神奈川県 神奈川県の歴史 昭和四十七年(一九七二)アメリカ資源探査衛星アーツ一号から撮影の神奈川県 神奈川新聞社提供 縄文・弥生・古墳の三時代の住居址が見られる三殿台遺跡 横浜市三殿台考古館蔵 綾瀬市宮久保遺跡出土の納税木簡と発堀場所 神奈川県立埋蔵文化財センター提供 銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏) 鎌倉市長谷 高徳院蔵 北条貞顕の墓から出土の青磁壺 横浜市金沢区 称名寺蔵 永享6年(1434)足利持氏血書願文 鎌倉市雪ノ下 鶴岡八幡宮蔵 明暦(一六五七)以前の東海道小田原城下町の図 京都市 醍醐寺三宝院蔵 神仏御影降臨之景況 藤沢市 堀内久男氏蔵 江戸時代末期の農村の様子を描いた四季農耕図 横浜開港資料館蔵(新川家資料) 幕府の反対を退け安政元年(1854)ペリー提督横浜上陸の図 保谷市 児玉幸多氏蔵 安政4年(1857)箱根を越える米国官吏江府行装の図 アメリカ ピーボディ博物館蔵 明治十六年(一八八三)ころの横須賀造船所 神奈川県立文化資料館蔵 横浜海岸鉄道蒸気車図(明治初年) 神奈川県立博物館蔵 開港当初の横浜を鳥瞰した御開港横浜大絵図 神奈川県立博物館蔵 大磯海岸で海水浴をする歌舞伎役者 大磯町役場蔵 大正12年(1923)関東大震災で焦土と化した横浜市街 『大震災写真画報』から 戦災の焼跡を片づける横浜市民(本町4丁目付近) 『マッカーサーの見た焼跡』から 昭和48年(1973)重化学工業地帯の工場群(川崎市川崎区白石町・扇町・南渡田町付近) 酒匂溪谷にかかる東名高速道路 都市化が進む相模野台地(海老名市東部と綾瀬市付近) 神奈川新聞社提供 一大臨海工業地へ帯と成長した埋立地 神奈川新聞社提供 序 私たちのこの県域に、人跡が記されてから、およそ三万年になるといわれております。 私は、県内のすみずみに足を運んでおりますが、その度に、そこに刻まれている私たちの祖先のすばらしい営みに驚き、そして、これを誇りに感じております。 古代から中世に至る一大変革は、申すまでもなく、相模と武蔵の両国の武士団を中心として、鎌倉を舞台に繰り広げられました。さらにその後、鎖国三百年のねむりからさめて、新しく世界に門戸を開いたのは横浜でした。このような過去を踏まえ、すぐれた伝統を未来へ伝えることは、私たちに課された責務だと考えております。 神奈川県史の編集は、昭和四十二年から手がけ、すでに、通史編・資料編等三十六巻、三十八冊の完成をみています。本巻は、その総集編でもあり、神奈川三万年の起伏に富んだ歴史を概観したものです。神奈川県史三十八冊とあわせ御利用いただき、神奈川の未来を展望する手がかりにしていただければ幸いです。 本巻を御執筆いただいた前神奈川県史総括監修者竹内理三氏の御努力と、この編集に御協力をいただいた前神奈川県史主任執筆委員児玉幸多氏・大久保利謙氏・安藤良雄氏に心からお礼申し上げます。 昭和五十九年十二月 神奈川県知事 長洲一二 目次 序 はじめに 原始・古代 一 人間の痕跡 ㈠ 最古の人跡 二万年前の人跡(三) 一万年以上つづいた先土器の時代(六) 土器と弓矢の出現(七) 竪穴住居の時代(九) 集落の発展(一〇) ㈡ 日本人の原点 稲と鉄の伝播と弥生文化(一二) 定住集落の発生(一四) ㈢ 毛人国の成立 集落が小国を形成する(一七) 二 大化の改新と相武 ㈠ 杖刀人の首 杖刀人の首(二〇) 国造と屯倉(二一) ㈡ 大化改新 東国に始まる新体制(二三) 白村江の敗戦と防人(二六) ㈢ 律令制下の相武 中央支配の体制(二九) 中央に集中する官道(三〇) 相模の古代物産(三一) 文化の伝播(三五) 三 中世の夜明け ㈠ 僦馬と騎馬の風土 僦馬の党(三九) 内乱と相武(四〇) 平忠常の乱と相武(四二) 荘園と武士(四四) 公領と武士(四七) 源義朝父子の相武経営(四九) 京洛に戦う相武の武士(五〇) 中世 一 武家の府鎌倉 ㈠ 鎌倉殿の誕生 頼朝鎌倉に入る(五三) 鎌倉幕府の成立(五五) 鎌倉街道の整備(五六) 鎌倉の町造り(五九) ㈡ 栄える鎌倉文化 京下りの文化(六二) 仏教文化(六四) ㈢ 相模に消え去る武士たち 相模武士の風土(六九) 相模に消え去る武士たち(七二) 二 戦乱の世 ㈠ 鎌倉府の成立 足利尊氏鎌倉に叛す(七六) 足利直義鎌倉に死す(七八) 鎌倉府の成立(八〇) 関東公方の武断的支配と管領上杉氏(八一) 関東公方将軍と水火の対決(八二) 公方も管領も鎌倉を去る(八五) ㈡ 小田原北条氏の興亡 伊勢宗瑞小田原城を攻略(八七) 小田原北条氏東国に覇を制す(八九) 小田原北条氏の民政(九一) 小田原衆所領役帳(九三) 離合常なき相甲越駿(九五) 小田原北条氏亡びる(九六) 近世 一 幕藩体制下の相武 ㈠ 江戸に幕府がひらかれる 戦乱治まる(九九)徳川家康江戸入城と相武(一〇〇)家臣団の配置と直轄領(一〇一)農村の再編成(一〇二)交通路と関所が整備される(一〇四) ㈡ 小田原藩の推移 藩主の交替(一〇九) 諸藩領の成立と小藩の創立(一一二) 増加する旗本領(一一五) ㈢ 幕藩体制下の村方と町方 法人化した村(一二〇) 新田村の造成(一二一) 町場・宿場・市場(一二四) 村方・町方の文化(一二七) 社寺参詣と庶民信仰(一三〇) ㈣ 幕藩体制の破綻 周期的に襲う地震と天災(一三三) 封建財政の破綻(一三六) 近代 一 近代化の足音 ㈠ 開国の舞台 海防問題に苦しめられる(一四一) 日米和親条約は横浜で締結(一四三) 神奈川奉行と居留地(一四六) ㈡ 神奈川県の成立 貿易繁昌の裏側(一四七) 幕府倒壊と相武の旗本たち(一五〇) 他県に先立つ区会と県会(一五四) ㈢ 文明開化の窓ミナト横浜 横浜に外国人が増える(一五八) 文明開化横浜に上陸(一五九) 居留地からの文明(一六一) キリスト教伝道の基地(一六二) 県下にひろがる開化の風物詩(一六五) ㈣ 自由民権運動の高潮 国会開設運動と民権結社(一六六) 政党への参加(一七〇) 松方デフレ下の農村不況(一七三) 武相困民党の挫折(一七五) 豪農層の地租軽減運動(一七八) ㈤ 明治憲法下の県勢 国会始まる(一八〇) 神奈川県民党の分裂(一八二) 日清日露戦争と県民(一八三) 戦後の変貌(一八四) ストは海軍工廠から(一八六) 準則組合と労働組合(一八八) 労働争議が盛んに起こる(一九〇) ㈥ 貿易の王者横浜の成立 条約改正と神奈川県(一九一) 貿易関連工業が盛んになる(一九五) 世界にのびる横浜航路(一九八) 多くの銀行ができる(二〇〇) 湘南再びよみがえる(二〇三) ㈦ 日露戦後の人々 戦勝につづくスト流行の年(二〇六) 地方改良計画(二〇九) 二 大正デモクラシーの波 ㈠ デモクラシーと県勢 打ちよせる新しい波(二一一) 第一次大戦と成金(二一七) トップ成金は船舶業者(二一八)内陸工業も活況を呈す(二二二) ㈡ 重工業地帯の造成 重工業地帯出現の素因(二二四) 海岸埋立てによる造成(二二五) 鉄道が地域開発を促進する(二二七) 労働争議と米騒動(二三一) 最初のメーデー(二三三) 県民を襲う大地震(二三五) 三 太平洋戦争への道 ㈠ 中国侵略の拡大 昭和恐慌の旋風(二三八) 工業地帯の再編成(二四一) 再建労組は拡大し争議がふえる(二四三) 消されるデモクラシー(二四六) 無謀な太平洋戦争(二四七) 現代 一 更生日本と神奈川県 ㈠ 占領下の県勢 占領軍横浜に入る(二五一) 米軍基地化する県域(二五二) 民主化への脱皮(二五三) 再生する政党と労組(二五五) 二 不死鳥神奈川県の再生 ㈠ 成功する高度経済成長 戦時耐乏と戦後窮乏(二五七) 工業生産が再開される(二六一) ㈡ 経済大国への再生 ドッジ不況を吹きとばす朝鮮戦争(二六五) 新工業地帯の造成(二六六) 神武景気からいざなぎ景気へ(二六九) 再び王者横浜貿易(二七〇) 経済大国再生の奇跡(二七一) 現代本県の課題(二七二) 年表 あとがき 口絵 アメリカ資源探査衛星アーツ一号から撮影の神奈川県 (神奈川新聞社提供) 三殿台遺跡(横浜市三殿台考古館提供) 納税木簡(県埋蔵文化財センター蔵) 阿弥陀如来坐像(高徳院蔵) 青磁壺(称名寺蔵) 永享六年足利持氏血書願文(鶴岡八幡宮蔵) 明暦以前東海道小田原城下町の図(三宝院蔵) 神仏御影降臨之景況図(堀内久勇氏蔵) 四季農耕図(横浜開港資料館蔵) 安政元年ペリー提督横浜上陸の図(児玉幸多氏蔵) 米国官吏江府行装の図(ピーボディー博物館蔵) 明治十六年ころの横須賀造船所(県立文化資料館蔵) 御開港横浜大絵図(県立博物館蔵) 横浜海岸鉄道蒸気車図(県立博物館蔵) 海水浴客でにぎわう大磯海岸(大磯町役場蔵) 関東大震災で焦土と化した横浜市街(『大震災写真画報』から) 戦災の焼跡を片づける横浜市民(『マッカーサーの見た焼跡』から) 重化学工業地帯の工場群 酒匂渓谷にかかる東名高速道路 都市化が進む相模野台地(神奈川新聞社提供) 一大臨海工業地帯へと成長した埋立地(神奈川新聞社提供) 装幀 原弘 (裏表紙・遊び紙のマークは県章) はじめに 現在の神奈川県は、南に相模湾、東に東京湾をひかえ、北は多摩川を境として東京都に接し、西は丹沢山地・箱根山塊を擁して、山梨・静岡両県につづき、面積はおよそ二千四百平方㌔㍍で、全国総面積の〇・六三㌫を占めている。 神奈川県の創立は、明治元年(一八六八)のことであるが、現在の県域が確定したのは、一八九三(明治二十六年)のことで、その広さから言えば、狭少なこと全国府県の下位から第五位であるが、人口は、一九八〇年(昭和五十五年)、六百九十二万四千二百五十八人を数え、全国府県中の上位第三位にある。同年の県民所得は、十三兆三千六百二十億円に及び、全国府県中高位を占める。 本県は、こうした県下の状況の歴史的過程を明らかにするため、県政百年を迎えたのを機会に、一九六七年(昭和四十二年)「神奈川県史」の編纂に着手し、一九八三年(昭和五十八年)資料編二十一巻二十三冊、通史編七巻、別編三巻、各論編五巻、総計三十六巻三十八冊を完成した。 資料編は、県史叙述の典拠となる県の内外に遺存する古文書・古記録等を網羅した。それによって叙述したのが通史編であり、この両者は県史の根幹をなすものである。各論編・別編は、通史編を補完するため、県下の自然・民俗・人物等を解明したものである。県史全巻は凡そ三万七千ページ、通史編だけでも、七千ページに及ぶ。通史編は、本県の歴史について、詳細な記述を行っているが、これを通読するのは、容易でない。よってここに、取り敢えず通史の概要を、人々の活動に視点をおいてまとめたのが本書である。 この厖大な県史の編纂は、県当局の熱意と、県史編集室員の万般に渉る努力と、県下各地の方々の援助に支えられて、多数の編集委員及び、委員の外に依頼した研究者の執筆分担によって出来たものであるが、この「神奈川県の歴史」は、県史の前主任執筆委員児玉幸多・大久保利謙・安藤良雄の各氏協力の下に、竹内理三が通史編七巻のダイジェスト版として、単独執筆したものである。 本書によって、本県県民の活動とその発展の大要を知った読者は、さらに通史編によってその詳細を知り、より深く研究しようとされる場合、あるいは本書に触れ得なかった事柄についても知られたい場合などには、資料編を参照されることをおすすめする次第である。 原始・古代 一 人間の痕跡 ㈠ 最古の人跡 二万年前の人跡 日本列島における人間の歴史は、十万を単位として数えるほどの遠い年代にまで、さかのぼる可能性があるといわれている。 しかし今日のところでは、三万年から一万年前に出来たと推定されている立川ローム層とよばれる地層の中から発見される石器が、最古の人間の痕跡であるとされている。この立川ローム層は、五十万年前から四十万年前とされている洪積世の中ごろ以降に、南関東では箱根山や富士山、北関東では白根山・浅間山等の火山活動で噴出した火山灰が、偏西風によって運ばれ、堆積してできた地層(これを関東ローム層とよんでいる)のうち、最後にできた地層である。 この地層から発見される人跡は、石器の存在によって確認される。この時代は土器がないので、先土器時代とか無土器時代と呼ばれるが、考古学上の時代区分である旧石器時代と呼ぶ人もいる。 この先土器時代の存在は、一九四九年(昭和二十四)に、相沢忠洋の岩宿遺跡(群馬県)の発見によって初めて知られた。そののち、この先土器時代の遺跡の発見が相ついで報告され、今日では、北は北海道から南は沖縄まで、その遺跡の数は、ほぼ五千を超えるに至った。ただ、その分布は、全国的であるとはいえ、地域的な偏在が目立っている。 現在、県下では、約二百か所ほどの先土器時代の遺跡が報告されている。その八割以上が、相模原市・座間市・大和市・海老名市・綾瀬市・藤沢市にまたがる相模野台地にある。しかし台地の中央部にはなくて、台地の東を限る境川と、西を流れる相模川の両川が台地をきざんでいる多数の谷にのぞんで存在している。その状況は、全国的にみても、分布密度の最も高い地域の一つとなっている。また、目黒川・引地川・蓼川・綾瀬川・目久尻川・姥川・鳩川の流域にも、点々と遺跡が並んでいて、人々が、川に沿って移動していたことを示し、その生活が、川にたよること ローム層断面 相模原市丁五号遺跡 (川漁)の大きかったことが推測される。 少数の遺跡は、箱根山・湯河原町・小田原市・大磯町・鎌倉市・相模湖町・厚木市・横浜市・川崎市でも発見されている。これらの中で必ずしも川に沿っていない山中に見出されたものもある(箱根山朝日岳陵付近)が、一般的には川沿いに多い。 いずれにしても、県内では、立川ローム層が形成された三~一万年の昔、相模野台地を中心に、ほぼ県下全域に人間が生活していたことは疑いない。しかも彼らは、素手での生活の段階はすでに終えて、石を加工した道具(石器)を使っていた。獲物を打ち殺すためと思われる最も原始的な道具のチョッピングトウール、黒曜石やチャート・硅岩・頁岩・安山岩などの原石から剝離して作り出した剝片・石刃・石錐・ナイフ型石器・削器・搔器などがある。その大部分は、獣や魚類の皮を剝がし、肉を切りとる道具である。また石錐や、有舌尖頭器と名づけられている石器は、獣や魚を突き殺す銛や時には投げ槍の先につ 尖頭器 大和市月見野遺跡 縮尺約1/1.5 明治大学考古学陳列館蔵 けられたものであろう。 一万年以上つづいた先土器の時代 もちろんこうした各種の石器が、同時に多発したわけではない。先土器時代は少くとも、一~二万年はつづいたのであるから、その間に石器にも発達がある。その発達は、大きく三期に分けられる。 第一期は、ナイフ形石器が盛んになる以前で、約三万年前にさかのぼる。 第二期は、各種のナイフ形石器の盛んになる時期で、約二万年前。 第三期は、ナイフ形石器がおとろえ、細石刃の普及した時期で、およそ一万三千年前。 このうち、県下の先土器時代は、第二・第三の段階に属すると推定されている。この時期でもまだ石鏃はあらわれず、せいぜい突槍か投げ槍で獲物をしとめる生活であったが、しかし、相模原市丁五号遺跡や横浜市神奈川区東泉寺遺跡・相模原市塩田遺跡などでは、多数の拳大の礫を並べた遺構が発見された。この礫は、そこらの河原にある礫を用いており、こうした遺構を礫群という。そこには火が焚かれた痕跡があり、付近に木炭片さえ見られるので、先土器時代人が、火の使用を知ったことと、火で石を焼いて食物の調理に利用したことが推定される。例えば、獣の腹をさいて内臓をとり出し、焼いた礫をつめて土中にしばらく埋めておくと、ほどよい蒸し焼きが出来るし、魚やイモなどを大きな木の葉にくるんで、焼け石とともに埋めて蒸し焼きにする、というような、今日でも世界の一部でみられる調理法がすでに始まっていたとみてよいであろう。この火の使用は、さらに土器の製作につながる。 土器と弓矢の出現 先土器時代を覆っていた寒冷な氷河期の最盛期には、海水は凍って百四十㍍ほども海面は下がったといわれる。その時期には、日本列島は、アジア大陸とも陸続きとなり、ナウマンゾウやオオツノジカなどの巨大動物が山野に横行し、先土器時代人の狩猟のよい対象となった。 だが、この氷河期も終わり、氷河は融けて海面が上昇し、地続きであった列島が、海上に連なる列島となると、寒冷な環境に生きる巨大動物は北方へ去り、先土器時代人の生活も大きく変化する。それを示すものは、生活の道具に、土器と弓矢が加わったことである。この二つの道具は、ほぼときを同じくして出現したが、それが列島内で作り出されたものか、あるいは他地域から伝えられたものかについて、まだ断定の段階ではないとされている。ただ原初的な土器は、深い鉢形で、底が土につきさすように尖った形をしている。これは、シベリア方面で発見される土器の形と共通していることが指摘されている。はじめは土器の表面に撚糸をころがしたよ 埋立て前の夏島の遠景 横須賀市 うな文様と土器の口辺に細い粘土紐をめぐらした隆線文があるものが、のちには縄をころがした縄文と、粘土で複雑な飾りを施したものとが一般化して、縄文土器と汎称される。この土器の出現は、先土器時代の第Ⅲ期につづくのであるが、一九五七年、横須賀市夏島遺跡から出土した土器は、同時に出土した木炭と貝殻(カキ)をアメリカのミシガン大学に依頼して放射性炭素を測定したところ、貝殻は、九四五〇±四〇〇年前、木炭は九二四〇±五〇〇年前という数値が出た。東京湾の現在のカキの貝殻の測定を同時に依頼したが、それは○年前という数値であったので、この測定の信憑度は高く、世界最古の土器として、世界の学界をおどろかせた。 しかし今日では、横浜市南区大丸出土の土器がさらに古く、県下最古とされている。県下の土器は、一万年前にさかのぼるといえる。それは、同時に縄文時代のはじまりでもある。 初期縄文時代を示す撚糸文土器の遺跡は、夏島貝塚や横浜市金沢区野島貝塚、横須賀市猿島遺跡のように孤島にも存在するが、海に面した台地上にあるものが多い。河川の流域にあるものは、川にむけて張り出した台地の 夏島出土の尖底鉢形土器高さ25㎝横須賀市 先端部や縁辺部、丘陵地では、山頂にあたる部分や屋根にあたる部分にあるのが特徴である。 竪穴住居の時代 さらに先土器時代にみられなかった竪穴住居跡が見出される。それは横浜市港北ニュータウン内の遺跡、大和市下鶴間浅間社遺跡などである。これらの住居跡は、ローム層を浅く掘り込み、屋根や壁を支える柱穴があり、床面中央に方形の浅い凹みがあるが、内部に炉跡はない。一辺は五㍍前後が多い。こうした住居跡は、一戸から三戸くらいが同時的に存在している。小規模な集落のはしりである。 こうした住居跡は、人々が、ある程度の期間定住をはじめたことを物語る。前の時代には見られなかった貝殻の堆積した貝塚がひろくみられるようになったことも、それを示している。夏島遺跡は、大形のマガキが厚い層をなしているので夏島貝塚とよばれ、横須賀市若松町平坂貝塚は、ハイガイ・オキシジミ・オオノガイ・アサリ・カガミガイ・スガイ・ウミニナ・ツメタガイ・レイシ・アカニシなど、二枚貝十六種、巻貝十六種が、ほとんど細く砕かれずに堆積されている。土器の発明によって、貝をうで中身をとる調理法が可能であったからにちがいない。土器の発明は、新しい食料分野への開発にもつながる。 貝塚には、貝類の外にも、動物や魚類の骨類も多く見出される。夏島貝塚では、イノシシ・タヌキ・ノウサギムササビ・ニホンジカ・アナグマなどの獣骨、キジ・ヨシガモ・ガン・マガモなどの鳥骨、マグロ・ボラ・クロダイ・スズキ・コチ・ハモ・カツオ・メバル・アカエイ・マダイ・ブリ・サバ・ソウダカツオ・ヒラメなど、内洋性、外洋性の魚骨がある。 行動の迅速な小獣や、空とぶ鳥類は、突き槍や投げ槍では、もはや間に合わない。これらを食料にすることのできた背景には、飛び道具の発明がなければならない。夏島遺跡からは、小数の石鏃や骨鏃が見出されたが、横浜市緑区川和町の花見山遺跡からは、約二百点の石器が出土し、石鏃や、石鏃として使用されたと思われる有舌尖頭器が多数含まれていた。 夏島貝塚や平坂貝塚から犬の骨が出土し、これらにつづく時期の横浜市菊名貝塚からは、二十頭をこえる犬の骨が発見されている。これらは明らかに猟犬として飼われたもので、一戸一匹程度の割合で飼われていたと推測される。猟犬の存在は、弓矢が人間相互の戦いのために発案されたものでないことを暗示する。 集落の発展 横浜市港北区南山田町にある南堀貝塚では、およそ三十五㍍の高さの平坦な台地上に、四十八戸の竪穴住居跡が発掘された。その多くが相互に重複しているので、四十八戸が同時に存在したのではなく、出土する土器などから、数戸の集落から始まって、のちには十戸位の集落が形成され、それが重複したものと推定されている。その期間は、これまた土器の形式から三百年くらいの間と推定されているが、注目すべきことは、この集落の中央はいつも広場としてあけられ、長径五十㌢㍍を超える石皿がおかれていた。この石皿は、採集した木の実類をすりつぶす道具であろう。広場はそうした作業のための共同広場であろう。 集落の拡大は、横浜市港北ニュータウンの遺跡で、一層明瞭となる。例えば、緑区大熊仲町遺跡は、縄文中期の竪穴住居跡が全部で百六十八戸、墓壙を含めた土壙百四十墓が発見され、別に縄文早期の条痕文土器を残した竪穴住居跡五戸、炉穴が百二十五基も発見されている。もちろんこれらがすべて同時期に存在したのではないにしても、中央には広場があって、戸数の増加につれて、周辺から広場に向かって住居が増設されている。この中で、加曾利EⅡ期に属する住居跡には、直径五十㍍の広場の一角に、長径十・五㍍前後の楕円形、または長方形の墓壙が、ほぼ円形をなして群在している。楕円形は、住居跡にもみられ、その長径は、十五㍍にも及ぶ。集会所か倉庫か作業場か、その用途はいまだ明らかでないが、中央広場と共に住民の社会的集合の場所であろう。墓地の出現とともに、人間意識の発展とみなければならない。 県下の縄文時代に、一万年に近い歳月が流れた。その間、人々の生活は、依然として採集経済に依 竪穴住居集落址 横浜市緑区港北ニュータウン 存していたが、弓矢と土器の発見によって、採集の範囲は拡大され、煮沸のできる土器は、魚貝類の食糧化を爆発的に拡大し、やがて、骨製の釣針、錘をつけた魚網・丸木舟による海洋漁撈にまで発展、弓矢の発見と家犬の飼育は、動作の早い小動物、さらには空とぶ鳥さえも、食糧化することを可能とした。しかし全く自然採集のため、濫獲による獲物の減少、寒冷気温や天災などのための木の実の不熟等による食糧不足のため、その一生の間には、数回も栄養失調に見舞われることも、経験しなければならなかった。 ㈡ 日本人の原点 稲と鉄の伝播と弥生文化 貝塚だけでも三百か所を数える県下の縄文遺跡も、縄文末期には、その遺跡は十か所程度に、急速に減少する。この減少ぶりは、関東の他の地域 大浦山洞穴遺跡と骨角器 三浦市 に比較しても、目立つものである。その原因は、縄文時代後期以降に新期富士山の火山活動で、大量の火山灰が降り、動植物の生息に大きな影響を与え、これらを食糧資源とする県域の縄文人の生存に深刻な結果を生んだものと推測される。 しかし、県域の縄文人が絶滅したわけではないし、火山活動がおさまると、隣接地域から県域に移る人々もあろう。そのころ、列島には、最初にそれが発見された東京都文京区弥生町の名をとって、弥生式土器とよばれる土器の発生と、稲と鉄の伝来があって、県域の文化は再生発展した。紀元前三世紀のころである。この土器の使用は、紀元三、四世紀までつづいた。縄文時代に比べれば、はるかに短い期間であるが、列島に住む人間社会に与えた影響は大きく、今日の日本人の出発点となった。 縄文文化を象徴する縄文土器は、亀ケ岡(青森県)遺跡の土器を標式とする亀ケ岡式土器に至って、装飾の極致に達したが、弥生式土器は、ほとんど装飾のない、極端に簡素なことが特徴で、明らかに異質的文化である。この文化は、西日本からひろまったもので、県下では津久井町中野大沢遺跡、横浜市緑区霧ケ丘遺跡などから東日本では初期の弥生土器といわれる水神平式土器が出土した、つづいて津久井町三ヶ木の縄文後期の敷石住居跡から、南関東で最も古いといわれる弥生式土器が出土し、これに似たものが南足柄市関本出口遺跡・山北町堂山遺跡・平塚市遠藤原遺跡・秦野市同明遺跡、横浜市金沢八景駅付近の遺跡などから発見されて、次第に県下全域に及んだことを示している。注目すべきは、これらの段階では、後期縄文土器と共存していることである。これは県下の縄文人が、弥生文化を受容して、新しい時代に入ったことを示す。 定住集落の発生 やがて、人々を縄文文化と訣別させる農耕生活がはじまる。同時に集落の定住化がすすみ、規模は飛躍的に拡大する。小田原市谷津遺跡・逗子市持田遺跡・三浦市赤坂遺跡・横浜市磯子区三殿台遺跡・同港北区大塚遺跡などは、その大規模な集落跡として知られている。三殿台遺跡では二百以上の住居跡が発掘された。その他の群小の遺跡は百か所以上といわれ、それらの大部分は、農耕(特に水田稲作)を営む集落跡で、沖積地をひかえた台地上に存在する。この典型的な一例に横浜市港北区大塚遺跡をあげよう。この遺跡は、全国的にもまれな完全な集落址の遺跡である。鶴見川の支流早淵川にのぞんだ標高約五十㍍の平坦な台地上にある竪穴住居址群にぐるりと濠をほりめぐらした環濠集落で、環濠内の住居跡九十七戸、このうち九十戸 三殿台遺跡の復元家屋 横浜市磯子区 は、すべて同時代ではあるが、二十五戸ないし三十戸の集落が、数回にわたって形成されたものである。各戸は、壁にそって壁溝とよばれる細い溝をめぐらし、床面には規則的に並ぶ四本の柱穴、炉跡、出入用の梯子をかけた梯子穴がある。竪穴の周囲には、竪穴から掘り出した土を盛った土堤をめぐらしている。地表を流れる水の流入を防ぐためである。床面からの堤の上端までは一㍍以上の差があり、出入りに梯子が必要なわけである。 大塚遺跡(環濠集落)とそれにともなう方形周溝墓群(歳勝土遺跡)横浜市港北区 集落をめぐる濠は、幅平均五㍍、深さ二㍍で、掘り出した土を濠の内側に積み上げている。この濠は、外部からの敵の防禦を目的としたものであろうか。石鏃・石錐が、鳥獣以外に人間同志の殺戮にも用いられるようになったのは、すでに前時代のことであろうが、農耕によって集落が定着した弥生時代には、耕地や貯蔵された収穫物の争奪もはげしさをましたことを物語るものであろう。 この大塚遺跡から約八十㍍はなれてある歳勝土遺跡は、二十五基の方形周溝墓の遺跡で、大塚遺跡の集落に付随したものと推定される。この墓は、四本の溝を方形に並べ、掘った土は溝の内側に盛り上げ、中央に土壙を作って死者を葬ったものである。この方形周溝墓は、九州から東北地方にかけてひろく見られるが、その最も古いものは、畿内地方で見られるので、これも弥生文化の一部として西方から伝わったものであろう。 弥生文化には、鉄の伝播がある。いまだ石器が主要な道具であったが、鉄の伝播によって日本人は、石器時代と訣別する。三浦市赤坂遺跡・同雨崎洞穴・川崎市高津区神明上遺跡から板状の鉄斧が発見されるなど、神奈川県域もその例外ではない。 ㈢ 毛人国の成立 集落が小国を形成する ちょうど、紀元前一世紀ごろ、列島の様子を伝えた中国の史書に、倭は山島に拠って、百余国に分かれていると伝えている。この記事が東日本のどこまでの状況をのべているのかは明確でないにしても、日本列島にも、首長の支配する集落が、小国の形をとり出したことを伝えるものであり、やがてこの小国は、四世紀ごろになると、ヤマトに成長したヤマト王権によって、統一された。そのさまを、西暦四七八年倭王武(雄略天皇)は、当時の中国皇帝に次のように報告している。 昔から祖禰(先祖)が、躬ら甲冑を擐いて、山川を跋渉し、寧拠(身を休める)の遑もなく、東は毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡りて海北を平ること九十五国であります。 東・西・北は、ヤマトを中心にした方角であり、海北九十五国は、朝鮮半島の国々であるので、これを除けば、ヤマト王権が征服した列島内の国は百二十一か国となる。この数字は、多少の文飾はあっても、実数とかけはなれたものではない。古代にヤマト王権が、東国とよんだのは、今日の福井・岐阜・三重の三県以東の地域であり、わが神奈川県もその中に含まれる。毛人は「日本書紀」では、蝦夷を表わす文字に充てられていることは、注目されよう。 今日、古墳時代の代表的な高塚古墳は、ヤマト王権の地方に伸展する象徴とされているが、相模・武蔵の地に古墳がつくられ始めたのは、畿内地方よりも少しおくれて、四世紀中ごろ以後と考えられている。中でも古いとされる古墳に平塚市真土大塚山古墳がある。この古墳は現在はその姿を残さないが、その痕跡から前方後方墳と推定され、多数の遺物が発見された。その中に椿井大塚山古墳(京都府)出土と同じ鋳型で鋳られた三角縁神獣鏡が加わっていた。この同じ鏡は、川崎市幸区加瀬白山古墳からも発見されている。この古墳は、全長八十七㍍に及ぶ巨大な前方後円墳である。この三角縁神獣鏡は、中国には見られないので、日本で鋳造されたとする説が有力であるが、この鏡が、地方の首長の墳墓から発見されたことは、ここに葬られた首長が、西日本に成立したヤマト王権から、その権威のシンボルである鏡の賜与をうけて、自らの権威を強化したことを意味すると考えられる。 こうして東国が、ヤマト王権下に入る有様は、県下の古伝承である日本武尊の東征説話として伝えられている。 三角縁神獣鏡平塚市真土大塚山古墳東京国立博物館蔵 県下の主要古墳 古墳の時期については、推定の範囲にとどまるものが多い。 →は以後の時期にも及ぶと思われるもの。 *印は前方後円(方)墳。 ●印は埴輪の出土している古墳。 ○印は横穴式石室を有するもの。 二 大化の改新と相武 ㈠ 杖刀人の首 杖刀人の首 埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣の金象嵌の銘文は、東国にとっても、わが国にとっても現存する最古の記録であり、倭王武の上表文を内側から裏付けるものである。銘文は、漢字で金象嵌されているが、これを訓み下しにすると、表に、 辛亥の年七月中に記す、乎獲居臣の上祖、名は意富比垝、其の児、多加利足尼、其の児、名は弖巳加利獲居、其の児、名は多加披次獲居、其の児、名は多沙鬼獲居、其の児、名は半弖比、 裏に、 其の児、名は加差披余、其の児、名は乎獲居臣、世々杖刀人の首と為りて、事え奉り来り、今の獲加多支歯の大王の寺、斯鬼宮に在す時に至る、吾、治天下を佐け、此の百錬の利刀を作らしめ、吾、事え奉る根原を記す也。 と読める。文中のワカタケルの大王は、名をオオハツセワカタケルと称した雄略天皇を指すことは疑いない。辛亥の年は、年号のない古代に干支で年をあらわしたもので、雄略天皇ごろの辛亥の年は、西暦四七一年にあたる。この年に、オワケノオミが、その祖オオヒコ以来七代にわたって、代々杖刀人の隊長となって、現在の大王に至るまで仕えて来たとのべている。杖刀人は、大王の親衛隊のことで、初代のオオヒコは、日本書紀の、崇神天皇十年九月に、北陸に派遣された四道将軍の大彦命とその名が一致する。崇神天皇は、日本書紀にハツクニシラススメラミコトと謂うとあって、ヤマト王朝の創始者と考えられている。剣銘のオオヒコと同一人であるとすることは、なお検討を要するが、少なくとも雄略天皇のころには、東国の豪族が、杖刀人を率いて王権の親衛隊をつとめた事実を否定することはできない。 稲荷山古墳は、北武蔵にあるが、この古墳の主の支配は、わが県下にも及んでいたと考えられる。 国造と屯倉 ヤマト王権は、地方の首長をその勢力下におくと、そこの国造に任じて、支配させた。県域には、相武国造・師長 稲荷山鉄剣 埼玉県 広開土王碑 中国輯安県 国造・武蔵国造の三国造が任命された。相武国造は「国造本紀」には、成務天皇の世に、武刺国造の祖伊勢都彦命の三世の孫、弟武彦命が国造に定められたとし、師長国造は、茨城国造の祖建許呂命の子宮富鷲意弥命が国造に定められたとしている。いずれも県外から任命を伝えていることは注目に価する。相武国造の国は、後の高座郡・愛甲郡あたりで、相模川中流以上の地域と推定され、日本武尊の伝説にあらわれているような、ヤマト王権に抵抗した土着の豪族が亡ぼされてのちにおかれたものであろう。寒川神社は相武国造の祀った神社であろう。また師長国造は、後の余綾郡磯長郷を中心とした県西部を占め、級長津彦命を祀る川勾神社はその宗社であろう。武蔵国造は、現在の埼玉県・東京都の地域を主要な支配下とする国造であることは言うまでもないが、これには若干の説明が必要である。 「国造本紀」には、武蔵の国造に、無邪志国造・胸刺国造・秩父国造の三国造をあげているので、通説では、前の二国造を重複したとしているが、恐らくこれは、次に述べるムサシ国造家の分裂を反映したものであろう。 ムサシ国造家の内紛は、安閑天皇の治世と伝える。武蔵国造笠原直使主と同族の小杵とが、国造の地位を争って、長年解決しなかった。小杵は大王(ヤマト王権)に従わず、ひそかに上毛野君小熊の援助を得て、使主を殺そうと計画した。使主はその謀略を知って、武蔵を逃げ出し、京にのぼってその状況を大王に告げた。大王は、小杵を誅し使主を国造とした。分裂していた国造はここで一本となり、使主は、喜んで横停・橘花・多氷・倉樔の四か所を、屯倉として大王に奉った。屯倉は、大王家の直轄領である。横停屯倉は埼玉県吉見町・東松山市あたり、橘花屯倉は神奈川県下の川崎市中原区住吉・横浜市港北区日吉あたり、多氷は多末の誤りで多摩郡(東京都)、倉樔は倉樹の誤りで、横浜市港南区・磯子区・金沢区あたりとするのが通説である。笠原使主が献上したこの四屯倉は、敵方の小杵の旧領であったと考えられ、その支配区域は、武蔵国の西部と南部にひろがる丘陵地帯であったと想定される。これ以後、現在県域となっている武蔵地区は、天皇直轄領となったことになる。 屯倉は、はじめはこれを献上した国造が田部を使って経営したが、やがて大王家から田令が任命され、大王家領の性格を一層たかめた。しかし東国の屯倉の設定は、西国に比べるとはるかに少ない。その代わり大王家の私民である御名代部・御子代部・私部や壬生部が、東国には圧倒的に多い。このうち相模地区では、壬生部が有力で、後世に、この壬生部の管掌者である壬生直が相模国造となったり、郡大領(郡の長官)になっている。 ㈡ 大化改新 東国に始まる新体制 こうした東国に天皇家の支配が他地方に比べて進んでいたことから、天皇を中心とする中央集権体制をうちたてようとした大化改新政治は、まず東国から実施されることになった。 大化改新政治の正式の発足は、大化二年(六四六)正月、難波長柄宮(大阪府)で宣布された改新の詔であるが、その前年八月に、まず八人の国司を東国に派遣して、作業が始まっている。この国司には、四つの任務が与えられたが、最も重要なのは天皇直轄の人民と国造・伴造(部の首)の支配する人民の戸籍を作り、田畑を調査することと、空地に武器庫を造って、地方にある刀甲弓矢を集めて収納することであった。 この八人の国司が任命された東国の国々の範囲については異説はあるが、相武が含まれていることは疑いなく、国司の派遣は東国に多くの天皇家の部民が設定されていたことと深い関係があろう。そして翌大化二年(六四六)正月、政治の大革新を行うことを天下に告げる改新の詔が宣布された。その詔は、四か条から成っていた。第一条は、天皇をはじめ国造・伴造らの所有する私地・私民の廃止、第二条は、全国に国・郡・里の行政区の制定、第三条は、戸籍を作 国衙所在地諸説 り、班田収授の実施、田租の統一、第四条は、人民の調・庸等の制定である。これまでの国造の人民支配を否定し、国郡制と天皇の任命する官人による支配体制を実施することが打ち出されたのである。この新体制は、大宝元年(七〇一)にできた大宝律令で法文化が完成した。今日の神奈川県のもととなった相模国と武蔵国も、後に郡の新設(近世中ころに設けられた津久井県)や、隣国の郡の移管(近世の初め、下総国の葛飾郡を武蔵国に編入)があるまでは、その境域は、大化改新後、間もない時期に定められた。その後、国や郡の新設や廃合がしばしば行われ、全国が六十八の国と定ったのは、平安時代の初め弘仁十四年(八二三)のことである。 こうして新体制に再編された県下で、まず武蔵国に属する地域は、以前、武蔵国造が献上した屯倉が郡となった橘樹郡・久良郡と都筑郡の三郡、相模国では、足上郡・余綾郡・足下郡・大住郡・愛甲郡・高座郡・鎌倉郡・御浦郡の八郡である。この八郡は、小田原北条氏の時代に、足上郡・足下郡を西郡、余綾・大住・愛甲三郡を中郡としたことはあったが、一八七八(明治十一)年の新郡区編制に引きつがれた。 国には国司、郡には郡司の政庁がおかれ、国衙・郡衙とよばれ、その所在地がそれぞれ国府・郡家である。武蔵国府は、東京都下にあるが、相模国府は、数か度の変遷があり、十世紀にできた「和名抄」は、国府は大住郡に在りとあり、十二世紀の書には、余綾に府ありとある。また、奈良時代全国の国ごとに建立された国分寺の址が今日の海老名市にあるところから、海老名国府説もある。最近綾瀬市から、天平初年ここが国府であることを裏付ける木簡が発見されて、最初の相模国府がこの地であることが明らかになった。「和名抄」にみえる大住郡国府については、伊勢原市比々多説、平塚市四ノ宮説、秦野市御門説等の諸説があるが、四ノ宮説が有力である。余綾国府は、大磯町大字国府本郷の地で、国府津は、その外港であり、大住郡からここに移ったのは、平安時代末期とする説がほぼ定説である。 このほか、小田原市永塚千代廃寺付近に国府があったとする足柄国府説も提唱されている。 これほど国府所在地の候補地が多い国は他にない。これは相模国の歴史を考える上で重要な問題である。 白村江の敗戦と防人 大化改新が発足して数年のちの西暦六六三年、ヤマト朝廷が、百済復興のため朝鮮半島に送った軍隊が、白村江で、唐と新羅の連合軍のため大敗した。 今日、中国東北地区輯安にある高勾麗国王広開土王(三九一年即位-四一二年没)の死後二年目に建てられ 相模国八郡と武蔵国三郡の郡衙所在地(推定) た碑文に、辛卯の年(三九一)倭兵が海を渡って百済に侵入し、三九六年には広開土王が百済に侵入した。三九九年、倭兵が新羅にせまり、四〇四年倭軍は漢江を渡って、平壌にせまった。広開土王はこれを迎えうって殲滅的打撃を与えたとある。四世紀末五世紀初めに、倭の大規模な半島進出があったことは疑うべくもない。 しかし、半島諸民族の民族的自覚による反撃によって、ヤマト王権の半島経営は次第に困難となり、五六二年には、ヤマト王権の前線基地の役割を果たしていた任那が新羅に亡ぼされ、六六〇年には、盟邦百済が、唐・新羅連合軍に亡ぼされた。その復興のため、斉明天皇はみずから九州に下って、救援の大軍を送った。援軍は、前・中・後の三軍に分かれ、前軍将軍は上毛野君稚子、中軍将軍は巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後軍の将軍は阿倍引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄、兵は二万七千の大軍である。三軍は、その将軍からみて前軍は東国兵、中軍はヤマト及びそれ以西の西国兵、後軍は北陸筋の水軍とみられる。まず前軍は、新羅を攻めてその二城を攻略し 防人の歌碑 福岡県 て百済に転進したが、唐軍と結んだ新羅軍は、わが前軍にかまわず直接百済の王城に進攻した。唐軍が新羅より先に百済の王城を攻略しようとしたからである。百済王城の危急をみたヤマトの中軍は、百済王城に直行し、白村江で唐の水軍に迎えうたれて、壊滅的大敗をうけた。前軍はこの戦に間に合わず、水軍を主とした後軍は、白村江の敗残兵と百済の亡命者を収容して本土に撤退した。東国兵から成る前軍は、この撤退作戦の後衛をつとめつつ順次に引きあげた。これでヤマト軍は半島から姿を消すのである。 白村江で大勝した唐将劉仁軌は、引きつづいて高句麗討滅作戦に忙しく、新羅もまた半島統一の目的のため、半島における唐の行動を牽制する必要があって、倭軍を追尾する余裕はなかった。しかし、徹底的打撃をうけたわが国は、そうした情勢を知る由もなく、一刻も早く国防態勢をととのえる必要があった。仮りに知っていたとしても、国防整備は緊急事であった。敗戦の翌年対馬・壱岐・筑紫国等に防人と烽を置き、筑紫に水城を築いた。半島撤退作戦に後衛に当たった東国軍は、臨戦態勢をとったまま駐屯した。これが、防人の起源である。その総勢は、三千人、年々一千人ずつが交替した。この臨戦態勢は、防人の廃止される九世紀まで解除されなかった。動員される防人は、相模・武蔵をはじめ、遠江・駿河・伊豆(以上静岡県)・甲斐(山梨県)・安房・上総・下総(以上千葉県)・常陸(茨城県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・下野(栃木県)の国々の兵士でそれぞれの国司が自国の兵士の中から選抜し、その国の国司が引率して、摂津の難波(大阪市)に集結する。ここで征討軍出征に限って天皇から派遣された特使の慰問をうけ、大宰府の官人に引きわたされる。難波は防人出陣の港である。 防人は、未婚の青年が多く、道中、父母をしのぶ歌を多くのこした。勿論、既婚の青年もいた。彼らの妻は、足柄山を越える夫をしのんで、別離の歌を歌った。足柄峠(南足柄市)は、相模の女性の夫しのびの峠となった。 ㈢ 律令制下の相武 中央支配の体制 大化改新で古代の地方の時代は終わって、新しい中央支配の時代が始まった。 新制度では、すべて中央が地方支配を完全に行うようにくみたてられた。地方にはすでに数百年の歴史をもつ農村が、住民の共同体としてでき上っていたが、それは五十戸を単位とした里(のち郷)に再編成された。この戸は、家族を基準とはしたが、一里五十戸制に合わせるため、数個の家族をあわせて一戸とする場合が多かった。従って戸籍に登録されている戸が、一つの家に生活していたとも限らない。こうした戸を創り出したのも、中央が農村から調庸をとり立て、兵士を徴発するのに便宜を考えた上でのことである。里の長は、その里に住む有力者で、容赦のない徴税を行った。郡は、大化前代の国造の国を郡とした場合が多く、その行政官として、前代の国造家の者を天皇が郡司に任命した。郡司の主要な役目も、徴税であった。承和七年(八四〇)大住郡の大領(郡の長官)壬生広主が、困窮した農民に代わってその分の調庸を私稲で代納し、戸口五千三百五十人を増加したとして賞せられ、翌年には高座郡の大領壬生黒成が、貧民に代わって調庸税を代納し、飢民には私稲を与えて救済したので、戸口三千百八十人を増加したとして賞せられた。数千の人口が突如として出現するわけではないのに戸口が増加したと称して褒賞することは、中央の地方支配の意図を示している。 国には、中央の貴族が国司として任命され、四年(時には六年)の任期で赴任し、行政・警察・裁判の三権を握り、国の最高責任者として地方行政を行った。前代地方の首長であった国造は、祭祀者としてその存続がみとめられたが、一国一国造に統合された。相模国では、日本武尊に仕えたと伝承をもつ漆部氏が、神護景雲二年(七六八)に、相模宿禰の姓を賜って、相模国造に任じられている。 中央に集中する官道 大化改新以前には、農民は、現地の首長にその生産物を納め、在地の首長は、その一部をヤマト大王に、御贄として、納めていた。大化 相模国交通図 木下良『相模国府の所在について』から 改新では、これもすべて天皇のものとし、天皇から首長らに給与することに改めた。物資を天皇のもとに集中するため、道路が整備された。中央の支配力を地方に浸透させるためにも必要であったからである。ミヤコを起点として、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道が完成したのは、大宝令が完成したころである。各道は、お互いに交錯せずに各国の国府を連絡し、本道を外れた国府には、支線がのびる。武蔵国府は、はじめ上野国からのびる支線で東山道に結ばれたが、宝亀二年(七七一)に、相模国府に結ぶ東海道につけかえられた。相模国府は、初めから足柄峠を越えて、南関東を走る東海道に属した。この道は、鎌倉郡・御浦郡を経て三浦水道を渡って安房国府に至り、北上して上総・下総を経て、常陸を終点とした。この古い東海道は、古代上毛野氏の勢力が武蔵にも及んで、ヤマトの大王の力が、それを避けざるを得なかった古代東国の情勢を反映したものと考えられる。この国府を連結する官道の、ほぼ三十里(一二〇㌔㍍)ごとに駅を設け、駅戸・駅馬を常置して、公用の往来に供した。相模国内には、坂本駅(足柄上郡)・小總駅(余綾郡)・箕輪駅(大住郡、一説に余綾郡)・浜田駅(高座郡か、海老名市、あるいは厚木市内とする説もある)、県下の武蔵国内には店屋駅(町田市付近か)・小高駅(川崎市)があり、小高駅からさらに大井駅(東京都)に連なって、下総国(千葉県市川市)に至った。 相模の古代物産 八世紀から九世紀にかけての、県域の総人口を、ある数学者は十三万二千四百四十人と算出した。また水田の面積は、一万二千九百二十町歩(約一万二千八百十ヘクタール)と推計した。この水田の面積は、現在ほど県下の住宅化が進行していない昭和四十年(一九六五)の水田面積の一万四千二百五十一ヘクタールに比べれば、約九〇㌫になる。古代県域の産業としては、水田農業が第一位を占めたことは間違いない。 近世では相模国の代表的な物産になった麦は、奈良時代以来、政府の裁培奨励が行われたが、農村ではなかなか麦になじまず、折角栽培しても、青麦のうちに馬に食わせる有様であった。「万葉集」の東歌にも「柵越しに麦食む子馬のはつはつに相見し子らしあやに愛しも」という歌がある。農村に麦栽培が普及し、日本人の食料となるのは、平安時代も後期からのことである。 古代相模の農産物の特産物に橘子がある。橘はミカンの古名といわれ、本来は南方の産物であるが、その渡来が伝説として田道間守の話が日本書紀にあるから、由来は古い。今日でも柑橘類の分布は、武蔵国の南部が北限とされているが、相武の地は国造時代から、橘子を特産物とし 足柄峠 南足柄市から御殿場市へ通じる て、ヤマト朝廷に献納しており、武蔵国橘花屯倉の名も、日本武尊の妃弟橘媛の名も、橘樹郡の郡名も、この地の橘子が、ヤマト朝廷に強く印象づけられていた証拠である。 また相武台地や西部山岳地帯は、いろいろな薬草の産地でもあった。中央に運ばれて、官人たちの薬用に供せられた薬草は、相模国三十一種、武蔵国二十八種に及んでいる。薬草の一種として、染料の紫草も、相模・武蔵の有名な物産であった。また足柄山は、良材の産地としても知られた。「万葉集」には、足柄山の材でつくった船は、船脚が早いことをたたえたいくつかの歌があり、足柄峠の名も、ここの材でつくった船の脚が早いという意味(足軽)であるという説が、平安時代の末に唱えられていたほどである。この相模国の材木は、近世の江戸の城つくり、町つくりにも用いられた。 同じように、古代から近世にかけての相模国の特産に石材がある。江戸築城の石材に、根府川石が大いに用いられたことは有名であるが、和銅六年(七一三)に、中央政府が、諸国の調物の調整を行ったとき、大倭(大和)・三河は雲母、伊勢は水銀、相模は石硫黄・白樊石・黄樊石、美濃は青樊石、信濃は石硫黄、上野は白石英・雲母・石硫黄を献納させると定めた。樊石は、堅くて大きな石をいうが、白・黄・青などの美しい色をもった石材を、相模や上野から、どうして都に運ぼうとしたのであろうか。和銅三年(七一〇)に平城京に都が移り、宮城も市街も造営の最中である。その建築材料にもしようとしたのであろうか。いずれにしても、相模の石材が注目される物産であったことを示している。石硫黄は岩状硫黄で、相模の石硫黄は箱根山産、上野のは白根山産であろう。これは典薬寮の薬材とされた。これらの硫黄は、現代になり石油化学の副産物としての硫黄が出現するまで採掘がつづけられた。 相武の古代物産のうち、日本の歴史の流れにも大きい役割を荷ったものに、牧畜がある。牧畜にも馬と牛があるが、相模・武蔵で飼育されたのは馬である。相武の牧場経営も、はるか大化前代にさかのぼり、弟橘媛が走水の海に身を投ずるときに歌ったという「さねさし相武の小野に燃ゆる火の、火中に立ちて問ひし君はも」というのも、相武台地に展開する牧草燃きの歌である。東国の馬は、大化前代から、良馬としてヤマト朝廷の貴族たちの欲するものであった。「万葉集」にも、相武の馬飼いの歌がある。武蔵国豊島郡の防人椋椅部の荒虫の妻宇遅部黒女の「赤駒を山野に放し捕りかてに多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」の歌には、相武台地に放牧された馬と、平安末にもなれば、武蔵七党の一つとして活躍する横山党の源流をみることができる。 大宝律令の制度では、全国と中央とを連絡するために設けた官道の駅に常備する駅馬や、各国に設けた軍団(相模国には、大住軍団と餘綾軍団が設けられた)の兵馬をみたすため、国営の牧を設けたが、九世紀になると、兵部省が管轄する官牧が整備された。この官牧は馬牧と牛牧があって、東国と西国の十八国に五十一牧で東国では相模国高野馬牛牧と武蔵国檜前牧・神崎牧がある。これらの牧の現在地を求めることは困難であるが、十世紀になると、官牧の外に、御牧が設定された。御牧はすべて馬牧で、勅旨によって設定されたので勅旨牧ともいう。勅旨牧は、甲斐・武蔵・信濃・上野の四か国で三十一牧を数える。相模国内には見当たらないが、武蔵国の石川牧・小川牧・由比牧・立野牧の四牧があり、石川牧は横浜市緑区石川、小川牧は東京都秋川市小川、由比牧は八王子市、立野牧は横浜市緑区本郷に比定する説がある。すべて多摩丘陵地帯であり、そのうち二牧が県域になる。勅旨牧の馬は、毎年九月十日に牧監(牧場長)が、牧場に赴いて馬に焼印を押して報告書を作り、四歳以上の駒を選んで調練をし、翌年八月に牧監らが率いて上京するが、朝廷から駒迎使を差し向かわせ、いよいよ入京すると、天皇は紫宸殿に出て、貢馬を閲覧し、一部を諸臣に頒賜する。これを駒牽とよんで、天皇の権威を示す平安時代の重要な宮廷年中行事となっていた。しかしこの駒牽も、十一世紀末平忠常の乱以後途絶える。代わって、相模守が個人的に貢進した。これは、相模国の馬牧が衰えたのではなく、官牧・勅旨牧の経営が、公的なものから私的なものへと変化したにすぎない。官道の駅馬や軍団の兵馬は、その制度の衰退によって需要はなくなったが、中央・民間の牛馬の需要はかえって増大し、そのため有力貴族は、その所領荘園に牧を加えていったほどである。はるか古代から良馬を産していた相武は、馬の飼育・繁殖・訓練にすぐれた牧飼の伝統がある。この伝統の上に中世の武士が成長したのである。 文化の伝播 律令体制は、西方から浸透したが、それは同時に西方文化の浸透でもあった。それは、仏教、帰化人、中央から赴任して来る文化人的官人の三ルートによった。まず仏教は、飛鳥時代に中央に建てられた法隆寺や大安寺や、奈良時代の東大寺の所領が、相模国にも設定されたことに始まる。また天武天皇のときから始まった全国の国庁でのいろいろな仏教行事も、相模の国府で行われたであろう。この国府での仏教行事は、やがて天平十三年(七四一)の国分寺・国分尼寺の建立へと発展する。相模国分寺・国分尼寺については、今日の海老名市国分にある国分寺であるとの説が定説となっている。金堂・講堂・東西廻廊・塔・僧坊・中門・築地などの痕跡が復原され、その寺域は四町歩(四㌶)を下らず、寺域から復原した塔は十六丈(約四十八㍍)に及ぶ壮大なものであったと推定されている。東京都国分寺市にある武蔵国分寺址からは、都筑・橘・久良などの郡名、大井・高田・諸岡などの郷名、更には戸主名などを印したおびただしい瓦片が出土し、武蔵国内の郡・郷・戸主の総力を結集したことがうかがわれるのに、相模国分寺には、文字を印した瓦は一片も発見されない。これは相模の場合は恐らく大住郡の大領で富裕であった壬生氏の氏寺を転用したからではなかろうか。いずれにしても国分寺は以後、 相模国分尼寺遺跡図 「相模国分寺誌」から国分尼寺講堂址 各国の華として文化の中心的役割を果たすことになる。東大寺の初代別当良弁や、第一代の天台座主(延暦寺の長官)義真が、相模国の出身者であることも、また平安時代の仏像が、意外に多いのも、仏教文化の伝播のひろさをうかがわせる。 第二の帰化人によるルートの痕跡は、大磯町高麗山の周辺に濃厚にみられる。国史「続日本紀」に霊亀二年(七一六)駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を武蔵国に移して高麗郡を設けたとある。この中の相模国の高麗人の入国の年時は不明であるが、彼らは、平塚市・大磯町のあたりに上陸したらしい。高麗山に高麗寺を建立し、その習俗を国府の祭にのこした。高麗寺は、鎌倉時代には、源頼朝が妻北条政子の安産祈禱を命じた相模国内十五か寺に加えられた。第三のルートは、来任した中央官人である。東国が蝦夷地経営の兵站基地の一国であったことから、中央の任命する国司は、武官系が多かった。万葉歌人大伴家持も宝亀五年(七七 高麗山 大磯町 四)に相模守に任ぜられた。彼は兵部少輔のとき、難波津で東国防人を点検して、貴重な防人の歌を採録した。万葉集には、東歌が多い。これは彼が相模守の任中に採訪したものではあるまいか。 家持の採録した相模国防人の歌は数首にすぎないけれども、これによって素朴な相模農民の歌心のたかまりを、現代のわれわれに伝えるのである。彼自身相模での歌は残さなかったが、古代東国の文化的恩人である。 蝦夷地が鎮静する平安時代も中ごろになると文人的な国司の任命も多くなる。その一人に伊勢物語の作者といわれる在原業平がいる。彼は元慶二年(八七八)相模権守に任ぜられたときは、右近衛権中将であった。やはり武官である。彼と同行して下向した彼の二男滋春は、小総駅や箕輪駅で歌を詠んだ。「伊勢物語」の話の数々も、業平在任中の行状の反映であろう。また、父の菅原孝標が下総守の任期が終えた時、共に帰京する十三歳の少女が、多摩丘陵を横切り、足柄峠を越える旅路の思い出は、晩年の「さらしな日記」にかきとめられて、文学史上にも有名である。それから数年後、源頼光の女で、歌人として円熟した乙侍従は、相模守に任命された夫大江公資と同行して相模国府に四年の任期間をすごし、相模と号した。彼女の歌集「相模集」は、相模国での歌が大部分を占める。とくに下向三年目の正月、箱根山に参詣し、たむけの幣を草紙にして、百首和歌を書きつめ、社の下に埋めたが、やがて箱根山の僧から、箱根権現の百首の返歌をおくられた。平安末、京都で流行した百首歌詠が、この地にも芽ばえようとしたが、翌年夫の任期が満ちて共に帰京したので、歌壇形成に至らなかった。中央官人による文化伝播が、現地に根付くことの困難さを示している。 三 中世の夜明け ㈠ 僦馬と騎馬の風土 僦馬の党 昌泰二年(八九九)上野国から中央に対して、東国に強盗が蜂起して、被害甚大であるとして、その対策を求めた。その言によれば、この強盗のもとをたどってみると皆、僦馬の党の連中である。近頃、坂東諸国の富豪の輩が駄馬(荷物を背にのせて運ぶ馬)で物を運んで稼いでいるが、その駄馬は百姓の馬を掠奪したものである。しかも東山道の駄馬を奪っては、犯跡をくらますために東海道で使い、東海道の駄馬を掠奪して東山道で使っている。そのため一疋の駄馬を奪うために百姓を殺すことも辞さない。あげくの果て、群党と結んで強盗となったものである。そこで当国は隣国と協力して追討すると、彼らは解党して、碓氷・足柄峠から脱出してしまう。すでに碓氷峠の坂本(群馬県)に遉羅(見廻り)をおいて通過する者を調べて、相模国に移送しているが、地方の一国の処置だけでは弱いので、中央政府のはからいとして、碓氷峠と足柄峠に関をおいて、通行手形を点検して通行させるようにしたい、というのである。東国の農民に新しい掠奪者があらわれたのである。しかもそれは富豪の輩である。 僦馬は雇い馬のことで、後に馬借とよばれたものである。平安末期には、美食美酒に目のない美女が、それを満足させるためにその夫にえらぶ男性が馬借であるといわれるほど、その稼は荒かった。駄馬は背に荷物を負わせるのであるから力が強ければよい。速さは問題でないので、百姓の耕馬がねらわれたのである。後に軍事的要所となる碓氷・足柄峠の関は、ここに始まった。数年後に、相模国から関設置の効果があったことが報告されたが、通行手形は一層強化されなければならなかった。 内乱と相武 天慶二年(九三九)に北関東で起こった平将門の乱は、古代国家をゆりうごかした最初の内乱であるばかりでなく、これまで西日本の政権に駆使されて来た東日本の人々が、西日本から自立する最初の烽起であった。平将門自身は桓武天皇五世の孫で、祖父高望王が、平姓を賜って上総介に任ぜられて東国に土着して三代目である。東国に土着した高望の子は、上総・下総・常陸等に田地を開いて領主となり、その子孫は、関東八平氏となったが、将門は、下総の北部猿島郡を中心に所領を開発した父良持 駄馬 「石山寺縁起」から の死後、同族間と所領をめぐって紛争をおこし合戦に及んだ。将門は常に優勢であった。勢に乗じて、同族外の紛争にも乗り出したことから、ついに常陸国府を攻略する破目となり、つづいて下野国府、上野国府をも占拠、天皇の任命する国守を放逐し、ついに上野国府で、自ら新皇と宣言し、本拠猿島郡に都を計画し、坂東八か国と伊豆国の国守と百官を任命した。相模守には、弟将文を任命した。このころ相模国府は大住郡にあり、将門はこの国府も巡検した。この将門反乱の報は、京都の貴族たちを驚かせたが、将門自身は、王国建設の翌年二月十四日、同族平貞盛と下野の豪族藤原秀郷の連合軍に破れて敗死する。 京都では征夷大将軍藤原忠文らを征討使として出発させたが、その到着以前のことである。乱の平定も、東国の人々によったのである。またこの乱での主要な戦闘は騎馬戦である。同じころ西国では藤原純友の反乱がおこっていた。この乱は専ら船による反乱であった。東の騎馬は、古代蝦夷戦できたえられ、東国での牧飼の伝統の上に養われたものである。 東国はこの乱で、西国支配からの離脱第一歩を示したのである。 将門塚 東京都千代田区 将門敗死の後に東国に入った征討軍は、残党の掃討を行い、相模国では、将門の兄将俊、将門に常陸介に任ぜられた藤原玄茂を討ちとった。 平忠常の乱と相武 将門の乱からおよそ九十年、都で栄華を誇った藤原道長が死んだ翌年、長元元年(一〇二八)房総の地(千葉県)で平忠常の乱が起こった。朝廷は、検非違使平直方と中原成道が追討使として現地に派遣したが、三年たっても鎮定できず、現地の荒廃は、将門の乱以上であった。結局、朝廷が、源頼信に交代させると、忠常は戦わずして頼信のもとに出頭して降参し、乱はあっけなく終結した。平直方は、鎮定には失敗したが、坂東に滞在中に、鎌倉に館をつくり、鎌倉幕府をきずいた北条氏の祖を東国にのこした。その上、頼信の子頼義の武勇に感じ、婿に迎えて鎌倉館をゆずった。直方の娘と頼義の間に、八幡太郎義家・義綱・義光の三子が生まれ、源氏の世を出現することとなる。 頼信に従って忠常の乱に東下した頼義が、長暦元年(一〇三七)相模守となって再び東国に下向すると、人民は彼に帰服し、拒捍の類(納税拒否者)は、あげて奴僕のように奉仕し、会坂(近江、これより東国)以東の弓馬の士の大半は、頼義の門客となった。陸奥の地に前九年の役が起こると、陸奥守となった頼義は、国衙の兵と門客となった東国の士を組織して転戦した。敵方の現地の土豪安倍氏の一族の団結は固く、前後十二年にわたる苛烈な戦闘をくり返した。天喜四年(一〇五六)十一月の黄海(岩手県東磐井郡藤沢町)の戦で大敗した頼義は、一時は戦死と思われた。この時、辛くも敵の包囲を脱出した佐伯経範は、「自分は将軍に仕えて三十年、将軍に地下までお供するのが、私の志だ」と再びとって返し、彼の従者たちも、「御主人が将軍のために死なれるのに、我らだけが生きのびるわけにはいかぬ」と、主人ともども奮戦して戦死した。佐伯経範は、相模秦野の有力御家人波多野氏の先祖とされているが、すでに十一世紀に武士の社会に強い主従関係が生まれつつあったことがうかがわれる。同じ戦で頼義に従って奮戦した藤原景通・景季父子も、相模国鎌倉党の先祖と考えられている。 前九年役後およそ二十年、前九年の役で苦戦する頼義を助けて勝利にみちびき、奥州の王者となった清原氏一族の内紛に、陸奥守源義家が介入して起こった後三年の役でも、相模武士は、義家軍の中心となった。中でも有名なのは鎌倉権五郎景正である。彼は十六歳で従軍したが、右目に敵の矢を射立てられ、首筋まで射貫かれた。しかし、彼は屈せず、そのまま相手を射殺してから陣に帰って横になった。武勇のほまれ高い三浦為次(為継)は、景正に近づき、毛皮の沓をはいたまま景正の顔をふんで矢を抜こうとすると景正は、 後三年の役 「後三年合戦絵詞」から 東京国立博物館蔵 突然足下から為次を突き殺そうとした。おどろく為次に景正は、「弓矢に当たって死ぬのは兵ののぞむところだが、生きながら顔を土足で踏まれるのは、とんでもない。お前はおれの敵だ」といった。勇猛と名を重んずるは、武士の魂といわれるが、その源を相模武士にみる。景正が、後に鎌倉市内に御霊神社として祀られているのも、故なしとしない。 こうした相模武士に支えられた義家は、京都の貴族たちから、「天下第一の武勇の士」といわれることとなるのである。 荘園と武士 後三年の役の勇者、鎌倉権五郎景正は、十二世紀の初め、今の藤沢市大庭付近一帯の山野を浮浪人を招きよせて開発し、国司の許可を得て、伊勢皇大神宮に御厨として寄進した。御厨は、神社や天皇の供御物の魚貝類や疎菜類を、年貢として納める所領のことである。頼義・義家に従った武士は、いずれも鎌倉時代には、名字の地の開発領主であり、この大庭御厨は、以前は、国衙領大庭郷の地であったが、景正が神宮領に寄進したとき、領内に十二郷あったという。天養元年(一一四四)当時には、東に玉輪荘との間を流れる俣野川、南は相模湾、西は一宮である寒川神社の神郷との境、北は大牧崎であると主張されている。東西約九㌔㍍、南北約七㌔㍍の地域である。この年、鎌倉館を拠点としていた源義朝の郎等らは、大庭御厨の鵠沼郷は、鎌倉郡の内であると称して、国衙の官人と協力して侵入し、御厨を国衙領にしようとした。この時、御厨の西端の殿原郷・香川郷(茅ケ崎市)に対しても、国の目代らが、国役の催促を行っている。平安時代の末、院政による相武の荘園一覧表 国衙領の再興運動が行われたが、その一端であろう。大庭御厨に対する、源氏の武力を背景としたこの運動も結局不成功に終わった。それだけ、伊勢大神宮の力は武士に対して強力であったといえよう。 県南の大庭御厨に対し、県北に成立したのが稲毛荘である。この荘園は、現在の川崎市高津区から中原区にまたがる地域で、その開発は、川崎市多摩区の北部、細山・金程・菅一帯の小沢郷を所領とした稲毛三郎重成である。稲毛重成も有力な鎌倉武士である。開発の時期は不明であるが、大庭御厨よりはおくれると考えられる。稲毛本荘と新荘とがあり、本荘には稲毛郷・小田中郷・井田郷がある。これらは「和名類聚抄」に見えないので、開発によって成立した中世的な郷であろう。田地二百六十三町歩余、荒田二百六十二町歩余、合わせて五百町歩余りの田地があり、外に新田五十五町歩余が記録されているが、年貢は、町当たり八丈絹二疋である。絹織物で納めることになっているのは、桑の栽培と養蚕、そして絹が生産されるのが、この荘のもとの姿であったのであろう。多摩川畔は本来、さらし布の産地であるのに、絹を年貢とするのは、かつて絹生産の強制があったのであろう。この荘園は九条家を本所と仰いだ。 県央西部には、伊勢原市上糟屋・下糟屋・高森・小稲葉・平塚市小鍋島を含む広大な糟屋荘が久寿元年(一一五四)に、荘園となり、平治元年(一一五九)島羽上皇が鳥羽離宮内に建立した安楽寿院領となった。鎌倉武士糟屋氏が名字としているのは、その開発にかかわったからであろう。系図ではこの氏は、藤原元方の子孫となっているが、後三年役に頼義に従った佐伯元方で、平安時代の国衙の官人であろうとの説が信憑性が高い。 この外、平安末までに、県域には次の諸荘が成立し、各荘園内は、その荘名を名字とする武士の本貫地となっていた。彼らは、その荘の開発領主とみて差支えなかろう。 まず相模国内では、足上郡に大井荘(大井町・小田原市下大井、京都延勝寺領、武士不明)・大友荘(小田原市東大友・西大友、八幡宮領、武士大友氏)・成田荘(小田原市成田、左大臣藤原頼長領、保元乱で後白河院領となり、京都の新日吉社領に寄進され、領家職は鎌倉中期に後嵯峨天皇皇后大宮院西園寺姞子、亀山天皇皇女昭慶門院喜子内親王と伝領された)・曾我荘(小田原市、武士曾我氏)・早川荘(小田原市、本家藤原道長の子長家、領家大江公資、武士土肥氏)・中村荘(中井町、武士中村氏)・河勾荘(二宮町、鳥羽上皇皇女八条女院暲子内親王領)・波多野荘(秦野市、皇室領、のち近衛家領、武士波多野氏)・前取荘・四宮荘(平塚市、皇室領)・豊田荘(平塚市、武士豊田氏)・愛甲荘(厚木市、熊野山領、武士愛甲氏)・毛利荘(厚木市、武士毛利氏)・渋谷荘(綾瀬市・藤沢市、武士渋谷氏)・吉田荘(横浜市戸塚区、武士渋谷氏)・山内荘(鎌倉市、武士山内首藤氏)・三浦荘(横須賀市、武士三浦氏)・三崎荘(三浦市、三条天皇皇女冷泉院宮領、のち近衛家領)・六浦荘(横浜市金沢区、武士金沢氏)・賀勢荘(後白河上皇皇女宣陽門院覲子内親王領)・河崎荘(川崎市、武士河崎氏)・橘御厨(川崎市高津区、大神宮領)・榛谷御厨(横浜市旭区、伊勢内宮領、武士榛谷氏)・小山田荘(町田市、武士小山田氏)等が、平安末期ごろまでに県下に成立した荘園と、そこを名字の地とする武士たちである。 公領と武士 これまでの通説では、十一~十二世紀に全国に荘園が展開すると、公地制は崩壊して、国司の支配する公領は見る影もなくなったと考えられて来た。たしかに国によっては、そうした状況を自ら公言している国司もある。しかし最近の学説はかえって逆で、十二~十三世紀は、荘園と並んで公領も、中世の支配体制を構成していると指摘され、これを荘園公領制とよぶべしとの説が唱えられている。この見地から、中世の公領の研究の必要性が認められて来たが、明らかに公領とみとめられる資料は少ない。かつ公領は、荘とはいわず、郷・保・村・名・山等の名称をもってあらわれるが、郷も村も名も山も、中世では、荘園内の地名としても盛んに用いられているので、その識別には、甚だ不確定さが伴う。これらの点に留意しつつ慎重に取扱う必要がある。石井進が、県史の資料編の中から抽出した十四世紀末までの公領の数は合計百二十か所にも及ぶ。 公領の基本単位として圧倒的に多いのが郷であるが、この郷のうち、五十戸一郷とした郷を書き上げた「和名類聚抄」の郷名と一致するものは、相模国で七、県域武蔵三郡で三しかなく、かえって近世以降の村名と一致し、現在まで地名としてその名を伝えるものが圧倒的に多い。これは、律令制の郷と比べて、中世の公領の郷は、より小範囲の地域で、近世から近代につながる村落をもととしたものであることを意味する。中世の荘園内にも復数の郷が出来たが、これも全 衣笠城跡から旧三浦荘を望む 三浦市 く公領の郷と同じ性格のものであり、ここに荘園公領の同質化がうかがえる。 公領の郷には、その地域を管理し、徴税をうけおう役人として郷司がおかれ、主として在地の有力者が任命され、郡司と並んで国衙に直結した。愛甲郡古庄郷(厚木市飯山附近)には郷司近藤太、足下郡大友郷(小田原市東大友・西大友)の郷司職を世襲した大友氏、高座郡下海老名郷の郷司海老名季景の名が史料にのこされているが、鎌倉時代の初期に、松田郷(松田町)を支配していた波多野松田氏、河村郷(山北町)の河村氏、土肥郷(湯河原町・真鶴町)を支配していた土肥氏などの武士も、それぞれの郷司をつとめていた家柄であったと思われる。すなわち公領内にも開発有力武士が成立していたのである。大友・松田・河村・土肥・岡崎・古庄・飯田・長尾・芦名・和田・平子・恩田・市尾の武士たちはこれにあたる。 源義朝父子の相武経営 鎌倉郡由比郷・小林郷・大倉郷・深沢郷等、今日の鎌倉市域の大部分を占める地域は公領であった。この地の館に居をかまえる義朝が、在庁官人と共同して大庭御厨を公領と称して停廃しようとした根拠である。義朝は、同じ在庁官人である三浦介義明の女との間に長子義平を、波多野荘の領主波多野義通の妹との間に次子朝長をもうけた。朝長の屋敷は波多野氏の所領松田郷にあって、その侍所は二十五間あって、鎌倉幕府開設当初の侍所の十八間よりはるかに大きかった。波多野氏の兵力、またこれを同族に組み入れた義朝の軍事力を推察できよう。三浦介に至っては、さらに強大である。義朝はやがて帰京し、隠居した父為義のあとをついで、源氏の棟梁となる。 義朝が鎌倉を去ったあとの相武経営をついだのが、義平である。若年ながら「鎌倉の悪源太」とよばれた猛者であり、わずか十五歳のとき、武蔵国大蔵館(埼玉県)に、叔父の帯刀先生義賢を攻め殺して、一躍武名をあげた。義賢は、上野国多胡郡を本拠とし、武蔵の有力武士秩父重隆と結んで、義朝が勢力をはる相武の地をねらっていたのである。義賢の遺子義仲は、信濃の木曾谷にのがれ、源頼朝と対決することになる。 京洛に戦う相武の武士 保元元年(一一五六)京都に起こった保元の乱には、後白河天皇・関白藤原忠通対崇徳上皇・左大臣藤原頼長の政権争いが、武力闘争にまで発展したものである。天皇側も上皇方も、それぞれ源平の武士を招いて戦いにのぞんだが、天皇方の召に応じた義朝は、多数の東国武士を率いて参加した。その中には相模の武士として、大庭平太景義・同三郎景親・山内刑部丞俊通・同子息滝口俊綱・海老名源八季貞・波多野小二郎義通、武蔵国三郡内の武士として、師岡氏が名をつらねている。この外、武蔵では豊島・中条・成田・筈田・河内・別府・奈良・玉井・丹治・斎藤・榛沢・児玉・秩父・栗飯原・猪俣・金子・河句・手薄加・村山党金子・山口・平山・河越の面々も従ったとある。義賢討滅後の武蔵武士も、大庭御厨事件では敵対関係にあった相模武士大庭氏 三浦義明像 横須賀市 満昌寺蔵 も加わっていることは、義朝・義平父子の相武武士団の再編成の成功を物語っている。 これに対し、義賢を通じての東国武士団の組織に失敗した父為義方に従うものは、源基実の女を母とする頼賢・頼仲・為宗、賀茂神主成宗の女を母とする為成、江口の遊女を母とする鎮西八郎為朝ら、京洛に住む子息らが主力となったにすぎない。為義自身も中宮亮藤原有綱の女を母としていた。東国とは縁は薄かったのである。保元の乱の勝利に大きな貢献をした義朝は、その武功にかえて父為義の助命を請うたが許されず、降伏して来た父をはじめ多くの弟たちの死刑を強要され、しかも恩賞は、同じ天皇方に加わった平清盛一族にはるかに及ばなかった。 こうしたことに不満をいだいた義朝は、平治の乱(平治元年-一一五九)には、藤原信頼に協力して平清盛と戦い、惨敗する。この乱にも相武の武士は、義朝に従い、とくに山内俊綱は六条河原で討死し、その父俊通は、義朝敗走の防矢して戦死した。 保元・平治の乱後の戦勝者側の敗者に対する追求はきびしかった。保元の乱では、そのため源為義一家は全滅し、平治の乱では、源義朝一家は、幼児に至るまで斬首された。わずかに、平清盛の継母池禪尼の助命によって源頼朝と、常盤御前を意に従わせようとして許した義経ら数子が見逃された。頼朝は、平家の腹臣山木兼隆が目代となっていた伊豆国に流され、義経は、僧侶となって寺院山林にひそんだ。 平氏は、源氏の棟梁一家に対して追求はきびしかったが、源氏の棟梁の下に結集した東国武士団に対しては、寛大であった。彼らは荘司であったり、郷司あるいは在庁官人が本職である。戦敗者として武威を振うことは出来なくなったが、その本職を失ったわけではない。その上棟梁と武士たちの関係は、封建制度が未熟なため、中世ほど絶対的ではない。数百騎あげられている東国武士団のうち、源氏の棟梁のため戦死した武士は、数指を数えるにすぎない。その大部分は、敗色濃くなると、それぞれ戦場を離脱して、本名の地にかえり、あるいは京都にとどまって内裏大番役の勤仕をつづけ、内裏番役を指揮する平氏の傘下に入った。平氏は、つとめてこれらの源氏武士団の組織化につとめた。保元・平治乱では源氏に従って奮戦した大庭景親などは、平家側の武士団の統率者の地位につき、平治の乱で義朝のため戦死した山内首藤氏や、為義の子朝長のため宏大な館をつくった波多野氏らをも、その傘下に収めた。平氏全盛時代の平家家人の調査によると、伊勢国の武士五十九氏についで、武蔵国四十六、相模国三十八氏が見出され、俣野景久(大庭御厨俣野郷)・長尾為景(鎌倉郡長尾郷)・梶原家景(鎌倉郡梶原郷)・八木下正常(足下郡柳下郷)・香川五郎(高座郡香川)・渋谷重国(渋谷荘)・国分太郎(国分寺荘)・本間五郎(愛甲郡本間)・曾我祐信(曾我荘)・糟屋盛久(糟屋荘)・河村義秀(河村郷)・飯田五郎(高座郡飯田)・毛利景行(毛利荘)・土屋義清(土屋荘)・土肥実平(土肥郷)・三浦義澄(三浦郡)の面々である。荘園公領のいずれにもみられ、彼らの大部分は、頼朝挙兵の当初は、平家側の総大将大庭景親に従って、頼朝の身命を危うからしめたのである。 中世 一 武家の府鎌倉 ㈠ 鎌倉殿の誕生 頼朝鎌倉に入る 平治の乱から二十年の歳月が流れた。十五歳で伊豆蛭子島(静岡県)に流された源頼朝も三十五歳の壮年に達した治承四年(一一八〇)、京都で源頼政の勧めをうけて、反平氏の兵を挙げた以仁王の令旨が、頼朝のもとに届けられた。これをうけて八月十七日夜、頼朝はかねて連絡のあった伊豆や西相模の武士たちや、妻政子の父で伊豆の在庁官人であった北條時政らと共に蜂起して、伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺し、国府の実権を握り、東国支配の権限を頼朝に与えたとある以仁王の令旨を陣頭にかかげ、東国を目ざして進んだが、今の小田原市南部の石橋山で、大庭景親の率いる三千余騎に迎えられて惨敗した。ようやく土肥実平の助けにより、真鶴崎から海路安房にのがれた。ここで三浦半島で頼朝に呼応したが間に合わず、畠山勢に追われた三浦氏一族と合流して、勢力を回復し、上総の上総介広常、下総の千葉介常胤らの帰服を得、ついで武蔵に入って畠山氏・江戸氏・河越氏などの有力武士団をその手勢に加えながら、大軍となって相模に入り、千葉介常胤の進言に従って、父祖ゆかりの要害の地鎌倉をその本営と定めた。十月七日鎌倉に入った頼朝は、頼義が勧請した石清水八幡宮を鶴岡に移し、自邸をその東側の大倉に定め、大庭景義に工事の監督を命じた。武家の府鎌倉の発足である。 十月、東下する平家軍を迎えうつため、駿河国(静岡県)賀島に出陣したが、富士川対陣で平家軍は潰走、頼朝は追撃しようとしたが、千葉常胤・三浦義澄らの忠告によって中止した。二十五日相模松田亭に入り、反転して常陸佐竹秀義追討に進発、途に萩野俊重を滅ぼし、十一月十七日鎌倉に帰着。同日和田義盛を侍所別当に任じ、十二月十二日大倉に竣工した新邸に移った。この時出仕の御家人は和田義盛以下三百十一人、それぞれ宿館を構えた。武家の府としての鎌倉は、その性格を確立し、これまで海人野臾(漁夫・農夫)の外は住む者もなかった鎌倉は、武家屋敷が門を並べるようになった。 このころ平家は京都に政権を握っていたが、寿永二年(一一八三)九月、北陸道を攻め上った木曽義仲に迫られて西海に脱出し、天下は平氏・義仲・頼朝三分の形勢となった。鎌倉は、伊勢国を含む東国支配の府となり、相模国は、一挙に歴史の中心舞台となった。頼朝自身は鎌倉を動かず、異母弟の義経・範頼に東国勢を率いて東上させ、元暦元年(一一 石橋山合戦場跡 小田原市 八四)木曽義仲を亡ぼし、文治元年(一一八五)三月平氏を長門壇浦(山口県)に挙族滅亡させた。文治五年(一一八九)には奥州藤原氏を滅ぼして、天下を統一した。これらの勝利は、専ら相武を中心とした関東武士のはたらきによる。このころ頼朝は鎌倉殿とよばれ、京都では、治承五年を養和と改元したにもかかわらず、頼朝は治承の年号を用いつづけて、独立政権であることを表明したのである。 鎌倉幕府の成立 頼朝は、安房から転進して鎌倉に入ると、まず武士の統制と支配、軍目付の任にあたる侍所を設置して和田義盛を別当に任じ、頼朝が流罪中も彼と交流のあった京都の文人たちを政務の事務官に起用して、政治の体制をととのえた。頼朝の乳母の一人の妹の子にあたる三善康信、以前頼朝の養育にあたって頼朝年来の知り合いである中原親能、及びその弟大江広元ら、文筆にすぐれた人々を公事奉行人として、東国支配者としての統治を進めた。元暦元年(一一八四)公家にならって公文所(政務の処理機関)や問注所(裁判機関)を設け、大江広元を公文所別当に、三善康信を問注所別当に任じた。文治元年(一一八五)頼朝が従二位に昇進する 源頼朝像 東京国立博物館蔵 と、公文所は発展的に政所に吸収された。 頼朝が征夷大将軍に任ぜられて、名実ともに武家の府である幕府となるのは、建久三年(一一九二)のことであるが、その実はすでにそれ以前にととのえられていた。 文治元年十二月、頼朝に疎外されて挙兵を企てた義経が没落すると、頼朝は朝廷に強要して、義経の追討と、諸国を北条時政以下の御家人に分賜し、荘園公領に段別五升の兵粮米を徴収することを許す宣旨を得、頼朝を日本総追捕使(総守護)・総地頭に、有力御家人を国別総追捕使(守護)・地頭に任じ、国中の御家人を指揮して治安警察権を掌握するばかりでなく、国衙を支配して国衙の役人や荘園公領の下司・押領使もすべて鎌倉殿が支配するという宣旨が出された。これによって平氏の旧領や義経らの所領には、御家人が地頭に任命されることになった。武家政権の実質はこの宣旨で公的なものとなった。これによって任命された諸国総追捕使や地頭は、頼朝の挙兵以来彼に従って戦線に戦った相模・武蔵・伊豆・上総・下総・上野・下野の武士たちである。彼らは本名の地以外に全国に総追捕使職・地頭職の名で所領をもつことになり、中世に、相武の武士が全国にひろがる契機となった。またこれらの武士を統治する鎌倉殿のいる鎌倉は、京都と並ぶ政治の中心となった。 鎌倉街道の整備 鎌倉が武家の府となると、京都・鎌倉間の公私の往来はにわかに多くなった。これまで京都と相模国府(当時の国府は現在の大磯町)を結び、内陸を横切って下総国府(市川市)に至る東海道は、大化前代の三浦半島を縦断して浦賀水道を横断する古道に復活することとなった。令制の駅は再編成されて、京都~鎌倉間には数多くの宿が整備された。建長五年(一二五三)に鎌倉殿として迎えられた「宗尊親王鎌倉下向記」は、京都鎌倉間に三十宿をあげているが、この時代に京都から鎌倉へ下向した源光行の旅行記「海道記」(貞応二年=一二二三)や、源親行の「東関紀行」(仁治三年=一二四二)、有名な和歌の家冷泉家の所領争いの訴訟のために女性の身でありながら自ら幕府の裁定を仰ぐため鎌倉に下向して、鎌倉で没した阿仏尼の「いざよい日記」(建治三年=一二七七)などによると、彼らの利用した宿には、多少の出入があるが、これらを総合すると、この時代には足柄越えと箱根越えがあり、前者は静岡県下の竹ノ下から足柄峠を越えて、関下(坂下)宿・逆川宿を経て鎌倉に入る、ほぼ平安時代の東海道の延長である。後者は、静岡県下三島宿から箱根山を越え湯本を経て、酒匂宿・鮎沢(藍沢)宿等を経て鎌倉に入る。源頼朝が伊豆に挙兵以後、伊豆三 伊豆山神社 熱海市 島神社・箱根神社・伊豆権現の三社を特に信仰し、毎年年初にこの三社に詣でるのを例としたこともあって、箱根越え道が次第に重視され、室町時代になれば、足柄路はさびれて箱根路が用いられ、葦河・湯本・小田原・酒匂・郡水・志保見・平塚・懐島・鎌倉の道中となった。この道中は、幕府の使者が往来して日本の歴史をゆりうごかす大動脈となり、あるいは将軍に招かれた京都の文人・学者・芸能人が上下し、あるいは鎌倉番役を勤める西国御家人、あるいは京都守護・内裏番役を勤めるため上洛する東国武士、幕府に所領裁判を求める訴訟人たちが、それぞれの使命と思惑をいだきながら上下した。中世の政治・文化の大動脈の役割を果たした。 さらに東海道につぐ重要な道路として、東国に集中的に居住する御家人の動員を目的とする、東国各地から鎌倉に至る、いわゆる鎌倉往還(鎌倉街道は江戸時代の称)がつくられた。その中心となるものに上の道、中の道、下の道があって、上の道は鎌倉から武蔵中央を北上して、上野・下野・信濃方面に至る道、中の道は、鎌倉を出て、東京湾と上の道の中間を北上して宇都宮・陸奥に至る道、下の道は、東京湾沿いに北上して、一は湾岸沿いに上総・下総方面に至り、一は分かれて常陸方面に通ずる。この三道の外に上総木更津から東京湾を海上横断して武蔵六浦に上陸し金沢を経て鎌倉に入る六浦道、甲斐国から御坂峠・籠坂峠を越えて鎌倉に至る道などがあった。これらの道は、鎌倉に変事が起こった時には、御家人が寸刻を争って馳せ参ずる往還であり、身の危険を感じた武士たちが鎌倉から脱出する道でもあった。さらに、頼朝の奥州征伐、承久の乱に関東軍が大挙進撃する道でもあった。 鎌倉の町造り 鎌倉に集まる往還は、この外にもある。その往還の鎌倉に入る口は、七つあって七口といわれた。極楽寺口・大仏口・化粧坂口・巨福呂坂口・六浦口・名越坂口・小坪口である。この七口が開かれた時期を、明確に伝える史料はないが、それぞれの口は鎌倉往還の起点でもあって、極楽寺口・化粧坂口は東海道、巨福呂坂口は下の道、六浦口は六浦往還、名越坂口は、三浦半島を経て、浦賀水道を渡って安房に至る往還の出口である。小坪口も同様である。いずれも鎌倉をとりまく丘陵を切り開いてつくったので、切り通しともよばれる。 頼朝が千葉氏らのすすめで、鎌倉の新第に居を定めたとき、三百十一人の御家人が居館を構えたが、その居館は必ずしも、都市計画にもとづいたものではない。当時の鎌倉は、軍事拠点であり、日本の政治の中心としての都市建設は、北条執権の時代になって、為政者の意識に上る。ただ 化粧坂 鎌倉市 武士は神仏崇拝の念強く、頼朝も大倉に新邸を構えると同時に、由比ヶ浜から八幡宮を大倉邸の隣りの鶴岡にうつし、社前から由比ケ浜に大路をひらき、葛石を敷いた段葛をつくって、京都の内裏と朱雀大路になぞらえ、都市鎌倉の構想を示したが、建設は文治元年(一一八五)勝長寿院、同五年(一一八九)永福寺がまず建立され、頼朝夫妻による仏事をしばしば行われたが、道路については、怠慢のあった将士の償いに道路つくりを命じた程度にすぎなかった。それが本格化するのは北条氏執権時代である。開府以後年月を経るにつれて、次第に行政的要素をつよめ、また武士の居住につれて、その生活的需要に応ずるための職人や商人も集まり、物資は、由比ケ浜に揚陸されてにぎわった。承久の乱の数年後の貞応二年(一二二三)の「海道記」に由比ケ浜のにぎわいを「此所をみれば、数百艘の舟ども、綱をくさりて大津のうらに似たり、千万宇の宅、軒をならべて、大淀のわたりに異らず」と記している。大津は近江(滋賀県)の大津、大淀は山城(京都府)淀川の港で、ともに京都の外港である。この言葉には、由比ケ浜のにぎわいとともに、鎌倉が京都と並ぶ都であるとの認識がある。弘長三年(一二六三)八月十四日大暴風雨のため由比ケ浜にあった数十艘の船が漂没し、二十七日の大風雨で伊豆沖で漂流した鎮西年貢運送船六十一艘も、由比浦に向かうものであったであろう。こうした風波の難をさけるため、貞永元年(一二三二)往阿弥陀仏の勧進によって、和賀江島が築かれた。建保三年(一二一五)七月、幕府は結城宗光を奉行として町人以下鎌倉中の諸商人の員数を定めたのをみれば、早い時期にすでに商人の制限を必要とするほどの都市化が進行していたのである。小町大路・小坪路・横大路・今大路・東大路・西大路などの大路の整備もすすみ、仁治元年(一二四〇)には、盗人・旅人・辻捕(辻で女を捕える痴漢)・悪党などの検察、町辻での売買、辻々の盲法師(辻芸人)・辻相撲、押買(押売り)などの取締りを職務とした保奉行を設けた。保奉行の管轄する保は京都左右両京の保をならったものである。同時に、京都の篝屋にならい、鎌倉の要所要所に篝屋を造って保内の在家人に番をつくって火を焚かせて夜中警固に当たらせた。都市的犯罪の増加を物語るものである。このころ若宮大路下の下馬橋付近の好色の家(飲み屋)で、酒宴乱舞のあげく、三浦氏と小山氏の武士が喧嘩に及び、あわや一大事になろうとし、執権北条泰時の直接のはからいで鎮められた事件さえ起こっている。建長四年(一二五二)幕府は、鎌倉や諸国にむけて酒造りや、酒の売買も禁止するため、鎌倉中の酒壺を数えさせたところ、三万七千二百八十四個もあった。保奉行は、在家一軒に一個を認めて、他を破壊させた。しかも認めた酒 和賀江嶋 鎌倉市 壺も酒以外に用いなければならないとした。鎌倉市中の泥酔者の横行が思い知られる。 保奉行人は、鎌倉中にたむろする浮浪人を追放する役目もあった。この追放作戦は何度も行われたが、これも鎌倉の都市的一面を示すものであろう。建長三年十二月、これまで自由であった商人の営業地を定めたことがある。この場所を大町・小町・米町・亀谷の辻・和賀江・気和飛(化粧)坂山上とした。この町には、牛を小路につなぐな、小路の掃除をよくせよとも命じている。小路の混雑や、道路のゴミを防ぐためである。文永二年(一二六五)に、亀谷辻、気和比坂上、和賀江に代わって、魚町・武蔵大路下・須地賀江橋が町屋に加えられ、押買・立商人(行商や路上での商人)・迎買(運送中の荷を規定以外の場所で買いとる)を禁止し、建長五年七月には、とりわけ高値であった炭・薪・萱木・藁・糠の五品の公定価格を定めた。この五品は、武士の必需品(馬糧・燃料)である。 ㈡ 栄える鎌倉文化 京下りの文化 源頼朝は幕府を開くに当たって、京都から大江広元・三善康信らを招いて政治機関として公文所や政所をつくらせ、政務に当たらせた。武家政治を京風の仕組みで行おうとしたのである。彼は、しばしば管弦詠歌の会合を御家人と共に催して、御家人も舞曲に通じていたことを示している。恐らくその舞曲は、東国自生のものでなく、平家時代内裏大番役で上洛中に習いおぼえたものであろう。建久二年(一一九一)頼朝は、多好方・好節ら京の楽人を鎌倉に招いてその技を伝えさせ、好方らが帰京すると、大江久家ら十三人を京都に留学させて好方に学ばせる熱心さである。二代将軍頼家は蹴鞠を好んで、そのため政務を顧みないと非難され、伊豆に幽閉される理由となったほどである。三代将軍実朝も好んで、京都から蹴鞠書を贈られているが、実朝は和歌にも熱心で、はるばる京都の藤原定家の指導をうけ、数多くの名歌をのこしたことは有名である。その歌は「金槐和歌集」として今日に伝えられている。また芸能者を選んで学問所番を編成して和歌や中国の故事を語らせたが、その中には北条時房、泰時ら十八名の武士が加えられている。源氏断絶後、京都から迎えられた四代将軍頼経も、小侍所の近習者に書道・弓馬・蹴鞠・管弦・郢曲に堪能な者を加えた。泰時以後の執権・連署には、その和歌が勅撰和歌集に採録されるものが少なくないが、これも京文化の影響である。 頼朝は、神仏の信仰が厚かったが、その外陰陽道・宿曜道の祭も盛んに行った。そのため多数の陰陽師らが鎌倉に住みついた。 実朝の首塚 秦野市 こうした京下りの文化は、金沢実時の金沢文庫の経営に至って、学術的文化の緒をひらくことになった。この文庫は、北条氏の一族金沢実時が建治元年(一二七五)ころ金沢の地(横浜市金沢区)に開設し、実時・顕時・貞顕の三代にわたって、京都の清原家から経書の伝授をうけ、公家からは国書の書写をうけて、これを金沢文庫に収蔵した。今日知られている金沢文庫本と称せられるこれらの漢籍・国書は、二百五種に及んでいる。その範囲は政治・法制・農政・軍学・文学の広範囲に及び、金沢氏がひろい分野にわたって京都の学問を鎌倉に移そうとしたことがうかがわれる。 仏教文化 鎌倉文化は武家文化といわれるが、別に寺社文化ともいわれるほど、宗教文化も盛んである。頼朝のとき、勝長寿院等の三大寺が建てられたが、その後も将軍や執権による寺院の建立が相ついだ。中国から伝えられた禅宗も、すでに頼朝のひらいた寿福寺の開山に栄西が迎えられるなど、開幕当初からあり、京都東福寺の開山円爾も数回にわたって鎌倉に下向、 蘭渓道隆 建長寺蔵 兀菴普寧 正伝寺蔵 明庵栄西 寿福寺蔵 道元も鎌倉に来て説法を行った。彼らを迎えるものは執権以下の武士たちであり、やがて積極的に中国から禅僧を迎え一寺をひらく。北条時頼が、蘭渓道隆を迎えて建長寺をひらき、北条時宗は、無学祖元を宋から招いて円覚寺をひらいた。建長寺二世兀菴普寧、建長寺・寿福寺・円覚寺に歴住した大休正念など、いずれも執権の招いた宋僧である。これら高僧の寺々には多くの修行僧が集まり、円覚寺は僧百人、行者・人工百人の外に雑役者五十人を定員とし、建長寺の僧は二千を数えたであろうとされている。彼らの生活はもちろん禅宗の制規に従い、天台・真言の旧寺院風ではない。新しく禅宗風の日常生活の生活具が大量に必要となる。由比ケ浜や和賀江島は、そうした宋風生活具の揚陸地としても利用され、禅宗風による文化が展開した。絵画や彫刻における頂相、不立文字を唱えながらも特殊な発達を示した文学、建築における唐様などであり、喫茶の風習も禅僧によって、ひろめられた。 異国風の禅宗に対し、旧仏教から生まれた日本新宗教も、早く東国に及んだ。正治二年(一二〇〇)、鎌倉で念仏僧の黒衣を禁じ、黒衣を焼却した。将軍頼家は黒衣を憎んで、念仏僧を捕え、念仏を禁じた。京都で専修念仏が停止され法然以下、流罪や斬罪が行われるより七年も前のことである。にもかかわらず、東国武士で法然の下に参ずるもの跡をたたず、石川(藤沢市石川)の道遍は、法然から教えをうけて帰国してその道を守り、宝治合戦(一二四七)に三浦氏と運命を共にした評定衆毛利西阿は専修念仏者であった。この西阿は安貞元年(一二二七)、重ねての専修念仏停止によって陸奥に流されて相模国を通過した法然の一の弟子隆寛をその所領厚木の飯山光福寺にとめて、その最期を見守った。その弟子智慶はさかんに浄土宗を東国にひろめた。同じ念仏者である一遍が、奥州に祖父河野通信の墓に詣でての帰途、巨福呂坂から鎌倉入りを試みたのも、こうした雰囲気を背景にしたものであろう。北条時宗に拒まれて鎌倉入りができず、片瀬で数日踊り念仏を行い、西へ去ったが、乾元元年(一三〇二)一遍の弟子真教が、相模の当麻(相模原市)に無量光寺をひらいて、遊行聖の地位を智得にゆずって、独住した。真教は独住後も積極的な布教を行って、百近い道場を関東にひらき、北条氏一族をはじめ幕府の重臣などを信者とした。京都の公卿から上洛をすすめられた返事に「関東の荒武者どもにとりこめられ、身の暇をゆるされず候」とのべたほどである。真教に遊行聖の地位をゆずられた智得のあとをついだのは呑海である。彼は俣野荘(横浜市戸塚区と藤沢市にまたがる)の地頭の弟で、智得の死後、正中二年(一三二五)武蔵芝生宿(横浜市西区)で遊行聖を安国にゆずり、藤沢に清浄光寺をひらいた。この寺は呑海以後の遊行 鎌倉入りをこころみる一遍上人「一遍上人絵伝」から京都府 歓喜光寺蔵 上人の引退後の寺となり、鎌倉に近いところから、武士たちが念仏に集まり、鎌倉幕府滅亡の際には、寄せ手の新田勢も、守る北条勢もともに念仏を唱えながら戦い、道場の僧はみな浜に出かけて、念仏者には念仏をすすめて往生をとげさせたので、これを見聞した人たちの念仏の信心は一層盛んになった、と報じられた。 こうした念仏の流行に対し、念仏無間を唱えて、安房の清澄寺を追われて鎌倉に来て、名越の松葉谷に草庵を構えて辻説法を始めたのは日蓮で、建長五年(一二五三)のことである。彼は文応元年(一二六〇)、『立正安国論』を著し、執権時頼に献じたが反応なく、かえってこの年念仏者によって草庵を襲撃された。日蓮は危く難をのがれ、すでに信者となっていた下総の武士富木常忍の下に身をよせたが、翌年には再び鎌倉に出て、念仏のみでなく禅・真言・律の攻撃をはげしく行った。いずれも鎌倉において幕府や執権 竜口寺 藤沢市 らを信者とする宗派であり、ために日蓮は捕えられ、竜口(藤沢市)の法難に遭い、奇蹟的に斬首を免れて、佐渡に流されるが、文永十一年(一二七四)には赦免されて鎌倉にかえり、内管領平頼綱に自己の信念を説いたが顧みられず、ついに五月十二日鎌倉を去って、信者甲斐の南部氏の所領である甲斐身延山中に退去した。ここから書信をもって布教をつゞけ、下総・武蔵・駿河・佐渡や鎌倉に教線を拡大すること九年、弘安五年(一二八二)病がすすみ、周辺のすすめで、南部氏の所領常陸の温泉に湯治に赴く途中、武蔵千束郷(東京都大田区)池上宗仲の館で没した。今の池上の本門寺がその地である。 こうして親鸞を除く鎌倉新仏教の宗祖やその後継者は、鎌倉を目指して県下を往来した。だが幕府や、将軍や国家の安全祈願を行うのは、天台・真言の旧仏教によっており、とくに山門・寺門(園城寺)の僧侶を招いて、鶴岡八幡宮の供僧・別当に補し、金沢氏の菩提寺称名寺では、西大寺叡尊の鎌倉行化を契機に、西大寺流律寺となって、好学金沢氏の外護の下に大いに教学がおこった。初代長老の審海、二代剱阿、三代湛叡らの教学研究の成果は、今日おびただしい仏書として、金沢文庫に伝えられている。叡尊の弟子忍性も、極楽寺において大いに律宗を宣揚し、聖徳太子を追慕して、諸所に療病所を設け、病者を加療治癒すること四万六千八百人に及んだ。また日本最初の馬病舎を坂ノ下に設け、慈悲を動物にまで及ぼし、さすがの日蓮も「極楽寺の良観上人は、上一人より下万人に至るまで、生身の如来とこれを仰ぎ奉る」ことをみとめている。北条貞時の覚園寺、飯山の清浄金剛寺、いずれも諸宗兼学ながら、戒律復興の拠点となった。相模は、禅宗一色になったわけではない。 ㈢ 相模に消え去る武士たち 相模武士の風土 平安時代の末に相武の地に多くの開発領主があらわれ、鎌倉幕府の創業に参加した。彼らの系譜にはおよそ三系統がある。その一は三浦氏である。その勢力は三浦半島を基盤として西は相模の中央部へ、東は浦賀水道を越えて安房に及び、相模武士団中の最大級である。系図の上では桓武平氏高望の子孫というが、本来は古代以来三浦半島に根をはった古代豪族で、十一、二世紀ごろ関東平氏と関係ができて改姓したものと思われる。家祖としてたしかな人物は、後三年役に源義家に従った平為次で、その子義継と義明は三浦荘司を名乗り、相模国衙の官人と共に大庭御厨停廃事件に加わっている。義明は、在庁官人ともなって、以後代々三浦介と称した。義明の弟義実は、大住郡岡崎(平塚市)を本拠として岡崎四郎を名乗り、中村荘司中村宗平の娘を娶って佐奈田(平塚市真田)・土屋(平塚市土屋)を名字とする家を分出した。義実の甥為綱は、三浦半島の芦名を名字としたが、愛甲郡石田(伊勢原市)に石田氏を分出した。義明は、頼朝の挙兵にいち早く応じて三浦半島を出発したが、風雨に妨げられて間に合わず、引き返す途中、畠山氏に攻められ戦死したが、その子義澄らは安房にのがれて頼朝に合流した。以後三浦一族は、頼朝挙兵以来の功臣として幕府に重きをなした。初代の侍所別当和田義盛も、三浦半島和田の地を名字とした義明の孫である。 東の三浦氏に対し、西に繁延したのが中村荘(小田原市東部と中井町一帯)の荘司中村氏である。中村氏も桓武平氏を称するが、たしかな人物としては、例の大庭御厨事件に、三浦義明と協同した中村荘司平宗平である。宗平の長男重平は中村荘を相続し、次男実平は土肥郷(湯河原町一帯)に分出して土肥氏を名乗り、三男宗遠は、土屋(平塚市土屋)に分出して土屋氏を、四男友平は二宮河匂荘(二宮町)を与えられ二宮氏を、五男頼平は、中村荘の北方堺に分出して堺氏を称した。石橋山合戦に敗れた頼朝を安房に脱出させた土肥実平の功は大きく、頼朝の信頼は厚かった。 三浦・中村両氏の間に繁延したのは、鎌倉党の面々である。系図では桓武平氏と伝えるが、党とよばれていることは、複数の氏の集団であることを示す。その一は藤原姓で、前九年役に源頼義に従った鎌倉権大夫藤原景通の系統である。その二は大庭御厨の開発領主平景正(景政)の系統で、後三年の役に源義家に従って勇者ぶりを示した鎌倉権五郎景政(景正)である。景政の子孫が大庭景能・景親兄弟で、兄は平氏軍を率いて石橋山に頼朝を破り、弟は頼朝に従って鎌倉の頼朝邸の建築奉行をつ 中村氏館跡 小田原市 とめた。末弟の景久は高座郡俣野を名字とし、彼らの叔父景弘は高座郡長尾を名字とし、後、関東管領上杉氏の家宰長尾氏となったともいわれる。鎌倉市梶原を名字とし、頼朝に重用された梶原景時もこの一族である。 県央から西北部にひろがる秦野盆地には、波多野一族が繁延した。この一族は藤原姓を名乗るが、本来は佐伯氏で、源頼義に三十年余も従者として仕え、前九年の役で頼義に殉じて戦死した佐伯経範の子孫とされている。秦野盆地の摂関家領の波多野荘を開発し、酒匂川流域にも進出して、河村郷・松田郷・大友郷などに一族が繁延して、松田・大槻(秦野市)・河村・大友・沼田(南足柄市)の諸氏を分出した。早川荘(小田原市)に所領をもった山内首藤氏も波多野氏の祖経範の兄公清の末という説がある(カッコ内は分出地、以下同じ)。 現在の伊勢原市一帯を占める糟屋荘の荘司糟屋氏も藤原姓を称しているが、これも前九年の役に頼義に従った坂東の精兵佐伯元方の子孫である。糟屋・四宮(平塚市)・城所(平塚市)らの諸氏を分出した。 横山党系図(武蔵七党系図・本間系図) 県北の多摩丘陵地帯には、横山党が進出していた。この党は、東京都八王子市横山を名字の地とし、小野氏を本姓とした武蔵国の国衙の官人で、前九年の役に頼義に従った横山野太夫経兼はその祖である。永久元年(一一一三)、内記太郎を殺した罪で、横山党二十余人の追討令が相模・武蔵・上野・下野・上総の五か国に下された。横山党の勢力のほどがうかがわれる。この党からは、海老名・愛甲・荻野・本間(厚木市)・平子(横浜市)・石川(横浜市)・小倉(川崎市)・菅生(川崎市)・井田(川崎市)の諸氏が分出した。 県北の武蔵三郡には、この外に埼玉県秩父郡に根拠をもつ秩父氏から分出した諸氏がある。秩父氏は桓武平氏と称するが、本来は古代の秩父国造家の系譜をひくものであろう。この秩父氏からは、畠山・河越・葛西・豊島・江戸らの有力武士を分出し、県下に及んで河崎(川崎市)・小山田(町田市・川崎市にまたがる小山田荘)・稲毛(川崎市)・榛谷(横浜市)の各氏を分出し、さらに相模国の大名といわれた渋谷(大和市)氏も、この氏である。 以上、鎌倉幕府草創期に活躍した武士のほとんどが、古くからの現地の豪族で、源頼義以来源氏との関係をもったものである。京下りでは、僅かに大江広元が頼朝に与えられた毛利荘(厚木市)を領した毛利氏、大友荘を与えられた中原親能の大友氏ぐらいのものである。 相模に消え去る武士たち 東国の政権樹立の主動力となった相模の武士たちも、頼朝を自家薬籠のものとした伊豆の小土豪北条氏のため次々と相武の地に抹殺され、武士はその所領の全国的拡散につれて、相模国の本名の地よりも、他国にその家をとどめるものが少なくなかった。 前者の最初の犠牲者は、梶原景時である。頼朝一の郎等といわれた彼は、頼朝の死後、北条政子の妹で八幡(後の実朝)の乳母阿波局にそそのかされた三浦義村・和田義盛・小山朝光ら有力御家人六十六人に排斥されて鎌倉を追放され、その所領相模一宮にたてこもり、京都に活路を求めて、正治二年(一二〇〇)相模国を出たが、駿河国清見関(静岡県)付近で、付近の武士におそわれ、一家もろとも殺された。 次は和田一族である。建保元年(一二一三)北条義時は、伊豆に幽閉し殺害した頼家の遺児を擁立する陰謀が発覚したと流言を放ち、和田義盛の子らをその一味として捕え、和田義盛を挑発した。義盛は一族親族に檄をとばして義時を攻め、一時は有勢だったが、三浦義村の寝返りのため敗北し、和田一族、横山党の横山・粟飯原・古郡・屋那井・土屋、山内党の山内・岡崎・由井・高井・大多和・大方・成山・高柳・土肥・渋谷・毛利、鎌倉党の梶原・宇佐美・愛甲・金子・逸見・海老名・荻野・六浦・松田・相田・波多野・塩谷・白根・佐奈田・津久井の人々が討死し、その所領は没収されて、北条義時以下の戦功者に与えられた。討つも討たるも相武の武士ではあったが、消え去る者が多かった。加えて和田義盛の侍所別当職は義時が任ぜられ、義時はこれまでの政所別当をも兼ねて、幕府政治機構 和田塚 鎌倉市 の最高のポストを占めた。その地位は、北条氏の嫡子によって世襲され、得宗専制政治にふみ出すことになった。 次は宝治元年(一二四七)の事件である。和田の乱で北条氏に寝返りした三浦氏は、北条氏の外戚ともなって勢力を振ったが、このころ、北条氏と結んで勢力をたかめた御家人安達景盛とその外孫北条経時との権力闘争に敗れ、頼朝の法華堂において、当主の泰村以下五百余人が自殺した。その人々は、泰村一族をはじめ、高井・佐原・長江・下総・佐貫・稲毛・臼井・波多野・宇都宮・春日部・関・多々良・石田・印東・平塚・平塚(土用)・佐野・得富・榛谷・長尾・秋庭・岡本・橘の諸氏、生虜となった者、金持・毛利・豊田・長尾・大須賀の人々である。和田の乱で生きのこった相模武士は、再度の打撃をうけただけでなく、犠牲の範囲は、下総にも及んだ。 相武の御家人に最後のとどめをさしたのは、弘安八年(一二八五)の霜月騒動である。古代の武蔵国足立郡の郡司家の末と思われる御家人安達泰盛が、内管領(得宗家の管領)平頼綱に中傷されて、滅ぼされたが、泰盛と共に自害した者は、安達一門をはじめ、大曽禰・伴野・小笠原・殖田・小早河・三科・葦名・足立・懐島・綱島・池上・行方・二階堂らで、信濃国にも及び、この外武蔵・上野、はるか遠く筑前の武藤氏まで巻き添えをくって、自害者五百人と注進されている。注目されるのは、この騒動で相模の武士は、これまでに比べると少ない。 鎌倉幕府は、北条義時以来、北条氏の執権政治となって、その専制の度をたかめたが、その根底にはこうした相武御家人の排除があったことを見逃せない。だがこの北条氏も、元弘三年(一三三三)、後醍醐天皇の指令をうけた関東武士によって、相模にその姿を消すのである。 しかし一方では、相武の武士は、源平合戦、承久の乱を通じて、幕府方に没収された敵方の所領を戦功の賞として充てがわれて、相武御家人の所領が全国的にひろまり、それらの所領に庶流が定着し、本家は相模にその姿を消しても、地方に栄えた武士も少くない。越後(新潟県)の三浦和田氏、安芸(広島県)の毛利氏、小早川氏、豊後の大友氏、薩摩の入来院氏(渋谷氏)、越後の長尾氏(上杉氏)などは、その代表的なものである。 二 戦乱の世 ㈠ 鎌倉府の成立 足利尊氏鎌倉に叛す 元弘三年(一三三三)五月二十二日、百四十年間つづいた鎌倉幕府も、上野国新田荘から南下した新田義貞のため北条氏が亡ぼされると共に消滅した。この時三浦氏の一族、大多和義勝は、松田・河村・土肥・本間・渋谷の勢を率いて義貞を助けた。何回にもわたる北条氏のために除かれたにもかかわらず、相模武士は根強く生きのこっていたのである。これに反し北条氏は、信濃(長野県)の諏訪氏の下にのがれた北条時行を除いて、一族こぞって死を共にした。 北条氏を亡ぼした新田義貞は、京都の新政府に参加するため上洛した。代わって新政府は、足利尊氏の要請によって、尊氏の弟直義を相模守に任じ、後醍醐天皇の子成良親王を奉じて鎌倉に下向させた。直義は、成良親王の執権として、関東十か国を管轄した。鎌倉は、関東支配の府として再生したのである。ところが建武二年(一三三五)七月、北条時行が信濃に挙兵して武蔵国に進入し、迎えうつ足利直義を井出沢(町田市)に破った。直義は鎌倉に帰らず東海道を西走し、成良親王と、北条氏の人質として鎌倉に居た尊氏の長子義詮も直義のあとを追って西走した。鎌倉の二階堂に幽閉されていた護良親王が、直義の手の者によって殺されたのは、この時である。七月二十五日北条時行は鎌倉に入った。しかし三河国(愛知県)矢作宿で、来援した尊氏と合流した直義・義詮らは、そこから引き返して、八月十九日には鎌倉に時行を追いおとし、これを奪回した。時行の北条政権再興の夢は二十余日で終わった。 鎌倉に入った尊氏は、若宮大路の旧鎌倉将軍邸跡に新邸を造って住み、天皇の召還に応ぜず、新田義貞を追討すべきことを奏請した。天皇はこれを拒み、逆に義貞に尊氏追討を命じた。大軍を率いた義貞は、途中、足利方を破りながら東海道を進撃したが、十二月十二日竹ノ下(静岡県小山町)の戦に敗れて壊走した。十二月十五日、尊氏は西上を決意して、義詮を鎌倉にとどめ、直義とともに義貞軍を追撃して京都に迫った。建武新政府に叛いたのである。 尊氏が鎌倉を去って、十数日後に、尊氏追討の勅命をうけた奥州の北畠顕家の軍が鎌倉に入ったが、滞在する間もなく尊氏を追って西上した。京都に入った尊氏は、北畠勢を避けて九州に走り、そこで彼を迎え撃つ菊池勢を破って態勢をととのえ、瀬戸内海を東上し、摂津国(大阪府)湊川(神戸市)に新 護良親王墓 鎌倉市 鎌倉宮 田・楠木を破って、六月十四日光厳上皇を奉じて京都に入った。十二月二十一日、後醍醐天皇は吉野に脱出し、南北朝動乱がはじまる。 尊氏を京都から追い落として奥州に帰っていた北畠顕家は、延元二年(一三三七)八月、一万余の兵を率いて、再び西上の途についた。鎌倉にいた足利義詮は、上杉憲顕・細川和氏・源重茂をはじめ、武蔵・相模の兵八万騎をもって利根川に迎撃したが敗れ、顕家軍は鎌倉に突入し、飯島・杉本で合戦が行われたが、足利方が不利で、義詮は三浦高継に助けられて三浦半島にひそみ、約半年間、顕家は鎌倉を占拠して後西上したので、義詮は鎌倉に帰ることができた。高継の祖父盛時は、宝治の乱では北条方に加わり、乱後、三浦氏の惣領となり、時行の乱には、父時継は時行に加わって誅せられたが、高継は足利方として奮戦し、三浦三崎をはじめ多くの所領を与えられ、その子高通は、相模守護となり、相模第一の武家となった。 足利直義鎌倉に死す 足利尊氏は、はじめ北条氏の命をうけて、後醍醐軍討伐のため東国を出発する時、長男の義詮を人質として鎌倉にとどめておいた。義詮は、父が天皇側についたときも、北条氏が鎌倉で滅亡のときも、巧みに身を全うし、新田義貞以上に東国武士の人望を集めた。建武政府が崩壊して後も鎌倉に駐在して、関東における足利方の主となったが、貞和五年(南朝 正平四=一三四九)、尊氏は義詮を京都に召し上げ、代わりに義詮の弟基氏を鎌倉に下し、上杉憲顕と高師冬とに補佐させた。 これより先、暦応元年(南朝 延元三=一三三八)、尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられて、京都に室町幕府をひらき、弟直義と共に政務に当たったが、やがて両者は不和となり、足利方は尊氏派、直義及び直冬派に分かれて争い、直義は南朝方に降って尊氏と戦うに至った。いわゆる観応(北朝方の年号)の擾乱である。鎌倉でも、尊氏派の高師冬が、基氏をおし立てて直義派の上杉憲顕を攻め、憲顕を鎌倉から追い出したが、基氏自身は本来直義派であったので、基氏に攻められて甲斐国(山梨県)須沢城で敗死した。師冬の死は直ちに中央に反映して尊氏と直義は和睦し、尊氏を動かしていた権臣高師直は上杉能憲に殺された。しかし、間もなく再び不和となり、直義は北国に奔り、ついで鎌倉に入った。尊氏は、急いで南朝と講和して直義討伐に向かい、相模早河尻(小田原市)で直義軍を破って鎌倉に入り、直義を降服させ、ついでこれを毒殺し、擾乱は終わった。尊氏はそのまま鎌倉にとどまったが、擾乱が収まると、再び南北朝の対立がたかまり、新田義貞の遺子義興・義宗らが、新田荘から、鎌倉目指して進撃した。これには直義派であった酒匂・松田・河村・小磯・大磯・酒間・山下・鎌倉・玉縄・梶原・四宮・三宮・高田・中村などの相模武士が加わった。これに対し鎌倉から出撃した尊氏軍には、畠山・仁木・ 足利尊氏画像集英社『図説日本の歴史』から 今川の諸将に、土屋・土肥・二宮・渋谷・海老名・小早川・豊田・本間の面々が加わった。両軍は、武蔵久米川(東村山市)・小手指原(所沢市)で会戦し、尊氏は石浜(東京都台東区)に退却、新田軍は関戸・神奈川から鎌倉雪ノ下に乱入した。鎌倉の留守軍の基氏らは、鎌倉を脱出して、石浜の尊氏の軍に合流し、笛吹峠で新田軍を破って、鎌倉を回復した。新田義興は越後国に退いたので、相模の地は一応安定した。尊氏は直義派であった上杉氏に代えて畠山国清を管領として基氏を補佐させた。さらに新田軍の再攻に備えて、基氏を武蔵国入間川に在陣させた。在陣は数年にわたり、基氏は入間川殿とよばれた。こうした布石ののち、文和五年(南朝 正平八=一三五三)尊氏は京都に帰った。 鎌倉府の成立 尊氏は延文三年(南朝 正平十三=一三五八)死去し、基氏の兄義詮が将軍となり、兄弟西と東に分けて治める体制となり、東を人々は鎌倉府とよんだ。鎌倉府の主は、京都の将軍と同様に公方とよび、これを補任する管領は室町幕府の管領と同じ地位を、関東公方に対して占めた。ただ関東公方は基氏の子孫の世襲であったが、関東管領は室町将軍が任命権をもち、上杉氏に代わって任命された管領畠山国清は、その妹を基氏の室とした関係もあって関東武士への圧政も多かったため、ついに関東武士一千余人の誓紙排斥をうけ、基氏も「此者ドモニ背カレナバ、東国ハ一日モ無為ナルマシ」として、国清を追放した(太平記)。国清は兄弟郎等を引きつれて鎌倉を退去し、伊豆修禅寺(静岡県)に城を構えたが、基氏に討伐されて逃亡した。国清のあと、以前管領であった高師冬の甥師有が関東管領となったが、基氏は、さきに国清に管領をかわられて、守護国越後に去っていた前管領上杉憲顕の復帰を望んで、これを実現した。 基氏は貞治六年(南朝 正平二十二=一三六七)鎌倉で死去し、九歳の子金王丸(氏満)が鎌倉の主となった。同じ年、京都では二代将軍義詮が死去し、十歳の義満が将軍、細川頼之が管領となった。翌年、武蔵国に平一揆が蜂起したが、上杉憲顕は、幼主を奉じて討伐した。つづいて金王丸は、平一揆に呼応した下野の宇都宮氏綱を攻めて降服させた。翌年、管領憲顕が六十三歳で死去、子能憲と甥朝房が管領に任ぜられ、両上杉とよばれた。両上杉死去のあとは、能憲の弟憲春が管領となった。しかし、公方氏満が、室町幕府の管領職をめぐって細川頼之と斯波義将とが対立したのに乗じて、反将軍の行動をとろうとするのを諫めて憲春は自殺し、弟憲方が管領となった。 関東公方の武断的支配と管領上杉氏 憲春の諫死によって反将軍的行動を中止した氏満は、康暦二年(南朝天授六=一三八〇)氏満の裁定に従わない小山義政征伐のため鎌倉を出陣したが、小山氏の抵抗は、応永四年(一三九七)小山若犬丸が奥州会津(福島県)に自殺するまでつづいた。その間氏満は、奥州白河(福島県)まで陣を進めた。小山討伐の最中、将軍義満は、陸奥・出羽両国も関東公方の分国に加えた。氏満は応永五年鎌倉で死去し、その跡をついだ満兼は、新たに分国となった奥州に弟二人を送り込んだ。満貞の稲村御所、満直の篠川御所(共に福島県)である。満兼自らも鎌倉を出て奥州分国を巡行して威を示したが、その行動は、奥州豪族の反感を買って、伊達氏の反乱を招いたが、辛うじてこれを鎮圧した。青年公方満兼は、管領上杉朝宗・同上杉憲定の補佐をうけ、義詮以来公方の御所である鎌倉浄妙寺の東御所から、たびたび出陣して武断的な分国経営を行うこと十一年、応永十六年(一四〇九)死去した。 上杉憲顕以来、関東管領を独占した上杉氏は、もともと京都の公卿の勧修寺家の流れで、丹波国(京都府)上杉荘を所領として上杉を名字とし、重房のとき将軍宗尊親王に従って鎌倉に下り、重房の孫清子が足利貞氏の室となって、尊氏・直義を生み、その関係から一族あげて足利方として活躍した。関東に下った重房の子孫は繁延して、山内・扇谷・犬懸・宅間の四家に分かれた。それぞれ鎌倉市内に構えた邸宅の所在地を名字にしたものである。関東管領は、この上杉氏が独占し、ややもすれば京都の将軍家に抵抗しようとする歴代関東公方と将軍家との調整役の役割を果たした。 関東公方将軍と水火の対決 関東公方満兼の死後、当時十三歳の長子幸王丸が、将軍義持の一字を与えられて持氏と名乗ってあとをついだ、義詮と基氏の兄弟にはじまった将軍も関東公方も、共に四代目である。血縁関係は薄れたが、足利氏の流れであるという意識のみは強い。この意識の下に行動する関東公方の行動は、将軍 足利公方邸跡 鎌倉市 側に刺戟を与え、両者の緊張をたかめた。二代公方氏満は、義満に代わって将軍になろうとする野望をいだき、三代公方満兼は、和泉(大阪府)堺で将軍打倒の兵を挙げた大内義弘に呼応する行動を示した。彼らの行動はいずれも相模国内にとどまって、足柄峠を越えることなく、事なきを得たが、それには将軍と公方との間に立つ管領上杉氏の努力によるものであった。しかし四代公方持氏に至って、上杉氏の調整も限界に達し、関東は動乱の巷となる。その初めが応永二十三年(一四一六)の褝秀の乱である。 禅秀は管領犬懸氏憲の法名で、政敵扇谷憲基と持氏に挑発され、管領辞職に追いこまれ、京都で将軍職をねらっていた足利義嗣の誘いに応じて、稲村御所足利満貞、篠川御所足利満直を説いて、下総の千葉、上野の岩松(新田)、下野の那須、甲斐の武田などを味方に引き入れ、十月二日、鎌倉の邸にこもっていた禅秀は、持氏の叔父満隆と合流して、公方持氏を急襲した。持氏は山内上杉憲基邸に脱出した。六月、関東の武士が鎌倉に集結して合戦が行われたが、持氏方が敗北した。持氏は片瀬・腰越を経て小田原に逃れ、箱根山中に隠れ、山内憲基は、守護国越後に落ちのびた。禅秀と満隆は鎌倉を掌握し、相模・武蔵に兵を出して、持氏の残党討伐を行った。この乱に将軍職をねらう義嗣も加わっていることを知った幕府は、越後守護上杉房方・駿河守護今川範政に禅秀討伐を命じた。応永二十四年早々両者は、北と西から鎌倉を目指して進撃を開始した。これを迎えうつ禅秀は、世田谷(東京都)合戦では勝ったが、足柄峠を越えた今川勢にせまられて守勢となり、味方に多くの寝返り者を出し、正月十日、一族と共に鎌倉雪ノ下御坊で自殺した。禅秀の鎌倉掌握は三か月で終わった。 再び鎌倉の主となった持氏は、禅秀に加わった武士に対してきびしい態度で臨んだ。下総の千葉、甲斐の武田、上野の岩松、常陸の小山、上総の本一揆ら、相ついで武力討伐を行った。しかしこれらの武士たちの多くは、持氏の抑えとして幕府が以前から特別に支援していた京都扶持衆であったため、持氏の行動は、将軍への挑戦とみられ、将軍義持は、持氏追討軍を派遣することを決定した。これを聞いた持氏は、二度も将軍に忠誠を誓う誓書を送って、討伐を免れた。 しかし正長元年(一四二八)将軍義持が死に、天台座主義円が還俗して義教と名乗って将軍となると、持氏は憤激し、直ちに兵を率いて京都に攻め上ろうとしたが、管領上杉憲実に諫められて中止した。しかし京都で改元した永享の年号を用いず、京都から独立する意志を示した。これに対し義教は、富士遊覧と称して駿河国まで下向して示威したが、持氏はこれを無視し、鶴岡八幡宮に血書の願文を捧げて怨敵降伏を祈った。怨敵が将軍義教であることは、いうまでもない。永享七年(一四三五)、持氏は憲実の諫止も聞かず、当時幕府料国である信濃国に兵を進めた。もはやこれまでと憲実は、鎌倉を出て、領国上野に去った。持氏は憲実を追って武蔵府中(東京都)に兵を進めた。憲実は、救いを幕府に求めた。義教は、天皇の 足利義教画像 京都府 妙興寺蔵 命をうけて、征討軍を出発させた。この軍は箱根路・足柄路を東進し、憲実は上野を出て分倍河原(東京都)に南下した。相模国守護三浦時高も、憲実方に寝返り、鎌倉を襲って放火し、持氏の邸を焼き払った。持氏は和睦を申し入れたが聞かれず、鎌倉永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命を義教に請うたが聴かれず、持氏は叔父満直ら三十余人と共に自殺した。 翌年、下総の結城氏朝は、持氏の遺児安王丸・春王丸を奉じて兵を挙げた。戦は翌年に及んだが、結城氏朝は戦死、安王・春王は捕えられ、京都に護送される途中、斬られた。世にいう永享の乱と結城合戦である。 公方も管領も鎌倉を去る 持氏の自殺によって、関東公方に空白を生じ、鎌倉は山内上杉家の掌握するところとなった。永享の乱の発端となった上杉憲実は、主を殺したとして出家した。公方を欠く相模には、およそ十年間の平和がつづいたが、宝徳元年(一四四九)持氏の遺児成氏が迎えられて関東公方となって鎌倉府の主となり、憲実の嗣子憲忠が管領となって、鎌倉府が再興されたが、幕府の東国に対する権限は強化され、公方の権限は格段に縮小された。成氏は父持氏の旧臣たちと結んで、公方の権力の回復をめざし、親幕派の管領憲忠を、成氏の御所鎌倉西御所に誘殺した。憲忠の家宰長尾景仲らは、憲忠の弟房顕をおし立てて、扇谷上杉持朝と連合して、成氏の派遣軍と相模島河原(平塚市)に戦い、常陸小栗城に立て籠った。成氏は自ら出陣してこれを攻め落とすなど優勢を示したが、幕府の命をうけた駿河守護今川範忠らが鎌倉に攻め入って、成氏の御所以下をすべて焼き払った。成氏は下総古河(茨城県)にのがれ、再び鎌倉に帰らなかった。古河公方のはじまりであり、時は康正元年(一四五五)である。鎌倉が政権の所在地としての生命は終わりを告げた。頼朝が鎌倉入りした治承四年(一一八〇)からおよそ二百七十五年目、初代関東公方基氏から四代およそ百年目である。 幕府は、成氏のあとを補うため、将軍義政の弟政知を関東に下向させたが、鎌倉には彼を歓迎しない空気が強かったのであろう。箱根路を越えることなく、伊豆の堀越にとどまって、堀越公方とよばれた。鎌倉は上杉家に掌握されたが、成氏が古河に去った後は、彼らも鎌倉を出て、山内上杉は、その守護国上野国白井城に移り、扇谷上杉は、武蔵国河越城を本拠として、成氏に対抗する姿勢をとった。しかし実権を握る者は、山内上杉では家宰(家臣の長)長尾氏、扇谷上杉では家宰太田氏であった。相模・武蔵は扇谷上杉の守護国であり、家宰太田道灌は詩文の道にもすぐれ、名家宰の名も高く、古河公方の抑えとして彼が築いた江戸城には、京都の文化人の来訪をうけた。この名家宰によって扇谷上杉は、山内上杉をしのぐ勢いとなった。両上杉は連合してたびたび成氏と戦ったが、扇谷の名声をねたむ山内上杉の讒言によって、道灌は、主君上杉定正の糟屋荘(伊勢原市)の館で殺された。道灌の子資康をはじめ、道灌と行動を共にしていた多数の国人衆も、直ちに定正から離れて山内上杉側に集まり、扇谷上杉は勢いを失った。 ㈡ 小田原北條氏の興亡 伊勢宗瑞小田原城を攻略 文明十四年(一四八二)古河公方成氏と室町幕府との間に和睦が成立し、幕府は成氏に関東九か国の支配を承認した。関東公方の復権である。堀越公方には伊豆一国を領国としてみとめた。公方といいながら、堀越公方政知は一小国領主にすぎなかったが、それでも伊豆を去らず、八年後に病死した。子茶々丸があとをついだが、内紛のために不安定であった。駿河守護今川氏に寄食していた伊勢宗瑞は、堀越を急襲して茶々丸を殺し、韮山城を築いて伊豆(静岡県)の主となった。このころ、相武の地では、扇谷上杉定正と古河公方成氏・山内上杉顕定の連合軍との戦が、実蒔原(伊勢原市)・七沢城(厚木市)・菅谷(埼玉県)・原(埼玉県)等でくり返されていた。明応三年(一四九四)扇谷上杉の有力な部将であった小田原城主の大森氏頼が死亡し、同年、同じく扇谷上杉の部将の三浦郡新井城主三浦時高が、義同に攻められて自殺した。義同は上杉氏で母は大森氏、時高の養子 北条早雲画像 箱根町 早雲寺蔵 となって三浦氏となったが、時高に実子が生まれたので疎外され、三浦を脱がれて小田原で出家し、道寸と称していたが、母方の大森氏の支援で新井城を攻略したのである。義同は岡崎(伊勢原市・平塚市)に居城を構え、新井城には子の義意を置いた。相模の大地はすでに戦国の様相を呈していた。 こうした状況に乗じた伊勢宗瑞は、明応四年、小田原城を急襲してこれを攻略した。城主大森藤頼とその一族は、岡崎城・真田城に移った。宗瑞の関東進出の第一歩であり、関東は新しい時代を迎えることとなった。 しかし宗瑞は、城を弟弥次郎にまかせ、自らは伊豆韮山城に帰って領国伊豆の経営に専念した。翌年、山内上杉顕定が、叛臣長尾景春の与党を討伐のため西相模に侵入すると、大森藤頼をはじめ、三浦・太田・上田の面々と共に宗瑞も抵抗して、多数の郎等を失う大打撃をうけた。恐らく宗瑞の存在を相模の武士の間に知らせるために奮戦したためであろう。永正元年(一五〇四)、扇谷上杉朝良を助けて武蔵立川原(東京都の立川市)に出兵した。彼の行動は次第に東相模に拡大したのである。永正九年(一五一二)宗瑞は、三浦氏攻略を決意し、子氏綱と共に三浦義同の居城岡崎城を攻め、小坪(逗子市)に逃れる義同を追尾して、初めて鎌倉に入り、別動隊を相武甲三国交通の要衝である当麻宿(相模原市)に進駐させ、三浦氏を助ける江戸の太田氏を分断するため、三浦半島の咽喉部に玉縄城(鎌倉市)を築き、鎌倉の建長・円覚・東慶寺に公事免除状を出して鎌倉支配者たることを示し、三浦氏救援にかけつけた江戸城主太田資康を戦死させた。その上で永正十三年(一五一六)七月、義同の本城新井城を攻めて義同父子を自殺させた。ここに鎌倉時代以来の相模の名族は滅んで、相模全土は宗瑞の平定するところとなった。宗瑞は、家督を子の氏綱にゆずって伊豆に引退し、永正十六年(一五一九)病死した。早雲はその法名である。 小田原北条氏東国に覇を制す 伊勢宗瑞が北条を称した確証はなく、北条氏と改めたのは、氏綱の代で、大永三、四年(一五二三~四)ころのことである。鎌倉の北条氏に因ったことは疑いなく、後人は一般に後北条氏とよぶが、この氏自身は後北条と称したことはない。 氏綱は印判史上有名な「禄寿応穏」の印文に臥した虎を画いた虎の印判を使用して相・豆の民政につとめ、鎌倉・小田原近辺の村々に、戦国大名としてははじめての検地を行った。大永四年、氏綱は、扇谷上杉朝興と戦って江戸を奪い、家臣遠山直景を城代におき、小机城(横浜市港北区)を修復してここにも城代をおいて、南武蔵をその版図に加えた。これをみた上杉氏の臣毛呂氏・岡本氏も氏綱に内応し、これに応じて氏綱は、その前線を中部武蔵にすすめた。これに対し河越城を本拠とする扇谷上杉氏も各地に転戦し、安房の里見氏も、海を渡って鎌倉に侵入し、鶴岡八幡宮も兵火にかかって焼失した。 北条氏虎印「禄寿応穏」 氏綱は、後に同宮の再建につとめるが、恐らくその勧進を機縁に京都にもみとめられ、左京大夫、従五位下に叙せられ、天文二年(一五三三)伊豆の御料所の貢租催促のため、勅使が氏綱の下に下向している。朝廷も北条氏が相豆の領主であることをみとめたのである。 こうした情勢に、河越城の扇谷上杉氏は、領域の奪回をはかり、天文二年大磯・平塚に侵入して放火し、天文四年には、氏綱が駿河の今川氏輝を助けて甲斐に出陣のすきに、再度上杉軍は大磯・平塚・一宮・小和田・鵠沼に侵入して、放火・狼籍の限りをつくした。氏綱は、武蔵・安房・上総等、領国化していない地域の武士たちも加わった軍を率いて上杉軍を追撃して、武蔵入間川で打ち破った。領国外の武士を動員できたのは、これらの地方でも、主家両上杉家のとどまることのない動員に離反して、氏綱に心をよせる者があらわれていたからである。天文六年(一五三七)四月に、扇谷上杉家の当主朝興が、本拠河越城で死んだのを聞いた相模の百姓らは、「これで当国も安泰であろうと喜んだ」と、鶴岡八幡宮社僧快元僧都は記しとどめている。朝興のあとをついだ朝定も氏綱に対立の態度をとったので、氏綱はついに河越城を攻めおとして占拠した。朝定は、松山城(埼玉県東松山市)に逃れた。関東公方が古河に去って以来、管領扇谷上杉氏の本拠となった河越城は氏綱の手に入り、北条氏の勢力範囲は、武蔵国の大半に及んだ。 天文七年(一五三八)十月に、下総国国府台(市川市)に小弓御所足利義明、安房の里見尭明と戦って、義明を戦死させた。翌年には反転して駿河今川氏を攻めて富士川以東をその版図に加えた。こうして氏綱は、その版図を西に東に拡めたので、戦の場は、相模から遠ざかった。 小田原北条氏の民政 二代北条氏綱 三代北条氏康 四代北条氏政箱根町 早雲寺蔵 氏綱は、相模を制圧すると、民心安定のため神社の復興につとめた。里見氏に焼き払われた鶴岡八幡宮の再興にはとくに苦心したが、寒川神社・箱根権現・国府津の六所明神、伊豆三島神社等の復興にもつとめた。また鎌倉本覚寺・明月院・東慶寺・覚園寺、足柄上郡大井宮などの所領の課役を免除し、境内の竹木の保護、地頭らの介入を禁止するなどの保護を加え、鎌倉には重臣大道寺氏を鎌倉代官として、これらの事に当たらせた。 北条氏三代氏康は、河越城奪回をはかる上杉氏を撃退すると、宗瑞が着手した検地をすすめ、天文十一年(一五四二)には、相模中央部(平塚市・厚木市・茅ケ崎市・藤沢市・津久井郡)と武蔵の東南部、また翌十二年には相模の中央部(大磯町・平塚市・厚木市・伊勢原市・海老名市・清川村)と武蔵の南部(川崎市多摩区・東京都町田市・横浜市南区)の直轄領・給人領・寺社領全体に検地を行った。検地によって、検地帳に登録された給人・寺社・百姓は、直接、北条氏に把握されると同時 に、彼らの諸権利は北条氏によって保証されることになる。大名の領国支配の台帳というべきもので、豊臣秀吉の全国検地(大閤検地)の先駆をなすものと評価されている。天文十九年(一五五〇)には、戦場に駆り出されて国内が疲弊したというので、諸々の公事をやめて、代わりに百貫文の地から六貫文の役銭を出すことに改め、別に田畠の貫高の四㌫を懸銭とする新税目を設けた。この貫高制は、鎌倉中期から始まった荘園年貢の代銭納制が進行し、十四世紀段銭(一国平均に田一段別に一定の銭を徴収する)徴収がくり返されたことなどから、荘園制では米で表示していた年貢高(分米)を、貫高(分銭)で表示したものである。小田原北条氏の貫高は、田一段当たり五百文、畠は百六十五文を基準として表示し、棟別銭は、従来の五十文から三十五文に減額された。 この貫高制は、大名には軍役の定量化、領主にとっては一定年貢の確保、農民にとっては、年貢の固定化の効果をもち、大名が地頭領主(在地武士)から棟別銭・段銭・軍役を完全に徴発するためのものであるとされている。戦国大名のうち西国では毛利氏、東北では伊達氏なども貫高制を採用したが、小田原北条氏は、その先駆的なものとして有名である。 さらに、以前は鎌倉を目ざした道路は、小田原中心に整備され、北条氏の発行する手形で伝馬を利用することのできる制度もととのえられ、交通の要衝には宿や市(多くは月六回開かれるので六斎市という)がひらかれた。鎌倉に代わって小田原が関東の中心となり、盛んなときには外国船も到着し、小田原で有名な丸薬透頂香(通称ういろう)の元祖外郎定春も、永正元年(一五〇四)宗瑞の招きに応じて小田原に定住したものである。 天文二十年(一五五一)氏康は、山内上杉憲政を上野国平井城に攻めて厩橋城に追い出し、さらに領国越後国(新潟県)守護代長尾景虎(のちの上杉輝虎、謙信)の許に走らせた。氏康は、こうして上野国をその領域に加えた。 天文二十三年(一五五四)には、古河公方晴氏が、氏綱の女の生んだ義氏を斥け、家臣の女の生んだ子藤氏と共謀して氏康に背いた。氏康は、古河城を攻め、晴氏・藤氏を追放し義氏を古河公方としたが、天正十一年(一五八三)嗣なくして死去した。成氏・政氏・高基・晴氏・義氏の五代およそ百三十年つづいた古河公方は終わりを告げた。 小田原衆所領役帳 永禄二年(一五五九)氏綱は、家臣に「小田原衆所領役帳」を作成させた。この役帳は、貫高制によって家臣らの知行役を記載したものであるが、軍役は記載されていない。軍役帳が別につくられたであろうといわれるが、今日伝わっていない。 小田原北条氏の主要支城と勢力圏の推移 氏康は、この年までの検地をもとに、家臣の知行高(貫高)を定めて、本城(小田原城)か支城に配備し、本城に属する家臣を小田原衆、支城に属する家臣を玉縄衆(玉縄城)・津久井衆(津久井城)・小机衆(小机城)・江戸衆(江戸城)・松山衆(松山城)・伊豆衆(韮山城)といい、各城主には、宗瑞以来の重臣で豆相生まれの家臣か、あるいは一門の者を充てた。北条氏の当主は、領国支配を評定する小田原評定を裁定し、常時、虎印判を持ち歩いて、北条氏最高の権威をもつ虎朱印状を発行した。この当主を守備するのが、御馬廻衆である。玉縄城主は、玉縄衆を指揮する外に、領内を歩きまわる唱門師・舞々師などの遊芸人や、石切り・鍛治・大工などの職人を支配した。小田原城下の須藤惣右衛門は、唐紙・鍛治・大工・大鋸引・革作り・表具師・青貝細工の螺鈿師・銀細工師・縫物師・紙漉・刀柄細工師などの職人を傘下にして職人衆を組織した。秦野城主は、足軽衆や、在来の武士を家臣として組織した他国衆を配下におき、北条氏一族は一門衆と称した。それぞれの衆の武士は、貫高に応じて軍役・知行役が割り充てられる。この知行役の台帳として作られたのが「小田原衆所領役帳」である。ほゞ衆別に家臣名とその知行所の郷村名・貫高が列記してあって、その総数は、知行主百六十人、八百二十五か村、総貫高七万二千貫文である。この役帳は、北条氏領国全域ではなく、八王子城・鉢形城・岩槻城などの分を欠いているが、小田原北条氏領国内の郷村、居住の武士を示す貴重な史料である。とくに職人衆を組織したことは、彼らの賦課の確保を目的とする反面、保護にも意を払うものと注目される。 この帳では、三浦郡を除いた相模川以東の鎌倉・高座二郡を東郡、川以西の大住・愛甲二郡を中郡、余綾・足上・足下の三郡を西郡とし、愛甲郡の北西部を割いて津久井郡としている。このうち中郡と西郡が、小田原北条氏の直轄領であった。 離合常なき相甲越駿 役帳ができて間もなく氏綱は隠退して、氏康が小田原城主となった。越後に逃れた関東管領山内上杉憲政は、守護代長尾景虎に関東出兵を希望し、常陸の佐竹義昭、安房の里見義尭も、景虎の関東出兵を要請した。景虎は、永禄三年(一五六〇)憲政を奉じて上野国に出兵し、北条氏の部将の守る沼田城(群馬県沼田市)を攻略し、進んで松山城(埼玉県松山市)を守る氏康をせめ、籠城する北条軍のすきをぬって、翌年三月小田原城下に侵入放火したが、小田原の北条軍は籠城して敵の消耗を待ったので、遂に越後勢は撤退した。この間に長尾景虎は、鎌倉鶴岡八幡宮神前で、上杉憲政からゆずられた関東管領拝賀の式を行い、上杉姓を名乗り、さきに古河を追われた足利藤氏を古河公方として、越後に引き上げた。このころ、東国は飢饉におそわれて、百姓は侵入軍と重なる天災で身売りするものさえあった。氏康は、徳政令を発して救済に当たった。 上杉景虎は、政虎、輝虎と改名を重ねながら、上野国に侵入すること十四回にも及んだが、北条氏康は、これまで同盟関係にあった甲斐の武田との間に、駿河の今川氏をめぐって戦うことなり、上杉氏と和睦を結んだ。和睦成立した二か月後の永禄十三年(一五七〇)年九月、武田晴信は、碓氷峠を越えて侵入し、十月には小田原城に猛攻を加えた。北条氏は、このたびも籠城戦術をとって数日で武田勢を撤退させた。滝山城(東京都)主北条氏照らが之を追撃し、愛甲郡三増峠(愛川町)で戦ったが、峠の上に陣どる武田勢に反撃され敗北した。氏康が病死し、氏政が当主になっても、甲・相は和睦と対戦とをくり返し、越後の上杉も上野国への侵入を重ねる中に、天正八年(一五八〇)、氏政の譲をうけて、子氏直が小田原城主となった。 小田原北条氏亡びる このころになると西では織田信長が駿河の今川義元を亡ぼし、天正十年(一五八二)には甲斐の武田氏を亡ぼし、東への圧力を急速に強めた。武田攻めの功労賞として、信長の家臣滝川一益に上野国が与えられ、上野国厩城に入った。上野国を領域とする小田原北条氏にとっては、無視できない状勢となったが、この年六月、本能寺の変で信長が殺されると、氏直は厩城の一益を攻めて、その本領伊勢国長島に追い払った。氏直は、甲斐・駿河への進出を企て、信長から駿河国を与えられた徳川家康と対決することになったが、和議が成立して戦は回避された。 信長の死後、天下統一の業をひきついだ豊臣秀吉は、天正十五年(一五八七)九州の島津氏を降し、十二月関東・奥州の諸 三増合戦場跡 愛川町 大名に向かって天下「惣無事」令を発し、その実行を徳川家康に命じた。「惣無事」令とは、天下一同何事によらず、武力をもって争うことなく無事にはからうべしという命令である。これに先立って北条氏は、相模・南武蔵・伊豆の村々に総動員令を発した。いわく、 一 当郷に於て、侍凡下を撰ばず、自然御国御用の砌、召しつかわるべき者を撰び出し、その名を記すべき事。 一 この道具、弓・鑓・鉄砲三様の内、何成共存分次第。但し、鑓は竹柄にても、木柄にても二間より短きは無用に候。然らば、権門の被官と号し、陣役を致さざる者、或いは商人、或は細工人の類、十五~七十を限って記すべきこと。 一 腰さし類のひら〳〵、武者めくやうに、支度を致すべき事。 一 よき者を撰び残し、夫同然の者申し付け候はば、当郷の小代官、何時も聞き出し次第、頸を切るべき事。 一 この走廻を心がけ相たしなむ者は、侍にても凡下にても、望にしたがひ、御恩賞有るべき事。 の五か条を触れ回した。同じ内容の触れが、すでに引退した氏政によっても出された。これと並んで、支城の増設や修理、武器の製造、兵糧の確保、兵員の大増強が行われた。豊臣秀吉と同盟を結んだ徳川家康は、氏政父子に、上洛して秀吉に謁見すべきことをすすめ、もし自分の忠言をきかなければ、氏直に嫁いでいる娘督姫を返せと迫った。これに対し氏直は、韮山城主の弟氏規を上洛させ、あわせて、家康と和議の条件の一つで北条氏に引き渡すこととなっていて真田氏の反対で実現していない沼田城の件の処置を請うた。秀吉も了解し、沼田城の三万石を三分し、三分の二を北条氏に、三分の一の名胡桃城は真田氏の墳墓の地であるから真田領と裁定した。この地は利根川を隔てて、沼田城の対岸にある。北条氏はこの裁定に従って沼田城をうけとり、鉢形城主北条氏邦に預け、氏邦の部将が守備した。 天正十七年(一五八九)十月、沼田城守備の部将は、利根川を越えて名胡桃城を攻略した。秀吉は、裁定を破ったとして、氏直の弁解を斥けて、北条氏討伐を、徳川家康を通じて通告した。小田原城では、氏政父子はじめ宿老集まって評定を重ねたが、結局、籠城して秀吉軍を迎え戦うことに決定した。さきの上杉・武田両度の侵入を籠城によって撤退させた先例を過信したのである。秀吉は天正十八年三月一日、三万二千の兵を率いて京都を出発し、徳川家康ら先鋒十四万と合流し、四月三日に小田原に到着、城を見下ろす石垣山に城を築いて、持久戦を構えた。一方領国内にはりめぐらした北条氏の支城も、戦わずして開城するもの相ついだ。数十万の大軍に持久戦を構えて包囲されては、なす術もなく、七月五日、氏直は城を出て投降、翌日には城を開け渡した。秀吉は、主戦論者の氏政・氏照、鎌倉代官大道寺政繁、松田城主松田憲秀の四人に切腹、氏直・氏規ら三百余人に紀伊高野山に退去を命じた。遺臣の多くは、己の居村に帰農した。早雲以来五代百年の間、小田原城にあって関東に覇を唱えた小田原北条氏の終末である。相模国は、以後再び東国の中心となることはなかった。 近世 一 幕藩体制下の相武 ㈠ 江戸に幕府がひらかれる 戦乱治まる 小田原城の落城は、同時に百余年にわたる戦国の終わりであった。相武の戦国の世は、古河公方と両上杉の対立から始まっているので、二百年に近い。その結末にのこったものは、農村の荒廃である。小田原城を包囲した豊臣秀吉は、落城以前から相武豆三国にわたる村や寺社(百例近い)に三か条の禁制を出して、農民の安定をはかった。その第一条は、戦火をのがれて耕地や住家を放棄してかくれていた庶民の帰村を命じ、第二条で軍隊の放火乱暴を禁止し、第三条で、百姓や寺社と、寺社の門前百姓に対する不法行為の禁止を命じた。漁村には第三条で、漁船に対する不法な賦課の禁止と、漁民の出船を促し、漁業税を上納することも命じている。農村の荒廃の実況は、小田原落城の翌年の天正十九年(一五九一)、小田原城主大久保忠隣の検地によれば、現在足柄上郡大井町地域の金子村では、全耕地の六六㌫、篠窪村では四八㌫が荒廃となっている。また、屋敷は篠窪村十五戸のうち七戸、金手村四十六戸のうち十八戸が明屋敷となっていた。大友村(小田原市)では、耕地全三百五十二筆のうち二百七筆が荒れ地・不作地となっていた。この状況は、相模の他の地方でもほぼ同様であった。こうした農村の復興と住民の安定をはかることが急務であった。落城数日後に秀吉は、東北大名に威を示すため東北に向かう途中鎌倉に立ち寄り、片桐且元に鶴岡八幡宮の修理を命じ、鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・東慶寺に所領安堵の朱印状を交付した。 徳川家康江戸入城と相武 秀吉によって東海地方の旧地から関東に移封させられた徳川家康は、天正十八年(一五九〇)八月一日江戸へ入城し、ここを居城と定めた。江戸三百年の始まりである。入城すると、まず手がけたのは江戸の町並整備、江戸城修築、領国内への家臣団の配置である。いずれも県域の地方に大きな関係があった。前二者については、県域地方は築城に必要な石、町並整備に必要な材木の供給地となり、後者については、新たな徳川家臣団の知行地と、徳川氏直轄領の設定がこの地域に行われたからである。とくに江戸城修築の石材は、相模がその供給地であり、戦国時代から築城にすぐれた相模国足柄下郡岩村 小田原城天守閣 小田原市 (真鶴町)の石屋善左衛門が登用され、江戸に移住して、日本橋辺に屋敷を拝領し、小田原町(東京都中央区築地)の名をのこした。相模の石材は奈良時代から中央に聞こえていたが、その産地は根府川村(小田原市)を中心に相模湾西沿岸にひろがり、寛永の江戸城大修築には、徳川御三家をはじめ、摂津国三田藩九鬼氏、筑後国柳川藩立花氏などの石切場が設定され、旧小田原北條氏の臣で、落城後根府川村に土着した広井氏が請負って、採石に当たった。小田原北條氏によって保護育成された小田原町の職人たちも、江戸に動員されたことは、いうまでもなかろう。 家臣団の配置と直轄領 家康にとって、江戸に入城するのは、東海地方の故地を離れ、今まで敵地であった関東に入ることであった。捨てがたい故地を離れ、彼に従った家臣団に知行を割り充てることは、重要な急務であった。居城の江戸を中心に、領域の外周に大身の家臣を配置 根府川石積出口 小田原市 した。江戸の近辺は徳川氏の直轄領とし、その中間の地域は、後に旗本とよばれる小身の家臣を配置し、その知行地とした。家康が関東に入国した時、相模国はおよそ五百五十四村であったが、この方針は相模国にも実施された。しかも、その知行の割り充ては、一村を複数の領主に充行う割り充ても行った。これを相給といった。五百五十四村の半数に当たる二百七十五村が直轄領、七十三村が旗本領、直轄領と旗本領の相給が四十二村、鎌倉五山や鶴岡八幡宮をはじめ、朱印状によって旧来の所領を安堵された寺社領と直轄領の相給が十二村、預地が五村であった。これに、徳川氏領域の西縁を固める小田原領分が百四十七村あった。県域の武蔵三郡は、当時二百二十三村であるが、直轄領百八十八村、旗本領二十村、直轄領と旗本領の相給六村と大名領が一村となった。以上を総合すると、県域七百七十八村のうち、直轄領四百六十三村、小田原等大名領分百四十八村、旗本領九十三村とその他となり、全体として分割支配が実現した。文禄三年(一五九四)当時、相模国の国高は十九万四千石余と推定されるが、その内訳は、推算ではあるが、直轄領十一万千九百石余、小田原領分四万石、旗本領四万石、寺社領七千三百石であった。村数でも、石高でも、直轄領は過半を占めていたのである。 農村の再編成 豊臣秀吉は、天下統一を進めるに従って、その征服地ごとに全国一律の規準によって検地を行い、農村に新秩序の樹立をはかった。太閤検地とも、天正石直しともいわれている。小田原北條氏の旧領国の検地は、この秀吉の方針に従って徳川家康によって行われた。家康は、江戸城入城の翌月から検地に着手し、年内に武蔵・下総・伊豆に、翌年には武蔵・相模・上総・上野・下野・伊豆に及んだが、これらの国の村々全体に、ひとまず及ぶのは、およそ文禄・慶長年間のことである。石直しは、越中や肥後では、国人層の反対による一揆がおこって、大名の更迭を招いたが、関東では、そうした抵抗はなかった。国人層の多くは、滅亡した小田原北條氏の旧臣であったことが、徳川氏に幸いしたこともあろうが、家康の現状にそった柔軟な対策によるところが大きかった。 この石直しは、律令制以来の田積の一段を三百六十歩とする単位を改めて三百歩とし、三十歩を一畝とする新単位を設け、土地を測る間竿は旧制の尺による六尺三寸(約百九十㌢㍍)のものを用い、方一間を一歩とした。新制の一段は、旧制よりも六十歩縮小されたことになる。この単位で、田畑屋敷を一筆ごとに測量し、その所在地、生産高の等級、面積、名請人(貢租負担者)を登記したのである。生産高は、すべて米高(石高)であらわし、田畑の等級を上・中・下にわけるが、そのわけ方は、まず村全体の生産高を上の村、中の村、下の村に分け、それぞ 検見の図 『老農夜話』から 東京大学史料編纂所蔵 れの村の中で一筆ごとに上中下に分ける。従って村の等級ごとに田畑の上中下の石高は相違することになる。こうして記載された検地帳は、一村一帳にまとめられたので、村切りともいわれる。小田原北條氏の検地は領主別で、荘園の名寄帳の系統をひくものであったが、太閤検地では領主はあらわれず、土地と貢租負担者(本百姓)が一筆ごとに明確にされ、荘園制にみられた複雑な重層関係は、一掃された。村が村としての人格を与えられ、支配は村を対象として行われることになる。近世的村への脱皮である。 交通路と関所が整備される 慶長五年(一六〇〇)九月、関ヶ原の戦に大勝した徳川家康は、同八年二月、征夷大将軍に任ぜられて、江戸に幕府をひらいた。全国支配の中心は再び東国に移って、京都・大坂と江戸の往来は再び重要性を増した。これまで東はせいぜい鎌倉まで利用されていた東海道は、藤沢から海岸沿いに北上して江戸に至る道が本道となり、小田原を中心にした道路網に代わって、江戸を中心とする諸街道がひらかれた。その主要なものが五街道で、その第一が東海道であるが、県の北部にも、五街道の一である甲州道中が横切る。五街道には宿駅が整えられ、とくに東海・東山の二道には、慶長六年(一六〇一)江戸日本橋を起点として、一里(約四㌖)ごとに一里塚を築いて、道程の目じるしとし、すでにあった平塚・大磯・小田原の宿に加えて同年に、県域内には神奈川・保土ケ谷・藤沢の三宿を新たに設けた。慶長九年(一六〇四)に戸塚宿、元和四年(一六一八)箱根宿、同九年川崎宿が設けられ、東海道五十三次のうちの県下九宿が出そろった。県の北辺を横切る甲州道中には、小原・与瀬(以上相模湖町)・吉野・関野(以上藤野町)の四宿が設けられた。幕府は、道中奉行を置いて、これら主要幹線路の五街道の円滑な運用をはかった。 これら宿場の機能は、旅行者の宿泊と、旅行者の荷物継立を主要目的としたが、その宿泊施設は、利用者の身分によって、大名などが主として利用する本陣・脇本陣と、一般旅行者の旅宿としての旅籠屋とに分かれる。大名の利用する本陣は、その旅行団の規模も大きく、格式も高いので、本陣そのものの風格と規模もそれに対応することが要求される。本陣をつとめた家は戦国大名の家臣から出たものが多く、かつ世襲が多い。参勤交代制が行われると、その際に利用する本陣も大名ごとに大体一定した。小田原宿の本陣久保田家は毛利氏、清水家は細川氏、箱根宿の石内家は、公家四十一家、武家五十三家の定本陣(指定本陣)であった。 脇本陣は、本陣の予備に充てられたもので、本陣につぐ宿場の家格であるが、これには一般旅籠屋の機能もゆるされた。 これに対し旅籠屋は、その宿場の繁閑によっ 一里塚 茅ケ崎市 て、数は一定しない。天保十四年(一八四三)の調査では、小田原宿九十五軒、戸塚七十五軒、川崎七十二軒、箱根三十六軒となっている。宿泊には、旅行者が食糧を持参して燃料の供給を求める木賃式と、食事の供給を受ける旅籠式とがあったが、江戸中期以降は旅籠式が一般的になった。旅籠屋の中には食売女(飯盛女)を置いて、旅客の遊興の相手をさせるところもできて、それは食売旅籠屋と呼ばれた。 幕府や朝廷の公用旅行者に提供する人馬は、宿場町の負担であったが、旅行の規模が増大するにつれて、規定の人馬数では到底対応できるものではなく、これを補う助郷が制度化された。助郷は農村を苦しめ、宿役人と助郷村々との間に、しばしば軋轢が生じた。享保十三年(一七二八)の小田原宿助郷騒動は、九十五村に及ぶ大規模なものであった。 五街道の外に、地方的なものとして、各地に脇往還が設けられた。江戸に近い県域には脇往還が多い。江戸の虎の門を出て 旅籠の客引き 広重「東海道五十三次」から 神奈川県立博物館蔵 多摩川丸子の渡を越え、小杉(川崎市中原区)-佐江戸(横浜市緑区)-瀬谷(横浜市瀬谷区)-用田(藤沢市北部)-一之宮(寒川町)から田村の渡(平塚市)で相模川を渡り、中原(平塚市)-大磯宿に至る中原往還がある。江戸赤坂門から三軒茶屋(東京都)を経、多摩川を渡って二子に至り、溝口(川崎市高津区)-長津田(横浜市緑区)-鶴間(大和市)-厚木-伊勢原-曽屋(秦野市)-松田惣領(松田町)-関本(南足柄市)-矢倉沢(南足柄市)の関所を経て足柄峠を越えて駿河に至るのが矢倉沢往還で、これは、別に大山街道・青山街道・相州街道ともよばれ、県域の代表的な脇往還である。また、三軒茶屋で矢倉沢往還と分かれて、登戸-生田-高石-柿生(以上川崎市多摩区)-鶴川(町田市)-淵野辺-橋本(以上相模原市)を経、津久井地方へ至るのが津久井往還ともいわれる。甲州道中八王子宿と県域南部の海岸地帯を結ぶ八王子往還は二筋あって、ひとつは藤沢宿-亀井野-長後(以上藤沢市)-下鶴間(大和市)-原町田-淵野辺-橋本-八王子宿で、もうひとつは、大磯宿-中原-田村-厚木-座間(座間市)-当麻(相模原市)-橋本-八王子宿である。大山道は、県域のあちこちにあって、大山信仰の厚さを物語っており、その代表格が矢倉沢往還である。六本松通大山道は多古(小田原市)から六本松峠を越えて大山に至る。田村通大山道は藤沢市辻堂に発し、一之宮を経て相模川を田村の渡で越え大山に至る。柏尾通大山道は鎌倉郡下柏尾村(横浜市戸塚区)に発し、同郡上飯田(戸塚区)から用田-門沢橋(海老名市)-戸田(厚木市)から上糟屋(伊勢原市)に至り、ここで田村通大山道に合流する。その他、大山道とよばれるものに、羽根通大山道・波田野道がある。鎌倉・三浦方面に通じる鎌倉・三浦往還は、東海道保土ヶ谷宿から発し、金沢の町屋(横浜市金沢区)を経て、雪ノ下(鎌倉市)へ通じる道と、戸塚宿・藤沢宿のそれぞれから雪ノ下に通じる三道があり、三崎へ至るには、相模湾岸を南下する雪ノ下-小坪(逗子市)-秋谷(横須賀市)-和田(三浦市)-三崎への道と、東京湾岸を横須賀-大津(横須賀市)-上宮田(三浦市)-三崎へと南下する道の二道があった。大山道は信仰のみならず江の島とを結ぶ大観光道路でもあり、鎌倉・三浦往還もまた杉田の梅林(横浜市磯子区)・金沢八景(同市金沢区)・鎌倉の寺社を訪れる文人墨客が多く、多くの道中記や画集をのこした。十九世紀に入ると、日本近海に諸外国の艦船が姿をあらわし、江戸をひかえる三浦半島は、にわかに海防の最前線、あるいは兵站基地となり、鎌倉・三浦往還は雑踏した。例えば、秋谷は一継立場にすぎなかったが、町場のような賑わいをみせた。 こうして、県域内の交通路は、江戸を中心にして整備されたが、幕府は、西からの敵性を警戒し、関東の西縁に当 箱根関所 箱根町 たる相模国には、随所に関所を設けた。とくに、箱根関所は天下の関所として有名である。番士・定番人ら二十名が、弓五張り・鉄砲十挺・槍十五本・棒十本ほどの武器を常備して警護に当たった。東海道の脇往還に設けられた矢倉沢・河村・谷峨・仙石原・根府川の五関所は、いずれも西側の国境に近い山間部と海辺にある。甲州道中筋には、八王子宿と上野原宿の間の脇往還の要所に鼠坂関所、八王子宿から甲斐国都留郡に至る脇往還の要所に青野原関所を設けた。個々の関所の設置時期は不同であるが、初めは軍事上、やがては治安警察上の役割を果たし、 「入り鉄砲、出女」の言葉が生まれたほどである。関所付近の村々は、関所の修理・掃除や山狩人足等、一般の村々にはみられない労役や竹木等の供出が課され、関所の通行にも一定の制限があった。 ㈡ 小田原藩の推移 藩主の交替 小田原領に初めて領主として封ぜられたのは、徳川家康三河以来の家臣として武功の誉れ高い大久保忠世である。彼は、領主になると、豊臣秀吉の小田原攻めで混乱した城下と領内諸村の安定を計り、三河以来の家臣の外に、新規の家臣を抱えて、藩政の第一歩をふみ出したが、そのやさきの文禄三年(一五九四)九月に病死した。後任には武蔵国羽生(埼玉県)で二万石を領していた子の忠隣が入城して、羽生領と合わせて六万五千石の藩主となった。忠隣の治世は二十年に及んで、小田原北條氏の遺臣を保護し、足柄平野の新田開発を進め、酒匂川用水の整備・検地・寺社保護等の諸政策をすすめ、民生の安定を計った。しかし家康の側近本多正信との権力闘争に敗れ、慶長十九年(一六一四)一月、上方のキリシタン禁圧のため上洛中に改易され、近江佐和山(滋賀県)に流された。その時、小田原城は明け渡され、関東に威容を誇った小田原北条氏の居城は大部分が破壊され、その面影を失ってしまった。 この年十一月将軍秀忠は、大坂陣参加のため江戸を出発して、神奈川・藤沢・小田原の各宿を経て西上した。翌年夏の陣で豊臣氏は亡び、その行賞が行われて、県下の知行割りにも変更があった。大久保氏の後、城番預りとなっていた小田原城主には、元和五年(一六一九)に、上総国大多喜(千葉県)城主阿部正次が充てられた。しかし四年後の元和九年(一六二三)阿部正次は武蔵国岩槻に転封となり、小田原城は再び城番預りとなった。この間に将軍の上洛が四回もあり、その往復路である東海道沿いの諸大名は道路整備につとめ、交通体系は一新した。県域もまた例外ではなかった。その要衝である小田原城を、いつまでも城番預りに委ねることは出来なかった。寛永九年(一六三二)、将軍家光は乳母春日局の子息下野国真岡(栃木県)城主稲葉正勝を八万五千石の城主として入封させた。正勝・正則・正通と三代五十七年間の稲葉氏の藩主時代の始まりである。稲葉氏の小田原藩領は、大久保氏時代の百五十村のうち、足柄下郡の一村を減じ、新たに足柄上郡十村を加えたもので、これが小田原城付近の城付領百五十九村である。これに真岡領二万石があり、さらに正則の時の二万五千石の加増分駿河国御厨(静岡県)領を加えて、十一万石となった。城付領の足柄上・下郡を東筋・中筋・西筋に分けて三筋と名付け、年貢割付や宗門改めを行った。東筋は酒匂川東側で、北は松田から酒匂川の支流中津川沿岸まで、中筋は酒匂川西岸の平野部と山北町まで、西筋は南足柄市・箱根町・湯河原町を含む。これが稲葉氏の領国経営の基礎単位であった。 寛永十年(一六三三)初代正勝の入封の翌年、相模・伊豆・駿河は大地震に見舞われ、ことに小田原宿は全滅し、民家は一軒ものこらず倒壊した、泥水がわき出て、箱根山から岩石が崩れ落ち、うたれて通行人に多数の死者がでた。小田原城は天守閣が傾くなど被害も甚しく、その修築には幕府が費用を出し、藩主には、急速に道路の修復を命じたが、正勝は二年後に江戸の藩邸で死去し、十二歳の正則が封をついだ。彼は城主たること五十年、幕府の老中を勤めること二十三年、万治の領内惣検地、寛文の村差出など、藩領の整備につとめた。彼の治績はその「永代日記」五十余巻にみることができる。天和三年(一六八三)家督を正通にゆずって隠居した。四年後の貞享三年(一六八六)に正通は、越後高田(新潟県)に転封されて、稲葉時代は終わった。 稲葉氏三代の墓 小田原市 紹太寺 稲葉氏の転封の翌年、下総佐倉(千葉県)城主で、大久保忠隣の曽孫にあたる大久保忠朝が小田原に移封された。忠隣改易後七十年ぶりの大久保氏の復活である。これ以後歴代藩主は、忠増(元禄十一年襲封)・忠方(正徳三年)・忠興(享保十七年)・忠由(宝暦十三年)・忠顕(明和六年)・忠真(寛政八年)・忠〓(天保八年)・忠礼(安政六年)・忠良(明治期)と十代つづいた。このうち、忠朝・忠増・忠真は老中に就任して幕政に参画し、将軍に重用されている。 諸藩領の成立と小藩の創立 家康の関東入部後、小田原藩領、徳川直轄領、旗本知行所に分割された県域も、城主の交替、旗本知行の加増等によって変遷がみられた。小田原藩領も、藩主が幕府の要職につくと、その役料として所領が加増された。例えば、稲葉氏は、寛文三年(一六六三)の段階で、県外の伊豆十村・駿河七十六村・下野二十一村・常陸七村・武蔵四村の所領があり、再入国した大久保氏も、駿河七十村・伊豆十七村・下野二十二村・播磨四十九村があり、元禄七年(一六九四)には、河内二十六村が加っている。 これとは逆に、他国の藩主で役料の加増などで県域に所領を与えられるものもあって、江戸前期には、その藩数は三十三に及んだ。享保以降十一に減じたが、それは府中忍藩(埼玉県)松平氏領・前橋藩(群馬県)酒井氏領・三河中島藩(愛知県)板倉氏領・関宿藩(千葉県)牧野氏領・川越藩(埼玉県)柳沢氏領・烏山藩(栃木県)大久保氏領・三河西大平藩(愛知県)大岡氏領・佐倉藩(千葉県)堀田氏領等で、明治維新後に駿府藩(静岡県)徳川氏領がある。これらは、他国に居城をもつ藩領であるが、県下に陣屋をもつ新設の藩、あるいは知行加増によって、旗本から大名となった藩もある。前者に荻野山中藩、後者に六浦藩がある。 旗本大名は、天正の知行割付のとき、本多正信が鎌倉郡甘縄城に一万石を与えられた例があるが、これを疑問とする説もある。しかし慶長元年(一五九六)淘綾郡万田村(平塚市)に三百八十石を与えられた大河内正綱が、慶長十四年幕府の勘定奉行に昇進して、寛永二年(一六二五)一万六千百二十石の加増をうけて、甘縄藩をひらいたが、これも元禄十六年(一七〇三)当主正久が上総大多喜に移封されて廃藩となった。幕末まで続いたのは六浦藩である。六浦藩は、藩主米倉忠仰が享保七年(一七二二)幕府の許しを得、下野国皆川(群馬県)から久良岐郡六浦社家分村(横浜市金沢区)に陣屋を移したのに始まる。米倉氏は、戦国時代甲斐の武田氏に仕えていたが、武田氏の滅亡後は徳川家康に仕え、天正十八年(一五九〇)米倉永時が、大住郡堀山下村(秦野市)に二百石充行われた。 荻野山中藩跡 厚木市 藩祖になった昌尹は、五代将軍綱吉の側用人、若年寄となり、綱吉の譜代大名創出政策によって加増を重ね、大名となったものである。所領は、下野国に九村、上野国に四村、武蔵国埼玉郡に二村、久良岐郡に九村、相模国大住郡に十四村で計一万二千石を充行われた。初めは、下野国皆川村に陣屋を構え、皆川藩とよばれていたものが、六浦へ移ってきたものである。六浦は、金沢の一部であるので金沢藩とよばれたが、明治新政府の藩制整備のとき、加賀の金沢藩との混同をさけて六浦藩と改称した。昌尹のあとをついだ昌明は、藩領のうち上野国四村と、相模大住郡の東田原・西田原・堀沼城(以上泰野市)、上糟屋・笠窪・神戸(以上伊勢原市)、小鍋島・打間木(以上平塚市)の村々三千石を弟昌仲に分知したので一万二千石となった。 荻野山中藩は、元は小田原藩主大久保家から分出した旗本である。小田原藩主大久保忠朝の二男教寛が兄忠増の家督相続と共に分家し、足柄上郡十四村・同下郡四村・駿河国駿東郡に十三村、計三十一村六千石の分知を受けたのに始まる。教寛は、宝永三年(一七〇六)若年寄となり、駿河国内で領地五千石を加増されて、大名に列した。享保三年(一七一八)高座郡・愛甲郡・大住郡に、さらに五千石の加増を受け、駿河国松永村に陣屋を置いて、松永藩とよばれた。相模国の領分は飛地であり、愛甲郡中荻野村山中(厚木市)に陣屋を置いて、飛地の支配に当たった。天明三年(一七八三)五代教翅は、松永陣屋を荻野山中陣屋に移し、荻野山中藩一万二千石が始まった。これを契機に、荻野山中藩は、定府大名から半年交代の参勤大名となった。当藩の財政は恒常的逼迫状態にあり、改革策のないままに藩士・領民に倹約を励行し、法度は著しい精神論に終始した。慶応三年(一八六七)十二月十五日、この陣屋は薩摩藩士らに襲われ、一夜で灰燼に帰した。主謀者の一人結城四郎らの働きは、後の自由民権運動を遠望するものとされ、荻野山中陣屋襲撃事件として有名である。 同じ小田原藩主大久保家の分家ながら、荻野山中藩と逆なのは下野国烏山藩である。烏山大久保家二代忠高は、近江国に一万石を与えられ大名に列した。享保十年(一七二五)三代常春は、近江国から烏山へ転封を命じられ二万石を領した。同十三年老中になり、相模国愛甲・高座・鎌倉・大住の四郡内四十一村中に一万石の加増を受けた。居城を烏山と定め、愛甲郡厚木村(厚木市)に陣屋を設け、藩から代官を常駐させ、地元有力者を登用して士分とし、代官に任じて相模領を支配した。その支配は非常に苛酷で、例えば、延享三年(一七四六)領分田名村(相模原市)の田方年貢率は九四㌫に及び、領内の豪商にも千両単位の御用金を次々と課した。この地を訪れた渡辺崋山は、その「遊相日記」に「政事甚苛刻、人情皆怨怒ヲフクム」と書きとめた。烏山藩主は、常春・忠胤・忠郷・忠喜・忠成・忠美・忠順と伝えて、明治維新に及んだ。 増加する旗本領 徳川将軍の直属家臣団のうち、知行一万石以下の者を、御目見以上(将軍に謁見できるもの)とそれ以下に分け、前者を旗本、後者を御家人とするが、両者を合わせて御家人ということもある。宝永二年(一七〇五)の「御家人分限帳」によると、御目見以上と以下とを合わせて二万二千五百四十四人である。俗に旗本軍団のことを旗本八万騎というが、これら万石以下の者が、幕府の定めた軍役によって家臣や従者を引きつれて出陣する総数の兵力の概数である。御目見以上旗本のうち、知行取りは二千三百三十五人で、旗本総数の四四㌫にあたり、知行の総高は二百七十二万四千九百十四石余で、江戸時代を通じて最大であった加賀藩の二・五倍以上である。旗本八万騎は実際には総動員されたことはないが、徳川将軍の軍事力の基盤と意識された。 家康関東入封当初早々行われた関東知行割りで、相武には、直轄領についで旗本領が多く割りあてられたが、文禄元年(一五九二)以降知行の再配分が行われ、とくに関ケ原合戦・大阪の陣の功賞配分によって、県下の旗本の数は、著しく増加して行った。これらの新給の土地は、前述した諸藩領の創設とともに、相模国の過半数を占めた直轄領がその源となった。その例を大住郡大神村(平塚市)千三百十四石余で示せば、次のとおりである。 客舎酔舞図 渡辺崋山『遊相日記』から この一例は、関ケ原役・大坂の陣の功賞のあらわれとみられるが、平和な時代になっても蔵米取り旗本を知行取りに切りかえる地方直しが行われて、旗本領は増加の一途であった。その第一回は、寛永十年(一六三三)の地方直しである。この時、千石以下の旗本に一律に二百石加増が行われ、相模国内で新たに七十六名、県下武蔵二郡(久良岐郡は除外された)で三十九の旗本領が増加した。旗本領は直轄領の減少につながるが、幕府が敢えてこれを行ったのは、旗本救済と旗本の新たな軍役体系の確立であった。 第二回の地方直しは、元禄十年(一六九七)に、五百俵以上の蔵米取りの旗本五百四十二名に対し、関東八か国を中心に、伊豆・遠江・三河・近江・丹波の国々で行われた。県下では、足柄上・下両郡(小田原藩領)と津久井を除く全県域で行われ、計七十一名が対象となった。大住郡のごときは、百十五か村中直轄領は平塚宿・須賀村・馬入村(以上平塚市)など二十五村、旗本との相給領十七村にすぎなくなり、全三百領のうち旗本領二百五十領、幕領四十二領、藩領八領となった。武蔵三郡では、久良岐郡の変遷が最大で、天正期では直轄領が主体であったが、地方直しによって旗本十四名に三十二領が充行われ、これまで存在した分と合わせて旗本二十名、三十七領となって、郡の大半を数えるに至った。 小規模な地方直しは、その後も行われ、これまでの地方直しから除かれた津久井郡にも及んで旗本領ができた。とくに宝永年間(一七〇四-一七一〇)に集中的に見られ、旗本四十四名、その地域は県域全体で九十二村百十領の旗本領が設定された。 このような相つぐ地方直しの結果、例えば愛甲郡林村(厚木市)は、六百九十石余りの直轄領であったものが、宝永三年には柳沢信尹百八十九石、久留正清五十四石、久松定持百四十九石、幕領百九十七石となった。また高座郡栗原村(座間市)は五百八十石余の一円幕領であったが、宝永四年には太田資政領百十八石、同七年増田良富領百十八石、正徳元年(一七一一)山田敬元領二百九十石となって、幕領は皆無となった。 これら旗本領の領主は地頭ともよばれ、地頭検地も行い、地頭法とよばれる法度を公布した。ただし、全旗本領に見られたかは確かでない。所領高千石以上の旗本はもちろん、百石・二百石の小旗本でも検地を行った。例えば高座郡高田村(茅ケ崎市)と鎌倉郡手広村(鎌倉市)その他で二千七百石を知行する大岡氏(有名な大岡越前守忠相の家である)は、延宝六年(一六七八)、家臣吉川武兵衛による検地を行い、高田村のみでも、拝領高百六十石に対し、二百五十五石九斗九升九合の村高となった。拝領高六三㌫増の村高である。地頭法の例では寛永九年(一六三二)に愛甲郡温水村(厚木市)に百五十石、大住郡沼目村(伊勢原市)に二百石、同郡平沢村(泰野市)に二百石、上総国で四百五十石、計一千石の旗本土屋之直の、寛文十年(一六七〇)の法度二十二条がある。その第一条は幕府の法度を必ず守ることをかかげてある。しかし幕府法では禁じているはずの田畑の売買をみとめる箇所もあり、旗本独自の権限もうかがわせるが、総じて幕藩体制の枠内にあることは、いうまでもない。 しかも県域の旗本領は、後にはその傾向は止まるが、一大岡忠相墓所 茅ケ崎市 浄見寺 村が二、三の相給は普通で、甚だしいのは、一村が四、五の領主の相給であることも珍しくない。いわば小分割知行地の寄せ集めであることが特徴的である。 ㈢ 幕藩体制下の村方と町方 法人化した村 幕藩体制は検地によって村切りを行い、領主の年貢や諸役は村に割りあてられ、各百姓への割りあては村役人を中心に村内部で行う。これを村請制という。凶作による租税の減免の要求・隣村との水論・秣場の入会権や境界争い・漁場争論もすべて村が当事者となる。近世の村は一種の法人である。 法人化した村の内部は、さらに租税とり立てのために細分化されている。県下ではこれに三種ある。その一は、分である。津久井郡沢井村は源左衛門分と六郎兵衛分に分かれ、領主の租税割付状は各分別充てに出される。分が村扱いである。従って分が分村して村に昇格する例も多い。その二は、組である。村の下部や分の下部に組がある。これを「新編相模国風土記稿」は小名と言っている。例えば四ノ宮村(平塚市)の小名は、通町・寺ノ台町・南町・中庭町・西町・上郷・下郷の七名に分かれている。町というが、これは町並の意味ではない。下島村(平塚市)には、上ノ庭・下ノ庭・四ツ谷の三小名、堀斎藤村(泰野市)には、森戸・黒木・大道・欠畑・波多川・沼城の六庭がある。この庭も小名である。小名を谷(谷津)・開戸(垣内)・窪(久保)・村(村中の小村)とよぶこともある。これらは自然地理的名称ではなく、村人の社会的結合の小単位で、村人の共同作業(道普請や用水路修理など)、冠婚葬祭などに協力するので、日常生活上最も重要な単位である。この地域の単位である組は年貢徴収の単位としての行政的にも利用され、さらに五人組に組織されて、納税・治安の連帯責任を負うとともに、ジルイ・ジワケ・ジワカレ・イチマキ・イットウ・イチミョウ・ヒトマケなどとよぶ血縁的結合の場でもある。 村内部の第三の組織は、講である。信仰を中心とする庚申講・地神講・山ノ神講などその種類は多い。老人を主とした念仏講、子供中心の天神講、社寺参詣を目的とした伊勢講・大山講、経済的なものとして無尽講・頼母子講、年齢別性別の若者組や娘組、田植え・道橋普請・屋根ふきかえなどの共同労働・労働交換の組織や、農業生産に不可欠の山林・用水の利用組合など、物心両面にわたる講組織があって、いずれも村という地域を舞台として結成され、村人の村意識、共同体意識をたかめた。 新田村の造成 近世は、全国的に新田開発が幕府指導の下に行われ、江戸時代初期の二百万町歩(約二百万㌶)は明治六年(一八七三)には四百万町歩に増大した。県域も例外ではなかった。新田開発は、単に新たな田畑の造成ばかりでなく、屋敷地の設定を含む新しい農村-新田村の造成が主眼である。 近世初期、東国の幕領代官頭の伊奈忠次・忠治父子は、開発後数年間は無年貢地とし、種子を貸し付け、当座の食糧を貸与した。開発の指導者には除地を給与するなどして積極的に新田開発を推進した。 これが本格化するのは、八代将軍徳川吉宗が、享保改革の一環として、享保七年(一七二二)日本橋に高札を立て、江戸町人に新田開発をよびかけてからである。 県下にも、江戸時代初期から多くの新田が開かれた。慶長六年(一六〇一)徳川家康に稲毛・川崎二か領の代官に任じられた小泉次大夫吉次は、用水奉行を兼ね、女性をも動員し、多摩川の水を延々低地へ導く長距離工法によって、慶長十六年二か領用水を完成し、稲毛領三十七村、川崎領二十三村、二千町歩が、この恩恵をうけた。これと前後して、小田原領では、酒匂川流域で河原新田・曽比・新屋・加茂宮新田・鴨宮村枝郷と飯泉新田・柳新田・清水新田・穴部新田(以上小田原市)がいずれも近村からの入植者によって造成された。久良岐郡吉田新田(横浜市中区伊勢佐木町あたり)は、江戸で木材・石材を商う町人吉田勘兵衛らの共同請負新田として、明暦二年(一六五六)に着工し、寛文七年(一六六七)に完 吉田新田開墾前図 『横浜吉田新田図絵』から 成したものである。大岡川の流水を制御し、海面に防潮堤を築き、灌漑用水路を設けて、高千三十八石、新田村としては大きい村を造成した。 造成の手は、相模台地の上にも及んだ。台地上では畑地の造成である。延宝三年(一六七五)甲斐国(山梨県)出身といわれる江戸商人相模屋助右衛門が開いた上矢部新田(相模原市)がある。これは、一町歩一両で分売を目的としたものであったが、この地を秣場としていた上矢部村は、これに対抗して村請新田を開き、両新田合わせて貞享元年(一六八四)検地では百九十三町歩の新田村ができた。しかし、この時、新田村の九〇㌫は芝野であり、むしろ秣場確保の色彩が濃い。開発農民の水を得る労苦はなみなみならず、開発頭初は二㌔㍍離れた境川まで水を汲みに行った。水汲街道の名が今に残っている。同じ台地上にある大沼新田(相模原市)は、高座郡淵野辺村(相模原市)と多摩郡木曽村(町田市)が元禄十二年(一六九九)開発許可を受けて開いた村請新田である。宝永四年(一七〇七)検地では、両村分あわせて、畑百七十三町八反余、筆数千二百七十五、高三百七十五石五斗余となっている。この新田は、宙水に恵まれ、水利は比較的に良かったが、定住者が新田内に入ったのは、検地から三十年後の享保十九年からであり、元文三年(一七三八)に至って三十四戸となる。入居者は高座・多摩・津久井の三郡の者であり、地元淵野辺村の者は一人もいない。この外に、享保十七年(一七三二)に検地を受けた愛甲郡尼寺原新田(厚木市)、同十九年検地の鎌倉郡瀬谷野新田(横浜市瀬谷区)がある。享保以降の新田で、特筆すべきは橘樹郡池上新田(川崎市川崎区)である。橘樹郡大師河原村(川崎市川崎区)の名主池上太郎左衛門幸豊は、当村前面の江戸湾の海辺に広がる出洲を干拓して宝暦九年(一七五九)新田十五町歩を開いた。幕府は計画を疑問視し、容易に許可しなかったが、幸豊は規模を縮少し、損得を越え、六か年、八百両を費し、自らの技術と義田の理想を池上新田に現実化した。 このように積極的な新田開発は、宝暦期(一七五一~一七六三)を境に変化をみせ始め、以降は、本田の経営にさわりのない小規模開発と、荒地の再開発が中心となった。新田開発を進めるあまり、本田がおろそかになったり、本村と新田村との間に、用水・秣場・舟運等をめぐって、もめごとが多発した。幕府は、村請優先策、あるいは個人優先策を採ったり試行錯誤をくり返しながら新田開発を進めた。県域における江戸時代後期の大規模な新田は、相模野に行われた。天保四年(一八三三)七十三町歩余の淵野辺新田、安政三年(一八五六)百四十二町歩余の清兵衛新田がこれである。小規模な開発や、再開発は各地で行われた。 こうして、県域の村数は、正保年間(一六四四~一六四七)の八百二十三村が、元禄年間(一六八八~一七〇三)に九百三十一村、天保年間(一八三〇~一八四三)に九百二十九村となり、石高は、正保ころ三十万石、元禄年間三十五万石、天保年間三十八万五千石と増加し、明治元年(一八六八)には、二十二町・九百二十一村、四十万石余に達した。 町場・宿場・市場 近世の経済は自給自足が原則であるが、百㌫自給自足ということは、近世の初頭からあり得なかった。領主は、経済の中心である年貢米を売って貨幣を得た。その場が京都・大坂・江戸の三都といわれた都市である。農民は、年貢の一部を銭で納める必要もあって、労働力を売ったり、わずかばかりの余剰生産物を売るか、物々交換で年貢金や自給できない物資を得た。寛文十二年(一六七二)足柄上郡萱沼村(松田町)では、薪を伐り、小田原・大磯・須賀(平塚市)へ売り出し、足柄下郡仙石原村(箱根町)では、足駄を作り、売り出している。在郷の人々がかかわるその場が市や町場であり宿場である。当然人々の出入が多い。町は住家が軒を並べているところ、宿場は街道沿いに旅人の宿泊を機能とする家の並ぶところ、市場は物の交換を目的として人々が集まるところ、この三者はその機能が非農業的で、しかも多数の人が集まる点で共通性をもつ。その場の構成者も農村と一線を画し、領主の対応も異る。 近世のこの三者は、戦国大名の城下町造成と、領内交通整備と領内の産業保護によって起こった。戦国大名の 平塚宿(模型) 平塚市市立博物館蔵 うちでも小田原北条氏は、これらの諸政策を先駆的に打ち出したことは、既述した。当時の城下町小田原は、その落城とともに関東の中心的地位を失って一時さびれたが、大久保氏の入城とともに昔の繁栄をとりもどし、貞享三年(一六八六)には山角・筋違橋・代官・新宿等の町々に分かれ、職人二百四十九人、大工六十四人をはじめ、三十二種に及ぶ商工業者を居住民とする町となっていた。 宿場については、既述にゆずるが、これら宿場は、町場・市場としても機能したものが多い。例えば、矢倉沢往還の伊勢原では、天保年間(一八三〇~一八四三)民戸百六軒が往還の両側に軒を並べ、毎月三と八の日に市が立ち、特に師走の市日には、往来中に仮り店が出て、正月用品を売り出して賑った。同往還の厚木には、八王子・甲斐方面や丹沢・平塚・藤沢等へ通じる諸道が集中し、相模川の河岸もあって、同じ天保のころには農商相半ばして民戸三百三十戸が集中し、毎月二と七の日に市が立った。港町では、須賀・三崎・浦賀等が栄えた。特に浦賀は、享保五年(一七二〇)廻船番所が置かれたので、江戸へ入港する諸国廻船がすべて入港し、賑わいを極めた。天保年間には干鰯問屋三十戸を初め、商店四百五十戸が並んだ。 町場以外の農村には、各地に市場があって、六斎市が開かれ、日常生活の必需品、農作物等の生産物を売買した。大住郡の曽屋・堀斎藤(以上秦野市)・下糟屋(伊勢原市)、愛甲郡下荻野(厚木市)、津久井県上・下川尻(城山町)の久保沢と原宿、高座郡座間宿(座間市)、都筑郡川和(横浜市緑区)等である。戦国時代に小田原北条氏によって栄え、江戸時代に入ってつぶれた高座郡当麻村(相模原市)の市は、元禄十三年(一七〇〇)村方は、市の再興を出願し、周辺の十七か村も、これを支持して願書を差し出した。農村にとって、市場の必要性がうかがわれる。 村方・町方の文化 村方・町方の別は、その経済機能からの見方である。その住民は、階級的には、いずれも庶民である。村方・町方の文化は庶民の文化である。 中世の鎌倉文化は、中世の政治都市鎌倉で栄え、鎌倉の寺社がその中心であった。しかし、庶民とはおよそかけはなれた文化であった。近世になると、鎌倉の寺社の多くは、幕府から朱印状を宛行われ、小領主化してやはり庶民とかけはなれたものであった。しかし、これらの寺社は、源頼朝以来の古い文化を継承して来たので、庶民生活の向上にともない、寺社参詣等庶民の遊覧地と化した。 一方、相模国の近世寺院の総数は、千九百五十寺を数えた。その宗派は曹洞・臨済・古義真言・新義真言・日蓮・浄土・浄土真・時・黄檗・本山修験・当山修験の各宗派にわた 灯明堂跡 横須賀市 る。寺院数の二〇㌫を曹洞宗が占め、一〇㌫以上を占める古義真言宗・臨済宗・浄土宗・日蓮宗と共に五宗派が相模国の主要宗派であった。一村五か寺以上もある村、無寺の村等、村々における寺院の分布は多様であるが、一村当たり平均寺院数はおよそ三寺である。寺院というものは、戸数三十戸、高百五十石ぐらいの地域に一寺存在していた。この寺々は、幕府の檀家制度に支えられて、その宗教政策を町方・村方において現実化したが、ほとんどの寺院と住持は、葬礼に終始することとなり、檀那寺が庶民の菩提寺となった。庶民の墓石があらわれるのは、近世村方・町方での現象である。 また僧侶の庶民教育に果たした役割は大きかった。庶民教育の場は寺子屋であるが、県下の寺子屋で、創立の最も早いものは、延宝七年(一六七九)鎌倉郡阿久和村(横浜市瀬谷区)の代々名主小林清兵衛の営んだものである。寺子屋の開校は、文化~文政ころ(一八〇四~一八二九)からその数を増し、横浜開港を境に安政~慶応ころ(一八五四~一八六七)に飛躍的に増大し、明治(一八六八)に入って最高に達する。その数は現県域においてわかっているもので五百十四校に及んでいる。寺子屋で行われた教育の基本は読み・書きで、九四㌫の寺子屋はこれに終始した。寺子屋の教科書は、一般的には「六諭衍義大意」があげられる。これは、明の洪武帝発布の六諭をもとにした「六諭衍義」を、八代将軍吉宗が寺子屋の盛行をみて、儒者室鳩巣に命じ仮名文に要約させたものである。父母に孝順、長上を尊敬、郷里は和睦、子孫教訓、生理を安んじ、非為をせずを人倫の六道として遵守せしめようとするものである。県域では、天保十一年(一八四〇)代官関保右衛門が、小机領十村(横浜市緑区)の名主に、「孝行和讃」を手習の手本とするよう申し渡した。これは「六諭衍義大意」を更にやさしく要約したものである。為政者が、寺子屋を封建社会の維持に利用するほど、寺子屋教育は実効あるものであった。その外の教科書は、各種の往来物や実語教・童子教・女今川物等児童の躾を内容とするもの、五人組帳前書・村議定等、村方・町方の一員としての心得を内容とするものが用いられ、読み・書きの中に、自然と封建的家庭道徳・社会道徳が身につくように仕組まれていた。また、相模の人々が著わした教科書もあった。安政六年(一八五九)神田勝次郎著「邑名付覚」は三浦半島の村名集であり、慶応三年(一八六七)小室万次郎著「相模国八郡村々覚」は手習の内に相模国の地理的知識を習得させるものである。 時代が下ると、医学・絵画・歴史に及ぶ寺子屋もあらわれ、学習の手順は、いろは四十八字から始まって、数字・単語・文書へと進むのが普通であった。こうした教育の盛行は、幕末から明治にかけての郷学校の設立に進んだ。郷学 寺子屋の図 集英社『図説日本の歴史』から 校は、組合村数村が協同して作ったものや、明治に入って、県の奨励により、寄場組合を中心に作ったもの等がある。クラス編成があり、系統的に教科を教える等近代的教育システムである。県下の郷学校は、文久二年(一八六二)高座郡栗原村(座間市)の豪農大矢弥市を中心に設立した誠志館を初めとし、明治四年(一八七一)神奈川県は二十七郷学校の設置を計画した。校名が、成思館(厚木市)・済美館(藤沢市)・日新館(小田原市)等の館名のもの、小野郷学(町田市)・堀内郷学校(横須賀市)等学校名のものもあるが、明治五年学制発布と共に、新たに設けられた小学校に継承されたものが多い。なお、「神奈川県教育史」によると、県域の寺子屋師匠は百九十五人おり、内百五十八人を僧侶が占めていた。これに次ぐのが武士十二人、医師十八人である。寺子屋師匠の中心は僧侶であったといえよう。 社寺参詣と庶民信仰 社寺参詣は古代からあるが、その風習が庶民層にまで普及したのは近世である。その中で全国的に見られた代表的なものは伊勢詣である。寛文二年(一六六二)三月一日から十六日までの半月間に、千六百九十人が、伊勢参りのため箱根関所を通過したと小田原藩に報告している。宝永四年(一七〇七)足柄下郡成田村の名主・組頭は、村から十一名、年貢を皆済していないから出掛けるなと制止したのもかまわず抜け参りに出掛けてしまったと、届け出ている。封建権力も、制止することができなかったのである。しかもこの一行は、小百姓・その弟・子供・下人・無田(帳外れ)の集団であった。貧しい農民に対しても、道中で宿泊させたり食事を与えたりする慣習がひろく成立する一方、村内では道中の費用をまかなうための伊勢講が、各地に組織された。高座郡羽鳥村(藤沢市)では、天保九年(一八三八)百四十四人の講員で大々講が組織され、六年の積みたてののち、天保十四年正月十六日百人前後の大集団で伊勢参りに出発し、二月四日内宮参詣をすまし、そのあと、奈良・吉野・高野山・根来・紀三井寺・和歌山・四国の金比羅・善通寺・大坂・京都・比叡山・三井寺等を回って、三月十六日ごろ羽鳥村に帰った。こうなると伊勢参りを口実とした大観光旅行である。近世の社寺詣では、信仰を中核とした遊覧の旅でもあった。県域の寺社内で庶民の参詣が盛んであったのは、大山詣・江の島参りと川崎大師参詣である。 大山信仰の由来は、古代にさかのぼる。山頂の阿夫利神社は、延喜式にも登録された式内社であり、水分の神として農業の神として信仰され、近世初期には雨乞いの山として有名となり、上総国富津村(千葉県)の人びとは、毎年船を仕立て、東京湾を横断して、久良岐郡野島村(横浜市金沢区)から大山詣でをするのが恒例となっており、その信仰は、相武以外の地域にまで及んだ。そのため相模国 伊勢参り 集英社『図説日本の歴史』から 内にいくつかの大山街道ができた。こうした大山信仰の状況に対し、慶長十年(一六〇五)徳川家康は不学不律の僧を下山させ、高野山の学僧実雄を大山寺別当八大坊の住持に任じ、大山寺の組織づくりをさせた。定数の僧侶のほかは、坂本村(伊勢原市)に居住地を定め、民衆と接触させた。御師は、豊作祈願・無病息災・除災招福・家内安全・夫婦和合・商売繁昌等の現世利益をもとに庶民に接し、修験道の咒術的加持祈禱を行って、民衆を引きつけたので、大山信仰は一層盛んになった。毎年六月末になると大山街道は、御師にひきいられた白い木綿の浄衣を着け、腰に鈴をつけ笠をかぶった大山詣での団体でにぎわった。 冬には、御師は檀廻帳を片手に信者の宅を回り、御札配りをして、御布施を集める。その際、山椒・利休箸・茶・茶ほうじ・うちわ・菓子鉢・茶台・杓子・物指・くすり・糸巻・扇子等を添えて、信者との連帯を強めた。万延元年(一八六〇)の記録によれば、御師の札配りの国々は、武蔵・常陸・下総・上総・安房・上 江の島参り 神奈川県立博物館蔵 野・下野・陸奥・甲斐・駿河・伊豆・遠江となっている。相模の記録は失われているが、当然これに加わり、さらに越後・信濃も後の記録によって加えられる。関東一円はもちろんその周辺の国々に及んだのである。 江の島の弁財天は、源頼朝が奥州藤原秀衡調伏のため文覚上人に勧請させたものと伝える。島の裏側にある波蝕の洞穴は竜神の住む霊窟と考えられ、竜神は雨をよぶとの信仰から、鎌倉幕府は、江の島明神に雨乞いの祈禱を行わせた。その一方弁財天は音楽芸能の守護神であるところから、芸能者の信仰を集め、開運・除災・除病・財宝の神として、庶民の信仰をあつめた。とくに江戸から江の島に参詣する人士が多く、今日残る江戸の材木問屋や薪問屋の寄進した石燈籠、新吉原の遊廓楼主の寄進した銅製の大鳥居等が、江の島詣での信者の層を物語っている。すなわち、その信者は富裕な商人層であり、そうした信者を目標に、数多くの江の島案内記がつくられ、江の島への入口であった藤沢はもとより、島内には、土産物屋が軒を並べて繁昌した。 ㈣ 幕藩体制の破綻 周期的に襲う地震と天災 稲葉正勝が小田原へ入封した翌年の寛永十年(一六三三)以降、元禄十年(一六九七)、同十六年と、相武に大地震が相次いだ。特に、元禄十六年十一月二十二日丑刻にM八・二とされる大地震が起こり、南関東一帯、ことに相模国に大きい被害を与えた。倒壊家屋六千三百余、小田原城下では武家屋敷は全壊し、町屋は倒壊と出火で全滅し、死者の数七百七十七人と伝えられている。その翌年、翌々年には、この大地震で堤防の壊われた酒匂川が大洪水を起こし、足柄平野の田畑の多くは全滅した。宝永三年(一七〇六)にも南関東に大地震が起こり、東京湾岸に津波の被害があった。翌宝永四年十月関東から四国にわたる広範な太平洋岸に地震が起こり、小田原城の石垣は崩れ落ちた。これに追打ちをかけるように、翌月十一月富士山が大爆発を起こした。焼砂は南関東一帯に間断なく降り注ぎ、富士山麓で一丈三~四尺(三九四㌢㍍~四二四㌢㍍)、足柄上郡で二~四尺、秦野市で一尺四~五寸、横浜市域ですら七~八寸(二一㌢㍍~二四㌢㍍)積もった。県域の山野田畑は火山灰で埋まり、一面を砂場と化した。農民の主食である麦作を初め、冬作物は全滅し、牛馬の飼料もまた砂に埋もれた。この時宝永山が誕生したが、壊滅した 関東大地震(1932)のとき崩れた小田原城の石垣 農村の復旧は容易ではなかった。幕府は、あまりに復旧困難な小田原藩領の一部に、代替地を与えて上知し、幕府の手で復旧の後に藩へ返却したほどである。しかし、膨大な火山灰は、泥流となって河川に流れ込み、幕府の力をもってしても、氾濫を繰り返えす酒匂川の治水に成功することはなかった。以降小田原藩は、明治に至るまで、遂にこの打撃から立ちなおることはなかった。その上、幕府も藩も財政難に向かっている時期であり、農村に救助金を出ししぶり、自力復旧を強要した。 元禄の大地震から八十年を経た天明二年(一七八二)相模湾西部を震央とするM七・三の大地震が起こり、小田原城下の侍屋敷一千軒が倒壊した。民屋の倒壊はいうまでもない。この前後、東北地方に始まった気候不順による凶作は南関東に及び、加えて江戸では大火が相ついで飢民乞食が村方・町方に溢れ出た。しかもその凶作は数年に及んだ。史上に名高い天明の飢饉である。米価は高騰し、相模地方でも銭百文で一升以上も買えたものが六合五勺しか買えない有様である。この米価高騰に、町方の商人や村方の豪農のなかには、米の買占めをして巨利をはかるものがあらわれた。農民たちは打ちこわしをもって、これに抵抗した。天明七年六月、小田原商人の宅に始まった打ちこわしは、農山村に及んだ。とくに津久井県・愛甲郡の山村に起こった打ちこわしは、主導者が土平治なる人物とされ、土平治騒動として、語り伝えられている。 天明からおよそ五十年の天保四年(一八三三)、またしても奥羽に始まった天候不順による凶作が南関東に及び、米価は高騰し、加えて、八月一日に起こった大風・大雨は、県域の作物に大損害を与えた。天保七年(一八三六)に起こった大磯宿の打ちこわしを始め、米商や豪商の打ちこわしや、打ちこわし寸前の小前(小農)の集会が、各地で起こった。大坂町奉行与力大塩平八郎の乱は、大坂の出来事であったが、富士山麓に平八郎が出没したとの噂さえ流れた。 封建財政の破綻 封建財政は、米を基本とする財政システムである。貨幣経済が一般化した近世では、米経済が貨幣経済に圧倒されて行くのは、当然である。天災による一時的米価の高騰はあっても、平時では、米価は下落の方向をたどり、諸色物価は高騰の方向に進んだ。しかも、年貢徴収率は延享年間(一七四四~一七四七)を境に下降をたどり、人口もまた相模国では減少傾向を示す。都筑郡王禅寺村(川崎市麻生区)や津久井県太井村の荒川(津久井町)のように、明和期(一七六四~一七七一)を起点に、村中の中間層の分解がはじまり、この傾向は国内の村々へ波及していった。すなわち、幕府の殖産奨励策によって、生糸・絞油等の手工業が村中で行われるようになり、現金収入を得る場所が身近に生まれると、田畑を離れ、賃稼ぎ、小作人化する者が生まれた。それにつれて、このような村民を相手とする小商いが続出し、従前の自給的な村落の様相は大きく変わり始めた。これはやがて、村内に様々な商人が生まれ、かなり本格的な商業活動を営む在方商人層を形成する。村民は村を越えて現金収入を求め、村中へも商品を運んで様々な人々が往来した。これにつれて、無宿渡世人が流入し、博奕を開帳するなど、反社会的行為も起こってきた。新興の在方商人と既得権を守ろうとする小田原等の都市商人との間に争いが起こるようになった。このような村方の動向に対応し、文化二年(一八〇五)幕府は、勘定奉行に直属し、幕領・旗本領・大名領・寺社領等いっさいの行政区分をこえて、治安維持にあたる関東取締出役を置いた。この制度は、幕府にとって大いに有効であり、文化十三年(一八一六)組織を拡大し、文政十年(一八二七)には改革組合村を発足させた。これは約二十村を集めて組合を作り、その中心を寄場村とし、寄場名主を置いたものである。このようにして相模国には十三寄場、武蔵三郡には六寄場が設けられ、取締出役の任務は拡大された。一揆の鎮圧、米の買占禁止、歌舞・手踊の禁止、心学教諭、質素倹約励行、農間渡世禁止等にまで及び、村々のすみずみまで取締りの網をはりめぐらした。 米経済にたよる小田原藩財政の逼迫もまた避けることのできない状況であった。延享四年(一七四七)から寛政八年(一七九六)に至る約五十年間の小田原藩は、米価安の諸色高が常時の姿となり、加えて、再三の天災による年貢米貢納の減少と、被害復旧のための支出が追い打ちをかけ、藩財政は窮之し、農村の荒廃は進んだ。二宮尊徳が、藩主の命によって、藩財政再建の資料として作った「収納平均帳」によれば、宝暦五年(一七五五)から天保七年(一八三六)の八十二 二宮尊徳画像 小田原市 尊徳記念館蔵 年間の収納高の最高は、文政元年の十一万八千四百十俵余と永三千九百四十二貫余、最底は天明三年(一七八三)で米六万六千三十四俵余、金二千八百両余である。後者は明らかに天明の飢饉の影響である。また弘化二年(一八四五)の小田原藩の収支状況をみると、収入は貢租米七万四千八百六十七俵、金一万五千百九十七両余に対し、支出は、米六万七千二百五十二俵、金三万一千百七十四両余であって、米は七千俵余りの余剰があるかわりに、金は一万六千両の不足である。甚だしい赤字財政である。この赤字は幕府その他からの借用金で賄い、安政四年(一八五七)の支出は、十五万三千八百九十九両余で、このうち五万一千百二十九両余は旧借の年賦返済金であった。こうした財政状況は、当然藩士への給与にも影響し、藩からの支給米は、正徳二年(一七一二)に表高の五割を削減したのに始まって、年々減額がはげしくなって、天保十年(一八三九)には、ついに三分の一以下となった。 大久保忠真酒匂川で領民表彰 東京都 土屋昇氏蔵 このような小田原藩の危機的状況下に、寛政八年(一七九六)藩主に就いた大久保忠真は、在位四十二年間に及び、国産方を設けて物産の開発に務め、学問所集成館を創設して藩士の教養を高め、領民の善人・孝行人を表彰するなど、藩政の改革に務めた。 しかし、寛政三年・享和二年(一八〇三)酒匂川は相次いで決潰し、さらに天保大飢饉の難は当藩にも及んだ。忠真は藩財政の再建を期し、一介の農民ではあるが、分家旗本桜町大久保氏の家政改革に成功をおさめ、経験豊かな二宮尊徳を登用した。 尊徳の仕法は、過去の藩財政を徹底的に調査し、それを基準に財政設計をたて、生活を合理化し、そして得た余分を社会へ還元するというものである。尊徳の小田原藩の仕法は、仕法が実施されないうちに藩主忠真が没し、藩内の尊徳反対派によって、弘化三年(一八四六)正式に廃止された。 尊徳仕法は旗本領や小藩領では効をおさめ、その信奉者によって継承され、全国各地へ拡大していった。しかし、以降の小田原藩は、献納金 集成館(復原模型) 小田原市 本町小学校蔵 を上納させては脇差・羽織・袴・紋付・上下・苗字等免状を多発するばかりで、藩政にみるべきものもなく明治維新に至った。 近代 一 近代化の足音 ㈠ 開国の舞台 海防問題に苦しめられる ロシア人の南下にはじまる外圧は、ロシア使節ラックスマンが、江戸入港を希望したため、海防は焦眉の急となった。老中松平定信は、江戸湾はロンドンに通ずるとの認識をもって、江戸湾防備の見地から房総の地を視察したが、その成果が実施されない文化三年(一八〇六)、ロシア船がエトロフ島や樺太に侵入、暴行をはたらいたので、武力行動の恐れがたかまり、文化七年、幕府は、三浦半島沿岸を会津藩に、房総半島側を白河藩にその警備を命じ、江戸湾沿岸の要地に大砲の台場を築いた。三浦半島をうけもった会津藩は、観音崎(横須賀市)に陣屋を設け、多くの家臣を派遣して沿岸警備に当たらせた。その費用として幕府は、陸奥・越後の会津藩領の一部を上知させ、三浦郡・鎌倉郡で三万石の代替地を与えた。会津藩の代替地の年貢取り立てはきびしく、それまで数十年に一人ぐらいしかなかった死刑が、会津藩領となった十年間に死刑二十余人、鼻削・追放に処されている者は多く、賄賂の多少によって、仕置に差があるなど農民は苦しめられた。会津藩は文政三年(一八二〇)警備を解除され、その役は浦賀奉行に移され、非常の際には川越藩と小田原藩が出兵することとなった。非常体制から警戒体制となったのである。しかし、年とともに外国船の来航は増加するので、天保十三年(一八四二)、浦賀奉行中心の体制を改め、房総側を武蔵国忍藩、相模側を川越藩の警備担当とした。川越藩は、大津村(横須賀市)に陣屋を構え、百四十五人の藩士を配置し、公郷村(横須賀市)沖の猿島台場・観音崎台場・旗山台場にも配備し、非常時の動員には、三浦半島の藩領地の名主ら村役人に、苗字帯刀をゆるして、彼らを通じて農民・漁民を総動員する体制をつくった。弘化三年(一八四六)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビットルが野比村(横須賀市)沖に停泊したとき、川越藩が相模領の全村に課した動員数は、鴨居陣屋で舟三千六百五十七艘、水主・水夫四万千六百三十三人、馬百四十五疋、この外、三崎陣屋で舟千百十一艘、水主・水夫一万四千三十五人・馬四十一疋であった。艦隊は十日ばかり停泊したが、その間、陸上では警備のために昼夜をわかたない騒動で、漁師・百姓も大いに疲れて、難渋したのである。 翌年幕府は、相模側に彦根藩、房総側に会津藩を加えた。彦根藩には、川越藩の相模領の四か村が与えられた。彦根藩は三浦郡野比・長沢辺から鎌倉郡腰越(鎌倉市)・片瀬村(藤沢市)の警備を引きつぎ、三浦郡上宮田村(三浦市)に陣屋をおき、藩士三百四人、川越藩から引きついだ三崎陣屋には百十四人を駐在させ、名主ら村役人に命じて、人足二千七百二十三人を動員する体制をつくった。 嘉永六年(一八五三)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー来航のときには、幕府は、旗本にも出陣準備を命じた。日ごろ武具兵員が不足していた旗本は、有力農民を家臣に仕立て、領民に軍役を課し、兵粮米や軍用金を徴発した。その結果、海防の重圧は、県域内の旗本領にも及んだ。 後に海防警備の藩は、川越藩が熊本藩に、小田原藩が萩藩に代わったが、これらの藩も舟・水主・水夫らを、相模国内に与えられた代替地で調達する点に変わりはなかった。藩士らの支配はきびしく、農民漁民の苦しみは、つのるばかりであった。わずかに萩藩だけは、相模領の民政に力をそそぎ、後日、村々からその支配の継続を願い出ているのは、例外的である。 日米和親条約は横浜で締結 安政元年(一八五四)、ペリーの率いる艦隊は、前年の約束に従って再び来航して、一月十四日江戸湾外に到着し、湾内に深く進入して小柴村(横浜市金沢区)沖に停泊した。幕府は、急いで警備地域を品川(東京都)までひろげる一方、ペリーには浦賀を交渉地とすることを要求したが、ペリーはこれを拒み、威嚇の意を含めて、生麦(横浜市鶴見区)・大師河原沖(川崎市)まで進入した。幕府は遂にペリーの主張を入れて、横浜村を交渉地とすることを承諾し、浦賀に建設したばかりの応接所を、横浜市の現在の県庁所在地付近に移し、三月三日、和親条約を結んだ。条約は十二条から成り、今後の日米親善を約し、下田(静岡県)・箱館(北海道)の開港、相互の漂着民の返還及び待遇、アメリカ船に対する薪水・食糧の供給、外交官の下田駐在、最恵国待遇の承認などをとりきめた。これは一般に神奈川条約と呼ばれ、鎖国体制が打破される最初の条約であった。任を果たしたペリーは、六月一日帰国の途についた。 アメリカに引きつづいて、イギリス・ロシア・オランダとの間に和親条約が結ばれた。これらの締結の場所は、横浜ではなかったが、条約締結の最初の場所が横浜であったことは、横浜に近代的地位を与えたといえる。それは安政五年(一八五八)の日米通商条約に実現した。このころから急速にたかまって来た攘夷論にも拘わらず、列強、とくにアメリカの強い圧力の下に、もはや三百年にわたる鎖国の維持が困難と判断した幕閣は、安政五年六月十五日、日本側全権の井上清直らは、神奈川沖に停泊する米艦ポーハタン号上においてアメリカ総領事ハリスとの間に日米修好通商条約の調印を行った。全文十四条から成るが、眼目は、下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市場、各開港場における居留地の設営、日本役人の立合いのない自由な貿易等である。アメリカ人の治外法権を認め、日本は関税自主権を失うなどの不平等条約であったが、これで日本は近代的国際関係の第一歩を踏み出した。ほぼ同様な内容の修好通商条約を、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと、 ポーハタン号 県立文化資料館蔵(山口コレクション) 江戸で締結した。 こうしてわが国近代化の幕が、県下を拠点にひらかれようとする時期に、天災地変は相変わらず相武の地をおそい、コレラの流行さえ加わって、海防の労役に苦しむ農民・漁民の不安を倍加した。安政二年(一八五五)十月二日、江戸を中心に起こったマグニチュード六・九のいわゆる安政の大地震は、県下にも甚大な被害を与えたが、旗本領の多い県域の人々は、江戸にある旗本邸の復旧に奔走しなければならなかった。翌年八月には、県下は大暴風雨に見舞われ、相模湾・江戸湾沿岸は風雨と高波の被害を生じ、例えば市場村(横浜市鶴見区)では、家数百二十九軒の内、全壊三十軒、半潰れ十六軒、潰れ小屋五十五軒に達した。 これに追い打ちをかけたのが、安政五年七月、西方から箱根を越えて小田原宿に入り、たちまち関東一帯にひろまったコレラである。黒船のもち込んだ疫病と考えた人々は、寺社 横浜応接図 新潟県 黒船館蔵 に祈禱し、赤紙呪いに狂奔した。幸いコレラは、寒気の到来とともに鎮静した。 神奈川奉行と居留地 幕府は修好通商条約の締結によって、外国関係のすべての事務を取り扱う外国奉行を設けたが、横浜開港とともに、酒井忠行以下五名の外国奉行に神奈川奉行兼任を命じた。そのうち二名を半年交代で横浜在勤にしたが、元治元年(一八六四)、初めて専任の神奈川奉行をおき、松平康直、都筑峰輝を任命し、奉行所預所として、横浜町・戸部町・太田町・吉田町・北方村・根岸村・本牧本郷村・神奈川町・生麦村・保土ケ谷町など二十七か町村一万三百二十石余を定め、奉行の下に、戸部役所と横浜運上所を設けた。戸部役所では、預所の貢租徴収、預所内及び外国人遊歩区域(条約により十里四方の遊歩が認められた)内の風俗取締り、道路の普請、検使検察裁判、百姓町人の出願事項等の一般的な行政事務を取扱った。横浜運上所では、税務事務を中心に、外国艦船の入出港手続、貿易・洋銀引替、外国人取締り・応接などを担当した。幕府は九万六千両を投じて、神奈川奉行所・運上所、波止場を建設した。諸外国は開港場について、条約にしたがって神奈川を主張したが、幕府は、神奈川は宿場のため日本人との間に紛争が起こることを恐れて、漁村であった横浜を都市計画に基づいて新しい都市として整備を進め、開港場横浜の出入口に関門を設けたので、以後、俗に関内と呼ばれるようになった。 関内に最初の商館を建てたのは、イギリスのジャーディン・マセソン商会で、英一番館と名付けられた。三、四年後には、外国商館は百十番に及んだ。また外国奉行水野忠徳は、三井八郎左衛門に、横浜本町二丁目へ、呉服と金銀両替店を出させるなど、商人の出店を勧誘したので、江戸から三十四軒、神奈川宿から十二軒、保土ケ谷宿から六軒の出店ができ、神奈川奉行所も二十棟の役所を建設して、横浜の街は次第に体裁をととのえた。 同時に、貿易も驚異的な伸展を示した。開港後の半年間は、輸出洋銀四十万ドル、輸入十万ドルに過ぎなかったものが、翌年の万延元年(一八六〇)には輸出三百九十五万ドル、輸入九十四万ドル、文久元年(一八六一)輸出二百六十八万ドル、輸入百四十九万ドル、同二年輸出六百三十万ドル、輸入三百七万ドル、慶応元年(一八六五)には輸出入とも一千万ドルを越えて、輸出一千七百四十六万ドル、輸入一千三百十五万ドルとなった。輸出躍進の中心となったものは、絹と蚕種と茶であった。絹の産地甲州(山梨県)や上州(群馬県)から横浜に通ずる街道は絹や生絹の商人の往来が盛んで、シルクロードの観を呈した。絹につぐ茶は、産地の者や都市商人が、産地で買い集めて横浜に直送したもので、とくに伊勢(三重県)と駿河(静岡県)の茶商人が活躍した。 ㈡ 神奈川県の成立 貿易繁昌の裏側 急激な外国貿易の伸展は、物資の横浜集中を招き、国内の需要を賄っていた諸物資は逼迫して物価は高騰し、安政の大地震にうちつづく大暴風雨による米価の高騰に拍車をかけた。万延元年(一八六〇)、藤沢宿では米価が二倍にも高くなり、一両に四斗四升ともなって、多くの餓死者が出る有様で、富裕者や村名主が穀類や金銭を施行するものもあったが、追いつかず、慶応元年(一八六五)には一両につき二斗六升、翌年には一斗八升となった。ついに県下各地で打ちこわしが発生した。武蔵国秩父郡名栗村(埼玉県)に起こった武州一揆は、その勢三千人に及び、北は上野国(群馬県)、南は多摩郡の青梅・福生・田無(以上東京都)に及んだが、幕府は農兵を動員してようやく鎮圧した。 その一方、横浜居留地の発展は、攘夷論者を刺激し、討幕論と相乗して彼らの活動を過激化し、横浜・兵庫の周辺では多くの外人殺傷事件を引き起こした。万延元年一月二十五日、横浜でオランダ人デニボスとゲッケルの二人が殺害されたが、江戸では三月三日伊井直弼の殺害、十二月二十五日江戸三田でのアメリカ人ヒュースケン暗殺、文久二年(一八六二)一月十五日老中安藤信正の傷害事件などが相ついで起こった。八月二十一日には、生麦村(横浜市鶴見区)では薩摩藩土によるイギリス人殺害事件が発生した。 こうした世情物騒のさなか、突如として、いずこからともなく、伊勢神宮の御祓札をはじめ、さまざまな神仏のお札が降り、民衆が「えいじゃないか」と囃しながら踊り狂う騒ぎが東海道筋にはじまって東西にひろまり、県下でも慶応三年(一八六七)十一月に小田原に始まり、十一月六日藤沢宿、八日に山西村(二宮町)、十五日に横浜に波及した。横浜では、神仏のお札が降ると、店先へそのお札を飾り、往来人へ投げ餅をしたり、中には幟を立てた。幕府は鳶人足などを置いて横行の所業に及ぶ者もあるというので禁令を出したが、施物を出すのは勝手次第、往来へ飾り物や投げ餅をするのは、通行の妨げになるから三日間限りと指示している。 高座郡柳島村(茅ケ崎市)のある家では、十一月三日、海に浮かんでいた水天宮のお札を拾って来た孫が、十一日には、藤沢宿で旅人から南都東大寺八幡宮の鏡影を貰って来たが、さらに十四日の夕方には、日光山開運大黒天のお札が空中から降って、庭の楓の葉にとまった。十五日、家ではこの三っのお札を一祠に祀り、米俵に酒樽を据え、村中の老若にすすめ、子供らに赤飯を振舞った。僧侶が来て読経し、家中大喜びであった。十七日には、孫をはじめ、村中の者が伊勢参りに出かけたが、人数がふくれあがって六十余人になり、二十八日両神宮に参拝し、十二月九日に帰郷した。 「えいじゃないか」の騒ぎについては、いまだ解明が十分されていない。お札の中には、「異人退治」と書いたものもあることから、これを尊王攘夷論者の仕業とする説もあるが、お札の降下が、人為的なことは疑いないにしても、それを特定の人たちに限定することは出来ないことは明らかである。ただお札が降った家では、祭壇を設けて祀り、人々を招いて大盤振舞いをしたり、貧困者に施行したりした。「えいじゃないか」と囃して、これらの施行をうける民衆に、口から口へと伝えられる風説の中には、貧困者を救うために米や金が施されること、米を買い占めしていた穀屋が火事で焼けたとか、米俵が一夜のうちに紛失したという話が多い。米価高騰に苦しむ民衆の救済のために、仕組まれたものであるともいえる。 しかも、柳島村のある家のように、降るお札の神仏は雑多であっても、結局、伊勢参りで落着するところに、幕末に民衆の間に流行した「お蔭まいり」の変形したものと見ることができる。 幕府倒壊と相武の旗本たち 「えいじゃないか」が、東海道・山陽道(中国筋)・南海道(四国)とひろい範囲につづいている最中の十月、十五代将軍徳川慶喜は大政を奉還し、七百年の武家政治は終結を告げた。 大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦に敗れて江戸に帰った慶喜は、旗本に対して、随身の自由をみとめ、旗本御家人たちに対し、家族とともに知行地へ土着することを許した。朝廷でも、朝廷に帰順する旗本は朝臣とし、旗本で朝臣となる者の禄制を定めて受け入れ体制をととのえた。県下に知行地をもつ多くの旗本は、朝臣となる道をえらんだ。愛甲郡田代村(愛川町)・高座郡栗原村(座間市)の地頭太田氏(三千石)、高座郡上溝村(相模原市)・倉見村(寒川町)等の地頭佐野氏(三千五百石)、大住郡上糟屋村(伊勢原市)・田村(平塚市)の地頭間部氏(千五百石)らは、その代表的なものである。しかし、徳川家の宗家をついだ徳川家達が駿府に移封されると、これ 外国人に投石する「えいじゃないか」の人々 藤沢市堀内久勇氏蔵 に従う旧旗本も少なくなかった。朝廷は、朝臣とならない旗本の知行地を没収した。もちろん慶喜のすすめる帰農の道をえらんだ者もあることは、いうまでもない。 将軍家の大政奉還は、これによって長年の支配者であった武士階級が、一挙に消滅したわけではない。国政上の命令のすべてが、朝廷から発せられるという政治上の変革である。多くの大名は、この変革に恭順の意を表した。 こうした中で、小田原藩は官軍の東征によって一旦恭順を誓いながら、藩論が動揺し、一時江戸の彰義隊に呼応する遊撃隊を迎え入れたりしたため、箱根戦争の罪を問われて、藩主大久保忠礼の永蟄居と家老の処分を受け、所領も十一万三千石から七万五千石に削減された。そして、明治二年(一八六九)六月の版籍奉還後には、藩主忠良(忠礼の養子)が小田原藩知事に任命され、旧藩士を執政以下そのまま藩知事のもとで藩政に当たることになった。 荻野山中藩は、官軍に対して恭順を誓ったため、本藩の小田原藩とちがって減封をまぬがれたが、明治元年(一八六八)九月、所領の大半を占める駿府・伊豆両国の領地九千八百九十石の上地を命じられ、代わりに相模国愛甲郡に代替地を与えられた。その新領は愛甲郡戸室村(厚木市)以下二十四か村で、旧領中荻野以下六か村と合わせて、総高一万三千六百八十四石となった。版籍奉還後は藩主大久保教義が藩知事に任命され、山中陣屋を山中民政局と改称した。武蔵金沢藩(横浜市金沢区)は、六浦藩と名称をかえ旧藩主米倉昌寿が知事となった。 横浜及びその周辺を支配していた神奈川奉行の戸部役所は戸部裁判所、横浜運上所は横浜裁判所と改称して事務を引きつぎ、つづいて両所を合わせて、神奈川裁判所と改称した。慶応四年(一八六八)六月十七日、神奈川裁判所を神奈川府と改め、裁判所総督東久世通禧を府知事に任命し、その管轄区域を、東は六郷川、西は酒匂川、南北を直径十里の地と定めた。相模の南部と東部の大部分を占めることになる。明治元年九月二十一日、行政官は神奈川府に対し、「府ヲ県」とするよう達し、ここに神奈川県が誕生したのである。知事は東久世通禧をへて寺島宗則が知県事に任じられた。 この県の中に、伊豆韮山(静岡県)に陣屋をもち、県下にも支配地をもつ、旧幕府代官江川氏の支配地韮山県がある。江川氏の寛政四年(一七九二)の支配地は、伊豆国那賀郡等三郡、相模国足柄上下・大住・淘綾郡等に五万四千五百七十一石、その他伊豆・甲斐等にも領地を持つ、江戸時代有数の代官で、幕末海防問題がおこると、時の代官英龍が韮山に反射炉をつくったことでも有名である。この代官支配地を、明治元年六月二十九日、韮山県とし、相武の分を東京芝新銭座の所管とした。 明治二年(一八六九)六月の版籍奉還は、中央・地方の官名と職制を新しい名称にぬりかえ、府藩県の三治体制をしいたが、藩では旧藩主が藩知事に任命されるなど、その実体は藩政の延長に過ぎなかった。加えて、各藩とも前代以来の藩財政の逼迫が続き、藩政に行きづまりを生じて廃藩を申し出るものが相次いだ。 こうした風潮に乗じて、新政府は明治四年七月十四日、薩長土肥四藩の武力を背景に、廃藩置県を断行し、全国的中央集権体制への途を開いた。藩の名称を県に改め、県知事には政府の新官僚を任命して、旧藩主は東京に移住させた。廃藩当初は、藩名と藩域がそのまま県へ移行したために、神奈川・小田原・荻野山中・六浦の四県であったが、同年十一月に全国の府県の廃合を行い、神奈川県は次の二つの県に整理統合された。すなわち、旧神奈川県と六浦県を統合し神奈川県とし、小田原県と荻野山中県を統合し、それに韮山県管轄の伊豆国を加えて足柄県とした。この新県を郡別に見ると、神奈川県は相模国三浦郡・鎌倉郡、武蔵国橘樹郡・久良岐郡・都筑郡と多摩三郡の計八郡からなり、一方の足柄県は足柄上郡・同下郡・高座郡・大住郡・愛甲郡・淘綾郡・津久井郡の計七郡と伊豆国四郡からなっていた。両県の県庁は横浜と小田原(韮山には出張所)に設けられた。なお廃藩置県と同時に、県内に点在していた品川・烏山・生実・西大平・佐倉など他県の飛地も整理統合された。当時の神奈川県の人口は十万六百余人、石高約三十三万石、足柄県は人口六万八千余人、石高約二十六万石であった。 明治四年(一八七一)の廃藩置県で、全国は三府七十二県となったが、同九年には第二次の大廃合が行われ、三府三十五県となった。この時本県も、足柄県が廃止されて相模国の七郡が神奈川県に、伊豆国四郡が静岡県に編入された。また明治二十六年(一八九三)には、三多摩分離によって多摩三郡が本県から東京府に移管されて、現在の神奈川県の県域が最終的に確定した。 この三多摩分離の理由は、東京府にとっては急速な都市的膨脹、人口増大により水資源として多摩川上流を確保することが必要であること、交通・地形上の理由などがあげられているが、しかし、三多摩は自由民権運動の強力な地盤となっていた地域で、神奈川県会がその中枢ともなっているため、この分離をその狙いとしていたという政治的背景もあったようである。神奈川県にとっては、八王子を中心として発展した商業経済圏と、自由民権運動の拠点を失うこととなり、経済的社会的損失は大きかった。 創草期の神奈川県の県令(知事)は、東京・京都・大阪の三府に次ぐ筆頭県ということもあって、大物県令が就任した。廃藩以後の県令には陸奥宗光(明治四年十一月~五年六月)、次代には大江卓(五年七月~七年一月)、つづいて中島信行(七年一月~九年三月)が就任している。これら三人の県令は、開明的な行政官として、在任中特色ある業績を残している。すなわち、陸奥は地租改正の原案となった「田租改正建議」の建議者として知られ、大江は有名なマリア・ルス号事件の名判事として一躍名声を馳せ、また中島は全国に先がけて地方民会の制度をとり入れた啓蒙主義者としてきこえている。とくに大江・中島の業績は、明治十年代の自由民権運動に継承されていく。 他県に先立つ区会と県会 文政十年(一八二七)、治安の維持を目的に、関東取締出役設置の一環として、組合村が設定された。これは、代官支配(幕領)・旗本領・藩領・寺社領の区別なく数か村を組み合わせた小組合を作り、その小組合を数組連合した大組合をつくったもので、小組合には、各村の名主から選出される小惣代があり、大組合には小惣代から選ばれた大惣代が組合の運営に当たり、この大組合の事務局のある村を寄場村とよんだので、この組合村を寄場組合村と称した。この組合村は、関東取締出役に協力することを目的とし、とくに各種の触書の伝達にその機能を発揮し、維新政府成立のころには、一種の行政区の機能をもつようになった。幕府崩壊により関東取締出役は廃止されたが、組合村はそのまま残され、組合の各村も、村の意志決定を行う村寄合、名主・組頭・百姓代の村方三役も変更されなかった。 明治四年四月、政府は戸籍法を公布、それにもとづいて戸籍区を設け、区ごとに戸籍事務を扱う戸長・副戸長を置くことを定めた。この戸籍区は旧来の寄場組合を土台にしたもので、その機能をそのまま引き継ぎ、戸籍事務のほかに諸布達の回覧など一般の行政事務を扱った。県下ではこの戸籍区が、武州四郡で六十区、相州三郡で二十四区設置された。 次いで翌五年四月、政府は旧来の庄屋・名主・年寄の制を廃止して、村に新しく戸長・副戸長を置くことを布告した。しかしこの措置は、現行の戸籍区の戸長・副戸長と同一の名称のため、行政に混乱を招いた。 そこで、神奈川県は同年十一月、大江県令のもとで、これまでの寄場組合の制度をすべて廃止し、戸籍区に相当する区に区長・副区長を置くことを定め、正副区長には戸籍区の戸長・副戸長を当てて、土地人民に関する一切の事務を担当させた。さらに大江は六年五月、区の区画が実情に合わないことから区画の改正を行い、管内を二十区に分け、区内の村々を高二千石を目安に組合せて番組という制度を設けた。この区番制にもとづいて、県内は新しく二十区百八番九百四村に編成がえされた。そして、区に区長・副区長を置くほか、番組に戸長・副戸長、町村に村用掛をおいて行政事務に当たらせた。 村用掛は任命制であったが、戸長・副戸長は小前百戸につき五人の代議人を選挙し、その代議人の中から選出することにし、また正副区長は、その区内の正副戸長の入札で選出し、それを県令が認可するというやり方をとった。 この神奈川県独自の区番組制は約一年間つづいたが、七年六月になると大区小区制が発足し、県内では三度び地方制度の改変が行われることになった。この新制度は、これまでの区を大区、番組を小区と改称して、県内をあらためて二十大区百八十二小区に再編しようとするものであった。 この大区小区制で注目されるのは、大区に区会を設け、小区ごとに小前一同の投票による代議員を選出したことと、区番制時代には戸長の任命制であった村用掛をも、代議員の投票による公選制にしたことであった。 この時期はちょうど、維新政府による三大改革(学制・徴兵令・地租改正)が緒につき、県内でも徴兵制に対する反発や地租改正反対の農民運動が起きるなど、官民疎隔の対立と矛盾が最も恐れられた時期であった。このような状況の中で、政府と地方当局が三大改革を円滑にすすめるためにも、「上下協和」や「輿論公議」を重視せざるを得なかった。一方、この時期は、県政の最高ポストにも、明治八年の第一回地方官会議で、公選議員による民会の開設を強力に主張した中島県令が就任し、開明的な施策を打ち出した時期でもあった。しかし、この新しい地方民会の制度も、明治九年十月の大政官布告第百三十号の発布と共に、野村靖県令の手で大きな変更が加えられた。野村は従来の代議人・小前総代・五人組を廃止して、あらためて町村総代兼小区会議員の選出を命じたが、これまで財産上の資格制限のなかった代議人を、土地所有者で国税県税の納税者に限定したり、総代人の数を大幅に減員するなど、代議人制度の後退が目立った。ただし、十一年二月に行われた県会の改革については、これまでの区長会を廃して、各大区会の議員の中から二名ずつ互選して県会を構成するなど、一定の前進が見られた。 明治十一年(一八七八)、「地方三新法」とよばれる「府県会規制」・「地方税規制」・「郡区町村編制法」が公布された。この法は、大区小区制をやめ、旧来の歴史的町村を行政単位として復活し、人民輻輳の地を区として独立させ、他の町村は郡の下に統轄し、各府県に府県会を設けるものである。神奈川県の地方民会を全国にひろげたものである。しかしその議員の資格制限はきびしく、被選挙権者は、年齢二十五歳以上の男子、県内に本籍をもち、三年以上県内に居住し、地租十円以上の納税者とし、選挙権者は、満二十歳以上の男子、県内に本籍をもち、地租五円以上を納める者と定めた。この資格に合う者は、明治十七年(一八八四)の県統計では、選挙権者三万一千余、被選挙権者一万六千余で、県下全人口に対して、前者は三・八㌫、後者は二・〇㌫に過ぎなかった。しかし、ともかく明治十二年二月選挙が実施され、現代の県議会は同年三月、四十七名の議員をもって発足したのである。 ㈢ 文明開化の窓ミナト横浜 横浜に外国人が増える 開港後、横浜に来住する外国人が年々増加し、特に維新後になると、その数は急速にふくれ上がっていった。明治十年代には、横浜在留外国人は三千人を超え、明治二十年代には四千人から五千人に迫る勢いを示した。この数は、他の開港場在留外国人の総数の半数を超えるもので、外国人の横浜集中度がうかがえる。 この外国人を国別にみると、その半数以上を中国人が占め、その他では、イギリス人を筆頭として、アメリカ・ドイツ・フランスとつづく。例えば、明治十八年(一八八五)では、在留者約三千八百人のうち、中国人約二千五百人、イギリス人約六百人、アメリカ人約二百三十人、ドイツ人約百六十人、フランス人約百十人、スイス人約三十人である。明治二十六年(一八九三)の統計では、総計約五千人のうち、中国人約三千三百人、イギリス人約八百人、アメリカ人約二百五十人、ドイツ人約百五人、フランス人約百三十人である。 これら数千人の外国人が、横浜関内の居留地の東半分と山手の地に集中して居住し、西半分は、日本人街を形成していた。しかし関内の市街地は、最初から完成していたのではなく、当初は、運上所・各国領事館用地・港崎町が海岸沿いにあって、その背後は、埋立てを必要とする沼地であった。元治元年(一八六四)、「横浜居留地覚書」・「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」の二つの協約によって、大岡川の南の沼地(吉田新田)を埋立て、各国の練兵場と競馬場用地を造成すること、大岡川の北側(太田屋新田)を埋立て、新たに外国人居留地を造成すること、外国人の天然痘患者の収容施設の増設、墓地の拡張、クラブハウス用地、根岸村に至る五マイルの遊歩道路の建設等が約された。この覚書は、慶応二年(一八六六)に改訂されて、今日の横浜市街の原型となり、日本人とは異質な外国人の日常生活の風俗習慣が展開されることになった。錦絵の新しいジャンル-横浜錦絵-の題材を供することになる。 文明開化横浜に上陸 安政元年(一八五四)和親通商条約締結の見通しをつけたペリーは、アメリカから将軍への贈物を、横浜に陸揚げした。それは電信機具・蒸気機関車の模型・時計・望遠鏡・ライフル銃など五十点ほどの文明の器具である。応接所の広場に鉄道線路が敷設され、その上を模型の機関車と客車が走った。二月二十三日のことである。翌日には、応接所から洲干弁天前まで九百八十二㍍に電線をはって、送信受信を行った。これを見て、日本人は大いに驚き、幕府もこうした利器の導入の必要をみとめた。しかし献上された幕府は、蔵に収めて実用化しないうちに幕府そのものが崩壊してしまった。横浜に最初に上陸した文明の種子は活用されなかった。 明治政府は、早速文明利器の実用化に着手する。明治二年(一八六九)八月、お雇い外国人第一号のイギリス人ギルベルトによって、電信線が横浜弁天燈明台役所から本町通の横浜裁判所(後の県庁)間七百六十㍍に架設され、官用通信の取扱いがはじめられた。九月十九日には、横浜裁判所の中に伝信機役所がおかれ、ここから東京築地居留地まで約三十二㌔㍍の架線をはじめて、十二月には通信を開始した。 明治二年十一月十日、政府は、鉄道建設を決定、お雇い外国人イギリス人エドモンド・モレルら多くのイギリス人技師を招いて明治三年三月に着工、東京の汐留と横浜の野毛浦の埋立地(現在桜木町)間を着工、まず品川-横浜間二三・八㌔㍍が明治五年(一八七二)五月七日に完成して仮営業開始、同年八月には新橋(汐留)まで全線開通、九月十二日、午前に横浜駅で、午後、新橋駅で開通式が行われた。開通式がまず横浜で行われたのは、ここを起点とする意味であろう。横浜・品川・新橋の三駅に荷物取扱所を開設して、今日の鉄道運輸体制が発足し、近代国家形成の大動脈となった。 開業当時の汽車 県立文化資料館蔵 近代国家の大動脈の役割を荷った電信も鉄道も、その発祥の地は、横浜居留地である。多数の外国人の生活・諸施設は、そのまま文明開化の源泉地でもあった。文久三年(一八六三)に刊行された「横浜奇談」には、日本人に物珍しい居留地風俗として、石造りの屋敷、ギヤマン張りの窓、美麗な敷き物(絨毯)、パン、牛肉・豚肉食、乗馬、遊歩などをあげている。これらは、間もなく日本人の間にもひろまって、日本人の生活のなかにとり入れられていった。 また関内の交通機関として馬車が用いられたが、慶応三年(一八六七)三月には、横浜領事館と江戸の公使館とを結ぶ横浜馬車鉄道が完成し、つづいて居留地三十七番館の外国人が経営する横浜と江戸間の乗合馬車が走り、明治二年には、日本人による経営では、横浜住人八名の出願によって、横浜吉田橋から、戸部-平沼-神奈川台を経て、江戸日本橋に至る乗合馬車が開業した。これら横浜-東京間の馬車路線は、鉄道開通とともに姿を消すが、明治七年(一八七四)には、神奈川-小田原間の郵便馬車が開通し、鉄道と並んで馬車路線は全国津々浦々にひろまった。 居留地からの文明 今日では日常不可欠の日刊新聞も、横浜居留地の外国人新聞に始まる。だが、本格的な日本人向けの新聞は、ジョセフ彦が居留地一四一番地の居宅から元治元年(一八六四)六月に発行した「海外新聞」である。印刷部数は百部で、その名のように海外ニュースなどを載せた日本人向けのもので、慶応二年二十六号で休刊した短命なものであった。わが国の最初の日刊新聞として発刊されたのが、明治三年十二月八日付の「横浜毎日新聞」である。発行所は元弁天町の英仏語学所に開設された横浜活版社で、編集者は、子安峻であった。やがて横浜の豪商の協力によって、横浜活版社の業務が拡大され、島田三郎が編集者となり、明治十二年(一八七九)十一月には、二千六百九十号を数えたが、この時本社を東京に移し、本町の社屋を横浜局と改称し、紙名も「東京横浜毎日」と改め、明治十九年(一八八六)には、「毎日新聞」と改め、本社を東京尾張町に定めた。「横浜毎日新聞」が東京に移った後の地元横浜では、明治二十三年(一八九〇)二月一日「横浜貿易新聞」が発刊されるまで、新聞の空白がつづいた。 キリスト教伝道の基地 治外法権下の居留地では、居留外国人のためのキリスト教会が早くから建設され、外国人宣教師による布教も行われ、日本人で信者となるものもいた。禁教下の明治五年(一八七二)二月に日本ではじめてプロテスタント教会が創立されたが、それは横浜居留地にできた日本基督公会である。明治六年(一八七三)キリシタン禁止が解除されると、この公会は、日本伝道の有力な拠点となった。解禁の年末には、その信徒数は七十五名に達し、翌年には東京基督公会が、支会として創立された。同八年には、青森県の弘前公会、翌年には長野県上田基督公会が、日本基督公会の子教会として創立された。明治十六年(一八八三)、横浜伝道会社がつくられ、横須賀・阿久和(横浜市瀬谷区)・保土ヶ谷など県下に伝道し、横須賀教会・阿久和教会を創立した。伝道は、三多摩方面に及んだ。 こうした状況の中に、キリスト教各派も伝道を開始し、メソジスト教会・長老教会・聖公会・バプテスト派・美普教会派等が相ついで、居留地を根拠として伝道を開始した。また、カトリック系とギリシャ正教も布教を行った。ローマカトリックの布教は三多摩地方にもおよび、八王子在の被差別部落の人々も信徒となった。こうした各派教会から日本伝導の命をうけて来日した宣教師の外に、居留地在住外国人が私塾を開いて、日本人に英語を教えるものがあり、それらを通じても、キリスト教はひろまった。居留地の外国人私塾は、横浜の特色とされる。長老派教会に属するJ・C・ヘボン夫妻は、居留地三十九番の自宅で英学を教え始め、十年後には英語・地理・歴史・算術などを教え、塾生約四十人を数えた。明治七年(一八七四)米国長老派の宣教師ヘンリー・ルーミスが、ヘボン邸内で第一回の洗礼式を行ったときの、受洗者十人中の八人は、塾生であった。改革派教会のJ・H・バラの塾生も約五十人に達し、S・K・ブラウンは、幕府の英学所やその後身の修 横浜天主堂跡に建つ教会のレリーフ 横浜市中区 文館で英語教師をしたが、自宅で塾を開き、旧桑名藩士など二十人に、英学・歴史・神学などを教えた。明治三年(一八七〇)ヘボン塾の教師をしていたアメリカ改革派の宣教師M・E・キダーは、山手居留地に新校舎と寄宿舎を新築し、女子教育専門の「フェリス学校」を開校した。明治十四年(一八八一)第二代校長となったE・Sブースは、校舎を増築し、予科二年、本科四年、高等科二年の課程を編成し、本格的学校とした。校名は、フェリス英和女学校、フェリス和英女学校と改めて、日本の女子教育に先駆的役割を果たしつつ、今日に至っている。 この外、アメリカ一致外国伝道協会派遣の婦人宣教師J・N・クロスビーら三人が、山手居留地に設立した日本婦女英学校は、明治八年、共立女学校と改名して活動をつづけ、メソジスト・プロテスタント教会の婦人宣教師H・G・ブリテンは、明治十三年ブリテン女学校をひらき、英学科・小学科・和洋裁縫科・幼稚園の各コースを設けた。のちに横浜英和女学校と名を改めた。 旧教系では、サンモール修道会が、明治三十三年(一九〇〇)に横浜紅蘭女学校を設立した。 教会の開設した男子学校もあったが、いずれも短期間で閉校となったのに対し、女子学校は今日にまで活動をつづけているのは、横浜の特色である。明治四年十月、政府派遣の最初のアメリカ留学生津田梅子ら五人が、横浜港から出発した同じ時期に、居留外国人による女子学校の創立が相つぎ、文明開化の新風を吹き込んだのである。また、横浜では日本語版の聖書が発行され、全国で布教に利用された。 県下にひろがる開化の風物詩 明治政府は、港ヨコハマの発展につれて交通量がふえて損傷がはげしくなった関内へ連絡する吉田橋を、燈明台役所のお雇い技師ブラントンに設計を委任して、イギリスから鉄材をとりよせ、明治二年わが国最初の鉄橋が完成した。幅五㍍、長さ二十四㍍の鉄橋の威容に、人々は驚きの目を見張り、「かねのはし」とよばれて、その名は全国にひびきわたった。 開港から数年を経ると、横浜の街頭には洋風の居館が建ち始める。外国人の求めにしたがって、日本人の大工が指示のままに建てたものであった。日本人には洋風と感じられても、実質は日本在来の木造建築であった。日本の大工は、この様式の洋風建築を県下はもちろん、全国の各地に再現し、広め、明治建築の特色となったのである。 しかし、横浜は慶応二年(一八六六)十月二十日空前の大火に見舞われ、居留地のめぼしい建物はすべて灰となった。この経験から居留地はもちろん、これに近接する日本人町の建物は瓦ぶきの屋根、煉瓦造り又は石造り、厚い石灰塗りにするという防火建築の規則が定められた。これに従って、つぎつぎに石造りや煉瓦造りの建物があらわれた。火災の翌年には、本町一丁目(現在県庁所在地)に石造り二階建ての横浜運上所が、わが国最初の洋風石造建物として落成し、明治三年(一八七〇)には、本町三丁目に横浜為替会社(後の第二国立銀行)と横浜商社、同五年には、二階建漆喰塗(石灰)の横浜電信局、荘麗な石造りの横浜停車場が出現、本町一丁目に石造り二階建て、正面中央に四階建ての時計台を配した純洋式の、横浜最大の洋館横浜町会所が落成した。 明治六年には、海岸二十番地にグランドホテルが新築され、営業を開始した。その名にふさわしい広大な洋風建物で、広告によれば諸事欧州の例にならって家具は美麗を尽し、万器清潔を極め、食事は常食・非常食に分け、非常食は四人から百人まで、注文次第急速に出来る、という振れ込みであった。外国人客の訪れることの多い箱根温泉郷にも、洋風旅館が出現した。湯本村の福住正兄は、出入りの棟梁をつれて横浜や東京の洋風建物を見分ののち、明治十年(一八七七)洋風をとり入れた福住旅館を造った。その翌年に開業した宮ノ下の富士屋ホテルは、洋風の建築に洋風の設備、パンや肉類を横浜から仕入れ、洋式の経営によって外国人の人気を集めた。 ㈣ 自由民権運動の高潮 国会開設運動と民権結社 神奈川県では中島県令時代、他県に先がけて民会が設置され、「公議與論」による開明的な施政が行われたが、自由民権運動の開幕を告げる国会開設請願運動への取りくみは鈍かった。この運動に先がけて、八王子を中心とする嚶鳴社の演説会、三浦郡三崎町の町会議員の国会開設建議案の起草、小田原での愛国社員による遊説活動などが見られた。しかし、これらの動きは、まだ部分的なものに過ぎず、県としての本格的な取りくみは、明治十三年(一八八〇)二月の第三回地方官会議を待たねばならなかった。 この会議には全国から多くの府県会議員が傍聴のため集まったが、これを機会に全国の県議の連合が生まれ、協力して国会開設運動をすすめることが申し合わされた。神奈川県からも、この時数名の県議が加わっていたことから、その帰県とともに、本格的な活動がはじまった。まず、県会議員を中心に十四名の有志が(上表参照)が県総代となり、組織づくりがはじまった。県議の下には郡村ごとの総代をおき、国会開設の檄文と総代たちの連名になる締盟書が配布され、郡村あげての請願署名運動が展開された。こうしてわずか三か月のうちに、相州九郡五百五十五町村から、二万三千五百五十五名の署名を集めることができた。まさに空前の大運動であった。 六月五日、県総代は郡ごとにまとめた署名簿をもって上京し、元老院に提出した。この動きを知った野村県令は、使者を派遣して願書の提出を阻止しようとしたが、総代たちは断固これをけって建白を終えた。なおこの建白書の本文は、旧小田原藩士族で福沢門下の松本福昌が、総代の一人として福沢諭吉に依頼して起草したものである。 国会開設運動の成功は、そのあとに民権結社の結成をうながした。十三年から十七年(一八八〇-八四)にかけて簇生した結社の数は、県内だけでも百を越えるといわれる。いうまでもなく、これらの結社は、国会開設運動以来の豪農や豪商 相州国会開設運動の総代人名簿 神奈川県史資料編13『国会開設ノ儀ニ付建言』から作成 を主体とするものであった。その結社を目的に従って分類すれば、政治結社・学習結社・産業結社に分けられるが、ほとんどの結社が政治結社であると同時に、学習結社でもあるという、複合的な性格を有していた。いまその主なものを列挙すれば後表(一七〇ページ)のとおりである。 見られるとおり、結社の規模は大きなもので二、三百名、小さなもので四、五十名の会員数であるが、演説会や懇親会のような大衆動員の際には、千名を越す聴衆を集めた。またほとんどの結社に学習会が組織されており、中には大住郡の湘南社や愛甲郡自由党の講学会のように、東京から専門の講師を招いて長期の学習会を行う結社もあった。また、会員の役員クラスの中に、郡長や戸長・郡書記といった地方官吏が多いのも一つの特徴である。 このような民権結社の学習活動が生んだ圧巻は、五日市学芸講談会の憲法草案の創造であろう。いわゆる「五日市 国会開設の儀に付建言 小田原市立図書館蔵 憲法」草案といわれるこの憲法案は、千葉卓三郎という教師によって起草され、学芸講談会の無名の青年たちの学習と討論の中から生まれたもので、全文二百四条からなる詳細な人権規定は、当代の一流の私擬憲法草案と比肩できる内容と水準をもつといわれている。 こうした結社の活動を、結成時から援助し指導したのが、都市民権派とよばれる知識人やジャーナリストであった。ことにその前期において、大きな役割を果たした嚶鳴社の活動は特筆に値しよう。嚶鳴社は社長の沼間守一に率いられた東京の民権結社で、西の立志社と並び称される東日本の代表的な結社であった。東日本一帯に多くの支社と千名の会員を擁し、神奈川県でも横浜と八王子に支社を置いていた。また、沼間守一が発行した「東京横浜毎日新聞」は、その前身に当たる「横浜毎日」時代から、県下に多くの読者を持ちよく知られていた。この嚶鳴社をはじめ、国友社、交詢社・共存同衆社・東洋議政会、のちには自由党・改進党などの民権派知識人たちが、演説会に学習会に懇親会にと、在地の民権結社の活動を支援した。その主な顔ぶれを紹介してみよう。 肥塚龍・青木匡・島田三郎・角田真平・波多野伝三郎・高梨哲四郎・竹内正志・野村元之助・沼間守一・丸山名政・草間時福・(以上嚶鳴社)・堀口昇・末広重恭・西村玄道・高橋基一・大石正巳・奥宮健之(以上国友社)・中島信行(自由党)・吉田次郎(不明) (注)以上は神奈川県内で、明治十四年一月から十五年(一八八一-八二)六月に、三回以上演説会・懇親会に出席した者。 こうして自由民権運動は、十四年には最大の高揚期を迎えるのであるが、ことに同年七月からはじまる北海道官有物払下げ事件は、藩閥政府を窮地に追いつめ、遂に十月十二日、「国会開設の詔勅」発布となって、運動は最高潮に達した。 政党への参加 国会開設の詔勅発布のあと、国会期成同盟に結集していた全国の民権派は、時を移さず板垣退助を党首とする自由党を結成した。自由党の発会大会には、神奈川からも湘南社・融貫社・八王子第十五嚶鳴社の指導的社員十五名が参 神奈川県下の主な民権結社 加し、自由党の地方部設立のレールが敷かれた。それまで、県内の民権派は、嚶鳴社や交詢社のような、後の改進党につながる都市民権派との交流が圧倒的に強かったが、自由党の結成を契機に、活発なオルグ活動もあって、横浜など一部の都市を除くほとんどの結社が、自由党に接近していった。こうして、明治十五年(一八八二)七月には、県内の代表的結社である融貫社・相愛社・湘南社の指導的役員二十二名が自由党に加盟し、大量入党の口火を切った。以後県下の自由党加盟者は着実にふえ、明治十七年後半にはその数二百八十八名という、一位の秋田、二位の栃木に次ぐ全国第三位の党勢を誇示するまでになった。この神奈川県の党勢の状況を、ある自由党オルグは次のように報じている。「山村僻地ノ隅ニ至ル迄、党員ノ有志者立込テ結合ヲ計り、……各郡ニ成立スル結社員ハ頗ル開進ノ域ニ達シ、之ヲ他府県ニ比スレバ遥カニ勝レル趣ナリ」と。とくに、党員の約三分の二を擁する三多摩は、「自由のホープ」といわれて、西の高知(土佐)と並ぶ自由党の一大牙城であった。 こうして組織された自由党の地方部は、やがてそれぞれの内規をもって、南多摩郡自由党・北多摩郡自由党・愛甲郡自由党・高座郡自由党と称した。他の諸郡にも自由党員はいるが、(例えば横浜区には四十三名で、郡区中最大である)その組織は不明である。県下の自由党がこのように郡単位に組織されたのは、その母胎となった民 権結社とのつながりを重視したためであろう。そのため神奈川県では、県レベルでの地方組織はつくられず、各郡党が直接、党中央につながるという形態をとった。 自由党の結成におくれること約六か月、明治十六年四月に、大隅重信を党首とする改進党が結成された。同党は都市の商工業者や地方の資産家に基盤をおいていたため、県内では横浜・八王子が中心であった。その活動は横浜の顕猶社等が母胎となっており、専ら市民を相手に政談演説会などの啓蒙宣伝活動に力を入れていたため、党勢は振わなかった。初期の党員は十六名に過ぎなかったが、しかし嚶鳴社系の高名な人物が多かった。 自由・改進の両党は、明治十五年九月の板垣外遊の際の渡航資金の疑惑をめぐって対立が深まり、新聞・演説等で激しい論戦を展開し、泥仕合に陥った。この両党の相剋が、藩閥政治に対する運動を分断して、ひいては自由民権運動の敗北を招く一因となったのである。自由党はその後、政府の弾圧と懐柔を受け、党内の激化グループに対する統制を欠き、明治十七年十月遂に党を解散した。大阪で開かれた臨時大会で、解党決議を読み上げたのは、神奈川出身の党幹事佐藤貞幹であった。 自由党の解散から一年後の翌明治十八年(一八八五)十一月、大井憲太郎を盟主とする旧自由党員が、ひそかに朝鮮に渡って「朝鮮改革」を図るという大阪事件が発覚して世間を驚かせた。この事件は、全国から六十余人にのぼる連座者を出す大事件となったが、神奈川県からは最も多数の犠牲者を出して注目された。 松方デフレ下の農村不況 明治十年(一八七七)の西南戦争は、維新後の士族叛乱にとどめをさしたが、新政府にとっても後遺症は大きかった。その最大のものは、軍事費調達のために膨張に膨張を重ねた通貨と、財政の整理であった。明治十四年(一八八一)に就任した大蔵卿松方正義は、これを至上の課題として、急激なデフレ政策を推進した。そのため翌年から諸物価は急速に下落し、金融は逼迫し、近代史上にも稀な不況が到来した。代表的な農産物である米と麦の、県下の下落ぶりをみると、明治十三年米一石は十円四十九銭、麦四円七十一銭であったものが、十七年には、米五円四十銭、麦一円九十四銭であった。輸出の花形である生糸の相場ですら、十三年には一円当たり十八匁であったのが、十五年には六〇㌫の値下りとなったのである。こうして農家は、歳入の三分の二を失ったも同然だった。 にもかかわらず、この不況下に公租公課はかえって増額された。明治十五年政府は、酒・煙草などの大増税を行う一方、地方税についても地租割の課税限度を地租の五分の一から三分の一に引き上げ、これまで国庫負担であった土木費と府県庁舎建築修繕費などを地方財政に移管して、住民の負担を強めた。地租は、明治十年の地租改正で二分五厘に固定されたが、その後の物価値下りでは、実質的な増税を意味した。地租五円を納めるには、以前は米六斗で足りたが、米価下落後は、米一石二、三斗を必要とする。これは以前十石の収穫があったのに、今年は五石の収穫であるのに等しく、農民にとっては凶作と同じであるといわれた。 県下の農村部は、江戸時代に引きつづいて、概していえば畑作地帯に属するが、主産物は米麦雑穀の外に養蚕業がさかんであった。とくに、養蚕は開港以来、生糸輸出のブームにのってめざましい発展を示し、農家の主要な収入源となっていた。そのため、養蚕農家の資金需要もさかんで、西南戦争後の二、三年間は、農村はインフレ景気にわいていた。ところが、十四年の松方財政の登場とともに、一転してデフレ政策に転ずると、その負債がずしりと重く農民の肩にくい込んだ。ちょうどそのころ、農村の不況を背景に、大小の銀行・金融会社が相次いで設立され、農民むけの金融業を始めた。その主なものは、八王子の八王子銀行・武蔵野銀行・旭銀行・武相銀行、日野宿の日野銀行、青梅の東海貯蓄銀行、平塚の江陽銀行、秦野の共伸社などである。 これらの銀行=高利貸資本が、農民の困窮につけ込んで、いかに農村を食い荒したかは、多くの史科の語るところであるが、ここに明治政府の高官前田正名の「興業意見書」の一節を引いて、十七年不況下の神奈川県下の状況を語らせてみよう。 「(農村は)目下負債ノ為メニ所有ノ土地ヲ抵当ニ入レザルモノ殆ンド稀ナリ。農家所有ノ土地ノ十分ノ五、六ハ債主ノ手ニアルモノノ如シ。……公租ノ上納ニ差支ヘル者陸続踵ヲ接シ、更ニ所有ノ土地ヲ抵当ニ入レントスルモ之ヲ引受クル者ナク、困厄茲ニ極マルノ惨状ヲ呈セリ」 とりわけ、困民党の主要拠点となった武州南多摩郡では、郡下百三十五町村のうち百二十一町村が負債をかかえ、負債総額は百五十八万四千余円に上ったという。この金額は当時の神奈川県の財政規模の約三倍に当たる。 武相困民党の挫折 このような状況のなかで、不況が最も深刻化した明治十七年(一八八四)には、ほぼ全国にわたって激しい農民騒擾が頻発した。なかでも神奈川県は、全国有数の件数を記録し、この一年間、県下全域にわたって農民騒擾の嵐に見舞われた。これらの農民騒擾は、銀行・金融会社等の債主に対して、負債者である農民が負債の延納・年賦払い・利子の減免などを集団で要求する、負債返弁騒擾であるところにその特色があった。 まず、この年の五月十五日、県下の西部に起きた露木事件は、高利貸殺害事件として農民騒擾激化の一つのピークを示すものであった。殺された露木卯三郎は、淘綾郡一色村(二宮町)の出身で、若いころ東京の米相場で巨利を得た後、地元で高利貸を営み、事件当時は足柄上・下、大住、淘綾、高座の諸郡に五百人に 一色村の露木卯三郎家 県立文化資料館蔵 のぼる負債者をもち、「相卯」の名を天下にとどろかせた。その貸金額は大住郡だけでも百二十四件、一万八千七百円、抵当の田畑六十三町五反余にのぼった。事件の直前には、身の危険を感じて家に寄りつかず、娘の嫁ぎ先である大磯の旅館に潜伏中のところを、負債者十名におそわれ、雇人とともに惨殺されたのであった。 露木事件の波紋はすぐに、近隣の農民騒擾にもあらわれた。そのころ、大住郡秦野の弘法山には、同郡四十四か村の農民三百名が立てこもり、近隣の債主に無利息三十年賦を要求して交渉中であったが、債主の一人である秦野の共伸社社長宅に、「願の筋届け呉れ候はずば何程堅固防禦をなすと雖も屹度焼打候間其段承知せよ。つつがなき命はきのう共伸社、あすは露木の友となる身ぞ」、と書いた貼り紙がはられ、周辺は一時恐慌状態に陥った。また同じころ、平塚の江陽銀行の社長宅にも、放火云々の脅迫状が投げ込まれたりした。しかし、これら県西部の農民騒擾は、債主側が露木事件の二の舞いを恐れて、負債の返済条件を大幅に譲歩したため、六月末にはほぼ沈静に向かった。 こうして、七月に入ると騒擾は県の西部から東部へと移動していった。 七月三十一日の高座郡上鶴間村(相模原市)騒擾をかわきりに、八月十日には、高座・南多摩・都筑三郡の農民数千名が、武蔵・相模の国境にある御殿峠に集合し、八王子の銀行・会社に対して打ちこわしの気勢を示した。この大群集を前にして、八王子警察は徹夜で必死の説得工作を行った結果、ひとまず解散させることができたが、そのうちの二百余人の強硬分子は説得に応じず、その場で検挙された。 すでに、この段階で武相三郡にわたる困民党の連合が形成されつつあったのである。 御殿峠事件から三日目、続いて津久井困民党が活発な動きをはじめた。三百人の農民が御殿峠に向かったり、引き返して郡役所に歎願行動を起こすなど、神出鬼没の動きを見せた。九月一日、今度は南多摩郡川口村の農民指導者塩野倉之助宅に、困民党の事務所が開設されたという情報を得て、官憲がふみ込み、家宅捜索と書記の町田克敬を拘引した。急を聞いた農民二百余名は、九月五日、塩野を先頭にして八王子署に押しかけ、町田の釈放と押収品の返還を求めたが警察は応じず、逆に不退去罪で全員を逮捕した。このときの逮捕者は、多摩の三郡三十三か村に及んでおり、その農民の分布から、困民党の組織が三多摩全域に広がったことを示した。 ところで、この九・五事件の大弾圧で、困民党の活動も一時鎮静したかに見えた。官憲側もいったん増派した警察力を引き上げた。しかし沈静したのは表面のみで、困民党はこの時期からすべての活動を地下活動に切り換えていた。そして、官憲の目をかすめながら、組織の拡大強化に専念した。十一月十九日、相模原の原野で、ひそかに武相困民党の臨時大会が開かれた。ここに結集した困民党の総代たちは、武州では多摩三郡と都筑郡、相州では愛甲・高座・鎌倉の諸郡を合わせた武相七郡三百か村の農民を代表していた。まさに困民党の大連合が実現したのである。大会では、運動方針の審議と新指導部の選出が行われ、最後に大会の名によるアピールが発表された。 さて、大会で決定された新しい方針は、これまでのような銀行・会社相手の当事者交渉をいったん打ち切って、各郡の郡長と県令を相手とし、その職権に頼って事態を打開しようというものであった。しかし、そのために提出した各郡長あての請願書は大方拒否され、残るは県令への請願しかなかった。明治十八年(一八八五)一月初旬、困民党を代表して、監督の中島小太郎をはじめ若林高之助・佐藤昇之助・須長蓮三ら四人の総代は、横浜で沖守固県令と面会し善処を請願した。ところが県令は、請願の内容にはふれず、一同に対して総代の辞任と困民党の解散を命じ、聞かなければこの場で警察に引き渡すと威嚇した。総代たちは愕然とした。いまやすべての請願の望みは断たれたのである。その夜宿舎で、総代たちは県令あての上申書を書いたが、その中で総代の辞任には応じたが、困民党の解散については権限外の問題としてきっぱりと拒否した。結局、この上申書が困民党弾圧の口実とされた。翌日、総代たちは「上申書に不穏のかどあり」として取調べを受けた。 一方、ひと足先に帰郷した総代から、県令交渉の報告を受けた地元では、激昂した農民三百人が、相模原大沼新田(相模原市)に決起集会を開き、その一部が県庁めざして抗議のデモをはじめた。 しかし、このデモも横浜街道の瀬谷(横浜市瀬谷区)付近で待機していた官憲に阻止され、四散した。あとには幹部の逮捕と困民党の壊滅がまっていた。 豪農層の地租軽減運動 松方デフレによる不況は、豪農層にも深刻な影響を与えた。小作年貢の未納や減納、米価の下落はかれらの生活と地位をおびやかした。困民党決起の同じ年、豪農層も地租軽減運動に立ち上がった。すでに前年の十月には、大住・淘綾両郡の八十一か村の戸長らが、県令あてに「地租延期上申書」を提出、つづいて同郡百三十三か村の納税者が、「地租徴収期限延期」の建白書を元老院に提出、明治十七年に入ると、今度は高座郡から、二町百九か村の戸長の連名で、納期のきた山林原野の雑種税と田畑地租の追徴分を、今後五か年賦払いにして欲しいという請願書が県令あてに出された。同じ内容の請願書が、南多摩や西多摩の諸村からも出されている。 この地租延納の運動は、さらに地租そのものを減額する減租歎願運動に発展した。この運動で大規模なものは、愛甲郡の運動である。 同郡の運動は、十七年九月から始まると、愛甲郡自由党の指導のもとに、極めて組織的な運動として展開された。運動方針を定めた規約の前書には、「物価ハ頓ニ低落シ、紙幣ハ著シキ騰貴ヲ来タシ、之レヲ両三年前ニ比スレバ、農民ハ自然ニ倍以上ノ納税ヲナサザルヲ得ザルノ状景アルニアラズヤ、左レバ今日ニ於テノ救済法ハ、唯租税ノ減額ヲ請願スルノ一途ニアルヲ信ズルナリ」と、その目的を明らかにしている。また規約の中で、「極メテ温和ニ請願ヲナスコト」という一条を設けて、困民党との区別を明確にし、それら「乱民」・「暴民」とはっきり一線を画している。 この運動は、大蔵卿への請願(十一月)と元老院への建白(十二月)の二度にわたって行われ、二度目には一町二十七か村から五百八十七人の署名を集めたが、いずれも不首尾に終わった。 ㈤ 明治憲法下の県勢 国会始まる 明治二十年(一八八七)六月、伊藤博文が夏島(横須賀市)の別荘にこもって大日本帝国憲法の起草を始めたことは、この点でも、本県が日本の近代化の起点であることを意味する。夏島が発掘当時世界最古と測定された土器の出土地であることも、奇しき因縁というべきであろう。博文は、のちに大磯町に別荘滄浪閣をつくった。明治二十二年二月、この草案をもとにし大日本帝国憲法-いわゆる明治憲法が公布され、国会開設のため衆議院議員の選挙が実施された。衆議院議員の選挙権は、居住する府県内で直接国税十五円以上を一年以上を納める二十五歳以上の男子、被選挙権は、同じ納税条件をもつ三十歳以上の男子に限られた。所得税も納入年限を三年以上として、導入されたが、この条件に合うものは、本県では、〇・八七㌫で、全国平均一・二四㌫をはるかに下回り、第一区横浜市のごときは〇・二四㌫にすぎなかった。議員定数は七人で、島田三郎・山田泰造・石坂昌孝・瀬戸岡為一郎・山田東次・中島信行・山口左七郎が当選した。明治二十三年(一八九〇)十一月二十五日第一回帝国議会が召集され、同月二十九日に開会した。神奈川県選出の中島信行が初代衆議院議長に勅任された。議員定数三百人の主な党派別は、自らは中立と称するが、一般には吏党とよばれた政府系の大成会七十九人、民党と総称された立憲自由党(再建自由党)百三十人、立憲改進党四十人で、民党が過半数を占めた。 民党が絶対多数を占めた議会では、民党は結束して、政費節減・民力休養をスローガンとして、富国強兵をスローガンとする政府とはげしく対立した。政府提出予算案の歳出総額の八千三百三十二万円余の大部分は、陸海軍に関するものであった。民党は、この原案に対して、官吏の減員、俸給・旅費の減額を中心とする歳出総額の一〇・六㌫を削減した。 こうした民党の抗戦に歩調をあわせ、県下の一市十五郡の有志二千七百六十五人は、石坂昌孝・瀬戸岡為一郎・山田東次の三人を紹介議員として、四つの請願書を提出した。一は集会結社の自由を主張して「集会及政社法」の改正、二は田畠のみ地価百分の二の減額を他の地目にも一律に適用する地租軽減の請願、三は衆議院議員選挙権の資格を直接国税五円以上、年齢二十歳以上とし、被選挙権の納税資格を廃止して年齢二十五歳以上とすること等のものであった。 夏島の明治憲法起草記念碑 横須賀市 民党の強硬な抵抗に直面した政府は、表面では解散も辞せずとしながら、民党の切りくずしをはかった。そのため立憲自由党内部に脱党者が続出し、それが四十人にも及んだ。政府は、この脱退組の協力を得て、政府予算案のうち六百五十一万円を減額し、行政整理を約束して、ようやく事態を切り抜けた。 神奈川県民党の分裂 第二回帝国議会も、民党の結束によって、政府予算案の約一〇㌫が削減された。政府の懐柔は成功せず、議会を解散し、徹底的な選挙干渉の下に行った選挙も、神奈川県下では民党の完全勝利に終わった。しかしこのころ、自由党内部に大井憲太郎と星亨の主導権争いがあり、大井憲太郎は自由党を脱党して東洋自由党を結成する分裂があり、自由党の政策も、政府の富国強兵策に全面的に同調し、その範囲内で経費節減・民力涵養を実現する方針に転換した。民党連合の推進者であった改進党の島田三郎はこれを批判し、自由党と改進党は対立した。この対立は、明治二十五年(一八九二)に県議会の解散後に行われた県会議員選挙において決定的となった。この選挙では、自由党・改進党とも、未成年者から博徒に至るまで動員し、仕込み杖・刀剣・ピストルなどで武装し、白襯衣・白股引・紺の脚胖・鞋ばき、頭には麦稈帽子をかぶり、自由党はこの帽子のまわりに赤筋を、改進党は白筋を入れ、流血の紛争をくりひろげた。前回の国会議員選挙の官憲の選挙干渉以上の抗争を展開した、民党の官憲への抵抗の姿は消え、国会開設後の自由党は、選出地域の利益代表化して行った。やがて官憲との対決姿勢は、労働者階級に引きつがれていく。 日清日露戦争と県民 明治二十八年(一八九四)・九年の日清戦争は、富国強兵・大陸侵略を目ざす政府によって、開始された。これまで軍事費拡大に反対をつづけて来た民党も、その鉾をおさめて、政府の厖大な軍事予算を承認し、全国は戦時化した。本県も例外ではなかった。横浜市の有志の発起で、いち早く奉公会が結成された。後に恤兵会と改称し、軍人優遇のために、金品の寄贈、市民の応召兵・予備後備兵の家族の困窮者に、在役中扶助料を贈るなどの活動を開始、つづいて同市に婦人恤兵会が組織されて、同じ目的で義捐金が募集された。県下の各郡の青年会では、義勇隊の組織を議決した。戦争の長期化に伴い、義捐金も枯渇するおそれがあるので、土地に適した産業を企画して、自給自活の方途を指示した郡もある。日清戦争終結の十年後、日露戦争が始まる。日露戦争は、日清戦争後における日本の大陸侵略と、ロシアの東洋侵略とが衝突して起こったものであるが、その衝突は、日清戦争後の三国干渉に端を発するといえる。その規模は、前者と比較にならぬほど大きく、県下から動員された将兵の総数は、一万六千六百十三名、戦病死者は千四百五十七名に上った。戦死の報に悲歎にくれる遺家族の姿が県内各所にみられ、それだけにその救援活動も大規模、且つ組織的であった。郡・市・町・村に、少くとも百五十以上に及ぶさまざまな規模の奨兵義会・尚兵義会・報国会が組織され活動した。県当局にも、知事を会長とした「神奈川県戦時軍人家族救護会」を設けて、これらの会の救護活動のバックとなった。ただしこの会も、公費によるものでなく、毎月一円以上の出金、または年十円以上を前納する会員制である。恤兵及び家族援護は、民間の相互扶助の精神による方針を貫いており、これによって民間の戦争への関心をたかめることもねらっていたのである。その効果は上がったが、この戦争では、横浜平民社のごとき反戦運動も底流にあったことは無視できない。国民の関心を集中しただけに、明治三十八年(一九〇五)九月五日のポーツマス条約に対する民間の不満は大きく、同日東京日比谷の焼打ち事件を頂点として講和反対の動きは全国に波及し、九月十二日横浜でも、伊勢佐木町署及び寿署管内派出所の投石・焼打ちなどの騒動に及んだ。県知事は軍隊の派遣を要請し、横浜港に碇泊中の軍艦高雄にも応接をもとめて、その鎮圧をはかった。 戦後の変貌 日清・日露戦争をきっかけに、横浜を中心とする都市周辺地域の社会経済の状況も変化を示しはじめた。日清戦争前の神奈川県の産業は、農産物では、繭と生糸・煙草・米・麦・大豆・小豆・豌豆・甘藷・馬鈴薯等で、繭・生糸は津久井・愛甲・大住・高座の諸郡に多く、煙草は大住郡秦野が有名であった。また水産では、鰯・鰺・鰹・鮎・海苔等で、鎌倉郡の蝦、多摩川・相模川の鮎、橘樹郡の海苔が有名であった。第二次産物では、津久井郡の川和縞織、鎌倉郡の塗盆、横浜の七宝焼等があり、箱根湯本の挽物細工、小田原の梅干・塩辛、江の島の貝細工、浦賀の水飴が特に有名である。その他、津久井郡の材木、愛甲郡の薪炭、足柄下郡の硫黄、石材等もある。大きな都市としては、横浜・小田原・横須賀・神奈川がある。横浜は、昔は小さな漁村で人口も極めて少なかったが、三十数年前の安政六年(一八五九)に外国との貿易のため開かれ、山を崩して海を埋め、川を通して橋を架けるなどして、にわかに大都会になり、明治二十二年(一八八九)には市制が施行され、明治二十五年末の調査では人口十四万三千以上で、年ごとに増加の傾向をたどっていた。そのころになると、各家庭に水道も敷設され、ガス灯も電灯も点じられ、港が完成したときには、貨物の揚げ下ろしや船舶の碇泊には誠に便利で、一大良港となるにちがいない。市の東南に居留地があって、そこに住む外国人は、常時数千人を数えた。小田原町はもと城下町として栄え、馬車鉄道が、東は国府津、西は湯本に通じ、東海道の要路にあたるので、人口は一万五千に達している。横須賀町も、小さな漁村にすぎなかったが、三十数年前に造船所が設けられて、急速に開発され、商業も発展し、人口は一万七千にのぼった。神奈川町は横浜市につづき、内陸の産物の集散地として栄え、人口は一万三千である。 以上が、日清戦争直前に書きとめられた県の姿である。ところが、戦後になると、横浜市・横須賀町を中心に都市への人口集中がすすみ、明治三十四年(一九〇一)四月には神奈川町を編入し明治末期には、県民の約四〇㌫が横浜市を中心 明治後期の横浜市伊勢佐木町通り 県立文化資料館蔵 に生活していた。横浜市の人口の伸び率は、全国六大都市中の最高であった。この伸びは、出生による自然増加ではなく、入寄留者の増加の結果である。戦前では県下農村の出身者が多かったが、明治三十五年(一八九七)以後は、県外からの寄留者が八三㌫を占めるようになった。海軍工廠をかかえる横須賀町も、同様に入寄留者による人口増加が顕著であった。 こうした人口のはげしい増加と入寄留者は、これまでなかったいろいろな都市問題、社会問題を発生させることになった。 ストは海軍工廠から 海防問題が重大化するにつれ、これまで大名が大船を造ることを禁じていた江戸幕府は、嘉永六年(一八五三)その禁令を解除するとともに、自らも浦賀に造船所を設け、船長三十二㍍余の木造の鳳凰丸を建造した。しかしこの造船所での造船はこの一隻で終わった。あまりに簡単な施設であったためであろう。慶応元年(一八六五)フランス人技師により、横浜に横浜製鉄所をつくり、横須賀の横須賀湾に横須賀製鉄所を着工していた。明治新政府は、この両者をひきついで、前者を横浜製作所、後者を横須賀造船所と改称、その管轄を工部省(のちに海軍省)に移した。横浜製作所は、その後幾多の曲折を経て、東京築地の石川島造船所の払下げをうけた平野富三郎に貸与され、横浜石川島製作所と改名して、石川島造船所の分工場となった。 横須賀造船所は、海軍省の所管の下で、船舶や諸機械を製作して官民の需要にこたえていたが、明治九年(一八七六)九百トンの砲艦清輝を完成し、海軍国日本の第一歩を踏み出した。その後、明治十五年(一八八二)までに七隻の船艦を造ったが、清輝をはじめいずれも木造船であった。全鋼鉄艦は、明治二十年に進水した千四百八十トンの第二武蔵であった。しかしこれら造船に要する物資は、東京・横浜、あるいは浦賀から海上輸送で調達されていた。横須賀を単なる造船所の所在地たるにとどめず、世界にその名をとどろかせたのは、明治十七年(一八八四)に、この地に鎮守府を開設したことである。これも当初は横浜ドイツ領事館跡におかれた東海鎮守府を横須賀に移し、横須賀鎮守府と改称すると定めたことに始まる。鎮守府条例に「鎮守府ハ海軍港ニ置キ、艦隊其他ニ属セザル艦船ヲ管轄シ、水兵、諸工夫ノ練習及ヒ兵器石炭物品ノ貯蔵配賦並ニ艦船ノ製造修理等ニ関スル事務ヲ総理シ、且ツ其所在港内ヲ管轄守衛スル所トス」と定め、この機能を果たすため、鎮守府の下に、造船所・屯営・武庫・倉庫・病院・軍法会議・監獄署が置かれた。鎮守府をおいたところは海軍の軍港であり、各種の海軍施設が設けられる。日本周辺の海域は、五海軍区に分けられ、横須賀鎮守府は、陸中(岩手県)・陸奥(青森県)国界から紀伊国(和歌山県)に至る間の海岸・海面、及び小笠原島の海岸・海面の第一海軍区を担当することになった。横須賀造船所は、当然ながら横須賀鎮守府の管下に入り、明治三十六年(一九〇三)名も海軍工廠と改め、日本帝国主義の尖兵として世界の心胆を寒からしめた幾多の船艦建造の一役を荷うのである。 横須賀造船所、横須賀鎮守府へと発展するにつれ、横須賀は横浜につぐ人口流入を示したが、海軍軍人を除けば、流入人口の大部分は、零細な賃労働者である。入寄留者であるため、江戸時代以来の親方組合の拘束もない、近代的労働者である。明治二十五年(一八九二)七月、横須賀海軍造船廠の職工五千百五十人が、新しい廠長の定めた厳重な就業規則に反対して、ストライキを行った。「神奈川県史別編3年表」にのる、海軍工廠での近代的な最初のストライキである。 工廠の前身である横須賀造船所の時代、明治十一年(一八七八)二号ドック建設の際、伊豆石切り場から、官の直営で用材を切り出すため、関西から石工二百余人を集めて作業にかかったが、賃上げ要求がきかれずに逃亡したり帰国するものが相ついだ。 準則組合と労働組合 このような急速な近代化は、外からの労働力の流入を招き、労働者層を形成させ近代的な労働者としての意識を芽生えさせて行った。政府も、こうした動きをいち早く警戒し、明治十七年(一八八四)「同業組合準則」を公布して、知事公認の準則組合を、親方層に結成させた。これは手間賃、就業時間等、職人との間に協定した組合である。横浜大工請負職工組合を初めとして横浜印刷業組合・横浜料理業組合・横浜写真業組合・横須賀洋服商工組合・足柄大工職組合などである。大正期に入って横浜鳶職・横浜造船鉄工・横浜輸出絹布裁縫・横浜木型・横浜指物・横浜電気業・横浜植木職・県東部蹄鉄業、平塚土木建築業・久良岐鳶職等が組織されて、昭和三年(一九二八)神奈川県商工協会が結成されたとき、加盟した準則組合は、百二十五を数えた。 準則組合は、在来工業にも新興工業にも及び、職工や労働者を組織する役割を果たしたが、明治後期から続発する職人争議の中で、業組合(親方の組合)と職組合(職人の組合)に分解して行った。そして最初の職組合が、明治での先端的近代工業である鉄工組合の結成になって現われた。 明治三十年(一八九七)四月、高野房太郎がアメリカから帰国し、東京で演説会を開いて労働組合の結成を訴え、島田三郎・片山潜・佐久間貞一ら四十七人の同志を得て、労働組合期成会を結成し、十二月には東京神田の青年会館で、鉄工組合が発足した。その発会には、東京の陸軍砲兵工廠や日本鉄道大宮工場などの鉄工千百八十人が参加したが、この中には、横浜の鉄工百八十五人がいて、創立費の半ば近くを寄付して、組合の要職についた。この組合は、横須賀・浦賀へと拡大し、さらに参加組合も、他工業に及んだ。例えば、横浜西洋家具指物同盟会三十余名は、賃上げ運動を通じて組織され、のち鉄工組合に加入して第四十一支部となり、石川島浦賀分工場では、第四十二支部として結成された。明治三十一年(一八九八)の年末には鉄工組合は三十二支部二千七百十二人に達し、横浜・横須賀は、その拠点となっていた。 こうした労働者の自主的組合運動に対して官憲は、明治三十三年(一九〇〇)治安警察法を公布して弾圧をはかった。この法律は、政治に関する結社、集会の届出制、女子などの政治結社加入の禁止、集会・集団行進・言論の禁止及び解散権を警官が保持、団結権・同盟罷業権の制限を規定した。官憲は、労働者の労働運動と、真向から対立したのである。 にもかかわらず、組合は拡大し、抵抗はやまなかった。明治三十七年(一九〇四)七月、横須賀海軍工廠の労働者荒畑寒村は鈴木秀男・服部浜次とはかり、横浜市羽衣町の若柳亭で演説会を開いて、横浜平民社を結成し、当時国内に沸騰していた日露開戦論に反対を唱えた「平民新聞」を横浜駅頭で販売したり、幸徳秋水らをまねいて演説会を行った。官憲の追求をうけると、横浜曙会と名をかえて運動をつづけた。 労働争議が盛んに起こる 日清・日露戦争は、戦には勝ったが、両者ともにその戦後は、国内に不況の風がふきまくり、労働争議が多発した。青木虹二「日本労働運動史年表」によれば、明治二十七年(一八九四)全国争議件数八件、翌年十一件に対し、戦後の明治三十年(一八九七)は百十八件で、そのうち同盟罷業、すなわちストライキに入ったもの七十九件に及んでいる。 県下でも、一月に日本絹綿糸紡績のスト、四月に東京建物会社横浜支店下請職人のスト・横浜荷馬車組合馬丁のスト・横浜ドック鉄工所職工のスト計画・横浜西洋家具指物職同盟会の賃上げ要求・横浜の石工賃上げ要求・英商の下請沖取人夫ストが、上半期に相ついで起こり、下半期に入って、神奈川船大工組合スト・横須賀鎮守府造船部・寿浦兵器工場スト・横浜ドッグスト・横浜水道道志川付替工事人夫スト・横浜などの商館番頭らのスト 内山愚童作の如来像 箱根町 林泉寺蔵 計画・京浜間艀船頭スト等が相ついだ。 こうした争議も翌年からは次第に減少し、明治三十七年(一九〇四)には、全国件数十、そのうちストに発展したもの七件となったが、日露戦争後の明治四十年にはまた労働争議が多発する。だが治安警察法が発動され、こうした運動は厳しく抑圧されて行く。 この年、人民抑圧の強硬論者の山県有朋は、小田原に、財閥からおくられた別荘古稀庵を営み、その近くの箱根町林泉寺の住職内山愚童のもとへは、幸徳秋水らが出入し、やがて明治の掉尾をゆるがした大逆事件が起こるのである。 ㈥ 貿易の王者横浜の成立 条約改正と神奈川県 明治三十二年(一八九九)の列国との条約改正の成功は、横浜港を持ち、居留地をかかえていた本県に、大きな影響を及ぼした。 それは、自主貿易の展開である。横浜における外国貿易は、明治に入っても順調な伸びを示していた。明治十年(一八七七)の輸出一千五百九十二万円に対し、同二十八年(一八九五)八千四百七十九万円、輸入は、明治十年二千百三万円、同二十八年五千六百十万円と、輸出は五倍強、輸入は三倍弱の伸びである。中間、国内及び国外の経済状況によって、高下はあるものの、やはり著しい伸びといえる。すでに、輸出は全国第一位、輸入は第二位(一位は神戸)の貿易港となっていた。 この外国貿易も、居留地に商館を構えた外国商社を通じてなされたものである。明治十年の全国貿易の取扱い商人は、輸出は外商九六・四㌫に対し、日本商一・五㌫、輸入は外商九六・二㌫に対し、日本商一・三㌫にすぎず、明治二十九年(一八九六)に至っても、日本商扱いは、輸出二五・一㌫、輸入二九・八㌫にすぎなかった。日本人商人は、外商に対する売込商(輸出品を外商に売り込む)か、引取商(輸入品を買い取る)として以外、直接輸出入に活躍 全国貿易と横浜(1896-1911)『神奈川県史通史編6』745ページから する余地はなかった。これによって成功した商人も少なくないが、甲州八代郡東油川村(山梨県)の豪農で、在方商人の甲州屋忠右衛門はその代表的一例である。彼は近隣の豪農と共同出資して、横浜に甲州物産会所を計画したが実現できなかったので、個人商人として奮闘することになった。はじめは資金不足に悩み、村に居のこった長男に、衣類を質入れして資金調達を指示するほどの有様であったが、生糸・繰綿・蚕種などの売り込みに成功して財を成し、染料など輸入品の引き取り、宿屋・両替屋・質屋などを兼営した。彼は、生糸・綿・蚕種などの産地である郷里と密接な関係を保ちつつ、郷里を中心に商品を買いつけて、自ら荷主となって外商に売り込み、大きな利潤をあげたのである。甲州屋は、蚕種ブームの沈静とともに没落したが、こうした売込商で成功したものも少なくない。生糸売込商に井筒屋(小野)善三郎・亀屋(原)善三郎・野沢屋(茂木)惣兵衛・吉村屋(吉田)幸兵衛・橋本屋(小暮)弥兵衛・糸屋(田中)平八、製茶売込商に茶屋 大谷嘉兵衛商店 神奈川県立博物館蔵 (中条)順之助・大谷嘉兵衛・岡野屋(岡野)利兵衛などが活躍した。彼らの中から後年、「横浜財閥」と呼ばれる大商人が育った。 この時期の主要輸出品は、前期では生糸・茶・蚕種が上位三位を占め、昆布・干あわび・するめの水産物三品がこれに次ぎ、銅・漆器・陶磁器などが加わる。明治十一年(一八七八)から絹織物、同十三年から綿織物、同二十年ごろから絹ハンカチの進出が目立ち、代って初期には上位を占めていた蚕種は、同十九年以降は消滅する。銅は、同十七年ごろから急増して、輸出品第三位を占めるという変化はあるが、生糸・茶の上位は変わりない。生糸・茶の売込商が財をなした所以である。 主要輸入品は、初期では、綿糸を一位とし、明治十三年までは、全国輸入の九〇㌫以上を占め、綿織物・毛織物・砂糖とつづくが、やがて、鉄鋼・機械・薬品など重化学工業製品と綿花の比重が上昇し、綿織物や綿糸の比重が減少する。 こうした貿易品の変化は、輸出品は海外の景気を、輸入品は国内産業の展開をそのまま反映したものである。そのいずれにしても、売込商・引取商の活躍によるものである。 条約改正による商権回復は、日本商社の直接輸出入を可能にし、居留地に商館を構えた外国商社は、次第にその姿を消して行った。明治十三年(一八八〇)、外国の銀行・商社に対抗して、日本の貿易の発展をはかる目的で開業した横浜正金銀行(明治二十年七月七日横浜正金銀行条例公布。東京銀行の前身)は、自立した日本商社を強力にあとおしをした。 貿易関連工業が盛んになる 明治十年ごろは、神奈川県の繭一人当たりの生産量は、全国平均を上回ったが、生糸はこれを下回った。しかし横浜の生糸貿易の発展はこの地方に大きな影響を及ぼし、その生産量を飛躍的に増加させた。明治二十年(一八八七)には、明治十年の生産量の七・七倍になった。中でも津久井郡の増加率は三十六倍にものぼり、愛甲・高座二郡を加えた三郡で、県内の総生産量の九三㌫を占め、さらに大住・足柄上郡へも増加の波は及んだ。しかもその大部分が、小農民の農間余業であった。中には少数ながら、数人から数十人の労働者を雇い、簡単な器械設備を備えた手工業的な作業所(マニファクチュア)もあらわれていた。中郡・高座郡・鎌倉郡にも製糸工場がつくられ、相武の台地は急速に桑畑となって行った。 また絹ハンカチが輸出品に登場すると、横浜近郊の帷子川や大岡川の流域に染物工場が発達し、ハンカチのふち取り工場や内職が生まれた。多摩川の河口付近には、台湾やジャワから輸入した原粗糖を再生する横浜製糖会社が設立された。砂糖の輸入は、綿業関係製品の輸入の比重が低下すると、横浜輸入品の一位となる年が多くなっていた。神奈川町では、上海やインド向けの絹靴下が製造され、メリヤス工業が発達した。川崎の田島付近では、麻真田紐や麦稈真田の工場が設立されて、輸出品を造った。明治末年の県下の工業は八百十三工場のうち、染織工場は四百十七、機械工場が五十二、化学工場が二十四、撚糸関係が二百八十八で、撚糸関係は主として農村地帯にあった。 横浜市内では、居留外国人や貿易関連の雑工業が起こった。漆器・茶箱・七宝焼・花火などの輸出用品、印刷・製靴・マッチ・石けん・ビールなどの外国人向け日常雑貨など、その業種は多岐にわたった。とくにたばこは、江戸時代以来有力な生産地であった秦野地方の生産が急速にのび、現地で刻みたばこの加工業が発展し、横浜市内にも、煙草製造所が設立されていた。 やがてこれらの貿易関連産業は成長して、国内向け製品の生産にも着手するようになる。津久井郡の絹織物業者が、北相模織物同業組合を結成して八王子織物組合から独立し、甲州絹や相州絹を原料に、絽や座ぶとん地を織って、上野原や八王子へ移出したのは、その一例である。他の雑工業も、やがて国内向け産業として成長をとげるのである。 造船業もまた、貿易発展に関連して急展開を示した。県下の造船業は、幕末の海防問題に対処するため、幕府経営の製作所がひらかれていたが、明治になって、その中の横浜製作所が、平野富二に貸与になったが、平野はここにイギリス人技師アーチボルト・キングを招いて技師長とし、船舶用機関および一般諸機械、その他銀行の金庫などを製造していたが、海軍省の許可を得て、明治十七年(一八八四)、東京築地の石川島造船所に移築合併した。その工作機械は、オランダ・アメリカ・イギリス・フランス諸国の製品が多く、石川島造船所の能力を著しく向上させ、移築の翌年には、海軍省の発注を受けて、六百二十四トンの砲艦鳥海を建造する一方、横浜港近くの鉄橋大江橋や、東京府の人道・車道兼用の吾妻橋の鉄橋などを建造した。 明治八年(一八七五)には、郵便汽船三菱会社の社長岩崎弥太郎は、横浜海岸通りの建設中の造船器械所を買収し、三菱製鉄所と改め、船舶の修理業を開始した。主要航路が、横浜を起点としているので、修理工場が必要であったのである。はじめ外商との共同経営であったが、明治十二年(一八七九)独立し、やがて横浜石川島製鉄所と並ぶ大工場となった。明治十八年(一八八五)郵便汽船三菱会社が共同運輸会社と合併して日本郵船会社となると、日本郵船会社横浜鉄工所と改称した。 明治二十四年(一八九一)、原善三郎・茂木惣兵衛らの横浜財閥グループと、渋沢栄一・益田孝ら東京グループとの協同で、横浜船渠会社が設立され、日本郵船横浜鉄工所を買収し、明治三十一年(一八九八)船渠会社の営業を開始した。大資本と新技術を必要とするこれらの重工業の創業に苦難はあったが、やがて海運国日本を築き、今日の京浜工業地帯の起点となるものであった。 横浜船渠3号ドック 『横浜商工会議所月報』から 世界にのびる横浜航路 驚異的に伸びる輸出入品を、海外から運び、海外へ運び出すのは、外国船であった。とくに幕末以来、サンフランシスコ-上海間に航路をもち、明治三年(一八七〇)以来、横浜-神戸-長崎-上海の定期線を開いたアメリカの太平洋郵船会社は、貨客の多い横浜-神戸間の運送をも支配していた。たまたま明治七年(一八七四)台湾征討の時、政府は軍事輸送をこの会社に依頼しようとしたが、アメリカ政府が局外中立を宣言したため、不可能となった。政府は急いで外国船十三隻を買い入れ、これを三菱商会に委ねて急場を切り抜けた。戦後、三菱商会は、この実績をもとにアメリカ太平洋郵便会社とはげしい競争の末、上海航路から追いおとした。上海航路は、わが国最初の海外定期航路である。アメリカ船会社の退却に代わって、イギリス屈指の彼阿汽船会社があらわれたが、これもはげしい競争の末、退却させた。この彼阿会社は、輪入の増加しつつあるインド綿の輸送を独占していたものである。明治九年(一八七六)のことである。三菱商会は郵便汽船三菱会社と称していたが、この年政府は、さらに上海航路・京浜-阪神航路・横浜-函館航路・横浜-新潟航路・横浜-四日市航路・長崎-釜山航路の六つの命令航路を指定した。六つの指定航路のうち、五つが横浜の起点である。外国貿易港横浜は、国内航路の中心ともなったのである。内外航路を独占した三菱会社は、貨客の運賃を不当に引き上げて独占価格を押しつけた。これに反発した最大の貿易商社三井や、品川弥次郎らによって、共同運輸会社が設立され、三菱会社とはげしい競争を開始した。そのため、両社は巨額の欠損を重ね、共倒れになる危険を生じたので、明治十八年(一八八五)、政府命令で両社を合併し、日本郵船会社が設立された。日本郵船会社は、国内沿岸航路に重点をおいて、対外航路としては、政府命令による上海やウラジオストックなど、近海航路にとどまっていた。遠洋航路では、先進諸国企業が海運同盟を結んで固く縄張りを定め、それに挑戦することは危険であったからである。 海運同盟は、協定による独占的運賃を押しつけ、荷主を苦しめた。とくに次第に増加しつつあるインド綿の運搬は彼阿汽船会社ら三社に独占され、インド側も日本紡績業者もその高額運賃に苦しんだ。ついに明治二十四年(一八九一)インド綿花商と日本側との話合いの結果、明治二十六年、日本郵船広島丸が神戸港から出港してボンベイ航路を開いた。遠洋航路の第一号である。政府は、本航路を特定航路に指定し、起点を神戸から横浜に移し、毎月一回横浜とボンベイを出航させた。 ひきつづいて明治二十九年(一八九六)には、欧州航路の第一船土佐丸が、アントワープに向けて横浜港大桟橋から出航した。当初は月一回、やがて二週間に一回と増便した。 明治二十九年(一八九六)には、香港-神戸-横浜-北米シアトル間の北米航路を開設した。サンフランシスコで綿花をつみとることを主な目的としたが、その輸送航路は太平洋郵船会社などの二社が押えていたので、アメリカ鉄道と提携して、シアトルを終点としたのである。第一船三池丸が神戸から出航した。同じ年政府は、横浜と濠州アデレート間の濠州航路を特定助成航路に指定し、その第一船山城丸は横浜を出航した。濠州移民の輸送が主な目的であったが、白人濠州主義に阻まれ、成果は上がらなかったので、フィリピンのマニラに寄港などして、集貨につとめた。 明治二十九年には、浅野総一郎が、渋沢栄一・原善三郎・大倉喜八郎らの財界有力者と東洋汽船会社を創立、最初から遠洋航路を目的とし、神戸-横浜-サンフランシスコを結ぶ北米航路をひらき、世界的優秀客船天洋丸・地洋丸・春洋丸(各一万三千五百総トン)を三菱造船所に発注して建造し、北米航路に就航させ、明治三十八年(一九〇五)には、香港-神戸-アメリカ東海岸を経て、チリのパラグァイに至る南米航路西岸線をひらき、大阪商船は、香港-上海-神戸-横浜-シアトルを経て、タコマを結ぶ北米航路を開いた。 こうした外国航路は、すべて横浜を起点とするか、または寄港地とし、横浜港の繁栄を一層大きくした。 多くの銀行ができる 松方デフレで不況の風が吹きあれているころ、農村部に銀行類似の機関ができたことは前述したが、これは前近代的高利貸金融業で、農民騒擾の目 天洋丸 『日本郵船株式会社50年史』から 標となったが、政府は、明治二十六年(一八九三)「銀行条例」を施行し、近代的銀行の育成をはかった。これによって、日清戦争のブームを背景に多くの銀行が設立されて、明治三十四年(一九〇一)には全国に一千八百六十七銀行を数えた。貿易関連の諸業が成長する神奈川県も例外ではない。明治二十六年(一八九三)小田原銀行・横浜の若尾銀行(生糸貿易・製糸業をはじめ多方面の事業を行っていた若尾家の機関銀行)・相陽銀行をはじめとし、明治二十八年には、横浜商業銀行(洋糸織物商木村利右衛門・銅鉄商佐藤政五郎らが「横浜綿糸綿花金属株式取引所」の機関銀行として創立)・左右田銀行(左右田一族の出資銀行)・茂木銀行(生糸売込商茂木商店の機関銀行)・松田銀行・神奈川銀行(米塩雑穀問屋商加藤八郎右衛門・米穀商水橋太平・和洋酒商伊藤与右衛門・米穀肥料商渡辺喜八郎らが設立)・平塚銀行(藤沢の豪商稲元屋の分家今井政兵衛取締役)・武蔵商業銀行(製茶売込商大谷幸兵衛・米問屋黒部与八・同稲垣弥三 若尾銀行 『横浜商工会議所月報』から 郎らが組織)・横浜蚕糸銀行(「横浜蚕糸外四品取引所」の機関銀行)・横浜貿易銀行(生糸売込商金子政吉・原富太郎らが創立、生糸金融を行う)など、まず横浜に多くあらわれ、明治三十年(一八九七)ごろからは、足柄上郡酒田村(開成町)の酒田銀行、足柄村(小田原市)に足柄銀行、小田原町(小田原市)に小田原通商銀行、金田村(厚木市)に金田興行銀行、桜井村(小田原市)に桜井共益銀行・橘樹郡中原村に中原銀行(頭取は地元の毛織経営者朝山信平)・高津村に高津銀行、川崎町に川崎共立銀行・川崎銀行、大師河原村に大師銀行(以上川崎市)・鎌倉郡鎌倉町に鎌倉銀行、戸塚町に戸塚銀行、浦賀町に浦賀銀行など、一村一町単位で、資本金も三万円から五、六万円の小銀行が続出し、銀行条例施行の明治二十六年から三十五年(一八九三~一九〇二)までの間に、四十一行を数えた。しかも、どの銀行も預金残高よりも貸出残高がはるかに多く、旺盛な資金需要を物語っている。このことは、その設立者のほとんどが貿易関連企業家・商人であることと合わせて、横浜貿易による県下諸産業の活発化の反映とみられる。 「横浜毎日新聞」が東京に去って空白十二年ののち、明治二十三年(一八九〇)に発刊された新聞が「横浜貿易新聞」であった。この新聞は、横浜貿易商組合の機関紙として、二月一日創刊、その体裁は菊判、三段組み十二ページで、貿易商の官報を目標にしたもので、紙面の大部分を生糸・絹織物・茶・海産物などの商品にあてた。貿易商は数十部をまとめて購入し、国内の取引先に配布した。一時休刊したが、明治二十七年(一八九四)八月十五日復刊した。貿易商組合との関係を絶った独立経営で、横浜における唯一の日刊実業新聞として順調に成長をつづけたが、明治三十四年(一九〇一)二月十五日に発刊した新鋭の新聞紙「横浜毎夕新聞」の改題した「横浜新報」と合併して廃刊した時は、四千三百五十四号を数えた。しかし合併十日後には、「横浜新報」は、「貿易新報」と改題し、七段組み総ルビ付き六ページの堂々たる一般紙として再生した。一般紙ではあったが、貿易の名にふさわしく、横浜港の出入船舶や生糸市況などの経済記事にも力をそそぎ、発行部数も一万六千に及んだ。明治三十九年(一九〇六)、二千号も超えた機会に、紙名を「横浜貿易新報」と改め、明治から大正にかけていよいよ発展して、全盛期には十三万部に達し、地方紙の最有力紙となった。 しかし昭和十年(一九三五)に社に内紛がおこり、休刊を重ねて急速に衰え、昭和十七年(一九四二)、一県一紙の統制をうけ、県内の各紙は、「横須賀日日新聞」の後身である「神奈川日日新聞」を中心として統合され、「神奈川新聞」となった。衰弱したとはいえ、なお生命を保っていた「横浜貿易新報」も、その中に吸収されて姿を消した。 湘南再びよみがえる 古代に「こゆるぎの浜」とよばれて、都びとに親しまれた相模湾海岸は、近代になり、再び都びとの口にのぼるようになった。近代の都は、いうまでもなく東京である。 わが国の近代医学の開拓者の一人陸軍軍医総監松本順は、大磯(大磯町)の海岸が、海水浴場として好適であることに着目し、大磯の旅館宮代館主にすすめ、洋式海水浴場の施設をつくらせた。明治十八年(一八八五)のことである。さらに調査の結果、大磯の海にはバクテリアも発生していないことがわかり、松本は「海水浴法概説」を著して、海水浴の方法を解説するとともに、大磯を紹介した。明治二十年(一八八七)には、鉄道が国府津まで開通し、大磯停車場も設けられ、東京・横浜からも便利となった。大磯の海水浴場は、年とともににぎわいを増した。海水浴客のための新しい施設を備えた旅館が開かれるとともに、政界・財界の有力者は、滞在のための個人別荘を持つようになった。冬季も気温はあたたかく、絶好の避寒地でもあったからである。 大磯につづいて平塚・茅ケ崎、そして片瀬や鎌倉の海岸にも海水浴場が開かれて行き、これらを含めて、湘南とよばれるようになった。中国景勝の地湘水の南方を指す地名を、相州の南部にもじったものである。 ドイツ人医師ベルツも、三浦半島や、真鶴(真鶴町)が、冬期療養地や海水浴場として適地であることを説いた。そのすすめで、明治二十年代には、ベルツやイタリヤ公使らの別荘が葉山につくられ、有栖川宮や北白川宮の別邸がつくられた。有栖川宮別邸に、英 大磯の海水浴場 県立文化資料館蔵 照皇太后や皇太子(後の大正天皇)も保養のため滞在したことが機縁となって、明治二十七年(一八九四)、天皇家の別邸、いわゆる葉山御用邸が完成した。 葉山と反対の西にある小田原にも、ベルツの保証もあってか、政界財界の有力者の別荘が相ついであらわれた。中でも夏島で憲法草案を練った伊藤博文は、憲法発布の翌年、小田原に別邸をつくり、滄浪閣と名付け、ここで新民法の一部が起草された。小田原にも御用邸が建てられ、葉山と並んで高級別荘地となった。 やがて伊藤博文は、小田原の別邸に赴く途中、一泊することの多かった大磯の地に愛着を覚え、この地に別荘を構えて、小田原の別邸を売却し、滄浪閣の名をここに移した。明治二十九年(一八九六)のことである。 滄浪閣が大磯に移ると、日本の政商三井・岩崎・古河・安田・浅野・住友らの財閥一家も、東海道沿線にそった地に別荘づくりを始めた。 こうした別荘は、時には政界財界に起こる台風の目となることはあっても、庶民には無縁であった。しかし庶民もまた後年になってスピードアップする東海道線、大船駅から分岐して開設された横須賀線、東京(新宿)-小田原、江の島を結ぶ小田原急行電鉄、藤沢-江の島-鎌倉間を結ぶ江ノ島電鉄などを利用して日帰り海水浴に殺倒し、いもを洗うような混雑が湘南の夏の風物となっている。これに反し、政治家や財閥の別荘は、今日では、あるいは料亭、あるいはホテル、あるいは社員保養所となって、往昔の姿はない。 湘南の名を、全国にひろめたのは、こうした湘南の風土を舞台とした数々の小説である。中でも、明治三十一年(一八九八)十一月から翌年五月まで「国民新聞」に連載された徳富蘆花の「不如帰」は、天下の子女の紅涙をしぼったもので、中でも逗子の某将軍の別荘での武男と浪子の別れの場面はそのクライマックスであった。逗子の浜辺は全国に知れ渡った。彼はまた明治三十一年一月から短文の随筆を「国民新聞」に連載して、逗子をはじめ湘南の風物を紹介し、やがて「自然と人生」と題した一冊にまとめられ、人々に読まれた。彼の小説ほどではないが、全国の知識人に湘南の名を印象づけた。 また、小田原には、近代文学の先駆者北村透谷が出て活躍したが、明治三十年代には、村井弦斎・斎藤緑雨・小杉天外らが移り住み、彼らを訪れて文士が小田原に来ることも多かった。弦斎は「食道楽」を「報知新聞」に、天外は「魔風恋風」を「読売新聞」に連載した。大正年代になると、谷崎潤一郎や北原白秋も小田原に住んだ。こうした文士の来住は、文芸の上からも湘南の名を高からしめたのである。 ㈦ 日露戦後の人々 戦勝につづくスト流行の年 日露戦争の勝利にもかかわらず、戦後は、日清戦争直後と同じく、国内は不況に見舞われ、労働争議もまた多発して、明治四十年(一九〇七)には、全国にわたって二百三十八件にのぼり、このうちストに突入したものが百五十件に及んだ。とくに横浜では当時の新聞「万朝報」五月十二日付紙上に、「横浜にては目下種々の同盟罷工が大流行」と報じた。二月二十七日には、横浜市の石工が二割賃上げを要求してストを行い、神奈川方面の石工にも呼びかけて、一割賃上げと解決金五十円で妥結した。三月八日には、横浜市の船大工らが船工組合を通じて二十銭の賃上げを造船業組合に要求し、一か月にわたり争闘の上要求を獲得した。同じ月に、横浜市の裁縫工千名が賃上げを要求してストに入った。四月十二日には浦賀船渠で、五百名の解雇に反対して「不穏」の状況となり、憲兵や警官が出動して鎮圧しなければならなかった。二十三日には、横浜市の麒麟麦酒会社の製箱職人六十余名が、一個につき二銭賃上げを要求してストに入り、十九日後に目的を達成した。下旬には、横浜市の造船関係木挽職人が、十五銭の賃上げを要求して、六月下旬までストを続けた。同じころ、横浜市の印刷工の賃上げ要求ストが行われた。五月十日には、横浜市の糞尿汲取人二百名が月給十五円を要求してストに入り、二十九日には、五割賃上げ要求した税関人夫九百名がストを行い、各所にピケをはったが、警官に検挙され、スト三日後に要求の半額で妥結した。六月一日には、税関荷馬車馬丁四十名が、税関人夫ストに同調してストに入り、四日に八銭値上げで解決した。七日には、横浜停車場等の運搬人夫(車力)の親方たちが、一割賃上げを要求し、八日には、横須賀海軍工廠四千名が、残業廃止から増給請願運動を行い、八月に増給を獲得した。十六日には、横浜停車場の運搬人夫たちが、二割五分の賃上げを要求し、委員五十名を選んで交渉した。七月二十九日には、横浜市の婦人服裁縫職人(中国人七十名、日本人二十名)が労働時間の延長に反対してストを行い、八月一日に、親方の宅を襲って四十名が検挙されて敗北した。八月八日には、横浜給水会社の船夫二十四名が賃上げを要求してストを行ったが、十四名が解雇されて敗北した。中旬には、東海道線の車掌・機関手がストを計画し、二十六日には、江ノ島電鉄の車掌・運転手の二十余名が解雇反対集会を開いたが、警官により解散させられた。九月九日には、浦賀船渠製缶工百五十四名が、残業・休日出勤廃止反対のストに入ったが、警官が仲介して、翌日には、残業休日出勤継続で妥結した。十一月十五日、横浜港艀船夫八百余名が、三割賃上げを要求してストを行い、十八日には、横浜電線の男工六十四名、女工四十六名、少年工四十三名が、賃上げを要求してストに入り、翌日要求を容れられて解決した。十二月三日、川崎町の日本製糖で見習工の解雇に反対して、人夫百名が集会を開いたが、警官に解散させられて妥結した。七日に同社の常雇人夫が、会社の人夫請負制案に反対して集会を開いたが、警官に解散させられ、会社も案を撤回して解決した。四日には、残業の割増賃銀不払いのため、横浜の英字新聞「ジヤパン・ヘラルド」の印刷工がストを行い、翌日には、ジャパン・アドバァタイザー」の職工もストを行った。中旬には横須賀市のいろは楼の娼妓十余名が、自分たちを監督する「やりて」の追放を要求した。 以上が明治四十年(一九〇七)における県下の労働争議の大勢である。その特徴は、海軍工廠等の造船軍需、港湾関係に多く、近代産業がそれにつぎ、女性や少年工も団結して闘っていること、同種の職種に連鎖的に起こっていることなどは、日清戦争後に組織化のすすんだ職工組合の連帯がみられることをしめしている。また、これらの争議に対する警官の干渉、抑圧が目立つことなどをあげることができよう。にもかかわらず、労働者の要求が不十分ながらもみとめられた場合が多いことは、当時の労働者の苛酷な労働事情を、官憲といえども認めざるを得なかったのであろう。 こうした労働者の動きは、一般住民の住民運動をも促進した。一月九日、横浜市吉田町の住民が、付近の製箱工場の騒音の抑止を県庁に陳情したり、五月二十日には、橘樹郡子安村(横浜市神奈川区)地先の海面を埋め立ててセメント工場を建設しようとする浅野総一郎の出願に、地元漁民の反対運動が激化し、五月二日には、子安村住民約四十人が、横浜鉄道路線敷地への架橋方を県庁に陳情し、七月には、神奈川浦島町(横浜市神奈川区)の住民が、付近の塵芥焼却場の悪臭に苦情を申し立てている。十月には、神奈川青木町(横浜市神奈川区)の町民が、付近の岩井製油所の騒音・臭気・振動・火災に反対し、百余人署名の陳情書を県庁に提出した。農民の歎願書は、以前からその例は多いが、都市的環境をめぐるこれらの住民運動は、このころに出発する。 地方改良計画 不況は、農村部でも例外ではない。不況による租税滞納は激増し、市町村の負債は累増した。これに対し県当局は、農民の財産差押え・売却をもって滞納整理を強行する一方、村民の勤労進取・自主更生を促す地方改良運動を促進し、県知事を会長に、県内務部長を副会長とする県地方改良会をつくり、郡町村ごとに、町村役場吏員・教員などの公職者、神官・僧侶・篤志者・有力者を会員とする支部を設けるという、上からの農村更生をはかろうとするものであった。この地方改良計画は、町村の基本的財産の増額、納税成績の改善、小学生の就学率の向上、農事改良の実行、青年会の改善を柱とし、そのため、例えば大磯町では、「相互ノ利害得失及ビ町振興ヲ図ル」ことを目的とする成年会、「青年ノ品行方正ニシ公益ヲ計ル」を目的とする青年同志会、「納税ノ円滑ヲ」目的とする納税組合などの公益団体が組織された。 この運動の基本精神の一つとしてとり上げられたのが、二宮尊徳の報徳思想で、小田原を中心にうけつがれてきた報徳社は、内務省・農商務省の官僚を中心に、政治家・財界人・学者を結集した半官半民の団体報徳会につくりかえられ、明治四十一年(一九〇七)八月、小田原で開かれた第一回講習会には、全国から二千人以上も集まったという。 県では改良運動にすぐれた成績をあげた町村や改良会の会員を表彰して、運動意欲をあおった。足柄上郡南足柄村(南足柄市)・共和村(山北町)は、その模範村として宣伝され、三浦郡葉山村・高座郡寒川村・足柄下郡吉浜村(湯河原町)が、第一回県地方改良事業功労者として表彰された。 川崎市麻生区細山の地方改良運動道路改良記念碑 二 大正デモクラシーの波 ㈠ デモクラシーと県勢 打ちよせる新しい波 明治三十三年(一九〇〇)の「治安警察法」の公布は、労働運動に大きな打撃を与え、労働運動は、労働者の政党を組織して、政治運動によらねば不可能であると感じられるようになった。労働者保護法制定のためにも、納税高による資格制限のない普通選挙が必要だとする主張があらわれはじめた。明治三十二年(一八九九)東京に普通選挙期成同盟会が結成され、社会主義者と民主主義者とが一つになって、全国的な大衆的な運動体として発足した。明治三十四年(一九〇一)になると「二六新報」社が主催して第一回の日本労働者大懇親会を開催したが、参加者は三万を数えた。この懇親会の主任幹事を普選同盟会幹事がつとめ普選運動の大衆的出発点となった。この会合には横浜・横須賀・浦賀などから九百人が参加し、揃いの旗章、揃いの服で参加したといわれている。以後、函館などでもこうした会合が開催され普選の動きが広まった。四月二十一日には、東京の鉄工組合本部事務所に片山潜・幸徳秋水・木下尚江・安部磯雄ら六人が集まって社会民主党の結成を計り、五月十八日に届け出た。日本最初の社会主義政党の誕生であったが、これは治安警察法適用の第一号として、直ちに解散を命じられた。党は解散させられたが、労働組合の普通選挙の実現の決議は相つぎ、普通選挙同盟会の強化がすすめられた。七月には横浜の鉄工組合第四十一支部が同盟会に加入したのを皮切りに、九月には、商業組合・工業組合・鉄工組合などの七十余人が集まって、同盟会横浜支部設立発起会を開き、「内外商事通報」社長牧内元太郎の肝煎りで、横浜支部事務所を同社内に置き、紙面による宣伝につとめ、二十八日には、横浜市雲井座に片山・木下・幸徳・政友会代議士河野広中らの演説会が開かれて、聴衆三千人がつめかけた。しかしこうした運動に対する官憲の抑圧は大きかった。明治三十三年(一九〇〇)には、最初の普通選挙法案が衆議院に提出されたのも、こうした時勢に押されたものである。この時は否決され、普選同盟会も規約を改正し、陣容を立て直して次の活動にそなえ、横浜グループも中央の情勢にかかわりなく活動をつづけた。活動の中心は荒畑寒村などの横浜平民結社によってになわれてきたが、治安警察法下に解散においこまれた。しかし、すぐに研究団体曙会として会を再興させ、運動をつづけた。明治三十九年(一九〇六)、比較的自由主義的な西園寺内閣成立を期に、日本平民党・日本社会党が結成され、ともに普選連合会に加入して、この運動は一層前進するかに見えた。しかし、明治四十年(一九〇七)になり、政府は治安警察法によって日本社会党を禁止し、日刊「平民新聞」の発行をも禁止した。しかし曙会はこれに届せず、研究集会を毎週つづけ、演説会も、横浜賑町(中区)福治館で、三月三日・同十七日・五月三日・十月二十三日と回を重ね、毎回数十人から二百数十人の聴衆を集めた。曙会の活動は、翌年にもつづいた。官憲の調査には、県下の社会主義者は三十人といわれているが、田中佐市らは、引続き曙会の維持に努め、田中佐市が会長となって、東京の同志と気脈を通じ、時どき演説会を開催し、普通選挙の必要を説き、あるいは「労働問題を議せり」と報告されている。一方、国会では、明治四十四年(一九一一)第三十六回議会に、第三回目の普通選挙法案が提出され、衆議院本会議を通過したが、貴族院で拒否されて不成立に終ったばかりでなく、普選同盟会に対して、政社の届出を要求した。政社となれば、警察の取り締りの対象となり、その運動は警官の抑圧をうけることは明らかであるので、普選同盟会は、遂にいったん解散しなければならなかった。 官憲の圧迫によって、その行動を絶えず拘束された労働組合も、同じ状況にあった。とくに明治四十四年(一九一一)一月幸徳秋水ら二十四人が死刑の判決をうけた「大逆事件」以後は、その活動はほとんど封じ込められた。その状況を打開するため、明治天皇の没後の二日目の、大正元年(一九一二)八月一日、東京市三田のキリスト教教会で、日本労働総同盟の前身である友愛会が会員十五人で創立された。集まった者は、電気工・機械工七人、畳職・染物工・牛乳配達・撒水夫六人、巡査一人と法学士鈴木文治であった。このうち、巡査は監視に来たのではなく、労働者として参加したのである。イギリスのフレンドリー・ソサエテイにならい、顧問に中央大学教授・東京帝国大学講師で社会政策学会の創立者の一人桑田熊蔵と東京帝国大学講師・多額納税者・貴族院議員小河滋太郎の二人、評議員に慶応義塾大学教授堀江帰一、牧師(後に早稲田大学教授)内ヶ崎作光・子爵五島盛光ら十名の名を連ねた。これらの顧問・評議員の名は労働運動への官憲の圧迫を緩め、会の宣伝に大きな役割を果たした。会長の鈴木文治は発会式で、労働階級の向上と労働組合の結成は必然的なものであるが、世間の理解力も乏しく、官憲の圧迫も猛烈で、いますぐ組織することはむずかしいから、しばらく友誼的、共済的、研究的団体で満足しようとのべている。労資協調主義を唱え、病院・理髪店・薬局に、会員には値引きするよう特約し、法律相談所・貯金部などの共済事業を行い、機関紙を発行した。友愛会は東京の大企業労働者の会員をひろめ、創立一年後には千三百二十六人、その翌年には三千百八十四人と急成長し、各地に支部ができた。 県下には、友愛会発足の翌年の大正二年(一九一三)六月、川崎支部がまず発足した。その発会式には、会員百十余人、来賓二十余人、傍聴者五、六十人が参加して、会場を埋めた。支部幹事として東京電気川崎工場・日本蓄音器川崎工場からの会員各三人ずつが定められ、来賓の橘樹郡長・東京電気川崎工場長・京浜電車会社運輸課長・川崎町長・川崎小学校長・日本蓄音器庶務課長の祝辞演説があった。 こうして発足した友愛会川崎支部は、月一回の例会を開き、本部役員や地域有力者の講演や会員の五分間演説、余興などを行った。しかし発足後間もなく、蓄音器商会の争議に巻き込まれる。会長鈴木文治は、まず警察署長の了解を得た上で、商会総支配人ラビットと交渉し、従業員に有利な解決をした。翌年、再び蓄音器商会に争議が起こった。不況の中で生産過剰となり、マシン部職工三十七人の解雇手当の条件をめぐっての争議であった。鈴木文治は再び交渉に当たって争議を終束した。こうしたことから、会員は増えて、大正四年(一九一五)には、保土ヶ谷支部・横浜支部・横浜海員支部の三支部が成立した。この年の会員数は、川崎支部二百九十三、横浜支部五百四十四、海員支部四百三十八、翌年九月には川崎支部五百五十一、横浜支部八百四十三、海員支部千四百九十三、保土ヶ谷支部三百七十と急増し、また新たに浦賀分会・平塚分会が創立された。秋の横浜支部と海員支部との共同主催の講演会には、四千の聴衆がつめかけたといわれた。年末には横浜支部を、横浜支部・禅馬支部・入船支部・神奈川支部・山手支部に分け、これらが横浜聯合会を組織した。聯合会の事業として、職業紹介・講演会・幹部修養会・貯金及び共済・法律相談・医療割引・人事相談・消費組合・会員俱楽部・家族慰安会をかかげた。ひきつづいて、田浦支部・常盤支部・鶴見支部・千若支部が新たに設けられ、県下の労働界は、友愛会の有力な地盤となった。 こうした友愛会の急速な発展は、この会が治安警察法による官憲の弾圧を避けるため、労働者の教養向上と相互扶助を表看板とし、労資協調をとなえるため、使用者側からも歓迎され、地元有力者の積極的な後援があったためである。もちろん友愛会が、労働争議にあたって、労働者側に立ってその終束をはかったが、その際、常に労資協調的な調停に終始することが多かった。そのため労働者の意識がたかまるにつれ支部組織そのものは衰退していく。六周年大会までに、横浜聯合会を組織した入船・禅馬・田浦・常盤の各支部は姿を消し、七周年大会に代議員の出席した県下の支部は、海員支部・横浜支部・浦賀支部にすぎず、この年、京浜硝子工組合と潮田支部が新設されたけれども、八周年大会には、神奈川県選出代議員の姿は、一人も見られなくなってしまったのである。 しかし友愛会の活動は、治安警察法の下において、労働者の自助組織という形をとりながら、労働者に団結と連帯のあり方を示し、権利意識を発展させる役割を果たし、進んで友愛会自身も労働組合化をめざす段階になって、官憲や資本家の圧迫に直面し、ロシア革命の影響をうけた新しい労働運動に適応することができず、支部組織という形態は衰退に追いやられた。しかし、やがて始まった労働争議の増大とともに友愛会の組織は再生し、大正八年(一九一九)に大日本労働総同盟友愛会が成立し、大正十年(一九二一)に日本労働総同盟と名前を改めるころには、県内労働組合がそれをささえる柱の一つとなっていった。 友愛会機関誌『労働及産業』同覆刻版から 第一次大戦と成金 日露戦争後の経済不況と、戦費調達のための外債の負担にあえいでいた大正三年(一九一四)七月、第一次大戦が起こり、日本は中国における権益の拡大を目指して日英同盟を理由に、八月に連合国側の一員として、ドイツに宣戦布告し、ドイツの中国における租借地青島を攻略し、南太平洋に散在するドイツ領諸島を占領、遠く軍艦を地中海に派遣して、連合軍の輸送船の護送に当たった。開戦当初は、ヨーロッパ向けの輸出産業は滞貨の増大・価格の暴落に苦しみ、原材料をヨーロッパからの輸入にたよった産業は、輸入品の品薄と値上りで打撃をうけた。これは、これまでの不景気に拍車をかけ、大阪市の北浜銀行、名古屋市の名古屋・明治・愛知の各銀行に取り付け騒ぎがおこった。輸出品の中心をなしている生糸は、大戦勃発前の九百九十円から、一挙に二百十円に暴落し、横浜蚕糸貿易商同業組合は、夏繭秋繭買入れ資金の融通を中止し、操業の短縮を製糸業者に通告したため、養蚕農家や製糸業者を、火の消えたような状況に陥し入れた。それにつれて、開戦前石当たり十六~十八円であった米価も、十三、四円に暴落して農村不況に拍車をかけた。時の大隈内閣は、原富太郎ら横浜財界人の陳情をいれ、五百万円の政府出資金で帝国蚕糸株式会社をつくって滞貨の買い入れに当たらせ、米については帝国農会の要望によって、大正四年(一九一五)一月、米価調節令を出し、四百二十五万円で三十万石を買い上げ、輸出関係の中小工業者には、興業銀行・勧業銀行に救済融資を行わせた。 しかし大正四年の中ごろになると、形勢は一転した。この春ごろから、ロシアとイギリスに対する軍需品の輸出がふえはじめた。下半期になると、軍需品の輸出は増加の一途をたどり、加えて大戦景気で好況をむかえたアメリカに向けて生糸などの輸出が激増し、戦争で途絶えたヨーロッパ諸国の商品にかわって日本の商品が、中国はもちろんインド・東南アジア、さらにオーストラリア・南米諸国まで輸出されるようになった。まだ重工業が確立していない初期の段階では、兵器資材としての鉱産品(特に銅)と豆・米などの食料品、軍装品としてのラシャ・靴・綿布の類であったが、戦争中期になると汽船などの重工業品が加わった。日露戦争以降、入超つづきであった日本の貿易は、一挙に輸出超過に転じた。出超額は大正四年一億七千五百万円から、二年後の大正六年には五億六千七百万円に及んだ。この外、貿易外受取勘定が加わって、約二十七億円の正貨が流入し、これまで対外債務利払いに苦しんでいたわが国は、一転して外国債に応募する債権国にかわった。 こうした輸出貿易の躍進に、物価騰貴が拍車をかけて、内地産業界に刺激を与え、戦争の長期化につれて、各種の産業が勃興し、しかも政府の育成政策を背景に、膨大な利益をあげ、俗に成金とよばれる新しい企業家が続出した。 トップ成金は船舶業者 当時の成金は、戦時中に急速に発展した各分野にみられたが、とくに船舶業者は、そのトップを行くものであった。 船成金は、造船業と海運業がある。まず前者では、久しく無配当に苦しんだ浦賀船渠の大躍進がある。同所は、大正三年(一九一四)下半期の、海軍から六百六十五トンの二等駆逐艦の受注が、その引き金となった。日本海軍には当時、遠く太平洋を超えて転戦できる駆逐艦がなかったので、この時十隻を海軍工廠をはじめ、川崎造船所(二隻)・三菱長崎造船所(二隻)・大阪鉄工所(現在 日立造船所一隻)と浦賀船渠(二隻)に半年という期限で発注した。浦賀船渠は、これを無事完成したことに自信を深め、翌年には二千百トン級鋼製貨物船を竣工、さらに七千トン級の同型貨物船五隻を受注し、これに対応して造船台や機械の増設、工場の拡張を行い、浦賀分工場でも一千トン以上の船舶の建造を開始した。大正六年(一九一七)には、こうした工場の拡張にもかかわらず、応じ切れないほど新造船の注文が殺到し、この年には七隻、三万三千トンを竣工した。こうした盛況は、当然利益の急上昇をもたらし、株式配当も、大正四年(一九一五)上・下両期の七分配当から、大正六年(一九一七)上期には、六割配当を行い、八十万円の資本金を一挙に五百万円に増資して造船能力を増強した。 また船舶修理を行っていた横浜船渠も、大正六年(一九一七)造船台を新設し、造船業に加わった。しかも、同業他社が新造船に追われて修理に手が及ばなかったので、修理船が横浜船渠に殺到し、この面での利潤が大きく、株式配当も九分から三割五分に及んだ。この間、資本金は三百七十五万円から一千万円に増資したにかかわらず、この高率配当は、その利益のすさまじさを示している。 この造船ブームに乗って、新たに設立されたのが、浅野総一郎の浅野造船所と内田信也の内田造船所である。浅野総一郎は、富山県の出身で、横浜に出て竹の皮商、石炭コークスの売買業を営んだが、横浜瓦斯局の廃物のコークスを官営深川セメント工場へ売り込み、渋沢栄一の知遇を得て工場の払下げに成功し、明治三十二年(一八九九)浅野セメント会社を設立し、大正四年(一九一五)には、川崎工場を増設して、セメント業界で独占的地位を占めた。かねて回漕店をつくって海運業を経営していたが、明治二十九年(一八九六)東洋汽船会社を設立して、社長になり、北米航路・南米航路を開いたが、両航路を日本郵船に明け渡し、不定期船に専念した。彼は、船主と造船業者とは、密接にすべきであると考え、浦賀船渠の会長を兼ね、同船渠に造船を発注したが、自前の造船所を横浜港の近くに経営する計画を立て、大正五年(一九一六)横浜造船所を創立、鶴見沖に一万三千平方㍍余の埋立地を造成して、六基の造船台を建設、同年十二月社名を浅野造船所と改め、大正六年(一九一七)四隻を起工して開業した。一時は、アメリカの鋼鉄材輸出禁止に会って窮地に陥ったが、やがて六隻分、つづいて七隻分の割りあてを得て、折りからの船価高に恵まれて、活気を呈した。 内田造船所のドック 県立文化資料館蔵 鉄材入手難に苦い経験をなめた浅野は、造船所の隣接地に浅野製鉄所を建設した。 内田造船所の設立者内田信也は、船成金の代表的人物と目されている。彼は茨城県の出身で、大正三年(一九一四)神戸で内田汽船会社を設立して用船業・汽船売買業を始めたが、ちょうど大戦勃発で用船料が暴騰して巨利をあげて関東に進出、大正七年(一九一八)横浜鉄工所の経営に参加した。この鉄工所は、イギリス人が明治三十一年(一八九八)に始めた横浜機関鉄工所で、横浜市内の機械船舶工場十七のうち、首位の横浜船渠につぐ第二位の中堅工場で、もと石川島造船所の技師長進経太が買いとり、内田を資金提供者として共同経営によって事業拡張をはかり、千若町(鶴見区)に造船工場を設けて内田造船所と名を改め、内田が社長に就任したものである。内田造船所は、山下町(中区)に造機工場、千若町に造船工場、守屋町(鶴見区)に分工場をもち、職工数は三千人を超えた。その造船能力は横浜船渠を抜き、京浜地方最大の造船所と急成長を遂げ、内田汽船の収益と合わせて、その最盛期には六十割という未曽有の高配当を行った。 造船業の繁栄は、海運業の空前の隆盛による船舶の需要に支えられたものであった。海上運賃は、九州若松(鉄及び石炭の積出港)と横浜間石炭一トン当たり、大正三年(一九一四)六十三銭が、翌年には一円五十銭、その次年には三円、大正六年(一九一七)には十円九十五銭と十七倍の高騰を示し、用船料も、戦前の中型船一トン一円七十五銭が、大正四年(一九一五)には八円、翌年十四円、大正六年には二十六円という高騰を示した。日本の海運業者の保有船舶は急増し、大正五年には社外船(日本郵船・大阪商船・東洋汽船の三社以外の船舶)は三百十七隻八十三万㌧に達し、戦前第六位であった日本は、戦争終了時には、イギリス・アメリカにつぐ世界第三の海運国となっていた。内田造船所の創立者内田信也が船成金とよばれたのも、その兼営する内田汽船があればこそであった。しかし内田は、大正十年(一九二一)には、造船所を大阪鉄工所(現、日立造船)に売却して政界に転進し、昭和前期の岡田・東条内閣に鉄道大臣・農商務大臣などを歴任した。 内田と並び称せられた船成金に、山下汽船の創立者山下亀三郎がいる。彼は、愛媛県の出身で、明治三十四年(一九〇一)横浜で石炭商会をはじめたが、石炭の価格は運賃が大きな割合を占め、しかも運賃の回収が商品の代価に比べものにならないほど早いことに着目し、横浜の左右田銀行の融資を得て、外国の中古船を購入し、日露戦争には所有船舶を政府御用船に提供し、その貸舶料で、海運業者としての基礎を築き、明治四十四年(一九一一)山下汽船会社を創立した。第一次大戦には、海運ブームに乗じ、巨大な利益をあげ、内田と並ぶ船成金となった。大正六年(一九一七)には、渋沢栄一に肩代りして浦賀船渠の最大株主になって、五年間、その社長をつとめた。その後、事業の本拠を東京と神戸に移したため、横浜での活動は、その後発展しなかったが、第二次大戦中は、東条・小磯内閣の顧問となって、海上輸送の増強に努力した。 成金は、糸成金・鉄成金・株成金など、貿易関係者にも、投機的企業の中にもみられた。 内陸工業も活況を呈す 第一次大戦は、県下の内陸地方の製糸業と織物業にも、空前の活況をもたらした。成金の中の糸成金は、その活況から生まれたものである。もともと神奈川県は、貿易港である横浜をひかえ、大消費地である東京に近いところから、生糸・絹織物業は盛んであったが、大戦景気で外需・内需ともに急増した。生糸の生産は、大戦勃発の大正三年(一九一四)には、数量四万四百九十一貫匁、価格百九十万三千百九十二円であったものが、二年後には、六万六千五百八十三貫、四百七十六万七千二百六十四円、五年後の大正七年(一九一八)には八万六千百二十五貫、八百八万九千三百五十一円となった。また絹織物について、生糸と同じ年度でみれば、価格三十七万三千六百八十円、百七十五万六十三円、四百三十四万四千百九十八円と、急伸している。内陸部でも、八王子商圏下の津久井・愛甲・高座各郡では、在来の農家の副業的な座繰生産様式が優位を占め、内需向けの甲斐絹紬・太織などを生産し、橘樹郡・鎌倉郡・横浜市・足柄下郡などの臨海部では、機械生産が優位を占めて、輸出向けの羽二重、広幅絹織物を生産し、これまで世界の絹織物生産の王者であったフランスの座を奪った。 成金という言葉は、将棋で、一コマしか前進できない歩が、敵陣に入ると金に成り、四方に行動する力を持つことにたとえたものである。一獲千金の夢をいだいて成功したものであるため、経済基盤が弱く、第一次大戦が終り戦後恐慌がはじまると、たちまち没落するものが多かった。 ㈡ 重工業地帯の造成 重工業地帯出現の素因 横浜開港以来、急速な外国貿易の伸びや、横浜居留地の外国人増加につれて、輸出品や居留外国人向けの諸工業が、横浜市及びその周辺に盛んになったことは前述したが、日清戦争後は、在来産業の機械化、大資本の進出が目立ち、製造部門も多様化した。在来産業の機械化については前節に述べたが、大資本の進出については、明治三十六年(一九〇三)東京に本社を置く富士瓦斯紡績会社が保土ヶ谷に従業員二千人の大工場を建設したのを始め、明治三十九年(一九〇六)には、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の三社が合併してできた大日本麦酒が保土ヶ谷に工場を建設、翌年には外国人経営のビール会社を継承した麒麟麦酒会社が横浜に設立され、また保土ヶ谷に宝田石油会社の横浜製油所ができた。これまで広大な田畑の広がっていた川崎町にも工場の進出がはじまり、明治三十九年に横浜の貿易商による横浜製糖会社(現在の明治製糖)の設立につづいて、東京電気会社(現在の東芝)川崎製造所・日本蓄音機製造会社(現在の日本コロムビア川崎工場)がつくられた。しかし、明治四十二年(一九〇九)の神奈川県統計書にみえる県下の二百五十三の工場の大部分は、十人から三十人位の従業員をかかえた中小企業で、その業種も横浜開港以来の輸出関連業であった。横浜市及びその周辺に集中的に存在するとはいえ、高座郡・中郡・足柄上・下郡・愛甲郡・津久井郡にも、それぞれ十指にあまる工場があげられている。 ただ横浜周辺(橘樹郡・鎌倉郡を含む)が百二十余で過半数を占めることは、横浜港をひかえている地の利と、労働力の都市流入及び外国人労働力の移入による労働市場との関連も見逃せないであろう。この両者は、さらに第一次大戦中の急速な重工業化への転換の要因でもある。 海岸埋立による造成 今日、わが国の重工業地帯は、そのほとんどが海面埋立地の上に立脚している。この構想は、浅野総一郎に始まる。彼は、欧米視察の体験から、東京湾の港湾施設が貧弱であることを痛感し、東京湾を埋め立て、京浜間に大運河を開き、途中の鶴見・川崎付近の遠浅海岸を埋め立てて工業地帯を造成し、製品は工場の側面に大船を碇泊させて積み込むという構想を立て、明治四十一年(一九〇八)、鶴見川河口から川崎の田島村(川崎区)まで、延長四・五㌔㍍ 幅一・四㌔㍍ 面積約四百九十㌶の工業地帯を造成し、一万トン級の船の碇泊地と、東京と横浜へ連絡する運河をつくる計画を、神奈川県へ出願した。県では、その許可をためらったので、浅野は安田銀行の安田善次郎や第一銀行頭取渋沢栄一・横浜貿易商安部幸兵衛・大谷嘉兵衛らと鶴見埋立組合をつくって再出願し、大正二年(一九一三)許可を得た。鶴見埋立組合は鶴見埋築会社と改組、大正三年(一九一四)、田島村の大島海岸約三十三㌶の埋立地を造成し、第一次大戦の好況に乗じて大工場がつぎつぎに進出した。日本鋼管は、もと関西にあったが、原料にインドのベンガル製鉄所から安い銑鉄を輸入する道をひらいて工場を横浜付近に求め、浅野総一郎の女婿白石元治郎を社長として明治四十五年(一九一二)六月創立、川崎海岸田島村の埋立地若尾新田約四十九㌶に敷地を定めて着工、本社も横浜から若尾新田に移し、すぐに大正三年(一九一四)から生産を開始した。大戦によって鋼材や鋼管の輸入が止まって、製品が高騰したのに乗じ、創業二年にして配当を開始した。 埋立地造成以前から川崎町長の熱心な誘致政策によって大工場の進出をみた同町の臨海部にも、工場進出はつづいて、明治四十五年(一九一二)には、静岡県から富士瓦斯紡績の全面的移転、日本電線川崎工場・味の素川崎工場の建設などが相つい 日本鋼管川崎製鉄所埋立前(明治45年)と初期工場全景(大正6年)同社蔵 で、京浜重化学工業地帯の中核を形成した。鶴見地区の埋立地には浅野造船所・浅野セメント工場・旭硝子工場が相ついで建設されて、鶴見と川崎の工業地帯をさらに拡大した。 鉄道が地域開発を促進する 明治の後半期から大正・昭和二十年代の間は、内陸の運輸交通機関としては、汽車・電車によよる鉄道が全盛を極めた時代である。資本主義の発達による大工場の出現は、原料・製品の大量輸送を必要とし、各地に出現する工業地帯の周辺に居住する大量の労働者の足としても、必要であったからである。 すでに青森から広島まで開通した幹線鉄道にも輸送力増強のための改良工事が加えられた。明治四十三年(一九一〇)に開通した横浜停車場(現在の桜木町駅)から横浜税関埋立地に至る臨海線は、横浜港に集散する輸出入品の輸送線であり、日清戦争の際、軍隊輸送の時間を短縮するために軍部が敷設した神奈川-保土ヶ谷間の線路を東海道本線とし、やがて横浜駅を桜木町から現在の地点に移す(大正四年=一九一五)などして、今日の東海道線の姿となったのも、全国幹線としての輸送力増強のためである。また明治三十一年(一八九八)から新橋-横浜(桜木町)間に快速列車の運転を開始し、普通列車の所要時間五十五分を、三十分(下り)三十九分(上り)に短縮して、東京-横浜間を往来する業務旅客の便をはかった。さらに大正三年(一九一四)には、東海道線とほぼ並行した電車専用線を東京(田町)-横浜(桜木町)間に敷設し、両者の間に直通電車を走らせた。別に貨物専用路線をつくり、横浜駅と高島駅に貨物駅を開設して、激増する貨物をさばいた。 川崎町が、京浜重工業地帯の先駆となったのも、明治三十二年(一八九九)に開業した大師電気鉄道の存在が、大きな役割を果した。この鉄道は川崎大師参詣者の足として発足し、現在もその機能を果たしつつあるが、川崎臨海工業地帯形成に果たした役割は大きく、のちこの機能は、鶴見臨港鉄道、海岸電気軌道によってうけつがれた。いずれも私鉄である。 私鉄は、京浜間にも出現した。大師鉄道は、開業の年末に一割一分二厘の配当を行う好成績をあげたが、さらに線路を横浜・品川に延長する計画をたて、別に「軌道条例」・「私設鉄道条例」による電気鉄道の発起人と協議合併して京浜電気鉄道会社を設立し、明治三十八年(一九〇五)に品川-横浜間を全通した。この線は、専ら京浜間の旅客運送を目的とし、並行する国鉄東海道線よりもはるかに速く、運転回数も多かった。しかも従来の電車が路面を走るのが多かったのに対し、専用軌道を設けて、速度の向上と安全の確保をはかったので、優に国鉄をおびやかす威力を発揮した。昭和五年(一九三〇)には、湘南電気鉄道が黄金町-浦賀間、金沢八景-逗子間の営業を開始し、のちに久里浜に至るなど、県下の東京湾沿いの開発に大きな役割を果たした。 京浜電気鉄道線よりも早く三浦半島に走行を開始したのは、国鉄横須賀線である。横須賀には、海軍工廠や海軍鎮守府が置かれ、軍事上の重要地となったが、京浜との連絡はすべて海上にたよっていた。軍部の強い要請により、明治二十二年(一八八九)、東海道線大船駅から分岐して横須賀に至る路線を完成した。この線には、すでに高級別荘地として開発されていた葉山に近い逗子駅・鎌倉駅が設けられて、相模湾沿岸の開発にも貢献した。これまでは、東海道線を利用した小田原に多かった文士たちも、鎌倉に在住して創作活動するものが多くなり、鎌倉文士の俗称さえ生まれた。大正五年から同八年(一九一六-一九一九)まで鎌倉に住んだ芥川龍之介、大正末年から昭和にかけては里見弴・大佛次郎・長田秀雄・林房雄・島木健作・中山義秀・高見順・小林秀雄・久米正雄・川端康成らがいる。また東海道線開通によって多くなった江の島参詣客を運ぶために、明治三十五年(一九〇二)藤沢-片瀬間に開通した江ノ島電鉄も、明治四十三年(一九一〇)鎌倉小町まで延長し、江の島・鎌倉の観光電車としての役割を果たしている。 内陸部にも、明治末年から昭和初年にかけて、つぎつぎに鉄道が敷かれた。内陸部路線にも、産業路線と観光路線とがあり、前者は、内陸部から横浜・川崎に通ずるもので、立川-川崎を結ぶ南武線、八王子-横浜を結ぶ横浜線、海老名-横浜を結ぶ相模鉄道、茅ヶ崎-橋本(相模原市)を結ぶ国鉄 明治33年の湯本停車場 箱根登山鉄道株式会社蔵 相模線などがある。後者には、東京新宿-箱根湯本を結ぶ小田急小田原線、国府津-熱海間の熱海線がある。これらを建設順に整理すれば、明治四十一年(一九〇八)横浜鉄道、大正九年(一九二〇)熱海鉄道、大正十年(一九二一)相模鉄道、昭和元年(一九二六)東横電鉄の丸子多摩川-神奈川間、翌二年南武線、新宿-小田原間の小田原急行鉄道である。これらの各線は、もちろん一挙に全線が開通したわけではなく、部分的に開通しつつ、延長を重ねたもので、例えば南武線は、はじめ川崎-登戸間に多摩川から採取する砂利とセメント原料石灰石の輸送を目的として開設されたが、昭和十年ごろから、軍需工場の進出によって、労働者の通勤線となり、昭和十五年(一九四〇)に東京府下の五日市鉄道と合併、貨物及び旅客線として発展し、昭和十九年に国鉄となったものである。地域開発とともに発展をとげた典型的なものは、小田原急行馬車鉄道である。箱根山は、前近代では、東海道の要所として全国に知られていたが、近代になり鉄道開通とともに世人の耳目から遠ざかり、明治三十四年(一九〇一)に発表された滝廉太郎作曲の「箱根八里」で、その近より難い険路のみが喧伝された。代って箱根温泉郷が外国人の保養観光地として宣伝された。しかし鉄道東海道線は、国府津から北折したので、箱根に入るためには、国府津から人力車を利用しなければならなかった。この人力車道も箱根七湯に最初から通じたのではなく、山路は徒歩又は駕籠によらなければならず、外国人向きのチェア駕籠などが考案されて、外国人に喜ばれた。東海道線開通以前は、横浜-小田原間に定期馬車が走ったが、東海道線が開通すると国府津-湯本間に馬車鉄道が計画され、明治二十一年(一八八八)に開通した。明治二十三年(一八九〇)東京上野の内国勧業博覧会で、日本で初めて電車が運転されると、早速、馬車鉄道を電気鉄道に切り換えることとし、社名を小田原電気鉄道株式会社と改め、明治三十三年(一九〇〇)営業を開始した。電車としては、県下で二番目で、全国で四番目であった。それだけ保養観光地としての箱根開発が有望視されたのである。つづいて同社は、箱根登山鉄道を計画、幾多の曲折を経て、大正八年(一九一九)湯本-強羅間の営業を開始した。さらに大正十年(一九二一)には、下強羅-上強羅間のケーブルカーを開業、昭和三十五年(一九六〇)には、早雲山から桃源台(芦の湖湖尻)に至るロープウェイを完成し、年間百万を超える観光客の足となっている。箱根観光保養地の繁栄は、昭和二年(一九二七)の小田原急行鉄道会社の東京新宿-小田原間の小田原線の開通によって一段と促進された。同社は、昭和四年(一九二九)小田急線相模大野-片瀬江ノ島間の江ノ島線を開通し、片瀬海岸の海水浴客の誘致をはかった。乗客誘致のため、開業早々から箱根回遊の乗車クーポン券、新宿-箱根湯本-強羅間の往復割引乗車券、ケーブルカー・バス・旅館・土産物店の割引券付きクーポン券、江ノ島・丹沢・大山・多摩川周辺への季節割引券や、周遊券を発行して、沿線の観光開発につとめた。 労働争議と米騒動 わが国に未曾有の好景気をもたらした第一次世界大戦は、大正七年(一九一八)ドイツの降伏によって終わった。わが国では、好景気の反面、物価の上昇が著しく、加えて大戦を契機とする資本主義の急成長につれて、労働需要が急増したのに乗じて、労働者は、物価上昇による賃金の目減りをとり返えそうと、賃上げを要求する労働争議が、大戦末期から展開された。すでに大戦中の大正五年(一九一六)には、全国の争議件数は百八件を数えたが、翌年には一挙に三百九十八件、参加人員五万七千三百九人に及び、労働運動に新たな高まりを示した。その主力となったのは、造船業・機械製造業などの重工業の労働者であった。こうした全国的情勢の中で県下にも、大正六年(一九一七)に、平塚アームストロング会社日本火薬製造所の職工七百余人のスト、浅野造船所六千人のストとその暴動化、横浜船渠八百人のストがあったが、年間スト件数は七件にとどまった。翌年になると、浦賀船渠五千人のスト、日本鋼管七百余人のストなど件数は前年に倍して十四件となった。諸物価高騰の中でも、とくに労働者を苦しめたものは、米価の高騰で、都市労働者ばかりでなく、地方都市の住民や漁民などを苦しめ、富山県下の漁村に発した、いわゆる米騒動が、全国に波及した年でもある。県下でも市町村で、米の廉売などの対策を講じたが防ぎ切れず、八月十六日の夜、横浜公園に五、六百人の群集が集まって、米 米騒動下横浜の米価の変動 『横浜商工会議所月報』から作成 商や駐在所に投石する騒ぎが起こった。県下の米騒動は、全国的にみれば、それほどはげしくはなかったが、こうした影響は、労働界にもあらわれて、翌大正八年(一九一九)になると、横浜船渠三千人スト、内田造船所千三百余人のストなどの外に、運輸・交通業などの重工業以外のサービス産業部門や、人夫・仲仕などの労働者にも及んで、労働争議の件数は、一躍四十七件にのぼった。 最初のメーデー 大正八年(一九一九)の争議件数の飛躍的増加の原因の一つは、第一次大戦後のベルサイユ講和条約の中で、国際労働規約が定められ、ILO(国際労働機関)が設置されたことにあった。労働時間の制限や幼少労働者の使用禁止など、労働者の労働条件の改善についての国際的な機関として設立されたものがある。国際的にみて、劣悪な労働条件を強いられているわが国の労働者の関心をひくのは当然である。ところが、政府は大正八年第一回のILO総会がワシントンで開かれるとき、派遣される労働者代表を、労働組合を無視した方法で定めたので、労働団体はその代表に反対し、友愛会などの労働団体は横浜を舞台に葬式デモを行った。これがきっかけとなって、多数の労働団体=労働組合が組織された。その総数は、全国で二百以上にのぼったといわれる。県下では、欧文印刷工の横浜欧文技術工組合、新聞配達人の横浜ニュース労働団、横浜に根拠をおく海員十団体(うち六団体は翌年の結成)、大正九年(一九二〇)には、横浜仲仕同盟会・横浜造船工組合・鶴見鉄工組合等、翌年には日本海員組合等が結成されている。これら組合は結成後、直ちに賃上げ、待遇改善の争議に入って、しかもその多くは、その目的を達成した。仲仕共済会の結成に除外された乙種人夫らは、別に国家主義的政治団体である立憲労働党の援助と指導の下に横浜仲仕同盟会を結成し、その発会式を五月一日に行い、横浜公園までのデモをし、労働祭を行った。この労働祭の宣言では、労働者の解放は「万国共通の労働運動」であるとうたい、八時間労働・日曜日公休・治安警察法第十七条の撤廃を決議した。立憲労働党は、山口正憲を総理として、前年末に横浜支部を創立し、皇室敬戴・国家愛護の国家主義を綱領にかかげたもので、この政党に指導された労働団体によって、県下最初のメーデーが行われたことは、興味深い。翌五月二日、東京上野公園でも、第一回メーデーが行われた。 戦中好況の余影は、大正十年(一九二一)を過ぎると、一転して不景気状況に陥いる。とくに好況であった船舶業の不況は大きく、造船労働者が、その中で有利な条件をかちとるための反撃を行ったのが、大正十年の争議である。六月に内田造船所、九月に横浜船渠・横浜工作所・浅野造船所、十月に浦賀船渠、翌年二月に横浜船渠と、造船業の争議がつづいた。内田造船所は、船成金内田信也を社長とした急成長の造船所であっただけに、戦後の不況を最も早くうけて、閉鎖に追い込まれ、従業員全員が解雇されることになった。その解雇手当をめぐって、総同盟友愛会に加入し、会長鈴木文治の交渉によって、解雇手当の実質的増額を獲得して妥結した。これをみた横浜船渠の労働者も、横浜造船工組合を結成して、総同盟友愛会に加わり、造船工組合の幹事長などを解雇して、組合を圧迫しようとする会社側に対して、ストに入った。このストでは、横浜船渠全労働者が参加する大争議となり、争議団へのカンパは四千六百五十人に及んで、ついに会社側から給与の増給、解雇手当の倍額回答を獲得した。神奈川県下の支部を次ぎつぎと消滅していった神奈川県内の友愛会は、再び活気をとり戻した。こうした労働運動の展開とともに、大正十一年(一九二二)三月に設立された全国水平社の運動は県内にも影響を与え、翌年三月群馬県太田町で開かれた関東水平社の創立大会に参加したものもいた。運動の広がりに対応するため、神奈川県当局は、大正十三年(一九二四)に融和団体として青和会を設立した。 県民を襲う大地震 安政二年(一八五五)の安政大地震から六十八年目の大正十二年(一九二三)、関東は震度六、マグニチュード七・九の大地震に見舞われた。その震源地は、相模湾の北西部と観測され、小田原・根府川方面が最も激しかったが、横浜でもはげしい上下動につづいて水平動が重なり、最大震幅は約十二㌢㍍、周期一・五秒、人は立っていることさえ出来なかった。時刻が午前十一時五十八分で、ちょうど各家庭では昼食時であったためか、初震につづいて東京・横浜などでは火災が起こって、被害を一層拡大した。中でも悲惨なのは東京両国の陸軍被服廠跡の空地に避難した三万八千人の人々が、旋風のために火のつむじ風に襲われて焼死したことである。横浜でも、九万九千八百四十世帯のうち、その九五㌫が被害をうけ、その中で焼失世帯は六二㌫の六万二千六百八世帯に及び、その割合は東京以上であった。激震につづく出火は三百か所に及び、黒煙にまかれたり、熱気にたえかねて川に身を投じて溺死する犠牲者が各所でみられた。当時、人口四十四万余であった横浜市での罹災者は九二㌫、内死者行方不明者は五・七㌫にのぼった。 横須賀市でも、全戸数一万一千八百戸の八三㌫が倒壊・半壊で四千戸が焼失し、浦賀町では、ほとんど全町が全滅状態となり、鎌倉・腰越の各町村も同様で、鎌倉では、建長寺・円覚寺などの倒壊に加え、海岸には十㍍に及ぶ津波がおしよせて多くの被害を生じた。京浜工業地帯の中心川崎町(現川崎市)、鶴見町(現横浜市鶴見区)などの七〇㌫が倒壊し、富士瓦斯紡績工場・明治製糖・東京電気をはじめとする諸工場も、軒並み甚大な被害を受けた。 震源地に近い県西方面では、倒壊・半壊の被害を主として、足柄上郡九八・五㌫、足柄下郡九九・二㌫、高座郡九一・二㌫、中郡八七・五㌫に及んだ。こうした被害を、県下全域にまとめると、当時、二十七万四千三百世帯のうち、被害世帯は八六・五㌫の二十三万七千三百三十八、人口百三十七万八千人のうち、死者二万九千六百十四人、行方不明二千二百四十五人と報告された。 こうした人身被害ばかりでなく、丘陵地帯の多い県下では、大小さまざまな崖崩れ、道路の破損が至るところに起こって、交通通信は途絶え、人身の被害と人心の不安を増幅した。中でも、人 関東大震災下の横浜市街 県立文化資料館蔵 心不安をかきたてる全く根拠のない流言が混乱を深めた。地震の起こった九月一日の夕方から夜にかけて、東京・横浜・川崎の一部で、社会主義者・朝鮮人の襲来、一時釈放された囚人の襲来などの流言がひろがり、官憲も各町村に朝鮮人来襲の警戒をよびかけた。二日から三日にかけて流言は全県下に広がり、自警団が活動をはじめた。自警団員などによる数多くの朝鮮人虐殺事件が横浜を中心として川崎・鶴見・戸塚・茅ケ崎・小田原などでおこった。 政府は、こうした社会の混乱をしずめるため、九月二日東京市と隣接五郡に、三日神奈川県に、四日埼玉・千葉県下に、戒厳令を発令した。県下は、神奈川方面地区・横須賀地区・藤沢方面地区・小田原方面地区の四地区に分け、治安維持と、地方官憲と協力して罹災民の救済保護に当たり、ようやく国をあげての復旧活動がはじまった。 この大地震で被害をうけたのは、東京・神奈川を中心に一府六県に及び、その世帯数約七十万戸のうち、全壊・半壊約十七万五千戸、死者・行方不明者約十万人、罹災者約三百四十万人という、災害史上最大のものであった。 三 太平洋戦争への道 ㈠ 中国侵略の拡大 昭和恐慌の旋風 第一次大戦後、しばらくはつゞいた景気も、交戦各国の産業が復旧するにつれて、わが国の輸出は急速に減少するばかりでなく、これまで国内で生産していた品物の輸入さえも始まり、わが国は、再び輸入超過国に転落した。加えて関東大震災は、わが国の工業地帯を直撃したため、経済界への打撃は致命的となった。 すでに県下の農村地帯では、戦後の反動不況によって、経営難のために銀行合併劇が進行していた。大震災の年の五月、足柄上郡の松田銀行は、酒田銀行(足柄上郡酒田村)と桜井共益銀行(同郡桜井村)を、十二月には共洽銀行(同郡南足柄村)、翌年には鞠子銀行(同郡谷ヶ村)を合併したが、担保の土地建物の評価損と不良債権を支え切れず、昭和二年(一九二七)に、隣県から県下に進出をねらう駿河銀行との合併に追い込まれた。駿河銀行の県下進出は早くからみられ、明治末すでに厚木と藤沢に支店を設けて大正六年(一九一七)には吉浜銀行を買収、翌年には、鎌倉の日本実業銀行を買収している。 震災後ではあるが、同様な原因による銀行合併に小田原実業銀行がある。この銀行は、足柄下郡を基盤とする小田原銀行・小田原通商銀行・曽我銀行・国府津銀行が合同したものであったが、合同しても不良資産の切り捨てが行えず、休業のまま昭和二年、川崎銀行の援助によって明和銀行として整理された。 こうした銀行界の危機は、京浜地帯を中心とした大震災の災害地の企業を救済するためにとられた手形の再割引き、震災手形の焦げつきで、決定的となった。 たまたま、昭和二年の国会で、震災手形の救済について審議中の片岡大蔵大臣の失言から、銀行の危機が暴露され、全国的な銀行取付けがはじまった。「昭和恐慌」とよばれる金融恐慌である。県下の名門銀行として知られた左右田銀行は、預金総額の二倍の貸出しをしており、再起不能となって、横浜興信銀行に合併し、翌年には、第二銀行 左右田銀行本店 『横浜商工会議所月報』から ・横浜貿易銀行・戸塚銀行なども、横浜興信銀行に吸収される破目となった。政府は「銀行法」を制定し、小銀行の整理を促進した。県下では、横浜興信銀行の合併をはじめ、足柄農商銀行の川村銀行との合併、興信銀行の廃業(弘益商事を改称)、鎌倉銀行と相模実業銀行の合併、玉川銀行の解散、七十四銀行と横浜貯蓄銀行の合併などが、相ついで行われた。昭和二年から昭和五年の間に、約十行がその姿を消して行った。それでもなお県下の普通銀行は二十一行も数え、中には弱体なものも残っていたので、合同の波は止まず、やがて、一県一行主義へと向かう。こうした恐慌は、中小銀行の閉鎖と強力銀行の膨張という形で進行した。中小銀行の主なる預金者、融資先の中小零細企業者が、苦境に追い込まれるのは避けられない。大企業は大幅な操業短縮を行い、絹糸・人絹・洋紙・セメント・石炭業界などは、カルテルを結成し、あるいは既成のカルテルを強化して、生産制限による価格の維持に狂奔した。中小企業は大企業に吸収され、不況の拡大につれて大企業の独占資本体制が確立されて行った。その上、大震災後は、一挙に納税が停滞して、市町村自体に活動資金がなく、震災地の救済復興は、すべて政府主導の下に行われ、それが経済復興につながり、国家に全面的に依存したため、国家による統制経済の道をひらいた。 全世界を不況のドン底におとし入れたいわゆる「昭和の大恐慌」といわれる恐慌は、昭和四年(一九二九)十月二十四日、アメリカのニューヨークに始まったが、わが国は大震災によって、すでに恐慌を先取りしていたのである。 工業地帯の再編成 大震災は、開港以来六十年にわたって築き上げた横浜の繁栄を、一日で瓦礫と化した。焼け出された人々は、鶴見・川崎・保土ヶ谷へと、被害が比較的軽かった近郊へ流出し、横浜周辺の人口分布を一変させた。京浜工業地帯を構成していた諸工場は、大損害をうけながらも、横浜船渠・浅野造船所・浦賀船渠など特殊な設備を必要とする造船所などは、現地復興を目指した。また、川崎に造成された地帯に移転再興する諸工場も多くあって、京浜工業地帯の構成をかえた。もとから川崎にあった日本鋼管・東京電気・浅野セメントなどの現地復興の外、東京芝浦製作所のように、本社、工場を鶴見に移転したものもある。東京電気は、電球・体温計・照明器具のほか、家庭電気製品を広い分野にわたって製造し、芝浦製作所は、重電機を中心に電気器具を製作した。また古河電気工業のように、第一次大戦後の電力事業の拡大をみて、銅の加工と関係の深い電気機械器具製造への進出を企図し、ドイツのジーメンス社と提携して富士電機製造会社を創立し、大正十四年(一九二五)川崎に敷地四万八千坪の工場をつくって操業を開始した新しい工場もある。同じ古河財閥系で、横浜平沼町(西区)に工場をもった横浜電線製造会社は、アメリカのグッドリッチ社と提携し、横浜護謨製造会社を設立し、ベルト・タイヤ類の生産を開始していたが、震災で工場が全焼したので、鶴見の埋立地に、ベルト・ホース工場やタイヤ工場を新築した。 また新たな工業として、自動車工業も始まった。自動車は、震災復興の過程でその実用性がみとめられて急速に普及しはじめたのに着目して、大正十四年(一九二五)にアメリカのフォード社が、横浜市緑町(西区)の横浜船渠所有の倉庫を借りて日本フォード社を設立し、子安埋立地に新工場を建設して移転した。つづいて昭和二年(一九二七)ゼネラル=モータースが、大阪に組立て工場を建設して、乗用車シボレーを生産し、この両社が日本の自動車市場を独占していたが、政府は、自動車の国産化をはかり、先発自動車会社の合併と奨励で、昭和八年(一九三三)に石川島自動車製作所とダット自動車が合併し、自動車工業株式会社が設立され、その後も合併が進められた。商工省指定の標準式乗用車製造のため、翌昭和九年(一九三四)鶴見に大工場を建設し、月島工場もここに移転して、今日のいすゞ自動車となった。 昭和三年(一九二八)鮎川義介を社長として設立した日本産業会社は、小型自動車ダツトサンの製造権を自動車工業から譲渡されていた戸畑鋳物と共同で、昭和八年(一九三三)横浜に自動車製造会社を設立、本工場を新子安海岸の埋立地に最新設備の工場群を建設し、フォードやシボレー自動車の部品と、ダット フォード自動車の広告 『横浜貿易新報』から サン自動車年産五千台を目指し、翌年社名を日産自動車と改めた。昭和十一年(一九三六)自動車の大量国産化を目指した自動車製造事業法が公布されると、豊田自動織機製作所(トヨタ自動車の前身)と日産自動車が、同法の指定会社となって、今日、世界を席巻する日本自動車産業の基礎をつくった。 こうして、貿易関連産業で芽を出した京浜工業地帯は、大震災後の復興期を境として、貿易関連の軽工業は消えて、鶴見・川崎を重点として、浅野造船所・日本鋼管等の既存のわが国の代表的企業群に加えて、横浜・東京市内からの工場移転、さらには新しい産業である自動車工業の進出があり、ビール醸造・製粉・化学調味料・製菓などの食品工業が鶴見・川崎地区に集中して、新しい分野の諸産業をほぼ漏れなくそろえ、日本重化学工業の発達を示す縮図となった。 再建労組は拡大し争議がふえる 大震災のため工場は壊滅し、労働者は解雇され大量の失業者を生み、労働組合は活動を停止した。ようやく翌年になって関東鉄工組合横浜第一支部・横浜屋外労働組合・富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場の青年研究会の三団体が合同した横浜合同労働組合が組織され、総同盟に加入した。友愛会の発展した総同盟内部では、このころ左派右派の対立がはげしくなっていた。横浜合同労組は左派に属し、大正十四年(一九二五)には、左派組合全部が総同盟から除名され、日本労働評議会を結成した。県下の労組は、ほとんど評議会に加盟し、県下の総同盟組合は、関東醸造労働横浜支部のみとなった。 また大正十四年(一九二五)富士瓦斯紡績川崎工場で、労働者七十余名が、関東紡績労組川崎支部を結成したのを嫌った会社側は、組合幹部十数名を解雇した。組合側は、寄宿女工の取扱いの改善・被解雇者の全員復職・食堂改善・労働組合加入の自由の四項目を要求して、ストに入った。総同盟関東同盟会は、総力を投入してこれを支援し、支援に来た評議会組合員とも衝突抗争をくり返した。県知事の調停で、解雇撒回は実現しなかったが、他の要求は全面的実現をもって妥結した。 富士紡争議の勝利は、川崎・鶴見地区を中心に総同盟組織を急速に回復させた。ライジングサン石油・日本石油を中心にした神奈川石油労組が、日本鋼管を中心とした神奈川鉄工組合、浅野セメントにセメント労組が組織され、大正十五年三月総同盟神奈川聯合会が発足した。参加組合の代議員数は、神奈川鉄工組合五十二、同石油労働組合二十三、関東合同労働組合川崎支部十六、東京製鋼労働組合十二、セメント労働組合二十二、東京電気従業員組合十二、関東醸造労働組合京浜支部六、関東紡織労働組合川崎支部三十四で、組織人員七千五百人と公表された。一方、評議会も、新たな組織をつぎつぎとつくった。味の素川崎工場を中心に東京合同労組川崎支部・関東鉄工組合川崎支部・関東金属労組川崎支部・相模紡績と関東紡績の平塚工場を組織した湘南合同労働組合、小田原電鉄を中心にした小田原合同労働組合などを結成して、県下各地にひろがった。 さらに、第一次大戦後に組織された国際労働機関であるILO総会への労働者代表選出権を、政府は、千名以上の工場で、千名以上の会員をもつ労働団体を基礎とすると定めたため、これまで共済的活動を主としていた横須賀海軍工廠の工友会、横浜船渠の工信会、浦賀船渠の工愛会でつくった武相労働聯盟や横浜市電の共和会などは、その会則に「労働条件の維持改善に関する事」を加えて、労組への転換を明確にした。 こうして昭和四、五年ごろまでには、県下の労組は、友愛会・評議会等の連合同盟をつくり、労働活動を相互に支援強化する体制を確立し、進んで普通選挙法にみとめられた投票権を行使して、無産政党の基盤にもなり、労働争議も以前にみられない強力なものとなることができた。全国労働争議は昭和四年(一九二九)に、五百七十六件にも上ったが、翌年には倍増して九百八件におよび、労働運動史にのこるような大争議がいくつも見られた。県下でも、昭和四年の横浜市電の大争議、昭和五年に横浜船渠・富士瓦斯紡績川崎工場、六年にはゼネラル=モータース・芝浦製作所・日本鋼管などの争議がその名をとどめた。とくに、昭和五年の富士瓦斯紡績川崎工場の争議では、高さ約四十メートルほどのエントツに上った争議団側の男が赤旗をふるという事件がおこり、「エン 富士瓦斯紡績川崎工場の女子労働者 川崎市立中原図書館蔵『富士瓦斯紡績川崎工場写真帖』から トツ男」として話題をよんだ。 消されるデモクラシー 不況により、労働者以上に苦しめられたのは、農村の人々である。農産物価格の低落は著しく、凶作さえ加わって、とくに東日本の農村では、前近代的な、娘を身売りに出さねばならぬ窮境におちいるものも珍しくなく、町村役場はその防止に努めなければならなかった。徴兵制度によって、農村から召集された兵士から、こうした窮境を聞き、さらに新聞報道で実情を知った一部青年将校は、軍部内の派閥闘争や民間右翼ともからんで国家改造と称し、昭和維新を叫んだ。彼らは、農村の窮乏の原因は、政治家・財閥にありとして、政府・財界の要人をテロによって次々に倒し、ついに昭和六年(一九三一)九月、中国の東北地区(当時、満州と呼んだ)の占領を目ざした満州事変をおこし、中国侵略の口火を切った。侵略開始とともに、京浜工業地帯の各工場は軍需工場に切りかえられて、大きな利益をあげることになったが、反面工業の好況はインフレを助長し、軍需と関係ない農村の窮乏をいよいよ深め、昭和九年(一九三四)には八十九件にのぼる小作争議が起こった。国家改造を叫ぶ青年将校らのテロは、昭和十一年(一九三六)二月二十六日のいわゆる二・二六事件で頂点に達した。事件は県下にも及んで、湯河原の伊藤屋旅館別館光風荘に静養中の牧野伸顕が叛乱部隊に襲撃され、危うく脱出して難を逃れたが、テロの主舞台の東京では首相岡田啓介・内大臣斎藤実・教育総監渡辺錠太郎・侍従長鈴木貫太郎、大蔵大臣高橋是清が襲撃され、あるいは殺され、あるいは奇蹟的に難を免れた。襲撃に参加したのは陸軍将校二十二名、下士官・兵約千四百名で、やがて彼らは、叛乱軍として討伐せよとの勅命によって、鎮圧されたが、この事件で軍部の発言力は絶対的なものとなった。明治・大正・昭和と営々と努力を重ねてようやく実現した政党政治も、民主政治も形骸化し、警察と官僚は、軍部の手先となって暴威を振った。大正デモクラシーは、一場の夢と化したのである。 とくに、警察は明治末期の労働運動のたかまる中で、治安警察法を制定して民衆運動に干渉し、普通選挙法の成立に対しては、治安維持法を制定して、左翼運動の弾圧に乗り出していたが、ここに至ってますます暴威を振い、なかでも神奈川県警は左翼的人物を国賊と呼び、「国賊ハ殺シテモ五十円デ済ムノダ、心臓摩痺デ片付ケテヤル」と揚言し、そのさまは「専制政治ノ旧幕時代同様」といわれた。その実況は、昭和十七年(一九四二)の横浜事件に最も凝縮してあらわれた。この事件は、当時進歩的雑誌とされていた雑誌「改造」の、細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」を、共産主義宣伝であるとして細川を検挙し、別件事件の関係者の押収品中に、細川嘉六の郷里で、「改造」と「中央公論」の編集者らを招いた会合の写真があったことから、共産党再建の謀議であるとして、「改造」・「中央公論」の編集者ら七人を検挙し、さらに、中央公論社・改造社・日本評論社・岩波書店などの関係者三十余名を検挙投獄し、治安維持法で起訴し、「中央公論」・「改造」に廃刊を命じた。取り調べの拷問のため三人の死者を出したが、裁判は敗戦まで行われなかった事件である。 無謀な太平洋戦争 昭和十二年(一九三七)七月七日、中国の蘆溝橋で侵略を開始した軍部は、やがて中国との全面戦争に突入した。昭和十五年(一九四〇)陸軍は、中国に対する欧米諸国の援助を絶つための北部仏印(現ベトナム民主共和国)に進駐し、翌年には南部仏印進駐を強行した。米国は日本の果てしない南進を牽制するため、屑鉄の対日輸出の禁止、日本の在米資産の凍結、石油輸出の全面的停止を行った。屑鉄は製鉄業に不可欠な材料であり、石油は陸海軍の軍事行動の直接必要物資であり、ともに米国に全面的に依存していたので、わが国の軍事行動に致命的な打撃となった。 時の首相近衛文麿は外交交渉によって局面の打開を試みたが、軍部の猛反対にあって内閣を投げ出した。軍部は独走し、遂に昭和十六年十二月八日、アメリカ・ハワイにアメリカ太平洋艦隊を奇襲して、太平洋戦争を開始した。緒戦は優勢にみえ、ほぼ東太平洋圏を占領下に入れたが、物量に大差のあるアメリカ軍の反撃を支え切れず、早くも昭和十七年(一九四二)四月十八日には、航空母艦から発進した爆撃機の洗礼をうけることとなった。この時B25十三機が京浜地区を空襲し、横浜市に来襲した一機は焼夷弾投下と機銃掃射を行い、川崎に来襲した三機は、大師地区と臨海工業地帯に爆弾と焼夷弾を投下して死者三十四名、負傷者九十名を出した。横須賀市に来襲した一機は、爆弾三発を海軍工廠に投下して、損害を与えた。つづいてアメリカ軍はサイパン・テニアンを奪回して飛行場を整備し、本土空襲を本格化し、昭和十九年十一月二十四日にはB29百十一機が、中島飛行機武蔵野工場を爆撃、翌年二月十六、十七両日、米艦載機数百機が横浜・川崎上空に飛来して銃爆撃を加えて市民をふるえあがらせた。 市街地に対する銃撃では効果は少ないとみたアメリカ空軍は、焼夷弾の絨毯爆撃に戦術をかえ、三月十日の東京空襲には、約三百機のB29を出撃させ、千六百六十五トンの焼夷弾を投下、東京の下町八二㌫を焼き死者十万名に及んだ。これに対し日ごろ豪語していた日本陸海軍機は、なす術もなかった。四月四日には、横浜の臨海工業地域が爆撃され、死者二百十四名、負傷者二百十一名を出したが、十五日には川崎・鶴見が焼き払われた。五月二十九日には、昼間B29五百十七機が高々度の焼夷弾絨毯爆撃を行って、市街地をほとんど焼き尽した。わずか一時間余りの間に、大型焼夷弾二万二千二百二十四個、小型焼夷弾四十一万五千九百六十八個が投下され、罹災七万五千戸、罹災者三十一万名、死者四千名、負傷者一万名といわれた。七月十六日には平塚市がB29百十七機の絨毯爆撃をうけ、茅ケ崎町・小田原市も襲われ、月の後半には川崎・鶴見の精油所が空襲された。七月と八月には連日、P51などの艦載機が県下の郡部まで襲った。P51の放つロケット弾の破壊力に、県民は恐怖におののいた。 日本政府は、八月十三日、降伏を申し入れたが、十五日未明、小田原市が絨毯爆撃をうけて敗戦となった。 戦後の県警察部の調査では、昭和十九年(一九四四)十一月二十四日から昭和二十年八月十五日までの約八か月間に、五十二回の空襲をうけ、死者六千三百十九名、重軽傷者一万七千百二十九名、罹災者六十四万五百九十一名、全焼全壊十四万四千八百八十六戸、半焼半壊は千八百九十戸であった。またアメリカ戦略爆撃団報告書は、航空戦争の期間十か月間に、四千二百三十機が、東京・川崎・横浜の地域に二万二千八百八十五トンの爆弾を投下したが、その七一㌫が焼夷弾であり、七九㌫は市街地の爆撃に投下したと報告している。 関東大震災で壊滅的打撃を受けた後、営々と復興して、大震災前以上の繁栄をきずいた東京・川崎・横浜は、再び瓦礫と化した。 現代 一 更生日本と神奈川県 ㈠ 占領下の県勢 占領軍横浜に入る 昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本は敗戦をむかえた。日本国民は、長い間の物心両面にわたる息がつまるような戦時生活から解放された。空襲を警戒して点灯すら自由でなかったのも早速解除された。闇を照らす点灯がゆるされたことが、まず国民に解放と安堵感を与えた。 八月二十八日、アメリカ先遣部隊百五十名が厚木飛行場に到着、ついで三十日、連合国軍総司令官マッカーサー元帥とその幕僚が、沖縄から同飛行場に到着し、直ちに横浜に入ってホテル・ニューグランドを宿舎とし、税関ビルを総司令部(GHQ)とし、ここを舞台に日本の占領統治を開始した。一方、横須賀にも八月三十日からアメリカ海兵隊の上陸が始まった。敗戦時、米軍上陸に備えて県下に配置されていた日本の陸海兵十三万は、彼らの進駐以前にいち早く解散して、銃砲一発の抵抗もなかった。九月二日、横浜沖に停泊したアメリカ軍艦ミズリー号上で、降伏文書の調印が行われた。九月十七日、連合国軍総司令部は、東京の第一生命ビルに移るが、それまでのおよそ二週間の間に、以後六年八か月に及ぶ日本の統治方式の枠組が決定され、日本の国政運営に決定的な影響を与えることとなった。神奈川県にとっても、連合国軍の進駐が県下に最初に行われ、総司令部が東京に移っても、占領部隊を指揮する第八軍司令部は横浜にとどまったこと、横浜港が占領軍の補給物資の揚陸地であったことなどから、神奈川県の県政及び県民生活は、他県と異った影響をうけることになった。 米軍基地化する県域 占領軍は日ごとに増え、県内各地に進駐をはじめると、至るところで、空襲に焼けのこった土地建物を接収し、県民の生活を圧迫した。とくに横浜市では、わずかに焼けのこった主要建物はいうまでもなく、公園・小学校・児童遊園地までも接収され、接収面積は市街地面積の二七㌫、建物は二十八万七千余坪に及んだ。ホテル・ニューグランドは将軍宿舎に、山下公園は将校の家族住宅地に、開港記念会館・毎日新聞社横浜支局・日本郵船ビル・野沢屋・松屋等すべて接収され、松屋はステ 米軍横須賀基地のゲート正面 ーション・ホスピタルに、野沢屋はH・Qに、オデヲン座はオクタゴン、元寿屋はP・X等となり、繁華街の伊勢佐木町は完全にアメリカ一色となった。 とりわけ横浜の痛手は、横浜港のほとんど全施設が接収されたことである、その上、横浜貿易を担った貿易商社の密集した中区の関内が接収され、横浜に本社をおいた有力商社が、東京に移転するなどあって、神奈川県の経済活動に大きな影響を与えた。 横須賀市は、旧海軍横須賀鎮守府にアメリカ極東海軍司令部が置かれ、軍港一帯をアメリカ海軍が使用することになり、旧武山海兵団はキャンプ・マギルに、辻堂演習場はアメリカ軍演習場に、厚木飛行場はアメリカ空軍基地に、座間の旧陸軍士官学校や相模原の旧造兵廠もアメリカ軍の使用するところとなった。後に基地反対闘争が展開することになる。 こうして県下の軍施設は、そのままアメリカ軍の軍施設とされたが、箱根の富士屋ホテル・強羅ホテル、逗子のなぎさホテル、仙石原のゴルフクラブなども接収され、鎌倉・平塚・逗子の海岸は連合国軍兵士の休養娯楽地に指定され、日本人の立入りが禁止された。講和後の日米行政協定で決定した昭和二十七年(一九五二)段階でも、こうした土地は三千七百三十六万九百一平方㍍、建物は二百十三万四千九百平方㍍に及んだ。 民主化への脱皮 連合国軍総司令部はGeneral Headquarters of the Supreme Commander for the AlliedForce(略称G・H・Q)を正式の名称とし、日本政府を通じて間接統治の方式をとり、ポツダム宣言を忠実に実施するため、次々と指令を発した。ポツダム宣言は、一九四五年五月七日ドイツの無条件降服の直後、七月二十六日、ベルリン郊外のポツダムでアメリカ・イギリス・ソビエトの首脳が集まり、日本に対する戦争終結の条件を決定したのち、中国が加わって宣言されたもので、日本の軍国主義者・戦争指導勢力の除去、日本の軍事占領、日本の主権を本州・北海道・四国・九州及び連合国が決定する諸島に限定、戦争犯罪人の処罰、日本民主化に対する障害の除去、実物賠償の取り立て、軍需産業の禁止などをあげ、これらの目的が達せれば、占領軍は撤退することを宣言したものである。この宣言に基づいてマッカーサーは、九月二日の降伏文書調印と同時に、軍需生産の全面停止を指令、九月十一日東条英機らA級戦犯者の逮捕、十月四日治安維持法・治安警察法など政治的自由の制限に関する制限の除去、特高警察の全廃、十月十一日婦人参政権による日本女性の解放、労働組合の結成奨励、学校教育の自由化、枢密顧問ならびに民権を制限する制度の撤廃、経済諸機関の民主化(五大改革指令とよばれる)、十一月六日財閥解体、二十一年一月四日軍国主義者・超国家主義者の公職追放と、矢継ぎ早やに、日本の軍国主義の払拭と民主化の実行を指令した。これらの指令により横浜事件で投獄されていた人々も自由の身となり、彼らに非人間的拷問を加えた県下特高課員全員は追放され、戦時中に町や村で戦争協力の指導者であった人々は、一掃された。 横浜の地方裁判所には「B・C級戦犯」と称するアメリカ軍捕虜に暴虐行為があったとする旧軍人らに対する軍事裁判が開かれ、三百三十七件、九百八十二人が判決をうけた。 また一方、農地改革によって、敗戦時には、四万九千九百八十六町歩の農地のうち、その四八㌫が小作地であったのが、改革実施後の昭和二十五年(一九五〇)には、農地面積は六万二百七十四町歩に増え、小作地は一一・九㌫に減じた。この小作地も、以前のような不在地主や在村大地主の姿は消え、全農家の四六㌫が自作農となった。このうち五二㌫は従来からの自作農、四二㌫の一万五百三十二戸が、新たに創出されたものである。ただ約三二㌫の八千四百九十三戸が、依然として小作農として残された。これは小作地が二反歩以下で、専業農家として成立することが出来ないとして、農地の売り渡しの恩恵をうけられなかった人々である。この種の農家は、工業地帯や、敗戦後入植した新農家に多く、本県における農地改革の一つの特色とされている。しかしこの農地改革は、農村の生産意欲を高め、農業生産と耕地の拡大をもたらした。 再生する政党と労組 戦時中、挙国一致の名の下に、自ら解党して大政翼賛会に参加して自らその姿を消した旧政党、あるいはそれのみしか認められなかった産業報国会にその姿を消した労組は、マッカーサーの五大改革指令の下に、その復活、再編、無産政党の結成が相ついだ。旧政党は、民主国家にふさわしいその名をかえて、日本自由党・日本進歩党・国民協同党などと名乗って復活し、旧無産党系は合同して日本社会党と名乗り、敗戦までは官憲によって非合法化されていた日本共産党が活動を再開した。 労組の復活は、横浜や川崎を先頭に、県下の各地域で活発に行われた。戦前県下の労働運動に影響力をもった旧総同盟系の人びとが、あちこちの地域・工場で組合結成に活躍し、敗戦の年末までには、県内で五十三の組合と、五万七千四百九十六人が組織されて、戦前の最高レベルを突破し、翌年三月には、組合数百九十五、組合会員八万五千二百五十四人に達した。 こうした情勢の中で、昭和二十年十月、日本鋼管鶴見造船所内で、県下で戦後最初の労働争議が起こった。これは会社側の大量の人員整理が原因である。労働者は、すでに発足していた鶴見の「統一金属組織委員会」の支援をうけて解雇者の復職・組合公認・戦争責任者幹部の追放等をかかげて会社と団体交渉を行い、要求の大部分を実現した。この直後から鶴見・川崎の工場に労働者側からの要求による争議が続発した。とくに翌年一月に発生した「第一次東芝争議」は、全国で初めて地域労働者の共同闘争として進められ、賃金の五倍化、労働者の経営参加のための経営協議会の設置などを獲得した。同じ時に日本鋼管鶴見製鉄所では、組合の承認・待遇改善の争議が行われ、労働者が生産管理を行った。これに対し政府は、それは違法であると声明したが、生産管理は、二月から五月にかけて、県内大小の工場にひろがった。 この年五月一日、戦後最初のメーデーには、川崎・鶴見地区、横浜地区、横須賀、戸塚、茅ヶ崎、平塚、小田原、秦野、厚木の地区で集会とデモが行われ、県下で総計十万人をこえる人々が参加した。 二 不死鳥神奈川県の再生 ㈠ 成功する高度経済成長 戦時耐乏と戦後窮乏 昭和十二年(一九三七)七月、中国との全面戦争が始まり、戦争の短期終結の見込みが失われると軍部は、国内の物的人的資源を、戦力に集中するために、昭和十三年国家総動員法を制定し、施行した。政府は、金(カネ)と物(モノ)の両面を通じて経済を統制し、軍需産業は、資金と資材の重点的配分を受けて拡大したが、国民の生活用品を生産する平和産業の繊維産業は、当初は外貨獲得産業として保護されたが、太平洋戦争期に入ると、労働力・資金・原料の欠乏、そして政府の転換政策によって廃業や転業に追い込まれた。綿紡・絹紡・羊毛・織布・染色・食品・皮革などの中小工業は、軍需産業の下請け工場に転じ、機械などの設備の多くはスクラップ化された。このため、当然繊維品などの国民生活必需品の生産は、日を追って減退していった。 また、軍需産業の増強と兵役のため、農村からは青年が根こそぎ召集されて、農業生産力も著しく低下し、産米も急速に減退した。平年作六万㌧であった神奈川県下の産米は、ぐんぐんと下がって戦時中は五万一千㌧前後となった。こうした情勢に対して政府は、太平洋戦争開始直後に物資統制令などを制定し、米をはじめ塩その他各種の食糧品・衣料品に対して切符制・通帳制・登録制による配給制を実施した。米は通帳制により一日二合三勺(約二百㌘)、衣料用繊維製品は都市部一人年間百点、農村部八十点の点数表による衣料切符制とした。 この外砂糖・マッチ・酒・味噌・魚等に至るまで配給制となり、靴・地下足袋・作業服は労働者、牛乳は乳幼児・病人・妊産婦等に限って証明書のある者に限定された。 その実施は、各自治体によって多少の遅速はあったが、本県では昭和十五年(一九四〇)六月の砂糖の切符制に始まり、翌年四月には米、つづいて小麦粉・食糧油・酒と、次第にその品目をひろげた。国民は「欲シガリマセン、勝ツマデハ」のスローガンの下に耐乏生活を強いられた。しかし、国民の厭戦気分を抑えるため、政府は極力物資の調達につとめ、時には遅配もあったが、耐乏生活は深刻になりながらも、配給は続けられ、飢餓状況は免れていた。 衣料切符とみそ購入帳 県立文化資料館蔵 一方「満州事変」以来日中戦争・太平洋戦争を通じ、軍事費を中心とした国家支出と、これをまかなうための国債は年を追って増大し、インフレーションも次第に進んだが、政府の強権によって爆発的状況だけは辛うじておさえられていた。 しかしながら、敗戦と同時に、軍需品の代価や軍人退職金の集中的で多額の支払いなどもあって、インフレが一度に爆発するとともに、国の配給計画は崩れ、米の供出制度や輸送配給制度も弛緩し、海外からの多数の復員者・引揚者をも迎え、国民は飢餓状態に陥った。本県でも敗戦直後から、県内の供出米計画の三割しか実現出来ず、翌年には六月以降の需給計画がたたず、川崎や横浜では、餓死者があらわれるほどであった。県や市町村当局は、政府や占領軍に食糧放出を懇請、稲作地帯の北陸や東北に懇請使を派遣するなどの対策につとめたが、事態の好転は困難であった。人々は自衛策として、空地の隙間なき菜園化、広大な旧軍用地の開墾、戦前からの持ち越した衣類などと食糧との物々交換(これをタケノコ生活といった)、逗子の生活協同組合や鶴見製鉄所労組などは海辺を利用して塩をつくっての交換など、いろいろ対策を講じた。 しかし、そうした手段をもたない人々は、労働者とともに、行政当局に対して、「米よこせ」大会を開いて行動した。戦時中に集積された軍隊用の尨大な物資が、民間に放出されずに隠匿されたとして、その摘発と分配を求めた。工業都市の多い本県では、この「米よこせ」運動は、とくに多発した。まず一月三日に、久里浜で、おおくの参加者を集めての隠匿物資の摘発と分配を要求した横須賀久里浜町民大会を皮切りに、主なものだけでも横須賀市汐入国民学校で、一千人を集めて食糧の市民管理を要求する食糧対策横須賀市民大会、二月に入って県庁議事堂に十二団体が集まって、食糧増産・供出促進・県民代表による食糧管理・自主配給の確立を要求した食糧難克服県民協議会大会、国鉄労組国府津支部など湘南労組十四団体が、小田原で開いた食糧生活必需物資の人民管理共同戦線集会、四月には保土ヶ谷・二俣川の町民食糧デモ、五月には、横浜市磯子国民学校に一千人を集めて磯子区食糧危機突破町民大会、横浜市西区二十八町会が、市役所に食糧配給への住民参加を要求した食糧協議会、欠配の即時配給を市長に要求した鎌倉餓死突破大会、川崎地区労組五千六百人が遅配米配給・食糧人民管理・隠匿物資摘発などを要求した川崎労働者大会、五千人を本町国民学校に集めた飢餓突破小田原市民大会、東芝等十九の労組二千五百人が鶴見の総持寺に開いた食糧危機突破鶴見区民大会など、数百人、数千人を集めた食糧危機突破大会が各地でくりひろげられ、食糧 食糧難のなかでみかんを売る 平塚市 杉山泰一氏蔵 端境期の五月二十日、横浜市野毛山公園で開かれた食糧メーデーには、一万人が集まって最高潮に達した。 事実、戦後も米の配給制度は継続されたが、一人当たりの配給量は減量され、その上欠配・遅配が相ついだ。法に忠実な一裁判官は、配給米のみを固守して、栄養失調となってついに死に至ったことが報道された。 工業生産が再開される 敗戦を迎えたとき、京浜工業地帯は、アメリカ空軍のはげしい空襲によって、多大の損害を受けていた。さらに長年月の戦争で、機械の補充や更新がされなかったために荒廃し切っていた。そして工業生産再建の目どもつかない状態であったが、とりあえず軍需生産を、平和生産に切りかえなければならなかった。マッカーサーも、降伏文書調印と同時に軍需生産の禁止を指令し、原材料も輸入の停止によって枯渇し、わずかに残存していた軍需資材を流用して鍋や釜・タライ・バケツ・浴槽などの民需用品を製造して、細々と操業したものの、間もなく軍需資材も消耗してそれもつづけられなくなった。その上、占領軍の賠償工場の指定、占領下での財閥解体、経済力集中排除法により大企業の分割などの編成がえを強いられ、再建の道はいよいよ困難を加えた。 こうした状況を打開するため政府は、昭和二十一年(一九四六)、経済安定本部を設け、経済統制の中央機関をつくり、G・H・Qの権威を背景にして絶大な権限をもって、一方ではインフレーションの収束をはかるとともに、昭和二十二年末から戦時中の物資動員計画の経験を平和産業に応用し、産業の基礎物資である石炭や鉄鋼にすべての資金・資材を集中し、この両部門の生産を確保して、これを中軸として全工業生産の再開をはかる、傾斜生産方式を強行した。その効果が、昭和二十四、五年にあらわれはじめたころ、世界情勢が変化して、米ソの対立が進行し、アメリカは日本経済の自立化促進を強く打ち出し、各種の経済的制限を緩和した。こうした変化は企業の生産再開の意欲を刺激したが、政府は昭和二十二年、復興金融公庫(復金)を設立し、再開に必要な巨額な設備資金を一手に供給した。この巨額な設備資金の放出は、一面「復金インフレ」とよばれるインフレを招いたが、工業生産はみるみる回復し、やがて戦前を超えるに至った。 こうした傾斜生産方式とアメリカの政策変更によって、京浜工業地帯の諸工業は、急速に復興した。この地帯の根幹となっていた日本鋼管は、空襲の被害をうけて川崎・鶴見両製鉄所の溶鉱炉は稼動を停止し、わずかに手持ちの鋼塊でタライ・バケツ等をつくっていたが、浅野同族会社であることから財閥解体指令をうけ制限会社に指定された、 空襲で焼け野原となった工場地帯 寒川町 武藤光蔵氏蔵 つづいて公職追放令で社長・副社長が追放され、集中排除法の適用をうけて製鉄・造船・炉材部門の三会社に分割する案がつくられた段階で、アメリカの政策が大企業存続の方針に変わって、危うく分割を免れ、二億五千七百万円の資本金を十億円に増資し再発足した。経済安定本部の傾斜生産方式により、輸入石炭・重油などを重点的に配給され、各種の政府補給金で補償される優遇政策の恩恵をうけて稼働率をあげ、昭和二十四年(一九四九)には、一割配当を行うほどの利益をあげた。京浜工業地帯の各大工場もほぼ同じ経過をとって復興した。横浜造船所の主体である三菱重工業も、集中排除法をうけて三分割され、東日本重工業会社の傘下に入ったが、造船部門では、食糧難対策としていそがれたかつお・まぐろ船などの小型漁船にも手をひろげ、東京・川崎にある造機部門では、自動車・建設機械・ディーゼル機関の生産に力をそそいだ。 川崎に本拠をもつ東芝では、戦時中の十万人余の労働者を半数以下に減らし、民需用の重電機をはじめ、軽電機の電球・ラジオ受信機や、占領軍の注文による洗濯機・掃除機・電気ストーブの製作を行って、やがてこれらを民需用として製造した。これら軽電機は価額が低いので、利益をあげることは出来なかったが、次の民間電機万能時代に活躍する素地をつくった。同じ電機会社の富士電機は、主力の川崎工場が空襲で大損害をうけ、戦時中の一万五千余人の職員労働者を半数以下に整理し、中型電動機の生産と修理から再出発し、従来重視されなかった汎用モーター・積算電力計・扇風機などの商品部門と、全く未経験の農機具や電熱器などの小物類生産の新分野に進出した。 戦時中は軍用トラックを専ら生産していたヂーゼル自動車、日産重工業も、共に民需用に転じたが、鋼板・タイヤなどの資材不足と民需の不振によって、再建は苦難の道であった。しかし前社はいすゞ自動車、後者は日産自動車と社名を改め、今日の日本自動車工業の基礎をつくった。 京浜工業地帯のいま一つの分野を占める化学工業では、三菱化成工業が、自ら製品別に、日本化成・旭硝子・新光レイヨンの三社に分割して再出発した。横浜護謨は、空襲で壊滅した横浜工場の焼け残った鉄骨を利用して仮工場をつくり、再生ゴム・ベルト・ホースなどの製造を始め、空襲を免れた神奈川工場では有機薬品・塩化ビニール生産に切りかえ、さらにズルチン・サッカリンなどの調味料を製造した。昭和二十五年(一九五〇)に、平塚市の旧海軍火薬廠跡二十六㌶余の払下げをうけ、最新式高能率の工場を建設し、自動車・自転車用のタイヤ・チューブなど民需ゴムの生産を再開した。また昭和電工は、敗戦後の食糧増産政策から化学肥料の需要に乗じ、軍需生産を硫安生産に切りかえ、急速に回復した。 このように県下の重化学工業は、戦後の混乱の中に模索しながら、民需生産への転換に努力し、数年にして、戦前の水準以上に復興するものも少なくなかった。 ㈡ 経済大国への再生 ドッジ不況を吹きとばす朝鮮戦争 工業再興を促した復興資金は、前述のようにやがて「復金インフレ」を起こし、経済的破局の危険さえ生じた。アメリカは、昭和二十三年(一九四八)経済安定九原則を指令し、翌年その実施指導のためデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが公使として来日し、日本政府に赤字のない超均衡予算の編成と、貿易発展のために一ドル=三百六十円の単一為替レートとする二本柱の改革を行った。戦前の為替レートは、一ドル=二円ないし四円であった。復興金融資や価格調整補給金等は廃止された。「ドッジ・ライン」と呼ばれる以上のようなインフレ収束政策の強行によって、インフレの進行は一挙に停止したが、ついでおとずれた不況は深刻であった。大企業の人員整理・賃金カット・下請け業者を犠牲にするとも評された製品コストの引下げなどを行った。中小企業の倒産・休業は相つぎ、県下の失業者は四十三万を数え、社会不安を増大した。 ちょうどその時、昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮半島に起こった朝鮮戦争は、経済情勢を一変させた。国連軍の名のもとに、アメリカ軍が韓国を援助して出撃し、日本はその後方補給地とされた。アメリカ軍は、緊急調達のため、大量の日本製品を「特需」として買いつけたからである。その特需は、車両・綿布・兵器・セメントなどの重工業・軽工業の広い範囲にわたり、不況によってたまった一千億円の滞貨は一掃され、繊維・金属を中心に「糸へん景気」・「金へん景気」を盛り上げ、工業生産をはじめ、国民総生産・設備投資・個人消費のいずれも戦前水準を突破した。京浜工業地帯の諸工業も、この特需によって一転して売り手生産に転じ、生産すればいくらでも売れるという状況であった。これに乗じ、工場の拡大、新鋭機械への更新と合理化によって、生産向上に努めた。 朝鮮戦争は、翌年七月に休戦会談が始まったが、この間に諸工場で行われた生産設備の近代化、生産過程の合理化は、次の段階で大きな威力を発揮することとなった。 昭和二十六年(一九五一)の九月八日、アメリカのサンフランシスコで、連合国と日本との間に平和条約が、またアメリカとの間に日米安全保障条約が調印され、翌年四月二十八日、発効した。敗戦から七か年にわたる占領軍支配はようやく終結し、再生日本はやっと独立国にもどった。だが、厚木飛行場・横須賀港等のアメリカ軍の軍事基地、横浜の港湾施設などは安保条約によってそのまま残り、新しい基地闘争が展開する。 新工業地帯の造成 県当局は、戦後の工業復興が進行し、臨海工業地帯の拡充が必要となったので、昭和三十二年(一九五七)から七年の歳月と九十億円の費用をかけて川崎市海岸に約五百四十三万平方㍍の埋立てを行い、石油産業を中心にした三十三社に分譲した。戦後の石炭から石油へとエネルギー革命に対応したもので、ここに日本石油化学と東燃石油化学の複合コンビナートが建設され、昭和四十四年(一九六九)には、日本石油化学と三井石油化学が共同出資した川崎の浮島石油化学がつくられた。翌年には日本のエチレンの年産は四百五十万トンに達した。これは、アメリカにつぐ世界第二の生産高である。 石油コンビナートは、ナフサ(粗製ガソリン)を高温高圧で分解してエチレンを生産する際に発生する大量のガスから、プロピレン・ブタン=ブチレン・芳香族炭化水素などが、石油化学誘導製品の原料になるので、ナフサ分解装置を中心に複数の企業が集まり、パイプラインで原料を各工場に送って、分業的に製品をつくる総合工場群である。たとえば、日本石油化学には中低圧法ポリエチレン製造を分担する昭和電工・旭ダウ・日本触媒化学・古河化学(のちの日石樹脂化学)・日本ゼオン・旭硝子等が参加した。石油化学誘導製品は、実に多種多様で、合成ゴム・合成樹脂・高級塗料・合成洗剤・人工皮革・合成繊維・合成建材等生産材から消費材まで、その製品は日常生活のすみずみまで侵透するに至った。 開発前の根岸湾 新工業地帯の造成は、横浜港周辺から根岸湾にかけて、横浜市によって行われた。昭和三十六年(一九六一)には、鶴見区大黒町地先に八十万平方㍍の埋立地を完成し、東京電力・日東化学・アジア石油・大洋漁業が進出した。ひきつづいて根岸湾埋立地三百六十四万平方㍍が、昭和四十六年に完成し、日本石油精製・東京瓦斯・東京芝浦電気・石川島播磨重工業などの大企業と百五十五社の中小企業が進出した。 埋立て可能な海辺の余地がなくなると、県内陸部の厚木・大和・相模原・秦野・座間・綾瀬・海老名・愛川等の市や町への工場進出がつづいて、内陸工業地帯が形成されて行った。内陸でも公害・運輸等の面から無秩序無計画な工場進出をみとめない工場団地の構想の下に行われた。その適地として約二百三十五万平方㍍の厚木郊外の旧軍飛行場に、中小企業の工業団地を造成し、臨海工業地帯の機械工業の下請企業である金属加工業・機械工業を主体とした団地を形成した。 開発後の根岸湾 こうして、明治以来進められた工業県への転換は完成した。戦後の農村復興のための政府の農業構造改善事業の進行している中に、本県においては、農村の都市化が急速に進んで、昭和四十一年(一九六六)、県の「都市計画」によれば、県の総面積の三六・七㌫、耕地面積の四〇・二㌫の市街地化が見込まれている。市街地化耕地面積の全国平均五㌫の八倍以上、関東平均一〇㌫の四倍にも達している。 神武景気からいざなぎ景気へ 昭和三十一年(一九五六)の経済白書は、前年の国民一人当たりの実質所得が、戦前の最高水準に達し、鉱工業生産指数は、戦時中の最高であった昭和十九年(一九四四)を上回ったので、もはや戦後ではないと戦後復興の終了を宣言し、今後の日本経済は、近代化によって安定した成長を保つことが課題であると説いた。たしかに、経済面に限れば「戦後」は終わったといえる。その課題となった近代化の中心は重工業の設備投資であり、この年設けられた経済企画庁指導の下に、鉄鋼第二次合理化計画・石油化学第一期計画・電力五か年計画などの大型投資が一斉に発足し、重化学工業が進んだ。鉄鋼・造船などの基幹産業部門の技術革新が進み、エネルギー革命に対応して、石油化学工業を急速に発展させた。エネルギー革命は全世界共通の問題であり、しかも石油の産地は、アメリカ・中東・北アフリカに集中しているため、これを運ぶタンカーの注文がわが国に集中して、造船ブームを巻き起こし、神武以来の好景気として、「神武景気」とよばれた好況をひきおこした。 この好況は、国民の所得を増大し、加えて戦後の食糧確保のための食管法により、国際価格に倍する米価を保証された農家の所得の安定と相まって、国民の消費生活は向上した。家庭電化による生活の合理化が進められ、テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が、「三種の神器」とよばれて宣伝され、普及し、昭和三十年(一九五五)は「電化元年」といわれた。やがて神武景気は、なべ底景気といわれた不況を経て、昭和三十三年(一九五八)設備投資が一段と活発化して、「岩戸景気」とよばれる好況を迎え、個人消費・民間住宅建設・輸出が著しく伸びた。昭和四十年(一九六五)には、戦後最大といわれた不況が到来したが、この年から始まったベトナム戦争の特需や対米輸出の伸びによって、これまで以上の好況を迎え、しかも五年間もつづいた。成長率は年々一〇㌫を超え、超高度成長といわれ、「神武」・「岩戸」景気を凌ぐ景気という意味で、日本の国造りをしたと神話に伝える神の名をとって「いざなぎ景気」とよばれた。 再び王者横浜貿易 占領軍が、日本の民間貿易の再開を、条件付きながら許可したのは、昭和二十四年(一九四九)のことである。しかし当初は、戦前に比べて輸出は四・五㌫、輸入は二一・七㌫程度に過ぎなかった。講和条約が発効して独立を回復した年でも、戦前に比べて輸出は五〇㌫余、輸入は七五㌫余にすぎず、全国貿易量比率も、終戦時は八㌫に低落、その後上昇を示しつづけたが、その歩みはおそかった。その主な理由は、港湾施設の大部分が接収されたことと、条件付き貿易のため手続上中央官庁(貿易庁)のある東京に貿易商社が集中したからである。まず最初の輸出商品は、生糸であった。しかし生糸の主要輸出先のアメリカでは、戦時中につくり出されたナイロンに生糸市場が浸食されて、予想外に不振であった。生糸貿易では、横浜貿易の隆盛を回復することは、もはや不可能であった。それでも昭和二十二~三年(一九四七~八)には、横浜貿易の五〇㌫を占めていた生糸絹織物は、昭和三十年(一九五五)には、九・六㌫にとどまり、代わって鉄鋼が一二・五㌫となって一位を占めた。 生糸に代わって急上昇したのが、京浜工業地帯の復興と拡大によって急成長を遂げた重工業の製品である。この時期になると、大工場はそれぞれ工場に接岸する埠頭をもち、横浜港を経ずに直接輸入原料の積下し、製品の積出しを行うものが多くなって、貿易は、横浜港・川崎港・横須賀港の三港で行われる形となった。この三港を総合した本県の貿易額は、昭和四十五年(一九七〇)には、鉄鋼が輸出品の首位を占めた昭和三十年と比べると、輸出額は千五百六億円から一兆八千四百四億円へと一二・二倍、輸入は二千六十四億円から一兆四千五百三十五億円へと七倍に拡大した。 こうして、横浜港の機能は回復した。貿易の正常化した昭和二十五年(一九五〇)ころには、輸出入とも神戸港に次いで第二位であったが、その後、神戸港と一位を角逐しつつ、昭和三十五年以降は輸入で、その十年後は輸出で全国第一位を占め、輸出入とも全国第一の貿易港の地位をとりもどした。 経済大国再生の奇跡 「いざなぎ景気」は、日本を文字どおり世界の経済大国に押し上げた。日本の国民総生産(G・N・P)は、昭和四十年(一九六五)には、アメリカ・西ドイツ・イギリス・フランスについで、資本主義国中の第五位であったが、昭和四十三年(一九六八)には、アメリカに次ぐ第二位になった。 しかも日本産業は、戦後、絶えず新技術を導入しつつ復興したため、どの分野でも国際的に高い水準に到達し、工業生産では、アメリカ・ソ連に次ぐ世界第三位の工業国となった。日本の輸出も、鉄鋼・船舶・自動車・金属製品などの重化学工業の製品が主体となった。「いざなぎ景気」では、国民所得の増大を反映して、「神武景気」の三種の神器よりはるかに高価で生活を楽しむカラーテレビ・クーラー・カー(乗用車)の三Cの時代が到来したといわれた。とくに自動車は、アメリカに次ぐ自動車王国となり、本場のアメリカはもちろん、ヨーロッパ各国に輸出する世界一の輸出国に成長した。こうした日本の再生は、世界の奇跡といわれた。 こうした日本再生の姿は、そのまま本県の姿でもある。むしろ、京浜工業地帯をもつ本県は、この再生に大きな役割を果たし、本県自身もわが国有数の工業県として成長し、経済大県となった。世界の奇跡の一翼を担った。しかし、遠く縄文時代から、近世・近現代に至る間に、いくたびか壊滅的天災(富士山噴火・大地震)をうけながらも、再生して来た不死鳥にもみえる県の歴史を顧みるとき、本県にとっては、奇跡ではない。 現代本県の課題 昭和五十五年(一九八〇)版の県勢要覧「かながわ80」によると、県下の面積は二十三万九千七百八㌶、全国総面積の〇・六三㌫で全国府県中第四十三位に当たり、このうち森林面積は県面積の四〇㌫を占める。また県下の十九市十七町一村のうち、十九市十七町が都市計画区域に指定され、その面積は、一千九百八十三平方㌔㍍で県域の八三㌫に当たり、そのうち市街化した区域は九万七百八十八㌶である。これに対し、耕地面積は二万六千六百三十二㌶である。 人口は、六百九十二万四千二百五十八人で、東京都・大阪府に次ぐ全国第三位である。人口密度は、一平方㌔㍍二千八百八十九人で、これまた全国第三位の密度である。しかも地域的にみると横浜・川崎地区が、五五・一㌫を占めている。昭和三十年(一九五五)には総人口二百九十一万九千四百九十七人であった。十五年間に二倍以上の増加である。この増加は、時には増加人口の七五㌫を越す経済成長に伴う雇用の増加、東京都からの人口の流入などの社会的原因と、他府県からの流入によって促されたものである。県総人口のうち雇用者は、二百五十三万三千人に達する。このうち工業従業者数は、工場数二万三千四百四十四に対し六十七万八千七百七十七人で、その製造品出荷額は十六兆九千七百二十三億円である。県民所得一人当たり百七十九万八千十七円で、十年前の昭和四十五年(一九七〇)の六十七万三千六百三十円に比べると、三倍に近い。県下の自動車保有台数は、十年前の八十一万台から百六十一万台に達し、更に増加の勢いにある。県の財政規模も、収入七千七百二十六億九千三百余万円に達した。正に経済大県の相貌を呈している。 しかしこうした経済、とくに工業県への発展は、反面深刻なマイナスの面を拡大した。それは人間無視、経済万能とすることから生まれたものである。都市化を進めるための自然破壊、人口の過密化による生活環境の悪化、工場の排出する人間の生命すら危うくする有害廃棄物の投棄と有毒ガスの放出、宅地造成や道路建設による自然と文化的遺跡の容赦ない破壊などがあり、本県特有のものとして、アメリカ軍基地の存在による周辺住民への各種の公害がある。これらのマイナスの面に対し、各地に各種の住民運動が高まりつつある。これらの住民運動に対応して、他の府県に先立って昭和三十九年(一九六四)に、「公害の防止に関する条例」を制定し、全国に先がけて、騒音・振動・汚水・廃液・ばい煙・粉塵・ガス・臭気の八種類の基準をつくり「公害審査委員会」を設置して、行政指導を行った。横浜市でも、「だれでも住みたくなる都市づくり」をかかげて衛生局に公害課を設けた。また公害甚大と予想される工場との間に住民の健康を優先するという「公害防止契約」の新方式を開いた。昭和四十五年(一九七〇)の県議会は、公害条例に論議が集中し、「公害県会」とよばれた。 こうした経済優先のうちに失われた人間と自然を復権するところに、不死鳥神奈川県の明日がある。 植樹が行われた工場-川崎市内- 神奈川県庁蔵 12県文化財に13点を指定する(第1回) 7朝鮮休戦協定調印 昭和29 1954 1町村合併促進で箱根町誕生(県下最初) 11県立図書館・県立音楽堂開館する 3第5福竜丸被爆 9洞爺丸遭難事故 〃 30 55 3「神奈川県総合開発計画書」を発表する 10第10回国体秋季大会開会(県下12会場) 4バンドン会議 8原水禁世界大会 〃 33 58 4県営扇島埋立事業起工式 12ラジオ関東(現・ラジオ日本)放送開始 9仏第5共和制発足 12東京タワー完工 〃 39 64 6太平洋横断ケーブル(二宮-ハワイ-アメリカ)が開通する 10東海道新幹線開業(新横浜駅営業開始) 10オリンピック東京大会開会(横浜・江の島・相模湖等4会場で競技) 4OECD加盟 9東京モノレール開業 〃 43 68 5横浜港本牧ふ頭にコンテナ船第1号入港する 11高速神奈川1号横浜線全面開通 6小笠原諸島返還 10明治百年記念式典 〃 44 69 5東名高速道路全面開通 7県,地区行政センターを設置(7地域) 6原子力船「むつ」進水 7米宇宙船月面着陸 〃 45 70 9日本鋼管と県・横浜・川崎両市,扇島の公害規制で合意成立する 3日本万国博覧会 11三島事件 〃 46 71 7湘南モノレール(大船-江の島口間)全通 8「革新メガロポリス」実現.初の市長会 1日本,国連安保理事国に就任 〃 47 72 4テレビ神奈川(TVK)放映開始 12横浜市営地下鉄1号線開通 5沖縄祖国復帰 9日中国交正常化 〃 48 73 4国鉄根岸線(桜木町-大船間)全通する 9県大気汚染監視センター作動を開始する 1ベトナム和平協定 11第1次石油危機 〃 50 75 1県民ホール開館 4知事に長洲一二当選する(革新県政の誕生) 3山陽新幹線開業 7沖縄海洋博覧会 〃 51 76 4相模鉄道いずみ野線開通 10神奈川芸術祭(第1回)開幕 2ロッキード事件 7南北ベトナム統一 〃 52 77 8あすの神奈川を考える県民討論会を開催する 10県,かながわ50選シリーズ第1弾を選定する 4領海12カイリ,漁業水域200カイリ実施 〃 53 78 2県総合開発審議会「新神奈川計画」を答申 7横浜で「地方の時代」シンポジウム開く 5新東京空港開港 8日中条約調印 〃 54 79 76都県市首脳会議(首都圏サミット) 12横浜シティ・エア・ターミナル開業する 6元号法公布 6サミット東京会議 〃 56 81 4県,米国メリーランド州との友好提携協定書に調印する 7県,環境影響評価(アセスメント)条例実施 3第2次臨時行政調査会発足 10南北サミット開催 〃 57 82 6横浜市,「みなとみらい21」計画を発表する 10かながわ環境文化賞第1回受賞者決定する 4フォークランド紛争 5日米航空交渉決着 〃 58 83 4県,情報公開条例実施する 5県,中国遼寧省との友好提携書に調印する 9大韓航空機撃墜事件 10初の体外受精児 大正14 1925 7横浜商工対横浜高商第1回野球定期戦 12鶴見騒擾事件 1日ソ国交回復 3ラジオ放送開始 昭和1 1926 3総同盟神奈川連合会発会式挙行 7郡役所を廃止する 3労働農民党結成 5英国炭坑スト 〃 2 27 4県,三部経済制を廃止する 4小田原急行鉄道,新宿-小田原間開通 3金融恐慌始まる 6東方会議 〃 5 30 4湘南電気鉄道,黄金町-浦賀間開通 11富士紡川崎工場ストに“煙突男”登場する 1金解禁 1ロンドン会議 〃 7 32 3東京横浜電鉄,渋谷-桜木町間全通 5大磯・坂田山心中 3「満州国」建国 55・15事件 〃 8 33 12自動車製造(株)設立(日産の前身) 12神中鉄道,厚木-横浜間全通 1ナチス政権成立 3日本,国際連盟脱退 〃 9 34 1富士写真フイルム(株)創立総会 9横浜・川崎両市で防空演習実施する 4帝人事件 12丹那トンネル開通 〃 10 35 3復興記念横浜大博覧会を開幕する 7湘南海岸道路開通 2天皇機関説事件 10エチオピア戦争 〃 11 36 1松竹大船撮影所開所 22・26事件,湯河原で牧野伸顕襲われる 11日独防共協定調印 12西安事件 〃 12 37 11県営京浜工業地帯造成事業起工式 12第1次人民戦線事件,県関係19人検挙 4文化勲章制定 7日中戦争始まる 〃 16 41 6大政翼賛会県支部第1回協力会議 12県下でアメリカ映画の上映を禁止する 6独ソ戦争始まる 12太平洋戦争始まる 〃 17 42 2『神奈川新聞』創刊 4米軍機,横浜・川崎・横須賀を初空襲する 6ミッドウェー海戦 6関門トンネル竣工 〃 19 44 5神奈川中央自動車(株)発足 8横浜市学童疎開第1陣出発 7サイパン島陥落 10レイテ沖海戦 〃 20 45 5米空軍600機,横浜を大空襲 8連合国軍最高司令官マッカーサー厚木到着 12東芝堀川町工場従業員,労働組合結成 12横浜裁判開廷 7ポッダム会談 8広島に原爆投下 8ポツダム宣言受諾 10国際連合発足 〃 22 47 第1回知事選挙,内山岩太郎当選する 7相模ダム完成式 12・1スト中止命令 5日本国憲法施行 〃 23 48 6「神奈川財政事情」公表(第1回) 11県章を制定する 11極東軍事裁判判決 12経済安定10原則 〃 24 49 3日本貿易博覧会(横浜)を開幕する 8湘南高校,第31回全国高校野球大会で優勝 4北大西洋条約調印 7下山事件 〃 26 51 4桜木町駅構内で国電炎上,99人焼死 11県立近代美術館開館 6ユネスコ加盟 9対日平和条約調印 〃 27 52 5県,第1回戦没者慰霊祭を挙行する 11第1回神奈川文化賞授与式 5メーデー事件 10保安隊発足 〃 28 53 5日産争議おこる2テレビ放送開始 明治20 1887 10横浜の上水道,市街に配水を開始する 10三大事件建白書 〃 22 89 4市制町村制施行(1市26町294村) 6大船-横須賀間に鉄道開通する 2大日本帝国憲法発布 〃 23 90 2『横浜貿易新聞』創刊 5府県制・郡制公布 6鈴木三郎助,葉山で本格的にヨード製造を開始(味の素〈株〉の起源)する 12横浜電話交換局開局 10教育勅語発布 11第1通常議会召集 〃 24 915英国・ミルン一座,「ハムレット」をパブリック・ホール(横浜)で上演する 6横浜船渠会社設立許可 5大津事件 5シベリア鉄道着工 〃 26 93 4多摩3郡を東京府へ移管する 9川崎・当麻辰次郎,梨の新種を育成する 〃 29 96 3日本郵船,欧州定期航路開設,第1船土佐丸,横浜港を出航する 3航海奨励法・造船奨励法公布 〃 30 97 3横浜の港座,仏系シネマトグラフを公開する 4神奈川県尋常中学校開校 10金本位制実施 〃 32 99 1大師電気鉄道,六郷橋-大師間営業開始 7県,府県制・郡制を施行する 7横浜外国人居留地を撤廃する 3義和団ほう起 7改正条約を実施 10ボーア戦争始まる 〃 37 1904 7横浜電気鉄道,神奈川-大江橋間開業 7横浜平民社発会式 2日露戦争始まる 〃 41 08 6小田原報徳社,社団法人に改組する 8横浜鉄道,東神奈川-八王子間開業 6赤旗事件 〃 43 10 6幸徳秋水,大逆事件首謀者として湯河原で逮捕.10.内山愚堂,事件に連座し逮捕.10.江之島電気鉄道,藤沢-鎌倉間全通 8韓国併合 11帝国農会設立 大正1 1912 4県と東京府との境界が多摩川となる 6日本鋼管(株)設立(本社・横浜市) 1中華民国成立 8友愛会設立 〃 2 13 2鶴見埋立組合設立(8月同埋立着工) 6友愛会川崎支部発会式を挙行する 2大正政変 〃 3 14 9アミガサ事件(川崎) 7第1次世界大戦 〃 7 18 8横浜公園に群衆集合,電車・交番に投石する 8米騒動 〃 8 19 2スペインかぜ,県下に流行する,死者727人 6箱根登山電車,箱根湯本-強羅間開通 1パリ講和会議 3朝鮮3・1運動 〃 9 20 5横浜仲仕同盟,横浜公園でメーデー開催 12横浜興信銀行開業 1国際連盟発足 3戦後恐慌始まる 〃 12 23 9関東大震災,死者2万9614人,全壊焼12万戸,被災総額1億1237万500円 9モラトリアム実施 12虎の門事件 〃 13 24 4横浜商業,第1回全国選抜中等学校野球大会に出場する 7青和会結成 1第1次国共合作 6護憲3派内閣成立 明治1 1868 3横浜裁判所設置 4.神奈川裁判所と改称 5箱根戦争おこる 6神奈川裁判所,神奈川府と改称 9神奈川府,神奈川県と改称(神奈川県の成立),知事に寺島宗則が就任する 1戊辰戦争始まる 3五箇条の誓文 〃 2 69 5成駒屋,横浜-東京間に乗合馬車を開業 12横浜-東京間に公衆電報取扱いを開始 6版籍奉還 11スエズ運河開通 〃 3 70 11人力車営業,川崎・神奈川で開始 12『横浜毎日新聞』創刊(最初の日刊紙) 1大教宣布の詔出る 7普仏戦争始まる 〃 4 71 2横須賀製鉄所(4.横須賀造船所と改称),ドック開業式を挙行する 7廃藩置県により六浦県・荻野山中県・小田原県・韮山県を設置.11.神奈川・六浦両県を廃止し神奈川県,荻野山中・小田原・韮山の3県を廃止し足柄県を設置する 1郵便創業 1ドイツ帝国成立 5新貨条例制定 〃 5 72 9横浜-新橋間鉄道開業式を挙行する 9神奈川県,遊女らの人身売買営業を禁止する 2土地売買の禁解除 8学制頒布 〃 6 73 3神奈川県,第1回徴兵検査を実施する 5神奈川県,区画改正実施(20区185番組) 6横浜・堤磯右衛門,石けん製造を開始する 7地租改正条例布告 10 3帝協商成立 〃 7 74 6神奈川県,区番制を廃止,大区小区制実施 7神奈川県,地租改正実施による地引絵図の作成各村で開始する 1民選議院設立建白書 を左院に提出す 2台湾出兵 〃 8 75 1横浜郵便局で外国郵便開業式を挙行する 2三菱商会,横浜-上海間航路を開始する 2大阪会議 9江華島事件 〃 9 76 4足柄県廃止,相模国7郡を神奈川県へ編入 11カーチス,鎌倉郡下でハム製造を開始する 3廃刀令布告 8金禄公債を支給する 〃 11 78 10大住郡真土村事件 11郡区編制実施(1区13郡) 6ベルリン列国会議 7三新法制定 〃 12 79 3第1回県会開会 3琉球処分 6地方税々則公布 10独・墺同盟成立 〃 13 80 2横浜正金銀行開業 11工場払下概則制定 5横浜商法会議所開所 〃 14 81 4西多摩郡五日市・千葉卓三郎ら「日本帝国憲法」草案を起草する 6 3帝同盟成立 10自由党結成会議 〃 17 84 11武相困民党結成 12海軍省,横浜の東海鎮守府(’75年設置)を横須賀に移し横須賀鎮守府と改称する 6清仏戦争はじまる 12甲申事変 〃 18 85 8大磯海岸で海水浴始まる 4天津条約調印 9日本郵船会社設立(’86年横浜に移転) 12内閣制度確立 〃 20 87 7横浜-国府津間に鉄道開通 2地中海協商成立 元禄15 1702 県域913村,約35万石 1673分地制限令 〃 16 1703 関東大地震,小田原城大破 1686生類憐み令 宝永4 1707 富士山大噴火,相武各地大被害小田原藩5万石の替地を求める 1702大石良雄ら,吉良義央を討つ 享保1 1716 幕府,小田原藩に宝永5年砂害収公地47村,2万2500石余を再び与える 1709新井白石登用 〃 5 1720 下田奉行を廃し,浦賀奉行を置き,廻船改めを始める 1719相対済し令 1720農村統治を令す 〃 6 1721 川崎宿本陣名主田中丘隅,民間省要を著す 〃 7 1722 米倉忠仰,久良岐郡金沢に陣屋を置く1722新田開発奨励 〃 19 1734 代官蓑正高,自著農家慣行を励行させる 〃 上米制 寛保2 1742 関東一帯大洪水 1732西国蝗害,大飢饉 延享2 1745 幕府,荒川番所の五分一運上取立値段を決める 1742公事方御定書成る 〃 4 1747 幕府,小田原藩に上知村々を返還する 宝暦年間1760 このころ以降,旗本領村々の年貢先納と月割制が一般化し,御用金賦課が恒常化する 1747青木昆陽登用 天明2 1782 小田原地方大地震,天守閣傾く 〃 3 1783 大久保教翅,愛甲郡荻野村山中に陣屋設置 1767山県大武捕わる 〃 5 1785 幕府,救荒作物を奨励する 1773老中は田沼意次 寛政1 1789 江戸周辺1053村,江戸下肥値段を訴える 1777解体新書刊行 〃 12 1800 津久井地方に俳諧流行する.箱根挽物細工専門店が出来る.下肥値段社会問題化する 1782天明大飢饉始まる 1783浅間山大噴火 文化5 1808 フェートン号事件 1787老中は松平定信 文化7 1810 幕府,会津藩に三浦半島海岸防備を命じる 1797ロシア人エトロフ島に上陸する 文政1 1818 小田原城主大久保忠真,老中となる 〃 10 1827 幕府,関東に改革組合を設ける.相模13組合,武蔵3郡9組合を設ける 1804レザノフ長崎入港 1818ゴルドン浦賀に来航し通商を求める 天保8 1837 小田原城主大久保忠真,二宮尊徳に村々の復興を命じる.モリソン号浦賀に来航する 1824英船員,常陸・薩摩に上陸する 〃 12 1841 幕府,関東村々に孝行和讃を配付する 弘化4 1847 幕府,相武・房総沿岸警備を4藩警衛とす 1825無二念打払令 嘉永6 1853 米ペリー東印度艦隊,江戸湾に来航する 1830おかげ参大流行 安政3 1856 相模一帯大風害 1833諸国大飢饉 〃 6 1859 横浜,港開き,店開き,交易を開始する 1837大塩の乱 文久3 1863 農兵取立始める.将軍上洛,東海道大混雑 1841天保改革始まる 元治1 1864 天狗党騒乱,県域旗本出兵を命じられる 1848鹿児島藩軍制改革 慶応1 1865 横須賀製鉄所起工.仏人ウエルニー活躍する 1854日米和親条約 〃 3 1867 相武各地に神札が降り,人々えいじゃないかを狂舞する.浪士ら,荻野山中陣屋を焼打つ.王政復古の大号令発せられる 1860桜田門外の変 1863薩英戦争 1866江戸打ちこわし 1867大政奉還 天正18 1590 豊臣秀吉,小田原北条氏を攻囲し,これを亡ぼし,徳川家康を関東に転封する.家康は江戸城に入り,家臣に所領を与え,寺社に所領を寄進する.大久保忠世を小田原城主に任じる 1590秀吉,天下統一 天正19 1591 大久保忠世,領内を検地する.秀吉,鶴岡八幡宮の造営を家康に命じ,県域各地を検地する 1591千宗易自殺する 文禄3 1594 長谷川長綱,三浦郡内を一斉に検地する1592文禄の役 慶長1 1596 代官伊奈忠次ら,石屋善左衛門に石切輸送の手形を与える 1597慶長の役 〃 5 1600 家康,会津上杉景勝攻略の途路,下野国小山に諸将と議す.豊臣系諸将多く徳川方となり,関ケ原の合戦に家康勝つ 1600関ケ原の戦 〃 6 1601 徳川氏,東海道に伝馬朱印状を発し,宿を定める.県域に神奈川・保土ケ谷・藤沢・平塚・大磯・小田原の六宿を置く 〃 8 1603 大久保忠隣,酒匂堰を開鑿する.津久井地方に総検地を実施する 1603徳川家康,征夷大将軍に任じられる 〃 10 1605 法印実雄を大山の学頭に任じる 1603糸割符制度 〃 14 1609 二ケ領用水の幹線完工する 〃 18 1613 遊行上人の廻国に伝馬手形を与える 〃 19 1614 大久保忠隣改易され,小田原は番城となる 1614大坂冬の陣 元和4 1618 箱根新道開通し,箱根宿を設ける 1615大坂夏の陣,豊臣氏滅亡 〃 5 1619 箱根関所を置く 〃 9 1623 川崎宿を設ける 寛永2 1625 地方直し,県域に旗本領増加する 1629紫衣事件 〃 8 1631 県域に五人組関係文書初出する 〃 9 1632 稲葉正勝,小田原城主となる 〃 10 1633 関東一帯大地震,小田原宿は全壊し,小田原城は大破する 〃 11 1634 高座郡羽鳥村の寺請証文,キリシタン禁制・寺請・檀家制を明記する 1635参勤交代 1637島原の乱 〃 17 1640 江の島岩本院,本末争論.小田原領総検地 1639鎖国完成 正保1 1644 足柄上郡木賀温泉,将軍に湯樽を献じる この年,県域823村,約30万石 1642諸国大飢饉 1643田畑永代売買禁止 〃 2 1645 三崎奉行・走水奉行を置く 1651由井正雪の乱 万治1 1658 この年より小田原領総検地.下田隼人の麦租撤回直訴が伝えられる 1653佐倉騒動を伝える 1657江戸大火 寛文4 1664 久世広之,津久井地方を領し,総検地を施行 1661諸国大風雨 延宝1 1673 小田原地方大風雨,潰屋84軒 1665幕府,諸大名・諸国寺社の朱印を改め交付する 〃 8 1680 箱根路の一部が石路となる 貞享3 1686 大久保忠朝,小田原城主に任じられる 寿永2 1183 頼朝,東海・東山両道の支配を宣言する 1183平家都落 建保1 1213 鎌倉に和田合戦.和田義盛自殺する 1184公文所・問注所を設置する 承久1 1219 源実朝,公暁に殺される 貞永1 1232 和賀江島竣工する 1192頼朝,征夷大将軍に任じられる 仁治1 1240 幕府,鎌倉市中禁制を定める 建長4 1252 鎌倉由比の浦に金銅大仏の鋳造始まる 1221承久の乱 〃5 1253 日蓮,鎌倉で念仏無間を説き,北条時頼,蘭溪道隆を迎え,建長寺落慶供養を行う 1274文永の役 建治3 1277 阿仏尼,鎌倉に下向する 弘安5 1282 一遍,小袋坂から鎌倉に入る.北条時宗,円覚寺を建て,無学祖元を開山とする 永仁1 1293 鎌倉鍛冶の創始者新藤五国光の作品出現する 正和4 1315 鎌倉大火 1324正中の変 嘉暦2 1327 夢窓疎石,瑞泉寺を創建する 1331元弘の乱 正慶2 1333 新田義貞,鎌倉幕府を亡ぼす 貞和5正平41349 足利基氏,鎌倉へ下る(関東公方の始) 1336室町幕府始まる 延文5正平151360 畠山国清,関東管領として鎌倉に下る 1392南北朝合一 応永25 1418 藤沢清浄光寺に上杉禅秀の乱(1616)以来の敵味方戦死者の供養碑を建てる 永享10 1438 永享の乱 〃12 1440 結城合戦1441嘉吉の変 宝徳2 1450 江の島合戦 享徳1 1452 鎌倉府,関銭を納めずに小田原を通るを禁じる 康正1 1455 古河公方の始 長禄2 1458 堀越公方の始 1467応仁の乱始まる 文明18 1486 上杉定正,太田道灌を相模糟屋に誘殺する.聖護院道興,相模を巡行し,後鎌倉に遊ぶ 延徳3 1491 伊勢宗瑞,堀越公方茶々丸を攻め殺す 明応4 1495 伊勢宗瑞,小田原城を攻略する 1495このころ雪舟の活躍が著しい 永正9 1512 伊勢宗瑞,相模岡崎城を攻略し,鎌倉へ入る 〃13 1516 伊勢宗瑞,三浦義同を新井城に攻め滅ぼす 〃15 1518 小田原北条氏,虎の印判を用い始める 大永4 1524 北条氏綱,江戸城主上杉朝興を破る 天文6 1537 北条氏綱,上杉朝興を破り川越城を奪う 〃7 1538 国府台の戦い,永禄7年=1564,再度戦う 1543鉄砲伝来 〃15 1546 扇谷上杉氏滅びる 1553川中島の戦 永禄2 1559 小田原所領役帳ができる 1560桶狭間の戦 〃4 1561 長尾景虎,小田原城下に攻め入る 永禄12 1569 武田晴信,小田原城下に攻め入り,ついで,三増峠に小田原北条氏方を破る 1569織田信長上洛する 1517信長,延暦寺焼打 年表 本年表は,原始~1983年までの事項を県内と国内に区分して収めた。但し,考古学時代の国内は県内の主要遺跡名を記した。 年代 県域 国内・国際 3万年前 相模野台地に人間の居住が行われる 先土器時代 2万年前 県域各地に人々の生活が営まれていた 13000年前 細石刃が普及する 相模原市塩田遺跡 1万年前 土器の始まり,本格的弓矢使用,貝塚出現する 横浜市花見山遺跡他 5000年前 立体的装飾の豪華な土器が作られる 相模原市勝坂遺跡 6000年前 定型的集落が営まれる 横浜市南堀貝塚 3500年前 東北地方の亀ケ岡文化の影響をうける 2100年前 東海地方の水神平式文化が流入する 津久井町中野大沢遺跡 2000年前 各地に大規模な農耕集落が出現する 方形周溝墓が形成される 横浜市大塚遺跡他 横浜市歳勝土遺跡 1800年前 鉄器が普及する 1700年前 土師器が現われ,古墳が造られる 平塚市真土大塚古墳 1500年前 鉄製農工漁具が増加する 1300年前 小円墳・横穴が群集して営まれる 秦野市桜土手古墳群他 471 稲荷山古墳鉄剣銘 478倭王武,宋に上表 安閑1 534 武蔵国造笠原直使主が同族小杵と争う 618唐興る 589 武蔵四屯倉が成立する 646大化改新の詔 霊亀2 716 相模等東国の高麗人を移し,武蔵高麗郡設置 664防人制始まる 天平7 735 相模国封戸租交易帳成る 710平城遷都 天平勝宝4 752 相模人良弁東大寺別当となる 741国分寺建立を発詔 〃7 755 相模・武蔵の防人,歌を進める 宝亀2 771 武蔵国を東山道より東海道に移す 〃5 774 大伴家持,相模守に任ぜられる 延暦11 792 相模国の献橘を停める 794平安遷都 〃21 802 富士の焼石,道を塞ぐ.足柄路を廃し,箱根道を開く.翌年,旧に復す 〃23 804 相模人義真,最澄と共に入唐する 弘仁10 819 相模国分寺災す 貞観15 873 漢河寺を相模国分寺とする 元慶2 878 相武大地震,両国の国分寺倒壊する 寛仁4 1020 菅原孝標の女,相模国を経て帰京する 1056前九年の役起こる 万寿1 1024 このころ,歌人相模,夫に従い在国する 1085後三年の役起こる 長久1 1132 大神宮禰宜ら,国司の大庭御厨収公を訴える 源義朝,在庁官人らと同御厨に乱入する 1156保元の乱 1159平治の乱 治承4 1180 源頼朝,挙兵し,石橋山合戦に敗れ,鎌倉入する 寿永1 1182 頼朝,若宮大路を作る あとがき 「神奈川県史」の刊行は、明治元年(一八六八)九月二十一日に、神奈川県とよばれるようになってから、百年経たのを記念して、昭和四十二年(一九六七)四月、次のような目的のもとに本格的な編集に着手しました。 一 本県の歴史的発展過程を顧みて、将来の進むべき方向を展望する。 一 県民が郷土かながわに関心を深かめる。 一 古文書等貴重な諸資料を永く後世に残す。 一 学校教育や社会教育に資する。 以来、十七年を要し、資料編・通史編等三十六巻、三十八冊を刊行し、所期の目的を達成しました。しかし、各巻は平均千ページの大部のもので、全体を理解することは困難ともいわれています。本書は、これらの成果を背景に、神奈川県の歴史に容易に親しんでいただくことを目的に作成しました。 御執筆とこれに御協力をいただいた諸先生と、写真等各種資料を御提供下さった各位に深く感謝致します。 なお、部落差別問題(同和問題)についての本県の基本方針は次のとおりであり、本書もこの方針に沿って編集したものであることを付言致します。 同和問題は、日本の歴史の過程で人為的につくられたものです。江戸幕府は、封建的身分制度として、士・農・工・商とさらにその下の身分をつくりました。このような身分差別に基づいて日本国民の一部の人びとが社会的、経済的、文化的に低い状態におかれ現代の社会でも著しく基本的人権が侵害されています。世間の一部の人びとの間では、同和問題は過去の問題であって、今日の民主化、近代化が進んだわが国にはもはや存在しないという考え方がありますが、同和問題は結婚差別などに見られるように厳然たる事実として存在し、日本国民のだれにも等しく保障されている市民的権利と自由が、完全に保障されていないという最も深刻にして重大な社会問題となっています。 この問題の解決をめざして、県では「これを未解決のまま放置しておくことは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ行政の責任であって、同時に国民的課題である。」との基本的認識のもとに、同和対策を、新神奈川計画に盛り込み、県の重要施策として位置づけ、関係市町と協力し、各種の事業を行っているところです。 昭和五十九年十二月 神奈川県県民部県民総務室長 神奈川県の歴史 昭和59年12月13日印刷 定価 三、六〇〇円 昭和59年12月28日発行 送料 実費 編集 神奈川県県民部県民総務室 発行監修 神奈川県 横浜市中区日本大通1 発行 財団法人神奈川県弘済会 横浜市中区山下町1 電話横浜〇四五(六六一)〇五二五 印刷 大日本印刷株式会社 東京都新宿区市谷加賀町1丁目1番1号