保護院副総裁の藤原孝夫が就任してきた。十一月二十四日、通常県会が開催され、知事は「大和一致以て聖戦目的達成に挺身奉公の覚悟」を述べた。この県会の会議録はなく、『神奈川新聞』によって、知事の方針を知ることができるのみであるが、「生産力拡充、食糧増産、防空、銃後保健政策」がその柱になっていた(『神奈川県会史』第六巻)。しかし、県民の間には、戦争指導者への不信感が強まりつつあった。「日本は正義の国だと言っているが、宣戦布告前にハワイを攻撃したことは卑怯だ。だから日本は戦争に負ける。日本は勝った勝ったと言っているがノモンハンでもソロモンでも負けている」と批判したのは、横須賀市汐入町の理髪職(二十六歳)で、一九四三年二月十三日のことである(稲垣真美『天皇の戦争と庶民』)。 すでに、ガダルカナル撤退が発表され、つづいてアッツ・キスカ島の日本軍玉砕、イタリアの敗北がつづいた秋以降ともなると「不穏言動」の内容はさらに「漸次具体的に皇室に対し奉る反感不満となり、或は反戦的方面へと悪化しつつあるやの傾向を看取」されるようになった。内務省警保局保安課第一係の確認した一九四三年九月から一九四四年二月までの「不穏言動」のうち、神奈川県関係は次のようである(資料編13近代・現代⑶二三一)。 「勅語は大臣が作って天皇陛下は目を通す丈だ、天皇陛下は飾り物でこんな物は穀潰しだ(検挙、農業、神奈川)」「諸君、日本は何故今度の戦争をやってゐるんでせう、苛烈な戦争を幾万の同胞の生命物資を消費して何が聖戦でせうか、満州支那いや世界を制覇しやうとするのでしようか、侵略主義の日本の政治家よ、欺まんは何時でも永続しない、日本も滅びる時が来たのだ、噫々同胞よ反対せよ(小額紙幣利用、神奈川)」 一九四五(昭和二十)年三月、艦載機やB29の空襲がはげしくなると、庶民は文通のなかでも真情を訴えあった。通信院通信監督局の郵便検閲には次のような事例があった。「率直に言って陸軍の海洋作戦に対する理解の欠如が斯る結果を生んだのではないかと考へてゐます(神奈川・男)」「今日本に欲しいものは飛行機より鉄砲より偉大なる政治家である(神奈川・男)」「最低生活だけ確保して戴けばどんな労苦にでもしのびます(神奈川・女)」「こんな調子だったら栄養不良になり身体が跡かたもなくなって了ひさうです(神奈川・男)」「ソ連が中立破棄でもしたらどうなる事やら各自の運命も目先が真暗な気がする(神奈川・女)」「いよいよ情けないことになりました、戦争には勝てさうにも無い様ですね(神奈川・女)」(日本の空襲編集委員会編『日本の空襲』一〇)。こうしたひそかな独白は、いつ声をそろえて爆発するかもしれなかった。 警察統制の強化 民衆の不満をいち早く察知し、抑圧することが、戦争遂行にとって欠かせないものとなっていた。さきに総動員法の精神的支柱と見られていた部落会・町内会があらためて再編されてきた。 部落会・町内会にたいしては、一九四二(昭和十七)年十月、消費経済部設置による配給機関との連絡、割当配給制、生活必需物資の必要量調査などの業務分担、一九四三年四月健民部、五月納税部の設置など、行政の末端機構としての日常業務負担が求められてきたが、一九四三年六月一日施行の地方制度改正にともない、市町村長に部落会・町内会の監督指導権限が付与され、同時に部落会長・町内会長等に市町村事務の一部を援助させるようになった。こうして部落会・町内会は部分的ながら「法認」され、行政機構に組み入れられていったのである。そしてまた、町内会・隣組も上から作られた組織であった。一九四五年十一月末の東京都の調査ではあるが、町内会が上意下達機関、隣組が配給制単位として住民にとらえられていたにもかかわらず、「人情のあまりよくない地域」では、隣組もまた「隣保共助」とは程遠かったことを報告している。このような事態のもとで、さきに指摘したように、一九四三年六月の地方行政協議会設置にさいし、関東地方ブロックでは警視庁が「行政機関」として参加していた。 いまその事情を一九四二年十一月一日現在の県庁機構でとらえなおしてみても、警察部の所管事務がかなり包括的であることがうかがえる(『神奈川県会史』第六巻)。 戦時体制強化のために発行された『翼賛神奈川』107号(1943年2月) 岡本一氏蔵 知事 知事官房 人事課、庶務課、統計文書課、会計課、営繕課 内政部 振興課、地方課、教育課、兵事厚生課、衛生課 経済部 農務課、食料課、蚕糸課、商工課、経済統制課、耕地課、林務課、水産課 貿易調査室 土木部 経理課、道路課、河港課、都市計画課 地方事務所 警察部 外事課、特別高等課、警務課、警防課、保安課、刑事課、経済保安課、建築課、労政課、職業課、保険課、情報課 警察練習所 さらに、一九四三年七月一日から隣組防空群の指揮統制はすべて警察署長が行うこととなり、十二月三十一日には警察部に臨時疎開課が設けられ、各署警防係を指揮して建物や学童疎開を担当した。一九四四年三月一日には、職業課を国民動員課に改称、徴用や挺身隊の動員にあたり、三月二十九日、保安課を輸送課に改編し、運送や旅行制限などを担当することとなった。なお、十月二十三日には警防課が防空課と警備課に分かれ、消防は官・私設とも一体となって警備課の所管となり、労働者の統制に関しては一九四〇年一月、工場課が労政課となって産業報国会を掌握、指導し、一九四二年十一月、職業課(のちに国民動員課)を創設して、根こそぎ動員にあたっていた(『神奈川県警察史』中巻)。 空襲の脅威 一九四三(昭和十八)年十一月の通常県会で、ドイツのハンブルグ空襲が「約一週間ニ亘ツテ六、七百機ノ戦爆連合ノ爆撃ガアツタ、八十万人ノ横浜ニ近イ処ノ大都市ガ八割ハ被害ヲ受ケタ、二万人ノ死傷者ヲ出シタ、負傷者ハ以テ知ルベシト云フ姿デアリマス」「果シテ斯ウ云フ最悪事態ガ招来シナイトハ何人モ云ヒ得ナイ」状況について質問がでたが、近藤知事は「斯ウ云フ問題ハ防諜上モ問題デゴザイマスシ、モウ一ツハ与ヘル影響、刺戟ヲ考ヘマシテ(最悪事態ニ対スル対策ハ)ヤル場合ニモ出来ルダケコツソリヤルヤウニト指導シテ居リマスルノデ、世間ニハ表ニハ出テ居リマセヌケレドモ、県トシテハ十分ニ考ヘテ居リマスルカラ、此ノ点御安心願ヒタイ」と答えていた(『神奈川県会史』第六巻)。そのときすでに防空法に基づく「神奈川県防空計画」は、この年十月二十八日に策定されていた。これが、実現する可能性があったかどうかおぼつかなかった(『横浜の空襲と戦災』3)。 第一に、本土防空作戦の主体である軍は、一九四四年七月のマリアナ諸島失陥によって、対策のたてようもなくなっていた。八丈島の警戒機がB29を発見して、日本機が迎撃するまでの時間は、約七十五から八十五分を要し、これにたいし、B29の東京到着時間は約六十分であったから、「敵機来襲の報により出撃しても、最早敵機は姿を消した後」になる(毛塚五郎『東京湾要塞歴史』第三巻)。しかも、一九四五年三月ごろ、「皇居を中心とする帝都及びその周辺の重要施設を掩護」するため、第十二方面軍高射第一師団の主力(砲約六百門)を配置していたが、B29の来襲にたいしては、有効とはいえなかった(防衛庁防衛研修所戦史室『本土防空作戦』)。 すでに、県下には一九四四年二月現在、女子挺身隊員をも大幅に動員した防空監視隊が三、四十か所に配置されていたが、「敵の高々度爆撃に備へるため監視員に双眼鏡を与へたらどうか」とか、協力会を組織して、国費支弁の不足分を補うという程度のものであった(『神奈川県警察史』中巻)。 二 本土決戦の根拠地 食糧の欠乏 一九四四(昭和十九)年十一月二十四日からの通常県会は、全議員が国民服、ゲートル姿という「防空服装」で参集、第一日から警報発令で散会という緊迫した空気の中で開かれた。二十六・二十七両日を休会、二十九日には実質四日間の審議で閉会となって、会議録すら残されていない。この県会では、県下の食糧生産が絶望的であることを反映して、議員提出の「食糧増産に関する建議」が開会冒頭に提出された。建議書は、「今秋来多量の降雨の為水稲の収穫、麦の蒔付け遅延を来し、殊に麦の適期蒔付は已に経過したるに未だ全県下を通じて其の半に達せざる状況」で、当局の一層の工夫と特別の手段を速やかにこうずることを要望していた。しかし、当局側の対応は、県下水稲作付面積一万六千町歩(約一万五千八百ヘクタール)余のうち、天水地帯、谷戸田を除いた一万二千町歩の五割、六千町歩に集団苗代を促進し、また旱水害に備えて本田一千町歩に対し予備苗代二十五町歩を畑地から転換させるというものにすぎなかった(『神奈川県会史』第六巻)。 こうした事業をすすめるためにも、農業労働力の確保、生産意欲と効率を高めるための自作農創設・土地改良などの課題の解決が不可欠であった。 労働力の確保は、すでに女子はもとより、児童・生徒にまで及んでいた。神奈川県の場合、女子挺身隊や学徒動員は、工場・事業場に集中し、農村には周辺部農家へ季節的に数日から数週間派遣されたにすぎない。一九四四年二月、徴用を免除するための「戦時農業要員指定」制度が発足し、農業に専従する青壮年男子や、女子に「令書」が交付され、農村女性は挺身隊動員を原則として免除された。しかし、実情は徴用や挺身隊、報国隊への動員が行われ、農閑期には当然のことのように各方面への勤労奉仕に出動させられた。また、警防団への出動も日常化していった。それでも一九四四年秋の農繁期には、二十万人の学徒が農作業に動員された。しかし、上級生は工場動員に通年動員されており、労働力は水増しされて作業の進行が遅れ、三から四日の繰延べ奉仕や、追加再出動まで命じられていた。またこの年の十二月末から一九四五年三月末まで、通年動員されていない中学一、二年生を中心に八万六千七百名、実働延べ十七万三千三百五名が動員され、高座・鎌倉挺身隊では、国民学校児童までを動員していた(『相模原市史』第四巻)。 都市の食糧確保はいよいよ困難となっていた。横浜市では、一九四四年三月、市内の公園を国民学校や町内会に開放して農園づくりをすすめ、市内のあらゆる空閑地の一坪菜園を推奨した。しかし、その結果、一月から九月までに、赤痢等が三千四百余名も発生、死亡三百五十余名という犠牲を生じ、糞尿の使用に特に注意することを呼びかけるほどであった(『読売新聞』昭和十九年三月二十一日付、『朝日新聞』昭和十九年十月十五日付)。 県商工経済会が、十一月、横浜市内の工員、官公吏、商人など四十八世帯を調査したところ、魚類の入手総量のうち一か月平均配給八回で六二㌫、その他は買い出し等によるものであり、野菜はことに「配給量に対して買出量が目立って多く、入手戦時農業要員指定令書 座間功氏蔵 相模原市立図書館古文書室所蔵 数量を一〇〇とすると配給が二〇・三、買出が五〇・八」で、配給回数は一か月三、四回、一人一か月の配給量は三百匁(約一・一㌕)程度であった(『朝日新聞』昭和二十年二月十六日付)。 一九四五年に入ると、状況はさらに悪化した。県が一月に行った横浜など七市、大船など六町と温泉村の「生活必需物資配給調査」によると、各地域ごとのバラつきがひどく、特に農村周辺部のそれは異状ともいえた。十日間の配給回数は(魚・蔬菜の順、カッコ内は少ない地区)、横浜市魚七回(一回)蔬菜六回(一回)、川崎市五回(ナシ)五回(ナシ)、横須賀市四回(ナシ)六回(ナシ)、鎌倉市三回(一回)五回(一回)、小田原市五回(ナシ)三回(ナシ)、平塚市一回(ナシ)五回(ナシ)、藤沢市二回(ナシ)三回(ナシ)となっている(『朝日新聞』昭和二十年二月二十八日付)。 もはや、買い出しも金では食糧が確保できなくなり、「物々交換」が当然のことのようになった。しかも、戦局の悪化にともない、「ある農村では、〝敵に上陸されて躙られる位なら〟と田畑を放任する傾向」があらわれ、甘藷・馬鈴薯の種いもまで買い出しに「流出」する事態すらあった(『毎日新聞』昭和二十年三月二十三日・二十五日付)。 「物々交換」の物資すらもたない都市民衆は、「野荒し」の直接行動に出た。住宅地に近接したところほど被害が多く、七月二日、横浜市南太田町農事実行組合が馬鈴薯畑を見張り中、六貫目(約二十二・五㌕)ほど盗みとろうとした四十八歳の男と乱闘、ついに撲殺したが、八日、横浜検事局は正当防衛に準ずるとして起訴猶予にするという事件まで発生した(『朝日新聞』昭和二十年七月五日・十日付)。 本土決戦の準備体制 戦局は決定的に悪化し、一九四五(昭和二十)年はじめには、軍部も米軍の攻勢が直接本土にむかうであろうという判断のもとに、男子の動員による本土防衛軍の創設、本土の要塞化を急いでいた。この様な状況のなかで四月五日、小磯内閣は総辞職し、三月末から沖縄に米軍が上陸するという決定的な段階で、翌々七日、鈴木貫太郎内閣が成立した。「和平」のための内閣とささやかれつつも、急速に軍主導の「決戦準備」が進められた。このとき、すでに、陸軍は三月三十一日、第一・第二総軍、航空総軍の臨時編成を発令して、陸海軍の大動員をすすめ、海岸陣地の構築や軍用施設の拡張などを大規模に行った。このための土地・建物・工作物の管理、使用、収用を目途に、「軍事特別措置法」を三月二十八日に公布し、五月二日に施行した。さらに、六月十日には軍事組織と地方組織を一体化した全国八地方総監府が設置され、地方行政は軍管区司令部の指揮下に入り、六月二十三日公布の義勇兵役法により十五歳から六十歳までの男子、十七歳から四十歳までの女子が国民義勇戦闘隊に編入されることとなった。 藤沢市の『昭和四年起金子家重要記事』は、一九四五年四月下旬より本土決戦の臍を固めた軍部が「着々本土の防衛陣地構築に力を注ぎ、藤沢方面に護東部隊と称する大部隊」を集結し、各農家に宿舎を定め、「小糸・小ケ谷・城山・長坂山・赤羽根等の山腹に坑道を掘り穿ち、其の坑木用材として附近の山林松杉を大部分伐採し」「五月末国民義勇隊の組織」をつくり軍に協力し、「陣地構築に毎日半強制的に従事した」ことをしるしていた(藤沢市文書館所蔵『金子小一郎稿本』)。 当時、相模原附近では、一九四五年十二月から翌四六年一、二月ごろ「東京を中心として九十九里浜と相模湾から挟み撃ち式に上陸するだろう」とひそかにうわさされていた。事実、第一防衛陣地は九十九里浜や湘南海岸、東海道沿線にすでに点てんと配備されていた。それらは海岸に穴を掘ってコンクリートで固め大砲を据えつけて、敵が上陸しても一歩も退かず全員玉砕するのだというので「はりつけ師団」と称していたし、「上溝の久保には、相模湾上陸防衛工作部隊の隊員が駐在して、防衛資材の伐り出しの督励」にあたっていた。また、「第二防衛陣地は高座郡中部の海老名から長津田方面、第三防衛陣地は相模原から多摩丘陵地帯にかけて」設営されるとともに、十八歳前後の青年を待命者とする郷土防衛隊がつくられた。これは「上溝防衛隊」と称し、「人選は兵事課で行って、動員学徒や造兵廠勤務者などは除外された。隊長は井上隆雄中尉で、横浜野毛の地区司令部の傘下に属し、五月一日部隊が編成された。事務所を上溝高等女学校のミシン室に置き、必ず一名は常駐した。五月十日に最初の防衛召集をかけた。三個小隊で小隊長は下士官、隊員は三百五十名であった。装備は皆無で、一応青年学校の銃器を借りることにはなっていたが、それらは皆中津分屯隊に使用され、竹槍訓練をすることになった。竹槍は各自に作らせた。警報の都度防衛召集をし、その時の状態によって訓練を行った」という(『相模原市史』第四巻)。 軍が計画した「本土決戦準備」がどこまで実効性があるかは、軍自体にも疑念が残っていた。四月、座間陸軍士官学校跡の武蔵部隊に入隊した岩城七郎は「ついたその日から空襲にあって裏山に逃げた。軍靴もなくみんなでわらじを作った」と語っている(『東京民報』六一五号)。 この劣弱な装備をカバーするものは機甲兵団の動員であるが、四月十一日から十三日に行われた千葉戦車学校の「連隊長要員図上戦術記事」によると、平塚・茅ケ崎に上陸した米兵を遊撃する歩兵は、二十四時間のうちに第一攻撃(夜間)で二〇㌫、第二攻撃で六〇㌫、第三攻撃で二〇㌫の被害をうけ、全滅する。これを援護する砲兵隊も六〇㌫の被害、機甲部隊(戦車六百両)も三〇㌫が破壊されるという想定であった(小沢謙吉氏の教示と提供の旧軍資料)。 藤沢市長は「七月初旬、秘密命令書を入手、『藤沢市民の中、幼児、病男女二万五千名を信州上諏訪方面へ疎開せしめる準備をなせ』此の書状を一読した時、全く途方に呉れた」とその苦痛を書き残している(『金子小一郎稿本』)。 三 都市無差別爆撃の展開 空襲対策 神奈川県下は外国人の在留する者も多く、米英等の捕虜も強制労働に服していたから、「まさか空襲はされまい」という期待を持つ者も少なくなかった。一九四一(昭和十六)年七月末現在で、中国人を除くドイツ、イギリス、アメリカなど四十四か国九百七十六世帯千九百二十四名の在留外国人が県下に生活していた。太平洋戦争開始にともない、八か国が国交断絶、「敵性外国人」六百七十五名が横浜市新山下町および根岸競馬場に設けられた抑留所に収容された。一九四二年七月末までに大半は交換船で帰国したが、一九四三年六月下旬になって、なお残留した男子五十三名を足柄上郡北足柄村の「県第一抑留所」に、女子九名を横浜市戸塚町の「第二抑留所」に収容した。また、敵国人ではない外国人も、一九四四年五月になって「居住地域」を箱根地区一帯に指定し、約千五百名がそこで生活するようになった。箱根地区は非戦闘地区として連合国に正式に通告され、東京・横浜所在の大・公使館、領事館、商社なども移転して、仙石原にはドイツ村が誕生したという(『神奈川県警察史』中巻)。 しかし、空襲は避けられるという期待はもてなくなっていった。昭和十年代に急増した県下の工場は、兵器生産と関連した船舶・自動車・通信機器・金属精錬・金属材料・重電気機器工業などにたずさわり、それらは横浜・川崎に集中していた。しかも、軍直轄の工場には横須賀海軍工廠、横須賀海軍技術廠、相模陸軍造兵廠(相模原)をトップに、海軍燃料廠(大船)、海軍火薬廠・海軍被服支廠(平塚)、高座海軍工廠などがあり、軍施設は、追浜・厚木の海軍航空隊、中津の陸軍飛行隊、座間の陸軍士官学校などが、「帝都」を包みこむ形で配備されていた。 戦局が悪化するなかで、軍・政府は、当面の空襲対策として、まず重要施設周辺民家の疎開を考えた。一九四三年十二月二十一日の閣議決定により、京浜工業地帯など十二都市が疎開区域とされた。 川崎市では一九四四年一月二十一日、横浜市では二十六日、臨時疎開課が設置され、四月二十一日、県下初の工場のまわりの建物そのものを取壊す除去作業も横浜市鶴見区で行われた。県もまた、二月十五日、五月一日、七月二十八日と、各一日の臨時県会を召集して、総額四千四百万円余の予算を決定した(別に、学童疎開対策として九百七万円)。第一次・第二次の疎開実施には二千五百十五世帯が移転し、建物千六百十一棟を除去した(『神奈川県会史』第六巻)。 しかし、建物疎開が本格化したのは、一九四五年三月十日、東京大空襲からである。川崎市の場合、対象七千六百八十八戸のうち四千六百四十戸は三月十七日の指定となっている(『川崎市史』)。県の公表では、強制疎開による住宅破壊は三万五千四百三十二戸、空襲による全焼・全壊は川崎・横浜両市で約十三万五千戸というから、民衆にとって、大きな犠牲を強要されるものであった。 アメリカ軍の戦略爆撃 本土初空襲は一九四二(昭和十七)年四月十八日のことであった。航空母艦から発進した陸軍中型爆撃機ノースアメリカンB25十六機のうち十三機が、房総半島を横切って京浜地方を空襲した。横浜市に来襲した一機は南区堀ノ内に焼夷弾を投下し、機銃掃射で六歳の幼稚園児が死亡した。川崎市に来襲した三機は、大師地区と臨海工業地帯に爆弾、焼夷弾を投下し、日本鋼管・横山工業で死傷者をだし、昭和電工、富士電機、日本鍛工等の建物にも被害があった。警察の調べでは、死者三十四名、負傷者九十名、建物全焼三、全壊二などとなっている。また、横須賀市にも一機が来襲、爆弾三発を海軍工廠に投下し、一発が乾ドックで改装中の潜水母艦大鯨に命中した。 初空襲の被害も局部であったため、市民の間に緊張感を高めることも少なかったが、軍部は空襲警報も出さないうちに、やすやすと「帝都空襲」を許したことに衝撃をうけた。 一九四四年六月、連合軍のノルマンディー上陸作戦に呼応して、米軍はサイパン上陸作戦を企図し、十五日、中国の成都基地からB29が北九州の八幡製鉄所を目標に日本本土に襲来した。七月上旬にはマリアナ群島が米軍の手におち、つづいてフィリッピン奪回作戦が計画され、十月十日、沖縄の那覇市にたいし、市街地の九割を焼きつくすという、最初のじゅうたん爆撃が行われた。米軍のサイパン・テニアンの飛行場が整備されると、日本全土がB29の行動可能圏にはいり、十一月一日、偵察用のB29が東京上空に飛来した。二十四日にはB29百十一機が中島飛行機武蔵野製作所を爆撃した。航空機工場にたいする高空からの爆撃がつづいた。県下でもこの日、横須賀・川崎等に一部が来襲したが航空機工場はあまりなかったためこの段階では攻撃の対象とならず、市民の間ではB29を「お客さん」と呼ぶなど、甘い考えすら生まれていた。 一九四五年二月、硫黄島上陸作戦を前にした十六・十七日の両日、機動部隊から発進した米艦載機が、航空基地を目標に横浜・川崎市街地上空を数百機の規模で乱舞し、一日中、銃爆撃をくりかえした。被害こそ小さかったが、至近攻撃のエンジンや機銃音の恐ろしさに、市民はふるえあがった。こうしたなかで、ワシントンの第二十航空軍は、高空からの航空機工場への精密爆撃という戦術に効果がないことから、マリアナ基地の司令官をルメイ少将にかえ、二月四日神戸、二十五日東京と、市街地に焼夷弾攻撃を加えた。三月九日から十日夜の東京大空襲には、約三百機のB29が出撃、千六百六十五トンの焼夷弾を投下、浅草、神田、本所など目標地域の八二㌫を焼き尽し、死者十万名を生じた(今井清一『大空襲五月二十九日』、『日本の空襲』四)。 じゅうたん爆撃の拡大 東京大空襲の「戦果」に基づいて「十日間の焼夷弾電撃戦」が名古屋、大阪、神戸とつづいた。米軍はつづいて工業上の重要度が高い大都市の市街地地域に焼夷弾じゅうたん爆撃を行うこととし、二十二の目標地域を選定し、これを三段階に分けたが、県下では第一段階に川崎Ⅰ、第二段階に川崎Ⅱ・Ⅲと横浜Ⅰ・Ⅱとが入っていた。三月末からB29は沖縄作戦に動員されたが、この間をぬって工場夜間爆撃もつづけられた。四月四日未明、横浜の臨海工業地域が爆撃され、死者二百十四名、負傷者二百十一名をだした。つづく十五日深夜の川崎空襲では、横浜市鶴見区も中心部を焼きはらわれた。市民は本格的空襲の恐ろしさを知らされ、五月はじめの新聞は「空襲警報が発令されると、大の男までいち早く横穴壕や、空地、山中に逃げ込む者が多い」と伝えていた。 このあと、B29は関東地区への来襲は一時なかったが、かわって硫黄島基地からのP51の編隊が県下各地にも機銃掃射をくりかえした。五月八日、ドイツが降伏し、日本は完全に孤立した。沖縄戦でも日本軍は米軍に圧倒された。B29を指揮する第二十航空軍は、この衝撃を利用して日本の降伏を早めようとして大都市焼夷弾じゅうたん爆撃を強化することを指令した。五月二十四日未明と二十五日深夜には東京がじゅうたん爆撃をうけ、横浜・川崎にも被害があった。五月二十九日には、横浜がP51百一機の援護をうけたB29五百十七機の昼間高々度焼夷弾じゅうたん爆撃によって、市街地のほとんどを焼きつくされ焼野原となった川崎市街 川崎市主催・川崎空襲展示提供 た。午前九時二十三分から一時間八分の間に大型焼夷弾二万二千二百二十四個、小型焼夷弾四十一万五千九百六十八個が投下され、被害総数はいまだに明確でないが、罹災七万五千戸、罹災者三十一万名、死者・行方不明は公表で四千名(実数は二、三倍)、負傷者一万名といわれた。この一回の爆撃で、横浜は目標リストからはずされた。じゅうたん爆撃の結果、六月中旬までに東京・名古屋・大阪・神戸・横浜・川崎の六大都市が焦土となった。 六月九日には米軍は航空機工場にたいする精密爆撃を再開し、十七日からは目標リストからはずされた中小都市にたいする焼夷弾じゅうたん爆撃をはじめた。いずれも数目標を同時に攻撃する方式がとられた。六月十日の横浜空襲は日本飛行機富岡工場を目標としており、七月十六日から十七日夜には平塚市がB29百十七機の焼夷弾じゅうたん爆撃をうけ、茅ケ崎町・小田原市にも被害があった。七月後半には川崎・鶴見臨海工業地帯の精油所が襲われた。 七月、八月とも連日のようにP51や艦載機が県下の郡部まで襲い、P51のロケット弾の破壊力のすさまじさは県民に深刻な恐怖を与えた。そうしたなかで、八月六日、広島に原子爆弾が投下され、八日にソ連が参戦し、九日に長崎に原爆が投下された。十日、日本政府はポツダム宣言の条件付受諾を申し入れたが、十三日、降伏をせきたてるように艦載機の空襲がつづいた。十五日未明、小田原市が最後の焼夷弾じゅうたん爆撃をうけた(今井清一『大空襲五月二十九日』)。 四 「終戦」をむかえる県民 戦争災害の地域的特質 県民に与えた空襲の惨禍について、県警察部調べでは、一九四四(昭和十九)年十一月二十四日から一九四五年八月十五日までに五十二回の来襲、死者六千三百十九名、重傷二千八百十三名、軽傷一万四千三百十六名、罹災者六十四万四千五百九十一名、全焼・全壊戸数が十四万四千八百八十六戸、半焼・半壊戸数は千八百九十七戸としている(『神奈川県警察史』中巻)。 もちろん、県民で直接戦闘に参加した青壮年男子は、十九万八十四名、うち戦死・戦病死者は四万六千八百八十名という犠牲も大きい。しかし、一般民衆の被害は八か月間、とくに一九四五年四月以降に集中していることを見れば、そのすさまじさは想像できよう(『日本の空襲』四)。 しかも、県民の被害にも地域差、階層差があった。空襲による死者の八九・三㌫、重傷者の一〇〇㌫が、横浜・川崎・平塚をはじめ横須賀・鎌倉・藤沢・小田原の七市に集中したと報告されている(「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」『東京大空襲戦災誌』第三巻)。さきに見たように、県下の都市爆撃は戦略施設にたいする精密爆撃から、住宅地域・商業地域などに濃密に焼夷弾を投下するじゅうたん爆撃に米航空軍が戦術を変更した期間に行われている。いわば「下町」に被害が集中したのである。 工場被災の状況についても同様である。アメリカ戦略爆撃団報告書第五十六号『複合都市、東京・川崎・横浜に対する空襲の効果』(一九四七年六月)は「航空戦争の期間十か月の間に、四千二百三十機がこの地域に二万二千八百八十五トンの爆弾を投下したが」「うち一万六千二百十七トンすなわち七一㌫は焼夷弾」であり、「地域爆撃は、この三都市に投下された爆弾の七九㌫」を占めたという。また、「限定された目標や特定の施設にたいする爆撃は、三都市に投下された爆弾総量で言えば二一㌫」を占め、第一の目的は、航空機工業と石油工業にあり、少数の小規模爆撃が鉄鋼工業と電機工業や船舶にむけられた。航空機工業にたいする大規模な爆撃は、ほとんど東京郊外の中島飛行機工場にのみむけられた。一九四五年四月のことである。さらに、七月と八月終戦直前に、「川崎の臨海地区にある三つの大きい精油所にたいしてこの種の爆撃が加えられ、最大の爆弾量が投下され」、その結果は、東京の場合、労働者数百名以下の小工場は、「爆撃による被害が約七五㌫の生産減退」となったと推定され、これらの工場は、大部分は都市の比較的人口稠密な部分に位置し、したがって焼夷弾爆撃にきわめてもろかった。しかし大工場は、比較的人口の少ない郊外に位置し、全体として大きな被害をまぬがれたようである(『横浜の空襲と戦災』4)。 経済安定本部も米戦略爆撃調査団も、戦争災害について、空襲による直接被害よりも、疎開などの間接被害の大きさを指摘している。国民経済研究会調「終戦時における重要物資生産設備能力」によれば、一九三七年を基準にして、アルミ七五八・八㌫、工作機械二四五・五㌫、銑鉄一八六・六㌫、鋼材一一八・五㌫、石油精製九一・八㌫の生産能力にたいし、綿紡一九・五㌫、人絹一五・五㌫、スフ四〇・八㌫など、民衆生活に必要な生産能力はすべて低下していた(有沢広巳・稲葉秀三編『資料戦後二十年史』2経済)。 広がる逃避と厭戦気分 戦局の不利、空襲の激化は、県民の間に政治不信や前途への不安をかきたてていた。一九四五(昭和二十)年二月二十七日の鎌倉市会で、市長は「ガダルカナル以来戦意ニ付テハ多少遺憾ノ点アルト考ヘル」と、市民の動揺を認めた(『鎌倉議会史』記述編)。 横浜大空襲後、この傾向はいよいよ強まり、民衆の動揺は、いろいろなかたちをとってあらわれた。たとえば、六月下旬にかけて朝鮮人労働者の脱走者は八十二名(横浜空襲・戦災誌編集委員会『調査概報』第九集)に達し、横浜検事局は「最後の復帰勧告、なほきかぬ工員は断乎検挙」などの新聞報道をくりかえしていた(『朝日新聞』昭和二十年七月十三日付)。また、東芝の例をみると、一九四四年後半にはいると食糧事情が極度に悪化し、従業員の家族の疎開も相つぎ、また空襲による従業員の動揺などもあり、出勤率はきわめて悪くなり、「欠勤率は鶴見・川崎地区では毎月二五~三〇㌫に及び、特に長欠者の増加したのが目立った」というありさまであった(『東京芝浦電気株式会社八十五年史』、『横浜の空襲と戦災』3)。 こうした事態は、都市部にだけ、ひろがっていたのではなかった。足柄下郡吉浜町役場の『職業発来翰綴』に、一九四五年一月五日受付で、川崎の東洋通信機から同町居住の応徴士が自宅で病気療養中と申し立て欠勤をつづけているので、診断書を提出するか、「徴用者ノ補充困難ナル時ニ有リ病気全快後ハ直ニ出勤致ス様本人ニ御通知」願いたいという要求や、七月二十一日付で、横須賀海軍工〓深沢分工場鋳造工場から、一九四四年七月七日より「無断欠勤後逃亡」した青年(二十五歳)の調査依頼があるように、町や村でも戦争にたいする嫌気の空気が流れていた。とくに、この青年については、八月十五日付の吉浜町回答では、九月十四日、東部第十四部隊に召集令状が出されており「極力捜索中」とあった。徴用も徴兵からも逃げきろうとした青年がいたわけである(湯河原町史編集室所蔵文書)。 しかし、これらの厭戦、逃避の行動は、あくまでも利己主義的なものであった。戦略爆撃調査団が、一九四五年十一月、横浜の百十一名から「日本人の戦時中の経験談」についてインタビューしているものから現存する録音テープ十四名分をみると、「戦争中、国民のお互いの振舞いや態度が、かわっていきましたか」という問いに、「それは、もう自己主義になっちゃうのかなあと……ああして料理屋にいるといちばんよくわかると思うんですけれどね、たべにくる人はみんな上流の人ばっかり」(女、中華料理店女中)とか、「みんな親切がなくなったということですね。男の人が女の人をつきとばして電車に乗ることなんか平気でしたから」(女、鶴見区)等々、利己主義的な生き方が一般化したことを指摘していた(「米国戦略爆撃調査団尋問記録」『横浜の空襲と戦災』4)。 不安と期待の「終戦」 一九四五(昭和二十)年八月十五日正午、未明の空襲により小田原市街がまだ戦災でくすぶっているなかで、県民は「終戦」をむかえた。しかし、十四日のマリアナ基地では、原爆第三弾の投下を二十一日以後、札幌・函館・小樽・横須賀・大阪・名古屋のうちの一つに予定していた(『日本の空襲』四)。 八月十五日の県民の表情は複雑であった。「本土決戦」を呼号した軍隊は、いちはやく解体した。八月十八日付、突第一〇一三〇部隊長から足柄下郡仙石原村長あての通知には、「事態ハ急転シ闘魂空シク悲涙ヲ呑ムデ矛ヲ収ムルノ余儀ナキニ至」ったので、道路・小橋梁修繕、援農、小運送、戦災整理等に「意ヲ用ヒ度候条貴管内ニ於テ御希望御要求有之候ハバ忌憚ナク御申越相成度乍微力万全ヲ尽ス所存ニ御座候」とあった(資料編12近代・現代⑵八一・一一〇)。 軍が崩壊し、信頼できないなかで、民間人の「決起」があった。横浜市の警備隊に応召中の陸軍予備大尉佐々木某指揮下の一個小隊二十名と、かねてから校長鈴木達治の影響をうけていた横浜高工生など計三十数名は、「拳銃三丁、小銃一丁、軽機二丁」と「トラック二台、乗用車一台」という武装で、八月十五日夜明け、鈴木首相官邸と平沼邸を襲った。「降伏の大詔が天皇の真意ではないと曲解した人々によって」ひきおこされた事件で、一般からなんの支持も得なかったので、いずれも局部的事件で終わった。この事件で学生を送致した警視庁は、憲兵隊の判断で放免された佐々木の所在を追及し、つきとめたが、十月十二日、特高解体のため捜査をうちきり、「そのため結果的には雷同者の学生だけが処罰されて、主謀者はおかまいなしという不合理なことになってしまった」ともいわれるが、この事件は戦争にかりたてられてきた青年のやりきれない気分を反映するものでもあった(鈴木達治『煙州残筆』、児玉誉志夫『風雲』下巻、山口倉吉「あれから七年」『神奈川公論』昭和二十七年八月号、『警視庁史』昭和前編、林茂編『日本終戦史』上巻)。 こうしたなかで、一般県民は「一時呆然自失」か、「モトノ浜ノ状態ニナル位ニ考ヘテ楽観的ナルモノ寧ロ多シ、但シ次第ニ悲観的ニ傾キツツアリ」というのが実情であった。しかしまた、事情を見きわめようとする努力もあらわれていた。その一つとして朝鮮人居住地域では「マンセーイ、マンセーイ」の声がわきあがり、九月はじめには、早くも「帰国手当要求」の運動がおきていた(『京浜の夜明け』)。 九月中旬ともなると、無産政党や労働組合再建の動きも急速にすすんだ。県警察部はその動きに注目し、逐一内務省に報告していた。九月二十七日現在、県の情報収拾と判断は「日本管理ハ結局ニ於テソ連対米国ノ闘争」であり、「ソ連対米国ノ変化ガ日本ノ管理ニ影響シテ来ル」という点においていた(『横浜の空襲と戦災』5)。さし迫った生活の危機、敗戦、さらに占領軍受入れの窓口として、神奈川県民は不安と期待のうちに将来の進路を読みきれないでいた。 第三編 現代 第一章 占領・復興期 第一節 連合軍の進駐と神奈川県 一 進駐軍と神奈川 敗戦直後の混乱 一九四五(昭和二十)年八月十四日、日本政府はポツダム宣言の受諾をスイス、スウェーデン政府を介して連合国に申し入れた。翌八月十五日の正午から、天皇の「玉音放送」を通じて日本の降伏の事実は国民に知らされたのであった。 その日、県知事藤原孝夫は次のような神奈川県告諭第一号を発表した。 本日畏クモ大詔ヲ拝ス 上御一人ニ対シ奉リ洵ニ恐懼措ク処ヲ知ラズ事態コヽニ至ル、帝国ノ前途ハモトヨリ益々困難ヲ加フベシト雖モ神州ノ不滅ト国体ノ存続ニツイテハ微動ダモスルコトナシ、コノ上ハ県民ヨク堪へ難キニ堪へ、忍ビ難キヲ忍ビ帝国ノ運命ヲ将来ニ開拓セザルベカラズ、事コヽニ至ツテ苟シクモ私意ニヨリ軽挙妄動シ、秩序ヲ乱スガ如キコトアラバ宏大無辺ナル大御心ニ副ヒ奉ル所以ニアラザルノミナラズ他ノ乗ズルトコロトナルベシ、全県民一心益々ソノ結束ヲ固クシ速カニ国力ヲ養ヒ、国威ノ恢弘ニ専念シ以テ聖慮ニ答へ奉ランコトヲ期スベシ(横浜の空襲を記録する会『横浜の空襲と戦災』5) 未曽有の敗戦によって日本の将来がどうなるのか、これからの生活がどうなってゆくのか、見通しのつかないのは国民のみならず指導者についても同様であった。敗戦前後の県内各層の動きはほとんどが見通しのない暗中模索の裡にとられたのである。 当時の内務省の資料は 一 一般県民ハ抗戦ト思ツテヰタ者多ク昨日ノ発表ニテ一時呆然自失ノ態 金融界ニ於テハ郡部ノ銀行・郵便局ノ予金引出シ多ク、一部ニ於テハ事実上手持金足リズ仕払停止ノ状況ヲ現出シアル所アリ神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像アリ『敵ハ十八日神奈川ニ上陸スル』ノ流言多シ(中略) 二 駐在部隊ハ一般ニ格別ノ動キナキモ ⑴ 断部隊(軍)ニ於テハ一千八百万円ノ予算ノ内一千万円ヲ昨日日本銀行ヨリ引キ出ス ⑵ 追浜特攻隊ニ於テハ斬込隊ヲ組織セリトノ情報アリ ⑶ 戸塚駅ニ昨日海軍機ノ撒布セルビラト同様ノモノヲ撒布セリ(中略) 八 ◎特異ナル点 横浜・川崎・横須賀三市ノ婦女子ヲ山間ノ方ニ疎開サセルベク暗ニ指導シツツアリ(『横浜の空襲と戦災』5) などと県内の動向を記している。 当時の関係者の回想によれば、八月十六日に、県庁の各係、出先機関の廨長、地方事務所長、それに横浜・川崎・横須賀の三市長を集め「藤原知事から敗戦になったについて、県としてまた地方の廨長としてどういうふうに事に当って行くかということについての一応のお考えを述べられたのであります。もとより当時におきましては、中央の方からこれはどうせよ、ああせよという指示は全然来ておりません」、翌日は、上記三市以外の四市長(平塚・鎌倉・藤沢・小田原)に、次いで十八日は中等学校長会を開き、さらに二十日には県下の各界代表が出ている総合委員会を開き、終戦の連絡にあたったとされる(『戦後の神奈川県政』)。これらの会議を通じて県当局者が周知徹底をはかったことは何であったのか。藤原知事の回想によると「終戦処理の第一着手として、内務省よりの指令通達は公文書の焼却と陸海軍で保有していた特殊物資を民間へ引渡すことであり、もし時間的に間に合わなければ、とりあえず県に引渡しを受けるようにとの指図でした」。さらに「連合国が上陸して来ればどんなことが起きないとも限らないから、婦女子は連合国の目につかないところに置いた方がよいという意見を述べる人がいました。私はたしかにそうかもしれないと考えたので、隣組を通じてその趣旨を伝達させましたところ、薬が利きすぎて、親類縁者等をたよって移動する者が相当出て、人心が動揺したのは私の失政であったかと思っています」(藤原孝夫「終戦前後の思い出」『横浜の空襲と戦災』5)と述べている。 婦女子の避難の問題は、笑えぬ悲喜劇であった。当時副総理であった近衛文麿の秘書細川護貞の日記には「神奈川県知事は、終戦の詔書を拝するや、敵の進駐を恐れて、県庁の女子雇員に三月分の給与を与えて強制的に帰らしめ、解雇と危険防止の一石二鳥なりと得意なりしも、是が為神奈川県下は、回覧板にて婦女子の強制疎開を命ずる等、非常の混乱を惹起せり、浅はかなる者の為せる業」(細川護貞『細川日記』昭和二十年八月二十六日の条)と記しているが、地元の関係者にとっては深刻な問題であった。当時の半井横浜市長は「これは私も共同責任です。いまからみれば非常識な話といえるが、これはその当時の情勢を考えてみなければ判らない。なにぶん外国と戦って敗けたのははじめてだし、まして敵国の軍隊が上陸するというのだから国民は大きなショックを受けていた。よそからみれば、横浜はまずその試験台とみられていたわけで、婦女子のことも輪をかけて宣伝され、しまいにはお婆さんまで逃げ出すようなこともあった」といい、また、当時県のこの措置に反対であった横須賀の梅津市長も「帰って町内会長を集め県の意向を伝えるとともに、私としては反対だといったところ、当時すでに警察側からフレがまわっていて、町内会長は、それでは婦女子の貞操について市長は責任をもつのかといわれたが、会長たちもついには納得した」(「日本の夜明け前」『神奈川新聞』昭和二十七年四月二十五日~五月三日付)というような模様を伝えている。「終戦」の断は下ったものの、何がこれから始まるのか、どうすればよいのか、県当局者も県民も五里霧中であった。 進駐受入れの準備 ところでポツダム宣言受諾後の連合軍の動きについて、八月十六日の電報は、日本を占領する連合国最高司令官に米国のマッカーサー元帥が就任すること、進駐に関連する指令を受け取るため政府使節をマニラのマッカーサーの司令部の許に派遣する旨の要求をしてきた。八月十七日に発足した東久邇内閣は、陸軍参謀次長河辺虎四郎を代表とし、海軍・外務省の代表からなる使節をマニラに派遣した。河辺使節一行は、八月二十一日に帰国し、連合国側の要求内容を政府に伝えたが、これによって初めて日本政府は本土進駐に関する連合国側の方針、日程、具体的要求事項の内容を知ることとなり、これに対する対応策を採ることとなったのである。 連合国側の要求によれば、八月三十一日東京湾の米国戦艦上で降伏受諾を行うこととされ、これに到る日程として「八月二十六日(イ)先遣部隊空路厚木到着、(ロ)合衆国海軍部隊相模湾到着、(ハ)海軍部隊東京湾内に進入、八月二十八日(イ)連合国最高司令官随行空輸部隊厚木飛行場着陸開始、(ロ)海軍及海兵部隊横須賀附近上陸、(ハ)上記部隊は直に指定せられたる地域を占領し正式降伏完了迄の間駐屯すべし、八月二十九日-三十日空輸及海軍部隊引続き到着」となっており、この日程に沿って必要な準備をすべき具体的事項を日本政府に命じていたのであった(調達庁『占領軍調達史調達の基調』)。 これによって連合国軍(実質的には米軍)の本土進駐の最初の地点が神奈川県下の厚木・横須賀となることが明らかとなり、政府は大本営・神奈川県と協力しつつ進駐軍の受入れ態勢をつくることとなったのである。すなわち、内閣総合計画局長官池田純久中将を中心とし外務省を主体とした横浜地区占領軍受入設営委員会を八月二十二日に設置し、外務省の秋山理敏公使を委員長、藤原神奈川県知事を副委員長とし、他に内閣総合計画局、内務、陸・海軍、逓信、鉄道、軍需、大蔵省と県、横浜市から各一名の委員を出して横浜地区の受入れ準備にあたることとなった(資料編12近代・現代⑵九六)。また、占領軍進駐の最初の受入れ地である厚木には参謀本部第二部長有末精三中将を委員長とする厚木地区連合軍受入設営委員会を、また米海軍が進駐する予定の横須賀には横須賀鎮守府司令長官戸塚道太郎海軍中将を委員長とする横須賀終戦連絡委員会を、それぞれ八月二十四日に設置し、当面の進駐受入れ準備を行うこととなったのである(資料編12近代・現代⑵七九)。さらに政府は、占領軍との連絡にあたる中央組織である終戦連絡中央事務局を設置し、外務省調査局長岡崎勝男をその長官に任命し(八月二十六日)たのであった。 神奈川県の進駐軍受入れ準備は八月二十一日から始まる。同日、後藤真三男内務部長と鈴木重信兵事課長は内務省によばれ各省代表と協議し受入れ方策の検討を開始する。この際に横浜で敵をくいとめて東京へは一兵も入れないという政府の方針を命ぜられた(前掲「日本の夜明け前」昭和二十七年四月二十九日付)。政府の方針がどこまで成算のある見通しに立っていたのかは不明ではあるが、政府と神奈川県とが一体となって進駐軍受入れの組織づくりが進められたのである。また、これとは別に渡辺警察部長と中川警備課長が陸軍参謀本部に行き、軍側と警備の打合せを行った。県では二十四日から進駐軍受入れ実行本部を部課長を網羅して組織した(『神奈川県警察史』下巻)ほか、さらに県組織の強化をはかるため次長制をしき、防空総本部総務局長であった斎藤昇が県次長として赴任し対策にあたることとなったのである。しかし、五月の大空襲以後ほとんど物資がなく、さらに「玉音放送」以後旬日を経ない人心の動揺のなかで、短時間の内に要求された受入れ準備を進めることは容易なことではなかった。 県首脳が苦慮した第一の問題は警備対策で、厚木飛行場地域および横須賀周辺を含む第一次撤退地域から一切の戦闘部隊を撤退させることが要求事項に含まれていた。当時、厚木の航空隊では終戦に反対し徹底抗戦を唱える兵士がおり、八月十五日以後も「天皇ノ軍人ニハ絶対ニ降伏ナシ」などの檄文を東京、横浜、横須賀市内等に撒布するなど物情騒然たる状況であった。この他にも県下には、相模湾沿岸に約三万人の陸軍が、三浦半島には海軍の陸戦隊が約十万人おり、これら軍隊の撤退の必要があった。「各部では引渡し並に諸作業に必要なる人員を除き退職手当と支給品(被服・食糧)を渡し至急解員帰郷せしめることになったが退職手当金の準備等に暇とるところもあって二十四日・二十五日頃になると連合軍進駐せば掠奪に遭ふべしとの流言飛び逃亡者続出し又支給品以外のものを数回に亘り窃取逃亡するものも現れた。一般に軍隊は解消して何等命令服従系統無くなったとの観念から進駐準備作業は極めて困難となった」(横須賀地方復員局「終戦時に於ける横須賀鎮守府関係参考資料」〔再刻〕、昭和二十二年九月)。こうした軍隊をかかえつつ進駐軍受入れの警備の中心となったのは警察であり、神奈川県下の警察官・消防官を中心に千百八十九名の警備隊を編成し、これに近県から応援の警察官二千六百四名を得て警備にあたったのである(『神奈川県警察史』下巻)。 第二の対策はより具体的な進駐軍受入れ、便宜供与の準備で、これに対する要求は細かく指示されていた。たとえば、総司令部区域に「提供セラルル一切ノ建築物及施設ハ其ノ目的ニ達スル如ク完全ナル家具及設備ヲ有シ適当ナル設備及衛生設備ヲ備フベシ」としたうえ、最高司令官、参謀長その他九名の将官に対する住宅、六百余名の士官・二千三百名の兵士のための兵舎の準備のほか、完全にガソリン等を供給した乗用車百五十台、バス二十五台、トラック五十台を用意せよというようなものであった。もとより要求はこれにとどまらず、厚木周辺の飛行場地域、横須賀の海軍地域にも準備をすべきこ米軍横浜上陸 『戦後10年のあゆみ』から とは山積みしていた。これら受入れ準備は、天候の都合で当初の予定が二日繰り延べられたことで辛うじて間に合うこととなった。「幸い暴風がございまして、二日延びたのでまったく助かりました。それまではとうていでき得ないというところまで覚悟しておったが、しかしあの際もしもやらずにおったら日本側はポツダム宣言に対して履行するところの誠意がないじゃないかと疑われるようなことがあっては、神奈川県として申し訳ないというので、まあ一生懸命やった」というのが当時の関係者の回想である(「後藤内政部長の回想」『戦後の神奈川県政』)。当時の県内の状況を伝える資料は「一、軍隊ノ撤収、厚木基地周辺ノ清掃工作ハ概ネ順調ニ進捗シツツアリ、二、一般民心モ連合軍用宿舎提供ノ為ノ立退等ニ依リ多少ノ動揺アリタルモ逐次平静ニ復シツツアリ」と八月二十七日の様子を伝えている(『横浜の空襲と戦災』5)。 こうして辛うじて準備が整った八月二十八日米軍先遣隊百五十名が、次いで三十日にはマッカーサー元帥とその幕僚が沖縄から厚木に到着した。マッカーサーは直ちに横浜入りし、ホテル・ニューグランドを宿舎とし税関ビルに総司令部を置き、ここを舞台に日本の占領統治を始めることとなったのである。一方、米海軍の占領予定地であった横須賀でも、八月三十日から米海兵隊の一部が上陸を開始した。当“HEREATLAST”-海軍の横須賀上陸 斉藤秀夫氏蔵 日の横須賀市内の状況は「米国側ヨリ『上陸開始後占領指定地区附近ノ路上ニ動クモノハ人畜ノ如何ヲ問ハズ総テ飛行機ヨリ掃射スベキ』旨ノ予告アリタル為同日ハ早朝ヨリ市民ノ往来影ヲ潜メ上陸米軍ハ横須賀駅前ヨリ警備隊本部前ニ到ル鋪装道路占領地区ヲ限界トシテ之ヲ占拠シ十数間毎ニ歩哨ヲ立テテ監視ヲ行ヘルガ占領地区内外共至ツテ平穏ニシテ一発ノ発砲事件モナク極メテ平和裡ニ進駐ヲ了シタリ」という状況であったが、「然ルニ米軍上陸後六時間以内ニ米兵ニ依ル強姦既遂三件全未遂一件及腕時計金銭巡査ノ帯剣小銃等ノ掠奪事件アリテ人心ノ動揺蔽ヒ難キモノアリ」と、米兵の進駐にともなう新たな問題が早くも発生してきたのであった(資料編12近代・現代⑵七九)。 二 占領下の神奈川県政 間接統治のはじまり マッカーサーの進駐から総司令部が東京の第一生命ビルに移る九月十七日までの間、国民の目は新しい日本の支配者の在る横浜の地を注目していた。横浜に総司令部のおかれたこのわずかな期間に、以後六年八か月に及ぶ日本の被占領期の統治方式の枠組がほぼ決定され、戦後の日本の国政運営に対し大きな影響を及ぼすこととなった。それだけではなく、連合軍の本土進駐が最初に神奈川を中心に行われたことは、その後の神奈川県政のあり方と県民の生活に対して大きな痕跡を残すこととなったのである。 九月二日、横浜沖の米戦艦ミズリー号艦上で降伏文書の調印式が行われたが、その日の夕方、横浜終戦連絡委員会(八月三十日に設営委員会に代わり組織されていた)の鈴木九万公使は米軍司令部の参謀長からマッカーサーが九月三日付で日本国民に対して三つの布告を発表する用意があることを知らされた。その布告は、日本政府の全権限を今後は最高司令官の下におき、最高司令官の命令への違反者は軍事裁判に処し、さらに米軍票B円を日本の法貨とするという重大な内容のものであった。報らせに驚いた政府は、急拠岡崎終連長官を横浜に急派するとともに、翌三日には重光外相が閣僚として初めてマッカーサーを訪問し、布告公布の中止を要請した。日本政府はポツダム宣言の内容を完全に実行するだけの決意と実力を有するのであるから、日本政府を通じて占領政策の実施をはかってもらいたいと懇請したのである。マッカーサーは、米本国から指令された占領政策が日本政府機構を通じて統治を行うことを要求していることもあり、外相の要請を入れ布告の公布を中止し、以後も総司令部の命令を直接に日本国民に対して行うことなく日本政府に対して命令を発するというかたちで占領統治を行うこととなったのである。 一般に「間接統治」とよばれる占領下の日本政治の仕組みを簡単にみておくと、総司令部が占領政策遂行上必要な指令を日本政府に発するが、この際彼我の接触の窓口になるのが東京の中央終戦連絡事務局である。指令を受けた日本政府は、立法あるいは命令のかたちで国内措置をとり、都道府県・市町村にこの政策が浸透していくことになる。各府県には占領軍の軍政部(MilitaryGovernmentTeam)がおかれ、日本政府が指令に従っているかを監視し指導を行う。この軍政部を統轄するのは、米第八軍(一九四五年末までは第六軍が西日本を所管していた)である。このように占領軍が全国各地に駐屯したため、それとの連絡事務のため主要都市には終戦連絡地方事務局が置かれ情報の提供便宜供与等にあたったのである。 神奈川県の特殊性 ところで神奈川県は本土で最初に米陸・海軍の進駐が行われたこともあり、占領行政組織も若干他の府県とは異なる特殊性をもつこととなった。その一つは、連合国総司令部が東京に移ったあとも、占領部隊を指揮する第八軍の司令部が横浜に残されたことである。当初郵船ビルにあった第八軍司令部は各府県の軍政部の指揮監督にあたった。たとえば全国に散在する連合国軍将兵に対する監察は、第八軍憲兵司令部が行ったためその仕事は全国的なものが多く、終戦連絡横浜事務局が引き続き第八軍と日本政府の間の連絡業務を行ったのである。また一九四五(昭和二十)年末から第八軍が俘虜虐待等のいわゆるBC級戦犯の裁判を横浜地方裁判所の法廷で開始した。この裁判は一九四九年十月まで続き三百十七件、八百五十四名が裁判に付せられたのであった。 第二に、通常の府県の場合、府県の軍政部は全国に八か所おかれた地方軍政司令部(RegionalHeadquarter)を通じて第八軍の指揮を受けていたのであるが、神奈川県の場合は第八軍司令部の直接の監督を受けていた。当初神奈川ではUSACOM-Cという機関が第八軍管下の物資補給と神奈川県の軍政を所管していたが、一九四六年三月末でこれが解体され新たに東京・神奈川軍政部となり、さらに一九四八年二月からはこれが東京軍政部と神奈川軍政部に分離された。一九四九年七月から従来の軍政部は民事部(CivilAffairsTeam)と改称されるとともに次第に府県民事部の仕事は地方民事部に統合されることとなり同年十一月までに各府県の民事部は廃止されることとなった。神奈川民事部も十月三十一日に解散した。ともあれ神奈川軍政部が第八軍と密接な関連をもっていたことは他県とは異なる事情であり、終連の横浜事務局も第八軍司令部とともに神奈川軍政部との折衝にもあたったのであった(資料編12近代・現代⑵九六)。 第三に、横須賀軍港地域は当初から米海軍が進駐したが、その後も特別地区として第八軍の指揮系統とは別に横須賀海軍基地司令部内に軍政府(MilitaryGovernmentOffice)がおかれ占領行政にあたることとなった。これも一九四九年から民事部と名称が改められた。進駐受入れの際に作られた横須賀の終戦連絡委員会が終連横須賀事務局に再組織され横須賀市との連絡にあたることとなったが(資料編12近代・現代⑵七九)、ここに大きな問題があった。というのは米軍の管轄区域と日本の行政区画が同じでなく「久里浜、北下浦、武山、長井、大楠、逗子地区は米陸軍の管轄区域として第八軍の管理下にあるという、他地域には見られない複雑さが本市〔横須賀〕にはあった」(『横須賀百年史』)のである。 渉外行政 このように県下に進駐軍の重要な司令部がおかれたため、県・市の行政を進めるにあたっては、終連を通じて政府に与えられ、政府から流されてくる指令の実行をはかるとともに、これら県下の司令部・軍政部から直接に寄せられる要求をも実行する必要があったのである。このため知事、あるいは進駐軍の駐屯地である横浜・横須賀等の市長は直接にこれら米軍の司令官、関係者との対応を迫られることも多く、これら首長の「渉外」能力が必要とされるに至ったといえる。逆にいえば、首長の「渉外」能力のいかんによっては、これら司令部を通じてさまざまな問題を解決する可能性があったともいえるのである。たとえば、第一表は、知事・横浜市長の一九四七、四八年の行動日程から占領軍関係との対応と思われるものを抜き書きしたものである。このような断片的情報からも知事・市長の日程のなかで「渉外」事項がいかに大きな位置を占めていたかが伺えるであろう(知事日程については当時の秘書課長桜井芳雄の「日記」から、横浜市長については「横浜市事務報告書」『横浜の空襲と戦災』5所収から作成)。 こうした事情から、県でも十月二十六日には知事官房に渉外課をおき、占領軍関係の業務の窓口とすることとした。組織上は八月に官房渉外係をおいたことになっているが、実質的には知事以下各部課長が一丸となって渉外関敗戦直後の横須賀 斉藤秀夫氏蔵 第一表 県知事内山岩太郎と横浜市長石河京市の日程一覧 係の実務を進めていたのであり、実質的に独自の組織としての渉外係が機能しはじめるのは十月のはじめからであった(渉外事務局『昭和二十二年知事事務引継書』)。その後の県庁内の渉外関係の組織の変化を簡単にみておくと、一九四六年二月一日に渉外課は内務部に移り、同年十一月に渉外事務局を設置し、これまで県庁各部がそれぞれ分担していた業務をこの各課に担当させることとなり、以後渉外事務局の内部組織は変遷を重ねるが、ここが渉外行政の窓口となってゆくこととなったのである。また、これら県の組織に対応して、占領軍を実際に受け入れることとなった横浜・横須賀・川崎などの主要な市でも、渉外部門にかかわる担当業務が重要な市の業務となってきたのであった。 占領下におかれた日本において、占領政策が日本の政策を規定したという意味においては、すべてが渉外行政とかかわったといいうるのであるが、県の行う狭い意味での渉外行政の主たるものは占領軍のための調達業務であった。占領直後、連合軍と日本政府の双方の側で調達の手続きが確立しない前に実際の調達業務は開始され、かつその要求が無秩序になされたためこの業務にあたった担当者は、仕事の手順づくりから始める必要があった(西田喜七「敗戦と神奈川県の渉外行政をめぐって」『神奈川県史研究』二八号)。その後一九四七年九月に特別調達庁が政府レベルで作られ調達業務は同庁横浜出張所に引き継がれ、渉外事務の内容も進駐軍の労務管理から将兵宿舎の建設管理を主とするようにと変化していったのである。 この他、渉外関係の問題としては県内在留の外国人にかかわる業務があった。県内在留外国人は第二表にみるとおり一九四七年二月十五日現在で三千五百十七人とされているが、この表にはあらわれない旧植民地の台湾人四百六十五人、朝鮮人一万八千三百十三人を加えると二万人以上にものぼった(『昭和二十二年知事事務引継書』)。これら県内在留の外国人に対しては戦争中の関係に応じて、連合国人にはその財産管理、旧枢軸国(敵国)人にはその財産の管理・処分と送還、また旧植民地の台湾人・朝鮮人については終戦直後は行政的に無秩序の状態であったが、一九四七年五月の外国人登録令以後外国人として登録を第2表 在留外国人国籍別人員表 公安課 昭和22年2月15日現在 国名・数字は原資料のとおり 行うこととなったのである。 三 占領下の県民生活 進駐兵士との事故 本土で最初に米軍が進駐し、その後も多くの米軍将兵とその家族が県内に滞在することとなった神奈川県では、米軍の存在はさまざまな局面で県民の生活に影響を及ぼし、ひいては県行政においてそれにともなう課題を産みだしてきた。 県内に進駐した米軍の数の変化を跡づけることは容易ではないが、占領初期には次の様な数字があげられる。本県に進駐したのは、当初第八軍第十一軍団麾下の師団であったが、一九四五(昭和二十)年十一月中旬、東京から移駐してきた騎兵第一師団麾下の第一旅団と交代したのである。このように多くの兵士が県内各地に進駐を始めると、それにともない進駐軍関係の犯罪も生じ始め、県民に対し進駐軍兵士との接触に関する注意事項等が町内会・部落会等を通じて徹底されたのである。例えば九月十七日に相模原町で配布された「進駐連合軍外出ニ依ル危害未然防止ニ対スル回覧」は、連合軍兵士が近く外出を許可されるので不慮の危害を予防するため「無用ノ摩擦ヲ生ジナイ様注意スルコト」、暴行・物の強奪の素振りが見えたら「断然立入ヲ拒絶スルコト」、事故が起こった時は「米兵ノ人相特徴等ヲ良ク見テ置イテ直ニ警察ニ届ケルコト」等の注意を与えると共に、横浜・横須賀で事故があったが、被害者が泣寝入りをしたため捜査ができぬことを述べ、米兵の肩章に注意をしておくべきことなどを知らせている(資料編12近代・現代⑵一〇五)。 こうした注意にもかかわらず、進駐当初には特に横浜・横須賀を中心に進駐軍人による犯罪が発生した。県公安課の調べで第3表 県内米軍進駐状況 数字は資料のとおり 『神奈川県警察史』下巻から作成 は、一九四五年に発生した犯罪(交通事故を含む)は千八百三十九件で、そのうち警察官の被害が七十一件を数え、検挙件数は五十一件という状態であった。このように犯罪の頻発が続くと、県警察部はいくつかの事故対策を講じたが、その主なものは、町内会・部落会・隣組や新聞を利用した一般民衆の啓蒙のほかに、連合軍憲兵との連絡協調を行うこととし、県警察部長が第八軍憲兵司令官と緊密な連絡を保持すると共に憲兵部隊「所属部下ヲ警察署ニ常時配置ヲ受ケ事件発生ノ都度何時ニテモ警察官ト同道ニテ現場ニ臨検」するとともに、事故発生のつど、横浜・横須賀・厚木の終連を通じて抗議を提出し処理を要求することとしたのである。さらに土産品・記念品あさりから発生する物品強奪を防ぐため土産物販売店の整備拡充、進駐軍兵士と県民の街頭における物品売買等の取締りなどの他に、「カフェ、キャバレー、ビヤホール、娯楽場、遊郭其ノ他一般慰安施設ノ整備拡充」などで対応しようとしたのであった(資料編12近代・現代⑵一〇四)。 これら慰安施設の問題は、進駐軍受入れの当初から県警察部が苦慮した問題でもあった。政府は八月十八日、内務省警保局長名で外国軍駐屯地における慰安施設を準備するよう無電で通達し、警察署長が性的慰安施設、飲食施設、娯楽場を設置すべく要請してきたのであった。このため県警察部では関係業者を督励して横浜・横須賀を中心として県下各進駐地域の周辺と従来外国人の多く居住していた地域に進駐軍向け慰安施設を設営する方針をとった。こうして、早くも九月三日には横浜・横須賀市では進駐兵士のためこれら慰安施設が営業を開始し、一九四五年末では横浜市内で百七十四業者、三百五十五名の接客婦が、また横須賀市では百六十四業者、三百五十八名の接客婦が「慰安」に従事していた。さらに、藤沢・平塚・高津・小田原・秦野・厚木方面においても、従来の施設を利用し営業が行われた。さらに外人向けキャバレー・カフェー等の営業も横浜・横須賀地区を中心に行われ、一九四六年二月末現在で、キャバレーは横浜九、横須賀二、その他三、カフェーは横浜八、横須賀三、その他十三、計キャバレー十四、カフェー二十四の営業許可がなされていた(『神奈川県警察史』下巻)。 第四表 連合軍関係事故発生調(敗戦より昭和二十二年二月末日迄) 神奈川県公安課 数字は原資料のとおり 接収問題 しかし、占領軍の進駐にともなうより深刻な問題は土地・建物の接収の問題であった。進駐前後の見通しの判然としない時期に県首脳が最も頭を悩ましたのはマッカーサーの宿舎として葉山の御用邸が接収されることを回避することであったが、進駐にともない横浜をはじめとし川崎・横須賀・平塚などの主要都市や旧軍施設をもっていた相模原・座間・大和・辻堂・逗子など県下の多くの地域を占領軍が接収することとなり、これらの市町村、県の経済活動にも大きな影響を及ぼすこととなったのである。 特に横浜市は五月二十九日の大空襲で、市街地の四二㌫を焼失し、市街地人口の四四㌫が罹災したうえ、市街地面積の二七㌫(約九百十八万平方㍍)が接収されるに及び、これは全市面積の二・三㌫に相当するものであった。ちなみに、一九四六年九月現在の横浜市の接収状況は第五表のとおりである。 こうしてわずかに残った主要建物はいうまでもなく公園、小学校、児童遊園地に至るまでが接収の対象となり、横浜市の中心部は米軍の中心基地となったのである。例をあげれば、ホテル・ニューグランドは米軍の将校宿舎に、山下公園は将校の家族第五表 進駐当初の接収状況(昭和二十一年九月) 横浜市立大学経済研究所『戦後横浜経済十年史』から 住宅地に、税関ビルは第八軍司令部に生まれ変わり、その他開港記念館、毎日新聞社、日本郵船ビル、野沢屋・松屋デパートなど主要な大建造物、外国人の住宅などはすべて接収の対象となったのである(『戦後の神奈川県政』、初期の主要な建物のリストは外務省文書にある)。「特に繁華街の伊勢佐木町は完全にアメリカ一色に塗りつぶされた。松屋は〝ステーション・ホスピタル〟になり、不二屋は〝レッド・クロス〟、きらくせんべいは〝ドーナツ・ショップ〟、野沢屋は〝H・Q〟、オデオン座は〝オクタゴン〟、元寿屋は〝P・X〟、オリンピックは〝キャバレー・オリンピック〟、その他新しく〝フライヤージム〟ができたり、〝下士官集会所〟ができたりした」(佃実夫「ヨコハマからの証言」『共同研究日本占領』から再引用)。伊勢佐木町の裏手の若葉町には飛行場がつくられたのである。 とりわけ横浜にとって最も深刻だったのは横浜港のほとんどが接収されたことであった。港湾施設が利用できず、更に横浜貿易を担った貿易商社が密集していた関内が接収され、しかも貿易自体がすべて連合軍の管理下におかれたので、横浜を中心とする貿易活動は停滞し、戦前横浜に本社のあった有力貿易商社の東京移転が始まるなど、神奈川県の経済活動に大きな影響を与えた。 横浜の中心街の接収地 岩波写真文庫 『横浜』から 横須賀市も、米極東海軍司令部が旧横須賀鎮守府におかれ、横須賀の軍港一帯は日本海軍に代わって米海軍が使用することとなった。同市では一九四五年十二月に「幸ニシテ本市ハ戦禍ヲ免ガレ全市無疵ノ状態ニ在リ……而モ全市域ニハ厖大ナル嘗テノ軍施設其ノ儘残在シ之等施設中我国産業文化振興並ニ本市更生ノ為転換活用スルヲ適当ト思料セラルヽモノ数多存在スル事実ハ本市更生ノ上ニ絶好ノ条件トシテ無限ノ光明ト天来ノ福音ヲ与フルモノニシテ真ニ本市ノ至幸トスル所ナリ」という「横須賀市更生対策要項」(資料編12近代・現代⑵一三〇)を策定して将来への発展を期していたが、その実現は容易ではなかった。 その他にも、旧武山海兵団はキャンプ・マギルに、辻堂演習場は米軍の演習場に、厚木飛行場は米空軍の基地に、座間の旧陸軍士官学校、相模原の旧造兵廠も米軍が使用することとなった。これらの旧日本軍の施設だけではなく、箱根の富士屋ホテル・強羅ホテル、逗子のなぎさホテルなどの著名なホテルや仙石原のゴルフクラブなどの接収も行われた。 これら地域への日本人立入禁止の模様を、例えば米軍機関誌『スターズ・アンド・ストライプス』はこう伝えている。「◎米軍使用の海岸は日本人立入禁止〔四六・八・二〕連合軍要員に許可された海岸は、八月三日土曜日以降、すべての日本人にたいし立入禁止地区となる旨、第八軍憲兵司令は本日発表した。これは、最近連合軍の使用を許可された鎌倉、平塚の海岸と逗子のなぎさホテルの海岸とに適用される」。同じく八月四日には、「占領軍兵士、鎌倉で保養、占領の気苦労から解放」と題し、日本の東海岸にある最も有名な避暑の街が「一万人以上の連合軍の将兵が楽しみを求め」「週末ともなれば、リビエラ・ホテルは兵隊と日本人ダンサーとでいっぱいになる。ハワイ風のリズムがこの日本の観光の街に中部太平洋の雰囲気を与える」と伝えている(『横浜の空襲と戦災』5)。 占領直後の県下の接収状況を物語る正確な資料は見出し難いが、講和後の日米行政協定により正式に提供が決定した一九五二年七月現在で土地千百三十万千六百五十六坪(三千七百三十六万九百一平方㍍)、建物六十四万五千八百九坪(二百十三万四千九百平方㍍)に及んでいる。こうした主要な施設や土地の接収により、関係市町の戦災復旧の事業は著しく阻害されざるをえなかった。特に市の中心部を接収されていた横浜において著しいものがあったといえる。 占領軍と労働者 一方、このように多くの土地を米軍が接収し、そこで占領軍の業務が継続されると、それにともなう物資の調達、労務の提供が県民生活のなかに大きな比重を占めることとなってきた。 敗戦直後の旧軍人の復員、海外居留者の引揚げ、それに多くの軍需工場関係の労働者の職場喪失により生じた雇用対策・失業対策はそれ自体大きな課題であった。こうしたなかで、米軍関係の各種施設の建設や維持管理等米軍関係の労務の要求は多くの人に雇用の機会を与え、一種の社会的安全弁の役割を果たすこととなった。いわゆる進駐軍労務者の数を知ることは困難だが、県下で常に五万から六万人の労働者がこれに依存している(第六表)。 しかし、進駐軍に対する労務の提供は、物資の調達の際と同第6表 駐留軍労務者数(LSO) 1952年5月1日現在 1) 当時は国連軍関係は軍直傭のため不明,ただし昭和29年7月1日現在全国(東京都,広島県山口県)12,333名 2) 常傭のみ 3) 『占領軍調達史調達の基調』から 様に、規則のないところで事実上大量に開始したために、雇用関係上さまざまな問題を残すことになった。労務者の募集・採用からそれにともなう賃金の支払いに至るまで政府と米軍との間に入って県の渉外行政部門が関与するところが大きかった。進駐初期の横須賀では「先方ノ申付通リ誠実ニ勤務シ国ノ名誉ト日本人ノ信用ヲ失墜致ササル様心掛クルハ勿論斡旋者タル市御当局ニ対シテ御迷惑等ノ相掛ラザル様充分戒心留意」するという誓約書を提出するなど(資料編12近代・現代⑵八〇)の方式がなされたりしたが、当初はもっぱら民間業者に労務提供をさせ、賃金は業者に立替え払いをさせたうえで、米軍の労務証明書により賃金を支払う方式をとっていた。その後、労務者は政府と直接雇用関係を結ぶことになった。しかし実質上の使用者と労務者の関係は不安定であり、しかも労働慣行の差異も大きく、進駐軍労務者の地位は決して安定したものではなかった。 第7表 横須賀地区における駐留軍労務者の雇用状況推移表 ( )内は全国合計 『横須賀百年史』から 基地と風俗 基地の存在は、これにともなう労働関係を産みだすとともに、基地周辺の社会問題の発生をも不可避とさせた。占領軍兵士のため政府の肝煎りで特殊慰安施設協会(RAA)がつくられたことはすでにみたが、その他に生活難などから始まる売春婦の数が増大していった。これによって検挙された人数をみれば、一九四六(昭和二十一)年五月から十二月までの間で延べ六千九百十一人、一九四七年では九千七百三十人に及んだ。しかもこれらの健康診断の結果、有毒と判定された性病感染者は約三四㌫(一九四七年、四八年は六二㌫)にも及んだ。 しかも占領軍の指令による公娼制度の廃止は逆に街娼の増大と衛生管理の徹底を欠くこととなり、婦人の更生保護あるいは性病対策を強化する必要を産み、一九四七年には転落婦人の収容更生施設を設置したほか、一九四八年には県立屏風ケ浦病院を専門の治療機関として指定するなどこの対策にあたった。 こうした結果として、一九四六年初めころの推算で、六月半ばまでには少なくとも一万四千名の米兵との混血児が生まれてくるとの報道がなされていた(『横浜の空襲と戦災』5)。混血児とその捨子の問題は戦災による浮浪児の問題以上に社会的にも注目されることとなり、県内に混血児を収容する養護施設がつくられることとなってきた。大磯のエリザベス・サンダース・ホームや横浜の聖母愛児園乳児部がこうした仕事を行い、直接に県の施設が収容にあたったものではないが、県下における特殊な問題であるといえるであろう。 しかし、他方で大量の占領軍が県内に滞在することは、県民と占領軍兵士との日常的接触の頻度が多いことを意味し、これを通じて日本人とアメリカ人の差異を認識したり、あるいは日本人が日本人を認識する機会を作ったともいえる。米兵と日本人女性の交際をみて、「本当に考えるのも嫌だった。思わず知らず赤面する。この姿を復員兵、そして戦線より帰還の人々が見たら。思えば思えば淋しく悲しく汚らわしい事」と日記に記す若い女性がいる半面、戦中の愛国青年だった駅員は、混雑した駅で労働者が列車に引きずられた事故の模様を記して、「列車に引摺られつつある男をぐっと引き上げた者があった。見るとそれは進駐軍の兵士だ。……一秒を争う急救の場だ。しかし横浜駅員は誰一人馳けつけない。そして附近に鉄道関係の職員は居た。又多勢の日本人も居た。しかし日本人達は同じ日本人が重傷を負ったにもかかわらず誰一人として手当する者はない。唯其処に居合せた進駐軍兵士の一、二が手を下しただけだ。多勢の日本人は見物するのみであった。何となさけ無き状景ではないか。……日本人は自分がやらなくても誰かがやるだろうと思って居るのがこんな状景を描くのだ。こんな気持が各個人にあるから日本人は苦しむのだ」と記している(『横浜の空襲と戦災』2)。 講和発効に先だち一九五一年十二月から旅券法が施行され日本人の海外渡航が可能となったが、一九五四年九月までの旅券交付数三千七百五十八人のうち国際花嫁は二千百十一人を数え、全体の旅券交付者の五六㌫を占めている。その次に養子縁組をした混血孤児の渡米があげられている(『戦後の神奈川県政』)。 基地と子供 敗戦により自信を失った日本人が、混乱する世相のなかで日常の生活に追われつつ今後の方向も見定められないままにあったことは、特に青少年に対して、大きな影響を与えざるをえなかった。 学童は既に戦争中から時代の犠牲になっていた。戦時の校舎の転用、あるいは疎開が終戦で一段落をつげ、疎開児童がもどってきたところが、米軍に接収され校舎が使用できない学校もいくつかあった。 例えば横浜市立神奈川小学校は「昭和二〇年五月二九日空襲により校舎内部全部焼失し、児童二三五名は、同年五月三〇日、津久井郡川尻村、三沢村に集団疎開した。終戦により校舎は、同年九月四日、駐留軍により接収され、疎開より復帰した児童は、子安国民学校三階四教室を借用して授業をし、昭和二一年二月、児童は、浦島国民学校に統合され、廃校となった」(『横浜市学校沿革誌』)。学校関係施設で接収されたものは一万八千坪(五万九千五百平方㍍)にも及んだのである。 さらに、基地周辺の学校では日常的な米軍の行動が市民との間にトラブルを起こすことが増え、それが市民に不安を与えてた。一九四六(昭和二十一)年十月には、県警察部長は「規律ある行動紳士的な立派な態度、そして子どもたちにまで親しまれる親切な兵隊たち、私たちは大いに学ばねばならないことが多い。しかし、その中には、故意あるいは不注意に、種々の不祥事を起している。日本人としては、この連合軍の気持に報いるためにも、自ら被害をうけぬ様注意するとともに、これら犯人検挙には全面的に協力せねばならぬ」という通達を各学校長にあてて通達しているほどであった(横須賀市教育研究所『戦後横須賀教育史』)。 基地にまつわる教育の問題は、基地の存在が長期化すればするほど深刻な問題となってくる。混血児の問題が児童が学齢期になるにつれ教育の問題と転化してくることとなる。とくにこれらの施設を戦後一貫してかかえる横須賀市においては、大きな問題を残すこととなったのである。 以上みてきたとおり、占領の当初から県下各地における大量かつ長期における占領軍の存在は、県民生活に経済的にも社会的にも多様な影響を及ぼした。その多くは占領の終結とともに徐々に縮小されてはいるものの、安保条約に基づく駐留軍の存在で現在なお跡をとどめているものもある。こうした状況は日本のなかで沖縄がもったのと同様GHQギルドナーと県広報担当官 桜井芳雄氏蔵 の位置を、形は異なるが、本土の中で神奈川が担ったという指摘ができなくもない。 いずれにせよ、上に指摘した特殊性は、占領下の、ひいてはその後の神奈川県の政治・行政の上に、狭い意味での〝渉外行政〟にとどまらぬ、固有の課題、問題処理を産みだすこととなったのである。 たとえば性病対策以外の公衆衛生・防疫などに関する行政に、占領軍は進駐軍兵士の健康管理という観点から強い関心をもち、県・市の関係部局を督励し、指導をした。このことが結果的には、県・市の関連分野の行政施策を推進させ強化させていくという効果をももったであろう。 そしてこのような専門業務を推進していく過程で、前節で述べた占領軍と県・市との公式の終連を経由した折衝経路とは異なる、直接の現場担当者間での接触と交渉が県行政の実施の過程でもみられるようになったのである。そのうち最も早いの行政と関係が深かったデッカー司令官とその銅像(1949年) 横須賀市役所蔵 が、憲兵司令部と警察との協力であるが(資料編12近代・現代⑵一〇二)、こうした協力関係だけではなく、緊張をはらみつつ対峙する場合も存在した。例えば、県軍政部の一教育担当官が直接に教育行政の現場に介入し、これを指導したような事例はこれである。さらには、衛生部看護指導所の設置や、人事に介入し女性だけの課の設置を命令されたことのエピソード(神奈川新聞編集局『この十年』)などはこの時期の県行政の足跡をみていくうえで見逃してはならない問題であろう。 第二節 過渡期の県政 一 戦後県政のスタート 戦後県政の出発点 すでにみたとおり、敗戦直後の県の直面した主要課題は進駐軍の受入れ準備そのものであり、それは県政固有の課題というよりはむしろ国政の課題を神奈川県が担ったといえるようなものであった。皇族を首班とする東久邇内閣が組織されたのも、皇族の権威により終戦の詔書の徹底と軍の反乱を未然に押え、この課題に対処しようとするものに他ならなかった。九月二日の降伏文書の調印が終わったのち、東久邇内閣は、その後の方向に関し閣内でも意見の一致をみず十月五日に退陣することとなった。しかし、内閣退陣のより直接のきっかけとなったのは、十月四日に総司令部から指示されたいわゆる「自由の指令」であり、これは敗戦後依然拘留されている政治犯等の即時釈放と、内相以下特高警察幹部の罷免、自由を抑圧する諸法規の廃止などを命ずるものであった。これを受けて全国の特高警察官は十月十四日付で一斉に休職が発令され、神奈川県でも外事・特高両課長を含む外事・特高警察官二百五十六名が同年十二月に退職することとなった(『神奈川県警察史』下巻)。このように、総司令部が次つぎに明らかにする占領政策と、戦時下で極端にまで押し進められていた自由の抑圧に対する反動を契機として、少しずつ新たな動きが県内に、そして県政の上にも現れてくることとなった。 この時期の県内の行政組織の動きを伝える資料は必ずしも多くはない。県行政の運営は従来どおり地方事務所と市町村が協同して、町内会・部落会・隣組などを経由して新しい事態に対処すべき注意事項等が流されていたと思われるのである。新たに進駐してくる連合軍兵士に対する心得事項もこの経路を通じて伝達されたのである。敗戦という新しい事態との関連で注目をひくのは、すでに八月三十日に「軍需品ノ無断持出シ方ニ対スル注意」(資料編12近代・現代⑵一一〇)といった回報が流されており、「従来駐屯軍ガ管理シテ居マシタ軍需品ニ対スル監視ガ手薄ニナリマシタノヲ機会ニ」各所にあった火砲等の危険品を「軍需用品等ト共ニ無断デ運ンダ方ガアリマス」ことに対する注意が流されていることで、敗戦にともなう軍の権威と組織の自然崩壊を物語っている。この村(足柄下郡仙石原村)に駐屯していた兵団は八月十八日には「此ノ上ハ唯々御聖断ノ御意図ニ副ヒ只管ニ大命ヲ待チ将来ノ国家建設ニ邁進仕度」として、道路・小橋梁修繕、援農、小運送、戦災整理などの作業を「御希望御要求有之候ハバ忌憚ナク御申越相成度乍微力万全ヲ尽ス所存ニ御座候」などと戦後の転換に対応する姿勢を明らかにしていた兵団であった(資料編12近代・現代⑵八一)。 戦後の政治・行政の課題の提起が内閣によっても、県知事によっても明確になされえず、しかも新しい時代を担う思想原理も混乱しているところで、地域のリーダーが独自に土着の在来思想と結びつけて今後の方向を打ち出したと思われるのが足柄下郡地方事務所の作成した「常会指導要旨」(資料編12近代・現代⑵八五)にみられる。すなわち、これは、「皇祖皇宗ノ国ヲ肇ムル精神ヲ以テ勤労スレバ必ラズ文化的平和ナ新日本ノ建設ハ完成スル」のであるから「報徳ノ教ニ依リテ国体ノ精華ヲ世界ニ発揚セネバナラヌ」といい、具体的には「常ニ常会ヲ通ジテ正シク時代ノ推移ヲ認識シテ将来国民ノ嚮フベキ方途ヲ誤ラザル様ニ研鑽指導セネバナラヌ」とし「殊ニ農ヲ営ムニモ工商業ヲ営ムニモ譲ノ精神ヲ以テ自己ノ利欲ヲシテ顧ミズ社会ヲ利スル為メ又各部落隣組ヲ一家族的ニ融和共助スル為メニモ譲ノ精神ヲ培ヒ道義ヲ昂揚セネバナラヌ」と述べており、食糧増産と供出、悪性インフレの防止という問題にもこれらの精神で対処すべきことを説いているのである。 政府施策の浸透 ところで幣原内閣の成立と共に国政の課題も次第に明確に整理されるようになってきた。内閣成立直後の十月九日、首相は談話を発表して、一 民主主義政治の確立、二 食糧問題の解決、三 復興、四 失業問題、五 戦災者の救護、在外同胞及軍隊の処理、六 行政整理、七 財政及産業政策、八 教育及思想を政策の中心におくことを明らかにした。一方、総司令部の占領政策の大綱も、既に九月二十一日に米政府が発表した「降伏後におけるアメリカの初期の対日政策」において大枠が示されていたが、最高司令官のマッカーサーは十月十一日幣原首相に憲法の自由主義化とともにいわゆる五大改革の要求を行い、今後の占領政策の方針を示したのであった。それは、一 婦人の地位向上、二 労働組合の助長、三 学校教育の自由主義化、四 民衆生活を脅威する諸制度の廃止、五 経済機構の民主主義化であり、これらはいずれ日本政府の政策のなかにとりこまれ、県の行政の運営のなかにも反映されてゆくはずのものであった。 幣原首相は十一月二日、戦後初の地方長官会議を召集し、地方総監と知事に対し次のように訓示した。すなわち、まず「各位は現下の我国の実態に付て二つの点を正確に把握せられたい」として、第一に「我国が満州事変以来十数年に亘る戦争に於いて我が国力の殆ど全部を消耗し尽しまして、今や疲労困憊の極に達して居る事実」、第二に「我国は戦敗国であるといふ事実」を指摘した。そして「以上の二点は我国現下の国政の二大前提条件とも申すべきものでありまして、一切の施策はこの冷厳なる条件を前提とし、国体の護持と国際正義の発揚を基礎として樹立実施するを要するものと申さねばなりません」と述べたうえ、前述の政府の八大政策に対する説明を行った(幣原平和財団『幣原喜重郎』)。 政府のこの方針は、十一月十二日から行われた市町村長懇談会の場で知事から県下市町村長に訓示された(資料編12近代・現代⑵一〇八)。知事の訓示は、政府の八大政策により細かく説明を加えているが、その重点は国民生活の安定にかかわる施策にあった。特に食糧問題について供出の成否は国民全体の飢餓の問題に係り、「国民ノ伝統的精神デアル同胞愛ノ観念ニ訴へ」この難局を突破するよう、また悪性インフレ対策は「貯蓄ノ増強ハ戦後寧ロ一段ト重要ナ事柄ト」なってきたと強調しているのである。そして知事の市町村長への訓示だけではなく、地方事務所が常会の指導をすることを通じてこれらの施策が具体的に浸透、展開されてゆくのである(資料編12近代・現代⑵八五)。 一九四五年の県政の課題 ここで当時の県勢の状況を簡単にみておこう。終戦時の県下市町村の数は七市(横浜・横須賀・川崎・平塚・鎌倉・藤沢・小田原)三十五町八十四村で、町村部は八郡(三浦・鎌倉・高座・中・足柄上・足柄下・愛甲・津久井)に分かれていた。この年十一月一日に行われた人口調査によれば、県の人口は百八十六万五千人、そのうち市部が百五十七万六千人、郡部は二十八万九千人で都市部に大半の人口を擁するという特性が持続されているのであった。市部のなかでも横浜が六十二万五千人、次いで横須賀が二十三万千人、川崎が十八万人であった。この人口は、前年二月の人口調査に比して総人口で約七十万人の減少であるが、調査の誤差を考慮しても、戦争による破壊の激しかった終戦直前に大幅に人口が減少していたことがわかるのである。特に都市部における戦災は、横浜の二十五回、川崎の十八回を含め全県で七十回を数え、十四万戸が全焼、罹災人数は五十八万七千人に及んだのである。一方、敗戦により外地からの軍人軍属の復員、引揚げが始まったが、その数は、一九四七年末までで十七万四千人に及んだのである(『昭和二十三年神奈川県統計書』)。知事は、十一月二十七日から開かれた県会において県民に対しその所信を明らかにした。国力の疲弊、戦敗国の現実に加え、「就中本県は御承知の如く其の心臓部とも云ふべき横浜、川崎方面に甚大なる戦災を蒙りましたる上に、終戦の結果尨大なる軍需産業の全面的停止に逢ひましたる為め、多数の失業者を生ずるに至り、所謂戦争に因る被害最も深刻なるものがあると共に、他面連合軍進駐の中心地点として全国を代表する立場に立って居るのでありまして、以上の二点に付き一層十分なる認識を以て県政施策の遂行に万全を期せねばならない」と訴えたのである(『神奈川県会史』第六巻)。 戦後最初の県会の課題は、戦後の新たな事態に対して予算の修正・追加によって県民生活を確保していこうとするものであった。ここでの知事の提案、論議を通じて当時の県政の課題と県民の関心を明らかにしてみたい。まず歳入については、横浜・川崎の主要部分の壊滅と軍需関係工場の閉鎖にともない、県税収入の大激減が見込まれ、配付税の増額を見込んでも県税収入は三割五分の収入減となり、このため県収入確保のため従来の国税賦課率を百分の百から百分の百二十へと二〇㌫の増税をはかることとした。その他、手数料の全面的引上げ、県有財産の払下げなどの措置が講ぜられたことはいうまでもない。これに対し歳出面での方針として、戦争遂行上必要であった経費の削除、行政整理による人件費節減、不急事業の廃停止、補助金の整理の断行を行うことにより、食糧増産、住宅・公共施設等の復興建設、戦災者援護の徹底、民需生産の振興、復員失業対策の確立、遺家族傷痍軍人援護の強化等におくこととした。このように、県政県会のようすを報じる新聞 『神奈川新聞』昭和20年11月29日付から の目標は、戦争遂行から戦後処理・復興に向けられることとなったのであった。しかし、終戦が意味するものは、単に戦時から平時への切替えの側面にのみとどまるものではなく、敗戦・占領という事態も重なっており、単なる戦争前への復帰というにとどまらない課題を担うこととなったのである。具体的にこれらを施策のなかにみるならば、行政整理の課題においても、政府の方針で一九三二(昭和七)年度の定員数に復帰させることにしたものの「食糧の増産確保、戦災の復興援護等の所謂一般県政事務の膨張の外に進駐軍関係事務、軍需物資の引継事務、浦賀に於ける引揚民事務等終戦後の特殊事態に基づく新規事務の負担増加」があり、定員の二割五分削減に止める(一九三二年水準ではほぼ半減)ことになったのである。 食糧問題 ところで、知事の提案に対する県会議員の質疑のなかから県民の関心の主たるものを摘記するならば、まず第一は食糧の確保の問題で「都市生活者は、月に米三日分、粉二日分、甘藷五日分の配給を受けているが、これだけではとうてい生活していけない。とくに台所をあずかる主婦の困難はきわめて大きい。せっかく婦人に参政権が与えられてもこれについて考えるゆとりすらない。餓死者も相当数にのぼり、進駐軍のゴミ捨場に残飯をあさる人々の姿は、あまりにも情けない」。しかも「米の配給機関である食糧営団は精米設備をもたず、玄米を配給しており、営団そのものの機構も軍国主義的であるため、消費者の不満は大きい。どうか急速に機構を改革して、米の配給を米穀商に任してほしい」。さらに「現行の食糧供出方法に不合理な点はないか、今日ではすでに戦時中のような欺まん的政策による供出は農民の不満をつのらせるばかりである。衣料品・農機具・肥料はすべてやみ値である。食糧増産に必要な生産資材を農民に与えずに供出しろといっても無理と思うがどうか」などの質問が出された。これに対する県当局の回答は「本県は其の所要量の大部分を他県から移入をし、他県に依存をせざるを得ざる事情である土地柄」であり「生鮮食料品、殊に鮮魚其の他塩干魚等に付きましては、其の大部分を県外に依存せざるを得ない実情」にあり、「本県食糧移入先の大宗たる北海道及び東北にそれぞれ県の出張所を新設致しまして食糧移入の絶対的確保を図ること」が主要な対策であった。もとより、あらゆる食糧資源の開発に努力し、未利用資源開発、畜産業の振興、「食糧輸入の見返物資たる生糸の生産」としての養蚕の振興ははかるが、「主食の問題に関しては、政府が一元的に総合したる見地から一定の基準を定めて、其の基準に副うて各府県に於て配給をして居るのでありますから、単り本県に於てのみ其の配給基準量を高めて、厚く配給することは許されない」というのが知事の答弁であった。配給及び供出に対しても、「生鮮食料品の問題に付きましては、最近政府の方針に依りまして統制の枠を外されましたので、是が集荷配給と云ふ事柄に付きましては、大いに工夫創意を以て是が解決に当り得る余地が出来た訳であります。随ひまして関係の集荷機関に於きまして、事態に即応して適切なる方策を執って、県外より、或は県内の生産地より其の入荷を促進し、さうして出来得る限り配給の増量を期するやうに督励を致して居る次第でありますが、何分にも過渡期でありまして、十分に此の新しい制度が確立を致す所まで参りませぬ」とか「肥料、資材についても食糧問題の解決のため努力し、期待にそう方針である。農村の供出については、保有米を残して供出するようにすれば理想的であるが、当面の食糧事情では許さないので国の供出計画によって割当をしている現情である。この点消費者においてもしのんでもらいたい」と、国の方針と消費者の忍耐を訴えるにとどまっている闇買い出しの行列 『戦後10年のあゆみ』から (『神奈川県会史』第六巻)。県会は十二月八日「食糧危機打開に関する建議」を決議し「試に街頭を見れば栄養失調者氾濫して喰ふに食なく餓死し行く者日に幾何を算すふるか之正に県下天日の下に於ける事実なり……茲に於て進んで連合国国民の尊敬すべき人道に訴へ危局打開に邁進する一面特に本県としては食糧消費県たる特異性に鑑み徹底的且つ飛躍的なる食糧生産の増強策を樹立し之に対処するに非ずんば悔を百年の後に遺し怨を千年の後に買ふべし」と県当局に「速かに万全の方途を講ぜられたし」(同上)と求めたのである。 戦災復興 第二に戦災復興と戦災者援護について、知事の提案は応急簡易住宅の建設であり「目下年内目標の五千戸の完成に鋭意努力中」であり、その他「自力を以て簡易住宅を建設する能力のない戦災者の為に、住宅営団をして簡易貸家住宅を建設せしむる」ほか「堅牢建物中罹災致しましたものを復旧し、或は軍並に工場の工員宿舎等を改善致しまして、是等を一刻も早く住宅化するということは、現下住宅問題解決上有効適切なる方途」というのがその方針であった。戦災バラック居住者は、「横浜二万五千、川崎三千、平塚三千、計三万二千」そのうち「越冬困難者はこの六割で二万人。補修すれば越冬できるものはさらにこの半数になる。したがって簡単住宅、軍が使用した建物、工場宿舎に収容する必要あるものは一万ある」ということで、知事は「或は資材、或は輸送、殊に板材の入手又は製材能力等の制約といふやうな事情から隘路が続出して居る」なかで、七千戸の目標を掲げていたが、「簡易住宅が年内にどれだけ出来るかということは、七千戸ではなく一千戸の間違いと思う」というのが事務担当官の見通しであった(『神奈川県会史』第六巻)。 県会のこの問題に対する関心は深く、開会の冒頭「戦災地復興促進に関する決議案」を決議し、軍不用建物の転用、簡易住宅建築の促進、社会事業の再興、保健衛生施設の充実、防寒設備の施設、都市計画路線の急速なる設定と急速なる実現を訴えたのである。とくに、最後の点に関しては「仮設建築も急がねばならないが、もっと根本的復興計画のもとに建設していってもらいたい、……都市計画の路線が決定しないためせっかく簡易住宅を建設しても道路の拡張とか、官庁の指令で移転を余儀なくされることがあっては県民は安心して建築できない。この不安を解消するため都市計画を直に発表してもらいたい、……またこれと関連して土地の区画整理も重要」との質問がなされたのである。これに対して知事は、都市計画路線の決定は「将来の復興計画の基本となり、又本県の中心都市横浜、川崎等を今後如何にして都市建設をやって行くかと云ふ根本問題に触れる問題である」ことは認めつつも「之が決定に関しましては単り復興院或は内務省だけではなくして、其の他鉄道、逓信或は其の他の官庁等も関係があります……それ等各般の事項に付て各角度から検討を致しまして、周到なる計画を立てる必要があり……県としましては中央の政府と連絡をとりまして、出来得る限り早く之が主要幹線路線だけでも決定をするやうに致したい……区画整理につきましても……恐らく中央政府に於きましても、特別な法制を設けて、さうして之を官でやりますか、県でやりますか、少くとも地元の市の異常なる、大いなる力を以て之が遂行を期すると云ふことの態勢を進めることと期待して居るのであります」と、政府の方針待ちの姿勢を明らかにしたにとどまった(同上)。 県行政の新しい指針 第三の論点は、敗戦後の県民の目標とそれを指導する県行政及び県政運営の根本方針にかかわるものであった。まず前者については「敗戦の廃虚の中からいかにして新生、平和日本をバラック住宅 『戦後10年のあゆみ』から 建設するか、敗戦国である事実を認識しポツダム宣言を忠実に履行するにはどうしたらよいか、民心は混とんとしてなすすべを持たない、ここにおいて当局は積極的指導標を確立し、民心の安定をはかる考えがあるか」の質問がなされた。議員のなかでの意見は「敗戦により国体護持の精神が貧弱になった」「民主主義の本義がはっきりしない……(明治憲法四条の)条文は絶対に改正してはならない。知事はこの線にそって民主主義の本義を確立し、わが国の方針を示してもらいたい」という意見のほかに、「長い間拘束されていた言論結社の自由が得られ民主主義政治の確立に寄与することができるのは喜ばしい」などと意見の差異もみられた。知事はこれらの質問に対し、「わが国は開国以来、皇室を中心として君民一体となって国力の発展につくしてきた。この関係は諸外国には例を見ないまれな国体制度で、民主主義の国家組織となっても変わることのない原理である。これを基礎として民主主義を実施してゆくことがわが国の課題であり、この場合、皇室と国民がともに栄え、ともに繁栄して世界平和と人類の福祉に貢献してゆくのがもっとも望ましい国体精神でないかと考える」。しかし、「現在は道義がすたり、『御上』の威信が失われているのはまことに憂慮にたえないので処断すべきは処断し、善導すべきは善導して民主主義政治を確立していきたい」という答弁をしていた(『神奈川県会史』第六巻)。 しかし、威信の問題は県行政自体の問題であった。「長官はすぐに中央政府の指示、方針に従って……といわれるが、もっと自主的な臨機応変の処置がとれないのか」「官僚は民衆とともに頭を切りかえなければならない。過去の官僚統制は軍国主義的帝国主義の根源ともなったが今や官僚政治の全面的刷新が急務」という官僚批判が出てきたのである。「中央の政治は軍政と化し、官僚の袖の下に隠れて独善の夢を貪ること十年に亘り、国民の耳目掩はれ、口は封ぜられ、与論は地を払ひ、国民の意気は喪失し、民の意の通ぜざる暗黒無軌道政治の行はれたる結果が、今日敗戦するの已むなきに至ったのでありまして、是は独り中央のみならず、地方政治に於ても多分に暗黒行政が認められる」という批判であった。こうした批判に対して、知事は「終戦後、進駐軍の事務に忙殺され県政が遅延したことは認める。これは本県に戦勝国の指令部がおかれたことや、最初の進駐地としての事情からやむを得なかったことを了承願いたい」ということで「官民の一致協力で猛進する気慨と熱意をもって行くよりほかにない。……中央の指示方針に基く以外に適時適策を断行せよとの御意見はもっともと考えるが事態急進いかんにより時宜に適した政策を断行しようと思う」というような説明にとどまり、「官僚統制についても……既説の食糧営団あるいは農業会については法令の改廃が先決で、今のところ何ともし難いが、この点政府においても改廃される時機があろうと思う」というような答弁にとどまった(同上)。 県会は、最後に「意見書」として、「現行府県制は、自治を圧殺し官治を万能とする極めて官僚主義的制度にして時局に便乗したる官僚専制の所産なり」とし、「参事会による出納検査制の復活、議員の予算増額修正権を認むること、議員の行政査察制度の確立」を内容とする府県制改正の意見書を決議する。賛成討論にたった議員は「思うに新生日本の消長は議会制度の発展のいかんにかかっている」と、この改正は「政治の民主化に伴って旧来の行政上の諸欠陥を矯正して地方自治体の強化をはかることを眼目としている」と訴えた(同上)。占領政策と国民の側の「民主化」の要求のなかで、国の地方制度、ひいては従来の県行政の仕組みも次第に変容の過程が始まることとなったのである。 二 変化への胎動 行政機構の混乱 戦時から継続する地方行政制度を通じて、敗戦・占領にともなう新たな課題を実施していくことによる混乱は少なからずみられた。とくに、「自由の指令」以降、占領政策の方向が明確化し、かつ言論機関の活動が戦時中の拘束を脱して一気に自由化した結果、これまでとは一変した観念が国内に充満しはじめた。足柄下郡の常会に関する資料には県会の開かれていたのと同じ一九四五(昭和二十)年十二月の「郡常会提案事項」で、その月の特別実践事項が依然「八紘一宇」であるのと並列して、学務課が「新教育ノ動向、根幹、1 軍国主義教育ノ払拭、2 民主々義、平和主義教育ノ確立」を併列して提案する予定となっているほどである(資料編12近代・現代⑵八六)。 同資料の一九四六年一月郡常会提案事項は、「建設貯蓄ノ取扱ニ就テ」のなかで、国民貯蓄増強運動にふれ「新シキ目標ヲ皇国財政護持新日本建設ト悪性インフレ防止ニ置キ個人経済ノ安定ヲ目差シテ居ルノデスカラ今迄ノ様ニ割当的強制貯蓄ハ致シマセン」としつつも「従来ノ実績ヲ参酌シテ『各町村デ』国家ノ要望ニ適応スル様ニ一定ノ貯蓄目標ヲ樹立シ国民ノ愛国心ニ訴ヘテ現金手持ノ弊害ヲ克ク理解ヲシテ貯蓄ノ増強ニ一層努力ヲ望ミマス」(同上)としている。また一九四五年十二月に作成された「戦後ニ於ケル国民貯蓄増強方策ノ内容説明」(資料編12近代・現代⑵一三五)は、その宣伝啓発の指導方針で、「従来ノ命令的ナル訴へ方(例ヘハ『貯蓄セヨ』)及感情ト結付クル訴へ方(例ヘハ『勝ツ為』)ヲ可成少クスルコト、反面国民ノ理性ニ訴フル訴へ方ヲ多クシ、……結論ハ国民自ラ之ヲ下スカ如クシ、真ノ納得ニヨル協力ヲ促スニ努ムルコト」と指導し、特に官庁が「直接国民ニ呼掛クル場合ニハ特ニ注意スルコト」と指導しているのである。そして今後の貯蓄政策は「著シク個人経済本位利益誘導本位ニ転向セラルルコトヽナル」し、「勤労ト節約ニ付テハ単ニ之ヲ道徳的ニ理解スル従来ノ観念ヨリ飛躍シテ効果第一、能率第一主義トシ、最少ノ原料、資材、労務、資金、時間等ヲ以テ最大ノ成果ヲ挙クルヲ眼目」とすべきことを指摘している。 町内会の改組 たしかに行政機構の内部での新事態への転換もこのように進められているものの、それをとりまく環境の変化のテンポはそれ以上に速かった。県民の側から、あるいは占領政策の指令によって、従来の県行政の仕組みは徐々に変容を迫られるに至ったのである。県民からの動きは最初に身近な行政機構である町内会・部落会に対して向けられた。県施策の伝達から配給業務に至るまで、日常生活の多くにかかわりをもち、しかも十分に機能しえない既存の町内会の「民主化」が課題とされたのは当然ともいえた。特に大都市部においては配給に対する不満がそのまま町内会における批判に直結しえたのである。一九四五年十一月ごろから横須賀、川崎、横浜、茅ケ崎、逗子などで、町内会の民主的再編、あるいは町内会長の総辞職などの要求がみられ、新たな町内会への衣替えの動きが自発的にみられるに至った。横須賀では一九四六年一月に入ると役員の総辞職がみられ(『神奈川新聞』昭和二十一年一月十一日付)、また川崎市小向町内会では町民の総選挙による役員選出(『神奈川新聞』昭和二十年十二月七日付)などさまざまなかたちでの再編の動きが出てきたのである。 こうした住民の動きに対し、一方で「民主化」は至上命令であるものの他方で末端行政事務を担わせている現状から、急激な再編はとりえないにしても、徐々の改組は行政当局もとらざるをえなかった。市民の動きが活発であった川崎市では「国家組織ノ基盤タル町内会並ニ隣組ノ真ニ自主的ナル組織ニ改変スルハ現下喫緊ノ重要事タルニ鑑ミ」独自に「川崎市町内会設置要綱」を定めこれに対応するような動きをとったのである(資料編12近代・現代⑵二〇六)。一方、県当局も一九四六年二月二十日に至り内務部長名で「町内会部落会等ノ運営ニ関スル件」を各地方事務所長・市長あてに通知し「町内会部落会ニ対シ過重ナル負担ヲ課シ或ハ其ノ自発的協力ニ俟タズシテ強圧ニ依ル負担ヲ部民ニ強ヒ若ハ其ノ自発的活動ニ制肘ヲ加フルカノ感ヲ与フルガ如キハ努メテ之ヲ避クルト共ニ……真ニ町内会部落会ヲシテ自由濶達ナル隣保互助国策協力ノ自主的組織タラシムルガ如ク之ガ運営指導ニ遺憾ナキヲ期セラレ度」と新たな「部落会町内会及隣組再建要綱」に基づく組織の再編を指導しているのである(資料編12近代・現代⑵二〇七)。 しかし、「自由濶達ナル自主的組織」の外貌をとったところで、こうした「運営指導」がはかられたのは、県民の要求に応えたためではなかった。むしろ「国策協力ノ自主的組織」「地方自治ノ基部機構トシテノ機能」を維持させることに主眼があったのであり、新たな要綱においても「住民ノ自由意志ニ基ク地域親和団体」と規定しつつも「区域内全世帯ヲ以テ組織スルコト」を要求しているのはその現れである。元来、この通牒のもととなったのは一九四五年十二月二十二日の内務次官通牒であり(全文は自治大学校『戦後自治史Ⅰ(隣組及び町内会、部落会等の廃止)』)、内務次官がこの通牒を各地方長官に命じたのは、総司令部が隣組組織に対して関心をもっていることを察知した内務省が、総司令部の措置をまつことなく自発的に既存の町内会・部落会の弊害を除こうとして発したものであったのである。したがって県内各地に起こりつつある町内会民主化の動きは必ずしも県の要綱の方針転換によっては吸収されつくさない部分ももっていたのである。事実、一九四六年五月末ごろ内務省が行った全国の人口十万以上の市における町内会の実態調査において、「終戦後町内会に於ける特異なる事象」として「旧来の組織を改組又は役員の選任方法を改正して極めて自由な意志に基き自主的地域団体として民生安定を図る為に再発足し又はしつつあるもの」と「町内会運営の民主化へ役職員の選任方法の改正、運営規程の改正」をあげ、そのいずれにも該当するものとして横浜・川崎の名が見られるのであり、「生活必需物資の獲得の為消費組合を結成したるもの」に該当するものとして横浜の名が挙がっているのである(自治大学校前掲書)。しかし反面郡部の町内会・部落会では県の指導の下にほぼそれに対応した規約の再編を行うものがあったこともまた事実であった(資料編12近代・現代⑵二〇八・二〇九湯本町の例)。 戦時指導者への批判 身近な町内会の民主化再編、あるいは町会長の辞任要求から、地方自治体自体の民主化要求、あるいはその長の退陣要求への距離はほんのわずかでしかない。十一月中旬には県下の全市町村長は戦時の責任をとって引責辞職すべきであるという意見が県下の町村会の内部でも出はじめていた(『神奈川新聞』昭和二十年十一月十六日付)のであるが、いくつかの市では実際にこうした市長の退陣要求が住民の運動として始まってきた。鎌倉市では鈴木市長が「戦争責任をとらねばならぬ必要はないが、新日本再建のスタートを切るには、私ごとき老齢の旧指導者は引退した方がよいのではないかと思い辞任することにした」(『毎日新聞』昭和二十年十二月五日付)のをきっかけに市民の民主化、明るい鎌倉市政を求める動きがでてきた。当時の市制によれば、後任市長候補を市議会で選出し内務大臣の許可を得ることになっていたので、市議会内部では次期市長の選任が始まったが「市長が責任を感じて辞めた以上、議員は候補者になるのを遠慮せよ」という町内会長の声なども出た。結局後任には当時の市議会副議長が推薦され、内務省の認可で後任市長の座についた(『鎌倉議会史』記述編)。その他に横須賀でも梅津市長排撃の声はあがった。指導者退陣の声が最も激しい運動となったのは川崎市で、官選市長に対する退陣要求が、町内会の民主化、あるいは市会の民主化運動と結びついて活発化した。同じような運動は小田原にもみられた。これらは単に指導者個人の後退を求めるだけでなく、市長を官選する従来の方式を改めさせ、首長を住民自らの手で選出するという事実上の〝首長公選〟制度の樹立という意味あいをもったのである。 政党の動き このような住民の運動を支えるのは、地域の住民や新たに結成され始めた労働組合員の動きであったことはいうまでもないが、戦後新たに組織化され始めた諸政党が予定される総選挙との関係で活発に動いていたということも無視しえない要素であると思われる。幣原内閣がその主要施策の筆頭にあげていた民主主義政治の確立ということは、具体的には議会の再建ということが考えられており、特に戦時下の翼賛選挙で選出された議会を解散し新たな議会を構成してこれに新しい日本を担わせることを考えていたのであった。そのため政府は、一九四五(昭和二十)年十二月からの第八十九帝国議会で衆議院議員選挙法を成立させ、これに基づく総選挙を行うことを優先課題としていたのである。新しい選挙法は、有権者を二十歳以上の成年男女に拡大し、従来の選挙区を大選挙区に改めかつ制限連記制を採用し、さらに選挙運動の大幅自由化を内容とするものであった。 一方、これに対応し総選挙をにらんで旧議会人を中心に政党の再編も進み、十一月に入ると旧政友会系鳩山一郎を中心とした日本自由党、旧無産政党系を中心とし片山哲を抱いた日本社会党が結成され、遅れて旧大日本政治会を母体とする進歩党が発足した。また、「自由の指令」によって指導者が獄中から釈放され、かつ公然と運動が可能となった日本共産党が再建され活発な動きを展開し始めていたのである。その他、敗戦後の混乱のなかからさまざまな名称を名乗る小党派が活動を開始したことはいうまでもない。衆議院は選挙法改正法案の他に、農地改革関係法案、労働組合法案の重要法案をすべて可決したうえで十二月十九日に解散され、各党は総選挙を目指して活動に入っていたのである。 県下においても、中央政界との関連をもちつつ前議員を中心に動きが始まり、十一月末には県会議員も新しい政党分野へ再編され(『神奈川新聞』昭和二十年十一月三十日付)、十二月には各政党の支部も発足するなど総選挙を目指しての政党活動は一気に活発化するに至ったのである。新選挙法で神奈川県は従来の三区から一区の大選挙区となり、定員十二名に対して解散当日で約三倍の立候補が見込まれていたが、新聞の報ずるところでは、自由・社会・進歩の「三派とも公認候補の詮衡はまだ手がつかず、一般県民は全く無表情である」。出馬の予想される人物に関しては、旧人の引退、新人の出馬もあるが「総じて変りばえのない顔触れといへる」(『朝日新聞』昭和二十年十二月十九日付)とされていた。時代の転換のなかで旧無産政党系の動きが注目されたが(この動きについては『横浜の空襲と戦災』5参照)社会党は定員の三分の一公認主義で四名が立候補する予定が伝えられるにすぎず、候補者の濫立の割には既成地盤の強固なことが全国的な形勢であると報ぜられていたのである。 公職追放令 こうした情勢を一変させることになったのが、翌一九四六年一月四日に総司令部から発せられたいわゆる「公職追放」令であった。この指令は軍国主義的国家主義者を公職から罷免しまた就職を禁ずると共に、日本の侵略的対外軍事行動を支持・正当化する政党・団体等の廃止を命じたもので、その具体的手続は日本政府の措置にゆだねられたもののこれに該当すべきいくつかの機関・団体を総司令部で指定しており、これらとかかわりをもった個人・団体の政治的影響力を削ごうとするものであった。総選挙との関連でいえば、大政翼賛会、大日本政治会の有力分子を該当者としていたため、これらを基盤として結成された保守政党、とくに進歩党に大打撃を与え選挙情勢を一変させるに至ったのである。こうした突然の公職追放令の影響は政党のみならず政府、県行政により大きな影響をもった。幣原内閣の閣僚中に四、五名の該当者がいることから内閣総辞職説もとりざたされたが、内閣改造により政府は一応危機を乗り切ったのである。 県下においてもこの追放指令の影響は大きかった。まず当面の総選挙、政界とのかかわりについて、一月十日の『神奈川新聞』は「候補断念者続出か、該当者は自ら決せよ、便乗的人物の巣滅を期待」と報ずるとともに「新顔は更に増加、政党地盤も大変動せん、気をよくした社会・共産両党」と情勢の変化と共に「小型政党続出、新聞雑誌も増える」と空気の転換を記している。 しかし、より大きな衝撃は県行政を担う首脳部の交代に結びついていったことである。すなわち、年頭の辞で「大試練の年至る」と県民の協力を呼びかけていた(『神奈川新聞』昭和二十一年一月一日付)藤原知事自身が、覚書に該当することがほぼ確実となり、その他にも県幹部の高級官吏にも該当者と覚しきものはみられ、覚書の具体的内容の確定次第によっては、人事の異動、機構の改変、さらには追放関係業務の開始など、この追放指令は県行政に新たな問題をもたらすこととなったのである。 政府は追放覚書該当者の具体的基準を作成するにあたり、総選挙との関連で翼賛選挙での被推薦者はこれに該当することを明らかにすると共に、以後の選挙にはこの基準に照らし適格か否かを審査する資格審査を行うこととした。さらに指定された国家主義的団体の解散を行わせると共に、一定の政治活動を行う政党その他の団体の市町村長への届出を要求し、これらに対応する新たな事務を、県・市町村は担うこととなったのである。 他方内務省は、追放令を受けて一月二十五日地方長官人事の大異動を行った。神奈川県では、知事藤原孝夫が退陣し、次長斎藤昇は山梨県知事へ転出した。後任の知事には元公使内山岩太郎が発令されたのである。 三 過渡期の課題 外交官出身知事の誕生 新しく知事に発令された内山岩太郎は、当時五十七歳、群馬県出身で東京外語でスペイン語科を中退したのち外務省に入り、主として南米ラテン・アメリカ地域に勤務することが多かった外交官であった。ブラジルのサンパウロでの総領事、アルゼンチン公使などを歴任したが、昭和十八年以来外務省を退き、南方農林協会理事長という閑職にあった。このような内務行政の経験の全くない内山を、内務官僚出身者の知事が続いていた神奈川県の知事に起用したことは全く異色の人事であったといえる。しかし、それはこの当時の神奈川県のおかれた位置を物語るものでもあったといえる。 内山の回想によれば知事就任の経緯は次のようなものであった。「終戦翌年の一月、招かれるままに内務省の大臣室に三土忠造氏を訪ねた。氏曰く『今度幣原内閣では内務行政を刷新するため部外の人を知事に採用することになり、横浜・神戸・長崎には外務畑の人を充てたいと思っている。あなたには神奈川に行ってもらいたいと思うがどうだろうか』と。そこで占領下の神奈川県は外国軍隊の多いことや、対外関係の複雑なことなど特殊事情を述べておられた。私は当時、戦争を回避し得ず、また勝つことも出来なかったのだから、せめて日本の復興には一役買いたいものだという心境にあったので、特に困難に赴くといった考え方から、事務的に深く考えることもなく快諾する気持で、大臣のお話を引き受ける場合は何時決定するのかと反問してみた。すると、今の内閣にはあなたを知っている人が沢山いるから(私の旧友楢橋渡氏が内閣書記官長をして強く推薦していてくれた)正式決定は次の閣議の日になるが、あなたが引受けてさえくれれば今すぐ決定するのだとのことで、意気投合の結果、私は即座にやってみましょうと快諾してしまった」(『内山岩太郎論』)。内山を知事に推薦したのは外相の吉田ではなく、法制局官長の楢橋であったということは楢橋自身が強調するところであるが(同上)、菅原通済は芦田均厚相、松本蒸治国務相との相談で決まったのだとも伝えている(菅原通済「鎌倉山秘話」『光あらたに』ほかに『通済一代』下)。いずれにせよ、内山選考の事情は、渉外問題の重要な神奈川における元外交官の起用という構想のもとになされたことは疑いあるまい。こうした知事に対し、終戦連絡横須賀事務局も「新知事は高橋局長をはじめわれわれの先輩であり、今後仕事をする上に好都合であります」と期待感を表明していたのである(『神奈川新聞』昭和二十一年一月二十七日付)。 内山新知事は一月二十八日赴任し「敬愛する県民各位に告ぐ」という談話を発表した。「県民諸君よ、今は男も女も老人も子供も夫々の立場、それぞれの力に応じて雄々しく立ちあがり働かねばならぬ秋であり、殊に本県は新日本の表門であり、横浜はその玄関である。復興は先ず此処から、そして我等の手と足で始めねばならぬ。余の敬愛する県民諸君よ、光栄ある新日本建設の先頭に立ち範を全国に示する大勇猛心を振起し相携えて速かに仕事に取掛ろうではないか」といい「県民みなが外交官の気概で協力して働かう」といかにも外交官出身知事らしい訴えをしたのであ内山知事(1949年当時) 桜井芳雄氏蔵 る(『神奈川新聞』昭和二十一年一月二十九日付)。 着任早々の知事の仕事はまさに〝渉外〟問題そのものであった。一月三十一日、当時来日中の極東諮問委員会委員に対し、管内の事情の説明をする役目を、事務引継を受けたばかりの新知事が行うこととなったのである。「懇談ハ終始極メテ熱心有効ニ行ハレ知事ハ通訳抜キニテ常ニ自身説明ニ努メタリ為ニ当初ノ予定ヲ超過シ概ネ三時近ク迄一時間以上ニ亘リ懇談継続セラル」という状況であった(資料編12近代・現代⑵九七)。極東諮問委員会の委員からはいくつかの質問がなされた。追放令、教育、政治の動向、食糧事情、その他占領政策への要望である。これらに対する知事の応答をみると、政治の動向について「現在日本ノ政治ノ分水嶺ハ天皇制ノ問題デアル此問題ヲ囲リ日本ノ政界ハ確然ト左右両分野ニ分レテ居ル」という認識で、「此問題ニ付結論ノ一致セル進歩党、自由党、社会党ノ間ニハ政策的ニ殆ンド大ナル差異ヲ認メラレス」とし、共産党が提唱する「人民戦線ノ統一的結成ハ不成立ニ終ルモノト見テヰル」とした。すなわち、左翼勢力の動きは新聞の論調に誇大に表現されている。しかしかつての軍閥に対してのように「政治的無気力ト利己的態度ヲ以テ今日再ビ左翼ニ望ムナラバ遠カラズ彼等ノ跋跪ヲ如何トモ為シ得ザルニ至ル虞レガ十分デアル」。また食糧問題について「食糧ニ対スル国民ノ不安ハ極端デアツテ之ガ国民ノ全活動ヲ臆病且消極的ナラシメテヰル」のであり、「日本再建ノ根本ガ道徳的ニモ物質的ニモ食糧問題ニ帰スルコト明白ナル今日其ノ一滴ノ呼水ノ意味ニ於テモ速カニ食糧輸入ヲ具体化スルコトノ必要ヲオ認メ願ヘルモノト信ズル」と述べているのである。 内山知事が着任直後に迎えたいま一つの大事業は天皇の神奈川県下巡幸であった。この年の元旦、「朕ハ〓等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジフシ休戚ヲ分タント欲ス」といういわゆる天皇の「人間宣言」が発せられたが、一方共産党を中心とする天皇制批判の声が強く挙げられていた。こうしたなかで二月十九日、川崎・横浜の両市、二十日には浦賀・久里浜の引揚者の収容施設の巡幸が行われた。神奈川県での巡幸が「大成功裡」に終わったので、以後近県各県への巡幸が続けられることとなった。 憲法草案の発表と総選挙 ところで、新しい知事を待っていたのは、このような国家的・儀礼的職務だけでなかったことは言うまでもない。以前から引き続く県民生活にかかわる課題は山積みしていた。しかも、それらを実施に移すべき環境は少しずつ変化しつつあった。それは単に占領政策の鮮明化とさまざまな国民の運動の展開というにとどまらず、それらの帰着先に一つの方向が示されたことによるものであった。すなわち、三月六日に幣原内閣は「憲法改正草案要綱」を公表し、来る総選挙後の特別国会でこの草案要綱を基本とした憲法改正を行う方針を明らかにしていたからである。こうしてがぜん憲法問題が総選挙の争点となってきたのである。 総選挙が四月十日(当初は三月三十日の予定)に行われることになると、県の行政機構と常会は、改正選挙法の趣旨の徹底と投票への参加のために動員された。「総選挙ニ対処スベキ公民啓発運動実施ニ関スル件」が内務部長から各地方事務所長・市町村長に発せられ「各部落会町内会ニ於ケル公民ノ集ヒノ開催方ヲ強力ニ取進メラレ」ることが命ぜられ(資料編12近代・現代⑵一四六)、教育民生部長からは「部落会ノ特種形態トシテ青年層ヲ主体トスル政治討論会ノ如キモノヲ開催シ自主的ニ青年層ニ於ケル政治的関心ヲ昂揚セシメ」ることが命ぜられ、「青年公論会(青年常会)の開き方」が指導された(資料編12近代・現代⑵一四五)。足柄下郡の二月の常会徹底事項は「明朗な正しい投票をして立派な代議士を選出しませう」ということであった(資料編12近代・現代⑵八六)。また、国民の政治関心を調査し「之ガ調査資料ニ基キ適切ナル対策樹立ノ資トセラレ度、尚之ヲ以テ選挙干渉ノ手段トスルガ如キ疑ヲ与ヘザルヤウ実施上特ニ留意セラレタク為念」と指導までなされているのである(資料編12近代・現代⑵一七一)。 こうした指導に基づいてなされた湯本町の政治関心調査表は断片的ながらもこのころの県民意識の動きをかいま見させてくれる。まず、今度の総選挙が行われる理由につき、大部分が「国内政治を刷新して民主生活を実現するため」と回答しており、民主主義の政治とはどういう政治かの問に対しては「政府が国民の要求を聞いて国民の為の政治をすること」と「国民が主体となって政治をとること」との二つに回答がわかれている。また、現在日本の政治問題で何を一番に解決すべきかという問に対しては、食糧問題の解決をあげるものが最も多く、次いでインフレーションの防止、憲法の改正をあげるものと続いている。これは日本が平和国家として立上がるために先ず何を為すべきか、との問に対し、産業の復興、国民生活の安定が民主主義の徹底よりも多くの数を占めていることともほぼ対応しているのである。限られた人数の調査結果ではあるが、ここに当時の県民意識が日常生活と結びつきの深い経済生活に向けられていたことが知られるであろう。 こうしたなかで戦後最初の総選挙が行われた。神奈川県は全県一区で定員十二名のところに七十七名が立候補し、その大部分が新人候補であった。選挙法の改正で婦人に初めて選挙権が与えられたこともありこの時の有権者数は前回(一九四二年)の翼賛選挙のときの四十三万九千から百万人へと二倍以上に増大してい第8表 第22回総選挙結果(1) 第22回総選挙結果(2) 1946年4月10日執行 た。とくに新有権者である約五十二万人の女性の投票率が注目されたが、男七一・七、女六三・九、合計六七・七㌫で、二人の婦人候補が当選した。その党派別は第八表のとおりであるが、党派別でみると、自由党六、社会党四、諸派一、無所属一で進歩党候補は全滅した。また社会党の片山哲、自由党の河野一郎を除く十名は新人であり、追放令の影響が大きかったことを物語っている(河野一郎は、当選後追放指令該当で失格となり、次点の共産党中西伊之助が繰上げ当選となった)。さらに新人議員のうち五名が現職の県議、ほか二名が市議などの経験者であり、追放された既成政治家に代わって地方議会経験者が国政の場に出ていったことがうかがえる。また、党派別得票数を市部、郡部別に対比してみると、自由党はより郡部から、社会党・共産党はより多く都市部から得票していることがわかる。 この総選挙の結果は全国的にみれば、自由党百四十、進歩党九十四、社会党九十二、協同党十四、共産第9表 1946年4月10日執行第22回総選挙党派別得票数調 神奈川県選挙管理委員会『神奈川県選挙10年の記録をかえりみる』から 党五、諸派三十八、無所属八十一ということで、幣原内閣は退陣することとなった。しかし、絶対多数を獲得した政党がなく、かつ第一党の自由党総裁鳩山一郎に対し追放令が出され(五月四日)、後継内閣の組閣は難航し、結局外相の吉田茂を首班とし自由党を与党とする吉田内閣が組閣されたのは総選挙後一か月余を経た五月十八日のことであった。 食糧対策 幣原内閣が不評であった理由の一つは国内経済政策にあった。幣原自身も長い外交官生活の経験者として〝渉外〟事項に十分に対処しえたが、山積みする国内の諸問題には十分に有効な施策をなしえなかった。特に一九四六(昭和二十一)年一月に緊急経済対策を打ち出し、金融緊急措置令により旧円を封鎖し新円五百円生活を打ち出したがインフレは容易に収束せず、また緊急食糧管理令により供出確保のため強権発動をも可能とする措置をとったが、一旦揺いだ政府の威信の下では供出確保は十分にできなかった。先にあげた湯本町の調査でも、食糧問題の解決のため強権を発動して供出を促進すべきであるという意見よりは農業技術を改善し肥料を供給すべきであるという農民の声があがっているのである(資料編12近代・現代⑵一七一)。 食糧問題は特に配給に依存する都市部において深刻であった。遅配は常態化し、しかも配給される内容も十分な食糧となりえなかった。そして、総選挙後の内閣不在のときにおいて政府の指導力が存在しない以上、県は独自で食糧確保の道を探ることしかなかった。ちなみに県下の食糧状況は、一九四六年五月二十日現在で以下の様であった(資料編12近代・現代⑵一一四)。 一日平均の所要量が三千九百石であるのに対し五月中の県外からの搬入量は一日平均四百五十石程度であり、政府の庫物払下げ分を加えても二千石以下であり所要量の約五〇㌫であった。前年秋以来、主として東北各県のほか千葉・三重・滋賀などの各県からの搬入計画をたて対策を講じたが、五月半ばまでの総入荷量は全体で七八・八㌫に過ぎず、特に四月期では約五割の達成をみたにとどまり、五月分については五分の一程度であった。「知事始メ各部長並市長、県・市議員、工場代表者、一般消費者代表等数次ニ亘リ各産地ヲ訪問懇請シツツアルモ甚ダ悲観的ナリ」と伝えている。 こうしたなかで配給の状況は極度に悪化し五月十七日現在で、「欠配ハ日々ニ悪化シ都市ハ平均一〇・四日長キハ十三日ニ及ブモノアリ郡部ニアリテモ平均五・六日ニ及ブ」という状態で、今後の見通しとしても「農家ノ供米、未利用資源ノ供出並隠退蔵食糧等ノ調査摘発等ニ依リ或ル程度ノ数量ヲ確保シ得ルモ其ノ量タルヤ総需要量ニ対比スレバ極メテ微々タルモノナルヲ以テ如何ニシテモ県外ヨリノ搬入米ニ期待ヲ懸ケザルヲ是ズ」という有様であった。 こうした食糧欠配の状況は当然に県民の不安動揺を産んだ。「欠配ノ全般的且長期トナルニ伴ヒ消費大衆ノ不安動揺ハ愈々増大シ集団的、示威的行動ハ日々熾烈トナリツヽアリ、特ニ工場労務者ノ大衆行動、中小都市ノ理事者、市会議員等ノ陳情者ノ数夥シク増加シツヽアルハ消費者ガ真ニ困窮ノ度ヲ加ヘツ、アルコトヲ如実ニ物語ルモノト思料サル、是等ノ陳情者ノ中ニハ食糧問題ヲ口実ニ単ニ政府官憲等ヲ非謗攻撃シ破壊的ノ言辞配給食糧の種類と量 配給量ではとても足りず、しかもその上遅配欠配があった 『戦後10年のあゆみ』から ヲ弄スルニ終始スルモノアルモ概ネ真剣ニ食糧危機ノ真相ヲ知リ食糧ノ確保又ハ配給ノ改善ニ協力シ官民共ニ此ノ難関ヲ突破セントスル気構ノモノ多キコトヲ観取サル、県ハ是等ノ陳情者ニ対シテハ努メテ其ノ真相ヲ語リ正確ナル認識ノモトニ行動セシムルヤウ配意シツヽアリ」。 県は四月二十一日に食糧対策の緊急措置要目を定めその実施に移していたが、ここに述べられたような県民の県庁への食糧要求の直接行動が始まっており、四月三十日には県民は知事に面会を要請し、非常食放出を行わせた。戦後最初のメーデーにおける要求も食糧危機突破が重要なスローガンであり、また幣原内閣退陣後の政局の混乱の中で食糧を突破口とする大衆運動が大きく展開されつつあった。 渉外知事 こうした状況のなかで、県として採りうる対策は、残るところ占領軍からの食糧放出を依頼することで当面の危機を乗り切ることであった。外交官出身の内山知事の〝渉外知事〟としての能力がこの局面に発揮されることとなるのである。ここで内山知事が遺した『日記』から食糧問題への知事の対応を跡づけてみたい(未公開の『内山日記』を利用するに際しては、内山知事の御遺族から格別の御配慮をいただいた。記して謝意を表したい-筆者)。 五月四日 食糧問題では陳情が多くなった。食へない結果で致方ない。乱暴をしないデモなら多いにやるがよいと思ふ。県民には籠城の積りで頑張れと励ましてゐる。 コレラ船も今が峠で何とか下火になり後続部隊も消化出来るらしい。 進駐軍は土木関係の仕事が進まぬとて「ヂレル」。 今日は自分が陳情の列に加はり先づ九時少し過ぎ吉田外相に話し米軍補給の麦類放出方運動を頼む。 次で農林大臣副島老人を官邸に訪ね、県下の事情を訴へた。二十年度四千二百万(実収見積三千九百万)は実際五千万あったのだ。神奈川は四月下旬で終る算りで今あるのが不思議だと云ふ。各方面の節米五百万石が相当に利いて居る。これから出来る丈しぼり出さねばならないが、米軍の援助物資の放出が大切だ、現地でも大に運動して呉れと云ふ。今日迄は僅々五千五百噸位で放出の条件は随分キツイと。 五月八日 十時ウァルシュ労務課長の求めにより往訪、労働者問題と食糧問題に就て話す。 更にメルバーグ大佐を訪ね食糧問題に就て訴ふ。同大佐は真に我方に共鳴して呉れて居る。これは労働課長の言に依って証明された米国側、マ司令官の報告が発表された。言は悉く我方の言はんとする所を述べて居る。アイケルバーガー中将を訪ね食糧情報を届けた。此の日新聞記者を集め食糧事情を説明す。 五月十一日 早朝より第八軍に食糧放出を願出づべく準備す。 横浜市会の代表者十余名の陳情。 川崎地区工業クラブ代表約二十名陳情。 相模原町会農会等代表十数名陳情。 何れも食糧問題で訴へる。但し我方の説明で静に帰る。 十時食糧課長同伴、NYKに第八軍経済部長Ballard大佐を訪問し県下の事情を説明し知事として出来る丈働いたが、此の上は進駐軍に頼むより外に手が無くなったから至急小麦二千噸を粉で呉れそして五月中に一万噸を貰ひ度い。それは全県需要量の約半月分である。東京で申入れて居るのは余り小額で問題にならぬ。我等の困るのは五、六、七月の三ケ月である。此の月を何とか切抜けさせて貰はねば生産も出来ねば秩序も保てないと述べた。 大佐は決して神奈川県民を餓死させる様なことはしない。問題は日本側が如何なる程度に自分の力を出して居るかと云ふことである。闇の横行もあるではないか。 日本政府は遠い生産県に対し小麦をやるから米を出せと云へば善いではないか。それは政府にはそれを云ふ訳に行かない。又云っても政府に対して人民は信用を持たぬ。マ司令部が云へば信用するであらふ。若し今米軍が神奈川に小麦を出して呉れれば日本人は米軍を頼りに政府を信頼する様になる。 自分は今約束は出来ぬが是非粉を出す様にする。猶今後は食糧問題に就ては出来る丈密接な連絡を取る様にし度いと云ふ。我方望む所である。 五月十五日 共産系のデモ三千人県に来るとの話。本日のデモは十五件とある。部課長会議後メルバーグ大佐を訪ねて食糧問題を論ず。鈴木公使も同行。メ大佐は過日と異なり悲観的にして八軍は食糧を出さぬらしいとのこと。余は今最後の段階に達し居り、我が政策に就ての批判は別として現実は食糧難を如実に現わしてゐる。救って貰へねば万事休すと論じ十一時五十分に及ぶ。デモ数千県庁を包囲すとの報告あり。 次でバラード大佐を訪ねた。一週間位の食糧を出して呉れることになるらしく思はれた時数字的に疑問が起き結局明日午前九時半更めて数字を持って往訪することになった。直に営団に行き対策を研究した。四時半事務所に帰る。東京に行く積りであったが時間がない。明日の会談で問題は決する積りだ。十時半頃にアイケルバーガー将軍に会ふ積り。 五月十六日 此の日朝バラード大佐を訪問のこと。茲で米軍の小麦を出して貰ふ。一週間分。断じて譲らぬこと。出来ねばアイケルバーガーに頼むこと。これは横浜に頼むこと。 五月十七日 九時廿分八軍にバ大佐を訪ねたが他所にて電話中の由、メ大佐を訪ねて新内閣の話をし十時頃再度バ君の室に行く。 回答は昨日非常に長く話をした結果夕方やっとこれ丈出すことになった。それは知事の申出の二割五分を認めることで米軍は世界の食糧難から決して日本を直に救済する訳に行かぬ。日本人が努力した後不足の一部を補ふのだ。 僅だがこれで五月分はやって見給へ、日本人が最後の努力をして足りない場合は又何とか考へると、小麦は出来る丈早く(月曜日)粉のまま上げると。 米軍の小麦が出た。 暴動の起きる様な場合には出すと云ふ小麦が兎に角出た。六十万トンしか来ない其の内からの救援物資である。 早速庁内の態度を決し、新聞に公表することにした。 五月十九日 十九日は食糧メーデーと称して盛に示威を行ひ、一方内閣の成立難に関連して左翼は一挙に内閣を奪取せんとする状勢を呈して来た。連日の対宮中でもや内閣に泊込戦術などを実行する共産党も現はれた。 県庁でも一日六組に及ぶデモと陳情で中には一組一時間以上を要するものもあり殆ど仕事をする暇もなく自然に高い声も出し度くなり夕方には声がかれて来た。 こうした交渉を通じてこれまで政府を通じても行われながら成功をみなかった米軍の食糧の放出の突破口が開かれることとなった。その量は神奈川県下に対し二千五百トンというもので一時しのぎのものにすぎなかったが、内山知事の〝渉外知事〟としての声望がこの緊急食糧放出によって示されたのであった。のちに県議会は「輸入食糧放出に対する感謝決議」を連合国最高司令官に対して行っている(八月十日)のと、また、内山知事が離日するアイケルバーガー中将に感謝の書簡を送っている(一九四八年七月)のは、このような知事の占領軍当局に対する働きかけがあったからなのであった(『神奈川県会史』第六巻)。 四 転換する地方制度 地方制度の改正 ところで、難産ののち成立した吉田内閣の最大課題の一つは新憲法の草案審議とこれに関連する諸法制の整備を行うことで、そのなかに地方制度に関する諸法規、府県制、市制、町村制などの改正もあった。新しい地方制度改正の方向は、既に三月に発表された憲法草案要綱のなかで示されていた。これは、憲法に新たに「地方自治」の章をおき、地方公共団体の組織と運営は「地方自治の本旨」に基づいて法律で定めるという原則を定めたほか、地方公共団体の長は住民公選によることを定めた内容のものであった。内務省ではこうした趣旨に沿って知事の公選制、また公選の母体を衆議院選挙法にならって二十歳以上の男女とする、などという内容をも含んだ地方制度改正案を準備して七月から始まった第九十議会にこれらの改正案を提出したのである。しかし、こうした制度改正をまつまでもなく、住民の側で自主的な〝首長公選〟を実施しこれにより地域の新しいリーダーを選出する動きも始まっていたのである。 本県では川崎市においてこのような過渡的な時期での〝公選〟が行われた。すなわち敗戦直後から、戦時市長としての当時の江辺市長に対する批判が強まり、一九四六(昭和二十一)年二月には戦時市長退陣を求める市民大会が行われていた。また労働者・市民が市長の退陣を要求するほか市役所内に川崎市食糧管理委員会を結成し食糧問題にあたろうとし、さらには川崎市民需対策委員会も結成される動きとなっていた(資料編12近代・現代⑵一三一)。こうしたなかで五月二十七日に江辺市長は辞意を表明した。当時の市制では市会が市長候補者を推薦し内務大臣の勅裁を経て選任することとなっていたが、新憲法草案の趣旨を生かし〝公選〟に近いかたちで市民の意思を確かめる手続を導入し、これに沿って、市会が市長候補を推薦することがなされたのである(『川崎市史』)。具体的には市会議員全員により市長公選委員会を組織し、有権者は二十一歳以上の男女、被選挙権者を二十六歳以上の男子とし、単記無記名投票を行う。投票・開票は町内会長が管理して行うという方式を採用した。こうした方式は、既に仙台市などで行われたものであったが、こうした〝市長公選〟が七月十四日に行われた。投票率は五一・四㌫で、ここで最多得票を得た金刺不二太郎を市会は内務省に推薦し、八月一日から川崎市長に就任することとなったのである。小田原市の場合は、「市民ノ与論ヲ尊重スルノ根本方針ノ下ニ」市会に九名の市長候補者詮衡委員をあげ、さらに「町内会代表者ノ参集ヲ求メ市会ノ意嚮ヲ伝へ各級常会ニ問ヒテ市民ノ与論ヲ調査セシメタルニ偶々本市会ノ抱懐セル候補ト一致シタリ」ということで後任市長を選出した(小田原市役所『昭和二十一年市会書類』)。政府の主導で進められる制度改革の内容を先取りする市民の動きが県内においてもみられたのであり、政府が進める制度改正とこれを支える国民の動きが今後の新地方制度の定着を規定することとなったといえるであろう。 ところで、議会での地方制度改正は八月三十日に衆議院を、九月二十日に貴族院を通過し、九月二十七日に公布された。しかし、衆議院での審議の過程で、総司令部や議員からいくつかの修正要求が出され、八月三十日の衆議院通過の時点で衆議院は附帯決議をつけ、それをうけ大村内相は「更に第二次的地方制度の根本的改正を図る必要があると考えている」と声明を発表し、知事の身分の切替えにともなう新たな見地からの府県の組織及び運営の制度の確立、大都市の特殊性に即応する大都市制度の確立、市町村に自主的に行政組織を選択させ、事務を自主的に処理させる権能を与えること、などの九項目を第二次改革の骨子としてあげたのである(自治大学校『戦後自治史Ⅱ(昭和二十一年の地方制度改正)』)。こうして、一九四六年九月の地方制度改正以後、一方で新制度の定着をはかろうとする動きと、他方でより新しい制度の構想をはかるという動きとが併行して行われることとなったのである。 すなわち、内務省は「地方制度改正に伴ふ公民啓発運動について」を知事に通牒し、今回の制度改正の趣旨―改正憲法の実施と共に我国の民主主義化を実現せんとするものであって、その内容も地方自治団体首長の直接選挙、選挙権及被選挙権の拡張、自治行政への住民の直接参加等極めて多岐に亘り我国地方自治制度創設以降の根本的改正である―を国民各層に充分徹底せしめることを「官製的運動であるやうな印象を与へないやうに留意」しつつ行うことを指示した(資料編12近代・現代⑵一九〇)。これに基づき、知事は新憲法公布の十一月三日に訓令を発し、今回の改正の目的が達成されるか否かはその運用如何にあり、「よくその趣旨を直接自治運営の衝に当る者には固より広く地方住民にも周知徹底させ、地方政治が真にその住民の創意と責任とにおいて運営され日本の民主的発展の基礎を培ふことができるやうにしなければならない」と命じた(資料編12近代・現代⑵二二八)のであった。このように住民の創意を前提とした地方制度に対し、その運用方法を内務次官-知事-市町村長の行政系列で浸透させるという形態が依然続いていたのである。 特別市制問題 他方で、内相が約束した第二次の地方制度の改正に関連して県内に新たな問題がクローズアップされることとなった。それはこの第二次改正のために設置された地方制度調査会で、大都市制度を検討する第二部会の委員として内山知事が就任することとなったためである。大都市制度問題の具体的内容は、大阪・名古屋・京都・横浜・神戸の五大市を現在所属する府県から独立させて特別市とし、府県並みに扱うか否かの問題であった。これら大都市は、府県と国との二重監督の弊を訴え、市が直接に国と結びつき府県の有していた事務をも市にとりこんで独立する運動を戦前から進めていたのであるが、戦後の地方制度改革のなかでこの問題を提起し、衆議院の附帯決議をたてにとり、すでに国論は特別市制度の方向に向っているとして一挙にこの部会で特別市制度の導入を期そうと結束していたのであった。 調査会の大勢は、大都市側の結束が固いこともあり特別市制度の導入にあった。府県を代表する立場にあった内山知事は、横浜と神奈川県との関係に例をとりつつ特別市の創設は多くの難点があることを指摘し反対論を展開したが(『改正地方制度資料』第三部)、少数意見であった。 特別市問題は、そのまま進められれば事実上横浜市を神奈川県から分県するという問題であり、神奈川県にとっては無視しえない大問題であった。特に横浜の地勢上の理由からみても「川崎市、横須賀市等の地域を考慮するときは県を二分するに非ずして実質上は県を三分することになる」(資料編12近代・現代⑵二二六)という認識にたって、知事はこれに絶対反対との立場をとり、五大都市を含む五大府県に働きかけ連携を強めると共に、県下の残存市町村にも働きかけ反対運動を展開したのである。これに対して、横浜市が独立すれば飛地となる川崎市の商工会議所、川崎工業倶楽部は「横浜市が五大特別市制運動に便乗し、県内各都市の立場を無視して、独善的に同市の特別市制実施を企図しつつあることは、川崎市として遺憾千万」とし「地方中小都市の興隆」こそが必要であるとの立場から横浜特別市制に反対を唱えた(内山岩太郎『特別市制に就て』昭和二十一年十二月所収)のをはじめ、県下の町村長会も「大都市の行政改善に先行して農山漁村における行財政の刷新拡充」にこそ重点が置かるべきだとして反対の歩調をそろえたのである(資料編12近代・現代⑵二一九)。 他方で大都市側にもこれを強行する上での難点があった。それはこの調査会で内山知事が指摘したことであったが、特別市を創設する際の手続と既に公布された新憲法九五条との関連であった。新憲法九五条は「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票において、その過半数の同意を得なければ国会はこれを採決することが出来ない」と定めており、特別市設置のための法律は新憲法下では住民投票を要するという問題であった。そして「住民」の範囲を関係の市民だけに限定するのかそれとも県民とするかの問題は残るにしても、いずれにせよ憲法九五条の住民投票を必要とするというのが内務省の解釈であった(同上)。 『内山日記』の一九四六年十一月四日のところには、「此の日GHQにHussey氏を訪ねたが不在なのでKades氏を求めた。これも不在なのでTilton中佐に会った。話は要領を得、是非又来て呉れと云って居た」とあり、翌日のこととして「横浜市の当局者が五日の朝市制問題で諒解を求むる為経過報告に来た。田島助役同伴。県は部長を集めて聞いた。自分は市の完全独立は不合理だと強く主張する積りだ」とある。 県選出の代議士の意見も横浜市部選出者と郡部選出者の間で意見がわかれ県内はこの問題をめぐって意見が二分されることとなった。 こうした運動が続けられるなかで十一月二十七日の地方制度調査会第三回総会は特別市制に関し「五大都市の特別市制については、関係府県と市との円満なる協調を行なうよう、政府において善処されたい」との附帯決議をつけたうえ第二部会の答申を採択した。こうして一応調査会での議論は終結し、問題は地方自治法が特別市制をどのように戦後初期県議会 『神奈川県議会史』続編第1巻から 扱うかの問題となった。内山知事は十一月二十七日にこれ以上進んで論争をしない旨の声明を発し、翌二十八日には横浜市関係者と会談し特別市問題を打切り相携えて復興に尽力すべく申し入れたのである。結局調査会は二月十二日「五大都市は夫々その市の区域により現在所属している府県から独立させること」「特別市には、原則として道府県の制度を適用すること」を決定したのである。 区域変更をめぐる問題 特別市問題は新しく作られる地方制度の枠組との関連で県を二分するか否かの大問題であったが、県内にはそれとは異なる型での区域変更をめぐる争いもこの時期に登場した。その一つは横須賀市内の旧逗子町の分離独立問題で、戦時中の一九四三(昭和十八)年四月に軍の要請で横須賀市に編入された旧逗子町の町民の有志から戦後になって編入の意義は失われたとして従来の如く逗子町として独立しようとする運動が活発になってきたのであった。また、高座郡相模原町でも旧座間町の分離独立問題が動き始めていた。座間町では相模原への合併後、住民生活の不便、経済負担の不均衡等を理由に、分離独立の意向を強くもっていたが、相模原町会ではこれを認めると大野・相原等が相次いで独立することをおそれてこれを承認しなかったために問題化し始めていたのである(地方課『昭和二十二年三月知事事務引継書』)。 当時の地方制度では、そして制定されることとなる新地方自治法においても、市町村の配置分合は関係市町村会の議決を経て、内務大臣の許可を得たうえで知事が定めることとなっていた。しかし、住民の意思を尊重するという雰囲気が強まってくるなかで、区域の変更に関しても住民の意思を直接に聴する手続が採られる動きもみられたのである。鎌倉郡片瀬町の場合がそうであった。片瀬町と隣接する藤沢市との合併問題は戦前からあったが、敗戦後の財政の窮乏と食糧の確保のため合併の気運が強くなり交渉が進められた。一方同市に隣接する鎌倉市も大鎌倉市の構想をもち隣接町村との合併を希望し、片瀬町が藤沢か鎌倉との合併を希望するという誘いをもちかけた。同町ではこの問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。一九四七年一月に行われた町民投票では有権者の五七㌫の三千四百六十三名が投票し、結局藤沢市への合併を希望するものが、現状維持・鎌倉合併派をおさえて多数を占め、これを基礎として両市町は合併を内務大臣に奏請した結果、同年四月一日から片瀬町は藤沢市に編入されることとなったのであった。このように〝首長公選〟の時と同様に法制上の裏づけはないが、住民の意向を確かめるための住民投票を経て事実上の決定を行い、それを法制に結びつけて運用するということが、過渡期の地方制度運営の現場でみられるようになっていたのである。ちなみに、逗子町の横須賀市からの分離の投票は一九四九年三月に行われたが、これは四八年の地方自治法一部改正による法的根拠をもった投票であった(『横須賀市政時報』昭和二十四年二月二十二日)。 一九四七年に入っての政治情勢は、いわゆる二・一ストを目指す労働運動の攻勢のなかで異常な高揚をみせた。ストはマッカーサーの指令によって中止されたが、マッカーサーは二月七日に吉田首相あての書簡を送り総選挙の時期が到来したと述べた。こうして解散の時期を政府は検討したが、五月三日の新憲法施行以前に国会、地方議会すべての選挙を完了し、新たな装いで憲法の施行を迎えるのが妥当であるとの判断で、選挙の日取りが決定された。すなわち二月十七日の閣議で決定されたのは四月五日地方首長選挙、四月二十日参議院、四月二十五日に衆議院、そして四月三十日に地方議会議員の選挙が一斉に行われることとなった。知事を含む地方首長の選挙と参議院の選挙とはいずれも初めて行われるものである。 内務省では初めて行われる知事選挙を前に大規模な知事の人事異動を発令した。これは官選知事で初の知事選挙に出馬するものがみられたから選挙の公正を期するために過渡的にとられた措置であった。神奈川県においても内山知事に出馬の意向があり、三月十二日付をもって県経済部長渡辺広が知事に発令された。渡辺知事の任務は官選知事から公選知事への引継ぎを行う以上のものではなかった。県政の新しい段階は新憲法下の装いを改めた県政のかじ取りを誰に託すかにあったのである。 第三節 社会運動の再生 一 戦後労働運動の出発 労働運動の復活 敗戦後しばらくの間、県下の工場地帯では、経営者だけではなく労働者のあいだにもある種の虚脱感がまん延していた。戦争が終わり空襲の心配もなくなったことからくる解放感と同時に、続々と行われた工場の解散や、就業の目処がたたないことへの不安、〝飢え〟への恐れ、あるいは進駐したアメリカ兵への恐怖など、労働者はそれらが複雑に入り交った感情のなかにいた。人びとはみな、ともかく〝いま〟を生きることに必死であった。 しかし敗戦から約二か月たった十月四日に政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃「人権指令」が発せられ、さらにその一週間後に労働組合の結成などを奨励する改革指令が出た前後から、横浜や川崎を先頭に県下各地域で労働者の組織化への動きが活発になり始めた。その中心になったのは、戦前来の労働運動の活動家たちであり、またそうした運動の〝伝統〟をもつ工場や職場、地域の労働者であった。十月五日、横浜で十五名の船員が戦前の組織を復活する形で「全日本海員組合横浜支部」を結成した。これは県下に作られた戦後最初の労働組合組織であった。同じころ戦前の神奈川労働界に大きな影響力をもっていた旧総同盟系の人びとが、あちこちの工場・地域で労働組合結成への活動を行いだした。これとは別に旧全協・全評系の活動家による労働者の組織化も活発になり、鶴見ではこれらの人びとが「統一金属組織委員会」を作って近隣の労働者に影響を与えていった。他方労働者側の自主的な動きとは別に、とくに大企業では「どうせ組合を認めざるをえないのなら」という理由から、会社側が率先して組合の設立にのりだしたところもあった(『神奈川県労働運動史』第一巻)。 こうした動きが進むなかで、十月二十六日に日本鋼管鶴見造船所に県下で戦後初めての労働争議が発生した。原因は会社側が生産計画がたたないため大量の人員整理を行ったことにあり、被解雇者のうちの四名がこれを不服として他の労働者に働きかけ、さらに統一金属組織委員会の支援をうけて、即時復職のほか組合公認、賃金増額、「戦争責任者たる幹部の追放」、工場民主化など十一項目の要求を掲げて会社側との団体交渉を開始したのである。この争議では会社側は完全に受け身になって孤立し、労働者側の要求が大部分実現してその勝利となり、他工場の労働者に〝団結〟の威力をまざまざとみせつけた。そしてこの争議の直後から、池貝自動車をはじめ鶴見・川崎地域の工場に労働者側の攻勢的な争議があいついでひろがっていった。一連の争議では、労働者側はほぼ共通して三倍から五倍の賃上げと工場の民主化を要求し、一応それらを獲得した。またその過程で〝争議団〟を恒常的な労働組合組織へと改組させた。こうして敗戦の年の末には県内で五十三の組合と五万七千四百九十六人の労働組合員が組織されて早くも戦前最高時の数値を突破し、翌一九四六年三月には組合数が百九十五、組合員数が八万五千二百五十四人と、労働者の結集・組織化は急速に進んだ。 このようななかで一九四六年一月に発生した「第一次東芝争議」は、神奈川県のみならず全国で初めて地域労働者の「共同闘争」として進められた争議となった。東芝では前四五年の末以来堀川町をはじめとする工場ごとの労働組合が結成され、賃上げなどの要求が提出されていたが、この争議はこれら各工場の組合が集まって連合争議団を作り、また川崎・鶴見から東京の城南地域にわたる労働組合の強力な支援をうけた闘いとして行われ、労働者側は賃金の五倍化や経営参加にむけた経営協議会の設置などを獲得した。共同闘争は、同争議ののち労働者側にほぼ共通する闘いの形態となった。東芝争議と時を同じくして行われた日本鋼管鶴見製鉄所の争議では、組合の承認や待遇改善などを要求して労働者の〝生産管理〟が実施された。すさまじいインフレのなかで会社側が生産計画をたてない状況下では、労働者の要求の実現のために、生産管理こそが有効な方法であると解されたのである。鶴見製鉄所の生産管理に対し、政府はその違法性を主張する声明を発表した(いわゆる四相声明)が、内相宅へおしよせた鶴鉄の労働者に加えて他企業の労働者もこれに反撃を行い、〝生産管理〟は二月から五月にかけ県内大小の工場、さらに学校の争議にまでひろがっていった(『神奈川県労働運動史』第一巻)。 メーデーと食糧メーデー 一九四六(昭 和二十一)年五月一日、二・二六事件のおきた一九三六年以来中断していたメーデーが復活した。神奈川県では、四万五千人が参加の川崎・鶴見地区、四万人が集まった横浜地区をはじめ、横須賀、戸塚、茅ケ崎、平塚、小田原、秦野、厚木の八地域で、総計十万人をこす人びとによる集会とデモ行進が実施された。どの地域のメーデーも、社会党・共産党・労働組合などが共同でとりくむ統一メーデーであり、参加者の多さをはじめ当日の様相は戦前のそれと一変していた。横浜のメーデーに加わった「年老いた一労働者」は、「私のセガレは戦争で死んだ、私の家は戦争で焼かれ、私はひとりぼっちになった、しかし今日のやうにうれしい日にあへるのは、やはり生きのびたおかげだ、このさかんな光景はどうだ、チクセウまた涙が出るぢゃあねえか、労働者は勝ったんだ、いや将来も勝たねばならない」と述べていた(『神奈川新聞』昭和二十一年五月二日付)が、ここにみられる労働者としての解放感と〝自覚〟とは、メーデーの出席者に共通したものであった。メーデーでは、民主人民政府の樹立、隠匿物資の摘発、生産管理弾圧反対、失業者に職を与えよ、朝鮮人労働者差別待遇反対など十七の決議と民主主義革命の完遂をめざすという宣言が採択され、県庁におしよせた五千の労働者によって決議文が知事に手交された。 メーデーに掲げられた隠匿物資摘発のスローガンは、当時極端なまでに悪化していた食糧事情を反映したものであった。敗戦直後から県内の供米計画は予定の三割しか実施できず人びとの飢餓状態は慢性化していたが、とくに翌一九四六年に入ってから食糧営団の手持ち分と県外からの移入米がともに激減し、県食糧課長の語るところでは六月以降食糧の「需給計画はたたない」(『神静民報』五月十二日付)ありさまとなった。川崎や横浜では餓死者が多々みられ、「野草パンで飢えをしのぐ」(鶴見)、「海草で食繋ぎ」(平塚)、「よもぎも取りつくした」(国府津)状況であった。県ならびに市町村当局は、政府への食糧払下げ要請や第八軍への陳情、また県外米の移入にむけ東北や北陸各県へ交渉員を派遣するなどしてその対策に努めたが、事態は好転する気配をみせなかった。そこで人びとは、個々人がヤミ買いを行う他に、集団として次のような行動をとった。第一は農民との物々交換である。逗子の生活協同組合は塩を作製してこれを飯米と交換し、鶴見製鉄などの労働組合も同様の活動を行った。第二は集団による隠匿物資の摘発であり、第三は行政当局に談じ込んで物資配給への住民の直接参加、あるいは「食糧の人民管理」を要求することであった。これら第二第三の行動は、県内全域で第十表のようにくりひろげられた。そしてこの〝食糧獲得闘争〟の集約点になったのが、五月二十日に野毛山公園で開かれた食糧メーデーであった。食糧メーデー当日、会場には「働けるだけ食糧を与へろ」と併せて、「反動内閣の打倒人民政府の確立」という『秋田魁新報』 昭和21年5月10日付 第十表 各地の食糧獲得闘争 『神奈川新聞』『神静民報』『読売報知』、法政大学大原社会問題研究所蔵「産別」ファイルから作成 スローガンが掲げられた。 民主戦線運動 食糧獲得闘争の過程で、それと並行して「民主人民戦線」の結成と「民主人民政府」の樹立をめざす運動が進められた。一九四六(昭和二十一)年一月の軍国主義者・国家主義者に対する「公職追放」令は、保守政党や従来からの支配層に大きな打撃を与えていたが、この追放令に一部閣僚の変更のみで対処し政権を担当し続ける幣原内閣を、「民主人民戦線」の力によってたおし、社会・共産両党を中心にして「人民政府」を作ろうというのがその内容であった。労働組合や、食糧獲得闘争の地域組織の多くがこれに加わり、世論にもこの動きを支持する形勢が強まっていた。各新聞はあいついで「人民戦線内閣を作れ」などの主張を掲げ、『神奈川新聞』も「民主統一戦線結成機運熟す」と題する社説を発表した(一月十八日付)。この社説は、「日本を侵略的戦争に捲き込んだ軍閥、官僚、巨大財閥等の独裁支配者共に現在も支配的地位を独占し居り乍ら政治的、行政的、経済的に国民生活を再建する仕事を全面的にサボタージュしてゐるため生産停頓状態に等しく今や国民生活は破局に瀕し、日本民族は滅亡の一歩手前にある」と現状をとらえて、「彼等を支配的地位から放逐し、産業を再建し、国民生活を安定せしむること」が緊急の課題であり、そのためには「働く国民全部の手で政治、経済、文化あらゆる面の徹底的民主化」が必要で、それを行うのが社会・共産両党を中心に団体や個人を結集した「民主統一戦線」であるとしていた。 二月二日の食糧難克服県民協議会の場で設立された神奈川県民主協議会が、全県域を代表する民主戦線のための組織となった。民主協議会には社会党・共産党・労働組合・農村青年連盟など十二団体が集まり、当初は食糧獲得闘争のみがその課題となっていたが、五月八日に食糧獲得のための「具体策について民主戦線の結成以外に方法なしとして第一回民主戦線結成懇談会」を開催、戦線の糾合に努めた。市段階の場合、横須賀では一月末から隠匿物資摘発行動が社会・共産両党の共闘でなされ、その組織である市民食糧管理委員会が中心になって二月末に戦時下に任命された市長の退陣要求運動を始めた。小田原でも社共両党と労働組合などからなる民主協議会が作られた。小田原民主協議会は、任命制市長の退陣後、町内会単位の「与論調査」に基づく方法によって後任市長を選出させた(『神静民報』五月五日付)。なお戦後初めて市長退陣要求市民大会が開かれた川崎市でも、五月の市長選では婦人の〝投票権〟を認めた上で小田原と同様の選出方法が採用されている。鎌倉では五月中旬に社大船駅闇買出し一斉取締り(1948年7月2日) 機関紙連合通信社蔵 共両党を中心にする民主協議会が結成された。こうした地域単位のものだけでなく、労働組合の連合組織の中にも、例えば東芝堀川町工場をはじめ神奈川県内の電気工業工場が主力となって四月に結成した関東電気工業労組のように、その規約に組合の事業の一つとして「民主人民戦線促進」を掲げ推進に努めたところもあった。 この間四月十日に戦後第一回の総選挙が実施された。選挙で敗北した幣原内閣は四月二十二日にようやく総辞職し、以後五月二十二日に第一次吉田内閣が成立するまで〝政権の空白〟が続いた。食糧獲得闘争が高揚し、民主戦線運動がひろがったのはこうした時期のことであった。 二 労働組合運動の発展 総同盟と産別 企業や事業所ごとに労働組合が作られ、争議が広がるなかで、労働組合の連合組織の形成にむけた動きが進行した。それは戦前来の総同盟系の組織再建の方向と、左派系の組合を結集し産別会議にむかう方向との、二つの路線となって具体化した。 一九四五(昭和二十)年十一月、旧総同盟の指導者たちが集まって第一回総同盟神奈川県連組織準備会を開き、県下の労働組合をこの連合組織に結集するための活動を開始した。彼らは「右翼に対する警戒はもちろんであるが、また極左(共産党)の運動も警戒を要する」という立場から「県連合会は総同盟の主義主張に賛成の者によって組織する」方針をとり、一九四六年二月三日、総同盟県連の結成大会を挙行した。そこに集まったのは四十八の労働組合で、組織人員数は二万四千八百九十人であった。一方これと並行して別個の連合組織の形成へむかう動きが進展した。一九四五年十二月、戦前の左翼系指導者の影響下県下主要労組の組織変遷表 に川崎で神奈川県工場代表者会議が開催された。集まったのは県下二十一工場の代表で、「御用組合の排撃」と「共同闘争の展開」に力点をおいて「全県下各組合の大同団結」が呼びかけられた。そして翌四六年一月、おりからの東芝争議のさなかに第二回工場代表者会議を開き、その直後に神奈川県労働組合協議会が発足した。神奈川労協は「労働条件」の維持改善と同時に、直面していた食糧難に対し農民・市民と連帯して「食糧の人民管理」を行うことを訴え、また組織方針としては労働組合の産業別組織化の方向を打ち出した。総同盟系が〝県連〟中心という地域単位のまとまりを重視したのに対し、労協の産業別組織化の方向はとくに若い労働組合指導者層をひきつけ、産業別組織への各労働組合の結集は急速に進んでいった。なかでも金属機械産業の場合にそうした傾向が著しく、四月に全国組織である全日本鉄鋼産業労働組合が作られたのを皮切りに、関東造船、関東電工、関東化学など〝京浜〟を中心にした産業別組織が続々とうまれ、それらの神奈川支部や地方協議会が作られていった。そして神奈川労協から発展した関東労協が産別会議へと拡充・改組される(一九四六年八月)と、それにともない、中央の産別会議とは一応別だての組織として、産別会議系組合の神奈川における連合体である「神奈川産別」が結成された。これら総同盟系ならびに産別会議系組織の変遷は前頁の図のとおりである。 十月闘争から二・一ストへ 多くの労働者を結集し組織的に強大化した産別会議系の労働組合を中心にして、一九四六年下半期にいわゆる〝十月闘争〟が展開された。この闘争の発端をなしたのは、第一次吉田内閣のもとで計画された国鉄と海員の大量解雇に対し、八月からこれらの労働組合が猛烈な抵抗をくりひろげたことであった。県下では国鉄労組東京地方評議会の横浜・国府津両支部が一部作業の「業務管理」(生産管理)を行い、また海員組合横浜支部は同組合内の「革命的反対派」として停船サボタージュを実施した。国鉄・海員の争議はともに労働者側の勝利となった。ほぼ時を同じくして、東芝でも人員整理計画に反対する闘争が行われた。多くの労働組合の間に、馘首反対・賃金増額とおりから立案されていた労働関係調整法反対を掲げる共同闘争の機運が強まっていった。前述した神奈川産別の正式発足はこのようなときになされたものであった。十月一日から東芝関東労連が馘首反対・最低賃金制確立・産業復興会議設立を要求してストライキを実行すると、これを先頭に電気産業労組(電産)、機械器具労組など産別会議傘下労組の県内支部はあいついでストライキに突入した。参加組合は三十二、参加人員数は四万人に及んでいた。 一連の闘争は十一月半ばまで行われ、労働者側の要求の多くが貫徹するなかで、十月闘争には慎重な態度をとっていた総同盟県連の神奈川産別への歩みよりがみられるようになり、両組織の共催で十二月七日に県下七か所において「吉田亡国内閣打倒国民大会」が開かれた。そこでは「首切り絶対反対、失業者の完全雇傭」「国民の手に依る国民のための産業復興」「社会党を中心とする民主政府の樹立」などが大会決議として採択された。 十月闘争の中ごろから、官公庁の労働組合が賃金増額を要求し共同の運動を行い始めていたが、一九四七年の年頭に吉田首相がこれらの労働組合員を「不逞の輩」と断じて非難を加えたことが契機になって、これらの労働組合は二月一日をもってゼネストへ突入することを決定した。神奈川産別と総同盟県連はこうした官公庁労組の動きを支援し、一月二十八日に県下九か所で「吉田内閣打倒危機突破国民大会」を開催、倒閣と生活擁護を掲げる空前のゼネスト=〝二・一スト〟が目前に迫った。 だが二・一ストの前日、マッカーサーのゼネスト中止命令が発せられ、県下でも「一瞬にして数時間後に迫ったゼネストは不可能」な状態になった。二・一ストにむけた労働攻勢の結果、官公庁では労働協約の締結が実現し、また四月に実施された総選挙では社会党が神奈川県で全員当選を果たしたのを始め全国でも第一位の議員を有する政党となり、社会党首班内閣=片山内閣が組織された。もっとも一方で二・一ストの中止はそれまでの産別会議主導のストライキ激発型の労働攻勢にとって大きな壁となったことから、産別会議の指導部に対する批判が全国のそして神奈川県下の労働組合の間から強くあらわれてきた。 民同運動の展開 その批判の強さは、例えば一九四七(昭和二十二)年五月に全電工労組神奈川支部の中堅組織である東芝鶴見労組が産別脱退を決定したことや、同月の全逓神奈川地協大会で産別脱退要求が強く出たことなどに端的に示されていた。産別傘下労組の神奈川支部はこのときに開かれた大会であいついで自己批判を行うが、それは運動方針自体の正しさを再確認し、戦術の誤りを是正していくというものであった。同年九月の神奈川産別大会は生活危機突破にむけて運動を地域闘争へとひろげる方向をうち出し、これに沿い全逓神奈川地協や国鉄労組横浜・国府津支部など官公庁労組を中心に最低賃金制の確立と大幅な賃金増額を要求して、地域闘争戦術を用いたとりくみが進められた。地域闘争とは、産業別の統一要求と併せて地域ごとに独自の要求を掲げ、地方労働委員会にそれぞれの組合が提訴して分散的な争議行為を行うというものである。全逓神奈川地協は食糧休暇の支給等を独自要求にして、職場大会に基づくサボタージュをくりひろげた。そして翌四八年の三月には最低賃金制獲得をめざす神奈川県全官公庁労働組合連絡協議会が全逓・国鉄・自治労連・県教組・印刷局労組などによって結成され、〝三月闘争〟として大規模なストライキを計画した。もっともストライキの一部は実施されたもののGHQが中止の〝覚書き〟を発し、このときも官公庁労組のストライキは終息を余儀なくされる。さらに八月にはマッカーサー書簡に基づく政令二〇一号が公布され、公務員の争議行為は禁止されるに至るのである。 なおこの間総同盟中央の提起にかかる「経済復興会議」の構想が具体化し、一九四七年七月に「神奈川県経済復興会議」が総同盟系・産別系ならびに中立の労働組合と経営者団体とによって設立された。復興会議は労働者側と経営者側の、および労働者側相互の対立でわずか一年間にして解散したが、経営者側からする経済再建への途に労働者を動員する上で大きな成果をあげていた。 さて二・一スト直後の〝鎮静期〟を経て産別会議系の労組を中心に地域闘争などの攻勢が進められるなかで、これらの組合の内部には「民主化運動」がひろがっていった。それは産別系の労組が「共産党の引き回し」のもとで「極左的戦術」をとっており、これを批判し民主化していくという形でなされたものであった。神奈川産別がとくに力をいれた一九四七年九月から十二月の全電工日立戸塚工場争議が組合側の敗北に終わり、指導部が総辞職したことを契機にして、全電工神奈川支部をはじめ、機器労組・全逓神奈川地協など、産別系労組の主力組織の間で続々と民主化運動が展開された。そして翌四八年二月にはこうした民主化運動を進めた勢力の全国組織である産別「民主化同盟」(民同)が結成されるに至る。いま同年六月時の民同側の勢力をみると、全電工神奈川支部で二万五千人中の一万人、機器労組支部で一万四千人中の三千人、全逓地協にいたってはその大部分が民同側に移るという状態であった。総同盟県連はこの年の一月から産別会議内部の動きに呼応して「労働組合民主化運動」を提唱し、民同派への支援を行った。 三 農漁民運動の再生 農民組合の組織化 敗戦後、都市部における労働運動の隆盛と時を同じくして、農村でも、とくに〝農地改革指令〟を契機に農民運動が再生しひろがっていった。県下では、戦前、農民組合の組織があった横浜の新市域、川崎多摩地区、高座郡などを中心にこれらの組織がその規模を拡大して復活し、さらに県西部にも農民組合が続々と作られた。 日本農民組合(日農)が東京で結成された一九四六(昭和二十一)年二月当時、神奈川県下では六十の日農支部と二千五十八人の組合員がこれに組織されており、三月二十日には厚木で日農神奈川県連が「農地解放」「強制供出反対」「小作料金納化に際し別名目の現物受取反対」などを掲げて設立された(法政大学大原社会問題研究所蔵「日農組織一覧」、『神静民報』三月二十四日付)。初期の日農支部の活動は、川崎支部柿生分会の活動を例にとると、「下積生活よりの解放、民主的農村の確立、小作料引下げ、農地解放などの目標を掲げて部落内の組織作り」を行っていくことであった(『川崎市多摩農業協同組合史』)。その中心になったのは戦前からの農民運動の活動家たちであり、また組合員は小作農と自作農であった。 日農支部の結成と並行して、これとは別に、系統農会に集まっていた中堅農家の青年を中心とする全農村青年連盟(農青連)の組織が作られだした。農青連は足柄上下両郡や中郡を拠点とし、早くも一九四五年十一月に県連組織を作り、「農村ニ於ケル一切ノ封建性ヲ打破シ」「土地改革ヲ完遂シ」「都市勤労者ト相携へ民主日本ノ再建ヲ期ス」ことを目的に、支部では「旧勢力」の農会役員からの排除、「畜力利用改善、農村電化、農業技術の向上」にむけた運動を進め(小田原支部)、県連は先述した神奈川県民主協議会に加わって「民主農村(の)建設」をめざした(法政大学大原社会問題研究所蔵「日農青年部史料」)。日農支部、農青連支部の他に、農地改革の実施過程で、県内各地に単独の農民組合も作られた。相模原の場合、一九四六年中に三つの農民組合が結成されているが、二つはこうした単独組合であった。もっともそのうちの一つは「農地制度ノ根本的改革ト食糧ノ増産供出ノ促進ヲ期ス」「民主的農民生活ト文化ノ発達ヲ期ス」など日農と同じ綱領を掲げた組合である。だが他の一つは「農地制度ノ根本的改革」にはふれず、「食糧増産供出促進ヲ期ス」ことを主目的とする、地主・自作農・小作農を包含した組織であった(相模原市立図書館古文書室蔵『農民組合関係書類』)。 これら諸団体の組織人員数は、県農地部の調査によると、一九四七年末で日農二万二千四百二十二人、農青連七百二十三人(一説には五千人または二万五千人ともいう)、独立組合五千七百三十二人となっている。 農地改革と農民運動 農民組合が急速に勢力を拡張したのは、小作農を中心とする農民たちが農地改革を徹底的に推し進めていこうとしたためであった。農地改革はまず農地委員の公選制化と小作料金納化を内容とする部分的な第一次農地改革として始まったが、農民の運動とGHQの指導により、林地改革などに不徹底さを残したとはいえほぼ全面的な改革(第二次農地改革)として実施されていく。改革の結果、県下の小作地率は一九四七年と五〇年で四三・七㌫から一一・九㌫へと後退し、また小作農の比率も三二・一㌫から八・五㌫へと減少して農民の多くは零細な自作農になった。もっともこの改革はたやすく行われたわけではない。当時、小作地の引上げや不当な売逃げを企てた中小地主が多くいたことは全国的な現象であったが、神奈川県はとくに中小地主が多いため、小作農をおどして法外な闇価格で買受けを迫ったり、強引に小作地を取り上げようとする事件が数多く発生した。これに対し、小作農は農民組合に集まって次つぎと不当事実を明らかにし、公選化された農地委員会にその代表を送って地主の動きを規制するよう努めた。高座郡海老名町では地主と小作農間の紛争が頻発したが、同町の日農支部は地主の不当性を訴えて改革の原則に照らしての農地買収と売渡しを行わせた(『神奈川県農地改革史』)。 だが、こうして農地改革が進行していくと、農民組合に集まった者の間に、しだいに〝組合不要論〟が台頭してきた。一般の農民、ことに小作農にとり、組合への加入は何よりも農地獲得のためであったから、自作農に転化すると「小作の時と違ってもう農民組合なんていらないんだという考え方」がひろがること(安西登三『若かったころの話』)は当然でもあった。また農民組合(支部)の役員・活動家が、新設された農業協同組合=農協の役員や農地委員会の委員長などに就任することで、組合運動には不熱心となる傾向もあらわれてきた。このようにして一九五〇年ころからは、農民組合にかわって、生産・消費の協同組織=農協が、新しい農村作りに大きな役割を果たすようになっていくのである。農青連や単独農民組合の中には、組織として農協へ合流したものも多かった。なお日農の支部もほとんどが有名無実となるが、組織を維持したところでは高額の税金に反対することを主な課題として運動が進められた。 漁民運動の再生 農民運動の復活に対応して、漁民の運動も敗戦後の新しい状況下に再生した。神奈川県鰹鮪漁業者組合の資料によると、大戦中に大型漁船は軍に徴用され沈没もしくは破損して著しい打撃をうけており、敗戦直後には県全体でわずか数隻を数えるにすぎず、小型漁船も十分な修理ができぬまま老朽化している状況であった。徴兵・徴用された漁民の数は多く、鰹鮪漁船船員は太平洋戦争開戦時と敗戦時とで三分の一近くにまで減少していた(県農政部『神奈川県政十七年を顧みて』)。このように漁業の資材ならびに人的壊滅ともいえる状態のなかで、生活を守り働く権利の獲得をめざす漁民の運動がおこっていく。早くも一九四六(昭和二十一)年一月に、三崎町田中の漁民が接収されていた軍施設の返還を求める運動をくりひろげている(三崎沿岸漁連『沿岸漁業九十年史』)。 戦後初期における漁民運動の特徴は次のようにとらえることができよう。第一は漁民組合や漁業労組などへの漁民の組織化が著しく進展したことである。漁業労組についてみると、県下ではことに大水産会社の漁業労働者の間であいついで労働組合が作られた。例えば三崎港遠洋漁船船員労組は一九四六年一月に設立され、労働条件改善をめざす運動を行っている。第二に、こうした漁民の組織が、「封建的」な性格を色濃く残していた漁村・漁業会、さらには水産会社の「民主化」をめざす闘いをくりひろげたことである。横浜市本牧では、従来漁業会に加入できなかった相模湾のぶり漁(1953年) 『神奈川県の水産』から 漁民が、血縁・地縁者だけでノリ養殖場を独占していた漁業会幹部に対して権利の平等化を要求し、漁業会への加入を承認させ、また江の島の漁民は、戦前来の漁業会実力者の排除と定置漁業の組合自営化を要求する運動を進めた。真鶴の漁民は、有給休暇と日給の引上げを漁業会に要求し、労働組合の支援をうけつつ漁獲物の「生産管理」を実施してこれを認めさせた。第三は、敗戦直後の壊滅的な状態から復興へむかうのにともない、高額大衆課税反対運動や漁業制度改革をめぐる運動など、国や県に対する要求運動が活発化したことである。相模地方の反税運動は、その大きさでとくに有名であった(『日本資本主義講座』第八巻、『政経調査月報』第一六号)。 だがこうした初期の運動は、一九四八年に〝漁業団体の民主化〟をめざす「水産業協同組合法」が制定されて漁業会の協同組合への改組が進み、さらに一九五〇年に旧漁業法に基づく漁業権制度が改革されるようになると、漸次沈滞化していく。実際、いくつかの改革によって上層漁民の要求はある程度実現されていった。そして初期の漁民組合で中心的な役割を果たしたこの層が協同組合の役員などになると、漁民組合には解散する傾向が強くあらわれたのである。 四 かわりゆく社会運動 ドッジ攻勢 民同運動が活発化するさなかに、県下の労働者は、一九四八(昭和二十三)年末の「経済安定九原則」とそれを具体化した翌四九年の「ドッジライン」に基づく激しい資本攻勢に直面した。ドッジラインは、日本経済を短期間に安定させる目的のもとに赤字財政を一挙に転換させようとしたものであり、行政整理・企業整備の強行を通じて、多くの企業倒産と大量の人員整理をもたらさずにはおかなかった。 一九四九年一月から五月に県労政課へ報告のあった七十四事業場の企業整備状況をみると(資料編12近代・現代⑵二六七)、閉鎖においこまれた事業場が二十二と、三〇㌫近くを占めていた。こうした整備は、はじめ中小企業が中心であったが、四月以降大企業でも人員整理が行われだした。 労働者は企業整備による人員整理と賃金減額に対し、必死の抵抗をくりひろげた。神奈川県内のみならず全国へ広く知られたのは、国鉄と東芝の企業整備反対闘争であった。過剰人員の創出・指定にむけ、六月から国鉄の「新交番制」が実施されると、国鉄労組横浜支部東神奈川車掌区・電車区の労働者は、全国の先頭をきってストライキに突入した。六月九日と十日には、「ラッシュアワーの労働者市民乗客の要望にこたへ」労働組合が管理する「人民電車」が運行されている。もっとも人民電車はGHQの威嚇によって中止させられ、その直後に国鉄当局は大量の人員整理を通告した。下山・三鷹・松川事件がおきたのはこのようなときであった(なお松川事件に対する公正裁判要求運動=松川運動は、従来の裁判運動にない規模でくりひろげられた。神奈川県には全国で一番最初の松川事件対策協議会が結成されており、被告の救援や広く県民にアピールする運動がとりくまれた〔『神奈川県松川闘争史』〕)。一連の事件のフレーム・アップのなかで、国労内の民同勢力の動きが活発化し、横浜支部も事実上分裂して左派の影響力は大きく後退していく。 東芝の場合、傘下四十四工場の労働者に対する〝企業整備〟の資本攻勢はすでに一九四八年の末から開始されていたが、その帰趨を決する攻防となったのは、一九四九年七月の大量人員整理をめぐる堀川町工場のたたかいであった。だが、東芝労連のみならず産別会議全体の中でも最大拠点工場の一つだった堀川町工場においても、前年来民同派が勢力を拡大してきており、この人員整理の通告とほぼ同じ時期に新組合が結成され、労働者側の組織的な分裂のもとで解雇通告者の大部分が退職する事態へとおいこまれた。もっとも同工場では、ふみとどまった被解雇者は就労闘争や労働委員会への不当労働行為の申請など、さまざまな形で運動をくりひろげた。 県下におけるその他の企業整備をめぐる争議には、主なもののみでも日立製作所戸塚工場・川崎工場、古河電工横浜工場、日産、いすず自動車川崎などの争議があり、一九四九年には戦後一貫して増大してきていた労働組合の人員数がはじめて減少へと転じた。そしてその労働組合のなかで、事実上戦後の運動を主導してきた産別会議の影響力の凋落は決定的になった。 なお県内の産別系労組と共産党・労農党・諸民主団体は、こうした資本の攻勢に対して「産業防衛闘争」をくりひろげるべく、〝民主主義擁護〟を掲げ、「民主主義擁護同盟神奈川県準備会」を一九四八年九月に結成した。ここには十五の団体が集まり、各労働争議を支援すると同時に、「生活擁護人民大会」や「教育文化防衛闘争」(鎌倉)にとりくんだ(『民主戦線』第三号)。 レッドパージ 行政・企業整備の進行と時を同じくして、労働運動・社会運動に対する規制立法があいついで登場した。一九四八(昭和二十三)年の政令二〇一号に基づく公務員罷業権の剝奪に続き、翌四九年五月には労組法を中心に諸労働法規が改訂され、労働組合は「登録制」となって〝自由設立主義〟から〝認可主義〟に基づくものになり、その直後に各企業で従来の労働協約が一方的に破棄される事態があらわれた。社会運動全般に対しても、各地の自治体が公安条例を制定し、一九四九年四月には「団体等規制令」が施行された。 これらの諸規制法と行政・企業整備によって守勢にたった労働運動に、さらに大きな打撃を与えたのがレッドパージであった。レッドパージは共産党員とその同調者を公的な組織や職場から排除しようとしたものであり、朝鮮戦争が始まった一九五〇年六月以降大規模に進められた。もっともすでに行政・企業整備の際、まっ先に解雇の対象となったのは共産党員とその同調者であった。 だが五〇年のパージは、GHQが強権によって直接大規模な排除にのり出した点にその特徴があった。神奈川県では、五〇年のパージに先だって四九年四月に全国に先がけて「レッドパージ前史」としての「横須賀事件」が発生していた(竹前栄治『占領戦後史』)。横須賀事件は、同海軍基地司令部が、全日本進駐軍要員労働組合横須賀分会の組合員に対し反共誓約を求める「踏絵」を行おうとしたことに端を発するものであった。この事件は、労働組合内におけるリーダーシップの交替に大きく作用したといわれている。 一九五〇年のパージは、県下では八月二十六日の電産労組支部にはじまって、池貝自動車、日本通運、東日本重工横浜造船、日立造船神奈川、浦賀船渠、東芝堀川町、芝浦工機、日本内燃機寒川など、全産業・全地域の工場へとひろがり、公務員にも及んで十一月まで集中的に行われた。その実施状況は第十一表のとおりである。もっとも実数はこれをかなり上まわっていたと推測されている(『神奈川地評十五年史』)。 このパージに関する各組合の動きで注目されるのは、反対闘争を進めた組合がごくわずかに止まったことである。「今回の緊急人員整理は当人達が左翼的政党活動をした為に該当したものであって、正当な組合活動を行った為の犠牲でない事を組合は確認する」という類いの認識は、このとき多くの組合に共通してい第11表 県下におけるレッドパージ実施状況 1) 数字は原資料のとおり 2) 『神奈川県労働運動史』第1巻から た。パージされた者の中には、富士フイルム労組足柄支部婦人部長のように、経済的・精神的な圧迫によって自殺を遂げざるをえなかった者もあった(『富士フィルム労働組合の歴史』)。パージは、県下の労働運動全体に圧迫を加え暗い影をおとしたのである。なおいくつかの労働組合では、講和条約の発効後、パージされた労働者の復職運動が進められた。 労働行政 ここで敗戦から一九五〇年代半ばまでの神奈川県における労働行政をみておこう。 政府は一九四六(昭和二十一)年三月の労働組合法、同十月の労働関係調整法の施行をはじめ、労働基準法、職業安定法、失業保険法などを制定し、さらに、一九四七年九月に総括的に労働行政を担当する機関として労働省を新設した。 本県では、一九四六年三月に地方労働委員会が設置され、同年十二月には労働部を創設、そこに労政・勤労の二課がおかれた。その後、勤労課は職業課(のち、職業安定課)となり、四八年には失業保険徴収課(のち、失業保険課)が新設された。さらに、一九五三年一月に職業補導課を設けて、これはのちに職業訓練課と改称した。一連の機構改革にともない労働部職員も一九五一年には八百十二人であったものが一九六二年には千四百二十五人となっている。 こうした組織にささえられる労働行政は、労働(使)関係行政を中心にする労政行政と、雇用対策を主内容にする職業安定行政に大別でき、全国有数の労働県である神奈川県では後者においても注目され特筆されるべきことが多々あるが、運動にかかわる労政行政に限定すると、それは大要次のように推移した。 第12表 地労委労働争議取扱件数の推移 地労委事務局『神奈川県政17年を顧みて』から 敗戦直後から一九四七年初頭までの労政行政は、労働組合結成手続きの指導、ならびに労働組合法・労働関係調整法の普及などが主であった。 一九四七年の二・一ストを転機として、GHQ労働課がそれまでの労働組合保護育成策に修正を加え、労働組合の指導・教育内容にわたって〝積極的な助言〟を行うようになると、神奈川県でも「自主性・民主性・責任性」を労働組合と労働運動のめざすべき理念として、その「啓発」と「指導」がなされるようになった。そしてこうした労政行政を末端において担当する機関である労政事務所が一九四七年四月に横浜・川崎・鶴見外県内八か所に設置され、また十一月には知事の労働教育諮問機関として労・使・公益三者からなる労働教育諮問委員会(後の労働教育審議会)がおかれ、積極的な指導が行われだした。『労働神奈川』の刊行や『労政ニュース』の発行は、そうした指導の一環として始められたものである。 労政行政の対象をみると、一九五三年ごろまでは主に大企業の労使に重点がおかれていたが、企業再建整備の嵐ののち、これら大企業の労資関係が「安定化」するにしたがって、重点はしだいに中小企業へ「労働協約とは労働者と使用者が平和的の労使関係を設けるため対等の立場にたって結んだ約束です」と題する労働協約解説パンフレット(県労政課 1951年刊) 県史編集室蔵 と移行した。内容的にも、労働組合未組織企業の労務管理に関する改善と指導に及ぶようになった。 ちなみに、先述のごとくこの間一九四六年の労働組合法施行にともなって神奈川県地方労働委員会が設置され、労働争議調整、不利益処分に対する処罰請求決定などを行いだした。後者の処罰請求は、一九四九年の労組法改正により原状回復制にかわり、またこの改正では労働組合に対する労働委員会の資格審査制が導入されている。 神奈川地労委が創設された一九四六年にはごくわずかだった争議取扱い件数は、第十二表のごとく翌年から急増した。 しかし一九五二年を転機にして、地労委は争議が正式にもちこまれる前の「示唆助言」を通ずる関与を積極的に行い始め、その結果持ちこまれた件数は減少、しかもそのうちでは「調停」に比べて「あっせん」の割合が高まっていった。不当労働行為提訴件数の推移も、争議取扱い件数と同様の傾向を示していた。 第四節 教育の再建 一 占領下の教育 戦時教育と占領軍指令 一九四五(昭和二十)年八月十五日の横浜山手女学院高等女学校(現在フェリス女学院)の教職員日誌には「記念すべき昭和二十年の此の日なり、大東亜戦争終結の日となりぬ……正午我等赤子涙を流して天皇陛下の玉音に聴入る、我等聖代に生き受けたるを喜こひ、ますます聖慮に答へまつらんことを誓ふ」としるしてある。 いずれにせよこの時、聖慮に答えることが第一に考えられていたことであった。聖慮のために、横浜・横須賀・川崎市の国民学校児童の大部分は空襲をさけ、親もとを離れ集団疎開、縁故疎開に、中等学校等の生徒は工場や農村に動員され、その役割を負担していた。 一九四五年という年は八月であっても夏休みはなかった。戦場で戦っている皇軍の兵士を思えば〝休み〟などということはありえないということで、県内政部長は八月九日に「夏季授業ヲ行ハザル日」に関して、本年はこれを実施せず、原則として平常どおりに教育を続行する旨を県下各学校長に通牒していた。 文部省は八月十六日に「動員学徒並ニ疎開学童ノ終戦後ノ措置」について通達し、学童集団疎開については当分の間そのまま継続することとし、学徒動員解除の通達をした。二十四日には学校教練、戦時体練、学校防空関係の訓令を廃止、八月二十八日には、九月中旬までには全学校授業再開の通牒を出した。 一方、連合軍の本土進駐はまず、神奈川県で受け入れることになった。そのため、県当局は横浜に進駐軍の宿舎等の設営のため、県民の協力と、学徒三千名を動員した。昼夜兼行の作業で、三十日未明まで設営準備におわれた。横浜市街地の荒涼たる廃墟の中で行わねばならない努力は並大抵ではなかった。 このようなあわただしさの中で、八月三十日に連合軍の進駐が行われた。 九月十五日に文部省は「新日本建設ノ教育方針」を発表した。 これによると「教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムル」ことであり、軍国思想及び施策を払拭することであるとしている。さらに戦時的教育訓練の一掃、教科書の根本的な改訂、差し当たり訂正削除部分の指示、教員の再教育、学徒の力不足を補うこと、科学教育の振興、国民道義の昂揚と国民教育の向上のために社会教育の振作、青少年団体の中央統制を改めること、運動競技の奨励、文部省機構の改革等であった。 すなわち、基本的には国体護持のもとで教育を行い、「戦時教育令」を一時的なものだととらえたのであった。 本県では、十月四日に内政部長が国民学校・青年学校・中等学校の各校長あてに、「時局ノ急転ニ伴フ学校教育ニ関スル件」を通牒した。そして、その中で、一 国民学校教育については、戦災児童や疎開して転学手続をしてない者、戦災等で授業困難な学校の児童については最寄りの国民学校に転入学させるようにすること、「戦時教育令」は廃止(一九四五年十月六日廃止)される見込みであるが、「戦時教育令ニ基ク国民学校教育実施ニ関スル件」(昭和二十年七月九日付)通牒の趣旨により措置すること、食糧増産の緊要性により、農山村等の国民学校初等科においても教育に弾力性を持たせるようにすることなどであった。二 青年学校については、分散している生徒に対し、まづは最寄りの公立青年学校に就学させること、教練に関する教授、訓練時数は職業科や体操等に適宜あてるようにすること、食糧増産には積極的に従事させてその時間を教授及び訓練の時数と見なすことであった。三 中等学校については、学校教練の廃止や適当ならざる教授の省略、それらにより余裕を生ずる時間は食糧増産・戦時復旧等に配当すること、戦災生徒や地方へ疎開し、転学・編入していない生徒は最寄りの同種中等学校に転入学の手続をすることなどであった。四 その他、戦災時、市における国民学校および中等学校の校舎の焼失している場合にはそれぞれ融通をはかるように、原則として男子中等学校はなるべく郊外へあつめて、国民学校・青年学校・女子中等学校は保護者の住宅地区に近接した所に校舎をもうけるようにすることなどであった。 戦時下で分散した児童・生徒をまずはそれぞれの学校にもどすことから始まったのである。 しかし、県の学校教育に対する指示は、国民学校においてはほぼ戦時体制を継承する形をとった。青年学校では教練の廃止、中等学校でもほぼ同じような措置をとった。国民学校・青年学校・中等学校に共通しているものは、食糧増産のための時間を教育の一貫として積極的に置くことであった。児童・生徒を学校へ戻しても、そこには食糧危機という大問題が立ちはだかっていた。そのため各校では学校農園がさかんであった。これに関して、中等学校の中には、学校盟休事件も発生した。それは十月十一日県立商工実習の三、四年生が勤労報奨金、学校農園収穫物の処理に絡む教職員の非に盟休に入り、逗子開成中学四年生が、県立商工実習同様の態度をとったほか、軍国主義教育が是正されないとの理由で、教職員に対して不満が爆発する動きがあった。 児童・生徒が学校へもどるという動きで、横浜・川崎・横須賀各市の学童のうち、本県内各地域に疎開して、分散していた児童達は、九月二十六日に、疎開児童復帰の指示が出されるとともに、引上げの準備を始めた。復帰は横須賀市の十月一日から始まり、十一月上旬には県内各市の学童疎開児童復帰が終了した。 一方、戦災の影響も比較的少なく、学童疎開の行われなかった小田原市の国民学校の『学校日誌』(現在小田原市立大窪小学校)を見てみると八月十五日以後も勿論、学校での授業が行われており、九月四日付には「米軍ガ六日頃小田原市ニ約弐千弐百五十名進駐スルノデ特ニ各自十分注意スルコト」として、進駐に対する緊迫感を強めている。しかし、十月九日付日誌では附近神社祭典につき参拝、訓話が行われており、十月十三日付では戊申詔書奉読式が挙行され、同十七日神嘗祭、同三十日教育勅語奉読式、十一月三日明治節挙行等学校行事として、戦時中に行われていたことをそのまま引きついでいたことをうかがい知ることができる。 このような状態の中で、連合軍総指令部は文部省の予測をはるかにうわまわる形で、日本政府に対して、戦時体制の打破と教育の民主化方針をうち出し、次つぎに指令した。 十月二十三日には「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出し、教育内容について、軍事教育と軍事教練はすべてやめる。人間の根本的権利(議会政治・国際平和・集会の自由・言論の自由)に合う考え方を教えるように教育関係者を取り調べ、職業軍人および軍国主義、超国家主義の鼓吹者、それに「占領政策ニ対シテ積極的ニ反対スル人」をやめさせる。一 戦時下に自由主義と反軍ということで解職等された者の復職、二 学生・教員等は教育の内容を冷静に批判し、政治上の自由、公民としての自由、信仰などの問題について自由に論じあってよい、三 日本占領の目的と政策等それに日本国民に戦争をしかけさせ、避けられない敗戦とさまざまな苦しみをもたらした者の演じた役割をよく教えてやるように、軍国主義や極端な国家主義の考えをひろめるために作られた部分は取り除き、設備が不十分なときは、初等教育と教員養成を先に取り扱うようにというものであった。そして、これらの指令の字句も精神も一人一人責任を持って守らなければならないとした。占領軍の指令は文部省に、それから各都道府県に通達された。本県では、これらの指令を受けて、早速地方事務所長を通じ、各学校に徹底すべく通知された。 教育適格審査 これ以後、教育に関する指令が次つぎと出された。十月三十日には「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」において、軍国主義者・極端な国家主義者・占領政策反対者の教職追放、復員軍人の採用停止を命じた。 この指令によって、一九四六(昭和二十一)年五月七日、勅令「教職員の除去、就職禁止および復職などの件」を公布し、文部省は「教職の適格審査をする委員会に関する規定」を定めた。本県においては「神奈川県教職員適格審査委員会」が同年七月十七日に第一回会合を開いて、教職員ならびに教職につこうとする者の適格審査を始めた。 神奈川県教員適格審査委員会によって発表された結果は第十三表のようになる。 審査人員九千百四十人、適格者人員九千百二十六人、不適格者人員十四人という結果であった。しかし、不適格の判定を受けた者も一九五一年になると中央教職員適格審査会の審査により、適格となった者も出はじめた。さらに、文部大臣から教職不適格者とされた者で同年からその指定を解除された者も出はじめた。追連合軍指令綴 川崎市立生田小学校蔵 放された一人林進治は二十年以上もたって、当時を回想し、「戦争は歴史にいまだかつてない悲惨な結果を生み、私は極端な国家主義を鼓吹したということで教壇から追放された。これこそ生甲斐と考えた懸命な努力も、長い目で見ればおろかなピエロの踊りにすぎなかったわけである。……再びあやまちを繰り返さないためにも、遠きを見通す見識を、深い研究によってつけたい」(『礎』)と反省の弁を述べている。 奉安殿の撤去 一九四五(昭和二十)年十二月十五日には「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」として、神道の軍国主義的、国家主義的イデオロギーの宣伝を禁止した。同月三十一日には「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」を指令した。現行教科書中、修身・国史・地理の三教科が軍国主義的であり、極端な国家主義的思想を最も濃厚に採り入れているという理由から授業を停止し、教科書の回収と新教科書の作成を命じた。その後、暫定新教科書ができたので、地理科は一九四六年六月に、また日本歴史は同年十月から授業の再開が許可された。 第13表 教員適格審査結果 『神奈川県公報』から作成 これらはいわゆる教育に関する四大指令といわれるものであった。これによって、日本の教育体制に全面的改革が見られるようになった。 連合軍の指令については、各学校あてに地方事務所が半紙にガリ版刷りで通知した。そして、その取扱いについては校長が朝の職員集会でその通知を読みあげたり、大要を話す程度で終わっていた(『戦後横須賀教育史』)。そのため指令の徹底が問題となり、一九四六年一月十一日付で内政部長は三市長・地方事務所長あてに、「連合軍最高司令部ヨリ発スル指令ノ徹底方ニ関スル件」を通知した。それは、進駐軍部隊の調査等により指令内容を知らない者がいるので徹底するように、というものであった。さらに四月に入っても再度「連合国関係ノ趣旨徹底ニ関スル件」を発して、通牒については職員に閲覧させ、署名・捺印するようにさせた。さらにもう一部を作り、全職員・学校関係者の目に触れ易き場所に長期間掲示すること、連合軍の通牒は他の通牒と区別して閲覧後一括保存することとさせたのであった。この結果、連合軍の指令通知は重要なものとして取り扱われた。ある学校では指令をど押印された指令書 川崎市立生田小学校蔵 こかにしまい忘れて見つからず、隣の学校から借り受けて原文通りに写して整えるといったさわぎもあったようである(前掲書)。それら指令通知は「連合軍指示通達」「マ指令部通達」などの表題をつけ、綴って保管したのであった。このようにして連合軍の指令が本県の各学校に徹底されるようになったのである。 連合軍の指令の徹底とともに、国民学校内も変化してきた。当時の学校においては、学校に備え置くべき帳簿の一つとして「学校日誌」があった。学校日誌には当番の教員が責任を持って学校の様子などを記すものであった。そして日誌には日付、記録者名、奉安殿御模様、職員動静、一般記事等の欄があり、必要な事項を記入することになっていた。その中でも特に重要なものは奉安殿御模様の欄であった。しかし、この欄の記入も、一九四六年二月十一日、紀元節挙式の時から、従来書かれていた「御異状ヲ拝セズ」を記入しないことになったのである。又登校、下校の際拝礼を廃止することにしたのである。このように、戦時教育下にわが国の教育上最も重きを置いた皇国思想の徹底にも変化をきたしつつあった。御真影奉安殿の撤去については、一九四六年八月一日付の、中地方事務所長から各学校長・市町村長あての通牒があるから、本県内でも、本格的な撤去がこのころから始ったと見られる。撤去の措置については「出来る限り生徒児童の夏期休業中実施すること」と記されているところを見ると、あまりにも急激な変化に教育関係者の動揺がうかがわれるのである。 神奈川県教員組合の結成 一九四五(昭和二十)年暮から翌年一月にかけて横浜市に教員組合の結成の動きが出はじめた。家が焼かれ、家族を失ったものも多く、有能な教師も追いつめられた生活のため、教職を去る者も出てきた。教育の場が廃墟と化す状態におかれていた。国民学校教員を中心とする保土ケ谷区グループ、南区グループと呼ばれる教員達の組織が生まれた。そして、一月十二日には神奈川県教員組合が結成された。この組合は国民学校長が含まれ教育会の延長線上にある面と「横浜市教育革新連盟」に集った青年教師をまじえたものであり、内部的に矛盾を含んでいた。その目的は全県単一組合を誇りに、最もおだやかな考えのもとに、教育再建のために独自の活動をするということにあった。特に対外的な問題として、全国教員組合大会、日本教育労働組合結成準備会の参加要請などがあり、その去就は注目されていた。 中央においては、全日本教員組合(全教)、教員組合全国連盟(教全連)の二大組織があり、両組織からの加盟を要請されていたため県教組の幹部は決定しかねていたが、七月十日、支部長会議を経て、教全連加盟を決意し、積極的に参加した。そして足立直寿・長谷川雷助・上崎博などを県の代表として教全連本部に送りこんだ。十一月十四日には、神奈川県教員組合は教全連加盟の声明を出し、最低六百円の賃金の保障などを要求した。対中央闘争だけでなく、十一月の横須賀市教員組合の加盟によって対県交渉を積極的にすすめるようになった。十一月二十八日に県闘争委員会の組織も確立し、足立組合長以下三十四名が知事交渉に入った。教育の破局を憂い、抜本的な待遇改善を要望し、生活の窮状を訴えた。この時の内山知事は切実な訴えに、目頭を拭う場面さえあったといわれている。そして、さらに十二月十四日の教全連の皇居前広場での要求貫徹大会にはより顕著な形となって現れ、参加者二万人の内三分の一は本県の教職員で占められると同時に教全連の中心としての役割をも担った。 一九四六年七月、戦後のインフレの激化の中で教職員の給与体系を世間並にするということで、「神奈川県中等学校教職員組合」(県中教)が結成された。組合長には湘南中学校長赤木愛太郎が就任した。 しかし、この組合も活動内容について内部での批判討論がなされ、役員総辞職ということになり、十一月二十五日、各校二名ずつ選出された評議員によって組合が再結成され、宮原信夫(神奈川工業)が組合長となった。 同時に労働組合法による組合として、目的達成のため闘争委員会を組織し、山本房吉(二中)が闘争委員長となった。闘争委員は全員横浜第一高女内に籠城し、連日評議員会を開き、学校の組合管理に突入せんとすることさえあった。 県教職員は団体協約締結に際して、県全体で同一歩調をとることが有利と判断して、国民学校教職員を中心とする組合、神教組との話し合いが一九四七年三月十七日にもたれた。その結果、県内の国民学校教職員を中心とする組合と中等学校教員を中心とする組合の両者が、神奈川県教員組合連合協議会をつくり、共同闘争を行うことになった。 これによって、対県交渉に入り、四月四日、教員側代表として岡三郎・長谷川雷助・牛窪全浄(以上県教組)、山本房吉・城所福之助・高橋孝治(以上県中教)などが参加した。そして神奈川県知事渡辺広と神奈川県教員組合連合協議会交渉委員長岡三郎との間に団体協約に関する調印がなされた。 これによって、団体交渉権が確立し、組合役員の専従が認められることとなった。 しかし、五月に入って、神奈川県教員組合連合協議会は、労組法による正規の届出がなされてなく協議会は無効であることがわかり、改めて、五月三十日神奈川県教員組合連絡協議会を結成し、六月十九日に協議会委員長萩原利邦と内山知事との間で調印のやり直しを行った。これによって、対県交渉では月一回の教育協議会が持たれることになり、給与・人事・勤務条件等を協議することとなり、県当局と組合との間において話合い路線が確立した。 第一回は四月十九日に県庁で開かれ、内山知事・鈴木重信課長らが出席し、新制学校実施にともなう説明がなされ、人事については教組が校長候補を推薦、県はこれを重視することなどを決定した。 一九四七年は激動の年であった。六・三制の実施により、五月に県下においても新制中学校が発足した。これにともない教職員組合の統一が叫ばれ、中央においても、教全連・全教協の統一がなされ、六月に各都道府県を一単位とする連合体「日本教職員組合」(日教組)が奈良で結成大会を開いていた。県教組では九月三日、鎌倉第一小学校で、新学制実施にともなう組合組織について討議がされ、すべての校種を含む合同単一組織を進め、もし不可能な場合は小学校・中学校のみで組織することを決定した。 一方、県中教の側でも活発な討論がされた。そして、十一月五日、全県単一組織(但し横浜市立中等学校教職員組合は不参加)として、幼・小・中・高・高専・大学を包含した神奈川県教職員組合結成大会が県立第一高女講堂で開かれた。ここに教職員の大同団結がなされた。そして、綱領には、一 われわれは強固な団結によって、経済的・社会的・政治的地位の向上に努力する、二 われわれはいっさいの封建的文化教育制度を排除し、教育の民主化と研究の自由獲得にまい進する、三 われらは双手をあげ平和と自由を愛する民主国家建設のためにたたかう、とうたった。 執行委員長に牛窪全浄、副委員長城所福之助・石川ハナ・阿部滋弘、書記長坂東忠彦等の役員を選び、神奈川県教職員組合が出発した。この組織は官・公・私立の学校を含んだものであったため、強固な団結も少しずつ変化していった。 平塚太洋中学校長問題 前述したように、対県交渉においては月一回教育協議会がもたれており、五月二十九日の第二回以降神奈川県教職員組合が結成されるまで計八回の話合いが持たれ、人事・賃金等の話合いがされた。そして、一九四七(昭和二十二)年十二月四日、神奈川県知事内山岩太郎と神奈川県教職員組合執行委員長牛窪全浄との間に労働協約書を調印した。全文三十二条からなるもので、勤務条件に関する事項では、一 一週四十二時間、二 授業時間は一人一日四時間を基準とする、三 一年間二十日間の自由研究日を設けるなど、そして県との間に引きつづき月一回教育協議会を開き、教育に関する事項を協議することなどを取り決めた。人事については原則的基準は教育協議会の専門委員会に於て協議することになっていた。一九四八年五月七日には、県教育部長中村新一との間にも校長人事について推薦候補以外から校長にする場合は、その都度協議してきめることを約束した。ところが、県は一九四八年六月八日平塚市太洋中学校長に熊沢視学を就任させる旨神教組に電話通告した。この問題について、神教組は労働協約を無視して強行するものだと判断し、地方労働委員会に提訴した。そして地労委は斡旋案を示したがこれを拒否し、神教組は全県的な闘争を組織していった。組合側は熊沢人事の撤回を求め、県との対立を深めた。軍政部も神教組の闘争に干渉をし、指導者の逮捕をほのめかしたといわれている。 七月三十一日を期し、政令二〇一号が公布されることが報道され、公務員の争議行為は禁止されることになったのである。神教組は組織防衛につとめ県側との折衝を進め、七月二十七日覚書を取り決めた。熊沢氏の意志を参酌して他の学校長に転出させ、組合は直ちに闘争態勢を解くというものであった。この事件は一九四八年の占領政策の大きな変化に対応した動きであった。すなわち、再軍備とそのための憲法改正の動き、労働組合への抑圧のための政令二〇一号は日本を反共の防波堤とする動きと表裏一体をなすものであった。 神奈川県教員組合の分裂 一九四八(昭和二十三)年新制高等学校が発足した。これより神奈川県教職員組合での中等学校部は高等学校部となった。高等学校部では、神教組内で多数を占める小中学校教職員の意向によって決まることが多いため、その形式的民主主義の欠陥を指摘するとともに県立高校教職員は神教組から脱退することを決め、神教組結成以後わずか一年で強固な団結にひびが入った。 一九四八年七月から十月にかけてはさらに神教組内での対立が激化した。それは十月五日に予定されていた県教育委員選挙にそなえる候補者の人選の問題からはじまった。神教組では教育委員候補者に執行部が推薦した候補者を否認した。一方、牛窪委員長は軍政部のマックマナスに呼ばれ、教員が教育委員選挙に立候補することをきびしく禁止され、もし立候補するならばあらゆる手段を講じて弾圧するというおどしを受けていた。それに対して神教組では中央委員会を開いて討議の結果、一 組合としては候補者を推薦しない、二 組織を通した選挙をしないなどということを決定し、九月五日に執行部は総辞職を表明し、すでに一時、神教組の推薦を受けていた牛窪委員長、伊藤書記次長もあいついで辞任した。さらに県立高校教員の神教組離脱によって、組織は危機に置かれた。 高校教職員組合は十月三日横浜第一女子高校で結成大会を開いた。 高教組はわずか一年前の県下教職員組合の結成について「一年近く無為に過さしめ、組合に対する信頼を切りはなし関心は薄らぎ、結果として県下教職員の最低の給与をうけるに至った」(『高校神奈川』昭和二十三年十一月十九日創刊号)とし、さらに、教育委員候補者推薦について、「義務制の学校による神教組の運営の実相を曝露し、……高等学校部の利益を主張し生かそうとしても所詮無駄であり」(同上)といいきった。 このようにして高校教職員九百名により神奈川県高等学校教職員組合が結成され、組合長に城所福之助、副組合長に高橋孝治が選ばれた。 鎌倉大学校の設立 一九四五(昭和二十)年十一月に三十代、四十代の画家、音楽家、演劇人、町内会長が集まって、鎌倉文化会が作られた。そして、これらの人びとが鎌倉に大学を作ろうと決め、大学創立準備会を持った。主旨として、学校教育で手を汚した人を避け、思想的には唯物論かそれに近い考えを持ち、大胆に思いきった教育をするような野人のすぐれた人を選び、寺子屋大学でもいいから、鎌倉大学校がおかれた光明寺 県史編集室蔵 文部省の中央集権的教育統制を無視するというようなことが話し合われた(『鎌倉教育史』)。 そして、「私立学校令ニ依リ鎌倉市津一四〇〇番地(代表番地)ニ私立鎌倉大学校ヲ設置スルノ件昭和二十一年三月三十一日認可セリ」という知事内山岩太郎の告示によって発足した。場所は材木座の光明寺であった。一九四七年度の入学案内に、「産業を興し生活を豊かにし高い文化を築きあげることは新日本の若い世代に課せられた大きな責務であり特権である……産業・文学・演劇の三科による教養である」とし、本学は民主主義的であり、男女共学を行っている旨のものであった。三枝博音(哲学)校長、服部之総(日本近世史)学監、その他教授に中村光夫、亀井高孝、高見順、神西清等の名前が見られた。光明寺では二年ほどすごし、一九四八年四月に横浜市戸塚区小管ケ谷にあった旧海軍燃料廠を借りて移転し、鎌倉アカデミアと校名も改めた。開校当時の学生は四百五十人で、教授・講師も三十八人おり、将来大学への昇格を果たそうと関係者は財界等にその資金提供を求めたが、解決策を見い出すことができずに、一九四九年八月以降は教授・講師は無給与の状態に陥った。しかし、そういうことはかえってここで学んだ人たちが公認の学歴よりも鎌倉大学校の教室として使用された部屋(光明寺) 県史編集室蔵 この学校で過ごしたことを名誉として、学校への帰属感が格別に強まっていくこととなった。 二 新教育制度の発足 教育基本法の施行 一九四七(昭和二十二)年三月三十一日、法律をもって公布即日施行された教育基本法は、日本の教育の歴史のうえで大きな意義を持つものであった。それは、憲法の理念を実現するための教育の根本的考えを示し、平和的な民主主義国家としての教育のあり方を示したものであったからである。さらに戦前との比較でみれば勅令による教育令から、国民の代表者で構成されている議会で、法律として公布されたものが教育基本法であった。 教育基本法の制定により、教育勅語などとの関係が問題になったが、結局、教育勅語の廃止を明らかにするために、衆・参両院で、一九四八年六月十九日「教育勅語等の排除に関する決議」「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行い、政府に対して詔勅類の回収を求めた。 これを受けて、文部省では六月二十五日、「教育勅語等の取扱いについて」と題する通牒を発し、各都道府県に、国家決議の趣旨徹底と謄本の返還を求めた。 さて、教育基本法の制定と同時に、それに基づいて学校教育法が公布され四月一日から施行された。これにより、国民学校は小学校と再び名称が変わり、新たに新制中学校が発足した。翌一九四八年には新制高校が発足した。 新制中学校の発足は教育刷新委員会(米国教育使節団に協力する日本側教育家委員会として一九四六年二月に発足、後にこの名称となった内閣直属の諮問機関)が学校体系に関する議論をして、正式に六・三制学校制度の採用を決定し(一九四六年十二月)、一九四七年二月二十六日閣議決定し、四月一日から実施するという、短期間で制定されたものであった。 これは義務教育期間を六年間から九年間へ延長するというもので、従来の国民学校高等科、青年学校普通科を中学校に一本化する意味を持つものであった。 新制中学・高等学校 本県では四月に、神奈川県新学制実施準備協議会が開かれ、新制中学校設置について検討がなされた。二十二日には五月五日に開校することを決定、二十四日には校長が決った。二十六日には百八十校の内定した校長等が横浜商業高校に集合して、講習会を開き、学校造りの心構えなどのことについて米軍第八軍教育担当将校マックマナスも加えて準備を進めた。 しかし戦争で焼失した国民学校は六十一校、中等学校は十二校もあり、間借り、すし詰め、青空教室、二部授業、三部授業の状態であったことでもわかるように、新制中学校設置は劣悪な教育環境の下で行わなければならなかった。設置者である市町村の財政負担は勿論、教員の募集など多大な苦難をともなっていたため、閣議では中学校を独立校舎にすることを決定していたにもかかわらず、実際面では、小学校との共用、廊下や昇降口を利用した急造教室、旧兵舎を借りた学校など教育実践に困難をきたしていた。 新制高校は一九四八年四月から発足した。新制高校は旧制の中等教育機関、すなわち、中学校、高等女学校、実業学校など6・3制教育のなかで 『戦後10年のあゆみ』から の校舎を転用して設けられた。発足当時の新制高校は県立二十九校市・町立二十三校、私立五十二校、計百四校であった。また、高等学校の設置認可も県知事権限にかわり、知事内山岩太郎によって、三月二十日新しい学校の設置の認可がなされた。 新制度による高等学校は、中学校から進みうる唯一の学校であり、「義務制」ではなかった。新しい高等学校の教育理念として、どのような形態が望ましいかが検討されなければならなかった。それは「高校三原則」といわれるものであり、学区制・総合制・男女共学制をさしている。これがどこまで実現可能であるかということが問題であった。 具体的にいえば教育の機会均等を実現するために、新制中学校と同じく、小学区制を採用すること、一つの高校に普通課程だけでなく、工業、商業、家庭、農業などの専門学科をおき、学区の進学者の多様な教育要求に応えるべきであるとする総合制と男女共学制の問題であった。 これらは、新制高校に入学するときから問題となった。文部省は新制高校発足にさきだち「昭和二十三年度新制高等学校入学者選抜について」を通知し、入学者選抜の方法を具体的に示した。これによると入学試験を廃止し、出身中学校からの報告書に基づいて選抜することとするものであった。この報告書というものは、一 知能検査の結果、二 学力検査(アチーブメント・テスト)の結果、三 教科学習成績、四 個人的並びに社会的な性格、態度の発達の記録、五 職業的見地よりする性格、態度の発達及び職業的適性の記録、六 身体の発達の記録であった。 公立高等学校の入学試験については、すでに新制中学校が発足しているため、中等学校に入学しているものは併設の中学校に在学していたことから、最初の入学選抜は一九五〇年度からとなっていた。本県の入学選抜の特色は、中学校における指導要録をもって入学選抜の報告書としたことである。 新しい学区 学区制については、「教育委員会法」の第五四条、「都道府県委員会は、高等学校の教育の普及及びその機会均等を図るため、教育委員会規則の定めるところにより、その所轄の地域を数箇の通学区域に分ける。但し、必要がある場合には、生徒の就学につきこれを調整することができる」とある。本県の教育委員会では、高等学校の通学区域を決めるため、一九四九(昭和二十四)年三月に、公立高等学校通学区域に関して、全県九学区の案を発表した。 これに対して、横浜市教職員組合・横浜市立中学校長会等の人たちは、横浜市内の通学区域は一学区一高等学校、いわゆる「小学区」制とする要望を出した。さらに、横浜市内の小・中・高等学校長、小・中学校PTA代表、横浜市教職員組合、横浜市高等学校教職員組合が「横浜市高等学校区制対策委員会」を結成し、小学区制をおしすすめるため十一月二十八日に、県教育委員に要望書が提出された(『横浜市教育史』下巻)。 横浜市教育委員会も、小学区制とはどういうものかについて市民等の理解を求めるため印刷物を配布した。その中では、憲法・教育基本法に基づいて「一 すべて国民は個人として尊重されること、法の下に平等であって差別されないこと、二 幸福を求めようとすることに対して、公共の福祉に反しない限り法律によって尊重されること、三 すべての人が教育を同じようにうけられることを基本に大学区制よりも市内公立普通高等学校をそれぞれ地域に分けて、学区を定めてその学区内の中学校卒業生を六三制教育の線に沿い受験準備という過重な負担をかけず、のびのびと勉強して誰れでもが進学できる小学区制が一番よい方法である」と結論した。このような小学区制実施を横浜市の人達は求めた。 県教育委員会は一九五〇年三月二日、通学区域を次のように定めて告示した。 一 普通科 二 農業に関する学科 神奈川県内中学校区域 三 工業に関する学科 同 四 商業に関する学科 同 五 水産に関する学科 同 教育委員会の成立 一九四八(昭和二十三)年七月十五日公布、即日施行された「教育委員会法」は総司令部と政府・文部省側との意見の対立点もあったが、戦後の地方教育行政に大きな変化をもたらすものであった。この法律によれば、教育委員は都道府県七人、市(区)町村五人とし、そのうち一人は議会選出の委員とするが、他はすべて公選によるものとされた。委員は任期四年で、二年ごとに半数改選とされた。教育委員会におかれる教育長は教育職員免許法に基づく教育長免許状の保有者であることが条件とされ、また、他の行政部局に比較し、財政上の相対的独立が認められていた。予算の編成については、毎年度、その所掌に係る歳入歳出の見積りに関する書類を作成し、地方公共団体における予算の統合調整に供するため地方公共団体の長に送付しなければならないが、歳出見積を減額するときは、地方公共団体の長は、教育委員会の意見を求めなければならないとされていた。このようなことは教育費を一般の地方財源に求めながらも、教育の自主性を確保しようとするもので、従来の教育制度を抜本的に改革するものであった。 教育委員会法の施行により、各都道府県および大阪市・京都市・名古屋市・神戸市・横浜市の五大市では同年十月五日に選挙することになった。 神奈川県と横浜市では、教育委員の選挙について、県民等の理解と意識の高揚を目的とする講演会等が開かれ啓蒙活動を活発に実施し、「教育知事、教育市長その異名で呼ばれる重要な教育委員」選挙を強調した。こうした努力は官庁だけではなく民間の諸機関、とくに報道機関は啓蒙に一役かっていた。たとえば『神奈川新聞』においては「国民のために国民自ら行なう教育行政」と題する座談会の記事を掲載するなど啓蒙の役割を担ったり、横浜市内の小・中学校児童生徒による「民主的教育」「よい学校を、よい教室を」をスローガンに約三万人の行進が行われたりもした。 選挙の結果、初代教育委員に選ばれた人は、県教育委員に蓑島兵蔵、河田庄一、平野恒子、吉田セイ、久保田順作、黒土四郎、横浜市の教育委員は高田三郎、佐藤栄七、吉本道堅、林知義であったが、投票率は県が四七・八㌫、横浜市が四四・八㌫という状況で共に低率であった。さらに県教育委員長に県議会から堀内万吉が、横浜市教育委員長には市議会から飛鳥田喜一が選ばれた。 第五節 日本国憲法下の県政 一 新しい県政の担い手 四月知事選挙 一九四七(昭和二十二)年四月選挙の冒頭は四月五日に行われた首長の選挙であった。この年の一月四日、公職追放の範囲を地方公共団体の職員・議員にも拡張する勅令が出され、かつ市町村長に関しては覚書該当者でなくとも、一九四五年九月一日以前から四六年九月一日まで引き続き市長では助役の地位にあったものの立候補禁止を命じたので、選挙戦に登場したのはすべてが新人であった。立候補予定者は、新設された公職適否審査委員会の資格審査を経たうえで立候補することとなった。 注目の知事選挙には官選知事から無所属で立候補した内山岩太郎、自由党から衆議院議員の小此木歌治、社会党から内閣調査官の橋中一郎が立候補し、三つどもえの争いとなった。内山候補は「一党一派に偏せぬ人を」と訴え、橋中候補は「社会政策断行が急務」とし、また小此木候補は「首長は民間から選べ」と所信を明らかにし、特に特別市問題を争点にとりあげて内山候補との対立を明らかにしていた(『神奈川新聞』昭和二十二年四月一日付)。投票の結果は、投票率六三・三㌫で内山岩太郎(無)三十六万三百五十票、橋中一郎(社)十七万八千二百二十一票、小此木歌治(自)十二万二千五百二十二票という結果で、前知事の内山候補が初の公選知事として当選した。この知事選挙の結果について、『神奈川新聞』は「内山氏がみごとに金的を射とめたのは、前知事の肩書がものをいったこと、その名が県民に他の二候補よりもよく知られていたこと、外交官として渉外方面の事情にも通じていること、特別市問題で妥協して、横浜市の民主党、岩本前代議士の支持声明等の好条件に恵まれ、全県下に舌戦を展開したことが有利な投票をかせいだのであった」(昭和二十二年四月七日付)と分析していたが、市部・郡部をとわず全県下からの支持をまんべんなく得て当選したのであった。 市町村長選挙 この日、県下各市町村でも一斉に市町村長の選挙が行われた。この中からいくつかの注目すべき動きを指摘しておくと、まず横浜市において社会党の推薦した石河京市が保守系無所属の山崎次隆を破って、大阪とならんで五大市のなかで社会党市長となった。その他の市では、川崎・鎌倉・小田原の三市では敗戦後に新たに選出されていた前市長がそろって当選することとなり、これまで住民が行ってきていた自発的な選挙を新制度による選挙によって追認するかたちとなった。また横須賀では新人の太田三郎が当選した。太田はもと外務省官吏で終戦連絡横須賀地方事務局に勤務しており、横須賀の第三艦隊司令部との折衝にあたっていた。その意婦人も参加した投票風景 『戦後10年のあゆみ』から 味では、横須賀がおかれた特殊な地位との関連で選出された〝渉外市長〟としての能力が期待されたともいえる。 四月選挙は次いで四月二十日に参議院、二十五日には衆議院と国政レベルの投票が行われた。それぞれの選挙における党派別内訳は第十四、十五表のとおりで、社会党が相対多数ではあるが第一党を占めることとなった。この衆議院選挙の直前に衆議院選挙法の改正が行われ前回の大選挙区制限連記制から戦前と同じ中選挙単記制に改められ、神奈川県は横浜市が第一区(定数四)、横須賀・川崎・鎌倉市と三浦・鎌倉両郡が第二区(定数四)、残りが第三区(定数五)と三つの選挙区にわけられ全体で定数が一名増加した。選挙の結果は前議員が立候補八名中六名当選し、新人議員が七名誕生したがこのなかに現・元県議が五名いた。党派別では、各選挙区で社会党が二名ずつで六名、次いで自由党が五名、共産党が議席を失い民主・国協両党がそれぞれ一名となった。婦人は、一区二名、二区一名が立候補したが、当選したのは、一区の前議員一人であった。 地方議会議員選挙 四月選挙の最後の地方議会議員選挙は四月三十日に行われた。前回の県会議員選挙が行われたのは一九四〇(昭和十五)年であり、当時の議員定数が十九選挙区四十七名であったのに対し、八年ぶりに行われたこの選挙では、二十三選挙区定員六十名で行われた。市部・郡第14表 参議院選挙結果 第15表 衆議院選挙結果 部別では市部が十五選挙区四十二名、郡部が八選挙区十八名という構成であった。前回の選挙以後、議員の死亡・辞職、さらに衆議院議員・市長への転出などで、選挙前に在籍していた議員は二十九名にすぎず、新人の進出が既定のこととなってはいたが、この選挙に立候補した百五十名のうち前・元議員は九名にすぎなかった。投票率は男七六・八㌫、女七四・九㌫、県平均七五・九㌫で、全国平均の八一・六㌫には及ばなかったが、知事選挙(六三・三)、参議院(五五・七)、衆議院(六三・六)の選挙よりは高い率で、県民の関心の高さを示したのである。四月の選挙の第16表 1947年4月30日実施県会議員選挙定時改選 第17表 前県会議員の戦後 『神奈川県会史』,『神奈川県議会史』などから作成 過程で、県下の婦人会、青年団、学生などが「一票救国」を合言葉に棄権防止のための国民運動を展開していたのであった。開票の結果、当選した議員のうち元議員一名、前議員五名で、残り五十四名は新人議員で婦人議員一名が含まれていた。新議員の党派別構成は自由党十九、社会党・民主党ともに十六、無所属七、国民協同党・諸派各一名であった。自由党は市部が十名、郡部が九名という内訳であったのに対し、社会党・民主党はともに市部が十四名、郡部二名という構成で政党ごとの性格の違いを顕著にさせたのであった(『神奈川県議会史』続編第一巻)。 また、この日それぞれの市町村議会議員も選出された。いくつかの特徴を指摘しておくならば横浜市議会では社会党が定員の三分の一の二十議席を得て第一党となった。そして新市議のうち婦人は二名であった。横須賀市では自由党が多数を占めたが、やはり二名の婦人議員が誕生し、一人は占領軍との関係で活発な活動を行っていた婦人会を母体にした候補で、いま一人は共産党公認の候補であった。前年四月の総選挙の時の華ばなしさはないが、この時の選挙は婦人が参加した最初の地方議会選挙だったのである。こうして選出された議員たちが、新しい憲法の下で装いを改めた地方政治の一翼を担うことになったのである。 二 新憲法下の県政の構造 新憲法と県政 一連の選挙を経て、一九四七(昭和二十二)年五月三日、新しい憲法が施行された。総選挙の結果、社会党が第一党となったものの過半数の議席を得ておらず、後継首相が未決定であったので、吉田首相の指導のもとに新憲法施行の記念式典が宮城前で行われた。県下でもこの日を中心に憲法施行記念のさまざまな行事が行われたが、それは新しい憲法の精神を「普及徹底」させようというタイプの行事が多かった。たとえば、三月末に中地方事務所長が各町村長・各学校長あてに発している「憲法精神普及徹底指導者講習会開催について」という文書には「曩に公布せられた新憲法精神の普及徹底を図り県民生活のうちに深く浸透せしめ民主的文化日本の急速な実現を期する為」に社会教育係官や社会教育関係団体指導者層に「新憲法精神の真諦を把握せしめんとする」ため講習会を行うので「適格者推薦の受講せしめられたい」というものであった(資料編12近代・現代⑵一七二)。このように上からの憲法の普及運動という色彩をもつものではあったが、県下各地では新憲法施行記念のさまざまな行事がくりひろげられたのであった。県下の各戸には憲法に関するパンフレットが配布されたほか、各小中学校、町内・部落での記念式典のほかに、識者による講演会、弁論大会や標語・論文の募集、さらには川崎から湯河原を結ぶ郡市対抗の駅伝競争や記念植樹などが、県・市当局、憲法普及会あるいは新聞社などとの共催で多彩に行われたのであった(資料編12近代・現代⑵一七二~一八二)。これらを通じてこれからの日本の、あるいは国民の進むべき道がこの新しい憲法とのかかわりで考えられていくべきことの徹底がはかられたのである。 地方自治法下の県の位置 既に述べたように、新しい憲法はその第八章に新しく「地方自治」という章をもうけ「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と規定したほか、地方公共団体の長、議会の議員の直接選挙、特別法の一般投票などに関する条文を規定しており、これまでの地方制度にはなかったいくつかの制度が地方政治の運営のなかに導入されることとなっていたのである。こうした新しい制度をも盛りこんだ第二次改正のための法律として、従来の府県制、市制町村制と地方官官制を統合した地方自治法が制定され、この法律が憲法施行と同時に施行され始めることとなったのである。地方自治法の制定の根幹が府県の性格の転換にあったことにはまちがいがない。従来、国の行政区画としての性格を強くもっていた県を市町村と同様の完全な自治体にし、その運営を民主化することがこの新しい法律の基本となる考え方であった。それでは地方自治法のもとで、県と国との関係、また県と市町村の関係、さらには県市と県民との関係はどのように変化したのであろうか。また、このような制度上の変化に対応してどのような変化が実際の県政運営面で行われることになったのであろうか。 新しい制度の枠組のなかでの県の位置を象徴するのが官選知事から公選知事への転換であった。知事は国の行政長官から県民に直接に選挙で選出され、県民に責任を負う県民の代表となったのである。したがって、国の行政長官たる知事を内務大臣が指揮監督する権限は地方自治法の条文上に根拠を失い、また「議会において成立した法律・予算を中心として、時の政府の新施策の意図するところを総合的に地方長官に伝え、その実施について必要な指示を与えることに中心的役割りがあった」(『内務省史』第三巻)とされる地方長官会議は廃止されることとなった。このような県民の代表としての知事への性格の変化について、公選知事として就任することとなった内山知事は、新憲法施行前の最後の県会で次のように述べていた。外形上からみると個人内山は前任時代も現在も同一人物である。知事という職名は昔も今も変わらない。しかし「官選知事と公選知事とは申上げる迄もなく、全く別個の存在でありまして、その性格の相違は、よって立つ基盤の相違によるものであります。前者は官に於て一方的に任命するもの、後者は県民に於て自ら作り出すものでありまして、県民と離れ、県民と遊離した公選知事の存在は全くあり得ないのであります。何時の世に於きましても民意の尊重とか、県会の尊重とかといふ言葉は、常に用いられて来たのでありまするが、名実共にこの点に全霊を打ち込み得るものは公選の知事であると確信いたします」(『神奈川県会史』第六巻)と。 官吏から公吏への身分の切替えは、独り知事にのみとどまるものではなく、県庁の全職員に及んだ。この結果、県庁、県下各市町村の吏員の構成は、第十八表のように変化した。若干名の官吏が残っているのは、地方自治法附則による移行措置として「当分の間」官吏として残るものがあったためである。しかし「官吏といわれた身分が公務員または公僕といわれるようになり、民主主義といってもどのようにするのか、従来のしきたりを一朝一夕に変えることは困難な状況下にあった」(小林正次「落款『浮堂』の由来」『光あらたに』)というのが転換期の実情であった。 じっさい、新しい地方制度のもとにあっても、県が国の行政を行うための基本区画として考えられ、知事が個別の施策に関してその地域で国の施策を執行するための行政長官的な機能は継承され、こうした施策に対して知事が主務大臣の指揮監督を受けるという行政の構造は残されており、官選知事が公選知事に変わったものの行政運営の方法は急激に変化するものではなかったのである。いわゆる機関委任事務がこれである。県の機構は一九四七年八月から従来の内務部が総務部に改められ、知事官房が廃止されたが、その他は従来どおりの機構で行政が進められた。県の主要な局と部は地方自治法で決められているからである。 県と市町村 地方自治法のもとでは、県も市町村もともに「普通地方公共団体」(第一条)と位置づけられその限りで県と市は同格のものとなった。一方、「都道府県は市町村を包括する」(第五条)という旧府県制の規定はそのまま引き継がれ、また機関委任事務に関する知事の市町村長に対する指揮監督権が残るなどこれまでの法制がそのまま新法に折りこまれているところもあり、実際運営上の県と市町村の関係は地方事務所が存続したこともあって制度の改革に対応して急変するものではなかった。 第18表 官公吏の数 1947年県関係吏員は1947年12月1日現在 1947年市町村吏員は1947年11日1日現在 (各種委員及補助職員を含まず) 1948年3月国家地方警察,自治体警察に分離後の国家地方警察署の警察官は592名である 1948年『県勢要覧』から 地方自治法はまた特別市に関する規定をおいた。「特別市は、都道府県の区域外とする。特別市は、人口五十万以上の市につき、法律でこれを指定する」(第二六五条)という条文がこれで、先の地方制度調査会の第二部会で大都市側が主張していた方向がほぼ法文化されたのであった。地方自治法を審議する衆議院の委員会で内務省当局者は、特別市指定の法律の住民投票に関し「特別市の市民の一般投票に付する」という憲法解釈をとったが、この法律をいつ提出するかという時期については関係府県と都市の完全な諒解が成立するまでは提出しないという慎重な態度をとっていた。しかし、同法の衆議院通過に際し、衆議院では「五大都市を特別市として指定する法律は次の議会に提出すること」という附帯決議を行い、特別市問題は再燃することとなった。 これに先だち、一九四七年二月の県会では、知事の特別市制反対は遺憾であるという論議もなされていたが、知事は、「国民のため県民のための反対」であると回答していた。しかし、地方自治法の制定後大都市側は特別市を指定する法律の制定を求めて積極的な運動を展開し、関係府県はまた反対を強めた。こうした状況のなかで政府は七月二十四日の閣議で特別市指定の住民投票は関係府県民の投票に付すべきであるという、従来の解釈とは異なる見解を示した。政府の突然の解釈変更は総司令部側の指示に基づくものであり、それは九月二十三日、総司令部当局者から特別市問題の関係者に伝えられた。『内山日記』は当日の模様を次のように伝えている。 九月二十三日総司令部の要望に依る由にて五府県知事及県会議長は衆議院に集合の後十時司令部に行く。ウイリアムス大尉の召集に依る会合と云ふので種々の噂となり五大都市側の策動に乗ったものとし最悪の場合に備へて緊張した気持で臨む。 然るに此の会合は、県、市、衆議院、参議院等の代表者を集めたもので其処に現はれた人はウ大尉に非らず「チルトン」中佐であった。全く想像外のことで直に事件の完全好転を思はせると同時に既に問題は最終的な段階に達したと云ふ感を与へた。 「チ」は厳粛な態度で講演とも説教とも取れる様な一時間半に亘る陳述を始めた。 特別市制の問題は一年半も前から自分の研究した所でそれは一九四六年五月正式に取上げた。〓来慎重に考へて居るが問題は県市分離と云ふ約一千万の住民の生活に直接の関係を持つことでこれは当然全県の問題である。従って其の決定は県民の投票に依るべきであるとは余が既に三回に亘って公式に通達した所である。 抑々新自治法は中央政府と県市町村を分離するものであって内務省の解体の如きも其の現れに過ぎない。此の法律が整備された時は特市を叫んで居る論者の要求する二重行政打破の如きは其の九〇%は意義なきこととなる。 この解釈は折から総司令部の指示のもとに進められていた地方自治法の改正のなかで明文化してとり入れられ、特別市指定の住民投票は「関係都道府県の選挙人の賛否の投票に付さなければならない」(第二六五条第三項)という法改正が同年十二月に成立したのである。こうして特別市問題は、法制上は可能であるが、関係府県民の投票では事実上不可能というかたちで一応の問題の決着をみたのであった。この法改正に至る過程でも内山知事の〝渉外〟能力が大いに与って力あったといわれる(内山岩太郎『私の履歴書㉑』)。 町内会・部落会の解散 県民の生活に直接に影響を及ぼす意味合いをもったのは、部落会・町内会に対する措置であった。すなわち、総司令部は、地方制度改革の一環として隣組・町内会またその連合会の長に対しても、公選制を導入することを要求し、日本政府は一九四六(昭和二十一)年一月四日付の勅令でこれらも市町村長と同様に公選すべきことを定めたのである。しかし、これを実際に実施するためには、膨大な資格審査を必要とし事実上は不可能なことであり、部落会・町内会を廃止するに等しいものであった。他面、現に町内会長・部落会長が行政補助者として行使する多くの権限がある以上、この組織を廃止することに対しては各省とも強く反対であった。 こうしたなかで、政府は町内会・部落会の長の選挙を一時凍結して(資料編12近代・現代⑵二一二)、総司令部との折衝にあたったが、選挙の実施かそれとも町内会等の廃止かの決断を迫られ、結局行政事務を行う町内会・部落会の組織を廃止することに決定し、これら行政事務を四月一日までに市区町村に移すことにしたのである。しかし、一挙にこれらの末端組織を廃止することは、現実に行政の浸透(例えば食糧配給など)で混乱が生ずるために、住民の任意団体の存在は認め、また種々の移行措置を講ずることとした。このため、住民との接点の行政の末端では混乱を生じ、この新制度の趣旨を既存の行政ルートを通じて浸透させる必要があったのである。旧町内会長等の選挙運動に対する注意(資料編12近代・現代⑵二一三~二一五)などのほかに、主要食糧の配給については、町内会長を経由することなく原則として戸別持込配給を行うなどの措置(資料編12近代・現代⑵二一六)がとられることとなったのである。 このように、四月選挙によって新しく選ばれた指導者たちの舞台としての地方行政組織は新憲法・地方自治法の下においては、従前の制度に比較して地方団体の自主性を発揮しうる余地を拡大する方向に改善されたといえる。したがって、指導者の目標設定、その指導力如何によっては、県政に独自の問題を自主的に解決していく法的基盤は据えられたのであった。しかし、現実にこうした動きを制約する動きはいくつか存在した。第一に、府県の自主性を許容する方向に大きく改められたとはいえ、地方自治法が旧来の国の行政官庁の側面を現わす地方官官制をも統合しており、さらに地方自治法の改正は続いて行われた。またさまざまな新たな政策の導入により、県政はこれら国政全体の大きな動きに対応する方策をとる必要が生じたことであり、第二に、制度のたてまえは変化したものの実際に政策を運用し、あるいはそれを受ける県民の意識が急激に転換しなかったことがあり、さらに第三に、独自の施策をとるうえでの財政上の基盤が十分ではなかったことがあげられる。以下、こうした制約との関連のなかでの県政の展開をみていくこととしたい。 三 新県政の課題 公選知事就任演説 一九四七(昭和二十二)年五月二十七日、知事就任宣誓式に臨んだ内山知事は、初代公選知事としての抱負を述べた。「なによりも当面緊急に処理すべきことは食糧問題の解決であり、次いで戦災復興のために長期的な資源開発、産業興隆対策、教育、文化、民生、労働などの対策を通じて戦災復興に万全を期したい。また住宅、警察、財政など、県政全般にわたって〝明日の神奈川〟を展望し、巨視的視野と微視的視野の合理的なかみ合わせに万全を期したい」と述べた。具体的な施策の方向としては、教育につき「古き日本人のモラルを支えてきた東洋的神がかり的な日本を国際的、平和文化国家たらしめるには教育の一大刷新以外に道はない。その第一の要件は、新憲法の精神を県民全般に浸透徹底せしめることである」と述べ、また「社会に一人の落伍者も出さないようにする」と民生安定への決意を明らかにした。 さらに工業の再建に関しては「近く賠償問題も解決し将来の工業のあり方も明確になると思う。困難な切り替え、再編成を技術の向上と経営の合理化で打開したい」と訴えたが、当面の神奈川県のとりうる措置としては「観光事業こそ日本の経済的、文化的発展のため最も有望かつ意義ある部門といわざるを得ない。自然の美しい地理的、国際的環境からいって、神奈川県は絶好の条件を備えている」と〝観光立県〟としても力を注ぐべきことを強調し、結びとして「私の理想並びに努力は新憲法の精神にのっとり、地方自治法を育て、もっぱら県民の幸せを実現してゆくことにある。民主政治といっても、伝統や因縁で固められた一国の内務行政が、一朝にして理想的民主政治の具現となるとは思えない。今後適当なる方法で県の職員を再教育し、なるべくすみやかに県民の公僕たる名誉と自覚を各人に植えつけるため努力する所存である」と結んだ(『神奈川の近代化-その百年-』)。 同じ日に行われた県議会は、地方自治法の施行にともない新たに設けられた副知事・正副出納長・監査委員の選任を行い、副知事に豊原道也、出納長堤金次郎、副出納長赤沢敏雄、監査委員に県議会議員から石渡清作、加藤重忠の二名を選出した。県行政に関する主要な人事を議会の同意を得て選任することも、戦後の新しい制度であったからである。 かくして新たな制度のなかで県政が展開し次第に変容していくこととなっていくのであるが、その変化の推進力となったのは、当初は知事の指導力の発揮の結果によるというよりも、むしろ日本全体の政府の行政施策が占領下にあって大きな変革のうねりのなかにあり、神奈川県もまたその中にあって歩調をともにしながら県内の行政施策の充実をはかっていったという性格が濃いものであった。したがって全国的な政策目標の転換、新しい法律の制定によって、県行政内部でもそれに対応する機構の新設・再編が行われ、戦時とは異なる施策の充実がはかられてくることになったのである。以下こうした展開をいくつかの行政分野について検討してみよう。 民生・福祉 まず「社会に一人の落伍者も出さない」と知事が強調した民生安定に関する施策をみると、一般的に一九四六(昭和二十一)年三月末までは、軍事扶助法をはじめとする戦時中の民生関係諸法のもとに業務が行われたが、一九四六年十月に生活保護法と民生委員令が施行され、国家の責任、無差別平等、最低生活の保障という三大原則に基づく公的扶助の原則を確立した。これまでの方面委員に代わって厚生大臣の委嘱による民生委員が生活困窮者の救済のみならず、一般の生活指導をも行う体制がとられた。新しい憲法の第二五条は「すべて国民は健康で、文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と宣言し、民生行政の分野は新たな促進力を得、一九四七年十二月には児童福祉法、翌四八年七月には民生委員法が制定されるなどこの分野の施策は強化され、これに対応して県の民生部関係の機構も充実、改編されていった。 また衛生行政の面でも、一九四七年の保健所法の全面的改正によって、公衆衛生行政が従来警察による取締行政と保健所による指導行政であったことが分離され専ら専門的技術を基礎としたサービスを中心としたものに転換され、また従来は県と横浜市にしかなかった保健所が、人口十五万人以上の政令市においては市がもつことになり、一九四八年七月から、横須賀市、川崎市中原の保健所がそれぞれの市に移管されることとなったほか、既存の県の保健所が充実されていった。 労働行政 労働行政の分野も戦後の変革のなかで大きく変わってきた。一九四五年末の労働組合法の制定に基づいて、一九四六(昭和二十一)年三月から行政委員会の形式により労働者、使用者、公益委員の三者構成による県地方労働委員会が発足した。同年九月には労働関係調整法も制定され、労働委員会の労働争議調整の機能が明確化された。労働委員会には補助機関として労働委員会事務局が設置され、労組法・労調法などの施行に関することを処理すると共に、出先機関として一九四七年四月から横浜、川崎、横須賀、茅ケ崎、小田原、厚木に設置された。一方、職業紹介に関する機関は、これまで職業紹介法(一九三八年)に基づいて勤労署が県下十一か所に設置されていたが、労政事務戦災孤児達の保護も課題の一つであった 『高風の子ども』から 所の設置と共に公共職業安定所と改称された。一九四七年の十二月から施行された職業安定法により公共職業安定所の業務は職業紹介・職業指導に重点がおかれることとなったのである。職業安定法は、職業補導事業にも確固たる法的基礎を与えた。従来から、戦傷者を対象とした職業補導のほかに、進駐軍の進駐により需要の増した通訳・タイピストの養成を財団法人に委託していたのが、同法により県の直接権能による公共職業補導所として事業を継続することになったのである。その他、労政関係では、四七年七月に結成された神奈川県経済復興会議は、産別、総同盟、中立の労組側と経営者側とが一体となり全県的基盤の下に労使が協力して県下の産業復興を推進しようというものであり、一九四九年七月に完成した神奈川県勤労会館は、知事の積極的推進力によって建設された「勤労」の文字を冠する全国唯一のものであった(『神奈川県労働運動史』第一巻)。 観光行政 知事の独自性は、観光行政の面に現れる。 従来観光と申しますと動もすれば鉄道関係の様に思はれたり又は神社仏閣乃至は名所古跡の保存や何かであるかに受取られたのでありますがこれからの所謂観光協会の事業は更に〳〵広汎なもので国民生活の全部を包轄しなければならないと思ひます。即ち現在県立元箱根診療所 『戦後10年のあゆみ』から の状況に於ては遠く外国航路の豪華船を運かす訳には参りませんが苟くも日本に上陸します外国人に対しては鉄道にバスに電車に凡ゆる交通機関を整備し道路は飽く迄も国際的一等級に標準を引揚げ、ホテルや娯楽機関も小ザッパリと作らねばならない。神社仏閣の修理から名所古跡の保存は素より、一般家屋の建築にも気をつけねばならない。而して就中日本人の公衆道徳を逸に高い標準に引上げねばならない。即ち其の及ぶ国民生活の万般に至るものである(観光協会発足時の知事の挨拶、『内山日記』から)。 こうして県の組織としては、一九四七年九月には商工部に貿易観光課をおき、四八年九月からは観光課を独立させ、観光資源の保護開発、施設の整備拡充、宣伝にあたることとした。また、これら施策を樹立するため一九四七年九月から県観光事業振興委員会(のちに県観光委員会)をおいた。そのほか、神奈川県観光協会が創立され(一九四六年四月)、一九四八年からは知事が会長を兼ね、また神奈川県観光株式会社(一九四九年二月設置)に出資するなど、観光立県の方策をとった。 警察制度 こうして、戦時下におけるとは異なる分野に力点をおいた施策が県行政のなかでとりあげられることとなったが、個別行政のなかで施策の実施の制度そのものをも大きく変換させて展開されることとなったのが、教育と警察の分野であった。いずれもこれまでの行政のあり方をより分権化させる方向がとられたのである。教育に関しては第四節で既にふれられたので、ここでは警察制度についてみておこう。 占領軍総司令部の日本警察に対する見方は、日本は極端な中央集権的警察国家であり、かつ警察が個人の自由を束縛しているというものであった。占領直後の一九四五(昭和二十)年十月に「自由の指令」を出し特高警察の解体等を命じたのもこの認識に基づくものであった。しかし、他方で警察は軍隊が解体された後の国内治安維持の中心的組織であり、この点からすれば従来にも増して重要な機能を担うこととなったのである。総司令部は、日本の警察制度の改善方向を探るため、一九四六年に二つの調査団を米国から招いたが、政府でも警察制度審議会を設置し検討を開始していた。改革の方向は、調査団の報告にある警察の地方分権化と都市警察再編にあったが、日本政府部内でも、どこまで、どのように分権化するのかで意見が確定せず、新憲法の施行を迎えていたのである。警察制度改革が複雑化したのは、総司令部内部にも意見の対立があったためであるが、一九四七年九月十六日にマッカーサーが片山首相にあてた書簡でその方向は明らかになり、これに沿って新しい警察法が同年十二月に制定されたのであった。新警察法は、国家地方警察と自治体警察をおくというもので、市および人口五千人以上の市街的町村に自治体警察をおき、市町村長の所轄下に市町村公安委員会をおいて自治体警察を管理させる。他方、内閣総理大臣の所轄下に国家公安委員会、国家地方警察隊をおき、各府県レベルでは県公安委員会がそれぞれの地方警察の管理運営を行うという内容のものであった。 一九四八年三月から施行されたこの法律に基づいて県下で行われた警察の再編状況をみると、自治体警察設置に該当するのは八市二十一町一村の合計三十市町村であったが、平塚市と大野町、大磯町と国府村、二宮町・国府津町と酒匂町がそれぞれ組合警察を維持することとなったので、全体で二十六の自治体警察が誕生することとなった。このうち横浜・川崎・横須賀の三市には警察本部がおかれ、県下全体の定員は五千四百八十二名であった。一方、国家地方警察は県下七郡のうち十二町七十三村を管轄する七地区警察署六支所がおかれその定員は五百八十六名であった(『神奈川県警察史』下巻)。このように警察が自はじめて登場した婦人警察官-川崎駅前- 『戦後10年のあゆみ』から 治体警察と国家地方警察にわけられ、小規模の自治体警察が数多くできたため、国警と自治体警察、さらに県下の公安委員長間の連絡協議会が作られ相互の連絡協調が進められることとなった。新制度の一つの問題は、各自治体警察維持のための財政上の負担を各市町村が負うことになったことで、これが新制度の運営上の問題となったのである。 警察制度の改革と歩調を合わせて進められたのが消防制度の改革である。警察制度審議会は消防を警察から分離させ、市町村にこれを担当させるという方向を打ち出した。これを明確化する法律については警察制度再編との関連で曲折があったが、一九四七年十二月に成立した消防組織法が、警察と消防の分離独立を明確化するとともに、消防の責任主体が市町村にあることをも明らかにした。こうして従来県警察部にあった官設消防は姿を消したのである。 国の出先機関 警察制度の改革は県行政組織のなかで警察部を解消することであった(一九四八年三月消防課ができるが総務部におかれた)が、警察の再編は中央政府における内務省の再編と関連をもっていた。地方自治法が制定された後も、内務省は組織としては存続し、地方行政を統括する役割を担っていたが、総司令部は内務省を中央集権行政の中心とみなし、地方分権の強化のためにその再編を命じたのであった。この結果、内務省は一九四七(昭和二十二)年十二月末に解体されることとなった。内務省の解体に対応して地方自治法の改正が行われ、地方公共団体は「その区域内におけるその他の行政事務で国の事務に属しないもの」(第二条)を処理することとなり「法令に違反しない限り」行政事務に関して条例制定ができることとなった。その際、市町村の条例が県の条例に違反するときは「当該市町村の条例は、これを無効とする」(第一四条)という県と市の関係をとることになった。地方自治法の改正は翌一九四八年七月にも行われ、この時には地方公共団体の行う事務の例示が行われ(第二条)地方公共団体が果たすべき責任分野をより明確化してゆく方向がとられたのである。 このように地方分権と民主化の強化という方向での地方自治法の改正が進められたが、この法律の下での新しい問題は、国の出先官庁が設置されるという事態であった。すなわち地方自治の強化、公選知事の導入とともに「かへってこれに逆行し、従来知事の権限に属していた重要なる事項が続々と知事の手を離れて、中央の直轄となり、各地に相次いでその出先機関が新設されつつある現状」が現出するに至った。こうした状況に対して一九四七年九月一日の県議会は「意見書」を採択し「かくの如き出先機関の新設は、確立せられた地方自治制度の実質を奪ふのみならず、その土地の事情に疎い出先機関と、県との摩擦を生じ、重要なる物資の配給供出等の円滑なる運営を阻害し、ひいては現下当面せる産業、戦災等の復興に重大なる障害を及ぼすことは明らかである」として、神奈川労働基準局など十二機関を廃止し「これを知事の権限に移し民主地方自治の確立を図ること」を要望したのである。 職員の問題 このように、戦後の県政のなかに、新たな施策、従来と異なる制度による行政の展開がみられることになったのであるが、それを実施に移す人間の意識と行動は直ちに変化するものではなく、むしろ急激に転換させるならば行政機能の継続性それ自体が破壊されることである。したがって現実の行政手法の変革は必ずしも新制度が想定したとおりに動くものではなく徐々に進められたにすぎない。県民の公僕としての県吏員の再教育という方向は打ち出され地方自治法下の県行政についての研修なども行われてはいたが、実態的に大きな変化をみることは困難であり、一つには全国的な地方公務員に対する法制整備を待たねばならなかった。他方で、県および市町村の公務員による組合の結成が進められ、この運動が県下の行政運営にいかに影響を与えうるかという問題が残されたが、行政運営改善の方向での動きに直接の影響をもつというよりは、この時期の労働運動のそれがそうであったように、待遇改善要求を基礎とした政治闘争への傾斜を示し、行政民主化の要求がその具体的成果に現れるには不十分であった。 四 復興の模索 都市の復興 全国的な制度改革、施策の転換などが県政に新たな色彩を加えてきたのであるが、こうした動きのなかで県および県下の市町村はいかなる方向で戦後の復興の課題にとりくんできたのであろうか。 この問題と最初に関連するのは懸案の特別市問題である。この問題をめぐって県と横浜市との立場は対立していたが、その一つの対立点は財政上の問題であった。県の資料(知事官房審議室『大都市制度問題について』)によれば、「昭和二十一年度に於ける県税収入中横浜市よりの徴収見込額は約二千万円であり一方横浜市の区域内における施設の設営並に事業遂行に要する経費は約四千五百万円である」とし特別市制が横浜市財政をひっ迫させると主張しているが、同時に「残存区域に於ても財政上の逼迫の程度は大同小異であって従来第二次的に考慮せられて居た横浜市以外の戦災都市の復旧道路其の他の施設の改善等に要する経費は今後相当巨額に上る見込であり、而も経済力を半減せられた残存区域内の経済圏の育成並に民生の安定を図る為には全く新規の経費を多額に計上する必要が生じてくる」と横浜を失った場合の県財政の弱体化を認めているのである。これに加えて横浜市独立の場合の国土計画は「川崎市が飛地となって残存部分の地方計画の調整上には困難」があり、もし強いて特別市制を施行するならば神奈川県の行政区域の変更を前提にする必要があり、具体的には「横浜、川崎両市の旧市部を特別市とし一方残存部分に東京都の三多摩、大島、小笠原の諸島並びに静岡県田方、加茂両郡を合併して神奈川県を作ること」とすれば、横浜市は純然たる市街地都市となり、神奈川県は生産・観光を主体とした生産県になるなどの見通しを行うほどであった。いずれにせよ横浜に特別市が施行されるか否かは、横浜市のみならず県下全域の復興計画に大きく影響を与える問題であったが、既にみた経過のとおり横浜特別市は可能性を残しつつも一応たな上げになっていたのである。 各都市の復興に関しては、政府の戦災都市復興都市計画事業にのっとり、横浜・川崎・平塚・小田原の四市が一九四六年度から戦災都市として特別都市計画事業の指定を受けた。この計画は区画整理、街路、上水道などの事業を含むが、その主体は戦災にあった都市の区画整理事業であった。計画の手順は、各市の計画は知事を会長とし、当該市長・市会議員等からなる都市計画委員会が決定するが、建設院が全国の事業をまとめて経済安定本部の認証を得て事業の実施を決めるため、実際に実施に移される事業は県市の予定する事業量よりも少なく、事業の進捗は必ずしも順調ではなかった(資料編12近代・現代⑵一二九)。たとえば、小田原市の場合は面積も事業量も少なかったので一九四八年度中には事業の完成となったが、川崎市の場合は事情が異なった。川崎では臨海地帯から東横線沿線の小杉・井田付近に至る地域の土地利用計画、これに対応する街路計画、五公園の公園計画、戦災による焼失、焼け残り区域三百五十七万坪の土地区画整理計画を五か年で実現するという構想でスタートしたのであるが、予算面での手当てがつかず計画実施は遅れるだけでなく事業規模の縮小をせざるをえない状況であった(『川崎市史』)。こうした事情はこの事業との関連で漁港の再建をはかろうとする平塚市にもあった。 旧軍用施設の転換 一方、旧軍港を主体としていた横須賀市は戦災にはあわなかったが、旧軍施設との関連で戦後の復興には戦災都市と異なる道をとることとなった。すなわち同市では一九四五(昭和二十)年十二月にすでにふれた「横須賀市更生対策要項」を作成していたが、その骨子は旧軍用施設を「我国産業文化振興並ニ本市更生ノ為転換活用スル」ことにあった。旧海軍工廠等の工業施設を船舶の修理、商船の造船造機等の平和的工業振興の中心におき、また横須賀軍港の商工港としての活用による商業の振興、深浦・長浦・浦賀港の工業港、久里浜・太田和港の漁港などの港湾整備、三浦半島の観光地化、旧陸海軍学校施設の転用による学園の建設、その他住宅地帯の設定、交通運輸機関の整備拡充をはかろうとしたものであった(資料編12近代・現代⑵一三〇)。この要項をもとに久里浜港、ついで長浦港の修築事業が行われ、また旧軍施設に対し民間の平和産業誘致が進められたが、旧軍用施設の転用にあたっては連合軍の接収解除をうけ、さらにそれを政府から転用するという問題があった(『横須賀百年史』)。さらに戦前、市に対してなされた海軍の補助金、特別助成金という財源を失い市の財政状態も窮乏化していた(資料編12近代・現代⑵九四)。 こうした状況から旧軍用財産の転用による平和産業への転換を、類似した状況にある呉・佐世保・舞鶴と横須賀の四市は提携して「旧軍港所在の旧軍用財産の処理に関する特別措置についての請願」を国会に提出(一九四九年四月)して以来、これの立法化を求めて共同歩調をとって運動したのである。こうして一九五〇年四月、これら旧軍港四市を対象とし平和産業と港湾を基盤とする平和都市を建設するための旧軍港市転換法が成立したのである。この法律は憲法第九五条の「一の地方公共団体のみに適用される特別法」であることから、六月四日に住民の投票が行われ投票率六九・一㌫中賛成八七㌫の支持を受け法律として発効することとなった。同法の成立によって横須賀市の旧軍用財産の処分については特別措置がとられることとなり、市の復興発展を容易ならしめたのである(『横須賀百年史』、『大蔵省関東財務局横須賀出張所二十年史』)。 県内には横須賀市以外にも多くの旧軍用施設があった。これらの施設を進駐軍、あるいは国の政府機関等と時には競合しつつも地元のために利用することが関係の市町村にとっては復興の足がかりとなったのである。中郡大野町農業会から知事に出された請願(資料編19近代・現代⑼五)は、同町の元海軍火薬廠及相模海軍工廠(通称技研)を農耕地として解放することを求めているが、そのなかで「大野町所在の海軍用地百数十町歩の内、商工省工業試験場が御使用されることに内定と仄聞する用地を出来得る限り狭められ、第六工場を除いた残余の敷地約八十町歩と隣接の旧相模海軍工廠(技研)空地若干町歩を加へ此の土地を耕作地として吾等地元農民に解放されたいのであります」と訴えている。県では旧軍用施設の転用に関して「現状調査ノ上地方庁ノ意見ヲ重視シ再調整」することを基本とし「応急的措置トシテ耕地化スル区域ハ漏レナク地元農業会ニ一時使用出来ル様取計ラレタイ」との立場で意見書をまとめたが、これによれば県内各地の旧軍用施設の転用に関しては、第二海軍火薬廠のほかにも、横浜戸塚の東京通信隊戸塚分遣隊跡、戸塚海軍衛生学校跡、高座郡の高座工廠、相模海軍工廠寒川工場、相模陸軍造兵廠跡、藤沢市の六会送信所跡など既に移管がなされた跡地がその利用状況について問題が多いことが指摘されている。食糧増産の必要から次第にこれらの旧軍用地の開墾が進められた結果、一九四七年二月末現在で、県内の旧軍用地大小併せて百四十四地区、四千五百八・一町のうち二千六百五十五・九町が地元農業会を主体として開墾利用されるに至ったのである(資料編19近代・現代⑼五)。 都市と農村 こうした動きが、折から進められていた農地改革との関連があったことはいうまでもない。自作農創設を目的として地主の土地を国が強制的に買収し小作人に売り渡すという過程で進行したのであるが、本県の特殊事情から生ずる問題が多かったことが指摘されている(農地委員会神奈川県協議会『神奈川県農地改革史』)。 その一つは都市計画と農地法等の関係で、戦時中の軍都計画で区域整理が進められていた相模原町の四百八十四万坪の土地は、現状は農地が大部分を占め、これが農地解放の対象となるか否かが問題となったのである。農林・内務、戦災復興という国の政府機関をもまきこんだこの争いは、横浜線淵野辺・橋本駅付近の買収除外指定をみる方向で解決されるに至った。大和町の場合、旧軍用地が入りくんでおり、問題をさらに複雑にさせた。 戦災大都市をかかえた県であるが故に、戦災を受けた庶民の住宅用地の確保と農地改革との関係も問題にならざるをえなかった。この目的のために買収指定の除外を受けた横浜、川崎、小田原、茅ケ崎、藤沢などの地域では農民との間でさまざまな摩擦を産み出した。さらには、戦時下の臨時措置で工場の拡張、新設を予定されていたもののそのまま終戦を迎えた土地をめぐっての対立、さらには別荘地の管理人が農地として利用していた土地の買収、観光地鎌倉での農地改革などとさまざまな問題があった。これらの問題は、農地改革を契機に出てくる農村と都市との関係の一面を浮かび上がらせてはいるが、単にそれだけではなく、戦時下の総動員体制下での性急な問題の処理、さらには農林担当部局と都市計画担当部局とのタテ割りによる未調整、さらには新たに作られた農地委員会の不慣れな運営というようなことをも反映するものであった。 水資源 このように都市部、農村部において対立、緊張をも含めて復興の模索が続けられてゆくが、県ではこれら復興の基盤を整備する施策がとられていった。そのなかで戦前から進められてきた相模川河川統制事業がある。これは一九三八(昭和十三)一月の臨時県会で提案され始まったものであるが、当時の半井知事の提案によれば、その内容は以下のようなものであった(『神奈川県会史』第六巻)。「津久井郡与瀬町地先ニ高サ五十米ノ堰堤ヲ構築シ之ヨリ右岸ニ隧道ヲ開鑿シテ河水ヲ導引シ約七〇〇米ノ下流ニ於テ一旦本川ニ放流シ此ノ落差ヲ以テ発電ヲ為シ、更ニ同郡千木良村赤馬地先ニ高サ二五米ノ堰堤並ニ取水口ヲ設ケ之ヨリ左岸同郡川尻村久保沢ニ至ル八粁ノ間ニ隧道ヲ開鑿シテ河水ヲ導引シ久保沢ニ分水池ヲ設ケマシテ、下流ノ流量トシテ必要ナル水量一五、三五立方米(五百五十二個)ヲ本川ニ放流シ、再ビ此ノ落差ヲ利用シテ上流与瀬発電所ノ出力ト合セ、最大四五、〇〇〇『キロワット』ノ発電ヲ為シ、一方工業用水ヲ含ム横浜市水道用水五、五五立方米(二〇〇個)、川崎市工業用水五、五五立方米(二〇〇個)及相模原開田開発用水五、五五立方米(二〇〇個)ヲ各分水供給セントスルモノデアリマス。即チ本事業ハ横浜市水道並ニ横浜、川崎両市ノ工業用水並ニ相模原開田開発ノ各用水供給ヲ同時ニ可能ナラシメ兼ネテ下流ノ洪水被害ヲ軽減スルト共ニ、出力最大四五、〇〇〇『キロワット』ノ電力ヲ開発セントスル所謂総合計画」であった。工事は千木良の津久井発電所が一九四〇年に着工し四三年末に一号発電機が始動し翌四四年十月に二号機も運転を開始した。与瀬の発電所は一九四一年六月から工事を開始し一九四五年二月に一台目の発電を開始したが、その後情勢の悪化から工事は中止されていた。一九四六年七月から工事を再開し、四七年七月に第二号建設工事が完成をみた。相模・津久井の両発電所で出力五万二千キロワット、水源として一日百四十万トンの水源を確保することとなった。 産業の復興とも関連をもつ道路事業は、県内の道路は戦災を受けて大きく荒廃していたが、特に県内に多くの基地を有し第八軍司令部の所在地であるという事情から横浜と県内の連合軍施設を結ぶ国道・県道の補修を重点として県内の道路整備は始まった。こうした特殊事情のため国の高率な補助を得るほか資材、機械も連合軍の補助をあおぐこととなった。このため県独自の計画に着手するのは遅れ、観光開発との関連で横浜・鎌倉線の改修に着手することになったのは一九四九年度に入ってからである(『戦後の神奈川県政』)。 災害復旧 県下の復興を考えるうえで見落しえないのは、積極的な建設作業のみではなく、何度も襲った台風による風水害被害の災害復旧との関連である。キャサリン(一九四七年九月十四~十六日)、アイオン(一九四八年九月十五日)、キティ(一九四九年八月三十一日)台風など毎年の如く襲ってくる台風と豪雨は県下各地に大きな被害を与えた。特に、一九四八年のアイオン台風では、戦時中の山林乱伐による箱根・丹沢山系の荒廃地に急激な豪雨が襲ったため、急傾斜地はほとんど山腹崩壊し、これに連なる各河川は異常な出水を記録し、県内では未曽有の大災害となった。 1949年キティ台風による小田原市浜町3丁目付近の被害 『目でみる小田原の歩み』から 第六節 「経済復興」期の県政 一 県財政の状況 「県財政の実態報告書」 一九四七(昭和二十二)年七月四日、政府は「経済実相報告書」いわゆる経済白書を発表し「国も赤字、企業も赤字、家計も赤字」と国民に経済危機を訴えた。この年八月三十日の定例県議会に内山知事は『県財政の実態報告書』を提出し県財政のひっ迫状況を説明した。この報告書を作成した趣旨を知事は、「従来の官庁式のやり方からすれば、県財政の内幕を暴露し悲鳴を上げるようなことはきわめて非常識のそしりを免れなかったのであるが、民主政治の時代においては県政すなわち県民の政治であり、県財政また県民から委託された財政であるので、これが時々刻々の推移については常に率直にこれを報告し、危機財政に際しては危機財政に処するよう二百万県民の理解と協力とを念願したいとの切なる願いよりいでたるものである」(『神奈川県議会史』続編第一巻)との説明をしたが、当面の目的としては県議会に提出した「金銭法案」の承認を求めることと対中央政府折衝のために客観的な財政資料を用意することにあった。 『実態報告書』は「県財政は逐年膨張の一途を辿り昭和二十二年度に至り愈々破局的な頂点に達した観がある」と述べたうえ、慢性的な財政膨張が「このままに推移する時は俸給、給料の不払、緊急事業の執行不能の段階に到達するのは時期の問題であり延いては財政の破綻、県政の機能停止の終局に立ち至ることは到底免れ得ない運命に在る」と財政危機の実態を訴えているのである。それではこうした財政危機の要因はどこに求められているのか。それは一言でいえば、インフレの進行で経費の膨張が続くのに対して歳入が不振であるということであるが、とくに新憲法下の地方分権の確立ということが経費の増大を加速させるものの、中央依存の財源を清算させることにはたらくことにあった。具体的に経費の膨張についてみると、人件費は政府の待遇改善措置にともない著しく増大し、地方制度改正により従前の国費経理の官吏が自治体の吏員になり、また新制中学の教職員給与などがあり、また進駐軍の本拠地であることからくる土木費(道路特別整備費)の増大、「本県の特殊事情から終戦後著しく増加した所謂『夜の女』を対象とする治療費・薬品費及び病院建設費」等の保健衛生費、それに生活保護費、失業救済事業費等があげられる。 これに対して歳入をみると、県税に関しては「本県は戦災により税源の七〇㌫程度を喪失した関係上最近の相次ぐ税制改正にも拘らず其の増収率は極めて微々たるもの」であり、さらに憲法の施行で国庫補助は著しく削減され、予算中国庫支出金の占める割合は昭和二十一年度の七六㌫から昭和二十二年度は四二㌫になっている。とくに職員待遇改善費に対する補助の打切りは大きく、さらに歳入中に占める起債額の割合が高くなり「借金財政への移行の度合が顕著になった」ことをあげている。これらは道路特別整備費や災害復旧などの公共事業に充当されていた。しかも近年では金融機関の資金難のため起債それ自体が困難となり、起債枠の借入れもできず資金繰りの困難なども出てきているのである。最後に一九四七年度の財政の現状を跡づけたうえ「此の際県に残された道は退いて自滅を待つか耐乏財政に徹し困苦克く難局を打開するかのいずれかである」と報告書を結んでいる。 ところで危機財政突破のためには歳入の充実をはかっていく以外にはないが、このためにとりうるのは、一 税率の引上げと税目の拡張、二 課税技術、徴税技術の改善による増収、さらには使用料・手数料その他の税外収入の確保などがありうるが、この『実態報告書』が提出された八月県議会では、新たに原動機税・牛馬税およびミシン税の三新税を導入するとともに県立学校授業料、病院入院料などの使用料・手数料の値上げにより税外収入の増徴をもはかろうとしたのであった。 新税の創設 分権化された地方制度のなかで、県税の新設・増率は次第に県の財政を支える大きな基盤となってきた。一九四六(昭和二十一)年九月の地方税法の改正で、従来物税中心であった県税に新たに県民税が創設され、新たに県民税賦課徴収条例が同じ月の県会に上程され議決された。また同じ地方税法改正で府県にも法定外独立税創設の権能が認められた。十二月の県会では自動車取得税と入湯税を新設することとなった。これらの税は県の責任で徴収する必要があるため「県民税及び町村民税はともに自治の基本である負担分任の精神を税制の上に顕現せしめることを主要な目的としてゐる」ことの周知徹底をはかる(資料編12近代・現代⑵二一八)こととなった。県歳入中に県税の占める割合は当初は必ずしも多くはなかったが、その後の県会では新たな県税の設定の承認が重要な課題の一つであったのである。すなわち一九四七年の二月県会では電話加入権税、ラジオ税、特別営業税、軌道税、ダンサー税の五種を新設したが、同年三月末の地方税法の改正で地租・家屋税・営業税が国税から地方に委譲されるとともに法定独立税目の拡張が可能となったためあらためて神奈川県県税賦課徴収条例を設定することとし、この際とられた独立税は県民税、地租、家屋税、営業税、鉱区税、船舶税、自動車税、軌道税、電話加入権税、電柱税、不動産取得税、漁業権税、狩猟者税、芸妓税、遊興税、入湯税、ダンサー税、木材取引税県民1人当たりの県税負担額変遷 『戦後10年のあゆみ』から の十八税目を数えるに至っていた。こうした県税への依存は税務機構の拡充強化を必要とし、それまで総務部庶務課において行われていた税務事務は、一九四七年四月からは各地方事務所に税務課を設置すると共に横浜・川崎・横須賀市に税務出張所が設けられることとなったのである。 このような背景のもとに一九四七年八月の県議会に新税として原動機税、ミシン税、牛馬税の三税目の新設承認が求められたのであった。しかし、この新税に対する議会の抵抗は大きく結局この議会では三新税導入案は否決されることとなった。県会が知事の提案を否決した背景としては、一 四月の知事選挙で内山知事が自由・社会両党の公認候補を破って当選したが、この時の選挙のしこりが残っていたこと、二 内山知事の日ごろの言動を指して「議会軽視」とする不満がくすぶっていたこと、三 県当局および県議会議長ら議会側首脳が議案の成立を楽観視し議会工作、根まわしに手ぬかりがあったこと、四 農村から徴税して都市復興の財源にあてるという牛馬税の発想が農村出身議員の反発を招いたことなどが指摘されている(『神奈川県議会史』続編第一巻)。地方自治法下の知事はかつての官選知事のように原案執行権をもたず、一時は議会解散説もでた。結局この問題は九月に召集された臨時県議会で再度提案され、知事の側が「県の吏員全般はまだ本当に民主主義に徹しているとは申し上げられないので、新憲法ならびに新自治法に即してこの内容を全部身と肉になっているとは考えていない。……私どもはこれから県民の批評の前に立って万遺憾なきを期するため大いに努力するつもりである」との釈明をし、議会側は「目下の県財政のひっ迫せる現状においてはやむを得ざるものと認めるも将来他に適当なる収入を求め得らるる場合は即刻廃税又は軽減すること」の附帯条件をつけたうえで可決したのである(同上)。 こうして新税の創設はなされたが、短期の資金繰りは困難で、同年末の職員の期末手当もだせない状況であった。県指定の銀行からの融資が受けられず、知事は隣県静岡県の駿河銀行に依頼して融資を受け一時的に財政の破綻をしのいだのであった。こうした経緯があったため一九五〇年八月から駿河銀行が新たに県金庫業務の一部取扱店に指定されることとなった。 電気ガス税をめぐる問題 一九四八(昭和二十三)年度に入っても、財源確保のため新たな税の創設が県議会に提案された。四月定例会で論議された電気ガス税・木材取引税の新設と既設の税目の税率引上げがこれである。この時の議会では県当局の原案を議会が修正してこれを可決したのであった。ところが六月に入って地方自治法による直接請求制度に基づいて電気ガス税賦課徴収条例の廃止を求める請求が提出された。これによれば「右新税は大衆課税にして悪税の最たるものでインフレと悪税に悩む一般勤労者と中小企業者を更に益々窮乏のどん底に追ひ込むもので又産業経済の復興に大いなる障害となり其の影響する所は極めて大きい」という趣旨のもので、代表者は神奈川県電力協議会委員長と日本電気産業労働組合の神奈川支部委員長、東京ガス労組の委員長であった。電気ガス税の廃止軽減を求める直接請求は、北海道・兵庫・愛媛・京都・大阪等の他府県でも行われていた。知事は「本件は地方自治法により認められた住民の直接請求権の行使であり、その権利は充分尊重すべきものであるので慎重にその内容を検討したが、本条例の設定は愈々窮乏の極に向ひつつある本県財政需要の現状に鑑み、真に已むを得ざる措置であり……本条例は廃止すべきものではないと信ずる」(『神奈川県議会史』続編第一巻)との意見書を述べて県議会の手に処理をゆだねたが、この取扱いは継続審議とされるに至った。 この問題の結着は七月の臨時県議会でつけられることとなった。すなわちこの県議会に県当局は電気ガス税賦課徴収条例を既存の県税賦課徴収条例と統合し、しかもそれを全部改正する提案を行ったからである。その理由は、同年七月の地方税法改正で電気ガス税が従来の法定外独立税から法定税になったからである。この地方税法改正は電気ガス税の他にも新たに入場税等の課税対象をふやしたので、県税としては法定二十一税目全部に課税をするとともに前年法定外独立税として設定された牛馬税・ミシン税は廃止することとした。この提案を受けた県議会は、この提案は「いずれも法律改正に伴うものであって……歳出面あるいは財源の見通しからしてもいずれもやむを得ない措置と認めた」と提案どおり可決し、同時に電気ガス賦課徴収条例の廃止に関する直接請求を拒否したのである。こうして、直接の利害関係人が代表者であるとはいえ、地方自治法で整備された住民の直接請求で条例の改廃を求めようという動きは、法律(地方税法)の改正により道をとざされることになったのである。さらにこれに加え、同年七月の地方自治法の改正では、条例制定・改廃の請求を規定する一二条、七四条を改め、制定・改廃のできる条例のうち「地方税、分担金、使用料及び手数料の賦課徴収並びに地方公共秩序の維持、住民及び滞在の安全、健康及び福祉の保持に関するものを除く」との文字が加えられることとなった。この結果、税金関係、公安関係の条例については、それだけで住民の直接請求の対象となりえないことが法律で明らかにされることになり、直接請求制度を活用することが直接請求制度の制限を呼びおこすという皮肉な結果を招くことになったのである(自治大学校『戦後自治史Ⅶ』)。 二 「経済復興」への道 吉田内閣とドッジライン このような県財政の危機は、根本的には国全体の経済復興と地方財政制度の抜本的解決を待つことによるほか解決の方途は見出しえなかった。片山内閣は傾斜生産方式を採用し重要産業の復興を優先させようとはかったが政治基盤が安定せず退陣し、続く民主党の芦田内閣も復金融資に関連する昭電事件で退陣し、一九四八(昭和二十三)年十一月から再び吉田茂が率いる内閣が成立した。 この間、アメリカの占領政策も、占領初期の政治改革を優先する政策から日本国内の安定、とりわけ経済の自立化をはかることに重点をおいた政策に転換がはかられた。こうして一九四八年十二月、マッカーサーは吉田首相に対して経済安定九原則を指示し、これに基づいて今後の経済運営をはかることを命じたのであった。 吉田内閣の成立は、少数与党の民自党を背景とするがゆえにこれを実施する力をもたず、同年十二月二十三日野党の提出した不信任案を可決したのに対して内閣が解散をするという、いわゆるなれ合い解散によって一九四九年一月に総選挙が行われることとなったのである。総選挙の結果は吉田の与党である民自党が過半数二百六十四を占め、民主・社会両党はそれぞれ六十九議席、四十一議席に減り、共産党が一挙に三十五議席を獲得するという大変化が生じた。県内の選挙結果にも大変動が生じた。まず、三区で元首相の片山哲が落選し、これに代わり最高得票で当選したのが自由党新人で外務官僚出身の岡崎勝男であった。この選挙では全国的にも多くの元官僚が立候補し当選したが、社会党の元首相の落選と自由党の新人元官僚の当選は、この選挙の全国的意義を象徴するもののようであった。第二に県下三選挙区で共産党議員が選出され、一区の春日正一、二区の今野武雄はいずれも最高得票であった。この選挙での県下の共産党の得票率は一四・九九㌫で特に横浜(一九・六七)川崎(一八・九九)の大都市では一九㌫に近い得票率を示したのである。第三に、一区一名、二区二名、三区三名の新人議員が当選したがこれらは県議会から衆議院に転出したものではなかった。この選挙にも県議会議員を辞職した二名の候補者が立候補したがいずれも落選し、前二回の総選挙にみられた県議から代議士へという傾向が一段落したことである。 ともあれ安定的な政治基盤を獲得した吉田内閣は、同年来日したジョセフ・ドッジの指導の下に経済再建に取り組み始めた。いわゆるドッジ・ラインとよばれるドッジの経済政策は、インフレ収束のためには予算の均衡が必要であるとし、財政の引締めをはかると共に経済の合理化と国民に耐乏生活を要求するもので、ドッジは折から編成中の一九四九年度予算から均衡財政をとることを強く要求したのであった。 こうした均衡予算の編成方針は当然に地方財政にも影響をもった。特に問題となったのは地方配付税の減額と地方債発行の抑制であり、これらは地方財政全体のあり方にも関連するため地方財政委員会、全国地方自治協議会(全国知事会の前身)、全国市長会、全国町村長会の代表は政府・国会に地方財政の危機を訴える活動を積極的に行った。しかし、ドッジ均衡予算の方針は堅持され、配付税大幅削減が強行され各地方団体は財政運営に困難の度合を加えることとなった。こうした措置に対し一九四九年八月の県議会は意見書を決議し、地方配付税の大幅削減と地方起債の抑制について「右の如き措置を講じたるは地方公共団体の破滅を招来するものである」とし、政府は速やかに国会を召集し地方配付税の増額、六・三制完全実施のための起債の認可、公共事業災害復旧のための地方債抑制の緩和等の措置をとることを求めたのである(『神奈川県議会史』続編第一巻)。 行政整理 ところで、緊縮財政のもとでそれにともなうものとして行政整理が問題となってきた。こうした動きは、一九四八(昭和二十三)年七月のマッカーサー書簡に基づく政令二〇一号により公務員の争議・団体交渉権が停止されたのに続き、同年十一月の国家公務員法改正で公務員のストライキ禁止が定められるなど一旦開花した労働運動の助長に逆行するものとみなされ労働運動の側は警戒を強めていた。行政整理については、特に国鉄の大量人員整理が問題化し、県下では一九四九年六月十日東神奈川電車区が整理に抵抗して「人民電車」を走らせるなどの激しい動きがみられたのであった(資料編12近代・現代⑵二七六)。 行政整理関係書類 神奈川県庁蔵 こうしたなかで県においても行政整理が日程にのぼってきたが、一九四九年八月の県議会に県の職員定数条例の改正を提案し従来の予算定員六千六百五十三名を五千三百九名に減員し二二㌫の整理を行うこととした。この問題については県議会も行政刷新特別委員会を設け検討してきていたが、「人員整理は最小限度にとどめること、即ち六十八名以内にとどめること、出来得る限り速い時期において事務の簡素化を行い、併せて行政機構の整備を行うこと」など四条件をつけて決定をするに至った。これを議決した議会で一議員は、定数条例の改正に関して部課の統合整理ができるならば均衡のとれた行政整理ができるが、今日部課の位置は法律(地方自治法第一五八条)で微動だにしない。知事は自治法第一五八条の改正を要求し本当に合理化した整理を行うべしと迫っており、こうしたところにも地方官官制を統合した地方自治法のもとに県政の問題が露呈していたといえる(『神奈川県議会史』続編第一巻)。八月二十八日に発表された第一次整理発表二十五名のうちに希望退職者に加えて組合幹部なども含まれていたが(『神奈川新聞』昭和二十四年八月二十七日付)、九月末までに予定の六十八名の人員整理を終えたのであった。 貿易 ところでドッジ使節団は国内財政の均衡化を強力におし進めたが、その一つの目標は単一為替レートの設定にあり、新しい為替レート一ドル=三百六十円が一九四九(昭和二十四)年四月二十五日から実施されることとなった。このことは貿易振興に再建をかける横浜市・神奈川県にとっては大きな意味をもっていた。占領当初は管理貿易のみであった貿易が一九四七年八月から制限つきではあれ再開されることとなり、外国人バイヤーなどの来訪も次第に増加することとなった。県と市は共同経営で県内輸出向商品の常設展示と輸出取引のあっせんを行う横浜貿易館を開設し、さらには貿易代表団接遇本部を設置するなど輸出貿易の促進をはかろうとした(資料編19近代・現代⑼一五一・一五二)。次いで一九四九年三月十五日から三か月間、県と横浜市の共催で日本貿易博覧会を横浜市の野毛山公園、神奈川区反町一帯で開催し、県産業の紹介はもとより国内の主要製品、外国の製品の展示をも行うなど輸出産業振興の動きをとった。 一方、為替レートの設定という状況のなかで新たに問題となってきたのは横浜自由港設置の問題であった。これについては既に民間貿易が再開された一九四七年の十二月に横浜商工会議所ら四団体が横浜市に自由港区を設置すべく陳情をしていたが(資料編19近代・現代⑼九六)、政府の中に自由港問題を検討する省庁も出はじめ改めて問題化したのである。自由港とは「一般に保護貿易主義をとりつつ一部に関税法上の外国を国内に設けることによって、国内に保護主義をとりつつその区域を中心とする国際的中継貿易を容易ならしめ、ひいて自国の貿易、海運、一般産業の繁栄を図るもの」(資料編19近代・現代⑼九七)で、先の陳情は横浜に自由港区を設置し加工貿易の振興をとおして横浜の経済復興をはかろうとするものであった。運輸省は「自由地区は、仲継貿易の繁栄、委託販売の繁栄策又、本邦海運業の発展の為に望まし」いとして、横浜・神戸を第一次的に、佐世保港を第二次的に考慮するという積極的な態度をとっていた(同上)。ところが通産省では免税加工地帯を設けて中継貿易地としてこれを活用する計画をもち、その候補地として横須賀・名古屋・神戸・長崎の名が報ぜられたことから、横須賀市においても自由港横浜港における生糸の積出し 『戦後10年のあゆみ』から 区設置の期成同盟会がつくられ「自由港区の設置は横浜港湾にとっては死活問題ではなく、単なる港運増進策であるのに反し、本港に於ては正に死活の問題である」(資料編19近代・現代⑼一〇〇)と活発な陳情活動を展開した。 かくして横浜・横須賀の両市が自由港区設置を競合して要求しているなかで、運輸・通産両省は自由貿易地帯を設ける方向に進んだが、大蔵省はこうした動きに消極的な態度をとり、また総司令部の動きも明確ではなく、やがてぼっ発した朝鮮戦争の特需景気のなかで結局は立ち消えになってゆくこととなったのである(資料編19近代・現代⑼解説)。一九五〇年六月二十五日から始まった朝鮮戦争に対し米国はただちに韓国援助の方針をとり、在日米第八軍の二十四歩兵師団(大阪)が朝鮮に、また第七艦隊(横須賀)が台湾に派遣され、七月には第八軍司令部も朝鮮に移されることとなった。この結果第八軍司令部が日本で担当していた業務を行うため在日兵站司令部(JapanLogisticalCommand=JLC)が八月二十五日に横浜に設置され、占領軍の調達業務を行うこととなったのであった(『占領軍調達史』)。これを通じて大量の物資およびサービスの調達が行われ、地元経済も特需ブームに湧くこととなったのである。こうして自由港設置を競った一方の横須賀市は、既にみた軍港都市建設法の制定に向けて活動を行い、一方横浜市も旧軍港都市と同様に特別法による都市発展の途をひらき、一九五〇年十月に公布された横浜国際港都建設法を住民投票で承認し経済復興のため国有財産の譲与などの便宜を受けることとはなったが、当初構想されていた自由港区の設定というほどの特殊な内容をもつものではなかった。 三 行政手法の変容 占領政策の変化 占領政策が初期の「民主化」と「非軍事化」から「経済復興」へと重点を移してゆく背景には、米ソの二大国を極とする両陣営の対決といういわゆる「冷戦」の深化があった。その後アジアにおいても一九四九(昭和二十四)年十月の中華人民共和国の成立はアメリカ政府に大きな衝撃を与え、さらに一九五〇年六月の朝鮮戦争のぼっ発は直接に大きな影響をもつこととなった。その一つは、朝鮮戦争に関連したいわゆる特需による経済面への影響で、ドッジ・ラインの強行による不況の中にあった日本経済は特需を契機に復興のきっかけを見出すこととなった。いま一つは政治・行政に関連する占領政策が初期に強調された「民主化」のための改革とは異なる方向がとられることとなってきた。一九五〇年七月の警察予備隊の創設に始まる再軍備の動き、さらにはほぼ同じころから始まる共産党幹部に対する追放令の適用という「レッド・パージ」の開始、それと併行して進められる旧追放該当者の追放解除などの動きがとられていったのである。さらに、一九五〇年初頭から動き始めていた講和条約締結への動きが旧連合国が分裂対立した状況のなかでどのように進展していくのかという問題も国内で大きな議論となってきたのである。 こうした動きは当然に県民生活の上にも、また進駐軍の基地をかかえる県の政治・行政にも影響をもってきた。ここではとくに、初期の「改革」政策のなかで住民と地方団体の自主性を強化した地方制度が形成され、次第にこの考えに基づく県政の運営が心がけてこられたなかで、国をとりまく新しい状況の展開がこのような自主的な地方政治の運営という方向にいかに作用したのか、という問題を念頭におきつつこの時期の県政を考えてみたい。 シャウプ勧告と事務再配分 まず、地方行財政制度の全般にかかわる問題としては一九四九(昭和二十四)年五月に来日したシャウプ使節団の勧告とその取扱いの問題があった。同年八月の県議会で知事は、政府はドッジ公使の勧告を口実に地方分権、地方自治を踏みにじったが「私どもは今日まで中央政府に対し、この点につき火を吐く思いでたたかってきた。今回シャウプ博士一行は、先にゆがめられた地方自治体の財政の確立をはかろういう立場にたっている」(『神奈川県議会史』続編第一巻)との期待を表明していたが、同使節団は来日以来地方自治体財政の確立をも一つの目標として精力的に全国の自治体財政の調査を行い、本県でも五月十七日に知事、太田横須賀市長がそれぞれ全国知事会と市長会のメンバーとしてシャウプ使節団に地方財政の窮状を訴えたのに加え、総司令部係官が県下の状況視察を行うにあたり積極的に協力をしていたのであった(資料編12近代・現代⑵一二六)。 同年九月に発表されたシャウプ使節団の勧告は、地方自治・地方財政強化のための大幅な制度改正をも含むものであったが、その基本は、行政機関の事務は国、府県、市町村の三段階に明瞭に区別し、事務はそれを能率よく処理しうるいずれかの段階に割当て、その際まず市町村、次いで府県、最後に中央政府に割当てらるべきだという考え方にたっていた。これに基づいて、国税、道府県税、市町村税の三つの体系を分離独立させ、国費・地方費の関係を明確にするため補助金を整理し、また配付税制度に代えて平衡交付金制度を創設するという内容のものであった。 シャウプ勧告に基づく地方税法の改正は、市町村民税、固定資産税、附加価値税の三大新税を創設する必要があった。地方の財源強化のためとはいえ、新たに税金を課することには抵抗も大きかった。特に市町村優先主義が打ち出されることとなった結果、府県税を確保するため従来の地方税の税目を府県に帰属させるか市町村に帰属させるかの問題が発生し、特に電気ガス税をめぐって両者の意見が鋭く対立することにもなった。結局これらの問題が根底にあって、政府提出の地方税法改正案は衆議院は通過したものの参議院では否決され(一九五〇年五月一日)廃案となったのである。政府はこれに対する応急措置をとり、さらに否決された地方税法に修正を加えたうえ再度国会に提出し、七月三十一日にようやく地方税法が成立したのであった。 このように地方財政の充実を期して始められた地方税法の改正と財政平衡交付金制度ではあったが、県財政という観点からみればそれは従来以上に県を窮乏におとしいれるものであった。県議会では一九五〇年十月の定例会で「地方財政平衡交付金増額に関する意見書」と「地方税法の改正に関する意見書」を議決し、平衡交付金が少額にすぎ、また県税たる税目は経済情勢・景気変動に大きく影響を受け極めて不安定であることを訴えた(『神奈川県議会史』続編第一巻)。知事自身も一九五一年二月県会で「地方財政平衡交付金制度ならびに昭和二十五年度より実施された地方税法の全面改正は、府県財政を窮迫へ陥れつつある」との窮状を述べていたのである(同上)。 他方、シャウプ勧告は地方財政と行政の問題を不可分のものとしてとらえ、税財源再配分を行政事務の再配分と共に行うべきことを要求していた。政府はこのため地方行政調査委員会議(通称神戸委員会)を設置し、同委員会は十二月に「行政事務再配分に関する勧告」を提出した。この勧告は、国と地方公共団体の間の事務配分に関しては「地方公共団体の区域内の事務は、できる限り地方公共団体の事務とし、国は、地方公共団体においては有効に処理できない事務だけを行うこととすべきである」とするとともに、府県と市町村との間の関係については「市町村は、住民に直結する基礎的地方公共団体であるから、地方公共団体の事務とされるものは、原則として市町村に配分するという方針を採るべきである」という基本方向を打ち出したのである。こうした考え方は、一方で労働行政等でみられた国の出先機関を一元的に府県に委譲させるべきという動きを強める(一九四九年三月、県議会は「労働行政機構の一元的地方委譲に関する意見書」を決議している)と同時に、市町村優先主義の考えに沿って一時中断していた特別市制運動を再燃させるきっかけをも与えることとなるのである。さらに勧告のいう「地方公共団体の規模の合理化」提言はのちの町村合併への動きとつながりをもっていくのである。 専門委員の調査 ところで、戦後の地方制度の改革の基本的考えの一つは地方公共団体の自主性を増大させることにあり、大筋においてはこの線に沿って次つぎと制度改革が進められたのであった。制度改革自体がさまざまな問題を残していることは既にみたとおりであるが、こうした方向を現実化するためには地方団体の側での条件整備がいま一つの問題として存在することはいうまでもない。目を県行政のレベルに転ずると、これらの一連の制度改革のなかで県独自の観点で県勢の振興をはかるという動きもこのころになると次第にうかがわれるのである。その一つは一九四七(昭和二十二)年に設置された経済開発本部であり、県内にある未開発資源の調査を行い、開発利用し、これをもとに県政のもととなる計画策定を行う意図のもとに進められた。開発本部が重点的に考えていたのは丹沢山塊の資源調査・開発であったが、調査の結果、森林資源・鉱物資源ともに直ちに開発事業化しうるものは見出せなかったのである(『戦後の神奈川県政』)。 しかしこのように県内の諸調査を行ったうえで県の施策・計画に活かそうという発想は受け継がれ、一九五一年から斯界の権威者に専門委員を委嘱し県政全般についての基礎調査を行うこととした。専門委員になったのは、行財政を田中二郎、経済労働を大河内一男、農業を磯辺秀俊の三東大教授、漁業を田辺寿利東洋大教授、建設を鮫島茂工博の五氏で、特に大河内委員が担当した「神奈川県産業構造の基本問題」(一九五一年九月)を皮切りにそれぞれの専門分野での行政施策に先だつ基礎調査が行われたのであった。最初の報告書である『神奈川県産業構造の基本問題』(資料編19近代・現代⑼二〇)は、「神奈川県の経済復興の鍵が―そしてまた日本経済総体としての『自立再建』の鍵が―工業生産力の復興再建を基盤とし根幹とするものであって、その他の諸産業は、原則として、この工業生産力の展開の上に成り立ち、それと結びついて栄え、そこから豊富にして安定した所得を引き出し、国民生活の安定もまた、そこからはじめて築かれる」という考え方のうえになされていたが、同時に「本県の経済再建案の確立にとって脆弱点となっているのは、各種の統計資料の欠如である。これの整備は直ちに各種施策の立案に大きな意義をもつものであるが差し当りこの点の隘路は著しく大であり、すべての計画案を不安定なものにする」として統計資料の整備が「本県百年の計を樹立するために必要なことであろう」と指摘していたのである。 広報活動 こうした問題を残しつつも、県独自の施策の基礎づくりが進められるのと平行して自治体と住民との関係にも新たな方式を見出す試みが始まった。一九四九(昭和二十四)年から始まった広報(当初は弘報)の活動がそれである。広報は、隣組と町内会の解体を指示した総司令部が、これらに代えて新しく住民と自治体との関係を仲介するためのものとして指導してその導入を進めたものである。全国的にみればその開始の時期にばらつきはあるが、本県の場合、一九四八年末ごろから神奈川軍政部の指導のもとに進められた。軍政部は民間の自主的組織たる弘(広)報委員会を県・市町村に組織することを奨励し「一 地方自治体の施政をあまねく市民に知らせる、二 市民活動を活ぱつにする、三 市民の声を関係公吏に知らせる」ことを期待したのであった。したがって、広報ということばで理解されていたのは単なる上意下達、あるいは宣伝でないことは勿論として、「知る初めての広報車 桜井芳雄氏蔵 権利の行使のために、住民の声を行政に反映させるため、住民の自発的活動を活ぱつにするために」、いいかえれば「戦前行われていた部落会や町内会は上意下達によって市町村内の住民を動かす組織であって民主主義とは相いれない存在」であるが故に「新しく民主体制下の要請に答えて自主的に広報活動を推進する民間組織として広報委員会を設置」したのであった(神奈川県広報文書課『広報委員会のてびき』一九五三年)。 県下では一九四九年初めに二百二十八の広報委員会が結成され、地方自治体の施政を市民に知らせるとともに、住民のつどい(タウン・ミーティング)を開催し住民の声を関係者に知らせるなどのことが行われたのである。県においても一九四九年二月から広報係を設置し、四月からは『県政時報』『県民広報』を発行し県政の動きを県民に知らせると共に、一九五〇年一月からは『神奈川ニュース』を作成して県下の常設映画館で上映するなど、新しい媒体での広報活動により県政に対する啓蒙普及活動を行ったのである。しかし、広報活動自体が軍政部の指導によって始まるものであり、また従来の日本の行政手法にはなじみの薄いものであったがゆえに、「政府・自治体の広報活動の適当な範囲については広報活動担当者の知識が非常に不充分である」として、軍政部がこれに積極的に関与し「客観性と偏頗なきことは民主的な広報活動の礎石である」などの指導を行ったのである(資料編12近代・現代⑵二〇〇)。 ここにみた広報委員会は実際の機能はともかくも、住民の声を表明する中間的な役割を期待されたのであるが、戦後の地方制度は住民の意思を反映させるために選挙のほかにさまざまな直接請求の制度を導入していた。先にみた電気ガス税条例に関してみられた条例の制定・改廃請求、事務の監査請求、さらに議会の解散、議員・長の解職請求などがそれである。こうした新しい制度も数字でみる限りは顕著なものはなかった。ただ市町村長の解職(リコール)の請求については、新制中学の建設、公共事業の推進、自治体警察の設置などにともなう財政難の下での自治体運営との関連でこの制度により解職されるものも現れたのである。 公安条例 ところで住民の政治に対するかかわりという面でみれば、戦後においては戦前と比べて著しい変化は国民の政治的自由が広範に認められたことであろう。「自由の指令」によって特高警察が解体され、それまで非合法とされていた共産党が政治活動を公然と開始し、その反面で超国家主義的団体は解散され、またその指導者たちは公職から追放されるに至っていた(資料編12近代・現代⑵一三四・一八五~一八八)。これらの措置が労働運動・社会運動を支える背景となっていた。ところが、一九四八(昭和二十三)年七月の福井市・大阪市を皮切りに占領軍の指導のもとに集会・デモを公安委員会に申請させ許可を与えるという公安条例制定の動きが始まり、これが次第に全国的に拡大するに至ってきた。県下では、早くも一九四六年四月に「各種集会団体行動ニ就而ハ如何ナル行動ニ於テモ左記事項ヲ二十四時間前ニ第一騎兵旅団司令部宛通知ノコト」という指令により、集会等の日時、場所、参加予定人員等について警察に届け出ることとなっていたが(資料編12近代・現代⑵一八三・一八四)、全国的な公安条例制定の動きのなかで公安委員会の許可制による公安条例が一九五〇年八月に横浜市・川崎市で制定され(資料編12近代・現代⑵一八九)、同年十月の県議会では県の公安条例が制定されるに至った。知事の説明は「最近の治安情勢をみると、ややもするとこれら集団行進または集団示威運動が越軌行為にわたり、正しい民主的運動から逸脱した方向にはしる場合があるので、これを規正するためにこの条例を制定する」と述べていたが、野党議員は、憲法上の結社、言論・出版の自由等基本的人権の擁護に反するものだとの論拠で反対をしていたのである(『神奈川県議会史』続編第一巻)。こうして制定された条例は、先に電気ガス税のところで指摘したように、住民の直接請求によって改廃の対象とならなかったことはいうまでもない。 このような動きは、先に述べた初期の占領政策の方向転換と無縁でないことはいうまでもない。一九五〇年に入るとレッド・パージの開始とうらはらに、かつては軍国主義者として追放されていた旧指導者に対する追放解除申請が始められ同年十月には第一次の追放解除者が発表された。この年十月三十日に中地方事務所長が発した「郡下における追放解除者について」という文書では、追放解除の該当者について「町村にては本解除により町村行政にあたえる影響並に反響等につき至急報告して下さい」旨求めているが、追放解除者の再登場で県内政治地図の再編も予想されるに至ったのである。 四 講和後への動き 地方選挙 一九五一(昭和二十六)年四月、戦後第二回目の地方選挙が行われた。県選挙管理委員会『地方選挙をかえりみる』によれば、四年前の選挙は戦後の混乱と制度の変革のさなかで国民の考えも動揺していた時期に行われたのに対し、今回の選挙は諸制度が一応の体制を整え、緊迫した国際情勢に船出しようとする建設的な状況で行われ「地方自治第一期実績の批判的決算といわれる性格であり、また講和を前にしての中間選挙としての性格」をもつものであった。 四月三十日に行われた知事選挙は、前知事で保守系の内山候補と社会党の田上松衛候補(前県議)の間で争われたが、官選・公選通算五年間の実績をもつ内山候補が県下全域で圧倒的な強みをみせ有効投票の七五・二㌫を獲得し再選された。投票率は七一㌫で前回に比して七・二㌫、特に女子の投票率が一一・八㌫の増加をみていた。選挙後の『神奈川新聞』は「内山知事が戦後の困難な社会条件のもとに民生安定、経済復興につくしてきた努力は認めるが『これが内山県政』という特徴を後世に残す治績の見出せぬことは残念である。再出発にあたり人事機構の刷新が大事である。知事としての抱負は沢山あるに違いないが、できるだけ早く、県政の前途に明るい希望をもたせるべきだ」(昭和二十六年五月二日付社説)と論じていた。 同じ日に行われた県議会議員の選挙結果は、自由党三十、社会党十五、民主党九、諸派一、無所属十二というもので、自由党の増加、民主党の減少という結果であった。レッド・パージのなかで共産党は十三名の新人候補をたてたが、当選者はいなかった。一方、当選者六十七名のうち新人が三十五名を数え、前議員をうわまわった。しかし新人の進出は必ずしも議員の若返りを意味したわけではなく「新人の進出を単的に革新と結合して考えることの出来ない複雑さを示すもので、終戦後の混迷期に出た前議員に対する一の批判として眺めるに止めるのが妥当であろう」と分析されている(同前)。 一方、市町村長・議会議員の選挙は県レベルの選挙に先だち四月二十三日に行われた。知事選挙以上に注目されたのは横浜市長選挙であり、再出馬した社会党の石河京市候補に対し、保守系からは追放を解除されたばかりの平沼亮三横浜商工会議所会頭が激しく争ったが、結果は二十四万票対十六万票で平沼候補が当選し社会党市長は一期で交代した。その他の市では川崎・平塚両市では前市長が再選されたが鎌倉市では無所属新人の草間時光候補が前市長を小差で破って当選した。町村長の選挙も七十町村で行われたが、大磯・伊勢原町など三十二町村で無投票当選であった。 この選挙では追放解除者の動きが注目されたが、平沼横浜市長の当選を除いてはみるべきものはなく、市町村長に関して立候補者五名(内二名当選)、市町村議会議員は立候補者八名に対し当選三名という結果であった(同前)。 第19表 党派別新前別立候補当選者数 神奈川県選挙管理委員会『地方選挙をかえりみる』(1951年)から作成 接収地解除への期待 こうした新しい地方政治の担い手を取りまく新しい状況としては講和条約の締結が近づいたという情勢であり、特に多くの接収地をかかえた横浜では接収地解除が横浜再建の基礎であるとの観点からこれに対する期待が大きかった。経済界とのつながりの深い平沼市長の登場もこうした流れのなかで理解することができよう。 横浜の経済界では既に一九四九(昭和二十四)年ころから商工会議所を中心に横浜再建協会を組織し横浜復興に対する調査研究を重ねてきたのであるが(『横浜の空襲と戦災』5)、商工会議所は港湾施設の接収解除が経済復興の大前提になるとして積極的な陳情活動を展開してきた。一九五〇年七月には第八軍ポート・コマンダーに「横浜港第一区解放に関する陳情」(『横浜商工会議所百年史』)を、同年十二月には「貿易街の土地、建物の接収解除に関する意見書」(資料編19近代・現代⑼一〇七)を関係諸方面に、また一九五一年一月には講和交渉に来日中のダレス特使に港湾・土地・建物の接収解除要望書を提出するなど、機会あるごとに働きかけていたのである。ダレスあての要望書では、横浜の再建復興が他都市に比較して遅々として進捗しない原因が、港湾諸施設の大半が接収され港湾機能が半身不随に陥っており、また市の中心である中区の三割五分(百二十万坪)が接収され、とくに商業的中心地域一帯が接収されていることを述べたうえ、「私共は講和成立の暁にはこれらの被接収港湾諸施設ならびに土地建物は必ずや全面的に解除されるに至るであろうことを期待しているのでありますが、それ以前におきましても占領政策に差支えのない限り、また出来るだけ速やかなる機会におきまして、さらに講和成立後仮りに米軍あるいは国連軍が引き続き当地に駐屯することとなり、幾許かの港湾施設あるいは土地建物を進駐軍の使用に供することとなりましても、それらの利用重要度の軽重緩急に従いまた必ずしも都心地に設ける必要を要しない施設はこれを郊外に移転する等の措置を講ぜられ、ぜひ港湾諸施設の重要部分ならびに都心一帯、土地・建物の接収解除を要望したいと思うのであります」と訴えていたのである(『横浜商工会議所百年史』)。 商工会議所会頭を兼任する平沼横浜市長の働きかけもあり、一九五一年八月には県、市、商工会議所の三者が一体となり横浜市復興建設会議が設けられ「講和後における接収地の処理問題に関する政府への要望書」(資料編12近代・現代⑵一二八)を作成し関係機関への働きかけを行ったが、ここでもたとえ安保条約の締結により駐兵協定が作られるにしても「単に神奈川県、横浜市のみの一方的犠牲においてこの問題を安易に解決することなく」すむように強く訴えていたのであった。 一九五一年九月、サンフランシスコで講和条約とともに日米安全保障条約が締結され、両条約は翌年四月から発効することとなった。講和締結とともに占領は終結することとなったが、安保条約によって米国占領軍は駐留軍と名前を変えて日本に駐在することとなった。このため講和後の接収地の解除のテンポも急速なものではなかった。一九五二年二月から横浜港大桟橋の接収解除が行われたほか、横浜公園の一部(四月)、ホテル・ニューグランド(六月)、関内地区(十一月)の地域が解除されたものの港湾地域はそのままに残された。また注意すべきことは横浜市内における接収地域の解除はただちに県内の接収地域の消滅を意味するわけではなく、大都市の市街地に駐留する米軍施設が郊外に代替の施設を求めて移転するという方向がとられたため、座間、相模原、朝霞(埼玉県)、追浜、大船等の郊外地域に横浜市内の諸施設が移転することであった。一九五三年十月にそれ接収解除されたホテル・ニューグランド 『戦後10年のあゆみ』から まで税関ビルにあった極東陸軍司令部が座間に移転して横浜の接収が解除された例にみられるように、県という単位でみれば、渉外業務あるいは基地関係業務は講和後においても依然重要な位置を占め続けることとなったのである。 復興諸施策の軌道 一九五一(昭和二十六)年八月の定例県議会で内山知事は講和締結を前にしての所懐を述べ、過去六年にわたり全神奈川県民がよく占領軍に協力したことの感謝の意を表するとともに、講和後も万邦協和の精神と国際連合への協力態勢を整えるとともに、米国と米国民に対する友好関係の増進が県の施政上も重要であることを明らかにした。さらに神奈川県の将来が横浜の復興のみならず川崎から横須賀に至る京浜地帯の発展として重要なことを述べ、ここを日本有数の商工業地帯として発展させたい希望を表明した(『神奈川県議会史』続編第二巻)。 内山知事は、一九五〇年五月から八月にかけて、地方自治制度視察団の一行として米国各地の地方制度の実情をみていたが、六月には国連を訪れ「今日としては我々日本人は、この国際連合こそ日本将来の外交舞台として、大いに期待を持たなければならない所だと思う……今後の日本は、出来得る限り多数の青年を教育し、国際連合において自由に働らき得る道義と教養を備えた人物を、数多くもちたいものである」との感想を記していた(内山岩太郎『アメリカの表情』)。知事の推進する国連運動については、官製の運動でありかつての大政翼賛会と異なるところがないという批判も議会からなされたが、知事は国際連合を国民的理解により身につけることではじめて国際社会に立っていけるのであるとつっぱね、この問題は講和後の内山知事の〝渉外知事〟としての活動の一つの柱となっていくこととなるのである。 いま一つの県の復興に関しては、朝鮮特需で経済復興のきざしが見えはじめたが、工業の復興に対する期待は一九五〇年四月に制定された県民歌「光あらたに」のなかにもうたわれている。県民歌は新生日本の表玄関たる神奈川の理想と希望をもりこんだものとして公募で選ばれたが、その第四連は「晴れてこころのときめくは/いまよみがえる町にきく/鎚の響よ黒けむり/ああ神奈川は新生の/歴史の鐘の鳴るところ」と経済復興への期待を高らかにうたっていた。しかし、鎚の響と黒けむりは、早くもその周辺住民生活に大気汚染、ばい煙、騒音等の公害問題をひき起こすに至ったのである。 かくして一九五一年十二月の定例県議会に知事は「これによって公害を防止し、産業の発展と住民の福祉との調和を図ろうとする」ものとして神奈川県事業所公害防止条例を提案した。復興の手がかりをつかみかけた経済界は「本条例の制定実施の結果、既存の事業所に新に著しい負担を加重し経営を圧迫する」ような方向には消極的で「公害防止条例は其根本に於て工業発展助長の精神に則り且つ公衆衛生の保持を併せ考える構想に於て立案すべきで……一方的に公害防止のみに重点を置く(警察取締り規定に類する)条例は之を排除しなければならない」(資料編19近代・現代⑼三八)という態度であったが、他方で川崎・鶴見選出の社会党議員はこの条例では公害を防ぐことができないとして「事業場から生ずる公害を防止し住民の健康的生活とその生業を擁護することを目的とする」条例修正案を提出し、より厳しい公害規制を求めたのであった。県会では結局修正案は成立せず知事の原案の条例が可決され、以後の県の公害行政の基本となっていくの県立図書館 『戦後10年のあゆみ』から である(資料編12近代・現代⑵二四八)。 占領から講和への移行期でいま一つ見落しえないのはさまざまな県立施設の建設である。県立の会館施設第一号は、一九四九年七月に横浜市神奈川区浦島ケ丘に建てられた神奈川県勤労会館であるが、その後一九五一年十一月には鎌倉に近代美術館が開館し、一九五二年二月には平塚に県立農業会館、八月には横浜市神奈川区桐畑に県立社会福祉会館が完成した。さらに講和記念事業としてスタートすることとなった県立図書館・音楽堂の建設は一九五二年八月の県議会での予算化提案に始まり、横浜市西区紅葉ケ丘の旧知事官舎跡に建設され、一九五四年十月に完成をみるに至ったのである。これを推進した知事は「会館知事」といわれたほどで、これ以後も県立の諸施設の建設は進められていくのである。 新たな制度改正の動き ところで、講和後への動きは政府レベルでも始まり、一九五一(昭和二十六)年マッカーサーに代わって連合国最高司令官となったリッジウェイの承認を得て占領期に制定された諸法規の検討を行う政令諮問委員会が首相の私的諮問機関として発足することとなった。同委員会は追放解除、行政機構、教育制度、独占禁止法、警察制度などの多くの法制の再検討を行い講和後の法制改革の方向を示すこととなった。この委員会の答申を待つことなく、同年六月に警察法の一部改正が行われ、国家地方警察の増員とともに、町村の小自治体警察については町民の住民投票により自治体警察を廃止することができることとなり、廃止後の自治警は国家地方警察の管轄下に編入されることとなった。これに従って県下の自治体警察を有する多くの町村では一九五一年八月から九月にかけて住民投票が行われた(逗子・相模原の両町は一九五二年五月に投票を実施)。その結果、投票が行われたすべての町村で自治体警察を廃止することとなり、自治警の存続するのは八つの市のみとなったのである(『神奈川県警察史』下巻)。このように地方分権化の理念のもとに進められた町村自治体警察も、財政負担の増大、国内外の情勢の変化というなかで短い歴史を終えるのである。「地方自治確立のために発足した制度が種々の見地から、とりわけ財政的基盤の貧弱から今日の事態にたち至ったことを思ふと地方自治確立の困難さを痛感せざるをえない」とこの動きをみる見方も一部にはあったのである(資料編12近代・現代⑵二〇一)。警察制度はその後一九五四年二月の新警察法の成立によって、国警・自治警の二本建ての制度そのものが解消され、県警察に一元化されるに至るのである。 ところで占領法制の再検討をしていた政令諮問委員会は一九五一年八月十四日「行政制度の改革に関する答申」を発表したが、その基礎となるのはシャウプ勧告・神戸勧告によってとられてきた市町村優先の地方自治の強化という考えよりは、「真にわが国の国力と国情とに適合した行政制度を整備し、以てわが国の自主自立体制の確立に資する必要がある」という考え方であった。そしてこの答申のなかで、地方自治庁の設置、国の出先機関の廃止と地方公共団体への統合、地方公共団体の組織の縮小簡素化など地方制度にも関連をもついくつかの方向を示したのであった。これに基づいて一九五二年八月には地方自治庁、地方財政委員会、全国選挙管理委員会を統合した自治庁が設置されることとなり、内務省解体後の一時期なかった地方行財政にかかわる行政組織が再び政府レベルでできることとなり、また同月になされた地方自治法の一部改正では、総理大臣の知事に対する助言・勧告権を認め、また市町村の規模の適正化を図るため知事が廃置分合の計画を勧告できるなど、執行機関の縦の系列を強化する様な方向の改正がとられることとなったのである。講和後の県政は新たな制度改正の動きのなかで展開していくこととなったのである。 第二章 高度成長期 第一節 県行政と市町村の再編 一 町村合併の社会的背景 合併前史 神奈川県における市町村の再編の歴史をさかのぼれば、一八八九(明治二十二)年の市制、町村制の施行に先立って行われた町村合併にまで及ぶであろう。この時の町村合併によって、従来の農村共同体としての自然村が行政村に統合され、神奈川県の市町村の原型がつくられたのである。こうして、市制・町村制の施行時には、県下の町村数は一市二十六町二百九十四村に再編された。 ところで、それ以降、戦後の町村合併前までの約五十年に及ぶ県下の市町村の変遷を追うと、激しい統合再編の動きがあったことがわかる。いま、それを整理して統計表であらわせば、第一表のようになる。一八九三年の「三多摩分離」で町村の数が一挙に一市二十町二百九村に減少したが、それ以後は横浜・川崎・横須賀の三市が、京浜工業地帯の発展にともなって周辺町村を逐次併合している。ことに昭和期に入って、横浜市が行った二度にわたる市域の大拡張と、川崎・横須賀の十年代の拡張とによって、これら三市はほぼ現行の行政区画を確定するに至っている。このほかに同じく昭和期に入って、平塚(昭和七年)、鎌倉(同十四年)、藤沢(同十五年)、小田原(同十五年)、茅ケ崎(同二十二年)が次つぎと市制を施行し、京浜の衛星都市として、市域の拡張と周辺町村の合併にのり出している。 これらの合併町村の中には、逗子町や座間町のように、戦時下の軍都建設を理由に合併を強制されたところもあり、これら二町は戦後には合併の相手であった横須賀と相模原から分離独立している。 このように、神奈川県の市町村の再編統合は、戦後の町村合併以前にも相当の進展を示しており、市町村の数は明治の市制・町村制の施行から戦後の町村合併直前までに、一市二十六町二百九十四村(三百二十一団体)から八市三十五町七十三村(百十六団体)へと、約三分の一に減少している。その結果、戦後の町村合併は、全県域の三分の一を占める横浜・川崎が施行対象から外れ、残る県央・県西の三分の二の地域が対象とされるにとどまった。また、合併対象地域においても、衛星都市の存在は合併運動の求心力として働き、合併の促進に大きく役立つこととなった。 シャウプ勧告 敗戦にともなう戦後の民主的変革は、地方制度の面でも画期的な改革をもたらした。戦前まで官治団体にすぎなかった市町村は、固有の自治権を保障され、地方分権のもとで大幅な行政権限を与えられた。この強化された権限を遂行する上で、当然それに見合う必要な財源が保障されねばならなかった。 ところが、当時の地方財政は戦災による財源難に加えて、戦災復興とインフレ、新制度による教育・警察の財政負担等で困難にあえいでいた。さらにそれにつづくドッジ・ライン下の超緊縮第1表 市制・町村制施行より町村合併直前までの県下における市町村数の変遷 『神奈川県町村合併誌』から作成 財政は地方財政の困難を一段ときびしくした。こうした時に、戦後の地方行財政全般にわたって画期的な勧告を行った、シャウプ税制調査団が来日したのである。 一九四九(昭和二十四)年五月から、約三か月に及ぶ調査の結果に基づいて作成されたシャウプ勧告は、今後の地方制度について、一 中央集権を排して地方(市町村)優先主義をとること、二 中央と地方公共団体の事務区分を明確にすること、三 行政事務の能率化、の三原則を示した。そして市町村がもし、教育・警察等の新しい行政分野で独立した活動ができない場合には、隣接地域との合併を図るべきであると述べて、町村合併に関する最初の提起を行った。 そこで、政府はこの勧告に基づいて、同年暮れ地方行政調査委員会議を設置し、翌五〇年十二月同会議から「行政事務再配分に関する勧告」(神戸勧告)を受けたが、その中で行政事務再配分後の地方行政事務を能率的に処理するため、地方公共団体の規模の合理化が必要であるとして、町村合併についてより具体的な提起があった。すなわち、地方公共団体の適正規模について、人口七、八千人程度を標準として、それを目安に合併を行うべきであるというのである。また、その実施に当たっては、府県単位に委員会を設け、地方の実情に沿った合併方法を調査研究するよう提案している。 この勧告を受けた政府は、一九五一年一月、自治庁長官の名で全国の都道府県に対し、知事の主宰下に市町村長、市町村議会、県議会の代表、学識経験者で構成する協議会を設けて合併の気運を促し、ついで三月には、合併の事務処理の迅速化と関係市町村に対する十分な配慮とをよびかけた。さらに翌五二年には、政府は地方自治法の一部を改正し、合併促進のための法的措置をとった。すなわち、同法二条で「地方公共団体は常にその組織及び運営の合理化に努めると共に、他の地方公共団体に協力を求めて、その規模の適正化を図らねばならない」とし、また同八条で、知事に合併計画を定め勧告する権限を与えた。 自治体財政の危機 シャウプ勧告をふまえた地方行政調査委員会議の勧告は、本来国と地方との行政事務の再配分に関するものであった。つまり勧告でいう町村合併は、基本的課題である行政事務再配分を実施したあとの町村の課題として提起されていたのである。ところが政府はこの勧告の本旨である行政事務再配分は全く無視し、勧告の一部にすぎない町村の規模の適正化・合理化のみを先行させることにしたのである。そのため、市町村優先の原則のもとに、「中央と地方の行政責任の明確化」を求めたシャウプ勧告の精神は歪曲され、地方自治の拡充という基本理念が、町村の規模の拡大による行財政能力の強化と能率化という政策に矮小化されていったのである。そこに戦後の町村合併に関して一部の識者から、「地方自治の問題であるよりも行政機構の再編と合理化問題であり、また町村自身の行財政の強化よりも国政委任事務の遂行機関としての町村行財政の強化の問題である」(島恭彦編『町村合併と農村の変貌』)という批判が生ずるわけである。 以上のような批判と関連して、町村合併前における地方財政の危機に触れておかねばならない。つまりこの財政危機が、政府をして町村合併政策を一段と緊急ならしめたといえるからである。戦後の地方財政は、シャウプ勧告が実施された一九五〇(昭和二十五)年以降も好転せず慢性的な財政難がつづいた。とくに朝鮮戦争の終わった一九五三年には、経済不況と重なって地方財政は破綻し、赤字団体が続出した。都道府県では四十六のうち三十六、五大市では四、市では二百三十一、町村では千四百四十九の地方団体が赤字団体に転落した。この財政危機は翌五四年には最大の規模に達し、政府は遂に地方財政再建促進特別措置法の制定にふみ切るのである。この財政危機の原因は、基本的には地方自治の拡充にともなって、国が地方自治体に多くの行政事務を義務づけながら充分の財源を保障せず、そのため特に財政力の弱い農村や地方都市に矛盾が集中するところに起因している。さいわい、神奈川県は一国の経済力が集中する首都圏にあるため、県当局の健全財政の努力と相まって、辛うじて赤字団体への転落をまぬがれることができた。しかし、県内の市町村の中には、赤字に陥りその対策に四苦八苦するところがあい次いだ。例えば一九五三年度には、実質収支で十団体(七市三町村)が八億円の赤字を出し(第二表)、翌五四年度には、さらにこれが十七団体、十七億円に増加している。 これらの赤字団体は主として都市部に集中し、市ではほとんどの団体が赤字に転落した。しかし、県内の赤字団体は、財政再建法の適用を受けることなく、自主再建によってこの苦境を脱することができた(『神奈川県行政の推移と現況』)。 町村合併の前年に当たる、一九五二年から深刻化した以上のような地方財政の危機が、市町村の財政基盤の強化をめざす町村合併を一段と切実なものにし、その促進剤となったことは明らかである。同時にまた、この財政危機が町村合併の個々のケースに微妙な影響を与え、合併をめぐる紛争や争論の一因ともなったのである。 町村合併促進法の成立 さて、以上のような歴史的経緯と社会的背景のもとに、町村合併が現実の政治日程に上るのは、一九五三(昭和二十八)年の町村合併促進法の制定によってであった。この法律ははじめ、全国町村長会及び同町村議長会の自治庁への働きかけによって、参議院地方行政委員会で取り上げられ、第十六国会に議員立法の形で提案された。そして、両院における審議を経て同年八月八日に成立し、九月一日公布、十月一日から施行されることになった。 この法律は第一条で、「町村が町村合併によりその組織及び運営を合理的且つ能率的にし、住民の福祉を増進するように規模の適正化を図ることを積極的に促進し、もって町村における地方自治の本旨の充分な実現に資することを目的とする」とうたっている。つづいて二条以下で合併の規模を人口八千人を最低の標準とすること、合併促進のために都道府県に町村合併促第2表 1953年度実質赤字額の市町村 『市町村財政概要』第3集から作成 進審議会を、町村に町村合併促進協議会を置くこと、合併に際しては当該町村は新町村建設計画を策定しなければならないこと、また計画策定に当たっては合併町村の住民が相互に融和し、進んで新町村の建設に協力するようにしなければならないこと、等々と定めている。その他この法律の制定にともなう措置として、地方議員の任期、定数、地方税、平衡交付金、起債、国有財産などについて、合併の障害にならないように関係法令の特例を設けている。 こうして政府は九月十一日、合併促進の基本方針を定めて促進本部を設置し、十月三十日には町村合併促進基本計画を策定した。それによれば、法律の施行期間である三年間に、人口八千人未満の町村八千二百四十五の九五㌫を、近隣の市または大町村に吸収するか、あるいはほぼ四町村ごとに合併することによって、全国の町村数九千七百七十四を三千三百七十三(約三分の一)に減らそうというわけである。ついで、促進本部はそのための実施計画として、一 昭和二十八年度中に町村の実態調査を終了すること、二 十一月一日までに町村合併促進審議会を設置し、翌年三月までに合併計画を作成すること、三 二十八年度中に合併に関する啓蒙宣伝を行い、二十九年度から本格的な合併事業に取り組むこと、などを都道府県に指示した。 二 町村合併の推進過程 県下の気運 中央において町村合併促進法が制定施行される前後から、神奈川県の一部の町村では合併研究会を設けるなど、早くもその気運が生じていた。なかでも、箱根町、元箱根町、芦之湯村の三町村は、これまで共同で役場事務を扱ってきた関係もあって、いち早く協議が進み、一九五三(昭和二十八)年十月中に各町村で住民大会を開き、十一月には合併宣言を行い、翌年一月一日を期して新箱根町として発足した。これが県下における合併第一号となった。 また、背後に農村をかかえる平塚、藤沢、小田原、茅ケ崎の四市は、合併に当初から強い関心を示し、十二月には茅ケ崎が周辺二町村に、つづいて平塚市が四町七村に合併をよびかけ、県に対しても湘南五市長会として周辺町村との合併について指導あっせんを要望している。 一方、県では町村合併促進法第四条に基づいて、町村合併促進審議会(以下審議会と略称)を設けるため、九月県議会に関係条例を提案し、それに沿って十一月二日、審議会規則を制定した。この審議会は、知事の諮問機関として合併計画の策定をはじめ、その促進について啓発、宣伝、勧奨、あっせんなどの権限をもつ重要な機関であった。審議会の委員は、県議会・町村議会議長会・町村長会の各代表、市議会議長会・市長会の代表、県教育委員、県職員、学識経験者で構成され、会長の佐々木秀雄以下二十名の委員が選任された。以後、この審議会は、最初の会が開かれた一九五四年十二月二十二日から合併促進法の失効する一九五六年九月末まで、五十四回の審議会を重ねることになる。 これより先、県当局は合併促進法が国会に上程され、法案通過が町村合併促進審議会会議状況 『神奈川県町村合併誌』上巻から 必至と見るや、県下の市町村に対して積極的な宣伝にのり出した。例えば、七月から九月にかけて次のようなパンフレットを作成して、合併についての県民及び市町村当局者の認識を高めることに努めた。「町村合併のはなし」「町村合併について」「市町村合併の沿革」「町村合併促進法」「町村合併参考資料」。 これらの小冊子は、合併の必要性を平易に解説したものであるが、このような広報活動も町村合併の気運の盛り上げに貢献している。 県の合併計画 県と審議会のとりくみは、一九五四(昭和二十九)年に入って本格化した。一月十六日開かれた第二回審議会には、委員自ら町村に出向いて、現地の意向を聞いて合併計画を作成する必要性が強調された。これを受けて県は直ちに、町村合併基本方針を立てること、各郡に地方事務所を中心にした合併推進協議会を設置し、全市町村の実態調査を行うこと、さらに県専門委員で東大教授の鵜飼信成に、行政的立場から見た合併試案の作成を依頼することにした。審議会において正式決定を見た県の基本方針とは次のようなものであった。 町村合併関係パンフレット 県立文化資料館蔵 一 町村合併促進法は、町村の合理的規模につき、おおむね人口八千人以上とされているが、本県の地勢的、産業的構造から見て、町村の行政能率を高めるためには必ずしもこの標準に拘泥せず、町村の人口が右の標準規模を上回っている場合においても、他の弱小町村を解消し、その行政能力の一層の充実発展を図るために適当と認められるときは、その合併を促進すること 二 町村の合併は、単に個々の町村の個別的な利害を考えるのみでなく、全町村について広く国及び県全体の立場から考慮し、全県的な立場から均衡のとれた町村の適正化を図り、一、二の弱小町村が取り残される等自治行政の将来に禍根を残すことがないように留意すること 三 町村の合併は、専ら関係住民の福祉と町村の規模の適正化を基礎とし、具体的実情に応じて行うべきもので、郡の境界に拘泥しないように配慮すること(以下略) 次に同年三月、鵜飼教授が作成した合併試案に触れておこう。いわゆる鵜飼試案は県の正式の合併計画ではないが、県下で初の具体的な案とあって大きな反響をよんだ。この試案は、各郡町村別に地勢、交通、産業等の自然的経済的状況や、住民の人情、風俗、習慣等の歴史的類似性や行政的一体性を考慮しつつ、町村の人口・面積を基本に作成されたものである。のちに実際に行われた合併は、この案とは大きく隔たるが、第3表 審議会の活動状況 『神奈川県町村合併誌』から作成 第4表 県会における合併議案の議決数 県下の町村に具体的な合併案を示したことによって、合併気運に大きくはずみをつけたのであった。 鵜飼試案の発表で動き出したムードの中で、審議会はこれをたたき台にして各町村長より現地の事情聴取をはじめた。一九五四年四月十日の第六回審議会から、会場を現地に移して各郡ごとに精力的な調査を展開した。その活動ぶりをまとめると第三表のようになる。こうした二か月に及ぶ現地での事情聴取をふまえて、審議会は知事より諮問のあった県としての合併計画の作成にとりかかった。そして、同年七月三日、中郡の合併案をてはじめに、十二日高座、足柄上、足柄下、愛甲、津久井の諸郡、二十四日三浦郡の合併案を知事に答申した。この合併案は、先の合併方針に基づき、鵜飼試案とその反響を参考にして策定されたものであった(第六表中郡の例)。こうして、町村合併はいよいよ実施段階を迎えることになった。 全国一の達成率 神奈川県の町村合併事業の取り組みは、他県に比べて当初大きくおくれていた。この原因は一説によれば、横浜市の特別市問題で悩まされた知事ら県首脳部の消極的な姿勢にあったといわれている(『神奈川新聞』第5表 合併による町村の年度別減少数 第6表 中郡における県の合併計画案 1954年7月 昭和三十年八月十二日付)。ところが、一九五四年七月、県の合併計画案が出そろうと、同年七、八月にかけて各市町村の合併協議が急速に進み次つぎと合併にふみ切る市町村があらわれた。いまその進行状況を、会期ごとの県会における合併案件の議決数で示せば第四表のようになる。ここで県議会の議決までの合併手続について説明しておこう。 町村合併は法的手続としては、地方自治法第八条第二項に基づいて、合併を希望する市町村が知事に対して合併の請求をする。それを受けて知事は審議会の諮問を経て、当該市町村に対して合併勧告を行う。この勧告をまって市町村議会で合併の議決がなされ、再び県審議会の承認を得て、さいごに県議会の議決が行われることになる。このようにして正式に合併が実現するのである。 町村合併があくまで町村の自発的意志に基づくものであり、合併手続にかなりの日数を要する点を考慮するならば、上記の進捗状況は極めて速いテンポで進んでいることがわかる。また、この進捗状況を、年度ごとの町村の減少数で表すと第五表のようになる。つまりこの表によれば、初年度を除いてわずか一年間で六割の成果を挙げたことになる。 かくて神奈川県の町村合併は、促進法の施行期間である一九五三年十月から一九五六年九月までの三年間に、国の計画の一一四㌫(全国平均九八㌫)、県の計画の一〇五㌫(同八九㌫)を達成し、まさに全国最高の進捗率を記録したのである。そして、この間に県下の市町村数は、八市三十五町七十三村(百十六団体)から十三市二十四町三村(四十団体)へと、約三分の一に減少したのであった。さいごに、合併による市町村の統廃合の結果を、県の当初の合併計画と照合してみよう。第七表は中郡を例にとって合併の結果をまとめたものであるが、県の合併計画の中で促進法失効後に残されたところは、中郡の金目村(第六表参照)と三浦郡葉山町の二町村に過ぎない。しかも金目村も五十七年十月一日には平塚市に吸収合併された。しかし、数字の上では全国一の成績を収めた県下の町村合併も、その内容を見ると県の計画とは大きく食いちがい、計画原案が大幅に修正されていることがわかる。とくにそれは、小田原、平塚、藤沢、秦野、伊勢原、厚木などの都市周辺において著しい。次にその実態を検討してみよう。 合併の実態 神奈川県の町村合併の特徴を一言であらわせば、都市主導型の合併だということができよう。中央において促進法が施行されるや、小田原、平塚、茅ケ崎、藤沢などの市が、いち早く周辺町村に協議をよびかけ、合併に強い意欲を見せたことは最初に述べたとおりである。一方、町村側も、総じて都市化の指向が強く、合併のよびかけに対して積極的な姿勢を示した。これらの市が合併にかける期待のうちには、例えば平塚市のように、同市が一九三二(昭和七)年の市制施行以来、市域の拡張がなく、この間に同市の人口が都市の全国順位で五十位も落ち込むといったことに対する焦燥感があった。したがって、「合併の立役者」といわれた小田原、平塚、茅ケ崎、藤沢の四市は、合併を「領土拡大」の好機と考え第7表 中郡における合併の実際表 1955年国勢調査人口 数字は新市町形成の年月日 たり、市域の「拡張競争」に利用するといった観があった。他方、内陸農村地帯の中核をなす相模原、厚木、秦野、伊勢原や海浜の三浦、逗子などの町は、合併によって一挙に市制をめざす動きを見せた。このような新市建設の運動は、県が政府の定めた適正規模(人口八千人標準)に「拘泥せず」、それを上回る規模の合併を認めた結果でもあった。しかもこの大型合併の動きは、県の予想を越えて拡大した。ここに、神奈川県の町村合併が「市政ブームと大町村主義におしまくられ、県の合併計画が大きく崩れ去った」(『神奈川新聞』昭和二十九年八月十二日付)という厳しい評価も生ずるわけである。 こうして、新しく編成された県下の市町村は、第八表で見るように、人口・面積ともにいちじるしく都市化の傾向を帯びることになった。 ところで、都市主導型の合併の動きに対して、二方面から抵抗が起きた。一つはいわゆる富裕町村で、適正規模と合併のメリットのないのを理由に、非協力の態度に出た。たとえば、中郡の大野町、高座郡の寒川町、三浦郡の葉山町、足柄上郡の南足柄町などがそうである。これらの町は、人口・面積ともに適正規模を充たし、また横浜ゴム(大野町)、日東タイヤ(寒川町)、富士フイルム(南足柄町)などの大工場があって、町財政は潤沢であった。つまりこれらの町は、合併によって財源を相手町村に奪われるなど、利益どころかかえって不利益の方が大きいというわけである。こうして、大野町のように、平塚市との合併に最後まで抵抗するところが現れた。 合併に抵抗したもう一つの町村は、純農村または村内に有力な合併反対派を抱えた町村である。反対派の主力は農業中心の在来の産業構造をあくまで維持していこうという専業の富農ないし中農層であった。このような町村は中郡金目村のように合併運動からとり残された第8表 合併の前後における市と町村の人口及び面積比(%) 『神奈川新聞』昭和31年9月30日付から り、高座郡渋谷町のように村を二分する激しい争論と紛争をひき起こしている。むろん、合併にともなう争論や紛争は、先のような一般的原因だけでなく、具体的には隣接町村との距離や地形、交通や学校、職業構成や通勤圏などの問題が複雑にからみ合っていた。県審議会の委員たちが、後半にはほとんど現地に赴いて、説得やあっせん、紛争の調停に当たっているのも、これらの町村における合併問題のむずかしさを物語っているといえよう。 三 町村合併をめぐる争論と紛争 渋谷町の紛争と分村 県下の町村合併運動のなかで、「台風の目」といわれて最後までそのなりゆきが注目されたのは、平塚とその周辺の合併、高座郡渋谷町の分村、箱根全山の合併、それに県境を異にする熱海市泉地区の四つのケースであった。これら四地区は、いずれも激しい争論または紛争をひき起こし、そのゆくえがあやぶまれたところであった。 一九五四(昭和二十九)年四月、政府は促進法の一部を改正して、清川村の合併祝賀旗行列 『神奈川県町村合併誌』下巻から 同じ町村内でも「住民投票」によって分村できる措置を講じたが、そのことが場合によっては問題の解決を一層複雑にし、また長びかす結果ともなった。ここでは特に、渋谷町と泉地区の二地区を取り上げて、紛争の経過をたどってみたい。 渋谷町が御所見、小出の二村と共に、隣の藤沢市から合併の申入れを受けたのは、一九五四年二月であった。次いで井上金貞町長がこの申入れに条件付きで賛意を示し、藤沢市がその条件をのむに至った交渉経過を、町の広報紙で初めて町民の前に公表したのは、その年の九月であった。 もともと渋谷町では、南部の長後・高倉地区が商店街を形成し、藤沢に隣接する関係もあって合併に積極的であった。それに対して町の中北部にある上和田・下和田・福田・本蓼川の四地区は、農村地帯で合併には慎重な住民が大多数であった。それに両地区の戸数も、千十一戸と九百十九戸でほぼ相半ばしていた。 さて、はじめて町民に提示された井上町長の合併案は、反対派を痛く刺激し憤慨させた。十月になるとかれらは町政刷新連盟を結成して、町長リコールの請求を起こすに至った。他方、合併賛成派は長後・高倉地区を中心に、三千百八十二名の署名を集めて合併請願書を町議会に提出し、反対派に対抗した。十一月に入ると、刷新連盟は二千百九十四名のリコール署名を町の選挙管理委員会に提出したが、これは同町の有権者(五千二百)の三分の一を優にこえるものであった。 町を二分したこのような状況のなかで、井上町長は十一月二十日、緊急町議会を招集し、合併案を賛成十四、反対六で強引に可決した。この抜き打ち議決は反対派を一挙に硬化させた。役場をとり巻いた三百名の町民は、大和署から派遣された警官隊の警戒するなかで、町長に激しく抗議し、議決の撤回を迫った。困った井上町長は、「ひと晩考えさせてくれ、二日朝十時に解答する」と約してその場を逃れたが、翌日から約束を無視して行方をくらました。 渋谷町で合併をめぐる内紛が最高潮に達していた十二月四日、藤沢市議会は臨時会を開いて、渋谷、御所見との合併案を審議し、ここでも一部の革新系議員の反対を押し切って合併宣言を行った。そして同月二十一日の定例会では、県あての合併申請を承認して合併に関する手続を完了した。十二月二十日、行方をくらましていた井上町長が町役場にあらわれ、集った反対派住民三百名から、前議会での議決の撤回と町長辞任を迫られ、ついにその場で辞意を表明することになる。 ところでこの間、県側も両派の和解と調停に奔走したが、最終的には分町も止むなしと判断して十二月二十九日、大晦日を期して反対派四地区の住民投票を提案した。この調停案は一応両派の受け入れるところとなったが、翌日から早くも激烈な宣伝戦がはじまり、暴力事件などの不穏な事態が予測されたため、県は三十日、急拠投票を中止した。 結局、渋谷町はさいごは県審議会のあっせんで、投票ぬきで分村することに決定、約四か月にわたって燃えさかった合併紛争に、ようやく終止符をうつことができた。その結果長後・高倉の二地区は藤沢市に合併し、上和田・下和田・福田・本蓼川の四地区が残留して、一九五六年九月、大和町との合併が実現するまで、渋谷村を名泉地区と湯河原町-川の左側が泉地区・右側が神奈川県- 県史編集室蔵 乗ることになった。 泉地区の問題 渋谷町の分村問題が落着すると、合併紛争の台風の目は静岡県熱海市の泉地区に移動した。県境を異にする泉地区の住民が、本県の湯河原町との合併を望んで運動を始めたのであった。元来泉地区は維新前まで、足柄上郡宮上村の飛地であったが、一八七八(明治十一)年、静岡県賀茂郡に移管がえされ、その後熱海市に所属することになった。そのため、泉地区と湯河原町との合併運動が大正末期からしばしばくり返されてきた。しかし、合併問題が起こるたびに、静岡県や熱海市側から阻止されてきた。ことに、一九二九(昭和四)年には、泉地区の請願が貴衆両院で採択されたにもかかわらず、静岡側の反対で失敗に終わったことはよく知られている。湯河原との合併運動に長い歴史と経験をもつ泉区の住民は、県を異にする合併も可能となった促進法のもとで、三たび悲願達成に挑戦することになったのである。 この泉地区は、歴史的にもそうであったが、地理的、経済的な面でも全く湯河原の一部であった。熱海とは標高五、六百㍍の急峻な山陵でさえぎられ、住民が熱海市役所まで行くのにも、いったん湯河原まで出て交通機関を利用しなければならない。それに比べて湯河原町へは、川幅五、六間の千歳川を渡るだけでよかった。こうした地理的一体性から、泉区の住民は日常の買い物から子どもの学校まで、湯河原町にたよっていた。そのほか、衛生、消防、福祉、観光に至るまで、両地区の住民は「一体不離」の関係にあった。このような事情から、泉地区の合併運動は起こるべくして起きたのであった(神奈川県『泉区問題の真相』)。 一九五五(昭和三十)年二月、泉区長室伏新次郎らは、熱海市長に泉地区の分離を請願したが容れられなかったため、神奈川県の内山知事を訪れ、六百五名の住民の署名をもって湯河原町との合併を陳情した。これに驚いた熱海市は、急拠泉区開発特別委員会を設置し、おくれている道路の整備や学校建設を条件に、合併運動の懐柔にのり出した。三月に入ると、室伏区長ら合併派住民は「泉区会」を結成、住民投票による合併の実現をめざして準備に入った。一方、神奈川県も、内山知事が二月末湯河原を訪問し、「両地区の住民は七十年にのぼる内縁関係。七十年も同棲していれば子どもの結婚に親は文句はつけられないはず」(『神奈川新聞』昭和三十年二月二十三日付)と、言葉巧みに現地住民を激励した。これに対して、熱海・静岡側も県・市当局が現地に対策本部を設け、地元選出の市議を中心に「郷土を愛する会」をつくるなど、活発な妨害工作に出た。かくて、泉地区をめぐる熱海・湯河原両市町の紛争から、静岡・神奈川両県の紛争に発展する雲ゆきを見せた。 このような状況の中で、事態を憂慮した政府は、三月五日、促進法施行令の一部を改正して、学識経験者ら三名からなる自治紛争委員会を新設し、その結論が出るまで署名運動を中止させる措置をとった。これによって現地の紛争はひとまず収まるかに見えた。一方、政府によって調停委員に任命された野村秀雄ら三人のメンバーは、直ちに調停案の作成にとりかかった。 ところが六月に入ると、熱海・静岡側は一方的に紳士協定を破って住民工作を再開した。静岡側は調停不利と見たか、既成事実をつくるべく住民の多数派工作に公然とのり出した。これに対して神奈川県も負けてはいなかった。斉藤静岡県知事の「寸土も譲らず」という言明に対して、内山知事は九月七日の記者会見で、これは「大政奉還以前の大名の考え方だ。静岡側が現地で行ったことは徴税ぐらいで、教育、衛生、消防、道路、観光など、一切合財本県の好意によるものだ」(同紙、昭和三十年九月八日付)と激しく非難した。この間、静岡側が泉区の住民からひそかに分離反対の誓約書をとり、それに一人あたり五千円の買収費を使っていることが暴露され、対立を一段とあおった(同九月二十一日付)。こうして、泉区をめぐる紛争は、両県の威信をかけた全面戦争に発展した。 こうした中で調停委員会は、調停案の提示を前にして、両県に強く自省を促したため、ようやく現地は運動を中止した。さて、十月二十日、両県に示された調停案は次のようなものであった。 泉地区の帰属については、各都道府県内における町村合併がほとんど完了し、都道府県の境界にわたる市町村の区域の調整を最終的に措置すべき時期において、更めて考慮するものとする。 つまり調停案は、泉地区の帰属について、「一挙に解決をはかろうとすることは、かえって対立を激化し事態を深刻ならしめる」として、まず当面の紛争を回避することに主眼を置き、帰属問題の解決を一時棚上げしたものであった。 これについて静岡側は直ちに受諾した。もう一方の神奈川側は、当初大きな不満を表したが、最終的には受け入れることにした。かくして約一年間、両県をまき込んだ泉地区の合併問題は、再び問題を将来に残したまま打ち切られることとなった。 その他の紛争と分村問題 町村合併はそのほかの地域でも、さまざまな争論と紛争をひき起こしている。そして渋谷町のように、町村内部が二派に分かれて分村問題に発展したところは、とりわけ深刻な紛争を体験した。いまこれらの町村を列挙すれば第九表のようになる。すなわち、ここに挙げた八町村のうち六町村までが、紛争の結果または紛争の収拾策として分村合併している。そして残りの二村だけが、紛争を一応解決して一村合併を実現しているのである。ここで若干、上記の町村について、紛争の特徴点をコメントしておこう。 中郡大根村では村議会の秦野町合併決議に、真田部落を代表する三村議が反対し、議決無効の行政訴訟を起こした。紛争は一時農協預金の取付け騒ぎにまでエスカレー第9表 分村合併が問題になった町村 結果 ×は分村,○は分村なし 『神奈川県町村合併誌』および『神奈川新聞』から作成 トしたが、結局真田部落が金目村に分村合併することで解決している。岡崎村は大向・馬渡の両地区が伊勢原町へ、岡崎小学校を含む他地区が平塚へ分村合併したが、大向地区の父兄が児童の通学時間の延長と、校舎の未整備を理由に、伊勢原町への登校を拒否する事件に発展したものである。相川村は合併をめぐって村内が伊勢原派と厚木派に分裂し、議会で多数をたのむ村長が厚木合併を議決しようとしたところ、反対派が議場を占拠、流会させた。そのため一時警官隊が介入する騒ぎとなったが、村長が引責辞職し、そのあと新村長のもとでようやく厚木町への合併が実現している。次の曽我村は小田原派と大井派に分かれたが、小田原派の村長と議員が、合併促進のために小田原市会の有力議員に金品を送るという贈収賄事件を起こしている。また、岡本村では暴力事件が併発しており、さいごの荻野村と小出村の場合は、その解決が促進法の失効後にのばされた。 以上、分村問題を中心に論じてきたが、このほかにも町村合併は種々の事件を生んだ。二宮町では足柄上郡大井町との合併に失敗して町長が辞職に追い込まれ、また、足柄上郡上秦野村と中郡西秦野村の合併は、両村の強い希望にもかかわらず、県会で二度も否決または継続審議とされたため、直接自治庁に請求して内閣総理大臣の告示で合併が実現している。促進法第三三条を適用したこの合併は、全国でも珍しい例とされている。この合併問題の裏には、地元の県議会議員の選挙地盤の問題がからんでいたといわれ、町村合併が選挙区の変動をもたらすことから、各地で複雑な問題を生んでいる。たとえば、西秦野町以外でも現職の県議が合併問題に介入した町村として、先の相川村、大根村、渋谷町などがあげられている(『神奈川新聞』昭和三十年八月十三日付)。同紙がこれらの県議の挙動を評して、「町村合併に混乱を残しただけ」と指摘したのも、あながち過言ではないであろう。県の審議会の委員として、県議会から七名の現職議員が参加していたが、そのうち四名が合併後の選挙で落選または立候補を断念していることを見ても、町村合併をめぐる議員と住民の微妙な関係をあらわしているといえよう。 紛争の原因 さいごに、紛争の原因について簡単に触れておきたい。その原因を巨視的に見れば、農地改革以後の農村の変貌の諸要因が挙げられよう。そのいくつかを列挙すれば、農業経営の多角化、階層分化や都市化による脱農民化の傾向、兼業と通勤者の増加、地価の値上がり、さらにこれら全体と関連する農村の政治構造の変動等である。 ところで、神奈川県における合併紛争を特徴づけるものは、近隣の都市との合併をめぐって村内が分裂し、紛争が村を二分して分村問題に発展するというケースが多いことであった。そこで、合併をめぐる諸村の賛否両派の性格を検討してみると、ほぼ次のような共通性を有することがわかる。 合併反対派は自作中農または富農層を主体にする人びとで、かれらは専業農家として農村建設に村の将来をかける層である。反対派の代表たちには、戦後の農村社会で旧地主層に代わる新しい指導者として、村の要職につき村政に大きな発言権をもつ人が多い。かれらは農政本位のこれまでの村政に、自己の経済的利益と社会的地位の保障を見出している。都市との合併はこのような農業社会の崩壊を意味し、また農村の純朴な気風の喪失を招くものとして、強く反対する。 一方、合併賛成派は商工業者をはじめ、サラリーマンなどの通勤者、兼業化または脱農化した農民層等で、日ごろ農政本位の村政に不満と疎外感をもつ人びとからなっている。賛成派の構成は階層・職業ともに雑多であるが、合併によって失うものは余りなく、むしろ自己の勤務地あるいは営業圏にある都市との合併によって、都市化のもたらす何らかの新しい利益と期待を求める層と言える。 町村合併は農地改革以後、農村内部に形成されてきたこのような住民間の利害対立を、一挙に顕在化させたのであった。(この部分は、横山桂次・小林丈児・木暮正義「農村における町村合併問題の展開過程」『自治研究』第三十五巻第二号・三号に負うところが大きい)。 四 町村合併と高度成長 促進法の失効以後 町村合併促進法は一九五六(昭和三十一)年九月末日をもって失効し、合併後の市町村は新しい自治体としての建設段階に入った。これに対応して政府は、同年六月新市町村建設促進法を制定し、その後の小規模未合併町村の合併促進をはかった。この新しい法律は、知事の権限を強化して次のように定めている。すなわち、知事が未合併町村の規模が適正を欠き、地方自治体としての機能の発揮と住民福祉の増進のために合併が必要であると認めた場合、知事は審議会の意見を聞き、内閣総理大臣と協議して、関係市町村に合併を勧告しなければならない(同法第二八条)。また、勧告後九十日以内に当該市町村から申請がなくても、その合併計画について住民投票を請求できるというわけである(同法同条)。 また、前法(町村合併促進法)で認められた特別措置は、そのまま一九五七年三月まで延長された。 すでに述べたように、神奈川県の町村合併は全国一の達成率を見たのであるが、計画中に残った未合併町村としては中郡金目村があり、また合併促進法失効後に解決が持ち越された争論地区としては、藤沢市遠藤南部と厚木市上荻野の両地区があった。この三地区ともそれぞれ複雑な事情をかかえた紛争地区であったが、一九五八年末までには一応の解決に達することができた。 町村合併の功罪 町村合併は政府の説明によれば、基礎的自治体としての町村が財政基盤を強化して、戦後改革による自治体の行政事務の強化と最近の社会経済の進展にともなう行政の複雑化・高度化にこたえうる行財政能力の充実を図ることが目的であった。そして、このことがひいては地方自治の拡充と住民福祉の向上につながると考えたわけである。そのために政府はこの運動を推進すべく、補助金の配分や起債の認可など財政面で合併町村を優遇し、強力な勧奨的措置をとったのであった。こうして、政府は「国ないし県などが町村合併に際し権力的干与することはさける」(衆議院本会議での提案説明)としながらも、現実には補助金や起債などの財政援助をテコに、強力な合併運動を推進したのである。 ところで、町村合併は、その自治体と住民に何をもたらしたであろうか。これについては一部の識者の間で、合併前から次のような問題点が指摘されていた。 一 中央(市街)地域と周辺(農村)地域の格差の拡大、二 合併前の小村のまとまりの崩壊、三 地域格差による住民負担のアンバランス、四 住民サービスの低下、などである。 また、平塚との合併に消極的だった大野町の主張も、合併によって被る不利益を理由としたものであった。同町で開かれた合併促進審議会の席上で、地元から次のような発言があったことは注目されてよい。 私は時期尚早論である。農村に加うるに工場も誘致され現在四千三百万円の固定資産税がこれから入っており、これを財源にして県道の改修も土地改良もすでに開始され、その外今後やってもらいたい仕事は山積している。今すぐに合併したら三分の二の固定資産税は平塚市とプールになり大野町の施設ができない(資料編12近代・現代⑵二二九)。 さらに興味があるのは、現地で合併の直接の衝に当たったある地方事務所長が、自らの体験から合併の功罪を次のように語っていることである。すなわち、 合併の成果としては、一 予算の重点的配分、二 徴税率の向上、三 一部町村での住民税減税と職員の給与の引上げなど。欠陥としては、一 広域化による連絡不便、二 市町村役場の遠隔化のための時間と経済的負担の増加、三 郵便物のおくれ、四 役場機構の拡大による不親切(官僚化)とサービスの低下、五 補助金増額の要求による間接費の増大(『神奈川新聞』昭和三十年八月二十四日付)。 ここに挙げられた成果はさておき、欠陥のいくつかは図らずもさきの識者の指摘と一致している。とくに、市を中心とする大型合併と大町村主義を推進した神奈川県の場合は、これらの欠陥がより鋭く露呈されたことは十分に考えられる。町村合併が住民福祉の向上を究極の目標に掲げている以上、住民サイドから見た合併の功罪が改めて問われるわけである。 新市町村建設と高度成長 町村合併促進法は、合併に当たって市町村に新町村建設計画の策定を義務づけているが、合併後この計画を調整し、その実施を促進することが新市町村建設促進法のもう一つの任務であった。 ところで、同法に基づく政府の実施計画では、合併後の新市町村の行財政組織及び運営の合理化と経費の節減をすすめるため、一 行政機構の簡素化をはかり、支所、出張所、学校などの公共施設の統廃合をすすめること、二 職員組織とその配置の適正化、合理化を図ること、三 財政運営では健全財政を基本に、起債を抑え合併によって生ずる消費的経費の節減と、投資的経費の増加と確保を強調している。このうち、とくに投資的経費については、歳出総額の三五㌫以上を確保するよう指示している。 一方、これに対応する新市町村側の計画はどのようなものであったろうか。一九五七(昭和三十二)年十月当時、県内で町村合併を終えて誕生した新市町村は八市十八町一村であった。いまこれらの市町村について、「新市町村建設の基本方針」(『神奈川県町村合併誌』上巻)を見ると、五市四町が建設計画の柱の一つに工場誘致を積極的にすすめることをうたっている。市では平塚、小田原、茅ケ崎、厚木、大和が、町では山北、南足柄、開成、愛川がそうである。 また、そのころから県当局も、一九五九年からはじまる第二次総合計画(『土地及び水資源に関する総合計画』)の立案に着手するが、その策定過程で市町村から内陸工場適地の提出を求め、二十二市町から提出された三十万五千六百二十アールのうちから、十六万四千二百三十八アールを工場適地として選定している(第十表)。 この工場立地の内陸部への分散計画は、首都東京からの産業と人口の分散を図る首都圏整備法の公布(一九五六年)と、ようやく限界の見えはじめた京浜工業地帯の臨海部における工場の立地難に対応するものであった。そして、事実、新市町村建設計画が策定される一九五五年ごろから、県下の諸都市で工場誘致条例が制定され、積極的な企業誘致がはじまるのである。 工場誘致条例はどこでも同じような内容をもつ。誘致企業に対して三年間、固定資産税を減免する優遇措置を講じたり、自治体が企業のために用地の造成やあっせんができるしくみになっている。高度成長下に頻発した自治体汚職の多くが、企業誘致にからんだ土地取引から生じているのも偶然ではない。このような企業優遇政策は、税制や用地の提供にとどまらず、やがては道路交通、上下水道、清掃、住宅など、自治体行財政のあらゆる面に波及していった。そして企業誘致こそが、町の発展と繁栄をもたらす「時の氏神」のように喧伝された。 こうして、一九五五年以降、町村合併後の県下内陸部に、企業の工場進出が競って展開されたのである。第十一・十二表に見るように、県下内陸部への工場進出は、横浜・川崎等の既成の工業地帯と比較して、工場数で五八㌫、用地面積で八三㌫と第10表 内陸工場適地面積 湘南は鎌倉,藤沢,茅ケ崎,平塚の各市と寒川,大磯,二宮の各町 小田原・足柄は小田原市と橘,松田,山北,開成,南足柄の各町 相模原・高座は相模原,大和市と座間,綾瀬,海老名の各町 『第2次総合計画』から作成 大きく凌駕している。ことに湘南地区と相模原・高座地区は進出が激しく、新しい内陸工業地帯の形成を予告している。 このように見てくると、町村合併とそれにつづく新市町村建設は結果的には一九五五年以降の高度成長と地域開発のための政治的、経済的環境づくりの役割を担うものであったということができよう。そして、この役割は成長と開発の進行にともなう地域経済圏の急速な広がりを背景に、いわゆる広域行政論として新たな展開をみせる。すなわち、六十年代に入って登場する藤沢、茅ケ崎、寒川の二市一町で構成する湘南広域都市行政協議会(一九六二年四月)、河野建設相の西湘百万都市計画(一九六三年十二月)、相模川流域二十市町で組織する県央広域行政研究会(一九六四年一月)等の構想がそれである。そしてこの広域行政論の終極に、早くから見えかくれしていた新しい地方制度としての道州制があることは言うまでもない。 すでに町村合併当時から、塚田自治庁長官は、合併のねらいについて次のように展望していた。 町村合併を推進すれば、大きくなった市町村という自治体と府県がいまもっている自治第11表 内陸部工場進出の状況 工場数は1500㎡以上のもののみをあげた『神奈川県産業構造の基本問題』から 第12表 内陸部進出工場の地域分布 『神奈川県産業構造の基本問題』から 体としての性格が重複することになる。そこでそのどちらかを否認すべきことになるので、府県の方を否認する。そこのところで知事官選の本来の考え方がでてくる。町村合併があるところまで行くと当然府県の統合というものがでてくる。この際に完全な官選にもって行く(『地方自治資料』七一号)。 また、促進法の失効した翌五七年には、政府の第四回地方制度調査会が、府県制を廃止して道州制(地方制)を導入する構想を答申している。町村合併という広域行政の推進は、次のステップとして府県の再編=道州制の導入に照準を合わせていたのである。しかしそれは、府県の廃止と知事官選という戦後地方自治の根幹にふれる重大問題を提起していた。 第二節 人口の急増と都市化の進展 一 県域工業開発の進行 工業化路線の採用 一九五五(昭和三十)年前後からはじまった高度経済成長は、県下の第一次産業、とりわけ農業を食いつぶしながら、人口の増加と都市化をおしすすめた。その都市化の進行は、たとえば、不毛の火山灰台地二千七百ヘクタールを陸稲栽培地によみがえらせるため、一九四八年から十四億の巨費を投じてすすめられた「相模原かんがい事業」を、宅地に転換してしまったことに象徴される。こうした経過は、ひとつには県当局が食糧増産が国民的課題であった時期に、県内の人口増に対処すべく、先取的に工業化を採用したことに求められる。また、なめらかな増加曲線を描く県人口の伸びが、実は適正なテンポを逸脱したなかで高度成長の「受け皿」をなす県域資源の総合開発体制を整えていったことにも関係があろう。 一九五〇年六月に勃発した朝鮮半島の戦火は、二つの米軍極東司令部と京浜工業地帯を擁する神奈川県を特需景気で潤していた。県央厚木の米軍基地から朝鮮戦線へ向かって兵士、物資をのせた飛行機が飛び立つというあわただしい背景の中で神奈川県総合開発審議会は発足した。一九五〇年十二月のことである。それに先立って県は十月に企画審議課を新設し、大河内一男、田中二郎、田辺寿利、磯辺秀俊、鮫島茂の五氏を専門委員に迎えて具体的なプランづくりの中心部を構成した。これらの学識経験者が、なによりも中央政府をリードする立場にあったことは注目する必要があろう。したがって、翌年、三月三十一日に開かれた第一回審議会の内山知事のあいさつも国土開発の立場から神奈川県の将来構想を求めるものであり、「本県は他県と異り、原始産業は比較的少く、面積は狭少で人口は多く全く現在の日本の縮図であります。しかも本県は日本産業に於ける最も重要な地位に立つものであり、その使命も亦極めて重大であります」と述べている。この一節に含意されていたのは、戦時下に進められた相模湖・川崎臨海工業地帯造成など資源開発への自負であり、さらにそうした工業生産力がこれからの日本経済自立の牽引力に他ならないという見通しであった。いわば、地元の雇用効果や農林漁業の発展と同時に国家的企業の集中する京浜工業地帯の復興発展を優先しようとする立場の表明である。 それを受けて同年九月に発表された県総合開発審議会『神奈川県産業構造の基本問題』は、その見通しを次のように裏づけした。「神奈川県の経済復興の鍵は―そしてまた日本経済総体としての『自立再建』の神奈川県の人口増加状況 『私たちの神奈川』から作成 鍵は―工業生産力の復興再建を基盤とし根幹とするものであって、その他の諸産業は原則としてこの工業力の展開の上に成り立ち、それと結びついて栄え、そこから豊富にして安定した所得を引き出し、国民生活の安定もまた、その上にはじめて築かれる」(資料編19近代・現代⑼二〇)と。このように県の地域開発構想は地域経済と国民経済の調和を想定し、重化学工業の振興を率先して行おうとするものであった。だが、国民の権利を基礎に、市町村自治体優先に組み立て直された戦後の地方自治制度は、もはや県が統制的に水資源配分や土地利用規制を行う権限を保証するものでなかった。県下市町村の参与を得ながら進められていった広域資源開発をゆさぶったのは、そうした枠づけにとまどい、反発する住民の対応であった。 ためらいの中の市町村 地方自治体がほとんどの地域開発計画の策定を放棄せざるをえなかった中で、神奈川県の選択した大規模工場誘致・育成路線は独自の先取性をもつものであった。一九五一年中に県が成功した工場誘致は小田原市への大同毛織の進出であり、年末には公害紛争を企業側から調整する「神奈川県事業場公害防止条例」を制定して、産業基盤整備の準備作業がはじまった。翌五二年に県は企業庁を設置して公営企業の統合をはかり、総合開発計画のための諸調査―「京浜工業地帯総合実態調査」「箱根地域観光行政実態調査」「農村地域実態調査」」「漁業実態調査」「工場適地調査」「電力需給並びに電力施設調査」「相模川総合開発基準調査」など―を開始した。そして一九五三年には鎌倉市が大船地区への工場進出を促進する「鎌倉市企業誘致の奨励措置に関する条例」を制定し、川崎・横浜が臨海部埋立計画の検討を開始するなど、県下市町村にも部分的な対応の動きがはじまる。だが、酒匂川水田地帯への大同毛織の進出が「あたら美田をつぶすもの」と非難を受けたように、食糧増産にいそしむ住民には工業化を警戒し、歓迎しない空気が強く見られた。 とくに、膨大な冷却・洗滌水を用する重化学工業地帯として形成された京浜工業地帯を拡充するためとはいえ、新たなダム水没地探しが歓迎されるはずもなかった。かつて非常時の名において相模湖の湖底に強制的に沈められた勝瀬部落の惨状が住民の脳裏に焼きついていたからである。ところが神奈川県は一九五三年に土地収用法に基づいて、相模湖ダムの下流域十㌖地点の立入調査を開始した(以下、山田操『京浜都市問題史』、『神奈川県企業庁史』参照)。そうした噂が伝えられていた地元では住民が六月十日に「城山ダム建設反対期成同盟連合会」を結成して、県に拒絶の抗議を行った。県域の総合開発に格好な地点であったとはいえ、二百世帯をこえる住民が平和な生活を営んでいる地域を名指しした県の態度は住民の一部から非民主的との憤激を浴びせかけられた。一九五三年から、特需ブームに潤された神奈川県は数少ない黒字県に転じはしたが、住民のダム建設反対抗議でもわかるように、荒廃した県土の治山・治水事業など民生安定のために果たさねばならない仕事が山積みしたままであった。そして、一九五四年に策定された「神奈川県総合計画」が「産業立地の整備と災害の防除」を重点目標にかかげながらも、施策を羅列するにとどまったのは県下市町村に工業化への気運が盛り上がらなかったためだといえよう。しかし、この間に整えられた工場受入体制がものをいう時節が到来する。 川崎市の繁栄 一九五四年から五五年にかけて史上空前の大豊作が食糧難への不安を解き、家電中心の好景気が消費生活への欲求を目覚めさせると、世情は一転して明るいものとなった。そこでは「全国都市のホープ川崎」と題した紹介記事が一九五五年初頭の『神奈川新聞』紙上を飾っており、施設整備を目標とする町村合併が進行する中でにわかに川崎市の財政基盤の豊かさが脚光を浴びるところとなった。すでに市独自の埋立事業を計画し、東京都に分水しうる水道さえもった川崎市の強みは、日本鋼管、昭和電工、味の素などの大規模工場の立地を支える条件を巨費を投じて整備してきていたことにある。これらの重化学工場が川崎に根をおろしえたのは戦前からの国家の財政的庇護によるところが大きかったが、川崎市は戦後ただちに被災地の区画整理を実施して都市再建にのりだし、鉄鋼・造船の育成から家電産業の好況に支えられて繁栄を持続してきていた。地下水の汲み上げすぎが浸水地帯をつくり出し、工場の吐き出す汚水・ばい煙が農作物やノリ養殖に被害を及ぼしていたが、豊かな法人税に支えられた金刺市政は、産業基盤施策や民生にダイナミックな都市経営を展開してきていた。そして、いまや財界・政界の総力をあげた経済自立のための臨海工鉱業地帯重点整備がはじまろうとしていた。工都川崎には躍進と将来が約束されていた。こうした川崎市の躍進がそれまで国際港都再建を夢見、工場誘致をためらってきた横浜市をも勇躍工業立市宣言にふみ切らせていくことになる。 都市再建にのりだす横浜 ところで、米軍により九〇㌫におよぶ港湾施設を接収された横浜市の沈滞には目にあまるものがあった。市心部が戦災によって灰燼に帰したため、復興の見通しもない横浜に見切りをつけた有力貿易商社、横浜正金銀行などが去り、行政サービスの質を切り下げねばならないほど財政事情は悪化の一途をたどっていった。そこで港湾管理権が国から市に移されたのを機に、一九五一年に県・市・商工会議所が中心になって「横浜市復興会議」を設け、国の援助を頼りに復興への手がかりをつかもうとした。しかしそれも政府にたいして米軍占領による経済損失の実態をアピールするにとどまり、国際港という名に甘えず自力で都市再建にのりだすしか手段がないことをあきらかにしたにすぎない。こうして横浜市はわずかに建築助成や高度規制などを軸に高層市街再建への誘導をはじめえたにすぎず、その後長らく「関内牧場」とよばれる空地を市心に放置しつづけることになったのである。 しかし、この間に市財政の一翼を支える鶴見・神奈川の臨海工場群は活況をとりもどしていたから、それを拡張していくために一九五三年には市会が満場一致で大黒町埋立計画を決定した。しかし、いまだ華やかであった国際貿易都市の復活を夢見る横浜市は生糸取引や観光客の繁栄回復を待ちわびていた。一九五五年初頭に打ち上げた「二五〇万大横浜建設構想」は、そうしたためらいを振り切り、工業港湾施設の増強と大規模臨海工業地帯の造成によって新たな活路を切り開くべく踏み出したのであった。 三月十九日にホテル・ニューグランドで各界指導者を網羅した第一回の横浜国際港都建設審議会が開かれ、総合建設計画案の検討を開始した。そして「開国百年祭」 (一九五四年)、「第十回国民体育大会」(一九五五年)などで復興奉祝ムードを盛り上げるのに平行して、遅ればせながら工場誘致をはじめたのである。同年八月に市会は鶴見区大黒町二十万坪の埋立てを決定して、ただちに日東化学などの進出企業に固定資産税三年間免除を条例化した。しかしこの時点では「横浜の埋立てと工場誘致ヒットか三振か」(『神奈川新聞』昭和三十年一月五日付)と皮肉られたように市域への工場誘致にたしかな目算があったわけではない。そうしたなかで有力企業に案内をしたところ、意外に大きな反響と進出意向があったため、あらためて大消費市場を控えた京浜地帯の吸引力が見直されたのである。そこで、横浜市は産業振興課を新設して、港北・戸塚など内陸地帯への電機器具製造業種の誘致をねらった「工場適地の紹介」など積極的な宣伝をはじめた。同年には、軍需産業の凋落でお先真暗になっていた相模原市で平和産業誘致第一号(カルピス)に成功している。最初の民間設備投資ブームによる神武景気の到来であった。 「バラック」が建ちだした県庁付近 『戦後10年のあゆみ』から こうした気運を見てとった横浜市は、一九五六年に工業用水道建設を決定して思い切った産業基盤整備投資にふみ切った。そして同年九月に発表された根岸湾埋立事業計画を、十二月二十一日に市会は「速かに実現すべし」との決議まで付して満場一致で議決し、翌五七年三月には関係漁民との補償交渉に入るなど事態はスムーズに展開していったかに見える。しかし、漁民が漁場の埋立てに応じたのはなにも工場用地造成に同意したからではなかった。桜大線(現在 根岸線)の延長を求める市民の声に譲歩を余儀なくされた感が強いのである。 根岸湾埋立てと漁民の反対 この横浜市の根岸湾埋立事業計画は、折から建設路線として浮上してきた桜木町・大船間の国電延伸計画に貨物輸送を組み込み、国電敷設のための海岸線埋立てを不可欠とするものであった。この計画が発表されると屏風ケ浦漁協をはじめとする漁民は十月二十九日に「神奈川県内湾漁場埋立絶対反対漁民総けっ起大会」を開き、「何が故に善良なる市民である吾々漁業者のみが斯る工業地帯造成の犠牲とならざるを得ないのか、吾々は全く理解に苦しむ処である。要は工業と同じく重要産業である漁業を、市当局は全く軽視しているのではないか」との非難決議を行い、それは磯子漁民のみならず、川崎・生麦から金沢に至る漁民の死活問題にかかわる問題として提起したのである。同日漁民たちは横浜市役所に絶対反対の抗議を行ったが、この漁民の行動は当時武蔵野線とはり合って、桜大線建設決定の最終局面に入っていた国鉄の建設審議会に不利な情勢をつくり出すものであった。十月三十一日付の自由民主党政務調査会交通調査員からの県への報告文書は、桜木町・大船を結ぶルートは四案あり、「沿岸漁民の死活を制してまで桜大線を磯子回りにせねばならないという理屈は立たないようであります。すなわち、磯子の埋立計画と、桜大線とは不可分のものではなく、必ずしも磯子を通らなくても、大船に出られればよい」という審議会内部の空気を伝えている。つまり五七年初頭と目された建設路線決定を目前にしての漁民の反対は、鎌倉・藤沢市にもかかわる国鉄路線を廃案にさせてしまう可能性さえあった。そこで県と市の漁民懐柔の動きがはじまる。十二月二日『神奈川新聞』の社説は「桜大線建設問題は市と市会をあげての猛運動で局面がやや明るくなり、実現の期待も次第に高まってきているが、これを打ち壊すような動きが地元で続けられているのは残念だ」とキャンペーンを張った。そして十二月二十八日に市会側は「国鉄根岸線新設促進実行委員会」を結成して、市民運動として国会議員や中央関係省庁への猛陳情をくりひろげるとともに、二月二十日には横浜公園で市民大会を開き「我等百二十万市民は、速かにこれが建設に着手されんことを希望する」との決議を行うまでに運動を盛り上げた。こうした市民の大合唱にさらされた漁民側は同日「国鉄根岸線の建設については地元漁業者側においても大乗的見地から賛成する」との「約定書」に調印するに至り、桜大線誘致は成功裡に終わった。この約定を交すにあたって、漁民側は埋立てに関して「完全に漁業者側の理解と納得が得られない限り寸土と雖もこの埋立工事に着手しない」という拒否権を留保していた。しかし、一歩譲ってしまった以上埋立て同意へ押し流されていくことをくいとめることはできなかった。このころには「東京湾の沿岸漁業は各地の工場建設によって不純物の流出が多くなり、年ごとに減産しつつあるが、こんご漁業でどれだけ生計を保てるかは疑問だ」(前掲社説)と転業を勧める声が多数市民の声、そして国民の声となりつつあったのである。 盛り上がる工業化熱 こうしてまたたく間に工場誘致は市是へ転じていった。しかも京浜地帯への民間設備投資意欲は急激に高まっており、臨海工場用地を造成する自治体側に進出工場を選択編成するイニシアティブも移りつつあった。一九五七(昭和三十二)年二月に発表された『川崎臨海工業地帯造成事業経済調査報告書』に「序文」を寄せた県専門委員鮫島茂はその方向づけを、こう述べている。基幹業種のうち「土地単位当り生産力の低いもの」「生産力に比し水電力の消費の激しいもの」「他に迷惑の大きなもの」などを避け、地域に高税収をもたらし、「他の産業との関連が多くて広いもの」が望ましい、と。こうして石油化学コンビナートが切り札として浮上したわけであり、石油精製基地、火力発電所、石油化学工場を中核とする工場群が川崎市営千鳥町、県営大師河原地先、横浜市営本牧根岸地区に立地していくことになった。「県政発展へ打出の小ヅチ」(『神奈川新聞』昭和三十三年一月十七日付)と大きな期待が寄せられたように、日本の代表的企業を安価な石油を中心に編成した新鋭工場地帯は将来に豊かな財政収入を約束するだけでなく、ばい煙に悩む町に青空を取りもどすと信じられたのである。そして来るべき三万トンタンカー時代に備えて、一九五八年には京浜運河の浚渫拡幅が扇島埋立事業と組み合わされて着工された。東京湾の諸都市には急に希望とバイタリティがみなぎり、久里浜に建設中の東洋一の火力発電所建設には「自然に挑む機械力、山をけずり海を埋める」(『神奈川新聞』昭和三十三年五月十五日付)と礼賛していた。また、旧軍需施設のストックに恵まれた相模原市、横須賀市、平塚市などにも、大規模工場の進出が決定していった。 こうして、ためらう住民を押し切りながら、財政基盤の強化をめざす市町村は工場誘致条例を制定して、産業道路、港湾、工場用地造成などに財源を投入しはじめたのであった。当然のなりゆきとして、労働力を吸収しはじめた都市地域では、そのしわよせを受けた住民の生活および環境に目減りが生じる。工業生産力拡充という工業化のもとで県下では都市化が進行しはじめる。 二 都市化のなりゆき 貧しい住宅事情 工業生産中心の経済成長期に突入した県下では急激な都市地域の拡大がはじまった。一九五五(昭和三十)年に三百万人を突破した県人口は五七年ごろから他県からの労働力の移入を中心とする急増を開始した。だが計画的な生活関連施設の整備を行わない、集住地域の生活環境はみじめな状態のままであった。ようやく衣食面にゆとりが見えはじめたのに比べて住宅事情は一向に改善される様子がなかった。いまだ、被災地には仮小屋として建てられた木造バラック群が軒を並べ、横浜市では運河に浮かべた小船に生活する家族も少なくはなかった。五五年の国勢調査とともに行われた県の「住宅事情調査」は、この劣悪な住宅環境の改善が解決されるべき緊急の課題として浮かび上がっていたことを示している。 同調査によれば、一人あたりの畳数は平均して三畳であり、二・五畳以下の過密狭小な住宅が全体の四分の一をしめている。六畳間に二人以上が生活するという劣悪な事情はとくに借家、間借りに集中しており、製造業従事者にその傾向がめだつ反面、大企業の社宅はかなり好条件にあった。ようやく戦後の住宅不足の時代もすぎ、人びとは自力で小さな持ち家を建てはじめていたが、町工場や商店の勤め人は、アパートや間借りから脱することができないまま都心に居住していた。もちろん今後に予想される都市部の人口増はさらに住宅事情の低下をもたらすと考えられたから、大規模な公営住宅の建設を望む声は強かった。ヨーロッパの国ぐにでは住宅政策を優先した都市の再建を進めていたから、こう考えるのは順当である。しかし同調査が住宅困窮世帯に言及して「早くこの生活から脱け出すことが出来るよう住宅の建築を望むものである」と結んでいるように、住宅事情改善に公の手をさしのべる意向は乏しかった。 この時期に工業基盤整備にのりだした政府は公庫融資による「持ち家政策」と中所得者層のための住宅公団設立に転じ、それ以後はささやかな福祉住宅建設をつづけただけであった。低所得者層はこのため、たとえば四畳半一間に六人家族が寝起き逗子市桜山の住宅 『かながわ』から し、赤ん坊が窒息死するといった悲惨な事件がしばしば起こった。そして公営住宅の入居募集にはつねに二、三十倍の申し込みが殺到したから、安い県営住宅の家賃には怨嗟の声が上がった。こうして住宅建設戸数だけは年々上昇の一途をたどったが、成長期に絶えず流入する新規労働力が都市の劣悪な住宅事情の底辺を形づくりつづけたのであった。 放置される都市生活環境 こうした住宅事情の悪さに輪をかけたのが住居をとりまく環境の悪さであった。工場の昼夜を分かたぬ操業がばい煙・騒音・汚水で町をとり巻き、陽のささない空、泳ぐこともできない川、夜も安眠できない住まいの問題をひきおこしていた。また、農村への還元や山林での処分が困難になったし尿や塵芥の処理体制も整わず、しばしば伝染病やカ・ハエ・ネズミの蔓延などの衛生問題をひきおこす。沖合への運搬費用を節約して三浦半島沖で投棄されたし尿があたり一面を黄金の海と化し、各地から視察の議員が押しかけたりした。また絶えず人口が増大する都市では犯罪が横行し、治安状態の悪さが住民に不安感を与えた。このため町内会・部落会が組織できるようになった一九五二年以降、住民は防犯灯設置など自衛のために自治会づくりをはじめざるをえなくなった。これら住民組織については有力者の力の支配と行政末端組織化の側面が民主化への逆行として問題になったが、治安や衛生の悪さが住民に結束の必要性をつねに自覚させたことを見落としてはならないであろう。しかも、たえず市街地が郊外に「水上ホテル」といわれたダルマ船の住宅 岩波写真文庫『横浜』から 広がっていくために、ただでさえ不足がちな施設整備・サービスは低下しつづけ、全体として住居をとりまく環境は悪化の一途をたどったのである。 それに加えて、農村地帯や他県から労働力を調達しながら工業化をすすめたために、都市から文化的な落ちつきが失われていった。急速に増大した工場労働者のための娯楽、商店、飲食街などが盛り場を形成し、とくに青少年にとって好ましくない状態がどこにでも見られるようになった。麻薬や売春は表むき徐々に姿を消しつつあったが、財政不如意を理由に各市が歓迎した競輪などからの収入は、学校施設の改善に欠かせない財源として一部市民の批判をうけながらも繁栄しつづけたのであった。こうしたすさんだ都市環境が心配されたのはとくに少年非行など青少年問題の観点からである。 神奈川県では一九五七年になると他県からの転入者が増大するが、オートメ化の進んだ大工場のために、北海道、福島、新潟などから中卒の若年労働者が大量に迎え入れられた。これら金の卵とよばれた少年少女たちを非行の道に走らせないためにも、誘惑の多い環境から隔離する必要があった。県の青少年問題対策は一九五五年に青少年保護育成条例を制定し、深夜喫茶への立入禁止、有害図書・映画の規制、などの方向をとり、米映画「暴力教室」の入場禁止などを行った。しかし、規制的対策には非難の声が強かったため、一九五三年には青少年センターの建設準備をはじめたほか、民間団体による福祉施設づくりなどがすすめられるようになる。県立近代美術館(一九五二年)、県立音楽堂・図書館(一九五四年)など県内には優れた文化施設もつくられていたが、成長期の都市環境悪化は財政力強化のための過渡的な必要悪と見なされ、貧しい生活環境に屈しない、国民としての心がけが強調されがちであった。 首都圏のベッドタウン化 好況の持続が所得と消費生活の向上をもたらすのに反比例して、悪化する環境が郊外への住民の脱出という流れをつくり出した。しかし、それだけのことであったならば、工業化の進行に合わせて、それなりに計画的な都市づくりも可能であったかもしれない。神奈川県、とくに東部地域にとって不運であったのは、高度成長とともに首都東京の膨張がはじまり、攪乱要因をなしたことである。農工のバランスのとれた地域発展をはかろうとした県政の誤算は、この点にもあった。 さきに横浜市が一九五五年四月に「二五〇万大横浜構想」を掲げて建設計画策定を開始したことを述べたが、その構想に水をさしたのが六月に首都建設委員会の発表した「首都圏の構想」であった。すなわち、この時点でもはや東京都の枠で整備計画がたてられなくなるほど人口増が見込まれたために首都圏という枠組が新たに設定されたのである。首都に集中した人口と工業を適正配置しようとする新プランは、東京駅を中心に半径五十㌖の圏域を想定して近郊緑地帯(グリーンベルト)を置き、内部の計画的市街化をすすめるとともに、その外側に衛星都市=市街地開発地区を配置しようとするものであった。翌年四月には「首都圏整備法」が成立して、内山知事も国家的立場から「それが首都圏全体の秩序ある発展に寄与するものであり、かつまた地方の繁栄につながるものならば、全面的協力を惜しむものでない」(『国土』三六号)と賛意を表明した。しかしそれが実際に「地方の繁栄」を阻害する面をもっていたために近隣自治体は賛否両論が入り乱れ、結局委員会の地域指定を断念に追い込むことになる。というのは、横浜や川崎などグリーンベルト地帯にかかわる都市では、工場の新増設が阻まれるばかりでなく、住宅用地に想定した農地・山林の開発が不能になり、独立の都市づくりがズタズタにされてしまうからである。こうして「工場等制限地域」適用への必死の反対運動がはじまったほか、周辺農地・山林のグリーンベルト指定解除の動きが活発化した。 これに対してそれまで思うような工場誘致もできなかった周辺諸都市は、いっせいに市街地開発地域の指定をめざして準備と働きかけをはじめた。そして一九五六年七月に寒川町のイニシアティブで藤沢・茅ケ崎が「湘南市構想」を打ち上げたのにはじまり、横須賀、三浦、湘南、平塚、相模原の五区域二十三市町村が次つぎに指定に立候補したのであった。これら「地方の繁栄」をなし遂げようとする市町村のなかから、一九五八年に相模原市が開発地域指定を受けたが、首都圏委員会の活動そのものは立往生してしまった。こうした経緯を経て横浜市は五七年二月道路計画中心の「国際港都建設計画」を策定し終えたが、そこには同計画が首都圏法の精神と矛盾しないことを説明していた。だが問題は、首都圏の計画整備が頓座したことより、その構想の公表が近郊農地に宅地転用の火をつけてしまったことであった。 近郊農業の変化 なによりも動かし難い現実は今や東京におさまり切れなくなった首都圏勤務者たちが住宅を求めて県下に押し出されてきたことであり、それに合わせて田園都市線、小田急電鉄、京浜急行、相模鉄道、横浜線、根岸線などの鉄道が延長と複線化を進めはじめたことであった。それら予定路線の沿線では将来の宅地化をあてこんだ農地の買収がはじまった。また首都圏グリーンベルト指定が予定された地域では農地転用の凍結を恐れた地主たちの既成市街地指定の運動がはじまった。もちろん横浜や川崎では臨海部から「持ち家」を求めて脱出しようとする意欲が強まりつつあったから、不動産業者の暗躍するところとなり、小規模の農地・山林が次つぎに売り出されることになったのである。首都東京そして県下の工業化をすすめる都市から発した宅地需要は、市街地と農地との計画的整備構想などおかまいなしに近郊農地の地価田んぼのまわりにできた団地(横浜市) 『神奈川県農協の30年』から を騰貴させていった。しかも、高騰した交通至便地の地価はたちまち勤労者の所得に見合うものではなくなったから、地価の低い交通不便地にも住宅が進出しはじめた。こうして一九五五年ごろから都市近郊の農地に宅地ブームの波が押しよせ、急速に虫食い状に市街地の拡大がすすみはじめたのであった。このことは都市の側からすれば市街化にともなう道路、下水道、学校、公園など施設整備を絶望的にするものであったし、農村の側からすれば営農環境の破壊にほかならない。宅地に囲まれてしまえば「犬や子供が直接農作物を荒したり、ガラスの破片等が耕地に投げこまれること、有毒薬剤や人糞尿の如き肥料の散布が自由にできなくなること、水田の灌排水が不良となり水田が汚水のたまり場となる場合も少なくないこと、物騒となり留守番が必要となること」(『農地転用に関する調査』一九五九年)が起こり、農業をつづけることは困難になる。そこで、こうした離農ケースを含めて都市化に対して農地を防衛するという新たな課題が県政に課されたのであった。 土地利用の混乱と水不足 一九五七(昭和三十二)年に入ると、予測を上回る工場立地の展開と、農地潰廃の進行に県当局は、はじめて高度成長の現実に対応した地域経済の長期の方向づけを模索しはじめる。なによりもそれは「本県は、人口の増加、産業規模の拡大において、年々著しい膨張発展を示しつつ、典型的な先進地域としての性格を、より一層強化せしむべき方向にある。……しかし、現在までのところ、土地利用、水資源利用に関する長期的な計画は樹立されておらず、現在、既に摩擦を生じつつある諸問題に対しても調整の基準が与えられていない」(『土地及び水資源に関する総合計画』)という危機感に発するものであった。したがって農地の転用や水需要の増加が消費性向の高まりに応じて激しさを増しつつあることに対して、それを工業適正配置の角度からコントロールしよう、というのがねらいとするところであった。そこでまず一九六五年にはひっ迫すると予測された水不足を打開すべく、県当局は一九五八年二月県会に城山ダム建設を含む「相模川第二次河水統制基本計画」を提出した。 内山知事はその提案説明にあたって工業用水確保に力点をおいてこう述べた。「逐年発展の一途をたどる京浜工業地帯への工業用水供給並びに累増する都市給水の水源は、このまま放置すれば、近い将来におきまして著しい不足を生ずることになり、本県産業の発展並びに県民の生活に重大なる支障を与えることは明らかなことであります」(『県議会録』)と。すでに数年来、ダム建設のキャンペーンがくりひろげられていたから、工業化は水没住民を容易に補償交渉に応じさせ得るかに見えた。住民たちは計画発表とともに反対運動をはじめたが、元県議のリーダー角田福蔵が「ただなんでも反対しようというのではない。問題は補償だ。もう少し誠意のあるところを示してほしい」(『神奈川新聞』昭和三十三年二月十四日付)と述べたように、すべての住民が頭から水没地提供を拒んだわけではなかった。だが、相模湖ダム建設時の県当局の態度への不信は、金銭による補償では足りないとする青壮年層の団結を生み、荒川・小綱・不津倉部落を中心にダム建設絶対反対の動きを再燃させた。住民たちは、県議会による計画承認が固いと見ると、三月二十八日に三井小学校で「城山ダム反対総決起大会」を開き、「地元を無視した計画を葬れ」などのスローガンを掲げて、改めて六月十日に「城山ダム建設反対期成同盟連合会」を結成する。沿岸漁業、近郊農地などを破壊しながら推進される京浜地帯の工業振興策が、それに犠牲を強いられてきた山村の積年の憤りを燃え上がらせたのである。この夏、県下は相模湖が干上がるほどの水不足に襲われて、水キキン打開の声は盛り上がったが、補償交渉を拒む住民を前に県当局は交渉の糸口すら見出すことはできなかった。 この間、県下では農業人口の減少と製造業人口の急増が顕著になり、五月の衆院選では、革新七・保守六の逆転が生じていた。そして、都市勤労所得の上昇がますます人びとを都市生活へ魅きつけるようになった。とはいえ、川崎から横浜にかけて進められる臨海工業用地造成で補償金を手にした漁民たちは簡単に転業したわけではない。彼らの多くはノリ養殖場を汚水の漂う十㍍の海中に移して沿岸漁業の再生をはかっていた。産業の高度化をはかろうとした県当局の工業都市優先に対して住民の不満は小さくはなかったのである。こうした視点から一九五九年三月九日に県に提出された「城山ダム築造について」と題する城山ダム反対同盟の五点にわたる公開質問状は、「五百余年にわたる歴史と郷土に対する愛着」が絶対に補償不可能であると断じ、県当局が「時代の推移と社会の公共性」をふりかざすことを厳しく批判していた。とくに、それまで横浜市営水道や県の発送電施設等に「私達は国家的要望に応えて快よく協力もし実現のための支援も惜しまなかったが、その資源、山河の幸を得るときは常道として地元津久井に辞を低くして現われ、必要のないときの県の後進地津久井に対する効果的且温情的施策が果たしてなされたであろうか」との問いかけは、大企業立地にまい進してきた県行政の政策を問題とするものであったといってよいであろう。だがともかく沈黙を解いた住民側が、徹底して条件に応ずるならば、水没補償交渉に応じてもよいという歩みよりを示したことは確かであった。墳墓の地を失うにたる補償とはいかなるものであるのか―この問題が交渉の机上にのぼるにはまだ日時を要する状勢が依然としてつづいていた。 三 都市化社会と県政 定着した近代化の趨勢 一九五九(昭和三十四)年に県の工業生産額の伸びは、全国一に躍り出、岩戸景気を背景に京浜工業地帯に集中投下された設備投資は、工業県神奈川の将来を不動のものとした。しかし都市勤労所得の高さが、テレビ、電気洗濯機の普及など消費生活を発展させた一方で、公害、住宅不足、農地潰廃、水不足なども深刻になった。あいかわらず住宅困窮世帯は一四㌫を記録していたし、七四㌫に達した水道普及率は水使用量を激増させた。そして、こうした工業化・都市化の趨勢のもとで策定された「土地及び水資源に関する総合計画」(一九五九年四月)は、工業配置構想のみを具体化したにすぎず、農業についてはなんのビジョンも示しえなかった。農業人口についていえばいまだ一〇㌫台を保っていたが、所得動機に基づく兼業化がめだち、営農環境は崩壊しつつあった。県下はすでにあげて都市化社会の方向に雪崩れを打って進みつつあり、華やかな都市生活と便利さが近代化という言葉で住民をかり立てはじめていた。 たしかに都市を一歩離れれば、郡部には田園風景と緑あふれる山やまがあった。井戸水に頼り、電気もない生活を営んでいる人びとさえいた。しかし一九六〇年に高等学校進学率は六五㌫に達し、中高卒の農業従事希望者は七百八十五名と、五年前の三分の一に激減してしまっていた。若者たちの都会志向と地元離れは農家に後継者難という事態をつきつけつつあり、農業そのものを捨てないまでも、地元振興の決め手に工場誘致を望む空気が強くなっていった。五九年にソニー株式会社、寿化成株式会社など有力企業の誘致に成功した厚木市を中心とする県央地帯にその気運が強かった(『厚木市躍進の十年と現勢』)。大岡昇平の小説『事件』はこの時期の高座郡を舞台に、郡市化へむかって浮き足だつ住民の葛藤を描いたものである。だが「前近代」からの脱出を誘う都市生活でも生活環境の悪化がめだちはじめていたばかりか、団地生活に象徴される生活の人間疎外が問題となりつつあった。そして、一九六〇年ごろから、県下では石油中心の産業構造へと移り変わるにつれ、工業都市の枠を打ち破るダイナミックな都市の変貌が進行しはじめるのである。 モータリゼーションの進行 そのひとつの柱が、都市の利便性を増大すべく交通手段に大量の自動車を導入したことであった。鉄道による乗客・貨物輸送がそれまでの県下の工業化・都市化を支えてきたが、一九六〇年代に入ると混雑が慢性化するようになった。それにかわって急速に台頭したのが安価な石油を燃料とするトラック輸送である。五七年の六百八十六万トン(二五・二㌫)から六〇年の二千三百三万トン(四二・六㌫)に飛躍的に増大した自動車貨物輸送は、今後の地域繁栄が道路整備に依存することを示していた。こうした事態を予測して一九五七年ごろから建設省指導のもとに策定された各市の都市計画は、幹線道路整備にもっぱら主力を注いでいた。そして多くの都市で区画整理がほどこされ、庭や人家を削って広幅員の道路がつくり出されてきていた。それに一九六〇年ごろからは小型乗用車の普及も加わって、急に自動車交通が増大し道路を埋めるようになると、交通事故をはじめとするさまざまな弊害が都市に充満するようになる。それまで街路樹帯で分けられた自転車専用道路をもっていた第二京浜国道では、すべての路面が自動車専用車線に供されてしまった。また渋滞をおこしはじめた市内の道路では市街電車が邪魔にされるようになり、一九六三年七月には横浜市商工会議所が市に市電撤去の要望書を提出するに至る。自動車道路が都市の内部を横ぎりコミニティを分断しはじめるのである。しかし、泥んこ道から解放され、交通が便利になることを要望する住民の声が、そうしたマイナス面を圧倒して巨大な声になりつつあった。そしてまた道路網の整備の進行こそ、それまで港湾・鉄道を離れようとしなかった工場群を内陸に進出させ、開発を待ち望む農村地帯を具体的な工場誘致に走らせる原動力になったのである。初の小型乗用車一貫生産をめざす日産追浜、藤沢いすずなど自動車工場の県内立地は、こうした変化を象徴するものであった。そして利便性を軸とする再編成がはじまった都市では消費生活の高度化が動因となって、それを充たす施設が旧来の都市の形を変えていった。 消費社会と都市の変貌 東京を中心とする放射状の交通体系の整備が進行するにつれ、県下ではベッドタウン化がすすんだが、それとともに、高度化する消費性向を県内だけでは充足できなくなっていった。こうした趨勢を先取した相模鉄道は、それまで葦の生えた砂利置場横浜駅西側(現在の西口)のターミナル化を進め、一九五七(昭和三十二)年には、地元業界の危惧・反対を押し切って東京高島屋の進出をはかった。この予想は的中し、五九年十月一日の横浜高島屋の開店には早朝から押し寄せた客が長い列をつくり、そのために西口の乗降客は平日の二倍半の二十数万をかぞえた。この東京の高級イメージを売物にする本格的デパートの進出は「東京に流れる客、ハマに引きもどす」(『神奈川新聞』昭和三十四年九月二十三日付)と報じられたように、年間百二十億円にのぼる購買力を流出させてしまう県下商業の沈滞とかかわるものであった。せっかく工場を誘致しても住民がその所得を地元に落とさないという事態については各都市が「愛市運動」としてしばしばキャンペーンをくりひろげたところであり、東京のデパートめぐりを企画した横浜市交通局が非難を浴びたこともあった。しかし悪化する住宅事情や生活環境を償うかのように消費生活のうずになだれこみはじめた都市生活者の行動は、「愛市運動」などではひきもどしえなかった。こうした消費行動の変化に対していち早く対応したのは川崎であり、一九五八年には国鉄川崎駅を高層ビル化して東京の有名商店を進出させたが、その際にも旧商店街との間に紛争が起こった。五七年の横浜駅西口をターミナル化して東京の有名デパートを進出させようとする相模鉄道の計画には、伊勢佐木町商店街などが「高島屋進出反対同盟」を結成して旧市街地の存亡にかかわる問題にまで発展した。しかしその後の横浜駅西口が巨大な商業集積へ成長しつづけたように、旧住民層と結びついた旧商店街とは別に、鉄道駅が新たな都市の中心を形づくりはじめていたのであった。一九五九年中には小田原・鎌倉駅前に西武系デパート、小田原駅前に東急系デパートが開店している。いまや県下の諸都市は中央資本をテコに東京=大都市イメージを追い、しだいに個性を失いつつあるかに見えた。 そして、急速な行動圏の拡大や消費の高度化に対応して、電力・水の供給施設についていえば、そこに都市の新たな不安が生じていた。「火主水従」への転換によって次つぎに東京湾岸に建設された火力発電所群は、供給面での不安をほとんど解消していたが、しだいに大気汚染源として不安の目を注がれるようになってきていた。これに対して、水資源は地下水脈破壊や生活用水拡大によって一九六〇年には三年後に涸渇することが予測されるに至っていた。そして、こうした都市の水危機が城山ダムの建設実施という最終局面を迎えさせたのであった。 水資源のゆきづまりと水没住民 一九六〇(昭和三十五)年十月に内山知事は横浜・川崎・横須賀の三市長をともなって現地を訪れた。この時、目的は工業用水確保から都市の上水難打開に焦点を移し、横浜市の寒川取水ダムを含めた「相模川総合開発事業」に変貌していた。しかしこうした危機を目前に控えたにしては、内山知事の「私のもっとも意外とするところは、さきに相模湖を完成しましたが、その下流に、私の生きている間にまた湖をつくらなければ水が不足するとは夢にも思っていなかったということです。川崎の埋立や、根岸湾の埋立や、また県内の各所に日本の大工場が入ってくることは本県の発展上まことに結構なことですが、これまたうれしい悲鳴で、こういうことも時勢の流れでいたしかたありません」(『企業庁史』)との説得は、水没を迫られる二百余世帯にはかかわりのないことであった。たとえ県当局が説得に失敗しても、国家が強制的に土地収用を行うから、県の提示する有利な条件を呑むことを強いるような態度がうかがわれた。これに対して、この会合をボイコットした「城山ダム建設反対同盟」が翌六一年二月二十八日に提出した「水没被害基本要綱」は、「移転後の水没者の生活の一助として相模川総合開発事業(公企業)に水没者を恒久的に参加させる」という要求を掲げ、公益事業にすぎないダム築造の利益配当への権利を主張していた。この公企業への参加要求を財産補償にとどめようとする県当局は最後まで拒み通したが、この時点で工業化・都市化の県是は住民を納得させないままにしていたといわねばならない。全国的に例を見ない補償額、移転地の確保を積み重ねて一九六二年二月十五日にダム建設工事は起工した。しかし、それは交渉に応じない不津倉部落二十七世帯をのこしての見切り発車となった。工場と都市住民の増大を抑制し節水を強いるより、少数山村住民をとりのこすことが選択されたのである。こうして計画以来十年で、ダム建設は緒についたが、おそるべき水資源のひっ迫は、県下の工業化・都市化がまったく予想外の展開をたどったことを示していた。 福祉優先を求める市町村と資源保護の課題 こうしてすでに県内の資源バランスは適正開発をこえ、一部住民に過度の負担を強いるようになっていたといわねばならない。治山治水事業の進捗よりも工業化・都市化を優先させたことは、相模川・中津川などの砂利乱掘問題をひきおこしていたが、建設業者の強い反対に会った県当局は有効な手だてをうてないままに経過してきた。そして一九六三年八月にようやく砂利採取全面禁止の方針を出すことになるが、この間に河床は平均五㍍も低下し橋りょう、寒川ダム取水口などを損壊の危機にさらすに至っていた(『相模川の砂利』)。そしてその復旧のために県が投じた費用は七億円をこえるものになった。ところがこうした河川保護措置がとられるようになったころから、宅地開発の放任が都市水害をひきおこしはじめている。一九六一年の集中豪雨は県内中小河川をまたたくまに氾濫させ、死者五十七人、床上浸水約一万戸の被害を出した。この予測をこえた河水増水は宅地化による保水力の減少と判断された。そしてこの治山治水の手ぬかりは、県がともあれ開発規制にのり出し、県土を一体とした資源保全を優先すべきことを告げていた。 ところで、ようやく政府が過密地域の抑制を打ち出した一九六二年の「全国総合開発計画」は県域の資源バランスを無視して、京浜地帯を含む城山ダムの上方は城山町,下方は津久井町,点線内が水没予定部分 神奈川新聞社蔵 首都圏大都市地域と、その分散人口・工業を受け入れる外縁部という地域わけを行った。そこで同年三月に県議会は「本県の総合開発に関する意見書」を知事に提出し、外縁部にあたる県央・県西地域が分散される工業の受け皿になりうる体制を整えることを迫った。「最近における開発の実情に即して適正なる産業地域の再指定をなし、各市町村が渋滞なく開発を行えるようにすること」と。すでに東名高速道路、東海道新幹線など新たな高速輸送機関は既成市街地を避けて計画されつつあったが、それを軸に県央・県西の市町村を遍く開発し、財政基盤を充実することが求められたのである。かつて京浜工業地帯の拡充が県域全体の発展につながると述べた県総合開発審議会も、六三年には「埋立工業地帯、城ケ島大橋、あるいは諸々の会館や文化施設等。その賑やかさに比べて、県央、県北に入ると、あまりに対照的な状景が展開されている」(『第三次産業構造の基本問題』)と、地域格差の拡大に困惑の表情を隠さなかった。すでに市町村経営の力点は財政力に見合った施設整備に甘んじることを拒み、住民福祉の水準を満足させるに足る工場誘致を求めるに至っていた。地元離れをした子弟をよびもどすためにも地方都市を魅力的に変貌させることが必要であった。こうして、国家資金の充分な投入をうることなしに工場誘致をすすめることの無謀さを危倶する県当局をよそに、県下市町村は工場誘致に走りはじめていた。 一方、過密地域に指定され工場等の新増設が検討されはじめた横浜、川崎でも進出大工場をめぐる誤算に悩まされはじめていた。ばい煙公害を一掃するものと期待された石油コンビナートが、はじめて川崎臨海部に姿を現わしたのは一九六〇年十二月のことであったが、ほどなく市民は、そこから吐き出される大量の亜硫酸ガスが目に見えぬまま健康を蝕むものであることを知らされた。しかもこれから工場群が姿を現わそうとする横浜市と異なり、川崎市では六一年をピークに法人税収が頭打ちの状態に達してしまっていた。すなわち、かつての新鋭大規模工場もスケールメリットを求めて地方へ進出していく新鋭工場に立ちうちできず収益の鈍化を示しはじめたのである。こうして市民の間に工業立市への疑問が漂いはじめる一方で、教育施設や生活環境の貧しさが不当に住民に転嫁されているとの問題提示もはじまった。そのイニシアティブをとったのは六〇年安保の大衆運動に力を得た労働者たちであり、彼らは各種の福祉要求を掲げて住民の組織化をすすめていった。そして六三年四月の第五回統一地方選挙では「中央直結」をスローガンとする保守勢力に対抗して、「地域民主主義」を掲げた市政が横浜市に誕生する。こうして大都市地域では産業基盤投資が強いた耐乏から脱け出し、開発の弊害から住民の福祉を防衛する市政への転換がはじまった(横浜市政調査会『一六〇万人の市政』)。 第三次総合計画の策定へ 高度成長期に突入した神奈川県では一九五五年から七年の間に百万人の人口増加を見、一九六三年には四百万人をこえるに至った。その間に県民所得は著しく豊かになったが、産業構造の変動にともなう所得格差・地域格差の激化が県域に重層した矛盾をつくり出していた。そしてそれは工業化中心の地域開発構想のゆきづまりにほかならなかった。同年五月に発表された第三次の『産業構造の基本問題』は困惑した口調で「地域経済は、さまざまな角度からその自主性が攪乱され、日本経済の高度成長と地域の安定とは必ずしも一致せず、重工業地帯の躍進と県民生活の向上とはしばしば対立することになる」(はしがき)と誤算を公けに認めた。すなわち、県イニシアティブで進められてきた資源総合開発は、工業力の独走を確認することで終止符を打ち「その皺寄せや負の面が指摘され、その調整のための方途」を総合的に追求することを余儀なくされたのである。こうして神奈川県は同年十月から住民福祉をあずかる市町村を主体に、「すみよい県土」を目標とする第三次総合計画の策定に転じていった。そしてようやく果たした国際社会への復帰を象徴する、晴れやかな「東京オリンピック」(一九六四年)を目前にした県下に、以前にも増して激しい宅地開発の波が押しよせ、産業間・地域間の人口移動も一段と激しい動きをはじめる。 第三節 平和運動と基地反対闘争 一 平和運動の展開 ストックホルム・アピール 「神奈川県に於ける平和運動は一九四九(昭和二十四)年九月十七日鎌倉における平和大会に端を発する」(神奈川県平和擁護委員会準備会『平和投票デー報告書』)。 東西両陣営間の〝冷戦〟が強まりゆくさなか、日本がその一方の陣営にくみし、「平和の維持が困難になっていく」ことへの危惧から、この日、鎌倉で川端康成、小牧近江らを中心に、東京からの参会者を交えて平和大会が開催された。前年来の世界各地における分裂国家の樹立や同年の中国国共和平会談の決裂という事態のもと、〝戦争〟はこのとき多くの人びとにとり、さし迫った現実の恐怖であった。聴衆は県下全域から集まり、川端康成起草の「平和宣言」は満場の拍手を浴びて可決され、諸外国へも紹介された。この鎌倉での平和大会ののち、安部能成ら平和問題談話会に集まる学者・文化人が、おりからの片面講和への動きに対して全面講和と中立を要求し、いかなる国への軍事基地貸与にも反対する声明を発表すると、その声明を支持する湘南地域の学者・文化人は湘南平和談話会を作り、全県民にむかい「平和運動の促進」を呼びかけた。 ほぼ時を同じくして、世界平和擁護大会委員会が、核兵器使用の危険に際し、原爆反対の署名運動を全世界の人びとに提唱した。ストックホルム・アピールの運動とよばれるのがそれであり、核兵器の禁止と国際管理を要求し、最初にそれを使用する政府を戦争犯罪人とみなすというのがその内容であった。ストックホルム・アピールへの署名(平和投票)は全国でくりひろげられ、神奈川では一九五〇年四月から街頭や職場での行動が活発化した。神奈川メーデーもこれにとりくむことを決議し、十月末までに県下の平和投票数は二十六万二千八百四に達した。中心となって署名を集めたのは県労会議系(旧神奈川産別系)の労働組合や民主団体に参加する人びとであったが、とりわけおりからの朝鮮戦争開始という事態のもと、朝鮮女性同盟や朝鮮団体協議会など在日朝鮮人団体の県内組織に集まる人びとの活躍はめざましかった。 一方には〝平和投票を行っているのはアカだ〟という宣伝がなされるなかで、人びとの間に「平和は賛成だがこの運動にはかかわりあいたくない」との雰囲気も少なからず存在していた。しかし朝鮮戦争の開始により核兵器使用の危険が現実化するに伴い、戦時の悲惨な体験が人びとの心のなかによみがえった。横浜市金沢区のPTA会長の「むごい原爆は人道上許せない」「あらゆる政治的、宗教的一さいをこえて平和戦線を拡げよう」という発言のなかに、この署名運動の立脚点が示されていた。秦野周辺地域では町長や村会議長が率先して署名を行い、キリスト教青年会は街頭での活動を始めだした。県内各地域にこの運動を通じて平和懇談会などの組織が作られ、八月に湘南平和談話会の提唱で県平和擁護委員会準備会が結成されていく。ストックホルム・アピール署名運動の進展は、ドッジ攻勢以来おし込められ停滞を余儀なくされていた社会運動が、こののち活性化神奈川県平和擁護委員会準備会『ニュース』 県史編集室蔵 していくための一つの前提を作ることになる。 全面講和要求運動 講和問題が具体的な日程にのぼった一九五〇年の末から、産別会議系の労働組合にかわりその組織を整備拡充してきた民同系の労働組合の間で、アメリカを中心とする一陣営のみとの片面講和か、それとも全面講和かの、講和論争が活発に展開された。講和のあり方は、戦後日本の国家的性格を方向づけるものであったから、労働者ひとりひとりにとって講和をめぐる論争は真剣かつ深刻であった。朝鮮戦争開始直後に産別および総同盟内の民主化運動とGHQの反共的労働政策とが結合して設立された総評=日本労働組合総評議会は、一九五一年の第二回大会で全面講和・中立・軍事基地反対・再軍備反対の「平和四原則」を採択し、全面講和の実現により日本の平和を守り独立を達成するという方針を掲げて、当時、「ニワトリからアヒルへ」転換したと称された。県下では総評系労組の地方組織としての地評=神奈川県地方労働組合評議会が、五一年五月に総同盟県連内の多数の労組を中心にして結成され、全面講和を要求する運動は、地評系の労組・団体と県労会議系のそれとが、それぞれ独自にとりくむ形で進められた。 まず地評系の動きをみると、地評は宗教団体などとともに「非武装・日本国憲法を守る日本平和推進会議と提携し、神奈川県地方の平和勢力を総結集し、人類の良心に訴え、平和と独立の基本条件の実施を期するを目的」に、全面講和実現・接収地の解除促進を主なスローガンとする神奈川県平和推進県民会議を結成して行動を開始した。平和推進県民会議は、九月一日に横浜で神奈川県平和推進総決起集会を開催、そこでは「原爆の悲劇を想う時、我々は平和の世界を建設しなければならない」「共存共栄の見地からみても、アジアを離れた日本は考えられない。アジア諸国民と和合し、世界各国と融合して、道義国家、平和国家、文化国家を建設しよう」など、日本の、そして世界の平和のために「全面講和の実現を期そう」という発言が参加者によって行われていた。 一方県労会議と県平和擁護委員会は、五一年六月から共同で平和月間を設定し、全面講和を要求する署名運動を、五大国間の平和協定締結をめざすベルリン・アピールへの署名活動と併せてとりくんだ。全面講和を要求する運動が事実上分裂して進められていることに対し、県労会議に集まる労働組合の中には平和推進県民会議への加入を申し入れた単組や支部もあった。しかし県民会議側は「極右、極左勢力の排除」という立場からその加入を拒絶し、全面講和要求の声は一つになってまとまることはできなかった。 水爆マグロと死の灰 ストックホルム・アピールへの署名や全面講和要求運動が比較的小規模なものにとどまらざるをえなかったのに対して、一九五四年三月に焼津の漁船第五福龍丸がビキニでアメリカの水爆実験により被爆したことに端を発する「原水爆禁止運動」は、平和運動として、文字通り県下全域、全県民をまきこむ大運動へと発展した。 第五福龍丸の被爆が明らかになった直後、三崎の魚市場はその入札をいったん全面的に中止した。第五福龍丸と同様にアメリカの水爆実験の被害を受けた三崎の漁船第十三光栄丸や第七明神丸が帰港したのは、その直後であった。これらの漁船は帰港と同時に再び沖合へ出港し、漁獲物の廃棄を行わせられた。県下ならびに日本全国を「死の灰」の恐怖が覆った。遠洋からの漁獲物はすべて「水爆マグロ」としておそれられ、また湘南地域などでは「死の灰」が風にのっていつ大量におしよせるかもしれないとして、人びとは生きたここちのしない毎日であった。朝、庭の花粉をみて「死の灰」と勘違いする事件が頻発したのもこのときのことである。 人びとのなかでも、とくに漁業関係者の受けた衝撃と打撃ははかりしれないほど大きかった。四月一日に三崎町の魚商協同組合は、関係各庁に対し水爆実験による被害の補償と、「原(水)爆実験を続けられますことは私共にとりまして死を意味するものであります」として「実験中止」への「尽力」を要求した(三崎水産物協同組合他『沿革』)。第十三光栄丸の「船員一同」は、五月一日に、「五十余日陸の見えない海上にゆられながら一日五時間と休まずに働き……全く命とひきかえに得た魚を厚生省の命令で三昼夜も走り続け沖に出て棄てました」「公海に於て働く私共が何故こんなむごい仕打ちを受けなければならないのか、心から原爆をキライ、ノロウのであります」として、「原水爆の実験禁止を、そして全世界の平和を」訴えるアピールを発表した(資料編12近代・現代⑵二八一)。 横須賀では株式会社横須賀魚市場が主催し、魚商組合や飲食店組合という業者団体と、労働組合・生協・商工会議所・キリスト教各派の組織や仏教会などの宗教団体が後援をする「水爆被害実情報告大会」が、五月八日に開かれた。 この集会の案内状は、市民にむかい「水爆被害はただ魚屋だけのものではありません。皆さんの頭の上に死の灰がふりかかっている問題なのです」「死の灰が頭の上を舞う日本の現状について憂える方は一人のこらず来て下さい」と訴えかけており、当日多数の市民がつめかけるなかで「実情報告大会」は中途から「市民大会」へと切りかえられ、原水爆製造・実験の禁止、水爆被害への補償、魚食に対する不安感を除去するための処置を「関係当局に強く要請する」決議を行った第13光栄丸 光栄丸事務所蔵 (広田重道氏所蔵資料による)。 労働組合もまた原水爆禁止を要求して活発な行動を開始した。四月二十日には地評主催の「水爆対策三崎町民大会」が開かれ、以後地評は県内各地で平和集会を行っていく。県労会議系の労働組合や県平和擁護委員会に集まる人びとは、職場や地域で原水爆禁止運動に積極的にとりくんだ。全面講和要求の運動時には別々であったこれら両系列の組織の運動は、原水爆禁止要求では合流して進められた。五月二十四日、地評と県労会議系の労働組合、県平和擁護委員会の人びとが集まって「世界平和大集会」にむけた神奈川県平和懇談会を開き、六月十三日に「思想、宗教、政治的見解の相違を問わず、参加するすべての人の善意の意見は勿論その自主性や独自性も尊重され最も徹底した民主主義のもとに行動の統一をはかることを原則」に、「原水爆の製造、使用、実験の即時中止を要求し、戦争に反対し、各国との国交の恢復により平和を守ることを目的とする」神奈川県平和評議会が設立された。 広がる原水爆禁止運動 原水爆禁止の声が強まっていくなかで、県議会が一九五四年六月一日に原水爆禁止を要求する決議を採択したのを手初めにして、住民の要求に基づき県下の市町村議会があいついで同様の決議を行っていった。市議会のみに限ってみても、六月五日の横浜市議会を先頭に同月中に横須賀や逗子で、また翌七月には平塚や藤沢などでこうした決議が行われている。議会の決議と並行しながら、全国ならびに県下各地で原水爆禁止を要求する署名運動が進められた。横須賀平和の会による署名用紙に、「私達は原水爆の製造と使用と実験の禁止を要求して、ここに署名します」という言葉だけが記されていたことからうかがわれるように、これらの署名運動は原水爆禁止の一点のみで人びとの意志を表明していこうという性格のものであった。そしてそのために、この署名運動は県下全域で爆発的な勢いで広がっていった。八月五日に県内の署名数は十五万二千名をこえ、翌五五年八月四日には五十一万千百四十三名に達し、全国的にみると都道府県別で東京、大阪、広島、長野、山口についでいた。 署名運動のなかで、これを進める組織が各地に作られだした。県下の地域組織のうちには旧来からの平和運動組織が改組・整備拡充されたものもあったが、その多くはこのとき新たに設立されたものであった。一九五四年六月から九月までの間に改組ならびに新設された地域組織をあげると(栗原和子「神奈川県原水爆禁止運動史年表一九五四~五七」『神奈川県史研究』三七号、資料編12近代・現代⑵二八三・二八八)次のとおりである。六月六日湘南平和の会(藤沢、平和を守る集いを開催)、十四日逗子原水爆禁止促進協議会、十九日厚木平和懇談会、同月中相模原青年婦人平和を守る会、七月二十四日秦野地方原水爆禁止運動の会、同日鶴見文化研究会(原水爆反対講演会開催)、三十日横須賀平和の会、八月一日津久井郡鳥屋村平和愛好者の集い、八月六日鎌倉仏教会・文化人平和の集い、九日愛甲郡愛川村平和の集い、十日横浜市神奈川区原水爆禁止協議会、二十六日保土ケ谷平和を守る署名運動の会、二十八日平塚地区原水爆禁止の会、九月四日厚木地方平和祭、二十三日原水爆禁止足柄上郡協議会準備会。 1958年広島-東京間で行われた平和大行進 桜井光夫氏蔵 これらの地域組織は、たとえば市議会が「原子兵器禁止要求」決議を採択した日に結成された逗子市原水爆禁止促進協議会が、旧来からの平和運動組織である平和懇談会と労働組合・左右両社会党・共産党・天理教教会および全市議会議員と市長をその構成員としていたことからうかがわれるように、まさに〝全住民ぐるみ〟の思想信条や党派をこえた組織であった。一九五四年八月には、原水爆禁止の署名を集約する全国的センターとして原水爆署名運動協議会が作られ、この協議会を中心に翌五五年八月に広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれる。そしてその成功を基礎に原水爆禁止日本協議会が結成されていく。原水爆禁止世界大会には、神奈川県からも、地域組織・議会・漁業団体・労働組合などから多くの代表が出席し、一九五七年四月に県原水爆禁止協議会が正式に発足する。五四年以降、ほぼ全県下にわたって作られてきた地域の原水禁運動組織は、この県原水協の市町村組織となって初期の運動の広範な裾野を形成した。なお八月中旬に鎌倉で開かれる「海の平和祭」は、一九五四年以降その規模をひろげて盛大に挙行された。また、一九五六年には衆参両院で原水爆実験禁止決議がなされた。 鎌倉海の平和祭(1952年8月17日) 機関紙連合通信社蔵 母親運動の開始 原水爆禁止運動が地域の間に広がり浸透していくなかで、それを下から支えた婦人、とくに母親たちが、平和・原水爆禁止の主張を中心に多様な要求を掲げて集まる運動が行われ始めた。母親運動とよばれるものがそれである。日本の婦人団体が全世界にむけて原水爆禁止運動にとりくむよう訴え、国際的な婦人組織がこれに応えたことに端を発して、一九五五年六月、「母と子どもが安心して住める世の中をつくるために、お母さんの力を結集しましょう」という呼びかけのもと、東京で第一回日本母親大会が開催された。そこに集まった母親たちによって、恒常的な組織である全国母親連絡会が作られ、以後毎年一回の全国大会を中心に母親運動は継続的に進められていく。そしてその過程で、全国各地に母親大会を準備し、全国大会の成果を還元するための基礎的な組織が設立され、母親たちの地域ごとの集まりが行われていった。一九五五年二月に開かれた「神奈川県婦人大会」では、「原子戦争の準備に絶対に反対します」ということとあわせて、「子供の幸福」や経済生活上のさまざまな要求が主張されたが、とくに市や町、村段階の会合で1953年3月18日に開かれた基地の子供を守る全国会議(於横須賀) 機関紙連合通信社蔵 は、集まった母親たちひとりひとりの多様な声が噴出していた。 そのような声を、五五年七月に横須賀在住の婦人たちが作成した生活記録集『こだま』によってみると(資料編12近代・現代⑵二九八)、「静かな生活をだれにもこわされたくありません、ですから原水爆等の原子兵器の使用は一切禁止してほしいと思っております」「母親として横須賀の余りにもパンパンの多い事になやんでいます」「横文字の町横須賀、此の中で子供達はどんな風に育って行くか考えると、母親としての私は気がくるいそうです」や、「託児所が欲しい」「勤労者向きの住宅をどしどし建てて頂きたい」「教育費をもっと安くしてほしい」など、平和についての要求と併せて、居住地域の環境・風紀問題や生活状態の劣悪さに対する怒り、要求が「子どものために」強く訴えられていた。『こだま』に文章をよせた婦人たちは、多くが戦時下に自らの青年期を過ごしてきていた。「大切な父を夫を子を兄弟をむごい戦争で殺されるのは嫌です」「どうぞ戦争が再びおきぬ様に」という声は、このときの母親たちに共通する体験に基づく叫びであった。 二 広がる基地反対闘争 占領下の基地問題 沖縄を除き敗戦後全国にさきがけて連合国軍が進駐した神奈川県では、当時戦災の傷あとも生なましかった横浜の中心部をはじめとして、横須賀軍港・厚木飛行場・陸軍士官学校(相模原)・辻堂演習場など数多くの施設が次つぎと占領軍に接収された。その中には、戦時中急に日本軍に軍用地として接収され、敗戦後人びとが返還を切望し期待していたにもかかわらず、今度は占領軍がとってかわって使用を開始したために、地域の復興の見通しが全くたたなくなったところも少なくなかった。中心地を新たに接収された横浜では、いつ解除されるかが不明なために本拠を東京へ移す企業なども多かったという(『有隣』第一五四号)。接収された地域や施設とあわせて、基地周辺の住民の間で問題となったのは、占領軍兵士による犯罪の恐怖や風紀上のなやみ、ことに彼らを相手にする花柳街が発達したことに伴う「悪影響」であった。横須賀市教育研究所が小中学生を対象にして実施したある調査(一九五二年)によれば、「パンパンなんかは、非常にうまいものを食って、朝はゆっくりだし、あんないい商売はない」という感想が「下級生になるほど」多く出されていた。風紀にかかわる問題は、住民、ことに母親たちの間に、基地の存在に対する疑問・批判の感覚をはぐくんでいった。 占領後しばらくして講和問題が新聞紙上に登場しだしたころから、接収地の解除を要求する運動が各地で行われ始めた。相模原では旧陸軍造兵廠用地内農地の返還を神奈川軍政部に要求する運動がなされ、横浜では被接収地の所有者がその解除を求めて奔走した。横須賀市における旧軍港市転換法諾否の住民投票では、投票率六九・一㌫、賛成八七㌫の圧倒的な支持のもとに「軍都」に終止符をうち「平和産業港湾都市」を建設していくことが希求さ1953年前後の横須賀の風景 機関紙連合通信社蔵 れていた(『横須賀経済経営史年表』)。 しかし、朝鮮戦争の開始とともに、こうした運動や計画は頓座を余儀なくされる。相模原ではいったんは神奈川軍政部が返還を約束した軍用地が「朝鮮動乱に伴ふ状勢の変化により返還不可能」となり、さらに一時使用を認められていた土地からの「立退命令」までが出されるに至った(相模原市『造兵廠内農地接収につき陳情書』)。横須賀港も朝鮮戦争の補給、船舶・車両の修理基地としてアメリカ艦船の出入りが頻繁になり、兵力も大幅に増強され、ひとまず返還されたところが再び接収されさえした。横浜市上瀬谷地区もまた朝鮮戦争の開始に伴い米海軍の通信施設として再接収された(神奈川県渉外部『神奈川の米軍基地』)。 講和条約の発効と前後して、世論の高まりによって米軍は市街地の中心部で接収の解除を行いつつ、今度は周辺地域にそれにかわる新たな接収地を設定し始めた。もっとも人びとは、それをただ手をこまねいてみていたわけではなかった。講和条約発効の前には、たとえば相模原橋本地区の「接収問題に関する世論調査」で「全面開放の要求」が一〇㌫に止まり「接収地に対して充分の生活補償を要求する」という項目が二五㌫と第一位を示したように、接収自体にはあきらめの感覚が強かったのに対し、講和条約の発効後は、新規の接収はもとより既存の基地にむけても強い反対闘争が進められだした。その第一弾が岸根基地のたたかいであった。 岸根基地反対闘争 一九五三年七月、横浜市は港北区岸根町の市有地を耕作する五十二戸の農家に対し「耕作をやめるよう」通告した。米軍の兵舎を新設するからというのがその理由であった。この市有地は戦時下に市が買収したものであり、地元からは農地解放をして地元耕作者に返還するか、あるいは市民公園にするべきであり、「基地などとんでもない」という声がわきおこった(『基地のなかの神奈川』)。農家の人びとは土地の取りあげに反対して「耕作権死守」を掲げた。 一九五四年一月の岸根町協議会総会は「基地絶対反対」を決議して町ぐるみで反対の意志を表明し、その直後に地評・高教組・六角橋農友会・日農港北支部・神奈川平和の会・神奈川大学学生自治会の代表が集まって「岸根基地対策協議会」を結成、四月にはこれら六団体に横浜市生協・全日自労・六角橋青年会有志・町協議会有志を加えた「岸根基地反対連絡会議」が組織された。連絡会議の誕生は、岸根基地反対闘争を発展させ、現地住民を中心に労働組合・学生・市民団体などによる統一行動の拡大と闘いの強化のきっかけとなった。岸根近隣の小中学校のPTAも基地反対の運動を進めることを申し合わせた。 だが現地のこうした反対の意向にもかかわらず、政府は閣議で岸根基地の建設を決定し、一月に敷地の地質検査であるボーリング調査を実施しようとした。地元四十一戸の農家は交渉権を連絡会議に一任し、連絡会議傘下の団体は現地動員を行って抵抗した。そして地質調査隊の農地内立入りをひとまず阻止することに成功する。この間教職員組合分会やPTAによって「岸根基地反対教育関係者連絡会議」が作られ、建設反対の対市交渉が行われた。しかし一方では、中区や神奈川区の商店の間から、逆に「岸根基地促進」の動きが台頭した。それはこれらの区にある接収地岸根基地反対闘争 『神奈川県労働運動史』第2巻から の解除が遅れているのは岸根基地が地元住民や労働組合の反対によって建設できないためだという理解に基づくものであった。岸根基地反対連絡会議は一九五五年一月に県下全域の関係団体に訴えて基地反対・接収地解除促進の懇談会を開催、中区・神奈川区の人びととも懇談を行い、「接収解除促進の運動を含めて岸根基地反対運動を進めて」いこうと申し合わせた(『基地のなかの神奈川』)。 一九五五年二月、内閣総理大臣が日米行政協定実施に伴う特別措置法に基づいて岸根の米軍基地建設を「適正」と認定したことにしたがい、横浜調達局は地元農家に対し測量の実施を通告した。現地測量は警官隊の出動のもとに開始された。一方地元住民側は地評に集まる労働組合をはじめとする諸団体からの応援をうけて反対の座込みを行った。両者の間でたびかさなる「紛争」が引き起こされた。反対連絡会議はこの後も裁判闘争を含めて多様な運動を進めたが、県土地収用委員会が十月から「強制収用」を行うことを決定し、岸根基地反対闘争は地元農家への補償金の支払いなどによってひとまず終息するに至る。 基地闘争 岸根の闘争をきっかけに、そして原水爆禁止運動という全国民、全県民的な平和運動の高揚を背景にして、県下の基地反対闘争は急速に強まっていった。 旧日本海軍の弾薬庫が米軍に接収され、現在にまで至っている逗子市池子地域では、一九五四年九月一日に市議会が「池子火薬庫接収地一部接収解除を要求する決議」を全会一致で採択した直後、市民により「逗子市池子接収地返還促進市民協議会」が作られ、返還を要求する運動が行われ出した(『神奈川の米軍基地』)。当時同火薬庫の貯蔵弾薬は数万トンにのぼるといわれており、周辺の住民にとって危険きわまりない施設であった。横浜市保土ケ谷では一九五五年五月に米軍高射砲部隊の一部が移動したことをきっかけにして、「高射砲陣地の接収解除」を要求する運動がまきおこった。もともと保土ケ谷の基地は、一九五〇年の夏に作られた県営サッカー場を「県民はおろか県当局も知らないまに無警告で」米軍が接収した(資料編12近代・現代⑵二九二)といういわくつきのものであった。藤沢市辻堂海岸では、一九五五年七月末に陸揚げされたオネスト・ジョン原子ロケット砲が辻堂演習場で試射される予定だと伝えられたことから、藤沢・茅ケ崎両市の有志と、PTA、婦人団体、労働組合が「原子砲反対市民同盟両市連絡協議会」を結成し、署名や請願の行動を開始した。藤沢市議会は住民の要求に基づいて、辻堂演習場の「オネスト・ジョン基地化事前防止」要請を決議した(『藤沢市議会史』)。同じころ横須賀市千駄ケ崎と葉山町では、米軍ヘリコプターの基地が設置される計画に対し、農業委員会や部落会を中心とする反対運動が進められた。この運動には、ヘリコプターによる騒音問題と絡めて久里浜国立療養所の患者自治会も反対の意志を表明し合流した。 横浜市瀬谷町でも、米軍の通信基地が拡張されようとしたことから町ぐるみの反対運動がまきおこった。この通信基地の所在地は、もと日本軍の倉庫だったところであり、一九四七年にいったん接収が解除されたにもかかわらず、朝鮮戦争の開始によって再び接収された場所であった。また、通信基地という性格からその業務内容は謎に包まれ現在でもなお不明なことばかりであり(『神奈川の米軍基地』)、近隣の住民に大きな不安を抱かせる基地でもあった。一九五五年に米軍はこの基地の拡充を計画し、新たに近接する農家の耕作地接収を企てた。すでに基地にされていた土地の農民たちが〝祖先伝来の土地を返してくれ〟と年頭に接収解除の申請書を出していたところにである。瀬谷町の各部落代表によって「接収地対策委員会」が組織され、横浜調達局や県渉外部・農地部などとの交渉がくりひろげられた。 こうした県下各地の基地闘争の広がりのなかで、一九五五年八月二十七日に横浜で「軍事基地反対、平和擁護、神奈川県民大会」が開かれ、「県軍事基地反対連絡会議」を結成して基地反対闘争を相互に交流しつつ進めていくことを決めた。当日、会場にはそれぞれの基地闘争を地元で進める人びとや、地評・左派社会党・共産党・労農党のメンバー約六百名が集まった。全国軍事基地反対連絡会議に結集する他県の基地闘争組織からも連帯の挨拶がよせられていた。 三 六〇年安保闘争 エリコン・警職法反対運動 原水爆禁止運動に代表される一九五〇年代後半の平和運動と基地反対闘争とは、一つの大きなうねりとなって一九六〇年の日米安保条約改定をめぐるたたかいへ合流した。そしてこの六〇年安保闘争の直接の前史となったのが、一九五八(昭和三十三)年のエリコン反対、警職法反対のたたかいであった。 同年八月、防衛庁が発注した地対空誘導弾エリコンが横浜港から陸揚げされる計画が明らかになると、地評・各地区労・県原水協などは「原水爆兵器として使用される兵器の持ち込みに反対」するための共闘会議を結成し、予想される陸揚げ地点にピケをはってこれを阻止しようとする行動をくりひろげた。防衛庁はエリコン自体は「核兵器でない」と主張したが、共闘会議は「エリコンは核ミサイルの研究用兵器である」ことを強調した。原水爆禁止運動の浸透を背景に核兵器への反対の世論は高まり、共闘会議の行動には県下全域さらには他県からも支持がよせられた。たとえば山梨県富士吉田市では、山梨地評が主催して神奈川のたたかいを支援する「エリコン陸揚げ反対総決起集会」が開催されている。当初の陸揚げ予定地で強力な阻止行動が進められているのをみた防衛庁側は、エリコン積載船をひとまず横浜港外に出航させ、ハシケに移して横須賀の自衛隊基地に陸揚げし「ピケ隊の裏をかく」形で東京への輸送を実施せざるをえなかった。このたたかいは県下の原水爆禁止運動と基地反対闘争を結びつけ、平和と民主主義擁護を掲げる諸組織の統一行動・統一闘争のはしりとなった(『神奈川地評十五年史』)。 エリコン反対闘争の直後、政府は突然、警察官職務執行法の改正案を国会へと上程した。独断に基づく所持品検査の実施など個々の警察官の権限を拡張することが同法改正案の要点であり、それは人びとに戦前の「オイコラ」警察復活への危惧をもたらした。「『オイ!コラ!』という警職法が若し国会で決定していたら私は戦前の大衆活動家のような苦しい立場にあったろう」という、当時の全農林労組神奈川県委員長の回顧(『神奈川地評十五年史』)に示された恐怖感は、このとき労働組合運動や平和運動を担い推進する人びと全てに共通したものであった。強権的な警察官が再来して私生活のすみずみにまで介入することへの不安は多くの人びとの実感となって急速に広がった。 全国的な反対運動に呼応して十月十五日に社会党県連と地評、全労神奈川、新産別神奈川、および中立系の労組などにより「警職法改悪反対神奈川県民会議」が結成され、集会やストライキを中心にする統一行動が進められた。その実施状況を日誌風に記せば次のとおりである。十月二十四日 横須賀・平塚、二十五日 横浜・戸塚・磯子・保土ケ谷の各地域で反対集会。二十六日 掃部山公園で「警職法改悪粉砕、生活と権利と教育を擁護し、日中関係を打開する神奈川県民集会」。二十八日 労働組合(支部)ごとの抗議集会。三十一日 小田原地区反対集会。十一月五日 労働組合の時限ストライキ、川崎、鶴見、横須賀、鎌倉、藤沢、茅ケ崎、厚木、相模原および日本鋼管川崎野球場でそれぞれ反対集会とデモ行進。十一月二十日 小田原で反対集会。 こうして警職法反対闘争は、県内でも、また全国でも日ましに強まり、十一月二十二日ついに法案は審議未了となった。戦後、議会外の大衆運動が議会内の多数派に打警職法と題するカット 「東芝労働者」(No.80)東芝連合会機関紙から ちかったのは、これが最初のことであった。警職法反対闘争の進展とその勝利のなかで、労働組合・平和運動組織・市民団体・革新政党の間に統一行動への気運が高まっていった。十二月十三・十四日には鎌倉で地評・県原水協・日中友好協会神奈川・社会党・共産党の代表の会合がもたれ、警職法反対闘争の検討とあわせて政府の対中国敵視政策の転換や安保条約の廃棄にむけた闘争を推し進めるための「五者共闘幹事会」が作られた。 安保闘争の開始 おりから政府が計画していた日米安保条約の改定に対し、警職法闘争の統一行動に基づく勝利によって「戦争準備反対と平和のために安保条約改訂を阻止し、廃棄までともに闘うことの意見一致が比較的容易に得られる状態となり」(『神奈川県労働運動史』第三巻)、安保条約改定阻止国民会議の結成をうけて、一九五八年五月に地評・原水協・日中友好協会・社会党・共産党が中心となって二十二団体からなる安保条約廃棄要求神奈川県民会議が設立された。以後一年以上にわたり、県下のさまざまな人びとによって、安保条約の改定に反対するたたかいが「県民会議」を中心にしながらまきおこっていく。それは強まりゆく冷戦化に醸成され、国際間の一方の陣営とのみ手を結ぶことに反対した全面講和論を起点に、米軍基地の存在に刺激され、かつ核戦争の脅威の中ではぐくまれてきた広義の平和運動の流れのものであると同時に、この時期に「逆コース」とよばれた戦後の諸改革を修正しようとする政府側の一連の政策、たとえば破防法、教育二法、憲法改定構想、勤評、警職法などに対して抵抗をくりひろげてきた〝民主主義擁護運動〟の系譜をひくものでもあった。 安保廃棄要求「県民会議」は、その設立に際して「海外派兵、核武装をめざす安保改訂を阻止しその廃棄を要求する。安保体制を打破し、日中国交を回復せよ。在日米軍の撤退を要求する。憲法を擁護し、自衛隊の核武装を許すな」などのスローガンを掲げたが、そこには安保条約の改定が意味するものを「県民会議」に集まる組織や人びとがどのようにとらえていたかが示されていよう。また、「県民会議」のもとに各地域で安保反対の地区共闘組織が作られたが、その一つで一九六〇年一月に結成された「日米安保条約廃棄横浜市民会議」は、「戦争の反省にたって、憲法を制定し、戦争を放棄しました。あれより十余年、政府の憲法解釈は変転に変転し世界は平和への流れの中で憲法違反の安保条約を改訂し戦争への道をたどっています」として、「海外派兵、核武装をめざす安保改訂を阻止してその破棄を要求し」「諸物価値上げ合理化で市民生活を破棄する安保体制を打破し」「市民の生活をおびやかす基地を取り払い、すべての国との貿易で港の繁栄を」実現しようと呼びかけていた。そこからうかがわれるように、安保闘争は、平和と民主主義とともに、生活の擁護と向上を併せて掲げた、たたかいであった。 この「横浜市民会議」と同様の地区共闘組織は、一九五九年六月に十一、十月に十五、十二月に三十一と、県下各地にあいついで作られていった(『日本労働年鑑』一九六〇年版)。そして中央の安保条約改定阻止国民会議が設定した統一行動にしたがって、神奈川の県民会議と地区共闘は、一九五九年四月から翌六〇年の七月まで二十一次におよぶ波状的な行動をくりひろげた。これらの地区共闘には、地評系ならびに中立の労働組合、地域の原水協等1959年の京浜労組の安保反対大会 『神奈川県労働運動史』第3巻から の平和運動団体、基地闘争組織、社会党、共産党のほか、母親運動連絡会をはじめとする婦人団体や各種の文化団体などが加わっており、また県民会議の構成の警職法闘争時との違いは、共産党が正式に加入したことと、今度は全労神奈川と新産別系の労働組合が参加しなかったことであった。しかし一部の労働組合の不参加にもかかわらず安保共闘組織への参加団体は未曽有の数にのぼっていた。 安保闘争の展開 比較的早い時期からとりくみがなされたとはいえ、安保闘争の県下における統一行動は一九五九年中は必ずしもめざましく進んだわけではなかった。だが一九六〇年に入って、とくに岸首相の新安保条約調印のための訪米に反対する第十一次統一行動時から、神奈川県下の安保闘争は、各労働組合の春闘や勤評をめぐる教職員組合各分会のたたかいと結びつきつつ、急激に高まっていった。一月十四日、横浜公園に八十五団体一万二千名もの人びとが集まって新安保条約の調印に反対し、十六日には神奈川県下から六千名が羽田空港へおしよせて、調印のために訪米する首相への抗議行動をくりひろげた。条約が国会に上程されると、県民会議は「十・百・千のたたかい」を行動方針として傘下団体に呼びかけた。神奈川県下で十万人の動員、百万の署名、一千万円のカンパというのがその内容であった。これらのうちとくに署名活動は、街頭であるいは戸別訪問によって連日活発に行われた(『神奈川地評十五年史』)。 五月五日にソ連がアメリカのU2型ジェット機をスパイ行為の理由で撃墜したと発表し、同型機が厚木基地に配備されていることが明らかになると、安保条約に対する不安は〝実感〟として県民の間に著しく強まった。鎌倉市議会のように、この事件の直前に新安保条約反対の決議は否決したが、U2型機の撤去要請決議を可決した市町議会も少なくなかった。 国会における審議の進展にともない、新安保条約への不安感はいっそう強まり、連日のようにデモ隊が国会へとおしよせた。このような安保への反対・批判の声の高まりに、政府は、五月十五日、国会内に警官隊を導入して衆議院で条約を強行採決した。神奈川県を選挙区とする一部の代議士を含めて、自民党所属議員のなかにさえこの強行採決には同調できず、当日議場に入らなかった者もあった。強行採決への人びとの怒りは激しく、以後の統一行動は一挙にその規模を拡大した(信夫清三郎『安保闘争史』)。 六月四日、総評と中立労連系労働組合はいっせいに抗議のストライキを実施した。『地評』六月五日号によると、神奈川県内におけるこのストライキの状況は次のようであった。「四時十五分、桜木町発の初電も横須賀、横浜、南武、鶴見線もピタリと止ったまま動かない……午前六時、国鉄につづいて港湾の闘いがはじまった。全港湾の半日ストを先頭に、荷役作業の浜港労連、検定、検数、税関、倉庫等、港を動かす全ての労働者がストに突入、税関前には二千名が結集して、一時間の総決起大会を開き、大桟橋から中央岸壁へデモを行なって気勢をあげた。市民の足をにぎる臨港バスは、午前七時までストライキ、横浜市電、バスも三割減車」。ストライキはこのほか県下百十六の民間産業の労働組合でも、また千あまりの商店でも実行された。このストライキの直後、六月十日にアイゼンハワー米国大統領の訪日の先進としてハガチー秘書が羽田へ到着した。同大統領の訪日は、安保条約成立へのテコ入れとみなされていたから、〝訪日反対〟を掲げる人びとが各地から羽田へと集まり、ハガチー秘書の車がデモ隊に囲まれて立往生し、彼はヘリコプターにより救出されるという事件がおきた。この日、神奈川県内からは日本鋼管川崎製鉄所労働組合をはじめ多くの団体の労働者・市民が羽田におしよせており、警視庁は十三日の深夜に川鉄組合本部を捜索し数人の組合員を逮捕するという弾圧を行った(川鉄労組『闘いのあゆみ』)。県民会議は「不当弾圧反対」の抗議文を発表し、たたかいをいっそう強めていくことを呼びかけた。県下各地域ではあいついで条約批准反対の行動がくりひろげられ、デモ隊は国会へとむかった。 しかしついに十九日午前零時に新安保条約の「自然承認」が成立した。岸首相が辞意を表明したのはその四日後の同条約批准書交換当日のことであった。統一行動はこののちもつづけられ、七月十日には大和市の光ケ丘中学校建設予定地で、国民会議が主催する「U2ジェット機追放・米軍撤退要求国民大会」が、全国から八千名を集めて実施された。一年以上にわたる統一行動に神奈川県内から参加した人の数はのべで百五十万人におよび、署名を含めると「推定一八〇万人近く」の人びとが安保闘争に加わっていた(『神奈川地評十五年史』)。結成された地区共闘は足柄下郡と愛甲郡の一部を除いて全県域にわたり、三十七組織にのぼった。 原潜寄港反対運動 このような高まりをみせた六〇年安保闘争ののち数年の間に、国際的な平和運動推進勢力内部の反目、国内の革新政党間の軋轢・対立を背景に、原水爆禁止運動の分裂や安保共闘組織の機能停止という事態があいついであらわれた。神奈川県内でも、全国的な運動と組織の分裂をうけて、そして六〇年安保闘争という未曽有のたたかいを経た後のある種の〝敗北感〟により運動が停滞ぎみになるなかで、それまでの諸運動組織の間に分裂が進行し、事実上それらの党派ごとの系列化がみられるようになった。 だが一方で神奈川県内の平和運動・基地闘争がこうした分裂をこえて全国的な統一行動を牽引する役割を果たすことがあった。一九六四年のアメリカの原子力潜水艦寄港に反対するたたかいがそれである。この年、政府は米国原潜の日本寄港受諾を正式に決定し、佐世保に入港したシードラゴン号が横須賀へむかうことが予定されていた。横須賀では地区労と社会党・共産党の三者による「原子力潜水艦寄港阻止(現地)実行委員会」が作られて、社会党・総評系、ならびに共産党系それぞれの全国的な原潜寄港反対運動組織とは別個に、集会を主催するなどして運動を進めた。そして同実行委員会は、それら両系列の組織間の〝橋わたし〟の任に当たったのである。このときには、平塚、相模原、厚木、および保土ケ谷の各地域でも、党派間の対立をこえた原潜寄港反対の運動が進められた。厚木地域における集会が、「日米両国政府に対して抗議文を発する」こととあわせて「原潜寄港阻止中央組織を統一して運動を進める」よう「要請すること」を決定した(『神奈川県労働運動史』第四巻)のは、基地近隣地域ならではの統一行動への強い要望と期待をあらわしたものであった。 原潜寄港反対運動は以後ひきつづいて行われ、ことに一九六六年のスヌーク号横須賀入港に際しては、寄港から出港までの連日、のべ五万六千人をこえる参加者によって抗議集会が開催された。 県の対応 本節の最後に「平和運動と基地反対闘争」に関する県側の対応について述べておこう。もっとも平和運動に関しては原水爆禁止運動への対応の他は県側に特別な動きがあったわけではなく、また基地反対闘争については住民の要求に基づき「基地問題」として対策をたてるというのがその基本であった。この「基地問題」への県の対策は「基地返還の促進」と「基地周辺対策」に大別できる(『神奈川の米軍基地』)。前者についてみると、一九五二年の講和条約発効を契機に「官民一体の横浜市復興建設会議を運動母体として」同市の「市街地施設の大部分が返還され」たのをてはじめに、いくつかの基地が返還され、講和条約発効時と一九八〇年三月とを対比すると、米軍の基地は、数では百六十三から二十五へ、面積では三千六百ヘクタールから二千二百七十四ヘクタールへと減じてきている。最近の例では、一九七二年の「市民、労働者の戦車輸送阻止遵法闘争を背景としたキャンプ淵野辺の返還などが挙げられ」る。もっとも基地の数や面積が減っても、一方では「基地機能の強化が進められ」「施設整備が進」んできていることが注意されなければならない。 注1 県議会は、当初県原水協に対し補助金を支給していた。しかしそれは、同組織の六〇年安保闘争への参加を理由に中途から打ち切られた。 注2 一九七二年には相模総合補給廠からの米軍戦車輸送阻止闘争が行われた。この闘争は横浜市がベトナムの戦場に送りこまれる戦車の通行を車両制限令と道路法に基づき承認しなかったことに端を発する。そして横浜村雨橋で、さらには相模補給廠のゲート前で、多くの市民・労働者が〝ベトナムに戦車を送るな〟をスローガンにして阻止行動をくりひろげた。 後者の「基地周辺対策」としては、航空機騒音、原子力軍艦の放射能(調査)、犯罪防止、電波障害防止などの対策があげられる。このうちの航空機騒音についてみると、厚木飛行場周辺地域では六〇年安保闘争の直後に住民により「爆音防止期成同盟」が結成され、県側はその要請をうけて国および米軍に「音源対策」の実施を要求、一九六三年にはそれまで全く「無制約ともいえる状態」であった「米軍航空機の飛行規制」が一部実現した。なお航空機問題としてはこの他に最も危険な米軍機の墜落事故という大問題がある。県の調査によると、一九五二年四月から七九年十二月までの米軍機の墜落は六十三件を数え、落下物が四十八件、不時着その他五十五件、計百六十六件となっており、最近でも一九七七年九月に横浜市緑区でファントムジェット機の墜落事故によって死者二名、重傷三名、軽傷四名という大惨事がひきおこされた。基地をめぐる問題はなお山積みしており、県渉外部の『神奈川の米軍基地』は「むすび」として、「『基地のない神奈川』の実現をめざして基地問題の解決と取り組んでいくことが基地対策の課題である」ことを強調している。 注3 一九八二年に入り、この事故による死者は一名ふえて計三名となった。 第四節 労働組合運動の展開 一 地評の結成と全労神奈川の組織化 概観 本節では一九五一(昭和二十六)年の地評=神奈川県地方労働組合評議会結成から、一九六〇年代半ばまでの労働組合運動の展開過程をあとづける。はじめに労働組合人員数(第十三表)と労働争議件数・同参加人員数(第十四表)の変化を概観しておこう。第十三表によれば、企業整備(第一次企業整備)とレッドパージにより一九四九年以降減少した労働組合員数は、一九五一年を底にして増加へと転じ、一九五〇年代の前半は微増、後半は漸増、一九六〇年代に入って急増する傾向を示している。もっとも組合員の絶対数は一九五一年から一貫して増加しているものの、労働者総数中の組合員数比、すなわち組織率は、一九五五年を起点とした高度成長に伴う労働者の激増ゆえに、五〇年代を通じて減少傾向に、六〇年以降は横ばいという状況にある。この組合員数を組織系列別にみると、まず一九五〇年代は地評が県下の労働組合を数量的にも代表した時期であるが、一九五四年に総評・地評の方針を批判して結成された全労会議の組織が六〇年以降急速に勢力をのばし、一九六五年に全労神奈川と総同盟県連(再建)が組織的に統合され神奈川同盟が作られてからは、それは県段階の組織として地評(のちの県評)に匹敵するものとなっていく。なお神奈川産別の系譜にある県労会議は、この間の一九五七年六月に解散して地評に合流している。 次に第十四表によって労働争議の状況をみると、争議件数は一九五〇年をピークに五〇年代前半は漸減ないし横ばいであったものが、後半に入って増加傾向に転じており、一九六〇年以降もその傾向は継続している。争議参加人員数もそれにほぼ対応した動きをみせている。しかし一九六〇年代に入ると参加人員数ののびは争議件数ののびに追いつきえていない。これは、六〇年以降、主に中小企業の争議が急増したためである(『神奈川県労働行政の進展』)。争議一件当たり参加人員数をみても、六〇年代に入ってからその規模は相当小さくなっている。つまり、県下における争議は、敗戦直後は大企業中心で参加人員数が多く、一九五〇年代は大企業と中小企業がともに横ばいの状況にあり、一九六〇年以降中小企業の争議を主軸に件数が増加した、ということができよう。なお争議のうち作業停止に第13表 系統別労働組合人員数の変化 1) 〔 〕内は全労神奈川の内数である 2) 組合員数の計は数があわないところがあるが,そのままとした 3) 『神奈川県労働運動史』第1~4巻,『神奈川県組合調査結果』,『国勢調査報告』から作成 至ったものにも同様の傾向があらわれているが、損失日数をみると、それは一九五〇年代前半、後半、そして六〇年代と漸減しており、本節の対象とする時期では、趨勢として争議が短期化したことに一つの特徴があるといってよいであろう。 地評の結成 総同盟県連と民同勢力は一九四八年八月に神奈川県労働組合民主化協議会を組織していたが、これは県民主労組共同闘争委員会への改組を経て五〇年九月に総評と「密接なる提携をする」神奈川県地方労働組合協議会(地労協)となり、この地労協を母体にして、一九五一年五月、百八十六組合八万三千八百六十二名をもって神奈川県地方労働組合評議会(地評)が結成された。この間の五〇年十一月に川崎で開かれた総同盟第五回大会第14表 労働争議の変化 神奈川県『労働争議統計年報』,『労働白書』から作成 において、総同盟は、総評加盟をめぐる組織改革問題を直接の契機にして左右両派に分裂した。もともと総同盟は、敗戦後の復活以来左派と右派との対立的関係を内包してきていたが、片面講和の方向下、日本の軍事基地化・再軍備への危惧と、労働条件の悪化に対する労働者の不満を背景に、総評が急速にその姿勢を転換していくなかで、左右両派の対立は決定的なものとなった。総同盟神奈川県連は、総評が一九五一年の第二回大会において平和四原則を採択し旋回し始める状況下に、県連を解散して総評に結集し地評を組織化しようとする勢力と、これに反対する勢力とに組織的に二分された。後者の勢力(総同盟刷新強化派)は、「単独講和もやむをえない」との立場で、五一年五月に県連再建大会を開催、神奈川金属労組を中心に七十五組合二万四千百一名で「県連の再建強化」をめざして再出発した。一方前者(総同盟解体派)は、六月に県連解散大会を挙行し、地評を軸とした県下労働組合運動の統一を訴えた。地評の結成大会では、「民主的労働組合が単に形式的に合同し反共的性格と機能を持つというだけではその役割を果たすことが出来ない」という主張のもと、平和四原則に根ざす闘いと同時に、「労資協調主義に陥らず」「職場闘争に主体をおき、これにより盛上る闘争を地評に集約するとともに総評に反映する」ことを決定した。 誕生間もない地評は、一九五一年八月に全自動車労組などの中立組合や宗教者団体とともに県平和推進会議を結成して平和運動を推し進め、秋期からは、立案された労働諸法規の改定に反対するたたかいを、中央の労闘=労働法規改悪反対闘争委員会に結集してくりひろげた。翌五二年の「労闘スト」は、企業整備とレッドパージによって押し込められた労働組合運動が、地評を中心に戦闘性を回復したことを明瞭に示すものとなった。講和後の「体制確立」を目標として、政府は講和条約発効直前の一九五二年三月に破防法(破壊活動防止法)案提出を決定し、さらに公益事業における争議の規制をめざす労調法(労働関係調整法)など諸労働法規の改定、ならびに新設を計画したが、労闘、および五二年一月に地評・新産別・中立組合によって組織された県労組春季闘争委員会に集まる労働組合は、「労働者弾圧法規反対」を春季闘争の軸としてたたかうことを決め、四月から六月に四波にわたる「労闘スト」を実施した。四月十二日の第一波ストでは、全自動車労組日産分会をはじめとする県下十二の労働組合が二十四時間ストを行い、これを皮切りに、ストライキ、職場集会、宣伝活動が六月二十日の第四波統一行動までとりくまれた。この間、日経連に加盟する神奈川県経営者協議会がその行動を「単なる政治スト」とみなし、第三波ストの実施時には損害賠償を要求するよう決定するなど、労闘ストにはさまざまな圧迫が加えられた。 だが、そのような圧迫の中で統一行動を実施し、しかも総同盟系を除いてほとんどの組合が参加した県下の労闘ストは、労働組合運動が攻勢への転機をつかむたたかいとなったのである。 電産ストと日産争議 経済的闘争の分野でも、講和条約発効の前後から労働組合側の攻勢が行われだした。その労働攻勢とは、次のような特徴をもつものであった。 第一は、「労闘ストにからむ賃金闘争」として進められた一九五二(昭和二十七)年春季賃上げ闘争において、従来とかわり、マーケット・バスケット方式によってくみたてた理論生計費による要求が掲1952年9月2日電産鶴見分会のストライキ 機関紙連合通信社蔵 げられ普及したことである。この方式での賃金要求は、たんに物価を追いかけるベースアップではなく、労働者の生活水準引上げの突破口たる最低賃金制の実現をめざすたたかいにつらなるものであり、労働者の実際の生活に基づき、広範な闘争をくりひろげていこうとする組合側の意図に根ざしたものであった。 第二は、労働協約を産業別に統一化しようとする動きがあらわれたことである。これは組合の企業別的な性格を打破しようとしたことの反映であり、古河電工横浜電線労組では、地評の組織をあげた応援をうけて、長期にわたる協約闘争を実施した。第三は、講和条約発効以後、駐留軍関係労組の運動が活発化したことである。一九五二年秋期には、賃金増額と労務基本契約改訂をめぐる要求を掲げて、全駐留軍労組神奈川地連が二波にわたる大規模なストライキを実施した(『全駐留軍労働組合運動史』第二巻)。 このような組合側の攻勢のなかで一九五二年九月から電産労組のストライキが全国で行われた。賃金の増額と労働協約改訂を要求し、電産神奈川支部は事務部門・電源部門のストライキ、そして停電を十二月まで十五波におよぶ行動として実施した。電産ス1953年日産争議における労使の激突 『神奈川県労働運動史』第2巻から トは総評の呼号する「総資本との対決」の先端に位置するものと目され、県下においても、地評の強力な支援が行われた。だが、ストが長期にわたるにつれ電産は労働組合運動内部で次第に孤立し、さらにはストの影響をうける商店連合会や中小企業家団体の反対が強まるなかで、電産労組の闘争力は弱体化せざるをえなかった。そしてこの電産ストは、総評・地評内にその運動方向に関する批判勢力を生みだす一因となり、さらに大企業労組と中小企業労組間の〝離間問題〟がこれを契機にして生じてくることとなった。 電産ストの行われた翌一九五三年から、朝鮮戦争特需の減少により国際収支の悪化をまねいていた日本資本主義は、MSA(相互安全保障法)の受入れをはかる一方、輸出力増強を軸にする「経済自立」をめざしだした。そしてこうした方向に沿い、基幹産業の合理化と生産性の向上にむけ、大規模な〝企業整備〟が計画され実行され始めた。この企業整備(第二次)は、「職場秩序の確立」を一つの要点としており、その点をめぐる労資間の対立を象徴したのが、五三年五月に始まる日産争議であった。全自動車労組日産分会は、一九五一年の片面講和反対闘争ではストライキを実施してその名をとどろかせ、組合の「職場委員会」が「生産の主導権」を握ると称されるなど、当時最強の組織として知られる労働組合であった。争議は、全自労組の賃上げ要求闘争が、日産分会のみを残して妥結したなかで、会社側が課長の非組合員化等、組合活動への制約を行おうとする攻撃を始めたことに端を発していた。七月半ばから組合が横浜工場などで無期限ストライキに突入すると、会社側はロックアウトを実施してこれに対抗した。きわめて組織的な第二組合の発生と台頭のなかで、争議は日産分会側の全面的な敗北となって九月に終息する。日産争議は、会社側の次のような発言、すなわち、「(大概のことは)コップの中の嵐の様な小さい問題で、問題は組合の方針にある」(『神奈川地労委資料』)に示されたとおり、自主的・戦闘的労働組合の排除を通じ、資本側からする「職場秩序の確立」をはかるためにひきおこされたものであり、その敗北は、資本の新たな飛躍にむけたひとつの前提を作り出すこととなったのである。 全労神奈川の組織化 一九五四(昭和二十九)年の神奈川地評第四回大会は、日産争議をはじめとする第二次企業整備下の資本攻勢を、同年三月に締結されたMSA協定のもとで、「軍事インフレから再軍備を中心とした合理化、即ち産業・経済の再編成」をめざすものであるととらえ、「生活を守る経済的な闘いは、〝アメリカの要請による日本の再軍備〟という問題にブツからざるを得ない」「MSA体制は労働者、農漁民、市民、中小企業の国民各層にたえがたい収奪と圧迫を加重し……各層の生活要求を益々はげしくさせ、その政治的自覚と抵抗をたかめることによって闘争の統一条件を増大せずにはおかない」と、組織労働者を中心に農漁民、市民などをまきこんだ統一行動によってたたかいを進めていく方向を打ち出した。同時に、この大会では、第三勢力の立場から平和を維持しようとする考えに則り、社会主義国をも平和勢力と規定するという従来とは異なる〝平和勢力論〟が採用され、地評が再軍備阻止、「基地体制の粉砕」、平和経済実現の組織者となってたたかうことを決めた。岸根基地をはじめとする一連の基地反対闘争や原水爆禁止運動で多くの労働組合が活発な行動をなしたのは、地評のこのような路線の反映であった。同年の夏季闘争に際しては、地評は「国鉄、日産、中小企業労働者防衛大会」を開催し、労働組合と左右両社会党、共産党などの代表五百名を集めて、「住民の要求」と結合させ「地域の共闘」によって「攻撃をハネ返し」ていくことを決定した。 だが、地評のこうした動きは、一方で傘下の労働組合のうちに対立をひきおこし、その分化を促すこととなった。これよりさき一九五二年の電産・炭労争議に対する批判を契機にして、海員・全繊・全映演・日放労の右派四単産が総評の方針に反対し全国民主主義労働運動連絡協議会(民労連)を結成するという事態があらわれており、これに呼応して県下でも海員組合横浜支部などと総同盟県連傘下労組の計三十一労組が神奈川県民主主義労働組合協議会(県民労協)を設立していた。民労連の結成自体はただちに総評と対抗する新たなセンターの設立をめざすものではなかったが、その後の総評主流の〝容共的立場〟を前にして、一九五四年四月、総同盟・全繊・海員・全映演によって全日本労働組合会議(全労会議)が結成されるに至った。そして県民労協は、全労会議の地方組織への改編を行い、同年九月に全労神奈川地方会議が設立された。全労神奈川は、その運動方針において国民経済力を考慮した賃金闘争の推進ならびに生産性向上にむけた資本との協力を打ち出して地評と対立し、また政治的闘争の分野では右派社会党との「強力な連繋」を掲げた。いま五四年の系統別組合人員数をみると、地評九万九千八百九十、全労三万八千九百九十八(総同盟二万二千九百二十四を含む)、県労会議四千七百八十、中立その他十六万千五百十八であり、全労神奈川は地評の三分の一をこえる、総組織人員数の一三㌫近くの勢力として出発したのである。 二 春闘労働組合運動 春闘の開始 これまでにみた一九五三年から五四年にかけての地評の路線は、高野実総評事務局長のもと総評のうちに形成された〝ぐるみ闘争〟とよばれる運動路線の反映であった。〝ぐるみ闘争〟とは、産業別闘争が実質上組みえない状況のもとでは、家族ぐるみ、地域ぐるみで、〝国民運動〟を通じ労働組合の闘争力を高めていこうとする路線のことである。だが、こうした運動路線に対し、総評の内部に、それが組織の力量をこえた政治的カンパニアであるという批判を行い、労働者の実生活に根ざした賃金闘争を産業別共闘によって推進すべきだと主張する勢力が台頭した。この勢力は、一九五四年の暮、合化労連・炭労・紙パ労連・私鉄・電産の五単産が共闘し五五年春期に賃上げ闘争を組んでいくという方向で運動を進め、実際に五五年の春期賃上げ闘争では、さらに全金・化学同盟、および中立の電機労連を加えた八単共闘によって〝産業別〟のたたかいがとりくまれた。これが現在に至る〝春闘方式〟の開始であった。ちなみにこの一九五五年には、総評内部のリーダーシップも〝ぐるみ闘争〟推進派から〝産別勢揃い春闘〟派へと転換している。 地評には、このうちの前者、すなわち〝ぐるみ闘争〟の支持者が多く、五五年春闘では組織をあげてとりくむといった動きがとりたててみられたわけではなかった。だがこの年の春闘は、県下においても上述した単産に所属する次の労組を軸にして展開された。私鉄総連=京浜急行労組、東急労組東横支部、江の島鎌倉観光労組、箱根登山鉄道労組。合化労連=東海電極労組茅ケ崎支部(スト)、昭和電工横浜・川崎労組、日本カーボン労組横浜支部(スト)、東洋高圧労組大船支部(スト)、日本カーリット労組保土ケ谷支部(スト)。化学同盟=パイロット万年筆労組、大日本塗料湘南・東部従組、コカコーラ労組(スト)、日本タイヤ労組、横浜ゴム労組平塚支部、日加工業労組、東洋化学労組。電機労連=日立総連戸塚・川崎労組、日本ビクター労組、富士電機労組川崎支部、日本コロンビア労組、東洋通信機労組、日本通信工業労組、石川島芝浦タービン労組、富士通信機労組川崎分会、三菱電機労組大船支部、日電玉川労組、帝国通信工業川崎労組(スト)、芝浦製作所大船労組、東芝労連傘下各労組。 このうちの東芝労連傘下労組についてみると、「政府、独占資本家の賃金抑制、実質賃金切り下げ政策に対し」「今次春季賃金闘争は過去の電(機)労(連)統一闘争の体験春闘会場に参集した日本鋼管川鉄労働組合 『神奈川県労働運動史』第3巻から を生かし、電労の指導統制下の組織化を確立し、闘争実態としては高度な統一的共闘方式に基く闘争を主眼とする」(『労連八回大会議案』、『労連ニュース』一九五五年二月七日号)と、ヤマ場を設定した統一闘争をもってたたかいを進めることを眼目に、〝春闘〟がとりくまれた。 翌一九五六年には、春闘は官公労を加えて官民共闘へと発展し、このようななかで、地評も地域共闘の推進をはかるという立場から県下春闘の組織者となって、減税、基地反対などと「結びつけて広範な闘い」を推進し始めた。 生産性向上運動 総評・地評に結集する労組を軸とした春闘に対し、全労側はそれが産業・企業の実情を無視した画一的な闘争であるという批判を行った。もっともこの時期、総評・地評と全労の間の決定的な対立点となったのは、資本の側からする生産性向上運動にいかに対応するかであった。そしてこの点は、同時に、労働組合存立の意義にかかわって長期にわたる分岐をもたらすことともなったのである。 一九五三年末、アメリカ対外活動本部の提起にかかる生産性向上運動は、一九五五年五月、「資源、人力、設備を有効かつ科学的に活用して生産コストを引下げ、もって市場の拡大、雇用の増大、実質賃金並びに生活水準の向上を図り、労使及び一般消費者の共同利益を増進するもの」であるという趣意書のもと、日本生産性本部が設置されたことによって国内で本格的な始まりをみた。県下においても、翌五六年二月に「労・使・公益(学識経験者)三者」による神奈川県生産性協議会が設立されたが、その創立宣言に「労使協力を基盤とする本運動を通じ、コストの低下、雇用の拡大並びに賃金の増額を図」ると記されていたことからうかがわれるとおり、運動の眼目は、生産性向上が労使双方の利益であるという思想のもとに労働者を動員し、協力を獲得しようとするところにあった。そしてその中心的な手だては、「生産性向上のための具体的な方式は、各企業の実情に即して労使が協力して、これを研究し協議する」という活動方針が示すように、企業内の〝労使協力〟であった。 生産性向上運動に対し、総評・地評は、それが「米日独占資本の統制する新型の合理化運動」であるととらえ、かつ運動組織も資本家の専断下にあって「民主的運営は望めず」、雇用増、生活水準向上の保障もないとして抵抗の姿勢を強め、「反対闘争を組織」することとした。他方全労・総同盟は、「生産性向上」が賃金増額・労働者の生活向上に有意義であり必要であるという観点から、企業段階、さらには県・国民段階の運動として民主的に推進していくべきだと主張した。そして神奈川県生産性協議会には、全労神奈川・総同盟県連ならびにその傘下六労組の代表が労働者側理事として加わった。生産性向上運動をめぐる地評と全労神奈川の対立は、それが組合運動の基本にかかわるものだけに根深く、一九五六年の県統一メーデーでは、スローガンの一つとして「生産性向上運動粉砕」(地評)と「生産性向上運動で雇用量の拡大と産業の振興を」(全労)の両案が提出され、結局両案とも削除された。 鉄鋼争議 官公労が参加して二年目の一九五七年春闘で、政府は官公労働者の〝実力行使〟に対し大量の処分を実施した。これに抗議して、国労・全電通・全逓・全専売の神奈川県組織と神教組などが処分反対闘争を推し進めた。そして翌五八年の春闘では、総評・地評は民間産業の労組を前面に立てた方式でとりくんだ。しかし五八年の春闘は、それをリードした私鉄総連にあってさえ、中央統一交渉を離脱した東急労組が高額回答により早期に妥結するなど、労働者側の足並みが十分に揃っていたわけではなかった。つづく一九五九年春闘は、総評・地評が官民の〝総がかり〟で長期にわたりヤマ場を設ける方針をとり、「総がらみ春闘」とよばれた。だが、「総がらみ」とは、拠点たりうる単産が存在していない状況の反映に他ならなかった。もっともこの間、春闘に参加した県下労働組合人員数は、一九五六年の七万五千人から一九五八年に十五万二千四百三十五人へと増加し、一九五九年からは当初より加わっていた電機労連を軸に中立労連傘下の労働組合がいっせいに春闘へ合流した。幾多の困難を伴いつつ、春闘は確実に拡大したのである。 ところで一九五九年の春闘に際し、「地評各地区労中立その他の労組をもって」、従来の〝春闘推進会議〟にかわる「春季闘争神奈川共闘委員会」が組織された。その組織化は、もとより春闘に加わる県下の労働組合が著増したためであるが、直接の契機となったのは鉄鋼労連傘下の労組が春闘に合流したことであった。鉄鋼労連は一九五七年の秋期年末闘争において大幅な賃金増額と退職金増額を要求して十一波におよぶ長期のストライキを実施した。県下では富士製鉄川崎、日本鋼管川崎・鶴見の労組がこれに加わっていた。しかし会社側の拒否回答を打破することができず、そこで一九五九年に統一春闘へと合流したのである。この年、日本鋼管川崎・鶴見労組(一万七千二百人)と同臨時工労組、富士製鉄川崎労組(三百五十七人)、ならびに特殊製鋼、日本鋳造の労組は、賃上げを要求して団体交渉を行ったが、進展はみられず、二月二十五日の二十四時間ストライキを皮切りに実力行使へと入った。しかし鉄鋼労連のうち主力をなした八幡製鉄所労組が戦線から後退し、日本鋼管、富士製鉄の労組は二か月にわたるたたかいを実施したにもかかわらず、労働者側の組織の足並みの乱れから会社側回答を打ち破れず、結局この年も敗北せざるをえなかった。以後、鉄鋼業における春闘には、いわゆる〝一発回答方式〟が定着していくこととなる。 鉄鋼業労働組合運動のこうした状況の背後にあったのは、生産性向上運動と並行して進められた労務管理の〝近代化〟であった。それは、組合組織と労務管理末端機構が実質上重なりあうという性格のものに他ならず、鉄鋼業を嚆矢に、重化学工業、大企業に次第に広がっていくこととなる。そしてまたかような労務管理のあり方が、一九五五年を起点とする日本経済の〝高度成長〟を下支えしたの1959年第30回メーデー横須賀地区集会 県史編集室蔵 である。 安保闘争と労働組合 春闘が始まり広がった一九五〇年代の後半、総評・地評は、政府側からするいわゆる〝逆コース〟攻撃に反対し、〝平和と民主主義〟を守ろうという国民・県民運動の牽引車としての役割を果たした。一九五二(昭和二十七)年初頭、破防法案の登場に前後してマスコミが命名した〝逆コース〟とは、戦後の〝民主化政策・改革〟を否定する路線を意味し、人びとにとっては、再軍備、憲法改定問題、教育二法、勤評、警職法、そして一九六〇年の日米安保条約改定へと至る一連の動きがその具体的なあらわれであり中味であった。〝逆コース〟に反対する運動を実際に中心となって担い推し進めたのは、労闘スト、〝ぐるみ闘争〟のなかで台頭し、五〇年代後半に影響力をひろげた「職場活動家」とよばれる人びとであった。彼らは、平和、独立、民主主義擁護、生活向上を柱に、「独占資本並びに政府の反動政策に対して」「反撃をくり返」すこと、そのためには「労働戦線の統一をすすめ、国民との戦線を強化していくこと」を強調していた(『神奈川地評十五年史』)。 〝逆コース〟の強行は、一昔前の戦時下の悲惨な体験をよびさまし、人びとに大きな危惧をもたらした。そして、これに反対する運動が、広範な国民的・県民的土壌で育成され展開された。 勤評、警職法、ならびに六〇年安保闘争の具体的な様相は、本巻所収の「平和運動と基地反対闘争」「教育条件の整備」で論じられているので省略し、ここでは六〇年安保闘争における労働組合側の、直接には地評の闘争「総括」、ことに弱点とされた問題についてみておきたい。 一九六〇年七月に開かれた地評第十回大会は、安保闘争の成果として、統一行動を通じ「新安保を廃棄する条件」をつくり出したこと、岸首相を退陣させたこと、アイゼンハワー米大統領訪日阻止により「アメリカ帝国主義を後退させたこと」、そして「アメリカ帝国主義と日本独占資本の二つの敵を明確にし」たことをあげた。他方弱点は、「全産業にわたる行動」、ならびに「安保闘争と、労働者の生活と権利を守る闘いとの結合」の「不充分」さであるとした。ここで弱点としてあげられたことのうちには、労働組合が労働者の組織として独自に闘いを進めていく上での弱さがはらまれていた。とくに五月十九日の自民党〝強行採決〟を契機として、安保闘争は労働者、そして県民・国民の間に未曽有の速度と規模で広がったが、「自然承認」後、潮の引くような後退をみたのも、右の弱さに深くかかわっていた。労働者の安保闘争への加わりかたは、〝国民〟〝県民〟のひとりとしてであり、組合運動自体を充実させるものには必ずしもなりえなかったのである。安保闘争は、いわば大上段にしかけられた攻撃に対し、労働者・国民がいかに大きな抵抗を行いうるかを如実に示した。同時に、それは、たたかいの中軸たるべき労働組合運動が内包する弱さを反映し、あらわしてもいたのである。 三 労働組合運動の再編 春闘の拡大 一九六〇(昭和三十五)年の安保闘争以後、地評は賃上げを主要求とする産業別共闘体制の強化をはかった。それは、安保闘争によって倒れた岸内閣にかわり「所得倍増計画」を掲げて登場した池田内閣に対し、地評が大幅賃上げ・最低賃金制獲得・社会保障拡大・重税と物価値上げ反対のためにたたかい、その中で労働者の団結を強化し、未組織労働者の組織化と「県民の抵抗体の組織化」を進めていくことが必要であり、こうした運動の中心に座るのが春闘を柱とする産業別統一闘争であるという位置づけによるものであった。一九六一年の地評第十一回大会では、「労働組合は産業別に整理統合されることが大切であるから地評内部においてももちろんのこと、中立の労組にもよびかけ、産業別闘争に参加させる」ことが強調された。 県下における産業別共闘は、一九六〇年公務員共闘、六一年(京浜)金属共闘・交通共闘、六二年金融共闘・化学共闘・港湾共闘と広がり、また各地区労を軸に地域共闘が作られて県春闘共闘に結集した。 こうして、春闘に参加する労働者の数は、いっそう増加した。それは一九六四年に地評主導の県春闘共闘傘下で三十二万人に達し、しかも六〇年からは全労系の電労連・自動車労連・全金同盟などが「春の賃上げ闘争」を行うなど、事実上春闘の一翼を形成することとなったために、「春闘は賃上げ交渉の日本的形式として社会的に慣行化」(兵藤釗『労働組合運動の発展』)していった。そして実力行使を含む労働者のたたかいによって、この時期にほぼ毎年、前年をこえた水準での賃金上昇がかちとられるようになった。とはいえそれが、〝高度成長〟下の労働力不足という条件に支えられたものであり、労働者の主体的な運動による成果とは完全にはいいきれないことに注意を払っておく必要があろう。 ところで、一九六二年から春闘の中軸に位置したのは、重化学工業の労働組合、ことに金属産業の労組であった。それは、公務員や交通産業の労組が労働委員会仲裁によってさほどの賃上げが実現しえない事態のもとで、高度成長を主導するこれらの産業で高水準の相場を形成し、他産業に春闘にとりくむ労働組合 『東芝労連新聞』昭和37年2月15日付から 拡延することが有利だという判断に基づいていた。だが一九六二年の春闘に際し、このもくろみは実現しなかった。なぜならば、県下のみならず全国の期待を集めた日本鋼管川崎労組において、鉄鋼労連拡大中央闘争委員会がストライキ実施を確認した日に、スト回避の動議が四つの職場から提出されて可決され、これを合図に鉄鋼労連のスト体制がもろくもくずれたからである。結局鉄鋼労連は、企業側の回答―低額回答であり、かつ「職務給」の導入を伴う回答をストライキなしで受け入れて妥結した。 一九六三年の春闘では私鉄が先頭にたったが、一九六四年から再び重化学工業の労組がその中心に位置した。「闘いのなかで、基幹産業―重化学労働者を中心にすえ、長期強じんのストライキで不充分な金額では妥結せず高原闘争で闘う」というのが、六四年春闘における地評の「基本方針」であった。この春闘では、鉄鋼大手企業が「予想をこえた高額回答」をだしたために鉄鋼労連はストライキを中止した。だが、公労協と交運共闘は四月十七日に統一ストを計画し、その実現にむけ体制を整えた。もっとも四・一七ストは、これを「挑発」だとする共産党の声明(四・八声明)が発表され、県下では八万三千人の参加する闘争が実施されたものの、全国的におおいがたい動揺のなかで収束するに至った。こうした困難さを伴いながらも、六四年春闘では、とくに中小企業の労組が健闘し、県下四百五十八組合の平均妥結額が三千三十五円、賃上げ率が一二㌫という成果が獲得され、六〇年代後半の、より高額・高率の賃上げへの一つのステップが形成された。 中小企業争議 一九六〇年代の前半は、大企業における組合運動が春闘を通じたたたかいになり、労資関係機構の整備とあいまって、個別企業の大争議がみられなくなる時期であった。だが、この間、争議件数は中小企業を中心に年々増加する傾向を示していた。それは、〝高度成長〟の過程で〝景気調整〟のしわよせがこれら中小企業に集中したためであり、中小企業では、経営不振による企業閉鎖、倒産、人員整理を原因に深刻な争議が頻発した(『神奈川県労働運動史』第四巻)。いくつかの争議についてその様相をみよう。 一九六一、六二年には、企業閉鎖・会社解散によって、三協紙器、ウルベ帽子店、大和電気、インペリアル工業などで相当長期にわたる争議がおきている。ウルベ帽子店では、一九六一年十一月、会社側が「社長が老齢で適当な後継者もな」いため翌年一月で会社を解散すると発表したことが、争議の直接の原因であった。四十四人で組織されていた地評傘下全国一般所属のウルベ帽子労組は、「社長個人の都合で会社を解散し、全員を解雇することは、社会的にも人道的にも由々しい問題」であるとして解散反対を主張、解雇予告書を一括返上し、無期限ストライキ・職場占拠へと入った。この間、地評・横浜地区労・全国一般・社会党・共産党などにより「ウルベ闘争支援共闘会議」が結成され、同労組のたたかいをバックアップした。だが会社側は解散の計画をかえず、そのために組合は地労委に不当労働行為の申立てを行い、地労委をはさみ、以後数年にわたる交渉が始まった。三協紙器の場合も、その発端は「経営不振」を理由に会社側が全従業員を解雇しようとしたことにあった。だが、地評傘下紙パ労連加盟の同社神奈川工場(座間町)労組の組合員九十二名は、それが「労組の破壊を狙いとする擬装解散である」ととらえ、工場占拠を実施して、会社財産仮差押申請を行い、法廷闘争を軸にたたかいを進めた。三協紙器工場の座間町への進出は町当局が誘致したものであったため、一九六二年からは座間町と県労働部が「公共的見地から両者間のあっ旋を」試みた。しかし、工場の土地と設備の所有権はたびたび移転し、所有権者の思惑が絡みあい、「あっ旋」は著しく困難な状況におかれた。労組側は、大口債権者本州製紙の責任による工場の再開と全員の復職とを要求し、一九六五年まで四年間にわたるたたかいをつづけた。 中小企業の争議は、もちろん労働者側の防衛的なたたかいのみではなかった。一九六四年の権田金属、佐久間鋳工所などの争議は、賃上げを主要求とする労働組合の攻勢的なたたかいであった。だが、中小企業争議の多くは、倒産・経営規模縮小などによって労働者が追いこまれた際に始まっており、それゆえ労働者にとり著しく困難な条件のもとでのたたかいであることが、争議の大きな特徴をなした。また、中小企業では、組合の組織化自体への反対をはじめ組合活動に対する企業側の介入を原因とする争議が、しばしば発生した。一九六四年七月、組合三役に対する会社側の解雇により始まった武蔵交通の争議はその一例である。この争議では、組合側の団結の維持の上になされたねばり強いたたかいと地評神自交の支援によって役員の解雇は撤回されたが、同種の争議は、多くの場合会社側が偽装倒産などの手段さえ用いて組合を排除することに努め、それを実現した。このような争議における労働者側の主要な武器は、組合内部の団結と、地域単位での共同闘争であった。六〇年代の前半には、県下各地にそれぞれの中小企業労働組合を「守る会」が数多く作られている。 神奈川同盟の発足 一九六一年十月に開かれた総同盟神奈川県連大会は、「県連の具体的活動」の柱として産業別組織確立を掲げた。それは、生産性向上運動を推進し「労働者の生活向上」をはかるためには、「企業内労使協議制」の徹底とあわせて、これを「同産業、同地域などの労使協議制にまで発展させてゆくよう努力する」ことが必要である、とされたからであるが、同時に、総同盟県連がその一翼を担っていた全労神奈川地方会議がいち早く産業別の整理・組織化方針をうち出して「総同盟との組織競合」が顕在化しており、総同盟県連が組織勢力で優位にたつためには是が非でも産業別の組織化・整備を急がねばならなかったためである。全労と総同盟の組織競合は、神奈川のみではなく、全国にみられた現象であった。そこで一九六二年一月の全労全国大会は、この対立関係に終止符をうち「民主的労働戦線のための組織の再編」を決定し、総同盟が全労からひとまず離脱した上で、全労・総同盟、ならびに全官公の三労組が並行した新組織を結成する計画を立案した。この計画は、全国的には四月に全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)の設立となって実現したが、その県内組織結成は、全労と総同盟の「組織の競合関係が非常に悪化し」、また全官公の地域組織が存在していない神奈川ではなかなか進まなかった。ようやく一九六三年の九月になって、神奈川県労働総同盟組合会議(神奈川同盟会議)が結成されるに至るのである。なお、県下の両組織による同盟会議結成が遅れたのは、「組織の競合」に加えて、相対的にみて、産業・企業系列下の組織化の重視(全労神奈川)と、地域単位の組織化の重視(総同盟県連)という、組織化方針における力点の違いが存在していたからである。 神奈川同盟会議結成の翌一九六四年十一月、総同盟・全労両組織は解散を決定し、組織的統合の上に全日本労働総同盟(同盟)が発足した。一九六五年一月には、その地方組織である神奈川同盟が総同盟県連と全労神奈川の組織合同を通じて設立されている。同盟の発足は、直接には全労内部の組織競合の解決にあったが、同盟会議結成時から、方針として「民主的労働戦線」の強化・結集がうたわれていた。神奈川同盟の創立大会では、「地評の方針とは堂々と対決」しつつ、「組合運動民主化」、ことに官公労に対する「民主化」を促進して組織の拡大をはかろうということが力説された。またこの創立大会では、日本経済が貿易・為替の自由化により開放経済体制に移行しつつあるという状況をふまえて、労働組合のいわば〝社会的責任〟が強調されたことが注目される。発足時の神奈川同盟には、自動車労連・海員組合・全繊同盟・電労連・新国労・全民労・食品労組・造船総連・化学同盟・同盟一般・同盟金属・同盟交運・郵政労組・全映演の各県下組織・所属組合と、三崎船員組合・大和プレス労組の計十一万千七百四十三名が結集した。それは県下組織労働者の二〇㌫近くに達しており、ここに現在にまで至る、地評とならぶ県段階の一方のセンターが確立したのである。 同盟の発足とあわせて、この時期に「労働戦線の再編」を促進する重要な組織が結成された。IMF(国際金属労連)JC(日本協議会)がそれである。IMF・JCは、中立労連の電機労連、新産別の全機金、同盟会議の造船総連、総評鉄鋼労連の八幡製鉄、純中立の全国自動車などが加わっていたことからうかがわれるとおり、既存のセンターの枠をこえた組織であり、一九六四年五月の結成大会の宣言は、「日本の国際的立場と国内労働運動の基本方向が一致する働く者の権利と自由が保障されている民主的な労働組合」たるIMFのもとで、「自由な労働運動の発展」をめざすとしていた。同年十一月に設立されたIMF・JC関東地方連絡会議をみると、そこでは、自動車労連・電機労連神奈川地協・日本鋼管製鉄労連など、神奈川県下の労働組合がその主力であった。 IMF・JCは民間金属関係大企業の労働組合をほぼ網羅するようになり、一九六七年からは春闘においていわゆる〝JC春闘〟が始まるのである。もっとも、それは同時に、一方でJC(ならびに同盟)の路線に対する批判が、他の労働組合員の間からおきる過程でもあった。 労政行政 ここで一九五〇年代半ばからの労政行政を一べつしよう。前章第三節でみたとおり、五〇年代の前半期から労政行政の重点はしだいに中小企業へと移り、またその内容は〝集団的労資関係〟から未組織事業所における労務管理上の問題におよぶようになった。そして新たに労政行政の柱に据えられ地労委事務局もあった神奈川勤労会館 『神奈川県労働運動史』第2巻から たのが労働福祉、ことに大企業に比べ絶対的相対的に遅れていた、中小企業を対象とする労働福祉であった。神奈川県は、一九五九(昭和三十四)年に中小企業退職金共済法が制定されると、同制度の普及、加入促進を働きかけ、翌六〇年からは県営事業として「中小企業福利施設改善融資制度」を設置し、福利施設改善のための資金援助を行いだした。 「労働教育」の分野でも、中小企業経営者を対象に労働講座が開かれるなど、中小企業に行政の力点がおかれるようになった。一九五七年からは、「労働省の要望」をうけて「中小企業労務管理改善意向調査」が行われている。なお、その際の県の意図は、「労使関係の安定、労使協力体制の確立を促進し、中小企業における生産性を高め、企業の繁栄と労働者の経済的地位の向上をはか」っていくことであり、このための「意向調査」であった。 一九五六年には、中小企業労資関係の改善をめざし、労働相談員・労働問題指導員・民間相談員を配備する「中小企業労働相談所」が、各労政事務所に併せて設置され、各種の「労働相談」が行われることとなった。ちなみに相談総件数の六割以上は経営者から持ち込まれたものである。中小企業労働相談所は、日常から労働者の状態に注意を払うため、一九五七年以降、二百近くの中小企業を対象とする「従業員意向調査」を実施している。 地方労働委員会の活動も、この時期には中小企業の争議が主要な対象となった。六〇年代に入り、前述したように県下では中小企業争議が増加したが、こうした状況に応じて神奈川県では国へ労働委員会委員数の拡張を要求した。しかし、その実現がすぐには難しかったために、一九六二年に全国初の「特別調整委員」を設置して、労働争議の「調整をさらにいっそう積極的に推進」することをめざした(『神奈川県労働行政の進展』)。この時期、地方労働委員会への不当労働行為申立件数自体は、きわだった変化をみせていないが、総じて申立てられた問題の複雑化と「解決」までの長期化が大きな特徴であった。 第五節 工業化と公害問題 一 取締体制から調整体制へ ふたたびはじまった被害 ふたたび県下で工場公害が政治問題化したのは、一九五〇(昭和二十五)年の後半、朝鮮特需ブームで生産施設がいっせいに稼動しはじめたころであった。同年七月に川崎大師観音町の住民たちが、附近工場から流れ出た有毒ガスで農作物に被害を受けたと、市当局に公害取締りの請願を行った。ばい煙にまかれて満足に食事さえとれなくなった住民たちの「集塵器を設置させよ」との要求がそれに和し、川崎市は県当局にその処置をあずけたのであった。その前年には東京都が「工場公害防止条例」を制定しており、県当局もそれまでのように「工場法」失効による警察部の取締権限消滅を盾に、事業主に自粛を求めるだけでは済まなくなっていた。とくに大企業の工場が蝟集する川崎大師から鶴見にかけての臨海工場地帯の住民の動きは、治安問題にも連なっていたと思われる。ともかく十一月五日の『神奈川新聞』は「工場公害取締れ」の記事をかかげ、県当局が条例制定の準備をはじめたことに期待する旨を報じている。 当時、川崎大師から生麦にかけての海岸では工場群の休眠状態にともなって汚染から回復した海面に漁師が群がり、のりや貝類の養殖が空前の活況を呈していた。汚染は一九四八年ごろから徐々にはじまっていたが、煙もなくうららかな陽光を浴びた大師ののりは順調に育ち、林立するひびを縫って「新のり」を採取する光景は、正月に欠かせぬ風物詩になりつつあり、五〇年に生産された「浅草のり」は千五百万枚をかぞえる(『川崎市史』)。その後、のり漁場はクサレの頻発に追われて東京湾内を転々と南下して横浜市南端の金沢に至り、七〇年代には観音崎を回って金田湾にまで後退を余儀なくされた。その後退は、そのまま農漁業に君臨した工業生産にひきずられて進行していく公害汚染の深まりを示していた。住民の健康・生業の優先か、産業発展の優先か、その分岐点をなしたのが翌五一年である。 産業の優先か健康の優先か 住民の声もあり、一九五〇(昭和二十五)年末から県当局は取締条例の制定準備を開始し、それまでに工場に関する多くの苦情が持ち込まれていた経済部に立案を行わせることにした。そこで経済部は五一年二月に経済部長名で横浜・川崎両商工会議所会頭に「工場等の公害防止方法としての法的措置について」意見を求めた。ところが三月二十日の川崎商工会議所の回答は、「川崎市には大中小八百余の工場、会社があるが労働基準法に拠って安全、衛生の施設を、経済の許す限りに於て完備の方法を講じているから特に公害に関する問題は起っていない」と、法的規制を不要とするばかりか、防除設備・下水道設置を県に要請するものであった。その「『工場公害防止条例』の如き法令を公布して督励したとすればその内容によっては問題の解決した処は再燃するだろうし些少の事件も殊更紛糾を起し易く又第三者の埋立て前の金沢文庫海岸でノリをとる漁民(1964年) 日本機関紙協会神奈川県本部蔵 政治運動の具に利用される虞なしとしない」との情況判断は、そのまま川崎市の民主化運動の昂揚と工場側の危機感を伝えている。こうした回答を受けた県経済部は、法制化の主管を衛生部にうつし、住民の環境衛生という観点から工場公害の規制案がつめられることになった。 県衛生部が八月県会への上程をめざして条例案作成にのりだしたことについては、戦後進駐軍によって公衆衛生の観念が持ち込まれ、その線に沿って東京都が条例をつくり、また六月には経済安定本部が水質基準の設定を勧告するという時代背景があった。そこで、衛生部は、大阪府条例も参考にして「汚物掃除適用地内のみの規定では、環境衛生面から見る時寒心にたえぬので、この条例で公害(ガス、粉塵、煤煙、騒音、廃水など)を防ぎ公衆衛生の保持及び福祉増進を図」りたい、との提案理由を付した十七条からなる草案を作成する。この条例草案は許可制をとった都条例を緩和して公害防止管理者に防止措置を届出させ、知事の改造命令違反に罰金刑を設定していた。そして公害審査会(県議、学識経験者、第三者)と公開聴聞会を設け、工場・住民双方の異議申立てを取り入れるという公開性に新機軸を見せていた。こうした民主的制度を取り入れたのは、たとえば横浜市磯子区の太陽石油の騒音公害について、地元区長、経営者、住民代表が三者で協議して防止措置を講じさせ、問題をたくみに解決していたからであった。しかもこの制度には横浜・横須賀両商工会議所などが賛成していた。 この一九五一年八月の県会で内山知事が京浜商工業地帯の重点整備方針を打ち出したことには注目しなければならない。そこで表明されたのは、十月の『神奈川県産業構造の基本問題』が描き出す日本の経済自立ビジョンに沿った工業立県構想であった。とうぜん、工業力育成と国際貿易の振興がその中核を占めるわけであり、この時点からは横浜商工会議所が国際貿易復興の夢を託して公害防止条例草案批判のイニシアティブを取るようになる。そこで、こうした方向づけが示唆された八月県会での条例案の提出見送りは、それまで公害取締運動を行ってきた、川崎・鶴見の住民を憤激させた。八月二十九日に鶴見区では区選出県市議会議員十六名がばい煙防止の決議を行い、三十日には二十二町の代表約百名が知事に陳情をして、公害防止条例の早期制定を求めた。だが、時すでに遅く、公害条例の方向づけは取締りを求める住民の声をしりぞけ、産業発展を阻害することなく、それを保護育成する方向に転じはじめていたのであった。 まず十月二日に横浜商工会議所が意見書を公表して、「公害防止条例の制定には原則として不賛成ではないが、終戦後の工業が最近漸く混乱期を脱し、軌道に乗らんとする時に当り本条例の制定実施の結果、既存の事業場に新たに著しい負担を加重し経営を圧迫する様なことがあっては、折角立ち直らんとする産業界を萎縮せしめて、其発展を阻害するに至らんことを惧れる」と草案を批判した。そして公害防止のみに重点をおく条例を排すべきであると論じた。ついで二十五日には県下工業人が一丸となって「神奈川県工業振興会」を結成し、工業化の隘路打開を協議しはじめた。こうして、十二月県会に提出されるに至った「神奈川県事業場公害防止条例」は、その目的に「産業町をおおうばい煙(川崎市) 岩波写真文庫『神奈川』から の発展と住民の福祉との調和」をうたい、具体的な防止措置規定も、被害者住民の参加も排していた。それは、「住民より工場擁護、下手すれば握り潰しの運命」(『神奈川新聞』昭和二十六年十二月二十日付)との悲観的な観測がされるほど、条例の制定を産業発展の障害とする雰囲気が強くなっていたのである。そして提案にあたって内山知事が、これは防止条例ではなく「公害調整条例」であると述べ、住民保護の姿勢は後退してしまっていた。 この自由党、民主党が全面支持する条例案に対して、県会最終日の十二月二十二日には社会党など三派が共同して修正案を提出し、目的をあくまで「住民の健康的生活とその生業の擁護」に置くべきであると反論した。そしてその保証として住民による調査請求、行政による代執行を条文にもりこんだのであるが、十分な論議も交わされないまま原案が可決されたのであった。 県条例と初期公害紛争 こうして約一年間の変転を重ねて「県公害防止条例」は成立し、一九五二(昭和二十七)年三月から施行された。そしてこの条例のもとで県商工行政は住民と工場の間に割って入り、設備改善投資を渋る工場を励ましつつ、住民の苦情を引き受ける「保育行政」(『一九七三年条例』解説)を確立していくことになった。 こうした公害行政のあり方はさしあたり、原因が不明確な有害ガスによる農作物被害、廃液による海産物被害をそのままの状態にしてしまった。イチジクの産地として知られた川崎大師地区では、一九五一年ごろから亜硫酸ガスによると見られるイチジク・チューリップ・プラタナスなどの葉の白化、枯死が続出しはじめた。被害額は四十万円から百万円程度に達し、五五年八月二十九日の場合には作物の半分が被害を受けている。また五二年の八月には大師から生麦にかけて赤潮が発生し、百万坪をこえる養殖アサリ、ハマグリ、カニ類が全滅し、年々ノリのクサレが増大するようになった。この地区ではその後県営、市営などの埋立事業がすすめられていくが、その際海水汚濁の広がりが漁民を説得する切り札となったのであった。 これら臨海地区に立地した大規模工場がほとんど公害事案に浮かび上がらなかったのも、因果関係を明確に示せないこの種の問題にかかわっている。では原因者の明確な公害被害についてはどうであったろうか。 都市計画行政の不備が業者側からしばしば非難を浴びたように、公害防止条例草案は戦災地に工場と住居が軒を接している中小町工場に不安をもたらしていた。ところが「公害防止、論争倒れか」(『神奈川新聞』昭和二十七年六月十九日付)といわれたように、陳情は一九五二年中に二十件にみたなかった。おそらく住民たちは近隣の騒音やばい煙に耐え難い苦痛をおぼえながらも、取締姿勢の後退に問題解決の期待を失い、沈黙する道を選んでいたのであろう。こうしたなかで初期の公害事案を見ると、工場近くに軒を寄せ合って居住する人びとが生命の危険を感じるといった切羽つまった事例や、発生源が地域の共同生活を無視する新設工場であったりする事例が多い。公害事案第一号となった「茅ケ崎駅操車場ばい煙問題」についていえば、加害者は一九四六年に進駐軍命令で設けられた国鉄の蒸気機関車群という特別な背景を持っていた。このため人権擁川崎市入国者収容所内のカンナの葉の斑点は工場から飛来する粗製フタル酸による 県史編集室蔵 護局がのりだすなどあらゆる救済手段が講じられはしたが、いたずらに被害者をかけ回らせるに終わった。後年、六七年にディーゼルカーに切りかえられ、問題は解決した。 しかしいくつかの中小コークス工場の場合には、この業種の操業が町なかで認められるべきかが問われるほど、効果のない対策に被害苦情が断えず再燃した。五二年九月十七日に川崎市長から送付された川崎大師河原「鉄研コークス」近隣住民の「陳情」に述べられた被害状況は次のようなものであった。 同工場より生ずる煤煙は猛烈なるものであり、且は火粉の直径約五糎大のものが落下して地上に炎上したこともある始末。……廿七年四月十七日南の強風下渡辺氏宅屋根大なる処直径一米二〇糎大炎するも大事に至らず消火す。……一日中家事に又は商売等にて家に居る者は着衣から露出せる部分は黒くなり、太陽光線に合って居るとひり〳〵して知らずにゐると炎障を起して来る。……尚各家で目が非常に痛み光線を見るとまぶしくて沮が出る等の症状があります(『昭和三十年事業場関係書類』)。 そして、この作業場は半分は囲いをしないまま開け放ったままであったと報告されている。これについて県工業試験場は次のような防止対策を勧めている。「一 煙道の中途に二次空気として予熱空気を送入して未燃焼分を燃焼させる、二 煙道の後尾にサイクロン式の脱塵室を設ける、三 煙道掃除を行うとき煙道中へ蒸気又は水の噴霧を送る(夜間実施すること)、四 以上を併用すると一層効果がある」、これらの対策において優先されたのは、住民の安全ではなく、工場がとる公害対策に対する合理的追求だったのである。 しかし、実効性のある県条例の確立はならなかったとはいえ、京浜地帯で公害取締りを提起した住民たちの活力は持続していた。いまだ被害の客観的尺度もなく、地域住民の民主的イニシアティブに自信が充ちていた時期であった。 二 復興する京浜地帯の公害反対運動 朝日製鉄熔鉱炉建設問題 生産資材不足に苦しみながらも京浜工業地帯では新規埋立てが企画され、急速に力とにぎわいを回復しつつあった。その一角鶴見の町で一九五三(昭和二十八)年に一事業者が県の認可済みとして市街地に熔鉱炉を建設しはじめる。全区あげて住民を反対運動にまきこむ「朝日製鉄事件」のはじまりであった。 朝日製鉄株式会社の前身京浜鉄工株式会社が、京浜急行鶴見駅近くの線路と第一京浜国道の間二千坪に工場を設けたのは、戦災地の整理も定まらない、「建築基準法」施行(一九五〇年二月二十三日)の前日であった。その後準工業地域に指定されたこの鶴見区の中心地区で、五三年二月に同会社は約二億円を投じた鋳物用銑鉄生産の熔鉱炉を建設して、日本鋼管の援助のもとに製鉄事業にのり出す計画を実施に移した。この計画を住民から報告された県当局は設備計画の提出を求め、県工業試験所とともに公害防止の改善対策を検討しはじめた。しかし当時は、空気汚染・騒音の環境基準についての学術的研究も着手されたばかりであり、作業場内安全基準の十分の一を目安にする暫定的なものであった。したがって対策もより良い状態に設備を改善することが考えられていたにすぎない。この間、三月ごろからは住民たちが会社の非常識な行動への憤りもこめて、操業後の公害被害をたてに建設をくいとめようとする行動を開始した。そして一九五四年四月二十七日に正式に「朝日製鉄熔高炉設置反対期成同盟」(委員長湯川次郎平)を結成して、鶴見区民全体の存亡にかかわる問題として運動をはじめた。そこでこれに対抗して会社側も五月十九日には県に公害防止設備の「事前調査」を申請して、行政の要求するだけの公害対策を忠実に実行するとの態度を示したのであった。こうして五四年半ばに予定された操業開始を前にして県当局は、はたして公害が発生するか否かを科学的に詰めねばならない事態に至った。 県条例によれば知事が「公害」を防除しうるのは「公害審査委員会に諮問して除害を必要且つ適切と認めた」(二条)場合であった。そこで矢柴副知事を長に、県議、学識経験者、県工業・衛生試験所長から構成される公害審査委員会に下駄をあずけるかっこうになったのである。しかも、すでに問題は通産省重工業局のかかわるところともなっており、五四年六月八日に開かれた委員会で「朝日製鉄専門小委員会」が設けられ、この県行政の能力をこえる困難な事態への取組がはじまった。商工部の日録によれば、「六月十四日県工試及び衛試により工場周辺の暗騒音、送風機音並びに一酸化炭素ガスの測定が行われた。六月十七日通産省三井製鉄課長、安達技官、富士製鉄広瀬技師、芹田課長、八幡製鉄深川技師が工場現場の設備について調査を行う」(資料編12近代・現代⑵二五四)と記されている。これらのデータと技術対策をもとに、スクラップのみを原料として排ガスの低減をはかるとの操業条件をつけて、県は七月二十三日に公害防除設備の指示を朝日製鉄にたいして行った。 ところが、そもそも熔鉱炉建設に反対の期成同盟は、五月から積極的な行動を開始し、県、市、通産省、日本鋼管本社に抗議陳情をくり返す。また五月二十六日には鶴見区議員団が全会一致で反対声明をし、六月十八日には鶴見区全域の問題として街頭の訴えを行うに至った。そして七月二十一日には鶴見公会堂、豊岡小学校、生麦東亜女学院、鶴見保健所、市場中学校で鶴見区民総決起大会を開き、決議文を採択した。反対同盟が全県議に送付した「反対理由書」によれば、立地条件不適格の理由として「附近は鶴見中心地区にして隣接地には社会保険診療所、鶴見小学校、鶴見中学校、市場中学校、鶴見消防署、鶴見区役所、鶴見警察署等、官公庁街にして中小工場、鶴見商店街及び住宅が密集していること」を前面にたてている。とくに鶴見区の繁栄が口にされた意気揚々たる時期でもあり、町の中心部を占拠しようとする朝日製鉄を「憎し」とする空気が充満していったのである。ところが朝日製鉄は三千万円を要する県の指示した防除施設を一九五五年一月に完成したが、採算割れ等で火入れにふみ切れないまま無期延期状態に陥ってしまい、はからずも反対要求が実現する形になった。住民たちはささやかな安堵感を味わい、鶴見の町の発展計画にあらためて身を入れはじめた。 川崎のばい煙追放市民運動 電力供給制限など多くの隘路に阻まれて京浜工業地帯はいまだその全力を発揮するに至っていない、一九五二(昭和二十七)年から五四年までの問題別公害陳情件数は百二十九件をかぞえるにすぎなかった。『戦後の神奈川県政』(一九五五年)も公害防止の項にわずか半ページをさいているにすぎない。神武景気の沸騰を前にして、いまだ工場操業による生活妨害は氷山の下に姿をひそめたままであった。そうした工業地帯住民の不安はなによりもばい煙にいぶされた生活にあった。五二年に死者四千人を出したロンドンのスモッグ禍の知らせは、県事業者たちの心胆をも寒からしめ、国の力を借りて集塵器をなんとか完備したいと考えさせるようになっていた。こうして五五年に工都川崎に超党派のばい煙追放運動が胎動する。 デポジッドゲージで正式にばいじん量を測定した一九五六年七月一か月間に、川崎市の臨海地帯では一平方㌖あたり六十二トンがふりつもっていた。町では時に数㍍先が見えなくなり、ばい煙のひっきりなしに舞い込む屋内にカヤを吊って、中で食事をとる光景も見られた。一方技術革新の最先端をゆく工業都市川崎では、五〇年代前半に燃料費の安価な石油を使用する工場がふえ、エントツから吐き出されるばい煙が消える日も遠くないと考えられていた。ところが五四年に政府の石炭産業保護・重油消費量規制という逆行的政策が打ち出されたので、抗議のために川崎商工会議所工業部会は、五五年初頭からいまだ石炭を使用している大規模事業場に集塵器設置や他動力源への切りかえを勧告する活動をはじめた。国鉄新鶴見操車場、東京電力鶴見第一・潮田火力発電所などがその対象であったが、後者の場合には田島小学校伊藤校長も加わって、三月には集塵器設置を約束させた。こうした新たな動きを軸にして超党派のばい煙防止市民運動への流れが形成されていったのである(『川崎商工会議所二十五年史』)。九月には工場労組、町内会、婦人会、広報委員会など二十団体と県・市議が参加してばい煙対策市民大会を開き、それに応えて市会も公害対策委員会の設置を検討するに至った。そして十二月八日には商工会議所会頭控井美津男を会長にし、所内に事務局を置く「川崎市煤煙防止対策協議会」が発足したのであった。 煤煙対策協議会はその目的で「一 市民の総意に於て憲法に保証された平和的にして衛生的な生活を営むべく、その実現に努力する、二 現代の科学に於て煤煙の防除が可能であることは、自明の事実であることに鑑み飽く迄もその貫徹を期す」との科学性を前面にたてる自信にあふれた態度を表明した。というのは当時、厚生省が最初の公害対策基本法というべき、「生活環境汚染防止法」の作成作業をすすめていたから、国の援助もあおいで集塵器設置を行い、ばい煙を一掃することができるという見通しがあったのである。それが、一日も早くばい煙に包まれた生活から逃れたい、という市民の素朴な感情に支えられて、文字どおり全市民的な幅とひろがりをもつ川崎市あげての民間運動となったのである。 そうした市民の声を結集していくためにもばい煙被害の実態調査、啓蒙、対策を総合的にすすめる必要があり、そこから多くの先駆的な事業が生まれた。国会、中央省庁への働きかけに応じて、一九五六年一月には衆議院商工委員が来崎し、ばい煙の実状をつぶさに視察している。また市当局はデポジッドゲージを設置して降下ばいじん量の測定をはじめ、それと健康、経済的損失、子どもの成長との関係を検討した。こうしてまとめられた『調査報告書』では、子どもたちに眼病の多発が見られることが確かめられ、また北部地区の児童の絵にくらべて南部の児童の「描く絵が暗くなってしまうのは、児童の内面的な要求よりも、外的な圧力によるもの」との見方が示された。それが溝の口に「健康学園」を設けて子どもたちを自然に還そうという運動につながり、東映教育映画『ばい煙の街の子ども達』の製作に発展していった。また啓蒙活動として開かれた講演会では、当時発表されたばかりの米軍病院医師の「ヨコハマゼンソク」の研究を県衛生研究所長児玉威が紹介し、ガス分析の仕事が今後の課題になると述べている。それは、結核などを問題にしていた予防医学に公害病という新たな分野が加えられることを意味していた。 朝日製鉄の操業強行 ところで隣接する鶴見では、一九五六(昭和三十一)年に入ると朝日製鉄問題が再燃し、鉄鋼増強計画にのった工場側が操業開始への強行突破を計りはじめた。朝日製鉄は隣の長谷川染色の敷地を買収して増築する申請を横浜市に提出しており、その許可がえられるはずであった。そして工場建設成否のヤマと見られたその公聴会が五月十六日に開かれた。県の意向を体した市が許可する方針と見てとると、反対同盟住民たちは口述人をボイコットして流会させるとともに、平沼市長に直接に働きかける方向に転じた。そして二十日には鶴見区内で「私たちを毒殺しないでください」と口ぐちに訴える自動車デモをくりひろげたうえ、市長・市長夫人に膝づめの談判を行い、ついに六月十六日の市建築常任委員会では不許可の決定をさせてしまった。横浜市は朝日製鉄の操業を公害と判定したわけであり、これに力を得た反対同盟は県にも翻意を迫った。ところが、工場側は八月に入るとスクラップのみの操業という県との了解さえ破棄して、通産省に輸入鉄鉱石の割当てを申請する方向に転じた。また九月二十日には朝日製鉄株式会社労働組合が県に九か月も給料未払状態にある窮状を訴えつつ、「県知事は事態を今日迄紛糾せしめた責任を認め、其の釈明を文書を以て公朝日製鉄の高炉(1966年) 日本機関紙協会神奈川県本部蔵 表せられ度」(『昭和三十二年朝日製鉄関係綴』)との強い抗議を行った。こうした会社側の強硬態度は折からの鋼材ブームにもかかわらず供給ひっ迫期に入ったためであり、通産省も態度をひるがえして鉄鉱石の割当てを通告してきた。このため十二月二日に朝日製鉄は操業にそなえて炉を乾燥する作業に入り、座り込みも辞さないとする反対同盟との対決は最悪の事態に立ち至った。 しかし、公害審査委員会の仲介を容れて反対同盟住民が譲った。十二月二十七日には、朝日製鉄に二年間の操業を認め、期間終了とともに操業を中止して製鉄設備を他に移転する、との妥協が成立して「覚書」が交換された。この結着について反対同盟の「経過報告」は「現下の国策上通産省においては、我々の反対を押し切ってまでも輸入鉄鉱石の割当てをなし、鉄鋼需給の逼迫状況打開を県知事宛に通告して参りました。よって我々反対同盟は鶴見区議員団と県知事との会見報告により、急遽解決の途を考慮せざる得ない状態にたちいたった」と憤懣やる方ない口調で述べている。たしかにそれは譲ってはならない一線であった。とりたてて公害被害がおこらなかったという理由で二年後に会社側が持ち出してきたのは操業の無期延長であり、それを拒めない県当局は調停を放棄してしまうことになる。こうして手がかりを失った反対同盟はほどなく内部から解体する途をたどったのであった。 いまや高度成長期に突入した京浜工業地帯では、工場側が設備の更新をすすめながら、強気の操業に転じていた。そして、重油規制が解かれると、川崎では事業主たちは次第にばい煙防止運動に関心を失っていった。時代は、石油を原料・燃料とする産業構造へ急速に転換し、激しい技術革新がすすめられる時期に突入しつつあったのである。 三 都市環境の悪化と市条例制定の要求 工業立地の促進 一九五七(昭和三十二)年に入ると中央では、厚生省の「生活環境汚染防止法案要綱」が廃案となり、それにかわって公害対策のイニシアティブをとった通産省により「産業公害」の語が肯定的に使われるという変化が生じた。そして、この産業発展を先行させ、公害立法を抑えるという動きに対応して、県当局でも今後予想される汚染の累積に長期にわたって対応することになった。 この年五月に神奈川県は「京浜工業地帯大気汚染技術小委員会」を発足させ、林立する煙突群の吐き出す汚染物質に覆われた空の実態とメカニズムの調査研究に着手した。構成メンバーは県、横浜・川崎両市、横浜地方気象台、横浜国大工学部、横浜市大医学部、県工業・衛生両試験所などであり、汚染と気象条件、健康・作物・金属被害の関係などが検討のテーマであった。これらの分野は当時ほとんど未踏の領域であり、はたして大気の拡散を妨げるといわれる「逆転層」が実在するのかも不明であった。そこでとりあえずヘリコプターで上空の視察を行い、京浜地帯を厚く覆う汚染物質の団塊があるのかを確かめることから研究がはじまった。その成果は年々『大気汚染調査報告書』にまとめられ、「ばい煙規制法」策定時に貴重な資料をなしたといわれる。またその際朝日製鉄事件を契機にはじまった連続測定が研究の出発点となったことを付記してもよいであろう。 だが工業地帯の広域汚染を全体としてとりあげる研究は、個々の工場をチェックさせない条例体制に帰因したと見ることもできる。しかも一九五七年、資源高度利用をうたった「土地及び水資源についての総合計画」(一九五九年)に至る神奈川県の工場配置構想のもとで進行していたのは、なによりもめざましい数の工場新設であった。県が六一年に行った『工場施設環境調査報告』によると、一九五二年から六一年にかけて従業員三十人以上の工場が六百九十一から千百七十四と二・四倍にふえ「工場は大中小すべての規模のものが増加したが、中小工場の増加がより大きく」見られるということであった。このことから大工場が県内各地に分散的に広がっていく一方で、既設工場地帯、市街地では手狭な敷地いっぱいに建てられた中小工場が住宅と軒を接して昼夜兼行の操業で周囲を圧している情景が浮かんでくる。これら横浜・川崎の大都市地域に住居と混在する中小工場群こそ、激しい企業競争に追いたてられつつ産業発展をおしすすめる影の原動力であった。そして事業主の自発性にゆだねる県条例体制の欠陥があらわになり、解決が困難な近隣公害紛争が累積しはじめたのも五七年ごろからであった。 悪化する都市環境 住宅・工場の密集がすすんだ都市地域の住民に浸透していったのは、産業公害を甘受する姿勢である。一九五六(昭和三十一)年に横浜市教育委員会が用地入手難から潮田中学分校の敷地を三方を工場に囲まれた寛政町の一角に求めた時、その非常識を非難する声があがった。しかし十月に催した公聴会では「工場街の子弟であればこれぐらいは当然だ」との地元住民の声が大勢を占めたといわれる。こうした生活風土の中でも五七年ごろから騒音・振動の苦情が急激にふえていくが、その原因のいくつかは使用機械や作業の大型化・重量化、昼夜兼行の操業などにあった。五七年には鶴見区下末吉町の住居地域に住む一住民が隣の末吉工業を相手どって損害賠償訴訟をおこし「全国に例を見ぬ裁判」(『神奈川新聞』昭和三十二年七月二十二日付)との注目を集めた。同工場は日産自動車の下請けとして、プレス加工済みの軟鋼板の歪みをとる板金作業を営み、一㍍余で軒を接した被害者宅では家人の話さえきこえない状態がつづいた。県工務課の測定によれば七〇ホンと低めであったが、訴訟は当人が難聴および神経衰弱となり、五年間にわたり高校生の長男を下宿させた、その損害賠償をせよ、というものである。この種の訴訟は二年後にも、川崎市の元木木工株式会社にたいしておこされたが「うるさい、うるさくない」といった論争が長ながとつづくのがつねであった。たしかに一九五九年三月までの総陳情件数二百六十一件のうち騒音は百二十件と約半数をしめ、しかも解決は半分にも達していない。その後増加の一途をたどる機械工業関連下請工場の騒音・振動問題、消費市場を控えた食料品工場の悪臭問題などに、県条例はほとんどお手上げの状態であった。 一方、河川の水質もまた目に見えて悪化しはじめた。沿岸にパルプ製紙工場をもった多摩川・新崎川、食料品工場をもった千之川などの汚濁は早くから漁民を悩ませてきた。そして有害物質のずさんな管理に県下でこの問題に目を向けさせたのが一九五八年の富士フイルム足柄工場の酒匂川アユ全滅事件であった。六月一日の「アユ解禁日」に狩川から酒匂川下流域にかけてアユ、ウグイ、ウナギなどが浮かび上がり、釣人たちを驚かせた。その原因は同工場から二百十トンという大量のアンモニア、シアンソーダが流出したものと判明したが、漁民たちがこの期をとらえてテープレコーダーまで持ち込んで会社側の言質をとったのは、これまでに起こった同種の事件がほとんどうやむやに葬り去られてきたからであった。しかし、ようやくこの年には「水質二法」が成立し、神奈川県も工場事業場廃液対策部会を設けて酒匂川を初めとして水系ごとの調査を開始した。だが水域指定も内水面漁業権設定もない河川は放置された。とくに鶴見川の一部を除き、まったく漁業権のない横浜市域の河川は工場排水、都市下水の排水路扱いされ、みるみる真黒なドブ川と化してしまった。そして多摩川についても、児童の遊泳禁止が時間の問題となった。こうした事態を見てとった県当局は五八年末には、はじめて全工場の処理槽設置状況や薬液貯蔵量を調べる予備調査を行ったが、その結果は行政をあわてさせるほどひどかった(『昭和三十三年工場廃液対策綴』)。しかも、汚染が自分の生業にかかわる農漁民と異なり、都市住民は河川の汚濁に関心が少なく、一部には、ゴミ捨て場と心得るくらいであったから、その先行きは暗澹たる様相を呈していた。 健康被害の現実化 こうして都市生活環境の悪化が手も打たれることなく進行するなかで消費生活の豊かさはまし、人びとも「産業公害」にむとんちゃくな傾向を見せていた。しかし、一九五九年前後から京浜地帯では教育・医療関係者を中心に公害の恐しさを警告する新たな動きもはじまっている。工場排ガスによる喘息様症状発生を指摘した米軍医の「ヨコハマゼンソク」の問題提起(一九五六年)をきっかけに着手されたいくつかの調査・研究が、工場地帯の環境が健康にとって悪影響をおよぼしていることを具体的数値で示しはじめたのである。一九五九年四月に発表された横浜市大医学部の報告によれば、鶴見区潮田小学校の生徒千九百二十六人のうち百三十二人は汚染の激しい日にせきこみ、うち八十人は小児ぜん息であると診断された。同時に京浜地区で有毒ガス(亜硫酸ガス、無水硫酸など)が〇・二PPMに達していることも報告された。それまで独自の調査・啓蒙活動をつづけてきた川崎市煤煙対策協議会も、ばい煙による主婦労働時間の損失や児童疾病の地域比較などをつみ重ねていた。いまだ排出物質と症状との関係が確定されたわけではないが、五九年四月の日本医学会総会ははじめて「都市における公害の諸問題」をシンポジウムのテーマにとりあげ、さらに同年末には国立公衆衛生院に事務局を置く「大気汚染全国協議会」が発足している。その設立趣意書は「とも汚れる鶴見川,鶴見橋から下流をのぞむ(1966年) 日本機関紙協会神奈川県本部蔵 すれば、大気汚染を取上げることは産業の発展を阻害するものであるかのようにみられていますが、この見方を根本的に是正することが、大気汚染対策の重点のひとつであります」と産業発展礼賛に警告を発した。これら医療・教育の側からあがった住民の健康を危惧する声が、横浜・川崎の大都市では市長に住民の保護を求める市公害防止条例制定の要求に収斂し、翌六〇年に二つの都市で市民の行動がはじまる。 市民の市条例制定要求 こうして医師の間から心配の声が上がった横浜市では、一九六〇年四月に眼前で根岸湾の埋立事業が進められている磯子医師会が半井市長に同地区の公害防止に関する陳情を行った。その文書は、もし、操業がはじまれば大気汚染による被害が背後地を襲い、「一般に呼吸器、循環器、結膜疾患が増加します。家屋、洗濯物等の汚染は勿論、植物の成長にも影響を及ぼし、緑地帯は昔の夢物語りとなるでしょう」と警告した。そして、「一 公害防止に就きましては、市当局に於かれても、別に市条例を早急に設けられて、責任ある指導と監督を行われる様にせられたい、二 根岸工業地帯の公衆衛生上の為には、市民代表を含めた委員会の設置が望ましく、工場建設に先立ち市民の意見を充分とり入れて、公害対策の完璧を期されたい」など十項目の要望を行った。この陳情を受けた半井市長も問題を重視して、進出工場への対策を検討したうえで回答すると約した。 一方、公害被害の累積しはじめた川崎市でも市政への不満が高まり、京町の日之出製鋼の公害は、運河をはさんだ鶴見区平安町住民まで巻き込む、地域ぐるみ騒動に発展してきていた。平安町住民千百七名が四月に行った県への再陳情によれば、「当町に居住する住民は工場より発生する騒音、煤煙に日夜悩まされ、特に電気ハンマーの地響が甚しく、就寝する事も出来ず病人などは寝ていることも出来ない状態です。夜間などにおいては神経衰弱になり幼児子供等は夜間の火を見ては火事と思い誤る有様で精神的疲労甚しく、尚粉塵の為に洗濯物を始め座敷縁側等も一日に何回となく掃く有様です」(資料編12近代・現代⑵二五五)という窮状であった。こうした状況の中で全川崎労働組合協議会が公害問題をとりあげ、六〇年七月から全国でも例のない最初の市公害防止条例の制定を求める直接請求運動に着手した。そして十月に七千八百三十の署名による請求を行ったが、その内容は罰則規定強化のほかは「県事業場公害防止条例」と同一であった。すなわちそのねらいは市内の大企業工場の「公害防止に関する積極的責任を川崎市長が負うか、県知事にまかせて回避するか」(本橋順議員)を問うことにあったのである。このため、直接請求は否決されたが、金刺市長の側から独自の市条例案を提出し、市独自の取組をはじめることを約さざるをえなくなった。 これら横浜・川崎で起こった市民の市条例制定要求が示していることは、個々の紛争を包んで公害が全体として市民の生活環境を危機にさらしつつある、という不安が広がっているということであった。したがって産業優先の県行政に頼らず市当局がそれぞれの地域に固有な工場公害に独自の規制を行使する必要がある、ということであった。しかし両市長とも、この市民の要望に部分的に応えながらも大企業の工場にかかわることは回避した。川崎では十二月に市レベルで全国初の「川崎公害防止条例」を制定したが、県条例のカバーしない、浴場・病院などを対象に「都市環境の浄化をはかる」ことを目的としているにすぎない。また横浜でも半井市長は「県条例が効果的に実施されることを期待するとともに県の充分なる指導監督と必要機構の強化等について申し入れを行うこととし、市条例の制定はしない」と拒否したが、公害委員会を発足させて、公害対策の検討をはじめた。一九五九年に設備投資が絶頂に達した京浜工業地帯の公害汚染は住民を不安にしていったが、住民だけでは解決しようのない、高度な技術問題を含むようになっていた。それに加えて公害行政が独自の存在意議を主張せざるをえないような県下全般の環境条件の変化が、新たに浮かび上がることになる。 四 公害事前防止へ 激変する県下の環境条件 一九六〇(昭和三十五)年十二月、川崎の臨海埋立地に、町からばい煙を一掃し、市財政を富ませると宣伝された日石化学コンビナートが、その全容をあらわした。ただちに街は異臭を含んだ亜硫酸ガスに包まれはじめ、遠く四日市市からコンビナート地区住民の苦しみが伝えられるなかで、広域大気汚染への不安が現実のものとなった。県下内陸部への活発な工場進出も汚染や有害ガスによる公害被害を頻発させるようになっており、人びとは石油時代の到来とともに、社会環境の異様な変貌にいらだちと不安を感じるようになっていった。モータリゼーションが進行し、トラックがめっきり増えた街道では松の立枯れがめだち、いずこからともしれぬ毒物が川面に死魚を浮かばせた。また、プロペラ機にかわってジェット機の出現した厚木基地周辺では、最高一二九ホンの騒音に脅かされた住民が、一九六〇年六月二十三日「厚木基地爆音防止同盟」を結成して、「発着陸コースにおける爆音は人間が生理的に耐え得る限界を越え、居住者はつねに生命財産に対する脅ジェット機の騒音調査 『かながわ』から 威にさらされている。このような事態は住民の生存権を脅かすものであって断じて」許せない、と決議した。そして六一年十月には米海軍側に飛行制限を申し入れるに至った。こうした輸送機関の高速化、石油プラント・火力発電所に代表される生産単位の巨大化は、急速に公害問題を一地域にとどまらない社会問題に押し上げていった。 産業の発展を政策課題とし、公害紛争の事後処理に対応してきた県条例体制はすでに時代にそくさないものと化し、住民から不信の声を受けるようになっていた。横浜や川崎で市条例制定の要求が市民の行動を生んだ直後、六一年初頭に県行政内部では、住民の調査請求や罰則強化を含む新条例制定が検討されている(『三十六年公害審査委員会書類』)。すでに住民たちも大企業の工場を特別視することはなくなっており、上吹き転炉の採用以来京浜の空を染めつづけてきた日本鋼管の「赤いけむり」にも、集塵器完備を要求する声が上がっていた。しかし県当局は工場への指導・誘導の強化をはかるにとどめた。こうしたなかで、六一年四月に条例の一部を改正して、各市に陳情の収受、軽微な事実の処理をゆだねるとともに、公害紛争をひき起こしやすい鍛造機など機械十種、板金など九種を事前届出制にして指導徹底をはかろうとした。またすでに紛争を起こしている中小工場には最高五十万円の公害防除資金融資を行い、工場団地の建設を検討しはじめている。しかし同年の『工場施設環境調査』が集塵器一二㌫、廃水処理槽九㌫という低い設置率が示しているように、熱意を欠く工場側からは、わずかな対策しか期待しえなかった。 工業化のゆきづまりと住民 一九六二(昭和三十七)年の四月には川崎市民が長年にわたって制定運動をつづけてきた、初の大気汚染防止法である「ばい煙防止法」が成立し、ざる法との批判を受けながらも、公害防除を法的に義務づけねばならないほど環境汚染が進行していることを強く印象づけた。横浜市では視程が二㌖以下になる視程障害日が敗戦直後の三倍にふえ、雪に包まれた富士山がくっきりと姿を見せるのも稀になっていた。京浜運河ではスモッグのために視界が著しく悪くなり、それが遠因となってタンカー宗像丸の衝突事故が起こっている。また市内では増大した自動車交通による排ガス汚染が深まり、七月高島町交差点の測定では亜硫酸ガス濃度三二PPMという驚くべき数値を記録した。汚染はまた工場そのものにさえ不安を覚えさせるに至っていた。十月に鶴見のキリンビール生麦工場から鶴見保健所に、亜硫酸ガス簡易測定値を付した報告と指示を求める次のような文書が届いている。「当工場は本年初め頃から構内植木の衰弱するものを見かけましたが、四・五月頃から当工場従業員が空気の汚染を感じはじめ、夏季に入ってから咽喉を痛めあるいは気分の悪くなるものが出始めると同時に、構内植木の枯死するもの五十数本に及びました」、と。前述の潮田中学分校の生徒たちを見舞っていたのもこうした状態であり、凄惨な環境の放置は住民に身の危険を感じさせていた。これが工場地帯の追いつめられた姿であったとするならば、工業化のゆきすぎは自然資源にも壊滅的な打撃を与えはじめていた。 県内の河川の汚濁は急速に進行し、沿岸に千二百二十工場を抱える多摩川では丸子ダムでBOD三・二PPMを示し「上水用水としての利用はもちろんのこと、農業用水としての利用も危機に陥り」、鶴見川の中流では二・九PPMに達したばかりか河口附近に棲息するアナゴ、コハダ、フッコは臭気を放つようになった。そして相模川、酒匂川など上水源でも汚染がめだち、引地川・森戸川下流は黒色の水が流れる下水路の感を呈していた。とくに大同毛織、大蔵省印刷局など九つの工場が立地した森戸川では河口沖にある酒匂国府津漁協の漁場をも汚水が沖合二㌖にわたって茶褐色に染め、年間二千万円の損害を与えるようになっていた。一方、船舶の投棄する廃油事故も生麦、金沢など内湾にとどまらず、七月には真鶴半島に幅五百㍍、延長三㌖が押し寄せて養殖のサザエ、アワビ、伊勢エビを全滅させた。この水産資源の危機に直面した十月の神奈川県水産大会は県に対して「汚水廃油被害を一括取り扱う公的機関を設置せよ」との要望決議を行った。それに加えて、建設ブームをあてこんだ相模川・中津川の砂利乱掘は橋脚を浮かせ、宅造による農地山林破壊がもたらす水害、自然喪失には鎌倉・三浦半島などで自然保護運動がはじまっていた。こうして一九六三年の初頭に神奈川県の工業化は県域全体に広がった住民の声に押されて転換を余儀なくされるに至るのである。 住民生活防衛のための地方自治へ 京浜工業地帯の増強にはじまった神奈川県の工業化優先路線は修正せざるをえなくなっていた。一九六三年初頭に作製されたとみられる商工部の『産業公害のしおり』は「工業の繁栄を図るのも窮極の目的は住民の福祉に寄与するためです。凄惨な環境の中で工業生産のみ上るという状態は一昔前のことです」と事業主に呼びかけている。また横浜市では三月に工場誘致条例を廃止したばかりか、「工場等制限法」の適用が論議されるようになった。いまや県の工業生産額の伸びはトップに躍り出、その豊かな生産力を福祉の充実に振り向けるべき時に到達したのであった。四月に横浜市では工業化優先をしりぞけた飛鳥田候補が市長に就き「福祉計画」の策定を指示した。こうした地域政策の修正にともなって「産業の発展と住民の福祉の調和」のバランスを保ちえなくなった旧条例は生命を終え、十八名で発足した公害課も川崎市大師河原・千鳥町石油関係工場の排水(白色模様の部分,1957年ごろ) 県史編集室蔵 商工部を離れて企画調査部のもとで新たな活動を開始したのであった。けれども、地方自治体が豊かな福祉の果実を住民のために確保しようと公害対策にのりだした時点から、より困難な状況に移行することになる。 それまでに政府は水質汚濁にかかわる「水質保全法」「工場排水法」(一九五三年)、大気汚染にかかわる「ばい煙規制法」(一九六二年)を制定してきていた。しかしそれらは全国に工場立地を促進するためのものであるという側面ももっていた。したがって地方自治体は独自の権限をもたず、それを適用する水域、地域の指定権は政府に留保された。一九六三年までに県下では横浜・川崎の一部が指定されたにすぎない。それすら多くの適用除外によって空洞化され、臨海部の海域、火力発電所、自動車などの発生源に手をふれることは許されなかった。それに増して問題なのは、規則が工場の排出口濃度によるものであったために、水や空気で稀釈すれば排出量をいくらでも増大しえたことである。工場側がこれらの法律を遵守しているかぎり、県下の大気・水の汚染は悪くなりこそすれ、よくなることはありえなかった。他方、重畳する汚染に健康・生業を脅かされる住民からの苦情・陳情は日ましに増大していた。もし、実質的に汚染の防除をすすめようとするなら、法律のカバーする領域についても、その許容限度にとらわれない対策を行わせる必要があった。この課題が県下では、すぐれた地方自治の主体性にかかわる公害行政を生んだのであった。こうして、住民の生活環境への権利を基礎に、実質的に公害対策を追求する時期がはじまろうとしていた。それをどう実現していくかについて、ここで一九五一年の条例制定時に、産業発展を重視する立場と、住民の健康・生業を重視する「修正案」の立場があったことを想起しておくべきであろう。前者を踏襲する県行政が客観的基準をたてて工場への行政指導を強化しようとしたのに対し、当時県議として「修正案」の賛同者であった飛鳥田横浜市長は、住民の納得をたてに健康・生業の権利を犯すことのない工場立地の可能性を追求しようとする、いわば、神奈川県と横浜市がおのおの異なる行政スタイルで公害対策を推し進める時期に入ろうとしていた。 第六節 拡大する教育条件 一 苦悩する教育 二部授業の実態 一九五〇年代の中ごろから、一九六〇年代にかけては、戦後教育の転換を迎えた時期であった。それは教育の政治的中立に関する法律(一九五四年)、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(一九五六年)の公布、勤務評定の実施(一九五七年)、教科書検定の強化(一九五八年)、学力テストの実施(一九六一年)等であった。 また、戦後、混乱の時期に制度化された新しい教育制度によって生じた多くの問題点をかかえていた時でもあり、二部授業もその一つであった。特に都市部に二部授業をせざるをえない学校が多く、その障害に悩みは多かった。 本県下における二部授業学級の数を見ると第十五表のようになる。 この表によれば川崎市の一九四九(昭和二十四)年の二部授業の学級数は明らかになっていないが、『川崎市における二部授業の実態とその障害』によれば、川崎市においては、この年が二部授業の児童数が最大となっている。 さらに、ここで、児童数との関係でみてみると第十六表のようになる。 この表によれば、一九四七年に児童数の総計が約二十七万三千八百人で、二部授業を受けている児童数は約七万八千六百人でその割合は約二八・七㌫となる。全県のうち三人に一人は二部授業の児童であった。 川崎市の場合は県下でもっとも多く、全県平均の約二倍ということになる。 さらに、一九四九年から一九五二年までを計算してみると、第十六表、第十七表のようになり、これによって川崎市、横浜市、横須賀市の都市部では著しく高い割合となっていることが判明する。これらの都市では二部授業の解消が最大の課題となっていたといえよう。工業都市として、戦後の復興にめざましい躍進をとげつづけ、急激に人口が増加し、また空襲による被害のため、さらに進駐軍による諸施設の接収などにより、学校の建物が不足していたことが最大の理由であった。 1) 比率は統計書のとおり 2) 『神奈川県統計書』から作成 川崎市の二部授業 特に川崎市では横浜市、横須賀市との対比においても二部児童数の比率が高かった。 川崎市でも特に二部は東横線以東に問題があった。 東南部では旧市域として商工業地帯であり、戦災焼失の地域で、戦災の復興と疎開先からの復帰者、新たに職を求める人びとで急激な人口増となっていた。戦前の一九四三(昭和十八)年に人口が約三十九万のピークがあり、戦後、約二十万に激減し、一九四七年から一九五二年にかけては毎年約一万五千人から三万人の増があった。戦前の第15表 小学校市郡別二部授業の学級数及びその割合 川崎市の小学校は三十一校あったが、戦災によって全焼十五校、半焼二校、大破一校、計十八校におよぶ学校が使用不能となる惨たんたる被害を受けていたのであった。 川崎市が二部授業に悩まされている主要な原因は第一に戦後の人口急増に伴う学童の増加、第二に戦災による壊滅的学校施設の焼失、第三に六・三制整備と戦災復旧による同時的二重負担、第四に国庫補助の僅少と起債のわくと市の教育財政の貧困とであった。そして、以上の要因は直接、間接的に戦争に起因していることを忘れてはならないと川崎市教育研究所は報告している(『川崎市に於ける二部授業の実態とその障害』)。 第16表 二部授業実施の児童数 『川崎市に於ける二部授業の実態とその障害』から 教育における二部授業の障害は、学校側にとっては学級編成、教員の交替の問題、学校責任者の職員に対する基本的事項の不徹底、授業時間の不足等であり、児童側からみれば午後の組が午前の組より学習能率の低下、児童の日常生活と学習との関係によって生じる問題、家庭においては、不規則な生活による保護者の障害などがあげられる。 教師たちは、これら問題をかかえながら、不正常授業を現実に行うため、教育内容の検討、教科の割当て、指導の方法などを考えなければならなかった(前掲書)。 基地と教育環境 神奈川県は沖縄県に次ぐ、基地の町であり、厚木基地、座間基地など狭い面積の中でその占める割合が高い。敗戦とともに旧海軍の町横須賀市はアメリカ海軍の基地となった。 一九四八(昭和二十三)年横須賀市の汐入地区を中心として、米兵相手の街娼婦はすでに千名にも達しており、市民をして目をそむかしめる状態にあった。 一九五一(昭和二十六)年五月五日、児童憲章が制定された。日本国憲法の精神に従い、児童の人権を認め、公的、社会的な立場から児童を守り、健全な発達をうながそうとするものであった。「児童は人として尊ばれる、児童は社会の一員として重んぜられる、児童はよい環境のなかで育てられる」と総則で定められた。 一九五〇年六月に朝鮮戦争がはじまると横須賀はアメリカ海軍最大の戦略基地となり、軍艦の出入港がはげしく、米兵達の上陸は毎夜何千人とも数えられるようになり、バー、キャバレーが急増し、街娼婦たちの数も増加していった。横須賀市警察本部刑事部防犯課の発表したところによると、街娼婦(散娼婦)の推定数は 第17表 二部児童数の割合 第16表から作成 一九四八年 千名、一九四九年 千名、一九五〇年 四千名~五千名、一九五一年 四千名~五千名、一九五二年 三千五百名~三千名、一九五四年 二千五百名~二千名となっている(『売春婦の実態とその取締の概況』)。 同時に違反者数(街娼婦に対する直接取締りとなる法的根拠がなく、県の担当者と協力、その他関係法規をもって取り締まった)は次のようになっている。 一九四八年には千四百三十一名、一九四九年には千百三名、一九五〇年には四千八百十九名となっておりその数は大きくなっていた(前掲書)。 それでも警察は、「街娼の相手が進駐軍兵士であるため、その取扱上、渉外係が之を担当して性病予防法に基く検診取締りを県予防課員に協力して随時実施していた」という制約があった。 児童生徒には「パンパンごっこ」もはやり、「パンパン」に対してせん望の念をいだく児童も出てきていた。横須賀市では、環境浄化の法的対策として、一九五一年四月、「売春に関する諸行為を取締ることにより、善良の風俗を維持し、社会の健全な発達を図る」ため、風紀取締条例を公布した。 この条例は、八か月で実情にあわないことから改正されたが、一九五八年四月に廃止されるまでつづいた。取締条例の実施で一九五一年には八千六十二名もの違反者があり、一九五二年には三千三百四十二名、一九五三年には二千六百九十二名となった。 環境浄化運動 一九五二年二月ごろになると一方では横須賀市商工会議所が市の観光宣伝のために「新横須賀音頭タマラン節」を発表した。全体にただようひわいといんびな春画の歌曲化であると教師を中心として憤りが爆発していった。横須賀市立大津小学校校長角井米は「現在の横須賀の実態を絵に描けば春画であり、話にすればワイ談であり、歌にすればタマラン節となる。実態がそうであるだけでもうたくさんであるのに、それに輪をかけて、このような歌をつくる必要がどこにあるか。児童憲章に掲げた子どもの人権は今いずこ。悲憤に堪えず」と日記に記した(『戦後横須賀教育史』)。 子どもたちに与える影響は、市内の小・中学生(二千二百七十三名)からの調査で「街娼をいいなあと思ったもの」六百五名(約二七㌫)、「いやだと思ったもの」二千六十七名(約九一㌫)であった(前掲書数字は重複回答を含む)。二七㌫の小・中学生が街娼に対してせん望の念をもっていた。別の調査では、一 服装に関してはでになっている、二 言語に関して粗暴、隠語を使う、三 態度として礼儀正しくない、四 遊びについて「パンパンごっこ」、とばく的遊びなどをあげている。 横須賀不入斗中学三年の男子生徒は「横須賀の街娼はあまりにも多すぎる。昼間からへんな色の洋服を着て兵隊と一緒に歩いているさまは、実に見苦しい。学校のそばは街娼をおいてある家がものすごくある。街を歩けばどこもかしこも街娼だらけである。真面目な女人さえ街娼に見えてくる。これでは非常に迷惑である。……横須賀の子供は悪くなるばかりである。これではいけない、街娼を一掃しよう」(慶応義塾大学社会事業研究会『街娼と子どもたち』)と書いている。 横須賀市の経済状況が米軍基地の下で依存が多大であったとはいえ、「問題はそれをよいことに街娼をおいている市民の人間性にあるのではないだろうか。勿論、横須賀市を立派な生産都市にすることは大きな解決策である」(前掲書)などの声もあった。 このような状況の中でタマラン節を契機に一九五二年三月、環境浄化運動が横須賀市教員組合を中心にして積極的に推進されていった。そして、書記長鈴木平馬は「タマラン節反対を通して横須賀を現状から立直らせ、よい環境の下で子供たちが成長できるよう、全市民の反省を期待した」いと市民にも呼びかけた。 教員組合の環境浄化運動は、官公労協議会、地区労協議会、子供協議会、青年協議会、市議会の文教委員会等によってタマラン節の追放へとすすみ、横須賀市のみならず全国民的関心が強く寄せられていった(『戦後横須賀教育史』)。 しかし、一方では、アメリカ海軍基地を持つ横須賀市の状況、地域性などから、市民一般がどれだけ環境浄化に積極的であったかと疑心の面も出ていたが、一九五二年九月二十一日「横須賀子どもを守る会」(会長岩田義一)が結成され、悪環境から子どもを守るという積極的な姿勢が地域の中から生まれていった。 二 勤評神奈川方式と高校教育 勤評誕生の背景 一九四八(昭和二十三)年十月の第一回教育委員選挙において、占領軍が教員の立候補を阻止する動きがあったことはすでに述べたとおりである。その後占領軍はレッド・パージ(本県の教員の場合、十五名が対象となった)を実施し、日本を反共のとりでとする意図のもとに、「単独講和」の道にすすんでいった。日教組五十万人教師は「再び教え子を戦場へ送るな」を誓い一九五一年一月、全面講和の締結、軍事基地提供反対、中立堅持、再軍備反対の平和四原則(一九五一年六月定期大会運動方針)を堅持し、講和条約後も引きつづきこの基本線にそって平和運動がつづけられた。 一九五三年の日教組研究大会の第二回報告で、岡三郎日教組委員長の「教育の軍国主義化を確立するために躍起となっている反動陣営の文教政策と対決」するとしたことに対して、中央教育審議会は文部省への答申で、「あまりにも政治的であり、あまりにも一方的である」と非難した。勿論、中央教育審議会委員のなかにも、右の答申こそ「政治的」だとし、「教育者はその政治的行動について、すでに法律の制限を受けて居り」これ以上制限を加えることはないという意見の人もいた。 しかし、文部省は、この中央教育審議会の答申にそって、いわゆる「教育二法案」の提出準備に入った。これに対して、日教組は「教育二法案」反対声明を出し、非常時体制に入ることを組織に命令した。反対運動は盛り上がり、学会、全国教育委員長協議会の幹事会、教育委員会、校長会、PTAなどからも反対の意思表示がされた。 一九五四年六月、多くの人たちが反対するなかで、「教育公務員特例法の一部を改正する法律」「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」が公布された。 こうした状況下、本県においては「教育二法」反対の中で、民間教育運動の高まりが出てきた。「教育二法」反対の中で、子どもたちの幸福と平和で豊かな日本を作るために、県下の教育を守るため、先生たちの努力だけではどうにもならないので、教育を正しくまもり押し進めていくには、先生も父兄大衆も教育行政官も手をとりあっていく組織が必要であるということから、一九五四年四月二十二日神奈川県教育擁護連盟が結成された。この神奈川県教育擁護連盟は、子どもたちをとりまく環境の実態等をとりあげ、本県下の具体的教育問題を取りあげ研究し、運動に結びつけていった。 一方制度上の改正は、「教育委員会法」に進んでいった。一九五二年十一月から全国市町村一斉に地方教育委員の選挙が実施され、選挙も少しずつ高まりを見せたが、地方財政の赤字、地方予算のなかでの教育費が最大であるために、その節減、教育委員会制度の廃止という線が問題になってきた。特に地方団体は人材確保、経費節減、総合的行政の展開などの理由として任命制を反対し、日教組においても、都道府県と五大市に限り教育委員会を設置し、市町村への一斉設置は教師統制を強化するからとの理由で反対、もっとも、公選制と現定数の維持、教委の予算権の強化などの実現を求めていた。 そのような背景のもとで、国会での乱闘、警官隊の出動の事態になったが、一九五六年六月、「地方教育行政の組織運営に関する法律」が公布され、教育委員会法は廃止された。 勤評神奈川方式 「地方教育行政の組織運営に関する法律」により、教育委員会制度は変わっていった。教育委員会は都道府県、市町村、市町村組合に置く、教育委員は地方公共団体の長が議会の同意を得て任命、教育長については、市町村の教育長は委員のうちから都道府県の教育委員会の承認、都道府県・五大市の教育長は文部大臣の承認を必要とすることなどであった。 新しい教育行政制度のもとで、教育委員の最初の、最大の仕事は勤務評定の実施であった。政府は勤評実施の法的根拠としては、地方公務員法(昭和二十五年十二月十三日法律第二六一号)の第四〇条「任命権者は職員の執務について定期的に勤務成績の評定を行い、その評定の結果に応じ措置を講じなければならない」というところからきていた。 また「地方教育行政の組織運営に関する法律」第四六条「県費負担教職員の勤務評定は、……都道府県教育委員会の計画の下に、市町村委員会が行うものとする」という条文があり、県費負担教職員の勤務評定は都道府県教育委員会が規則を制定して実施することになるのである。 まず勤務評定は地方財政の赤字対策を表面の理由としてはじまり、「昇給、昇格は勤務評定を参考として行う」こととした。一九五七(昭和三十二)年十月、愛媛県教育委員会は、勤務評定実施を通知した。同年十二月には全国都道府県教育長協議会と同教育委員長協議会が教職員の勤務評定試案を了承した。このように勤務評定基準案を作成する動きが全国に広がった。この動きに対し、日教組は政府の一九五〇年の法律から八年も経過した一九五八年九月から突如実施することに抗議して、勤務評定阻止のため全国統一行動を決定した。 勤務評定の規則の制定は都道府県教育委員会に権限があるので、都道府県ごとに教育委員会と教職員組合との交渉の中で闘争が展開されていった。一九五八年は勤評問題が教育界だけでなく、一般社会の中でも注目される問題となっていった。横浜市内の父兄の間では、他都府県のように子どもたちを犠牲にするような闘争がおこらないように、四月二十五日には市教育委員会に勤評反対の陳情を行ったりした。学校でも勤評反対による一斉休暇や授業等の打切りをやらないよう校長と教職員の間で話合いが何回も持たれた。 神教組では県評を中心として、 「勤務評定阻止共闘会議」「勤評阻止、教育を守る父母の会」などの背景もあって、一方的実施はさせないという基本方針のもとで、交渉をつづけた。県教育委員会も話合いを尊重し、交渉をねばりづよくつづけた。同年九月十五日の日教組統一行動日において、本県の神教組は、勤評問題で団交中なので、統一行動には参加せず、放課後、県下各地で、教育危機突破大会を開いた(金子芳蔵「勤評問題」『礎』)。 一九五八年十二月神奈川県高教組、神教組、横浜市高教組の三者共闘会議と県教育委員会が妥結、調印し、いわゆる勤評神奈川方式は生まれた。それは県の教育効果の向上を期待し、教師の自発的意欲を高めることに関する「人事行政措置要綱」というものであった。 勤評神奈川方式妥結(1960年) 『神奈川県労働運動史』第3巻から 内容は、教師自身の厳粛なる自己反省並びに教育活動に関する不平、不満、希望、要求を十分積極的に記述することであった。校長は判定者ではなく、相談相手、助言者であること、細目は一九五九年三月までに作成し、九月から十二月の間に実施することというものであった。 これが全県の先生、父母と労働者等による勤評闘争の一応のくぎりとなったはずであった。しかし、この勤評が適法かどうかという問題があり、翌年の日教組大会ではかろうじて過半数の支持を得て承認されたが、一九五九年になると文部省と内山県知事は「神奈川方式は勤評とは認められない」と非難した。県教育委員会と組合側の交渉で、神奈川県教育委員会は他府県のように教育の現場に混乱をさけるため話合いを堅持し、要綱まで決めていた。 しかし、文部省、知事の発言を待ちかまえていたように、市町村教育委員会、校長会等はこれに同調し神奈川方式を攻撃し出した。実施についての細部の話合いが、県教育委員会と組合側で六月までつづけられていたが、三か月の中断をおいて一九五九年九月一日、県教育委員会は話合い中の県立高等学校教頭問題について、一方的に教頭を発令した。そして、九月十五日「勤務評定は白紙に戻」すという声明を出して、白山県教育委員長他委員四名は総辞職してしまった。 神奈川方式の破棄という事態は、組合側に混乱を呼びおこす幕あけでもあった。 組合員の中でも、昨年十二月、神奈川方式ができて以来、全国で激しい勤評闘争の中で、神奈川県だけは別だ、県教育委員会の善意を信じ、県民の支持もあることだからという考え方があった。教育の面には政治勢力の介入を排除してきたという自負もあったようである。県の教員組合は、また新しい教育委員との間で交渉をもたなければならなかった。 高教組の分裂 一九五九(昭和三十四)年九月から、翌一九六〇年にわたっては、神奈川県高教組にとって、とりわけ厳しい期間となっていった。一九五九年九月の教育委員会との交渉過程にある「教頭制」が発令され、勤務評定の白紙還元、教育委員の総辞職、県教委と勤評に関しての団体交渉中断、宿日直拒否闘争がつづいていた。さらに、県教育委員会の任命した教頭(横須賀大津・平塚江南)を解任するということなどもあって、県教育委員会と組合側の相互不信が助長されていった。 翌年一九六〇年三月十二日、横浜駅西口の近くの私学会館で、県教育委員会の事務局職員、一部の校長、教頭等約百五十名が出席して、「日教組加入反対、闘争至上主義反対」を主旨とした、神奈川県立高等学校職員組合の結成準備会を開いた(いわゆる第二組合)。これより先、二月十四日に高教組執行部は臨時大会を召集して、日教組加入と闘争資金カンパ千円を提案して、圧倒的多数で承認された。 一九五九年十一月、二千十三名の組合員が、一九六〇年五月には千七百五十九名となり、その後も高教組の組合員は減少していった。特に相模川より西の高校を中心に平塚江南、大秦野、山北高校等で組合員数が少なくなっていった。 さらに、一九六〇年三月三十一日、高教組の八つの分会で十数名の組合役員が校長の呼び出しをうけて、四月一日付で強制配転の旨の通知をうけた。対象になったのは本部役員三名、横浜支部長、事務専門委員長、教頭を解任された人たち十数名であった。四月二日の『神奈川新聞』は「人事異動に当って露骨な組合対策をおりこむやり方は余りにもその意図がどぎつすぎる」と県教育委員会をきびしく批判していた。 組合側は不当配転の撤回を要求する団体交渉を四月からはじめた。「希望と承諾の原則」で教員の人事異動が行われていた慣行が破棄されて以後、人事問題について永く多くの問題をかかえることとなった。 この人事問題について、五月から公開口頭審理が行われ、請求者側は弁護士的山宏、板東克彦、飛鳥田一雄等、処分者側は柳川弁護士を代理人として、教育委員会側からも委員が出席した。しかし話合いは収拾へと向かい、大へんな時間を経過した一九七二年秋に県教育委員会から請求者への話合いの打診が行われ、高教組もこれを受けて 一 三五・三六年の処分を白紙にもどして、本人の意向を尊重すること 二 人事に関する「希望と承諾の原則」を明文化すること 三 請求者と高教組に対して、不当処分による十三年間の損害を補償すること 以上の三点を要求し、県教委も請求の処遇を大幅に受入れ、第一の条件は満たされたが残りの二つの条件は懸案のまま、一九七三年に入り提訴を取り下げることになった。ここに十三年間の闘争に幕を閉じることになったのである(『教職員人事の法律問題』)。 一方勤評問題については永くつづいた中断も、一九六〇年六月に入ってようやくはじまった。県教育委員会と組合側とで「勤務評定についての申し合せ」の交渉に、九月にようやく意見の一致を見て、県教育長は十月に「神奈川県立学校職員の勤務成績に関する規則」「神奈川県市町村立学校職員の勤務成績に関する規則」を公布した。前者は「地公法第四十条一項により、県立学校に勤務する職員の評定に関し必要な事項を定めこれを行うことにより、公正な人事管理並びに教育活動について適切な指導助言に資し、もって教育効果の向上を図ることを目的とする」として、後者は「地方教育行政の組織運営に関する法律第四十六条に基づき市町村教育委員会が行う市町村立学校職員給与法第一条及び第二条に規定する職員の勤務成績の評定の実施に関する神奈川県教育委員会の計画を定め(以下前者と同文)」というものであった。 十二月一日、横浜市を除いて記録の実施がはじまった。しかし、本県では一九五八年十二月に取り決めていた勤評神奈川方式の精神が含まれていたことは否定できない。そして、神奈川県公立学校職員の勤務評定実施要領も定められ、定期評定は毎年十二月一日に実施する、校長は職員の勤務の状況について適切な指導及び助言につとめ、記録にあたって記録事項について十分理解がなされるよう配意しなければならない、記録された資料の秘密、教諭等の記録については本人の求めがあったとき、本人に限り提示することができる、三年間保存し、保存期間経過後は焼却するものとする等が決められている。 一九六〇年一月には「神奈川県立高等学校の管理運営に関する規則」が公布され、一年後の一九六一年四月一日にはこの規則が廃止され、新管理規則が公布、施行された。公立小・中学校についての管理規則については、一九六〇年三月三十一日、「神奈川県公立小学校及び中学校の管理運営の基準に関する規則」が公布、施行された。県立・公立の学校の管理規則が細かく規定されたことになった。 高校生急増対策 本県の人口は一九六〇(昭和三十五)年の約三百三十三万人から一九六六年には約四百四十七万人となり、六年間で約百十万人もの人口増があった。このうち約七〇㌫が社会増といわれている。 これによって、戦後ふえつづけていた小学校児童数は一九五八年に第一次のピークをむかえ、中学校生徒数は一九六〇年になって、そしていわゆるベビー・ブームの波が高等学校におよぶのは明らかになっていた。 そこで、神奈川県教育委員会では一九六一年二月、「神奈川県立高等工業高等学校の授業風景 『かながわ』から 学校整備計画」を発表した。これによると一九六一年度から、一九六五年度を前期とし、生徒急増に対する計画をたて、一九六六年度から一九七〇年度を質的な充実を図るための段階とした。そして、この整備計画に発表された公立中学校卒業者、進学率、進学者の推計は第十八表のようなものであった。 これらによって既設の四十一校の整備として、一九六〇年から一九六二年にかけて、一 普通教育の増設、二 特別教室の増設、三 老朽校舎の改築、四体育館・プール等の建設をあげ、普通高等学校三校、工業高等学校(商業高等学校一校は未定)四校を新設する等のことであった。工業高等学校の建設を予定したことは、「産学一体化」のために、「三・七体制」(普通高校三校、産業高校七校)が提言され、学校制度の多様化が具体的におしすすめられたものであった。このような背景の中で生まれた本県の高等学校は一九六三年四月から技術高校という形で、横浜・川崎・平塚・大船に四校が、公共職業訓練所に併置された。 一方県民も高校増設等について、県議会の文教常任委員会への陳情をつづけていた。一九六三年には「高校進学希望者の全員入学等について陳情」をはじめ、高校増設等についての陳情件数は四十三件の多くを数えた。 高等学校整備計画に対して、実際どのような推移をたどっていたのであろう第18表 公立中学校卒業者進学率・進学者数(推計) 第19表 公立中学校卒業者進学率・進学者数(実際) ともに『教育統計要覧』,『統計でみる神奈川の教育のあゆみ』から か。整備計画における推定数と比して、同じように、公立中学校卒業者数、進学率、進学者数の実数を示すと第十九表のようになっている。 これによって明らかなように、卒業者数においても進学率・進学者いずれも推定の数より著しい相違をみるのである。 一九六一年 九〇六人 六二年 三、七二三人 六三年 六、七八三人 六四年 六、四九〇人 六五年 一〇、四八二人 一九六六年 九、八九二人 六七年 一〇、五〇五人 六八年 一一、三五五人 六九年 一一、三二二人 七〇年 一三、一三三人 右に示したのは整備計画と実際の高校生数の差である。これによると、一九六五年以降の差は約一万人から一万三千人もの差があったのである。 このように高校生徒の増加があまりにも著しく短期間であったため、公立高校は一九六一年の五十八校から、一九六九年の間に二十八校の増設があったが、生徒増には追いつかなかった。一九六三年二月の県会において、中学浪人を心配する質問に対して、教育長は中学浪人については、昨年は高校を希望して入学できなかった者は、千六百二十六人、今年も現在進学希望者は、五万四千六百人で、そのうち五万二千四百人は収容可能である。入学できないのは二千二百人ということになる旨新設された西湘高校 『がながわ』から の答弁をした。一九六三年四月に公立高等学校へ入学した者は、三万千四百六十一人であった。県外から入学した者もあったであろうが、約二万三千二百人は私立学校に行くことになる。私立高校への依存を強めることになった。 人口増と進学率の著しい上昇は本県教育行政に多くの問題を投げかけることになった。 一九七四年に入ると、さらに高校百校新設計画ができて、明治年代からこの時期までかかって、約百校の学校が設置されていたのを、十年間という短期間でさらに百校を建設するという非常に困難な問題にぶつかることになったのである。 私立学校への助成 私立学校でも戦後は苦しい経営状態におかれていた。戦災で校舎を焼失したり、全壊したもの、進駐軍に接収された学校等があった。一九四六(昭和二十一)年の金融緊急措置令によって、資金凍結措置となり、私立学校の預金は第二封鎖預金と定められた。この封鎖は一九四七年解除されたが、私立学校の資金はまったく苦しい状態にあった。一九四六年十月の衆議院本会議で、「私学振興に対する決議」が採択され、それは 一 公私立学校生徒学資負担額の不均衡是正 二 戦災私学復興費の助成 三 戦災私学の有する特殊預金の解除 四 私学への寄附金に対する租税の減免 五 私立学校職員待遇改善費の補助 などであった。 この結果、予算も組まれ、公的金融措置が行われた。これに基づいて、本県は一九四七年五月一日、「神奈川県地方私学振興協議会規程」を定め、知事を中心として、戦災学校復旧費および私立学校の経営費の政府貸付金の貸付けについて協議することになった。 貸付金は無利子すえ置き、三十年の元利均等年賦償還で、一九五二(昭和二十七)年まで、本県ではのべ六十校、総額四千七百七十三万円の貸付けがされた。 戦後の私立学校は、新学制の実施によって、新しく認可されることになった。 高等学校においては、一九四八(昭和二十三)年三月二十七日、神奈川県知事内山岩太郎によって認可され、スタートした。 しかし、文部省令「高等学校設置基準」が一九四八年一月に施行されていたが、認可された高等学校にはこの基準にあてはまらない、校地・運動場の面積の狭い学校もできてしまった。しかもその認可はそれがなおそのまま現在にまでいたり、問題を残すものとなった。 「私立学校法」は一九四九年公布された。これによって、私立学校の自主制が保障され、公共性が明らかになったのである。このため「国および地方公共団体は教育の振興上必要がある場合には、私立学校教育の助成のため、文部省令又は当該地方公共団体の条例で」補助金を支出したり、有利な条件で貸付金をだすことができることになった。 本県においては、この私立学校法の制定より先に、一九四八年九月補正予算において、他府県に率先し独自の私立学校助成費、小・中・高等学校分三百万円を計上した。戦前にも、各私立の中等学校に対して、本県は助成金を出していたこともあったが、戦後はこの年からはじまった。 一九五二年には「私立学校振興会法」、一九五三年に「私立学校教職員共済組合法」が公布され、「私立学校法」とあわせていわゆる「私学三法」が確立された。 これより以前「私立学校法」第一〇条に基づき、一九五〇年六月に、神奈川県私立学校審議会委員が安藤富士雄、神名勉聡、神保勝世等それに県議会議員より箕浦多一が任命され発足していた。 一方では私立学校の結束もすすみ、一九四七年五月に私立中学校協会、一九四九年二月に財団法人神奈川県私立中学高等学校協会を組織した。この団体を中心に私立学校関係者による県費助成運動も活発化していった。 補助金額の推移を見ると第二十表のようになる。この表は、小・中・高等学校の補助金を中心に、幼稚園、各種学校等の補助金を含む県下私立学校関係の補助金額である。特に、一九五八年度からの補助金の額は、前年度に対比して伸び率が著しく増加して、一九六二年までそれがつづいた。補助金額の伸びの理由は一九六五年のいわゆる戦後のベビーブームの波が高等学校生徒の増加時にあたり、私立全日制課程生徒数八万千余人を予想し、収容方法に、一 つめこみ、二 特別教室の転用、三 増築の三方法で、これに要する総経費九億二千万円余と推計し、県はこれに対して三億円を助成し、別に同額の三億円を融資するということになったのである。 高等学校数においては、第二十一表のようになる。 第20表 県費私学助成額 (単位千円) 『神奈川の私学』から 第21表 高等学校数増加表 分校を含まず この表によれば、一九六〇(昭和三十五)年から私立高等学校の数も増え、公立より私立学校数が多かったが、一九六三年からはその数が逆転し、公立学校数が多くなったのである。以降本県の高校百校計画は公立を中心に進められるようになった。 私立高等学校においては、その生徒数は全日制で一九六五年には八万七千二百余人であったが、生徒数は翌年から減少の一途をたどった。その数字を示すと第二十二表のようになる。私立高等学校生徒数は一九六五年度に最高となったが、一九七一年度まで減少していった。 生徒数の減少のなかで、一九七〇年三月二十八日、横須賀市の中心街にある私立湘南女子学園で、六名の専任教諭と一名の講師が整理解雇されたのである。生徒数が激減したため、教師の余剰と赤字経営のためということであった。もちろん、この学園だけではなく、横浜学園十四名、聖和学院三名も同じような理由で専任教諭を整理解雇した。 私立湘南学園においては、生徒・教職員等が整理解雇反対闘争に立ち上がった。理事者側は、解雇の基準としてさらに、「学園の方針に合わない者」であると明示してきた。生徒減少を最大の理由として、民主的教師を放逐するためであるとした組合の闘いは、県下私学校経営者対私立学校組合との対決ととらえられていた。 湘南学園の教師と生徒は何処に本質があるか徹底的に調査し、学校は黒字経営であること、学園は生徒数を、一九六一年度二百二十六名を一九六三年度は三・二倍の七百二十一名、同六四年度は三倍、同六五年度は三・四倍と県下において二位の生徒数増加率であったこと、さらに、資本蓄積を行っていたこと、解雇は計画的であることを指摘し裁判闘争に入った。この闘第22表 私立高等学校生徒数 『私学神奈川』から作成 争は、生徒はもちろん「湘南の教育を守る会」の人びとを含め多くの人たちが解雇反対を支援した。一九七一年十二月十四日、横浜地方裁判所横須賀支部、裁判官石垣光雄は、申請人解雇者に対して、全面的勝利の判決を下した。 組合側では、「私学における教師の身分保障」を確立したと同時に民主教育の発展に大きく寄与する判決であったと評価した(『湘南女子学園裁判の判決文』)。 第三章 「工業化」以後 第一節 開発の中の社会問題 一 高度成長政策の帰結 神奈川県の総合開発計画 神奈川県が戦後の復興をおえて、本格的な経済発展期を迎えたのは、一九五五(昭和三十)年からはじまる高度経済成長期からであった。このころから県では、国の開発計画に対応して、数次にわたる県としての総合開発計画をつくり、県経済の発展に大きく貢献した。とりわけ、京浜工業地帯という日本の代表的な重化学工業を擁する本県の経済発展が、国全体の経済成長にも巨大な役割を果たしたことはいうまでもないが、その政策の一端を担った神奈川県の総合計画も、他県のそれとは比較にならぬ重要な意義をもつものであった。 ところで、県の総合計画は、一九五四年に第一次計画が策定されたが、これは当時企画または実施中の諸計画をまとめたもので、いまだ本来の体系と総合性をそなえたものとはいえなかった。にもかかわらず、すでにこの第一次計画の中に、のちの「土地及び水資源」に象徴される、神奈川県の総合計画の基本的性格がうち出されていた。 さて、その計画が本来の姿をあらわすのは、一九五九年に策定された「土地及び水資源に関する総合計画」と題した第二次総合計画においてであった。この計画は、神奈川県のこれからの経済発展―とりわけ京浜の重化学工業化―にとって、土地及び水資源の確保とその合理的利用がいかに重要かを、はじめて体系的に論じたものであった。 土地については、戦前から臨海の埋立てによる京浜工業地帯造成の歴史をもっているが、戦後も経済の成長発展に合わせて、埋立事業が再開された。すなわち、一九五五(昭和三十)年から、神奈川県、横浜市、川崎市の三者によって数次にわたる巨大な埋立造成事業が計画され、着工されていった。こうした中で、第二次総合計画は現在着工または着工予定の埋立事業が完了すれば、臨海部の工業立地はほぼ限界に達するとして、新たに湘南、県央など内陸部の工業開発に目を向けている(第一表)。 他方、巨大な電力及び水需要をもつ神奈川県は、水資源の開発についても早くから力を入れてきた。相模ダムにつづく城山ダムが、一九六五年に完成するが、このころから本県は再び水資源の開発と確保に追われだす。急激な成長に加えて、京浜地帯が鉄鋼・化学・パルプ・繊維・石油などの用水型工業を主力としているため、工業第1表 戦後の臨海埋立造成(横浜・川崎地域) 『第3次総合計画改定版』から 用水の需要は高まる一方であった。それに人口増加による生活用水の需要も、水資源の開発を一段と緊急ならしめた。こうして、六〇年代には、相模川や酒匂川の総合開発が、次つぎと日程にのぼりはじめた。 第二次総合計画は将来構想としては、一九七五年を目標とする長期計画であったが、具体的な整備計画としては一九五九年を初年度とした七か年計画であった。ところが、この期間に県経済は折からの所得倍増計画にのって飛躍的な成長をとげ、一九六五年には人口で四百四十三万人、工業生産出荷額で三兆四百九十二億円に達し、一九七五年目標(四百四十七万人、二兆四千億円)をすら突破する勢いであった。そこで、一九六五年からはじまる次の第三次総合計画では、「基本的与件の想定」を大幅に修正し、人口六百万人、工業生産出荷額五兆七千億円と改定したのであった。 ところで、第三次計画の最大の課題となったのは、異常な成長が生んださまざまな社会的ひずみの問題であった。すなわち、神奈川県への資本と人口の集中は、公害問題をはじめ住宅・教育・福祉・生活環境など、県民生活に重大な弊害をもたらしはじめていた。さ磯子駅から根岸方面をみる(1967年) 日本機関紙協会神奈川県本部蔵 らに、前計画以来、県経済の存立と発展の条件として重視されてきた、土地利用と水資源の混乱と不足を生ずるおそれも生じ、今後の経済発展のブレーキにもなりかねなかった。こうして、第三次総合計画は、これらの「至難な問題」にとりくむために、「県民福祉の向上という一点に計画の目標を集約し……住みよい県土の実現をめざす総合計画」という性格づけがなされたのであった。 神奈川県はこれまでの開発政策では、土地と水の対策など、つねに政府の経済政策を先取りする、開発の先進県を誇ってきたが、第三次総合計画は図らずも本県が、六〇年代の後半から、公害と過密の先進県になったことを自認するものであった(『第三次総合計画』内山岩太郎序文)。しかし、この第三次総合計画でも、いまだ経済成長とその「ひずみ」に対する認識は甘く、産業開発と人口増を自明のこととして、「地域開発と生活環境保全との調整」を掲げて、県央を中心とする内陸工業地帯の造成を推進するなど、「住みよい県土の実現」をめざす上で、政策的に相矛盾する面がめだった。 開発政策の矛盾と転換 さて、内山県政の末期に策定された「第三次総合計画」は次の津田県政のもとで情勢の変化に見合った若干の修正を加えて引き継がれた。それが一九六九(昭和四十四)年に発表された『第三次総合計画改定版』である。ところで、第三次計画実施後の工業化と人口増はさらに激しく、工業出荷額では一九六七年に早くも四兆二千億円に達し、年間増加額八千億円(対前年比二四㌫)という驚異的成長を示した。また、人口増も社会増から年々二十万人をこえ、一九六九年七月には、五百二十一万人に達するという全国一の増勢をみせた。 しかし、このような急成長は、同時にまた、すでに指摘されてきた社会的経済的矛盾を一層増幅するものであった。改定計画はいう。 現在すでに京浜臨海部の既成工業地帯においては、大気汚染、騒音、振動などによる公害の発生、地下揚水による地盤沈下などの弊害が顕著になり、農村地帯であった内陸部への工場進出は、地価の上昇、離作傾向の増加、遊水池の埋立てにともなう洪水の危険の増大、工場排水による河川水などの水質汚濁などさまざまな問題をひきおこしており、農業と工業との調整、地域開発と生活環境保全との調整の必要が強まってきている。 こうして、第三次総合計画からわずか四年にして、総合計画の見直しと改定が必要になったのである。この改定版では、「基本的与件」としての人口の想定については前計画と同様六百万人で抑えているが、出荷額については七兆円という大幅な修正を行っており、また、全県に広がりはじめた各種の公害対策に全力をあげ、「広範多岐にわたる県行政を、本来の目的である県民福祉向上の一点に集約」すると述べている。しかしそれが他の箇所では、「産業の振興と調和ある発展」という見地からひきつづき県央の開発と工業化に積極性を示し、また新たに五つの大規模プロジェクトを総合計画にくみ入れるなど、依然として開発指向の姿勢を崩していない。ことに、五大プロジェクトは、この年、国が決定した新全国総合開発計画の中の大公害のない内陸工業団地の造成(伊勢原市1970年) 『県政写真ニュース』236号から 規模開発プロジェクトと交通・通信網の新ネットワークの建設計画に対応するもので、丹沢地域総合計画、相模川総合整備事業計画、酒匂川総合開発整備計画、相模湾総合整備計画、道路交通網計画からなっている。 さて、以上のような矛盾を含んだ二つの総合計画のあとで、国の高度成長政策に安易に従ったこれまでのあり方に強い反省が加えられたのが、津田県政の後期に策定された「神奈川県新総合計画」であろう。この総合計画ははじめて、「自然環境の保全」や「人口の適正規模と産業の適正配置」を前面にうち出し、過密と公害、自然破壊をもたらす工業化と人口増にストップをかける姿勢を見せている。たとえば、工業化については、臨海部はもちろん内陸部についても工業の新規立地と用地造成を規制する方針をうち出し、また人口増についても、住宅政策を通じて東京からの人口流入を抑制する施策をとっている。そして、自然の尊重と人間性の回復を基調とした「福祉優先の豊かな地域社会の実現」を基本目標に掲げている。 この計画が従来のそれとちがうのは、人口については本県の望ましい規模を七百三十万人としながらも、工業生産出荷額については、何等の想定もしていないことである。また、各論の構成の中にこれまで必ず入っていた「工業生産」の項目を、意識的に除外している点も注目されよう。その理由の一つは、計画と現実とのずれであろう。『第三次総合計画改定版』が一九七五年を目標に想定した出荷額(七兆円)は、すでに七〇年には達成されてしまう有様であった。いま一つの理由は、この驚異的なテンポの経済成長が生んだ深刻な集積の不利益と社会的損失である。十年間で四一㌫に及ぶ農地の潰廃と減少、公害病患者の続発、一九七〇年の全国最高の交通事故死者数、医療、教育、生活環境施設の立ち遅れなど、県民にとって県土は住みにくくなるばかりであった。新総合計画が従来の産業優先から生活重視へと軌道修正にふみ出したのは、のっぴきならない県民生活のこのような現実があったからである。同時にそれは、長期にわたって県の開発計画の指針となってきた国の高度成長政策の破綻を告げるものであった。 社会問題発生の背景 神奈川県が一九六〇年代以降、総合計画策定の上で常に悩まされた問題に、不断に増大する人口問題があったことは、これまでも述べてきたとおりである。そこでこの人口増問題について、ややまとまった説明をしておきたい。 第二表によれば、五〇年代の後半に年十万人のテンポで増加していた県の人口が、六〇年代に入ると二十万人にふえ、さらにその後半には一つのピークを迎えている。そして、七〇年代になってようやく鈍化の動きが見られるのである。 人口増の主役は社会増であるが、その増加率は全体のそれを大きく上回っており、とくに六〇年代に著しい。ところで、この社会増には二つの要因が働いている。一つは、五〇年代の後半に、京浜工業地帯の造成・拡大とその周辺の工業化によって、労働力需要が急増したことである。この時期には、東北・北九州をはじめほとんど全国から、若年労働力が本県に流入した。いま一つは、六〇年代に入って東京からの転入者が急増し、社会増の半分以上を占めるに至ったことである。これらの転入者は、過密と住宅難から本県へ移住してきた東京通勤者が大半で、都心からほぼ五十㌖圏にある県下の諸都市を急速にベット・タウン化していった。 このように神奈川県は、高度成長の前期には県内工業の労働力需要によって、またその後期には東京からの移住者によって、二重の人口圧力に悩まされたのであった。一九五六(昭和三十一)年に制定された首都圏整備法が、この人口流入を一層促進したことはいうまでもない。こうした人口増が、県民の生活環境にどのような諸結果をもたらすかは、後の叙述で明らかに第2表 人口増加とその内訳 『神奈川県人口統計調査』から作成 なるであろう。 次に、この時期の県下における行政投資の問題を検討してみたい。つまり行政投資の実態分析によって、神奈川県の開発の特徴と、社会問題発生の背景が、かなりの程度明確になると思われるからである。 大川武の論文「『社会資本』整備の実態と問題点―神奈川県を中心に―」(『経済と貿易』一一一号)によれば、一九六〇から七〇年の高度成長期に、国、県、市町村を合わせた全国行政投資の四分の一が、関東臨海の四都県(東京、神奈川、千葉、埼玉)に集中し、そのまた四分の一近くが神奈川県に投下されている。この神奈川県の行政投資の実態を、同氏の論文資料を借りながら、一九六七年度について整理すると第三表のようになる。これによると、全投資額の中で道路投資が群をぬいて高く、二位の住宅を合わせると、この二つで全体の五四・三㌫を占める。次に投資主体別にみると、国の道路投資の巨大さ(六八㌫)が注目される。県については同じく道路がトップで、次に住宅、治山治水、文教施設の順となっている。最後の市町村集団就職(1969年) 『県政写真ニュース』141号から では水道が一位を占め、二位が道路となり以下公共下水道、文教施設とつづいている。 次に、これらの部門別投資を、産業基盤投資と生活基盤投資とに大別すると、全投資額では四六・七㌫と四三㌫となり、道路投資を中心とする産業基盤投資が、生活基盤投資を抑えて優位に立っている。国の場合はとくにその差が大きい。この両者の比率が逆転するのは、高度成長政策の破綻が明らかになる一九七〇年以降である。 公共投資については、政府は国民所得倍増計画以来、「社会資本の充実」を経済政策の最重点課題にすえて、巨額の財政資金を投入してきた。また地方自治体も、地域開発の名のもとに当然のようにそれに従ってきた。しかし、その「社会資本」とは、道路・港湾・工場団地・工業用水など産業基盤拡充のための投資であり、住宅・教育・福祉・生活環境など国民生活むけの投資ではない。この矛盾が六〇年代の後半に至って爆発するのである。ことに神奈川県は、我が第3表 1967年度,神奈川県内の国・県・市町村別行政投資(構成比) 大川武論文から作成 国屈指の重化学工業県として、大規模な開発と急激な人口増を招いたため、公共投資の遅れによる生活環境の荒廃は極めて深刻であった。かくて、本県は六〇年代の後半から、各種の公害をはじめ、住宅難・通勤難・教育施設の不足・下水・ゴミ等の生活環境施設の立ち遅れに悩まされるのである。 二 悪化する生活環境 住宅問題 戦後の高度成長がもたらした各種の公災害や住宅・交通・下水・ゴミといった新たな社会問題は、低賃金や失業のようなこれまでの古典的貧困と区別して、「新しい貧困」とよばれる(宮本憲一『日本の都市問題』)。それは、過去の貧困とちがって、所得の上昇や雇用の拡大で解決できる問題ではない。むしろ、これらの社会問題は、所得水準が上がるにつれてひどくなる傾向にある。 なかでも、住宅難・交通災害・公害は、現代の三大公害とよばれて、その対策が最も声高に叫ばれてきたのである。以下の叙述で、神奈川県下の「新しい貧困」の諸相を、いくつかの分野にわたって述べていくが、最初にまず住宅問題から取り上げよう。 住宅問題は本県にあっては、古くて新しい問題である。戦後だけに限っても、高度成長の前期(昭和三十年代)には京浜地帯の労働力確保の要請から、また後期(同四十年代)には首都圏のベット・タウン対策として、住宅問題はつねに県政の重点施策の一つにされてきた。しかし、ふえつづける人口に住宅の供給が追いつかず慢性的な不足がつづいた。さらに、戦後の世帯の細分化の傾向と工業県特有の単身者世帯の激増によって、世帯数の増加が人口増を上回り、住宅難に拍車をかけた。このような住宅の不足は、居住条件にも悪影響を及ぼし、県民一人当たりの居住面積(畳数)では東京都についで最下位にとどまるという状況がつづいた(『第三次総合計画改定版』)。 『第三次総合計画改定版』では県下の住宅不足数を十七万戸と推計し、さらに一九七五年までの住宅建設必要数を五十七万戸として建設計画を立てている(第四表)。この計画の内訳を見ると、いわゆる政府施策住宅が二十五万七千戸、残りの三十一万三千戸が民間自力建設となっている。このうち公営住宅は低所得者層に、公社・公団・公庫住宅は中高所得者層に供給するというのが県の方針であるが、最も希望の多い公営住宅はわずか十㌫(六万戸)に過ぎない。しかも、公庫個人融資分と公団分譲分は民間のそれと変わりないので、これを民間自力建設分に加えると約四十万戸となる。 この計画は、一九六六(昭和四十一)年からはじまった政府の「住宅建設五か年計画」に対応するものであり、また政府の住宅政策である民間自力建設=持家主義に沿うものであった。宮本憲一によれば、政府の持家主義の破産は、最近における持家県営かもめ団地の建設(1971年) 『県政写真ニュース』412号から 率の低下と民間借家、とくに都市に林立する狭小・木造・高家賃・低水準のアパートブームにあらわれているという(宮本憲一『日本の都市問題』)。つまり、住宅難に悩む住民は、大部分低所得者層であり、持家に手の届かぬ人びとは何よりも居住条件の一応ととのった公営の低家賃住宅を求めているわけである。 しかも、住宅政策は長い間、宅地政策ぬきですすめられてきた。そのため地価の騰貴が住宅建設を困難にし、この面でも民間自力建設と持家主義を破綻に導いている。土地の値上がりによる宅地難は、民間の住宅建設だけでなく、公営・公社・公団などの公的住宅の供給をも困難にする。一九七二、三年の列島改造ブームの中で、土地と建築資材の異常な値上がりのため、神奈川県は着工の目途が立たず、千九百二十八戸分の公営住宅の建設を見送っている(『神奈川県住宅手帳』)。この事実は、土地政策ぬきの住宅政策はもはや限界にきたことを物語っている。 下水道と清掃問題 「下水道は文化のバロメーター」といわれながら、その整備は現代の都市施設の中で最も遅れている分野だといわれる。神奈川県も同様で、その普及率を見れば歴然とする。高度成長を達成し都市化の進んだ一九六八(昭和四十三)年になっても、本県の公共下水道の普及率は二二㌫で、六大府県では最低に近い。 ここで人口急増都市、相模原市の排水問題にふれておこう。同市は下水道事業がようやく一九六七(昭和四十二)年からはじまるが、約一万戸の住民は下水道がないため、庭先に「吸い込み式」とよばれる素掘りの井戸を掘り、台所や風呂の汚水を流し込んで当座をしのいできた。また、排水路に近い地区では、住民が私設下水道組合をつくり、私費で家庭排水や雨水など第4表 県の住宅建設計画(1969~1975年) 『第3次総合計画改定版』から作成 の排水施設を設けている。その数約百組合、加入者一万五千戸といわれるが、このような私設下水道組合は、全国でもあまり例がないといわれている。県央の内陸工業都市として脚光を浴びた相模原市で、市民の苦情が下水と学校施設という最もプリミティブな問題に集約されるという事実は、産業優先の開発政策の矛盾を端的に示すものであろう(『相模原市財政白書』 一九五七年)。 流域開発による河川の汚濁で、上水道の水質維持すら危くなるに及んで、国は一九六七年からようやく下水道整備にとりかかった。それが下水道整備緊急措置法に基づく「下水道整備五か年計画」である。水資源対策ではつねに国に先行してきた神奈川県も、一九六九年から流域下水道計画に着手し、まず相模川総合整備事業の一環として、流域十一市町の公共下水を両岸の堤防下に埋設する幹線下水道に導入して、下流で一括処理するという一大事業に取り組みはじめた。この事業は、本県の動脈である相模川の汚濁を防止し、県民の水の確保をはかる画期的なものであるが、その完成が一九八五年とされているため、関平塚市四之宮相模川流域下水道事業(1971年) 『県政写真ニュース』408号から 係市町からその早期完成が切望されている。 下水道の未整備は、清掃問題の解決をも大きく妨げている。かつて都市のし尿やゴミは、農家の肥料として農村に還元されたが、戦後の化学肥料の登場と農村の都市化は、農村還元方式に終止符をうち、都市の清掃問題を一挙に社会問題化した。しかし、住民の生活環境問題に対する国の政策不在は、下水道問題と同様、ここでも事態を放置して解決を困難にした。そのため、清掃事業を担当する市町村は、長年し尿は海洋投棄し、ゴミは地中に埋めるという原始的・非衛生的処理方法をとってきた。こうして、海洋汚染がひどくなり、埋立地の確保がむづかしくなると、下水道やゴミ焼却施設を設けて衛生的処理をはかる方法を採用しはじめたのであった。 神奈川県における一九六七(昭和四十二)年度のし尿とゴミの処理状況は上図のとおりである。 これは、国の生活環境施設整備緊急措置法(一九六三年)が施行されてから五年後のものであるが、し尿については水洗便所、下水道終末処理という衛生的処理の割合が一七㌫に過ぎない反面、海洋投棄が四二㌫を占め、また、バキュームカーで収集運搬する部分(し尿処理施設)が二六㌫もあるなど、理想には程遠い状況である。一方、ゴミについても、埋立てにたよ(上) し尿処理状況 (下) ゴミ処理状況 いずれも1967年度(単位%) る部分が二八㌫もあり、今後のゴミの排出量の増大と合わせて、焼却による衛生処理が急務となっている。 『第三次総合計画改定版』では、一九七五年までに、し尿・ゴミとも特別清掃地域を拡大(一九六七年度現在で市部九五㌫、郡部六八㌫)し、市部では一〇〇㌫、郡部では八八㌫にすると共に、九八㌫の衛生処理をめざすとうたっているが、その後の人口増にともなう排出量の増大、大型粗大ゴミや産業廃棄物などの問題、さらに処理施設や埋立地の立地問題など、深刻な問題をかかえている。このようなゴミ戦争下にあって、清掃事業の当事者である市町村の悩みは大きい。 とりわけ、年間二千万から三千万人の観光客を迎える鎌倉市や箱根町のゴミ公害は有名である。鎌倉を訪れる観光客は、一日平均五万九千人(一九七五年度)、定住人口の三五㌫に達するという。つまり市民たちは外来者のゴミ処理まで、自己の負担で行っているのである。これに要する市の経費は、一世帯当たり年間一万七千余円といわれ、他市の約二倍である。しかも、国の補助はほとんどない。 不足する教育施設 住宅・下水・清掃と並んで、市民生活を維持する上に一日も欠かせぬ問題に、子どもの教育のことがある。だがこの面でも、県下の自治体は教育条件の整備に追われて四苦八苦している。 まず、マンモス都市横浜から見てみよう。横浜は戦災と占領、それにつづく埋立てと港都建設のための産業基盤づくりで、教育施設の整備が大幅に遅れた。戦後十八年を経た一九六三年になっても、二部授業を行っている学校が、学級数で百十四もあり、一クラス五十人のマンモス学級が市内の小学校の三二㌫もあった。また、中学校の理科・音楽・家庭科などの特別教室や、講堂・プールの整備もすすまず、整備率はそれぞれ一八㌫、三〇㌫、二〇㌫に過ぎなかった。 教育条件の貧困と関連して、当時大きな社会問題であったのは、教育費の父母負担であった。一九六三年度の横浜市の父母負担は総額で十五億一千万円にのぼり、児童生徒一人当たりにして七千三百三十八円、同市の教育費総額の実に一八・八㌫を占めた。教育費の私費負担については、一九六一年四月、地方財政法の一部が改正され、法的禁止を受けたにもかかわらず、巧みな口実を設けてその後も改まる様子はなかった(横浜市政調査会『一六〇万人の市政』)。 次に、『子ども貧乏白書』を発表した相模原市の教育施設を検討してみよう。第五表によると、相模原市の人口増加は、一九六五年以降年二万人をこえるが、それにほぼ比例して児童生徒数も一九六五年から六八年に一万から二万人、六八年からは三万から四万の急増ぶりを示している。それにつれて、小中学校の増設数も六八年までの年間一校から、六九年以降は年間三、四校にふえている。 一方、既設の学校規模も年々に拡大し、一九七四年度には一校当たりの児童数千二百五十人(文部省基準では八百人)、千五百人以上のマンモス校が小中学校合わせて、四十二校中十五校となっている。そして、これら急増するマンモス校にはプレハブ校舎があてられ、七四年度には九十四のプレハブ教室がつくられている。 白書はさらに、今後三年間(一九七六~七八年)、児童生徒一万九千人増という急増期を迎えて、三年間に小中学校十八校の建設と、それに要する経費三百六十億円が必要になると指摘して、市財政の危機を訴えているのである。 相模原市にあらわれた教育施設の不足は、人口急増地域の典型的な例であるが、このような状況は多かれ少なかれ県下各地の一般的な傾向であった。全県的にみても一九六五(昭和四十)年をさかいに、児童生徒数は増勢に向かうが、それに対して教育施設の遅れはひどく、一九七〇年の時点で特別教室の転用を含めた普通教室の不足数は、小学校八百八十二、中学校百四第5表 相模原市の教育状況 1975年『相模原市財政白書』から作成 十八を数え、両者を合わせると全国の教室不足数のほぼ三分の一にのぼる。また、プレハブ教室も小学校五百八十、中学校九十四を数えた(『昭和四十五年度学校基本調査』)。 このような神奈川県の教育の状況は、七大都府県の中でも遅れがめだち、一学級当たりの児童生徒数、教員一人当たりの児童生徒数、児童生徒一人当たりの校舎面積のすべてにわたって最低となっている(第六表)。 小中学校の施設整備の責任は市町村にあるが、一方、県が直接責任を持つべき高校の場合はどうであろうか。 高校教育については、神奈川県は一九六五年の第三次総合計画で画期的な「高校再編成」の構想をうち出した。この構想は、高度成長と技術革新下の「社会的要請」に基づく人材養成を高校教育の場に求めたものである。すなわち、生徒の能力、適性、進路に応じた教育と学校の多様化をうたい、今後の高校教育施設の重点を全日制普通科でなく職業科や定時制の拡充におき、産業界からの要請の強い下級技能者の養成をめざすものであった。この方針は「資本のための人づくり」「差別選別の教育」として、強い批判を浴びたが、とくにこの中で、技術高校の新設は、本来私企業が行うべき技能訓練を、県が代行するものとして企業連携問題が激しい論議第6表 7大都府県別学校種別教育条件等の比較 「学校基本調査および公立文教施設実態調査」 1967年5月1日から をよんだ。 この高校再編成は、一九六四年から七五年の間に、職業校や定時制については、技術高校八校、定時制職業高校五校、定時制独立校三校、合計十六校の建設計画に対して、全日制普通校はわずか一校にとどめ、十年後には普通校と職業校の比率を、現行の六・五対三・五から五対五に近づけようという極端なものであった。しかし、この露骨な産学提携の高校再編構想も、一方では県民の間での進学率の上昇と普通高校増設の運動、他方では景気変動による企業側の新規中卒採用の減少等で、生徒の募集難から廃校に追い込まれる技術高校があらわれ、高校再編成は中途で破綻せざるをえなかった(神奈川県教育委員会『神奈川の教育-戦後三十年の歩み』)。 こうして、神奈川県は一九七四(昭和四十九)年から高校進学希望者の急増期を迎え、普通高校の増設に追われることになる。 厚木南高校の3部制授業(1969年) 『県政写真ニュース』136号から 三 荒廃する県土 道路・交通問題 道路行政について神奈川県は、第一次総合計画の「交通施設の整備」以来、第三次総合計画改定版の五大プロジェクトの一つである「道路交通網計画」に至るまで、つねに県政の重点施策としてきた。本県がこのように道路・交通施設の整備を重視してきたのは、いうまでもなく県下の交通網が我が国最大の京浜工業地帯の貨物輸送の幹線の役割を担っており、また、首都圏最大の通過交通量をかかえているにもかかわらず、その輸送力がしばしば高度成長のネックとなっているという重大な事情があったからである(『神奈川県産業構造の基本問題』)。 そのため現代の輸送力の主力をなす道路の整備については、県や関係市町村だけでなく、国自身がその整備に全力をあげてきたことは、すでに述べたとおりである。いまその整備状況を把握するために、神奈川県における道路投資の動きを調べてみよう。第七表は高度成長期における国・県・市町村の道路に対する行政投資の推移を投資総額に対する構成比と伸び率であらわしたものである。 これをみると、まず国の道路投資が県下における行政投資全体の割合でも、またその伸び率からみてもずば抜けて大きいことがわかる。この道路投資が増大するのは、所得倍増計画が実施に移された一九六一(昭和三十六)年からであり、その投資の大部分は日本道路公団の東名高速道路や中央高速道路 首都高速道路公団の横浜・羽田線の事業費といわれる。一方、県の道路投資も国の計画に呼応して増大していくが、これも県の行政投資総額の四分の一から三分の一を占め、事業別投資額の中ではつねにトップに立つ巨額のものであった。 こうして、神奈川県は道路の普及率と道路密度では、全国で二、三位を競う水準に達し、国道・県道の改良率(七二・九㌫)や舗装率(七四・四㌫)でも、東京、大阪に次ぐ地位を占めるに至った。 ところが、国道・県道の整備率に市町村道を加えると、その数字は大きく訂正されなければならない。すなわち先の改良率(七二・九㌫)に市町村道のそれを加えると、改良率は二七・四㌫に下がり、東京(四六・八㌫)大阪(四三・五㌫)に大きく水をあけられる。このことは、神奈川県の道路整備がもっぱら国道・県道などの幹線道路を中心にすすめられ、道路延長の九〇㌫にあたる地方の市町村道の整備はあとまわしにされていたことを示している。第七表でみるように、市町村の道路投資も同時期に急増するが、その整備の重点は国道・県道の支線やその連絡路におかれ、結局住民の生活道路はここでもあとまわしにされている。ちなみに神奈川県は、一九六五年から市町村道に対する県費補助(三分の一)の制度を設けたが、その対象も国道・県道を補完する幹線道路が優先されていた。 しかし、車優先の道路政策が推進され、巨額の行政投資が行われても、県下における車の保有台数や交通量の増大に道路整備が追いつけないでいる。『第三次総合計画改定版では』道路交通網計画を五大プロジェクトの一つに加え、一九八五(昭和六十)年の県内の自動車保有台数と発生交通量を、一九六五年の八・七倍と七・二倍に想定して幹線道路を全県に張りめぐらす計画を立てたが、道路ができれば車がふえるというモータリゼーション社会の構造にメスを入れない限り、その矛盾は解決しないであろう。 さらに悲劇的なことは、交通量の増大にともなう交通事故の激増である。一九七一年に本県は、交第7表 神奈川県における国,県,市町村の道路投資の推移(構成比%と伸び) 大川武前掲論文から作成 通事故の死者数(三百七十六人)で日本一という汚名を被った。一九六〇年代の十年間をとっても、交通事故の件数で三倍に、死傷者数で三・五倍の急増ぶりである。また、その十年間の県内の死傷者数は二十五万人にのぼるという(『神奈川の交通統計』)。この原因は基本的には、政府の野ばなしのモータリゼーション政策にあるが、同時に国の幹線道路優先の政策に追随し、交通安全対策を怠ってきた自治体の責任もまぬがれないであろう。一九七三年の「新総合計画」で、神奈川県もようやく、これまでの車社会のあり方に厳しい反省を加え、人命尊重と歩行者優先の道路交通政策を模索しはじめている。 災害に弱い県土 一九五八(昭和三十三)年九月二十六日夜、伊豆半島の南端をかすめた台風二十二号は、二十七日午前零時ごろ、相模湾から江の島に上陸し、横浜、東京を襲って大災害をもたらした。この台風は狩野川台風と呼ばれたように、狩野川流域の伊豆の被害はとくに激烈であったが、神奈川県でも、横浜で日雨量二百八十七ミリという観測史上最高の豪雨を記録して、戦後最大の被害が生じた。横厚木バイパスの開通(1969年) 『県政写真ニュース』185号から 浜、川崎などでは各地でガケ崩れをひきおこし、死者九十二名、負傷者百三十二名という多数の犠牲者を出し、家屋の全半壊も六百四十一戸におよんだ。また市内を流れる鶴見川、帷子川、大岡川の氾濫で、沿岸一帯に大洪水を生じ、浸水家屋七万三千五百戸、罹災者十一万二千余人にのぼった。 この水害でとくに注目されるのは、横浜など都市部のガケ崩れによる人命の損失と、都市の中小河川による災害である。戦後、神奈川県では、一九四八年九月のアイオン台風や、一九四九年八月のキティ台風で、洪水による甚大な被害を受けたが、その原因は戦時中の山林濫伐と、国土の疲弊によるところが大きかった。 ところが、今回の水害の原因には、都市周辺における無秩序な開発と、中小河川に対する治水対策のたちおくれという新しい要因が加わっていた。つまり一九五〇年代半ばからはじまる人口の都市集中と開発の波が、周辺の自然や田畑の遊水機能を奪い、危険なガケ地や河川流域の宅地造成とあいまって、都市水害という新しい型の災害を生み出したのである。狩野川台風は、まさに本県における都市水害の幕明けとなった。 風水害による県下の人的被害は、ほとんどがガケ崩れによる犠牲である。ガケ崩れの中心は何といっても横浜であった。いま一九五〇年代の後半から六〇年代前半におきた三つの大水害をとって、横浜市のガケ崩れによる被害状況を見ると第八表のようになる。 横浜は市の九割が台地と丘陵からなり、しかも軟弱な地盤の関東ローム層からなっている。そこに戦後の開発と宅地造成の波が押し寄せ、丘陵斜面が人工的に変えられたり、台地や傾斜地が切り第8表 横浜市の3大ガケ崩れの被害状況 『神奈川新聞』昭和48年6月7日付から作成 崩されて、ガケ崩れ災害の発生条件を用意していった。こうして横浜市は、水害のたびに多くの犠牲者を出すという、全国でも有名なガケ崩れの常習地帯と化したのである。 これに対して県では、一九六六年から「ガケ崩れ対策」を地域防災計画に加えたり、国の急傾斜地法の制定(一九七〇年)を機に、傾斜地崩壊危険区域を指定してずさんな宅造を規制するなど、対策にのり出したが、なお十分とはいい切れない。 次に河川の氾濫による水害についてふれておこう。戦後も一九五〇年代半ばになると、かつてのような大河川の水害は姿を消したが、かわって都市の中小河川の被害がめだちはじめた。狩野川台風でも、鶴見川・帷子川をはじめ、横浜・川崎市内の河川の決壊箇所は、百三十二か所にのぼっている。また、狩野川台風に次ぐ大災害をひきおこした、一九六一年六月の梅雨前線豪雨では、横浜市の大岡川・帷子川、藤沢市の柏尾川、逗子市の田越川、横須賀市の平作川などが洪水の主役であった。これらの河川流域は、高度成長下の乱開発によって、その上流部まで農地や緑地が工場や宅地に変わり、雨水を吸収・貯水する柏尾川の改修工事(1969年) 『県政写真ニュース』144号から 機能を失ってしまった。そのため、豪雨にあえば河川の流量が一時にふえ、下流の都市部では都市排水の増大と重なって氾濫や浸水を招くことになる。さらに、都市化の進行や地価の高騰で、河川改修が大幅におくれ、被害を一段と激しくする。 一九六一年の梅雨前線豪雨を契機に、神奈川県でも河川改修に本腰が入れられるが、それでも第三次総合計画の改修計画を見ると、一九七五年までに計画の五八㌫を終えるという、まことに遅々としたものである。また治山・治水のための行政投資額は、道路投資の十分の一(第三表)に過ぎず、これをみても住民の生活と安全に直結する中小河川の災害対策が、いかに軽視されてきたかがわかるであろう。 乱開発と農業 一九六四(昭和三十九)年に、県の農政部が発表した「農林漁業長期計画」によれば、一九六〇年に六万六百ヘクタールの県下の耕地面積が、一九七一年には四万八千ヘクタールになる見通しであった。また、その翌年に策定された第三次総合計画では、一九七五年の耕地面積を四万四千ヘクタールとしていた。つまり、それぞれの年度までに耕地の減少率を二〇㌫、二七㌫と見込んでいたのである。 ところが、現実の農地の潰廃テンポははるかに速く、一九七〇年ですでに三万五千七百ヘクタールに減少(四一㌫)し、七一年はもちろん七五年の県の減少見通しすら軽くこえていた。農地だけでなく、林野面積もこの期間に、十万五千ヘクタールから九万四千ヘクタールに減少していた。しかも後半の五年間(一九七一~七五年)の潰廃ぶりはとくに激しく、林野で九千ヘクタール、耕地で一万五千ヘクタールに達した。 このような予想をこえた自然の破壊と農地の潰廃に遭遇して、県当局は一九七三年の「新総合計画」では、これまでの開発優先の姿勢を大きく転換して、自然の尊重と人間性の回復という画期的な方針をうち出した。 「新総合計画」ではその点をこう述べている。 われわれは、人間も自然界の一員であるという位置づけを認識し、自然の多様性のわくのなかで、将来にわたって安全で持続的な生存環境の保全をはかる必要がある。そのためには、これ以上自然を失ってはならず、残された自然を守るために最善の努力を傾けるとともに、失われた自然を可能な限り復元する努力を続け、県行政のすべての部門にわたって、自然の尊重を基調とした施策を有機的連けいのもとに推進していかなければならない。(『神奈川県新総合計画』) そして、県土の約半分を占める残された自然を、緑地環境として保全するために、先ごろ制定された自然環境保全条例など、自然保護のあらゆる法律制度を運用すると述べている。さらに、「自然保護は思想であり理念である」とうたって、県民全体にこの理念を普及浸透させたいといっている。 では、県当局をここまで追いつめた開発の実態とはどのようなものであろうか。再三述べたように、六〇年代は本県の工業化と人口流入が最も激しく進行した時期であった。とくに「破壊の主力」といわれる宅地開発が、一九六五年以降は急激に伸び、年々の農地転用面積の六割前後を占めている(第九表)。 この宅地開発は、私鉄とその系列下の不動産会社の占める割合が圧倒的に高いといわれている。いま横浜市内に限って、一九六二年から六九年までの二十ヘク第9表 農地転用と宅造面積の推移 神奈川新聞社『緑の復権』から作成 第10表 横浜市内の大規模宅地開発 神奈川新聞社『緑の復権』から タール以上の大規模宅地開発を十位まであげると、第十表のようになる。私鉄はその沿線を利用して、早くから土地の買占めと宅地造成にのり出していたのであった。県の総合計画の上で、はじめて「自然環境保全」を前面に掲げた新総合計画は、農林水産業の振興でもこれまでにない新しい意欲を見せている。すなわち、農林業は「緑の産業として改めて見直さるべき」だとして、自然の保全と環境の浄化、生鮮食料品の安定的計画的供給、治山治水、水源かん養、保健休養などの多元的機能と、社会全体に果たす公益的役割を強調している。ここにも自然保護と同様に、農業の振興を一つの思想・理念として見直そうという姿勢がみられる。神奈川県の農業は、高度成長下に大きく変貌した。農地の潰廃減少と平行して、農従人口は激減し農業の兼業化の進行も著しい。次代の農業を背負うべき若者は都会へ集中し、労働力の老齢化はまぬがれない。このような変化は、本県の農業が大都市近郊の農業としての性格をもつだけに、他県に比して一段と激しいものがある(第十一表)。 このように農業の衰退と危機が叫ばれるなかで、本県の農業は一面では近郊農業の有利性をいかして、他県に劣らぬ「高収益、高能率」の収穫をあげていることも事実である。たとえば、農家一戸当たりの農業所得では全国二十一位だが、花き部門では八位、野菜部門では十七位、土地生産性では全国最高である。また、農畜産物の県内自給率をみても、野菜四二㌫、果物三二㌫、豚肉三四㌫で、県下における農業の重要性が確認できよう(統計はいずれも一九七七年度)。 「新総合計画」で自然保護と農業振興は県政のマスター・プランとなったが、この構想と方針が果たして言葉どおりに推進されるかどうか、工場立地や住宅開発の規制と合わせてこれからが正念場であろう。 第11表 神奈川県農業の変貌 神奈川県『私たちの神奈川』から作成 第二節 自治と住民参加 一 住民福祉と地方自治 地方自治の課題「すみよさ」 一九六二(昭和三十七)年二月に県企業庁の城山ダム建設工事がはじまった。十年前、立案された時には県内最後の水がめと目された津久井湖ではあったが、すでに水不足のため、水源地探しは酒匂川から遠く富士川に移りつつあった。予想をはるかに上回る工業・都市生活用水が必要であった。こうして戦後、経済自立政策の先陣を自任して推し進められた県の工業化・都市化は資源面から見直しを迫られることになったのである。この資源開発面でのゆきづまりは、さしあたり水資源、農地、漁場などの保全を県政の課題としたが、それだけで済むものではなかった。一九六三年六月の『第三次産業構造の基本問題』が、「過当な成長がもたらした産業構造の上での、アンバランスと不均衡とが是正されねばならなくなっている」(はしがき)と指摘しているように、校舎・道路・下水道などの施設整備の遅れが耐乏を強いられてきた住民の不満をかきたてるようになっていた。東部大都市地域ではばい煙の公害などが新たに住民を脅かしていたのに対して、厳しい財政指導を受けて、思いきった経済振興ができなかった郡部では施設の貧しさがめだった。それに加えて、せっかくの産業投資が地元商業をうるおさず、購買力を首都に流出させてしまうことになった。 こうして一九六三年十月から検討がはじまった新たな県総合計画では工業生産力のための「開発」のみを追わず、それを住民生活の向上に役立たせるような地域経営をめざすことになった。しかし、それには多くの困難が予想された。全国的におこった工場誘致ブームは地域格差是正をもたらすかに見えたが、大都市の臨海地帯への人口移動は激しさを増していた。この臨海都市部への人口集中は、当然県下を直撃し、一九七一年まで年々十万人をこえる社会増を記録することになる。そこで県域への人口流入の抑制が「住みよさ」の目減りを防ぐ主要課題となったが、それを実現することは困難であった。というのは、県行政の主たる事務は、広域資源開発と市町村自治体の連絡調整にあったからである。また、高度成長期を通じて公選知事の廃止と広域ブロック化がくり返し再燃しつづけ、一九六〇年代には河川・道路等の管理権、各種許認可権の中央省庁への撤収が相次いでいた。このため宅地開発を統御するにも有効な手段はないに等しく、市町村住民の先見性ある地域づくりだけが「すみよさ」を目減りさせない適正な開発の頼みの綱であった。しかし市町村住民に、利害にとらわれない自治能力の発揮を期待することは困難と見られた。一九六〇年に第一生命本社が進出した足柄上郡大井町における町政の試行錯誤や利害関係の調整のむずかしさは、福武直編『大井町』が詳細に伝えている。また六三年には厚木市の副議長が砂利乱掘で逮捕されるなど、数かずのおもわしくない事件が生じていた。こうしたなかで、すくなくとも、自治体優位の戦後自治の理念を住民が身につけていくことが必要となった。横浜・川崎・横須賀などで盛んになりはじめた住民要求運動が、そうした地方自治再興へ新たな動向を生み出していた。 一般に埋立地の造成、工業用水道、産業道路建設等の重点投資がそこねた生活環境をどう整備していくか、地方自治体に法定事務の履行を求める要求が住民たちの間からおこった。公共料金値上げ反対、土木・消防・校舎建築等の税外負担の廃止、義務教育費の父母負担の廃止、保育所増設、清掃し尿処理・上下水道・生活道路整備等、問題は多岐にわたっていた。こうした住民要求への行政の対応の一環として、一九六〇年ごろから川崎や横浜では町内会・自治会を育成することがはじまっている。六一年に半井横浜市長は、「町内会・自治会の組織は市政を行なう基盤である」(『庁内報』)と述べており、地域行政振興費を大幅に強化しはじめ、このころ、防犯灯の設置などを目的として住民が自主的に組織してきた町内会・自治会は、ほぼ市域の全体を覆うようになり、一九六三年には全世帯の七七㌫に達していた。町内会・自治会は自主団体の性格をとっていたにもかかわらず、地元負担金や募金の割当てを受けることもあったので、市民の間からは「市当局は振興費というエサで、いろいろ募金を釣りあげているのが現状である。こんなことでは真の振興にはならない」(『市民生活白書-新しい横浜への展望』)との批判の声も上がっていた。そこに政府↓地方自治体↓地域住民組織という新たな「上意下達」の流れをとらえることができる。いわば、高度成長に見合った、地域の市行政への組み入れが、貧しい生活環境整備状況を補完する政治的機能を果たしたのである。そこで、自治体などの労働者を中心に地域民主主義の運動がおきる。それは住民とともに福祉要求を正当なものとしてとらえて、本来の地方自治体に立ちもどらせることが目標であった。 こうして噴出しはじめた住民要求が幅広い支持を得るに至った横浜市では、そうした住民の声を背景にして一九六三年四月、市長に飛鳥田一雄が就任する。その市政がめざした「方法としての民主主義の確立」は地方行政からの脱皮という地方自治の新たな方向づけを持つことになる。 横浜市の自治体改革 当時、米軍接収の傷あともいえないまま、地元経済の不振にあえいでいた横浜市は、百五十万の人口をかかえ、郊外部の宅地開発、臨海部の公害など新たな問題に直面していた。この多難な市政をゆだねられた飛鳥田市長は、就任とともに工業立地に偏した「基幹計画」に「福祉計画」の追加を指示し、九月市会で「これからの施策の重点は工業化とともに市民の生活環境の整備を行い、市民に直結する地方自治を実現することにある」(『市議会会議録』)と述べた。その施政方針にとくに過去の市政との違いを見るとすれば、施策実現の方法にあった。それを三つの公約にしたがって述べれば次のようなことになる。 まず「市民税は重点施策で市民に返す」という点である。これはそれまで産業開発投資にくいこまれた住民福祉を防衛するために、教育施設、道路・下水道施設など生活関連事業の財源を確保することであった。しかしこの福祉財政は、財政基盤が弱いままに都市開発投資に窮する困難をつくり出すものであり、それをどう克服するかが課題となる。次に「いっぺんで所用の足りる市役所・区役所にする」こと。これは、住民の多数化・流動化に対応する行政事務の効率化、窓口事務の改善にとどまらず、市民のサービス機関として役所が住民に近づいていくことをめざし、区に大幅な権限を与える「大区役所主義」をとることになる。また、たらい回しの弊害を改めるため、市役所の一階に市民相談室を置いて責任ある幹部職員に直接に応接させた。これらの「サービス行政」は部分的に実現したにすぎないが、少なくとも従来の地方行政としての市政という考え方を改めるのに役立った。さらに、「市長室の扉は開かれている」ということは、市長と職員・住民との上下関係を市民関係に改めようとするものであり、文字どおり開け放たれた市長室から「ちょっとお茶を飲んでいけよ」と一職員に声をかけ、職員を驚かせたといわれる。また住民と市長が討議する住民集会が十日市場団地を皮切りに、三年間で五十六回開かれた。そして「市長への手紙」制度を設けて、聴き捨てにせず担当部局に責任ある回答をさせたことも、市民の市政への関心と理解を深めることになった。 住民を主人として自治の施策を実現していく方法に新機軸をとり入れていく自治体改革の姿勢は、なによりも「一万人市民集会」の直接民主主義構想に結晶していった。百五十万市民から任意に選出された一万人が行う集会について、飛鳥田は「横浜は、ともすれば沈滞しているといわれますが、そういう沈滞した雰囲気や地方ボスの支配の基盤となるような無気力さはこの集会をつうじて、きっと変ってくるにちがいありません。すべての人が、思ったとおりの意見をのべる機会をもつということこそ、勤労者のいきいきとしたエネルギーが噴きだしてくるチャンネルとなるはずです。すなわち反動的な雰囲気にかえて、清新なムードにみちびく直接民主主義こそ市政運営の基本になるもの」(『自治体改革の理論的展望』)と説明した。この制度の提案は市議会で二度も否決されてしまった(しかし、六七年に至り市民団体により開催された)。だが、これはすべての市民が参加する自治体のあり方を具体的に示すことで、地方自治復権に大きな影響を与えたといえるであろう。 こうした市政の直接的な民主主義的改革とは別に、労働組合がとりんだ地域の民主化の流れがあった。これにとり組むために一九六四年一月に住民運動連合本部が発足し、「市民の要求をとりあげ、それを実現するために住民運動を起こし、地方自治への理解をうえつけ、市政にたいする協力者の層をひろげ地域に民主主義をひろげていく」(『住民運動誕生』)ことを目標に掲げた。いうまでもなく、町内会・自治会・連合町内会で地域有力者に頼らない住民をつくり出していくためであり、労働運動の活動家を中心にしていた。 その方法は、住民に身の回りの不満を提出させて、その要求を市当局に持ち込み、即座に解決できることもあれば、権限上解決できないこともあることを住民が自覚していくことであった。こうした住民運動はそれまでの地域社会のありかたをかえていく地域の民主化運動としてそれなりの成果をあげた。横浜住民運動連合は、その後五年間に二千四百四十八件の要求をとりあげ、三二㌫を実現したと報告している。 このように、横浜市政が単なる行政改革にとどまらないで、自治体改革といわれる理由は、住民と行政の頂点の両側から政治風土をつくり変えようとした点にあった。しかし、その反面、住民のさまざまな要求が直接に行政に向けられるにつれて、それまで民生委員などによって取り組まれてきた地域福祉が担い手を失い、急速に空洞化する徴候を示しはじめた。一度は町内会経由の広報紙配布の中止を検討した横浜市が、町内会・自治会温存へ転じた理由の一端もその点にあったといわれる。ともかく、飛鳥田市長就任とともにスタートした新市政は、単なる施策の変化だけでなく、市民の政治的成熟という目標と抱負をもつものであった。 都市問題と自治体 横浜市が「だれでも住みたくなる都市づくり」(一九六四年施政方針)の平明な地方自治イメージへの第一歩をふみ出した年は、また東京オリンピック開催、東海道新幹線開通など近代化の到達点となってあらわれ、国民の血を躍らせた年でもあった。県下でも横浜(バレーボール・サッカー)、江の島(ヨット)、相模湖(カヌー)がオリンピック会場となり、急ピッチの建設事業が街を一挙に変貌させた。しかし、県企業庁の川崎県営埋立事業、中津工業団地造成、城山ダム建設事業が一九六四年から六五年にかけて終了し、神奈川県の資源開発期はすぎ去っていた。すでに地域開発は国の工業再配置政策に依存するところとなっており、敷地狭少の制約を受けた京浜地帯は、スケールメリットを競いはじめた産業立地動向からとり残されるようになった。 この京浜地帯のかげりは、法人税収が頭打ちになった川崎市政に活力喪失をもたらしてもいた。また県央・県西の工業開発意欲も肩すかしをくったかっこうになっていた。たとえば六三年末、河野建設大臣の発表した西湘百万都市構想は、かつて相模原市が充分な投資を抜き造成前の中津工業団地(白線内が予定地) 県企業庁『内陸工場用地分譲御案内』1962から にしておちいった窮状を避けるべく、潤沢な国家資金を用いて魅力的な都市づくりを行おうとするものであった。 その構想は相模川以西に精密工業を擁する核都市を建設し、それを周辺四市十三町がジュズ状に取り囲むというものである。石井厚木市長が六四年に臨むにあたって「東名ハイウェー・インター、西湘百万都市、中津工業団地と大きく変貌する第一年」(『神奈川新聞』昭和三十九年一月一日付)と抱負を語り、市民憲章を制定したのも、こうした動向を背景にしてであった。しかし、この構想が立ち消えになったように、国家規模での工業立地は県下をかならずしも好適地と見なすものではなかった。そのかわりに襲ってきたのが首都圏への人口集中がもたらした宅地開発の嵐であった。この年、長洲他『住みよい日本』、宮本・庄司『恐るべき公害』など、高度成長のひずみを正面から取り上げる著作が発表され、新たな問題が地域住民の生活を脅かしつつあることを警告する。それは、自治体行政が変動する社会の動向を見通して適切な手を打たねば住民の福祉を守りえないということを示していた。この課題に応えて横浜市では行政の先取りがはじまる。 一九六三年から六四年にかけておこった四日市コンビナート公害、新潟地震は京浜地帯が巨大な危険地帯と化していることを人びとに印象づけた。こうした工業地帯への住民の不安を背景に、横浜市が六四年十二月に電源開発火力発電所との間で結んだ「公害防止協定」は、通産省の主導する国の成長政策に対抗して、地方自治体も住民福祉確保の行政指導をなしうることを示すものであった。住民の健康を守るために企業も法定の基準にとらわれず、市民としての義務を守る必要があるというのが行政指導の根拠であった。この公害防止協定を結ぶにあたっては、中区・磯子区環境保全協議会、磯子区住民運動連絡会、学者グループなどの活動が大きな力となった。そうした市民の声にこたえて、たて割事務をこえて、総合的に自治体の行政が運用された。それは、福祉財源には手を触れず、行政手法の開拓により住民福祉を高めることができる新たな可能性を具体的に示すものであった。 横浜市は一九六五年一月に「横浜都市づくりの構想」を発表した。それは、福祉財源をとりくずすことなく都市開発巨大事業を行政指導の力で成し遂げようとするものであった。そこでは、「これらの事業は、どれ一つとっても、ぼう大な費用がかかります。しかし、その経費は市民の税金を使うのではなく、政府資金、起債、民間資金の導入によって行なうことになるでしょう。市民の税金はあくまで市民生活に身近かな施設整備を行なって市民に返すべきだからです」と述べていた。この都市づくり構想は多様な事業体の資金を横浜市本位に駆使しようとする点で当時の都市計画の常識を破る空想的プラン、とうけとられた。 この時点で福祉財政の原則に基づき、規制・助言の行政指導を活用する横浜市の「先取り行政」の骨格がすえられたとみることができる。こうして政府の政策が地域住民にもたらす弊害・制約の側面を自治体行政が防御することに「地方自治」独自の役割が浮かび上がりはじめていた。 二 自治体経営と住民運動 県域の再開発計画 県当局が「住みよい県土」を目標とする「第三次総合計画」の策定を終了したのは一九六五年十月であった。新たに市町村の福祉目標から積み上げられた施策事業経費は二兆三千八百億円と見積られた。それにあてられうる財源は七〇㌫を充たすにすぎなく、したがって、住民要求に応える途は市町村政にゆだねられていった。しかし第三次総合計画は、道路・鉄道・港湾の物流輸送網拡充による経済振興に力点をおくものであったから、交通の便利化の帰結はかならずしも明るくは描かれていない。その序文において内山知事は、公害、住宅不足、通勤地獄にとりまかれている現状を指摘して、「人口の過度集中による過密都市の弊害を防止するため、人口抑制の措置を講じようとするものであるが、規制すべき法の定めは現在においてはない。ひたすら行政指導によるのほかない」と訴えている。しかも、地域振興のために交通網の強化をはかれば、人口の流入、地価の高騰が進行し、生活環境の保全どころか、市町村に巨大な負債だけが残ることも予想された。「過密化してからの再開発費用よりは、過密化以前の整備費用のほうが効率がよい」と計画書は国民経済の動向を批判しているが、開発を求める市町村の意向には抗すべくもなかった。そこで同計画は法の枠で財源を温存するために、「区画整理方式」の採用など経営上の工夫をこらすことを奨めていた。住居地域を脅かす各種公共事業に加えて、この地価に着目した新たな住民負担の導入は苦肉の策であったというべきであろう。 人口急増対策の処理については自治体にその負担が大きくかぶさってきたのである。こうして六〇年代後半期に県下各地で、「地縁政治」の土壌を激しくゆさぶる住民運動が広がっていくことになる。 居住環境を守る住民の運動 一九六六年ごろから東海道沿線の辻堂、茅ケ崎、平塚、鴨宮、国府津で、いっせいに区画整理事業反対の住民運動がおこった。その詳細な記録がまとめられている辻堂南部地区についていえば(『辻堂南部ニュース』、安藤元雄『居住点の思想』)、この年の十月、住民たちは藤沢市当局から減歩率二三㌫の事業計画を通告された。住民たちにとっては、泥だらけの道がなくなり下水道が整備されるのはよいとしても、意表をつかれたのは、平均二三㌫の土地を無償提供させられたうえに、十五㍍の幹線道路が貫通することであった。この点についてほどなく判明したことは、一年前に地主・町内会長たちが市の呼びかけに応じて「辻堂南部土地区画整理委員会」を結成し、市議会に「関係住民相寄り協議を重ねた」との「促進請願」を提出していることであった。土地を削られる借地居住者たちが関係住民から排除されたのは、区画整理をほどこすことで同地区の利便性が増し、その地価上昇分で減歩分が相殺されると見なされたからである。 住民たちはこうした事態にうろたえながらも、文字どおり「辻堂南部区画整理についての私たちの考え」で減歩率減と道路建設中止の提案をまとめ、一九六七年三月に署名を添えて反対請願を行った。これらの人たちは、都市計画の決定ずみということで押し切ろうとする市当局に対抗して、四月二日には「辻堂南部環境を守る会」(会長小野喜代司)を結成し、住民独自の町づくりに取り組みはじめたのであった。『守る会ニュース第一号』が「市議会での審議を傍聴しよう」と呼びかけているように、この事件は新しい住民に市政への関心をかきたてさせることになった。 同じころ、平塚市でも、敗戦直後の区画整理の清算請求が行われ、その法外な額が住民を驚かせていた。藤沢市当局が本来買収方式をとるべき道路拡幅を区画整理で行おうとしたのは財源を温存するためであった。そして市議会は居住民の反対請願に反対を示し、却下をくりかえした。 また、土地所有者の山林売却に風致(居住環境)地区を蚕食される鎌倉市でおこった「風致保全市民運動」も、市行政と議会の私権尊重の姿勢に目標を阻まれていた。こうして、公選首長の行政姿勢を地域政治の争点としてクローズアップするとともに、町内会でも住民自治の問い直しが進行したことを見落すことはできない。 このような事態のなかで、ふたたび藤沢市に目を転じてみると、市当局への不信が高まっていた一九六七年十一月の『ニュース第五号』は、「辻堂南部の町内会に〝新風〟」と題して、二十一の自治組織で市行政下請機関から脱皮する動きが生じたことを伝えている。そこには、こう書かれていた。「ほとんど全世帯が『守る会』会員になって結束し、民主的運営をしている〝高砂睦会〟、区画整理促進委員会への参加を拒否した町内会長をもつ〝西海岸町内会〟〝南海岸町内会〟、毎年あたらしい会長を選出し軒なみ『守る会』参加の〝西海岸五月会〟など、自治組織本来の姿に還る町内会がみられます」と。また住居表示整理で、「辻堂」の名を抹消するつもりであった市当局に反対して、住民参加で地名を残すことも行われた。このような経過を経て「守る会」は九月四日に市民から計画の撤回をかち取るに至った。しかし、それで一件落着したわけではなかった。住民たちは自前で居住地域をつくりあげていく「町づくり」をはじめたのである。 要綱行政と都市づくり 良好な居住環境を守ろうとする住民運動がおこった背景としては、県下の全般的な生活要求水準の高まりがあり、自治体の意表をつく都市問題が浮かび上がってきていたことを忘れてはならない。 横浜市では一九六六年に東急田園都市開発を地域住民の保護の立場から規制しようとしたことが、自治行政スタイルに都市政策を体系づけようとした最初の試みであった。ことのおこりは、東急の田園都市線長津田・溝の口間開通を控えた宅造計画が、市側の事業計画を考慮しないで、学校等の公共・公益施設を既設のものとして織り込んでいたことにあった。当時東急側との折衝にあたった横浜市の鳴海正泰主幹は、「横浜市は田園都市沿線の学校建設計画についてはなんら関知していないし、建設予定もない。もしそのまま宅地売り出しを続けるならば、横浜市として会場の前で、この完成予想図はウソだというビラを配る」(『神奈川新聞』昭和五十五年四月三日付)と申し入れた。市当局が試算したところによれば、同沿線地区からの十年間の税収は十億円であるのに、小中学校、保健所、清掃事務所、消防、下水など市税負担は約百五十億円に達すると見積られた。 こうして、開発者の社会的責任を問う形で進められた交渉において、東急側も法定義務をこえた公共用地の提供を行い、市の行財政との折り合いを考慮する態度をとるに至った。 この先駆的事例を手がかりにして、一九六八年九月には一ヘクタール以上の大型宅地開発について、建築基準法の認可手続時の行政指導の基準として『横浜市宅地開発要綱』を定めた。要綱はその趣旨について、「経過措置を講じなければ自治体財政を破壊にいたらしめるか、または宅地開発にともなって居住した住民に著しい苦痛を味わせることになり、ひいては健全な地方自治の発展あるいは健康で文化的な生活の保持という憲法の精神に反することになる」と、強い調子で説明していた。この用地提供等の行政指針には、違反について「水道の供給、ゴミの収集及びし尿の汲み取り等その他必要な協力を行わないことがある」という制裁が示唆されており、ここに条例によらない行政独自の都市政策がうち出されたのであった。 こうした要綱による行政が横浜市にいち早く出現したのは、 「だれでも住みたくなる都市づくり」の観点から導かれていたことに注意する必要があろう。この要綱は「企画調整室」の手になるものであった。 国際都市横浜の再建をねらいとする都市づくり諸事業が実際に動きはじめたのは六七年からであった。戦略事業として抜き出された六つのビッグプロジェクトは、都心部再開発、港北ニュータウン、金沢地先埋立て、地下鉄、高速道路、ベイブリッジであり、それらはほぼ次のような有機的な結びつきをもっていた。すなわち、市の中心部に位置する三菱重工横浜造船所および市内中小公害工場の移転先として金沢地先六百六十ヘクタールを埋立造成し、その跡地を業務地区として整備するとともに、増大した人口受け入れのため港北地区に人口三十万人のニュータウンを建設する、という相互関連性である。そして数十年を要する事業にあわせて、交通体系を順次組み立てることをめざしていた。 しかし、市税投入は金沢地先埋立てのみにとどめ、他は住宅公団、運輸省、建設省などの事業主体にゆだねることにした。いわば、資金を各事業体にあおぎ、それらを市の都合のいいように編成しようとするものであった。しかし、一九六八年四月に発足した「企画調整室」は、「だれでも住みたくなる都市」の強力な実践ビジョンを掲げて、アーバンデザインを含めた都市計画の実践にのり出したのであった。 自治体行政と住民運動 「市民税は重点施策で市民に返す」の原則を保持し、都市開発事業にのり出した横浜市の動向は、政府に依存しない地方自治の主体性を発揮するものとして注目を浴びるところとなった。しかし、住民の福祉そのものが目に見えて向上するほどの効果をもつわけではなかった。 県下全般にわたっては生活環境の悪化は進行の速度をはやめていた。県行政もその全力を民生に注ぐ方向に転じつつあったが、一九六八年からは事業費不足に悩む市町村へのテコ入れを行わざるをえなくなっていた。この年から全国ではじめて市町村への建設事業費の増額にふみ切ったほか、湘南二市一町の事務事業組合の結成などがすすめられた。 住民の要求もまた施設整備に集中し、モータリゼーションの進行とあいまって道路舗装が要望のトップをしめつづけた。こうしたなかで、県下各地の住民を大きく連帯させていくことになる二つの建設事業が新たに登場してきた。そのひとつは県当局と運輸省が相模川河口に計画した「新湘南港計画」をめぐってであり、県西で自然環境保全防衛の住民連帯をつくり出したことである。 これに対して、国鉄が「第三次長期輸送力増強計画」の一環として打ち出した横浜新貨物線への反対住民運動は、公共事業一般のみならず地方自治の限界を問う少数住民の権利に基づいており、住民自治を深める役割を果たすことになった。 市内の住宅専用地区を貫通するこの路線を国鉄が決定したのは一九六七年四月のことであり、これに反対する沿線住民八千七百世帯は反対同盟を結成して、関係各方面への働きかけをはじめた。 まず、この年六月二十四日に横浜公園に約三千五百名が参加して総決起大会を開き、さらに十二月十二日に日比谷野外音楽堂に約千二百名が集まって国鉄本社に抗議を行うなど、その結束は固いものがあった。 この間、公害対策の検討をすすめていた横浜市は、一九六八年八月に「新貨物線の建設は必要だが、路線選定は市の都市計画と合わせて行ない、住宅地域の公害対策には特に万全の措置をとれ」との申入れを国鉄に行った。この国鉄への申入れは、住民保護行政の優先する横浜市政の地方自治観から帰結するものであり、その内容は、翌六九年七月四日の「十二項目の要望」にまとめられた。しかし、この厳しい対策条件はかえって住民の一部を硬化させることになった。というのは、それは横浜市が新貨物線建設を「やむを得ぬ」と認めることであったから、反対同盟内部で条件付賛成派と、路線変更は可能と主張する絶対反対派が分裂しはじめた。そして絶対反対派は、国鉄の強行測量の実力阻止にふみ切るとともに、どのような善政を行おうと自治体行政にとどまる横浜市政を認めることはできないとして、新たなよりどころを地域住民自治に移していったのである。 一九六〇年代の終了を目前にして自治体行政の開発姿勢に抗議する県下各地の住民運動団体の相互交流がはじまった。その焦点には交通輸送網整備によって県域の再開発をすすめる「第三次総合計画」があった。六九年十二月七日に横浜新貨物線反対同盟の呼びかけで「支援協議会」が開かれ、そこには九団体が集まっている。この会合には一月に発足した「神奈川自然保護連盟」に所属する「鎌倉風致保存協議会」「新湘南港反対協議会」「静かな平作を守る会」と、横浜・川崎の六団体が出席し、それぞれの孤立した戦いが共通の基盤をもつことを確認しあった。その「声明」は、県下の自然保護運動、風致保存運動、公害・計画押しつけ反対の運動を「地域エゴイズムなどという言葉で否定することのできない社会問題」(宮崎一郎『公共性を撃つ』)に発するものと位置づけ、政府の首都圏政策とそれに追随する自治体の行政姿勢を告発するものであった。こうしてはじまる県下市民運動の相互支援が、最も住民保護に徹していられると見られてきた横浜市政への内部批判をテコにしていることに注目する必要があるであろう。そのことは自治体行政の限界として認識され、住民本位にたって政治をすすめていくほかないという共通項を設定させることになったからである。地方自治の基底に行政と一線を画した地域住民の横への連帯を確保することがそれであった。そしてそれが「コミュニティ」の形成と下からの自治の流れに合していくわけである。 三 地域住民と参加型自治 地域福祉とボランティア活動 県下の激しい人口流入・移動は、旧来の町内会・自治会の存在理由を防犯などに狭めつづけた。それは広域化する経済生活圏に沿って経済や文化の多様な機能的ネットワークが展開し、自由とプライバシーを尊重する都市的生活の欠陥として提起されたのは、巨大な居住棟を並べた団地生活においてである。 一九六七年に日本住宅公団の手で茅ケ崎の浜見平団地や相模原の相武台団地について調査が行われ、その結果明らかになったのは、大部分の住民が自治会に加入してはいるが、それ以外の活動は皆無に近い状況にあるということであった(国民生活審議会『コミュニティ』)。この事例を先端として「住みやすさ」が地域の教育・医療・福祉施設や人間的交流、相互扶助に依存するにもかかわらず、県下全域にわたって逆の状態が進行していた。こうした状況を反映して『第三次総合計画改定版』(一九六九年)の示しているのは心細い社会福祉の状況である。それによると、要保育児童約四万千人に対して保育所は五五・二㌫しか対応できない。 老齢人口は約二十九万であるが、健康診査受診率は九・六㌫であり、在宅援護は三百八十二世帯にとどまる。身体障害者はといえば約五万千人と推定されるが、施設定員は五百八名であり、大部分は在宅生活をしている。また心身障害児についてもその一部が施設に収容されうるにすぎないという状態であった。 しかし、こうした数字にあらわれたのは氷山の一角であり核家族化や共稼ぎの進行にともなう「かぎっ子」や、「孤独な老人」など新たな問題も顕在化してきていた。民生行政では手の届かない領域のひろがりが急速に都市砂漠と意識されるようになったのである。 こうしたなかで住民のボランティア活動から新たな地域福祉をつくり出そうとする実践がはじまっていた。たとえば、横須賀基督教社会館の活動はそうした領域を切り開いていった活動のひとつである。同館は一九六八年四月に完成した建物に「資料調査室」を設けるとともに、三名のコミュニティ・オルガナイザーを配して、地域福祉への新たな取り組みをはじめた。その呼びかけに応じて、バザーはボランティア住民が運営することとなった。そして七〇年にはその収益金を田浦町の福祉に生かすことが検討され、「現在の田浦地区には、町ぐるみで子どもの問題をとりあげる場がないので、これを機会に青少年・児童の問題を話し合う場をつくる」(阿部志郎『地域の福祉を築く人びと』)との方針をまとめた。こうして各町内会五名の代表者からなる「田浦青少年活動協議会」をつくり、地域ニーズに積極的に取り組んでいこうとした。従来の給付行政を中心とする地域福祉団体のうち比較的包括性をもつ町内会と地域・地区社会福祉協議会の活動が著しく形式化し、「従来社会福祉の諸施策はかならずしも地域住民の意識と活動のなかに根をおろしたとはいえない」(『第三次総合計画改定版』)と反省しているなかで、新しいボランティア活動は若い婦人層に支えられていた。 こうして、しばらく模索期がつづいた後で「協議会」を足場に、ボランティアが民生委員に進出するとともに、「ひとりぐらし老人への給食サービス」など地域でなしうることが新しい活動に選ばれていった。この社会館を中心とする地域福祉の再建は、「コミュニティ」が行政を取り込み活性化していく新たな住民自治の実践であるといってよいであろう。 高度経済成長の進行は県下に公害・環境破壊に抵抗する住民の運動を呼びおこしていたが、同時に、著しく機能化をとげた社会を地域住民の自発的連帯で下から再生させることも新たな地方自治の課題として自覚されるようになっていった。 藤沢市長後地区では農地を進出工場に提供して工場勤務についた農民たちが、六〇年代末にふたたび農業にもどりはじめたことが報告されている(『都市化と土地問題』)。たしかに、人間らしく暮らすことを求めて、地域活動に取り組む姿勢も生まれつつあった。 しかし、地域における人間連帯の創造の必要を痛感したとしても、人びとは「何をしたらいいのか」よくわからない状況におかれていた。そこで、求められたのは、地域住民の自主活動を先頭にたって活性化する自治体首長のリーダーシップであり住民主導の地方自治であった。 参加型自治体の進出 一九七〇年代に入ると、県下では都市地域の自治体に「対話と参加」をスローガンに掲げる新市長が続々と誕生した。一九七〇年鎌倉・正木千冬、七一年川崎・伊藤三郎、七二年藤沢・葉山峻のいわゆる「革新市長」にかぎらず、市町村行政全般に大きな変化が生じたのである。 人口増ひとつをとっても、山北町・清川村・藤野町を除いてすべての地域で増加しており、とくに相模原市は、西の高槻市(大阪府)とならぶ人口急増都市として名を知られるところとなっていた。 こうした背景のもとで、住民の声を結集して開発抑制の行政を支える「対話」、絶対的に不足する施設・サービスを住民主導でつくり出す「参加」が必然化されたと考えられる。しかし、それは単なる行政姿勢の表明にとどまらず、中央政府に対抗する地方自治の独自性を要求する内容を含むものであった。そうした県下自治体全般の変化をおしすすめた原動力としての県下住民運動の連携の広がりと深まりをたどっておかねばならない。 公害・環境破壊問題が国民的課題として爆発した一九七〇年に、県下各地の住民運動の交流は急速に活発になり、この年十月二十五日には三十八団体が参加して「住民運動連絡会議」が結成される。それは「県下各地で住民運動にたずさわる団体及び個人が密接に情報と意見を交換する場」「状況に応じて相互に協力する場」というつながりであったが、公害・自然保護など問題ごとに行動する各種住民運動が県域で連帯することは、全国的にみても先駆的なことであった。それだけ県下の生活環境が悪化し、それぞれの運動に共通する理念・課題が明らかになった、ということであろう。その場で確認された四項目は次のようなものである。 一 各種の公害をはじめとして、神奈川県下における人間の居住の環境・生活環境の破壊はとどまるところを知らない。住民運動はこれに対する人間の基本的権利の主張である。 二 これらの破壊は、それぞれの地域の真の主権者たるべき住民の意志を無視して、一方的に計画され、実施されてきている。住民運動はこれに対する地域住民の主権回復の要求である。 三 環境維持は、住民に対する自治体の直接的義務である。自治体は環境破壊について、常にその責任を問われねばならない。 四 環境の破壊は、地域内のすべての住民にひとしくふりかかる災厄である以上、住民運動は既成の政党政派の別をこえた地域ぐるみの運動である。 会場では、とくに横浜の都市づくり事業に反対する住民から「住民運動は、行政権力独裁にたいする民権の回復運動だ」との声もあがったが、総じて地方自治体が住民の生活環境保全に全力をあげることを要求していた。すでに二月には県当局がこうした住民の声におされて「新湘南港建設断念声明」を行っていたが、これにつづいて住民主導型で登場した市長たちは、私権や開発の抑制をめぐって特色ある市政を行った。宅造による自然破壊が問題になった鎌倉市では、都市計画審議会のメンバーの入れかえを含めて、宅地造成への厳しい審査と指導が行われた。公害に悩む川崎市では、「市長との対話集会」を背景に、地域ごとの総量規制を含む全国一厳しい公害防止条例を制定し、公害情報の公開から環境アセスメント制度導入などへの歩みがみられた。 また横浜市では、一九七二年ごろから行政指導の客観的基準が次つぎに「要綱」としてまとめられていったほかに、市の新しいマスタープランを市民参加でつくるという新たな試みに着手した。これら住民の声を汲み上げる形で場合によっては私権抑制にまでふみ込んだ自治体行政は、参加型自治体ともいうべき新たなスタイルを県下に定着させていった。 こうして、一九七一年の第七回統一地方選挙を契機として、革新自治体の伸張のなかで、地方自治制度の見直しへ進ませ、「地方政府論」「課税自主権」「条例自主制定権」などの主張を含む県下の住民の自治要求と行動は鋭さを増していった。 藤沢市では、市内の住民運動団体が住民要求をまとめて「市民連合綱領」を作成して、七二年の市長選挙には、その実現を誓約する人物を候補者に指名することを行った。「地区市民会議の設置」「居住区ごとの公民館建設」「市の審議機関の全面公開」等の内容は、政治を玄人から素人に開かれたものにすることをめざしていたといってよいであろう(『地方政鎌倉の都市計画市民懇談会『会報』第1号 宇治順一郎氏蔵 治新時代』)。 また鎌倉市では一九七二年四月に市民有志が七つの専門部会をもつ「鎌倉の都市計画市民懇談会」を結成して活動をはじめ、翌年には正月の市心への自動車乗り入れ規制に成功している。こうした住民自治の実践においていま一歩踏みこんだ要求を掲げたのが川崎市民であった。 一九七一年の川崎流通センター建設反対運動に端を発した緑を守る運動は、七二年に条例直接請求運動に発展したが、それが「緑の憲法」と呼ばれたように、それは条例を法律の桎梏から解き放とうとするものだったからである。そして県下の各地では生きものが住めなくなった川の浄化や緑地保全が住民イニシアティヴですすめられ、福祉指標で計られる「住みよい地域」から一歩すすんで、「わが町」を新たにつくり出す気運が生まれはじめた。たとえば、「辻堂南部環境を守る会」が一九七四年に至って市側と「町づくり合同委員会」をつくって活動を軌道にのせようとしていた。自然と人間の共生を説くエコロジー思想の浸透が、地域住民自治に新たな根拠を与えていたのである。 第三節 公害反対運動 一 公害行政先進地帯としての神奈川 県の新条例体制 県に公害課が新設された一九六三(昭和三十八)年ごろには、全国的にも「水俣病」や「四日市ぜんそく」などが注目を集めるようになっていた。ひそかに恐れられていた公害の悲惨さが現実になったのである。神奈川県下でもとどまることを知らない産業活動の成長のもとで、京浜運河の航行が危険になるほどの濃密なスモッグをつくり出していた。こうしたなかで中央では厚生省がイニシアティブをとり、また十二月には行政監察局が「公害防止対策を総合的にすすめるため、強力な推進体制を整えること」など十七項目にわたる勧告を関係省庁に行わせた。ここに県も危機回避をめざして事前規制に方針を転じた公害行政の住民保護活動がはじまる。 一九六四年三月に制定された新条例「公害の防止に関する条例」は、その目的を「生活環境の保全と産業の健全な発展との調和」とし、従来の工業化優先路線を修正したにすぎなかった。しかし、内容を見るならば、適用範囲を全事業場に拡大して、届出による工場指導体制を徹底して、工場から自主対策をひき出そうとする姿勢が顕著であった。すなわち、行政命令違反には操業停止などの処分をもって臨むことになり、そのために六月には「公害の基準」がたてられている。法的規制の欠落を埋めるべく、全国でも初めて設定された騒音、振動、汚水、廃液、ばい煙、粉じん、ガス、臭気の八種類の基準づくりが、事業活動自由の制限を含むことからかなり難航したことは想像に難くない。例えば相模川など上水源の汚染が心配された「水質」についていえば、まず水域が三つに分けられ、A=上水源として利用すべき水域、B=水産及びかんがい用水として利用すべき水域、C=それ以外の水域が設定された。そしてそれぞれの基準数値を決定するについては、企業に「過剰投資を強いることのない」(『神奈川県公害行政の概要』)配慮がはらわれ、さらに、河水で十倍以上に稀釈されることを想定して、工場排水口の数値を定めるという、面倒な手続がとられたのであった。しかし、いくら基準が設定されても運用次第では尻抜けになるおそれがあった。そこで「第一回公害審査委員会」は、行政に基準を尊重して工場の指導にあたることを申し入れている。この時期には、未解決の公害問題は六百五十件に達しており、被害に苦しむ住民の身になって、工場からできる限りの対策をひき出すことが現場行政に課されたのである。 こうした新条例の下でスタートした県下の公害行政が、まず着手したのは個々の工場施設のていねいな洗い直しであった。工場側と連携した助言的指導にあたって県工業試験所が力を発揮した。おりから、「だれでも住みたくなる都市づくり」を掲げて衛生局に公害課を新設した横浜市でも、六四年五月には、名物の〝赤い煙〟を一掃した日本鋼管など五事業所に感謝状を贈って企業努力の促進をはじめている。はじまったばかりの革新市政のこの穏健な姿勢は当初職員に意外さをもってうけとめられたといわれる。しかしもともと「ばい煙規制法」適用工場への行政権限を欠いた自治体になしうるのは、この程度のことであった。そして川崎市から横浜市にかけての亜硫酸ガス濃度は、県下公害行政の努力にかかわりなくはね上がりつつあった。それはまた「産業の発展」そのものをあえて拒まない県民に不可避のことであった、といってよいであろう。県下地方自治の前にたちふさがるこの限界を、まず住民の健康を優先する立場から突破したのが、横浜の住民であり、それに支えられた市行政であった。 横浜市の「公害防止協定」 一九六四(昭和三十九)年四月、数年前から医療関係者を中心に公害の危惧が投げかけられてきた根岸本牧新設工業地帯の一部が操業を開始した。ただちに十一万バーレルの日本石油精製工場から発生するスス・油煙が後背地根岸の高台を襲い、洗濯物の汚れや異臭で住民をおびやかしはじめた。当時はそこに東洋一の規模をほこる三十三万バーレルの施設が建設されることすら市当局に知られていなかった。操業開始に先立って地元説明会を開いて、五億円を投じた万全の防止対策を宣言した会社側は、四日市ぜんそくの惨状が再現することを恐れていた。しかし、五月ごろから実情を察知した市民の連携がはじまり、工場地帯に隣接する住民と市心部商業地区住民の間に「中区・磯子区環境保全協議会」が結成される。そして同工業地帯に石炭専焼の火力発電所建設計画が具体化されるにおよんで、六月一日に同協議会は、中央省庁の工業立地政策の見直しを求める陳情行動をはじめたのであった。 だが、問題が亜硫酸ガス汚染のみにとどまらないことは、七日に発生した新潟地震が引き起こした昭和石油のタンク火災によって明らかになった。そこで同協議会は「恐るべき公害工場の設置に関する見解」と題した声明を発し、「きれいに見える煙の中に幼児・老人の慢性ぜんそくや、死にも至らしめる亜硫酸ガス、無水硫酸などの恐るべき有害ガスが含まれていることは四日市の惨状から充分おわかりと思います。以上の公害のほか、大震災時を想起すれば火災の危険性も無視できません。関東大震災時に横浜港周辺に貯蔵されていた油が流出し多くの生命が失われましたが、当時の貯蔵総量は日石一工場のタンクの収容量と比べて百分の一にも達しないと推定されます」と政府の工場立地政策の無謀さを批判して、権威ある調査団の派遣を要求した。この、石油コンビナート災害の発生は、それまで公害対策の検討を怠って工場立地をしてきた政府当局を浮き足だたせた。こうして、横浜市当局が工場側との公害対策の検討実施を率先して行う状況が生まれたのである。 これを受けた市当局はまず新設工業地帯全般の公害対策を野口雄一郎・清水嘉治ら四人の学者グループに委嘱して、七月十六日に次の九項目の提言を受ける。 一 市当局は工業立地計画、都市計画を再検討する必要がある。 二 火力発電所の立地を変更する必要がある。 三 公害に対する観測網を整備強化することが必要である。 四 住民の健康管理体制を強化し、緊急施設を設けること。 五 市独自の公害防止基準を設定し、行政指導を強化すること。 六 市の公害対策行政機構を強化して、公害センターを設けること。 七 公害の基礎的及び応用研究を充実するため、公害研究所を設置することが望ましい。 八 市当局は国の公害対策に対して積極的に発言すべきである。 九 市当局は公害問題に対して〈公開の原則〉を堅持すべきである。 これらの提言は〝住民本位〟の自治体行政のあり方を包括的に示しており、住民の健康を優先した、合理的な工業地帯の建設・管理を求めていた。この提言の発表は、新たに地元住民の公害反対運動を呼びおこし、同日磯子区住民運動連絡会議が会社側の出席を求めて「公害状況を聞く会」を催したのをはじめに、工場の実地見学などに活発な動きをはじめる。そして、市民運動・住民運動、学者グループの要請などのバックアップを受ける形で、市当局は工場側との交渉に移っていったのであった。 焦点がこれから建設される工場群の公害対策に移るなかで、クローズアップされたのがその中核をなす石炭火力発電所であった。「ばい煙規制法」の適用を除外された電気事業の緩い規制値は、国家的要請の名において、地域住民が過大な大気汚染を強いられることにほかならなかったからである。こうした事態への住民の憤りが高まるなかで、ほどなく東京電力が市当局に通産省主管の電源開発株式会社への用地譲渡を申請してきたのであった。ただちに県当局がそれを認可したのに対して、市果局は、用地譲渡認可の条件として技術的に可能な公害防止対策を果たすべし、との態度をとり、市民の納得承認を前面にたてたのであった。そして最新鋭の北九州若松火力発電所の対策をベースにして、市当局は環境保全協議会の立ち合いのもとに、工場側との技術対策の追及をはじめる。横浜市の地形的・気象的条件のもとで、その対策が実際に予測されたとおりの効果を生むかを確かめるために、長崎の三菱造船所の風洞でシミュレーション実験がくり返し行われた。こうして同年十二月に市当局は、集塵器の種類、煙突の高さ、使用石炭の質など十四項目にわたる対策を申し入れ、会社側の応諾を受けた。それは会社側が法定基準にとらわれることなく、地域住民の被害を最少限にする技術対策を自発的にとることであった。大企業もまた、一定地域に住民にとりまかれて立地する以上、住民の健康を優先するという「公害防止契約」の誕生である。翌年一月には、横浜市は日本石油根岸工場とも契約を結ぶに至った。 火力発電所の新設電気集塵器を停止したときに出る煙 神奈川新聞社蔵 新設工業地帯と既設工業地帯の明暗 まもなく「公害対策横浜方式」と呼ばれることになるこの協定を成功させたのは、長年にわたる県下公害行政の技術水準の高さであった。しかしこの契約は法律に保護された企業に無視されつづけてきた地方自治体が、住民と協力して企業にできる限りの対策譲歩を行わせた、という点で革新的な意義をもっていた。そしてこれに自信を得た横浜市は、一九六五(昭和四十)年には亜硫酸ガス着地濃度〇・〇五PPMを市独自の基準にすえて、新設大規模工場との交渉を、市民の納得を条件にすすめていった。また「中区・磯子区環境保全協議会」などの市民運動も、急速に公害の科学的知識を貯え、くり返し中央省庁に地域環境の優先を訴える行動を継続していった。その効果は、工場地帯完成時に亜硫酸ガス総排出量が、通常の十分の一以下に抑えられたことで確認される。しかし新設工場にそれだけの行政指導をなしえたことを裏返せば緩い規制値に守られた既設工場群の公害対策がいかにおざなりであったかを示していた。逆転層に阻まれ、厚いスモッグにスッポリ包まれた横浜市鶴見区から川崎市にかけての地域では、文字どおり陽のささない日々がつづいていたのである。 いわゆる既設工業地帯では、重油消費量の急激な増大がはじまり、亜硫酸ガスも濃密度をますばかりであった。川崎市から横浜市鶴見区の既設工場群では、「ばい煙規制法」さえ重荷になっていた。したがって第二の四日市の惨状を恐れながらも、まず生産性向上が先決とされたのである。しかも川崎市では、この法律を成立させるのに力のあった市民運動や労働運動の公害ばなれが進み、公害対策を求める声は急速に小さくなっていた。わずかに子供たちの健康を心配する主婦たちの活動がつづけられ、一九六四年に渡田三丁目の主婦たちの行ったアンケート調査によれば、幼児たちの約三割がぜんそくや体調不全に苦しんでいる、とのことであった。当時、川崎市の臨海部は現在の環境基準の五十倍という亜硫酸ガスに包まれており、樹木の枯死がめだつようになっていた。そのような窮状にもかかわらず有効な公害対策がなされないまま、一九六四年をピークに同地区からの人口の減少がはじまる。こうした既設工業地帯の現実こそ、県下公害行政が世論を形づくりながら、徐々に克服していかねばならない課題であった。 市民の啓蒙とその限界 ふたたび県下の全域に目を転じるならば、わずかずつ住民や企業者の公害への関心は高まりを見せはじめていた。一九六四(昭和三十九)年度の県政アンケートは初めて「公害と環境衛生・美化運動」をとりあげ、約六〇㌫の人が公害に悩んでいることを明らかにした。しかしその大半は住工混在地帯の「騒音」「悪臭」によるものであり、操業自粛や移転を含めて、思い切った公害防止自主対策がなければ解決はおぼつかない事態にあった。それについて県・市の融資がそれなりの効果をあげてはいたが「焼石に水」の感は免れない。こうした事態を打開するために、県当局は一九六五年一月に「公害工場」の指定にふみ切り、公開の行政指導による啓発を開始した。 県当局が基準を著しくこえる公害工場と認定したのは、日本油化工業(悪臭-川崎)、大同鉄工所(騒音-横浜)、太平飼料(悪臭-横須賀)、富士チタン工業平塚工場(廃液・ガス-茅ケ崎)の四つであった。「『これが公害だ』と認定したのは全国でもはじめてのこと」(『週刊時事』)と注目をあつめたように、こうした行政措置は前例のないものであった。しかしいずれの工場も長年にわたってつづいた住民の陳情と技術対策のゆきづまりによって公害工場に指定されたのであり、基準がそのまま適用されたわけではない。この時点では県当局が「四社がとくに悪質であるという意味ではなく……公害認定の可能性のあるものはまだ二十~三十社あり、調査が終わりしだい認定するものは認定して処理する」(『神奈川新聞』昭和四十年一月二十九日付)と述べているように、工場全般の自主努力を引き出すための措置であった。 こうした公害問題への市民意識の啓発が六五年度に集中している。いくつかをあげてみるならば、まず七月から県は、とうふ屋から大工場にいたるまで、約一万二千か所の公害発生源調査に着手している。それは公害防止施設の現状や石油・石炭の使用量などをデータ化して、改善指導の基礎にしようとするものであった。さらに、十月には川崎市で「生活と公害展」を開き、それまでの業者相手の公害防止機器展示から一歩進めて、ひろく市民に呼びかけを行っている。これらの啓発活動にこたえる形で、一九六五年四月に平塚市の相模川沿岸工場が「相模川をきれいにする協議会」を発足させたことを述べておかねばならない。会長広瀬素行が「昔はアユが行きかった相模川も数年来、流域への誘致工場の進出、人口の都市集中化などで水質の汚濁が目立ちはじめ、このまま放置しておけば隅田川の二の舞いになるのは確かです」(『相模川』創刊号)と述べているように、沿岸の三分の二の工場施設が不合格であった。さしあたり協議会のはじめたことは研究であったが、これをきっかけにして県下では、業者たちの公害防止のための団体づくりがすすむことになった。 だが、県下の公害行政が順調にすべり出したのに反比例して、汚染被害そのものは危機的様相を呈しはじめた。各地からの『農業情勢報告』は緊張した口調で農地を襲う公害を伝えている。その一例をあげれば、一九六五年七月十五日、「川崎市久末で生じた微粉炭灰堆積地の崩壊による水田埋没七十アール」(川崎農業改良普及所)、「小田原市栢山、明治製菓の排気ガスによる水稲二アール(二戸)の被害あり」(小田原同普及所)。八月十六日「神田地区水稲十アール廃油による枯死、花水川下流十五㏊の水稲作について大磯町議から地方事務所に陳情」(平塚同普及所)。九月十六日、「日本電機ガラスKKの煙害、附近作物に被害有、県営グランドの土砂が水田に流入」(藤沢同普及所)、「浄化槽六百頭分の汚水により水田十㏊中被害大五十アール」(横須賀同普及所)となっている(資料編19近代・現代⑼一一)。しかし、これらが氷山の一角であったことはいうまでもない。 農地や漁場へ公害が面として広がっていく一方で京浜工業地帯の亜硫酸ガス汚染は高濃度の慢性状態を持続するようになった。六五年一月に県、横浜・川崎両市、横浜地方気象台は亜硫酸ガス、無水硫酸の濃度が〇・五PPMに達した時に〝スモッグ警報〟を発令する体制を整えた。この警報とともに、大規模発生源が自発的に燃料転換と生産抑制を行い、濃度低減をはかるというものである。この警報の発令は非常事態を意味した。そして、一九六五年十一月に、ついに〝スモッグ警報〟が発令される。新聞は「京浜の空、有毒ガスでけむる」(『神奈川新聞』昭和四十年十一月二十四日付)と報じている。これは当時の地方自治体の行政指導の限界点でもあった。したがって、京浜地帯にこれ以上の新規発生源を設けようとする東京電力横浜火力発電所三十万キロワット増設計画について、横浜市は増設が既設施設の改善と合わせて、排出量を低減されるという条件がなければ合意しようとしなかった。それまで政府は、住民の健康を防御する環境基準設定に取り組むことなく、地域の実情を無視した排出口の濃度を指定していたにすぎなかったから、同年末に県当局は横浜・川崎の規制を四日市なみに厳しく、との要望を行った。そしてこうした地方自治体の声を背景にして、時代はようやく公害対策基本法の制定に動きはじめていた。地域住民が環境基準や無過失賠償責任の制度化を求めて公害反対に動き、自治体の後押しに立ち上がる新たな段階への手前は鶴見区大黒町,川崎方面は大気汚染でみえない(1969年6月) 神奈川県庁蔵 移行である。 二 コンビナート公害と住民生活環境 川崎市反公害住民運動のスタート 塩風の三十倍もの腐食力をもつ亜硫酸ガスが全国でも指折りの高濃度を持続しはじめた川崎市臨海部では、トタンの赤さびが激しさを加え、臨海部から郊外へ住居を移す人びとがめだつようになっていた。しかし、手狭になった敷地で施設合理化をはかる工場群の重油消費量は年々百万リットルの割で増加をはじめており、生活環境は悪化の一途をたどった。その川崎で、医療関係者などを中心に、住民を健康被害から守ろうとするささやかな活動がはじまったのは、一九六六(昭和四十一)年五月のことであった。ちょうど公害対策基本法制定をめぐって、経団連が「公害政策に関する意見」(一九六五年十一月二十九日)で時期尚早を唱えたことに、批判の論議が活発になりはじめたころである。 それまで大師医療生協で住民の診療にあたってきた医師たちは、この時までに住民たちの呼吸器疾患を「公害病」と確信するに至っていたといわれる。そして、大師診療所職員二名、地域住民代表五名で「公害対策委員会」を結成して、公害をなくすことを目標に、次のような活動方針をたてた(宮崎一郎「川崎から公害をなくす住民運動」『京浜公害地帯』)。 一 公害を発生源で規制する、二 住民本位の公害防止を確立させる、三 生活(環境)許容限度を厳格に守らせる、四 公害防止施設は事業所につくらせる、五 公害発生源の監視を民主的に行えるようにさせる、六 公害病を認定させる、医療費用、被害の補償費用を発生源企業に負担させる。 これらの方針に賛同して、まもなく日本リアリズム写真集団川崎支部、法政大学第二高等学校化学教室有志、労働者などが加わった。なによりも、公害を発生源で規制することが目的であったから、まず公害の実態をつぶさに見るために八月に海上調査を行った。当時、運河地帯には排水規制もなかったから、工場からの廃水に汚れた海は、参加者たちを圧倒したといわれる。そして十月には大師地区を中心に住民のアンケート調査を行い、その約六割が公害病と推定される、とのデータをまとめ、その結果は新聞などを通じて市民に知らされていった。こうした住民の活動にこたえて、十一月には川崎市社会福祉協議会がはじめて、公害問題をとりあげるに至った。そして大気汚染の主原因が川崎市の九〇㌫の重油を消費する二十七の大規模工場にあることを市当局が公表するところとなった。いまだ公害への認識は乏しかったが、住民は次第に不満を口に出すようになった。 ようやく鋭くなった住民の公害への不満は、八月にさきに公害工場に認定された川崎市の日本油化工業に対し、県公害審査委員会の「期限つき操業停止命令」を発動させていた。魚の内臓を原料として飼料を製造するこの工場は、長年にわたる製造工程改善にもかかわらず住民を満足させるに至らず、二月には周辺町内1967年8月川崎市沖で水質調査をする法政二高調査班 日本機関紙協会神奈川県本部蔵 会から県当局に強力な行政処分が要求されていた。それによれば、「工場付近は勿論のこと時によっては本市中央地区全域に亘って言語に絶する不快な悪臭に悩まされ、食欲不振、身体不調を訴えるものさえ出ており、このまま放置いたしますならば不測の事態が発生するやも知れず」(『昭和四十二年公害審査委員会綴』)との訴えであった。そこで三月十一日に県当局は「悪臭ガスの燃焼設備が不十分と認められるので、悪臭除去に必要な燃焼設備の改善」を百二十日以内に完了するように命令した。そして、この命令が果たされなかったために、八月八日には全国でも例のない、操業停止の措置にふみ切ったのである。その後、工場側の必死の改善努力がつみ重ねられたため周辺町内会は認めなかったものの、十一月十一日に公害審査委員会は停止措置を保留したのである。この決着を非難する声もあったが、同年中には先に公害工場と認定された「大同鉄工所」「富士チタン」が移転にふみ切るなど、企業の立地条件の厳しさへの認識が浸透しはじめていた。この一九六六年十月には厚生省公害審議会から「公害に関する基本施策」について答申があり、国民の健康を守りうる公害施策が必要であることが明確に示された。 公害対策基本法制定前後 一方、すでに市独自の環境基準を設定した横浜市では、住民の生活環境を長期都市づくりビジョンの中に組み込むという方向をとりつつあった。その一環として事業化された金沢埋立地への市内中小工場の移転方針をうけて、一九六六(昭和四十一)年には横浜商工会議所が「中小工場の環境と転出分散に関する調査」を行った。その結果は非工場地帯の工場が住民からなんらかの苦情や注意を受けており、工場にとって困難な条件が生まれていることを明らかにしている。そうした調査が埋立事業実施への世論の喚起をねらいとしていたにせよ、長期都市づくりのビジョンをたてることで市公害行政の姿勢は強固なものになっていった。さきに増設が拒まれたと述べた鶴見区大黒町の横浜火力発電所の計画については、百五十㍍、百三十㍍の集合煙突とすることで認可がおり、排煙速度を増して逆転層を突破する工事が進行していた。しかし、六六年末に東京電力から提出された重油専焼の磯子火力発電所計画については、市当局は排煙脱硫装置が未開発であるとの理由で、最初からLNG(液化天然ガス)専焼の態度で交渉をはじめた。そして硫黄分のないLNGの使用で原料費が高騰すると渋る東京電力を説得して、翌六七年五月にはLNG専焼工場の建設がほぼ決定する。これら一連の公害対策指導にあたっては市民団体の側面援助もあったが、進出企業側に横浜市に立地する以上はやむをえない、との空気が醸成されたことが大きな力をもちはじめていた。そしてまた、県当局も企業の社会的責任を問い、「故意過失がなくとも、他に害を及ぼすものについては、当然これらを防止し、あるいは補償する義務があるという無過失責任を、企業側に自覚させる」(『公害基本調査結果概要』一九六七年二月)必要がある、と述べるに至っていた。こうして県下では生活環境本位の「公害対策基本法」制定を当然とする態度が一般に浸透していったのである。 一九六七年に入ると川崎市では「川崎勤労者釣り愛好会」が発足して、臨海工場群に汚された海をとりもどす運動がスタートしたが、すでに沿岸部の漁業はひっそく状態におちいりつつあったから、遅きに失した感があった。むしろ市政全般に大きな衝撃を与えたのは四月七日の国民生活研究所報告『生活環境および公害に関する研究』の新聞発表であったといわれる。それによれば、市民のうち「公害を何らかの形で受けている」と感じているものは五九・二㌫、とくに臨海地区では八五・六㌫に達した。また公害による損失はひとりあたり年十万円前後、全体で十七億円と推定されたが、企業の防止費用は十工場で二十六億円、一件あたり千七百五十五万円にすぎなかった。この数字は市民に公害都市川崎が、いかに住民への負担を強いてきたかを喚起した。公害への苦情は年間三百件をこえ、その多くが未解決のままであった。そこで、市当局は「公害は企業の責任」という観点から中小企業への公害防除設備助成を廃止し、貸付金制度に改める措置をとったが、世論が急速に大規模工場の責任を問う方向に転じていったことはいうまでもない。 ところが六月に国会に提出された「公害対策基本法案」は、 「経済との調和」「無過失賠償責任排除」の骨抜きを受け、市民を失望させるものであった。そこで、市議会は十四日に全会一致の「意見書」を決議して、政府に次のような申入れを行う。「川崎市は最大の公害都市であり、一日も早く公害を一掃し、健康的な生活環境に囲まれた川崎市を実現することは、九十万市民の切実な願いである。今回、公害対策基本法案が第五十五国会に提案されたが、その内容は産業保護に重点が置かれ、市民の健康と財産を守るという精神からは遠く、公害の根本的解決は期待できない」と。しかし、基本法は原案どおり成立し、たとえ関連法が整備されても多くの期待はよせられないことになった。このため、公害対策を自治体に求める住民の活動が活発化する。住民たちは「アルカリろ紙法」による硫黄酸化物の自主測定、京浜運河の海水調査などをすすめ、汚染の現状に急速に理解を深めていった。その矢先、十一月には乳児の「小児ゼンソク様の病状による窒息死」事件がおこり、公害病の現実化への恐れが市民を粛然とさせた。 湘南のコンビナート進出反対運動 この間、既成工業地帯の硫黄酸化物環境基準の設定資料として一九六七(昭和四十二)年七月から通産省が「産業公害事前調査」を開始しており、横浜・川崎両市はその結果待ちの態度をとっていた。明らかなことは、公害病の疑いを打ち消しがたくなった京浜地帯に産業界が見切りをつける方向に転じようとしたことであった。その動向が、翌六八年に入ると、湘南地帯へのコンビナート進出の噂を生み、進出反対の住民の運動を引きおこさせる。当の湘南地帯では、平塚市でスモッグが発生し、地盤沈下が顕著になるなど公害がなかったわけではないが、それまで公害が広域住民全体の問題となることはなかった。そこへ降ってわいたのが、一月に県当局が発表した馬入川河口の新湘南貨物港建設計画であった。それをコンビナート建設の布石計画と判断した各地の住民団体は五月五日に「新湘南港建設反対協議会」を結成し、「コンビナートがやってくる」との警告を行った。「内陸工業地帯の主力が化学工業となることに注目して下さい。化学工業には石油がつきものです。新湘南港は石油の陸揚げ港となるのです。……石油基地となれば、原油のまま内陸へ転送することは考えられませんから、当然ながら精油所が置かれるでしょう。やがては一大石油コンビナートが現出するに決っています。石油コンビナートができたら―相模湾沿岸一帯は第二の四日市となり、住民はおびただしい公害と危険とにさらされるほかありません」。反対署名を求めるリーフレットは、鹿島新港とタイアップした工場立地政策の展開を示唆した。けれども、わざわざコンビナート公害を訴えるまでもなく、未曽有の広がりを見せた署名運動は、港湾建設による相模湾の自然破壊を阻むことでまとまってしまった。このころから、開発より自然環境という合言葉が広く浸透していったところに、急速な世論の転換を見ないわけにはいかない。県下についていえば、この湘南地域住民の反コンビナート公害運動と、横浜市の新設工業地帯対策のめざましい成果が、情勢を生活環境保全に大きく転回させたのであった。こうして京浜地帯の住民の動きも一九六八年から六九年にかけて大規模工場の加害責任を問う方向へ転回していった。 硫黄酸化物環境基準と京浜地帯 四日市市公害訴訟をはじめとする四大公害裁判が次つぎと提起されるなかで、一九六八(昭和四十三)年五月に川崎市では「公害対策委員会」を中心とする住民グループの請願「公害六つの要求」を市議会が採択した。「大企業の無過失責任を明確にせよ。公害病を認定し、医療費と生活費を補償せよ」などを内容とする要求が採択された背景には、政府内部でも公害病救済が検討されはじめたことがあった。大師医療生協の直接診療によれば、六八年中に慢性気管支炎三十五名、気管支ゼンソク七十六名、肺気腫十二名、計百二十三名が「公害病」に相当すると見られている。にわかに公害都市として全国的に注目されるに至った川崎では七月に「国際人権年記念川崎大会」が公害被害をとりあげ市当局も調査で市民の約二割が公害を理由とする移住を希望していることを認めざるをえなくなった。こうして、一九六九年一月に市衛生局長が政府の施策に待つことなく、市独自の被害者救済措置にふみ切ることを言明する。というのは政府は依然として高濃度の汚染物を排出している工場群をどのように規制するかという、より重要な問題には決定を下さないままであったからである。 政府が「硫黄酸化物に係る環境基準」を閣議決定したのは、「大気汚染防止法」成立から二年も遅れた一九六九年二月十二日であった。それによれば、川崎・横浜地区は年平均値〇・〇五PPM以下を十年以内に達成することになっていた。しかしそれは、この基準をはるかに上回る汚染にさらされている現状を放任することに等しかった。そこで三月二十六日に「中区・磯子区環境保全協議会」は通産省へ要請して、市当局が対策をすすめるための資料提供を求めた。「いおう酸化物に係る環境基準の達成最終時期が一〇年間(昭和五十三年末)にては、各企業の公害防止対策の熱意の盛り上る時点があいまいとなり、実効が挙らず、喘息などの公害病のまんえんが懸念されます。各企業に対して、公害防止対策の姿勢を早急に確立させ、早期に効果を挙げさせるために、目標達成の最終時期を昭和四十七年末とされたい」(『ヨコハマの公害』)と。この要請の背景には、横浜市が新設工業地帯ですすめた公害防止指導の結果、一九六四(昭和三十九)年時点で一日三百トンと予測された亜硫酸ガスの発生を、わずか二十トンにとどめているという実績があった。そして、市民運動の支援を受けて通産省から一部資料を入手した横浜市は、六月に学者グループからなる「既設工業地域公害対策調査会」を発足させて、同地域の将来像の検討を開始した。そこに浮かび上がってきていた問題は、京浜地域最大の汚染発生源である日本鋼管京浜製鉄所を含む工場群の存続が地域住民の環境にとってどれだけのデメリットをもつか、ということであった。 数年前から競争力低下のために去就がとりざたされていた京浜製鉄所は、工都川崎の死命を制する存在であった。「公害を発生源で規制する」を方針とする住民の反公害運動を容易に広がらせなかった市民の沈黙もこのことにかかわっていたといってよいであろう。しかし鋼管の扇島地区への再立地方針が決定された一九六九年三月から沈黙にゆるみが見えはじめる。とくに、全川崎労働組合協議会が幹事会に「公害対策特別委員会」を設けて、調査にのりだしたことは大きい。労働者の中からも「一日も早く〝煙で食わせてもらっている〟という企業意識から脱出して公害をなくすために住民といっしょ」(宮崎前掲書)に行動したい、との声が上がるようになった。これを潮時と判断した住民グループは活動開始以来三年にして市民運動に発展させるべく五月二十四日に市立産業文化会館で「川崎から公害をなくす会」(会長宮崎一郎)を結成した。厚生省から初の『公害白書』が発表された翌日のことである。そこでは、川崎市の空が日本で一番亜硫酸ガスに汚染されていると述べられていた。いま、その最大の汚染源日本鋼管京浜製鉄所が最新鋭製鉄所に姿をかえて、再び工場を建設しようとしていたのである(以下「日本鋼管扇島移転の公害防止」『自治体改革の実践的展望』)。 日本鋼管の扇島への再立地計画 一九六九(昭和四十四)年七月三日に、新聞紙上に日本鋼管が扇島地区を新規に五百五十万平方㍍埋立てて、川崎・水江・鶴見の三工場を移転・集約する計画が公表された。俗に鋼管一家、二、三十万人といわれる大世帯が離散のうき目を見ずに済んだことは、神奈川県、川崎・横浜両市をホッとさせた。しかし、住民の生活環境を向上させることを考えれば、同製鉄所の立ち退きが京浜地帯にとって最も好ましかったことはいうまでもない。そ日本鋼管の扇島リプレース計画 『京浜工業地帯』から こで再立地を前提に住民を満足させうる解決をもたらそうとするならば、横浜市が新たに設定した亜硫酸ガスの環境基準〇・〇一PPMを達成するだけの公害対策をほどこすことであった。ところが、当時製鉄所については〇・〇三PPMが技術的限界とされており、羽田空港をひかえた扇島地区は立地条件が悪く、緩和を求めていた。 三月に会社側が提出した公害防止計画は次のように業界の常識をこえる思い切ったものであった。「現在京浜製鉄所には、約八十五本の煙突があります。これを集約して高煙突とし、拡散によってSO2濃度を下げるのが一番確実な方法ですが、敷地面の制約と羽田空港の制限とにより、大幅な改善は期待できません。又、排煙脱硫については、現在研究中で、いまだ実用の境に達しておりません。……京浜製鉄所全体のSO2最大濃度は、現状の約⅓以下、〇・〇五PPM以下程度になると考えております」と。しかしこれまで横浜市が追求してきた都市づくりの方針からすれば、この程度の対策で公有水面埋立ての許可を与えることは、住民保護の後退を意味した。そこで、飛鳥田市長は七月三日に津田県知事、金刺川崎市長と会談して、運輸省を加えた「扇島埋立対策協議会」を発足させ、会社側との交渉の窓口を一本にした。それぞれの立場にとらわれずに、京浜地帯の再生を共同目標とするためである。こうして技術的限界論は棚上げにされ、再立地についても「公害防除に役立つのであればやむをえないと思われる。しかしその内容条件については今後検討の上結論をだす」と、拒否の可能性を留保した方針がたてられたのであった。その背景に、環境基準の達成をできるだけ延期しようとする通産省の産業政策と地方自治体との闘いがあったことはいうまでもない。 第一回の交渉が行われた九月二十五日に、「協議会」側は再立地計画について、「製鉄所全体の排出量を四七年目標値の⅔以下とし、複合される着地濃度を〇・〇一PPM以下とすること」との要望を行った。他にも「移転跡地については極力緑化につとめ、公害問題の市街地への影響をてい減するように努めること」などの条件がつけられている。このゴリ押しとも思える要望に対して、十月に鋼管側は、〇・〇四PPM以下にする目算があるから、ともかく埋立てを認めてほしい、と申し入れてきた。しかし「協議会」側は風洞実験で確かめることが先決として認可を拒み、話し合いはもの別れに終わる。両者のへだたりはあまりに大きかった。「成長か環境か」、このへだたりをどちらが譲歩して埋めていくか、いずれともつかぬまま一九六〇年代が終わろうとしていた。 三 公害への憤り 日常生活をとりまく有害物質 一九七〇(昭和四十五)年を目前にして、川崎市議会は、一九三六(昭和十一)年以来歌いつがれてきた市歌の三番「黒く沸き立つ煙の焔は、空に記す日本」の一句を削除した。それは三十年来の工業立市路線の終焉であった。だがまたそれは新たな公害問題のはじまりでもあった。やがて公害病患者の怨念がせきを切って流れ出すように、県下には積年の公害物質が散らばり、取りもどすことのできない健康障害と工場への不満が積み重ねられてきていたのである。この点で工場立地を重視した県下公害行政の先進性すら、かえって住民に言葉にあらわし難い不満を蓄積させてきていたともいえるであろう。七〇年に入ってまず人びとの不安をかきたてたのは、水俣病、イタイイタイ病などを引きおこしたカドミウム・水銀などの重金属が、日常生活の身辺から次つぎに顔を出してきたことであった。 その二、三年前から海や川の魚に変調が見られるようになったことに人びとは気付いていた。横浜市の平潟湾では白いゼリー状のしゅように覆われた「おできハゼ」が釣りあげられていたし、湯河原の新崎川には背ビレの溶けたアユたちが見られたという。こうした生きものたちの変調は、汚濁した川や海に得体の知れない汚染物質が流れこんでいることを予想させるに十分であった。それまでにも、いくつかの住民運動団体が運河地帯の調査を行って、汚染の実態をつかもうとした。そのひとつの突破口となったのが港の安全を確保するために、公害サイドからの法的規制のない運河地帯の汚染を取り締まりはじめた海上保安庁の行動である。四月に川崎港に着任した公害Gメンは、さきに水銀規則の指示をうけた味の素、昭和電工、日本ゼオンをはじめとする十数工場に港則法の側から警告を行う。また、その分析依頼を県機関が断ったことが公害かくしとの疑惑を呼んだ。そして、六月には古河電池の帷子川に注ぐ排水路から、県条例で検出されてはならないとされた基準の十倍以上のカドミウムが発見され、附近住民の恐怖をよんだ。こうして、工場の有害物質のずさんな管理が次つぎに露見するに及んで、二万にもおよぶ工場をかかえた県域は、にわかに無気味な影をおびるようになった。 それに加えて七月に入ると、自動車の排ガスに含まれる鉛に中毒した患者が東京で発見されたところから、モータリゼーションの進んだ県内でもにわかに自動車公害への恐怖と憤りが高まった。国道に面した川崎の尻手商店街や、通過車両の多い横浜磯子区森町では住民の中に貧血症状など体の不調を訴えるものが続出した。また、夏には、横浜や相模原で住民が通過車両に怒って車止めを置くということもおこっている。亜硫酸ガスのような緩慢な健康被害と異なり、有害物質の出現は、住民を震えさせ、いたたまれない気持ちで行動に立ち上がらせたのであった。それにも増して、政府が「公害罪」の新設を検討しはじめたことが大きい。それまで長いものには巻かれろ、と企業活動を黙認してきた住民・市民たちも自分たちの生存の権利を守ることが先決、と企業に鋭い要求をしはじめたのである。 環境をとった日本鋼管 この間三月には日本鋼管の扇島再立地計画について、会社側はギリギリの技術的限界として亜硫酸ガス着地濃度を〇・〇三PPMまで低減するとの回答を行うに至っていた。いまだ「協議会」側の〇・〇一PPM条件には遠かったが、それ以上に無理な要求をすれば、会社側も再立地をあきらめるとの態度をとった。一方住民たちは五月八日に「鶴見の住民の会」「神奈川をよくする会」「川崎地区有志団体」約二百人が集まり、「京浜に青空を取り戻す会」を結成して、〇・〇一PPMの遵守、対策内容の公開などを求める行動を開始する。これには、埋立てそのものに反対する「勤労者釣り協議会」も共同行動をとり、中央省庁や鋼管側にくり返し申入れを行った。川崎の映画街では「公害追放」のスポットが流され、市役所に見学者が殺到するといったように、一九七〇年の夏は「公害一色」に塗りつぶされていった。また、企業責任を追求する声も日ましに強まっていった。こうした世論を背景に、八月八日に県・市・運輸省からなる「協議会」は、会社側の自主努力のみを要求するPPM論争を打ち切り、報道陣の立会いのもとに、実行可能な具体策を提示する態度に転じた。投資費用を度外視した、「一 使用燃料の低硫黄化、二 Cガス脱硫、三 ボイラー等の扇島移転、四 既存地区のボイラー集中、五 排煙脱硫の推進、六 海外における焼結」である。これらの提案を受け入れて、九月十四日に会社側は〇・〇一二PPMへの低減が可能である、との最終回答を行った。しかしこの類例を見ない思い切った公害対策にさえ、世論は〇・〇一PPMでなければ、との不満を述べるまでに至っていた。この住民の意識と行動が、自治体側に後に引くことを不可能にしたのであった。こうして「京浜の雄」日本鋼管が同地区に再立地するのと引替えに厳しい環境条件の遵守を公に認めたことは、産業界そのものに巨大な衝撃を与えた。そして、京浜地帯の公害対策のための防止投資と技術開発は急激に伸びはじめる。 東京湾ヘドロ事件とカドミウム米 この象徴的な事件に前後して、東京湾ではヘドロ投棄騒ぎがおこっていた。八月四日に本牧沖で操業中の小型底引き漁船の網に大量のヘドロがかかったのである。そのヘドロは昭和電工川崎工場が田辺運河に排出したものと判明し、ただちに各方面から操業停止を求める声がおこった。そして海上保安庁長官が総水銀一七〇PPMが検出されたことを国会に報告する一方で、県は十一日から東京湾内三十六か所の海水採取と分析をはじめた。それには漁船十数隻が同行し、漁獲物の汚染にかかわるだけに不安な面持ちで成り行きを見守った。重金属や強酸性廃液の汚水だまりとなり、船のスクリューをボロボロにするほどの運河地帯の汚染は、それが漁場に及んでいることを充分に予想させたからである。この事件を契機にして長年にわたって漁場を奪われてきた漁民の憤りは爆発し、九月十四日の県漁連など主催の「公害追放県漁民大会」(横浜公園)には二千五百人が集まった。大会は「すでに不法投棄されている工場廃棄物は、企業責任で完全除去」など九項目を決議し、本牧沖から川崎港へ向けての海上デモには大漁旗や横断幕を掲げた二百隻が約六㌖の列をつくった。その一部はデモコースをはずれて京浜運河に突入しようとさえした。また、重金属による汚染は農村部にも不安を広げていた。十月十四日には相模原市上溝の農家三十戸が、廃液カドミウムで自家産米が汚染されている可能性があると調査を求めた。それをきっかけとする検査で、十一月に横浜市戸塚区和泉川流域でカドミウム汚染米が発見されたのをは漁民の海上デモ 神奈川新聞社蔵 じめとして、小田原市今井地区、南足柄市塚原地区の産米が凍結されていった。こうして有害物質による土壌・底質の汚染が県民の不安を呼びおこしたが、それにこたえるだけのデータを持たない行政の頼りなさが、一層不安をつのらせたのであった。 公害病の告発 一九七〇(昭和四十五)年九月に開かれた県会は、当初から「公害県会」と呼ばれ、条例から「産業の健全な発展との調和」条項を削除し、ほとんどが、公害対策を強化する論議に費やされた。だが、行政施策のもどかしさにいらだった住民たちは、公害への不安を自らの手で打開する行動をはじめていた。すでに県下では住民運動の交流も活発にすすんでいたが、一九七〇年秋の集会は公害追放一色となった。その動きを新聞に追ってみるならば―九月、横浜地区労「公害問題討論会」、県漁連「公害追放県漁民大会」、公害問題研究会「東京湾で公害を見る会」。十月、県民主医療機関連合会「高物価『公害』反対神奈川県民大会」、鶴見から公害をなくす会・川崎市公害追放市民会議「京浜工業地帯汚濁調査」、京浜に青空を取り戻す会「公害学校」、県主婦同盟「公害追放大会」。十一月、日本ジャーナリスト会議・公害をなくす会「シンポジウム」、横浜四大学連合会「公害シンポジウム」。十二月、川崎公害病友の会・青年法律家協会「公害病患者の生活と権利を語るつどい」―などが続々と開かれている。また民間の研究機関として十二月には「法政二高育英会・公害研究所」が活動をはじめたこともあげておかねばならないであろう。なによりもその危機感をかきたてたのは、公害病認定患者の増大と、次つぎに報道される死亡例であった。とくに十一月十一日に二十八歳の若さで主婦北条夏子さんが気管支ぜんそくで死亡したことは衝撃を与え全川崎労働組合協議会を公害企業告発にふみ切らせていった。そして十二月二十五日に幹事会は、六人の遺族と二百九十八人の患者にかわって、三十八工場の責任者をガス等の漏出傷害致死等の罪で翌年一月中旬に地検に告発する方針を固めた。 四 良好な環境の回復に向かって 良好な環境を求める住民 しかし、一九七〇(昭和四十五)年十二月の「公害国会」で関連十四法律が成立して、それを境に焦点は、責任を告発することから、地域社会として具体的に公害を克服することに転換していく。傘下労組の反対にあった川労協は告発をとりやめていた。そしてこの時点から地域住民が企業・自治体と協力して自ら公害克服に取り組まねばならない苦しみの時期がはじまったのである。そのさきぶれであるかのように、二月二十四日に公害病認定患者高橋杉蔵さん(七十歳)が激しい発作を苦にして自殺をとげた。それは急ピッチで進行しはじめた企業の公害防止事業や自治体の懸命な行政指導ではとりかえしのつかない、生きがいを奪われた住民の抗議の表明であった。健康に生きる条件を確保するために、県内各所で住民自らが公害問題を自主解決する行動がはじまる。三月に明るみに出た藤沢市神明地区日本電気硝子の鉛公害問題はそうした住民の良き環境をとりもどそうとする行動の一例であった。 一九七一年三月九日に一酸化鉛を扱う同工場の従業員に鉛中毒患者がおり、それが周辺に拡散している可能性があることが新聞に報道された。この時、長年、同工場の亜硫酸ガスに悩まされてきた周辺住民たちは「公害対策委員会」を自主的に継続しており、隣接する万福寺の住職は「この藤沢から公害を追放するまで私達はがん張るだろう」(『新藤沢』)と決意した。二十日に、住民たちは工場長から事情聴取して操業停止を求め、あらためて「公害対策委員会」を発足させる。そして鉛の飛散が県の調査によれば半径一㌖におよんでいたため、県・市は一万八千名の検診の準備をすすめた。しかし住民たちは東京保健生協氷川セツルメントが最も信頼がおけるとして自主検診を開始し、五月十四日には重症患者を含む十二人が鉛中毒であることが判明した。これが発端となって続々と患者が発見されていったばかりでなく、六月十一日には重症患者が病院に収容された。この間住民たちは工場全面移転の要求を行ってきていたが、八月十一日に改善が終わったとして会社側はフッ素材料処理炉に火入れを強行した。それをあくまで試験運転と主張する工場・県・市側に対して、住民たちは徹夜のすわりこみを敢行して、翌日に火を落とさせることに成功する。そして被害が幼児たちにまでおよんでいることが判明していくなかで、会社側も炉の移転、検診料の負担へふみ切っていった。その後若干のゆりもどしはあったが、住民側は大衆団交方式に切りかえて結束を強めるなどして、九月末には会社側と「公害防止協定」を結ぶ体制にもちこむに至った。この約半年の間、公害被害の大きさもあったが、住民たちは会社側・行政側の申入れをそのまま受け入れず、工場内従業員と連携しながら、自分たちの判断を頼りにして行動しつづけた。 汚染総量の削減へ 住民の意識の中で、大きな変化がおこりはじめていた。鉛中毒と診断された一住民はこう記している。「めまいがなくなった。起床時のけだるさもとれた。関節、腹の痛みもない。背中のこりがすっきりした。頭痛薬がいらなくなった。……鉛をとる注射の投薬でうそのように元気になった。それまで鉛中毒とも知らず、日電ガラスのはき出す白い煙をながめながら、なおることもない医者が1970年11月川崎市ではじめての公害メーデー開かれる 『京浜工業地帯』から よいの毎日だった」(『新藤沢』)。変化は、環境が人為的におかされているために、健康が脅かされている可能性があることを強く意識するようになったことにみられた。 こうした反公害の行動が住民に浸透していくのを背景にして、自治体の公害行政も実効性のある対策を追求する方向へ転じはじめた。一九七一(昭和四十六)年三月に県が新たに制定した公害防止条例は、汚染の許容限度という考えを排し、自然回復へのワンステップとして総量規制を打ち出していた。大気汚染、水質汚濁、地盤沈下などの進行をくいとめるだけでなく、汚染を積極的に低減して良好な環境を回復することをはからねばならなかったからである。とくに翌年三月に制定された「川崎市公害防止条例」は、異例の前文に「すべて川崎市民は、安全で健康であり好ましい環境に対する権利と責任を有するものである」など三原則を掲げて、地域ごとの総量規制、市民による公害監視会議の設置、行政からの公害情報の公開など公害都市脱却をめざす、思い切った内容を盛り込んでいった。この間、七一年十一月には「公害病患者友の会」「川崎から公害をなくす会」が、市立東桜本小学校で初の「市民のいのちを奪った公害発生源工場への抗議集会」を四百名参加のもとに開いている。すでに工場側に施設公開を要求するまでに住民の立場は回復されており、住民の立入り視察に応ずる工場もあらわれた。また周辺住民の抗議を受け入れて、廃業・移転にふみ切った中小町工場も少なくはない。こうして、一九七二年に約五千件の苦情が殺到したのをピークにして、工場操業による汚染物質放出の増大を源とする公害問題は、長い回復への第一段階をたどりはじめたのであった。 県民を震憾させる未知の公害 けれどもこれで公害問題に先が見えたというわけではなかった。有害な汚染物質が自然循環系にまぎれこんでいる可能性への疑いは消えていなかった。まさか県下に限ってという予断を裏切ってカドミウム汚染米が発見されたし、ヘドロ水銀騒ぎはあいかわらず食用魚汚染の可能性を残していた。そして一九七〇(昭和四十五)年からはじまった東京湾の海水・底質の調査がすすむにつれ、湾内屈指の漁場中の瀬などにかなりの汚染があることが判明した。また、七一年ごろからは東京湾のみならず相模湾にも赤潮の異常発生がはじまり、同年九月には三浦市小網代湾で養殖ハマチ一万二千尾がほぼ全滅した。その原因は都市下水によるものと推定されたが、ようやく油濁から解放された沿岸水域の生物生息条件が著しく損なわれていることは明らかであった。そして一九七三年に入ると恐れられていた第二次汚染の事態が現実になった。PCBや水銀による食用魚汚染が日本中をふるえあがらせていた七月四日に、横浜市衛生研究所が金沢沖のフッコ類から厚生省暫定基準を上回る〇・四六PPMの総水銀を検出したのであった。漁獲の最盛期に六種の魚の出荷禁止をうけた金沢など五漁協は、川崎市の水銀使用三工場から漁獲物の買上げと補償を受けた。しかし、問題は補償より、人びとの日常口にするものまで信じられなくなったことにあった。こうして住民の間に自然食品運動・緑化運動・動植物保護運動が燃え広がっていく。そして汚れた川面を必死に泳ぐ魚たちを、人びとは飽くことなく眺めていた。しかし、工場跡地の緑化が土壌汚染で不可能になった例も多く、環境の回復には予期せぬ公害後遺症が後を引きつづける。 このような後始末の困難に加えて、七〇年代には未知の公害現象が姿をあらわして人びとを不吉な予感で包んだ。七一年の夏から県下でひんぴんと発生しはじめた光化学スモッグは、工場地帯に限らず内陸部にも出現する動きを示した。炎天下の校庭などで、主に小・中校生が突然呼吸困難におちいって倒れ、ホウレン草などが漂白されて枯れたりした。この「光化学スモッグ」と呼ばれた新種の汚染大気団塊にはオキシダントの濃度が関連すると見なされ、そこから窒素酸化物の発生源として火力発電所や自動車が浮かび上がってきたのである。それまでにも移動公害発生源としての自動車排ガスの規制が求められていたが、ほとんど野放しの状態がつづいていた。そしてトラックのみならず急激に増大したマイカーによる公害は産業公害の枠では処理できない市民モラルの問題を提起した。川崎市の「流通センター」や高速道路沿道をはじめとして、県下各地に自動車公害反対運動がおこったが、この公害発生源の不特定性がネックとなって、ほとんどが住民の泣き寝入りに終わった。七三年に鎌倉市では市心部への車乗り入れ禁止などが市民運動によってすすめられた。十月六日には百六十人が参加して自動車公害反対デモが行われたが、その先頭には自動車の排気ガスで樹齢数百年をかぞえる境内の杉を失った円覚寺・建長寺の僧侶たちが歩んだといわれる。一木一草をいとおしく愛しはじめた人びとの脳裏には、さながら公害は末世を象徴するものと映らざるをえなかったであろう。 回復の徴候と新たな課題 一九七〇年代も半ばに入ると、工場群の公害対策が次第に効果を見せはじめ、亜硫酸ガス濃度はかなり低下し、わずかながら陽の光も強さを取りもどした。横浜港の透明度にも回復のきざしが見られるようになった。そして三千名をこえた公害病患者に、大手六十二社は七四年に約四十億円の被害補償を行った。しかし他方では京浜地帯に硫酸を含んだ雨が襲ったり、自動車走行や下水による都市域の汚染が目に見えて増大しはじめるなど、累積した汚染物質や新たな汚染があいかわらず住民生活をとりまいていた。こうして課題は、住民の幾多の生命をあがなってようやく獲得した環境条件を、県民共有の財産として守りながら、新たな環境汚染原因を事前に取り除く方向に転じた、といってよいであろう。 第四節 自然・文化財保護運動 一 胎動する市民・住民の保全運動 江の島観光開発と指定解除問題 県下では、自然・文化財保護の運動がその後の住民諸運動の展開をリードする役割を果たしていった。こうした運動の先行性と幅広さは、なによりも首都東京に隣接した神奈川県で無規制に産業・宅地・観光の開発がすすんだためであったことはいうまでもない。こうしたなかで住民が立ち上がっていく経過を見るためには、一九六〇(昭和三十五)年の江の島の文化財指定解除からたどり直す必要があるであろう。 湘南片瀬海岸に接した江の島は、その奇異な洞窟や岩嘴によって国の史跡・名勝に指定され、有数の観光地としてにぎわっていた。その江の島の史跡指定解除問題がもち上がったのは一九六〇年のことである(以下『藤沢市議会史』)。同年二月に藤沢市議会は、「房総、京浜、三浦、湘南、箱根、伊豆、下田、大島ならびに伊豆七島を一環とする海上公園の想定のもとに、これら各地を結ぶ一大観光ならびに産業圏の中心」として江の島に観光港を設けるべし、との決議を行った。 この湘南港建設構想には、東京オリンピックのヨット競技会場誘致もからんでおり、横浜市富岡に対抗して江の島を押す県当局が国への史跡指定解除運動をはじめた。しかし江の島とその周辺百㍍の水域を解除しようとする県当局の計画に対して、観光価値の低下を心配する地元住民、文化財保護を主張する県文化財専門委員から反対の声が上がった。そして「江の島湘南港是か非か」の論議が新聞紙上をにぎわすことになったのである。 その一人三上次男委員は「日本国民のだいじな財産、江の島を後世のためにも絶対に保護しなければならない。……いまでも荒れている江の島をさらにこれ以上こわしたくない」(『神奈川新聞』昭和三十五年三月二十六日付)と指定解除に反対した。地元でも賛否両論が相拮抗した。しかし、東京オリンピック組織委員会が六月二日に会場を江の島に決定したために、文化財保護委員会も譲歩して湘南港建設は緒につくことになった。その際、県当局は開発を最低限にとどめる方針に基づいて、ほぼ全域を県の名勝・史跡に指定し直すことに成功し、地元住民も納得した。地元住民も観光開発をあえて拒む理由はなかったからである。 動きはじめた住民グループ ところで、江の島の開発が進行しはじめたころ、県下ではいくつかの住民グループが独自に自然の価値を発見する活動に入りつつあった。箱根地区では一九五四(昭和二十九)年に「箱根を愛し、箱根を守り、箱根を研究」する人びとが「箱根博物会」(会長松浦茂寿)をつくり、『箱根植物目録』(一九五八年)『箱根博物』(一九六一年~)に貴重な研究成果を公表しつつあった。三浦半島では「自然保護の会」が正しい自然観察眼を養うことを目的埋立て前の江の島(1959年) 『観光の神奈川』から とする『自然のたより』(一九五九年~)を刊行しながら、城ケ島南端の岩棚に生息するウミウ・ヒメウ・クロサギの天然記念物指定に活躍していた。また丹沢地区では、カモシカ猟解禁に反対する地元の人びとが一九六〇年に「丹沢自然保護協会」を結成して目的を達すると、つづいてカモシカをはじめとする種々の動物の棲息状況調査を継続していった。古都鎌倉では、失われはじめた周囲の自然を危惧した人びとが一九六二年十一月に「三月会」の提唱で「鎌倉の自然を守る会」(会長酒井恒)を結成している。その趣意書は「近ごろ、このだいじな自然がわたしたちから目立って遠のいていこうとしています。鎌倉のいのちが衰えるのでしょうか。わたしたちは、わたしたちの手で、鎌倉のいのちをよみがえらせたいと思います。鎌倉にそだつ一本の山の樹、一むらの草花、一羽の野鳥にも、いたわりの手をさしのべましょう」と呼びかけていた。これら、自然を愛し研究する住民グループの活動はいまだ志を同じくする人びとの範囲にとどまっていたが、観光価値と一線を画した価値を自然に見出している点で共通項をもっていた。これらのグループを開発抗議運動に押し出していったのは、ほかならぬ県下の開発の無規制な進行だったのである。 一九六二、三年ごろから県下では新聞に、自然や文化財の保護を求める投書がめだって増えている。急ピッチで進行する埋立てが東京湾から自然の海岸線を奪いつつあった。そして三浦半島や湘南地方には、住宅・別荘・保養所が進出し、丹沢や箱根では押しよせるレジャー・観光客の波に自然や風紀が破壊されていった。それに加えて、一九六二年に真鶴町の漁場に幅約五百㍍の廃油が流れこんで養殖のサザエ・伊勢エビを全滅させるなど、産業化の影響も無視しえないものとなりつつあった。こうして自然保護団体は否応なしに開発そのものと正面からぶつからざるをえなくなったわけである。一九六三年二月には、「三浦半島自然保護の会」(会長柴田敏隆)が真名瀬海岸の埋立計画に反対する行動をはじめ、それを契機に町民有志の「葉山を愛する会」が生まれた。その反対理由は同海岸の岩礁の観光価値が高く、地質学上貴重な自然文化財をなしていることにあった。しかし、学術的に価値のある岩礁であれ、いったん事業者の手に帰してしまえばいかんともし難いとの地元漁協などの賛成論の中で五月には埋立許可がおり、住民グループは孤立を強いられるほかなかった。こうしたなかで翌六四年の鎌倉の御谷宅造に反対して住民・市民運動がおきたのである。 鎌倉御谷宅造反対運動と風致保全 古都鎌倉はかつて鎌倉城とうたわれたように三方を険しい山に囲まれ、数かずの社寺と山林が一体となった静かなたたずまいを保ってきていた。しかし旧市街の外側では大規模な開発投資が進んでおり、一九六二(昭和三十七)年には大船の玉縄城跡が清泉女学院に売却されるなど、山林所有者にもそれに積極的に応えていく姿勢がめだった。こうして旧市街地に面した山林に宅地造成の手がのびはじめ、一九六三年に鶴岡八幡宮裏山「二十五坊跡」宅造事業が県に申請された。しかし当該地は「御谷」と地元の人びとに尊称される場所であったために、市民としてもどのように自然と文化財が一体となった鎌倉の風致保全をはかっていくかを問われることとなった。そしてそれを国をあげての古都保存問題にまで押しあげたのは、住民・市民のねばり強い運動にほかならなかった。 まず行動を開始したのは地元「御谷照光会」の有志であり、一九六四年の一月三十日に五十二名が市当局に、宅造反対の陳情を行った。しかしすでに市当局は県当局の照会に「支障なし」との合意を与えてしまっており、住民たちは私有財産権をたてに「絶対に不許可にすることはできない」とする県当局に行く手を阻まれてしまったのである。しかし、住民たちの必死の努力で次第に事の重大さが市民に伝わり、三月ごろからは小林秀雄、鈴木大拙などの文化人や「鎌倉の自然を守る会」などが反対運動に加わった。このため四月二十八日に山本市長はあらためて県に許可の再考を求めるに至った。 「自然を守る会」は五月一日に県・市に「要望書」を提出して、「鎌倉は日本の鎌倉でなく世界の鎌倉である。……しかるに、日本人自らが、鎌倉の住民さえもが、いかに私権の行使とはいえ、この貴重な自然を破壊してあえて恥じない傾向になってきたことはまことに遺憾であります」と問題の重大性を訴えた。そして同地域はスダシイの老樹がうっ蒼として繁茂する「鎌倉の自然植生の代表的なもの」であり、「その森林が消失して宅地となった場合、豪雨の被害は市の中央に及ぶ」であろうと詳細かつ包括的に論じた。これが同会が社会運動にのり出す第一歩であった。六月には鎌倉市議会が態度をひるがえして、反対請願を採択し、市当局に風致保全策を求める決議をするに至る。それについては内山知事が同地を訪れて個人的見解として「私としてはこの宅地造成を許可したくない。一本のマツでも切りたくない」と反対を表明し、買上げのための財団設立を示唆したことが大きな力になったといわれる。しかし県当局は開発許可を既定のこととする態度をとったため、市民は九月四日から「鎌倉風致保存連盟」の設立準備をはじめ、買上げのための募金運動にのりだしていった。参加団体は「御谷照光会」「自然を守る会」「頼朝報恩会」「材木座婦人会」「明月谷の会」「北鎌倉友の会」の六つである。一か月で署名は二万名をこえ、募金は二百十八万円にのぼったが、必要額を充たすにはほど遠かった。 こうした膠着状態がつづいている最中に業者が山頂の巨岩を安全の開発から守られた御谷地区 県史編集室蔵 ために除去する工事を申請したが、県当局が許可・中止でゆれたため、いらだってブルドーザーを谷戸に進めるという事件がおこった。そしてこれを既成事実づくりと見た住民側は実力阻止行動に訴え、駆けつけた警官隊が仲を分けるまでに至った。この事件をきっかけに事業者との交渉は市理事会・市議会にゆだねられ、結局、市が「鎌倉風致保存会」を設立して山林買収を行う方向でまとまった。しかし、体を張ってまで「御谷」を守ろうとする住民の終始一貫変わらぬ行動が市民の支援を導き、この結果を生んだのであった。それに自信を得た住民たちは一九六五年五月二十二日に「鎌倉風致保存連盟」を正式に結成して、文化と自然の一体化した鎌倉を開発の手から守る活動にのりだしていくことになる。 この御谷宅造問題が喚起した古都の危機は、全国的な古都保存の世論をつくり出した。そして一九六六年に超党派の議員立法「古都保存法」が成立して、同法に基づく保存区域の指定がすすめられた。しかしその内容は、必要とあれば買上げを行っても差支えない、というものであり、問題は、財産権を補償する買収費の調達にあった。そして案に相違して初年度の政府出資金二億円は、当時売りに出ていた京都双ケ岡二億六千万円にも充たないわずかなものであった。実効ある対策はほとんど望みえなかった。ともかく特別風致保存地区に指定された「八幡様裏山」は七月に大半が買い上げられて永久に保存されることになった。開発そのものを拒まない同法のもとで、かえって民有地の売買が気楽にすすめられるようになった。こうして円覚寺裏山、散在ケ池周辺などの開発問題が資金のない市民運動の前に立ちあらわれ、いらだたしさを昂じさせるとともに、市当局への批判がしだいに強まっていったのである。 散在孤立する住民運動 鎌倉の市民運動が外から押しよせる開発に必死の防戦を試みている間に県域は「住みよい県土」(一九六五年)に目標を移していた。ようやく県民福祉のために貴重な自然や文化財を保全することも行政の課題となったのである。一九六七(昭和四十二)年から県教育委員会は市町村と共同して貝塚・遺跡の調査を開始する。そして約千五百か所のリストをおさめた『埋蔵文化財遺跡地図』を作製したほか、横浜市三殿台遺跡などの整備がすすめられた。また急激な時代の変化の中で失われていく民俗を残す作業もはじまり、各地の漁労習俗の調査が着手された。一方、失われていく貴重な自然については、危機に瀕しつつある箱根仙石原湿原問題がとりあげられ、一九六七年二月には、県企業庁が「仙石荘」を同地から移転させた。さらに翌年には葉山三ケ岡地区などの買上げ方針を明らかにした。しかしこれらの誘導施策も県域全体に広がりつつある開発事業に警告を発する程度のものにすぎず、逗子市の小坪湾埋立て、湯河原町の吉浜海岸埋立てなどをめぐって問題が続出した。一般に、自然・文化財保護への配慮と熱意の不足が住民の不満をかった。一九六八年に入って問題となった横浜市金沢区称名寺の裏山開発もその一例である。 金沢文庫として名高い「称名寺」は、金沢山、稲荷山、日向山の三山に囲まれた境内が国の史跡に指定されていた。ところが西武鉄道に買却された裏山地帯の宅造工事がすすむにつれて、一体となってその「結界」を構成する三山の稜線が崩されることが明らかになったため、一九六七年末から反対運動が活発になり、五団体が「史跡称名寺・金沢文庫を守る会」を発足させた。「史跡称名寺保勝会」「横浜市大史跡称名寺金沢文庫を守る会」「横浜考古学サークル」「武蔵地方史研究会」「文化財保護対策協議会」の五つである。これらの団体は最初から三山の買収をめざして国・県・市へのデモ、陳情、請願を開始したが、当初横浜市はかなり消極的であった。西武不動産側と協議した市側の話では、一 寺からみて三山の内側には手を着けない、二 稲荷山の実時の墓周辺は公園として残す、ということであった。しかしこの説明に相違して工事が進みはじめると市当局は合法であるからやむをえない、との態度をとった。こうした経緯を経て、その一部を十㍍ほど削られた裏山三山は国の史跡に指定されて買上げが行われることになった。 自然保護や文化財保護をおしすすめようとする住民グループは、それなりの前進と成果はあったものの、開発・行楽の波に押されて各地で孤立した運動を強いられざるをえなかった。個々のグループについて見るならば、保護されるべき内容についての研究や内容は一段と深まり、個々の天然記念物や文化財だけに着目せず、それを群・面として保全する方向に進みつつあった。例えば一九六五年に国定公園の指定をうけた丹沢では、植生や動物生息状況の調査を積み重ね、より計画的な管理に移行している。そして、約九百頭に増殖した野生大型獣ニホンシカが清川村や厚木市の植林地や桑園を荒らすにおよんで、適正頭数に抑えるための措置をとることになった。しかも、その増加分のコントロールについて銃を用いず、シカを疲れさせて沢に追いこみ、生け捕りにするという方法がとられている(『丹沢・大山自然公園鳥獣管理調査報告』)。こうした自然の計画管理は箱根地区でも準備作業が進められており、「箱根博物会」は二子山のハコネコメツツジ群落の調査をすすめる一方で、一九六五年に「箱根を守る会」を発足させて、水質汚染を含む芦の湖総合調査にとりくんでいた。丹沢地区にせよ、箱根地区にせよ、自然美をシステムとして保全しようとするならばその動態を把握し、場合によっては観光価値となって行楽客が押しよせることを規制せざるをえない状況にあることが、住民にようやく意識されつつあったのである。 一九六八年は、この意味でひとつの曲り角であった。どちらかといえば自然や文化の記念物としての価値の共有意識をつく早戸川での鹿の生け捕り 『丹沢・大山自然公園鳥獣管理調査報告』から り出していくことを通じて、究極的に国の保護を求めることが、それまでのやり方であった。しかし県下の住民団体は形の上でも、内容の上でも、そうしたやり方の限界にぶつかっていた。すでに鎌倉の市民運動は「風致」という概念をもって都市水害を含む社会環境保全へふみ出しつつあった。一九六八年に入るとそこに「居住環境」保全の概念が加わり、県下の自然保護住民運動は社会運動として大きな変貌をとげていくことになる。 二 「環境」から「自然生態系」へ 「相模湾を守ろう」から「神奈川自然保護連盟」へ 葉山から大磯にかけての相模湾に沿って、閑静な住宅とリゾート施設がたち並んでいる。東京への交通の便がよくないところから、静かで豊かな環境を求めて住みついた人も少なくはない。その相模湾沿岸では一九六〇年代後半に入ると増大した自動車交通などによる環境破壊がめだつようになった。県立湘南海岸公園から大磯にかけて海岸を彩っていた黒松が次つぎに枯れ鎌倉の若宮大路の松並木も当時はわずか三十本たらずを残すのみとなった。それに加えて、ひっきりなしに行きかうダンプカーなどの通過車両が公害・危険で住居地区を脅かすようになっていた。そうした環境破壊に沿岸住民が神経をとがらせていたところ、一九六八(昭和四十三)年一月に、新聞が、馬入川河口に一万五千トン級貨物船が横づけする県の「新湘南港」建設計画を報じたのである(以下、安藤元雄『居住点の思想』)。 ほぼ新潟港に匹敵するこの港湾計画は地元平塚市の歓迎するところであり、地元須賀漁協も賛成していた。これに対して反対住民団体は五月五日に茅ケ崎の浜見平団地に集まって「新湘南港建設反対協議会」(会長高柳元保)を結成した。その参加団体の特徴は「辻堂南部環境を守る会」など、当該建設地点から離れた区画整理反対運動が加わっていることであった。すなわち、「新湘南港建設計画」が発表されるにおよんで、周辺各地域の住民が遭遇していた道路建設計画の断片がこの一点に収斂することが明らかになったのである。したがって「協議会」は港湾がコンビナートを呼び、公害を発生させ、通過車両によって住居環境を破壊することを阻止しようとする広域住民の参加するところとなったのであった。 しかし他方で「協議会」には「湘南の自然を守る会」などが加わっているように、港湾建設から自然の海岸線を守るという積極的主張があり、この一点ですべての参加団体は一致していた。したがってそのリーフレットは「相模湾一帯のいわゆる湘南海岸の全住民にとって〝美しい海ときれいな空気〟は生活のための貴重な財産であり、当然享受できる権利であった。その財産、その権利が、いま踏みにじられようとしている。私たちがいま立ち上がらなければ相模湾は私たちの手から永久に失なわれ」る、と反対署名を呼びかけている。この反対運動の掲げたスローガン「私たちの相模湾を守ろう」には、自然保護と公害阻止の二面が分かち難く結びついていたのであった。 湘南港建設が予定された平塚市・相模川河口付近 『相模湾の魚と漁撈』から そして、県当局および運輸省が、いまだ計画は単なるプランにすぎないとしたにもかかわらず、「協議会」が開始した反対署名運動は短期間のうちに湘南地方はじまって以来といわれる「私たちの相模湾を守ろう」の声を結集してしまった。計画中止を求める九月二十四日の県議会への請願署名は二万六千に達し、国会への請願には海水浴に訪れた人びとが数多く署名したといわれる。しかし「協議会」のねらいは単に計画を中止させるだけでなく、地元自治体の環境保護姿勢を確立することにあったから、藤沢、茅ケ崎、平塚などの市議会への働きかけに最も力を注いだ。自然と文化が社会的に一体化した「環境」を地元住民の力で確保することが先決だ、というわけである。いささか角度こそ異なれ、すでに宅造による水害問題さえ抱えこんだ鎌倉の「風致保全運動」と視点は一致していた。 この新湘南港建設反対運動が第一回目の反対請願を行った直後の七月二十五日に、鎌倉の東慶寺でひとつの懇談会が催された(『鎌倉市民』百七号)。「鎌倉風致保存団体協議会」の呼びかけに応じて集まった三十二名の所属団体は次の十二である。「湘南の自然を守る会」「新湘南港建設反対協議会」「逗子自然保護団体連絡協議会」「丹沢自然保護協会」「辻堂南部環境を守る会」「のっぱらの会」「葉山を愛する会」「箱根博物会」「三浦半島自然保護の会」「三浦道草会」「史跡称名寺・金沢文庫を守る会」。これらの団体の目的は区画整理反対から文化財保護まで多種多様であったが、すでに数多くの人的交流を積み重ねており「自然保護」に一致点を見つけていた。したがって「戦後の首都を中心とする急激且つ無秩序な開発のために荒廃の一途を辿りつつある」神奈川県下の現状を批判する住民諸団体が「自然保護連盟」の結成へ歩み出したのも、当然のことであったといえる。このため、運動を通じて保護されるべき「自然」はもはや学術上価値のあるものにとどまらず、社会的外延をもった幅広いものに拡張されざるをえなくなった。「連盟結成まで」という一文と「趣意書」は住民団体が連携する理由をこう訴えている。 戦後全国にわたる急速な都市化の波を背景に、とくに首都東京に隣接し、美しい自然と豊かな文化財を包蔵する神奈川県下では、産業、交通、宅地、観光などの開発によるそれらの破壊の様相がとくべつ目だち、各方面でようやく重大視されるようになった。 一方、心ある県民は、すでにはやく、十数年前より、それぞれの住む地域におけるこの破壊的様相と対決して、その処理のため根づよく市民運動を展開してきた。しかも、自然や文化財の保護に関する法律の不備、行政制度の欠陥などのため、これらの市民運動は、いずれも予想いじょうに多くの困難に遭いながら、それに屈せず、今日にいたっている(連盟結成まで) 自然を愛し歴史を尚ぶことは、人間本然の欲求であり、したがって健全な社会存立の基本的要件である。この自覚のうえにたって、われわれはそれぞれの地域において純粋な市民運動を興し、この憂うべき荒廃とたたかってきたが、けっきょく頼るものは世論の力であり、そのためには、県内各地域の運動のつよい結束以外にないことを痛感するにいたった(趣意書) 数回の協議を重ねた結果、この連盟の目的とする「自然保護」とは「文化財、史蹟、風致、景観、環境等の保護、保全及び利用等を含むものとする」とされた。いまだエコロジーの視角は登場していないが、多数の住民運動団体がおのおのの目的を達するために連携する必要がこうした「自然保護」の新しい考え方を生んだのである。 明けて一九六九年一月十五日に鎌倉市鎌倉彫会館で、約百七十名参加のもとに「神奈川県自然保護連盟」が発足した。すでに目的を達した「称名寺を守る会」が脱け、新たに「静かな平作を守る会」が加わり、会長に関屋梯蔵、事務局長に原実が就任した。それが県域における住民運動団体の初の組織的連携の第一歩であった。そして、この年の事態の展開は、参加団体の社会的姿勢をより鮮明に打ち出させることになる。 乱開発の進行と地域自治 一九六九(昭和四十四)年に政府が発表した「新全国総合開発計画」は首都東京の集積機能を一段と強化することをめざしており、それが県下への開発圧力となった。すでに丹沢ホームの中村芳男は連盟の発足時に、「騒音と空気の汚濁、物質文明の極端な発達による人間生活の涸渇から来る、実際的、精神的破滅をやっと防いでくれる自然が、南関東二千万人の人口の背後でどうやら見出されると云うのはせいぜいこの丹沢地方だけになったと云はざるを得ない様なとき、徒らに従来的な観光開発に堕することのない様、大きな期待と、きびしい関心の中に耳目をそばだてている」(『鎌倉市民』百七号)と県計画を危ぶむ意見を述べていた。事実、『神奈川県第三次総合計画改訂版』(一九六九年)は一日最大五万人に増大しつつある観光レクリエーション人口をさばくために、丹沢ロープウェー(民営)などの施設整備計画を打ち出していた。また箱根地区についても「将来急増する自動車利用観光客に対する受入態勢」が不可欠として道路網強化を述べていた。自然保護を前面にたてながら、なお観光需要に積極的に応えていこうとする県当局の姿勢は、心ある人びとに破局的な事態を予測させるものであった。ちなみに、一九六九年の箱根町民文化祭で「箱根を守る会」は芦の湖が沿岸の施設からの廃水で著しく汚染していることを警告している。それは、膨大な費用を投じて下水道を整備するか、観光客を制限しなければ、湖の観光価値そのものが失われることを示していたのであった。こうした事態に対して、地域社会の将来を選びとらねばならないのは町民そのものであった。いまや住民と市町村自治体が、開発の帰結としての自然破壊に直面する時期にさしかかっていた。 この意味で、「新都市計画法」(一九六八年)に基づく市街化調整区域の設定が、秩序ある市街化をすすめ乱開発を防止するものと期待されていた。ひろく「緑地」と総称されるようになった農地・山林の宅地化を十年間凍結するという措置が、営農意欲を支えると考えられたのである。しかし一九六九年七月の総合計画で、約四〇㌫であった市街化予想区域は、市町村との調整、および一九七〇年一月からはじまった各地の公聴会でみるみる増大し、五月の確定案では五〇㌫をこえてしまった。そしてこの予想を上回る市街化区域へのかけ込みで、農地面積の半分が開発の対象になってしまったのである。とくに鎌倉では市街化区域が六七㌫にふくれあがり、風致地区の多くがくり入れられてしまう結果を生んだ。この「線引き」の失敗は宅造資本のだぶつきも一因であるが、行政の緑地保全への熱意と指導力の弱さによるところが大きかった。一方、行政指導を活用する都市づくりをすすめていた横浜市では、緑地保全に取り組み、港北ニュータウン中に都市農業を育成するプラン、円海山(金沢区)周辺百ヘクタールの特別保全区指定、市心部の「緑の軸線づくり」などを事業化していた。そして、建設省の基準では「調整地区域なし」となるところを、「穴あけ」なども工夫して、調整区域二五㌫を残すことに成功した。横浜市の都市計画の側からの行政指導による開発抑制がそれなりの自然保護の成果をもたらしたことは、市町村自治体の指導のあり方を大きくクローズアップした。そこに生命界を脅かす公害問題が折重なり、県下各市町村は自然の保全へと急転回をとげていくことになる。その大きな力になったのが自然生態系の思想であった。 公害・環境破壊と「自然を返せ」 一九六〇年代の終わりごろから、工場地帯に近い海でつれるハゼの中にグロテスクに変形し、釣り上げられるとすぐ死んでしまうものがまじるようになった。鎌倉の大仏もどす黒く変色していた。大気汚染や水質汚濁が原因となって人間が公害病におかされるなら、生き物や物体に変調が生じても不思議はない。こうして工業化、都市化をおしすすめる社会を映し出す鏡として生き物たちの世界に関心が集まっていった。〝相模湾を守ろう〟のスローガンですすめられてきた新湘南港建設反対運動の最後の切り札となったのは、一九六九年八月に江の島水族館が刊行した小冊子『相模湾とそこに生息する生物について』であったといわれる。そこでは、同湾がサガミガメほか四十二種の学術的に貴重な生物を包蔵していることが述べられていたにすぎない。だが、相模湾の生物相についての認識の広がりは環境保全運動を活発にした。鎌倉・逗子にも広がった国会請願は三万五千に達し、十月には自然保護連盟が「工業化によって起る自然破壊と公害発生が人間性そのものをいかに荒廃に導きつつあるか」を警告する請願文を県会に提出する。これらの声に押されて、一九七〇年二月に津田知事は新湘南港建設断念を声明するに至った。しかし、新たな環境破壊事業をくいとめえたとはいえ、工場廃水、都市下水、廃油で汚れた海そのものが海中生物たちを脅かしていることにかわりはなかった。そこへ一九七〇年の春から夏にかけて、海上保安庁の大がかりな公害追放パトロールが有害物質排出工場や油の違法投棄の摘発をくりひろげる。こうして回復されるべき自然のイメージが人びとの心によみがえっていくなかで、また全国的に環境保全運動の波が急激に動きはじめていた。 その前年にアメリカで催された「地球の日」をきっかけに、「かけがえなき地球」を守る運動の波が全世界に広がりつつあった。日本でも五月十七日に東京で「日本自然保護協会」「日本野鳥の会」主催の集会が開かれ、「自然破壊はわれわれの『生きる』ギリギリの権利までも否定しようとしています。……嘆いているときは過ぎました。いま立ち上るときです」とのアピールが行われた。そして七月には全国各地で「自然を返せ」の運動がまきおこったのである。そして県下で長年にわたって植物生態系の重要性を訴えてきた宮脇昭(横浜国立大学助教授)は「〝公害日本〟を診断する」(『神奈川新聞』昭和四十五年九月六日付)と題した特集のなかで「自然破壊きびしく糾弾―取り戻せ〝生物社会のバランス〟」と発言し、植生団の作成が急務である、と報道した。たしかに、植物ばかりでなく、生物としての人間が食餌の連鎖、呼吸等を通じて自然循環系に参与する一員にすぎない、というエコロジーの考えは、工業文明の優位を一挙に逆転させるものであった。このエコロジーの考え方が自然保護の中核となって人びとに急速に浸透していくにつれ、公害の見方も大きく変化して、企業者が排出物を自己処理することは自然の義務であると考えられるようになる。こうして星空がまったく見られなくなった京浜地帯で五月に起こった反公害運動は「青空を取り戻す」という積極的目標を掲げた。この夏を境に、県下の住民運動は開発阻止・自然回復で大きくまとまっていった。 八月二十三日に行われた鎌倉市長選挙では、おのずと「開発か・自然か」が争点となり、「緑を守る」を公約した正木千冬が大きな支持を受けて当選した。その行政姿勢は限られた手段を駆使して開発の抑制をはかることであったが、「わたくしは、緑を守る世論喚起の先頭に立つ決意です」という第一声こそ住民の求めるものだった。住民たちは、行政や公共性の枠にとらわれず、自然や文化の保存を要求する行動をとりはじめる。また、小田原市では、国指定の城跡の保護が問題になり、市庁舎を城址公園内現地改築に文化庁が難色を示していた。住民たちは十二月に「西湘の緑を守る会」を結成して反対運動をはじめ、文化庁の不許可にもちこんでいる。同じ十一月に川崎市では、市営上作延団地自治会などが呼びかけて、県住宅供給公社の用地となった東高根遺跡とシラカシ林の保存運動をはじめた。そして、県の天然記念物指定を引き出し、材木の値にして五十万円にしかならない林を九億円をかけて公園化することに成功した。また箱根では、小田原の土地所有者が自然保護のために、大平台北畑の約一万四千平方㍍を箱根町に寄付することを行っている。県下はいまや、個人の利害や行政の枠をこえて、環境保全の渦にまきこまれようとしていた。こうした気運の中で、十月からより強力な全国的な風致保存運動に取り組んでいた鎌倉の市民運動も、古都という枠を捨てて「歴史的風土」一般の保全へと飛躍をとげていった。十二月六日に結成された「全国歴史的風土保存連盟」の名称が緑をおいやる横浜市内の宅地造成(1974年ごろ) 『あすの神奈川-新総合計画のあらまし』から 示しているように、県下の自然保護運動はその苦悩の深みを生かして、地域に限られた運動から普遍的な運動へ自らを展開しはじめたのであった。 三 自然と人間の共生する地域社会へ 自然への憧れと荒廃する都市 公害告発に心をゆすぶられた一九七〇年が終わると、人びとの心は熾烈な自然への憧憬に充たされていた。太陽の光のかけがえなさが身にしみるとともに、再開発のビルラッシュがすすむ大都市地域では日照権の紛争が爆発した。川崎市や横浜市の日照相談室を訪れる人はひきもきらず、隣家が二階建てにすれば負けじと改築がはじまった。だが都市生活をとりまく環境の悪さを意識すればするほど、人びとがまず求めたのは自然へ還ることであった。そう気がついた時、都市生活の周辺からは昆虫と動物たちが去り、なれ親しんだ草花も見あたらなくなっていた。こうして、丹沢・箱根など残された自然への人びとの流れは一層激しくなった。なによりも整えられた観光ルートがそうした自然に安易に接近することを可能にしていたからである。だがすでに県下における自然保護の運動は、安易に行楽客を受け入れることを拒んで、自然生態系を保存する方向に転じていた。 一九七一(昭和四十六)年六月十三日に、丹沢自然保護協会の呼びかけに応じて、全国各地の自然保護団体が、札掛の「丹沢ホーム」に集まり「全国自然保護連合」を結成した。この年の初頭からはじまった「自然保護憲章づくり」にあきたらない人びとから、実践的な全国連合をつくろう、という気運ができあがったといわれる。そして、結成された連合は理事長に中村芳男を選び、次の基本方針を確認した。「一 国有林をふくめた森乱伐の防止、二 改修、埋め立ての名目、工場汚水で河川、海岸の自然が破壊されているが〝自然を返せ〟の運動で取りやめるよう働きかける、三 野生生物の狩猟も、自然保護の敵だから、禁猟を前提に、猟区の設定をするよう狩猟法の改正を訴える、など」(『神奈川新聞』昭和四十六年六月十四日付)。そして同連合は丹沢ホームに事務局をおいて、石鎚スカイライン、大雪山縦貫道路の建設阻止行動など新たな自然保護運動を展開したのであった。 官制の自然保護から脱却した運動のあり方について中村は「自然保護と云う仕事は大衆運動でなければならない」(『鎌倉市民』百四十二号)といい切っている。そして大衆を信頼するところから運動をはじめた。丹沢を「便利」にする、ロープウェー計画の撤回や県道簔毛・ヤビツ線の舗装中止が運動の成果として次つぎに決まっていった。 一方、都市には公害による汚染、ゴミ・廃棄物が充満していた。横山隆一は、ひと気なくゴミに埋まった鎌倉の海岸に立ってこうつぶやく。 由比ケ浜は昔はきれいな海岸だった。くつでは歩けなかった。砂がやわらかで、くつの中に砂がはいった。投網で磯魚を沢山捕った事もあった。地引網を手伝ってやると、小鯛を沢山くれた。今は土俵のようにかたくなった砂の上に立って目をとじると、当時のすがたがよみがえる。子供達の人気者で、かずをちゃんと呼ぶ愛すべき奇人が、さくさくと、砂をけたてて、大股に歩いてくるのが目に浮ぶ。あのきれいな海岸を、もう一度、今の人に見せたいと思う(『鎌倉市民』百四十四号)。 沖から押しよせる油が砂を固めてしまった海岸に人びとは寄りつかなくなり、ひと気のない海岸にゴミが置きざりにされたのである。大量消費社会のつくり出す悪循環が都市をますます住みにくくしつつあった。この悪循環を断つためには、汚染物質や廃棄物の処理体制を整えるだけでなく、あえて都市の内部に快適さをこえて自然を再創造していくほかなかった。この困難な自然の再創造に都市の再生をかけて取り組もうとしたのが、公害と宅地開発に緑を根こそぎにされた川崎の住民たちであった。 都市内部に自然を創造する かつて武蔵野のどこまでも広がる雑木林に覆われていた川崎市の北部丘陵地帯は、とどめをしらない住宅開発で、わずかな緑を残すまでに変貌していた。一九七二(昭和四十七)年に高津図書館郷土史研究部が『埋蔵文化財地図』を片手に保存状況を調べたところ、保存されていたのは二十八か所のうち二つで、いずれ残りも破壊されるであろう、という惨たんたる状態であった。そのわずかに残された緑を奪って高津区菅生に大規模な流通センター建設が計画されていた。しかし、その事業が用地買収に入ろうとする一九七〇年の春に、附近住民の間から「川崎北部の残り少ない自然の緑を守り、新たな自動車公害をつくるな」という汚れた由比ケ浜 『鎌倉市民』144号横山隆一画 反対運動がはじまる。住民たちは予定地を日曜日ごとに歩いて、自然そのものへの知識を深めていった。そして、一九七一年十二月に周辺十二の自治会が「川崎北部の緑と生活環境を守る連絡協議会」を結成し、約七千五百の署名を添えて市議会に反対請願を行った。この運動は横浜市の美しが丘地区にも広がる。しかし市当局がすでに着工準備にかかっていたために、単なる反対だけでは事態の打開は困難であった。そこで住民たちは、運動を全市に拡大して全市的な都市ビジョンの樹立によって「流通センター」を消滅させる方向に転じていった。 一九七二年四月十六日に、北部の環境保全グループと南部の公害反対グループ十八が「川崎環境保全市民会議」(会長山室静)を結成し、ただちに、北部の大規模開発、南部臨海地区の大規模公害発生源を二つながらにコントロールする都市ビジョンを条例化する作業をはじめた。この「川崎市を樹木の緑で覆い、環境をよみがえらせる都市づくりをすすめるための条例」案は、市域の約九〇㌫が宅地と化し、樹木の生育さえ困難な工場地帯を抱えた川崎を「わがふるさと川崎は、いま恐ろしいまでに病んでいる」(前文)と診断する。そして市民自身が「森のなかの住宅地、林につつまれた商工業地であり、自然の管理者として都市農業をよみがえらせ、人間都市を創出する」ことができるよう、都市が私権を制限し、工場の移転跡地の「緑地空間復元計画」および残された緑地の「永久緑地空間指定」を市民参加ですすめることをめざしていた。この緑地の保全・創造をめざす条例は超法規的内容を含んでいるために「緑の憲法」と通称された。そして、十万人を目標にしてすすめられた直接請求運動は、予想外の熱い反響に支えられて十二万四千名に達し、七月五日に市議会にもちこまれた。結果的に、この条例は農業団体の反対で不成立となったが、予想外の運動の高まりを裏から支えたのは、コンクリートの電柱がボロボロになるほどの大気の汚染、魚が姿を消し中性洗剤のアワが浮んだ多摩川、おばけハゼが次つぎにかかる海、という川崎市の現実への危機感であった。こうした都市を内部から再創造する市民の主体的行動の支えは「生き方を変えること」であり、自然生態系にかなった住民生活「わが町」をつくり出すことでなければならなかった。県西部に端を発した自然保護運動の波は、残すべき自然を喪失し、回復が困難な川崎市で最も純粋な形をとったのである。なお、この運動の発端をなした「流通センター」がやがて凍結・立消えの途をたどったことをつけ加えておくべきであろう。 住民たちの間から「生き方を変えること」への呼びかけと行動が生まれざるをえないほど、県下の開発はすすみ、依然として圧力は持続していた。その開発鎮静を促進するために県は一九七一年三月に「良好な環境の確保に関する基本条例」を制定している。一方で公害・環境破壊を防止し、他方で自然環境の保全・回復を動的に実現しようとする県当局の姿勢は、相模湾の埋立不許可、農地のゴルフ場転用不許可声明などに具体化された。そして、県下のあらゆる地域で住民たちの開発阻止、自然・文化財保護の行動がいきいきと動き回った。川崎では市当局が一九七二年八月に六十七工場と緑化協定をむすび、住民たちは菅・稗原線用地の学校用地への転用運動、生田緑地ゴルフ場の公園化運動などをすすめている。横浜では、市当局が一九七一年五月に「緑政局」を設置し、地主と契約して山林を開放する「市民の森」の新機軸を打ち出した。横須賀では、自然保護団体による台場跡を含む千代ケ崎地区保全、ハマユウ自生地の埋立反対運動が成果をおさめ、衣笠・大楠山周辺の開発が、行政の手でくいとめられた。鎌倉市では、行政の都市計画審議会の改組、文化財総合調査に応じて、市民運動・住民運動の活動がめだった。相模原では、縄文中期の土器で名高い勝坂遺跡が住民の活躍で守られ、わらぶき屋根を見直す施策がとられている。さらに、藤沢市では、引地川の浄化が着実にすすみつつあった。こうした事例をあげればきりがない。一九七二年から七三年にかけて開発自制の空気が急激に醸成され、保護された自然・文化財は数知れない。遺跡の数は十年前の千八百から五千八百八十八に激増していった。ひとりひとりの住民すべてが自然保護運動の主役であった、といってもよいであろう。しかし、自然破壊への非難の声が絶頂に達した一九七三年に、県当局が事業認可を行った横浜市最後の自然海岸金沢の埋立ては、それが計画的な開発であるか否か、をめぐって複雑な波紋を呼んだ。事の当否が明らかになるには、長い年月を要するであろう。ともかく、時代は、乱開発から自然を守ることを基礎に、地域社会の再生をはかる方向に転じはじめたのである。 高度成長下の都市化のつけ しかし、このころから高度成長下の無規制な都市化のつけが累積的な弊害を生み、容易に克服し難い自然破壊の新たな原因として浮上してきていた。なかでも、緑や生命を豊かにはぐくんでくれる水に危機が生じてきたことは、全国的に水系が新たなよりどころと見直されるなかで、神奈川県の自然に対する負債を浮き彫りにするものであった。 そのひとつは莫大な都市下水の問題である。箱根地区では、年間百万人の観光客の残す下水による芦の湖の汚染が心配されていたが、一九七二(昭和四十七)年の調査で汚染を好むバクテリアの生息が確認された。このため終末処理場をもつ公共下水道建設が課題となったが、豊かな町財政をもってしても手にあまる大事業であった。そこで芦の湖に水鳥を呼びもどす運動などとともに、国への働きかけがはじまり、一九七五年から百五十億円をかけた建設事業に着手することが台風後の津久井湖の清掃 『県政写真ニュース』391号から できた。この湖沼の富栄養化の問題は、相模川の上水源でもおこっていた。相模湖では一九七三年四月ころから日々三百から五百匹のヘラブナが弊死し、岸にうち寄せられる事件がおこった。湖岸の人家から流入する廃水が生物の生息条件を変えてしまったために大量のアオコが繁殖しはじめたのであった。ほどなく湖水は暗緑色一色に姿を変えてしまったが、いまだその対策に手のつけようもなく放置されたままである。また相模川の下流をはじめとする県内いくつかの流域下水道建設事業についても、放流海域の汚染が心配されている。藤沢市では一九七四年から流域下水道見直し運動がはじまり、自治体ごと地域住民ごとの処理体制が検討されはじめた(中西準子『下水道と都市の再生』)。かつて山林、海域への投棄で自然の浄化にゆだねられていた生活排出物をいかにして処理するかも、残された問題のひとつである。 この下水問題に対応して、ふくれ上がった上水使用量をいかに節減するかも問題となる。横浜の日本郵船ビルが天水を活用しているように、トイレなどにも上水を供給することの危険性はかねてから指摘されてきていた。しかし現実に進行したのは地下水汚染による井戸から水道への転換など、累積的な上水需要の増大であった。こうして一九七一年に、貯水量二億トンの宮ケ瀬ダム建設計画がスタートした。地点は、愛川町の上流域、中津川渓谷として人びとに親しまれてきた山間部であり、その自然美の喪失を惜しむ人も少なくはない。また一九七二年七月に県西を見舞った集中豪雨は箒沢地区を襲い、治山・治水技術の不備を提起した。そして、一九六〇年ごろから水害常襲地帯と化した柏尾川や鶴見川の中流域ではくり返し出水が見られている。稲田堤や柏尾川の桜など、かつて人びとの憩の場であった堤も河川改修によって消えてきている。緑の回復から水系の回復へ環境保全の焦点が移るにつれて、あらためて、著しく進んだ県下の都市化が重い負担となってきているのである。 自然回復への闘いのはじまり 十年の間に二百万人も増加した人口が示しているように、都市化の著しく進んだ県域は農漁業の衰退をはじめとして、自然と人間の結びつきを稀薄にしてしまった。公害におかされた危機的状況が鋭く意識された時、はじめて人びとは汚れた川に戯れる魚群や路傍の雑草をあかず眺めたのであった。そして、自然環境保全地域の設定など残された緑を守る措置がすすめられる一方で、農家と消費者を直結する運動など住民たちによる自然回復の行動も静かに広がっていった。 その数えきれない自然とともに生き直そうとする地域住民の営みの一例として、一九七三(昭和四十八)年十二月に箱根町湯本の温泉場で働く人びとのはじめた「川を守る会」がある(以下『住民活動』二八号)。有志たちが「川を汚すのが人間ならば、よみがえらすのも人間だ」と厳冬の早川の定期清掃、植栽、洗剤追放などをはじめ、その二年後にカワニナの採取から始まってホタルの里をつくり出すのに成功したのであった。その一会員は「それは忘れもしない昭和五〇年六月十日のことであった。わさび沢ホタルセンターは、文字通り巨大なホタル籠となり万余のホタルが乱舞していた。それを目撃した時のあの感動は、未だ忘れることができない。仲間たちから一せいに『ワァー』という声が起こり、涙を流し手を取りあって成功を喜びあったのである。明滅する淡い光には、人間の生命の原点を見る思いがし、心の中にほのぼのとした灯し火がともり、自然と人間の関係がいかに大切かを実感した次第である」と記している。 それは、都市化に埋もれた自然の回復がもたらした人間再発見のドラマの一こまであった。コンクリートに覆われ尽した市街地を取りあげるまでもなく、工業化・都市化が進行した社会の内側から自然を育て直すことは容易なことではない。しかし高度成長期の終焉とともに県民が歩みはじめたのは、残された稀少な自然をこれ以上失わず、自然と人間の共生する地域社会を回復していくみちにほかならなかったのである。 第五節 住民運動の現段階 一 消費者運動の発生と背景 消費者問題の背景 消費者被害とは、商品・サービスの購入と消費の過程で、消費者が被るさまざまの被害のことである。このような被害が、いわゆる社会問題(消費者問題)として、大量かつ恒常的に発生してくるのは、一九六〇(昭和三十五)年以降の高度成長期からである。すなわち、高度成長下で、技術革新による大量生産と、マスメディアを利用した大量販売の体制を確立した産業界は、国民の生活水準の上昇とあいまって「消費革命」を推進した。こうして、六〇年代には、家電製品を中心とする耐久消費財をはじめ、衣食住にわたる各種の新製品が市場に氾濫し、いわゆる「高度大衆消費社会」が出現した。 しかし、このような社会状況の出現は、同時に消費者問題発生の合図でもあった。商品の価格や品質、表示や契約をめぐって、さまざまの消費者被害が大量に発生し、危険商品、ウソツキ商品、欠陥車、誇大広告などの言葉が紙上に氾濫した。さらに、安全性を無視した新製品の開発と販売は、消費者の健康と生命まで脅かすようになった。そのような事例は枚挙にいとまがない。すでに一九五〇年代において、森永ドライミルク事件(五五年)があり、一九六〇年代には、ニセ牛肉缶詰事件(六〇年)、サリドマイド事件(六二年)、アンプル風邪薬ショック死事件(六五年)、カネミ油症事件(六八年)、欠陥車問題(六九年)がおこっており、つづいて一九七〇年代には、スモン病(七〇年)、果汁飲料表示問題(七一年)、PCB問題(七二年)、石油たんぱく(七三年)、ヤミカルテル問題(七四年)、AF2その他の食品添加物問題などが続発している。こうして、消費者被害はますます多発化し、広域化する傾向を帯びている。 ところで、消費者被害はこのような大事件だけではない。消費者の日常の世界では、無数の被害が発生している。第十二表は神奈川県下の八か所の県消費生活センターで受け付けた、最近数年間の商品及びサービスに関する苦情相談の統計であるが、一九七三(昭和四十八)年度以降は四千件前後にふえている。しかもこの数は被害者によって届出のあったものであり、意識されない被害や泣きねいりのものを合わせると、この統計数字は氷山の一角に過ぎず、おびただしい数に上るであろう。 また、この苦情相談を第十三表により商品項目別にみると、食料品、住居品、光熱品、被服品、医薬化粧品、教養娯楽、理容衛生など、多くの分野にわたっており、さらに苦情の内容も、安全・衛生、品質・機能、規格、計量・量目、価格・料金、表示・広告・包装、販売方法・契約・サービスなど、消費者の商品・サービスの購入から消費に至る多くの段階に生じている。 一九七五(昭和五十)年に発表された、国民生活審議会消費者保護部会の「消費者被害の救済」という報告によれば、今日の消費者被害の性格が、「大量生産、大量販売に代表される現代の経済社会の構造に根ざしたものとして、消費者の〝構造的被害〟として把握することができる」と述べて、「売手と買手との平等を前提とした伝統的な個別的な取引による被害(古典的被害という)」と明確に区別しているが、まさしく今日の消費者被害は、資本主義の独占段階が生んだ「構造的被害」ということができよう。そして、このような被害の原因が、大量生産、大量販売体制のもとで、孤立した消費者に対して「隔絶した経第12表 年度別苦情品テストを実施するに至った苦情相談の件数 県消費生活課『54年度消費生活相談概要』から作成 済力」をもち、商品取引においては決定的な優位に立ち、資本力にものをいわせて広告宣伝や新製品の開発競争にしのぎをけずり、商品の安全性や品質よりも経済的利益と効率を優先する一部の大企業の行動様式にあることは明らかである。 消費者運動の発生と発展 以上のような消費者被害の集積の上に、消費者としての自覚と権利に目覚め、被害の救済と予防を求める消費者運動が発生する。消費者運動は最初、主婦連や地婦連のような中央の婦人団体、あるいは戦前からの伝統をもつ消費生活協同組合のような商品の共同購入を業務とする経済団体が主な担い手であった(第一期)。 ところがその後、前述のような消費者被害の激化にともなって、自主的な消費者運動団体が組織され、公害や自然保護、都市問題や自治体問題などの諸団体と共に、住民運動の一翼を形成するに至った。それとともに、運動形態も、初期の「賢い消費者づくり」という啓蒙的な活動から、消費者主権を主張する行動的な消費者へと脱皮していった。 このような変化を最もよく示すものが、生活学校の場合であろ第13表 1979年度項目別・内容別苦情相談件数 前掲『概要』から作成 う。生活学校は一九六四(昭和三十九)年、新生活運動の一環として、行政側の指導と援助によって設立されたものであるが、当初は文字どおり正しい商品知識を身につけた賢い消費者づくりをめざす運動としてスタートした。ところが、そこで育てられた活動家が、行政の保護を離れ、地域における自主的な消費者運動の担い手となっていった。これがいわゆる「草の根グループ」とよばれる集団である。 さらにこの時期には、それまでもっぱら婦人の手で進められていた運動に、日本消費者連盟や日本自動車ユーザー・ユニオンのような専門知識をもった男性の組織も加わり、欠陥車の告発やカラー・テレビの不買運動など、企業と行政に対する社会的対抗力(拮抗力)を強めていった。この時期の運動に、アメリカの消費者運動の影響が大きかったことは、よく知られている。 一方、生活協同組合を中心とする生活物資の共同購入運動も大きく広がり、農家や地場産業と契約した産地直買や、地婦連の「ちふれ化粧品」に代表される無公害商品の普及運動がさかんに行われた(第二期)。 消費者運動が他の住民運動と異なるのは、最初から運動の統一と団神奈川県新生活運動推進大会(1965年於逗子市民体育館) 神奈川県新生活運動推進協議会蔵 結を重視していることであろう。これは消費者被害が他の公災害とちがって、一つの危害が直ちに全国的に発生し波及するという特色をもち、消費者団体の大同団結なしには、企業側の「隔絶した経済力」に抗しえないからである。こうして、早くも一九五六年、森永ドライミルク事件を契機に、中央では労働団体を含む全国消費者団体連絡会(略称、消団連)が結成された。そして、翌五七年には、初の全国消費者大会を開いて「消費者宣言」を採択している。 以上、一九五〇年代末から七〇年代の初頭にかけて、全国的な消費者運動の流れを概観したが、このあと運動は一九七三、七四年の石油パニックに直面し、狂乱物価と「つくられた物不足」のもとで、新たな試練に直面する。石油業界のヤミカルテル、悪徳商社の買占め、売惜しみという異常な混乱の中で、消費者問題は政治の前面におどり出た。消費者団体は一斉に街頭に進出し、灯油、洗剤、トイレットペーパーなどの緊急放出と価格対策を企業と行政に迫った。こうして、石油危機は国民生活を大混乱におとしいれたが、同時にこの危機はそのあと、経済の長期不況と低成長時代をもたらした。このような新たな状況のなかで、公害をはじめとする各種の住民運動は、一時的後退を余儀なくされたが、消費者運動は逆に新たな高揚と定着の時期を迎えている(第三期)。その意味で消費者運動は、住民運動の現段階をゆく先端的運動の一つということができよう。 二 消費者運動の発展 啓蒙期の消費者運動 前項では、全国的な消費者運動の流れを三期に分けて概観してきた。すなわち、第一期は「啓蒙期」といわれる高度成長の前期(一九五五~六四年)、第二期は「告発期」といわれる成長後期(一九六五~七三年)、第三期は石油パニックとそれ以後(一九七四年~)である。 この全国的な時期区分を、神奈川県という限られた一地域の運動にそのまま適用するのは異論もあろうが、一応ここではこの区分にしたがって、県内の消費者運動を述べていきたい。ただ地方の運動は、全国・中央の時期区分では律し切れない地域的特殊性があるので、その点あらかじめお断わりしておく。 最初に、神奈川県の消費者運動の発展を、運動の担い手である消費者団体の設立過程から見ていこう。第十四表によると、一九六〇年代の前半までは、団体別では婦人会と農協婦人部が主力をなし、団体数では全体の六割弱を占めている。しかも五〇年代までは、この二団体に限られ、六〇年代前半(昭和三十五~三十九年)になって、ようやく生活改善グループなど五団体が新たに登場する。これらの団体の活動は、労働組合の婦人部や新日本婦人の会をのぞけば、ほとんどが新生活運動と呼んで、農村の虚礼廃止や因襲打破をめざす生活の合理化、近代化が主な内容で、まだ明確な消費者運動としての性格をもっていなかった。もちろん、その中には台所生活の改善と賢い消費者づくりという課題もあったが、全体の課題と運動からいえば、補足的、部分的なものにとど第14表 設立年代・性格別消費者団体数 神奈川県消費生活課『消費者団体基本調査報告』(1975年)から 第15表 横浜市消費者の会の活動 まっていた。しかも新生活運動は、事務局の設置から会の運営に至るまで、行政側(国と自治体)の援助と指導をうけ、官製的性格を拭えなかった。 ところが、六〇年代の後半以後になると、それ以前にはなかった「消費者グループ」と名乗る団体が多数設立される。しかも、これらの団体は婦人会その他これまでの団体とちがって、いわゆる消費者運動団体として、消費者運動を専門に推進する新しいタイプの団体である。 この団体は、一九六五(昭和四十)年ごろからはじまる県や市の消費者講座で、リーダーとして養成された主婦たち、あるいは消費生活モニターとして経験を積んだ婦人たちが、有志で組織したものが主な源流をなしている。その代表的なものに、横浜市のモニター経験者たちを中心に、一九六九年に結成された「横浜市消費者の会」がある。この会は設立の当初から、「運動団体であると共に研究団体としての姿勢を崩さず」今日に至っているという。この研究と運動の両面を兼備したところにこの会の特色がある。いまその活動の概要を、年表風に紹介しておこう。横浜市消費者の会は、発足までは同市消費経済課の指導と援助を受けたが、発足後は自立した組織として、第十五表に見るような多彩な活動にとりくんでいる。まさに、同会は「賢い消費者」から「考える消費者」へ、さらに「行動する消費者」へのコースをたどった典型的な消費者団体といえるであろう。 発展期の消費者運動―生活学校 消費者グループと並んで、一九六〇年代の後半から登場する県下の主要な消費者団体に、生活学校がある。生活学校は家庭の主婦のグループが、日常横浜市消費者の会『新しい活動の発展を求めて』(1979年)から 生活で取り扱う商品や行政サービスの中からテーマを選び、業者や行政との対話を通じて問題(例えば欠陥車問題)の解決を社会的に図っていく運動で、それによって「生活者としての主体性」を確立しようとするものである。この運動の母胎は新生活運動であるが、高度成長下の消費者被害の発生を契機に、一九六四年から消費者運務団体として再発足したものであった。したがって、当初の生活学校には、既存の婦人会や自治会などを母胎にしたものが多い。この運動は、地域で三十人から百人の主婦が一グールプをつくり、それが集まって市町村には連絡会を、県には推進協議会を置いている。生活学校は発足以来事務局を行政庁内に置き、また運営面や財政面でも行政側の援助を受けるなど、自主的な団体とはいいきれないが、それでも最近は自治体の援助に頼らず、自前の会員だけで運営するグループが増えている。この生活学校は、現在全国に二千、十万人の主第16表 生活学校の地域的分布とその変遷 1) 上表は,各年度の神奈川県新生活運動推進協議会「総会資料」から作成 2) この外に事業所(職場)の生活学校が1970~73年度まで各1,1973年度に南足柄に1あるが省略した 婦が参加しているといわれるが、神奈川県の学校の歩みを数字で示すと第十六表のとおりである。 県下の生活学校は一九七六(昭和五十一)年学校数(七十一)と開設市町村の数(十七)で最高の広がりを示したが、この年五校以上の学校をもつ市町は、横浜(十九)、平塚(十六)、川崎(六)、座間(五)、海老名(五)で、これら五市で全体の七割に達する。この分布から明らかなように、生活学校とは都市の消費者、主婦を主体とした運動であるといえる。このうち、最大の数を誇る横浜市では、六九年に生活学校連絡会を結成し、毎年共同のテーマを設定して共同研究を重ね、それに即した消費者運動を展開している。例えば、結成の翌年には、「生鮮食品の価格」問題をテーマに取り上げて研究をすすめると共に、当時問題になった食肉販売表示公正競争規約の制定を県に働きかけて、実現させている。このとき制定された神奈川県の規約は、全国の都道府県の基準となったといわれる。また翌七三年には、「身近かな環境汚染」というテーマで過剰包装問題にとりくみ、さらに、同年末には、石油パニックのなかで他の消費者団体と共に、便乗値上げ反対、売惜しみ防止の運動に専念している。このように、生活学校も消費者グループと同様、行政の手で育成さ鶴見生活学校の食品添加物学習風景(1965年7月) 山口定子氏蔵 れながら、のちには消費者運動の有力団体として自主性と行動力を強めていった。 生活協同組合の運動 また、生活協同組合(以下、生協と略す)の問題にふれなければならない。京浜地方には、戦前からの伝統をもつ生協運動があり、敗戦直後は華ばなしい復活ぶりを見せたが、その後長い沈滞を余儀なくされた。その生協が組織の再建と拡大に踏み出したのは、一九六〇年代の後半であった。地域生協の雄である横浜生協は、一九六七(昭和四十二)年、活動方針を十五項目にまとめ定式化した。この方針は画期的なものといわれ、その後の横浜生協の発展の礎石となるものであった。いまそのうちのいくつかを列挙すると、 一 生協運動は消費者運動である。 二 活動の対象は家庭の主婦である。 三 生協運動は組合員自身がすすめる運動である。 四 活動の中味は〝よりよいものをより安く〟の活動である(『かながわ生協35周年お母さんたちのあゆみ』)。 要するに生協とは、「台所を握っている主婦が組合員」であり、「台所を守る運動体」だというのである。試みに横浜生協の発展をいくつかの指標によって示すと、この方針が確定されたあとの発展はめざましいものがある(第十七表)。 この横浜生協の発展に刺激されて、県内の主要都市にも次つぎと共同購入の生協が誕生した。一九六九年には湘南市民生協(藤沢)、七一年に浜見平生協(平塚)・みどり生協(横浜)・相模原生協(相模原)、七四年に西湘市民生協(小田原)、七五年にけんぽく生協(相模原)、七七年にかな川みなみ生協(横浜)などである。この他にいくつかの医療生協も生まれている。七五年には、横浜生協核に、川崎、御幸、湘南市民、浜見平の五生協が合同して、かながわ生協と改称し、組合員を十二万人にし第17表 かながわ生協の発展 『かながわ生協35周年お母さんたちのあゆみ』から作成 ている。そして、七八年には組合員が二十万人を突破し、全国第三位のマンモス生協となった。 さて、このような発展過程のなかで、横浜生協は創意に富んだ共同購入運動を展開して、「横浜方式」の名を全国に高からしめた。その横浜方式には次のようなものがある。 一つは産地直買の共同購入で、清酒、米などを産地の福島県の酒造業者や県内農協と契約して、組合員にうまいものを安く供給しようという運動である。第二には危険な添加物であるサルチル酸やハム・ソーセージの着色剤、発色剤などを追放して、無公害食品を購入または開発する運動である。清酒はさきの福島の業者と、ハム・ソーセージは鎌倉ハムと提携して行われた。このうち、サルチル酸については、「横浜方式」が関東、東北に広がり、業界でも使用を自主的に禁止するまでになった。第三に、独占商品排除の運動も、横浜生協があみ出した新しい運動である。これは、「味と好みの切り換え運動」といわれて、食品、洗剤などの独占商品に対抗して、生協独自で開発した代替品(CO-OP商品)を、組合昭和40年代からつづく横浜生協白幡店 県史編集室蔵 員に安い値段で普及する運動である。それには第十八表のようなものがあった。要するに、横浜生協の発展のうらには、「よりよいものをより安く」という、台所を守る運動としての不断の努力と創意があったのである。 以上、一九六〇年代の神奈川県下の消費者運動を、消費者グループ、生活学校、生協という三つの団体を中心に述べてきたが、むろん他にも多数の団体があり、その活動も多様である。また、三団体の活動もこれにつきるものではない。この時期は消費者運動の歴史の上でも「告発の時代」といわれたように、国民の消費生活面に、高度成長の弊害が全面的に吹き出していた。一例を食品公害にとっても、ユリア樹脂食器問題(一九六六年)、漂白パン問題(六七年)、サルチル酸(六八年)、チクロ(六九年)、カドミウム汚染米(七〇年)、ジュース裁判(七一年)、AF2(七二年)、石油たんぱく(七三年)など、毎年のようにマスコミを騒がせる重大事件が相次いだ。 これらの問題に、県内の消費者団体もそれぞれの立場から、多様なとりくみと運動を展開している。 三 石油パニック下の運動 石油パニック 一九七三(昭和四十八)年十月、第四次中東戦争を契機に石油パニックがはじまった。中東産油国の原油価格の大幅引上げと輸出制限は、国民生活に大混乱をひきおこした。この石油危機を「千載一遇のチャンス」第18表 「味と好みの切り換え運動」品目一覧 前掲『あゆみ』から として、暴利をむさぼる石油元売り業者や悪徳商社のモノ隠しによって、灯油をはじめ洗剤、トイレットペーパー、砂糖、小麦粉など生活物資が店頭から姿を消し、消費者はパニック状態におちいった。 パニックの襲来を、当時の湘南市民生協の善行団地店舗では次のように伝えている。 昨秋、関西から襲ったモノ不足パニックは、同生協でも十一月二十日の朝から始まった。開店三十分前というのに店頭に四、五〇人の主婦が並んだ。顔ぶれを見るとなじみの組合員ではなく、見たこともない人たちが多く、大部分が車で駆けつけている。異様な雰囲気の中で開店すると客はトイレットペーパーに殺到、一パック(四ロール)八十八円のものが約四百パックもあっという間に売り切れた。関西でのパニックを心配はしていたが、目のあたりに見て事態の重大さに驚き、井之川専務をはじめ役員はトイレットペーパー仕入れに走った。しかし手の打ち方は遅れた。……一週間後の二十七日には四百人が開店前に店頭を埋め尽くし、井之川さんがハンドマイクを持って「トイレットペーパー、洗剤はありません」と説得しても無言のまま。その日は砂糖、小麦粉まで陳列ケースから消えた(『神奈川新聞』昭和四十九年五月五日付)。 消費者団体の活動 さて、このパニック騒ぎが広がる中で、消費者団体が動き出した。十二月六日、まず横浜で県生協連合会が二千人の主婦を集めて灯油等生活物資獲得消費者大会を開き、「灯油よこせ」の石油かんデモを行うと同時に、石油元売り十二社との集団交渉で灯油の緊急出荷を実現した。つづいて、翌年一月二十六日、洗剤不足が深刻化するなかで、県生協連、横浜市消費者の会、住宅公団自治協などの共催で、「隠し洗剤追及、便乗値上げ反対」の決起集会を開いた。当日は横浜だけでなく川崎、湘南でも集会が持たれ、洗剤メーカーと交渉して緊急放出させた。これ以後、横浜を中心に労働団体とも共同して、千名規模の集会が再三開かれ、政府・自治体に生活物資の確保と物価対策を要求した。 こうしたなかで、川崎生協の九十八人の組合員と主婦連は、石油元売り十二社を相手どってヤミカルテル訴訟をおこした。つまり、公正取引委員会(以下、公取委と略す)の告発どおり、十二社は独禁法に違反して価格と販売数量のヤミカルテルを結び、消費者に大きな損害を与えたというのであった。ちなみに、公取委の発表によれば、一九七三(昭和四十八)年度に独占禁止法違反で公取委の排除勧告を受けたヤミカルテルは六十四件に達し、史上最高を記録している。 以上のような行動のほかに、県下の各地でさまざまな団体が、生活防衛のために創意に富んだユニークな運動を展開している。鎌倉では一月半ば、消費者団体をはじめ婦人、労組、商工、自治会など十九団体、三千人が、大同団結して「鎌倉消費連絡会」を結成し、大手洗剤メーカーと交渉して安定供給、値下げ、福祉施設への無料放出を約束させるなどの運動にとりくんだ。高座郡綾瀬町では自治会、婦人、消費者、労組などの諸団体が共同して「物価と暮らしを守る町民会議」を結成し、灯油の一括購入、LPガスの価格引下げ、町農協と提携した農産物の直買、不用品交換などを、町ぐるみではじめて注目を浴びた。 一方、横浜市消費者の会(会員五百人)は、「値上げには不買運動で対抗しよう」と、値上げの先鞭をつけたライオン油脂とキッコーマン醤油の全製品のボイコットを決め、他団体にも同調を呼びかけた。この運動は主婦連や地婦連のライオン油脂ボイコット運動と重なって、威力を発揮した。また藤沢では、以前から消費生活研究会(会員四百人)が、商品知識を身につけて市内商店の試買調査、価格調査を励行して、毎年選考会を開き優良店、優良店員選びを実施してきたが、これも石油パニック下では、消費者の「選ぶ権利」の行使として大きな関心を集めた。 こうした運動のなかで生まれた横浜生協の家計簿運動を紹介しよう。同生協の家計簿運動は、一九六六年以来のものだが、「たたかう家計簿」として注目を浴びた。内容が七十項目に細分され、その中には税金や公共料金、社会保障費まであって、台所のやりくりだけでなく、政府の発表する物価指数に対抗して、行政の監視やひいては主婦の物価意識の変革にも役立つといわれている。毎年数千世帯の組合員が家計簿をつけており、その中から一定数を集計して物価の変動を追跡している。それによれば、石油パニックの広がった一九七三年十二月の一か月の物価値上りは第十九表のとおりである。この「横浜方式」も、パニック下の消費者運動の強力な武器として全国的に反響をよんだ。 石油パニック以後 石油パニックは、国民を生活不安のどん底におとしいれた田中内閣の退陣によって、一応の終止符が打たれた。神奈川県議会は、早くも一九七三年十二月の通常県会で、田中内閣退陣決議を社会、公明、民社、共産の四党共同提案で可決していた。その決議の内容は、「田中内閣は大資本奉仕の列島改造、大会社の買占めの横行、物価の暴騰、公害の激増などに失敗が相次ぎ、県民に大きな悪影響を与えた。……国民の圧倒的多数が田中内閣退陣を強く求めている」(『神奈川県議会の百年』)というものであった。この決議は地方議会では、同年七月の京都に次ぐ二番目のものであった。 ところで、石油危機後の日本経済は省資源、省エネルギーを中心とする総需要抑制政策のもとに、一転して長期不況と低成長の時代に突入した。そして石油パニック下に制定された石油二法の発動で、灯油をはじめとする主な生活物資は政府の統制下におかれ、いわゆる「標準価格」が設定された第19表 1973年12月値上がり商品(円) 『神奈川新聞』昭和49年1月31日付「血のにじむ家計簿」から が、標準価格とは「高値安定」の別名にすぎなかった。こうして国民は、節約と消費抑制を強いられ、労働運動や各種住民運動も、不況と低成長という新しい状況への対応を欠き、一時的後退を余儀なくされた。しかしそうしたなかで、消費者運動だけは衰えを見せず、むしろこれからの市民運動として定着した観がある。 神奈川県の状況をみて見よう。 第二十表を見られたい。消費者団体、生活学校とも一九七四年以降着実に伸びている。消費者団体の数は現在都道府県では全国第七位である。団体別ではとくに消費者グループの増加が著しい。生活学校は学校数では七十台に達し、会員数はパニック時には五千人にふくれたが、その後はほぼ三千人台を維持している。 一方、生協はこの間に、西湘市民、けんぽく、かな川みなみの三生協が創設されて、飛躍的発展を遂げている。 このように、県内の消費者団体は石油危機以後も規模を拡大し活動を定着させている。その活動ぶりを県議会や知事への請願・陳情でみると、合成洗剤(十一件)、サッカリン(七件)、TBZ・OPP・DP(各五件)、照射食品(二件)の使用禁止など、食生活にかかわる商品の危害防止を求めたものが多い(「生活物資に係る危害の防止に関する県議会への請願・陳情」)。 それにもまして重要なことは、これらの消費者団体が横に連携して共同行動と組織的団結を強めていることであろう。生協の合同については前にもふれたが、一九七三年には神奈川県消費者の会連絡会(十六団体)、ついで七五年には神奈川県消費者団体連絡会(十七団体)という二大組織が発足している。そして、七四年以来、毎年県消費者大会を開いて、運動の総括と発展を図っている。 第20表 消費者団体の状況 第14表,第16表等から作成 「隔絶した経済力」をもつ資本に対抗して、消費者の権利を確保し、消費者被害からいのちと暮らしを守るためには、政党政派をこえたこのような団結しかないというのが、消費者運動がその経験から得た教訓であった。 四 消費者行政の展開 消費者保護基本法の成立 消費者問題に対する政府の施策は、一九六〇年代に入ってようやくはじまった。すなわち、一九六二(昭和三十七)年に、経済企画庁に国民生活向上対策審議会が設置され、同審議会に「経済の成長発展ならびに技術の革新に伴う消費生活の多様化傾向、新しい消費物資の出現、販売競争の激化などに対処し、消費者保護のためにとるべき対策の基本方向」が諮問された。 この諮問に対する答申は、一九六三年、「消費者保護に関する答申」として提出されたが、つづいて六四年には、臨時行政調査会が、「消費者行政の改革に関する意見」をまとめ、一 経済企画庁に消費者局を設置、二 消費者の意見が反映される評議会の付置、三 地方自治体に消費者行政の専管課の設置、などをもりこんだ勧告を行った。 このような経過を経て、六五年ようやく、経済企画庁に国民生活局消費者行政課が新設され、消費者行政がスタートしたのである。 しかし、消費者行政が法的に整備され、総合的な施策を展開するようになるには、一九六八年の消費者保護基本法(以下、基本法と略す)の成立をまたねばならなかった。この基本法の制定によって、消費者問題に関連のある一連の法律―食品衛生法、薬事法、電気用品取締法、計量法、家庭用品品質表示法、景品表示法の一部が改正され、また翌年には、地方自治法の一部が改正されて、その第二条で、地方公共団体の事務として消費者保護が加えられたのである。 消費者保護基本法は、国際的にはケネディ大統領が一九六三年に発表した消費者の四つの権利―一 安全を求める権利、二 知らされる権利、三 選ぶ権利、四 意見を聞いてもらう権利―を参考にして制定されたといわれるが、当初から宣言文といわれたように、違反者に対する罰則規定を欠き、法としての実効性に疑問が持たれた。これがあとで見るように、地方自治体の条例づくりに大きく影響してくる。また、同法は内容的には商品及びサービスによる直接的な危害の防止という意味での消費者保護と、消費者教育の推進を二本の柱としているが、改正された関連法律の権限を、一部を除いて都道府県に移譲しないため、その点でも実効性の稀薄なものとなっている。 しかし、このように不十分な消費者保護の制度であっても、その背景に国民の間における「ぼう大な消費者被害の集積」と、それに触発された消費者意識の高揚、消費者運動の発展があったことを忘れてはならないであろう。 神奈川県の消費者行政 国の消費者行政の展開に呼応して、神奈川県でも一九六七(昭和四十二)年六月、企画部内に消費生活課が設置され、消費者行政のスタートが切られた。そして、翌六八年四月、消費生活相談、商品テスト、消費者教育、資料(情報)提供等の事業を行う消費生活センターの制度が発足し、最初のセンターが横浜に設置された。これは東京都につづいて全国で二番目の開設であった。さらにその年から一九七一年までに、藤沢、川崎、平塚、横須賀、小田原、厚木の六か所で開設された。このほかセンターのない地域には、「かもめ号」という車の移動センターや消費者コーナーという窓口が設けられた。 県内一円にわたる消費生活センターの開設は、消費者行政の推進の上でも、また消費者運動の発展にとっても、画期的なものとなった。 もともとセンターの開設は、消費者団体の側から強く求められていたもので、それは消費者団体にとっては活動上の物的施設を確保することであり、また一般消費者にとっても苦情相談、生活相談での「かけこみ寺」の役割を果たすものであった。一方、行政側にとっても同センターは、消費者問題の実態の把握や生活相談、消費者教育の推進の上での拠点となった。とくに消費者教育の面では、消費者啓蒙のための各種宣伝物の発行、消費生活の展示会、暮らしの講座や指導者養成など、多彩な事業が実施されている。ここで巣立った主婦たちが、消費者運動のなかの草の根グループとして活躍していることはすでに述べたとおりである。 消費生活センターの活動は、その大部分が消費者保護のためのサービス(給付)行政であるが、消費者行政のもう一つの側面である企業に対する規制行政はどうであろうか。規制行政は基本法によれば、危害の防止、計量の適正化、規格・表示の適正化、公正自由な競争の確保、取引条件の規制などを目的にして、多くの関係法に則して行われているが、この面では県の施策は給付行政ほどには進んでいない。その主要な原因は、関係法令の不備と自治体への権限県内各地に消費生活センターが設立された,写真は県下4番目の平塚消費生活センター(1970年) 『県政写真ニュース』261号から 移譲がなされていないところにあるが、知事権限で可能な分野についても、消費者被害の複雑さや深刻さに適確に対応できない憾みがある。とくにその商品が、全国的規模で流通している大企業製品については、この感が深い。 石油パニックと県の対策 次に石油パニック下の県の消費者行政の問題に移ろう。物価の暴騰とモノ不足が一段と深刻化した一九七四(昭和四十九)年一月十八日、神奈川県では知事を本部長とする県民生活安定緊急対策本部を設置した。それは県庁機構の総力を挙げて、この非常事態に対処しようとするものであった。このことは、副知事を副本部長に、知事室長、総務、企画調査、民生、衛生、農政、商工、土木、建築、警察など、庁内のほとんどの部局を網羅した陣容にもあらわれている。対策本部の業務は、一 石油の安定供給確保対策の推進に関すること、二 生活物資の需要安定対策の推進に関すること、三 市町村の情報交換、連絡等に関すること、四 その他県民生活の安定に関し必要とする事項であった。そして、具体的な任務としては、パニック下に制定された「生活関連物資等の買占め及び売り惜しみに対する緊急措置に関する法律」及び「国民生活安定緊急措置法」(「生活二法」)に基づいて、違法行為に対する監視と指導にあたると共に、殺到する消費者の苦情処理と相談にこたえようというものであった。本部が発足してから解散するまでの約半年の間に、県に寄せられた苦情や相談の件数は千百三十七件にのぼった。 さて、緊急対策本部も解散し、激しかったモノ不足騒ぎもようやく収まった一九七四年十月、県は「県民生活安定対策措置条例」を制定し、施行した。これは、消費者保護条例としては北海道に次ぐ全国二番目のものであった。この条例は、国の消費者保護基本法に基づいて、総則でまず県・市町村、事業者の責務と消費者の役割を明記し、つづいて第二章で消費者保護の施策として、危害の防止、規格・表示・包装の適正化、教育の推進、意見の反映、苦情処理を掲げ、さらに国の消費者保護基本法にはない訴訟の援助の一項を加えている。 さらに第三章では、価格の安定に関する緊急対策として、価格の動向調査、供給の協力要請、特定生活関連物資の指定、立入検査、生活物資調査員の設置を規定している。この第三章では、違反者に対して行政指導、勧告、公表という制裁措置を設けている点が注目される。 総じてこの条例は、早期につくられたため、消費者保護の面よりも「生活二法」を根拠にした物価・流通対策に重点が置かれており、パニックの直後だけに生活安定緊急対策の延長としての性格が強い。 県消費生活条例の制定 石油パニックから一年後の一九七五(昭和五十)年四月、神奈川県では津田県政から長洲県政にかわった。長洲県政の消費者行政の構想と計画は、一九七八年二月に策定された「新神奈川計画」のなかに、体系的に述べられている。このなかの基本施策の一項に、「安定した消費生活の実現」という項を設けて、消費者行政の当面する課題と方向、計画を体系的にかつ詳細に述べている。 物価高騰時に買物をする主婦-横浜線大口駅付近(1974年) 日本機関紙協会神奈川県本部蔵 課題と方向では、今日の高度工業社会のもとで、消費生活が生産に左右され、消費者の地位が事業者に対してますます低下し、消費者は高度化、複雑化する商品・サービスについて、極めて無力な存在であると述べて、消費者問題発生の原因を適確に指摘し、消費者の権利を擁護し、県民生活の安定向上を図ることが行政に課せられた重大な責務であると宣言している。そして、次の三点を施策の目標(基本計画)に掲げ、整備計画についても詳論している。 一 商品、サービスに関する被害を未然に防止するとともに、被害救済のための措置を講ずる 二 消費者の権利を確保するため、消費者運動の積極的な展開を支援するとともに、消費者意向の反映につとめる 三 生活必需物資を安定的に供給するため、流通機構の改善整備をはかるとともに、不公正な取引き、不当な価格形成に対する監視、規制を強化する(『新神奈川計画』) この「新神奈川計画」の構想と計画は、一九八〇年三月に制定された「神奈川県消費生活条例」に具体化された。この新条例は、旧条例である「県民生活安定対策措置条例」にかわって、新しく制定されたものであるが、新旧条例を比べると幾つかの点について大きな相違点がある。その主なものをあげると、 第一に、条例の制定過程で旧条例では消費者の意見の反映はなかったが、新条例には県内最大の消費者団体である県消団連の意見、要望を大きく取り入れて、いわゆる住民参加で制定されたことである。この点は、「行政主導型の条例が多い中で画期的なこと」(正田彬)だといわれる。 第二には、新条例の総則に消費者の五つの権利を明文化して、施策の基本にすえたことである。その権利とは、 一 消費生活に係る物資等によって生命及び健康を侵されない権利 二 消費生活に係る物資等に適切な表示を行わせる権利 三 消費生活に係る物資等について不当な取引条件を強制されない権利 四 消費生活において被った不当な被害から速かに救済される権利 五 消費生活に必要な情報を速かに提供される権利 である。 第三には、被害の救済について消費者被害救済委員会を新たに設置して調停斡旋(二二・二三条)にあたらせるとともに、県民から知事への申出制度(二六条)を設けたことである。 第四には、「消費者の自主的行動を促進」(二八条)し、消費者運動を活発にして行政や企業への「社会的対抗力としての役割」を高めようとしている点である。 これらの点は、県民の行政参加によって、県政を「県民の共同作品」にしようという、長洲県政の政治姿勢のあらわれであろう。 ともあれ、新条例の制定を機に、神奈川県の消費者運動と消費者行政も新しい段階を迎えている。激動の予想される一九八〇年代に向かって、今後の消費者問題はどうなっていくのか、これは消費者運動と行政が、それぞれの立場でとりくまなければならない課題であろう。 むすび 「地方の時代」への模索 一 県民に根ざす県政の計画化 一九七三(昭和四十八)年に神奈川県では新総合計画を策定した。この計画の基調は、津田文吾知事の説明によると、福祉優先の観点にたち、一九八五年を目標に「人口抑制と自然保護におき、人間性の回復と自然の尊重」においていた。 県民ひとりひとりが健康で、心豊かに、生きがいのある生活をおくることができるよう、安全で快適な生活環境の確保と自然環境の保全を重視し、社会福祉の向上をはかる施策を計画のなかに盛り込んでいくうえで、人口の適正規模と産業の適正配置に関する方向をあきらかにしなければならなかったのである。周知のように、約二千四百平方㌖という全国でも指折りの狭い県域にもかかわらず、当時、実に六百十万人の県民が居住し、横浜・川崎両市を中心として、工業生産額は、全国のそれの一〇㌫をしめ、名実ともに工業県として神奈川は、日本の高度成長の一翼を担ってきた。とくに、県外からの流入人口の増加はいちじるしく、この十年間に二百万人を数えるほどであった。それだけに、おしなべて県域全体に都市化の激しい波がおしよせていたのである。 ちなみに『県統計書』によって県人口の推移をたどりなおしてみると、京浜工業地帯がその全貌をくっきりと形づくる第一次大戦後の一九二〇(大正九)年の総数は約百三十二万余人で、日中戦争前後の一九三五(昭和十)年当時が約百八十四万人となっていた。その後、漸増したが、空襲が激しくなり戦災が広がり、敗戦を迎えるころにはさすがに人口も減少したが、戦後復興から再建にかけての時期から人口は増加の一途をたどった。一九五〇(昭和二十五)年に約二百四十八万人となっていた県人口は、六〇年には約三百四十四万人を数え、この間百万人ほど増えた。しかも、その激増ぶりは目をみはるものがあり、高度成長期を経て一九七〇年になると、約五百四十七万人を数え、八〇年にはなんと六百九十二万人に達している。 このような事態のもとで、過密現象がもたらすさまざまな弊害があらわれていた。国鉄・私鉄の駅や市街地からはるかに離れた美しい山林や田畑が宅地造成のためにつぶされていくのをはじめとして、諸々の開発行為により自然や緑は失われ、交通量の増大による排気ガス・騒音などの公害現象も、従来の産業公害に重なりあうかっこうで、県民の生活を脅かしはじめていたのである。 このような実情をみさだめ、県は自然環境の保全、都市環境の整備、農林業の育成など、全般的に公共施設の充実に力をいれて生活環境の整備施策を展開しようとした。そこで、県としては、限られた開発可能な県土の適正な利用と、内山岩太郎知事時代に着手した相模川水系と、このとき進行中の酒匂川総合開発事業による同川の水資源の有限性を強く認識し、ここから県の将来構想を考えていこうとしていたのである。 津田知事は新総合計画を公表するにあたって、これは「新しい時代」にのぞむ重要な課題であると述べていた。この「新しい時代」にこめる意味あいには、おそらく、国家的規模での高度成長がもたらした日本の構造的矛盾が、地域と民衆の生活環境に投げかけた暗い影を直視しつつ、低成長下における政策転換の必要性を予想して、地域・地方から行政を組み替えていくイメージをたくしていたと思われる。計画の基調に、高度成長という急激な経済社会の発展のもとで「人間性が軽視」されがちになったことを指摘し、そのために自然の尊重と人間性の回復を根底にすえ、「福祉優先の豊かな地域社会の実現」を目標としていた。 この県政の計画化の視点と目標は、たとえ方向づけであるとしても、そこには、国家の行政から地方行政へという統治の流れを変えなければならないという諸施策の転換の思想が裏打ちされていたように思われる。この事情は、山田宗睦編『地方文化の日本史10地方の時代』での表現をもじれば、戦後を経て、高度成長期に完成したあのすべての地方を包摂した「民主政的な管理中央集権」が一つのサイクルを終え、実際に「底層部分の地方」が浮上してきた関係をものがたっていよう。いまや、地方の福祉を増進していくことをぬきにして行政機能の効果をあげ、新しい社会秩序を維持していくことも困難になってきている現実がたちあらわれたのである。 このころ、第二期目の津田県政は、他府県にさきがけて市街化調整区域の大規模開発を認可せず、ゴルフ場の新規造成もいっさい許可しないなどの原則を確立していた。また、土採取取締規制条例や、約一万余ヘクタールの郷土の森、社寺林、湖沼などを自然環境保全条例に基づいて保全地域に指定し、都市部についても近郊緑地保全区域約四千六百ヘクタールとあわせて、都市緑地保全法による緑地保全地区の指定にのりだしていた。さらに、県民の生活環境の望ましい質的水準を達成し維持していくために、自然環境の浄化能力内に汚染物質の排出量を抑制する方策をあみだそうと積極的に対処しようとしていたことも周知の事実である。 このころ、高度成長の時代も去ってさすがに産業の進出は停滞ぎみであったが、人口の流入と過度集中がつづき、宅地造成も無秩序な広がりをみせて、一九六〇年以降の十年間、県下の林野は約一万千ヘクタールも減っていた。この緑地の破壊は生活環境の悪化をもたらし、水資源の涵養にも悪影響をおよぼしつつあった。津田県政は、県内のこの現実をアクチュアルにとらえ、高校百校建設などの重要施策、自主事業を遂行していこうとしていたが、実際には厳しい財政状況のもとにおかれていた。というのは、一九七三(昭和四十八)年末の石油危機と敗戦後の一時期をのぞき、これまで例のない破壊的な物価騰貴、インフレーションのもとで、県の自主財源は伸び悩んでいたからである。 ところで、一九七五(昭和五十)年四月二十二日、津田知事は、「一党一派に偏せず保守も革新もない県政に取り組んできた。ある程度の実績は残し得たと思う」と語って知事の椅子を去っていった。ここでかわって登場したのが、革新側の推した長洲一二知事である。長洲知事は、保守係無所属のとざわ(戸沢)政方候補に約四十八万票の差をつけて当選した。 長洲知事は、『神奈川年鑑』一九七六年版などによると、選挙中には中央対決・保守対決の態度をとっていたが、知事として登庁した四月二十三日、「人間と福祉を中心に据えた行政に取り組む」と述べて、県政にたいする基本姿勢を示した。そして、知事は、高校建設、自然保護などの問題については津田県政を踏襲し、人事面についても津田体制を引き継いでいくことをあきらかにしたのである。こうして、長洲県政は、一九七六(昭和五十一)年においては前年度の「耐乏緊急対策型」予算から脱して「危機克服型」の予算編成に着手して、いくつかの重要施策を掲げた。それは、不況克服と雇用の安定、教育の先進県化、県民の福祉と健康づくり、災害と公害から県民を守ること、ということになる。これらの諸施策は、新しい神奈川創造の指標として長洲知事のえがいたプランづくりの第一歩であった。 二 「地方の時代」の発想とパラダイム 長洲県政の登場は、一般に「革新県政」の誕生であるとみなされていた。その「革新」のイメージとは何か、ここに一つのエピソードがある。長洲知事就任の二日目の一九七五年の四月二十四日、白根雄偉副知事は長洲知事を知事室におとずれて、「革新県政を一言で言っていただけませんか」と問いかけた。すると知事は、「問題の提起です」と答えたそうである。それを聞いて白根副知事は、腹のなかで「提起された問題の解決への方向づけ」と下の句をつけながら、「結構です。有難うございました」と挨拶し、これなら知事についてゆけるな、と思ったそうである。白根副知事は、このことを後年「神奈川県政の改革に携わって」(『神奈川県史研究』四七号)のなかで述べているが、やがて長洲県政のもとで構想されていく新神奈川計画の実施計画策定を推進していくプロモーターとなっていた。 この計画は、一九七五年度から策定準備作業にはいったが、その策定目標は、「新しい時代」にふさわしい新しい神奈川の創造と県民生活のビジョンを提起し将来像をえがきだそうとしたところにある。 新神奈川計画の策定をはじめとして、新しい教育・文化・福祉の創造、および県民の自治と連帯意識をうながすために、一九七六年度から実行されたスポーツ・祭り・民俗芸能大会などを盛り込んだ「かながわふるさとまつり」や、県内の芸術振興の波を盛り上げ新しい文化県の創造をめざした神奈川芸術祭、あるいは「民際外交」に積極的にとりくもうとして、はやくも渉外部内に国際交流課を新設したことは、長洲県政の神奈川の創造を求めての一つの道標であった。それは、また、地方の創造の一つの道程にほかならない。 地方の創造とは、市町村のおかれた特性に応じた主体的な地域づくりを根底にすえなければ、それは言葉に惑わされた構想にすぎなくなる。 かつて、大平内閣のもとで「都市の持つ高い生産性」と「豊かな田園の自然」を高次に結合させるという都市と農村の一体化をめざす田園都市構想がうちだされたが、この発想は地方分権を重視するものであったとはいえ、政策化への距離は遠かった。しかし、それだけにとどまらない。現に、その構想が「定住圏形成推進事業」として姿をあらわしてきたとき、中央諸官庁がバラバラに市町村に示してくるその施策要求は、一定の成果品を求める「ステレオタイプ」的なものではないかと、地域から批判の声があがったのもとうぜんである。しかも、その構想そのものが浮き沈みしていく不安定な性格をおびている。というのは、新全総時代に自治省は「広域市町村圏」をとなえ、建設省は「地方生活圏」をうちだしたことがある。また、その後、三全総を背景として、国土庁は「人間居住の総合的環境整備」をめざすというスローガンのもとで、定住圏を主張してもいた。そのうえに田園都市構想である。このように、数種類の構想が脈絡の不十分なままにだされてきているところに困惑の原因があるし、さらに、この構想は一九六〇年代の「所得倍増」、七〇年代はじめの「列島改造」論とどうつながるのか考えてみると、混乱の輪は広がるばかりである。それだけに、政権が替わればまた別の「構想」がでてくるであろうと皮肉る声があらわれていた。中央政府、あるいは中央集権的機能に支えられた機構のなかでの地方分権論は、これまでの経緯が語るように、社会の現実からの要求にもかかわらず、「魂のない」言葉の遊戯に終始してしまう恐れがある。 地域からの社会づくり・地方の創造を重視しなければならないのは、現在の一つの必然とみてよい。だからこそ、中央政府も地方づくりを無視することができなくなっている。しかし、そのためには、地元で下から地についた地域づくりを構想していく以外に手だてはない。 こうした状況のもとで、一九七八(昭和五十三)年の夏、長洲知事が「地方の時代」を提唱し、地方・地域の活性化のパラダイム(知的範型の枠組み)を提示した。この年の七月十四、十五日の二日間、県が幹事役となり横浜市、川崎市、東京都、埼玉県とともに「地方の時代」と名づけたシンポジウムを横浜国際会議場で開き、多数の学識経験者も参加して地方自治の展望をめぐって議論を積み重ねたのである。 この会議において、長洲知事は、歴史のキー・ワード(鍵になる用語)として「地方の時代」をとなえた。長洲一二「『地方の時代』を求めて」(『世界』一九七八年十月号)によると、まず、経済・政治・社会生活・文化を含めて、文明論的な意味で「地方」をとらえなおし、これからの文明社会システムで重要な価値をもつのは、「人類」や「世界」の視点とともに、「地方」「地域」の個性的な充実した発展であると述べ、「地方の時代」は今日における「射程の大きい歴史的屋望」として設定した。その背景には、これまで国民国家・市場経済・近代科学技術によって成りたってきた近代工業文明が、これらの条件の行詰りにより、今日、大きな歴史的転換の時期に到達しているという認識がはたらいている。 そこで新しい文明のモデルは、国家だけを唯一絶対のものとするのではなく、ローカル・レベルからリージョナル、そこからさらにナショナル、そしてインタナショナルの方向へと、下から重畳的に積み上げていかなければならないというのである。この新しい「地方の時代」を担っていく主体は、この時代認識をもち、自治と連帯をはかっていく市民にかかってくる。こうして長洲知事は、今後の自治体の課題は、このような主体性をそなえた市民の成熟のために、できるかぎり条件を整備し、自由な市民社会をつくりあげていく市民の事業に協力していくことであると説いていた。 「地方の時代」は、今日、多くの人びとの口にのぼり、行政の諸機関をはじめさまざまな組織や集団によって受けとめられるようになってきている。しかし、この表現に寄せるイメージは実に多様であるように思われるが、もっとも重要なことがらは、今日の時代の相がかつて経験したことがないほど人類にとって、また一個人にとっても危機含みの、しかも底深い転換期-転形期にさしかかってきている事態をふまえて、「地方の時代」が人類の平和と繁栄・人間の尊厳を保持しながら、未来を切り開いていくパラダイムとして提出されていることである。 「地方の時代」のパラダイムは、長洲知事のいう「県民初発の県政」「県民に発し、県民に帰る県政」に具体化していく発想に結びついていくことが鍵になっていた。神奈川に「自治と連帯の社会」をつくり、「生活者の心がしみ透り、脈うつ県政」を確立し、「子や孫に誇れる神奈川」をきづくという三つのスローガンを掲げてきた長洲知事は、一九七九年、各政党の推薦のもとで約二百二万五千票という圧倒的な票を獲得して当選し、二期目を迎え今日にいたっている。この間、七年にわたり、「社会計画」としての新神奈川計画をはじめ、福祉・産業・文化や環境問題についての「クリーン・アンド・グリーン作戦」と環境アセスメント条例の施行、国際交流の面での「民際外交」、教育の「騒然論議」、高年齢化社会にみあう中高年齢層の雇用開発の促進などの労働問題、情報公開制度、女性の地位向上をめざす「かながわ女性プラン」の作成と、まさに「県民初発の県政」の名にふさわしい政治の枠組みをつくりあげてきた。しかも、長洲知事が、一九八一年十二月の仕事納めの挨拶(『教養月報』三九四号)でふれているように、「福祉社会」神奈川をめざして市町村の活躍もめだってきたこと、また、文化行政の分野でも市町村の創意がみられたことが「地方の時代」四年目の一つの特徴であろう。また、「地方の時代」に「ボディ」(肉体)をあたえ、福祉の土台づくりのために総合産業の政策を最重要課題に掲げてもいる。 「地方の時代」の県政は、長洲知事もしばしば指摘するように、「自治と連帯」の精神に基づく県民の「共同作品」に結実していかなければならない。その意味で「ともしび運動を進める県民会議」「神奈川の教育を推進する県民会議」「かながわ女性会議」、あるいはさまざまな労働諸団体、住民団体が行政にたいし発言し参加する以上に、長洲知事も指摘するように、県民の自治と連帯の活動に行政から積極的に参加していくことがますます必要になってこよう。 また、「地方の時代」にとって欠くべからざることは、その施策を一本の太い綱にしめあげていくことをめざして、多角的にさまざまな経験と英知を集約していくことである。一九八〇年十一月二十七日、川崎市民プラザ会場における「地方の時代」映像祭、および十一月十、十一日の県庁、横浜国際会議場での「地方の時代シンポジウム〈地域経済〉」は、文化を支えるエートス、地域経済確立のための問題点と目標、手だてのパラダイムをあきらかにしたように思われる。そのさい、現実に問題になってくるのは、地方自治体が地域のそれぞれの特殊性をふまえ地域経済の革新の方向に沿う政策遂行能力をどう育て実行に移していくかということにかかってくる。また、技術の生産工程へのかぎりなき適用が雇用不安をかきたて、現に企業の合理化や生産ラインの自動化にともなう労働者数の激減、「マイコンシティ構想」 (川崎市)にみられるように、半導体を中心とする電子機器関連企業を機軸に産業地図が大きくぬりかえられようとしているとき、「経済の分権化」をどう制度的にかつ具体的に地域の発展に結びつけていくかということも切実な課題になってこよう。 と同時に、「自由民権百年全国集会」が一九八一年十一月二十一、二十二日の両日県民ホールで開催され、盛会をきわめたことは、日本における民主主義の原点をさぐり現状を考えるうえで、「地方の時代」の神奈川を舞台としていただけに意義深いものがあった。このように、現在から過去の諸成果を汲みあげていく姿勢をとることは、今日のような困難な時代状況にあるとき、未来の神奈川の社会と県土をどうつくりあげていくかということにかかわって、今後いっそう重要さを増してくるであろう。こういうとき、一九六七(昭和四十二)年四月に発足した神奈川県史編集事業が、その基本要綱にうたっている、「この県の歴史的発展過程を顧みて、将来本県の進むべき方向を展望」するという目的を達成しようとしていることの意義は小さくない。その成果もまた、「地方の時代」にふさわしい所産であるとして位置づけることができよう。 執筆分担一覧(掲載順・昭和五十七年二月一日現在) 大久保利謙(元立教大学教授) はじめに 金原左門(中央大学教授) 総説 第一編第一章 第三章 第二編第一章 第二章第一節 第二節 むすび 安田浩(埼玉大学助教授) 第一編第二章第一節 第二節 第四節 第五節 第六節 永野勝康(県立文化資料館職員) 第一編第二章第三節 第二編第二章第三節 第三章第四節 第三編第一章第四節 第二章第六節 斉藤秀夫(横浜市立大学講師) 第二編第三章第一節 第二節 第三節 第五節 第六節 天川晃(横浜国立大学助教授) 第三編第一章第一節 第二節 第五節 第六節 三宅明正(日本学術振興会奨励研究員) 第三編第一章第三節 第二章第三節 第四節 大畑哲(県立厚木高等学校教諭) 第三編第二章第一節 第三章第一節 第五節 宮島泉(関東学院大学講師) 第三編第二章第二節 第五節 第三章第二節 第三節 第四節 8-4 昭和電工川崎工場無機水銀の不法投棄が判明. 9-17 日本鋼管と県,横浜・川崎両市,扇島の公害規制で合意成立. 10-1 国勢調査実施(人口5,472,247人). 3-14 万国博開催(~9-13).-31 日航機よど号事件. 6-23 日米安保条約,自動延長. 1971 (昭和46) 3-1 伊勢原に市制施行.-12 県,公害防止条例公布. 4-11 知事・県議会議員選挙(4-23 津田文吾,知事に就任). 11-1 海老名・座間に市制施行. 7-1 環境庁設置. 8-15 ニクソン大統領,ドル防衛策発表. 12-19 円切上げ決定(1ドル308円). 1972 (〃47) 3-31 横浜市電廃止. 4-1 川崎市,政令指定都市に昇格.-南足柄に市制施行. 8-5 ベトナム向け米軍戦車輸送阻止のため革新団体座り込み. 12-16 横浜市営地下鉄開通. 2-3 札幌オリンピック開催. 2-19 連合赤軍・浅間山荘事件. 5-15 沖縄施政権返還. 6-11 田中通産相,日本列島改造論発表. 9-25 田中首相訪中(9-29日中共同声明調印). 1973 (〃48) 4-9 根岸線全線開通.-17 県新総合計画・基本計画決定. 6-26 東京湾岸自治体公害対策会議,川崎市で開催. 9-5 県大気汚染監視センター完成. 10-5 米空母ミッドウェー,横須賀入港. 8-8 金大中事件. 11-2 買いだめ騒ぎ発生. 12-21 国民生活安定緊急措置法成立. 1974 (〃49) 1-5 県民生活安定緊急対策本部発足. 3-14 県,横浜市の金沢埋立事業に免許. 5-17 酒匂ダム起工式. 11-26 金脈問題で田中内閣総辞職. 1975 (〃50) 1-17 県民ホール開館. 4-13 知事・県議会議員選挙(4-23 長洲一二,知事に就任). 7-7 県財政緊急対策本部設置. 10-1 国勢調査実施(人口6,397,748人). 11-22 鎌倉で高校教育問題を考える県民討論会開催(以後横浜等4か所で開催). 4-30 サイゴン陥落,ベトナム戦争終わる. 7-19 沖縄海洋博開催. 12-24 財政特例法成立(赤字国債発行決定). 10-5 県防災会議条例・県災害対策本部条例公布. 布(防衛施設庁を新設). 1963 (昭和38) 1-1 秦野市・西秦野町合併. 3-3 日韓会談粉砕・原潜寄港反対横須賀大集会.-13 根岸湾第一期埋立工事完工式. 4-17 知事・県議会議員選挙(4-27 5選の内山岩太郎,知事に就任). 11-9 国鉄鶴見事故,161人死亡. 8-14 核実験停止条約に調印. 11-9 三池三川鉱でガス爆発(死者458人). 1964 (〃39) 3-31 県,公害の防止に関する条例公布. 6-11 昭和電工川崎工場で爆発事故,死者18人. 8-8 大和・藤沢・綾瀬・座間・海老名の2市3町基地移転の要望書を提出. 9-15 東京オリンピック選手村分村,大磯・相模湖両町に開設. 11-4 財団法人鎌倉風致保存会結成. 12-1 横浜駅西口地下街開業. 4-1 日本,IMF8条国に移行.-28 OECDに加盟. 10-1 新幹線開業.-10 東京オリンピック開催. 1965 (〃40) 3-25 県立丹沢大山自然公園,国定公園に指定.-30 「県の鳥」カモメ制定. 4-10 城山ダム完成,津久井湖誕生. 10-1 国勢調査実施(人口4,430,743人).-20 県,「第3次総合開発計画」決定. 12-18 第三京浜道路開通式挙行. 6-22 日韓基本条約等調印. 11-19 閣議,財政処理のため国債発行を決定(戦後初の赤字国債). 1966 (〃41) 5-17 県新庁舎落成式. -24 「県の木」イチョウ制定. 7-4 新東京国際空港建設地を成田に決定. 12-27 衆議院「黒い霧解散」. 1967 (〃42) 3-20 県立博物館開館式. 4-15 知事・県議会議員選挙(4-23 津田文吾,知事に就任). 6-10 横浜新貨物線反対同盟連合協議会結成. 8-3 公害対策基本法公布. 1968 (〃43) 5-8 県消費生活センター開設. 8- 県人口500万,横浜市人口200万人突破. 5-8 厚生省,イタイイタイ病を公害病と認定. 6-26 小笠原諸島返還式. 12-10 府中で3億円事件. 1969 (〃44) 4-12 横浜人材銀行開設. 5-1 県内広域水道企業団発足. 9-25 根岸競馬場返還決定. 11-22 佐藤・ニクソン会談,日米共同声明発表(沖縄’72年返還決定). 1970 (〃45) 5-26 県立こども医療センター開業. 2-3 核拡散防止条約調印. 2-1 厚木に市制施行. 4-23 知事・県議会議員選挙(4-27 3選の内山岩太郎,知事に就任). 9-22 県下で第10回国体開催. 10-1 国勢調査実施(人口2,919,497人). 11-25 県,駐留軍並びに特需産業関係離職者対策本部設置. 8-6 初の原水爆禁止世界大会. 11-15 自由・日本民主両党合同,自由民主党結成(保守合同成る). 1956 (昭和31) 4-2 衆議院商工委員ら,川崎でばい煙実態調査実施. 5-5 横浜港センター・ピア接収解除. 9-30 県下町村合併一段落,13市7郡24町2村となる. 10-19 モスクワで日ソ国交回復に関する共同宣言. 12-18 国連総会,日本の国連加盟案を全会一致で可決. 1957 (〃32) 3-1 川崎臨海工業地帯造成事業起工式. 7-8 横須賀市長選挙で革新派の長野正義候補当選. 8-9 県,原爆被災者に初の医療補償交付.-16 米軍撤退による解雇第1号(武山キャンプで49人解雇). 8-27 原子力研究所,原子炉初点火. 10-1 日本,国連安保理事会非常任理事国に当選. 1958 (〃33) 4-21 扇島埋立事業起工式. 5-1 横浜開港百年祭(5-10記念式典). 9-27 狩野川台風来襲. 10-31 川崎臨海工業地帯造成事業第1区完成(翌年,第2・第3工区完成). 12-9 勤評神奈川方式実施. 10-4 日米安保改定交渉東京で開始. 11-22 警職法成立. 1959 (〃34) 1-14 国鉄根岸線建設工事着手. 2-1 大和に市制施行.-21 根岸湾埋立工事起工式. 3-24 県,「土地及び水資源に関する総合計画」決定. 4-23 知事・県議会議員選挙(4-27 4選の内山岩太郎,知事に就任). 4-15 最低賃金法・国民年金法公布. 9-26 伊勢湾台風襲来. 1960 (〃35) 1-14 安保県民会議の第11次統一行動・県民大会. 4-16 城ケ島大橋開通. 10-1 国勢調査実施(人口3,443,176人). 1-5 閣議,貿易為替自由化促進閣僚会議設置決定. 6-23 新安保条約批准書交換,発効. 1961 (〃36) 4-1 扇島埋立事業第1区完成. 9-1 日本鋼管京浜工場の「赤い煙」住民に被害. 11-11 城山ダム建設工事はじまる. 6-12 農業基本法公布. 1962 (〃37) 2-15 相模川総合開発事業総合起工式. 5-1 内陸工業地帯造成事業着手. 2-24 憲法調査会初公聴会. 5-15防衛庁設置法改正公 1949 (昭和24) 3- 県立保健所条例公布. 4- 県下各市町村に社会教育委員設置. 8-31 キティ台風来襲. 9-26 県教育委員会,成人学校開設. 10- 失業対策事業はじまる. 11-4 県青少年問題協議会発足. 4-4 団体等規正令公布.-23GHQ,1ドル360円の単一為替レート設定. 7-5 下山事件. 8-17 松川事件.-26 シャウプ勧告(税制改革等). 1950 (〃25) 2- 「神奈川ニュース第1号」封切. 4-10 「県民歌」制定.-県婦人団体連絡協議会発足. 7-1 逗子町,横須賀市から分離. 9-15 財団法人神奈川県住宅公社発足. 10-1 国勢調査実施(人口2,487,665人).-21 横浜国際港都建設法公布. 12-16 県総合開発審議会設置. 7-24 〈レッドパージ〉はじまる. 8-10 警察予備隊令公布.この年,朝鮮戦争により特需景気おこる. 1951 (〃26) 1-23 「県の花」ヤマユリ制定. 4-24 桜木町事件(桜木町駅で国電炎上).-30 知事・県議会議員選挙(5-3 再選の内山岩太郎,知事に就任). 6-12 県人事委員会設置. 11-17 鎌倉に県立近代美術館開館. 9-8 対日平和条約・日米安全保障条約調印. 1952 (〃27) 2-15 横浜港大桟橋の接収解除. 5-10 第1回県下戦没者慰霊祭,横浜市体育館で挙行. 10-1 県企業庁発足. 11-1 県下全市町村に教育委員会発足. 4-28 対日平和条約・日米安全保障条約発効. 5-1 メーデー事件. 7-21 破壊活動防止法公布. 1953 (〃28) 1-5 昭和電工川崎労組スト. 3-28 県文化財保護条例公布. 5-23 日産自動車争議はじまる. 12-22 文化財保護条例により第1回県重要文化財指定. 2-28 吉田首相,衆議院予算委員会で暴言(3-14 衆議院解散). 10-2 池田・ロバートソン会談. 1954 (〃29) 1-1 箱根・元箱根・芦野湯が合併し,箱根町となる(町村合併促進法による合併第1号). 4-5 開国百年祭開催.-15 逗子に市制施行. 7-1 新警察法により神奈川県警察発足.-29 米軍,駐留軍労務者の大量整理を声明. 11-3 県立図書館・音楽堂落成.-20 相模原に市制施行. 3-1 第五福龍丸,ビキニのアメリカ水爆実験により被災.-8 アメリカと相互防衛援助協定〈MSA協定〉. 6-8 改正警察法公布.-9防衛庁設置法・自衛隊法公布. 1955 (〃30) 1-1 三浦・秦野に市制施行. 6-7 第1回日本母親大会. 4-18 米軍機,横浜・川崎・横須賀を空襲(日本本土初空襲). 7-1 県下に7地方事務所設置. 6-5 ミッドウェー海戦 1943 (昭和18) 1-15 県,中等学校入学者選抜方法改正. 3-15 横浜・川崎両市,防空訓練実施. 10-20 (~11-15)県食糧増産指導本部,援農学徒隊約4万4千名を動員. 2-1 日本軍,ガダルカナル島撤退開始. 12-1 第1回学徒兵入隊(学徒出陣). 1944 (〃19) 1-14 横浜・川崎両市の住民に疎開命令. -29 『中央公論』『改造』の編集者検挙(横浜事件). 7-27 県,横浜・横須賀・川崎3市の学童集団疎開実施細目発表. 8-1 藤原孝夫,知事に就任. 6-19 マリアナ沖海戦. 7-18 東条内閣総辞職. 10-24 レイテ沖海戦. 1945 (〃20) 4-15 横浜・川崎空襲. 5-29 横浜大空襲. 8-18 県,進駐軍受入本部設置.-28 連合軍先遣部隊,厚木飛行場に到着.-30 連合軍最高指令官マッカーサー,厚木に到着. 12-14 東芝堀川町工場で労働組合結成. 8-6 米軍,広島に原子爆弾投下.-9 長崎にも投下.-15ポツダム宣言受諾,敗戦. 9-2 降伏文書に調印. 10-11 GHQ,5大改革指令. 12-17 衆議院議員選挙法改正公布(婦人参政権認める). 1946 (〃21) 1-25 内山岩太郎,知事に就任. 4-30 米よこせデモ,県庁陳情. 8- 県,食糧調整委員会を設置. 9- 戦災都市(横浜・川崎・平塚・小田原),復興事業に着手. 11- 児童相談所を横浜・横須賀・川崎3市に設置. 1-4 GHQ,軍国主義者の公職追放指令. 2-17 金融緊急措置令(新円を発行). 5-3 極東国際軍事裁判開廷.-19 食糧メーデー. 11-3 日本国憲法公布. 1947 (〃22) 3-12 渡辺広,知事に就任. 4-5 第1回知事・市町村長の公選実施(4-12内山岩太郎,初代公選知事に就任). 6-14 相模ダム完成. 10-1 臨時国勢調査実施(人口2,218,120人).茅ケ崎に市制施行. 1-31 マッカーサー,2・1ゼネストの中止を命令. 4-1 6・3制実施.-14 独占禁止法公布-17 地方自治法公布. 5-3 日本国憲法施行. 12-17 警察法公布. 1948 (〃23) 3-7 新警察制度の発足に伴い県下に26自治体警察創設,県警察部廃止.公安委員会制度実施. 9-15 アイオン台風来襲. 10-5 第1回県教育委員選挙. 11-1 県・横浜市の教育委員会発足.-3「県章」制定. 6-23 昭和電工事件. 7-31 政令201号(公務員の団体交渉権・罷業権を否認). 12-18 GHQ,経済安定9原則発表. 6-28 横山助成,知事に就任. 7-10 「赤旗」特別号,’32年テーゼ掲載. 1933 (昭和8) 8-9 第1回関東地方防空大演習実施. 3-27 日本,国際連盟脱退.-29 米穀統制法公布. 1934 (〃9) 9- 川崎市の疑獄事件,横浜市に飛火,11月県土木部に波及. 10- 県国民精神文化講習所規定制定. 4-17 帝人事件. 12-29 ワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告. 1935 (〃10) 1-15 石田馨,知事に就任. 3-26 (~6-30)復興記念横浜大博覧会(山下公園). 10-31 三菱重工業,横浜船渠を合併. 2-18 美濃部達吉の天皇機関説批判される. 8-3 国体明徴を声明. 1936 (〃11) 3-13 半井清,知事に就任. 5-12 横浜港大桟橋完成. 10-1 久良岐郡郡名廃止. 2-26 2・26事件. 5-28 思想犯保護観察法公布. 1937 (〃12) 4-2 京浜現業員会結成. 11-2 京浜工業地帯造成事業起工式. 12-15 県下の人民戦線関係者19名,検挙(第1次人民戦線事件). 6-4 第1次近衛文麿内閣成立. 7-7 蘆溝橋で日中両軍衝突 12-13 日本軍,南京を占領し,大虐殺事件をおこす.-15 第1次人民戦線事件. 1938 (〃13) 4-29 思想犯保護団体湘風会,県下の保護観察者を掌握. 10-1 橘樹郡郡名廃止.-12 浦賀船渠で県下初の産業報国会設立.-28 県内各地で武漢三鎮陥落祝賀会. 12-23 大村清一,知事に就任. 4-1 国家総動員法公布.-6電力管理法等公布(電力国家管理実現). 10-27 日本軍,武漢三鎮を占領. 1939 (〃14) 4-1 都筑郡郡名廃止. 9-5 飯沼一省,知事に就任. 11-3 鎌倉に市制施行. 5-12 ノモンハン事件. 7-8 国民徴用令公布. 9-3 第2次世界大戦勃発. 1940 (〃15) 4-9 松村光磨,知事に就任. 5-2 県,国民精神総動員実施要綱通牒. 10-1 藤沢に市制施行.-11 横浜港沖で紀元2600年記念特別観艦式. 12-13 横浜貿易新報社と横浜新報社合併,神奈川県新聞社となる(『神奈川県新聞』発行).-20 小田原に市制施行. 7-22 第2次近衛文麿内閣成立.-27 大本営政府連絡会議,武力行使を含む南進政策を決定. 9-27 日独伊3国同盟調印. 10-12 大政翼賛会発会式. 1941 (〃16) 3-31 フェリス和英女子校,横浜山手女学院と改称. 6-10~14 大政翼賛会神奈川県支部第1回協力会議. 4-13 日ソ中立条約調印. 10-18 東条英機内閣成立. 12-8 日本軍,ハワイ真珠湾を空襲. 1942 (〃17) 1-9 近藤壌太郎,知事に就任. 4-30 翼賛選挙. の自警団等により各地で朝鮮人殺害事件発生.-3 神奈川県に戒厳令適用. 11-19 戒厳令解除 11-10 国民精神作興に関する詔書発布. 1924 (大正13) 6-13 横浜市電共和会結成.-24 清野長太郎,知事に就任. 7-1 川崎に市制施行. 8-17 横浜合同労働組合結成,総同盟に加盟. 1-10 第2次護憲運動. 12-13 婦人参政権獲得期成同盟会結成(1925.4 婦選獲得同盟と改称). 1925 (〃14) 9-16 堀切善次郎,知事に就任. 10- 横浜労働組合協議会結成. 11-19 富士紡川崎工場争議. 1-20 日ソ基本条約調印. 4-22 治安維持法公布. 5-5 衆議院議員選挙法改正公布(男子普通選挙実現). 1926 (大正15昭和1) 3-7 総同盟神奈川連合会結成. 6- 青年訓練所,県下に一斉設置. 7-1 郡長・郡役所廃止. 9-28 池田宏,知事に就任. 3-5 労働農民党結成. 12-25 大正天皇没,摂政裕仁親王践祚,昭和と改元. 1927 (昭和2) 5-20 日本農民組合総同盟神奈川県連合会結成. 7- 神奈川県連合女子青年会結成. 10-1 横浜市に区制施行. 3-15 金融恐慌はじまる. 4-17 若槻内閣総辞職. 1928 (〃3) 1- 県,社会委員設置奨励規定を訓令. 6-10 普選施行後初の県会議員選挙を実施. 11-1 県庁舎新築落成式. 2-20 最初の普通選挙. 6-4 張作霖爆死事件.-29治安維持法改正公布. 1929 (〃4) 3-5 横浜市電ストライキ. 7-5 山県治郎,知事に就任. 9-17 県,教化総動員実施に関する告諭. 11-25 横浜市保土ケ谷天王町家賃値下期成同盟会,地主代表と値下げ覚書をとりかわす. 7-1 改正工場法施行,婦人・少年の深夜業禁止.-2田中内閣総辞職,浜口雄幸内閣成立. 10-24 世界恐慌はじまる. 1930 (〃5) 7-24 全国大衆党横浜支部結成. 4-22 ロンドン海軍軍縮条約調印. 11-14 浜口首相狙撃される. 1931 (〃6) 6-15 「馬入ピオニール」結成(プロレタリア教育運動の影響). 10-8 日本教育労働者労働組合神奈川支部員処分さる. 12-28 遠藤柳作,知事に就任. 1-26 日本農民組合(日農)結成. 9-18 満州事変はじまる. 12-13 犬養毅内閣成立. 1932 (〃7) 3-13 横浜市電,待遇改悪反対で総罷業. 4-1 平塚に市制施行. 5-6 横浜生糸市場暴落. 3-1 満州国,建国宣言. 5-15 5・15事件(5-16 内閣総辞職). 年表 本年表は,1917~1975年までの事項を県内と国内に区分して収めた。 西暦 (年号) 県内 国内 1917 (大正6) 7-1 開港記念横浜会館開館式. 11-14 浅野造船所職工6千人,新造船慰労金問題で紛争. 7-20 閣議,中国段祺瑞政権財政援助の方針を決定. 1918 (〃7) 3-1 野菜の暴騰に対し,横浜市で10日間の廉売を実施. 7-19 米価高騰につき,県は在米調査. 8-14 県・市共同で,外米の廉売を開始.-15 横浜・横須賀で米の廉売を要求する市民が公園などに集合.-16 保土ケ谷曹達保土ケ谷工場,ばい煙に悩む被害住民が焼打ち. 10-30 横浜市議会,公設市場設置計画案を可決. 11-12 県下各地で戦勝祝賀行事. 8-2 政府,シベリア出兵を宣言.-3 富山県下に米騒動おきる(以後全国に波及). 9-21 寺内内閣総辞職.-29原内閣成立. 11-11 第1次世界大戦終わる. 1919 (〃8) 1- 横浜市に慈救課発足(のちに社会課と改称). 4-18 井上孝哉,知事に就任. 8- 横浜市会,市営住宅建設議案可決. 10-15・16 県,民力涵養大会開催. 1-18 パリ講和会議開催. 3-1 朝鮮で3・1独立運動. 5-23 衆議院議員選挙法改正(3円以上の納税者に選挙権,小選挙区制). 1920 (〃9) 2-8 横須賀海軍工廠の労働者,普選講演会を開催.-23 憲政会,横浜市で「普通選挙促進演説会」開催. 3-27 (~4-5)横浜市の沖仲仕,賃上げ・待遇改善を要求し大争議. 5-1 横浜市で県初のメーデー. 10-18 知事,地方行政改革訓示. 2-11 東京で111団体,数万人の普選大示威行進. 5-2 東京上野公園で,日本最初のメーデー(2日が日曜のため). 1921 (〃10) 5-17 日本海員組合横浜支部発会. 8-31 横浜造船工組合結成. 11-22 横浜船渠,造船工組合抑圧のため266名を解雇. 10-3 大日本労働総同盟友愛会10周年大会,日本労働総同盟と改称. 11-4 原首相,東京駅頭で暗殺される.-13高橋内閣成立. 1922 (〃11) 2-17 憲政派・同志倶楽部により「綱紀粛正普選断行演説会」開催.-19 横浜で普選断行市民大会.-27(~3-17) 横浜船渠争議. 10-16 安河内麻吉,知事に就任. 2-6 ワシントン会議で海軍軍縮条約調印. 6-24 シベリア派遣軍撤退. 7-15 日本共産党,非合法に結成. 1923 (〃12) 9-1 関東大震災,県下全域に被害.県下 1-27 婦人参政同盟結成. 現行市町村別旧村一覧(昭和57年2月1日現在) (注) 『新編相模国風土記稿』,『新編武蔵風土記稿』,『旧高旧領取調帳』によった。 年号一覧表 (注) 1 数字は西暦年代による。2 継続年の末年は改元の年を含めてある。 3 太枠は本巻が主として対象とする時期を示す。 あとがき 神奈川県史の構成は、次のとおり、資料編・通史編・各論編・別編の合計三十六巻(三十八冊)である。 -資料編- 1古代・中世(1)古代~建治 2古代・中世(2)弘安~鎌倉末 3古代・中世(3上)建武~永享 3古代・中世(3下)嘉吉~天正 4近世(1)藩領1 5近世(2)藩領2 6近世(3)幕領1 7近世(4)幕領2 8近世(5上)旗本領・寺社領1 8近世(5下)旗本領・寺社領2 9近世(6)交通・産業 10近世(7)海防・開国 11近代・現代(1)政治・行政1 12近代・現代(2)政治・行政2 13近代・現代(3)社会 14近代・現代(4)文化 15近代・現代(5)渉外 16近代・現代(6)財政・金融 17近代・現代(7)近代の生産 18近代・現代(8)近代の流通 19近代・現代(9)現代の経済 20考古資料 21統計 -通史編- 1原始・古代・中世 2近世(1) 3近世(2) 4近代・現代(1)政治・行政1 5近代・現代(2)政治・行政2 6近代・現代(3)産業・経済1 7近代・現代(4)産業・経済2 -各論編- 1政治・行政 2産業・経済 3文化 4自然 5民俗 -別編- 1人物 2資料所在目録 3年表 本巻は、このうち、通史編の第五巻近代・現代(2)政治・行政2である。 本巻の発行にあたっては、竹内理三総括監修者のもとに、監修・編集には、大久保利謙主任執筆委員、編集・執筆には、金原左門執筆委員が当たられ、以上の委員のほか安田浩・永野勝康・斉藤秀夫・天川晃・三宅明正・大畑哲・宮島泉の諸氏に執筆をお願いした。なお、巻末の年表については宮城万里子氏の協力を得た。以上の方々に対し、ここに心からお礼を申し上げる次第である。 本巻には、すでに発行した神奈川県史の各資料編に収録した資料はもとより、これまで県史編集室で長年にわたって調査・収集してきた多くの資料を利用し、さらに新たに提供していただいた資料を利用させていただき、また、貴重な図版の提供を多数受け、収録させていただいた。これら関係各位の御協力に対して感謝申し上げたい。 なお、部落差別問題(同和問題)についての本県の基本方針は次のとおりであり、本県史の編集もこの方針に沿って編集したものであることを付言したい。 同和問題は、日本の歴史の過程で人為的につくられたものである。江戸幕府は、封建的身分制度として、士・農・工・商とさらにその下の身分をつくった。このような身分差別に基づいて日本国民の一部の人びとが社会的、経済的、文化的に低い状態におかれ現代の社会でも著しく基本的人権が侵害されている。しかし、世間の一部の人びとの間では、同和問題は過去の問題であって、今日の民主化、近代化が進んだわが国にはもはや存在しないという考え方があるが、同和問題は結婚差別などに見られるように厳然たる事実として存在し、日本国民のだれにも等しく保障されている市民的権利と自由が、完全に保障されていないという最も深刻にして重大な社会問題となっている。 この問題の解決をめざして、県では「これを未解決のまま放置しておくことは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ行政の責任であって、同時に国民的課題である。」との基本的認識のもとに、同和対策を、新神奈川計画に盛り込み、県の重要施策として位置づけ、関係市町と協力し、各種の事業を行っているところである。 昭和五十七年三月 神奈川県県民部県史編集室長 主な関係者名簿 神奈川県史編集懇談会会員(順不同)昭和五十七年二月一日現在 長洲一二 神奈川県知事(会長) 石井孝 津田塾大学教授 上野豊 神奈川県商工会議所連合会会長 小串靖夫 神奈川県農協中央会・信連・経済連・共済連会長 清水末雄 神奈川新聞社会長 高村象平 慶応義塾大学名誉教授 永田衡吉 芸能史家 脇村義太郎 東京大学名誉教授 斎藤文夫 神奈川県議会議長 中井一郎 神奈川県市長会会長 柳川賢二 神奈川県町村会会長 神奈川県史編集委員会委員(順不同)昭和五十七年二月一日現在 委員長 知事 長洲一二 副委員長 副知事 八木敏行 副委員長 県史総括監修者兼主任執筆委員 竹内理三 委員 県史主任執筆委員 大久保利謙 〃 〃 児玉幸多 〃 〃 安藤良雄 〃 県総務部長 宮森進 〃 県県民部長 大竹達雄 〃 県教育長 阿部治夫 〃 県立図書館長 堀池慶一 〃 県立川崎図書館長 加藤仁 〃 県立博物館長 戸栗栄次 〃 県県民部参事兼県史編集室長 島田昭一郎 顧問 (東京大学名誉教授) 坂本太郎 神奈川県史執筆委員(五十音順) 昭和五十七年二月一日現在 原始・古代及び中世 赤星直忠 元県文化財保護審議会委員 岡本勇 県文化財保護審議会委員 ○竹内理三 元東京大学教授(県史総括監修者) 貫達人 青山学院大学教授 百瀬今朝雄 東京大学教授 近世 青木美智男 日本福祉大学教授 川名登 千葉経済短期大学教授 神崎彰利 明治大学講師 木村礎 明治大学教授 ○児玉幸多 学習院大学名誉教授 近代及び現代(政治・社会・文化担当) 今井庄次 東京外国語大学教授 江村栄一 法政大学教授 ○大久保利謙 元立教大学教授 金原左門 中央大学教授 山口修 聖心女子大学教授 近代及び現代(産業・経済担当) ○安藤良雄 成城大学学長 腰原久雄 横浜国立大学助教授 寺谷武明 横浜市立大学教授 丹羽邦男 神奈川大学教授 林健久 東京大学教授 三和良一 青山学院大学教授 山本弘文 法政大学教授 ○印は、各時代担当の県史主任執筆委員を示す。 神奈川県史編集参与(五十音順) 昭和五十七年二月一日現在 秋本益利 横浜市立大学教授 浅香幸雄 北陸工業専門学校名誉校長 大岡実 日本大学教授 大藤時彦 成城大学名誉教授 小出義治 神奈川歯科大学助教授 酒井恒 東京家政学院大学教授 佐野大和 国学院大学教授 玉村竹二 元東京大学教授 辻達也 横浜市立大学教授 長倉保 神奈川大学教授 服部一馬 横浜市立大学教授 藤田経世 跡見学園女子大学教授 本阿弥宗景 元県文化財保護審議会委員 見上敬三 横浜国立大学教授 三上次男 青山学院大学教授 宮脇昭 横浜国立大学教授 森栄一 元県文化財保護審議会委員 山中裕 東京大学教授 吉川逸治 東京大学名誉教授 神奈川県史通史編5近代・現代(2) 第32回発行 昭和57年3月10日印刷 昭和57年3月25日発行 非売品 編集 神奈川県県民部県史編集室 発行 神奈川県 横浜市中区日本大通り1 印刷 大日本印刷株式会社 東京都新宿区市谷加賀町1丁目12番地